メイン

投稿記事 アーカイブ

2004年07月12日

北朝鮮問題

 対北朝鮮強硬派が優勢の中、小泉首相が先の訪朝で「敵対から友好へ」「核を完全に廃棄することによって得られるものと、核を持つことによって得られるものは天と地ほど違う」と述べたことについてはもろ手をあげて賛同したい。
 拉致はテロと同様、人道に反する許しがたい犯罪であり、それに対しては、「金正日打倒」「日朝国交正常化反対」「経済制裁発動」「食糧援助ストップ」など声をあげたくなる気持ちは、心情的には理解できるが、実際問題として、そのような敵対政策と国交正常化推進政策とで、はたしてどちらが問題解決にとって適切なのかである。
 あのような国と国交正常化しなくともよく、敵対政策を続け通すという敵対関係継続政策からは、どんな解決が生まれるというのだろうか。軍事的・経済的圧力はかえって相手を硬化させ、解決を難しくしないのだろうか。
 そもそもかの国の独裁体制も先軍政治も強制収容所も拉致も、もとはといえば(歴史をたどれば)日本によるかつての植民地支配に対する抗日ゲリラ闘争とそれ以来の反日感情および朝鮮戦争以来のこの国の対米・対韓国冷戦─常時臨戦体制の中から生まれたものである。
 それをその敵対関係をそのままにして、なおかつ軍事的・経済的圧力を加えるのでは、ただ反発を強めるばかりで、こちらの要求に素直に応ずることなどあり得まい。むしろ敵視政策はもうやめ、敵対関係継続政策をやめにして、友好の手をさしのべてこそ、相手は心を開き、拉致問題に関する要求にも、核開発の放棄にも応ずる気になるのではないだろうか。ただし友好の手をさしのべるといっても、イデオロギー的偏見(反共)や民族的偏見はもちろん、軍事的・経済的圧力はひかえるものの、交渉にあたっては毅然として道理と誠意を以てのぞむ以外は、相手に余計なアメを与え、ご機嫌をとり、無法・非道行為にたいして甘い対応をするというわけではない。
 小泉首相は、「敵対から友好へ」と切り換えようと言明して話をもちかけ、金正日総書記も拉致被害者家族の帰国と死亡したとされた不明者の再調査に応じ、また核問題等に関する六者協議を進展させることに応じたのである。
 尚、首相の「核を完全に廃棄することによって得られるものと、核をもつことによって得られるものは----」との言葉は、アメリカに対しても言えることであり、また我が国においても、小泉首相をはじめ自民党・公明党・民主党などが日本の平和憲法を解釈改憲から明文改憲へと進め、ミサイル防衛(米国製ミサイルの配備、「敵基地への先制攻撃」も)、中には核武装さえ容認する向きも(2003年11月毎日新聞の調査によれば衆議院で自民党議員63人、民主党議員17人)あるが、それらによって得られるものと平和憲法を厳守することによって得られるものは天地ほど違うのだということも、首相に言いたいものである。
 それはともかく、金正日にたいして首相が述べたあの言葉は至言というべきであろう。

イラク復興はこうすれば

 暫定政府に形式的に主権委譲がおこなわれ、この先、国民の選挙で正式政府ができようが、アメリカ連合軍が国連のお墨付きを得た多国籍軍と名を改めようが、アメリカ連合軍がそのまま駐留を続けるかぎり、テロや戦闘はやまない。アメリカ軍がいかに掃討作戦をあの手この手でおこなっても収まりはすまい。
 「テロがあるから米軍が必要なのか、米軍がいるからテロが続くのか。人々は答を出しかねている。」と朝日新聞社説は書く(2004、7、4)。小泉首相は「イラク開戦時前からテロは各地にあった。イラク開戦があったからテロが起きたんじゃない。」(2004、7、6秋田県大曲市内での街頭演説)というが、イラクでは開戦前にテロが頻発することはなかったし、テロリストが暗躍することもなく、フセインとアルカイダのつながりもなかったことも今ははっきりしていることだ。イラクに米軍が来て、そこにい続けるようになってからテロが頻発しだしたことは誰の目にも明らかではないのか。アメリカ軍が居座り続け、テロやゲリラがおこなわれる原因・理由が存在するかぎり、いくら掃討・鎮圧しようとしても、テロやゲリラは絶えることはないのである。アメリカ以外の外国人が人質にされ、イラク人警察官や暫定政府高官が犠牲になることが多いが、ゲリラやテロの究極的なターゲットはアメリカ軍であり、次いでそれに加担している国の人間である。
 したがってテロやゲリラを鎮静させる最善の方法は、イラクの攻撃を始めて占領・駐留を続けているアメリカ軍とそれに加担している国々の軍(日本の自衛隊を含む)をすべて撤退させることである。そうすれば反米テロ・反米ゲリラは収まる。イラク国家・社会の治安回復・再建・復興は、そこから始まる。それらはイラク国民自身が主体となっておこない、それにたいする人的支援(サポート)は国連を中心とし、手を汚していない(すなわちイラク攻撃・占領に当ったアメリカとその連合国以外)国々(フランス・ドイツ・ロシア・中国・アラブ諸国など)の者たちでおこない、その経費は(イラク社会の秩序やインフラを破壊し荒廃させたその責任から)アメリカとその連合国が負担する。(それらのことは新たな国連決議で、国連が決める。)それ以外にないのではないか。
 しかしアメリカに、それに応ずるいさぎよさがあれば大したものだが、応じるわけがない、ということか。だとすればイラクは、パレスチナと同様いつはてることもなくテロやゲリラが横行し、治安回復・再建・復興はいつのことになるかわからない、ということにならざるをえまい。

日本国憲法は世界の宝

 日本国憲法は世界共有の宝ともいうべきものであり、広島の原爆ドームとともに世界遺産ともいうべきものである。ただしそれは単に稀少であるが故の世界遺産ではなく、日本国民のみならずアジア諸国民、世界の諸国民にとってその死活に関わり、子孫の運命に関わる共有遺産だからである。
 それが言えるのは、第二次世界大戦という人類史上未曾有の世界戦争の結果創られたということの他に、次のような事実によってである。
 1991年アメリカではオーバービー教授を中心に「憲法9条の会」が立ち上げられ、合衆国憲法に日本国憲法の精神を織り込むことをめざしている。
 1999年5月オランダで開かれた「ハーグ平和アピール市民会議」では、「公正な世界秩序のための10の基本原則」を採択し、その冒頭の第1原則に「各国議会は、日本国憲法9条のように、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」とうたっている。
 2000年5月、国連本部で開かれたNGOの集まり「ミレニアム=フォーラム」では「すべての国が日本国憲法9条にのべられている戦争放棄の原則を自国の憲法において採択する」という提案がとりあげられている。
 そのようなやさきに当の日本で9条が廃止されたとあっては「国際社会において名誉ある地位」を占めるどころか、世界に恥をさらすことになるだろう。
 世界共有の宝、世界共有遺産を日本国民が壊してはならないのである。
 それにもかかわらず、今、国会議員の圧倒的多数が改憲派で占められ、護憲派は極めて劣勢である。早晩、国会で改憲案が発議され国民投票にかけられる。
 日本国民は、21世紀を通じて生きる我が子や孫たちのために、ひいては世界諸国民のために、この平和憲法を死守しなければならない。

 この私がホームページを開いたのは、実は、このことを人々に訴えるためにほかならないのです。

私の憲法論

 私は63歳になりますが、生まれて一年後に太平洋戦争が勃発し、5歳になる年にそれが終わって、その翌年に現在の日本国憲法は制定された、というしだい。
 この憲法を論ずるにあたって、まず踏まえておかなければならないことは、それは日本人のみならずアジア諸国民・アメリカ人・ロシア人その他幾千万にもおよぶ戦争の犠牲を通じて、世界史上この上もない高い代価を払って得られたものだ、ということである。
 この憲法はアメリカに押しつけられた憲法だという向きがあるが、マッカーサー回顧録によれば、戦争放棄の条項は制定当時首相であった幣原喜重郎が提案したものだという。その回顧録には次のようにある。(自由書房、高校政経教科書指導書「新政治経済指導資料」)「日本の新憲法にある有名な『戦争放棄』条項は、私の個人的な命令で日本に押しつけたものだという非難が、実情を知らない人々や刊行物によってしばしば行われている。これは次の事実が示すように真実ではない。------首相(占領軍最高司令官マッカーサーを訪れた幣原首相)はそこで、新憲法を起草する際、戦争と戦力の維持を永久に放棄する条項を含めてはどうか、と提案した。日本はそうすることによって、軍国主義と警察による恐怖政治の再発を防ぎ、同時に日本は将来、平和の道を進むつもりだということを、自由世界の最も懐疑的な連中にも納得させるだけの確かな証拠を示すことができる、というのが首相の説明だった。----私は腰がぬけるほど驚いた。----氏は----顔をくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」
 ところが憲法制定の翌年、アメリカ側から、世界戦略の都合上、日本の再軍備とそのため憲法修正が必要だとの方針が打ち出され、今度は吉田茂首相に憲法を改定してきちんとした軍隊をつくれといってきた。しかし吉田首相はそれには応じなかったという。
 そこに朝鮮戦争が始まって、それを機にマッカーサーは日本に警察予備隊(自衛隊の前身)をつくらせた。それは9条の実質的な解釈改憲の始まりであった。その後占領解除、主権委譲はおこなわれたものの日米安保条約で米軍基地駐留を認めさせられ、自衛隊がその補完部隊とされるようになった。
 自衛隊と米軍の協力による有事即応態勢づくりはさらに着々と進められていった。そして自衛隊は、今や(軍事費では)アメリカに次ぐ世界第二の規模に成長し、アメリカ軍の後にくっついて海外にまで派遣されるようになり、今イラクに行っているのである。
 それでも、派兵には未だ遠慮がちの日本にたいして再びアメリカ(アーミテージ国務副長官)から憲法改正を促され、政府与党および民主党もそれに応じようとしているのが今の状況なのである。
 憲法9条(非武装中立)と日米安保条約および自衛隊は矛盾し、本来両立しがたいものであるが、これまでずうっと、日本政府は自国憲法とアメリカのどちらに忠実であったかといえば、アメリカの方に忠実であった。そして今、日米同盟は21世紀を通じて不動のものと見なし、憲法(9条)を捨て去ろうとしているのである。
 思うに、小泉首相や日本政府にとって、縛りから解放さるべきは憲法からではなく日米同盟の呪縛からであり、靖国神社(公式参拝)からであろう。それらは日本の自主外交・国際平和貢献の妨げとなり、我が国の国際社会における名誉ある地位と信用を損なってきたものである。日米安保とそれに基づくアメリカへの追従政策さえなければ、反米テロリストや北朝鮮のような反米国家の脅威におびえる必要はないのであり、アメリカと反米勢力、双方を説得できる説得力を確保することもできるのである。日米同盟という虎の威を借りなくとも、いや、借りたりしないほうがかえって核開発やテポドンに脅える必要もなく、日本の首相が金正日と談判でき、米朝双方を説得できるというものである。さもなければアメリカの手下や子分の分際で誰が言うことを聞くかだ。(小泉首相は訪朝して談判をしてきたわけであるが)
 憲法を制定して58年もたっているのに、いったいいつまで日米同盟にすがりついていないと何もできないというのか。沖縄はいつまで米軍基地の島であり続けなければならないのか。

「アメリカ追従国家」か「不戦平和大国」か

 世界の各国はそれぞれ諸国民から一定のイメージをもたれ、評価もされているだろう。
 スイスやスウェーデンだったら「中立・平和国家」。アメリカだったら「自称『自由と民主主義の国』で好戦国」。ロシアだったら「かつての超大国で今は三流国家」。北朝鮮や旧イラクだったら「独裁国家」「ならず者国家」。
 それでは、我が日本はどういうイメージで見られているか。かつては「軍国主義の国」、ひと頃は「エコノミックアニマルの国」、今は「経済大国」、最近ハリウッド映画のおかげで「サムライの国」とのイメージも付け加わっている。それにもう一つ「親米国家」(「アメリカ追従国家」)。
 しかし日本国憲法がめざしているのは「不戦平和大国」であり、その「不戦平和大国日本」のイメージが世界に定着して、我が国が各国から信頼を得、国際社会において「名誉ある地位」を確保するようになれば、それが我が国にとって国益となるのである。
 我が国は「アメリカ追従国家」のイメージを払拭し、「刀を捨てたサムライの国」「不戦平和大国」のイメージ定着をめざさなければならないのではないかと思う。

21世紀は反テロ戦争の時代か

 21世紀は犯罪も暴力も戦争もテロもなくなりはしないどころか、それらはますます増えるばかりであるかのように語られる。はたしてそうだろうか。
 それらは、なにも21世紀になったからといって、こらえ性がなくキレやすく狂暴な人間が増えるようになったからというわけではあるまいし、宗教・イデオロギーのせいでもあるまい。狂信化・過激化はむしろ社会の不条理と生活の不安の結果であろう。それらの根本原因は生活の貧困・欠乏・不安・社会的不公正・富の偏在などのことにほかならない。いわゆるテロや紛争の発生する土壌である。
 それは、グローバリゼーションがこのまま進んで資本主義市場経済が世界をおおうようになると、貧富の格差が拡大してますます激化する可能性はある。しかしその進行を抑制し、先進諸国による援助・協力によってそれら(欠乏・富の偏在・不公正など)を改善することも可能なのである。ところがアメリカ等はその方(市場経済自由化の抑制、援助・協力)には消極的で、かえってそれを自由(新自由主義など)の名のもとに放任・放置し、人々の不満爆発-テロや紛争が起きた時(有事)にそれを力(軍事)で抑えつけることばかりに力を注ぐ。そしてその戦争政策と武力行使を「21世紀は反テロ戦争の時代」などと称して脅威を煽って正当化する。それがかえって激しい抵抗を招くのである。
 したがって、そのような軍事優先は邪道であり、いかに圧倒的な軍事力をもってしてもテロを根絶することはできない。欠乏・富の偏在・不公正を放置しながら(ODA等の援助はやっているとしても軍事費に比べればはるかに少ない)、アメリカが、そしてそのアメリカにくっついてこの日本がミサイル防衛など軍事力をいかに完ぺきに備えようとも、反米・反日のテロや大量破壊兵器の脅威を無くすことはできないのである。

日本国憲法に基づく安全保障とは

 それは非軍事的(軍事に頼らない)方法による安全保障で、それには次のようなことが考えられる。

  1、自国が軍隊(戦力)を持たず、交戦権も放棄することによって他国の安全を保障する。
  2、日米安保条約はやめ、アメリカを含むすべての国と友好関係(平和友好条約)を結ぶ。
  3、常日頃から、ODAその他によって、飢餓・貧困、開発、保健・医療、災害復旧などにたいする援助・協力にせっせと取り組むことによって、紛争やテロの発生する土壌(人々の不満)を無くし、日本や日本人が攻撃 の対象にされテロの標的にされる心配を無くする。いわゆる予防的国防である。
  4、それでも万々一、他国が弾道ミサイルを撃ち込んでくるとか、侵攻してきて島や本土の一部あるいは全土を占領するとかのことがあった場合には、警察力や市民のレジスタンス、ボイコット・ストライキといった不服従抵抗などハード・ソフト両面にわたって可能なあらゆる手段・方法を駆使して抵抗する。また国連の集団安全保障措置(軍事的・非軍事的制裁措置)によって侵略軍・占領軍は排除する。

 なおこの場合「万々一」ということは、そのような事態はほとんどあり得ないことだということ。なぜなら、友好国・援助協力国でなんの脅威もなく敵対国でもない国にたいして攻撃を加えて得られるメリットはないわけであり、食糧・物資など奪うものがあっても、日本国民の抵抗・不服従や国際社会の非難、国連の制裁によって失うものの方が大きくなることを考えれば、それは無意味なことであり、無意味なことをするバカはいないからである。
 現代戦争においては軍事的防衛は困難を極め、軍隊によらない防衛のほうが軍隊による防衛よりもリスク(犠牲や被害)が少ないのである。
 なお不審船や工作員・テロリストの潜入、武装集団の侵入、密輸・密入国などにたいしては海上保安庁で対処するが、現在のそれでは不十分だとすれば、改編・増強して「警備隊」とする。自衛隊は装備等は縮小してこれに改編する。
 警備隊は上記のうち4(万々一の侵攻があった場合)に対応する。ただし国連の軍事的措置(国連軍や多国籍軍)には参加しない。

2004年11月26日

大日本帝国の憲法と教育と国旗・国歌

 国旗・国歌の強制、首相の靖国参拝、「新しい歴史教科書」採択、教育基本法改変、そして改憲と、これらのことにこだわって、それを押し通そうとする向きが、このところやたら強まっている。それはいったいどういうことなのか、いくつか考えてみたい。

 まず、現憲法制定前はどうだったのか。 
  我が国は大日本帝国と称され、天皇が統治し、国民は臣民として従う「皇国」とされた。 その憲法には、「天皇は神聖にして侵すべからず」と定められ、天皇は元首であり、かつ主権は天皇に存するものとされた。

 そして、「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」(第12条)、「天皇は戦を宣し和を講じ及諸般の条約を締結す」(第13条)、「日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す」(第20条)と定められていた。 

 憲法発布勅語には「臣民忠実勇武にして国を愛し公に殉(したが)い以て此の光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり」とうたわれていた。

 そして軍人勅諭には、「(軍人・兵士たちにとって)死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽しと覚悟せよ」とうたわれた。

 また、教育勅語には、「なんじ臣民-----------一旦緩急すれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」(いったん国家に危険が迫ってくれば忠義と勇気をもって国のために働き、天地と共に極まりなくつづく皇室の運命を助けるようにしなければならない)と定められていた。

 学校の教科書は国定で、国史教科書は「天皇を中心とする国家の歴史」として(皇国史観で)書かれていた。

「日の丸」・「君が代」は大日本帝国の事実上の国旗・国歌であり、「君が代」とは「天皇の世」にほかならなかった。戦争にさいしては、日本軍は「日の丸」を掲げて進軍、アジア・太平洋各地を占領し、民衆は「日の丸」の小旗を振って出征する兵士たちを見送った。

 ベルリン-オリンピックは、ヒトラーがドイツの国威発揚のために最大限利用したが、日本はマラソンで、韓国人選手(孫基禎)に「日の丸」をつけて走らせた。孫選手は優勝したが、韓国の新聞が表彰台に立つ彼の写真を、ユニホームから「日の丸」を消して掲載するという「日の丸抹消事件」が起きたりした。韓国の新聞は今でも、「日の丸」「君が代」を、過去の日本帝国主義の植民地支配と侵略戦争を支えた象徴だとみなしている。

 靖国神社は、日本古来からの神社とは異なり、明治以後、軍の宗教施設として設けられ、戦争推進の精神的支柱となってきた神社で、天皇のために殉じた軍人を(極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として処刑された「A級戦犯」をも)神として祀っている。兵士たちは、「靖国で会おうな」と言って死地(戦場)へおもむくのが誉とされた。

 このところの一連の動きは、現憲法制定にともなって廃止された大日本帝国時代の「古き良きもの」を蘇らせようとするもののようであるが、それらは既になし崩し的に(いつの間にか)蘇ってきているものでもある。しかしそれははたして新世紀にふさわしい良きものたり得るものなのだろうか。それとも古き悪しきものの蘇りにほかならないのではないか。

 我々にとって今一番大事なのは、現憲法制定にともなって生まれたはずの良きものが徹底されず活かされずに中途半端にされてきた、それをこそ蘇らせることではあるまいか。 

 良きものとは、非軍事平和主義・民主主義・自由平等主義などのことであって、軍事主義・国家主義・権威主義などではあるまい。

2004年12月08日

国家主義とは

 大日本帝国は、天皇制国家主義の考え方で成り立っていた。(とくに、満州事変から始まる十五年戦争時代には、それが極端化して超国家主義となる。)その帝国は大戦のあげくに崩壊して60年近くもたち21世紀にもなるのに、未だにそれをひきずり、そこでのやり方に頑なにこだわり続けている向きが、このところ目立ち始めている。

 ところで、人は何のために生きるかといえば、それは、各人は(意識すると否とにかかわらず)それぞれ自分自身の幸福(生きがい)のために生きるのであり、各人にとって国家とは、そのための手段なのであって目的ではない。(人によっては国家のために尽くすのが生きがいだ、ということはあっても、それとても自分の生きがいの方が主眼になっており、国家は手段になっているわけである。)国家は(例えばイラクでの邦人人質拉致事件のように、政府の方針に従わない者であっても)国民を守るためにあり、国民は自らを(またはその家族を)守るために国家を利用する、そのために税金を払っているのであって、(その国家を維持発展させるために税金を納めて協力することはあっても)国民が国家を守るためにこの世に生まれ生きているわけではないのである。

 ところがそれが、国家の方を各人が奉仕すべき目的とし優先して、国民の方を手段化し二の次として扱う。それが国家主義である。

それに、もう一つ、他国や世界の諸国にたいして自国や国益を利己的に或は優越的に優先するのも国家主義である。我が国の場合それは、ひいては超アジア(アジアを超えようとする)大国主義とでもいうべきものとなるのかである。

 国家主義とは、すなわち、国民にたいしては国家優先、諸外国にたいしては自国優先、という国家優先主義なのである。


(国家の役割と実態)ところで、国家には、国民各人の生活と幸福に役立つ次のような役割がある。

1.国民の安全保護(生命・財産を守る)―治安(秩序維持)・国防(国境警備)
2.すべての国民に最低限度の生活を保障し、環境を保全し、道路・港湾や教育・福祉など国民が共同で利用に供し便益を得るための公共事業を行い公共サービスを提供する。
3.国民相互間(経営者層と従業員階層、正社員と非正社員、大企業・大型店と中小零細業者・農漁民などの諸階層)の利害の調整。

 そこで、国民と一口に言っても、強者と弱者、マジョリティー(多数者)とマイノリティー(少数者)、経営者・オーナー層と従業員層、大企業・大銀行と中小企業・零細業者、エリート層と非エリート層、高額所得者と低所得者、正社員と非正社員など、互いに利害がぶつかる様々な階層や階級に分かれるわけである。利害が対立する双方にたいして中立公平にといっても、双方とも完全に満足のいく裁定や決定・処理が行われることは殆んどありえず、どちらかに有利になされ、どちらかが優先されることが多い。

 また、国家と一口に言っても、その中枢機関である政府や国会の最大多数を制して主導している政党は、いずれかの階層を代表している(支持基盤にしている)わけであって、国家が国民を守るとか、国民全体の利益に供する公共事業・公共サービスを行うとか、国民の利害を調整すると一口に言っても、それらは結局、その政党を推し立てているその階層に有利になされ、その階層が優先されることになる。そして国家はその階層本位の国家となり、国益というばあいはその階層にとって有益か否かが中心となる。他方の階層はどんなに不利・不満であっても、強制力(権力)をもつ国家の裁定には従わざるをえないということになるわけである。

 このように、国家は「すべての国民」(公共)のためにあるとはいっても、実際は特定の国民階層本位の国家になっていることが多いのであって、大日本帝国は財閥・大地主本位の国家になっていたし、現在の我が国家も「財界・大企業本位の国家」といった特定の階層本位の国家になってはいないだろうか。国家の実態というものに、我々は無頓着でいるわけにはいかないのである。

 それに国家というものには、その国家の下に国民(民族)が統合されるという、国民統合の契機となり枠組みを与えているという意味合いもある。(そのシンボルが国旗・国歌であり、我が国では天皇がその象徴とされているわけである。)

(愛国心) 尚、愛国心などの愛国という場合、次のような三つの意味合いがある。
(1)国民(同胞、その伝統・文化)を愛する。
(2)故郷としての祖国(故国の土・山河)を愛する。
(3)国家(政府)にたいして忠誠心をもつ。(国家―政府―の方針には、戦争であれ何であれ無条件に従い、従わない者を「非国民」とか「反日分子」として非難する。)

 ナショナリズムという場合は、(1)に照応する国民主義・民族主義と、(3)に照応する国家主義とに訳される。

 国家主義の下では、愛国心といっても(3)の「国家への忠誠心」の意味が強まる。すなわち、政府の政策や方針には反対したりせずに、ただひたすら支持・協力を寄せ、国家目的・国益をすべてに優先して考え、そのために身を捧げる、というのが愛国心となる。

 国の愛し方は、人により様々あるわけであり、(1)と(2)のような愛国心は、人々と触れ合い伝統文化と触れ合い故郷の山河に親しむ生活体験と学校でのそれらの学習のなかなかで自然に心に生まれ育つものであるが、それを、親が子に親孝行を押し付けがましく言うが如くに、国家がわざわざ愛国教育を法律に定め、行政機関が学校の儀式で国旗・国歌の掲揚・敬礼・起立・斉唱など形を決めてそれを強要したり、押し付けがましくやるとなると、それは(3)の意味の「国家への忠誠心」を意識したものとなり、国家主義となるわけである。

(憲法) 現憲法は、国家主義の誤りを考慮したうえで書かれており、世界史的に近代憲法のそもそもが市民革命の中から生まれ、市民たちが王権(国家権力)による権利侵害にたいして自らの権利を確保するために制定したというその精神(立憲主義)にたちかえり、国民が一人ひとり、国家(その実権を握る社会的強者)に対して自らの権利(人権)が侵害されないように保証することを意図して(国家権力を縛る権力制限規範として)つくられているのである。ところが、改憲は、それ(権力制限規範としての憲法の性格)を、国民(個々人)の方に義務や責務を課する「国民の行動規範」的な性格をもったものに変質させようとするのである。

(国家公務員) 国家公務員について言えば、大日本帝国では、公務員は「天皇の官吏」として天皇とその政府にたいして忠実無定量の義務を負った。かれらは公共(国民全体)の利益のためと思って勤務していたとしても、それが公共の利益かどうかを判断したのは、ひとえに天皇、もしくは彼をとりまく一部の権力者であった。
それにたいして、現憲法では「すべての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」となっており、国家公務員法では、「すべての職員は国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、-----------------なければならない。」となっているが、「公共の利益」かどうかを判断するのは国民(国民から信託を受けた国会)なのである。そして、国家公務員法では、職員は「その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」となっているが、その一方で、憲法では「天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を(最高法規として)尊重し擁護する義務を負う。」となっている。

 つまり、国家公務員たる職員は上司の職務上の命令には忠実に従わなければならないが、その職務命令が、法令に則したものではあっても、憲法に抵触するようなものである場合は、その限りではない(従わなくともよい)わけである。しかし、公務員は憲法には無条件に従わなければならない。それと同時に、その憲法によって、一国民としての人権が国家権力から(その一機関である所属機関の上司の命令や強制からも)守られるのである。

 上司の職務命令には忠実に従う(上司の上司を一番上までたどれば総指揮監督権者・任命権者である大臣・国会議員がおり、彼らを選んだのは主権者国民であるかぎり、上司の命令に従って職務を遂行することは、とりもなおさず、国民に奉仕することを意味する)としても、職員が奉仕すべき相手は、直属の上司や所属機関の長ではなく、またその最上級の機関の長(総理大臣など)でさえないのであって、あくまでも国民こそが奉仕すべき相手なのであり、あらゆる国家機関も、その長も、上司も、国民に奉仕すべき立場にあるのである。

 要するに、公務員が奉仕するのは国家(機関)にたいしてではなく、あくまで、国民(全体)にたいしてなのだということである。

(教員) 尚、 教育公務員について言えば、教育基本法では教員も「全体の奉仕者」なのであり、しかも「教育は不当な支配に服することなく、国民全体にたいし直接に責任を負って行われるべきものである」となっている。

 卒業式にさいして「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱すべしという職務命令は、それが国旗・国歌法や指導要領など法令に基づいたものとはいえ、「思想・良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法の規定に抵触するものであるかぎり、教員がそれに従わない(起立して歌わなかった)からといって処分されるいわれはないのである。「国民全体にたいし直接に責任を負って」教育を行うべき立場にある教員にたいして、教員が生徒を前にして、憲法でその自由が保証されている自分の思想・良心を貫いて行った行為が、職務命令に反するからといって処分をくらわせる方が間違っているのである。

(自衛官) また、自衛官も国家公務員であり、彼らには災害救援など様々な任務があるが、国民全体の奉仕者として、上司・上官(頂点には最高指揮監督権者として総理大臣、次いで防衛庁長官がいて彼ら文民の統制下に置かれている)の命令にたいしては、より忠実(厳格な)な服従が求められる。それは、警察官やレスキュー隊なども同様であるが、命令された任務が危険だからといっていちいち拒否したり不履行をきめこんだりしては、救難活動など全うできず被災者を助けるという国民奉仕が充分できなくなるからである。
 その一方、自衛官にも一国民としての権利・人権は憲法によって保護される。(2003年10月10日社民党北川議員の質問にたいする政府答弁は「当該職務上の命令が憲法や国際人道法に反し無効である場合には、当該命令を受けた自衛隊員は、これに従う義務はない」としている)仮に、命令だからといって「戦え、殺せ、命は捨てろ」などと戦闘にかりだされるとしたら、その場合は拒否できるわけである。なぜなら、憲法は戦争を禁止しているからである。(尚、イラクに派遣している自衛隊は、政府の言い分では、人道復興支援その他とも「非戦闘」活動に止まるものであるから、命令は拒否できる筋合いのものではない、というわけである。)
 ところが、このところ我が国では、いちいち国家には頼らず自己責任で、と言っておきながら、「国益のための国際貢献」が強調され、国民に愛国心と国家にたいする同調・協力を求める向きが強まっており、国家主義への傾斜が様々なところに見られるのである。

生活者の論理と為政者・経営者の論理

 物事を考える場合、一般の生活者と為政者・経営者とで視点・発想・論理に違いがある。

 例えば、「能力・努力の足りない人の賃金が下がり、リストラや経営難によって困窮するのはしかたのないことであり、能力・努力が実って成功した人が金持ちになるのは当然」という考え方は、どの立場に立った考え方なのか。

 また、「イラク戦争と自衛隊派遣問題」ならば、生活者の立場では、まず人々の命が何よりも大事と考える。それで、アメリカのイラク攻撃・占領にも、それを支持したうえでの自衛隊派遣にも法的正当性は疑わしく、そのためにたくさんのイラク市民が犠牲になり、日本人も拉致・殺害されているが、自衛隊員も含めてこれ以上の犠牲を避けるため、アメリカ軍も自衛隊も撤退すべきである、という考え方をするだろう。

 それが為政者の立場では、国家戦略・国益・国家の威信など国家を主に考える。それで、フセイン政権の圧政と脅威を取り除くためのアメリカのイラク侵攻には正当性があり、それに支援・協力するための自衛隊派遣にも正当性がある。抵抗勢力のテロとそれにたいする掃討作戦に巻き込まれたイラク市民の犠牲も日本人の犠牲も痛ましいことではあるがやむをえない。テロに屈せず自衛隊駐留を続け通す、という考え方をする。

 また経営者の立場では、現地での企業活動の権益と石油の安定確保のため、アメリカと自国の国家的バックアップ(米軍と自衛隊の警護)を得るという戦略上、アメリカのイラク戦争と自衛隊派遣・駐留を支持する。イラク市民の犠牲も日本人の犠牲も、それらはやむをえない、という考え方をする。

 我々が政治問題や経済・社会問題を判断する場合、(各政党によって提起され、マスコミによって論評される)いくつかの選択肢があるとすると、それらは、それぞれ(生活者・為政者・経営者のうちの)どの立場にたっているのか吟味して選ばなければなるまい。そして、当の自分は、いったいどの立場にたって考えているのか。為政者・経営者でもないのに国家の論理や企業の論理で考えたりしてはいまいか、自分を確かめる必要がある。


 我々は、とかくメディアの論評を真に受けやすいだけに、そのメディアはどの立場にたちどういうスタンスにたっているのか、よく確かめなければなるまい。とくに読売や産経の系列、それにNHKには気をつけなければならない。なぜなら、それらはとかく国家の論理か企業の論理で問題をとりあげ論評していることが多いからである。読売・産経の場合は社のイデオロギー(思想)にもとづいているが、NHKの場合は、権力(政府与党)あるいは野党が報道の中立性をたてにとって何か言ってくるのを恐れる結果、報道のしかたや論評は当たり障りのないものとなり、結果的に権力の意に添うものとなっている。

また、権力やイデオロギーにはとらわれることなく「単に面白ければよい」だけでやっているメディアであっても、それは、「とにかくそれがウケて視聴率・読者を稼げればよいのだ」という企業の論理に支配されていることになる。

 歴史教科書で、為政者(国家指導者)の立場(視点・発想・論理-国家戦略論など)で書かれている教科書がある。例の「新しい歴史教科書をつくる会」編の教科書である。(この歴史教科書のことについては別項で取り上げることとしたい。)

2005年02月10日

攻めてこられたらどうする?

  (戦力不保持の9条徹底護憲にたいして)「攻めてこられたらどうする?」とか「テポドンが飛んできたらどうする?」などとよく言われる。それには次のような返し方ができる。
 「強盗に入られたらどうする」と云われたからといって「家にピストルや鉄砲を常備する」なんて、そんなことはしないだろう。(それはかえって危険だ、ということで我が国では一般人の銃刀の所持は禁止されている。)ただ、家に鍵をかけるとか、地域を警察官がパトロールするとかはあるわけである。(また、最近では学校などで教室にサスマタや催涙スプレー等の防具を備え、防犯カメラを据え付ける、といったことなどもある。)
 そして、国には、領海・領空侵犯(潜水艦や工作船・密輸船などの不審船の侵犯、工作員やテロリスト等の潜入)に対しては海上保安庁・警察(現在、我が国では自衛隊が、それらの不備を補って出動する場合があるが、自衛隊に頼らなくても間に合うだけの充分な装備・人員その他のハード・ソフト両面にわたる対応能力の拡充・整備は必要である。)など警備の備え(領域警備)があるわけである。
 しかし、このような領域警備と警察力の備えは必要だとしても、戦争をしないことにした我が国に、それ以上の軍事的備え(戦力)は必要としないわけである。
 地震や台風のような自然災害ならば、どうしようもないわけで、起きないように予防したり回避したりするわけにはいかないし、強盗も、いつ誰が襲ってくるか、前もって判りようがないわけであり、予め相手を特定して対応するというわけにはいかないわけであるが、国家や政治集団(非政府組織)が相手の場合は、それらとは事が違い、事前の交渉やコンタクト(やりとり)なしにある日突然攻めてくるということはあり得ず、予め交渉・説得できるのである。
 いかに「ならず者」とか「狂信的」といえども、それなりの理性もそのコントロールもあるわけであり、「いつ何をしてくるかわからない」というようなものではないわけである。かれらが事を起こすばあいは、なんらかの正当性(大義)があって、その合理的理由を考え、「こうすれば、こういう効果や結果が得られる」とか、メリット(利得)・デメリット(損失)を計算し、成功する確率を計算したうえで判断して(実行するか、しないかを)決めるわけである。その計算材料(情報、相手国の実情・考え)は相手国との接触・対話・交渉から引き出される。そのことは、相手国にとっても、かれらに計算を誤らせないように対話を通じて必要充分な計算材料(情報)を提供しておかなければならないということでもある。
 だから、「ならず者」とか「狂信的」だから話しても無駄だといって、交渉・説得を省いてはならないのである。
 たとえ交渉が決裂して宣戦布告をしてきても、あるいは武力攻撃をかけてきても、それには応じない。戦争にも応じず、要求にも応じてもらえないのであれば、相手は諦めるしかないわけである。
 かりに相手が、要求が通らず憤激にかられて、一方的に侵攻してきても、応戦しない。(領域警備隊であれ市民ゲリラであれ、アメリカ軍や国連軍などの援軍であれ、どんな形にせよ、応戦すれば我が国の一般市民に計り知れない犠牲者を生む。弾道ミサイルが飛んできたら迎撃ミサイルで打ち落とすなどといっても百発百中すべて打ち落とすことなど不可能であり、原発が爆破されれば原爆を投下されるのと同等の被害をこうむる。だから応戦は控える。)それで相手は我が国をなんなく軍事占領はできたとしても、我が国民の一致団結した不服従・非協力の非暴力抵抗によって、各機関の責任者・管理者・テクノクラート(科学技術専門家)等をはじめ市民から拒絶され協力が得られないのであれば、何にもならないわけであり、そのうえ国際社会の非難・制裁(経済制裁―それは侵略国本土に対しておこなわれ、海上は封鎖。占領軍は日本にとり残されることになる)をこうむり、国際法廷で処罰され、かえってひどいことになる。そのような割に合わない行動をとる国はあり得ないわけである。
 そもそも、日頃から、国際公約でもある憲法(不戦・戦力不保持)をよく守り、周辺国・アジア諸国・世界の誰からも不信・反感・憎悪・恨みをかうことのないような平和友好協力政策をとっていれば、そのような武力攻撃やテロ攻撃をうける謂われはないのである。
 今のように、アメリカに追従して日米同盟と自衛隊により、隣国や周辺諸国に対して軍事的対決路線をとっているかぎりは、たしかに、「攻めてこない」という保証はないだろう。
 だからこそ、軍事的対決・改憲路線はやめたほうがよいというのである。さもないと、それこそ「攻めてこられたらいったいどうするというのだ」というものである。

2005年03月04日

日本だけが軍隊を持たなくてよいのか

危機管理
 自然災害・環境破壊・事故・事件など国民の人命や財産に重大な被害がもたらされる緊急の事態が発生する。それらに対処または未然に防止する危機管理は必要不可欠であることは云うまでもない。そして、危機管理センターなど包括的な危機管理システムとともに、それぞれの分野の事態に対応する国土交通省・警察庁など各省庁があり、警察・消防・海上保安・レスキュー隊、それに軍隊(現在我が国では自衛隊)などの部隊組織がある。

警察と軍隊の違い―自衛隊は?
 それらのうち、警察は(海上保安庁も)警備・救難など国民(個人)の生命・財産を守り、犯罪を取り締まって公共の安寧・秩序(治安)を保持することを本務とし、領域(領土・領空・領海)警備をおこなう。ただし、武力攻撃には至らない不法行為(領海・領空侵犯、密貿易、ハイジャック、テロ、拉致など)に対処する。
 それにたいして、軍隊は、武力攻撃に対処するもので、交戦する(戦闘を交える)ことを本務とし、「国防」ということで、守る対象は(原則として)国家(国家体制、政府など国家機関)であって、国民(個人)ではない。(人命・財産を守るにしても、優先順位からいえば、一般国民のそれは二の次なのである。)その行動原理は、戦闘に勝つことであり、「勝つ」とは敵側の攻撃を断念(降伏・退却)させることである。勝つためには、敵兵を殺傷することは勿論のこと(何人殺しても殺人罪には問われないなど、一般市民や警察官には認められないことが国際法で認められている)、必要やむをえないとなれば一般市民を犠牲にし、自国民さえも犠牲にする。(かつて沖縄戦などで日本軍にそれが見られた。また、作家の司馬遼太郎の話で、太平洋戦争末期の本土決戦に際し、彼は戦車隊に所属していて、米軍の上陸を迎え撃つべく出動しようとしたさいに、「避難民に道路がふさがれてしまったら、戦車はどう進めばよいのですか」と上官にたずねてみたところが、「轢き殺して行け」と言われたという。)それが軍隊なのである。
 自衛隊のばあいは、「防衛出動」「治安出動」「領域警備」「災害派遣」それに最近新たに「国際的な安全保障環境の改善」のための海外出動をも「本来任務」として加えた。これらのうち、主たる任務は、あくまで防衛出動であり、それにプラス海外出動、すなわち交戦・参戦、要するに戦闘なのである。自衛隊の諸任務のうち、その戦闘任務を除けば、「治安出動」にしても「領域警備」にしても(これらの場合の武器使用は警察機関の基準が準用)「災害派遣」にしても、それらの機能(役割)自体は国民にとって有用なものである。仮に(自衛隊法を改正して)自衛隊から戦闘任務(防衛出動)とそのための装備(兵器)が除去されるならば、自衛隊は現行憲法にたいして違憲の存在とはならないわけである。
 警察官などの武器とその使用は、犯人に対して自分や他の人の身を守る正当防衛・緊急避難と、犯人の抵抗や逃走の抑止のため、他に手段がない場合に限られ、それら以外には人に危害を与えてはならない(もしもその限度を超えて使えば、過剰防衛に問われることになる)、といった制限があるが、軍隊のばあいの武器とその使用は(国際法上、残虐兵器や無差別攻撃以外は)無制限といえる。
 現在我が国の自衛隊は、核兵器や空母・重爆撃機・ICBM(大陸間弾道ミサイル)など以外はすべてを持つ。ただし、海外での武器使用は(PKO協力法・テロ特措法・イラク特措法などで)正当防衛・緊急避難と、現場で自衛隊員の管理下に入った者の防護だけに限定されている。いずれにしても、自衛隊は設けられてはいても、憲法第9条第2項が国の交戦権を認めていない(放棄している)以上どんな武器を持っていても、又どんなにその使用訓練をやっていても、実戦では正当防衛など以外にはそれを用いて敵兵を殺傷することはできない(殺せば殺人罪になる)わけである。(イラクのサマワに派遣されている自衛隊はそこを「非戦闘地域」と称して行っており、重火器までもちこんでいるのだが、武器使用はその制限を守ることをたてまえにして行っているわけである。)
自衛隊は、装備などその能力からいえば「立派な」軍隊なのであるが、憲法上は軍隊としての戦闘行為は認められていないわけである。しかし、いまや改憲で、それが認められようとしているのである。

軍隊は必要不可欠か?
 そこで軍隊についてであるが、「どの国も、軍隊を持っているのに日本だけが持たないのはおかしい」というのはどうか?
世界には、戦火がくすぶり続けている国(イラクやアフガニスタンなど)や危ない国(北朝鮮など)、火種や紛争をかかえている国(台湾問題をかかえる中国、チェチェン問題をかかえるロシア、アチェ州問題をかかえるインドネシアなど)があり、紛争地域がいくつか(イスラエルとパレスチナの対立、カシミールをめぐるインド・パキスタンの対立、スーダン、ソマリア、コソボなど)あって、テロがあちこちであることはある。しかし大勢としては、国連憲章(国際紛争の平和的手段による解決、武力の行使・武力による威嚇を慎むこと)を守って戦争はしない方向にあるのであって、世界中どこも危険だというわけではないのである。
 それに危険や脅威の原因あるいはそもそもの根本原因や元凶(北朝鮮やアルカイダにとってはアメリカが「元凶」)はある程度わかっていることで、当事国・当事者たちが本当にその気になって、国際社会が協力すれば解決可能なのである。
 国連は、国ごとの自衛権は固有の権利として認めてはいるが、個別国家が軍隊を持ち、あるいは軍事同盟を結んで、交戦するのが当たり前のこととはしていないのでる。国連憲章は、侵略攻撃を受けた国が、安保理が必要な措置をとるまでの間に限って(いわば例外的に)自衛権の行使を認めているだけなのである。そして国連は、国連の目的(国際の平和および安全の維持)に軍備を利用する以外には、国ごとの軍備は制限・縮小するなど軍備の規制をめざしているのである。
 ヨーロッパ諸国は非軍事的政策を基調とするEUに結集し、我が国をも含む東アジア諸国は「紛争の平和的手段による解決」「武力による威嚇または武力行使の放棄」を基本原則とする東南アジア友好協力条約を基に結集して東アジア共同体(2020年実現を目標)をめざし、アフリカ諸国はAU(アフリカ連合)を結成、南米諸国もアンデス共同体など統合の動きをみせており、地域統合の流れとともに互いに不戦の方向に向かっている。
 これらの地域共同体も、第二次大戦前のような相対立する閉鎖的なブロックではなく、互いに開かれ、国境も地域も越えた経済・文化のトランス=ナショナル(超国家的)なつながり(相互依存関係)を深め、世界共同体へと発展する可能性もある。それが21世紀なのである。(それは、サッカーのワールドカップやオリンピックなどのスポーツ=イベントやスマトラ沖大地震・津波にさいする世界的規模の救援活動などにも、その一端がみられる。)
 軍縮は今のところは遅々としており、ほとんどの国が軍隊を持ち続け、中にはアメリカの圧倒的な核軍備に必死に対抗して核や弾道ミサイルの開発と軍事的対決に固執している一部の小国もあるが、大局的にみれば、わざわざそんなに軍備を持たなくとも大丈夫だという方向に向かっているのであって、日本だけが軍隊を持たないのはおかしいというわけではないのである。

軍隊のない国は今
 現在のところ、軍隊を持たない国は、コスタリカ・アイスランドなど、いずれも小国ではあるが、11カ国ある。
 なかでもコスタリカは、「軍隊のない国」として知る人ぞ知る国なのであるが、この国では警備隊(哨戒艇とセスナ機以外は大砲も戦車もなく武器は小火器しか持たない)はあるが、軍隊はなく、外国の基地もないのである。米州相互援助条約には加盟しているが、派兵義務には応じないことにしている。それでも、アメリカの干渉で内戦の多い中米諸国の中にあって、軍隊を廃止して以来半世紀以上になるが、平和を維持している。そればかりか、中米紛争解決に積極的なイニシャチブを発揮したこの国の大統領(アリアス)はノーベル平和賞を受賞している。イラク戦争の開戦にさいしては、政府は「平和とテロの戦いにおいて、我々は中立ではない」としてアメリカを支持したが、一大学生が訴訟を起こし最高裁が違憲判決を下したためアメリカ支持は取り消された。
 このような、軍隊を持たない国が現にあるのである。たしかに我が国は、これらとは違う大国である。しかし普通の国ではないのである。あの悲惨な大戦争をおこなったが故に軍隊を持たないことを誓った特別な国なのである。

2005年04月01日

自衛権があるからといって軍隊は?

 文明社会では、危機に瀕した場合、自力救済(自分の身は自分で守る)か他力救済(お巡りさんから守ってもらう)か、原則はどちらなのかといえば、それは他力救済なのである。勝手に報復したり、勝手に制裁・処罰(リンチ)したりしてはならないのと同じであり、警察・司法機関などの公権力によらなければならないのである。
しかし、それが、公的機関による救済の手が差し伸べられるまで待っていたのでは取り返しのつかない結果を被る恐れがある場合は、例外的に当事者または近くにいる誰かの助けを借りる自力救済が認められる。その際は、腕力・武力の行使その他、本来ならば違法となるような手段にうったえることもできる。それが正当防衛権ともいう自衛権である。

その正当防衛権・自衛権には三つの制約がある。一つは、急迫不正(差し迫った侵害)に対するもので、即時に食い止めなければ取り返しのつかない損失を被る恐れがあるか、または後日公権力の手で救済してもらうよりは、今阻止するほうが、利益が大きいという場合にとどまること。二つめは、他に適当な手段がないこと。三つめは、とられる手段は、侵害を遮止・排除するのに必要な範囲内(必要最小限)にとどまること、である。

個人の正当防衛の場合、暴力攻撃に対して身を守るには、手段を選んでいる暇がなく、警察や司法機関の出動を待っていたのでは取り返しのつかないことになるので、即時、自分の腕力か器物を使ってでも抵抗せざるをえない(「やらなければ、こっちがやられる」)わけである。それにたいして国家の自衛の場合は、他からの武力攻撃に対して軍隊が守るものには、自国の主権(独立)・領土・権益と国民の生命や死活的な生活手段とがあるが、国民の生命を守るといっても、軍隊が応戦(武力行使)をすれば、ミサイル(北朝鮮には日本が射程内にはいるもの200基以上、中国には大陸間弾道ミサイルは20基にその他中距離ミサイル・潜水艦発射ミサイルも)、作戦機(北朝鮮は610機、中国は2400機もつ)、艦艇(北朝鮮は600隻、中国は740隻もつ)など何百発か何百機か何百隻か撃破・撃退はしたとしても、すべてを撃破・撃退し尽すことは不可能であり(小泉首相も、3月15日の議会答弁で、将来導入しようとしているミサイル防衛システムについて、どのような兵器でも百発百中を保証することは難しいと言っている)、一発一機でも撃ちもらせば、それに搭載した大量破壊兵器によって、或は原発や石油化学施設、人口密集地帯が攻撃されれば大惨事となることは免れない。独立も領土も守らなければならないが、それらは、即時武力行使して反撃しなければ取り返しがつかなくなるというものでもない(何らかの他の手段、国連安保理などの措置を待つことができる)。

 したがって、国家は自衛権を有するとしても、それを軍隊によって行使(武力行使)するのは避けるべきなのである。

 尚、個人に正当防衛権があるからといって、我が国では、市民の銃刀の所持は一般には許されていない。ところがアメリカでは、それが西部開拓時代からの伝統で、銃の所持は憲法で認められていて、全米の家庭の半数が銃を所持しているというが、それでアメリカ市民は安全かといえば、さにあらず。殺人事件が人口比では日本の10倍近く起きており、戦火にある国以外では「世界で最も危険な国」ともいわれるのである。

 ところで、1992年ルイジアナ州で留学中の日本人高校生射殺事件があった時のことであるが、彼は訪問先の家を間違え、その家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、その時「もし、相手(その家の人)が銃をもっていなければ、まず言葉をかわしたはず」といわれる。武力をもてば武力にたよってしまい、「問答無用」となりがち、ということである。

 個人に正当防衛権はあっても、一般市民に銃刀の所持を認めるのは、かえって危険だということであるが、それは国家の自衛についても云えることであって、国家に自衛権はあっても軍備は持たないようにした方が、むしろ安全なのだということである。社会の安全と秩序を守るのに警察機関や司法機関が必要ではあっても、個々人に正当防衛権があるからといって銃刀の所持は許されないのと同じように、国際社会にも国際警察機関や国際司法機関が必要ではあっても、国ごとに自衛権があるからといって軍隊(戦力)は必ずしも必要とはされないばかりか、あることの方がかえって危険を招きやすいと云えるのである。

 それにたいして、皆が自衛用の武器・武力を持って抑止し合えばよいものを、それを持たない無防備な者がいるから攻撃を誘う結果になり、侵害や侵略がまかり通ってしまうことになるのだ、という論理がある。しかしそれは、無防備でいる方が悪い、襲われる方が悪い、弱いのが悪いといって、力(腕力・武力)の行使を正当化する「力の論理」であり、侵害行為を正当化する「無法者の論理」とも云えよう。弱い者や無力な者がいれば、強い者や力ある者がすべて無法者に化して彼らを食い物にするのが自然の理なのではなく、無法者がいれば、強い者・力ある者が弱い者・無力な者を守るか、さほど強くはなくとも多数が力を合わせて守ることの方がむしろ道理であろう。それは、「弱きを助け・・・」とか、「義を見てせざるは・・・」などという綺麗ごとでそうするのではなく、そうして無法者に制裁を加えることによって無法を許さず国内・国際社会の法と秩序を維持することが彼らの利益・国益を保障することになるからにほかならない。無法者は孤立し、制裁をこうむる。その制裁は、必ずしも腕力・武力(物理的強制力)によらなくともそれ以外の何らかの形でおこなわれ、無法者は痛手をこうむり、自滅に陥ることにもなるわけである。

 だからといって、無法者の出現に備えて、どの国も独自の力を身につけ強くなる必要も、助けてもらうために予め特定の仲間と手を組む必要もなく、警察・司法機関を設け、或は皆で力を合わせる体制をつくっておけばよいのであって、国際社会では国連の集団安全保障体制がつくられているわけである。

 国連憲章は武力行使の全面的禁止を原則とし、加盟国がどこからか武力攻撃を受けた場合には、例外として、安全保障理事会が措置をとるまでの間、攻撃を受けた国が個別的に、または集団的に自衛の措置をとることができると規定している。そこで個別的自衛権も集団的自衛権も認めてはいるが、そもそもは国連安保理が対処(非軍事的措置あるいは軍事的措置)すべきなのだということである。

 それに、集団的自衛権が認められているとして、武力攻撃をうけた時に、他の国から助けてもらうことはできても(その際、共同防衛のための条約などは必要としない)、それを当てにして予め安保条約などを結んで基地を提供し、外国軍の駐留を認めたりはしなくてもよいのである。(それはかえって、その国と敵対する勢力の攻撃を呼び込むおそれがあるのであって、そんなことはやめた方がよいのである。)

 要するに、個別的・集団的自衛権はあっても、国に軍隊は必要不可欠というわけではなく、日米安保条約など同盟条約が必要不可欠というわけでもないのである。

2005年05月07日

反日はなぜ?―歴史認識と民族的責任

[はじめに] 今、我が国では、中国で起きた反日のデモ騒ぎに「いったい何ごとだ」といった感じのようである。テレビのワイドショ-などで、映像が見せるその光景に、キャスターは「いったいどうしてなんでしょうか、理解できませんね」と問いかけ、解説員やコメンテ-タ-が指摘することは、それは「経済自由化による社会の多元化にたいする共産党一党独裁の政治のゆきづまり」だとか、「民衆不満のガス抜き」だとか、「報道規制に対するインターネット情報の大普及」、「日本に対するジェラシーやライバル意識」、「愛国教育」、ひいては「一人っ子政策で生まれて我がままに育った若者たち」のせいだとか、もっぱら中国側の問題に終始している感がある。これらの指摘はいずれも、なるほどもっとだなと思って
しまう。
 しかし、ちょっとまてよ。日本の方には問題はないのだろうか。経済社会格差の拡大、少子高齢化、若者や子どもたちの状況、将来不安の広がり、愛国主義・国家主義への傾斜と教育・職場・市民生活にたいする管理・統制の強化など問題がないわけではないだろう。そして、この日本でも若者の間に反中感情が高まりナショナリズムが強まっているという実態があるのである。
 一橋大学院の吉田裕教授は新聞社やNHKの世論調査に基づいて次のようなことを指摘している(論座3月号)。
 若い世代の間に、先の戦争をアジア近隣諸国に対する侵略戦争だったという評価に対する違和感が拡大している。そして首相の靖国参拝支持もこの世代が70歳以上の高齢者世代に次いで多い。自分の親の世代すら戦争体験をもたない世代は戦争にたいする当事者意識がさらに希薄であり、「侵略戦争」という非難に直面すれば感情的な反発が生じるのだ。また「80年代に入って以降、日本人の対外的優越感は目立って減少しており、若い世代ほど自国に対する自信を失いつつある。」「経済のグローバル化と『構造改革』の進展によって---従来の社会的統合が流動化し、深い挫折感と無力感が多くの国民をとらえている」「そうした社会状況を背景にして、公的なるものへの献身を高唱するネオ・ナショナリズムが若者の間に拡大している」。「問題は、それが、凄惨な戦争体験を持たない世代の、多分に情緒的で感覚的なナショナリズムであるために、ナショナルな感情を刺激する象徴的な事件に遭遇する場合には、容易に攻撃的なナショナリズムに転化する可能性をはらんでいることである」と。
 尚、この世論調査や吉田教授の指摘は、今回(4月)の反日デモ以前のものだが、あの激しい反日デモのあった後の今では、日本の若者のこのような傾向(反中ナショナリズム)はさらに強まっているのだろう。
 このように日本側にも内包する問題があり、双方に国内事情があって、「お互い様」といった一面がありはしても、日本の方がまだましなのであって、向こうの方が深刻だ、などと高をくくり、また貿易・経済なんかでも、大事な相手を失って困るのは日本よりも向こうの方だ、などと高をくくる向きが多いようであるが、よその国のことをとやかく言うよりも、自分の国のことを問題にすべきなのではないか。
 第一、中国人からデモによって訴えられているのは我が方なのであって、それを正面から受け止めてその問題を議論しなければならないのに、それをそっちのけにして中国側の問題に議論をもっていくのでは、それこそ問題のすり替えだといって益々反発をかうことになるだろう。
 それとも中国人の訴えは、単なる言いがかりに過ぎないか思い違いに過ぎず、日本がそんなに怨まれる筋合いは本当にないのだろうか。
 いずれにしても、中国側の問題をあげつらうよりも、訴えられている自国の問題を真摯に受け止めて、先ずはその方から議論しなければならないのではないか、と思うわけである。
 尚、先方の愛国主義を批判するからには、「そっちの方こそどうなんだ」と云われることのないようにしなければならないので、自国を身びいきしたがる愛国の情は抑えて、つとめて客観的な立場にたち、自国にたいしてはむしろシビアに、自己批判的に問題点を取り上げて論ずることとする。
 すなわち、近隣諸国における反日の根本原因はどこにあるのかといえば、それは日本にあり、近隣諸国に対する侵略の歴史にたいして日本人が認識を欠き、民族的責任にたいして無自覚・無責任であるところにある、ということで、以下にその理由・根拠を幾つか論じてみたい

(1)戦争責任
 60年前、大戦が終結したその当初、日本国民は侵略戦争と植民地支配、それにともなう諸々の加害行為にたいする事実認識と反省に基づいて、その加害責任を果たすことが世界から求められ、また、それに応えて自らその責任を果たすと誓ったはずではなかったか。それから間もなく制定された日本国憲法にそれが表れている(前文「日本国民は、---政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し---。」そして第9条)。
 そこで、その責任を果たすこととは、具体的にどのようなことかといえば、次のような三つのことが考えられる。
 まず、第一に、東京裁判などに基づく処罰に服したこと。それで、侵略戦争の計画責任者(A級戦犯)、非人道的行為の責任者(B級戦犯)、その実行者(C級戦犯)などが処罰され、937名が死刑、その他は禁固に処せられた。
 尚、この判決を日本政府はサンフランシスコ講和条約(11条)で受諾し、それによって我が国は国際社会への復帰が認められ、その後国連への加盟も認められたわけである。
 第二に、損害にたいする賠償・補償である。国家間では、(サンフランシスコ条約で)アメリカ・イギリス・オーストラリア等は請求権を放棄。台湾・ソ連・インドも請求権放棄。韓国は(日韓条約にともなって)経済協力と引き換えに請求権放棄。中国も(日中共同声明で)請求権放棄(そのかわり日本はODA政府開発援助を最近に至るまで年々行ってきたといわれるが、それにたいしては、中国側は返済を果たしている。)東南アジアの4カ国(ベトナム・フィリピン・インドネシア・ミャンマー)にたいしては生産物(船舶・鉄道車両・家電製品など)や役務を提供するかたちで支払った。タイ・マレーシアとシンガポール・ミクロネシア・モンゴルには賠償に準ずる無償援助や経済協力がおこなわれた。カンボジア・ラオスは賠償請求権を放棄したが、その代わりに日本から無償援助をうけている。
 第三に、降伏直後の武装解除に引き続き、新憲法を制定して、前文に平和主義を誓い、9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権の放棄を定めた。それらは、国際公約ともいうべきものであり、世界の諸国民にたいし不再戦と侵略・加害行為再発防止の保証となるものであり、それを守り続けることも、戦後責任の一つであろう。その責任は「決着がついた」とか、「処理済み」などといって終わるものではなく、今後ともずうっと果たし続けなければならない民族的責任ともいうべきものである。

 そこで、第一の責任すなわち処罰のことについては、日本では、「新しい歴史教科書をつくる会」などの間で、我が国の戦争は自存自衛のためのやむをえざる戦争なのであって、(アメリカの思惑から起訴されなかった天皇は勿論のこと)A級戦犯とされた東条らも無罪だとし、裁判自体が勝者による敗者にたいする一方的な裁判であって正当性がないとする向きがある。
 「敗者」という言い方をすると「弱者」「被害者」といった感じを受けるが、日本はアメリカなどの連合国に対しては敗者ではあっても、アジア諸国民に対してはあくまで強者・加害者だったのである。加害者が裁かれるのは当然なわけである。だからといって復讐裁判や報復裁判は望ましくないわけであるが、国際刑事裁判所は近年になってようやく設立されたばかりであり(しかも日本はアメリカとともに未だにその条約に批准していないし)、当時はそういったものがなく、国連さえも連合国すなわち戦勝国によって結成されたばかりという時代とあっては、この方法すなわち連合国軍による軍事裁判以外になく、中立公正な国際法廷をといってもそれは望むべくもなかったわけである。その裁判はアメリカなどの政治的思惑によって進められ、原爆などのアメリカ側の残虐行為は不問に付され、(マッカーサーが日本を間接統治する上で天皇は有用だとの思惑から)天皇の戦争責任も不問に付された(それは日本政府の思惑と合致した)。
 このように、東京裁判には諸々の問題点があることは確かであるが、だからといって日本の戦争は侵略戦争ではなかったとか、処刑された戦犯たちに罪はなかったということにはならないはず。ところがそれを、近隣諸国に対して日本が行なったことは侵略とは認めず、加害責任を認めようしないのである。
 そもそも、ドイツでは連合国軍による軍事裁判のほかにドイツ人自らが戦争責任者を裁判して厳しくその責任を追及しているが、日本では日本人自身による戦争裁判はおこなわれず、ドイツ・イタリアに比べて戦犯に対する責任追及が弱く、東京裁判でA級戦犯容疑者であった人物(岸信介)が戦後首相となったり、靖国神社にA級戦犯が合祀されたりしており、その靖国神社に首相が公式参拝しているのである。

 第二の責任すなわち賠償のことについては、(教育史料出版会「いまなぜ戦争責任を問題にするのか」の執筆者のうちの俵義文氏の文によれば)日本政府がアジア諸国に支払った賠償・準賠償額は計5千数百億円で、放棄した在外資産などを含めても約1兆円にすぎない。(ドイツが94年までに支払った約7兆円に比べるとはるかに少ない。しかも日本の場合は、支払いはもう完了しているが、ドイツは2030年まで約8兆5千億円払い続けることになっている。)
 ちなみに、日本国内の軍人恩給などは52年から97年まで約45兆円にもなり、現在も年間約2兆円支出されているという。
 それでも日本政府は、国家間ではもう決着している(処理済み)というわけである。一方、個人にたいしてはほとんど賠償・補償はなされていない。国連人権委員会は国家として個人補償すべきであると勧告しており、「国家間で決着しても、個人の補償請求権は消滅しない」という国際法解釈が大きな流れとなっている。
 従軍慰安婦・強制連行・強制労働・731部隊の細菌戦人体実験・無差別爆撃等々。それらによる被害者とその遺族が日本政府に補償を求める訴訟をおこなっているが、日本の裁判所は、不法行為は認めながらも、時効や除斥期間規定(20年経過すれば賠償請求権は消滅)(その適用にたいして、被害者側は、その間「国交もないのにどうして日本の情報が入手できたのか」と批判)或は政府間の協定による個人の請求権消滅などを理由にほとんど棄却している。
 ただ従軍慰安婦については、1995年、日本政府は(国民からの寄付をもとに)民間基金(アジア女性基金)を設立してそこから(1人200万円の「償い金」を)支払うことで済ますことにしたが、「ただお金さえもらえればよいと云っているわけではない」として、多くは受け取りを拒否している。1998年には、下関地裁判決で初めて国家賠償請求が認められたものの、一人につき(請求額1億1100万円にたいして)30万円で、しかも広島高裁で取り消され、最高裁に上告中である。
 強制連行については、花岡事件(鉱山で酷使され集団脱走した中国人数百名が拷問死)の訴訟は会社(鹿島)に対しておこなわれ、基金(5億円)を設立して生存者・遺族に分配することで和解(2000年、東京高裁)。2001年、劉連仁(終戦後も北海道の山中で13年間逃亡生活を余儀なくされた中国人)が国を相手取り東京地裁に提訴していた事件で初めて国に2000万円の支払いを命ずる判決が出たが、国側が控訴。昨年、酒田港中国人強制連行事件の訴訟で、中国人河北省在住6人が国と会社に対して提訴、山形地裁で審理中。韓国人元徴用工たち(40名)が国と会社(三菱重工)に対して提訴、一審では時効や除斥期間規定などの理由で棄却されて控訴していたが、本年1月広島高裁は、彼らは被爆しているのに戦後韓国に戻ったためとして手当てなどの受給資格を認めなかったのは違法であるとして国の賠償責任を認める判決を下している。
 賠償問題は、政府は解決済みだとしてきたが、被害者側はそうは思っていないのである。
 尚、北朝鮮に対しては、国家に対しても個人に対しても何もしていない。
 
 第三の責任すなわち不再戦・不再侵略の保証であり国際公約ともいうべき憲法9条を守り続けるという責任については、日本政府はそれをネグレクトする方向をたどっている。すなわち終戦・武装解除後5年目から再軍備を始め、「自衛隊」の名のもとにその整備・拡充・強化を重ねて今や(アメリカは別格としても)世界有数の軍事大国となっており、しかも海外派兵をおこなうまでになっている。それは事実上の改憲(解釈改憲)なのであるが、今、政権党と最大野党はともにそれを明文改憲して、これまで自衛隊の海外での武力行使の歯止めとなってきた第2項(戦力・交戦権の放棄)をはずそうとしているのである。それは、近隣アジア諸国民からみれば、日本の不再侵略の保証責任の放棄であり、諸国に対する日本の不再侵略の保証という安全保障がなくなってしまうことを意味する。(その意味で、改憲は日本だけでなくアジア諸国の安全保障に関わる重大問題なのである。)
 韓国・仁荷大学の李京柱教授は、「9条は東北アジアの安全保障体制をつくるために非常に大きな役割が期待される」と述べている(「法律時報」04年6月号)。また、NGOピースボート代表の吉岡達也氏(2005.4.7朝日「私の視点」)によれば、今年2月東京の国連大学に東北アジア各地からNGO代表や研究者が集まって国際会議が開かれたが、そこでは、「日本の憲法9条は、一国の憲法の条項であるとともに、東北アジア地域の紛争予防メカニズムである」とされ、その会議で韓国の女性NGO活動家は「9条はドイツと違い戦争責任を明確にしない日本の『侵略を繰り返さない』というアジア市民に対する誓いとして機能している」と指摘していたとのこと。 
 「9条があるからアジアの人たちは安心していられ」、「改定されることに、アジアの人たちは非常に危機感を持つ」という(作家の梁石日氏)。昨年11月、自民党改憲草案大綱が発表された時、韓国の与野党国会議員70名が連名で抗議声明を発し、その中で「日本のこのような憲法改定は、過去の侵略に対する痛切な反省なしに、再び日本を戦争国家化し軍事大国の陰謀を実現するための具体的な行動である。」「日本の憲法が改定されれば、韓半島での戦争の危険がいっそう高まることは自明である」とし、「日本の憲法改定をわが民族の生存を脅かす最大級の事案」だとしている。
 日本は過去の侵略に対する反省のうえにたって不再侵略の保証たる9条を守り抜くという、その責任を果たしているとは思われていないわけである。

 加害者が被害者にたいしてやるべきことは、まず、加害事実を認めて謝罪するところから始めなければならないが、それはもうやっているはずだと。(ところが他方で、加害事実を認めないか、「悪いことばかりではなく良いこともやった」などといった言動をする者が出てくる。相手は憤慨し、また謝罪をくりかえさなければならなくなる。)しかし口先や言葉だけで「反省とお詫びを」をいくら繰り返しても、(いったい何回謝罪すれば気が済むのかなどとよく言うが)これら(処罰・賠償・再発防止保証)の責任をきちんと果たさなければ、被害者は納得できないわけである。

 このように、近隣諸国がかつて日本からこうむった被害にたいして償いと加害責任を果たすよう求めているのに対して、日本は充分それを果たしていない。それに対する反発が「反日」にほかならないわけでる。

(2)歴史認識のギャップ
 そこには、日本と近隣諸国との間に、日本の戦争や植民地支配とそれにともなって日本人がおこなった諸々の加害行為にたいする事実認識と評価―歴史認識にギャップがあり、それがさらに拡大してきている、という問題がある。そのギャップはどうして生じ拡大しているのか。考えられることは、次のようなことだろう。

(1) 加害者の方は「人の足を踏んだ者は、踏まれた人の痛みは分からない」ということで、とかく被害者の心の痛みに無頓着であったり、よく覚えていなかったりしがち。他方は傷跡がうずき、忘れようにもわすれられない。また加害者には心理的に適応機制がはたらいて嫌なことは忘れるものだが、他方は忘れようとて忘れがたいその思いを人に訴えずにはいられないのである。
(2) 日本人には、とかく原爆とか、空襲とか、310万人もが死んだとか、被占領とか、日本の方が被害国であるかのような錯覚に陥りがちである。それにたいしてアジアの被害国民は、自分たちの方は徴用や強制連行以外には日本領土に一歩も踏み入ることなく一方的に侵略され、略奪・暴行・殺戮をうけ、町や村・家々を破壊され焼き払われ、アジア全体で2000万人もの人々が犠牲になったのだということ。
(3) 日本では、学校の歴史学習は、とかく教科書の最後の方にある近現代史が時間不足になり、受験問題もそこは避けるといったこともあって不徹底に終わりがちである。それにたいして被害国の学校では教科書のページ数も時間も近現代史に多くを割いて徹底を期す。日本ではそれを「愛国主義教育」と称し、「(日本の方は教えなさ過ぎだが、向こうは)教え過ぎ」と批判する向きが多いが、被害国側では学校だけでなく、祖父から子へ、子から孫へと語り継がれている部分が多く、日本ではそれが少ないという問題もある。
(4) 政治的意図や民族感情により、他国に与えた被害はできるだけ小さく見積もり、(テレビや教科書などから)過去の国家や支配層の失敗、過ちや不名誉を隠し、それらをタブー化もしくは正当化・美化するが、他方はそれを暴こうとする。

以上のようなことが考えられる。

 それらによる歴史認識のギャップを埋めるには、次のようなことが考えられる。
 (1)と(2)の加害者・被害者間の感覚や意識の相違については、加害者側がその立場を自覚し、謙虚かつ率直に自己反省・自己批判し、被害者側の言い分を理解し、気持を察する努力を払わなければならないわけである。
 (3)の歴史学習については、まず、加害国側と被害国側とで事実の確認(専門家による調査・検証)をそれぞれにおこなうとともに双方の専門家が共同で調査・研究を実施し、その結果を双方の学校の教科書や授業に反映させる。共通の歴史教材づくりにも取り組む。
 そして双方とも学校その他できちんと教えることにする。
 (4)については、和解と友好以外にはあらゆる政治的意図や感情は抜きにして、事実を隠蔽・タブー化・歪曲・正当化・美化することなく、加害事実も被害事実もありのままに歴史学上の(科学的)真理として扱うことに徹する。
 そもそも、歴史学習や歴史認識は、単に自国に誇りをもったり、自民族を賛美したり、過去を正当化することが目的なのではなく、我々と我々の子孫が現在から未来にわたって生きる国家や社会を諸国民と共に平和・安全で幸福に暮らせるようにすることが目的なのであり、そのために過去の国家や社会のあり方、近隣諸国や他国との関係・対立・戦争や侵略加害・被害の実態をよく知って、そこから教訓を得る(民族の失敗経験から学ぶ)とともに、加害責任など過去から課せられている責任(民族的責任)を自覚してそれを果たし、被害国民との和解・友好を得るのである。だから政治的目的や民族感情で過去の事実を消し去ったり、歪曲したりせずに、ありのままに伝え知ることなのである。
 これらのことを可能な限りおこなう。そうすれば歴史認識のギャップは埋まっていくだろう。とは言っても非常に難しいことではあろうが、やるしかないわけである。

 自民党の安倍晋三氏は、「日中は共通の歴史観をもてない」と発言したという。それはどのような意味で言ったのか、「歴史観」とは唯物史観や「人民解放戦争史観」に対する皇国史観か「自由主義史観」「大東亜戦争肯定史観」のことを言っているのか、それとも単なる歴史の見方か歴史認識という簡単な意味で言ったのか定かではないが、いずれにしろ「共通の歴史観はもてない」などと、そのような決め付け方をするのは、中国人と日本人は永久に同一の理解には達しえず、解り合えない、故に真の友好関係に達することは不可能だ、と言っているようなものではあるまいか。
 自由主義史観は「新しい歴史教科書をつくる会」など我が国でも一部の論者たちの称する史観であり、我が国の歴史学界の大勢ではない。唯物史観(宗教史観や観念論的歴史観に対するもので、帝王中心史観や英雄中心史観に対する民衆中心史観)は科学的社会主義の歴史観で、民衆の視点で客観的にありのままにとらえる立場であるが、その科学的実証的な歴史認識の立場は我が国の歴史学界でも大勢をなすものであり、「つくる会」派グループはいざ知らず、日中間で共通の歴史観はもてないなどということはありえず、歴史認識を共有することは可能なのである。

(3)日本側の一連の動き 
 戦後60年経った今、我が国は近隣諸国との歴史認識のギャップを埋め戦後責任を果たして和解・友好に努めるどころか、それに逆行する動きをこのところ次々と見せてきているのである。
 首相の靖国神社参拝、戦争肯定の歴史教科書公認、日の丸・君が代の強制、「昭和の日」制定(4月29日は、昭和天皇存命中は天皇誕生日であったのを死後「みどりの日」と改めたものを、再び改め、「みどりの日」は5月4日に)、教育基本法改定、そして改憲と。    
 これらの動きに対して、被害国である近隣諸国は気が気でないのである。日本は加害責任を曖昧にし、戦争・占領と植民地支配を肯定するようになり、再び惨害が繰り返されかねないと。
 それを云われると日本側は「それは思い過ごしだ」「それとこれとは別だ」「そんなにむきにならなくてもいいのに」といって済ませようとし、或は「内政干渉だ」といって逆批判する。そして次のように釈明する。
 靖国参拝は「ごく自然の感情」「国のために心ならずも犠牲になられた方々に哀悼の誠を捧げる」「恒久平和を英霊に誓う」「人は死ねば善人も悪人も無いというのが日本人の死生観」(実は必ずしもそうではなく、反乱を起こした西郷隆盛などは祀られていない)。
 「つくる会」の歴史教科書には「間違ったことは書かれていない」。
 「日の丸」・「君が代」は「我が国を象徴するもので、それを尊重し、学校で掲揚・斉唱を指導、徹底しようとするのは当たり前。」
 「昭和の日」は「激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時を顧み、国の将来に思いをいたす日」「昭和の教訓をかみしめる日」。
 教育基本法改定は「児童生徒に愛国心を育てるのは学校教育として当然のことだから」。
 改憲は「自衛のため軍事力をもち、それを行使できるようにするのは独立国として当然であり、国際協力のためにもそれが必要。」
というわけである。
 しかし、被害国民から見れば、これらは一つ一つ別個のものではなくて一連のものとして、次のように受け取られるのである。
 靖国神社は、「かつての侵略や戦争にたずさわった軍人や戦争指導者を神として祭っており、そこを参拝することは侵略や戦争の肯定を意味する」。
 「つくる会」教科書は「かつて日本がおこなった侵略戦争や植民地支配を肯定・美化し、歴史を歪曲している。」
 「日の丸」・「君が代」は「日本軍による占領支配のシンボルとして掲げられ、小旗を振らされ、歌い奏された大日本帝国の国旗・国歌。」
 「昭和の日」は「侵略戦争を起こし、アジアの人々に多くの犠牲を強いた天皇の治世を肯定するもの。」
 教育基本法改定は「かつての忠君愛国教育を復活しようとするもの。」
 改憲は「不再戦・不再侵略、かつての加害行為の再発防止の保証責任を放棄するもの。」
というわけである。
日本側が、「侵略したことに対しては反省とお詫び」はもうやっているではないかといっても、これらの行動や政策をとっている以上、それは口先だけとしか受けとられない。「日本は本音の部分では悪いことをしたとは思っておらず、加害意識も責任意識もないのだ。許せない!」と反感をつのらせる。それが反日の原因にほかならないわけである。

(4)日本側の支配層の国家戦略
 それに、我が国の支配層(政権党や自称「政権準備党」の政治家と彼らに献金している財界)には次のような国家戦略があると思われ、それがアジア近隣諸国にたいする責任を軽視する所以なのであろう。
 その国家戦略とは、アメリカ軍の日本占領以来、米ソ冷戦下でアメリカに従属し、ソ連解体後もそのままアメリカの世界戦略に合わせて国益とサバイバルをはかる日米同盟路線を歩んでいこうというものである。イラクをめぐってはアメリカの要請に従って自衛隊を派遣、北朝鮮とはアメリカとともに戦うことも辞さず、台湾をめぐってはアメリカとともに中国と戦うことも辞さない。アメリカ以外の諸国とは、中国とも経済的打算による「友好」関係は必要としても、アメリカに対する程には信頼関係にとらわれず、信義にはこだわっていないのである。評論家の加藤周一氏は、福沢諭吉が云った「脱亜入欧」ならぬ「脱亜入米」といっている。
 尚、アメリカで国務副長官を退任後も対日・対アジア政策づくりに強い影響力を持つアーミテージ氏が、米国抜きで進められている東アジア共同体構想に、中国が熱心であることに警戒感を示し、日本がその設立準備に積極的に関わることに難色を示したという。(2005.5.1朝日)
 我が国が、アジア諸国民にたいする歴史的責任や国際的信義をそっちのけにして、自国の国益とサバイバルのためにはその方が有利だからといって、このようなアメリカの意向に合わせた対アジア政策をとるならば、かつては抗日戦争の味方で連合国同士であったアメリカは許せても、日本は許せないとなり、事あるたびに反日がわきあがることになる。そして我が国民は孤立感にさいなまれることになる。

(5)歴史認識を共有して連帯
 支配層の国家戦略や政策はそうだとしても、我々国民にとっては、侵略・加害の歴史の事実を率直に認め、それを真に反省し教訓とし、戦後責任を果たしきることによって被害国民・交戦国民に対して信頼を勝ち得、完全和解を達成し、アジア諸国・アメリカ・ロシアその他どの国とも友好協力関係を結んで相互不可侵の安全保障を得るのが一番望ましく、平和憲法を守り、侵略・加害の歴史に対する責任を果たしきることが国益となるのであって、それに反する動きには反対しなければならないのである。
 日本の学生や若者も、反日デモに対する反発感情にとらわれて、自国側の近隣諸国に対する歴史責任・和解に反する動きに対しては、目をつむったり弁護・免罪したりするのではなく、一層シビアに批判し反対の声をあげなければならないのである。「首相の靖国神社参拝反対!」「侵略肯定教科書反対!」「9条改悪反対!」と叫んで、近隣諸国の学生・若者と連帯デモに立ち上がらなければならないのである。
 我が国民と近隣諸国民とは排外的ナショナリズムの対立ではなく連帯の精神で、各国専門家による歴史の共同研究を基に共通の歴史認識をめざし、ひいては相互不可侵・不再戦・友好協力の「東アジア共同体」構想実現をめざさなければならないのであって、「反日」対「反中」などといがみ合って、そっちもこっちも愛国排外運動に意を注ぐのではなく、むしろ相呼応して連帯行動をめざすべきなのである。
 我が国民は、たとえ政府が口先だけの「友好」「アジア重視」その実「嫌中」「脱亜入米」であっても、或はメディアが「反中」をあおっても、市民サイドでは真の和解・友好・「東アジア共同体」構想実現への連帯行動に取り組まなければならないのである。

(おわりに)
 ジャカルタでのアジア・アフリカ会議のさいの日中首脳会談直後、小泉首相はニコニコ顔だった。それにひきかえ胡錦涛氏の表情は硬かった。
 日本側は暴力デモによる被害にたいする謝罪・賠償を要求してそれに応じない中国政府にたいして貸しをつくることによって(中国側は日本側からの謝罪要求には応じないものの、暴力デモの非は認めざるを得ず、そのために強気には出れない、そのことに乗じて)中国側の要求する歴史問題をかわし、その場はしのぐことはできたかのようである。或は、こっちは(首相がジャカルタの会議で過去の侵略を)謝ってやったのに向こうは(我が国の大使館や領事館のガラスを割り、我が同胞のスーパーや料理屋などのガラスや器物を損壊しておいて)謝りもしない、「悪いのは向こうだ」(こっちは悪くない)という印象を自国民にもたせることに成功したかのようである。
 しかし、日本側がかつての侵略に対して「反省とお詫び」を言葉ではおこなったとしても、行動すなわち「靖国参拝はやめる」、「戦争肯定教科書は採択しない」、さらには「9条改憲はやめる」という行動が見られないかぎり、反日はやまないであろう。ジャカルタでの日中首脳会談で胡主席は、言葉でお詫びを述べるだけでなく、靖国参拝を中止して行動で示すよう求め、中国とアジアの諸国民の感情を傷つけるようなことを二度としないよう求めている。また、同会議では韓国の李首相も「(過去にたいする)反省は誠実で行動を伴わなければならない」と指摘している。
 ところが、首相のジャカルタでの「反省とお詫び」をよそに、80人の国会議員はぬけぬけと靖国参拝をやってのけた。また次期首相の最有力候補と目されている安倍晋三氏にいたっては、「日中は共通の歴史観を持てない」「(私が)首相になっても靖国神社には参拝する」と明言しているのである。これでは近隣諸国との真の和解・友好は不可能であり、反日は強まりこそすれ弱まることはないだろう。
 60年前世界の諸国は何を合意して国連を結成したのか。また日本国民は何を決意して憲法を制定し、戦犯裁判の判決を受け入れ、サンフランシスコ条約を受け入れて国連に復帰したのか。日本だけが歴史を勝手に解釈したり、解釈を変えたりすることは許されないわけである。
 国際社会では、諸国間の歴史にたいする共通認識からかけ離れ、歴史に責任を持てない国は信頼されず、第二次世界大戦にたいする歴史認識が国連の大勢と異なる国が常任理事国になるのはおかしいと思うのが自然であろう。日本政府が国連常任理事国入りを主張していることに対して、反日デモが反対を叫んでいるのはその理由からなのである。
 事アルごとに歴史問題を持ち出し反日をぶっつけてくるアジア近隣諸国側と日本側とで、どっちがおかしいのか。中国にしても韓国にしても近隣諸国の方がおかしいというわけではあるまい。中国政府も韓国政府も、日本の首相が靖国参拝をやめ、日本の学校で「大東亜戦争」「日韓併合」を肯定するような教科書の採択をやめ、9条改憲をやめてくれれば文句ないわけであるが、日本側ではそれをやめれば自国や自分の非を認めることになり、それが嫌なばかりに、それらに頑なに執着し続けるのである。はたして、どっちが頑固でしっつこいのかである。

日本人は「反日」に対して反感をもち、「反日」をやめれば気はおさまるのだろうが、中国人の反日は、もっと根の深いものであり、中国が国内を民主化し反日教育をやめれば無くなるという筋合いのものではなく、日本が過去に反日の種(原因)をつくったことを反省して、これ以上反日の種をつくらなければよい話なのである。
 両国民は歴史尊重のうえにたって、二度と悲劇を繰り返さぬよう努め、「反日」「反中」から「好日」「好中」へと転じなければならないのだ。

2005年06月03日

専守防衛ならいいか?

 この考えは虚構の前提のうえに立っているように思われる。「日本は他国に侵略する敵意を持たない善良な国で、自衛隊は専守防衛に徹し、同盟国アメリカも正義の味方であって、その行動は常に合理的である」と。しかし日本人がそう思っても、世界中がそう思ってくれるわけではなく、自国のことを悪い侵略国だと思っている国などないわけである。
 それでも、自衛だけに徹する「専守防衛」ならいいではないか、という。そして「ミサイル防衛」(迎撃用ミサイル網の構築)も結構だと。
 しかしそれを云うなら、相手も「自衛」「専守防衛」のためだといって兵器を開発し、軍備を整えようとするわけである。そして、日米が「ミサイル防衛システム」を構築して相手の弾道ミサイルによる報復攻撃を封じておいたうえで「予防的自衛」と称して一方的に先制攻撃(相手が攻撃をかけてくる前にミサイル基地を攻撃)をかけてくるようなことは許してなるものかと考え、(ミサイル防衛をくぐり抜ける方法は電波妨害や「おとり」などいくらでもあるのだが)「攻撃は最大の防御なり」ということで弾道ミサイルを相手の迎撃ミサイルを上まわるだけ多く発射できるように増強することに努め、さらに相手の迎撃ミサイル網を突破できるだけの能力向上に努めようとするだろう。それを「自分のは防衛用だから善くて、相手のは攻撃用だから悪い」といってみたところで、そのような手前勝手な言い分は通らないわけであり、相手にたいして撤去・廃棄すべきだと要求したり、軍備の制限や軍縮を求めることができなくなってしまうことになる。北朝鮮の核問題にしても、アメリカの核の傘にある自分のは自衛・抑止用だから善くて、相手のは悪いという論理で一方的に放棄せよと云われても、相手は、それは受け入れられない、となるわけである。
 「専守防衛」といっても、お互い様なのであって、結局、相手の脅威を増幅する結果になってしまうのである。それに「専守防衛」ということで、敵が自国(領土)に侵攻してきたらそれに応戦する(迎え撃つ)となると、本土を戦場にし、自国民を巻き込んで大量の犠牲者が生まれ、居住地が焦土に化するなど、かえって危険なことになるし、そんなことならむしろ、「攻撃は最大の防御」とばかりに機先を制して敵国領土に打って出た方が自国民の生命・財産は守られるのである(それがアメリカが先制攻撃戦略をとる由縁であろう)。軍事的手段による防衛すなわち交戦するその限りでいえば、専守防衛ではむしろ防衛しにくく、先制渡洋攻撃すなわち機先を制して海の向こうに打って出たほうが防衛の実があげられるのである。しかし、それは「侵略」か[自衛]か、もはや区別がつかないものとなる。要するに「専守防衛」ならよいということにはならないのである。

抑止論の矛盾

 抑止論とは、相手の武力攻撃を予め抑止するために軍備は有効であるとして軍備を(核兵器も)正当化するものである。しかし、その抑止効果は、はたしてどれだけあるのか。すなわち、はたして、それで相手に攻撃を諦めさせられるのか否かである。
 その攻撃が、(領土や資源・権利・利益の獲得など)何らかの要求を達成しようとする政治目的に発する場合は、抑止効果はある。ただし、その抑止力は相手の戦力を上まわるか、対等でなければならない。相手が核ミサイルを持つなら、自らもそれを持つか、持っている国の同盟国とならなければならない。そして戦力の均衡(パワーバランス)を維持しなければならず、相手の戦力アップに応じて、たえず戦力アップに努めなければならない。そのための財政支出が際限なくなって、ついには持ちこたえられなくなって自滅する。冷戦でアメリカと核軍拡競争を演じたあげくに崩壊したソ連がその代表例である。後ろ盾(ソ連)を失った北朝鮮はアメリカに対して必死に対抗し核開発を進めているが、自滅に向かっているきらいがあると見られている。
 一方その攻撃が、かつて受けた仕打ち或いは現在受けている仕打ちに対する我慢のならない不満の爆発、憎しみ・恨み(復讐心)、絶望・聖戦意識・殉教心などに発する場合は効果は無い。なぜならその場合は、相手はそれを晴らすため「何が何でも」ということで、攻撃自体が目的(自己目的)となり、勝ち目があろうとなかろうと、迎撃・撃破されようが、自爆して果てようが、こちらがどんなに圧倒的な戦力を持っていようともおかまいなしであり、相手は攻撃を諦めず、それは抑止しきれない。かって日本の特攻作戦、アメリカやイスラエルに対するイスラム過激派の戦いがその実例であるが、自滅に向かう北朝鮮も「やぶれかぶれ」になって、それに走る危険性もある。
 アメリカは、ソ連に対しては抑止効果によって戦わずして勝ちを制したが、抑止のきかない後者(テロなど)に対して脅えることになる。
 軍備は相手に同等の軍備を促し、相手の攻撃を抑止するどころか、逆に攻撃を誘うという逆効果もある。なぜなら、それはけっきょく力に頼りがちとなるため、対話・外交交渉を充分尽くそうとしなくなり、「問答無用だ」といっていきなり、或は「もうこれ以上話し合っても無駄だ」といってさっさと開戦・攻撃開始に踏み切るか、「かかってくるなら、いつでもこい。受けて立つ」といって、逆に相手が仕掛けてくるのを誘い込む結果になりやすい。その意味では、それは攻撃を抑止するというよりは、むしろ誘発する。
 圧倒的な抑止力を持つアメリカは、同時多発テロに対していきなりアフガニスタンのタリバンを報復攻撃し、国連の安保理の合意に見切りを付け国連査察委員会の査察継続要求を蹴ってイラク攻撃に走ったし、北朝鮮に対して2国間交渉には頑として応じない。それで事は成功裡にはこんでいるのかといえば、逆である。アメリカなど5大国の「抑止力のため」と称する核保有は、NPT(核拡散防止条約)があるにもかかわらず、諸国家やテロ組織の間に核拡散を促す結果になっている。北朝鮮は「我々の核兵器はあくまで自衛のための核抑止力にとどまる」として核保有を宣言している。
 アメリカは、イラクに対しては予防自衛のためと称して先制攻撃を加え、戦争を招いたし、北朝鮮に対してもそれ(先制攻撃)を選択肢に入れている。戦争を抑止するための核軍備と云いながら戦争を招く。抑止論はまさに自己矛盾なのである。
 領海・領空侵犯やテロや拉致などに対する抑止力としての警察力は必要であっても、我が国に戦力(軍隊)は必要なのだろうか。政府・防衛庁も、近隣諸国で日本に武力侵攻する能力や意図をもつ国の存在は想定できないとしている。係争地となっている「北方領土」・尖閣諸島・竹島などの島や東シナ海の海底ガス田などの問題があるが、そのために戦争になるかもしれないなどという蓋然性は考えられない。それよりもむしろ、警察力以上の過剰な軍備(自衛隊の軍隊化と「日米防衛協力」体制)を持つことによって、かえって近隣諸国に緊張を強い、刺激して攻撃を誘いかねないという、その方が心配されるのである。

2005年07月02日

問題の歴史・公民教科書

 以下は、当地の教科書採択に先だって行われた教科書展示会で、今国内外で問題の歴史・公民教科書―扶桑社版―を読み、アンケート用紙に意見として書いて出してきたものに若干の補足・修正を加えたもの。
[歴史]
 この教科書は、21世紀後半にわたって生きていく生徒たちや国内外の民衆(生活者)の立場ではなく、自国の、かつてその当時の、そして現在の為政者・支配層の視点・立場にたち、かつての皇国史観のような偏った歴史観にたって書かれているように思われる。

(1) それは、神話や天皇・聖徳太子など皇室に関わる記述、それとの関連で、古代と近代に(中世・近世に比して)多くの頁が割かれており、神武天皇を(架空の人物であるにもかかわらず)初代とする「万世一系」の天皇を中心に我が国家は成立してきたとし、あたかも、いつの世も国民は皆(武士も農民も)天皇や朝廷に仕え、従ってきたかのように書いている。明治維新は「武士たちによって実現した改革だった」「全国の武士は究極的には天皇に仕える立場だった」として、世直し一揆など民衆の動きは全く無視されている。

(2) 「江戸時代の身分制度は・・・・血統による身分ではなかったから、その区別はきびしいものではなかった」などとおかしなことを。例えば、新撰組の近藤勇は百姓の出であり、養子に入って武士とはなったものの、その出自は生涯彼につきまとったといわれ、また、維新の担い手となった武士たちは、同じ武士でも下級武士であったのであり、その身であった福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」と言っているが、これらはよく知られた話である。

(3) 近隣諸国や世界との関係史では、自国の正当性弁護のニュアンスがつよく、戦争や植民地支配については、それらには、我が国の安全と生存圏の確保という正当な理由があり、また現地にもつ権益と在留邦人を排日・反日攻撃から守るため必要やむをえざるものだったとし、(「侵略」の「し」の字も使っておらず)加害事実は多々省かれている。
 日朝修好条規については、それが、日本が欧米列強から強いられたのと同様、朝鮮側にとって不平等条約であったということは書かれていない。
 日露戦争は、「日本の生き残りをかけた戦争であった」(それは支配層にとっての話―帝国主義の論理・戦略論―だろう)「歴史の名場面―日本海海戦」この戦争に「勝利して自国の安全保障が確立した」「有色人種の日本が・・・・白人帝国ロシアに勝ったことは、植民地にされていた民族に独立への希望を与えた」などと書いている。そしてネールらの民族運動に励ましを与えたとの言葉を紹介しているが、「ところが、日露戦争のすぐあとの結果はひとにぎりの侵略的帝国主義のグループにもう一国をつけ加えたにすぎなかった。そのにがい結果は朝鮮であった」というネールの言葉は省いている。
 1935年当時の中国人の反日運動について、「米外交官マクマリーの見解」なるものを取り上げているが、あたかもその言葉どおり、日本は反日に対して「我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返し」におよんだ。それが、さも日中戦争でもあるかのような取り上げ方である。
 「大東亜戦争」―それは欧米による「経済封鎖で追いつめられ」て、やむなく起こした「自存自衛」のための戦争であり、また「欧米の支配からのアジア解放」「大東亜共栄圏の建設」のための戦争であった。「日本の将兵は敢闘精神を発揮して、よく戦った」「国民はよく働き、よく戦った」「東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」と。まるで当時の国家指導者になりきって書いているかのようである。(きれいごとばかりだ)
 ポツダム宣言のことと関わって、「もしルーズベルト大統領が急死せずに、アメリカの戦争指導を続けていたら、日本はどうなっていたか想像してみよう」などと無意味なことを発問している。「もしも」のことをいうなら、天皇は、2月に近衛文麿が早期和平を上奏した時「もう一度戦果をあげてからでないと」などといって、それを退けていなかったら、東京大空襲も、沖縄・広島・長崎の悲劇も無くて済んだということを取り上げればよいものを。

(4)「20世紀の戦争と全体主義の犠牲者」(「読み物コラム」)―「戦争で、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなかった。」というわけである。     そして「日本軍も戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して不当な殺害や虐待を行った」とし、別に本文の中でも、「この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えた。とくに中国の兵士や民衆には日本軍の侵攻により多数の犠牲者を出した」とは書いている。
 コラムには、さらに「アメリカが東京大空襲をはじめとする多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎に原爆を投下した」と書き、別なところで、日本は「全土で50万人もの市民の命をうばう無差別爆撃を受け、原子爆弾を落とされた」と書いている。
 コラムには、また「ソ連は日ソ中立条約を破って満州に侵入し、日本の民間人に対する略奪・暴行・殺害をくり返した。そして日本兵の捕虜をふくむ60万の日本人をシベリアに連行して過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた」と書いている。
 日本軍の加害状況については、上記以外には、犠牲者の人数や具体的状況はほとんど書かれていない。あたかも、日本は、どの国もやっていたのと同じことをやったに過ぎず、ドイツやソ連がやったのと比べれば、「まだましだ」とでも云っているような書きぶりである。
 南京大虐殺については、本文ではなく脚注で「南京事件」―「日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た」として「虐殺」とは書かず、「犠牲者数などの実態については資料の上でも疑問点が出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」などとしているが、犠牲者数は10万人単位であることは歴史学界では通説になっているのである。 強制連行のことについては、「徴用が朝鮮や台湾にも適用され」「朝鮮人や中国人が日本の鉱山などに連れてこられて、きびしい条件のもとで働かされた」と書いているのみであり、「強制連行」というこれまで通用してきた歴史用語を避けている。従軍慰安婦問題については何も書かれていない。これらの問題は、「でっち上げ」「捏造」だとの考えに立っているようであるが、それは、拉致問題を「でっち上げだ」といっているようなものだろう。

(5) 天皇制国家主義イデオロギーに偏していること
   民衆の果たした役割はほとんど取り上げず、それにひきかえ、天皇が果たした役割をいたるところで数多く取り上げ、人物コラム「昭和天皇」は1頁いっぱい使って、その「お人がら」「国民とともに歩む」など、その人徳を讃え、美化して書いている。
   「武士道」として忠義―「公のために働く」「犠牲の精神」―を強調しているが、その公とは天皇の国家のことであって、人民というわけではないのである。
 人物コラムで、伊藤博文の「日の丸演説」とともに「国家を思う心」を取り上げている。
  教育勅語―「国家や社会に危急のことがおこったときは、進んで公共のためにつくさなければならない」など―を「近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」としている。「公共」と書き換えているが、原文では「公」すなわち天皇の国家のことであって、パブリック(人民)ではないのであり、この勅語に書かれているのは、封建的忠孝道徳ではあっても、「近代日本人の・・・」などと云えるものではないのである。
  大日本帝国憲法のことに関する記述で、発布のその日東京市中は「祝賀行事一色」と書き、「憲法を称賛した内外の声」を紹介している。しかし、ドイツ人医師ベルツの日記に「だがこっけいなことに、だれも憲法の内容を知らないのだ」とあることや、中江兆民の「果たして如何の物か、玉か瓦か、いまだその実を見るにおよばずして、まずその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる」といった評は紹介されてはいないのである。この憲法には、「天皇に政治責任を負わせないこともうたわれた」として、あたかもそれ故に、天皇には戦争責任その他いかなる政治責任も問えないかのような書きぶりである。しかし、そんなことは、この憲法には「うたわれ」てなどいない。ただ、解釈(「立憲君主」など)として、そのように解釈する向きがあるというだけのことなのであって、はっきりしていることは、天皇は大臣・議会・臣民に対して責任を問う立場ではあっても、責任が問われる立場ではないというだけの話なのである。「天皇がご自身の考えを強く表明し、事態をおさめたことが2度あった」として2,26事件とポツダム宣言受諾だけをあげているが、対米開戦決定の「聖断」もあり、その他、戦局の節目節目に重臣たちに詰問し、指示を下したり、承認・激励を与えたりしているのである。

(6) 反共主義イデオロギーに偏していること
戦時中の我が国の国家体制はファシズムではないとする一方、マルクスらの共産主義を歪曲したスターリニズムを共産主義そのものだとして、それは全体主義の一種で、ファシズムと同種であると、いずれも勝手に解釈し、いたるところで共産主義を否定的に、或は脅威として記述している。

(7) 東京裁判については、「国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていない」とし、そこで僅かに肯定意見に触れているだけで、それ以外にはその積極的意義(「平和に対する罪」―それまで国際法にはなかった概念―を初めて用い、戦争指導者の責任を究明して処罰することによって、国家の犯した愚行を断罪)には言及せず、法的手続き上の不備と(アジアと欧米に対して)不公平を問題にしたパル判事の被告全員無罪論を(無罪といっても、日本に戦争責任は無いといっているわけではないのに)ことさら取り上げ、また、GHQのプロパガンダとともにこの裁判によって、日本人に必要以上に罪悪感が植えつけられたとして、まるで日本人には、天皇から平民にいたるまで誰にも、戦争責任はなかったかのような書きぶりである。

(8) 日本国憲法についても、現在改憲をめざしている特定勢力の立場で書いている。
  「わずか約1週間で」GHQが作成した憲法草案を、政府が「それを拒否した場合、天皇の地位がおびやかされるおそれがあるので、やむをえず受け入れた」としているが、天皇の戦争責任にたいする厳しい国際世論があったこと、先に示された日本政府(国務大臣松本)原案があまりに不充分な(旧憲法の域を出ない)ものであったこと、鈴木安蔵らの憲法研究会など民間の憲法案がつくられていて、それを参考にすることができた等のことは触れられていない。
当時の政府、その系譜をひく現在の政党などからすれば「押し付けられた」と思われても、民衆のサイドからみればそんな感覚はなく、大多数の人々はこの憲法を歓迎していたことが、当時の世論調査などによって明らかなのである。

 以上、その他にも、「世界で最も安全で豊な今日の日本」などと、おかしなところが散見されるが、いずれにしても、この歴史教科書は著しく偏っていて、それを読んで鵜呑みにした生徒は、歴史のたいしてさしたる反省もなく、国内外には様々な境遇や過去にたいする思いをもった人々(民衆)がいることに無理解・無頓着な一人よがりの日本人になってしまうことにならざるを得ないのではないか。

[公民]
(1)国家主義のほうに偏っているということ。                             

①「家族のきずな」「公共的な精神」を強調し(それはよいとしても)、個人よりも家族と国家、権利よりも義務を(国防の義務までも)強調しているように見える。そして「男らしさ、女らしさ」と性的役割分担を重んじ、「男は仕事、女は家庭」或は三世代同居という昔ながらの家族形態を家族のあるべき姿としているかのようであり、今我が国が、男女がともに仕事と家庭を両立できるような環境をめざしながら推し進めている「男女共同参画社会」を批判的に書いている。 

②法治主義(万事は法に基づいて行われ、すべては国法に従わなければならないということ)だけを取り上げて、法を強制的に守らせる力―政治権力―の必要性を強調するが、「法の支配」(国民の人権を国家による権力や法律の乱用から守るということ)を取り上げてはいない。(法治主義と「法の支配」とは、法に基づくという意味において共通項もあるが、必ずしも同一概念ではない。)民主主義にとって、より重要不可欠なのは「法の支配」であるはず。

③皇室は「古くから国民の敬愛を集めてきた」として天皇の役割―「皇室外交」や「施設訪問」などの儀礼的行為―を重要視して大きく取り上げ、また、「国を愛することは国旗・国歌を尊重する態度につながる」として、「日の丸」・「君が代」に3頁以上も割いている。
「社説の研究」として国旗・国歌法にたいする代表的な2つの新聞社の賛否両論を数行ずつ要約してあげているが、そこで否定的意見をも小さく紹介しているのみである。
「天皇の権威は、各時代の権力者に対する政治上の歯止めとなり」としているが、戦争などをくい止める歯止めにはならず、むしろそれらに正当性を与え、その方向に国民の気持をまとめあげるために利用されてきたという側面の方が強かったのでは。

(2)改憲の方向に誘導していること。
「26、憲法改正」として2頁にわたって、わざわざ改憲論を取り上げている。そして、「一度も改正されていない」「世界最古の憲法」「1週間で書き上げられ、英文で書かれた憲法草案」などと、本質的ではない現象的な事実をことさら取り上げ、国会議員アンケート結果を示して、「時代の流れに合わせて改正すべきだという意見もしだいに大きくなっている」などと書いている。
  現行憲法の3大原則は、諸外国のものと比べて、より徹底したものであり、とりわけ平和主義の規定は時代を先取りしており、この憲法が無改正の世界最古の憲法だとすれば、むしろそれを誇りにしてもよいものを。
  尚、国会議員とは異なり、全国新聞社(全国紙・地方紙あわせて)の社説は改憲賛成論のほう(40%)が反対論(60%)より少なく、国民世論も、9条2項に限っていえば、やはり改憲賛成のほう(40%)が反対(60%)より少ないのである。

(4) 非軍事平和主義よりも軍事肯定に偏していること。
国防の義務を定めているドイツなど3国の憲法条文をことさら並べて紹介し、「憲法で国民に国を守る義務を課している国が多い」との説明を書き添えたりしている。
 自衛隊と日米安保を積極的肯定的に取り上げ、「戦後のわが国の平和は日米安全保障条約に基づいて国内に基地をおく米軍の抑止力に負うところも大きい」「わが国だけでなく東アジア地域の平和と安全の維持に大きな役割を果たしている」としている。しかし、それが中国・北朝鮮などから見れば大きな脅威となっており、また日本をアメリカの戦争に巻き込む危険性があるなど、問題点は一切取り上げていない。
 口絵の「世界で活躍する日本人」では、真っ先にPKO即ち自衛隊を載せている。「周辺の問題」として竹島など領土問題と北朝鮮のミサイル・工作船・拉致問題、中国の原潜領海侵犯事件などを、口絵でも本文でも課題学習でも、いたるところで大きく取り上げて緊張と脅威を強調している。
 冷戦後「わが国にも相応の軍事的な貢献が求められるようになった」「多国籍軍のアフガニスタン攻撃やイラク戦争でも・・・後方支援や復興支援のために自衛隊が派遣されることになり、国際評価も高まりつつある」として、専ら自国政府・与党の考えに即した記述がなされていて、反対論や批判論は一切取り上げられてはいない。

(5) 国民主権についておかしな説明をしている。いわく「国民主権・・・この場合の国民とは、私たち一人ひとりのことではなく、国民全体をさすものとされている」とし、「議員が、その国民になりかわって政治をあずかる」としているが、主権は私たち一人ひとりにあるのであって、一人ひとりが主権者であるはず。議員は、国民一人ひとりが選挙権・被選挙権を行使して選び、選ばれるのであり、そうして議員に付託する間接民主制を基本としつつも、一人ひとりの国民が直接主権を行使する直接民主制も併用して行われるシステムになっているのである。ところが、この教科書は、直接民主主義の問題点として住民投票のことを取り上げ、それは「国民全体の利益」とぶつかる場合があるとして否定的に書いているのである。

(6) その他
① 社会主義経済について、「生産手段の国有化を基本とする」と書いているが、それは誤りである。社会主義経済は生産手段の社会化(社会的所有―その形態は様々)が基本なのであって、国有化が基本というわけではないのである。

② 竹島を「韓国が不法に占拠」と書いているが、それは韓国側の一定の根拠に基づいた言い分と議論を無視した一方的・対決的な表現である。
以上、この教科書は、生徒にとって、これで、自分が社会でより良く生きていくために(自他に認められている権利と自他に課されている法や義務を)学ぶというよりも、国家・社会の一員として責務を果たすために学ぶ、というニュアンスがつよく、国防(軍事)を積極的に肯定し、改憲を促すものとなっており、そのような政策や路線を志向している特定の党派の政治的意図が露骨にあらわれている。
 教育および教育行政が守るべき現行憲法と教育基本法から見て著しく偏った教科書である。この教科書を読んで、それを鵜呑みにした生徒は、国のため、公共のため、家族のため、国際貢献のためと、戦いもいとわず献身するいさぎよい日本人となるだろうが、それは彼ら教え子を再び戦場に送る結果にもなるだろう。彼ら生徒は、自他の人権も、主権者としての権利も、平和的生存権も軽視しがちな人間になってしまうだろう。

2005年07月20日

なぜ歴史を学ぶのか

 かつて大日本帝国時代は、国民は、天皇の臣民として、天皇とその国家・大日本帝国の偉大さ・尊さを歴史から知って、その(天皇とその国家の)ために尽くし、命さえも捧げる気持(愛国の情)を抱くようになるために、歴史を学んだ。学校の歴史教育は、その立場で行われ、教科書(国定)はその立場で編纂された。したがって、その教科書には、専ら天皇とその国家の偉大性・正当性を裏付けるような内容が盛り込まれ、歴代天皇と皇室、かれらに忠実に従った者たちの治世・業績・苦心を美化・正当化し、それを貶めたり、汚したり、傷つけたりするような事柄(国にとって都合のわるいこと)は一切カットされた。

それに対して、今、我々が歴史を学び、子どもたちが学校で歴史を学習するのは、国家の都合(必要)のためではなく、自分自身の必要のためなのである。

我々も、子どもたちも、自分が社会で生きていくには、社会の歴史を知っておく必要がある。国内外の社会に生起する諸現象―産業・経済・政治・文化など―はいかなる歴史の下に(歴史を経て)成立しているのか(生成してきたのか)を知る必要があるし、また知る方法(歴史的な物の見方)を身につけておくことも必要である。そして自分とその子孫が生きていく未来はどうなっていくのかを展望し、未来社会はいかにあるべきかを考えることができるようにならなければならない。生徒は、このように自分自身がこれから社会(国内および国際社会)で、一人よがりではなく、皆と相和して生きていくために必要な、歴史に関する知識や歴史的な物の見方・考え方を身につけなければならないということである。

その時代その時代の社会で、人々はどのような衣食住生活・文化を営み、どのようなシステム(協力もしくは支配・被支配の関係)の下で生活し、為政者(権力者)はどのような統治をおこない、どのように内外の敵と争ったのか。そこには、どのような苦心・努力があり発展があったのか、またどのような合理性があり、或は不合理(理不尽、過ち)があったのか。その下で人々は、どのように生活と身の安全が保障され、或は搾取され、虐げられ、戦に駆り立てられ、辛くて苦しい思いをしたか。それに自国は外国とどのような関わりを持ち、どのように交わったのか。平和的な交流、文明・文物の摂取はどのように行われたか。或は断絶・対抗して国の独立は保たれたが、近代以降には近隣諸国に対して侵略・戦争を行い、併合(植民地支配)も行われた。それが、さらにはアジア太平洋戦争・世界大戦へと拡大・発展した。それらは何故、どのようにして行われたのか。それらによって諸国民にどのような惨害をもたらしたのか。連合国の反撃によって沖縄と本土にどのような被害をこうむったのか。日本人はそこから、何を教訓として得、何を反省しなければならないのか。それらのことを、生徒たちは自分自身のために、よく知る必要があり、教科書はそれらを包み隠しなく生徒に伝えなければならないのであり、それに適した教科書を採択しなければならないわけである。

 ところが、そのような生徒の立場からはかけ離れた、あたかも大日本帝国時代の「国史」教科書のような書きぶりの教科書が検定に合格・出版されて、一部で採択されようとしている。扶桑社版の「新しい歴史教科書」である。それは、天皇はいかに尊く、その下でおこなわれた為政者たちの統治や判断はいかに賢明で、戦争はやむをえざる選択であったか等、自国の為政者にとって都合のよいことが、都合よく(正当化して)書かれ、都合のわるいことは省かれているか、薄めて書かれている。要するに、脚色されて書かれ、ありのままの真実が書かれていないこの教科書からは、生徒たちにとってはとうてい歴史の真実を学ぶことはできない。このような国家主義的な色彩がつよく、独善的で、戦争や植民地支配の真実(侵略・加害の事実)を隠蔽するような教科書は諸国民・国際社会のためにもならない。たとえば、従軍慰安婦問題について、女性たちが慰安婦にされた被害国でも、国連人権委員会でも、日本は学校できちんと教えるべきだと求めているにもかかわらず、そんなものは無かったことだとして、教科書には一切載せない(この問題については、扶桑社版をつくった「新しい教科書をつくる会」の影響で、他のほとんどの教科書も載せなくなった)。それらの加害事実は、たとえ日本人が知らないでいても、周りの国々では皆知っていることなのだ。皆が知っていることを自分だけが知らないということは恥ずかしいことであり、他からはとうてい尊敬されない。また加害事実をいさぎよく真実と認めず、自国民に伝えないそのやり方は、日本人拉致のことをいさぎよく認めて真実を明らかにしようとしない北朝鮮を、我々が卑劣だと思うように、諸国民からは卑劣だと見なされ、日本人の誇りをかえって損なうことになるだろう。

 子どもたちは日本人として誇り高く生きるとともに、恥を知る人間にならなければならないのであって、国を誇るだけでなく、国の恥をも知らなければならないのである。

 いずれにしても、生徒たちは国家の必要のために歴史を学ぶのではなく、あくまで自分自身と(国際社会も含めた)社会の必要のために歴史を学ぶのであって、その教科書はそれに役立つ教科書なのかどうかである。

2005年07月22日

教育基本法が変えられようとしている

 教育基本法には、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」「第1条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」「第3条(教育の機会均等)すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない。」「第10条(教育行政)①教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。②教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」とある。 

 要するに、教育とは、国家が国家(国家目的・国家の都合)のために行うのではなく、国民が各人の子弟(個人)ために行うのであり、子弟に①人格(人間性・人間らしさ)を身につけさせること、②社会で自立して心身ともに健康に生きていく上で必要な知識・技能を身につけさせること、③社会の形成者(自らを支える社会を維持していく担い手)として、勤労と責任を果たす上で必要な知識・技能を身につけさせること、④平和的・民主的な国家の形成者(主権者)として権利を行使し責任を果たす上で必要な知識・判断力を身につけさせること、等を目的として行われるものなのである。

 それで、国家や行政当局の役目は、このような教育の目的を遂行するに必要な諸条件を整備すること(予算を確保して教員を増やすとか、少人数学級にするとか、校舎や設備をよくするとか)であって、教員のやること(教育内容)にあれこれ口出し(介入)することではないということである。

 ところが今、それ(そのような教育の基本的なあり方)が変えられようとしている。政権与党は新教育基本法の法案をつくって国会にかけようと機会をうかがっており、民主党の中にもそれに同調する向きがある。(「教育基本法改正促進委員会」議員連盟が結成され、その結成集会で民主党の西村議員は次のように発言したという。「お国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。お国のために命を捧げた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる」と。)

 国家の経営と産業・軍事などに必要な人材・要員を確保するために文部行政当局は、これまでも、「個性の尊重」や「多様性の尊重」の美名のもとに、一つの尺度(テストの成績)で上中下のランク、勝ち組・負け組に振り分ける能力主義・選別・競争教育を推し進める一方、教育の管理・統制を強めてきた。文部省が学習指導内容の基準として指導要領を制定して、それに法的拘束力を持たせるようにし、それに基づいて文部省が教科書を検定するようになって久しい。高校の場合は各学校の教師が、自分の教える生徒に相応しいと思われる教科書を選定して自主的に採択できるが、小中学校の場合は、自治体の首長が任命する教育委員会が教科書を採択する権限をもち、彼らが選定・採択した教科書で先生方は教えなければならないことになっている。それに近年、国旗・国歌は法制化したが、強制はしないという政府見解があるにもかかわらず、東京都などでは、教育委員会が卒業式・入学式における国旗掲揚・国歌斉唱等のやり方(実施指針)を定めて、管内の各校に通達、学校長は教員にそれを職務命令として伝え背けば処分する、等のことが既に行われている。

 それが今や、その上にさらに教育基本法の全面「改正」にまでのり出しているのである。与党はその素案(「協議会中間報告」)を出しているが、現行教育基本法の教育目的にあった「個人の価値をたっとび」と「平和的な国家及び社会の形成者として」を削除し、新たに定めた教育目標のなかに「公共の精神を重視」ということとともに、「国を愛し(又は大切にし)」といったようなことを(そのようなことは各人の自由な心に自然に発する事柄で、公権力によって押し付けられる筋合いのものではないのに)掲げている。

 教育の機会均等は、「すべての国民に、ひとしく、その能力に応ずる教育」となっていたのを、単に「国民に、能力に応じた教育」となってしまっている。

 「学校教育」のところでは、わざわざ「規律を守り、真摯に学習する態度は、教育上重視されること」として管理教育をうち出している。

 「家庭教育」をとりたてて設け「家庭は、子育てに第一義的に責任を有するものであり、親は子の健全な育成に努めること」として家庭(親)の責任を強調。問題行動や落ちこぼれの責任を家庭や本人のせいにできるようにされている。

 「教育振興基本計画」、これまた現行教基法にはないもので、それに「政府は、教育振興に関する基本的な計画を定めること」として、政府が教育内容に介入できるようにしている。

 そして「教育行政」の条項改変である。現行教基法では「教育は不当な支配に服することなく」として、教育現場に対する政治家や行政当局(知事や教育委員会など)の支配介入を退けているのに、それを「教育行政は不当な支配に服することなく」というふうに改変して、教育委員会に対する現場の教師たち(教員組合)や父母たち(市民団体)の抗議や要請行動などを不当な介入として退けることができるようにされている。

  教育基本法がこのように改変されてしまったら、それに基づいて教育された国民は皆、国家意識・愛国心にとらわれるようになり、現行憲法は国家や国益よりも個人の自由・人権や平和的生存権を重んじて有事(戦争など)における国民の決起・結集の妨げとなると感じ、改憲を肯定し当然視する方向に向かうようになる。そして、歴史・公民教科書は、非自虐的・愛国的なものでなければならないということになって扶桑社の教科書がすんなり採択され、どの出版社もそれに右倣いするようなり、国旗・国歌の強制も当たり前になってしまうことになるわけである。

 私が戦後まもなく小学校に入学して民主教育を受けるようになったその前の時代に、まさに逆行するものである。孫たちがかわいそうだ。こんな改悪は許してはならない

2005年07月25日

大江健三郎氏の講演

 それは、24日、山形市内の山形国際ホテルで、県教組山形地区支部が主催して開催された。演題は「『人間らしさ』の力―教育・平和・福祉」。「私は、井上ひさしさんと違って、話べたなので、講演は苦手」ということで、次のようなエピソードの話から始まった。「ある雑誌社主催の講演会に、井上氏と一緒に出た時のこと、始まる前にたまらなく憂うつになって帰ってしまおうとしたら、事務局の人につかまってしまい、彼は井上さんに番(見張り)を頼んだらしい。演壇の前に立ったら、その下に井上さんが座っていて、僕のズボンのボタンのあたりを見ているんですよ」(爆笑)。

 講演の大要をいえば、(筆者の解釈だが)それは、非暴力・非戦(それらの用語自体は、大江氏ご本人はこの講演の中では使っていないのだが)―「『人間らしさ』の力」―で人々の生命と安全・平和を自国および他国による戦争から守る、それが「九条」であるということ。「『人間らしさ』の力」とは、人間だれしも持っている「真直ぐ立てる」(自立できる)能力(意志)、感情・理性などであり、それらの潜在力(素質)を発見して伸ばし、支援する、それが教育であり、福祉である、ということのようである。そのことを、自らの人生体験とご子息の障害克服のサポート体験の中から掘り起こしながら展開された。

 ご子息は、生まれて間もなく、頭蓋骨に欠損があって手術をされた。足が曲がって歩行できなくなりそうな症状もあって、整形外科で診てもらった、そこから氏は、彼を「真直ぐ立って」歩けるようにしてやるのだ、ということを思いたったようである。

 音楽は4歳の時、奥さんがたたいたピアノの一つの音を、その音として感じとる能力(絶対音感)を持ちあわせていることがわかった。音をピアノで復元することもできた。ところが、視覚の異常もあって黒鍵をきっちりとらえることができず、その不自由さから、ピアノに抵抗感をもつようになった。それで鍵盤をたたくかわりに、譜を覚え、音を五線紙に音符で表わす方法を身につけ、16歳で作曲もできるようになった。何年かたって、それをぴたっとやめてしまったと思いきや、音楽理論(技法)に興味がいって、その方に傾倒するようになっていたのだ。そこでそれを習い覚えたところで一段と表現能力の向上がみられるようになった。それにともなって対話・説明能力までも身につくようになった、というのである。それらのいきさつを、微笑ましいエピソードをとりあげながら語られた。(大江家では豆腐を買うさいに、2軒ある豆腐屋のうちどちらから買うかという問題にさいして、豆腐屋のラッパの音を息子が聴いて、どっちが正確な音が出ているかによって豆腐屋を選んで買うことにしたとか、或はまた、今年の事だそうだが、ご子息の曲の演奏会が開かれ、本人が解説のスピーチにたって曰く「このソナチネは、パパが70歳になったといって憂うつな顔をしていたので、変ロ長調の曲につくりました」と。司会者がご子息に、「お父さんはどうして、そんな顔をしていたのでしょうか?」と聞くと、「それは石原都知事のせいです」といったという。事実、大江氏は、石原知事がフランス語を数が数えにくく語学的に劣っていると述べたことなどにたいして、とんでもないことを言うものだと嘆いていたのだ。氏いわく。「あれはおそらく、石原氏が高校でフランス語を習った時に、1-un,2-deux,3-trois・・・・と、60までは数えることができたが、そこから先は覚えきれず、ドロップ-アウトしたからだろう。」)

 ご子息に関するこれらのことは、アップ-スタンディング-マン、すなわち肉体的にも精神的にも真直ぐ立てる(自立する)人間になっていく過程を物語っているというわけである。

 学校の先生に、子どもたちをどのように教育することを望むかと訊かれると、ただ「真直ぐ立てるように、そしてそれを妨害しないようにしてあげて下さい」とだけ言ってきたという。

 子どもたちには、真直ぐ立てるようになりなさいといっても、この国の国際関係におけるあり様はそうなってはいない。つまり、独立国家とはとうてい云えない(対米従属の)状態にある。氏はそこでこう言われた。「私はあと10年ぐらいしか生きられないと思っているのですが、7~8年ぐらいの間には、日本がアメリカに対して自分たちは真直ぐ立っていくということをはっきり示すことができるような政治家や政治環境が現れてくると思っています」と。

 今は、沖縄では住民の居住地や道路に程近いところで米軍が実弾射撃訓練を強行してはばからないという状態で、戦後60年というのに、基地問題は何一つ解決していないのである。

 ところで、氏が「沖縄ノート」で、沖縄戦における2つの島(座間味島と渡嘉敷島)の住民の集団自決は日本軍の命令によって強いられたと書いていることが、一方の島の守備隊長だった本人ともう一つの島の守備隊長の遺族から、それは偽りであり名誉毀損だとして訴えられたという。(その新聞の記事を見てみたが、それには「存命中の女性が『軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証した』と話したことが明らかになっていると。)

氏は、その告訴を後押ししているのは、おそらく藤岡信勝氏ら(「新しい歴史教科書をつくる会」等のメンバー)であり、それには喜んで受けて立つつもりだ。たとえ守備隊長は言葉では言わなかったとしても、命令を下したことには変わりはない。住民一人ひとりに手榴弾が配られて集団自決したのは事実なのだから、と語られた。(氏がその告訴のことを知ったのは、その日、山形新幹線に乗ってくる車中でのこと。隣に座った客が開いていた新聞をチラッと見たら、それは産経新聞で一面に「大江・・・」という見出しが出ていたのだという。それでその新聞の持ち主に・・・と、その話も笑わせた)

戦争が終わって新たに制定された憲法、そして教育基本法のことを知ったその年、氏は12歳。「国際平和を誠実に希求する」とか、「真理と平和を希求する」などの言葉を覚えて、母親にたいして何かご馳走を「希求する」とか、何かにつけてその言葉を活用したものだという。

 氏は、この憲法と教基法をもとに「人間らしさ」の力によって子どもも国も真直ぐ立って歩み続けられるようにする教育・平和・福祉を希望しながら70歳まで生きてこられ、この先、あと10年かそこら、といっても、息子さん・娘さんもおられ、お孫さんもおられて、それぞれの人生が後に連なる。氏は勇ましそうなきつい言葉は使われずに、優しい言葉づかいで語られたが、その言葉の中に、今ここで憲法も教育基本法も改変されてはたまらない、反動を許してなるものか、という強い思いがうかがわれた。

 とかく、中国や北朝鮮・韓国に対しては勇ましいことを言いたがる、そのくせアメリカには何もいえない、そういう親米・愛国主義者たちによって、この先、教基法が変えられ、改憲され、国家・国益・軍事を優先する体制に変えられて、国民は、作家も教師も、国家や自国の歴史を貶めるようなことは大っぴらには何も書けなくなり、教えられなくなって、忍従を強いられ、住民・弱者・障害者が犠牲にされる、そんなことになってはたまらない。それが大江氏の言わんとすることではなかったかと思われる。

2005年09月01日

郵政民営化・靖国参拝・改憲―何故やっきとなるのか

 郵政民営化といい、靖国参拝といい、「新しい歴史教科書」といい、改憲といい、それらに何故そんなにこだわり、やっきとなっているのか。それは財界(アメリカなどのそれも含めた多国籍企業・大銀行)の利害要求からにほかならない。政権党(自民党)は、「政権準備党」と自称する民主党とともに、この財界(その政治献金)によって支えられ、その意向を受けて政治をおこなっている。(財界をスポンサーとするメディアの報道も、そうである。)

 財界は、国家に対して、道路・港湾・ダム建設などの大型公共事業に財政資金の投入を求め、公教育に有能かつ従順で使い易い人材の確保を求め、セキュリテー(安全保障)を求める。そして、それ以外には、福祉や教育などに国が(財界にとっては)必要以上に財政資金を投入・関与することから手を引かせて(歳出削減)、個々人の自己責任・自己負担(「受益者負担」)を増やさせ、郵政など公共サービスの事業民営化と合わせて、諸産業の営業規制の緩和もしくは撤廃(医療・福祉・農業・教育への株式会社参入と競争原理の導入)、労働者の雇用・使用・解雇にたいする規制緩和もしくは無規制(野放し状態)の維持(非正社員の拡大、時間外労働・使い捨て・首切りの自由)を求める。その一方、経済大国に相応しい軍事大国として、自国の領土・経済水域(海洋権益)・シーレーン(海上交通)等の防衛とグローバル市場(貿易・投資)の秩序・権益維持のためのセキュリテーを求め、軍需の拡大、武器輸出の解禁、軍事にたいする規制の緩和・撤廃を求める。

 財界のこれらの利害要求を合理化・正当化するものとして新自由主義・新国家主義などのイデオロギー(思想傾向・言説)が論者によってメディアを通じて流布されてきた。

 新自由主義とは、個人の自由と責任に基づく競争と市場原理を重んずる考え方で、性別・年齢・生まれ・人種などによる差別(属性差別)は排除し、(とはいっても、裕福な家庭環境か否かとか親の学歴などによって生じるハンデイは排除できないのだが)参加の機会は平等に与えて自由競争をめざす、というもので、能力差による結果の不平等(格差)を容認する能力競争主義のイデオロギーなのである。

その新自由主義だけでは、社会が勝ち組と負け組が分かれてバラバラとなってしまい、社会の統合がうまくいかなくなっては市場秩序の安定維持が困難となるので、それをカバーするために、国民を国家(天皇や日の丸・君が代・靖国神社など)に向けて結束させると同時に、他国に対して強い国家をめざし、自国の国益を最優先する国家主義イデオロギーが導入される。それが新国家主義なのである。

財界は自民党・民主党両党に政治献金をおこなう一方、改憲案を自ら(経団連・経済同友会など3団体ともに)提言している。

郵政民営化法案が否決されて衆議院を解散した直後、小泉首相が真っ先に赴いたのは経団連の奥田会長をはじめ財界幹部との会食だったという。

このような財界の後押しがあるから、郵政民営化や改憲にやっきとなるのであり、彼らの国家主義的イデオロギーから靖国参拝や「新しい歴史教科書」の普及、国旗・国歌の徹底にこだわるのである。


ポピュリズム―政治の劇場化

 大衆の中には、逆にイデオロギーなどには(民主的イデオロギーにも、国家主義的イデオロギーにも)こだわらず、歴史には無頓着な「現実主義」と、強い者や多数意見につこうとする大勢順応主義がある。

 大衆のあいだには、現状(競争激化、リストラ、不正規雇用、社会的格差の拡大、生活苦、将来不安の拡大、少年犯罪の増加など)にたいする不満や不安が広がっている。そしてそのはけ口を求める。そのような大衆をうまく取り込むポピュリズム(大衆迎合主義)の手法が功を奏する。

 ポピュリズムは、アメリカのブッシュ大統領などに顕著にみられるが、小泉首相や石原都知事などにもそれがみられる。その手法は、それまでの政界派閥やしがらみにとらわれず、エリートらしからず、「普通の人」に近いイメージを売ることと合わせて、政策や主張を短いスローガンやワンフレーズ(単純な言葉)で語り(「抵抗勢力に屈しない」とか「痛みに耐えて」、「官から民へ」とか)、善悪二元論で反対派を悪玉もしくは敵として単純化し、闘いのドラマとして構成・表現するというやり方である(いわゆる「政治の劇場化」)。それはテレビ(ワイドショーなど)をうまく利用して、というよりは我が国の場合メディアとの合作でおこなわれるといわれる。そのやり方で、本来の対立軸や争点(財界・大企業と勤労生活者の利害対立、財界本位の保守政治か勤労生活者本位の革新政治か)とは別の対立状況を演出し、内外に敵をつくって(対外的には、テロや拉致問題・「反日」に事寄せて)その方へ根本問題をそらし、その「敵対勢力」に対して果敢に闘いを挑み、敢然と対決する姿を国民大衆に見せ付けることによって共感・支持をはくすというものである。

 そのために、様々な「改革」を打ち出し、自らを「改革者」「改革派」と称し、それに反対する者はすべて(官僚あるいは彼らと癒着する政治家―「族議員」―などはともかくとして、革新政党や労働組合までも)「抵抗勢力」「守旧派」と一くくりにして非難し、大衆を彼らへのバッシングに駆り立てる。

 「構造改革」(規制緩和・民営化)、国旗・国歌の徹底、「新しい歴史教科書」、教育基本法「改正」、自衛隊の海外派遣、そして改憲、これらに反対する者はすべて「抵抗勢力」「守旧派」というわけである。

その中で、特定業界の利益や官僚・特殊法人などの既得権益の排除、族議員による利権的政治の打破、政官癒着の断ち切り、派閥の解体といったことについては、国民は共感し、支持を寄せるのであるが、それで多くの人々は、それと一緒に消費税など庶民の負担増・教育基本法「改正」・改憲までも支持してしまうことになるのである。「官から民へ」という場合の「民」とは一般庶民のことではなく、民間大企業・大銀行にほかならないのだが、そうした「小泉マジック」に大衆は引っかかってしまうわけである。

 特定業界の利権政治打破とはいっても、財界からの政治献金は受け取り続け、財界請負政治という根本的な部分では全く不変なのである。

 郵政民営化、それは、郵便局(その郵便貯金と簡易保険)を、それらにたいする政府保証をなくして民間(銀行・生命保険会社)と同一の競争条件に置こうとするもので、財界(日米の銀行と保険会社)にはメリット(郵貯・簡保という商売敵がなくなれば、340兆円というその資金を日米金融資本が食い物にできる―投機的運用ができるなど)はあっても、勤労生活者や中小企業にとっては、何のメリットもないばかりか、かえって不便・不利益をこうむる結果になってしまう。それは次のような理由からである。

① 郵便貯金や簡易保険というものがあるばかりに、その資金が特殊法人に流れて無駄な公共事業が行われたりするのだというが、それは、郵貯・簡保があるから自動的にそうなるというわけではなく、政府が財政投融資計画を決めそれに基づいて発行した国債―民間の金融機関も購入している―を郵貯・簡保が購入するというプロセスを経ておこなわれるのであって、政府が財投計画を組む段階でそのような余計な(無駄な)ものは組まなければよい話なのである。したがってそれは郵貯・簡保があるせいではなく、政府のせいなのだ。

② 郵便局員は国家公務員だったのが、そうでなくなれば税金の節約になるというが、郵便局員の給料は、以前からずうっと独立採算制で運営される郵政事業収入から支払われているのであって、普通の公務員のように国民の税金から支払われているわけではないのである。

③ 民営化されれば、その会社の法人税が新たに国庫に入ってくるといっても、現在の郵政公社はそれを上回るだけの国庫納付金をずうっと納めてきているのである。

④ 全国一律の(義務付けられている)低料金もサービス提供も、民営化されれば、そういうわけにはいかなくなり、また民間銀行と同じ高い手数料が取られるようになる。

⑤ 民営化されて利益優先の民間銀行と同じになれば、利用者が少なく儲からない(採算の取れない)店舗はどんどん閉鎖されていくことになる。郵便局は全国に小学校と同じように(ほぼ同じ数)設置されていて、全国津々浦々に均一料金で手紙やハガキを配達し、離島や過疎地でも貯金・保険を扱ってくれているが、小学校をつぶしてはならないのと同じく、郵便局はつぶしてはならないのだ。

⑥ そもそも民営化とは、公共サービスにたいする公的責任を放棄し、それを民間に委ねて日米の大銀行や保険会社の利潤追求にさらそうとするものである。 

 「首相の好きな西部劇さながらの勇ましさが受けるのだ。郵政法案の否決に不敵な笑みを浮かべて踏み切った今度の解散」「大きな変革の時代・・・・。『むら』を壊してでも進む小泉流が、だからいま、頼もしく見えるのだろう」(8月15日朝日新聞社説)などと書いてその「元気」を持ち上げるマスコミ。しかし、その勇ましさ・元気さは、いったい誰にとって頼もしいのか。日々あくせくして働くか仕事にありつけない勤労生活者なのか、それとも、思い切ってリストラを断行して儲けを取り戻す財界・大企業なのか。「改革」によって痛みにあえぐ人々の存在は許容範囲なのか。マスコミはいったい誰の立場にたって論評しているのか。

小泉首相は、この郵政民営化法案を(衆議院で、僅差で可決したものを)参議院で否決されて衆議院を解散し、選挙戦に打って出た。そして、法案に反対した自党の議員を公認候補からはずして対立候補をたて、それが「刺客」、女性候補のばあいは「くノ一」と称される。まるで時代劇、フランスのルモンド紙などは「サムライ映画のようだ」と評している。その対立候補の一人に若者の「勝ち組」のヒーロー、ホリエモンが立って、「小泉劇場」に新たな役者が加わり、政治ドラマはますます面白くなってきた。「世論調査の支持率の中には、小泉劇場というドラマの『視聴率』も含まれている」と映画監督の中島丈博氏が指摘しているという(8月24日朝日・文化欄)。

しかし、こんな政治家とマスコミのポピュリズムに惑わされてはなるまい。

 「小泉劇場」は「弱きを助け、強きをくじく」ではなく、その逆の「勇者」の活劇ドラマにほかならないのだ。


ポピュリズム―政治の劇場化

 大衆の中には、逆にイデオロギーなどには(民主的イデオロギーにも、国家主義的イデオロギーにも)こだわらず、歴史には無頓着な「現実主義」と、強い者や多数意見につこうとする大勢順応主義がある。

 大衆のあいだには、現状(競争激化、リストラ、不正規雇用、社会的格差の拡大、生活苦、将来不安の拡大、少年犯罪の増加など)にたいする不満や不安が広がっている。そしてそのはけ口を求める。そのような大衆をうまく取り込むポピュリズム(大衆迎合主義)の手法が功を奏する。

 ポピュリズムは、アメリカのブッシュ大統領などに顕著にみられるが、小泉首相や石原都知事などにもそれがみられる。その手法は、それまでの政界派閥やしがらみにとらわれず、エリートらしからず、「普通の人」に近いイメージを売ることと合わせて、政策や主張を短いスローガンやワンフレーズ(単純な言葉)で語り(「抵抗勢力に屈しない」とか「痛みに耐えて」、「官から民へ」とか)、善悪二元論で反対派を悪玉もしくは敵として単純化し、闘いのドラマとして構成・表現するというやり方である(いわゆる「政治の劇場化」)。それはテレビ(ワイドショーなど)をうまく利用して、というよりは我が国の場合メディアとの合作でおこなわれるといわれる。そのやり方で、本来の対立軸や争点(財界・大企業と勤労生活者の利害対立、財界本位の保守政治か勤労生活者本位の革新政治か)とは別の対立状況を演出し、内外に敵をつくって(対外的には、テロや拉致問題・「反日」に事寄せて)その方へ根本問題をそらし、その「敵対勢力」に対して果敢に闘いを挑み、敢然と対決する姿を国民大衆に見せ付けることによって共感・支持をはくすというものである。

 そのために、様々な「改革」を打ち出し、自らを「改革者」「改革派」と称し、それに反対する者はすべて(官僚あるいは彼らと癒着する政治家―「族議員」―などはともかくとして、革新政党や労働組合までも)「抵抗勢力」「守旧派」と一くくりにして非難し、大衆を彼らへのバッシングに駆り立てる。

 「構造改革」(規制緩和・民営化)、国旗・国歌の徹底、「新しい歴史教科書」、教育基本法「改正」、自衛隊の海外派遣、そして改憲、これらに反対する者はすべて「抵抗勢力」「守旧派」というわけである。

その中で、特定業界の利益や官僚・特殊法人などの既得権益の排除、族議員による利権的政治の打破、政官癒着の断ち切り、派閥の解体といったことについては、国民は共感し、支持を寄せるのであるが、それで多くの人々は、それと一緒に消費税など庶民の負担増・教育基本法「改正」・改憲までも支持してしまうことになるのである。「官から民へ」という場合の「民」とは一般庶民のことではなく、民間大企業・大銀行にほかならないのだが、そうした「小泉マジック」に大衆は引っかかってしまうわけである。

 特定業界の利権政治打破とはいっても、財界からの政治献金は受け取り続け、財界請負政治という根本的な部分では全く不変なのである。

 郵政民営化、それは、郵便局(その郵便貯金と簡易保険)を、それらにたいする政府保証をなくして民間(銀行・生命保険会社)と同一の競争条件に置こうとするもので、財界(日米の銀行と保険会社)にはメリット(郵貯・簡保という商売敵がなくなれば、340兆円というその資金を日米金融資本が食い物にできる―投機的運用ができるなど)はあっても、勤労生活者や中小企業にとっては、何のメリットもないばかりか、かえって不便・不利益をこうむる結果になってしまう。それは次のような理由からである。

① 郵便貯金や簡易保険というものがあるばかりに、その資金が特殊法人に流れて無駄な公共事業が行われたりするのだというが、それは、郵貯・簡保があるから自動的にそうなるというわけではなく、政府が財政投融資計画を決めそれに基づいて発行した国債―民間の金融機関も購入している―を郵貯・簡保が購入するというプロセスを経ておこなわれるのであって、政府が財投計画を組む段階でそのような余計な(無駄な)ものは組まなければよい話なのである。したがってそれは郵貯・簡保があるせいではなく、政府のせいなのだ。

② 郵便局員は国家公務員だったのが、そうでなくなれば税金の節約になるというが、郵便局員の給料は、以前からずうっと独立採算制で運営される郵政事業収入から支払われているのであって、普通の公務員のように国民の税金から支払われているわけではないのである。

③ 民営化されれば、その会社の法人税が新たに国庫に入ってくるといっても、現在の郵政公社はそれを上回るだけの国庫納付金をずうっと納めてきているのである。

④ 全国一律の(義務付けられている)低料金もサービス提供も、民営化されれば、そういうわけにはいかなくなり、また民間銀行と同じ高い手数料が取られるようになる。

⑤ 民営化されて利益優先の民間銀行と同じになれば、利用者が少なく儲からない(採算の取れない)店舗はどんどん閉鎖されていくことになる。郵便局は全国に小学校と同じように(ほぼ同じ数)設置されていて、全国津々浦々に均一料金で手紙やハガキを配達し、離島や過疎地でも貯金・保険を扱ってくれているが、小学校をつぶしてはならないのと同じく、郵便局はつぶしてはならないのだ。

⑥ そもそも民営化とは、公共サービスにたいする公的責任を放棄し、それを民間に委ねて日米の大銀行や保険会社の利潤追求にさらそうとするものである。 

 「首相の好きな西部劇さながらの勇ましさが受けるのだ。郵政法案の否決に不敵な笑みを浮かべて踏み切った今度の解散」「大きな変革の時代・・・・。『むら』を壊してでも進む小泉流が、だからいま、頼もしく見えるのだろう」(8月15日朝日新聞社説)などと書いてその「元気」を持ち上げるマスコミ。しかし、その勇ましさ・元気さは、いったい誰にとって頼もしいのか。日々あくせくして働くか仕事にありつけない勤労生活者なのか、それとも、思い切ってリストラを断行して儲けを取り戻す財界・大企業なのか。「改革」によって痛みにあえぐ人々の存在は許容範囲なのか。マスコミはいったい誰の立場にたって論評しているのか。

小泉首相は、この郵政民営化法案を(衆議院で、僅差で可決したものを)参議院で否決されて衆議院を解散し、選挙戦に打って出た。そして、法案に反対した自党の議員を公認候補からはずして対立候補をたて、それが「刺客」、女性候補のばあいは「くノ一」と称される。まるで時代劇、フランスのルモンド紙などは「サムライ映画のようだ」と評している。その対立候補の一人に若者の「勝ち組」のヒーロー、ホリエモンが立って、「小泉劇場」に新たな役者が加わり、政治ドラマはますます面白くなってきた。「世論調査の支持率の中には、小泉劇場というドラマの『視聴率』も含まれている」と映画監督の中島丈博氏が指摘しているという(8月24日朝日・文化欄)。

しかし、こんな政治家とマスコミのポピュリズムに惑わされてはなるまい。

 「小泉劇場」は「弱きを助け、強きをくじく」ではなく、その逆の「勇者」の活劇ドラマにほかならないのだ。


2005年10月14日

「小さな政府」より「最少不幸社会」を

(1)二分法と世論誘導

「大きな政府か、小さな政府か」とか、「平等社会か、競争社会か」とか、「郵政民営化に賛成か、反対か」即ち「郵政公社か、郵政株式会社か」という二分法で、「どっちがよいか」と問い、優っている理由として自由・活力・効率・緊張感・向上意欲・節約・低負担などの諸点をあげて、結局「小さな政府」「競争社会」「民営化」の方がよいと思わせる世論誘導的な問い方が、自民・民主などの政党とマスコミによって、よく行われる。

「小さな政府」「競争社会」「民営化」は、大企業・財界などにとっては、(政府からはビジネスチャンスを与えてもらい、海外進出や国際競争にさいしてバックアップしてもらう以外には、余計な規制や介入をうけずに自由に企業活動ができ、税負担を軽くしてもらうにこしたことはないわけであり)大いにメリットはあっても、一般庶民にとっては、社会格差の拡大・二極化、自己負担とリスクの増大、不安とストレスの増大、不安定雇用、ニート(無業者)などに見られる就労・就学意欲喪失の蔓延など、デメリットも大きいのである。

一般庶民にとっては、「大きな政府か、小さな政府か」とか、「郵政民営化に賛成か、反対か」とか、そんなことよりも、とにかく安心して、幸福に暮らせればよく、政府には、この国を、安心して幸福に生きられる社会にさえしてもらえればそれでよいのであって、そのために政府は、やるべきことをやり、やるべきでないことはやらないとして、何をやり、何をやるべきでないか、が問題なのである。

(2)新自由主義と「小さな政府」論

 かつて(19世紀)は自由放任主義(経済は市場における自由競争に任せておいた方がうまくいくというもの)で、政府の役割を国防と治安など市民社会の秩序維持だけに限定する「安価な政府」(「夜警国家」)をよしとする考え方があった。それに対して、社会主義思想の影響をうけ、失業や貧困などの社会問題にたいする政府の対応が問われるようになり、国家の役割が問い直され、国家は教育・福祉・失業救済に積極的な役割を果たさなければならず、政府が国民の経済活動の諸過程に介入して利害を調整したり、規制を加えたり、公共サービス事業に乗り出すことによって社会の安定につとめなければならないとする「福祉国家」「積極国家」の考え方も登場するようになった。特に1929年世界恐慌で自由放任政策が破綻し、アメリカで、政府が大規模公共事業を盛んにおこない有効需要と雇用を創出・拡大して景気回復をはかるという政策(ニューデール政策)をとるようになって以来、この政策が第二次大戦後に至るまで主流となっていった。

 ところが、1970年代中東戦争にともなう石油危機をきっかけにスタグフレーション(インフレなのに不況)という事態が生まれるようになって、先進資本主義諸国とも財政危機に直面し、「福祉国家」路線に対する批判が強まり、自由放任市場主義への回帰路線が勢いを得て盛んに説かれるようになった。それが新自由主義であり、そしてアメリカのレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相らが打ち出したのが「小さな政府」―公共部門の民営化と規制緩和路線―なのである。当時日本では、それに呼応して中曽根首相が国鉄と電電公社・たばこ専売公社を民営化したが、それ以来追及されてきたのが、この「小さな政府」路線なのである。

 しかし、この路線では、人々は弱肉強食の競争の結果、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」とに分かれ、社会の二極分解が進む。チャンスは皆に平等にあるとか、選択の自由はすべての人にあるなどというのは、実は錯覚であり、能力や条件において予めハンデイを負った者とハンデイを持たない者とでは平等ではありえず、ハンデイを負った者には選択の範囲は限られ、自由などありえないわけである。(早大理工学部の木村忠正教授によれば、パソコンによるインターネット利用者は、およそ中卒15%・高卒35%・大卒70%・大学院卒100%と、学歴に強い相関関係があるという。パソコンが広く普及して、インターネットに接する機会は平等に与えられ、情報選択の自由はあっても、それを使いこなせる者はいいが、使いこなせない者にとっては、その「機会」は無意味なものであり、「機会の平等」も「選択の自由」もないのと同じなわけである。)

 我が国では、ひと頃(高度成長ピーク時に)云われた「国民総中流」は崩れ、「二極化社会」「希望格差社会」に入ったといわれる。

 その「小さな政府」と競争主義による自由・活力・向上意欲・低負担の利点は大企業・大資本や強者・富者・エリート・才覚や力のある者にとっての利点であり、企業経営者にとっては従業員を働かせる自由、リストラする自由は拡大しても、大多数の庶民にとっては不自由(パートか契約社員か派遣社員など非正社員しか選択肢がないとか、生活が不安定で、結婚したくてもできない、子供をつくれないなど)、リスクの増大、不安とストレス(うつ病と自殺の増加)、「がんばっても、どうせ無理だ」という無力感、意欲喪失(ニートの増加)、高負担(自己負担分の増加)がもたらされる以外の何ものでもないのである。

(3)ブッシュ政権と小泉政権の「小さな政府」路線

 ブッシュ共和党のやり方は「小さな政府」で、政府の役割を国防と治安にだけ力を注ぎ、それ以外は手を抜くというやり方であるが、その市場優先主義と弱肉強食の自由放任主義は、グローバリゼーション(世界の市場経済化)によってアメリカの富裕層・「勝ち組」のために、自国内のみならず、世界に貧困・「負け組」をつくり出し、その貧困層と「負け組」の反発・反乱を「反米ならず者」として取り締まり、鎮圧するために、圧倒的な軍事力を保有し、それを世界に展開させるというやり方になっている。その一方で、地球温暖化防止条約の京都議定書には背を向け、環境防災をおろそかにして、かつてない超大型ハリケーンの襲来に見舞われたニューオーリンズで、その矛盾を露呈したわけである。

 わが小泉自民党の政策は、その追随であり、日米同盟に基づき、米軍基地を維持し、自衛隊の海外活動を(インド洋上でアフガン戦争に従事するアメリカ艦船への給油からイラク派遣へ)エスカレートさせている。

 自民党のこれまでの財政政策は、防衛費のほかに、ゼネコン(建設・土建業者)による公共事業費に偏り、社会保障費は相対的に低く抑えられてきた。(ヨーロッパ諸国では社会保障費の方が上まわっているが、日本では逆で、公共事業費は国と地方の予算を合わせて50兆円であるのに対して社会保障費は20兆円と下まわっており、福祉・教育など国民生活関連を除いた公共事業費がGDPに占める割合は、日本は欧米諸国の3~12倍と突出している。)この公共事業費と防衛費の多さにこそ無駄と財政赤字の元凶があるのである。

また、「低負担」といっても、それは法人税など大企業にとってであり(日本の企業の税と社会保険料の負担はフランスの2分に1、イタリアの6割、ドイツの8割)、一般庶民にとっては消費税・所得税とも増税と保険料増額すなわち負担増路線を追及している。社会保障はヨーロッパの高福祉高負担型に対してアメリカの低福祉低負担型路線をとっており、ヨーロッパ諸国に比べれば、国民負担率は低いが、庶民にとって、その「低負担」とは、税や社会保険料の負担が少ないだけ、教育費・医療費・老後の生活費・障害者の福祉サービス利用料などの自己負担分が高くなるということにほかならない。(それが「自助努力」「自己責任」というわけである。)

 日本では、自民党も民主党も、公務員削減を云っているが、日本の公務員は先進諸国の中では、人数でも、報酬でも低水準(教員もそうであるが、日本ではそれが必要なところに必要なだけ人員確保されていないのが問題。労働基準監督官、保護監察官、食品の安全や航空・鉄道事故を監視するスタッフなどまだまだ少ない。)で、その意味では、日本は既に「小さ過ぎる政府」になっているのだとさえ云われる(東大の醍醐聡教授)。

(4)財政再建

「日本の国と地方の借金700兆円、国民1人あたり600万円の借金」などと云われる。これまで(90年代の10年間にわたって)政府がつぎこんできた公共事業投資(バブル崩壊後の長期不況にさいして景気対策として、またアメリカの要請もあっておこなわれる)と防衛費などのために、この国が抱え込んできた膨大な財政赤字の解消が焦眉の課題といわれる。

この財政再建は大問題だとしても、そのために歳出削減というばあい、どこを削るかである。それは、余計(無駄)なものを削ればよいわけであるが、大型公共事業(ダム・空港・港湾・高速道路などの幾つかの大型プロジェクト)や防衛費(対ソ戦を想定して買い付けた戦車やイージス艦などの兵器を、ソ連崩壊後も買い続けている。「ミサイル防衛」用の新型ミサイルといっても、未だ確実に撃ち落せる保証もない未完成品の整備・開発を計画)など、これまで「聖域」扱いにしてきたものをそれと見なして削減断行に踏み切ることができるか、が問題なのである。(独立採算で成り立っている郵政公社を民営化して郵便局員を公務員でなくしたところで、人件費の節約にはならず、歳出削減にはつながらない話なのである。)

また増税というばあいは、どこを増やすかである。それはとれるところからとり、金を持っている者からとればよいわけである。一般庶民・サラリーマンからの消費税を上げ、所得税を増やす(定率減税を半減もしくは廃止する)か、大企業(バブル期を上回る収益をあげており、金余りで82兆円もの余剰資金を貯めこんでいるといわれる)からの法人税(バブル期、税率40%だったのが30%に下げられて、20兆円から10兆円に減っている)を上げ、大資産家からの所得税を増やす(最高税率を上げる)かである。(朝日新聞社説などは、専ら消費税か所得税かだけで、法人税には触れない。)

財界は法人課税の強化は企業の国際競争力を損なうと云い、小泉首相などは、大企業は「金の卵だ」、それを「追い出すようなことをしては」と云って彼らをかばっている。ところが、日本の企業よりも高い税や社会保険料の事業主負担が課せられているヨーロッパ諸国(ドイツ1.2倍、イタリア1.5、フランス1.8倍)は、それできちんと経営をおこなっており、トヨタなどはフランスで倍の税金を払っていてもしっかり儲かっているという実態があるのでる。企業の海外進出の動機は現地での販売権維持拡大その他(アジア諸国などへの進出は賃金コスト面での有利さ)にあるのであって、税負担のせいではない。

郵政公社(現行のままでも法人税率を上回る国庫納付金を納めることになっていたもの)を民営化して法人税をとるようにしたところで、国庫は増えないのである。

いずれにしても、財政再建のために歳出削減・公務員人件費削減と増税・国民負担増が避けられないことを口実にして、郵政民営化を断行し、消費税など庶民増税と社会保険料の国民負担増を推し進める一方、「小さな政府」「国民の自助努力・自己責任」と称して郵政などを民営化し、何もかも民間市場に丸投げして政府の責任を回避すると同時に、国家や社会を大企業・財界にとって有利な方向にもっていく、それが「構造改革」と称するものの本質にほかならない。それは、庶民にとっては、幸福な生活とは結びつかないばかりか、様々「痛み」を押しつけられ、ますます不幸が拡大する結果になるだろう。(公務員の手による公共サービスは縮減される上に、公務員とともに正社員も減らされ、その賃金水準や労働時間など労働条件・雇用条件は益々悪化するだろう。)

(5)何もかも民間業者に任せればよいのか

 「小さな政府」「官から民へ」「民間にできることは民間に」ということは、郵便局も中小企業金融公庫・国民生活金融公庫(自営業など小企業向けに無担保・無保証人で融資)などの政府系金融機関も、何もかも改廃して、民間業者と市場(その評価判断基準は利潤すなわち儲かるか否かにあるというようなところ)に任せておけばよいということであるが、はたしてそれでよいのかである。

 「民間にできることは民間に」といって民間はやれても、(NPOならいざしらず)企業のばあい、それは「儲かれば」やるというのであって、その(「儲かれば」という)条件を必要とする。儲かりそうだという見込みがあるか、儲かっているうちは一生懸命やるが、儲からなければ手を引くのである。そこが「官」と違うところなのである。「官」(公務員―国民の「奉仕者」)は、民間企業のように、ただ「やれることはやる」とか「儲かればやる」というのではなく、やるべきことは無条件に、使命として「やらなければならない」のである(従来の郵便局ならば、日本全国どこでも、過疎地でも離島でも、どんな小口利用者でも公平にサービス)。公務員の使命は唯一国民への奉仕にあるが、営利企業の会社員の最大の使命は株主への配当金にために収益(利潤)をあげることにある。

 ただし、民間企業は儲け(利潤)を少しでも多めに確保する(最小限のコストで最大限の成果をあげる)ために少しでも効率をよくし、無駄をなくそうと努めるが、「官」には「お役所仕事」などという非効率や無駄がともないがちではある。しかし、そこは、「官」(公務員)自身が意識してそういうことに陥らないように努めると同時に、外部(納税者の立場に立った然るべき機関)の厳重チェックがおこなわれるシステムを確立すればよい話なのである。民間営利企業の効率優先主義・コスト主義には「手抜き」とか、安全無視とか、低賃金・過重労働、下請け単価・仕入れ代金の値切りなど従業員や中小零細企業へのしわ寄せなどの弊害もある。

 尚、民間活用をいうならば、企業だけでなく、むしろ使命(奉仕)に徹したNPOを活用すべきなのである。教育なら私立学校(公益法人で、広義のNPOの一つ)に任せればよい(国庫から助成金を出して)のである。NPOではなく、株式会社の学校もあり得るが、それは、塾や予備校のような受験教育や英才教育か、特定の技術・技能を育てる専門学校など(成績など数字に表れ市場で価値評価―売買損得勘定の計算―ができるところ)だけならば可能であろうが、全人教育や倫理教育・人権教育・心情教育(生活指導や人間教育、多様な情操教育など)は株式会社では不可能である。

 「民間にできることは民間で」といっても、NPOには任せることができても、営利企業には任せられない分野があるのである。

(6)生存権と幸福追求権

 「大きな政府か、小さな政府か」「民営化は是か非か」「社会主義か、資本主義か」などということは、我々庶民にとっては、「女性天皇は是か非か」といったことと同様に、切実な焦眉の問題ではないのである。庶民にとっては、それで日々幸福に暮らすことができさえすれば、どっちでもよいのである。(その商品が安くて品質さえよければ、国産であろうと外国産であろうと、どこのメーカーの物であろうとかまわないし、野球フアンにとっては、ひいきの選手やチームが活躍して好ゲームやファインプレーを見せてくれ、強くて勝ちさえすれば、その球団のオーナー株主や経営者が誰になろうと、そんなことはたいした問題ではないのである。そして郵便・郵貯・簡保ならば、誰にとっても安くて、便利で、確実でさえあれば民営化しようが、すまいが、どっちでもよいことなのである。)

 人間誰しも、一番だいじなのは幸福であり、何がどうあれ、幸福に生きられさえすればそれでよいのである。

 すべての人は(どんな人であっても)幸福に生きる権利があり、(他人の権利を犯し不幸に陥れて刑罰を科せられた者以外には)人によっては不幸に甘んじ、幸福を諦めなければならないなどという法はないのである。

 日本国憲法は13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」として幸福追求権を国民の権利として定めているのである。

 幸福とは、心が安心・満足な状態のことで、主観的なものであり、人によって(それぞれの諸欲求や感じ方、人生観・価値観など考え方によって)まちまちで、各人が自らの手(努力)で得るほかないものである。しかし、その客観的な条件には互いにとって共通する部面もある。まず、健康で安全に、人間らしく(文化的に)生きられること。すなわち生存、それは誰にも必要不可欠な幸福の前提条件である。治安・安全(平和)保障・ライフライン(生活基盤)整備・環境防災・公教育(就学の権利保障)・勤労(就労)の権利保障・社会福祉・社会保障・公衆衛生等々。これらは政府(および自治体)が引き受けて然るべきものである。それは国民(または地域住民)が互いにお金(税金)を出し合って自分たちの政府(または自治体)の手を通じてそれらを保障しあうということである。そこで、日本国憲法には、26条に教育を受ける権利と義務教育の無償、27条に勤労の権利、そして25条に「1、すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2、国はすべての生活部面について、社会福祉・社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められている。日本国憲法には、このように、すべての国民に、人間らしく生きる生存権を保障し、さらに幸福追求権すなわち誰もが幸福になる権利を保障しているのである。

(7)「最大多数の最大幸福」こそが政府の目的

 一口に幸福といっても、その中身は人それぞれに異なり、(その意味では平等ではあり得ない)何に幸福(安心・心の満足・生きがい)を求めるかは人によってまちまちなのであって、人によっては、幸福を富や経済的利得(金儲け)に求めたり、競争に勝つことに求め、それによって幸福感にひたるという者もいる。

それ以外に、ボランティアは勿論のこと、営利事業や報酬を伴った仕事であっても、幸福(生きがい)を事業や仕事そのものに求め、それを通じて、自己満足するだけでなく、人に役立ち社会に貢献して感謝される喜びを得るという人もいるわけである。また、人・文化・自然との触れ合い、学術研究・芸術・音楽・スポーツ・趣味・娯楽などのいずれかに幸福(自己実現欲求の満足、生きがい)を求める人もいるわけである。

それにたいして、政府や自治体が、彼らのために公共施設として産業基盤や生活関連基盤の諸施設とともに文化諸施設(公園・文化センター・公会堂・図書館・博物館・美術館・競技場など)を建設し、公共サービスを提供するということがあって然るべきなのである。

 国はすべての国民に、人間らしく幸福に生きる権利を保障し、可能な限りその客観的条件の保障に努めなければならず、そのために必要な財政と措置を講じなければならないのであって、「小さな政府」で国防と治安さえやっておれば、あとは民間に丸投げして、国民は自助努力と自己責任にまかせ、生きるも死ぬも、幸福になろうが不幸になろうがかまわなくてもよいというわけではないのである。近代イギリスの思想家ベンサムは、政府の立法の目的は「最大多数の人々の最大幸福を達成することにある」と述べている。

 すべての国民は生存権をもち、しかも(ただ生きるだけでなく)幸福を追い求めて生きる権利をもつ(その意味では平等である)が、その幸福とは、本人の主体的努力なくして他の人や社会から一方的に与えられるものではない。しかし、人間というものは、そもそもが、一人(単独)では生きられない(赤ん坊や寝たきり老人のみならず)、他の人々と連帯・共同して生きる社会的動物であり、他の人々と共にあり、社会の中にあって(共同の産物に依拠して)こそ、はじめて幸福(安心・生きがい)が得られるのであって、その客観的条件を抜きにして幸福などありえない。必要な物は、可能な限り自分で整え確保するのは当然であるが、物によっては(資材・物品・施設・環境・知識・情報など)社会(政府・自治体その他)が引き受けて(提供・支援して)然るべき部面もある。それらを整えサポートするのは、むしろ社会の責任である。

 ところで、とかく、幸福福追求権の保証とは幸福になる「機会」が保証されることであって、「結果」が幸福になることを保証したものではないとし、「機会は平等なのに、結果が平等にならないのは個人の努力不足か無能力さらには勤勉・節約・忍耐といった美徳に欠けるせいだ」と見なす考え方がなされる。しかし、本人の努力不足や無能力や美徳が欠けるせいだけではなく、必ずしも本人の責任とは云えない不利な条件(ハンデイ)をかかえる者は、機会は他の者たちと公平に与えられたからといっても、どんなに頑張ってみたところで結果は得られないのである。幸福とは、幸福追求のスタートからゴールまでのプロセスを含んだトータルなものであって、結果だけでとらえられるものでもなければ、結果を抜きにとらえられるものでもない。肝心なのは心に満足が得られた状態すなわち結果であって、「結果はどうでもよい」などと、はじめから結果を度外視して、機会さえ与えられれば、それで充分だなどということはありえないわけである。機会が保障されるだけでなく、努力さえすれば必ず結果が得られるように客観的条件(生活環境・教育・訓練・知識・情報・雇用など)が社会(政府や共同体)によって保障されなければならない。幸福になる「機会」だけが保障されても、あとには不幸な結果が見えているというのでは無意味なわけである(どんなに頑張ってみたところで、どうせ何もならない。頑張っても頑張らなくても同じだということになる)。したがって、政府は国民が幸福を得ることに対して、ただ単に形式的に「機会の公平」だけを保証して、あとは本人の努力しだいだといって済ませ、結果にたいして責任を負わないならば、「最大多数の最大幸福」をめざすべき政府としての役目を放棄しているか、怠慢だと非難されるべきなのである。

 だからといって富の機械的な平等分配は不合理であり、論外である。しかし、国民各人の幸福に必要な客観的条件を整えサポートするために政府がお金(国民がそのために税金として出し合ったお金)を出すのは不合理ではないどころか当然のことである。

(8)幸福は市場で買うものか?

人が富を求め、お金を入用とする理由には二つある。一つは、自分が(その扶養者も)生活と幸福を得るのに必要な経費のため、という理由である。それは、すべての人に当てはまるものである。それに対して、もう一つは、(内橋克人氏の言葉を借りれば)「マネー資本主義」の世界で、富やお金を得ること(金儲け・蓄財・利殖)あるいはマネーゲームやギャンブル(投機)に勝つこと自体を生きがいとする人(実業家・投資家・金融業者など、いわばマネー資本家)がそれに自己実現を懸けているから、という理由である。

前者(一般庶民の世界)のばあい、そのお金は、生活や安心や自己実現の活動に必要な一つの手段にすぎない(幸福にとって必要条件ではあるが充分条件ではない)が、後者(マネー資本主義の世界)のばあい、そのお金は、それにありつくこと自体が生きがいであり幸福だということで、自己目的(お金を得ること自体が幸福)になっている。

マネー資本主義の世界では、その金は、金儲けやマネーゲームを生きがいとする者たちがそれぞれ自分自身の努力と自己責任で手にすればよいわけであって、彼らどうしで競争の結果手にする富に不平等が生じ、勝ち組と負け組に分かれたとしても、それは当然のこととして受け容れられる。しかし、一般庶民の世界では、お金は、各人が生活の糧と(金には代えられない)幸福を得るために必要な物やサービスを買うためのお金であり、そのお金は各人が労働によって得る。国民は互いが社会的分業としてそれぞれの労働に携り、各人はその報酬として得たお金を、自分と扶養者(家族)のために直接使うほかに、互いが税金として政府や自治体に出し合って、公共施設・公共サービスを利用し合う。それが各人の幸福に役立つ。働けない者(老人・障害者・失業者など)は、国民が出し合った(税金・保険料)の中から公的扶助や社会保険の給付を受け福祉サービスを受ける。そうしてすべての人が等しく幸福が得られるようにして然るべきなのである。(その意味では「平等社会」であるべきなのである。ところが、障害者自立支援法案―「応益負担」ということで、障害者の所得の多少に関わらず、また重度・軽度に関わらず、一律に費用の1割負担を課するというもの―の国会審議で厚生労働省の担当局長は「サービスは買うものだという法律だ」と発言している。そのような法律では、お金のない者はサービスを受けられないことになる。)

ところが、今や、後者(マネー資本主義の世界)の方に前者が一緒くたにされ、人々の生き方・幸福(生きがい)にたいする考え方がその方に一元化・画一化されて、「お金がすべて」「市場がすべて」「幸福は金しだい」「幸福は金で買うもの、売買取引で得るもの」「売買取引に市場競走は付き物」、「競走に勝者・敗者は付き物」、「競争の結果、ある者は金が儲かって幸福を得、ある者は金を失って不幸に陥ったとしても、その『結果不平等』は仕方のないこと」、「機会は平等なのに、結果が幸福にならないのは本人の努力不足か無能力か美徳に欠けるせいなのであって、自分を恨むか、さもなければ幸運を与えてくれない神さまを恨むしかないのだ」などといった方向に傾いている。それを正当化するのが、万事、民間市場と国民の「自助努力・自己責任」に委ね、政府は国民経済・国民福祉から極力手を引いてしまうという新自由主義・「小さな政府」論なのであり、その路線を推し進めようとするのが、小泉首相の民営化改革・規制緩和政策なのである。郵便局の郵貯や簡保は、従来は庶民のためにお金を預かり、その口座から料金支払いを引き受け、集まったお金を政府に融資してきた(財政投融資)。すなわち、それは庶民と政府向けのものであった。それが、これからは民間の銀行や保険会社と同様に、ハイリスク・ハイリターンの金融商品を扱い、投機に応じるなどして、国内外のマネー資本家をも相手にするようになり、マネー資本主義の世界に足を踏み入れる。それが郵政民営化にほかならない。

(9)経済大国より「幸せ大国」

 我が国は「一億総中流」社会からアメリカのような「二極化社会」に化し、「希望格差社会」に入っているなどとも云われ、将来に希望を持てる人にたいして、将来に絶望している人が増えているということ。即ち不幸になる人が増えているということである。

国内総生産(GDP)で世界第2位の経済大国でありながら、「自分が幸せだと思う人」の比率は29位で、ベトナムやフィリピンより下なのである。(2000年、電通総研などによる「世界価値観調査」。ただ「幸せ」と答えたている人は87%と多いが、そのうちの大部分は「やや幸せ」というもので、「非常に幸せ」は28%。それは95年の33%からは相当減っている。)

また、世界一の長寿国でありながら、10人に4人は「長生きしたいとは思わない」と感じている(愛知県大府市の国立長寿医療センターの調査。次のデータとともに「世界11月号」で内橋克人氏が紹介している)。

生活保護世帯は100万世帯で、その受給者の割合はこの10年間で6割以上も増えているのに対して、億万長者(居住目的の不動産を除いた純資産だけで100万ドル以上の富裕層)は134万人(総人口の約1%、世界の億万長者の6人に1人は日本人)なのだそうである。

民主党の党首選に敗れた菅直人氏は、党首選を前にして、「不幸になる人をなるべく少なくする『最少不幸社会』をめざすべきだ」との政治理念を掲げたといわれるが、人は誰しも幸福に生きたいと思っており、「最少不幸社会」をめざすことに異議を差し挟む者はいないだろう。めざすべきは、「平等社会か、競走社会か」などではなく、まさにその「最少不幸社会」であろう。そして、政府はそのためにできることをやり、或は、政府にしかできないことをやらなければならないのであって、問われるべきは、「大きな政府か、小さな政府か」などではなく、「最少不幸社会」をめざして政府はやるべきことをやっているかであり、そのために政府は何をやるべきで何をやるべきでないか、である。

我が国がめざすべきは、経済大国とか「軍事大国」などではなく、「幸せ大国」なのであって(4~5月、朝日新聞に「幸せ大国をめざして」というシリーズがあった)、政府がめざすべきは、「小さな政府」とか「競争社会」(いわば「勝ち組社会」)とかではなく、「最少不幸社会」すなわち「最大多数の最大幸福」であろう。

2005年11月26日

自衛隊を軍隊にしてはならない

 改憲論者の言い分に「自衛隊はどうせ事実上軍隊なのだから、そのことを曖昧にせずに、憲法にはっきりと明文化すべきなのであり、改憲といっても、現実に合わせて条項を修正するだけのことだ」といった言い方がある。一般の人たちの中にも、「そうだ、それだけのことだ」と軽く考える向きがあるように思われる。しかし、はたしてそういうものだろうか。事はそんなに簡単なものではあるまい。

(1) 自衛隊は軍隊ではない

自衛隊は確かに軍隊的要素を強くもち、「近代戦遂行能力」から見れば「立派な軍隊」と云えるが、それでも、やはり軍隊ではない。それは、Army(軍隊)とかNavy(海軍)Air Forces(空軍)とは云わずにSelf-Defence Forces(自衛隊)という、その名称の上だけではない。その証拠には、自衛隊員は(イラクに派遣されている隊員も含めて)未だかつて、演習以外には戦闘任務についたことはなく、一人も殺したことはなく、殺されてもいない。自衛隊員は、武器をむやみに使用することはできず、一般人と同じく刑法で定める正当防衛・緊急避難の場合以外には、また警察官と同じく警察官職務執行法に定める場合(犯人逮捕などの職務執行に対する抵抗と逃亡を防止するため)以外には人に危害を与えてはならないことになっているからである。(それで殺せば殺人罪になる。)(上官の命令には従う義務があり、任務の遂行上、自分の生命を危険にさらすことをいとわないということはあっても、上記の正当防衛など以外には発砲して人を殺したり、殺されて死ぬことを強いるような命令は違法であり、拒否することができる。)

(2) 自衛隊には有用な任務もある

自衛隊には各種の任務があるが、「本来任務」としては次のようなものがある。

  ①防衛出動―最も主要な任務とされる。
  ②領域警備―領土・領海・領空の警備(海上保安庁を補完)
  ③治安出動―警察を補完(警察にも対テロ特殊部隊があるが、陸上自衛隊には特殊作戦群がある)
  ④災害派遣
  ⑤国際協力活動(従来「付随的任務」とされてきたもの)
これらの任務から云えば、「領域警備」・「治安出動」・「災害派遣」などは、警察や海上保安庁などと同様に有用なものと云えるだろう。「領域警備」・「治安出動」には、防護用に武器が必要であるし、機動力(航空機や艦艇)が必要であり、それなりの装備が必要である。

(3)海外での武力行使は不可

 問題は①の「防衛出動」と⑤の「国際協力活動」である。

 政府(内閣法制局)は、自衛権は主権国家に固有の権利としてどの国にも認められているとしたうえで、憲法9条を、国際紛争を解決することが目的ならば武力行使も戦力保持も認められないが、国を防衛する目的ならば(個別的自衛権の行使だけは認められ)、そのための必要最小限の実力組織を保持することも、武力行使も認められていると解釈している。

それに対して、そのような解釈自体が間違っているという向きもある。(自衛権はあるが、武力行使と「最小限の実力」をも含めた一切の戦力を放棄したものと解釈すべきだというのがむしろ学界の多数説であり、自衛権そのものを放棄したものと解釈すべきだという完全非武装論もある)

また、自衛隊の存在(配備)それ自体は外部からの攻撃を未然に防止する抑止力として有効だと考える人が多いが、逆に自衛隊の存在は相手に脅威・警戒感を与え、相手の軍備増強や核武装さえ促し、「攻撃は最大の防御なり」とばかりに攻撃をかけてくるなど、かえって相手の攻撃を誘発しかねないとして抑止効果に否定的な考え方もある。

しかし、それらの議論はこの際さておくとして、自衛隊は、少なくとも(内閣法制局の解釈でも)集団的自衛権の行使も、国連決議に基づく多国籍軍参加も、「専守防衛」を越えた自国領域外(海外)での武力行使は許されず、参戦(他国との共同作戦)は一切許されないことになっているのである。したがって自衛隊は、それらを含めてすべてをやれる軍隊とはあくまで異なる。
 実際、これまで日米安保条約を結んできたアメリカが行った幾つかの戦争(朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争そしてイラク戦争)のどれにも、直接には参戦・武力行使はしないで済んできたのである。
 自衛隊には軍隊的要素はあっても軍隊ではないのだということ。

(4)改憲は軍事的自由化

 それが改憲され9条2項が削除されれば、自衛隊は軍隊になってしまう。軍隊ともなれば交戦権(交戦国として有する国際法上の一切の権利)をもち、兵士は(民間人や捕虜などに対する無差別殺戮など国際法で禁止されている以外には)戦闘で人を何人殺しても殺人罪に問われることはなく、また「集団的自衛権の行使」として米軍との共同作戦も、「国際的強調活動」として有志連合や国連軍に参加・参戦することも自由にでき、装備も自由となり、(核拡散防止条約など国際条約による核武装などの禁止以外には)なんの制限もなくなる。
 尚、現在行われているインド洋への海上自衛隊派遣や陸自・空自のイラク派遣は、(武器の使用は自分や同僚の身を守るためだけでなく「自己の管理下に入った者」を守るためにも認めるとして武器使用基準を緩和し、米軍の武力行使と一体であるはずの兵員・物資の輸送や艦艇への給油など「後方支援」は戦闘行為ではないから許されるとか、「サマワは自衛隊が行っているところだから、そこは『非戦闘地域』だ」などと詭弁を弄して合理化してはいるものの)憲法解釈の最大限ギリギリの一線を既に越えた違憲行為といえるが、9条2項が削除されれば、勿論それらは完全に合法化されることになる。
 改憲(9条2項削除)は、いわば軍事的自由化であり、究極の「規制緩和」とも云える。
 これまで自衛官は警察官などと同様、公務員として募集され、若者は応募して就職した。危険をともなう職種とはいえ、「人を殺すか、殺されるか」などという心配はほとんどなかったし、実際それで済んできたと思われる。それは、いわば9条2項のおかげにほかならない。しかし、改憲されて、軍隊兵士ともなれば、その心配は前面に出てくるようになる。そうすれば、応募を敬遠する若者が増え、兵員を集め難くなる(充足率を満たすことが益々困難)。そこでやむなく、ヨーロッパでもアジアでも多くの国々で今も行われている徴兵制を復活させる、ということも考えられる。自民党の「新憲法草案」は、前文に、日本国民は国を「自ら支え守る責務を共有し」という文言を盛りこんでいるが、それは、このような徴兵制導入を根拠づけるものとなるだろう。
 その一方、軍事の民営化も考えられる。アメリカ・イギリスなど外国にあるような民間軍事会社が、警備会社などと同様に、日本にもできるようになる。そしてニートやフリターの多い若者たちの中には、そこに新しい就職口を見出すものが出てくるようになるだろう。
 実は、イラクで武装勢力に応戦して命を落とした日本人が一人いた。彼は元自衛官で、21年間フランス軍の外人部隊に在籍し、近年イギリスの武装警備会社に移って、イラクで米軍関係の警備にたずさわっていた。そしてこの5月に、米軍基地を出た車列を警備していて武装勢力に襲撃され、応戦して死んだのだ。
 改憲されれば、このようにして戦闘に従事して戦死する者が続々生まれることになるのだ。

(5)「軍隊」になったら軍事志向に一層傾く

 自衛隊が「自衛軍」となって、防衛庁が「防衛省」にでもなったら、その省の既得権益にとらわれる省益志向とともに、我が国の安全保障政策は軍事志向にますます傾くことになる。
 シビリアン・コントロール(文民統制)があるといっても、軍人の発言力が強まり、軍隊の論理(なにかにつけ、軍事的合理性の観点から物事を考え、軍事的勝利を得るためにはそれは如何にあるべきか、とか、軍事的勝利のためにそれは役立つか役立たないか、といった発想)がまかり通ることになる。そして、国家予算といえば、なによりも防衛関係費が優先され、教育・福祉などは二の次となり、産業政策といえば、軍需産業・軍事技術・兵器生産・兵器開発など軍産複合体の形成がめざされ、国を守るといっても、実際有事の際の「自衛軍」の行動は、国家機関と軍隊自身を守るのが最優先され、国民の生命・財産は二の次にされて、弱者は見殺しにされかねない、といったことになる。

(6)自衛隊を「他衛隊」にしてはならない

 改憲して集団的自衛権の行使を認めるようにするということは、自衛隊がアメリカの「自衛戦争」に加勢し、アメリカ軍を支援する「他衛隊」になってしまうことにほかならない。
 アメリカは、自国の安全保障の立場から、朝鮮半島から台湾海峡・インド・パキスタンを経て中東にいたる地域を「不安定な弧」と見なして、日本を作戦の中心と位置づけている。そして(10月末日米合意がおこなわれ)日米同盟再編で、米軍と自衛隊との共同司令部の新設、基地の共同使用など両者を融合・一体化させ、世界展開する米軍を自衛隊が「補完」する態勢を整えようとしている。アメリカ軍と自衛隊は日本の防衛や周辺事態への対応のみならず地球規模で軍事協力を推し進めようとしているのである。
 アメリカはイラクに16万人を派兵し、アメリカ兵は2100人以上戦死している。そこへ自衛隊も派遣されているが、自衛隊員は戦闘には参加せず一人も死んでいない。アメリカにとっては、自国では兵隊志願者を集めにくくなっており、日本の自衛隊員が代わりを引き受けてくれると助かる、ということになるわけだ。
 自衛隊を、アメリカ軍の支援軍にしてはならず、「他衛隊」にしてはならない。


(7)自衛隊を軍隊にしてはならない

 自衛隊員を海外に派遣して、戦闘で殺し殺される運命に置いてはならない。戦死したら靖国神社に祀って拝んでやれば済むというものではあるまい。

 小泉首相はAPEC首脳会議後の記者会見で、靖国神社参拝の理由を問われ、「日本は戦争をしないという気持で参拝している」と答え、「日本は、第二次大戦後、戦争をしていないし、海外に行った自衛隊の諸君も一発のピストルも撃っていない。一人の人間も殺していない」と述べたという。ならば、9条2項を削除してはならないはず。ところが、その後の自民党立党50年記念大会で、新憲法草案(9条2項削除、「自衛軍」明記)の正式発表をやってのけた。全くの矛盾である。(草案には軍事裁判所を設置する規定もあり、仮に自衛軍兵士が上官から、敵のアジトに出撃して行って「撃ちまくり、殺しまくれ」という命令をうけたとして、それを拒否すれば、その軍事裁判所で裁かれ処罰されることになる。やられて死ぬことがあっても、その命令には従うほかないことになるわけだ。)

 自衛隊を軍隊にして海外に派兵し、米軍や多国籍軍などと共に戦争をさせてはならないのだ。

 自衛隊はむしろ、任務を領域警備(主権侵害行為・テロ・工作船などへの対処、未然防止、排除)、国内外への災害派遣、海外には非武装で行って非軍事の国際協力活動(停戦後・戦闘終結後の人道復興支援)に当たるといったことに限定するように改編して、装備も(「専守防衛」を超える渡洋攻撃能力をもつイージス艦・ヘリ空母・大型潜水艦・巡航ミサイル・FSX戦闘機・空中給油機、それに日本のような国土戦には全く不向きな戦車など)縮減し(軍縮)、軍隊的要素を次第に無くしていくようにすべきなのであり、そうすることによって、自衛隊の現実の方を、現行憲法の9条が定める本来の姿に近づけていくべきなのだ。日本がそうすれば、他の諸国に軍縮を促すことができ、互いに脅威となることもなくなり、緊張は緩和して、安全保障と平和を共に得られるようになる、というものではあるまいか。

 日本が平和憲法を改変し、9条2項を削除して、自衛隊を本格的な軍隊にすれば、近隣諸国はそれをかつての日本軍の完全復活として警戒を強め、脅威を取り除くどころか、互いに軍備強化に向かう以外になくなるだろう。そして互いに不信感をつのらせ、反日とそれに対する反中・反韓・反朝といった敵対的民族感情が、互いの軍事的脅威とともに再生産されていく結果になるだろう。

 自衛隊を軍隊にしてはならない。

2005年12月11日

護憲連合の結成を考える

 先の総選挙では、護憲派は、共産党が9議席、社民党が7議席。比例区の得票率は、両党を併せて12,8%で、国民の10人に1人以上という結果であった。社民党はこの選挙に際して、20以上の小選挙区で改憲派の民主党と選挙協力を行なっている。

政権党である自民党は圧勝し、党内刷新(党首のリーダーシップによって党内一本化、派閥連合政党から「近代政党に脱皮した」とか、「改革政党」のイメージ獲得)に成功して勢いを得ている。それにひきかえ民主党は「政権準備党」などと自ら称しながら、いわば「第二自民党」ぶりを露呈し、対抗軸にはなり得ていない。それでもマスコミなどは、ともに改憲派であるこの両党をもって日本に「二大政党制」が成立しつつあるかのように論評し、護憲派はもはや、まったくのマイノリティー(少数派)に化してしまったかのように扱っている。(産経新聞などは全国紙の社説から「護憲派が姿を消した」とまで書いているという。)

 ただ、9条に限っていえば、世論調査では、改定反対の方がむしろ多数派であり、「九条の会」が全国各地に続々結成され、有権者の過半数の改憲反対署名をめざすなど護憲運動が盛り上がり始めているのも事実だ。

 しかし、護憲を本当に達成するには、最終的に国民投票の段階で改正反対票が過半数を制して改憲をストップさせさえすればそれで充分というわけではないし、実際、反対過半数をとれるかどうか、わかりはしない。むしろ、その(国民投票に至る)前に国会で、改憲をし易くする国民投票法案(来年の通常国会に上程するとみられる)と国会法改正案の成立を阻止しなければならないし、また、改憲とあわせて現行憲法の精神をくつがえしてしまう教育基本法改定をはじめとして、防衛庁の「省」への昇格、共謀罪の新設など諸立法を阻止することも必要だ。重要なのは、単に憲法の条文改変を阻止するだけの消極的護憲ではなく、死文化を許さずに活かす(それを「活憲」と称する向きがある)そのような政策を一つ一つ勝ち取ることである。

 そのためには、市民が請願署名・デモ・集会などで院外から圧力を加えるだけでなく、院内(国会)で護憲派議員が改憲発議否決に要する反対3分の1以上を制して発議を阻止することはもとより、護憲派議員が過半数を制して憲法死文化立法を阻止あるいは「活憲」(憲法を活かす)政策を実現すること。そしてそのためには、選挙(さしあたり2007年の参議院選挙)で護憲派がそれらを可能とするだけの議席数を獲得することである。

 今は、各地の「九条の会」・革新懇・共産・社民・新社会党など各会・各党がバラバラ、それぞれ思い思いに集まり合っては気勢を上げ、署名集めや街頭宣伝など行なっているが、それだけに終始するのではなく、選挙で護憲派議員を3分の1以上~過半数を当選させるために選挙協力を行なわなければならない。すなわち選挙に際して選挙区ごとに統一候補を立て、比例区では統一リストをあげて確実当選を期する。そのためには政策合意が必要であるが、その基本政策は、自民・民主側の改憲・新自由主義的改革・日米軍事同盟路線に対して、護憲・活憲・非「新自由主義的改革」・非「日米軍事同盟路線」にそくしたものとする。尚、革新懇に「革新三目標」(①国民本位の経済 ②自由・人権・民主主義の発展 ③非核・非同盟・中立)があるが、そのような基本政策で互いに政策協定を結ぶのである。キャッチフレーズでいえば、「小さな政府」に対して「公正な政府」、「強い国家」に対して「信頼される国家」、「自己責任、自助努力」に対して「政府・企業・個人それぞれの責任・努力」、「競争・格差肯定社会」に対して「誰もが幸福を得られる社会」といった言葉になる。

 その統一会派の名称は「護憲連合」か、それとも「活憲連合」。(「革新連合」でもよいわけであるが、千葉大学の小林正弥教授などは、「革新」は戦前右翼がスローガンにした言葉であったことから、小泉自民党と前原民主党を「革新右派二大政党」として、むしろ改憲派の方にその言葉を当てている。小林教授は、「護憲」もいまや保守的なイメージがあるとしてその言葉を避け、イタリアの「オリーブの木」のいわば日本版ということで、「平和の木」とか「平和連合」といった名称を提唱している。―「世界11月号」)

 いずれにしても、小選挙区並立比例代表制という選挙制度が変わらないのであれば、二大政党の激突となるが、それを改憲派同士の自民対民主とはせずに、改憲派対護憲派の激突としなければならないわけである。

 「激突」(勝ちを意識した対決)ともなれば、政権獲得の意気込みを見せ、「九条の会」の著名人の顔だけでなく「護憲連合」の顔ともなる首相候補まで立てて、「小泉自民党」とか「安倍自民党」に対抗しなければなるまい。

 各会・各党は本気で改憲阻止・活憲をめざすのであれば、イデオロギーや過去のしがらみにとらわれずに、護憲・活憲の一点で大同団結すればよいのである。「九条の会」や革新懇、共産・社民・新社会党などには、自民・民主両党の新自由主義(市場競争主義・規制緩和・民営化路線)や日米軍事同盟路線に反対する人々が多く、増税問題や靖国問題、自衛隊のイラク派遣問題、教育・福祉の問題でも意気投合する部分が多い。これらの各会・各党の人々が、小異(イデオロギーやアイデンティティーは、それぞれにとって大事にしなければならないものではあるが、平和と暮らしだけがすべてという一般国民にとっては小異)を残して大同につく。そして各党が政策合意し、政策協定を結んで統一会派をたちあげ、選挙協力することは、けっして不可能なことではないだろう。

 但し、選挙戦は勝つことをめざし、政権をもめざすが、政権獲得を自己目的にするようなことはしない。かつて社会党が自社さ連合政権にはしり、いま公明党が自公政権にはしっているように、そのために肝心の平和憲法の立場から後退するようなことはせず、また、自民・民主のようにイデオロギーや基本政策は大差ないのに、政権を競って小異にこだわって違いを際だたせるようなことをすべきではないのである。

 自民・民主は、いずれも、実業家・資産家・有力者・政治家・官僚などこの国における社会の(どちらかといえば)「勝ち組」・エリート層出身の議員政党で、彼らの利害にマッチした「最善」の政策を競い、「改革」を競い、政権を競い、支持獲得を競い合っている。(経団連など財界は、双方の政策を比べて評価し、それに基づいて政治献金をだしている。)それに対して共産・社民・新社会党などの各党は、互いに競い合っていがみ合うのではなく、自己のエゴは捨てて、あくまで護憲・活憲を至上目的に協調・共同しなければならないのであって、護憲派同士でいずれが政権・主導権を握るかなどは問題外としなければならない。

 改憲派両党の競争主義と国民分断政策(公務員と民間社員、正社員と非正社員、労働組合員と非組合員、サラリーマンと自営業者、高齢者と現役、中高年と若年層、働く女性と専業主婦、健常者と障害者など両者の対立を煽って分断し、それぞれ片一方の支持を獲得するという手法)に抗して、護憲派は国民相互の連帯・協調によって対抗しなければならない。

 とにかく、各会・各党がバラバラのままでは、いくら頑張ってみても、圧倒的に強大な改憲派自公民連合には到底太刀打ちできないし、今のところ世論調査では9条改定反対の方が多いとしても、これから大連立の可能性もある改憲派二大政党とそれに同調するマスコミのキャンペーンの前には、国民投票で改憲反対過半数を制することは容易な技ではないだろう。(参院で否決した郵政民営化法案を総選挙で逆転したとか、フランスで議会が承認したEU憲法を国民投票で逆転否認したなどという逆転劇はあったとしても、日本のこの場合には、各会・各党バラバラのままでは、そんな逆転劇はまずあり得ないだろう。)

 いずれにしろ、成りゆき任せではなく、目的(護憲・活憲)達成に向けた現実的・合理的な戦略を考えて取り組むべきなのではないだろうか。

 メディア戦略(マスコミへのアピールとメディアの活用)にも考えを及ぼし、「風を起こす」ことともに、「風を呼ぶ」方法も考えるべきだろう。

 勝てる(結果が得られる)戦略に基づいた戦いでなければならず、単なる「戦いのための戦い」(自己満足的生きがい)で終わってしまうことのないように・・・・・・・・・・ということで、護憲派各会・各党の統一会派(「護憲連合」もしくは「活憲連合」)結成が緊急に求められていると考えるのですが、如何なものでしょうか。

以上、間違いや的外れがあろうかと思われますが、ご指摘、ご批評いただければ幸いです。

2006年01月17日

憲法は国家ではなく国民のためのもの

憲法とは権力者を従わせるもの 憲法とは、国家が国民にたいして「・・・すべし」とか「・・・すべからず」などと訓(さとし)命じて、国民を従わせるためのものではなく、国民が自らの権利を、権力による侵害や強者・多数者の横暴から守るために、権力に縛りをかけ、権力担当者・強者・多数者を従わせるためのものである。それが立憲主義という近代憲法の考え方なのである。(明治憲法起草の中心人物である伊藤博文でさえ、そもそも憲法を設ける趣旨は君権を制限し人民の権利を保全することだと云っていたという。衆議院憲法調査会の事務局がまとめた文章―『世界は「前文」をどう作っているか』―には「近代以降の憲法は、国の権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とするものであり、今日では、この立憲的意味の憲法こそが『憲法』と称するにふさわしいものであると一般的に考えられています」と。)

憲法の制定主体は国民 憲法は国民のものであり、国民のためのものである。日本国憲法の前文や9条の文章は「日本国民は」とか「われらは」で始まっており、国民が制定主体になっている。(前文には「日本国民は・・・われらとわれらの子孫のために・・・この憲法を確定する」とあり、9条には「日本国民は・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は・・・永久にこれを放棄する」とある。)

 99条は憲法尊重擁護義務を定めているが、その義務は誰に課しているのかといえば、それは「天皇または摂政および国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員」となっている。このように、憲法とは、国民に守らせるためのものというよりかも、国家機関・権力担当者・公務員に守らせるためのものなのである。従ってそこには、政府や公務員の責務・義務規定は多くあっても、国民の義務・責務の定めが少ないのは当然のことである。

権利か、義務か よく、子供や若者にたいして、「自由や権利ばかり主張して責任や義務を負おうとしない」といって口説く向きがある。自民党の新憲法草案は、あたかもその感覚で、前文に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し・・・」と書きこみ、12条には「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益および公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」などと書きこんでいる。(これに先だつ同党の改憲案要綱には「国防の責務」「家庭保護の責務」も書きこんでいた。)しかし、「自由には責任が伴い、権利には義務が伴う。さもないと単なる我儘になってしまう。我儘はいけない」などということは、大人が子供に教えておかなければならない当たり前の常識ではあるが、憲法は大人である一般国民にたいしてそんなことをわざわざさとし示したり命じたりする筋合いのものではないのであって、国民にとって最も切実なのは自由と権利が権力によって侵害されないこと、人権を保障することを定めることなのである。

権力を掌中にしている自民党にとっては、憲法は、国民がその権力に服して国家を「愛情をもって」支え守り公益と秩序に従う義務を国民に課するものであるべきだと考えるのだろうが、国民が憲法に求めるものは、そのようなことではなく、あくまで国家権力による侵害と強者の横暴から国民の自由・権利を守ることなのである。

ただ、現行憲法は12条に「国民は、これ(自由・権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と定めているが、その場合の国民とは主として(大企業やマスコミなど)強者・多数者のことであり、彼らの権利の濫用から一個人・弱者・少数派の人権を保全する責任を負うことを、強者・多数者に課したものと考えるべきである。13条にある「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、・・・」という限定は、自分の権利が侵害されてはならないのと同様に他人の権利を侵害してはならないということであるが、それはどちらかといえば、強者・多数者が気をつけるべきことで、侵害されても自力では抗しきれず泣き寝入りするしかないような無力な弱者・少数派の権利を侵害してはならないということだと考えるべきなのである。なぜなら、強者や権力側にいる多数者などは、わざわざ保護しなくても権利が侵害される心配はなく、むしろ彼らは権利を濫用して弱者・少数派の人々の権利を侵害することの方が心配されるからである。

 ところが、自民党が「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益および公の秩序に反しないように」と書くとき、それは現行憲法12条の「公共の福祉のために」とは逆で、「公益」とは、それを公益と判断する政府を推し立て支持している者たち(大企業・恵まれた人たち)にとっての利益であり、「公の秩序」とは、彼ら(大企業・恵まれた人たち)の財産と権利・権力を保障している秩序のことで、その秩序に反しないように、国民は権利を行使する責務を負うといって、その責務を国民に課しているのである。それにたいして現行憲法は強者(大企業・有産階級・マスメディアなど)に対して、その自由と権利の濫用・横暴を禁じ、その活動成果・財産利得を公共の福祉のために利用する責任を課しているのである。

 現行憲法は、国民には勤労・教育・納税という三大義務を課している以外には国民の義務規定はなく、国民に対する禁止は自由・権利の濫用(他人の人権の侵害)の禁止と児童酷使の禁止以外はない。また、国民の責任については、自由・権利は国民の不断の努力によって保持するとともに公共の福祉のために利用する責任を負う、ということ以外には書かれていない。あとは専ら、国と天皇・内閣・国会・裁判所その他の公務員、公共団体・宗教団体などに対する禁止規定、任務・権限・義務・責任規定と、保障すべき国民の権利が定められているだけ。憲法とはそういうものなのである。

憲法は権力に縛りをかけるもの 要するに、憲法とは、国家が国民の権利を縛るもの(国民行為規範)ではなく、主権者である国民が国家の権力に縛りをかけるもの(権力制限規範)なのである。とりわけ現行憲法は、それが世界でも最も徹底しているところは第9条に見られる。戦争は国家権力による最悪の人権侵害をもたらすが、9条は、日本の国家が軍隊をもち、戦争を発動し、国民を戦争に動員することも、交戦権も禁じ、政府に不戦を義務づけているのである。ということは、平和的手段による安全保障を義務づけているのである。そして国民にたいして兵役を課したり、国防の義務を課したりしないこととしたのである。なぜそのようなことを定めたかといえば、それは先の大戦で、戦争は「自存自衛のため」であろうと「アジア解放のため」であろうと(太平洋戦争はそれらの名目でおこなわれたのだが)悲惨と喪失しか生まないということを、ドイツなどとともに幾千万という世界史上最悪の大量死・大量破壊をもたらしたことによって、当時多くの日本人が思い知ったからである。

 ところが今、改憲によって、国家の戦争に対するその縛りをはずしてしまおうとしている。それ以外にも、政教分離の緩和(靖国神社の参拝など、社会的儀礼の範囲内ならば公人の宗教的活動も許される)など国家や権力に対する縛り(規制)を緩めるか、はずしてしまおうとしているのである。そして、権力制限規範であるべき憲法を、逆に「公益および公の秩序に反しないように」などと(反戦・政治的ビラ配布など)市民運動を規制できるようにし、国民に責任・義務を守らせるものへと転化して国民行為規範の側面を強め、権力の座にある者が自分たちのやり易いように権力規制を緩和し、逆に国民の自由・権利の方を縛ろうとしているところに改憲の本質があるのである。

 尚、自民党の改憲草案は、現行憲法が、憲法改正には衆参各議院の総議員の「3分の2以上の賛成」を要するとして厳しくしているのを、「過半数の賛成」があればよい、というふうにハードルを下げて改憲しやすくしている。このように、憲法改正の要件を緩めるということは、過半数を制している政府与党や多数派が自分に都合のいいように改憲することを可能とするものであるが、そのことも、憲法がそもそも権力を制限する規範であり、多数者によっても奪えない個人の自由や権利を守るものであるという憲法の性格を変質させてしまう要因となるわけである。

2006年02月16日

内心の自由と外形的行為―靖国参拝と国旗・国歌

(1)靖国参拝

小泉首相は、「靖国の参拝は憲法で保障されている。『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』というのは日本国憲法19条に規定されているじゃないか」と述べ、それは「心の問題」であり「精神の自由」なのであって「他人が干渉すべきことではない。ましてや外国政府が・・・『いけない』とかいう問題ではない」などと強弁している。

たしかに、心の中に何を思おうと何を考えようと、どんな思想・信条をもとうと自由である。しかし、内心を言葉なり行動なり、何らかの形で外部に表現すると、それに接した人々に様々な影響を及ぼす。好影響を与えることもあれば悪影響を与えることもあり、恩恵をもたらすこともあれば害悪をもたらすこともあるし、その行為を喜ぶ人もいれば心が傷つけられる人々もいるわけである。また、そのような外形的行為が客観的に(世間一般に、或は国際的常識、国内外の大方の共通認識として)意味するところが、それを行った当人の思い(本人が意図していたもの)とは必ずしも一致せず、当人は「そんなつもりでそうしたわけではない」などと釈明しても、それをやってしまった以上もはやその言い訳は通用しない、といった場合もある。

暴走運転をして人を死なせてしまい、「そんなつもりではなかった」と言っても、その言い訳は通用しない。日中戦争や太平洋戦争、日本の国家指導者が、それを指導していながら、或は日本人が、それに従軍していながら、「侵略戦争だなんてそんなつもりはなかった」と云っても、国際的には通用しない。

そして首相の靖国参拝。そこは、単なる神社ではなく、明治以来、日本が行なってきたすべての戦争の肯定の上にたって、戦死した自国の将兵を英霊として讃え祀る顕彰施設なのであり、国際軍事裁判でA級戦犯とされた戦争指導者をも合祀している。首相が、信教の自由だからといって、そのようなところへ参拝に行けば、それは、神社当局はもとより「日本遺族会」や国家主義団体などの人たちにとっては有難いこととして感謝され喜ばれるだろうが、その他の人々、とりわけ、日本による侵略と戦争で数多の命が犠牲になり惨害を被った諸外国からは、日本の首相のその参拝は、日本政府が侵略戦争を肯定し戦犯を免罪しているものと受け取られ、被害国民の感情を逆なでするものとのそしりは免れない。それに対して、首相が「そんなつもりはない。ただ、国のために戦いに臨み心ならずも命を亡くされた戦没者の方々に追悼の誠を捧げるためだ」とか、「不戦を誓うためだ」とか云っても、その通りだとは到底受け取れないわけである。自国民の心が傷つけられ、国際信義にも反していると思わざるを得ない外国政府に対して黙っていろという方がおかしい、ということになるわけである。

首相の内心はどうあれ、靖国参拝というその外形的行為が問題なのであって、単なる「心の問題」ではないのであり、また戊辰戦争のような内戦ではなく、国際戦争に関わるものであるかぎり、単なる国内問題ではなく、国際問題なのである。

もう一つ、首相の靖国参拝が問題なのは、首相の場合、その行為が、靖国神社という特定の宗教団体を公権力者が肩入れする結果になるということであり、それは憲法の政教分離規定(20条1項「いかなる宗教団体も、国から特権を受け・・・てはならない」)に抵触する。それは靖国神社(当局)は明治以来の対外戦争をすべて肯定(侵略戦争であることを否定)し、正当化しているが、首相や閣僚・何人もの国会議員の参拝はそれにお墨付きを与える結果になるという意味でも、重大な影響を及ぼす行為なのである。

(2)国旗・国歌問題

戒律で偶像崇拝を禁じているイスラム教の信者であるかぎり、神像や聖像を描いたり刻んだりすれば、不信心のそしりは免れない。また、異教徒がムハンマドを風刺画に描いて新聞掲載すれば、イスラム教徒を冒涜し侮辱するものとのそしりは免れず、それを他の新聞がして転載して「それは、イスラム教徒を侮辱するつもりではなく、表現の自由を訴えるためだ」と強弁しても、イスラム教徒にとっては到底受け容れ難い話なわけである。

聖母像を踏めば、たとえ強いられたものとはいえ、キリスト教信者であるかぎり、不信心のそしりは免れず、また、自分自身の良心の呵責・精神的苦痛にさいなまれることになる。

日章旗に向かって、ちゃんと起立して「君が代」を歌えば、忠良なる臣民、そうしない者は非国民と見なされたのが、かつての日本であった。ところが、今また、学校の卒業式・入学式で日章旗を掲げて「君が代」を斉唱するやり方が、各学校独自の慣習や創意とは別に、教育委員会からの校長への通達(指示)と校長の職務命令によっておこなわれるようになってきている。起立して歌わない教員あるいは生徒が起立して歌わないクラスの担任は公務員法(職務命令に従う義務)違反として処分される。東京都ではそれで大量処分がおこなわれ、横浜市などその他でもこの問題で訴訟がおこなわれている。教育委員側の論理は「外部的行為を命じたにすぎず、どういう気持を持っているかを変えようというものではない」として外形的行為の強制を正当化している。

国旗・国歌にたいする国民各人の思いや考えは一様ではなく、愛国心も色々であって、同胞や故国を愛する気持はあっても、天皇や国家にたいする忠誠心なんてない、というようなこともあるわけである。

「日の丸」「君が代」は、国会で、国旗・国歌とすることに多数決で決まりはしたものの、国民の中にはそれに対して、「天皇を中心とした神の国」という時代錯誤的なイメージとともに軍国主義と結びついた血塗られたイメージから抵抗感をもつ向きもあり、戦後、民主国家として生まれ変わった新生日本にはどうも相応しくないなどと違和感をもつ人も少なくないわけである。或はシンプルながらも荘重で奥が深い感じがして良い、などと気に入っている向きもあるだろうし、その由来も歌詞の意味も、ろくに教えられたことも深く考えることもなく、ただ慣れ親しんでいるだけだといった向きも少なくないだろう。とにかく、「日の丸」「君が代」に対してどのような思いや考えを抱こうと、どのような思想・信条を持とうと自由なわけである。

しかし、それにたいして特定の外形的行為(学校の卒業式・入学式の場で掲揚・起立・斉唱)を強制して従わない者を処分するというのは、公権力による、信条による差別(憲法14条「法の下の平等」違反)であり、思想・良心の自由の侵害であって、憲法違反以外のなにものでもない。そもそも「日の丸」「君が代」を国旗・国歌と定めた国旗・国歌法制定に際して、時の政府(小渕内閣)は「子どもたちの内心にまで立ち入って強制しようという趣旨のものではなく」「国旗の掲揚に関し義務づけなどを行なうことは考えておりません」つまり強制はしない、としていたのである。

教育基本法10条には「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」で「教育行政はこの自覚のもとに、教育を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」にもかかわらず、教育委員会など行政が、学校の教育活動の内容に立ち入って、学校行事である卒業式等のやり方を指示し、「国旗に向かって起立、国歌斉唱」を押し付けておいて、職員がその通りにしないのは職務命令違反であり、かつまた式を妨害する行為で「公共の福祉に反する」自由の濫用と見なす、などは自分勝手以外のなにものでもないだろう。命令にすなおに服さず、起立して歌わないのが我儘なのではなく、そのようなことを持ち出して校長に命令させる方が権力の濫用(行政当局の越権行為)なのである。「公共の福祉に反する」自由の濫用とは、あくまで、人々に対する具体的な権利侵害(その教員が起立して歌わないことによって人々が不利益を被ったという事実があれば、その具体的事実)のことであって、ただ単に抽象的な「秩序妨害」などのことではないのである。その職員が起立して歌わないからといって、他の職員・生徒その他が不利益を被り権利が損なわれることなど考えられず、むしろ強制によって、本人の信条や意に反して起立させられ歌わされる職員・生徒の精神的苦痛の方が問題なのである。

また、そのような特定の外形的行為の強制は思想統制以外の何ものでもなく、戦前・戦中の暗黒時代のように、それは人々の自然の感情、自由な心を窒息させ、国家・公共というものに対する嫌気を生じさせ、真の愛国心、真の公徳心をかえって損なう結果になる。

人はどのような思想・信条をもとうと内心は自由であり、また、どこで何を拝もうと自由であるが、首相の靖国参拝という外形的行為は、首相自身の内心の満足に止まらず、遺族会や国家主義団体その他には、それに満足・感謝して喜ぶ向きもあるだろうが、戦争で犠牲・惨害を被った幾多の人々、とりわけ中国・朝鮮半島などアジア諸国民の間では、彼らの感情を逆なでし、その心を傷つけ、国際信義を踏みはずす結果をまねいていることも事実なのであり、それが問題なのである。

国家にたいして、また国旗・国歌に対して様々な考えをもち、様々な思いを抱いている教職員・生徒に対して、「日の丸」に向かって一斉に起立し「君が代」を歌えと強制することは、人によっては心が傷つけられ精神的苦痛にさいなまれるという結果をまねいていることも事実なのであり、公権力がそのようなことを行なってよいものか、それが問題なのである。

これらのことは、いずれも心の問題ではあっても、権力担当者の特定の外形的行為もしくはその強制は公権力が国民の思想・良心の自由あるいは信教の自由を侵害し、また国内外の人々の心を傷つけ、精神的苦痛をまねく結果になるという問題なのである。

人々の思想・信条は(国家観も国旗・国歌に対する考え方も)色々であり、人それぞれ、どのような人生観・価値観をもち、どのような生き方をしようと自由なわけである。

また、どのような信仰をもち、どこへ行って何を拝もうと、或は亡くなった人に対してどのような追悼の仕方をしようと自由なわけである。

そして、お互いに違いを認め合い、排撃し合わない。そのような自由と寛容によって成り立つのが民主主義社会である。

そのような社会のまとまりと安定を維持するためには、公権力はその自由・寛容を保障すべきなのであり、それを権力が特定の思想・宗教や価値観や人生の生き方・考え方を選別し、国民に押し付けたり、権力者・権力担当者が肩入れする結果になるような発言や行動は避けなければならないのである。

さもないと、それ以外の思想・信条や宗教をもち、違う生き方・考え方をする人々の心を傷つける結果になり、ねたみ、反感、いがみ合いを生じ、紛争を招き、かえって国のまとまりを悪くし諸外国との関係も悪くする元になるからである。

民主国家における公権力の役割は、互いに比較可能な利害の調整にとどめ、比べようのない心(思想・信条や宗教)の問題に関わる外形的行為に公権力が関与することは控えるべきなのである。

首相は戦没者の追悼は「心の問題」というならば内心に止め、或はせいぜい無宗教で軍国主義とは関わりのない千鳥ケ淵の国立墓苑のようなところに参拝に行くだけに止めればよいものを、靖国参拝という特定の外形的行為にこだわるから、それを歓迎し喜ぶ人々がいる反面、戦争に怨みを持つ国内外の多くの人々の心を傷つけ非難される結果になり、民心を分断する結果にもなっているのである。

東京都などにおける各学校の卒業式・入学式などに際する教育委員会による国旗・国歌の強制は、同様な意味でとんでもない暴挙・愚策といわざるを得ないわけである。

2006年03月19日

日本はアメリカから守ってもらっている?

一般に日本は経済大国ではあっても軍事的には中小国で、アメリカから守ってもらっている国だと思っている向きが多いように思われる。はたしてそうだろうか。

(1)自衛隊の戦力

世界の中でのランキングから云えば(2004年統計。明治大学文学部教授、山田朗「護憲派のための軍事入門」)、

軍事費(億ドル)陸上戦力(万人)海上戦力(トン数)航空戦力(機数)
アメリカ 4553中 国 170アメリカ 548アメリカ3470
イギリス  474インド 110ロシア  206中 国    2400
フランス   462北朝鮮 100中 国    93ロシア   2150
日 本    424韓 国  56イギリス  79北朝鮮    610
中 国     354アメリカ 49日 本    43,8韓 国    600
ドイツ   339ロシア 32台 湾    530
イタリア   278台湾  20
ロシア   194日本(12位前後)
日本(17位以下)17万人  510機

              
陸上戦力は、現代では兵員や武器の数だけ多くても無意味で、その装備・性能など質の方が問題。それが中国・北朝鮮の方がはるかに多いからといって、日本は劣勢かというと全くそうではない。

海上戦力では日本は近海だけでなく遠洋作戦・海外展開能力をもち、対潜水艦能力・掃海能力・洋上補給能力はいずれも世界トップクラス。

航空戦力では、日本は警戒管制能力・要撃戦闘機・地対空ミサイルなどによる防空戦闘能力は世界でもトップクラス。

但し、日本は「専守防衛」「非核」のたてまえ上 、大型空母・戦略爆撃機・大陸間弾道ミサイル・核兵器などは持ってはいない。

(2)中国・北朝鮮の戦力

中国の軍事費はこのところの経済成長とあいまって急上昇しており、2005年は(日本4兆8564億円に対して)約2兆1800億円(2447億元)で、実際はその公表額の2~3倍ともいわれ、「中国脅威」論を云いたてる向きがある。しかし、中国は数量的には優勢に見えるが、装備・性能など質的にはまだまだ大したことはない。軍事評論家・ジャーナリストの田岡俊次氏(2,19テレビ朝日「サンデープロジェクト」)によれば、その航空戦力は2400機とはいっても、その大部分は旧式の使い古しで、近年新規導入している機種で性能など日米の水準に近いものに限っていえば、その機数は日本・台湾よりも未だ下回っている。田岡氏と同番組に共に出演した帝京大学教授の志方氏も元防衛庁長官の石破氏もそれを否定せず、中国脅威論の方を否定している。田岡氏は、「中国が台湾軍20万を制圧することは不可能であり、金門島すらとれないだろう」「中国海軍などは日本の海上自衛隊と戦えば何時間もつか。野球でいえばプロに対する高校野球のようなものだ」とさえ述べている(05,10,29朝日ニュースター「パック-イン-ジャーナル」)。

北朝鮮は、軍事費は2790万ドルで日本(424億ドル)のわずか1万分の7。陸上戦力と航空戦力は数の上では日本を上回っているが、軍事評論家の小川和久氏(著書「日本の戦争力」)によれば、その装備は「老朽化したポンコツ」、燃料は欠乏し訓練もままならない有様で、韓国と戦争になれば「ソウルは火の海になる」などというのは誇大宣伝に過ぎないという。田岡氏の言い方では、日本の自衛隊に比べれば「ゴミみたいなものだ」とのこと。日本海を渡って日本に侵攻することはおろか、38度戦を越えて韓国に侵攻して戦争を継続することは、その能力から云って(特殊部隊・ゲリラなど以外には)不可能。法政大学教授の五十嵐仁氏(著書「活憲」)によれば、金正日政権が日本に軍隊を送って攻め込むのは、「町のチンピラが警視庁に押し入るようなものだ」という。

ただ北朝鮮は弾道ミサイル(ノドン・テポドン)を保有し、核も開発して既に「核兵器保有」を宣言している。しかしそのミサイルは、ピンポイント攻撃はできないし、核も小型化して(核弾頭を)ミサイルに搭載できるところまで進んでいるとは到底考えられず、せいぜい威嚇用か、あるいは外貨獲得のための「輸出商品」の域を出ない。

(3)日本はアメリカから守ってもらってなどいない             

日本はアメリカの「核の傘」に守ってもらっているとも云われるが、核兵器は、日本がその気になれば、その能力からいえば簡単につくれる。田岡氏によれば、アメリカは北朝鮮に対して核武装阻止にやっきとなっているが、それは、実は北朝鮮が核武装すれば日本も核武装に踏み切ってしまいかねないことになり、むしろその方を恐れているからなのだ。ソ連崩壊後、アメリカにとってはその覇権を脅かす存在といえば中国かドイツか日本かだと考えているのだという。(3,11朝日ニュースター「パック-イン-ジャーナル」)アメリカにとっては日本も脅威なのだというわけである。

また、アメリカから守ってもらっているといわれる日本だが、日米安保条約ではアメリカが日本防衛の義務を負うことにはなっている。しかし日米防衛協力指針(ガイドライン)では、敵軍の着上陸の阻止・撃退、防空、周辺海域の船舶の保護などは、第一義的には日本の自衛隊が処置することになっており、事実防空は(既に1959年以来)航空自衛隊だけでやっていて在日米軍の戦闘機など日本の防空任務についているものは一機もなく、北海道は陸上自衛隊(北部方面隊)だけで守っているという(田岡氏)。

もっとも、自衛隊は日本の防衛(専守防衛)には裕に充分でも、他国に対して単独で「侵略戦争」をやれる能力までは持ち合わせない。軍事評論家の小川和久氏によれば、自衛隊は(対潜水艦戦能力・洋上補給能力など米軍を補完し米軍が必要とする分担に応じた部門だけが卓越しているということで)特定の戦力だけが突出するというアンバランスな構造をもち、パワー・プロジェクション能力(数十万規模の陸軍を、海を越えて上陸させ、敵国の主要部分を占領し、戦争目的を達成できるような構造を備えた陸海空の総合力)はないという。

(4)なぜアメリカは日本と同盟しているのか?

しからばアメリカは何故日本と安保条約を結び日本に基地を置いて駐留しているのか、である。

それは、実は日本防衛のためというよりも、アメリカ自身のためであり、戦後ソ連との冷戦激化・中華人民共和国の成立・朝鮮戦争の勃発に際して日本を「反共の防波堤」として組み込んで以来、アメリカの世界戦略の根拠地(西太平洋からインド洋・中東への出撃基地)で、かつて中曽根首相が云ったように「不沈空母」として日本を利用するためにほかならないのである。

日本国内にある米軍施設・区域(基地)は(自衛隊と共同使用するものを除いて)88ヶ所で、総面積は312平方キロ(国土の0,08%)。駐留米兵は3万8000人である。

米軍は朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争そしてイラク戦争に際しても日本の基地から出撃している。(湾岸戦争では日本は出兵をしなかっただけで、戦費の世界最大拠出のみならず、米軍の出撃・補給基地として世界最大の軍事的貢献をはたしている。イラク戦争に際する日本からの米軍の出動総数は1万人規模におよんでいる。)燃料・弾薬の補給も、日本に置いている燃料備蓄基地・弾薬庫(いずれも米本土以外では世界最大)から補給が行なわれている。通信傍受施設(「象のオリ」)は青森県の三沢や沖縄の楚辺などに置かれているが、それらはいずれも世界最大級である。米陸軍第1軍団司令部は今度の米軍再編で米本土から神奈川県のキャンプ座間に移転される。第7艦隊(人員1万4000人。西太平洋からアフリカ東海岸までを作戦海域とする世界最大の艦隊)の母港は横須賀と佐世保にあり、米艦隊の母港は、アメリカ本土以外ではキューバのグアンタナモと日本のこの2箇所にしか置かれていない。在日米軍再編計画では山口県の岩国基地は米軍の海外基地の中でも世界最大規模の航空作戦基地となる。

  日本はこれらの米軍基地・施設に土地を提供しているだけでなく、様々な経費も負担している。(「思いやり予算」と称され、施設整備費や基地従業員の給与など年間2千数百億円だが、その他に米兵の給料以外のほとんど―駐留経費の75%―を日本政府が負担しており、そのコスト負担は直接コスト・間接コスト合わせれば年間6000億円。それは一県の予算に匹敵)

 これらの米軍基地・施設の防衛・警備には日本の自衛隊が当たっている。(米軍基地の防空には航空自衛隊の要撃戦闘機、陸自の地対空ミサイル、海自のイージス艦などミサイル護衛艦。基地をテロやゲリラから守っているのは陸自。海自は日本のシーレーンだけでなく、日本列島から出撃・帰還を繰り返し、補給物資を輸送する米軍のシーレーンをも守っている)

 このように、アメリカは日本を守ってやっているのではなく、日本を自国の世界戦略のために、まさに「不沈空母」として利用しているに過ぎないのである。

 

さて、そこで問題は、我が国がこのようにアメリカの補強国として世界有数の軍事大国となっていることを良しとして、それに相応しく憲法を変えた方が良いのか、それとも軍縮(軍備の段階的縮小―米軍補完から専守防衛へ、さらに自衛隊を「国境警備隊」「災害救助隊」等に)と日米安保条約の取りやめ・米軍基地の撤廃、国連を媒介にした諸国との多角的な安全保障体制(不可侵保障)の構築をめざして護憲・活憲の立場を貫いた方が良いのか、はたしてどちらが良いのかであろう。

2006年04月20日

脅威論・抑止論

(1)自衛隊も日米同盟も抑止力なのか?

小泉首相は、アメリカのイラク攻撃開始に際して支持表明をした時、「米国は日本への攻撃は米国への攻撃と見なす、と云っている唯一つの国だ。日本を攻撃しようと思ういかなる国に対しても、大きな抑止力になっている」と述べた(03,3,20記者会見)。すなわち、日本を攻撃しようと思う国―脅威―が存在する。日米同盟はその攻撃を抑止してくれる、というわけである。そして最近の沖縄や岩国などの米軍基地移設問題でも、その計画は(海兵隊が沖縄からグアムへ移転するのにともなう経費の何十パーセントかを日本が負担するのも)あくまで「抑止力の維持」のためなのだと。

尚、「日本はアメリカから守ってもらっている?」その疑問については前月このホーム・ページで論じたところである。

それはともかく、我が国では、自衛隊も、アメリカの圧倒的な軍事力も、日米同盟も、日本やアメリカがどこかの国や勢力から攻撃されるのを阻止し、戦争を抑止するための「抑止力」だと考え、我が国の安全保障と世界の平和はそれで保たれていると考える向きが多いようだが、はたしてそうなのだろうか。

泥棒や不審者の侵入を抑止するため、家に鍵をかけたり、警備保障をたのんだり、警察官その他がパトロールしたり、防犯カメラを備えたり、学校にサスマタを備えたり、といったことはあっても(そこまでは「備えあれば憂いなし」というもので、それらは「抑止力」と云い得るが)、警察官が銃をもつ以外には、一般市民の家や会社や学校に銃など武器を備えることは(アメリカやイラク・アフガニスタンなどでは、例外的にそれが見られても)けっして当たり前のことではなく、武器を持ち合うことによって安全・平和が保たれるどころか、かえって危険度を高める。それと同様に、国には領土・領海・領空侵犯を取り締まる国境警備隊や沿岸警備隊(艦艇や航空機に重火器、陸上部隊なら装甲車・対戦車火器、海上部隊なら対艦ミサイルぐらいは装備。我が国では海上保安庁がそれに相当し、不審船など発見にあたるのは自衛隊の哨戒機ではあっても、それを追尾したり停船させたりするのは、その海上保安庁。今のところは自衛隊があるために哨戒機などは自衛隊に委ねているわけである)などの警察力の備えはあっても、それ以上の武力(軍事力)を備えることは、けっして当たり前のことではなく、それで(軍事力によって)安全・平和が保たれるどころか、かえって武力衝突ひいては戦争を招く結果になる恐れがあるのである。

(2)自衛隊も日米同盟も戦争力

アメリカの核兵器も、空母・艦載機も、自衛隊のミサイルも、イージス艦も、潜水艦・戦闘機も、それらは戦争をするための兵器であり、「戦争力」そのものなのであって、それを「抑止力」などというのは詭弁以外のなにものでもない。それらは攻撃や戦争を抑止するどころか、かえって、その危険を招来・誘発する。

まず、それらの軍備をもち、基地を置くことによって、隣国や敵対する相手の方もそれに対抗する「抑止力」の必要に迫られ、結局それらの国の軍拡・兵器開発を促す結果になる。北朝鮮やイランは、イラクがアメリカから攻撃されたのは核を持たなかったからだとして、それを核開発強行の言い分にしている。そのような相手側の弾道ミサイル(北朝鮮のノドン・テポドンなど)に対し、「それならば、こっちは」と、迎撃ミサイルによる「ミサイル防衛網」の開発にのりだしているが、それとても、一発も打ちもらさず完璧に防ぎきれるわけではない。また、相手国側にそれだけの経済力や技術能力がないとはいっても(核ミサイルやハイテク兵器など持たなくても)、テロやゲリラなど、他の手段があるわけであり、結局、軍事力によっては全てを抑止しきれるものではないのである。

それに、その「抑止力」(軍事力)に依存すると、それに頼って、交渉や話し合いには真剣に応じなくなったり、応じてもその力を背景にして(威圧して)高圧的に対応し、相手の立場を思いやったり、誠意を尽くした話にはならない。相手側も硬化して(「脅しには脅しで」となって)、結局、心を割った交渉・話し合いは成立しないことになる。あげくの果てには、一触即発の危機に直面して暴発する(北朝鮮はそれが心配される)など軍事行動を招くか、(アメリカのイラク攻撃のように)こっち側から先制攻撃にはしって結局戦争になる。

(3)核抑止論は誤り

MAD(相互確証破壊)という核抑止論がある。(それは、相手国からの核による先制第一攻撃から生き残り、反撃によって相手の国民や経済に耐え難い損害を与える核の報復第二攻撃能力を双方がもつことによって、相互に核兵器を使用できない状況に置く、というもの。)それに対しては、インドのノーベル賞経済学者アマーティア・セン氏は「核保有によって通常兵力による戦争は少なくなるかもしれないが、核戦争は、確率は低いとはいえ、それが一度起これば完全な破滅をもたらす。米ソが核戦争を避けられたのは、ただ幸運だったということだ。」「核保有国が通常兵力を削減できるというのは誤りで、カシミールの軍事衝突でも、インドはパキスタンに通常兵力で対応した。核が簡単に使えない以上、兵力も削減できない」として、核抑止論の誤りを指摘している。(2005,7,18付け朝日新聞)

(4)パワー・ポリテックスの戦略的発想

そもそもアメリカやかつての日本が行なってきたのは、力に物を言わせる政治・外交(「パワー・ポリテックス」あるいは「右手に棍棒、左手で握手」式の「こん棒外交」)であり、それに応じず(力に対しては)力ではむかおう(敵対しよう)とする国や勢力を「脅威」と見なし、それらからの攻撃を抑止するため(「抑止力」と称して)軍備・軍拡を行い、同調する国とは同盟を結ぶ、そしてその軍事力・軍事同盟を背景にして諸国・諸勢力に対応する、というやり方であり、そこにはパワー・ポリテックスの戦略的発想がある。

日本は、明治(山県有朋らの戦略論)以来ロシアを脅威と見なしてイギリスと同盟を結んで日露戦争をおこなった。第一次大戦では日英同盟に基づいて参戦して中国(山東半島)でドイツ軍と戦い、ロシア革命に際してはシベリアに出兵した。その後はアメリカをも脅威と見なすようになり、満州事変から日中戦争に突入後、ソビエト・ロシア(ソ連)とはノモンハンで対戦して敗北を喫し、対ソ「北進」か、それとも対米英「南進」かで「南進」の方を選択し、ドイツ・イタリアと枢軸同盟を結んで対米英開戦、第二次世界大戦・太平洋戦争をおこなったわけである。

アメリカは、第二次大戦前はドイツと日本を脅威として、大戦に際してイギリスと組み、ソ連とも組んで日独と戦ったが、戦後はソ連を脅威として西ヨーロッパ諸国と同盟し、アジアでは(日米安保条約を締結)日本を米軍の「基地国家」として従えつつ、日本から出撃して朝鮮戦争・ベトナム戦争を行なった。また、ソ連との冷戦終結後は、イラクを脅威として日本から出撃して、イギリスなどの他の同盟国と共に湾岸戦争・イラク戦争を行ない、今は北朝鮮・イランそれにアルカイダなどの国際テロ組織を脅威とし、まだ治まりついていないイラク・アフガニスタンを含む中東~東アジアにわたる地域を「不安定な弧」と見なしてそこへ出撃する在日米軍の再編を進めている。

ところで、(2005,9,22朝日新聞によれば)陸上自衛隊の「防衛整備計画」では、「日本攻撃の意図と能力では必ずしも脅威と云えない中国が、ロシアの軍事力低下で『仮想敵』として相対的に浮上。」「北朝鮮・中国・ロシアを『脅威対象国』と認定。日本攻撃の可能性については、北朝鮮は『ある』、中国は『小さい』、ロシアは『極めて小さい』とし、『国家ではないテロ組織』による不法行為は可能性が『小さい』」と。「中国については①日中関係悪化や尖閣諸島周辺の資源問題が深刻化し、中国軍が同諸島周辺の権益確保を目的に同諸島などに上陸・侵攻②台湾の独立宣言などによって中台紛争が起き、介入する米軍を日本が支援したことから中国軍が在日米軍基地や自衛隊施設を攻撃―と想定。中国側が1個旅団規模で離島などに上陸するケースや、弾道ミサイルや航空機による攻撃のほか、都市部へのゲリラ・特殊部隊(約2個大隊)の攻撃も想定している。」北朝鮮については、「経済や米朝関係悪化などが原因で紛争が起きた場合、在日米軍基地と日本の政治や経済の中枢を狙った弾道ミサイル攻撃や、2500人規模の武装工作員などによるテロ攻撃がある可能性を指摘。ロシアについては、日ロ関係悪化などを引き金とした弾道ミサイル攻撃や北海道への小規模な着上陸侵攻などを想定している」という。

しかし、このような自衛隊の防衛計画も、アメリカの軍事戦略に呼応・連動しており、自衛隊や日米同盟は、結局日本の安全保障のためというよりは、むしろアメリカのための「抑止力」として存在しているというのが実態なのである。

いずれにしても、脅威論・抑止論は共に自国の軍事を肯定する者たちが、それを正当化するために考え出し、論じているものにほかならない。

(5)「抑止力」は相手側にとっては脅威

―アメリカは世界の脅威、日本はアジアの脅威

その正当化は、アメリカ・日本によって脅威と見なされた国や勢力の側にも、アメリカと同様に「抑止力」をもつ権利があるとして対抗措置をとり、軍備・軍拡あるいは核ミサイルの開発にはしるという結果を招く。旧ソ連・中国・北朝鮮などの国々は日米を脅威と見なして対抗してきた。日本がそれらの国から敵視・警戒され、或は近年テロリストから狙われるようになったのは、日本が、これらの国や勢力に敵対するアメリカに最重要の戦略的根拠地を提供し、アメリカに最も忠実な同盟国となっているからにほかならない。

アメリカは世界の諸国から脅威として恐れられているだろう。軍事評論家の小川和久氏(著書「日本の戦争力」)によれば、アメリカは第二次大戦以降世界のあちこちに軍事介入してきたが、それらは50事例におよぶという。まさに好戦国(アメリカのNPO公共サービス調査機関のチャールズ・ルイス氏は「軍国主義国家」、それがアメリカの「本当の姿だ」とさえ述べている)。それはこの国の事情によるもので、一つには、戦争は、国内に抱えている多くの人種・民族・貧富その他の軋轢や人々の不満を外にそらして国内をまとめるための「特効薬」として効用があり、もう一つは、戦争は、兵器メーカーその他、軍の仕事を請け負う会社など軍需産業(兵器産業が国防省・議員・シンクタンクとつながって「軍産複合体」を形成)からその他の分野にわたって、いわば「公共事業」として国内の経済・産業の活性化に利用できるという効用があるからである、と考えられる。そして、その戦争の大義名分は「自由と民主主義を守り、世界に押し広げるため」ということであり、アメリカは「自由と民主主義の旗がしら」なのだというわけである。

 日米以外の諸国にとってアメリカが脅威なら、そのアメリカと最も緊密な同盟を結ぶ日本も脅威と見なされることになる。その日本には「侵略国」としての前歴(他国に踏み込んで日清・日露戦争から日中戦争・太平洋戦争に至るまでの前歴)があって、とりわけ東アジアの諸国民にはそのイメージが焼きついていると考えられる。その日本が、戦後(当初は武装放棄しておきながら、その後)着々と軍備を重ね、(中国が核兵器を持っている点を除けば)今やアジア最大の軍事大国として復活している。 我が国では、北朝鮮や中国・ロシアを脅威と見る向きが多いが、日本以外の国々から見れば実は逆なのであって、日本こそが脅威なのだ、と思われているのではないだろうか。(韓国のノ・ムヒョン大統領は「3,1独立運動」記念日の演説で、「日本が『普通の国』になろうとするならば、法を変えて軍備を強化するのではなく、まず人類の良心と道理に合った行動をすることによって、国際社会の信頼を確保するのが正しいことだ」と述べて、日本の改憲の動きに警戒感を示している。日本の首相や閣僚・国会議員がかつて軍国主義の精神的支柱だった靖国神社を参拝し、首相はそれを「心の問題」「精神の自由」であって他からとやかく言われる筋合いのものではないと云い、朝鮮・台湾の植民地支配と中国・東南アジア・西太平洋諸島にわたった侵略戦争に対して、安倍官房長官は、それらは「歴史家が判断することだ」などと無責任なことを云って済ませ、反省とは裏腹な発言や行動をとっている日本の政治家の言動に対して、(日本人はそんなに思わなくても)他の諸国民は、そこにただ事では済まされないものを感じ、日本に対する脅威を感じないわけにはいかないのではないだろうか。

我が国の平和と安全保障は自衛隊と日米同盟という「抑止力」によって維持されているというよりは、むしろそれらがあるおかげで、中国や北朝鮮などに脅威を与え、それらの国の核ミサイル開発や軍備の増強を招き、国際テロからも狙われるようになり、かえって自国の安全保障も国際平和も脅かされる結果になっているとは考えられないだろうか。

(6)「勝ち組」支配の論理

アメリカや日本のパワー・ポリテックス戦略の背景にあるものは、資本主義のその市場経済である。アメリカにしても日本にしても、国内外にわたって、それが推し進められ、その下で弱肉強食の競争・貧富格差・富の偏在・「勝ち組・負け組」の両極分解が生じる、それらをやむをえないものとして肯定し、「勝ち組」の人または国は、その富と地位を「負け組」の反感・フラストレーションの爆発の脅威から守ろうとしてセキュリテー(安全保障)を軍事力にたより、それでしのごうとする。その軍事力行使の大義名分(口実)に「自由と民主主義の敵を倒すのだ」といった言説が言い立てられる。その場合の自由とは、実は弱肉強食の自由であり、カネのある者がそのカネを自由に使えて、カネさえあれば何でも意のままになる(「人の心もカネで買える」)という自由のことである。また、民主主義とは民意と多数決で決めるやり方であるが、それとても実のところは、カネのある「勝ち組」は政治献金によって政権党か「政権準備党」のスポンサーとなり、メディアのスポンサーともなって政権党か「政権準備党」に有利な情報を流し、そのことによって民意を獲得して多数を制した政権党を通じて自分に有利な政策が実行される、ということにほかならない。自由とか民主主義とかは、現実には、そのような「勝ち組」支配を正当化するものとなっているのである。

しかし、このような格差・富の偏在・弱肉強食の競争を容認して市場の自由に任せるというやり方をとって、軍事だけで社会のセキュリテーや秩序を維持しようとしても、所詮維持しきれるものではないだろう。

(7)平和主義こそ抑止力

そこで、格差・競争社会を是正する措置を講ずる政策とともに、戦争をともなうようなパワー・ポリテックス戦略ではない発想・やり方を考えなければならないわけである。それは日本国憲法の平和主義理念と、我が国の持ち前の経済力に物を言わせる発想・やり方である。

憲法の前文には、「人間相互の関係を支配する」のは(力や利害損得ではなく)普遍的な政治道徳の法則であり、その「公正と信義」(ルールとモラル)に従う、となっている。すなわち①「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。」②各国の主権を尊重し、互いに対等関係を保つ。③「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること」を認めあう。④「専制と隷従、圧迫と偏狭」の除去につとめる。そして第9条は、武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段として用いない、というものである。この平和主義に徹してやれば、世界中の誰も、どの国も、このような日本に対して攻撃を加えることは到底できない(日本を攻撃するのに必要不可欠な大義名分―「不義を打つ」という正当性―を見出し得ない)わけである。日本国憲法のこの平和主義の実践こそが我が国の安全保障と国際平和・秩序安定の決め手となるのであって、それこそがどんな軍事力をもってしても替え難い最良の「抑止力」となるのである。

しかし、利害損得で動く現実世界では、それ(平和主義理念と9条を守るということ)だけでは効を奏しない。それをカバーするものとして我が国には経済力というものがある。(この点は、1,18付の山形新聞に掲載された山大工学部助教授足立和成氏の「作られた改憲論争」を参考)世界第2の経済大国であり、世界屈指の工業力・技術力を持ち、巨大な貿易量・債権(世界最大)・債務を有しているこの国・日本に対して、戦乱を起こし、攻撃を加えて経済混乱を陥れることは、どの国にとっても(中国にとっても、北朝鮮にとっても、アメリカ・ロシアにとっても)、また世界経済の安定にとっても、決定的な損失・痛手となる。その経済力に物を言わせるのである。(そのような産業経済の発展を可能にした要因には憲法9条による軍事支出の制約があるわけである。)このような我が国の経済力(日本との貿易あるいは日本の資金・技術)に頼らざるを得ない諸国の利害損得を外交に利用するというやり方である。

我が国がこのような経済力を持っている、そのことが、平和憲法を持っていることとあいまって(我が国に対する他国の攻撃を抑止する)「抑止力」となるのである。(足立助教授は「理と利をセットにした外交戦略」を提唱している。「理」とは平和主義理念のことであり「利」とは経済的利益のことである。足立氏によれば、例えば、夫婦でも愛だけでは長続きせず、又お金だけの結びつきであっても「金の切れ目は縁の切れ目」となりがちであるように、平和理念だけでもダメだし、経済力を振りかざすだけでもダメで、両者の相互補完が必要だというわけである。日本人がかつてエコノミック・アニマルといわれた当時は、日本国憲法の崇高な理念を全面に打ち出すことなしに、経済だけで諸国に接したが故に「成り上がりの日本」、「カネをいっぱい持っているだけの日本」というイメージを作り上げてしまったとして、平和主義理念をもっと強く打ち出した外交戦略をとるべきだ、と述べている。)

国際貢献も、湾岸戦争の時は、日本はお金(戦費)を出しただけで多国籍軍に加わらなかったために、ろくに評価されなかったとして、その後自衛隊を派遣するようになったのだが、そもそも自衛隊派遣など必要なく、諸国の中で最高額を出したことを強くアピールすればよかったのだ、といったこともさることながら、紛争解決のための非軍事的手段を追求して日本政府がもっと活発な動きを見せればよかったのである。

アメリカに同調・協力するばかりで、国連分担金をいっぱい出しているからということだけで常任理事国入りを認めてもらおうと思っても支持は得られまい。核廃絶や軍縮など(これまではアメリカに気兼ねして国連決議に際して棄権することが幾度かあったが)イニシャチブをとって率先して提案活動をおこない、アメリカなどを説得、諸国への働きかけに動き、国際貢献も軍事的貢献ではなく、他国に無い独自性を持った非軍事面での経済的貢献および人的貢献(文民派遣)とそのアピールがあってこそ常任理事国たり得るのではないか。

憲法の平和主義理念と9条は、国際社会で我が国が、事に当たって経済力に物を言わせようとする際の、まさに大義名分(正当性)として物を言う(説得力を持つ)のであって、それこそが「戦争抑止力」となるのである。

2006年05月25日

どうして賛成か、反対か―心情から(I)

(1)論理と情緒
数学者の藤原正彦氏(「国家の品格」の著者)によれば、どんなことでも賛成・反対双方それぞれに、それを正当化する論理(言い分・理屈)があり、どんな戦争にも、敵対する双方それぞれに、自らの戦いを正当化する論理があるものだ、という。

そして、その論理に先だって、それら(賛成・反対・敵対)を最初に動機づけるものは情緒である。藤原氏によれば、論理の(「Aであるが故にB、Bであるが故にC、Cであるが故にD、・・・・・Yであるが故にZ」といったような)展開には出発点(Aという仮説)の選択が必要であり、その選択は何によっておこなわれるのかといえば、それはその人の情緒(によって選択されるということ)にほかならない。

そういえば、私はこのホームページに改憲問題など様々論じ、それぞれ私なりに(オリジナルな)論理を考え出し、或は(諸説の中から都合のよい)論理を選んで私の考えを論じてきたが、それは、これらの問題にたいする私の思い―情緒(情念・心情)―があるからにほかならないわけである。

論理は「自己正当化の便利な道具」、レトリック(巧妙な言い回し)や詭弁(屁理屈)もあり、他から借りてきたり、取りつくろえる(アレンジを加えることができる)ものだが、情緒は「本当の気持」つまり本音である。

 人を行動にかりたてる原動力は欲求であるが、その行動が適切かどうかを判断したり、行動を正当化する論理を考え出すのは理性・思考能力であって、その行動とそれを正当化する論理がはたして望ましいものかどうかを判断するのは「情緒力」だということである。藤原氏によれば、その「情緒力」には、伝統的精神(「大和心」とか「武士道精神」とか、道徳心あるいは宗教心)なども含まれ、総合判断力となるものだ、とのことであるが、その(総合力の)中には、その人の人生観・世界観・価値観といったものも含まれるのではないかと思われる。

それら情緒や人生観・価値観はその人の生まれ合わせ、境遇、育ち、人との出会い、生活経験、社会経験、利害関係といった様々な要因から生成され身についていくものと思われる。

(2)小泉氏らと当方の違い

小泉氏や安倍氏などの場合、その生まれ育ちを見ると、彼らの祖父はいずれも、大臣をつとめた政治家。小泉氏の祖父は逓信大臣(「電信電話設備の民営化」に取り組んだが、果たせなかった)、終戦時は貴族院議員で公職追放の憂き目にあっている。安倍氏の祖父(岸信介)は東条内閣のメンバーでA級戦犯容疑者の一人であったが、釈放され、その後政治家に復帰したあげく、再び権力の座に返り咲いて首相となり、日米安保条約改定を強行した(現在の安保条約、大反対を押し切って国会で強行採決)。父親たちも、ともに閣僚となった有力政治家。

小泉氏は一浪して慶応大学に入り、1年留年して卒業後、ロンドン大学に遊学、父病死で帰国後、国会議員に立候補して初回は落選したものの、その後は連続当選。当初2年間は不動産会社にも在籍(勤務実態はない、にもかかわらず厚生年金に加入)。政界の「勝ち組」でもトップの座に登りつめて5年になる。

 それにひきかえ、小泉氏より1才年上の当方の場合は、祖父は憲兵をしていたが、除隊後は村会議員に落選し、行商をして祖母と二人借家暮らしをしていた。父は警察官で転勤を重ね、兵隊に召集されたが終戦で復帰。町の警察署長をしていた。

 私は日中戦争のさなかに生まれて、その翌年太平洋戦争が始まり、それらの戦争が終わるまでの間幼児期を過ごした。終戦の翌年小学校に入学し「新教育」を受けるようになった。父が転勤する度に転校したが、中学2年の時父は病死、その後は遺族年金と母子福祉で暮らした。日本育英会から奨学金をもらって大学に入り、卒業して教職についたので、奨学金返還は免除。転勤のない私学の教員だったので定年まで同じ学校に在職。そこを退職し、年金生活をはじめて5年になる。

このような私と、小泉氏や安倍氏のような人間とでは、世界観・価値観はもとより、情緒(心情)の持ち方はよほど違うだろう。彼らは同じ日本人ではあっても我々などからは遠くかけ離れ、むしろアメリカ人(の「勝ち組」)に近く、ブッシュ氏とは余程うまが合っているようだ。

 私の場合は、きまじめというわけではないが、嘘・ごまかしはどうも苦手。競争や順番を争ったりするのが嫌いで、勝つのも負けるのも嫌。喧嘩はしたが、弱い者とはしない。恵まれない者・弱い者・弱いチーム・弱い国そして弱そうに見える日本人を応援したがる。相手や他の者に対して自分の方が上だと云わんばかりに振舞う国や人間は大嫌い。金儲けや金貯めは苦手で嫌い。ギャンブルも嫌い。オカルト(超常現象)や超能力など迷信が嫌い。形式・儀式ばったことも嫌い。洋画・洋楽を好み、プレスリーやゲーリー=クーパーにあこがれる(この点だけは小泉氏と趣味が合うみたい)。・・・・・・・・・・・・・・・・・といったような情緒(心情・感覚)の持ち主なのかなあと自分のことを思ったりしている。

(3)改憲派と護憲派の心情

 藤原氏は、市場原理主義・金銭至上主義にたつ「構造改革」は武士道精神―惻隠の情(他人の不幸を見過ごすことのできない哀れみの心、敗者・弱者への共感といたわりなど)や卑怯を憎む心など―にもとるものと批判し、それらは「国家の品格」を貶めるものだとして、その論理を「亡国総理のお粗末な論理」(月刊「現代」4月号)とこきおろしているが、この私も小泉政治に反対なのは、まずは私の心情からなのだろう。

 小泉氏は「格差は必ずしも悪いとは思わない」といい、むしろ「成功者をねたみ、能力のある者の足を引っ張るような風潮は慎むべきだ」という。そのような彼の情緒(物の感じ方)に対して、私の情緒は反発するのである。能力や条件に恵まれない者は、いくら頑張っても、好きな職にも、安定した職にも就けず、カネも時間も余裕がなく、結婚することも、子どもを養い育てることもままならず、将来不安にさいなまれている多くの若者や中高年がいることに心の痛みを感じないのか、と。

 以下、改憲派と護憲派の心情は、それぞれどんなものか考えてみたい。

(4)改憲派の心情

改憲派のばあいは、過去の戦争について、それらの戦争には無謀なところもあったかもしれないが、やむをえない開戦であったと信じている向きが少なくない。(日清戦争以来のいずれの戦争も、海外に大軍をくり出し他国の領土に奥深く攻めいって各地を占領・支配し、資源や食料・物資を掠奪、日中戦争~太平洋戦争では中国人その他アジア全体で2000万人もの命を奪い、日本人310万人をも犠牲にした、にもかかわらずである。)

心ならずも戦争で命を無くした兵士たちを、そこへ彼らをかりたてた指導者たちとともに国のために命を捧げた英霊として讃え祀る神社に、なんの違和感も疑問も感じないで、当然のことのように参拝する。

 大日本帝国の国旗「日の丸」・国歌「君が代」を、大戦後国名を(「日本国」と)改名し憲法も国民主権に改めたのに、なおも国旗・国歌としていることに何の違和感も疑問も感じない。

 その憲法は戦争で負けたばかりに武装放棄とともに「押しつけられた」不当な憲法だと。

 次の詩は海軍将校で、戦後(1980年代後半)首相となった中曽根氏が50年代中頃に詠んだ「憲法改正の歌」である。

「一、嗚呼(ああ)戦いに打ち破れ、敵の軍隊進駐す、平和民主の名の下に、占領憲法強制し、祖国の解体計りたり、時は終戦6ヶ月
二、占領軍は命令す、若しこの憲法用いずば、天皇の地位請合わず、涙をのんで国民は国の前途を憂いつつ、マック(マッカーサー)憲法迎えたり」(愛敬浩二著「改憲問題」ちくま新書から。)

ここに改憲派の情緒が示されている。

(尚、この歌を引用した愛敬氏の著書には高見順の「敗戦日記」―憲法草案が出る数ヶ月前の1945年9月30日―の次のような文も引用されている。

「昨日、新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の指令を下した。
これでもう何でも自由に書けるのである!これでもう何でも自由に出版できるのである!生まれて初めての自由!
 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、―かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。
 戦いに負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由を保障されたのである。・・(略)・・自国の政府が自国民を、――ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうした占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥ずかしいことだろう。」

ここには、同じ占領軍の新措置に対する感じ方でも、中曽根氏とは反対の感じ方・情緒が見られる。
 愛敬氏―名古屋大学院教授―は「ほとんどの日本国民が日本国憲法の制定を『涙をのんで』甘受したという想定は不合理であるし、事実無根である」としている。
 それはともかくとして、改憲派の中心人物の一人である中曽根氏自身は、当時本当に「涙をのんだ」のかもしれない。)

 改憲派、自民党の背後にはアメリカの意向があるということを見落としてはならない。そもそも改憲は、憲法施行1年後に、アメリカが、ソ連に対する戦略上、日本を再軍備させて、それを利用できるようにしたいという思惑から、マッカーサーの方から(吉田首相に書簡を送って)もちかけたものなのである。ただ、その時は、吉田首相は動かなかった。その後、朝鮮戦争が勃発して、講和条約・日米安保条約が締結され、自衛隊が発足して本格的に再軍備がおこなわれるようになり、自民党結成とともに初代総裁鳩山一郎が改憲を打ち出したのである。近年の改憲の動きの背後にも、日本国憲法における軍事制約条項(9条2項)の撤廃を求めて、それを後押しするアメリカの意向がある。

しかし改憲派は、大戦でいったんは「負け組」に転落した我が国にたいして、「勝ち組」の筆頭であるアメリカは、非軍事・民主憲法を「押しつけ」はしたものの、ソ連「共産主義」に対抗するためにと、米軍基地を置いて日本を守ってくれ、復興を援助してくれた大変ありがたい国であり、「自由で豊かな」憧れの国である、と。

一方、戦後教育については、改憲派たちの心情からすれば、(大日本帝国とともに)教育勅語も廃止されてしまったのは誠に遺憾。そこに掲げられた忠孝などの徳目はけっして間違ったものではなかった。それに代わって制定された教育基本法では、教育はどうも政府の思うようにコントロールしにくい。国民が、公(国)を重んじ、国家に忠誠心を持ち、自分にはどんなに辛い事があっても、国のために随順・協力するよう、児童・生徒に愛国心・公徳心を注入できるようなものに変えるべきだ。日本人であるかぎり、日本という国を愛し、天皇を崇敬し、国旗「日の丸」を仰ぎ、国歌「君が代」を愛唱するように徹底指導するのは当然のことだ、と。

彼ら改憲派には、天皇の国家に逆らうアカ(共産党)やサヨクは「非国民」で日本人ではない、という戦前からの情緒(感覚)が根強く染み付いているのである。

といったところが、中曽根氏・小泉氏・安倍氏ら改憲派の心情なのであり、本当の気持なのだろう。

(5)憲法制定当事者の心情

新憲法草案作成当時首相で、9条発案者ともいわれる幣原喜重郎は回想録に次のように述べている。

「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職についたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、外の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。・・・・よくアメリカの人が日本にやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私に関する限りそうじゃない。決して誰からも強いられたんじゃないのである。」(1950~51読売新聞記者の質問に答えてまとめた回想録『外交五十年』―岩波『世界』3月号から)

これは「押しつけ憲法論」を否定するものであるが、終戦直後二人目の首相となって日本国憲法制定に当たった幣原喜重郎という日本人の情緒(心情)から9条が発案されたことを示している。

(6)私の情緒の形成

戦争と平和にたいする私の情緒―感覚もしくは心情―はといえば、その生成をたどると、それは次のようなものである。

父は兵隊に行き、その留守の間、生まれて1年とたたずに死んでしまった弟の顔、防空壕の暗闇と爆音・閃光・空襲警報といった感覚的な記憶が、おぼろげながらも心に焼きついている。

内地(本土)に留まっていた父は終戦1ヶ月後に帰ってきて警察に復帰。父の義弟と母の兄弟の一人は戦死、一人はシベリアから、もう一人は満州から、しばらくたってから生きて帰ってきた。

町に米軍が進駐してきた。アメリカ兵がジープでやってくると、「ハロー!アメカラチャン!」といって手をのばした。チョコレートやビスケット。(それらを詰め込んだ束らしきものが)飛行機からもバラまかれた。赤・青・黄色のパラシュートがゆらりゆらりと落ちてくる、その空の明るさが目に焼き付いている。アメリカ兵が日本人のケバケバしい若い女(パンパンガール)をジープに乗せて街はずれにできた建物(慰安所)に通う姿がよく見かけられた。学校では先生方が夜にダンスを興じていたのか、教室の床にろうがぬられていたものだ。授業では「幸福の青い鳥、青い小鳥がやってきた、遠い国からはるばると、日本の空へこの窓へ、・・・、ヘレンケラーのおば様は、いつも小鳥といっしょです」という歌を皆で歌ったものだ。

ラジオでよく聞いた歌は「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台・・・・」「赤いリンゴに唇よせて黙ってみている青い空・・・・」「歌も楽しや東京キッド・・・・」「晴れた空、そよぐ風・・・・ああ、あこがれのハワイ航路」「若く明るい歌声に、雪崩も消える、花も咲く、青い山脈・・・・・」、悲しい歌としては「長崎の鐘」。

映画は「少年期」(戦時中の疎開生活を描いたもの)、「きけ、わだつみの声」(学徒兵の悲劇を描いたもの。戦争ごっこで「こんな戦争、いったい誰が始めたんだ、ウワー!」といって倒れる。そのセリフはこの映画の真似だった)、それに原爆映画の「原爆の子ら」、「この子を残して」などを見たことを覚えている。

サンフランシスコ講和会議のことを作文に書いた(「吉田首相が全権として出席し、演説をした・・・・・」ぐらいのことを書いただけの話だが)。

警察署の小遣いさんの息子が警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊し、制服を着て我が家(署長官舎)に挨拶に来たものだ。

一時期、毎朝ラジオから流れていた歌がある。それは新国民歌と称し「われら愛す・・・・この国を・・・・」というものだった。

横綱吉葉山、それに皇太子(現在の天皇)の肖像も水彩絵の具で描いたものだ。
 昭和天皇が当地を訪れた、その時は引率されて行って沿道で「日の丸」の小旗を振った。父はその警備に当たっていた。

当時、神町には駐留米軍がまだ残っていて、その射爆場に対して反対闘争が起こり、警官隊が出動、父もその中にいた。

映画は戦争悲劇の「ビルマの竪琴」、それに「ゴジラ」(アメリカがビキニ環礁で水爆実験をして日本漁船が被爆するという事件が起きて作られた「原子怪獣」の映画)も見たが、戦争映画でも痛快・活劇・スペクタクル映画がつくられるようになって、「独立愚連隊」、伴淳の「二等兵物語」、嵐勘十郎の「明治天皇と日露戦争」などを見たものだ。

大学入試を受かって、祖父からは「大学なんかに入ると共産党になるから入学は辞めろ」と云われたりしたが、入学した。すると安保闘争(日米安保条約めぐる全国的な政治対決)に遭遇し、連日デモ・学生集会に明け暮れる、といったことがあった。

映画は、それまでも戦争映画ばかり見ていたわけではなく、色んなものを見ているのだが、戦争映画だけに限っていえば、「人間の条件」(五味川純平原作)、ソ連映画の「誓いの休暇」・「人間の運命」といったいずれも戦争悲劇をリアルに描いたもの、それにチャップリンの「独裁者」(単なる喜劇ではない)なども見た。

教員になって、世界史・日本史・政経・倫理などの授業を受け持ち、戦争や憲法を教えた。その中でビデオ映画をよく見せたものだ。「西部戦線異状なし」「海軍特別年少兵」、特攻隊を描いた「雲流れる果てに」、名もなき一兵士の戦犯裁判を描いた「私は貝になりたい」など。ドキュメンタリーも盛んに見せた。NHKの「激動の記録」「映像でつづる昭和史」「映像の世紀」など。それに映画教室では「プラトーン」(ベトナム戦争を描いたもの)「南京1937」「プライベート・ライアン」(第二次大戦のヨーロッパ戦線の一こまを描いたもの)などを生徒と一緒に見た。

部活の合宿を、自衛隊の駐屯地の施設を借りてやったことが数回ある。自衛隊に就職した卒業生は何人もいる。定年まで勤めぬいて退職した者も一人いる。彼はその間一度たりとも敵と遭遇することはなかったはず。

ところで、私の幼児期、父が兵隊に行く時に母に渡して行った一冊のノートがある。その中に次のような文があった。

「余は、余の栄光の為、妻きよ、貞行、幸男、生まるる子の為日本勝利の日必ず生命を全ふし凱旋する日あるを確信す。
然るに決して生命惜しきに非ず、余の心境は今迄に書きたる漢詩・短歌にても知り得べし。・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
在郷中、子供等にしろ妻にしろ、父・夫の愛撫少なかりし如きなれど、余としては妻をよき妻、子供等をよき子にしたきばかりに斯くはむごきまでの仕打ちをせしなるべしと思ひ、よき妻、よき子、よき父再びあふ日を楽しみに心強く暮らし、父母、新庄の母・兄・姉・妹・弟等に愛される如く努められむことを望む。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・。
貯金・保険等のことは、お前が警察に行けるなら次席さんと会って今後のことを頼むなり、船町の父から行って貰ふなりせよ。余も頼み行くべし。
空襲は必ずあるを思ひ、お前も子供も敵の弾にて犬死や怪我は絶対あるべからず。
留守中、三カ沢(祖母の実家)でも立谷沢(祖父の実家)でも落ち着いたなら駐在所に挨拶して庇護して貰うこともよし。絶対他人と喧嘩はしないこと。生まれる子は百十日もしたら写真を撮って、又皆で撮って送ってもらひたし。
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
以上 此の原稿一冊は最愛なる妻きよに捧ぐものなり。此の一巻にて子供を教育すべし。両親には、お父さん、お母さん、帰ったらうんと親孝行致します、と言っていたと、後で伝えてください。余は戦死のこと等考えません。軍務を全ふすることだけです。
 叱りどうしにて愛をも見せず征で発つを憾むこと勿れ妻よ子よ         」 

 父は無事帰ってきて、亡くなったのは私の中学2年の時だが、これを母から見せられて読んだのは教員になってからのこと。これも授業で生徒に読み聞かせたものだ。

情緒(心情)というものは生活体験・人生体験(実体験に限らず、映画など疑似体験も含めた諸体験)のなかで、様々な思い―楽しい思い、辛い思い、嬉しい思い、悲しい思い―を重ねるなかで自然に生成されていくもので、変わりもする。

戦争と平和にたいする私の心情は、上記のような生活歴・諸体験から生成されたものと思う。

(7)今の私の心情

そこで、今の私の心情を述べると、それは次のようなものである。
幼き日のことを思うと、孫たちにあんな思いをさせたくない。
父や叔父たちのことをおもうと、若者や妻子をもつ男たちにあんな思いをさせたくない。
母のことを思うと、娘たちにあんな思いをさせたくない。
そして祖父・祖母たちのことを思うと、妻や娘婿の親たちにあんな思いをさせたくない。
戦争は残酷なものであり、理不尽で、正義もロマンもなく、悲惨と愚か以外の何ものでもない。
「幸福の青い鳥・・・・・・・ヘレン=ケラーのおば様はいつも小鳥といっしょです」
と歌った、あの思い。どんなに平和は有り難いことか。

なのに、「平和憲法を守れ」と叫ぶ人たちを「平和ボケ」と云って戦争を煽り立てる。戦争の何たるかを知らずにゲーム感覚で戦争を論じる、彼らこそが「平和ボケ」なのだ。彼らによって「日の丸」・「君が代」・靖国神社と皆復活し、(自衛隊は「自衛隊であって軍隊ではない」と云っていたものを)改憲して本格的な軍隊まで復活させようとしている。一体何故なのだ?

それには政治的な思惑があるからに相違ない。市場原理主義・競争主義政策による社会格差など経済社会の矛盾からくる様々な問題は、大人の犯罪も青少年の犯罪も、何でも皆、愛国心・道徳心がなくなったからだと云って、それを憲法や教育基本法のせいにして、政治に対する不満の矛先をそこに向け、「一億一心、みんな賛成」「逆らう者は非国民だ」といって反対者を排除してしまう方向に国民をもっていこうとする。そんな感じがしてしかたがない。

とにかく、「日の丸」・「君が代」、靖国神社、教育基本法改定、改憲、そのどれにも違和感を感じないではいられないのである。

暗く戦々恐々として生きた時代を肌で知っている、そんな逆方向に世の中は向かっているのかと思うと気が気でない。

というのが、改憲派の諸政策に反対する私の心情なのである。

(8)国歌と心情

国といっても色々あり、国家・国民(ネイション)のほか、国土(ランド)、祖国(ファーザーランド)、故郷(ホーム)などの意味でも用いられる。「国を愛する」という場合は祖国を愛すとか、故郷の山河を愛すという場合もあるわけである。

私がジーコ=ジャパンを応援するのは、チームの選手は同じ国家の国民だからというわけではなく、同胞(ブラザー)だからであり、いわば同胞愛(ブラザーリー・ラブ)からであって、愛国心からなどではないのである。その応援旗にふさわしい旗や応援歌にふさわしい歌―同胞旗・同胞歌―があって然るべきだろう。

国旗(ナショナル・フラグ)・国歌(ナショナル・アンサム)は国家・国民(ネイション)の旗と歌なのであって、ジーコ=ジャパンの応援にそれを持ち出すのは場違いであろう。

国家・国民(ネイション)という場合、国家とは政治的機構であり、国民とは多数派が支配する政治的共同体なのであって、国旗・国歌も国会議員が多数決で決めたものである(国旗・国歌法)。そのばあい少数派・反対派は、その国旗を仰いで歌えと言われても、心から歌う気にはなれないし、強制されて歌うべきものではないわけである。(国旗・国歌法制定当時、政府答弁では、そのことを確認している。ところが東京都など一部の自治体は学校でその強制を公然とおこなっている。)

それ(国歌)が国民によって本当に心から歌えるようになるためには、一つには国家そのものが愛するに足る国家であるということが必要条件になる。(ところが、国民のなかには国家に恩恵を感じていて、それを愛せるという人もいれば、中には恩恵どころか迷惑・仕打ちをこうむり、どうも愛する気になれないという人もいるわけである。)もう一つには、歌詞やメロデーが、愛すべき国家に相応しい歌詞・メロデーになっているということが必要条件になる。

ここで、「君が代」と「大日本の歌」「われら愛す」という3つの歌をあげて比べて見てみたい。

「君が代」:この歌詞は、そもそも古今和歌集などの古歌の中にある祝い歌の類で、「君」とは祝福を受ける人のことを指し、「代」とはその人の寿命のことを指していた。それが、明治時代になって政府によって「天皇に対し奉る礼式歌」とされ、雅楽の旋律で曲がつけられて、文部省によって学校儀式用唱歌とされるようになった。そして昭和時代に入って国家主義が高揚されるとともに事実上の国家として扱われるようになった。そこでは、「君」とは天皇を指し「代」とは「(天皇の)治世」のことを指す。要するに天皇の治世が永久(とわ)に栄えよという歌なのでる。敗戦後しばらく歌われなくなったが、サンフランシスコ講和(占領解除)後、国家的礼式等で再び用いられるようになり、近年(1999年)法律で正式に「国歌」と定められることになった。

天皇とは、「大日本帝国」時代はもろに政治的存在であり、かつ宗教的存在であったが、今は必ずしもそういうわけではなく、単なる文化的存在にすぎず、なんの実権もない国家・国民の「象徴」とされているが、国民の心をまとめ(統合し)国家への忠誠心を集めるために政治的に利用される存在となっており、この「君が代」もそうして(政治的に)利用されている。

「大日本の歌」:これは文字通り「大日本帝国」の賛歌であり、1938年(日中戦争のさなか)NHKラジオ放送で国民歌謡として流された歌で、その歌詞は次のようなものである。

「1、雲湧けり 雲湧けり みどり島山 潮みつる 潮みつる
  東の海にこの国ぞ   高光る 天皇(すめらみこと) 神ながら
  治(しろ)しめす皇御国(すめらみくに) ああ吾等今ぞ讃えん
  声もとどろに 類(たぐい)なき 古き国がら 若き力を
2、風迅し 風迅し 海をめぐりて 浪さやげ 浪さやげ 敢えてゆるさじ
  この国ぞ 醜はらふ 皇軍(すめらいくさ) 義によりて 剣とる
  皇御国(すめらみくに) ああ吾等今ぞ往かん かへりみはせじ
  日の御旗 ひろめくところ 玉と砕けん                 」

まさに、国粋主義むきだしの歌である。

「われら愛す」:これはサンフランシスコ講和後の1953年、これまたNHKラジオ放送が新国民歌として一時期毎朝流した歌。(それを私は小学校の頃よく聴いたわけである)その歌詞は次のようなものである。

「1、われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
 しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
 われら愛す 涙あふれて この国の空の青さよ この国の水の青さよ
2、われら歌ふ かなしみの ふかければこそ この国のとほき青春
 詩ありき雲白かりき 愛ありきひと直かりき
 われら歌ふ をさなごのごと この国のたかきロマンを この国のひとのまことを
3、われら進む かがやける 明日を信じて たじろがず われら進む
 空に満つ平和の祈り 地にひびく自由の誓ひ
 われら進む かたくうでくみ 日本のきよき未来よ かぐわしき夜明けの風よ 」 

曲(山田耕筰が編曲)は、同じ頃ラジオから毎日流れた「月山の雪 紅(くれない)染めて 朗らに明けゆく新生日本・・・・」というスポーツ県民歌と同様、行進曲調の元気溌剌とした、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」と似た感じの曲である。
 作曲者・作詞者ともに、洋酒メーカーの壽屋(現サントリー)が懸賞募集して全国から何千点と集められた応募作品の中から西条八十・三好達治らが審査員となって選んだものである。
 その作詞者・芳賀秀次郎は当時山形南高校の国語教師。彼は、実は先にあげた「大日本の歌」の作詞者と同じ人物なのだ。思想の変節とうけとる向きもあるかもしれないが、当人はその手記に次のように書いている。

「8月15日―私はしかし、敗戦の悲しみというよりは、むしろ生きのびて平和の日をむかえ得たことについてのある喜び―ー種の解放感をもっと率直な感想としてあの日を迎えていた。
 そして多くの人々のように、私はかわらざる平和主義者であり、かわらざる民主主義者であるかの如き言葉をもって教壇に立っていた。はじめはおずおずと自信なく、そして次第に確信ありげに、しまいには権威あるものの如くに生徒の前に立っていた。
 昨日は戦争の情熱に感動し、今日は平和国家の理想に感動する―それが人間の生命をかけた対決を経た革命であり、成長ならばいい。私は実にやすやすと戦陣訓を愛誦した翌日に、新憲法を語ろうとしている自分を見ないわけには行かない。『そのみにくさ、そのひくさ、そのおろかさ、これを双の目に焼きつくすほど凝視』しないわけには行かない。」(これらの資料はいずれも、生井弘明著『われら愛す』―かもがわ出版―から)

彼は、心変わりを悲痛な思いで「そのみにくさ」と率直に認めており、ごまかして正当化したり言い訳したりしてはいない。

この「われら愛す」の歌も、新生の日本国が主権を回復して前進をはじめたその時点での、彼の新たな心情をこめて作り上げたものであろう。

論理(理屈や言い訳)は、その時の自分の都合で(自分が置かれている状況から自己に有利なように)ごまかすことができ、心とは裏腹だったり、心情からかけ離れた論理を立てるばあいがあるが、歌は心情そのものを表現したものであり、それを作った人も、唱和して歌う人も、心から歌いたいように歌うものであって、心のない機械ロボットが音声を発するのとは訳が違う。

歌というものは、歌謡曲であれ、ポップスであれ、応援歌そして国歌であれ、心から歌えるものでなければならないのであって、無理やり立たせ口をあけさせて歌わせるべきものではないわけである。

さて、これら3つの歌のうち、どれが一番(心から)唄える歌だろうか。どれが、今の我々国民の心情にピッタリする、国歌・国民歌に相応しい歌なのか、である。

ところで、「日本国憲法の歌」がある。それは憲法前文と9条の字句をそのまま歌詞にして、それに曲を付けたものである。シンガーソングライターのきたがわてつ氏が作曲した。CDカラオケも出ているが、生演奏を聴いてきた。
 憲法前文・9条の字句には、当時それを作り上げた人々の熱情や国民の心情が込められているが、それに曲を付けて歌うと、その心情が心に伝わってくるのである。
 (前文最後の盛り上がり部分)「にほんこくみんは こっかのめいよにかけ ぜんりょーくをあげてー このすうこうな りそーとー もくてきを たっせいすることを ちかーうー」 朗々と歌う、その歌は心をゆさぶる。

(9)靖国参拝と心情

参拝やお祈りは宗教的心情(信仰心)の表現である。

一般国民が、「君が代」を、それぞれの心情によって歌う人もいれば、歌わない人がいてもそれは自由でなければならない。(納税や交通ルールならいざ知らず、人それぞれに自由な心情をストレートに表現する歌を、国会で多数決によって「国歌」と決めたからといって、それに反対した人たち、違和感をもつ人たちが無理やり歌わされ強制さるべき筋合いではないわけである。)同様に、各人がそれぞれの思い(心情)から、どこに参拝しようと、参拝すまいと自由なわけである。

しかし、首相という国家を代表するような公的な立場にある人の場合は、事は違ってくる。首相が靖国神社に参拝すれば、それは彼の個人的な心情の表現(個人的な「心の問題」)にとどまらず、他の人々、「国民」の心情を代弁してそこへ参拝してくれたものとして満足し感謝する人もいれば、「何ということだ」といって心を傷つけられ憤懣やるかたないという人―とりわけ戦争被害をこうむった諸外国の人々―もいるわけであり、国民的な問題かつ国際問題ともなるわけである。

国歌も(国民皆が歌えるような)国民の心情に相応しい歌であることが望ましいのと同様、あらゆる国民・他国民(外国要人)も参拝でき、首相も天皇もそれこそ誰からもとやかく言われることなく堂々と参拝できるような、他国民の心情を害さず国民の心情に相応しい追悼施設ができればよいわけである。

(10)論理で勝負

行為は(靖国参拝にしても、それ以外のことでも、あらゆる行為は)情緒・心情から発するとしても、行為を正当化・合理化するその説明は、論理によってなされなければならない。(名もない庶民なら、「参拝したいから、したまでだ」といって済むだろうが、国民に影響力をもつ公的な立場にあるような人の場合は合理・論理を必要とする。)「ただひたすら、不戦を誓い、戦没者を追悼したいという一心から参拝したまでです」といっても、それだけでは説明にはならない。参拝先が、いったい何故、さまざま問題の多い靖国神社でなければならないのか、だれにも納得のゆく説明が必要であり、その論理が必要なのに、小泉首相にはそれがない。ただ「心の問題」というだけ。

論理には、それぞれの心情(情緒)から(首相の靖国参拝にしても、改憲にしても)賛成する側、反対する側、双方に相異なる論理(言い分・理屈)があるものだが、そうは云っても、その論理には、矛盾がなく合理性・整合性があること(道理にかなっていること)とともに、事実の裏付けがあるかどうかによって当否を検証することができ、どちらの言っていることが正しいか判定することができる。(小泉首相の「構造改革」にしても、「教育基本法改正」にしても)その当否を説明するのは論理によってであり、それを検証するのは事実によってである。そして、それによって議論(論理と論理のたたかい)は勝負がつく。

裁判は検察官も弁護人も(事実に基づいた)論理によって弁論し、裁判官はどちらに道理があるか(論理に矛盾がなく合理性があるか)で判決を下すのであって、情緒で判断を下すわけではない。

ところが、小泉氏のばあいは、論理的な説明ぬき(すり替えやはぐらかしで、議論が噛み合わない)、その話は、ワンフレーズ(「一口論理」)を繰り返すだけで、論理・合理を軽視あるいは無視し、ただフィーリング(情緒)にうったえて大衆の支持を獲得しようとする。

とかく、大衆は、裁判官とは違って、論理や事実にはあまりこだわらず、情緒(それも、テレビ映りのよさでカッコいいとか、感じいいなどといった感覚的なフィーリング)だけで判断しがちな向きが少なくない。(かつてヒトラーはそれを意図的に存分に利用したものだが)いわゆる衆愚政治あるいはファシズムに陥る危険性をもつ、それが大衆民主主義の弱点なのである。

国民も、政治家や政党をフィーリングだけで判断するのではなく、論理を重視してそれにこだわり、理性的判断に努めなければならないわけである。

(11)「国家の品格」というが

[1]国家の品格とは、自国の指導者や学者・評論家や自国民が日本は「優れている」とか「落ちている」とか自己評価するよりも、(2006,4,3朝日新聞で、神戸女学院大学の田村樹教授がいうように)諸外国の人々―とりわけ近隣諸国民―によって外から、或は在留外国人によって評価さるべきものであろう。
 その場合、その指標は様々あり、文化・伝統などもあるだろうが、最も重要なのは政府も国民も国際信義や道義をよく守っているか、フェアか、「寄らば大樹」的に他国に頼って追従してはいないか(自らの意思に従って行動できる国か)、国際社会にどれだけ貢献しているか、自国の国益(利害損得)と自国が付き従う同盟国を優先したり、首相が自己の心の満足(自己満足)にとらわれていたりしていないか、といったあたりにキーポイントがあるのではないだろうか。
 国連常任理事国入りもこのあたりの評価によって決まってくるわけである。
[2]国家の品格といっても、実は国の指導者は勿論のこと、国民一人一人の人間としての品格(「国民の品格」、それは「民度」の高さ、とも云えよう)が問題。それを決定付けるものには、藤原正彦氏がいうように「情緒力」(惻隠の情、卑怯を憎む心、道徳心などよい意味の「武士道精神」といったもの)もあるが、フィーリング(感覚)主義に流されない理性的判断能力・論理的思考能力も重要であろう。(藤原氏は最悪なのは「情緒力がなくて論理的な人」というが、情緒力と理性的判断能力の両方が必要)

主権者・国民が、騙されることも、ごまかされることもなく正しい判断ができ、民主主義が正しくおこなわれるためには、国民の教育レベル(民度)の向上が必要である。日本は民度がいちばん高いほうだといわれるが、最近落ちてきたともいわれる。(というと、改憲派は、「だから教育基本法改正だ」と、話をそこへもっていこうとするが、むしろ教育基本法の精神をそっちのけにし、教育への市場原理・競争主義の導入によって教育格差が広がり、受験知識への偏り、「落ちこぼし」の増加が進行している結果だろう。)

小泉首相のポピュリズム(大衆迎合主義)のやり方は、たとえ、自国の国民大衆はそれでごまかせても、国際社会・諸外国には通用しないし、それこそが、我が国家の品格を貶めるものとなるだろう。

(12)論理・合理もだいじ

藤原氏は、「情緒は教育によって培われるもの」として、「論理で説明できない部分をしっかり教える、というのが、日本の国柄」、「重要なことの多くが、論理では説明できません」「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。ならぬものはならぬ、問答無用、といって頭ごなしに押しつけてよい」などといったことを書いているが、後の二つは、単純に真に受けてはなるまい。

たしかに、この世には未知の世界は果てしなくあり、いくら解明しても解明し尽くされることはない。しかし、だからといって、或は、どうせ子供には解りっこないのだからといって、論理的説明ぬきにしてもかまわないということにはならず、一見、知ること、論理によって説明することは不可能と思われるような訳の解らないものであっても、解明も説明も、その可能性はあくまであるのであって、可能なかぎり研究解明に努め、論理的説明を最初から放棄してしまったり、無視・軽視してはならないのである。

「どうして人を殺してはいけないのか」それは、「『ならぬものはならぬ』ことだからだ」言い放すだけではなく、「自分は殺されたくないだろう。だから人は殺してはならないのだ」と教えればよいのである。また、非科学的ではあるが、神様や仏様をもち出して形而上学的な論理で「神の掟だから」式に説明することも可能なわけであり、「閻魔様から恐ろしい罰をうけるからだよ」などといった子ども向きの論理もあるわけである。

「野に咲くスミレは何故美しいのか」も「モーツアルトの曲は何故美しいのか」も、美学・音楽理論・大脳生理学などで科学的論理的に説明することは(現段階では極めて難しいことだとしても)絶対不可能なことではないのである。

 「問答無用」といって、理由説明(論理)をぬきに無理やり押し付ける強制は、状況によっては緊急を要し、説明は後回しなどといった場合にはあり得るが、強制は、そもそも人に対する支配にほかならない。教育は子どもに対する支配の行為ではなく、愛の行為であって、利他的・愛他的行為である。愛(思いやり・慈しみ)であるからには、優しく、懇切丁寧に教える、というものでなければならず、その方法は、理由を論理的に(理屈で)説明して聞かせるという方法でなければならない。その論理には、科学的な論理は子どもには難しいという場合、「嘘も方便」で、「そうしないと罰があたるから」式にある種の形而上学的論理を用いることもよくあるところであるが、なるべく科学的に事実に基づいた論理であることが望ましい。また、緊急事態に「そんな事はやめなさい!」というような場合、「どうしてか」と聞かれてもゆっくり説明している暇がなくて、ただ「ならぬものはならぬ」と云うしかない、といったような場合もあるわけである。

 「愛のムチ」が許されるのは、例えば、いじめっ子に人の痛みを解らせるためには、頭では(いくら論理で説明しても)相手には解りそうにないという場合に、「身体で解らせる」しかない、などといった場合であろう。しかし、この「愛のムチ」は、ともすると、そこから愛が抜け落ちて、(子どもに言うことを聞かせられず、自分の思い通りにならずにイライラがつのり)怒り・憎悪にまかせた単なる暴力に化してしまいがちであり、その場合はかえって子どもの心に抜きがたい傷を与えてしまう、といった危険性がある。暴力は支配でしかなく、支配は教育ではない。

尚、「渇を入れる」という場合もある。反復訓練などの場合、とかくダラダラしがちであり、緊張感を取り戻させるために身体に渇を入れる、といったことも教育のなかではよくあること。

 いずれにしても、その子どもへの愛が不可欠であり、あくまでその子どもを大事に思うが故のムチであり渇でなければならないわけである。

 情緒を養うのが教育であって、情緒を害する教育であってはならない。国歌を何が何でも国旗に向かって起立して歌わせようと強制するのは、情緒を養う教育的行為か、それとも情緒を害する非教育的行為か、どちらなのかといえば、答えは云うまでもあるまい。

2006年06月20日

どうして賛成か、反対か―心情から(II)

 先月掲載した「どうして賛成か、反対か―心情から」(Ⅰ)の後半(12)から後の部分に訳のわからないところが多々あったので、修正・加筆して、ここの(1)~(5)に掲載した。(6)から後は全く新しい文。

(1)情緒を養う教育

最近のベストセラー「国家の品格」を著した数学者の藤原正彦氏は、論理に対して情緒の重要性を論じている。
 但しそこで云う情緒とは、単なる喜怒哀楽などの感情とは別物だと藤原氏は云っており、それは、単なる「好きだ、嫌いだ」だの、「かっこいい、かっこわるい」「かわいい、かわいくない」「気に入った、気に入らない」だのという気分(感覚的感情)とは別物で、思い(心情・情念)とか美的感受性といった情操的感情(道徳的・宗教的・芸術的な感情)のことを指して云っているように思う。
 私が在職した学校の創設者の言葉に「才智より出でたる行為は軽薄なり、心情より出でたる行為は篤実なり」という言葉がある。それが建学の精神となっていて、この学校では心情教育が重視されてきた。
 評論家の加藤周一氏によれば、「人格の統一性の根源は、理性ではなく、心情の深みにある」という。氏は次のように書いている。
 「私の両親の子供に対する態度はきびしかった。反抗すれば押入れに閉じこめられたり、家の外に閉め出されたりした。父は子供の言うこと為すことについての不合理は許さなかった。母はやさしく、寛大で、何事についても強制するよりは説得しようと努めていた。争いがあれば双方の言い分を聞く。私はそのことに慣れ、学校を含めて家庭の外の社会の習慣が必ずしもそうでないことに強く反発していた。」「私が小学校であったとき、母に抱かれて経験した『愛』は、一般的抽象的な概念を媒介して自覚されていなかったが、母から私への、私から母への、あたたかく、確かで、自発的な、あふれるような感情であった。それはあまりに深い内面的な心情で、それを外面化し、制度化し、公教育に結びつける可能性を、私は想像もしなかった」と。(06,6,22朝日新聞「夕陽妄語」)
 心情など情緒を養う教育という場合、それはどのような方法で行なわれるべきか、それに相応しい方法と、そうでない方法とがあるわけである。
 教育方法には、生徒に対して先生が(知識・技能・作法・思想・信仰等々を)「教え込む」「詰め込む」といった注入法や反復訓練法、それに強制・プレッシャー(競争・評価・罰を科するなど)を加えることによって「叩き込む」とか、(外部から遮断して)「洗脳」するとか、あるいは心理的操作(マインドコントロール)によって呪縛をかけるという方法もある。「叩き込む」などの方法は知識・技能などの場合には、それが有効である場合もあるが、情緒(心情や美的感受性)を養うという場合は、(愛国心にしても、道徳心にしても、惻隠の情にしても、「もののあわれ」を知る真心にしても)それは生徒自身が様々な人・動物・社会・自然と(直かに体験を通じて、あるいは文学・芸術・映画・ビデオなどを通して間接的にでも)触れ合うことによって体感して養われるものであって、強制や洗脳によって植えつけられたり、叩き込まれたりするものではあるまい。(最近の教育基本法改正案の国会審議で、元文科相の町村議員は「愛国心が身につくように」ということで、「教育である以上、教え育てる、どこかでしっかり叩き込むという部分もなければ先に進めない」などと発言し、「叩き込む」という言葉を繰り返したとのことであるが、勘違いも甚だしい。)

(2)論理・合理もだいじ

藤原氏は、「論理で説明できない部分をしっかり教える、というのが、日本の国柄」、「重要なことの多くが、論理では説明できません」「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。ならぬことはならぬ、問答無用、といって頭ごなしに押しつけてよい」などといったことを書いているが、後の二つは、単純に真に受けてはなるまい。
 たしかに、この世には未知の世界は果てしなくあり、いくら解明しても解明し尽くされることはない。しかし、だからといって、或は、どうせ子供には解りっこないのだからといって、論理的説明ぬきにしてもかまわないということにはならず、一見、知ること、論理によって説明することは不可能と思われるような訳の解らないものであっても、解明も説明も、その可能性はあくまであるのであって、可能なかぎり研究解明に努め、論理的説明を最初から放棄してしまったり、無視・軽視してはならないのである。
 「どうして人を殺してはいけないのか」それは、「『ならぬことはならぬ』ことだからだ」と言い放すだけではなく、「自分は殺されたくないだろう。だから人は殺してはならないのだ」と教えればよいのである。また、非科学的ではあるが、神様や仏様をもち出して形而上学的な論理で「神(または仏)の掟だから」式に説明することも可能なわけであり、「閻魔様から恐ろしい罰をうけるからだよ」などといった子ども向きの論理もあるわけである。
 「野に咲くスミレは何故美しいのか」も「モーツアルトの曲は何故美しいのか」も、美学・音楽理論・大脳生理学などで科学的論理的に説明することは(現段階では極めて難しいことだとしても)絶対不可能なことではないのである。
 「問答無用」といって、理由説明(論理)をぬきに無理やり押し付ける強制は、状況によっては緊急を要し、説明は後回しなどといった場合にはあり得るが、強制は、そもそも人に対する支配にほかならない。教育は子どもに対する支配の行為ではなく、愛の行為であって、利他的・愛他的行為である。愛(思いやり・慈しみ)であるからには、優しく、懇切丁寧に教える、というものでなければならず、その方法は、理由を論理的に(理屈で)説明して聞かせるという方法でなければならない。その論理には、科学的な論理は子どもには難しいという場合、「嘘も方便」で、「そうしないと罰があたるから」式にある種の形而上学的論理を用いることもよくあるところであるが、なるべく科学的に事実に基づいた論理であることが望ましい。また、緊急事態に「そんな事はやめなさい!」というような場合、「どうしてか」と聞かれてもゆっくり説明している暇がなくて、ただ「ならぬものはならぬ」と云うしかない、といったような場合もあるわけである。
 「愛のムチ」が許されるのは、例えば、いじめっ子に人の痛みを解らせるためには、頭では(いくら論理で説明しても)相手には解りそうにないという場合に、「身体で解らせる」しかない、などといった場合であろう。しかし、この「愛のムチ」は、ともすると、そこから愛が抜け落ちて、(子どもに言うことを聞かせられず、自分の思い通りにならずにイライラがつのり)怒り・憎悪にまかせた単なる暴力に化してしまいがちであり、その場合はかえって子どもの心に抜きがたい傷を与えてしまう、といった危険性がある。暴力は支配でしかなく、支配は教育ではない。
 尚、「渇を入れる」という場合もある。反復訓練などの場合、とかくダラダラしがちであり、緊張感を取り戻させるために身体に渇を入れる、といったことも教育のなかではよくあること。
 いずれにしても、その子どもへの愛が不可欠であり、あくまでその子どもを大事に思うが故のムチであり渇でなければならないわけである。
 情緒を養うのが教育であって、情緒を害する教育であってはならない。国歌を何が何でも国旗に向かって起立して歌わせようと強制するのは、情緒を養う教育的行為か、それとも情緒を害する非教育的行為か、どちらなのかといえば、答えは云うまでもあるまい。

(3)情緒が戦争を止める

藤原氏は(「論理と合理だけでは戦争を止めることはできない)「日本人の持っている美しい情緒(惻隠の情、戦争を醜悪と思う心、調和する心など)が戦争を阻止する有力な手段となる」としているが、一理ある。
 たしかに、戦争を止めるのは「人を苦しめてはならない」「残酷・無残なことをしてはならない」「可愛そうな思いをさせてはならない」といった「惻隠の情」などの情緒であろう。
 ところが、武力行使に、心情的には反対だといいながら、「靖国を参拝して何がわるい」「悪の枢軸だ、やっちゃえ!やるしかない」といって賛成を云いたてる勢力の武力行使正当化の論理(「制裁のため、予防自衛のため、そして国益のためには、アメリカと組んで戦うのもやむをえない」などというもっともらしい論理)にひきずられて、それならばしかたあるまい、となったりするわけである。その意味では戦争を促すのは論理のほうだといえる。
 それに対して、「親は刃(やいば)をにぎらせて、人を殺せとをしえしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」(与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」)とか、「教え子を再び戦場に送るな」(日教組のスローガン)とか「刀を捨てたサムライの気概」(私の造語)などといった情緒が非戦の論理構築を動機付け、それ(非戦の論理)が武力行使正当化の論理をくつがえし(論破し)、それによって、武力行使を阻止しなければならないわけである。
 いずれにしても戦争を止めるのは情緒なのだといえる

(4)心の押しつけとマインドコントロール

「人や動物をいじめてはならない」とか、「人から物を盗ってはいけない」とか、行儀やマナーなどは「親や先生が幼いうちから押し付けてよい」という場合、それが肯定されるのは、押し付けられる子ども自身のため(子ども本人がまともな人間となるために必要な道徳心など健全な情緒を身につけるため)だからである。
 しかし、愛国心を国旗・国歌などとともに国や教育行政当局が押しつけるのは間違いである。なぜなら、教育は(子どもを国家の「道具」としてではなく、一人一人かけがえのない個人として認め)子ども自身(の生存と文化的生活)のため、又その子も他の皆もそこで協力して生きる(というよりは、その協力なくして生きられない)社会(の生産と文化の維持・発展)のために行なわれるべきものであって、国家のために行なわれるべきものではないからである。国や教育行政当局が子どもや若者たちに愛国心を押し付けるのは、一方において競争・格差容認政策をとって国民を互いに張り合わせ「上流・下流」「勝ち組・負け組」といった階層分解をもたらしながら、国家の統一・維持を図るためであり、昔のように(教育勅語に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」とし「有事のときにはお国のために喜んで命を捧げる」としたように)国民を国家の命令(動員)に素直に、あるいは進んで応じるように仕向けるためにほかならない。
 愛国心・道徳心・宗教心などの情緒は、儀礼・礼儀・マナーなど形(情緒の表現方法)は押し付けてもよいとして、情緒そのものは押しつけることはできない。また内実(情緒)のともなわない形だけの行為は、空しいものだし、無意味なものだ。(無理やり頭を下げさせても、親愛の情がともなっていなければ、しらじらしく思われるし、どんなに姿勢正しく起立させ大声を張り上げて歌わせても、心がともなっていなければ、歌は空しく聞こえるわけである。)
 ところが、洗脳・マインドコントロール(心理操作)によって、いつのまにかその気にさせることができるのである。それには、国家や企業によって行なわれる大衆操作があり、また宗教カルトが信者に対しておこなうような場合もあるが、教育の場でもそれがおこなわれる。勉強を教える教師や部活動の指導者が行なうような、コントロールする者とされる者の目的が一致している場合には、それが有効で肯定される場合もあるが、国家や宗教カルトがそれを行なう場合は、極めて危険である。
 その方法には、言葉と論理によって、とはいってもコマーシャルのように単純なワンフレーズ(一口論理それに「常識」論・「賛成か、反対か」の二者択一論など)の徹底した繰り返し、あるいはテレビ放送などメディアの徹底利用(戦時中の「大本営発表」のような政府広報化)、そして学校教育に介入して授業や式典行事を利用するなど様々な方法があるわけである。
 かつて大戦争を起こしたドイツでも日本でも、盛んにそれが行なわれ、子どもや若者たちは洗脳され、マインドコントロールされて、熱烈な愛国者にしたてあげられた。
 今の北朝鮮は、それと同じのようである。また9.11で逆上し、アフガン戦争からイラク戦争に突入していったアメリカでも、現代風に洗練された巧妙なテクニックを駆使して、米国民に対するマインドコントロールがそれとなく行なわれている可能性もある。
 我々は、かつての日本のように、また北朝鮮あるいはアメリカのようにならないように気をつけなければなるまい。マスメディアと教育(教育基本法「改正」、愛国心教育)には極力気をつけなければならない。
 自分の心を自分自身で支配しコントロールできるようにならなければならないが、幼い子どものうちは、親や先生(権力側の言いなりにはならず、自らの心の自由を保ち、ただひたすら「生徒のため」だけを思って生徒に接してくれる先生)から「・・・したりしてはいけないものだ」と教え込まれ、我儘な心をコントロールしてもらうのは良いとして、国家の支配者(政治権力者)などから、人々の心が意のままに(それとなく)支配され、コントロールされ(操られ)てしまうようなことになってはならないわけである。資本主義も、競争・格差社会も、天皇制も、「君が代」を歌うのも、日米同盟も、靖国参拝もみんな当たり前(何の疑問も起こらない)。政府や多数党の言うことはなんでも皆賛成となってしまう。そういう傾向がかなり強まっているが、放っておくと大変なことになるだろう。

(5)教育基本法改正案と情緒教育

 今、教育基本法改正案が国会にかかっているが、それは、青少年の犯罪、いじめ、不登校、ニートのはてから「ホリモン」事件や耐震偽装事件にいたるまでみんな教育基本法のせいにし、(社会のルールや市民道徳を教え情緒を養うべき教育に不徹底があり、学校教育・家庭教育に欠陥があることも確かではあるが、だからといって、それはこの教育基本法のせいだというわけではないのであって、むしろ自民党政府が推し進めてきた経済社会政策・教育政策―市場原理主義・競争主義など―の弊害にこそ根本原因があるのに、それを棚に上げて)改憲と連動させてこの教育基本法を改正し(「国を愛する態度を養う」などのことを新たに教育目標に掲げ)、教育に対する国と自治体の介入を強めて愛国心の注入、国旗・国歌の強制を合法化しようというものである。
 このような「教育基本法改正」が通ったら、大変なことになるだろう。かつて(戦争時代)の国家主義教育の二の舞になってしまう。
 そこで養われる情緒はどのようなものかといえば、「日の丸」・皇室が大好きで、「君が代」・靖国を信奉する政治権力者の云うことには素直に従い、「国のためなら、たとえ火の中水の中(をもいとわない)」、たとえアメリカ人には劣っても、はたまた日本人どうしの間では「負け組み」であっても、中国人・朝鮮人には絶対負けない、アメリカに次ぐ世界第二の「勝ち組」国家の一員であることをひたすら誇りに思う、そのような情緒であり、それがたたき込まれるということになるわけである。

(6)憲法と教育基本法に込められた心情

現行憲法と教育基本法に込められたと思われる心情と、自民党の新憲法草案と教育基本法改正案に込められたと思われる心情を引き比べてみてみたい。

[1]現行憲法 
まずは、現行憲法の方。その前文は次のようなものである。
「日本国民は・・・・われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、・・・(中略)・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」(こうして、この文を打ち込んでみると、当時これを書いた人、これを仕上げた人たちの心情が心に伝わってくる思いがして、熱いものが感じられる。)
 この憲法の原案を書いたのは、当時のGHQ民生局員であるアメリカ人ではあるが(一昨年、そのメンバーの一人であるベアテ・シロタ・ゴードン女史の講演を聴いてサインをもらってきたものだ。彼女が担当したのは主として「男女平等」に関する部分で、14条や24条などにそれが生かされている。少女時代10年間は日本に住んでいたという。「悪いものを与えたのなら『押しつけ』になるが、この憲法は、アメリカのものより良いものだった。」それは「日本人をどうするというより、『人類はこうあるべきだ』と思う内容をまとめたものだった」と云っていた)彼らには、それが、単にマッカーサーから命令されて適当に書いた作文ではなく、また、単に余所の国しかも敗戦国に押し付ける憲法に過ぎないといった感覚ではなく、世界戦争が終わって二度と再びそれを繰り返させまいという情熱があったものと思われる。
 9条には、その発案者といわれる時の首相、幣原喜重郎の「何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと・・・・・・」という心情が込められており、この憲法には、草案を審議・修正を加えた議員らの思いも込められている。彼らには、当時の日本国民の心情を代弁する思いがあったものと思う。(草案は、原案を直接書いたGHQ民生局員の頭だけで発想・創作されたものではなく、世界各国の憲法の中から先駆的・先進的なモデルを集めて研究し、さらに日本の鈴木安蔵ら在野の学者を中心とした憲法研究会の試案から多くを取り入れて書かれたものなのである。)

[2]現行教育基本法

その原案をつくったのは、当時わが国の政治・教育・文化・宗教・経済・産業など各界から選ばれた50人から成る教育刷新委員会である。
法文は次のようなものである。(アンダーラインの個所は、改正案では削除)
 「(前文)われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するために、この法律を制定する。」
 「(第1条―教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。

(第2条―教育の方針)教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
「(第10条―教育行政)1、教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである。
2、教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない。」
 教育刷新委員会の委員をはじめこれを制定した人たちは、日本国憲法の制定者たちと同じ心情を共有しており、その信念が表れている。
 ここには、かって教育勅語の命ずるままに軍国少年・少女をつくって、若者を戦場に送った教師たちの痛切な悔恨の思いがこめられているように思われる。
(1952年当時、高知県の教員であった竹本源治氏の詩に、その思いが表されている。 
「戦死せる教え児よ

逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私は持っていた/しかし人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言い訳が/なんでできよう/慙愧、悔恨、懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今こそ私は/汚濁の手をすすぎ/涙を払って君の墓標に誓う/『くり返さぬぞ絶対に!』)

[3]自民党の新憲法草案

 その前文は、次のようなものである。
「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
 象徴天皇制は、これを維持する。また国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。
 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行なう。
 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。」
 現行憲法の格調の高さに比べて、なんともまあ・・・・・。

「自らの意思と決意に基づき・・・ここに新しい憲法を制定する。」としているが、そこには、日本国民のというよりは自民党の政治家たちの、「戦争に敗れたばかりに不本意ながら『押しつけられた』憲法に対して『自主憲法』を制定するのだ」という自民党ナショナリスト政治家たちの心情がにじみでている。 日本国民は・・・国・・・を愛情・・・をもって自ら支え守る責務を共有し」とうたっているが、それは、日本国民たる者は国を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守るべしと、国民に対して説教しているように受け取れる。
 現行憲法の場合は「われら」を主語にして国民の立場で書かれているが、自民党草案の場合はそこがどうも違うようである。そこに込められている心情は国民の心情ではなく、自民党政治家とその支持者たちの心情にほかならないのではないか。現行憲法に込められた日本国民の熱い思いと平和を求める世界諸国民の心情はそこにはない。

[4]教育基本法改正案

 自民党にとっては、教育基本法の「改正」も、改憲と同様に、「結党以来の悲願だった。」という。(森前首相)
その改正案の法文は次のようなものである。(アンダーラインの個所は、現行教基法にはないもので、とりわけ顕著なもの。・・・の個所は現行教基法と同じ字句)
「(前文)我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊な人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法にのっとり、わが国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

(第1条―教育の目的)教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわれなければならない。
(第2条―教育の目標)教育は、その目的を実現するために、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行なわれるものとする。

1、幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊な情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
2、(略)
3、(略)
4、(略)
5、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。」
「(第16条―教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行なわれなければならない。
(以下省略)」
 この改正案は、まず、「公共の精神」を尊ぶ人間の育成を期し、「伝統を継承」しつつ、「国の未来を切り拓く教育」の基本を確立するため、この法律を制定するとして、生徒一人一人のための教育から国家のための教育の方にシフトさせている。
 そして、教育は(「人格の完成を目指す」とはしつつも)「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわれなければならない」として、国家と企業などにとって必要な人材育成を教育目的にしている。
 現行法にあった「実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」という教育方針は削除し、教師・生徒の主体性を退けて、国家が目標をあてがうやり方に切り換えている。
 現行法における教育行政の条項では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」と定めているのに、権力側の政治家や行政当局が介入を強めてくる、それに対して、教員組合に結集した教師たちは抵抗してきた。その教員組合の方を不当ときめつけ、教育は(教師たちが)「国民全体に対し直接に責任を負って行なうべきもの」としていたのを「この法律及び他の法律(その法律には政省令による政府・文科省の裁量行政も含まれる)の定めるところにより行なわれるべきもの」と変えてしまい、権力側の介入を合法化しようというわけである。
 現行教基法には、現行憲法と同様、主語が「われら(国民)」で、国民の側から国・地方公共団体に対し、「・・・しなければならない」(せよ)と命令を下す立場で定められており、その命令(制定)主体である国民の中には教師たちも入っていて、それまで国家の命令に従わせられて教え子を戦場に送ってきたことを悔やみ自主・自律に目覚めた教師たちの心情と責任感がこめられている。それが改正案では、教師は法律に従って文科省や教育委員会から「やらされる」受け身の立場に置かれている。
 教育行政は、教師が「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」となっていたのは取り除いて、条件整備以外の教師の責任範囲であるべき教育内容や指導法にまで介入できるようにしている。

 このような改正案に込められている心情は、多くの教師たち・親たち・子どもたちのものではなく政府与党あるいは民主党などの政治家たちの心情にほかならない。
 森前首相(元文相)は、次のように述べている。
 「教育勅語には人間関係の大事なことを書いてあるが、戦前の教育は全部ダメということになり、昭和23年に衆参両院で廃棄宣言した。
 戦後は教員組合が台頭し、偏向教育を行なった。公の精神は軍国主義に、公に対する奉仕は国家に対する奉仕になるから駄目だ、と。それで、いい結果が出ましたか?お風呂に子どもを沈めたとか高校生が人を殺したとか、今の社会は考えもつかないようなことが起きる。その原因の根底は心の教育にある。
 子どもたちに心の大切さを教えられないことが問題だ。教組は『そういうことは書いていない』と現行法を逆手に取り、教えてこなかった。改正案には『道徳心』や『公共の精神』が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか国歌斉唱の時の立ち居振る舞いを含め、先生は・・・教え込んでいけるようになる。」「愛国心だと軍国主義になりますか。日本人は好戦的な民族ではない。日本は民主主義、自由主義、平和主義だ。軍国主義に進むはずがない。」(2006,5,11朝日新聞)
 (たしかに、日本人は、元々は好戦的な民族ではない。しかし、それが教育勅語による愛国心教育によって「天皇陛下のため、御国のため進んで生命を捧げようとする」好戦的心情が叩き込まれた結果、子どもたちの多くは軍国少年に化したのではなかったか。)
 また、安倍晋三氏は、次のように述べている。
「『家族の絆、地域社会の心のふれあい、あるいは祖先を敬う心や日本という国を慈しむ気持。そしてそれらを守るために戦うという覚悟』を学校や家庭教育に『取り戻す』ことが必要だ」と。(『自由民主』05年4,11日合併号)
 これらに、改正派の政治家たちの心情が表れている。要するに、日本は「天皇を中心とする神の国だ」と信じ、昔の教育勅語を肯定。教員組合を「偏向教育を行なってきた」として目の仇。子ども殺しや高校生の殺人などは「心の教育」(教組はそれをしてこなかったとして、そこ)に原因があると。なんとかして日本中の学校に国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけ、愛国心教育を義務づけたいものだ。とにかく、教員組合などの教師たちに勝手なことを許さず、国の統制を強めなくてはならぬ、というのが、彼らの心情なのだろう。

(7)刀を捨てたサムライの気概―私の心情

 新渡戸稲造は「武士道」のなかで、「やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者。」と書いて、勝海舟(幕末、幕府側にあって「ほとんどのことを、彼一人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三暗殺の対象に選ばれていた」という人物)の次のような言葉を引用している。
 「私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺したことはないよ。みんな逃がして、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。カボチャでもナスでも、あなたは取ってお上んなさるだろう。あいつらはそんなものです』と言った。・・・しかし河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こっちは斬らぬという覚悟だった。」
 この引用文の後に、新渡戸は次のように書いている。「これが、艱難と誇りに燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。・・・『負けるが勝ち』・・・この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また『血を見ない勝利こそ最善の勝利』・・・これらの格言は武士の究極の理想は平和であることを示している。」
 要するに、刀を振りまわさず刀に物を言わせない平和こそが武士道、ということだろう。
 気に入った! 日本国憲法9条に、これら勝海舟や新渡戸の言葉を重ね合わせると、そこに「刀を捨てたサムライの気概」を感じる。それが私の心情なのである。

 尚、日本は、太閤秀吉による「刀狩り」、徳川幕府による鎖国以来、刀は「サムライのシンボル(武士の魂)」として残った以外には、「刀も鉄砲も捨てた国」として長いあいだ太平を保ち、平和的な国民性が培われてきたと思われる。

 それが、欧米列強からの外圧で開国を余儀なくされ、明治政府は諸外国に対抗すべく富国強兵政策を推し進め、四民平等とし、武士階級からは刀を取り上げ、徴兵制をしいて日本を国民皆兵国家にした。その日本はアジア最強の軍事大国にのし上がり、進軍ラッパで「いけいけドンドン」とばかりに戦争を重ねる中で、国民の間には好戦的気分が増長していった。そのあげくが、あの大戦争である。
 この戦争で、日本といえば「軍国主義」とか「カミカゼ」というイメージをもたれてしまった、それを悔いた日本国民は戦後、憲法9条で自国を非軍事・非核の平和国家であると決意し、不再戦を世界とりわけアジアの戦争被害諸国のまえに誓ったのである。
 サムライならば、「武士に二言はない」であり、いまさら、その信義を裏切るような卑怯なまねはできないはず。
 力(超大国アメリカに従う「自衛軍」)に頼らないと身を保てないなどと言う臆病者はサムライではないのである。
 アメリカ人とは異なり、日本人の心底には、そもそも「力まかせに事を解決すること」を好まない心情がある(古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波ブックレット)。その国民性を貫き通さなければならない。
「刀を捨てたサムライの気概」を貫き通す。これこそが日本人というものだ。

(8)現行憲法にこそ私の愛する日本がある

こんな私の心情からすれば、改憲を目指している政治家・論者たちの言説には、とても賛成する気にはなれない。
 但し、彼らの言説には心情的に反発するだけではなく、論理の合理性(道理)から言っても、(押しつけ憲法論・戸締り論・「備えあれば憂いなし」論・抑止論・国家戦略論・パワーポリテックス論・現実主義論など、一見いかにも尤もらしく思えるような巧妙な言い回しや論立て・論理の展開はあっても)どうしても賛成せざるを得ないような、反論の余地のないものはないのである。
 早稲田大学法学部の愛敬教授は、その著書(ちくま新書『改憲問題』)に「改憲派の議論の中には、私が愛する『日本』が見当たらない」と書いているが、私もそう思う。
 尚、憲法愛国主義という言葉がある。アイデンティティーを運命共同体としての国家や伝統などにではなく、憲法(の規範的な価値)に求める、という考え方である。
 我が国の現行憲法は世界でも最も優れているといわれる価値ある憲法である。その憲法にこそ、我々日本人のアイデンティティーがあり、日本人の誇りがあるのではないか。
 私はこの国を愛したい。しかし、現行憲法に不忠実で合憲解釈・事実上違反している今の国家は愛そうにも愛せないし、さらに改憲され、現行憲法が軍事など国家に対して加えている規制が緩和・撤廃されてしまい、現行憲法の規制から完全にはみ出るような国家になるとすれば、そのような国家は到底愛することはできそうにない。そんな国になったら恥ずかしいとさえ思う。
 日本はドイツとともに世界史上未曾有の戦争被害(数千万人もの死者)をもたらし、日本人はそれを悔いて、いさぎよく不再戦・非軍事平和立国を憲法に誓ったのだ。それで世界は日本人を許し、アジアの被害諸国民も許してくれたはずなのだ。にもかかわらず、その憲法・その誓いを放棄して、軍事超大国(アメリカ)に追従して共に世界に武威を張る覇権連合国家になろうとする。なんという卑怯。それがサムライの国か。

これが、改憲に反対する私の心情なのである。

2006年07月11日

テポドンが飛んできたらどうする?

 拉致問題に加え、北朝鮮がミサイル連射実験を強行したことで日本の国民世論はさらに硬化し、「そのうち北朝鮮から弾道ミサイルが飛んでくる」、そのような武力攻撃に対して「9条」(不戦・非軍事)では国民の安全・平和は守りきれない、という意識が強くなり、改憲派はさらに勢いづいていることだろう。

(1)何もしなければ飛んではこない

問題は、北朝鮮は、はたして本当に日本に攻撃をかけてきたりするのか、であるが、北朝鮮(政府と軍部)が理性を失うような事態に追い込まれ、自暴自棄的な挙に出ないかぎり、そういうことはあり得ない、ということである。

第一、いくら北朝鮮といえども、なにも好き好んで不正・非道や我がまま勝手を通したいとか、孤立したいとか、日米に逆らい通したいと思っているわけではなく、アメリカとも日本とも良好な関係を結び、両国から自国の安全が保障され、エネルギー支援や経済協力が得られれば、それでよいと思っているはず。北朝鮮が、たとえどんなに無法で非道な「ならず者国家」であっても、又いかに日本に恨みを持っている国だからといって、日本を武力攻撃してみたところで、世界中から非難・制裁をこうむる以外に得られるものは何もなく、メリット対デメリットおよびリスク計算上マイナス以外は考えられず、戦略的計算を無視して無益な行動に出ることはあり得ないからである。

今回のミサイル実験の強行にしても、そこにはそれなりの冷徹な計算と読みがあってのことと考えられる。(ミサイル発射の方角を日本には向けておらず、北朝鮮には、同じく反米国家と見なされ核開発計画をもっているイランとそれに対する米欧の対応をみすえながら、「自衛的抑止力」のための核・ミサイル開発・保有の権利と実績を世界にアピールし、アメリカに対して直接対話と金融制裁解除を要求してそれをアピールする狙いがあってのことだろうと思われる。)

北朝鮮は、以前、朝鮮戦争の時は、ソ連から支援を得、中国から援軍が得られた。中国・ロシアとはそれぞれ今も友好相互援助条約を結んでおり、特に中国とは緊密な貿易・経済関係を結んでそれに依存しているし、近年は日米のような強硬政策(経済制裁)ではなく太陽政策(宥和政策)をとっている韓国からも経済協力・食糧支援を得てきた。しかし、中・韓・ロ各国とも、北朝鮮が核開発とあわせて今回ミサイル実験を強行したことには当惑し、非常に遺憾だとしており、もしもそれが、実験や訓練に止まらず、本当にそれを使ってどこかに(アメリカに対してであろうと、日本に対してであろうと、どの国に対してであれ)攻撃をかけるようなことがあったならば、中国・ロシアといえどもけっして支援も援軍を出すこともあり得ないだろうし、北朝鮮はどんなに孤軍奮闘したところで、自国の滅亡(体制の崩壊)を招くだけで、得るものが何もないことはわかりきっている。

したがって、北朝鮮(政府・軍部)に理性が保たれている限り、(アメリカと、共に)何もしない日本に対してミサイル攻撃をかけてくることなどあり得ないのだ。

(2)追い詰められたら暴走も

そこで問題なのは、北朝鮮(政府・軍部)はどのような場合に理性を失い自暴自棄的な挙に出るかであるが、それは、アメリカや日本から、そこへ追い込まれた時で、「窮鼠猫を噛む」が如く抵抗して軍事行動にはしるという場合であろう。

それはどのような場合かといえば、一つは、経済制裁から海上封鎖に至った場合である。アメリカは既に独自に金融制裁を実行している。日本も、今回、北朝鮮のミサイル発射実験の強行で、万景峰号の寄港を禁止するなど制裁措置の発動に踏み切った。そして日本はアメリカとともに国連安保理に北朝鮮制裁決議を提案した。それは北朝鮮に対してミサイル・大量破壊兵器開発をやめるように求め、それらの開発につながる資金・物資・技術の国際取引を阻止することを各国に対して求めたものだが、原案に盛り込んだ国連憲章の制裁条項を適用するという文言、すなわち北朝鮮が決議に従わなかったならば経済制裁、場合によっては軍事的措置を講ずることもできるとし、それらの強制措置がとられた場合、国連加盟国すべてが、それに同調することが義務づけられることになる、というその文言は、日本は固執したものの、中国・ロシアの反対で削除され、その修正案(北朝鮮非難決議)が全会一致で採択された。仮にもし、中国・ロシアが、当初の日本案のような制裁決議に同調して、すべての国が北朝鮮との貿易・金融を停止し、海上封鎖―アメリカや日本の艦艇が出動して臨検・拿捕―という事態に北朝鮮が追い込まれたりしたならば、その時が問題なのである。

中国などが、その経済制裁に同調せずに、北朝鮮に対して説得、自制を働きかけている間は、その暴発は起こり得ないだろうが、その中国が制裁に同調したとなれば、北朝鮮は完全に孤立無援、「もはやこれまで」と諦めて降伏してくれればよいが、自暴自棄になって暴挙に出る可能性もあるわけである。

もう一つは、アメリカが(日本も連携して)、中ロなどの同調・国連決議の有無にかかわらず(イラク戦争のように)、「予防先制攻撃」と称して武力攻撃をかけた場合であり、それに対して北朝鮮が反撃に出て抗戦するという場合である。(但し、さしたる反撃も抵抗もなく、簡単に降伏することも全くあり得ないわけではないだろうが。)

このように、海上封鎖をともなう経済制裁によって北朝鮮がにっちもさっちもいかない事態に追い込まれるか、或はアメリカから武力攻撃を受けるかしない限り、北朝鮮が自暴自棄的な暴挙にはしって日本にミサイル攻撃をかけてくることは、とにかくあり得ないということである。

仮にもし、北朝鮮をそのような事態に追い込んで暴発(自暴自棄的な反撃)を招いてしまった場合、それにはイラク戦争以上に悲惨な事態が生じる危険性をともなうということである。北朝鮮の軍民のみならず、韓国それに日本にもミサイルが飛んできて(ソウルや東京が「火の海になる」というのは大げさだとしても)沢山の犠牲者が出たり、深刻な被害をこうむりかねないことになる。それに韓国にも、中国にも、ロシアにも、それぞれの北朝鮮国境の近くに難民があふれる、といった事態も考えられる。日米など北朝鮮を追い込む方の側に、それらのリスク計算が必要であることは云うまでもない。

(3)追い詰めるか、交渉に応じるか

それらの危険を覚悟の上で北朝鮮を追い込み続けるか、それとも暴発リスクを回避すべく外交努力に徹し、北朝鮮を交渉(6者協議あるいは2国間直接対話)の場に迎え入れて、核・ミサイルの凍結と拉致問題に関する日韓の要求に応じさせるとともに、(一方的に要求を突きつけ責めたてるだけでなく)ギブ&テイクで、北朝鮮が求めている(国家の安全保障、経済協力、エネルギー支援、国交正常化、日本に対しては過去の清算などの)話にも応じて可能な限り要求を受け入れ、相互に実行を約束し合う、ということにするか、そのどちらかであろう。

とはいっても、追い詰める(「圧力」)か、それとも交渉(「対話」)かの二者択一ではなく、「対話と圧力」それに「ニンジン」も必要だろう。

目的はあくまで懸案(核・ミサイル問題―北朝鮮に対する安全保障、拉致問題、国交正常化問題など)の解決にあるのであり、そのために交渉することなのであって、あくまでも交渉が前提なのである。交渉にさいしては、それぞれの要求を相手に応じさせるために駆け引きをおこない、「見返り」(北朝鮮が求めている国家の安全保障、経済協力、エネルギー支援など)を与えるとか、「ニンジンをぶらさげる」(利益誘導)とか、逆に経済的もしくは軍事的「圧力」を加えたり、「カードをきる」といったことが、互いの間で行なわれたりもするわけである。

「圧力」は、交渉相手に対して要求に応じさせるための手段なのであって、相手国を政権崩壊に追い込むのが目的ではないのである。そこのところを錯覚しないようにしなければなるまい。強硬派のなかには、(北朝鮮といくら対話・交渉を重ねてみても、所詮相手は「ならず者」。約束をしても守りはしないし、合意が成立することなどあり得ないのだから、交渉など無用だとして)経済制裁など「圧力」は、初めから北朝鮮を政権崩壊に追い込むことを目的とし、「これでもか、これでもか」とばかり首をしめつけて息の根を止める「制裁のための制裁」と考えている向きが少なくなかろう。そのようなことをすれば、苦し紛れの暴発(ミサイル乱射など)を招いてしまい、それに対して報復攻撃をあびた北朝鮮国内における大混乱と政権崩壊だけではおさまらず、我が国を含む周辺の国々にも被害が及び、北東アジア全域にわたる深刻な事態に発展しかねないことになる。

北朝鮮に対して我国が独自に既に発動している経済制裁にしても、この度の国連安保理決議にしても、それらはいったい何を目的にしているのかといえば、それはあくまで、北朝鮮に違法行為やルール・合意無視はやめるように約束させ、交渉の場に復帰して誠実に対応することを約束させることが目的なのであって、なにも北朝鮮を政権崩壊に追い込むことが目的なのではない、というそのあたりのことを人々は勘違いしないようにしなければなるまい。

(4)暴走の危険はこっちにも

北朝鮮(政府・軍部)が理性を失う事態に追い込まれない限り、日本にミサイル攻撃をかけてくることはあり得ない、ということであるが、国の指導者あるいは国民が理性を失って暴走するということは、ままあることであって、かつてのナチス‐ドイツ、それに日本の戦争にも、それが見られる。「もしも天皇が開戦を抑えたりしたならば、内乱が起きていただろうし、彼は精神病院に入れられていただろう」といったような軍民の間の集団ヒステリー状況とか、軍部強硬派の暴走とか、「神風」特攻作戦とか、「一億玉砕」(いわば国家と心中)の掛け声とか、である。

又、パレスチナのハマス、レバノンのヒズボラ、アフガニスタンのタリバーン、国際テロ組織のアルカイーダなどのイスラム原理主義とよばれる宗教的な政治的急進主義がある。これらは初めから理性ぬきで、自爆テロも殺戮行為もすべて神の命ずる行為で、神によって許されると信じてそれらの行動にはしる。イスラムにはイランのシーア派原理主義もあるが、それらイスラム原理主義に対するイスラエルのユダヤ原理主義、それに「ゴッド・ブレス・アメリカ」(アメリカに神の祝福あれ)を唄って戦争にはしるキリスト教原理主義もある。かつて「聖戦」と称して戦争にはしった日本のそれは、いわば神道原理主義だ。

いずれにしても、理性によるコントロールを失った民族感情や宗教的感情による暴発・暴走が恐ろしいのである。

北朝鮮の最高権力者や軍部が理性を失って暴発・暴走するという事態を招かないようにしなければならないが、そのことは、我々日本人の方が金正日やテポドンの同じ映像を何回も見せ付けられるたびにイライラが高じて集団ヒステリーに陥り、「やれやれ!経済制裁をもっとやれ!」が、そのうち「やってしまえ!『敵地攻撃』であろうと『先制攻撃』であろうと」となりかねない。そんなことにならないように自制しなければならない、ということでもあろう。我々国民は政治家やメディアから煽られるようなことのないように気をつけなければならない。

(5)軍事対応か、非軍事対応か

そこで問題なのは、北朝鮮の核・ミサイルの脅威に対して「9条」は無力だとし、自衛隊と日米同盟の軍備がなければだめだという向きが益々増えているのだろうが、そのような考えははたして正しいのか、ということである。

日米は、自分たちの軍備を「抑止力」だと称しているが、アメリカが圧倒的な核戦力を持ちその訓練や新規開発・実験を重ね、日本各地に基地を置いて、いつでもどこでも攻撃できる体制を敷いて身構えているからこそ、北朝鮮はそれに少しでも対抗しようとして、「自衛的抑止力」と称して核やミサイルの開発・実験を行ない、発射訓練をやろうとする。日本やアメリカは、北朝鮮が核やミサイルを持つと、それを脅威と感じるが、北朝鮮側はアメリカの圧倒的な核戦力にもっと脅威を感じているのではないのか。北朝鮮は、イラクがアメリカ軍にもろくも敗れ去ったのは核兵器を持たなかったからだと思っているのだ。アメリカや日本はアメリカが核兵器を持つのは抑止・自衛用だから良くて、北朝鮮がそれを持つのは凶器になるからいけないというが、北朝鮮側は、それは逆だと考える。どっちにしても、核兵器が凶器であることにはかわりなく、北朝鮮のやり方は凶器をちらつかせた「瀬戸際外交」だといっても、アメリカの外交だって力に物を言わせた「恫喝外交」であることには所詮かわりないのである。

今回の北朝鮮ミサイル連射訓練にさいして、すかさずそれに対応して早期警戒衛星・弾道ミサイル発射監視機・移動式早期警戒レーダー・イージス艦などいった日米の様々な兵器・軍事施設がその機能を発揮し、テレビでそれを見せつけられた人々の間に、「やっぱり軍備も日米同盟も必要だ」、それに「ミサイル防衛」(迎撃ミサイル網)の開発・配備も必要だという考えがにわかに広がり、(読売新聞の世論調査では「ミサイル防衛、整備急ぐべき」が63%)それに便乗して防衛庁長官その他の閣僚が自衛隊に敵のミサイル基地を先制攻撃できる能力を持たせる「敵基地攻撃論」まで持ち出している。日米軍事同盟路線を肯定する改憲派は「わが意を得たり」という思いだろうが、人々が考えなければならないのは、日本のそのような軍事対応に偏した動きこそが、さらに北朝鮮を身構えさせる結果となる、ということであり、日米軍事同盟の軍備強化が北朝鮮や中国の軍備増強の原因になるということである。(「ミサイル防衛」も「敵基地攻撃」論も、あたかも西部劇の早撃ちのガンマンが相手に対して、ピストルを「抜くなら抜いてみろ」とけしかけるようなもので、「やるなら、やってみろ」「いつでも、かかってくるがいい」と云っているようなものであって、いわば「逆挑発」とも受け取られるだろう。尤も、北朝鮮のミサイルは地下や洞窟に隠されていて、いったいどこにあるか分かりようがなく、はたして攻撃に着手しているのかもなにも分かりようがない敵基地に対して、機先を制して攻撃をかけたり、多数同時発射されたミサイルを迎撃ミサイルで百発百中撃ち落すなど至難の業なのだが。)北朝鮮のあのようなミサイル連続発射訓練は日米の「ミサイル防衛」に対抗して行なったものだろう、ともいわれている。北朝鮮側は「わが軍は今後も自衛的抑止力強化の一環としてミサイル発射訓練を続けるだろう」と言い張っている。(尤も、その軍備競争には、ソ連が財政的に耐えきれずに自滅したように、北朝鮮国民が飢餓に追い込まれ「共和国」は崩壊するだろう、という読みも日米の側にあるのかもしれないが、ソ連のように外に向かって暴発-戦争-することなしに自滅してくれるとは限るまい。)

いずれにしても、軍事対応では北朝鮮の脅威はかえって強まりはしても取り除くことは不可能だということである。

北朝鮮に核やミサイルを持たせないようにするには、基本的にはこちらも持たないようにして、アメリカにはそれらの不使用を約束させ、北朝鮮の安全を保障することなのだ。要するに9条に徹すればよいのである。9条に徹して「日本は持たず、アメリカにも北朝鮮を攻撃させないようにするから、そっちも持つな」というのが筋というものだろう。

それを北朝鮮に対して(安全保障その他)何の引き換えもなく、とにかく(核もミサイルも)何も持ってはいけないといって一方的に迫るのでは、相手は応ずるはずはあるまい。そもそも米中ロはそれぞれ独自に大量の核兵器を持ち、日韓はアメリカと同盟して核の傘に入れてもらっている中で、北朝鮮一国だけに非核を強いているというもので、その方がおかしいのである。6カ国が相互に安全を保障し合って北東アジア全域を非核地帯とし、核兵器は互い持たないか、使わないようにすればよいのであって、日本は9条に徹し、非核・非軍事の立場で、アメリカとだけでなく北朝鮮を含む北東アジア6カ国すべての安全を保障し合う地域安全保障を実現する方向に外交努力のすべてを傾けるべきなのである。

さて、「テポドンが飛んできたらどうするか?」

①「ミサイル防衛」を早く配備して撃ち落すことを含めて防備を整える。

②飛んでくる前にミサイル基地に先制攻撃をかけられるように、自衛隊に敵基地攻撃能力を持たせるようにするか、アメリカ軍に先制攻撃をかけてもらう。

③飛んでこないように外交努力で関係を改善してもらう。

国民の平和的生存権は「9条で守れるか?」    ①守れない  ②守れる  

        正解は③と②、ということになるのではあるまいか。

2006年08月12日

テポドンが飛んできたらどうする?(その2)

この場合、「どうする?」の問いに対して(「ミサイル防衛」だの、「有事法制」の実行だのと)答えることよりも、どうして(何のメリットがあって)北朝鮮は日本を攻撃する必要があるのか、という逆質問に答えてもらわなければなるまい。

北朝鮮が日本(資源・産物は、今は停止している食料支援の分量の米ぐらいはあるとしても、それ以外は何もないし、工業力・技術力などというものは奪える性質のものではない、そのような国)から奪いたい物、得たい物が、たとえ何かあるとしても、そのために無法な攻撃をしかけてこうむるデメリット(損失)とリスク(仮に日本が無防備で何もしなくても、中国・ロシアを含めた世界中から経済断交・軍事制裁をこうむる危険)を冒してまで、それを行なう必要がどこにあるのか。理性がある限り戦略計算上それはあり得ないわけである。

(尚、先だってのミサイル発射は、あくまで実験と訓練であり、日本に向けて打ってはいないし、核開発も「自衛抑止」のためだと云っており、それは日本がアメリカの「核の傘」を「抑止力」と称しているのと同じこと。
 また、「何をするかわからない国だ」などといっても、狂信的なテロ組織とは異なり、アメリカなり日本に対して被害を与えられれば自分たちは死んでもいい、と思っているわけではなく、何とかして生き残りたいというのが金正日政権なのであって、核もミサイルも生き残りたいがための「瀬戸際外交」のカードにしていることはわかりきったこと。) 

もし、かの国が日本にミサイルを撃ち込むとすれば、それは理性を失って暴発にはしるというような場合だけであろう。それはどういう場合かといえば、国々から追い詰められ(日米韓ロそれに中国からまで完全に見放されて)にっちもさっちもいかなくなって、「窮鼠猫をも噛む」が如き状態となった場合である。「追い詰める」とは制裁措置を重ねていくということであり、先だってミサイル発射実験にさいして日本は万景峰号の寄港禁止など制裁発動に踏み切ったが、国連安保理は非難決議にとどまった。この先それ以上に、日米が経済制裁を重ね、さらに国連安保理が(中ロも合意して)制裁決議を行なうか、或はアメリカが軍事行動に及ぶといった事態に立ち至る(もしものことだが)。北朝鮮軍が暴発するとすればその時であろう。

強硬派には、実はそうなること(暴発)を望んでいるか、望みはしないまでも、そうなってもかまわない(しかたない)と思っている向きがある。

したがって問題は、北朝鮮や中国の「脅威」が強まって「核ミサイルがいつ飛んでくるかわからない」というよりも、むしろ日本の方がアメリカと一緒になって相手を追い込んで暴発を誘い戦争にもち込もうとするか、結果的に戦争になってもかまわないと思っている好戦派が日米の側に存在するということが問題なのである。彼らは、北朝鮮や中国の「脅威」を取り除き、懸案の問題(拉致問題や核・ミサイル問題、尖閣諸島や竹島、東シナ海ガス田の帰属問題など)を解決するには相手国の体制転覆・政権打倒しかないと考えている。(イラク戦争はそれで行なわれたし、ネオコンはそれを「レジームチェンジ」と称し、安倍晋三は「政体転換」という言い方をしているとのこと―朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」のコメンテーター田岡氏)

要するに、北朝鮮がミサイルを撃ってきたらどうするか、とか、中国と戦争になったらどうする、とか云いながら、内心では戦争を期待するか、戦争を容認する考えがあるということなのである。(それは石原都知事や一部のメディア―「正論」「諸君」「SAPIO」など―の論調のなかにかいま見られる。例えば「『日本海』波高し」とか「『2009年、日中戦争勃発』の衝撃」―それらは、そのような事態を招いてはならないというものではなく、それに備えよというもの。)

北朝鮮から暴発攻撃され、戦争が起きてしまったらどうなるか。アメリカ本土は無事でも、日本は多かれ少なかれ惨害は免れず、人口密集地・原発・石油貯蔵施設・ガスタンク、化学工場・鉄道・道路網などに着弾して、どこかが大惨事に見舞われかねないことになる。もっとひどいことになるのは韓国―ソウルその他の主要都市が「火の海」になりかねない。そして当の北朝鮮国民はさらに悲惨な結果をこうむることになるだろう。中国は大量難民の流入にみまわれる。

これらのことを考えれば、北朝鮮の暴発戦争はなんとしても未然にくい止めなければならず、そんなことが絶対起こらないようにしなければならない。「ミサイル防衛」だの「敵基地攻撃能力」だの有事法制だの、万全の備えをもって対処し被害を最小限にとどめるなどと、そんなことを考えるよりも、そういう事態(暴発戦争)を招かないようにすることが肝要なのである。

地震や台風は避けられないが、戦争は(相手をそこへ追い込まないかぎり)避けられるのである。地震・台風には常に備えが必要だが、戦争への備えなど無くてもよいものなのである。

したがって問題は日本が攻撃されたらどうするかとか、戦争が起きたらどうするかではなく、そういうことが起こらないようにするにはどうするか、それだけが問題のすべてなのだということである。そこで、それならば「抑止力」と称して軍事力によって攻撃されないようにするとか戦争にならないようにするといっても、そんなことは(軍事力によって攻撃を抑止することなど)所詮不可能であり、いかに(アメリカやイスラエルのように)圧倒的な軍事力をもってしても、それによって自爆攻撃・ゲリラ・テロなどによる攻撃を抑止・根絶することは不可能であるばかりでなく、その「抑止力」と称する圧倒的武力による威嚇はかえってゲリラやテロなどの暴力抵抗を招く。結局それ以外の方法によって相手からの攻撃や戦争を回避する、そういう手だて(非軍事的手段)を講じるしかないのであり、それをどのように講ずるかが、問題のすべてなのである。

即ち、我が国は(自衛軍なり日米同盟なり)軍事によって国を守ることができると考えるのはむしろ非現実的であり、あくまで現行憲法の9条(非軍事的手段による安全保障政策)によって国を守る以外にないのだ、ということである。

「もしも万一攻めてきたらどうする?」の問いに、もう一つ問い返すとしたならば、次のような逆質問を試みてはどうだろう。「あなたはもしかすると、迎え撃つまでのことだといって戦争を望んでいるわけではあるまいが、そうなってもしかたがないと思っているのでは?もしそうだとすれば、正義のためだと信じて人を何人殺し殺されてもしかたないと思っているテロリストと、いったいどこが違うのか?」と。

もう一つ、「政府は、北朝鮮から日本が攻撃された時アメリカから守ってもらえるようにと、アメリカの要請に応えてイラクに自衛隊を派遣したが、9条のおかげで戦闘行為を避けることに徹した自衛隊員は一人も殺さず殺されず全員無事帰還した。しかし帰還後(3月段階で)5人が自殺しており、5人の日本人文民が殺され、さらに何万というイラク人が戦争の犠牲になっていることをどう思うか?」と。

2006年09月11日

テポドンが飛んできたらどうする?(その3)

1、それはほとんどあり得ないこと

「その1」「その2」で、北朝鮮に対する経済制裁も日米だけでなく(国連安保理決議によって)中国・ロシアまでがそれに加わって全面的制裁にまでおよび、北朝鮮が完全に追い詰められるか、それともアメリカから武力行使を仕掛けられるか(その場合は、「窮鼠猫を噛む」の反撃に打って出ることもあり得るが)そこまで行かなければ、北朝鮮のほうから攻撃をかけてくることはあり得ない、と書いた。

北朝鮮の元労働党書記であり金日成の側近だった人物で韓国に亡命した黄長燁氏は、(「SAPIO」誌上で、韓国人ジャーナリスト・辺真一氏のインタヴューに答えて)金正日は戦争を誰よりも恐れており、ミサイルや核(黄氏によれば、それらは既に完成しているという)は政治的目的で持ってはいても、それを戦争に使ったら終わりだということは、誰にもまして解っているはずだという。インタヴュアー(辺氏)の質問で「日本の中には日米が外交的・経済的圧力で制裁を強めれば北朝鮮が暴発し、『ミサイルを撃ち込むのでは』『戦争を起こすのでは』との懸念もあるが・・・その可能性は?」との問いに対して、黄氏は「心配ない。どうぞ枕を高くして寝てくださいと言いたい。暴発するというのは絶対あり得ないことだ。・・・利己主義者(金正日―引用者)は自分が一番大事だ。・・・経済制裁を加えたからといって金正日に何ができるのか?日本に戦争を仕掛けるということは死を意味する。彼はそのことを最もよく知っている。米国が恐ろしい存在であることもだ」と答えている。

また、安倍晋三氏も、北朝鮮が「日本にミサイル攻撃をする可能性はきわめて少ない」と(『美しい国へ』)に書いており、(氏は金正日には小泉首相に同行して、じかに接しているが)金正日は「愚かな人間でもなければ狂人でもなく、合理的な判断のできる人物」であり、彼にとっての判断(基準)は「自分の政治的な権力を保持することにほかならない。」「海産物(アサリやシジミなど、日本は経済制裁で輸入を止めている―引用者)と自分の命を引きかえにするわけがない」とも書いている。

その安倍氏は、「(現在の)問題の解決にあたっては『対話と圧力』の両輪で対処するというのが政府の方針」「経済制裁は最終的な圧力となるが、もとより経済制裁自体が目的ではない」、その本当の目的は彼らに政策の変更を促すことにある、とも書いている。ということは、制裁は、それによって相手を追い詰め暴発を誘って戦争にもちこもうとするものではない、ということであろう。

2、とにかく対話

いずれにしても、北朝鮮は日本にミサイル攻撃をしかけてくることも、戦争を起こすこともあり得ないということである。

だとすれば、「テポドンが飛んできたらどうする」などと心配するよりは、とにかく拉致問題といい核・ミサイル問題といい国交正常化といい北朝鮮との懸案の問題を話し合いによって解決することであり、その話し合い(対話)が遅々として進まないことを心配しなければならないのである。

対話(交渉)とは、一方的に相手に要求を言いたてるだけでは成立しないわけであり、相手の言い分に対しても聞く耳を持ち、要求に応ずることも必要なのである。

そもそも北朝鮮はアメリカに対して、いったい何を求めているのか。それはわかりきったこと。まず国家体制の存続保障(不可侵条約の締結―金正日にとってはそれこそが最大の関心事)、国交正常化、(朝鮮戦争以来休戦状態にはあるものの戦争そのものは終わっていない両国間の)平和条約の締結などのことにほかならない。

しかし、アメリカは、北朝鮮が(原子力発電用として、あるいは旧ソ連の核の傘-後ろ盾-を失い、自前の核を持つほかなくなって)核開発を行なっていることに対して、それはあくまで容認できない、それを取りやめないかぎり話には応じられないとし、(前のクリントン政権は直接交渉に応じ、核兵器につながらない軽水炉や代替エネルギーの提供など見返りも与えて開発中止にもちこんだが)ブッシュ政権は直接交渉を拒否し、日中韓ロ4国を交えた「六カ国協議」の場で、(見返りは一切拒否して)とにかく北朝鮮が核開発計画を放棄することだけを話し合う、ということに留めようとしているのである。

また、日本に対して北朝鮮が求めているのは、過去(植民地時代の諸問題)の清算と国交正常化・経済協力などのことである。小泉首相が訪朝した際のピョンヤン宣言で、今後それらを(拉致問題とともに)包括的に話し合う協議(日朝国交正常化交渉)をもつことに互いに合意はしたものの、拉致問題に対する北朝鮮側の対応は(横田めぐみさんのものだとして渡した遺骨が偽造とみなされるなど)日本側から納得が得られず、協議は途絶したままになっている。

これら日米が、アメリカは核問題、日本は(拉致問題の解決なくして国交正常化なしだとして)拉致問題を先行させ、北朝鮮側が求めている話を後回しして要求に応じないことに対して、北朝鮮側は「それならば核もミサイルも開発・保有を続行するまでだ」として開き直り、それを日米に対して北朝鮮側の求めに応じさせるためのカード(切り札)にすべく、ミサイル実験を重ね核実験もやってのけようとしているわけである。それに対して日米は経済制裁で応じ、北朝鮮側が求める体制保障や国交正常化の話は依然として受け付けないということで、米朝・日朝交渉はともに途絶・膠着状態に陥っているというのが現状なのである。

ただ、六カ国協議は、それでも、北朝鮮にとってはアメリカとの対話・交渉に応じてもらえる唯一の場であり(7月、北朝鮮のミサイル発射に対する国連安保理の非難決議があって後、アメリカは北朝鮮が六カ国協議に戻るならば二国間会合の用意があるとの意向を表明しており)、日本にとっても、ピョンヤン宣言の中でもその必要性を求めた北東アジア地域諸国間対話の場であり、二国間協議とともに北朝鮮と対話できる貴重な場ともなっている。それは(北朝鮮はかつて-1990年代以前-朝鮮半島を非核・平和地帯にすることを提案し、その後南北両国が「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に合意したこともあったが、今後それをさらに拡大発展させた)北東アジア非核・平和地帯構想を話し合う場にもなる可能性のある極めて重要な対話の場にもなっているといえよう。

  しかし、北朝鮮以外の国々が無条件再開を迫っているのに対して北朝鮮は、(ドル札偽造などに対する)アメリカの金融制裁解除を協議復帰の条件にして出席を拒否し続け、六カ国協議は依然として再開できず、北朝鮮との各国の二国間協議もすべての対話は頓挫している。

3、追い詰め、仕掛けて暴発を誘ったらどうなる

そこで業を煮やして、もし黄氏や安倍氏の言うように金正日は戦争もミサイル攻撃もどうせ何もできはしないということがわかっているのであれば、いっそのこと経済制裁で追い詰めるだけ追い詰め、軍事的圧力(「ミサイル防衛」や「敵基地攻撃能力」の開発・保持その他)を強め、場合によっては武力行使に踏み切ってもよいのでは。そうでもしないかぎり、事は進まないし、いつまでたっても埒は明かない、という向きもあるだろう。日米にはそのような強硬派や好戦派もいるわけである。

黄氏は北朝鮮が暴発することはあり得ないといい、安倍氏も制裁は暴発を誘うためではないといっているが、はたしてそうだろうか。

「対話と圧力」といっても、強硬路線をとって圧力のほうを優先し、日米ともに(アメリカは金融制裁などに対する北朝鮮側の解除要求に応じないどころか)かえって経済制裁をエスカレートさせようとしており、それに対して北朝鮮がテポドン再発射実験ひいては核実験など強行すれば、今度こそは国連安保理の制裁決議に中ロが同意して全面制裁に至り、あるいはアメリカは武力行使に踏み切るかもしれない。そうなった時、(北朝鮮は屈服するかもしれないが)テポドンが暴発しないともかぎらない。そうなったらそうなったで、テポドンなんか飛んできてもいいようにと、「ミサイル防衛」など応戦の用意を整えておこうということなのだろう。

しかし、そのようにして相手を追い詰めて暴発を招き、武力行使を行なったらどうなるか。

安倍氏は、(仮に、もし北朝鮮のほうから日本をミサイル攻撃すればの話なのだが)アメリカは「湾岸戦争でイラクの要人を狙ったときがそうであったように、おらくピンポイントで狙うだろう」と書いている。しかし、ピンポイント攻撃といってもそんなに簡単にうまくいくだろうか。また要人を始末するだけで方がつくのだろうか。イラク戦争も、アメリカ軍はそれ式で行なったが、サダム・フセインはやっと探しあてて捕らえることができ、その息子たちも殺害し、要人を捕らえることもできはしたが、そのために、要人や軍事施設だけでなく、多くの無辜の市民が犠牲になり、多くの無関係な住居や民間施設が破壊されたし、そのうえ、戦乱は未だに収まりがついてはいない。

北朝鮮では、金正日はどこに居るのかわからないことがあるし、要人の居所やミサイル基地・核施設など軍事基地をピンポイント攻撃するといっても、人工衛星なんかでは地下や洞窟などに隠されているものは、どこにあるのか判ったものではないのである。判らないかぎりは、そこが怪しいと思えば、たとえ不確かであっても手当りしだいに攻撃せざるを得ないことになり、結果的に多くの無関係な施設が破壊され無関係な人々が犠牲にされるということになる。

どこからかミサイルが発射されれば、(テポドン2号は失敗してアメリカ本土には飛んでこなくても)日本にはノドンが飛んでくるし、それを「ミサイル防衛」で迎撃するといっても、すべて百発百中うち落とせるものではないし、打ち損じや打ちもらしのほうが多いかもしれない。そのミサイルには核弾頭か生物化学兵器など大量破壊兵器が付いているかもしれない。もしそうだとすれば、東京その他の人口密集地、原発、石油・ガスタンクなど危険物貯蔵施設に着弾すれば大惨事となる。ただし、イラクのように大量破壊兵器は実は一個も持っていなかったというわけでもないだろうが、予想したほど大したことはないのかもしれない。しかし、核ミサイルは飛んでこなくても、かつての日本軍がアメリカに対抗したのと同様に、玉砕戦法や特攻作戦(自爆攻撃)で死に物狂いの抵抗をくりひろげるといったことも無きにしも非ずである。

黄氏は、金正日は自分の命がいたましくて戦争を避け、反撃命令は下さず、軍部が独走することもあり得ないと述べているが、だからといって大丈夫だということになるのか。イラクのフセインと軍部はまさにそうで、正規軍による反撃は大して行なわれなくても、ゲリラやテロ攻撃はやまず未だに続いている。

だから北朝鮮(金正日)を追い詰めるだけ追い詰めて暴発を誘う結果になってもかまわないとか、武力行使を仕掛けてもいいから「やれ、やってしまえ」などと簡単に言うわけにはいかないのである。

したがって、体制転覆(政権打倒)を視野に経済制裁や軍事にシフトするのではなく、あくまで現政権との対話(相手側の言い分に対しても聞く耳を持ち、求めにも応ずる対話と交渉)を基本にして相対するようにしなければならないわけである。

4、戦争する覚悟か、しない覚悟か

「テポドンが飛んできたらどうする」(日本が攻撃されたらどうする)とは、覚悟を迫る言葉であるとも考えられる。その場合、そんなこと(攻撃)はあり得ないものとして(或は万々一それがあったとしても)現行憲法を守って不戦・非軍事を貫くまでだということだとするならば、そのリスクに対する覚悟はどれだけあるのか。それとも、いつどのように攻撃されてもいいように軍備(陸海空の戦力)を整えて応戦(交戦)できるようにしておく(改憲)すなわち戦争するということだとすれば、そのリスクに対する覚悟はどれだけあるのか。ということで、護憲派・改憲派それぞれに覚悟の程が問われているものと考えられる。

漫才タレント「爆笑問題」の太田氏は(「憲法九条を世界遺産に」で)そのことを(どちらかと言えば改憲派に覚悟が乏しいのではと)指摘しているが、改憲派の方こそ覚悟が求められよう。

それはなぜかというと、改憲は戦争を(「自衛戦争」とか「制裁戦争」として)容認することであり、戦争することによるリスク(戦災・惨害など、自国だけでなく相手国・周辺諸国がこうむる損害)を覚悟しなければならないが、そのリスクは、護憲すなわち9条を守って不戦・非軍事に徹する場合のリスクの度合いよりもはるかに大きいと考えられるからである。

護憲すなわち不戦・非軍事で行く場合のリスクとは、(北朝鮮なり中国なりロシアなり)他国の軍勢の侵入(ほとんどあり得ないことであるが、仮にあるとするならば、それに)に対して(自衛隊はあっても交戦はひかえ)いわば無血開城し、日本は占領下に置かれることになり、国民は占領軍の統制下に置かれて不自由を強いられ、土地や財産の提供・あけ渡しを強いられるということ。それに、その侵略国と占領下の日本に対して諸国による制裁・海上封鎖・貿易の停止が行なわれ、海外からの食料・エネルギー・資源・原材料その他諸商品の輸入が途絶えて日本国民は欠乏、耐乏生活を強いられることになるということである。しかし、その占領は長くは続かず、日本国民の辛抱もしばらくすれば終わるだろう。なぜなら、諸国による経済制裁で、日本国民もさることながら、占領軍兵士も欠乏・空腹に悩まされ耐え切れなくなるからである。この占領軍は、兵員の食料その他の生活必需品は、かつて米軍が日本を占領した時のように、それらを豊な本国から、制海権・制空権を握って自由に運べるのとは異なり、かつて日本軍が中国・東南アジアを占領した時のように現地調達に頼らざるを得ないのだが、彼らによる占領下の日本では輸入ストップによってデパート・スーパー・コンビニの商品は空っぽになり、工場の原料・資材倉庫も、燃料貯蔵タンクも空っぽ、生産・取引・物流も、営業・操業も何もかもストップというありさまになる。占領軍は日本国民をどんなに生産・労働に駆り立てて搾取・横取りしようにも搾取・横取りする物がなく、(ナポレオンのロシア遠征のときのように)欠乏・飢えに襲われ早晩耐えきれなくなって、結局は空しく撤退せざるを得なくなる。

四方海に囲まれ、ろくに資源も無いこのような国をわざわざ占領してみたところで、何の利益にもならないどころかリスク・損失のほうが大きく全く引き合わない。そのようなことは初めからわかりきったことなのである。だからこそ、日本は、戦わない国で軍備が手薄だからといって、たやすく侵略され占領されるなどと、そんなことはあり得ない話なのだ。要するに不戦・非軍事国家である日本は攻撃されることも侵略されることもあり得ないということ。

それに対して改憲によって可戦・軍備国家となり、攻撃されたら応戦するということになったら、(北朝鮮にしても中国にしても、普通であれば日本に戦争を仕掛けてくることはあり得ないのだが)偶発的な事件から(暴発して)全面衝突すなわち戦争になるということは、あり得ないことではなくなる。また、交戦すれば(即ち殺しあい破壊しあう、ということになれば)、応戦せずに無血開城し占領下に置かれて強いられる不自由や欠乏・飢餓などのリスク以上に悲惨な事態―大量の死傷者が生じ、街は焦土に化し、建造物は灰燼・瓦礫に帰す、といった事態―を覚悟しなければならないだけではなく、子々孫々にわたって怨みを残すということも覚悟しなければならないことになる。

それらのことを考えれば、護憲(非戦)によるリスクよりも改憲(戦争容認)のリスクの方が、はるかに大きいのであって、そのリスクを改憲派は覚悟しなければならないということなのだ。改憲して、戦力も交戦権も集団的自衛権行使も認めて、アメリカとともに堂々と戦えるようにし、テポドンが撃ち込まれたら反撃して戦うのだなどと、いかに勇ましいことを言っても、いったいそのリスクを覚悟し、戦争の結果に対して責任を負えるのかということで、むしろ改憲派のほうこそ覚悟が求められるのである。「戦争したらどうなるのか―どういう事態が生まれるか―わかっているのか」と。(特に若い世代のなかには、戦争といってもゲーム感覚の域を出ないという向きが少なくないのでは?爆笑問題の二人はともかく、安倍晋三という人はどうなのだろう?ピンポイント攻撃で要人を狙えば方はつくかのようなことを書いているが。彼は歴史教育で悲惨な実態・被害事実・加害事実を教えることを自虐だとして否定しているからには、それらのことを自分も知ろうとしない。だとすれば、戦争の悲惨をよく知らないのだ、とは云えないだろうか。私はそれらを極力教えようとして教材研究に努めただけに、彼よりは知っている、とは云わないまでも、防空壕の暗闇は知っている。その中で震えていたのだから。)

2006年10月23日

テポドンが飛んできたらどうする?(その4)

(1)何をするかわからない国?

 「北朝鮮は何をするかわからない国だ」とよくいわれるが、その言い方には気をつけなければならない。なぜかといえば、それは次のような理由からである。

 あの国は所詮「何をするかわからない国だ」とか、はなから「ならず者国家」と決めつけ、相手の真意や客観的な原因・理由はどこにあるのかを考えずに、或はまた、どうせ理性の通じない相手だから話し合っても無駄だとして外交交渉や協議には応じないか、「対話と圧力」といいながら対話はあっさり諦め、結局は「対話より圧力だ」とばかりに経済制裁・軍事対応にはしる。それがかえって相手の暴発を誘い戦争を呼び込む結果となる。「いったい何を考えているのかわからない」とか、「何をするかわからない」からといって事態を読み間違えたらとんでもないことになるのだ。

 「何をするかわからない」といっても、テロ・拉致・ニセ札・麻薬密売など、かの国がやっているようなことは、かつては我が国でもやっていたことなのである。日清戦争後に朝鮮で起きた閔妃暗殺事件や満州で事変前に起きた張作霖爆殺事件などのテロ、日中戦争・太平洋戦争中に行なわれた強制連行や従軍慰安婦集めに伴った拉致、これらは疑いのない事実である。それに日本軍は占領地域で物資の現地調達のため軍票(お金の代りに、戦争が終わったら現地通貨で精算するという約束で渡す)を使ったが、中国では日本軍製造のニセ札も使われ、その額は軍票発行額を上回る40億元にのぼった。(軍票も結局は戦争が終わっても精算されず紙屑と化している。)また、日本は中国でアヘンから麻薬を製造し東南アジアの占領地でも販売したが、それは占領地で財政収入を確保するため国策として公然と行なわれた。

 謀略は戦時下、あるいは冷戦下では韓国側もやっており、アメリカもCIAの手で行なっているのである。

 朝鮮戦争は、停戦協定が結ばれて休戦はしているが、戦争そのものは終結しておらず、韓国・北朝鮮双方とも秘密工作員を潜入させている。それにともなって拉致がおこなわれた。日本は朝鮮戦争中、米軍の出撃基地および物資の補給基地となり、その後も米軍に基地を提供し続け、韓国とだけ国交正常化した。北朝鮮は拉致してきた日本人を教官にして工作員に日本語と日本の生活習慣を教え込ませ、日本人になりすました工作員を日本や韓国に送り込んだのである。

 アメリカは国連の承認を得ずにイラクに先制攻撃をかけたり、包括的核実験禁止条約・国際刑事裁判所・地球温暖化防止条約などに批准せず単独行動をとるが、チョムスキー氏(マサチューセッツ工科大教授)などは、そのようなアメリカこそが「ならず者国家だ」と述べているという。

 ただ、「目的のためには手段を選ばない」といっても、「ならず者」の場合は手段のみならず目的そのものが己の欲望の達成であり、正当性など意に介さないのに対して、アメリカやかつての日本の場合は、「国益のため」だとか「自存自衛のため」といった大義名分すなわち自分の目的を正当化するものをもっている、そこが「ならず者」と違うところだろう。その点、北朝鮮はどうだろうか。

 北朝鮮はいったい何を目的にしているのか。まさか、第二次朝鮮戦争をおこしてアメリカ・韓国を打ち破り、朝鮮半島を統一するとか、或は日本をかつてとは逆に併合して植民地にするとか、金正日にそんな野望があるのかといえば、それは考えにくい。彼が欲しているのは、むしろ、最大の敵対国アメリカから攻撃されて滅ぼされないように自国の安全(体制の存続)を保証してもらうことであり、そのための相互不可侵協定・平和条約の締結であろう。(だから北朝鮮にとって必要なのはあくまでも米朝交渉なのであって、六カ国協議などアメリカ以外の国と話し合ってもあまりたいした意味はないと思っているのではないか?)そしてアメリカがそれを拒否するかぎり、自らの力で国家体制の維持をはかる以外にないとの思いで、「自衛抑止のために」と核・ミサイルを持とうとしている。それこそが、北朝鮮が核とミサイルに執着する理由なのではあるまいか。

 朝鮮戦争では中国の援軍を得てアメリカ・韓国両軍を相手に戦って停戦はしたものの、半世紀もの間、両国とは未だに敵対関係が続いている。この間、ソ連が健在のうちは、その核の傘にはいり、軍事・経済援助が得られた。しかしソ連が崩壊して以来、軍事・経済ともに韓国に大きく水をあけられ、いまや食うや食わずの有様であり、圧倒的に優位にたつアメリカ・日本・韓国を前にして、もはやロシア・中国もあてにはならない。(それでも、そのような大国には頼らずに自主の立場を貫くというのが主体思想なのであろう。)だとすれば、頼れるものは自前の核兵器とミサイル以外にないということになる。イラクは核兵器を持たなかったばかりにアメリカから攻撃されて、あえなく崩壊したではないか、というわけである。

 アメリカ人的な合理主義的発想からすれば、「国民を飢えさせてまで、核兵器に金を使うなんて」となるのだろうが、かつての日本は米英などのABCD包囲網・経済封鎖に抗して真珠湾に先制奇襲攻撃をかけて開戦し、「欲しがりません、勝つまでは」「一億玉砕」と号しながら最後まで戦おうとしたのではなかったか。

 「先軍政治」(軍事最優先主義)もかつての日本の軍国主義と似たようなものであり、神格化した世襲権力者の下での軍部独裁もかつての日本と似たようなものである。

 また、合理的発想からすれば、アメリカなど5大国が自分たちだけで核を独占しておいて、それ以外の国々に対して禁じているNPT(核拡散防止条約)には不合理があるし、アメリカなど圧倒的に優勢な敵対国に対して自存自衛のための抑止力として核を持つ権利があるという言い分には理があるだろう。(しかしそれは、どんな国であっても、皆殺し兵器であり悪魔の兵器ともいうべき核兵器を持つこと自体が間違っているのであって、5大国が核兵器を独占して持ち続けているのは確かに間違っているが、だからといって、アメリカが持っているから、こっちも持ってよいということにはならないわけである。)

 このように考えると、「北朝鮮は何をするかわからない」不可解な国だなどとは一概に言えないのである。

 いずれにしろ、はなから「わからない国」だと決めつけてかかって、相手の心を読み違え、事態を読み間違えたらとんでもないことになる。

 それでは、北朝鮮の指導者の考えをどのように読んで、どのように対応すればよいのか、はたしてテポドンは飛んでくるのか、次に論じてみたい。

(2)肝心なのは和平とかの国の安全保証

 「ならず者国家」だから「何をするかわからない」と決めつけて、相手の真意や客観的な原因・理由に考えを及ぼすことなく、ただ、自国の都合や国益からだけ考え、自分の要求(核・ミサイルを放棄せよとか、拉致被害者を帰せとか)を相手に応じさせることばかり考えて、それにはこの方が効果的だとか、戦略的にこの方が得策だとかいって評価する。

 韓国―これもその国の置かれている立場をよく考えずに―その包容政策(「太陽政策」)は相手をただひたすらなだめすかすやり方で甘いとか、日本の「対話と圧力」(「アメとムチ」)政策は相手をおどしたりすかしたりするやり方だが、どうも中途半端だとか、いくら話し合ってもどうせ無駄なのであって、そのような相手は痛い目にあわせるか苦しい目にあわせるしかないのだから制裁・圧力でいくしかないのだとか。

 相手の立場や事情をよく考えずに、自分の都合だけで判断するのでは、けっして問題は解決しないだろう。

 相手の真意を読み取るということは、相手の立場に立って考えてみるということだ。

 そうして考えてみると、北朝鮮にとってアメリカは、韓国とともに朝鮮戦争以来の敵国なのであり、日本も、以前、植民地支配をおこなって朝鮮人を苦しめ、その清算を未だに果たしておらず、敵国アメリカに基地を提供し、韓国とだけ国交を結んで経済協力をおこなっている敵国以外のなにものでもない、というわけである。

 北朝鮮は、これらの敵国を前にして、かつては背後にソ連と中国がひかえていて「後ろ盾」・「核の傘」として頼りにしてきたが、今ではソ連は崩壊し、ロシアも、中国までも、韓国と国交を結んで、あてにはできなくなった。こうなると北朝鮮国家の存在を維持するためには、アメリカ・日本・韓国と和平を結んで国家存続を保証してもらうほかなく、それが適わないならば自ら核・ミサイルを保有してそれにすがるしかないと。

 日米韓3国と和平し国交正常化して敵対関係がなくなれば、核もミサイルも先軍政治も要らなくなり、民衆生活の方に金を回すことができるようになる。それに秘密工作員なども要らなくなって、拉致した日本人・韓国人も解放できるようになるのだ、ということなのだろう。

 だから、なんとしても米朝交渉・日朝交渉・南北会談を求めてやまない、というのが本音なのではないだろうか。

 我々には相手の立場から見たこのような視点も必要なのではあるまいか。相手の言動を誤解し、事態を読み間違えないようにするために。

(3)経済制裁は武力行使よりはまし?

 武力行使にうったえたり、戦争をしてもらっては困るが、経済制裁なら血を見ないで済むし、かまわないだろうと安易に考えている向きがあるだろう。

 経済制裁とは、いわば「兵糧攻め」であって戦争に際する一つの戦術にほかならないわけであり、また「真綿で首を絞める」ようにじわりじわりと時間をかけて死に追いやる、というやり方であろう。

 上層部のためのぜいたく品だけでなく、食料や電気や燃料、医薬品、生活必需品など、一般民衆の方にしわ寄せがいき、なんの罪もない多くの人々が災禍をこうむる。

 制裁を加える側の国民は、自分たちは安全圏にいて何の苦痛も死の危険にもあわない。

 その意味ではかえって相手国民に対して非人道的だと云えないだろうか。のちのち民族的恨みをかわずにはおかないだろう。

 そんなことだったら、それにその責任は最高権力者や権力担当者たちにあるというのであれば、いっそのことその要人を暗殺するとか、官邸や軍施設だけに限定してピンポイント攻撃をかけるなど武力行使の方がましだ、ということにならないか。しかし、それでうまくいけばよいが、その限定攻撃が全面戦争に発展して自国や味方の兵員・民間人まで大量の犠牲者が出てしまっては困るわけである。

 だとしたら経済制裁でもやむをえない、ということになるのだろうか。

 尚、湾岸戦争とイラク戦争の間、国連はフセイン政権に対して経済制裁をずうっと掛け続けたが、その間の死者は100万人にものぼるといわれる。(うち半数は子ども)

 それは、当初は全面制裁であったが、後半からは食糧・医薬品などの人道物資の輸入は許可して、その代金をまかなうだけの量に限定した石油の一部輸出も許可するようになり、その後、軍事転用に可能なもの以外の他の民生物資の輸入も許可されていった。豊富な石油産出がこの国の強みであった。

 北朝鮮の場合、どういうことになるのだろうか。

(4)3つの岐路

 (その1~3)で、テポドン(日本の距離ではノドン)が実際に飛んでくることは、こちらから仕掛けないかぎりあり得ないが、国連の制裁決議に中国までが同調して全面的制裁におよび船舶の臨検・海上封鎖・武力行使の容認というところまで追い込まれたら、「窮鼠猫を噛む」で、暴発して飛んでくることはあり得ると記した。

 この間、7月、北朝鮮はミサイル連射実験をおこない、これに対して日本政府は万景峰号の入港禁止など制裁措置をおこない、国連安保理は非難決議をおこなった。そして今月に入って北朝鮮はついに核実験を強行、これに対して日本は独自に北朝鮮の全船舶の入港禁止、全品目の貿易禁止、「在日」以外のすべての同国人の入国禁止、同国企業への送金停止など全面制裁に近い経済制裁に踏み切った。そして国連安保理は制裁決議をおこない、北朝鮮に関わる核・ミサイル計画に関連する人・物・技術の移転・輸出入の禁止、その他大型の兵器・ぜいたく品の禁輸、北朝鮮に出入りする船舶に対する各国それぞれに応じた臨検など制裁措置を講じることが決まった。ただし、安保理決議は「外交努力を強化し、緊張を激化させる行動を慎む」とし「兵力の使用を伴わない」という断り書きを付けており、海上封鎖や武力行使を容認するところまでは至っていない。

 この間、関係各国とも、また国連安保理決議でも、北朝鮮に対して六カ国協議への無条件復帰を要求してきたが、北朝鮮は、今のところ安保理決議の受け入れは拒否し、アメリカの金融制裁解除と米朝直接交渉にこだわり、それにアメリカは応じず、日本も経済制裁をエスカレートさせ、中国・ロシア・韓国も安保理決議に呼応して、同一行動ではないが協調行動をとりつつある。それに対して北朝鮮は制裁決議を「宣戦布告だ」として「物理的な対抗措置(再度の核実験かテポドン発射実験の強行と見られる)をとる」などと開き直りの言動をみせている。

 まさに、「その時」が刻一刻と近づいている、といった感がある。北朝鮮とアメリカ、それに韓国・日本・中国とも、今や岐路に立たされている。それは次のような三つの岐路であると考えられる。

 ①金正日が自ら決断するか、政変(金正日が亡命するなど)が起きて新政権が決断し、制裁に屈して  六カ国協議に無条件復帰し、核・ミサイル放棄を受け入れるか

 ②北朝鮮側の要求する米朝直接交渉にアメリカが応じるか

 ③アメリカは米朝直接交渉にも金融制裁解除にも応じず、また、北朝鮮は安保理決議にも六カ国協議にも応じず、そのまま再度の核・ミサイル実験を強行し、それに対して国連安保理が新たな制裁決議をおこなって全面的制裁・海上封鎖・武力行使の容認に踏み切り、それが実行された段階で、北朝鮮は屈服をいさぎよしとせずに暴発、開戦に至るか。
 尚、1994年、クリントン政権当時、北朝鮮がIAEA(国際原子力機関)の査察を拒みNPT(核拡散防止条約)から脱退しようとしたのに対して、北朝鮮の核施設空爆を計画したが、その時のシュミレーションでは全面戦争に発展すれば、死者は韓国の民間人100万人、韓国兵49万人、米兵5万2千人に達すると予測され、結局、空爆計画は断念した。そこでカーター元大統領が訪朝して金日成と会談し、米朝枠組み合意(代替施設の建設・重油の提供などと引きかえに核開発を凍結)が成立した。しかしブッシュ政権になって、一般教書で北朝鮮を「悪の枢軸」と断じて対決姿勢に転じ、北朝鮮も核開発再開へと舵を切ったのである。

 今三つの岐路のうち、①の方向に行けば一番よいわけであるが、③の方向に行ってしまったら最悪ということになる。

 今のところブッシュ政権は②に応ずることは頑なに拒み、①を期待しつつも③を覚悟しているのだろう。安倍政権もその方向であり、国会では、与党などは③と決め込んでいるかのように、専ら制裁にともなう臨検(それはアメリカならば沿岸警備隊、日本ならば海上保安庁がやるべきものであって、自衛隊がやるべきものではない)に自衛隊が周辺事態法の適用その他によって米海軍とともにどのように対応するか、といったことが議論され、「ミサイル防衛」を急げなどと軍事対応におおわらわのようである。あげくのはては核武装論までとび出すしまつ。

 中川昭一議員は「日本も核保有の議論はあっていい」(ということは日本にも核武装という選択肢があってもよいということになる)として、いわく「核があることで攻められる可能性が低い、或はない。やればやり返すという論理は当然あり得る」と。お互いに核を持てば攻められないという「相互確証破壊」の論理は、やぶれかぶれになって「死なばもろとも」とばかり挑みかかってくる相手には通用しないのだ、ということが解っていない。

 ともあれ、日本にとっては、戦争だけは絶対に避け、日朝ピョンヤン宣言と昨年9月の六カ国協議における共同声明に基づいて外交交渉によって解決する。それ以外にないのである。

 六カ国協議の共同声明とは、次のようなことなのである。

 ①目標は朝鮮半島の検証可能な非核化であることを再確認。

 ②北朝鮮はすべての核兵器および既存の核計画を放棄、NPTに復帰し、IAEAの保障措置に早期に   復帰することを約束する。5カ国が北朝鮮に原発用軽水炉を提供する問題については適当な時期に  議論する。(エネルギー支援も)

 ③アメリカは北朝鮮を核兵器や通常兵器で攻撃・侵略する意図はないことを確認。  

 ④米朝両国は相互の主権を尊重し、平和に共存し、関係正常化のための措置をとる。

 ⑤日朝両国はピョンヤン宣言に従って過去を清算し、懸案の事項を解決し、国交正常化のための措   置をとる。
 尚、これらの中でいちばん肝心なのは、③④⑤であり、これらの方が先決課題なのではあるまいか。つまり、北朝鮮側の核の放棄が先か、日米側による北朝鮮国家の安全保証と和平・国交正常化の方が先か、アメリカなどは前者の方が先だとしてそれにこだわるが、どちらかといえば、むしろ後者の方が先なのではないだろうか。アメリカにとっては北朝鮮が大量破壊兵器の拡散さえやめてくれれば、あとはどうでもよく(北朝鮮なんかと国交正常化や貿易などしなくてもどうということはないし)、日本にしても拉致問題さえ解決できれば国交正常化などしなくても、といった思いがあるのだろうが、弱小国である北朝鮮からすれば国民の生存権がかかっている和平と国家の存続・安全の保証は必要不可欠なのであり、それさえ保証されれば(核・ミサイルも先軍政治も不要になる)、ということなのではないか。但し、核放棄の約束だけは前提として必要であり、約束しさえすれば国家安全の保証措置をとることにする。約束を破れば、保証は取り消し措置は中止するまでのこと。

 いずれにしても、これら①~⑤のことは既に合意していることなのである。この方向に従って包括的に(どれを先にということではなく、同時並行的に)交渉を進めていけばよいのである。

 日本はピョンヤン宣言に基づいて日朝協議を再開し、国交正常化とその他のことを包括的に話し合い、拉致問題の解決(真相解明、被害者の帰国、被害者への謝罪と補償、責任者の処罰など決着)をはかる。

 北朝鮮の国家体制がそのままであれば、その闇も残り、その中で拉致問題はうやむやにされる心配もあるが、国交正常化によって国が開かれ、信頼関係が改善されれば、かえって事が明るみになり進展する可能性もある。それとも、むしろ体制崩壊が起これば闇は消え去り全てが明るみになって拉致被害者はみんな解放されるかもしれないとも考えられるが、体制崩壊も、戦乱をともなわないソフト・ランディング(改革・開放など)ならよいが、戦乱になれば彼らの命がどうなるか判らないわけである。とにかくリスクの少ない方に賭けるしかないわけである。

 北朝鮮をめぐって我が国も各国も岐路に立たされているが、とにもかくにも戦乱だけは避けて欲しい。暴発してテポドンが飛んでくることのないようにしなければならないのである。

2006年11月17日

教育基本法「改正」で孫が心配

(1)孫と私
 私は、孫が一人前の人間として生きていけるようになってもらいたいものだと、ひたすら願っている。
 孫は、今は幼稚園。風邪などでたまに休む以外には、毎日元気で楽しそうに登園している。たまに、「今日、○○君からちょっといじめられた」と云ったりすることはあるが、後に尾を引くようなことはなく、その子とも毎日行き帰り手をつないで同行している。
 しかし、上の子は来年から、下の子は再来年から小学校に入学する。二人とも私が怒鳴ると大声で泣くか、ちょっとのことで泣く。どうやら私に似て小心者で傷つき易い性格のようだ。
 私は、幼児期は戦争時代で、終戦翌年に小学校に入学し、その翌年制定された新教育基本法の下で教育を受け、大学を卒業して教員になり、高校教育に携わりもした。小中学校時代は父の転勤や死去にともなって何回か転校し、その度に辛い思いをしたが、その不安はいずれも初日だけで終わってあとは何の苦もなく学校を過ごし、皆勤賞をもらって小中学校とも卒業した。中学・高校ではテスト「番付」があって、中学の時は上位の方だったので平気だったが、高校では惨めだった。高校は運動会も修学旅行もないような学校だった。卒業後、中学校のクラス会には出ているが、高校のクラス会はなく同窓会には(集まるのは「偉い先生や偉くなった人ばかり」で近づきがたくて)一回も出たことがない。進学・就職は実に不安だったが、結果的にはどうにかなった。(高校卒業と同時に大学に入学し、育英会の奨学金をもらって4年間在学し、卒業して直ぐに教職に就いて在職を続けたので奨学金返還は免除になった。)
 私が担任をしたクラスの同級会には勿論出席しているが、出席しない教え子はいる。その同級会の席上、出席した教え子同士で「お前からいじめられたものだ」「そうだったかな」といった対話が聞かれることもあるし、この私が「先生からは、ろくな指導をしてもらわなかった」と口説かれることもある。在学中、「卒業したら同級会に皆集まれるようなクラスになろう」と呼びかけたことがあったクラスは未だに一回も同級会を開いていない。
 退職して数年たつが、卒業生の奥さんから「息子が不登校で困っているのですが、どうしたらいいでしょうか」といった電話相談をうけることもある。

 それにつけても、これから小学校に入る私の孫たちは一体どうなるのだろうか。

(2)教育基本法からの逸脱とその結果
 教育基本法は、しだいに、その精神(教育権は国民に、機会均等、行政は教育条件の整備に限定、一人ひとりの人格の完成をめざすなど)とは裏腹の文教政策や行政措置が講じられようになり、基本法はないがしろにされ、形骸化・空洞化されていった。そこには歴代の自民党政府の思惑があるわけである。基本法制定にともなって発足した地域住民による公選制の教育委員会は、公選は3回あっただけで廃止され、自治体首長が任命(県教育長は文部大臣、市町村の教育長は県教委が承認)する教育委員会に切り換えられて上意下達の機関に化し、中央集権が復活する。公立学校では教員の勤務評定が行なわれるようになり、近年は「S・A・B・C・D」といった教員の5段階評価が行なわれ、人事異動はもとより、それによって給料を上げたり下げたりするまでになってきているという。学習指導要領は当初は「試案」とされ、自主カリキュラムの「手引き」にすぎずなかったものが、法的拘束力を帯びるようになっていくし、授業は自主教材でおこない、教科書は参考書にすぎなかったものが、「教科書どおりに」というようになっていった。(私はずうっとプリント教材その他で授業をおこない、教科書は参考書あつかいにしていたが、生徒は教科書にとらわれていたようだ。)教科書検定・採択の問題ももちあがるようになった。また、当初、文部省は高校には志願者すべてを入学させるべきものとし、選抜試験(入試)は施設が限られているが故の「やむをえない害悪であって」、経済が復興し、施設が充足できるようになったら「直ちに無くすべきもの」としていたのに(1949年、文部省学校教育局「新制中学校・新制高等学校運営の指針」)、志願者が定員を超えなくても入試はやるということになった(1963年)。高校・大学とも序列化し入試競争は激化の一途をたどる。
 1966年文部省の諮問機関(中央教育審議会)が(「期待される人間像」に)人材としての「日本人の育成」を打ち出した。
 ところが70年に「落ちこぼれ」、70年代半ばに「校内暴力」、80年に「登校拒否」(不登校)、80年代半ばに「いじめ自殺」(今、再び起きている)、80年代後半に性非行、少年犯罪の凶悪化、90年代には教員の精神疾患、といったように各年代に問題が持ち上がるようになっていった。
2002年、中教審は「世界規模の大競争の激化」のなかで「国際競争力の強化」が必要であるとし、「人材」としての「能力」の養成を教育の目的とすべきだと、教育基本法「改正」との関連で提起。
近年は新自由主義(反福祉国家路線)の立場から学校教育に市場原理(企業の論理)が導入されるようになって学校教育がサービス産業と同然にみなされる傾向が生じるとともに、公教育にも競争主義・効率主義・成果主義が横行するようになった。大学合格率アップ、「いじめ」・「不登校」の件数「半減」とか「ゼロ」とかの数値目標を学校や教員に課して実績を報告させ評価する、といったことが行なわれるようになった。
最近問題化した「いじめゼロ」報告や高校必修科目履修漏れ(便宜的虚偽報告)は、その結果であろう。(首相や文相はそれを「規範意識の欠如だ」などと、校長と教員の責任を強調しているが。)
国連の子ども権利委員会から、日本では「極度に競争的な教育制度のため、子どもが発達の歪みにさらされている」と日本政府が勧告を受けているのである。
ところが、日本は、以前は「学力大国」といわれていたのに、今では「二流国」。「学力の格差の広がりに直面している。」(10,19付け朝日社説)
日本は先進諸国の中で、公教育への支出額はGDP比では最低水準にあるのだという。
尚、学力世界一のフィンランドは1クラス20人前後の少人数学級で、競争や順位づけはおこなわない。教育への国の財政支出はGDP比が日本は4,7%であるのに対して6%。大学まで無償。日本の教育は基本法から遠ざかってきたが、フィンランドは1960年代の教育改革以来、日本の教育基本法を参考にして教育をおこなってきたという(早大名誉教授の中嶋氏)。
北大の伝田助教授のグループによる(3000人以上の小中学生を対象とする)調査では、抑うつ傾向のある(「何をしても楽しくない」「生きていても仕方ないと思う」など、うつ病になるリスクをもっている)小中学生は平均13%、中学生22,8%、中学3年生30%ということだそうである。
 最近、生徒の「いじめ」自殺が再び連続しているが、校長・教師の自殺もかつてなく頻発しているのである。
 先生も生徒も競争と評価と時間のプレッシャーでストレスが高じているのだ。それに卒業式・入学式ともなれば「日の丸」「君が代」が付きまとう。それを国家主義的強制と感じる人にとっては、それらもストレスの種になる。
 私が教職に就いた学校は私立だったので、比較的自由にやることができた。教務手帳には建学の精神とともに教育基本法が載っていたし、私自身の手で基本法の「教育目的」の条文を大書して職員室の壁に貼り付けたりしたことがあった。
しかし我が校には、基本法がよく行き届いていて、いじめ・不登校・非行その他どの学校にもあるような問題は無かったのかといえば、勿論そういうわけではない。私のクラスにも一時学校に来れないという生徒はいたし、中途退学をした生徒もいた。
また、我が子も、学校時代に問題を起こしたことがあった。今は、一人は大学を出て精神医療にたずさわり、もう一人は短大を出て幼児教育にたずさわっているが。

(3)教育基本法の方を変えようとする政府
いじめ・校内暴力・学級崩壊・家庭内暴力・自殺・少年犯罪事件の多発、学力低下など、現下の問題は愛国心を叩き込むとか道徳心・公共心など心の持ち方だけで解決できるものではない。
いじめや自殺は子どもや学校内に限ったことではなく、大人社会でもあるし、増えているのだ。自殺の原因は経済的困難・リストラなど以外に「能力が認められない」「上司からのいやがらせ」「仲間はずれ(孤立)」「ちょっとした注意など他人の一言で全人格を否定されたと受け取ってしまう」といったところにもあるという。過度のストレスや抑うつを生じさせる、ゆとりと人間関係の温かみを失った社会に問題があるのだ。
子どもたちを取り巻く教育環境(社会環境)は教育基本法制定当時とは確かにガラリと変わってはきている。テレビ・パソコン=インターネット・携帯電話などの情報機器やゲーム機器、消費文化の過剰発達、余暇の過ごし方・遊び方、家族・地域社会のあり方(疎遠に)、競争主義の風潮、家事・家業・就労形態の変化など。これら社会の激変は政府の経済産業政策と資本主義発展の結果なのであって、それら社会環境の悪化や社会の病理は教育基本法を変えてそれに愛国心・道徳心など盛り込んだからといってどうにもなるものではあるまい。
教育基本法は前文とわずか11カ条からなり、先生や親たちが子どもや国民にたいして教育を行なうにあたっての基本的な心構え(理念)を定め、国や地方の行政が為すべきこと(為すべきでないこと)等の大原則を定めたものなのであって、先生の教え方や教える内容を、具体的に「こう教えよ」とか「こういうことをお教えよ」などと定めているのではない。また、かつての教育勅語のように徳目(道徳目標)を定めたものでもないのである。
 したがって今、子どもや教育をめぐってもちあがっている深刻な問題は教育基本法には何の原因もないどころか、むしろ基本法の理念と原則に従ってやるべきことをやらず、やるべきでない余計なことをやってきたからこそ問題が起こっているのである。
 ところが安倍政権は「教育再生」を掲げ、「教育改革を進めていくうえにおいても、速やかに教育基本法の成立をはかりたい」として、教育基本法の方を変え、それに愛国心や公徳心を盛り込み、文科省以下の教育行政機関が(立法措置を通じて)「教え方」や教育内容に無制限に介入できるようにしようとしているのである。(この教育基本法改正案については、このホーム=ページの6月号の「どうして賛成か、反対か―心情から(そのⅡ)」で既に論評した。)改正案は前の通常国会で継続審議あつかいになっていたが、この臨時国会で安倍政権にとって最重要法案として再び取り上げられた。
 安倍首相の持論では教育の目的は「志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」(「美しい国へ」)としており、この改正案では、教育の目的として「人格の完成をめざし、・・・国家および社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわなければならない」として、現行のものにはない「必要な資質を備えた」という言葉を付け加えたうえ、「教育の目標」を幾つかにわたって書き加え、そのなかに「道徳心を培う」とか「国を愛する態度を養う」などと定めている。「必要な資質を備えた国民の育成」とは国家にとって必要な資質を備えた人材の育成ということになり、国家にとって必要な資質として、(国家にとって望ましい)「道徳心を培い」「国を愛する態度を養う」ことが「教育目標」として課せられ、それらの目標達成が義務づけられることになるわけである。(「人格の完成」はこれらの「教育目標」達成に矮小化されることになる。)現行の基本法では教育の主体は「われら」となっていて、あくまで国の主権者である国民が主体なのであるが、改正案では主体は国家になり、教育は国家のための道具に化すことになるわけである。 
 愛国心教育は既に学習指導要領に盛り込まれており(小学校6年生の社会科には「国を愛する心情を育てるようにする」という項目が入っており、中学の「道徳」には「郷土を愛し、国を愛する」という項目がある)それに対応して通知表の中に「国を愛する心情」をABCで評価する項目を設けている学校が現にあるのである。(先の国会における教育基本法特別委員会の審議でこの通知表問題をとりあげた野党の質問への答弁で小泉前首相は愛国心を「(通知表で)評価するのは難しい」「こういう項目はなくてもいい」と述べているが。)
これが基本法に教育目標として定められれば、法律としてはっきりした強制力をもつことになり、通知表に評価をつける、つけないはともかくとしても、国旗・国歌の卒業式・入学式にさいする起立・斉唱などに関する教育委員会通達や校長の職務命令・違反処分は合法化されることになる(先の東京地裁判決では違法とされたが)。
 文科省が道徳教育の副教材として作製した「心のノート」(既に全国の小中学校に配布されていて、中学校版にはその中に「この国を愛し、この国に生きる」という項目が盛り込まれている)は、今のところは、使用は強制ではないとしているが、改正案が通れば、それを使った授業は正式に義務付けられることになるわけである。
 現行基本法3条(教育の機会均等)は「すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」となっている。それは、一人ひとりの子ども(国民)の能力の発達の状況に応じて、内容や方法に充分な配慮がなされた教育が、すべての子どもに行なわれるということであって、すべての子どもに機械的に同一の内容・方法で行なうことを意味しない。ところが、この文言は、先天的・後天的能力の差異を理由に、能力があるとされる者には豊な教育を、能力がないか低いとされる者にはそれなりの教育を与えればよいのだと歪曲され、「1960年代以降に進行した教育の能力主義的再編の過程で、能力による教育機会の差別を正当化しようとする人々に利用されることもあった」という(浪本勝年編著「教育基本法を考える」北樹出版)。それで、学力による子どもたちの選抜・選別教育がおこなわれ、それにともなって偏差値による「輪切り」と受験指導が行なわれたりしてきたわけである。

しかし、教育の目的は一人ひとりの人格の完成であり、個々人の能力に差異があるとしても、それが当人の不利益とならないように、能力や発達の必要に応じた内容と方法とでどの子に対しても手抜きのない教育を保障する、そしてそのことによって個々人がそれぞれの方法で社会の一員として社会に参画できるように、その能力の発達の可能性を最大限伸ばしていくことこそが「人格の完成」という教育目的にそくした機会均等であるはずなのだ。

ところが改正案では、「『能力に応ずる』教育を受ける機会を与え」という文言を「『能力に応じた』教育を受ける機会を与え」と変えて、ただ単に、能力のある者には金のかかったレベルの高い教育を、能力のない者には金のかからないレベルの低い教育を、というふうに能力主義的選別教育を正当化し教育機会の差別-教育格差-を容認するものとなっているのである。
 現行基本法10条(教育行政)には(戦前・戦中の教育が国家権力の支配下におかれ、国民を戦争に駆り立てたことに対する痛苦の反省から、教育に対する国や行政の介入に歯止めをかけるために定められた)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである」という条項は、改正案では「国民全体に対し直接に責任を負って」という言葉が削除され、そこに「この法律及び他の法律の定めるところにより(行なわれるべきもの)」という言葉が付け加えられ、法律によって教育内容への無制限な介入が可能なことになる、一方「不当な支配に服することなく」の「不当な支配」とは教員組合や野党・市民団体などの方がそれと見なされるようになるわけである。
 改正案には「教育振興基本計画」の条項を新たに設け、政府や地方自治体が「教育の振興のため」と称して諸施策を計画することが認められている。そこで一斉学力テストその他が計画されることになるだろうし、そこに様々な数値目標が盛り込まれることになるだろう。学校長や教員はそれらの実行・目標達成・報告に追い立てられることになるわけである。
 安倍首相は、この基本法「改正」と平行して「教育改革」を断行すべく「教育再生会議」なるものを設け、各方面から有識者・著名人を集めて話し合わせている。それは、彼が「美しい国」とともに思いつき、やりたいと考えている学校選択制・教育バウチャー制度(入学したい学校を選択させ、その入学者数に応じて学校予算を配分する。不人気校は予算を削られ、或は廃校に追い込まれることになる)・学校評価制・6ヶ月間の奉仕活動義務付け・教員免許更新制(「ダメ教師は辞めていただく」というわけ)などの検討機関にほかならない。これらが基本法「改正」と平行して進められようとしているのである。
 これらによって競争教育はますます激しくなり、管理・統制はますます強化される。教育格差の拡大・固定化はますます進む(成績点数の高い学校の地域に所得の高い階層の人々が集まり、点数の低い学校の地域には所得の低い階層が集まる、といったことにもなる)。
生徒も先生も、プレッシャーがますます強まり、ストレスはますます高まることになるだろう。

(4)東京都の教基法「改正」の先取り 現行基本法の軽視あるいは無視、実質的な「改正」の先取りは石原都知事の下、東京都で既におこなわれている。そこで行なわれているものは学区全廃と学校選択制、一斉学力テスト、学校序列化、教職員の人事考課、中高一貫校の設立・複線化、特定イデオロギーで書かれた歴史・公民教科書の採択、そして卒業式・入学式での国旗・国歌の強制である。
 東京都で学校選択制を導入した市区(24市区)の中には入学者ゼロという学校が続出し、統廃合で消えてなくなった学校もあるという。
都と区の一斉学力テストの結果をもとに、学校予算を成績の良い学校には多く、悪い学校には少なく配分することにしている区もある(足立区)。
都立の各学校に学校経営計画を立てさせ、年度当初に進学率や部活の成果について数値目標を立て、都教委が学校ごとに比較検討し教員や予算を配分するということになっているのだそうである。
高校の必修科目履修漏れ問題は東京を含めて全国にわたっているが、これに関して石原都知事は「やっぱり目先の成績を上げるための、先生自身が点取り虫になっちゃったんだね」と述べているという。(11月11日付け朝日新聞「声」欄に寄せた都立高校教員の投稿「はしご外された校長が気の毒」)知事には責任がないかのようである。
 安倍政権が企図している教育改革は、18年前イギリスで行なわれたサッチャー政権のそれをモデルにして、東京都が先取り的に実施しているこれらを導入しようとするものであるが、当のイギリスでは既にその失敗が明らかになっているのだ。
東京都教委による国旗・国歌の強制は、東京地裁の判決では違憲・違法とされたが、教育基本法「改正」・改憲が行なわれたならば、これらはすべて・合憲・合法化され、石原都知事が既にやっており安倍政権がやりたいと思っている教育への権力の介入措置はすべて法的根拠が認められるようになり、それに従わない教師や生徒・親たち市民の方が罰せられることになるわけである。

(5)孫たちはいったいどうなる教育基本法が「改正」され、このようなことが本県でも大っぴらに行なわれるようになったら、うちの孫たちは一体どうなるのだろう・・・。
 学校で先生から、或は「みんな」から、「ああだ、こうだ」と構われ、テスト、テストで追い立てられ、番付が上がったり下がったり、戦々恐々、授業についていけるか、置いていかれないか、落ちこぼれないかとますます神経質になり、かりかり、いらいら、のびのびできずに心の余裕がなく、息が詰まっておかしくなるのでは。
 友だちは皆ライバル、勝つか負けるか、出し抜くか出し抜かれるか、仲間はずれにされるか、されないか、いじめられるか、いじめるか、びくびく、おどおど、皆の前では自由にものが言えない、友達にも本音で話しできずに、携帯でやりとり。 
 心優しさ、思いやり、大らかさ、人を差別せず、分け隔てなく接する温かみなど持てはしない。
 どこへ進学できるか、どこに就職でき、どこに所属できるか。どこにも所属できずにニートになるのか。日の丸・君が代にだけは反応し日本人意識にとらわれ、反日に対していきり立ち、いちいち国旗・国歌を持ち出すことを嫌う私を「じじいは非国民だ」とののしるようになるのか、それとも他から「じじいと同じでお前も反日だ、非国民だ」とののしられ、村八分(仲間はずれ)にされるのか。
 私が孫たちの行く末に安心していられるには、孫たちが、大きくなって学校を卒業して、なるべく自分の希望する職種に就職でき、結婚して子どもを養い育て、老後に至るまで食いっぱぐれなく、一生安心して、健康で文化的な生活ができるようになることだ。
 それには、社会が、どんな職業、どんな就職先であっても、怠けずに、きちんと所定の勤務時間働けば、常勤か非常勤か、正社員か非正社員かを問わず、同じ仕事には同じ時給、同じ福利厚生(年金や医療などの社会保険)が保障される、そのような社会になっていることだ。(ワーキング=プアとは生活保護を受けている人の水準以下の賃金で暮らしている人のことだが、今それが勤労世帯の2割にも達しているといわれる。今日本では非正社員の給与は正社員の半分で、社会保険には加入できないようになっているが、オランダなどヨーロッパではそんなことはない。)
 そして、試験も、適性試験・卒業認定試験はあっても、序列・格差と結びついた勝敗を競い、「勝ち組・負け組」をふるいわけるような競争試験はない、そのような社会になっていることだ。(国際人権社会権規約では、高等教育も含めて教育を受けることを「人間の権利」としてその機会を均等に保障するため、各国とも学費の無償化をめざすことを定めている。日本はこの規約を批准してはいるが、規約の中の中等・高等教育の漸進的無償化条項は未だに留保している極くわずかしかない国の一つになっており、無償化は小中学校だけに留まっている。今は世界第二の経済大国でありながら、高校・大学は無償化されておらず、学費(父母負担)が世界一高く、受験競争の最も激しい国になっているのである。)
 学校では、教育の主たる目的は、国家や企業のための人材養成・選別にあるのではなく、あくまで、一人ひとりの人格の完成(一人ひとりの能力・個性を引き出し伸ばすこと)を目的とし、一人ひとりを大切にして行き届いた指導が行なわれなければならない。
 学校は人材養成・選別機関(生徒を点数・成績で「勝ち組」―エリート、「負け組」―再チャレンジ組、「脱落組」―落ちこぼれ、といったふうにふるい分けるところ)ではなく、そこで子どもや若者その他の学習者が、知る喜び(真理探究心)、わらなかったことがわかるようになる喜び、互いに協力し助け合って、できなかったことができるようになる喜びが得られて楽しい学校生活ができ、(人を蹴落とすか蹴落とされるか、いじめるかいじめられるかなど弱肉強食の競争、不信、孤立の不安が支配するのではなく)友情・連帯・思いやり・協力・助け合いが支配し、集団のなかでもまれることも必要で喧嘩やトラブルはあっても、或は先生から怒られ、誰かから何か云われて心傷つくことはあっても、後に尾を引くことはなく、のびのびと学校生活が送れるところであってほしい。

 文科省・県教委・市町村教委・学校長・教員の関係は今のような上意下達の関係ではなく、また文科省・教育委員会は管理・統制機関として教育内容・方法に介入して教育目標・数値目標を押しつけて学校や教員を評価したりせず、学習指導要領は教育の機会均等の確保と全国的な一定水準の維持のための大綱的基準として必要だとしても、それに法的拘束力を持たせて指導を義務づけたりせずに、具体的なやり方や内容は各学校の裁量と各教師の自主性に委ね、学校施設や教職員の確保など教育条件の整備に徹し、そのことのみに責任を負うようにする。
 委員が自治体首長から任命されて名誉職化し文科省・自治体首長に従属して上意下達機関化した教育委員会を公選制の委員会に戻し、地域と学校に密着し役割を果たし得るものとすべきである。
 校長・教師集団は、文科省や教育委員会の方にではなく、常に生徒の方に顔を向け、バラバラ、分断され孤立する(一人で問題を抱え込む)ことなく、一致協力して事に当たり、保護者・地域住民の協力によって支えられる。

 孫たちは、このような社会、このような学校で生活を送っていってほしいのだ。教育基本法を政府案のように変えられてしまったら、それは絶望的になってしまう。

 とにかく教育基本法は「改正」するのではなく、むしろ現行基本法の理念・原則からかけ離れたこれまでの教育行政の諸措置や諸制度(任命制教育委員会制度や入試制度など)を改廃し、未だ果たしていない少人数学級や高校・大学の無償化など、基本法に基づく本来の姿に戻すべきなのである。

(6)歴史的に大きな禍根
教育基本法は憲法に準ずる重要性をもち、普通の法律とはわけが違い、国民の子孫の将来に関わる「百年の大計」となるものである。
 しかも、憲法と同様、制定主体は「われら」国民であり、主権者である国民が政府などの権力機関の権限を限定してその恣意を縛るためのものなのである。
 ところが今、それを政府の方から改正案を出して、国会で与党の多数にまかせて議決し、それを変えてしまおうとしている。
それも、教育の主体を国民から国家に置き換え、教育行政権力が与党の多数で決めた法律によりさえすれば意のままに教育内容に介入できるように基本法を根本的に変えてしまおうとするものである。
各地で開かれてきた政府主催のタウンミーティングは、文科大臣など政府担当者と「国民との対話」の場として、市民からの質問に答え、市民の意見を聞くために設けられたはずのものであるが、事前に質問者を依頼し、文科省が作成した質問原稿を「棒読みにならないように」などと注意事項まで沿えて渡しておいて政府側の意向にそくした質問をやらせていたという事実(「やらせ質問」問題)が明るみになった。まさに世論誘導であり、世論偽装ともいうべきものである。こんなことをしてまで教育基本法「改正」を強行しようとする。
 与党は、野党が国会審議続行を求めたのに対して、意見はもう出尽くしたとしてそれを拒否し、審議は未だ尽くされていないとして採決には応じられないとする野党欠席のまま単独採決を強行した。
 その衆議院の与党議員は、昨年9月の総選挙で選ばれた議員であるが、その時の選挙は、小泉首相が参議院でいったん否決された郵政民営化法案を何が何でも再議決させようとして国会解散権を行使して行なわれた総選挙で、首相が「郵政民営化に賛成か、反対か」を問う一種の「国民投票」だと言って強行した選挙であり、(その選挙で圧勝して国民の信任を得たとして郵政民営化法案を採決し直した)その時選ばれた与党議員は、「郵政民営化」問題で判断した国民によって選ばれはしても、「教育基本法改正」問題で選ばれたわけではないわけである。
 教育基本法改正案を採決するのであれば、それこそ「教育基本法改正に賛成か、反対か」を問う「国民投票」ともいうべき総選挙を行なって、議員を選び直した国会で採決するのが筋ではないのか。
 そういうことを行なわずに、「郵政選挙」で圧勝した与党の数を利用して、教育基本法改正案に対する民意を問うことなく、野党を抜きにして単独採決を強行するという不当なやり方で決められた国民的合意なき反動立法として、この「改正」教育基本法は後々大きな禍根を残すことになるだろう。
 参議院でも与党によって押し切られて採決されてしまったら、「悪法も法なり」であり、この改悪基本法によって教育が行なわれることになる。孫たちのことを考えると暗たんたる思いだ。

2006年12月17日

ああ、教育基本法改変

 今回の教育基本法改正は、「新たに教育目標を定めているが、子どもや若者に道徳心や公共心を養い、規範意識を植え付けるにこしたことはなく、愛国心をもつのだって当たり前のことだし、それを条文に盛り込んだからといって、別に悪いことではあるまい。教育行政の条文改変も、学校全体、それに個々の教員の指導がいいかげんにならないように、法律の定めに従ってきちんやらせるようにし、国も地方公共団体も、それぞれに役割を果たすようにさせるにこしたことはあるまい」などと簡単に考える向きが多いだろうが、はたしてそんなものだろうか。

(1)教育基本法と現実

 今の教育基本法は、教育の目的は、一人ひとりの子どもの人間的な成長・発達、「人格の完成」にあり、また、どの子も「国家・社会の形成者」(すなわち主権者であり、国家・社会の主体的な担い手)として育て上げることにある、ということ。そして、すべての国民は、ひとしく、その能力(その発達段階と知的・身体的条件)に応ずる教育を受ける機会を与えられ、経済的地位などによって教育上差別されないこと(教育の機会均等)。国・地方公共団体は経済的理由によって修学が困難な者に対して奨学の方法を講じなければならない、ということ。教師たちによる「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負って行なわれるべきもの」で、文科省や教育委員会による「教育行政は、教育に必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」などのことを定めている。

 その下で、我が国では、どの子にも分け隔てなく、人間らしく幸福を追求して生きていくことのできる能力(基礎学力・体力・情操・市民的道徳)を身につけることが保障されており、かつまた、国家の主権者として政治的知識・判断力を身につけ、社会の主体的な担い手としての勤労意欲と責任感を身につけた国民が育成されることになっていて、国と地方自治体は学校その他の教育施設を設置し、文部省と教育委員会は教育に必要な諸条件の整備確立(教職員の確保、予算の確保など)に責任もつが、教育内容と教育方法には、指導・助言、教材・教具の提供などサポートすることはあっても、それ以上介入せず、教師たちは自主性・自律性を発揮して教育に携わることができることになっているのである。

 

 ところが、現実にはそうはなっていない。学校教育に対する公財政支出はまことに不十分であり(GDPに対するその割合は3,5%で、OECD各国平均5, 1%を下回っていて、29カ国中26位)、学校施設・学級定員・教員配置、教職員の労働条件、私学助成など教育条件の整備・確保は先進諸国の中では、世界第二の経済大国にしてはまったく立ち遅れている。

 北欧諸国やフランスなどでは、大学も納付金をとらない無償であり、国連人権社会権規約でも中等・高等教育を漸進的に無償にすることを定めいて、日本は、規約を批准しているのに、その条項だけ未だに留保し続けていることに対して留保撤回を勧告されているほどなのである。 

 教育研究家の古山明男氏(著書「変えよう!日本の学校システム」平凡社)によれば、

 日本では、学校教育に国と地方の公財政から約24兆円(GDPの3,8%)を出していて、私費(納付金)を約5兆円負担させている。

 学校教育に対して公財政からOECD諸国並に出すとすれば、あと6兆円を要するが、5兆円(今、政府税調が打ち出している企業減税の総額に相当)だけでも、幼稚園から大学・専門学校まで、私立だろうが公立だろうが全部無償にできるはずであり、高校だけなら、あと1,1兆円出せば、私立も含めて無償にできるという。

 欧米諸国では日本のような入試制度(選抜試験)はなくて、高校は希望者全員を受け入れ、大学もある程度の成績(評定10点満点中6以上とか)を修めれば基本的にはどこでも入れる(人数にどうしても無理があれば先着順か「くじ引き」。入ってから合わなければ他へ移れる。大学には全国共通の大学入学資格試験に受かっているか高校卒業資格があれば、どの大学へでも入れる)。

 ところが我が国では、基本法には経済的地位などによって教育上差別されないと定められているにもかかわらず、公立の小中学校以外では学費(私費)がかかり、熾烈な受験競争をともなう入試制度の下で、家庭(親)が貧しい者は、たとえ能力は同等であっても、塾や家庭教師その他にお金をかけることができ学習環境に恵まれている相手に対しては決定的に不利であり、能力があっても入試に受からないことがあるし、受かっても、アルバイトをしないかぎり学費が払えず、学業に専念できないというハンデイを負う。

 入試に落ちて、来年同じ大学(または高校)に再チャレンジといっても、そこへ受験に集まる志願者の偏差値レベルが変わらず、倍率も変わらないかぎり、頑張れば必ず受かるという保障はないわけであり、無能感・無力感にとらわれ、「いくら頑張ってみても、どうせ無理だ」といって、均等であるはずの「機会」を自ら放棄してしまい、「ニート」になる、などといったこともあるわけである。

 また、授業についていけないか一番下のクラスの生徒は「落ちこぼれ」としてそのまま放っておかれるか何か別なことをやらされる、ということで「能力に応ずる教育を受ける権利」が奪われた状態に置かれる、といった実態もある。

 そして、弱肉強食の競争ストレス社会の下で、大人社会に見られる病理現象的な風潮を反映して「いじめ」「不登校」・自殺・非行・少年犯罪が頻発している。

 それでいて、文科省・教育委員会など教育行政による学習指導要領とそれに基づく教科書検定・採択、必修科目の押しつけ、事実上の国定道徳教科書「心のノート」の全国小中学校への配布、東京都などでの卒業式・入学式にさいする国旗・国歌の強制など教育内容・教育方法への介入が行なわれている。

 教育委員会による学校評価、教員に対する校長による5段階評価(給与に影響)など管理・統制が強まっており、学校も教師たちも、その自主性・自律性は大きく損なわれている。

 教員の勤務実態は、都留文科大学教授の福田誠治氏(著書「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞社)によれば、年間法定労働時間は韓国1613時間、フィンランド1600時間に対して日本1940時間(実態は2500時間)。(文科省調査では)小中学校教員は1日10時間58分、残業は勤務日2時間43分、休日3時間13分、(全教の調査では)時間外勤務5月の場合で1ヶ月全教職員平均80時間10分(80時間は過労死ラインに相当、小学校83時間26分、中学校99時間48分、高校86時間43分)。(文科省によれば)病気による休職者はこの10年で倍加(2005年度7,017名)。うつ病など精神疾患による長期休職者(05年度4,178名)は、今年は過去最高に達しているという。(文科省によれば、理由は「上司・同僚との人間関係や、保護者との対応など職場を取り巻く環境が厳しくなっている」からではないか、とのこと)

(2)私が勤めた学校

 私が勤めた学校は私立高校だったので、建学の精神(知識に偏らず、心情を重んずるなど)を念頭に、教育基本法に立脚しながら比較的自由にやれた。

 在職中(1976年)、卒業期に出される生徒会誌に3学年主任からの「贈る言葉」として、次のように書いたものだ。

 (抜粋)「12年間にわたった普通教育はここにこうして修了することとなったわけである。そこで実はこの間、先生方は何のつもりで諸君たちに教育をし、諸君達はそれを受けてきたのか、この際確認してみたいと思う。

 第一に、各人とも、心身の調和的発達をとげ、自分に備わるあらゆる能力を調和的に可能なかぎり発展させて、豊な人間性を身につける。また自分の良さ、持ち味を生かすとともに、知識の偏重を避け、たくましい実践力を身につける。

 第二に、各人とも、民主的で平和的な国家及び社会の形成者として①真理を重んじ、真理探究の科学的態度を身につける。②正義を愛し、善悪に潔癖な人間となる。③個人の尊厳を重んじ、人間一人ひとりを大切にする国民となる。④勤労を尊ぶ国民となる。⑤自分の責任を重んじ、相互信頼と協力奉仕の実践力を身につける。⑥自主的態度を養い、自発的精神に充ちた国民となる。⑦着実に目的に向かってたゆまぬ努力を続ける不屈の精神を身につける。⑧心身ともに健康な国民となる。(以上、教育基本法に掲げる教育目的と本校の教育目標・教育方針)

 ひとえに、これらのために小中学校そして高校である本校で諸君たちは教育をうけ学校生活を続けてきたわけなのである。」

 私自身はこのように教育基本法を念頭にしながらやっていた。

 学校では、カリキュラムは、必修科目・選択科目、単位時数など、文部省の学習指導要領に準拠して編成され、教科書も文部省検定教科書を生徒に買わせたが、私自身は自主教材(プリントや副読本など)で、マイペースでやり、定期テストもオリジナルな問題で行なった。(ただし、受験コースのクラスをもった時は、問題集から取ったり、類似問題を出したりした。受験生にとっては、大学に合格することが最大の関心事で、それに合わせるほかなかった。)

 日々、生徒の反応(「つまらない」「わけがわからない」などの顔つき・口説き・苦情)を気にして、必死になって教材研究・工夫・改善に頭をひねり、神経を使った。

 公立学校と異なり、勤務評定などなかったし、必要以上に(生徒の目以上に)管理職の目を気にすることなどなかった。教科書の採択は教科会で(同じ教科を担当する同僚たちと)相談して決めることが出来た。

 職員会議、運営委員会(校長・教頭、教務・生徒指導・総務・保健・環境整備各主任、学年主任で構成)はともに毎月定例一回のほか必要に応じて開催、学年会・教科会は週に一回、学年・コースの教科担当社会は各学期末に一回開かれていた。その他、校内研究授業、外部講師を招いての校内職員研修会、外部研修会・PTA、父兄参観授業など。

 これらによって、学校独自に、管理職・教職員・生徒間で意思疎通を図りながら、自主的・自律的な教育活動を行なうことができたと思っている。

 経営・管理職と教職員、同僚間、教師と生徒・保護者との間では、私自身、批判されたり、非難を受けたり、ぶつかったり、やりあうこともあったが、それは自由に物が言える状況にあったということであり、言われて落ち込むこともあったが、やっきとなって工夫・研究し、改善に取り組んだものだ。

 定年退職して、卒業生からは、クラス会や同窓会で、「先生は、オレだちさ、一体何を教えでけったなや」「さっぱりわけがわからなかった」などと嫌みをいわれることもあるが。

 私の高校時代は、公立高校だったが、そこで英・数・国・理科・社会など授業で何を習ったものか、ほとんど覚えていない。参考書の暗記など受験勉強のおかげで大学には入れたが、高校で習ったことは、きれいさっぱりと忘れた。高校の社会科教師になって、世界史も日本史も、(地理は高校時代まったく習わなかったし)いずれも自分で一から覚え直して教えた。教員になって初期の頃は、生徒にとっては、まさに「わけのわからない授業」だったには違いないが、何回も教えているうちに、それらの科目の内容はいやおうなしに覚えた。しかし、それ以外には、私が高校時代に習った科目は、ほとんど何も覚えてはいない。(世界史は東大出の先生から習ったが、ルネサンスなど中抜きで、ロシア革命あたりで終わってしまい、第二次大戦から後は習わない) いずれにしても、私の高校時代に習ったことのほとんどは、実生活には何の役にもたっておらず、先生の訓話はあっても心に残っている言葉や教訓はこれといってない。あるのは、たわいもないエピソードだけだ。だいたい、講義を聴く以外には先生との対話など、ほとんど無かったし、卒業後のクラス会も全く無い。

 私の教え子も、「先生から、いったい何を習ったんだか、さっぱりわからねえ」という。

 しかし、そう云いながら、私に酒をついでくれるのである。在学中も今も、対話があるのだ、ということ。

 それに、定年退職して間もなく、私の「半生と論考」をまとめて一冊の本にし、理事長・校長・全職員に配り、卒業生には、印刷した冊数に限りがあって、人数は限られたが、彼らにも配ったものだ。

 学校で習ったことは何も覚えていないとか、学校の勉強など何も役立っていないとはいっても、そもそも学問とは、実用的なものもあるが、必ずしも実生活に役立つためだけではなく、学問すること自体(真理探究)が目的だという「学問のための学問」もある。その場合は、その時、その場での精神的欲求の満足に終わって、後々何かに役立つというものでは必ずしもないわけである。

 それに、学校で身につける学力には、知識・技能だけではなく、思考力・独創力・批判力・コミュニケーション能力などもあるし、知力・体力だけでなく、情緒力(心情)といったものもあるわけである。

 それらの学習内容は、すべて、自分自身が人生をよりよく生きていく上で、必要とされるものであって、それらは、社会に役立つことはあっても、国家に役立つためのものではなく、国家や権力の都合でコントロールされ、統制されるべきものではないのである。

 私の勤めた学校では、公権力から自由であり、官僚的硬直性を廃するという教育基本法の精神に則り、独自の建学の精神に則って、生徒会が掲げる「明るく、楽しい学園」をモット−として、教職員・生徒は今も日々励んでいるものと思う。

(3)公立学校は今

 しかし、公立学校は今、どうなっているか。現役の中学校の先生から話を聞く機会があって、そこから次のようなことがわかった。

 教員の勤務評定は以前からあったが、それが今や、給与の加減をともなう5段階評価がおこなわれるようになってきている。

 担当しているクラスや部活の生徒に問題が起きても、それが教員評価の失点にされてしまうと思えば、報告することも、相談することも手控えるようになり、生徒の中に入って対話して問題を察知することも、サインを感じとることも無意識のうちに避けるといったことにもなる。

 いわゆる「指導力不足教員」に格別の研修を課して排除するとか、法に触れるような不祥事以外にも、管理職に対して文句を言うと減給処分にされるとか、職場で「政治的」文書(例えば「教育基本法改悪反対」などのチラシ)を同僚に配布したりすると戒告処分を受けるなど、管理統制が強まっており、教職員は萎縮して、自由に物が言えない雰囲気になってきている。

 教員組合の加入率は20%を割っており、その組合員でさえ、「教育基本法改悪反対」などの署名を頼むと、名前がどこかに知れるとまずいからと言って、ためらう者もいるとのこと。

 同僚間の親睦会もめっきりすくなくなっているという。

 個人責任が強調され、教師集団がバラバラになって、個々の教師が孤立化している、ということだ。

 校長など管理職は管理職で教育委員会から評価され、学校に問題が起きても相談しにくく、報告もしにくい。

 校長は教委から、教職員は校長からたえず文書報告を求められ、教員はその作成と生徒の成績付け(「関心・意欲・態度」の評価まで、生徒一人につき一科目で12項目にわたって評価をつける「成績表補助簿」を毎日のように)、部活指導その他雑務に追われ、休日勤務や夜遅くまでの超過勤務に追われ、忙しくて生徒とじっくり向き合う時間がとれない、という状況になってきている。

 このような学校と教職員の状況、それに競争ストレスの満ち溢れる殺伐たる社会の風潮(大人社会、教師たちもその中にあって過ちを犯す者や精神を病む者も)と競争・管理教育の下で、「いじめ」「不登校」自殺・非行・少年犯罪が頻発しているのである。

 「いじめ」は、学校や教室では互いにニコニコ何気ないふうを装いながら、インターネットや携帯などで、人の見えないところで行なわれる(「ウザイ」「死ね」などの言葉をあびせ、噂を立て、他の多くの者に「誰それをシカトしよう」などと発信する。教師は気付きようがない)。加害者が今度は被害者に転ずる、といったことも多々あるという。これらは、かつては全く見られなかった現象である。

 このように学校と教員に対する管理・統制が強まり、競争・成果主義の導入により、教育現場にはかつてなく、矛盾が噴き出ているということなのである。

(4)「改正」で教育権が国民から国家へ

 教育基本法「改正」は、これまでなし崩し的に既に行なわれてきている教育に対する政治や行政権力による介入・統制と競争・成果主義の導入をさらに公然と推し進めようとするものである。すなわち、国家によって教育目標・徳目が定められて、文科省によって作られた学習指導要領の法的拘束力が強化され、一斉学力テストの実施や国旗掲揚・国歌斉唱の強制など教育内容のいたるところに国や行政の介入が及び、愛国心の押しつけとともに、競争・選別教育が公然と展開されるようになる。その結果、先生も生徒もストレスがつのり、「いじめ」・不登校など、無くなるどころか、かえってひどくなるだろう。

 卒業式で「君が代」を起立して歌わなかった教職員の大量処分を行なった東京都教育委員会に対して、今年9月、東京地裁は、処分は違法という判決を下したが、これからは、それが「法律にのっとって行なう教育行政は不当な支配には当たらない」(安倍首相)として合法化され、起立して歌わない教師も生徒もチェックされ、歌わない教師が処分されるのは当たり前だということにされ、歌わない生徒がいじめられるという新たないじめ(いわば「非国民いじめ」)が始まることだろう。

 基本法に新たに掲げられた「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国」を「愛する態度を養う」などの教育目標にそくして、文科省による学習指導要領の改訂、それに基づく教科書検定が行なわれることになり、どの出版社の教科書もその検定に不合格にならないような内容・記述になるだろう。「新しい歴史教科書をつくる会」編の教科書の昨年の採択率は(歴史が0,4%、公民が0,2%で)極わずかだったが、今度からは、この教科書のほうが「まとも」だとして一挙に採択率が増え、他社出版の教科書も、この「つくる会」教科書になびいたものとなるだろう。

 我が国の教育は、戦中・戦前の我が国あるいは現在の北朝鮮のような愛国教育にどれだけ近づいていくかである。だからとって、まさか、あんな時代、あんな国の教育のようになったりすることは、いくらなんでもあり得まい。そこまでいかないかぎり大丈夫だ、心配することなんかない、といって、国民の多くはその改変を容認するのだろうか。たかをくくっていると、世論誘導もあるし、しだいしだいにそっちの方へもっていかれることになるだろう。現行基本法の10条改変で、もはや、その歯止めが取り払われてしまったのだ。

 とにかく、「国民個々人のための教育」から「国家のための教育」—国家主義教育—へ転換、これが「改正」の意味する一番大きなポイントなのだ。

 憲法は国民が国家などの権力に制約を加えて各人の人権を保障するために制定されており、教育基本法は人権の一つである国民の教育権・学習権を保障するために定められている。

 ところが、基本法改正案は、現行法(10条)の「教育は不当な支配に服することなく」の語句の後の「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきもの」をカットして、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」というふうに変えている。ということは、教師は、生徒を一番だいじに思い、ひたすら生徒のことを気にすればよかった、それが、政府や国会や文科省などが決めた法律のほうを気にし、法令に基づいて権限を行使する文科省や教育委員会・校長の方を気にして、生徒の方は二の次ということになってしまう。例えば、それをそこで歌わせるのは、本当に生徒のためだと思って歌わせるのではなく、教育委員会や校長から「歌わせよ(さもないと処分するぞ)」と云われるから歌わせる、といったように。

 「この法律」には教育目標として「道徳心を培う」こと等とともに、「国を愛する態度を養う」ことが定められ、学習指導要領に既に盛り込まれている「君が代」等の指導が学校に義務付けられ、卒業式・入学式での強制が合法化されることになる。

 今、指導要領に定められている必修科目の履修漏れ問題で、学校現場では、受験生と教師たちは指導要領に振りまわされ、てんやわんやの大騒ぎになっている。

 千葉大行政学の新藤宗幸教授(11,20付け朝日新聞「私の視点」)によれば、そもそも学習指導要領は「学校教育法に関する官僚の解釈を文科省告示として公示したにすぎない。」それを「あたかも法律であるかのような前提で『違法行為』を報ずるのはおかしい」(県立伝習館事件での最高裁判決では指導要領に「法規としての性格」を認めてはいるが、全面的に法規としたのではない)としている。ましてや、独自性・自主性を旨とする私学がそれに縛られることはないはずなのである。東京私立中学高校協会長の近藤彰郎氏(12月3日付け朝日新聞)によれば、学校教育法14条(学校の授業や設備などで法令違反があった場合、都道府県教育委員会もしくは知事が変更を命じることができる)は、(私立学校法5条で)私立については適用除外となっているという。

 しかし、基本法「改正」で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」となれば、どの学校も文科省が作った指導要領(伊吹文科大臣はそれを「法律の一部」だと言っている)の定めるところにより行なわれるべきもので「履修漏れ」は完全に「違法行為」と見なされてしまうことになる。

 また、この法律(「改正」教基法)で、国は「全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため教育に関する施策を・・・策定し、実施しなければならない」として、全校一斉の学力テスト等を計画し、地方公共団体も「地域における教育の振興を図るため・・・施策を策定し、実施しなければならない」として地域内の学校の一斉学力テストと(その学校別順位を公表して)学校選択制などをやるようになると、競争教育は(国連の「子どもの権利委員会」が、日本では「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」などとして、これまで二度も、改善を勧告しているのに)今まで以上に行なわれ、そのプレッシャーとストレスから陰湿な「いじめ」等をさらに招いてしまう結果になろう。

 現行法における「不当な支配に服することなく」とは、「現場の教師は政治権力者や教育行政機関の支配に服することなく」と考えられてきた。制定当時の文部大臣田中耕太郎は「教育は政治的干渉より守られなければならぬとともに、官僚的支配に対しても保護せられなければならない」「教育は一方不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきではない」と述べている。これを紹介している古山明男氏(前掲書)によれば「一方不当な」として「支配」が限定されるのは、行政的な支配にも、学校に教育の機会均等を守らせることとか、生徒の人権保護とか、そういうものに関しては、正当なものがあるからである。田中は「国民全体に直接に責任を負って」とは「教育者は官庁組織を通じて国民に間接に責任を負うのではなく、民間たる宗教家・学者・芸術家・医師・弁護士のごとく、個人的良心的に行動するもののことであり、したがってこれ等の者のごとく、国民全体に責任を負うのである」としている。この条項の2項では「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」つまり、教育行政は裏方に徹すべしということであろう。ところが改正案は、この2項とともに、「国民全体に直接に責任を負って」をカットして、「この法律及び他の法律の定めるところにより」という語句と入れ替えたわけである。

 1976 年の旭川学力テスト事件の判決では、国には「広く適切な教育行政を樹立・実施すべく、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容について決定する権能がある」とする一方、「国政上の意思決定は、様々な政治的要因によって左右される」ことも考慮し、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される」として、教育行政機関の行為でも国民の信託に反する場合は「不当な支配」となり得るとした。

 これに対して、政府側は、議会制民主主義の下では、政府は国会から委託され、国会は国民から委託されている、故に政府の意思は国民の意思である、という論理で、政府の行為は「不当な支配」にはあたらないと強弁するわけである。

 そして改正案では、「不当な支配に服することなく」とは、むしろ野党や革新団体・教員組合などの抵抗勢力の「支配に服することなく」ということにされ、教師たちはまったく逆の立場に置かれることになる。

 このように、改正案には「道徳心を培う」とか「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」とか「我が国と郷土を愛する態度を養う」などの教育目標が新たに定められ、それに則して国の教育統制・管理が強化され、教師・生徒・親たちは、それに服さなければならないようになる。そこに最も重要な「改正」の意図があるのである。

(5)多数決・法律万能主義

 人の心(思想・価値観・良心・心情、教育でどんな心を養いたいか等)は法律で縛ることも、多数決で縛ることも間違いである。基本的人権に反する思想統制・宗教統制、それに教育統制は禁じられる、それが近代民主主義の基本原則であり、日本国憲法も、今までの教育基本法もこの原則に基づいて定められてきた。

 ところが、改正案で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」という場合、政府側の理屈では、法律とは国会や政府・文科大臣が作って決めるものであり、これらの機関は、いずれも国会議員選挙を通じて国民からそれを委託されているのであって、そこで作って決めた法律は国民の意思に基づいて定められたも同然であり、教育が法律に基づいて行なわれるかぎり、その教育は国民教育(民主教育)とは矛盾しない、というわけである。

 しかし、法律とそれに基づく措置は、たとえ形式・手続き上は適法であっても、国民の基本的人権を侵害することはできないのであって、法律万能主義を教育に持ち込むことは許されてはいない。

 教育を受ける権利、内心の自由、学問の自由などは現行憲法で保障されている基本的人権であるが、現行の教育基本法は、そもそも国民一人ひとりに教育を受ける権利(国民の教育権・学習権)を保障し、それが侵害されないようにするために制定されたものである。教育基本法は、そういう教育上の権利保障を必要としている国民の都合によって定められたものであって、(国民意識の統合のためとか、国家に役立つ人材育成のためとか、国益のためとか)国家の都合によって定められたものではないのである。

 郵政民営化問題とか、年金・税金の問題とか、道路・交通問題・市町村合併問題、安全保障問題など国民の利害や安全に関わる問題の場合は、多数決できめられるとしても、教育で「・・・の心を持つべし」とか「・・・を愛すべし」とか「・・・を敬うべし」「・・・を(心を込めて)歌うべし」などと、心に関することや、「これは正しいか誤りか」など学問的真理に関すること、「これは美しいか、醜いか」など美的価値に関することを多数決で決めたりすることはできないし(「愛するか、愛さないか」「好きか、嫌いか」を多数決で決めるとか、「正しいか、間違っているか」を多数決で決める、などということはあり得ないわけであって)、それを法律に定めて全員に押しつけることなどできはしないわけである。

 生徒や子どもが権利として受けられる教育とは、教室あるいは校外や家庭で、教師・親・大人から、或は生徒・子ども同士で、信頼関係と触れ合い(交流)のなかで、知識・学問・技術・技能・健康・善悪・美醜・愛憎などを学び身に修めるべきものであって、それらを政治権力や行政権力によって強制され押しつけられるべきものではないのである。

 現行の教育基本法は、国・地方公共団体には学校・教育施設の設置、教育行政機関には教員の配置や予算など教育諸条件の整備確立に責任を負わせ、専門的・技術的な指導・助言、教材・教具の見本やメソッドの提供などのサポート以外には、これらの機関に教育内容への介入を認めてはていない。

 ところが、改正案は教育目標や徳目を(「道徳心を培う」とか、「公共の精神に基づき、社会の発展に寄与する態度を養う」とか「我が国を愛する態度を養う」とか)多数決で法律に定めて、多数意思に基づく法律(指導要領その他)に定めた内容を教え、行事を計画・実施することができるということにしたのである。

(6)多数決偽装民主主義 

 多数決で法律に定めれば何でもできる多数決・法律万能主義。これが、今の政府与党のやり方である。

 多数決は民主主義の決定方式ではあるが、それがまともに行なわれるには次のような諸条件が必要とする。

①まずは、表決に付そうとするその議題は、そもそも多数決になじむ問題なのか、その吟味が必要なこと。教育的価値・学問的価値・倫理的価値・美的価値・宗教的価値など価値に関することは多数決にはなじまない。

②メディアの取り上げ方が公正であること。いま、教育基本法「改正」に対して反対や抗議の集会・デモ・国会前座り込みなど、首都や地方の各地・各方面で連日行なわれているのに、ほとんど取り上げられることがない。

③ 世論誘導・世論偽装がないこと。タウン・ミーティングにおける「やらせ質問」「サクラ動員」「反対者の事前排除」などが明らかになっている。それは国民を欺き、子どもたちに対して全く非教育的な恥ずべき欺瞞行為であるにもかかわらず、安倍首相はその非を認めながら、自らの給与3ヵ月分100万円返上だけで済ませた。

④ ありのままの世論を尊重すること。教育基本法改正案は、世論調査では今国会の会期内成立にこだわるべきでないとの声が大多数をなしており、全国の公立小中学校の校長の66%が反対という調査結果もあった(今年7〜8月行なわれた東大の研究センター調査)。朝日新聞の調査(11月25日の段階でのインターネットによる調査結果)では、「政府案のように教育基本法を変えると教育はよくなると思いますか」の質問に対して、「よくなる」は4%、「悪くなる」が28%、「変わらない」が46%、「わからない」が22%である。

⑤少数党の発言時間を充分とり、発言を聞き流すだけでなく、その意見に充分耳を傾け、審議の時間数だけでなく、実のある議論を充分尽くすこと。

 ところが、教育基本法改正案は衆議院では、巨大与党(昨年「郵政民営化に反対か、賛成か」で行なわれた解散・総選挙で、小選挙区制の効果で過大議席を獲得した与党)が議席の数にものを云わせて、野党の審議継続要求を拒否して(しかも、委員会審議の場に有識者を招いて公聴会を開き、意見を言わせておきながら —賛成・反対両意見があり、賛成意見の中でも、もっと吟味・検討が必要だとする意見が強かったにもかかわらず—その終了直後に)単独採決し、参院でも野党の反対と審議継続要求を押し切って可決した。

 かくて、59年前、憲法の制定と相まって制定された教育基本法は、歴代自民党政権下で充分開花(徹底)しないまま空洞化されて、ついに廃止され、戦前の帝国憲法と教育勅語の時代に回帰するかのような反動的な教育基本法に変えられてしまうことになったのである。

 かつて東条内閣の商工大臣で戦後日米安保条約改定案を強行採決した当時の首相岸信介の孫、安倍晋三首相によってである。彼によって、教育基本法改正案可決と同日に、防衛庁は省に、自衛隊の海外活動を本来任務に格上げするという昇格法案も可決された。この次の通常国会では国民投票法案(改憲手続き法案)を成立させ、任期中に改憲にこぎつけると言っている。彼は戦後最大の反動的「偉業」を成し遂げた首相として歴史に名を残すことになる。そして、その後に我が子・孫たちの身に訪れるものは、「暗い未来」「不幸な時代」・・・。ああ、なんということだ。

 しかし、絶望するのは未だ早い。外堀・内堀は埋められても、本丸の憲法だけは残っている。目の黒いうちに、改憲だけは何としても阻止して憲法を守り抜き、その「世界遺産」を我が子・孫たちに引き継がせようではないか。

2007年01月19日

「美しい国憲法」で孫たちは

(1)この国に不安

幼稚園のお便り帳に先生が書いてよこしたその中に、「大きくなったら何に」と訊いたら、孫は「アメリカを守る人になりたいです」と答えたという。「でかい夢で何よりです」とあった。

妻がそれを読んで本人に訊くと、「アメリカでピストルの先生になる」「アメリカに居る間、バーバとはメールでやり取りするから心配いらない」と。

彼は、世の中にたいしても、自分の将来にたいしても、何の不安・心配も今は感じていない。しかし、この春から小学生。これから段々と・・・・。

現行憲法は、すべての国民に、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、それぞれ幸福を追求して生きることを権利として認め、あわせて勤労の権利、就学の権利(教育を受ける権利)を認め、平和・安全で自由な暮らしを保障している。

 ところが今、この国に希望が持てず不安を感じているという向きがかつてなく多くなってきている。新聞社による意識調査(1月5日付朝日新聞の定期国民意識調査)では次のようなぐあいである。

今の日本は人々が希望を持てる社会だと思いますか。

  「希望を持てる社会」だと思う (25~35歳)29% 全体で30%

  「希望を持てない社会」だと思う(25~35歳)64% 全体で59%

これからの日本はどうなっていくと思いますか。

  「今よりよくなる」    (25~35歳) 9% 全体で 9% 
  「悪くなる」 (25~35歳)28% 全体で31%
  「あまり変わらない」  (25~35歳)61% 全体で55%

自分の将来について期待と不安とでどちらが大きいですか。

  「期待」        (25~35歳)33% 全体で24%
  「不安」        (25~35歳)64% 全体で67%
このような人々の不安感の広がりは、政府がこれまで進めてきた政策・失政の結果であることは否めまい。

とくに、前政権から進められてきた「構造改革」―アメリカの新自由主義(反福祉国家)の考え方で、何もかも市場―個々人の売買・取引―にまかせた方がうまくいくという考え方(市場原理至上主義)のもとに、各種の公共サービス、郵政に福祉に教育・医療、それに農業までも規制緩和(起業・事業参入の規制を緩和・撤廃し、雇用規制を緩和して派遣労働・不正規雇用を拡大し、解雇条件の緩和を図るなど)もしくは民営化して、政府や行政は手を引く(「小さな政府」「官から民へ」)というやり方。何もかも個々人の自助努力・自己責任に帰せられ、うまくいかなければ、それは本人の努力が足りないか、無能のせいで、本人の責任だとなる。資本と企業の論理で、グローバル化して激化する国際競争の中で生き残るためにはこうするしかないとして、企業の競争力の維持・向上を第一にして、それ以外のこと(労働者の権利や庶民の生活の安定・向上)は、「欲しがりません、勝つまでは」として、二の次にされるか、犠牲にされる(競争力至上主義)。

これら財界・大企業本位の「構造改革」政策によって、グローバル経済の下、世界にまたがって個人間・業者間に熾烈な生き残り競争・弱肉強食の競争が展開されるにいたっている。かくして少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」に分かれ、その間に格差が拡大し、日本はアメリカのような「競争社会」「格差社会」に化しつつある。

相対的貧困率(各人の所得税などを引いた後の自由に使える可処分所得の順番中、真ん中の人の所得の半分以下の所得人口が全人口に占める割合)はOECD加盟国(25カ国)中、我が国は(高齢者を含めればメキシコ・アメリカ・トルコ・アイルランドに次いで第5位だが)18~65歳の労働年齢人口に限ればアメリカに次いで第2位。ということは、貧乏人の比率が一番多いのはアメリカで、日本はその次に貧乏人の多い国になっているということだ。

経済に詳しい作家の幸田真音氏によれば(財務省の法人企業統計では)、大企業では、2001~05年の間、従業員の給料(ボーナス込み)は3,9%下がったのに対して、役員の報酬は97,3%も上がっている。一方、中小企業(資本金1億円以下)のばあいは、従業員は4,2%下がり、役員も8,2%下がっているという。大企業の役員とその従業員および中小企業の役員・従業員との間の格差拡大は歴然としているということだ。

非正社員など不安定雇用も急増して、3人に1人、若者は2人に1人にも達している。

外国資本も含め、金持ち(ファンドマネー資本家も)と大企業・大銀行は益々有利となり、肥え太っている。一方、年収200万以下が5人に1人、生活保護世帯は10世帯に1世帯(105万世帯)にも達しているが、一生懸命働いていながらそれ(生活保護水準)以下の収入で生きている人々(ワーキング・プア)も急増し(02年で656万世帯)、今は2割前後にも達しているだろうといわれる。

このような生き残り競争と貧困化の中で、長時間過密労働とストレスによる健康被害(心身の疾患)、過労死・自殺も激増している。

若者の間に、職にも就かず学校にも入らないニートも増えているが、職に就いてはいても非正規で結婚できず子どもをつくれないという人々が増え、それが少子化の原因になっている。

学校生徒は受験競争のため、予備校や塾だけでなく学校でも競争教育が行なわれ、そこでもそのストレスに起因する「いじめ」「不登校」は増え続けている。競争教育は、これまでの教育基本法の精神に反して行なわれてきたが、政府はその教育基本法の方を変えてしまい、学力テスト・学校選択制など競争教育をさらに激化させようとしている。

国民年金の空洞化率(未納などの比率)が4割近く。国民健康保険の保険料の滞納者470万世帯(32万世帯が保険証を取り上げられている)。年金・医療・介護など社会保険体制は崩れだし、社会の持続可能性が大きく損なわれている。

育児・教育に関連する家庭基盤の崩壊と社会環境の悪化、それらにともなって様々な社会病理現象が頻発するようになった。

子どもも若者も老人も多くの人たちが不安・心配を抱えているということだ。1月13日

発表された内閣府調査では、日常生活に「悩みや不安を感じている」と答えた人は67,6%で、それは1958年(この私の高校時代)調査開始以来、過去最多だという。

我が子や孫たちはいったいどうなるのだろうか、心配でならない。


(2)不満・不安を愛国改憲で解消

安倍政権は、国民の不満を外(北朝鮮・中国・国際テロ組織などの脅威)にそらすとともに、国民の疲弊・不安の原因を、小泉前政権あるいはそれ以前からの自民党政権の政策の誤りや失政に求めず、それらは戦後体制の欠陥か制度疲労によるものだとして、こともあろうに、憲法とそれに基づく諸制度に疲弊・不安の原因を求め、「戦後レジームからの脱却」をかかげて、既に教育基本法を変え、防衛庁をかつての陸海軍省のように防衛省に変え、さらに憲法を変えようとしているのである。占領軍による「押しつけ憲法」だとして、北朝鮮などとともに憲法を悪者にして、教育基本法改変とともに改憲によって自らの政策に対する不満をかわし、不安解消をはかるという魂胆。

競争と個々人の自己責任・自助努力まかせの政策、格差拡大によって、社会が分断され人々が孤立してバラバラになるのをくい止め、人々の不満を外(国の外)にそらして国内不安を解消するために、おこなおうとしているのが愛国心・公徳心の喧伝・注入なのであり、それによって国民統合と社会秩序の維持をはかろうとする。それが安倍政権の狙いなのである。

一方で、政財界の権力者・有力者たちはアメリカ政府や外国資本に対して売国的なことをやり(追従・迎合)、或は「やらせタウン・ミーティング」問題や政治資金の不適切経理(事務所費問題)など道義に反することをやっていながら、一般庶民や子ども・若者には愛国心・道徳心を持てと説教するのである。そのために、北朝鮮・中国・アルカイダなど外国の脅威と「国際貢献」に目を向けさせ、ナショナリズムをあおる。

日本経団連の御手洗会長の提言(「希望の国、日本」)は、「新しい教育基本法の理念に基づき、日本の伝統や文化・歴史に関する教育を充実し、国を愛する心や国旗・国歌を大切に思う気持を育て」「教育現場のみならず、官公庁や企業・スポーツイベントなど、社会の様々な場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し、これを尊重する心を確立する。」公徳心は「基本的な価値観を共有する共同体の一員という自覚を持つことにより育まれる。」「愛国心を持つ国民は、愛情と責任感と気概をもって国を支え守る」などと説いている。彼の云う「希望の国」とは、安倍首相の云う「美しい国」とぴったり一致するものだ。その言葉をもじって(「うつくしいくに」の字を反対に並べて)「憎いし苦痛」な国と揶揄する向きがあるが、庶民にとってはその方が当たっていると考える向きが少なくないだろう。

多国籍企業などはビジネスのグローバル展開と世界各地における権益・シーレーンの安全確保のために、安全保障(警備)と世界秩序の安定維持を、軍事超大国で「世界の警察官・保安官」たるアメリカとその「副保安官」たるべき日本の自衛隊に求めようとする。そこで必要なのが、自衛隊をアメリカ軍について世界のどこへでも行って作戦行動を共にすることができるようにすることであり、そのために憲法の縛り(制約)からそれを解き放つことである。日本経団連など財界が改憲を求めている理由はそこにある。

アメリカが始めたイラク戦争に、陸上自衛隊は「非戦闘地域」と人道復興支援に限定して派遣され、航空自衛隊は輸送任務だけ、アフガン戦争には海上自衛隊がインド洋上での給油だけということで、後方支援・非戦闘任務に限定して派遣されているが、改憲してそのような制約を取り除き、参戦・戦闘参加もできるようにしようというのである。

格差社会で貧困層の若者は、自衛隊が有利な就職口となる。徴兵制はなくても自衛隊員はたやすく集められることになる。(今のアメリカ軍兵士がプア・ホワイトや貧しい黒人・移民などから集められているように) 自民党の武部前幹事長は「ニートはサマワへ行け」と発言したことがあったとか(斉藤貴男『憲法が変わっても戦争はなくならないと思っている人のための本』日本評論社)。

単に職を求め収入を求める貧困層だけでなく、ニートやフリーターなど、会社や社会に期待をもてず、どこにも帰属意識をもてない若者の中に、唯一確かな居場所として身近で愛し守るべき存在として日本という国に拠り所を求め、「自衛隊の一員なら国民や国土を守れる」と云って、予備自衛官補(普段は普通の会社員か学生で、有事の際に後方任務を担う。02年度から採用、06年度は1260人採用されている)になって訓練を受けている者がいるのだそうであるが、そのようにして自衛隊に志願する若者は益々増えていくのだろう。

こうして焦燥と不安にかられて爆発・暴走するはずの若者たちの心を、安部政権はうまく取り込むことができるというわけである。

「ならず者国家」北朝鮮や中国・アルカイダなどの脅威のまえに、アメリカに次ぐ経済大国であるだけでなく軍事大国として世界各地で「国際貢献」に活躍する自衛隊の姿に「美しい国」日本の誇りを感じ、格差・貧困をものともせずに心が一つになる。それが安倍政権の狙いなのだと思われる。その新憲法は「美しい国憲法」というわけか。

しかし、騙されまい。


(3)騙されまい

人々の不満をそらす(気を紛らわせる)ものに娯楽があるが、そこで利用されるのがテレビなどのメディアである。テレビ(ワイドショーやバラエテーショーなど)に乗せて政治を面白おかしく見せる、ということも行なわれる(政治の劇場化)。NHKをはじめマスコミは政府によって巧みに利用され、操作される。メディアが改憲ムードを作り出してくれる。

娘は、テレビで「納豆ダイエット」なるものを見て2・3日というもの、納豆をばくばく食べていた。数日後、それが「捏造番組」であったことが(他のメディア―「週刊朝日」によって)発覚した。

メディアといい政府のやることといい、よほど気をつけないと騙される。

「やらせタウン・ミーティング」で教育基本法改正ムードを作り出し、「やらせ」が(野党―共産党などによって)発覚しても、政府与党は強引に「改正」を押し通した。

政府与党は権限を利用でき、情報の入手、政策の宣伝、世論調査・世論誘導など野党に対して圧倒的に有利であり、よりたやすく多数支持が得られる。

また、政府与党や権力担当者は国民・市民の表現の自由や思想・言論の自由に法律を利用し、官憲を使って反対運動を抑え込むことができる(ビラを取り締まるなど)。

ところで、日本国憲法にかぎらず近代憲法は、そもそも国民の自由・人権を守るべく権力を縛るために制定されたものなのだが、改憲派はその憲法を、「国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール」であり、国民と権力の両方を縛るものだとして、市民の反対運動を「公の秩序」を理由に取り締まり、国民を縛るものに変質させようとしている、そこにも改憲の狙いがあるのだ。

政治の劇場化によって「一億総観客」化し、新教育基本法によって「一億総愛国者」化して、国民の不満・不安は雲散霧消し、表面的には解消されるとしても、庶民の生活と社会の実態は変わらないどころか、ますますひどくなりかねない。

憲法を変えてしまったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまう。

 孫よ、大きくなったら、みんなが政財界やメディアから騙されないように、インチキやうそ・ごまかしを見破る先生になって、世界の人々を守る人になって欲しい。

 日本という国は、政財界の権力者や野心家の強欲・傲慢・欺瞞さえなければ、黙っていても「美しい国」だし、愛さずにはいられない国なのだから。

2007年03月13日

「美しい国へ」よりも「安心な国へ」

 孫よ。あなたたちのお父さん・お母さん、それに婆(ばばあ)も、あなたたちを面倒みてくれる。幼稚園や学校の先生もあなたたちを他の子と一緒に面倒みてくれる。
 そのほかに役所・施設・会社・お店・お医者さんなど、いろんなところで、いろんな人たちがあなたたちをお世話してくれ、入り用なものを与えてくれる。
 あなたたちのお父さん・お母さんはお勤めに行って働いてきてお金(給料)をもらい、それらにお金(代金や税金)を払っているけど、それはそれとして、あなたたちが、役所やお医者さんや幼稚園・学校の先生など、いろんな人たちからお世話してもらえるのは、それが、そういう世の中の決まりだからなのだよ。
 だから安心して毎日を過ごしていいんだよ。
 あなたたちが大人になれば、自分で働いてお金をもらえるようになり、そうなったら、そのお金で買える物は何でも買えるし、できることは何でも自分でできるようになるから、もっと楽しくなるんだよ。大人になるのが楽しみだね・・・・・と孫に言いたいところだが。

 ところで、昔(戦争中)の小学校の教科書(「国民科修身教科書」)ヨイコドモ(下)の「日本ノ国」には、次のように書かれていた。
 「明カルイ タノシイ 春ガ来マシタ。
 日本ハ 春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ国デス。
 山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス。
 コノ ヨイ国ニ 私タチハ生マレマシタ。
 オトウサンモ オカアサンモ コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。
 オヂイサンモ オバアサンモ コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。」
そして次のような唱歌(初等科2年生用「うたのほん(下)」)が歌われた。
 「日本 ヨイ国 キヨイ国 世界ニ一ツノ神ノ国。
 日本 ヨイ国 強イ国 世界ニ カガヤク エライ国」

 安倍首相は「美しい国へ」を掲げている。しかし、「春夏秋冬の眺めが美しい」という意味では、為政者なんか何もしてくれなくても、元々この国は「美しい国」なのだ。ただ、その上に、国民は皆心美しく、弱肉強食の競争や「いじめ」や醜い争いがなく、他国といがみ合うこともないという意味でも「美しい国」であってほしいとは思うが、安倍首相の政策が新自由主義(産業の各分野で規制緩和、公営事業も民営化して競争市場の自由に任せるという市場原理主義)や新国家主義(「国益イコール企業や市民の私益」を守ってくれる「強い国」をめざすネオ・ナショナリズム)に基づいているかぎり、そんな「美しい国」には初めからなれっこないのだ。  
  また、経団連の御手洗会長は「希望の国・日本」を掲げているが、それは「勝ち組」などの限られた人々にとっての希望の国で、多くの人々にとっては「希望の国」どころか、不安だらけ(1月発表の内閣府の世論調査では、生活不安を抱える人67,6%、朝日新聞の1月5日掲載の定期国民意識調査では、「今の日本は人々が希望を持てる社会」だと思う人は30%であるのに対して、思わないという人は59%。「自分の将来について」期待のほうが大きいと思っている人が24%であるのに対して、不安のほうが大きいと思っている人は67%。経済評論家の内橋克人氏は「不安社会」といっている)。
 今人々にとって最も切実な願いは、この国を誰もが安心して日々暮らせる国にしてほしいということであり、そのようなスローガンこそ掲げるべきであろう。「安心な国へ」と。
 (昨年7月に閣議決定した「骨太の方針」に「安全・安心な社会」が打ち出されているが、この安心は、いったい誰にとって安心なのか、である。)

1、国・自治体・企業は誰の為のもの
 国家や自治体およびそれらの財政資金は国民・住民(子ども・老人・障害者も一人のこらず)のためにあり、企業や市場も消費者・勤労生活者のためにあるべきなのであって、その逆ではない。(内橋氏によれば「人を市場に合わせる」のではなく、「市場を人々に合わせて調律する」べきものなのである。)  
 ①憲法は国その他に対して国民の人権を保障するために定められている。 
 憲法は国民に、何人も恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利、および健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障し、勤労権、教育を受ける権利、幸福追求の権利と機会の平等を保障している。国や自治体は国民にそれらを保障するため、最大限その役割を果たさなければならないのである。
  ②税金は、それを納める人自身と、この国この町で生活を共にする人々のために出し合っている、いわば共同資金なのである。
 国民は税金を出し合い、国会議員を選出してその使途の決定を委ね、彼ら(国会議員)が彼らの中から選出した首相と、首相が任命した大臣たちによって国は運営される。また、県市町村の住民は税金を出し合い、それぞれの議会の議員を選出してその使途の決定を委ね、首長を選出してその執行を委ねることによって自治体は運営される。
 税金は公共サービスや社会保障など国民・住民の福祉と共通利益のために出し合うのであり、それを多く出している人や企業は、それだけ国や社会に対する貢献度が大きく、より高いステータス(世間の評価)が得られ、「努力が報われる」ことになるわけである。
  ところが、「努力した結果が報われる」ようにといって、大企業や高額所得者が、逆に税の軽減を求め、国がそれらに税金を安くまけてやる、という逆のことが行なわれている。
 彼らには、税金が人々の幸福に役立つものだとか、それを多く支払っている者が名誉だなどという観念はなく、むしろ、税金を納めるのは損なことであり、迷惑と考える向きが強い。彼らに対する減税や税の軽減措置にたいして、増税されている庶民のほうが、公平性の観点から反発を感じ、また税金の使い道が、庶民にとって切実なもの(福祉・医療・教育など)に当てられる部分が少なく、よけいなもの(ハコモノや道路・港湾建設といった大型公共事業、それに軍事費など無駄の多いもの)に使われていることから、庶民が税金で損していると感じるのは当然のことであろう。そのような彼らならばいざ知らず、大企業や高所得者のほうが税金を出し渋り、値切っている。そのような大企業・高所得者と、彼らに減税を認めてやっている政府や自治体首長の政策は、はき違えも甚だしい。
 ③憲法上の国民の義務も法律上のルールも、自分自身とこの国この町で生活を共にする人々の互 いの必要のために定められ実行されている。
 働くこと(勤労)は権利であると同時に義務である。それは納税義務とともに憲法に定められた国民の義務である。それに、商品やサービスはお金で売り買いするなどの市場のルールをはじめ、様々なルールが法律で定められている。義務を果たし、ルールを守りさえすれば、安心して暮らせるはずなのである。
  しかし、問題は、これらの義務やルールとその適用に不公平があることである。
 納税は、所得の多い少ないによって、あるいは所得が同じ金額であっても家庭の事情(子供が多いとか、病人や障害者を抱えているとか)によって負担能力に差があるのに応じて税負担する応能負担が原則のはずである。(05年、所得税・消費税・法人税が税収に占める比率はそれぞれ31,8%、21,6%、 27,1%)所得税は負担能力に応じた累進課税になっている。(それは、たとえば100万円しか所得のない人が10万円負担する場合の負担感は、1,000万円所得のある人が100万円負担する場合よりも重い、ということで累進税率が適用されているのである。現在は4段階で、1800万円以上所得のある人には37%、1800万円未満の人には30%、900万円未満の人には20%、330万円以下の人には10%)ところが、1989年、(それまで所得税は5段階で最高税率50%だったのが37%に,大企業などの法人税42%だったのが30%に引き下げられ、それに替わって)消費税が導入されて、3%から5%に引き上げられ、今後さらに引き上げられようとしている。税収に占めるその比重はさらに大きくなる。この消費税は、累進課税とは逆で(逆進)、所得の低い世帯ほど負担の重い、応能負担原則に反した税金なのである。企業が納める法人税は、実はかなりの企業(中小企業の7割、資本金1億円以上の大企業の5割)が赤字で免除されている一方、法人税には累進税率が適用されておらず、大企業はかつてのバブル期を上回る史上空前の利益を上げていて、充分すぎるほど税負担能力があっても全企業一律30%の税率で済んでいるのである。
 また、「機会の不平等」もある。努力の結果ならいざ知らず、スタート時点での条件(家庭環境、経済的条件、教育的条件、正社員か非正社員か、性別・年齢など)の格差や違いによって機会に恵まれる者と恵まれない者とが分かれ、そのため、どんなに努力しても、或はどんなに再チャレンジしても結果が得られないという人が沢山いることが問題なのである。結果平等ではなくても、機会は平等でなければ不公平・不合理なわけである。
 ④企業は人民の為にある
 ところで、民主主義の国家は「人民の、人民による、人民の為の国家」である。社会主義はそれをめざし、企業をも「人民の、人民による、人民の為の企業」とすることをめざすものであったが、旧ソ連や改革・開放前の中国それに現在の北朝鮮などの場合は、それが「一党独裁国家の(国有で)、官僚による(国営の)」やり方で、硬直した官僚主義に陥って、人民からは全くかけ離れていった。資本主義の企業は「株主(出資者)の(所有で)、会社役員による(経営の)」やり方で、「会社は誰のものか」といえば、「株主のもの」ということになる(株主といっても個人株主・法人株主・機関投資家、それに政府や自治体が株主になっている場合もある)が、いずれにしても一番肝心なことは「会社は誰の為のものか」ということであり、それは「お客様の為のもの」であり、社会の為のもの、要するに「人民の為のもの」なのだ、ということである。
 株主たちには配当金や株の売買で儲けたいという利己的な欲求があり、株主の多くはそれが目当てだという側面もあって、経営者はそのような株主たちの利益(利潤の最大限確保)をも考慮しないわけにはいかないが、企業は、そもそも誰の為のものかといえば、それは「人民の為の」もの―具体的には顧客(利用者・消費者)・従業員・下請け業者・株主・債権者(これらはステークホルダーすなわち利害当事者とよばれる)それに法人税が得られ国や自治体、雇用が得られる求職者などの為のものであり、こういう人々や社会のために、企業はあるのだということである。(イギリスのブレア首相は「ステークホルダー・オブ・ブリテン」宣言で「すべての国民がステークホルダーだ」と唱えたという―内橋克人「浪費なき成長」光文社)
 企業の本来の使命・役割は、多くの人に役立つ製品やサービスの提供にあり、定款などに創業の目的は事業を通じて社会に貢献することにあると定めている会社が多い。環境保全などに対する企業の社会的責任もある。
企業の所有者(株主)には所有権行使の自由が憲法上認められているが、憲法には同時に「これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と定められている(憲法12条)。
 株主権とは「残余請求権」といわれるが、それは賃金支払いや債務返済をした後に残る残余利益にたいする権利にほかならず、賃金支払(社員への給料の確保)などの方が優先されなければならない、ということなのである。
 上場会社のことをパブリック・コーポレーションすなわち「公共的会社」というのだそうであるが、会社というものは、本来公共性をもっていることを意味している。コーポレート・ソーシャル・レスポンスビリティー(CSR)とは「企業の社会的責任」のことである。
 企業は、法人税など納税は勿論のこと、寄付もおこなって当然なのである。フィランソロピー(慈善)などと称されるが、NPOやボランティア団体に寄付したり、社員のボランティア活動を支援したり、メセナ(芸術文化活動支援)など社会貢献活動を行っている企業もある。それが、その企業のイメージアップ戦略につながるとか、間接的な見返りが得られることにもなるのである。
 経団連や経済同友会が「企業の社会的責任」を打ち出し、各企業が(トヨタ財団・三菱財団など)財団を設立(学術研究に助成金を出し、社会福祉事業に寄付)したりしている。
なお、経済同友会はCSRとして次のような項目を挙げている。(奥村宏「株式会社に社会的責任はあるか」岩波)
 1、より良い商品・サービスを提供すること
 2、法令を遵守し、倫理的行動をとること
 3、収益をあげ、税金を納めること
 4、株主やオーナーに配当すること
 5、地球環境の保護に貢献すること
 6、新たな技術や知識を生み出すこと
 7、地域社会の発展に寄与すること
 8、雇用を創出すること
 9、人体に有害な商品・サービスを提供しないこと
 10、人権を尊重・保護すること
 11、フィロンソロピーやメセナ活動を通じて、社会に貢献すること
 12、世界各地の貧困や紛争の解決に貢献すること

 経営者には、そのような、金銭的利益を超えた経営理念と経営モラルが求められるということなのである。
 
 株式会社研究家の奥村宏氏によれば、次のようである。
 フリードマンらの新自由主義には、経営者の責任はあくまでも株主の利益を最大にすることであって、会社はコミュニティーや労働者のことではなく株主のことだけを考えるべきだとする社会的責任否定論があるが、2,000年代になって「企業の社会的責任」(CSR)を否定する者は少なくなっている。それに対してCSR業者・CSR学者がもてはやされるようになっているという。いわく「CSRは儲かる」、「倫理は得になる」。安全性や品質や環境など社会的責任を果たす。もしそれをしなかった場合、企業が訴えられて蒙る損失にくらべ、この方がプラスである。あるいはそれ(社会的責任)に積極的に取り組む企業では、従業員が経営者を信頼し、より組織に誇りを持つようになってよく働く。また社会的責任を果たす企業は評判がよく、これが会社の売上の増大につながる。短期的にはマイナスになっても、長期的には企業価値を高め、企業の競争力を強め、企業の利潤増大に寄与することになる、というわけである。
しかし、現実には、CSRは企業批判をかわすためであるか、或は利潤追求の手段に過ぎず、景気が悪化したり、企業批判が下火になると社会貢献活動も下火になる。
 労働組合は勿論のこと、経営者はCSRを単に「道徳的説教」或は「会社を守る」ための宣伝とだけ考えてはならない。従業員が企業を訴える内部告発は従業員の社会的責任であるという。
 奥村氏は「法人である株式会社の責任は、まずなによりもその代表者である経営者がとらなければならない。」「そのためには株式会社という企業のあり方を変えていかなければならない。そのような企業改革の思想が、いま求められている」という。要は社会的責任を持てるような企業に変えることが必要だというのである。経営者が企業活動全体に責任を持てるように大企業を解体して、できるだけ小さく分割するとか、協同組合が、営利を目的とするのではなく、広い意味でNPOの一つとして見直され、またNPOの中から様々な新しい企業が生まれてくることが考えられる、としている。

 今、国や自治体は国民・住民のために、その役割を最大限果たしているだろうか(やるべきことをやっているのだろうか)。また、企業はその社会的責任を最大限果たしているだろうか。はき違えているようなことがないだろうか。

2、国・自治体・企業の責任
 人は誰しも幸福追求権をもち、幸福を得る機会(チャンス)にありつく権利は平等にもつ(そのことは憲法で認められている)が、その幸福(生きがい)を何に求めるかは人によってまちまちで、それを仕事(勤労)―もの作りか商売(ビジネス)―に求めたり、利殖(金儲け)や蓄財(金貯め)に求めたり、何か学問研究か音楽か文学・芸術に求めたり、何かの芸やスポーツに求めたり、ゲームや競争(勝利)に求めたり、冒険に求めたり、何か趣味・娯楽に求めたり、何かのボランティアに求めたり、子を育て上げることとか、人に教え人を育てあげることに求めたり、或は信仰に求めるなど、人によって千差万別である。
 これらの中には、マネー・ゲームや競争・ギャンブルなどのように、勝敗や成功・失敗がつきまとい、明暗が分かれ、不幸な結果に終わる(とはいっても生活―生存権―がかかっているというものではなく、ゲームに負けただけの話)といったものもある。そのような意味での「結果不平等」「格差」は当然のこととして誰しもが甘受できるものである。
 お金や競争で勝利を得ることに幸福(生きがい)を求める人もいるが、そうでない人の方が多いわけである。
 ところが現政権下では、金銭的利得や競争に生きがいを求めるという極く限られた人たちだけの価値観や生き方が全てに押し広げられ、全ての人が「勝ち組」か「負け組」に分けられる「競争社会」がつくりだされ、幸福(生きがい)追求どころか、生きていくのがやっとという人たち、或は未だ自立の出来ない子どもたちまで競争にかりたてられている。勤労生活者が、生きるための最低条件で成果を競わされ、酷使されるという状況が広がっており、子どもたち・若者たちは、単なるゲーム遊びではなく、将来の死活に関わるテスト競争や受験競争・就職試験競争にかりたてられているのである。そういう状況を作り出しておきながら、安倍首相いわく。「経済的に豊になることが人生の目的ではないし、正規雇用されなければ不幸になるわけでもない」と(「美しい国へ」)。何とそらぞらしいことか。

 各人がそれぞれ自分なりの幸福(それぞれが目指す人生目的の実現や自己実現)を追求して、結果的に成功・失敗や幸運・不運があるのは個人の自己責任であり、やむをえないことだとしても、幸福追求以前に、幸福にありつこうにも初めからその機会が絶たれているとか、生きていくのがやっとだとか、テレビ・新聞も見れない、(デジタル機器など使えず)情報に接することができないとか、進学したくても学費が払えず必要な教育が受けられないとか、安定した働き口がないとか、勤めや収入・身分が不安定だとか、保険料がはらえず医者にかかれない、年金はろくにもらえそうにない、などといったことはあってはならないことであり、生存権(健康で文化的な最低限度の生活)の保障や就学(教育の機会均等)・就労(雇用・勤労権)の保障、公平な機会の保障を国や自治体が引き受けるのは憲法上当然のことなのである。生存権の保障と就学・就労には国・自治体はもとより、企業も責任を負わなければならない。それが国・自治体・企業の果たすべき役割なのである。
 ところが、現政権と財界(大企業経営者)は、そこのところで責任を果たそうとせず、「教育再生改革」を掲げていながら、国連の「児童の権利に関する委員会」からの勧告で「極度の競争的な制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」と指摘されているほどの競争教育と世界一高い学費(父母負担)を放置し、また、雇用と労働の規制緩和で大量の不安定雇用を招き、生活保護水準以下の低賃金で働くワーキング・プアや、就学・就職をあきらめたニートを生み出している。そして「自立支援」だとか「再チャレンジ支援」だとかの支援策をとるだけで、あとは「国に頼るな」「自助努力・自己責任だ」と言って済まそうとする。企業には「賃金が低く、人員の増減がしやすい非正規雇用者を必要としているという事情がある」(「美しい国へ」)と云って、大企業経営者には(政治献金を受けて)その期待と要望に応え、規制緩和や減税など至れり尽くせりの便宜を図っている。それが現政権なのである。
3、「再チャレンジ政策」って?
 安倍首相は「勝ち組と負け組とが固定化せず、チャンスにあふれ、誰でも何度でもチャレンジが可能な社会を」というが、その意味は、「負け組」に再チャレンジさせる(再度のチャンスを与える)ことによって「勝ち組」「負け組」を入れ換えるという、その意味で固定化しないということなのであって、格差そのものはそのまま固定化されるということ。こうして格差を設けておくことによって、たえず互いを競わせて必死になって働くようにさせる、ということなのである。「勝ち組」は「勝ち組」で、正社員というその地位から転落しない(リストラされない)ように必死になって、サービス残業もいとわず、在宅であろうとどこであろうと、休日であろうと何時であろうと働かざるをえなくなる。かくて経営者は、従業員を安い賃金で最大限働かせることができ、働く者の間に自発的労働強化の新たな競争がつくりだされる。そうして正社員・非正社員の間、あるいは大企業の社員と中小企業の社員との間、それに公務員と民間との間の競争は下の方へ、下の方へと最底辺に向かうのである。
 「再チャレンジ」とは弱者の生活を保護するセーフティーネットではないと、首相自身がことわっており、それは「負け組」に再チャレンジさせて「勝ち組、負け組」を入れ換えるというだけのことで、それを繰り返しているうちに皆「勝ち組」になれて正社員として身分の安定が得られ、楽になれるなどというものではなく、果てしなく競争が繰り返され、格差が再生産され、「負け組」が再生産される、ということにほかならないのである。(「美しい国へ」では「警戒すべきは格差の再生産」と書いているが。)
 
4、「成長戦略」って?
 安倍政権は「成長戦略」を掲げている。しかし、内橋克人氏(著書「悪夢のサイクル」)によれば、「『経済成長だ、GDP上昇だ』といって、それを国家の運営目標としているが、GDPというものは、耐震偽装をしたマンションをつくっても、それがGDPにプラスになるし、偽装だから潰すというとき、そのコストもプラス、もう一度立て直すというときもGDPプラスになる。世の中が危険になって、どこでもガードマンやセコムをつけることになったとしてもGDPプラス、人間にとって不幸なこと、一人一人の生活者にとって不安なことがGDPにとってはプラスになる。」つまり、国民の幸福を犠牲にしてGDPを追い求めているという。
 「成長戦略」は「成長底上げ戦略」などともいわれるが、それは、大企業さえ成長すれば、いずれは家計におこぼれがまわるという、以前にもとられ大企業本位の経済政策の繰り返し。安倍首相は、「成長しなければ、果実は生まれない」、景気を拡大することで、果実を家計に広げるのだとし、戦後のいわゆる「いざなぎ景気」をしのぐ景気回復はさらに続くという見方を一貫してとり続けている。
 しかし、未だに果実は庶民の家計には及んでいない。だいたい、これまでの景気回復―企業部門の好調―は大企業におけるリストラ効果と好調な輸出のおかげであり、GDPの上昇は好調な企業による設備投資が押し上げたものであり、家計の低迷、国内消費の低迷はそのままなのである。それどころか、労働コスト(賃金)抑制のうえに、今年、定率減税の廃止、年金課税強化、それにこれから消費税を上げるなど家計の負担増で、個人消費が停滞して、経済成長そのものが停滞する可能性すらはらんでいるといわれる。中央大学の徳重教授は「不安定な生活が増大する格差社会において、安定した経済成長を続けることは極めて困難」だとしている。
5、規制緩和路線の見直し―再規制の必要
 規制緩和が必要だったのは、政治的な力の強い特定の利害関係者のために制定されたり、或は、かつては合理性のあった規制でも時代の状況にそぐわなくなったりしたばあいの話であって、そもそも規制は必要不可欠なのであり、市場は人々の都合にあわせてコントロールされて当然なのである。
 規制緩和政策は「競争促進」「効率をよくする」ためにと、これまで進められてきて、小泉政権でピークに達し、「とにかく市場に任せろ」とばかりに、交通・建築・流通・金融と何から何までむやみやたらと規制の緩和・撤廃がおこなわれてきたが、その結果が、列車の脱線転覆事故、航空会社の運行トラブル、長時間労働が原因のトラックやタクシー・バスの交通事故頻発、耐震強度偽装事件、中心市街地の空洞化、金融商品での投資家被害の頻発などなどである。
 いまや、その見直し、再規制の時であり、それは既に行われ始めている。いわゆる「揺り戻し法」である。
 交通関連12法の改正
 建築基準法などの関連4法の改正
 金融商取引法における金融商品の販売ルールの厳格化その他
 株式公開買い付け(TOB)の規制や投資ファンドに対する規制の強化
 「まちづくり」3法の改正―大型店の郊外出展の原則禁止         などなど。

 しかし、その一方、学校教育への競争原理導入とあいまって、教育の規制緩和が行なわれようとしている。学区の自由化(学校選択制)などである。

6、非正規雇用者の処遇改善の必要
 朝日新聞(2月18日付け社説)によれば、格差問題で「政治が最優先に取り組むべき」は、正社員と非正社員の働き手との間に横たわる賃金や契約期間など処遇での差別の是正、機会の不平等(年齢・性別その他理不尽なハンディによる差別)の是正、25~35歳の年齢層でバブル崩壊後の不況で就職にあぶれ非正規雇用を余儀なくされてきた世代を正社員に採用、「低賃金の非正規雇用にあぐらをかく経営者にその転換を迫る」などのことである。
 それに、とにかく、働いたら働いたその時間の、健康で文化的な最低限度の生活を保障するだけの賃金(最低賃金)を保障することが必要不可欠である。貧困とは、国際的には所得が国民の平均的所得の5割(現在の日本では時給にすると、だいたい1,000円)以下だから、1,000円がそれ(最低ライン)に相当する。ところが今は、各県まちまちだが、全国平均で673円にすぎない。最低賃金を引き上げれば(中小零細企業などは経営が圧迫されるという懸念があり、それには大企業による下請けへの低単価のおしつけをやめさせことや、中小企業への助成金や無利子の融資も必要だろうが)労働者の収入が増える。それが消費を増やし、地元企業の売上増につながる。中小企業にとっては、過当競争(ダンピング競争)もなくなるし、事業も安定してむしろ効果的なのである。
 今は、同じ職場で正規・非正規で差をつけ、大企業と中小企業との間で(大企業による下請け単価の買いたたきによる)大きな格差があり、中央と地方とで大きな格差がある。同一労働同一賃金であるはずなのに、である。
7、国・自治体・企業の経営努力
 財政は国民・住民が共に必要とする公共サービス・公共施設を運営するためにあるのであって、財政のために財政があるのではない。不要なもの、無駄なことには金を使わないようにし、無駄な支出を省き、必要性の低いものは削るといったことは当然のことではあるとしても、国民生活に密着し庶民が切実に必要としているものには財政を投入し、金がなければ借金をしてでもやる、というのが財政というものである。単に収入の範囲内で最低水準の行政しかやらずに赤字を出さない首長が有能なのではなく、また庶民が切実に必要としているものまで何もかも削って借金を減らした首長が有能なのでもない。例えば、経済も税源も一極集中し、借金を返済する資金も潤沢にある東京などの大都市圏の首長が有能で、地域間格差の底辺に置かれた地方の県市町村が地方交付金と補助金が激減する中で、住民の生活権を維持するため懸命に努力しながらも財政危機に追い込まれている首長が無能だなどということはあり得ないわけである。

 企業経営者は経営(採算)を維持するために、一定以上の売上確保をはかり、そのため商品・サービスが売れるように工夫・改善に努めなければならない。他社との競争・国際競争に遅れをとって売れなくなるということのないように競争力をつけなければならない。
そこにイノベーション(技術革新)も必要である。
 国がイノベーションを助け、医学・工学・ナノテクノロジー(超微細技術)の創造・活用、それにICT(情報通信技術)の高度利用による産業・物流インフラの整備などに財政的支援を行うこと。安倍政権はそれを重点政策の一つにあげているが、それにつけても、日本の風土を生かし、「ものづくり・職人技」などの日本人の特技を発揮することで勝負するといった戦略があって然るべきだろう。
 しかし、価格競争にとらわれ、発展途上国の安い賃金水準とはりあって労働コスト(人件費)削減―正社員リストラ、非正規雇用の拡大、サービス残業など長時間過密労働、賃金抑制など―労働者を犠牲にし、又、大企業による下請け単価の買いたたきダンピング競争で中小企業を犠牲にする、そのようなことがまかり通っているが、それは勤労生活者に勤労権と生活を保障するという企業の社会的使命に対して本末転倒である。
 また、国は定率減税の廃止、消費税など庶民増税を行なう一方、史上空前の利益をあげている大企業と大資産家には減税(法人税の減税、株式配当や譲渡益にかかる税額や相続税・贈与税などの軽減措置)をおこなっているが、それも本末転倒である。
 安倍政権と経団連などの財界(大企業経営者たち)にはこのような本末転倒の誤りがあるのである。
 企業経営者の経営努力は経営の維持・安定(会社を潰さない)が大事なことは当然であり、そのためにコスト(経費)の無駄を省き、効率をよくすることに努めることも必要だ。しかし、その会社、その経営の維持・安定が必要とされるのは、人々(消費者)がその商品やサービスを必要としているからであり、そして国や自治体にとっては、その会社があることによって法人税などの税収が得られるからであり、勤労生活者にとっては、その会社があることによって雇用・収入源が得られるからなのであって、株主・会社役員など限られた人々の金儲けなどの利益のためではないのである。
 今、大企業は、史上空前の利益をあげていながら、それを社会に還元することなく、従業員の給与を抑え、株主配当・役員報酬だけを(01~05年の間に)それぞれ3倍・2倍と上げている。
 日本経団連は政権党である自民党には政治献金(政策買収)をやって法人税減税や規制緩和などの見返りを得ており、利己的な利益追求を事としているのである。(法人税は、そもそも欧米などと比べてけっして高くはなく、実効税率はアメリカ40,75%,ドイツ39,9%に対して39,54%。税と社会保険料とを合わせた企業負担はドイツ・イタリア・フランスよりも日本のほうが軽い。)
 経団連会長の御手洗氏の会社キャノンは株式の過半数が外国株主でもっている現状だが、政治献金を外資企業にも認めるように(政治資金規正法を改正)させた。キャノンの工場で派遣労働者を請負労働者と偽って使っていること(偽装請負)が発覚している。(この労働者たちは正社員の賃金の半分、ボーナスも昇給もなく、社会保険への加入もない。このような偽装請負は05年度、調査した企業のうち6割を超える974社で、それが確認されている。松下電器の子会社やトヨタ系の工場でもやっていた。)
 2月23日付けの朝日新聞で鮫島浩記者は次のように指摘している。「キャノンは小泉政権下で業績を伸ばした。製造現場への派遣労働解禁など規制緩和の波に乗って非正規雇用を増やし、コスト削減に成功。違法な偽装請負も発覚したが、御手洗氏は『請負法制に無理がありすぎる』と更なる規制緩和を求めている」と。そして「日本経団連の御手洗富士夫会長と手を組む『安倍自民党』」、「『希望の国・日本』(御手洗ビジョン)は成長重視の経済政策だけでなく、教育再生や憲法改正も盛り込み、首相の『美しい国・日本』と瓜二つだ」と書いている。
 その御手洗会長は『希望の国・日本』で「愛国心を持つ国民は愛情と責任感と気概をもって国を支え守る。」「教育現場のみならず、官公庁や企業も日常的に国旗を」掲げるべきだなどと云っていながら、それとは裏腹な利己的な会社経営をやっているのだ。
 国家経営も自治体経営も企業経営も、いったい誰たちのためにやっているのか、その経営努力は何に向けられるべきか、そこに本末転倒があってはならない。
8、自助努力・自己責任
 自助努力・自己責任は、次のような意味では、それも必要だろう。
すべて、国や自治体まかせ、会社まかせ、他人まかせ、なりゆきまかせではなく、また、すべて、国や自治体や会社に頼るのではなく、税金を我々から受け取っている国や自治体が負って然るべき責任をきちんと果たしているか、注意を払い(監視)、注文をつけ、要求をつきつけ、突き上げるなど。そのような自らの「たたかい」も必要であり、労働組合や市民運動に結集するなど、仲間たちと連帯して要求・交渉したり、運動を展開する、そのような我々の側の努力も必要なのである。
 民主主義ということは、主権は国民にあり、国や自治体の運営や決定は、国は首相その他の大臣・国会議員、自治体は首長・地方議員によって行なわれるが、彼らを選んでいるのは国民・住民なのであって、最終的な責任は選んだ者即ち国民・住民の責任なのである。だからこそ、我々は首相にも首長にも、その指揮下にある公務員にも、議員にも「それはおかしい、こうあるべきだ」と注文をつけ、要求をつきつけなければならないのである。
 それに、NPOなどの非営利・非政府組織などの結成・参加にも心がける。国や自治体・企業以外でも、広義のNPOは協同組合・学校法人・社会福祉法人などがあり、その他にも様々な協同組織、市民組織がある。それら、志を同じくする仲間との共同事業に活路・活動の場を求める、ということもあって然るべきだろう。
 そのような意味での我々自身の努力、自己責任も必要なわけである。
孫たちよ
 よく遊び、よく学べ!大きくなったら、よく働き、給料をもらったら、きちんと税金(所得に応じて公平に定められた税額)を納め、NPOやボランティアにも参加して人々のために尽くすことを心がけよ。
 その上で、国や自治体がおこなう公共サービスと社会保障は当然のこととして当てにし、不備不足があれば是正を要求してよいのだよ。受け入れられなければ、人々と連帯して(運動に起ちあがり)たたかうのだよ。勤め先に対しても、給料や労働時間など労働条件の保障や福利厚生は当然のこととして当てにし、不備不足があれば是正を要求してよく、受け入れられなければ職場の内外の仲間と連帯してたたかうのだ。

 子どもに対する親の責任で最もだいじなことは、子に安心を与え、不安を与えないこと、そうして、子どもが心置きなく遊んで学べるようにすることだ。子どもに対する親の責任は子に安心を与えること、これに尽きる。
 同様に、(子どもも含め)国民に対して国・自治体・企業が責任を引き受け果たさなければならないことは、この国、この町、この学校、この職場で、皆が日々安心して学び、働き、安心して暮らせるようにし(教育を受ける権利、勤労権、健康で文化的な最低限度の生活権を保障)、不安を除去(安全・平和を保障)することだ。
 そのうえで、各人それぞれが自分なりの幸福(生きがい・目的達成・価値実現・自己実現)を追求すればよいのであって、そこの部分(幸福追求)は自己責任と云ってよい。
 国にも自治体にも企業に対しても、それらが国民や住民に対して責任をきちんと引き受け、責任を果たすように、爺(じじい)は何かにと注意を払い、人々と共に声(「声なき声」)を上げ、要求をつきつけなければならないが、孫よ、あなたたちは、ただひたすら遊んで学び、夢を思い描いて遊んで学ぶことに専念してよいのだよ。

 大きくなったら、アメリカ人を助ける人になりたいんだって?(幼稚園で、先生に訊かれて、そう答えたそうだが)それはすごい。日本を、強いアメリカを助ける国にしたいという、どこかの国の首相と違って、アメリカの困っている人を助ける人になりたいというのであれば、なおさらすごい。

 日本は、「春夏秋冬のながめの美しい国、山や川や海のきれいな国」であることは確かだ。しかし、「世界に一つの神の国」「強い国」「えらい国」だなんて、そんなことを学校で子どもたちに歌わせて、アジア・太平洋で戦争をして、数えきれないほど沢山の人々を死なせた。
 でも、このじじいが小学校に入ってからというものは、そんな歌は唱われなくなった。
 じじいが小学校で歌ったのは、次のような歌だった。
  「幸福の青い鳥、
  青い小鳥がとんできた、
  遠い国からはるばると、
  日本の空へこのまどへ
  海を渡ってとんできた
  ヘレン・ケラーのおばさまは
  いつも小鳥といっしょです」
 このヘレン・ケラーという人はアメリカ人で、子どもの時から目も見えず、耳も聴こえなくなってしまったけど、お父さん・お母さんと先生の愛のおかげで、よく学び、立派に育って大学に入り博士にまでなった。その頃、日本に来て、戦争で心が傷つき落ちこんでいた多くの人々を元気にしてくれて、日本人を助けてくれたんだ。

 私の孫は「アメリカ人を助ける人になる」というのか。(卒園アルバムには、自筆で「アメリカのへいわをまもるひとになりたい」と書いてあった。)

 じじいは、このたび当地で発会することになった「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会」支部に入会した。(先輩に誘われて入会はしたものの、何も出来そうにないが)
 孫が世界の困った人々を助け人、世界の平和を守る人になるのだとしたら、なんと頼もしいことか。

 それにしても、国民が首相に対していちばん切実に望んでいることは、この国を誰もが安心して暮らせる国にしてほしいということであり、この地球を安心して住める環境にしてほしいということだろう。
 孫たちを安心して託せる国にしてほしいということだ。

2007年04月10日

とんでも国民投票法案

 いま安倍首相は、任期中の改憲をめざし、そのための手続き法である国民投票法案を今国会で通過させようとしてやっきとなっている。
 そもそも改憲からして、賛成だという人はそんなに多くいるわけではなく(3月17.18日付の読売新聞の世論調査では46%で半数を割っており、9条に限っては、改正賛成は36%
に過ぎない)、改憲は是非とも必要なのか、自民党が意図しているあのような改憲を国民は必要としているのか甚だ疑問であり、それは限られた人しか望んではいない(2月22日付の読売新聞の調査では「安倍内閣に優先的に取り組んでほしいもの」として「憲法改正」を挙げた人は6,2%で、列挙された17課題中、下から2番目)。
 その国民投票についても、それが今いま必要だと思っている人はわずかである(4月3日付の産経新聞の世論調査では「後半国会で最優先すべき課題は?」との質問に「憲法改正手続きの確立」と答えた人は1,9%で、列挙された8つの課題のうち最下位)。
 自民党が出している国民投票法案自体も実に様々な問題・矛盾点を含んでいる。以下にその問題点を挙げてみたい。
1、公正・中立な法案ではない
 それは憲法を最高法規として一番だいじに思う人たちが、改憲派によって安易に変えられてしまうことのないようにするために定めておかなければならない、というのではなく、その逆で、自民党など改憲派が改憲を達成しやすい国民投票法を決めておこうとして法案を考え、彼らが法案を提出しているのである。
 したがってそれは、以下のように改憲派にまったく有利な法案になっている。
2、有効投票総数の過半数でよいとしている
 96条(憲法改正)「この承認には、・・・国民投票・・・において過半数の賛成を必要とする」とあるが、その母数を有権者総数とするか、それとも投票総数とするか、有効投票総数とするか、3通りあるが(イギリスでは「有権者総数の40%以上の賛成」としている。その場合は投票率50%なら投票者の8割程度の賛成が必要ということになる)、法案はそれらのうち最もハードルの低い有効投票総数を母数としている。
 これでは、仮に投票率5割なら2割台の賛成だけで承認ということになってしまう。また投票率が4割で、無効票が一割あれば、わずか(1,5割を超える)1割台で改憲が成立してしまうことになる。
 何も書かない白票も一つの意思表示であるはずなのに、それが無効票あつかいにされてしまうわけである。
3、最低投票率の定めがない
 例えば韓国では有権者の50%を最低投票率としているが、法案にはそのような最低投票率の定めがない。ということは、この国ではどんなに投票率が低くてもかまわないというわけか。
 与党も、民主党も、それがあるとボイコット運動を誘発するから、そのようなものはないほうがよいと云っているが、ボイコットすることも改憲反対の意思表示の一つであろう。
 投票率を高めるためには、投票日を普通の選挙のように1日だけと限らずに、2日間にするという方法もあるわけであるが、それをどうするかである。
4、広報協議会の構成を各党の議員数に応じて配分
 憲法改正案を国民に周知させるための広報(改憲案の要旨・解説・賛否両論を掲載)をつくり、説明会を開催する等ことは第三者に委ねるか、それらを行なう広報協議会の構成メンバーは賛否平等に割り当てるべきなのに、議員数の多い改憲派政党(自民・民主・公明の各党)に有利な構成にしようとしている。
5、国民の周知期間が国会発議から国民投票まで60~180日だけ
 日々の仕事や生活の合間に、現行憲法・改正憲法の各条文をじっくり読み比べ、そもそも憲法のなんたるか、国家のなんたるか、人権のなんたるか、国家(権力)と個人(人権)の関係、現行憲法の歴史的意義、社会の現状、時代認識、21世紀社会の展望などなど、これらの(学習・議論を要する)検討には期間を要し、それは短期間で間に合うという人もいるが、そうでない人もいるわけであり、全員に徹底するまでには1年ぐらいは必要。
6、公務員・教員の運動制限
 公務員などの「地位利用による国民投票運動の禁止」を定めている。
 公務員は約400万人(国家公務員96万人、地方公務員 308万人)、教員は大学教授を含めて約150万人いる。有権者としては少なくない数である。
 彼らにも言論の自由があり、勤務時間外には一市民として運動(政治活動)にたずさわることが認められて然るべきである。
 我が国では公務員法によって公務員の政治活動は禁止されているが、他の先進諸国では公務員の政治活動は大幅に認められている。
 我が国では公職選挙法によって公務員が特定の政党や候補者の支持を呼びかけるなどの選挙運動は禁止されているが、このような選挙運動と国民投票運動すなわち国民が等しく判断が求められる改憲案にたいする賛否について公務員が人前で意見を表明し呼びかける運動とは違うはず。
 また、どのような場合が「地位利用」になるのか不明確であり、公務員には現行憲法尊重擁護義務があるのに「平和憲法の値打ち」を語ることも、「憲法の大事さ」を語ることもいけないということになるのか、である。
 公務員や教員は(職業柄)法的知識・憲法知識・人権の意義などによくつうじており、人々により的確に説明でき、むしろ啓発運動の担い手たる立場にある。そういう人たちが憲法について人前で(勤務時間外に集会で、大学などでは授業でも)思うように意見表明や呼びかけができなくなるというのは甚だ不合理。
 「ただし違反した場合の罰則は設けない」としているが、公務員法(公務員の政治的行為の制限)に刑事罰もしくは行政処分・懲戒処分の定めがあり、それを「適用しない」とははっきり定めず、「勧誘その他意見の表明が制限されることとならないよう」検討する(「検討を加え、必要な法制上の措置を講ずるものとする」)としている。いずれにしてもそれらの「禁止」規定があるかぎり、その萎縮効果によって、公務員も教育者も積極的な意見表明・呼びかけ等ができなくなってしまうことになる。
 現行憲法99条の憲法尊重擁護義務を課せられている公務員といえば、まずもって総理大臣や国務大臣などのことであり、誰よりも彼らに憲法尊重擁護義務が求められるのであって、その彼らが憲法を変えるべきだとか改憲すべきだなどと言い立てることは許されていないはず(それができるのは国民代表としての国会議員だけ)なのだ。(国会議員には憲法改正の発案権・原案提出権があるが、内閣には普通の法律案の原案提出権はあっても憲法改正の発案権はない。)にもかかわらず、安倍総理大臣は(著書「美しい国へ」で)日本国憲法前文は連合国に対する「詫び証文」のようだとか、(年頭会見で)「私の内閣として(憲法)改正を目指したい」などと公然と発言しているが、このような首相の言動こそ禁止さるべき「地位利用」にあたるのではないか。
7、広告・CMの問題
 無料広告は広告枠を賛否両論同等に扱うとしているが、問題は何億円とかかる有料広告である。(05年の総選挙では自・公・民3党合計で7億6千万かけたという。)そのような有料広告を投票日2週間前は自由に認める(野放しする)ようにすると。これでは、財界から政治献金をうけ、政党助成金(自公民3党で300億円)をもらっていて、資金力が豊富で、(大手広告会社とつながりを持ち、テレビCMの時間枠を数ヶ月前から押えている)改憲派政党に圧倒的に有利となり、広告もCMも(掲載スペース・放送時間は)改憲派が独占してしまうことになる。
8、条文ごとの個別投票か一括投票か
 改正条項が複数にわたっているのを、条文ごとに個別に投票するようにするか、それとも一括投票にするか、どっちにするのかの問題がある。例えば9条2項の削除と環境保護条項の新設とがあるとした場合、前者は賛成だが、後者は反対だ、或はその逆ということもあるわけであり、一括投票は不合理であり、これはこれ、それはそれとして個別に投票させるのが筋であろう。
 一括投票方式では、国民投票が国会の改憲発議を単に追認するだけのものになってしまう。
 当初「一括」を主張していた自民党が「個別」を主張する民主党に歩み寄り、法案は「内容において関連する事項ごとに区分しておこなう」という投票方式にしている。
9、投票年齢18歳以上か
 年齢を20歳から18歳に下げてティーンエージャー世代にも投票参加を認めて有権者を増やすというのは、それにこしたことはない。
 憲法関連の知識と学習は、高校生に限ったことではないが、有権者にはそれが必要不可欠ということになる。

 以上のような問題点があるが、法案は96条に定める憲法改正の国民投票には全く相応しくない不公正極まりないもので、改憲派本位の投票法になっており、そんな国民投票法では、たやすく改憲が(「賛成多数」ということで)成立してしまうことになる。
 1年半以上も前の「郵政選挙」でまんまと獲得した与党議席の圧倒的な数にものを言わせて、教育基本法「改正」の時と同じように、反対を押し切って採決を強行するとしたなら、とんでもないことである。

2007年05月24日

自民党新憲法案の是非が争点

 世論調査では改憲に賛成か反対かと問われると一般的にフィーリング(確たる根拠もなく、ただ何となく、時代が変わったからとか、60年もたって古くなったからとか、敗戦で占領軍から押しつけられた憲法だから、といった印象)から賛成だという人の方が多い。しかし、最近の調査では、改憲には賛成だという人は多いが、「安倍内閣のもとでの改憲」には反対という人の方が多数を占めている。(5月2日付け朝日新聞では、「改憲が必要か」の問いでは、「必要」が58%で「必要ない」27%を上まわっているが、「必要だ」と答えた人で「自分たちの手で新しい憲法を作りたいから」が7%、「9条に問題があるから」は6%でさらに少なく、「新しい権利や制度を盛り込むべきだから」が84%で大部分を占める。また「9条を変える方がよいと思いますか」の問いでは「変える方がよい」が33%で「変えない方がよい」が49%、自衛隊を自民党新憲法案のように「自衛軍に変えるべきだと思いますか」の問いでは「自衛軍に変えるべきだ」が18%、「自衛隊のままでよい」が70%で、いずれも現状のままでよいという方が大きく上まわっている。ただ「自衛隊の存在を憲法に書く必要があると思いますか」という問いでは、「書く必要がある」の方が56%で、「書く必要がない」31%より多い。そして「安倍政権のもとで憲法改正を実現することに賛成ですか、反対ですか」の問いでは、「反対」の方が42%で、「賛成」40%よりも多い。)
 安倍首相は在任中に改憲を実現すると言明し、既に改憲国民投票法を多くの反対・異論があるにもかかわらず与党議席の数にものを言わせて強行成立させを、来るべき参院選に際しては、憲法問題を争点にすると言明している。
 参議院議員の任期は6年であり、安倍首相の思惑からすれば、その任期中に国会で改憲発議、国民投票のはこびとなる。今度の参院選は、その改憲発議の成否を決定する議員を選ぶことになるのだ、ということである。
 そこで、安倍首相が憲法問題を争点にするというこの場合、単に憲法改正に賛成か反対かではなく、具体的にどんな憲法であればよいのか、自民党が構想している憲法(既に一昨年、新憲法草案を作り上げて公表しており、首相は「この草案について、わが党の考え方はこうだと国民の皆様に示しながら国民的な議論を進めていきたい」としている、そんな憲法)でいいのかわるいのか、即ち自民党新憲法草案をもとにした改憲もしくは安倍自民党の主導する改憲に賛成か反対かが争点なのだ、ということである。
(1)9条2項が削除されたらどうなるか 
 そこで我々が考えなければならないのは、今の憲法が、もしもそんな憲法に変えられてしまったらどうなるかである。
 今の9条は、1項―国際紛争を解決する手段としては国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は放棄―はそのまま維持するが、2項―「戦力は保持しない」、「国の交戦権は認めない」即ち「軍隊」はもたず、「戦争」はしないという条項―は削除されてしまう。そして、これまで自衛隊は「必要最小限の自衛力」なのであって「戦力」ではないとされてきたのが、「自衛軍」として完全に戦争をする軍隊(国軍)となり、これまでの制約・歯止めが全く無くなってしまうことになる。集団的自衛権は、これまでの政府の見解(内閣法制局の解釈)では「権利は有しているが行使はできない」とされてきたが、(今、首相は「有識者懇談会」なるものを設けて、なんとかして今の9条のままでも解釈変更によって「行使」できる余地を探ろうと「研究」に取り掛からせているが、いずれにしても)これまでの9条2項(戦力不保持・交戦権否認)が削除されれば、集団的自衛権の「行使」も「海外での武力行使」も「外国軍の武力行使との一体化」も、何でもできるようになるということである。
 自衛軍は「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行なわれる活動」(新たに条文に明記)として国連の要請に基づく「国際平和維持軍」(PKF)または多国籍軍の一員として、或は国連の要請がなくてもアメリカの同盟国としてその要請に応じて海外に派兵され、そこで武力行使・参戦ができるし、参戦しなければならないことになる。
 今、イラクやペルシャ湾・インド洋に自衛隊が派遣されている(イラクの中でも「非戦闘地域」に派遣されていた陸自は撤退したが、空自は輸送活動、海自はアフガニスタン作戦に向かう米英軍の艦載機空母などへの給油に従事している。戦乱に苦しむイラク国民の立場からすれば同じ外国軍あるいは侵略軍と見なされ、「非戦闘地域」にならかまわないとか、「後方支援」ならかまわないというのも手前勝手な9条解釈と見なされる)が、戦闘には直接参加しておらず、自衛隊員に関する限り一人も殺していないし、殺されてもいない。それは9条2項の縛りがあるからである。改憲によってそれがはずされるということは、その戦闘(殺し合い)への参加も自由にできるようになる、ということを意味する。
(2)集団的自衛権の行使を認める
 よく言われることに、日米同盟といっても片務的で、日本はアメリカから守ってもらうばかりではぐあいがわるいので、日本もアメリカを守ってやれるように双務性を高めなくてはならない、という言い方がなされる(安倍首相も)。それで、集団的自衛権を行使できるようにしなければならないというわけだ。それには
 アメリカが北朝鮮から攻撃をうけた場合、
 アメリカが(中台戦争が起きた時、台湾を加勢して)中国から攻撃をうけた場合、
 アメリカがイランを攻撃して反撃を受けた場合、
 アメリカが国際テロ組織アルカイーダから、どこかでまた攻撃をうけた場合、
などが考えられるが、北朝鮮・中国などの場合は、米軍が出撃基地と作戦司令部を置いている日本の本土や島が北朝鮮なり中国なりから攻撃される可能性が強いが、そういうことになったら、それに対する自衛隊の反撃は個別的自衛権の範囲内といえよう。
 イランやアルカイーダなどの場合は、現在進行中のイラク戦争・アフガン戦争に際する後方支援や「非戦闘地域」における「人道復興支援」だけでなく、前線(戦場)でアメリカ軍と共に戦わなければならない、ということになる。
 このような集団的自衛権の行使が認められれば、アメリカが行なう戦争には、日本が攻撃されていなくても、すべての戦争に参戦しなければならない、ということだ。
 尚、「日本はアメリカから一方的に守ってもらってばかりいる」というのは、とんだ勘違いというか、ごまかしなのである。アメリカに守ってもらう代わりに基地を提供しており、その基地を自衛隊が守ってやり、基地と駐留米兵に莫大なカネ(「思いやり予算」、それに基地再編にともなう移転経費の負担までも)出さなければならないことになっているのだ。その基地は実は米軍が、極東だけでなく、ヴェトナム・インド洋・中東(ペルシャ湾)その他どこへでも出動する出撃基地とし、アメリカの戦略的根拠地とするために置かれているのであって、何も日本を守るために置かれているわけではないのである。
(3)軍事貢献は国際貢献か?
 ところで国連の多国籍軍であれ、有志連合軍であれ、日本だけが参加しなくてよいのか(気が引けないか)といえば、世界190余の国々のうち大部分の国は参加しておらず、少数の国しか参加していないのである。
①朝鮮戦争は北朝鮮・中国に対して米・韓その他名目的に英・仏・蘭・豪・加・タイ・フィリピンなど14カ 国が参加
 犠牲者400万人
②ヴェトナム戦争は北ヴェトナム軍・南ヴェトナム解放民族戦線に対して南ヴェトナム軍・米軍の他韓  国・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピンが参加。
 死者120万人
③湾岸戦争はイラクに対して米・英・仏とサウジ・クエートなどアラブ諸国その他を合わせて28カ国が参 加。  日本は1兆6,500億円もの戦費を出している。
 死者20万人  戦後、イラク戦争に至るまでの間、イラクに対する経済制裁で死者100万人
④アフガン戦争はタリバン軍とアルカイーダに対して米・英・独・仏・蘭・豪・加など。現在は国際治安支 援部隊としてNATO軍を中核として37カ国が参加。
 死者不明
⑤イラク戦争は米・英・スペイン・イタリア・ポーランド・オーストラリア・オランダ・韓国に日本をも含めて3 8カ国が参加。今はスペイン・イタリア・オランダ軍などが撤退してしまい、23カ国。
 死者15~65万人ともいわれる。難民600万人

アメリカ軍はこれらのいずれにも主力として参戦し、それにイギリスなど少数の国が補助的に支援あるいは名目的に参戦しているのみなのである。
 日本は日中戦争~太平洋戦争で自国民310万人、アジア諸国民2,000万人を犠牲にした。そのことに引け目を感じて、もう懲りたということはあっても、戦後のこれらの戦争に参戦しないことに何の引け目を感じる必要あろうか。
 そうでなくてさえ、日本は、参戦はしなくても軍事基地・兵站基地・軍需物資を提供して(艦艇・航空機・戦闘部隊が直接出撃し、燃料や弾薬の多くも日本から運ばれた)米軍のために巨大な軍事貢献を行なっているのである。
 湾岸戦争のとき日本は世界最大の戦費を負担したのもかかわらず、なぜか「カネだけ出してヒトを出さなかった」としてろくに感謝されないで引け目を感じ、それ以来、事ある度に「国際貢献」と称して自衛隊の海外派遣にこだわるようになった。
 しかし、北部スマトラ地震津波のような災害救援活動やNGOによる人道復興支援ならいざ知らず、戦争や紛争に関わるアメリカ等への軍事協力を国際貢献だと思い込むのはとんだ勘違い。我が国の場合、軍事協力は現地の民衆からはけっして感謝されず、「日本=平和国家」のイメージを損ない、かえって国益を損なうことになる。戦争や紛争への軍事介入・軍事協力は実はアメリカの産軍複合体(ペンタゴン-国防省-と兵器メーカーや軍需産業)の利益に貢献する以外の何ものでもないのだ。

 今・現在イラクは4年も経つのに未だ治まりつかず、アフガニスンは5年も経つのに未だ治まりついていない。ブッシュ政権の先制攻撃戦略・「対テロ戦争」政策は、結局は無謀だったのであり、テロに対する報復テロ戦争は再びテロを招き、暴力の連鎖は留まるところを知らない。

 自衛隊が、9条改憲によって「自衛軍」として「国際社会の平和・安全確保のための国際的協調行動」として公認されて、湾岸戦争やアフガン戦争・イラク戦争のような戦争に多国籍軍や有志連合軍に加わって戦闘にも参加することで、はたして国際貢献(国際社会の平和・安全確保への寄与)を果たせるようになるのだろうか。
 現在、アフガン・イラクに派兵している米英その他の国々は国際貢献を果たしているといえるのだろうか。アフガニスタンの民衆やイラクの民衆はもとより、今ではアメリカでもイギリスでも国民の大半は、これら米英その他の「国際協調行動」は失敗だったと思っている、そのことは、このところのブッシュ大統領・ブレア首相に対する各国民の支持率など世論調査を見れば明らかである。(24日発表された米紙ニューヨーク・タイムズの世論調査では、イラク戦争について、「そもそも開戦に踏み切るべきではなかった」が61%、「08年のいずれかの時点で撤退すべきだ」が63%)
 日本の自衛隊の派遣に対しては?といえば、それはブッシュ大統領からは手放しで感謝されているだろうし、現イラク政権のマリキ首相やパン・ギブン国連事務総長らからは感謝の言葉を得ているといわれるが、それは「人道復興支援」に対する感謝であって、戦闘参加(武力行使)に対してではない。  アフガニスタンの民衆やイラクの民衆が、日本人医師の中村哲氏(アフガニスタンで医療や水源確保事業に取り組んでいるペシャワール会の現地代表)らNGOには感謝していても、今後、海外での日本の軍隊(「自衛軍」)の参戦(作戦行動への参加、武力行使)には迷惑と思いこそすれ、誰も期待・感謝を寄せることはあるまい。
 なのに、なぜ9条を改憲して自衛隊の集団的自衛権行使・「国際的協調行動」を名目とした派兵-海外での武力行使を容認しなければならないのか、である。

 大量破壊兵器(非対称兵器)の不拡散、非対称戦争の回避のためには、日本は北朝鮮やイランに対してだけでなく、アメリカに対して核兵器廃棄の約束(すべての核保有国にその廃棄を求める「新アジェンダ決議」)を実行し、軍縮への転換に踏み切るよう説得すべきなのである。六カ国協議は朝鮮半島ひいては北東アジアの非核化をめざして合意に達するように粘り強く話し合いを続ける以外にない。
 それなのに、日本が憲法の9条2項を無くしてしまったら、その発言力・説得力をかえって失うことになる。(日本はアメリカの核の傘に守られるだけでなく、アメリカと一緒になって戦争しようとしていると疑われ警戒感を持たれることになる。)
 「9条はドイツと違い戦争責任を明確にしない日本の『侵略を繰り返さない』というアジア市民に対する誓いとして機能してきた」(NGOピースボート代表の吉岡達也氏)とも云えるのだ。

 国際平和協力は国連平和維持活動(PKO)には参加しても、その軍事行動(武力行使)には踏み出さず、また国連決議に基づく多国籍軍あるいは国連決議に基づかない有志連合軍に参加・参戦するなど軍事貢献ではなく、非軍事平和貢献に専念することのほうが賢明なのであり、テロや大量破壊兵器拡散の脅威は力の行使(軍事対応)だけでは取り除くことはできないし、説得力・外交交渉力を発揮してそれに懸けるしかないのである。
 
 「北朝鮮や中国が核ミサイルを撃ち込んでくるかもしれない」、「生物・化学兵器などを手にしたテロリストや特殊部隊が潜入してテロ攻撃やゲリラ攻撃を仕掛けてくるかもしれない」(と脅威ばかり煽って)、それに対して手段・方法にとらわれることなく存分に応戦・撃退できるようにするためだといって9条を改憲(軍事規制を撤廃)すれば、それらの国を緊張・硬化させ、自分の側も、相手の側もお互いに軍事対応・攻撃にはしる結果に陥るやすくなる。また(国際貢献を軍事貢献ばかりにこだわって)中東やアジア・アフリカの紛争地に自衛隊を派遣して軍事的にも国際貢献を果たすためだといって9条を改憲して派兵・軍事介入すれば、かえって紛争悪化(泥沼化)に手を貸す結果になりかねないのである。
 要はそのようなアジア・アメリカの近隣諸国間で関係が悪化して戦争に発展することのないように、関係を悪化させないことであり、国際貢献は非軍事平和貢献に徹することなのである。
(4)もしかして徴兵制復活?
 現行憲法は第18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と定めているが、自民党新憲法草案では、なぜか「又、・・・・その意に反する苦役に服させられない」の部分が削除されている。「苦役」には徴兵・兵役などもあるのだが、それには「服させられない」という語句が削除されているのである。ということは、兵役に服させられる、即ち徴兵制復活もあり得るということか?(これは大変だ!)
(5)軍事裁判所が設置されたら
 自民党新憲法草案には「自衛軍」規定と相まって「軍事に関する裁判を行なうため、法律の定めるところにより、下級裁判所として、軍事裁判所を設置する」と定めている。それは軍人の犯罪や規律違反を裁く、いわゆる軍法会議のことである。民間人も共犯や軍に対する犯罪はそこで裁かれる。
 そこでは、裁判官も検事も軍人で、仲間うちの裁判だから刑が軽くなりがちで、軍内部の重大事件が明るみに出ては軍の面目にかかわるから「組織防衛」を優先して裁判を開かず、説諭や転勤でもみ消すといったことにもされがちである。無罪や軽い刑が宣告された場合、検事が控訴しなければ、被害者や遺族は控訴できないから「泣き寝入り」となる。
 01年の「えひめ丸」事件(水産高校の練習船がアメリカの原子力潜水艦にぶつけられて沈没し、生徒ら9人が死んだ)では、原潜の艦長は不起訴で済まされた。また戦前我が国で起きた5・15事件で犬養首相を暗殺した青年将校や士官候補生たちに下した処罰は禁固4年、主犯の2人は禁固15年だったが5年後には出所させた。2・26事件では将校・元将校ら15人と北一輝ら民間人右翼が死刑となったが、青年将校たちが指導者と仰ぎ、彼らを扇動・擁護した真崎大将は無罪とされた。(以上は06年5月12日付け朝日新聞の「私の視点」にあった軍事ジャーナリスト田岡俊次氏の「弊害多い『軍事裁判所』」を参考)
 これらの事例のように軍事裁判所の裁判は軍人に対しては甘くなり、彼らの横暴を許す結果になりかねず、逆に民間人の軍に対する犯罪は一般の裁判所ならばそれ程のものでもないのが重罰にされてしまう、といったことにもなる。
 このように、それは軍人と民間人の新たな差別を生じ、また軍人にそのような特権を認めると、その横暴を許し、シビリアンコントロールを危うくする結果にもなりかねない。
 そんなものが設置されたらとんでもないことになる。
(6)「権力を縛る憲法」が「国民を縛る憲法」に
 現行憲法では(前文で)「日本国民は、・・・・われらとわれらの子孫のために・・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」とし、9条1項で「日本国民は、・・・・国権の発動たる戦争・・・は、永久にこれを放棄する。」2項で「国の交戦権は、これを認めない。」といったふうに、「権力を縛る憲法」(権力制約規範)だったのが、自民党新憲法草案では(前文で)「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を課し、(12条に)「国民は、・・・・自由及び権利には責任及び義務を伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する義務を負う。」として「国民に縛りをも加える憲法」(国民制約規範)に変えている。
 現行憲法では国民は自由及び権利を、常に「公共の福祉のために利用する責任を負う」としているのを、自民党案は「公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する義務を負う」と変え、また現行憲法では国民の権利については、「公共の福祉に反しない限り」最大の尊重を必要とするとしていたのを、自民党案は「公益及び公の秩序に反しない限り」と変えているのでる。「公共の福祉」とは自分以外の他人の幸福という意味であり、自分の自由な権利の行使を他の人々の幸福のためにも役立て、他人の権利を侵害しないように行使するという国民相互間の調整を課したものであるが、それを「公益及び公の秩序」に反しないように権利を行使しなければならないとか、公益・公秩序に反しない限り最大限尊重されるということで、国民個々人の権利に対して国などの公益・公秩序を優先させてそれに「反しないように」とか、「反しない限り」として国家が国民の権利に縛りを加えるものとなっているのである。
 近代憲法はそもそも諸個人の人権を守るために権力を縛るために制定されるもので、立憲主義と称されるが、自民党新憲法草案はその原則を踏みはずしており、国民本位ではなく国家本位の憲法にしてしまっている。
 その批判に対して、国家と国民を対立関係だけでとらえ、国家を性悪説でとらえるのは間違いだとか、民主国家であるかぎり、国家の主権は国民にあり、権力は国民の代表者が行使しているのだから、国民の権利を守りこそすれ踏みにじるなどということはありえないはずだ、といったような反論もあるわけであるが、はたしてそうだろうか。
 国民の中には、大企業経営者や財界人その他各分野での「勝ち組」など、現在の国家(政府)と利害がマッチしているという者たちもいるが、そうでない人も多数いるし、国家から格別の恩恵を得ている者もいるが、不利益や被害さえもこうむっている人たちも中にはいるわけである。そして国家というものに対して信用を置いていないという人が少なからずいるのである。
 戦前のような天皇主権国家は勿論のこと、戦後、民主国家になったといわれる我が国家あるいは民主国家の最先進国といわれるアメリカにしても、その国家(政府)がやることに間違いはないとはいえない。民主国家とは権力を多数者が握る国家なのであるが、多数派の考えが常に正しいとはかぎらず、多数派に支持された政府が間違いを犯さないとはかぎらないのである(最近我が国でもち上がっている社会保険庁問題、アメリカのヴェトナム戦争やイラク戦争など)。また、権力の暴走や多数派の横暴から、国民の権利も少数派の権利も守らなければならないのである。民主主義とは多数者の支配を意味するが、その民主主義の暴走を抑止するのが憲法であり、立憲主義なのだ、ということである。
 
 尚、憲法はいちばん最後の条文(99条)に憲法尊重擁護義務を定め、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。」としているが、尊重擁護義務を負うのは公務員。公務員とは要するに権力者もしくは権力担当者。かれらに対して義務を課しているのであって国民に対してではないわけである。憲法とは「権力者を縛るもの」なのであって「国民を縛るもの」ではないということだ。この条文は自民党新憲法草案でもそのままである。
(7)過半数の賛成だけで改憲発議できることに
 現行憲法では、第9章(改正)の第96条で「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。」となっているのを、自民党新憲法草案では「衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案」と変えている。
 今、与党議席は衆議院では3分の2に達しているが、参議院では3分の2に達していない。しかし過半数には衆参とも達しており、諸法案はこのところ、新教育基本法案、防衛省法案、国民投票法案、米軍基地再編促進法案、教育三法案など重要法案が次々と、過半数の賛成でスイスイ通っている。
自民党新憲法草案のように、改憲発議要件が3分の2以上賛成でなくても過半数賛成があればそれでよいとなれば、改憲発議案もこの調子で簡単に通ってしまうことになる。そして今回成立した国民投票法に基づく投票で、投票率がどんなに低くても(付帯決議で、この点は未だ検討の余地を残してはいるが)有効投票総数の過半数で承認されてしまい、簡単に改憲されてしまうことになる。
 仮に(3年後以降の)最初の改憲発議案では、9条は見送ってそこははずして出したとしても、その他の改正条項で、この「過半数賛成改憲発議」条項だけでも承認されれば、次からは、自民党とそれに同調する党派の議席が合計して(両院とも3分の2には達しなくても)過半数議席だけで9条改定を盛り込んだ改憲発議案が通ってしまい、再度、国民投票をやって承認されれば、9条は改変されて(「戦力の不保持、交戦権の否認」条項は無くなって)しまうことになる、というわけだ。
 また、衆参とも過半数議席を制しているその時々の政権与党の都合によって憲法はコロコロ変えられてしまうことになる。
 こういうことなのだ。

 これが安倍自民党の新憲法案なのである。今度の参院選で自民党が勝てば、この新憲法草案がたたき台となって成案がつくられ、それが国会で衆参各院とも3分の2以上賛成に達すれば発議(国民に提案)、国民投票のはこびとなる。
 今度の参院選は、単に「憲法改正」に賛成か反対(護憲)かではなく、この「自民党新憲法草案のような安倍政権下での改憲」に賛成か反対かが争点なのだということである。
 その意味で安倍自民党を勝たせていいのか、わるいのか、が有権者に問われている。そういうことではあるまいか。

 ところで、今の憲法のままで、困っている人っているの? 
 安倍自民党の新憲法では困る、そんな憲法ではとんでもないことになる、という人は?


2007年06月23日

改憲すれば自衛隊は自衛隊でなくなる

1、自衛隊と軍隊の違い
 よく、自衛隊は実質的に軍隊と同じなのだから、改憲といっても、そのことを曖昧にせずに憲法にはっきり明記するだけの話なのだ、という言い方がある。(小泉前首相は「自衛隊は実質的には軍隊なんだから、そういわないのは不自然だ。憲法で自衛隊を軍隊と認め・・・云々」と述べている。)しかし、それは違う。自衛隊は自衛隊であって、軍隊ではないのである。
 どこが違うか。軍隊のばあいは、個別的自衛権の発動にさいしてであれ、集団的自衛権の発動にさいしてであれ、国連決議に基づく多国籍軍やPKOの活動であれ、その活動中は、武力行使は(民間人に対する無差別攻撃以外は)無制限であり、武器・兵器など装備も(「残虐兵器」以外は)無制限であるが、自衛隊のばあいは、我が国自体が直接攻撃を受けない限り武力は行使しない。したがって海外で他国のために(それが同盟国であっても)武力を行使することはないのである。
 梅田正巳氏(著書「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研出版)によれば「自衛隊は現在、装備している兵器の量や性能からすれば、米軍は別格として世界で有数の戦力を備えているといえる。」しかし、これでも「自衛のための必要最小限」だというわけであり、海外に打って出るための攻撃用兵器である空母や原潜・戦略爆撃機・大陸間弾道ミサイル等だけはもってはいない。
 また、いかに最新鋭の武器を装備していても、警察官と同じで、その武器は刑法36条(正当防衛のため)、37条(緊急避難のため)に該当する場合で他に方法がない場合以外には使用しないことになっている。つまり、正当防衛・緊急避難などやむを得ない場合以外には、人を殺傷したりすることはないのだ。
 だから、イラクに行っても「非戦闘地域」で「人道復興支援活動」(給水作業その他)に限定され、戦闘には一切参加していないし、一人も殺さず、一人も殺されていない。(しかしそれでも、隊員の多くは自家を出発する時は遺書を書いていったそうである。)イラクに行ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・韓国などの多国籍軍の軍隊と我が自衛隊は全く違っているのである。
 このような自衛隊のあり方を決定づけているのが憲法9条その2項なのである。
このような我が自衛隊を惨めと思うか、それとも誇りに思うか。人を殺せないことが惨めなのか、殺さないことが誇りなのか、であろう。
 
 よく「同胞を守るため、家族を守るため、愛する人を守るために」といわれるが、軍隊のばあいは、それはきれいごとで、実はそれが最優先に守るのは国家すなわち首相を筆頭とする政府その他の国家機関それに自らの部隊の陣地と武器なのである。市民・家族などの民間人を守るのは二の次で、場合によっては国家を守るため作戦遂行の邪魔だと思えば、民間人を犠牲にし、その活動の妨げになりそうな市民団体や個人の動きを監視したり逮捕したりすることもあるわけである。それが軍隊というものだ。
 しかし、自衛隊のばあいは、そのようことがあってはならないわけである。
2、サムライ自衛隊
 新渡戸稲造の(著書)「武士道」だが、稲造はその「13章『刀』―なぜ武士の魂なのか」のところで、「武人の究極の理想は平和である」として次のように書いている。
 「やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か虚勢をはる者とされた。」「暗殺、自殺あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった、私たちの歴史上のきわめて不穏な時代をのり越えてきた勝海舟」、海舟は「次のように語っている。『私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。・・・・私が殺さなかったのは無辜を殺さなかった故かもしれんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。・・・・』これが艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に『負けるが勝ち』というものがある。この格言は真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。『血を見ない勝利こそ最善の勝利』・・・・。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。」
 神戸女学院大学文学部教授の内田樹氏(共著「9条どうしよう」毎日新聞社)は9条と自衛隊の関係がすっきりしない(単純でない)と気持ちわるいというのは「子ども」であって、「おじさん的思考」で考えるべきだとして、次のように論じている。
 9条のリアリティは自衛隊(いざという時の緊急避難のための自衛力)によって支えられている。
 国民は憲法9条で政府に二度と戦争をしないことを約束させている一方、完全無防備であるよりは自衛隊があることによって安心を得、世界の諸国民も日本が自衛力は持ちながらも、憲法で政府に戦争をしない約束をさせている国として、現に戦後一度も戦いを交えていないことに安心を得ているということなのである。
 また自衛隊は9条による『封印』によって担保されている(自衛隊は軍隊ではない存在として正統性が認められるということ)。「『封印されている』ことに武の本質がある」というのである。
 これら新渡戸・内田の両論から考えれば、自衛隊は、いわば刀の柄をさやに結わえて抜かないサムライのごときもので、アメリカ軍などとは違って、やたら刀を振りまわしたりはしない。そのような意味で自衛隊はサムライなのだ。
 問題は、そのアメリカ軍に従わされていることであり、その従属から脱することができれば、本当のサムライというものだろう。

3、改憲は自衛隊を「他衛隊」に
 集団的自衛権とは、同盟国やその軍が攻撃されたら、それを自国への攻撃とみなして反撃できること(具体的にいえば、公海上で米艦を援護して反撃したり、イラクなどで他国軍を援護して反撃したり、「ミサイル防衛」でアメリカに向かって発射された大陸間弾道ミサイルを途中で日本の迎撃ミサイルが撃ち落したり等のこと)なのだが、自民党や民主党などのいう憲法「改正」とは、要するに9条を変えて(自民党の新憲法草案では自衛隊を「自衛軍」と称して名実ともに軍隊とし)自衛隊に集団的自衛権の行使を認め、海外で他国のために武力行使できるようにすること―早い話が自衛隊を「他衛隊」にすることなのだ。
4、国連憲章上、認められている武力行使
 国連憲章は武力による威嚇と武力の行使を原則として禁止している。武力行使が例外的に許されるのは侵略行為その他の平和破壊に対する自衛権の発動と加盟国の共同制裁という二つの場合だけである。
 国連憲章は集団安全保障(侵略行為・平和破壊に走る国があらわれたら、その国を加盟国が共同制裁―非軍事的措置、場合によっては軍事的措置を講じること)を原則にしているからといって、どの国にも、武力を行使して他の国々を守るようにしなければならないなどと義務づけているわけではない。また、国連憲章は、侵略や攻撃を直接受けた国の自衛権(個別的自衛権)の発動とその同盟国の集団的自衛権の行使も認めているが、その個別的・集団的自衛権は国連(安保理)が制裁措置を講じるまでの間だけに限られた例外的な権利として認められているに過ぎないのである。
 国連の共同制裁であれ集団的自衛権であれ、実際、武力行使の効果のほどは限られており、その乱発はもとより、その発動はかえって危険なのである。それは第2次世界大戦後これまで行なわれきた朝鮮戦争~イラク戦争などの事例をみれば明らかである。
5、国際貢献
 「国際貢献」という言葉がしきりに言われるようになったのは1991年の湾岸戦争以来のことである。あの時アメリカをはじめとする多国籍軍がイラクと戦った、その際、我が国は巨額の金(戦費総額の2割をも占める世界最大の拠出金)を出したのに、派兵・参戦しなかったばかりに、ろくに感謝されず「金だけでなく汗もかけ」とでも言われたかのごとく日本では喧伝され、「一国平和主義からの脱却」「人的国際貢献」が盛んに言い立てられるようになり、「国際貢献」といえば軍事貢献として、それが自衛隊派遣と結び付けられるようになったのである。(実は、あの時、日本は金を出しただけではなく、戦略的根拠地として巨大な軍事的貢献を果たしていたのだ。軍事評論家の小川和久氏は、その著書『日本の戦争力』で「日本を母港や根拠地にして艦艇・航空機・兵力が直接出撃し、燃料や弾薬の多くも日本から運ばれた。日本の貢献度は出兵したイギリス以上なのだ」と書いている。)
 湾岸戦争が終わってから、急きょ海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に差し向け、魚雷の始末に当たらせたりした。
 その後まもなく1992年、国連のPKOに自衛隊を派遣するようになって、カンボジアを手始めに、世界各地の紛争地へ自衛隊が派遣された。(PKOとは、そもそも「戦わない」ことを基本原則にしており、国連憲章7章の43条で予定している制裁のための強制行動をおこなう「国連軍」とは全く違う。それは地域紛争において達成された「停戦」や「休戦」の維持を支援するために、戦っている双方の軍勢を引き離して緩衝地帯を設け、停戦・休戦の監視に当たることを役目としている。派遣している国は、対立する双方に対して中立的で脅威とならない中小諸国が多い。各国が派遣しているのは軍人とは限らず文民も含まれる。カナダなどのように自国の軍隊である「国防軍」の一部をPKO用に当てている国もあるが、北欧諸国のように、国防軍とは別にPKO用に特別に編成された部隊「待機隊」を当てている国が多いという。)
 そして、2001年「9,11」同時多発テロ事件が起こってアフガン戦争が始まると、海上自衛隊がインド洋に米軍の後方支援(艦艇への給油など)のために派遣され、03年イラク戦争が始まると、そこに陸上自衛隊と航空自衛隊が「復興支援」と「安全確保支援」の名目で派遣され、それらも「国際貢献」「国際協力」の名の下におこなわれているのである。
 しかし、(自国をのみ急迫不正の侵害から守り、他国の紛争には介入しないはずの)「自衛隊」たるものが、他国や海外に出向いて行って、他国の軍の戦闘(殺傷行為)に、たとえ後方支援など間接的にではあれ加担・協力することは、「自衛隊」として相応しい行為とはけっして云えないだろうし、それはアメリカ(それもブッシュ政権)に対する貢献ではあっても国際貢献の名に値するものとは云えないだろう。
 ましてや、改憲によって自衛隊の海外での武力行使が容認され、その海外活動に対する「非戦闘地域」「人道復興支援」「後方支援」などの限定・制約が取り払われて、現在のイラク戦争における米英軍などと同じく戦闘(殺傷行為)に直接参加すれば、平和をもたらす解放者どころか平和破壊者とみなされ、サムライどころか「やたらと刀を振りまわす『ならず者』」とかわりないと見なされることになるだろう。そして、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」(現行憲法前文)というその思念とは逆の不名誉な結果となるだろう。それは国益にとっても大きな損失となるに違いあるまい。

 我が国は軍事貢献(国連多国籍軍や有志連合軍に加わって参戦・武力行使)など行なわなくても、非軍事面で国際貢献(平和貢献)できることは沢山あるはずなのだが、政府は軍事貢献ばかりにこだわり、平和貢献へのこだわりがない。軍事貢献(派兵・参戦・武力行使)ができないと、「大国として恥ずかしい」かのように思う向きがあるが、それは間違っている。核廃絶(国連では、非同盟諸国が中心になって期限をきった核廃絶を提案、採択されているが、日本政府はそれには棄権し、「究極的な核廃絶」として期限をきらない廃絶を提案したりしている)やクラスター爆弾禁止条約(これにも日本政府は難色を示している)など日本政府は消極的であるが、「軍縮による安全保障」のイニシャチブをとることこそ、日本がなすべき最良の国際貢献なのだ。
 アフガニスタンで武装解除にたずさわっている日本人(東京外語大学院教授の伊勢崎賢治氏らNPO)がいるが、彼らは丸腰(武器を持たず、警備を付けない)でそれをやっている。だからこそアフガニスタンの人々は日本人を信頼して武装解除に応じているのだという。カンボジアなどで地雷除去にたずさわっているNPOもいる。彼らこそ「サムライ」に相応しいと云えないだろうか。

6、日本はアメリカから守ってもらっている?
 「日本はアメリカから守ってもらっている」(アメリカは、我が国が恩返ししなければならない有りがたい国だ)とよくいわれるが、実は必ずしもそうではないのだ。
 第一、これまでアメリカが日本に基地をおいて米軍を駐留させてきたのは日本を守るためというよりは、朝鮮戦争でもヴェトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争でも日本を戦略的根拠地(中継・出撃・補給基地)として自らのために利用できたからにほかならない。また、日本はアメリカにタダで守ってもらっているかのように言う向き(「安保タダ乗り」論)もあるが、それはとんでもない話で、かえって高い代価を払っているのである。(在日米軍基地で働く民間人従業員2万人の給与、水道光熱費、基地内施設の建設費のほぼ全額―これらは「思いやり予算」と称される―と地代、周辺住宅の防音工事代、自治体への補助金など合わせて年間6,500億円は我々の税金で払っているのだ。その金額は日本以外の同盟国26カ国が負担している米軍駐留経費の合計よりも多い。そのうえ沖縄にいる海兵隊のグアム島への移転費7,100億円など米軍再編にともなう負担も予定されている。)それに日本はアメリカの「核の傘」に守られているというが、仮に北朝鮮か中国か、あるいはロシアなどから核ミサイル攻撃にあえば、遠く離れたアメリカ本土は無事であっても、日本も無事でいられるという保証は無いのである。(北朝鮮のテポドンはアメリカ本土まで届かないし、中ロの大陸間弾道ミサイルにしてもアメリカ本土にたどり着く前に迎撃ミサイルで撃ち落とすことは可能であるが、近距離にある日本の場合は、撃ち込まれた核ミサイルのすべてを迎撃・破壊することは不可能であり、そのうち何発かの着弾・被爆は避けられまい。)また中ロなどの場合は報復攻撃を恐れて先制核攻撃は控えようとするだろうが、北朝鮮のように孤立し経済制裁を受けている国がさらに追い詰められ、絶体絶命に瀕して理性を失い、自暴自棄的に(「自爆テロ」のように「死なばもろとも」とばかりに)核ミサイル攻撃にはしる「暴発」の可能性も無きにしも非ずであり、それに対してはアメリカの「核の傘」といえども抑止効果はないということだ。(「暴発」するならするで、それに備えて「ミサイル防衛」や「敵基地先制攻撃」の体制を整えておけばよいのだなどと、それらの防衛体制を正当化しても、それで「暴発」した核ミサイルを防ぎきれるものではない。軍事ジャーナリストの田岡俊次氏―著書「北朝鮮・中国はどれだけ怖いか」朝日新書―は「ミサイル防衛」はアメリカにとっては日本が配備した迎撃ミサイルは「盾」として役立つだろうが、我が国にとっては「ないよりまし」か「気休め程度」、敵基地先制攻撃論は―ミサイルは洞穴の中に格納されていて、トンネルから移動発射機が出てきたところを偵察衛星で発見して、航空機か巡航ミサイルで攻撃するとはいっても、実際は「そのミサイルが核弾頭を付けて、日本に向け、発射準備を行なっている」などというところまで位置・目標を特定することはできず、仮に出来たとしても写真を解析・判断のうえ攻撃命令を発し、戦闘機を発進、あるいは巡航ミサイルを発射させて目標に到着するまで時間がかかり、それまでに相手の核ミサイルは既に発射してしまっているだろう、というわけで―「まったくの机上の空論」だとしている。要はあくまで、こちらから攻撃をしかけたり、制裁圧力を拡大強化して追い詰めて「暴発」を誘うことのないようしなければならないのである。)
 たとえアメリカの「核の傘」で守られていようと、或は日本が核武装しようと、近くの隣国が核ミサイルを乱射したら、どんなに「ミサイル防衛」網を築いたとしてもそれで防ぎきる(迎撃ミサイルで百発百中命中させて撃ち落とす)のは不可能であり、それでお終いなのだ。だからそのような隣国からの核ミサイル攻撃事態は徹頭徹尾対話・交渉によって未然に食い止めるしかないわけである。朝鮮半島~北東アジアの非核化は是非とも必要なのである。
 渡海上陸侵攻に対しては、今の自衛隊ならば、制海権・制空権を確保でき、アメリカの助けを借りなくても、自力で守れるだろう(軍事ジャーナリスト田岡氏)。

 これらのことを考えれば、日本は「アメリカから守ってもらっている」というよりは、むしろ体よく利用されているといった方がよいくらいなのである。
 改憲、「自主憲法の制定」といっても、その実、アメリカの要請に応じてのことにほかならないのであって、自衛隊がアメリカ軍と一体になってイラク・イランを含む中東地域・インド洋その他世界のどこへでも出撃できるように9条2項を改変(これまでの「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除し、自衛隊を「自衛軍」とし、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行なわれる活動」をも行なうことができるということに)しようということなのである。この場合、日米両軍一体化といっても、米軍は「決定的に重要な中核的能力」であるのに対して、自衛隊は「追加的かつ補完的な能力」(05年10月の日米安全保障協議委員会「2+2」の合意文書「日米同盟―未来のための変革と再編」に明記)つまり、「保安官はあくまで米軍であり、自衛隊はその助手にすぎない」(梅田正巳著「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研)というわけである。結局、アメリカが自衛隊をそのように今まで以上に利用できるようにするための改憲にほかならないのだ、ということである。
 そんなことだったら(アメリカからいつまでも利用されて危うい思いをするくらいなら)いっそのこと、安保条約をやめて、基地を返還させ、駐留米軍は撤退してもらってもおかしくないわけである。元防衛庁長官の石破氏は集団的自衛権の行使を認める立場からではあるが、「(集団的自衛権の)行使を認めれば、基地を提供する義務がなくなり、政策判断として『不要な米軍は出て行って』という立場になれる。それが独立国というものだ」と述べている。(6月6日朝日「論考・集団的自衛権」)「軍隊」化し「他衛隊」化することなく「自衛隊」に徹し、集団的自衛権の行使は否認したままで「不要な米軍は出て行って」といっても何らおかしくないわけである。
7、改憲すれば自衛隊は自衛隊でなくなる
 「自衛隊」、それは我が国が他国から侵略攻撃(急迫不正の主権侵害)を受けた時、自国民を守るために(他に手段がなくて実力行使にうったえざるを得ない場合に備える)必要最小限の実力部隊であって、「他衛隊」でも「軍隊」でもないものとして我が国で一般に認められている存在である。(憲法上は、9条を厳密に解釈して、たとえ「必要最小限の自衛力」であっても認められないとする違憲説―ただし当面維持・活用の考え―と「専守防衛」ならば認められるとする合憲説に分かれている。政府は「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものと考える」―1985年11月5日の参院・秦豊議員の質問に対する政府の答弁書―としてきた。いずれにしろ9条の「縛り」自体は厳然として効いているのである。)
 それを解釈改憲もしくは明文改憲によって集団的自衛権の行使まで認めてしまえば「軍隊」化し、他国を守る「他衛隊」の性格が加わって、これまでとは全く異質な存在に化してしまうわけである。
 そのような「軍隊」になれば、歴史上、我が国の軍隊が行なってきた第一次大戦に際する中国(山東半島)出兵、シベリア出兵(いずれも日英同盟を口実にして出兵)、第二次大戦に際するアジア・太平洋戦争(日独伊3国軍事同盟を背景に開戦)などを再び繰り返えすことになりかねない。戦後は、朝鮮戦争やベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争など、それらの戦闘には一切参加せずに済んできたが、「軍隊」ともなればそういうわけにはいかず、参戦しなければならないことになる。
 これらの参戦は(アメリカも、かつての日本も、自らの戦争を「自衛戦争」と称して行なったが)決して「国民同胞を守り、家族を守り、愛する人を守るための自衛の戦い」などではあり得まい。

 小泉前首相は、アメリカのイラク攻撃開始に支持を表明した当時、「憲法で、自衛隊を認め、日本国民を守る戦闘組織として、その地位と名誉を与える時期がきた」とコメントしたものだ。
 しかし、憲法とは、そもそも(近代立憲主義の立場で)国民の人権を(平和的生存権を含めて)為政者の恣意と国家権力の濫用から守るため、国家の権力に縛りをかけるために制定されているものなのであって、(自衛隊ならば、それを、他国からの急迫不正の侵略・攻撃に対する必要最小限の自衛以外に、政府や国会多数派がその思想や利害から自らの考える「国益」―国家戦略上の利益―のために、要するに自らの都合のために、好き勝手に動かし、必要以上の戦力・武器を持たせて海外に派遣して戦わせたりしないように、歯止めや縛りをかけるために、9条―戦争放棄とともに戦力の不保持・交戦権の否認―などは定められているのであって)憲法は、戦闘組織に「地位と名誉を与える」ために定められているのでもなければ、そのようなことのために「改正」さるべきものではないのである。
 また、安倍首相は「『米国と肩を並べて武力行使する』、これは憲法改正なしにはできない」という。そのような改憲をされて、自衛隊がアメリカ政府の言いなりに、米軍にくっ付いて海外に行って、今度は「戦闘地域」で戦わされ、殺すか殺されるかさせられる。そんなことが自衛隊にとって名誉になるのだろうか。国際社会は、自らの過去の戦争に対する反省を忘れてそのように振舞う日本に、尊敬を寄せ、「名誉ある地位」を与えようとするだろうか。
 改憲―集団的自衛権の行使容認など―によって、自衛隊は日本国民を守るための自衛隊から、アメリカなど他国を守る「他衛隊」にますます化していく、という結果にならざるを得なくなる。
 要するに改憲したら自衛隊は自衛隊でなくなるということなのである。
 我々は、そこを考えなければなるまい。

2007年07月17日

いったい誰の立場に立っているのか、で判断

1、選挙
 選挙といえば、どの党,どの候補者の言うことも、いいことづくめで、皆もっともらしく聞こえる。マスコミ・評論家などは、よくマニフェスト(政権公約)がだいじだとか、その具体性がどうの、実現に必要な財源の裏づけがどうのと批評したりしているが、それを云われれば、経験・実績を重ね、データと予算を握っている政権与党のものが、いちばん確実性がある、となるのが当たり前である。
 それに、マスコミを通じてのプロパガンダ(宣伝)の巧拙。この点でも、政権を担当し、常々否応なしに関心・注目される首相や大臣のいる政府与党と豊富な資金をもつ大政党が有利となる。
 そして、党首や候補者の話し振り(冗舌さ)、耳ざわりのいい言葉、(「・・・をぶっこわします」などといった)威勢のいい言葉、それに「顔」だ。外務大臣の麻生氏いわく。「奥さん方にわかりやすく云えば、小沢一郎の顔をとりますか、安倍晋三の顔をとりますか?どちらが奥さんの趣味に合いますか。それが問われる」と(朝日の記事の中にあり)。確かにその通りかもしれない。とかく庶民は、それで騙されてしまいがち。
 そこで、それらに騙されてしまわないように、その党や候補者の本質・本心を見抜かなければならない。本質・本心といっても、それはその党その候補者は一体だれの立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かであり、そこを見極めることだ。
 選挙戦はプロパガンダ戦だという。石原都知事の「選挙プランナー」を務めた三浦博史氏(月刊現代8月号「『洗脳選挙』の舞台裏」)によれば、「大半の有権者の投票基準は外見力や好感度であることは紛れもない事実」だという。「日本の選挙では、有権者たちの投票行動の多くは、ノン・バーバル・コミュニケーション(非言語会話)で決められている」と。しかし、三浦氏は「宣伝力=プロパガンダに左右されない有権者の資質の変化・向上が求められている」「大切なのは候補者の本質を見抜くこと」だとも書いている。

 政治(選挙に際する政党・候補者、その主張や政策)でも歴史認識でも思想その他でも、論者とその言説を評価・判断するばあい、それを見極める基準は、それがいったい誰の立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かであろう。(庶民とは、国家や社会の支配層以外の人々で、権力者・与党政治家・官僚・資産家・大企業経営者・株主など富裕層・エリート・勝ち組その他の「恵まれている人たち」に対して、中小経営管理層以下、零細業者・自営業者・従業員・労働者・フリーター・無職者・貧困層・負け組・被害者・障害者その他の「恵まれない人たち」のこと。)
 国家や社会の支配層の立場では、国家利害(国益)や企業利益の観点から戦略的に発想し、評価・判断するが、庶民は、ただ生活上の利害と道徳的心情(良心)から評価・判断する。
 庶民は、「国益」とか「国家の品格」とか「国際競争力」「国家戦略」とか、「この国を美しい国にする」とか「強い国にする」とか、そんなことは考えないし、考える必要もない。
 庶民は、「彼らとはイデオロギー(価値観や考え方)が違う、或は違わない」とか、「我が国の伝統や国柄はこうだ」とか、そんなことにはこだわらない。
 庶民は、ただ、自分も他の人々も(庶民が)みんな生活と権利が保障され、誰も虐げられ犠牲にされることなく無事・安寧に暮らせればそれでよいのであって、その生活上の死活的な利害(これでは生きていけないとか、これで助かるとか)と道徳的心情だけで評価・判断し、イデオロギーや価値観がどうのこうのとか、我が国の伝統や国柄がどうのこうのといった固定観念にはとらわれる必要はないのである。
 政治家が「国益」・「国家戦略」を考え、財界人が企業利益や「国際競争力」といったことを考え、経営戦略を考えるのは当然だとしても、庶民がそれらのために「痛みに耐え」させられ、犠牲になっても「しょうがない」といって済まされるとしたら、それは本末転倒である。庶民の生活と権利を守るために国家があり、庶民に仕事と生活の糧を与えるために企業があるのだ、というのが庶民の立場であろう。
 自民党と民主党は、財界・大企業から巨額の資金提供(政治献金)を受けている。日本経団連は政策要求(「優先政策事項」―法人税の減税、労働法制の規制緩和、憲法改正の実現など10項目)を両党に提示し、それに各党の政策はどれだけ合致しているか、どれだけその実現に向けて取り組み、実績をあげているかを評価(5段階評価)し、それをもとに各党に献金している(04年、経団連の会員企業から、自民党には22億2千万円、民主党には6千万円)。両党は財界からより高い政策評価を得ようと競い合っている。しかし、自民党のほうが高評価を得、はるかに多額の献金を受けているわけである。民主党は労働組合(連合系)からも献金をうけており、公明党は宗教団体(創価学会)から献金を受けている。共産党は個人献金(募金)だけに徹し、企業・団体献金は一切受けず、公費(税金)からの政党助成金さえも唯一受け取っていない。
 このように財界・大企業から献金を受けている政党と受けていない政党とがあるが、これらの政党は誰の立場に立ち、財界と庶民のどちらの側に立つのだろうか。

 ①安倍政権の「安全保障・防衛政策」は、日米同盟―アメリカの「核の傘」(核抑止力)にたより、NATOなどとも軍事協力を強化(集団的自衛権の行使を容認)、自衛隊の海外派兵を恒久法でいつでもやれるようにし、海外での武力行使を容認する9条改憲をめざす。そのような政策は、庶民―ただひたすら「どの国とも仲良くし、どの国の人とも仲良く平穏に暮らせればよく、戦争などごめんだ」(国は各人に平和的生存権を保障してくれれば、それでよいのだ)と思っている、その立場に立っているのだろうか。
 ②安倍政権の新自由主義(市場原理主義)政策―非正規雇用・派遣・請負労働などの規制緩和・民営化政策は、それによって生じる正社員・非正社員の格差・不平等、労働時間・残業規制の緩和、成果主義賃金など、はたして庶民の立場に立っているのだろうか。
 経団連会長の御手洗氏は、日本の企業は「非正規社員がいるから国際競争力がある」というが、そう云って労働コストを低く抑えて企業はバブル期を上回る(1,8倍)史上最高の利益をあげ、その分け前は株主(10年間で3倍)と会社役員(2倍)が手にし、労働者(雇用者報酬は8年連続で後退、1997年比マイナス6%)は割を食っている(正社員は長時間過密労働、非正社員は低賃金・不安定就労)。
 ③安倍政権の租税政策は庶民の立場に立ったものだろうか。大企業・資産家には大減税(1,7兆円)、庶民には定率減税の全廃で所得税・住民税を合わせて大増税(大企業・金持ち減税と同額の1,7兆円)。高齢者への増税も。そのうえ消費税も上げられようとしているのだ(選挙直前の今は、「上げる」とは云っていないが、上げないとも云っていない)。
 これら増税のうえに、医療の窓口・保険料の負担増、介護保険のサービス切捨てと負担増、障害者福祉の「応益」負担、生活保護・児童扶養手当の削減など社会保障費の削減と負担増も。
 ④財政赤字解消のためには、庶民への増税・負担増 と歳出削減はやむをえないと云いながら、大企業・資産家に対しては(法人税、株式等の売却金や配当金への課税など)減税し、駐留米軍への思いやり予算や基地再編にともなう移転施設建設費(3兆円)、「ミサイル防衛」予算(1兆円)等をふくむ軍事費は決して削減しようとしない。
 ⑤年金は、2004年に「100年安心」と称して改革をおこなったが、それは保険料を毎年引き上げる(2017年度まで)一方、給付水準は15%も(現役男子の平均的な手取り収入の59,3%から2023年には50,2%に)削減するという改悪にほかならなかった。
 保険料を払っていない(25年間払い続けないと65歳になっても年金がもらえない)無年金者が多く(60万人~100万人)、給付も、「たったこれだけでは食うに食えない」というわずかな金額(国民年金、40年納め続けて月6万6千円、平均では4万7千円)しかもらえない受給者も多い。
 そして、ここに来て「消えた年金」(保険料納付記録の何千万という記録漏れ)問題が浮上、(それは社会保険庁の事務処理のずさんさには違いないが)その監督責任は歴代の厚生労働大臣にあり、ほかならぬ彼らが「親方」であるにもかかわらず、社保庁職員=公務員の「親方日の丸」体質のせいだとして社会保険庁そのものの解体・「民営化」を強行。国の責任をあてにして保険料を払っているのに、それが国の責任の直接及ばないところに行ってしまうことになる(運営業務は法人の「日本年金機構」へ、収納・支給・相談などの業務はあちこちの民間企業に外部委託)。庶民の年金不安はこれで解決されるのだろうか。(外務大臣の麻生氏は姫路市の街頭演説で、「消えた年金」問題で国民が殺到していることについて曰く、「もっともらえるかもしれない。これは『欲の話』だろうが。それが、何も今あせって電話することはない」と。)
 ⑥大臣が政治資金(国民が払った税金からの政党助成金が含まれている)を何に使ったのか、事務所費として計上しているが、それにしては金額が大きすぎる。「法律(かかった金額が5万円未満ならば領収書は付けなくてもよいと定めている)に則って適切に処理している」と言うのみで、領収書開示を求める多くの声にもかかわらず、応じていない。庶民感覚では到底納得できるものではあるまい。
 ⑦教育基本法改定に続いて教育3法(学校教育法・地方教育行政法・教員免許法)も改定した。これらによって教育に対する文科省と地方行政当局の介入・管理・統制が益々強められることになった(愛国心・「規範意識」の押し付け、学校評価・教員評価)。その一方で競争教育・序列化が進められる。教師も子どもたちも益々のびのびした勉強や活動ができなくなる(教師から授業の工夫や子どもと向き合う時間が奪われる)。それで「いじめ」「不登校」「落ちこぼれ」が無くなるのか。庶民はますます子どもが心配になってくる。

 与野党各党と候補者、その主張や政策は、いったい誰の立場に立っているのか。庶民の声を代弁してくれている、或はそれにいちばん近い政党・候補者はどの党、どの候補者なのかをよく見極めて投票しなくては、と思う。
2、マスメディアは公平か
 マスメディアとそれに出てくる評論家・識者などの言説やニュース報道は、いったい誰の立場に立っているのか、権力側か、庶民の側か見極めて評価・判断すべきであろう。
 与党・野党もしくは多数党の政治家と少数党の政治家とでどちらに信頼を寄せるか、或は好感をもつか、という場合、マスメディア(テレビ・新聞・雑誌)の取り上げ方によって左右される。
 そこでマスメディアの「公平公正」が問題になるが、とかくメディアは自民・民主両党を「二大政党」ということにして、各党の動きや考え・主張・政策はこの二党のものだけを取り上げ、他の少数党のものはまるっきり省略されるか、わずかしか取り上げないことが多い。したがって少数党の考え方・主張・政策が国民にはあまり伝えられていないことが多い。
 国会の委員会審議などでは各党の議席数に応じて質問時間が割り当てられており、多数党には長々と、少数党にはわずかしか時間があたえられず、党首討論などは自民・民主2党だけの討論になっていて、他の党首は外されている。それがテレビ中継される。
 かつての自民党・参議院議長の河野謙三は、野党の方により多くの発言時間を与えて「七三の構え」でやってこそ公平になる、と述べたとのことであるが、その方が正解であり、それは国会だけでなく、マスメディアの各党の取り上げ方についても同じことが云える。
 ニュースなどでは首相の発言・インタビューや行動がほとんど毎日のように報道され、少数野党の党首の発言などいちいち報道されることがないのは当然といえば当然だ。しかし、国会審議やテレビ討論、新聞などの紙上討論では、与党と野党第一党だけでなく、少数野党にも充分な発言時間を与えて然るべきなのである。そうすれば、有権者はそこから各党とその発言者は、それぞれ誰の立場に立っているのか読みとって判断できるわけである。
 ところが、いまの新聞・テレビその他のメディアはどれも、その取り上げ方が与党もしくは野党第一党の方に偏っており、「自民・民主」両党の見出しや「安部・小沢」両党首の写真が突出して載せられている。その他の少数党は、あたかも、見るべきものは何も持ち合わせないか、それしかないかのように、全然載らないか、わずかしか載らない。その結果が、世論調査で政党支持率に如実に表われることになる(自民・民主だけが突出し、他は極端に支持率が低い)。それは、これら少数党の理念・政策・実績など、マスメディアによって正確・詳細には知らされることなく、その主張の真意は、ほとんど庶民には伝わっていないからにほかならない。
 メディアについては、我々はそのあたりのことをよく見極め、問題の取り上げ方、スポットの当て方、その論調など、そのメディアは「いったい誰の立場に立って報道しているのか」「権力側(政府・財界寄り)か庶民の側か」を評価・判断しなければならないのである。NHKも、民放各局も、新聞各社も然りである。  
 メディアは、「中立公平」とは云っても、等距離・中間をとるなどということはあり得ず、権力側(政府・財界寄り)・多数派の側か、庶民・少数派の側か、どっちかの側に立つか、こっちに寄ったり、あっちに寄ったり、両側を揺れ動くかのいずれかだ。
 我々はそこのところを見極めて判断しなければなるまい。
3、「しょうがない」論
 「しょうがない」という諦めの言葉は、過ぎ去った昔のことは今さら元には戻らず、どうしようもないという場合と、地震や台風など天災地変などの不可抗力の場合に使われる言葉だ。天災地変などの場合ならば、人間の意思ではどうにもならないことであり、それこそ、諦めるよりほかにない。しかし、戦争や暴力や事故など人災の場合は「しょうがない」で済ますことはできない。あの時なぜあんなことをしたのか、されたのかをひたすら追求し続け、絶対二度と繰り返してはならないと、いつまでも云い続けなければならないことなのだ。
 天災地変ならば、必ずいつか再び、ということを覚悟し、それを前提にして被害を最小限にくい止める方法・手段を講じなければならないが、戦争やテロや原爆など人災ならば、まずはそれを起こしたか起こしそうな国や人間に対して、絶対に同じことを繰り返させないように、そんなことはやってくれるな、やってはならないと云い続けること(外交努力・平和交流・信頼関係の構築)が先でなければならず、それがすべてであってもよいのだ(防備だとか「抑止力」などに意を注いで金をかけたりしなくても)。
 アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下を考え、評価・判断するばあい、被爆者の立場に立って考えるか、それともアメリカ軍(原爆を投下した爆撃機の搭乗員や退役軍人、或は原爆を研究・開発した科学者)または大統領(トルーマン)の立場で考えるか。
 7月4日付けの読売新聞社説は、原爆「しょうがない」発言で辞任した防衛大臣のことで、「野党側は・・・・感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった」と論じ、原爆の悲劇を招いたそもそもの原因は「日本の政治指導者らの終戦工作の失敗に」あり、米国は「ソ連参戦前に早期に戦争を終わらせたいと考えていた」との久間氏の見方は「間違いではない」とし(軍事ジャーナリストの田岡氏らは、それは事実とは違っており「間違いだ」としている)、現在の日本が、北朝鮮に「核兵器を使わせないために米国の核抑止力を必要としている現実もある」との首相の発言も「当然のことだ」としている。米国の核抑止力のことについては、朝日も(7月2日付け社説で)「日本は米国の核の傘に守ってもらっている以上、政府の立場からすると核使用を完全には否定しきれない、そういう現実の壁があるのは確かだろう」と書いている。
 米国にとっては原爆のおかげで「100万人もの」(この数字には何の根拠もない)米兵の命を犠牲にせずに済んだとか、原爆が終戦をもたらし何百万人もの日本人の命が救われたとか(ジョセフ米核軍縮担当特使)、日本はソ連軍による北海道占領を免れたとか(久間氏)、現在の日本人も、米国の核抑止力のおかげで北朝鮮などの核攻撃を免れることができるなどと、いろんな言い方(原爆投下の理由付け・正当化・合理化)がされるが、これらは政治的戦略的発想に立つもので、被爆者・戦争被害者をはじめとする庶民の立場とはかけ離れた考え方である。
 原爆について議論する場合にいちばん肝心なのは、被爆者や犠牲になった無辜の市民の立場ではどうなのかということではないだろうか。
 犠牲になった広島市民14万人、長崎市民7万人の方々の立場から見れば、「100万人もの米兵」といい、「何百万人もの日本人」といい、彼らが生き残るためには何の罪もない我らの命を犠牲にしても「しょうがない」とは、「何を勝手なことを云っているのだ」「人の命を何だと思っているんだ」「犠牲にしても『しょうがない』命などあるものか」となるだろう。
 自分たちは何故犠牲にされなければならなかったのか、何の意味もなく殺されただけの話ではないかと。100万・何百万のためには14万、7万の犠牲は「しょうがない」とか、大多数のためには少数の犠牲はやむをえないなどということはあり得ないのであり、多数であれ少数であれ、無辜を犠牲にしていいわけはなく、一方のために他方は犠牲にされてもしかたがないなどということはあり得ないわけである。それでも「しょうがない」という言い分が通るのであれば、あの時もしも、広島市民14万人・長崎市民7万人のほうが生き残って「百万人の米兵」「何百万人もの日本人」のほうが犠牲になったとしても、広島・長崎市民から見れば、それは「しょうがない」ということになってしまうのではないか。
 当初、原爆の投下目標は広島・小倉・新潟・長崎の4ヶ所で、広島の次は小倉の予定だったのが、小倉上空が天候不良・視界不良のため急きょ近くの長崎に切り換えたといわれるが、それで結果的に助かった小倉市民は長崎市民の犠牲を「しょうがない」とは云えまい。
 原爆投下は前もって何の予告もなく、(市民に避難を呼びかけるビラはまかれたが、それは、なんと投下した後のこと)その犠牲はまったく悲惨極まりない犠牲なのであって、もしそのおかげでこっち(米兵や広島・長崎市民以外の日本人)の方が助かって生き残ることができたと思うのであれば、犠牲になった彼らに対して、ただただ申し訳ないと思わなければならないことなのであり、アメリカ政府には謝罪させずにはおかない非道極まりない犯罪行為だったのだ。それに対して『しょうがない』という言葉を口にした防衛大臣を非難するのは、どんなに冷静に考えても全く当たり前のことではないか。
 読売の社説は、そのような広島・長崎の原爆犠牲者・被爆者やそれ以外の無辜の戦争犠牲者の立場からは全くかけ離れたものと言わざるを得ない。原爆を投下し、今もって「抑止力」と称して何千発という世界最大量の核兵器を保有し続ける国と、かの国から守ってもらっていると思っている我が国政府(安倍政権)に寄り添った書き方をしているのだ。
 議論は、事実にそくして行なうのは勿論であるが、被爆者・犠牲者の立場の立って論ずるべきなのである。
 政治家も、新聞も、いったい誰の立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かで評価・判断しなければならない、とつくづく思う。
4、歴史認識
 歴史における天災地変以外の戦乱その他人災によるあらゆる無辜の犠牲者・被害者に対しては「しょうがない」などという言葉はあり得ないわけである。
 歴史には明暗、光と影、泰平と動乱、栄光と悲惨、美しいところ、醜いところがある。
その歴史認識には、国家指導者や支配層の立場に立った認識と、庶民の立場に立った認識の二つの立場が分かれる。
 国の権力者や支配層にとっては、自らの歴史を栄光と誉れの歴史として描きたがり、国家の恥部や暗部にはとかく蓋をし、合理化し、当時はそれも「やむをえなかったのだ」として済ませたがる。そして、歴史教科書も、「我が国の戦争は自存自衛のためにやむをえなかった」としたり、「従軍慰安婦」とか「南京大虐殺」とか、沖縄の「集団自決」など、教科書からカットするか、「軍の関与・強制」は書き込まないことにしたり、記述を薄める、といったことが行なわれている。
 しかし、それらは、庶民(とりわけ国内外の犠牲者・被害者その遺族)の立場からすれば、「やむをえなかった」で済まされることではないわけであり、「そこに軍や政府の間違いは本当に無かったのか、どうしてそれを避けられなかったのか、その実態、その原因をすべて明らかにして、二度と再び同様な事態が繰り返されることのないようにしなければならない」ということで、民衆のあらゆる苦難・悲惨の実態を取り上げて詳しく見ようとするのは当たり前のことであり、それを「自虐史だ」などと非難するほうがおかしいわけである。
 歴史認識が問題となっているのは、かつて為政者とそれに付き従った者たちが自国民あるいは他国民に対して行なったこと(過ちや誤り)に後継(子孫)の為政者その他の者たちが責任を引き継いで、それを果たさなければならないという責任をともなっているからである。現在の為政者(首相をはじめとする政府・与党の政治家)は謝罪・賠償(今なおそれが必要とされているのならば、それ)を果たすことと、かかる過誤を再び繰り返さないという責任、そして国民は自分たちの政府に対してその過誤を繰り返させないという責任(民族的責任)を負うのである。とりわけ民主主義(国民主権)が実現している国では国民の責任が問われる。
 前ローマ法王(ヨハネ・パウロ2世)は2003年3月「ローマ教会が過去2,000年の歴史の中でユダヤ人・イスラム教徒・女性・先住民に対して侵した罪について心から許しを請い願う」という懺悔・謝罪演説を行なった。2001年9月国連人権委員会主催の「人種差別反対世界会議」で、アフリカとカリブ海諸国が15~19世紀奴隷制度と植民地制度で利益を得た国(欧米諸国)に対して謝罪を求め、一部の国は金銭的補償を主張した。(オランダは補償にも応じている。)何世紀も前のことなのに、現在の子孫に対して「歴史の過ちに対する責任を果たすべきだ」というわけである。奴隷制はアメリカではリンカーン大統領当時廃止されているが、今年の2~3月にはバージニア州とメリーランド州の議会で奴隷制に対する「遺憾の意」表明決議を行なっている。太平洋戦争中、米国内で日系アメリカ人・日本人移民を強制収容所に収監したことに対して、(日系人らの求めに応じてだが)1988年米国議会は謝罪と補償を定めた「戦時市民強制収容補償法」を可決し、大統領(レーガン)は署名をしているのである。
 このように歴史の過ちに対して現代の為政者や国民が責任を感じ、責任を負おうとするのである。
 日本国民は憲法に(前文で)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、(9条で)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権は認めないことを誓ったのである。戦争に対する我が国の為政者および我々国民の歴史認識には、このような世界の諸国民(とりわけアジア諸国民その他交戦した国々の国民)に対する責任がかかっているのである。その責任を抜き去って改憲してしまい、あとは(「戦争の惨禍に対する如何なる責任か、その責任の所在は」など)歴史家の判断に任せるというのでは無責任もこの上ないわけである

 拉致問題は、被害者たちにとっては「従軍慰安婦」「強制連行」と共通する国家犯罪である(一方は北朝鮮による、他方は日本による)。
 ところが、政治家や政治団体の中には、それによって国民の相手国に対する敵対感情をかきたて、ナショナリズム(国家主義)や愛国主義を煽って、国民の日頃の不満・うっぷんを外に向けさせるのに利用している向きがある(「フリーターの人が『今まで愛国で自分をごまかしていたけれど、これからは使い捨て労働力である自分を認めます』というのも聞きます」―雨宮処凛)。
 従軍慰安婦問題については、日本のメディアは、NHKが01年に番組(「ETV2001、問われる戦時性暴力」)を企画したが、現首相の安倍氏らの意見をNHK幹部が「忖度し」(おもんぱかって)放送された時は、元慰安婦の証言その他が無残にカットされていた、ということが問題になったが、それ以来、従軍慰安婦問題は、歴史教科書から消えたのと同様に、テレビ番組からも消えるようになった。
 アメリカの主要メディアの中には(ワシントン・ポスト紙など)、日本政府は「拉致問題には熱心でも、従軍慰安婦問題には目をつむっている」と指摘する向きがある。
 拉致問題など、それらは普遍的な人権問題なのであり、被害者の立場に立つならば、どの国の国民であれ、人間であるかぎり、許しがたい非道・無法行為として糾弾せずにはいられないことであり、それをさせた国の政府に抗議し、謝罪を求めるのは当然のこと。それは広島・長崎の原爆、南京大虐殺・従軍慰安婦・強制連行(強制労働)も同じことである。それを、拉致問題は現在進行形だが、「従軍慰安婦」も「広島・長崎」も「南京」も、過去のことだからといって「しょうがない」では済まないわけである。未だ生きている被害者本人も遺族もいるのである。
 日本の首相が南京に慰霊に訪れたことは未だないし、アメリカ大統領が広島・長崎を訪れたことも未だにない。アメリカ市民には、「原爆のおかげで戦争を早く終わらせることができ、100万人もの米兵の命が救われた」などというウソ・思い込みは払いのけてもらわなければならないのである。
 アメリカ議会が従軍慰安婦問題で日本政府に対して公式に謝罪するように求める決議を行なったが、被害者の身になって思う庶民ならば、それに反発したりはしないだろう。しかし、それはそれとして(アメリカ議会の従軍慰安婦問題決議に対する対抗的な意味からではなく)日本の国会も広島・長崎に原爆投下したアメリカに対して謝罪要求決議をおこなって然るべきなのである。
 我が国は政府も国会も未だかつてアメリカに対して原爆投下の謝罪を求めたことは一度たりともないのである。

 我が国の首相は、(安倍首相も)国会質問への答弁などで、よく、近代以降の我が国の対外戦争は侵略戦争であったか否かなどの評価・判断は「歴史家に任せるべきだ」という言い方をして質問をかわしている。戦争や植民地支配における被害・加害事実の認定、それは謝罪・補償・再発の防止などの責任をともなうが、そういう(「歴史家の判断に任せる」などという)言い方をして判断(事実認定)を先送りして、戦後60年も経つのに未だに曖昧にし、果たすべき責任をきちんと果たそうとしていないのだ(被害者たちは、補償はもとより謝罪も正式には未だに受けていないと思っている)。
 東京裁判(極東国際軍事裁判)では「侵略」と断定され、サンフランシスコ条約・日韓基本条約・日中共同声明などで賠償は政府間では各国とも請求権は放棄して決着したかたちになっている(国際法解釈では「国家間で決着しても、個人の補償請求権は消滅しない」とされているが)。しかし、安倍首相などは、この東京裁判は戦勝国による一方的な裁判だとして、そこでの「侵略」認定などに承服してはいないのだ。
 1995年、戦後50周年に当たって、当時の村山首相(社会党の党首、自民党との連立内閣)は「我が国は・・・・国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・・・疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、・・・・痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」と内外に表明した。その後、歴代の首相はこの「村山談話」を継承し、小泉前首相も安倍首相もこれを「継承する」と(表向きには)言明してはいるものの、本心ではそうは思っていないのだ。安倍首相は、村山談話とともに当時おこなわれた終戦50周年国会決議(植民地支配や侵略行為に反省の念を表明)には欠席し、97年には、「自虐史観に侵された偏向教育」の是正をめざすということで「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げたりもしてきているのである。
 A級戦犯を合祀している靖国神社への参拝にも熱心だったが、首相就任の直前からは「参拝するとも、しないとも云わないことにする」という態度をとっている。
 このような安倍首相の歴史認識は、いったい誰の立場に立っているのか。それはわかりきったことかもしれないが、祖父(岸信介、東条内閣の閣僚に加わり、A級戦犯容疑者として逮捕されたが東京裁判には不起訴となり、政界に復帰して自民党を立ち上げ、首相となって日米安保条約「改正」を果たした権力者)の立場に立っており、戦争の被害者(犠牲者―日本人310万人、アジア全体で2,000万人)である庶民の立場とは、はるかにかけ離れているのである。

 というふうに私は考え、政党・候補者も首相その他の政治家もテレビ・新聞・雑誌も、その言説は、いったい誰の立場に立って論じられているのか、庶民の立場に立っているのか否か、という、そこのところで評価・判断することにしている。


2007年08月20日

参院選の結果と今後―改憲をめぐって

(1)選挙結果と有権者の投票行動
 先だっての参院選は与党大敗、民主党大勝という結果であった。しかし、この民主党大勝は「敵失(自民党側の失策・失政)に負うところが大」との見方が一般的であり、それに間違いはないだろう。(選挙後の朝日新聞の世論調査では、「民主党が議席を増した一番大きな理由は?」との質問に対して「自民党に問題があるから」と答えた人は81%、それに対して「民主党の政策に期待できるから」と答えた人は9%に過ぎない。読売新聞の世論調査では、民主党の議席増の理由は「安倍・自民党への批判」が68%で一番多く、「政権交代への期待」は39%、「小沢代表への期待」は14%,「民主党の政策への期待」は12%にとどまる。)民主党が政府与党に対する批判票の受け皿となって、「自民党は負けてほしい。そのためには共産党など他の野党支持者であっても一人区などで反自民票が割れないようにと」民主党に票が流れたということであって、必ずしも民主党の政策や活動実績が評価されたわけではない、ということだ。
 そこで安倍首相および彼の続投を支持する向きは、「確かに年金や失言大臣、『政治とカネ』については問題だった。それでお灸をすえられたのだろうが、基本政策は間違ってはいない」という言い方をしている。「『構造改革・経済成長』路線といい、公務員制度改革といい、外交・防衛政策、『教育再生』政策、それに改憲政策も間違ってはおらず、首相は引き続きそれらに鋭意取り組んでいけばよい。参院選は『中間テスト』の如きもの。国民は安倍首相の内閣改造後の取り組みとその成果を見たうえで、次の総選挙(衆院選)で勝ち負けを決めるべきだ」というわけである。しかし、はたしてそうだろうか?

 自民党が忌避された原因には、「消えた年金記録」の問題や閣僚の失態・失言、「事務所費」等の「政治とカネ」の問題などの失点、それに「数の力」で押し通すやり方に対する反発もあるが、それだけでなく小泉・安倍内閣の『構造改革』路線―規制緩和・民営化政策、市場競争主義、格差容認政策、それらが根本原因ではないのか。それに「戦後体制(レジーム)からの脱却―「憲法改正」とか「美しい国へ」とかも―国民から違和感を持てれだした。(投票直後のTBS系テレビの世論調査では「『戦後レジームからの脱却』には共感できない」が50,8%、「『美しい国づくり』には共感できない」が63,1%、「『憲法改正』には共感できない」が61,9%)

 今回の参院選では、自民党は改憲問題を争点としてマニフェスト(政権公約)の第一番に掲げ、共産・社民の両党はそれに正面から対決する構えを見せたが、民主党はそれを避けた(マニフェストでは、改憲については「足らざる点があれば補い、改めるべき点があれば改める」というにとどめ、重点政策には入れず、別枠に記載)。投票日前のマスコミ各社の世論調査では、争点として挙げられた中で改憲問題を重視すると答えた割合は一番低い方で、メディアも、また当の自民党もそれを強くもち出そうとはしなくなったようだ。結局、有権者の多くは、改憲に対する考え方でその政党・候補者に投票するということはなかったのである。
 当選者の方はといえば非改選議員と合わせた改憲賛成派は、04年の参院選当時は71%もいたのが、今回は51%に減っており、3分の2からぐうっと遠くなった。9条に限っていえば、今回の当選者・非改選と合わせて「変える方がいい」が31%、「変えない方がいい」が50%と改憲反対の方が多い、という結果だったという(8月19日TBS「サンデーモーニング」)。
 改憲問題に限って云えば、今回の選挙で国民が求めたものには改憲は入っておらず、国民は改憲など格別望んではいないということだけは、はっきりしたのではあるまいか。
 自民党が改憲をマニフェストの筆頭に掲げて争点にしようとしたのに対して民主党が改憲を持ち出さなかったその戦術は民主党にとっては賢明であったと云えるだろう。もしもそれを取り上げ(同党の、かねてよりの「憲法提言」のように)9条を変えるようなことを持ち出していれば、それを望まない有権者の票は護憲政党である共産党や社民党のほうに流れていただろう。
 ということは、今後、総選挙(衆院選)が遠からず行なわれるとすれば、民主党はその際にも同じ戦術をとる(改憲を持ち出さず、争点にしない)か、或は9条改憲には反対だということをはっきりと打ち出して自民党とこの問題で正面から対決するかしたら、再び勝って政権獲得を物にすることも夢でなくなるかもしれない。但しその場合は、その民主党政権下では改憲推進政策は控えなければならなくなる(「創憲」「憲法提言」は保留か撤回)。それをもし憲法審査会などで自民党と談合して改憲発議案の骨子・大綱づくりを進めたり、ましてや自民党と大連立を組んで両党が一緒になって改憲案作りに取り組んだりすれば、それは全くの公約違反(マニフェストに取り上げていないのにそれをやれば、民主党は改憲しないものと思って投票した有権者からはそう見なされる)ということになり、国民を欺くものとして反発をかい、国民投票で(過半数賛成は得られず)改憲は覆され、政権も覆されるだろう。
 いずれにしても安倍自民党の改憲という土俵に民主党は乗ってはならないということだ。
(2)民主党という党は
 当面は、参院選に大勝した小沢民主党は安倍自民党に対して対決姿勢(テロ特措法延長に反対、郵政民営化法凍結法案を提出するなど)でのぞみ、攻勢をかけて衆院解散・総選挙に持ち込み、再び勝利して政権獲得を果たそうと伺うだろう。
 しかし、選挙で勝ちはしても単独過半数に達しないその場合には政界再編、民主・公明連立あるいは民主・自民の大連立もあり得ないことではない。
 ところで、民主党という党は、そもそも自民党と基本方向を共有している「もう一つ保守党」という一面をもっている。民主党は当初(1998年、旧民主党に新進党から分かれた4党が合流して新民主党が誕生した時)の基本理念は「生活者」「納税者」「消費者」の立場を代表するとし「市民主義」を標榜していたが、2003年小沢氏らの自由党と合併して以来、財界の経団連から自民党とともに政策評価(「政党通信簿」)が付けられて企業・団体献金を受けるようになり、懇談を通じて財界との関係を強め、財界の要求に応える政策を自民党と競い合うようになった。そうして自らを自民党に対して「もう一つの保守党」と称したりするようになった。(岡田代表―当時―曰く「(自民・民主は)基本のところは同じだ。形だけの理念か、それを本気でやるかだ」と。菅代表代行いわく「安倍は保守亜流。今や保守本流は民主党だ」と。)その党内には旧自民党・旧社会党右派・民社党など各党の出身者がいて、「連合」など労組からからも支持・献金を受けている一方、自民党の安倍・中川昭一らとともに「日本会議議連」や「歴史教育議連」に所属しているメンバー(靖国派)もいる。したがって右に左にブレる可能性があり、バラバラになる可能性もある。
 二大政党といっても、保守二大政党で、自民党と大連立するような民主党を国民は支持しないだろうし、大連立を組んで議員の数に物を言わせて改憲を強行するような二大政党制ともなれば、保守改憲派独裁と変わりないことになり、そうなっては二大政党制の意味がないと、国民は思うだろうからである。
(3)改憲はどうなるか
 安倍自民党の改憲は、彼らのイデオロギー(歴史観・価値観など)(日の丸・君が代・靖国信奉イデオロギーと親米イデオロギー)から発想されており、その「新憲法草案」は既に一昨年発表されている。
 一方、民主党は「論憲から創憲へ」―新しい憲法をつくる方向―を掲げ、「憲法提言」も出されているが、それは我が国憲法に対する同党の考え方(現行憲法の問題点、もし改憲するとすればこういう点―9条ならば「制約された自衛権」を明確にすること、それに国連多国籍軍やPKOなどの集団安全保障活動ならば武力行使も認めること―といったこと)を提起したものであって、自民党の「新憲法草案」のように具体的に条文の文案を提示したものではない。この「提言」をたたき台に昨年4月全国11ブロックの衆院比例区単位で支持者らとの対話集会を始めたが、同8月の5ヶ所目の開催を最後に中断したまま。開催を断ったある県の幹部は「選挙や組織のことを考えると、党が割れる危険が大きい。それに見合う利点があるのか疑問だ」と党内事情を語っているという(朝日7月3日「07参院選・迷走の行方―下」)。ただ、民主党には自民党のイデオロギーを共有し、その改憲路線に同調もしくは妥協しそうな向きが少なからずいる。
 自民・民主ともに、党内には積極的改憲派から護憲派まで様々いて、その間でブレ、党が割れる可能性もある。
 安倍首相が「私の内閣で憲法改正を実現する」として続投、政権の座に居座り続けるかぎり、これから改憲をめぐってイデオロギー対決またはレジーム選択(8月15日の全国戦没者追悼式の追悼の辞で河野洋平衆院議長は「海外での武力行使を自ら禁じた『日本国憲法』に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んできた」と述べ、安倍首相が掲げる「戦後レジームからの脱却」を牽制したが、その「戦後レジーム」からの脱却か継承かの選択)が日程に上ってくる。その場合、民主党はどのような立場をとるのか。解散・総選挙が行なわれれば、今度は安倍自民党の改憲マニフェストに対してどういう対応をとるのか。
 「安倍カラー」は、今回の参院選大敗で薄めざるをえず、安倍首相の思惑どおりには進まないだろうが、その改憲の執念が貫かれるとすれば、安倍自民党は、その改憲案が3分の2以上の賛成にこぎつけるためには、公明党や国民新党だけでは間に合わず、どうしても民主党の支持・合意も獲得しなければならないことになる。そのために民主党との妥協、自民党原案の修正を重ねることになろう。自民党の「新憲法草案」(05年10月公表)は、その前(04年12月発表)の「憲法改正草案大綱」から比べれば、既に民主党と公明党の合意を得やすいように作り直したものなのだ(天皇の元首化など復古的だと思われるような規定は除去)。一橋大学院教授の渡辺治氏(旬報社「安倍政権論」)によれば、安倍首相にとって大事なのは改憲そのものを実現することにある。そのためには「自らの新保守的心情を封印し」「新保守的規定はどうなってもよいと割り切っている」という。安倍氏いわく「ある段階に来れば憲法改正に必要な総議員の3分の2の賛成を得るためにも、党の改憲案を思い切って修正することだってあり得るでしょう。自分たちの改憲案がベストだと言って一字一句にこだわるつもりはありません」と。
 今後、衆参各院に設置される憲法審査会などにおける3年後の改憲発議案の提出に向けた(改憲原案の骨子・大綱などの)議論の過程では妥協・修正を重ねつつ、ついには安倍自民党と民主それに公明・国民新党との合意にたどり着くのだろうか。

 発議案が国会で成立しても、最終的には国民投票で賛成が過半数に達しなければ現行憲法は維持されることになる。改憲の可否を決するのはあくまでも国民だということであるが、国民はそのさい安倍自民党のイデオロギーや美学や執念に引きずられてはならないし、財界やアメリカ政府の都合・利益にひきずられてもならない。国民が考慮すべきは、ただ自らの実生活を省みて、自らの平和的生存権・自由権・平等権・社会権・幸福追求権・参政権などの保障に関して現行憲法に不都合・不便を感じているのか否か(或は変えられたら困るか否か)ということと、世界の諸国民は日本の現行憲法(9条など)に不都合を感じているのか否か(或は変えられたら困るだろうか否か)の二つだけなのである。

 総選挙(衆院選)はいつになるか。争点は何になるか。消費税・法人税など税制は?労働・雇用問題は?憲法9条問題(自衛隊の海外派兵、集団的自衛権)は?市場競争主義・格差・貧困問題は?年金・医療・介護等の保険制度問題は?・・・・「戦後レジーム(現行憲法体制)の脱却か継承か」は?
 さて、今度は誰に、どの党に入れようかな・・・・・・。


2007年09月13日

安倍首相の辞任とテロ特措法

 安倍首相はテロ特措法延長を果たすべく職を賭すと言明していたが、その国会審議を前にして突如として辞任を表明した。
 しかし、このテロ特措法問題を我々国民は、安倍首相辞任劇にともなう政局や感情にとらわれて、判断を誤ってはならないと思う。
 6年前に起きた同時多発テロに対しては、そもそもいかなる凶悪犯でも犯人の身柄を確保して裁判にかけ法に基づいて処罰するのが当たり前なのであり、国連を中心に警察的・司法的に対処して厳正な犯人処罰と再発の防止をこそ目指さなければならなかったのに、ブッシュ大統領はいきなり報復戦争に訴え、(テロリストをかくまっているとして)アフガニスタン攻撃を強行した。大統領は各国に対して「アメリカとともにあるのか、テロリストの側にたつのか」はっきりさせるようにと言って迫り、「ショウ・ザ・フラッグ(旗幟を鮮明にせよ)!」と迫られた小泉当時首相はいち早くアメリカ大統領を支持、国会でテロ特措法を通し、以来インド洋で作戦に従事する艦船への補給支援に自衛艦を派遣してきた。NATO諸国は集団的自衛権を理由に派兵したが、いずれも国連決議に直接基づいたものではない(アメリカは安保理開催を要求していなかったし、「1368決議」はテロ攻撃を「明確に非難する」というもので、前文に、このテロ攻撃に対するアメリカの自衛権が国連憲章で認められていることを一般的に確認しただけであって、アメリカの対アフガン攻撃を承認したものではない)。
 アフガニスタンでは、アルカイダやタリバンその他の武装勢力以外にも、民衆が空爆にさらされ巻添えにされ、対テロ戦争は米国同時多発テロ以上のおびただしい死傷者をもたらしている(アフガニスタンでは民間人の死者は01年の開戦から3ヶ月間だけで4,000人前後、今年に入ってからは700人前後)。それでいながら未だに首謀者などの犯人逮捕に至っておらず、攻撃と報復テロの悪循環が続き、テロは収まるどころか広がる一方(「米軍は米兵の死亡1人に対し100人のゲリラを殺害している。」ところが「1人殺害すると、それは何倍にもなって跳ね返ってくる。男性の親戚すべてを戦いに参加させることになるのだ」といった状況)。「対テロ戦争」戦略の破綻は明らかだ。
 「テロリストに対する海上阻止活動」と言いながら、我が自衛艦が給油する米軍その他の艦艇や艦載機は、はたしてアフガン攻撃に従事する艦なのか或はイラク攻撃に従事する艦なのか、それとも他の海上活動に従事する艦なのか、油に糸目はなく、予め区別を付けることなど出来ないのである。空爆など攻撃にさらされている国民からみれば日本自衛隊の給油活動は米英軍などの軍事作戦への加担・参戦以外の何ものでもないわけである。
 給油は「テロとの戦い」でり、国際公約だというが、憲法9条の「国際紛争解決の手段として戦争を放棄する」ということこそ我が国の国際公約にほかならないのだ。給油は国際社会から高く評価されているというが、空爆にさらされ戦争被害にあえいでいる民衆はもとより、(アメリカその他の軍事作戦に加わっている国々の政府や軍の当事者以外には)諸国民から「高く評価されている」などということはあり得ないのだ(アフガン等の民衆は日本の自衛隊が作戦参加各国軍へ「給油」をしていることなど知らないし、ましてやそれに感謝しているわけない)。
 我が国がやるべきことは「テロとの戦い」への軍事貢献ではなく、ODA(政府開発援助)やNGO(非政府組織)による非軍事貢献である。それは、アフガニスタンまたはその周辺で、中村哲氏(医師、「ペシャワール会」現地代表、20年以上も前からパキスタンのペシャワールに赴任)らが難民医療とともにやっている井戸・用水路掘り事業とか、或は伊勢崎賢治氏(東京外語大学院教授、国際NGOの活動に携わり、東チモール、シェラレオネ等への国連派遣団にも参加、03~04年アフガニスタン武装解除日本政府特別代表を務め63,000人の武装解除に成功)らが軍隊警護を付けずにやってきた軍閥武装解除活動といった分野での国際貢献である。
 我々国民は、テロ特措法延長の是非を判断するに際してはくれぐれも、政府与党側が口にする「同時多発テロで、24人もの日本人の命が奪われたことを忘れるな」とか「テロとの戦い」「給油は国際公約だ」とかの尤もらしい言葉にとらわれ、(安倍さんが局面打開のため首相を辞してまで通したいと望んだのだから、特措法の延長でもそれに準ずる新法でもいいから「給油」の継続ぐらい認めてやればいいではないか、などと)感情にとらわれ、或は政局(政界のなりゆき)にばかり気がいってしまうことのないように、世界の大局から見て冷静に判断しなければなるまい、と思うのだが、いかがなものだろうか。

2007年10月23日

イデオロギー政治の破綻

 安倍前首相は「戦後レジームからの脱却」「美しい国へ」をかかげて、さっそうと登場したが、「健康上の理由」からあえなく退陣し、1年足らずの短命政権に終わった。
 「安倍カラー」といわれたが、それはイデオロギー色が強いものだった。そのイデオロギーとはどのようなものか、考えてみたい。
(1)自民党のイデオロギー
 (北大助教授の中島岳志氏によれば)近代における本来の保守主義とは懐疑主義的人間観に立ち、フランス革命などで理想社会の実現を説く人々を批判して人間の理性と能力の限界を認識し、急激な改革に待ったをかける。そして抽象的な理念の普遍性を疑い、歴史の風雪に耐えた具体的な伝統や慣習を重んじる考え。そのような保守思想は急激な変化を嫌い、現体制を擁護するが、時代の変化に柔軟に適応し、自由主義的な価値を吸収しようともする思想なのだが、自民党など我が国のそれは、天皇制など戦前来のやり方(やってきたこと)を肯定・擁護する思想傾向をもち、米ソの冷戦下にあって親米・反共主義の思想傾向を持つようになった。我が国のそのような保守思想の典型的な持ち主は岸信介・中曽根ら元首相である。(但し、北大教授の山口二郎氏によれば、我が国の保守派には思想的な核がなく、各人の思想はバラバラで単なる「左翼嫌い」といったニュアンスが強いという。)
 歴代の首相の中で改憲を公然と打ち出したのは岸元首相であり、彼が主導して保守合同で結成した自民党の綱領にそれを掲げた(鳩山内閣で憲法調査会を設置、岸内閣の下で審議開始)が、日米安保改定は国民の大反対を押し切ってやり通したものの、改憲は果たすことはできなかった。(社会党など改憲反対派に対して、衆参両院で3分の2の多数を占める見込みがたたなかったからだ。)それ以外には、どの首相も、自分の在任中は改憲しないと国民に公約するようになった。
 そして歴代首相の多くは、イデオロギーよりも国益(経済的実益)を優先し、たとえば対中国外交でも、中国とは思想や価値観の違いはあっても、それらイデオロギーにとらわれてばかりいないで、日中関係改善によって得られる実益のほうを重視し、国交回復を断行した田中首相をはじめいずれも関係改善に努めた。
 中曽根元首相は岸の系列をひいて大国志向・改憲志向が強かった。そして「戦後政治の総決算」を掲げて経済大国から政治・軍事大国へとめざしたが、野党(自民党議席数に接近)の反対もさることながら、腹心の後藤田らによって抑えられ、防衛費の対GNP比1%枠の撤廃がやっとであった。
 靖国参拝は(その以前は三木首相が「私人として」参拝したが)中曽根首相は「首相として」公式参拝を試みたものの中国・韓国から批判され、一回きりでそれはやめた。それ以後は橋本首相が(「私的立場で」と言いながら「内閣総理大臣」と記帳して)参拝したことがあったが、小泉首相は(総裁選に際して旧軍人遺族会に靖国参拝を公約したいきさつから)在任中毎年参拝し、中国・韓国から反発され両国との首脳会談は一度も行なわれなかった。
(2)安倍イデオロギー
 安倍首相は、首相就任前には「次の総理大臣も、その次の総理大臣も靖国参拝すべきだ」と言っていながら、「参拝に行くとも行かないともは言わない」という「あいまい戦術」をとり、中韓両国を訪問・首脳会談は再開した。
 彼はどのようなイデオロギーをもち、どのような政治を行なったのかといえば、そのイデオロギーは保守思想ではあるが右翼思想に近いのでは、と思われる。

 「右翼」の体質を特徴づける指標は復古的権威主義・神秘主義・国粋主義・排外的ナショナリズム・ファシズム等への親近性である。

 今、我が国には「日本会議」と称する団体がある。(1997年、その以前からあった「日本を守る国民会議」と宗教的な団体「日本を守る会」が合流して設立。現会長は元最高裁長官の三好氏。)それは、従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認めそれに「お詫びと反省」の意を表した1993年当時の河野官房長官談話と、かつての植民地支配と侵略を「国策の誤り」と認め反省と「お詫び」を表明した95年当時の村山首相談話という二つの歴史的「談話」に反発して結集したものだ。その「日本会議」は、日本が過去におこなった戦争を「自存自衛とアジア解放のための正義の戦争だった」と主張し、「美しい日本の再建」をスローガンに掲げ、新憲法制定の推進を基本方針に、教育基本法「改正」、首相の靖国参拝の定着、夫婦別姓反対、皇室典範改正反対(女性天皇反対)、「正しい歴史教科書をつくる」等の運動を展開してきている。佐高信氏や俵義文氏(「子ども教科書ネット21」事務局長)らは日本最大の「右翼組織」と見なしている(出版社「金曜日」発行の『安倍晋三の本性』)。
 その結成とあいまって国会議員のその関連団体として「日本会議」議連(日本会議国会議員懇談会)が結成されている。それには(2005年時点で)自民党209名(全自民党議員の51%)、民主党25名、無所属1名が所属。麻生氏が2代目会長で現在の3代目会長は平沼氏。安倍氏は(首相就任前)その議連の副幹事長をしていた。安倍内閣の閣僚18人中12人が所属。
 また、この他にもメンバーの重なる様々な「議連」が結成されている。
 歴史教育議連(「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」。1997年、河野談話を機に中学校歴史教科書に「従軍慰安婦」の記述が入ったことに危機感をもって結成。これまで学校でおこなわれてきた歴史教育は「自虐史観の侵された偏向教育だ」としてその是正をめざす。)―会長が中川昭一氏(現在は中山元文科相)で、安倍氏は事務局長だった。安倍内閣の閣僚中7人がそのメンバー。
 神道議連(「神道政治連盟国会議員懇談会」)―会長は綿貫氏で副会長は古賀氏らだが、安倍氏は事務局長だった。安倍内閣の閣僚中の7人が所属。
 改憲議連(憲法調査推進議員連盟)―会長は中山太郎、安倍内閣閣僚中11人が所属。
 靖国議連(「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」)―安倍内閣の閣僚中12人所属。
 安倍首相には、閣僚とは別に非公式なブレーンが5人いるが、彼らはいずれも「新しい歴史教科書をつくる会」や「北朝鮮に拉致された日本人を救う会」の関係者か賛同者。
 佐高氏・俵氏らは、このような安倍内閣を「日本会議内閣」と称し、極右政権と見なしているが、右翼的イデオロギーに偏っていることは確かだろう。加藤紘一元自民党幹事長は「なかよし内閣」と評したものだが、それは、日本会議議連・歴史教育議連・神道議連の仲間同士で固めた内閣ということだろう。

 安倍前首相は岸元首相の孫として生まれ育ち、その祖父を「誇らしく」思い(自著「美しい国へ」にそう書いている)、祖父の意思を継いで改憲などその実現を果たそうと志してきたわけである。彼の考えは、祖父がやってきたこと、考えてきたことは正しく、それが間違っていたなどとは思わず、むしろ祖父を批判・非難する方が間違っているという考え方で貫かれている。(彼の高校時代、革新・反権力・反安保を言い立てる進歩的文化人・マスコミは「うさんくさい」と思い、そのような教師に反発したと自著に書いている。)戦前・戦中・戦後にわたって祖父がたずさわってきた政治(満州国の国務院総務司長を務め、東条内閣の閣僚として対米開戦詔書に署名、終戦直後A級戦犯容疑で逮捕され巣鴨刑務所に3年間拘置された―その時「名を変えてこの身いくさの正さを来世までも語り伝えん」と詠む―が、日本を反共の砦に利用しようとしたアメリカの思惑で不起訴。連合軍占領解除後、政界復帰、反共と改憲を旗印に「日本再建連盟」をつくり、自民党の幹事長を経た後首相となり、日米安保改定を推し進め、それに対する反対運動が全国にわき起こったにもかかわらず国会で強行採決、同条約批准をやり遂げた直後に総辞職。これらはいずれも)間違ってはおらず、それを引き継ぎ、改憲など祖父が果たそうとして果たせなかったことを実現してみせるという基本的な考え方にたっている。
 したがって彼のイデオロギーはその立場で貫かれていると思われるが、それは次のようなものである。
①その歴史観・戦争観
 それは藤岡氏らの「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」と同じ考え方であり、靖国神社関係者とも同じ考え方(いわゆる靖国史観)といってもよい。
 天皇中心史観(かつての「皇国史観」)で、日本の歴史は「天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリー」(「美しい国へ」)だとする。
 また相対主義史観で、各国がそれぞれ異なる歴史認識をもつのが自然であり、歴史認識を共有することなどできはしない。(だから、韓国との間であれ中国との間であれ歴史共同研究は無理だというわけ。しかしドイツは、ポーランドやフランスとの間でそれを積み重ね、それぞれ共通の教科書をつくって、和解・過去の清算に努めてきた。)また、歴史はその時代に生きた国民の視点で論ずるべきであって、今ならばとんでもないと思われることでも、その当時は誰も問題だとは思わなかったし、当然のこととして肯定・支持されたのだ。だから現代の基準や今の視点で歴史を評価するのは間違いだと云って、批判の余地を与えない考え方をする。(奴隷制度・封建制度にしても天動説にしても、或は戦争や植民地支配にしても当時は当たり前のことだったと。しかしそれは支配者たちから見ればの話しなのであって、被支配者・民衆からみれば必ずしもそうではなかったはず。ただ、その時代、人々には抵抗権はもとより思想・言論の自由がなく、「民は寄らしむべし、知らしむべからず」で、いくら「それはおかしい」或は「理不尽だ」と思っても「お上」(世俗的・宗教的権力者)のやること、説くことに異議をとなえたり反対したりすれば「しょっぴかれ、ぶち込まれる」ので否応なしに肯定・支持せざるを得ないという状況があった等のことが、ここでは度外視されている。)
 安倍氏らによれば、日中戦争・太平洋戦争も、「あの時代には、あの時代の我が国の主張」があり、当時の国家指導者たちのその判断は考え得る最善の選択・判断だったのであって、結果は不幸な結果に終わったとしても、それは「仕方のないこと」で、罪を問われる筋合いのものではない。したがって「東京裁判は不当であり、そこでA級戦犯とされた戦争指導者を含めて国家のために命を捧げた軍人・軍属を祀る靖国神社を首相や閣僚が参拝するのは何ら差し支えない。戦犯といっても我が国の国内法では犯罪者とは扱っていない」というわけである。(東京裁判には、公正を欠き、アメリカの思惑で天皇の責任を不問、岸らを不起訴にし、アメリカの原爆使用を不問にしている等、問題があることは確かだが、だからといって日本の戦争行為が正当であったということにはなるまい。インドのパール判事にしても、彼が無罪を主張したのは事後法の適用は認められないという理由からであり、だからといって日本の侵略・加害の事実が無かったとか、戦犯とされた彼らに責任は無いとは云っていないのである。)
 安倍氏らのこれらの考え方は、それまでの通説や教科書記述を「自虐史観」「東京裁判史観」と云って批判する「新しい歴史教科書をつくる会」と同じ考え方であるが、安倍氏らは歴史教育議連を通じて、この「つくる会」の活動(同会のメンバーによって執筆・監修された教科書の採択活動)をバックアップしてきた。また教科書検定によって、それまで各社の教科書で取り上げられてきた「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」は削除されるか修正され、沖縄戦に際する「集団自決」の記述から軍の関与・強制は削除された。これらは「日本国民としての自尊心を傷つける自虐だ」との考えからであろうが、それは逆に「慰安婦」にされた外国人女性や南京市民、それに沖縄島民の自尊心を傷つけることにならないのだろうか。沖縄では11万人もの人々が抗議集会に集まった(そこで高校生代表は「私たちのおじいおばあたちが、うそをついているといいたいのでしょうか」と訴えた)が、それは沖縄島民が自らの自尊心が傷つけられたことに対する怒りにほかなるまい。(尚、文科大臣らは、教科書検定は公正・中立だと弁解していたが、検定調査官―常勤職員だが採用試験ではなく大臣が任命―4人のうち2人と、審議委員4人のうち2人は、いずれも、元「つくる会」理事で「つくる会」歴史教科書の執筆・監修者である大学教授の教え子もしくは共同研究グループだといわれる。)
②その憲法観
 現行憲法は「占領時代の残滓」「押し付けられた憲法」であり、その前文は敗戦国としての連合国に対する「詫び証文」の如きものでしかなく、払拭・清算すべきものと見なす。
 しかし、岸元首相のような戦前来の旧官僚政治家や中曽根元首相のような旧軍人出身者の中にはそのような思いをもっていた者もいただろうし、それまでの支配層・権力者層にとっては「押し付けられた」と感じるのは、無理はないとしても、国民の大多数は、この憲法を歓迎したことは、当時の世論調査(1946年5月27日、毎日新聞発表、「天皇は象徴」について支持85%,反対13%、「戦争放棄」必要70%,反対28%、「国民の自由・権利・義務」について支持65%,修正必要が33%)でも明らかである。また事実経過からいっても、一方的に押しつけられた憲法だなどということはできない。最初日本政府は担当国務大臣・松本に草案をつくらせたが、それが天皇主権をそのままにしている等、旧帝国憲法とさほど変わりばえしないものだったためにマッカーサーはGHQスタッフに草案を作らせた。そのGHQ草案には、鈴木安蔵ら民間の憲法研究会が作った草案要綱(そこには国民主権、「天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」、「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」、男女の公的私的完全平等権、「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」などの生存権・社会権を含む基本的人権が定められており、敢えて軍に関する規定は定めない―「戦争放棄」につながる考え)が取り入れられているのだ。それに、このGHQ草案も議会(委員会・本会議)審議でもまれ、修正も加えられ、最終的に1946年8月24日の衆議院本会議で429票中421票の圧倒的多数の賛成で可決された。8票の反対も、その主な反対理由は「勤労者の保護規定が不十分」だとか、「天皇存続規定に反対」「一院制支持から参議院規定に反対」「平和主義が空文」などといった理由で、むしろ、より徹底した改正を求めるものであった。これらの事実経過をみれば「押しつけ憲法」だなどとはけっして云えないのである。
 また、近代立憲主義では憲法とは国民の人権を守るために権力を規制するものとされるのであるが、慶大教授で改憲論者の小林節氏は、「安倍首相や自民党の憲法観は、権力者がわれわれ国民を管理するという発想」で、「自民党の人たちは二世・三世議員が多いから、自分たちはずっと権力の側にいるという前提で考えているんでしょう。だから国民に国を愛せだとか、いまの憲法は権利が多すぎて義務が少ないなんておかしな主張が出てくる。」とし、自民党の「新憲法草案」は「明治憲法に戻ろうとする、非常に矛盾に満ちた、レベルの低い内容」で、「人権否定の軍国主義」「陳腐な時代錯誤」が見られる「安倍政権に改憲させてはいけない」と断じている。(週間朝日6月8日号)
③その国家観
 国家と国民は一体であると考え、個人の自由を担保するのは国家だという考えで、国民の権利は国家から与えられたもの、だから国家に対して義務を負うのだと考えている。それ故に、近代立憲主義が国家と個人を対立関係でとらえ、憲法を国家権力から個人の人権を守るための制定されるものとしているその立憲主義の考え方を違えているのである。
 (戦争を起こして犠牲を強いる国家の権力者―権限を与えられている政治家・官僚
や軍人―と犠牲を強いられる国民―沖縄戦で集団自決した住民―や一般兵士―特攻隊の若者とが、はたして一体だと云えるのか。また国民監視の調査活動をおこなう警察・軍隊と監視され調査される国民とがはたして一体だと云えるのか。自衛隊がそのようなことをやっていれば、もはや「国民の自衛隊」とは云えなくなるのでは?)
 国民の生存権・生活権を保障するために国家の責任を果たそうとする「福祉国家」政策をやめて、「夜警国家」「安価な政府」(「小さな政府」)で軍事・警察の「強い国家」をめざす。
また我が国家を「天皇を中心とした神の国」だと考える、(その言葉は森元首相の言葉として有名だが、それは神道議連の事務局長をしていた安倍氏の考えでもあろう)そのような国家観である。
④その世界観
 人間社会の平和には「リヴァイアサン」(絶対権力をもつ怪物)が必要で、スーパーパワーをもつアメリカこそがその役割を担う。そのアメリカは日本と同盟関係にあり、日米同盟路線はベストであり、かつ不可欠の選択だとして絶対視。ただし「双務性」を高め、日本側の軍事的役割を強める必要があるとして、海外での紛争にアメリカと一緒に肩を並べて参戦(武力行使)できるようにすることをめざす。安倍氏は2002年6月衆議院武力攻撃特別委員会で核保有は(必要最小限の範囲内である限り)憲法上可能だと発言している。
 いまだに冷戦思考で、反共主義に固執。中国や北朝鮮に対してイデオロギー的に拒否感をもち続け、北朝鮮に対しては拉致問題を理由に制裁圧力をかけ続け現政権が崩壊するまでは国交正常化はあり得ないと考え、価値観が異なる中国に対して価値観を共有するアメリカ・オーストラリア・インドとの連携を強化するという「価値観外交」を採ろうとする。(しかし、米豪印3国とも日本のその外交姿勢には必ずしも同調していない。)
⑤その教育観
 教育の目的は子ども一人ひとりの「人格の完成」にあるとしたこれまでの教育基本法を、「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」(「美しい国へ」)との考え(個人よりも国家を優先させる教育観)のもとに改変し、子どもたちを競争させてふるい分ける(教育に競争原理導入、教育格差容認)と同時に、「勝ち組」・エリートであれ「負け組」・非エリートであれ、能力・家庭環境など恵まれた者であれ恵まれない者であれ、それぞれなりに頑張らせ、愛国心など「忘れ去られた『よき価値観』」と規範意識を植え付ける。そのために、教育に対する国家による管理・統制を強める、という考え。
 とりわけ歴史教育など「自尊心を傷つける自虐的な偏向教育」を是正し、国に対して誇りをもち規律を重んじる国民の育成をめざして若者の精神を鍛え直す、というわけである。
⑥その家族観
 「家族の絆」が弱まったのは、イノベーション(技術革新・経営革新)と産業構造の再編にともない、家族経営・家族労働はもはや成り立たなくなり、都市化・核家族化が進んだ結果であり、「構造改革」政策によってそれにさらに拍車がかかったことに根本原因があるのに、考え方の切り替えや意識の持ちようでそれ(家族の絆)は取り戻せると考える。「古来の美風としての家族の価値」を(「このすばらしきもの」と)重んじ、「男らしさ、女らしさ」にこだわり、戦前の家族制度における「嫁」の役割など性別役割分担(「男は仕事、女は家事」)を肯定・復活させようとする。ジェンダーフリー(男女の社会的差別からの解放)の考えに反対で、女性の社会進出と男女共同参画こそが離婚を増やし、少子化をもたらす元であり家庭の基盤を揺るがす元だとして、男女共同参画社会基本法に反対、という考え方である。
 しかし、男女とも仕事と家庭が両立でき、夫婦・親子がそろって一家団欒できる勤務のあり方をどの事業所にもとらせるようにする雇用・労働規制措置を講ずることこそ先決だろう。意識改革を求めるとするならば、それは経営者たちに対してであって、従業員・労働者の家庭生活には最大限配慮しなければならないという意識を彼らに持たせるようにすることこそ肝要なのだ。
 ところが、それが労働法制による規制を緩和して終身雇用慣行を廃し、正社員をリストラして、残った正社員には長時間労働を強い、非正社員を増やして彼らには不安定雇用・低賃金労働を強いる。そして安心して結婚も子育てもできないようにしている。そのような実態の改善に手を打つことの方が先決なのであって、「家族の絆」を憲法に書き入れたり、学校で「公民」や「道徳」の教科書に書いて心構えを子どもに教え聞かせればそれで済むというものではあるまい。
⑦その経済社会観―新自由主義
 一方では新自由主義の考え方で、企業活動や雇用・労働(派遣・請負労働など)に対しては規制緩和・自由化し、公営事業は民営化して私企業に委ね、或は公共サービスに民間事業者を参入させて市場原理・自由競争に任せる。教育・福祉・医療にも市場原理を導入、社会保障など国や地方自治体の責任に属することであっても自己責任・自助努力に帰せる。
 優勝劣敗の競争によって格差をつくり、「再チャレンジ」によって格差を再生産する政策をとる。
 その結果、家族の中だけでなく、人間同士の絆が競争格差によって分断されバラバラになった社会の統合を「美しい国づくり」と家族愛・郷土愛・愛国心教育、徳育教育(日の丸・君が代の強制など国家による管理統制の強化)によって取り繕おうとする。
 共同体(家族・地域社会・民族)のまとまり・助け合いの伝統を維持・復活しようとする、その意味では保守主義だが、国家が社会保障(公的扶助)に責任を持つという福祉国家論には反対で、市場原理・自己責任に任せる新自由主義の立場に立つことから「新保守主義」と称される。そのような経済社会観に立っている。

(3)安倍首相辞任、福田首相に交代
 安倍首相はこれらイデオロギーを前面にだして教育基本法「改正」を強行し、改憲手続法(国民投票法)の制定を果たした。そしていよいよ改憲・新憲法の制定を果たすのだと意気込んで参議院選挙に臨んだ。ところが結果は惨敗。それでもなお「続投」、「内閣改造」をおこなって臨時国会に臨もうとしたやさき(開会冒頭の所信表明演説までやって翌日各党の代表質問を前にして)前代未聞の辞任。(辞任表明のテレビ会見では、本人は、その理由を、当面する最重要課題となっているテロ特措法の期限延長が、選挙の結果野党議席が与党を上回ることになった参院で否決される公算が強いこと等、困難になっている局面の打開のためだとしていたが、週刊朝日9月28日号によれば側近の下村氏には「疲れちゃったよ、申し訳ないね」と言っていたとか、その後入院しており健康上の理由があったとされている。)
 しかし、参院選の敗因は「消えた年金記録」や「政治とカネ」をめぐる閣僚の不祥事など不都合が重なったことにあり、「戦後レジームからの脱却」・「改憲」路線が否認されたわけではないなどと、安部首相は強弁していたが、はたしてそうだったのだろうか。
 庶民の暮らしは何かにつけ大変になってきているし、子ども・若者・高齢者ともに将来不安につきまとわれている。世の中、何かおかしくなってきている。
 しかし、それは政治や政策が悪いせいだとは思っても、戦後の平和思想や自由思想のせいだとか憲法や戦後レジームのせいだと思っている人は、特定の思想の持ち主以外には誰もいないだろう。国民の多くは、ただただ庶民が日々安心して暮らせるようにする政治・政策を求めているだけなのだ。
 ところが安倍前首相の政策は、そのような我々庶民の実生活の必要からではなく、イデオロギーから発している。
 だから、庶民からはかけ離れ、違和感をもたれ、多くの支持を失ったのだと思う。つまり、彼のイデオロギー政治が国民から拒否され、破綻したということだ。
 安倍首相が辞任した後、麻生氏と福田氏が総裁選を争った。どちらかといえば麻生氏の方が安倍首相のイデオロギーに近く、彼自身が「私は小泉・安倍両氏と哲学を共有しているが、福田氏はそうではない」と言っていた。麻生氏はこの間(総裁選討論会で)「誇れる国・日本」を掲げ、「自虐史観は持っていない。それは私の哲学とは合いません」「今後とも、また現在も、私どもは誇れる国なんだということにもっと自信をもつべきだ」という言い方をしていた。福田氏はそれに対して、「そういう話になると、現状をすべて認めてしまうという感じになる。私は現状には色々問題があると思う。誇れる国にするというのはこれからの問題で、すぐ自虐史観だといって切り捨ててしまうのは問題だ」といって批判めいた発言をしていた。アジア外交では麻生氏は「日・米・豪それにインドとで『自由と繁栄の弧』をめざす。中国とは価値観が違う」として「価値観外交」の立場にたっていたが、福田氏はアジア重視を鮮明にし、靖国参拝など諸国が嫌がるようなことは控えるとはっきり言っていた。
 総裁選(自民党国会議員・地方党員による選挙)は福田支持の方に大きく傾き、結局、福田氏が新総裁そして新首相になった。閣僚は、2人以外は、安倍内閣の改造後の閣僚メンバーをそっくり引き継いでいる。
 その所属議員連盟を見ると、(「子どもと教科書全国ネット21」事務局長の俵氏作成の資料によれば)福田首相自身が日本会議議連・靖国議連・改憲議連に入っており、閣僚18人中9人が日本会議議連、10人が靖国議連、8人が神道議連、11人が改憲議連、2人が歴史教育議連、2人が反中国議連(「中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会」)に所属している。舛添厚労大臣は改憲議連だけに所属、どれにも関係していない大臣は公明党の1人と民間から起用された2人だけであり、ほとんどの大臣が右翼・タカ派議連に所属しているのである。
 ただ、「美しい国づくり」も「戦後レジームからの脱却」も「価値観外交」も、どうやら引っ込めたようである。しかし、小泉政権以来の構造改革路線・日米同盟路線などの基本的路線は踏襲すると言明し、規制緩和・民営化政策も自衛隊の海外派遣も続行、海自のインド洋派遣・給油活動は何とかして継続しようとやっきである。
 このような自民党政治には矛盾がつきまとい、福田政権もやがて行き詰まるだろう。そうなったら麻生政権がそれにとって変わるのか、それとも民主党が政権をとれるのか。
 もしかして、いずれ(10年後とか)ほとぼりの冷めた頃、安倍の「再チャレンジ」もあるのでは?(元テレビ朝日政治部長の末延氏などは、「安倍はいま53歳。10年経っても63歳だ。恥をかき、プライドを捨てて、その屈辱をのり越えることができれば、彼は必ず日本の旧弊を打破する仕事に、もう一度、チャレンジすることができるはずだ。私はそう確信している」などと書いている。―月刊現代11月号)
 しかし、人々は、「アベしちゃおうかな」という(陰の流行語になっている)言葉とともに、彼の無責任ぶりを忘れはしないだろう。

 それにしても、安倍前首相は改憲こそ自らの手では果たしそこなったが、彼のブレーンとなってきた右翼イデオローグ(論者)たちからは「国民投票法の成立、教育基本法の改正、防衛省への(庁からの)昇格と、半世紀も実現できなかったことを一人でやった」(岡崎元駐タイ大使)とか、「憲法改正への道筋をつけたことなど、首相(安倍)は既に基本目標は達成している。後世必ず評価されるでしょう」(中西京大教授)と評されている。確かに、改憲手続き法、教育基本法改定(それとともに権力による管理・統制を強める学校教育法改定・教員免許法等改定など「教育3法」)、防衛省への昇格、これらは将来にわたって我々国民に重くのしかかってくる。それを何とかしなければならないのだ。

 安倍前首相は、そのイデオロギーから改憲にこだわり、改憲手続き法案を押し通し、教育基本法「改正」をも押し通した。(社会や教育に問題が多々あるにしても、その原因が憲法にも教育基本法にもあるわけではないのに、そのせいにしている。)従軍慰安婦や沖縄戦に際する集団自決への軍の強制を削除させた教科書検定、それにテロ特措法・海自の洋上給油活動(中東におけるアメリカの戦争は大混乱をもたらし、その方面の産油国からの石油輸送路の安全をかえって妨げるものとなっているのに、その戦争に加担)も、それにこだわるのは彼らのイデオロギーからである。それらいずれも、庶民が切実に必要としてきたものではない。
 学校の卒業式での「日の丸」・「君が代」の強制も石原都知事らのイデオロギーから行なわれているものであり、教師や生徒たちがそれを必要としたわけではないのである。こんなイデオロギー政治・イデオロギー教育は、許してはならないのだ。

 

2007年11月22日

メディアに騙されるなよ

 最近つくづく思うのだが、テレビにしても新聞・週刊・月刊誌にしてもメディア情報にはよほど気を付けなければならないということだ。
(1)「給油」は国益?
 テロ特措法による海上自衛隊のインド洋上の給油活動が中断したことについて、NHKニュースなどの解説員や特派員は、「中断は、多国籍軍の海上阻止活動に支障を来たすことになり、国際的なテロとの戦いの戦列から我が国が退くことによって足並みが乱れることにならないか危ぶまれています」とか、「国際社会から感謝され、高い評価を得てきたこれまでの我が国の国際貢献への努力が水泡に帰すことにならないか、懸念されます」とか、「日本外交の要である日米同盟に暗い影を落とし、アメリカの失望がいらだちに変わる危うさをはらんでいます」とか、「中断によって国際社会での我が国の発言力・外交力が損なわれ、我が国が孤立さえしかねない危うさをはらんでいます」などといった解説をしている。
 それに政府与党の政治家たちや彼らに同調する論者が、よく口にするのが「9,11テロ事件の犠牲者の中には24人もの日本人もいたことを忘れてはいけない」とか、「今もこうして使っている電気や燃料の源は、大部分が中東から輸入してくる石油に頼っている。そのシーレーンを守るために『海上阻止活動』にあたるアメリカなど諸国の艦船に、自衛隊は灼熱の太陽の下で給油活動たずさわっていたのです。」「それをやめたらインド洋はテロリストの海になってしまう」などといった言葉。これらの言葉は、何も知らない庶民を「給油」継続・再開に賛成という気にさせる。 
 読売新聞(11月27日付)には、新テロ特措法案について次のような投稿(46歳、女性)が載っていた。
 「新聞やテレビを見る限り、私はこの法案を成立させた方が良いと思う。」「全世界を脅かしているテロに対し、日本も国際貢献してはっきりとした態度を示すべきだと思うからだ。そうでなければ、アメリカを始めとする世界各国から先進国の仲間として認めてもらえないのではないだろうか。」「国民に訴えかけ給油活動再開を」
 というわけである。

 世論調査といえば、読売新聞(11月10・11日実施)などその質問の仕方は次のようなものだ。
「海上自衛隊が給油活動を続けることに、賛成ですか、反対ですか。」
「あなたが賛成する理由を、次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。
・「日本もテロとの戦いに参加すべきだから。」(と云われれば、「そうだな、どの国も一生懸命になっている『テロとの戦い』に日本だけ参加しないというわけにはいかないだろう」と思ってしまう)
・「これまでの活動が国際社会に評価されていたから。」(と云われれば、「そうか、そんなに評価されていたのか」と思ってしまう)
・「良好な日米関係を維持するために必要だから。」(と云われれば、「そうだ、アメリカとの関係が悪くなっては大変だ」と思ってしまう)
・「日本にとって石油輸入ルートであるインド洋の安定が重要だから。」(と云われれば、「それは、そうだろうな」と誰しも思うだろう)
・「比較的安全な活動だから。」(と云われれば、「確かにそうだ、それくらいやってもいいんだ」と思ってしまう)
 一方、「反対」と答えた人に対しては
「あなたが反対する理由を、次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。」として
・「憲法に違反しているから。」
・「給油した燃料がイラク戦争に転用された疑いがあるから。」
・「アメリカの要求に従う必要はないから。」
・「民生支援など別の分野で協力すればよいから。」
・「防衛省の不祥事が続いているから。」
・「その他」
といったことをあげている。
 この調査結果は、「賛成」が50,6%、「反対」が40,3%、「答えない」が9,2%。
同新聞(11月13日付)は「本社調査で初めて賛成が過半数を占めた」「新テロ特措法案への賛否では『賛成』が49%で『反対』の39%を上回った」と報じている。
 たしかに、安倍首相辞任でこのテロ特措法・「給油」継続問題がクローズ・アップされ始めた当時までは、報道各社の世論調査は「反対」のほうが「賛成」を上回っていた。それが、読売新聞・NHKともに「賛成」のほうが「反対」を上回るに至っているのである。それは、上記のような政府に寄り添ったメディアの報道や論評あるいは世論調査自体による世論誘導の結果であろうと思われる。(但し、NHKの調査では、新テロ特措法に賛否は半々で、やや賛成が上回るが、「わからない」が40%で一番多い。確かで充分な情報・判断材料がメディアによって提供されていないからだろう。)
(2)対テロ戦争と「給油」の実態は
 そもそも、「テロとの戦い」といっても、その定義は何なのか(「対テロ戦争」などという言葉は、最近では、日本以外にはどの国でも使っていないといわれる)。
 それは、テロリスト(その武装組織)との戦争(戦闘、掃討またはテロ攻撃の阻止・抑止の軍事活動)のことなのか。(ビン・ラデンやアルカイダのメンバーを捕まえるのに軍勢をくりだす、それは万引き犯を捕まえるのに戦車をくりだすようなもの。)そもそも「テロリスト」とは?(反米主義者イコール「テロリスト」と見なすのか?)
 それとも、テロ―刑事犯―の取り締まり(警察的・司法的対処)のことなのか、
それとも、テロの温床・土壌(発生源)―貧困、宗教的・民族的差別、その絶望的な状況―を取り除くための様々な努力(和解・和平の仲介、武装解除、生活基盤の建設・改善、教育など)のことなのか。
これらの全てだとしても、必要不可欠なのはどれか、必要不可欠でないのはどれか、である。

 軍事作戦(アメリカ主導の有志連合軍による「不朽の自由作戦」OEFとか、国連多国籍軍による「国際治安支援部隊」ISAFなどの軍事行動)への自衛隊の補給支援(洋上給油)やISAF参加だけが「テロとの戦いへの参加」ではないはずである。
 我が国は、この6年の間、給油・補給支援活動に600億円つぎ込んでいるが、それ以外にも、非軍事分野(アフガニスタンの「治安分野改革」SSR―軍閥・非合法武装集団の武装解除、国軍改革、警察・司法改革、麻薬対策など)で1,400億円もつぎ込んでいるのである。
 軍事作戦に参加している国は、世界192カ国中、OEFには20カ国、「海上阻止活動」MIOには米・英・独・仏・パキスタンの5カ国(カナダ・ニュージーランドは中断)だけであり、ISAFにはNATO諸国など37カ国だけなのである。
 日本の海上自衛隊が補給支援をしていた軍事作戦はどのようなものかといえば、例えば今年2月~7月アメリカのステニス空母艦隊がアフガン作戦とイラク作戦で計8,000回以上の艦載機攻撃を実施し、精密誘導弾160個以上、弾薬1万1千発以上撃った、となっている(その空母艦隊に給油)。そのような空爆作戦とそれへの給油が6年間おこなわれてきたのだ。(新テロ特措法は「海上阻止活動」に従事する艦船への給油に限定するとはいっても、その艦船がアフガン作戦あるいはイラク作戦など複数の任務を同時に持っていても、それはしかたのないことだ、とも、国会審議における政府答弁で町村官房長官などは言明している。)
 ところが、このような軍事作戦は、はたして成果をあげているのかといえば、さにあらず、ビン・ラデンもオマル師も未だ討ち取れず、タリバーン政権は倒したものの、その勢力は再び盛り返しており、自爆テロ等はかえって激化している。アフガニスタンはイラクとともに泥沼化しており、テロは拡散しているのである。ということは、この軍事作戦を支援している我が自衛隊の補給活動は「テロとの戦い」に必ずしも成果をあげていないばかりか、アメリカ等の艦船から飛び立つ作戦機がテロリストと民間人が混在する地域を攻撃して市民生活を大混乱に落としいれ犠牲者をだすのに、かえって手を貸す結果になっている。
 NGOペシャワール会の現地代表で、難民医療と灌漑用水事業にあたっている中村哲氏は、軍事攻撃は人道復興支援の障害になるとの考えで、「殺しながら助けることはできない」と語っており、軍閥・民兵の武装解除に日本政府特別代表として従事してきた東京外語大学院の伊勢崎教授は、現地の人々は、日本は何もしていない(軍事介入はしていない)という「美しい誤解」のために日本人に信頼を寄せてきたが、インド洋で給油活動をやっていることが知られるようになった今、テロリストから狙われるようになるだろうと(国会の参考人質疑でも)述べている。日本国際ボランティアセンターの前アフガニスタン現地代表の谷山博史氏は「アフガン本土に日本は自衛隊を派遣しておらず、歴史的にも侵略行為をしていないため信頼されています。・・・・イランやパキスタンそして米国とも良好な関係をもっている日本は外交的な手段で和平の主導権を担う立場にあるのです」と語っている。
 11月20日の朝日新聞には社会面に小さく次のような記事が出ていた。「平和的アフガン支援、NGOが要望」という見出しで、「アフガニスタンに拠点を置いて支援をしている日本のNGOが19日,東京都内で、共同で記者会見し、『軍事的な活動より文民による平和的な支援について論議を』と訴えた。近く各政党に要望書を送る。/団体は、シャンティ国際ボランティア会(その他、略)・・・で、アフガン国内で病院を運営したり、学校や給水施設を建設したりしている。」と。

 そもそもアメリカは9,11テロ事件で逆上し、ビン・ラデンら国際テロ組織(アルカイダ)をかくまっているとしてアフガンのタリバーン政権に報復攻撃を開始、諸国に対して「アメリカにつくか、テロリストの側につくか」と迫り、国際戦争を起こした。NATO諸国をはじめ、少なからぬ国がそれに応じ、日本も「ショウ・ザ・フラグ」(旗幟を鮮明にせよ)と迫られて急きょ「テロ特措法」を制定して始めたのが自衛艦によるインド洋上給油活動なのである。
 当時は、後のイラク戦争の場合とは違って、国際世論もアメリカに同情的で、その対テロ「自衛戦争」に対する反対運動がさして起きなかったことも確かである(日本の新聞・テレビも一様に開戦は「当然」もしくわ「やむなし」との論調)。 
 しかし、現代の文明世界では(国連でも)「報復戦争」は禁じられているのである(1970年10月の国連総会決議で採択された「友好関係宣言」で「武力行使をともなう復仇行為」禁止)。報復攻撃―肉親が殺され、新たな憎しみを呼び起こす―は、さらなる報復を招き、はてしない「報復の連鎖」(悪循環)を招くだけであり、パレスチナ、チェチェン、イラクそしてアフガニスタンでも、それが現実となっているのである。
 テロには、それを犯罪として警察的・司法的に対処するしかないのであり、国際テロ組織に対しても国連中心の政治的解決とともに警察と司法(法に基づく裁き)による解決をはかるべきなのだ。現に国連も報復の悪循環を指摘して、「軍事的対応」から「政治的取り組み」に切り替えることが必要だと唱え出しており、アフガンのカルザイ政権も政治的解決をめざす「平和と和解のプロセス」に切り替える方針を打ち出している。
 
 テロ根絶には、その温床・土壌となっている貧困・宗教的民族的差別・人権抑圧など虐げられている人々の絶望的な状況を無くすることが先決なのである。
 国際貢献―「豊な民主主義国」「経済大国」として相応しい貢献が日本に求められている
というが、なぜそれが、即「自衛隊派兵」「軍事貢献」でなければならないのか。憲法で非軍事を国是としている日本に相応しく、非軍事貢献だけではいけないのか、である。

 「給油」が国際社会から高く評価され、感謝されているというが、給油を受けている艦船とその国の政府にとっては、日本の無料給油サービスはすこぶる有難いことには違いない。それらの国は、関連する国連安保理決議にそれへの感謝の言葉を日本側の働きかけ(要請)に応じて盛り込ませることに同意したわけである(ロシアは棄権、中国は賛成票は投じたものの苦言を呈している)。いずれにしても、「高く評価」「感謝」しているのはアメリカをはじめ限られた国の政府や軍の担当者たちだけであり、それ以外は、日本が「給油」してやっていることなど誰も知らないことなのである(伊勢崎教授は、アフガンの政治家たちさえ、最近、日本政府がしきりに「給油」支援を言い立てるようになるまでは誰も知らなかったことだ、と述べている)。
 
 有志連合軍の「海上阻止活動」とそれへの自衛艦の給油が、インド洋のシーレーン(航路)の安全確保に役立っているというが、それまで(アフガン戦争開始以前)インド洋でそのような「海上阻止活動」など行なわれていなくても、日本は中東から石油輸入をずうっとやり続けてきて、その間テロ攻撃に脅かされ続けてきたというわけではないし、「海上阻止活動」のおかげで石油タンカーがかつてなく安全航行できるようになったというわけでもない。(アメリカが主導して起こしたアフガン戦争・イラク戦争などのおかげで、中東からの石油輸入航路の安全が損なわれていることは確かだ。むしろアメリカ等が中東で戦争をやめてくれたほうが、シーレーンは安全を取り戻すというものだ。)
 この「海上阻止活動」はアフガン攻撃作戦の一環なのであり、アルカイダなどのテロリストがアフガンから逃げ出そうとしたとき、それを海上で阻止するためのものであって、そもそも「シーレーン防衛」を目的としたものではないのである。(海賊対策ならば、かねてより沿岸諸国と治安協力を行なっており、最近では北アラビア海やベンガル湾・房総沖などで日・米・英・仏・インド・パキスタン・オーストラリアそれに中国も加わって海上多国間共同訓練も行なっているのである。)

 「給油している油」ははたして何に使われているのか(「海上阻止活動」以外にアフガン攻撃さらにはイラク攻撃に転用されてはいないか)の疑惑とともに、その油ははたしてどこから調達しているのか(商社を通じて調達しているはずだが、その商社名も)機密として公表されていない。様々な装備(艦艇・航空機など兵器関連製品)の調達にからむ「防衛利権」疑惑の問題(「山田洋行」などの防衛商社とアメリカの兵器関連メーカーと防衛省庁の官僚あるいは政治家との間の利権疑惑―国民の血税が食い物にされるという問題)もあるわけである。

 「給油活動」をやめたら日米同盟に亀裂が生じ、アメリカが日本をあてにしなくなり、我が国はアメリカから守ってもらえなくなるなどの強迫観念にとらわれる向きがあるが、日本が「給油」をやめたぐらいで、アメリカは日本を見捨て、沖縄をはじめ日本各地に置いている基地を放棄し、駐留軍を撤退させるわけはないのである。「給油」などはどうあれ、アメリカにとって世界戦略の要(戦略的根拠地)である日本を手放すはずはないし、「思いやり予算」など日本政府がだしてくれる基地駐留経費はアメリカにとっては、この上も無く「おいしい」サービス提供なのである。

 これらのことはNHKや民放でも地上波ではあまり伝えられることも語られることもなく、衛星放送の朝日ニュースター(「愛川欽也パックインジャーナル」や第4土曜日の「ニュースに騙されるな」)などで、私の場合キャッチしている。

 新テロ特措法案は衆院で可決した。特別委員会のその時の様子をテレビで見たという一中学生は、朝日新聞に投稿して次のように指摘していた。
 「野党の方が議長の周囲に集まり、可決を批判していました。テレビの解説で、野党の質問が重複してきたので議論が打ち切られた、という説明がありました。僕はこのことに違和感を感じました。質問が重複しているのは、その質問に対して相手が納得できる返答をしていないからだと思います。」
この中学生はテレビの解説を鵜呑みにせず、批判的に聞いている。そういう賢い中学生もいるのだが、NHKなど、とかく政府与党寄りの解説をするテレビや新聞があるのである。
(3)「大連立」
 メディアの多くは「二大政党制」肯定の立場のようである。自民党と民主党のイデオロギーは共に保守思想で(民主党の中にはリベラル派もいるが)、支持基盤も、財界・大企業、それらと利害を共にする株主や経営管理層、富裕層、「勝ち組」・エリート層などの「恵まれた階層」である。改憲、日米同盟堅持、海外派兵容認、規制緩和・民営化、法人税減税・消費税増税など基本路線は共通している。その自民・民主がマスコミによって「二大政党」ということにされ、自民がだめなら民主、民主がだめなら自民だといって、この二つのどちらかに投票を仕向けられる。
 1人しか当選しない小選挙区制の下では二大政党が議席のほとんどを独占し、その他の党が議席を獲得する余地は非常に少なくなり、二大政党以外の党を支持する人々の民意はほとんど反映されなくなり、排除される。
 両党は「政権交代」が必要だといって、政権争いを演じ、党利党略で対決姿勢(対立的ポーズ)をとったりするが、両党が「政策協議」(談合)して合意すれば、いわんや連立政権を組めば圧倒的多数の賛成で事は簡単に決まってしまう。
 読売新聞社はかねてより改憲を主張している(改憲試案も作っている)が、同じ改憲派の両党が大連立して改憲案をつくるか改憲案の合意に達すれば衆参ともに3分の2以上の
賛成で改憲発議が可能となる。
 とりあえず、自衛隊の海外派兵恒久法(テロ特措法もイラク特措法も時限立法で派兵先と期限が限定されているが、その限定を取り去って、いつでも、どこへでも派兵できるようにする)や消費税増税などでの合意を図り、「小異を残して大同に」と「大連立」協議を持ちかけたのが、我が国のメディア王ともいうべき読売グループ会長(渡辺恒雄氏)なのである。
 それに乗って二度の密室党首会談に応じた小沢民主党代表は党内外の反発にあって、一旦は辞意を表明した。その時の記者会見の中で、読売新聞等に「大連立」協議を先に持ちかけたのは小沢だと書かれたことに対して憤懣やるかたなく、次のように述べた。
 「朝日新聞・日経新聞等を除き、ほとんどの報道機関が、政府・自民党の情報を垂れ流し、みずからその世論操作の一翼を担っているとしか思えません」「報道機関が政府与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは亡国の戦争へと突き進んだ昭和の歴史を見れば明らかであります」と。
 その一方で、小沢氏は「大連立」は断念し、それには応じないことにして辞意は撤回したものの、その協議自体は間違ってはいないと言明しているのだが。

 ジャーナリズムの役割は、国民の立場に立って権力をチェック・監視し、国民に情報や判断材料を提供することにあるのだが、それをさしおいて自らの支持もしくは唱導する政策や政治路線に世論誘導しようとする。
 そのようなマスコミ・マスメディアの情報には騙されてはならず、鵜呑みにしてはいけない。そんな世論操作・世論誘導に乗せられてなるものか。なあ、我が子、我が孫たちよ!

2007年12月18日

団塊世代諸君、還暦おめでとう

(1)自分の生に生きがいを
 60年間よくぞ生きてこられました。(昔は「人間五十年」と云われましたし、私の父は44で亡くなりました。私の還暦当時は同級生のうち4人が亡くなっていましたし、諸君の同級生にも亡くなっている人がいる。クラス会やOB会などのパーテーでは黙祷もしている。)
 勤めも一段落して、職務や家庭の第一線から解放され、これからは趣味など自分だけの世界にうち込めるという人もいれば、中には、そんな呑気なことは、まだまだ云っていられないという人もいるでしょう。
 しかし、いずれにしても、これからは(これからも)日々生きていることに生きがいを感じ、人生を少しでも楽しむようにしようではありませんか。
 生きがいを感じるには、仕事でも趣味・道楽でも、何でもよいから、出来ることを、目標・日課を設けて何かすることです。目標を果たせば達成感が得られ、それが生きがい感となります。
 目標には長期目標・中期・短期目標とがありますが、どんな目標でもよく、早い話が、ずばり、「生きること」そのものを目標としてもいいわけです。長期目標―「米寿(88歳)まで生きること」、中期目標―「喜寿(77歳)まで生きること」、短期目標―「古稀(70歳)まで生きること」てなぐあいに。さしあたり今日一日生きること、それが今日の目標となるわけだ。そのために毎日日課たてて、それを果たす。そして「やれやれ、今日も終わった」といって寝る。朝起きて目が覚めたら未だ生きている、となれば、「よし、今日も頑張って生きようか」となるわけです。
 私の場合は(高コレステロールで軽い糖尿病だと医者から云われている)、朝起きてラジオ体操。朝食、ご飯は茶碗に7分目、納豆・牛乳は欠かさない。食後、コレストロールの薬を飲んで、歯磨き(部分入歯をしていて、毎食後、歯間ブラシも使って磨く)。その後、手首(腱鞘炎)の治療に通院。昼食にはヨーグルトを欠かさない。午後に散歩。夕食は、ご飯は抜いて晩酌一合。寝る時は水の入ったペットボトルを枕元に置き、寝る前と途中と朝起きた時に飲む。というのが日課です。
 しかし、人間、ただ長く生きていればよいというものでは無論ないわけであって、肝心なのは生きている間どれだけ生きがいを感じて生きられるかなのであり、たとえ長生きなどできなくても、生きている間精一杯生きがいを感じて生きられたならば、それで本望だというものでしょう。
 
 人よっては、何か仕事や家事を目標・日課としている人、何か趣味を目標・日課としている人と様々だろう。
 私の場合はカネになる仕事はしていないが、パソコンのホームページの評論・投稿集を毎月更新、そのために毎日、新聞(時には雑誌や本)の必要個所を読んで(新聞は切り抜き、大封筒に分類)、テレビの必要な番組を視聴(大事なものは録画)。それに、布団のなかで寝つくまでの間、イヤホーンでCD音楽(青春時代によく聴いたポップスや映画音楽)を聴き、朝早く目が覚め起きる前に英会話学習用CDを聞き流す、といったこともやっています。
 他人から見れば、なんの役にもたたない、自己満足にすぎませんが、いいじゃないですか。そもそも、自分のやること為すこと―社会のためだとか、国のため、会社のため、或は家族・我が子のためにひたすら一身を投げ打つという場合でも、そうするのは、それがその人にとって自分の生きがいであり、そうすることで自分の満足が得られるからにほかならず、すべては自己満足につながっているのです。

 怪我・病気(それは注意・養生しだいで避けることもできるのだが)や老化(それは努力しだいで遅らせることもできるのだが)、それらで手足や身体が動かない(寝たきり)ならば、口で対話。口がきかなければ、目を使ってテレビを見、人の顔、絵や花や窓越しに見える風景を(山並み・樹・空・雲・夕日・月・星でも)眺め、目が見えないなら耳を使って、人の話か、鳥の鳴き声か、音楽を聴く。耳が聴こえないなら、人がさしのべてくれる手から伝わるものを感じ取る。そのように、意識(脳の働き)があるかぎり、たとえわずかであっても、そこから何らかの感動を得ることができ、楽しむこともできるはずであり、それが生きがいとなる。
 第二次大戦中のナチスによるユダヤ人強制収容所で生き残った心理学者のフランクルは、その著書「夜と霧」の中で次のような事例を紹介している。
 収容所で亡くなった若い女性、彼女は自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに実に晴れやかだった。彼女が言うには、『運命に感謝しています。だって、私をこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの』『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした』
 『あの樹が、ひとりぼっちの私の、たった一人のお友だちなんです』。
 病棟の小さな窓からは、花房を二つ付けたマロニエの木の緑の枝が見えた。『あの木とよくおしゃべりをするんです』『木はこう言うんです。私はここにいるよ、私はここにいるよ、私は命、永遠の命だって・・・』
 人間というものは、このような極限状態でも、窓の外にある一本の樹を眺めながら心の中で対話を続け、今生きていることに生きがいを持ち続けることがでるのだ、ということではあるまいか。

 私の父は胃がんで母から看病されながら44歳でなくなったが、母は70まで生きた。しかし、その母は61歳で乳がん(私の娘を帯で負ぶっていて、胸部に違和感を感じてそれが判った)で大手術、その後リンパ腺、さらには頭皮に転移、手術を繰り返し、放射線治療などで通院生活を9年間過ごした。私の手記に母のことを「幸せ薄い生涯だった。私が一回だけ白布温泉・桧原湖へ子供らと共に連れて行ったことがあるが、それきりで、父も兄も彼女をどこにも連れて行ったためしはなかった。いったい何のために生きてきたのだろう。ただひたすら夫と子のためにだけ生きて終わったというものだ。」と書いたものだ。しかし、その中にも、それなりに彼女の生きがいはあったのではないか。死ぬ間際、意識が亡くなるまでに。
 その年、私は中国旅行に行くことになっていた。山形県私学総連合会の記念事業として企画されたもので、私にとっては初めての海外旅行であり、社会科教師としては逃し難いチャンスであった。ところが母は頭部に「つづらご」ができて入院。そこへ旅行出発の日が訪れた。どうしたらいいものかと迷ったが、意を決して、母に「行って来るからな」といって旅立った。その翌々日、危篤を知って急きょ帰国し、病室に駆け込むと、母は目をあけて「帰ってきたなが」と声を発した。「うん。・・・ほら、お土産だ」といって掛け軸を垂らして絵を見せると、少し元気を取り戻したかに思われ、「何か食べたくなった」と云った。兄嫁が急きょ「かゆ」を作ってきて食べさせたが、一口ふくんだだけで飲み込むことはなかった。やがて呼吸が荒くなり出し、間もなく息を引きとった。
 このような最後の時間も母にとってはけっして空しい時間ではなかったはずであり、わずかなりとも、そこに生きがいが得られたものと思えるのだ。

 妻は家事、畑、孫の子守り、孫の幼稚園で使う「文字ブロック」などの手製遊具つくり等々、それらを毎日、無心でやっている。子は勤め、毎日朝から晩まで目一杯働いてくる。孫たちはそれぞれ小学校と幼稚園、帰ってきたらゲームやアニメ、「何とか遊び」など無心でやっている。時々泣きわめくが、「ああ、面白かった」と楽しがりもする。それぞれ、それなりに生きがいを感じて生きているのだ。

 さて、還暦を迎え、一段落を迎えた諸君だが、前途には辛いこと嫌なことも多々あるだろう。しかし、災いが福に転じることもあるし、楽しいこと嬉しいこともあるはず。仕事・趣味、闘病生活もあるかもしれないし、これからの生き方は様々あるだろうが、とにかく人生を極力楽しんでください。少なくとも、この世にありついた自分の生に、たとえどんなに些細なことであっても何らかの生きがいを感じながら、前向きに精一杯生きてください。
(2)戦後憲法世代
 諸君は戦後ベビーブーム世代で、「団塊の世代」などと云われています。1945年に戦争が終わって、にわかに生まれたのが諸君たち。いわば「平和の落とし子」と云ってもいいでしょう。諸君たちが、この世に生を得たのは平和到来のおかげであり、親たちがこれ以上戦争に駆り立てられる不安もなく育ち、自らも戦争に行かずに済んだのは憲法のおかげ。その日本国憲法が5月3日に施行された年(1947年か翌年の3月まで)に生まれたのが諸君なのです。その意味では「戦後新憲法世代」とも云えるのではないでしょうか。諸君はその憲法とともに生まれ育ち、この国の社会を担ってきたのです。(私が生まれたのは日中戦争のさなかで太平洋戦争勃発の前の年だが、小学校に入学したのは諸君達が生まれた年で、憲法が施行され教育基本法が制定された年、その意味ではこの私は戦後憲法第一期入学生だ。)
 今まで、そんなことはあまり意識してこなかったかもしれませんが、「戦争を知らない子どもたち」として育ち、「企業戦士」として高度経済成長の担い手となり、希望にあふれて一心不乱に働いた。ところが、自分たちの子ども(「団塊ジュニア」)が就職する頃になると、「バブル崩壊」、「就職氷河期」などと先行き不安となり、子どもたちを心配しなければならないことになった。
 ニートなど職業にも学業にも就けない若者が戦争を求め、戦場に居場所を求めようとする。「希望は戦争」「私を戦争に向かわせないでほしい」という「31歳フリーター」(赤木智弘氏)の悲痛な声が反響をよんでいる。どこかのタレント知事は、若者には規律を重んじる機関での教育が必要だとして「徴兵制があってもいい」などと発言している。そういうのが「平和ボケ」だと思うのだが(戦争や軍隊というものの実態をよく解っていない)。そのような風潮に乗じて、大政党はそれぞれに改憲を図っている。
 「戦後憲法世代」諸君は、自分の子や孫たちに戦争や海外派兵があってもよく、そのために改憲した方がいいと思うか、それは困ると思うか、よくよく考えなければならないところに来ている。
 この先、自分自身の老後生活(それに必要な年金・医療・介護など)と幸福追求権、子や孫たちの生活(それに必要な平和・人権・教育権・勤労権など)はどうなるのか。そして、これらを保障する憲法はどうあればよいのか。変えた方がいいのか、それとも今のままで、それをもっと活かすようにした方がいいのか。「戦後憲法世代」の諸君には、それが問われている。


2008年01月21日

井上肇著『結いのき物語』紹介

山形新書
著者― 教え子、53歳(?)
    『生活クラブやまがた生活協同組合』(旧米沢生協)理事長
    グループホーム『結いのき』(市内花沢町)理事
    市内の別な所に「たくろう所」も開設
    震災・環境ボランティア、マンガ創作など多方面に活躍       
    モットーは「市民参加型の福祉」「利用者本位の福祉」
    ホームページ―「結いのき」
           「井上はじめ」で検索すれば「気ままな日記」「旅立ちの歌」等
                            が出ている
                                        
内容―『自分たちの入りたい施設をつくろう』『自分が受けたい介護』
   『最後まで人間らしく生きたい』『最期を看取る』『終の棲家』
   『福祉活動か福祉事業か』『社会福祉は金儲けの道具か』
   『プロってなんだろう』『組合員ボランティアの力』
   『介護保険制度のすき間』   etc
手ごろな新書版、対談形式なので読み安く、一気に読めるが、内容は濃く、         
高齢者福祉やボランティアなど、広い視野・見識とともに現場感覚で語られ、福祉事業に関わる諸問題の核心がどこにあるのか、よく解る。

市内各書店の店頭に陳列  

2008年02月08日

団塊世代の年金―報酬比例部分は60歳から支給(訂正版)

 年金額(月額)は昭和21年生まれの人(40年加入、妻は専業主婦)の場合
        厚生年金  国民年金
   65歳で 23,5万円  6,7万円
   70歳で 22,3万円  6,4万円
   75歳で 21,6万円  6,1万円
   80歳で 21,1万円  5,9万円
   85歳で 22,2万円  6,2万円
      (この厚生年金の年金額には夫婦2人の基礎年金も含まれる。
                    それぞれの基礎年金は国民年金に相当する)
 年金は以前(男は昭和16年4月1日以前の生まれ、女は昭和21年4月1日以前の生まれ)は60歳から満額もらえた。それが65歳から、ということに改められた。
 しかし、完全にそうなるのは、男は昭和36年(4月2日)以降の生まれ、女は昭和41年(4月2日)以降の生まれの人からで、それまでは移行措置として支給開始年齢が部分的・段階的に引き上げるかたちで、次のように65歳になる前に(60~64歳の間に)まずは報酬比例部分だけ、あとからは定額部分とも全部もらえることになっている。(「特別支給の老齢年金」、在職中である場合は「在職老齢年金」と称される)
 尚、厚生年金と共済組合年金は定額部分(基礎年金で国民年金に相当)と報酬比例部分とから成り、それに配偶者・子どもへの加給年金が(共済年金には職域部分も)加算される。それらの中で報酬比例部分は年金総額の約半額を占める。

       60歳     65歳                 死亡時

報酬比例部分老齢厚生年金・退職共済年金
定額部分→老齢基礎年金(国民年金)
加給年金→配偶者の基礎年金(国民年金)

移行期間における厚生年金の受給開始年齢は[男のばあい]
 昭16,4,2~18,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、61歳からは全部もらえる
 昭18,4,2~20,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、62歳からは全部もらえる
 昭20,4,2~22,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、63歳からは全部もらえる
 昭22,4,2~24,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、64歳からは全部もらえる
    
      60歳   64歳 65歳
報酬比例部分老齢厚生年金・退職共済年金
定額老齢基礎年金(国民年金)
加給配偶者の基礎年金(国民年金)

 

 昭24,4,2~28,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭28,4,2~30,4,1生まれの人は61歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭30,4,2~32,4,1生まれの人は62歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭32,4,2~34,4,1生まれの人は63歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭34,4,2~36,4,1生まれの人は64歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
[女のばあい]
 昭21,4,2~23,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、61歳からは全部もらえる
 昭23,4,2~25,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、62歳からは全部もらえる
 昭25,4,2~27,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、63歳からは全部もらえる
 昭27,4,2~29,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、64歳からは全部もらえる
 昭29,4,2~33,4,1生まれの人は60歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭33,4,2~35,4,1生まれの人は61歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭35,4,2~37,4,1生まれの人は62歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭37,4,2~39,4,1生まれの人は63歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる
 昭39,4,2~41,4,1生まれの人は64歳から報酬比例部分が、65歳からは全部もらえる

(公務員や私学の共済組合の場合は、女も男と同じ)

 これらのうちの報酬比例部分の年金はもらっておかないと、思わぬ損をすることになるので気をつけなければならない。
 基礎年金につながる定額部分の方も、65歳や生まれた年代ごとの受給開始年齢(61~64歳)になる前に、60歳から前倒して(「繰り上げ」て)受け取れることになっている。但し、その場合はその定額部分の受給額(本来は月6万7,000円)は一定の率で減額(最大で30%減額)され、それが65歳になっても本来の老齢基礎年金額には戻らず、そのままの額が一生続くことになる。
 また、(60歳から65歳までの間に前もってもらえる「特別支給」はもらっておいたうえで)65歳になったら受給を止めて、もっと後に(基礎年金・厚生年金それぞれに、又はセットで、66歳以降に「繰り下げ」て)受け取るようにすることもできる。その場合はその間(65歳からその時点までの)月数に応じて一定の率(1月0,7%、1年で8,4%、最長5年で42%)で本来の年金額より増額され、その額が一生続くことになる。
 その点では、65歳になったら、その後は(お金に余裕のある人もしくは働ける人、健康で長生きできる自信のある人は)受け取りを先に(最長70歳まで)延ばしたほうが得だということになる。
 それに対して報酬比例部分は65歳になる前に受給しても65歳以降の減額はない。つまり、報酬比例部分は60~64歳までの間にもらい始めても減額されたりはしない。それどころか、早くもらっておかないと、5年たてば時効でもらえるものももらえなくなってしまう。(社会保険庁によると、04年~06年度の3年間で、時効のために年金を受け取れなかった人が約6万人いるという。)
 とかく「年金を早めにもらってしまうと減額されるから65歳まで我慢しよう」といって、報酬比例部分までも受け取らないでおこうという考えの人が少なくないようだが、それは基礎年金の「繰り上げ受給」制度と混同した勘違いだ、とのことである。(参考―07年11月20日付け朝日新聞)

 尚、60歳になっても継続雇用もしくは再就職して給料をもらう場合は、その月額(総報酬月額相当額)と年金月額との合計が一定額(28万円)を超えれば、その合計額に応じて年金(65歳になる前にもらう特別支給)が減額(超過分の2分の1が支給停止)または全額支給停止となる。(但し、共済年金が適用される私学などの職場に60歳になっても勤める場合は特別支給の年金の支給停止はない。)
 また雇用保険の基本手当(失業手当)をもらえば、その間、年金はもらえない。

 公的年金である厚生年金に対して「企業年金」というものが会社によっては出るところがあるが、それは企業が従業員のための福利厚生として自主的に設けているもので、退職金の一部を年金として、厚生年金に上乗せして支給される。

 以上のことはインターネットでも調べられるわけです。(「厚生年金、特別支給、繰上げ・繰り下げ制度」などと打ち込んで検索)

2008年02月22日

定年後(修正・加筆版)

 団塊世代の人たちは定年後どうしたいと考えているのか。
 独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構が07年中におこなった意識調査(「団塊世代の仕事と生活に関する意識調査」08,1,10朝日新聞)によれば次のようなぐあいだ(パーセンテージ)。
定年後も働く?
teinenngo.JPG
働く理由は?
riyuu.JPG
 仕事をしているか探している人の割合(労働力率)は
                    60代前半の人で55%  65歳以上の人で20%
これは世界でもトップクラスだという。(06年総務省の労働力調査)
 「働きたい」という人が多いとはいっても、それは「生活(生計維持)のため」という人が多く、「働きたくないが、働かざるを得ない」という人が少なくないということのようである。そういう場合は、たとえ自分の好みには合わなく条件の悪いところであっても、お金のために辛抱して働かなければならないことになる。
 それ以外の理由(「健康のため」とか、「小遣い稼ぎのため」とか、ボランティアなど「社会貢献のため」とか)で働くのであれば、文芸・スポーツ・趣味・道楽と同様、マイペースでよく、気楽にやれる。とはいっても、「人の世話」(親・つれあい・子・孫・親戚・隣人・知人など、誰かの世話)「人助け」・社会貢献活動などの場合は、単なる趣味・道楽とは違い、いつでも辞められるという筋合いのものではなく、責任は最後まで果たさなければならない。それらは、「食うために」とか「お金のため」とか、他から強いられて仕方なくやるのではなく、自らの良心(道徳的な義務感)や信念から発して行なうのであって、その取り組みを途中で放り出したりなどの気まぐれは、自らの良心から許されないわけである。
 しかし、いずれにしても、生計費と諸費用は、年金だけでは間に合わないとしても、それ(年金)に頼らざるを得ないという人がほとんどだろう。

年金―いったい、いくらもらえるのか。
 私より1つ前の年(昭和16年)生まれの人と最初の団塊世代より1つ前の年(昭和21年)生まれの人の場合だが、
 厚労省が出している「モデル世帯」(夫が平均的な収入の会社員で、妻が専業主婦。厚生年金に40年加入)の年金額は次のようなもの。
 厚生年金の年金額の見通し
  (金額は06年度の価値に割り戻した額。%は現役世代の平均賃金に対する比率)

06年度11年度16年度21年度26年度31年度
現役男性の平均賃金38.0万円40.5万円43.3万円46.5万円50.1万円53.9万円
  昭和16年生まれ22.7万円22.0万円20.8万円20.2万円20.7万円
59.7%54.4%48.1%43.4%41.3%
  昭和21年生まれ23.5万円22.3万円21.6万円21.1万円22.2万円
58.1%51.4%46.4%42.2%41.3%

団塊世代のばあいは(森永卓郎著・角川書店発行「年収崩壊」によれば)モデル世帯の年金額の見通しは次のようなものだ。

65歳70歳75歳80歳85歳
  年金名目額24.9万円25万円25.5万円26.2万円29万円
     実質額23.5万円22.3万円21.6万円21.1万円22.2万円
  所得代替率58.1%51.4%46.4%42.2%41.3%

 表中の「実質額」とは、「年金名目額」から(年に1%を見込んだ)物価上昇分を割り引いた年金額。
「所得代替率」とは、現役世代の手取り収入に対する年金の実質額の割合。 政府はそれを、ずっと「モデル年金は50%(貧困に陥らない年金支給額の最低基準)以上とするように設計している」「100年安心」と言っているが、この表では、それは75歳前までのこと。それ以後は50%を下回るようになる。森永氏によれば、そのとき貧困に陥らないようにするためには、貯金などでカバーしなければならず、現在60歳の人は65歳の時点で452万円の貯蓄が必要だとのこと。

 これらの年金額には夫婦2人の基礎年金が含まれるが、基礎年金(=国民年金)だけを取り上げると、年金額の見通しは次の通り。
 国民年金の年金額の見通し(年金額は40年加入の満額の場合)
 

65歳70歳75歳80歳85歳
   昭和16年生まれ6.5万円6.3万円6.0万円5.7万円5.7万円
   昭和21年生まれ6.7万円6.4万円6.1万円5.9万円6.2万円

昭和22年2月生まれのある男性で、厚生年金に20歳から60歳までの40年間加入し、給料月額(平均標準報酬月額、現在の価値で評価しなおした標準報酬月額とボーナスの平均)36万円もらっていた人(妻は専業主婦)の場合
(社会保険労務士・年金コンサルタント長谷川陽子著、「新日本出版社」発行の「年金ハンドブック」に出ている。この本では、図中の年金額は、いずれも次のように年額で表記されている。
  報酬比例部分1,316,100円、 定額部分792,400円、 配偶者加給年金396,000円
                      これらを12で割って月額になおした。)

60歳63歳65歳
報酬比例部分109.700円老齢厚生年金 109.700円
定額部分66.000円老齢基礎年金  66.000円
加給年金33.000円妻65歳からの老齢基礎年金66.000円
合計109.700円合計 208.700円合計  241.700円

 この人は、既に60歳から「特別支給の老齢年金」をもらっているとのことであるが、今の段階では、そのうちの「報酬比例部分」だけをもらっているということだろう。

 
 かく言う私はといえば、働いてはおらず、何をして過ごしているのかといえば、今このようなブログを打ち込んでいるが、そういうことをやって過ごしている。それが、夕べも深夜におよび、女房から「そんなことをいつまでやってんなだ」といって電気を消されてしまった。
 今回は、図表とグラフを載せたが、そのやり方を教えてもらって打ち込んではみたものの、図表一つ作るのに何時間もかかる。(エクセルやホームページ・ビルダーの画面上では、図や表中に文字・数字をきちんと配列して、うまく作れたつもりで、それを手順に従い「コピー」「貼り付け」をしてホームページの画面を開いてみると、現れた図表は文字や数字の列や行がずれて崩れている。この文章も、改行した行の文字がずれているところがある。その修正・調整に手間がかかるのだ。)
 また、時事問題など、これらの文をつくるのに新聞(切り抜き)・書籍(図書館から借りてきたり書店から買ってきて)読み、テレビ(録画)見に時間を要する。
 このような作業を伴うホームページ作り、それだけで一日一日が終わってしまうのだ。
 今のところ生活費その他、諸経費は一合晩酌代も含めて年金だけで間に合っている。現役時代は仕事にともなう経費や子の養育費・教育費、家のローン返済などに金がかかったが、定年退職した今は、子は自立したし、ローンは退職金で完済し、これらのお金は一切かからなくなった。だから、年金は現役の給料の半分しかならなくとも、どうにか暮らしていけるわけである。
 尚、この間、イタリア旅行に、去年定年退職した元同僚から格安期間だからと誘われて行ってき、ローマ帝国やキリスト教やルネサンスなど世界史の勉強を思い起こしてきた。孫にだけはお土産を買ってきたが、それ以外には使わずに残してきた小遣いが女房への何よりの土産だった。

2008年03月18日

ギョーザ事件の遠因・責任

 有毒農薬が混入したのは「中国で」か、それとも「日本で」か。日本側警察は「中国で」だと断定し、朝日新聞など日本のメディアもそれに同調しているきらいがあるが、中国側警察はその断定は未だ早いとして、両国の捜査機関の間に対立が生じており、それが「外交問題に発展することのないように」などと云われてはいる。
 ギョーザ事件の原因は日本側にあるのか、中国側にあるのか。犯人は日本人か、それとも中国人か、日本人と中国人とで「どちらが加害者で、どちらが被害者か」で、両国間で見解が対立し、責任のなすり合いがおこなわれ、それが外交的対立、ひいては反日・反中の民族感情の対立に発展しかねないという状況もあるのである。
 しかし、単純に農薬混入は「中国で中国人がおこなった」などと、直接的な原因や犯人―それをつきとめ、その白黒をはっきりさせるのは勿論必要不可欠だが―それにのみとらわれ、遠因と間接的な責任を見逃し不問にしてしまってはなるまい。
 この事件には、大きな背景としては日本政府側の食料・農産物の海外依存・輸入自由化政策がある一方、中国政府当局側の農薬・有害物質に対する規制・検査・検疫体制の不備など、両国政府の責任が問われる。
 それに、直接その農産物や加工食品の製造・買取り・輸出・輸入にたずさわった両国の業者の責任もある。
 とりわけ、日本の大手食品会社や商社、日本生協連など、それらが企画・指示し、或は出資して中国の工場に委託生産させるというやり方をとってきたが、それら日本側の業者の責任が大きい。それら日本の会社・商社とは、JT(日本たばこ産業)の子会社「ジェイティフーズ」(東京都品川区)、総合商社「双日」の子会社「双日食料」、東京都大田区の食品会社「アジル」、大阪市にあるニッキーフーズ(中国の清清仁木食品や「青島ニラ肉焼まん」の山東仁木食品はそのグループ企業)等である。
 日本生協連(日本生活協同組合連合会)は中国の60ヶ所もの工場で145品目の製造、最終包装まで委託したうえで製品を輸入し「コーポ商品」として販売してきた。消費者ができるだけ安値で買えるようにとの思いで、そのやり方をとってきたのだろうが、中国の低賃金労働力を利用したその低コスト戦略が裏目に出てしまったわけである。
 これら日本の業者はいずれも中国への生産委託・輸入を控え、国内産品に切り替えようとしている。大連の「天洋食品」工場はJTの委託に応じて操業してきたが、今や廃業、従業員は全員解雇という憂き目にあっている。中国側では、他にも、このように日本への農産物・加工食品輸出が激減して大打撃を被っている向きが多いだろうし、彼ら中国人も被害者ということになる。
 日本側の食品会社・商社・生協などの業者は彼ら中国人に対しても責任が問われなければならないのだ。
 
 尚、同じ生協でも「生活クラブ」系の生協があるが、それらは、かねてよりこのような事態を想定し、輸入食品は扱わず、国内産オンリーに徹してきている。
 米沢に本部がある「生活クラブやまがた生協」は、今回の問題で次のようなアピ-ルを出している。
 
 「このたび日本生協連の『CO・OP手作り餃子』(ジェイティフーズ株式会社製造委託)で嘔吐・めまい等を伴う重大な健康被害が発生いたしました。有機リン系殺虫剤が検出されたとのことです。
 当生活クラブやまがた生活協同組合ではこれらの商品は一切扱っておりませんのでご安心ください。
生活クラブやまがた生活協同組合では1999年4月から日本生活協同組合連合会のいわゆる『コープ商品』の取扱は紙類や衣料品などに絞り込んでおります。
 その理由は遺伝子組み換え作物、環境ホルモンなどの対応を追求し外国産原料や製造工程の不明な部分をなくしていくこと、つまり『原料から製造までできる限り明確なものを供給したい』からでした。

 97年から98年までの2年間にわたり組合員討議を続け、1999年4月から取扱品を国産原料中心(一部外国産品も含む)の生活クラブ生協事業連合会の『消費材』に切り替えたのは今回の事故や昨年の食肉偽装事件を予想していたことも事実です。

 生活クラブ生協事業連合会の『消費材』は原材料から製造過程までをできる限りオープンにしています。
 しかも、独自の自主基準監査を設けるなど、日本では内容が一番明らかな生協事業連合会です。

 組合員が出資、運営、利用する生活協同組合の原則を守りながら社会問題を解決していくためにも、生活クラブやまがた生活協同組合は今後もできるだけ原料から製造までできる限り明確なものを供給することに努力してまいります。

 まずはお知らせまで。」

 「生協」といっても、これら「生活クラブ」系生協を「コープ」系生協と混同することないようにしたうえで、日本生協連の責任は問われなければならない。
 
 両国の捜査当局が直接的な原因(残留農薬か意図的な犯罪行為か)、犯罪行為だとすればその犯人を早急につきとめ処置することが必要不可欠であることはいうまでもなく、それをうやむやにしていいはずはない。しかし、そこは解決しても、それだけで幕引きしてしまってはならない。
 我が国における政府の野放図な食料・農畜産物の輸入自由化政策と、それに乗じて「安かろう危なかろう」の外国産農産物・加工食品の現地生産委託・輸入にはしった日本企業の存在。それらがなければ、このような事件は起こらなかったはず。そこのところをも何とかしなければならないのだ。


  *この評論をここに出した翌日(3月19日)の朝日新聞「私の視点」欄に早稲田大学の中国人講師・馬挺氏の寄稿文(「ギョーザ事件―兄弟をいじめすぎないで」)が載っていたが、そこで氏は次のようなことを指摘している。
 「加工から輸入まで日本企業が関わって水際でチェックできないのならば、最終責任は日本企業にあるはずだが、ほとんど報道の焦点になっていない」と。


*3月31日のNHKスペシャル「食の安全をどう守るか―冷凍ギョーザ事件の波紋」では次のようなことが指摘されていた。
 食品メーカー「味の素」が13年前から中国に進出、9ヶ所の現地工場(中国人従業員は総計1万人を超える)140種類の製品を製造、自社管理農場も運営している。その管理・安全対策は厳格で高いコストをかけている。
 中国の輸出食品に対する衛生基準は日本よりレベルが高いくらいだとのこと。
 生協(コープ)の問題点は(連合が)巨大化し、取引先は800社、それぞれの間で(消費者・組合員からのクレームやトラブル情報など)情報共有が困難な実態がある。中国製冷凍ギョーザを製造委託をしていたジェイフティフーズとの間でも、それぞれ企業秘密にする傾向がはたらいて情報は伝えられてはいなかった。
 (元日本生協連理事・阿南氏の下記の寄稿によれば、そのような情報伝達・共有の欠如は日本生協連と各地コープとの間でも云える)
 野菜の最大の輸入先は中国(全輸入量の49%、二位のアメリカは17%)で、その中国野菜を国内産に切り替えるといっても簡単ではない。急きょ日本の農家からそれを仕入て来ようとしても到底間に合わない。畑をやっている人は高齢者(平均年齢は70歳)で、農地の半分は耕作放棄地になっているという有様(群馬県前橋市のある農村地区の実情)

*4月2日の朝日新聞に、元日本生協連理事の阿南久氏が、「コープに信頼回復の責任」と題する論稿を寄せている。 

 

2008年03月26日

北京五輪ボイコット騒動

 チベット騒乱の真相はいったいどうなのか、それはどういうわけで起こってあんなことになったのか。歴史的経緯・背景、直接的原因(きっかけ)は何か(自然発生か、誰かが意図的に起こしたのか)等、我々は知りたいし、中国政府は外国人記者の現地入り取材を禁じたり、情報隠ししたりせずに、世界に対して公明正大に真相を知らしむべきだ。
 さもないと、中国政府はチベットの「不当支配」や「人権弾圧」など、自分に不都合な真実を隠そうとしていると思われてもしかたないだろう。それが世界の人々に中国に対する疑心暗鬼と不信・反発を招く結果となる。

 「国境なき記者団」はチベットの騒乱事件にさいして中国政府に抗議し、北京オリンピック・ボイコットを世界に訴えようとして聖火採火式の場を利用、そこで妨害行為を演じた。そして、彼らのその狙い通り、中国以外のマスコミはその映像をそのまま流し、それを目の当たりにした各国市民の間に北京五輪に対する否定的機運(嫌気)や「しらけ」ムードがかもし出されたことだろう。
 「記者団」というからには彼らはジャーナリスト。ジャーナリストたるものの使命は人々に事実情報を伝えることであって、それが自分自身のポリシーや政治的立場にとって有利な「宣伝情報」になってもならなくても、事実を偽造(でっち上げ)・偽装(粉飾)することなく、ありのままに伝えなければならない。
ジャーナリストにも自己の思想・信条や政治的立場があり、その立場から論説や政治的主張(中国のチベット支配批判や「人権弾圧」非難など)をしてもかまわないとは思うが、事件(聖火の採火式における妨害事件)を自ら引き起こして(いわば自作自演)、それを宣伝情報にするのは、ジャーナリストとしては(一個人としてならいざ知らず「NGO・・・記者団」を名乗ってやっている以上)逸脱行為なのであるまいか。
 これをきっかけに、これから聖火リレーの先々で、そして開会式や競技中に騒動(トラブル)が頻発し、セレモニーや競技の中断あるいは中止に追い込まれる事態さえ起きかねない。もしそんなことになったらどうするのか。「国境なき記者団」のあの者たちの責任は極めて深刻・重大であるといわざるを得まい。
 3月31日には、聖火は中国にたどり着き、天安門広場で胡錦濤国家主席が聖火を受け取ってそれをかざし、聖火リレーの開始宣言を発していたが、これにも違和感を感じた。政治権力者ではない人だったらよかったものを。

 オリンピックは誰のためのものかといえば、それは世界から国境を越えて集まり一堂に会して競技する選手たち(いわば「国境なき選手団」)のためのものだ。かつて古代のギリシャではアテネ・スパルタなど都市国家が相分かれて抗争したが、4年に一回のオリンピアードの期間中は「聖なる休戦」をおこない、どの都市国家の市民もオリンピアに専心、優勝した選手は月桂冠が授けられ自国民ではなくともヒーローとして讃えられた。その精神は近代オリンピックにも引き継がれている。
 今、世界では中東やアフリカなど諸地域で敵対し抗争しあっている国や民族があり、中国では漢族とチベット族の間で騒乱が起きている。
 しかし北京オリンピックは聖火リレーが既に始まった。「聖なる休戦」期間に入ったといえる。
 IOC(国際オリンピック委員会)は大会運営に責任をもち、開催都市・開催国政府は競技場・宿舎(選手村)その他の条件整備を引き受け、警備にも(聖火リレーに際しては通過国の関係当局も)責任をもたなければならない。各国政府・各国市民はそれをサポートし、それに協力しなければならない。
 開催国政府も、その他の政府も、これを国威発揚や政治宣伝に利用したり、反政府勢力が反政府宣伝に利用したり、いわんやオリンピックそのものを(競技はもとより、聖火採火式・聖火リレー・開会式などセレモニーも含めて)妨害したり、ボイコットしたりするのは間違いであると思う。
 
 尚、前回のアテネ・オリンピックでの国別金メダル獲得数をみると、
  1位 アメリカ(金35 銀39 銅29 計103で、合計数でも1位)
  2位 中国  (金32 銀17 銅14 計63で、 合計数3位)
  3位 ロシア (              合計数2位)
  4位 オーストラリア(           合計数4位)
  5位 日本  (金16 銀9  銅12 計37  合計数6位)
  6位 ドイツ (              合計数5位)
 このようなメダル獲得数とその順位はなにもその国の国威を示すものではなく、メダルはそれを獲得した選手個人の才能と努力を讃え示す以外の何ものでもないのだが、高記録を収めた選手が中国人選手に多いということは、中国人選手をぬきにしてオリンピックは成り立たない(世界記録は成立しない)ということなわけである。
 
 オリンピックはあくまで、日本人選手も漢人選手もチベット人選手も含めた「国境なき選手団」(それぞれの国籍には所属していても国益とか国家の名誉とかにはとらわれない選手一人一人)のためのものなのであって、彼ら選手本位に考えて(ボイコットするとかしないとか、成功させるとかさせないとか)判断すべきなのである。
 IOCのジャック・ロゲ会長はチベット問題を念頭に声明で「いかなる理由によるものであれ、暴力はオリンピックの趣旨・精神に反する」と述べ、聖火採火式のためにオリンピアに到着する数時間前には次のように言明していたという。
 「IOCは政治団体でも活動家の組織でもない」「その主要な責任は運動選手たちにとってできる限り最良の形でオリンピックを実施することだ」と。

付記
*1892年フランス人クーベルタン、「聖なる休戦」協定に基づいた世界平和を究極目的にオリンピック祭典の復興を提唱。
*1896年近代オリンピック第一回アテネ大会は、個人やチームによる自由参加だった。
 1908年ロンドン大会から開会式入場行進でプラカードの国名と国旗が持ち出されるようになった。
 聖火は1928年アムステルダム大会からスタジアムに飾られるようになったが、聖火リレーは1936年ベルリン大会から始った。このベルリン大会はヒトラーによってドイツの国威発揚とナチスの政治宣伝に存分に利用された。
 1980年モスクワ大会は、当時行われたソ連軍のアフガニスタン侵攻にアメリカ・西ヨーロッパ諸国・日本が反対してボイコットした。
 その次の1984年ロスアンジェルス大会は、当時行われたアメリカ軍のグレナダ侵攻にソ連・東欧諸国が反対し、前回の報復もあってボイコットした。
*前回2004年アテネ大会に際しては「五輪停戦」国連決議が全会一致で可決したが、アメリカは署名拒否。
*4月3日IOC調整委員会のフェルブルッケン委員長いわく、「今回の五輪が80年のモスクワや84年のロス五輪のようになってはならない。出場するか否かを決めるのは政治家ではなく選手自身だ」と。
 4月4日北京五輪調整委員会のゴスパー副委員長(オーストラリア)いわく、「ボイコットは選手を傷つける」と。
 4月7日各国オリンピック委員連合理事会のラーニャ会長(メキシコ)、「選手たちは五輪を楽しみにしているし、参加したがっている」と語り、政治家によるボイコット論を批判。
 同日IOC猪谷千春副委員長は、開会式に首脳が参加すべきかどうか(一部の国で議論があること)について、「意味のないことだ」と批判。
 4月8日ゴスパーIOC委員(同上)いわく、「五輪開催国への憎しみを聖火リレーにぶつけるのは間違っている」と。

2008年04月21日

チベット問題

 マスメディアの論調とは別に、(中国側とダライ-ラマ亡命政府側の)一方をひいき目で見たり、イデオロギーからの予断(先入観で判断)はひかえて、出来るだけ客観的な立場で記述することにしたい。
ソース(出所)は主として次の書籍。
 石濱裕美子(早稲田大学教育学部助教授)著「チベットを知るための50章」明石書店
 王柯(神戸大学国際文化学部教授)著「多民族国家 中国」岩波新書
 ツルティム-ケサン(大谷大学仏教学部教授),正木晃(白鳳女子短期大学助教授)共著「チベット密教」ちくま新書
 A・T・グルンフェルド著(八巻佳子訳)「現代チベットの歩み」東方書店
 ブリタニカ国際大百科事典(第12巻)
これらからまとめたものにすぎないのだが。
1、チベットの風土
南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈に囲まれたチベット高原(平均高度3,800mのいわゆる「世界の屋根」)。無人の荒野から鬱蒼とした森林にいたるまで多様な風土。
 人々の主たる生業は農業―畑作、作物はネー(裸麦の一種で主食のツァムパの原料),麦,豆,菜の花(油を採取),ジャガイモなど。家畜はヤク、羊、馬、牛も(遊牧民は、今は定住?)
 自給自足は不可能、貿易網が必要
2、中国・チベット関係史
 1950年の中華人民共和国のチベット派兵とその後の統治は、かつて日本が朝鮮(それまで、清などの藩属国となっていたことはあっても、日本に服属したことはなく、日本に対しては独立国だった国)に対して行なったのと同様、侵略であり、植民地支配だという言説があるが、はたしてそうか。チベットは中国に対して歴史的に独立国だったと言えるのかどうか。
 また、中華人民共和国による「解放」は、既得権が奪われた旧支配層は別として、大多数の民衆にとって解放(自由人権と福利獲得)ではなかったのかどうか、以下、歴史を振り返ってみたい。
 
紀元前(漢の時代以前)、中国西部方面にあって「」や「」と称されたのがチベット族
7C初(唐の時代)ソンツェン-ガンポ王―初のチベット統一王朝(吐蕃)樹立、チベット文字を創始、仏典訳→チベット仏教(先行のボン教と抗争・融合)
8C後半 吐蕃、最盛期6代目国王(ティソン-デルツィン)、一時、唐の都(長安)を占領、チベット初の僧院(サムイェ寺)を建立
9C 吐蕃、分裂―地方諸侯、割拠
13C(モンゴル帝国・の時代)チベット人はモンゴルに服従
チベット僧パスパ―フビライ-ハンから重用され、チベット支配権を委ねられる
14C(明の時代)
15C初 ツォンカパ、チベット仏教ゲルク派を創始
モンゴル人のタタール部族長アルタン-ハン―ツォンカパの一高弟の曾孫(ソナムギャツォ)にダライ-ラマ(3世)の称号を与える。
17C(明代末)モンゴル人のオイラートの一部族長グシ-ハン―ダライ-ラマ5世に全チベットの統治権を献じる。                     
ダライ-ラマ5世― ポタラ宮殿創建、師を初代パンチェン-ラマ
(清の時代)清朝の庇護下にダライ-ラマのチベット支配体制(政教一致制)、確立
18C 康熙帝―モンゴル人のジュンガル部をチベットから追い払い、ダライ-ラマ7世を帰還させる。(ダライ-ラマの宗教的権威を利用へ)
雍正帝―チベット内乱で清軍を派兵、駐蔵大臣を定期的に派遣
乾隆帝―チベットを藩部に―理藩院の監督下に自治を認める。
    ダライ-ラマとパンチェン-ラマの選出方法(「金瓶」でくじ引き)を制定
    外交・防衛は清朝が引き受け(間接統治)    
チベット政府の要請うけ、ネパールのグルカ人の侵攻撃退
19C(アヘン戦争以後)清朝のチベット支配、弱体化して名目だけに。
イギリスがチベットに進出。
1880 英領インド軍、チベット侵入
1890 イギリス―チベットでの通商特権とチベット・英領インド国境問題で清朝政府と交渉  通商協定(チベット政府は無視)
20C
1903 英領インド軍、チベット侵入、ラサ占領 
1904 チベット・インド条約―イギリス、チベットを独占的に影響下に置く
1906~7清朝政府、チベット政府のイギリスに対する賠償金を肩代り
1909 清朝軍、ラサに再進駐―ダライ-ラマ13世、インドに亡命(イギリスの保護下に)
1911(中国で辛亥革命―14省独立を宣言、清朝滅亡、中華民国,樹立)チベット駐屯の漢族部隊も反乱、満州族の駐蔵大臣は廃止。
孫文、「漢(漢族)・満(満州族)・モンゴル・回(イスラム教徒)・チベットの五族が一つに」「すべての五族の民衆は兄弟なり」と。
1912 ダライ-ラマ13世、帰還、チベット独立を宣言。漢族、引き上げ
1913 イギリス・中国・チベット3国代表会議―チベット政府、英領インドとの国境線(マクマホン・ライン)に同意(中国政府は認めず)、チベットの宗主権は中国からイギリスに(事実上、イギリスの保護領に)。
1914 中華民国約法―「中華民国の領土は、以前の帝国の領域に基づく」と。
1917 中華民国軍、東チベットに侵攻  休戦協定
1924 国民党全国代表大会―各民族の自治権を承認、「中国領内の各民族が一律に平等であること。少数民族の権益は尊重されるべきもの。但し、国家利益に比べると、少数民族の権益はあくまで二次的なもので、国家の利益に服従すべきもの」と。
1927 蒋介石、ダライ-ラマ13世に(書簡で)「中国の一部」になるよう求める。
1930 ダライ-ラマ13世、「自分が心から最も望んでいるのは中国の真の平和統一である」と。
1934 中国共産党の「中華ソヴィエト共和国」臨時政府―連邦制の導入を提唱、「少数民族の自決権および各弱小民族が中国から離脱し、独自の国家を樹立する権利を有することを承認」
1940 ダライ-ラマ14世、(4歳で)即位
1941 国民党中央委員会が「国内各民族および宗教間の融合団結を通じて、抗日戦の勝利および建国の目的を達成するための施政要綱」を発表
1946 中華民国憲法―「チベットの自治制度は保障しなければならない。辺境地域の各民族の地位については、法律上において保障し、その地方自治事業において特別に援助する」と。
[これら中華民国時代―軍閥抗争・国共内戦・日中戦争―を通じて、チベットには中国政府の力はほとんど及んでいなかった]
1949 中華人民共和国、建国、新中国政府、チベット解放を宣言。蒋介石の国民政府は台湾に。
1950 パンチェン-ラマが毛沢東にチベット解放を要求
毛沢東「少数民族地域の風俗習慣に対する改革は可能であるが、しかし、このような改革は少数民族自身の手でやらなければならない」と。
人民解放軍、チベット進駐。チベットの「国連の介入」訴えに対して国民政府代表とソ連代表は、「チベットは中国の一部分であり、したがって本件は中国の内政問題であって国連に介入の権限はない」と主張、イギリス代表はチベットの法律的地位は明確でないと発言、インド代表は、本件が外交交渉によって解決され、チベット自治は保持されるであろうと。(チベットの訴えは棚上げへ)
1951 チャムド戦役―チベット政府軍、降伏
ダライ-ラマ(前年15歳から親政)避難先から帰還、「チベット解放協定」に同意 (中国の宗主権(軍事・外交権)を認めること、チベットの自治権、ダライ-ラマの地位とともに維持、チベットの宗教信仰の自由を認め,ラマ教寺院を保護、チベットの風俗習慣を尊重 etc)
「全国民族教育会議」―「小中学校の各教科授業では必ず自民族の文字を使わなければならない。少数民族学生に対する漢語の授業の開講は少数民族の意志にしたがって決める」と。
[チベットでは、諸侯貴族の特権の廃止は歓迎されるが、寺院・僧侶に改革の矛先が向かうと人々反発]
1952 中国政府、「民族区域自治実施要綱」発表―各民族が各自で区域自治
原則―「民族団結」「民族平等」(問題は「大漢族主義思想」対「地方民族主義思想」で、それぞれの側が相手の思想を批判、しばしば差別事件)
1954 憲法に「自治区」「自治州」「自治県」それぞれの「民族区域自治」を定める。
第1回全国人民代表大会―ダライ-ラマを副委員長に選出
1956 チベット自治区準備委員会―ダライ-ラマ(「自治区」に反対)を委員長、パンチェン-ラマを副委員長に
東部チベットで反乱→ゲリラ戦(アメリカCIA支援)
1959 ラサで騒乱、中国軍、武力行使―死傷者(漢族・チベット族双方合わせて)10万人?(不確かな推計で当てにはならない)、難民は8万人とも。ダライ-ラマは脱出、インドに亡命政府(インド政府、受け入れ、難民チベット人に入植地提供)
中国政府、ラマ僧に対して寛大な説得方策から強硬策へ転換(行動の自由制限へ)
1961 中国政府、チベットにおける民主改革・土地改革(政教一致制と封建領主支配制度を廃止、土地買い上げ、農奴解放、農地分配)へ
1962 中印国境紛争(「マクマホン-ライン」をめぐって)
1965 「チベット自治区」正式に成立―パンチェン-ラマが主席、実権は張国華が
1966 「文化大革命」―中国共産党内の急進派(資本主義容認反対派)の奪権闘争―中国全土に動乱、チベットでも急進的学生ら「紅衛兵」による寺院乱入・破壊
1976 「文化大革命」収束(文革派失脚、鄧小平ら復帰)
1977 中国政府、ダライ-ラマの帰国呼びかけ
1978 鄧小平(改革・開放路線―中国を資本主義化)ダライ-ラマと対話へ(兄と会見、代表団と接触)―チベットが中国の一部であることを認め、独立要求の放棄を求める。
1984 ダライ-ラマの帰国について代表団交渉―亡命政府内部で反対され実現せず。
1986(4回、会談)中国政府はダライ-ラマが本心を言わないとの理由で代表の5回目訪問は拒否
1987 ダライ-ラマ、アメリカの下院議会での演説で5項目和平プラン
①チベット全土を非暴力・平和地帯に
②中国人の大量チベット移住を禁止
③チベット社会の人権と民主主義・自由の尊重
④チベットでの核兵器使用・核廃棄物処分の禁止
⑤将来のチベットの地位、中国との関係について交渉を始めること
ラサ市内でラマ僧が暴動
1988 ダライ-ラマ、フランスで「ストラスブール提案」―
・連邦制をとる
・中国政府はチベットの外交の責任をもつが、宗教・商業・教育・文化などの分野ではチベット自身が他の国と関係を結び、国際組織に参加する
・チベットの社会的経済的制度は国民の望みに沿う形で定める
・チベット政府はチベットとチベット族に関する全ての事柄に決定権をもつ
・チベット人の国民投票で指導者と議会、司法官を選ぶ
・チベットを非核地域・自然保護地域・非武装化地域に            ―などのことを提案
中国政府は、それらを、チベットを独立国家と位置づけていると見て、交渉拒否。
1989 パンチェン-ラマ10世、急死。転生者の決定めぐって中国政府とダライ-ラマが対立。ラサ市内でラマ僧が再び暴動、解放軍出動、ラサに戒厳令
ダライ-ラマ、ノーベル平和賞を受賞(「非暴力」が評価される)
1991 ジョージ・ブッシュ大統領、ダライ-ラマと会談
1995 11代目パンチェン-ラマを(ダライ-ラマが先に認定していた者とは違う人物を)中国政府が認定
1990年代末から、ダライ・ラマ、「高度の自治を対話を通じて求め、政教一致制の廃止も可能だ」と中国政府にメッセージ。
2000 「西部大開発」開始
2002 ダライ-ラマ、兄を北京に派遣、中国政府と対話再開、「一国二制度」の導入を要求して暗礁に。
2003 インド首相、訪中、「チベット自治区を中国の一部」と認める。
2004 ダライ-ラマの代表―再度、北京入り
2006 青海・チベット鉄道開通
2008(北京オリンピックの年)チベット暴動カ→聖火リレー通過各国で、亡命チベット人とその支援・人権団体が、中国政府の対応を「人権弾圧」として非難・抗議行動。ダライ-ラマは「中国からの独立は求めない」としながらも「チベット人による完全自治、外交・防衛のみ中国政府に」と。

 以上、年表式に羅列したが、こうして概観してみる限り、このような歴史からは、中国とチベットとの関係は、かつての日本と朝鮮・満州・台湾との関係(侵略・植民地支配と被侵略・被植民地支配の関係)と同じだなどと単純には云えないだろう。
3、廃止前の封建領主支配制度
農地・牧地はすべて政府・僧院・貴族が荘園として領有
領内の農民は農奴(領主の許可なしに土地を離れることできない)―地代、各種の税を負担、労役も。同じ農奴でも貧富階層に分かれ、奴隷(私的な家事使用人として隷属、売買される)やアウト-カースト(屠殺人・葬儀人、漁民・金物職人・鍛冶屋・楽士・芸人など)も存在
僧院―政府から寄進を受け、個人から喜捨・布施(寄付)を受ける。
   交易・金融も営む
大僧院・教団は自治権もつ
4、廃止前の政教一致制
代々のダライ-ラマ(法王)―「菩薩の化身」と見なされる―どこかの子供の中からこれという者を探し出して現ダライ-ラマの転生者(後継者)に仕立て上げる―政治と宗教両権の頂点に(成人になって親政を行なうようになるまでは摂政が代行)、その下に宰相と数人の大臣―内閣
 官僚―聖俗二つあるうち、聖界部にはすべて僧官、俗界部には僧官と俗官
各地の有名寺院に独立司法権
僧侶―ほとんどの家庭から少なくとも一人―チベット総人口の1割(現、亡命政府下ではインドでは2割)
   幼いうちから寺院に入る
   納税の義務なし
   高僧は活仏・転生者(前の高僧が、死んだ後に、この世に再生)
パンチェン-ラマ―ダライ-ラマに次ぐ活仏。9代目以来、中国政府と友好関係
ダライ-ラマとパンチェン-ラマ両者は、お互いに相手の転生者(後継者)を認定(11代目の現パンチェン-ラマは中国政府が認定)
5、各少数民族の自治機関 
人民代表大会(審議機関)―その常務委員会の主任または副主任
人民政府(執行機関)―自治区主席・自治州長・自治県長      いずれも民族出身者から選出         
全国人民代表大会の少数民族代表428名―代表総数の14,36%
全国政治協商会議の少数民族委員257名―委員総数の11,7%
               それぞれ全人口に対する少数民族の比率を超えている
自治権:自治条例を作る立法権
    国家法令を少数民族である自らの特徴に合わせて一部変更する権利
    少数民族の言語文字を公用語とし、民族教育や文化を発展させる権利
    少数民族出身の幹部(民族学院で養成)を登用する権利
    財政や税収における自主権と優遇を受ける権利    etc
国から→少数民族地方補助金・少数民族基金 
普通地域より高い財政予備金
ただし、自治権は国の政策に抵触してはならない、という原則
6、チベット仏教
 いくつかの宗派教団があるが、ダライ・ラマの教団(ゲルク派)が主流。
どちらかといえばインド仏教の方に近く、中国仏教や日本仏教とは隔たりがある。
 密教の要素が大きな部分を占め、呪術的・秘儀的色彩が濃い。しかも、日本密教などでは行われない性的ヨーガ(性行為を導入したヨーガ)が解脱を得るための行(それは修行者の生命力を活性化するために不可欠)として重視される。これは仏教の戒律とは相容れないもので、ゲルク派では、それは「観想」の上で(想像上の女性パートナーと)行われるものだとして、文字どおりの実践は禁じている。大谷大学のツルティム・ケサン教授らの前掲書によれば、「インド・チベット密教の研究者のあいだでも、性的ヨーガにまつわる領域は、世上の関心とはうらはらに、ほとんど未開拓のままである。とくに実践中における心身生理の様態と変容はまだまだわかっていないといっていい」とのこと。
 同書によれば、近年日本で惨劇を起こした麻原らのオウム真理教は、その理論・修行法(神秘体験・瞑想法)をモデルとしていたが、「チベット密教に関する彼らの知識は極端な偏りがある。」

  殺生禁止、ただし肉食はOK、動物の生にえ、まれには人身御供(犠牲)も
「業」(カルマ)の考え方―身分・境遇は当人の前世における行いのせい(農奴だったら、それは領主が悪いのではなく、本人の前世で犯した何らかの罪のせい。富を享受するのは前世で気前がよかったからであり、貧困は前世のケチによる)、その境遇から逃れようとしてあがくことは、今よりもっと酷く自らを苦しめることになるのであり、この世に満足してこそ、来世に利益と―農民反乱が起きなかった原因―それは禁欲主義とともに、このような「業」の信仰によるのでは(グルンフェルド教授の見解)。

7、中国政府の宗教政策
基本: 「宗教信仰の自由の尊重」
    「独立自主の方針の堅持」―国外の「反中国勢力」が宗教を利用して中国の内政に干渉することを防ぐ
 憲法に「公民は宗教信仰の自由があり、いかなる国家機関・団体や個人も公民に強制的に宗教を信仰させたり、放棄させてはならない」「いかなる人も宗教を利用して社会の秩序を乱し、公民の身体健康を損ない、国家の教育制度に基づく教育活動を妨げてはならない」「宗教団体と宗教事務は外国勢力の関与を受けてはならない」と定める。
 刑法に、巫術・妖術・占い・手相見・人相見・魔術などの超自然的活動の禁止
中国政府は、少数民族に宗教信仰を保障するが、宗教を利用して「人民を分裂させ、国家を分裂させ、社会の安定や各民族の間の団結を破壊する民族分離主義、非合法的行為やテロを起こす」ことに断固反対する、と表明している。
「民族区域自治法」をはじめ、「民法」・「労働法」・「義務教育法」・「人民代表選挙法」にも、宗教が国民の労働の権利、義務教育を受ける権利、政治参加の権利を妨げてはならない、と明記
 「活仏転生」(高僧の後継者選定)に認定制度を導入―事実上、ダライ-ラマやパンチェン-ラマを中国政府が選定―これが反発を招く

8、西部開発
漢民族と少数民族の「共同繁栄」―経済統合(全国統一市場の形成)、格差是正をめざす
インフラ整備―本土と結ぶ道路網・空港、ダム・水力発電・水利施設など
         青海・チベット鉄道  
開墾―耕地拡大
ラサ市の西と北の郊外に工業区、地方の町にも中小工場
各地に小学校、ラサと北京にチベット仏教の専門大学
少数民族地域のための人材育成―2000年から中国の主要な都市の高校に「新疆クラス」とともに「チベット・クラス」が設けられ、そこで学ぶ学生の学費・生活費・旅費を中国政府が全額負担、チベット人科学者・技術者を養成
テレビ・ラジオ受信施設
近代的病院・医療施設・衛生所            
文化・スポーツ・娯楽施設―劇場・映画館・体育館  など建設
中国政府による財政援助―固定資産投資―年に14,9%の伸び
GDP増加率―1999年7,2%
      2000年8,5%
      01年8,7%
      02年10,0%
      03年11,3%
      04年12,0%  (これらのデータは岩波新書「多民族国家 中国」による)
コミュニケーション手段―漢語、 経済活動のチャンス―チベット人に不利(「掃除夫」などしか?)、不公平感
漢族住民の増加→少数民族との摩擦            
観光地化
自然環境破壊
9、チベット社会の現状
チベット人の人口―総計541万6千人  チベット自治区に45,6%(247万人)、 四川省に23,2% 青海省に19,8%、甘粛省8%、 雲南省に2,4%、インド(ダラムサラ中心)に亡命者・難民10万人
農奴などの身分から解放された民衆、官僚に抜擢された人々など―既に40年以上たっていて既得権を得ている
独立運動は「民衆の間で広く支持されていない。民衆の経済的状況と生活水準がめざましく向上しているからである」(王柯神戸大教授)
僧侶―地位ある者の多くはダライ-ラマにならってインドに脱出
寺院・僧侶の数は、ダライ-ラマ亡命当時より上回っている
1980年代以降、中国政府が大蔵経の出版、ポタラ宮殿はじめ寺院修理に大量資金投入
環境保全―「退耕還林」「退牧還草」―草地・耕地を戻す事業、植林
鳥葬―遺体が残留農薬・食品添加物などの大量摂取でハゲタカが食べなくなる?
10、今回の騒乱事件―その全貌・真相は?
破壊・暴行の加害者はどういう者たちか、警察・軍隊・僧侶・一般人のいずれか、その人数は?それに対して被害者・死傷者はどういう人たちか、僧侶・一般人・警察官・兵士・チベット人・漢人のいずれか、襲撃・放火・破壊されたのはどういう施設・物件か、僧侶・僧院、政府庁舎・警察の派出所その他公共施設、ホテル・店舗など民間施設のいずれか、それぞれその数は?
「計画的」か「成りゆきで」か。
背後で指示・命令あるいは策動した者は中国政府関係者かダライ-ラマ亡命政府関係者か、それとも「チベット青年会議」関係者その他か?
 これらについては、中国政府側とチベット亡命政府側またはNGO「チベット人権民主化センター」とで全く異なる発表を行なっており、現場状況の映像などの報道(解説)も、CNNやワシントン・ポストなど西側メディアと中国メディアとでは全く異なり、互いに「歪曲報道」批判をやり合っている。日本のメディアのほとんどは、非は中国政府の方にあり、被害者はチベット仏教徒たちだ、との論調。
 そして聖火リレー通過各国での妨害行為も含めた中国政府に対する抗議行動に好意的、とりわけダライ-ラマに対して好意的な論調が支配的のようだ。
 これから聖火を長野に迎える日本では、善光寺が境内の使用辞退を求め、その理由を「チベット人の人権への弾圧が行なわれていること」「チベットで中国側が無差別殺人を行い、それに対してチベットの仏教徒が立ち上がった。その仏教徒に対する弾圧を憂慮した」からだとしている。
 しかし、このような断定ははたして正しいのか。客観的で確かな根拠に基づいているのか、現地で自らその目で確かめたうえでの判断なのか。どうも解らないわけである。
 ただ、それが中国政府の情報の統制・非公開のために解りようがないという、その点での中国政府のやり方に問題があることは確かだろう。
 いずれにしろ事の真相・全貌が明らかされなければならず、国連などの公平な機関による調査と検証もあって然るべきと思うが、中国政府は「国内問題に介入すべきではない」といって、それを突っぱねるのであれば、ますます諸国民の不信をかうことにならざるを得ないだろう。

11、現在のチベット難民とダライ-ラマ・亡命政府
ダライ-ラマ―(本人の言葉では)中国に対しては「宗教の自由やチベット文化の尊重とともに高度の自治を求めてはいるが、分離・独立を求めてはいない」「政教一致制の廃止も可能」だとし、北京オリンピック支持。
社会主義も肯定、「私は、今の中国の指導者たちよりも、ずっと左翼系ですよ」とも(東京工業大学准教授の上田紀行―昨年12月、本人と対談)。
非暴力、対話による解決を提言。
 若い世代はそれに飽き足らず、「チベット青年会議」など5団体は「チベット人民義起運動」
それに対する中国政府側は不信・不寛容。ダライ-ラマ(その代理人)との対話は再開へ

中国と西側諸国の政府・メディアとも互いに不信感―グルンフェルド教授(ニューヨーク州立大学)によれば「(1950年代の反乱にまつわる)事件に関する中国の説明に対する西欧の不信は、中国側の外国人嫌いと世界のメディアへの不信感を強めただけだった」とし、
 日本も含めて西側のメディアは、ダライ-ラマを賛美、チベット難民に同情的。「大がかりな報道キャンペーンによって、中国が悪役に見えたとしても、ほとんど驚くに当たらない」
と。
 しかし、どの国の政府も(亡命政府を受け入れているインドも含めて)、チベットを一つの独立国家として公式に承認した国は、これまで存在していない。

2008年05月23日

恐怖・欠乏なく生きていかれる権利

(1)生存権―保障は国の責任 
 パート・派遣・「名ばかり管理職」などのようなものにしか職に就けない、安定した収入が得られない、いつリストラされるか判らない、いつ倒産・廃業に追い込まれるかわからない、遅くまで残業、休みがとれない、結婚・子育てがままならない、怪我や病気になっても医者にかかれない、カネが足りない、暮らしていけない、生きていけない、将来不安・老後「後期高齢者」不安・・・・・。最近、壮年者・老年者・若者・子どもと、どの世代をとっても人々の間に欠乏が広がり、不安が深まっている。過労死者・自殺者・餓死者もいる。
 それは、その人の能力・努力が足りないか、運がわるいせい、要するに本人の自己責任だからしかたがない、という向きがあるが、そういうものだろうか?
 
 人は誰しも幸福を追い求めて生きる。憲法13条は幸福追求権を(「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については・・・・最大の尊重を必要とする。」と)定めており、人が幸福を追い求める(幸福になろうとする)のは権利でもある、というわけである。ただし、幸福といっても、いったい何に幸福を求めるか、それをどうやって果たすかは人それぞれの選好(好み)であり、他人や国が決める筋合いのものではない。そして、その幸福を実現できるかどうかは、全くその人自身の責任であり、国や他の誰の責任も問えない。
 しかし、その前に(幸福になろうとする以前に)前提として、まず「生きる」ということをしなければならない。それまた権利であるが、その生存権は国が保障しなければならない。
 幸福になれるか否かは、それぞれその人の自己責任だとしても、この国で人が「生きていかれるか否か」―子ども・年寄り・障害者・失業者など働くに働けない人でも食べて生きていかれる国になっているか否か―に国が責任を持つのは当たり前のことだろう。

 憲法は、「何人も、・・・・職業選択の自由を有する」こと(22条)とともに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(27条)と定め、労働の意思と能力をもちながら職に就けない者が、国に労働の機会を与えることを要求し、それができないときには必要な生活費を請求できる権利を認めている。
 憲法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」(25条)と定め、国民が人間らしく生活する権利とその実現を保障する国の努力義務を定めている。
 憲法は、また、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすること」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(前文)とあり、「日本国民は、・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、・・・・永久にこれを放棄する。・・・・国の交戦権は、これを認めない」(9条)と定めている。
 要するに、憲法は勤労権・健康的文化的生活権・平和的生存権は国民の権利であり、誰もが恐怖・欠乏なく生きられる権利をもっており、それを保障するのは国や自治体の責任だとしているのである。
 だから、欠乏・不安なしに生きていけないのを自分の自己責任として済まさずに、国の責任を追及し、然るべき対応を政府や自治体に要求するのは当然のはずである。
 ところが、現状(市場原理主義的資本主義―競争・格差社会)に対してさして不都合もなく、さして欠乏・不安もなく生きていけている人々(現状に満足で)から支持されている為政者側は、とかく憲法の「すべての国民は・・・の権利を有する」とか「全世界の国民が・・・する権利を有する」というこれらの定めは単なる理想・タテマエか、或は政治のプログラム(指針)を示したものに過ぎず、(それは個人に対して裁判上の救済が受けられる具体的な権利を定めたものではなく、社会保障などはそのときどきの財政事情と見合わせてはじめて法律上の保障内容が与えられる筋合いのものだとして)必ずしも直ちにその通りしなければならないというわけではないのだと云って済ませようとする。
 しかし、為政者(政府・地方自治体)には、少なくとも国民のその権利保障に努める努力義務があることは確かであり、人々が、為政者にその義務を果たせと要求し訴えるのは当然のことなのである。
 為政者には、何も云わずに黙ってお任せしていればいい、などというわけにはいかないのだ。
(2)消極的護憲の危うさ
 憲法は、政府・為政者が解釈・運用し(日米安保・自衛隊とその海外派遣など容認)、その下で日本国民の大多数が安住して暮らしてこれた、だから今のままでよい、という考え―
 「31歳一フリーター」(赤木智弘氏)が「希望は戦争」と言って反対している護憲とは、そのような消極的護憲なのではないだろうか。(5月3日山形で憲法講演をした東大教授の高橋哲也氏が彼の言説を紹介していた。)「日々身も心も疲れきって人間としての尊厳が傷つけられ、将来に希望をもてずに生きていくしかない」彼(赤木氏)から見れば、「現状の平和は、現状に満足している人々にとっての平和であり、既得権をもった人々や安定労働層にとっての平和にすぎず、そんな平和は何の意味もない。日々生きるための闘いを強いられている貧困労働層にとっては、現状は準戦時と同然だ。」「そこでワーキングプアとして空しく野垂れ死にするよりは、むしろ本当の戦争で戦って死んだ方がまし。なぜなら靖国神社に祀られて英霊として感謝され、国民としての尊厳を認めてもらえるからだ。だから戦争を希望する」というわけである。
 彼の言説は一見暴論のように受け取られるが、安易な護憲に対する鋭い批判として重く受けとめられる、と高橋教授は論評していた。
 尤も、戦争で戦って死ねば「英霊」として祀られてその尊厳が国中から認められるかといえば、そうとはかぎらず、敵国民はもとより自国の(戦争を望まず、ただ巻き添えにされて辛い思いをした人々など)少なからぬ人々からも違和感をもたれかねないというのは、先の大戦後、戦死者をA級戦犯とともに祀っている現在の靖国神社に対する人々の反応を見れば明らかである。それに不再戦の決意を貫き通すのであれば、その戦死は「平和国家建設の礎」になったとして尊ばれることもあったものを、不戦の誓いを破ってまた戦争したとなれば過去の戦死者たちの死は「犬死」になってしまう。
 そんなことなら、小林多喜二の書いた「蟹工船」の男たち(或は多喜二自身)のように、自分たちを非人間的に扱っている者たちに対して、「生きるか死ぬかだ」といって果敢に闘いを挑んだ方が、むしろましだろう。今、「蟹工船」はベストセラーになっており、その「蟹工船」の男たちに共感して起ちあがり始めている若者たちがいる。その一人でもある雨宮処凛さんは次のように語っている「私たちの運動は、右や左といった思想を出発点にしているわけではない。労働者だけを対象とした労働運動とも違う。貧困という生活の実感に根ざした生存運動なのだ。
 これまでは社会の仕組みや闘う方法を知らず、国や企業につけ込まれてきた。でも自ら動けば社会は変えられるのだと気づき、闘うことが楽しくなってきた。」(5月18日、朝日新聞「耕論」)と。
そうだ、闘えばいいのだ。
 単に、現実をそのままに―政府の雇用・労働政策も年金・医療政策も安保・防衛政策も(沖縄の米軍基地も)政治・経済・社会を現状のままに、「護憲」とか「改憲には反対」と(世論調査や、将来もしかして行われるかもしれない国民投票などで問われて)答えるだけではなく、憲法の定めに合致するように、現状を変えるべく、仲間(同じ境遇にある者)と共に声をあげ、闘わなければならない。黙っていては、状況は何も変わらないのだから。
(3)9条違憲判決
 先月、名古屋高裁で、自衛隊のイラクでの活動を違憲とする判決が下った。
空自のイラクでの活動は(バグダッドは「戦闘地域」に該当。そこへの空輸は「他国による武力行使と一体化した行動であり、自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない」から)9条に違反していると、はっきり判断を下した。そのうえに、平和的生存権の具体的権利性を認めて、「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命・自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」とした。ただし、原告らが直接的に侵害を受けたとまでは認められないとして、彼らの請求自体は却下された。
 これに対して福田首相は、主文で原告側の差し止め請求は却下されたのだから、国側の勝訴であり、裁判官がそれに自衛隊のイラクでの活動違憲判断を加えたのは余計な「傍論」にすぎないと、事実上無視をきめこみ、航空幕僚長にいたっては「そんなの関係ねー」と言い放っている。それこそ「こんなの許してはおけねー」わけである。
 それでも、この判決は画期的なものである(原告側は「実質的な勝訴判決」と受け止めて上告せず、判決主文では原告の訴えが却下されているから国側も上告できず、判決は確定)。これは愛知県で集団訴訟に起ちあがった市民の闘い(運動)の賜であろう。

 憲法には12条に「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とある。自らの権利は、自らの手で守り、実現しなければならず、政府や政治家に任せっきりにしてはだめだということだ。
 現状をそのままにしておきながら、ただ「憲法を守れ」などと云ってもしょうがない。ましてや、政府や政治家やメディアに任せっぱなしにして、ただそれを(テレビ・新聞・雑誌で)眺めているだけでは、憲法はいつのまにか実質的に、或は条文まで変えられてしまう。そうなっては終わりだ。
 「そんなの関係ねー」なんて云ってらんねんだ。なあ(孫どもよ!)

2008年06月20日

「社会保障抑制か、さもなくば消費税増税か」だって?

 政府・与党政治家や財界やマスコミは、よく「財政悪化と少子高齢化で、今や国家存亡の危機にある。国民は痛みに耐えよ!」と云いたてて、二者択一式に単純化して次のような問いかけや問題提起の仕方をする。
 「社会保障費(年金・医療費など)削減か、消費税増税か」「高福祉・高負担か、低福祉・低負担か」「消費税増税か、上げ潮か」(後者は、経済全体の底上げによって企業収益が増え賃金も上がって税収が増えるのをあてこむというものだが、現実は、景気回復で企業収益は激増しているのに、賃金はいっこうに上がっていない)、「税金は豊かな人から貧しい人への所得再分配になるように課すべきか、それとも努力した結果が報われるように課すべきか」 「改革か、現状維持か」(「改革派か、抵抗勢力か」)等々。
 このように問いかけられた庶民は、単純に「改革が必要に決まってる」「消費税引き上げもやむを得まい」「努力して沢山稼いだ人が損をするような税金の取り方はまずい」「財政事情を考えれば社会保障費減額もやむを得ないだろう」「『中福祉・中負担』(朝日新聞の主張)がよい」となってしまう。
 しかし、このような問題の立て方って、おかしくないのだろうか。
(1)財政の目的は収支黒字化にあらず
 「はじめに財政ありき」で「財政再建」とか財政コストにばかりこだわり、「社会保障費抑制か、消費税増税のどちらかしかない」という結論に導こうとする。
 そもそも財政悪化をまねいた原因は、社会保障費の増大などではなく、道路建設など、ゆき過ぎた大型公共事業にあった。(1990年代、日米構造協議におけるアメリカからの要請に応じて「10年間で630兆円」という公共事業基本計画がたてられ、毎年50兆円ずつ公共投資が行われたが、それに対して社会保障費の方は20兆円と大きく下回っていた。)
 財政が空前の巨額赤字(国と自治体と合わせて700兆円)を抱えていることも確かだが、だからといって財政破綻・債務不履行につながる危機的状況にあるのかといえば、それは必ずしもそうとだは云えないのだ。
 中央・地方の財政赤字のGDP比は、02年は8.8%であったが、07年には3.4%まで減っているし、財務省自身が危機は乗り切ったと云っている。
 (月刊誌「世界」4月号に掲載されている井手英策・横浜国立大准教授の論文「本当に財政危機なのか」によれば)我が国の外貨準備高は依然として世界第2位を誇り、経常収支の黒字は巨額であり、財政赤字といってもそれは「管理された赤字」なのだとしている。
 アメリカは「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)を抱え、世界最大の債務国だが、破綻国家ではない。

 そのうえ我が国の財政には「特別会計」というものがある。年金関係・道路関係・食糧管理その他の「特定財源」となっているものだ。それは「一般会計」83兆円の2倍(178兆円)もの額に達する。塩川正十郎元財務大臣が「母屋ではおかゆ食って辛抱しようとけちけち節約しているのに、離れ座敷で子供がすき焼き食っておる」と評したのは、この特別会計のことだ。最近では「霞ヶ関埋蔵金」などと言われたりもしている。
 (上掲誌「世界」掲載の神野直彦・東大大学院経済学研究科教授の論文「三つのドグマを打ち破ろう」によれば)財政の使命は、経済危機や社会危機を解消して「幸福な社会」を実現するためにあるのであり、それは「市場の失敗」に対応するだけではなく、その使命は、公共と民間、豊かさと貧しさ、仕事と生活などで生じているアンバランスを回復することと、「悲しみを分かち合う」生活共同体を育成することにもあり、そもそも収支黒字化や帳尻合わせ自体が財政の目的ではない、ということなのだ。
(2)財政使途の優先順位
 国や自治体が何にカネをつぎ込むか、どこから集めるか、財政支出と税源には次のような優先順位がある。
事業(使途)
①たとえ財政難でカネが足りなくても、他をカットするか、増税するか、借りるかしても、やらなければならず、絶対削ってはならないもの
②カネがある限り(予算の範囲内で)やらなければならず、削ってはならないもの
③カネが余れば(財政に余裕があれば)やってよく、余らなければカットしてよいもの
(不要不急なもの)
④無駄で、カネがあってもやってはならず、カットすべきもの

財政支出項目・使途には具体的にどのようなものがあるか、列挙すれば次のようなものだ。それぞれ①~④の優先順位のどれにあてはまるか、である。
[社会保障関係費]社会福祉費、社会保険費、医療・保健衛生対策費、生活保護費
[雇用対策費]
[中小企業・地域経済対策]
[農林水産・食糧安定供給関係費]
[教育・文化費]
[公共事業費]
[環境対策費]
[軍事費]
[ODA費]発展途上国への開発援助費
[災害対策費]
[科学技術振興費]
[政党助成金]
(3)社会保障費はどうなっているか
政府は小泉改革(「骨太の方針」)で07年度から5年間で1.1兆円の削減を決定、毎年2,200億円ずつ削減へ
年金―基礎年金への国庫負担は3分の1から2分の1に増額へ
政府の「社会保障国民会議」は、この基礎年金の財源を「全額税方式にするか、保険料方式にするか、どちらがよいか」などと二者択一式の問題提起をして、全て税でまかなう全額税方式でやれば、消費税率を9.5~18%まで引き上げる必要ありと試算してみせている。
最低保障年金制度―全額国庫負担(税金)による―は必要
医療―国庫負担のGDP比(8%)は先進国では最低水準
「後期高齢者医療制度」―75歳以上の高齢者を国保(国民健康保険)や健保(健康保険組合)から切り離して、彼ら自身が保険料を(年金から天引きされて)納める彼らだけの医療保険に組み入れる。受けられる医療の内容(受診制限)も、その値段(診療報酬)も、他の世代とは別建てに。財源は税金(国庫負担・自治体負担)から5割、国保・健保など他の医療保険から(支援金)4割、高齢者自身が納める保険料1割。
こうして国庫負担を抑えるのが狙い。
(窓口負担は従来どおり原則1割負担、現役並みの所得がある人は3割負担。以前は、1973年から10年近くの間、70歳以上、全員無料だった。)
乳幼児医療の無料化も課題
公立病院(民間病院ではできない不採算部門の僻地医療や救急・救命、感染症治療、災害医療など重要な部門を担っているのに、自治体病院に対する普通交付税の財政措置を大幅に切り下げ、病院経営の悪化を招いている)を統廃合し民間委譲してつぶすか、維持・存続するか。
医師(人口1人当たりの医師の人数はOECD加盟25ヵ国中23位、特に病院勤務医・産科・小児科医が不足)・看護師の人員・勤務実態をどうするか、改善が急務。
介護福祉―介護スタッフの低すぎる報酬、過酷な勤務実態、1年間5人に1人が辞めていく―報酬の引き上げ、人員配置基準・労働条件の改善をどうするか。
少子化対策予算―ヨーロッパではGNPの2~3%投入、日本は0.8%(約4兆3千億円)
児童手当の増額、児童扶養手当は削減か、確保か
児童施設整備費、保育所の増設、保育士の増員をどうするか
児童相談所の拡充、児童福祉司の増員をどうするか
生活保護―その扶助基準が税金の課税最低限を決める物差しになっていて、地方税の非課税基準、就学援助の適用基準、国民健康保険料の減免基準などにも連動し、最低賃金を決める物差しにもなっている。だから、これは生活保護を受けている人だけの問題ではないわけ。
(4)雇用・労働対策費はどうなっているか
派遣労働の問題―賃金のピンはね、劣悪な労働条件の温床に。
そもそも派遣労働は戦後、職業安定法で禁止されてきたもの。
1985年労働者派遣法で16の専門業種に限って解禁
1999年原則自由化、2003年には製造業でも解禁―正社員を非正社員に切り替える方向へ
労働者が物のように「使い捨て」される状況が蔓延
労働者派遣法の抜本改正―派遣労働や有期雇用の規制復活、派遣労働者・パート労働者と全ての労働者の均等待遇(同一労働・同一賃金、社会保険適用など)―の必要性
日雇い派遣は原則禁止へ(厚労大臣が意向表明)
労働基準監督署―会社による違法・脱法行為のチェック体制の強化、監督官の増員が必要
ワーキング・プアからの脱出支援―技能修得、資格取得のための職業訓練―訓練期間中の生活資金の貸与・家賃補助制度の必要性。
長時間労働・サービス残業などの勤務実態の改善は、不安定雇用の改善とともに急務―結婚・子育てしやすい環境をとり戻す少子化対策につながる。
(5)中小企業・地域経済対策費はどうなっているか
中小企業への賃金助成
中小企業に対する優遇税制
揮発油税・軽油取引税の暫定税率の撤廃
既存融資への利子補給、省エネ設備導入への無利子融資などの緊急措置の必要性
地方自治体がきめ細かい中小企業支援策をとれるような予算措置の必要性
地方交付税の財源保障―住民福祉の保障―公共施設・公共交通は廃止か再生か
(6)農業・食糧対策費はどうなっているか
2兆円台で予算全体の3%と少ない
実態―食糧・飼料価格の高騰
   米価は暴落、減反が続き、耕作放棄が拡大
食糧自給率わずか39%―海外依存
小農家、切捨てか、価格保障・所得補償制度による支援か
食品衛生監視員の大幅増員―輸入食品の検査率の引き上げ(10%から50%に)の必要性
BSE対策―自治体の行う「全頭検査」への補助金
(7)教育・文化費はどうなっているか
教職員の増員、教育条件の改善
学校施設の耐震化促進
国立大学の運営費交付金―削減か、増額か
私学助成―減額か増額か―08年度予算では、3,248億6,800万円
高校の授業料の減免対策(05年度、公立7.5%、私立0.1%)を拡大(1割程度に)
学費(日本は世界一高い)無償化(国連の人権規約に定め、多くの国では実現)、授業料無料化をめざすこと(私学もだが、国公立の学生・院生だけなら2,860億円で実現可能)
(8)公共事業費はどうなっているか
差し迫って必要なのは、大企業向け産業基盤整備(スーパー中枢港湾・巨大ダムなど)の大型公共事業か、それとも住民生活密着型(福祉・教育・交通安全・防災など)の公共事業か
道路特定財源―「道路中期計画」10年間で59兆円―「総額先にありき」で道路建設につぎ込もうとしている。半分は高速道路整備(「基幹ネットワーク」1万4,000キロ、「地域高規道路」7,000キロ)が占める。(通学路の歩道整備や「開かずの踏み切り」対策などは計画全体のわずか数パーセントに過ぎない)
国交省の「国土形成計画」―海峡横断道路プロジェクト(東京湾口などをまたぐ道路の整備構想)もあり。
(9)環境対策費はどうなっているか
環境税、導入の必要性―大口排出者である大企業に相応のコスト負担を求める
     環境省が考えている環境税による税収は3,700億円
電源開発促進税を一般財源化し、自然エネルギーの利用促進などに生かす必要性
公害被害者の救済―大気汚染・水俣病・アスベスト被害など―原因企業と国が負担
(10)軍事費はどうなっているか
毎年、5兆円で、たとえどんなことがあっても削ってはならない「聖域」扱いにしている。
駐留米軍への「思いやり」予算―(08年度)2,083億円(1978年以来、合計5兆円をはるかに超える)そもそも日米地位協定上、日本には負担義務がないもの―をまだ続けるのか
「SACO(日米特別行動委員会)関係経費」(沖縄の米軍基地たらい回しを進めるもの)―全額削除の必要性
米軍再編(グアム移転や国内での基地再編)計画に3兆円―そのまま引き受けるのか否か
海外派兵型装備の導入・開発は実行するか否か
   イージス艦1隻1,453億円
   ヘリ空母1,000億円
   揚陸艦型大型輸送艦
   大型補給艦
   空中給油機
   輸送機CX
 「ミサイル防衛」08年度1,714億円計上、これまで7,347億円、11年度末まで1兆円をつぎ込む計画
イラク・インド洋への自衛隊派兵―継続か、打ち切りか
(11)ODA
対GNI(国民総所得)比0.17%―国際水準0.3%よりもずっと少ない。1980年頃は0.32%、で、89~06年までは世界トップだったのに。
福田首相は最近、アフリカ向けに、2012年までの5年間で4千億円の円借款を中心に、ODA倍増めざすと言明。
(12)政党助成費はどうなっているか
年間310億円以上(12年間で3,760億円)
 自民党へ166億円
 民主党へ110億円
 公明党へ 28億円
 社民党へ  9億円
 人によっては、自分の納めた税金が、この割合で、支持もしていない政党に使われてしまうということ。そんなことでいいのか。
(13)増税するなら、どの税からか税源には消費税、所得税、法人税、その他相続税・ガソリン税・環境税(炭素税)など
があるが、増税するとすれば、これらのうちどの税を先にするか。
(14)消費税の問題点
消費税は(05年)税収全体(49.1兆円)の21.6%(10.6兆円)
消費税の利点は、子供や高齢者(福祉を受ける立場の人間なのに、このような人々からまで取り立てる)・低所得者を含めて幅広く、かつ確実に徴集しやすいこと。(所得税だと、自営業者や農林漁業者の所得は国が把握しにくく、彼らからの徴集はやりにくい。)しかし、それは徴集する側の都合。
肯定論者は「広く公平にみんなで負担を分かち合う」と言うが、実は不公平で庶民、特に低所得者には全く不利。
逆進性―所得の多い者ほど軽く、所得の少ない者ほど重くなる。(年収に占める消費税の割合は、年収1,500万円世帯では1.4%だが、年収300万円世帯では4.2%)
所得の低い人は収入の8割以上を消費に当てるが、金持ちは、お金を貯蓄や株・土地購入などに当て、消費には半分も回さないから。
大企業は消費税分をすべて価格に転嫁(上乗せ)して自己負担をゼロにできるが、中小企業はそれができず、自腹を切らなければならなかったりする。
(売上1千万以下の場合は、客から受け取った消費税は国に納めなくてもよいので、中小業者の手元に残る―益税)
ヨーロッパでは消費税に相当する付加価値税は税率20%前後で高いが、非課税品目や軽減税率が適用される品目(食料品・水道代・家庭用燃料・医薬品・新聞・雑誌など)が多数ある。(イギリスでは食料品は完全非課税)日本の消費税には、それがない。
「福祉税」とか「社会保障税」などと名を変えて特定財源化するのは邪道(ヨーロッパでそうしている国は無い)
(15)所得税はどうなっているか
税収全体の31.8%(15.6兆円)
累進課税―そもそもこれが課税の原則で、負担能力に応じて支払う「応能負担」が原則なのだが―所得の少ない人ほど安く、所得の多い人ほど高いが、最低税率と最高税率が定められ、最低税率以下にも、最高税率以上にもならない。
税率―1970年代には19段階で、最低税率10%、最高税率75%
80年代には15段階で、最低税率10.5%、最高税率70%
89年には5段階で、最低税率10%、最高税率50%
99年には4段階で、最低税率37%、最高税率37%
2007年には6段階で、最低税率5%、最高税率40%
住民税(一律10%)と合わせれば、最低税率15%、最高税率50%(一般庶民に50%課税なら、江戸時代の農民のように「5公5民」で過酷な取立てになるが、一般庶民や普通のサラリーマンに最高税率が適用されるほどの高額所得者はおらず、大資産家だけにかぎられる。大資産家はそれで「働く意欲を失う」などということはあり得ない。そもそも彼らは勤労給与所得よりも株式の譲渡益や配当など金融所得のほうが多いのだから)
 証券優遇税制―株のもうけ(上場株式の譲渡益や配当金)に対する分離課税を認める―その税率は(資産性所得税と住民税合わせて)20%だったのが(03年以降)10%に軽減。
課税最低限(精一杯働いても、健康で文化的な最低限度の生活がやっとできる所得しか得られない人には税金は掛らないが、所得がそれを上まわると課税される最低金額)―欧米に比べて低い―ドイツ558.2万円、フランス460万円、イギリス423.4万円、アメリカ401.3万円に対して日本は325万円―ということは、日本では欧米よりも所得の低い人から税金を取っているということ。

生産年齢人口(15~64歳)に対する老年人口指数(65歳以上の割合)が「伸びている」というが、老年人口に14歳以下の子どもを足した人口割合(働き手1人が扶養する人数)は、ここ数年変わっていない。それに子どもと違って、老年人口の中には働いている高齢者(増えている)も含まれる。            
1999年以来続けられてきた定率減税(所得税20%、住民税15%減税)は07年に廃止された。
(16)法人税はどうなっているか
税収全体の27.1%(13.3兆円)
法人税は90年代ずうっと減税されてきた。(個人所得税の減税は廃止したのに、法人税の減税はなおも続けられている)
税率―80年代40~43.3%
90年度37.5%
98年度34.5%
99年以降30% (年間所得800万円までの中小企業は22%―軽減税率)
    90年の水準に戻せば(国・地方合わせて)7兆円の増収、大企業だけに限定しても4兆円増収となる
地方税を含めた法人課税の実効税率は39.54%(ドイツ29.83%、フランス33.33%、イギリス28%よりは高いが、アメリカのカリフォルニア州40.75%、ニューヨーク市45.95%、ドイツのデユッセルドルフ市39.90%よりは低い)
ヨーロッパは社会保険料の企業負担が高く、{税+社会保険料}では日本より高い。税(法人税・法人住民税・法人事業税)と社会保険料を合わせた企業負担は、GDP比では日本8.0%で、フランス13.9%、スウエーデン14.6%、ドイツ8.4%より低く、イギリス6.7%、アメリカ5.6%より高いが、日本の企業負担が特に高いわけではなく、その点で国際競争力が弱いというわけでもない。(日本企業の国際競争力は)むしろ抜群に強い。
世界のトップ10に占める日本企業は、ロボットでは8社、情報通信機器では6社、半導体製造装置では6社、アルミニウム圧延では6社、自動車ではトヨタなど3社と多い。
企業に対する税金の高さが生産拠点の海外移転の主たる理由にはなっていないということだ。海外移転の理由の一番は労働コスト(人件費)が安いこと、二番目が海外市場の将来性で、税・社会保険料負担は5番目。

大企業には「研究開発」減税、「IT投資」減税などの減税が行われている。それを縮小・廃止すれば1~2兆円の増収となる。
資本金10億円以上の大企業の経常利益は(06年)32,8兆円で史上最高、バブル期のピーク時(90年)の1.74倍。ところが大企業の税負担のほうは(90年)13.9兆円だったのが(06年)13.7兆円で、ほぼ同水準に留まっている。
(17)ガソリン税はどうすべきか
1954年以来、ガソリン税(揮発油税・地方道路税)は、軽油取引税・自動車取得税・自動車重量税などとともに(道路整備財源特例法に基づいて、これらの税を専ら道路建設に充てる)道路特定財源とされた。
1974年以来、ガソリン税に暫定税率を上乗せ(当初、期限2年間だったのが、延長を繰り返す)
ガソリン価格に占める税金は
 リッター152円とした場合その内訳は{原油価格・諸コスト・業者の利益など90円+本来のガソリン税28円+暫定税率分25円+石油石炭税2円+消費税7円}
ガソリン税による税収は(08年度予算)約5兆9,749億円
 内、国の分―約3兆2,979億円(本来の税率分1兆5,979億円+暫定税率分1兆7,000億円)
   地方の分―約2兆677億円(本来の税率分1兆1,677億円+暫定税率分9,000億円)
暫定税率―道路整備財源特例法とともに期限切れで3月末で失効
     4月末、衆院で再議決して復活、10年間延長
5月13日、政府は09年度から一般財源化すると(閣議決定)
同日、与党が「道路整備財源特例法改正案」(期限切れとなった道路整備財源特例法を10年間延長する法案で、前日に野党が多数の参院で否決したもの)を再議決(一般財源化するとした閣議決定と矛盾)
 首相は野党議員からの「社会保障と道路建設とどちらに緊急性があるのか」との質問に対して「両方とも緊急性がある」と答弁。
 世論調査では多く(7割近く)が「一般財源化」(福祉や教育その他にも使えるようにすること)を望む
(18)環境税はどうすべきか
温暖化防止を目的に炭素排出量に応じて課す場合は特に「炭素税」と呼ぶ。
我が国では未だ決まっていないが、環境省案では炭素1トン当たり2,400円(ガソリン1リットル当たり1,52円)
 現在のガソリン税は(暫定税率分25円と合わせて)1リットル53,8円
企業には導入反対が多い(朝日新聞によるアンケート調査では、全国主要100社のうち、反対41社、賛成27社、その他が32社)

 ヨーロッパ諸国で既に実施している環境税は、炭素量に応じて課税する純粋な「炭素税」から、既存のエネルギー税(ガソリン・石炭・電力などへの課税)を組み替えたものまで、タイプや税率は様々だが、日本のガソリン税や石油石炭税などに比べて税率ははるかに高い。但し、目的(用途)は限定せず一般財源化しており、税収を企業の社会保険負担や所得税・法人税の軽減などの形で還元も。
(19)たばこ税の増税は?
現在1箱300円のうち63%(189円17銭)が税、これによる税収は2兆2千億円
これを1箱1,000円にすれば(健康政策を推進しようという超党派による議員連盟から、この増税案)、喫煙率(男40.2%、女12.7%)が3分の1に減ったとしても増収3兆円
(そもそも日本は値段が安すぎ、欧米では1,000円がザラ)
(20)優先すべきは社会保障費、増税は大企業・大資産家から
 格差・貧困が広がって、「この国では安心して希望を持って生きてはいけない」という人々(若者も壮年者・高齢者も)が増え、深刻な社会問題や事件が起きている。このような時―
財政・予算で優先すべきは、まずは社会保障費と雇用・労働対策費であり、次いで農林水産・食糧対策費、教育・文化費、環境対策費である。そして削ってもかまわないものは道路など大型公共事業費と軍事費であり、政党助成費などは無くすべきなのだ。
 税源は、大企業と高額所得者・資産家に様々な名目でマケてきた税金―減税や軽減税率や上限(最高税率)の引き下げ等―をやめて、元に戻せば、充分確保できるのだ。
 
「増税もやむなし」、増税といえば消費税・・・と、もうそれ以外になく、「消費税率引き上げは不可避」、「問題はどの時期、どのタイミングでやるか」だけだ、といった方向に世論誘導が政治家や財界・新聞(論説)・テレビ(コメンテータ)などよっておこなわれているが、騙されてなるものか!

2008年07月18日

日々、生命の燃焼(加筆修正版)

 先日、三人目の孫が生まれた。オギャー、オギャーとばかりに生命を燃焼させ始めている。新しい生命の誕生、新しい人生のスタートだ。
 「生きる」とは、生命を燃焼させることであり、人生は、日々、生命の燃焼。
(1)目標をもって生きる
 すべての生き物は、生命を燃焼させて生きている。動物は欲求をもち、それが獲物や交尾の相手を求め、子を生み育て、天敵から身を守るなどの行動にかりたてる。すなわち欲求が行動にかりたてる原動力や活力となり、「生命力を発揮」させ「生き生き」とさせ、いわば生命の燃焼に光り輝きを加えるのである。(獲物を狙い追いかけ襲いかかる時の動物は、目は爛々と輝き、躍動感に満ちている。)
 人間の場合は、赤子のうちは動物と同じで本能的・生理的欲求だけにとどまるが、成長するにつれ、その欲求に自己実現欲求や文化的欲求など様々な欲求が付け加わる。
 それに人間は本能的な欲求選択調整力(諸欲求の中から、その時その時で最優先の欲求を選びとり、他は先送りするなどの欲求コントロール能力)をもつだけでなく、「こうすればこうなる」と考える論理的思考能力をもち、いわば目標設定計画力(何か目的・目標をもち、それを目指して作戦・計画たてる能力)をもつ。そして目的・目標を果たそうとして一生懸命になり、必死になったりもする。(うまく果たせれば達成感を味わい、結果は失敗に終わっても、それに取り組んでいる過程で心の充実感を味わう)そこに「生きがい」を感じる。人々が日頃思い描く目標にはだいたい次のようなものがある。
 生きることそれ自体、直面する問題解決、生計、仕事、金儲け、蓄財、昇進、地位獲得、家族の幸せ、愛、子育て、人助け、社会貢献、社会運動、闘い、復讐、創作、鑑賞、学問、スポーツ、試験合格、趣味、ゲーム、ギャンブル、旅行、冒険、お祭り、娯楽。
 これらの欲求と目標が人を行動にかりたて、生命力を発揮させ、生命の燃焼に「より豊かな」光り輝きを加える。(逆に云えば、欲求と目標を無くしてしまったら「生きがい」も無くなってしまい、生命の燃焼に光り輝きが失われる。)

 事例(1月9日、NHK「生活ホット・モーニング」から):末期ガンで寝たきりの患者にリハビリを勧めたところ、患者は「どうせ死ぬんだから」と言って難色を示したが、どうにか説得すると、「それなら、友人が集まる恒例のパーテーに行きたい。その会場は2階だから階段を登れるように」といってリハビリを受けた。その結果、パーテー出席の目標を果たしただけでなく、それまで動かずにいたために損なわれていた機能も回復し、活動範囲が広がって新たな生きがいを呼び起こすことになったという。

 心身とも健康で体力・知力に経済的余裕もあるという人の場合には、どんな目標選択も可能なわけである。
 海洋冒険家の堀江謙一氏は、以前、ヨットに「一人ぼっち」乗って太平洋を横断、その後「単独無寄港世界一周」を2回も果たしたが、今年69歳となって、今度は「波力推進船」でハワイから日本まで踏破して見せるという目標と計画をたてて実行し、それを果たした。7,800キロを、化石エネルギーには頼らず完全に自然エネルギーでというわけだが、波まかせ、徒歩より遅いスピードで110日間かかって、帰ってきて曰く、「精神と肉体を完全に燃焼できました」。そして三桁(100歳代)まで頑張ると冒険への挑戦を宣言した、とのこと。

 常人では思いもよらない壮挙には違いないが、人によっては、それは偉業というよりは、人々の実生活には何の役にも立たない当人の自己満足に過ぎない壮大な愚挙とも思えるだろうが、私などはこのスピード時代に何ともスローな大冒険もあるものだなという感動を覚えた。いずれにせよ、彼の生命は100年間燃焼を続け、燦然たる輝きを見せるということだ。
(2)目標は何だっていいが、これだけは
 欲求選択・目標設定も「世のため、人のため」になるようにものならば、それにこしたことはない。人々から感謝され、共感が得られれば嬉しいし、より満足感が得られるからである。しかし、そのようなものではなくても、(この私が今こうしてやっているような)人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないものではあっても、人畜無害で、犯罪など法や人の道に反しないかぎり、目標は何だってよい。

 ところが、置かれている状況やその境遇から、目標を選ぼうにも(仕事にしても何にしても)選べる余地が無く、絶望感に陥っている人が少なくない。
 彼らの中に、やけくそになって(自暴自棄に陥って)自殺にはしったり、ひどいのには死刑になって死にたいと「間接自殺」をはかって無差別殺人にはしったりした者もいるわけである。

 しかし、たとえ自分が、いつまでたっても「使い捨て」派遣社員の身だとか、絶望的な境遇に置かれて目標も夢も希望もすべて失い、生命の燃焼に光り輝きは失っているとしても、或はまた(「フリーター、希望は戦争」と云う赤木智弘氏が論ずるように)フリーターや派遣社員の生活は日々「生きるための戦い」であり準戦時と同じだとは云っても、本当の戦争(それは「死に至る戦い」というべきもの)で武器による殺傷行為によって完全に命が絶たれてしまうのとは異なり、生命そのもの(火種)は保たれ燃焼し続けているかぎり、たとえかすかなりとも光り輝きを取り戻す余地は残されているのだ。
 人は、いかなる事情のもとでも(辛く、苦しく、苦悩・苦痛にさいなまれ、死に瀕している場合でさえも)、生きているかぎりそこには、(享楽や社会的成功とかではなくても)何らかの、たとえどんなに些細でささやかなものであっても、その人にとって生きていればこそ得られる楽しみ(「生きている意味」をなすもの)があるはずなのだ。

 にもかかわらずそれを、「どうせ生きていても無意味だ」などと決め付けて自らの命を絶ってしまうことこそ無意味なのである。
 死は、その人自身にとっては生きていればこそ得られるはずのものが、全く無でしかなくなる(万一苦痛・苦悩や重荷からせっかく解放されたとしても、そのかいも無くなってしまう)からである。

 (それにしても、他の生き物はすべて、それに赤ん坊も、目的・目標など持たなくても、あるがままに、ただひたすら生きている。それは生への本能的欲求があるからである。造物主―神様が生命を与えた生き物には、「死を欲する」欲求は与えられてはいない。)

 精神科医でメンタル・ヘルス国際情報センター所長の小林司氏がその著書(「『生きがい』とは何か」NHKブックス)に、数十年前亡くなった東大教授で宗教学者であった岸本英夫が、あと半年の命と宣告されながら、10年近くもガンと闘い続けて書き残した著書から、彼(岸本)の死に対する考え方を紹介しているが、それは次のようなものである。
 彼は、死後も生命は存続するなどとは信じなかったし、天国や浄土などの理想世界を信じることはできなかった。
 彼が気づいたことは、死というものは実体ではなくて、実体である生命が無くなるということに過ぎないという事実であった。生と死は、ちょうど光と闇のようなものだが、暗闇というのはそれが存在するのではなくて、光が無いというだけのこと。
 人間に実際与えられているのは現実の生命だけだ。人間にとって確実なことは、「今、生きている」ということだけ。その寿命の中の一日一日は、どの一日もすべての人にとって同じように実態としての生命であり、どの一日も同じように尊い。
 いくら死が近づいても、その死に近い一日も、健康な時の一日と同じように尊い。したがってその命が無くなる日まで、人間は生命を大切にしてよく生きなければならない。
 「与えられた人生をどうよく生きるか」ということが問題なのであって、辛くても苦しくても、与えられた生命をよく生きていくより他、人間として生きるべき生き方はない。

 小林氏は、岸本氏のこの考え方のように最後を生きた方(姫路市で理髪業をしていた田中祐三氏)を紹介している。
 彼(田中)は胃ガン手術後、再発の恐怖にさいなまれたが、ある講習会で「悪い方にばかり考えず、物事を別の方角から見て良い方に解釈する」「見方一つで希望をつかめる」と学んだ。暫くたって、ガンは腸に転移して(S字状結腸の4分の3が詰まって便が通らず)激しい痛みに苦しんだ。しかし彼は「ガンの末期であっても楽しく生きられ、見方を変えればガンだって怖くない。日々の命に感謝しよう」ということを、ガンで苦しむ人たちやその家族に訴えたいと決意して、北海道から岡山まで十数ヵ所で講演して歩いた。東京大学では、学生や医師らを前に「私には今しかない。今、今、今です。あとすこしの命だが、今を楽しく生きれば、明日につながる」と訴えて、強い感動を与えた。「ぼくはガンと闘っているつもりはない。死ぬ方向ではなく生きる方向を見つめているだけです」と生きることの素晴らしさを半年間語り続け、多くの人に生きる勇気を与えて、彼は大阪のホスピスで最期を終えたという。

 生命の火種を絶やさず、燃焼させ続けているかぎり、それを光り輝かせることができるのだ、ということだろう。

 フリーターや派遣工で日々その日暮らしの惨めな境遇に置かれ、自分を秋葉原事件のKのように「不細工で学歴がなく金もない。結婚もできずに家庭をつくることもなく、いつホームレスになるかもわからない」と思い込んでいる若者は今の日本には沢山いるだろうが、生命の火種だけは絶やさず燃焼を保ち(すなわち生き続けて)、たとえほんの少しでも光り輝くことを諦めきってはいないというのも現実なのだ。

 しかしながら、命の炎を燃え上がらせるとはいっても、他人の命を脅かすか奪い去る凶行にはしり無差別殺人という暴挙におよぶ者が現れているのも現実だ。「やりたいこと―殺人、夢―ワイドショー独占」という欲求選択・目標設定(携帯サイトに書き込み)をおこない、「誰でもよかった」、「人を殺してみたかった」とばかりに、まるで「試し切り」「生体実験」でも行なうかのように人を斬りつけて殺す。
 生命尊重観念の欠落―すべての人がそれぞれに持つ「かけがえのない命と人生」に対する無頓着・無関心さ。誰も彼も皆、人形か玩具か電子ゲームの標的同然であり、どいつもこいつも生きている価値なんて無く壊しても殺してもどうということはない、といった無価値感・虚無感。無差別殺人は、その者のそういった感覚が為せる業とも考えられる。
 そういった感覚(人それぞれに持つ「かけがえのない命と人生」というものに対する無頓着・無関心、虚無感など)を植えつける家庭環境・教育環境・社会環境の歪みに問題があるのであって、それらを是非とも正さなければならない。そして自殺も殺人も起きないような社会にしなければならないのである。(この国で自殺は、この10年毎年、年間3万人以上、人口当たりの自殺数は先進国中最多であり、アメリカ・イギリスの2~3倍の多さである。「経済大国」「平和国家」などといっても、とても自慢できる状態ではないということだ)
 自殺や殺人が起きるのは、人の命を大切にする心を育てるべき親の教育もしくは学校の教育が不徹底で生命尊重観念がきちんと植え付けられていないせいだとか、マスコミが「スピリッチュアル・ブーム」をつくりだして、肉体は滅びても「霊」は生き続けるなどという観念を植え付けているせいだとか、テレビもDVDやビデオも漫画も至る所でその仮想現実を見せ付けているせいだとか、ゲーム機が擬似的に「殺戮」をやらせているせいだとか、要するに家庭や学校その他、社会の教育環境に問題があることも確かだろう。
 しかし、そのような教育や教育環境の問題だけではなく、社会の構造に問題があることも確かである。
 親や学校やマスコミその他に原因がある場合もあるが、あくまで本人(個人の資質)のせいであることが多いのだ。命の大切さは親からも学校の先生からもそれ以外でも教えられて来ないはずはないのに、また「いじめ」にあったり、みじめな派遣社員だったり、その人と同じ目にあっている人は他にもたくさん居るのに、その人だけ自殺・殺人に走ってしまう、だとすればそれは他の誰のせいでもなく本人のせいだ、と云うしかないかのようである。
 しかし、たとえ、同じ目(境遇)にあっていながらも耐え忍んでいる人がほとんどなのだとしても、現実に、学校では競争・選別・教員統制があり「いじめ」があり、会社・職場では不安定雇用・長時間過密労働・労働疎外があり、経営の行き詰まり・多重債務があり、介護疲れ等々、希望が閉ざされている状況が社会に多々あって、その結果、極度のストレス、疎外感・不安・絶望感に陥っている人がたくさん生じ、その中から、心身症的不調(抑うつ気分)からブレーク・ダウン(人格崩壊、無感情・無関心、妄想、社会不安障害・パニック障害など)の症状に陥った者(そういう人に「命を大切にしなさい」と言って聞かせようとしたところで、効果はない)、彼らが自殺あるいは八つ当たり殺人に走ったのだとすれば、根本原因は、やはり学校や会社のあり方、社会のあり方にあり、結局は社会に問題がある、ということであって、けっして本人(個人の資質や家庭の問題)だけのせいに帰すべきものでもあるまい。
 
 人々の肉体的・精神的苦痛(激痛・高熱・嘔吐・呼吸困難・発作・妄想・幻聴など)を取り除くか和らげる対症療法とともに、苦悩の根源(人を精神疾患・人格障害に陥らせる根本原因―極度のストレス)を取り去る社会環境の改善、家庭・学校・地域社会・職場など社会の構造改善が必要不可欠なのだ。

 とにかく、人々が人生を毎日生きていく上で望ましいのは、生命の燃焼に光り輝きを加える(生命力を発揮させる)のに役立つ目標をもつこと。それ(目標)はどんなものであってもよく、必ずしも「世のため人のため」になるようなものではなく自己満足に過ぎないものであってもよいのだが、「やりたいこと―殺人」だとか「希望は戦争」だとか社会を害し人を害するものだけは、それが正気であろうとなかろうと(精神状態がどうあろうと)、そのような目標を思いついて実行することは断じて許されないということだ。

(3)優先順位一番の選択
 最近、市の健康福祉部高齢福祉課(事業管理係)から「高齢者福祉事業に関する意識調査」の回答依頼があった。
 その設問には
「問6、あなたはどのくらい外出してますか。」
「問8、あなたはインターネットを利用してますか。」
「問16、在宅で生活している方―今後、身体が弱くなったり、判断力が不十分になったとき、どこで生活したいですか。(1)住み慣れた家 (2)高齢者向けのアパート・マンション (3)施設 (4)その他」
「問17、現在の暮らしについて経済的にどう思いますか。(1)大変ゆとりがある (2)ややゆとりがある (3)普通 (4)やや苦しい (5)大変苦しい」
「問22、あなたは何歳以上を高齢者と考えますか。(1)55歳以上(2)60歳以上(3)65歳以上(4)70歳以上(5)75歳以上(6)80歳以上(7)年齢では一概に言えない(8)わからない」
 といったものがあったが、次のような設問もあった。
 「問20、あなたは現在、どのようなことに喜びや生きがいを感じますか。(あてはまるものすべてに○)(1)働くこと (2)学習や教養を高めるための活動 (3)ゲートボールやウォーキング等のスポーツ・レクリエーション (4)園芸・手芸・囲碁・将棋などの趣味の活動 (5)ボランティア活動 (6)老人クラブ活動 (7)町内会・自治会の活動 (8)特技や技術を生かした創作・伝承活動 (9)近所や友だちとの付き合い (10)テレビ・ラジオ・新聞・読書 (11)旅行やレジャー (12)家族との団らん (13)買い物 (14)パソコンやインターネット (15)子や孫の成長を見守ること (16)ペットの世話 (17)恋愛 (18)その他(     ) (19)特にない」

 私が○を付けたのは(14)と(18)で、(18)の( )には「評論」などと記入したものだが、そこで私が考えたのは次のようなことだ。 
 仮にこの身がガンや何かで余命幾ばくもない命であることが判った時、それまでは自分の生きがいにつながる大切なものが幾つかあった中から、もはや「あれもこれも」というわけにはいかなくなって、何か、優先順位の一番を除いて他はすべて諦めなければならなくなったという場合、ただ一つ残る一番大切なものといえば、それは何か。(最後の命をかけなければならないと思うもの、一番心残りに思うものは何か)
 仕事、事業、お金、財産、何かの愛蔵品・愛用品、作品、趣味、冒険、国家、地球環境、憲法、妻子、孫、母親、父親、恋人、友人

 かくいう私の場合は?それはやっぱり・・・・・孫の行く末かな。(憲法が大事なのはこの孫たちのためだ。父も母もとおの昔死んだし、「妻のことは?」だって?それは、妻も孫のことが一番と思っているだろうよ。まさか亭主のことが一番心残りだなんて思ってはいまい。)

 そもそも、私がこの世に生を得たかぎり、この私でないと出来ないこと(この私だからこそ出来ること)をやって死ぬのが本懐というものだろう。
 この私が出来ることは誰でも出来るものばかりで、私にしか出来ないものなどというものは格別ないのだが、ただ一つ、自分の身内(妻子・孫)に対する無償の「世話やき」だけは、夫であり、親であり、爺である私でなければ出来ず、私だからこそ出来るのだ、ということだけは確かだろう。
 だから、何をやめても、これ(身内の世話焼き)だけは最後までやめることはないだろう。・・・・・「オギャーオギャー」。孫が泣きだした。女房はベランダで物干しか。だったら、この私がやるしかない。さぁ子守りだ!(作業は、しばし中断)

(4)結果はダメでも
 (ジャイアンツ元エース・ピッチャーの桑田が入団当初、君の特技は何かねと訊かれて「努力することです」と答えた、ということが何かに書いてあったのが頭にあって)孫には「お前の特技は、何でも(目標に向かって、たとえ結果はダメでも)頑張れることだな(サッカーでも水泳でもバイオリンでも、ピアノでも)」と云っている。
 但し、頑張り過ぎはいけない。『燃え尽き症候群』(何もかもが嫌になるうつ病)に陥ってはまずいから。
 仮に終末期を迎えたとしても、闘病は頑張れるだけ頑張りはするが、これ以上はもう無理だというのに延命措置をいつまでも続けてまで生かされていたくはない。安らかな自然死が一番。
 私自身の生命は寿命がきて燃え尽きても、火種は孫に引き継がれていく。この孫たちの生命が燃焼し続けているかぎり、我が生命は不滅ということになる。
 
 小2の孫が、(氷を入れた大きなコップに牛乳2杯目を注ごうとして)母親である娘から「もうやめなさい!」といわれ、私からも「そうだ、そんなに飲むもんでない」といわれたら、はらはら涙を流して「生まれてこなきゃよかった」とつぶやいた。
 しかし、彼は生まれてきたからこそ(嫌なこと、辛いこともあるが、その後に)喜び楽しみが得られるのであって、生まれてこなければ何も無いのだ。
 それに、彼がそもそもこの世に生まれてきたのは、自分が、喜びや楽しみが得られるからだけではなく、(たとえどんなに辛く、嫌なことばかりあっても)人生の途上で何ごとか(余人をもってしては代わることのできない「使命」)を果たすことが期待されているからである。
 自分の人生に何か(自分の望んだ通りのこと、楽しいこと)を期待しようとするのが間違いなのであって、むしろ逆に、彼の人生のほうが、人々あるいは「神様」から「彼なくしては望めないもの」を期待されているのだということ。そこにこそ、「生まれてきた意味」があるのだ。
 この「じじい」は彼に我が命を引き継いでくれることを期待しているが、親は彼に(親に万一のことがあったら彼の妹・弟の面倒を見てもらわなければとか、バイオリンでも何でも、親が果たせなかった夢を我が子に託すとか、我が子が自分自身の可能性を試し自己実現を果たすことを願うのみだとか)様々なことを期待しているだろうし、妹・弟の兄に対する期待があり、彼をとりまく人々の期待もあるだろう。それに「天」は彼に何がしかの使命を課しているはず。彼にはいったいどんな使命が課され、人々から何を期待されているのだろうか、それを考え、判断するのは彼自身なのだが。

 彼はぷいと部屋を出て1時間余り過ぎるとケロっとして戻ってきて、(「生まれてきた意味」を悟ったから、というわけでは勿論ないが)私の前で嬉々として振舞っていた。嫌なことは直ぐ忘れてしまう。それでよいのだ。

 なにはともあれ、我が生命に寿命がきて最終的に燃え尽きる時が来るまで、それでは今日も一日、(朝起きて、夏場はラジオ体操前に、ウォーキングから始まって・・・ちょっと子守りもして・・・夜、床についてウォークマンで音楽を聴いて寝るまでの日課を)さあ頑張ろう。(と深夜までパソコンに向かい続けていたら、「いつまで起ぎでんなだ!」と妻は口説く。そうだ、頑張り過ぎはいけない。)

 早朝、散歩に出かけて、川沿いの道路から3mほど下を流れる小川を見下ろしながら歩いていると、カルガモの親子を目にした。前にもこの近くで見かけたその時は、子鴨はヒヨコだったが、それが親鳥の半分近い大きさになっている(しかし未だ飛べない)。母鳥1羽に小鴨は9羽。逞しい母鳥。我が孫(3人)の母親(我が娘)に見せたかった。
今朝も居るかな、と思いながら同じコースを繰り返して3日目、同じあたりを親子10羽がやって来るではないか。すかさず、家にカメラを取りに戻って駆けつけると、きびすを返した母鳥を先頭に一列縦隊をなして一散に泳ぎ下る。それを追い抜いて前方からカメラをかまえ、通り過ぎるとまた追いかけて撮り直す。3回かそこらそれを繰り返すと、親子は葦の草むらにたどり着いて、そこに隠れとどまった。空をカーカー烏が飛んでいく。危ない!
 その場所で合流する支流の川上15メーター程のところにどさっとゴミがたまっていて流れを塞ぎ、水が淀んでいる、その上から消毒(殺虫剤散布)をしている人がいる。その汚染水が流れる先の草むらには鴨の親子が身を寄せて隠れ潜んでいるし、さっきの川にはハヨやコブナ、ちょっと下流には鯉も見かけるというのに。鴨の親子を追い込んで危機に追いやったのは私の方だ。カメラを持ってうろついている私はそれで「生命の燃焼に輝き」をみせようとしているつもりが、鴨の親子にしてみればとんだ迷惑。・・・・反省、反省。彼らも日々、生命を燃焼させて生きているのだ。


2008年08月23日

北京オリンピックに思う(加筆修正版)

1、オリンピックとは
 北島康介選手は大会前、インタビューで「北島さんにとってオリンピックとは?」と訊かれて、(「言葉は悪いかもしれませんが」と断わりながら)「戦争です」と答えていた。
 胡錦濤主席は北京オリンピックの大会準備にあたり緊急の中央政治局会議で「これはテロとの戦争だ」と号令したという(「週間現代」8月16日号)。両方とも必死なのだ、ということだろう。北島選手が泳ぎに必死になるのはわかり切ったことだが、胡錦濤氏の「テロとの戦争だ」というのは、いったいどういうことなのだろうか。

 ところで、スポーツ競技も国際大会・国対抗の試合となると、それが国家間・民族間の対立と結びついて騒乱が起き、戦争に発展した例さえある。1969年中米のエルサルバドルとホンジュラスのいわゆるサッカー戦争である。(当時、国境未確定なところにエルサルバドルからあぶれた農業移民がホンジュラスになだれ込むなど様々な問題を抱え両国民の間に反感がつのっていた。折からサッカー・ワールドカップ中米地区予選で両国チームが対戦。双方のサポーターが互いに、相手国選手宿舎を囲んで騒いだり、スタジアムで騒ぎ、死者も出る。準決勝でエルサルバドルが勝つと、ホンジュラス政府はエルサルバドル移民を合法・不法を問わず強制退去させようとした。それに対してエルサルバドル軍が軍事攻撃、ホンジュラス軍が反撃して、双方で数千人の死者を出した。)

 勿論、オリンピックもワールドカップも戦争とは違うはず。
 戦争のばあい、その主体は国家または集団で、その目的は対立する相手の国または集団に対して力ずくでこちらの意に従わせることにあり、闘う兵士たちはその手段にされ命を犠牲にもされる。
 (オリンピックとは関係ないが、往年の名投手、沢村栄治の例がある。彼は京都商業校生で甲子園に出場。1934年、アメリカ大リーグ選抜軍対全日本軍戦でベーブルース、ゲーリックから三振各1個、計9個うばう。ジャイアンツに入団。160キロに近い球速が出ていただろうと推測される。ノーヒット・ノーラン3回達成。
3回軍隊に徴兵。最初の徴兵で中国の戦地に赴き、野球ボールの3倍の重さのある手榴弾を投げさせられて肩を痛め、オーバースローからの速球は投げられなくなりアンダースローに転じた。2度目の徴兵から復帰後はコントロールも失い、好成績を残すことができず、球団から解雇されるに至る。3度目の徴兵で、東シナ海・台湾沖を輸送船に乗って行く途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死。1944年12月、享年27歳。彼の豪腕は国家によって利用され、彼の命は犠牲にされたのである。)
 それにひきかえオリンピックは、その主体は個々の選手たちで(五輪憲章ではオリンピックは「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めている。国々のメダル獲得競争など意味が無いということ)、その目的は選手それぞれが自らに備わり鍛えた体力・精神力・技を競い合い、自らの生命の燃焼を光り輝かせ生きる喜びを分かち合うこと、それ自体にある。(クーベルタンの云う「オリンピックは勝つことではなく、参加するところに意義がある」とは、競争の結果得られる「見返り」にではなく、競争する行為(競技)そのものに目的が帰着するという意味であろう。勝者・入賞者はメダルがもらえ、自国で報奨金(日本では優勝者には国からは300万円)もらえるとしても、彼らはそれがもらえるからということだけで頑張るわけではなく、また敗退し何ももらえなかった選手にはオリンピックは無意味なのかといえば、そんなことはあるまい。負けた選手がいてくれたから勝った、一緒に競ったライバル選手がいてくれたから最高記録を出せたのであって、参加・出場選手は勝者も敗者も存在価値としては同じなのである。単に「勝った負けた」だけではなく、互いに競い合うことで互いに力と技を最大限出し切ることができ、記録を伸ばすことにもつながるし、勝者であろうと敗者であろうと世界最高の舞台に各国代表選手とともに参加・出場して競技に命を燃やした心の充実感・生きがい感の点ではどの選手にとっても同じ意義があるのだということだろう。400メーター・リレーで初の銅メダルを博した日本チーム・アンカー朝原選手の「最高の舞台で、最高に気持ち好いんで、これ以上何も言うことがないくらい嬉しいです」「これ以上のオリンピックはありません」という言葉はまさにそれである。)
 「国家対抗のメダル獲得競争」で日本は勝ったとか負けたとか云々するのは間違っている。ただし、メダル獲得数は日本スポーツの世界におけるレベルを推し量るうえで一番てっとりばやいデータにはなるだろう。
 要するに、選手たちは「国のため(国益や国威のため)」ではなく「自分のため」に頑張り、応援する我々も「国のために」ではなく選手のために応援するのだ。税金の一部から選手強化費(27億円、JOCが出した分とあわせて40億円)を出すのも「国のため」ではなく、選手が育つようにし、彼らから頑張ってもらうためだ。国民が税金から教育費を出すのは、一義的には、憲法で「すべての国民(子女―引用者)は・・・・等しく教育を受ける権利を有する。すべての国民は(親・大人―引用者)・・・・その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。」と定めているからなのであって、なにも「国家のため」に役立つ人材を育てるためというわけではない。それと同じである。我々が自国・同胞選手に親近感をもち、応援したくなるのは自然な気持からなのであって、選手がそれに恩愛を感じ、応援に感謝するのも自然な気持ちからなのであって、義務や当為からではないのだ。
 オリンピックの各大会の成功・不成功は、各選手ともどれだけ存分に力と技を発揮できたか否か(世界記録、各国の国内新記録、各選手の自己新記録とも多かったか少なかったか、好勝負が多かったか少なかったか、観衆の感動が多かったか少なかったかなど)で評価されるべきであり、競技施設・競技運営・環境整備・警備・安全対策・応援マナーなどオリンピックに関わる開催国政府・都市など公的機関・民間団体・個人の行為もその観点から(各選手とも力・技を存分に発揮するのにどれだけ役立ったか否かで)評価されるべきだろう。それ(各選手の力・技の発揮)を妨げる(或は妨害につながる)行為は批判されて然るべきである。
 メディアや評論家・政治家などの論者の政治的立場・宗教的立場・イデオロギー・利害関係・思惑や人々の民族感情(北京オリンピックに対してなら反中・嫌中感情)によって違う焦点の当て方がなされるが、いちばん公平なのはオリンピックの目的に照らした、主役である選手・アスリート本位に評価がなされることだろう。
 そもそも、オリンピックは何のため、誰のためのものなのかといえば、一義的にはそれは世界の選手・アスリートに最高の舞台を与えるためであり、彼らアスリートたちのためのものだからである。
 オリンピックにからんで開催国その他が抱える問題(北京オリンピックなら、中国の統治体制の問題・経済問題・環境問題・人権問題・チベット問題・ウイグル問題・ギョーザ問題など)を指摘し、それを取り上げ、論評するのもよいが、である。
 (報道のあり方については、報道にたずさわるジャーナリズムの側は報道の自由を主張し、政府などには「不都合な真実」―マイナス報道―をも取材・報道しようとする。しかし、商売上―利潤確保―の必要から購読者獲得・視聴率獲得・スクープ競争がおこなわれ、自国の多数派におもね、興味本位に走る傾向がある。
 これに対して政府など統治にたずさわる側は、統治に都合よい報道を求め、不都合な、或は倫理に反する有害な報道を規制しようとする。
 北京オリンピックに際しては<朝日新聞によれば>開幕直前、中国当局は国内メディア各社に対して通達を出し、「愛国心を盛り上げるよう重点的に中国選手の活躍を報道する」とか、「中国選手のメダル獲得数を予測するな」「テロへの恐怖をあおるような過剰な警備態勢について報道するな」「読者を過度に驚かすような見出しをつけるな」などと指示している。「いかなる企業の利益も国家の利益に比べれば小さい」(中国共産党宣伝部の責任者の言)というわけである。
 開会前、胡錦濤主席は外国メディアと会見し、中国の人権問題やチベット問題を五輪に絡める「政治化」は「失敗に終わる。」「世界には様々な問題や異なった見方があるが、五輪の政治化は問題の解決にはならない。」「中国は最大の途上国で、抱える矛盾や困難は世界でもまれな規模・複雑さだ。」「十数億人が安定した生活を送れる社会の建設にはまだ長い時間がかかる」などと語ったという<8月3日付け朝日>。
 大会最終段階で外国人記者クラブは中国政府の報道規制を非難し、取材妨害が何十件もあったと抗議している。)

2、近代オリンピック史
 近代オリンピックは1896年アテネ大会から始まる。その時の参加国・地域数は14(ヨーロッパ諸国とアメリカ・オーストラリア)、参加選手数241名(うちギリシャ人200名)で古代ギリシャのオリンピック復活の様相を帯びていた。選手は国代表ではなく個人として参加した。テニスのダブルスなどは国籍の異なる選手がペアを組んで行われた。
 1900年(第2回)はパリで開催、1904年(第3回)はセントルイス(アメリカ)で開催、1908年(第4回)はロンドン開催だが、3~4回の中間の1906年にアテネで2度目のオリンピックが開催されている。「中間年オリンピック」はこの一回だけで終わり、後にオリンピックの公式記録からも外されるが、この大会から初めて国別のエントリー制限が設けられ、初めて開会式で国旗を先頭にした入場パレードが行われ、初めて表彰式で優勝者の国旗が掲げられた。
 1912年(第5回)はストックホルム(スウエーデン)で開催され、初めてアジアから日本選手が2名だけ参加した。
 1916年(第6回)はベルリンで開催が予定されていたが、第一次大戦で中止された。
 1920年(第7回)はアントワープ(ベルギー)で開催。敗戦国のドイツ・オーストリア・ハンガリーの選手は招待されず。五輪旗と選手宣誓はこの大会から登場。日本は初めてメダル銀1個。
 1924年(第8回)はパリで開催。日本はメダル銅1個。
 1928年(第9回)はアムステルダム(オランダ)で開催。日本は初めて金2つ獲得、銀は2、銅1。
 1932年(第10回)はロサンゼルスで開催。日本は金7、銀7、銅4。金メダルを獲得した選手のうち西竹一(はじめ)選手は馬術の選手。彼はその後、太平洋戦争末期、硫黄島で戦死。
ベルリン=オリンピック
 1936年(第11回)はベルリンで開催。大会はヒトラー政権がプロパガンダ・国威発揚に活用。聖火リレーはこの大会から登場。この大会でドイツの金メダル獲得数は37個で、アメリカをしのいで首位。日本は金6、銀4、銅10個だった。
 この大会後の1937年、日中戦争に突入。1940年の12回大会は東京開催に決まっていたが日本はそれを返上。1939年には第2次世界大戦に突入し、1940年の12回大会、1944年の13回大会も中止。
 大戦終結後再開され、1948年にロンドンで第14回大会が開催。日本はドイツとともに戦犯国として招待されなかった。
 1952年(第15回)はヘルシンキ(フィンランド)で開催。日本は先のベルリン大会以来16年ぶりに参加。メダル獲得は金1、銀6、銅2と振るわなかった。
 1956年(第16回)はメルボルン(オーストラリア)で開催。馬術だけは別途にストックホルム(スウエーデン)で開催(オーストラリアがこの国独特の自然を守るために馬の入国に6ヶ月もの検疫期間を必要としたため)。日本のメダル獲得数は金4、銅10、銅5.
 1960年(第17回)はローマで開催。日本は金4、銀7、銅7.
東京オリンピック
 1964年(第18回)は東京で開催。日本は国をあげて、この世界的行事に精力を注ぎ、全経費では、時の国家予算の4分の1を投入。オリンピック=スタジアム(国立競技場)をはじめとする大会施設建設のほか、東海道新幹線の開通、羽田空港の拡張、首都高速道路・地下鉄・モノレール等の交通網の整備、それにカラーテレビの発売もこの時期におこなわれた。これらは戦後我が国の高度経済成長を促し、経済大国として躍進する大きな足がかりとなった。
 聖火はギリシャから南回り空路をとり、中継地での国外リレーを展開しながら台北から沖縄を経て日本本土到着まで19日間かけたうえで、1ヶ月間におよぶ国内リレーは、北は札幌から、南は鹿児島からと、二手に分かれ計4つのコースで進められ、米沢では在職した我が校陸上部の代表選手もトーチを手にして走った。10万713人目の聖火台に点火した最終走者は原爆投下の日に広島で生まれた若者(坂井義則)だった。
 この大会で、日本は金16、銀5、銅8で、金メダルの獲得数は米ソに次ぐ3位、オリンピック参加史上最高の成績となった。中国は、アメリカなど西側諸国(日本も)が北京政府を認めず台湾政権に国連代表権を認めていたために、先のヘルシンキ大会以来不参加だった。
 その中国は開催期間中、原爆実験を成功させ、そのうえで核兵器全面禁止のための国際会議開催よびかけを声明。
メキシコ=オリンピック
 1968年(第19回)はメキシコシテイで開催。その年、ベトナム戦争は解放戦線軍が大攻勢、5月パリ和平会談へ。10月北爆(米軍機の北ベトナム空爆)停止。
4月アメリカでは黒人解放運動の指導者ルーサー=キング牧師が暗殺。
8月、ソ連・東欧5カ国軍がチェコ侵入。
10月メキシコで学生が反大統領・民主化運動、オリンピック開催の10日前、トラテロルコ広場に集まった1万人の群集に発砲250人の死者が出た(トラテロルコの虐殺)。開会式は大歓呼のなかで無事おこなわれる。日本は金11、銀7、銅7。
陸上200メートルで優勝した選手と3位の選手はともにアメリカ黒人選手、二人は表彰台で頭を下げ黒手袋をはめた片手を突き上げた(人種差別に抗議)。IOCは二人を選手村から追放処分にした。それに対して同じアメリカ黒人選手で、ボクシングのスーパーヘビー級で優勝したジョージ=フォアマンは「人種差別(反対)に最も取り組んできたオリンピックに抗議するなんて勘違いもはなはだしい」と批判(IOCは当時、アパルトヘイト―競技場などスポーツ施設での人種隔離政策―を行っていた南アフリカ共和国に対してオリンピックへの選手招待状を撤回していた)。
ミュンヘン=オリンピック
 1972年(第20回)はミュンヘン(ドイツ)で開催。日本は金13、銀8、銅8。
大会11日目、選手村のイスラエル選手宿舎にパレスチナ=ゲリラ8人が侵入、選手9人を人質にし、イスラエルに収監されていた仲間234名の解放を要求。最初の襲撃とその後の銃撃戦でイスラエル選手・役員11名、ドイツ警察官1名、ゲリラ5名が死亡。大会は34時間中断、テロリストへの抵抗の意志表示としてオリンピック=スタジアムに半旗を掲げて追悼式を行い、IOC会長が「大会は続けなければならない」と演説。大会は1日遅れて再開した。「追悼式への日本選手団の出席者は皆無に等しく、この種の事件への認識の低さが指摘される」(講談社『クロニック世界全史』)。この事件は、オリンピック開催中のテロに対する警備、犯人への対応のあり方など様々な問題を後に残した。

 1976年(第21回)はモントリオール(カナダ)で開催。日本は金9、銀6、銅10。
モスクワ=オリンピック
 1980年(第22回)はモスクワで開催。ソ連軍のアフガニスタン侵攻に反対してアメリカなど西側諸国・日本もボイコット。日本不参加決定を伝える朝日新聞の見出しには「JOC総会で決定」「『現状ではやむなし』異例の採決29対13」「政治的要請に屈服」とある。当時、柔道の全日本選手権で3連覇し、前年の世界選手権で圧倒的な強さで優勝していた山下泰裕選手は「ここでボイコットをしてしまったら、ぼくたちのいままでの努力はいったいなんだったのですか」と。(参考:武田薫「オリンピック全大会」朝日新聞社)
小杉泰京都大学教授(8月3日付け朝日新聞の読書欄の新刊紹介に松瀬学著『五輪ボイコット』の評)は「一瞬の勝負やコンマ以下の秒数を競う選手たちにとって、4年に一度の晴れ舞台が消滅するほど恐ろしいことはない。」「当時の日本オリンピック委員会JOCには政治の圧力に抗する力はなかった。選手や関係者の願いも虚しく、不参加への流れがつくられた。」「日本のスポーツ界にとって大変な損失が生じた。一度参加しないと8年の空白ができ、それがスポーツの実力の深刻な低下につながった。80~90年代の日本の不振はモスクワ不参加から生じたものであった。」と書いている。
ロサンゼルス=オリンピック
 1984年(第23回)はロサンゼルスで二度目の開催。
アメリカ軍のグレナダ侵攻に、モスクワ五輪ボイコットに対する報復もあって、ソ連と東欧諸国がボイコット。中国は、これに先立って79年アメリカと国交樹立、78年日本とも国交、この大会に36年ぶりに参加。(当時たまたま中国旅行に行っていて、急な都合で単独帰国することになって、出国手続きに上海領事館に立ち寄ったところ、館内のテレビの前に付近の住民が寄り集まって開会式を見ていた。)
 日本は金10、銀8、銅14で、ソ連など東欧諸国の選手が出ていない分、多く獲れた。

 尚、この夏季大会(7~8月)に先だって、2月に第14回冬季オリンピックがユーゴスラヴィアのサラエボで開催。ユーゴスラヴィア連邦はその後解体、そこからボスニア=ヘルツェゴビナ共和国が独立する際の紛争(1992~95)でサラエボのオリンピック=スタジアムは破壊され犠牲者の墓地と化した。
ソウル=オリンピック
 1988年(第24回)はソウルで開催。12年ぶりで東西全世界から選手が集う。金メダル争いはソ連・東ドイツ・アメリカに次いで開催国である韓国が4位に躍進。日本は金4、銀3、銅7。

1992年(第25回)はバルセロナ(スペイン)で開催。日本は金3、銀8、銅11。
アトランタ=オリンピック
 1996年(第26回)はアトランタ(アメリカ)で開催。大会期間中、オリンピック公園広場で爆破事件、2名死亡、100人以上負傷。日本のメダル獲得数は金3、銀6、銅5。

 2000年(第27回)はシドニー(オーストラリア)で開催。日本は金5、銀8、銅5。
アテネ=オリンピック
 2004年(第28回)はアテネで開催。日本のメダル獲得数は金16個で、東京オリンピックの時とタイだが、世界で5番目に多かった。
尚、アメリカは金35、銀 39、銅 29、計 103
    中国は金 32、銀 17、銅 14、計 63
   ロシアは金 27、銀 27、銅 38、計 92
オーストラリア金 17、銀 16、銅 16、計 49
     日本は金16、 銀 9、銅 12、計 37
北京オリンピック
 2008年(第29回)現在、開催中。参加国・地域204(前回のアテネ大会と同じく史上最多、東京オリンピックの時は93ヵ国・地域)、参加人数(選手・役員)1万6,000人、うち日本選手・役員576人(うち選手339人)。
 「鳥の巣」(メーン=スタジアム)の構造設計を担当したのは日本人(菊地宏氏)。開会式アトラクションのコスチュームを担当したのも日本人(石沢瑛子氏)。
 
 胡錦濤主席あるいはJOCのロゲ会長らにはミュンヘン=オリンピックやアトランタ=オリンピックのテロ事件が脳裏にあったものと思われる。
 開催に先立ち、今年初め、新疆ウイグル独立派(「東トルキスタン=イスラム運動」)「毎月1回テロを実行する」と表明。3月チベット暴動。その後、海外各地で聖火リレー妨害頻発。5月、新疆ウイグル独立派がマレーシアのウェブサイトに「宣戦布告声明」、同月中、上海でバス車内自爆テロ、15人死傷。7月、雲南省昆明でバス連続爆破、16人死傷。8月4日、新疆ウイグル自治区のカシュガルで武装警察部隊に爆弾襲撃、16人死亡。10日、クチャで警察施設と自治区政府施設に爆弾襲撃、警備員2名死亡、容疑者8人射殺、自爆2人、3人逃走。12日カシュガル近郊で検問所警備要員、刃物で襲われ3人死亡。

 アフガニスタンとイラクではアメリカとそれに同調する国々が派兵して「対テロ戦争」を続けている。それに北京五輪の開会式の日に、旧ソ連のグルジア親米政権とロシアがグルジア領内の南オセチア自治州(グルジアからの分離独立、ロシア領北オセチア共和国との統合を求めており、ロシアが平和維持部隊を派遣している)をめぐって軍事衝突(グルジア軍が南オセチアに侵攻、ロシア軍が反撃)。それが米・NATO(グルジアを支持)とロシアの対決、「新冷戦」の様相を帯び始めている。大会では女子エア=ピストルで銀メダルを獲ったロシア人選手と銅のグルジア選手が表彰台に立って肩を抱き合うシーンが見られた。二人はそれぞれ「射撃という一見、戦争を連想させる競技でつながる私たちだけど、二人の友情には何も立ち入れない」「私たちは親友。スポーツは政治を超えることを証明できたと思う」と語ったという。
 IOC(国際オリンピック委員会)は「各国代表が行進している時に戦い合うのは悲しいことだ。『五輪休戦』が実現できるよう国連が役割を果たすことを期待する」(デービス広報部長)としている。
3、また東京オリンピック?
 石原都知事の意向によって次々回(2016年)のオリンピック開催地に東京が立候補することになった。
 6月29日付け朝日新聞に各界著名人100人からのアンケート結果が出ていた。それによれば、東京開催に賛成28人、反対48人、「どちらでもよい」と無回答を合わせると24人で、反対が一番多かった。
 現代美術家の杉本博司氏は「戦争以外の国威発揚の手段として適当である」と賛成論。
作家の出久根達郎氏は「賛成だが、8年後の東京が大地震で壊滅していないことを祈るのみ」と。
 反対論には「東京で2回もやったら、大阪の人が傷つくと思う」などがあった。
映画監督の是枝裕和氏は「国威発揚をオリンピックの目的と口にするような時代錯誤の知事が旗振り役をしている一点において」反対。その石原慎太郎だが、彼は以前東京オリンピック当時(32歳)、「優勝者のための国旗掲揚と国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。(中略)私は以前、日本人に希薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックはよき機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるが、その以前にもっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことの方が希ましい」と書いている。しかし現在は都知事になっていて自らが任命した都教育委員会に学校の卒業式等に国旗・国歌を強制して従わない教員を処分させているのだ。
 「21世紀型の五輪はどんなかたちが望ましいか?」という問いには、
九州大の大野俊教授は「国威発揚のためのメダル争いは五輪本来の精神に反する。国籍混合チームの出場を奨励し、表彰式は国旗掲揚や国歌の演奏はやめ、国境を越える複数国開催に」、
東大教授の船曳建夫氏は「国旗や国歌が必要か?国々がまるで戦争の代替物のようにして争うのは、スポーツの伸びやかさを失わせている」、北九州市立大の竹川大介教授は「国家の五輪ではなく個人の五輪に。どこの国の旗も揚げないコジンピック?」などと、アンケートは「国旗・国歌は不要」のほうが多数だった。

 かくいう私はどうかといえば、次のようなことが心配だ。
地震など自然災害もさることながら、国の内外からのテロ攻撃や無差別殺人。
防備・警備は我が国の自衛隊と海上保安庁・警察なら大丈夫、長野聖火リレーも洞爺湖サミットも大丈夫だったし、とも思えるが、8年後東京でのオリンピックは果たして?
 日本はオリンピック開催国に相応しい平和国家と云えるのかだ。「新冷戦」(と云われ出している)その状況下で、日米同盟と米軍基地は堅持され、自衛隊の海外派兵が繰り返される。憲法9条の実質改憲あるいは明文改憲が進められる。そうなった時、日本は危ない国になる。そのような国に世界から選手・アスリートたちが集まって伸び伸びと存分に力を出し切って競技することなどできるのだろうか。

 これを書いているうち、北京オリンピックはとうとう終わってしまった。テロや妨害で中断することも中止されることもなかった。選手はみんな無事だった。そして多くの選手はそれぞれ最大限頑張ったのだと思う。43もの世界記録が出た。金メダル獲得数では、開催国として選手強化(強化費は日本が40億円なのに対して480億円、外国人コーチは日本が12名なのに対して38名)にも格別・力を入れたであろう中国は、これまでトップの座を誇ってきたアメリカをしのいでトップにおどりで、韓国も日本を上回ったが、そのことよりも注目すべきはメダルを獲得した国が大幅に増えて86ヵ国にものぼったことである(前回のアテネ・オリンピックの時は75ヵ国)。日本は、メダル獲得数(金9、銀6、銅10、合計25)は少なかったものの、入賞者数(52種目)は増えている。故障でやむなく欠場・途中棄権をした選手が3人ほどいたが、あとの選手はそれぞれ持てる体力・精神力・技ともありったけ出しきって頑張ったのだ。メダルを獲りぱぐった星野ジャパン、予選で涙をのんだ柔道の鈴木桂治選手、それにマラソンで完走した76人中最下位でゴールした佐藤選手も然りである。彼らも含めて、ハラハラドキドキさせ、涙し、感動させてくれた選手諸君、ありがとう!

 このあとパラリンピックもある。参加・出場する選手・役員の方々、開催・運営にたずさわってくれるIPC(国際パラリンッピック委員会)それに中国の方々もうしばらく頑張ってください。

2008年09月15日

また給油か?―選挙の争点

(1)総裁選
 自民党は巧妙に「総裁選劇場」を設けて5人の役者を登場させ、NHKをはじめ御用メディア(自民党のPR機関。主要なマスコミはそれに化している)を活用して総選挙に自党とその顔ぶれを売り込んでいる。
 5人の主張はニュアンスの違いはあれ、基本的には同じで、互いの弱さ―発言で言い足りなかったところ、言い落としたところ―を補い合って「ハーモニー」をかもし出している。財界・大企業本位の経済政策、改憲、靖国神社への天皇参拝、そしてアメリカに同調した外交・防衛政策―日米同盟を基調とし自衛隊の海外派兵を推し進めようとする点では主張は全く同じなのである。 
 テロ特措法(給油法)―インド洋派兵―去年も今頃からこれが問題となった(11月1日期限が切れ、いったん撤収、4ヵ月置いて3分の2再議決で再開)が、今度また期限(来年1月)がくるので、それが今から、また問題となる。これに関連して「国際平和と安全保障」のあり方が、雇用問題・格差問題・年金問題・医療保険問題・税金問題などとともに総選挙の大きな争点となる。
(2)平和・安全保障政策
 軍事―日米同盟と自衛隊―によるか、非軍事―憲法―によるか。
国際貢献は軍事貢献―自衛隊の海外派遣―と平和貢献のどちらか。
 「テロとの戦い」―2001年、9,11同時多発テロに対して、軍事攻撃か、法と理性による解決(国連を中心とする告発・制裁)または政治解決(政治プロセス―対話・交渉―による解決)か。
 当初、国連は「実行犯・組織者・支援者に法の裁きを受けさせる」としていたのに対して、アメリカはアフガニスタンにオサマ=ビン=ラディンらアルカイダの拠点を置き、かくまっているとしてタリバン政権を攻撃し報復戦争を起こした。
 そのアフガン戦争で、米英を主とする多国籍軍(NATO諸国の部隊)は軍事作戦と治安復興支援。
それに呼応して日本は、テロ特措法を設けて、米軍・多国籍軍への後方支援―インド洋への自衛艦派遣・給油活動―を行ってきた。
 一方、NGO―ペシャワール会(81年パキスタン北西部にて結成、中村哲氏が現地代表、91年にアフガン国内に最初の診療所を開設、00年に大干ばつが起きて以来、井戸掘りなど水源確保にも取り組む。01年には空爆下で避難民15万人に食糧を緊急配給。活動費のほとんどを会費と寄付で賄っている)は、そのずうっと以前から現地で医療・農業復興支援にたずさわってきた。ところが先日、そのメンバーである伊藤青年が金目当ての賊に拉致され殺害された。
 03年からイラク戦争が始まると、こんどはイラク特措法を設けて空陸両自衛隊を派遣。
①安全確保支援活動―空自による米軍・多国籍軍への後方支援(空輸)。
4月名古屋高裁―「イラク派兵差し止め訴訟」で、自衛隊の空輸支援活動などに違憲判決―他国の武力行使と一体だと。            
(治安情勢改善にともない、近く年内中、国連安保理決議の失効期限12月が来て多国籍軍が撤収するのとあいまって撤収の見通し)
②人道復興支援活動―陸自、サマワで給水など(既に撤収)
 
(3)政府与党(自民党)の主張
 テロ特措法(給油法)「期限延長」または海外派兵恒久法(いつでも、どこへでも派兵できる体制にし、武器使用条件を緩和)の制定めざす―理由
①各国の『テロとの戦い』の戦列から日本が脱落するのは国際信義に反するし、「憲法違反だからといってやめようと言うのは無責任だ」(石破氏)。 9,11テロでは日本人も犠牲になったのだから。
テロリストとは交渉できない―戦うしかないというわけ。
 (ペシャワール会の伊藤青年が死んだことについては、「尊い犠牲を、今回NGOの方からお一人出てしまったわけでありますけれども、そうであればあるほど、テロとの戦いに日本が引き続き積極的にコミット―関与―していくことの重要性というものを、多分多くの日本国の国民の皆さんがお感じになったのではないか。」「伊藤さんの意思に答えて、平和協力国家として、いろいろな努力をしなければいけない。」その「方向としては『給油活動』を継続する法案をだすことは間違いない」と―町村官房長官)
②中東から原油を輸入して来るシーレーン(航路)の安全確保―インド洋で武器や麻薬などの出入りを防ぐ「海上阻止活動」に参加―国益上、有益
③給油だけならリスクが少ない―人的犠牲が無くて済み、油代など出費(今年10月までの6年間で約49万キロリットル、約225億円)もたいしたことはなく「最も効率のいい方法だ」と。
 
 民主党はアフガン本土への自衛隊派遣、ISAFなどへの参加なら「国連安保理決議に基づく集団安全保障活動」として認められる(憲法と矛盾しない?)と―農業復興支援などにたずさわるNGOを警護、とも(前原氏)
(4)反対論
①「テロとの戦い」の一端を担う国際貢献・国際信義などと言っても、よく考えてみれば、それはアメリカやG7など限られた国の政権に対しての貢献・信義にすぎないのであって、大事なのはアフガン国民・イラク国民に対する貢献・信義だ。そこはどうなのかである。彼ら無辜の民衆は、給油した空母から飛び立った爆撃機の空爆にさらされ、空輸した兵員・弾薬によって行なわれる掃討作戦やそれに抵抗する自爆テロに巻き込まれて犠牲になっている。
 かの国では、日本人といえば、「平和国民」として通ってきた。その信頼が今や損なわれ、アメリカに加担している親米国民として狙われるようになってきている。
 (ペシャワール会の福元満治事務局長は、「アフガンの秩序は、武力が介入することで壊れたのだから、違う形での関与の仕方を『平和国家日本』として考えるべき」なのに、今は「現地で日本に対する親近感が減って、アメリカの同盟国としての比重が重くなっていると思う」と。また、同会の中村氏は「日本の自衛隊がインド洋で米軍などに給油活動していることが知れわたれば、私たちの身辺にも危険が迫ってくると危惧している」と語っていたが、それが伊藤青年の死で現実となったわけであえる。彼が死んだことについて中村氏は、「自衛隊の動きと関係があると思う。以前だとこういう事態は考えられなかった。日本人なら大丈夫だという対日感情の良さに支えられていたわけで、その点、我々の認識が甘かった。アフガン全土が今大干ばつで、国民の半分がまともに食えない、その中で、治安をよくするというのは、みんなをたらふく食べさせるという状態をつくる以外にない。武力でもって、これを制圧するというのは不可能。私どもも含めて日本人全体、国際社会全体がアフガン問題に対する認識が今ひとつ足りないところがあったのではないか、と私は反省している次第です」と述べている。)
 アフガニスタンでは米英その他の連合軍は、タリバン政権は倒したものの7年もかかって未だに平定せず、戦乱はパキスタン国境地域にまで拡大している。
カルザイ大統領の政府は米軍から守られている(大統領官邸は米軍の海兵隊兵士が警護)が、その実効支配はカブール市内にしかおよばず、あとは各部族・軍閥(ヘクマチュアル派・ハカーニ派など)が割拠し、山賊が横行する。政府の徴税システムは全く成り立っておらず、アヘンの栽培は(タリバン政権下では取り締まられていたのに)今や野放し状態である。アフガン戦争開始直後壊滅したはずのタリバンは復活して、その活動地域は全土の7~8割におよんでいるとも云われる。
 アメリカなど多国籍軍によるタリバン掃討作戦―空爆・誤爆でアフガン住民の犠牲者が激増し(8月、子ども60人を含む90人が死亡)、それが民衆の欧米人に対する反感をつはのらせ、かれらをタリバンやアルカイダ支持に向かわせる(爆撃された地域で、家族を失った若者はタリバン兵やテロリストになる)。
 このような対テロ戦争はテロ根絶とは逆に、憎しみと暴力の悪循環に陥っているのだ。
②今さらシーレーン確保といっても、この「対テロ戦争」が始る以前からずうっと中東航路は保ってきたし、インド洋でテロリストや武器・麻薬の出入りが今になってにわかに激しくなっているわけではない。テロリストの海上活動や海賊はペルシャ湾やオマーン湾など狭いところや沿海ならいざ知らず、広いインド洋ではあり得ず、「海上阻止活動」といっても(テロリストを捕らえたとか、武器や麻薬を押収したとかの)さしたる実績はない。
 そもそも、自衛隊のインド洋派兵は、アフガン攻撃作戦の一環としての給油などの後方支援と「海上阻止活動」が目的であり、後者はアルカイダなどのテロリストがアフガンから逃げ出そうとするのを海上で阻止するというもので、シーレーン防衛が目的で始められたわけではない(テロ特措法には石油輸送路防衛のことなど書かれてはいない)。
 国益といっても、それは、自民党政府にとっては同盟国アメリカ(政府・軍・業界)と日本の業界(軍需企業など)の利権確保の上で、または戦略上メリットにはなっても、国民にとっては有害無益。インド洋での給油支援活動はアフガン本土の戦争と一体であり、戦争への加担以外の何ものでもなく、それは「平和国家日本の顔」ともなってきたペシャワール会などNGOや、現地で日本政府の特別代表として軍閥の武装解除に取り組んだ東京外語大大学院教授の伊勢崎氏らの努力を台無しにし、日本人に対するイメージを損なってしまう。
 憲法(前文)で「恒久の平和を念願し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、安全と生存を保持しようと決意し」「 政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」日本国民にとって、又、「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」している日本国民にとっては、アフガニスタン国民もイラク国民も日本国民も、諸国民の平和的生存権が守られることこそが最優先すべき国益なのである(名古屋高裁はそれを認めた。)
③給油する油代など出費(225億円)はたいしたことはないといっても、今、漁業者や運送業者が原油高騰にあえいでいることを思えば、なんと「もったいない」ことか。それに、「テロとの戦い」のためだなどと綺麗事を言ってアメリカなどいくつかの国々の艦船にただで給油してやっているそれらの国の政権からは有難がられても、空爆や戦火にあえぐアフガン・イラクの民衆のことを思えば、無駄金というよりは、なんと罪深い乱費であることか、となる。
(5)固執するなら軍事貢献か、非軍事貢献か?
 アフガニスタンでは諸外国からやってきた100ものNGOが活動している。そのうち日本のNGOは8つで、ペシャワール会・日本国際ボランテフィア=センター・「難民を助ける会」・ピース=ウィング=ジャパンなど。それに日本からは独立行政法人のJICA(国際協力機構。政府の開発途上国に対する援助の一環として人材派遣)がインフラ整備・農業開発・保健医療・教育・職業訓練・生活向上支援などの事業に(8月現在)約40人送り込んでいる。
 一方、アフガニスタンでは二つの軍事作戦が展開されている。一つはアメリカ主導の対アルカイダ・タリバン掃討作戦、もう一つはNATO指揮下の国際治安支援部隊(ISAF)による治安確保の作戦で、その部隊兵士の護衛で文民(地域復興チームPRT)が援助活動を行っている(軍民複合型)。後者(ISAF)は国連安保理決議に基づいているのに対して、前者はアメリカが独自に作戦を行っている形になっているが、両者はほとんど一体化している。
 ISAF指揮下のPRTによる(武装兵士が護衛する)復興支援活動は軍事活動との境界があいまいで、非軍事の立場で活動できていたNGOの活動をも危険にさらす、と日本国際ボランティアセンター代表の谷山博史氏が指摘している(07年12月20付け朝日)。
 民主党はISAF(国際治安支援部隊)への自衛隊参加(アフガン本土派兵)を停戦合意後の人道復興支援に限定して認め、インド洋での「海上阻止活動」も国連決議があれば容認、という考えを示している。
 しかし、「部隊派遣は銃や航空機を持ち込むことで、民間人が巻き込まれ、死者が出る。」(ラヒムラ=ユスフザイ)自衛隊など武装隊員が作業し或は警護につけば、テロ攻撃は抑止されるのかといえば、それ疑問であり、かえって誘発するとも考えられる。
 これまで(01年以降)アフガスタンでは、NATOと米軍兵士の死者数は900人を超えている。民間人の死者(国連報告)は、今年1~8月1,445人(昨年同期比39%増加)。(うちタリバンその他の反政府武装勢力の攻撃などによる死者は800人。アメリカ主導の連合軍やアフガン政府軍の攻撃の巻き添えになった死者577人。)NGO関係者の死者は今年7月までの時点で19人。8月27日にはついに日本人・伊藤青年も殺された。

 日本国際ボランティアセンターの谷山氏は、「日本はPRT型の復興支援であれ、インド洋での給油活動であれ、自衛隊の派遣に固執するのではなく、独自の平和協力の立場からアフガニスタンの安定化のための支援に徹するべきだ。」「自衛隊の派遣は自衛隊員を含めアフガニスタンで活動するすべての日本人の生命を危険にさらし、アフガニスタンをいっそう混乱に陥れる。」としている。
 またパキスタン=ニュース紙のラヒムラ=ユスフザイ(長年アフガン問題を追い98年にビンラディンを取材しているジャーナリスト)は、「軍事的なやり方には最終的な解決はなく、タリバンを対話に導き入れるなどアフガン人自身による政治的な解決策を探る必要がある。」「日本がアフガニスタンに兵士を派遣しないことは、賢い選択だ。」としている(2月24日付け朝日)。
 アフガニスタンで活動する諸国NGOの連絡調整機関(ACBAR)は先日(8月1日)の声明のなかで、「われわれは紛争を軍事的手段によって終わらせることはできない」と強調し、貧困・飢餓に対する民生支援を進めるためにも政治的・外交的プロセスを前進させることが必要だとしている。

 「国際社会において名誉ある地位を占めたい」我ら日本国民にとって、日本政府がやるべき国際貢献は、アフガン問題でもイラク問題でも外交的・平和的に解決する国際環境づくりへの貢献以外に無いということだろう。

国際貢献といえば、軍事―自衛隊の海外派遣―に固執するよりは非軍事貢献に固執する、それが「日本人たるもの」にこだわる当方の考えである。 

尚、テロ特措法については昨年も9月(「安倍首相の辞任とテロ特措法」)と11月(「メディアに騙されるなよ」)に論評した。

2008年10月04日

なぜ人を殺してはいけないのか、戦争してはいけないのか(加筆版)

 「なぜ人を殺してはいけないのか。」そんなことは疑問の余地のない自明のことで、わかりきったことだ、と一般には思われている。それは古来からずうっと社会の掟や教え(仏陀の「五戒」の「不殺生戒」やモーゼの「十戒」の「汝、殺すことなかれ」など)でそういうことになっているからだ、というが、それでは、それらの掟や教えは、なぜ定められ説かれてきたのか。それに、戦争なら、或は処刑ならなぜ人を殺してもかまわないのか。やはり疑問が残る。
 人を殺してはいけない。だから人を殺す戦争もしてはいけない、と私は思うのだが、なぜそうなのか考えてみた。9月放映のNHKスペシャル「兵士はどう戦わされたか」「ママはイラクに行った」両番組を見て考えついたのは次のようなことだ。
(1)殺人忌避は人間の本性
 まずもって、人は誰だって殺されたくないもの。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」で、だから「誰しも人を殺してはならない」ということが戒律(道徳的義務)として人に課せられる。しかし、戒律や義務として課せられるまでもなく、そもそも人間は、誰しも殺されるのを嫌がるのは勿論のこと、殺すのも嫌がるものなのだ。(近頃、「人を殺してみたかった。だから殺した。」という若者の犯行事例があるが、それは異常ではあるが、「~してみたい」という好奇心か、誰もが嫌がるものだからこそ敢えてやってみたいという冒険心などの類の心理なのであって、単に「~したい」というのとは別ものと思われる。)
 殺すのを嫌がるという、そのことは、倫理学上の性善説からではなく、生物学的に本能からして人間とはそういうものだ、いや、人間に限らず、他の動物も(中には共食いをする魚や、交尾の直後に雌が雄を食べてしまうカマキリや、子を産んで間もない雌ライオンに発情を促すために子を奪って食べてしまう雄ライオンのような例外的なケースは別として、たいていの動物は皆、自己保存欲求だけでなく、種の絶滅を回避しようとする)「種の保存」法則から同じ種の仲間を殺すことはあり得ない(縄張り争いや、ボスの座を争うとか、交尾する雌や餌を争って喧嘩することはあっても殺しはしない)ということから考えられるのである。動物には、「弱肉強食」の生存競争にともなう「闘争本能」や暴力性があり、人間も憎しみ・怒りなどの感情や恐怖感から、逆上し暴れて暴力を振るうことはあっても、或は発狂して(精神錯乱に陥って)刃物を振り回し、銃を乱射して殺してしまうなどといったことはあっても、殺すのは誰もが嫌がり、獲物(食糧とする動物)を殺す以外にはむやみに殺したりはしないのである。
 要するに、なぜ人を殺してはいけないかといえば、それは、人は誰しも殺されたくないからであり、かつ、(人間の本性として)人を殺すのを忌み嫌うからにほかならない。
 ところが、そのような(人殺しを嫌がる)人間を無理やり人殺しに駆り立てるのが戦争である。だから戦争はしてはいけないことなのである。

 古来、人間社会に戦争は付き物で、人類史上どの人種・民族も絶えず戦争を繰り返してきたかのようだが、実は、それは数千年前、文明社会になってからのことで、それ以前の遙かに長い数百万年にわたる原始社会には戦争も人殺しもなかったのである。文明社会になって生産活動が発達し、余剰生産をおこなえるようになって、支配民による被支配民の労働や生産物の搾取・掠奪がおこなわれるようになり、捕虜奴隷や土地の争奪をめぐって戦争―殺戮がおこなわれるようになったのだ。
 戦争は人間の本能に起因するという戦争本能起因論は通俗的によく云われている話で、それが科学的根拠を持たないことは、1986年「暴力についてのセビリア声明」(「戦争のための暴力行動は私たち人間の本性のなかに遺伝的にプログラムされている、という云い方は科学的に正しくありません」)のなかで、国際的にもすでに立証されているという(大日方純夫ほか「君たちは戦争で死ねるか」大月書店)。
(2)戦争は人間を狂わせる
 「兵士はどう戦わされたか」「ママはイラクに行った」両番組によれば、次のようである。
 第二次世界大戦中、アメリカ兵で、実際の戦闘で敵に発砲した割合(発砲率)は最大で25%にすぎなかった。兵士達は「これ以上人が殺されるのを見るのが耐えられないのだ。」「(兵士が発砲するのをちゅうちょするのはなぜかといえば)人は同胞たる人間を殺すことに対して、普段は気づかないが、内面には抵抗感を抱えている。その抵抗感のゆえに、義務を免れる道さえあれば、何とかして敵の命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に良心的兵役拒否になるのである。」ということが調査研究で判明した。そこで、こんな兵隊では「戦争にならない」ということで、発砲訓練の方法(ひと型シルエット標的を用い、敵兵を動物以下の「人間の形をした物体」に過ぎないと思い込ませ、敵兵の姿を見たら反射的に引き金を引き、「よろこんで」撃ちまくれるようにする訓練方法)を開発して実行した。
 (ベトナム戦争後、1970年代後半以降は、生身の人間が殺しあう接近戦を避けて、ハイテク兵器によるより効率的な戦闘方法―遠く離れた場所から敵を叩く戦略―を追究してはいるが、民間に紛れ込んでいきなり攻撃してくるテロに対してはトマホークなどの精密誘導兵器は通用しないわけである。)
新兵教育では命令への絶対服従と規律を叩き込み、白兵戦を想定した格闘技の訓練では“kill(殺せ)!kill!”と叫ばせながら、連日身体を虐めぬく。
 その結果、朝鮮戦争では発砲率が倍加し、さらにベトナム戦争では100%にまで達するようになったという。
 つまり、本来、人殺しを忌み嫌う人間を洗脳によって「殺人鬼」・「殺人狂」に変える。それが戦争なのだということ。
 そして彼らの中には戦場から帰還しても、元の普通の人間に戻れず社会に適応できなくなる者がたくさん現われる。PTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかり、おかしくなってしまうのだ。体の震えが止まらない(シェル=ショック)とか、夜、暗くなると戦場の恐怖がよみがえり、悪夢にさいなまれる。酒びたりや睡眠薬などドラッグづけになり、「敵からの攻撃を逃れようとして」暴走運転をしたり、銃を持ち歩くのが習慣化するとか、暴力をふるい、自殺にはしる、といった症状を見せる。
 ベトナム戦争に従軍した兵士の二人に一人は、帰還後なんらかの精神的トラブルに陥っているという。
 街や村に潜み民間に紛れ込んでいるゲリラに対して民間人と見分けがつかず、無差別に撃ちまくる。ベトナム戦争中、ソンミ村虐殺事件(老人・女・子ども合計500人を殺害)で25人を撃ち殺した一兵士(当時19才。一人の女性が何かを抱えて走り去るのを見て、武器を抱えているものと思い込み、赤ん坊もろとも撃ち殺した。最初の一発はためらったが、「一人を殺してしまえば、二人目はそれほど抵抗感なく、次はもっと簡単になり、何の感覚も感情もなくなり、とにかく殺しました」と)は帰還後、その様が心に焼き付いて離れず、(イギリスのテレビ局の取材インタビューで「私は自分を許せません。たとえ命令を受けてやったことだとしても、どうして忘れたり許したりできるでしょう」と)良心の呵責に囚われ、精神科で治療をうけ、3回、薬を飲んで自殺をはかり、ソンミ事件から29年後、結局ショットガンで自殺して果てたという。

 アフガンとイラクからの帰還兵も、その2割(30万人)がPTSDなど何らかの形で精神的なトラブルを抱えている、とのことである。
 イラクにはアメリカ兵16万人中、女性兵士1万人、その3人に1人は子をもつ母親。
 彼女らは帰還後、戦場で見た光景、手を振る子どもたち、その中に紛れ込んでいた少年ゲリラ、自分の命を優先して見殺しにした子ども、或は自ら撃ち殺した少年の顔がしばしばよみがえる。小さな物音や花火などに過剰に反応しておののき、子どもを連れて出かけるにも人ごみは避け、イライラして怒りっぽく、我が子に気持を通わせ、愛情を示すことができなくなる。

 戦争がいけないのは、それには物的人的損害・悲惨がともなうからということもあるが、それだけではなく、戦争に従事する兵士から人間性を奪い、彼らを普通の人間として生きてはいけなくする非人間性の故にほかならないのだ。

(加筆)
 朝日新聞の「声」欄の「語りつぐ戦争」(12 月20日付け)への投稿2つと、「よねざわ小学生新聞」(10 月10日発行、孫が学校からもらってきた)に掲載された一小学生の作文に、ここで論じたようなことが旧日本軍に事実あったことを示す実例が見られたので、それら3例について加筆したい。
①新聞投稿「無実の中国人、見せしめ処刑」―戦争中、中国で軍用木材買い付けの仕事をしていた人が、日本軍の憲兵隊から一中国人が何も悪い事をしていないのに連行された(実は「員数合わせのための連行で誰でもよかった」のだと後で聞かされた)のを、自分の下で働いていた中国人である彼の友人と彼の母親の切なる頼みに応じて、何とかして放免してもらおうと憲兵隊へ日参して尽力したにもかかわらず、そのかいもなく、その中国人は日本軍に反抗したことで見せしめのために処刑された。「役に立たなかったことを心からわび、耳を押えて数発の銃声を聞いた。」―という話し。
 そこには、戦争をしている軍とはそういう(理不尽に人を殺させる)もので、まとも(正常)な人間ならば、そのような(人が殺される)事態に接すると耐え難い思いをするものだ、ということが示されている。
②新聞投稿「戦地の悪夢で夜中暴れた父」―ソ連国境の前線をはじめとして数度の出征の後、本土防戦にたずさわり終戦で帰還、戦後「一心不乱に働いた父に畏敬の念を覚えたもの」。しかしその父もやがて「夜中、突然起きて大声で叫び、母に暴力をふるうようになった」。「酒も飲まずに温厚な父が別人になり、家庭は修羅場と化し、母も心を病みました。」「生還したものの心身に深い傷を負って苦しんだ父のような人が大勢いたはずです。」―という話し。
 戦争とはそういう(人の心を狂わせる)ものだ、ということ。
③小学6年生の作文「ぼくの希望、私の夢―争いのない世界に」―「僕のひいおじいちゃんは、今から80年位前に(というと1928年頃で満州事変前、山東出兵・張作霖爆殺事件当時ということになる。ご本人に詳しいこと、正確なところを聞いてみたいものだが―引用者)戦争に行っていました。ひいおじいちゃんは、鉄ぽうを持ち中国の満州に行っていたそうです。『少しでもたくさんの人を殺してこいよ!』と、目上の人から命令されていたそうです。でもひいおじいちゃんは一人もキズをつけずにいました。そればかりか、満州の人と助け合っていました。」「日本の兵隊が、そのひいおじいちゃんと助け合っていた満州のおじいさんおばあさんを殺そうとした所を守ってあげたそうです。この時ひいおじいちゃんは人としての思いやりを忘れなかったのでしょう。そして、戦争中にひいおじいちゃんが敵の兵隊にうたれ、日本に帰って来ました。帰って来た時もうたれたキズが残っていたそうです。なぜ同じ人間なのに、自分の国の都合で殺し合うのでしょうか?この話しを聞いて僕は、そんな人間がおかしく思えてきました。戦争に行った兵隊も、本当は殺したくなかったと思います。戦争は、国のえらい人同士のけんかです。罪のない人が他人のせいで死んでしまうなんて、その死んでしまった人や、けがをした人、そしてその家族は、いくら悔やんでも悔やみきれない事だったと思います。『お国のために喜んで行って来ます。』なんて言って、帰ってこれなかった人も大勢いると思いました。人は、協力して生きる、思いやりの心をもって生きるために生まれてきます。戦争のある世の中では、そうは生きられません。」
 この作文は米沢市立塩井小学校6年生のH君のものだが、彼の考えは、まさに戦争そして人間というものの本質をついているように思われる。

 人間はだれしも生まれたかぎりは生きようとする本能的な欲求をもっている。しかも、人間はだれしも他の人々と共に生きる共同的存在(たとえば、シマウマは群れから離れたらライオンにやられる。人間も基本的にはそれと同じで、他の人々から切り離れたら生きてはいけない存在)なのであって、相互補償(他人の足りないところを助け、誰かの欠けたところを他の人が補うこと)によって生命を維持・存続させている。
 糸川英夫博士(国産ロケットの生みの親、著書「21世紀への遺言」)によれば、人類は一つの生命を共に守る(共同によって生命を存続する)存在なのであって、究極的には60億人の人口がすべて健全であってこそ生き残れる。(例えば「寒さに非常に強い人は、氷河期になっても生きることができる。寒さに弱い人は生き残れない。その時、暑さに強くて寒さに弱い人を見殺しにすると、氷河期が終わって地球の温度があがった時は、寒さに強い人だけが残って熱さに強い人は皆いなくなってしまう。氷河期には寒さに強い人が寒さに弱い人の面倒をみることによって生命力を分担しなければ、地球人類が絶滅する危険が出てくるわけ」である。)
 H君が書いている「人は、協力して生きる、思いやりの心をもって生きるために生まれてきます。」とは、このような人間の在り様の本質をついたものと思われる。
 然り、すべての人は協力して生き、思いやりの心をもって生きるように生まれてきた。だから人は、殺してはいけないし、戦争をしてはいけないのだ。


2008年11月03日

私立高校生の要請に対する橋下知事

「テレビってやつは」
 先日(10月29日)「テレビってやつは」という久米宏のワイドショーで、私学助成を削減しないでと要請に来た高校生らに対して行った橋下大阪府知事の発言が取り上げられていた。
 そこでは、問題の本質はどこにあるのか、私学助成というものの意義を正面から論評することなく、私学助成は、「かつて生徒急増期に公立で収容しきれず、私立に頼むしかなくて行われるようになったが、生徒数が少なくなった今では不要だ」とか、「憲法違反だという説もある」とか、「高校に入らなくても、こつこつ頑張って立派に大成している人もいる」などと、司会の八木亜希子やコメンテータ(ジャーナリストの上杉隆、ジャズシンガーの綾戸智絵 、お笑いタレントのビビる大木ら)によって、あたかも高校生らの我儘な要求に対して橋下知事は毅然としてたしなめたかのようなニュアンスの論評が加えられていた。
 これは、道路建設のために計画道路にかかる畑の芋掘りをしている保育園児たちの排除を断行させたことや、全国一斉学力テストの府下市町村の学校成績を公表しようとしないなど自らの意に従わない教育委員会を「クソ教育委員会」とののしったり、自らに対する訴訟問題で「弁護士を廃業しては」と批判した朝日新聞社に対して「朝日こそ」廃業すべしとか、日教組に対して「解体させてやる」と言い放って辞職した前大臣の発言は「正しい!」などの勇ましい(?)発言とともに取り上げながら、いずれも、問題点を掘り下げないまま、姜尚中氏などの鋭い批判的指摘(小泉流に「抵抗勢力」をつくって「闘う知事」のイメージを売り込んでいるなどの指摘)が若干あったものの、ほとんどは、まさに「闘う知事」像を肯定的に浮き立たせるだけに終始して終わっている。「これは問題だな」「高校生がかわいそうではないか」と痛感したしだい。
私学助成問題
 そこで、あらためて私学助成問題を取り上げて論じてみたい。
 憲法で「教育を受ける権利」(26条)は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)とともに、すべての国民にとって最も基本的な権利の一つであり、国や地方自治体の行政を預かる責任者は諸施策の中でも最優先に考えなければならない事柄のはず。高校は、我が国では義務教育ではないとされているが、そうは云っても、かつてとは異なって高度に産業化・情報化した現代社会では、職業にも市民生活にも高校レベル以上の知識・教養は必要不可欠となってきており、(中にはそれがなくても立派に立ち行けている者もいることはいるが、それは極めて限られた人だけで)現に大多数は高校に進学しているのである(進学率は98%)。
 ところが、今の日本は、大学に至るまで授業料無償は世界の流れであるにもかかわらず(国際人権規約は「高校や大学の教育を段階的に無償にする」と定めている。日本政府はその国際規約に加わりながら、無償化条項を受け入れずに留保している。そういう国は日本とマダスカル・ルワンダの3ヶ国だけである。OECD加盟諸国30ヵ国中、いま現在無償でないのは日本のほかは韓国・イタリア・ポルトガルだけ。)学費は世界一高い国となっているのだ。日本の教育予算の水準はOECD諸国のうち最下位であり、いかに教育投資が少ないかを示している。
 日本国憲法の精神と世界の趨勢では、高校レベル以上の知識・技能の修得を求める入学希望者には全員に対して各人の能力に応じて等しく教育を与える責務が国や自治体の行政責任者にはあり、たとえ財源は限られ、財政難ではあっても、なんとかやり繰りし、他をカットしてでも、それを可能とすべく予算などの措置を講じる最大限の努力を払うのが当然のことなのである。(「私学助成などにまわすカネは無い。無いものは無いのだから諦めるのが当然だ」などといって居直れる筋合いのものではないのだ。)
 生徒が自分の能力・個性を伸ばせる学校はそこしかない(自分の能力・適性・希望職種に最も相応しい)と判断して自ら選択したかぎり、その学校選択は自己責任であるが、その学校が私立で公立の何倍もの学費がかかって家計が窮乏に追い込まれ、中途退学を余儀なくされたりもする(昨年度、経済的理由で私立高校を退学した生徒の割合は過去10年間で最高)という場合、それまでも自己責任なのか。そうではあるまい。
 それを橋下知事は(要請に訪れた私立高校生とのやりとりで)、「なぜ公立に行かなかったのか」「公立に入れるように勉強しなきゃ」「あなた自身が(私立を)選んだのではないか」「今の日本は自己責任が原則」であり、それがおかしいと云うなら「国を変えるか、日本から出るしかない」などと私立高校生に対して述べたというのは、自らの責任を棚上げして相手に転化する責任転嫁も甚だしい暴言である、といわざるを得まい。
私学助成と憲法
 尚、私学助成は憲法の規定(86条)に反するとして、それを削減しようとする橋下知事のような言い分を支持・擁護する向きがあることも確かだ。
 憲法86条には「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用・便益もしくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善・教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定めている。
 私学助成反対論者は、この規定を盾にとって、「公の支配」に属する学校は公立学校だけと見なして狭く解釈し、私学は「公の支配の属しない」のだから、それに公金を支出するのは違憲だという。
 しかし、たいていの私立学校は、教育基本法・学校教育法・私立学校法・私立学校振興助成法などの法的規制を受け、国の監督を受けている。そして、公立学校と同様に学習指導要領の基準に従い、文科省検定の教科書を使って公教育を担っており、公の利益に沿わない場合には是正を求められる。そのような私学は「公の支配」に属していると見なさざるを得まい。政府見解もずうっとこの立場にたっており、判例も、過去に2つ裁判例があるが、いずれも違憲説を退けているのだ。

 橋下知事をはじめテレビ出演者の大方は、それぞれそれなりにエリートであり、苦学などとは無縁な境遇にあり、「自己責任」で「勝ち組」の座をものにしたラッキーな連中であり、「私学助成問題」など意に介さず、問題の本質をろくに認識してなんかいないのだろう、といったら、それは「やっかみだ」と彼らは言うのだろうか。

2008年11月16日

日本の教育問題

 この問題を代表的なテレビ・ワイドショーがどのように取り上げたか、紹介したい。
11月10日テレビ朝日の番組「たけしのTVタックル」である。
 番組冒頭、ノーベル賞受賞者の(インタビューの中での)「厳しい苦言の数々」の紹介から始る。
 益川氏「『統一・一次試験』みたいなものは、誰がわるいかと言ったら採点者がわるい。速くできるように括弧に入れるだけ。選択問題なの。あれは『教育汚染』だ」と。小林誠氏「同じ問題は教科書についても云える。最小限のことだけ書かれて全体のストーリーとか、そういうものがない。」
 次いで画面いっぱいに「ダメ教師」「電車内で痴漢、高校教師逮捕」「学力低下」「教育格差」「学校選択制で格差」などの字句が踊る―教育現場に目をやれば問題が山積と(ナレーション)。
 一現役公立中学教師(顔・名前は示さずインタビュー)「危ないというか、もう崩壊していると思います」
 「学校で今何が起きているのか?」(番組標題)
 「ノーベル賞はムリ!?日本の教育が危ない!!」と(問題提起)。
教育費
 「親の年収と学力が比例」「交通遺児など奨学生家庭の年収平均137万円、東大生の親の年収950万円以上が50.7%」
 高校授業料(年間)―公立12万円に対して私立35万円以上
 高等教育機関(高校・大学)への公財政支出の対GNP比(05年)―先進30ヵ国(OECD加盟国)平均1.1%に対して日本は0.5%で最低
 大学の初年度納入金―国立約82万円に対して私立文系114万円、理系147万円
 「国公立でも年間200万くらい使えないと学校に行けないとさえ云われる」(精神科医の和田秀樹氏インタビュー)
 塩谷文科大臣(就任会見の時の発言)「親の所得など経済的状況によって教育を受けられないということがあってはならないわけですから、子供たちに等しく教育を受ける機会を保証することが国としての役割です」
 (ナレーション)教育振興基本計画―7月1日閣議決定―「教育立国」を宣言、「欧米主要国を上回る教育の実現を図る」と。しかし、当初掲げた「教育投資額GDP比3.5%を5%に」は(財務省の反対で)「諸外国の状況を参考に」という抽象的表現に後退。
 その一方で文科省は09年度概算要求で全国215の公立学校の武道場建設に48億円を要求するなど箱物予算は確保しようとしている。
 和田氏「日本の場合は公立学校の建物は、こんなに公教育費が少ないのに、世界中の人が見たらビックリするくらいに、特に新築の学校はあんなにキレイなわけです。だから公教育費を掛けるということが、セメントに金を掛けるために使われるんだったらたまったものではない。人間に金を掛け、カリキュラムに金を掛けてほしい」
 (ナレーション)「教育を受けることは、日本では贅沢になってしまったのか」

●出演者の発言
 共産党参議院議員の山下氏「OECD加盟国で高校授業料無料は26ヵ国、大学授業料無料14ヵ国、返済なしの奨学金給付制をとっている国26ヵ国」
 自民党参議院議員の義家氏(ヤンキー先生)「フィンランドなどと比べるけれども、国の規模も置かれている状況も全然違う、進学率など・・・」
 民主党参議院議員の鈴木寛氏「大学進学率はこれらの国のほうが日本よりむしろ高い」
 政治評論家の三宅氏「租税・社会保障負担率が違う。消費税は、フィンランドは25%だが、日本は5%。何だかんだいったって5%ではできるわけない」
 鈴木氏「できます。公共事業費が日本はGDP5%だが、ドイツは1.5%で3.5%も高い。それを削ればできる。」
 三宅氏「お金をかけなくても、英知によってできることは幾らでもある」
 司会(たけし)「ノーベル賞をとろうったって、お金のない国は大変なんだよ。」
 山下氏「今回4人の方々の受賞でも、基礎研究がだいじなことを教えてくれたが、その予算がすごく削られている」
 鈴木氏「お金をかけないと、金持ちは自分で自助努力でいくらでもできるからいいが、金持ちでない貧乏な家のお子さんのチャンスがなくなるから、これ、どうしますかということなんです」
全国学力テスト
(全国学力調査―1960年代、実施。不正・不適切行為が頻発。地域間・学校間で学力コンテスト化・序列化で過度の競争に陥るなど弊害があらわに。66年打ち切られる。
ところが、04年、中山<当時>文科大臣が再開を打ち出し、昨年から実施。
 文科省実施要領に「都道府県教育委員会は域内の市町村および学校の状況について個々の市町村名・学校名を明らかにした公表は行わないこと」と。
 都道府県別の平均正答率は公表―各都道府県で順位づけ。浮き足立つ自治体も。
 税金を使って試験をしたのだから、結果を住民に知らせるのは情報公開の点から当然であり、「公表するな」という文科省の「実施要領」よりも自治体の情報公開条例の方が優先するとし、公開請求を求める住民も現われ、各地で公開に踏み切る自治体が出てきている。
 尚、中山元文科大臣は、本年9月、国交大臣就任間もなく、全国学テは「日教組の強いところは学力が低い」ということを確かめるためにやったと発言<他にも問題発言が重なって辞任>。
 問題点は、「児童生徒の学力・学習状況の把握・分析」はサンプル調査<抽出調査>でも可能なものを、わざわざ60億円もかけて全員を対象にする必要がはたしてあるのか、ということ、それに何よりも、これが序列化や過度な競争をさらに促し、各市町村教委・各学校・各家庭ともこれに必死になってしまい、教師と生徒へのプレッシャーがさらに強められることになるということ。)

[番組展開]
全国学力テスト結果公表の是非―(司会)「そもそも結果公表しないのに学力テストをやる意味があるのでしょうか?」
 橋下大阪府知事(ビデオ出演)「全国平均、また府の平均、他の市町村とを比較することによって、自分たちの家庭・地域にどういう課題があるのか(明らかに)」
 塩谷文科大臣(ビデオ出演)「(公表することによって)あえて競争心を煽ることはマイナス」
都道府県別結果は公表(8月)―1位秋田・・・47位沖縄
  大阪府は昨年45位だった小学校が41位、中学校45位で昨年と同じ。)

 橋下知事「2年連続でこんなザマだったら、普通民間だったらとんでもない。もっと教員しっかりしろと(言いたい)。」「市町村の教育委員会は甘えている。結果が表に出ないからだ」と発言。大阪府の市町村レベルまでの結果公表を宣言(9月)

 鳥取・秋田の県知事も「市町村レベル」の結果公表を宣言

 この動きに対して文科省は批判―文科省事務次官の銭谷氏(10月言明)「そもそも(都道府県教委には)結果を公表しないことを前提に(市町村レベルの)結果をお伝え(提供)しているわけ」
ナレーション「大部分の都道府県教育委員会はこの文科省の意向通り市町村レベルの公表はなしというスタンスをとっている。」
 一現役公立中学教諭「自校の成績がわるいのは、学区内に低所得者の公営住宅があるから当然だとか、差別につながる」
 事例紹介「2年前、足立区の某小学校でのこと、テスト中先生が(机間巡視)生徒の解答の間違っている所を指差して、正解に導く不正行為―結果05年44位だったのが06年1位に。」
「点数の改ざん、低学力の生徒を休ませて全体の平均点を上げるなどの不正行為事例も。」
 杉並区和田中学校の前校長藤原氏(東京都初の民間人校長、大阪府特別顧問)(ビデオ出演)「テスト実施に税金で70億円もかけて調査したものが死蔵してしまうのは許されないこと。(成績の)厳しい所にはっきりと予算と人を投資するためにはオープンにしなければならない。都道府県・市区町村・学校と各レベルに合わせた内容で全て公表すべきで、地域の協力を得ることで学力を向上させることもできる」と。
 山下氏「なんで全国一斉に、一律に全ての子どもたちに同じ問題をやらせないとだめなの?その学校で必要なテストをやればいいんであって、全国一斉に同じ問題をやって公表するから点数競争になってああいうこと(点数改ざんや不正行為)に」
 義家氏「全国一斉に同じ指導要領の下でやっているわけですから」
 三宅氏「教師であっても子どもであっても、全国でどの程度のレベルか知りたいとおもうね、私は」
 大竹氏「いちばん最低だったらどうする?」
 三宅氏「ガックリするだけの話し」
 大竹氏「問題はそのへんにもあるんじゃないの。最低だとレッテルを貼られた所が、次の試験の時、『指差し』(テスト中、解答の間違っている所を教えてやる)とかがおこなわれていって、何の意味もないグルグルが繰り返されていくだけじゃない」
 小嶋氏「世の中、一番があればケツもある。うしろになったら次に頑張ろうという力をつけりゃいいんじゃないの。子どもの名前を出すとか、これはよくない。でも市町村とか市単位で出すだけでしょう」
 山下氏「いや、学校ごとに出す動きが出ている」
 三宅氏「出して悪いんですか?『秋田は一位になりました、こういうことをやっていますよ』ということをやれば、各県だって皆そういうふうなことを真似て、競争原理を働かせていいことなんですよ」

教育委員会制度
[委員は首長(県教委は知事、市町村教委は市町村長)から任命される。(どういう人が?という司会(たけし)の問いに義家氏「普通の人ですが、元学校の先生を選ぶ首長も。これは首長しだいです」と。)非常勤で専用の机があてがわれない(上に資料を置いて腰を据えて取り組む体制になっていない)。鈴木氏「結局それ(委員会)は隠れ蓑になっていて、教育長という一人だけ事務局的な常勤の役人がいる。この人が事実上全部コントロールし、絶対権をもっている」と]

 橋下府知事(知事の意向に従わない教育委員会に対して行った知事の発言をめぐる記者の質問に)「“クソ教育委員会”じゃなくて“教育委員会のクソ野郎”と言ったんです」「教育委員会制度を抜本的に、解体を原則としてゼロから教育行政を見直すべきなんです」
 鈴木氏「(教育委員会は)要らないんです。一回つぶした方がいいんですよ」
 
 ナレーション「大分の教員採用汚職事件に見られた閉鎖的な教育組織(その弊害)」
 一現役公立中学教師(インタビュー)「現場の校長の上に市町村教育委員会があり、その上に都道府県教育委員会、その上に文科省がある。教育委員会から派遣されてきた教育委員会の末端組織という意識をもつ校長先生もかなりいる。そういう校長先生をヒラメというんです。眼が上についていて上ばっかり見ているから」と。
 義家氏「文科省の意向をそのまま教育委員会が受けているということとクレームに対して怖い。反論があがるとすごく弱いのが教育行政の特徴なんですよ」
 藤原氏(インタビュー)「首長が教育長に力のある人を据えると教育委員会は変わり、そういう教育長は校長を若手の人材に入れ替えて・・・」
 三宅氏「(教育委員会は)公民館長の人事とか図書館長の人事とか皆もっており、校長で反抗的なヤツは(それらには任用されない)」
 谷澤氏「教育委員会の云うことを聞かなかったら校長にしてくれない」
橋下知事の教育介入
 大阪府下の教育委員会・校長会と橋下知事との間での問題については、このテレビ番組とは別に、月刊誌『世界12月号』に『橋下知事の教育介入が招く負のスパイラル』と題する星徹氏のルポルタージュが載っていたので、それをも以下に(要点をピックアップして)紹介しておきたい。

 「二年連続でこのざま。最悪だ」「市町村の教育委員会は甘えている」と言って知事が激怒した大阪府だが、その中でも大阪市は、小中学校とも大阪府平均を下回っている。しかし、それは地域によって大きな差があり、裕福な世帯の集まる地域は府平均をはるかに上回り、貧困世帯が集中する地域は府平均をはるかに下回っている(両者の平均正答率は100点満点で40点近く差がある)。後者の地域では一人親・両親ともにいない家庭や生活保護・就学援助を受けている世帯が多い。保護者が夜遅くまで働きに出ていれば、子どもたちが家庭で放置状態になりがちとなり、教員の多くはそれらの子どもたちの生活指導に労力と時間をとられ授業準備の時間がとり難い。

 大阪市教職員組合(全教系)の鍋田書記長「どこの地域の子どもたちが困難な状況にあるかはすでに分かっている。子どもたちが安心して生活し、学習できる環境を作ることが先決だ。」と。
 橋下知事「(学テ成績結果を)公表しないのは市町村の自由だが、そのかわり、府が35人学級の予算を出す必要はない。」「予算は(学テ成績の)公開・非公開で差をつける」と発言。知事は「予算編成のための参考資料」として、府教委に市町村別の平均正答率のデータを提供するように求め、その一覧表を受け取った。すると(そのことがマスコミ報道されたこともあって)知事に対して情報公開請求をする府民が現われ、知事は請求者らに対してそのデータを開示した。ただし、開示は自主的に公表に踏み切った自治体にとどめた。それでもその数は府内43市町村のうち小学校については35、中学校については32に及んだ。
 多くの市町村(9割以上の生徒数が属する)が公表に応じたので、35学級予算を出さないとか予算に差をつける話しは「今は考えない」と。
 しかし、府教委予算(教職員の人件費など含む)を今年度は昨年度に比べ約337億円(5.4%)減らす。
 知事の教育行政への介入―「教育内容に関する事柄にまで知事が介入し、その思いつきに基づいた教育行政が行われようとしているのではないか。府教委は形の上では残っているが、実際上は知事を中心とする一般行政が主導・操縦する形になりつつあるようだ。(東京都杉並区立和田中前校長の藤原氏が府教委特別顧問に。)
 これに、大阪府内の公立小中学校の校長らが反発。府小学校長会―学テに関して、知事に各市町村教育長に対する「序列化につながる公表の要請」をやめるよう申し入れ書提出。会長の西村氏「怠けているのが明らかになるから公表に反対してなどといった考えはナンセンスだ。」「あくまで義務教育の本質から離れていくことを危惧して反対しているのだ」と。
 府公立中学校長会も府内各市町村教育長に市町村別平均正答率の非公表支持「要望書」を提出。前田会長「非公表を前提に我々は全国学テを各校で実施した。それなのに、その前提を無視して公表するのはおかしな話だ。私たちは子どもたちにルールの重要性をずっと教えてきたが、橋下知事のやっていることによって、子どもたちに示しがつかなくなる。」
 吹田市坂口市長、(記者会見で)「アホな騒ぎにつきあってられない」「知事に対する宣戦布告です」(ホームページに)「今こそ教育の本質を見失ってはならない」と。(星氏の問に)「知事は・・・予算を盾にとって市町村教委に圧力を加え、制裁をちらつかせる手法をとってきた。・・・市町村教委の自主的な判断を無視して教育行政ができるんですか。・・・府教委にしても、あれだけ知事にボロクソに言われ、存在を否定されて、よくその知事に追随して一緒にやっているなあと不思議に思う。府教委の教育委員の方々は、もっと自立的な立場で発言してほしい」「知事の手法や言動はおよそ教育にはふさわしくない。子どもたちは大人に不信感を抱き、モンスターペアレンツ(学校や教師に無理な要求を繰り返す保護者)を助長するような荒っぽいやり方だ。子どもの親も知事の手法や言動をまねれば大変なことになる。」
 吹田市教委は同市立小中学校の平均正答率は非公開。同市教委の田口教育長(星氏の問いに)「他の市町村と平均正答率を比べても意味はなく、公表すれば、そこにばかり目が行き本来の教育のあり方が歪められる危険性がある。吹田市は全教科(国語・算数・数学)で全国平均を上回っており、『成績が悪いから発表しない』というわけではない。結果の分析もかなり突っ込んで行い、詳細な資料を公表している。知事が言うように『逃げている』のではなく、われわれは逆に攻めているのだ。」
 豊中市教委は平均正答率の公表には否定的(設問・領域ごとの正答率は公表)だったが、橋下知事は平均正答率の情報を開示。山元同市教育長―「市教委として丁寧なプロセスを踏み、議論を重ねたうえで決定したことが、知事によってひっくりかえされた。とても残念だ。」「市町村の平均正答率を出しても、各地域によって前提となる条件が異なるので、メリットがない。このまま公表すれば、1960年代に起こったように、点数をめぐって過度の競争が起こり、序列化が進む危険性がある。そういったあり方は本来の教育を歪めることにつながる。」
 大阪府内の一公立小学校教諭「(市町村別平均正答率の公表について)経済的・社会的に困難な家庭の多い地域とそうでない地域を比べることに何の意味があるのか」「国は全国学テを行って『学力のしんどい地域』が分かったのだから、そういった地域の根本原因を改善する取り組みに力をいれてほしい。」

 大阪府全体の社会・経済状況:(05年)完全失業率は47都道府県中2番目に高い(8.6%)。
   勤労世帯一世帯当たりの実収入(06年)は下から3番目。
   生活保護の被保護実人員(05年)は全国2番目に多い(2.4%)。
   都道府県と域内市町村による一人当たりの教育費財政支出(05年)は全国6番目に低い。

 学テの成績を照らし合わせれば、相関関係は明らか。
 平均正答率が下位にある沖縄・大阪府・北海道などは世帯当たりの実収入が低く、完全失業率・生活保護受給率はともに高い。
 平均正答率が上位にある福井県・富山県などは、世帯当たりの実収入が高く、完全失業率・生活保護受給率はともに低い。

 大阪教職員組合(全教系)の田中教文部長「こういったことが明らかなのだから、橋下知事は教育の環境整備に力を入れるべきなのに、教育予算を今年度は大幅に削っている。」
 大阪府教組(日教組系)の新居中央執行委員長「経済・生活格差が学力格差・進学格差に結びつき、それがまた経済・生活格差へと結びつくという『負の連鎖』になっている。だからこそ総合的施策で格差解消をしなければダメなのだ。しかし我々は教育者なのだから、『だからしょうがない』と考えるのではなく、与えられた条件の中で最善を尽くしている。」
 以上、ルポライターの星氏が聞き取り、取材。

 星氏の論評:「橋下知事はこういった教育現場の生の声を聞くよりも、自らの狭い実体験に基づいた『思い』にこだわり、文科省や府教委・市町村教委を『敵』に仕立て上げ、『府民の意見を聞く』と言っては対立の構図を作り上げているようだ。この『橋下劇場』の手法によって、多くの府民は喝采の声をあげ、その声を利用して、知事は思いどおりの教育介入を推し進めているのだ。
 このようなポピュリズムによって学校の教育が歪められぬように、都道府県教委や市町村教委には一般行政からの独立が保障されているのだ。しかし今、大阪府では、この独立が脅かされている。」「そもそも、国が『全員調査』の全国学テを実施し、都道府県ごとの平均正答率を公表するだけで、学力・学習習慣の面で『困難な地域』に特別支援の財政支出することすらない、というあり方も問題ではないか。このことによって、大阪府のように教育現場の実態を無視して、本来の義務教育のあり方を否定するような方向へと浮き足立つ自治体が出てくるのだ。」

日教組
 ナレーション「中山前国交大臣の発言で注目された日教組、『日本の教育の癌』とまで言われた日教組とは、いったいどんな組織なのでしょうか」
 1947年、結成―「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに
 1958年、組織率86.3%
 1980年代、一部組合員の離脱や分裂を繰り返す
 1995年、「大きな方向転換を迫られることになる」
 横山委員長(当時)「日の丸・君が代が国旗・国歌であるかないかというのは学校の校長や職員だけで決められる性格のものではない。したがって一時棚上げして、その問題の論争を現場ですることはやめる」(日の丸・君が代論争からの撤退)―文部省と和解へ(パートナーシップ路線)
 1999年8月「国旗・国歌法」成立(参院で強行可決)
 2007年、組織率28.3%
 和田秀樹氏「彼らがやってきたことは、自分たちの待遇改善もさることながら、イデオロギー運動であって、子どもの学力を置き去りにしてきた」
 義家氏「今、組織率が下がっていると言われますけれども、現状は全く違うわけで、過激な活動をしてきた人たちが今50代になって、かなり影響力をもっているわけ。じゃ、どう正常化のためにそこで切り離していくのかを具体的な議論をしなかったら、このままずるずる流れていく心配が自分のなかにすごく強い」

 渡久山長輝氏(元日教組書記長、現在、中央教育審議会委員)(出演)「組織率、一番高いのは福井だが、そこは学力テスト成績は3位(高い)」
 山下氏「国旗・国歌法」成立当時、野中官房長官は(国会答弁で)『強制はしない』と」
 小嶋氏「あなた日本人をやめたら?」
 渡久山氏「日教組は『起つな』(不起立)という指示は一切だしていない。思想・信条に
介入はしない」
 谷澤氏「日教組も行き過ぎがあるが、それとつるんだ教育委員会・文部省もわるい」「日教組の教員は教育に関しては一生懸命やる人が多い」
 三宅氏「一生懸命、思想教育をやられても困るんだよね」
 谷澤「私らもそんな教育の中で育ってきましたけど、あまり毒されていませんよ」

●私見:戦後、新憲法と教育基本法の下で民主教育がスタートしたものの政府・文部省は間もなく逆コースへと舵を切り、「教育の政治的中立に関する2法」制定(政治教育や平和教育を萎縮させる)、教育委員会公選制の任命制化や勤務評定、学習指導要領の法的拘束力強化、全国一斉学力テスト、教科書検定等々が行われようになり、日教組はこれらに反対し抵抗してきたが、結局は抑え込まれていった。スローガンに「教え子を再び戦場に送るな」を掲げていながら、歴史教育など授業では現代史を重視して戦争を正面から取り上げて教えることができなくなっていった。近現代わが国が行なった戦争にたいする教師たちの歴史認識に対して、これらの戦争の片棒をかついできた政治家・官僚たちとその後裔・後継者からなる政府・文部省のメンバーたちの歴史認識には大きなギャップがあり、教師たちの授業には彼ら文部省政治家・官僚たちの手で作られた指導要領や教科書検定などに基づいてチェックが加えられクレームがつけられる。教師たちはそれに対して萎縮して、「教え子を再び戦場に送るな」という使命感をそがれ没却して、現代戦争史は「あたらずさわらず」で済まそうとし、そこからは試験問題を出さない。文部省側も事勿れ主義から、或は意図的に(真実から目をふさごうとして)教えない方が都合がよく、そこまで進まないことを黙認する(暗黙の了解)。その慣行が定着していった。
 かく言う私は、幼児期に父が兵隊にかりだされ、防空壕に隠れたという戦争体験はあるものの、学校では現代戦争史を習わなかったし、教師になりはしたものの未熟だった若年教師時代は、生徒(団塊世代)にそこはろくに教えてこなかった。(進度が遅くてそこまで進まなかった。生徒諸君には全くもって申し訳ないと思っている。その後になってからはそこに独学して精一杯時間を掛けて教えた。)
 政治家の方々は現代戦争史をきちんと習ったのだろうか。誰から習ったのだろうか。安倍晋三氏は学校で組合員教師から習ったりしたのだろうか。父や祖父(岸信介)からは勿論しっかり教わったことだろう。
 ところで、「日本を侵略国家というのは濡れ衣だ」と懸賞論文に書いて航空自衛隊幕僚長を更迭された田母神氏はどうだったのだろうか。いったい誰からそのような戦争史を教わったのだろうか。独学か、それとも?
 別のテレビ番組だが、この件に関して11月15日、朝日ニュースターの「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」でコメンテーターが次のように論評していた。
 評論家・東京家政大学名誉教授の樋口恵子氏「日教組と政府の対立の中で、怖いから教師が教えないんです。その結果としてあのへん(現代史)は入試にでないんです。だいたい明治維新ぐらいまで教わって、その後の歴史を知らない人が、もしかしたら、日本の人口の半分ぐらい或はもっといるかもしれない。田原総一朗氏は田母神氏のような意見は日本の世論の半分以上だと書いている。」
 軍事ジャーナリストの田岡氏「田母神氏自身歴史を知らないから、誰かにつっこまれると、ああそうかなと、自分のいいほうを白紙の上に墨汁を落としたようにね。」「問題なのは(日教組の教員が)変な教育をしているから問題なのではなく、むしろ何も教えていないからだ。」「歴史観など(イデオロギー)は教えなくても、史実はきちんと教え、誤りは誤りと認め、歴史に学ぶことは必要」

 [たけしの番組に戻ると]
 義家氏「(日教組は)協調路線をとっている一方で、過激な左派が存在している。日の丸・君が代に対して議論しないと・・・。(日教組支部の内部文書に)戦前・戦中、日の丸・君が代が果たした役割と天皇制の問題点に気づくように、建国記念日にたいしてこういう教え方をしよう、ということをやっているわけですよ」
 渡久山氏「日教組の本部からはそういう文書はだしていない。日教組は政治団体ではない」
 義家氏「それはいいわけですよ」
 大竹氏「義家さんは中山さんの発言には肯定的なわけ?」
 義家氏「そうです」
 大竹氏「じゃ、なんで大臣をクビになるの?」
 松あきこ氏「そりゃ、公の場であんなふうにいうのは絶対許されませんよ」
 大竹氏「ここだって公の場ですよ」
 松氏「だって大臣ですもの、大臣としてあんな発言を」
 大竹氏「(義家氏の発言は)国会議員(として)の発言ですよ、今の発言はね」

 小嶋氏「東大に入るような子は素質があるんです。『父方・母方の家計を調べろ、親戚中、だれも入っていなかったら8割あきらめろ』と言うんですよ」
 谷澤氏「無気力教員が問題。5時で帰ってしまい、放課後残った子どもフォローをしない。悪いことをした生徒を退学させるのに職員会議があるが、先生方は5分も会議しませんね」
 義家氏「校長先生が『まあまあ』と。だいたい校長になるのは50代半ばで、二つの学校を転勤して定年退職して天下る。色んなところに問題を起こさずに定年まで勤めあげたら、その後のポジションがある。それで『まあまあ落ち着いて』と」
 司会「『事勿れ主義』なんですね」
 大竹氏「それだったらダメなのはシステムの問題じゃない」

 以上、「たけしのTVタックル」を主として、一部「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」を加えたテレビ番組と星氏のルポルタージュの中で、いろんな人が述べた言葉を、ほとんどありのままに記述してみたが、その中から各自で問題点を感じ取ってほしいものだ。

2008年12月06日

空幕長論文問題(修正加筆版)

 田母神航空幕僚長が、民間団体(「アパグループ」―ホテル・チェーンなど展開)が募集した「真の近現代史観」懸賞論文に応募、「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」などと政府見解と異なる論文を公に発表したとして更迭(解任)された。
 その何が問題なのか論評したい。
(1)論文の内容について
①「日本は相手の了承を得ず軍を進めたことはない」と。―事実は、ほとんどが相手の了承なく軍を進めておいて(駐屯部隊の軍事行動、謀略事件を起してそれを相手の仕業にして攻撃、奇襲攻撃も)、戦争にもちこみ、屈服した相手に領土の併合や割譲、権益のあけ渡し、権利譲渡などの条約や協定を結ばせた。日露戦争は旅順港を基地にしていたロシア太平洋艦隊への奇襲攻撃で始まり、満州事変は関東軍と称された現地駐留日本軍の謀略(鉄道を爆破して中国軍の仕業であるとして攻撃)で始まったし、日中戦争は北京郊外(盧溝橋付近)で中国軍に近接して駐屯していた日本軍部隊を増派して大規模な演習を行なったそのあげくに両軍が衝突して始った。太平洋戦争は真珠湾のみならずマレー半島奇襲上陸で始った、等々。
 相手の了承を得て行ったのは北部仏印(フランス領インドシナ北部)進駐のときぐらいのもの(その時はヨーロッパでドイツに降伏したフランスがやむなく了承)。
②「張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業だ」と。―事実は、これも関東軍の仕業であったということは、実行首謀者・関東軍参謀の河本大作大佐が供述しており、「昭和天皇独白録」も含めて戦後公表された多くの証言・史料で明らか。
③清朝政府と締結した「義和団最終議定書」で欧米各国とともに北京駐兵権を獲得し、当初2,600名の兵を置いた。その日本軍は「36年後の盧溝橋事件の時でさえ5,600名にしかなっていない。この時、北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。」「盧溝橋の仕掛け人は中国共産党だ」と。―合法的とはいえ、日本は他国に、その国の軍(国民党軍)の駐屯地の間近に5,600人もの大軍を置いていたのである。そしてその日(事件当日)日本軍はそこで夜間演習を行った。衝突のきっかけとなった発砲は両軍のどちらの兵が先に仕掛けたのか、そのような議論は大した問題ではなく、とにかく間近に両軍駐屯地が対峙し、日本軍の夜間演習が国民党軍との衝突・戦闘を誘発し、4日後には、現地で中国軍の側が休戦を望んで日本側の要求をのんで停戦協定が結ばれたのに、日本政府(近衛内閣)は派兵を決定して増援部隊をくりだし戦闘を再開、終にはそれが100万人にも達し、日中全面戦争に発展したというのが事実なのである。
④「我が国は蒋介石により日中戦争に引き込まれた被害者」「日本はルーズベルトの罠にはまり真珠湾攻撃」と。―事実は次の通り。
 日本は、満州事変から日中戦争、さらには、石油・ゴム・錫などの資源地帯を含むアジア・太平洋地域(「大東亜」と称す)を「生存圏」とし、インドシナ進駐へと軍事戦略を進めてきたが、アメリカはそれに反発し、日米通商条約を廃棄、石油輸出停止などを行い、イギリス・オランダとともに対日経済封鎖体制(ABCD包囲陣)を敷いた。これに対して日本は日米交渉で「満州国」・「中国駐兵」・「南方進出」をアメリカに何とかして認めさせようと(交渉妥結の条件案をもちかけるなど)試みる一方、開戦の覚悟を決め、対米戦争の準備を進めた。
 これに対して、アメリカ側のハル・ノート(田母神氏は「コミンテルンのスパイ」が書いたものだというが)は、日米交渉にさいする日本側の条件提案に対する拒否解答であり、開戦するなら受けて立つというハル国務長官の意思を示したものだった。ところが、それが日本側に示されたその日(11月26日)に、日本の海軍機動部隊は、かねてよりの御前会議における(12月初頭までに日米交渉で日本の要求が貫徹されない場合にはとの)開戦決定に従って、もうハワイに向かって南千島から出発していたのである。そして12月8日未明、真珠湾内に錨を降ろし岸壁につながれたままのアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけたのである。(その死者は民間人を含む2,330人、日本軍の戦死者64人だった。)
 それを「罠にはまったのだ」という、このような論法は、いずれも相手国の領域に乗り込んでいって事を構えた自らの行為(侵略行為)が原因となって始まった戦争を相手のせいにする「卑怯」な言い分けと受け取られよう。
 戦争や「外交戦」に謀略やスパイの暗躍は付き物である。(日本も含めどの国もやっていることで、なにもコミンテルンに限ったことではない。)東大教授の北岡伸一氏は(11月13日の朝日新聞「私の視点―ワイド」に)「国際政治とは、しばしばだましあいでる。自衛隊のリーダーたるもるが、我々はだまされたというのは、まことに恥ずかしい」と書いている。
 
 尚、ジャーナリストの徳本栄一郎氏(「月刊現代09年1月号」掲載「真珠湾攻撃『改竄された米公文書』」)によれば、真珠湾攻撃情報が事前に米国政府(国務省の極東部)にもたらされていたのは事実であったが、それが政府上層部(ルーズベルト大統領やハル国務長官)にはきちんと伝えられていなかったことのようである。
 真珠湾攻撃計画の情報が最初にもたらされたのは開戦11ヶ月前(1941年1月下旬、実際その頃、山本五十六連合艦隊司令長官はハワイ攻撃計画を立てていた)、駐日米国大使ジョセフ・グルーに、ペルーの特命全権公使(リカルド・シュライバー)の口からで、グルー大使は国務省極東部に暗号電報でその情報を伝えていた。
 6月にはFBIが日本海軍軍人をスパイ容疑(米国の港湾や造船施設を探っていたというもの)で逮捕・国外退去させた。
 極東部の若手スタッフで国務省の数少ない日本専門家シューラーは、(同僚の夫人からたまたま聞きつけた話しで)日米交渉に従事していた日本人外交官(寺崎英成)の夫人(グエン)の、日米開戦を示唆する言葉などに、開戦は必至と見ていた。
 ところが、国務省内で、日米開戦は避けられないとするシューラーら若手グループに対して、和平交渉に固執する幹部たち(極東部長ハミルトンら)が対立、「後者は都合の悪い情報(真珠湾攻撃情報など―引用者)を無視し、異論を封殺した。(シューラーは転勤させられる―引用者)その結果、上層部(大統領・国務長官―引用者)へあげられる意見が偏っていた。」
 真珠湾攻撃が実際起きると、その後、国務省幹部は失態を隠すため(大統領に誤った助言をした責任から逃れるため)保管文書(駐日大使グルーの日記も)を改竄し、目障りな部下を追放した、というわけでる。

 田母神氏論文は、張作霖列車爆破事件といい、盧溝橋事件といい、真珠湾奇襲といい、謀略を仕掛けたのが日本軍であるのに、それを逆にして、いずれも相手側が仕掛けた謀略だったのだとし、日本軍の軍事行動は、その「罠にはまって、戦争に引きずり込まれた」やむをえざるものだったとして肯定・正当化しているのである。
 ということは、彼・田母神氏は幕僚長という立場で、(北朝鮮なり、韓国なり、中国なりに対して)、このような(相手の罠にはまって戦争に引きずり込まれたとして)軍事行動を起こす判断をしかねなかったということであり、大変なことになりかねなかったのだ。
⑤「多くのアジア諸国が『大東亜戦争』を肯定的に評価している」―欧米人の植民地支配に苦しんできた東南アジア諸国や太平洋諸島の人々の中には、その欧米に敵対して侵入・進駐した日本軍を歓迎・協力する向きも戦争の初期にはあって、日本軍の援助で独立政府や軍隊組織がつくられたりしたが、その実権は日本軍が握り、その地域にある石油・ゴムなど資源物資・食糧を強制的に取り立て、人々を労務者としてこき使い、事実上支配下に置くようになったことに気が付いて、日本に失望、反日感情が強まって抗日ゲリラ活動も行われた。戦後、結果的に独立を導いた日本の役割を、これらの国の中には肯定的に評価する向きもあろうが、それに批判的な人々が多い、というのが事実である。
⑤「東京裁判は戦争責任をすべて日本に押し付けようとしたものだ。そのマインドコントロールは今なお日本人を惑わせている」と。―東京裁判は日本の戦争責任を裁こうとしたものであるが、それは戦勝国による一方的な裁判であり、アメリカ政府の思惑が働いたことは事実である。しかし、そこには「被告には自らを裁く権利はない」(厳正に追求できるはずはない)という論理があったし、日本政府にも、日本独自の裁判を考えはしたものの、「天皇の名で戦争し、天皇の名で裁くなどということは不可能だ」とか、戦争に反対して抵抗した少数の共産主義者など以外は日本国民のほとんどが多かれ少なかれ戦争に責任を負っていたという負い目もあり、「日本人が日本人を裁けるのかというジレンマがあったことにも一因がある(ジョン・ダワー氏がその著書「敗北を抱きしめて」で指摘)。その結果、アメリカの原爆投下が不問にふされる等の不公正なものとなり、天皇の訴追が回避され岸信介ら多数の戦犯容疑者が中途で釈放されるなど日本の戦争責任に対する追及も不徹底なものとなった。その不徹底さが、日本人の中に自国の戦争に対する罪悪感をむしろ薄める結果になっているとも考えられる。
 マインドコントロールに囚われているとすれば、日本人の一部に、日米関係は親子関係の如しといった観念がしみついて対米従属意識でこり固まってしまっている向きがいることだろう。田母神氏からしてそのように思える。氏は「このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。」と書いていながら、「私は日米同盟を否定しているわけではない。但し、日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。」と書いており、「子供はいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要がある」としながらも、日米関係は親子間家であり続けると思っており、対等な関係であるとは思っていないわけである。

 この論文に対する戦場体験者の批判があるが(朝日新聞の投稿)、それは次のようなものだ。
 中国戦線に従軍した91歳、東京杉並区の方―「実際の戦争を知らない戦後生まれの無知蒙昧の観念論・歴史観」だと。
 中国戦線に「一兵卒として」従軍した86歳、長野県下諏訪町の方―「戦争の実態を知らぬ無知さ加減を暴露」と。
 中国出征・シベリア抑留の憂き目にあった元兵士、94歳、和歌山県みなべ町の方―「村をあらし、村人を手にかけた。あの戦争はまさしく『侵略』だった。日本の占領が『圧政からの解放』などとは、きれいごとに過ぎない。中国人を苦しめた我々の痛みが、空爆長にわかるか」と。
(2)幕僚長の言論の自由、教育の自由とは
 「自衛官にも言論の自由がある」「言論統制なら北朝鮮と同じだ」と。
 言論の自由といっても、嘘をつく自由などあり得ず、客観的事実に反し、事実を曲げ、定説(史料に基づく検証や反証を通じて固まってきたもの)と違うことを、裏付け資料があいまいで根拠が不確かなのに、さもまことしやかに偽装して書きたて教えたりする自由はないわけである。評論家の唐沢俊一氏は、(11月13日朝日「私の視点―ワイド」に北岡氏、志方氏と共に寄港した文「陰謀論にはまる危うさ」で)田母神論文は、「一次史料を参照せず、『誰々の本に書いてある』という二次史料の引用しかない。空幕長であれば、一次情報にアクセスすることもできたはずだが」と指摘しており、北岡氏も「事実の把握において、著しい偏りがある」と批判している。そんな、いい加減な論文だということだ。
 ましてや、公務員には憲法尊重擁護義務(憲法99条)があり、自衛官は自衛隊法53条(憲法遵守宣誓義務)に基づいて「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の職務を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し・・・・もって国民の負託に答えることを誓います」(任官のさいに署名・押印)という宣誓を行っており、かつ又、自衛隊は文民統制(シビリアン・コントロール―国民に選ばれた代表から成る国会や政府の決定に服すること)に従わなければならず、自衛隊の幹部たる者が隊員または隊員以外の者に政府方針・政府見解と違うことを説いたり、教えたり教えさせたりしてはならないことになっているのである。
 日本国憲法とはどのようなものかといえば、その前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」とあり、この憲法は、未曽有の戦争の惨禍を招いた政府の行為に対する反省の上に立って書かれた、そういう憲法である。公務員の憲法尊重擁護義務とは、その精神をも尊重しなければならないということだろう。
 また、政府見解といえば、1995年8月15日、時の首相(村山)が述べた次の言葉―
「我が国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によってアジア諸国民に多大の損害と苦痛を与えた」「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。」(いわゆる「村山談話」)
 その見解が、その後代々の首相によって踏襲されてきており、それが国内外に対する我が国政府の公式見解となっている。

 田母神幕僚長が(隊の内外における講話・訓話・論文などで)振りまいた言説は、これらに全く違背するものだった。
 それは国内外の諸国民に警戒感や不信・不安を与え、国際的に我が国の孤立を招きかねない、その意味で国益に反するものとなっている。

 士気を高める隊員教育―田母神幕僚長は幹部学校に「歴史観・国家観」の講義を設け、講師に「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーを招く。それ以外に様々な場で自らも講話や訓話。
 「日本が良い国だと思えなかったら、誰が命がけで国を守れようか」(12月9日放送のNHK「クローズアップ現代」―「なぜ発表?空幕長論文の真相」で記者のインタビューに答えて田母神氏いわく「自分たちの先輩が残虐行為をした、侵略をした、ろくな国ではなかった、というふうなことを教え込まれたんでは、やっぱり国のために頑張るという自衛隊はできませんね」)と。
 元陸将で帝京大学教授の志方俊之氏も「日本は過去にひどいことをやった罪深い国だ―では、若い隊員たちが誇りを持って命を捨てられるだろうか」と11月3日の朝日新聞に書いている。
 肝心なのは今、現在のこの国を外敵から守るということであり、今、この国で共に生きている人々(家族・同胞)の生命と生活基盤を守るということなのであって、必ずしも、今この国が守るに値する「良い国」だから守る、というわけではあるまい。確かに今この国は、昔に比べれば平和国家・民主国家として「良い国」になっているとは考えられるが、それを、戦後の今だけでなく戦中・戦前の昔も、侵略国家でもなければ圧制国家でもない「良い国」だったと思わなければ命がけで守れないとか、隊員教育によって隊員にそう(事実「ひどいこと」「罪深いこと」をやったのに、やってはいないと)思いこませなければ、彼らは命がけで戦ってくれないなどというのはおかしくないだろうか。親は我が子を、悪さ・過ちを犯したことのない「良い子」だと思わなければ守れないと言っているようなものではないか。(親は我が子が「悪い子」「不肖の子」だと思っても、危難にあえば命がけで守るもの。)
 また、なにがなんでも、この国を「良い国」と思いこませて「誇りをもって国のために命を捨て」させるということなるが、それはやはりおかしいだろう。
 幹部教育で肝心なのは、思い込みで実態を見誤ることのないようにすること、とか、間違った命令で隊員が命を落とすことのないようにすること、とか、そういったことだろう。
 12月5日NHK「ニュースウォッチ9」で「最後の海軍大将、自衛隊への遺言」として、井上元海軍大将(日米開戦に反対して左遷、終戦の1年前に軍中央に復帰)の「証言」(インタビュー)を取り上げていた。
 曰く「大義名分の立たない戦いに部下を殺すのは大嫌いだ。そんなこと大嫌いな以上にやるべきじゃない。大義名分は何かというと独立ということ(「大東亜共栄圏の建設」でも「アジア解放」でもない―引用者)。それが脅かされときは、これはもう、どうしてもしようがない。」と。そして、特攻(海軍だけで4,100人の命が失われた)で「前途ある若者たちが死んでいくのを止められなかった悔恨の念を語っている。
 彼は「嘘を重ねて戦争を続ける軍の姿を見ていた。」―天皇への報告で「戦争の遂行に必要な燃料の備蓄量を水増しして報告をしていた」と。
 戦後、設立された防衛大学校の初代校長(民間出身)に「学生には軍事知識に偏らない幅広い教養を身に付けさせるべきだ」と助言した。防衛大学校の教育方針―「広い視野」「科学的思考力」「豊な人間性」―には彼の思いが反映されているという。
 曰く「兵隊というものは偏りがちな癖がある。私は、兵隊を作るんじゃない、『ジェントルマン』を作る。結局、教養を高めるということが一番大事だ」と。教養を含めて偏らない情報をもつことが大事なのだということ。(作戦は客観的な事実情報に基づかなければならないのに、自分の思い込みや自分の都合の好い情報でやったのでは勝てやしないわけである。)
 12月9日NHK「クローズアップ現代」によれば、防衛大学校の初代校長・槙記念室には「服従の誇り」という言葉が掲げられている。それは「国民が決めたことに進んで従うことは立派な誇りになる」という意味で、「文民統制」の理念はこの一言に込められているという。
 防大現校長の五百旗頭氏は、タイの士官学校に留学して帰ってきた学生らと面談し、彼らの一人が「われわれ防大生も国を守ることにもっと誇りをもって生活なり勉強なりをすることが必要と感じました」と述べたのに対して、次のように言っていた。
 「国王を仰いで国防のために誇りをもつというのは戦前の日本の士官学校生もそうなんですね。頼もしいといえば頼もしいんですが、問題は視野狭小になって暴走したりしないかと、そういう問題なんですよ。」(彼ら―防大生―は、あまりにも全力投球しているために、時としてそのことに夢中になって広い視野を見失うことはあり得ることですね。それで突進してはいけないんだよと。もっと広い場において広い認識の土台をもって成長していく必要があるよ、ということも言ってあげなくてはいけないんでしょうね」と。)
(3)「自衛隊員の鬱屈」とは
 志方元陸将は、田母神論文は「隊内の長年の鬱屈を示した」として、「自衛隊員には長年にわたり鬱積しているものがある。」「現行憲法では自衛隊の存在が明確ではない。そんな状態が長く続き、屈曲した気分を作っている。憲法を変えて自衛隊の存在を明記することだ」と書いている。
 憲法については、自衛隊に限らず、そこには警察のことも、消防のことも海上保安庁のことも直接には書かれてはおらず、天皇と三権(国会・内閣・裁判所)以外の公的機関・公職は一切明記されていないわけであり、憲法に明記されていないからといってこれらの署員や隊員その他の公務員に鬱屈があるのかといえば、そんなことはないわけであり、自衛隊員に鬱屈があるとしても、それは必ずしも憲法にその存在が明記されていなからだとは言い切れまい。
 ただ、政府のこれまでの自衛隊に関わる政策が原則を曖昧にしてきた、その点が自衛隊員の鬱屈(不満の鬱積)をもたらしているとは言えるだろう。
 「専守防衛」徹し、国の内外における災害支援などに出動、平和活動に役割を果たし、これまで一人の外国兵も殺さず、一人の自衛隊員も殺されていない。そのことは、アメリカのように、世界のあちこちで戦争し、幾多の外国兵やゲリラ・一般人を殺し、自国兵が殺されている国に比べてけっして恥ではないどころか、誇りだと言えよう。
 しかし、その一方で、不名誉だと思われるのは、アメリカ軍への従属状態におかれていることだろう。
(横田正巳著「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研によれば)日米両軍は実質的に統合(日米司令部が一体化)―同じ基地内(キャンプ座間・横田・横須賀)に両軍の司令部が併置、机を並べて共同作戦。分担は、米軍が「決定的に重要な中核的能力」を提供するのに対して、自衛隊は「追加的・補完的能力」を提供―いわば「米軍を保安官とすれば自衛隊は助手」という立場。装備も訓練も米軍の指導と援助を受け、いわば「教師に対する生徒」の如しだ。そして米軍基地の警護、米軍の出撃にさいして後方支援(護衛、補給―空輸・給油など)をさせられているのである。
 「国際貢献」―対外的影響力の拡大―ならば、平和憲法をもち、世界唯一の被爆国に相応しく非軍事平和貢献に徹しても良さそうなものであるが、政府は、アメリカから「ブーツ・オン・ザ・グランド」などとせっつかれることもあって、自衛隊を使っての軍事貢献に傾き、事あるごとに自衛隊派遣にこだわる。そうすると自衛隊の方は、「海外に出すなら外国軍並みの権限を与えてほしい、武器使用も」となるわけであり、それがかなわないとなると、引け目・いらだちを感じることにもなるわけである。
 だからといって、田母神氏が主張するように「集団的自衛権の行使」も攻撃用兵器の保有まで認め、イラク・アフガニスタンへと、どこへでも米兵と肩を並べて共に出撃する。そして戦争の「惨禍」を繰り返す。そんなことに「誇り」を感じたりするのだろうか。
 自衛隊は「専守防衛」に徹し海外には災害救援以外には一切出ない、他国の戦争や紛争には参戦・軍事介入はしない、ということを原則とするのであれば、そういうことで、それをはっきりさせればよいものを、政府が自衛隊にやらせていることはどうも中途半端。そういったことが「鬱屈」の原因になっているのではないだろうか。
(4)やりたいことをやり、言いたいことを言って定年退職?
 志方氏は、田母神空幕長の論文は「自衛隊にとっては、迷惑千万だろうが、一部には、よくぞ言ったという評価もあったのではないか」という。
 一般に、在職中は職務上課せられている法的制度的原則と服務規律をきちんと守って職責を全うし、その上で定年退職する。退職すれば自由人となる。
 田母神氏も退職して自由人となり、これまでのような縛りがなくなって自由にあちこちで自説を振りまいている。たとえそれが政府方針・政府見解と相容れないものであっても退職した今なら文句ない。
しかし、彼は在職中に、そのような(政府見解と相容れない)自説を、その職務権限で、隊員教育(講義・講話など)にさいして講じ、或は自説に近い考えをもった講師(桜井よし子氏、井沢元彦氏、八木秀次「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長ら)を招いて講じさせた。またその自説を隊内誌に書き、隊外(民間企業アパグループ)の懸賞論文にも書いて最高賞に選ばれる(アパ社のホームページに公表、防衛省詰めの報道各社に配布)におよんで一躍注目をあびることとなったのである。
 本来なら懲戒処分になってもおかしくないところを政治状況から幕僚長解任(更迭)―解任理由「政府見解と明らかに異なる意見を公にすることは航空幕僚長として不適切」(浜田防衛大臣の言葉)だから―だけで済まされ、その後間もなく定年(繰上げ)がきて普通に定年退職(退職金はそのまま)。うまくやったものだ。
 防衛大臣それに麻生総理も、田母神氏の論文は「幕僚長として不適切」という言い方をしているが、それは論文を「公」にしたことが不適切だとしているのであって、必ずしも、田母神氏の主張そのものを不適切とは捉えていない。そこに問題があるのだ。
 ジャーナリストの田原総一朗氏は(「月刊現代」09年1月号に)、「自民党議員の大半、そして自衛隊幹部たちは、田母神論文に違和感を覚えておらず、むしろ常識と捉えているようであった」(「自民党の中堅幹部の数人、そして自衛隊幹部たちにも匿名を前提に確かめた」)と書いている。

(5)とんでもないか、もっともか
 1970年11月、三島由紀夫は同志(「盾の会」会員)を率いて、東京の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り(総監を監禁)、憲法改正のクーデターに自衛隊の決起を呼びかけたが、誰も乗ってこず、「お前らは憲法を守る自衛隊になった」と叫び、空しい失敗に終わって割腹自殺をした。
 田母神氏の今回のことを一種の「言論のクーデター」と評する向きも(田原総一朗氏など)あるが、それに共鳴している人は、隊員その他、はたしてどれだけいるのだろうか。
 田原氏が司会する討論番組「朝まで生テレビ」は11月29日この問題をテーマにやっていた。
 田原氏は、田母神氏の言説に、『とんでもない』という考えの人と『当然だ』と考える人が分かれ、後者はじわじわ増えている、という意味のことを述べていた。
 出演者は西尾幹二―「つくる会」の元会長、水島総―脚本家で映画監督、潮匡人―元防衛庁三等空佐で幹部学校の講師にも、花岡信昭―元産経新聞論説員で今回の懸賞論文審査員、森本―拓大海外事情研究所長、沙音里―元自衛隊陸士長でシンガーソングライター、姜尚中―東大大学院教授、小森陽一―東大大学院教授で9条の会事務局メンバー、田岡俊次―軍事ジャーナリスト、平沢勝栄―自民党国会議員、浅尾―民主党国会議員、井上―共産党国会議員、辻元―社民党国会議員。
 
 番組は深夜、未明まで長時間「激論」が交わされる討論番組。
 その中で、姜氏は「70年代、三島事件をモデルにした、三島のシンパ(同調者)の自衛隊員と上官との話がある。その三島シンパの自衛隊員が「我々は国のため命を捧げるにもかかわらず、なぜ日陰者の身なのか、と。それに対して上官は何と言ったかというと、「日陰者でいいではないか。俺たちは日陰の身を甘んじるところに我々のプライドがあるのだ。自衛隊が日陰の身である時に、はじめて日本は平和だ。それでいいじゃないか、と。・・・・(私は)それでいいと言っているわけではないが。」と。
 これに対して水島氏は「それでは(日陰のままの存在)では、自衛隊員は命がけで国家を守ることはできないと思う。日本という国―よく国民の生命と財産を守るのが軍隊だというが、一番大事なのは国家としての主権・独立―こういったものをきちんと守る。そのためには、やっぱり自衛隊員あるいは私は軍隊と考えたいと思いますけど、こういう、命がけで守ってくれる人たちが、やっぱり尊敬されなければならない。」
 元陸士隊長の沙音里氏は「災害とか、そういうところで助けを求めている人を助ける、そういうことを、もっと下の者は重んじていると思うんですね。」と。
 彼女は、女子アナの「中途半端か、徹底的にやるべきか、という自衛隊の話し、どう思われますか」という質問に対しては、「うーん、そうですね、隊員はもっと単純に国民として国民を守ると考えていると思います」と。

 西尾氏や水島氏・潮氏、花岡氏らの田母神支持・同調論が批判論に対して説得力があったとは全く思えなかったが、番組の最後に見せた視聴者からのアンケート結果は次のようなものだった。
  「田母神発言に共感できるか?」yes 61% 、no 33%
  「自衛隊の存在を憲法に明記すべきか?」yes 80% 、no 18%

 田原氏「だから『分岐点』だと言った。(西尾氏に向かって)満足?」
 西尾氏「満足というよりは当然の結果が出たという感じですね」
 姜氏「世論全般かどうか分からない・・・」

 田母神氏は参議院における参考人招致の場で、「ヤフー・アンケートでは58%が私を支持しております」と胸を張って質問に答えたものだ。
 しかし、週刊文春11月27日号によれば、そのアンケートは「ヤラセだった」という。その記事(「田母神支持『ヤフー・アンケート』はヤラセだった」)には、次のように書かれている。
 まず、田母神氏に近い人物(「友人」)から指示メールが出されて「田母神幕僚長を断固支持し、その輪を全国に広げていかなければならない。」と。それを受けたあるブログ主宰者が「田母神幕僚長の論文についてのアンケートを下記でやっています。・・・・どんどん投票しましょう」とメール(投票先のURLを指定)。それを受けた人は「田母神幕僚長支持アンケートにご協力を」と書き込んで転送。
 ITに詳しいジャーナリスト森健氏によれば「今回はネット上で広く、田母神氏支持へ協力を要請した痕跡があり、偏った意図が窺えます」とのこと。
 「朝まで生テレビ」の上記のアンケートは、どうだろう。
(6)歴史認識の公式見解
 「日本は今、戦後の重大な分岐点にさしかかっている」と田原氏は言う。
 志方氏は、「首相が交代するたびに『村山談話を踏襲します』としか言わないのはだめだ。たとえ踏襲するとしても、改めて自分の歴史観として読み上げたらどうか」と書いている。
 東大准教授の林香里氏は(11月20日朝日新聞「私の視点」に)、政府は、「いまだに政府としての歴史認識を語ることを避けている。」「メディアは・・・・公式見解を出すように首相に迫るべきだ。」(「誤った見解は正しい見解が出されないかぎり修正されない」し、「田母神氏を支持するゆがんだ世論は放置されてしまう。それどころか、『ひょっとすると首相も閣僚も心の中では田母神氏の主張に賛成しているのでは』という疑念も広がりかねない」)と。
 林氏は、「歴史認識は特別な政治的アジェンダ(議題)として政府と国民を共有すべきだ」とも書いている。
 政府も国民も、戦前から戦後・現行憲法制定にいたるまでの歴史の総括をこれまできちんとしてこなかったところを、今あらためて行い、きちんとした歴史認識を共有すべき時だ、ということだろう。

 

2008年12月28日

We can chenge,too!(加筆・訂正版)

                                                  <2009,1,13記>
 アメリカでは”CHENGE!”というオバマ氏の呼びかけに”Yes,we can!”と応えて、国民は共和党政権から民主党政権に変えた。我が国でも”CENGE”を待望する向きが多くなってきているだろう。
 この暮らし、仕事(就職・就労・営業)、子ども・若者(教育)、老後(医療・介護・年金)、それに地球環境はいったいどうなるんだ、どうするんだと。
 この不安、窮状を何とかしなければ。政府に何とかしてもらわなければ。これまでの政権、今の政権ではどうも。
 とにかく、 孫たちが心配でならないのだ。

 我が子・孫たちが、他より優秀であったり、勝ち組なったり、偉くなったりなどならなくともよく、ただ健やかで、無心に勉強に打ち込み、遊びに打ち興じることができ、長ずるにおよんで仕事にありつき、結婚して世帯をもつことができるようになってくれればよい。それだけをひたすら願うばかりである。

 ところが現実の社会は、就学・就職・就労・営業・結婚・家庭生活・老後など、不安や困難に満ちあふれている。不安社会・ホープレス(希望のない)社会ともいうべき状況、閉塞状況である。
 子ども・若者・中高年・年寄り、みんな大変なのだ。いったいどうしてこんなことになったのか。
そこには政治の責任がある。政府の産業経済政策・雇用労働政策・社会保障政策・教育政策など政策の結果、こうなってきたわけである。
 「今の政治に対して心から怒りを覚える」とは渡辺喜美自民党議員・前行革担当大臣の言だが、その政治は今に始ったことではない。
 自民党(1955年以来第一党、政権を握って予算を支持者に分配、票とカネ―献金―を得る)を主とする歴代政府によって、ずうっと財界・大企業本位の政策とアメリカ追従・依存の政策がとられ、官僚たち(省益―既得権益・利権―追求)の手によって実行されてきたのである。
 とりわけ近年の新自由主義イデオロギー(市場万能主義、「小さな政府」主義・競争主義・効率主義・成果主義・「自己責任」主義)に基づく市場(民間の売買取引)任せ―規制緩和・民営化―の政策によるところが大きく、その結果、産業・教育など各分野にわたって弱肉強食の競争激化・格差拡大が進行し貧窮者・難民(あぶれた人)が激増しており、そのような政策を推進してきた政権党の責任が大きい。
 その政策とは具体的には次のようなものである。
●大企業・資産家・株主(東京証券取引所の取引の6割は外国人投資家―その大半はアメリカのファンド)本位・優先の政策―従業員(労働者)・中小零細企業・農林漁業者ないがしろ、或は犠牲。
 (投資銀行・ヘッジファンドなどの投資家は短期の投機利益を追求し―マネーゲーム―それで会社を評価、会社は株主から高評価を得るため彼らへの配当を増やすことにばかり囚われ、たやすく労働者の首を切る。)
 (02~07年、株主配当は4倍、役員報酬は2倍で、賃金は0倍)
 (企業は経営危機に瀕しているといっても、大企業には巨額な利益の溜め込み―「内部留保」―がある。トヨタが「赤字」転落の見通しといっても、それは営業利益のことで、営業外収支も含めた経常利益から特別損失と税金を差し引いた純利益は黒字。しかもそれは単年度損益計算書の上でのことであって、年々の繰越利益・積立金などが記される貸借対照表では13兆9,000億円もの内部留保があるのである。仮にその預金利子―1%1,300億円―を当てるだけでも派遣工解雇者3,000人の賃金―月25万円、年300万円として90億円―は裕に間に合うはず。キャノンの内部留保は2兆8,000億円。資本金10億円以上の大企業全体では、内部留保は07年度で240兆円にもおよぶと言われる。―朝日ニュースター番組「パックイン・ジャーナル」のコメンテータ二木氏・田岡氏らの発言などから)
●派遣労働の自由化―非正規雇用の拡大(3人に1人でEU諸国の2倍以上)―首切り簡単に。
●外需(輸出)依存、内需(国内消費・地域経済)ないがしろ。
●食料も輸入頼み―自給率40%、WTO農業協定で農産物を市場開放、米も輸入自由化(汚染米までも)、「食の安全」問題が深刻化
●予算は大型公共事業(高速道路・港湾・ダム・ハコモノ建設)優先、教育予算・社会保障費は削るか抑える。
●税金は庶民に増税(定率減税廃止、消費税アップ企図)、大企業・資産家に減税(法人税、証券優遇税制、所得税の最高税率の引き下げなど、国際競争力を理由に)。
●社会保障制度(医療・介護・年金・障害者福祉など)の不備・劣悪化―予算削減、給付減・負担増、世界のどの国でもやっていない後期高齢者医療制度(高齢者差別医療、保険料を年金から天引き)、医者の数は先進国で最低レベル、特に産科・小児科が不足、医療費の高過ぎる窓口負担は世界でも異常、公立病院の統廃合も問題。
●イデオロギー政治―靖国・日の丸・君が代崇拝、日本の戦争肯定史観
自民党の運動方針案には「憲法改正に対する18歳以上の投票権の実現に向けた国民運動の機運の醸成」「靖国神社への参拝を受け継ぐ」と。
●教育は競争主義・テスト主義教育、教育基本法改定―教育統制・愛国心教育へ。
教育予算はOECD諸国で最下位、学費の高さは世界一。
●外交・安全保障政策はアメリカ一辺倒・軍事偏重、平和外交は消極的。
アメリカ軍に前線基地提供、思いやり予算(安保条約上の義務のない米軍駐留経費を引き受け)、アメリカのアフガン・イラク戦争を支援、自衛隊派遣
●地球環境政策も消極的(京都議定書の温室効果ガス排出量削減目標は未達成、すでに超過達成し中長期の数値目標を決定しているEU諸国に比べ全く後れをとっている)。
●「政官財」の癒着構造―財界・業界は一部の特権官僚に「天下り」先を用意し、その見返りに官僚が財界・業界の利益につながる所管庁の予算編成や政策・法案を立案、それを自民党などの政治家が国会で成立させ、その見返りとして財界・業界が多額の政治献金。長年にわたる自民党政治には、この癒着構造に致命的欠陥がある。

 このような政権・政策を以下のように転換させなければならないのだ。
○大企業・金持ち本位の政策から庶民本位の政策へ。
○ルール(規律・規制)なき資本主義からルールある資本主義へ(ヨーロッパ並みに。ドイツでは「解雇制限法」、フランスでは「経済的理由による解雇の防止と職業転換の権利に関する法律」を定めて解雇を規制しており、労使紛争には必要に応じて政治が介入)。
「投機資本主義」・「金融立国」から「物作り資本主義」・「産業・技術立国」へ。
○競争主義・自己責任主義から社会的連帯主義へ。
○非正規雇用拡大政策から安定雇用政策(労働者派遣法の抜本改正、派遣労働者保護法の制定―正規労働者との均等待遇原則―同一職務には同一賃金・同一社会保険)へ。
○外需依存から内需主導経済へ。
○農林漁業の再生、食糧増産―自給率アップ。
○競争主義・テスト主義教育・愛国心教育から人間教育へ。
国民にとって教育の不都合な事態は教育基本法のせいではなく、むしろ文部行政がそれを歪めてきた結果にほかならない。改定教育基本法は元に戻して学校の自主的運営の保障へ。学費軽減、私学助成―公私間格差是正へ
○日米同盟路線―アメリカ従属―から非同盟・中立・自立へ。
軍事偏重から平和外交へ。
軍事費を削って教育・医療・福祉などの予算増額へ。
○環境政策―地球温暖化対策―自然エネルギー開発・普及、「低炭素国づくり」へ。そこにビジネ・スチャンスも。(原発は放射能汚染の危険)
○憲法軽視(憲法に不忠実)・改憲企図から憲法尊重・擁護へ。
戦後、今日に至るまでに生じた国民にとっての様々な不都合な事態は憲法それ自体の結果ではなく、むしろアメリカと財界などの都合で自民党政府の手によってそれが歪められてきた結果にほかならない。

 「自民党の歴史的使命は終わった」(自民党の元幹事長・加藤紘一氏の言)。
 アメリカはオバマ新大統領の下に変わろうとしている。新自由主義(市場原理主義)と軍事力依存からの決別である。世界もアメリカを基軸とした一極支配から無極化世界・各国国際協調時代に変わりつつある。我が国も変わらないわけにはいくまい。
 しかし、他力本願ではなく主権者として自らの行動と一票でそれを実現しなければならない。
 (「天地人」とは、「天の時、地の利、人の和」という孟子の教えを引用した上杉謙信の言葉からきたのだそうだが)今はさしづめ「天の声、地の叫び、人々の決起」ということになるのではあるまいか。
 
 以前、アメリカで人種差別反対運動の黒人指導者キング牧師の名演説に“I have a dream!”という言葉があったが、この私にも夢がある。我が孫たちがこの国で、この「天地」で他のすべての人たちと共に健やかに不安・困窮なく暮らせている夢だ。
 We can chenge,too!  I have a dream,too!
 

2009年03月02日

この大不況、どうしたらよいのか

(1)どうしてこんな不況に
 これまで、小泉内閣の下、02年から景気は回復局面が続き、「いざなぎ越え」などと、さも「構造改革」が実ったかのように錯覚された。しかし、07年までのこの間、好調だったのは輸出(1.6倍の増加)であり、それに対して国内需要は1.1倍にとどまった。(02年総需要の10%ほどの輸出が15%に増加し、90%を占める国内需要とほぼ同額増加して)輸出が景気回復を主導したのである。
 この間、庶民は低賃金で購買力が抑えられ、自動車・電機など大企業製品は国内では売れなくても海外で売れ、輸出大企業は多いに儲かってきた。

 アメリカでは、(一般に将来の値上がりを見込んで住宅など不動産や証券を購入して貯蓄の代わりにし)ローンやクレジットに慣れた消費者は、好況が続いている間は、将来の収入増をあてにし、住宅などの資産価値の値上がりを見込んでそれを担保に(住宅の値段が上がるとその担保価値も膨らんで借金の枠が広がり)借金を繰り返し、日本製品を買い消費生活を楽しんできた。しかし、「住宅バブル」がはじけ(住宅ブームが終わって)、ひとたび住宅価格が下落すると、売りに出る住宅が下落のスピードを加速させ、担保価値を下げ、借金が資産の価値を上回る「債務超過」の家庭が急増するようになって、クレジット消費にブレーキがかかる。
 住宅ローン会社など貸し手のほうは貸し手のほうで、債権を(「住宅ローン担保証券」として)証券化して転売し(そうすれば借り手が返済不能になった場合の損を抱えこまずに済み、手っ取り早く現金が手に入る)、それを買った証券会社や投資銀行は、それを自動車ローンなど他のローン債権と混ぜ合わせて複雑な金融商品(債務担保証券)をつくり、世界中の投資家や金融機関に売りさばいた。(サブプライム・ローンとは、低所得者向け高金利型住宅ローンのことで、借り手が返済できなくなったら、住宅を担保に新たなローンに借り換えさせる仕掛けになっている。)
 ところが、住宅不況になって住宅価格が下落すると住宅ローン債権は不良債権化し、サブプライム関連の証券化商品は値崩れし、暴落して、それら金融商品を抱え込んだ金融機関や投資家は、商品の買い手がおらず、売るにも売れなく大損失をこうむり、リーマン・ブラザーズなど証券会社や投資銀行には倒産・破綻に追い込まれるものが続出することになった。これが「アメリカ発の金融危機」である。
 米国経済の先行きに対する不安から投資家が株離れを起こして株価は急落、ドルが売られ円買いに向かって円高(100円を割り込み90円台に)を招き、日本からの輸出製品は高上がりし、ローンに懲りての買い控え(消費低迷)に加えてさらに売れゆきがガタ落ちする結果を招くことになった。

 我が国における不況が、どうしてこんなに深刻化しているのかといえば、その原因は、我が国経済(我が国の主要企業)が、株主(その6割は外国人投資家)の利益確保を最優先し、労賃や下請け単価を切り下げてコストを抑え、労働者・庶民の購買力・国内需要をないがしろにして、専らアメリカなど海外の消費需要をあて込んで、輸出に依存してきたことにある。そのアメリカで消費需要がガタ落ちし、輸出が激減して減産・臨時休止に追い込まれ、リストラ、労働者の大量解雇が強行されている。
 この大量解雇を容易にしたのは、規制緩和による派遣労働・契約雇用など非正規労働の拡大である。
 昔(戦前来)飯場や蟹工船などへ人を送った「口入れ屋」や「手配師」は戦後禁止され(職業安定法44条「労働者供給事業の禁止」、労働基準法6条「中間搾取の禁止」)、直接雇用が原則となったが、やがてソフトウエア開発など幾つかの専門業種に限って派遣労働が認められ始め、その業種が増やされていった。経営側に立っている論者はそれを「雇用の柔軟性」「働き方の多様化」などと正当化しているが、非正規労働者は不況時の生産調整(減産)・雇用調整(リストラ)のための「調整弁」なのであり、1999年の派遣法改正で派遣労働の原則自由化され、04年の同法改正で製造業でも派遣労働が解禁されたのはそのためにほかならなかったのでる。
 ヨーロッパでは正規・非正規の間で均等待遇(同一労働・同一賃金・同一権利)の原則が徹底していて差が少なく、解雇された時のセーフテー・ネット(失業手当・生活支援を得ながらの職業訓練、社会保険などのカバーリング)も完備していて、労働者は首を切られてもあまり困らないような体制を整えているのに比べて、我が国ではそれらが全く不十分・不徹底で、雇用契約解除・解雇即(寮から追い出されて)「ネットカフェ難民」・ホームレスの境遇に転落する人々が続出している。
 派遣労働者でも「日雇い派遣」(携帯・メールなどで連絡を受け、その日その日さまざまな職場へ送り込まれ、明日の仕事の保障はない)などは、生活保護水準以下の貧困状態(ワーキング・プア)に置かれている。
 日本では非正社員は、正社員に比して勤労意欲・愛社精神・技術の継承などの点でどうしても劣り、彼らを大量に使っている日本企業は、労働コストは安上がりでも、国際競争力は低下する。
 今、「リストラの嵐」(大量解雇)が吹き荒れ、クビを切られて寮を追われた人々は労組やNPOの人達が急きょ設けた「派遣村」(仮説避難所、炊き出しと毛布が用意)でしのいでいる。
(2)企業の社会的責任
 私企業は私的営利組織ではあるが、社会的存在でもあり、社会的責任(CSRコーポレート=ソーシャル=レスポンスビリティー)が求められ、社会から次のような役割と貢献が求められる。
①消費者・利用者・取引先(顧客)のニーズに答え、産物やサービスを提供する。
 そのさい、品質・安全性・環境保全に責任が求められる。
②人々に雇用(仕事と収入源)を提供する―賃金を上げ、人件費が上がれば、コスト高になり価格を押し上げ、売上が下がる心配があるが、各企業とも労働コスト引き下げ競争・賃上げストップか賃下げ・人員削減などやり合えば、全体として労働者(彼らは同時に消費者)の賃金収入が減り、購買力・消費が抑えられ、商品は益々売れなくなって不況が進む一方になる(最終的には自分で自分の首を絞める結果になる。いわゆる「合成の誤謬」)ので、むしろ、各企業とも従業員に物を買える賃金をきちんと与えてこそ、社会全体として購買力が高まり、売上が増える。(大量解雇・賃金抑制はこれに逆行するやり方であり、景気悪化への悪循環になる。)
③法人税などの納税・社会保険料負担によって国や自治体の財源を支える。
(我が国の大企業の税・社会保険料の負担率は、自動車大手ではドイツより7%、フランスより11%低い。社会保障の財源に占める企業の保険料負担はフランスの4割台、ドイツ・イギリスの3割台に対して日本は2割台にととまっている。)
自治体は企業誘致をおこない、その会社に対して減税措置を講じ、雇用補助金を出したりもしている。
④その他、付随的なものとして慈善的社会貢献事業(フィロンソロピー)もある―スポーツ・芸術・文化活動支援や学術研究への助成金、社会福祉団体への寄付、ボランティア派遣など。
(これらは企業にとっては、短期的にはマイナスになっても、長期的には企業価値を高め、競争力を強め、利潤拡大に寄与する。)
 企業にはこのような社会的役割があるのだ。
 会社には定款(業務の根本規則を記した文書)があり、会社設立の目的や社の使命が定められてあるが、それにはあくまで、人々に製品やサービスを提供し多くの人々のために役立つべしといったことが書かれ、けっして金儲けの為とか株主を儲けさせる為などと書かれはしない。(金儲け・配当金だけにやっきとなり、他をないがしろにすれば定款違反・違法経営となる。)
 株主権とは「残余請求権」といわれるが、それは、賃金支払や債務返済をした後に残る残余利益に対する権利が株主に認められる権利であり、株主配当などよりも従業員への賃金支払のほうが優先されなければならない、ということにほかならない。

 しかし、現実には企業経営者の考え方に問題がある。経団連の御手洗会長ら日本の財界はアメリカ式(株主資本主義)の考え方で、企業経営を金儲け最優先に考え、株主の利益を最優先、次いで役員報酬を優先して他をケチろうとするのである。
 企業の利益は①内部留保(積立金)を残したうえで、②株主③経営者④労働者に分配されるが、この10年①と②③への分配は何倍にも増やされ、④の労働分配率は下げられてきた。(2001~07年、内部留保は1.35 倍、株配当は3.35倍、役員報酬は1.32倍増えたのに対して労働分配率は 14.7%減った。)

 かつて我が国では、経営不振に陥っても、まずは株主配当のほうを減らし、連続2年赤字になって初めて雇用に手を付けるのが暗黙の「ルール」であって、解雇は万策尽きてやるものとされた。
 トヨタ自動車の前会長で経団連の前会長であった奥田氏は、99年当時(文芸春秋10月号で)「クビ切りするなら切腹せよ」と言っていたのだそうであるが、そのトヨタが先頭を切って期間従業員などの大量(昨年中に数千人)クビ切りをやっているのである。
 茨城県のある自動車部品製造会社の社長(米沢商業出身で、NHKテレビで紹介された)
は、役員報酬を20%カットする一方、「従業員は宝だから」と言って、労働時間を減らして賃金は下げはしたものの、一人もクビを切らないで頑張っているのだそうである。
(3)どうすればよいのか
 今、政府は定額給付金(一人12.000円、子ども・老人に2万円、高額所得者や資産家にまで、総額2兆円)を配って消費喚起・景気刺激をはかろうとしている。
 しかし、その費用対効果はいたって低く(せいぜい1兆円の消費増、0.2%の成長率アップ)、焼け石に水にすぎないと見られ、同じ2兆円を出費するなら雇用対策などにあてるべきだろう。
 しかも2011年以降、景気回復後としながら消費税アップを行うと明示している。消費税は庶民の消費節約、買い控えのほうに作用し、景気を冷え込ませる。
 これらは、いずれも愚策である。消費税は、生活必需品などゼロにするか減税してこそ景気は上向く。
(早稲田大学院公共経営研究科教授の福島淑彦氏―週間朝日3月6日号―によれば、次のようである。
定額給付金に財政支出しようとしている2兆円は、約2.5ヶ月分の消費税収に匹敵する(過去10年の1年当たりの消費税収は9.5~10兆円だから)。
 2兆円の消費税は40兆円の消費と対応しており、2ヶ月半、期間限定して消費税をゼロにすれば、経済効果は定額給付金による効果よりもはるかに大きい。それに期間限定であれば、高額な商品への「駆け込み需要」生じる。消費税の税収は、期間分減少することになるが、この間の需要増加をきっかけにして市場にカネが出回れば景気回復につながる、というわけである。)

 「百年に一度の危機だ」などと、まるで天災でもあるかのような感覚で、「大変だが、誰のせいでもない仕方のないことだ」といった感覚で語られる。しかし、これらの危機は、財界・大企業とその意を受けた自公政権の政策の結果なのである。
 そこで、どうすればよいのかといえば、その政策路線を転換して、労働者の賃金、庶民の家計所得・購買力を引き上げ、社会保障・セーフテーネットの拡充によって将来不安を除き、消費マインドを向上させて内需を拡大し、輸出依存からすることである。(元第一勧銀総研専務理事の山家悠紀夫氏―「世界」2月号「日本経済、どこへ向かうべきか」―によれば、国内総生産に対する消費の比率は55%で、輸出の比率は16%であるから、消費を1%増やすことができれば、輸出3%の落ち込みを十分に補える。消費を3%増やせれば、輸出が10%落ち込んでも大丈夫というわけ。)
 
 尚、大企業は赤字決算といっても、それは単年度損益計算書の上でのことで、それでつぶれるわけではないどころか、年々の繰越利益の溜め込み・積立金などの内部留保というものがあり、それは製造業大企業(資本金10億円以上)だけで(07年度末)総額120兆円にも達している。(労働者派遣業の業界団体は3月末までに40万人の非正規労働者が職を失うと推計しているが、平均年収を300万円とすると、40万人×300万円=1兆2千億円だから、内部留保120兆円のたった1%を取り崩せば、彼らは職を失わずに済むのである。)
 (昨年10月の労働総研の試算によれば、①非正規(365万人)の正社員化②サービス残業の全廃で新たな雇用118.8万人③完全週休2日制と年次有給休暇の完全取得で新たな雇用153.5万人、これら三つを行えば、労働者の賃金が21.3兆円増、国内総生産24.3兆円増でGNP2.52%アップするとのことである。)

 個人消費(GDPの55%を占める)を増やし内需を拡大するには(「週間朝日」3月6日号、「世界」2月号などを参考に、それらに掲載された識者の所説を借りれば)次のような具体策が考えられる。
具体策
●賃金―最低賃金の引き上げ―時給、現在703円を1,000円(イギリス・フランス・デンマーク並み)に。(同志社大学経済学部の橘木教授説)
●雇用維持、派遣労働規制の強化―99年の派遣法改正(派遣労働の原則自由化)以前に戻す(製造業への派遣、登録型派遣など禁止)
●正規・非正規の間で均等待遇(同一業務は同一賃金、それに厚生施設などの利用にさいする差別をなくし、雇用保険・労災保険・健康保険・厚生年金保険などの加入権を同等に認める)を原則として身分格差を少なくし、解雇された時のセーフテー・ネット(雇用保険の加入要件・給付期間・給付率などを改善し、再就職先が見つかるまでの間に失業手当・生活費支給とともに希望する職業訓練を受けられるシステム)を充実させ、ヨーロッパ並みに、労働者が首を切られてもあまり困らないような体制を整える。(東大経済学部の神野教授説)
●残業・長時間労働の規制強化
●ワークシェアリング(一人当たりの労働時間を減らして仕事を分かち合うことによって雇用確保をはかる)は労働時間の短縮し長時間労働を無くすためには有効。ただし、それで正社員の賃下げにしかならない(一方で「非正規切り」をやっておきながら、ワークシェアリングを口実に正社員の賃下げをはかる)のでは意味がない。
●雇用保険の拡充―雇用保険の積立金が潤沢にある、その資金を活用、受給要件の緩和、受給期間の延長などして雇用保険の捕捉率(保険受給者数/失業者数)を大幅に引き上げる。(山家氏説)
●生活保護の捕捉率も引き上げる。ワーキングプアなど生活保護水準以下の生活を強いられている世帯で受給を希望する世帯は全世帯が生活保護を受けられるようにする。(山家氏説)
●医療・介護・障害者福祉その他の面で困窮者支援―政府の社会保障関係費がドイツ・フランス等に比べGDP比で約10%も少ない現状の社会保障をヨーロッパ諸国並みの水準に引き上げることを目標に政府支出を増やしていく(50兆円増)。財源は、当面、政府が借金することでよい(国内に余資が約250兆円もあるのだから大丈夫というわけ)。同時に政府支出で削れるもの(軍事費、公共事業関係費など)を削り、負担余力のあるところ(法人税を増税、所得税の累進性の強化、資産課税の強化など)に負担を求める。(山家氏説)
●公共事業も道路やダム建設などではなく、学校や福祉・医療施設その他、生活密着型の事業を拡充、これらの事業への雇用増員。
●環境や自然エネルギー関連の、或は知識集約型の新たな産業と雇用を創出する。

以上、こうすりゃいいんだ、と、こうしていくら打ち込んだところで所詮むなしい独り言。しかし黙ってはいられない。せめて「声なき声」を発信しているのだ。

2009年03月13日

雇用問題、米沢では

米沢革新懇の38回懇話会が3月7日、置賜文化センターで開催され、それに行ってきた。それは次のようなものだった。

 講師―米沢市産業部商工課 金子好洋氏
 テーマ―「米沢地区・雇用問題」
 内容項目 ①現在の経済背景
      ②雇用環境
      ③派遣社員の現況
      ④米沢市の現況
      ⑤国の取り組み
      ⑥米沢市の取り組み
 要約
1、経済背景
アメリカにおけるサブプライム・ローン問題→金融危機→株価大暴落→世界同時不況
日本―GDP大幅なマイナス成長見通し(-12.7%―60兆円減)
2、雇用の現況
有効求人倍率(1月)―全国0.67倍
           山形県0.45倍(過去10年間で最低)
            米沢市0.34倍
3、非正規労働者の雇止め状況
昨年10月~今年3月 15万7,806人 うち派遣社員10万7,375人
             山形県4,558人―全国で10番目に多く、東北で福島県に次ぐ
4、非正規雇用 全国で20年間に2倍以上に
 08年 33,9% 内訳 パート730万人
          アルバイト158万人
          契約社員139万人
          派遣社員85万人―雇用調整に使われる
          その他9万人
年代別で多い順 ①65歳以上(定年退職後の再雇用などで)②15~24歳③55~64歳
企業が非正規を増やした理由 ①人件費(賃金)の節約
              ②仕事の繁閑に対応
              ③即戦能力のある人材の確保
              ④専門的業務に対応
              ⑤いったん派遣として雇っておいて働きを見て本採用
              ⑥好不況に合わせた雇用調節
 「09年問題」―派遣契約の期間制限(最長1年間だったのが)06年3月以降から3年間に延長、その期間満了がこの3月から来る。
 同じ派遣先で3年間継続して働けば、その派遣先の会社に直接雇用義務が生じるので、その何日か手前で派遣を打ち切られ雇止めになる―それがこの3月以降、大量発生する(大量解雇という事態に立ち至る)ことになる。
(派遣がいったん打ち切られてもクーリング期間3ヶ月以内の中断であればそのままその派遣先で3年間継続あつかいだが、中断-その間、その時だけ「請負労働」として偽装するか派遣先の会社で「直接雇用」あつかいにして引き続き働かせる-が3ヶ月を超えれば振り出しに戻ってその時点からもう3年間「派遣」として働かせるられるという、そのやり方で、直接雇用を避ける。)
 米沢のサクサ・テクノ(旧田村電機)では、昨年中、派遣社員を直接雇用(正社員)に切り替えた。(NHK「クローズアップ東北」で紹介)

 電機業界での人員削減 日立 派遣切り8,000人
            パナソニック正規・非正規合わせて1万5,000人
            ソニー派遣切り8,000以上
            パイオニア 全体では30%削減、米沢工場では今のところそのまま
5、米沢市の現況
 米沢でこの問題が具体的に聞こえてきたのは12月初め頃、八幡原の会社フロームで従業員を休ませることにしたらしいとか、ミリケン・ジャパンが近々、米沢工場を閉めるらしいとかの情報が入った、そこからだ。
 急きょ、市内10社を中心に電話で聞き取り調査したところ、派遣社員など600人以上削減されたことが分かった。
 市内の製造業188社にアンケートしたところ、64社だけから回答、その結果、この先4月以降も含めて正規・非正規合わせて1,050人が削減される見込み。
 帰休(自宅待機)も、かなりの数にのぼり、国の雇用調整助成金(従業員を辞めさせないで、休ませてでも雇用を維持している企業に助成金)を申請している企業が大幅に増えている。週休2日を3~4日に増やしている企業もかなりある。
 輸出関連が厳しく、八幡原の電機・機械メーカーが窮地に立っている。

 企業アンケートでは、景況は「悪い」が84%、「良い」は3%(米織2社)だけ。
 先行き不透明で、さらに悪化の見通し(上昇に転じる見通しはなく、どこまで落ちるかわからない)。業界全体の再編を見据えての、企業としての体力が問われ、年度末の決算期をどう乗り切るかが問題。高齢化で退職者が多くなり、技術継承の上からも対応策が必要。ワークシェアリングも視野に。帰休(自宅待機)措置で何とかしのぎたいが、この機会に優秀な人材確保を心がけ、従業員の研修会をやっている企業も。
 企業からの市や関係機関への要望は、運転資金の支援など融資制度の充実を求めるものが多数。受発注(仕事を取ってくる)活動の支援も。国・県の支援・助成制度が補正予算の度にコロコロ変わっているが、その情報をまんべんなく流してほしい、と。
 (尚、これらの市内企業アンケート結果のまとめは、市報2月15日号に載っている。)

6、国の景気対策―20年度1次補正~2次補正~21年度予算へと「3段ロケット」で総額75兆円
①雇用対策
・離職者への住宅支援(社宅提供事業者への助成)約1万3千戸
   (米沢では窪田の雇用促進住宅から5戸、相生町の県営住宅から3戸提供)
・派遣から正社員として雇用した事業所への助成
・雇用創出基金、約4,000億円→各地方公共団体へ交付(山形県に約70億円、米沢市に約8千万円)
②定額給付金2兆円
 米沢市には総額13億数千万円(配るための事務経費4,000万円)
 各世帯への申請書発送は3月中(高畠町では2月27日に発送済)
 横浜市など、給付金を市民から市に寄付してもらって雇用対策等にあてるところも。
7、米沢市の雇用対策
①「緊急経済対策本部」12月18日設置―置賜総合支庁・米沢職業安定所と連携して取り組みへ。
・臨時職員採用―1~6月、市役所での事務補助・軽作業に延べ50名(応募者77名)
・21年度工事(小中学校の耐震工事など)前倒し発注―総額だいたい6億円
・プレミアム商品券-米沢市商店街連盟が発行(総額1億円)、それに市が支援(1千万円)
・「働くひとのための緊急相談窓口」開設―これまでで約150件の相談がきている―相談内容は仕事・職・アルバイトさがし、住宅・生活資金など、ホームレスに瀕しているなど深刻なものや愚痴のような訴えも。
 内職の相談も増えており、課の担当者が企業を回って内職をもらってきて紹介に努めているが、縫製関係がやっとあるくらいで,4~5時間がんばって6万5千円ぐらいしかならない、という状況。
・「天地人博&温泉モニターツァー」3回実施―仙台圏から観光客呼び込み
・「上杉雪灯篭まつり」に交通整理要員などアルバイト雇用
・仕事さがし緊急プロジェクト(中小企業のために首都圏などに出向いて仕事を取ってくる取り組み、県・市・大学・企業と連携して)実施
・ハローワーク・県の助成制度などの紹介
ハローワークは朝から大混雑で、端末操作だけでも1~1.5時間待ち。
・ふるさと雇用再生事業・緊急雇用創出事業の実施―国の雇用創出基金からの交付金で
・労働者生活安定資金―本市と労働金庫が協調して低利で融資
(これらのことは市報1月1日号の折込チラシと2月15日号、それに市のホームページにも記載)

②今後の雇用対策―短・中・長期の対策がそれぞれ必要
      (今いまの生活-緊急避難-のための対策と安定雇用のための対策)
 新しい分野の産業(環境・農林業・介護など)に雇用創出
    農工商の連携した取り組みに国が補助
    照明産業―八幡原に有機エル研究所―照明器具用の発行パネル開発
 ワークシェアリングの検討
 こういう時こそ人材獲得・育成←団塊世代の活用(技術・知識の伝承)
以上

質疑
・米沢にホームレスは?―商工課では把握していない(社会福祉課ではどうだか)
  松川の橋の下とか、駅の東西の通路などにいるのか(定かではない)。
  ネットカフェがあって、ニートなど利用してはいても、彼らがホームレスとは限らない。
・市内製造業企業アンケートは、188社中64社からの回答で、従業員削減予定数は1,050人だそうであるが、製造業だけで、しかも3分の1の回答だけでこのくらいだとすれば、全体ではその3倍(3,000人)以上になる、とも考えられるのでは。だとすれば大変な数字だ。
(市報2月15日号には1月9日~15日時点の調査で従業員削減予定が正規126人、非正規924人とあるが)正規・非正規とは言っても、回答する企業側では、その概念が(直接雇用・常用雇用・有期雇用・パート・派遣社員・契約社員など)はっきりせず、それら内訳は定かでなく、確かな人数を公表・回答してくれない向きもあるので、なかなかつかみ難い。
・市が特典を与えて誘致した企業ならば、雇用の実態をきちんと把握して然るべきだ。市として責任をもって、電話だけでなく直接足を運んで訊いてくる聞き取り調査も必要なのでは。
・米織など景況の良い企業もわずかながらあるようだが、それらも含めてこれから伸びそうな業種さがしが必要。
・天地人博も、観光客は「伝国の杜」と「城址苑」にしか金を落として行かないのかどうか、はたしてどれだけの経済効果をもたらしているのか検証が必要なのでは。
・ミスマッチ―製造業で働いていた人が、一般事務や、介護など福祉現場は人手不足だとはいっても、それらへの転職を敬遠する。転職(異業種に再就職)するための職業訓練や、資格を取得するための研修の場もなくはないし、それを促す助成制度もあることはあるのだが。
・57歳で職安通いをしているが、中高年者を雇ってくれる会社はなかなか見つからない。―中高年を雇う企業に対して国が助成する制度も(2次補正で)できたことだし、何とか。
・介護福祉現場は早朝・夜間勤務まで時給650円と安い(最低賃金は629円だが)。―行政からの指導・監督は?―それは市というよりは県の管轄。
・55歳、町工場で働いてきたが、2月半ばの社告で、2月中は土曜のほかに木・金を休みとし、3月には月・木・金・土とも休みになって、第3週は全休、稼動は7日間だけになった。給与は、2月は7割、この3月には6割支給、4月以降はどうなるか分からず、暗に退職を促されているかのようだが、このまま居座っていていいものか、不安な日々を送っている。―雇用調整助成金制度があるが適用は?(申請しているのかどうか)。商工課に電話相談だけでなく、直接出向いて相談をされては。
・高畠町のほうで、クビになったということを家族に言えなくて、いつものように勤めに出かけたようにして自殺したという事例が最近起きているが、そのような事態が米沢でも起きないように然るべき対策を講じてほしい。―商工課では窓口相談など対応策を講じているが。―市は緊急事態として早急に然るべき体制を整えてほしいものだ。
・米沢に若者が少なくなっている。米工定時制を卒業し、米沢に残って、派遣社員として勤めたが、契約期限が来てしまい、この先どうしたらよいものか迷っているという。このような若者が、仕事が無くて米沢を脱出しなければならない、というふうにならないように、市あたりで何とかできないものか。
・緊急対策といっても、これといった特効薬は市町村レベルでは、なかなか困難、国の景気対策も遅かった。
・定額給付金も、どこかの市(横浜市など)のように、米沢でも、その金(13億何千万円)を単に配るだけでなく、寄付を募って(然るべき受け皿をつくって、給付金は要らないという人から集めて)雇用・福祉対策など緊急に必要とされる事業に振り向ける、といった方法を市長は考えなかったのだろうか。―そんなことをしなくても、地域で買い物に使ってもらえばいいのでは。―いや、ただバラまくのではなく、本当に必要な人に有効に使ってもらえるように、今からでも市長に話してみてほしい。
・市議会で雇用問題の質疑が4日にあったはずだが、そこでどういう話になったものか。この懇話会としても、要請をしていかなければならないことだ。
・昔「失対事業」というものがあったものだが、そのようなものを温暖化対策の事業としてやってはどうか。クルマを使わずに済むように自転車を安心して乗れる道路の整備をしてもらいたいとう要望もあり、そのような道路(自転車道?)の整備事業などもあってもいいのでは。それに、ペレット・ストーブの普及(国が3分の1助成?)に関して、他地域産のペレットは高くつくが、米沢にいっぱいある里山の間伐材を地産地消として利用してペレット燃料を製造する、そのような新しい企業起こしもあって然るべきなのでは。

 といった内容であった。米沢における雇用問題の現況はこのようなものだ、ということ。  

 

2009年04月09日

定額給付金から寄付しては

 「給付」を受けた人々がこれにどういう対応をとるかには、次の5つが考えられる。
①この何日かを食いつなぐ生活資金に当てるか、或は医者代などに当てる。
②政府の「景気対策」に協力、景気浮揚に貢献するために「地元の商店街で買い物」、「なにか欲しい物を買う」、「飲み食い」、趣味・娯楽、旅行代などに当てる。
③自己研鑽・文化費に当てる。
④資金を切実に必要としている人たちやお金に困っている人たちのために寄付をする。
⑤受け取らない。
 それらのうちどれにするかは、人それぞれの勝手だろうが、「受け取らない」というのは、「定額給付金」という政策自体に反対で、それに筋を通すという信念はいいとしても、受け取らなければ、結果的に国庫に戻されるだけの話で、「還付さるべき税金」の取られ損ということにもなるので、あまり賢明ではないように思われる。
 ②は景気浮揚に貢献するためという美名のもとに、高所得者まで給付金を受け取り、それで消費をむさぼるというのは、濫費や浪費(買わなくてもよいものを買う無駄使い)にもつながり、どうも違和感を感じる。
 その日の生活費や支払いに困っている人にとっては①はやむを得ないが、それ以外の人なら③か④に当てるのが賢明というものだろう。
 自民党の細川幹事長は「格好をつけずに受け取って使えばいいんだ」といったようなことを語っていた。首相はといえば、当初、高所得者が給付金を受け取るのは「さもしい」と言っていたのが、受け取って使うという方にコロッと変わった。
 政治家の場合、寄付は、公職選挙法で自分の選挙区内に対しては禁止されているが、そのような場合以外なら可能なはず。
NPOが給付金寄付の受け皿
 NPO80団体が「定額給付金基金」を創設して、「子供をささえる」「教育を考える」「自然をまもる」など17の活動分野を選んで給付金を寄付できる受け皿をつくっている。
米沢市に「ふるさと応援寄付金」
 ところで、わが米沢市では「ふるさと応援寄付金」というものがかねてよりあって、昨年の市報8月1日号に受付開始と出ていて、3月15日号には338万5千円集まったと出ていた。先月、市役所(企画調整部総合政策課)に行って訊いてみたところ、「定額給付金」にタイミングを合わせて改めて「ふるさと応援寄付」を呼びかけることにしているとのことだった。
 「米沢市ふるさと応援寄付金」の指定選択メニューは、当初①まちづくり推進②観光振興③地域文化・芸術振興④子育て環境整備⑤景観形成推進⑥「市長におまかせ」など6項目だったが、先月訊きに行ったときには、それに「地球環境・地域環境の整備」が付け加えられていた。今、焦眉の問題となっている雇用対策・雇用創出事業基金などに当てる項目もあっていいのでは?と言ったら、まとまった金額に達するまでの期間を考えれば、そのような即効性を要するものは難しいかもしれない、が、とりあえずは「市長におまかせ」項目の中に入れて考えることもできるのでは、ということであった。
 ところが、「定額給付金のお知らせ」の折込チラシとともに届いた市報4月1日号には、「ふるさと応援寄付金」のメニュー項目に新たに「奨学育英事業」が加えられ、「高校生のいる家庭を支援するため広く皆さんからの善意を募ります」とあった。
 この大不況下で、家計困難に陥って授業料や入学金が納められず、中途退学や入学断念を余儀なくされている生徒が益々増えてきている。この時に、「ふるさと応援寄付金」の指定項目の中に、学費負担が困難な家庭への学校納付金支援に当てるという項目を急きょ設けた市当局の措置は時宜を得た大変賢明な措置だ。市民の中に、それに応じて定額給付金から寄付しようという善意の人が何人かでもいてくれれば幸いと思う。当方としては、わざわざ市役所に訊きに行って「応援寄付」に応じたいと言って寄付金申込用紙までもらってきた手前、寄付しないわけにはいくまい。

 

2009年04月14日

どうやって国民の安全を守るのかー対北朝鮮(加筆・修正版)

―軍事・外交のどちらでいくのが賢明か

(1)北朝鮮の核ミサイルに対する軍事対応
 今回の北朝鮮ロケット打ち上げに対する我が国の対応で目立ったのは「ミサイル防衛」システムの発動である。
 それから、これは一部にとどまるが、北朝鮮が何かをする度に言い立てられる敵基地攻撃論や核武装論が、またしても浮上していることである。(自民党の山本一太議員は「北朝鮮に対する抑止力強化を検討する会」の初会合で、「日本独自で北朝鮮の基地を攻撃できる能力について議論したい」と。また坂本剛二同党組織本部長は党役員連絡会で「日本も核を持つという脅しくらいかけないといけない」という趣旨の発言をしている。)
 これらの軍事的対応には、はたしてどれだけの合理性があるのか。
①ミサイル防衛システム(迎撃ミサイル・イージス艦・早期警戒衛星・軍事情報衛星・レーダー網など)の限界性(それでは防ぎ切れない)
 北朝鮮は中距離ミサイル「ノドン」(日本全域が射程内に)を既に100~200基 実戦配備。核弾頭も何発か(核爆弾6個分のプルトニウムを保有。小型化―といっても東京都心に一発着弾すれば百数十万人が被爆死する威力もつ―に成功?同時多発射が可能)。これを百発百中すべて撃ち落すことは不可能。
 それに、迎撃ミサイル等の配備・展開に時間がかかったり、防御範囲が狭かったりという限界も今回露呈している。
 ところが、今回これでだめ(まだまだ不備)だったなら、もっと良いものをもっと沢山と、さらなる改良・工夫を加え、増強をはかろうとする。
 こちら側も相手側も互いに絶えざる能力(性能)向上・改善を追求―軍拡競争―脅威は増し軍事予算が膨らむばかりで切りがなくなるわけである。
 「北朝鮮は国民を飢えさせて核・ミサイルに金を使っている」というが、日本は豊かだからロケットや人工衛星打ち上げに幾ら金を使ってもかまわないというのだろうか(「ミサイル防衛」にこれまで1兆円、情報収集衛星に6,000億円を注ぎ込んでいる。)
②敵基地攻撃論―北朝鮮のミサイル基地を空爆もしくは巡航ミサイルを撃ち込む(ミサイル防衛システム整備より、基地をたたく方が、はるかにコストが安いから)、といってもノドンやスカッド・ミサイルの基地はどこにあるのか判らない(今回のロケット打ち上げのように地上の発射台に突っ立て発射準備が衛星から丸見えの状態になっているわけではなく、地下や洞窟などに隠しておいてトレーラーに搭載して移動)。
③日本核武装論―北朝鮮あるいは中国などの核に対抗して、こっちも核反撃力を持つことによって相手の核攻撃を抑止する(下手に攻撃を仕掛けるとやり返されて自分の方もやられることになるから、相手は攻撃を控えるだろう)という主張(核抑止論)―互いに理性が効いているうちはまだよいが(それだって、かつての米ソ間のキューバ危機のような一触即発の危険も)、狂信的なテロ国家や追い詰められると破れかぶれ(自暴自棄)になって暴発しかねない相手には、それは通用すまい。

 日本のは(ミサイルも爆撃機も核も)防御用で「抑止力」だといっても、相手側もそう(「抑止力」のためだと)言ってやっているわけである。これらの対応は、「やられたらやり返す」という「力」の対決であり、軍拡と緊張の悪循環となり、エスカレートして「防衛」費は益々莫大なものとなる。懸案解決は遠のくばかりで、費用対効果の乏しさは甚だしく、壮大な無駄になる。
 これらのことを考え合わせれば、ミサイル防衛や敵基地攻撃能力や核抑止力をどんなに整えても、それでもう安心だというわけには絶対いかず、日米同盟と合わせて「防衛力」・「抑止力」にすがるやり方はけっして賢明ではない、ということになる。(尚、日本の核武装についてはアメリカがそれを絶対許さないということだ。アメリカが最も恐れているのは実は北朝鮮よりは、ほかならぬ日本の核武装なのだ。)

(2)北朝鮮の核・ミサイルの開発・保有の目的
 そもそも北朝鮮は、どうしてそんなに核・ミサイルの開発・保有にばかりこだわるのか。その意図・目的は何なのか。侵略が目的か、それともかつての恨みをはらす復讐が目的なのか、好戦的で戦争をしたいからなのか。
 他国を侵略しようと思っても、日本・韓国・中国・ロシア・アメリカなどどの国に対しても、そんなことは実現不可能であり、なんのメリットもないということは自分でも解りきっていること。
 かつて受けた仕打ち(日本による植民地支配、アメリカ・韓国による朝鮮戦争)に対する恨みをはらすには、その相手国に対して単に核ミサイル攻撃を加えて大量殺戮・破壊をくらわせたところで、空しさしか残らないわけであり、謝罪と償い(賠償・補償その他何らかの埋め合わせ)が得られてこそ、それが果たされるというものだろう。それをただ「火の海」にして(とは、よく脅しで言う言葉なのだが、それを本当に実行して)焼き尽くし殺し尽くしてしまったのでは何もならないわけである。
 好戦的だといっても、世界のあちこちに攻め寄せて戦争をしているアメリカ、或はかつて大和朝廷時代および豊臣秀吉時代には朝鮮半島へ、明治以後は朝鮮半島・中国をはじめアジア・太平洋のいたるところに攻め寄せて戦争をした我が国に比べて北朝鮮が好戦的だとは必ずしも言えないだろう。
 それでは何が目的なのか。それは(太平洋戦争で日本がアメリカからやられて国土を焼け野原にされたように)朝鮮戦争で散ざんにやられたアメリカに対して、(休戦協定は結んだが、平和協定は結んでおらず未だに戦争状態にあるアメリカが)再び攻撃を仕掛けてくることのないように保証を取り付けるために、(北朝鮮には他にこれといった国際的な競争力のある取引材料がないばかりに)敢えて核とミサイルを交渉・取引のカードにするという「瀬戸際外交」が目的にほかなるまい、ということである。
 
 ところで、政策研究大学院大学の安全保障・国際問題を専門とする道下徳成助教授によれば、そもそも弾道ミサイルは(弾頭を大きなロケット―テポドンなら電車2両分―に付けて飛ばして攻撃するのは航空機爆撃に比べて非効率であり、制空権を握って敵国領空に侵入して空爆をかけることができる優勢な空軍力を持たない)「弱者の兵器」であって、北朝鮮は弱者としてそれにすがっているに過ぎないということである。
 
(3)北朝鮮には圧力か対話か
 このような北朝鮮に対しては、強硬・圧力路線と穏健・対話路線とがある。
 前者では、一般に、北朝鮮側の立場(日本による植民地支配でこうむった苦難と被害は未だに清算されておらず、アメリカとの朝鮮戦争も、休戦はしているものの未だに講和・終結はしておらず、日本に対してもアメリカに対しても敵対関係が継続しているという、その立場)はあまり顧みられず、拉致問題・核ミサイルの脅威―日本側の被害・危難―のほうが強調される。
 それは、「拉致問題の解決および核・ミサイル問題の解決なくして、国交正常化なし」というものであり、「過去の清算」や国交正常化は二の次ぎで(そのほうはあまり頭になく)、まずは拉致被害者を全員解放させ、核・ミサイルを完全放棄させることを先決にして、それまでは制裁・圧力をかけ続けるというもの。
 しかし、制裁圧力を加え続ければ政権は崩壊するかといえば、それは疑問。経済が貧窮し民衆の中には内心不満や嫌気・絶望が広がり、脱北(難民)は益々増えるとしても、現政権に対する反対勢力は生まれず反政府運動や反乱は起こり得ない。それどころか外部からの圧力が強まり緊張が強まるほど(経済制裁は兵糧攻めで戦争を仕掛けているとも見なされ、敵対感情・抗戦意識を強め)内部の団結力(引き締め)が強まるという逆の結果になる。この国では、90年ソ連や東欧の「社会主義」政権が崩壊し、94年金日成(キム・イルソン)亡き後10年以上たっても、崩壊していないのである。(かつての日本も「ABCD包囲陣」による経済封鎖にあったが、国民は「欲しがりません、勝つまでは」といって欠乏に耐え、「一億火の玉」となって抗戦した、その抗戦意識を天皇でさえも抑えきれなかったような全体主義国家体制。それは単に制裁圧力だけで自壊することはなかった。戦争・敗戦によってはじめて崩壊したのだ。しかし、戦争によるその体制崩壊には自国民310万人、他国民2,000万人もの命の犠牲がともなったわけである。)

 むしろ逆に圧力を緩め、緊張を緩和したほうが、体制は変質・内部崩壊しやすくなるのかもしれない。締め付けが緩められれば、改革・開放が促され、経済社会がより豊かになり、政治の許容範囲が広がっていくだろうからである。

 そもそも核ミサイル問題も拉致問題もどうして起きたのか。それには背景があるということだ。
 北朝鮮は朝鮮戦争以来、休戦はしていても未だ講和・終結しておらず、法的には戦争状態は継続している。
 日本は米ソ連合軍と金日成らの抗日ゲリラから半島を追われて植民地支配はやめはしたものの、その清算は韓国に対してだけ行なって北朝鮮に対しては何もしないままに、朝鮮戦争以来アメリカに同盟国として基地を提供し加担してきた。そいう中で、北朝鮮はテロ・工作活動(そのための拉致)、そして核・ミサイルの開発を行なってきたのである。
 それらのことを考えれば、まずもって講和・国交正常化をして、このような戦争状態(敵対関係)を終わらせることであり、そうして不信感を払拭してこそ、核・ミサイル問題も拉致問題も理性的に話し合うことができ、誠意ある取り組みが可能となって解決が早まることになる、というものだろう。
 それを逆に、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」とばかりに、制裁圧力をかけ続け、対話・交渉など急がずに放っておけばよいと言って、たかをくくる向きがあるが、それでは拉致問題の解決は遠のき放置される結果になってしまうだろう。

 それでは、穏健・対話路線のほうはどうか。そちらは国交正常化を重視し、「敵対から友好へ」の転換をベターとする考え方で、「過去の清算」・国交正常化は二の次とはせずに、拉致問題・核ミサイル問題と同時並行的・包括的に協議・交渉を進め、信頼感を醸成しつつ話し合い解決にもっていく、という路線。
 感情的に「嫌いな国」で「仲良くしたくない国」ではあっても、(それはお互いさまであって、相手もそう思っているのだろうが)安全保障のために敢えて友好関係を結んで付き合い、その国を脅威でなくする、それが外交努力というものであろう。

 両路線のどちらが得策なのかといえば、それは後者のほうなのでは。
 ひたすら外交努力にまい進し、対話・協議・交渉(ギブ・アンド・テイクの外交取引)の場を確保して、外交的働きかけに努めること。とりあえずは「六カ国協議」(現在、中断)の再開とともに、アメリカは米朝協議、日本は日朝協議の再開を目指すことであり、その障害(相手が協議再開を拒み、門戸を閉ざすような原因や口実)となるような敵対行為(とみなされる「制裁」圧力)は避けるのが賢明なのでは。
 要は北朝鮮に核軍拡にはしることのないようにし、軍事的暴走・暴発に向かわせ核ミサイルを本当に使ってしまうことのないようにすることであり、相互非核(朝鮮半島を非核化し、東北アジアを非核地帯にする等のことを)をひたすら目指すことである。(中南米・カリブ海、南太平洋・オーストラリア、東南アジアの各地域は、既にそれぞれの域内の諸国が核兵器の開発・生産・配備・使用を禁止する条約を結び、核保有国に対しては域内諸国に対する核兵器の使用・威嚇を行なわないことを認める付属議定書に調印するよう求めるということで、非核地帯となっており、最近では中央アジア諸国の非核地帯条約も発効し、アフリカ諸国も未だ発効はしていないが非核地帯条約を結んでいる。)
 そして東アジアひいては全世界に軍縮・非核化の枠組みが形成されて安定的平和が構築されれば、もはやどこにも軍事的脅威が無くなり、「防衛力」・「抑止力」―軍備・軍事同盟―などにいつまでもすがりついていなくてもよくなるわけである。
(4)マスコミの対応
 日本のメディアのほとんどは、北朝鮮ロケット打ち上げを、北朝鮮が称している人工衛星(「通信試験衛星」)用ではなく「弾道ミサイル」だと表現し、発射から10分で日本に「着弾」するなどと、あたかも弾頭を搭載しているかのように表現し、「秋田県から岩手県上空を通過」などと、あたかも領空侵犯であるかのように表現。
 実際は、東に向けて発射するのは地球の東回り自転に合わせ加速をつけるためで、日本も種子島から東へ、アメリカもフロリダ半島から東へ打ち上げることが多い。
 イスラエルが西側の地中海に向けて打ち上げ、東を避けているのは、そこにはアラブやイランなどイスラム諸国がひしめき合っていて、広い公海が開けていないからにほかならない。
 ロケット・ブースターが落下するのは、1段目は日本海の、2段目は太平洋の、ともに公海上であり、日本上空通過といってもそこは大気圏外であり、どの国にも属しない宇宙なのであって領空ではないのである。北朝鮮は事前に打ち上げを国際関係機関(国際海自機関と国際民間航空機関)に通告しており、一応国際手続きを踏んでいるのである。
 勿論、弾頭は付けていない(たとえそれがミサイルだとしても実験に際してはテレメーター―飛行状況を伝える送信機―を付けはしても、弾頭を付けることはあり得ない)。
 これまで諸国が打ち上げた人工衛星は約6,000個で、落下(そっくりそのままではなく、大気圏内突入の際に空中分解し燃え残った残がい・破片が落ちてきた)事例は60何回かあるが、それが人に当たったという事例は1回あるのみ(1997年アメリカのオクラホマで、焼け残った金網のようなものが女性の肩に当たったが、怪我なし)であり、その確率は1兆分の1ということで(落雷の確率140万分の1よりもはるかに少なく)ほとんど無に等しい。
 迎撃ミサイルは一定の方向へ一定の軌跡をもって飛ぶ弾道ミサイルに対してはコンプユーターによる弾道計算が瞬時に可能で迎撃可能だが、ふらふら或はきりもみ状態で落ちてくる残骸に命中するのは至難。仮に大きな残骸が落下してきて、それにPAC3を発射して(射程高度1万メートル以下で)命中したとしても、一塊が幾つかに分かれ、こちらの迎撃ミサイルの分まで破片が飛び散って落ちてくるだけのことで、かえって被害が広がりはしても無くなることはない。(これらのことはCS放送「朝日ニュースター」の番組「パックイン・ジャーナル」におけるコメンテータで軍事ジャーナリストの田岡氏の話。氏が、そんな迎撃ミサイルをくりだしても意味がないのではと自衛隊のその関係者に電話して訊いてみると、「おっしゃるとおり」とのこと。「だったら何故そんなことをするのか」と訊くと、「東北の方で心配しているので何かしないとまずいからだ」とのこと。「要するに気休めということか」と訊くと、「そうです。気休めみたいなものです」とのことだったという。)
 防衛大臣は初の「弾道ミサイル破壊措置命令」を発し、イージス艦に搭載した迎撃ミサイルSM3を日本海と太平洋の公海上に、地対空迎撃ミサイルPAC3を東北地方と首都圏に配備。
 官房長官は「我が国領域内に落下するケースは通常は起こらないと考えており、国民各位におかれては平常通りの生活を送って頂きたい」が「万万が一に備え警戒態勢をとる」と。ところがマスコミの取り上げ方は落下の恐れの方を強調。(田岡氏は、そのようなマスコミは意図的にそうしているというよりは、むしろ「平和ボケと無知からくるものだろう」と。)
 マスコミは臨戦態勢さながらに連日報道し、それによっていやおうなしに国民の間に脅威と敵対感情が煽られ、「やるならやってみろ」、「なめられてたまるか」「やったらやり返せ」といった機運が広がる。
外国メディアは、日本は「騒ぎ過ぎ」と論評し、韓国メディアなどは、「日本政府はまるで『戦時』をほうふつさせる警戒態勢に突入」と報じている。
 このような中で、国民の間では「ひとの国の上にロケットを打つなんて腹が立つ」(寒河江市の男性会社員―朝日)といったコメントや「うちの上にミサイルが落ちてきても国の迎撃態勢のおかげで大丈夫」といった意味の投稿(秋田県大館市の主婦―朝日)が寄せられている。一方「大丈夫だと言っておきながら、あんな仰々しいものを持ってくるなんてこっけいだった」という主婦(59歳)も。
 朝日新聞社説は「あたかも日本が攻撃されるかのような浮足だった議論もあったが、国民は冷静だった。」と書いている。
 久間元防衛大臣は「日本は騒ぎ過ぎた。どんなに考えても今、北朝鮮が日本をめがけて撃つはずはない」と(4月11日朝日新聞のオピニオン欄)。
 田母神前空爆長は「いろんな方々から電話で相談が寄せられます。東京から避難すべきでしょうか、とかね。でも私は、北朝鮮の狙いがミサイル発射能力の誇示と、それによって自らの言い分を通そうとする恫喝にあると思っています。日本の領土に被害を与える気はないのだと。国民は安全だと信じていいですよ」と(週間新潮4月9日号特集「日本を襲う『テポドン』15の謎」)。
(5)改憲派の事態利用
 政府は、またしても、この騒ぎを利用し、軍事強化―「ミサイル防衛」容認から集団的自衛権行使の容認、9条改憲の容認へと世論誘導していく。麻生派のある議員は「危機管理に成功すれば支持率が上がる。不謹慎な表現だが神風だ」と(朝日)。
 朝日の投稿には、今回の北朝鮮のロケット打ち上げを「他国民の生命を脅かす行為」だとし、「どのようにして国民を守るのか」、「今回のことで、自衛隊と在日米軍の存在と任務の重要さが理解され、」「国民の見る目も違うものとなるだろう」とし、「単に憲法9条改正反対だけでは、もはや国民の理解は得られない」などといったものが寄せられている。これに対する反論も寄せられており、それには、ある民放の報道番組での視聴者への質問「日本はもっと防衛費を増やすべきか」に対して「増額賛成」が66%、反対が34%だったことを紹介し、「番組で北朝鮮の脅威を繰り返し叫べば、世論はこうなると思った」と書かれている。
 4月13日報じられたNHK世論調査では、北朝鮮「ミサイル」への政府の対処に対する評価に「まあまあ評価する」が45%、「大いに評価する」が23%、「あまり評価しない」が20%、「まったく評価しない」「どちらとも言えない」合わせて12%で、評価するほうが大きく上まわっている。北朝鮮に対する制裁に賛成は67%、反対が7%。そして内閣支持率は支持が30%で先月比では12%もアップしている(不支持は60%だが先月比では11%も少なくなっている)。この支持率アップには小沢民主党代表の違法献金疑惑という敵失のおかげもあるだろうが、北朝鮮のおかげもあるということだろう。
 安全保障問題専門の国際シンクタンク「国際危機グループ」(ブリュッセルに本部)が3月31日公表した北朝鮮の「ロケット」発射問題に関する報告書は、「必要なことは、北朝鮮を対話に戻すための冷静でよく調整された対応だ」とし、「ミサイル防衛のような乱暴な反応は有権者を満足させるかもしれないが、歴史は圧力だけで北朝鮮の行動に前向きな影響を及ぼすことはないことを示している。」「(過剰反応は)北朝鮮の核計画を終わらせるための対話の終えん、朝鮮半島の緊張激化、北朝鮮政権内の強硬派を助長させる結果になりかねない」「最悪のケースでは、戦争という危険を冒すことになる」と警告している。

 今度は韓国も今年中(7月末)打ち上げることにしているとのことであり、日本は人工衛星を既にこれまで何回も打ち上げており(04年度から昨年度まで16機)、「宇宙基本計画」で、さらに、今後5年間に34機もの衛星打ち上げを計画している。これらには軍事情報収集や早期警戒システムなど軍事利用が見込まれている。
 (日本や韓国のロケット・人工衛星打ち上げなら良くて、北朝鮮だけ悪いとなると、「不公平だ」という言い分が持ち出されることになるわけか。)
(6)オバマの核廃絶演説
 オバマ大統領はヨーロッパ訪問中チェコのプラハ市民の前で演説し、アメリカは(広島・長崎に原爆を投下)唯一核兵器を使った核保有国として行動に「道義的責任を持つ」と、米国大統領として初めて言明し、「核のない、平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と言い切った。その演説の中では北朝鮮の「ミサイル」打ち上げをも非難したが、北朝鮮やイランそれに日本(も核を持つべきだという核武装論があるが、田岡氏によればアメリカが一番警戒しているのは実は日本の核武装にほかならないという)など特定の他国に禁止を強いるだけでなく、イスラエルも、インド・パキスタンも、イギリス・フランスも、中国・ロシアも、そしてアメリカも、すべての国が核軍縮から核廃絶へ互いに踏み出す行動を実行に移す時が来たのだ、ということではあるまいか。
 

2009年05月09日

日本に軍備はどうしても必要なのか―「朝から生テレビ」

 先日「朝まで生テレビ」で「問われる日本の選択と戦略」「どうなる?!新しい日米同盟、どうする?!日本の安全保障」「激論!日本の安全保障と外交」をやっていた。
 その論点は次のようなものだった。
(1)安全保障に抑止力が必要?
 「抑止力」とは他からの攻撃を抑止するための軍備のことで、我が国では、今ある自衛隊・日米安保条約(それに基づく米軍基地・駐留)・ミサイル防衛システムなどがそれであり、それらがあるおかげで我が国に対する外敵の攻撃が抑止されているというわけである。それがもっと必要で、敵基地攻撃能力、ひいては核武装もあって然るべきだという議論もある。
 
 番組の中では、次のような発言があった。
 司会者の田原氏―アメリカの元国務長官キッシンジャーの言葉を紹介、「抑制とは、得られる利益とは釣り合わないリスクを押しつけることによって、相手にある行動方針をとらせないようにする試みである」と。相手に、この国を攻撃すれば、得られる利益よりは、反撃されてかえって多大な損失を被る、と思わせることによって攻撃をひかえさせる、それが抑止力だということ。
 田原氏はまた、くぼたくや?氏の「基盤的防衛力構想」を紹介。(「日本および周囲が空っぽだと戦争が起きる。だから空っぽではないぞというところを見せる『はりこの虎』があれば、それでいい」というもの。)つまり、相手にこちらが無防備だと思われないように、『はりこの虎』としての防衛力は必要だという考え。
 田母神前航空幕僚長―「『一発殴ったら三発殴り返すぞ』という意思を示しておく、それが抑止力。それには『専守防衛』などという防衛力だけではなく、攻撃力も必要であり、核武装もあってよい。中国とは、将来、実際に戦うということはないだろうが、軍事バランスは必要。さもないとやらえてしまうから」と。
 民主党の浅尾議員―「鳩山内閣当時の政府答弁で『相手が日本を攻撃する時は、日本が先に攻撃しても憲法違反にはならない』とされている」と。―敵基地攻撃能力を持つことも憲法上可能ということか。

 しかし、このような抑止論は、「フセインのイラクがアメリカに敗れたのは、ひとえに核を持たなかったからだ。だから我が国には、どうしても核は必要だ」という北朝鮮と同じ論理。その国の核・ミサイル開発・実験を非難するのは論理矛盾となり、なんら説得力を持つまい。
 かつて(弱肉強食の戦国時代や帝国主義時代のように、虎視眈々として隙あらば攻め込んで占拠・併合してしまう侵略主義や植民地主義・覇権主義が通用した時代)とは違い、今時(世界中どの国、どの地域も対立・抗争し排除・孤立し合っていては経済も安全保障も成り立たないという21世紀の現代)たとえその国が無防備であっても(現に今、小国でありながらも軍隊を持たない国が192ヵ国中25ヵ国もあるのに、これらの国が)攻め滅ぼされることはあり得ないのだ。
 「抑止力」など無用だし、また、その効きめもないということ。世界は、対立・抗争し排除・孤立し合っては生活が立ち行かない「相利共生」時代とはいっても、中には富強な国家・支配的勢力(現状に安住する多数派)から疎外され、仕事もカネも無くどん底の状態に置かれて、憤懣と絶望から自暴自棄的な過激行動にはしるテロリストや「暴走国家」が存在する余地を残している。(現在の日本にも若者の中に、「この社会をぶち壊したい」「希望は戦争」という赤木智弘氏などの言説に共鳴する気分があり、無差別殺人など暴走行為にはしる若者が出現しているが、個人的・非政治的な次元にとどまっている。)そのようなテロリスト・「暴走国家」に対しては「抑止力」は効かないのである。なぜなら、それらは幾ら圧倒的な抑止力(軍事力)であっても、抵抗を諦めることなく、何とかしてそれを覆そうとして、可能なあらゆる手段を用いる。それらのテロは抑止しきれない。(アメリカに対するアルカイダやタリバン・北朝鮮・イラン、それにイスラエルに対するハマスやヒズボラなど。)
 「抑止力」(軍備)の費用対効果(コストパフォーマンス)という点では―たとえば、「テポドンを撃ち落すためにミサイル防衛システムに何兆円もの予算を割くのと、東海地震や東南海地震のための災害救援システムの構築や、原油高騰や地球温暖化問題の深刻化に対応すべく代替エネルギー開発により多くの予算を振り向けるのと、今の私たちの生命と財産を守るうえでどちらのほうが適切な安全保障であるか。」(前田哲男ほか「9条で政治を変える平和基本法」高文研)あるいは近隣諸国・北朝鮮とも和解(戦後補償を要するが)・信頼醸成・友好関係構築とそれに基づく平和外交による安全保障と比べて、コストはどちらが高くつくか、である。

 自民党の山本一太議員いわく、「万が一に備えるのが安全保障だ」「これまで日本が攻撃されなかったのは、日米安保の抑止力が機能していたからだ」と。
 しかし、地震や台風など自然災害なら一定の確率で必ず起こり、それを起きないようにするのは不可能であり、「起こさないでくれ」などと説得するわけにも、話し合いで未然におさめるわけにもいかないし、それが起きた場合の対策を事前に講じておくことはどうしても必要だが、人間がしかける攻撃はそれとは全く違うだろう。
 また、仮に日米安保がなく無防備だからといって、ソ連にしろ中国・北朝鮮にしろ、どの国にしても、敵対しておらず迷惑や危害をこうむってもいない(かつてこうむった危害・迷惑に対しては謝罪・賠償など―未だ果たしてはいないが―これから何らかの形で果たそうとしている)日本に対して武力攻撃する必要性がはたしてどこにあるのか。経済的利益のためといっても、日本に侵略攻撃をかけて得られるメリットとデメリット・リスク(日本国民の反発・抵抗と国際社会からの反発・制裁)を計算すれば割が合わないことは判りきっている。だから日本を攻撃しないだけの話しで、日米安保がおっかないから手が出せないなどというものでもあるまい。

 田原氏は、元防衛大学校教授でイラン大使にもなった孫崎氏が(その著書「日米同盟の正体」で)「日本はアメリカの完全な核の傘の下にはない。そのことを前提に安全保障政策を考えなければならない」と述べていることを紹介。
 青木理氏(ジャーナリスト)は、「核武装にかかるコスト、或はそれによって国際的に日本がこうむる外交的なデメリットを考えれば、核武装は非現実的だ。」「孫崎氏のその著書には『なぜ中国が、当たり前のこととして、日本を核攻撃しないかといえば、日中の経済的結びつきを考えたら、また外交的な問題を考えたら、そんなこと出来るわけがない。北朝鮮に対しても、(それと)同じアプローチをしたらどうか』とも書かれている」と。
 また田原氏は「ノドンが危ないというが、私はノドンなんか危なくはないと思う。なぜならば、北朝鮮が経済復興するためには1兆円近い日本のカネをあてにしており、その日本をノドンで攻撃して何のメリットがあるのか」と。

(2)外交に軍事力が必要?
 田母神氏らは、力(軍事力)を持たないと諸国から軽く見られ、国際社会における発言力を持てず、外交力を発揮できないという。
 それは、要するに力に頼り、力に物を言わせる外交であって、力を背景に相手国に対して要求を押し通そうとする「恫喝外交」ともなる。
 それに対する相手国の対応の仕方(外交姿勢)には次の3つがある。①力に対しては力で対抗しようとするやり方で、北朝鮮のアメリカに対するやり方だが、互いに不信と反感を強めるばかりで、緊張を高める危険なやり方。②屈従するやり方で、戦後日本のアメリカに対するやり方。日本人にはそれで平気な向きが多いが、諸外国からはあまり尊敬されず、国際社会で名誉ある地位を(「得たい」と憲法前文で唱っているが)得られてはいない。(日本が北朝鮮からナメられているとすれば、それは日本の軍事力が弱いからではなく、アメリカの威を借りながら力で対応するしか能が無いやり方をしているからだろう。)③相手がどんなに軍事大国・超大国であっても、そのことには左右されず、動じることなく、あくまで道理で対応するというやり方で、最近の米州機構における中南米諸国のアメリカに対するようなやり方。
 いずれにしろ、力による外交からは信頼と真の友好は生まれない。
 外交は軍事力を背景としない対等な立場でこそ、理性と道理に基づく対話・交渉が成立する。そして「外交戦」にどちらが勝ったとか、負けたとかではなく、「ウィン・ウィン」で、互いに利益が得られれば一番よいのだ。

(3)日本の戦争のどこが間違っていたのか?
 田原氏は、第二次大戦で日本の戦争が間違っていたのは「負ける戦争をしたからだ」という。関が原の戦い(徳川方と豊臣方)や第一次大戦(イギリス側とドイツ側)と同様であり、対決した双方のどちらが正しく、どちらが正しくなかったかなど問題ではなく、戦略的に負ける戦をした方が悪いのだ、というわけである。
 この論に対しては、天木直人氏(元レバノン特命全権大使)が「勝てれば善いということになるが、その考えは危険だ」と指摘していたが。
 田原氏の発想は、当時の為政者や支配層と同じ発想で、民衆の立場を度外視した考え方だろう。
民衆の立場から見れば、どっちもどっちで、人々を悲惨な目にあわせた(日本軍・アメリカ軍)双方とも悪いとは思っても、「負ける戦をしたのが悪い。勝っていれば善かった。」などとは思わないだろう。
それに、中国に対しても、東南アジアその他の人々に対しても、日本軍が侵入して占領し軍政を敷き、人的・物的資源を欲しいままに徴発して戦乱に巻き込んだその行為は不当な侵略以外の何ものでもあるまい。
 そして、その犠牲者は日本人310万人、アジア全体で2,000万人。このような未曽有の被害をこうむった諸国民・民衆の立場に立ったなら、単に「戦略的に負ける戦争をしたのが悪い」では済まされることではないだろう。

 また、田母神氏は「日本は追い込まれていて、戦うまいとしても戦争わざるを得なかった。」「日本が植民地になるかならないかのどっちかであって、それ以外に選択の余地はなかったのだ。」「天皇は一生懸命、戦争やるまいと努力したけれども、しようがなかった。」「真珠湾で一発殴った。殴らなかったら今頃日本は植民地になっていたし、東南アジアなどは未だに植民地のままになっていただろう」と。
しかし、この「しょうがなかった」論も、「生存圏の確保」「自存自衛とアジア解放のための戦争」という当時の戦争推進者の発想とまったく同じ発想で、侵略戦争の正当化以外の何ものでもない。
 あたかも、日本が植民地にならないように、またアジアを欧米の植民地支配から解放するために戦争を起こしたかのような言い分であるが、事実は日本が侵略され植民地化されようとしたわけでは全くなく、逆に朝鮮・台湾を植民地支配し、満州を始めとして中国をも植民地・属国化しようとして侵略し、さらに東南アジア諸地域にまで進出して欧米から支配権を乗っ取った。それに、諸国民が抵抗し抗日ゲリラ攻撃を行ない、アメリカ等の連合国軍とともに日本軍を降伏に追い込んで自ら解放を勝ち取った、というのが、中国・韓国・東南アジア諸国・欧米諸国それに日本でも大多数の人々の見方なのである。
 日本は真珠湾攻撃でアメリカに殴りこみをかけたおかげで植民地にならずに済んだかのようにいうが、それも逆で、殴りこみをかけ殴り返されて降参し、未だに日本のあちこちがアメリカ軍の基地にされ続け、「日米地位協定」(日本の警察権・裁判権が制約され、米兵が犯罪を犯しても、基地内に逃げ込んでしまえば日本の警察は手がだせないといった取り決め)や「思いやり予算特別協定」など植民地並みの不合理な協定が押し付けられている現状なのである。

(4)国際社会の安定に軍事力が必要?
 田母神氏いわく、「金持ちが貧乏人よりも強い力を持たないと国際社会は安定しない」と。単純率直な言い方だが、財界(資本家・資産家・実業家たち)など国家・社会の支配層の本音を露骨に言ってのけた言葉のように思われる。現実は先進諸国を初めとして世界の金持ちたちの、まさにこの考え(意向)のもとに、アメリカでも日本でもヨーロッパでもイスラエルでも、各国で軍備・軍事的安全保障政策が行われているように思われるのだ。この言説を聞いて、何故テロリストや「テロ国家」が生まれるのか、その訳がどうやら解ったような気がする。
 その軍備・安全保障政策(防衛政策)は、要するに金持ちたちや「金持ち国」のその富とそれをもたらす経済社会体制を守るためのものなのだ。
 しかし、そのような軍備・軍事的安全保障政策によって、国際社会も国家も安定・維持することができるのかといえば、それは不可能だろう。なぜなら、貧乏人も「貧乏国家」も、金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配におとなしく従い、じっと我慢し続けることには耐え切れないだろうからである。彼ら、彼の国ではその軍事支配を覆そうとし、弱者の抵抗手段としてテロにうったえ、北朝鮮のような「貧乏国家」は国民が飢えても「弱者の武器」である核・ミサイルを開発し、それを「金持ち国家」にカネを出させる交渉カードにしようとする。
 要するに、テロリストや「テロ国家」を作り出しているのは金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配にほかならず、テロリスト・「テロ国家」はなぜ絶えないのかといえば、それは金持ちたち・金持ち国家が富を独占し、貧乏人・「貧乏国家」を圧倒的な力で抑えつけようとするからにほかならない、ということだ。それをやめないかぎり、テロリスト・「テロ国家」は無くならないし、金持ちが「力」による支配をやめれば、それらは無くなるということだろう。
 早い話が、金持ちが武力を持ったら、かえってテロリストから狙われてしまうのであって、むしろそんなものを持たずに、カネを(納税や寄付・募金などを通じて)貧者に分配したほうが安全・安心が得られるというものだろう。
 それに、テロリスト・テロ国家には、たとえどんなに強大な軍備を備えても、前述のように、その「抑止力」は効かないのである。
 したがって、このような金持ちたち・「金持ち国家」の「力」によっては国際社会も国家も安定を保ち続けることは不可能だということ。
 そもそも、金持ち・貧乏人の格差をつくる経済社会体制・政治・政策が間違っているのである。その格差・貧困を拡大・放置しながら、人々の不満・義憤を力で抑え付けて社会の平和・安定を保とうとしても、所詮それは不可能なのであり、格差・貧困そのものを無くしてこそ、平和・安定が保たれるのであって、そこには力(軍事力・抑止力)など要らないのである。

 そのような考えに立って地域内諸国共通の非軍事的な安全保障政策をとっているのがASEAN(東南アジア諸国連合)をはじめとする平和共同体であり、今それが21世紀世界の潮流になろうとしているのだ。
(ASEAN―1967年、インドネシア・マレーシアなど5カ国が結成、76年東南アジア友好協力条約TACを締結、77年アメリカを盟主とする軍事同盟SEATOは消滅、TACにはその後日中韓など域外諸国も加入し、現在では東アジアのすべての国、インド・パキスタンなど南アジア、オーストラリア・ニュージーランド、ロシア・フランスそれに北朝鮮まで加入して加盟国は25ヵ国にものぼっている。
 この条約で加盟国は互いに紛争の平和的解決・武力行使の放棄を約し、仮想敵を持つ軍事同盟を排し、対決より協力優先を約束し合っている。
 一方、北朝鮮をめぐって「6ヵ国協議」が設けられているものの、現在北朝鮮が脱退を言い出して頓挫しているが、何とかそれを維持・発展させ「北東アジア非核地帯条約」とともに恒常的な地域安全保障の枠組みの構築をめざす考えもあるが、東南アジアにこの北東アジアを加えた「東アジア共同体」構想もある。
 また、「南米諸国連合」も昨年結成され、アメリカ中心の軍事同盟とは一線を画した地域共同の安全保障体制を構築した。)

 共産党の穀田議員がそのことを指摘したのに対して、村田晃嗣氏(同志社大教授)は、そのような潮流だけでなく、非国家主体のテロ・ネットワーク、それに北朝鮮のような国際的相互依存の枠の外にあるような「ならず者国家」の潮流も依然としてあるのであって、一方の自分の都合のいい潮流だけを議論してもしかたない、とクレームをつけていた。しかし、そのようなテロ・ネットワークや「ならず者国家」の潮流は、地域内諸国共同の非軍事的安全保障体制(不戦・平和共同体)の広がりと充実によってこそ、絶やすことが可能となる、というものではあるまいか。

2009年05月21日

海賊対処法と自衛隊のソマリア沖派遣の間違い

(1)単純な表面的な見方
 ソマリア沖に海賊が横行し、日本関係船舶をも含め各国のタンカーや貨物船が襲われ、被害が多発している。
 これに対して国連安保理が関係国に海賊対策のため軍艦や軍用機を配備するなどの対応を要請決議している。
 米欧(アメリカ軍中心の有志連合軍とEU軍)、中国・ロシア・インドなど十数ヵ国の海軍(軍艦)が、この海域に出動し船舶の警護・救出などに当たっている。
 我が国政府は、海賊はロケット砲など重火器をもっており、海上保安庁では「手に余る」という(海保長官は国会で「遠方への派遣に耐えられる船が海保には一隻しかない。各国が軍艦を出しているところに日本だけが軽装備の警備艇を出すわけにはいかない」などと答弁)ので海上自衛隊を派遣(警察権を持つのは海上保安庁であって自衛隊は、それを「補完」―自衛艦に海上保安官が何人か同乗―するという形をとり)、護衛艦2隻、それに対潜哨戒機(P3C、対潜爆弾もつ)も派遣(ジプチ空港にその拠点を置き、機体警備のために陸上自衛隊中央即応連帯からも派遣)。政府は、それらは憲法違反には当たらないとしている。
 朝日新聞社説も「海賊行為からの護衛は、憲法が禁じる海外での武力行使にはあたらない」としている。
 メディアは、派遣自衛艦は「外国船を二度救った」「大音響装置で海賊を撃退した」(朝日5,13付け「ニュースがわからん」欄)などと「戦果」を報じている。
 日本の船も外国の船も海賊に困っているのだから、それに対処するのは当然のことである。「外国の軍艦が日本の商船を守ってくれるのに、外国の商船が襲われたとき、『日本だけできません』は通用しない。」(元自衛隊幹部で帝京大教授の志方氏)
 それに、シーレーン確保は死活的な国益であり、それに対してあらゆる手を尽くすのは当然のこと。海上自衛隊というものが現に在るのだから、在るものを使うのは当たり前、といったことが自衛隊派遣肯定論である。
 世論調査でも賛成多数(内閣府による調査では63%)である。

 しかし、このような判断は正しいのだろうか。
(2)ソマリアの実態―「海賊」といっても、単なる海賊とは言い切れない。
 そもそもソマリアという国は、1966年までイギリス・フランス・イタリアなどの植民地に分割されていたのが、イギリス領とイタリア領が統合・独立して生まれた。ところが冷戦時代で、ソマリア政府はアメリカに接近、隣国エチオピアでのソマリ族の反乱を支援、エチオピアと武力対立、ソ連はエチオピア軍を支援、米ソの代理戦争の場となった。1991年(冷戦は終わったものの)20年間にわたって軍事独裁を続けた大統領が反政府勢力によって追放され中央政府は崩壊、以後、氏族ごとに武装勢力が割拠、「国連平和執行部隊」―米軍を中心とする多国籍軍―が平定に乗り出しが、武装勢力の反撃にあって(93年、大勢の市民とともに18人の米兵が殺され、死体が引きづり回されるという事件があった)95年米軍は撤収、十数年も無政府状態のまま紛争が続いてきたのである。2000年ジブチで暫定政府が設立、2005年にはケニアのナイロビで設立した暫定政府がソマリア入りしたが、イスラム勢力(「イスラム法廷運動」、原理主義的色合いが強く、アメリカは「アルカイダに操られた組織」と見なす)がそれに対抗した。暫定政府軍はアメリカ軍とエチオピア軍(侵攻)の支援を受けてイスラム勢力に攻勢をかけた。そして今年になって、そのイスラム勢力(穏健派)と和解し、新大統領に彼らの中心人物(アフメド)を選出。新政府は旧暫定政府とイスラム勢力の民兵を統合して治安維持のための軍隊・警察づくりに取りかっている。しかし、イスラム過激派はなおも抗戦を続けている。
 アメリカはソマリアをアルカイダの拠点で「対テロ戦争」の戦場と見なす。 
 2007年アフリカ連合(EU)が平和維持部隊を派遣。
 2009年エチオピア軍撤退。
 国連安保理は本年6月までに平和維持部隊(PKO)設置を検討。

 この間、2006年末以降で、数万人が死亡し、100万人以上が難民になっている。
 生業がなく、そうする他にカネを得るすべのない人々は武装勢力に加わって武器を手にして、かねてよりソマリア人に不信感の強い外国人を襲い、漁民は海賊に化しているのである。(何度もソマリア各地を訪れた写真家の谷本美加氏によれば、「民兵」たちが外貨稼ぎのための外国人誘拐の場を陸から海に移したということにほかならない、というわけ。)
 アフメド大統領は、「海賊は陸上で生活しており、海に住んでいるわけではない。我々は、この人々を知っており、『イスラム法廷運動』の時代には彼らを抑止できていた」(実際、彼が議長を務めていた『イスラム法廷運動』が首都と南部一帯を支配していた2006年当時は、海賊は減少していた)と述べて、米国によるソマリア海賊の陸上拠点への攻撃に反対を表明。国際資金援助が得られれば、1年以内に海賊行為の4分の3は自立で防止できるようになるとし、外国軍駐留に反対をも表明。

 海賊には本来、沿岸国の警備隊が対応すべきもので、ソマリアとその周辺国(イエメン・オマーン・ケニアなど)が各国に求めているのは軍事力ではなく、ソマリアの中央政府と周辺沿岸国の警備能力強化への技術的・財政的支援であり、これら諸国の地域協力体制への支援であろう。

(3)自衛隊を出すとどうなるか
 海賊に対しては本来、警察機関が対応するのが原則。
 獨協大学の竹田いさみ教授は、「海賊対策の要諦は『海のお巡りさん』を育成すること」と書いている(朝日新聞3,16付け「アジアフェローから」)。
 早大の水島朝穂教授は「海上犯罪は海上保安庁で対応するのが筋で、各国横並びで軍艦を出すことはあまりに安易だ」と。
 わが国の海上警察機関は海上保安庁であるが、世界の「海賊の巣」とも言われたマラッカ海峡では周辺各国の沿岸警備隊に警備技術を指導し、大型巡視船を派遣、インドネシアには最新の巡視艇を供与までして、各国沿岸警備隊と連携・共同訓練を行い、情報共有センターも設立、この海域での海賊の激減に主導的な役割を果たしているのである。
 シーレーンの安全確保によって恩恵を得ている最大の受益国として、我が国が沿岸国の警備活動を支援するのは当然のことである。
 我が国の海上保安庁は、大型巡視船(複数の連装機関砲を装備、ヘリコプター搭載)を13隻もっている(「しきしま」はイージス艦なみで4,600万t、ヘリコプター2機搭載。英仏からのプルトニウム運搬船を護衛している。)「抑止効果」ならこれらの巡視船で十分。
 武器使用は、警察官と同様(警察官職務執行法7条が適用)、正当防衛・緊急避難の場合に限って相手に危害を与える可能性のある危害射撃を認めるほか、他人に対する防護、犯人の逃走阻止や抵抗抑止のため警告射撃・威嚇射撃、海保の場合、停戦命令に応じない船にたいする船体射撃も日本の領海に限って認める、ということになっている。
 ソマリア沖への派遣も、通常なら、また、このような海上保安庁の巡視船だけなら問題はあるまい。
ところが、今、そこは紛争地域。しかもそこに自衛隊が派遣されるとなると、紛争当事者はもとより国際社会からは「日本軍」の紛争への介入と見なされ(アメリカ軍が対テロ活動やソマリア本土への作戦を一体的に進める海洋作戦に対する支援―護衛艦や対潜哨戒機が米軍に情報提供を行えば、米軍の軍事作戦全体を支援することになる―とも見なされ)、その武器使用は武力行使と見なされることになる(日本国内では「海賊対策は警察活動だから、『武器の使用』即『武力行使』には当たらない」と説明しても、国際的には軍隊による武器の使用以外の何ものでもない)。国際社会では自衛隊は非軍隊とは見なしたりはしないのである。(自衛隊自身も現地では、警告用の大音響装置で「日本の海上自衛隊だ」と名乗るとともに「日本のNAVY(海軍)だ」とも名乗っている。)
 自衛隊の武器使用は、発足当初は極めて抑制的で、危害射撃は正当防衛・緊急避難のためである場合に限って認められるほかは、警察官と同様、逃走の防止、自己・他人に対する防護、公務執行に対する抵抗の抑止などのための警告射撃や威嚇射撃しか認められなかった。海外派遣が行われだして、それがPKO法からテロ特措法・イラク特措法へと少しづつ拡大されていったとはいえ、自己とともに現場に所在する他の自衛隊員、職務を行うに伴い自己の管理下に入った者の生命・身体の防衛・防護のためといったことに限定されてきた。
 ところが、今度の新法「海賊対処法」案では、それに加え、警護する船舶に「著しく接近し、つきまとい、進行を妨げる」(その判断は現場まかせ)だけで(攻撃を受けなくても)威嚇射撃だけではなく危害射撃(殺傷)をも認め、船体射撃(撃沈)を日本領海以外でも認める。また警護は日本船だけに限らず他国船をも対象とすることに。(アメリカ艦船保護のための集団的自衛権の行使につながることになる。)
 今回のソマリア沖での各国海軍の活動で、イギリス軍は銃撃戦で海賊2人を射殺、フランス軍も2人、アメリカ軍は3人を、人質救出で銃撃戦のすえ射殺。これに対して海賊側は「報復」を宣言し、貨物船にロケット砲攻撃を加えている。インド海軍はタイ漁船の母船を間違って砲撃し撃沈させるという事態を起こしている。
 我が国の派遣自衛隊も、新法が決まれば、その武器使用基準で、このような銃撃戦による海賊の殺害、船の撃沈が可能となり、戦後史上初めて我が国の自衛隊が「殺し殺される」事態を起こす可能性が強まることになる。
 この「海賊対処法」は特措法ではなく恒久法であり、期限も地理的な限定もない。これは、やがて「海賊対処」の場合に限るという限定もなくされて、海外派兵恒久法が制定される突破口となる。

(4)憲法9条はどうなるの
 かつて海外(南満州)の租借地や邦人経営の鉄道(満鉄)を警備するためとして派兵・駐留させたその軍隊(関東軍)が事変を起こした(満州事変)。また居留民保護の名目で北京に駐留させていた軍隊が中国軍との武力衝突事件(盧溝橋事件)を起こし日中全面戦争に発展した。それがさらに「アジア・太平洋戦争」・「第二次世界大戦」に発展、世界史上最悪の惨禍をもたらした。それに対する反省と道義的責任・民族的責任から憲法9条を制定し、国際紛争解決の手段として武力を用いることを禁じ、戦力も(陸海空軍とも)持たないと内外に誓ったはず。
 二度と再び、政府は自国民をも他国民をも一人たりとも戦争の悲惨に引き込み巻き込んではならず、日本国民は自国政府にそんなことをさせないようにする、というのが憲法9条なのである。

 それなのに、政府は何が何でも自衛隊を出すのだという、憲法よりも自衛隊を活用することを優先する考え。麻生首相は「強盗している人たちに対して、こっちも、やられたらやり返さないとしょうがない」などとスピーチしており、朝日新聞社説も「護衛艦の派遣はやむを得ない」などと書いている。世論はこれに対して賛成する向きが多い。日本人の「しかたない症候群」ともいうべきものなのか。そのいいかげんさ。

 日本船主協会常務理事の半田氏は、ソマリア沖を避けて喜望峰回りに切り替えたでは、「用船代・燃料代などのコストが800億円、日数が6~10日余計にかかり、日本経済全体への影響が大きい」と述べている。しかし、それこそ「しょうがない」のではあるまいか。
 ソマリア沖は日本から1万キロ、自衛艦2隻はそこまで行って、アデン湾(東西900キロ)を通る日本関係船を片道2日かけて護衛する。3月末から5月13日まで計17回、護衛した船は55隻で、1回平均3,2隻の割合。民主党は「政府の事前説明(麻生首相は1月末の国会答弁で5~6隻と言っていた)の半数の税金の無駄遣い」として、参院で近く始る海賊対処法案の審議で追及するという。海自では、今後、1回当たりの護衛を護衛船2隻から1隻に減らすことを検討しているという。
 海外派兵(自衛艦・自衛隊員派遣)にかかるコストは国民の税金から支払われるのだ。国民が耐え忍ばなければならないコスト負担というものがあるには違いないが、カネは、むしろ、人々を難民化・海賊化に追い込んでいるその国の経済と治安の自力回復を支援することにこそ当てるべきなのである。
東京外語大学院の伊勢崎教授(国際NGOに加わりアフリカで活動、アフガニスタンで日本政府特別顧問として武装解除を指揮)は「ソマリア沖を避けて、遠回りの航路を選ぶことです。アフリカ南端のケープタウンを回ることも必要でしょう(実際、そうしている商船もあるという―引用者)。そのために輸送日数がかかったり費用が増えたりしても、9条を持つ日本人が払わなければならないコストと受け止めるべきです」と述べている(朝日5,2付け「オピニオン」欄)。

 伊勢崎教授は派兵に猛反対をしない日本人のいいかげんさを嘆いてだと思われるが、「憲法9条は日本人にもったいない」という言い方をしている。
 朝日新聞(1月28日付け)の「声」欄に海上保安庁OBと称する方が寄せた社説批判投稿が載っていたが、その方は次のように書いている。「海上保安庁長官が昨年10月『総合的に勘案すると巡視船を派遣することは困難』と答弁しました」が、「海保の巡視船は世界一周航海ができ、欧州から日本までプルトニウム運搬船の護衛経験があり、北朝鮮不審船対応の武器・防護能力もあります。長官は配下の能力を理解せぬまま、責任を回避した格好です。答弁内容をマスコミや国会は精査せず、まず自衛艦派遣ありきとする政治家の言説に利用されています」と。


2009年07月01日

「安心社会」とは?(修正・加筆版)

 かつて流行った植木等の歌にこんなのがあった。「銭の無い奴は俺んとこへ来い、俺も無いけど心配すんな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろうサ――」。それは経済成長期、なんとものどかな(?)時代だったことか。だからといって、けっして安心社会などというものではなく、不安もあったことはあったのだが、「そのうちなんとかなるだろう」という安心が、不確かながらもあった。今、そんな歌を若者たちの前で歌おうものなら、ボコボコにされるだろう。
 今、我が国では、子どもたち・若者・壮年者・老人・障害者など人々の前には
様々な不安の種がつきまとっている。幼児虐待・いじめ・暴力・不登校・ひきこもり・ニート・ワ-キングプア・ホームレス・うつ病・過労死・餓死・自殺・自暴自棄的犯罪、それに「へた」をすると北朝鮮と戦争も。

 麻生政権は総選挙の看板政策に「安心社会の実現」を打ち出している。首相が設けた有識者らの「安心社会実現会議」は5つの安心をあげている。
①雇用をめぐる安心
②安心して子どもを産み育てる環境
③学びと教育に関する安心
(文部科学省の「教育安心社会の実現に関する懇談会」も発足。そこでは、家庭の経済力による格差を是正するために、国の財政支出増を求める意見が多く出ている。)
④医療と健康の安心
⑤老後と介護の安心
 その「安心」は「活力」と両立し、「活力を支える」ものだ、というわけである。
そこには様々な矛盾がはらんでいる。それはいったい誰にとっての「安心」「活力」なのか。一般庶民のほかに大企業家・資産家・投資家・政治権力者・官僚など様々な階層の人々がいるが、それぞれの立場での安心・活力というものがあるわけである。大企業・投資家の立場に配慮あるいはそのほうを優先するが故に一般庶民にとっての(許容される)安心は極めて限られたものとなり、不徹底となものとなる。
 非正規労働の拡大と雇用の流動化・賃金抑制で家計・内需を犠牲にし、輸出大企業の「活力」を優先した「構造改革」政策はそのまま(反省・総括が加えられていない)。
 非正規労働者の社会保険の適用を拡大する、という。そのために企業負担が増す分、法人税は引き下げる。低所得者や子育て世帯には給付付き税額控除をおこなう、という。それらの財源も、医療・介護など社会保障の「機能強化」にかかる公費も、その財源は消費税アップでまかなう、というもの。
 これでは「安心社会」どころか生活不安はかえって増すことになりかねない。

 ところで、安心とは不安のないことであるが、不安には、人間関係(親子・兄弟・友だち・同僚・男女関係など)のこじれや断絶、或は(試験やコンテスト、仕事や事業、ゲームやギャンブルなど)何か取り組むものがあって、それに「失敗するかもしれない」とか「負けるかもしれない」「損失をこうむるかもしれない」といった不安がある。これらは各人が自由にそれぞれ思い思いの幸福を追い求めて目標に取り組む自助努力いかんによるもので自己責任に属するか、あるいは家族や地域・利害関係者など仲間の共助・協力いかんによるもので共同責任に属する。
 しかし、人々にとって究極的な不安は、学校で充分な知識・技能を修得できず、仕事もなくて収入が得られず、住む所も食べる物もなく、「生きていけなくなるかもしれない」とか、「事故や災害にあうかもしれない」とか、怪我や病気になっても医者に罹ることもできず「死ぬしかなくなるかもしれない」などといった生命に関わる不安である。その不安を無くし、安心して生きていかれるように生活安全を保障するのは国家である。それは政府や自治体の責任に属する。
 
 国家は国民共同体―互いに力を合わせ、お金(税金・保険料)を出し合って助け合う、いわば「国民の生活互助会であり、生活共同体」(6月12日付け朝日新聞、筒井眞紀氏の投稿)。出し合うお金は、収入の多い人はより多く出し、収入の少ない人はより少なく出し(所得再分配の原則、累進課税)、最低ライン以下の人は免除される。(消費税が不合理なのは、収入の多少・有無の別なく、すべての消費者に、一律に出させ、相対的には収入の多い人の方がより少なく出し、収入の少ない人の方がより多く出さなければならない逆進課税だからである。)

 自公政権は、小泉政権以来、財政が大変だからといって社会保障費抑制路線をとっている(社会保障のための予算を毎年2,200億円カット)。その一方で、軍事費や道路建設・大型開発事業などムダを続けている。しかも、大企業・大資産家には減税し、社会保障財源の名目で消費税アップを企図しているのである。

 勉強をして知識・技能を修得し仕事を選び職を探して就業・就労するのは自助努力であり、家事・育児・扶養などは家族の共助、医療・介護・年金などの保険は国民共助の分野であるが、保育所・学校・職業訓練所を(教職員とも)用意し(私立には公費助成)、職場を確保・紹介し(経営・雇用するのは個々の民間企業であっても)、雇用を促進するのは(公共職業安定所・ハローワーク・労働局など)政府・自治体の責任であり、医療・公衆衛生も政府・自治体が責任を負うべきものである。
 本年正月に、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」を、NPOから都が引き継いで、都や区の施設に一時引き取った、その時に、都は「自助努力が大前提で、今回は人道的観点からの措置。期限までに仕事と居場所を見つけてほしい」と。しかし、その言い方は、生存権を権利としてもつ国民にして、たまたま派遣切り等で職とともに住居を失って寒空の下に放り出された人々に対して、国や自治体が然るべく対応するのは当然の責務だという責任意識に立った言い方ではない。

 安心とは、誰もが、たとえどんことがあっても(どんな境遇に陥っても)生命だけは保障され、医療が受けられ、教育(それも、テスト競争教育や国家統制のプレッシャーと、「いじめ」などのストレスが無く、個性と能力に応じて伸び伸びと受けられ、自分に相応しい知識・技能を身に付けられる教育)が受けられて、将来にわたって安定的な仕事にありつけ、結婚して家族を養える収入が得られ、人として(人間らしく文化的に)生きていかれる保障(生存権の保障)があることである。その安心が保障されている、それこそが安心社会なのだ。
 日本国憲法には次のような定めがある。
前文―「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(平和的生存権
14条―「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする」
25条―「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」
26条―「すべての国民は・・・・その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」
(政府は「これは国の努力目標を定めた条文で、個々の国民に具体的権利を与えるものではない」という解釈をとっている。そして「無償」の範囲を公立小中学校の授業料と教科書代だけに限定。学力世界一の国フィンランドでは、日本国憲法と同様「教育の機会均等」を定めているが、それを文字通り実施、公立私立を問わず学費は大学まで無料、給食費・交通費も家庭の負担はゼロ。)
27条―「すべての国民は勤労の権利を有し、義務を負う。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない」

 今、「世界第二の経済大国」と言いながら、先進諸国のなかでは、相対的貧困率が高く(30ヵ国中4~5番目)、「安心度」はグンと低いのである。
 01~08年の間、国民一人当たりのGDPは世界4位から20位に転落し、国際競争力は1位から9位に。国の債務残高(対GNP比)は71%から174%に。
 鶴見芳浩氏(ニューヨーク市立大学大学院教授)は、バブル崩壊後1990年代の「失われた10年」に対して「更なる失われた10年」だとしている。
 不安定雇用・長時間労働、それに高い保育費・学費負担で結婚・出産・子育てが困難。その結果が少子化・人口減少。それは日本社会が活力を失い衰退傾向にあることを示している。
 自殺者は11年連続して毎年3万人を越える(10万人比でみると、アメリカの2倍、イギリスの3倍)。
 餓死者は年間71人(04年)
 ヨーロッパでは医療と教育(幼児教育・高校・大学も)は無料が常識。我が国の学費(私費負担)は世界一。(高等教育への教育支出に占める公財政支出の割合はOECD加盟諸国平均73%に対して、我が国は34%で、私費負担は66%)。我が国では国基準で1学級40人まで認めているが、ヨーロッパでは少人数学級で1学級20人が限度というのも常識。
 国民の学力低下―01~08年の間、「科学的力」は2位から6位に、数学的力は1位から10位に、読解力は8位から15位に(ユネスコのデータ)。
 国際人権社会権規約は高校・大学の漸進的無償化を定め、大半の国々はこれを批准しているが、未だに留保している国はマダガスカルと我が国だけ。
 我が国における過度な競争教育は、1998年国連「子どもの権利委員会」からの改善勧告で「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」「さらに登校拒否の事例がかなりの数にのぼることを懸念する」と指摘されているが、いっこうに改善されてはいない。
 学校での「いじめ」は、加害・被害ともに、小中学校で5人中4人が経験(国立教育政策研究所が実施した調査。04~06年、首都圏のある一つの市の小中学校19校で小4~中3の全員を追跡調査。中学校の3年間で仲間外れ・陰口などのいじめの遭った子どもと、いじめる側に回った子どもがいずれも8割を超える。小学4年からの3年間でも同様の割合)。そのことを孫たちの前で彼らの親たちに話したら、孫(小3)は「そんなことだったら、ますます自信がなくなるじゃん」と。
 まさに「不安社会」ではないか。
 自公政権の下では「安心社会実現」どころか、「不安」は増すばかりである。
 今、シュプレヒコールで「生きさせろ!」「働けなくとも食えるようにしろ!」「自己責任で済ませるな!」「安心を保障しろ!」「安心して学べるようにしろ!」と声をあげるのは当然のことなのだ。
 私も、ひとつ、「孫たちに不安を与えるな―!」

2009年07月26日

「安心社会実現」はどの党が?

 麻生首相は衆院解散にあたって記者会見で、「子どもたちに夢を、若者に希望を、高齢者に安心を」ということで、今度の総選挙は「雇用に不安のない、老後に不安のない、子育てに不安のない社会を実現する『安心社会実現』選挙だ」と語った。
 これに対して野党の方は、「自公政治のもとで、国民の暮らしの安心が奪われ、希望が奪われた。」「国民のだれもが安心と希望がもてる新しい日本をつくろう」(共産党・志位委員長)と論じている。
いずれにしても、「安心社会実現」は、今、国民の多くが一番切実に求めているところであり、今度の選挙争点の核心であることは確かだと思う。
 今の日本社会は様々な不安に満ちあふれている。幼児虐待・いじめ・不登校・高学費・就職難・雇用不安・ワーキングプア・ニート・結婚難・子育て不安・無保険・年金不安・無年金・破産・倒産・ホームレス・うつ病・医療難民・介護難民・非行・犯罪・自殺・餓死・過労死、それに地球環境悪化・核ミサイル・テロの不安。まったく不安だらけだ。
 昔も不安はあったことはあった。戦争中や戦後しばらくの間。しかし戦争が終わってからというものは、新憲法で不戦平和が保証されて戦争の不安は遠のき、歌謡曲に「晴れた空、そよぐ風」、「新国民歌」(芳賀秀次郎―当時山形南高校教師―作詩、NHKラジオで毎日流された)に「我ら愛す・・・この国の空の青さよ」と歌われ、人々はどん底から這い上がって生活再建に邁進、日本経済は右肩上がりで成長の一途をたどった。人々には希望があったし、或は植木等が「銭の無い奴ぁ俺んとこへ来い、俺も無いけど心配すんな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとか、なるだろうさ」などと歌えた安心感がなんとなくあった。
 しかし今は「希望なき不安社会」に化している。孫たちの行く末が心配でならない。はたして、まともに生きていかれるのか。
 麻生首相は、よくぞ「安心社会実現」を争点にしてくれたものだが、庶民から安心と希望を奪ってきた元凶は、当の麻生氏が担ってきた自公政権ではないのか。そのお方が、いくら「安心社会を実現できるのは我が自民党と公明党だ」と言い立てたところで、人々が真に受けるとでも思っているのだろうか。
 彼らが言う「安心社会」とは、財界・大企業・大資産家・官僚・世襲政治家それにアメリカの金融資本家・産軍複合体などの特定の人たちにとっての安心社会であり、これらの人たちが安心してその利権・既得権・資産を維持し続けることのできる社会にほかなるまい。
 それに対して、すべての国民とりわけ庶民にとっての安心社会実現のために、それこそ一番真剣に取り組んでくれそうな党はどこなのか、であり、そこを判断するのが今度の総選挙なのでは。
 具体的には
①医療・介護・年金など社会保障政策
②雇用・労働政策
③子育て・教育政策
④中小企業・農業政策
⑤環境・エネルギー政策
⑥外交・安全保障政策
⑦財源・税金問題
 これらに対して、真に庶民の立場に立った安心社会実現という観点から一番適切なマニフェストを掲げて、かねてからブレずに取り組んでもきている党はどの党なのか、そこのところをよくよく見極めて投票したいものです。
 なにしろ、この身、子や孫の運命がかかっている選挙なのですから。

 尚、この選挙で自公政権を引きずり落とすために民主党を勝たせるだけでなく、是々非々でキャスチングボードを握る役割を果たす第三極が必要であり、その党はどこなのか、それにも大きな考慮を払わなければならないのでは、と思います。
 最悪のシナリオは、自民・民主二大政党が、もしかして選挙後に大連立を組むか、野合して比例区議員定数削減を決めて少数党を国会から排除するようにしたり、改憲を強行することです。そんなことにでもなったら大変だ。

2009年08月06日

分野別各党マニフェスト(加筆修正版)

1、各党の政策基調・キャッチフレーズ
自民党―「安心」「活力」「責任力」
麻生首相は「子どもたちに夢を、若者に希望を、高齢者に安心を」と言っているが、今、それらが失われているのだ。そうなったのは自公政権のせいにほかならない。
「活力」と言っても、「『バラまき』による『活力』」。例えば、池の鯉にパン屑をバラまくと、鯉たちは群がり寄ってバタバタはねる、そのようなものではないのか。
首相は「行過ぎた市場原理主義から決別する」とも言っている。しかし、小泉内閣以来の「構造改革」路線の転換?変節ではないのか。自民党は(公明党もだが)新しいマニフェストよりも、国民に「痛み」を押し付けた4年間の反省・総括が先決ではないのか。いったい、具体的にどこがどう「行き過ぎた」のか、誰の責任なのか、自分には責任ないのか、まるではっきりしない。(自民党・公明党についてはマニフェストを他党のそれと比べてどうのこうの評価するよりは、むしろ両党は、政権党として、これまで何をしてきたのか批評さるべきだろう。「構造改革」―規制緩和・民営化、教育基本法改定、改憲手続法の制定、自衛隊海外派兵、労働者派遣法、後期高齢者医療制度、障害者自立支援法、社会保障費削減、介護・医療問題、少子化問題、年金記録問題、定額給付金その他のバラまき政策など等だ。)
自民党はマニフェストに「経済成長を10年度後半には年率2%に」、「10年で家庭の手取りを100万円増やし、一人当たりの国民所得を世界のトップクラスに引き上げる」と。しかし、自公政権はこの10年間、家計収入を100万円減らしてきたのだ。
公明党―「生活を守り抜く」「清潔政治の実現」「命を守る政治」「人を育む政治」「緑の産業革命」「行動する国際平和主義」
民主党―「友愛社会―絆を大事にするヨコ社会」
 「官僚丸投げ政治」から「政治家主導の政治」へ
 「各省の縦割りの省益」から「官邸主導の国益」へ
 内需主導型経済への転換
共産党―「暮らしと権利を守るルールある経済社会」「9条を活かした自主・自立の平和外交」「国民が主人公の新しい日本」「建設的野党」(「良いものには協力する、悪いものにはきっぱり反対する」)
社民党―「市場経済市場主義の『競争社会』から『支え合いの社会』へ、『格差拡大の経済大国』から『平和で豊な福祉社会』へ」
「大企業中心の輸出最優先から、人々の暮らしや地域を支える『いのち』(介護・医療・福祉・教育)と『みどり』(農林水産業・環境・自然エネルギー)分野へ重点的に投資
国民新党―「共生社会の復活」「ブレない政治」「郵政見直し」

2、財源・税制
自民党のこれまでの政策と現状>
自公など消費税容認派やマスコミはよく「日本はヨーロッパに比べ国民負担率が低く、法人税は高いが消費税は安い」という。「国民負担率」が低いのは、消費税も安いが、企業負担(法人税など税金と社会保険料)と高所得者の負担が少ないからだ。ヨーロッパは消費税が高いといっても、食料品や生活必需品は非課税。法人税だけなら日本は高いが、企業の社会保険料負担はヨーロッパのほうが多く、両方(税と社会保険料)合わせれば企業負担は日本のほうが少ない(GDP比では、日本7,7%にたいしてイギリス10,0、ドイツ10,2、スイス12,7、スウエーデン13,4。日本の大企業の負担はドイツ・フランスの7~8割)。それに日本は所得税などにたいする最高税率(上限)が低く抑えられていて高所得者の負担が軽い。ヨーロッパは社会保障が日本より充実しており、その負担は、日本と違い、儲けの多いところ、収入の多い人がその能力に応じて多く負担している(国民はそれに納得している)というのが実態。
自民党・公明党とも、今後、国債発行・消費税(景気回復したら11年度から)アップもやむを得ないとする。公明党は消費税の使途を社会保障と少子化対策に限定すると。
しかし、消費税とは、高所得者・低所得者の別なく低年金生活者・生活保護受給者・失業者などまで全ての人に、贅沢品・生活必需品の別なくどの商品にも一律に、購入金額の「~%」(現在、我が国では5%)として課税するもの。それは、所得の少ない人ほど重い負担になり(逆進性)、子育て世代、生活保護を受けている家庭、母子家庭などにとっては一番重くのしかかる税金なのであって、けっして「公平・平等な税金」なんかではなく、「社会保障財源」とするには最も相応しくない税なのだ。(実際、20年前「社会保障財源にする」といって導入しながら、社会保障はかえって悪化したし、減税した法人税の減収の穴埋めされただけ)。
06~07年、所得税・住民税の定率減税を廃止
大資産家・大企業には減税―所得税の最高税率引き下げ、法人税の税率引き下げ、研究開発減税、証券優遇税制(株式の配当や売買譲渡益にかかる税金20%だったのを10%に減税)など。
財政の現状―国・地方合わせて借金800兆円(その借金をつくってきたのは自公政権にほかならない)
<自民党・公明党ともマニフェストに「消費税を含む税制抜本改革を実施」、そして「国・地方のプライマリーバランス(基礎的財政収支)を、10年以内黒字化めざす」と。>
借金を将来世代にツケ回しをしないためだとして、まずは消費税の増税が先にありきなのだ。借金の尻拭いを庶民に押しつける消費税増税、それをやってのけられるというのが自民党のいう「責任力」なのか。

民主党
<特別会計・独立行政法人・公益法人をゼロベースで見直す。一般会計・特別会計は企業会計に準じた財務書類作成、国会提出を法制化>
一般会計に特別会計を合わせれば207兆円にもなるはず。そこから財源確保できると。
特別会計は一般会計の2倍以上もの金額におよび、その決算は、毎年の使い残し・剰余金など、今までは、国民にも国会にも開示されず、「霞ヶ関」(各省庁)の「埋蔵金」などと称される「隠れ財源」になっている。それが、官僚の天下り先団体(公益法人・独立行政法人)やその関連企業による無駄な箱物建設に使われ、職員の遊興費にさえ使われているのだ。それにメスをいれる。そして一般会計・特別会計を一体化させて一元管理に変え、明瞭会計にするというわけ。
<予算編成の抜本的見直し―大型公共事業の全面見直しなど>
「事業仕分け」―優先順位の高いものとそうでないものを精査、必要不可欠なものは確保、無駄なもの・不要不急なものはカット。

これら合わせて16兆8千億円の財源確保

消費税アップは4年間据え置き
証券優遇税制はそのまま
法人税にも累進制を導入、一定範囲の所得については現行よりも税率引き下げ
 中小企業の法人税率(18%)を11%に
企業への補助金である各種租税特別措置は「真に必要なものは恒久化」
所得税の配偶者控除は廃止
ガソリン税などの暫定税率も廃止
将来ガソリン税、軽油取引税は「地球温暖化対策税」に、
自動車取得税は廃止

共産党
税金は「応能負担」(負担能力に応じて負担)が原則だと。
大企業の法人税率を97年の水準まで段階的に(景気回復にあわせて)引き上げ―4兆円を確保。
所得税・住民税の最高税率(合わせて)50%を65%(98年以前の水準)に戻す―0,7兆円を確保。
相続税の最高税率も元に戻す
証券優遇税制は廃止(株式配当・譲渡益への減税を元に戻す)―1兆円
無駄遣い・不要不急の事業カット―軍事費5兆円のうち1兆円(ヘリ空母・イージス艦など海外展開用の装備、米軍への「思いやり予算」年間2,800億円、米軍のグアム移転などの再編経費3兆円も)、大型公共事業2兆円、政党助成金320億円など(カット)。
これら合わせて12兆円確保
消費税は上げない、それに食料品など生活必需品は非課税に

社民党
金持ち・大企業優遇の不公平税制の是正
低所得者と子育て世帯に給付付き税額控除制度。
特別会計(「霞ヶ関埋蔵金」特に財投・外為特会)の積立金・剰余金40兆円の活用
法人税率を34,5%に戻して1,7兆円、高額所得者の税率を50%に戻して0,25兆円確保、証券優遇税制を廃止して1兆円、大企業への租税特別措置を大幅縮小などで1,2兆円確保。
環境税と国際連帯税を検討
消費税の税率は上げない、飲食料品分は実質非課税に。
ガソリン税など暫定税率は廃止
国民新党
大企業・高額所得者の税率は引き上げ
消費税を「社会保障目的税」化、税率は据え置き、日常生活品はゼロ税率適用
定率減税を復活
積極財政への転換で年6%の経済成長を達成し、5年後に総額80兆円の税収確保
購入すれば相続税を非課税とする「無利子国債」も財源の一部に。

3、社会保障政策
自民党
<これまでの自公両党の政策と現状とマニフェスト>
   抑制政策―02年から毎年2,200億円カット(来年だけはそのまま)
      応益負担主義
      医療費の窓口負担3割も(先進国では日本だけ、ヨーロッパでは無料なのに)
<マニフェストに「中福祉・中負担」をめざすと>。現実には「低福祉高負担」(経済財政白書―税と社会保険料の負担全体に占める低所得者層の負担割合は主要7ヵ国中最高、社会保障給付では低所得者層への給付割合は下から2番目)
医療費削減―深刻な医師不足、公立病院の統廃合
<マニフェスト―医師数を増やし、勤務医を確保、診療報酬プラス改定、
医師偏在の解消へ向けた臨床研修医制度にすると。>
国民健康保険料が高過ぎて払えない者(34万世帯)から保険証取り上げ
後期高齢者医療制度(75歳以上の人を別枠の医療保険に)―世界でも例のない高齢者差別医療制度
<マニフェスト―低所得者の保険料を9割軽減措置するなど抜本的に見直すも、枠組みは維持>
年金―14年連続で保険料を引き上げながら、自動的に給付水準を下げる仕組みに
低年金―国民年金は満額で6万6千円
「消えた年金記録」問題
<マニフェスト―厚生年金と共済年金の一元化へ―3以内に無年金・低年金対策のための具体的措置>

生活保護―受給資格ありながら現実に受給している者は1~2割だけ 
 母子加算を廃止
障害者自立支援法―応益負担―福祉サービス利用料1割負担
<マニフェストには「見直し」「改正」と>
介護保険法―応益負担、要介護認定制度、利用限度額を定める
<マ二フェスト―特別養護老人ホームなど16万人分、整備。
介護職員の待遇改善(一人当たり月1,5万円の引き上げ相当額を助成)、介護報酬アップ>
公明党
社会保障・教育の充実に毎年2兆円(行政のムダ削減で)
低所得者・子育て世帯への給付付き税額控除制度を導入
高額療養費制度の自己負担限度額を引き上げ
後期高齢者医療制度は存続
年金受給資格を25年から10年に短縮
低所得者への「加算年金」(基礎年金6万6千円を25%上乗せ、8万3千円程度に)創設
特別擁護老人ホームの施設を16万人分整備
児童手当<マニフェストで支給対象拡大>

民主党
年金制度― 一元化、
月7万円の最低保障年金(消費税を財源に)と所得に応じた保険料による「所得比例年金」(一定額以上を受給できる者は最低保障年金は減額)を創設、
全加入者に「年金通帳」を交付(「消えない年金」に)、
社会保険庁は国税庁と統合して「歳入庁」とし、税と保険料を一体徴収
介護―ヘルパーなどの給与、月4万円アップ
医師・看護師らの増員に努める医療機関の診療報酬を増額
医師養成数を1,5倍に
後期高齢者医療制度は廃止。被用者保険と国民健康保険を段階的にに統合し、将来、地域保険として一元的運用。
出産時一時金55万円を支給
障害者自立支援法―廃止、サービスの利用者負担を応能負担とする障がい者総合福祉法を制定

共産党
保険料の応能負担(個人負担は支払能力に応じ、給付は平等に)
国民年金保険料は年1万円引き下げ
年金加入(保険料を払い続けなければならない)期間を25年から10年に短縮
最低保障年金―当面5万円(全額国庫補助)、その上に支払った保険料に応じた額を上乗せ―国民年金の満額を8万3千円にアップ
後期高齢者医療制度は廃止(老人保健制度に戻す)。
就学前の子ども、75歳以上の医療費の窓口負担を無料に(先進国では当たり前)―早期診療・早期発見・早期治療を促し、結果的に医療費の増大を抑える。
介護保険―国庫負担を50%に戻し、所得の少ない高齢者には負担を求めない
要介護認定制度や利用限度額を廃止―現場の専門家の判断で必要な介護を。
介護労働者の賃金を3万円以上アップ
障害者福祉で働く労働者も同額アップ
障害者自立支援法は廃止(利用料の応益負担を無くす)
生活保護母子加算を復活

社民党
後期高齢者医療制度は廃止(老人保健制度に戻す)。
医師・看護師・福祉・介護職員の増員、待遇改善
国公立病院・厚生年金病院など公的病院の統廃合・民営化ストップ
療養病床の削減計画とリハビリ制限を中止
妊婦健診や出産に健康保険を適用し、自己負担を無料化
年金制度一元化
保険料による「所得比例年金」と税金による「基礎的暮らし年金」を組み合わせ、単身で最低月8万円(最低保障年金)、
公的年金の老年者控除など復活。
障害者自立支援法は廃止―利用料を応益負担から応能負担に戻す。
生活保護の母子加算を復活

国民新党
後期高齢者医療制度は廃止
「老老介護」世帯に月5万~10万円の現金支給
介護現場の給与30%アップ
最低年金保障―月8万円

4、雇用・労働政策
自民党
<これまでの自公両党の政策と現状>
労基法・派遣労働法など労働保護規制の緩和―派遣労働、99年以来、自由化(民主・社民も賛成、共産党だけ反対)、03年以来、製造業にも派遣認める。
「派遣を禁止したら企業はやっていけない」と。しかし、少なくとも資本金10億円以上の大企業には100兆円以上の内部留保があり、その1%を取り崩せば雇用は維持できる(株主への配当は、それを取り崩してやっている)。
派遣社員・契約社員・フリーターなどしかなれない不安定雇用が蔓延。
正社員・非正社員の差別待遇。公務員の非正規職員(ハローワーク職員も)―「官製ワーキングプア」「名ばかり公務員」―民間のような法律による保護がなく、さらに不利。
正社員にはサービス残業・長時間過密労働が強いられる。
最低賃金―現行では(時給)全国平均703円―フルタイムで働いても年収150万円にもならない。生活保護より下回っている都道府県も

<自民党マニフェスト
日雇い派遣だけ原則禁止、
雇用調整助成制度で雇用維持
日本型ワークシェアリング推進
職業訓練中の生活費給付(3年間だけ)、
高齢者に「人材」として活躍してもらう「70歳現役社会」「生涯現役社会」を実現、
  65歳まで定年延長、定年後のカウンセリング支援、教育訓練(麻生首相は、日本の  高齢者は「働くしか能がない」と言っている)、
今後3年間に200万人の雇用確保(10年度後半に年率2%経済成長―根拠?)、女性や  高齢者の労働参加により、10年で家庭の手取り100万円増と。>

公明党
非正規労働者の雇用保険・健康保険・厚生年金の加入要件を緩和
職業訓練期間中の生活支援給付を恒久化
全国平均で時給1,000円の最低賃金を目指す。
民主党
労働者派遣法の抜本改正―製造現場への派遣の原則禁止、日雇い派遣の禁止、
            派遣先労働者との均等待遇原則など
最低賃金―全国平均で時給1,000円に(公明党も)
職業訓練期間中、月額10万円手当て。
共産党
労働者派遣法の抜本改正―製造業・登録型派遣を原則禁止、正規・非正規労働者の均等待遇ルールなど、
「雇用は正社員(が当たり前)」という社会に。
最低賃金―全国一律1,000円に(中小零細企業には雇用保険財政などを活用して賃金助成)
失業給付期間(90~330日)を180~540日程度まで延長
社民党
労働者派遣法の抜本改正―登録型派遣、製造業への派遣を原則禁止
有期雇用も原則禁止
「同一労働・同一賃金」を原則に。
長時間労働を規制。
職業訓練期間中の生活保障を月10万円(法制化)
最低賃金1,000円
国民新党
雇用セーフテーネット構築

5、子育て・教育政策
自民党
<れまでの政策と現状>
テスト競争・下位切捨て・落ちこぼし教育―ストレスがいじめ・不登校を生んでいる。全国学力テストは予算の無駄。
教育基本法を変えた―日の丸・君が代教育(愛国心教育)など管理統制強化。
教員免許更新制を設けた。
<マニフェストに「教員の政治的中立を徹底し、教育現場を正常化」と>
私費負担・高学費(高校で授業料をとっているのはOECD加盟30ヵ国の中で日本以外は3国だけ)(返済義務のない給付制奨学金がないのも日本など3国だけ)
<マニフェストには「OECD諸国並みの公財政教育支出の確保めざす」と>
保育―自公政権の「待機児童ゼロ作戦」の実態は定員以上の詰め込みと営利企業の参入、常勤保育士にかわるパート保育士の導入
<マニフェストには、3~4歳児の幼児教育の無償化(但し、認可外は対象外)、高校生・大学生に給付型奨学金を創設、低所得者の授業料を無償化、4年以内に少人数学級と。>

公明党
就学困難な高校生に授業料減免
給付制奨学金
幼児教育を無償化

民主党
高校教育を無償化(公立の生徒には授業料相当額を、私立の生徒には年額12万円、低所得世帯には24万円分を助成)
「子ども手当て」―中学生までの子どもがいる家庭に月2万6千円を支給
(そのかわり配偶者控除と一般扶養控除は廃止―子どもがいない家庭は増税に)
認可保育所を増設
教員養成課程は6年制に
公立小中学校は保護者・地域住民らが参画する「学校理事会」が運営
教育委員会を抜本的に見直し、教育行政全体を厳格に監視する「教育監査委員会」を設置
生活・進路相談のスクールカウンセラーを全小中学校に配置
共産党
保育料・幼稚園授業料の負担軽減
児童手当(現行、小学6年生まで月5千円)18歳まで月1万円
高校教育を無償化
給付制奨学金

社民党
教育予算を他の先進国並みに対GNP比5%水準に。
高校教育を無償化、給付型奨学金を支給。
「改正」教育基本法と教員免許更新制など教育3法を抜本的に改正
保育料を無料化
子ども手当て―18歳まで一人当たり月万円(第三子以降は2万円)支給。

国民新党
高校教育を無償化
仕送り減税


6、外交・安全保障政策
自民党
<これまでの政策と現状とマニフェスト>
軍事―自衛隊と日米同盟、アメリカの「核の傘」―に依存
自衛隊の海外派兵(特措法でインド洋・イラクへ、海賊対処法でソマリア沖へ。今後は国際協力基本法で恒久化)・武力行使を容認へ。インド洋の補給支援活動は継続
アメリカに向かう弾道ミサイルを迎撃、米国艦艇を防護―集団的自衛権の行使容認へ
非核三原則にもかかわらず、アメリカ軍による核兵器持込みを黙認(密約)
米軍再編の着実な実施
公明党
日米安保を堅持
「加憲」―9条に自衛隊の存在とその「国際貢献」活動などを書き込む
ODA(政府開発援助)を貧困・飢餓・感染症・安全な水・地球温暖化など「人間の安全保障分野」に20%優先的に配分
民主党
武力行使をともなう国連の活動(国連が主導する集団安全保障活動)への参加。
米地位協定の改定を提起、米軍再編や在日米軍基地のあり方も見直しの方向で臨む。
核兵器廃絶の「先頭に立つ」も、米軍の核持込み容認?
「東アジア共同体」の構築(アジア・太平洋地域の域内協力)、北東アジア地域の非核化をめざす。
「友愛外交」―対話・協調外交
共産党
非軍事・平和外交によって安全保障(物事を平和的外交努力によって解決)
核廃絶―日本がイニシャチブを
日米地位協定を抜本改定
日米安保を廃棄して日米対等な友好条約締結へ
社民党
非核3原則を法制化
防衛予算を見直す。自衛隊は「専守防衛」に徹した必要最小限に縮小。
米軍への思いやり予算は廃止
沖縄など米軍基地を縮小・撤去、米軍の「グアム移転協定」廃棄
日米地位協定を全面改正。
国民新党
北朝鮮との関係正常化に政治指導者が訪朝、拉致・核・ミサイル問題を包括的に解決めざす。

7、農政
自民党
小規模農家・兼業農家を排除へ(「品目横断対策」)
農地集積に協力した農家へ交付金(3億円)
株式会社の農地利用を原則自由化
「減反」政策は維持
主食用米からの転作奨励金を積み増し(1,168億円)―転作助成
二毛作を推進、耕作放棄地は解消
ETA(自由貿易協定)・EPA(経済連携協定)交渉を推進―関税など国境措置を撤廃して、日本の工業製品の輸出と引き換えに相手国の農産物を受け入れようとする。

民主党
農家へ所得補償(戸別所得補償制度)―米や麦など基幹農産物の市場価格が生産経費を下回った場合、差額を政府が直接補償、11年度から
ETA容認(「交渉を促進」)、但し、食糧自給率の向上、国内農業・農村の振興などを損なうことは行わない

共産党
農産物の価格保障―1俵あたり1万8千円を確保
農家へ所得補償
多様な家族経営を維持、新規就農者支援制度(月額15万円の支援金を3年間支給)
農産物輸入自由化ストップ―関税など国境措置の維持・強化
ミニマムアクセス米の「義務的」輸入は中止

社民党
農家へ所得補償
強制的な減反を廃止
小麦の20%を米粉、飼料の30%を飼料米・稲でまかなう。
小規模・家族農業を守る。
FTA・EPA政策を見直す。
国民新党
減反の抜本見直し
農家へ所得補償

8、中小企業政策
自民党
中小企業向け官公需契約(受注)を拡大、
「自殺の大きな原因となっている」中小企業金融の連帯保証人制度を見直す。
民主党
中小企業の法人税率を11%に引き下げ
 「中小企業いじめ防止法」―大企業の不当な値引きや押し付け販売などを禁止
共産党
中小企業向け雇用調整助成金を充実―助成率を休業補償の5分の4から5分の5にアップ、給付開始を早める
貸し渋りを止めさせ、信用保証制度を改善
緊急の休業補償に直接支援(廃業・倒産しないように)
中小企業予算を年1兆円程度に増額。中小企業の法人税引き下げも。
大企業・大銀行の横暴(「下請け切り」「貸し渋り・貸しはがし」、大型店の一方的な出退店)を規制
社民党
中小企業の経営・金融支援(予算を4,000億円に倍増)
中小企業減税―法人税率11%に
国民新党
中小零細企業の経営資金返済に最長3年間の支払い猶予制度。
零細企業者が優先受注する入札制度「良き談合」を検討。

9、環境・エネルギー政策
自民党
太陽光発電の買取制度など再生可能エネルギーの需給拡大―「低炭素社会づくり推進基本法」制定
温室効果ガス―20年の削減目標を05年比15%減に(90年比では8%)(EUは90年比で20~30%削減をめざしているのに)
原子力エネルギーの利用強化
電気・ハイブリット車など次世代自動車―1年間で100万台程度の需要を増やす
公明党
温室効果ガス―20年までに90年比で25%削減
太陽光発電導入量を20年までに20倍アップ
太陽光発電の電力買取り制度、エコカー・エコポイント制度の推進
炭素税の導入を検討
民主党
温室効果ガス―20年までに90年比で25%削減
       排出量取引市場を創設
環境関連産業の育成
再生可能エネルギーを電力会社が買い取る固定価格買取り制度を早期に導入
太陽光パネル・エコカー・エコ家電など購入に助成
CO2排出に課税する地球温暖化対策税の導入を検討
共産党
一次エネルギーに占める自然エネルギー(現在20%)を20年までに20%に
固定価格買取義務制度を導入(電力会社が自然エネルギーによる電力全般を10年程度で初期投資の費用を回収できる価格で全量買い入れる)
温室効果ガス―90年比で30%削減
原発だのみの温暖化対策はやめる
企業に国内排出量取引制度・環境税を導入
社民党
温室効果ガスを20年までに90年比で30%削減
太陽光、風力発電を電力会社が一定価格で買い取る固定価格買取制度を導入
企業に国内排出量取引制度を導入。
炭素税を導入
10、地方分権化
自民党
これまでの政策―「三位一体改革」で、3兆円を税源委譲したものの、国庫補助を4,7兆円減らし、地方交付税を5,1兆円減らして、差し引き7兆円近くも地方財源を大幅削減した。そして市町村合併を押しつけた。
国から地方への支出―福祉・教育への国庫負担金・補助金を廃止か縮減へ(国の責任・負担を軽減)
<マニフェスト>
国の出先機関の廃止・縮小へ「新分権一括法」。
道州制を導入(基本法制定し6~8年を目途に)―国の仕事を外交・軍事・司法などに限定する一方、暮らしや雇用・福祉・教育など国民の基本的な権利を守る国の責任を放棄して地方に押しつける。財界にとっては、それによって広域行政を担う道州にインフラ整備の大型開発などのための財源を集中させることができるようになるというメリット。
高速道路・港湾・ダムなど国の直轄事業の維持管理費負担金(国職員手当の負担とともに地方に押し付けてきた)は10年度から廃止
地方向け経済危機対策臨時交付金・地方交付税の特別枠(地域雇用創出推進費)などの予算措置

民主党
「ひもつき」補助金を廃止し、地方が自由に使える「一括交付金」に変える。
国の出先機関は原則廃止
国直轄事業への地方負担金は廃止
道州制を検討するも、市町村を重視。

公明党
「地域主権型道州制」を10年後から
市町村合併を進め、1,000の基礎自治体をめざす。
国の直轄公共事業への地方負担金は廃止
共産党
地方交付税の復元・増額で、住民の暮らしを守るための地方の財源総額確保。
国直轄事業の地方負担は「必要な事業は国の責任と負担で行う」という方向で抜本的に 見直す。
道州制に反対(自治体行政が住民に遠くなるから)
社民党
税源委譲により国と地方の税源配分(現行   )を5:5に
地方交付税を復活・増額
国直轄事業の地方負担金を廃止
国民新党
自治体の裁量で使途が決められる「生き生き地方復活交付金」(5年間で18兆円)を提唱

11、郵政
民主党
郵政事業を抜本見直し
共産党
民営化を中止―郵政株の売却を中止、
   3事業一体の運営を堅持
   ユニバーサルサービスを守り、利権を許さない公的な事業として再生
社民党
民営化を抜本見直し、郵便局網と三事業のユニバーサルサービス(全国同一サービス)を守る
国民新党
民営化見直し、
日本郵政・ゆうちょ銀行・かんぽ生保の株式売却は凍結。
3事業一体運営
    
12、道路・公共事業
自民党
国交省工事中止予定(凍結)の国道18路線のうち17再開
積極的に道路整備(費用対効果にとらわれない)
(道路は多過ぎるほどなのに―各国の可住面積当たり道路密度の比較では日本はイギリスの5倍、ドイツの11倍)
民主党
高速道路を原則無料化(首都・阪神両高速は除く)
(問題点―①道路の補修・管理費や旧道路公団の借金返済を税金が肩代わりしなけれ
     ばならないことに。②CO2排出量が増大)
ガソリン税など暫定税率は廃止
ダムなど不要不急の公共事業は中止・見直し
不透明な随意契約を一掃
共産党
小規模・生活密着型・福祉型の公共事業への転換
高速道路の無料化は反対
社民党
不要不急の大型公共事業を中止
随意契約の見直し

13、憲法
自民党―憲法審査会を早期に始動させ、早期の改憲を実現すると。
民主党―(マニフェストに記載はないが)改憲志向(鳩山代表の改憲案には9条に「陸海空その他の組織から成る自衛軍を保持する」と)
公明党―「加憲」
共産党・社民党―これらに反対

14、その他
民主党・共産党・社民党―企業・団体献金の禁止
議員世襲立候補の禁止
民主党―現職国会議員の配偶者・3親等内の親族が同一選挙区で立候補するのを禁止、
公明党―同上
共産党・社民党
自民党はそれらの立候補者を次の次の総選挙から公認・推薦しないと
天下り禁止
 「天下り」の構造―財界.業界が、一部の特権官僚に「天下り」先を保障する、その見返りに官僚が財界.業界の利益につながる政策をたてる、それを自民党などの政治家が国会で成立させ、その見返りとして財界.業界が多額の政治献金をする(政・官・財の癒着「トライアングル」構造)
 民主党―天下り先の独立行政法人を廃止
 公明党―公務員の早期退職慣行を廃止
 共産党―企業献金とともに高級官僚の天下り禁止の法律制定 
 国民新党―特殊法人を全廃
国家公務員の削減
 問題点―福祉・医療・教育・労働局・ハローワークなどにたずさわる人を減らしたり、不安定で劣悪な労働条件の非正規職員に置き換えたら国民にとって甚だぐあいのわるいことになる。
 自民党―10年間で20%(8万1千人)削減
人事評価、連続3年間「不良」評価は分限免職
     定年(延長)まで勤務できる制度に
 民主党―国家公務員の総人件費の2割削減
  公務員の労働基本権を回復
 議員定数削減
公務員の数も国会議員の数も、日本は世界的な基準で見ても、けっして多いというわけではないのに。
財政難に「国会自身が身を削るため」と言いながら、少数政党を国会から締め出し、議席を二大政党で独占してしまう。国民の多様な立場を代表する意見が国会に反映されなくなり、国会は多くの国民から遠のき、選挙など「そんなの関係ねぇ」という人々が、益々増える結果になる。
 自民党―次回の総選挙から衆院議員定数1割削減、10年後、衆参両院3割以上削減
 民主党―衆院比例代表定数80人削減
 公明党―新たな中選挙区制を導入したうえで、大幅な削減を認める
 共産党・社民党は反対 
 共産党は衆院選挙制度を全国11ブロックの比例代表制に改革
 社民党―審議会や公的役員人事を公募
  国や自治体の入札は公正労働基準(人間らしく働ける賃金・労働条件)や福祉・人権・環境などに配慮することを要件とする。
  裁判制度の見直し

政党助成金の廃止 
 現状―自民党は資金の6割を、民主党は8割を助成金でまかなっている(まるで「国営政党」の如し)。
共産党はこれまでも唯一受け取り拒否(税金をこのようなものに注ぎ込むのは不合理であり、これこそが税金の無駄だと)

2009年08月14日

すり込み―政権党とマスコミによる(加筆修正版)

 そもそもマスコミの報道は、「民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」とされる(中央大学法学部教授の塚本三夫氏)。そのマスコミは中立・公正・自立を旨とする。
 ところが、現実のマスコミは、時の政府与党の主義・主張に反する(それが「国益」に反することにされ)そのような報道・論説はなかなかできないようになっている。
 NHKは、その予算は国会の承認を得なければならないのだが、それを前にその予算案は政府与党の総務会・政調会などの審議にかけられる(NHK会長以下の出席のもとで)。そのため、陰に陽に政権党政治家の介入・圧力を受け、「自主規制」が働くのである。
 01年1月放送のNHK教育の番組(慰安婦問題を扱ったETV特集)に安倍・当時の官房副長官が編集に介入していたことが問題となった(『番組改変事件』)。
 06年10月、菅・当時の総務大臣がNHKラジオ国際放送で北朝鮮による拉致問題を重点的に取り上げるよう「命令」を下している。このようなNHKには「権力迎合体質」がつきまとう。
 一方、民放や商業新聞・週・月刊誌などはどうか。
 政権党とは、国民から最多支持を受けて政権にありついている政党なわけだが、商業マスコミは、収益をあげるために、よりたくさんの視聴率・購読者をとれるように努め、政権を支持している多数派からウケる、彼らの好み(支持政党の主義・主張)にそくした報道・論説をしようとする、そういうものなのだ。

 そして、政権党とマスコミ、それらの背後には財界・大企業の存在がある。
 政権党は企業献金をうけており、マスコミは大企業をスポンサーにしている。
政権党は財界・大企業の意に沿った政策をおこない、マスコミも彼らの意に沿った報道・論説をする。その意に反する報道・論説をしようものなら危ういことになりかねない。昨年11月、トヨタの奥田相談役が、首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、マスコミの厚労省批判報道について、「腹立っているんですよ。・・・年金の話とか、厚労省に関する問題についてワンワンやっている。・・・報復でもしてやろうか。スポンサーを引くとか」などと発言したりしているのだ。

 大企業にとっては、法人税など企業減税をして、庶民が払う消費税のほうを増税したほうが得であり(中小零細企業は消費税分を価格に転嫁できず自腹を切らなければならないが、大企業は消費税分をすべて価格に上乗せして自己負担ゼロにできるといった都合のよさもあり)、その営業・企業活動には規制緩和・民営化政策が有利で、軍事産業・兵器関連企業にとっては日米軍事同盟と自衛隊を維持・強化してもらったほうが有利なのだ。そして、これらの政策を国会で通しやすくするためには、小選挙区制とそこで選ばれた二大政党だけの談合で決められるシステムである二大政党制にしたほうが有利なわけ。政権党とマスコミは、こうした財界・大企業の意向を受けているのだ。
 これらの政策・宣伝は政権党とマスコミによって国民にすり込まれているわけである。(商品のコマーシャルのように毎日、何回も繰り返されると、「そういうものか」と脳裏に焼きついてしまうのだ。)

<国民が脳に刷り込まれ(思い込まされ)てきたもの>
1、小選挙区制と二大政党制が一番よいと。
 それはアメリカとイギリス―「民主主義が最も進んでいる国」―のやり方だと。
(ところがイギリスでは国民の間で第三政党の必要性と比例代表制への改変を望む声が強まっており、アメリカでも二大政党制を批判し、第三政党の必要性を訴える向きが増えてきているのに。)
 国会議員定数―「多すぎる」―国家財政の節減のため国会が「自身の身を削る」というのはもっともなことだと。(実は、国会議員は必ずしも「多すぎる」というわけではないし、比例代表議員を削減すれば、国民の多様な立場を代表する少数諸政党の議員が当選する余地がなくなり、二大勢力に政治が独占されてしまうことになるというのに。)
 経団連会長ら財界とマスコミ各社の幹部・有識者などでつくる「新しい日本をつくる国民会議」(「21世紀臨調」)は「自民か民主か」の政権選択選挙キャンペーンを展開、自民・民主両党だけの党首討論やマニフェスト評価を行い、マスコミはそれを大々的に報道している。こうして世論誘導・「刷り込み」がおこなわれるのだ。

2、日米同盟は我が国の外交・安全保障の「基軸」、堅持するのは当然のことだと。
中国・北朝鮮は「脅威」、ロシアも依然「脅威」、さらには「テロの脅威」もあると。(依然として冷戦思考―仮想敵国視から抜け出せないで、「脅威」を煽っている。21世紀の新しい時代思考が必要なのに。麻生首相は北朝鮮による「侵略」とまで発言―8月6日夜のTBS系テレビの6党党首討論で。その他の場でも事ある毎に「北朝鮮の脅威から日本を守らなければならない。日本を守るのは自由民主党だ」と。「敵国」をつくって、国内の矛盾や国民の不満を外にそらし、愛国心をかりたてる―日本に限らず他の国にも見られた、為政者がよく使う手。)
「アメリカから守ってもらう」日米安保、米軍基地の維持、米軍への支援・協力は当然だと。(今なお「アメリカが守ってくれている」と思い込まされている。日本を戦略拠点にし、出撃基地を置いて、自衛隊に支援・協力させるなど、すべてはアメリカ政府と米軍が自国の都合や国益のためにやっているだけなのに。)
3、自衛隊の海外派遣は「国際貢献」だと。
インド洋・イラク・ソマリア沖派遣まで。そのような軍事貢献が、憲法で「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と誓った日本人に相応しい国際貢献なのか。平和的手段によって貢献できることは、いっぱいあるはずなのに。
4、中国・北朝鮮は一党独裁の国、それに比べれば日本は、はるかに自由で民主主義の進んだ国だ、という「すり込み」。
しかし、日本は、かつては天皇を頂点とする翼賛政党・軍部・官僚による専制支配と軍国主義の国だったし、今は、形式上は「複数政党制」で「連立内閣」の形もとっているが、事実上は長期にわたって自民党による一党支配が続いてきた国だ(「連立」を組む公明党などはその補完政党)。その下で官僚機構は自民党に奉仕し、警察や検察・裁判官も市民運動などに対しては自民党の主義・主張にそくした判断と行動をとっている。官僚が時の政府の支持に従うのは当然だが、自民党が常に与党であれば、官僚が自民党の利益のために行動することは常態となるわけ。(このあたりは、「世界」9月号に載っている山口二郎・北海道大学法学部教授の論文を参考)利益集団も、時の政権党に陳情することは当然だが、自民党が常に与党であれば、企業・団体献金などをおこなって支援し、それによって政策的恩恵を受けてきた。主要メディアも政権党の主義・主張におもねるか、それに寄り添った報道や論説が多く、「日米同盟反対」とか、「消費税反対」とか、「小選挙区制・二大政党制に反対」とか、「民営化反対」とか、政権党の意向に真っ向から背く報道・論説はまず見られない。それが我が国の民主主義の実態なのである。

5、消費税―増税もやむを得ないと。   
コメンテータは「消費税増税の勇気」を煽る。「ヨーロッパなどに比べれば、我が国の消費税はうんと安い。財政再建と社会保障財源のためその増税もやむを得ないのだ。」「法人税など企業には減税しないと、国際競争力が落ち、海外に逃げていかれる。だから、その方は、減税はやむを得ないのだ。」それに「消費税の税収は景気にあまり左右されずに安定しており、社会保障財源に向いている」と。
 しかし、はたしてそうだろうか。
 消費税とは、高所得者・低所得者の別なく、低年金生活者・生活保護受給者・失業者など全ての人に、贅沢品・生活必需品の別なくどの商品にも一律に、購入金額の「~%」として同率の課税するもの。それは所得の少ない人ほど重い負担になり(逆進性)、子育て世代、生活保護を受けている家庭、母子家庭などには一番重くのしかかる税金なのであって、けっして「公平・平等な税金」なんかではなく、「社会保障財源」とするには最も相応しくない税なのだ。(実際、20年前「社会保障財源にする」といって導入しながら、社会保障はかえって悪化したし、減税した法人税の減収の穴埋めされただけ)。
「日本は法人税が高い」というが、それは発展途上国とくらべてそういっているのであって、先進国の中では日本が際立って高いというわけではないし、企業の社会保険料負担を税と合計すれば、日本はOECD諸国の中では下から5番目で最低クラス。日本より企業負担率の高い国が、それを理由に海外に逃げていっているかといえば、そんなことはないし、そのために国際競争力が落ちこんでいるわけでもない。
海外移転の理由には、労働コストなど他の理由のほうが大きく、税などの負担が重いからという理由は小さい。(経済産業省委託調査の企業アンケートで明らか)。日本企業が、賃金も社会保障負担も高いフランスなどに進出して、高い負担を払いながらも、そこそこに儲けを上げているという事実があるし、日本より企業負担率の高い北欧のほうが国際競争力が日本より上位にいる、ということもあるのだ。

 徴税する側にとっては、消費税は一番「取りやすく」都合のいい税であることは確かだろう。しかし、「景気に左右されない」どころか、景気を悪くし、改善を妨げることの方がむしろ確かだろう。
6、経済成長は大企業から
 企業が成長すれば、人々の暮らしはよくなり、大企業の収益が上がれば(トリクルダウン―滴り落ち)皆よくなる。だから大企業を最優先(税も優遇)するのは当然だ、という理屈。
 しかし、それで結局は、個々人の生活は、賃金抑制・労働強化など我慢を強いらればかりで、一向によくなっていないのが現実。
 事実は、まず個々人の賃金・収益・社会保障給付を上げ労働・生活にゆとりをもたせて消費・購買力を高めるほうが先決(長期的にはその方が、企業の持続的成長にプラスする)。
7、社会主義はダメ、自由主義が一番
そもそもは、社会の絆(連帯)・協力を重視し、社会全体の幸福(宮澤賢治の言葉で言えば「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」)を重視して社会のルール(規制)を重んじるのが社会主義であり、それに対して個人の利己的自由・利己的幸福を容認し、自己責任を重んじるのが自由主義。
ところが、「社会主義国」だったソ連が崩壊して、自由主義のアメリカが「冷戦」に「勝利」したと見なされ、「自由主義が一番」という観念が刷り込まれていった。
そして規制緩和・民営化政策が行われ、派遣労働も農産物輸入も何もかも自由化、郵政は民営化され、教育・福祉・医療にも市場原理・競争原理が導入された。
しかし、その結果、弱肉強食・優勝劣敗の競争が激化し、コスト主義・効率主義によって、多くの人々が「切捨て」られて「難民」化し、「格差・貧困」が拡大する結果になった。
金融の自由化は投機マネーの暴走・金融危機を招き、企業の果てしなき利潤競争は過剰生産恐慌を招いており、利潤優先の生産活動は環境悪化と温室効果ガス排出による地球環境の危機を招いているのだ。

2009年09月05日

総選挙の結果を見て思ったこと      

 結果は民主党の圧勝、自公政権党の惨敗、政権交代実現ということになった。
有権者は一体どんなつもりで投票したのか
 あるテレビ局の報道番組(テレビ朝日の「サンデー・モーニング」だったか)によれば、アンケートで「マニフェストを見て」が35%、「政権交代を望んで」が33%で、「人柄」14%、「実績」13%、「支持団体」、「党首」が数パーセントだった。
 しかし、各党のマニフェストをじっくり読み比べて投票した人はそんなにいたのだろうか。(我が家では、隠居して暇な私は新聞・インターネットで読み比べはしているが、他の者はとても・・・)
 各党ともマニフェストには国民ウケする事柄をあれこれと羅列している。それをいちいち検討する暇など一般庶民にはそんなにあるとは思えない。ただ、それぞれの党にとっては、単なる作文・空約束ではなく、公約(国民との契約文書)としてそれをいったん公表したからには、そのマニフェストを軽視するわけにはいかないわけだ。

 それにしても、今回の総選挙は、「マニフェスト選挙」というよりは「政権交代選挙」
 国民は自公政権によほど嫌気をさしていたことは確かだ。かといって、民主党のマニフェストを評価し、その政策を積極的に支持して投票したのかといえば、必ずしもそうではなく、とにかく「政権交代だ」という一心から、とりあえずは、自民党の対抗馬として野党の中では最も優勢な民主党に(この党には多々疑問や不安をもつ人々の中からも、何はともあれ「一度やらせてみよう」といった思いから)自公政権批判票が集中したものと思われる、というのが大方の見方。

 かねてより、マスコミによる「二大政党制」正当化論の喧伝があり、世論調査・支持率発表を重ねるごとに、そのアナウンス効果(なびき寄せ・世論誘導)によって自民・民主が「二大政党」として突出、選挙では「小選挙区制効果」によって自民・民主「二大政党」の一方に議席が大幅に水増し(増幅)される。前回は小泉自民党により大きく増幅されたが、今回は民主党のほうに大きく雪崩をうち、他の少数野党はそれに埋没した感が否めない。それに今回は、自民党支持層の2割もが民主党に回ったといわれる。とにかく民主党の「一人勝ち」なのである。(単独で、過半数を大幅に上回り、選挙協力を結んで連立与党となる社民・国民新党などの議席を合わせれば3分の2に迫る。)

 しかし、民主党とはどんな政党かといえば、そもそも、かつての自民党・社会党・民社党などから離合集散を重ねてできた党であり、思想的・体質的に異質なグループ(保守派・タカ派・改憲派とそれに対するリベラル派・ハト派・護憲派)の「寄り合い所帯」なのだ。
 (朝日・東大共同調査によれば)民主党の今回の当選者のうち改憲に賛成な者が(「どちらかといえば賛成」と合わせて)46%いるのである。(自民党には95%)。
この点で党内がバラバラという心配があるが、政権にありついたことで、その求心力がものをいうようになって、政権の座にある間はまとまりが維持され、自己改革も行われるだろう。
 民主党は「友愛社会」「市民が主役」をキャッチフレーズに、「民主中道」「情報公開と説明責任の徹底」を標榜しているが、はたして如何に?

 一方、自民党のほうは、今回の総選挙では、「『安心社会実現』『責任力』などとよくもいえたものだ」と見透かされ、最後の「悪あがき」まで見せ付けて民主党に対するネガティブキャンペーン作戦に出たものの、それはかえって逆効果を呼んで大敗を喫し、政権を失った。支持基盤も失い、今後分裂の可能性が強い。
 分裂した一部が、民主党の側にくっついて連立に加わることもあり得るが、いずれにしても、自民党は変わらざるをえなくなる。それが、自己改革―「若返り」―によって、「二大政党」の党としてうまく再生するのか、それとも?

 それから、少数野党はどうなるのか。社民・国民新は連立与党として存在感を持ちえるが、公明党と共産党はどうなるのだろうか。とりわけ、共産党はこのところ、「蟹工船ブーム」など「追い風」があって党勢拡大の兆しもあっただけに一人ぐらい伸ばせなかったものか、現状維持にとどまったのは一体どうしたことだろう。共産党は「建設的野党」を標榜して、民主党政権に対して是々非々で対応するとはしているが、それは自公とても民主党に対して「なんでも反対」というわけにはいくまいと思っているだろう。
 少数野党も、今後「二大政党」以上に、自己改革と支持拡大にやっきとなって取り組まなければなるまい。万年少数野党に甘んじていては、自民党長期政権が飽きられたのと同じように飽きられてしまいかねず、新聞・テレビに出ることも少なく、存在感が乏しくなるばかり、といったことになりかねない。

 いまや激動期、政党間の競争は一段と熾烈なものとなっていくだろう。これまで自民党がやってきたような業界・地縁・血縁に依拠した利益誘導型の政治、或は反共イデオロギー政治も、もはや通用しなくなっているといわれ、「市民」(勤労生活者・納税者・消費者)の要求に依拠し、市民とともに活動する新たな政党のあり方に自己改革が迫られることになる。
 公明党は長らく自民党に自分を合わせて、もちつもたれつの関係を続けてきたあげくの果てに、共に惨敗を喫したが、これからはどの方向にむかうのか。「福祉と平和の党」としての原点に戻れるのかが問われる。
 早稲田大学政治学の斉藤純一教授によれば「市民は政治への感度を確実に高めつつある」という。
 各党とも、それぞれブランド・イメージのアップに精一杯努め、自己改革を模索するだろう。

 民主党のマニフェストは(朝日新聞の世論調査などでは、同党の政策への評価は「驚くほど低い。期待半分、不安半分」というところのようであるが)実行・実現できれば「たいしたものだ」と思われるものも幾つかある。
 「脱官僚依存」、内需主導型経済への転換、企業・団体献金の禁止、政官財の癒着断ち切り、利益誘導型政治からの脱却、官僚の天下り根絶など。
 それに、総選挙前に民社国3党で合意していた次のような共通政策
・消費税率の据え置き
・郵政民営化の抜本的見直し
・労働者派遣法の抜本改正(登録型派遣と製造業派遣の原則禁止)
・子ども手当ての創設、高校教育の実質無償化、給付型奨学金制度
・後期高齢者医療制度・障害者自立支援法の廃止
・農家への戸別所得補償制度
・中小企業への貸し渋り・貸しはがし防止法
・生活保護の母子加算の復活
 これらはいいが、まずいのは国会議員の削減(衆院比例定数80人削減)。これを自民党と組んで強行可決をしかねないことだ。
 それに、これまた自民党と組んで、改憲への審査会始動に取り掛かろうとすること、このことも警戒・阻止しなければならない事柄だろう。
 改憲については、(朝日・東大共同調査によれば)今回の選挙の当選者のうち、改憲に賛成の議員は(「どちらかといえば賛成」をも合わせて)自民・民主両方で59%―総員の3分の2には下回っている。「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相、鳩山民主党代表は顧問)所属の衆院議員は53人で、解散前の08年3月時点139人からは激減している。
 消費税については、この4年間の間は上げないことにはなったが、それを過ぎたら上げるということにもなる。
 消費税の増税に無条件に反対なのは、国会では共産党など少数野党だけで、民主党政権が時を見て消費税増税の断行に踏み切るのには容易な国会状況になっている。それを阻止するのは共産党の孤軍奮闘しかなく、極めて難しいことになる。

 国会議員の比例定数が削減されれば、少数野党は国会からしめだされ、二大政党だけの談合で、庶民増税も改憲も、何もかも簡単に決まってしまうことになる。民主党が自民党とともにマニフェストに掲げているこの国会議員削減公約には猛反対して阻止しなければなるまい。財政(税金)節約のためだからといって、教員も警察官もハローワーク職員・労働基準局職員などの公務員も、人員削減すればよい、というものではないだろう。

 安全保障については、自衛隊の海外派兵、米軍への軍事協力をどうするのか。給油艦のインド洋派遣打ち切りは断行できるか。「思いやり予算」など止めることはできないのか。「核廃絶の先頭に立つ」「北東アジアの非核化を目指す」というが、具体的に何をやってくれるのだろうか。

 とにかく自公政権のままでは絶望だけだったろうが、新政権でははたして如何なることに?
 来年夏の参議院選挙で再び試され、審判が下される。

2009年10月05日

新政権への期待

 先の総選挙の結果、戦後の60余年もの間(一時を除いて)政権をほしいままにしてきた自民党が退けられ、野党の手に政権がわたった。歴史上、画期的な政権交代である。(「ミニ革命」「静かなる革命」などと評する向きもある。)
 政権を握った民主党のマニフェスト(政権公約)、その中には比例区議員定数削減など難点もあるが、次のような諸点については大いに期待される。
 ・財政支出構造の抜本的見直し―事業仕分け・予算の組直し
  企業・業界団体を通じての支援から各人への直接支援方式へ。
「コンクリートから人へ」(大型公共事業・ハコモノ建設から生活密着型へ)
・「外需頼み」(輸出依存型成長政策)から内需主導への転換
  (産業構造を環境・教育・福祉・医療・介護・地域ベンチャーなど国民生活のニー   ズと時代の要請に応じたものに)
・雇用の安定化と働き方の正常化
  労働者派遣法の抜本改正(派遣労働を臨時的・一時的業務に限定、製造業への派遣  は禁止)、均等待遇、
  月10万円手当て付き職業訓練制度
  最低賃金を1,000円に引き上げ(さしあたり800円)
・少子化ストップ、安心して子を産み育てられる社会へ―子育て、仕事と家庭の両立支  援、保育サービスの充実
 (子どもは「社会の宝」―子育ては親の責任だけではなく社会の責任だという考え    方)
 (公的支出に占める子育て支援の割合はOECD加盟国平均2.2~2.3%、先進国に限れば  3.5%であるのに対して日本は1.2%、民主党案では2万6千円満額出てもまだ2.1%。また公的支出に占める義務教育費の割合はOECD加盟国平均5%台であるのに対して日本は3.5%。いずれも少ない。)
・高校教育の無償化、給付制奨学金制度の創設
・前政権による社会保障費抑制路線の転換―年金・医療・介護など社会保障の充実へ
 後期高齢者医療制度の廃止(選挙前に参院では廃止法案を可決したものの、衆院解散  で廃案になってしまっている)
・農家への戸別所得補償制度
・ダム・高速道・空港建設など大型公共事業の中止など抜本的見直し
・郵政事業の抜本的見直し
・対米従属外交から自立外交への転換
  核廃絶へのイニシャチブ 、自衛艦のインド洋派遣・給油は止める。
・脱官僚依存、天下りの根絶
・温暖化対策―CO2排出量を(1990年比で2020年までに)25%削減。
        「温暖化対策税」の導入
 
 これらは、マニフェストの中でも最優先(他はカットするか後回しして財源を確保)すべきなのだ。財源については、一般会計・特別会計あわせて207兆円のうち、年金の支払いや国債の償還など140兆円を差し引いた残り70兆円から9兆円は捻出できるということだが、とにかくやってもらいたい。
 これらのことは旧政権党の自民党などには到底できない、彼らには思いもよらないもの。
 これらについては抵抗勢力(財界、その意を受けた自民党など)に屈っすることなく、頑張ってやり遂げてもらいたいものだ。
 政権は未だスタートしたばかりだが、鳩山首相をはじめ各閣僚とも意欲的に取り組もうとしている。
 我々は、それにたいして、他人事のように傍観者的に「お手並み拝見」などと高をくくることなく、積極的に応援し、むしろ後押ししなければなるまい。
 警戒しなければならないのは、経団連・経済同友会などの財界と自民党がけしかける9条改憲、消費税増税、比例区議員定数削減などに対して同調してしまうことである。そういうことにはならずに、庶民(勤労者・生活者)の目線を保って上記のような政策をやり遂げてもらうように、時には「激励の喝」を入れなければならないだろう。
 財政の無駄を無くすにも、米軍への「思いやり予算」や給油・装備費など軍事費にも切り込み、増税をするにも、庶民に対して消費税を増税するではなく、大企業に対して法人税減税その他の課税軽減特別措置をストップし、資産家・高額所得者に対して所得税を増税(累進税率アップ)、株式配当・譲渡に対する課税軽減措置(証券優遇税制)をストップするなど、そっちの方を断行すべきなのだ。

 とにかく、孫たちの行く末や身近な人々のことを思うと、気が気でならないのだ。

2009年10月21日

米沢革新懇への提言

 このホームページで「声なき声」を発信しているが、所詮「独り言」で、一人でつぶやいているようなもの。
 やはり、人を目の前にして言葉を交わし、語り合う相手と場があった方がずっといいわけであり、どうやら、それを「革新懇」という懇話会に求めてきたのだと思う。
 しかし、そこではテーマ・話題が限られていて、どうも、自分が話し聞きたいと思っていることが話題に登らないことが多く、何かもの足らない。
 そこで、こんなことを思った次第。


1、市民の政治にたいする関心の高まりに対応
 今や、(自分の一票で本格的な政権党交代を果たして)「一億総ノンポリ」?(市民の非政治性)から脱ノンポリへ
 今までは、長きにわたった自民党(単独または自民党を主とした連立)政権の下で、「一億総中流」気分で保守安定志向から自民党・官僚政治に甘んじるか、あるいは「貧乏暇なし」(「貧すれば鈍す」「人貧しければ知短し」)で仕事と家庭の事で精一杯な人々は政治を考える余裕がなく(それでも生活は何とかなった)、あるいは諦めから「どうせ誰がやっても同じだ」とか「反対するのもバカらしい」という利巧な者たちのシニシズム(冷笑主義)(イデオロギーへのこだわりから人目がはばかられる「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」といった政治の軽視・蔑視)が通用してきた。しかし、今や、そういうわけにはいかなくなった(生活実感から政治に無関心ではいられない)時代状況にあることを、多くの人々が悟り始めている。政治の話をタブー視・敬遠することなく、誰かに話したい、話を聞きたい、語り合いたい、そういう人々に語らいの場を提供する、それこそが革新懇。
 この度の総選挙、政権党の交代、新政権のスタートと、今、目の前で展開している政治の動きに目を離せない。革新懇はこのような変化に積極的に対応すべきであり、今こそ活気づく時なのでは。
2、取り上げる問題は多様な人々の関心に対応
 ローカルな(地域の)問題―「まちづくり」「産廃問題」「異臭問題」「合併問題」など―だけでなく、ユニバーサル(全国的・国際的)な問題―雇用・格差・貧困・子育て・教育・福祉・年金・医療・温暖化・食糧・エネルギー問題・核問題・憲法問題など―も取り上げるべきだ。
 地域の限られた人々の、限られた問題だけでなく、全ての人々にとって切実な共通課題となっている諸問題を取り上げて、あらゆる人々の関心にそくしたテーマを設定、企画すべきなのでは。
3、世話人会の積極的な関与―事務局任せではなく
 世話人は、会をリード、運営方針・懇話会テーマの決定、行事の企画、関係団体との共同行動への参加、会員の拡大(勧誘)などが、その役目。
 事務局員は事務的な準備・下働きをするだけ。
 一般会員は、「革新」「世直し」「~運動」などといった意識・使命感など無く、何かを義務づけられることもなく、ただ気軽に政治を語り合える「懇話会」だとの意識で、会報(革新懇ニュース)を取って(会費を出して)くれさえすれば、好きな時に懇話会に参加してもらうだけでよいのでは。(各回懇話会の度に、必ずしも全員集まらなくても―人数が少なくても―かまわない。むしろ、人数が少ない方が話しやすい。)
4、会報(全国革新懇ニュースと米沢革新懇ニュース)の普及
 ピーアル用に(宣伝紙として)会員以外にも配れるように、余分に印刷する(全国紙は余分に送ってもらう)ようにしたほうがよいのでは。いずれ会員になってもらえるように。

 と、思ったりしたところです(・・・・・・これも「独り言」か?)。

2009年11月11日

受験競争教育は廃止すべき

「静かなる革命」などという向きもある政権交代だが、新政権の手によって我が国で初めて高校教育の無償化が断行されようとしている。
 世界第二の経済大国といわれながら、所得格差が拡大し、貧困率が15.7%(6人に一人が貧困)で、OECD諸国のうち悪い方の4番目。それでいて学費が世界一高い国となっていて、教育への公的支出(GDP比3.5%)がOECD諸国(平均5.3%)で最下位、教育支出に占める私費負担率(33.3%)はOECD諸国平均(15.3%)の倍以上。小学校のクラス人数平均はOECD諸国の平均が21.4人なのに対して日本は28.2人。中学校のそれはOECD諸国の平均が23.9%に対して日本は33.2%と多い。

 昨今の大不況で学費が払えず、高校・大学を中退もしくは進学断念に追い込まれている生徒・学生が急増している、この折に新政権が高校教育無償化・奨学金の給付制(返済不要)化に踏み切ったことは大いに結構。
 しかし、我が国教育のもう一つの大問題は「受験競争教育」の体制にあることであり、それが日本社会を歪め、日本人の学力をも歪めている(学力低下を招いているとも言われる)ことである。

 高校にも大学にも入学にさいして選抜試験がある。そして各学校・各大学間にその入試成績の偏差値ランキングによって序列が(東大を頂点とし、各都道府県学区ごとの進学名門校を頂点として)形成され、どの高校、どの大学を卒業したかによって、人間が評価される風潮が陰に陽に根強く形成されているのである。

 子どもの将来(将来、何になりたいか、何にならせたいか)を考えるさい、その親、やがて本人もそれをめざす最重要の目標・基準となるのは名門校・名門大学合格なのである。子が生まれると、親はその子がすくすく元気に育つことを願うのは当然だとしても、彼らがひたすら思い描く「夢」はその子が「勉強ができて」地元学区の進学名門校と目される「~高校」に入ってくれることなのだ。
 中学校の教師も自分の学校、自分のクラスから、その進学名門校により多く合格者を出すことが、陰に陽に最重要の目標となって、そのために血道をあげる。
 その進学名門校に在籍した教師は、その経歴・「元~高校在職」という肩書きをステータス・シンボルとして活用する(そして彼は世間から一目置かれる)。

1、学校・大学ランク(序列)の設定―歴史的―東大を頂点に「名門校」・二流・三流校から底辺校へと
全国の大学、それに山形県内高校の偏差値ランキングがインターネットで検索すると出てくる(どこかのサイトが出しているのだ)。 
 その学歴(どの高校・どの大学の卒業か)によって社会階層が形成。
 ただし、高学歴といっても、それだけで(名門校・名門大学卒業という肩書きだけで)高給・安定職への就職口が自動的に保証されるという意味合いは、以前よりは薄れている。小田嶋隆氏(早稲田大学卒、『人はなぜ学歴にこだわるのか』という著作があるコラムリスト)によれば、「学歴には大した意味はない。でも世間や企業社会が、その大して意味のない指標で人間を判断するように出来ているのも事実」で、「恋愛や結婚などで有効なブランド」にはなっていると(4月25日付け朝日「be」)
 中学校―学区をはずしてオープンに―学校選択制―人気校・不人気校―「校舎・施設がいい」、「制服がいい」、通学の便その他立地条件、地域の伝統校(ブランド)、風評などでイメージが定着―現場教員の努力の程度とは無関係に決まる
 学校間格差―一斉学力テストによって拍車がかかって拡大
かつてあった入試合格者名・在籍学校名の新聞発表は、今はおこなわれなくなっているが。
2、入学選抜試験競争
 試験というものには、免許取得などの資格試験(検定)と、その仕事に向いているか否かを確かめる適性試験と、成績順位を出して上位のほうから選抜するための「選抜競争試験」とがあるが、我が国で一般に行われている「入試」というのは、その「選抜競争試験」。
 欧米先進国では高校入試はない。そのかわり履修する科目の成績評価は絶対評価で、基準に達して単位を修得すれば卒業が認定され、基準に達しなければ落第させるという卒業認定制度をとっている。そしてその高校卒業認定試験が大学入学資格試験ともなる。
 ところが、我が国では、高校入学にさいしても大学入学にさいしても入試(相対評価で選抜する競争試験)があり、入ってしまえば、あとは履修科目の成績も相対評価が主で卒業は認定され、成績で落第させられることはほとんどない。
(落第がない、それが多くの若者たちを学校に留めて置くことによって失業や犯罪に追い込まずに済んでいる、というメリットも。しかし)「16年間の教育(公的コストと家計コスト)を提供しているのに、それに見合った「満足できる成果」(学力)に達している学生はどれだけいるか。苅谷剛彦教授は「巨大な無駄遣いと言えなくもない」と(『学力と階層』朝日新聞出版)。

 このような「選抜競争試験」によって「勝ち組」・エリートと「負け組」・「落ちこぼれ」とが分けられ、優越感・劣等感を生む。

 選抜・振り分け―欧米諸国・韓国など、大多数は地域の高校に通い、重大な進路選択は大学進学の時。ところが日本では重大な選抜が高校入試から中学校受験、そして小学校の習熟度別授業へと低年齢化。
3、テスト教育―受験教育
 全国・全県一律の物差しで学力競争
 全国学力テスト―「情報公開」を理由に市町村ごと・学校ごとの結果公表の動き(文科省は非公開の方針なのに)。知事が教育委員会を本県(府)は「点数が低い」と叱りつけたりしているところも。学校は点数順位競争に駆り立てられる。
(新政権は「全員調査」から「抽出調査」へ変更の方針―ただし、抽出は40%と多く、その上、自治体の判断で希望参加を認めることも)
 能力や個性を測る道具は「テスト」という物差ししかないという固定観念。
授業を受験に役立つかどうかでしか評価しない。
「人間」として知っておくべきことだから勉強するとか、学問する(真理を知る、探求する)こと自体に価値があるからというのではなく、「試験に出るから」そこを勉強し、受験競争に勝って名門校に入いられれば高給・安定職が得られ地位が得られるから「頑張れ」という「利益誘導型」の教育。
 教育行政―国が(指導要領を定め、教育内容・方法にまで立ち入って)スタンダード(基準)を決めて、達成度を競わせ、成果に応じて(差をつけて)予算配分―学級規模や教職員定数など教育条件を整えるための財政支出は度外視。
 教師も学校も進学実績を競い合い、名門校・名門大学へ何人合格させたかで力量が評価―授業時間が、そのために際限なく増やされ、効率主義・成果主義で教員は疲弊。
テスト対策―出題傾向の分析、問題練習(類似問題を繰り返しやらせる)―ドリル中心の訓練主義的学習―詰め込み・暗記型。

「勉強嫌いの子」を生み、クラスの中で「勉強のできない子」を忌み嫌う差別を生む。
本来の勉強や学問へのモチベーションは好奇心・探究心のはず。それを競争と強制(プレッシャー)で学習意欲をかりたてようとする。
 真の学力―生きる力・「自分の人生をつくり、社会に参加できる能力」―読み書き・計算・思考力・判断力・表現力・コミュニケーション力・道徳・社会性など
 これらの「学力」の幅を狭める―本来の学力を低下させる結果に。
本来の教育目的は「人格の完成」ということにあり、知育のみならず、様々な能力(個性)を伸ばし育て、心情(「優しさ」・「他人の痛みを知る」友愛の精神・自己の人生にたいする肯定感・生きる意欲)を育てるのが学校であるはず。なのに他者との競争にばかり目が奪われ、生徒も教師も競争ストレスで、心が歪められる。
 学校は「楽しいところ」―「できる子」・「できない子」が「学び合い」のなかで理解を深めたり、相手を思う気持を育んだり、様々成長する機会が得られるところ―のはずなのに、「辛いところ」・「空しいところ」といった状況も多々ある―アンケートに対して「疲れを感じる」「自分はダメな人間」と答える中高生が、日本はアメリカや中国と比べて際立って多い。
4、家庭格差(所得格差・親の学歴格差・人脈―情報格差、書籍・ピアノ・芸術品・知的会話など「文化資本」の格差)―上流・中流・下層などの階層が形成。
恵まれた家庭―教育投資―塾・家庭教師に(3年間400万円とか)つぎ込めるし、遠くのいい学校へ送り迎えしてもらって通える―教育機会(「いい学校」を選べる選択権)に恵まれる。
 恵まれない家庭(一人親家庭、共働き家庭、生活保護家庭)―ハンデイ―教育機会が狭められていて選択権が行使できない(「市場から排除」)。
 本人の責任(能力・努力)を超えた教育機会・選択権の世代間継承(親世代が高所得・高学歴なら、その子世代も高所得・高学歴)
 新政権による「子ども手当て支給・高校の授業料無償化、大学における給付型奨学金制度は当然の措置。ただし「子ども手当て」などは、その多くが塾代に消えるということも。 

フィンランドの教育―競争をやめたら学力世界一
 ちなみに、国際学力調査(OECDの学習到達度調査PISA)でダントツ世界一の国であり、EUの中でも経済発展好調な国フィンランドの教育は、我が国のそれとは対照的で、次のようなものだ。(参考―福田誠治「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞出版)


「落ちこぼれ」を作らないのが基本
クラス定員十数人、数人づつのグループで助け合いながら学ぶ
授業時間は日本より少ない。習熟度別授業も廃止。
 担任教師に特別支援教師(補助教師)が付いて、授業に遅れがちな生徒・問題
をもつ子どもは一たん特別クラスにひきとって指導した後で通常クラスに戻す。
 教科書―国の検定はなく、教科書会社が自由に作っている。薄い。手作りプリントで補っている。
 国家カリキュラムはあるが、ガイドライン程度のもの。
 自治体を通じて学校(教育現場)に大きな権限―学校ごとに授業内容を決める。
 教師―教師希望の学生は教育学部で5年間、訓練校で実習して修士号を取る。良い授業を徹底的に研究。一任されている。
   平均月給―税引き後で33万円(2,500ユーロ)
 学校の査察もない。
 結論や正解を覚える勉強はさせず、考え方を教える。
 序列をつけたり、他人と比較するテストはしない。 
  市販テストも偏差値も流通していない。
 勉強を強制もしない。
 授業料はただ。教材費もただ。
 学校間格差はない。
 高校の入試はなく、基礎学校(小~中学校)での成績評定(絶対評価、各学校ごとに学校内で評価―人々はそれを信頼)に基づいて、たいてい地元の高校に進学。
 大学入学には、全国統一の進学検定試験(大学入学資格試験)があり、それ加えて大学学部ごとの個別の入試がある。
  大学入学資格試験は、年に春秋2回、4科目(母国語は必修、スウエーデン語その他外国語を1科目、数学その他一般科目から2科目)指定だが、いずれも記述式。
  個別試験は、学部ごとに専門の勉強が可能かどうかを確かめるもので、ペーパーテスト(といっても、本を一冊渡して、それについて一枚の紙に自分の考えを記述)と適性検査(集団面接など)と個人面接。
 なので、我が国の競争選抜試験とは趣が違う。
 塾も予備校もない。

 新政権は目下、「事業仕分け」、無駄な予算カットに鋭意取り組んでいる。無駄は様々あるが、入試・学力テスト―受験競争、これこそが人々(生徒と教師)に法外なエネルギーの無駄を強い、法外な家計負担とともに公費負担の無駄を強いている。
 我が国の入試制度と競争教育は、我が国教育の歪みと学歴格差社会をもたらしている元凶であり、この改廃こそ、新政権の取り組むべき優先課題であり、この変革を実現してこそ「革命」の名に値すると言えるのでは。

はどこの学校に?フィンランドのような国ならいいが、今のようなこの国ではどうも・・・・。
 新政権に何とかしてもらなければ!この国、この国の教育を!

2009年12月15日

競争社会から友愛社会へ―教育のあり方

我が国の現状と歴史的経緯
 弱肉強食、「勝ち組」と「負け組」の分化、バラバラ分断された社会。
 学校では競争・管理教育、受験教育、テスト選別教育、偏差値教育―教育が学歴格差・階層社会を再生産。
 我が国では高校にも大学にも序列が付いている。親も、先生も、生徒も、人々の頭に、日本社会とはこういうもので、我が国の学校・教育とはこういうものだと刷り込まれているのだ。

 教育を国家や企業の「人材」育成とみなす(明治以来、後発資本主義国として欧米先進国に「追いつけ、追い越せ」と)。
選抜試験制度には中国の「科挙」(官僚採用試験制度)の影響。
 
 しかし、(精神科医・国際医療福祉大学教授の和田秀樹著『教育格差』PHP文庫によれば)戦前は基本的には「世襲社会」。それが、敗戦直後、旧政治家の公職追放と財閥解体で、世襲政治家・世襲企業オーナーに替わって高学歴者(東大出など)が政治家・企業のトップに就くようになり、「学歴社会」の様相を帯びるようになった。しかし、60年代後半以降には「世襲」が復活。

 一方、1949年、文部省(の学校教育局)は(「新制中学校・新制高等学校、望ましい運営の方針」で)「入学者の選抜はやむを得ない害悪であって、経済が復興し、適当な施設を用意することができるようになれば、直ちに無くすべきもの」とし、51年には「志願者はすべて入学させるべきものだ」という通達をだしていた。
 しかし、63年、学校教育法施行規則が改訂、「志願者が定員を超えなくても入試実施」と。
 61年全国一斉学力テスト~66年まで。

(和田秀樹氏によれば)高度経済成長が続いている間は、「大卒であろうと高卒であろうと一定の職に就くことができたし、終身雇用と年功序列制の下で、どこの学校を出ていても、最終的に悪くても係長クラスにはなって、そこそこ豊な暮らしと老後を送ることができた。」「大卒の新入社員は出身大学によって初任給に差があるわけではなく、学歴が貧富の差と直結していたわけではないし、学歴による収入や地位の格差も言われているほど大きなものはなかった」という。
 しかし、90年代、終身雇用・年功序列制が崩れ、「情報社会」から21世紀「知識社会」へという産業社会の変化にともない、「学歴社会」が本格化するようなった。
 知識労働者(自分で考えて仕事をする)とサービス労働者(単純に言われたことをこなす)が分化、格差が広がる―「一流大学卒と高卒者の格差」から「大卒正規就職者(年収1,000万円)とフリーター(年収100万円)の格差」へ。
 企業が採用時点「学歴不問(学歴による差別はしない)」と言っているのは「タテマエに過ぎない」。「実際には一流大学の人を採る企業は多い。学歴を問わなくても、学力試験を課すことによって、結果的に学歴の高い学生しか採らないようになっているのだ。」「学歴格差は就職時点での格差に始まり、人生そのものに大きな格差を生み出してしまう」と(和田氏)。(氏は「日本社会は『世界で最も成功した社会主義』といわれるほど『結果の平等』が保たれてきた国だが、今後は『結果の格差』が広がってきているし、今後もさらに広がっていくと予想される」と書いておられる。)

 この間(90年代)、国際化・情報化など変化に対応、詰め込み主義を反省―「新しい学力観」―「自ら学び、自ら考える力」「生きる力」(「情報」を収集・取捨選択・加工して自らの「知識」として応用・活用できる理解力・思考力・応用力・創造力など)を重視、「ゆとり教育」「体験学習」「問題解決的・問題探究的な学習」「総合学習」等が試みられるようになる。
 しかし、受験制度が変わらなかったため、それらは不徹底なまま以前に逆戻り(「反ゆとり教育」「詰め込み・訓練型学力観」―ペーパーテストの成績・「受験学力」に矮小化)。
 教育に市場原理が導入―学校を企業と同一視―生徒・教員・学校同士を競争させ、「競争こそが教育だ」と。
 高度成長期は(それでも)ボトムアップ(底上げ)型だったのに、プルトップ型教育へ(エリート教育に傾く)。
(1999年当時、教育課程審議会の会長・三浦朱門氏いわく「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。・・・・非才・無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」と。)

 国の経済力・国際競争力の維持・強化が教育の目的に。
 教育の国家管理―統一的な国家カリキュラム(「学習指導要領」)で画一的な一斉授業。
 全国学力テスト復活(07年)

 学校と教師には数値目標・ノルマ達成が課せられ、文科省・教育委員会等から「調査報告書」が求められる―成果主義・効率主義・官僚主義。


 こうして、学校は教師による単なる知識・技能の伝達(「注入」)の場、競争と選抜の場と化し、学校にはテスト・入試(受験)・ランク・学費負担は付き物だとなっていった。
  テストといえば、ペーパーテスト、記述式は少なく、記号や番号を選ぶ択一式(正解が一つだけに単純化)。
 授業といえば、一斉授業、詰め込み・訓練的授業(ドリル)。
 教師はテスト準備・採点、順位付け作業に時間を取られる。(仕事を家庭に持ち帰る)
 子どもたちと、一緒に活動するとか、個別指導をするとか、個人的に会話を交わす時間が無くなる。日々の授業をじっくり反省する時間も、同僚たちと話し合い、学び合う時間も無くなる。
 授業ではテストに出そうなところしか教えず、テスト科目・入試科目以外の授業がおろそかになる。

 子ども・生徒たちも、テスト科目・受験科目、テストに出そうな問題しか勉強せず、点の取りやすい科目に精を出す―テストが終われば忘れてしまう(実生活の中で活かされず、使わなければ忘れてしまい、学力は定着しない―学力低下の原因)、狭く薄っぺらな学習に。
 授業中、社会的な努力や責任について学ぶ機会や時間的余裕が失われ、社会性も育ちにくく。
新政権
 鳩山首相は、小泉政権が掲げていた「自助」と「競争」に対して「友愛社会」「絆の社会」を打ち出し、「無血の平成維新」を掲げて「変革の断行」に挑もうとしている。
(10月26日の国会・所信表明演説などでのキーワード:「弱者のための政治」「少数の人々の視点を尊重」「人は他人のために存在する」「支え合って生きていく日本」「共生と自立」「市民の連帯を大事にする横社会」etc)
「共生と自立の原理」
 共生―互いに協力・交流・共感・支え合い。
 一人ひとり自立―働いて役に立ち、評価され、感謝され、必要とされる(障害者にも「出番」・「居場所」)。
 子育て・教育は個人(家庭・親)任せではなく、社会全体の責任で行うべきものとして、「子ども手当て」「高校授業料の無償化」などの政策を実行しつつある。
 昨今の大不況で学費が払えず、高校・大学を中退もしくは進学断念に追い込まれている生徒・学生が急増している、この折に新政権が高校教育無償化・奨学金の給付制(返済不要)化に踏み切ったことは画期的なこと。
 しかし、それだけでは問題解決にはならない。上記のような受験競争教育体制をそのままにしては、親も本人も(とかく見栄にとらわれ、ただひたすら大学の名前がほしいばかりに)そのお金(「子ども手当」「授業料無償化」など、それらで浮いたお金)を塾や予備校・家庭教師などにつぎ込む家庭が増えるだけの結果にしかならず、それだけでは「競争・格差社会」を「友愛社会」に変えることは不可能だろう。
 新政権は、そこ(受験競争教育体制)に大改革の手を打ってこそ、「日本の歴史を変える」「平成維新」政権として相応しいものとなろう。
 すなわち、競争・管理教育をやめて「共生と自立」のいわば「友愛教育」に切り替えること。それに相応しいのはフィンランドのような人間自立支援教育なのではないか、と思われるが、それは次のような教育である。
共生と自立の友愛教育
 民主党のマニフェストには、そんなことは取り上げておらず、当方の思い付きに過ぎないのだが・・・・。
 学ぶのは、国家や企業などのためではなく、自分(自らの人生)のため。じっくり考え、発想をめぐらし、学んだ知識・技能を自分の(自立した)生き方・社会のあり方と結びつけて応用し活用できようになる、その応用力・思考力・創造力・学習力(自ら学ぶ力、世の中の変化に応じて新しいものを学び続ける能力)を身につける。
 知識とは、教師によって(教科書そのままに)与えられるものではなく、事実(教師から知り得た事実もしくは自分で調べて知った事実)を基に自分なりに作り上げていく(それぞれ個人によって構成される)もの。
 子ども主体の学習。教師は単なる知識の伝達者ではなく、子どもの学びを支援し、人間としての総合的な能力を育てる支援者に徹する。
 子ども・生徒は自ら進んで学ぶ(教師は強制せず、本人のやる気が起きるまで待つか、あの手この手でその気になるように仕向ける)。結果は自分の責任。
 教師は叱咤・激励はするが、強制せず、他人の邪魔になったり、危険行為などがあった時だけ注意・叱責。

 教科を超えた学力を重視し、教科横断的なカリキュラムを編成。

 どこの学校に入っても、一人ひとり(違う個性・特性を持っている)を大切にする平等教育―画一的ではなく個別化した学び。
 個々の生徒の成績に順位を付けて比べるためのテストや選抜競争試験による入試制度はやめる。試験は検定試験、高校卒業認定試験・大学および専門学校の入学資格試験あるいはPISA(OECDの学習到達度調査)のような学力調査だけに。(全国学力テストは、新政権は全国一斉をやめて、抽出方式に切り替える方針。)
受験競争がなければ、お互いに教え合えるし、受験勉強にとらわれず、自分の人生に本当に必要な勉強ができるというもの。
 以上は、当方の提言。
フィンランドの教育
 フィンランドの教育とはどのようなものか。(参考:都留文科大学教授・福田誠治「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞出版)
 この国―学力世界一(OECDのデータ)、国際競争力1位(ダボス会議「世界経済フォーラム」の評価)
 その教育の特徴―平等と福祉の原則
①一人ひとりを大切にする平等な教育(機会の平等)
学級定員(上限)―小学校25人(教師一人当たり16人)、中学校18人(教師一人当たり11人)
 一人たりとも落ちこぼれはつくらない、切り捨てない。
②子どもが自ら学ぶことを基本
 教師は支援、「かまい過ぎ」ない。(教師が「教える」のではなく、生徒が「学ぶ」)
「知識は主体(生徒)自ら学び編成していくものだ」と(「社会構成主義」、唯一絶対の知識・否定―答えは一つにあらず)
 一斉授業は少なく、たいていグループ学習(テーマ学習など)で教え合い。個人学習、マイペースで学べる工夫も。
 「異質生徒集団方式」(能力混合クラス)
 自由だが、結果にたいしては自己責任、他人を利用して楽をしようとはしない。
③教師を専門家として信頼
 学力調査などは、子どもと教師の支援のために使われ、学校や教師の出来・不出来を公表したりはしない。(人事考課制度―個人別教師評価・比べる査定―はない)
④権利としての教育を福祉としての教育が包み込んでいる
 「教育の基礎は家庭の問題だと突き放すのではなく、家庭でできないことは社会福祉として社会全体で受け持つ」
 小学校から大学まで授業料・無料
 高校までは教材・学用品・給食・通学費まで無料
 高校生・大学生の下宿代に補助金
 教育を提供する責任―(子どもの居住地の)地方自治体に
とりあえずは我が家で
 現在のような入試制度(競争選抜)を廃止し、テスト競争・管理教育はやめてくれるよう、訴えるものであるが、新政権がその気になってくれるわけはないか・・・・。
 とりあえずは我が家で、孫たち(その親たち)にだけでも、この考え方で、次のようなことを促している。
①テストなど気にするな(競争に乗るな、成績順位など気にするな)。世間で語られる高校・大学序列(ランキング)など気にするな。他人と比べる必要はない。
③「勉強しろ」「練習しろ」(「さもないと負け組になるぞ」「ひとに置いていかれるぞ」)等と、押し付けたりプレッシャーをかけるようなことは言わない。親や先生やコーチは助言・支援(叱咤・激励も)。
 勉強(サッカー・水泳も、モダン・バレーも、バイオリン・ピアノも)は自分のため、自分の好きなようにやればいいんだ。結果にたいする責任も自分で負えばよいのだ(ひとのせいにはしない)。
                             がんばれ!孫たちよ。
       

2010年01月11日

ギリシャ・トルコ旅行記(再々加筆・修正版)

再々加筆―旅行から帰って復習し、その後、相棒やツアー仲間から貰ったり送られてきた写真や映像を見て、「そういえば、こんなこともあったっけな」と思い出しては加筆を繰り返し、最初の文章からは、かなり膨れ上がっている。>

 年末年始をはさんで、機内泊を含め2週間のギリシャ・トルコの旅。阪急交通社(トラピックス)企画のツアーに応募。基本旅費は(燃油サーチャージ・海外出入国税など除けば)16万9,800円(ちなみに、同じトラピックスが企画募集している「九州温泉めぐり1週間汽車の旅」は17万5,000円)。
旅程
12月23日:米沢駅―汽車を待っている間、忘れてきた入歯を妻が届けてくれた。成田空港発―トルコ航空(乗務員はトルコ人。帰りも)でイスタンブール直行(コースはちょうどシルク・ロードとその北のステップ・ロードとの間―タクラマカン砂漠~中央アジア~アラル海~カスピ海~黒海)。
 右隣りに若い女性が座った(ちらっと横顔を見てトルコ美人と錯覚した)。左隣りの相棒が耳うちして「ちょっとぐらい話しかけてみたらどうなんだ。『どちらからですか』とか」と言ったが、「言葉わがんねもの」と言って黙っていた。彼女は同行ツアーのメンバーだったのだ。
 所要時間12時間、その間、機内食とともにワインを3~4杯のんだが、1回もトイレにいかずに我慢できた。
 飛行機の窓から下を覗くと暗闇に無数の明りが見えた。「おー!イスタンブールの灯だ」。夜9:30(現地時間)イスタンブール新市街にあるホテルに到着。
24日:イスタンブール市内観光-トプカプ宮殿(オスマン帝国のスルタンの居城、中国の紫禁城を模している。スルタンの宮廷は白人の宦官たちによって守られ、ハレム<いわば大奥>は黒人宦官たちによって守られていたという。今は博物館)を見学。
グランド・バザール(大市場、無数の土産物屋が軒を連ねる)を見物。
 夕刻アテネに飛ぶ
25日:エーゲ海クルーズ―サラニコス湾付近の3島巡り―イドラ島・ポロス島・エギナ島(アフェア神殿あり)、200人くらいの乗客、船内を仕切って歌と踊りの司会やガイドをつとめていたのは2人の日本人女性(とはいってもガラガラ声のオバタリアン)。
 宿泊ホテル最上階、夕食レストランに入ると、ガラス越し間近かに、丘の上、ライトアップされた建物が見える。「おー!パルテノン神殿」。デジカメで撮ろうとしたが、何回撮ってもボケて映らず、ノー・フラッシュ切り替え操作を教えてもらって、やっと撮れた。
26日:アクロポリス―あいにくパルテノン神殿はクリスマスの祝祭日のため休館で丘の上にはあがれず、下から眺めるだけだったのはかえすがえすも残念。(ただそこに掲げれられていたレリーフ彫刻は大英博物館に所蔵、それらは以前ロンドンに行ったときに見てきた)。近代オリンピック第一回大会スタジアム、リカビトスの丘(アテネ市内、海までも一望に)、スニオン岬(丘上にポセイドン神殿)など観光。夜イスタンブールに戻る。
 相棒は、同行ツアーの方々から「どちから?」と訊かれるたびに、「山形からです」と答えるので、その都度、当方は「いや、私は米沢ですが、彼はその隣り町ですよ」と口を添えた。ホテルの部屋に引っ込んで二人だけになると、相棒は「一つ、訊きたいと思っていることがあるんだげんと、何で『山形から』と言って悪いなや?」というので、「『山形』と言ったのでは『山形市』と混同されてしまうではないか。我々が住んでいるのは『天地人の城下、米沢』なんだよ。」と言って釈明した。
27日:スルタン=アフメット広場(ヒポドロム―ローマ時代の競馬場跡、エジプトから運んだオベリスクが立つ)、アヤ=ソフィア(聖ソフィア寺院、内部にはキリストやローマ皇帝の肖像モザイク壁画がそのまま残されているが、アラビア文字で書かれた「アラー」「ムハンマド」の名やコーランの一節が掲げられている。尖塔は、このキリスト教寺院がモスクに変えられたのに伴って、後で建てられた)、ブルーモスク(17世紀前半、オスマン皇帝アフメット1世が建てさせたトルコ最大のモスクで、唯一6本の尖塔が付いている)など見学。
 午後、バスとフェリーでダーダネルス海峡を渡って小アジア半島西岸方面へ。チャナッカレ泊。
28日:トロイ遺跡―高校時代に見たハリウッド映画「トロイのヘレン」(ホメロスの叙事詩物語「イリアス」の映画化)の世界が実在した、その場所にたたずんで、しばし、世界史ロマンにふけった。
ぺルガモン遺跡―ヘレニズム時代~ローマ時代の王国遺跡。丘の上から斜面・麓にかけて順次築かれた神殿・円形劇場・図書館・城塞の遺構が「夢のあと」のように見られた。
 (これらの遺跡や見学地は、どんな遺跡・風景なのか、当方もデジカメでちょっと撮ってはきたが、もっと数多く良い写真を適切な解説を付けてブログに載せている方々がおられ、遺跡名や見学地名で検索すればそれが見れるので、写真と詳しい解説はここでは省く。
 尚、一緒に行った相棒のI君のブログ―「赤べこ農場」、それに旭川北高校のI先生がビデオカメラで撮ってきた映像に音楽を付けて編集したDVD―実に良く出来ており、解説は付いていないが、これを見れば各所の様子、皆さんの表情も一目瞭然。そこには、飛行機で同席した例の若い女性から請われて写真を撮ってあげたその時の、撮られている彼女と撮っている当方の姿がとらえられていた。)
 イズミール(5つ星、ヒルトンホテル)泊。
29日:エフェソス遺跡―列柱道路・神殿・劇場・図書館・浴場・娼婦宿(イタリアのポンペイでは建物・部屋・石のベッドまでそっくりあったが、ここのは残がいのみ)・公衆トイレ(石造りのベンチに一定間隔の穴が空いていて下を水が流れる水洗トイレ。並んで腰掛け語らいながらタレ合ったわけ?)などを見学。
 パムッカレ(室内温泉プール付きホテル)泊。
30日:台地斜面に壮大な「石灰棚」、台地上面一帯にはヒエラポリス遺跡、それらを見学。
   アンタルヤ(地中海岸、5つ星ホテル)泊。
31日:アンタルヤ近郊ペルゲ遺跡(競技場、浴場、列柱道路など)、アスペンドス遺跡―半円形劇場は2万人収容のスタンドなど最も原型を保っている―すり鉢の底のような円形舞台の真ん中に韓国人が一人立って歌った。音響効果でよく響きわたる。当方と同年生まれというツアー仲間の一人はイタリア語でオーソレミヨを歌った。気分よさそう。持ち前の声量がすっかり衰えて歌えない自分を悔やんだ。
 内陸地方(アナトリア高原)に入ってコンヤにむかう。途中、なだらかな台地を走る道路の彼方に、忽然と富士山(実はハサン山、標高3,200m)が現われた。コンヤに着いて5つ星ホテル泊、そこで年越しパーテー(ガラパーテー):
 ホテル内の大会場で8人ほどの円卓が20卓以上。地元トルコ人は正装の感じだが、日本人観光客はラフ。飲み放題(代金加算なし)。バンド・ボーカル演奏があり、カップルたちはチークダンス、ベリーダンス・ショーもあったが、やがて会場真ん中のスペースにトルコ人・外国人・日本人も入り乱れ、手をつなぎ合ってステップ、延いてはてんで勝手に手足を動かして乱舞。当方も「同じアホなら踊らニャ損損」とばかりにカウントダウンも忘れて乗り続けたが、たいして悪酔いも二日酔いもしないで済んだ。翌朝(日本は既に元日も午後)家に電話して「あけましておめでとう」というと、「ずいぶん、くたびった声だごど」という声が返ってきた。 
1日:メブラーナ博物館―スーフィズム(神秘主義)・旋舞教団の創始者の霊廟、 インジェミナール神学校など見学。カッパドキア(この国は東西に長い長方形をなすが、その真ん中あたりに位置)へ。カイマクル地下都市(いわば「洞窟マンション」遺跡)見学。カッパドキア泊。
2日:きのこ状に林立する奇岩群(彼方にマッターホルンのようにも見られたエルジュス山の噴火による溶岩・凝灰岩が風雨の浸食で残ったという)・洞窟住居群(「隠れキリシタン?」の教会もそこに)。絨毯工房見学。
 アンカラヘ。そこはこの国の首都だが、市内観光はなく、アンカラ駅から夜行列車(個室寝台車中泊)でイスタンブールへ。
3日:ウシュクダル地区などイスタンブール市内観光
4日:ボスポラス海峡クルーズ(別料金のオプショナル・ツアー)には加わらずに、一人歩いて、金角湾に架かる橋を渡り、対岸まで行ってきた。エジプシャン・バザール見物。夕刻イスタンブール空港発、帰国の途に。
5日:幾たびかの海外旅行でこれまで一度もひっかかったことのないセキュリテー・チェックは、今回は成田空港でのそれ以外はことごとくひっかかった(「この顔がテロリストの顔に見えるか?」という思いで憮然としたが、くぐり抜けるゲートの探知機がベルトのバックルやポケットにつっこんでいた折りたたみ式眼鏡などに反応したのだ)。
 機内では、隣の窓際に座っていた当方より年配と思われる外人さんが、”look!”と言ったので窓のほうを見ると富士山。頭をどけてくれたので、すかさず写真を撮ったら、メール・アドレスを書いて、ここに写真を送ってくれという(後で送ってやった)。
 トルコは緯度では日本の東北地方(南端から北端まで)に当たるが、今年は暖冬のようで、雪は、高山以外には、内陸部でわずかに白いものが見られるところがあっただけ。成田・東京に着いて日本も暖冬かと思いきや、山形新幹線で福島を越えたら銀世界。「天地人の城下」に帰ってきたのだ。


歴史
 トルコという国は、面積は日本のほぼ2倍、人口は日本の5分の3くらいだが、歴史的にははるかに奥が深い、と言えるのでは。
 この地域は(地中海~黒海の通路、アジア・ヨーロッパの接点、「シルクロードの十字路」などとして)世界史上諸文明が交錯し幾重にも重なっている最重要地域の一つ。この度、そこへ行ってみて諸文明を目のあたりにし、見聞することができた。それらを時代順にあげれば次のようなものだ。
(1)オリエント文明―ヒッタイト文明(最古の鉄器文明、その遺跡には行かない)
(2)エーゲ文明―トロイ遺跡(遺跡はローマ時代までまたがる)
(3)ギリシャ文明―アテネ
       ビザンチオン(コンスタンチノープル、現イスタンブール市の起源―ギ                               リシャ人植民市)
       エフェソス遺跡.アスペンドス遺跡(いずれもローマ時代までまたがる) (4)ペルシャ文明(アケメネス朝)
(5)ヘレニズム文明(アレキサンダー大王征服以降)―ペルガモン遺跡.ヒエラポリ           ス遺跡.ペルゲ遺跡(いずれもローマ時代までまたがる)
(6)ローマ文明―ローマ軍の地中海制覇、コンスタンチノープルがロ-マ帝国、分裂         後の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都に。
(7)キリスト教文明―コンスタンチノープルの教会(アヤ・ソフィア寺院)がイタリ        アのローマ教会(カトリック教会)に対してギリシャ正教の総本山に。
(8)遊牧騎馬民族の要素―セルジューク・トルコ(コンヤが首都、十字軍と抗争)やオ             スマン・トルコによる征服(イスラム化)
(9)イスラム文明―オスマン帝国は3大陸にまたがる。政教一致(スルタン=カリフ          制)。コンスタンチノープルはイスタンブールと改称され、アヤ・ソフィア寺院はモスクに変わる。
          ただし、ギリシャ正教のエキュメニカル総主教(カトリックのロ          ーマ法王に当たる)は存続し、今もイスタンブール市内の聖ゲオルギオス大聖堂にその官邸があるとのこと。
(10)第1次大戦(ロシアに対抗、ドイツ側について敗北)後、トルコ革命―ケマル・         アタチュルク指導、スルタンは廃位、政教分離、文字改革(トルコ語の表記をアラビア文字からローマ字に改める)、首都をアンカラに移転
(11)第2次大戦では中立、大戦末期になって連合国側に
(12)戦後は親日友好国に
(13)現在、EU(ヨーロッパ連合)加盟予定
 NATOに加盟しているが、イラク戦争やアフガン戦争などへの協力には距離を置いて自主外交。周辺国(旧オスマン帝国領域内諸国)と友好協力関係。
G20(20カ国地域首脳会議)のメンバー国になっている。

見聞録
(1)トルコ人は陽気で、日本人の我々に対して親しみやすい、と思った。「メルハバ(こんにちは)!」、「ギュナイドン(おはよう)!」と言うと、挨拶が返ってくる。我々のバスに手を振ってくれるし、バスが狭い路地から角を曲がりきれないでいると、居合わせた若者がなにげない顔で、邪魔な道路標識を動かし、どけてくれたものだ。
(2)我が国では、一昔前までは「トルコへ行こう」といえばソープランドへ行こうということを意味し、今で言うソープランドは「トルコ風呂」と呼んでいた。そのことを東大に留学中に知った一トルコ人学生が憤慨して抗議運動を起こし、厚生省や国会議員などに、その国辱的呼称をやめるように訴えた。それが実って「ソープランド」と改称されることになったわけだ。
 トルコには、我が国と同様、公衆浴場があるが、蒸し風呂(フィンランドのサウナと似ているが、ちょっと違う)で、アカ落しをする(「垢すり」)、その「垢すり師」(日本の銭湯屋の「三助」にむしろ近い)のやることを、我が国では、個室で女がやるものとねじ曲げて広めたわけである。
 パナッカレで泊まったホテルに本場のトルコ風呂があって、体験してきた相棒によれば、タイル張りのホールに浴槽がなく湯気だけ、男女・入浴者・「垢すり師」とも水着着用で混浴。「垢すり」代は日本の温泉浴場のマッサージ代と同じくらいだったとのこと。
 どこのホテルだったか、自室の風呂につかってシャボンで洗っていると、相棒の高笑いとともに女性の声が聞こえた。さっさと上がろうとして風呂の栓を抜こうとしたら、鎖が付いていない。栓に爪を引っ掛けてつまみ上げようとしても、つまみ上げられない。あちこちくっ付いているものを押したり引いたりしてみたがダメ。蛇口と栓があるほうの浴槽内側に円盤がくっ付いていたが、我が家の風呂の場合、それは湯水を温めて送る穴のカバーで、はずす時に回すもの。そこも押したり引いたりしてみたが、やはりダメ。
「おい!おーい!ちょっと!」と相棒を呼んだ。彼は当方が試みたのと同じように栓に爪を引っ掛けてつまみ上げた。そしたら抜けた。「やれやれ」という思いで風呂場から出たら、飛行機で同席した彼女と成田で並んで待っている間相棒が最初に話しかけた女性がいて「お邪魔しています」と言った。「いやいや、どうぞ」と言って、談笑に加わろうとしたら、「それじゃ、おやすみなさい」といって2人は引き上げていった。
 その後宿泊した別のホテルで、風呂の栓に鎖のついていないところがあった。そこでは、入浴はやめシャワーだけで済ました。相棒はどうしたかといえば、「こういうときは・・・」といって、穴にバスタオルを突っ込んで湯をはった。いわく「頭を使えばええなよ」。翌日そのことをどなたかに話すと「ああ、あれね、あれは蛇口の下の方にくっ付いている円盤を回せばよかったんですよ」と。押しても引いてもダメなら回してみな、というわけだ。
(3)諸民族・人種融合―トルコ人はアルタイ語族(言語が文法・語順などモンゴル人・朝鮮人・日本人と同系、屋内では下足を脱いで床に座るなどの生活習慣にも共通点)で、人種としては元々モンゴロイドに属し、モンゴル高原から中国北西部にかけて住んだ遊牧・騎馬民族(匈奴・突厥・ウイグルなど)。中央アジアから西進、アラブ・イスラム帝国で傭兵として活躍し、実権を握るようになり、オスマン・トルコ帝国では完全な支配民族となる。オスマン帝国はヨーロッパ東部(バルカン半島など)、北アフリカ(エジプトなど)にも進出して超大国となった。
 この間、ヨーロッパ系人種との混血を重ね、多くはハーフとなって、今ではどの顔が典型的なトルコ人なのか、「これがトルコ人の顔」といったものは無くなっているのだそうであるが、幼児期に臀部に蒙古斑がある人が少なくないと言う。それにしても、美人・美男が多く、デパートのマネキン人形やハリウッド・スターのような顔をした人はザラに見られた。
(4)ガイドはツルツル頭で肥満体だが、日本語で自在に話し、知識が深く日本のこともよく知っている超ベテランという感じ。
 イズミールの町でのこと。バスの待っている集合地点に時間に遅れまいとして急いで、通路がわからず(陸橋のあるところまで戻って、そこを渡って行けばよかったのに)車道を横切ったら、それをむこうから見ていて、やっとの思いでたどり着いた当方を横目に、「私の歴史や地理の話しは聞いてもらわなくてもいいが、安全ルールだけは守ってもらいたい。添乗員さん!彼に何とか言って下さいよ!」。添乗員が私に「トルコ人の運転は乱暴だから、くれぐれも気をつけてくださいね」と。その時からしばらく、彼に対しては生徒のように黙ってしまった。
(5)トルコ国民の多くはイスラム教徒であるが、信者としての義務やタブーの強制は無いのだそうである。1日5回の礼拝もその度にスピーカーから町中に呼びかけ、コーランの文句が流されるが、あわてて仕事の手を休めてひざまずく人は余り見られなかった。アルコール類は普通に売っていた。礼拝にしても禁酒にしても、それが義務でありタブーであることは認めても、それを実践するかしないかは本人個人が決めることであって、他から強制されるものではないとの考え方なのだそうである。
(6)トルコ国旗(「新月旗」)のデザインはそもそも。三日月は月の神アルテミス(ギリシャの女神の一つ)からきており、星は惑星を象徴、赤地は(相棒は「血の色だべ」と勘違いしていたようだが)「一番目立つ色」(船にかわるがわる違う色の旗を掲げて試してみてそれが解ったという)だから、ということにほかならないのだそうである(ガイドの話)。
(7)トルコ料理は、フランス料理・中国料理とともに世界の3大料理と言われるが、アンズやイチジクなどは塩漬けで、チーズ・ヨーグルト・ハムなんかまで塩っぱくて、当方の口にはあわなかった。シシカバブは羊・牛肉(豚肉はイスラムで禁止)。
(8)土産物屋やバザールではトルコ・リラのほかにユーロ、米ドル、中には日本語で「~個で千円」などと声をかけ円札も受とっていた。
(9)旅程に織り込まれていて立ち寄る土産物店・工房(トルコ石アクセサリー・オリーブ油製品・皮製洋服・セラミックス皿・絨毯などの製造・直売所)ではどこでも皆、日本語で説明、「いかがですか」と話しかけていた。
(10)絨毯工房では、女工たちが織台に向かって指を動かしていたが、日本の「野麦峠の女工」たちとはことが違う、また、ペルシャ絨毯は「2回結び」だが、ここのは「3回結び」なので、絨毯を猫が爪で引っかいてもほころびないのだ、などと説明。蚕から絹糸をよりとる機器も動いていた。
 絨毯を何枚か広げて見せ、一行の何人かに「どうですかお客さん」と持ちかけていたが、なぜかこの私に一番高額な(我が家で板の間のコタツの下に敷いているのと同じ大きさでシルク製)のを4人がかりで(一人が片手に電卓をもって私に話しかけ、2人が絨毯の両端をもって後ろにひかえ、最後には責任者が加わる)でせまってきた。「日本のどちらから?東京?名古屋?」「う~ん、え~と、(そうだ)オリエンタル・カーペットという絨毯会社のあるところ(以前、当方が住んでいた山辺町のある山形県)からですよ」「そうですか、実はこれを(自家で数ヶ月もかかって)織りあげた娘さんは近じか結婚することになっていて、そのためにお金が要り、早く買い手が付くようにしてほしいと頼んできているんです。どうでしょう、180万円・・・・160万では?・・・それでは150万でどうですか、お客さん!」。それに対してこの私「家では今100万円の借金を抱えているんです」。「お仕事は?リタイア?もっと頑張らなくちゃ、お客さん」。「いやいや、とても。年金生活がやっと・・・」。「そうですか、それなら」。責任者が出てきて「120万でいいですよ」。「さあ、お客さん、120万!」と。当方は肩をすぼめ両手を開いてこう言った。「実は、うちにも娘がいて、借金のために未だ結婚できずにいるんですよ」。やっと振り切って、その場を離れた。
 一行の中で買った人は、数十万円台の絨毯で、7人いたようだ。(免税措置が講じられており、送料も取らないとのこと。)(帰国して1ヶ月後、相棒から「家さ届かったぞ」と電話があったので見に行ってみると、玄関先にはサービスで付けられたマットが敷いてあり、畳座敷の炬燵の下に絨毯が敷いてあった。彼の奥さんは、怒るかと思いきや「地味な色(白と茶褐色の羊の毛そのままの色)でえがったであ」と言っていたとのこと。
 これらはトルコ絨毯の話しであるが、ちなみにローマ帝国時代の中国産の絹の話しをすれば、(以前NHKで放送された特集「シルクロード」によれば)ローマでは、絹は同じ重さの黄金の3倍の値段(1グラム1万円に相当)で買われたのだそうである。ローマ帝国の将軍や高官たちが身にまとったトーガという衣装は、広げれば、だいたい幅1.5m、長さ4mで1,100グラム。その大きさの絹布は1,100万円というわけだ。
(11)バス移動の途中、トイレ休憩(トイレは有料で半リラ。1リラは62・3円に相当)に立ち寄った際、直ぐ近くにあるスルタンの砦の城門前で中を覗いていたら、家の孫くらいの小さな子供が3人近寄ってきて、一番大きな女の子が、城址の写真の絵葉書を何枚か示し、「さんりら」と日本語で言うので、3リラを渡したら1枚よこした。すると、あとの2人(何か品物をもっていた)が当方についてきて「いちりら!いちりら!」とせがむので、1リラづつ渡したら、それを手にするや、女の子の方にかけ戻った。「おいおい(品物は?)」・・・教育上よくないな、と思ったものだが、イスラム教徒には、お金を持っている者が持たない者に施すのは当たり前という「喜捨」の考え方があることに、後で気がついた。
(12)ナザール・ボンジュー(青くて透明なガラス製の円盤で、真ん中に目玉のようなものがついている壁掛けやキーホルダーやネックレス。その目玉はメドーサの目で、魔よけなのだという)―どこへ行っても土産物屋で見かけ、手ごろな値段なので、これは買ってきた。
(13)ボスポラス海峡に架かる橋の一つ、第2ボスポラス橋を建設したのは石川島播磨重工、いま同海峡に建設中の海底トンネルを掘っているのは大成建設、(いずれも日本のゼネコン)なのだそうである。 
(14)トルコの教育は、義務教育9年間と高校は無料、大学は私立(1割)は別として公立大学も無料とのこと。

 以前、中国(北京・上海・洛陽・西安など)、台湾、韓国、ヨーロッパ(ローマ・ジュネーブ・パリ・ロンドンなど)、イタリアにはもう一度(ミラノ・ピサ・ベニス・ローマ・ナポリなどに)行ってきたが、「すべての道はローマに通ず」・・・それは真理だということが確認された思い。
とにかく勉強になった。
 なあ、孫たちよ。お土産は、前回のイタリア旅行ではマルコ・ポーロがかぶったであろうような帽子と風船の地球儀を買って来、今回は小さな(手のひらに乗る)ソクラテス像とアテナ女神像、プラスチック製にガラス製の大小の子亀、目玉のお守り(ナザール・ボンジュ)、それにジュグソーパズルで立体的に組み立てる地球儀など買ってきた。せいぜい世界に目を開き、歴史に目を開いて、じっくり勉強しような。
 いつか一緒に世界を旅することができるといいなあ

2010年02月18日

きれいなカネ、きたないカネ

政治とカネ
 今、この問題で最も焦点が当たっている小沢現民主党幹事長に関しては、同氏に献金しているゼネコン(鹿島建設・大成建設・水谷建設など17社、献金総額3,000万円とか)が岩手県の胆沢ダム工事で受注している。これらの献金は政治資金収支報告書に記載されていて合法的なものと見なされるが、小沢氏には、それ以外にもこれらのゼネコンからヤミ献金があるのではないか、との疑惑がもたれている。
 実際カネを渡したという水谷建設の元会長(現在、脱税事件で服役中)の証言があるが(福島県内のダム建設をめぐる贈収賄事件では、裁判の結果、前知事は実質無罪になっているが、そのさい元会長の証言は嘘であったことが明らかになっており)、信憑性が疑われるところもあり、物証も明らかにはなっておらず、小沢氏側は(本人も秘書たちも)否定している。
 また、鳩山現首相に関しては、同氏の資金管理団体の政治資金収支報告書に母親からの資金(1,8億円―毎月1,500万円)を含めて2億円超ものカネが何人もの亡くなった人や献金した覚えのない人の名義まで使って個人献金として偽装されていたという献金疑惑がもちあがっている。
 この2人のことについては次のような問題があると考えられる。
①贈収賄―その政治家に職務権限がある場合(当時、野党議員であった政治家にとっては、それはあり得ない)
②斡旋利得罪・斡旋収賄罪―職務権限はなくても、職務権限者に口利きによって政治家が利益を得る(「天の声」などと言われているが、口利き事実を裏づける証拠はない。)
③脱税―贈与税など(鳩山兄弟とも「もらっていた」事実を知ってから払って納入済)
④政治資金収支報告書への意図的な虚偽記載―元東京地検特捜部長の宗像氏は「カネの流れの客観的状況から見れば、それだけでおかしい」として、この見方をとっている。
⑤同報告書への形式的ミスによる不記載―元東京地検特捜部検事の郷原氏は次のような見方。「銀行から借入れたそれは記載。銀行からカネが出るまでの間の『つなぎ資金』として小沢氏側の個人(身内)の持ちがねから現金を借入れ、秘書寮用地購入代金を立替えて払った(そこが不記載と見なされる)。銀行からカネが出た時点で小沢氏側に返済、その後銀行には陸山会から返済―このような会計処理上の問題だとすれば、金額は多額でも政治家本人による政治資金管理団体の資金繰りの問題にすぎない。」(「政治家は日常的に資金団体との間で経費の立替えなどしている、と指摘し、『どこまで忠実に収支報告書に記載するかで収入・支出の総額はいかようにも変わる。それを虚偽記入だとして国会議員を逮捕できるなら、検察はどんな政治家でも逮捕できることになる」)と。
          
 検察による追求・捜査の結果、鳩山首相・小沢幹事長とも、いずれも嫌疑不十分で不起訴、秘書たちのほうが収支報告書「虚偽記載」―政治資金規正法違反の罪(④)で起訴された。
 小沢氏については、検察は、その虚偽記載はヤミ献金をカムフラージュするために意図的に行ったものと見なして、その追求・捜査を強行したものの、水谷建設元会長の(5,000万円づつ2回渡したという)証言はあるものの、それを裏付ける確たる物証はつきとめきれず、「虚偽記載」―政治資金規正法違反―すなわち形式犯だけにとどまったわけである。
 それに「虚偽記載」といっても、単なる形式的なミス(不記載)なのか、意図的な不記載(即ち隠蔽)なのか(④と⑤のどちらなのか)、判断が分かれるところである。
 いずれにしても、その「虚偽記載」に鳩山氏にしても小沢氏にしても積極的な関与は認められず、秘書たちだけが刑事責任を問われることになったが、鳩山・小沢両氏には政治的・道義的責任が問われている。秘書に責任を押し付けておいて知らなかったでは済まされないというわけである。

 最も悪質なのは①贈収賄と②斡旋利得・収賄であり、献金に賄賂性がある場合であるが、企業・団体献金にはその賄賂性がともなう。個人献金ならば浄財(きれいなカネ)とみなされるが、企業・団体献金の場合は、献金は必ず見返りを当てにして行われるものだからである(企業のばあい、何の見返りもなく会社のカネを使えば、株主から背任罪で訴えられることになる)。
 よって、このような問題が起きないようにするには企業・団体献金を全面的に(抜け穴なしに)禁止する以外にないのだ。企業・団体献金を許しておいて政治資金規正法をいくら改正したところで、抜け道はどこかに必ず残るからである。

 自民党や同党寄りのメディアにはそれへのアプローチがない。そこが問題。

各党が受け取った企業・団体献金(08年)
  自民党[77.7億円]、民主党[11.1億円]、国民新党[1.7億円]、公明党[0.9円]
 社民党[0.3億円]、共産党[0]

 民主党は昨年の総選挙で企業・団体献金の禁止をマニフェストに掲げていたのだが、昨日の初の党首討論会で鳩山首相は「問題の根源は企業・団体献金。今こそ廃止が必要では。ぜひ自民党の谷垣総裁にもご努力をお願いしたい」と。民主党首脳らの献金疑惑を追及して食い下がる谷垣氏はこれには「問題をすり替えている」といって取り合わず。

 政党助成金―国民の税金から、毎年、総額300億円超が、共産党以外の各党に配られている。09年には総額319.42億円で、各党には次のように配られた。
 自民党[139.81億円]、民主党[136.6億円]、公明党[26.19億円]、
   社民党[8.9億円]、国民新党[4.2億円]、みんなの党[1.14億円]、
  新党日本[1.81億円] 
 そもそも、政党助成金は93年細川内閣の下で、企業・団体献金の廃止と引換えに出されることになったもの。ところが企業・団体献金は今日に至っても廃止されてはおらず、共産党(いずれも受け取りを拒否している)以外は各党とも両方(企業・団体献金も政党助成金も)受け取っている。
 自分が納めた税金の一部が(国民1人平均250円だけとはいえ)、自分が支持している政党ならいざしらず、人によっては全く支持していない政党に一番多く注ぎ込まれることに矛盾を感じて当然だろう。
 政党は党員が納める党費と事業収入および支持者の個人献金(カンパ)によって経費をまかなうのが近代政党の原則。
 企業・団体献金と政党助成金は、ともに廃止すべきである。
 議会制民主主義・政党政治を維持するために主権者・国民が税金(国庫)から支出するというのであれば、それは今のように各党に議席の多少に応じて直接配るのではなく、(選挙管理委員会の簡単な選挙広報などだけでなく)公共セクターやマスコミ・NPOなどが企画する政党討論会や演説会、有権者に各党の政策と活動を(各党に公平に)紹介する広報事業に対して助成金をだすというふうにすべきなのではないだろうか。

きれいなカネ―浄財寄付
 政党や政治家がそれぞれ独自に浄財を募り、それに対して支持者がカンパする個人献金は自由。

 政治献金とは別に、国や自治体やNPOなどによる教育・医療・福祉・環境保全・災害対策など事業に対して市民がカンパする浄財寄付は大いに奨励さるべきである。
 我が国では、一般に、国民は「お上」に頼るばかりで、寄付をしようとはしない傾向があるが、そのような国民意識を変える必要があるのでは。
 今回(2月15日号)の当地の市報に「米沢ふるさと応援寄附金」のこと(集約結果と使途)が出ていた。それによれば、それがスタートした昨年度(08年度)は28人から338万5千円、本年度(09年度)はこれまでのところ69人から283万7千余円が集まったとのこと(当方は昨年政府が配った定額給付金をそこに寄付したが、それも含まれているのだろう)。
 配分される事業項目(使途)の中に今年度から新たに「奨学育英」項目が加わったが、そこには32人から91万円が寄せられた。それを市の財源から支出するのと合わせて、192万円を市内私立高校2校に(一人1万円)配ることにした、とのこと。
 この寄付の人数・金額は多いというべきか、少ないというべきか、はたしてどうなのだろうか。

 朝日新聞(12月18日)の投稿欄に、80才の老婦人が「困窮者励ます寄付こそ『友愛』」と題して次のように書いておられた。
 「鳩山総理のお母様へ。・・・・私は独り暮らしの年金生活者ですが、会費を払い、世界の国々から来た人たちに日本語を教える教室でボランティアをしています。・・・
悩んでおられると思われる財産の使い道ですが、息子さんの説く『友愛』を後押しし、困窮している人たちに寄付されたらいかがでしょうか。それこそが真の友愛精神と思います。」と。
 日本人ならカネのある者が社会に寄付するのは当たり前という社会=「友愛社会」にしていかなくては。
 カネにきたない、ケチな日本人と思われるのはごめんだ。

2010年03月11日

高校無償化なら入試の廃止も

 高校の学費を生徒・親に出させるとか、入試で入学者を選抜するというやり方は、けっして当たり前なのではなく、欧米諸国ではむしろ、学費は公費でまかない(フィンランド・オランダ・スウエーデンなどでは私立も、北欧諸国やフランスでは大学も授業料は無料)、選抜入試などやらないのが当たり前なのであって、異常なのは我が国のほうなのである。
 国際人権規約(第13条2項)は高校と大学の学費を段階的に無償化することを定めているが、同条項の批准を留保している国は我が国とマダガスカルの2ヶ国だけ。2001年には国連の社会権規約委員会が日本政府に対して留保撤回を勧告したにもかかわらず応じてこなかった。また、1998年国連の「児童の権利に関する委員会」から我が国政府は「極度の競争的な制度によるストレスのため子どもが発達障害にさらされている」「さらに登校拒否の事例がかなりの数にのぼることを懸念する」といった勧告も受けているのである。競争的な制度とは生徒を受験競争やテスト点数競争に駆り立てる選抜入試制度のことであろう。
 鳩山政権は高校授業料無償化に踏み切った。これは画期的な決断であるが、このさい、入試制度の廃止にまで踏み切ったならば、それこそ「平成維新」に相応しい我が国教育史上の大変革となろう。(一挙に何もかもというのは難しいとか、非現実的だなどといって取り合わない向きが多いだろうが。)
 以下にその理由を論じてみたい。
(1)高校も義務教育に
 現実は高校進学率100%に近くなっている。「今の世の中、高校ぐらい出ておかないと一人前になれない」というのが常識である。
 実際、ハイテク化・グローバル化・高度情報化している現代社会、人々の職業生活(仕事)も社会生活(参政権や裁判員制度など民主社会における主権や権利の行使)も、以前のような中学レベルの知識・技能では到底通用しなくなっているのだ(指示され、与えられた仕事を機械ロボットのようにやっているだけでよい、というわけにはいかないのである)。中卒では、個々人の職業生活・社会生活が成り立たないだけでなく、社会も、国家も、良質な人材確保ができず、産業諸組織・社会諸組織の運営が成り立たず、維持もできない。そういう時代なのである。

 高校進学の受益者は、単にそこに入いれた生徒個々人だけではなく、彼ら人材を確保できる国家・社会そのものが受益者なのである。その国家が高校教育を義務化し、選抜試験なしに入学を認め、入学者の授業料を無償化しするのに何ら不思議はない。

 発展途上の国(我が国も以前そういう時代だった)ならば、庶民も出世志向が旺盛で、国は学歴取得競争(進学競争)にまかせておけば、庶民は受験に殺到し、無理をしてでも授業料・入学金を払うので、国は教育予算をあまり投じなくても済んだし、生徒の学習意欲を引き出すこともできて、詰め込んだ知識・技能が発展途上の産業にたずさわる人材確保に役立ち、全体を引っ張っていくエリートを養成することも可能だった。
 しかし、我が国は、もう、そんな「途上国タイプの教育」から脱却して、欧米並みに「成熟社会」の教育を目指さなければならないのである。

(2)入試制度の弊害
 入試制度とは、入学志願者に試験を課し、その試験成績に在籍中の学校成績(内申書)を勘案して成績順に上から選抜するというやり方。その入試があるおかげで、受験生がしのぎを削ってレベルアップしてくれて、その上澄みだけしゃくり取ればよく、高校もしくは大学側にとっては、教えるのが楽だし、「難関校」ほど自分の学校のステータスも上がることになる、というそういう点では好都合。しかし、さまざまな弊害がある。
①生徒にとっては「ここまで修得すればよい」という基準がなく成績順位(他の受験生たちとの成績の比較)だけが問題だから、とにかく他の受験生たちを一点でもしのぐ成績を上げなければならないと思えば、際限なく勉強しなければならなくなり、過重負担になる。
②高校以下の教育全体が受験に特化しすぎて(受験科目、入試に出そうなところだけを勉強し、内申書の評価につながりそうなものだけを気にし、力をいれ)、それ以外がおろそかになる。狭い学力(「偏差値学力」「点数獲得学力」)に矮小化。学習の幅を狭め、受験対策・テスト対策、ドリル(訓練的学習)・機械的な暗記に偏る。文字と言葉、図と記号だけの教科書的勉強に偏り、手や身体・感覚を総動員した学習がおろそかになる。心がせせこましく、豊な発想や感性が生まれなくなる。
 「内申書」重視とかOA入試(自己推薦と面接だけの試験)だから、「日頃から、ちゃんとやっていれば大丈夫」といっても、結果は受験勉強が日常にまで持ち込まれるだけ(提出物や授業中に手を挙げる等)。
 たとえ入試内容を狭くしたり、簡単にしても、同じ(今まで50点台で競争していたものが、80点台の競争になるだけの話。
③高校以下の学校が入試に縛られて独自教育ができなくなる。
 生徒にとっては勉強も何もかも、すべてが受験・合格目的になってしまい、自分の真の適性を見つけて開花させようとするきっかけがつかめなくなる(自分がしたいことを押し殺して、ただ机に向かっているうちに、自分のしたいことが何かわからなくなっていく。)
 その高校、その大学に入って何をしたいのか、何を学びたいのか(学問研究・芸術・技術・技能を磨く等)ではなく、入試に合格すること、学歴を獲得することだけが自己目的化。
④生徒も教師も受験競争・点数競争に追い立てられてストレスが高じる(口や顔には出なくても、心の中に、いつも「受験は大丈夫かな」「勉強しなきゃ」といった強迫観念がつきまとう。
⑤「競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできない。それどころか、かえって伸びない者を作り出す。」頑張ったのに不合格とされた生徒は劣等感に陥ったり、自己肯定感を喪失したり、やる気をなくす者が同時に生まれるからである。
⑥社会の歪み―学歴競争・格差社会―をもたらしている。

 週刊誌(サンデー毎日や週間朝日など)が「入試速報」―「大学合格者高校ランキング」なるものをこのところ毎週連載している。
 我が国では、このようなランキングによって、その高校・その大学に入学・卒業した者たちのステータスが決まり、社会階層が形成されているのだ。

(3)入試制度を廃止してどうするのか
 入試は廃止し、小中学校のように全員無試験で入学させる。
 卒業に必要な各教科(単位)の修得を、それぞれ基準に基づいて(評定、たとえば各教科10点満点で「6以上」というふうに)それに達していれば認定し、全教科単位修得すれば卒業を認定し、基準に達せず認定されなければ原級留め置き(落第)となる。(留年して授業を受け続けても授業料は無償。)
 少人数学級で、遅れている生徒は落ちこぼさずに基準に達するまで(補習・追試なども)手を尽くすことができるだけの教員を充当するなど、指導体制を整える。
 このような高校卒業認定者には同時に大学入学資格を認める。このようなやり方は欧米諸国で一般に行われているやり方。
 義務教育でない大学の場合は「最低限これができていないと、うちの授業にはついてこれませんよ」という最低基準を示し、その基準を満たしてさえいれば、できるかぎり本人の希望を尊重して入学させる(「教育の機会均等」の原則からいって、それは当然のことである)。
 実験・実習など人数が限定される医学部・工学部などの学部・学科の場合は
願書の先着順もしくは抽選で入学者を決める。
 高校の学区制は、地元学区入学の原則を守る。(現在、全県一学区制化に切り替えようとしている県があるが、これでは全県一斉高校入試で県内高校がトップからビリまで序列が付いてしまうことになる。)

(4)教育のあり方にたいする国民的理解・意識改革の必要性
 競争教育が嫌だからといって、個人でいくら、それを避け、成績など気にしない(孫に「テストなんかそんなに必死になって頑張らなくていいんだ」とか「成績など気にするな」)といっても、本人はともかく、親は(結局は本人も)点数と順位を気にしないではいられないのである。
 教師も競争主義や成績主義に反対だからといって、受験対応をやめれば、生徒を不利な結果に追いやり、かえって可愛そうな思いをさせてしまうことになる。
 現実の高校・大学は「試験と内申の成績順に上から何名」として入学させるのだから、志望校・志望大学の合格ラインを知り、自分の成績がどの位置なのかを知らないと合否予想はできない。そこで受験業者が、その需要に応えて行う模擬テストに参加して「偏差値」の提供を受けようとする。「そんなの関係ない」というわけにはいかないのである。
 このような教育改革は一つの学校、一人の教師・一個人だけがいくらその気になっても、変革は不可能であり、国家的に、全国一斉にやるしかないわけである。
 そのためには、これまでの既成観念を捨てて、次のような諸点での国民的な理解・意識改革が必要。
①教育観―学校教育の目的を、「子どもたちを競わせて『勝ち組』『負け組』を選別し、順位を出すこと」から、「一人ひとりの子どもを主体に考え、どの子も完全を期して育て上げるということ」に頭を切り替える。
 「教育の機会均等」「能力に応じて等しく教育を受ける権利」の保障を(教育基本法でも「改正」前は「能力に応ずる教育」だったのが、「改正」後のそれは「能力に応じた教育」とされるようになって)「能力が低ければ低いなりに」と、「簡単なことしか教えず」「(たとえ難しくても生きていく上で必要不可欠な事柄なのに)どうせ解らないだろうからといって教えずにカットしてしまう」という手抜きを容認する考え方から、遅れがちな生徒には「もっと丁寧に多くの工夫と手を尽くして教える」という考え方に。
②学力観
 受験科目の偏差値学力(受験学力―狭く、細切れで、競争的・訓練的な学力)が学力のすべてであるかのように錯覚し、(学力競争は実は学力そのものを歪め、かえって学力低下を招いてしまうものなのに)「学力は競争の中でこそ伸びるものだ」と短絡的に考える。
 競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできないどころか、かえって伸びない者を作り出す。(古山明男氏によれば)上位層には、勝ち残るほどにハードルが高くなっていき、ずり落ちる不安がつきまとう。中位層は、上に這いあがろうとし、「やみくもに」頑張ってつじつまを合わせている。本当に理解していることは一部だけで、あとは丸覚えと「あてずっぽう」でなんとかしている、といったようなことが多く、あせりやすく、挫折しやすい。下位層は「またできなかった。わからなかった。もうどうでもいいや」とそっぽを向き、ドロップ・アウト。生きていくために本当に必要な学習への意欲をそぎ、本当に必要な学力(生きていくために必要な理解力や見通す力など)が身に付かなくなる。かくして全体が「地盤沈下」。
 学力とは、そもそも学べる力・生きる力(他から学びつつ、人間として自立して生きていかれる力―生活と密着した知識・技能、状況・変化への適応能力、コミュニケーション能力、学習に取り組む意欲、理解力・思考力・独創力・応用力・問題解決能力・実践力など)のこと。それらは、一人ひとり多様で、獲得すべき目標が異なり、到達度・進度が異なるのであって(画一的一括指導ではなく、本来、個別的指導を要するもので)、他者との比較や順位競争は何の意味もない。
 競争的学力観を刷り込まれてきた、その頭を切り替えなければならないのだ。
③テスト観
 テストを、生徒に順位を付け、「できる生徒」と「できない生徒」を選別し、学校・学級の序列を付けるためのものという考え方から、テストは、本来、個々の生徒について、その学習の成果―基準達成への到達度を確認するとともに、学習上のつまづきなど問題点を明らかにして、指導法の改善、カリキュラム・教育システム・教育環境の改善に役立てるためのものだ(だから、市販テストや外部テストではなく、教えている生徒の生活の中に題材をとった手作りテストが望ましい)という考え方に。
 尚、07年から毎年実施されるようになった全国学力テストは、新政権下で従来の全員参加方式からサンプル(無作為抽出)方式に切り替えられることになった。しかし、抽出された学校(3割)以外の学校も希望参加を認められたために(抽出校・希望参加校あわせて)73%(秋田県など11県は100%、愛知県は25.4%、山形県は53,9%)もの学校で実施されることに。希望参加が多いのは、教師たちは学テ実施の弊害(順位競争に目を奪われるなど)を恐れるのに対して、それにとんちゃくしない保護者や自治体首長たちの中に学テ参加と結果公表(開示)を求める向きが多いからだろう。
 このような全国(大多数参加)一斉学力テストが行われれば、教師たちにプレッシャーがかかる(成績の悪かった学校の校長や教員はハッパをかけられる)ことになる。彼らはテスト対策に迫られ、校長会や業者による模擬テストが県・市町村規模で繰り返され、生徒の特訓が行なわれることになる。その結果は、試験科目や出題が予想される部分・分野の得点が高くなるだけのことで、総体としての学力は低下していかざるを得なくなる。
 それに、テストに際して、先生が正解のヒントを教えたり、カンニング黙認などの不正まで行われる。これまでどこかの学校でこのような事実があったし、最近では2月に、福島県いわき市の中学校長会テストで、一中学校の教員が答案用紙の答欄に正解を書き入れたり書き直したりして50人以上の点数をかさ上げしていたことが、答案を返却された生徒がクラス担任に申し出たことによって発覚。栃木県・広島県などでも同様の不正が発覚しているとのこと(新聞報道による)。
 テストには、このような弊害が付き物なのである。

④学校観
 市場原理主義で、学校は塾や予備校などと同様(知識・技能・テクニック・試験問題の解き方などを売る)「サービス業の一種だ」として、コスト、効率(費用対効果)、数値目標の達成・成果の観点でとらえる考え方(生徒・親たちを「消費者」「お客」と考えて、「お客様のニーズ」に応え「客受け」のする目標の羅列と実績づくりにはしり、「・・・合格率~%」・「・・・達成率~割」・「いじめゼロ」「不登校ゼロ」などと何でも数値化して、その数値目標達成を競い、それにばかりに囚われる考え方)―成果主義・点数主義・競争主義・コスト主義・効率主義。
 また、国家や企業などの組織にとっては、学校は、人材確保のために生徒に学力競争させて選別する場と見なす。
 学校(中高)が学力競争の場に化し、選別機関化し序列化。高校をいわば大学進学の予備校のように見なし、大学進学率で学校評価をおこなう。
 名門校への合格者を多く出している学校が良い学校とみなし、学校を「進学名門校と二流・三流校、教育困難校」「頭のいい学校、わるい学校」などと峻別・差別する考え方。
 
 それに対して、ヒューマニズムの立場では、学校は「人間性の上に立って友愛の絆で結ばれ『学びの生活』を共にする(教え合い学びあう)場」と考える。
 生徒と教師、それに生徒同士が心でつながる。生徒・子どもたちは教師から、単に知識・技能・テクニックを学ぶだけでなく、人としての生き方・心のあり様まで学ぶ。人間性や心は点数では計れないし、数値など出せない。
 
 前者のような人間性不在の学校観から後者の人間性中心の学校観へ、切り替えが必要。
⑤人間観―教師観・生徒観
 学歴・名門校入試合格で人を評価する考え方。
 教師をティーチング・マシーンとしか見ない考え方。
 他の生徒をライバルとしか見ない考え方。
 これらの考え方から、人は人間性と生き方と仕事で評価すべきもの。教師・生徒同士は互いにパートナー(協力者)・「友愛精神で連帯する市民仲間」、という考え方に。
⑥社会観
 「学歴・競争・序列社会」―「自己中心主義・分断・孤立社会」を肯定する考え方から、21世紀の世界、この国、この社会は「友愛の絆で結ばれ、援け合う共生社会」でなければならないとする考え方への転換。

 以上のように、教育にたいする考え方・意識の転換、発想の転換が全国民に必要なのだ。
 そのような国民的理解と国民意識変革のうえに立って、高校教育は義務教育化し、無償化とともに、入試制度の廃止にまで踏み切るべきなのだ。

 参考文献:①古山明男著「変えよう!日本の教育システム―教育に競争はいらない」(平凡社)②尾木直樹著「変われるか!日本の教育」(新日本出版社)

2010年03月30日

普天間基地問題(加筆版)

在日アメリカ軍、全体で4万人前後。
その内、海兵隊1万4,400人
    空軍 1万2,750人
    第7艦隊 6,850人
    陸軍   2,580人
    海軍   3,700人
米軍基地の数85ヵ所、総面積307平方キロ、その4分の3は沖縄に。
 沖縄駐留人数は1万2,000人
普天間基地は現在、宜野湾市のど真ん中にあり、全市面積の26%を占める。
 この基地に所属する部隊―ヘリコプターを中心とする海兵隊の航空部隊、2つの防空ミサイル部隊、特殊作戦部隊など、人員―軍人・軍属3,700人、日本人従業員207人
 常駐航空機―ヘリコプター56機、固定翼機15機など

 03年、沖縄視察に来たラムズフェルド当時米国防長官は「まるで占領の継続だ」と。
とりわけ普天間基地は「世界一危険」と言われている。 
 そのような普天間のアメリカ海兵隊はどうしても(沖縄県内の他の場所か県外、日本のどこかに「代替地」を探し、「移設」して)居続けてもらわなければならないのか?普天間基地は、「とにかく(無条件)撤去]ではだめなのか?

海兵隊基地必要論
 日本を外敵から守ってもらうために、またアジア太平洋地域の安定のためにも脅威(北朝鮮・中国など)に対する「抑止力」として居続けてもらわなければならない。それに、アメリカにとって戦略上、地政学的位置からしてそこに基地を必要としており、そのアメリカとの同盟関係、その信頼をつなぎとめる(アメリカの機嫌を損なわないようにする)ために基地提供は維持し続けなければならない、と。
 朝日新聞の論調
09.12.16社説「(在沖海兵隊は)日本防衛とともに、この地域の安定を保ち、潜在的な脅威を抑止する役割をもつ」。
09.12.29社説「日本の防衛や地域の安定のため、沖縄の海兵隊が担ってきた抑止力は何らかの形で補う必要がある」。
10.1.19社説「核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を考えれば、安保体制の与える『安心感』が幅広く共有されている」。
3月5日社説「北朝鮮の脅威や軍事大国化する中国の存在を考えれば、今ただちに海兵隊すべてをグアムに移すわけにはいかない」など。
 NHKなど日本の主要メディアは、外務省やアメリカの「知日派」の発言―普天間基地の当初の(名護市反野古沿岸部への)移設計画変更は「日米合意・国際公約に反する」「アメリカは怒っている」といった言説―を鵜呑みにしたかのようなアメリカ寄りの論調で報じている。
 拓殖大学の川上高司教授は「日本の周辺に軍事的脅威がある限り」それは必要だとして、「中国軍の台湾上陸への対処」、「北朝鮮の韓国侵攻への対処」、「尖閣諸島・先島諸島など離島防衛」、「アジア太平洋地域の災害救援」などの事態を挙げている。(但し、同教授は、航続距離の長い垂直離着陸輸送機MV22「オスプレイ」や高速輸送艇など軍事技術の進歩で、沖縄にいるのと大差なく部隊を運べるようになる可能性が高いとも指摘している。)

さて、はたしてどうなのだろうか。
そもそも海兵隊というものは
 それは、本来「遠征軍」であり、前線基地はいらないはず。元防衛庁在職・内閣官房副長官補だった柳沢協二氏(現、防衛研究所特別客員研究員)によれば、それは「いつでも、世界のどこへでも出動する。特定地域の防衛に張り付くような軍種ではない。したがって『沖縄かグアムか』という問いには軍事的正解はない。(現に、いまイラクとアフガンでの戦闘に派遣され不在なことが多い―引用者)」「『海兵隊の抑止力』という考え方の本質的な意味は『いざとなったら海兵隊を使う』ということ。例えば、中国が台湾に侵攻した場合、海兵隊を投入すれば、米中は本格的衝突になり、核使用に至るエスカレーション・ラダー(緊張激化のはしご)も動き出すかもしれない。」要するに、それは中国と台湾の戦争を抑止するどころか、米中戦争への発展にさえつながる、その動因ともなる、ということだろう。(氏は「米国にとってそれは正しい選択なのか。日本は国内基地からの出撃に事前協議でイエスと言うのか」と指摘している。)
 また、軍事評論家の田岡氏(朝日ニュースターの討論番組「パックイン・ジャーナル」のコメンテータ)によれば、在沖海兵隊の任務は日本防衛ではなく、東アジアでの緊急事態への即応部隊なのであって、ソウルとか上海とかシンガポールなどで、万一動乱が起きたりした時に、在留邦人・外国人を救出するために現地に派遣され「強襲上陸作戦」にあたるのが主たる任務。そのさい、救出する優先順位は、一に米国人、二番目にグリーン・カード(米国永住権)を持つ人々、三番目にイギリス人やオーストラリア人などアングロサクソン系の人々、四番目にその他の人々で、日本人はその他の部類になっているとのこと。けっして「日本人を守るための海兵隊」と言えるような代物ではないわけだ。
 そもそも米国政府は海兵隊が「日本防衛のための抑止力だ」といったことはないのだという。
 1982年、ワインバーガー当時米国防長官は(上院歳出委員会で)「沖縄の海兵隊は日本の防衛に当てられていない」と証言しており、91年にはチェイニー当時米国防長官は(下院予算委員会で)「世界的な役割を果たす戦力投射部隊」と証言している。
 最近では、3月17日にドノバン米国務副次官補が(下院外交委員会の小委員会の公聴会で)、中国脅威論に対して「日本は中国の台頭によって脅かされてはいない」と証言。
 米外交問題評議会のスミス上級研究員は「米軍は受入れ国とその国民の求めに応じて奉仕しているのであって、もし海兵隊の撤去を求められれば、海兵隊は出ていく必要がある」と指摘。

 在日海兵隊は、もともと朝鮮戦争の後方支援部隊として、本土の静岡や山梨・岐阜などに駐留。それが各地住民の反対運動の高まりで、50年代の後半に、未だ本土復帰せず米軍統治下にあった沖縄に移転・集中することになったもの。

それでは、そもそも普天間基地は
 1945年3月下旬、米軍が沖縄に上陸、地上戦を開始、6月、日本本土を攻撃するために基地建設―宜野湾村の住民を収容所に押し込めている間に、土地・農地を奪って村の中心部(役場や学校があった場所)を基地に変えてしまった。―これは戦時国際法(ハーグ陸戦法規)で、戦闘状態の中で民衆の財産を侵害することを禁じた条項に違反。
 その普天間基地は、本土各地に駐留していた海兵隊の沖縄移転にともなって、54年「銃剣とブルドーザー」で周辺住民を排除して、さらに拡張。

95年、海兵隊兵士による少女暴行事件
96年4月普天間返還合意。ところが12月SACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意で普天間基地の「県内たらい回し」の方向に。
02年名護市反野古沖(埋め立て)合意
04年、沖縄国際大学、米軍ヘリ墜落事件
05年、反野古沿岸部に再修正合意(V字型滑走路など新基地建設案)
06年、在日米軍再編のロードマップ(工程表)に合意(普天間基地の反野古沿岸部への新基地建設移設とともに、海兵隊8,000人のグアム移転(但し、日本政府は公式に「1万人の戦闘部隊を残す」と言っており、現実に減らすのは2,000人程度)、嘉手納基地以南の米軍施設の全面返還も)。

普天間「移設なしの全面返還」(無条件撤去)論
 2月末、沖縄県議会は普天間飛行場「早期閉鎖・返還」を決議。
 田中均元外務省審議官は(橋本内閣当時、96年12月のSACO合意で普天間基地の県内「たらい回し」策を推進した中心人物なのだが)、沖縄県民の持続する反対意志の強さと国際環境の変化を理由に、「移設なしの全面返還を可能にする条件は何かについて、もう一回米国と話しをするべきだと思う」と述べている、という。

最善の選択肢は 
 普天間基地の沖縄県内の他の場所か他県への「移設返還」と「移設なしの無条件返還」(グアムなど国外への移設)のどちらのデメリットが大きく、どちらが難しいか。
 ポイントは①「沖縄県民の負担軽減」と②「抑止力の維持」、これら2点その他③「アメリカとの友好関係の維持」など諸点を総合して、どちらのデメリットが大きいかだ。
 ①「負担」とは基地があることによって被る迷惑・危険・損害・損失のこと。その点ではどうか。
 日本での米軍事件・事故は52年4月~09年3月までで20万6,805件(施政権返還以前の沖縄の分は含まず)。被害にあって死亡した日本人は1,084人。
 ②「抑止力」とは、「平和な生活が守られる」という「安全保障」。その点ではどうか。普天間にいた海兵隊から居なくなられると日本の防衛およびアジア太平洋地域の安定にどれほど支障を来たすというのだろうか。
 ③「アメリカとの友好関係維持」の点ではどうか。
 
 そもそも「移設」と「無条件返還」とで、どちらが難しいかだ。「移設」は、名護市反野古沿岸部(現行案)にしろ、名護市のキャンプ・シュワブ陸上部(ヘリポート増設)・徳之島(訓練施設)などへの基地機能の分散移設と「うるま市」のホワイト・ビーチ沖(埋め立て新基地建設)への2段階移設案にしろ、長崎県の大村・海上自衛隊基地への移設案にしろ、「広く国民の間で基地負担を分かち合う」といっても、「移設先」候補地の地元自治体はどこも首長は反対を表明し、議会は反対決議をしている。それらを押し切って移設・新基地建設を強行することは不可能であり、説得も難しく、移設先を沖縄県内にしろ県外にしろ日本のどこを探しても八方ふさがりとなる。
 それに対して「移設なしの無条件返還」という場合は、とにかく普天間基地を撤去するということであり、移設するなら日本領外・アメリカ領のどこかへということなのであって、その移設先(グアム島であれテニアン島であれハワイであれ)を考えるのは日本政府ではなく、アメリカ政府が考えるべきこと。それでアメリカにとって不都合が生じることになるとしても、それは到底受け入れ難い不都合なのか、日本側(とりわけ普天間基地住民・沖縄県民)の不都合に比べてどうなのかだ。
 アメリカの都合の中には、軍部などの考える戦略上の都合の他に、経費節減すなわち基地経費を日本政府から負担してもらえるので、基地は日本に置いた方が安上がりだというアメリカにとってのメリットもあるわけだ。(「思いやり予算」2,000億円前後、その他、民有地の借り上げ料、税金の減免など、5,382億円―それは他のアメリカ同盟国26ヵ国を合わせた分より多い)。
 このようなアメリカの都合と沖縄県民・基地住民の都合のどちらを優先するか。
 アメリカに普天間の海兵隊を引き上げてもらって、その基地を撤去すると、アメリカとの同盟関係に決定的にひびが入り、友好関係が崩れるなどということに、はたしてなるのだろうか?基地を全面撤去したフィリピン(交渉では、フィリピン側が基地撤去の話しをもちかけたのに対して、アメリカ側―交渉団長アーミテージ国防次官補―が「激怒」し、「会談決裂」等あったが、フィリピン上院は基地存続の条約批准を毅然として否決した。その後、それで両国の外交関係は決裂するどころか、非軍事の協力関係はむしろ発展している)をはじめ他のアメリカ同盟国で、基地を撤去・縮小してアメリカと関係を断絶したり悪化した国などあるだろうか。

 また普天間のアメリカ海兵隊から居なくなられると、「抑止力」が低下して、日本国民も、アジア太平洋地域の諸国民も、そんなに危うくなるのだろうか。中国にしても北朝鮮にしても、自ら被るリスク・不利益をかえりみずに、向こうから攻撃をしかけてくるなどということがあるのだろうか。北朝鮮の場合は、制裁によって追い詰められて苦し紛れに「破れかぶれ」の自爆的攻撃にはしる可能性がなくはないが、そのような理性を失した相手に対しては、どっちみち抑止力は効かない。(そもそも抑止力とは、へたに攻撃をしかけたりしたら、それを上まわる報復攻撃をこうむり、かえってひどい目にあうに違いないと相手に意識させることによって、攻撃を思いとどまらせる軍事力を備えることであるが、いかに圧倒的な軍事力を備えていても、自爆テロには通用しないのと同じである。)
 これらのことを勘案すれば普天間基地は「移設なしの返還」即ち無条件撤去が最善の選択肢だというほかあるまい。

 いま、鳩山政権は、この問題で「迷走している」。他の失点・無策とも重なり、「政権にとって命とりになるかもしれない」「さあ、鳩山政権はどうなるか」などと批評ばかりしていたり、他人事か高見の見物をきめこんでいる場合ではない。沖縄・普天間の住民の身になって声をあげなければならない。「鳩山さん、普天間は即時閉鎖・撤去されるよう決断して下さい!」と。
 

2010年04月26日

今こそ「安保」見直しの時(その1)

 日米安保50周年―1960年、日米安保条約の是非をめぐって国中が大騒ぎした(「アンポ・ハンターイ」の声が全国を覆い、大デモ、ストライキ、国会包囲など激しくくり広げられた)中で、自民党政府は条約改定を強行したうえで岸内閣は退陣した。あれから半世紀経って「冷戦終結」など国際情勢はがらりと変わったにもかかわらず、安保(日米同盟)体制は今もって続いており、沖縄はじめ各地に米軍基地が維持されている。
(1)普天間問題
 鳩山政権は、そのうちの普天間基地というただ一つの基地(国外か最低でも沖縄県外へ移設と公約してきたが、それをどこに移設したらいいものか)をめぐって「迷走」している。野党各党・各メディアとも「迷走」を批判し、「さあ、移設先をいったいどこにするのか!移設先の住民もアメリカも納得するように、首相が自ら約束したとおり5月まで決着できなければ、退陣するしかない」とせっついている。
 しかし、われわれ国民は、鳩山内閣を退陣させさえすればよいというわけでは勿論ないし、日本のどこかに移設先が決まりさえすればそれでよいというわけでもない。
 そもそも普天間基地は、その周辺間近かで暮らしていて毎日危険にさらされ様々被害をこうむってきた住民にとっては、要求は基地の閉鎖・撤去、この一点に尽きる。
 ところが我が国政府は、米国政府に対して毅然として「とにかく立ち退かせていただきたい!」、「引き取っていただきたい!」とは言えず、代替地・移設先を探してやり、移転経費の負担も引き受けるから、というふうにして移転に応じてもらおうとしているのである。「日本は米軍から守ってもらっており、その基地は外敵に対する抑止力になっているのだから、移設先探しと経費負担を引き受けないわけにはいかないのだ」というわけである。
 しかし、普天間基地は米軍が沖縄占領時、戦時国際法に違反して土地を強奪して作り上げた基地であり、住民にとっては無条件返還・基地撤去が当然。
 日本政府に条約上基地提供義務があり、沖縄県内であれ県外であれ、アメリカ軍にとって戦略上の好適地ではあっても、地元住民がOKしない限り、そこに基地を置くことは出来ず、そこは避けなければならない。アメリカもそれは解っているはず。(米国外交問題評議会のスミス上級研究員は「米軍は受け入れ国とその国民の求めに応じて奉仕しているのであって、もし海兵隊の撤去を求められれば、海兵隊は出ていく必要がある」と指摘しているとのこと。)
 米軍の日本防衛協力にともなう基地提供義務があるといっても、そもそも「海兵隊」というものは(イラクやアフガンなどへの)海外出撃や海外在留邦人などの救出を任務にしており、「日本を守る」ことなど役目にはしていないのであって、それへの基地提供は、「思いやり予算」などと同様、義務外のことなのである。(日本の防衛以外の戦闘作戦行動のための基地使用には条約上は「事前協議」が必要なのに、「密約」によって、アメリカ軍は勝手にやれている。)
 普天間基地返還について前政権と米国側との間で「代替基地が出来たら移転」との移設合意があるとしても、(普天間基地の閉鎖・返還は14年前の4月に日米の間で合意していたものを、反野古など移設先が決まらないために先延ばしされてきたが)移設先・代替基地ができないからといって、もうこれ以上、そのまま普天間に海兵隊が居座り続けるなどということは許されない。普天間では住民が65年もの間危険と隣り合わせに、日々深刻な迷惑・被害をこうむり、今日・明日にも惨事が起きるかもしれない不安にさいなまれながら暮らしており、とにかく一時も早く閉鎖・撤去してもらうことを切望しているのだ。今々、(イラク・アフガン戦争などは論外として)周辺「有事」で、そこから部隊がいつでも出動できるようにしておかなければならない事態が差し迫っている状況でもあるまいし、移設先など後回ししてもいいのである。
 「とにかく、先ず以て普天間の基地を一日も早く閉鎖・撤去させていただきたい!」と首相はアメリカ側に対して迫るべきなのであり、我々国民も、それを後押ししなければならないのだ。
 普天間基地の移設先探しなどは、そもそも、それを必要とし利用するアメリカ側が考えるべきことなのであって、グアムであれテニアンであれ、或は韓国であれ、日本のどこかであれ、はたしてどこにすればよいか、一番悩まなければいけないのはオバマ大統領やゲーツ国防長官たちのほうで、日本の首相が一人で悩み、すべてをかぶって退陣を余儀なくされるような問題ではないのである。
 政府は「移設先政府案」など、拙速に作って出す必要なんかないのだ。
 日本の首相は、アメリカに対して「普天間基地は、とにかく、早く引き取って、そこから部隊は立ち退かせていただきたい」と要求し、「移設先などは、グアムなりテニアン島なりアメリカ側で引き取ってくれるのが一番いいが、両国政府でもっと時間をかけてじっくり検討することにいたしましょう」と言っておけばいい話しなのだ。
 メディアも、自国政府のほうにばかり、「移設先をどこにするか早く決めろ」とせっつき、(朝日新聞など)日本が「基地負担」を「国民全体で分かち合って」引き受けるしかないかのように書き立てている向きがあるが、そのほうがおかしいのである。
(2)今こそ安保見直しの時
 政党では、共産党などが日米安保解消を主張している以外には、自民・民主・公明、それに、このところにわかに増えた「新党」など、各党とも日米安保体制・日米同盟路線は堅持、それに主要メディアも日米同盟は不動の既定路線であり、議論の余地など全くないかのように済ませ、鳩山首相「退陣」か、参院選はどうなるかなど政局だけを話題にしている。
 今われわれが問題にしなければならないのは、単に、普天間という一基地の移設先をどこにするかとか、沖縄県民の「基地負担」軽減だけの問題ではなく、安保(日米同盟)そのものをどうすべきかということなのである。
 この国はアメリカに対して、いつまでも基地を提供し続け、「思いやり予算」など経費負担を引き受け、住民に深刻な危険・迷惑を押し付け続けるなど、そこまでして米軍から守ってもらわなければ立ち行かない国なのであろうか。
 実際問題として、米軍は日本を守ってくれているのだろうか。その検証が必要なのだ。
 そもそも我が国にとって、今後にわたって日米同盟・米軍基地など、どうしても必要なのか、日米安保そのものを見直すべき時なのであり、その国民的議論が迫られている時なのだ。


 

2010年05月04日

憲法と安保

 マスコミの世論調査は改憲の是非を度々問うているが、日米安保の是非を問うたためしはあまりない。日米安保・日米同盟はなんら問題ないかのように済ませているのだ。それがおかしいのである。
 「65年も続いた日米安保はまだ我が国に必要か」、「米軍の駐留、米軍基地はまだ我が国に必要か」、「9条と日米安保とでどちらが日本の平和と東アジアの安定により役立つと思うか」、「9条と安保とでどちらを選ぶか」など国民に問うてみるべきなのだ。
 憲法と日米安保とは法的には基本的に両立しないのだ。
 60年の安保改定の前年「砂川事件」で東京地裁は、安保条約による米軍駐留に対して「9条が禁止している戦力の保持に当たる」として安保条約を無効とし、違憲判決を下している。ところが駐日米大使が最高裁長官と密談、圧力をかけて(その会談録が最近の「密約」開示とともに明かるみになった)、跳躍上告(高裁を経ずに最高裁に上告)にもちこみ、最高裁は統治行為論(高度に政治性をもつ問題は司法審査の対象にはなじまないとする議論)によって破棄差し戻しをした。
 65年も経って時代状況ががらりと変わった今、安保・米軍基地を存続すべきか、廃棄・撤去すべきか、根本的に問い直さなければならない時だ。
 決着すべきは一基地の移設先をどうするかだけでなく、安保そのものをどうするかの議論なのである。

2010年05月07日

戯曲「沖縄県伊江島を思う」上演を待ち望む

相澤嘉久治作―普天間基地問題で混迷している今この時に書き下ろし
「月刊素晴らしい山形」4月号に脚本が掲載
アメリカ施政権下の沖縄県伊江島。米軍基地建設にともなう土地の強制接収に抗した
村人の苦闘を描いた実話。

 本土では「琉球と朝鮮、犬お断り」と差別された沖縄人。
 「沖縄の土地はアメリカのものだ。われわれが日本人から血を流してとった島だ」と言い立てる米軍人。
 アメリカの「ソ連抑止・中国封鎖」の極東戦略。
 「以前は悪い親(日本)を持ち、今はアメリカという立派な親を持って、思っていることをこんなに自由に話すことができて嬉しいとは思いませんか」と米軍将校。
 しかし「軍政府は猫で、沖縄は鼠、猫の許す範囲しか鼠は遊べない」。
 強制接収強行「武装兵たち、農民の群れに向かって襲いかかる・・・・怒号・喚声そして悲鳴・叫声」。

 「昔、鬼畜米英という言葉を教えられ、そのアメリカがわれわれにものをくれる人間だったのにびっくりしたことがありましたが、やはりアメリカは人間の皮をかぶった鬼畜生であったと、こんどつくづく・・・・」。
 そして村人たち、沖縄中を「乞食行進」・・・・。
 「私たちの大切な土地を取り戻すために、また闘いつづけます。」と。

 今なお伊江島の総面積の約3分の1もが、米軍基地という。
 普天間基地も、米軍が沖縄に上陸して占領と同時に土地を強制接収、住民の抵抗を排除して建設されたのだ。
 
 劇は9つのシーン―からなるが、舞台上でどのように展開されるのか、早く見てみたい。現実の普天間問題の展開にあわせて一日も早く上演されることを期待してやまない。

2010年05月14日

今こそ「安保」見直しの時(その2)(加筆版)

安保見直しの論点
(1)日米同盟・米軍基地は抑止力?
 アメリカの「核の傘」も普天間の海兵隊も「抑止力」だというが、はたしてそうなのだろうか。北朝鮮も自らの核・ミサイルを「抑止力」だと言っている。
 中国や北朝鮮の軍備、核やミサイルを「脅威」だといえば、向こう側もアメリカ・日本の軍備を「脅威」だと思っているのだ。(マレーシアの元首相マハティール氏は都内で5月中開かれた国際会議で講演し、「国によっては、日本に基地があること自体が脅威だと感じるところもある」と指摘し、在日米軍基地の増強は「緊張状態が生み出され」、逆に中国などの周辺国の「敵意をあおってしまう」と。)
 朝日新聞は、社説(5月14日付け)で「東アジアの安定装置としての日米同盟の機能は大きい」とか「米国がグローバル・パワーたりえているのは太平洋からインド洋までをカバーする在日米軍基地があってのことだ」として日米同盟・在日米軍基地を肯定している。「安定装置」だとか、「プレゼンス(存在)効果」だとか、「抑止力」だとか、そのような言い方をするといかにも合理性があるように思ってしまうが、それは日米同盟と米軍基地、それらの存在が諸国に「脅威をおよぼす」ということにほかならない。みんな米軍に脅威を感じ、怖がっておとなしくするから無事平穏が保たれるのだ、というわけか。しかし、はたしてそうだろうか?
 どの国も、米軍が恐ろしくて無法な攻撃・侵略をひかえているというわけではなく、無法(国際秩序を乱し、主権を侵害する行為)だからひかえ、国際秩序・ルールが乱れれば、かえって国益を損なう結果になるから、それをひかえているだけのこと。
 昔から互いに領地や植民地・生活圏・勢力圏を武力で奪い合い侵食し合った時代は前世紀まで続いたが、21世紀の今は地球環境・資源の相互利用・保全、全世界にわたる産業・貿易・金融・人材の相互交流・依存、利害共有の時代であり、国際秩序・国際ルールを守ったほうが有利であり、無法をはたらき、秩序を乱すと不利益・損失をこうむるという、そういう時代になっているのだ。
(北朝鮮は「何をするかわからない無法国家」と見られているが、かの国は、アメリカとは朝鮮戦争以来、法的には未だ戦争状態にあり、日本とも、かつての植民地支配で受けた様々な被害に決着<清算>がついていない不正常な状態に置かれているのであって、その責任はアメリカ・日本にもあることを見落としてはなるまい。)
 朝日の同日の投稿には「米軍の抑止力が利いているから、我が国の安全保障が機能している」と書かれているのもあったが、いずれも一方的な考え方であり、そこには、かつてのソ連や現在の北朝鮮それに中国も「脅威」で、アメリカはそれらから日本とアジア太平洋地域の安全を守ってくれる国だとの決め付けや思い込みがあるわけである。
 北朝鮮・中国が脅威だといって、「抑止力」・「安定装置」として日米同盟が必要だというが、それが相手側にとっては脅威となり、相手側の同様な「抑止力」増強(兵器の開発・実験、装備の更新、訓練・演習など)を促す。最近起きている韓国哨戒艦沈没事件、中国海軍ヘリの海上自衛隊護衛艦への異常接近事件(中国側から見れば、「公海上を潜水艦が国旗を掲げて浮上航行しているのに日本の艦艇のほうがまとわりついてきた」と)などにも見られるように、日米同盟は「安定装置」どころか、むしろ不安定を招く結果になっているのでは?。
(2)軍備はどれだけあれば大丈夫?
 軍備(施設・装備・兵員など)はいったいどれだけ備え、(限られた予算と環境の中で)どこまでそれらに税金を投入し、リスク負担を甘受すれば大丈夫だといえるのか、それは検証しようがないし(客観的に検証することは不可能)、「実際にどういうシナリオで有事になるかを予測することは不可能だからだ」(新米国安全保障研究所アジア上級部長のパトリック・クローニン氏)。「そもそも日本の平和が保たれてきたからといって、米国の『核の傘』が効いたためかどうかは、証明しようがない」(黒崎輝・福島大学国際政治学准教授)。
 疑心暗鬼にかられるまま、相手に負けまいとして、ただひたすら軍備を増強していくしかない。どんなに予算(「防衛費」)を投入しても切りがなく、際限なく掛け金を払い続ける保険(それ自体は抑止力にはならない気休め)のようなもの。そして互いに軍備を増強しあい拡張しあう(エスカレーション)。その現実は戦争の危険や軍拡を、抑止するよりは、むしろ誘発して緊張、一触即発の事態をまねく結果にもなるのだ(かつての米ソ軍拡競争、「キューバ危機」などに見られるように)。
 軍備を増強すれば軍事作戦上は有利に作戦を展開でき、「負けない戦(いくさ)」ができるということにはなるが、それは、その戦闘(殺傷・破壊行為)の結果の悲惨をもたらしこそすれ、無くすことはできない。
(3)軍備は戦争抑止になるのか、それとも?
 市民レベルで言えば、民間の銃保有は、我が国では禁じられていて、殺人件数は(03年)10万人当たり0,02人であるが、アメリカ(州ごとに届出や許可を必要とするなどの規制はあるものの、建国以来憲法で「国民が武器を保持する権利」として基本的に認められていて、33,5%もの世帯が銃を保有している)では、殺人率は4人で世界一多く、アメリカなどに続いて3番目に銃保有が多いフィンランでは0,35人で、我が国よりもはるかに多い。
 かつてアメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったが、その時、彼はハロウイン祭で入っていこうとした知人の家を間違えて不審者と見違えられて撃たれた。発砲した人は、銃など持っていなければ、まず言葉をかわしたはずなのだ。
 市民の銃保有は殺人抑止にはならないどころか、かえって誘発・多発を招く。それと同じで、国の軍備も同盟軍基地も戦争抑止にはならないどころか、かえって誘発を招く、と言えないだろうか。
(4)抑止力には戦争の覚悟
 抑止力―それを備えて置けば、攻撃されず、戦争しかけられないから安心か?
「抑止力」とは「脅威」に備えた軍備のことであり、(北朝鮮の核・ミサイルも、潜水艦魚雷も、それに対する韓国の哨戒艦も、米韓同盟・日米同盟も、アメリカの「核の傘」も、ミサイル防衛システムも、海兵隊基地も)相手側に対して「やるならやってみろ、反撃されて、かえってひどい目にあうぞ!」といって、相手に攻撃を思い止まらせるアピ-ルであると同時に、応戦の用意をなすものであるが、それは、結局は戦争を呼び込むものであって、戦争を回避するものではない。お互いに「抑止力」と称して軍備を(軍事同盟・基地も含めて)築き合って、戦争を呼び込み合い誘発し合うことになるのだ。(軍備そのものが、威嚇であり、挑発でもある。)哨戒艦沈没事件で韓国側が、武力侵犯には「即刻、自衛権を発動する」と言いたてれば、北朝鮮側は「核抑止力を拡大・強化する権利がある」と言いたてる。
 その軍備は、「脅威」と見なされている相手国からみれば、やはり脅威なのであり、「攻撃されるかもしれない」・「戦争になるかもしれない」という覚悟を強いられる。
 「抑止力」(軍備)というものには、「いざとなったら戦争する覚悟」(「攻撃も辞さない」という意思)を前提にしており、それはかえって攻撃や戦争にはしらせるか、相手のそれを誘う危険性があるが、そんなものを置いておかなければ(戦争しようにも、やりようがなく)戦争にはならない道理なわけである。
 日米同盟・米軍基地など無ければ諸国に対して脅威を与えることもなく、敵視され標的にされる心配はないが、「抑止力だ」などと称してそれにすがりついていると、かえってアメリカの戦争にまきこまれる結果になる。
 朝鮮戦争の時、ベトナム戦争の時、それにアフガン・イラク戦争でも、沖縄その他日本の基地から米軍が出撃しても、(北朝鮮や中国、北ベトナム、タリバンなど)向こうから撃ち返されて日本が攻撃されることはなかったが、今度、北朝鮮や中国に対してそれ(米軍が日本の基地から出撃、自衛隊が支援)をやったら、向こうが日本に核・ミサイルなどを撃ち返えしてきて戦争になったとしても、日本国民は、それは(その結果の悲惨も)覚悟ができていると、はたして言えるのだろうか。
(5)北朝鮮は攻撃しかけてくるか?
 はたして北朝鮮は我が国にたいして一方的に攻撃をしかけてきたり、攻め寄せてくるようなことがあるのだろうか。
 北朝鮮側にとって、それに何のメリットがあって割が合うというのだろうか。
 そもそも北朝鮮は弱小国。韓国の通常戦力と大差。核やテポドンは戦闘のためというよりは、むしろ抑止と強行外交の(カードにする)ためとみられる。但し、ノドンとムスダン(中距離ミサイルで日本は射程内)は実戦配備。多連装ロケットや長距離砲は「ソウルに、半日で5千発」を打ち込める(「北」が「ソウルを火の海にしてみせる」というのはあながち嘘ではない)との報道(週刊誌「AERA」6月7日号)もあり。
 それにしても、「異常な国で、何をするか分からない国」との思い込みがある。
 しかし、北朝鮮は、リスクをおかして日本を攻撃しても、何のメリットもないことは百も承知。
 北朝鮮が我が国に攻撃をしかけてくることがあり得るとすれば、それはどんな場合かといえば、「窮鼠猫をも噛む」(追い詰められて苦し紛れに暴発―自暴自棄的暴挙)といった事態だろう。「追い詰める」のは米中日韓など諸国の軍事的圧力と経済的圧力にほかならない。だとすれば、それはこちら側の問題でもあろう。
 (『世界』1月号掲載、坂本義和「東アジアを超えた『東アジア共同体』の構想を」によれば)我々が北朝鮮を「脅威」と感じているのと同じように、いやそれ以上に北朝鮮も米・日・韓同盟による核と通常戦力の脅威を感じている。日米安保を強化すればするほど、北朝鮮はそれに応じて軍備強化や核開発を行い、脅威もそれに応じて増大する(「負のスパイラル」)、というのが実態。
 ミサイル・核兵器の開発―それにはアメリカの通常戦力・核戦力の脅威から自国の存立を守るという動機がある。それに、金正日政権にとって最大の課題は「体制の生き残り」であり、国内向けには疲弊・飢餓にあえぐ国民に「軍事大国」を誇示し、対外的にはアメリカに対して直接交渉を求めて気を引くために核・ミサイル実験を強行―それに対して「米国は『先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば休戦協定の平和協定への格上げや経済支援などを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む』と主張するが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝関係正常化や平和協定を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、相互に軍縮を進めるという道をとるべき」なのだ、という。
 今や北朝鮮有事が迫っている?―3月の韓国哨戒艦沈没事件で軍事的な緊張が強まり、軍事衝突の可能性が強まる。北朝鮮は米日韓の軍事的圧力・経済制裁の強化で追い詰められ―戦争瀬戸際強硬政策―暴発―体制崩壊・大混乱へ。その過程が加速しているわけか?
 いや、しかけるとすれば、それはアメリカのほうだろう。(1993年、北朝鮮が核開発をめざし、NPTを脱退したのに対して、クリントン政権は北朝鮮の核開発施設を爆撃する米韓共同作戦を計画した。しかし、死傷者は米軍5万2,000人、 韓国軍49万人、民間人を含めれば100万人を超えるという見積もりが出て、アメリカは攻撃実行を踏みとどまったという。)北朝鮮が核搭載弾道ミサイルを(今は未だだが)完成させれば、アメリカは「第二次朝鮮戦争の引き金を引く」との見方を防衛省幹部が示しているという。
 その時、北朝鮮は反撃し、日本の米軍基地や政治・経済の中枢に中距離・短距離ミサイルを撃ち込み、特殊部隊を送り込み、それに日本は応戦、ミサイル防衛システムで迎撃するが、その命中率は疑問視されているとのこと。(東京新聞の半田滋氏―世界6月号)
 日米安保と米軍基地を維持しているかぎりは、それも覚悟しなければならない、というわけか。
 日本や韓国の基地は、北朝鮮の暴発防止のために必要だと論じている向きが多いが、はたしてそうか。むしろそれは逆なのではないか。基地を置いたり、或は「哨戒艦」などが軍事境界線(「北方限界線」)に近づいて(北朝鮮側が主張するもっと南の境界線は越境)演習などしたりするから、魚雷攻撃を招く結果になっているのでは?(昨年11月、その以前にも同じ海域で銃撃戦があり、北朝鮮のほうも艦艇が撃沈されたり、死者を出したりしている。)今回は、無法なのは、一方的にいきなり魚雷攻撃を行ったほうであり、韓国の「哨戒艦」は被害者。だが、哨戒艦などの軍備は魚雷攻撃に対する抑止力にはなっておらず、むしろそれを誘発する結果になっているとも言えないだろうか。
 米韓側は北朝鮮側の関与を(その証拠なるものは分析検証の余地が全くないかといえば、そうでもないのだが)断定し、新たな制裁を決め、日本がそれに同調しようとしている。それに対して北朝鮮側は関与を否定し、「制裁なら全面戦争も」との声明を発している。北朝鮮はますます窮地に追い込まれ、「窮鼠猫をも噛む」暴発―「第二次朝鮮戦争」への可能性が強まっている、ということだ。(5月22日朝日ニュースターの番組パックイン・ジャーナルで軍事ジャーナリストの田岡氏は「普通に考えれば、戦争になる可能性は五分五分」だろうと。)
 韓国・日本両政府とも、米軍の「抑止力」にすがりつき同盟・基地の堅持のほうへ傾く、とすると、それは、第二次朝鮮戦争が始れば、北朝鮮から日本にも攻撃の矛先が向けられ、それに対して自衛隊が応戦(個別的自衛権を発動して参戦)する、その覚悟が日本国民に求められることになるということだ。
 哨戒艦沈没事件で韓国大統領は国民に「覚悟」を求める「談話」を発表した。韓国国民の中には「戦争を覚悟するぐらいの姿勢が必要だ」という人がいる一方、「軍事衝突だけは避けてほしい」という人もいるとのこと。韓国大手メディアの世論調査では軍事対応に反対する人が多く53%。その後の韓国の統一地方選挙の結果は、対北強硬路線をとり国民に戦争の覚悟を求めた政権与党が、それを警戒する野党に大敗を喫している。その後、韓国大統領は(訪問先のシンガポールの経済関係者との懇談で)「全面戦争の可能性は絶対にない。(局地的な平和を脅かすことが時々おきるが、抑止していく)」と表明したという。
 
 「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と定めているのは日本国憲法(前文)である。北朝鮮国民の場合はどうか。我々日本人にとっては北朝鮮が脅威であり、その核・ミサイルは恐怖なのだが、北朝鮮の方も、(アメリカとは、60年前以来の朝鮮戦争も、休戦はしているものの、戦争自体はまだ終わってはいないし、日本からは、100年前の日韓併合以来恐怖を強いられてきた植民地支配にたいして北朝鮮は何一つ清算してもらっておらず)アメリカ、それと同盟する韓国・日本の軍事力はそれこそ脅威・恐怖であり、そのうえ「経済制裁」という兵糧攻めを受け欠乏にもさいなまれているのだろう。
 北朝鮮国民も日本国民も共に平和のうちに生存するにはどうすればよいのだろうか。
それは、共に恐怖の原因―軍備を(「核」も、「核の傘」も、ミサイルも、ミサイル防衛システムも、軍事同盟も米軍基地も)撤去すべきなのである。北朝鮮国民に対しては、欠乏をひどくする経済制裁も解除してやらなければなるまい、と考えられる。(韓国人のあいだでは「北風政策」に対する「太陽政策」論の考え方がある。)我々日本人の中には、とかく、相手側からみれば自国の方が脅威になっているのに、そのことは気に止めず、相手の脅威にばかり気をとられる傾向があるように思われるが、それでは脅威はいつまで経っても解けない道理なわけである。
(6)中国は攻撃しかけてくるか?
 はたして中国は我が国に攻撃をしかけてきたり、攻め寄せてきたりするだろうか。それに何のメリットがあるというのだろうか。
 そもそも中国というと、日本人の中には未だに冷戦思考(反共産主義イデオロギー)にとらわれていて、アメリカと中国は敵対していると思い込んでいる向きがある。そしてメディアにも、北朝鮮脅威論とともに、中国脅威論で緊張を煽る傾向がある。
 しかし、米中、日中とも経済相互依存―昨年、米中間の貿易額(輸出入合計)は3,659億ドル(日米間の貿易額1,469億ドルの2.5倍)。日中間の貿易額も日米間のそれを上回り、我が国にとって最大の貿易相手国になっている。アメリカ企業(約2万5千社)も、日本企業(約2万社)も中国に進出して現地に幾多の工場を持ち、数多の企業スタッフ・ビジネスマンが中国に居留(日本人5万人)。昨年、中国を訪れたアメリカ人は171 万人(日本を訪れたアメリカ人は70万人)。
 中国の外貨準備高2兆ドル(日本の2倍)―それをふいにしてしまうような対米戦争などあり得まい。アメリカ側にとっても中国はアメリカ国債の日本をしのぐ最大の引受け手(8,005億ドル)。
米中は「G2」同士、パートナー、「ウイン・ウイン」(どちらも勝者)の関係を追及。
 アメリカの外交専門家のあいだ(米国の有力シンクタンク・外交問題評議会の会員約600名を対象に昨年10~11月調査)では、「中国を脅威」と見る人は、4年前に比べて半減(21%)。しかもアメリカにとって「将来、さらに重要になる同盟国あるいはパートナー」として複数回答でトップに挙がっているのは中国(58%)。(逆に「将来、重要性が落ちる同盟国・パートナー」として挙がった国で多いのは、フランス・イギリスに次いで日本。)
 「米中戦略経済対話」を定期的に開催(日米のそれは5~6年前から打ち切られてやっていない)
 アメリカへの留学生、(日本人2万人に対して)中国人20万人。そのうち博士号取得者は年間4,500人(日本人は250人)
 中台経済関係は一体化へ―直行便は一週に270便、船の往来―昨年1万3,000隻。
 中国に行っている台湾人は200万人。台湾からの輸出の30%以上、投資の70%以上は中国向け。自由貿易協定も近く結ぶ予定。アメリカ政府は台湾に対して台湾独立政策は徹底して抑える方針をとっている。最近、アメリカから台湾に軍用機・ヘリコプターの売却が問題になったが、アメリカの同じ航空機メーカー(シコルスキー社)は中国(景徳鎮)でライセンス生産を行っている。馬英九総統はアメリカ人が台湾のために戦うことを求めないと言明。台湾独立戦争(台湾海峡有事)などあり得ないということだ。
 中国の軍備増強―連年「二ケタ伸び率」といっても、それは「名目」。「実質伸び率」(インフレ率を勘案)では、日本の高度成長期の防衛費の伸び率と似たようなもの。
 海軍力―「増強」しているといってもアメリカはもとより、日本と比べても「勝負にならない」。軍艦に積んでいる装備は貧弱(いいのは格好だけ)で、米ロ仏など各国からのコピーの寄せ集め(軍事ジャーナリスト田岡氏)。
 空軍力―機数は激減(4,500機から1,500機に)。質は向上しているといっても日本・台湾・韓国のそれも向上。
 アメリカとは軍事交流も(日本はやっていないが)。
 尖閣列島については、領有権で対立している日中間のどちらにもアメリカはつかないと決めている(1996年)。

 ところで中国・朝鮮とも、歴史上、日本から侵略・攻撃をうけたことは度々ある(倭寇、豊臣政権下の朝鮮侵攻、日清・日露戦争―朝鮮・満州に出兵、満州事変・日中戦争など)が、日本は両国から(元の時代、モンゴル政権の軍勢が九州に攻め寄せてきた、それ以外は)一回も攻め込まれたことはないのである。

 これらのことを総合して考えれば、北朝鮮や中国の軍は、こっちが何もしないのに日本に攻め込んでくる恐れがあるという脅威論は非現実的。 
 
 尚、ロシアはどうかといえば、北方四島・漁業をめぐる利害の対立はあるが、ソ連時代のような軍事攻撃の可能性は、まずない。
(7)テロの脅威は?
 アメリカが恐れているのはアルカイダなどイスラム原理主義のテロで、アフガン戦争もイラク戦争も対テロ戦争として行なわれている。我が国ではオウム教団による地下鉄サリン事件があった。
 そこで、このようなテロ攻撃があったらどうする?
テロに用いられる手段・方法は、銃・爆弾、自爆攻撃、サリンなどの化学物質、炭素菌などの細菌、核物質、サイバー攻撃など。
 それらには、警察力で対処するしかなく、軍事力で抑止することは出来ない。現にアフガンでもイラクでも、米軍・NATO軍とも圧倒的な戦力をもちながら、平定することができないでいる。
 絶望し狂信にとらわれた者たちのテロを核攻撃やミサイル攻撃・空爆などで根絶やしにすることなどできないのである。
 核物質など、彼らの手に渡らないようにする国際管理体制の構築は大いに必要である。
 しかし、テロリストを根絶するには、彼らをテロに向かわせる動機となる原因―貧富格差の不条理・理不尽な差別・疎外・抑圧・迫害などによる絶望的状況―を除去し、不安・不信感・怒りを払拭する以外にない。軍事対応はそれらを増幅させるだけ。
 イスラム原理主義者は、日本人には怨みはないはず。しかし、アフガンやイラクで彼らが抵抗している米軍が日本の基地から出撃し、日本の自衛隊から給油・空輸を受けてきたことが知れれば日本人もテロの対象になる。
 彼らに対しては日米同盟とか米軍基地・「核の傘」などどんなにあっても、なんの抑止力にもならないわけである。
(8)在日米軍基地は何に役立っているか
 安保条約の条文では「日本の防衛」とか「極東の平和と安全」のためとなっているが、沖縄および本土基地は、アメリカが日本をアジア・太平洋地域に展開する米軍の戦略拠点・「不沈空母」として利用するために必要とされ、ソ連封じ込めに利用され、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン・イラク戦争など戦争の度に出撃基地として利用されてきたというのが実態。
 日本は米軍によって守られてきたわけではなく、アメリカの戦略・出撃拠点として利用され、その基地はソ連などアメリカの敵対国から標的にされてきたのである。(鳥越俊太郎氏は、かつてソ連時代、シベリアのミサイル基地を取材し、現地司令官にこの中距離ミサイルはどこを標的にしているのかと質問したら、彼は地図上の一点・沖縄を指し示したとのこと。沖縄は米軍基地があるお陰で標的にされてきたということだ。)基地住民は、単に騒音や墜落事故・米兵犯罪などの迷惑・被害だけでなく、アメリカの敵対国から標的にされ攻撃にさらされているということなのだ。
(9)日本はアメリカから怒られるのか?
 普天間基地の移設問題で、メディアは「知日派」「ジャパン・ハンドラー」などと称される連中(アーミテージ氏やマイケル・グリーン氏ら)の発言をしばしば取り上げて、「アメリカは怒っている」とか「アメリカから不信をかっている」などと論評をしてきたが、ジョセフ・ナイ氏(ハーバード大教授、クリントン政権で国防次官補を務めた)やパッカード氏(米日財団理事長)などは、必ずしもそのような考え方はしておらず、「日本が基地縮小を言うなら、アメリカはそれを受けとめるべきだ」と。
 フィリピンなど日本以外のアメリカ同盟国の多くは米軍基地を撤去・縮小させたりもしているが、それでアメリカとの関係が悪化しているわけでもない。
 極東における戦略環境は変わってきていて、海兵隊などの役割は少なくなってきており、どうしても日本にいなければならない状況ではなくなってきているとのこと(元防衛大学校教授の孫崎氏)。
 近年、アメリカは「有事駐留体制」(有事には米本国から出撃)に切り替え、海外駐留は少なくしていく方向にあるのだという。
 それに海兵隊は、日本以外の同盟国(韓国・オーストラリア・タイ・フィリピン)とも合同演習をしょっちゅうやっているのだが、沖縄など日本では、それらの国々の部隊との合同演習は(日米安保条約上)できないので日本の基地は使い勝手が悪く、その点ではアメリカにとって日本基地は必ずしも不可欠なものではないのだ。ではなぜ撤去しないのかといえば、日本基地は兵隊たちとその家族にとって(日本政府の「思いやり予算」のおかげで)安上がりな「居場所」として利用価値があるからにほかならない。
 しかし(宜野湾市長の伊氏によれば)グアムには、06年5月日米合意ロード・マップで、移転経費1兆円のうち日本負担7,000億円で兵員1万600人(常駐部隊8,600人、一時部隊2,000人)が移転することになっており、現在1万2,400人いる沖縄には1,800人しか残らないことになる。グアムでは既に滑走路・宿舎など建設が着手されているのだ。(軍事ジャーナリストの田岡氏は、海兵隊は、沖縄には800人しか残らないと。)
アメリカは、海兵隊基地が、何がなんでも沖縄か日本のどこかに現状の規模で維持されなければダメだといって日本を怒るわけでも、日本が怒られる筋合いでもないということだ。
(10)基地を撤去したらどうなる?
 米軍が我が国から手を引き、基地を撤去してしまうと、「抑止力」を失って、我が
国もアジア・太平洋の諸地域も、たちまち、どこかの国や勢力の攻撃にさらされてしまうことになるなんて、そんなことに、はたしてなるのだろうか。
 東南アジア諸国はアメリカとの同盟(SEATO)を解消したが、それはベトナム戦争が終結して間もない頃で、ベトナムと中国との間、それにカンボジアとの間で一時国境紛争があり、カンボジアでは内戦(ベトナム軍が反ポルポト派を支援)があったものの、それ以外にはそれらの国々が外国の侵略にさらされ、占領・支配されることなどなかった。
(11)安保条約は今どのようなものか?
 それは、世界に例を見ない異常なもので、とりわけ次のような点で際立っている。
①米軍駐留経費への日本側負担―全経費の7割―年平均6,000億円前後―韓国など他のアメリカ同盟国26ヵ国を合わせた分よりも多い。(「世界一気前のいい国」)
その中には、「地位協定」にもない負担(日本人基地労働者の給与、米軍家族住宅・隊舎など施設整備、演習費などまで負担)―「思いやり予算」が含まれる―毎年平均2,000億円、32年間で5兆5千億円。
②地位協定で米兵に特権的地位―米兵の公務中の事故・事件は米軍側に優先的に裁判権、公務外も密約で米兵が事件や事故を犯しても日本の警察の権限行使が制約(起訴するまでの間、身柄を拘束できないなど)。
 基地外での演習・訓練で日本への出入り・国内移動の自由勝手を認める。
③全土基地方式―日米政府代表による日米合同委員会が、どこを基地として提供するかを決め、国会の承認なしで、全国どこにでも。
④東京首都圏に基地が(横田・横須賀・座間・厚木など)。
⑤「大規模海外基地」上位5つのうち4つが日本に。(横須賀・嘉手納・三沢・横田)
⑥米軍海兵隊の海外配備と空母艦隊の「母港」を受け入れている国は日本だけ。
⑦経済従属―毎年アメリカから「年次改革要望書」がつきつけられ、日本の政治・経済のあり方について(「郵政民営化」や大型店の出店・労働法制の規制緩和など)注文つけられる。
(12)日米安保を解消したら?
 日米安保を解消するとしたら、(安保条約は、両国が合意しなくても、どちらかが条約を終了させる意思を通告しさえすれば、通告から1年後に廃棄できることになっている。つまり政府さえその気になれば、1年後に解消し、すべての米軍基地も米軍駐留も一挙に無くせるということ)そのあとどうするのか。
 ところで、東南アジア諸国は、以前、アメリカと軍事同盟(SEATO)を結んでいたが、ベトナム戦争終結後、解消し、ASEAN(東南アジア諸国連合)を結成し、さらにTAC(東南アジア友好協力条約)を結成して「武力による威嚇・行使を放棄」「紛争の平和的手段による解決」を約束しあった(紛争は無くせなくても、戦争にしないことは可能だと)。これには東南アジア諸国以外に我が国も、中国・ロシアも、それにEU、最近になってアメリカまでも加入するに至っている。
 このように、我が国も、北朝鮮をも含めた北東アジアに「非核・不戦共同体」を結成する(戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的に作る)とともに、東南アジアのそれと合わせて(鳩山首相も構想している)「東アジア共同体」結成をめざす、といったこともあり得るだろう。
 アメリカとは安保に替わって非軍事の友好協力条約を結ぶ、といったことが考えられる。
 いずれにしても、「日米安保」は、いわば冷戦時代の遺物であり、「同盟」・「仮想敵国」とか「抑止力」とかは冷戦時代の発想。21世紀の今は、敵をつくらない「不戦共同体」をめざす多国間の非軍事安全保障の時代なのであって、二国間安保や軍事同盟の時代はもう終わっているのだ。
(13)「9条」から「安保」の欺瞞を払い除けよう
 憲法で「戦争放棄」「戦力不保持」を唱っておきながら、米軍基地を置いて、アメリカの「核の傘」で「守ってもらい」、その基地から米軍があちこちの戦争に出撃するのに手を貸してきた。9条は欺瞞につきまとわれ、日本国民は自国だけ安全圏にいて他国の戦争に手を貸していると見なされてもしかたない不名誉に長らく甘んじてきた。
 安保改定50周年の今こそ、普天間基地のみならずすべての在日米軍基地をなくして、アメリカから「守ってもらう」のをやめたうえで、世界各国に「戦争放棄」と「戦力不保持」を呼びかけ、国際平和・核軍縮政策と非軍事的な国際貢献に積極的に取り組むようにすれば、それこそ本物の「平和主義国家」として名誉ある地位を得ることになる。
 戦争抑止の要諦は、どの国に対しても脅威にならず、敵をつくらず、友好に徹することであり、それこそが「9条」精神なのだ。

 以上、これらのことを論点に議論する国民的な議論が今こそ必要。
 50年前、我が国では国中が安保の議論でわきかえった。今再び、安保を正面から取り上げて議論する国民的議論があって然るべきだ。
 さらに、50年前の安保改定阻止国民会議(安保共闘)のような全国共闘組織を再度結成して、かつてのように大々的な統一行動を展開し、安保継続か否かに決着をつけるべき年にすべきなのでは。(鳩山首相は「日米同盟を深化させる年だ」と言っているが、それに抗して。)

 戦争時代に生まれ育ち、ジープで行き交う米兵の姿を目の当たりにし、安保闘争を体験したこの身には、あれから半世紀以上もたって未だにアメリカ安保の呪縛から脱せず、米軍駐留基地経費に莫大な税金を割き、沖縄県民を窮状に置き続けていることに何の疑問をもたないか、しかたないと思い込んで問題にしない向きにたいして「声なき声」(この言葉は、そもそも、岸首相が、安保を強行したあの当時、声をあげないまでも賛成な人々が大勢いるのだという意味で言った言葉なのだが、ここでは反対の「声」)を発しないではいられないのだ。
 


 

2010年06月02日

普天間問題は決着しておらず「安保」が争点に

普天間問題の核心をなす争点は次の3点だと思う。
①住民の「負担」(有事に際して標的にされる危険や墜落事故などの危険、爆音や米兵犯罪などの迷惑被害)の軽減・解消のためには―
 普天間基地の無条件閉鎖・撤去か、代替地への移設か。移設なら沖縄県内に(反野古周辺へ―「基地のたらい回し」)か、他県へか、それとも国外へか(グアム・テニアンか、韓国か)。
 鳩山首相は、「滑走路を反野古崎へ、ヘリコプター部隊の一部訓練を徳之島の他、本土の自衛隊基地に分散移転」と決断。
 沖縄県民・徳之島住民など地元住民の多くは、それに反対。
②北東アジア・朝鮮半島における有事・危機的事態の発生(事の成り行き次第では北朝鮮の暴発、第二次朝鮮戦争・体制崩壊にともなう大混乱も)が予想される。それに対して、たとえそうなっても(最悪の結果―悲惨な事態―が生じても)仕方ないと覚悟を決めて軍備(在日・在沖米軍基地の維持)に努めるか、あくまで(どんなことがあっても)軍事衝突・交戦の回避をめざしてあらゆる努力を尽くすか。
 前者は、朝鮮半島で(最悪の場合)戦争が起きても仕方ないと覚悟を決めて、それに備えて、それ(韓国在留米国人の救出、北朝鮮の核施設の占領など)に出動する米軍海兵隊の駐留・基地は日本にどうしても必要だという考え方。
 それに対して、後者は、「戦争を覚悟するなんてごめんだ。悲惨な結果を招く交戦(日本の基地から出撃し、日本が攻撃されるなど)は何がなんでも回避しなければならず、それにつながるような米軍基地は撤去したほうがよい」という考え方。
 「抑止力」とは、もしある国が攻撃をしかけてこようものなら反撃されてかえってひどい目にあうから攻撃はひかえたほうが賢明だと国々に思わせることによって他国からの攻撃と戦争を抑止する、そのための軍備。
 鳩山首相が「学びに学んだ」という「抑止力」論だが、それは我が国に日米同盟や米軍基地を含めた軍備を維持することによって、「いざとなったら(もし北朝鮮などが攻撃をしかけてこようものなら)反撃し、戦争になってもやむをえない」という「戦争の覚悟」あっての抑止力論。
 そのような「戦争の覚悟」に対して、戦争をしない「不戦の覚悟」というものもあるはず。
 我が国では、憲法が政府に命じているのは戦争放棄と交戦権の否認であり、その下で我々日本国民に求められているのは「不戦の覚悟」。
 実際問題として、「覚悟」とはリスク(惨害をこうむる危険)に対する覚悟であるが、戦争にともなうリスクと不戦(戦わないこと)によってこうむるリスクとで、どちらがよりリスクが大きいか。現代戦争のありようから考えれば、庶民にとっては戦争にともなうリスクのほうがはるかに大きいと考えられる。
 ところが鳩山首相は、「朝鮮半島で、たとえ戦争が起ったとしてもやむをえない」と覚悟を決め、その時に備えて、米軍海兵隊基地は日本・沖縄のどこかに必要だとの結論に至ったようだ(5月28日の記者会見で首相いわく「韓国哨戒艦の沈没に象徴的なように、最近の朝鮮半島情勢など東アジア情勢は緊迫している」と。朝日は、「首相は沈没事件を普天間議論に、抑止力としての在日米軍の存在意義を強調する材料として、積極的に利用し始めた」と書いている)。
③安全保障戦略―日米安保(軍事的対米依存)の是非―継続か、打ち切り(非軍事安全保障戦略への転換へ)か。
 鳩山首相は日米安保を是とし「継続」の考え(「日米同盟の深化へ」と)。

 それぞれ、どちらであるべきか、ということだ。
 岡田外相は「これは国民の命がかかった問題なので」と述べ、鳩山首相も「国民の命を大切にする政治」と述べていた。
 天災(地震・台風など)ならば、一定の確率でそれは必ずやってくるので、回避はできない。だから、それがいつやって来ても命が大丈夫なように(被害が最小限で済むように)備えが必要だ。それに対して戦争(暴発・軍事衝突、それらからのエスカレート)は人間の意思が引き起こすものであって、意思によって(対話・自制によって)回避できるし、回避すべきもの。それを、あたかも天災のようなつもりで、(暴発・軍事衝突・戦争が)いつ起きても大丈夫なように軍備を整えておかなければならないなどというのは間違い。相手に攻撃の意思を起こさせないように「抑止力」として軍備(兵器・同盟・基地など)を備えるのだといって軍備を合理化するが、軍備は相手の攻撃を思い止まらせるとはかぎらず、かえって攻撃意思をかきたてるということも多々あり、軍備があれば「どんなことがあっても、それは使わない」などということはありえず、あれば使いたがり、「いざとなれば」などといって、それを使おうとする意思が働く。軍備は攻撃・戦争を回避する「抑止力」になるとはかぎらないのだ。そう考えると軍備などは無くてもいいし、無いほうがいいとも言える。
 基地にともなう住民「負担」(攻撃の標的にされるとか、墜落事故に巻き込まれるなどの命の危険、騒音、米兵による犯罪被害など)は、ある程度軽減はできても、基地があるかぎり、それは一定の確率(沖縄での米兵によるレイプ・強盗・ひき逃げ等の刑事事件はこれまで5,500件、1年に100件)で必ず起き、回避することはできない。が、基地を閉鎖・撤去すれば、それは直ちに回避される。

 国民の命と安全に責任を持つ政府に今さし迫って課せられている責務は、はたしてどれか。普天間基地についていえば、「移設」(移設先に代替施設ができあがるまで普天間基地は継続)か、それとも「無条件閉鎖・撤去」か。
 沖縄県民の大多数は「即時・無条件撤去」を求めている。(5月31日付毎日新聞によれば、沖縄県民世論調査で、「移設」に反対が84%、反対の理由は「無条件で基地を撤去すべきだと思うから」が38%、「国外に移すべきだと思うから」が36%で、合計7割を超える。)(5月31日付毎日新聞によれば、沖縄県民世論調査で、「移設」に反対が84%、反対の理由は「無条件で基地を撤去すべきだと思うから」が38%、「国外に移すべきだと思うから」が36%で、合計7割を超える。)
 ところが、鳩山首相は「移設」にこだわり、当初、前政権が反野古沿岸部への移設(「沖縄県内たらい回し」)を決めていたのに対して、それを見直し(移設先を)「国外か、最低でも県外に」と公約していたにもかかわらず、「迷走」のあげく、結局、前政権が米国政府と合意していた反野古移設案(「現行案」)と基本的にはなんら変わりのない「移設」に踏み切って米国政府と再合意したのだ。沖縄県民の大多数はそれを許さないだろう。
 普天間問題の今後は「反野古への移設阻止」、「即時・無条件撤去」の追求に焦点がしぼられよう。
 鳩山首相は、小沢幹事長とともに、「政治とカネ」問題と、この普天間問題での「裏切り」(公約違反)で非難をあび、支持率激減で辞任にした。辞任にあたって鳩山首相は「国民が聞く耳を持たなくなってきた」と言ったが、首相のほうが、外務・防衛官僚の声しか聞く耳を持たなかったし、アメリカに対してはオバマ大統領に“Trust me”(私に任せて)と言っただけで、まともに交渉した痕跡さえないといわれている。彼は辞めても、反野古移設を決めた日米合意・共同声明と閣議決定はそのまま残る。鳩山首相が辞めても、基地を押しつけられている地域住民の現状がそのままでは、あまりに理不尽だ。後継首相がそれをそのまま推進するなどということを許してはならず、撤回をさせなければならない。そして沖縄県民・名護市民・徳之島島民をはじめとする国民が後押ししてアメリカと再交渉させなければならない。

 さらに、来るべき参院選は、この普天間基地問題とともに安保問題を争点とすべきである。
 鳩山首相は退陣の弁で「米国に依存し続ける安全保障が50 年、100年続いていいとは思わない」「日本の平和を日本人自身で作り上げていく」と、その「思い」を述べている。しかし「思い」だけで終わらせてならないのだ。

2010年06月14日

鳩山から菅への首相交代と世論(加筆・修正版)

 鳩山首相は退陣の弁で「米国に依存し続ける安全保障が50 年、100年続いていいとは思わない」「日本の平和を日本人自身で作り上げていく」と、その「思い」を述べている。しかし「思い」だけで終わらせてならないのだ。
 鳩山氏は、その後(6月11日、BS朝日の番組で)「反省の弁」。いわく「アメリカは辺野古で非常に固かった。外務省も防衛省も今までの経緯があるものだから、『最後はここ(辺野古)しかないぞ』という思いがあった。」「(県外移転には米国だけでなく、外務・防衛両省とも非協力的であった。)本当は、みんな説得するぐらいの肝が据わってなきゃならなかった」(もっとリーダー・シップがあれば)と。しかし、鳩山首相が決断した閣議決定に自分も署名した菅氏は、後継首相に指名されると早々にオバマ大統領と電話会談をして「日米合意」の継続を約束、関係閣僚(外務・防衛・沖縄担当大臣)を留任させ、所信表明演説では「日米合意を踏まえつつ、同時に沖縄の負担軽減に尽力する覚悟」、「外交・安全保障は今後も日米同盟を機軸とし、日米同盟関係を深化させる」と言いきった。
 一方、世論のほうは、5月31日発表の世論調査では、鳩山首相が(辺野古移設を日米合意して)決めた政府方針を「評価する」が27%、それに対して「評価しない」が57%であった。ところが菅首相就任後、6月10日発表の世論調査(いずれも朝日新聞)では、新首相の「日米合意を踏まえての対応」を「評価する」が49%、「評価しない」が26%。首相が変わっただけで、辺野古移設の基本方針は変わりないのに、それに対して「評価する」が「しない」を上回り、逆転してしまっているのだ。「世論も世論だ」ということか?
 しかし、沖縄の世論は5月31日発表の世論調査(琉球新報と毎日新聞の合同調査)では辺野古移設に賛成6.3%に対して反対が84.1%であり、日米安保については「維持すべきだ」が7.3%だけ(「平和友好条約に改めるべきだ」が54.7%、「破棄すべきだ」が13.6%、「多国間安保条約に改めるべきだ」が9.7%)。首相が菅氏に替わったからといって、それが逆転するなどということはあり得るだろうか。
 マス・メディアの立つ位置を見ると、朝日など主要メディアは、日米同盟はもとより、海兵隊の「抑止力」も肯定。朝日は昨年12月29日の社説で「日本防衛や地域の安定のため海兵隊が担ってきた抑止力は何らかの形で補う必要がある」と書いており、その後にわたって「(沖縄県民の基地負担)分かち合いの必要を全国民に訴える」など県外移設論にとどまり、無条件撤去・国外移設は問題外というスタンス。全国紙に対して「琉球新報」や「沖縄タイムス」などの地方紙は「抑止力」論を批判している。
 消費税増税も、朝日などはかねがね社説でそれを促しており、同紙が行った6月14日発表の世論調査では消費税増税に賛成が49%で、反対44%を上回っている。
 このようなマス・メディアの世論誘導があるわけである。
 ジャーナリズムには権力チェックの役割と中立性の原則というものがあるが、営利企業でもある新聞社や放送局はもとより、「公共放送」といわれるNHKにしても、あらゆる人々にたいして公正・中立かといえば、それはありえない。多様な興味・関心・要求・意見をもつ人々のうち、その多数派に照準を合わせ、かれらの意に沿った論調を展開する。多数派といえば、前政権の自民党と新政権の民主党のどちらかで、このところの「小鳩政権」批判など民主党に対して厳しい論調が続いているのに反発して、「政権が替わったのに、マスコミは政権交代をしていない」といってメディア批判をする向きもあるが、朝日など主要メディアは、いずれにしても基本政策に共通点の多い自民・民主「二大政党制」肯定の立場で、そのどっちかであればよく、少数派にとっては公正・中立でもなんでもないわけである。
 このような主要メディアからは、普天間基地問題でも「無条件撤去」論が(沖縄県民の間ではそれへの支持が一番多いのに)取り上げられることはほとんどなく、「安保反対」論が取り上げられることもほとんどない。それに「消費税増税反対」論が取り上げられることもいたって少ない。
 これが日本のマスコミなのだ。

2010年06月18日

理想主義と現実主義(加筆・修正版)

 鳩山前首相の「友愛精神」とか「命を守る政治」とか「東アジア共同体」とか「普天間基地移設は国外、最低でも県外へ」とかを掲げた「理想主義」?に対して菅新首相は「現実主義」で行くと言っている。(就任記者会見では、最大幸福社会ならぬ「最少不幸社会」をめざすと言い、所信表明演説では「世界平和という理想を求めつつ、『現実主義』を基調とした外交を推進すべき」と。)
 ところで、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と定めているのは日本国憲法(前文)である。北朝鮮国民の場合はどうなのか。我々日本人にとっては北朝鮮が脅威であり、その核・ミサイルは恐怖なのだが、北朝鮮の方も、(アメリカとは60年前以来朝鮮戦争、休戦はしているものの、戦争自体はまだ終わってはいないし、日本からは100年前の日韓併合以来恐怖を強いられてきた植民地支配にたいして北朝鮮は何一つ清算してもらっておらず)アメリカ、それと同盟する韓国・日本の軍事力はそれこそ脅威・恐怖であり、そのうえ「経済制裁」という兵糧攻めを受け欠乏にもさいなまれているのだろう。
 北朝鮮国民も日本国民も共に平和のうちに生存するにはどうすればよいのだろうか。
それには、共に恐怖の原因―軍備を(「核」も、「核の傘」も、ミサイルも、ミサイル防衛システムも、軍事同盟も米軍基地も)撤去し合えばよいのであり、北朝鮮国民に対しては、欠乏をひどくする経済制裁も解除してやらなければならないわけである。
 それに対して、「いや、そんなことは出来るわけない。要は北朝鮮さえ核・ミサイル開発を放棄すればよいのであって、現政権がそれを拒み続けるかぎり、日米韓側は「核の傘」も基地も維持し続け軍事的・経済的圧力(制裁)を加え続けるしかなく、場合によっては攻撃のやむなきも」というのが現在の日米韓政府の考え方。はたしてどちらが現実的か。
 韓国人のあいだでは「北風政策」に対する「太陽政策」論―キム・デジュン元大統領とノ・ムヒョン前大統領らの考え方がある。それは必ずしも理想主義ではなく、むしろ現実主義に基づいている。なぜなら、経済力・軍事力とも北朝鮮に比べて韓国のほうがいくら圧倒的に優勢だとは言っても、戦争したらソウルが実際「火の海」になり、共倒れさえも起きかねないし、北朝鮮国家が崩壊してしまったら韓国が大量難民(窮民)を抱え込まなければならないことになり(その経済運営の困難はベルリンの壁崩壊で東ドイツ国民を抱え込んだ西ドイツの比ではなく―人口比・GNP比などの格差で)、国がもたなくなる、ということが解っているからにほかならない。
 ところが、直ぐ近くで北朝鮮と対峙している韓国人と違って、とかく日本人は戦争に対してリアリティーをもって考えない向き(平和ボケ)が多く、タカ派的になりがち。また、日本人の中には、相手側からみれば自国の方が脅威になっているのに、そのことは気に止めず、相手の脅威にばかり気をとられる傾向があるようにも思われる。日本人はとかく主観的情緒的で非現実的な判断に陥りがちだということ。
 北朝鮮の専制政治体制では、かつて我国が専制体制にあった時のように非理性的な暴挙に走る危険性がある一方、韓国は(哨戒艦沈没事件で大統領が打ち出した対北強硬姿勢に対する反応などを見ると)むしろ政府より国民のほうが冷静で理性的なようだが、現在の日本やアメリカは民主主義が発達しているから、国民の理性がはたらいて暴挙にはしることなどないかといえば、さにあらずで、フィーバー(熱狂)した多数国民によって戦争を後押ししがちだという一面もあるのだ(9.11からアメリカがアフガン~イラク戦争に突入した、あの時のように)。
 菅首相の「現実主義外交」は、はたしてどうか?「国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくか」「貧困・戦争などをなくすことにこそ、政治は力を尽くすべきだ」と言っているのだが。
 菅首相は「時には自国のために代償を払う覚悟ができるか。国民一人ひとりがこうした責任を自覚し、それを背景に行われるのが外交である」とも言っている。しかし沖縄県民の多くは、自国のためにこれまで負わされ続けてきた基地負担を今後も負い続けるなんて、そんな覚悟はもうできないと言っているのである。また、沖縄県民以外の日本国民にしても、その「代償」をずうっと払い続けるなんて、そんな「責任の自覚」を求められても困るわけである。「覚悟」を言うならば「基地を維持して戦争もやむをえないとする戦争の覚悟」ではなく、「基地を撤去して、戦争だけは止めさせる不戦の覚悟」というものもあるはず。「戦争の覚悟」と「不戦の覚悟」、そのどちらが、より現実的・合理的か(国益と国家の損失の損益計算に照らして―とは言っても戦争をやったら、人的・物的な資源の消耗・損失・惨害を考えれば、何もかもお終い、それでもいいのかだ)。
 現実主義とは、空想や主観的情緒に陥らずに現実に則して合理的に物事を考える立場だが、それには二通りがある。一つは、現状を肯定して踏襲。それに対して、もう一つは、現実を踏まえながら、理想に向かって現状を変革。(理想主義とは、単なる空想とは異なり、現実主義でも後者のそれと両立する。)
 日米同盟関係と沖縄の基地についても、現状―前政権・前首相の日米合意―を肯定・踏襲するのと、変更するのと、二通りあるが、菅首相の「現実主義」は前者。
 菅氏は01年民主党幹事長当時は「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権をとれば、しっかり米国に提示することを約束する」と言っており、06年党代表代行当時は「あそこ(沖縄)から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいますが、海兵隊は守る軍隊ではありません。地球の裏側まで飛んでいって攻める部隊なのです。・・・・沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係のないことなのです」と言っていたのに、政権の座に着いた今は、「東アジアの安全保障環境には最近の朝鮮半島の情勢にみられるとおり不安定性・不確実性が残っている現時点において、海兵隊をふくむ在日米軍の抑止力は、安全保障上の観点からきわめて重要だ」との現実認識で在日米軍基地の維持を肯定する。一方、基地を押し付けられている沖縄県民の物理的・精神的負担の現実(その深刻な実態と切実な願い)も解っている(?)、そのうえで、「移設」受け入れをあくまで県民に「説得」しようというつもりなのだろう(「誠心誠意説明し、理解を求めていく」とは言っているが、県民の「合意を得る(それが前提だ)」とは言わない)。
 (その「説得」とは説得工作―基地所在市町村長・議会の移設容認派に根回し・交付金・「地域振興策」・地元土建業者などへの利益誘導、「辺野古に移設すれば普天間基地住民の負担軽減は可能となるが、そこへ移設しなければ普天間はいつまでもそのままだぞ」と脅す―「アメとムチ」で地元切り崩し)
 8月には辺野古のどこかに滑走路の場所、工法を決定。9月に名護市の市議選、11月に沖縄県知事選がおこなわれる。この間、移設容認派の拡大に向けて説得工作を進めていくのだろう。

 菅首相は市民運動からスタートした政治家だというが、彼が「現実主義」といっても、権力(日米の支配層)の立場に立って(自らの政権維持とともに)現状維持に帰してしまうのであれば、それはもはや自民党同様の保守主義であって市民主義ではない。市民(民衆)の立場に立って、彼らの置かれた現状を変革してこその市民主義だろう。
 消費税(富裕層・貧困層の別なく一律5%から10%に増税)のこともそうだ。権力(支配層・富裕層)の立場に立ってそれを容認するか、庶民の立場に立って反対するかだ。(財政赤字解消・財源の確保のためというなら、それは、所得税の最高税率を上げて富裕層に増税、大企業の法人税減税・証券優遇税制などやめること、事業仕分けの徹底、特別会計における「埋蔵金」の廃止、それに米軍への「思いやり予算」など軍事費のカット等によって行うべきなのだ。)
 普天間基地の県内移設容認といい消費税増税容認といい、菅首相が推し進めようとしている政策は「最少不幸社会」からは、むしろかけ離れ、自民党と同様に、かえって不幸な人々を増やす方向に向かうのではあるまいか。
 鳩山前首相の理想主義(現状―辺野古移設案へ回帰など自民党前政権の路線に逆戻り)も空しかったが、菅新首相の現実主義も、現状維持よりも消費税増税などもっとひどいことになるのだとすれば、なおさら空しい。

2010年06月23日

政党選択選挙(加筆・修正版)

 世の中、「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」と「恵まれない人・生活に困っている人」とに分かれている。選挙はそのどちらにつくか、ということにほかならない。
 当方の場合、それはイデオロギーなどからではなく、生まれ育った境遇(カネや財産にも、力やアタマにも恵まれないということ―人々の印象によっては「そうかな」と思われる向きもあるだろうが、内情をよく知っている人なら肯かれるだろう)から 自分と同様に恵まれない人の側につく。それは子どもの頃からの(ケンカやいじめにしても、いつも弱い方の側についた)習性のようなもの。大学で思想を学んだり、誰かから感化されたからではない。選挙というと結局、「恵まれない人・生活に困っている人」の立場にたって政治に取り組んでくれている政党や候補者かどうかで選んでいる。
 今回の争点は、なんといっても消費税と安保(米軍基地問題)。恵まれている人は消費税など増税してもたいして困らないのだろうし、安保・米軍基地問題など現状のままでも別に困らない、それどころか、米軍駐留と基地があるお陰で利益をこうむり、既得権を得ている者もいるわけだ。それに対して消費税を増税するなんて困るし、米軍基地が置かれているおかげで危険・(それに税金を注ぎ込まれていることも含めて)迷惑を被っている人たちがいる。
 当方は後者の立場にたって消費税増税問題・安保(米軍基地問題)に対応している党や候補者に投票しようと思っている。

 そもそも、当方がここで発している「声なき声」、その見解・意見も特定のイデオロギーからではなく、生来のパーソナリテー(性格)やメンタリテー(心性)からきているものと思っている。それは子供時代に、育った境遇の中で形成された。だから、政治・経済・教育・社会などの諸問題や諸政策に対する選択判断基準は一貫している、と思っている。
 当方の生まれ育った境遇から来ているその心性とはどんなものかといえば、「バカでお人好し」「嘘がつけないバカ正直」「自分より相手の方を思いやる」「欲が無い」「人と張り合うのを好まない」、「弱い方に味方したがる」「自分を誇ることを好まない」「自慢する人、威張る人、傲慢な人、人を見下す人間、人をバカにする人間を嫌う」等など(そうかな?と思う向きもありだろうけど)。
 当方のイデオロギー的傾向(思想傾向)も、それら生来のメンタリテー(心性)から来ているのだろう。当方が違和感をもつイデオロギ-は国家主義・自国優越主義・権威主義・多数派独裁主義・官僚主義・資本至上主義・反共主義・競争主義など

 各党は「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」「恵まれない人・生活に困っている人」それぞれどの立場に立っているか。
 報道各社は「不偏不党」の建て前からどんな読者や視聴者からも受けるような八方美人的な報じ方をしているようにも思えるが、結局そのスタンスは自民・民主二大政党に偏している(批判するにしても両党のどちらかの立場に立って一方を批判。消費税増税と日米同盟堅持では基本的に一致している両党に同調)。「二大政党」とともに、中間層以上の「恵まれた人・生活にあまり困っていない人」―読者・視聴者の多数派―に的を絞って報道しているからだ。

 むのたけじ氏(ジャーナリスト、社会評論家)いわく「弱い者、小さい者、貧しい者の側の人間なんだから、そちらの側に立ってものごとを考えよう」(生活クラブ生協連合会発行の月刊誌掲載の対談から)。そうだ。そういうことなんだな。

ねたみ?
 朝日新聞(6月28日付)に「若者の夢を奪う税の累進性強化」と題した投稿があって、次のようなことが書いてあった。「累進度の世界に冠たる高さ」「累進性のさらなる強化は若者から『努力すればより良い生活を手に入れられる』という夢をますます奪い、社会の活力を損なうのではないか。」「格差とは、身分制度のように努力しても乗り越えられない壁」なのに「単なる所得の違いから子どもの成績まで格差として表現する、ねたみとも言えるいまの風潮」と。はたしてそうか?
 まず、我が国の税の累進度は高いというが、それは逆で、むしろ低い方。所得税の最高税率は、以前(1970年代)は10%から75%まで19段階もあったこともあったが、今は10%から40%まで6段階だけ。給与水準の違いによる税負担率の差は、OECD加盟30ヵ国中下から3番目に小さい。
 いま若者に「努力すればより良い生活を手に入れられる」という夢を持たない者が多くなっているのは確かだが、それは累進税率が高いせいではなく、高い税率で税を納めなければならないほどの給与が得られないことのほうが問題。40%(最高税率)を納めなければならない1,800万円以上もの給与なんてどうせいつまで経ってもありつけそうにない。それどころか、どんなに努力しても正社員になれない、就職さえできない、ということのほうが問題なのだ。
 格差とは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇が得られず、差があることだ。今は昔のような身分制度はなくなっているとはいえ、経営者・株主と従業員、大企業の社員と中小零細企業の社員、正社員と非正社員、公務員と民間社員とでは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇は得られておらず、それぞれ大きな差がある。そのように不合理な(身分制度のように努力しても乗り越えられない壁による)格差があることは厳然たる事実である。それを批判することは単なる「ねたみ」などではあるまい。
 子どもの成績でも、家庭環境(家計所得など)によって成績に差があることは厳然たる事実であり、そのような教育格差を批判することは、できる子をうらやましがる単なる「ねたみ」とは事が違うだろう。
 ところで夢(志)とは自己実現欲求から生まれるのだと思うが、それには利己的欲望(自分だけ『より良い生活』が手に入れられればよい)だけではなく、利他的欲求(他人のために尽くして感謝される喜びを得ようとする欲求)あるいは共同的欲求(他人と共にやって喜びを分かち合う)もあり、他の人々と共に『より良い生活』を、ということを夢と考える人もいるわけである。
 税は(憲法上、民主国家として国民に納税義務を課している我が国では)市民にとって、搾取ではなく、福祉・教育・公共事業・公共サービスなどの財源(資金)を互いに出し合うことによって、いわば『より良い生活を手に入れられる』という夢を広げるものであって、その夢を奪い、やる気を損なうようなものではないはず。
 但しその税は各人の負担能力に見合った公平・適正な税(応能負担)でなければならない。ところが消費税は(たとえ「福祉目的」のためという名目であっても)負担能力の有無にかかわらず、子供でも、年金暮らしの老人でも、ワーキングプアか職の無い若者でも容赦なく取られ、所得の低い人ほど負担が重くのしかかる不公平税制であるので、それは、国におカネを出し合って社会に貢献するなどというものではなく、まるで国からピンはねされる搾取のようなもの。
 このような消費税を増税することこそ子供・老人それに若者から夢を奪うものと言うべきだろう。

2010年07月04日

議員定数削減問題も争点

 マニフェストに議員定数削減を取り上げている各党
①民主党:参院40程度削減
 衆院比例定数80削減―07年参院選の得票結果をもとに試算すると自民・民主だけで95%独占。09年総選挙の結果で試算すると共産党は現在の9から4に減、社民党はゼロに。
 小選挙区制では、それぞれの選挙区から自民・民主二大政党のどっちか一人しか選ばれず、その当選者以外に投ぜられた票はすべて「死票」になる。昨年の総選挙では、小選挙区からは、民主党が47%得票で74 %もの議席を獲得してかさ上げされ、自民党は39%の得票を得ながら 21%議席しか得ていない。小泉郵政選挙の時は逆だった。
 民主党マニフェストでは、その小選挙区定数はそのままに、比例区の方を(比例代表選挙こそが民意を正確に反映するのに、その方を)削減―少数党の議席数は大幅に切り捨てられることになる。
 比例定数をこのように大幅に減らして小選挙区制の比重がさらに大きくなると、相対的に一番多い得票を得た政党がそれほど多くない得票率でより多くの議席をガバッと獲ってしまう。(衆院比例80削減すれば、昨年の総選挙結果で試算すると、民主党は42%の得票で68%もの議席を獲得でき、法案が参院で否決されても衆院で再議決できる3分の2以上の議席が得られることになる)
 二大政党にますます有利となり、二大政党制(両党が替わりばんこに政権に就く)に固定―自民・民主両党支配―多数派独裁へ―アメリカ・イギリスと共通性―中国・北朝鮮などは一党独裁だが、多数派独裁という点では(「二大政党」は別な党だといっても政策的には大きな違いがないとなると)これらの国と同然だということになる。
 消費税増税問題、普天間問題(辺野古移設、日米同盟堅持)、改憲問題など、自民・民主は基本的には政策が同じで、両党だけですんなり決まってしまう。これらに反対している共産・社民などは切り捨てられる。
 菅首相は参院選後の次期臨時国会に法案を提出する考え
②自民党:衆参定数を3年後に1割削減、6年後に3割削減
③公明党:衆院は新しい中選挙区、参院はより民意を反映する選挙制度改革で定数削減。
④みんなの党:衆院180人削減(300人に)、参院142人削減(100人に)。 
⑤新党改革:国会議員定数を半減。
⑥たちあがれ:衆院定数80議席削減、比例代表廃止。参院定数42議席削減。
⑦日本創新党:国会議員定数を半減。 
各党の議員定数削減の理由(思惑) 
①財政危機を理由に消費税増税―国民に「痛み」を求める―その代償措置で、「国会議員自らが血を流す」「身を削る」のだというわけ。そういう言い方をされると、単純な有権者は直ぐ「そうだ」となる。
 テレビ朝日・報道ステーション(7月1日)古館キャスター、菅首相に「是非進めて頂きたい」と。
 異論:一高校生が投書(6月29日付朝日)で「議員を減らして財源を削減しても、民意が反映されなければ元も子もない」と。
 削減したからといって、真に国民・庶民の代表として相応しいまともな党・人物だけが選ばれるという保障はなく、まともな党・人物は選ばれないということにもなる。
 経費削減も、80人減で議員の歳費・立法事務費・秘書給与など56億円しか削減ならない。「身を削る」というのであれば、議席に応じて税金を分け取りしている政党助成金320億円のほうこそカットすべき。
②日本の国会議員「多すぎる」―しかし、それは嘘。人口比でアメリカよりは多いが、ヨーロッパ諸国よりは少ない。人口10万人当たりの国会議員数0.57人は世界で最下位の部類。イギリスは人口は日本の半分だが、下院定数は650名で、日本の衆院480名よりはるかに多い。
 (公務員数も日本は、先進国の中では少ないほうなのだ)
 
 民主政治は、そもそも主権者・国民が全員直接参加するのが理想なのだが、(古代ギリシャの小さな都市国家なら全市民が議場に集まれたが)人口の多い国ではそれが不可能。なので、一堂に集まれるだけの数の代議員を選挙で選んで委任。代議員の数は多いほど民意が反映される度合いが大きいが、少なければ民意反映の度合いは小さくなる。要するに議員定数は多ければ多いほど良いのであって、少なければいいというものではない。(数が多いと違う意見が入り乱れて、すんなり決まり難いから少ない方がいい、といった発想をするなら、寡頭政治あるいは「常に満場一致」とも言うべき専制政治のほうがいいということになる。) 

 小選挙区制で比例区定数削減が決まってしまったら、小数派にとっては大変なことになる。日本は多数派独裁=ファシズムの国になってしまう。
 この問題も重要な争点の一つだ。


2010年07月12日

参院選の結果

 与党民主党が敗北(過半数とれないばかりか、大幅後退)、自民党が復調、みんなの党が躍進、護憲派(共産・社民)さらに小さく。
 ただ、自民党復調・みんなの党躍進といっても、それは政権交代を果たしながら期待を裏切った民主党に対する批判票が両党に流れたということであって、自民党の政権復帰を望んだというわけではない。国民は、いったいどの党がいちばんまともなのか、未だよく判らない模索の過程にあり、これからどうなるかはっきりしない流動性がある。
 しかし、いずれにしろ、この結果は、庶民にとっては、状況は何も変わらず、前のまんま。それどころかもっと悪い方向にいくだろう。
 *家計―生活難
 *雇用・労働―派遣労働など非正規
 *営業―困窮
 *社会保障―年金・医療・介護の不安
 *子育て・教育―競争・管理教育
 *沖縄県民をはじめとする人々への軍事(安保)の重圧
 これらは何も変わらないか、かえって危うくなるのかもしれない。
 民主党政権の国会運営は「ねじれ国会」で混迷・遅滞することになるだろう。
 政策課題ごとの与野党間「談合」―「パーシャル(部分)連合」など行われるだろう。
  *消費税増税・法人税引き下げを民主党と自民党との間で。
  *議員定数削減も(「議員自ら身を削る」のだという殺し文句で、少数野党議席はムダだとして切捨てる。これと引換えに消費税増税をねらう)
  *普天間基地の辺野古移設も
  *自衛隊の海外派兵恒久法も
  *改憲(憲法審査会)も
  *公務員改革は民主党とみんなの党との間で。
 政界再編もありだ。
 メディアが取り上げるのは、専ら政局(駆け引き・談合)。そして「懸案」(メディアがそう思っている)の消費税増税・議員定数削減・辺野古移設・海外派兵恒久法・改憲など、「二大政党」自民・民主両党を中心にそれぞれどう巧く運ぶか、ということばかり。

 このような選挙の結果は、庶民にとっては全く残念というほかないだろう。
 特に「二大政党」(民主・自民両党)と「第三党」(みんなの党)はいずれも議員定数削減を企図し、メディアもそれに同調しており、3党が談合してそれを決めてしまったら、弱者の声を代弁してくれる議員がいなくなってしまうことになる。そんなことになったら大変だ。護憲派政党が排除されて、改憲阻止もできなくなってしまう。

2010年08月04日

議員定数削減は筋違い(完成版)

 菅首相は参院選に臨んで消費税増税を打ち出したが、それとともに「衆院比例80、参院40程度の削減」をも公約にしていた。しかし選挙の結果は、与党は大幅に議席を減らし政権に対する不信が大きく表れた。
 その後、首相は消費税増税には及び腰となったが、増税の前に「まずはムダの削減」、「国会議員自身が身を切ることだ」として、議員定数削減のほうを言いだした。(それを朝日は「臨時国会召集日に記者会見で、今後何をめざすのか、その数少ない具体案、唯一の目玉」だと書いている。)
 しかし、議員定数削減は議会制民主主義の根幹に関わる問題であって、単に財政の都合で減らしたり増やしたりする筋合いのものではない。
 そもそも民主政治は国民の意思に従って行う政治であり、成人に達した国民は全員国政に参加することが理想なのであり、デモクラシーの発祥地アテネなどで実際それが行われたこともあったが、人口など大規模で複雑な現代国家においては全員が一堂に会することは不可能なので、国民が選挙で選んだ代表に限定して国会を開くようにしている(間接民主制)のであって、それは単に物理的な理由からにほかならない。そういう意味では、一堂に集まれるだけ集ることのできる最大限の人数を議員定数とすべきなのである。(論理的にはそういうことになる。)
 その議員定数を減らすなどというのは議会制民主主義の逆行にほかならない。
 「身を切る」といっても、それは議員報酬(歳費など)を減額するのなら話しはわかるが、議員定数を削減するというのは、主権者国民にとっては、その意思・願いを託し、自らに代わって要求・意見を代弁してもらおうとする権利、あるいは自分たちの代表(議員)を立てようとする権利が削られるということにほかならないのであって、実際に削られるのは中小政党とそれを支持する民意にほかならない。それを「国会議員自身が身を切る」などというのはズルい国民ダマしだ。

 我が国は、国会議員が他国に比べて(人口比に対する議員数が)多すぎるという向きがあるが、それはアメリカとだけ比べて多いといっているのであって、ヨーロッパ諸国と比べればどの国よりも少ないのである。

 実際、いてもいなくてもいいような無駄な議員がいることも事実だが、それは選んだ方の問題、つまり、そのような人物に投票した有権者側の知識・判断力の問題にほかならない。議員定数を減らせば、おのずから有能でまともな人物が選ばれるという保証があるわけではなく、かえって有能でまともな人物が落選させられるという結果にもなるのだ(今回の選挙でも、前の国会議員で、論客と目され、国会内外でしばしば的を射た発言をおこない、国会になくてはならない存在だと思われるような惜しい人が落選している)。
 政治不信は、それまで選ばれてきた議員(それに、その中から選ばれてきた総理大臣とそれが任命してきた大臣たち)が招いたのであって、選ばれなかった候補者たちが招いたものではない。落選した彼らが議員になっていれば、政治不信などなかったかもしれないのだ。政治不信は当選して議員になっている者たちのせいなのであって、議員定数が多すぎるせいではないのだ。
 「いい加減な議員が多い」「働かない議員が多い」との政治不信に乗じ、「そんな議員はいらない」との国民感情を利用して、議員定数を削減し、消費税増税・日米同盟堅持・改憲などに反対する政党議員を切り捨てて、これらの政策・路線を押し通そうという思惑があるのだろうが、それはとんでもないことだ。

 民主党マニフェストの議員定数削減案は比例代表のほうを削減するというものだが、それでは小選挙区で二大政党のどちら側かしか選ばれないことになり、少数政党の議席の多くは切り捨てられてしまうことになる。
 衆院の比例代表定数を80削減すればどうなるか。昨年の総選挙結果で試算すると民主党は比例代表42.4%の得票率で、小選挙区の分も含め衆院議席68.5%を占め、3分の2以上(法案が参院で否決されても衆院で再議決できる数)の議席を得ることになる。一方、自民党は得票率26.7%で議席23.5%、議席占有率は比例得票率とほぼ同じだが、その他の小政党は全部合わせて得票率30.8%を得ながらも、議席はわずか8%だけ、ということになる。
 民主党にとっては全く都合のいいやり方で、党利党略もいいところ。そればかりか一党独裁的な強権政治にはしりがちな危険性もある。
 民主党という党名に反する、どこかの国のような多数派独裁の体制にもなりかねない由々しき一大事、といったら言い過ぎだろうか。 

 国民の間には、実に様々な生活基盤・生活信条・意見・要望(民意の多様性)があり、その中で少数ではあっても、それらの人々の深刻で切実な願い・要望を代弁してくれる少数政党の議員が国会にいなくなるということは、それら立場が弱く困っている人々の願い・要望が国会には全く届けられなくなってしまうということなのだ。たとえば消費税を上げられては困る人々、職や仕事がなくて困っている人々、派遣切りにあって困っている人たち、学費で困っている人たち、米軍基地で困っている人々、感染症で困っている人たち等々、彼らの声を正面から取り上げて国会の場で訴えてくれる政党・議員がいなくなってしまうということになるのだ。

 財政上のムダということで、議員活動がその月は実質たった数日だけなのに月割りで一月分の歳費が支給されるなど議員歳費のムダを問題にすること自体はおかしくない。議員歳費日割り法案が出ているが、それは秋の臨時国会で審議されることのようだ。とりあえずは今回の参院選で当選した議員に限って「自主返納」方式(いったん支給された歳費を日割り計算して自主返納するということ―任期は7月26日からで、7月分歳費129万7千円のうち 104万円を返納)で対応する動きになっている(自主返納法案は今国会で成立)。

 それから、原口総務大臣は来年度予算に関連して、政党交付金の削減を議論する必要があるとの認識を示したとのことであるが、これは的を射ている。政党交付金(政党助成金)はそもそも不合理なもの(各党に、議席に応じて配分され、民主党ついで自民党にゴソっと分配されている。税金が、これらの党を支持していない人の分までそこに流用されている。近代政党は党員が出し合う党費と支持者のカンパのみによって資金は賄われるべきものなのに)であり、ムダの削減というなら、この政党助成金こそ全面カットしてもいいのだ。(衆参議員定数それぞれ80人・40人を削減すれば、各議員の歳費・立法事務費・秘書給与など合わせて合計84億円。それに対して政党助成金は320億円にもなるのだ。)

 それを、消費税の増税を国民から受け入れてもらえるように、まずはムダを削減すると称して、国民の政治不信を逆手に取って(いい加減な政治家―いなくてもよいムダな議員」と感じる不信感に乗じて)、「国会議員なんか減らせばいいんだ」と単純に考えがちな大衆の受けをねらって「ムダを削減するために議員定数削減を断行する」。そうして消費税増税に反対する政党や議員の議席を奪った上で、その法案をすんなり通せるようにする、というわけである。なんというズルいやり方だ。それは消費税増税のみならず、日米同盟の「深化」・米軍基地の永続その他、改憲発議までも、国会では万事、二大政党の思惑通り一方的にすんなり決められてしまうようになる、ということだ。
 
 菅首相は議員定数削減案を12月までに与野党で合意、実行まで企図している。それは阻止しなければならないが、同時に、衆院の場合、現在の小選挙区主体の比例代表並立制(民主党は衆院比例部分を削減して、小選挙区部分4分の2.5を4分の3に増やそうとしている)を、全体の定数はそのままに小選挙区のほう(二大政党のどちらか一人しか当選できず、大半の投票は「死に票」になってしまい、著しく民意を歪める)を廃止して、その分を比例代表(民意を最も正確に反映するやり方)に変え、全員を比例代表で選ぶようにするなど選挙制度そのものの改変にも取り組まなければなるまい。 

 

2010年08月25日

議員定数削減の理由は?(訂正版)

 議員定数削減。菅首相が提起しているこの問題は我が国の議会制民主主義の根幹に関わる大問題。
 彼および民主党がこれを持ち出した理由はそもそも何なのか。
 財政難を打開するべく、少しでも財政負担を減らすためだというのだろうが、それが、それよりもはるかに金額の多い政党助成金などではなく、なぜ国会議員定数削減でなければならないのか。

 日本の国会議員が多すぎるという根拠はない。アメリカより多いというが、ヨーロッパ諸国から比べれば、それらのどこよりも少ないのだ。
 アメリカは連邦議会の議員は少ないが、この国は50州に分かれており、各州には軍事・外交など以外は独自の権限をもつ州政府とともに上下2院の議会があり、州議会のすべての議員を合計すれば、下院だけで5,000人以上にものぼる。このようなアメリカと比べるのは、そもそもおかしいのだ。

 にもかかわらず削減する理由はいったい何なのか。
 CS放送の朝日ニュースターの番組「闘え!山里ジャーナル」は先日(8月21日)この問題をテーマに取り上げていた。(ゲスト出演者:民主党議員の伴野氏、共産党議員の穀田氏、NPOドットジュービー事務局次長の北島優子氏。コメンテーター:朝日新聞編集委員の曽我氏・安井氏、週間朝日編集長の山口氏)そこで解ったことなのだが、どうやらそれは次のようなことのようだ。
①一般国民の国会議員に対するイメージ―高いカネをもらっていながら、たいした仕事をしていない議員が多く、「特権階級」と見なされている。
②国民に消費税増税など「痛み」を求める(「辛い事」をお願いする)うえで、それを
国民から受け容れてもらえるように、「議員自ら身を削る」という姿勢を示す。―しかし、消費税1%税率アップで2兆6千億円の国民負担増。それにひきかえ、議員が「身を削る」といっても、(議員1人当り年間7千万円として)120名(衆院80名、参院40名)の削減で、その金額は総計わずか84億円程度にしかならないし、バランス上も極めて合理性に乏しいのだが、①のような思いを持つ国民感情にはアピールしやすく、「国民受け」する(情緒的・象徴的効果をもつ)と考えたわけだ。
③議員定数を削減するにしても、それがなぜ(選挙区部分ではなく)比例部分なのかといえば、各都道府県選挙区の定数を削減するとなると、それら(削減する選挙区)の有権者の納得を得るのは容易でなく、手っ取り早く比例部分のほうから削減してしまおう、というわけだ。

 要するに、このような国会議員定数削減案は、なんら合理的な根拠に基づいてはおらず、「思惑」から発想している、ということ。
 ①②③のような現実があることも確かだが、だからと言って、このように議員定数を削減してしまったら、(少数政党は切り捨てられ、国会に多様な民意が反映されなくなるなど)そのデメリットは余りに大きく、我が国の議会制民主主義を著しく損なうものとなるだろう。

 「ムダを削る」というのであれば、政党助成金(年間320億円―国会議員450人分の経費に相当。議席数に応じて配分され、民主党・自民党2党で85%を山分けしている、それらの党を支持していない国民にとっては、税金で強制的に献金させられているようなもの)こそカットすればいい話なのだ。

2010年09月06日

「朝まで生テレビ」『激論!米中新冷戦時代とニッポン』を見て―安保肯定誘導(加筆版)

●司会はいつもの田原氏。
●出演者―生方氏(民主党国会議員)・下地氏(国民新党国会議員)・浅尾氏(みんなの党国会議員)・井上氏(共産党国会議員)・山口氏(元自衛官陸将・現防衛大教授)・潮氏(元自衛官・防衛庁広報誌編集長・軍事ジャーナリスト)・宋氏(中国人・日本留学・日本で「ソフトブレーン」創業)・渡部恒雄氏(東京財団上級研究員・サンプロの常連コメンテータだった)・高野氏(サンプロの常連コメンテータだった)・富坂(中国通ジャーナリスト)・村田氏(同志社大教授)
●視聴者への質問
Q1「今後、米中関係は良くなるか、悪くなるか?」
Q2「日米同盟は強化すべきか、すべきでないか?」
●潮氏の解説(アメリカ国防総省の「中国の軍事動向に関する年次報告書」要旨を解説)―海軍は、南西諸島(沖縄近海)・西太平洋への進出の動き。空母建造計画の動きも。南シナ海・南沙諸島の領有権をめぐってASEAN諸国と対立。東シナ海ガス田・尖閣諸島の領有権をめぐって日本と対立、等々。
●諸氏の発言
下地氏―中国は日本をしのぐ経済大国となりつつあるが、そもそも「軍事大国」をめざしていると。(?)渡部氏は「富国強兵」だと。
山口氏―米中の国防費は20年前は50:1だったのが、現在は10:1から6:1にもなってきているが、今の段階では未だ・・・・」。
 「『勝つこと』と『負けないこと』とは違う。アメリカの第7艦隊(それに日本の海上自衛隊も相当強い)、これに真正面から立ち向かって勝つのはどこの国も難しいが、負けないことは可能。そのためには潜水艦を展開して接近を阻み、ゲリラ戦などで抵抗するだけの戦力をもつだけでよいのだ」と。(そういえば、圧倒的な軍事力の相手に勝ちはしなくとも、負けなかったという事例は、かつて中国人民解放軍が日中戦争では日本軍に対して、朝鮮戦争ではアメリカ軍に対して負けなかったとか、ベトナム戦争ではベトナム人民はアメリカ軍に対して負けなかったとか、それにアフガニスタンでは、以前はソ連軍に対して、現在はNATO軍に対してタリバンは負けてはいないなど数々ある。)

 諸氏の発言は、「米中新冷戦」・中国脅威論には異論があったが、日米同盟については肯定論が大勢(井上氏以外、宋氏も)。

井上氏―「06年、小泉首相は『中国軍の戦力規模は世界最大だが、装備は旧式で、火力・機動力など不十分だ』と言っている。前政権も現政権も、正式には、中国は『脅威』だと言ったことはない」と。(実際、日本政府自身は中国を一度も「脅威」とは認定しておらず、むしろ、「戦略的互恵関係」にあるとしている。)
山口氏―「米中間には外交のすごいパイプがる。」「中国に対して警戒感はあっても、『脅威』とは見なしていない。中国とは良い関係をつくっていき、『敵』にしない方法―『関与』し、共有できる部分を共有するなど―を考えている。」「中国軍には、かつてのソ連(その陸軍はヨーロッパではNATO軍を圧倒していた)のような強さはなく、中国に有利な戦場はどこにもない」と。
高野氏―「『新冷戦』など起きていず、アメリカ側が出した中国の軍事動向についての指摘など『国際政治ゲーム』の域をでない」と。
田原氏―「しかし、米中の間の緊張は明らかに高まっていると思う。」「中国の中央政府は、日本のような国会や野党などがないから決定は早いが、軍に対してコントロールが危うくなってきてはいないか。戦前の日本も政府に軍を抑える力がなかったが。」
宋氏―「今の中国にはイデオロギーでの対抗意識はない。」
浅尾氏―「共産主義などのイデオロギーは薄れている、そのかわりに民衆の愛国心が政府や軍を突き動かすこともあるのでは。」
村田氏―「米ソ冷戦では、ソ連が社会主義経済圏を形成し、共産主義イデオロギーを『輸出』を志向していたのとは異なり、今の中国にはそれがない。米中は同じ資本主義の網の目に組み込まれ、経済的にかつてなく相互依存関係が深まっており、中国が日本を滅ぼしたら中国の経済は成り立たないし、米中関係も同じだ。」

田原氏―「日米安保・同盟関係は深めるべきだ。」(?)「集団的自衛権をやるか、やらないか、が日本に迫られている」(?)と。
山口氏―「そうは思わない・・・・ただ、米国への攻撃ミサイルを撃ち落すことができるか、日本防衛に向かう米艦を防護することができるか、その問題はある」と。
 「仮に理想の社会が世界にできて、中国が日本のシーレーンを守ってくれるようになれば、日本に集団的自衛権の行使を求めてくるだろう」(?)とも。富坂氏は「今は中国の船の70%を海賊から日本が守っている」(?)と。
 「アメリカは軍事費がGDPの4~5%、中国が3%に対して、日本は1%。これで自主防衛とはおこがましい」と。
 尖閣列島について「太田前知事が、そこは沖縄の一部で日本領だから自衛隊が守るべきだと言っており、(日本の施政権下にある領域に適用される)条約上、米軍も一緒に対処するものと思う」と。
(陸上自衛隊と米軍海兵隊の上陸訓練など行われているが、偶発的な事態の防止のための日中防衛当局間に協議を重ねることは必要)

生方氏―「もっと根本から考えて、冷戦構造が終わって20年も経って、その前の構造のまま同じ米軍基地を日本に置くべきなのかどうか。戦後65年も経って、外国の軍隊がずうっと日本に居続けるのがいいのかどうか、抑止力の問題も含めて我々は考えるべき時がきている。」「軍事力・軍事力というが、日本の防衛というものを考えた場合、経済力や人的交流もあるし、そういう総合的なもののなかで、日本を守るわけですから、軍事力だけで、中国が強くなったから日本も強くしなければいかん(向こうが空母をもつから日本も持たないといけない)などといったら、きりもなくエスカレートする。戦後60年、日本がやってきた外交力を活かしながら日本を守っていくということを考えないと。東アジア共同体(構想)というものはそういうことだ。」と。

井上氏―「軍事には軍事という悪循環に入っていくかたちは退けるべきだ。」「かつてはアジアにも、ヨーロッパのNATOのようにSEATO とかCENTOとかがあったが、それをやめて今はASEAN中心に平和な枠組みがつくられている。東アジアにも、そういう話し合いでやる平和的な環境をつくる外交努力を日本はもっとやらなくてはならない。」

田原氏―「日本はなんだかんだ言っても「核の傘」に守られている。」(?)
井上氏―「『核の傘』というのは、核兵器を使うことを前提にして脅すやり方だが、核兵器は使うべき兵器ではないし、また使えないものなのだ。これで脅すというやり方は、特に唯一の被爆国たる日本は絶対とるべきではない。脅すようなやり方から脱却すべきだ。」

村田氏―「軍事には軍事というやり方はよくないという、そのこと自体は間違っているとは思わないが、今この地域で中国の軍事力が急速に伸びていて軍事バランスが崩れるかもしれない、この事態に対して、中国と同じように対抗しろとは言わないけれども、バランスが変化しているのを、地域の大国として何もしないのは逆に無責任。情報や文化やなんかではカバーできないことがある。」(?)
 「日米同盟は、冷戦が終わってから刺激がなくなって、国民の間では強い支持もなければ、強い反対もなく、あって当たり前なものとして格別意識してこなかったが、鳩山さんのおかげで、ガタガタなりはしたが、『日米同盟はやっぱり無ければダメだ』と気づかせてくれた。」(?)
片山氏―「国防にたいする認識が高まっている。」(?)
田原氏―「日本は追い詰められている、ということだね。」(?)
下地氏―「日米安保に刺激が無い」というのは、沖縄に押し付けて、日本全体で考えないからで、一つのところに押し付けていたら、あとの人間は誰も考えない、というこだ。」と言いながら、「普天間は移設できなければ、いつまでも凍結されることになり、アメリカはそれを日本政府のせいだというだろう。辺野古への移設をこれまで(十何年も)できなかったのは、機動隊を入れてまで断行しようとしなかったからだ」と。

●視聴者アンケートの結果
Q1、『今後、米中関係は良くなる』が42%―理由①「経済協力が重要だから」(26件)、②「協力せざるを得ないから」(13件)
『悪くなる』が50%―理由①「覇権争いが激しくなるから」(17件)②「思想が違うから」(15件)③「中国が軍事力を拡大しているから」(9件)④「自国の利益を優先するから」(8件)⑤「中国が力をつけてきたから」(7件)⑥「中国経済が発展しているから」(7件)
Q2、『日米同盟は強化すべきだ』が65%―理由①「アメリカに頼らざるを得ないから」(34件)②「中国の脅威に対抗するため」(33件)③「日本の安全保障のため」(21件)④「今までの関係を大切にすべき」(17件)⑤「北朝鮮の脅威に対抗するため」(13件)
『すべきでない』が26%―理由①「日本はもっと自立すべきだ」(35件)②「強化してもメリットがない」(3件)③「普天間基地の問題があるから」(3件)
浅尾氏と下地氏は「『日米同盟強化』と『自立』を望んでいる人が大勢で、それ以外の人はあまりいないということだね」とコメント。田原氏は「だだ、「自立・自立」というのは「危ないね」と。生方氏は「新冷戦」という言葉は「刺激的過ぎる」とコメントしていた。

論評
●国民は、普天間問題で日米同盟は「無ければダメだ」と気づいたのではなく、むしろ、沖縄に未だに広大な米軍基地が存在して海兵隊が駐留し続けていることを知り、日米安保が未だ続いていることに気づいたということであって、基地を撤去させるべく安保は見直さなければダメだということに気づいたということだろう。それが逆に「無ければダメだ」となっているのだとすれば、それはマスコミが(この番組も)、生方氏が言うように「新冷戦」などと刺激的に書きたて言いたてるから、それが歪められてのことなのだろう。
 海兵隊については、最近米下院の民主党大物議員バーニー・フランク氏が、それはジョンウェインの映画に残った65年前の戦争の遺物にすぎず、「1万5,000人の海兵隊が中国本土に上陸して、数百万人の中国軍と戦うことはないだろう」と。
●「激論」するなら、我々国民の生活(日々の暮らしに関わる貿易・国際経済)を営む上で危機・不安・閉塞感をどう打開するかであり、そのために日中関係・日米関係・世界の諸国との関係にどう対応すべきか、をこそ議論すべきなのである。
 生活・貿易・経済の危機・不安を解決するのに、日米同盟や自主防衛など軍事対応
強化など必要なのか。
 日米同盟の下で、アメリカに追従して世界第2の経済大国・「豊な国」を謳歌してきた旧来の安保体制をひたすら守るだけの後ろ向きの議論でよいのか。
 中国脅威論はアメリカによる中国への軍事的けん制であり、日米同盟を維持・強化する口実で、日米同盟を合理化するものにほかならないのでは。
 日米同盟に代わる外交・安全保障戦略を考える時期に来ている、そこをこそ議論すべき時なのではないか。
●そもそも我々日本国民にとって脅威とは
①広島・長崎市民をはじめとする核兵器の脅威―それは北朝鮮の核や中国の核だけでなく、アメリカをはじめとするすべての核保有国の核(一方の核は攻撃用だから禁止すべきで、他方のそれは防御用だから大丈夫だなどという区別はありえない)。
②沖縄をはじめとする基地住民にとって、日々危険・被害にさらされ、生活がおびやかされている、その脅威。
③軍事費(5兆円)の重圧―財政危機をよそに「思いやり予算」を含めた駐留米軍経費負担(年間6,000億円)―ヨーロッパ諸国もアメリカも軍事費は削減・節約しているのに、日本だけむしろ増額。
 我々日本国民にとっては、それらこそが脅威・重圧。
●北朝鮮や中国が今にも攻めてこようとしている、そんな危機・脅威はありえない。むしろ、北朝鮮のほうがアメリカ・日本・韓国の圧倒的な軍事力の脅威に脅え、経済制裁に苦しんでいる毎日なのだろう。
 「北朝鮮の脅威」なるものだが、防衛省に近いシンクタンク(平和・安全保障研究所)の07年の報告書によれば、「かつての朝鮮戦争のような大規模全面侵攻が勃発する蓋然性は高くない」という。
 ペリー元米国防長官は「北朝鮮は、核兵器使用は自殺行為であることをよく理解している。」「実際の脅威は核攻撃ではなく、体制崩壊にともなう核の流出だ」と。
 また、ある専門家によれば、「仮に北朝鮮が崩壊しても、避難民の流出先は韓国や中国であり、海を越えて大量に日本に押し寄せるとは考えられない」と。
 軍事的圧力・経済的制裁圧力でこの国を追いつめ、「窮鼠猫をも噛む」の暴発を招くようなことだけは避けなければならないだろう。(哨戒艦沈没事件を米日韓3国は、北朝鮮軍による魚雷攻撃によるものだと決め付け、米韓合同軍事演習―田原氏は、これに日本の自衛隊も参加を申し入れたが、韓国から拒否され、結果的にオブザーバー参加になったとのことだという。しかし、北朝鮮魚雷攻撃説には多くの疑問点が指摘されていて、韓国の要請で検証にあたったロシア調査団は「明確な沈没原因を得ることはできなかった」としている。)
 北朝鮮が追い詰められているということはあっても、日本が「追い詰められている」などということはあり得まい。
 危ないのは追い詰められた北朝鮮が自暴自棄的に核ミサイル攻撃に走るということであり、それにはどんなに圧倒的なアメリカの核抑止力であっても、自爆テロの抑止には効きめがないのと同じく、その抑止は効かないということであり、それこそが危険なのだ。
 自暴自棄、それはかつて日本人が戦争末期にしかかったあの「一億玉砕」の悪夢と同じだろう。

●自国の2都市に原爆を落とされて数多の市民が殺された、その国の「核の傘」で中国や北朝鮮の「脅威」から守ってもらっているとひたすら信じている政府とマスコミ・識者・評論家と国民がいることが不可解でならない。
 また、太平洋戦争末期、日本で唯一の地上戦場になって数多の島民が日本軍の巻き添えにされて命を落とした、そこへ上陸し、占拠した土地を基地にして未だに居座っている米軍海兵隊、彼らから日本を守ってもらっているとひたすら信じている政府とマスコミ・識者・国民がいることが不可解でならない。まるで認知症みたいなものではないか。(それらを不可解と思う方が認知症だと彼らは言うのだろうが)いずれにせよ、国家の品格の失墜・堕落の極みだ・・・と言ったら言いすぎだろうか。
 目的は安全保障なのであるが、目的のためには適切な手段を選ばなければならず、道義・信義・人道にもとるものであってはならず、用いるものは経済・文化交流(それによって信頼醸成・相利共生)と外交(対話・交渉・説得)でなければならず、武力は正当防衛以外には用いない。とりわけ核兵器のような「悪魔の兵器」ともいうべき無差別殺傷残虐兵器は同盟国のものであろうと、自前のものであろうと絶対利用しない。
 これこそが、遠くない過去に自ら招いた未曽有の戦争の惨禍を反省して得た教訓から制定した日本国憲法が我が国に課している大原則なのである。この原則に立ち返ってこそ、我が国家・民族の品格(国際的名誉・信頼の源泉)をとり戻すことができる。名誉と信頼の獲得、それこそが何よりの国益なのであって、その喪失・堕落は国益にとっての大損失なのだ。

2010年09月14日

普天間問題と安保

(1)普天間基地―「世界一危険なところ」―代替地へ移設できないうちは現状のまま(固定化)なのか?
 日本政府は米軍・海兵隊その基地は「抑止力」だとして、その維持に執着。
アメリカは「それなら」と、代替地を日本政府に要求、その確保・移設ができないなら、それは日本政府のせいだと。
 基地に対する住民負担・危険性―政府は住民の「負担」(騒音・米兵犯罪などの迷惑、墜落事故などの危険に対する精神的負担)と称して、その「軽減」策を講ずるからと、受け入れ容認を求める。
 しかし、住民たちにとっては、そのような単なる「負担」だけでなく、敵の攻撃の
ターゲットになるという危険も―坂手洋二氏(劇作家)は(朝日新聞9月4日付けオピニオン欄に論劇「徳之島少年と旅人」で)次のように指摘。「アメリカは辺野古基地建設で、日本政府が「桟橋方式」を提案した時、『テロの攻撃を受けやすい』からといって、それに反対したが、それは基地が攻撃のターゲットになるということだ。徳之島が、太平洋戦争中、空襲にあったのは、そこに日本の特攻基地があったからだ」と。
 基地住民は、それを県内であれ県外・国外であれ、その「負担」・ターゲットになる危険はまっぴら御免だが、かといって他に押し付けたくはない。だから日本政府に対して代替地に「移設」してほしい(そこに新基地が完成しないうちは米軍は普天間基地に居座り続ける)というのではなく、アメリカに対して、普天間基地を「とにかく(無条件で)撤去」してほしいと言っているわけである。

(2)元沖縄知事の太田氏によれば(『世界』8月号の誌上対談「太田昌秀×佐藤優」で)、アメリカの有名なシンクタンクのケイトー研究所は議会に勧告書を提出して、米政府は5年以内に在日米軍を全部撤退させ、その2年後に現行の日米安保条約を廃棄して日米平和友好条約を締結する旨、日本政府に通告すべき、と提言している。また在沖米軍を最優先にして撤退させ、グアムや太平洋中部の米国領土にもっと小規模の軍隊を駐留させるべきだ、とも主張しているという。つまり、米軍がグアムにいようが沖縄にいようが、抑止能力からいえばべつに関係ないというわけ。アメリカには、似たような主張をする言論人は少なからずいるとのこと。

(3)辺野古沿岸で(橋本内閣当時・普天間返還を日米合意して以来)14年もの間、自民党など与党が、国会は衆参とも、沖縄では知事も県議会も名護市長をも握っていながら、新基地を着工できなかった、それを国民新党の下地氏は(「朝まで生テレビ」で)「政府が、機動隊を入れてまでやるという決断ができなかったからだ」と言っていたが、それに関して元防衛事務次官の守屋氏は回想録に次のように書いている(『世界』9月号誌上の「太田昌秀×佐藤優」の対談で佐藤氏が紹介)。04年、那覇防衛施設局が建設予定水域の環境影響評価(アセスメント)のため行おうとしたボーリング調査が反対派の妨害行動(小船で押し寄せ岩石を海面に投げつける)で阻止された。その時、守屋氏は海上保安庁に強制排除を要請。それに対して海上保安庁は「強制排除に出れば、海上なので水中に落ちたりした場合は人命を損なう危険がある。それにどうしてそこまでして、県民に恨まれるようなことをしなくちゃならないんだ」とのことだったという。

(4)安全保障というと、政治家・マスコミ・評論家・それらに影響される庶民が考えることは、とかく軍事対応。尖閣諸島沖で中国漁船と海上保安庁の巡視船がぶつかったといえば直ぐに軍事対決を考える。
 そして、中国や北朝鮮の軍事力の増強・核開発に対抗して自らの軍事力を(日米同盟・沖縄基地・「核の傘」も)「抑止力」と称して維持・強化しようとする。
 しかし、中国・北朝鮮のそれを招いてきたのは、日米自らが他に先行して、これまでかくも軍事力(中国・北朝鮮などにとっては、それらは脅威)を増強してきたからにほかならない。
 相手に軍事力増強・核開発をやめさせるには、彼らをはるかに上回る自らの軍事力を縮減し、核は廃絶しなければならず、それなくして一方的に相手にのみそれを求めても応じないのは当たり前。
 戦争や武力の行使・威嚇(脅し)では相手国(その政権を倒すことはできても国民)を従わせることはできないし、問題が解決しないことは、今や(イラク・アフガニスタンなどを見れば)明らか。
 軍備はそれほど役には立たず、巨額のムダ遣いとなることが多く、それこそ事業仕分けの対象。軍事で儲かる軍需産業・バイヤー(「死の商人」)・それらと癒着する防衛官僚(「安保マフィア」)に税金が食い物にされてはならないし、日米両国にいる「安保で飯を食べている人たち」の思惑に支配されるようなことがあってはならないのである。
 21世紀いまや、どの国も安全保障は、軍事には頼ることなく、経済・文化の交流・協力と外交、それらの枠組み結成によって確保される(ASEAN諸国がめざしているような不戦共同体を北東アジアにもつくって東アジア共同体をめざす)時代なのである。それらこそが戦争抑止力となるのである。(東南アジアにはかつてアメリカを中心とした軍事同盟SEATOがあったが、ベトナム戦争後に解消され、米軍基地はフィリピンを最後にこの地域からすべて撤去された。このような軍事同盟に代わって非軍事的な安全保障の枠組みとしてASAEAN「東南アジア諸国連合」が結成、TAC「東南アジア友好協力条約」を締結して武力行使・威嚇の放棄、紛争の平和的手段による解決を原則とした。これには日本・中国・韓国・ロシアそれにEU、最近になってはアメリカまでも加盟するに至っている。)
(5)1月の名護市長選挙は辺野古移設受け入れ反対の市長が当選、今月は同市議会議員選挙が行われて、移設受け入れ反対派が圧勝した。沖縄では、これから11月知事選挙があって、沖縄県全体の民意が示されることになっているが、辺野古移設容認へ逆転ということにはならないだろう。菅政権は「受け入れを説得する」という方針に変わりないとしているが、説得は不可能だろう。
 宜野湾市民は普天間基地の即時撤去・返還を求め、名護市民は移設受け入れ反対、沖縄県民も辺野古への移設・新基地建設の日米合意撤回を求めてアメリカと交渉をすることを政府に求め続けるだろう。本土の我々はそれを精一杯応援しなければなるまい。

2010年09月21日

歳祝ありがとう!

 先日は当方の中学校時代の同期会が「古稀」を期して開かれた。案内状に「同期会は今回で最後」とあったので、出ないわけにはいくまいと思って出た。
 卒業時400名以上(50人学級8クラス)。集まったのは90名ほど。10%以上が亡くなったとのこと。担任の先生方は8名中、ご存命で出席されたのは2人(一人は女ご先生で「米寿」の歳、車椅子だった。もう一人は男先生で82歳とのこと。彼は、教員は早期に退職し、この地方で有名な亀岡文殊の住職になられており、一同「お守り」を戴いた)。当方の担任は昨年81歳で亡くなられた(当方が52歳の頃のクラス会にはお出でになられたが、還暦祝いのクラス会には既にご病気で来られなかった)。
 この同期会の1日後、当方の教え子たちの2クラス合同クラス会が、高校卒業45周年と当方の古稀の祝を兼ねて催され、20名ほど集まった。この先7年後、彼らの古稀と当方の喜寿、両方の歳祝を兼ねて「またやることにします」とのこと。それまで生きていなければならないことになったわけだ。よーし!(糖尿病を抑えるため日頃励行している一合晩酌は、今回は一時規制解除で諸君と盃を酌み交わし深酒をしてしまったので、とりあえず一週間禁酒。)
 この度は、皆さん、ありがとうね!

2010年09月30日

尖閣問題―日中対立(加筆修正版)

尖閣諸島―東シナ海域にある魚釣島(中国語は釣魚島)・南小島・北小島・赤尾嶼・黄尾嶼など、いずれも無人島
領有権―日中双方が主張
日本側―「日本固有の領土」「東シナ海に領土問題は存在しない」と。
 1895年(日清戦争中)「先占」(それに先だつ85年から調査、無主の島であることを確認のうえ他国に先駆けて占有―国際法上の領有権確立)、沖縄県に編入、以来、実効支配
 当初、福岡県の実業家・古賀辰四郎氏に国が貸与・払い下げ、1972~78年、古賀家から埼玉県大宮の実業家・栗原国起氏に売却・譲渡、栗原氏が登記簿上の所有者となる。(要するに島は個人の私有地になっているのだ。)それを2002年、国(総務省)が栗原家から年間2千5百万円で借り上げ現在に至る。
 戦前、島に「かつお節工場」(古賀氏が建設)
 近海では沖縄などの漁民が操業
中国側―明の時代(1368~1644年)以来「中国固有の領土」「日中間に領土問題は存在する」と。
 文献(古文書)に膨大な記録、そこに「釣魚島」の名が記載。日本人学者にも(故・井上清京都大学教授、村田忠禧横浜国立大学教授ら)中国説を支持する主張あり。
 倭寇などに対抗する海上防衛区域の島嶼で、台湾の付属島嶼。台湾漁民が操業
 中国と琉球との間の境界は赤尾嶼と久米島の間だと。
 1879年、清の李鴻章が日本と交渉、琉球に魚釣島は含まれていないことを確認。
 日清戦争戦争で(下関条約で台湾とともに日本領に編入)、日本政府はこれらの島を「かすめとった」と。
 大戦後、台湾とともに中国に返還さるべきものだった、と。

アメリカ―第2次大戦後、沖縄とともに施政権下に。
 米海軍の射爆訓練の標的として利用

1968年、東シナ海の海底に石油資源埋蔵が判明   
1970年、台湾政府、魚釣島に「中華民国」国旗を立てる。
    中国政府も「中国領」と。
1971年沖縄返還協定で施政権返還(ただし、それは「領有権」の返還を意味せず、この問題は当事者どうしの話し合いで解決することがお望ましい、との方針)
1978年4月、魚釣島周辺に中国漁船100隻以上集結うち10~40隻が日本が主張する領海で操業(多くが小銃・機銃で武装)
同年8月、日本の民間政治団体(日本青年社)が魚釣島に灯台を建設。
同年12月、日中平和友好条約―条約そのものには尖閣諸島は触れず。批准書交換で来日した鄧小平(副主席)は「次の世代の知恵でよい解決方法を見出すべきだ」と。(「棚上げ」へ)以後日本の実効支配は黙認するも、日本がそのことで何か言うと反論)
1992年、中国―領海法に尖閣を中国領として定める
1997年5月、新進党国会議員の西村氏が上陸(石原都知事が応援)
同年11月、日中漁業協定締結(発効は2000年)―排他的経済水域(EEZ)の境界画定交渉―日本側「200海里説」(相互に重なり合う中間線を主張)に対して中国側「大陸棚説」―交渉継続―画定までの間、暫定的措置を導入―尖閣諸島(領有権は棚上げ)の周辺海域は既存の漁業秩序を維持―領海は別として排他的経済水域は、そこでは互いに排除し合うことなく「入会い」区域として双方ともそこで魚を獲ってもいいことにし、管理は、それぞれ自国の漁船は自国で取り締まることとする。
2004年、中国人7人が魚釣島に上陸、沖縄県警が逮捕・強制退去させる。北京で活動家 50人がこれに抗議、日本大使館前で「日の丸」を焼いて気炎をあげる。
2005年、日本政府が魚釣島灯台を国有化

今回事件)、尖閣沖合いで中国漁船が操業、日本領海を侵犯したのを排除しようとした海保巡視艇に一隻が「体当たり」、海保は悪質な「公務執行妨害」として船員を逮捕・送検・拘留、船員釈放後も船長だけ拘留・延長(日本政府―「日本の国内法に従って粛々と司法手続き」と)。
中国側―船長の即時・無条件釈放を要求
  東シナ海ガス田条約交渉・延期
  航空交渉・中断
  閣僚級以上の交流停止
  「日本青年上海万博訪問団」など若者の民間交流も停止
  日本観光キャンセル
  レアアース禁輸
日本側―官房長官「日本も中国も、あまり偏狭で極端なナショナリズムを刺激しないことを政府の担当者として心すべきだ。エスカレートしないかっこうで解決することをあらゆるチャンネルを使って要請したい」と。
 那覇市議会―中国政府に抗議決議、日本政府に中国に対して毅然たる対処を求める意見書。
 那覇地検―船長を「処分保留」のまま釈放(その理由の一つに「国民への影響や今後の日中関係を考慮」して、と。中国側は、その後、「日本の措置は『不法で無効』だ」とし、謝罪と賠償を求める声明。日本側は拒否。)
 沖縄県議会―日中両政府に抗議(日本政府には船長釈放に抗議)その他いくつかの地方議会も。
 仲井沖縄県知事(11月知事選を控えている)は、尖閣諸島の視察に「早めにぜひ行きたい」と。
 石原都知事は訪中を中止、「国の防衛の基本ができていない。外務省は腰が抜けている」と日本政府の対応を批判。

日中それぞれに反中・反日ナショナリズムが自国の反政府・政府批判に向かいがち(「弱腰外交だ」とか「なめられている」とか)。政治家やメディアが煽って政府を突き上げる。それで強硬外交をとりがちとなる。
アメリカの対応― 尖閣諸島は「日米安保(日本防衛義務)の適用対象」。ただし、この問題では中立―「仲介はしない」、「自由航行の保証を望む」と。
 アジア・西太平洋(東シナ海・南シナ海)への軍事プレゼンス(「抑止力」)と日米同盟は維持・強化へ(日本も呼応―P3C哨戒機による警戒監視活動など日米連携・分担。普天間基地の辺野古移設とともに沖縄基地の維持も?「日本の政権内には、尖閣問題を逆手に取って、米軍普天間飛行場の移設問題を動かすテコにしようという思惑もある。『沖縄がいかに重要な場所にあるか、脅威が身近にあるかを国民、沖縄県民が認識した』というわけだ」―朝日10.2『向龍時代』)
 しかし、この尖閣諸島のために日本を加勢して米軍兵士が中国軍と戦って血を流すことを米国政府は受け入れるだろうか。
 貿易や人的交流では日米よりも米中のほうが緊密なのだ。(貿易額は日米のそれより2,5倍も多く、アメリカから中国へ訪れる人々の数は、日本へ訪れる人よりも100万人も多いという。)
課題
①領土問題については原理・原則は貫き、その政治的意思を明確にすること。
(国際司法裁判所に提訴すれば、日本側が勝てると思われるが、「領土問題は存在しない」としているかぎり、日本政府自身がとりあうまい。)
紛糾事態の沈静化
②国家間の対立激化・紛争は回避―領土問題は「棚上げ」(凍結)続行(日本側は黙って実効支配を続けるのみ、中国側は何も言わない―しかし、何かをすると大騒ぎる)。
 それとも互いに「ここは我が国固有の領土だ」と領有権を主張しあい、言い争うのか。そして海の現場では両国漁民・「巡視船」・「監視船」がぶつかりあうのか。
③紛争を未然に解決する方法・仕組み(メカニズム)を両国で知恵を尽くして構築。
 海域の共同管理・共同利用(資源の共同開発・共同漁場など)への道を追求。
 (ロシアとノルウェーはバレンツ海をめぐって40年間対立してきたが、今年、両国が歩み寄り、天然ガスなどの海底エネルギー資源の共同開発を視野に、バレンツ海域における両国間の権利と境界を区別し、海域を2等分する形で合意。)
 (スペイン南端のジブラルタルはイギリス領だが海峡はスペイン・イギリス両国の共同主権)(南極には我が国も他の国も観測基地を置いてはいるが、領土権はどの国にもない―南極条約)
 (早稲田大学の天児慧教授は「国家主権」は「不変不可侵の固有概念ではなく、可変的な歴史概念」要するに絶対的なものではないとして、グローバリゼーションの進んだ現代にあっては「脱国家主権」の新発想が必要で、領土・領海の係争地域には共同主権の「政治特別区」として協力・依存関係の構築を提唱している―9月22日・朝日新聞に掲載)

 いずれにしても、東シナ海を「紛争の海」とはせずに「平和・協力の海」に。
 そして沖縄は「基地の島」から「平和の島」へ

  
孫はテレビのニュースを見て、「中国は嫌いだ!」とつぶやいた。「だけど、戦争だけはまずい」とも。
 そこで、彼に教えておかなければならないことは、「これからの世の中、世界の人々と付き合っていかないと生きてはいけないが、中国人だけのけ者にしても、かえってこっちの方が割を食うことになるのだ」ということ。
 なにしろ世界の5人に1人は中国人で、彼らは中国国内だけでなく、「華僑」として世界のあちこちで暮らしているんだ。
 日本が外国から買ってもらっているのは(アメリカから16%)中国からは24%で一番買ってもらっているが、中国のほうは(一番買ってもらっているのはEU諸国からで、2番目がアメリカ)日本からは8%しか買ってもらっていない。
 日本から中国へ行ってる観光客は340万以上なのに対して、日本に来る中国人観光客は101万人で、日本から行ってやってるほうが多いが、パーセントでいえば、(340万というのは)中国を訪れる外国人全体(1億3,000万人)の2,6%にすぎず、中国から来てもらっている観光客(昨年101万人)は日本に来る外国人全体の17,7%、今年は前半だけで104万人、買い物など金額では22%にもなっていて、中国から来てもらっているほうがけた違いに多いのだ。(データは朝日ニュースターの番組パックイン・ジャーナルでのコメンテータ田岡氏から。)
 孫が着ているモンテディオ山形のユニフォーム・シャツには”MADE IN CHINA”とあった。
 朝日新聞10月2日の「声」欄に次のような大学生の投稿があったので孫に(噛み砕いて)読んでやった。
 「『君たちと会って、日本が好きになったよ』。昨夏から1年間のイギリス留学中に中国人留学生たちが言った言葉だ。当初疎遠だった私たちは戦争の話もする本当の友達になっていた。・・・(略)
 事件発生後いかにうまく処理するかは外交の手腕だ。しかし実は、中国人の心底にある対日感情を変えていくことがより大切なのではないか。中国政府の強硬姿勢も、感情を背景にしてこそだ。もし漁船の船長が親日家だったなら巡視船衝突という選択をしなかったかもしれない。今回の件で日中政府の対応を責める前に、事件の根底にある国民感情を見つめ直す必要はないか。
 国益を追求するだけの外交より、日本が好きという外国人を一人でも増やすことがより良い外交につながるのではないか。私は自分にできる小さな『外交』を続けたい。」

 こんなふうに思っているお姉ちゃんもいるんだよ。

 <参考>―金子利喜男「世界の領土・境界紛争と国際裁判」明石書店
    横山宏章「反日と反中」集英社新書
    インターネットの尖閣問題関連サイト

2010年10月14日

中国という国はそもそも(加筆修正版)

広大な大陸国家―長い国境線―16ヵ国と国境を接す。
膨大な人口(13億人、世界の5人に1人は中国人)・多民族国家(約50民族)。
 統一の安定・維持は至難(日本のような程よい?大きさの島国とは大分違う)。
長い歴史―小国の割拠から始まり、抗争・統合・統一・分裂・少数民族による支配とそこからの脱却などの繰り返し、近代にはヨーロッパ・日本など列強による分割・侵略も。
 集権的一元的統治システム(統治体制)を築く―諸王朝、今は共産党独裁政権―
国家による厳しい管理体制―人口抑制(1979年以来、放っておけば17億人にもなっていただろうと)―「一人っ子政策」(2人以上出産には罰金)
 開発独裁―経済発展のために政治的安定が必要だとしてトップ・ダウン型の独裁体制をとり、経済発展の成果を国民に分配(戦後日本の高度経済成長は自民党の事実上の一党支配―自民党長期政権下の集権的官僚支配―の下で行われたが、それも似たようなもの)。
 ソ連・東欧のような社会主義政権の崩壊の二の舞になるのを恐れつつ、「社会の安定」「正常な秩序の確保」に腐心。国家がバラバラ空中分解するのを恐れ、国民を共産主義イデオロギーとナショナリズム(今では前者よりも後者のほうにものを言わせる)で引き止め、国民一体化を図ろうとする。
 そのナショナリズム(愛国主義)は広い領域内の諸民族の融合と、住民を一つにまとめる求心力を作るためのもので、必ずしも多民族に対する排除・圧迫や対外拡張主義(大中華主義)を意味しないといわれる(朱建栄「中国2020年への道」日本放送出版協会)。
 大半の中国人は動乱を恐れ(彼らは幹部の腐敗とインフレに反対するが)、知識人活動家・学生の運動を支持せず、安定が必要だとする当局の方針に同意(91年アメリカ議会共同経済委員会の報告書で指摘)。
 
 中国外交の原則―「平和五原則」(1954年、中国首相周恩来とインド首相ネールの共同声明。後、中印国境紛争で形骸化も)―①領土・主権の相互尊重②相互不可侵③内政不干渉④平等互恵⑤平和共存―これらのうち「内政不干渉」にはこだわり続けている。
 1980年代の「改革・開放」以来、中国経済が世界経済に組み込まれ、対外開放・経済交流。
 それにともない、外部の声(関与)も配慮・傾聴しなければならなくなる―国際協調。
 しかし、個人の自由・人権よりも国家の統一・社会の安定を重視。欧米諸国の人権軽視批判には「内政干渉」として反発。
 急速な経済成長―GDP、日本をしのぎ世界第二の経済大国に。但し、1人当たりでは日本国民の10分の1、格差は深刻。

問題点
①中国は、明治以後の日本のように「富国強兵」で軍事大国をもめざし、アメリカのように覇権国家(他国に干渉)めざすのか否か、が問題(自分では軍事覇権はめざさないと言っているが)。
 諸国は中国の軍事力近代化、海軍力増強を(東シナ海、南シナ海などへの海洋権益の追求とともに)警戒。
②中国は今後、現体制(一党制、自由・人権の統制)を維持し続けられるか。
 政府はネット世論(ツイッターやブログなどによる民意)の拡大に抗しきれるか。ネットの書き込みの削除などで市民の怒りを抑え込む。が削除しきれず。(政府は「ネット恐怖症」に陥ってるという。)
 日中両国間で「反中」・「反日」のデモの応酬―東京で反中デモがあると、すかさずネットで伝わり、反日感情に火がつく―「釣魚島は中国のものだ」「日本製品はボイコットしよう」などと―中国共産党政府は制御しきれないことも―デモ制止はかる警官に「権力の犬」とののしる―「学生たちは『反日』という看板を掲げつつ、貧富の格差や就職難という政府への不満を爆発させるのだろう」(朝日)―「反日」から「政府の対日弱腰外交批判」、それが、ひいては「反政府」に転化する可能性(それを中国政府は恐れている)。
 ③無責任な他国からの干渉―これも問題
 自由・人権を尊重せよ、人権軽視をやめよと言って、かの国のやり方や体制を批判するのはいいとしても、それが、その国の国家の統一・社会の秩序安定・維持よりも(それらはどうなっても)自由・人権を優先せよと言って、それを外部から押し付けるとなると、それは内政干渉になる。そうして外国が干渉し、その結果、政権が倒れ、体制が崩壊するようなことになればイラクやアフガニスタンのように(戦乱に)なってしまうことになりかねない。そうなれば、かえって人々の人権は保てず、命さえも保てなくなる。
 中華人民共和国は建国して61年「もたった」というべきか「しかたっていない」というべきかだが(ソ連は一党独裁体制とともに69年で崩壊した)、そろそろ複数政党制に切り替え自由化すべき時なのか否か。それはその国の人民自身が判断して決するべきもので、他国が介入すべきことではあるまい。
 リンカーンといえば「奴隷解放」で名高いが、その奴隷解放と連邦(合衆国)の統一維持とで、どちらを優先と考えていたかと言えば、それは連邦の統一維持のほうだったのだ。
 リンカーンは奴隷制度反対とともに連邦(アメリカ合衆国)の維持を主張して大統領に当選した。すると南部諸州は連邦を脱退して「アメリカ連合国」を建国し、南北戦争
となった。そこでリンカーン大統領は「この戦争における私の至上の目的は連邦を救うことなのであって、奴隷制度を救うことでも滅ぼすことでもありません。もし奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう。そして、もしすべての奴隷を自由にすることによって連邦を救えるならば、私はそうするでしょう」と演説。
 彼の至上目的は合衆国の統一維持であり、奴隷解放宣言はそのための手段になっていたということだ。この奴隷解放宣言が効を奏してリンカーンは内外世論の支持を得、英仏とも不干渉の態度をとったので戦争に勝利し合衆国の統一回復を果たせたのだ。
 (しかし、この後も、人種差別は根強く続き、解放宣言から100年後キング牧師がノーベル平和賞を受賞したが、それは黒人解放運動の中心的指導者として尽力が認められたからにほかならない。)
④我が国の対中戦略―中国とは対立・対抗関係でいくか、平和・友好関係でいくか。前者(「あしき隣人」「戦略的互恵関係なんてありえない」などと「目の仇」)は「勝つか負けるか」「屈服するか、させるか」の「経済戦争」もしくは軍事力を背景にした「こん棒外交」ひいては戦争の道であり、後者は共に利益を得る戦略的互恵関係―“GIVE AND TAKE”の関係または“WIN WIN”の関係。
 そのどちらでいくか、である。
 メディア(報道機関)も、自国本位に報道し対立を煽るか、自国側の意見だけでなく相手国側の意見をもバランスよく紹介して国民が公正に判断できるような報道の仕方をするかである。
 (昨今の状況は前者の様相。)

中国の反政府活動家(劉氏)へのノーベル平和賞をめぐる問題
 劉氏は天安門事件でハンストなど抗議行動に参加、1年半身柄拘束。その後も2度拘束(投獄・強制労働)。非暴力(言論活動一筋)で活動。インターネット上で、共産党の一党独裁廃止と三権分立・国民主権の新憲法、言論・集会・結社の自由を求める声明(「08憲章」)、賛同・署名を呼びかける。今年2月裁判、「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の判決受け現在服役中。
 ノーベル平和賞委員会―ノルウェー国会で選ばれている、元首相ら元国会議員5人が選考―各国に推薦を求める―劉氏はアメリカの議員らから推薦。
 委員会は授賞理由に、劉氏は「中国の基本的人権の確立のために長期にわたる非暴力の闘いを行った」「中国での人権を求める幅広い闘いの最大の象徴」だとし、中国は「政治的信条の平和的な表現を認める、自らも署名した国際協定にも違反し、言論の自由などをうたった中国憲法にも反している」と。
 中国政府は、劉氏は「犯罪者」であり、授賞は「民族の和睦と各国の友誼を前進させ」るノーベル平和賞の趣旨に反し、内政干渉だと批判。(委員会の授賞理由の文中には、「基本的人権はアルフレッド・ノーベルが彼の遺言に書いた『国家間の友愛』に必須のものである」と。)
 中国以外は各国とも、また我が国でも朝日新聞の社説など委員会のこの選考を歓迎・称賛する向きが多い(朝日の投稿川柳には「平和賞やけに喜ぶ日本人」といったものもある。)
 しかし、日本ペンクラブの浅田次郎氏は、「中国の恫喝に屈せずに劉氏を選んだのは当然のこと」としながらも、「主権国家としての中国が抗議するのも仕方のないこと」とし、ノーベル平和賞のあり方について「この20年くらい、きわめて政治的な色彩を帯びており、問題だ。公平な選考ならいいが、釈然としないケースが続いている。あまりに政治的に傾斜することは、ノーベル賞の値打ちを落とすだけでなく、様々な問題を起こしかねない。」と述べている。
 昨年はプラハ演説で「核なき世界をめざす」と唱えたオバマ大統領に授賞をしたものの、米国内では冷ややかな反応が少なくなく、つい先月には言葉とは裏腹に自国における「未臨界核実験」実施を許可している。
 そのオバマ大統領は中国政府に対して劉氏の釈放を求めたという。我が国の国会(予算委員会)では、自民党議員が菅首相も中国政府に同氏の釈放を求めないのかと迫っ
ていた。首相が「釈放されることが望ましい」と答えると、議員は「釈放を求める」とは言わないのかと迫まるも、首相は「・・・が望ましい」だけで通した。
 たしかに、これは非常に微妙な問題なのであり、簡単に言い切れるような筋合いのものではないのである。
 
 中国はいったいどうなるのか、そして日本はどうなるのか、我々は中国人にどのように対応すればよいのかだ。

2010年11月02日

衝突映像―公開の是非よりも漏出の方が問題(加筆修正版)

 あの映像は国民にとっては(国益のためには)、公開の是非よりも一海上保安官が勝手な判断によって漏出した問題のほうが重大なのでは?。
 なぜなら
①その映像は、「これを見ればどちらがぶつかってきたかは一目瞭然」とは言っても、撮影の(3隻の巡視艇から担当-採証班-の海上保安官が撮った)視点・視野は限られており、鳥瞰的に(上空から、漁船・巡視艇各船の航跡などもとらえて)全体像として撮られてはおらず、第三者的な報道カメラマンが撮った映像などとは異なり客観性に欠けるところがある。
 採証班は海保が自らの活動を記録しておくと同時に(「海猿」たちはどんなに危ない思いをして命がけの仕事にたずさわっているか等)PR用に撮っている。通常、それらの映像は海保のH・Pに載せて公開、この時も報道機関に配るため十数枚のDVDを作製していたという。そのような海保側の都合・意図で撮られた映像なのだということ。
 しかも、ユーチューブから流された映像は、全体―3隻から撮った分を合わせて延べ10時間―のうちの44分だけに切り取り編集されたもので、追跡・逮捕の場面なども含めた全体像ではない。
 要するにそれらの映像には偏りがあり、それを見せられたからといって、一つの参考にはなっても、それで全貌がわかり真相がわかるという筋合いのものではないわけだ。
 それでも公開するのであれば編集前の原版すべてを見せるべきだろう。さもないと自分の都合のいい部分だけを見せ、都合の悪い部分はカットしていると見なされてもしかたないことになるから。
②映像は、事件の捜査資料・証拠物件になり、外交カード(国益に関わる外交交渉の一つの切り札)にもなり得るもので、機密管理を要するもの。然るべき時が来れば公開されるとしても、今その時点で公開すべきかすべきでないかの判断は組織の決定に基づかなければならず、個々のメンバーが(たとえ、本人が言っているように「政治的主張や私利私欲に基づくものではなく、一人でも多くの人に遠く離れた日本の海での出来事を見てもらいたい」一心であっても)勝手に判断して許可無く「公開」(漏らしたり、流出させたり)することは許されまい。
 職務上知り得た内部情報を外部に漏出して(許可無く流布させて)はならない、といったことは公務員なら誰しもが解っている常識である(それが国家公務員法の「守秘義務違反の罪」に当たるかどうかには異論があり、その罪に問えるのかは別としても。)
 だからこそ、かの海上保安官は「SENGOKU38」などと称し、正々堂々と実名を名乗ることを避け、映像が入った記憶媒体を壊して捨てるなど証拠隠滅をはかったと見なされるようなことまでやっているのだ。
 その映像は、省庁における上意下達組織の統制・管理下で、実際どう扱われていようと(全国各海上保安部の職場ネットワークによって広範に職員間で閲覧できていたとか、国会の要請に応じて予算委員会理事ら一部の議員たちに数分間分の編集映像を見せたとか、などのことは行われていたとしても)海保官一個人が誰の許可もなく外部流出を行った行為に対しては、なんらかの処分が下されるのは当然(組織内で横行している不正・違法行為にたまりかねておこなう「内部告発」として法律で保護される要件を満たしているというわけでもない)。
 ましてや海上保安庁といういわば準軍隊組織の一員であり「武力を行使できる公務員」として格別なモラルと規律の遵守が求められる立場の人間が規律・統制に背いたとなれば、事は簡単では済まされまい。本人はもとより、その者の現場の上司・直属の監督責任者にまで処分が及ぶことも考えられる。
 但し、シビリアン・コントロールする側の国交大臣・官房長官・総理大臣らは、それぞれになんらかの責任は求められるとしても、かれらにまで処分がおよぶということはあり得まい。なぜなら、彼らには、海保長官らに対する任免権はあっても、海保長官のように海保という組織内にあって現場を熟知しつつ直接部下たちを教育・監督し、海保官たちの動静を把握し、内部情報・資料を管理する立場にはなく、組織外の彼ら大臣の首をすげ替えても意味がない(状況が変わるわけではない)からである。
 ただ、内部情報を国民に公開・開示するか、しないか、公開するとすれば、いつどの範囲で公開するか、などを判断する権限は彼ら(国交大臣・官房長官ら)にある。その判断はあらゆる場合のことを考慮して、あらゆる角度から総合的に判断されなければならないのだろうが、元外務審議官の田中均氏は、「国民の『知る権利』の意識と日中関係への配慮とを両方充足させることは多分できない。それは政府の国益判断と責任でやるしかない」と。

 今回の衝突映像の非公開判断は適切であったかどうかについては、論評なら如何よう
にでも論じることはできようが、①に述べたように、一部の国会議員が見た6分50秒の映像とユーチューブから流れた44分の映像だけから、これだったらもっと早く公開しておればよかったものをなどと、一概に言い切ることはできまい。野党は、それを公開しなかったのは不適切極まりなく大臣辞任に値するとして不信任決議や問責決議を行おうとしているが、それは筋違いなのではないだろうか。
 野党やメディアの中に、また国民の中にも「映像を早く公開していれば、『中国があのような過剰な反応を示すことはなかったかもしれない』し、政府が隠し立てをするから漏出を招く結果にもなったのだ。海上保安官の彼は、公開しようとしない政府に反発し、正義感にかられてそうせざるを得なかったのだ。そもそも『公務によって得た情報は国民の共有財産』であり、公務員には国民の「知る権利」に応ずる「公開の義務」があるはず。彼はその義務を果たしたまで。故に悪いのは政府の方であって、彼ではない」かのように考える向きがある(朝日新聞にそのような投稿が見られた)。はたしてそういうものだろうか。
 
 中国では反日デモで「愛国無罪」を掲げて乱暴行為にはしった学生たちがいたし、漁船衝突事件で拘留され釈放されて帰還した船長が「英雄」として迎えられた、といったことがあったが、日本でも今、似たような現象が起きているということだ。自民党議員の丸山氏は「義民一揆の如きもの」といい、石原都知事は「何で愛国者を逮捕する!」と。
 中国の場合(学生や漁船の船長らのそれ)と一つ違うのは、彼は海上保安部主任航海士といういわば準軍人。そのような立場にある者の行為にたいして「愛国無罪」で済ませば、それがエスカレートした時どうなるか。かつての5.15事件(軍人の反政府テロ行為をいわば「愛国無罪」として軽い処分で済ませた。その結果、2.26事件そして戦争へとなだれこんでいった)が想起される、と指摘している論者もいる(元外務省主任分析官の佐藤優氏や軍事ジャーナリストの田岡氏)。

 どうやら逮捕は見送られるようだが、その理由の一つが中国人漁船・船長に対する釈放措置とのバランスを考慮してとのこと。それは両国の国民感情にとらわれたやり方だと思えるが、それで問題はないのだろうか(禍根を残さないだろうか)。
 中国側の軍事施設の敷地に立ち入ったフジタの社員に対する拘束から釈放に至るまでの措置は、漁船の船長に対する日本側の措置とのバランスを考えたのかもしれないが、彼らと準軍事組織の一員たる者の立場を同列には考えられまい。
 
<参考>11月12日付け朝日新聞オピニオン欄「耕論」
      13日CS放送朝日ニュースター「愛川欽也パックイン・ジャーナル」
      15日NHKクローズアップ現代 


2010年11月08日

領土問題は国際司法裁に

 隣国との間で、領土問題で喧嘩の種やわだかまりをいつまでも抱え続けている。それがある事をきっかけに頭をもたげ、その都度、国民感情が悪化していがみ合いが始まり、貿易・経済・文化など交流が中断し友好・協力関係が絶たれかねない事態が繰り返されるのは実に不幸なこと。
 互いに自国の領有権の正当性を主張し合って水掛論争、一方が実効支配、現場では漁船が拿捕されたり巡視艇に体当たりをかけたり、トラブルが耐えない。
 このような状態に早く終止符を打つべく、問題(いくらこっちで「我が方に領有権があることに疑問の余地は無く、領土問題は存在しない」といっても、相手がそう思っていないかぎり問題)に決着をつけ、事態の打開を図らなければなるまい。
 決着・打開をはかるとは、まさか力で相手を屈服させるやり方ではなく、国際司法裁判所に提訴して、そこで決着をつけてもらうということにほかならない。それに対して相手国が受託を拒否すれば、そのこと自体、相手国が自らの(領有権の)主張の正当性に自信がない証拠だと見なされるし、我が国のほうは、自らの領有権の主張の正当性を国際社会それに相手国の国民世論に堂々と(反日を気にすることなく)アピールできるわけである。
 だからといって、外交交渉では、我が国はその諸島・海域における(領有権の主張はいいとしても)権益(漁業・資源開発・居住権など)の排他的独占に固執するのではなく、そこで操業し或は在住する相手国民に引き続きその既得権を認める方向で相手国の納得を得ることに努め、共同利用・共同開発・共同管理ばあいによっては共同主権などの方法をも追求することとする。
 とにかく、この問題で隣国との間で、ただ単にいがみ合いを続け、いくらアメリカなど他国の力に頼ったり、自らの軍事力を相手国に対抗して増強しても、けっして相手が折れてきてこっちの意に従うなどということはあり得ず、いがみ合いや力の対決では、けっしてこちらの都合のいい結果は得られないばかりか、武力衝突による惨害を含めて不都合な結果のほうがはるかに大きくなる。
 この際は、領土問題は国際司法裁に提訴して、打開をはかる以外には良策はあるまい。・・・・と思うんだがなあ。

2010年11月10日

外交・安全保障の要諦と対中外交

各氏の考え紹介
<軍事ジャーナリスト田岡氏の考え―朝日ニュースターの番組「パックイン・ジャーナル」での発言より>
①相手の事情をよく理解し、相手の真意を見極めること。
②対立点よりも共通利益を追求すること。
③安全保障の要諦は敵を減らし、味方を増やすこと。(軍人・軍部はとかく敵を作りたがるものだが)
<ユニクロ社長柳井正氏の考え―朝日新聞10月23日付より>
 日中両国政府は「お互い主張をぶっつけるが、相手の言い分には耳を貸さず、ただ非難しあうだけ。これでは対話の糸口は見つかるはずもない。自国のみが正しいという、偏狭な愛国心ばかりがヒステリー気味に増幅することになった。」「とくに危うさを感じたのは、不用意に勇ましい発言を繰り返した日中双方の政治家の態度だ。勇ましい話は一見、格好がいい。国民にも受ける。人気とりにしか思えない発言で火に油を注ぎ、メディアも「非国民」「売国奴」といった言葉で煽った。」
 「アジアは共存共栄をめざすしかない。すでに日中は互いに切っても切れない関係を築いている。」「現在の結びつきの重要性に比べれば、摩擦によって失うものが、どれほど大きいか。」
 (無責任な政治家とメディアは、国民に受けようとして、勇ましい、格好のいい言葉で相手国を非難するとともに自国政府の「弱腰外交」をも批判して国民を煽っている、ということか。)
<ハーバード大学名誉教授エズラ・ボーゲル氏の考え―朝日新聞10月29日付け「オピニオン・インタビュー」より>
*中国の指導者は自国が安定的に発展できるか不安。まだまだ生活水準の低い多くの国民と多数の少数民族を抱える巨大な国、その秩序を維持しコントロールするのが容易ではなく、民主化に不安。そこで共産党への忠誠心と愛国心に頼っている。
*中国人にとって日本との最も緊密な接触体験は日中戦争。日本観はその戦争から形作られている。米国人にとって最も緊密な接触体験は戦後の占領期だから、日本が軍国主義を捨て平和な国になったことを理解しているが、中国人はまだそのようには考えない。
*中国は国力が増して自信をつける(経済発展を達成し、もはや日本から近代化に必要な基礎的なテクノロジーを学ぶ必要がなくなった)とともに、行動を変えてくるのではないかという長期的な懸念も。
*尖閣列島―アメリカ政府の公的立場は「国際法上、どの国に属するか確定していない」という立場。(実際、クリントン国務長官は「尖閣列島に日米安保条約が適用される」と言明したといっても、それは「尖閣は日本の施政権下にある」という従来の立場を繰り返しただけで、領有権には触れていない。ということは、そこで万一軍事衝突が起きたとしても、必ずしも米軍が出動するとは限らないということ。)
*中国に対抗して反中感情を利用して日米同盟を強化しようとするのは健全ではない。
中国は大国であり、我々は中国とやっていかなければならないのだ。中国は世界との貿易から利益を得、世界システムの受益者であり、自らの国益のために国際機関を必要としており、覇権国家にはなれない。中国にとっては平和的な国際環境が不可欠であり、過大な軍事費はかつてのソ連の失敗の原因でもあるところから、軍事費の増強には抑制がある。

2010年11月15日

11月のつぶやき

●沖縄知事選:尖閣沖での衝突事件に続いて北朝鮮の~島砲撃事件、そして米韓合同演習に日本の基地から米軍が出動と、まるで知事選に合わせたかのように事態が展開しているのを見せつけられて、やはり沖縄県民は、基地は「撤去」よりも、「できれば県外に」移設して維持する方を選んだということだろう。再戦された仲井真知事は「基地は沖縄を守るためにだけあるのではない(日本を守るためにある)のだから・・・」などとコメントしていた。
 黄海の軍事演習には横須賀から原子力空母、沖縄の嘉手納基地から電子偵察機が出動。嘉手納町長は深刻な面持ちで「基地のあるこの町が(北朝鮮ミサイルの)ターゲットにされる可能性は充分ある」と語っていた(報道ステーション)。
●TBSサンデーモーニングの「風」コーナーは閉塞感(につつまれた今の世の中)のことが取り上げていた。内閣支持率の低下、長びく経済不況に外交危機など等。例によって「街の声」(インタビュー)を拾っていた。
 うちのカミサン、口説いて曰く。「マスコミがそんなことばかり流しているから、世の中ますます暗くなるんだでや」
●挑発合戦:韓国軍が境界線海域で軍事演習―北朝鮮軍が島を砲撃―黄海で米韓合同軍事演習・・・・今度は何?
●テレビの報道番組はNHK・民放ともよく見ているが、CS放送の朝日ニュースターの「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」は毎週土曜日、ビデオを採って見ている。
司会の愛川氏は俳優だが、「学童疎開」世代で憲法をごしょう大事(いつもポケットに)
にしており、視聴率を気にしないでこの番組をやっているのだという。
 北朝鮮の砲撃問題とこのところの国会の動きなど、そこでの論評(コメンテーターは軍事ジャーナリストの田岡氏、ノンフィクション作家の石川氏、ジャーナリストの二木氏、元衆院議員の水島広子氏、社会評論家の横尾氏)は当方の「つぶやき」意見に裏づけを与えてくれるものだった。
 やはり、北朝鮮が島を砲撃する前に韓国軍がその周辺で実弾演習をやっていたことを他の番組や新聞ではほとんど問題視していないが、この番組では詳しく取り上げていた。それは北朝鮮からみれば、韓国海軍が軍事演習を、普通は外洋でやるべきものを「領海」内で敢えてやっていたということ、それは尖閣沖に中国海軍が来て軍事演習をやるようなもの。(中国の漁業監視船が来ているというが、それは、そこでトラブルが起きないように互いに自国の漁船を取り締まる―日本の巡視船は日本の漁船を取り締まる―という協定があるからにほかならない。)
 韓国軍のあの海域での軍事演習は単なる演習ではなく、威嚇だと。それに対して北朝鮮は事前に「やめよ、さもなくば・・・」と通告したうえで、砲撃を強行した。北朝鮮は、約束はやぶるが、このような場合には有言実行する国だということ。「ソウルを火の海にする」とよく言い立てるが、それは単なる脅しではないということを、今回、韓国市民も思い知らされたのではないか。
 韓国人は「瞬間湯沸し」のように熱しやすく冷めやすいところがあるが、38度線を挟んで対峙して暮らしているだけに常々危機意識をもちつつ冷静になれる。それにひきかえ日本人には平和ボケのきらいがあり、そういう(戦争を知らない人)ほど勇ましいことを言って強硬派になる。
 北朝鮮が求めているのは、アメリカとの間で未だに「休戦協定」を結んだだけで、戦争が終結していない状態にあり、早く「平和協定」にこぎつけて、それに切りをつけ、国交を正常化して経済の遅れを埋め合わせる支援協力を得るようにしなくてはならないとやっきになっているのだ。それなのにオバマ政権は、核もミサイルも放棄した上でなければだめだと米朝交渉にも6ヵ国協議にも応じてこないので、交渉に応じるか、さもなくば戦争か、どっちでもいいのだぞ(どうせこっちは失う物は何もないのだから)と―それは「瀬戸際外交」というよりはむしろ「崖っぷち外交」というもので、まるで自分を人質にとっているようなもの。
 ところが、アメリカも韓国も戦争に踏み切ることはできないのだ。それは勝つことだけなら簡単だが、失うもの(人的・物的な損失)が大き過ぎるうえ、韓国にとっては戦後、統一は果たせたとしても、崩壊したキム政権に変わって、疲弊しあぶれた北朝鮮国民はとうてい面倒みきれないからだ。中国も、彼らを面倒みきれないというその点では同じだろう。誰にとっても戦争は割が合わないのだ。
 だから、結局は交渉・協議に応じるしかない、ということだろう。
 日本は中国と尖閣でぶつかったが、今回のような韓国と北朝鮮のぶつかり合いに比べれば、あのレベルで終わってよかったということだ。「断固たる対応でやる」ということは、あのような砲撃戦になるということなのであって、そのことを教訓とすべきだろう。日本政府の対応は国内で批判されているが、結果的に尖閣の現状(日本側の実効支配)は維持されているし、日中関係もレアアースの輸入その他も元に戻りつつあり、あれで国益が損なわれたということには何らなってはいない。
 国会では、自民党などの野党は、瑣末な問題や言葉尻をとらえて、時間を空費している。
 埼玉県の入間基地内で催された自衛隊関係者の集まりに招いた人物が「菅政権をつぶそう」と演説したという出来事があって、防衛省が自衛隊施設で行事を催すさいは、そのような政治的発言をする人を呼ばないよう事務次官通達を出していたことを自民党議員が取り上げ、「言論の自由」を侵害するものとして問題にしたが、そもそも自衛隊員は政治的中立を守らなければならず、自衛隊内で、政権に反対したり、特定政党を支持するよう呼びかけるなどの言動が禁じられていることは自衛隊法に明記されていること(違反は3年以下の懲役)であって、通達はそのことの注意を喚起したものにほかならないのであって問題にするほうがおかしい。
 また、そのことに関連して官房長官が行った答弁のなかで、自衛隊を指して「暴力装置」という言葉を使ったことが問題にされ、長官が陳謝しその言葉を撤回するということがあったが、これまたおかしなこと。その言葉は政治学用語で、警官などとともに武器をもつ権力機関を意味しており、辞書(広辞苑)の「せいじけんりょく」の意味の説明文に明記されている(このことは朝日新聞の投稿者が指摘しているところであり、「騒ぐ方がおかしい」、「仙石氏は謝罪を撤回した方がいい」と書いている)。
 「国会がワイドショウーに見える」「メディアが劣化している」「韓国海軍があそこでどういう演習をしていたのか、メディアに出ないのが変だ」など等

 こういったことが「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」で語られていたのだが、こちとらが考えたことも、あながちピントはずれではないんだな・・・・。
●テレビのニュースを見て小4の孫は「これに日本はまきこまれるの?」と訊く。「へたをするとそうなるかもしれないな」といって、世界地図をだしてきて解説。「かつて朝鮮半島を日本がのっとって領土にしていたことがあったんだ。日本がアメリカや中国・ロシアなどとの戦争に負けて引き上げた後、そこは韓国と北朝鮮が分かれて、アメリカと中国がそれぞれ加勢して戦争をし、今は打ち合いはずうっとやめているが、未だいがみあいは続いている。日本とは韓国は仲直りしているが、北朝鮮は仲直りしていない。アメリカは韓国に基地を置き、日本にも、沖縄をはじめあちこちに基地を置いていて、そこから朝鮮半島だけでなくあちこちの戦争や演習に部隊を繰り出して行った。今度またあの海(黄海)で韓国と一緒に大がかりな軍事演習をやりに、日本の基地から出動してそっちへ向かっているんだ。だから北朝鮮は韓国のあの島だけでなく、アメリカの基地を置いている日本の島(沖縄)にもミサイルを打ち込んでくるかもしれないわけだ―と話した。
 そうだ、普天間基地や嘉手納基地、それらが北朝鮮のミサイルの標的にされて、沖縄が韓国のあの島のように、あんな惨状に見舞われる、ということにもなるんだ・・・。
 それに備えて基地をもっと堅固にして防備を固めるのがよいか、それとも標的にされないように基地を撤去させるのがよいか、どっちがいいのかだな。

 それにしても国会での野党の質問とそれを取り上げるマスコミ。
 肝心の「北朝鮮はどうしてあんなことをおこなったのか、その原因・根本原因はどこにあるのか。北朝鮮が再びあのような挙におよび、あのような事態が再び起きないようにするにはどうすればよいのか」(再発の防止)の議論は一部少数野党が取り上げ、「『軍事には軍事で』という軍事的緊張の拡大と悪循環を退け、外交的・政治的な努力によって解決すべきだ。憲法9条を生かして、平和的環境をつくりあげていく外交力こそ求められている」と提起し、首相は「事態のさらなるエスカレートを招かないよう北朝鮮に求めるとともに、関係国と緊密に連携して取り組む」と答弁し、外務大臣は「平和的に解決することに焦点をあて努力したい。日本外交もそれを中心に取り組む」と応じていた。
 ところが自民党その他は、多くは、既に起きてしまったことに、あの時、事態にどう対応したのか、首相はどこで何をしていたのか、官房長官はどこで何をしていたのか、~大臣はどこで何をしていたのか、「官邸は空っぽだったんですよ」とか、初動が遅かったとか、「危機管理がなっていない」とか、(首相や長官・大臣らはいちいち答弁していたが、)そんなことは後でじっくり検証して反省すべきは反省してもらうことにして、今はとにかく「もっとしっかり対応し、手抜かりのないようにして、しっかり取り組んでもらいたいし、協力も惜しまない」とだけ言っておけばいいものを、延々と同じようなことをねほりはほり繰り返し、言葉の揚げ足とりや失言を引き出すことにばかりやっきとなり、非を突いては大げさに声高にまくし立てる。もっぱら政権奪回のための足の引っ張りばかりにうつつをぬかし、自分らのやっていることはといえば、この大事な時に問責決議をもて遊ぶだけで、建設的提案はほとんど見られない。NHKやテレビ朝日などマスコミもそっちのほうばかり取り上げる。
 うちのカミさんは病院に検査を受けに行ってきたのだが、待合室で流しているテレビの国会中継を見てイライラしてならなかったと口説くの口説くの。
 ●「北朝鮮、韓国の島を砲撃」、NHK「ニュース・ウオッチ」、男アナウンサー「どうしてこのようなことをと思うとともに怒りを覚えずにはいられません」と。女子アナ「北朝鮮は日本にも攻めてくるんでしょうか」と。拓大の例の教授は日米韓の連携体制を固めることが益々重要だろうと。沖縄の米軍基地を撤去してはならないということか。沖縄知事選は自公民の日米同盟・基地容認派は勢いづいているだろう。「ほら、みろ」と。
 仙石官房長官は「許しがたいものであり、北朝鮮を強く非難する」「独自に(制裁)できるものがあれば検討していく」と述べ、文科大臣は朝鮮学校の無償化は当面控えると言っている。-------はてさて
 いったい、どうして、このようなとろで(韓国・北朝鮮双方とも互いに領海を主張し合っていて、昨年も11月中、そこで両軍艦艇が銃撃戦、北朝鮮艦艇のほうが大破して何人かの死者をだしており、今年3月には韓国軍哨戒艦沈没事件―日米韓側は北朝鮮による魚雷攻撃だと断定しているが、北朝鮮はそれを否定し、ロシア、それに韓国内でもそれを疑問視している向きがある―が起きている、そのようなところで)なぜ韓国軍が軍事演習を強行したのか(「北」は事前にそれを非難し、「南側が領海に射撃すれば座視しない」と通告していたというのに)。島内には民間人も居住しているが、韓国軍4千人もが駐屯しており、そこで海上射撃訓練を行っていたという。そこを砲撃されたのだ。
 互いに不安と憎悪をかきたて合っている。
 かの国が言っていることをまともに受け取ってはならないが、日本のマスコミの言うことにも気をつけなくちゃ。
  
 今朝の「布団の中音楽」はシューベルト、「菩提樹」など組曲集「冬の旅」だった。
●今朝は3時台に目が覚めてしまい、4時過ぎまで待ってウォークマンをかけた。クラシック全集の54巻め、これまたショパンの曲。何曲目かに往年の名画、タイロンパワーの「愛情物語」の曲(「ノクターン」)が聴かれ、それが終わると今度は「雪の降る街を」。出だしがそれとよく似た「幻想曲」だった。6時だ。どーれ、掃除機かけに取り掛かるか。「ゆーきーのふーるまちおー」と。
●今朝も、イヤホン音楽を聴いて起床、掃除機かけの後、ラジオ体操―頭も体調よしだな。しかし雨か。婿殿を駅まで車で送っていかなきゃ。
●山形に、ある用事で行ってたまたま通りかかった旭銀座通り。街頭スピーカーから音楽が流れてきた。映画「避暑地の出来事」の「夏の日の恋」ではないか。一瞬足を止めてあたりを見回すと、「~堂書店」の看板はあったが、シャッターが下りていて、「大福まんじゅう」の店が、わずかに昔のたたずまいを残してまだやっていた。・・・なつかしいなぁー
●(実は、毎朝早く目が覚めてしまうので、布団の中でCD音楽をイヤホンで聴くことにしている。映画音楽やポピュラー音楽も聴くが、このところはクラシック全集を一巻づつ聴いている。昨日はベートーベンの「ロマンス」を聴いた。)今朝は、聴き始めるや、ピアノで、「あなた変わりはないですか」―都はるみの「北の宿」の出だしとよく似てる。ショパンのピアノ協奏曲だった。・・・ええなぁー 
●朝・明け方、布団の中、ウォークマンで音楽(今朝はベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」と合唱幻想曲「何とか」)。聴き終えてイヤフォンをはずしたら、「グォー・・・グォー」。女房の鼾(いびき)だ。
 逃れ起きて6時、掃除機かけ「ざ―――」、女房が起きて来た。
 今日も一日が始る。 


2010年12月02日

そもそも北朝鮮はなぜ?―孫に訊かれて(再々加筆版)

 小4の孫が「北朝鮮と日本はどういう関係になってんなや?」と訊く。
「それはな」(地図を描いて―ここに日本があって、ここが朝鮮半島、ここが中国、ここがロシア、こっちの方にアメリカがあると)
 むかし、日本は朝鮮の国(大韓民国)をのっとった。そのいきさつは色々あるんだが―ほら、今、テレビで「坂の上の雲」というのをやっているだろう?あれに日清戦争とか日露戦争とか戦争の場面が出てくる。日清戦争は日本と中国の戦争だが、朝鮮の国は中国の属国になっていた。戦いは朝鮮半島とその傍の海(黄海)でやって日本が勝った。その後の日露戦争は日本とロシアの戦争だが、戦いは朝鮮の隣の満州と日本海でやって日本が勝った。この二つの戦争をきっかけに、朝鮮は日本の属国になり、さらには完全に日本領になった(日韓併合)。日本人が朝鮮の国を治め、学校では日本語が教えられた(皇民化教育)。その後日本は中国に攻め込んで、中国軍とそれに加勢するアメリカ・ロシアなど連合国と戦争した(日中戦争・太平洋戦争)。この間、朝鮮の人々は日本人から駆り出されて戦争を手伝わされ、戦わされ、日本に連れて来られ、こき使われもした(強制連行)。
 戦いは日本が負け降参して、日本人は中国からも朝鮮からも引き上げた。
 この後、朝鮮半島には南にアメリカ軍がのりこんで来、北にロシアの軍がのりこんで来て、南にはアメリア軍を後ろ盾に韓国ができ、北に北朝鮮の国できて、国が二つに分かれてしまった。それがぶつかって戦争(朝鮮戦争)になり、アメリカは韓国に加勢して、攻め込んできた北朝鮮を押し返し、中国との国境近くに迫ると、中国が北朝鮮を加勢して押し返した。アメリカ軍は日本の飛行場や港から出動していったんだ。押したり引いたりしながらやり合ったあげく、3年目になってもうやめようということになって、戦いは打ち切られた(休戦協定)。
 その後日本は韓国とは正式に仲直りして、以前、日本がそこで人々を支配し、土地を取り上げたり、人を駆り出してこき使ったりして迷惑をかけ、惨めな思いをさせた、そのお詫びをして、埋め合わせにお金を出したりした。
 ところが、北朝鮮に対しては未だに何もしていない。だから北朝鮮の人々は日本人を恨んでいるのだろう。その国の手の者から誘拐され連れて行かれた日本人が何人もいるんだ(拉致問題)。
 それに北朝鮮はアメリカと韓国とは、戦いは休止しているが、正式に仲直りしたわけではなく、半島の真ん中を横切る線(38度線)を挟んで睨み合ったままなんだ。
 今回その線が延びている海と島で韓国軍が演習をやったのに対して、北朝鮮軍が大砲をぶっぱなして死傷者が出、何人もの家が焼け落ちた。
 それに対して韓国軍が撃ち返し、その後、黄海でアメリカ軍と韓国軍が一緒に演習をやり、ついで日本の自衛隊もアメリカ軍と一緒に、日本近海でこれまでになく大がかりな演習をやったんだ。
 こんなことやり合って、いったい、いつ治まりつくというのだろうか。へたすると朝鮮戦争が再開され、あるいは日本にもミサイルが飛んでくるかもしれない。だから撃ち返す演習をやっているってが?百発百中みんな撃ち落せるなんてあり得るの?

 何が一番問題なのかといえば、それは・・・第一、北朝鮮とアメリカ・韓国との戦争(朝鮮戦争)は休止しているものの、未だに仲直りしてないし、武器や兵器・部隊・陣地もそのまま配置していて、づうっと睨み合いを続け、互いに演習をやり合っているんだ。北朝鮮側には北朝鮮軍しかいないが韓国側にはアメリカ軍もいるし、しょっちゅう一緒に演習をやり、アメリカ軍は日本にも基地を置いていて自衛隊とも一緒に演習をしている。北朝鮮はアメリカ・韓国・日本の同盟軍に対しては、鼠と虎・猫・犬のようなもので、力は比べものになるまいが、それを少しでもカバーしようとして、核兵器とミサイルをもとうとして開発・実験を試みているわけだ。
 さっさと(平和協定を結んで)仲直りすればいいものを。
 北朝鮮のほうは、強がりは言っても内心ではびくびく、ひいひい、一日も早くプレッシャーから逃れたい一心。それに対してアメリカは、北朝鮮など、中国や日本・韓国などに比べて、貿易などつき合う相手としてはとるに足りない国で、急いで仲直りしてつき合うようにしなければならない相手ではなく、北朝鮮のほうが仲直りしたいのであれば、その前に先ずは核兵器とミサイルの開発・実験をやめるのが先で、それがないかぎりだめだといって、仲直りしようとはしない。それに対して北朝鮮はいらだつ。
 北朝鮮にとってすがるものは核兵器とミサイルしかなく、それを手放してしまったら、かつて日本が(アメリカから原爆を落とされて)兵器をすべて手放して降参し、仲直りの条件を決めるにもすべてアメリカの言いなりになるしかなかった、それと同じことになるからだろう。(日本は無条件降伏を受け入れざるを得なかった。それでも「国体護持」―天皇制の維持―だけは最後まで受け容れてもらおうとねばった。北朝鮮はアメリカに「体制の保証」を求めているのだとよくいわれるが、それは日本のあの時の「国体護持」へのこだわりと同じことだろう。)

 北朝鮮には食糧も電力・燃料・産物も乏しく、外国から買うにもお金がなく、アメリカも韓国も日本も出してくれない。
 かわいそうなのは腹をすかせ寒さに震えている子どもたちだ。
 悪いのはそもそも、いったいどこの国の誰たちなのかな。

 これが、当方の孫の質問の答えての解説なのだが、マスコミでこのような解説・論評をしているところはほとんどあるまい。マスコミは専ら「『北』の挑発」「日米韓の防衛協力」「日米同盟の重要性」「中国の責任重大」など、そればかりだ。

今の朝鮮半島をめぐる現実は
①1950年朝鮮戦争(53年休戦協定)以来、南北両軍(南にはアメリカ軍も)が対峙していて戦争未終結状態にあるということ。
②北朝鮮は、中国・ソ連が韓国と国交して以来、中ソを後ろ盾として当てに出来なくなり(パックイン・ジャーナルのコメンテータ田岡氏によれば、中国からはあたかも最小限の「生活保護」のように食糧と重油などの供与は受けているが、軍事援助は受けていないし)、圧倒的な米韓の核戦力の前に、独自の核・ミサイル開発に邁進して米韓に対抗しようとする。
 その一方、アメリカに対して戦争終結のための平和協定を早く結んで両国関係を正常化し(北朝鮮国家の維持が保証され)、不安から解放されることを望む。
③これに対して、アメリカは、北朝鮮はまず核武装を放棄することが先決だとして、平和協定・関係正常化の交渉には応じず(「戦略的忍耐」と言うが、要するに無視政策)。アメリカにとっては北朝鮮に対しては、その核開発と核拡散を何が何でも阻止することだけが関心事なのであって、平和協定・両国関係正常化などは急がず、むしろ経済制裁と軍事的プレッシャーでぎゅうぎゅう締め付けて国が崩壊するのを待っていたほうがよいとの思惑があるのだろう。
 最近のウィキリークスによって明るみに出たアメリカ国務省の外交機密電文によれば、韓国外交通商省の高官が駐韓米大使に次のように語っている。「北朝鮮はキム・ジョンイル(脳卒中などの病気が悪化すれば2015年以前に死亡するだろう)が死亡すれば2~3年以内に崩壊する(中国にそれをくい止める能力はない)」と。
 日本政府の北朝鮮に対する関心事には拉致問題があるが、米韓と同様なスタンスだろう。
④もしも北朝鮮が崩壊したら―米ダートマス大学のジェニファー・リンド助教授(12月17日付け朝日に寄稿文掲載)によれば、北朝鮮崩壊で「無秩序状態や政治的空白が生まれれば、食糧不足から数十万人が餓死するような人道上の大災害が起きる可能性があり、膨大な数の難民が発生するだろう。北朝鮮の大量破壊兵器が国際的闇市場に流れる危険性もある。内戦が国境を越えて広がるかもしれない。」「もし、中国、韓国、米国がそれぞれ単独で介入したらどうなるだろうか。人民解放軍が南下し、米国・韓国軍が北上する」すなわち「朝鮮戦争の悪夢の再来」となる。
⑤北朝鮮は核・ミサイル実験を重ねるし、日米韓はその度に経済制裁。
⑥日・米・韓・朝・中・ロ6ヵ国協議、米朝協議も重ねられてきたが、国連の安保理の非難決議や制裁措置に北朝鮮が反発して、ここしばらく中断。
⑦互いに軍事演習(米韓合同演習、日米も)―互いに軍事挑発だと非難
⑧海上軍事境界線―韓国は北寄りのラインを、北朝鮮は南寄りのラインを主張―双方が主張するラインの中で双方の漁船が操業、米韓は軍事演習、度々トラブル。
 昨年11月北朝鮮側に犠牲者
 今年3月韓国哨戒艦沈没事件(北朝鮮の魚雷攻撃によると断定的に語られているが、それに対する疑問は依然として韓国内外で提起し続けられている。)
 今回、砲撃戦(韓国軍が演習を始めようとしているのに対して「取りやめよ、さまなくば」と通告のうえ、韓国軍が予定通り開始したのに対して砲撃)
 その後、韓国軍事演習・米韓合同軍事演習・日米共同統合演習も(それを北朝鮮とそれぞれ自国民にテレビで見せ付けている)
 中国は北朝鮮に対してコメ支援、重油支援、中朝国境をまたいだ経済協力(北朝鮮側では中国による開発、中国側では工場に北朝鮮労働者を雇用)、これらによって北朝鮮に対して影響力を持つ。 
 その中国は「6ヵ国協議の首席代表の緊急会合」提案。日米韓は応じず軍事演習。
 日米の演習は中国の軍事に対するけん制のためもあり。

 日米韓側は「北朝鮮が武力挑発をやめ非核化への具体的行動をとることが先決。中国は北朝鮮にそれを働きかけるべきだ」と。
 それに対して中国は「中国に責任を押し付けている」と。

 12月2日の朝日新聞に掲載された投稿(「南北分断の哀しみ分かち合おう」)に次のようにあった。「一体誰が同じ言葉を話し、同じ文化を持つ同じ民族が住んでいた朝鮮半島を分断するという残酷なことをしたのか。北緯38度線による民族の分断を朝鮮半島の人々の誰が望んだのか、望んでいるのか」「北朝鮮による今回の砲撃事件を、南北分断の仕掛け人への憤りの表れととらえるのは間違いだろうか。」

 日本が朝鮮半島を植民地支配し、満州をも支配し、日中戦争を起こし、アメリカとも戦争をして、ソ連軍の侵入まで招いた。それが日本降伏後の朝鮮半島の米ソ分割占領・分断国家の成立を招いたのだ。

 韓国軍は、軍事演習をやって北朝鮮軍から砲撃を受けたヨンピョン島で、再度射撃訓練を行った、その際、李大統領いわく、「軍事的に対峙している分断国家が、領土防衛のために軍事訓練するのは当然のことだ」と。これに対して北朝鮮側も同じ論理で軍事的に対抗し、たえず一触即発の緊張を強いられている。朝鮮民族はこのような現実におかれているということだ。

 日本では、朝鮮半島情勢については日本による植民地支配からの歴史を抜きにして論評されることが多く、NHK・朝日などマスコミの報道と解説は極めて偏っている(北朝鮮のアナウンサーは大げさで居丈高な口調なのに引きかえ、日本のアナウンサーは穏やかな語り口調ではあるが、その内容たるや「北朝鮮の脅威」と「中国の脅威」は強調するが、相手側にとってはアメリカや日本のほうが脅威なのだということなど度外視したアン・フェアな論調)。日米韓3国の同盟も、合同軍事演習も、原子力空母も、沖縄基地も、これらを国民世論が肯定し、それらは「中国と北朝鮮から日本を守ってもらうために必要だ」という意識を植え付けるような報道がほとんどだ。
 孫よ、ごまかされて洗脳されるなよ!この調子では、戦争と植民地支配に対する痛切な反省の上に二度と戦争しないという決意のもとに制定された憲法から、ますますかけ離れ、またまた戦争にひっぱられてしまいかねないぞ。そんなことは許さん!

12月のつぶやき

●古稀の誕生日がきた。すると市役所から「国民健康保険高齢受給者証」なるものが送られてきて、それに、医療費の自己負担が今まで3割だったのが、1月1日から3ヶ月間だけ1割で、4月からは2割になると記載されていた。前回健康診断で24時間心電図に異常が診られてから3ヶ月目なので再検査が必要だと医者から言われて、その検査の予約を「今月中」としていたのを、急きょ来月に延期してもらうことにした。
●今年の重大ニュースといえば、なんのことはない、「民主党政権への失望」こそがそのトップなのでは?
●懐かしのポピュラー音楽をもっとあげれば、マーティー・ロビンス(ホワイト・スポーツ・コート)、ボビー・ダーリン(マック・ザ・ナイフ)、エディー・フィッシャー(オー・マイ・パパ)、トニー・ベネット(想い出のサンフランシスコ)、ペリー・コモ、ハリー・ベラフォンテ(バナナ・ボート)、女ではダイナ・ショア(青い意カナリア)、ドリスデイ(先生のお気に入り)、コニー・フランシス、カテリーナ・バレンテ(情熱の花)、ジョーン・バエズ(ドナ・ドナ)、グループではトリオロス・パンチョス(ラ・マラゲーニア)、キングストン・トリオ、ミッチ・ミラー(クワイ川マーチ)、ブラザーズ・フォア、シャンソンではイブモンタン、シャルル・トレネ(ラメール)、ジルベール・ベコー、エンリコ・マシアス(恋心)、アダモ(サントワ・マミー)、ボビー・ソロ(頬にかかる涙)あたり(思い出せない名前はインターネットの手を借りて思い出した)。
 新聞にイブモンタンのことが書いてあった。生前彼はインタヴューで「若さの秘訣は?」と訊かれ、「それは人をあるがままに愛すること」、そして「世界に起きていることに関心を持ち、不正義を怒ることだ」と答えたという。なるほどな。
●我々の世代が若い頃なじんだのは、プレスリーのほか、その師匠格のフランキー・レイン(「OK牧場の決闘」「ローハイド」)、ジーン・ビンセント(ビー・バップ・ア・ルーラ)、パット・ブーン、ポール・アンカ、リッキー・ネルソン、ニール・セダカ、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、ディーン・マーチン、ナット・キングコール、プラターズ、サッチモ、アンデイ・ウイリアムスなど。実はビートルズにはあまり馴染みなかった。ところが50代になってからのこと、クラスの生徒が教室の後ろの壁に「イマジン」の歌詞を英語で書いて貼り付け、唱って聴かせる者もいた。わが家でも娘がビートルズのカセットをかけていた。よく聴いてみると、なかなか行ける。以来これもレパートリーに入った。
●今日は何の日―ジョン・レノンの命日。当方と同じ年(1940年)に生まれた。彼が思春期の頃プレスリー・フアンだったとは知らなかった。これまた当方と同じではないか。
 それに、今日は太平洋戦争・開戦の日。それは当方らが生まれた翌年。その日、日本軍はハワイの真珠湾と当時イギリス領のマレー半島コタバルを奇襲攻撃したうえで、米英に宣戦布告した。ジョンの国イギリスはヒトラーのドイツからミサイルを撃ち込まれ空襲に見舞われていた。お互い大変だったよな、赤ん坊だったけど。
●早いものだ。1年あっという間。何かいいことあったっけ?悪いことは?糖尿病は進んでないし、認知症は?晩酌は一合を励行しているし、日本酒を赤ワイン(報道ステーションによれば、それが認知症の予防・改善に効くことが、マウスの実験で証明されたとのこと)に切り換えたし。
 十大ニュースは?普天間問題、首相交代、参院選与党大敗、尖閣問題、北朝鮮問題、牛の口てい疫問題、子ども手当てと高校授業料の無償化・・・・。
 個人的には・・・・中学校の同期会、教え子たちのクラス会、何人かの諸君との何十年ぶりかの再会から、その後ちょくちょく飲み会、昨年末のギリシャ・トルコ旅行の仲間との交歓会(草津と小野川で)etc。
 投稿が全国紙の新聞に載ったことも、当方にとってはビッグ・ニュース(5回目、何万分の一かの確率で、宝くじが当ったようなもの)。
 我が家の十大ニュース?いいこと、わるいこと?取り立てて言うほどのものはないな。ああ、小4の孫が米沢フィルハーモニー楽団のコンサートに出演したこと、小2の孫がモダン・ダンスの発表会に出演したこと、それらは我が家では大したことだ(こちとらには到底出来なかったことだもの)。

2011年01月01日

安保と世論調査

2010年12月24日付け朝日新聞に掲載された同社の世論調査(日米両国内で実施)結果。一部割愛し、文章要約。それぞれに、当方の考え(当方ならどちらを選ぶか、もしくは意見)を加える。<日><米>は日米それぞれでの調査結果を示す。
<日>安全保障を考える上で、軍事的な面と外交や経済などの非軍事的な面では、どちらの面がより重要だと思うか。 軍事的な面22 非軍事的な面64 当方なら「非軍事」の方
<日>これからの日本は中国との関係を深める方がよいと思うか、中国とは距離をおく方がよいと思うか。 関係を深める51  距離をおく38(「米国との関係を深め、中国と距離をおく」27)  当方なら「関係を深める」方―但し、これまでの米国との関係のように、なんでも「右ならえ」で、その言いなりになるような関係ではなく、対等な関係を保つことは必要。
<米>これからのアメリカは、中国との関係を深める方がよいと思うか、中国とは距離をおく方がよいと思うか。 関係を深める55  距離をおく34(「日本と関係を深め、中国と距離をおく」13)
<日>日本にとって、アメリカと中国の、どちらの国との関係が、より重要と思うか。
 アメリカ68 中国15  これは愚問。両方とも重要にきまっている。
 我が国では、「米中は対立関係にあり、日本は米国側につく」という冷戦思考が刷り込まれて向きがあるが、それはお門違い。
 米中関係は経済では、日中関係と同様に親密であり、対立関係は不利であり、衝突すればとんでもない結果を招く。
 (アメリカ国債の引き受け手は、いまや中国が日本をしのいで最大の引き受け手。アメリカの証券界にとっては、世界最大の外貨準備高をもつ中国が最大の顧客。アメリカの中国進出企業は2万8千社。アメリカの軍需産業―航空機メーカーにとっても中国が最大の顧客―年間150機購入、C130輸送機も。軍事面では、米中は、テロ防止・核拡散防止などの問題で共通項をもち、軍事交流も。)
 日本も、貿易では、中国とのそれは(香港を含めれば)24%で、アメリカとのそれ(16%)を二倍も上まわっている。(朝日の、この世論調査結果を掲載・論評した紙面には、日本の輸出入総額に占める米中の比率は、中国が20%、アメリカが13%。一方、中国の輸出入総額に占める日米の比率は日本が10%、アメリカが14%。米国の輸出入総額に占める日中の比率は日本が6%、中国が14%となっている。)
<米>アメリカにとって、日本と中国の、どちらの国との関係が、より重要と思うか。   日本33 中国50
<日>日本と中国との関係を考えたとき、次のどちらをより重視すべきだと思うか。(択一)
 日本とアメリカの同盟関係を強め、中国と向き合う31
 日本・アメリカ・中国の3ヵ国が、経済などの面で相互依存関係を深める64
 当方なら後者
<日・米>日米安保条約をこれからも維持していくことに賛成か、反対か。 
 日{賛成78 反対 9 } 米{賛成68 反対11}
 当方なら「反対」の方―日本は、この条約に縛られて、独自の外交戦略を欠き、アメリカの軍事・外交戦略に追従してばかりだが、そのような状態から早く脱すべきだから。 
<日・米>日米安保条約に基づき、日本には約4万7千人のアメリカ軍が駐留している。このアメリカ軍は何のために日本にいるのだと思うか。(択一)
 ①日本を防衛するため{日42  米9}
 ②アメリカの世界戦略のため{日36 米59}
 ③日本が軍事大国になるのを防ぐため{日14 米24}
 当方なら②、③も。
<日>いざという場合、アメリカは本気で日本を守ってくれると思うか、そうは思わないか。 本気で日本を守ってくれる41 そうは思わない46 当方なら「そうは思わない」方
<日>日本にとって、軍事的に脅威を感じる国はどこか。(一つだけ挙げるとすれば)
 北朝鮮49 中国32 アメリカ6 ロシア3 韓国1 その他の国0 特にない2 
答えない・分からない7 
 当方なら「答えない」方―答えようがないからだ。そんなことは相対的なもので、ある国(北朝鮮や中国)に対して脅威を感じるのは、その国を敵視しているからであり、相手からみれば逆に自分の方(かつての侵略・植民地支配と戦後アメリカとの戦争、それに加担してきた日本)が敵視され脅威と感じられるようなことをしてきたし、してもいるからからなのであって、そのことを抜きにして、ただ相手の脅威だけを論じても意味がないからである。
 アメリカの軍事力は圧倒的であり、その核の傘にある日本も海軍力だけでみればアメリカに次ぎ、「相撲にたとえアメリカ横綱とすれば、日本は前頭、それに対して中国は十両に過ぎない」という(1月8日放映の朝日ニュースターの番組パックイン・ジャーナルで軍事ジャーナリスト田岡氏)。空母やステルス戦闘機(中国は建造計画・試作の段階。日本は既にヘリ空母を持ち、ステルス戦闘機も研究に着手)を含めても、中国はまだまだ。
<日>日本の周辺で、日本の平和と安全に大きな影響を与えるような事態が起きる不安を感じているか、いないか。 感じている72  感じていない24  
 当方なら「感じている」方。但し、問題は「どうしてか」ということであって、それは、そのような事態を招く要因が様々あるからなのだが、それらは北朝鮮や中国の側だけでなく、日米の側にもあるのだということ。互いに「抑止力」と称して軍備増強、兵器開発・軍事演習をやりあっており、プレッシャー(軍事的・経済的圧力)をかけあっている。
<日>中国の軍備増強に備えて、沖縄本島のさらに西にある先島諸島に新たに自衛隊を配備することに賛成か、反対か。 賛成48 反対36 
 当方なら「反対」の方―かえって緊張を招き、トラブル(衝突)の元になるから。
<日>仮に、中国と台湾との間で軍事衝突が起きて、アメリカ軍が軍事介入したとき、自衛隊がアメリカ軍のために物資を輸送するなどの後方支援をすることに賛成か、反対か。
 賛成57 反対30 
 当方なら「反対」の方―「仮に・・・」ということで「仮の話し」を前提にして設問しているが、中台関係は、いまや親密化し、経済分野では一体化に向かっており、「軍事衝突」などアメリカにとっても(衝突されては困ることで)それは想定外の、非現実的な「あり得ない」といってもよい話しで、設問は愚問。(中台間には飛行機の直行便は一週に270便、船の往来は昨年1万3,000隻。中国に行っている台湾人は200万人。台湾からの輸出の30%以上、投資の70%以上は中国向け。中台自由貿易協定も結んだ。アメリカ政府は台湾政府に対して台湾独立政策は徹底して抑える方針をとっている。馬英九総統はアメリカ人が台湾のために戦うことを求めないと言明。台湾独立戦争などあり得ないということだ。但しアメリカは、中台の軍事バランスの均衡と中台双方との外交バランスを図っており、台湾に武器売却をおこない台湾への影響力の維持を図っている。中国は台湾へのアメリカの武器売却には反発、最近、軍用へりコプターなどの売却問題で米中軍事交流を中断したが、交流は再開することになっている。)
<日>自衛隊の海外での活動は今後、どうすべきだと思うか。(択一)
 ①災害救助を除き、海外での活動は一切すべきでない21 
 ②国連の活動に限って認める59
 ③国連の活動以外でもアメリカの要請があれば認める15
 当方なら①
<日>日本は、国内に駐留しているアメリカ軍の経費の一部について、いわゆる「思いやり予算」として約1,800億円を負担。この予算をどうすべきだと思うか。 ①増やすべきだ1 ②いまの程度で続けるべきだ32 ③減らすべきだ54 ④やめるべきだ10   当方なら④  
<日>日本にアメリカ軍の基地があることは、日本にとってプラスの面が大きいと思うか、マイナスの面が大きいと思うか。 
 プラス53 マイナス28
 当方なら「マイナス」の方―それによって日本が守られているというのは多分に幻想であり、むしろ、それがアメリカのアジアや中東での戦争に出撃基地もしくは後方基地として利用され、戦争に手を貸すけ結果になっており、基地周辺にとっては迷惑も甚だしいだけでなく、基地あるがゆえに居住地が標的にされる危険がつきまとう。
<日>日米安保条約に基づいて日本とアメリカの間で結ばれている日米地位協定では、アメリカの軍人が日本で事件を起こしても、日本の警察がすぐに取り調べをできない場合がある。日米地位協定を改定すべきだと思うか、改定しないで運用の改善でよいと思うか。 改定すべきだ79  運用の改善でよい15  当方なら「改定」の方
<日>日本の米軍基地は迷惑な施設だと思うか、そうは思わないか。 迷惑な施設だ32 そうは思わない53 当方なら「迷惑」の方
<日>沖縄には在日米軍の基地や施設の74%が集中している。この状態は本土に比べて、沖縄に犠牲をしいていることになり、おかしいと思うか、地理的・歴史的にみてやむを得ないと思うか。 おかしい48 やむを得ない45 当方なら「おかしい」という方
<日>普天間飛行場の代わりの施設を名護市の辺野古地区につくるという日本政府とアメリカ政府の合意について、どうするのがよいと思うか。そのまま進める方がよいか、見直してアメリカと再交渉する方がよいと思うか。 そのまま進める30 見直してアメリカと再交渉59(合意を見直したら、どうしたらよいと思うか。 沖縄県内の別の場所に移設12 沖縄県以外の日本国内に移設32 国外に移設51)  当方なら「再交渉」の方で、「移設先をどこに」などより普天間飛行場は「とにかく撤去・閉鎖」を求めることだ。
<米>アメリカが1945年に広島と長崎に原爆を投下したのは、「戦争を早く終わらせるためにはやむを得なかった」と思うか、それとも、「一瞬に多数の人を殺す原爆を投下したのは、間違いだった」と思うか。 やむを得なかった55 間違いだった34
 「戦争を早く終わらせるために」やむをえず「一瞬に多数の人を殺す原爆を投下した」としか書いていないが、言葉足らずである。アメリカは単にそれだけではなく、「戦争を早く終わらせて自国兵士のさらなる犠牲を避けるために」と、「多数の一般市民を無差別に殺す原爆を投下した」のだ。


2011年01月12日

1月のつぶやき(随時加筆)

家庭内事故には気をつけなくちゃ
 高齢者の事故死の大部分はそれだという。最近亡くなった谷啓や細川俊之(俳優)も階段で転倒したとか。歳をとると、ももの筋肉などが衰えて、足が上がらなくなって座布団や絨毯につまずいて支える力もなく転倒するのだ、とテレビで言っていたのを女房に語った。その日、小屋の屋根の雪をおろそうと、二階の娘の部屋の窓から跳び下りようとして窓際の本棚に上がろうとしたら、バリ!スッテン。女房が跳んできて、「何だってまず!そんなどごさ上がっつぁねーごで、弁償すんなねぞ!」(転倒した当方より壊れた本箱の方に気がいっている)。
 翌日は車庫のシャッターに頭をぶっつけた。晩めし時、娘が「何したの?その傷」。「半開きになっていたシャッターを、上まで上がりきっているものと勘違いして」と言ったら孫たちからまで笑われた(当方の頭は誰も心配していない)。
 ブルトーザーがかんなで削るように雪をかいていった、その上に後で降った雪が薄く積もっている道路を歩いていて、二度もツルッと滑って転倒した。孫にはお前たちも気をつけろと言ったが、老人になったこの身、せいぜい、ゆっくり、すり足で歩き続けて生きていこう。(ラジオ体操とウォーキングを励行しながら。)
「タイガーマスク運動」に協力したい。が年金生活者の身。人様に贈れる余裕はない。
 孫の財布が当方の居間に置きっぱなし。中には千円札が10枚以上も入っている。当方を除く祖父母と叔母たちからお年玉を2~3千円づつもらったのだろう。そうだ、孫に、「タイガーマスクになったつもりで、そのお金を贈らせるか」。女房は「(彼の)パパは貯金してやると言っていたよ」と言って、その財布を持ち帰らせた。
 当方は、麻生政権の時の定額給付金を当市の「ふるさと応援寄附」で私立高校生への奨学金として贈ったりしたものだが、思わぬ「子ども手当」で家計に余分ができた高所得者の方々は、そのお金をタイガーマスク方式に寄附にでも当ててくれたらいいのに。
 新聞を見ると、当市にもようやく先駆けが現われ、児童養護施設に1万円を郵送で贈った方(「寅年生まれのおじいちゃん」と名のる)がいると出ていた。そうか、それじゃ、と思い立ち、自分の財布のお金に女房からもらってプラスし、同じ施設に(以前、そこで娘が短大の実習でお世話になったこともあって)贈った。「伊達直人」としたためたが、当方は辰年生まれ。そうだ、俺はドラゴン・ジージ?(これは「つぶやき」ならぬ「ねごと」)
●毎朝明け方の寝床イヤホンCD聴きも、クラシック音楽全集に続いてポップス・映画音楽シリーズもひときり付いたので、趣向を変えて、たまたま借りてもっていた綾小路きみまろの漫談を聴いた。女房、口説く。「『けらけら』て、気持悪くて寝らったもんでね。たくもお。ひとのごと考えだもんでねもな」
 やむなく、「きみまろ」は一回で止めざるを得ないことになった。
●亡き父(警察官だったが、斎藤茂吉・結城哀草果らのアララギ派に所属)が遺した短歌
「朝な朝な妻が水汲む井戸の辺に 藁靴はきて雪踏むわれは」(昭和20年作、その後まもなく、兵隊に入隊)
 いま、我が家では、朝な朝な妻がスノー・ダンプで除雪、われは掃除機かけをして、そのあと、近くに住む汽車通勤の婿殿を駅に車で送っていく・・・・歌にはならないか。
●国の問題では、今年の最大の問題は、民主党政権が何月までもつか・・・いや、そんな政局のことよりも、①消費税増税問題②TPP(貿易自由化)問題③普天間基地の辺野古への移設を含めた日米同盟(「抑止力」)強化の問題。
 一部少数野党を除く主要野党、それに主要マスコミ(NHK・朝日など全国紙)はいずれも、それらを肯定しているどころか、むしろ政府に「有言実行せよ」とけしかけている(それらを国民にうまく説得できず、ためらい続けている政府を批判)。
 これらに対しては、我が「声なき声」は、精一杯批判してみせるぞ!

●①宮沢賢治の詩
 「雨にも負けず 風にも負けず 夏の暑さにも負けず
 丈夫な体を持ち 欲は無く 決して怒らず いつも静かに笑っている 
 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに
 よく見聞きし解り そして忘れず
 野原の松の林の陰の 小さなかやぶき小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き みんなにデクノボウと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
 そういうものに私はなりたい」

②ジョン・レノンの歌(イマジン)
 「想像してごらん 天国なんてないんだと その気になれば簡単なことさ 
僕らの足元には地獄はなく 頭上にはただ空があるだけ 

 想像してごらん 国境なんてないんだと そんなに難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由もなく 宗教さえもない
 想像してごらん すべての人々が平和な暮らしを送っていると 

 想像してごらん 所有するものなんか何もないと はたして君にできるかな
欲張りや飢える必要もなく 人は皆兄弟なのさ
 想像してごらん すべての人々が世界を分かち合っていると」

③横井小楠の言葉(幕末の熊本藩士、明治政府に出仕したが保守派に暗殺された。当方の大学の同級生の斎藤君が最近送ってくれた彼の文に、この言葉があった)
 「人間というものは、ただ人間の心の充足のために、自分の心のために、あるべきものである。自分の心に忠実であるようにすればいいのである。」

 よーし、この精神でいこう!
(女房は「何を言ってんだか。みんな他人の言葉のパクリだでや。できもしないくせに」とつぶやく)
 彼らの言葉を自分の心に焼き付け、その精神で、出来ることをやろう、というつもりなんだけど。


 

2011年02月01日

2月のつぶやき(随時追加)

●学校、卒業式の朝、前の晩どこかに泊まってジャージ姿、スーツは更衣室、鍵がかかっている、事務室に駆け込んで、「鍵!鍵を貸して!」、校長は冷たい眼差しでこちらを
向いた、階段を生徒がぞろぞろ下りていく、小便をもようす、家に電話してモーニングを持ってきてもらって間に合うか、ああ、小便が出る!チビった・・・・目が覚めた。
 毎朝、布団の中で聴くCDウォークマン、今朝はモーツァルトだったが、聴き終わってから起床時間までしばらくあったので、また眠ってしまったのだ。
 退職して10年も経つというのに、まだこんな夢を見せられるとは・・・・
●シャンソン歌手で俳優のイブ・モンタン(ちょうど10年前、今の俺と同じ歳で亡くなる)は、若さの秘密について問われ、「その人をあるがままに愛すること」と答えた後で、「世界に起きていることに関心を持ち、不正義に怒ることだ」と言ったという。そうだ。若さだ。
●自家の近くの川に、このところ毎日、一羽の白鷺がカルガモたちといる。その健気(けなげ)に生きる姿を撮ろうとして、雪をかき分けて近づき、カメラを構える。辺りでは人々がスノーダンプで除雪に勤しんでいる。
 悪戦苦闘したが、なかなか上手く撮れない。切り上げて家に帰ると、女房「デジカメなのぶらさげて、どごさ行ってきたんだが。昨日からあれほど頼んでだ・・・も  ・・・も、何一つすもすねで、タグ!生活能力ゼロだもな!」。
 ちきしょう!俺だってけなげに生きてんだ・・・(つぶやき)
 まあ、いいか。小さな事にはいちいち腹を立てまい。大きな事に怒るんだ。

2011年02月08日

TPP問題(加筆修正版)

 菅首相は「平成の開国」と称してTPP参加をめざし、6月までに、交渉参加について結論をだすことにしている。
 それを望んでいるのは経団連など財界であり、読売・朝日など主要メディアがそれを応援し、日本労働組合総連合会(連合)も支持を表明しているという。
 
 
TPPとは―「環太平洋連携協定」―すべての品目で、即時または段階的(10年以内に)に関税撤廃(FTAより高い水準の自由化めざし、原則として撤廃の除外は認めない)―「アジア太平洋自由貿易圏」形成へ。
 非関税障壁の撤廃、様々な分野の自由化・規制緩和ともなう― 金融・保険・繊維・皮革・電子商取引・公共事業・教育・医療・衛生植物検疫・建設・運輸・通信・エンジニアリング・観光・旅行・娯楽・文化・スポーツなどへの外国資本・外国人労働者の参入

 現在、4ヵ国(シンガポール・ニュージーランド・チリ・ブルネイ)だけが締結。これにアメリカ・オーストラリア・マレーシア・ベトナム・ペルーが参加表明・加盟交渉に入る。
 中国・韓国・タイ・インドネシアは一線を画す。
 韓国は米国・EU・中国とFTA(自由貿易協定)締結。
 日本はシンガポールなど上記4ヵ国とマレーシア・ベトナムそれにスイスとはFTA・EPA(経済連携協定)を既に締結、オーストラリアとはEPA交渉中。
 (FTA・EPAは、いずれも2国間協定、関税撤廃の例外品目を交渉によって認めるが、TPPは多国間で、例外品目を認めず、ゼロ関税にするのが原則)
 諸国間経済連携構想にはASEAN(東南アジア10ヵ国)に日中韓3国が加わったASEAN+3構想、それにインド・オーストラリア・ニュージーランドをも加えたASEAN+6構想(日本が提唱)があり、鳩山前首相も「東アジア共同体」を唱導していた。それに対して、その中にいないアメリカがTPPを足がかりに、これを主導してAPEC(環太平洋諸国)全体に及ぶアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構築をめざし、それに日本を引き込もうとしているものと思われる。
○肯定論 
 (東大教授の戸堂康之氏)日本全体(現状は閉鎖的)がグローバル化すれば国内の生産性・活力が向上―物づくり技術だけでなく効率的な生産方法・マネージメント・ビジネスモデルなども。
 参加しないと世界の競争から取り残される。
 TPPでアジアの成長を我が国に取り込める。
 企業―海外に打って出れば日本製品の競争力が高まる。
 海外直接投資で国内雇用は(直後には減るものの)、海外とのやりとりが増え人員が必要となるから、3~4年後には増えていく。
 海外から安価な輸入品が増え、物価が下がる。すると実質為替レートも安くなるから、輸出企業にとってはますます好都合に。
 参加することによって、自由貿易協定(FTA)戦略の出遅れを一気にとり戻せる。
 参加でGDPが1.23 ~1.39(6.1 ~6.9兆円)伸びる(内閣府の試算)。
 不参加なら、2020年、自動車・電気電子・機械の3業種の米国・EU・中国における市場シェア喪失して、GDPが1.53%(10.5兆円)減、雇用が81.2万人減。
 日本経済再生の絶好のチャンス
 農業が打撃をこうむったとしても、それはGDPでは1.5%にすぎない。
 TPP参加はむしろ農業再生(農業改革)のチャンス―グローバル市場を相手に日本農業を再設計―大規模化を推進(集落営農<協業法人>促進、株式会社に農地を開放)、高品質農産物輸出に活路―今後膨れ上がるアジアの富裕層向けに輸出。
 輸入米に門戸を開いても、日本のコメが国内市場から締め出されるようなことは考えにくい。
 食料自給率(1965年73%、今40%、穀物自給率は28%―世界でも最低レベル)
アップ(民主党政権は50%を目標)。
 *日本農業の現状(従来の自民党農政の結果)―高齢化・後継者不足が深刻
  価格保障政策は放棄、家族経営の切捨てへ。
減反政策(米価維持のためコメの需要減に合わせて水田の作付面積を減らす生産調整策―輸出用は対象外)―水田の4割を生産抑制。税金40年間で総額7兆円投ぜられながら、農業所得は20年前から半減。
 創意工夫と大規模化で自立しようと努力する主業農家の足を引っ張ってきた。
コメの販売実績によって翌年の生産枠が決まる―各地の農協はコメの安売りしてでも枠の拡大を競う―米価下落に拍車。
 民主党政権になって戸別所得補償制度―すべての販売農家を対象―主な所得が他にある兼業農家より主業農家の方が苦しく。規模拡大に応じて加算金あるも、退出するはずの零細農家も補償を得ようとして、貸していた農地の「貸しはがし」に走るようになり、農地の集約を阻害し、細切れ化を促す。(意欲ある主業農家に絞った直接支払い制度に切り変えるべきだ―朝日社説)

●反対論
 TPP参加したからといって、日本の輸出はそんなに拡大するわけではない―①参加国のうち、6ヵ国とは既にFTAを結んでいる。②未だ結んでいないアメリカの関税率は自動車で2.5%、家電で5%程度でしかなく、関税よりも為替変動による貿易への影響のほうが大きい(アメリカがドル安誘導と金融緩和政策を続ければ、同国への輸出は伸びない)。③韓国がこのところ輸出を伸ばしている原因は、FTAを結んだからではなく、韓国通貨(ウォン)の為替レートが、この4年間で半分近く下がっているからにほかならない。④日本の輸出企業の多くは、既に海外で現地生産のほうを拡大しており(自動車は56%)、TPPに参加しても、日本からの貿易は拡大しない。
 関税撤廃された場合の実質GDPアップは0.48~0.65%だけ(昨年11月の参院予算委員会での玄葉国家戦略担当相の答弁)。
 恩恵をこうむるのは輸出大企業(自動車・電気電子・機械産業の3業種)だけ―地場産業・生活関連産業など度外視。(輸出企業や海外展開している企業は日本全体の2,000分の1にすぎない。
 企業の海外進出は加速―国内の雇用の空洞化に拍車。
 海外からの安価な製品輸入でデフレはさらに進む。
 日本製品に競争力があったのは、消費者の要求水準が極めて高い国内市場で鍛えられてきたからだが、途上国市場ではいくら製品は売れても開発力(競争力)は付かないし、国内でも、デフレが進み、安さばかりが求められるようになって、「目利き」の消費者が減っていくと、企業は研究開発を怠るようになる。内需を拡大してこそ競争力を強める。
 日本は「輸出大国」ではなく(GDPに占める輸出の割合はだけ。貿易依存度は17%で、米国12.6%より高いが、韓国55%、中国36%よりも低い)、実は「内需大国」なのであって、内需を拡大して需要不足を埋めることによってデフレ脱却をめざすべき。
 (すべての産業の競争力を上げるには、リストラ・合理化などの生産効率アップではなく、輸出で稼いだ外貨を内需に使うことを考え、円安を生むしかない。)
 (京大助教授で元経産省課長補佐中野剛志氏によれば)輸出といっても、どの国に売るかといえば、実は限られている。米国は失業率10%で不況続き、中国は好景気といってもバブル(頼るのは危険)、他のアジア諸国は外需依存で国内市場は小さ過ぎ。このような中で(関税撤廃しても)輸出を増やすには、低賃金で技能の高いインド・中国の労働者と競争になり、製品価格を下げるため、さらに賃金を下げなくてはならず、一般国民を苦しませるだけ(利益は株主と企業に回るだけ)。また(大阪大フェローの小野善康教授によれば)輸出が増えても、今度は貿易黒字で(対外資産が積み上がって)円高になり、国内の相対的に弱い分野が必ず衰退する(例えば、タオル産業の生産性は、中国のライバル企業より優れていて―絶対優位―も、自動車の中国企業に対する優位さの程度がそれ以上―比較優位―であれば、タオル産業は衰退する)。(逆に、すべての輸出財に同率の関税がかけられても、比較優位は変わらず、その分円安になって、どの産業も影響を受けない。)
 日本で現在すでに関税ゼロになっている品目は全品目中の53.0%にもなっており、米国45.7% 、EU28.9 %、中国 6.4 %、韓国 14.1%などのいずれをも上まわっており、むしろ「開国」が最も進んでいる。
 農産物の輸入関税は既に低く、鎖国状態どころか世界一の農産物純輸入国になっている。
  各国農産物の平均関税率―インド124.3、韓国 62.2、メキシコ 42.9、EU 19.5、米国 5.5、日本11.7(米国に次いで2番目に低い)。
  高関税で守っているのはコメ(778%)、砂糖(252%)、小麦(249%)など農産物の1割だけ。大豆など4分の1は無関税。
 農業所得少なく、農業だけでは食べていけないというのが実態―後継者不足の根本原因。
 TPP参加(全品目関税撤廃)で、日本農業はさらに壊滅的打撃こうむることになる。
 巨費を投じて農家所得を補償しても、外国産農産物の輸入増加は止められず、国内農業の縮小は避けられなくなる。
  (農水省の試算では)農業生産4.5兆円減
            コメの生産量90%、 小麦99%、牛肉79%、豚肉70%減
            食品加工など関連産業も含めGDP7.9兆円減
            雇用350万人減
            食料自給率(40%)は13%に激減。
 大規模化をやろうとしても地理的・自然的条件から限界(農地の4割は傾斜地に)、アメリカ(我が国最大の北海道の平均耕地面積と比べても10倍)・オーストリア(同じく150倍)とは到底太刀打ちできない。
 北海道は世界的に見ても既に大規模化している―1戸当たり耕地面積20.5haで(米国は186.9haだが)EU(13.9ha)を上まわる。酪農では1戸当たり飼育頭数64頭(米国138頭、EU10頭)、肉用牛は178頭で米国(84頭)を上回っている。
 その北海道でさえTPP参加すれば、壊滅的な打撃こうむることに(北海道農政部が試算では道の損失総額2兆1,254億円、うち農業算出額5,563億円、関連産業5,215億円、地域経済への被害額9,859億円)。
 大規模な株式会社でも、08年31法人がいったん農業に参入しながら後に後退(農水省調査)。黒字の法人は11%だけで60%は赤字(08年、全国農業会議所のアンケート調査)。
 世界食糧危機にさいする備え(食糧安全保障)が、一層難しくなる。
 食糧主権の確保―自国民のための食糧生産を最優先。食糧・農業政策(輸入規制・価格保障など)を自主的に決定(それこそが世界の流れ)
  農業は国の基幹産業。どの国でも、食糧供給の安全保障のため戦略的産業として保護(助成金、農民に所得保障)、備蓄を義務付けている。現在日本の食糧備蓄は、コメ150万t( 2ヵ月分)、小麦100万t ( 2.6ヵ月分)、 5万t( 20日分)。
  日本は、むしろ農業保護が少なく、価格・所得の補償政策が極めて貧弱―米国(GDPに占める農業生産の比率は1.1%なのに)農業支援度は65%、ドイツ(GDP比0.8%で)62%、イギリス(GDP比42%で)42%、それらに対して日本は(GDP比1.5%で)27%だけ。
 農産物輸出―アジアの富裕層向けに高品質な我が国農産物の輸出が増やせているといっても、せいぜい「贈答用」に利用されているだけ(中国へのコメ輸出は当面20万tめざしているが、それは日本の生産者から60k8,000円と安く仕入れても、中国での精米価格は7万円程度になる)。
 輸入米は、国産米価格60k1万3千円にたいして、中国産米は1万円超(10年前の10倍)で接近しているといっても、アメリカ産米は(国内保護3兆円、輸出補助金1兆円がつぎ込まれ、安く輸出しても生産者には補助金が付くから)国産米の4分の1.
 農業の多面的機能(損得勘定だけでは計れない)―国土・自然環境・里山など保全、水源の涵養、景観、文化など―日本学術会議答申の試算では貨幣換算して年間8兆2,226億円余に相当。TPP参加すれば3兆7,000億円相当が失われる(農水省試算)。
 食糧に対する権利―そもそも市場任せ(市場原理主義)にはできないもの。04年国連人権委員会「各国政府に 対し食糧に対する権利を尊重し履行する勧告」を、日本も含めて圧倒的多数(アメリカ・オーストラリアだけが反対・棄権)で決議。

 国内雇用の空洞化に拍車―農業のほかにも中小企業・地場産業・商店街など寂れ、地域 経済が荒廃へ
 外国人労働者の参入が、看護士などにとどまらず、あらゆる分野に認められれば、海外から渡ってくる低賃金労働者が増え、自国民労働者の雇用減と賃金低下につながる。

 アメリカから諸分野で規制緩和・撤廃を迫られることに―農産物など輸入の際の安全検査・残留農薬などの食の安全基準の緩和―食品添加物・ポストハーベスト農薬・遺伝子組み換え食品などの規制の緩和、輸入牛肉のBSE対策―月齢制限など廃止、郵政資金の運営への米国企業の参加、自動車の安全基準を米国並みに引き下げ、高額混合医療の解禁、米国保険会社の参入、公共事業の入札条件緩和など。

 *農業再生策は必要―多様な家族経営(専業・複合経営・兼業など)を維持するとともに、大規模経営も、集落営農(集落を単位として農業生産過程の一部または全部を共同で行う―機械の共同利用や共同作業、それに特定の担い手に作業を委託する受託組織など多様な形態あり)も。若い世代の農業経営者が参入できるように。
 強制減反はやめ、過剰な主食用米の飼料米・醗酵飼料稲などへの転用生産誘導で耕作放棄地の解消。
 *ASEANを中心とした東アジア諸国(ASAN+3または6)との経済共同体(東アジア共同体)構想の追求は必要―日本とともに稲作で小規模家族経営を主としている各国とも、その産業の特性・食糧主権の尊重を前提に。

●2月26日、政府は市民向けのシンポジウム「開国フォーラム」(その一回目をさいたま市で開催。パネリスト5人は政府が選んだ学者や経済人)を開いたが、「あいまいな説明に終始」したという(朝日)。
 それをも含めて、3月1日現在に至るまで、TPP参加の肯定論は、反対論のそれに比べて、論拠に乏しく、どうなるか分からないという部分が多すぎるようだ。

<参考>世界1月号掲載の田代洋一・大妻女子大教授の論文「浮き足立つ民主党政権にTPP協議をまかせられるか」、同3月号掲載の谷口誠・元OECD事務次長の論文「米国のTPP戦略と東アジア共同体」
 当地で開催された市村忠文・フォーラム平和・人権・環境事務局次長の講演「TPP問題・市民生活と労働者に与える影響」
 朝日新聞その他
 

2011年02月14日

幸福って何だ?(加筆版)

二つの要素
(1)無事・安心―不安がないこと。
 将来にわたって、命と健康と文化的な最低限度の生活(生計)が保障されていて、不安がない。
 それには、 本人の自助努力によって安心を得るという部分もあるが、政府・自治体・コミュニテー・職場・家庭など社会が安心を提供するという部分もあり、政府には保障責任がある。
(2)感動・充実感達成感・自己有用感―生きている喜びが実感―生きがい・幸福感が得られていること。
 それには①何かに接して快楽・感動が得られている時、②何か(仕事・事業・家事・育児・勉強・学術・研究・スポーツ・競技・練習・芸能・趣味etc)に取り組んで充実感・達成感が得られている時、③「人助け」・「人の世話」など、人から感謝され社会から必要とされる社会的有用感が得られている時、などの場合がある。
  (これらは、いずれも各個人の自助努力・自己責任の部分)

 幸福を追求し実現するのは本人であり、本人が(自分にとって可能な限りの)最大幸福を追い求め、それを実現しようとひたすら努力する。それをサポート(応援)してくれる者や、パートナーとしてそれを共にしてくれる者もいろいろあり得る。政府が引き受けなければならないのは(1)の社会保障であり、安心社会を実現することである。そこに政府の責任がある。(菅首相が目指している「最少不幸社会」はそこのところを指しているものと思われる。)

*誰にも幸福追求の権利―幸福追求権(憲法13条―生命・自由および幸福追求に対する権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)

 本人の自助努力・自己責任で幸福実現、国など社会にそれを保障する責任も―今の日本ではどちらが不足しているか?
 2月12日放映のNHK「日本のこれから」(「無縁社会」がテーマ)に出演したNPO北九州ホームレス支援機構理事長の奥田氏は「自己責任と社会責任は対立概念ではなく、対概念なのであって、社会責任(社会のバックアップ)あっての自己責任。」「若い人たちは自己責任を果たしたいと思っている。なのに自己責任論社会は社会を無責任化し、自己責任を果たさせないようにしてしまう」と(社会責任のほうが不十分だという考え方)。
 それに対して人材プロデュ-ス会社ザ・アール社長で経済同友会幹事の奥谷氏は「社会はちゃんと受け皿としてあるんです。日本では自己責任の部分を言わなさ過ぎ、むしろ社会責任ばかり言い過ぎた甘えの構造ができてしまった。そこに『自己責任』ということが後から遅れて出てきてしまった。それで今、厳しいというかたちになっているのでは」と(自己責任のほうが不足しているという考え方)。
 同番組のもう一人の出演者、批評家の宇野常寛氏は「かつては世帯主が正社員で、専業主婦に子ども2人というのが世帯モデルだった、そのような社会構造が巨大な変化を遂げている今、そのような精神論(奥谷氏の自己責任論を指していると思われる)ではどうにもならなくなっているのが現実なのでは」と。
 当方の見解―日本で不足しているのは社会責任のほう―人は(動物と同様に)誰しも子どもの時から本能的・潜在的に「自分でやりたい」「自立したい」という意欲をもち、「自助努力・自己責任」などは、他から言われなくても自ら望んでいることであり、何もかも人からやってもらいたいとか、社会に甘えたいとは思わないもの。ただ、それに必要な体力・知識・技能・ツール・環境など諸条件がないからできないだけのこと。だからこそ保育・教育・サポートが必要なのだ。それらは社会から提供されなければならない。そこに社会責任がある。日本ではその方が不足している(奥谷氏ではなく奥田氏の考えに賛成)。
 今の日本社会の現実・様相―「競争社会」・「格差社会」・「貧困大国」・「無縁社会」
  相対的貧困率―OECD加盟30ヵ国中ワースト4位(15.7%―6人に1人が貧困)、一人親家庭の貧困率はワースト1位(54.3%)―「貧困率の上昇は、安易に非正規労働に頼った企業と、時代にそぐわない福祉制度を放置した政府の『共犯関係』がもたらしたものだといえる。」「いくらまじめに働いても普通の暮らしさえできない」「能力も意欲もあるのに働き口がない。いくら転職しても非正規雇用から抜け出せない」という状況(09年11月4日朝日社説)。
  非正規雇用者数が毎年増加して09年1,721万人(雇用者の3人に1人)
  学校に行かず仕事に就いていない若者(15~34才)60万人 
  かつて「国民総中流」、今は少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」に分かれる。
  いくら頑張ってもダメという人が沢山・・・・無力感・疎外感
  若者の未婚化―単身世帯の増加(一人身の世帯、20年後には3分の1以上に。生涯未婚、女性の4人に1人、50~60代の男性も4人に1人が一人暮らし―NHK「無縁社会プロジェクト」)
  
  孤立・無縁(家族・友人・地域・会社などから切り離され)、生きている意欲すら失っていく人が増加
(「誰にも引き取られない遺体」現在、年間3万2千人)
社会(国・自治体・コミュニテー・企業・NPOなど)の責任
   企業―雇用 非正規雇用者数が毎年増加して09年1,721万人(雇用者の3分の1)
   国・自治体―インフラ(産業基盤・生活基盤)の整備、国民教育、食糧・資源の確保、環境保全、災害対策、医療・保健衛生
   介護・福祉施設
   年金保険
   結婚の世話も(いくら自助努力しても恋愛結婚はままならず、むかしのように世話を焼き仲人してくれる人もいなくなっていて・・・結婚相談所など)

日本は競争社会であるべきか、友愛・協力社会であるべきか?
    競争社会は「(本音では)人の不幸を喜ぶ社会」
   殺伐たるストレス社会での「いじめ」、無力感・疎外感からの「引きこもり」はどちらから?
    
国民教育は競争教育であるべきか、友愛・協力教育であるべきか?
   (自立して生きられる力を育てるのは当然としても) 
 上記NHK番組で、出演者の一人・自営業者の方の発言に「親も子どもも弱い。それは『ゆとり教育』など教育が原因。ゆとりある社会などどこにあるか。社会は競争社会。そこでもまれて初めて社会に出てくる。そういう強い人間を育てる教育でなくては」と。
 その後で奥谷氏は「自分で生きていく力を付ける教育が大事。どうしようもない弱者を助けるセーフテーネットは必要でも、そのような社会制度が強すぎると、今の財源では消費税20%でも無理」「自立心をもっていなければならないのに、今の若い人は、先に人を頼り、人から何かしてもらうのが先に出てしまう受身のやり方になっている」と「自助努力」のほうを強調。

 当方の見解
  親と学校教師との間に意識のギャップ
  建て前と本音の乖離―親はとかく競争教育・受験教育志向、学校より塾に頼る―「この社会は『競争社会』『学歴社会』だ。一にも二にも勉強。さもないと「○○高校」「○○大学」には入れない、採用試験に受からないぞ。「友達と遊ぶ約束?そんなもほっとけ」、息抜きはゲーム(携帯・Bs・Wiiなど)だけでよい。手伝いなんかしなくてよい。犬の散歩は母さんがやるから」と。このような競争教育からは「生きる力」も「自立心」も伸ばしようがない。
 競争教育は、受験競争に勝つための教育で、受験学力に偏重し、生活体験学習・自然体験学習・人との交わり・協力・モラルなど二の次。
試験でも資格検定試験のようなものならいいが、選抜試験の場合、全員が合格し勝ち残ることなどあり得ず、勝者があれば必ず不合格者・敗者を生み、学校と人間をランク付け.
 そこで生徒たちに養われるのは、受験知識の暗記力・受験テクニックなど受験学力、他を蹴落として勝ち抜く冷徹・非情な強さ・賢さ(狡猾さ)。
 
 我が国に必要なのは、このような競争教育か、それとも社会生活と職業に必要な知識・技能を身に付け、自主・自立的精神とともに思いやり・協力精神を養う自立・友愛・協力教育か。

そもそも
 誰にも勤労の権利があるはず(憲法27条―すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う)
 誰にも教育を受ける権利があり、国にはそれを保障する義務があるはず(憲法26条)
 誰にも人間らしく生活する権利があり、国にはそれを保障する義務があるはず(憲法25条①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない) 
 なのに・・・・

 はてさて、わが孫たちはいったいどうなるのか、不安でしかたがない・・・

<参考>2月12日放映のNHK番組「日本のこれから」

2011年02月24日

政局 どうなるか(加筆版)

●予算案は通っても関連法案が通らない。するとどうなるか―予算は執行できず、最悪のばあい役所が閉まる―国民―困る人が出てくる―公務員給与・年金支払いもストップ?(北大の山口二郎教授によれば、アメリカに前例―94年クリントン政権当時、中間選挙の結果、議会に「ねじれ」が生じ、予算が通らなかった、その時、連邦政府の役所はシャット・ダウン)
 日本では、今だかつてそういう事態は経験したことがないという。政治評論家の中島勝氏によれば、特例公債法案が通らなかった場合、4月以降の国民生活や経済運営のどこにどういう支障をきたすのか、よく解っている人はほとんどいないのだ。予算を4割(国債で借金できなくなった分)を削って行政サービスを圧縮し、それではたして国民生活は耐えられるものか、「壮大な社会実験」になるのかもしれない、という。
●菅首相どうするか―解散・総選挙か
          総辞職か
●総辞職のばあい替わり手は?―前原?岡田?それとも外部から田中真紀子?亀井?
●総選挙のばあい、何が争点に―①消費税増税、②TPP参加(貿易の完全自由化)③日米同盟体制の維持・強化(普天間基地の名護移設)、これらに賛成か、反対か。
●総選挙のばあい各党・各派議員どうするか
  民主党―分裂へ―菅・仙石グループ
           鳩山・小沢グループ
           日本維新の会(原口氏ら)?
  自民党
  公明党
  みんなの党
  共産党―消費税増税・TPP・普天間基地の名護移設には、いずれも反対
  社民党―同上
  国民新党
  新党日本
  たちあがれ日本
  新党改革(舛添グループ)
 これらが、離合集散、新党結成へ(政界再編) 
●メディアは、どういう論調を展開するか―主要マスコミは、争点の三つ(消費税増税、TPP参加、日米同盟路線の維持・強化)には、いずれも支持で世論誘導へ。
●総選挙の結果どうなるか
  無党派層・多くの庶民は「どうせ・・・」と、棄権(投票率、激減)
  自民党―比較第一党―公明党その他(民主党分派orみんなの党・たちあがれ日本その他の「新党」)と連立政権
  自公政権が復活したとしても、参院では、自公だけでは過半数をとっておらず、また「ねじれ国会」になる―自民党は公明党以外の他党を連立に引き込む。
●新政権はどのような政策を?
  消費税10%増税と法人税減税を決定
  TPP推進
  日米同盟の強化
   普天間基地の名護辺野古への移設を推進
  
  こども手当は中止
  高校無償化も中止
  農家への戸別所得補償も中止
  高速道路の無料化も中止
  
  後期高齢者医療制度は維持
  派遣労働法も維持
  郵政民営化路線も維持
  大型公共事業の復活
  企業団体献金は維持―「政治とカネ」の問題は無くならない
  
  議員定数削減

  改憲を推進

●喜ぶのは大企業財界・アメリカ政府・官僚
●困るのは恵まれない庶民(弱者)―政治は悪くなりこそすれ、よくならず、閉塞状態は続く。多数派が選んでいる政権には頼れないし、その少数派・弱者に対する虐政には団結して精一杯抵抗しつつ、生活は身内と弱者・少数派同士で援け合いながら、自助努力で確保していくしかあるまい。
●政党政治への不信強まり、ニヒリズム蔓延の危険性あり。

2011年03月01日

3月のつぶやき(随時加筆)

●31日、震災による死者(11,438人)行方不明(18,300人)合わせて29,738人、避難者172,486人。
●30日、震災による死者(11,258人)行方不明(18,347人)合わせて 29,605人,避難者174,172人
 教え子が亡くなった。脳梗塞。孫と風呂に入って、あがって着衣の途中、突然倒れたという。昨年9月いわき簡保センター(海端で、今回津波被害にあっている)泊で行われたクラス会で、7年後には彼らの古稀と当方の喜寿を兼ねて、みんなで歳祝をやろうといって別れた。なのに・・・・。
●29日、震災による死者(11,102人)、行方不明(18,382人)合わせて29,484人。 避難者177,841人。
●28日、震災による死者(10,901人)、行方不明(18,982人―減っている)合わせて29,883人。 避難者181,166人。
 菅首相は週刊誌などでボロくそに言われている。「国民を不幸に陥れている『亡国の官邸』」「菅首相の罪は万死に値する」「保身に汲々する官邸」「風評被害の元凶は菅首相」などなど。それらが本当だとすれば、なにもかも絶望だというのか?アラブの国々のように大デモを起こして、菅首相を引きずり下ろし、谷垣か誰かに変えれば希望と安心は取り戻せるというのだろうか?
 これらのメディアが国民に反菅政権を煽っているのは確かだ。それで誰が利するというのだろうか?谷垣らには漁夫の利が得られても、被災者は(風評被害者も)、それで助かるというのだろうか?。
 原発事故の収拾の目どは依然たっていない。
 
 米沢市内の避難所でボランテアをした娘は、山形放送のラジオで、電話インタヴューを受けてしゃべっていた。もう一人の娘も連日行っている。頑張れ!
●27日、震災の死者(10,668人)(19,395人)合わせて30,063人、避難者 243,345人。
 朝日新聞の「声」欄に米沢の人で避難者への傾聴支援ボランテアをやっている「年金生活者」の方の投稿があった。 女房に読んで聴かせると、「自分もやってきたら?いややっぱりだめだ、あんたはいかないほうがいい、『原発は必要だって?だったら帰れ!』なんて言いかねないから」と。
●26日、震災による死者(10,418人)行方不明(19,768人)合わせて30,186人。3万人を超えた。避難民 244,635人。
 NHKニュース―福島県内外の避難所で104名からアンケート―原発「必要だと思う」「まあ必要だと思う」合わせて52%、「必要ない」「それほど必要だと思わない」合わせて47%で、「必要」と思っている人のほうが多い。「地域経済は原発に支えられてきた」と原発に恩恵を感じているのだ。何ということだ・・・。米沢に来ている避難者もそんなことを考えている者がいるのだろうか?
●25日、震災(発生からまる2週間たって)死者(10,066人)、行方不明(19,743人)合わせて29,809人(まだ届けがない人あり、全容把握されていない)。避難者246,178人(避難所の避難者は減っているが、帰還・在宅避難者がいるということだ)。
 義援金を、とりあえず1回分のつもりで振り込んできた(来月、年金が入ったらまた、ということで)。
 2週間前あの日、あの瞬間、当方は今避難所にもなっている文化センターにいたが、家では女房が孫を抱きしめ、飯台の下に孫においかぶさってもぐったとのこと。女房「じじは、いつまでも帰ってこないし・・・」。孫「ばばは弱い声で『だいじょうぶ、だいじょうぶ』ってゆったもな」(そうだったのか、ごめんな)。
●24日、震災の死者(9,737人)(18,762人)合わせて28,499人―だんだん増えていってる。避難者250,305人。行方不明者のなかにはタイ人も700人いる。先にスマトラ沖地震で被災した国の一つだ。
 空間放射線量、米沢市は0.106マイクロシーベルト。放射性ヨウ素は米沢では初めて測定、市水道部の蛇口から1キロあたり0.466ベクレル検出されたが、いずれも微量で人体健康には全く影響なし。
 東北電力の計画停電は一回も実施されていない。みんなの節電のおかげなのだろう。早朝イヤホン音楽聴きは止めにして、布団の中で、いつもより遅くラジオ体操まで、じっとして粘っている。
●23日、震災の死者(9,452人)(18,455人)合わせて27,907人、避難者262,211人(いずれも朝日)。今日も朝からたて続けに余震。
 山形県内における避難所および避難者数(山形県災害対策本部)―避難所54ヵ所に3,358人(県内の人2名、宮城県から53名、福島県から3,303名)うち米沢には福島県から498名。
 「結いの木」を訪ねてみたが、井上君(統合「ボランテア米沢」のプロデューサー)は九州島原から駆けつけた方と「これから、副知事と会ってくる」と山形へ行くところだった。
 一昨日、米沢の避難所へ行ってきた婿殿が、そこで話したある中高年男性は「東電に爆弾をしかけてやりたい(くらいだ)」と言っていた、とのこと。
●22日、震災の死者(9,080人)、行方不明(1万8,231人)合わせて2万7,311人(届けあるもの)。避難者31万8,823人、福島原発周辺(20k圏内)からの避難者約6万人。
 ガソリン・燃料―釜石の油槽所が昨日復旧、石油タンカーが入港、タンクローリーが集結、本県内陸部のガソリンスタンドにも近日中に行き渡る見通しとのこと(朝日)。
 入浴、湯につかっていると、揺ら揺ら。風呂場から跳びだした。余震―震度3だった。
●21日、震災の死者・行方不明あわせて2万1,000人超。
石巻市では1万人行方不明、4万人が避難生活、9日ぶりに80歳の老婆と16歳の少年(孫)が救出。倒壊家屋に閉じ込められていて、ヨーグルトと牛乳でしのいでいたという。向陽町に大学の同級生がいる。どうしているだろうか。
 NHKの安部アナウンサーが訪れた陸前高田の避難所で、おばさんたちが「くよくよしないで、負けないで、しのいでいきますよ」。心の拠りどころは?と訊くと、それは「みんなでいることです」(絆が拠りどころ、というわけか)。「そうですか、頑張ってください」(安部アナ)。
 米沢市内の避難所へ、娘が昨日に続いてボランテア。今日(休日)は婿殿も一緒に行って、当方は孫たちの監督。

●20日、震災の死者・行方不明合わせて2万人超える。避難者36万人。
 15日に岩手・大槌町で4日ぶりで救出された75歳婦人「絶対あきらめないと思っていた」と。
 三陸の海岸の或る所で小学生か中学生ぐらいな女の子が、ガレキが広がるあたりに向かって泣き声で「お母さーん!」と叫んでいた(テレビ)。
 米沢の避難所に500人(孫を連れたお婆ちゃんに訊いてみると飯館村から家族・親族11人で来たとのこと)、ボランテアが600人(教師・学生・高校生に小学生もいた)(募集は一時中止とのこと)。
 「ボランテア米沢」―「結の木」(NPO)理事長をしている井上肇君が、横浜から来たNPOの丸山広志氏(事務局長に就任)らと共に主導して、社会福祉協議会・生協など市内の各団体と神戸など県外から来ているNPOを統合させて発足したものらしい。
 当方が在職した高校の同窓生で市会議員をしている我妻君は、井上君の相棒で同窓会長の新関君らと石巻に行ってくるとのこと。みんな頑張れ!

●19日、震災の死者・行方不明あわせて1万8,000人超、被災者70避難民万人?うち避難民28万人。
 「がんばれ!」・・・と言うと、人によっては、「それを言われると、『これ以上どうやって頑張れというのだ』と、かえって苦痛を覚えるのだ」という。「それを言うなら『辛い気持を一緒にしています』とか、いたわり、心に寄りそう言い方をしなくては」というわけだ。テレビでそのように語っている人がいたが、そういうものか。
 市災害対策本部から町内会を通じて配られた広報・号外の呼びかけに応じ、数枚の毛布と米(買い置いていたうちの一袋)を受付先に届けてきた。
 避難所になっている市営体育館と文化センターにも行ってみた。娘と孫が音楽ボランテアをやっていた(何組かの親子を相手に。「どちらから来られましたか?」と声をかけた。「福島市から」「南相馬市から」とのこと)。在職中の同僚と教え子も何人かボランテアで来ていた。みんなご苦労さん!

●18日(金)震災一週間目
 計画停電―こちらは今日は中止。鉄道は奥羽・山形線その他も運休。
●17日、震災の死者・行方不明1万3,400人、避難33万6,000人―米沢市営体育館に587人
 東北電力―計画停電は中止、明日も中止の見込み。
 米沢市内のガソリンスタンドは、多くが閉鎖、やっているところは入口から100台近くもが車列をなしている。
 県内のガソリンスタンド―新たな入荷の見通したたないとのことだが、北海道の製油所から酒田ルートで供給可能になったとも。
 仙台製油所(東北唯一の製油所)の火災は15日ようやく鎮火。
 米沢市のゴミ収集は可燃ゴミだけ24・25日の両日に収集(テレビ情報)。
 県内スーパー、生鮮食品は地元産だけで、その他の品も入荷の見通したたず、コンビニでも商品入荷の見通したっていないとのこと。
 吉村知事が「生活必需品の買占めはやめて」と県民に呼びかけ。

「がんばれ日本」(タイの人たちが折鶴に書き込んで)
 「なんとか頑張ります」(南三陸町の老人―家族8人を失い、自らは肋骨を何本か折って入院中)
 そうだ、被災者の方々、がんばれ!
 救出・救援にあたる市町村自治体の職員・警察官・消防隊・自衛隊・医療関係の人たち、がんばれ!
 食糧・支援物資の輸送・配送にあたっている人たち、がんばれ!
 給油・電力供給・水道・鉄道・道路・港湾の復旧にあたる人たち、がんばれ!
 福島原発の大事故処理にあたっている人たち、がんばれ!
 そして菅首相はじめ政府の方々、がんばれ!がんばってくれ!
 (当方には、声の届かないつぶやきで、ただ「がんばれ」というしか、できることがないのだ。仙台の従兄弟にはTEL。電気がついて、テレビ情報も見れている。ガスは未だきていないが、プロパンに残っており、薪も焚いているとのことで、風呂にだけ入っていないとのこと。)
●16日午前予定されていた米沢市を含む第1グループの停電は中止(テレビ情報)。
 ゴミ収集は明日から中止(回覧板)。
 昨日の学校の下校措置のことで、今朝の新聞に、副知事が県教委の判断は「不適切だった」と遺憾の意を示したとのこと(県教委に『外部研究者』から、放射性物質について『午後3時以降は危険』との情報が寄せられて、それで独自判断をしたもの)。
 デマには気をつけよう。婿殿のケイタイにも、不安をあおるチェーン・メールが入っていたとのこと。
 孫たちは、今日は休校のうえ外出禁止で、家で遊んでる。
 昨日、福島から米沢の保健所に来て検査を受けた人は313人、問診だけ受けた人は594人とのこと。
●計画停電―米沢では16日(水)午前9時~12時、18日(金)も午前9時~12時(孫が小学校で渡されたプリントで知り、ネットで確かめた)。孫たちは小学校で渡されたマスクを付けて帰ってきて、玄関先でいつになくアノラックを脱いで入ってきた。放射性物質の塵を避けるための措置らしい。明日16日は休校とのこと。過剰反応―家の者によるとローカル・ニュースで教育委員会が判断ミスを謝罪していた、とのこと。

 あ!また来た!(夜10時28分、米沢・震度3。その後まもなくテレビに10時31分・静岡で震度6強と)
●余震、震源地があちこち、三陸沖・福島県沖・茨城県沖など太平洋側での余震だけでなく、長野北部・秋田県陸南地方・中越地方なども震源に。
 福島第一原発の敷地内3号機付近で放射線量400ミリシーベルト(健康に影響するレベル)。4号機でも水素爆発の公算。こうなってくると「チェルノブイリに次ぐ規模」にも(NHK解説員)。半径(20k内からは避難)30k内では屋内退避の指示がでる。

●15日大震災5日目の朝5時半(この間、余震200回以上)、総理大臣・官房長官の記者会見、政府と東電の統合連絡本部を設置することにしたと。福島第一原発の2号機が(水素爆発した1・3号機に続いて)危なくなっている(冷却装置が停止、燃料棒がむき出し―空焚き状態、海水注入)。日本では今まで経験したことのない事態だが、今のところは国民の健康に影響するレベルには至っていないとのこと。
 昨日、米沢には福島原発のある方面から90人が避難してきて、病院で被曝検査を受けたが、放射能の検出は見られなかったとのこと。今日も、市営体育館に避難所を設けるが、受け入れ限度は170人。
 仙台では、電気・ガス・水道それにゴミ収集が依然すストップ。食料品・燃料それにおむつ・粉ミルク・生理用品なども欠乏する事態。
 すべてが元に戻るまでいつまで続くのか。電気・ガス・水道などは全面復旧まで1ヵ月というが、被災者たちの家や町や村の復興は何年もかかるだろう。
 今日現在、安否不明1万7,000人以上、避難民45万人。女川町で5,000人が安否不明。
 石油備蓄70日間分あるうちの3日分を短縮(放出)へ。
 東電の輪番停電、初日の昨日は一グループだけが実施。今日も5グループ実施予定。
●14日午前8時半過ぎ、仙台の従兄弟に電話、通じた。ご夫婦とも身体は無事で建物に被害はないが、水が出る以外は電気・ガスがストップ、テレビ・新聞情報もずうっとストップ、付近の店からの購入もままならず、他区に住む娘からおにぎりを届けてもらったりしているとのとで、余震、激震がいつまた来るか一番気になるとのこと。
 女川原発も停止し、東北電力も計画輪番停電の見込み。米沢のガソリン・スタンドもどこも「品切れ」、閉鎖。汽車も奥羽・山形線は運休。
●13日夕刻、「東北関東大震災」死者1万人単位におよぶ見通し(宮城県警)。
7時45分頃、総理大臣の記者会見―電力不足、予期せぬ大規模停電を回避するため、明日から計画的停電(東京電力、5地域グループを分け、3時間程度の輪番時限停電)を実施。国民の協力を願う、などのこと―「戦後65年、最大の危機に直面している。家族・友人、互いの絆でこの危機を乗り越えて、共にこの国を築いていこうではありませんか」と(声を詰まらせて)。未曽有の国難だということ、互いの絆をとり戻し、この難局を共に乗り越えよう、と訴えているのだ。
 学者によれば今回の地震は我が国では(「貞観地震」以来の)1,000年に一度の超巨大地震だと。
 地震の瞬間の継続時間は5分間におよんだとのこと(神戸地震は15秒)。津波は、仙台市南北の海岸地帯では、内陸5キロまで押し寄せ、名取市ではもっとそれ以上。宮古市田老町では10メートルの防潮堤防を乗り越えて押し寄せている。
 避難民―東北6県で31万人。
 米沢のガソリン・スタンドには、仙台の石油コンビナートからの供給がストップしているのだ。
●13日昼のニュース、マグニチュードは9,0(世界観測史上最大級に近い)と修正。
死者・行方不明あわせて2,700人超に(TBS)、死者は1,600人以上(NHK)に増え、宮城県の死者は800人以上に。いずれも今後大幅に増えるものと思われる。南三陸町では1万人が安否不明とのこと。
 TBSのサンデーモーニングはあったが、内容は地震関連で占められ、いつものスポーツ・コーナーはなく、コマーシャルもなかった。
 日本の津々浦々に、「つぶやき」ならぬ悲痛な「叫び」があがっているのだ。
●3月13日午前6時、いつもの起床前のイヤホーン音楽も、掃除機かけも、ラジオ体操も中止、テレビ情報を見入った。
 一昨日(午後2時46分頃)来の東日本巨大地震(マグニチュード8,8、国内観測史上最大、栗原市では震度7、米沢市は5度強、津波は相馬市海岸で7m以上)、死者・行方不明あわせて1,700人以上、死者1,000人超、うち宮城県・岩手県とも500人以上、福島県207人、山形県1名。
 仙台市若林区荒浜では津波で2,700世帯すべてが流され、200~300人遺体発見、若林区では沖野東小学校などで給水、仙台市では停電が10%で回復、山形県は全面復旧(米沢市は初めから停電なし)、「大津波」警報は「津波」警報」さらに津波「注意報」に切り替わる。仙台港にある石油コンビナートでは製油所が未だ炎上、福島第1原発で炉心溶融、1号機の建屋外壁崩落、冷却装置不能、海水注入中、3号機の冷却装置も不能に。付近の病院などで被曝者90人以上(ただし、微量で大多数は健康に影響するレベルにはないとのこと)、半径20キロ圏内の住民に避難指示。

 米沢は停電がなく、テレビ(どのチャンネルも通常の番組は中止、地震関連の報道だけ)で、つぶさに映像情報が見れた(すさまじい光景、惨憺たる有様)。しかし、電話は市外には通じない。
 発生当日は、当方は、たまたま公共施設にいて、瞬間、天井を見上げ、机につかまり、下にうずくまりかかったが、みんなと一緒に部屋を出て、屋外に避難した。家に電話したが、つながらなかった。急いで帰ると、女房は孫たち3人とテレビ(地震情報)の前で身を寄せあい、長男子はマンガを見ていた、かと思ったら、それは学研の「大地震サバイバル」というマンガだった。家の中を点検すると、小さな仏壇の阿修羅像が倒れており、床の間や棚の上に飾ってある大小の「お鷹ぽっぽ」が、みな倒れ、何冊か大小の本類その他も倒れ落ちていたが、そんな程度だった。市内の被害状況は、上杉神社の石鳥居の梁?がひび割れして落下寸前、針金でつるされていた。
 婿殿は当日、盛岡に出張中で、日帰りの予定だったのが駅前のホテルに宿泊(そこは停電、代金は1,000円しか受け取らなかったとのこと)。連絡はとれない。当夜、孫たちと母親は我が家に泊まった。婿は明くる日の午後、不意に帰ってきた。レンタカーをやっと借りられて、郡山の人と2人で、秋田県経由で来たとのこと。
 新聞(朝日)は仙台の印刷工場が故障で昨日は配達中止、今朝両日分が届いた。
余震、こうしている今も(7時13分米沢は震度3)。
 仙台には若林区に従兄弟が住んでいる。泉区には卒業生が住んでおり、名取市には卒業生がやっている会社の営業所がある。どうしていることか。

車のガソリンは未だ半分近く残っているのに、詰めてきてというので、行ってみるとガソリン・スタンド前はどこも渋滞か、空いてる所は「もう空なりました」と断わられ、諦めて帰ってきた。長期におよぶ電力不足も心配されるし、節電しなくては。

●「ネットカンニング」がセンセーションを呼び起こした。関係者それにマスコミの取り上げ方、それに対する庶民の受け取り方には、「入試制度の根幹を揺るがす重大事件だ!」「まじめに努力する人がバカをみてしまう。許せない!」と深刻がる向きと、「ケイタイであんなことができるんだな。すごい?」「山形県内の公立高校の卒業生だいうが、いったいどこの高校だろう?」と興味本位な関心を向ける向きとがある。
 今後どうするかといえば、専らカンニング防止策をどうするか、試験監督態勢を強化するとか、ケイタイを出させるとか妨害電波で阻止するなど対症療法的な対策しか考えない。しかし、そんなことで収まりつくような問題なのだろうか。
 そもそもこれは、「科挙制度」の本家の中国や台湾・韓国などに見られ、欧米社会にはあまり見られないペーパーテスト本位の競争試験制度からきているのだ。このようなやり方が続くかぎり、カンニングなど無くなるまい。
 3月5日付け朝日「耕論」に小飼弾氏が「大学の講義についていける必要最低限の学力だけをセンター試験のような共通テストでチェックして、後はくじ引きでランダムに選んで入学させるほうが」と論じている。いずれにしろ、入試制度そのものを根本から見直すべき時なのだ。

 同紙同欄で貴志祐介氏(作家)は「入試は人の一生を左右する、社会の根幹にあるシステム」というが、ペーパーテストを「自分の力で解く力」だけ測る、そのような入試制度そのものを根本から見直すべき時なのだ。
 小飼弾氏(ブロガー・プログラマー)は次のようなことも述べている。「本当にカンニングを無くしたいなら、パソコンでも何でも持ち込み可な試験にして、ネットの情報も参照しながら、単なる引き写しじゃないユニークな解答を出せる学生を選べばいい。そもそも「自分で解く力」だけを測ることが公平なやり方なのか。」とも述べている。
 同紙同欄でコラムリストの小田嶋隆氏は、「大学入試は、様々な問題を抱えながらも、今では数少ない、公正さを担保された競争」と述べ、貴志祐介氏は、カンニングは「それを模倣する人が続出すると『まじめに努力する人』がバカを見てしまう」と述べているが、小飼氏は「難関校の入試問題は高校の普通の授業を受けただけでは解けないものが多い。私立の中高一貫校の子や、金をかけて塾通いをしていた子が圧倒的に有利になる。極端にいえば、親の経済力で決まってしまう」と述べている。一見「公正な競争」「公平なやり方」のように見えるが、実態は後者(小飼氏が述べていること)の方で、けっして「公正な競争」などにはなっていないのだ。

 我が国は「学歴社会」ともいわれるが、「入学学校序列社会」で「試験競争社会」なのだ。民放の某局のワイドショー(TBS「ひるおび!」)で今回の事件を取り上げていた、そのなかで同一人物による「ネットカンニング」が行われた大学名(京大・同志社・立教・早稲田)が書かれた解説用のパネルに、ご丁寧にそれぞれ大学名の後に括弧して「偏差値」が書き込まれていた。受験生はそれら4大学のうちの京大に受かりたかったのだという。マスコミは偏差値ランキングで大学を紹介しながら一受験生の「ネットカンニング」事件を解説している。それになんの疑問も感じていないのだ。
 人々は入学学校序列社会・試験競争社会にどっぷりつかって慣れきっている。そのなかで教育はゆがみ、人々の心も歪んでしまっているのだ。
 この先、受験に失敗して傷つき、自室に引きこもって一日中ゲームに日を過ごすとか、おかしくなりかねない孫のことを思うと心配でならない。

●このブログ、この評論、このつぶやき、どうやら(メンバーの)誰も見てくれていないなと思い知らされて、「いいんだ、どうせマスタベーションのようなもの。所詮、自己満足にすぎないのだから」と。しかし、がっかり。趣味・道楽でやっているだけかもしれないが、一人密かに行為にふけって自己満足しているわけではなく、世に公開し人々から見てもらって何かを感じてもらえればな、という期待のもとに出している。それが、誰もみてくれていないとなると、正直がっかりし、空しさを覚える。
 しかし、たとえそうだとしても、それ(このブログの作成・発信)に取り組んで、そのために新聞・テレビ・週刊誌・月刊誌・講演会などを見聞きし、たまに写真を撮ったりもして日を過ごし、それで日々自己満足しているのも確かだ。
 そもそも人間、何のために生き、日々、何のためにあれこれやっているのか。誰しもそれは、すべて自分の自己満足のためではないのか。
 自分では、世のため人のためにやっている、とは思っても、或は、主観的に(勝手に)そう思い込んでいるだけではなく実際(客観的に)世のため人のために役立っており、人々から評価を得ているとはいっても、所詮、それも自己満足―そうすることによって(世のため人のため尽くすことによって)人々から有難がられ感謝されたい、いや、そんなことも求めない、とにかくそうしたいだけだといっても、そういう自分自身の欲求(利他的欲求)を満たしている、要するに自己満足にほかならないのだ。人間の欲求には自己実現欲求があり、利己的欲求もあれば、利他的欲求もある。人間のすべての行為は、それら自己の欲求から発し、自分自身の欲求を満たすために行われているのだ。
 カラオケを誰も聴いていないところで、一人で歌って自己満足しているのと、大観衆の前で万来の拍手をあびながら歌って自己満足しているのとでは、歌っている当人にとっては両方とも自己満足であることに違いはないのだ。
 ただし、同じ自己満足でも、世のため人のために役立ち、人々から共感を得、喜ばれ感謝されているのと、世のため人のためには何も役立たず、誰からも共感が得られないのとでは自己満足の度合いが違う。事業や仕事・ボランティアなど、世のため人のためより多く役立ち、より多くの人々から共感を得られるものほど自己満足の度合いが高く、やりがい・生きがいを深く感じることができる。それにひきかえ、単なる趣味・道楽など、やっていることは巧くいって自己満足(充実感・達成感)は得られても、それが世のため人のためには役に立たず、人から共感を得られないものは、満足度は低く、(カンニングとか八百長とか賭博とか覚せい剤とか)不正・犯罪など、世のため人のため役に立たないどころか、かえって迷惑や害悪を与えるものは、その行為が成功し目的を果たしたその瞬間は(ヤッタ!巧くいった!と)自己満足は得られても、結局は、心に空しさ・負い目をもち続け、やがてそのしっぺ返し(報い)を被る不安と恐怖にさいなまれ、耐え難いフラストレーションに陥ることになる。そういうものだと思う。
 しかしながら、いずれにしても、人間のやることはすべて自己満足のためであることには変わりあるまい。
 どれ、今日も自己満足のために取り掛かるとしようか・・・・

2011年04月01日

がんばろう東北!がんばれ政府!(加筆版)

 13日夜、菅首相は、国民の協力を訴える記者会見で、「戦後65年間経過した中で、ある意味でこの間で最も厳しい危機・・・・・。どうか、お一人おひとり、そうした覚悟を持って、そしてしっかりと家族・友人・地域の絆を深めながら、この危機を乗り越え、そして、よりよい日本を改めてつくり上げようではありませんか」と声をつまらせながら語っていた。
 ところが、福島原発の大破損で放射能不安が広がり、危機はさらに拡大する事態になってしまった。今の日本では誰もが経験したことのない大地震と大津波に原発事故が加わり、それらを前に菅首相が「右往左往」したとしても、誰が責められるだろうか。
 このところのマスコミ・メディアの中には(週刊朝日・サンデー毎日・週刊現代など)(「首相の視察で初動が遅れた」とか、「事故対応を東電に丸投げ」とか、「アメリカの救援申し入れを断わった」とか、「東京消防庁のハイパー・レスキュー隊に対して」どうこうとか、「谷垣自民党総裁に入閣を要請したりした」などの理由で)「国民を不幸に陥れる『亡国の官邸』」だとか、「菅首相の罪は万死に値する」だとか、「『風評被害』の元凶は菅首相」「菅首相が総理の座に居座れば、その分だけ日本の復興と原発への危機対策が後手に回ってしまう・・・退陣してもらうしかない」などと、(その論拠は、ほとんどが、「永田町関係者」とか、「官邸周辺」とか、「民主党幹部」・「自民党幹部」とか、「経産省幹部」とかが「こう言っていた」という伝聞情報で、自分が首相なり官房長官なり本人に同行・面会し、現場で直接目の当たりにした情報ではないのだが)菅政権をボロくそにこきおろす向きが強まっている。 これでは、「そうか、政府には頼れないな」「この国はもう終わりだ。諦めるしかあるまい」となるだろう。
 いま菅首相をどうやって退陣させるのか。誰に替わればいいというのか―谷垣か?小沢か?・・・誰なら皆が従って、うまくこの事態、この国難を収められるというのだろうか。

 マスコミは被災・被害の実態・実情を正確に伝え、政府などの救援~復興への取り組みぶりを論評し、「しっかり頑張れ!」と「激励の喝」を入れる叱咤・激励はいいとしても、一生懸命取り組んでいる人をけなし、こきおろしてばかりでは、被災者たちの不安や絶望をかきたてる結果にしかなるまい。
 このような時のマスコミの使命は、むしろ「みんな頑張ってくれているから大丈夫だ」と被災者に伝え、少しでも希望と安心を与えることなのであって、被災者たちに「政府は当てにならないから、諦めたほうがいい」などと不安・絶望をかきたてることではないはず。
 敵・味方があり情報心理戦などを伴う戦時とは異なり、災害時には、政府にとっては情報操作もプロパガンダ(政治宣伝)もマスコミの「大本営発表」伝達機関化も無用なのであり、必要なのは、国民にたいして、ただひたすら正確な情報を解るように伝えて不安・絶望感をかきたてることのないようにし、可能な限り安心と希望を与えること以外に余計な思惑は無用なのだ。
 今回の震災にあたって政府その他の対応に対する検証は、いずれ事態が収束し落ち着いてからの時点では大いにやって然るべきであり、責任追及もあって然るべきだが、被災者が一刻も早い救援・復旧を待っており、余震が未だ続いている今はまだその時ではない。
 このような災害・非常時には、被災者・被災地に対して救援・復旧・復興に取り組み、或は取り組もうとしている人々に対しては、自衛隊員にも、菅首相にもみんな「頑張れ」というべきなのでは?
 このような時に、与野党とも党利党略・派利派略で政争や政局にうつつを抜かしている場合ではなく、「挙国一致・救国臨時内閣」のようなつもりで、政府と与野党が一丸となり、かねてより懸案になっている問題でも緊急を要しないものはすべて棚上げして、復興対策に全力で当たるよう各党とも「頑張れ!」、とも言いたい。

 以下は、4月11日、孫が小学校で渡されてきたプリント。(このようなプリント―総理大臣から学校生徒へのメッセージ―は初めて見た、異例なこと。)

 新学期を迎えるみなさんへ
・・・・・・中略・・・・・・・
 みなさんは、この4月、希望に満ちた春を迎えるはずでした。
 しかし、この春は、私たちにとって、とてもつらい春になってしまいました。
・・・・・・中略・・・・・・・
 いま、みなさんは、すべての悲しみや不安から逃れることはできないかもしれません。でも、みなさんは、けっして一人ではありません。どうか、先生やお友達と助け合って、一日も早く、みんなが楽しく安心して学び、遊べる学校を取り戻しましょう。私たちも全力で、みなさんと一緒にがんばります
災害にあわなかった地域の児童のみなさんにも、お願いがあります。
 どうか、みなさんの学校にやってくる、避難してきた仲間たちを温かく迎えてあげてください。すぐ近くに、そういったお友達がいなくても、遠く離れて不自由な生活をしている子どもたち、あるいは、この震災で亡くなり、進学、進級を果たせなかった子どもたちのことも、同じ仲間だと思って、祈りとはげましの声をあげてきださい。
・・・・・・中略・・・・・・
 日本の国土は縦に細長いために、沖縄では例年1月上旬に開花宣言が行われ、その桜前線は、約半年をかけて、5月の下旬に北海道の北端に到達します。自然のおりなす、素晴らしい命のリレーです。
自然は、今回の地震や津波のように、時に、私たちに厳しい試練を与えます。しかし桜前線のように、私たちをやさしく包んでくれるのも、また自然の力です。
・・・・・・・中略・・・・・・・
 原子力発電所の事故に対して、危険をかえりみずに立ち向かう消防士さんや自衛官、電力会社の人たちの姿。各地の被災地で救命救急活動に当たった警察官やお医者さん、看護師さん、そして何より、本当に命がけでみなさんを守ってくれた学校の先生たちの姿を忘れないでください。       ・・・・・・・中略・・・・・・・・。
 私たちも、全国の学校の先生方も、みなさんが笑顔で登校できるように、全力でみなさんを支えます。日本の未来は、みなさんにかかっています。みなさんの明るい笑顔で、日本を元気にしてください。
                                            内閣総理大臣 菅 直人
                                            文部科学大臣 高木義明
 がんばれ政府!がんばろう孫たち!

4月のつぶやき(随時加筆)

●参院予算委員会。まるで 菅首相つるしあげ質問の感。「菅は菅でも鈍『菅』だ」、「言い訳ばかりだ」、「恋々と政権にしがみついているが、潔く身を引くべきだ」とか。「広島・長崎の原爆と原発はどう違うんですか?総理」とか、まるで中学生への質問だ。「そんなのに、よく大人しく答弁しているもんだ。俺(のような気性)には首相は務まらん」と、聴くに堪えず切った。
●CS放送の朝日ニュースターの番組「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」を毎週土曜日に見ているが、23日のそれは、やはり原発問題が話題の中心だった。その中で、愛川キャスターは京都大学の原子炉実験所助教授の小出裕章氏に電話インタヴューで訊いていたが、小出氏は、東電が発表した事故収束への行程表(ステップ1を3ヶ月、ステップ2を3~6ヶ月など)を、その通り運ぶのは極めて難しいと答えていた。遠隔操作ロボットでやれるのは線量・温度・湿度などの測定と映像を撮るくらいのもので、それ以外は全部、人手でやらなければならず、その防護服はガンマ線などには役に立たず(防ぎきれず)、被曝許容限度内の短時間で作業をやめ、退避・次々交代しながらやらなければならず、時間がかかる。また、水素爆発などの危険性も全く無いわけではない、とも。
 欽キンは政治家を判断するキーポイントは憲法(9条)にたいする考え方(改憲か護憲か)に加えて原発にたいする考え方(原発維持か脱原発か)だ。
 また震災復興財源に、共産党以外の各党が受け取っている政党交付金を回すべきではないか、ということも問題にしていた。
 「ところで、この難局、菅首相ではもはやダメだとして、誰か替わり手がいますかね」
「いないでしょうね」
「小沢さんはどうなんですかね」「彼は何をしてるんですか」「さあ」
「彼なら官僚やアメリカにも物が言えそうだし」「そういう力がある人だとは私も思いますけど、今はもう客観的な構造が彼にリーダーシップを託せる構造にはなっていないでしょう」
といったことも話していた。
 他の番組でもその話。「今、このような時にリーダーシップを振るえる政治家なんてどこに?」「出てくるんじゃないですか?」「石原都知事とか、橋本府知事・河村名古屋市長のような」「たのもしいような、こわいような」「私はこわくなると思いますけど」とも。
 とにかく、この国の政治はダメだ。無責任な野党・与党内野党、それにマスコミがダメにしているのだ。

●原発―維持・増設に賛成か反対か―世論調査
 NHK(15~17日)では―増やすべき0.7% 現状維持42% 減らすべき32% 全て廃止すべき12%
 朝日新聞(16・17日)―増やすべき5% 現状維持51% 減らすべき30% やめるべき11%
                    原発利用への賛否―賛成50%  反対32%
 現状維持と原発利用に賛成という方が多いことに愕然。いったい何を考えてんだ?日本人!
「原発か停電か」で考えるのではなく、「原発か自然エネルギーの普及と節電か」で考えるべきなのに。
●福島原発の建屋の床をロボットが動きまわっている様子がテレビ・ニュースに映し出された。アメリカのiRobot社製だと開設していた。我が家で、最近、女房が買ってきたロボット掃除機(ドラム型。当方が毎朝一手に引き受けてきた掃除機掛けから、居間一部屋分をロボットに奪われてしまうことに)。よく見てみたらiRobotと書かれてあった。「なんでそんなものを」と訊くと、「アダプター付きで、普通の掃除機よりも電気を食わないからだ」という。
●年金が入ったので2回目の義援金を振り込んできた。女房は「毎月送ったら」というが、毎月、月給もらってるわけじゃあるまいし・・・・。
●4・18福島へ花見―飯坂の手前の穴原温泉へ13号線から山道に入って途中にある「館の山公園」(源義経の忠臣で有名な佐藤忠信・継信兄弟が出た奥州藤原氏一族佐藤氏の城跡)―同じ福島の「花見山公園」は有名だが(行ったことはない)、そこ(館の山公園)は「隠れた花見の名所」だというので、行ってみた。孫を誘ったが、「ババ、福島には行かないで!ジジだけ行かせて」と言って断わられたので、女房だけ連れて行った。行ったら飯坂の町の中など他の所では満開に近い桜が所々に見えたのに、そこだけ、ろくに咲いておらず、つぼみも疎らだった。いったいどういうわけだ。鳥が食べ尽したせい?カメラは一枚も撮らずに空しく帰ってきた。
●石原都知事がまた再選された。彼は今回の巨大地震・津波を日本人の「我欲」に対する「天罰」だと言ってのけたが、原発も含めて「我欲」を欲しいままにする政治を推進してきた張本人なのではないか。そのような人物を4度も都知事に選んで東京都民の感覚はとても理解できない、民主主義の不条理としか言いようがない。
 東京に限らず新保守ポピュリズムの風潮が強まっている、その結果が今回の統一地方選挙の結果に現われている。ネオリベラリズム(新自由主義的改革志向)とナショナリズム(伝統国家―「日の丸・君が代」と軍事強国―信奉)とが合体したイデオロギー(思想傾向)の持ち主で、大衆受けするハッキリした物言いと強権政治、そんなのが受けているのだ。
 この大震災をきっかけに戦後日本人の意識改革(価値観の転換)と社会の一大変革が求められているというこの時に、こんな新保守ポピュリズムとは。まったくいやになっちゃうよ!へたをすると戦前への逆戻りみたいなことにさえなりかねない。
●巨大地震・津波に襲われ、福島原発が壊れて放射性物質が漏れ出して一ヶ月たった。
 放射性物質の測定値は、今のところは「ただちに人体の健康に影響するレベルにはない」というが、数年から10年以上放射線にさらされ続けると人体のDNAを傷め、発癌するなどの放射線障害の可能性が出てくる。
 冷却装置が復旧して「冷温停止」ができたとしても、燃料棒を全部取り出し、配管を塞いで密閉状態(「廃炉」)にするまでには10年以上もかかるのだという。
 どうせ人間、だれでも何らかの病気にかかり、いずれ死ぬものだし、文明の恩恵にはリスクがつきもので、火力発電にも飛行機にも事故はつきものであり、自動車事故で死ぬ確率から比べれば原発事故で人が死ぬ確率ははるかに少ない、というが、自動車事故で死ぬのは、それに遭遇した人だけだが、原発事故が一度起きてしまえば、何万何十万という人々の死につながる。安全性と経済効率性とをプラス・マイナスするコスト計算だけで割り切られる筋合いのものではないのだ。
 地震・津波の国に、こんな原発依存のエネルギー政策はもうやめてくれ!
●1日、東日本大震災、発生から3週間
 さあ、頑張ろう・・・・頑張れない?いや、頑張るしかない!
 2日、震災とは無関係だが、脳梗塞で急逝した教え子(とは言っても歳も近く友達のような間柄で、クラス会・OB会など何かある度に運転やら写真撮りやら名簿つくりやらをやってくれた)の火葬と葬儀に行ってきた。火葬場には仙台など被災地から霊柩車が来あわせていた。葬儀には多数の会葬者が出席され、6人もの心のこもった弔辞が読まれ、あらためて彼の人徳が偲ばれた。震災の死者1万何千人と数えてきたが、その一人一人の生と死の有様その重さをつくづく思い知った。彼の息子たち(立派だった)それに孫たち・・・・頑張れよ!

2011年04月24日

がんばろう日本!がんばれ政府!

朝日新聞の「声」欄に次のような川柳が載っていた。
     「余震まで菅が悪いと言いかねぬ」(4月15日)
     「首相にはねぎらい言えぬお国柄」(4月23日)
 5月2日付けの同欄には新潟県新発田市の小学校教員54歳という方が寄せた投稿で「批判もいいが具体的提案を」というのがあった。それは次のようなものだ。
 「最近の報道は政権バッシングばかりが目立つ。災害・事故への対応が鈍い、菅首相は自分の保身しか頭にない、怒鳴ってばかりいる、といった具合だ。
 では誰なら現在の窮状を速やかに救えるのか。国会でも批判非難ばかりで、実現可能な具体的な提言が聞かれない。与党内でも首相への「無策無能」発言が目立つ。かつてない天災、人災が重なって大変な状況に直面している日本。今大切なのは復興に向けた総力の結集である。
 政権に批判的な政治勢力、報道各社も無策を責めるなら、その度に有為な代案を示すべきである。・・・・・。揚げ足取りばかりでは、早い復興に役立つとは思えない。」
 同感だ。全くそのとおりだ。
 マスコミやジャーナリズムの役目は権力の広報・宣伝機関ではなく、むしろ批判的チェック機能にあるべきだ、というのはわかりきった話だ。しかし、だからといって、国民にたいして政府不信と社会不安を煽りたてることは、厳に慎まなければならないはず。
 マスコミ・ジャーナリズムは、平時の場合なら政府の政策や行為に対して批判論を展開することがあって当然だし、あるいは戦時の場合なら、政府の戦争政策を批判し、国民に反戦・非戦を呼びかけることも認められて然るべきだ(先の戦争の時には、そういうことが全く無くて、まるで軍部と政府の広報・宣伝機関化していた)。
 しかし、大震災・原発事故が勃発した今のような非常時の場合は、国民に正確な情報を伝えること、それとともに絶望に打ちひしがれた被災者、不安におののく人々を希望へと導く、そのような報道姿勢であるべきで、それこそが災害・非常時おけるマスコミの使命だろう。
 首相の「この危機を乗り越え、この国の再生に、共に取り組もうではありませんか」という呼びかけに呼応するどころか、それに背を向け、心無い野党や与党内野党の党利党略の思惑に乗って、かれらの政権奪還に手を貸すが如き論調。
 田原総一朗氏などは「今回の震災を『菅災』だという声が出るのは当然」「あえて政変を起こし、一致団結して菅氏抜きの連立体制を民主・自民・公明の3党でつくるべきだ」と(4月23日付け朝日新聞オピニオン欄)。
 「政変を起こし」というが、いったいどうやって、それを起こすというのか、(被災者・避難者への対応に一刻も空費が許されない、この緊急非常時に)どうやって何日間も空白をつくらずにそれを果たせるというのか、いったい誰を首相に据えようというのか、全く具体性のない無責任な評論だ。
 このような論調に対しては、このうえなく反発を感じる。だからこそ、あえて「がんばれ政府!がんばろう日本!」というのだ。
 5月4日の朝日「声」欄には「『がんばれ』って言わないで」という投稿があった。それは「被災者たちはもう十分がんばっています。」だから「せめて『負けるな』と」。しかし、政府には「がんばれ!」と叱咤激励せざるを得ないのだ。
  


2011年05月02日

5月のつぶやき(随時加筆)

●孫は肺炎、マイコプラズマなどに加えておたふく風邪まで併発し、丸一週間入院して帰って来たが、しばらく自宅療養。ところが、当方が咳き込みだして連発する度に脂汗をかいている。熱は37度台だからたいしたことはあるまい。
●入院中の孫の見舞いに絵を描いてもっていった。お日さまが「いない、いない、バア」して山の上に出てきた絵だ。
●一番下の孫(来月で3歳)が、先週からコンコン咳をして熱をだし、41度以上にも達して、掛かり付けの医院から市立病院に回され、そこでの診たては肺炎・気管支炎にマイコプラズマ症候群(?)をも併発し、RS型ウイルス(?)の感染症状も診られるとのことで、急きょ入院、酸素補給器を付けられ、24時間点滴。「帰る~、帰りたいよ~」と泣きわめいたとのこと。・・・・かわいそうに。 でも頑張れ!頑張るんだ!

●5月12日米沢市営体育館を覗くと、フローアは、毛布がたたまれて脇に積んであり、そこには避難者は誰もいなかった。係員に訊くと武道館の合宿所に3家族残っているだけ。あとは市内の雇用促進住宅に646人、県の借り上げ住宅に215人、温泉旅館・ホテルに138人、市営住宅に5人、合計1,000人余が分かれて2次避難しているという。

●ツィッター(「はてな匿名ダイアリー」)にこんなのがあったと、娘が見せてくれた。
(・・・・の部分は中略)
「頑張ろう、頑張ろうって言うけど、家が流されたんだよ?
・・・・・・・・
もう、なーーーんもない。どう考えたら、今頑張れるんだよ。
ちょっとでも頑張れる何かが、今俺たちにあるのか?
『いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな』とか言われたい。『おまえらが帰ってくるまで片付けとく、家も建てとくから』とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。
・・・・・・・・・
流された人を何人も見た。顔見知りも流された。
俺、一人で逃げてきたわけ。
誰も助けなかった。おばあちゃんとか、何人も追い抜いて逃げた。
重そうなもの持ってる人とかもいたのに。
・・・・・・・・・・・
町を見ると死にたくなる。
自分の人生は、もう終わったなって思うよ。
・・・・・・・・・
何も希望なんかないよ。
そんな俺たちがさ、避難所で、CMでアイドルや俳優を見てさ、
『一緒だよ、一人じゃない』とか言われるたびに、
・・・・・・・
おまえに言われたくないと。ほんとに。何も言わないでほしい。
大丈夫なわけがない。
・・・・・・・・・
何か、できることあるかって?正直、不幸になってくれたら嬉しい。
俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー。
・・・・・・・
俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、
東京も全部流されて、それでも『頑張ろう』って言われたら、頑張るよ。その人の歌なら聴く。
知らないやつに、馬鹿みたいに『頑張って』とか『大丈夫』とか言われると、今は正直、消えてほしくなるよ。
募金は嬉しいよ。で、ボランテアじゃなくて、ビジネスで、仕事として町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。
正直、ボランテアに『ありがとう』とか言うのも苦痛。」

 これに対してトラックバックには色んなのが。「とてもわかる心理」とか、「では、私が頑張ります」とか、「は?甘えてんなよカス」とか、「死んだほうがマシなら死ねばいいじゃ」とか。

 岩手県の二戸市(津波の被害はなし)のある保育園(ちゃいるどスクール)の園児が一生懸命歌った「空より高く」という合唱のテープを岩手放送が流したところ、避難所では涙ながらに聴き入っていた人もいて、岩手ではリクエストNo1の曲になっているとのこと、どこかのテレビが紹介していた。それは次のようなもの。

 『空より高く』 (作詞・作曲者はそれぞれいるが、曲は途中からスコットランド民謡のアレンジで「蛍の光 窓の雪・・・」のメロデー)
1、人は空より高い心を持っている
  どんな空より高い心を持っている
  だから もうだめだなんて あきらめないで
  涙をふいて歌ってごらん
  君の心よ高くなれ
  空より高く 高くなれ
2、人は海より深い心を持っている
  どんな海より深い心を持っている
  だから もういやだなんて背をむけないで
  見つめてごらん 信じてごらん
  君の心よ 広くなれ 空より広く広くなれ
  君の心よ 強くなれ 海より強く強くなれ

 上記のツィッターの被災者は、子どもたちのこの歌を聴いたらどう思うのだろうか。

●GWの初日、娘一家の一泊旅行につきあった。「がんばろう東北」へと向かったが、東北自動車道を北上して盛岡から、海とは反対側の岩手山麓・小岩井農場と雫石へ、ワゴン車に乗せられて行ってきた。帰途、仙台に立ち寄ると、あちこちに 崩れた屋根をブルーシートで覆った家や外壁が崩れ落ちた建物、波をうつように歪んだ道路など。荒浜の近くと思われるところまで行って、津波の爪痕を目の当たりにしてきた。婿は孫たちに「よく見ておけよ」と諭していた。
 

2011年05月04日

原発は維持か脱依存か?(加筆版)

 菅首相が浜岡原発をとりあえず止めたというのは英断。例によって色々難癖をつけられているが、止めておかないわけにはいくまい。今後30年以内に(それは今日明日にも来るかもしれない)巨大地震が87%の確率で起こる可能性のある東海地震域のど真ん中にあり、世界一危険な原発といわれてきたところだ。とりあえずの措置としては当然のことだろう。ああだこうだ悠長な議論に時間を費やす暇などあるまい。 
 それにしても菅内閣は、エネルギー基本計画(昨年6月閣議決定)で原発を(今まで30%だったのを)2030年まで50%に増やすこととし、14基も増設することにしていた。今回のことがあって、エネルギー政策の転換が迫られており、首相も原発増設計画は白紙に戻すということは言明している。それに対して自民党など国策として原発を推進してきた勢力は「原発維持」に向けた動きを始めている。
 原発維持か脱原発か、菅首相や自民党など政治家まかせではなく、国民的議論が迫られている時なのだ。

原発肯定論―東電顧問・元参院議員の加納時男氏ら
 「低線量の放射線は、むしろ健康によい(病気には放射線治療)」
 「電源さえ喪失しなければ原発は完全に停止していたはず」
 「女川原発は安全に停止している」
 「原発をいま全部止めたら電力の3割は供給されなくなり、停電―産業経済・生活の抑制は必至」
 「火力発電などに比べてクリーン―二酸化炭素を出さない」
 「火力 などに比べて一番コストが安上がり」
            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だと。
リスクはしかたない?
 何にでもリスクは付きもの―リスク・ゼロとか「100%安心」などというものはあり得ない。
 自動車でも、飛行機でも、事故は付きもの。それらに比べれば原発事故のリスクは、むしろはるかに少ない。が、交通事故などの場合は、被害は乗っている人とぶつけられた人だけにしかおよばないが、原発事故の場合は、放射能漏出(死の灰)は何万人という数多の人に被害がおよぶ。
 自然のリスク―病気・怪我・遭難・飢饉など―確率は高い―が、個人や部分的な集団を襲うにとどまる。
 人工のリスク―BSE、薬害、金融危機、原発事故など―確率・極めて低い(机上の計算では何万分の1か何億分の1)―が、それは専門家集団によって安全確保のためのリスク・コントロールが施されているからで、彼らが想定したある状況の中での確率に過ぎない。想定外の出来事が起これば暴走―高度な科学技術に依存しているため、より広い範囲を、より長時間、より複雑な形で巻き込む。(開沼博・東京大学院生)

とりわけ日本(「地震国」で狭い国土に人口が密集、「過疎地」はあってもアメリカやロシアなどの比ではない)では原発のリスキーは高い。
 「地震国」―日本列島を挟んで4枚のプレート(北米プレート、ユーラシア・プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート)がせめぎ合っており、活断層がいたるところに走っている―今回の超巨大地震でプレート境界のかなりの部分が破壊された。がから同じプレートの動きで起こる首都圏直下地震が誘発される恐れがあり、日本列島の広域で大地震が起こりやすくなったと考えられ、東海・東南海・南海巨大地震の発生が早まるだろうとも言われる。
  浜岡原発―東海地震の想定震源域の真上―ひとたび原発震災を起こすと、最悪の場合、北東向きの卓越風に乗って放射能雲が首都圏に流れ、1千万人以上が避難しなければならなくなる。
  柏崎刈羽原発―中越地震域で大活断層の上にある可能性
  敦賀原発など若狭湾岸原発(13基)―そこには活断層が密集―M7.5を超えるような大地震が起これば、京阪神~中京圏を巻き込んだ原発震災になる恐れがある。

女川原発はあの時、地震の揺れは、原発建屋内で計測限界の最大を超える揺れを記録し、4月7日の余震でも1号機では想定を上回る揺れの強さだった。
 緊急停止はしたが、外部電源5系統のうち4系統が遮断され、残った1系統で原子炉を冷却。4月7日の余震でも4系統のうち3系統が遮断。
 津波(高さ13メートル)では2号機の原子炉建屋地下3階に海水が流入し、約2.5メートルまで浸水。
発電機などを冷却する「熱交換器」が海水につかったため、非常用ディーゼル発電機2機が使用できなくなり、原子炉冷却ができなくなる一歩手前だった。
 けっして「安全に停止している」などと言える状況ではあるまい。

 自然の猛威―人間の科学・技術は、たとえどんなに進歩しても、それによってコントロールし切れるものではないのだ。

火力発電に比べてクリーン?―それは、核反応が完璧に制御され、そこで生まれる放射性物質が完全に密閉空間に抑え込まれることを前提にしてのこと。煙(CO2など)を出さない代わりに放射線を出し、煙より始末の悪いいわゆる核廃棄物を生じる。それは使用済み核燃料だけでなく、放射能に汚染された施設部品や衣類など使い棄てられる付随的なあらゆる物品までも(それらは安全な処理方法がなく、棄てることのできない危険なゴミになり、特別なケースやドラム缶に詰めて格納され積み上げられる。それは細部のメンテナンスを必要とし、電力会社の「協力会社」と称する下請け企業などの底辺労働者の肉体作業に頼っている。彼らは被曝の危険にさらされながら働く)。

放射線は、そんなに恐ろしいものではない?
 放射性物資は自然界にも存在(ウラン、ラドン、トリウム、カリウム、ラジウムなど)
 普段、人々が土や宇宙線から自然に浴びている放射線量は、世界平均で一人当たり年間2.4ミリシーベルト(日本では1.5ミリシーベルト)
 しかし、セシウム137やヨウ素131、プルトニウム239などは天然には存在しない(人工の放射性物質)。
 医療のX線やCT―胸部X線検診は0.05ミリシーベルト、胃のX線検診0.6ミリシーベルト、胸部CTは6.9ミリシーベルト(いずれもその時一瞬浴びるだけ)
 普段(今回のような事故がなければ)外部被曝線量は1時間当たり平均0.05マイクロシーベルト(地形・地質などによって幅があり、関東より関西方面が高い)(マイクロはミリの千分の1)
 一般の人が年間に浴びる放射線の許容限度は1.0ミリシーベルト=1,000マイクロシーベルト(医療と自然由来を除いて)
 ちなみに、(3月18日朝から4月4日朝まで24時間ごとに)各都道府県(観測所1ヵ所づつ)で測定したセシウム137(半減期30と長いため放射能汚染の程度を示す国際的指標とされる)の1平方メートル当たり降下量の総検出量が最も多かったのは(震災で計測困難となった宮城県・福島県を除いて)茨城県ひたちなか市(2万6,399ベクレル)で、山形市は(3月29日までの暫定値7,988ベクレルで)2番目に多く、3番目は東京新宿区(6,609ベクレル)だったという。(文科省調査、4月6日読売新聞に掲載、)(これらの降下総量から1年間屋外にいた場合の被曝量を算出すると、ひたちなか市は0.4ミリシーベルト、新宿区は 0.1ミリシーベルトで、胃のX線写真一回分0.6ミリシーベルトよりも少ない。専門家は「飛散量の減少が続いており、現状では健康への影響はない」と。
  [註:ミリシーベルトとベクレル―放射性物質(ウラン・セシウム・ヨウ素など種類が色々)を蛍でたとえると、光は放射線にあたり、その線量(まぶしさの度合い)を測る単位がシーベルト、光を出す能力が放射能にあたり、その強さは放射性物質(蛍)の種類によって違うが、それぞれの蛍の数(放射能の強さ)を測る単位がベクレル。]

 放射線技師・研究者など業務従事者が浴びてもやむをえない許容限度(年間)50ミリシーベルト(5年間で100―年間では20ミリシーベルトと定めている場合もあり)
 原発施設作業員の被曝許容限度は100ミリシーベルトだったのを今回250ミリシーベルトに引き上げた。

 実際に健康に影響が出始めるレベルは100ミリシーベルト(発癌リスクが0.5%増えるが、タバコよりもリスク低い)。それ以下なら「直ちには健康に影響すことはない」というが、癌で死亡する確率が上昇するのは100ミリシーベルト―100人のうち癌で死ぬ人が30人から30.5人に増える(1,000人の場合なら、癌で死ぬ人が5人増える)ということなのだ。
 被曝量と発癌リスクはほぼ直線的に比例すると考えれば200mSvなら発癌リスクは1%、20mSvなら0.1%(「1000人に1人」)、1mSVでは「10万人に5人」と仮定されることになる。

 国が定める避難区域の目安は年間20ミリシーベルト(線量がそれ以上出ている所は避難指定)
急性放射線障害
 100~250ミリシーベルトではリンパ球・白血球の一時的減少程度
   リンパ球が減少するのは500
   吐き気など1,000
 皮下出血・脱毛・下血・嘔吐・下痢・発熱などの症状が現われて50%死ぬのは3,000ミリシーベルト
 放射線で100%死ぬのは7,000ミリシーベルトも浴びた場合
 
 しかし、被曝線量が(100ミリシーベルト以下だとか)少なければ安全ということにはならない。それは発癌などの確率が下がるというだけで、数年~十数年後に発癌するとか遺伝的障害<晩発性放射線障害>の可能性が付きまとう(いったん被曝すると、そのリスクは消えず、被曝が重なると、それが積み重なる)。だから、これ以下なら大丈夫という限界線量はないのだ、ということ。(「直ちに健康に影響することはない」というのは、そういうこと)
 放射線というものは、どんなに微量であっても危険性をもつ―1.0ミリシーベルトで10万人に5人(20ミリシーベルトでは100人)が死ぬ可能性も
 子供は大人よりも3~5倍(成人した人では、一部の細胞しか分裂していないが、分裂している細胞がガン化しやすい。ところが胎児や子供では分裂している細胞がたくさんあるので、彼らは放射線の被害を受けやすいことになる。)
 
 線量がCTスキャンやX線と比べて大したことはないという言い方をするが、それら外から浴びる一過性の外部被曝に対して、内部被曝をそのまま比べることはできない。
 漏出・飛散した放射性物質は塵埃に混じり、雨とともに地表に落ちて畑の野菜や牧草に付着し、牧草を食べた家畜の肉や牛乳に含まれ、川や湖から引き込まれた水道水に混じり、海ではプランクトンや海藻に付着し、エサを通じ或は海水からエラなどを通じて魚の体内に取り込まれ、小魚から大型魚へと食物連鎖を経るにしたがって濃度が高まる。それらはたとえ微量でも人間の体内に取り込まれると細胞に付着するので24時間ずっと放射線を浴び続けることになるし、体内器官に蓄積される。その内部被曝の危険度はX線や飛行機に乗って浴びる宇宙線などとは事が違うのだ。
 
 放射線は各細胞の核を貫き通し細胞核の中のDNAを傷つける(切断する)ことがある。普通の場合は修復されるが、複雑な損傷の場合は修復不可能になってしまう。
 細胞の損傷が少しなら修復されるが、元通りにならない細胞がそのまま残ると癌細胞になる。被曝には体外からの外的被曝と体内での内的被曝とがある。
 細胞の傷が修復するひまがないほど短期に多量に浴びた場合(確定的影響)―やけど・脱毛など。
 細胞が傷ついて修復されずにそのまま残って10年以上してから起こる(確率的影響)―100ミリシーベルト以上浴びた場合、癌よる死亡確率は(100ミリシ-ベルトごとに)1,000人に5人の割合で増える。
 政府が発表する時に「ただちに健康には影響がない」という場合、それは外的被曝による確定的影響のことで、内部被曝を含めた確率的影響のほうはありだということでもある。 

 放射線は、そもそも人間ばかりか生き物の存在とは相容れないもの―個々の生命の持続と、その世代的再生産を支えている遺伝情報に混乱をもたらす―染色体を切断してしまい、その異常染色体は遺伝情報を狂わせて次世代に変異を引き起こす。生き物にとっては、個々の生命体だけでなく、種の存続が危うくなるということ。そして人間にとっては、いま生きている人々だけでなく、これから生まれる子どもたちが世代を超えて影響を受けることになる。(西谷修・東京外語大学院教授、世界5月号より)

 コストが火力など他に比べて安上がり?
 立命館大学の大島堅一教授によれば
 電力会社が出しているコスト(キロワット時当たりの金額)(04年)は
  水力11.9円 、 石油火力10.7円、  天然ガス火力6.2円、   石炭火力5.7円、  原子力5.3円
 これはモデル計算(稼働率を80%に設定するなど、ある一定の条件を想定しての計算)で出した数値で、ほんとうにかかったコストではない。
 1970~07年(約40年間)に実際かかった原子力発電コストでは、使用済み燃料処理費・放射性廃棄物処理費・廃炉費用それに立地自治体への交付金・電源開発促進税など税金分まで含めれば10.68円にものぼり、火力9.8 円、水力7.8円を上回って一番高い。
 そのうえ今回のような震災事故にともなう補償費・賠償費を加えれば、はるかに高くつくことになる。

自然再生エネルギー―太陽光・風力・地熱・潮力波力・バイオマスなど。木炭水性ガス発電も
 それら日本の自然エネルギーの潜在力は原発の総発電量の40倍を超える
 風力―日本全体で約2,400~1億4千万キロワット分―原発の7~40基分に相当(環境省の試算、土地利用や技術上の制約それに事業としての採算性などの条件を考慮し、固定価格買取制度などの普及策だけでも)
分散型小規模発電システム
 従来方式―過疎地の電力基地から長距離送電―電力会社の経営リスクと立地自治体の財政リスクそれに長期電力不足のリスクをも抱えている。 
 それに対して、自然エネルギーの活用拡大を含む消費地内での分散型発電システム―全量全種の固定買取価格制度
  工場に自家発電機―現在実施企業の電力量合計6,000万kw―日本中の工場がそれでやれば今ある原発分の電気が賄えるという。
 省エネ―人間の生き方として野放図な電力方式の抑制―ライフ・スタイルの転換。
 
ところが電力会社は東京電力・東北電力・関西電力などの10社がそれぞれ地域独占、原発など発電と送配電を両方とも一手に握った電力会社の下で、原発偏重がおこなわれ、それら自然エネルギーの開発・利用が抑えられてきた)。
 電力料金 電力会社は市場をほぼ独占状態においており、経費を電気料金に自在に上乗せできる。
 コストに広告宣伝費・政界工作費(自民党に献金または同党の機関紙へ広告料)・学者工作費(学術振興費)・マスコミ対策費(スポンサーになって)などが入っている。
      AC(公益社団法人ACジャパン)の役員74人中8人が電力会社の幹部。
 電気料金―キロワット当り55銭、多くても7円以下というが、国の特別会計(電源開発促進税、年間3,500億円)の中から支出されている補助金などを含めれば、ほぼ11円にもなっている。
    
脱原発論
<京都大学原子炉実験所助教授の小出裕章氏の論>
 原発54基すべて止めたとしても電力供給には何の問題も生じない(水力と火力で間に合う)。
  二酸化炭素を出さないことがいいことであるかのように言うが、二酸化炭素はそもそも地球生物(植物の光合成、動物は植物を食べて生息)にとっては必要不可欠なもの。
 原発からは「死の灰」「核のゴミ」(放射性廃棄物)という毒物が生じる(たとえ漏出事故などがなくても)。
 使用済み核燃料など高レベル放射性廃棄物など棄てる場所が日本にはない(「トイレのないマンション」の如し)。

<飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長の論>
 原発―電力供給量の3割を占めるというが、それは幻想で、実際は老朽化して停止中のものが多く稼動しているのは半分以下にすぎない(54基のうち、停止中18基、震災で停止したのが14基で、稼動しているのは22基だけ)。
 自然エネルギーは現在(大規模水力も含めて)1割だけだが、10年後3割まで上げることが可能(天然ガス―現在の35%が30%に、石油・石炭―25%が10%に、省エネ・節電で10%減らし、原発は10%に下げる)。
 (同研究所長のプラン)東北電力管内では、2020年には、消費される電力(851億kw時)をすべて風力(50%)・小水力(25%)・太陽光(14%)・大規模水力(10%)・地熱(9%)・バイオマス(2%)などの再生可能エネルギーでまかなうようにする(エネルギー効率の向上などによって全電力を08年から2割削減されると想定。石炭石油火力も原子力もゼロに)。

 これらのことを考えると、原発維持か脱原発か、さあ、どっちがいい?孫どもよ!


<参考>テレビ―CS朝日ニュースター―「パックイン・ジャーナル」、「ニュースにだまされるな」 
    世界5月号、朝日新聞その他    

[追記]原発の根本的な欠陥
 原発には、そもそも次のような根本的な欠陥があるのだということ。
1、原発とは緩慢に爆発する原爆である。このプロセスは必然的に放射性物質を生む。生物にとって全く異質の毒物だ。我々の身辺にある毒物の多くは焼却すれば消える。フグもトリカブトもベロ毒素も、サリンでさえ熱分解できる。しかし放射性物質を分解することはできない。砒素や重金属など元素の毒は焼却不能だが、体内に入らなければ害はない。放射性物質は我々が住む空間そのものを汚染する。(作家の池澤夏樹氏の論稿<6月11日付け朝日新聞―文化欄に掲載>より)
2、そもそも原子炉には構造上の本質的な弱点がある。それは、(1)発電は核燃料が燃焼(核分裂)から出る膨大な熱で水を沸かして蒸気をつくり、蒸気でタービンを回して発電機を動かすことによって行われる。その運転を停止して(核分裂反応が止まって)も、燃料棒は(核分裂生成物の崩壊が続いて)膨大な熱を出し続けるので、絶えず水を循環させて冷やし続けなければならず、水の供給が止まってしまったら膨大な熱が出っぱなしになる。
(2)放射能を絶えず出し続ける核分裂生成物を原子炉の内部に完全に閉じ込める技術はない。事故になれば放射性微粒子(「死の灰」)は大量に放出されるし、それを永遠に封じ込めるのは不可能なのだということ。今回は放射性物質を閉じこめるはずの「5つの壁」(①ペレット②燃料被覆管③原子炉圧力容器④原子炉格納容器⑤原子炉建屋)のどれもが崩れてしまったのだ。
(3)使用済み核燃料(残った「死の灰」の塊)の後始末ができない―「再処理工場」でプルトニウムとカスに分け、プルトニウムを原発燃料に再利用されることになっているが、カスは高レベル放射性廃棄物(その放射能のなかには半減期が何千年・何万年かかるものもある)として残る。この大量の残りカスを後始末するところがどこにもないのだ。(使用済み核燃料を原子炉から抜き出して、今は下北半島の六ヶ所村の施設のプールに一部保管、それ以外は原発建屋など施設内のプールに放り込んだまま。モンゴル高原などで地下数百メートルの穴を掘って埋め込んでも、何万年も誰かが責任を負うなんてあり得まい。)
 


2011年06月01日

原発問題―5月23日参院行政監視委員会での参考人の発言

要点(インターネットで動画から掘り起こしたもの)
(1)小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)
 ウラン―広島原爆で800グラム
     原発一機、1年間動かすのには1トン(広島型原爆の1,000発~2,000発分)
 高速増殖炉(「もんじゅ」)の計画―1兆円も注ぎ込んできたが、破綻―実用化目標には(1980年前半目標が10年ごとに先延ばし変更され)永遠にたどりつけない。
 破局的事故を「想定不適当」だとしてきた―「格納容器など絶対壊れない」とものをいうこと、「だから放射能が漏出することなどあるはずがない」ということに。
 防災というものの原則―危険を大きめに評価して予め対策をとって住民を守ること(もし結果的に過大評価だったとしても、被害が無くて済んで良かったと胸を撫でおろせばいいだけの話)
 原子力には、(アメリカのメーカーなど)企業機密がつきもので、核兵器の技術開発と同じで情報公開になじまないところがある。
 原発情報(測定データなど)は正確な情報を常に公開、それこそがパニックを起こさない唯一の方法。
 ところが政府は一貫して事態を過小評価(楽観的見通し)、パニックを回避するためにと、危機的状況ではないということを常に言いたがり、情報を隠しがち。
 (当初レベル4とし、レベル5に換え、もっと後になってレベル7に修正するなど)
 福島第一原発の事故の本当の被害―いったいどれ程のものか―もし現在の日本の法律(原子力災害対策特別措置法など)を厳密に適応するなら、失われる土地は福島県全域といってもいい位の広大な土地(を無人地帯にしなければならなくなるが・・・・それは不可能だろう。それを避けようとすれば、住民の被曝限度を引き上げるしかなくなるが、そうすれば住民はそれだけ被曝を強要させられる、ということになる。)
 東電がいくら賠償したところで足りない。何度倒産しても足りない。日本国が倒産しても多分あがないきれないほどの被害が出てくるのだろう。
 追求・検証すべきは東京圏で使う原発電力の給電(立地)を東北に押し付けてきた不正をこそ追求すべき(国会に検証委員会を設けるなどして)。
 今やるべきことは進行中の事故を迅速に収束させる、それに全力を尽くすこと(原発周辺住民・原発作業員のために)。
 今後、水蒸気爆発(圧力容器・格納容器が損壊)が完全に起こらないとは断言できない。

(2)後藤政志氏(芝浦工業大学非常勤講師、以前東芝で格納容器を設計)
 地震が起これば原子炉には必ず制御棒が入る(核反応を止める)とは限らない(制御棒が脱落あるいは誤挿入で機能しないことがある。過去には何回<十数件>もそういうことがあった。うち2件は臨界<予期せずして核反応が進む>に達していた。なのに、20年以上隠されてきた。) 
 作業員―被曝を前提にした作業―非人間的労働―数分間きざみの短時間交代作業―コントロールできない。
 原子力技術は細分化―全体像が把握し難い―技術者は周囲の他の技術者たちの仕事を知らない
 我が国には原子力の完全な専門家はいない。
 管理する行政(原子力安全保安院と原子力安全委員会)が機能不全。 
 安全審査―形骸化(「こんな事故は起こるはずがない」と)
 安全性の確保に利害がからむとダメ。
 安全性の哲学が不在―論理的に起こり得るかぎり、いつ起こるかもしれないものを、危険な兆候がないから、「確実ではないが、多分大丈夫」として済ます。
 たとえそれが起こる確率は小さくても、最悪の事故を考慮すべき―それを受忍できない技術はやめるべき。
 シビル・アクシデントは原子力の特性であって避けることのできないもの―地震・津波・落雷・台風・竜巻など(外的条件)に機器のトラブル、それに人為的ミスが重なる。
 「ベントするタイミングが遅れた」とか、「海水注入が遅れた」とか、故障とともにミスやエラーがあるのは当たり前で、プロセスの一つに過ぎない。「誰が悪い、かれが悪い」などにとらわれよりも、進行中の事故を収束させることだ。

(3)石橋克彦氏(神戸大学名誉教授・地震学者)
 2005年2月23日の衆院予算委員会の公聴会で「原発震災」を警鐘したが、残念ながら響かないまま、ここまで来てしまった。
 今回の原発事故は津波が来る前に、地震そのものによって発生(配管の破損、圧力抑制室の損傷など)の可能性が大。
 「制御された安全」とは、たとえば旅客機でいうならば、事故の確率を最小限にすること(だがゼロにはできない)、それに対して本質的安全とは旅客機に乗らないか、飛ばさないこと。原発のことを言えば地震列島では、それは作らないこと、置かないことだ。
 日本の原発は「地震付き原発」―日本の国土・領海・排他的経済水域に地球上の地震活動の10%が集中。その日本に世界中の発電用原子炉の10%以上(米仏に次ぐ)が設置。
 浜岡原発―地震は近い将来ほぼ確実に起こる―地震源の上でカーニバルをやっているようなもの―永久に閉鎖すべき(防潮堤など津波対策すれば済むというものではない)。
 54基ある原発は浜岡以外にはリスク評価がなされておらず、順位も付けられていない―政府の見解は事実上「リスク・ゼロ」と見なしている。
 浜岡の次に危ないのは?―敢えて言うなら、若狭湾原発。
 原発耐震偽装―中越地震の時の柏崎刈羽原発は沖合いに長大な海底活断層があることを無視。
 原子力安全委員会・安全保安院―原発擁護機関に化している―それに政府系研究機関や国立大(旧帝大)の研究者も加担せざるをえない根深い利権構造(電力会社と「原子力村」をなす)。
 「大作為の大罪」―現政府だけでなく、27年間の歴代政府の積み重ね
(4)孫正義氏(ソフトバンク社長)
 電田プロジェクト―休耕田・耕作放棄地(計50万ha)の2割を太陽光パネル建設に利用(「ボルトで仮設置」)、そうすれば50ギガワット―昼のピーク時におけう原発50基分に相当―の電力を給電できる。
 全量買取制度の実施、電力会社による送電網への接続義務、用地の規制緩和など必要。
 国民が直接投票で、原発を継続的に受け入れるか否かを。

6月のつぶやき(上に加筆)

●「日の出―今日も元気―希望」をイメージして絵を描いて、ベッドで動けない病人の見舞いに持って行った。肺炎で入院した孫の病室にも持って行って、「ほら、お日さまが『いないいないバア』してる」と。パステル画の画家をしている卒業生の見よう見まねで、パステルを買い込んで描いてみた。パステルは塗った色を指先で伸ばしたり、ぼかしたり、様々に濃淡を加減できるのが楽しい。
 4月末頃、早朝、日が昇る頃合いを見計らってとび起き、東の彼方を眺める日課が何日か続いた。昇る太陽―山の陰からピカっと顔を出した瞬間をじっくり眺めたのは初めてだ。何回見ても太陽は白かった、と思いきや何日か後に一回だけ「赤い太陽」に出あった。赤い夕日は見たことはあっても、赤い朝日は初めてだ。お日さまは赤いものという固定観念が日本人にはあるが、皆さんはどうか。「赤い太陽」を見たことがあるだろうか。
 絵のお日さまの上に「~」の形の点描を入れたが、あれは鳥の群れが一群だけでなく次々と南の方へ向かって横切っていくのが、実際この目で、一回だけ見られたのだ。あの鳥はいったい何なのか?わからない。誰かわかる人はいないだろうか。
●被災地へ行って来た。名取~多賀城~塩釜~松島~石巻~南三陸。現場に立って、ウワー!無残!悲惨!
 まだ瓦礫が散乱、一方では分別・集積も。
 ダンプ、重機、自衛隊の車両が行き交う。警察官が立ち、作業員・ボランティアが懸命に働いている。復旧・復興まで何年かかるか。

●喘息のような咳はどうやら収まったようで、ラジオ体操を再開。
松島へ行って被災地を見てくる予定にしていたが、どうやら間に合いそうだ。

●咳が止まらない。かかりつけの医院で採血、レントゲンをとられたが、孫のような肺炎にもマイコプラズマにも罹っておらず、熱はなく、気管支炎だけのようだ。もっと強めの抗生剤をあずけられた。
孫は幼稚園に昨日から久々に登園。最初嫌がったが立ち直ったようだ。
 俺も頑張るぞ!

2011年06月13日

「まさか・大丈夫」が命とり

 
 あの日あの直後、外出先から直ぐ家に帰らず、しばらく経ってから帰った。外出先では、屋外にとび出したが、揺れが収まると室内に戻って、家にケイタイ電話をしたものの、つながらず、そのままそこで何人かとやりかけていたことを続行した。それでも早めに打ち切って、サイレンが鳴り渡る街を、急いで車で帰ると、かみさんが乳児一人を抱いて、2人の小学生の孫たちとテレビの前で振るえていた。「何で直ぐ帰らなかったなや」と、あれから、ずうっと口説かれ続けている。初動を誤ったというものだ。「どうせ、大丈夫だろう」と高をくくっていたのだ。「万一最悪の事態」というものを考えない安易さも反省しなくては。
 米沢は山を隔てて福島の直ぐ隣だ。多くの避難者が来ているが、当の我々が避難を迫られるようなことはないのだろうか、最悪の場合のことも考えておかなければなるまい。
 
(1)防潮堤・防波堤
  宮古市田老地区―防潮堤は高さ10m、総延長2.9kで「日本一」「日本の万里長城」のはずだったが、津波(斜面を駆け上がる遡上高で最大40.5m)は簡単にそれを乗り越え、町は飲み込まれた。
 釜石市―湾口防波堤―深さ63m、全長2k、総工費1,200億円、ギネスブックで「世界一深い防波堤」と認定されていた。ところが、津波(高さ9.3m)によって、それは乗り越えられ、もろくも突き崩された。
 過去の経験―明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波など―から想定して、「大丈夫だ」と思い込んでいた。

 あわてて跳び出し、夢中で逃げたという人のほうが助かっている。 

(2)原発―大多数の人は日本の原発は絶対大丈夫だという「安全神話」を信じ、耐震・津波対策は万全と思い込み、まさか、こんなことになるなんて思いもよらなかった。
 そのような思い込みに疑問をもった人たちはいたが、少数派で、多数派から押し切られ、無視されてきたのだ。
 

 

2011年06月23日

原発事故対応の検証を見ると―誰なら適切にやれたか(加筆版)

 原発災害「人災」論―「人災」という場合、そもそも、地震・津波が起こるそのようなところに原発をつくってそれを運用し利用した人(国と電力会社その他)によって原発災害が引き起こされたというところから考えて人災というのであれば、その通りだと思う。しかし、今回の福島第一原発の地震・津波をきっかけとして起った事故に対する対応だけに限った狭い考えから、今回の原発災害は政府や東電、原子力安全委員、保安院などの事故対応のまずさから引き起こったととらえる向きがある。彼らは「対応を間違えなければ今回の事故は防げたはずだ」とか「これほど大事故にはならずに食い止められたはずだ」と言う。はたしてそんなものだろうか。
 今、その任に当たっている人物にリーダーシップがなく無能だから、誰か他の者がやればうまくいく、などというなまやさしいものなのか?そもそもが、現首相以外の誰か(谷口自民党総裁とか)が首相であればリーダーシップが機能するはずだと言えるような原発危機管理体制になっているのか?
 菅首相は「初動を誤った」とか、「遅い」とか、「後手後手だ」とか、「無能だ」とか、散々にこきおろされ、批判にさらされどおしで、野党は、今目の前の早急に手を打たなければならない諸事をそっちのけで、あの時首相は「なぜヘリ視察にいったのか」とか、「なぜベントが遅れたのか」とか、「なぜ注水を中断したのか」などと、初動時の不手際を突き、蒸し返しては執ように答弁を求め、国会では時間が空費されてきた。
 では実際、どういう対応をしたのか、NHKスペシャルその他の検証番組・検証記事を参考に確かめてみたい。

 原発事故対応を時系列をたどって追ってみると以下のとおりだ(参考―①6月5日放映のNHKスペシャル「原発危機・事故はなぜ深刻化したのか」②6月17・19日朝日新聞掲載の「東電の事故報告書の要旨と解説」③6月20日放映のNNNドキュメント'11「原発爆発―安全神話はなぜ崩れたか」④その他、4月10付け朝日の検証記事など。)。

3月11日(この日は、経産省が再生可能エネルギーの導入促進に関連する二つの法案を今国会に提出すると公表した日だった。)
 14:46地震発生、原子炉が緊急停止。原発周辺にある変電所や送電線の鉄塔が倒壊、発電所そのものが停電。(その頃、首相は参院決算委員会で、自らの資金管理団体の外国人献金受領問題の追及をうけている最中。天井のシャンデリアが大きく揺れ、鶴保委員長は「机の下へ隠れてください」と叫び、委員会はそのまま休憩に。首相、官房長官・防災相らと官邸地下の危機管理センターへ。)
  地震の1時間後、津波(最大5mの津波を想定して築かれたところに15mの津波が押し寄せた)―非常用の発電機やバッテリーが水没して使えなくなる。(運転員らはあたりの自動車のバッテリーを集めて計器をつなぎ、懐中電灯で照らしながら原子炉の状態を示すデータを必死に読み取る。)
 15:14 政府が緊急災害対策本部設置 
 15:37~15:41 1・2・3号機とも全電源喪失―水を供給するポンプが止まり、水が蒸発して、原子炉は空だき状態(核分裂生成物の崩壊熱による炉心溶融)へ。
 そもそも原子力安全委員会の安全指針には「(送電線の復旧、非常用の電源設備の復旧が期待できるから)長時間の電源喪失は考慮する必要はない」と書かれていた。(それを斑目委員長は「知らなかった」「全部読みながら、なんとなく、やっぱり読み飛ばしているんですね」と。)
 16:30頃、原子炉の水位など内部の様子が確認できない状態に。
 16:36  1・2号機で非常用冷却装置が注水不能に。
 16:45東電、国へ緊急事態を通報―保安院から官邸には17:30(45分遅れ)。
 首相と海江田経産相が対応協議(18:12野党との党首会談で中断あり)。
 16:57 首相が国民向けメッセージ「一部の原子力発電所が自動停止しましたが、これまでのところ外部への放射性物質の影響は確認されていません」「落ち着いて行動されるよう、心からお願いする」と。
 16:45~18:08注水不能、原子炉冷却剤漏えい(6:40頃「1号機で炉心が冷却水から露出」―後日、保安院による解析での判明)。  
 電源車―首相指示(その確保をすべてに優先させろと)―茨城や新潟など各地から50台以上集められる。
 18時頃 1号機の炉心が損傷(後日判明)。
 18:11 官邸で与野党協議―首相「救国のための協力」を要請。
 19:03(東電からの通報から2時間以上経って)政府が原子力緊急事態宣言―官房長官「くれぐれも落ち着いて対応していただきたい。原子炉そのものに今問題があるわけではございません」と。
 政府の「原子力災害対策マニュアル」(1999年に東海村で起きたJCO臨界事故後、策定。原子力災害対策特別措置法に基づき、原発近くの指揮所に対策本部を設けて中央省庁と自治体・電力会社などが一体となって事故対応にあたる手順を定めた手引書。この現地対策本部が首相官邸に事故処理や避難指示について現場に即した対策を提言することになっていた)に基づき、現地対策本部長となる経産省の池田副大臣をはじめ各省庁や東電の幹部らが原発から5k離れた大熊町にある指揮所「オフサイトセンター」に集合。ところが指揮所は停電、非常用電源設備も故障し、原子炉の圧力や温度、原発施設の放射線量などの基礎データを把握できず。電話も不通で、官邸や福島県、市町村とのやりとりは困難を極める(互いに連絡がとれず、情報がとれず、伝わらず)。機器の操作や広報対策を担う「原子力安全基盤機構」の職員や周辺市町村の職員は指揮所にたどり着けなかった。このため首相官邸は指揮所を通さず、東電本社から情報を直接収集し、冷却機能回復やベントをめぐって指揮。福島県は東電本社に直接問い合わせ、独自の判断で半径2kの住民に避難を指示したが、首相は33分後に半径3k圏内の避難を指示。翌12日以降、指揮所の機能は徐々に回復したが、放射線量が14日時点で1時間当たり12マイクロシーベルトと極めて高いことが判明。15日に閉鎖し、現地対策本部は福島県庁に移した。(6月9日付け朝日の記事より)
 危機管理センター―官邸の地下、同センター内の小部屋に限られたメンバー(首相・官房長官・経産相と原子力安全保安院・原子力安全委員会・東電それぞれの事故対応責任者ら)―情報漏れを防ぐため携帯を使わず、有線電話2台だけ。
 20時か21時頃、斑目原子力安全委員長が海江田経産相に「ベントしないと大変なことになる」と。
 20時頃、1号機の圧力容器がメルトダウンによって破損、その後、格納容器から漏えいが発生(いずれも後日判明)。
 20:50 半径2k圏内(大熊町と双葉町)の住民に避難を呼びかけ。
 21時過ぎ、(道路渋滞のすえ)電源車が現場に到着し始めるも、ケーブルの長さが足りないとか、接続プラグの形状が合わないとかで、繋ぐのにもたつき、一部の電源が繋がったのは22時。しかし、原発の電気系統自体が壊れていて冷却装置が動かず―電源車が冷却の役に立たないことが判る(吉田所長「電源をつないでもポンプが動きません」、小森常務「信じられない」と)。
 原子炉建屋内の放射線量が急上昇(10秒で0.8ミリシーベルト)、所長命令で建屋内への立ち入り禁止。
 メルトダウンに至る懸念強まり、ベント操作、注水などの必要性が云々。
  東電本店社員「本当にそんなこと(ベント)しちゃうの?そんなに簡単に言って大丈夫なのかよ」「信じられない」「この会社終わったな」と。
 21:23 首相が3k圏内の避難指示、10k圏内の屋内退避指示(爆発の危険に備えて同心円の避難区域を設定)―福島県知事と大熊・双葉両町長に要請。官房長官「万が一に備えて避難して戴きたい」と。
 21:51 1号機建屋の線量が上昇、入域禁止に。

3月12日
 1号機原子炉格納容器内の圧力が急上昇(設計上の最高圧力4気圧を超える6気圧に)
 0時過ぎ、東電、ベントを決断(ベントを開く―ということは放射性物質を放出させることを意味する―など、いまだかつて世界に前例なし) 
 0:15 首相、オバマ大統領と電話会談
 0:30 国による住民避難完了を確認
 0:49東電、政府に格納容器内の「圧力異常」を通報、ベント実施を首相・経産大臣・安全保安院に申し入れる。
 1:30 官邸で、斑目原子力安全委員長と東電関係者が、首相と海江田経産大臣に1号機格納容器の圧力上昇を伝え、「内部圧力を放出する措置(ベント)を講じる必要があります」と訴える。それをやれば放射性物質が飛散する可能性は高いが、首相らは「やむをえない」と容認。首相と経産大臣とでベント実施を決断、官房長官が東電にベント指示
 3時過ぎ、官房長官、会見してベントの実施に言及、同時に首相の原発視察を発表。(視察までベントが終わっているかどうかを尋ねられた官房長官は「東電が最終調整をしており、そんなに遠くない時間に措置する」と。)
 3:05 経産相と東電が共同会見―ベント実施を公表 
  ところが、非常時におけるベントのマニュアルには電動で行う方法しか書かれていなくて、すべての電源を失った場合どう対応するかは記されておらず、何をどうすればよいのか手順が解らず(現場では急きょ設計図を開いて、何をどうすればよいのか一から検討)、東電も現場も実行に手間取る―結局、作業員が建屋に入って暗闇の中で手動でやるしか。
 4:00東電から地元自治体へファックスで「重大事故が起こった場合、4.29kの地点で28ミリシーベルト(一般人の年間許容量の28倍)の被曝が予想される」と。
 5:44避難区域を10kに拡大
 5:46原子炉への淡水注入を開始(消防車で、防火水槽からくみ上げて)。
 6:00官房長官が東電に電話で「どうしてベントが進んでいないのか」と。
     その頃1号機で燃料が圧力容器の底に溶け落ちる(後日判明)。
6:14首相は(ベント開始の連絡に見切りつけて)ヘリで現場視察へ出発
   首相、機内で、同行した斑目・原子力安全委員長に「ベントが遅れたらどうなるんだ?」と。斑目委員長「化学反応が起きて水素が発生しますが、それでも大丈夫です。水素は格納容器に逃げますから」と。
   首相「その水素は格納容器で爆発しないのか?」(と何度も問いかける)、斑目氏「大丈夫です。格納容器は窒素で満たされているので爆発はしません」と(一貫して答える)。(しかし、この時、水素が格納容器から建屋に漏れ出していた。)
  (斑目氏、後日インタビューでいわく、「私としては格納容器を守ることだけに集中し、他のことに頭は回っていなかった」と)
 6時頃、1号機で核燃料が圧力容器の底に溶け落ちる(圧力容器損傷へ)。  
 6:50官邸がベントを命令(「なんでやらないのか、早くやれ!」と)
 7:11首相、現場に到着(首相は、迎えのマイクロバスで、隣に座った東電の武藤副社長に「何でベントを早くやらないんだ」と声を荒げる。要領を得ない返答に、会議室では机をたたきながら「私が何でここに来たのかわかっているのか」と。吉田所長から「きちんとやります」という言質を得て、やっと納得。)
 8:37大熊町の一部住民が避難できていないとの情報、避難終了後にベントすることで調整(18:37)
 9:04 1号機ベント実施に着手(首相が原発を離れた1時間後、最初の指示から7時間後、地震発生から16時間後)作業員が建屋に入って取り掛かる(現場にいられる時間は20分以内、6人が交代で作業にあたり、浴びた放射線量は最大106ミリシーベルト)。弁を開くための空気圧縮機を探していたところ、協力企業にあるとの情報を受け、探しに行くことに。
  9:55 保安院、「1号機の燃料棒が冷却水から一部露出い、被覆管が溶け始めている可能性がある」と発表。
 10:17 1号機でベント(弁の解放作業)開始。
 10:47首相ヘリ帰着
 14:30 1号機の格納容器圧力が低下、ベント成功(したかにみえた)。
 14:53原子炉への淡水注入が(防火水槽の底がついて)停止
 15:00 与野党党首会談、首相「原発の水位が上がってきているから大丈夫」と説明。
 15:36 電源車とケーブルつなぎ込みと接続が完了。
 同時刻 1号機で水素爆発―小森常務いわく、「不意をくらった」、「痛恨の極みだ」と。斑目氏いわく、「水素爆発など思ってもみなかった」「後から考えれば、あり得ることなんですけれども、そういうところに思いが至らなかったのは、私の実力の無さかも。ただ、あの時点で水素爆発を予測できた人はそんなに多くいるとは思いません」と(けが人―東電3人、協力企業2人、爆発による飛散物で敷設したケーブル損傷、電源車は自動停止、海水注入用のホースなども損傷して使えなくなる)。
 その30分後、官邸では「(爆発は)ほんとうなのか」と。2時間後に爆発を公式発表。
 18:25避難区域を20kに拡大―住民の避難(全員避難したか)確認をとるのに時間かかる。
   しかし、風向き(データ―国の放射性物質拡散予測図など―があったのに)、安全な避難ルートや身を守る方法など充分には伝えられず、知らせず。(そもそも、1979年以来の政府の原発周辺防災対策「指針」には想定範囲は原発の半径10k未満に限られ、今回のような20k、30kに及ぶ避難計画は考えられていなかった。1999年来の原子力災害対策特別措置法も事故発生時の「応急措置」や「緊急事態応急対策」は原子力事業者まかせとされていた。東電にはまともな住民避難計画はなかった。結局、直後の避難先や移動手段の確保は自治体まかせに。周辺自治体の防災計画も政府「指針」の枠内にとどまらざるを得ず。)
 19:04海水注入(試験注入)、19:25東電幹部が中断指示、20:05注水を命令、20:20海水注入開始(東電の小森常務「ダメージあるのは重々承知。注入した海水の処理は全くやったことはない」と。)―ところがこの間、現場の吉田所長は注水を続行(いわく「止めたら、死ぬかもしれないと思った」と―6月12日TBS「サンデー・モーニング」)(国会で谷垣自民党総裁は「海水注入は首相の意向で中断されたのではないか」と激しく首相の責任を追求したが、7月2日Cs朝日ニュースターの番組「ニュースにだまされるな」で北大教授の山口二郎氏は「あれはガセネタだった」「偽メール事件と同じ構図だ」と。それを受けて、経産省大臣官房付の古賀茂明氏は「そのガセネタは、かなり多くの人の証言がありますけれども、経産省の官僚がその情報を麻生さんのところに持っていき、麻生さんから安倍さんに話しがいって、安倍さんがバッと流した、というのが定説になっている。かれら官僚は『菅は危ない。あの人にまかせると脱原発に思いきり走っちゃう』と考えたのです」と。)
 20:32(爆発から5時間)首相、水素爆発の事実と避難の要請を発表。
    首相、「原発のバックアップ態勢に問題が生じている」と国民へのメッセージを発表。

 この間、「核燃料の損傷までわずかな時間しかない」など危険を知らせる重要な情報さえ現場では共有できなく、「保安院、安全委員会、東電との間で連携が十分でなく、それぞれの役割を果たさなくなっていった。官邸は彼らに不信をつのらせ、首相『この先、これからどうなるのか』3者とも何も言わないことにいらだち」、東工大など外部から科学者を招き、内閣参与として助言を求めることに。(NHKスペ)。

3月13日
 午前中、3号機で炉心が露出・損傷(後日判明)。
 8:41 3号機でベント実施。
 9:25 3号機への淡水注入を開始。
 9:08 3号機で安全弁を開けて原子炉の急速減圧実施―その操作がバッテリー不足でできず、社員の通勤用自動車のバッテリーを取り外して集め、それでやる。
 11:00 2号機でベント実施
 11:17 3号機でも弁を動かす空気ボンベの圧力が低下して弁を閉じ、ボンベ交換へ。
その頃、首相「3号機はこれからどうなるんだ?」、原子力プラントメーカー社長「3号機建屋も爆発すると思います」、首相「なんとか水素は抜けないのか」、社長「建屋に穴を開けようとしても火花が散って引火するおそれがあり、無理です」と。
 13:10頃 3号機で海水注入に切り換え。 
 
3月14日
 4:34 2号機に海水注入
 5:20 3号機でベントの弁を開く。
 9:25 3号機で淡水注入を開始。
11:01 3号機でも水素爆発―建屋の手前で自衛隊員4人が被曝、消防車やホースが損傷し、海水注入が停止。
 11時過ぎ(3号機の爆発の影響で)2号機のベント弁の一つが開けられなくなり、消防車とホースが破損して使用できなくなる。
 16時過ぎ、2号機について深刻なシュミレーションが示され、ベントができなく、空だきになって原子炉そのものが破壊される危険が切迫―吉田所長、作業員たちに語りかけ、「努力したけど状況はあまりよくない、皆さんがここから出るのを止めません」と―この日、200 人が去り、70人が残る。
 余震が続き、現場には瓦礫が散乱し、放射線量が上昇、余震や爆発で退避を迫られるなかで作業。ベントは住民避難状況を確認しつつ実施。
 16:30頃、2・3号機とも海水注入が再開。
 夕~夜にかけ、2号機で炉心が露出・損傷(後日判明)。
 22:10頃、3号機で圧力容器が破損(後日判明)。
 22:50頃、2号機で圧力容器が破損(後日判明)。
 1~3号機から空気中に放出した放射性物質の全放出量は77万テラ(兆)ベクレル(後日判明)―その放射性物質の放出は、圧力容器の破損に続いて格納容器からの漏えいが始まったこと、格納容器の蒸気を外部に逃がすベントを行ったことが主な原因だと(安全・保安院)。  

3月15日
(官邸側の証言で)東電社長が「現場から撤退したい」と電話(東電自身は「全員撤退とは言っていない」と)。
 5:35首相、東電本社に乗り込んで、「お前ら、ふざけるな、このまま放置したら、どんな事態になるかわかっているはずだ、撤退は許されない、60歳以上の人間は現場に行って自分たちでやる覚悟をもて!」と。
 官邸は東電本店に統合対策本部を設置―政治家と関係機関を常駐させ、情報共有を図ろうとする。
 6:00 4号機で爆発音(使用済み核燃料プールが原因と推定)
 6:10 2号機で水素爆発―格納容器につながる圧力抑制室が破損か。
 11:00 20 ~30k圏内の屋内退避指示
3月17日
 9:48自衛隊ヘリ、3号機上空から散水
 19:05警視庁機動隊の高圧放水車が3号機に放水

3月18日 保安院が、国際的な事故評価尺度で、当初のレベル4(戸外への大きなリスクを伴わない事故)判断からレベル5(戸外へのリスクを伴う事故で、スリーマイル島事故並み)に引き上げ。

3月19日 東京消防庁が3号機に放水

3月23日 SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム、文科省所管の原子力安全技術センターにある)による予測結果を初めて公表(原子力安全委員会はそのデータを受け取っていなかった)。 

3月24日 3号機タービン建屋内の放射能汚染水で作業員3人が被曝

3月25日 20~30k圏内の住民に自主的避難を要請

4月4日 集中廃棄物処理施設と5・6号機の地下にたまった低濃度放射能汚染水を海に放出。 

4月12日(原発震災の発生から1ヶ月後)、保安院が「レベル7」(チェルノブイリ並みの「深刻な事故」)と判断

4月13日首相が「原発周辺は10年、20年住めない」と言ったとか、言わない(本人は否定)とかでひと騒動―「計画非難だけで村民は本当に戸惑っているのに、このような発言でますます不安になる」と。(下手なことを言うとパニックの恐れ)
4月17日 東電が事故収束への行程表を発表

4月22日半径20k圏内を警戒区域に(住民を含め、原則立ち入り禁止)。半径20k~30k以遠でも飯館村など5市町村を「計画的避難区域」に指定。半径20k~30圏内などで、広野町の全域、南相馬市の一部など、計画的避難区域から外れる地域の大部分を「緊急避難準備区域」に指定。

5月3日、この日から原子力安全委員会がSPEEDIのデータをHPで公開始める。

5月16日、東電、1号機は初日からメルトダウンしていたと発表(24日、データの解析結果を公表)。

5月17日 東電が行程表の改訂版を示す。政府(原子力災害対策本部)も、これに合わせて「原子力被災者への対応に関する当面の取り組み方針」と対応の具体的道筋を描いたロードマップを決定。

6月7日 政府の事故調査・検証委員会が(第三者機関として)発会(委員長畑村東大名誉教授)。

6月22日、原子力安全委員会が原子力施設の安全指針(「長時間にわたる電源喪失」は考慮しておらず、住民避難も8~10kまでしか想定していない)を見直し始める。 
 

 東電の小森常務いわく、「なかなか想定しにくい、考えにくい状況を、頭を整理して組み立てることが難しい情報がいっぺんに来ている、そういう事態だった」、「災害が来た時どうだという話しについてはメッセージとして伝えていなくて、自分らの見えてる範囲だけを伝えていた、そういうことが、もし『安全神話』ということだとすれば、そういうことになる」と。
 斑目委員長いわく、「みんな、自分自身でしっかりチェックしたわけではないけれども、他の人がちゃんとチェックしてくれているから大丈夫なんだろうと。これは人災であって天災ではない」、「3月11日以降のことが無ければなあと、もうそれに尽きます。」
 海江田経産相いわく、「やはり『安全神話』というものがありました。緊急事態に対する対応だとか、そういうものがどうしても、まあ事故なんか起こりはしないんだから、実際には『そんなことをやったって無駄だよな』みたいな意識があった」、「政府は結果責任を負わなければならない」と。
 
 NHKスペシャルの解説は、「国も東電も原発の『安全神話』にとらわれて、深刻な事故への備えを怠ったことが、初動の失敗を招いた」、「当事者たちが最悪の事態への備えを怠り、危機を予測できず、重要な局面で、それぞれの責任を果たせなかった」と。
 そもそも日本にはアメリカやフランスにあるような原発事故の時の司令塔がない。アメリカには原子力規制委員会(NRC)―大統領の指揮下にあるが、他の行政機関から独立した強い権限をもっていて、それが事故対応の全部に責任を負う。
 フランスには事故後指揮委員会―放射能漏れ事故などが起これば電力会社に代わって対応に当たる。各省庁や軍を指揮下に置き、住民の避難から放射性廃棄物の処理まで一元的に担う。 
 ところが日本では、原子力安全委員会は政府の諮問機関程度のごく補助的な役割しかなく、安全・保安院は「規制機関」のはずだが推進機関である経産省の一部局で同省の役人たちから成っている。それぞれが中途半端に独立し、全体としてばらばらバラバラ。

教訓
巨大地震・津波と原発大事故が重なった未曽有の複合災害への対応であり、いまだかつて世界の誰も経験したことがなく、いったいどうしたらいいのか誰も解らないことに、今、遭遇しているのだということ。
 そもそも、「原子力」というものはどのように扱えばよいのか、はたして人間の手に負えるものなのか、そもそもこの地球上で生きている数多の生命と(生命や環境に対する大量破壊的な被曝の危険と背中合わせに)共生できるものなのか、科学者たちを含めて、あらゆることを本当に解っていて、起こり得るあらゆる危険を見通している人間は誰もいないのだということ。首相も、原子力安全委員も、保安院も、東大の原子力学者も、電力会社の誰もがそうだ。
 政府の対応を批判する野党や評論家・マスコミは、さも、解っているかのように、「遅い」だとか「なんで出来ない」だとか「なんでそんな行動をとったのか」などと、首相や政府の不手際や無能を責めたてるが、彼らの誰一人、解って言っているわけではないのだということ、それらのことを知ることだ。
、今回われわれが知り得たことは、安全・安心な原発などというものは所詮あり得ないのだということ。
 原発には、そもそも次のような根本的な欠陥があるのだということ。
1、原発とは緩慢に爆発する原爆である。このプロセスは必然的に放射性物質を生む。生物にとって全く異質の毒物だ。我々の身辺にある毒物の多くは焼却すれば消える。フグもトリカブトもベロ毒素も、サリンでさえ熱分解できる。しかし放射性物質を分解することはできない。砒素や重金属など元素の毒は焼却不能だが、体内に入らなければ害はない。放射性物質は我々が住む空間そのものを汚染する。(作家の池澤夏樹氏の論稿<6月11日付け朝日新聞―文化欄に掲載>より)
2、そもそも原子炉には構造上の本質的な弱点がある。それは、(1)発電は核燃料が燃焼(核分裂)から出る膨大な熱で水を沸かして蒸気をつくり、蒸気でタービンを回して発電機を動かすことによって行われる。その運転を停止して(核分裂反応が止まって)も、燃料棒は(核分裂生成物の崩壊が続いて)膨大な熱を出し続けるので、絶えず水を循環させて冷やし続けなければならず、水の供給が止まってしまったら膨大な熱が出っぱなしになる。
(2)放射能を絶えず出し続ける核分裂生成物を原子炉の内部に完全に閉じ込める技術はない。事故になれば放射性微粒子(「死の灰」)は大量に放出されるし、それを永遠に封じ込めるのは不可能なのだということ。今回は放射性物質を閉じこめるはずの「5つの壁」(①ペレット②燃料被覆管③原子炉圧力容器④原子炉格納容器⑤原子炉建屋)のどれもが崩れてしまったのだ。
(3)使用済み核燃料(残った「死の灰」の塊)の後始末ができない―「再処理工場」でプルトニウムとカスに分け、プルトニウムを原発燃料に再利用されることになっているが、カスは高レベル放射性廃棄物(その放射能のなかには半減期が何千年・何万年かかるものもある)として残る。この大量の残りカスを後始末するところがどこにもないのだ。(使用済み核燃料を原子炉から抜き出して、今は下北半島の六ヶ所村の施設のプールに一部保管、それ以外は原発建屋など施設内のプールに放り込んだまま。モンゴル高原などで地下数百メートルの穴を掘って埋め込んでも、何万年も誰かが責任を負うなんてあり得まい。)
 要するに、原子力というものは、永遠に、人間の手ではどんなに頑張ってもコントロールし管理しきれるものではないのだということ。
 核兵器と同じで、この地球上で生きる生命あるものと共存できる原発などあり得ないのだ
「安全神話」(「日本で原発事故が起きる確率は隕石に当たる確率にも等しく、絶対大丈夫、「最悪の事態」とか「過酷事故」など絶対起こり得ないとの信仰に近い過信。素人には理解しがたい高度な科学技術の結晶で、信じるしかなく、「近くに原発があっても怖くない」ということ)を前提にしてやっているので、事故など想定しておらず、災害対策―事故に対応する備え―を充分講じていないのだ。(原発周辺地域の防災対策―避難対策なども―その地域に原発を建てるという時に、「事故があったらこうします」などということは絶対言わない。事故が起きる可能性があるんだなと思われて、そんなの嫌だと言って拒否されると困るから、ろくに避難対策も講じていない。)
 「そこに活断層は存在する」「巨大地震・大津波はあり得る、それで電源喪失することはあり得る」「過酷事故はあり得る」など解ってはいても(そのことを警告する人がいても)、その確率は極めて低いから、特に対策を要しないとか、安全審査の対象にはしないとして済ませ、それらの警告は見過ごされ、原発にトラブルがあっても(制御棒の脱落事故などヒヤリとするような事故が多数起きているのに)大したことはない、重大な事故にはつながらないとして過小評価して公表してこなかったのだ。
 「絶対、大丈夫、最悪の事態は起こり得ない」という安全神話を信じきってはならないということ。
 自然災害には最悪の事態を科学的に想定してかかること。「想定外」のこととして済ませてはならない、ということ。
 M9を想定しないで作った地震計は振り切れて測定不能だったのだ。
 福島第一原発は今回のような地震と津波に対応する設計をしていなかったのだが、斑目委員長は(3月22日の参院予算委員会で)「想定を超えていた」「(原発は)割り切らなければ設計できない」と釈明している。それではだめだ。
 最悪の事態(リスク)を想定し、それが起きた場合の社会的損失(損害・危難を被る人々の数、修復・賠償などに要する経費)が許容範囲を超える場合には、その事業はやめるしかない。(自動車事故や飛行機事故ならば、それが起きる確率は高いが、一つの事故では被害はせいぜい死傷者数名~数十名、飛行機事故でも数百名の範囲に収まり、社会全体としては事故の影響は小さく、社会では許容範囲ということにされるが、原発の場合は事故の確率ははるかに低いが、一たび事故が起きた場合、その影響はあまりに大き過ぎ、社会の許容範囲を超える。)
 それに、あらゆる事態を想定してかかるべきだとは言っても、人間には全てを想定し尽くすことなどできないのであって、「想定できないものに対する完璧な安全策などありえない」のだ(6月3日、朝日新聞「声」の熊谷氏の投稿)。
 今回は大多数の人々―政治家も官僚も学者も事業者も一般国民も―にとっては「想定外」の出来事で、マニュアルなんてないか、あっても不確か。いったいどう対応したらいいのか、確かなことは解らずに蒙昧し、あわてふためいた。それが現実なのだということ。
パニック・風評被害の回避のしかた―正確なデータの公表とデータの的確な意味説明こそがパニック・風評被害を少なくする、ということ。
すべてを人のせいにして、自分がやってきた責任を省みず、自分でやるべきことをやらない無責任―とりわけ前政権党とそれを支持した人々の責任―を問うこと、自問・自己反省すること。
、この種の事故対応を、いったい誰なら適切に(はたして誰なら手際よく誤りなく)やれたか、といえば誰もいない、いるわけがないのだ、ということ。
、「原発さえなければ」と書置きして自殺された方(相馬市の酪農家)がいたが、まさに「地震や津波さえなければ」ではなく、「原発さえなければ」なのである。人の手で、そこに原発がつくられ稼動されてきた、それがこの大災難のそもそもの原因なのである。このような原発災害は、人為によって起こるべくして起こった事故なのであり、最悪の公害であり、天災にあらずして人災なのだ、ということであろう。
                                                          以上

2011年07月02日

7月のつぶやき(随時、上に加筆)

●「四面楚歌に孤軍奮闘 がんばれアナタ!(夫人)」―朝日川柳に投稿したが載らなかった。
●「なでしこジャパン」優勝!すごい!がんばれ東北!
●朝4時半、窓を開けて空を見やると晴れていた。外に出て東の山並みに目をやると、霞みがかって峰上がうっすら赤みを帯びていた。もしかして赤い太陽。カメラを持ってきて、じっと待った。間もなくして顔を出した。赤かった。ぐんぐん昇っていく。バチバチ撮った。ところが赤い日の丸は上に昇っていくにつれ黄色に変わり、さらには白に変わった。後で写真をテレビにつないで見てみると、なんと全部が少し黄色がかった白に映っていた。なんでだろう。日が出始め時はこの肉眼では確かに赤かったのに。デジカメには白い日の丸にしか映らないのか・・・どうしてなんだろう?
●我が家の「緑のカーテン」―ネットを張った縦25の網目のうち、それぞれ伸びが一番早いもので、朝顔は10番目まで達し、ゴーヤは20番目まで達した。全部上まで達して「カーテン」が完成するまで網目を数えるのが楽しみだ。
●当日の放射線量は米沢が0.081μSv、福島市1.21μSv、飯館村が2.26μSv、南相馬の原町区が2.2μSv、相馬市は0.4μSvだった。東北各地のドコモショップ・グループの代表取締役をしているK氏(教え子)の車と運転で行ってみた。南相馬店は閉鎖されていて、玄関先や駐車場のコンクリートの隙間に草が生えていたので、軍手をはめ、4人でむしってやった。相馬店のほうは営業していたので、従業員の方々に天然水ボトル10箱ほど土産に置いてきたら、喜んでくれたとのこと。
●飯館村を通って、父が生前詠んだ歌が思い浮かんだ。「街道はじりじり日照りの植田なか 行く手の村に音ひとつなし」―但し、そこでは田や畑のどこにも作物が植え付けられてはいない。
●原発事故対応のことで、先だって(5月)、谷垣自民党総裁が国会(特別委員会)で「海水注入中断」問題を取り上げて首相を激しく追及したことがあったが、実は谷垣氏のあの情報源はガセネタで、以前、民主党の前原氏が代表辞任に追い込められた偽メール事件と同じ構図なのだという。マスコミはなぜそれを取り上げないのだろうか?
 谷垣自民党総裁は「海水注入は首相の意向で中断されたのではないか」と激しく首相の責任を追求したものだ。ところが、7月2日Cs朝日ニュースターの番組「ニュースにだまされるな」で北大教授の山口二郎氏は「あれはガセネタ」で「偽メール事件と同じ構図だ」と。山口教授のこの発言を受けて、経産省大臣官房付の古賀茂明氏は「かなり多くの人の証言がありますけれども、経産省の官僚がその情報(ガセネタ)を麻生さんのところに持っていき、麻生さんから安倍さんに話しがいって、安倍さんがバッと流した、というのが定説になっている。かれら官僚は『菅は危ない。あの人にまかせると脱原発に思いきり走っちゃう』と考えたのです」と言っていた。
 なんたることだ!こんな虚偽質問をマスコミはなぜ取り上げずに済ませているのか。
●「15%節電」:我が家ではエアコンはあるが、先年からたまにしか使わず、扇風機は使っている。居間は、一昨年、新式で明りをいっぱいにしたり弱くしたり調節ができる蛍光灯に付け替えたばかりで、今年は廊下とトイレなどの電気をLEDに替えている。居間、そこだけが二階がなく、一番暑い。その南側にある幅広いガラス戸の外側の軒下にフラワーポットを並べて、細長い竹を何本も立て、朝顔のつるをからませて「緑のカーテン」にしてきたが、今年はネットを張ってゴーヤのつるをからませるようにした。居間の平たい屋上にはよしずを数枚、それぞれの端に置いたブロックの上にあげ、フラワーポットに植えつけたカボチャのつるをはわせる、という仕掛けをかみさんが考えて試みている。カボチャも蔓も未だ伸びてはいないが、よしずをあげただけで屋根の熱さはぐんと下がっている。ゴーヤとカボチャの収穫、楽しみだなあ。

2011年07月18日

原発・放射能の危険性、わからないならどうする?(加筆版)

 今後、また原発事故が起こる危険性ははたしてどれだけあるのか、よくわからない。福島第一原発のような古い従来型の原発ならともかく次世代型なら大丈夫だという向きがある。ところで地下式原発推進議員連盟というものが結成され、自民党から谷垣・森喜郎・安倍晋三ら、民主党から鳩山・渡部恒三・羽田ら、国民新党から亀井、「たちあがれ日本」から平沼、といったメンバーが名を連ねているが、彼らは地下原発なら大丈夫(安全)だと思っているのだ。(原発は膨大な熱を放出するので、その熱を海や川に逃さなければならず、取水口・排水口それに排気口を必要とする。一たび事故が起きてしまえば、放射性物質はその排水口・排気口から漏出、閉じ込めることはできない。核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)でさえ地下を掘って埋めようにも埋められないでいるのに。地震は地下何キロ~何十キロの所で発生し、岩盤を破壊しながら断層を地表まで押し上げることもあるという。そんな所にいくら頑丈な収納庫を造っても、地震がくればひとたまりもないのだ。)
 いずれにしろ、事故が起きる危険性は「ある」と断言する人はいても、「ない」と断言できる者は誰もいまい。(事故の可能性を打ち消すことはできないのだ)。
 放射能ははたしてどれだけ健康に害があるのか、これも、よくはわかっていないらしい。それほど大したことはないとも言えるし、大いにあるとも言える。とりわけ低量被曝は「どんな健康障害を引き起こすか世界的にも歴史的にも全く解明されておらず、安全か、安全でないかわからない」という。(元自民党参院議員で現・東電顧問の加納氏などは「むしろ低線量の放射線は体にいい」とも。)「山形大学医学部放射線腫瘍学講座教授の根本建二氏は「未だよくわかっていないことをわかってもらいたい」と言っていた(6月29日、山形県置賜総合支庁主催の講演会で)。
 現段階では、学者・専門家によって見解が異なり、いずれも、どちらが正しいか、よくはわからないものらしい。

 推進・維持派と脱原発派それぞれに自分に都合のいい情報・データ・数値のみ着目して取り上げるものだ、という。
 推進・維持派とは、原発で飯を食っている人たち、原発関連事業で利益を得ている人たち(経産省などの官僚、交付金を受けている立地自治体、学者・研究者も含む)、それに原発関連業界から政治献金を受けている自民党などの政治家、原発関連業界から広告をもらっているメディアなどである。これらは原発事故の可能性や放射能の危険性よりも安全・安心材料をことさら取り上げる。

 しかし、一般庶民にとっては(人間・子ども・子孫・生き物の)生命と健康が何より大事であり、お金や便利・快適さなどは二の次なのだ。

 原発・放射能は大丈夫なのか、大丈夫でないのか、情報も見解も異なる学者・専門家のどちらの言うことが正しいのかわからない、そういう場合、「ならば気にすまい」という楽観的な判断と「ならば最悪の場合のことを考えて原発はやめてもらおう」という二通りの判断になる。どちらの判断が賢明だろうか。どちらが本当に安心が得られるのだろうか。
 前者(楽観論)には、「母親が神経質だから、子どもにストレスが溜まっているのだ」といった言説も。長崎大学の山下教授(長崎の被爆二世で、世界保健機関WHOの放射線プログラム専門科学官を務めていて、福島県知事から放射線リスク管理アドバイザーに任命され、「妊婦や乳児でも年間100mSv以下であれば大丈夫。時間当たり10μSv以下であれば外で遊ばせても大丈夫」と安全宣言)は「100mSv以下では発癌リスクは証明できないのだから、不安を持って将来を悲観するよりも、今安心して安全だと思って活動しなさいと言い続けた」という。
 これに対して福島の親たちの間では「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」が結成され、それに呼応して全国小児科医ネットワークも結成されて、その活動をバックアップしている(世界8月号掲載の白石草氏のルポ「『安全キャンペーン』に抗する福島の親たち」)。彼らは福島県知事に対して「山下氏をすべての県の役職から解任することを求める県民署名」を継続中。それには「山下氏の言葉を信じた県民が今どのような気持か・・・・・。己が信じた愚かさから我が子を被曝させ、後悔と罪悪感に苦しむ親たちの気持を感じて下さい。そして将来を想像し、言い知れぬ恐怖に耐え続けている県民の気持を理解してください。」「山下氏を新たに『県民健康管理調査』検討委員としたことは到底受け入れられるものではありません。被曝させられた私たちの健康影響を調査する者に最もふさわしくない人選です」とある。
 (一般公衆の年間被曝限度は1mSv。文科省は学校での安全基準を1~20mSvとして、20mSvが許容範囲であるかのような決め方をしたが、抗議にあって、「当面1mSvを目指す」と軌道修正)

 神経質にならずに、平気でいなさいと幾ら言われても、またどんなに鈍感力を鍛えたところで、次々想定外のことが出てきて不安の種は尽きることがない。その不安を無くするにはどうすればよいか。それには、まず最悪の事態(原発事故と被曝の最悪の事態)を想定してかかって、そのような事態に立ち至ることのないようにする方法を考えることだが、その方法としては、技術上・管理上どんなに安全対策を講じたところで限界があるし、原発そのものをやめてしまう(停止・廃炉・撤去)以外にないだろう。
 「原発さえなければ・・・・」なのだから。
 
 (停電になったら困ると言うが、電力供給不足は省エネと再生可能エネルギーでカバーすればいいのであって、原子力エネルギー技術などより、これら自然エネルギー技術の開発・向上・普及と発・送配電分離など制度の改編を早急にやればいいのだ。
 財界は、原発を再生エネルギーなどに切り替え、固定価格買取り制度などをやったら、電力料金が上がって、企業は海外に逃げていき、産業の空洞化を招くなどと言い張る。しかし、そんなことより、現に起こっている原発事故と放射能禍で、企業どころか、人がそこに住めなくなって県外各地に避難し、海外から日本に来る人が減っているし、日本からの産物輸入も敬遠されているではないか。原発のリスクやデメリットのほうがはるかに深刻なのである。)
 
 原発事故・放射能の危険性は、年輩者が自分のことしか考えないで生きていく分には「どうせ、よくわからないのであれば、気にしたってしょうがない」とも言えるのかもしれないが、そうでないかぎりは「わからないからこそ、気になって(不安で)しようがない」というものだろう。
 台風や地震・津波などの場合は、無くすに無くせない、いつか必ずやって来る、回避できないものなので、備え(防災対策)が必要。しかし、原発のばあいは、事故への備えは(多重防護など)容易ではない(「備えあっても憂いあり」というものだ。原子炉そのものは膨大な量の放射性物質を内部にかかえいるが、どんな事態が起こってもそれを内部に閉じ込めておく完全な技術は存在しない。それに放射性廃棄物や使用済み核燃料の処理方法も確立していない。ひとたび大量の放射性物質が外部に放出されれば、もはやそれを抑える手段が存在せず、被害は空間的にどこまでも広がり、時間的にも将来にわたって危険がおよぶ)。しかし原発そのものは無くすこと(廃炉・撤去)ができ、無くしさえすれば、備えの必要はないし、それこそ何も気にしなくてよくなり、安心していられることになる。

 なお、原発事故というものは、可能性(確率)は、たとえどんなに低くても、それがちょっとでもあったら最悪の事態(計り知れない惨害)に立ち至るもの。だから、確率はどんなに低くても、念のために、もしかして起きるかもしれないと考えて手を打っておかなければならないものなのだ。
 今回のフクシマ原発事故は、事故としては、あれでも「中規模」で、まだ「最悪」ではない。そういう意味では、あれで済んでよかった。もし、格納容器が爆発すれば、いっきに1号機から4号機まで次々といって全滅、チェルノブイリ級では済まないことになっていただろう、という(後藤政志氏・7月24日朝日ニュースター「パックイン・ジャーナル」)。
 「もしメルトダウンした時に圧力容器の底に水があれば、溶けた核燃料が水に触れて急激に蒸発し、『水蒸気爆発』―圧力容器が飛び散り、外側にある格納容器も壊れ、建屋も吹き飛んでしまう。そうなれば、今の5倍、10倍の放射性物質が放出、周辺地域の住民に大変な被害(何千~何万人という急性死者)をもたらすだけでなく、大量の放射性物質が東北各県や首都圏も汚染することになるから、破滅的な状況に陥る。これまで水蒸気爆発がおこらなかったのも、たまたま炉心の落ちたところがよかったからで、注水が続く中で小康を保っている状態。しかし、これから先のことは分からない。いかなる原発事故も、『絶対に起きない』と断言することはできない」とも(小出裕章・著書「原発はいらない」)。

 とにかく、原発は、わからなかったら最悪のリスクを想定してやめてしまうにしくはないのだ

2011年07月31日

原発と核抑止力―安全神話

 敗戦前には、「日本軍は負けない」という不敗神話があった。しかし、我が国民はアジア・太平洋戦争で史上最悪の悲惨な事態(死者―日本人300万人、アジア全体で2,000万人。広島・長崎両市民は史上初の核兵器被爆)を経験し、そのうえにたって、戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を定めた憲法を受け入れた。
 そして今や、東日本大震災(地震・津波・原発事故が重なった複合災害)という戦後最悪の悲惨な事態を経験しつつある。

142の国、39の国際機関から支援
アメリカから―義援金49億円以上(日本側からの在日米軍への「思いやり予算」は毎年1,881億円)、救助隊144人、軍人8,000人、三陸沖に原子力空母ロナルド・レーガン等が展開、自衛隊と共同作戦(「トモダチ作戦」)、かつてない規模の展開は自衛隊・米軍の統合運用と民間空港・港湾の米軍使用に踏み込んだ。「オペレーションの性質は違うが、民間施設利用や上陸など実態的には朝鮮半島有事を想定した訓練ともなった」(外務省幹部)という。  
ロシアから―救助隊155人、日本への天然ガス供給を増やす。
「モスコフスキー・コムソモーレッツ」という新聞に「被災した日本人は気の毒だ、北方四島は日本に与えたらいいという意見が述べられたということが報道された」という(世界6月号・和田春樹東大名誉教授)。
フランスから―救助隊134人、原発事故対策用機材と技術の提供。
中国から―各国の国際救助隊の中で、中国の救助隊(15人)が最も早く(3月13日)日本に到着、撤退したのも一番最後(3月21日)だった。中国政府の援助物資は約3億8千円相当。燃料油2万トン。地方政府や民間機関からも―中国赤十字から約3億3千万円、四川省赤十字からは(3月20日時点で)約247万円。福島第一原発に大ポンプ車を提供、技師派遣。(08年四川大地震では日本から5億円、国際緊急援助隊-ハイパーレスキューなど救助チームと医療チーム-を派遣。)
 しかし、日本側は真っ先に受け入れるべき国として、米国を「ランク1」としたのに対して、中国は「ランク4」と優先度が低く、受け入れに躊躇。そのため救助隊はわずか15名にとどまった(朝日新聞4月3日付けGLOBE面)。
北朝鮮から―北朝鮮赤十字が(朝鮮総連を通じて)義援金10万ドル(日本円810万円)、在日朝鮮人に対しては見舞金として約4,000万円が送られたという(世界6月号・和田教授)。これらに対して日本政府からの礼は一言もなし。(日本政府は制裁中―貿易はすべて禁止、船舶の往来もすべて禁止)

そこで次のことを考えた。
自然災害―止められない―備え(防災対策)が必要(「備えあれば憂いなし」だが、油断は禁物)
   コンクリート構造物(ダム・堤防・防波堤・防潮堤など)―それでも防ぎきれない
   災害救助組織、避難計画、高台への施設・集落移転などの対策。
原発災害撤去しないかぎり止められない―備えても事故は防ぎきれない(「備えあれば、かえって憂いが増す」―世界8月号・高史明―「備えあれば憂いなし」には、近代合理主義における科学技術の過信があると)
     撤去すれば止められる―撤去すれば備えも不要
戦争・戦災―互いに軍備(「抑止力」「防衛力」―自衛隊・日米同盟)持てば戦争(攻撃)は止められる?一触即発・偶発戦争など「備えあれば、かえって憂いが増す」のでは?
 「脅威」―北朝鮮の「脅威」―北朝鮮自身は、プルトニウム型(長崎型原爆と同じ)の核兵器開発は「自衛のため」で、「ウラン濃縮(広島型原爆に通じる)は発電目的の平和利用だ」と。
       中国の「脅威」
       国際テロ組織の「脅威」
    それらの脅威に備えなければならない、と言って軍備。相手側からみれば、日米の軍備が脅威。
  しかし、 軍備があることによって、互いにそれに拠りかかって非友好的・非協力的・敵対関係をとり、外交努力を尽くさず、軍事的手段に頼りがちになる。そして軍事衝突から激突-最悪の事態―戦争になる。 
 「核抑止」―かつて米ソの間で「核均衡抑止」―キューバ危機など一触即発・核戦争の危険あった。誤発射による偶発戦争の危険も。自暴自棄になって反抗する北朝鮮やテロリストに対しては核抑止は効かない。核戦争は核兵器を無くす(廃絶する)ことによってしか、防止できない。
 横須賀や佐世保を母港にしている米軍原子力空母・原潜には大津波の危険
 原発―「原子力の平和利用」というが、その原子炉(軽水炉)は、もともと原潜用に開発されたもの。かつて政府の原子力委員会初代委員長の正力松太郎らには「毒をもって毒を制す」(原子力の「平和利用」で反核運動を制する)という狙いがあり、中曽根首相らには「核武装の潜在能力を残しておく」という狙いもあった―プルトニウム(使用済み核燃料の再処理で得られ、核爆弾に転用できる)の大量保有は米・ロ・英・仏に次ぐ(約31トン―核兵器1個あたり4キロと想定すれば7,750個分に相当)
 アメリカは、日本の原発用に濃縮ウラン(現在約73%)を売りつけ、原子炉(ゼネラル・エレクトリック社製など)も売りつけ(そのもの、或は設計を)。但し、アメリカは、日本が日米安保を破棄して核武装などにはしれば濃縮ウランの供給や日本に例外的に認めている使用済み核燃料再処理の権利は停止することにしている(日米原子力協定)。

 軍備など持たなければ(「戦争放棄」「戦力不保持」していれば)戦争は止められる(軍備を持たない―敵にならない―戦争にはならない道理)。  
        (非軍備・非戦―友好協力関係を結び、トラブルは外交交渉で解決)  
 自衛隊―「主たる任務は国の防衛」(自衛隊法の規定)
   「災害派遣は従たる任務」―「主たる任務の遂行に支障が生じない限度」―制約
   軍の本質的属性は「国家」を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。
が、自衛隊は憲法9条により「軍隊ではない」という建て前になっているので、結果的に「国民を守る」という側面を前に押し出している。
 この自衛隊が脱軍事化して「災害救助隊」に転換すれば、近隣諸国をはじめ、諸外国で震災等が発生した際、非軍事の災害救援組織が本格的な活動を展開、そうすればその国には、日本を攻めようという理由が無くなっていくというもの。(世界7月号・水島朝穂) 
 
 「原発は安全」「アメリカの核抑止力があれば安全、日米安保があれば安全」という安全神話が日本人の頭に刷り込まれてきた。しかし、今や原発の安全神話は崩れた。それではアメリカの核抑止力・日米安保という「安全神話」はどうなのか。
 
 原発といい、核抑止力といい、こんなものは無いのが一番安全なのでは
   
大災害・被災で表れる人間・社会の本質的な在りよう
 ①宮城県亘理町の自宅で被災した哲学者の岩田靖夫・東北大名誉教授は次のように書いている。
 「科学技術は、人間が自然の法則と力を理解し、それを人間の生活の向上に利用し役立てるとき、すなわち人間愛と結びついている限り、大きく人間の幸せに寄与する。・・・しかし、それは人間が科学技術をコントロールできている限りにおいてである。もしも、人間がそれをコントロールできなければ、どんな恐ろしい事態が起こるかわからない。」
 「自然の底知れぬ力への畏れを失ってはならない。人間が科学技術の力を過信して、自然を制御し、支配し、思うがままに利用しようとするならば、自然は、思わぬときに、思わぬ仕方で、人間の企てを木っ端微塵に打ち砕くかもしれない。」
 「人間はもっと簡素に、ほどほどに生きるということを、今後、真剣に追求しなければならない。・・・物資とエネルギーは自然からの贈与であることを忘れてはならない。飽くなき快適さ、便利さの追求は、この自然からの贈与を浪費することである。浪費は自然破壊を惹起し、自然破壊はやがては人間自身の滅亡を誘発しうるであろう。・・・経済活動とは、本来、人間が生きるために必要とする衣食住のための物資の確保であった。しかし、富の蓄積がこの本来の目的を超えて自己目的化したとき、際限のない富の蓄積が始まる。それがさらなる欲望の爆発を引き起こし、不自然な経済社会が出現する。・・・経済は、その本来の目的を想起すべきではないか。誰のため、何のための経済なのか。経済は、人間がよく生きることに仕えるべきものではないか。」   
 「人間は何を喜びにして生きるのか。それは、他者との交わりである。他者を愛すること、他者から愛されること、他者を助けること、他者から助けられること、それが人間の喜びである。」
 「津波の惨状に際会して、肉親を失った人々の悲しみと絶望・・・。生きていることの絶対的な意味、富や名誉などは言うもおろか、なにか素晴らしい仕事を成し遂げたということさえ吹き飛んで、ただ生きているということの絶対的な素晴らしさ・・・。」
 「大災害に出遭い、家も富も一切を奪われて、人間は本来なにももたない裸の存在であったことを突きつけられる。そのとき、人は人に自己をありのままに露出して、無力な自己を露出して、助け合う。誰も、他者を支配しようとしたり、利用したり、ましてや暴力を振るおうなどとはしない。極限の無一物、裸一貫が人間のありのままの姿を見せ、そこで、人と人は信頼と愛によって助け合う。」
 「すべてを失った人びとが身を寄せ合って助け合っている姿、外国からさえ人びとが助に来る姿―北方四島の帰属問題で関係が冷えていたロシア、尖閣諸島の同じ問題で険悪な関係に陥っていた中国、これら隣国が救援隊を送ってくれたニュースを重く受け止めなければならない―ここに人間の生の根源の姿がある。」
 「大災害の苦しみのなかで、人間の本来の存在の意味が問われているのではないか。・・・人と人は愛と信頼によって生きているのである。このことが、実は、富や地位や名声や快楽によって遮断され、見えなくさせられているのである。」
 「今回の大災害に際して、世界各国から多くの支援の手が差し伸べられた。これは、他者の苦しみに走り寄る、人間の本性的な惻隠の情の現れであろうが、それ以上に、人類の連帯の絆の成立のきっかけと思いたい。」
 「現在、経済、学問、政治、宗教などのすべてにわたり、地球は一つの世界として結合し、交流しつつある。それを、苦しみの撲滅、すなわち、争い、暴力、貧困、戦争の撲滅に向かって、いまこそ人類の連帯へと絆を深めていく必要がある。この大災害に際して、世界中から寄せられた同情の経験を、私たちは、これからの地球のために生かさなければならない。」「国際間の争いを暴力による威嚇によってではなく、理性的な話し合いによって解決する、そのような国際社会のあり方を具体的に構想していく―そうした構想へと向かうとき、今回の禍の経験が希望の土台となりうるのではないか。」
 「この大災害は、人間の生き方を根本から考え直す機会を人類に与えた。」
 「今回の禍が明らかにしていることは、人間が、このまま、何の反省もなしに、欲望の拡大と利己主義を続ければ、もはや地獄しかないだろう、ということである。」(世界5月号)
 
 ②7月29日付け朝日新聞「記者有論」に氏岡真弓編集委員は「被災地の子ども」について次のように書いている。
 被災後、生徒が学習に向かいだしたという―朝の読書でむさぼるように本を読むようになった。午後の授業になると机に突っ伏す『ヒラメ』の生徒が多かったというが、ほとんどいなくなった。「ノートを広げ、シャープペンを握るのがただ、うれしい」と語る子も。
 学級の空気が穏やかになり、いじめ行為が途絶えた。続いていた靴隠しが止まった。「バイキン」などと書いた紙切れを入れるいじめが消えた。
 「皆と仲良くしたい」「震災で一緒にいたくなった」「不安があるから仲良くしたい」と。
 人の役に立つ仕事をしたい子が増えた。「人のためになるようなおいしゃさんになりたい」「人を喜ばせる職業につきたい」と。
 命や友達、学ぶ喜びのかけがえのなさを、子どもたちは改めてかみしめたのだろう。
 (「阪神大震災でも見られた」。だが、その輝きは学校が「正常化」するにつれて失われていったという。「生徒同士競い合わせる学校が復活し、助け合いたい、誰かの役に立ちたいという思いを生かし切れなかった」のだ。)

 これらのような人間・社会の在りようから考えれば、いったいどっちがいいのか。人と人が愛と信頼によって助け合う、そういう「人間愛」の社会を信じて、それに依拠するか、それとも原発・核抑止力の安全神話の方を信じるか、それが今、我々に問われ、一人一人に判断を迫られているのだ、ということだろう。

2011年08月01日

8月のつぶやき

●在職中、校長だった先生が亡くなった。10歳年上。葬儀では、弔辞や喪主挨拶で生前・在職中の業績の数々と御労苦、それに奥様・お子様・お孫様たちと撮った写真のスクリーン大写しが披露され、改めてその遺徳とともに、ありし日の誠実温厚な姿・語りが偲ばれた。このあいだ亡くなった教え子の葬儀の時も、そんな思いをしたものだが、この自分が死んだ時、葬式で人様に披露して聞かせるとしたら、はたして何があるだろうか。ろくにないか、ろくなことがないかだろう。まあいいや、とにかく日々、一生懸命、できることをして生きるのみだな。
●またまた地震。米沢震度3、震源地は福島沖、福島・宮城とも東部地域は震度5弱。その前に、これとは別に北海道でも弱いのがあった。道知事が泊原発の営業運転再開を容認したが、よくもまあ。この女性知事は経産省の官僚出身なんだって?・・・やっぱり!
●また地震。夜、寝る前にやや弱いのがあって、娘が「明日また来るぞ」と言ったその通り、翌日、夜明け前、ぐらぐら。飛び起きて箪笥や置物を見わたし、収まったところで、テレビをかけて速報を見ると、震源地は福島沖、福島浜通り・中通りが震度5弱、米沢3。津波は?原発は?しばらく後、両方とも格別なことがなくて済んだとのことだった。やれやれ・・・。
●また被災地を見に行って来た。今回は二井宿峠経由で白石―岩沼―亘理町―山元町―新地町―相馬―南相馬―飯館村―伊達市―飯坂経由。
 護岸堤防の残骸、「焼野原」ならぬ「津波野原」が広がる。そこに住宅街があったと思われる廃墟。電柱と信号機が、それぞれ一本だけ傾いて立っている。傍らに墓標が立てられてあった。ブロックを積みあげた上に「・・・居士」と書かれた木札、その両側に菊花が添えられ、仏壇にあったはずの「・・・大姉」と書かれた位牌が置かれていた。その前にたたずんで合掌。そうだ、そこは新地町、107人もの人が亡くなっているのだ。亘理町では256人、山元町では670人、相馬市では454人、南相馬では 605人もの人々が、家もろとも津波にのまれてしまったのだ。わざわざ行って手を合わせて来てもおかしくないだろう。
 飯舘村では人影は警察官だけ。伊達市の霊山にさしかかる手前、街道両側の野山の斜面に、なんと黒牛が数十頭(「放れ牛」)。同行者は「飼い主が避難先から餌をやりに来てんなだべ」というが、まさか。そこは牧場で、放牧されたまま、移転も屠殺・出荷されることもなく、放射能をモノともせずに(?)黙々、牧草を食べて命をつないでいるのだろう。頑張れ、牛どもよ・・・・とは言っても、はたしていつまで生きていられるか。飼い主たちはいつ戻られるのか・・・・・・・
●祈りの月。広島・長崎の原爆、終戦、そしてお盆。「日本の祈り」だな。
 節電、熱中症で騒いだかと思うと、信濃川・阿賀野川の支流と只見川の大洪水、それに、また余震、原発放射能禍はまだ続く。いったい、いつ収まるのか。祈り続けるしかないか。

2011年08月14日

「子ども手当」と「児童手当」―どっちが良かったのか

 「子ども手当」は民主党のマニフェストの主要な柱の一つで、「目玉政策」・「看板政策」ともいうべきもの。しかし、それが自公など野党からは「高校授業料の無償化」や「農業の戸別所得補償制度」、「高速道路の無料化」などとともに、財源をいい加減にしたバラマキだと攻撃されてきた。そして、それが、菅首相の退陣と合わせて、これらを撤回しなければ、政府にとって震災復興予算に必要な赤字国債を増発するための特例公債法案は通さないということで、首相の首とともに取引材料にされ、やむなく、民主党幹事長が「歳出・歳入の見通しが甘かった」と自公両幹事長に対して謝罪をさせられたうえ、「子ども手当」廃止、自公政権時代の児童手当復活の方向で3党間で合意した。
これらは、いったい何を意味するのか。

 そもそも「子ども手当」と「児童手当」は、いったいどこが違うのか。

児童手当」(1万円だった)―子どもは家庭(親の自己責任)で育てる(教育は親の義務)―アメリカ的自己責任型―「少子化」になりがち
  所得制限を設け、高所得者世帯には支給しない―受益者と負担者(納税者)が分けられる(分断)―所得税が高く、生活に余裕のある人たちだけが負担(負担者には反発も)。
  しかし、扶養控除があって税金をまけてもらえる。(「年少扶養控除」―15歳以下の子どものいる世帯は所得税から38万円、住民税から33万円が控除)―所得税を払えていない人にとっては無意味だし(所得150万円以下の世帯は控除額はゼロ)、所得税をちょっとしか払えていない低所得者にとっては控除額はわずか(所得400円以下の人は税率5%で、所得税控除額38万円が5%―1万9千円に、住民税控除額33万円のほうは税率が一律10%で―3万3千円に減額され、実質的には、所得税分と住民税分と合わせて5万2千円しか控除されない)で、恩恵が少ない。一方、高所得者ほど実質控除額が多くて有利(所得2,500万円の人は税率が40%で所得税控除38万円の40%―15万2千円と、住民税控除33万円の10%―3万3千円―とを合わせて18万5千円も)―児童手当1万円はもらえないが、税金はガバっと(18万5千円も)まけてもらえる、ということ。
 
子ども手当」(1万3千円、来年度から2万6千円の予定だった)―子どもは「社会の宝」だから社会全体(社会の責任)で育てる(教育は親ではなく社会の義務)―子どものいる家庭、いない家庭を問わず、また子を学校に出している家庭、出していない家庭を問わず、皆でお金を出し合う―ヨーロッパ型「普遍主義」(ユニバーサル・サービス)
      所得制限を設けず子ども全員に一律支給
      扶養控除なし―高所得者にとっては、所得制限なく、「子ども手当」をもらっても、控除はなくなるから、実質「子ども手当」はもらわないのと同じ(むしろマイナスになる―所得2,500万円の人なら、控除額18万5千円だったのに対して「子ども手当」は年間15万6千円だから、2万9千円のマイナス、所得1,500万円の人なら2千円のマイナス)
 このような「子ども手当」という現金給付だけでなく、保育施設など公共サービスの拡充と合わせた総合的体系の中にそれを位置付けたうえで、当面、現金給付(「子ども手当」)から始めたというべきもの。
 
 このように両者には、理念のまったく違うところがあり、単純に「子ども手当」が「児童手当」に比して不公平・不合理だとか、バラマキだとかと決め付けられる筋合いのものではあるまい。

 これらの詳しい説明がマスコミではなされず、民主党自身も説明不足で、国会では表面的な議論に終始し、庶民には短絡的な理解や誤解を招いているのでは。
 (マスコミ―8月8日朝日新聞の世論調査で、これに関する質問は「民主・自民・公明の3党は所得制限のない子ども手当を今年度いっぱいでやめ、来年4月から所得制限のある児童手当に戻すことで合意しました。子ども手当をやめて児童手当に戻すことに賛成ですか。反対ですか。」というもの―このような質問で導き出された答えは、「賛成」が63%、「反対」が20%―実に短絡的な質問と答えになっている)
 民主党が、「子ども手当」を取り下げ、「児童手当」の方が復活するとなれば、自公の前に「あえなく降伏した」とも見なされよう。

 尚、原発事故にともなう放射能による健康被害の度合いが大人と子どもで違い、親や祖父母が元の居住地に戻れても、子は戻れない、という場合など、かつての「学童疎開」のように、その子らの避難先の確保、保育・教育は社会の義務であり責任であると考えるべきだろう。まさに子どもは社会で育てなければならないのだ。

 以上、参考―8月9日、朝日ニュースター「別刊 朝日新聞」―コメンテーター―神野直彦・東大名誉教授、峰崎直樹・内閣官房参与

2011年09月01日

「大丈夫だ」、「危ない」、どっちなのか?(再加筆修正版)

 原発事故・放射能害について楽観論・悲観論の両説がある。いったい、どちらの言ってることが正しいのか、それぞれ挙げてみると、次のような説がある。
[1]大阪大学名誉教授・医療法人病院長 中村仁信「低量放射線は怖くない―日本人のアレルギーを吹き飛ばす!」(遊タイム出版)によれば、次の如し。
 放射線は低線量(100mSv以下)であれば体に害はない。むしろ、ガンになりにくくなったり、体によい影響(ホルミシス効果)も。
 年間の被曝量が100mSvまでならば健康被害は無い。
 ICRP(国際放射線防護委員会)は年間に浴びてもよい放射線量(公衆被爆の限度)を1mSvとしているが、それは1歳から毎年1mSvを浴びても生涯で100mSvを超えないようにしたのだろう(ということは100mSv以下なら安心ということで、1mSvを超えてはいけないとか、超えると危険だとか、そういうことではない)。
 自然放射線―世界平均では2.4mSv、日本の平均値は1.5mSv(内訳―空気から0.4mSv、地面から0.4mSv、食物から0.4mSv、宇宙から0.3mSv、過去の核実験や原子力施設から0.005mSv)
   空気中からラドン吸入、食事からカリウム40や炭素14、  
   テレビからもエックス線が出ている。
 放射線を浴びると―電子がはじき出され(電離)活性酸素が過剰に出る(はじき出された電子が酸素分子に当たると、また別の活性酸素ができ、浴びた放射線量に応じて増える)。
    放射線の電離作用ではじき出された電子が直接DNAを傷つけるということも(5%だけ)あるが、放射線が体に悪い原因のほとんどは活性酸素の作用。
    発生した活性酸素によってDNAが、そしてその中に点在する遺伝子が損傷する(100mSvで1日あたり200個のDNAが損傷)―損傷したDNA・遺伝子のほとんどは修復されるが、ときたま修復できなかったものが突然変異しガンの原因に(突然変異が一つだけではガン細胞はできないが、いくつも蓄積されるとガン細胞になる。しかし体内には圧倒的な数の免疫細胞があってガン細胞を殺してくれる。が、ガン細胞が免疫細胞をすり抜けて増えていくと、本当のガンになる)。
 活性酸素(毒性もつ)―運動のし過ぎ、飲み過ぎ、食べ過ぎ、紫外線、タバコ、炎症、ストレスなどで過剰発生―これらの因子が複合的にからまると(相加的に)発癌リスクが高くなる。
 放射線によって生じる活性酸素は、これら多くの原因で出る活性酸素の影響と合算される。
 放射線を浴びたからガンになったといっても、一つの突然変異ではガンにならないので、別の要因、ストレスやタバコなど、様々な要因が長い年月の間に複雑にからんでいると思われる。
 100mSvの放射線を浴びたとはいっても、ただちにガンになることはない。1mSvや10mSvなどより、過度なストレスやタバコの方がよっぽど怖い。
 ストレスでは副腎皮質ホルモンが出て免疫細胞を殺してしまう。だから、わずかな放射線よりも、そのストレスからガンになることの方が心配。
 ただし、ストレス、タバコなどで、生体防御がぎりぎりのところかもしれないのに、意味もなく放射線を加えることはないだろう。
 低線量放射線だけではガンにならないとしても、多くの原因でガンができたとして、その何分の1かは放射線の影響だったという可能性は、否定も肯定もできない。放射線の影響だけを取り出して調べるのは難しいということ。
 原爆被爆者の発ガンも、原因は被爆だけでなく、被爆後の(熱傷、外傷のほか、食糧難による栄養不足、家族や友人の死、生活基盤の崩壊、敗戦のショック、将来への不安・恐怖など)ストレス、その結果としての活性酸素処理機能・免疫力低下(精神状態が不安定な人は免疫細胞のガン細胞への攻撃力が低下)などによる―被爆だけだったら発ガンはもっと少なかったはず。
 活性酸素は抗酸化酵素などで消去されるし、DNAに損傷が起きても修復されるし、放射線は分割して受ける(慢性被曝)ほど、後に残る影響は少なくなる(線量率効果)。
 原爆による急性被曝(瞬間的な大量被爆)と比べれば、原発事故(放射性物質漏れ)による慢性被曝100mSvは急性の10mSv(十分の1)あるいは20mSv(5分の1)に相当する。

 しきい値(ここからは体に害があり、ここまでは害はないという境目)はあるという考え方。
  100mSv以上では、ガンの発症率と放射線量は比例するが(100mSvでは1%、1,000mSvでは10%)、100mSv以下なら統計学的に有意のガンの発生はない(少しはあるかもしれないが、それは誤差範囲で意味が無いということ)。 
 胎児の奇形―100mSv、男性の一時的不妊―150mSv、一時的脱毛―3,000mSv
ただし、それらの異常は多くの人に出るのではなく、5%以下の人だけ。
  ICRPは100mSV以下で発癌のリスクがあるかどうかはわからないと。(極めて小さいリスクなのでわからない、それをはっきりさせるには、もっと膨大な数のデータがいるということ。)
  子供は感受性が高い一方、防御能力、修復能力も高いので、傷でも早く治るし、DNA損傷や突然変異ができにくく、免疫細胞も元気。
  チェルノブイリでは、子供の甲状腺ガンも100mSv以下では発生していない。20mSvで子供がガンになっているというデータはない。
 人間では、奇形が生まれるなど遺伝的影響は確認されていない。
 男子の子孫を残す生殖機能―精子をつくる細胞は(卵子をつくる細胞よりも)放射線に弱いということはあるが、150mSvで一時不妊にはなるが、じきに元に戻る。

 放射線ホルミシス―放射線は微量であれば体によい影響があるということ―紫外線などと同じく、大量では有害でも、微量では生体に刺激を与えて有益な影響をもたらす。
 ①軽い放射線を浴び続けると、活性酸素処理能力が高まる。
 ②傷ついたDNAは修復されるが、やはり放射線でDNA修復能力が上がる。
 ③DNAの傷が残り突然変異を持つ細胞は自爆させられる(このとき、p53というガン抑制遺伝子が働くが、低線量放射線によりp53が活性化する)。
 放射線治療―ガン治療も

 だから、「低線量被曝には、そんなに神経質にならなくてもよいのだ」というわけ。

[2]藤田祐幸・理学博士「もう原発にはだまされない」(青志社)によれば、次の如し。
 自然放射線は(地域によって異なるが)高くても毎時0.1μSvなのに 
 浪江町―毎時21.5μSv
 飯舘村―毎時 10.7μSv―そこでは(3月23日の時点で)土壌にセシウム137がkg当たり16万3,000ベクレル(チェルノブイリの強制避難地域の2倍程度)
 放射線管理区域―病院のレントゲン室など―外部放射線に係わる実効線量3ヶ月あたり1.3mSv(1時間あたり換算で0.6μSv、年間線量に換算すると5.2mSv)を超える見込みの区域―区域内では18歳未満の作業が禁止、妊婦の立ち入り制限―そこに福島原発周辺の浜通りから中通りにかけての広大な地域(人口100万人以上)が入ってしまっている。
 20mSv(1時間あたりでは2.3μSvで、2.3×24×365÷1000≒20)―原発で働く労働者(8万3,000人)の被曝線量の限度(彼らの内の大多数は5mSv以下に抑えられていて、20mSvまで被曝するのは稀なケース)
 政府は非常時であることを理由に、福島原発周辺住民の被曝限度を、国際標準では一般人の被曝限度が年間1mSvとなっているのから20mSvまで引き上げ(直ちに健康に影響を与えることはないとして容認)、文科省は福島県内の小中学校・幼稚園などの屋外活動制限基準をも20mSV(1時間あたり3.8μSvで、屋外8時間、屋内16時間は屋外の40%として計算すると、3.8×(16×0.4+8)×365÷1000≒20)と設定したが、その後、その上限を事実上撤回し「年間1mSv以下を目指す」というふうに修正した。
 日本で原発事故が起きれば数百万から数千万人の強制避難が必要となるが、この小さな島国ではそれが不可能なので、被曝限度を年間20mSvレベルにまで引き上げて、それ以下なら甘受せよ、としているのだ。それならそれで、せめて、妊産婦と乳幼児、小中学校の児童・生徒は状況が安定するまでの間でも、安全な所に疎開させるべき。

 ICRP(国際放射線防護委員会)
  確定的影響(非確率的影響)―ある線量を超えて被曝(大量被曝)すると、被曝した全ての人に、その線量に応じて、白内障やリンパ球減少、意識障害、全身障害など具体的な症状が現われることを指す。
  確率的影響―その個人の被曝線量に応じて、将来、ガンや白血病などの症状が、ある一定の確率で発生―しきい値はない(被曝線量に応じてその確率は変化)(そのことはICRPの勧告に明示)―どのような低い被曝でもそれに応じた影響(リスク)がある―白血病や甲状腺ガンは5年ほどしてから、通常のガンは10年以上してから発症など
     レントゲン検査やCTスキャンなど放射線被曝によってもたらされるプラスの利益(ベネフィット)を生む―ガンになるリスクより、結核等が発見されるメリットが上回る―という場合にのみ、被曝は例外的に容認されるが、被曝は常に最低限に収めなければならない。
    一般公衆の被曝限度―1mSv
    放射線作業従事者(原発被曝労働者)の限度―年間50mSvを超えず、5年間で100mSvを超えないように設定―年平均で20mSv―ところが福島原発事故では、非常時との理由で、「年間50」、「5年間」などの限度を撤廃し、100mSvまで引き上げ、さらに250mSvにまで引き上げた。
 ICRPのリスク評価―被曝線量1mSvでは将来のガン死の割合は2万人に1人(子供なら、その5倍の「4千人に1人」)、20mSvでは1,000人に1人(子供なら「200人に1人」)、100mSvでは200人に1人(子供なら「40人に1人」)―研究機関や学者によっては、もっと厳しい評価をしている。
 これらは被曝線量に応じた発ガンの確率だが、ガンになってしまった人の発病の原因が、放射線被曝によるのか、タバコが原因なのか、食品添加物が原因なのか、全く特定できない―それは因果関係が立証できないからで、被曝影響はあくまでも、統計学的な確率でしか論ずることができない。  
 被曝影響には、被曝した本人に現れる身体的影響と、その子孫に現れる遺伝的影響とがある。
 内部被曝や長期にわたる低線量被曝は免疫力・抵抗力を弱める―するとガン細胞(人間の体の中では毎日、ガンの元になるようなものが次々と新たに出来ている)が退治されずに増え続けていく。急に持病が悪化して亡くなったという話しは数多くあるが、それは免疫力の低下と遺伝子の破壊によるもの。
被曝量は、自然放射線と人工的被曝とを足し算で積み重ね、内部被曝にしても1品目だけではなく野菜・魚・水、さらには呼吸で吸い込むことを勘案して足し算していく必要がある。
 自然のリスクは受容するほかないが、人工的なリスクまで負わなければならなくなるのが問題。
 ラジウム温泉(鳥取県の三朝温泉)などで浴びる放射線はむしろ健康にいいとの主張があるが、かつて文部省が疫学調査を実施したところ、その町の住民は、一人ひとりライフスタイルが違い、朝から他市に行って働き、夜に帰ってくる人、日中も居住地にいて土を耕している人、それぞれのグループ分けをしてみると、明らかに差が出ている。しかし、疫学的調査は非常に難しく、恣意的にデータ集計を操作できてしまう危険性をはらんでいる。

 「国立ガン研究センター(今回の原発事故では、「原発で作業を行っている人以外は、ほとんど問題ない」と)に問われるのは、国民の警戒心を取り除くことではなく、全力をあげて医療体制を充実させることでは」。

 「高い規制値が設定されれば、それ以下の汚染食品が流通することを避けることはできない。原発を容認してきた国の国民として、この被曝を甘受する以外にない。しかしそれは大人の責任であって、子どもたちや、これから生まれてくる命までを、道連れにするわけにはいかない」

 山形県の被曝量は東京と同程度で、福島などと比べれば低い地域。しかし、ここから下は安全だという線引きはできない。農業に対する影響は、現在規制されている地域以外でも深刻。
 「風評被害に負けるな!」と言って、それをみんなで食べる運動をしようという向きもあるが、「それが農家を支援することになるかというと、非常に難しいと言わざるを得ないのが悔しい。」
 「じゃあどうすればいいんだ、と言われても、現時点では分からない、としかいいようがない。分からないから原発を止めろ」というわけなのだ。

[3]小出裕章・京都大学原子炉実験所助教「原発のウソ」(扶桑社新書)によれば、次の如し。
 「被曝」とは、私たちの体を作っている分子結合の何万倍、何十万倍ものエネルギーの塊が体内に飛び込んできて、遺伝情報を傷つけること。どんなわずかな被曝でも、放射線がDNAを含めた分子結合を切断・破壊するという現象が起こる。ちょっとDNAに傷ついた程度でも、その傷が細胞分裂で増やされていくわけだから、「人体に全く影響ない」なんてありえない。
 米国科学アカデミーの放射線の影響を調べる研究委員会―「被曝のリスクは低線量にいたるまで直線的に存在し続け、しきい値はない
 保健物理学の父と呼ばれ、ICRP委員も務めたK・Z・モーガン氏いわく。「当初、あるしきい値以上の被曝を受けなければ、人体の修復機構が細胞の損傷を修復すると考えていた。しかしその考え方が誤りであった」と。「低線量での被曝は、高線量での被曝に比べて単位線量あたりの危険度がむしろ高くなる」とも。広島・長崎の被爆者デ-タがそのような傾向をはっきり示している。
 被曝の損傷を乗り越えて生き残った細胞集団に「遺伝子不安定性」が誘導され、長期間にわたって、様々な遺伝的な変化が高い頻度で生じ続ける―遺伝子(ゲノム)不安定性。最近になって「低線量での被曝では細胞の修復効果自体が働かない」というデータすら出はじめている。

 年間20mSvとは、原発作業員が白血病を発症した場合に労災認定を受けられるレベル。
 被曝はあらゆる意味で危険であり、除染しないよりはした方が絶対いい。「過剰反応」と言われようと、子どもたちのためにより安全な環境を求めて対策を行っていくことが必要
 福島第一原発周辺は、将来にわたって無人地帯とせざるをえない状況。周辺住民は元に戻れない。むしろすぐに戻れるような期待を抱かせる方が残酷。無人地帯に汚染されたゴミを捨てる「放射能の墓場」を造るしかない、と。
 汚染された農地は再生できない―セシウム137は半減期が30年―この間放置―表土をはぎ取って捨てるにも、あまりに大量すぎて捨て場を確保することは困難。そもそも表土こそが豊かで必要不可欠なもの―結局は「何をやっても無理」。
 今、住民一人ひとりが「選択」を迫られている―放射能を受けながらそこで生活するか、あるいは子どもだけを逃すのか、一家でみんな逃げるか。どれも非常に苦しい。その重荷を社会全体で共有し、支えていくべきもの。

 政府は「暫定基準値」を設けてそれを超えた食品を出荷停止にし、超えなければ「安全」とみなしているが、「レベルが低いから安全」なんてことは絶対ない
 「汚染されている事実」をごまかさずに明らかに(汚染度を表示)させたうえで、野菜でも魚でもちゃんと流通させ、「放射線に鈍感になっている大人や高齢者が食べよう」。ただし、「子どもと妊婦にはできるだけ安全と分かっているものを食べさせよう。」

[4]肥田舜太郎 日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長など歴任 世界9月号にインタビュー掲載(「放射能との共存時代を前向きに生きる」)、それによれば次の如し。
 後から出てくる症状―「ぶらぶら病」―ある日から突然、身体がだるくなって動けなくなる。
 内部被曝のメカニズム―細胞の中でたくさんの分子が互いに化学反応を起こして、新陳代謝を行って命を作っている。それぞれの元素が特有のエネルギーを持っているが、全部、100電子ボルト以下。そこに放射性分子が入ってくると、170万電子ボルトもあって、その場をめちゃくちゃにしてしまう。一つ一つの細胞が一人前の働きをしなくなり、生命活動がだんだん衰えていく。
 カナダ原子力公社の研究所のアブラム・ペトカウ博士―低線量の内部被曝によって細胞膜が破られ、中が傷つけられるメカニズムを解明―放射時間を延ばすほど、細胞膜の破壊に必要な放射線量が少なくて済むことが確かめられた。
 放射能汚染時代をいかなる心持で生き抜くのか―「世界中のどんな偉い先生でもこうしなさいとは言えません。治すためにどうすればいいかは分からないのです。」そういう被害をもう受けてしまったのなら、腹を決めて開き直る―下手をすると恐ろしい結果が何十年かして出るかもしれない、それを自分に言い聞かせて覚悟するということ。その上で、個人の持っている免疫力を高め、放射線の害に立ち向かう免疫力を傷つけたり、衰えさせたりするような生活は決してせずに、多少でも免疫力を上げることに効果があることは、自分に合うことを一生続ける。要するに放射線被曝後の病気の発病を防ぐのだ。例えば食事では、30回以上噛んで食べるとか、食後2~30分間静かにしているとか、家族で楽しくなる話題で食べるなど。放射能汚染されていない食べ物を得ることばかり気にしても、汚染された食べ物は出回っていて、残念ながら確実に被曝を防ぐ方法はないのだ。それよりも原発をやめて放射能の元を断つほうが早い。
 アメリカ―核施設から100マイル(160キロ)以内の郡に癌の発生率が増えている。
 通常の原発の運転でも、許容量と称して放射性物質が出ているのだ。
 日本はほとんどの地域が原発から160キロ以内だから、自分のやれることだけやって自分と家族だけ助かろうとしてもダメ。
 放射能から逃れるには、原発をやめて放射能の出る元を断つしかない


 [1][2][3][4]のどちらの説が正しいのか、よくわからない。原発の過酷事故など今後また起きるようなことがはたしてあるのか、放射能に汚染された産物は、本当に食べられないのか食べられるのか、(「ただちに健康に害を及ぼすものではない」と言うが、それは「いつかは害が表れるようになる」ということなのか)よく分からない。とりわけ低量被曝は「どんな健康障害を引き起こすのか世界的にも歴史的にも全く解明されておらず、安全か安全でないか分からない」のだ。「山形大学医学部放射線腫瘍学講座教授の根本建二氏は「未だよくわかっていないことをわかってもらいたい」と言っていた(6月29日、山形県置賜総合支庁主催の講演会で)。その「分からない」ということに着目しなければならない。
 「分かっていない」からには、絶体絶命というわけではないし、絶望的になる必要はない、ということにもなるが、「絶対、大丈夫だ」と安心しきれないということにもなる。
  神経質にならずに、平気でいなさいと幾ら言われても、またどんなに鈍感力を鍛えたところで、次々想定外のことが出てきて不安の種は尽きることがない。その不安を無くするにはどうすればよいか。
 それには、むしろ最悪の事態(原発の過酷事故と被曝の結果生じる最悪の事態)を想定してかかって、そのような事態に立ち至ることのないように次のような手を打つことだ。
 ①写真家・作家の藤原新也氏は「大量飛散した放射性物質が、今後人間にどんな影響を与えるか、結局専門家にもよく分からない。分からないならば『健康被害は起こりうる』という前提での危機管理が原則だ」と述べている(9月13日付け、朝日、オピニオン欄)。
 福島原発事故では、そこから「死の灰」(放射性物質)が飛散し、各地の土壌・草木・河川・海を汚染し、農水産物にしみ込んだ。こうなってしまったら、それらを高齢者や大人には甘受(我慢)させるのもやむをえないとしても、子どもや妊婦だけには、汚染度(放射線量)はたとえわずかであっても食べさせるわけにはいかないし、空気・水を吸引させ土・草木に触れさせるわけにはいかない。
 そこで、事故発生時点から今後にわたって、被曝と汚染の継続的実態把握―線量測定(モニタリング)、健康調査、健診の実施・継続。
 原発周辺地域住民の避難・疎開いつまでか継続。
 放射能汚染の除染の実施―放射性廃棄物の「仮置き場」「中間貯蔵施設」「最終処分場」をどこかに(探さなければならず)。
 正確な情報―パニック・風評被害の防止
②福島第一原発以外の全ての原発についても、技術上・管理上どんなに安全対策を講じたところで限界があるし、原発そのものをやめてしまう手を打つこと(停止・廃炉・撤去)それ以外にないだろう。
 「原発さえなければ」、それこそ絶対安心でいられるのだから。
 原発をやめれば、これ以上①のことで苦労する必要はなくなることになる。
 尚、9月11日、菅前首相、NHKのインタビューで、原発事故直後に政府として最悪の事態を想定したシュミレーションを行っていたことを明らかにしたうえで、次のように述べている。
 「最悪のシュミレーションまでいけば、首都圏を含めて何千万という単位で人が住めなくなる状況が出てくる。日本という国が、少なくとも今のような形では、事実上成り立たなくなる。そういう大きな危険性を避けるためにはどうしたらいいか、と考えた末の私の結論が、原発依存そのものから脱却していくことだった」と。

 原発事故・放射能の不安を抱えながら、電力を使いたい放題で暮らすのと、節電・省エネの制約はあっても、将来、子々孫々にわたって「死の灰に脅える」ことなく暮らせるのと、どっちがいいかだろう


 

9月のつぶやき

●「そこのあんた、そのままでいいと思ってんの?そんな遠くから見てばかりじゃなにも変わりはしないよ」―29日朝日新聞オピニオン欄に作家・明治学院大教授の高橋源一郎氏が書いている文中の言葉。
 デモを毛嫌いする人といえば権力者と体制に安住する者たちだが、「デモなんかしても、署名なんかしても、どうせ何も変わりはしないよ」と虚無的になっている人も多い。そうだ、そんなのやっても何も変わりはしないだろう。しかし、もしかして変わるかもしれない。ただ黙って何もしないでいれば(為政者は、国民の間には格別異議もなく要求もなく、みんなOKしてるんだなという意識になってしまい)絶対変わらないことは確かだが、やれば(アクションすれば)何か変わるかもしれない、ということも確かだろう。
●パソコンの故障(電気が入らず起動できない)で一週間余中断してしまった。業者(卒業生)に頼んで復旧。これまで打ち込んできたこのHPがすべてパーになってしまうのか、と心配されたが、大丈夫だった。ホっとした。
●19日、東京で行われた「さようなら原発」集会・デモに行ってきた。福島から米沢に避難してきている方たちの団体バスに(「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」からの誘いがあって)便乗。60年安保の時の集会・デモを彷彿させるような大集会・デモだった(主催者側発表6万人、警視庁では3万人と)が、違うのは子どもたち(幼児・小学生まで)が一緒だということ。それを都知事は「センチメンタリズム」といい、せがれの自民党幹事長は「集団ヒステリーだ」と言うわけだ。テヤンデー・ベラボーメ!(と、口で言ったらズーズー弁になってしまうが、活字なら打てる。)
●店に福島産の野菜・果物を置いているか、米沢中のデパート(2店)とスーパー(10店)を調べて回った(女房からは「不審者と思われるからやめて」といわれ、婿殿からは「暇でいいもんだ」といわれた)ところ、ヨークベニマル(2店)とイオン(1店)だけにしか福島産は置かれていなかった。この3店では、「福島産」と表示されたところに、福島県知事の署名入りの札が添えられ、それに「出荷前に放射能の緊急時モニタリング検査を定期的に継続実施しており、暫定基準値を下回っていることを確認しました」と書かれていた。店内に「がんばろう東北」のポスターが貼られたスーパーがあったが、そこでは福島産だけが置かれていなかった。はーてさて・・・・。
●鉢呂前経産相がしゃべったのはどんなことかといえば、それは「残念ながら、周辺町村の市街地は人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話しした。」というものだった。これらの言葉のなかで「死のまち」と言ったと、それだけが取り出されて「なんということを」と非難されている。
 原発周辺の住民自身が、自らの住んでいる町を「ゴーストタウンになってしまった」と言っている。(テレビで目撃した)。
 9月13日の朝日のオピニオン欄では、写真家・作家の藤原新也氏は「『死のまちのようだ』と話したことの、どこがおかしいのか。ありのままだ。」「『放射能をつけちゃうぞ』という記者との瑣末なやり取りを、重箱の隅をつつくように記事にする神経も尋常ではない」と述べている。
 9月15日の朝日「社説余滴」では同紙オピニオン編集長兼論説主幹代理の大野博人氏も、「何ともグロテスクな辞任騒ぎ」として次のように書いている。「メディアが問題にし、政治家が反応し、それをまたメディアが取り上げ、そのたびに騒動が肥大化、深刻化し、肝心の問題(「事故原発の周辺地域にはもうずっと住めなくなるのか、住めるようになるとしてもいつからなのか」という問題)は置き去りになる。そして閣僚の首が飛んで終わる。」と。
 いや、野党はそれだけでは気が済まず、「首相の任命責任」までどうのこうのと云いたてている。
 実は、鉢呂前経産相は「原発ゼロ」に言及(5日、産経新聞のインタビューで、「基本的には原発はゼロになる」と。民主党は原発への依存度を下げていく方針は打ち出していたが、原発ゼロを明言したのは初めて)していたというではないか。やはり罠にはめられたのか。脱原発依存を口にした菅前首相が猛烈な「菅おろし」の攻撃にさらされて辞任に追い込まれたのと同様に。
 朝日は、17日も、鉢呂発言に関連して色々な論評を載せていた。
 「オピニオン・耕論」欄では、福島市在住の高校教師詩人の和合氏、曰く、「現実に起きていることをありのままに伝えるのは、地元の人も望んでいるのです。鉢呂さんは・・・もしかしたら、ありのままを伝えようとしたのかもしれません。言葉は独り歩きしがちです。メディアは政治家をつるしあげることよりは、むしろ真意を問うためのディスカッションの場を持つべきではありませんか。」
 「記者有論」では、福島総局の小寺記者、曰く、「言葉を巡る今回の騒動が原因で、福島を語ること自体がタブーにならないか、と私は心配している。」
 そして、「声」欄では、自宅が警戒区域内にある方の投稿、曰く、「私も鉢呂氏の認識は正しいと思う。私はむしろ、政府に「死のまち」と宣言していただき・・・・地域の家屋敷を借り上げるなどして補償してもらった方が、新しい住宅を求めるにしろ借りるにしろ、将来の生活設計を立てやすい・・・。野党には閣僚の言葉尻をとらえたり、首相の任命責任を追及したりしている場合ではない、といいたい。」と。
●朝日は9月13日社説に鉢呂経産相が福島視察後の会見で行った「死のまち」発言について「原発事故の被害者への配慮を欠いていた」とし、帰宅した宿舎の玄関先で、追っかけ取材の記者に囲まれて行った「放射能をつけちゃうぞ」なる発言としぐさも、「あまりに緊張感を欠いており、辞任はやむを得ない」と書いている。
 後者の放射能発言については、同日の朝日に検証記事を載せているが、それには、現場で自社の記者が見たのか、他社報道からの引用なのかはっきりぜず、事実関係も各社の報道がまちまちではっきりしていない様子がうかがえる(そのことを指摘した逢坂巌・立教大助教のコメントが付いている)。
 同日の朝日は、「声」欄に「鉢呂氏の発言、非難は的外れ」と題して、次のような投稿を載せている。
 「果たして辞任に値するような発言だったろうか。特に『残念ながら市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形だった』という発言は、深刻な事実を率直に表現しただけではないか。言葉の裏にも避難住民を侮辱する気配はみじんも無い。ではチェルノブイリ周辺を『死の町』と報じたメディアはなかったのか。・・・・・私も東日本大震災の被災者だ。・・・・悲惨な町の状況を見て、まさに『死の町』だと感じた。
 私が今回の鉢呂氏の発言を聞き、改めてこみ上げてきたのは安全をなおざりにして原発を推進してきた者たちへの怒りだ。政治家や官僚、電力会社、学者たち。避難さるべきは事実を語った鉢呂氏ではなく、『死の町』を生み出したこれらの者たちのはずだ。その責任追及こそ、メディアの仕事ではないのか。政治家の悪意の無い素直な表現にまで目くじらを立てていたら、だれも真実を語れなくなり、現実に即した政治などできなくなる。横並びで揚げ足とりばかりする昨今のメディアの報道姿勢には強い不信を感じる。」―当方はこの方に同感!
●台風12号、死者・行方不明100名以上、またまた自衛隊の出動・活躍―自衛隊は兵器なんか持って戦争の備えなど、やってる場合ではないな。我が国にとって最大の敵は、どうやら地震・津波・台風・・・・。
 我が国では、北朝鮮や中国・ロシアなどに対して火種(拉致問題や島の領有権問題など)を抱えて「脅威だ、脅威だ」と言って煽る向きがあるが、どの国も理由もなく不意に襲ってくるようなことは決してない。しかし、地震・津波・台風の襲来は必ずあるのだ。自衛隊の人員も予算も、この方に当てなければならず、兵器などに「無いカネ」をかけている場合ではあるまい。「トモダチ作戦」はアメリカとだけやって、日米同盟の軍事作戦に生かすという、そのような思惑ではなく、どの国とも「平和・友好のため」の「トモダチ作戦」を心がけ、世界のどの国へも災害救助に駆けつける・・・そうだ、「サンダーバード作戦」であればいいんだ。
●被災地めぐり―今度は釜石と大槌町へ行ってきた。そして海に向かって追悼してきた。
 釜石では1,180人、大槌町では、1,450人もの方々が、亡くなったか、行方不明になっているのだ。
 この人たちは何故に?それは、ただ、あの時そこに居たからであり、そこに住まいがあり、働き場があったから、というだけのこと。何の罪もなく、何の自己責任もなく、いきなり地震・津波に襲われて命を奪われ、命は助かっても住まいを奪われ、生業の手段を奪われたのだ。
 この人たちを国中の皆で、義援金や物資を出し合って助け合うのは当然のこと。
 それにしても、その気になって現地に駆けつけ、ボランティアに励んでいる人は大したものだ。
 大槌町では毎日正午、防災無線で「ひょっこりひょうたん島」の歌を流し続けている。「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない 泣くのはいやだ笑っちゃおう 進めー!」
 (朝日新聞「東日本大震災と井上ひさしさん」にその事が出ていた。)なるほど、そうなんだ・・・・・
 大槌町ではようやく選挙が行われ新町長が決まった。本県からは、川西町から職員が派遣され助っ人に行っているとのこと。
 新首相も決まったが、彼らにも頑張ってもらわなければ。菅前首相は、どんなにか大変だったろう。御苦労さん!

2011年10月01日

「さようなら原発」集会・デモ

集会―9月19日、東京・明治公園に6万人(警視庁では3万人と)。
各氏のスピーチ要旨
 (写真はいずれも自前)
1、鎌田慧氏(呼びかけ人、ルポライター、かねて「原発ほどカネで人間を支配する汚い事業はない」と語っている):
 CIMG1930.JPG
 「野田首相の国連での原発再開表明は市民に敵対するものだ。原発社会から脱却する脱原発運動は文化革命で、意識を変えていく運動でもある。人類は核と共存することは絶対できません。1000万人署名、来年3月24日に日比谷野外音楽堂で署名を集会を開きます。それまで皆さん、がんばってください」
2、大江健三郎氏(呼びかけ人、ノーベル文学賞作家):
 CIMG1932.JPG
 「自民党幹事長は『反原発と叫ぶのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったときに、(イタリアのように)国民投票で不安な原発再開をやめましょうという簡単な問題ではない』と言ったが、原発事故が簡単な問題のはずはない。はっきりしていることは、イタリアでは、もうけっして人間の生命が原発によって脅かされることはない。しかし私たちの日本では、いつまた原発事故が起こるかもしれない不安がつきまとい続ける。私たちがそれに対抗するという想像力を持たない政党の幹部や経団連の実力者に思い知らせる必要がある。そのためには私らには、この民主主義の集会、市民のデモしかありません。」
3、内橋克人(呼びかけ人、経済評論家):
 CIMG1933.JPG
 「技術が進めば安全な原発は可能だという新たな安全神話の再訂版が作られつつある。地下原発など、なおかつ原発を持ち続けようとし、その計画が進んでいる。その意図の裏には、核武装も可能な潜在力を持ち続けようとする政治的意図がある。原発のエネルギーではなく、命のエネルギーが輝く、そういう国にしようではありませんか。さようなら原発!こんにちは、命輝く国!その第一歩を皆さんと共に歩き続けたいと思います。」
4、落合恵子氏(呼びかけ人、作家):
 CIMG1934.JPG
 「イマジン、想像して下さい。『子どもはどの国・どの社会に生まれるか選ぶことはできない。そして生まれてきた国に原発があって、その暴走があったのが今の私たちの社会』。想像してください。福島のその声と子どもたちの今を。そしてこの国の大勢の子どもたちの今を想像して下さい。放射性廃棄物の処理能力も持たない人間が原発を持つ、その罪深さを叫んでいきましょう。容易に核兵器に変わり得るものを持つことは、恒久平和を約束した憲法を持つ国に生きている私たちはけっして許容してはならないはずです。想像して下さい。小さな子どもが夜中に突然起きて、『放射能こないで』と泣き叫ぶような社会を、これ以上続けさせてはいけないはず。」
5、澤地久枝氏(呼びかけ人、作家):
 「広島・長崎は原爆の実験場にされた。その日本に原発が54基も。日本は原発を持ってはいけない国だったはず。人類はその暴走を止めたり、コントロールするノウハウを未だ持ってはいない。原発をなくしたら電力が乏しくなり、日本経済や雇用は成り立たない、二流・三流の国になると、威嚇まじりに語られる。しかし、そのような萎縮しがちな世相は原発事故以前から慢性症状としてあったのではないか。
 命を産み育む女性たちの役割を果たすべき時は今です。命を守る闘いには老若男女みんな一緒に力を合わせましょう。」
6、フーベルト・ヴァイガー氏(ドイツの環境団体代表):
 CIMG1936.JPG
 「ドイツでは、福島の事故の後、デモが起こり、政府は8基の原発を停止し、その他も2022年まで停止することを決めました。最大の産業国の一つで脱原発が実現するのです。脱原発はもはや、できるかできないかの話ではなく、政治的にやるかやらないかの話しなのです。再生可能エネルギーの拡大によって、それは可能なのです。半年前にこの国で起こったことは、日本でもどこでも二度と繰り返してはなりません。核兵器のない、原子力発電のない未来を、ともに実現いたしましょう。」
7、山本太郎(俳優、所属事務所を辞めた):
 CIMG1937.JPG
 「生きたい、生きていないとどうしようもないじゃないですか。自分一人ではどうしようもない。世界中のみんなと生きていないと意味がない。いま生きのびるためには原発をいっせい撤去するしかない。目の前の利益を守りたい者たちにとって、その発言は目ざわりだろう。でも僕たちは違う。命で語っていますから。メディアにとって命よりお金のほうが大事なんです。もう替わりのエネルギーはあるのです。電力は足りているのです。いま大人のすべきことは、子どもを守ること。そのためには行動を起こすことです。原発反対!子どもを守れ!命を守れ!地球を守れ!」
8、武藤類子(ハイロアクション福島原発):
 CIMG1940.JPG
 「山は青く、水は清らかな私たちの古里。3.11原発事故を境に、この空中に、目には見えない放射能が降り注ぎ、私たちは被曝者となりました。安全キャンペーンと不安の狭間で引き裂かれていく人と人のつながり。地域で、職場で、学校で、家庭のなかで、どれだけの人が悩み悲しんだことでしょう。毎日毎日、いやおうなしに迫られる決断。『逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクさせる、させない。洗濯ものを外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。何かに物申す、黙る』。様々な苦渋の選択がありました。そして今、半年という月日のなかで次第に鮮明になってきたことは、『事実は隠されるのだ。国は国民を守らないのだ。事故は未だに終わらないのだ。福島県民は核の実験材料にされるのだ。莫大な放射能のゴミは残るのだ。大きな犠牲のうえに、なお原発を推進しようとする勢力があるのだ』ということ。私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です。私たち福島県は故郷を離れる者も、とどまる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支え合って生きていこうと思います。私たちを助けて下さい。どうか福島を忘れないで下さい。生きることは、誰かが決めたことに従うことではなく、一人一人の、本当に、本気で、自分の頭で考え、確かに目を開き、自分で出来ることを決断し行動することだと思うのです。一人一人に、その力があることを思い出しましょう。私たちは誰でも代わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。」

 メディア―この集会・デモの取り上げ方(世界11月号の「メディア時評」参考)
       大きく取り上げているのは東京新聞ついで毎日新聞・朝日新聞
       写真なしで小さく扱っているのは読売・日経・産経
       後者の3紙は社自体が原発推進派。この3紙を取っている人は脱原発運動など大したことないと思っているだろう。
 日本のマスコミはけっして公正・中立ではないのであり、世論はこのようなマスコミによってリードされているのだ。

10月のつぶやき―「自己満足」論

●目の前で子供が溺れているというとき、とっさに駆け寄って、自らの命もかえりみずに助ようとする、といった場合でも、それは本能的な愛他的欲求から発し、その欲求を満足させようとする行為なのであって、これまた「自己満足のための行為」であることには変わりない。
 「だから、人間のやることはすべて自己満足のため」などという言い方をすると、なんかシニカル(冷笑的)に聞こえるだろうが、当方がそれを言うのは、自己満足とは自分が生きていることに満足することであり、それが各人にとって生きがいになるのであり、何かしたいという色んな欲求(生理的欲求、精神的欲求、社会的欲求など)があって、それを満たそうとして、あれこれやって自己満足を得る、その欲求があればこそ、それが生きる活力となるのだ、と思うからだ。
 ただし、まるっきり自分一人だけの自己満足で終わる自己満足と、他者から共感が得られ、或は有難がられる自己満足とでは、満足の度合いが違い(思いどおりにいかない場合は空しさをおぼえるが、その空しさの度合いも違い)、他者の共感が得られる場合の方が、満足度が高く(空しさは少なく)、客観的な価値も高い(報酬・代金・謝礼などカネにもなる)。
●姜尚中・東大教授は「人間は本来、利他的で、共感性の高い存在」と言っている。しかしそれは、人びとは互いに、世のため人のため―家族のため、子のため、愛する人のためとか、会社のため、お客様のためとか、仲間のため、みんなのため、社会のためとか、被災者のためにとか―利他的に事を為し共感を得るということ。つまり、そうやって共に自己満足を得る、ということにほかならない。要するに人間のやることは、すべて自己満足のためなのだ。
 ボランティアをするとき、「してあげます」(あなたのために)という言い方をすると違和感を持たれる。「させていただきます」(自分のために)と言えばよいのだ・・・・じゃないかな。
●女房から「あなたのやってることは皆・自己満足だ。ブログだとか、被災地さ行って手合わせてきたとか。そんな金あったら、義援金送った方がましだべ」と言われた。「人間のやってることは皆、自己満足なんだ。おまえがやってる畑でも子守りでも、人が仕事と称してやっていることも、日野原医師がやってることだっても、煎じ詰めれば自己満足」と言うと、「あんたがやってるのは、意味の無い自己満足だ」と言いやがる。この~!
 人のやることは、すべて「自己満足のため」というのは間違ってはいない。
 親が子を叱り付け折かんする、それは「子の躾のためだ」というが、実は「自分のため」にほかならないのだ。小池龍之介氏(21日付け朝日「『あなたのため』の裏に支配欲」)によれば、「『子どもを成長させてあげたい』という利他的な思いの背後に利己的な煩悩が隠れている。『我が子に言うことを聞かせ支配したい』という欲があって、子が親の言う通りにしないと自分がイライラするのだ(敏感な子どもは、それを見抜き、「お前のためだ」と言うその言葉の偽善に反感を持つ)」という。要するに、それは「子のため」なんだという思い込み―親の自己満足にほかならないのだということ。
 ただ、「自己満足」というものには二通りあり、世のため人のためになって感謝され人々から評価されてより深い満足感が得られる自己満足と、誰からも感謝されず評価もされないまるっきりの自己満足とがあることも確かだし、前者の自己満足のほうが、より価値が高い、とも言えるだろう。
 しかし、感謝されようがされまいが、評価してもらおうがもらうまいが、そんなことはどうでもよくて、とにかく溺れる子を助けずにいられなくて、自分の命をかえりみずに跳び込む「無償の愛」の欲求にかきたてられての行為、それも自己満足の行為なのだ。
 要するに、人間の全ての行為は自己満足のための行為なんだな。
●「雨にもまけず、風にも負けず」・・・か。先月岩手に行ってきた時に孫たちへの土産のつもりで買ってきた木製品に、その句が書かれている。それを居間に飾って毎日目にしている。
 「日の出」の絵を(「赤い太陽」と「白い太陽」の2点)自分で描いて居間に飾って、これまた毎日目にしている。「心に太陽を」・・・か。
●パソコンが故障(コードを差し込んでも、電気が入らなくなって起動できない)、データ消失の恐れがあり焦ったが、パソコン業者をしている卒業生からうまく直してもらった。買って7年以上になる。寿命が過ぎて替え時なんだな、と彼に言うと、「買い替えるとなると、新機種は今までの物とがらりとやり方が変わっていて、覚え直しが必要になりますよ」と言う。まあ、最後の一台となるだろうが、来年中に買い替えることにしようか。
 ところが、昨日の新聞投稿に「年配向けのパソコンがほしい」というのがあった。「7年使って急におかしくなって画面が映らなくなったので、電器屋に診てもらったら、もう寿命だから買い替えるようにいわれたが、欲しいのはシンプルで長持ちのする、せめて10年ぐらい使用できる機種はないものだろうか」、という。当方と同じ思いをしている。但し、この投稿者は82歳・女性、当方より一回りも高齢者だ。
●寒くなって衣替え。箪笥に入れ替えをやった。夏物・冬物どちらも満杯で、着たてならない、といった状態。家の者に、「これからは、衣類は買ってくれなくなくてもいいからな!」と言った。(つぶやき―どうせ、そんなに長く生きているわけではないのだから。父の日とか誕生日とかプレゼントなら、図書券か旅行券にしてくれ。)


2011年10月09日

命(随時加筆)

(1)もらった命
NHK番組「日野原重明100歳―いのちのメッセージ」を見て。
 教訓―(天から)「与えられた命」(もらった命)、時間に限りのある命なのだ、ということ。与えられた時間(年月)内に、その命をどう使えばよいのか、を念頭に入れて日々生きること。
 与えられた命(もらった命)ならば感謝(恩返し)があって然るべきだということ。
   それをどう使うか―自分自身の利己的な欲望を充たすために。
            それとも、人のため、社会のために―ミッション(使命・任務)―人を助け、人(家族・愛する人)を幸せにするため(目的)―その手段となるべきところの、ある仕事・ある事業・ある勉強の目標にひたすら取り組む―そこに生きがいを感じる(命が輝く)
  成果が見えれば(結果が得られれば)達成感・満足感が得られる。
  成果が見えなければ(結果が得られなければ―今こうしてホームページを開いて発信しても、誰も見てくれないとか)自己満足にすぎない空しさを感じるが、一生懸命取り組んでいるそのプロセス(過程)で生きがいが得られる。(他人に感謝されて満足感が得られようと、感謝されることのない「自己満足」であろうと、自己満足であることにはかわりないのだ。)
 <要するに>命、輝くとき―心の充実感すなわち自己満足が得られたとき。
  人間のやることはすべて自分の自己満足のため―一見、「私心なき利他行」とか「無償ボランティア」とか「自己犠牲」といっても、それをやるのは、それに一生懸命取り組むことによって心の充実感が得られ、ひいては人から評価され感謝されて満足感が得られるから、即ち自己満足が得られるからにほかならない。
  ただし、まったくの趣味・道楽か、「自分は世のため、人のため」のつもりでも結果は得られず誰も感謝してくれず評価もしてくれない、といった場合の自己満足と、人から感謝され評価してもらえる場合の自己満足とでは、客観的な価値と満足の度合いが違い、後者(人から評価あるいは感謝してもらえる)場合のほうが、価値が高く、より満足感が得られる。
 
 長野県飯田市の一会社員(56歳・男性)が円周率(3.14・・・・)の小数点以下10兆桁まで出して(自宅の自作パソコンで計算)ギネス世界記録を獲得した。「これは何に役立つのですか」と訊かれ、「別に役には立たないでしょう。ロマンですよ」と答えていた。要するに「道楽」で、前者のほうの自己満足の部類だろう。
 
 いずれにしても、こうして、与えられた命と時間を使って精一杯生きる―一生懸命生きる(「命を懸ける」・「命を輝かせる」)
 (震災で家や家族や愛する人を失ったとか、仕事を失ったとか、耐え難いいじめにあっているとか)たとえどんなに辛いことがあっても(絶望感にうちひしがれても)、けっして自分の命を断ってしまう(自殺にはしる)ようなことがあってはならない、ということ。
 
 もう一人今年100歳になった人に、詩人・柴田トヨさんがいる。この方が、この度の震災にさいして詠んだ詩は次のようなものだ。
       「最愛の人を失い
       大切なものを流され
       あなたの悲しみは計りしれません
       でも 生きていれば
       きっと いい事はあります
       お願いです
       あなたの心だけは流されないで
       不幸の津波には負けないで―被災地のあなたに」
   この方の詩は、かねてより詩集を買って読んでいたが、それには
       「くじけないで
       ねぇ 不幸だなんて溜息をつかないで
       陽射しやそよ風はえこひいきしない
       夢は平等に見られるのよ
       私 辛いことがあったけれど
       生きていてよかった
       あなたもくじけずに」  

これをHPに打ち込んだ翌日(10月10日)、NHKで三つのドキュメンタリー番組があった。
   柴田トヨさんの被災者を励ましている詩のことを取り上げたもの(「不幸の津波に負けないで」)。
   人気アイドル・グループSMAPの、デビューから20年の秘話、被災地小学校訪問、北京公演の舞台裏などを取り上げたもの(「プロフェッショナルSMAPスペシャル!」)―表舞台とは裏腹の厳しくも、ひたむきな姿。
   世界的指揮者・小澤征爾76歳の闘病と復活(「執念」)―いわく「命につながっていますね、音楽というには」(昨年、食道がん手術、公演再開するも、この夏の終わりに再び入退院、目下来年の公演を目指して意欲満々)。
  それに、その翌朝のNHKニュース番組(「おはよう日本」)の中で、88歳の老婦人で、100M走・200M走とも、その年齢での世界記録をとった(小学校1年生の男子と競走して「いい勝負」)という話題
を取り上げていた。
 いずれも、与えられた時間を命懸けで生き、命を輝かせているのだ。

 しかし、「与えられた命」「与えられた時間」といっても、中には、あまりの苦痛・辛苦に耐え難く、「もうたくさんだ!」、「もういい!」「生きるのやめた!」「死なせて!」という人がいることも現実。そのような人に対しては、なんとかして、その苦痛を和らげ、取り去る医療措置を講じることができるような医療の改善・向上と、窮状から救う救援措置を講じることができるような福祉の改善・向上をはかる社会の側の努力が必要。

(2)命―すべての人にとってそれは目的なのであって手段ではない
    優劣なし、優先順位なし。自分の命と自分以外のあらゆる人々の命は同等。
    自分の命を守るために、他人の命を奪う(殺す)ことはできない―「正当防衛」はいいとしても、過剰防衛になってはいけない―「自分の命をまもるためには、相手を殺すしかない」ということにはならない(モラルとして「人を殺すくらいなら自分が死ぬ」というのが正当―「軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか?そのときは死ぬ。」かつては天皇陛下のために戦って死ぬことが正当とされたが、「よくわからない目的のために死ぬよりは、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。」―日本ペンクラブ会長・阿刀田高氏)。

          

2011年11月02日

TPP問題―容認論・反対論

[日本の産業・貿易の現状]
 日本の貿易依存度(GDPに対する輸出額・輸入額の割合)は意外に低い。そのかわり企業の海外移転が進んでいる。
  (08年)輸出依存度は16.1%、 輸入依存度15.6%
       それぞれ韓国 45.4、 46.8
           ドイツ39.9、 32.7
          フランス21.1、 24.6
             中国33.0、 20.2
           アメリカ9.1、 15.2
対中国貿易のほうが、対アメリカ貿易よりも貿易額が多い。
 対中国輸出は(09年)日本の輸出全体の18.9%だが、対アメリカ輸出は16.1%、
 シンガポール・ブルネイ・ベトナム・マレーシアなどとは、6ヵ国あわせても6.6%にすぎず。

世界の国々は輸入品に関税をかけることで国内産業を保護している。一方、2国間あるいは多国間で関税や非関税障壁を取り払い、国内産業保護の垣根を取り払う「貿易自由化」・経済連携もおこなっている。
 世界貿易機関(WTO)―150ヵ国加盟―自由貿易を推進する立場で、各国が自由にモノ・サービスなどの貿易ができるようにルール(各種の協定)を決めて関税を引き下げたり、非関税障壁を取り除いたりすることを協議し、貿易に関する国際紛争の処理をおこなう機関―多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)は先進国と新興国の対立で行き詰っている(中断・決裂が続いている)。
 2国間or複数国間でFTA(自由貿易協定―関税の撤廃・削減)・EPA(経済連携協定―関税のほか投資の自由化、経済協力など包括的な経済連携)。 
 アジア太平洋地域では①ASEAN(東南アジア10ヵ国)+3(日中韓)or6(日・中・韓・印・オーストラリア・ニュージーランド)・・・・「東アジア共同体」構想
  ②TPP(環太平洋パートナーシップ協定)―シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランド4ヵ国が原加盟国、これにアメリカ・オーストラリア・ペルー・ベトナム・マレーシアが加盟交渉参加。
FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)構想―APEC(アジア太平洋経済協力会議―ロシア・カナダ・メキシコなども加わる21ヵ国)が2020年までに域内の貿易や投資の自由化めざす。

<農業>
食糧自給率39%(カロリーベースで)
農業者―高齢化(平均年齢66歳)
    兼業農家が7割―多くは農業収入よりも兼業する製造業からの収入が多い。
耕地面積―1戸当たり2.2ha―アメリカの100 分の1、オーストラリアの1500分の1、 EU の2割弱
     オーストラリア3,000ha
        アメリカ200ha(稲作は136ha、大型機械・飛行機で)
        北海道20ha
         日本2.2ha その4割は中山間地(大規模化が困難)
    但し、日本では多くは水田だが、アメリカ・オーストラリアはそうではない。
コメの生産費は60k当り1万6,594円(規模別では1~2ha層が1万7,580円、2~3ha層が1万4,579円、10ha以上の層が1万2,496円、15ha以上の層が1万1,531円)、それに対して外国産輸入価格は3,000~4,000円
農業所得―20年前から半減
減反政策(米価維持・コメ余りに合わせて)―耕作放棄地(39万ha―埼玉県の面積に匹敵)が問題
戸別所得補償制度―「バラマキ」、「農地の集約を阻害し細切れ化うながす」などの批判あり。
各国の農産物の平均関税率―インド124.3%
             韓国62.2
             メキシコ42.9
              EU19.5
              日本11.7
             アメリカ5.5
日本への農産物の輸入関税―全品目の4分の1は既に無関税、3分の1は10%以下の低率、野菜などは3%
  コメは778%(輸入価格の7倍以上)、小麦は252%、バナナ50%、牛肉38.5%、緑茶20%、リンゴ20%
高関税で保護されているのは精米・牛乳・乳製品などに限られている。
「非関税障壁」―税関手続き・検査・商品の規格・安全基準・国家資格その他の規制。
       BSEなど病気感染予防(月齢20ヵ月以内の子牛は輸入禁止)
       有害な食品添加物、
       農薬の残留基準値(大豆のばあい、日本では312種類に基準値、ジカンバは0.05ppm以下、アメリカは114種類だけ、ジカンバは10ppm以下と多目)
       遺伝子組み換え表示(日本では表示義務があるが、アメリカは非表示)

[TPP]―関税・非関税障壁の撤廃、競争条件を同一にすることを原則に―関税は10年以内に全て撤廃することが前提
 シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランド4ヵ国が原加盟国、これにアメリカ・オーストラリア・ペルー・ベトナム・マレーシアが加盟交渉参加、合計9カ国
 農業・移民労働・医療・金融・保険・郵政・公共事業・法曹など24分野にわたって交渉。
 日本がTPPの加盟交渉に参加するには、これら9カ国の同意とりわけアメリカと事前協議して(その後、最低限90日間、米政府と議会の協議のうえ)米議会の承認が必要―米国の対日要求(60項目にのぼると言われる)を受け入れないと承認が得られないことになる)。
 日本がこれに加盟した場合、加盟各国のGDPの割合では日米だけで91%占める。
             アメリカ    67% 
             日本      24
             オーストラリア 4.5
             その他     4.5

<TPP参加容認論>(反)は反対論
●日本は貿易立国  ()韓国(輸出依存度45%以上)などと比べ貿易依存度はむしろ非常に低い(16%)。
●「第二の開国」・市場開放へ―「鎖国」的既得権益保護はやめ。()自動車は関税ゼロ(アメリカは2.5%)、電機もゼロ(アメリカは0.5%)、農産物も、コメなどは別として一般には既に関税率は低く、「鎖国」などというのは的外れ。
●TPPに入らなかったら、日本だけ浮いてしまう。
 グローバル時代、「守り」より「攻め」―競争力アップして世界に打って出、アジアの成長力を取り込む。
 ライバルの韓国に対してFTA戦略の出遅れを一気にとり戻す。
 「バスに乗り遅れるな」
)中国・韓国・インドネシア・タイなどはTPPには入っていないし、入っているアジア4ヵ国と日本はそれぞれFTA(自由貿易協定)かEPA(経済連携協定)を結んでいる。
  既存の枠組みとしてASEAN+3or6があるが、そこでは各国が互いに自主性を尊重し、やれるものから取り組み積んでいみ上げていく方式(ASEAN方式)をとっている。(中国はASEAN10ヵ国と既にFTAを結んでいる。)
 それに対してTPPは、事実上アメリカ主導(アメリカの基準・ルールが参加国に一律に適用、関税も規制もすべてアメリカ並みにされる)のブロックで、中国・韓国・インドなどは入っておらず、日本がこれに入ってアメリカとは一体化しても、アジアからはかえって浮いてしまう結果になる。アジアの成長力を取り込むどころか、アメリカのアジア戦略・輸出戦略に日本のほうが取り込まれるだけになる。
 日本に「バスに乗り遅れるな」と言って焦っているのは、それを運転するアメリカのほうで、(深刻な不況と金融危機を日本への輸出等の大幅アップで切り抜けようと図る)アメリカにとって日本は「TPPバス」の最上の「乗客」なのだ。
 「外交交渉では、利害を共有できる国々と組んでいくことが通常の外交戦略」「まずASEAN+3(いずれも日本と同様に1~2ha規模の水田中心で、小麦・とうもろこし等の穀物・畜産・砂糖などが競合していないので条件が似ている)とで結びつきを強め、環太平洋レベルでの自由貿易では、中国などが加わる段階で交渉に参加したほうが日本に有利」(金子勝・慶大教授)。TPP参加国はアメリカ以外は小さな資源輸出国ばかりで、日本と利害を共有する国はほとんどない。
 TPPは日本が加入すれば、実質的に日米FTAのようなもの。とはいっても、FTAはポジティブ・リスト方式(関税・規制を撤廃する方を例外としてリストアップして、それ以外はすべて関税・規制は維持)だが、TPPはネガティブ・リスト方式(関税・規制撤廃しない方を例外としてリストアップして、それ以外はすべて撤廃。例外品目の交渉余地が小さい)だから、両者は同じではない。
 TPPは、ネガティブ・リストに記載されていないものは自由化が基本なので、常にアメリカ側が正統性を持つ状況下で、永続的に米国政府および米国企業から要求が出され続けることになる。
 韓国はEUやアメリカなどとFTAは結んだが、TPPには加わろうとはしていない。
 
●関税・非関税障壁など現状のままでは、輸出競争に負け、工場は海外移転・産業空洞化に追い込まれる。()空洞化は、むしろ円高(4年前は1ドル120円台だったのが今は75円台になって、4割近く円高)のせい。
 むしろ日本企業がTPP参加の東南アジアや南米の国へ出てゆき、そこで安上がりの製品をつくり、アメリカや日本に輸出するようになってTPPが空洞化を促すことにも。
●関税撤廃で輸出が増える。()主な相手国アメリカの関税は既に低く(自動車は2.5%、電機は0.5%、電子製品は1.7%)、そのうえ円高で現地生産の方が多くなり(日本企業の6~8割の工場はアメリカにあり)、輸出がそんなに増えることはない。
 輸出依存よりも内需重視の経済運営への転換こそ求められる。
●関税撤廃で安い外国産の輸入が増え、国内産も安くなって沢山買えるようになる。()物価の下がれば、それにスライドして賃金や年金額の引き下げられ、(個人消費が縮小し、企業の設備投資も縮小して)デフレスパイラル(物価下落と景気後退の悪循環)がますます進む。
●「反対派が唱える『国民の生活を守る』という大義名分の陰には、関連業界の既得権益を守る狙いがないか」(10月16日朝日社説)。TPP参加反対は「農業をはじめもっぱら生産者・供給側の立場から」(12日朝日「声」投稿)。「高コストのものを狭い国土で生産する必要があるのか」(前に同じ)。消費者・生活者にとっては、負担が少なく、なにもかも安く買えるにこしたことはないのだ。
 「関税障壁で消費者が不当な負担を強いられているものはたくさんある。TPPはそのような理不尽な負担から消費者を守ることにつながる。」(前に同じ)
)消費者にとって、関税・障壁は生産者・供給側の利益や既得権益を守るためではなく、ほかならぬ消費者の生活を守るためにこそ必要な負担であり障壁なのだということ。
 消費者・生活者にとって是非とも必要で守らなければならないものは、世界の食糧危機と国際価格の急騰からの食糧の安定確保であり、安全性の確保、それに農林漁業による国土環境の保全である。
 関税も非関税障壁も、それらのために必要なコスト負担なのであり措置なのだということをよく認識したうえでTPPは判断すべきなのであって、消費者は、ただ単純に、負担が少なく安く買えさえすればいいというものではあるまい。
●経済効果
  経産省は、TPPに参加すればGDP8兆円増(参加しないと20年までに10.5兆円減になる)と試算。
  内閣府は2.4~3.2兆円増と。
  ()農水省は、参加すると逆に7.9兆円減、農業関連だけで4.1兆円減と(ただし、関税を全世界対象に全廃し、かつ何の手も講じない場合を前提)。
  政府統一見解(10月25日)―10年間の累積で2.7兆円増。()それは1年にすれば、わずか2,700億円。GDPの0.54%にすぎない
   森永卓郎(経済アナリスト)は農業は3分の1に激減する一方、製造業の付加価値(農業の13倍)のアップは数パーセント程度でたいしたことはないと。
<農業>
●GDPで1.5%の第一次産業を守るために98.5%の産業を犠牲にしてはならない。
  ()農業の役割は、食糧生産という基幹産業を担い、かつ国土環境保全など多面的役割をもっており、単にGDPだけで評価されるものではない。
  世界的な食糧危機(地球の気候変動による食糧生産の不安定化、途上国の経済成長と人口増、トウモロコシなどバイオ燃料の需要増、それにヘッジファンドなどの投機による穀物市場の高騰)の中での食糧・農産物の安定確保は今やますます重要。
  とりわけ被災地の東北各県は食糧県であり、農林漁業は主産業。
●農業―さくらんぼ―(1992年20%から8.5%に)関税を下げたら、販売量かえって増えた。
      みかん・りんご―輸出
      コメ粉(パスタ用)―輸出
      コメも―輸入米に門戸を開いても大丈夫。
      「世界一うまい」―高級ブランド― 中国などの富裕層向けに輸出 
      アンケートでは「高くても国産を買う」という人は6割、ただし、3割以上高くても買うという人は34%
 ()これらを日本から輸入して食するのは限られた国の人々、恵まれた層の人々に限られる。 
 日本でもコメ離れやデフレが進む中、海外から安いコメが入ればブランド米も値崩れするようになる。  現在、日本のコメは一俵1万4,000円(戸別所得補償の基準価格)、それに対してカリフォルニア米は3,000円。
 日本産は放射能汚染で敬遠され、むしろ、その対策のほうが先決。
●農業者―選抜・養成―意欲ある主業農家に。法人組織化、一般企業(株式会社)の農業参入。
●農地―分散した農地の集積、規模拡大(10倍化、20~30haに)
 コストダウン(㌔当たり200 円から150円に)、面積当たり収量は1.5倍に。
●「農業のニュービジネス化」
●「6次産業化」―生産者が加工・販売に従事 
●農業改革断行のチャンス―大規模化・合理化・効率化して日本の農業を「強い」農業に。食糧自給率は50%めざす。(政府は「食と農林漁業の再生にための基本方針・行動計画」を決定している) 
)農政の大転換・「農業再生」は必要だが、それは単なる「競争力強化」(中小農家の切捨て・大規模化)ではなく、農家が安心して農業に励める農政への転換。
 必要なのは(米価など市場任せにした結果の価格暴落に対して)農産物価格保障と所得補償で大規模農家も小規模・兼業農家も安心して農業を続けられる条件を整えること。 
 単なる農協任せの「減反」の押し付けはまずいが、需給・生産調整は必要。
 食料自給率のアップ(50%)はTPPとは両立せず、むしろ13%にも激減してしまう。コメ生産の9割が壊滅してしまい、小麦はたった1%に激減。
 そもそも農業は、単なる営利企業とは異なり、個々の農家の経営上の採算・収益など(儲かる、儲からない、外国との競争に勝てる、勝てない)の問題だけで云々されるものではなく、基幹産業で、(世界的な異常気象・食糧危機の中でも)国民の食糧確保、国家の食糧主権の確保(食糧安全保障)、それに国土環境保全にも関わるもの。零細・兼業農家などは、どうせ競争に勝てないし儲からないし採算が取れないのだから、といってやめてもらい、外国に太刀打ちできるだけの競争力のある農家・農業者だけでやってもらえばいい、というものではない。大規模経営・小規模家族経営・集落営農(農事組合法人)など多様な形態があってもいいし、どの農家・農業者もだいじな食糧生産の担い手なのだ、ということ(だから農産物価格保障・所得補償が必要なのだ。新規就農者支援制度も)。
 戸別所得補償は主要国ではどの国もやっている。03年、農業粗生産額に占める直接支払いの割合では、英仏独などは8割以上、アメリカは3割、日本はそれが1兆円規模になってようやくアメリカ並みの3割に達する。
 いくら大規模化(10~20haに)しても、面積当たりの収量を上げても、オーストラリアやアメリカの大規模経営には価格面で太刀打ちできない。
●農産物の輸入条件や安全基準の緩和 ()現在日本で禁止されているポストハーベスト農薬(収穫後使用農薬)の解禁されたり、残留農薬・BSE対策・食品添加物や遺伝子組み換え食品など日本の高い安全基準が、アメリカの農業者や企業の都合で緩められる。
 
<漁業>―農業より自由化が進んでいる。
 あじ・さば、海藻類など50品目は除外―10~20%ほどの関税で守られている。
<医療・保険>
●市場競争原理の導入効果が期待できると。
●医薬品・医療機器の関税を撤廃
●薬価基準がアメリカなどと同一に。血液製剤の輸入規制も緩和。
●外国の保険会社や製薬会社に市場開放―外国企業参入への規制緩和
●公的医療保険制度による薬代の払い戻し(手続き)を内外で公平にする。
●混合診療(保険診療と保険のきかない自由診療の組み合わせ)の解禁
 自由診療(医療ツーリズムなど)で高所得者には便利。
)安全性よりも利益が優先されるようになる。株式会社の医療参入で営利主義になる。
   保険のきかない自由診療―金持ちしか受けられない診療が増える。
   不採算部門の切捨てで地域医療機関の撤退が進み公立病院や身近な診療所は成り立たなくなる。
   公的医療保険制度・国民皆保険制度の崩壊につながる。
   そうなればアメリカ(盲腸手術に2百数十万円かかり、乳幼児死亡率は日本の2倍)のようになってしまいかねない。
(外務省)営利企業の参入や公的保険制度は議論の対象にはなっていないと。
)日本が参加していないTPP交渉で、それらが議論になっていないもは当たり前のこと。参加すれば議論になる。(外務省は混合診療など「議論の可能性はあり」としている)。米国業界団体はそれらを求めてくる。
<官公需>
●政府や自治体の公共事業や物品調達―公共事業の入札を外国企業に開放する、その基準額を下げる。公共工事は23億円以上が7億円に、公共サービスは23 億円から750万円に切り下げられ、630万円を超える物品調達は国際入札へ
)地元企業への優先発注できなくなり、地元・中小企業が外国企業に仕事が奪われる。
 自治体の住宅改修助成などにさいしても地元企業の優先できなくなる。
<「労働力の移動」の自由化>
●労働時間・残業手当・賃金水準の規制緩和
●海外から移民労働・低賃金労働者を受け入れ。看護師・介護士など。
)労働者保護のルール崩れる。
 国内労働者の雇用が減る。
 派遣労働とともに賃金水準が低下し労働条件が切り下げられる。
 不安定雇用が広がる。
<外国人専門家>
●医師・弁護士など、それらの資格を相互に認め合う。
●外国人投資家が投資先の国に対して訴訟が出来るようになる(ISD条項)。
 ()アメリカ(「訴訟社会」)の流儀で、安全・保護を理由に進出を規制された米企業が相手国(日本政府)を訴えて損害賠償を求めるようになるリスクが多くなる。
 野田首相はISD条項があることを知っていたか、と参院の集中審議で野党議員から訊かれ「知りませんでした」と。
<金融>
●新興国の外資規制の自由化で、日本の金融機関が進出しやすくなる。
 ()米国資本が参入しやすいように、日本郵政や共済を民間会社と同じ競争条件にと要求してくるようになる(郵貯や簡保資金の運用をアメリカの金融機関にも割り当てをよこせと。共済など協同組合には、アメリカの保険会社などが民間金融機関と同様のルールを適用せよと。)
<交渉>
●交渉には参加すべき―ルールづくりから関わったほうがいい。(後になってから入ろうとしても、ルールができあがってしまってからでは手遅れになる。)
 交渉しだいで例外商品を設けることが可能かも。
 交渉して、こちらの望んでいることがダメとなったら抜ければいい。
アメリカと一対一でやるのとは違って、他の参加国と一緒に9対1でかかれる。
)その保証はない。あくまで、関税をすべてゼロにもっていくことが前提だから。(カナダの例―酪農製品など例外にしようとしたが、認められず、参加を取りやめ。)交渉に新たに参加するためには、すべての交渉国の同意が必要で、例外なき関税撤廃の原則をのまなければ参加は認められない。
 既にアメリカは自国の産品の輸出や企業の参入を阻んでいる各国の非関税障壁を列挙し、その規制緩和を執拗に迫ってきている。
 コメなども例外扱いの保証はなく、コメ生産の9割が壊滅してしまいかねない。小麦はたった1%に激減。
秘密交渉(非公開)で、交渉内容や詳しい情報・データなど交渉に参加しないと解らない。
 不利益なら抜ければよいといっても、「不利益」を誰が判断するのか。一度交渉に参加してしまったら、抜けられなくなる。
 外務省などにはアメリカなどと渉り合う交渉能力はなく、アメリカ側の言いなりになってしまう。

<情勢>
各分野で何をどこまで交渉するのか。アメリカ側は何を要求しているのか、ほとんど明らかされていない―政府の説明・情報開示が全く不十分―国民はそれにどんなメリット・デメリットや問題点があるのか不明確で、訳けが分からない。
 製造業・輸出企業・農林漁業(その中でも専業者と兼業者)・一般消費者、その他の業界・個々人それぞれに自分の都合(利害・損得)があり、それだけで賛成・反対する向きがある。消費者にとっては外国産であれ、国産であれ、安く買えるにこしたことはなく、「生産者や業界がTPPに反対するのは既得権益を守りたいからだ」などと短絡的に考える向き。
 経済合理性(コスト削減・省力化・効率化など)の追求だけでなく、「食の安全」「環境保全」「食糧主権・経済主権」の観点が必要。
 「安全保障」対米依存とともに親米・反中イデオロギー(「アメリカには親近感、中国は嫌い」感覚)―「中国は脅威」「アメリカは頼れる国」「アメリカについていけば何とかなる」「アメリカにはノーと言えない」という(頭に刷り込まれた)既成観念・「冷戦思考」―への囚われ―「米中対立」「中国とアメリカのどっちについたほうがいいか」「日米同盟が基軸だ」といった発想で考える向き(森永卓郎・経済アナリストが指摘)。(経団連の米倉会長は10月28日の「国家戦略会議の第1回会合で、TPP参加は「通商政策の観点のみならず、外交・安全保障の基準である日米同盟の深化のため」と発言)
 寺島実郎氏(日本総研)は、「『米中対立』というが、米中貿易は日中貿易より2.5倍も多いし、米中戦略対話は『防衛』のことも含めて、日中関係より本気で意思疎通しており、シェールガスの共同開発でも協定を交わしていて、米中関係はメディアが対立構図を描いて見せているが、そんな単純な話しではない」としている(11月20日TVSサンデーモーニング)。 

 
 賛否・国論が分かれ、首相が政治判断して決着をつけるかのように言っているが、それは総選挙のうえ国民の判断で決着すべきもの―TPP参加各国との事前協議、米政府との協議、米議会の承認のうえで交渉参加が認められ(来春)、21分野で合意、国会(衆院で過半数の賛成)で批准は再来年(13年)以降になると見られるが、その間に総選挙。

11月のつぶやき

●「大阪秋の陣」はファシズム方が大勝した。ファシズムとは多数派独裁・強権支配のことだ。
 なんでこうなるのか。それは生業も暮らしもままならなくなり、夢も希望も閉ざされている現状(閉塞状況)に多くの人々が不満を募らせている、そこに「大阪都構想」―「二重行政の解消」「大阪市役所の解体」なるものを持ち出して人々に変革の夢をかきたて、あわせて教育基本条例・職員基本条例をかかげて、既成政党・既存の役所職員・教育委員会・教職員らにそれらを突きつけ、反対者を「既得権益にしがみつく抵抗勢力」にしたてて攻撃の矛先をむけ、バッシングを煽る。その手法が効を奏したということだろう。
 それに「どうなるか分からないが、とにかけやらせてみよう」という賭け―いわばカジノ選挙の側面も。
 これから大阪には冬の嵐が吹きまくる。「起立!右向け右!君が代斉唱!」逆らうとクビ・・・か。「府市合わせでみんな幸せになる。不幸せになるのは逆らう奴どもで、『勝ち組』に従わぬ『負け組』ども」・・・というわけか。現東京都知事と「大阪都」勢力その他が組んでファシズムの天下をめざすというのか?
●高田松原7万本もあったのが、たったの一本だけ残った。ところが、今日、その根が塩水で腐って、水と養分を吸えなくなり、枯れが進んで回復が困難になっているとのニュース。・・・なんということだ。
●NHKスペシャルで、「助かった命が、なぜ―被災者が相次いで自殺」を見て、女房「わかる。先のことを考えてしまうたち(性格)だから。これからどうなっていくのか、先々のことを考えて行き詰ると死にたくもなるんだ」。「そうかな」(こちとらは「毎日毎日『今日はナニしてカニして日々精一杯生きる』というたちだから」というと、「それは、ご飯出しやら、お金のやりくりやら、皆人任せしてるからだ。先々のこと、病気になって動けなくなったらとか、貯金のこととか、子や孫たちのこととか、こっちは常に頭の中にあるんだから」と。
●気仙沼と陸前高田へ行ってきた。荒涼たる廃墟・焼け跡が広がり、瓦礫の丘の周りをブルトーザーやパワーシャベルが動き、ダンプカーが行き交う。一本だけ残った松ノ木、道路端・地面に立ち往生している大きな貨物船、これらにいちいち手を合わせて合掌する代わりに写真をバチバチ撮ってきた。それをここに掲載し記録として残す。小学校の校庭に仮設住宅がならぶ。高田市役所もプレハブの仮設庁舎だった。対応していただいた職員・ボランティアの方々。おー!悲惨から希望へと復興に邁進する人々よ。
●先月30日、「なくせ!原発」福島集会に行って来た。数千人(主催者発表1万人)の大集会だったが、どの放送にも新聞にも報道なし。これが日本のマスコミか。放送局・新聞社にデモをかけろや。

2011年11月21日

大阪ダブル選挙の争点は、本当は何なのか―民主主義(加筆)

 マスコミは専ら橋本前知事の大阪都構想の是非が最大の争点であり、あとは橋本氏の手法をめぐる問題であるかのような矮小化した取り上げ方をしている。しかし、本当のところは何が問題なのか。
 当米沢の我々にとっては大阪都構想などあまり関係のない話だが、橋本氏の政治手法の問題―「独裁」の話しになると黙ってはおれない。その上、その独裁的手法によって彼ら(維新の会)が強行しようとしている教育基本条例と職員基本条例、これらにも黙ってはいられない。こんなやり方があちこちに波及して、どこでもそんな独裁的手法で行政運営・教育管理をやられたらどうなるのか。そうなると余所ごとではいられない。争点は、それら独裁的手法の是非、教育基本条例と職員基本条例の是非、それこそが最大の争点なのだと思われる。
 マスコミや評論家、恵まれた層の人たち、それに事の本質をあまり考えようとしない人たちはとかく、その手法で断固としてやり遂げた「改革」とその成果(単なる数量的実績)―府の財政赤字を解消させたとか―だけで、「よくやった」「たいしたもんだ」ともちあげがち。
 しかし、それによって切り捨てられ犠牲にされた大事なもの―庶民の生活・人権・民主主義―に対しては無頓着なのだ。

 君が代起立斉唱条例それに議員定数削減条例も、府議会で「何を話し合う必要があるのか」と問答無用で強行採決され、既に制定されてしまっている。

 その強烈な個性、過激な言動と強引な実行力によって「変革」をやり遂げるヒーローとして人気を博する。あたかも信長か秀吉の再来でもあるかのように。世の閉塞状況にうっぷんを募らせている庶民は、そのような人物に引き付けられるのだ。彼らに言わせれば、「独裁者?いいじゃないか、何が悪い」「逆らう方が悪い」「抵抗勢力に屈したらアカン」となる。 

 その背景―経済不況、就職難・格差・貧困など社会の矛盾噴出と閉塞状況。
そこから、わが身と子どもの将来への不安、政治や行政や教育などの既成のシステムとそれらの推進者・従事者(既成政党・議会・公務員・学校・教育委員会・教員など)に対する不信・不満・バッシングの蔓延。    
 それらを背景にして「ヒーロー」が登場、いわく「このざまはなんだ!」「日本を変えるために、日本全体のシステムを変えるために、この大阪からたちあがろう!」と。
  
 橋本氏―独裁を肯定―「日本の政治の中で一番重要なのは独裁」「独裁と言われるぐらいの力が日本の政治に求められる。政治はやっぱり独裁でなきゃいけない」と。
 知事と議会のあり方―選挙で勝ちさえすれば、何でもできる。議会は数の力で押し通せばよい。議論・話し合いなど不要(選挙で争った者たちの間でいくら話し合っても、話しがつくわけないのだからと)。
 橋本氏の率いる「大阪維新の会」―4月の選挙で、一挙に府議会で過半数、大阪市・堺市ともに市議会で第一党。
 それらの手法(ファッショ的独裁的手法)を肯定する向きが多い―
 争点を「大阪都構想」に賛成か反対かと単純化し、敵・味方を分け、自らを「改革者」とし、相手を「抵抗勢力」とか「既成政党」と言い立てる。(マスコミがそれに合わせる。朝日なども)―小泉元首相のように(「郵政改革」だけを争点にして、反対者を「抵抗勢力」と決め付けた)。庶民はそれを面白がる(「小泉劇場」)。

教育基本条例案―教育理念「グローバル社会に十分対応できる人材の育成―世界標準で競争力の高い人材を育てる」(教育を人格の完成―一人ひとりを人間として、また主権者国民として育てる―ためではなく、企業や国策に役立つ人材を育てるための教育に)。
  教育目標は知事が設定、従わない教育委員・教職員は罷免・処罰。
    知事の教育への政治介入を合法化―教育行政の政治的中立性(その役目は教育条件の整備にとどまり、教育内容には介入しないという原則)をくつがえす。        教育目標や教育方針は知事の選挙ごとに変わることになり、学校関係者は知事の意向や選挙の動向をたえず気にしなければならなくなる。
    教育委員会(この制度には問題があることも事実―戦後創設当初は住民の公選だったのが、首長による任命制に変えられた。但し、首長は、誰を委員にするかを決めて任命するが、それより先は口出しできないことになっている。ところが委員は専門家でもなく、非常勤。月に1・2回集まるだけの会議で、役所のつくった案をそのまま追認するケースが多くなってしまうので、「首長から独立」という強い権限が与えられている割には、十分な体制とは言えない、というのも事実)―その現状に不備があることを理由にしてその独立性を奪う。
    校長―公募で任期付き任用―予算要求権を与えられ、教員人事に関与。
       教育者としてよりも、首長が設定する目標の忠実な執行者としてのマネージメント(経営管理)能力が重視。
    教員を5段階評価(相対評価でS-5%、A―20%、B―6%、C―10%、D―5%に振り分けて評価―5%は必ずDにされてしまうことに)―それが給与・任免に反映、2回連続D評価されれば「指導研修」それでも「改善」見られなければクビ。
    教職員の職務命令違反―1回目は戒告もしくは減給、2回目は停職、5回目または同一の違反3回目には直ちに免職。
     (本来は、上司による教員への監督指導は強制力―法的拘束力―のない「指導助言」が相応しいやり方なのに、「命令」と。)
     (教員は生徒よりも校長の顔色ばかり気にするようになる。また教職員同士の協力関係と自由な(本音でつながる)絆が損なわれ、教育現場が萎縮するようになる。知事や校長などの目には「いい先生」でも、生徒にとって「いい先生」はいなくなってしまうということにもなる。)
     憲法(99条「公務員の憲法遵守義務」)よりも職務命令が優先。
     憲法が定める「思想・良心の自由」(19条)「学問の自由」(23条)それらよって支えられた「教育の自由」が奪われる。
    学力テスト、結果を学校ごと公表(序列化)―点数競争のさらなる激化を促す。(橋本知事が、「このざま(大阪が全国最下位)はなんだ」と言って、点数公表を迫ったのに対して市町村がそれを拒否したという経緯がある。)
    公立高校は3年連続定数(入学定員)割れすれば統廃合―学校が民間の会社のように生徒獲得競争へ―(長期的な視点にたった教育活動を充実させるよりも)人々の目に見えやすい短期的な成果(大学進学実績や非行・不登校の表向きの減少など)を追求する傾向を助長―進路が異なり、家庭的な背景や社会的条件の異なる子どもたちの多様な教育要求と矛盾。学校とは、学力も家庭環境も異なる多様な生徒がいて、一緒に学んで人間的成長を図るところなのに。それに学校というところには「地域の核」として住民をつなぐ役割もあるのに。)
     学区は撤廃―学校選択制―自由に学校を選ばせる―結果は自己責任に。
    学校協議会―委員は保護者及び教育関係者から校長が委嘱―①校長や教員を評価、②教科書の選定(推薦)に関して協議、③部活動の運営に助言―現実には保護者たちは忙しく、そんな時間的余裕はないので、結局は地域のボスが牛耳ることに。
     教科書の採択―校長が保護者と教育関係者(といっても教職員は除く)からなる学校協議会と協議して校長が推薦し、それを尊重して教育委員会が採択。(授業を直接担当する教職員の意向が入る余地まったくなくなる。)

 条例案をつくった起案者たちの考え・意識にあるもの―旧来の価値観・人間観・学力観―「強くて頭のいい人間」―エリート至上主義―まずは格差を受け入れてでも、秀でた者を育てる。
 企業の論理(競争主義など)を教育に持ち込む―競争で競わせて切磋琢磨することよって向上するのだとか、競争によって緊張が生まれ活性化するのだとか、厳しく追いたてて強靭な肉体と精神を鍛えるのだ、と。
 優勝劣敗・弱肉強食は自然の習いであり、勝者と敗者が分かれるのはしかたのないことだと。
 「私学助成が削減されると、私立高校に行けない子が増える。教育を受ける権利を奪わないで」と訴えた高校生に「日本は自己責任の国。いやなら日本から出て行くしかない」と。
 「人格形成だけでは生きていけない」といって、市場競争社会を生き抜くための競争的な学力・仕事力・生活力のほうを重んじ、生きていく根っことなる社会性・協調性・情緒的人間的成長・創造力など度外視。
 政治的中立の原則を否定―「教育が過度に政治から切り離された結果、国民の意見を反映させることができなくなった。結局、現場を支配したのは文部官僚。教育を無責任な官僚から国民の手にとり戻すのだ」と(坂井氏・「大阪維新の会」市議で条例案を練った人―朝日新聞)―市民から支持されて当選した知事は民意を代表する―その知事が口出しすることを通じて教育に民意が反映される。結果の是非は選挙で判断を仰ぐ。選挙で勝てば、自らの意見は(公約していないことや選挙で触れてないことまで)すべて市民から支持されたものとみなされ、民意を代表するものだ、というわけ。
 
 実状―大阪の教師の精神疾患の比率は全国平均の3倍、といわれる。

職員基本条例―職員は教員と同様に、5段階評価され、職務命令違反で処分されることに。
 (公務員は「全体の奉仕者」であって、住民の暮らしや福祉のために働く奉仕者であるはずなのに、知事への奉仕者になってしまうことに。)
 人件費削減をねらい、リストラ・整理解雇が可能となる。
 知事や上司にたいしてイエスマン・ゴマスリが増える一方、職場の自由闊達な雰囲気も士気も損なわれ、「全体(住民)の奉仕者」に徹しようとする真面目な職員の意欲が低下―住民にたいする公共サービスも劣化することになる。

大阪都構想―「大阪都」、だったら東京都と肩を並べられるようになるのかと、いかにも庶民の夢がかきたてられる(そこが着け目―イメージ先行)。
 大阪府の大阪市(政令指定都市で税収・予算規模が大で、府税収の中核をなす)との二重行政の無駄を解消するためにと、市(堺市も)を解体(特別自治区に分割、公選区長・区議会を設け)、市の権限と財源を取り上げて大阪都に一本化(「指揮官が一人の大阪」に)して権限と財源を集中させる。例えばカジノ構想など「僕(橋本)は賛成、平松市長は反対だが、大阪の方針はいったいどっちなのか、大阪都制度になればバチンと決まる」というわけ。
 (大阪がラスベガスのようなカジノ都市になり、その昔、信長や秀吉に抵抗した独立の気概溢れた堺の町は大阪市とともに消滅してしまうことになるわけだ。)
 「二重行政の無駄」―余計(不必要)な公共施設を建てるとか、余計な公共事業をやるとか、そのような無駄をなくするのはいい。しかし、そんなことは府と市それぞれが、その施設、その事業はどうしても必要なものか、余計なものか(他方に任せたほうがいいのか)互いに相手の考えを確かめ、或は打ち合わせて決めればいいだけのこと。そのためにわざわざ市を無くして「都」に一本化しなければならない必然性はあるまい。
 指揮官を都知事一人にして役所を都庁一つにし、議会も都議会一つにすれば、即断即決ができて効率がよく財政コストも省けるという理屈なのだろう。しかしそのことは何もかも(諸条例・諸方針)が一つの意志(一人の都知事・一つの都議会の意志)で決まってしまうということだ。
 橋本知事と府議会与党「大阪維新の会」議員の意志で、「君が代」起立斉唱条例と議員定数削減条例は既に決まって制定されてしまっている。そのうえ教育基本条例・職員基本条例が決まれば、都下の教育委員会・教職員・役所職員はすべて、それらの条例に従わなければならなくなり、これまでのように市長・市議会・市教育委員会がそれに反対し、それに相反することを決めようにも、その場がなくなってしまう、ということ。
 すなわち大阪都構想が実現すれば、一人の都知事とその翼賛議会ですべて決まってしまう独裁が貫徹しやすくなるということだ。

 教育基本条例・職員基本条例の両案とも、橋本前知事と「維新の会」が提案、現在は継続審議中。

 このダブル選挙で橋本氏と維新の会が勝てば、これらの条例案はすべて府民からも市民からも支持されたものと見なし、一気に強行採決して施行し、実行に移されるだろう。それに「都構想」が実現するようなことになれば、大阪市も堺市も無くなる運命に置かれことになる。
 そんなことになっていいのか、わるいのか。
 まずはファシズム独裁になってもいいのか、わるいのかだ。

 民主主義の良さとは、自分あるいは自分たちの考えが一番正しいという思い込みの上にたつ独断専行を避けるというところにある。自分あるいは自分たちの考えが一番正しいとは限らず他の人々の考えの方が正しいのかもしれない、だから皆の意見を(全ての民意、住んでいる地域や階層で立場・利害を異にするそれぞれの民意を代表する議員の意見、少数意見でも)聞かなければならない(話し合い・論議を尽くす)。そのうえで、なるべく(最大限)多くの人の納得が得られるようにして決める。それが民主主義なのである。ただし、それには時間がかかって非効率であり、コストもかかるという難点はある。しかし、間違いや不満を最小限にとどめることができる。
 ボトム・アップ(下の意見を聞いて決めるやり方)で住民が主体的に参加・関与し、連帯・協力。
 それに対して独裁はトップ・ダウン、住民は受身に(為政者・権力者に頼り、恩恵を期待)。
 「企業でもワンマン社長でうまくいってる例がよくある。松下幸之助や本田宗一郎のような」と(「報道ステーション」でコメンテータが言っていた)。トップ・ダウン(上意下達)型もわるくないというわけだ。
 独裁―選挙や議会開催など形式的法的には民主的手続きをちゃんと踏んでいるとしても、論議・話し合いを尽くさずに、支持する議員の数にものをいわせて多数決で強行採決をするなど、(朝日などでは「ケンカ民主主義」などという言い方もされているが)それも実質的には独裁にほかならない。
 独裁なら即断即決ができて効率よく、安上がり。
 独裁で、その時はたまたま、彼(または彼ら)が有能かつ人徳に優れ、あるいはそれらはさほどでもないのに弁論術など(ワンフレーズ・ポリティクスの術―「既成政党に抗して、既存の役所の既得権益をぶっ壊す庶民革命をめざすのだ!」などといった歯切れのいいワンフレーズで、人々を彼の言う全てが正しいと信じ込ませる術―など)には秀で、結果的にもうまくいって、それで彼(もしくは彼ら)の考えは正しかったという場合もあるにはある。しかし、間違いも犯しやすく(人々はその間違いを見落とし見逃してしまい)、とんでもない結果―不合理・混乱・争いや多くの犠牲―をまねいてしまうことにもなる(歴史上、英雄や名君はいるが、最近のリビアのカダフィ大佐もそうだったように、当初は英雄とみなされたが、やがて暴政、暴君と化し、民衆を窮状に陥れた)。
 住民・市民が「~派か反~派」のどちらかに分断されてしまい、地域社会に亀裂が生じ、多様な意見や価値観を認めない画一的な同調社会になりがちとなる。真の連帯、自由な心の絆は失われていく。 

 このような多数派独裁でいいのか、わるいのか。そして教育基本条例・職員基本条例など制定されたりしていいのか、わるいのか。それらこそが争点なのでは。
大阪府民・市民が持ち前の(威勢のよさばかりでなく、かつて黒田知事を選んだ時のように)良識を発揮されることをひたすら乞い願うばかりである。

 <参考>世界11月号に掲載の大内裕和(中京大学教授)と平井一臣(九州大学教授)両氏の論文。同12月号に掲載の金井利之氏(東京大学教授)の論文
 10月26~28日の朝日新聞「大阪府教育基本条例とは」(3回シリーズ)

2011年12月01日

大阪の民意は、本当はどうだったのか(再加筆版)

 「橋本派、圧勝」「民意の圧倒的な支持をうけた橋本氏」というが、はたしてそうか。
 他候補との比較ではそうも言える。
 それは大阪の府民・市民がいかに現状に不満だったかを示していることは間違いない。そして、その現状打破を橋本派に賭けた人が多かったということだ。
 民主主義の現状―国政を見れば、首相はコロコロ変わり、国会は与野党の勢力比が衆院と参院で「ねじれ」、震災・原発事故など国難を前にして一刻も早く手を打たねばというこの時さえも審議はダラダラ、決定は遅れ、国民の多くは苛立つばかり。
ケンカ民主主義と言われようが「独裁」と言われようが、どうでもいいから、とにかく、この危機、この閉塞状況を早く何とかしてほしい、という人々の焦燥感。それが「独裁者」(自ら「それでいいんだ」と言い切った)勢力を、(既成システムに対する変革者として既成政党に対して敢然と立ち向かうチャレンジャーというイメージも効を奏して)大勝に導いたものと思われる。
 朝日川柳(朝日新聞の投稿)に「独裁に賭けたくもなる閉塞感」というのがあったが、まさにそのとおりだ。
 反橋本派は独裁か民主主義かを争点にし、当方もそれだと思った。しかし、その点では民主主義派は敗れた。選挙民は独裁派のほうを支持したかのようであるが、実はそんなこと(独裁か民主主義かなど)は問題にはしなかったのだ。どうでもいいからとにかく現状打破をしてほしい。民主主義派といっても既成政党で守旧派(というふうなイメージに)。彼らなんかよりも橋本らのほうが改革派であり、やってくれそうだ、やらせてみようと。
 「大阪都」構想は人々の夢をかきたて、魅力的に映ったし、「大阪教育基本条例」は、学力テストの全国最下位といった結果に「このざまは何だ」という思いなどから、この条例によって教育委員会のあり方を正し、教職員にはもっとしっかり取り組むように規律を厳しくして気を引き締めさせようとするものであり、「職員基本条例」は、それによって役所の職員にも、(生活保護受給率全国最多を許しているのは職員が本人は働けるのに審査をいい加減にして申請を受理しているからだとか、そんなことのないように、また国保料の滞納者に対する取立てなども)もっとしっかり取り組むように規律を厳しくして気を引き締めさせようとするものだとして、既に制定済みの「君が代起立斉唱条例」とともに、さして問題を感じることなく、カジノ構想にさえも「ええヤンか」と。
 しかし、府民・市民はこれらの構想や条例に「みんな」支持を寄せたかといえば、そうだとはけっして言えまい。
 橋本派は「民意の圧倒的な支持をうけた」のであり、府議会では過半数を制しており、市議会でも第一党なのだから、熟議などといって長々と議論に時間をかけずに強行採決してもかまうまいといって、なんでもかんでも「民意は我に」とばかり反対を押し切ってやれると考えたら、それは大間違いだろう。
 彼らが当選したからといって、選挙民は彼らになんでもかんでも好きなようにやってくれていいと白紙委任したわけではないのである。
 それに第一、得票数は他候補に比べれば圧勝のように思えるが、有権者全体からみれば、その得票数―市長選で橋本氏がとったのは35.9%であり、知事選で松井氏がとったのは28.9%でしかないのだ。大多数の有権者は彼らに民意を託してはいないということだ。
 
 「独裁vs民主主義」には、大阪府民・市民はそんなにこだわらなかったとはいえ、その対決の構図が当を得たものではなかったというわけではあるまい。民主主義の危機であることには間違いない。にもかかわらず、その危機感よりも閉塞感のほうがまさり、「どうでもえーから現状を打破してーな!」といったぐあいに。
 そこにはマスコミの存在もあろう。マスコミが描いた構図は、「独裁vs民主主義」ではなく「橋本流vs既成政党」か「維新の会vs既成政党」で、選挙結果は「既成政党の完敗」だと。それに教育基本条例と職員基本条例については、簡単に「教員や公務員の規律を強める」ものと肯定的に触れるだけで、批判はほとんど加えられてはいない。府民も市民も、そのようなマスコミ情報を真に受ける向きには、「既成政党より橋本・維新の会」とならざるをえないことになろう。
 橋本・維新の会「大勝」の選挙結果には、このようなマスコミの影響(幻惑)を見ないわけにはいくまい。既成政党と「維新の会」の対決とは言っても、(共産党は別として)自民・民主は及び腰で全面対決は避けていたといわれるし、「維新の会」の所属議員の大部分は自民党からのくら替え(元自民党議員)だったのであり、選挙が終わったとたんに民主党も自民党も橋本・維新の会と互いにすり寄っているとみられている。マスコミが描いたその構図は虚構にすぎなかったのだ。

●野中広務氏(自民党元幹事長)いわく「政党が支持しながら、政党の人が(府議会議員も市議会議員も国会議員も)選挙事務所におらないんですよ」「ビラをまいてやっとったのは共産党くらいで、他にそういうことで動いている団体というのは私、見たことがない」と(4日、TBS「時事放談」)。
●前田史郎氏(朝日新聞社説担当、8日朝日「社説余滴」)によれば、平松・倉田両候補がともに63歳なのに対して橋本候補42歳、松井候補47歳、「維新の会」の府議は46 歳平均(30~ 40代が過半数)、同会市議は 42歳平均( 20~ 30代が4割強)で、橋本・維新の会が有権者のうちの若い世代の期待を集め、投票率も若年層によって押し上げられたという。要するに朝日の社説が書きたてた「既成政党VS維新の会」という対立構図のイメージとあいまって、「旧い既成政党系の歳とった候補より新しい維新の会の若い候補」というイメージが、理念・政策(「独裁か民主主義か」とか「教育基本条例」の是非など)よりも先行したということだろう。
●7日、文科省は大阪維新の会が府議会に提出している教育基本条例案―「知事が府立高校の教育目標を設定する」―は地方教育行政法に抵触するとの見解を示す。同法は「教育に中立性・安定性が求められることから、首長から独立した教育委員会が教育事務の大部分の権限を担う」ものとしている。府教育長は「教育委員の罷免も知事の権限には属さず、知事が教育委員を罷免することはできない」と。

2011年12月05日

12月のつぶやき

●この「つぶやき」は去年の12月から始めたものだが、あっという間に1年。激動の1年だったな。国の内外に次々と出来事や問題が起きて、この「評論」も書くのに事欠かない忙しさだった。これから、いったいどうなるのか。間もなく年があける。
●テレビ映画「坂の上の雲」―戦争スペクタクルは「格好いい」。「真珠湾からの帰還」は考えさせられる。ドキュメンタリー「証言記録・日本人の戦争」は辛く悲しい。この月は太平洋戦争の開戦から70周年ということもあってこれらの番組が相次いだ。
 「坂の上の雲」はリアルではあるが、日本の戦争を美化したキレイごとに描かれている。テレビは茶の間で見る配慮からだろうが、死体がちぎれて飛び散ったり、バラバラ死体がコロがっていたり、腐乱死体などグロテスクな場面は写さない。震災でも死体はテレビ画面には出てこない。しかし、ドキュメンタリーの方には「証言記録」の言葉に悲惨な戦争の実態が語られていた。
 それを見て思った。「あの時代、俺だったらどうしてたべ・・・どっちみち惨めな死に方をしていたべなあ」
●8日は、70年前にアジア・太平洋戦争が勃発した日。当方が生まれて1年近く後。
日中戦争はもっと前からやっていたが、その延長線上に拡大したもの。未だもの心つかない歳だったが、今にしてみれば可愛そうでしかたがない。この後生まれた弟は戦争が終らないうちに死んだ。出征した父が帰還する前で、一度も顔を見ることなく、生まれて逝ってしまったのだ。
●「あの日あの時」―NHKテレビの平日昼のニュースの後に放映されている被災地関連ニュース。そこに折り込まれている被災者の証言シリーズ―この時間帯は震災以前は「ふるさと一番」、今は東北以外では「ひるブラ」?。東北では、9ヶ月も過ぎ12月に入ってもまだこのシリーズが続いている。毎回一人づつ、現場であの時の行動を再現しながらインタビュー。今日は陸前高田で幼子を抱え義母の避難誘導で命拾いした若妻の証言。見る度に戦慄・恐怖と涙の感動を覚える(「はらはら、ぞくぞく」、そして「じーん」とくる)。東北だけでなく全国でも放映すればいいものを。「がんばろう日本!」のはず。「がんばろう東北」だけで済むものではあるまい。
●友人と車に同乗して隣県へ小旅行。あちこち見物(横田めぐみさんが拉致された当時通学していた中学校の脇を通って近くの海岸に行ってみたりも)して、ビジネスホテルに泊まり、カラオケにも行ってきた。久々に「イヨマンテー!」。それにフランキー・レーンの「OK牧場の決闘」。カラオケでは初めてそれを歌えた。友人の一人もこの映画と歌を知っていて、合わせてくれた。「gunfight at O.K corral!」
 家に帰ったら、市社会福祉協議会地域包括支援センターから手紙が来ていた。それには、「基本チェックリストの結果、介護予防事業に参加することが望ましいと判断された方」「質問用紙に回答された内容から、低下の恐れあり」「『運動コース』・『栄養コース』・『お口コース』のうち、あなたにおすすめするコースは「お口」コースです」とあった。なんのこっちゃ?「(参加者の声)Bさん―「カラオケも声が出なくて嫌だったが、以前のように声が出るようになって、カラオケも行けるようになりました」と付記されている。ほ~。

2011年12月10日

あの戦争はしかたなかった?あの戦争の結果は想定外?(加筆版)

(1)12月8日といえば、真珠湾攻撃・日米開戦・太平洋戦争勃発の日などと言われる。しかし、その日は、海軍機動部隊による真珠湾攻撃開始よりも前(約65分前)に陸軍を中心とした部隊が、マレー半島のコタバルに上陸し、東南アジアへの全面侵攻を開始した日だったのだ、という(上智大学・根本敬教授)。米海軍太平洋艦隊の基地・真珠湾に奇襲攻撃をかけたのは、それ(日本軍の東南アジア侵攻作戦)を同艦隊が邪魔するのを阻止するためにほかならなかった。つまり、真珠湾奇襲は東南アジアへの全面侵攻と占領を目的にして行われたのだ。したがってこの戦争は、中国で継続していた日中戦争とも合わせ、単なる「太平洋戦争」ではなく「アジア・太平洋戦争」と呼ぶのが至当なのだという。
 要するに、この日は、正確にはマレー半島コタバル上陸および真珠湾奇襲と「アジア・太平洋戦争」突入の日なのだ、ということ。

(2)あの戦争はしかたなかったとか、あの結果は想定外だったとか、そう言って済むものだろうか。
 数年前、米軍の広島・長崎への原爆投下は「しょうがなかった」と言って辞任に追い込まれたのは日本の元防衛庁長官だったが、アメリカ人のあいだでは、米兵の犠牲をこれ以上増やさないように戦争を一日でも早く終わらせるためには、原爆投下は「しかたなかった」と思っている向きが多い。
 日本にも、日本軍の真珠湾攻撃・日米開戦はやむをえなかったという向きが少なくない。(日中戦争は駐留日本軍を攻撃しかけた中国軍を制圧するためにやむなく始められ、それが長びいたのはアメリカが中国軍を支援していたからだ。その上、アメリカは日本への石油輸出を禁止するなど経済封鎖を行い、日米交渉では日本軍はインドシナからも中国からも撤退せよと無理難題をふっかけてきたからで、やむなく開戦せざるを得なかったし、勝つためには奇襲作戦もやむを得なかった。日本の戦争はすべて自存自衛のためだったのであり、しかたなかったのだと。)

 「しかたなかった」という言葉には、「勝つためには」とか「生きるためには」とか、「~のためには」という前提がある。そこを決定づけるのは、その人の立場(軍部か政界・業財界か一介の庶民かそれぞれの立場)と人生観・価値観。人道を最高価値とする立場からは、「己のために他の人々を犠牲にしてはならない」というモラルによって「しかたなかった」という理由決定づけられる。その立場で考えるなら、「人を殺して、(戦争だからとか、生きるためには)しかたなかった」(といって人を殺しに行った言い訳をするの)ではなく、「人を殺すくらいなら、死んだ方がまし。それで(戦争に反対・拒否して)殺されたとしても、それはしかたのないこと」といって潔く死ぬ。そのような場合こそが、言い訳や自己弁護などではない、本当に「しかたのないこと」なのであって、自分本位・自国本位だとか「臆病・意気地なし」などと言われる筋合いもない。

 ところで、今年福島で起きた原発事故は、想定外だから「しかたなかった」といって済む話ではあるまい。
 原発の「安全神話」を信じ込んだ(まさかこうなるとは思ってもみなかった)、それが間違いだったのだ。それと同様に「聖戦・不敗神話」を信じ込んだ、それが間違いだったのだ。原発の事故は絶対起きないなどということはそもそもあり得ないのと同様に、日本は神国、故に日本軍は絶対負けないなどということは、そもそもあり得ないことだった。にもかかわらず、負けること(負けたその後のこと)は想定せず、あのような惨禍(死者、日本人310 万人、アジア全体で2,000万人)を招くことも想定しなかった。いや侵攻した国々の人びとはもとより自国兵士が死ぬこと(「生きて帰るな」とか、或は兵士だけでなく一般国民までも「一億玉砕」などと)、それだけは(何百万・何千万人死のうが)想定内だった(というよりは当たり前と思われていた)わけか。

 しかし、日本は中国を一撃で屈服できると予想していたのに、日中戦争は8年にも及んだし、米英など連合国との戦争は3年8ヵ月にも及び、敗れて降伏した後、「国体」(天皇統治体制)の変更ひいては戦争放棄・戦力不保持の不戦憲法までも制定されるとは思いもよらない、全く想定外のことだったわけである。

 「しかたなかった」というのには、次の二つがある。
①まさかこんなことになるとは思いもよらなかった(想定外だった)というケース。
 信じ込んだ―「自存自衛・アジア解放の聖戦」「皇軍は不敗」だと。他に考えが及ばず、あり得べき可能性を度外視(計算外)―それは要するに騙されたということであり、信じたのがバカだったということにもなる(「時代が時代だったので」とか「それがその時代の常識だった」とはいっても、それはやはり言い分け―突き詰めて言えばそういうことになる)。
 要因―権力によって支配・統制された教育とメディア(情報操作)、軍隊では「戦陣訓」(「生きて虜囚の辱めを受けず」など)。これらによって信じ込まされ、煽られた。
 教訓―騙されず、信じ込まない賢さ(科学的合理精神と批判精神)を持つこと。
反対できず、命令には拒否できなかったというケース―それは精神的に弱かったということ(「時代が時代―軍国主義の時代だったのだから」とはいっても、それはやはり言い分け)。
 要因―強権・圧制システム―逆らえば過酷な制裁。
 教訓―踏んでも蹴られても、或は殺されても(戦場で人を殺して死ねと言われて殺し殺されるよりはまし)断固として反対・拒否できるようになること。

 「しかたなかった」というのは、結局は、真実を見抜けなかったことの言い分けであり、反対も拒否もできない弱さに対する言い分け・自己弁護で、責任逃れにほかならないのであって、そういって済まされることではない。
 教訓―騙されることなく反対・拒否できるように、賢く精神的に強くなること(知恵と度胸を持つこと。但し、それは口で言うほど簡単ではない至難の業には違いない―かく言う自分にそんな知恵も度胸もあるのかと言われれば、それはない。もしこの自分があの時代、あの状況に置かれていたならば、騙されようが騙されまいが、逆らおうが逆らうまいが、どっちみち生きてはいられなかったろう。だからこそあんな軍国主義と戦争がくりかえされてはたまらないというのだ。それに、あの時代、人々はお上の言うことには一切疑いを差し挟むことも逆らうことも許されない軍国主義下に置かれていたのだから黙って従うほかなかった、だからといって、どんなに良心に反する人殺しや理不尽な行為であっても、ただ「しかたなかった」で済まされていいのかといえば、そんなことはあるまい。当時、極めて数少なかったとはいえ、お上の言うことを真に受けることなく戦争政策への反対・命令拒否を貫き弾圧・迫害に耐えた不屈の人々は厳然として存在していたのであり、彼らから見れば、「しかたなかった」と言うのは言い訳であり、自己弁護であり、責任逃れ以外の何ものでもないわけである)。

 原爆も原発もつくってしまった結果、未曽有の惨禍を招いてしまった。つくらなければよかったのだ。どの国も核兵器は廃絶し、我が国は原発も率先して廃絶しなければならない。
 戦艦大和も伊号潜水艦も零戦もつくって軍備を拡大したその結果、未曽有の惨禍を招いた。そんなの無ければよかったのだ、との反省から憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)が制定されたのだ。
 軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか。「『その時は死ぬんです』というのが私の答えです」という阿刀田氏(作家で日本ペンクラブ会長)。彼は次のように語っている。「軍国少年であった子どものとき、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ぬならば、よく分からない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ、はありうるでしょ。突き詰めれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力は全部やる。やり尽くすべきだと思います。」

 要は、核兵器はもとより原発にも頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することであり、軍備などに頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することなのであって、その賢さと勇気を持つこと(それは至難の業だとしても)、そして命を犠牲にする愚を繰り返さないこと、これこそが我が日本人が未曽有の戦争の辛酸から学んだ教訓なのでは。

 今、問われているのは我々の生き方、人間としてのモラル、命と知恵の使い方(人を殺す戦争に使うか、非戦平和に使うか)、それらがどうあるべきかであり、自分あるいは自国のために人々の命を犠牲にしてはならないとの信念に徹した生き方こそが求められよう。


 

2011年12月13日

NHK「真珠湾からの帰還」と「証言記録・日本人の戦争」―セリフ

(1)「真珠湾からの帰還」―実話
 酒巻少尉(ブラジル・トヨタ社長、12年前81歳で死去、70年前特殊潜航艇に搭乗・真珠湾攻撃に参加、座礁した艇から脱出するも米軍から捕らえられ、太平洋戦争の捕虜第一号になり、終戦まで米国本土の収容所に)
 「自分が生きていたのは、もっと大きなことのために死ななくてはという思いからだった」「岩佐大尉(上官)は『命の使い方を間違えるな』といわれた」「自分の命の使い方は真珠湾攻撃だと信じていた。しかし私は生き残った」「自分は生き残って日本へ帰ってきました。なのに私は自分の命の使い方を見つけられない。何もできない。何をしたらいいか分からない。いったい何のために生き残ってきたんだ。教えて下さい」
 岩宮緑(酒巻が出撃前・訓練中に宿泊した旅館の娘)「命の使い方が見つからなければ、見つかるまで生きていればいい」
(2)「証言記録・日本人の戦争」2部―元軍人・兵士・その妻・親族・村の関係者たち(80~90代)がインタビューに応じて。
 「戦争のこと、本当のこと言えないよ。言うと夜眠れないさ」
 「すべきでないことをしてきた。申し訳ない。とんでもない人殺しをしてしまった」
 八路軍(中国共産軍)と住民の区別・見極めがつかず無差別に攻撃した。
 中国の戦場での体験は家族にさえ語らず「戦争の話しはせんようにしています」
 住民虐殺―「そういうことはしゃべりたくねえな」「軍隊というところは、命令に従わねばなんねなだからな、やらねば死刑になる、殺される」
 上官や古参兵のビンタは日常茶飯事、逆らうと銃殺されることを恐れ、精神的にまいって自殺する者が。
 初年兵に刺殺訓練―立ち木に中国人をくくりつけ、右胸を銃剣で突き刺した。
 「今生きていても明日死ぬ、明日生きていてもあさって死ぬ、死んだやつがうらやましい、生きているのは、そのぐらい苦しいもんだと思った」
 「死体がごろごろ、腐敗して死臭をはなつ、そういうところで飯を食った」
 「全身火葬できない、そんな暇がない、腕か指だけ切りとって飯ごうを炊く火で焼いて遺骨にした」
 「神様が守ってくれるから大丈夫だ、大丈夫だ、日本は勝つに決まっている、負けるわけはないと、みんな思っていた」
 「武運長久」祈願―日の丸に寄せ書き―「尽忠報国」「国に命を捧げる」「君が代は巌(いわお)とともに動かねど、くだけてかえれ、おきつしらなみ」―「『死んで帰って来い』という意味かな、まあ結構な言葉だ、そりゃ、本当に気が狂っているようなもんだ」
 歌―「タマ(弾丸)もタンク(戦車)も銃剣も、しばし露営の草枕、夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ」
 元テニアン島住民、当時18歳、米軍が迫る中、やむなく銃を手にする。お袋に「よしわかった」と言って座らせると、「ありがとうね、長い間ありがとうね」と言って手を合わせた。その心臓をねらってバン、すると親父は自分の額に手をやり、ここへと・・・。そばで見ていた9つの妹が「こんどは私の番だと」ばかりに、お袋が今死んだところに座って手を会わせる。鉄砲をかまえると「あんちゃん!ちょっと待って!水を飲みたい」水筒のふたに二杯さしだした。それをごくん、ごくんと飲むと「うまいわ、あんちゃん!もういいわ、撃ってよ、母ちゃんのところへいくから」と。
 ニューギニアで―日本兵同士の間で食糧の奪い合い―「缶に塩が入っているのを見てとってやろうって手榴弾を投げつける、そんなことがあった」。
 「人肉事件」―「『共食い』の話しがひんぱんに聞こえる。軍司令官が『兵隊は一人で歩いてはいけない』と。連隊会報に『人肉を食する者は厳罰に処する。但し、敵国人は除く』と」
 「残虐だよ、虐殺だよ・・・・この時の大本営とか方面軍とかのあれ(上層部)を恨むよ・・・だいぶ帰ってから自殺しておられるけどね、旅団長もね・・・俺なんか、こうやって偉そうなことを言えた義理じゃないけど・・・あんた達が(取材に)こうやってせっかく来てくれるけど、こんなことを偉そうに話するのは辛いんだよ、死んだ人に申し訳けなくて」
 日露戦争に従軍歴のある教師が村の若者たちに「好きで敵兵討つのじゃないが、東洋平和の為なれば抜かざなるまい日本刀」と詠んで戦争に駆り立てた。教え子は「粉骨砕身、一意奉公致す覚悟」と。
 戦地に行くことにためらいを見せる夫に対して、妻は励まして「私の兄さんは2回も3回も泣かないで元気で行ったのに、なんだおめえ、気が弱いね、元気で行ってこい」と言った。その5ヵ月後、夫はルソン島で戦死。「悔やまれてなんねよ、あんなことを言って」
 ニューギニアで集団投降―中佐は玉砕覚悟の総攻撃で辛うじて生き残った兵士42名を率い、投降に踏み切った。これに対してニューギニア作戦を統括した元参謀(93歳)―中佐のとった行動は「今もわりきれない」「みんな生きたい、苦しみから逃れたいですよ、しかし使命をおびている軍人ならば心を鬼にして大義に生きなきゃならないと僕は思いますね」と。投降した兵士の中には米軍側に「殺してほしい」、「日本に送還しないでほしい」と訴えた者がいた。帰還後は戦友と会うことは戦後一切なかったという方―顔を写さずにインタビュー、「私だけ帰ってきて、申し訳ない・・・もうニューギニアのことは思い出したくないんだ・・・なんであんなとこへ行ったんだか」と。
 沖縄の伊江島、砲弾の轟く壕の中で、みんな息をひそめていた。突然、母親の腕の中で生後6ヵ月の弟が泣きだした。みんないらついている。日本兵は義勇隊の青年に「貴様、撃て!」と。母親は弟の顔を息ができないほど胸に押し当てた。戦後、母親は塞ぎ込むことが多く、亡くなる間際は死なせた息子の名を叫んでいた、という。

 最後のナレーション―「誤った国策を信じ、時には熱狂的に支持した多くの日本人、そしてもたらされたあまりに多くの死」

2011年12月18日

「坂の上の雲」時代には水野広徳も

「坂の上の雲」の原作者・司馬遼太郎は生前、「戦争賛美」の誤解が生まれることを懸念して、その映像化を拒んでいたという。それにもかかわらずNHKは映像化し放映し続けているわけである。
 ところで、この物語の主人公は秋山兄弟であるが、同時期・同郷人(松山出身)に水野広徳という人物がいる。秋山弟(真之)より7歳下で、秋山にあこがれ海軍軍人となった。日露戦争当時は海軍中尉で、真之と戦艦(「初瀬」)に同乗していたこともあり、日本海海戦では水雷艇長として武勲をあげている。
 (以下は、静岡県立大学・前坂俊之教授の「水野広徳」に関するウェブサイトとNHK「その時歴史は動いた」を参考)

 水野は、日露戦争が終わった(1905年)後に書き著した「此一戦」(当時ベストセラーになる)に、「軍隊はいかに国民を守る存在であるか」と訴えていた。そして「小国の富は畢竟大国の餌、これを防ぐは軍国主義にあり」などと、軍国主義と帝国主義を正当化していた。
 1916年第一次大戦中ヨーロッパ視察
 1918年秋山真之の病死に際して「中央公論」に追悼文
 1919第一次大戦が終結した後、2度目のヨーロッパ視察旅行、戦場を見て周り、近代戦のすさまじい破壊力による都市の惨状や市民の苦しみを目の当りにして衝撃を受け、「国家とは国民を守るために存在するのではなかったか。然るに実際は軍隊があることが国民に犠牲を強いているのではないか」と疑問を抱くようになった。
そのあげく「戦争を防ぎ戦争をさくる途は各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」という考えに達し、「国を守るためには軍備は必要ないのだ」という軍備撤廃主義者へと変わった。
 1920年海軍大臣への帰朝報告―「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と(自伝『剣を解く』)。
彼は海軍大佐にまでなっていたが、25年6ヵ月の軍人生活に終止符を打ち、ジャーナリストに転身した。

 水野は欧州大戦の「その凶暴なる破壊、残忍なる殺戮の跡を見て、僕は人道的良心より戦争を否認せざるを得なかった」のだと。
 そして、「ヨーロッパと違い、木造と紙でできた家屋が密集する日本の都市は空襲にはひとたまりもない。日露戦争は第一次大戦と比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの。ところが日露戦争に勝って、おごる軍部は近代戦の恐ろしさを知らない。・・・日本は戦うべからず」と論じて、「軍国主義者から180度転換して反戦平和主義者となった」(前坂)のである。
 1923年、加藤友三郎首相がアメリカを仮想敵国とする新国防方針を決めると、これに対して、日米戦を徹底分析し、「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰塵に帰す。戦争は長期化し、国力・経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にないと予想、日米戦うべからず」と警告した(その予言は的中している)。
 1931年、満州事変が置き、全国の新聞の多くが「満州国」建国を共同声明で歓迎したが、水野はそれを批判、満州問題は日米戦争に発展し日本は敗れ甚大な被害を被ると指摘。
 水野は軍縮論・国際協調論を展開、「中央公論」や「改造」に寄稿し、「軍人は戦争を好むが故に、動もすれば総ての国家機関を戦争の目的に供せんとする」「軍閥、国を亡ぼす」と論じた。
 しかし、1930年、日米戦争の仮想物語「興亡の此一戦」など著書は発禁処分、講演活動も右翼に襲われたりして、彼の言論活動は封殺されていった。
 1932年、小冊子(『僕の平和運動に就いて』)に「日本は今世界の四面楚歌裡に在る。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる・・・・世に平和主義者を以て、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の今の日本に於いて、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と。
 1937年、海軍大臣に公開質問状―「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」と。(しかし黙殺さる。)
 1941年2月、情報局の出した執筆禁止リストに載せられ、一切の発表の場を奪われる。
 1943年、郷里の愛媛県越智郡津倉島に療養疎開。
 1945年8月16日、同友・松下への手紙に「日本において最も緊急を要するもの、国民の頭の切り換えであります。まず第一に神がかりの迷信を打破すること・・・」と。
 同年10月18日、死去(享年71)

 水野が書き残した膨大な原稿の中には「時代から理解されなくても、同じ過ちを繰り返してはならないと訴え続けることが必要だ」とのメッセージが書き連ねられていた。
 そして晩年に書き残した言葉には「反逆児、知己を百年の後に待つ」と。

2011年12月23日

北朝鮮とかつての日本―危ない共通点(加筆版)

●経済危機―かつて日本も世界恐慌以来、経済危機にあった。 
     北朝鮮は1980年代から経済停滞(韓国に差をつけられる)、ソ連・東欧社会主義圏の崩壊で軍事・経済の支援が得られなくなって窮地に(韓国はロシアとソ連崩壊前に国交、その後中国とも国交)。中国は、食糧と重油だけは支援し続けている。
     北朝鮮もかつての日本も、国民の欠乏・飢えが深刻
       閉塞感―現状打破を求める
       不満のはけ口を外に向ける―対外強硬路線―日本は米英敵視(「鬼畜米英」)
●ともに独裁体制へ―かつての日本は軍部独裁
●ともに軍国主義―軍事力に依存―軍備拡張―かつての日本は戦艦・空母・伊号潜水艦・ゼロ戦・中攻(96式陸上攻撃機)など、北朝鮮は核・ミサイルに頼る。
●ともに全体主義―個人の自由・人権抑圧・言論統制(がんじがらめの相互監視・抑圧体制―かつての日本には特高警察と隣組み)
  かつての日本は朝鮮人その他を強制連行、従軍慰安婦も、北朝鮮は日本人その他を拉致
●北朝鮮は対米戦争状態(朝鮮戦争は53年以来休戦しているが終結はしていない)、かつての日本は対中戦争とともに対米戦争へ
●ともに諸国から経済圧力うける―北朝鮮は経済制裁をうけ、かつて日本はABCD包囲網で米英など諸国から経済封鎖された。
  苦し紛れの開戦―日本は真珠湾攻撃・対米英開戦、北朝鮮には「暴発」(戦争を仕掛ける)の危険
  日本は戦争で自国民310万人、アジア全体で2,000万人を犠牲にした。
  日本はアメリカ軍から占領され、大日本帝国の体制は崩壊した。
  北朝鮮がもしも暴発し(戦争しかけ)たら、たちまち反撃されて占領され、体制は崩壊し、韓国主導の統一国家が樹立されることになる。しかし戦争の犠牲者は100万人に達するだろう。
  (1994年、クリントン政権当時、北朝鮮がIAEAの査察を拒みNPTから脱退しようとしたのに対して、北朝鮮の核施設空爆を計画したが、その時のシュンミレーションでは全面戦争に発展すれば、朝鮮半島で死者は軍・民間人合わせて100万人、米国人10万人に達すると予測され、結局、空爆計画は断念した、ということがあった。)
  それに、戦争と体制崩壊にはさらに何百万人という大量難民がともなう。韓国にしても中国にしても、彼らを引き受けられる(経済的・物理的)収容能力はなく、大混乱と社会不安を招く恐れあり。
  だから、中国も韓国もロシアもアメリカも、暴発・戦争など起きないように慎重にならざるを得ないわけ。

●北朝鮮はどうなるか(金正日死去にともない、その未だ若くて経験の浅い三男―金正恩―が後継者となって)、三つ方向
 ①権力内部の抗争―キム・ロイヤルファミリー(正恩とその後見人と目される叔母―金正日の妹―とその婿―張成沢)と党の長老と軍の派閥の間で。それが軍主導の方向に向かい「先軍政治」(軍国主義)がかえって強化
 ②張成沢の主導で改革開放
 ③民衆蜂起―その可能性は少ないと見られる
●関係諸国(日米中韓ロ)の対応は―「対話か圧力か」硬軟両用か
 ①強硬策―「圧力」「北風政策」―軍事・経済制裁圧力で締め付ける
 ②静観策(黙って様子見)
 ③懐柔策―「対話」「太陽政策」―支援の手をさしのべる
 これらのうち、どれが得策か。
 いずれにしても「6ヵ国協議」の枠組みは維持しつつも、実施は未だ。
 日本は国交がなく、非公式にもパイプ(対話の窓口)がなく6ヵ国協議に頼るしかない。
 国交がないため、日本のマスコミ等は情報が取れない。
●肝心なのは、諸国にとっては朝鮮半島の非核化(核開発と核物質・核製造技術の流出の防止)、日本にとってはもう一つ「拉致被害者の解放」、
 北朝鮮側にとっては、アメリカと平和協定(不可侵条約)を結び、脅威を除去して、国家を維持。日本とは過去の清算(植民地支配に対する謝罪と補償)で国交正常化、
 それらが一番肝心なところだろう。
    

民主主義と独裁―イシ=ハシズム?(再加筆版)

民意―多様性―選挙で大勝したとしても、彼の言説のすべてが支持されたとは限らないし、他候補に投票あるいは棄権した人たちを除いた一部の人たちの限られた民意であって、民意のすべてではない(「民意は我にあり」などと豪語することはできない)。
●国民の政治意識・民度(レベル)―成熟度―未成熟なら情緒的でイメージ先行型に。
                      衆愚政治(大衆が政治家の威勢のいい言葉や扇動や利益誘導に乗せられる民主政治)
民主政治の方法
 ①直接民主制―首長選挙、住民投票・国民投票―民意をストレートに反映
 ②間接民主制―民意は議会(二院)を通ず。
  政党―多党制―様々な民意をすくいあげ、練り上げてから議会や内閣に持っていく。
  官僚(選挙では選ばれない)―行政の継続性・一貫性を保ち、民意にはいちいち左右されない―「公務員は全体の奉仕者」であって、大臣や首長への奉仕者ではないし、大臣・首長の意向や命令が直ちに民意・「民の命令」とはならない。
  これらによって民意は抑制
  これら(多党制・二院・官僚制・住民投票など)は権力の横暴を抑えるブレーキに。
  難点―合意・決定には時間がかかり(なかなか決まらなず)、停滞・対立抗争・迷走(首相がコロコロ替わるなど)―国民に閉塞感・イライラ感―特に国難(国家的危機)に際して―強いリーダーを待望―リーダーシップ(決断力・実行力)に期待―独裁・強権政治をも容認
国民の政治意識―朝日新聞社の12月30日発表の世論調査では
「日本の政治をどの程度信頼しているか」―「まったく信頼していない」15%、「あまり信頼していない」55%、「ある程度信頼している」28%、「大いに信頼している」1%
「いまの日本の政治は、国民の意思をどの程度反映していると思うか」―「まったく反映していない」21%、「あまり反映していない」59%、「ある程度反映している」17%、「大いに反映している」1%
「いまの政治があなたの意思をどの程度反映しているか」
「まったく反映していない」が25%、「あまり反映していない」が59%
、「ある程度反映している」が12%、「大いに反映している」は0%。
 「震災後の政治にどの程度満足しているか」―「どとらかといえば不満」52%、「不満」28%、「どちらかといえば満足」15%、「満足」1%。
 震災復興と原発事故への民主党政権の対応「評価しない」71%、「評価する」25%、
 野党の自民党の対応「評価しない」80%、「評価する」16%.
いまの自民党に政権を任せてよいと思うか」―「任せられない」56%、「任せてよい」30%
政党は全体として、国民のほうを向いていると思うか」―「向いていない」85%、「向いている」10%
政治の責任は、政治家だけでなく、政治家を選んだ有権者にあると思うか」―「有権者にもある」86%、「有権者にはない」12%
「いまの日本の政治をみて、首相には何が求められると思うか」―決断力63%、責任感34%、政策立案力17%、国際性16%、調整力11%、理念11%、発信力8%、庶民性8%、クリーン5%
首相にはだれがふさわしいと思いますか(国会議員かどうかにかかわらず、一人だけあげるとすれば)」―石原慎太郎8%、橋本徹6%、小泉純一郎4%、ビートたけし3%、池上彰3%、東国原2%、小沢一郎2%、孫正義・石破・前原・安倍晋三・枝野・野田・田中真紀子各1%
「これからの日本は、どんなふうに呼ばれる国になってほしいか」―「平和国家」32%、「福祉国家」24%、「経済大国」14%、「環境先進国」11%、「科学技術先進国」8%、「文化国家」5%、「防災先進国」4%
●「独裁」―個人独裁・一党独裁・二党独裁(二大政党制)・大政翼賛会(オール与党)型など諸形態あり
 橋本氏―独裁を容認―「日本の政治の中で一番重要なのは独裁」「独裁と言われるぐらいの力が日本の政治に求められる。政治はやっぱり独裁でなきゃいけない」と。 
  独裁の利点―事態を一気に動かし、改革を断行できる
  仁徳に優れ有能な人物である場合―善政(富裕層に増税し、民衆に分配。特権階級から特権を奪い民衆を助ける)「英雄」として民衆から迎えられ、人気を博する。
  単なるデマゴーグ(煽動家)―敵をつくって叩く(バッシング)、破壊的な言動が大衆にうけて人気を博する。
  弊害―権力の横暴(暴政・圧政)へ―少数意見は排除され、弱い人たちが犠牲にされる。

●その肝心なところは―そのやり方・その政策で市民・国民をいったいどこへ導くのかだ。はたして良いほうへか、悪いほうへか。幸福へか、不幸へか。

●ハシズムorイシ=ハシズム(石原・橋本ライン)は?
  彼らによる教育基本条例は?               
 12月21日両者対談―教育基本条例と職員基本条例で意気投合―教育基本条例は東京都も検討へ、と。
●現在の教育委員会制度には問題があることは確かだ―当初は公選制だったのが、首長による任命制(首長は自分の気に入った人を任命でき、首長の息のかかった人が任命されがち)に変えられてしまっていることなど。ところが、それをもっとストレートに首長の意思が貫かれるようにと、教育目標を首長が決めることを可能とするのが、この教育基本条例。民意を取り入れるのであれば、公選制こそがいちばん望ましいはずなのに。
  このような条例によって戦後民主教育の基本原則である政治(時の権力者)からの教育の独立性・中立性が突き崩されてしまうことになる。
  それに、この教育基本条例と職員基本条例によって、教員や職員は職務命令と5段階評価でがんじがらめに締め付けられ、その専門性や「全体の奉仕者」たる公務員としての信念(良心)に基づく自由裁量権が奪われてしまい、職務上の上司に対しては必要以上に(心象を好くしようと)気を使い(首長の言いなりになり)、生徒・住民に対しては心を通わせた真の教育や住民サービス(そのために日々悪戦苦闘している、それが)ができなくされてしまう。
 それらは権力の横暴を許す結果になる。それは生徒・住民にとっては不幸なこと。
 そのような方向に導かれていく。それこそが重大なことなのだ。
●それにつけても、首相がコロコロ替わり、足を引っ張り合うだけの与野党など既成政党の政治家に嫌気をさしている国民の多くが、今、さっそうとして強烈なリーダーシップを持った人物に引き付けられていることは確か。しかし、鼻っぱしらが強くケンカ言葉上手でありさえすれば誰でもいいというわけにはいかず、どういう志向性もち、国民や市民をどこにもっていこうとしているのか、よく見極めなければならない。やらせてみたら、いつの間にかアメリカのような競争・格差・自己責任社会かつての大日本帝国あるいは今の北朝鮮のような権威主義国家(国旗・国歌での起立斉唱など命令を絶対視する)など変な方向へもっていかれてしまってはたまらない。ヒットラーとムッソリーニの「ベルリン・ローマ枢軸」ならぬ「東京・大阪枢軸」・・・危ない、危ない!


 

2012年01月01日

1月のつぶやき

●孫よ。消費税10%になったら、100円のボールペンを買うのに10円余計にかかり、1,000円の本を買うのに100円も余計にかかることになるんだぞ。総理大臣は「付けを子や孫の世代に先送りしてはならない」なんて言っているが、孫のお前たちからまで税金を取るなんておかしくない?
●また咳き込みだした。夜、うるさくてかなわね、と口説かれる。降り積もる雪の中、デジカメをぶらさげて徘徊し、罰が当たったか。ゲホン、ゲホン(ちくしょう!―つぶやき)。
●TVのサンデーモーニング(震災復興・原発問題、社会保障削減・消費税増税問題、沖縄基地問題、そして解散・総選挙など、諸問題を取り上げていた)を見て、「今年は『ちくしょう!ちくしょう!』の年にるな」というと、女房「やめてけろな、『ちくしょう』なんて、その言葉を聴くたびに、こっちのストレスがつのる」。
●孫を連れて映画「山本五十六」を見てきた。
 映画では、当時「首相は7年間に9人も替わった」とか、「新聞が国民の閉塞感を煽っていた」とか、あたかも今の日本を思わせるかのような時代状況を示すセリフやナレーションが語られていた。実際、当時マスコミに煽られた国民の間には日独伊三国同盟・対米開戦を望む声が強まり、優柔不断な近衛首相に対して対米強硬派・主戦論者の東条独裁を歓迎するムードが強まっていった(マスコミは東条を「行動する指導者」として演出した)。対米非戦論にたつ山本は暗殺さえも心配され、海軍次官を解任されたが、対米開戦が決定されるにおよんで、山本には連合艦隊司令長官として対米作戦計画の立案・作戦総指揮に当たるという任務が課せられ、真珠湾奇襲・ミッドウェー海戦など対米作戦敢行を余儀なくされた。それでも、彼はあくまで早期講和をめざしたとして、映画では、山本を非戦平和主義者として描いている。しかし、その非戦論はあくまでアメリカとの戦争の話しに限られ、彼には日本が中国との戦争から手を引くことなど念頭にはなかったと言われる。
 孫に「意味わかったけが?」と訊くと「うん、だいたい」。「山本何と言う名前だっけ?」「山本なんとか六」「五十六と書いて『いそろく』と読むんだよ」。「南雲という司令官がいたが、あの司令官は米沢の南原出身だったんだぞ」。
 いずれ、おいおい、もっと詳しく教えてやらなくては・・・・。「やってみて、説いて聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という山本の言葉も。いや、これは、親たちに教えなきゃならない言葉だ・・・と思って、家で親たちに聞こえよがしにその言葉を語ったが、親たちはテレビのバラエテー番組から目を離さなかった。「だめだこりゃ」。
●米沢では例年になく、12月中に、あちこちの家で雪降ろし、我が家でも娘が屋根に上がったので、梯子かけを手伝った。
 それに、先月は地震が3回あって1回はガタンときたが、震度は3だった。しかし、震源地はいずれも当地置賜地方だった。インターネットで調べてみると、4月5日から12月まで32回、マグニチュードは(10月28日)最高で4,1で震度は3。
 今年も自然災害には気をつけなくちゃ。放射線量は米沢はほぼ0,1μSv/h以下。
●さて今年は何をしようかな。できることをやるだけの話しだが、(経済力・技能・体力など先だつものから言って)当方のできる範囲というのは非常に狭い。せいぜい、新聞・テレビを見てHPに評論を書くぐらいなもの。他には孫に勉強以外の人の生き方・物の考え方などに関したことを、たまに思いつくままに教えることぐらいかな。

2012年01月18日

マスコミが流す論評や巷の声のワンパターン―消費税増税(完成版)

「膨大な国の借金―財政破綻の危機―「次世代に付けを回すわけにはいかない」―だから消費税増税は『避けられない』―それは『しかたない』としても、だったら、その前に政治家が身を削るべきだ―公務員と国会議員の給与や定数を削減すりゃいいんだ」
「財源不足―社会保障破綻の恐れ―消費税増税は避けられない」
「北朝鮮・中国の脅威―日米同盟は機軸―沖縄米軍基地の維持―普天間の沖縄県内移設はやむをえない」
「エネルギー不足―節電―電気料金値上げは避けられない―原発再稼動もやむをえない」
「関税など互いにはずして日本の製品や産物をどんどん輸出できるように、また海外からより安い産物を買えるように、TPPもやむをえない」

 これらはいずれも財界の利益に即してマスコミが流している論調―政府は「国民によく説得せよ」と促し、けしかけているかのようだ。
 野田政権はこれを追い風にして勝負に打って出ようとしている。

 野田政権は消費税の増税を14年8月から8%へ、そして15年10月から10%へと2段階を踏んでやり遂げようとしている。ここでは、その消費税増税論について論評したい。
(1)「財政危機」「財政破綻に直面している」―本当か?
 インターネットで菊地英博氏(日本金融財政研究所長、11年3月23日参院予算委員会公聴会で公述)らの見解参照。
 「日本は世界一の対外純債権国であり、日本は財政危機とはほど遠く、財務省は財政危機を『偽装』している」と。
 「諸外国は日本が財政危機に陥っているとは思っていない」(中川俊男氏)。
 「国の借金」―債務総額(粗債務09年末で、国・地方合わせて872兆円、12年末には937兆円、対GDP比195%)では確かに先進国で最悪。 (以下の数字はいずれも09年末のもの)
 しかし、債務総額の約半分は二重にカウントされている(加藤寛―90~2000年政府税制調査会長が指摘)―政府が国債などによって集めた資金や年金基金などからも他の政府機関や地方自治体・外国政府などへまた貸ししているが、それも負債として加算されている)。
 日本政府の金融資産(513兆円、米国債など―外貨準備、郵政株など有価証券、特殊法人への出資金、国民が積み立てた年金・健康保険など社会保障基金)は世界一 ―GDPに匹敵(欧米諸国は15~20%程度しか)。
 粗債務-金融資産=純債務(359兆円)―一国の財政状況をはかる指標としてはこの方が国際的常識。
 (京都弁証法認識論研究会のブログによれば)例えば、200万円の借金をしていて他に何も資産を持っていないAさんと、500万円の借金をしているが、預貯金や株式などの金融資産400万円を持っているBさん(その純債務は100万円)とでは、危機的な状況にいるのはAさんの方なのであって、単に借金の総額だけでBさんと決め付けることはできまい。
 尚、貯蓄・生命保険など国民の金融資産は1,400兆円(世界一、国内の銀行や保険会社などの金融機関はそれを元手に政府の国債を引き受けているが、今のところ、その債務残高900兆円をまだ大きく上まわっている)、その内の海外への投資分(対外純資産)は266兆円で世界一。(但し、高齢者が貯蓄を取り崩すなど、現在それは低下しているので、長期的には安全とはいえない、とも―国債の発行残高が増え続けることは問題)。
 ギリシャもアメリカも財政赤字だけでなく経常収支(貿易収支と貿易外収支)も赤字なのだが(むしろこの方が重大)、日本は経常収支はまだ黒字(貿易収支は昨年31年ぶりに2.5兆円の赤字になったが、貿易外収支のうち外国証券や海外子会社などからの利子・配当収入で所得収支が黒字なので、トータルでは10兆円弱の黒字)。
 海外投資家からの債務は、ギリシャは7割以上、アメリカ・ドイツも半分以上占めるが、日本はわずか7%だけで、9割以上が国内の投資家からのもので、ヘッジファンドなど外国の投機的な売買に振り回されることが少なく、利子も海外流出はわずかで国内に回り、景気への影響も少ない。

 ところが、最近のNHK「クローズアップ現代『2012年岐路に立つ世界経済』」で、次のようなことを解説していた。
 IMFが日本国債についての報告書で、海外投資家が日本国債の先物を扱う(デリバティブ)市場で売りを仕掛けてくる(ターゲットになる)可能性があると指摘、その結果、安定して推移している国債の金利を上昇させる恐れがあるというのだ。そうすると(国債の先物といったデリバティブから崩れていけば)、「国内の投資家も、一斉に投資スタンスを変えなければいけなくなり、今いっぱい持っている国債を投売りし始めるようになる、これが一番大きな問題だ」というわけ。
 日本国債は今、いくつかの条件が満たされているので金利1%以下に保たれているが(10年もの国債の利回りでは、ギリシャ国債は34.96%、イタリア国債は7.108%だが、日本国債は0.988%)、それが崩れるとヨーロッパのような危機に陥る可能性がある(マーケットというのは一度弾みがつきはじめると誰が何と言おうと信用されなくなる)。いつまでもつか、早ければ数年(倉都康行・国際金融アナリスト)、家計貯蓄がこれから減ってくるということを考えれば5年もつかだと(伊藤隆敏・東大教授)。日本国債の信用維持のためには「健全な財政」に早く戻す「財政再建」(それは避けて通れない道)の明確な道筋・方向性を示すメッセージを国としてしっかり出していくことが必要だ。それがないと市場が不安がる、というわけ。
 日本国債は世界の債券市場では優良銘柄で、格付け会社によって最上位(トリプルA)と見なされてきたが、このところ巨額の債務を理由に、一段下(ダブルAプラス)へ格下げられている。今、国内の金融機関の間でも日本国債に対して慎重な見方が広がりつつあるという。
 金利1%上がれば1兆円超の利払い費がかさみ、わずかな金利上昇でも利払いが膨らみ、財政をさらに圧迫する。 
 だから、そうならないうちに早く消費税増税を決めてしまえ、というわけか。
要するに、政府が何か手を打たないと、ヘッジファンドなど海外投資家が日本国債の先物市場で売りを仕掛けてくる可能性がある(その結果、安定して推移している国債の金利を上昇させる恐れがある)、だから、政府が消費税の増税を敢えて強行するのを国民は甘受せよというわけか。ヘッジファンドによる「仕掛け」(いわば陰謀)など投機マネーに振り回されることを恐れて庶民増税、そんなの理不尽だ。
 尚、NHKの同番組(「クローズアップ現代」)では、ロナルド・ドーア氏(イギリス人・政治経済学者で日本に留学、半世紀以上にわたって日本の資本主義と文化研究)にインタビュー、氏は「世界経済全体が金融化されていて、金融業者の支配下に置かれている。それが災いの根源。そういう資本を持っている投資家が今の世の中に少なくなっていて、ほとんどが投機家。銀行が投資家の役割を果たして、ただギャンブルする投機家の役割ができないような制度に変えるべきだ」と語っていた。

 日本政府の債務膨張・財政赤字の拡大が日本国債の信用を失墜させる結果になる。その債務膨張を招いた原因は①自民党政権以来重ねてきた不要不急の大型公共事業と米軍への思いやり予算などを含めた軍事費などの無駄―ゼネコンや日米の軍需産業への大盤振る舞い②大企業・富裕層への優遇税制(法人税減税、所得税の最高税率を切り下げるなど、取るべきところから取らない)―それはまた直接税(所得税や法人税など)のビルト・イン・スタビライザー機能(「自動安定化装置」―不況期に財政赤字が増えても、好況期には企業利益や賃金が増えるので税収が増えて赤字が減るという機能)を働かなくした、この二つである
 このやり方を是正すること(無駄を削減すること、大企業・富裕層への優遇税制をやめること、労働者の賃金・中小企業の収益をアップすること)は不可欠。それなしに単に穴埋めするために「取りやすいところから取る式」の消費税など庶民増税をするのは理不尽である。
 また、消費税増税は国民の消費を冷え込ませ(需要不足→生産・投資・雇用の連鎖的悪化を招き)、さらなる景気悪化を招き、税収を落ち込ませ、かえって財政危機を強めこそすれ、財政再建にはならない

(2)消費税はいいものだ?
経産省とマスコミの宣伝―①「広く薄く課税し、世代に偏らず公平」
 ②「国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障財源に相応しい」
 ③「所得税や法人税と比べて、景気の良し悪しに左右されない」         
 「増税分を福祉などの分野にあて、生活の安定と雇用を増すことで消費が増加して景気が回復して税収も増え、経済が成長」
         ④「シンプル(やり方が簡単)で安定財源」だと。

公平で社会保障財源に相応しいか?
 平均的な家庭で、(09年)消費額が月25.4万円で、5%消費税は1.3万円、年間では消費額300万円で、消費税15万円だが、(年収300万円の家庭と年収1,500万円の家庭とでは)所得の低い人ほど、所得のうち消費にあてる割合が高い(逆進性)―社会保障財源としては、むしろ最も相応わしくない。
 消費税というのは、いわば低所得者や所得の無い子供からまで合法的にカネをまきあげるもの。
 そして、売買で強い立場にある方が得をする(取引先との力関係で弱い中小零細の、とりわけ自営業者により重い負担を強いる)―メーカー・部品メーカー・卸業者・小売業者はそれぞれ消費税を価格に上乗せ(転嫁)して売り渡すことになっているが、下請けなど中小零細企業や自営業者は大口顧客(大手メーカー・大手百貨店・ス-パー・チェーン店など)から値引きを強要されて、それがなかなかできず、結局自分でかぶる(自腹を切る)か、滞納せざるを得なくなる、といったことが多くなる(滞納額はあらゆる税のなかで消費税がワーストワン)。日本商工会議所によると、税率が今後引き上げられれば、売上高5千万円以下の事業者の6割以上は転嫁できないと。
 (自殺は12年で連続で3万人を超え続けているが、「自営業・家族従事者」は3,202人で全体の9.7%なのに対して、「被雇用者・勤め人」は27.9%なので、両者の比率は1対3だが、就業者全体にしめる「自営業者」と「被雇用者」の割合が1対7であるのに比べれば、自営業者の自殺率は非常に多い。)
 一方、大企業など輸出比率の高い企業は、輸出や国際輸送など輸出に類似する取引では売上に対して消費税は免除され(「仕入れ税額控除」)、仕入れで負担した消費税は還付される(「輸出戻し税」)ので、消費税は全くかからない。
 (尚、会社設立したばかりの2年間と年間売上1千万円を超えない事業所は消費税は免税―「益税」) 
「景気の良し悪しに左右さらず、福祉など雇用が増えて経済が成長する」?
 保育・介護・救急医療などは確かに雇用が増えるが、それだけのことで、それだけで景気回復・経済成長を云々するのは机上の空論。
消費税増税で消費が冷え込み(消費マインドが低下して)景気をガタンと悪化させる。
④シンプルか?
 一般の消費者は店に代金とともに支払うだけだが、税務署に自己申告して直接納めに行く事業者は課税の事実を証明できる帳簿や請求書の類を保存しておかなければならず、書類作成の事務負担が非常に煩雑。
 「シンプルで安定財源」だというのは徴税する側の都合。
 それに消費税には派遣社員の増大をもたらすという弊害がある―納税義務者(事業者)は、仕入れのために支払った消費税を差し引いた金額を税務署に納めることになっている(「仕入れ税額控除」)が、派遣社員や請負社員への報酬にも、物を仕入れたのと同様の消費税率(5%)控除が適用されるので、正社員を減らして派遣社員に切り替えれば、その分が節税できることになっているから。(2,000年11月の朝日新聞だが、1989年消費税導入以来、人材派遣事業所は2倍に増えている。)
(3)日本の消費税は低すぎるか?
 消費税の税率(5%)はヨーロッパ(20%前後、イギリスは17.5%)に比べれば確かに低いが、国税収入全体に占める消費税の割合から見れば、22.1%でイギリス22.5%、スウェーデン22.1%とほぼ同じ。ヨーロッパの税収が税率ほど高くないのは、食料品・生活必需品など広範な分野に完全非課税や軽減税率が適用されているからだ。
 それに、ヨーロッパ諸国が消費税(「付加価値税」)を取るようになったのは、帝国主義の戦争時代、戦費調達とともに、銃後を守る女性や子供・老人たちが安心して生活できるだけの社会保障が整っていないと、戦争に兵士を動員できなくなるから、といった理由から始ったのであって、戦争にともなう歴史的な背景があったことを考慮しなければならない。だから高福祉・高負担なのである。
 逆にアメリカでは、州によっては「小売り売上税」(小売店だけが顧客から預かって納める形の消費税で、他の流通段階には適用されない)を導入しているところもあるが、国税としては消費税も付加価値税もない(かつてレーガン大統領当時、税制改革案に関連して財務省は大統領に報告書を提出したことがあったが、その時、消費税の欠陥を指摘して次のように書いている。「もし、付加価値税がすべての消費購入に均一税率で適用されるならば、租税の相当部分は貧困レベル以下の人々によって担われることになる。平均的に言って、消費目的のために使われる所得の割合は、所得が増すにつれて低下するから、このような租税は逆進的である」と。その結果、大統領提案の税制改革案には、この税の導入は盛り込まれなかったという。ブッシュ大統領の時にも、その導入は見送られている。)
(4)増税は必要だとしても、それがなぜ消費税でなければならないのか?なぜ、法人税減税なのか?
 消費税以外に法人税・所得税などいろんな税があるのに、増税と言えば、なぜ消費税しかないかのように言うのか。
 それは財界・富裕層にとって、その方が得だからにほかならない。法人税減税や低い所得税最高税率の低さや証券優遇税制などで優遇されている彼らにとっては、消費税の導入・増税で、それによって社会保障財源が賄われようになれば、自らにかかる法人税の減税など大企業・富裕層遇税制が維持できるからだ。
社会保障と税の一体改革」と称して消費税増税、それは法人税減税のためにほかならないということなのだ。
 そもそも1989年消費税が「福祉の拡充」を掲げて初めて導入されると同時に法人税が下げられはじめ、97年消費税率が3%から5%に引き上げられとその翌年、法人税のほうはさらに引き下げられ、99年には所得税の定率減税とあいまって法人税はさらに引き下げられた。(所得税の定率減税のほうは06~07年打ち切られたが、法人税減税はそのまま。)
 消費税は社会保障財源に当てるため、といった「福祉目的税」化は、結局、所得税や法人税など他の税は軍事費や公共事業費などに当てられ、あとは「借金返済」に注ぎ込まれる、ということになる。
(5)法人税は?
 法人税は1980年代には40%台だったのが、99年以降30%に減税されている。
 財界とマスコミは、日本の法人税は「世界一高い」、これでは「国際競争力が損なわれる」、「工場の海外移転が増え」「海外からの投資が損なわれる」と。
 財界内部から(税務弘報10年1月号鼎談「あるべき税制論議」で、経団連の阿部泰久経済基盤本部長)「日本の法人税は決して高くはない」「表面税率は高いが、いろいろな政策税制あるいは減価償却から考えたら、実はそんなに高くはない。・・・・特に製造業であれば欧米並み・・・。日本の法人税負担は、税率は高いが税率を補う部分できちんと調整されている、」と。実際、大企業は研究開発減税や外国税額控除をはじめとする幾多の優遇措置を受け実質的な税負担率は平均で30%程度にとどまっている。アメリカ(カリフォルニア州など)は40%で日本より高い。

 法人税だけの比較ではなく、それに社会保険料を加えた企業負担(税+社会保険料)を比べれば、日本企業の負担はドイツやフランスの企業より2・3割少ない。
 法人税を減税すれば、その分を雇用や投資に回せるというが、その保証・見込みはなく、溜め込み(内部留保)に回るだけ。
 工場の海外移転は、必ずしも日本の法人税が高いからという理由ではなく、むしろ人件費(労働コスト)、海外市場の将来性、それに円高のほうが大きな理由なのだ。
 法人税減税で中小企業は助かるか?中小企業は一定の所得までは軽減税率(18%)が適用されるため、法人税の基本税率(30%)引き下げの恩恵はない。それに中小企業は内需低迷や大企業の下請け単価の買いたたきで赤字決算のため、そもそも法人税を払える状態ではないのだ。
 ところが、三大メガバンク(三菱UFJ・三井住友・みずほ)グループ傘下の6銀行は10年以上、法人税ゼロとして済まされている(企業は「欠損金の繰越控除」で、法人税納付に際して過去の損失を7年間繰り越して黒字と相殺することができることになっていて、不良債権処理で発生した巨額の損失を繰越すことで、課税所得が相殺されて法人税納付ゼロが続いていたため)。
(6)所得税は?
応能負担の原則」を踏まえた累進課税で、所得に応じて税率が高く、所得の多い人は多く納め、所得の少ない人は少なく納めるというやり方。以前(1970年代)には19段階にも分けられ、最高税率は75%だった。ところがそれが段々、段階が減らされ、最高税率は引き下げられ、今では6段階、最高税率は40%、つまり課税所得が195万円以下の人は5%(最低税率)、1800万円を上回れば、どんな高額所得者でも40%しか取られなくなっている。そっちの方(富裕層の所得税)を上げるべきなのでは?。
 「富裕層に課税を」は世界の流れ―いま、アメリカでもヨーロッパでも富裕層自身が「もっと税金をとってくれ」と言っている状況。
 社会保障は、本来は弱者支援が基本―そのための政策手段は「再分配の強化」が基本。「所得の再分配機能」をもつのは所得税の累進課税なのだから、所得税こそが社会保障財源として最も相応しい。今は、最高税率の引き下げと段階縮減で所得再分配機能が低下してしまっている。
(7)その他の税は?
証券優遇税制」―株式など金融資産の譲渡益・配当に対する税率20%だったのが10%に引き下げられていて、その措置をさらに延長しようとしている。
 相続税―最高税率(法定相続人の取得金額が20億円超の場合に適用)が02年までは70%だったのが50%に引き下げられている。
 これらの改変も必要。

 以上、(参考―斉藤貴男「消費増税で日本崩壊」)
(8)議員定数削減―比例80人減らしていいの?公務員給与下げてしまっていいの?
 政治家が身を削って議員定数を削減し、そのうえで、消費税を上げるなら上げろ、というが、比例定数80人減らすなんて、そんなことしていいの?
 国会議員は民意を代表する者。政治で飯を食う議員を減らすというが、議員定数を削るということは民意を削るということのもなる。
 とはいっても、国会議員の中には確かに「いてもいなくてもいい」ような議員もいることはいる。だからといって、小選挙区比例代表並立制の議員定数(小選挙区300人、比例180人)のうち、民意をより正確に反映するほうの比例代表部分を80人も減らしてしまったら、各小選挙区から二大政党のどちらかが選ばれる両大政党の議員が相対的に多く残り、多勢に無勢ながらも、少数精鋭で頑張っている少数党の議席がさらに、ガタンと減ってしまうことになる。(TBSサンデーモーニングによれば、試算では、公明党は半減して10人、共産党は4人、社民党などはゼロになるという。)
 これでは、消費税増税も、原発再稼動も、普天間基地の名護移設も、TPPも、そして9条改憲も、賛成派二大政党とそれらに準ずる小党だけで3分の2を超える議席が占められ、何もかも簡単に決められてしまう。
 そもそも、かつての中選挙区制を廃して小選挙区比例代表並立制という現在のやり方に変えた細川内閣の選挙制度改革を支持して二大政党制に仕向けてきたのはマスコミだったが、(当時大手メディアは「政治改革」と称して大キャンペーンを張った)その二大政党制をさらに徹底させようとするもので、日本には保守二大政党しかいらないという体制を敷こうとするものだ。このようなことを許してはなるまい。細川氏、それに彼の選挙制度改革に合意を与えた河野当時自民党総裁も、小選挙区制を導入したのは間違いだったと言っているのに。
 公務員給与―ストライキ権を取り上げられた公務員に対して人事院が民間の給与水準をみて公務員の給与アップを勧告するするというシステムをとってきて、以前は公務員よりも民間の方が高すぎるからといって民間の方が下げた。それを今度は公務員の方が相対的に高すぎるから下げろと。公務員を下げれば民間も下げる。結局そうやって公務員も民間もみんな給与ダウンしてしまう。全般的に所得が減れば景気はさらに悪化するという悪循環になりかねまい。
 税金の無駄を削るというなら、むしろ政党助成金こそ返上させるべきだ。国会議員を80人減らしても56億円削減されるだけだが、政党助成金を返上させれば360億円削減になるのだから。

 
 

2012年01月27日

愛国心・国旗・国歌問題

(1)愛国心には二通りあり、一つは、生まれた国・同胞への愛着、もう一つは、その 一員として権利・義務をもつ国家・国民共同体への愛着。
 前者は、親子・家族の情愛や郷土愛などと同様、自然に生まれ育つ感情なのであって、わざわざ教えなくても済むもの。
 後者については、憲法上の国家の理念や権利・義務、歴史・伝統文化など学校その他で教えなければならない。
 しかし、「愛国心を持て」などと押し付けがましく教えるたりする筋合いのものではない。ただ、よく教えておかなければならないことは「誇りを持つのはいいが、驕り・独善になってはいけない」ということであり、「自国のために他国を犠牲にしてはばからないような自国エゴに陥ってはならない」ということである。
(2)国旗・国歌は、それが誰しも違和感なく受け入れられる旗や歌ならば、それを掲げ、斉唱させることによってと愛国心を高揚させ一体感を醸成させる効果をもつ。
 しかし、「日の丸」・「君が代」は、そもそも戦前来の「大日本帝国」のイデオロギー(国家思想・価値観・世界観)と結びついていた「帝国」の国旗であり国歌だったのだ。戦後「日本国」となって、国は全く変わった。(ドイツやイタリアでは戦後、国旗・国歌を改変。)ところが「日の丸」・「君が代」はそのまま。99年それを正式に国旗・国歌とする法案が国会で可決された。しかし、衆院では86名、参院では71名の反対があって、審議の過程で政府(小渕内閣)はそれらを「強制はしない」とする見解を繰り返し述べていた。(当時の野中官房長官は「式典等において起立・斉唱する自由もあれば、しない自由もあろうかと思うわけでございまして、この法制化は、それを画一的にしようというわけではございません」と答弁している。04年天皇は園遊会の席上、当時都教育委員だった米長氏が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたのに対して、「やはり、強制になるというものではないのが望ましい」と。)
 それを掲揚し、歌うことに疑問をもたない人は多いが、中には拒否感を持つ人もいるのだ。(それらは国民の間に定着していると思っている人もいるが、必ずしもそうだとは限らないし、それらを好きな人もいれば、忌み嫌う人もいるのである。オリンピックやワールドカップでは誰もが日本選手を応援してもだ。)
 それを「多数」の支持を背景にして知事や教育委員会や校長が強権を振るって強制すれば、思想・信条の自由を害し、そんなことがまかり通ればファシズム(全体主義)になってしまう。
(3)公教育の場で生徒・教師・親たちが心を一つに祝い合う卒業式などの式典に、「踏み絵」のようにイデオロギーに関わる対立・わだかまりのタネを持ち込むのは望ましくない。少なくともそれを強制すること自体、儀式に臨む生徒・教師・親たちにかえって要らざる困惑やギスギスした重苦しさ与え、規律・秩序を乱す元にもなる。そのような事態が想定されるにもかかわらず、それを強行し、強制に服さないからといって、その者を罰するのは全くお門違いというものだろう。国民の内心に踏み込む強制や押し付けは国民の嫌気をさそい、かえって愛国心を損なう結果を招き、人心統合を崩す元にもなろうというもの。
(4)1989年からの経緯
   89年3月日の丸掲揚と君が代斉唱を義務づける学習指導要領が告示
   99年2月日の丸・君が代問題をめぐり広島県立世羅高校長が自殺
     4月石原慎太郎氏、都知事に就任
     8月国旗・国歌法が成立
   2003年3月全国の公立小中学校・高校のほぼ全てで、卒業式に日の丸を掲揚し、君が代を斉唱
    10月東京都教委が教職員に起立斉唱などを義務化
   04年3月都教委が、君が代斉唱時に不起立の教職員ら171人を初の戒告処分に
     5月都教委が、不起立の生徒が多い学校の教員に指導
   06年9月東京地裁が都教委の通達や職務命令を違憲と判断
   07年2月最高裁が君が代のピアノ伴奏命令を合憲と判断
   11年3月東京高裁が、不起立教員ら167年への都教委の処分を「懲戒権の乱用」と取り消す判決
     5月最高裁が起立斉唱の命令を合憲と初の判断
     6月大阪府で、公立校教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例が成立
   12年1月16日最高裁が不起立教員に対して戒告は認め、減給・停職は取り消す判決
(5)16日の最高裁判決は、教職員に起立斉唱させる職務命令は憲法19条に違反するものではないとし、不起立行為は職務命令違反であり、式典の秩序や雰囲気を一定程度損ない、生徒への影響も否定しがたい。それに対する懲戒処分は学校の規律や秩序を保つために重すぎない範囲内ならばやむをえないとしている。行き過ぎた処分には歯止めをかけたが、起立斉唱の職務命令と懲戒処分そのものは認める判決を下した。
 起立斉唱の強制は思想・信条の自由を侵し、精神的苦痛を強いるもので(都立高校に30年勤めたある男性教員は「踏み絵」を強要されている気がしたと―朝日)、憲法19条(「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)の規定と両立するとは普通思えまい。06年東京地裁は都教委の通達や職務命令を違憲と判断し、斉唱の義務はないとしている。
 16日の最高裁判決における4人の多数意見に対して、宮川裁判官は、学説などでは起立斉唱を職務命令で強制することは19条に違反するという見解が大多数だとして反対意見をのべている。宮川裁判官は不起立行為は、「いわゆる非行・違反行為(セクハラや体罰など―筆者)とは次元を異にする」として「戒告でも重過ぎる」とも。
 判決は、不起立行為は、積極的な妨害ではないものの、式典の秩序・雰囲気を一定程度損なうとしているが、そもそも職務命令で起立斉唱を強制すること自体が式典の秩序・雰囲気を損なう原因になっているのだ。式典にそれらを無理やり押し付けたり、強制したりしなければ、それは和やかな雰囲気のもとに平穏無事に執り行われるはずのものなのだ。

 裁判官は権力擁護の立場に立っているか、自由・人権をを守る立場に立っているかだ
 (6)この問題の根本的な解決法はといえば、それは強制されることなく老いも若きも国民の誰からも受け入れられ、心を一つにして仰ぎ歌える新しい国旗・国歌に改変することだろう。
 たとえば国歌なら「われら愛す」―これは戦後主権回復後の1953年、サントリーの壽屋が企画して「新国民歌」を公募、5万余の応募の中から、審査員(山田耕筰、西条八十、古関裕而、堀内敬三、サトウハチローら)が選んだもの。作詞は当時山形南高校の国語教師だった芳賀秀次郎。作曲は西崎嘉太郎だが、行進曲調で、当方には忘れられない曲だ。当時毎朝ラジオから流れていたから。
 歌詞は次ぎのようなもの。
 3番「われら進む
    かがやける 明日を信じて
    たじろがず 
    われら進む
    空に満つ平和の祈り
    地に響く自由の誓い
    われら進む
    かたくうでくみ
    日本のきよき未来よ
    かぐわしき夜明けの風よ」

2012年02月01日

2月のつぶやき

●注目!9日の山新朝刊の投稿欄「私の主張」に長井市・渋谷善雄「政党助成金を復興資金に」が載っていた。電話で「全く同感!さすが・・・」というと、「先生の教え子だげあんべ」と。
●11日「建国記念の日」ということになっているが、米沢では「雪灯篭祭り」のこの日、市主催(「米沢市都市交流事業」)で姉妹都市の沖縄市長講演会が催された。講演に先だって米沢市長が挨拶、「雪灯篭祭りはそもそも戦争犠牲者の鎮魂の灯を燈し、平和を祈るためのものだ、明治の初期、最後の藩主だった上杉茂憲公が第2代沖縄県令を務めた縁から姉妹都市になっているとのこと。沖縄市長(東門美津子氏)の講演の演題は「75 %の苦悩、0.6%の叫び―日本の形、沖縄の心」というものだった。戦争では唯一の地上戦場になり、県民の4人に一人が犠牲になって戦後67年、沖縄が日本国憲法の下に本土復帰して40年、なのに未だに、日本の国土のわずか0.6%の沖縄に在日米軍基地の75%もが存在し続け、憲法9条よりも日米安保が優先されて、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争の前線基地になり、様々な危険や被害にさらされ続けている。自分が国会議員だった当時、町村外務大臣に米兵による少女暴行事件をどう考えるかと質問したら、大臣は、「それは米軍の抑止力という存在価値とのバランスで考えなければならない」というような言い方。鳩山首相の「最低でも県外移設」論にせっかく期待したのに「抑止力」を理由に撤回、ところがその抑止力(論)は方便だったという。たとえ在日米軍の存在は必要不可欠だとしても、なぜいつまでも沖縄でなければならないのか。「本土の沖縄化か、沖縄の本土化か」いったいこの国は・・・・といった話しだったが、会場(伝国の杜・置賜文化ホール)の観覧席はあふれ、大会議室(中継録画)まで満席の盛況だった。雪灯篭祭りの賑わいよりも、講演会のこの賑わい、さすが米沢市民というか、米沢市民も捨てたもんでないというか。
●一月前に罹った風邪がまたぶり返した。水鼻と咳と寒気、熱は微熱。医者の検査ではインフルエンザは陰性ということ。小3の孫はインフルエンザで学校を休んだ。今年はかつてない豪雪と冷温に見舞われている。
●自家の前の大通りが渋滞。幼稚園わきの小路に右折して入ろうとした通園バス(園児は乗っていない)が立ち往生し、左側手前と右側向こうに合わせて10台以上が渋滞している。ブルト-ザーが大通りの雪をかいていった後で、小路の入いり口がかいた雪でもり上がって、マイクロバスが乗り越えられずに立ち往生していたのだ。外にいて除雪をしていた女房が見かねて、ちょうど来合わせた婿殿に言って、バスの運転助手と渋滞車から一人だけ降りてきた3人で押してどうにか動かしたとのこと。
 女房いわく、「昔はこんな時はみんな車から降りてきて押してくれたものを、どいつもこいつも黙って見で待ってんだから」。

2012年02月15日

Mrオーサカ・ハシモト論(加筆版)

<参照>1月22日の「朝まで生テレビ」(橋本氏が出演)
    2月4日の朝日ニュースター「ニュースにだまされるな」
    2月12日の朝日新聞「橋本徹・大阪市長に聞く」
    11年6月28日の朝日新聞「争論・君が代条例」(橋本氏へのインタビュー)
    11年世界2月号「大阪構想と橋本ポピュリズム」(高寄昇三)
    11年世界11月号「橋本『独裁』は何を奪うか」(大内裕和)
    11年世界12月号「『大阪都構想』とは何なのか」(金井利之)
    12年世界2月号「橋本維新、躍進の理由」(北野和希)
    その他、報道ステーション(橋本氏が出演)など。
<註>文中「」は上記の番組・論稿から引用
 
 橋本氏は現下の経済・社会の停滞・悪化(労働分配率・失業率・生活保護受給率などとりわけ大阪がひどい)、人心の閉塞感、政治の混迷(政権交代後の政治への失望感、「ねじれ国会」でスムースに決められないことへの辟易感)に乗じて台頭し勢いづいている。
 選挙では大勝し、その「民意」なるものをバックにして政治力・権力を振るおうとしているのだ。
 たしかに弁が達者で、いかにも尤もらしく、はっきりとした物言いで、とうとうとまくしたてる。
 ポピュリズム(大衆迎合)よりもデマゴギー(大衆扇動)とも評される。

 いわく「既成政党・大阪市役所・公務員・労働組合・関電どれもこれも既得権益にしがみついている連中」それに「くそ教育委員会」。
 「グレート・リセット、不連続への挑戦だ。今までのように連続性の中で物事を考えるのではなく、今まで綿々と続いてきた社会システムや統治機構すなわち体制を変えるのだ」
 「僕は大阪府民の皆さんと一緒に夢を見たい、夢に向かって歩みたい」―聴衆もそれにかきたてられる。

 しかし、ほんとうに新しいのか?時代逆行、時代錯誤ではないのか?よく検証してみなくては。
 ただ、その当否は別としても大きな問題提起ではあろう。 

 その考えと理屈を次のようなものだ。
そもそも、どんな日本をめざすのか
 「今以上の日本を無理にめざす必要はないが、僕は少なくとも今のレベル(「五つ星」級)を維持したい」
 「東アジアで、今の日本のレベルを維持したいなら競争で負けないこと、そのためには『国民総努力』(能力の発揮)、付加価値の創出が必要だ」
 「海外で稼いだお金を日本に戻す仕組みを考え、国内ではサービス業などの付加価値を高める環境をつくる。」
 「円高で生まれた輸入業のもうけを、輸出業に回す「デリバティヴ」(金融派生商品―通貨や株・債券などを元につくられた様々な指標で変動する―通貨デリバティブの場合は、5年や7年などの長期間の為替レートを予想させ、そのレートをもとに数ヶ月ごとに一定額のドルや円などの通貨を銀行との間で売買するもの―予想よりも円安の場合は銀行が企業に支払う、円高の場合はその逆となる仕組み―筆者)のような仕組みを考える」
 「競争でいったん格差が生じても、所得の再分配で最低限の生活は保障するし、格差を世代間で固定させないため、子どもたちには最高の教育をタダで受けさせる」
 年金は賦課方式をやめて積み立て方式に―ある程度資産ができた人は、老後の生活をまず自分の資産でやってもらう。資産のある人には掛け捨て型の年金も―「人生一生使い切る型モデル」
 所得税・法人税は税率を引き下げ、消費税は増税、資産課税を強化
 TPPには参加
 外交・防衛は日米同盟を機軸にオーストラリアを加えた3国同盟
 首相公選制にし、参議院を廃止
 改憲発議を衆参各院の総議員の3分の2以上の賛成から「2分の1以上の賛成」へ緩和(改憲しやすく)

 それらは「イデオロギーなど抽象論ではなく、現実に出来るところから積み上げていくもので、まずは、社会が決められたルール通りに動くようなシステムづくりから取り組む。価値観やイデオロギーは後にくる問題で、最後は選挙で住民から審判をうける(めざすべき価値観は住民から決めてもらう)べきもの。」
 「改憲とか核保有とか個人としての考え(イデオロギー)はあっても、今はそれは言わない」(「個人の考えと政治グループとしての公の立場での政治的発言は違うんだ」というわけ)。
 大阪市長在任中に道州制まで方向性ができたら、4年で退く(国政選挙には出ない)と。

システムの改変
 今、直面している諸問題を解決すべく行き詰まりを打開するには、明治から戦後にわたって綿々と続いてきたシステム(統治機構)を一から作り直す(「グレート・リセット」・「維新」)しかない―「仕組みづくりが僕の役割」、そして「大阪から日本を変える」というわけだ。

 そこで、都構想、さらには道州制(日本を8~9つの道州に分けて、それぞれ自立)へ。
 都構想とは、現在政令指定都市(政令市)になっている大阪市と堺市を解体して大阪都(知事・都議会)の下に10余の特別自治区(それぞれ区長・区議会をもつ)に再編

 しかし、(高寄昇三・甲南大学名誉教授によれば)そもそも地方分権の基本は市町村自治であり、市町村の権限・財源・事務の拡充でなければならないはず。戦後の地方制度改革の基本方向は、市町村への財源・権限・事務をその規模に見合った形で分担する段階的事務移譲をすすめていくことであった。大阪都構想は、このような戦後の市町村自治拡充に逆行。(橋本氏の論法では、大阪市の財源・権限・事務を区に移譲するのであるから地方分権であり、市が解体して区が分かれて小規模自治体になれば無駄がなくなり、住民サービスが向上し、住民参加がすすむ、そして現在の大阪市以上の権限・財源・事業が特別区に付与されることになるとしているが、行政実態からしてそれは空論でしかないと。)「大阪都」による集権主義で、市町村自治への支配(内政干渉・圧力)の強化になってしまうだろう、という。

 これまで大阪市・堺市とも政令市として他の道府県の人口70万人以上の大都市と同じく、府の事務権限の一部を移譲されて実質的に府の仕事の多くを自ら実施することができ、事実上の行政的な独立が認められてきた。一方、府は事務事業を政令市に移譲して自らは実施する必要がなく、その経費はかからないので、一般の府税収(政令市から入る税収はその中核的部分を占める)は、ほぼそのまま府の歳入として確保することができ、その財源を政令市以外の一般市町村域に振り向ける、という形をとってきた。しかし、豊富な財源を分け合う東京都とは違い、大阪府と基礎自治体は数千億もの地方交付税に頼ってきた。

 政令市を廃止して都になると、それが、財源(税金)は全部いったん都が吸い上げたうえで、一部を都が(大型インフラ整備・水道事業・消防などに)使い、あとは特別自治区と一般市町村に配分し、区・市町村がそれぞれ住民サービスに使うことになる。

 問題点は、大型インフラ整備をいくつも計画する都と住民サービスを担う特別自治区との間で財源の奪い合いが発生し、特別自治区が都庁から(都の都合に合わせて財政調整が図られ)財政圧縮を迫られる可能性が高く、「大阪市という基礎自治体が『特別自治区』という名のもとに、大阪都という広域自治体の下部団体になってしまう」(森裕之立命館大学教授)、ということ。
 それに、地方交付税制度の廃止をも主張しているが、これまで大阪府・大阪市ともに(合わせて約8千億円)もらえてきた地方交付税がこなくなると、その分財政に穴があくことになる。府市二重行政の解消(水道事業の統合とか、ダブってつくられてきたホールなどを取りやめたり)して無駄が省けるとしても、或は地下鉄を民営化したとしても、それらだけでは間に合わず、かえって財政が難しくなる(4千億円の経済成長で税収をあげるなど不可能であり、社会保障費や中小企業融資など4千億円の経費を大削減するか大増税するしかなくなる)(井手英策・慶大財政学准教授)。

 堺市の市長は議会で公式に「都構想」に不参加を表明している―「市を3つに分割せず一体でいってくれとの市民の願いが大半だ」と。

「決定できる民主主義」―多数独裁(「民主的」独裁)―選挙で得た多数支持をバックに強い政治力・権力を持ったリーダーが強権を振るう―反対を押し切って、思い通りに決定。
 言い分―「協議は必要だが、話し合っても決まらなかったら首長に決定権をもたせる。『独裁』かどうかは有権者がチェック」「体制を変えようとするには話し合いだけでは不可能、最後は民意を背景にした政治力を行使しなければ・・・関西電力などと対決しても見向きもされない」と。
 問題点―選挙に勝ちさえすれば「僕が民意だ」とばかりに、何でも。(君が代条例など)公約していないこと、国民・住民が託してもいないことまで(白紙委任・「お任せ民主主義」を肯定―「選挙は、有権者が『投票した人に任せよう』という意思の表れであり、『選んだ人間に決定権を与える』ことを意味するという理屈)、国民・住民に充分な説明・情報がなく何がどうなっているかよくわからないこと、或は思想・良心の自由、教育の自由(教育内容への権力不介入)、教育行政の政治的中立の原則など憲法や普遍的原則に反すること、或は個人の自由・人権に関わることなど多数決で決めてはならないことまで、何でも決めて実行させられると正当化(「あえて批判が出ることも覚悟のうえで条例を出してあとは選挙で決めてもらう」―選挙で審判を仰いで勝ったならば、その政策は正しいとして受け入れられたことになると)―いわば選挙万能主義・多数民意万能主義だ。
 それを批判すると「有権者を信用していない」と。しかし、かく言う本人は自分に投票し支持を寄せてくれた有権者のことは信用しても、自分に反対した人々、市役所職員や労働組合や教職員は、同じ有権者でも信用していないのだ。
 
 それはともかく、その民意は当選者に投票した有権者(先の大阪市長選の場合は有権者全体の35.9%)の限られた民意であり、それとは異なる他候補に投票した有権者の民意もあり、棄権した有権者の民意もあるのである。
 橋本氏は「選びっぱなしは許さない」と有権者の責任をも指摘しているという。それはその通りだろう。彼に投票した有権者には彼がやることに対して連帯責任を負ってもらわなければなるまい。
 時と場合によってはスピードとか、決断力とかが必要なこともあるが、簡単に決めてしまっては困る。慎重審議、議論を尽くすことも必要であり、国民・住民が求めておらず、決めてもらっては困るようなことならば決まらない(廃案・継続審議などの)方がいいのである。

ルールを定めて厳格に守らせる処分ルールの条例化信賞必罰の法治主義
 そこで教育基本条例、職員基本条例。

 公教育の権限・責任の見直しと明確化―首長(行政権者)・教育委員会・校長・教職員・保護者など
 いわく「今回の条例は教育委員会制度への問題提起なのだ」
 「政治的中立性が金科玉条のようになり、教育現場が治外法権みたいになってしまった」。
 「教育現場は今や保護者の求めるものとかけ離れている」「『政治の不介入の行き過ぎ』を修正しなければならない」と(橋本)。
 しかし政治的中立を守るのは教育の大原則で当然のこと。なのに教育現場は治外法権どころか、諸法令(教育基本法・学校教育法・地方教育行政法―「教育3法」いずれも改定されており―、学習指導要領もある)と「文科省→教育委員会→校長→教職員へ」の上意下達の管理統制・職務命令その他様々な方面からのプレッシャーで教師たちは伸び伸びと持ち前の志・創意・力を発揮できない状態におかれている。 
 いわく「いまの教育委員会は現場のマネジメントができておらず、無責任体制だ」「首長のもとに権限と責任をもたせるようにすべきだ」と。
 
 教育の普遍性―時々の多数民意・政治傾向にいちいち左右されない―原則
 教師―専門性、主体性をもつ(教育の自由―教育目標・教育内容・指導計画の発案・指導方法・教科書選定など)
   全体の奉仕者(国民全体に直接責任を負う)
 のはず、ところが、それらが、変えられていく―文部省・首長・教育委員会その他が介入・干渉、主体性・自主権は奪われていく。
 1958年から勤務評定
 教育基本法は(戦後、憲法とともに制定されていたが)、次のように変えられてしまった。
  「教育の目的」―旧基本法は人格の完成、平和的な国家・社会の形成者として「自主的精神に充ちた」国民の育成など個人が重視されていたが、新基本法では国家にとって「必要な資質を備えた」人材の育成をめざすとして、教育は個人より国家のためにというふうに国家のほうが優先へ。
  「教育の目標」―旧基本法には無かったもので、「道徳心」「公共の精神」などとともに「我が国と郷土を愛する」態度(愛国心)を養うといった目標の達成が義務づけられるようになり(指導要録に具体化)、それが「愛国心通知表」の正当化や「日の丸・君が代」強制の根拠となる。
  教員―旧基本法で「全体の奉仕者」(国民全体に直接責任を負うもの)となっていたのが新基本法では削除され、国家や教育行政が定める使命に教員を従わせる方向へ。
  教育行政―そもそも(旧基本法では)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を行われるべきもの」で「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」となっていた。
 それが、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行わなければならない」と―教育は「国民全体に対し直接に責任を負って(教員が主体性をもって―筆者)行われるべきもの」が削除。「教育は不当な支配に服することなく」は残したが、「不当な支配」の意味を教職員組合や「左翼」などの党派的勢力による「不当な支配」の意味に変質。また、「この法律及び他の法律(指導要領なども―筆者)の定めるところにより」、「国と地方公共団体との役割分担及び協力の下」に「行われなければならない」として、政府・地方行政権力の教育内容や教育方法への介入の正当化がはかられるようになった(愛国心教育、「日の丸・君が代」強制の根拠にもなる)。
 また、「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」「地方公共団体は、地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない」として、教育内容に関する国家的目標・基準の達成をめぐる競争を組織―全国一斉学力テストなどを実施して、学校・こども・教員を競争に駆り立てるようにされる。

 橋本・大阪教育基本条例はこれら教育基本法の改定に便乗したもので、さらにその徹底化をはかるもの。

 教育委員会制度
  それは、そもそも(制定当初は)公選制であった。それが1953年首長による任命制(首長の考えと合いそうな人物が抜擢、但し首長はそれより先は口出しできないが)に変えられた。―文部省から教育委員会への上意下達の一機関化、教育行政の中央集権化とともに、地方行政首長に従属化するようにもなる。
  いわく「教育委員会の現状は、権限と責任が中途半端で、教育現場をしっかり管理できる体制になっていない」と。
  確かに、委員(6名)は非常勤で月に1~2回の会議にでるだけで、いくら地元の名士でも教育現場のことを詳しく知っているわけではないから、会議で意見は言っても、実際は教育長が率いる事務局(官僚)のつくった案をそのまま追認するケースが多く、「首長からの独立」という強い権限が与えられている割には十分な体制とは言えない。
  だから、それを首長の下に権限と責任をきちんともたせるのだと。

大阪の教育基本条例
 教育行政への政治の関与の必要性を明記(首長に教育目標の設定権、教育委員の任命権だけでなく罷免権をも認める)(議会は教育委員会が教育目標に従っていないと教委に報告を求めるなど)
 実は、それは、教育行政の権限を教委から自治体の首長に移すという、これまでの(06年自公政権の教育基本法改定案への対案として民主党が出した「日本国教育基本法案」や09年選挙の際の民主党マニフェストなど)民主党が提案してきたものと軌をい一にする。
 高校の学区を府内全域とし、府内のどの高校をも入学志願できるようにする―受験競争が激化へ。
 定員に満たない学校は統廃合―学校間競争―進学率や生徒指導など短期的成果を追及(個々の生徒の人生を見据えた人間教育がそっちのけになる)
 「教育の個性化」を唱えながら、教育の画一化へ(多様性を奪う)
 管理統制―「首長→教育委員会→校長→現場教員」へと首長の意向が貫徹(上意下達を文科省のかわりに知事が発する)―集権的システム(官僚制も)再編成
 校長(裁量権強化、その一方任期あり、評価うける)による教員への管理統制の強化―人事評価、教員任用・人事異動(教委は校長の意向を尊重)、教科書推薦も
 教員・職員の服務規律の厳格化(締め付け)―職務命令に服従させる―違反を処罰
  「服務宣誓」(任用にさいして法令・服務規律の遵守、職務命令に服すことを宣誓)しておきながら、それに背くとは何ごとか、と。
  しかし、服務規程は、そもそも公務の公共性を守るためのものであって、首長や上司の個人的な嗜好性(好み)を守るためにあるのではない。
 公務員たる教員・職員―「全体の奉仕者」のはず(であって「首長への奉仕者」ではない)。
         職務命令に従うなど公務員法には従わなければならないが、思想・良心の自由を認める憲法(優先的)によって守られるべき。
 いわく「教育基本条例は、基本的には仕組みの問題なので、条例の中身に価値観やイデオロギーは入っていません」と―しかし、首長や委員や校長がイデオロギーでこれを運用しない保証はない。現に「君が代」にこだわって、不起立を職務命令違反として処分することを当然視している。
 教員評価―いわく「今の教員評価システム(教育委員会の事務局の人事課の評価)では、誰がどういう基準でやっているのかデタラメ、D評価は小中では1万人に1人(0.1%)しかつかない。タウンミーテングでは「もっと厳しく」という意見があった」と。
 そこで、基本条例では、それを保護者および教育関係者から校長が委嘱した委員で構成される学校協議会が行うこととし、「5段階評価で、S5%、A20%、B60%、C10%、D5%の割合で評価をつける(相対評価)。2年連続でD評価がつくと免職を含む処分の対象とするが、「指導研修」を加え、そこで適格性がないと判断(その場合は絶対評価)されたら免職(その後、教育条例案から「免職」だけは削除へ)。
 学力テスト―市町村別・学校別の結果をホームページ等で公開―いわく「大阪の子どもが、グローバル世界で、せめて就職でき、自立してメシを食えるくらいまで能力をつけさせたい。
 学力状況の悪い子どもには人と予算をつけないといけない。それはある意味で『えこひいき政策』だから、なぜ人と予算をつけたのか皆に示さなければならない。だから、それを行うのだ。
 詰め込みなどあんなことをやっても企業で採用されないから、中身には問題があるが、学力状況をちゃんと把握し、オープンにしなければならない」というわけ。
 これに対して「大阪の学力の低下(40年前は6位だったのが今は45位)は現場教師の責任だけではないはず。大阪の経済の地盤沈下、生活環境の悪化、離婚率など様々な要因がある。人権教育(部落問題)・民族教育(在日朝鮮人問題)・外国人教育など教育要求の厳しさに対応しなければならず、子どもに深く関わって疲れきったとか、教員の病気休職者率は全国平均の2倍、精神疾患は3倍というのが実態だとの異論。
 越境入学をするのは、先生がどうのこうのではなく、貧しい地域では学力の足を引っ張るからというので、そこを避けて他へ行こうとするからだとも。

 日の丸・君が代―国旗・国歌―起立斉唱―職務命令で強制(不起立は処分)
  いわく「思想・良心の問題ではない。公務員が法令や条例に基づいてしっかり仕事をするかどうかの問題だ」と。しかし、そうは思わない人(単なる職務の問題ではなく、思想・良心の問題だと思う、という人)もいるのだ。

  いわく「日の丸・君が代を軍国主義の象徴ととらえるような歴史観をもった人は極く少数、起立しないことを認めるデメリットの方が大きい」「不起立でもって自分の歴史観を子どもに伝えるというのは言語道断だ」と。
 しかし、起立しないことによって、式典の秩序・雰囲気をこわす「迷惑」と、たとえ一人でも、「踏み絵」のようにその人の思想・良心に反する行為を強いて、憲法に定められた自由・人権を侵害するデメリットとどっちが大きいか。「起立しないことを認めるデメリットの方が大きい」なんて、そんなことはあるまい。子どもの前で、良心を偽り信念を曲げて、そらぞらしく起立して歌ってみせる―そのようなことを無理強いすることこそ言語道断と言うべきだろう。
 いわく「大阪の子供たちの犯罪率は全国一、教師が子どもたちを指導する時に『ルールをちゃんと守れ』と徹底していうことが重要、しかし、教育委員会が決めたルール(君が代起立斉唱命令)を守らない先生がいるのに、『お前たちルールを守れ』と生徒に言っても、生徒は聞くわけない」「いまの民主主義のルールのなかで、維新の会が過半数をとって多数決でルール(君が代起立斉唱条例―筆者)を決めた、そのルールに厳格に従っていきましょうと、いま、大阪市内で徹底的にやらないと、もし警察が取り締まりをやった時に、『おまえ、これどないなってんのや、ルールを守れ』といっても、『いや、思想・良心の自由です』といって言い訳を簡単に許してしまうのでは・・・・」と。
 なんか変、賢い子どもなら「これって、屁理屈じゃない?」というのでは。
 この国は、かつての大日本帝国や北朝鮮のような全体主義の国ではなく、自由の国、個人の人権を守る国のはず。
 市民には色んな思想・信条をもった人々がいて、反社会的犯罪行為を犯さぬかぎり、居住・職業選択の自由があり、思想・信条を理由に差別されることなく、国民大多数の思想・信条とは違うからといって迫害されることも処罰されることもないはず。
 日の丸・君が代に起立斉唱しないものは公務員(国会議員・国務大臣・裁判官その他)になれないなどという定めは憲法をはじめどこにもない。憲法にあるのは、信教の自由(20条)とともに思想・良心の自由(19条)であり、そして公務員の憲法尊重擁護義務である(99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」)。
  
 日の丸・君が代を起立斉唱するぐらい国民の大多数の人にとっては「どうということのない」当たり前のことかもしれないが、思想・信条からどうしてもできないとか、どうしてもその気になれないという人がわずかでもいて、彼らがそれを強いられた場合、その人権―思想・良心の自由―を保護する、それこそが憲法(19条)。
 学ぶ子どもの立場にたって言えば、ある子どもが、ある理由があって、みんなが起立して歌っているのに立たず歌わない、「そんな我儘や身勝手は許せない」といって、その子がいじめられた場合、その子は保護されなければならない。教師も同じだろう。
 昔は「非国民・アカの子ども」といって、いじめられたそうだが、そんな「いじめ」を許すほうがおかしいのでは?
 いわく「公務員として仕事をするんであれば、卒業式で『君が代』ぐらいは歌ったって下さいと言ってるんです」と。だったら、式典の進行を妨げる物理的な妨害行為ならいざしらず、「歌わないぐらいで処分することなどないではないか」と言えるのでは。「立て!歌え!」などと、そんなことを命令するほうがおかしいのだ。
 「朝なま」で視聴者からの意見が一つ紹介されて「日本を嫌になるような教育をしている方がおかしい。『君が代』と『日の丸』が嫌いならクビにしてもいい。日本の公務員が自国の国旗・国歌嫌いとかあり得ない」と。
 橋本氏いわく「公務員として嫌なら私立に行けばいいのだ」と。
 しかし、それは暴論もはなはだしい(「それこそが恫喝」との批判発言あり)。「不起立」を物盗りやセクハラなど非行か体罰と同列に論じるのも暴論。
 司法判断―合憲判決の問題
  君が代起立斉唱の職務命令は「思想・良心の自由」を「間接的に制約する面がある」としながら、「制約」には必要性・合理性があると。君が代起立斉唱行為は「慣例上の所作」だと。地方公務員法に公務員は職務命令に従う義務ありと。
  しかし、そんなことを理由に「制約」を認めるのは安易に過ぎる。それは単なる「間接的な制約」などではなく「直接的侵害」。
 職務命令「違反」として(戒告・減給・停職・「再発防止研修」など)処分するのは強制であり、人権侵害。
 「思想・良心の自由」(19条)、ひいては教育の自由ともなる「学問の自由」(23条)、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(15条)それに「公務員の憲法尊重擁護義務」(99条)は最高法規である憲法の定めであり、地方公務員法その他すべてに優先さるべき規定。なのに、この合憲判決は憲法よりも地方公務員法など方を優先している。

 最高裁判事(14人)多数意見は内心と外形的行為を分けて、内心まで改めさせることは許されなくても、起立して歌うという行為を命ずることは許され、命令違反を罰しても内心の自由侵害にはならないとして起立斉唱の職務命令は合憲判決になったが、2人は反対意見、7人は補足意見で処分は抑制的であるべきだと注文をつけており、実質的には制約のある判決なのであって、手放しで合憲と認められたという筋合いのものではあるまい。

 職員基本条例
  自治体・公務員を民間会社・社員と同然視―公共性(地域住民全体の奉仕者)・専門性(継続的に蓄積された技能)を度外視
 「全体の奉仕者」(憲法15条)として地域住民の側に立つことよりも首長の方針に忠実に実行することが求められる。
 住民全体の普遍的権利(人権保障)のためというよりも特定の顧客に対する個別的利益に応える。
 5段階人事評価 ―D評価―2回連続で「指導研修」それでダメとなったら分限処分
―リストラ(「整理解雇」)
 首長から幹部・職員へのトップダウン―強固な官僚システムが新たに形成
 幹部(部長・局長など)―「準特別職員」―公募―民間企業からも任用
            マネジメント(経営管理)能力重視
 職員間序列化・分断(連帯断ち切り)、上司への同調志向(「市民・住民のため」というより、「首長や上司のため」に忠実)、職場の空気は萎縮

 安倍晋三元首相は、「戦後レジームからの脱却」を掲げて(尤も、彼の祖父岸信介の代から自民党長期政権下で、実質的脱却政策が着々と進められてきたのだが、その完全脱却をめざして)改憲手続法を制定し、教育基本法改定を断行してレールをしいたが、橋本・維新の会はそれを具体化して実践させようとしているのだ。
 
 単に大阪だけに止まらず、このやり方を国中に広げようとして、教育基本条例・職員基本条例のような制度を国の法律に定めよ、とも。
 朝日新聞社の「全国の知事・政令市長へのアンケート」では、「教育目標を首長が定める」との規定について、6知事3市長が「賛成」と回答、「反対」は5知事1市長、「どちらともいえない」は22知事10市長、「条例案を自分の自治体で参考にするつもりはありますか」との問には14知事6市長が「既にしている」か「今後検討」と回答。他の自治体にも波及する可能性を示した、と報じている。
 「維新八策」(維新の会の衆院選むけの公約集)には、石原都知事は「絶賛」、「大賛成のところがある」と。政党では「みんなの党」が同調している。
 
 2月9~16日には大阪市役所の全職員に「労使関係に関するアンケート調査」なるものを「市長の業務命令」(記名で、「正確な回答がなされない場合は処分の対象となりえます」、ということは単なるアンケートではなく強制)として実施。
 「組合活動に参加したことがあるか」「職場の関係者から特定の政治家に投票するよう要請されたことがあるか」「要請した人は(誰か)」「特定の政治家を応援する活動(街頭演説を聞いたりする活動も含む)に参加したことがあるか」「自分の意思で参加したか」「誘われて参加した場合は、誘った人は(誰か、密告を促す―筆者)」「誘われた場所・時間帯は?」などと質問。
 「職員が自己の『違反行為』について真実を報告した場合は、懲戒処分の標準的な量定を軽減する」(隠したら容赦しない―筆者)と。
 これは思想調査であり、憲法で保障された思想・信条の自由、政治活動の自由(地方公務員は、公職選挙法により公務員の地位利用による選挙運動が禁止されているほかは、個人としての政治活動は自由)、労働基本権・労働組合活動の自由を侵害するもの。ここまでやるとは・・・・恐ろしや。まるで北朝鮮やかつての日本みたいでは。
 多数民意だといっても、やってはならないことはやってはならないのだ。多数民意なら何でもできるというのは間違い。
 「基本的人権を無視―こういうことをするような首長が教育を主導したら、どんなことになるのか」(朝日ニュースター「パックイン・ジャーナル」で田岡氏)。
 

 戦後スタートした自由と民主主義・民主教育は自民党長期政権下でずうっと逆コース(徐々に後退)の一途をたどってきたが、ここに来て戦前回帰(但し、かつてのような「滅私奉公」の国家主義ではなく、新自由主義という市場競争主義と両立させた国家主義で、多国籍企業や「勝ち組」の私的な利益を国益として守ってくれるものとして国家に最大限重きを置く「新国家主義」)への急展開が始まろうとしている。孫たちが心配だ。

2012年02月26日

ファシズムと民主主義の違い

 一般には、民主主義というと、主権在民(民意によって物事を決め、事を運ぶ)、投票、選挙、多数決を考えるが、もう一つの要素は基本的人権の尊重―自由権・平等権など、それに「法の支配」という原則、三権分立の原則もある。
 ファシズムも民主主義も、「多数民意によって物事を決め、事を行う」という点では共通し、投票・選挙で人を選び、多数決で決めるが、多数民意ならすべて正しいとは限らず、多数民意の支持があれば何をやってもいいとは限らない。

 民主主義とファシズムを峻別するキーワードは次の4つ。
①多数民意を背にしての多数の横暴や権力の濫用を防ぐために、民主主義ならば、「チェック&バランス(抑制と均衡)」が考慮され、立法・行政・司法の三権分立だけでなく、政府と地方自治体(地方分権)、間接民主制(議員や首長を選挙して委任)と直接民主制(憲法改正の国民投票、最高裁判所裁判官の国民審査、地方自治体では住民による条例改廃請求、リコール請求、住民投票など)の組み合わせ、二院制、複数政党制、官僚制度(官僚は選挙では選ばれず、政治的中立が原則で、時々の政権や民意に左右されずに、一貫性・継続性を保ちながら行政事務に取り組む)、自治体首長と教育委員会、検事と弁護士、それに使用者(経営者)と労働組合といったものもあって、それぞれが組み合わされ、チェック&バランスがはかられる。その場合、分立する一方で多数を制して政権を握り主導権を握っても、他方では野党その他の方が勢力が優って「ねじれ」が生じ、簡単には思い通り決まらない(決定が遅れがち)といったもどかしさが付きまとうが、一方的に物事が決まってしまうとか、簡単に事が運ばれてしまうようなことはなくなる。
 ところが、ファシズムの場合は、これら分立システムが形式的に分立していても、どれもこれも一党一派の同調者が選ばれたり任命されたりするとチェック&バランスが働かなくなるとか、その分立システム自体が廃止されたり(一院制になるとか、一党制になるとか、教育委員会が廃止されるとか、労働組合を解散させるなど)もして、なんでも思い通り決めて、やってのけられる独裁体制になる。
 圧倒的な多数民意の支持によってそれが可能となるが、その民意が正しいか(正しい判断に基づいているか)どうかが問題―デマゴーグ(扇動政治家)やマスコミなどから煽られることなく、ムードや感情に支配されずに理性的判断ができているか、また正しい知識・情報が(学校教育やメディアによって)充分与えられているか、それが問題。

 民主主義といえば選挙・投票で、自分に投票した有権者の民意だけしか考えず、選挙で圧勝しさえすれば少数意見を無視しても、或は憲法を無視して人権を無視してでも何でもやれると思い込む(選挙絶対主義・多数民意万能主義)、その場合、それはもはや民主主義ではなくファシズムなのだ、ということである。

②「法の支配」(権力者の恣意による支配―「人の支配」―を否定し、治める者も治められる者と同様、法によって拘束)も、民主主義の場合には「自然法の支配」(人間や人間社会の本性に根ざし、あらゆる時代のあらゆる社会を通じて拘束力をもつ)という意味を持つのに対して、ファシズムの場合は、単なる「法治主義」で、形式や手続きがに法令に基づいて適法でありさえすれば権力者は何でもできるという法律万能主義。
③それに民主主義の場合は、自然法に基づく基本的人権(権力による違法・不当な介入・干渉や束縛から各人の自由を保障する権利)の尊重が重視されるが、ファシズムではこれが無視される。
 日本国憲法では基本的人権として、13 条に「個人の尊重」(→プライバシーの尊重)、19条に「思想・良心の自由」、 21条に「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」(→個人の政治活動の自由)、23条に「学問の自由」(→教育の自由)、 28条に「勤労者の団結権・団体行動権」(→組合活動の自由)が定められている。ファシズムはこれらを無視・軽視する。
④民主主義の場合は「少数意見の尊重」―議論を尽くして、可能な限り「合意・全会一致に近づける努力」が払われるが、ファシズムの場合は、少数意見は無視するか、審議はしても形式的に済ませて多数決を強行、それのみならず初めから排除。

 ヒトラーとナチス党は、経済恐慌にあえぎ既存政党や労組に不満をもつ中間層や失業者の支持を得て選挙で第一党となった。ところが共産党も躍進したので、それに脅威を感じた経営者団体からの資金支援も得るようになって政権を獲得、国会議事堂放火事件に乗じて共産党議員を排除して基本的人権を停止したうえで総選挙で過半数議席を確保、全権委任法を可決させて独裁権を獲得し、憲法停止、ナチス党以外の政党と労働組合を解散させて一党独裁体制を敷いた。
 これらはすべて多数民意を背景にして形式上、合法的に行われた。

 今、大阪で行われていることは民主主義なのか、それともファシズムなのか?

2012年03月01日

河村名古屋市長の南京事件に関する発言問題

 名古屋の河村市長は姉妹都市・南京市の訪日代表団の表敬訪問を受けた際、「通常の戦闘行為はあったが、一般人への虐殺行為・いわゆる南京事件というのはなかったのではないか。(なのにそれが誤解されている)」と発言。河村氏は、終戦時現地に駐屯した父親が優しくもてなされことを挙げ「事件があったなら、日本人にそんなに優しくできるのか」と語ったという。
 この「南京事件は無かった」発言に対して、南京市政府は、南京大虐殺の史実を否定し南京市民の感情を傷つけたとして、名古屋市との交流を一時停止すると発表。
藤村官房長官は、「地方自治体の間で適切に解決さるべき問題」で、政府としては関与しないとしたうえで、「南京大虐殺に関する政府の立場は村山談話(1995年、当時の首相談話)などではっきりしている。」「旧日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と指摘。
 河村市長は、その後「相互理解と友好親善を一層深めるため、南京市と名古屋市で率直な意見交換・話し合いをしたいという趣旨だ」、「南京事件について発言が出るたび、民間交流が止まることは避けたい」としながら、「30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺したことはないと思っている。『いわゆる南京事件は無かったのではないか』と申し上げたことは撤回しない」と。

 通常の戦争なら、両国が国境を挟んで対峙し、宣戦布告して開始され、互いに攻め込み合う。太平洋戦争は米英に対して宣戦布告という手続きを踏んで開戦し、太平洋を挟んで交戦、日本本土まで攻撃され、名古屋大空襲もあった。しかし、日中戦争は、そのような戦争ではなく、日本軍による一方的な侵略戦争であり、中国各地の占領、抵抗する軍民との戦闘と殺傷・破壊行為だったということは誰でもわかりきったこと。南京では殺傷した人数、戦闘員か非戦闘員かの区分などデータには不確かなところがあっても、そこへ日本軍が一方的に大挙・侵入し大量殺傷をはたらいたその実態は大虐殺以外のなにものでもあるまい。
 その南京攻略戦に際して20万もの日本軍を率いた司令官・松井石根は名古屋出身であり、攻め込んだ部隊のうちの第3師団は名古屋から行った兵隊たちだったのである。

 尚、日中双方の学者・研究者による「日中歴史共同研究」が、06年から行われ、10年2月に第1期研究報告書が公表されている(第2期研究は継続中)。この報告書で双方は、日中戦争は中国に対する「侵略戦争だった」、南京事件は「大規模な虐殺行為」との認識で一致(日本側論文では「日本軍による捕虜・敗残兵・便衣兵、及び一部の市民に対して集団的・個別的な虐殺事件が発生し、強姦・略奪や放火も頻発した」と)。但し、犠牲者数は(両論併記で中国側は「20万~30万人」としているのに対して、日本側は「20万人を上限に、4万人、2万人など様々な推計がなされている」としており)今後の研究課題としている。
 証言記録をまとめた文献には松岡環編著『南京戦―元兵士102人の証言』(社会評論社)などがある。

 30万人か2~3万人か、正確な人数、戦闘員か非戦闘員かなど事実関係、虐殺の定義など研究者・識者の間で論争はあるとしても、市長という公人が、しかも南京市の代表団に対して、自らの印象や勝手な解釈で、「南京事件は無かったのではないか」などと言ってしまっていいことなのだろうか。「相互理解を深めるための率直な意見交換」のつもりが、「率直な『お詫び』」ではなく、或はまた「あれは戦争のどさくさの中で起きたことなのでやむを得ない出来事だった」などといった言い訳でもなく、「虐殺はなかった」(だから日本軍は悪くない)といって開き直って論争を挑んでいるように相手は思ってしまう。

 率直な意見交換だからといって、「あれは誤解で、そちらが思っているほどこっちはやってはいない」「いやそんなことはない」などと言い合ったら、論争の蒸し返しであって、仲直りにはならず、心からの友好・交流なんて出来るわけないだろう。
「率直に意見交換する」と言うから「率直にお詫びする」のかと思いきや、「あれは無かったのではないか」と言う。「そうか、それが本音か」と相手から受け取られてしまったら、友好・交流といっても相手は到底そんな気にはなれないだろう。ユダヤ人なら、アウシュビッツ虐殺は無かったと言われているようなものであり、日本人なら広島・長崎の原爆投下は無かった(しかたなかった)と言われているようなもの、「それを言っちゃお終い」なのだ。軽率の感は否めまい。

 「無かった」ことにすれば仲良くなれると思っているのだとすれば、あまりに単純というか、むしのいい話というか。
 ほんとうに信念をもって「無かった」と言うのであれば、それに反発する相手との姉妹都市関係は解消をするしかなく、それを覚悟のうえで言うべきだろう。「いさぎよさ」が売りなら「姉妹都市はやめた!」と言えばいいのでは?
いずれにしても、この問題で市長として考慮しなければならないことは、①市民感情(民族感情)のぶつかり合い②市民交流の経済的メリット・デメリット、それに③道義上のけじめの問題。

 石原都知事は河村擁護発言をしているが、橋本大阪市長は批判的で、「公選の首長は歴史家ではない。歴史的事実について発言するなら知見を踏まえ、慎重にすべきだ」(自らは南京事件についての事実関係を論ずる考えはないとし)「中国と日本は隣国、どう考えてもうまく付き合っていかないといけない」と、この点では「大人の言い方」をしているようだ。

 地元の中日新聞の社説は(インターネットで見てみると)2月23 日付けに「河村市長、歴史認識はしっかりと」、28日付けに「河村市長発言 なぜ素直に撤回しない」と出ている。

3月のつぶやき

●とっくの昔に死んだ親父の写真、そんなの載せて、いったい何になる?こんな誰も見てくれない「声なき声」「つぶやき」を発信したところでいったい何になる?
 いいんだ、このコンピュータに当方の言葉・主張・考え・写真が記録として残り、当方がポックリ逝っても遺言・遺影として残る。世界でただ一台のこのパソコンとフラッシュメモリーが永久に記憶しておいてくれるんだ。この俺が、そして親父がこの世に生きた証を。
●米沢での大震災復興祈念式典は大盛会だった。実行委員代表の井上肇、司会進行を務めた新関寧の両君をはじめ企画運営に当たったボランテア米沢の皆さんに「花丸」
●大震災、あっという間に1年経った。が、収束は何年何十年後。試練と苦闘の日々は続くなぁ
『市民の力で東北復興』―井上肇・新関寧コンビが綾部誠氏・丸山弘志氏らと「ボランテア山形」を立ち上げ、本を出した。
 彼らは阪神淡路大震災からボランテア支援活動に取り組んできて、東日本大震災でも発災直後から現在に至るまで米沢を拠点に山形県や米沢市など行政当局とタイアップして支援活動を展開してきた。その活動記録と災害ボランテア論がこの本にまとめられている。実に参考になり、為になる。彼らの旺盛なボランテア精神・企画発案力・行動力は見上げたものだ。学ばせられるよ。
●なんでこんな評論?当方のホームページの評論を貫く考え方はどこから来ているかといえば、それは戦争中に生まれた当方の生まれ育ち、小中学校―父は警察官だったが、夏休みともなれば、リュックサックを背負って汽車・バスを乗り継いで親戚の農家に米をもらいに行かされたし、身体検査や運動会がある度に普段はいていないパンツの工面に辛い思いをした。転勤にともなって転校を繰り返したが、中学になって父は病死し母子家庭になって―その後、どうにか高校・大学を卒業し就職して妻子をもち、定年まで勤めて年金生活、それらの境遇から生まれた感情・意識(つらい思い・惨めな思い・「こんちくしょう」という思い、バカで不器用だから、競争が嫌いで、マイノリティー・「弱い者」の側にいるという意識)からにほかならない。そういう感情・意識から、このような考え方になって、このような評論の論調になっているのだ。
●大阪では君が代起立斉唱条例が決まって、教育基本条例・職員基本条例も決められようとしている。俺のような「そんぴん」(米沢弁で「へそまがり」)は、とても大阪には住めないな。「非国民・非市民」扱いされ、子や孫たちがそこで職員になったとしても最低評価されてクビになるだろうし、学校では自由がなくテスト競争に追い立てられて落伍者にされる。米沢に住んでいてよかった。米沢市長は今のところあんなではなさそうだし、もしもあんなのが市長になったり、市議会であんな条例が制定されたりしたら、ここにも居られなくなってしまうからな。
●道々に見てゆく垣のからたちの棘あらわなる冬去りにけり―親父の短歌

2012年03月22日

格差論―サンデル教授リード討論番組から

3月19日のNHK「マイケル・サンデル 究極の選択―許せる格差、許せない格差」
 アメリカでは、富裕層の上位1%が国の富の(99%というが、実際は)40%を所有、
日本では富裕層の上位1%が国の富の20%を所有、だという。
 
 格差をつける―成績や成果(貢献度)に見合って報酬に格差→競争―がんばるモチベーション(動機付け)やインセンティブ(刺激・誘因)の手段として有効。しかし、それはあくまで単なる手段にすぎず、絶対化してはならず自己目的化すべきではない
 人は競争がないとやる気が起きないとか頑張れないという向きがあるが、
―人によっては競争心がない者も、或は競争嫌いで、人と比べられると、かえってやる気をなくする者もいる―が誰しも向上心はあるものだし、仲間がいれば(話し合い、補い合い)切磋琢磨して共に向上し合える。
 また、見返り(報酬)がないと頑張れないという者もいるが、そうでない人もいるボランティアで無償でも頑張る人も
 競争はゲーム―運がつきもの
 成績・成果―苦心・努力の結果―だが、必ずしも自分の力だけで勝ち得たとはかぎらない―人のおかげ―他の人々(家庭など周り人たち)の(直接的・間接的な)協力、社会環境①のおかげもある。それに「運」②―たまたま有利な条件やチャンスに恵まれた好運―もある

 学校教育では楽しいゲームとして競技やコンクール、運動会などで競争して順位を競うこともあっていい。
 しかし、学力テストなどでは順位をつけて公表し比べ合って競争に駆り立てるのは邪道であり、様々な弊害をともなう(生徒によっては、テスト競争があることによって「よし!頑張るぞ」と意欲を燃やす者や「今度こそ負けるものか」と奮起する者いるが、嫌気をさしてやる気をなくす者が出てくる。小数の勝ち組は優越感をもち、大多数の負け組は劣等感に打ちひしがれる。テスト競争がストレスになり、学校嫌い、勉強嫌い、友達嫌いにもなるなど。)
 会社でも、競争・成果主義は広がっているが、必ずしも好結果をもたらしておらず、不評だと言われる。
 大阪では教育基本条例・職員基本条例を制定し、それで教員や職員に5段階評価を給与と結びつけて行おうとしているが、そのようなやり方は合理的か不合理か。

 増税するなら所得税(累進課税、富裕層に増税)のほうがいいか、消費税のほうがいいか
 所得税は所得が多い人ほど多く取られるが、それでは、せっかく努力してより多くの所得を得ても、(より多く)取られてしまうのでは努力のしがいがなくなってしまう、という向きがある一方、アメリカの投資家で世界3位の富豪ウォーレン・バフェット氏は富裕層増税を主張。
 高所得・高資産は(①②で指摘したように)「努力して得られた」といっても、それは自分の努力だけで勝ち得られたと考えるのは傲慢で、社会をより多く利用して得られた所得・資産なのだから「社会に恩返し」するのは当たり前。
 税金は応能負担(負担能力に応じた負担)が原則―消費税は全員同率負担で低所得者ほど重く(逆進性)不公平
 それに、税金の再分配機能には、社会の構成員でありながら失業・障害者・母子家庭など「運に恵まれなかった人」を助ける(社会保障など)という意味あいがある。
 利益の分配―会社役員(リスク責任を負っている)・開発チーム(ヒット商品の開発に貢献)・一般従業員の間に格差をつける―合理的か不合理か
 企業―雇用―正社員・派遣社員・外国人労働者の間に格差をつける―合理的か不合理か
  市場で利潤競争は製品開発・イノベーション(技術革新)・生産性向上へのインセンティブ(誘因)として有効な手段にはなるが、利潤競争で勝つことが自己目的化して社会のニーズと雇用・従業員の生活維持を二の次にしてしまったら本末転倒になる。
 経営コスト(人件費を安くあげ、倒産を回避し「会社を守る」ことを)重視か
 企業の社会的責任を重視か―雇用・従業員の待遇改善(「社員あっての会社だ」と)
  国連のILOの原則は「同一価値労働同一賃金」―正社員か非正社員・性別・年齢などにかかわらず、①知識・技能②精神的・肉体的負荷③責任④労働環境の厳しさ等において同じ仕事ならば、賃金は同じでなければならないはず。
  番組出演の竹中氏(小泉政権で総務大臣)は「同一条件同一労働」論で派遣労働と正社員との賃金格差を正当化していた(正社員は終身雇用・年功序列賃金で残業も転勤もあるが、派遣社員は終身雇用・年功賃金でないかわりに、残業も転勤もないというわけか?日本は、欧米のような子育て支援・教育無償化の制度が遅れていて、年功者ほどカネがかかるため年功序列賃金のやり方がおこなわれてきた)。

 格差は容認されるか、されないか (番組の最後に、サンデル教授はアメリカの思想家ジョン・ロールズが「無知のベール」で指摘している考えを紹介)―その人その人が自分の地位や立場、権力や経済力とは関係なしに(意識の外に)客観的に成立する共通の正義(倫理)があるはず―自分が今いる社会的な立場から一歩離れて、(もし自分が「プロ野球選手で打率2割しか打てていない低年俸の選手なら」とか、「貧しい生まれなら」とか、「移民労働者なら」とか)他人の視点に立ってものを考えることが肝要だと。
 ロールズによれば、社会的・経済的不平等(格差)が許容されるのは、①機会が公平・平等に与えられている場合。②全構成員の幸福実現を期して、社会のなかで最も不利な状況にある構成員の利益を最大にするような施策が必要であるという場合(最不利者の利益最大化を最優先)。この二つの場合に限られる。それ以外は、格差は許されない、というわけだ。
 ①は、機会均等で同一条件ならば、職務や地位に差異があっても許されるということだが、現実には、例えば同一受験機会が与えられても、受験者の中には(家庭―出身階層、親の学歴・経済力など)様々なハンデイがあり、同一条件とはなり得ない。不合格ならば進学できず、合格しても学費を払えず中退せざるを得なくなり、中卒扱いとなり、採用試験の機会は与えられても正社員採用は難しく、非正社員(リストラ要員)でしか採用されず、結婚もできないといった境遇におかれる。それは許容される格差ではあるまい。
 ②は、能力・資質・出身階層など最も不遇な立場にある人、或は今回のような大震災の場合最も甚大な被害を被った人や地域の利益を最大にすることを最優先するということ。
 


 

2012年04月01日

4月のつぶやき(随時、上に書き足し)

●「ポカンとして何考えてんだか」と女房が言うので、「家のことなんか考えていない。天下国家のことを考えてんなだ(実際、その時は石原や橋本らのことを考えていた)」と言ったら、ひどくあきれられた。よく考えてみると、石原みたいなもんだったかな。都(税金を払う都民)のことをそっちのけで、国のためだといって尖閣諸島を買い取るんだと。
●歳下のある人から「先生、ひとつ人生の勉強だと思ってやってみて下さいよ」などと言われて、心の中で「年輩者にむかって何と言ういいぐさだ、生意気な」と腹がたった。しかし、後で考え込んだら、そうだ、「人生、勉強なんだ」と納得した。
 何ごとも謙虚に学ぶ―人様から、自然から、生き物から、敵からも―どんなに歳とっても―学びの人生なんだな。
●「声なき声」とか「評論」とか、なにも偉そうに書いているわけではなく、バカだからこそ、為政者やマスコミや口達者で利口な連中がふりまくことを鵜呑みにすまい、だまされまい、流されまいとして、一生懸命調べて書いているのだ。
●これまでケーブルテレビを通してCS放送の朝日ニュースターで「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」と「ニュースにだまされるな」をよく見てきたが、この朝日ニュースターが身売りされて、これらの番組が打ち切られてしまった。
 ところが、愛川欽也が自らインターネットTV(kinkin.tv)を立ち上げて、従来どおり毎週土曜日、同じ時間帯、同じ形式で番組が続行することになった。
 視聴手続き(kinkin.tvと打って検索、それを出すと、説明があり、自分のメールアドレスと適当なパスワードを打ち込む欄が出てきて打ち込むと会員登録される―月会費500円)をして見てみたら、やっていた。原発再稼働問題、消費税問題、北朝鮮ロケット打ち上げ問題など。

●低気圧暴風が吹き荒れた。朝いつものごみ出しに行ったらごみ置き小屋(鉄製)がひっくり返っていた。女房を呼んで二人で立て直そうとしたが、ビクともしなかった。午後そこへ行ってみると、各戸でだしたゴミは回収されていたようだが、小屋はひっくり返ったままになっていた。誰の力もおよばなかったか、重機か何かで立て直すしかないのだろう。こんなの、かつてなかったことだ。幸い米沢は停電など無かったが、全国のあちこちで電柱が将棋倒しのように倒れたり、断線して停電に見舞われている。
 電線が暴風でやられて停電になっては困るが、この自然の威力を風力発電・波力発電など再生可能エネルギーとして早く利用できるようになればいいんだが。
●北国に春の訪れ。我が家も、屋根が雪崩で壊れる(足と―雪崩止めの『」』型の横棒が雪崩に引きずられて留め金からはずれ、雪塊とともに落下)ほどの豪雪。両岸からの排雪で川においかぶさっていた雪塊も崩れ落ちて無くなった。庭や畑は未だ雪で覆われているが、もう間もなく消えるだろう。
 雪解け―そこで決意―「和をもって尊しとなす!」

2012年04月03日

早く決めてほしいこと、決めてほしくないこと―「決められる民主主義」論

 最近、よく言われる「『決められない政治』からの脱却」(野田首相)とか、「日本は『決められない国』だとアメリカがいらだっている」(NHK)とか、「決定できる民主主義」(橋本)とか。
 マスコミがそれに同調し、人々の間でも、「そう言われれば、そうだな」と、それに同調する向きが多い。

 すでに選挙制度は、中選挙区制だったのから、小選挙区制が導入されて議席の大部分を二大政党のどちらかで占められるようにし、それ以外の党から議員が選ばれる余地を少なくするやり方(小選挙区並立比例代表制)に変えられてきた。似たような考え(イデオロギーなど)の二大政党のどちらかが、3分の2以上の多数を制して、或は二大政党に中間政党を加えた3党間の談合によって、すんなりと決められるやり方だ。
 大阪では「ハシズム」―選挙で当選したからには、その首長と、議会で多数を制した会派が決定権をもつとして何でもかんでも(選挙では公約になかったことまで白紙委任されたものとして、或は、憲法に保証されている人権や基本権に背くような、決めてはいけないことまで)決めてしまう独裁的なやり方を正当化している。また「維新改革」の中には、改憲して二院制を廃止して一院だけで決められるようにし、改憲の発議の要件を3分の2から過半数に変えて過半数の賛成だけで改憲発議できるようにするなど、決定システムやルールを変えようとするものが含まれている。

 しかし、肝心なのは何を決めたいのかだ。何でもかんでも早く決まればいい―どっちでもいいからサッサと決めてほしい―といって済まされるものではあるまい。
 問題は決めようとする中身なのだ。
 野田首相が決めたいと躍起になっているのは消費税増税、TPP、原発の再稼動、普天間基地の辺野古移設など等。
 大企業・財界が「一刻も早く」(経団連会長)とせっついているのは消費税増税とTPPと原発再稼動。
 アメリカが「早く決めろ」とせっついているのはTPP、辺野古移設など等、
 橋本氏が決めようとしているのは大阪都構想、教育基本条例、職員基本条例など等。
 

 これらに反対する人たちから見れば、そんなのは決まらないほうがいいのだ。
 
 多くの国民にとって早く決めて実行してもらいたいと思ってやまないのは、震災の復旧と復興、原発ゼロ、電力の発送分離(送配電部門を別会社化、電力会社の地域独占を廃す)、年金改革(最低保障年金など)、税制改革(消費税など庶民増税ではなく、富裕層・大企業への減税廃止)、派遣法の抜本改革(正社員に戻す)、普天間基地の無条件閉鎖(沖縄基地の縮小・撤去)、農林水産業の再生(食糧自給率の回復)、大企業と中小企業間の公正な取引ルール(下請け単価の切り下げ強要などを無くする)、選挙制度改革(比例代表制に)、政党助成金の廃止、など等。       

2012年04月08日

原発再稼働 賛成か反対か

 今現在、54基中1基(北海道の泊3号機)しか稼動していない―今はそれでも足りている。
 5月5日には全て停止の予定―その時になっても、なお足りているか?
 夏になったら?―経産省試算―関電管内(発電量の50%超を原発に頼っている)では、一昨年夏並みの猛暑の場合は、ピーク時の需要に対して供給力が19.6%不足、昨夏(節電、企業は土日操業)と同じくらい抑えた場合は7.6%不足と(その根拠を疑問視する向きあり―需要を過大に、供給を過少に見積もっていると)。

 そこで今、福井県の大飯3・4号機(関西電力)の再稼働が問題に―野田首相と枝野経産大臣など関係閣僚と4人で「政治判断」して、OKとなったら、地元(立地自治体だけか、周辺自治体その範囲30k圏内か100k圏内か?も問題)の理解を得て再稼働へ。

再稼働リスク―過酷事故による放射能害
       原発事故―自動車でも列車・飛行機でも、工場や建築でもリスクは付きもので、それらは原発事故に比べればはるかに事故の確率は高い。それでもその利用価値(利便性・経済性)によって、リスクをしのんで(割り切って)それらを活用している。
 しかし、それら(自動車など)は事故が起きても、被害はそれらを利用する人と事故に巻き込まれた人々に限られる。しかし原発事故のばあいは、確率は低くても、一たび起これば広範囲にわたり数世代にもわたって何十万・何百万という沢山の人々に被害・ダメージがおよび、あまりにリスクが大きい。そのリスクを無くすには原発そのものを止めて廃炉にするしかない。
       放射性廃棄物の害―事故がなくても、稼動させて核燃料を燃やし続ける限り(それは運転を停止したとしても、なのだが)、「死の灰」(使用済み核燃料を再処理してウランとプルトニウムを取り出した残りかす=高レベル放射性廃棄物―「ガラス固化体」に固めて地下100~300mに埋めるとしても、100万年管理が必要)その他の「核のゴミ」(低レベル放射性廃棄物)が溜まるが、その最終処分場の(どこかの地底にしても海底にしても)引き受け先がない。
       広範囲・長期間にわたる住民の生命・健康に害(遺伝的損傷も)
       生き物・自然環境に害
       食糧生産・風評被害など経済的にも社会的にも文化的にも心理的にも計り知れないダメージ         
       それらを防げるか―防ぎきれない   
停止リスク―電力供給に支障―深刻な電力不足―とりあえずは火力発電でしのぐとともに、他の電力会社(関電のばあいは、中部・北陸・四国・中国の4電力会社)から余った電力を連系線で送電して融通してもらうなどしてカバー(この冬は、九電は直接つながっていない東電などから融通を受けて乗り切ったという―10日付け朝日)。
      火力発電用の燃料費の高騰―電気料値上がり
      日常生活や経済活動に支障
      従来型の産業・経済・生活―大量生産・大量消費、ネオン・電飾看板、深夜営業、昼夜とも煌々と明り―できなくなり、転換が必要―省エネ・節電―ワークライフバランス、スローライフ、脱夜型生活スタイルなどに迫られる―浪費型社会からの決別―GDP 追求型経済からGNH(ブータン・モデルの「国民総幸福」)追求型などへ転換
      再生可能エネルギー(太陽光・風力・小水力・地熱・潮力発電・バイオ燃料など)早急な開発に迫られる  
      この夏は省エネ・節電(計画節電)―計画停電・電力制限令(企業など大口の電力需要者に一定の節電を強制)の覚悟も

それぞれの都合―一般国民にとって―少々暗くなっても、暑くても大丈夫という人、そうでない人―人によって、仕事・業種によって困る人、そんなに困らない人
        電力業界、原発のおかげで飯を食っている人たちの都合
        電力を大量に使っている事業者の都合など―5割の企業が再稼働に賛成                       (3月27日朝日の100社アンケート)
世論調査(朝日新聞3月13日)―原発再稼働に賛成27%(男41% 、女15%)、反対57%(男47%、女67%)
 原発停止の経済への影響を「心配している」人75%(「大いに」20%、「ある程度」55%)
 「原発を段階的に減らし将来はやめる」に賛成70%、反対17%
       
原発は再稼働しても大丈夫なのか否か、どちらの判断が現実的なのか空想的なのか。
 原発―「夢のエネルギー」―「安全神話」―「絶対大丈夫」というのは幻想―に過ぎなかった。
    原発事故は起きるというのが現実(いつ、どのようにして起き、どのような結果になるかは予測がつかず、事前予防できない)。
 原発の再稼働と停止のどちらのリスクに耐えるか―停止リスクに耐えるしかあるまい。
 朝日社説は、「今夏、再稼働して抱え込む事故再発リスクと、電力制限例いよる負担―。国民に受け入れやすいのはどちらだろうか。」と。
 原発再稼働による電力の「必要性」と停止による「安全性」のどちらを優先するか―政府は「安全性」を犠牲にして「必要性」のほうを優先

2012年05月01日

5月のつぶやき(上に随時加筆)

●田んぼ道を散歩。向こうの田んぼの中をトラクターが動いている。「♪♪忘れられぬ一つの歌、それは仕事の歌~、イギリス人は利口だから水や火など使う、ロシア人は歌をうたい自ら慰める~、ヘイ!この若者よ、ヘイ!前へ進め、さあ~みんな前へ進め~」。後ろの方でゴロゴロ音がする。振り返ると空に暗い雲が垂れ込めている。歩みを続け、「♪♪我らの思いは、それはただ一つ・・・・雪や風~、星も飛べば我が心は早や遠き地に~」。案の定、雷雲が近づいてきて風が出てきたので、麦藁帽子のあご紐を締め、「♪♪私のお墓の前で泣かないで下さい・・・・千の風に、千の風になって~・・・・」。途中で近道に切り替えて、田んぼ道を出、住宅街に入って家に向かった。雨足が強くなり、あられが舗道に飛び散る。「雨にもまけず、風にも負けず」とつぶやきながら歩き続け、家にたどりつくと、パンツまでぐっしょり。よくぞ頑張った?
●今日のテレビはスカイツリーでもちきり。634メートルは、中国のが610メートルなので、それを上まわるようにと、そこまで高くしたのだそうな。
 二番ではいけないんですか? 首都直下型地震のほうが心配でならない。
 グッズ商品に「スカイツリー貯金箱」を紹介していた。500円玉専用で、63万4000
円以上積み上がるという。これならいいや。
●金環日食にテレビで日本中が大騒ぎ。今日見ておかないと後は一生みられないというのだが。当方は、去年は「赤い朝日」にとらわれて、何日間か連日、東の山並みから朝日が昇る瞬間を見ようとカメラを持って屋根に上がったり、外にでたりして絵に描いたりもしたが、白い朝日がほとんどで、赤い朝日は2回しか見れなかった。
 今日は、朝明るかったのに暗くなって曇ってきたのかとしか感じなかったが、日食だったわけだ。
 孫が外で「日食グラス」を目にあてて空を見上げていたので、借りて見てみたら三日月形が見えた。「あれはお月さまではなく、お日さまなんだよ。細いのが段々太くなって丸くなっていくんだよ」。それ以上教えても、孫は未だ理解できる歳ではない。
 あ!「梅ちゃん先生」が始る、見なくっちゃ
●夜、寝る前に、布団の上でストレッチ体操。朝のラジオ体操は以前からずうっとやってるが、寝る前のストレッチもやることにした。日野原医師が新聞に書いていたのを見て、その気になった。メニューは4種類。これをやれば元気で長生きできる、というわけだな。
●学生時代、ロシア民謡とともに親しんだ歌に「心騒ぐ青春の歌」と「仕事の歌」(生徒に歌って聞かせたものだ)がある。これらが入ったCDをインターネットで買った。
 久々に誰もいない田んぼ道を散歩して、「♪われらの思いは それはただ一つ・・・♪」「♪うれしい歌 かなしい歌 たくさん聞いたなかで・・・♪」と歌ってみた。声を出して歌いつけなくなって久しく、持ち前のバリトンも下の音がかすれて出ない。練習すれば出るはずだ。
 先日は元同僚と一泊旅行に行ってカラオケを歌った。「イヨマンテ」「また逢う日まで」「OK牧場の決闘」「カントリーロード」etc。歌はいいな。 
●「こころよく我に働く仕事あれ それをし遂げて死なんとぞ思う」(啄木)。在職中、生徒に詠んで聞かせたものだ。若者の自殺は痛ましい。
●大人4人に1人が「自殺を考えた」との内閣調査結果。年代別で一番多いのは20代―28%。
 祝日に「こどもの日」「成人の日」「敬老の日」「勤労感謝の日」があり、休みにはなっていないが「母の日」「父の日」などもある。この際、二十歳に限らない「若者の日」も設けていいのでは?「敬老の日」なんていらないから、それを「若者の日」に変えたっていいし。若者を大事にし、元気づけなくては。
●メーデーのこの日、米沢の桜は満開直後で花びらは未だいっぱい。我が家の軒下には赤と黄色のチューリップ、白・黄色の水仙。未だ伸びきらない桃の木だが、このほうは蕾みがふくらんで開花寸前。椿・さつきと程なくしてつぎつぎ開花する。この月が一番いい。

消費税について(加筆版)

1、日本は財政危機に瀕しており、消費税増税は避けて通れない、という。
 財政危機―ギリシャのように大ピンチに瀕しかねない。家計にたとえて、「借金のつけを孫子に残してはいけない」、だから「消費税増税はしかたない」って。これ本当か?
 
(1)「国の借金」―債務総額(粗債務09年末で、国・地方合わせて872兆円、12年末には937兆円、対GDP比195%)では確かに先進国で最悪。 (以下の数字はいずれも09年末のもの)
 しかし、債務総額の約半分は二重にカウントされている(加藤寛―90~2000年政府税制調査会長が指摘)―政府が国債などによって集めた資金や年金基金などからも他の政府機関や地方自治体・外国政府などへまた貸ししているが、それも負債として加算されている)。
 日本政府の金融資産(513兆円、米国債などの外貨準備、郵政株など有価証券、特殊法人への出資金、国民が積み立てた年金・健康保険など社会保障基金)は世界一 ―GDPに匹敵(欧米諸国は15~20%程度しか)。
 {粗債務(872兆円)-金融資産(513兆円)=純債務(359兆円)}―一国の財政状況をはかる指標としてはこの方が国際的常識。
 個人の場合でもそうで、1000万円の借金があるといっても、1500万円の預金を持っている人にとっては全くどうということはないわけである。
 家計のバランスシートで言えば、例えば、200万円の借金をしていて他に何も資産を持っていないA氏と、500万円の借金をしているが、預貯金や株式などの金融資産400万円を持っているB氏(その純債務は100万円)とでは、危機的な状況にいるのはA氏のほうで、借金の総額はどんなに大きくても、それだけでB氏のほうが大変だということにはならない(参考:京都弁証法認識論研究会のブログ)。
 日本政府(国と自治体合わせて)のバランスシートも資産(2010年12月末、金融資産494 兆円、固定資産―土地・建物など国有財産―579兆円、合計 1073兆円)のほうが負債(借入金・国債など合計1037兆円)を上まわっている。仮に返済不能となったら、外債や公有財産を売却すればよいだけの話し(山家悠紀夫『消費税増税の大ウソ』大月書店)。
 (2)財政と家計は違う
 家の借金は収入の範囲内でしか借りられない。借りたら本人が生きている間に全額返済しなければならず(返済しなければ資産が差し押さえられ)、子や孫に付けを回すことはできない。
 しかし、国の借金は、国が国民に(家計が赤字で借金返済に苦しみ生活困難な人も生きていかれるように)生存権を保障し、社会保障・教育・福祉・公衆衛生など公共サ-ビスを提供しなければならず(それらは税収の範囲内にとどめるというわけにいかず、税収で足りなければ借金をしてでもやらなければならない)、そのために必要だからおこなうもの。それに政府に寿命があるわけではないし、親たちの代に全額返済しなければならないというわけではなく、子や孫の代に返済を先送りする(「借金の付けを回す」)ことはできる。しかし、子や孫たちの代の国民は借金だけを引き継ぐわけではなく、合わせて金融資産や固定資産をも引き継ぎ、子孫に財産(国有財産)として残る。

(3)ギリシャなどと比べて
 日本の貯蓄・生命保険など国民の金融資産は1,400兆円(世界一、国内の銀行や保険会社などの金融機関はそれを元手に政府の国債を引き受けているが、今のところ、その債務残高900兆円をまだ大きく上まわっている)、その内の海外への投資分(対外純資産)は266兆円で世界一。(但し、高齢者が貯蓄を取り崩すなど、現在それは低下しているので、長期的には安全とはいえない―だから国債の発行残高が際限なく増え続けることは問題)。
 日本の国債は9割以上を国内の金融機関などがもっている。それでもなお、日本国内には世界一の余剰資金(国民が所得を得て、そのなかから消費し、残りを貯蓄に回す。そのカネを使って住宅投資・企業の設備投資・公共事業などを行い、なおも余っているカネ)が(2010年末で、2位中国が167兆円、3位ドイツが114兆円なのに対して251兆円以上も)あるのだという。これまでの毎年の動き(余剰資金が10兆円以上生まれている)を見ても、政府などが新しく借りた額よりも家計など民間が貯蓄した額のほうが多いという状況が続いている。政府は大きな借金を抱えているが、それでもなお借りられるだけの余裕があるのだということ(山家悠紀夫、同上)。
 ギリシャもアメリカも財政赤字だけでなく経常収支(貿易収支と貿易外収支)も赤字なのだが(むしろこの方が重大)、日本は、経常収支はまだ黒字(貿易収支は昨年度は震災による輸出の減少や原発停止にともなう燃料の輸入増という特殊事情もあって過去最大の4.4兆円の赤字になったが、貿易外収支のうち外国証券や海外子会社などからの利子・配当収入で所得収支が黒字なので、トータルでは10兆円弱の黒字)。
 海外投資家からの債務(いわば「あかの他人からの借金」)は、ギリシャは7割以上、アメリカ・ドイツも半分以上占めるが、日本はわずか7%だけで、9割以上が国内の投資家からのもので(いわば「身内からの借金」で、円建てで借りており、日本国債の金利―今は1%弱で安定―が上がる事態になったとしても国債は日銀から買ってもらえる)、ヘッジファンドなど海外投資家からの投機的な売買に振り回されることが少なく、利子も海外流出はわずかで国内に回り、景気への影響も少ない。

(4)ところが、最近のNHK「クローズアップ現代『2012年岐路に立つ世界経済』」で、次のようなことを解説していた。
 IMFが日本国債についての報告書で、海外投資家が日本国債の先物を扱う(デリバティブ)市場で売りを仕掛けてくる(ターゲットになる)可能性があると指摘、その結果、安定して推移している国債の金利を上昇させる恐れがあるというのだ。そうすると(国債の先物といったデリバティブから崩れていけば)、「国内の投資家も、一斉に投資スタンスを変えなければいけなくなり、今いっぱい持っている国債を投売りし始めるようになる、これが一番大きな問題だ」というわけ。
 日本国債は今、いくつかの条件が満たされているので金利1%以下に保たれているが(10年もの国債の利回りでは、ギリシャ国債は34.96%、イタリア国債は7.108%だが、日本国債は0.988%)、それが崩れるとヨーロッパのような危機に陥る可能性がある(マーケットというのは一度弾みがつきはじめると誰が何と言おうと信用されなくなる)。いつまでもつか、早ければ数年(倉都康行・国際金融アナリスト)、家計貯蓄がこれから減ってくるということを考えれば5年もつかだと(伊藤隆敏・東大教授)。日本国債の信用維持のためには「健全な財政」に早く戻す「財政再建」(それは避けて通れない道)の明確な道筋・方向性を示すメッセージを国としてしっかり出していくことが必要だ。それがないと市場が不安がる、というわけ。
 日本国債は世界の債券市場では優良銘柄で、格付け会社によって最上位(トリプルA)と見なされてきたが、このところ巨額の債務を理由に、一段下(ダブルAプラス)へ格下げられている。今、国内の金融機関の間でも日本国債に対して慎重な見方が広がりつつあるという。
 金利1%上がれば1兆円超の利払い費がかさみ、わずかな金利上昇でも利払いが膨らみ、財政をさらに圧迫する。 
 だから、そうならないうちに早く消費税増税を決めてしまえ、というわけか。
要するに、政府が何か手を打たないと、ヘッジファンドなど海外投資家が日本国債の先物市場で売りを仕掛けてくる可能性がある(その結果、安定して推移している国債の金利を上昇させる恐れがある)、だから、政府が消費税の増税を敢えて強行するのを国民は甘受せよというわけか。ヘッジファンドによる「仕掛け」(いわば陰謀)など投機マネーに振り回されることを恐れて庶民増税、そんなの理不尽だ。
 尚、NHKの同番組(「クローズアップ現代」)では、ロナルド・ドーア氏(イギリス人・政治経済学者で日本に留学、半世紀以上にわたって日本の資本主義と文化研究)にインタビュー、氏は「世界経済全体が金融化されていて、金融業者の支配下に置かれている。それが災いの根源。(まともな投資家)そういう資本を持っている投資家が今の世の中に少なくなっていて、ほとんどが投機家。銀行が投資家の役割を果たして、ただギャンブルする投機家の役割ができないような制度に変えるべきだ」と語っていた。

(5)日本政府の債務膨張・財政赤字の拡大が日本国債の信用を失墜させる結果になりかねないのも事実。
 その債務膨張を招いた原因は?
 それには高齢化による社会保障費の膨張もあるが、これはしかたのないこと。不要不急な無駄遣いとは事が違い、カネが無ければ借金してでも用立てなければならないもの。社会保障関係費は一般会計予算の中では最も大きいが、それにカネのかけ過ぎどころか、世界の主要国と比べればむしろ最も少ない。(社会保障への公費負担のGDPに対する割合は、イギリス13.5%、イタリア11% 、ドイツ10.5%、フランス9.4%に対して、日本は6%に過ぎない。)
 
 問題はつぎの三つ
①自民党政権以来重ねてきた不要不急の大型公共事業と米軍への思いやり予算などを含めた軍事費などの無駄―ゼネコンや日米の軍需産業への大盤振る舞い。
②大企業・富裕層への優遇税制(この15年間、法人税減税、所得税や相続税の最高税率を切り下げるなど、取るべきところから取らない)―それはまた直接税(所得税や法人税など)のビルト・イン・スタビライザー機能(「自動安定化装置」―不況期に財政赤字が増えても、好況期には企業利益や賃金が増えるので税収が増えて赤字が減るという機能)を働かなくしたこと。
③長期にわたる景気悪化とデフレ・スパイラル―消費の落ち込み、内需停滞、賃金ダウンで税収が減ったこと(消費税アップで税収を増やしても、消費マインドが低下して景気が悪化すれば所得税・法人税などの税収が減って税収総額は増えないことになる)。
この三つである。
 このやり方を是正し、財政健全化(赤字削減・基礎的財政収支プライマリーバランスの黒字化)に努めること(無駄な大型公共事業や軍事費を削減すること、大企業・富裕層への優遇税制をやめること、内需拡大による景気回復をはかって労働者の賃金・中小企業の収益をアップすること)、それは不可欠。それなしに単に借金の穴埋めするために「取りやすいところから取る式」の消費税増税は理不尽である。
 
2、財政赤字の縮小(「財政再建」)と社会保障の充実のために、必要不可欠なのは?
(1)消費税の増税―むしろ逆効果なのでは?
 経産省とマスコミの宣伝―消費税のメリット
 ①「広く薄く課税し、世代に偏らない―公平性」
  所得税のように「クロヨン(9・6・4)」などサラリーマンと自営業者・農家との間で捕捉率の不公平がない、とか 
 ②「国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障財源に相応しい」
 ③「所得税や法人税と比べて、景気の良し悪しに左右されない―安定性」        「増税分を福祉などの分野にあて、生活の安定と雇用を増すことで消費が増加して景気が回復して税収も増え、経済が成長」
 ④「シンプル(やり方が簡単)で安定財源」だと。

消費税は公平か? 
 平均的な家庭で、(09年)消費額が月25.4万円で、5%消費税は1.3万円、年間では消費額300万円で、消費税15万円だが、(年収300万円の家庭と年収1,500万円の家庭とでは)所得の低い人ほど、所得のうち消費にあてる割合が高い(逆進性―消費税が10%になれば、年間の支払額が手取り収入に占める割合は、年収250万円未満の家庭では5.4%、年収700万円~ 750万円の家庭では5.1%、年収1500万円の家庭では4.7%)―この点では、消費税は社会保障財源としてはむしろ最も相応しくない。
 消費税というのは、いわば低所得者や所得の無い子供からまで合法的にカネをまきあげるもの。(政府・民主党は今度10%に上げた場合、低所得者には軽減税率ではなく、所得税額を減らしたり、所得税額ゼロの人に給付金を渡したりする方針。)
 企業にとっては、法人税は赤字なら払わなくてもいいが、消費税は(税務署から「業者は消費税のお金を預かっているだけだから支払え」と迫られ)借金までして、自腹で払わされる。
 そして、売買で強い立場にあるほうが得をする(取引先との力関係で弱い中小零細の、とりわけ自営業者により重い負担を強いる)―メーカー・部品メーカー・卸業者・小売業者はそれぞれ消費税を価格に上乗せ(転嫁)して売り渡すことになっているが、下請けなど中小零細企業や自営業者は大口顧客(大手メーカー・大手百貨店・ス-パー・チェーン店など)から値引きを強要されて、それ(価格上乗せ)がなかなかできず、結局自分でかぶる(自腹を切る)か、滞納せざるを得なくなる、といったことが多くなる(滞納額はあらゆる税のなかで消費税がワーストワン―諸税の滞納額合計約6800億円のうち半分が消費税の滞納)。日本商工会議所によると、税率が今後引き上げられれば、売上高5千万円以下の事業者の6割以上は転嫁できないと。
 消費税が増税されれば、材料費も上がる。下請け企業は、部品を大企業に納める時、増税分を上乗せした代金を請求すればいいはずなのだが、大企業から(コスト削減のためと)値上げを拒まれて、増税分を自分でかぶらなければならないことになる。
 (自殺は12年連続で3万人を超え続けているが、「自営業・家族従事者」は3,202人で全体の9.7%なのに対して、「被雇用者・勤め人」は27.9%なので、両者の比率は1対3だが、就業者全体にしめる「自営業者」と「被雇用者」の割合が1対7であるのに比べれば、自営業者の自殺率は非常に多い。)
 一方、大企業など輸出比率の高い企業は、輸出や国際輸送など輸出に類似する取引では売上に対して消費税は免除され(「仕入れ税額控除」)、仕入れで負担した消費税は還付される(「輸出戻し税」)ので、消費税は全くかからない。
 (尚、会社設立したばかりの2年間と年間売上1千万円を超えない事業所は、消費税は免税―「益税」) 
 「クロヨン」―原泉徴収でとられるサラリーマンに対して、申告納税で納める自営業者・農家に対する所得の捕捉が甘く不公平だとの見方があるが、実際は税務署の目は自営業者などに対してふし穴でもなく、甘くもないのだという(ジャーナリスト斉藤貴男氏)。申告納税のやり方のほうが、むしろ民主主義に相応しい徴税方法。
消費税は社会保障財源に相応しいか?
 消費税は貧しい人ほど負担が重く、社会保障にはむしろ相応しくない。
政府は消費税収を社会保障の経費に充てるもの(「社会保障目的税」)としている。現状でも国の消費税は建て前上「社会保障目的」になっている。しかし、消費税は社会保障の(特別会計を設置しての)「特定財源」ではなく、あくまでも自由に使える「一般財源」として徴収されており、結果として法人税減税の穴埋めにされてきた。
消費税は「景気の良し悪しに左右されない安定財源」か?
 確かにそのとおりだが、それは税を集める側にとって都合がいいだけの話し。税務署は事業者が経営赤字なら、法人税は取れないが、消費税なら借金させてでも取り立てることができる。労働者も、所得税なら、賃金が下がったら減額され、失業したら免除されるが、消費税には軽減も免除もない。
 所得税や法人税は賃金や売上の上がり下がりに応じて加減され、それによって景気調整がうながされるが、消費税はそれがなく、ただむしり取られ続ける一方で、景気は悪化する一方になる。
 保育・介護・救急医療などには確かに雇用が増えるが、それだけのことで、それだけで景気回復・経済成長を云々するのは机上の空論。
 消費税増税で消費が冷え込み(消費マインドが低下して)景気をガタンと悪化させる。
消費税はシンプルか?
 一般の消費者は店に代金とともに支払うだけだが、税務署に自己申告して直接納めに行く事業者は課税の事実を証明できる帳簿や請求書の類を保存しておかなければならず、書類作成の事務負担が非常に煩雑。
 「シンプルで安定財源」だというのは徴税する側の都合。
 それに消費税には派遣社員の増大をもたらすという弊害がある―納税義務者(事業者)は、仕入れのために支払った消費税を差し引いた金額を税務署に納めることになっている(「仕入れ税額控除」)が、派遣社員や請負社員への報酬にも、物を仕入れたのと同様の消費税率(5%)控除が適用されるので、正社員を減らして派遣社員に切り替えれば、その分が節税できることになっているから。(2,000年11月の朝日新聞だが、1989年消費税導入以来、人材派遣事業所は2倍に増えている。)
日本の消費税は低すぎるか?
 消費税の税率(5%)はヨーロッパ(20%前後、イギリスは17.5%)に比べれば確かに低いが、国税収入全体に占める消費税の割合から見れば22.1%で、イギリス22.5%、スウェーデン22.1%とほぼ同じ。ヨーロッパの税収が税率ほど高くないのは、食料品・生活必需品など広範な分野に完全非課税や軽減税率が適用されているからだ。(日本は、家賃、土地や有価証券の売買、預貯金の利子、学校の入学金・授業料・教科書代、郵便切手、介護保険サービス、医療費などは非課税だが、食料品など生活必需品への軽減税率はない。)
 それに、ヨーロッパ諸国が消費税(「付加価値税」)を取るようになったのは、帝国主義の戦争時代、戦費調達とともに、銃後を守る女性や子供・老人たちが安心して生活できるだけの社会保障が整っていないと、戦争に兵士を動員できなくなるから、といった理由から始ったのであって、戦争にともなう歴史的な背景があったことを考慮しなければならない。だから高福祉・高負担なのである。
 逆にアメリカでは、州によっては「小売り売上税」(小売店だけが顧客から預かって納める形の消費税で、他の流通段階には適用されない)を導入しているところもあるが、国税としては消費税も付加価値税もない(かつてレーガン大統領当時、税制改革案に関連して財務省は大統領に報告書を提出したことがあったが、その時、消費税の欠陥を指摘して次のように書いている。「もし、付加価値税がすべての消費購入に均一税率で適用されるならば、租税の相当部分は貧困レベル以下の人々によって担われることになる。平均的に言って、消費目的のために使われる所得の割合は、所得が増すにつれて低下するから、このような租税は逆進的である」と。その結果、大統領提案の税制改革案には、この税の導入は盛り込まれなかったという。ブッシュ大統領の時にも、その導入は見送られている。)
増税は必要だとしても、それがなぜ消費税でなければならないのか?
 消費税以外に法人税・所得税などいろんな税があるのに、増税と言えば、なぜ消費税しかないかのように言うのか。
 それは財界・富裕層にとって、その方が得だからにほかならない。法人税減税や所得税最高税率の低さや証券優遇税制などで優遇されている彼らにとっては、消費税の導入・増税で、それによって社会保障財源が賄われようになれば、自らにかかる法人税の減税など大企業・富裕層遇税制が維持できるからだ。
「社会保障と税の一体改革」と称して消費税増税、それは法人税減税のためにほかならないということなのだ。
 そもそも1989年消費税が「福祉の拡充」を掲げて初めて導入されると同時に法人税が下げられはじめ、97年消費税率が3%から5%に引き上げられとその翌年、法人税のほうはさらに引き下げられ、99年には所得税の定率減税とあいまって法人税はさらに引き下げられた。(所得税の定率減税のほうは06~07年打ち切られたが、法人税減税はそのまま。)
 消費税は社会保障財源に当てるため、といった「福祉目的税」化は、結局は、所得税や法人税など他の税は軍事費や公共事業費などに当てられ、あとは「借金返済」に注ぎ込まれるだけということになってしまう。
消費税を増税すれば社会保障の充実・安定化により、将来不安をなくすことでかえって消費は増え景気回復・経済成長にもつながっていく、というが、はたしてそうか?
 消費税増税は国民の消費を冷え込ませ(需要不足→生産・投資・雇用の連鎖的悪化を招き)、さらなる景気悪化を招き、税収を落ち込ませ、かえって財政危機を強めこそすれ、財政再建にはならない。

(2)法人税は?
 法人税(企業の利益に課税)は1980年代には40%台だったのが、99年以降30%に減税されている。
  民主党政府は、その30%をさらに25.5%に引き下げ(12年度から実施なのを震災復興のため3年間凍結して)15年度から実施することにしている。当面3年間は、震災復興財源として、引き下げた後の税率(25.5%)にその10%(2.25%)の付加税を上乗せして(28.05%)かける。(ということは、当面3年間は現行の30%から1.95%だけ減税、それ以降4年目からは4.5%が減税)

 財界とマスコミは、日本の法人税は「世界一高い」、これでは「国際競争力が損なわれる」、「工場の海外移転が増え」「海外からの投資が損なわれる」と。
 しかし、実効税率は(ヨーロッパよりは高いが)アメリカよりは低い―財界内部から(税務弘報10年1月号鼎談「あるべき税制論議」で、経団連の阿部泰久経済基盤本部長)「日本の法人税は決して高くはない」「表面税率は高いが、いろいろな政策税制あるいは減価償却から考えたら、実はそんなに高くはない。・・・・特に製造業であれば欧米並み・・・。日本の法人税負担は、税率は高いが税率を補う部分できちんと調整されている」と。実際、大企業は研究開発減税や外国税額控除をはじめとする幾多の優遇措置を受け実質的な税負担率は平均で30%程度にとどまっている。アメリカ(カリフォルニア州など)は40%で日本より高い。

 法人税だけの比較ではなく、それに社会保険料を加えた企業負担(税+社会保険料)を比べれば、日本企業の負担はドイツやフランスの企業より2・3割少ない。
 法人税を減税すれば、その分を雇用や投資に回せるというが、その保証・見込みはなく、溜め込み(内部留保-剰余金・積立金)として証券運用などに回るだけ。減税しても内部留保が増えるだけで、国際競争力にプラスにはならない。(大企業の内部留保は09年度末200兆円超で、12年間で倍増している。税の負担能力は格段に高まっているということだ。なのに、それは税金には当てられず、設備投資にも、人件費アップにも、中小企業の下請け単価アップにも当てられてはいない。)
 工場の海外移転は、必ずしも日本の法人税が高いからという理由ではなく、むしろ人件費(労働コスト)、海外市場の将来性、それに円高のほうが大きな理由なのだ。

 法人税減税で中小企業は助かるか?中小企業は一定の所得までは軽減税率(18%)が適用されるため、法人税の基本税率(30%)引き下げの恩恵はない。それに中小企業は内需低迷や大企業の下請け単価の買いたたきで赤字決算のため、そもそも法人税を払える状態ではないのだ。
 ところが、三大メガバンク(三菱UFJ・三井住友・みずほ)グループ傘下の6銀行は10年以上、法人税ゼロとして済まされている(企業は「欠損金の繰越控除」で、法人税納付に際して過去の損失を7年間繰り越して黒字と相殺することができることになっていて、不良債権処理で発生した巨額の損失を繰越すことで、課税所得が相殺されて法人税納付ゼロが続いていたため)。

(3)所得税は?
 「応能負担の原則」を踏まえた累進課税で、所得に応じて税率が高く、所得の多い人は多く納め、所得の少ない人は少なく納めるというやり方。以前(1970年代)には19段階にも分けられ、最高税率は75%(住民税と合わせると93%)だった。ところがそれが段々、段階が減らされ、98年以前は最高税率50%(住民税と合わせると65%)だったが、今では6段階、最高税率は40%(住民税を合わせて50%)に引き下げられている。つまり課税所得が195万円以下の人は5%(最低税率)、1800万円を上回れば、どんな高額所得者でも40%しか取られなくなっている。そっちの方(富裕層の所得税)を上げるべきなのでは?
 民主党政府案には、15年から最高税率40%を45%に上げることにしているが、それでは不十分。(少なくとも98年以前の最高税率65%に戻すべき。)
 「富裕層に課税を」は世界の流れ―いま、アメリカでもヨーロッパでも富裕層自身が「もっと税金をとってくれ」と言っている状況。
 社会保障は、本来は弱者支援が基本―そのための政策手段は「再分配の強化」が基本。「所得の再分配機能」をもつのは所得税の累進課税なのだから、所得税こそが社会保障財源として最も相応しいはず。ところが今は、最高税率の引き下げと段階縮減で所得再分配機能が低下してしまっている。

(4)証券優遇税制は?
 「証券優遇税制」―株式など金融資産の譲渡益・配当に対する税率20%だったのが10%に引き下げられていて、その措置を11年6月からさらに2年間延長している。

(5)相続税は?
 80年代後半のバブル景気で土地の価格が高騰し、相続税の負担が大変だとなって、減税が繰り返されてきた。(基礎控除額は80年代「2000万円+相続人1人あたり400万円」が段々と引き上げられて94年に今の「5000万円+相続人1人1000万円」となり、最高税率も80年代後半「課税対象額5億円超に70%」だったのが03年に今の「3億円超に50%」に引き下げられた。
 よほどの金持ちでなければ払わなくてもよくなっている。(相続人が配偶者と子ども2人で、遺産が8千万円以下なら課税対象額はゼロ)。
 遺産に相続税がかかっていたのは、87年には亡くなった人のうち8%いたが、09年には亡くなった人のうち4%しかいない。
 相続税収は93年度2.9兆円だったのが、12年度には1.4兆円(消費税収の1割)。
 政府・民主党は15年から基礎控除を「3000万円+相続人1人600万円」にして課税対象を増やし、最高税率も「課税対象額6億円超に55%」へと上げることにしている。
(6)ムダの削減
大型公共事業
 高速道路・新幹線の建設など、日米構造協議でアメリカの要求に応じて盛んに行われてきた。そもそも、それが財政赤字を大きくした最大の原因。
 民主党は政権公約に「コンクリートから人へ」と言ってきたはずなのに。
 八ッ場ダム本体工事
 高速道建設―新名神高速・東京外環道(「1メートル1億円」)
 整備新幹線の未着工区間
 それら凍結していた建設工事を次々再開へ、何兆円も予算化。
軍事費―「防衛費」と称して聖域扱い
 米軍への軍事費負担(4411億円)は、アメリカの同盟国27カ国が米軍のために負担した総額の半分以上を占める。
 ここにも大きなムダ。
 米軍への「思いやり予算」(在日米軍駐留経費負担)―そもそも条約上は日本側に支払い義務のないもの―今年も1867億円。
 米海兵隊のグアム移転費―なんで日本が払わなければならないのか?
 ミサイル防衛(BMD)―米国では迎撃実験の失敗が相次いでいる(米政府監査院の11年報告書は「目標を達成したものは一つもない」と)にもかかわらず、技術開発が不十分なまま製造しており、「迎撃するのは不可能」ともいわれている(孫崎・元防衛大教授)―そんなものに95~12年累計で1兆円。
 F35―次期戦闘機として買い入れ―重大な欠陥が指摘され完成もしていないのに。
原発推進予算―4200億円
3、「消費税増税はやむをえないとしても、その前に『ムダを削れ』『身を削れ』」と称して公務員のリストラ、議員定数の削減を言い立てる向きが多いが、
(1)公務員のリストラ・人件費削減はいいことか?
 国と地方の総支出に占める公務員の総人件費の割合は(デンマーク33.3%、アメリカ26.2%、フランス23.8%、イギリス23.5%で)、日本(15%)はOECD27ヵ国中最も少ない。
 労働力人口に占める公務員数の割合は(ノルウェー34.5%、フランス24.4%、アメリカ14.6%で)、日本(7.9%)はOECD27か国中最低なのだ。
 なのに、それを削減すれば、公共サービスはさらに低下、災害などに際しても対応しきれない人手不足に陥ることになる。
(2)議員定数の削減はいいことか? アメリカを除けば、ヨーロッパなど他国と比べて日本は最も少ないほう(削減肯定論者はとかくアメリカとだけ比べてヨーロッパとは比べない。それにアメリカは連邦国家で、州が日本の県よりも独立性が強く、独自の軍隊さえもち、上下両院の議会をもっている。その州議会議員数を考慮にいれずに、連邦議会の議員数とだけ比較してもはじまらない)。議員定数、それも比例区のほうの定数を削減すればますます、少数政党に代表される多様な民意が切り捨てられることになる。
 それに、100人減らしても70億円で、政党助成費の4分の1にも満たない。
 政党助成費(320億円)を廃止したほうがましなのだ。

2012年05月11日

財政危機・消費税増税肯定論に対する異論(再加筆版)

 5月11日、消費税増税法案が衆院本会議で審議入りした、この日NHKニュースが「国の借金960兆円、国民一人当たり752万円」と伝え、街頭インタビューで「返せる金(額)じゃーないね」「増税もいたしかたない」と言わせている。
 財政危機―家計にたとえて、「借金の付けを孫子に残してはいけない」、だから「消費税増税はしかたない」と。はたして本当か?
(1)「国の借金」―債務総額(粗債務―09年末国・地方合わせて872兆円、12年末には国・地方合わせて1000兆円を超え、GDPの2倍になる見込み)では確かに先進国で最悪。
 しかし、債務総額の約半分は二重にカウントされている―政府が国債などによって集めた資金や年金基金などからも他の政府機関や地方自治体・外国政府などへまた貸ししているが、それも負債として加算されている。
 (以下の数字はいずれも09年末のもの)
 日本政府の金融資産(513兆円、米国債などの外貨準備、郵政株など有価証券、特殊法人への出資金、国民が積み立てた年金・健康保険など社会保障基金)は世界一 。
 {粗債務(872兆円)-金融資産(513兆円)=純債務(359兆円)}―一このほうが国の財政状況をはかる指標としては国際的常識。
 個人の場合でも、例えば1000万円の借金があるといっても、1500万円の預金を持っている人にとっては全くどうということはないわけである。
 日本政府(国と自治体合わせて)のバランスシートも資産(2010年12月末、金融資産494 兆円、土地・建物などの固定資産579兆円、計 1073兆円)のほうが負債( 1037兆円)を上まわっている。仮に返済不能となったら、米国債や公有財産を売却すればよいだけの話し。
(2)財政と家計は違う
 家の借金は収入の範囲内でしか借りられない。借りたら本人が生きている間に全額返済しなければならず(返済しなければ資産が差し押さえられ)、子や孫に付けを回すことはできない。
 しかし、国の借金は、国が国民に生存権を保障し、社会保障・教育・福祉・公衆衛生など公共サ-ビスを提供しなければならず(それらは税収の範囲内にとどめるというわけにいかず、税収で足りなければ借金をしてでもやらなければならない)、そのために必要だから行うもの。それに政府に寿命があるわけではないし、親たちの代に全額返済しきらなければならないというわけではなく、子や孫の代に返済を先送りすることはできる。しかし、彼ら(後の世代の国民)は借金だけを引き継ぐわけではなく、合わせて国の金融資産や固定資産をも引き継ぎ、それらは国有財産として残る。
(3)ギリシャなどと比べて
 日本の貯蓄・生命保険など国民の金融資産は1,400兆円で世界一。国内の銀行や保険会社などの金融機関はそれを元手に政府の国債を引き受けているが、今のところ、債務残高(11年度末で)985兆円をまだ大きく上まわっている。その内の海外への投資分(対外純資産)は266兆円で世界一。(但し、高齢者が貯蓄を取り崩すなど、現在それは低下しているので、長期的には安全とはいえない―だから国債の発行残高が際限なく増え続けることは問題)。
 日本の国債は、その9割以上を国内の金融機関などがもっている。それでもなお、日本国内には世界一の余剰資金((国民が所得を得て、そのなかから消費し、残りを貯蓄に回すが、そのカネが金融機関を通じて住宅投資・企業の設備投資・公共投資などに回り、なおも余っているカネ。2010年末で251兆円以上)があるのだという。これまでの毎年の動き(余剰資金が1年に10兆円以上生まれている)を見ても、政府などが新しく借りた額よりも家計など民間が貯蓄した額のほうが多いという状況が続いている。政府は大きな借金を抱えているが、それでもなお借りられるだけの余裕があるのだということ。
 ギリシャもアメリカも財政赤字だけでなく経常収支(貿易収支と貿易外収支)も赤字なのだが、日本は、経常収支はまだ黒字(貿易収支は、昨年度は震災による輸出の減少や原発停止にともなう燃料の輸入増という特殊事情もあって過去最大の3.4兆円の赤字になったが、貿易外収支のうち外国証券や海外子会社などからの利子・配当収入で所得収支が黒字なので、トータルでは7兆9千億円の黒字。但し、専門家の中には、その黒字幅は今後も減り続け、中長期的には経常赤字が定着するという悲観的な見方も)。
 海外投資家からの債務(いわば「あかの他人からの借金」)は、ギリシャは7割以上、アメリカ・ドイツも半分以上占めるが、日本はわずか7%だけで、9割以上が国内の投資家からのもので(いわば「身内からの借金」で、円建てで借りており、日本国債の金利が上がる事態になったとしても国債は日銀から買ってもらえ)、ヘッジファンドなど海外投資家の投機的な売買に振り回されることが少なく、利子も海外流出はわずかで国内に回り、景気への影響も少ない。
(4)これら楽観論?に対する悲観論
 海外投資家が日本国債の先物を扱う(デリバティブ―金融派生商品)市場で売りを仕掛けてくる(ターゲットになる)可能性があり、その結果、安定して推移している国債の金利(1%弱)を上昇させる恐れがあるという。国債の先物といったデリバティブから崩れていけば、「国内の投資家も、一斉に投資スタンスを変えなければいけなくなり、今いっぱい持っている国債を投売りし始めるようになる、これが一番大きな問題だ」というわけ。
 日本国債は、今はいくつかの条件が満たされているので低金利が保たれているが(10年もの国債の利回りでは、ギリシャ国債は34.96%、イタリア国債は7.108%だが、日本国債は0.988%)、それが崩れるとヨーロッパのような危機に陥る可能性がある(マーケットというのは一度弾みがつきはじめると誰が何と言おうと信用されなくなる)。いつまでもつか、早ければ数年、家計貯蓄がこれから減ってくるということを考えれば5年もつかだ、と。
 日本国債の信用維持のためには「健全な財政」に早く戻す「財政再建」の明確な道筋・方向性を示すメッセージを国としてしっかり出していくことが必要だ。それがないと市場が不安がる、というわけ。
 日本国債は世界の債券市場では優良銘柄で、格付け会社によって最上位(トリプルA)と見なされてきたが、このところ巨額の債務を理由に、一段下(ダブルAプラス)へ格下げられている。今、国内の金融機関の間でも日本国債に対して慎重な見方が広がりつつあるという。
 国債がそのうち俄かに売られ出して、国債を大量に抱えて大きな損失を被る金融機関のために日銀が国債を買い支えるべく際限なくカネを出し続ければ、通貨が出回り過ぎて深刻なインフレを招く。そうなれば、政府の長期債務の金利が跳ね上がる。
 金利1%上がれば1兆円超の利払い費がかさみ、わずかな金利上昇でも利払いが膨らみ、財政をさらに圧迫する。だから、そうならないうちに早く消費税増税を決めてしまえ、というわけか。
 要するに、政府が何か手を打たないと、ヘッジファンドなど海外投資家が日本国債の先物市場で売りを仕掛けてくる可能性がある(その結果、安定して推移している国債の金利を上昇させる恐れがある)、だから、政府が消費税の増税を敢えて強行するのを国民は甘受せよというわけか。
 ヘッジファンドなど投機筋による「仕掛け」とは―ギリシャ国債に対してデフォルト(債務不履行)説を流布させたように、日本国債に対して「日本の財政赤字削減が進まない。日本政府は本気で財政再建に取り組んでいない。日本の財政は間もなく破綻する、日本国債は紙くず同然になる」と悲観論を振りまいて仕掛ける。それを前もって日本国債を買い集めておいて売りを仕掛け、それが効を奏して価格がどんどん下がっていくタイミングをとらえて買い戻せばガッポリ儲かる(たとえば100万円の国債、それが60万円まで下がったところで買い戻すと、差し引き40万円が儲かる勘定になる)。
「格付け会社」は(各国の政府が発行している国債に投資した場合、そのお金が将来返ってくる可能性がどれだけあるかを評価)、「日本の財政赤字は悪化している、日本政府には財政再建に対する切迫感が欠けている」として日本国債を格下げ(5月22日にはフィッチ・レーティングスという格付け会社が、日本国債を中国や台湾並みのAAマイナスからイスラエルやスロバキア並みのAプラスに下げた。新聞には「消費税増税の法案が決まらなければ、さらに格下げも」と報道されている。まるで「消費是増税を早く決めろ」と催促しているかのようだ)。それが世論誘導に利用されるわけだ。
 「投機マネー」や「格付け会社」に振り回されることを恐れての庶民増税だが、そんなの甘受できるだろうか。
(5)日本政府のやたらな債務膨張・財政赤字の拡大が日本国債の信用を失墜させる結果になるのは確かだが、その債務膨張を招いた原因は
 それには高齢化による社会保障費の膨張もあるが、これはしかたのないこと(不要不急な無駄遣いとは事が違い、カネが足りなければ借金してでも用立てなければならないもの。
 社会保障関係費は一般会計予算の中では最も大きいが、それにカネのかけ過ぎどころか、世界の主要国と比べればむしろ最も少ない。(社会保障への公費負担のGDPに対する割合は、イギリス13.5%、イタリア11% 、ドイツ10.5%、フランス9.4%に対して、日本は6%に過ぎない。)
 問題はつぎの三つ
①自民党政権以来重ねてきた不要不急の大型公共事業と米軍への思いやり予算などを含めた軍事費などの無駄―ゼネコンや日米の軍需産業への大盤振る舞い。
②大企業・富裕層への優遇税制(この15年間、法人税減税、所得税や相続税の最高税率を切り下げるなど、取るべきところから取らない)―それがまた直接税(所得税や法人税など)のビルト・イン・スタビライザー機能(「自動安定化装置」―不況期に財政赤字が増えても、好況期には企業利益や賃金が増えるので税収が増えて赤字が減るという機能)を働かなくしたこと。
③長期にわたる景気悪化とデフレ・スパイラル―消費の落ち込み、内需停滞、賃金ダウンで税収が減ったこと(消費税アップで税収を増やしても、消費意欲が低下して景気が悪化すれば所得税・法人税などの税収が減って税収総額はかえって増えないことになる)。
 この三つである。
 このやり方を是正し、財政健全化(赤字削減・プライマリーバランスの黒字化)に努めること(ムダな大型公共事業や軍事費を削減すること、大企業・富裕層への優遇税制をやめること、内需拡大による景気回復をはかって労働者の賃金・中小企業の収益をアップすること)、それは不可欠。それなしに単に借金の穴埋めするために「取りやすいところから取る式」の消費税増税は見当違い。

 どの国でも、いまだかつて増税によって財政再建を果たした国はないとのこと。
 大企業などの内部留保(溜め込み―日本企業が抱え込んでいる現金や預金は200兆円を超える)をはきださせて賃金アップ・雇用に回すとともに中小企業への注文も増やして内需拡大・デフレ脱却をはかり、税収増をはかる。そうすることのほうが、財政再建の実現性が高い。(インフレになって物価があがり、国債の金利も上がって利払いがかさむといっても、それは新規国債からの話しで、前から借りていた国債の金利は固定金利でそのままだから、かえって返しやすくなるはず―月給30 万円の人が 100万円の借金をしていて、月給が 50万円に上がれば借金は軽くなって返しやすくなる。政府にとっても国の借金が軽くなって返しやすくなるはず。但しその後の金利がつり上がった新規国債では借りにくくなるが。)

2012年05月31日

各党・政治家・主要マスコミのスタンス(加筆修正版)

民主1-消費税(◎),原発(○),TPP(○),日米同盟(◎),競争管理教育(○),改憲(○)
民主2-消費税(△),原発(△),TPP(△),日米同盟(○),競争管理教育(○),改憲(○)
自民1-消費税(◎),原発(○),TPP(○),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)
自民2-消費税(△),原発(○),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)
公明党-消費税(○),原発(△),TPP(○),日米同盟(○),競争管理教育(○),改憲(○)
みんな-消費税(△),原発(△),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)
橋本派-消費税(△),原発(△),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)
石原派-消費税(◎),原発(◎),TPP(○),日米同盟(○),競争管理教育(◎),改憲(◎)
共産党-消費税(×),原発(×),TPP(×),日米同盟(×),競争管理教育(×),改憲(×)
社民党-消費税(×),原発(×),TPP(×),日米同盟(△),競争管理教育(×),改憲(×)

NHK-消費税(○),原発(○),TPP( ),日米同盟(○),競争管理教育( ),改憲( )
朝 日-消費税(◎),原発(△),TPP(○),日米同盟(○),競争管理教育(△),改憲(△)
毎 日-消費税(○),原発(△),TPP(○),日米同盟(○),競争管理教育(△),改憲(△)
読 売-消費税(◎),原発(◎),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)
日 経-消費税(◎),原発(◎),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(○),改憲(◎)
産 経-消費税(◎),原発(◎),TPP(◎),日米同盟(◎),競争管理教育(◎),改憲(◎)

kinkin-消費税(△),原発(×),TPP(△),日米同盟(△),競争管理教育(×),改憲(×)

世論 ―消費税(×),原発(×),TPP(△),日米同盟(○),競争管理教育( ),改憲(○)

 註(◎―積極的容認「推進派」、○―容認、△―否定はしないが消極的「慎重派」、
   ×―否認「反対派」)
  (消費税―その増税)
  (原発―維持・再稼働)
  (TPP―それへの参加)
  (日米同盟―日米安保の維持・強化、米軍基地を維持)
  (競争管理教育―競争させ管理統制する教育)
  (民主2―小沢派その他)
  (自民2―上げ潮派・構造改革派)
  (自民2・みんなの党・橋本派は新自由主義―市場での売買・競争・自己責任に任せる市場原理主義、規制緩和・民営化路線)
  (橋本派―「維新の会」その他)
  (石原派―「たちあがれ日本」なども含む)
  (NHK―発表ネタを垂れ流す傾向。ニュースウワッチ9などのキャスターのスタンス。経営委員長は原発再稼働推進派)
  (朝日―テレビ朝日・週刊朝日と同系列)
  (毎日―TBS・サンデー毎日と同系列)
  (読売―日本テレビと同系列)
  (日経―テレビ東京と同系列)
  (産経―フジテレビ・文春と同系列)
  (kinkin―愛川欽也氏が主催するインターネットテレビ―「kinkin.tv」で検索)
  (世論―各社の世論調査で一番多い答え。改憲でも9条に限れば×が最多)
 
 (これらはインターネットで調べられる)

改憲
 ①自民党
  天皇を「元首」に―国民の上に立ち、憲法擁護義務を負わない?(国民が主権者であることをぼやけさせる)・・・現行憲法では天皇に(国務大臣や国会議員・裁判官その他の公務員とともに)「憲法を尊重し擁護する義務」を負わせているが、それを国民の方に「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」として、国民の義務を(現行憲法では勤労・納税・教育の3大義務だけなのに、それ以外にも)様々列挙し、国や公の機関の指示に従わなければならないとして課している。
 近代憲法は、政府や公務員にそれを守らせ、権力の乱用を防ぐのが役目なのに(いわゆる立憲主義―伊藤博文・明治憲法の起草者でさえ、いわく「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と)。
 日の丸・君が代を国旗・国歌として尊重することを明記。

 9条に自衛隊を「国防軍」として明記・・・・国防軍に審判所(軍事裁判所・軍法会議のようなもの)を置く―「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密を犯した場合の裁判を行なうため」と(ところが別の箇所には「特別裁判所は設置することはできない」と―矛盾)。
 緊急事態条項―武力攻撃・内乱等による社会秩序の混乱、地震等による自然災害その他
  総理大臣が緊急事態を宣言し、事前または事後に国会の承認を得る。宣言が発せられた時、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(それによって、国民やその施設の動員を義務付け、一時的に人権制限)―かつての緊急勅令や戒厳令のようなもの。
 (災害緊急事態は現行憲法でも想定されており、具体的には災害対策基本法に条項が定められているのに。)
 海外居留民保護―「国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない」と(かつてはそれを名目に出兵)。
 
 国会の改憲発議要件を現行では衆参総議員の「3分の2以上の賛成」となっているのを「過半数」へとハードルを下げる。
②みんなの党
 天皇を「元首」に
 日章旗と君が代を国旗・国歌として明記。
 首相公選制、一院制、道州制
 改憲手続き緩和
③橋本・維新の会
 首相公選制、一院制、道州制
 9条改定で国民投票を実施。
 改憲発議要件を自民案と同じく過半数に
④公明党―現行憲法に環境権やプライバシー権などを付け加える(加憲)。
●「決められない政治」を嘆き、危機感を煽る向き―野田、橋本、マスコミ
「決められない政治」とは、国民や野党、与党内からさえ反対されるような政策・法案をだすからにほかなるまい。
 「決定できる民主主義」とは、反対を押し切って、多数決を強行、或は「政治決断」と称して専断する強権政治(こんなのは民主主義ではない)。
 彼らにとっては、彼らが望む政策・法案を早く決められるようにしたいということ。
 マスコミは、それを容認し、促す―大連立を組んでもいいからと。そして、自公民3党協議・大連立か、橋本連合か、どっちかの流れをつくろうとしている。
 マスコミは、彼らの言動は頻繁・大々的にそのまま(無批判に)流し、他は無視するか、ひかえめに。
 「政治判断」とは、首相や自治体首長など為政者の政治的な思惑によってどちらかに決めることだが、彼らに対して(消費税増税でも原発再稼働でも改憲でも)「どっちでもいいから早く決めてしまえ」というのは無責任。
●各党・政治家・各マスコミ(けっして中立・公正ではない)はどの立場・視点に立っているのか
 庶民か有力者(経団連や経済同友会など財界・大企業経営者や大企業労組・官僚・エリートたちなど「賢く強い」者)か。

2012年06月01日

6月のつぶやき(上に加筆)

●誰もいない田んぼ道。行く手に広がる吾妻の山並み。♪わ~れは行く、心の命ずるままに、わ~れは行く、さらば昴よ~♪ ♪続く続く遥かな道を、冬の嵐が吹いてるが・・・・銀色の遥かなみ~ち♪♪ ワンマンショーだ。
●今日は東京。明治公園で「怒」の大集会(6.23国民大集会、2万4千人が集まる、舞台では若者のバンド・ボーカルが♪消費税増税、冗談じゃないぜ!・・・冗談じゃないぜ!・・・冗談じゃないぜ♪ ♪ふるさとを汚したのは誰だ!・・・を汚したのは誰だ!・・・したのは誰だ♪と歌い叫んでいた)、そこから新宿中央公園(東京都庁の裏)まで3.5㌔をデモ、「消費税増税ハンターイ、原発再稼動を許すな~!・・・・・」と叫んできた。
●早苗がそよぎ、誰もいない田んぼ道を今日も散歩。♪わたしのお墓の前で泣かないで下さい~♪・・・・青サギがびっくりして飛び立った。カルガモはじいっとして聴いていた(?)。
●12日の朝日新聞の「声」欄に原発関連の3つの投稿があった。そのうちの一つは当方が出したもので、先にあった原発容認投稿(「反原発論者は暗い現実を見て」)に対する反論(「原発で安全・経済は両立せず」―原文は、このHPの「新聞に載らない投稿」欄に「福島の現実をこそ見て」としている)。もう一つは賛成論(「原発再稼働は仕方ない選択だ」)だった。
 賛成論の方は、その論点は①原発は停止していても「延々と保全管理しなくてはならず、維持管理費のみ生じる『赤字』の産物になってしまう」、②原発の怖さに必要以上に反応している、③原発城下町に大きなダメージを与える、というもので、だから「再稼働は仕方ない」というわけだ。
 ①については、原発は停止していても維持管理費がかかり、核燃料が(原子炉・建屋内に)存在し続けりかぎり危険も付きまとうが、再稼働して核燃料を燃やし続ければ、使用核燃料も使用済み核燃料・核廃棄物もさらに増え続け、維持管理費と危険がさらにかさむことになるのだ、ということ。②については、(震災がれきの県外搬出処理にたいする反応―過剰反応か?―などのことは別にしても)原発の怖さに目をふさぎ、事故が起きてしまってから「想定外だった」などと言って後悔するよりも、予め(福島級あるいはそれ以上の)最悪の事態を想定して判断・対応することの方が大事なのだ、ということ。③については、そこで過酷事故が起きてしまったら「原発城下町」への経済的ダメージだけでは済まない、時間的・空間的に広範囲にわたって環境を汚染し人が住めなくさえもなる最悪のダメージをこそ考えに入れなければならないのだ、ということ。そういったことで反論できよう。
 もう一つの投稿は「委員に研究名目の寄付禁止を」というもので、高速増殖炉もんじゅの安全性を調べるための専門家委員会の委員が原子力関連企業や団体から寄付を受けていたことへの批判論だった。そういえば福井県の原子力安全専門委員会にも関電の関連団体や原発メーカーから寄付を受けていた委員が半数近くもいたことが新聞(3月27日朝日)に報じられている。(このような委員会が大飯原発の安全性を検証・確認したとする報告書を知事に出して、それを受けて知事が首相の再稼働宣言に同意するという運びとなっているわけだ。)
 この日の同じ「声」欄の「朝日川柳」には首相の原発再稼働宣言に関して4つの川柳が載っていた。
  「決められぬ政治決めたら再稼働」
  「安全と総理大臣様が告げ」
  「持病です健忘症と不感症」
  「生活を守り生命脅かし」
 翌々日の朝日川柳には
  「知事視察誰も知ってるセレモニー」
  「道具見て安全とする千里眼」
  同「かたえくぼ」欄には
   「『再稼働』 オーイ むちゃ!―国民」
 いいところをついているな。
●ジュリー「今はジジイ」。いわく、「昔はジュリーに似合わないことは、言えなかった」が、今は『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになった」。そして歌っているのが「我が窮状」という歌で、「9条を守りたい」と。
 当方も言いたいこと、言わねばならぬことは言わなきゃ。とは言っても、誰も聞いてはくれない。だから、このブログに書き残しているんだ。
●100歳で大往生。新藤兼人監督。「原爆の子」は、当方が金山小学校時代、学校で見た覚えがある。あの映画をつくった監督だったんだな。「裸の島」も見たが、最後の作品「一枚のハガキ」は未だ見ていない。見なくちゃ。
 彼は、近年、あの歳でストレッチ体操をやり、英語のレッスンをやっているところをテレビで見た。当方と同じことをやっていたではないか。
いわく、「生きているかぎり生き抜く」と。
 尾崎紀世彦も亡くなったというニュース。「また逢う日まで」、当方がこの間、カラオケで歌ったばかりだった。
 朱鷺の子らよ、頑張って生き抜こう!

2012年06月12日

「決められる政治」なるもの①

 首相が原発再稼働宣言。「夏場の電力不足・停電が起きた場合の国民生活・経済への影響を考えると、精神論だけではやっていけない」と。「『決められない政治』からの脱却」をやってのけ、その力を示したつもりのようだ。それに対して橋本大阪市長は「負けたといえば負けたといわれても仕方ない」、「机上の論理だけではいかないのが現実の政治」だと。
 確かな根拠も示さず安全・大丈夫だと言い張ることこそ精神論ではないのか。確かに、互いの思惑と力関係と駆け引きでせめぎ合うのが現実の政治であるには相違あるまい。しかし、福島で起きた原発事故の現実を抜きにして、机上の計算とコンピュータ・シュミレーション実験データだけをもって「暫定的安全基準」をクリアしているから大丈夫だといって再稼働を決断し、それをあえなく容認して、このような安全判断を(安全神話と同様に)信じ込んでこの夏場を原発再稼働でしのぐのだと頑張ることこそ非現実的・精神論的対応ではないのか。
 「決められない政治からの脱却」と称して、多くの人々が望みもしないことを、多数の反対を押し切って決定を強行する、それは強権政治にほかならない。
 「決定できる民主主義」とは、彼らにとって都合のいいことを決定できる民主主義の形(選挙・議会・多数決など)であるべきだということであり、彼らにとって都合のいい決定を通すための民主主義の形式(手続き)を踏んだ強権政治にほかならない。ヒトラーも選挙で選ばれ、国会の決議に基づいてあの強権政治を行ったのだ。
 衆参の「ねじれ」などは民主・自公3党の談合でかたがつくが、問題なのは政府・国会あるい自治体の首長・議会・原子力専門委員などと国民・住民との間の意識のねじれなのだ。

2012年06月16日

「決められる政治」なるもの② (加筆修正版)

 「決められる政治」とは、国民が嫌がることを嫌がらない人たちが決められる政治にほかならないだろう。
 国民(庶民)が嫌がることとは消費税増税、原発再稼働、TPP、米軍基地、9条改憲、競争・管理教育など。
 「嫌がらない人たち」とは、これらが決まっても、たいして困らない人たち、かえって有利になる人たちだ。
 「決められる政治」の手法の一つが「主要3党」の「修正協議」合意―要するに多数派独裁にほかならない。
 その3党協議とは、国会では関連法案を審議する衆院特別委員会に他党委員も出席し、公聴会も設けられて質疑が行われている最中、それをよそに、3党だけで、協議実務者が都内のどこかわからないホテル(週刊朝日によれば赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京)にこもって進められたという、まさに密室談合。消費税増税法案それに原子力規制法案(40年廃炉の条文に見直し規定を設ける)も、そこで合意。
 主要マスコミは、それを歓迎・評価。
 彼らは「3党協議で結論を出す政治スタイルを確立しないと国民の期待が地に落ちる」(公明党の山口代表)などと言って、その手法を正当化。(週刊朝日は「事実上の『大連立』による「談合政治」と書いている。)
 彼らは「多数派」だとは言っても、国会の各党議席の構成では多数派だが、消費増税など個々の問題に関するかぎり彼らの意見は国民世論の中では少数派なのである。世論調査では消費税増税には6割が反対、原発再稼働も賛成派は少数派なのである(マスコミが、あれほど「財政破綻したらどうする」とか、「停電になったらどうする」と脅し、煽っていてもだ。)
 そのような多数民意の反対を押し切って3党だけで決定し、それを国会そして国民に押し付ける、そんなことが「決定できる民主主義」などと言って正当化できるものか。そんなのはとうてい民主主義の名に値すまい。

 

2012年07月01日

民自公・維新の会に対する護憲派(加筆版)

 閉塞感・政治不信が極に達している。
 民自2大政党or民自公3党(談合政治)に対して反発(怒り)・違和感をもつ向き、
或は既成政党に対して支持なし層・無党派層が溢れつつある。
 これらを引き付けて橋下・「維新の会」が勢いを増し(来るべき総選挙で大躍進の可能性)―みんなの党あるいは小沢新党もそれに連携の手を。
 当面は、民自2大政党あるいは民自公3党への人々の反発に乗じて、消費税増税問題と原発問題で、これら維新の会、みんなの党あるいは小沢新党が連携し、社民党までも小沢新党と連携して総選挙に臨むという可能性がある。
 しかし、民自公・「維新の会」・「みんなの党」・小沢新党はいずれも改憲派―国会ではこれらが改憲発議権を有する3分の2以上を制する可能性が高い。
 これに対抗する護憲政党共産・社民2党は(両党間には互いに相手との違いを強調して、自分たちの方が正しいとして譲らないセクト主義の傾向があり、人々からも、共産党に対しては根強い反共意識からネガティブなイメージがもたれ、社民党に対しては共産党を敬遠して自公民のどちらかにブレてくっついてきたという日和見的なイメージをもたれて)あまりに弱小で、「いいことを言っているが、あまりに力が弱い」と見なされ、メディアが取り上げてくれないし、「受け皿」としてはどうも頼りがいがなく、期待がもてない(と思われている)。
 そこで、新党―例えば「緑の党」のようなものを結成し(現在、中沢新一氏らの「グリーンアクティブ」とか、すぐろ奈緒氏らの「みどり未来」などのグループが結成されており、後者は7月中に党結成の運びにしているようだが?)、これを結集軸として共産・社民とともに護憲連合が結成されればいいのでは?
 その共通項は「①護憲②脱安保③脱原発④脱消費税⑤リベラル(反ファシズム)」。
それぞれの特性:共産党―ブレずに一貫した護憲政策と固い組織ノウハウをもつ。
        社民党―護憲・平和・リベラルのイメージを持たれている。
        緑の党(護憲新党)―新鮮なイメージをもち、既成政党になじまない                  人たちを引き付ける。
 この3党がくっつけば、「維新の会」など改憲派連合と張り合える。
 それ(3党護憲派連合)ができなければ、共産党や社民党だけでは票は集まらない。

 「9条の会」など市民運動だけでは、国会で護憲派政党が3分の1以上を上回る議席獲得なしには、改憲勢力に対して力にはならず攻勢をかけることはできない。
 怒りと要求を集会やデモにぶっつけるだけでなく、投票にぶっつける(「怒りの批判票」を投じる)、その受け皿となり得る(怒りと要求を十分受け止め、それを代弁してくれる)政党が必要だということ。
 今そこに「維新の会」が手を広げて待ち構え、「怒りの批判票」を一挙にかっさらってしまう可能性が高いが、そうなってしまっては共産・社民など護憲派への票が、それに食われてしまい、改憲派のほうが益々膨れ上がることになる。そうならないように、「維新の会」などへの対抗勢力となり得る有力な護憲派新党が、もう一つの受け皿として必要なのでは?

 いずれにしても、9条をはじめ憲法は、9条の会や護憲ネットなど市民運動だけでは守れないし、共産党だけでも、また社民党だけでも守れないことは確かだ。
 もし、守れなかったら、これらの市民運動や政党は存在する意味がない、というものだろう。

 どうも、そんなふうに思えるのだが。
 


7月のつぶやき(随時、上に加筆)

●デモ行進が終着地の新宿中央公園に着くと、入り口で新聞号外を配っていた。「赤旗」だった。受け取ってチラっと見てみると、何と、さっき行ってきたばかりの代々木公園、そこに集まった大群衆を空から撮った写真が大きく載っていた。そういえばあの時上空には数機のヘリコプターが旋回していた、そのうちの1機が撮ったものだろう。
 米沢に帰って翌日、コンビニや図書館で各紙をチラっと見てみると、毎日新聞だけ1面上段に似たような空撮写真が「赤旗」のそれより4分の1ぐらい小さく載っていた、それ以外は朝日が3面(社会面)に地上から広角レンズで撮った会場風景、読売は3面に空撮写真が白黒で小さく、日経は3面に写真なしの小さな記事だけ。マスコミ各紙のスタンス(いったい誰の立場に立っているのか)がうかがわれた。
 もう一つ、代々木公園会場付近で配られた一枚の小さな新聞があった。家に帰って見てみると、何と「革マル派」の新聞だった。60~70年安保闘争当時「全学連」を主導していたものだが、まだ生きていたんだな、という感じ。新聞には「野田政権を打倒せよ!」「全原発・核燃施設を廃棄せよ!安保強化・大増税を許すな!」と書いていながら、「共産党中央の『自然エネルギーへの転換』要請運動をのりこえ闘おう!」とも書いてあった。相変わらず反共に徹しているふうだ。
●バスで東京にさしかかったら、車窓からスカイツリーが見えたと思ったら、はるか彼方の山並みの間に一際高いコニーデ型の山が見えた。どうやら富士山のよう。最近パステルで描いて毎日居間に座って眺めている富士山の絵は上部が白い雪山だが、この日に見えたのは残雪が何筋か残っているだけの夏山だった。そういえば富士山の「怒り」もあるのか?
●東京で「さようなら原発10万人集会」。当地(置賜地区)の実行委員会がしたてたバスに便乗して行って来た。そして、「政府は国民の声を聞け―!」「原発再稼働はんた―い!」「原発は要らな―い!」と叫んできた。
 「声なき声」でつぶやいてばかりじゃいられない。
●今日の「朝日川柳」から
 「海怒り天怒り次何怒る」・・・・「地怒る」「民怒る」と来るのでは?
 「都と政府尖閣領有競い合い」・・・なるほど、困ったもんだ!
●今日の「朝日川柳」 
 「どじょうには音に聞こえる人の声」
 「音として妻の小言を聞くを知り」      うまい!
●新聞の「声」欄に載っている川柳やコントに溜飲を下げるようなのが、しばしば見られる。
 「橋本を上げ下げ稼ぐ週刊誌」
 「知事市長次は総理と書き立てる」
 「どこまでも主役でいたい天の邪鬼」(国ではないと都知事)
 「日中間 暗示するよなパンダの死」
 「『尖閣購入』全然興味ない―シンシン」(都知事は「パンダなんか全然興味ない」と言っていた。)
 ●女房から「サクランボ泥棒」の話しを聞いた。たった一掴み。なのに、そこ(サクランボ畑)のカアちゃんが泥棒を捕まえて表彰(?正確には、発見して通報した方が「感謝状」)を受け、新聞・テレビにも出た、それが米沢では、どうやらひんしゅくを招いている、という話し。
 図書館に行って新聞を確かめてみると、現場の近くにいた婦人が見つけて所有者の夫人と警察に通報して、男を夫人が取り押さえた、という。夫人が男に「何しった」と訊くと、「『悪かった、腹が減って食べた』と力なく答えた」と。しかし、サクランボは「手がかかる貴重な収入源」、被害拡大を食い止めた「お手柄」、と書いてあった。
 被害はサクランボ5~7個(200円相当)。男の名は・・・新聞には実名、本籍が書いてある、66歳、住所不定、新聞には福島から歩いて来たとあるが、大阪あたりでホームレスをしていたらしく秋田方面に帰る途中だったらしい。
 我が家の小学生の孫には、ジャン・バルジャン(パン一個で何年も刑務所に入れられた)の話をして聞かせた。
 そして、地元紙にこの一件で投稿した。「ああ無情」と。
●女房が大学ノートに「つぶやき」を綴り始めた。誰も読まない当方のブログと同じだろうが、書いていることは、どうせ大半は亭主と孫の親たちへの口説きだろう、と言ったら、「そんなことはない、ボケ防止のため、その日あったことを書いているだけだ」という。
 しかし、覚書として役立つこともあるだろう。「あの時、誰それがこう言った」とか「こういうことがあった」とか。
 隣地との境界(隣地との境が、官地になっている通路で隔てられていて、その中央線に杭が3本打たれている)をめぐってひともめあった。尖閣諸島をめぐる日中紛争みたい?(女房にはそれなりの記憶と言い分があったが、隣人は「そんなことはあり得ない、あの時、貴方も立会っていたはずだ」と言われ、「当方はバカだから覚えていない」と言った。)そのような場合、覚書をちゃんと書いておけばよかったのだな、とつくづく思った。女房は「つぶやきノート」に、自分の記憶と言い分を、図示しながら書き綴り、その夜「眠れなかった」と書いたという(「文章は読まねたてええがら、図だけ見て」と言って見せた)。
●いよいよ真夏。猛暑・停電になるのか。大飯原発の再稼動のおかげでしのげた、ということになるのか。
 消費税増税法案は参院でも可決・成立するのか。
「維新の会」「小沢新党」その他どんな新党ができるのか?
 ああ、気が気でない!孫たちが心配で。

2012年07月22日

騙されまい

(1)「決断する政治」なるもの
 首相、大飯原発再稼働を「決断」―「私の責任で」「国民の生活を守るために」と。
大江健三郎氏らが官邸に750万人の署名を持って再稼動を思いとどまるよう要請に行った、その翌日、首相は再稼動を発表したのだ。大江氏は「侮辱」と言って憤っていた(「さようなら原発10万人集会」で)。
 首相が負おうとするその責任は電力の確保―停電にならないよう一般庶民は節電に努めようとするが、なにがなんでも停電になったら大変だという人々(事業所―大口電気利用者、医療用電気利用者など)がいる、そういう限られた人々のため。(医療用電気利用者については、震災では仙台などで長期間停電になったところがあったが、そのために病人が死んだという話しはほとんど聞かない。病院などでは自家発電装置でカバーできる。)
 それよりも、再稼動で原発の過酷事故の危険にさらされる数多の生命に対する責任はとれるのか?―責任とりようがないのだ。なのにそれは度外視。確かな科学的根拠もなく、何の保証もなく、ただ「安全は確保されている」(事故の心配はない)というだけ。
 毎日のようにどこかで地震が起きているのに、そこではどうか巨大地震は起きないようにと、ただひたすら運を天にまかせるだけ―まるでギャンブルだ。
 坂本龍一氏は「たかが電気のために、子ども命を危険にさらすようなことはすべきでありません。お金より命です」と(「さようなら原発10万人集会」で)。

 現政権(経産省・原子力関係機関)はいったい誰の立場に立っているのか―財界(事業経営者)の立場に立ちこそすれ、庶民の立場には立っていないのだ。

 政府が新エネルギー政策を決めるため国民の声を聞くと称して設けた意見聴取会―2030年の原発の割合を「0%」か(ゼロといっても30年までの話しであって、即ゼロという選択肢は入ってはいない)、それとも「15%」か、「20~25%」か、という3案を示して、どれに賛成か、全国各地(11会場)の市民から意見を聴く。
 その際、3案それぞれの賛成意見発言希望者から3人づつ(抽選で)選んで発言させる。
 さいたま会場では、原発0%賛成者(発言希望者)239人から3人、15%賛成者 30人から3人 、 20~25%希望者 40人から3人選んで発言させた。
 仙台会場では、0%66人から3人、15% 14人から3人、 20~25%13人から3人(うち1人は東北電力の企画部長、1人は東北エネルギー懇談会の専務理事)。
 名古屋会場では、0%106から3人、15%18人から3人、 20~25%37人から3人(うち1人は中部電力原子力部の課長)
 この発言者の人選のやり方の不公平さ―政府・電力会社に都合よく人選。またしても「やらせ」。
 名古屋会場では中部電力の課長が「福島原発の事故では、放射能の直接的影響で亡くなった人は一人もいない」などと発言した。
 ピカドン(原爆)と異なり、今回のような原発事故では、一瞬のうちに大量の死者が出るということはないが、福島のあの周辺地域では、そのままそこに除線もなしに人々が居続ければ、いつか続々死んでいくか、障害を持った子が生まれると予想され、16万人もの人々が離散・避難し、いつ終わるともない除染を待ちながら故郷に帰れずにいるか、帰っても不安におののきながら暮らしているのだ。
 この意見聴取会に加えて「討論型世論調査」なるものを(全国から3,000人を無作為抽出して電話で世論調査、彼らの中から200~300人が討論会)やったうえで、8月末に3案のうちのどれかに決定するのだという。要するに最終的には首相が決断・決定するということだが、そんなことでいいのか?
 首相は、「原発ゼロ」は決断できまい。

(2)「決められる政治」なるもの
 肝心なのは(消費税増税・原発再稼働・TPP参加・オスプレイ配備容認・集団的自衛権容認・改憲など)「何を決めるのか」であって、国民が「決めてほしくないこと」でも「決められる」というのでは困る。大多数の国民の意思に反して(国民の声を無視して)或は国会審議を十分尽くさず、首相の一存で決めてしまうとか、与党だけで強行採決して決めてしまうとか、3党談合とか大連立して決めてしまう(多数派独裁)とかも、あってはならない。法案が何でもスイスイ通ってしまい、何でも簡単に決まってしまうのが良いかといえば、そんなのいいわけない。
(3)「マニフェスト」(公約)破り―マニフェストにないことまでやってのける。それは政治不信とモラルハザード(倫理・道徳の退廃)を招く。
 選挙で勝ったら、「勝てば官軍」「白紙委任」で何をやっても許されるというものではない。

 野田首相と橋本大阪市長は、これらが共通。橋本氏は大飯原発再稼動の決断に踏み切った首相に「負けた」といい、消費税増税法案を通した首相を「すごい」と感服(NHKのニュースウォッチ9は、そのインタビュー・コメントをそのまま流していた)。

 (4)マスコミ―「中立・公正・客観報道」とは言ってるが、それらは、あくまで真実追求の立場に徹するということではなく、マジョリティー(「多数派」・「大勢」―支配的階層)に合わせた報道ということなのだ。彼らの意識からすれば「中立・公正」かもしれないが、そうでない人々から見れば偏っている。そう考えると、新聞といい、週刊誌といい、放送といい、日本にまともなのがあるのだろうか。

 日本のマスコミ・メディアには商業マスコミ、公共放送(NHK)、政府・自治体の広報、政党機関紙、その他に企業・団体など組織や個人の新聞、ソーシャルメディアなどがある。
 そして、それぞれに目的と役割を持ち、色んな側面を持っている。それは次のようなものだ。
 ①ジャーナリズム―真実を報道・・・・権力チェック機能(「権力への監視役」)
 ②伝達・宣伝―政策・方針・主張・活動ぶり等を国民・その組織の構成員・支持者に知らせ、一般大衆に宣伝
 ③コマーシャリズム―商業主義・営利主義
 ④センセーショナリズム―煽情主義・世論誘導

 我々庶民がマスメディアに求めているのは①の「真実の報道」なのだが、多くのマスコミは③営利主義・④世論誘導に偏している。
 
 戦前・戦中は、ほとんどのメディアは日本の戦争を礼賛し、肯定的に伝え、煽りさえした。そして軍部(大本営)発表そのままに流した。
 戦後は、一部の政党機関紙以外すべてのメディアは日米安保・日米同盟を肯定的に伝え、「アメリカが日本を守ってくれる」かのように報じて、それが国民の頭に刷り込まれた。
 また1950年代後半(原水禁運動の一方で)、主要メディアは「原子力の平和利用」の大キャンペーンを張ってアメリカからの原発導入・推進に肩入れした。(読売社主の正力松太郎が原子力担当大臣になってキャンペーン推進。70年代には朝日も原発容認に社論統一。各社とも電力会社から莫大な広告料を得た。)
 今は、朝日・毎日は脱原発へ舵を切っているが、読売・産経・日経は原発推進を堅持。
 小選挙区制による二大政党制の創出をはかって、その導入・推進にこぞって肩入れしたのも、これら主要メディア。
 小泉政権の郵政民営化を応援し、民主党政権に消費税増税をけしかけてきたのも主要メディアだ。
 それら主要メディアのスタンスは基本的に親米・親財界なのだ。

政治家それにマスコミにも、騙されてなるものか。

2012年08月01日

黙っている罪

だますことは罪だが「だまされることも罪」(最近の朝日新聞に掲載された伊丹万作エッセイ集から)。
 為政者が国民・市民に情報を知らせないことが罪として責任が問われるが「知ろうとしないことも罪」になる。それに、かつてヨーロッパでファシズムの嵐が吹き荒れた当時、ある牧師が述懐した言葉に「はじめに社会主義者が・・・(迫害されたが―引用者)私は黙っていた、次に自由主義者が・・・、それでも私は黙っていた、・・・そしてとうとう宗教者が・・・」というのがある。(それらの言葉は、先日の米沢地区国民教育研究集会での一レポートで聞きつけた。)それは「黙っている罪」ともいうべきもの。
 それに関連して、もう一つ最近思いついたことは、「黙っていられない」、だから「声なき声」をこのブログで発信しているのだが、集会・デモにも東京くんだりまで行って参加している。それは政府や為政者たちに対するプロテストだけでなく、彼らとその党を選挙で投票して選んだ有権者市民、あるいは彼らとその党の政策に反対している党の候補に投票しなかった有権者市民に対しても訴えずにはいられないからにほかならない。

 民主主義(デモクラシー)とは「デモス(市民)の支配(クラティァ)」ということで、国家はリーダー(為政者)によって運営・統治されるが、それは彼らを支持して選んだ多数派市民によって市民が支配されるということでもある。
 消費税増税にしても、それを決めたのは自公民3党だが、彼らを支持して選んだのは有権者国民であり、その自公民各党に投票した人たちのせいで、払いたくもない10%もの消費税を払わされるはめになっている、ということである。(もっとも民主党に投票した人たちの中には、同党がマニフェストで消費税は上げないと言っていたのを信じて投票した人たちもいるだろうが、彼らはそれが裏切られた。そういう人たちは責めるわけにはいかないだろうが。)
 或は大阪では橋本・維新の会を選んだ有権者市民のせいで、人々は強行採決して決めた諸条例とその強権支配に服さざるを得ない結果になっているわけである。
 しかし、彼ら(サイレント・マジョリティー)は、個々には誰に投票したか判らないように(秘密投票で)黙って投票しており、いちいち責任を問われることはない。
 自公民3党や維新の会には投票しなかった人たちにとっては、消費税増税などの政策や強権支配を合法化する諸条例を決めたこれらの党派と彼らを支持%E

2012年08月02日

橋下・小泉・安倍らのイデオロギー・価値観―新保守主義(加筆版)

新保守主義 二つの要素
新自由主義―民間の自由な経済活動に任せる市場原理主義
 民営化・「官から民へ」・規制緩和(派遣労働の自由化、非正規雇用の拡大、そのうえ解雇規制の緩和も企図)
 「地域主権」―統廃合―伝統的な地域を解体・・・・都構想・道州制
 競争・格差(強者・「勝ち組」・マジョリティーによる弱者・「負け組」・マイノリティーに対する優越・支配)を肯定、
 教育は「国際社会で勝ち抜く競争力のある子どもを育てる」人材育成のサービス業と見なす。
 「自助努力」「自己責任」―能力と機会さえあれば、まづはそれでいくのは当然だとしても、それらに恵まれず(心身が普通に働ける状態になく、或は働ける能力はあっても仕事がなく、働くに働けないなど)自助努力・自己責任だけでは立ち行かない人の場合は、国の責任で公助が必要なのに、それを極力ひかえて自己責任に帰せようとする―そして社会保障を抑制―生活保護制度と受給者バッシング―親族の扶養義務強化の動き。
 「頑張った人が報われるべきだ」と成功者(勝者)の高所得を肯定し、累進課税・所得再分配を嫌がる。
新国家主義―強い国家 
 ―国家は自分たちの今の生活・営業を守るための道具
 権力を支持・利用―国益イコール私益・・・・かつての「滅私奉公」(お国のため自己犠牲)との違い(新自由主義を伴うこととともに「新」たるゆえん)
 強い軍事力を保持―自衛隊(軍隊化)・日米同盟の維持・強化
③文化的保守主義
 伝統・愛国心にとらわれる(→排他的ナシンョナリズム)・・・・「がんばれニッポン」と、自然にわきあがる感情ならいいが、押し付け・強制が問題
 家族・地域共同体の「絆」を重視―しかし、それらは競争・格差で分断・分解(矛盾)
 教育・文化の管理統制を強化―教育委員会に対して首長の権限を強化
              「日の丸」「君が代」強制
              「つくる会」系教科書の選定・押し付け
 社会統制したがる―監視社会(治安維持のために「皆がそれを望んでいる」と)   

要するに、人も組織も競争させて管理・統制を加えるのがいちばん、という考え方
    ―生徒も教員も職員も「人間」としてよりも競争力のある「人材」として、管理される対象として考える人間観

これらのイデオロギー・価値観に共通項をもった政治家・党派
 小泉―構造改革・・・「郵政民営化」
   靖国参拝にこだわる
 安倍晋三―「戦後レジームからの脱却」、
           「美しい国・日本」、教育基本法を改変、改憲手続き法を制定
 みんなの党―小泉改革を継承、「大阪維新の会」と連携
 石原(都知事)―憲法無視
 橋下(「大阪維新の会」党首・大阪市長)―「決められる民主主義」―多数派の独裁―強いリーダーシップ―トップダウン
  「選挙では、国民に大きな方向性を示して訴える、ある種の白紙委任なんですよ」
   ―政治家は大きな方向性と価値観を示し、それが支持されたのであれば、
    その範囲である種の白紙委任が認められるのだと。
    (マニフェスト・公約になくても、その一存で決められるというわけだ)。
  「強いリーダー」としてウケける―「改革者」として見られる(イメージ)
  キャッチフレーズ
   「自立する個人」―自助努力・自己責任を強調、生活保護・福祉サービスの抑制
   「自立する地域」―内政は地方(自治体)に丸投げ、外交・防衛は国(政府)の役割
地方間格差を埋める地方交付税を廃止し、消費税をすべて
                 地方消費税にして自治体の自助努力にまかせる。
   「自立する国家」―従属的な日米同盟「基軸」はそのまま  
  内外に「敵」「抵抗勢力」を作って―公務員・労組・北朝鮮・中国など
                   それらと「果敢に闘うリーダー」に見られ、                   バッシングを煽る。
  断定的な(歯切れのいい)言葉・・・・巧妙なレトリック(言い回し)
  感情に訴える(「感情統治」)
          ―論理や科学的根拠に(矛盾していても)とらわれない
  やっていることは―「君が代起立斉唱条例」・「教育基本条例」
           「職員基本条例」・「市職員政治活動制限条例」等の制定、
            職員の思想調査、
            公的福祉サービスの切縮め、教育・文化施設の縮小・廃止
           
改憲を志向―現行憲法を邪魔ものと
      
いじめ・虐待はこれらの政治がもたらした競争・ストレス社会の産物
 テスト競争・管理教育→強いストレス感・不安感・プレッシャー(抑圧感)
   →「うさ晴らし」―ふざけ・いたずら・「遊び半分」からサディスティックな(苦しむのを見て楽しむ)陰湿・残忍な「いじめ」へとエスカレート(「自殺の練習」から自殺に追い込まれる)
 教員評価制度・学校評価制度→学校・教育委員会の隠ぺい体質・事なかれ主義
 教員の雑務(報告書・指導案等の作成、研修、成績処理・数値データのパソコン入力)で長時間過密労働―生徒(教員数に対して多過ぎ)をよく見れない(目配りできる時間が少ない)

 学校も社会も一人ひとり(命・人権・人間としての尊厳)が大切にされる状況にない―子どもも大人も生きづらい(教員にも自死、うつ病など精神疾患が増えている)

 漫画家の西原理恵子さん(亡くなった夫は戦場カメラマン)は新聞(8月5日朝日―「いじめられている君へ」シリーズ)に次のように書いている。「いくら紛争地帯でも、年間3万人も死ぬことはありません。でも、日本ではそれくらいの人々が自殺しています。そう、この国は形を変えた戦場なんです。」

2012年08月19日

尖閣・竹島問題

 そもそも、今回の騒ぎのきっかけは、竹島については韓国大統領が、そこに上陸するという挙に出たこと。
 それに尖閣諸島のほうは石原知事が島を買い上げると言い出し、事を進めていったことだろう。いわく「政府に吠え面をかかせてやるんだ。何もしなかったんだから、政府は」「東京が尖閣諸島を守る」「島々を舞台にして様々な施設を展開する」と。

 国際司法裁判所への提訴―相手が応じなければ裁判は始らないが、それならそれで、なぜ応じないのか、その理由(それを正当づける根拠―領有権がその国にあるという根拠)を提示せよと裁判所を通じて迫るのがベター。
 そうすることによって国際社会と相手国民にアピールすることが必要。
(韓国が実効支配している竹島については、日本側が過去2回―1954年と62年―国際司法裁に付託を提案したことがあったが、いずれも韓国側がそこは韓国固有の領土であって係争地ではないとして受託拒否。ところが尖閣のほうは日本側が実効支配していて「日中間に領土問題はない」として交渉には応じない態度をとってきた。)
 国際裁判に持ち込んで、相手が応じず、そこで決着はつかくても、国際社会と相手国民に日本の領有権・正当性を最大限アピールするうえで提訴には意味がある。

 そうする以外は、海上保安庁による警備活動以外には、相手国が嫌がる(相手国の国民感情を逆なでし、相手国政府を困惑させる)行為―韓国のように首脳が上陸したり、議員が上陸したり、東京都が島を買い上げ、武装警察あるいは自衛隊の常駐施設を構築したり等―は控え、控えさせるほうが賢明。
 韓国による上陸・常駐・施設構築など一方的な行為を非難し、国際法廷に提訴するのはいいとしても、 韓国がそれ(上陸・常駐・施設構築)をやっているからといって、同じことをやって、或はそれらを実力阻止・排除・破壊などを以て応酬しあったら、事態はエスカレートして、行き着くところは武力衝突ひいては戦争になる。
 海上保安庁による警備活動(過激グループが、また押しかけて来たら、また追っ払う―逮捕・事情聴取のうえ、公務執行妨害それも実害がない場合は強制送還する等)の強化は必要。
 あわせて相手国政府に、過激グループが海保の警備海域に侵入し島に上陸するなど、こちら側が嫌がる行為を控え、控えさせる措置を講ずるよう、トラブルの再発・エスカレート防止に努めるよう毅然として要求することは必要。
 
 まずいのは民族感情(反日・反中・反韓)のぶつかり合い―その矛先が自国の政府批判(「弱腰外交」だとか「なめられてる」とか)にも向けられと、政府も強硬対応に出ざるを得なくなる。

 理想的には海域の漁場・海底資源の平和的な(協定ルールに従った)共同利用であり、その方法を追究し、その知恵にたどりつくことである。
 最悪の場合は、互いに、自国による島と海域(縄張り)の占有にばかりとらわれて、それを守るか奪うかの果てしない強硬手段の応酬、ひいては軍事衝突、国交も経済交流も断絶、あげくのはては戦争―共倒れ(負けはしなくても勝てもしない)である。アメリカが助けてくれる?―それは甘い(アメリカにとっては日本だけでなく中国・韓国も国益上だいじなパートナーであり、安保条約の「義理」や「友情」だけで国益や兵士の命を犠牲に供しようとは思うまい)。
 「弱腰ではなくもっと強硬な対応策(対抗措置)を講ずるべきだ」などと勇ましいことは言っても、そんなことをやれば、最悪の場合、戦争・共倒れになるということを想定もせずにそれを言うとしたら、それは無責任というもの。

 これらのことを考え、国益に照らして、どのような対応をとるのが有益か、両国間の関係維持・改善と、関係は悪化し国益は害しても民族感情・意地を押し通して自己満足を得るのと(「愛国という名のエゴ」―週刊朝日は中韓側の「愛国という名のエゴを許すな!」としてそれを指摘)、どちらを優先するか、どのような対応の仕方をとるのが望ましいか、である。
 東京都による尖閣の島購入は果たして妥当なやり方なのか否か、議員の島上陸は義挙なのか愚行なのかも、これらの観点から評価・判断すべきだろう。

 オリンピックで自国選手の活躍に熱狂し、試合に勝ち、メダル受賞となれば選手もテレビを見ている人たちもみんな自己満足(共感)し、相手国選手や国民は残念がりはしても、(今回、男子サッカーで日本に勝った韓国選手の一人が、試合直後に会場でサポーターから差しだされた「独島・・・」と書かれたものを掲げたのは、日本人の感情を逆なでする行為だっただけでなく、それ以外の人たちの気分をも損なう、オリンピック精神にあるまじき、とんだ迷惑行為で、多くのひんしゅくを買っているが、あれは例外で)誰の心を傷つけることも、両国の国益を害することもないし、それならいい。
 ところが、国家間・民族間の政治的・経済的な対立・領土紛争・民族紛争さらには戦争ともなると、相手国民・民族を憎悪しあい、感情を傷つけあい、勝ちを制して「万歳・万歳」と自己満足は得られたとしても、ともに相手国民・民族との平和共存・共栄(経済的にウイン・ウインの関係)を台無しにし、国益上はかりしれない損失をもたらすことになる。
 オリンピックで「がんばれニッポン!勝った、勝ったニッポン!」と熱狂するのはいいが、領土問題で熱狂して、「守るも攻めるも黒がねの・・・・・」(軍艦マーチ)なんてやってしまっては大変なことになってしまう。
 


2012年08月20日

8月のつぶやき

●NHKニュースウォッチ9「与党、単独採決強行。野党、首相問責。政局混迷も極に」「橋本市長、『政治は権力闘争。ぶつかり合うのは当たり前。これからはもっと面白くなりますよ」
 どこの放送・新聞・週刊紙も似たような取り上げ方で、「橋本劇場」で一色。本質に迫ることなく無批判。
 ああ、日本のマスコミ、作り出される「橋本・安倍新保守・改憲連合政権」。
 それにつけても、弱体な護憲勢力。劇場の片隅にも入れてもらえず。
新庄祭り
 米沢から新庄まで、途中3区間(米沢・赤湯間と山形・東根間と尾花沢・新庄間)に高速道ができて、2時間ほどで行け、昼前に発って夕方までに帰って来れた。駅裏の広い駐車場から陸橋を渡って駅前に出ると、大通りは出店が並び歩行者天国。「爺々は、この町で生まれ、子供の頃はここで過ごしたんだよ。お祭りには、こういうふうに露天が立ち並び、間に傷痍軍人が戦闘帽に白衣を着て、前に募金箱を置いて立っていたものだ。そこでよく買ったのは、写真や絵の肖像をなぞって描く拡大機と、コルクを飛ばすピストル・・・」などと話しながら、しばらく行くと新庄囃子の音が聞こえ、十字路に人垣。左から右方向へ山車が横切って行くところだった。20台の山車パレードで、先頭のほうの2~3台が通り過ぎたばかりで、大部分じっくり見れた。
 少年時代は、祭りも最終日の夕暮れともなれば、遠ざかる山車の太鼓の音に寂寥感を覚えたものだ。ああ夏休みも終わりだな・・・と。
●「『反原発より領土問題』だと週刊紙」―自作川柳
●「支持率いっきょ挽回に首相が尖閣上陸」―自作川柳
●朝日「声」欄の「若い世代」の投稿欄に「意志通した北島選手に共感」という中学生の投稿が載っていて、それに「個人種目ではメダルを逃したけれど、私は北島選手の精神に共感しました。『結果よりも大事なものは自己満足』だと思います」とあった。「結果よりも自己満足」これ北島選手が言った言葉?誰の言葉であれ気に入ったよ。当方はまさに、これでこのブログを書いているし、これ(自己満足)で生きているみたいなものなんだから。
 (勿論、北島選手の「自己満足」と当方のそれは、質的・レベル的に全く比べものにはならないし、北島選手のそれは、日本の多くの人々に感動と元気を与えるものだ。)
 その自己満足とは、自己の最善を尽くして得られる満足なのだ。
●朝日川柳から 
「猛暑でも原発ほぼゼロいけそうな」・・・・9日、関電管内でも事実そのようだ。
●この国の夏(これは自作)
 政治に怒り オリンピックに喜ぶ この国の夏
 ヒロシマ・ナガサキに哀しみ フクシマに怒る この国の夏
 先の戦争を哀しみ 今 五輪の平和を楽しむ ああ この国の夏 
●朝日川柳から 
「自衛隊も再稼動させたい脅威論」・・・・なるほど
「炉も人も『もったいない』と再利用―規制委員長」・・・・なるほど
●雨にも負けず・・・・夏の暑さにも負けぬ・・・・
決して怒らず いつも静かに笑っている・・・・そういう者に私はなりたい
・・・・・・・・・・南妙法蓮華経・・・・・・

 孫を怒りつけ、「バシ!バシ!」。女房「なにすんなだ!」。「喝を入れたなだ」。「暴力は暴力だべな!」。ん~。翌日、孫「じじ、許さねがらな」、 ん?
 
 それにしても自公民それにイシハシズムには怒らずにはいられね!

 

2012年09月01日

9月のつぶやき(随時、上に加筆)

●オリジナル川柳―水かけ論 放水合戦で終わればいいが
        放射性廃棄物 かの島を処分場にしたら?
        ああ、また安倍総理 今度は改憲実行か
●朝日川柳の一句―「尖閣や都知事の火遊び火事のもと」・・・ったくもう!
●今、世の中は、一字で表現すれば「」。
 マスコミ報道は「自民党総裁選劇場」と「橋下劇場」のオンパレード、そこに来て「尖閣大騒動」。「危」とは、原発・オスプレイなど色々あるが、改憲―「9条危うし」、日中戦争の再発も。そんな気がしてならない。
●今日も、吾妻の山並みに向かって、誰もいない田んぼ道を散歩しながら歌ってきた。
だいぶ声がでるようになった。♪♪しらず しらず 歩いてきた 細く長いこの道・・・
ああ 河のながれのように・・・♪ ♪・・・われは行く さらば昴よ♪
 いつまで歌えるものか
 ♪わたしの お墓の前で 泣かないで下さい・・・・千の風になって・・・♪
●朝日「声」欄から
 川柳
  「都民より他県の漁民可愛がり」―都知事
  「『AKB』と『維新』のほかに何もない」―ニュースの昨今
 かたえくぼ(コント)
  「『実効支配』 ヤギです―尖閣諸島」         ん~なるほど
 自作川柳
  「『希望は橋下』と望まれる当人『希望は安倍総理』」―やぱり「希望は戦争」か 
●「米沢市長と語る会」に行ってきた。
 そこで、学校・学級の適正規模・統廃合などについて、話が出て、市長は「学校教育の問題は行政主導にはならないようにすべきだ。それは、行政の立場ではどうしても財政面(コストや効率など)が先行しがちになるからで、地域の子ども・親・先生たちの立場や目線に立って教育委員会が主導すべきだ、といった意味のことを述べていた。このあたりは、首長のイデオロギーや価値観で学校管理・運営を押し付けようとする橋本大阪市長とは違うな、とホッとした。
●週刊紙AERAに「『希望は橋本』30代の渇望」という記事があった。それを読んで思いついた川柳一句
 「希望は橋本」と望まれる当人、「希望は戦争」かも
 (5年前、赤木智弘氏は「31歳フリーライター、希望は戦争」という評論を書いて、ロストジェネレーション世代には「日本社会をリセットするための戦争」を望む願望があると論じた。)
 橋本・石原・安倍ライン―彼らの場合、リセットとは、安倍元首相のいう「戦後レジームからの脱却」改憲。
 彼らはいずれも威勢のいいタカ派(中国・朝鮮に対しては力で対決、戦争も辞さない強硬派)であり、彼らの希望は「戦後レジームからの脱却改憲」なんだ。

2012年09月05日

従軍慰安婦問題が再燃―安倍・橋下両氏の言説

 李大統領は自らの竹島上陸のきっかけは、慰安婦問題で日本政府の対応に進展がないからだと。
 これに対する野田首相の発言に「強制連行の事実を文書で確認できなかった」と―それが韓国国内で「歴史の歪曲」などと反発を広げているという。
 松原国家公安委員長は河野談話の見直しを求める発言も。

 「河野談話」とは―1993年、河野洋平氏が官房長官として発表。
 当時、韓国人の元従軍慰安婦らが91年末に日本政府に補償を求めて提訴したのを受け、宮澤内閣が事実関係確認のために調査。その結果を踏まえて発表。慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に対して旧日本軍が直接・間接これに関与したことを認定し、従軍慰安婦への「おわびと反省」を表明。
 様々な資料や証言をもとに「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり」、「慰安婦の募集・移送・管理等も甘言(だまし―引用者)・強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と断定、「官憲等が直接これに加担した」とも。慰安所における生活は、「強制的な状況の下での痛ましいものであった(慰安所に閉じこめられ、一日に何回も兵士たちの相手をさせられた―引用者)」と。

 これに対して、07年3月、安倍内閣は、辻元清美議員の質問主意書にたいする答弁書で、「強制性」の定義を広義と狭義二通りに分けて考え、河野談話は(広い意味では強制性はあったかもしれないとして)継承はしつつも、「当初、定義されていた強制性(当局が人さらいのように、「家に乗り込んで強引に連れて行った」などの行為)については、それを裏付ける証拠はなかったと。(それは「政府が発見した資料の中には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」からだ、というわけだが、そもそも、軍や官憲にとって不都合なことが記されている公文書は、敗戦時、焼却・廃棄されており、存在しないのが当たり前。それでも研究者の努力でいくつも発見されているのだが)。
 (「いじめ」の定義を広義と狭義に区別し、狭義には「いじめ」はなかったと弁明しているようなものでは?)
 これ(強制性の否定発言と答弁書)に対して国際的な批判。
 韓国政府は、「歴史的な真実をごまかそうとするもの」「河野官房長官談話を継承するとの日本政府の度重なる立場表明にもかかわらず、日本の反省と謝罪の真実性をうたがわせる」と。元「慰安婦」たちをはじめ抗議行動。
 アメリカ下院議会は、旧日本軍が女性たちに「性奴隷」化を強制した事実を承認し、「20世紀最悪の人身売買事件の一つ」として、日本政府に謝罪を求める決議を全会一致で採択。その後、欧州議会、オランダやカナダなどでも。
 安倍首相は、任期中は「河野談話を継承している」と繰り返さざるを得なかった。

 ところが、ここにきて安倍元首相、再び「慰安婦」強制を否定し、河野談話の見直しを求める発言。
 橋下市長―安倍説を支持―河野談話は「あいまい」だと。
  河野談話は「総じて本人の意思に反して行われた」としているが、そこのところは「第三者から強制的に(無理矢理)させられた」という場合の「狭義の強制性」と、「自らの意思でそうしたが、本意ではなかった(不本意)」(そんなことはしたくなかったが、あのような環境―貧窮に瀕し、売春・「身売り」などそれ以外に選択肢がないという状況下―にあっては、そうせざるを得なかった)という場合の「広義の強制性」とを区別すべきだ。(前者すなわち「慰安婦の強制連行」の場合は、国として責任があり、謝罪・補償があって然るべきだが、後者すなわち売買春のような場合は、部隊の秩序と慰安所・慰安婦の衛生・管理上、国が関与することはあっても、基本的には本人と業者の問題で、国としてはただ「かわいそうだった」と同情を寄せ、「たいへんでしたね」と見舞い金を寄せることはあっても、謝罪・補償を要するような筋合いのものではない。)なのに、河野談話はそこがあいまいだというわけ。
 しかし、14、15歳の少女はもとより、いかに貧窮に瀕し、それ以外にカネを得る方法はないからとはいえ、わざわざ戦地に、自分の意思で行くことなどあり得ようか。軍や官憲が直接または業者を介して、暴力・脅迫か甘言・だましによって連れて行かれたと解するのが自然だろう。
 橋下氏は、当時の時代背景において、慰安婦制度というものはどこの国でも許されていたかのように発言しているが、1998年、国連人権委員会では、慰安婦は事実上の奴隷であり、「当時ですら、奴隷制を禁じた慣習的国際法に明らかに違反していた」との報告書を採択している。
 本人たちの証言だけで、それを裏付ける証拠となる文書ないというが、公文書の多くは敗戦時、証拠を残さないように焼却・廃棄されて、そのような証拠はないのが、当たり前。
 朝日(9月5日)「声」欄に「慰安婦問題に女性の目線を」という投稿があったが、投稿者(主婦37歳)は「犯罪行為の立証に文書が必ずしも必要なわけではない。『私は女性を犯しました』と書いた文書がなくても、被害者の証言や状況証拠で十分なはず」と。
 橋下氏は「証人が何百人出てきても信用性が足りるかどうかが問題」だとして、証言の信用性を疑うが、それは、高齢に達して人生が終わってしまう前に今こそと勇気を出して、ようやく「生き証人」として名乗りでたハルモ二(元「慰安婦」)たちを二重に辱めることになる。それに、証言を公的に認定した裁判所の判決も、実はあるのだ。
 安倍流に「強制性の定義」(広義・狭義)の区別と「証拠」の有無にこだわることに、なんの意味があるのだろうか。

 橋下氏は、河野談話こそが、韓国側の日本に対するこの問題での謝罪・償い要求の根拠にされ、反日を招き、日韓関係を悪化させている「元凶」であり、韓国側とは強制性を裏付ける証拠の有無について論戦し、あいまいにせずに決着すべきだと。
 しかし、「強制性はない、証拠はない、あるなら出してみよ」、「いや、本人たちはあると言っている。ないと言い張るなら、そっちこそ「ない」という証拠を出してみよ」なんて論戦していたら、いつまでも未解決問題として、係争の種は残り続けることになる。
 そうやって、いつまでも「証拠を出せ」などと強弁し、強制性の定義はどうのこうのと免罪合理化の理屈を弄し、強制性の否定論、河野談話の見直し論をむし返して、ずるずるモメ続けるよりも、いさぎよく非は非として認め、謝罪して被害者たちに個人補償すれば、それで決着はつくのである。

 先月、橋下市長の記者会見での発言。
 (たまたま医院に行って見かけた週刊紙「週刊新潮9月6日号」に「『安倍総理』誕生に加勢する『橋下市長』」という見出しの記事と「『橋下市長』と従軍慰安婦論争の赤旗記者が『風俗未体験』」という見出しの記事が出ていた。『風俗未体験』とは何のことかと思って読んでみると) 
 赤旗記者が「河野談話」(「慰安婦」強制連行の事実を認めていること)について質問したところが、市長から「07年の閣議決定はどう書かれていましたか?」と逆質問され、赤旗記者は「すみません」と言うばかりで、「どうやら知らなかったようだ」と。(市長は、「河野談話」は官房長官の談話にすぎないが、「閣議決定」は安倍内閣の閣僚たちが署名したもので、このほうが重いとの考えだが、その「閣議決定」なるものはどうやら上記の辻元議員の質問主意書に対する「政府答弁書」のことを指してそう言ったのだろうが、記者は「閣議決定」と言われて一瞬ピンと来なかったのでは?)(それに、その答弁書は、文中に「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を示すような記述も見られなかった」とは書いてあるが、「河野談話」は、文書資料だけでなく元軍人や元「慰安婦」からの聞き取りなどを行ったうえで総合的に判断して軍による強制を認めたものであって、その「談話」自体は継承すると回答したものであって、「河野談話」そのものを否定したものではない。)
 市長いわく、「韓国は、強制的に連れてきたこと、それとも慰安所自体を問題視しているのか、分からない。現代社会でも、いわゆる性を商売にすることは世界各国である。(それが)倫理的に良くないという話しと、強制的に連れてきたから謝るという話しは別問題。赤旗記者は風俗営業に行ったことがないんですか?」と、また逆質問。すると記者は「無視すると思いきや、なんと正直に、『ないです』と答えたのだ。一瞬、苦笑する他社の記者たち。」
 市長「強制的に連れてきて無理矢理働かせたということがなければ、倫理の問題でしょ。謝罪の問題ではない」と。
 「赤旗記者は勉強不足」「他社の記者たちの前でオモチャにされ」、「橋下さんに太刀打ちできない」。
 というのが、週刊新潮の記事だった。

 この記事を書いた週刊新潮の記者をはじめ、市長に「まくしたてられ」て、丸め込まれる記者たちと、市長のしたり顔がありあり。

 この記事に見られる問題として、もう一つ見落としてはならないことは、風俗営業を引き合いに出して「従軍慰安婦」制度を合理化する橋下氏と、風俗店に行ったは「ないです」と答えた赤旗記者を笑った週刊新潮記者をはじめとする記者たちの、まるで男は風俗店(売春)を利用するのが当たり前であるかのような感覚、女性に対する人権感覚である。

2012年09月06日

領土問題の解決法―内田樹説から(加筆版)

 内田樹氏―神戸女学院大学名誉教授、朝日新聞紙面審議会委員
    9月11日の朝日に「わたしの紙面批評」を書いていた。
 氏によれば、領土問題の解決方法は次の二つしかないと。
  ①戦争―勝った方が領土を獲得。
  ②外交交渉―双方が同程度の不満をもって終わる「五分五分の痛み分け」。

 そこから、考えたこと。
 ①の方法(戦争にうったえるやり方)は、今の時代では非現実的―中国にしても韓国・朝鮮にしてもロシアにしても、それらと戦争をしても、負けはしなくても勝てるという保証もなく、勝ったとしても物的・人的に犠牲と損失が甚大で、同じ「痛み分け」でも②の場合とは比べものにならないから。

 だとすれば、②の方法(外交交渉)でいくしかないことになろう。

 ②の場合、内田教授は、外交交渉は両国の統治者がともに政権基盤が安定しており、高い国民的人気に支えられている場合にしか行なわれない、として次のように2例あげている。
 中国は、1972年周恩来首相の時、日中共同声明で「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」し、「主権及び領土保全の相互尊重・・・・・(平和五原則―引用者)」を確認した。また、78年鄧小平副首相の時には、尖閣について「こういう問題は、一時棚上げしてもかまわない」、「次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。その時は必ずや、お互い皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう」と。
 これらの言葉は「つよい政治家」にしか口にすることはできない。この場合「つよい政治家」とは、単に威勢がよく口が達者でケンカが強いだけの、その政治家個人の資質・力量ではなく、「政権基盤が安定しており、補償問題・領土問題でどのような譲歩カードを切っても(国民から、あまり反発や文句が出ず―引用者)国内の統制が乱れる不安がない」という意味での「つよい政治家」のこと。それに、単に強気で「一歩も譲らない」などと意地を押し通すのではなく、むしろ、相手に対して「弱腰批判」などを恐れずに、(大局的に国益を考えて)譲れるところは譲る度量とそれを国民に説得できる力をもつことこそ「つよい政治家」ということか。
 さて、今、中国にしても韓国にしても、この日本にしても、高い国民的人気に支えられ安定した基盤の上に立てる政権・「つよい政治家」など生まれるだろうか。
そういう政権が生まれないかぎりは、両国の国民間・政府間で互いにいがみ合い、(「売られたケンカ、受けて立つ」「ナメられてたまるか」などと)つっぱり合い続ける。(週刊紙・新聞・テレビなどのメディアがそれを煽り、政治家をけしかけ、政府をつきあげる。)あげくの果ては軍事衝突という事態にもエスカレートする危険につきまとわれることになる。
 「『言うべきこと』を言わずに、『やるべきこと』をやらないできたからナメられる」と(週刊現代9月15日号「オレに任せておけ!中国・韓国に売られたケンカ、橋下徹なら、こう闘う」)。そのように言う場合、「『言うべきこと』を言う」とは―尖閣は日本側に領有権があるということの歴史的根拠・国際法上の正当性を相手側にしっかり(事実と道理にのっとって)説明しきること―だとしたら、それはその通りだろう―これまでの日本政府は(尖閣は日本に領有権があることは解り切ったこと、故に)「両国間には、そもそも領土問題は存在しない」というばかりで、それ以上突っ込んだやりとりをしてこなかったのだから。
 しかし、「『やるべきこと』をやる」という場合は、国際司法裁判所への提訴、あるいは現状(日本側の実効支配)の「平穏な安定維持のため」の島の国有化くらいならいいかもしれない?が、島に何らかの施設を建設するとか、そこに人員を常駐させるようなことをやれば、相手側の反発・トラブルをエスカレートさせ、かえって実効支配の「平穏な安定維持」を損なう結果になってしまう。
 ところが、最近の推移を見てると、都知事の島の買い上げ表明(訪米中、唐突にそれを発表し、国際社会にも、中国の一般人にも、日中間における領土問題の存在が、いやおうなしにクローズアップされることになった)に端を発して中国人の一部から反発・抗議が起こり、双方による島上陸騒動などの応酬、それに対して日本政府が、東京都による島の買い上げ(島に何か施設を建設したり、人を常駐させたりして中国側を挑発する結果となること)を阻止して事態を鎮静化すべく島を国有化(今度は国が買い上げることに)したことが、(中国側からは、今までは、島そのものは日本の一民間人が所有していて、日本政府がそれを賃借して管理・実効支配してきた―とはいうものの施設の建設・常駐などは控え海保の巡視船が「領海」警備するだけに留めてきた―のを黙認してきたが、それを日本政府が「国有化」したということに強烈な抵抗感を覚え、最初に島を「都が買い上げる」とぶち上げた都知事と、「それじゃ国が買い上げることにします」と言いだした首相は、実は初めから「ぐる」だったのだとも受けとられ、「実効支配の平穏な安定維持」のための「国有化」は、日本政府の意図に反して、都知事が点けた火に油をそそぐ結果になってしまい)中国側のさらなる反発を招いて、反日デモなど状況は悪化し、緊張が激化するところとなっている。

 現状では、これまでの日本は政権基盤が不安定で首相も外相もころころ替わり、相手国と腹を据えた、心をわった対話・交渉はできず、相手からの信頼も得られない状態(日本から発せられるメッセージが額面通りに受け取ってもらえない状態)にある。

 ところが、ここにきて、今度の総選挙の結果しだいで、「つよい政治家」の安定政権ができるかもしれない。しかし、それは自・公・維新などの連立政権タカ派政権で、「譲歩」どころか「一歩も譲らない」強硬派。中国側の攻勢に対しては「やるならやってみろ」「売られたケンカは受けて立つ」などと言って、韓国・朝鮮人の「従軍慰安婦」などに対する謝罪・補償は突っぱね、尖閣には施設(灯台・船どまり・監視所など)の建設を強行・常駐を重ねる。そのようなことになれば、外交交渉で「五分五分の痛み分け」決着どころか、解決は遠のくばかりで、下手をすると戦争の方に向かいかねないことになる。
 「受けて立つ」とは言っても、アメリカ頼みの軍事力(日米同盟)をかさにきての強がり?
 そんなことでいいのだろうか。外交は勝つか負けるかのケンカではなく、「相互の信頼と敬意こそが外交の要諦」(河野洋平・元自民党総裁、「世界」10月号に掲載のインタビュー記事)であり、双方ウイン・ウインの結果をめざすべきもの

 尚、内田教授は、日本と隣国との間の領土問題での対立には、背後にアメリカの存在があるということも指摘している。アメリカの国益にとっては(西太平洋戦略上)、日本と隣国の軍事衝突に至らない程度の相互不信と対立のうちにあり続けることがいちばん都合がよい。すなわち、日中韓それぞれの間で領土問題が円満解決し、相互理解・相互依存関係が深まると米国抜きの「東アジア共同体」構想が現実味を帯びてくる。それはアメリカにとっては都合がわるく、阻止すべきことなのだという。
 しかし、アメリカにとっては日本と中国が対立関係にあり続けるほうが都合がいいからといって、アメリカは日本の方を味方して中国に刃向かうかといえば、そんなことはすまい。あくまで中立の立場をとる。なぜなら米中は対立関係にはないし、それどころか経済的には、アメリカにとって中国は最大の貿易相手国であり、アメリカ国債の最大の引き受け手なのであって、日本以上に緊密な互恵関係にあるからである。だから、日本はアメリカを後ろ盾にして(その加勢を当てにして)中国と事を構えるなどというわけにはいかないのである。

 とにかく、領土問題の解決方法で言えることは、戦争にうったえることはできないということと、外交交渉でも「五分五分の痛み分け」―排他的独占を控え、一定ルール(協定)を定めて、それに従いつつ、島と周辺海域の漁場などの共同利用・資源の共同開発・共同分配を行うようにするといったようなこと(「次世代の知恵」)―で決着に持ち込む以外にはあるまい、ということだろう。

 9月17日の朝日新聞の記事によれば、米海軍大学の研究者(ジェームズ・ホルム准教授)が論文(それは産経新聞や週刊文春などにも紹介されているという)に、もしも尖閣をめぐって自衛隊と中国軍が海戦をした場合、「米軍抜きでも自衛隊が有利に立てる」と書いている。(自衛隊の方が強いというわけだ。)
 それについて、軍事ジャーナリストの前田哲男氏は、「民間や警察レベルならともかく、もし「軍」同士の衝突となれば、日米安保条約は発動される」ので、米軍が動かないということはあり得ない、とも指摘しているが、それは(自衛隊の方が有利だいうのは)あくまで「局地的で短期の海戦」に限った場合の話しで、「尖閣周辺の海戦だけで戦争が収まると想定することは現実的ではない」と。(中国軍は海戦では負けても、それで引き下がりはしないだろうから、それだけで勝負がつくというわけではなく、日中戦争の時のように総力戦に拡大・発展すれば勝てないということ―引用者)
 それに前田氏は、「尖閣をめぐって(それだけのために―引用者)両軍が戦争を起こす可能性は考えにくい。目的と手段があまりにも釣り合わないからだ」とも。つまり、小さな無人島と周辺の漁場・海底資源―石油・ガス田があるなどと言っても、はたしてどれだけ産出するのか確かなことは、掘ってみないと判らない(尖閣近辺での学術調査に携わったことのある猪間明俊・元石油資源開発取締役によれば「実際に掘らないと分からないのが海洋資源。仮にあるのが確実でも、掘らなければそれは『資源』ではない」)―そんなもののために、「国家の主権を守る」という「大義」のためだからといって戦争すれば、それに伴うコストと(人命を犠牲にするなどの)リスクは計り知れないが、それでももかまわないなどと「そこまで血迷うとは思えない」というわけ。(アメリカも、そんなことのために自国兵士を犠牲にしようとは、さらさら思うまい。)

 しかし、そんなことは何も考えないで、「やれ、やれ!やってしまえ!こっちの方が強いんだから」などと血迷う輩(彼らを煽る政治家やメディア)が存在することも事実だろう。


竹島・尖閣問題―NHK「週刊ニュース深読み」から
(9月1日放映)
ゲスト―桂文珍、小島慶子
解説―孫崎亨・宮家邦彦ともに元外交官  NHK解説委員―出石直・加藤青延

竹島問題 
<日本側の主張と動き>
 17世紀幕府、漁師たちの渡航を竹島へは許可(その向こうの鬱陵島へは禁じたが)。 1905年、島根県に編入したと。
 1952年、サンフランシスコ条約で日本が放棄する領土に竹島は明記されていないが、米国側の見解では、その島は歴史的に見て日本領だと。
 韓国側の一方的な「李承晩ライン」設定に抗議 
 1954年、国際司法裁判所に付託(韓国側は応じず)
 1962年、再度 国際司法裁判所に付託(韓国側は応じず)
 1965年、(日韓基本条約調印)漁業協定が結ばれ「李承晩ライン」は撤廃されるも、竹島はそのまま
 1999年、新たに日韓漁業協定―竹島周辺を含む「暫定水域」で、双方の漁船の操業を認め合う。
 2012年、李大統領の島上陸に抗議、国際司法裁判所に提訴へ
<韓国側の主張と動き>
 512年、于山国(竹島)は新羅に帰属していたと。
 1905年は日露戦争―日本海の海戦に備えて日本が必要とした。その後(1910年)の日本による不当な朝鮮(まるごと)併合の第一歩
 1943年、連合国(米英中国)カイロ宣言―「日本は暴力と欲望で奪った全ての地域から追い出されるべし」―そこには竹島も含まれると。
 1952年、日本海に「李承晩ライン」を設定して竹島を編入、その後(1954年)、武装警備員を常駐させ、監視所を設けて実効支配へ。
  その後、日本漁船を度々だ捕(延べ200隻以上、2800人抑留)
 1965年、日韓基本条約調印
 2012年、李大統領、島に上陸
尖閣問題
<日本側の主張と動き>
 1895年(そこは、無人島で、中国も、どの国も支配していないことを調査・確認のうえで)日本領とし、沖縄県に編入。
 1896年、5島のうち魚釣島など4島は民間人に貸与、その後払い下げで民有地
 その後 魚釣島などには250人が住み、かつお節の製造業
 1940年頃、再び無人島に。
 1969年、中国政府の発行した地図には「尖閣列島」(日本名)と。
 1952年、サンフランシスコ講和条約―沖縄とともに米国の施政権下に。
 1972年、沖縄とともに返還
 現在に至るまで実効支配は維持
 1978年には鄧小平の「棚上げ」論もあって、「そもそも日中間には解決すべき領土問題は存在しない」として、この問題での話し合いを避け続ける。
<中国側の主張と動き>―「そこは中国人が最も早く発見し、命名、利用してきた」と。
 1403年、資料に中国名(釣魚嶼)記載
 16世紀の文書に記述
 1895年は日清戦争中で、台湾とともに日本から奪われたと。
 1945年、ポツダム宣言―「カイロ宣言を履行すべし―日本は清国人より受け取った一切の地域を中国に返還すべし」とされているが、そこに含まれると。
 1968年、尖閣諸島の近くの海底に石油資源が産出する可能性が専門家によって分かる。
 1970年代以降、諸島は中国領だと言い出す。(日本側は、中国はずっと日本側の領有権に対して異議を唱えてこなかったのは、そこを自国の領土だと考えていなかった証拠で、それをにわかに中国領だと言い出したのは石油が出ると分かったからだ、と。しかし、中国は日清戦争後、革命~内戦~日本との戦争~内戦・民族紛争・国境紛争(ソ連・インド・ベトナムなどと)の繰り返しで、国家が安定せず、国際的に認知される状況になかった。国連加盟が認められたのは1971年になってからのこと。この間、小さな無人島に関わっている余裕はなかったのだ。それに、70年代当時、中国は石油にはこと欠かない輸出国だったから、日本側の指摘は必ずしも、その通りだとは言えない。)
 1971年、(台湾政府に替わって)国連の代表権が認められる
 1972年、日中国交正常化
 1978年、日中平和友好条約調印(第1条に、「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力または武力による威嚇に訴えないことを確認する」と)
鄧小平副首相、尖閣問題「棚上げ」を表明(「我々の世代に解決の知恵がない問題は次世代で」と)―現状維持(日本の実効支配も―日本側に有利)、軍事を用いて現状を変更することはしないと。
 1992年、中国―領海法に中国領と明記。
<台湾政府の主張>
 1971年以来、領有権を主張
トラブル対応
 1996年、日本の右翼団体が灯台設置、これに中国が抗議
 2004年、中国の活動家らが上陸、逮捕され強制送還
 2010年、中国漁船が海保の巡視船と衝突、船長逮捕、公務執行妨害容疑で送検するも処分保留のまま釈放
 2012年、石原都知事、島を都が買い上げると表明
    香港の活動家ら上陸、逮捕されるも強制送還 
     日本政府、島を国が買い上げ国有化へ動く(「平穏かつ安定的な維持管理のため」と、これまでも地権者と賃借契約してきたが)。
<アメリカのスタンス>中立(尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲には入っているとはいうものの、日本の領有権を支持しているというわけではない)。

(孫崎)「領土問題で一番大事なことは、いかに紛争にしないか(戦争の回避)であり、その知恵を考え出すこと」。
 双方がそれぞれに自国の領有権の正当性を主張しているかぎり、そこは「係争地
そこで新たな行動をとって(事を起こして)緊張を高めるようなことは、お互い差し控えるのが肝要
(出石)「領土問題は、解決はめざすべきで、交渉なり第三者に頼むなり、その努力は必要。しかし、一方、国境の線を引くだけが外交ではない。人も物もお金も国境を越えて流れていくこの時代、線で区切る時代ではない。」
(加藤)「早期解決にはこだわらず、解決しない―何もしないことも一つの解決策」(中国の諺に「重い石を無理やり持ち上げようすれば物すごい力がいるが、置いておいたら力はなにもいらない」と―何もしないことが最善の策だと) 
(小島)「弱腰であろうとなかろうと、戦争にはなってほしくない
(宮家)「ガールフレンドに例えれば、もし相手が、彼女が一人でいるところにちょっかいをかけてきたら、殴り返す必要はなく、そんなことは必要ないが、ボデーガードぐらいはあって然るべき」
(孫崎)「ドイツとフランスとの間には領土問題は本質的にはあるのだが、両国が協力しあうことによって、領土問題は重要性の低いところにおいて、もっともっとお互いが協力することが大事だという感じにもっていくのが重要」。
 国際司法裁判所への提訴・付託―相手が応じず、裁判決着はつかないとしても、有意義―①国際社会の支持を引きつける上で、②相手国民への教育上も。

2012年10月01日

安易な強硬論―隣国との関係悪化に危機感あるのか?(加筆版)

 経済・文化交流が途絶えることへの危機感があるのかどうか?
 我が国メディアには、反日デモ・日系企業襲撃などに憤慨し迷惑がりはしても、そこには彼の国の民衆の中にある自国政府に対する不満の表れと見られる側面があり、むしろ彼の国の国内事情の問題だとして矮小化する向きが多く、我が国自身の問題を省みることが少ないように思われる。
 反日デモ、日系企業の操業停止、日本製品の不買運動、日本への観光ツアーの大量キャンセルなどは、むしろ向こう側にとってマイナスとなる部分が大きく、日本は貿易・投資の相手を他国(東南アジア諸国・インドなど)に切り替えればいいだけの話し、といった楽観論が多いのでは。
{尚、中国との経済関係
  貿易―中国は最大の輸出相手国(全体の19.7%)で、最大の貿易相手国
     中国から日本への輸出は全体の7.8%       
     中国から見れば貿易額は、日本は4番目(①EU②米国③ASEAN)
     (日本経済の中国依存度のほうが中国経済の日本依存度よりも高い)
  中国への進出企業2万社
  日本で生活する中国人は(台湾人・香港人ふくめ)67万人―すべての外国人の中で最多
  中国が保有する日本国債18兆円(日本国債の外国保有分の2割以上を占める最大の保有国)。中国は米国債の最大の保有国でもある。}
 「チャイナ・リスク」は領土問題と歴史問題を抱える日本にはあっても、欧米や韓国
などにとっては、日本企業がリスクを恐れて進出を取りやめ撤退すれば、それはかえってチャンスとなる。
 日中の関係悪化で、どちらがより大きな損失・痛手を被るか、それは日本の方かもしれない。いずれにしろ「ウイン・ウイン」(共に勝ち)とは正反対いわば「ルーズ・ルーズ」(共に負け)という結果になることは間違いないだろう。
  
 中国・韓国との間で島の領有権をめぐって対立、それぞれ自国に領有権ありと主張して譲り合わず平行線。
 韓国との間では従軍慰安婦問題などで、中国との間でも歴史認識にくい違いがあり(議論すれば平行線)、そのために、わだかまり・不信感・疑心暗鬼がつきまとい、ざっくばらんな(腹を割った)話し合いができない。領有権で主張がかみあわず、トラブルがあっても、(日本は中国に対して、韓国は日本に対して)「領有権は我が方にあることは明白。そもそも貴国との間に領土問題は存在しません」と(言わば「問答無用」と言わんばかりに)強弁し、原則論にこだわって話し合いに入ろうとしない(相手の言い分を聞かず、聞いても反論しない)。
 国有化に関わったある政府高官いわく、「事態は長びくだろう。お互いスタンスは変えられない。覚悟しないといけない。」「海保から海自(自衛隊)へ、レッドラインを越えるか、そうなったら大変なことになる」と。

 結局は互いに「毅然と」強硬姿勢(「尖閣諸島は国家意思として断固守る」―安倍)、巡視艇・監視船・抗議船・漁船団をくりだし、海上で入り乱れ、水(放水)の掛け合い、睨み合い、或は上陸の応酬・・・・一触即発(銃撃戦)、エスカレートすれば自衛艦も出動し軍事衝突にも発展しかねず―そのために、それに備えて互いに軍事力を強化、またそうなるのを「抑止」するためだとして、日本は日米同盟に頼る(―沖縄基地、オスプレイ配備容認)。
 国民のなかにも、いざという時は「米軍の助けが得られるから大丈夫」という安心感?
 だから、国民世論も強硬論に傾きがち(「追っ払え、力ずくで!」―石原、「交渉なんかに乗るな!」「交渉はしても、一歩も譲るな!」などと)。
 米軍の日本支援・介入など当てにはならないのに(アメリカ自身は、「尖閣は安保条約の適用対象には入っている」とは言っても、領土問題はあくまで二国間で解決すべきもので、アメリカはあくまで中立の立場だとしている)。

 要は、アメリカ頼みに、強がって「来たら力ずくで追っ払うまでだ」とか、「やるならやってみろ!受けて立つ」などと、物理的対応や軍事対応などにとらわれないこと。そして、あくまでも経済・文化面で交流を再開・維持する方向で、早急に信頼関係を築いて会談・協議に入り、それも、話し合いの入り口で「領土問題は存在しません」などと原則論にこだわってばかりいないで、紛争は紛争として認め、それをどう解決するか、解決の糸口をどこに見出すか対話・交渉のプロセスに入るしかないということだろう。

10月のつぶやき

●有機ELの研究・開発の第一人者・城戸教授の講演を聞いてきた。米沢中央高校の創立90周年の記念講演。
 スクリーンに映像を写しながら高校生向けに解り易く、興味深い、ためになる話で一杯だった。
 有機ELの話から始まったが、生き方・学び方を御自分の体験を基にして話された。東大阪市で生まれたその生い立ちから小中高大の履歴を披露、ところがけっして秀才ではなく勉強嫌いの凡才。なんと小中高の通信簿(母親が取っておいた)の評定・所見までスクリーンに大写しして見せてくれた(高校時代は平均3.2)。しかし、「一念発起」があって、大学(関西大学工学部の機械科)中退、3浪して早稲田工学部の応用化学科に入り直し、卒業してニューヨークの何とかという大学の大学院に入り、英語を猛勉して学術論文の発表をこなして博士号をとって帰国し、米沢に来て山大工学部の助手から始まって教授になり現在に至ったのだという。
 成功の秘訣は三つ、「①好奇心②失敗にめげない根性③創造力(創造力)プラス④独創性」だと。

 小6の孫に「成功の秘訣は三つあるんだって。何だと思う?・・・それはな、一番目に好奇心」といって話して聞かせた。すると彼の弟・幼稚園児がスマートフォンでゲームをしていて、母親が「小さい子がそんなことをやってるとおかしくなるよ」というので彼はそっちのほうに気がいって、弟の背後に近寄ってスマートフォンを覗き込み、弟がそれをやめたかとおもったら自分が取り返してやりだした。「だめだこりゃ」・・・・・①だけで②以下の話には進めずに終わった。あ~あ
●高畠町でクラシックカー祭り  米沢の「おやじバンド」(シルバー・ビーンズ)がやっていた。ビートルズナンバーを次々。ええな~たいしたもんだ

●検診センターの検診を各種うけてきた。血圧が150もあった。数日後、二ヶ月ごとに検診を受けている医院で測ったら、そこでも。医者から自家で毎日測って記録してと言われ、毎日朝晩はかり始めた。そんなに高くはない。女房いわく、「あの時は、何かイライラして測ったんだろう」・・・・そういえば、そうだな。
●「9条 命をかけて守らねば」―8日の朝日新聞の「声」にあった愛知県東海市66歳主婦の方の投稿。「今後、たとえ国会で憲法改正が論議されても、この9条だけは私ちは命をかけて守っていかないといけないと、今回痛切に思っています。我が子や我が孫のために。」そうだ!同じ思いだ!
●朝日新聞の世論調査―「野田首相と自民党の安倍総裁とでは、どちらが首相にふさわしいと思いますか、野田さんですか、安倍さんですか」(この質問の仕方がおかしい)。その答えが「野田さん34%、安倍さん39%」。
「政権はどんな形になるとよいと思いますか」「民主党が中心の政権9%、自民党が中心の政権27%、民主党と自民党の連立政権32%、民主党でも自民党でもない政党が中心24%」「日本維新の会が、国会で影響力を持つような議席を取ってほしいと思いますか、そうは思いませんか」「取ってほしい47%、そうは思わない43%」
あ~あ!改憲か・・・・
●東京に行ってきた。
東京駅で降りて元の姿に増改築された駅舎を写真に撮り、駅前通りを歩いていくと皇居につきあたり、お堀端を左(桜田門)方向へ。♪ここは二重橋、記念の写真を撮りましょうね♪とばかりに立ち止まって撮った。日比谷通りに出ると間もなく公園にさしかかって公会堂にたどり着いた。そこで「九条の会」講演会―大江・奥平・澤地3氏の講演を聴いてきた。講師は著名人ではあるが、いずれも高齢者。聴衆もほとんどが年配者。どうも若手が少ないな。よーし、守ってやるぞ!九条よ!
 終わってまた日比谷通りを歩いてお堀端にさしかかると第一生命ビル―たしかマッカーサー司令部になったところではなかったか。ありがとう、憲法には感謝!
●先月アンディ・ウイリアムスが亡くなった。夕暮れに街を散歩しながら、♪ムーン・リバー♪を口ずさんだ。あの英語の歌詞は未だ忘れていないんだな。

2012年10月04日

S君の新聞投稿「対中韓外交、政府は毅然と」

 それは山形新聞に掲載された。S君とは実は当方の教え子。全文紹介させてもらうと次のようなもの。
 「尖閣諸島を政府が国有化したことに対する中国の暴徒化に関し、日本政府の対応に憤りを覚える。正直言って情けない。なぜ東京都の石原知事のようにはっきり物申すことができないのか不思議でならない。
 尖閣だけでなく竹島問題も同じだ。首相をはじめ関係閣僚は決まり文句のように「遺憾である」に終始している。弱腰外交と批判される現状に、世界の中で日本がどう対応するのか、もう一度初心に戻って考える必要があるのではないか。
 今回の暴徒化を中国政府は容認しているように見える。いくら法律が違うといっても、警察や軍は見てみぬふりの口頭だけの注意と形だけの静止のみだ。日本で同じようなことをすれば即逮捕される。
 尖閣に不法上陸した者をすぐ釈放すること自体おかしいと思う。中国政府は日系企業への破壊行為の責任は日本政府にあると報じているが、容認すべきではないと思う。日系企業が中国人の雇用創出に大きく貢献していることを踏まえ、日本政府は厳に中国政府へ損害賠償を請求すべきだ。今後、日本政府と政権与党の民主党に対して、中国にいる日本人に対する身の安全確保と、毅然たる対応をしていただくよう強く要望したい。」
 要点は次の二つでは
(1)反日デモの「暴徒化」―中国政府の対応―「警察や軍は見て見ぬふり・口頭だけ注意」①
                       日本政府に責任を着せている。 
              日本政府は中国政府に損害賠償を請求すべきだ
(2)日本政府の対応―「弱腰」―「石原知事のようにはっきり物申す」べきだ
               不法上陸した者をすぐ釈放するなんておかしい
            毅然たる対応をとるべきだ。
 
 気持ち的には賛成で共感します。
 しかし、このような問題は相手国の実情、事の真相というか実態をよく(客観的に)見極めて判断すること大事かと。そこで、これらに関しては次のような見方・考え方もあるということ。
 ①について
9月の反日デモの実態(インターネットで調べてみると)
15日―50都市でデモ
16日―警備態勢・強化、デモ抑制に転ずるも、中小都市を含む少なくとも108都市・地域でデモ。全土で数十万人。
17日―暴徒の一部を特定し拘束へ
18日(柳条湖事件)―110都市でデモ
19日―各都市でデモ禁止・通達
 ある見方(インターネットのサイトに「ニュースの社会科学的な裏側」というのがあったが、それには)―「中国ではデモや暴動は日常茶飯事で、中国政府はその制御に苦労。警察の数が少数で暴徒から反撃を受けることも度々。」「中国共産党が反日デモや暴徒を裁量的に許可しているのは確かだが、それは、日本への揺さぶりのために許可しているというよりは、中国人民に中国共産党が敵視されないために許可した方が良いとの考えからだろう」
(そういえば、世界史を見てみると、中国では広大な国土を色んな王朝が治めてきたが、どの王朝でも反乱や民衆の暴動が絶えなかった。それにひきかえ、わが国の場合、一揆や暴動もなくはないが中国とはけた違い、我々の時代には「安保騒動」など激しい反米デモで機動隊との激突もあったが、今は皆すっかり「大人しくなった」というか、警察による制御にちゃんと従って行われている。)

 ②について
05年の反日デモの際は、日本大使館や日本料理店など日系企業の被害に対して、中国側は、大使館や総領事館に関しては補修費用を負担して原状回復、日系企業については個別に一部を補償している。今回に関しては(9月28日朝日新聞によれば、在日大使館の報道官の話として)「実際の状況にしたがって関連問題を適切に処理していく。」「被害の一部に対し賠償や原状回復に応じる可能性を示唆した」と。
 各個契約している損害保険が適用されることにもなるだろうが、いずれにしろ補償はあって然るべきだろう。

 ③について
石原都知事については、彼がアメリカ訪問中に記者会見でいきなり「尖閣諸島を購入することにした」と(「文句ありますか」とばかりに)言明したことが、そもそも今回の騒動のきっかけで、野田首相がそれに対して(いわば「売り言葉に買い言葉」のようにして)「それなら政府が買うことにしようじゃないか」となって、民主党代表選を控えて「毅然たる外交」姿勢を示したいという「思惑」(朝日新聞の記者がそう書いている)から「尖閣諸島の国有化」方針を決定した(野田首相の言い分では、島の現状の「平穏な安定維持・管理」のためには都が購入するより政府による国有化の方が好ましいとの判断からそう決めたのだと。)ところがその「国有化」が中国をさらに刺激したと見られている(それはとんでもない。到底受け入れられないと)。
 尚、石原知事に対しては「彼は沖縄基地問題ではアメリカにはノーと言わない」といった批判もある。(石垣市在住で尖閣列島戦時遭難者遺族会の会長をしておられる方は次のように述べている。(10月3日朝日)「石原知事の尖閣購入を支持する人たちは、日本の主権を守るためだと言っています。だけど米軍に治外法権的な特権を与えて米軍人による事件や事故の被害者は泣き寝入りさせられてきました。主権が侵されている、改定してほしいと私たちはずっとお願いしてきましたが・・・・。地元の反対を押し切って強行されるオスプレイの配備に反対の声をあげてくれたでしょうか。万が一、中国と事を構えることになった時、国境を接する私たちの生活がどうなるかを本当に考えてくれたことがあるのか」と。)

 ④について
日本人なら誰しもそう思う。しかし、中国人から見れば、そこを日本領だとは思っておらず、上陸を「不法」だとして逮捕したり拘留・処分する権限は日本側にはないと思っている。仮に拘留・送検・起訴して刑事裁判による処理をすれば、日本人漁業関係者らが相手国からの報復措置として拿捕されて同じような扱いを受けるような事態にもなりかねない。そのあたりを考えれば、今回のような問題では外交的・政治的に処理するしかないのでは。

 双方には島の「国有化」にも歴史問題にも認識の相違があり、互いに歩み寄ることなく自らの主張を押し通し続け、強硬措置を重ねていけば、ケンカ別れでは済まなくなり、船から水(放水)の掛け合いでは済まず、撃ち合い(軍事衝突)にも発展しかねない。それで死傷者が出るような事態となったら収まりつかなくなる。或は戦争とはいかないまでも、互いに経済制裁と報復措置の応酬で「音を上げるのは向こうのほうだ」などと、単に「勝てる」とか「負けない」とかでは済まない甚大な損失を双方とも被る結果になってしまう。それが一番恐ろしい。

 当方の新聞投稿はたまにしか載らないが、彼の投稿は度々載っている。今回のものは当方がこのところこのブログで何度か取り上げている問題なので論評、というよりは当方が目にしたインターネットや新聞の記事に、こんな事実や見方・考え方もあるんだなと思って、参考までに書き連ねさせてもらいました。 

2012年10月07日

抑止力論の間違い(再々加筆版)

(1)軍備を合理化・正当化―それをしたがるのは、それで利益が得られる兵器産業・関連業界、「死の商人」、それで利権・既得権益が得られる政治家・防衛官僚・科学技術者、アメリカでは(軍部と軍需産業の)軍産複合体。                                       
(2)軍備で他国からの攻撃を抑止―その不合理性
 家庭の戸締りなら、他人を傷つけることはなく、近所に不安や脅威を感じさせることはないが、軍備は隣国その他に脅威を与える。脅威を感じた国々は攻撃に備えて自分も軍備を持ち、対抗して同等以上の軍備を持とうとする。それがまた相手には脅威となり、さらに軍備増強を促す―悪循環(軍拡の応酬)
  (アメリカ・日本・韓国・イスラエルに対してロシア・中国・北朝鮮・イラン、インドに対してパキスタンなど)
 軍備は防衛(自衛)用だと言っても、そもそも戦力であり攻撃力であり戦争手段なのであって、相手に対しては、その国が戦争しようとする意思を感じさせ脅威を与えるものであり、抑制し、使用は控えようとは思っていても、それを持っているかぎり使わずにはいられなくなり、攻撃を誘発する(兵士たちは武器を持つと、動く者を撃ちまくる)。
 軍備を持っていると、それに頼りがちとなり、外交努力・話し合い解決努力が徹底しなくなる(話し合っても無駄、交渉には及ばず、「問答無用」となりがち)(アメリカは同時多発テロを受けて、すかさずアフガニスタン攻撃に走り、イラク攻撃に走った。かつてはベトナムでトンキン湾事件を起して、それを口実に全面戦争に突入した。かつては日本も、柳条湖事件を起して満州事変、盧溝橋事件をきっかけにして日中全面戦争におよんだ)。

(3)日米同盟―アメリカの「核の傘」、沖縄の米軍基地、オスプレイ配備、これらは抑止力になるか
 核抑止論―「相互確証破壊」戦略―こちらが核兵器を撃ちこめば、必ず相手も撃ち返し、共に犠牲を被る結果を招くことは確実であるから、互いに先制攻撃を控え、攻撃は抑止されるという理屈。
 それは、自国が相手国からの攻撃を回避するためのものであって、他国(同盟国)を守るために核兵器を使い、相手から撃ち返されて自国民が核の犠牲を被ることに甘んじるなんて論理的にあり得ないことだと(元国務長官キッシンジャー)。(例えば、仮に中国の攻撃から日本を守るために、アメリカが上海など中国の都市に核ミサイルを撃ち込めば、シアトルなど米都市が報復攻撃にあって核の犠牲を被ることを覚悟しなければならないが、アメリカは、そのような自国民の犠牲を覚悟してまで日本を核で助けようとは思うまい、ということ。)
 それに、相互確定破壊核抑止は、理性的判断ができる相手になら効くが、北朝鮮のような?狂信的・自暴自棄的(破れかぶれ)になって立ち向かってくる相手には効きめがない。
 
 米軍が日本に基地を置き駐兵しているのは日本を守るためではなく、世界戦略のためであり、日本をその戦略拠点の最も重要な一つと位置付けているからにほかならず、沖縄をはじめ基地は海外への出撃基地(アフガニスタンやイラク、かつてはベトナム・朝鮮半島へ出撃)。 
 普天間に配備された海兵隊のオスプレイも、尖閣など日本の島を守るためのものではない。

 海兵隊は、そもそも海外での攻撃作戦や救出作戦に際して敵地や現地に真っ先に上陸・占領して攻撃を仕掛ける先鋒隊。(救出作戦にしても、救出するのは一に米国人、二番目にそれ以外で米国に市民権(グリーン・カード)を持つ者、三番目にイギリス人やオーストラリア人などアングロ・サクソン人、四番目にその他の人々、という優先順位で、日本人は四番めのその他の部類。日本人が優先的に助けてもらえるなんてあり得ないということだ。)
 ならば、なぜ沖縄など日本に置いているか。それは、その経費を日本政府が(「思いやり予算」も)負担してくれるので、そこに駐留して、そこで訓練させた方が安上がりだからにほかならない。
 安保条約は、そもそも日本を守るために締結されたわけではない(吉田首相と交渉に当たった米国特使ダレスは、この条約は米国が日本の防衛義務を負うものではないと言明している)。岸首相がそれを今の形に改定して、米軍に日本防衛義務を負わせるようになったが、それはNATO条約の場合とは違って、米軍は日本が他国から攻撃を受けたら即・自動的に参戦するというものではなく、自国の憲法に従って行わなければならない(つまり米国議会の承認を経なければならない)となっている。だから、尖閣やその他で日本と中国が軍事衝突したら、即・米軍が参戦してくれるというわけではないのだ。
 したがって日米同盟―自衛隊、それにアメリカの核の傘、沖縄基地、オスプレイやステルス戦闘機の配備、ミサイル防衛網など―が抑止力になっているから日本は攻撃されないし、されても大丈夫だ考えるのは幻想だということ。
 <参考―インターネットのサイト「kinkin.tv」で10月6~12日放映の「パックイン・ニュース」に出演の孫崎亨氏の発言>

(4)9条こそ抑止力(隣国や他国の攻撃意志を除去)
 いくら「抑止力」と称して軍備や軍事同盟を持つかぎり、それらはあくまで戦争手段(戦力)にほかならず、それを持つこと自体が戦争意思を持っていると思われてしまい、不信感を持たれることになるだろう。軍備や軍事同盟は他国・隣国にとっては脅威となるし、他国・隣国も対抗して同じように軍備を持てば、それが又こちらの脅威となって、たえず戦争や軍事衝突の不安に付きまとわれることになる。
 そのような不安のない本当の平和(戦争抑止)を勝ち得る最善の方法は、戦争手段(軍備)を持たず(「戦力不保持」)、どの国に対しても敵意を持ったり仮想敵国と考えたりせず、戦争意思を全く持たないこと(「戦争放棄」)だろう。要するに今の憲法9条を守ることにほかなるまい。
 (アフガニスタンで軍閥の武装解除に当たった伊勢崎賢治氏―東京外語大大学院教授で国際NGOに身を置きながら国連から派遣されて現地に―は丸腰で彼らに臨んだ。彼らアフガニスタン軍閥は、伊勢崎氏を「日本人だから信用しよう」と言って武装解除に応じたという。)
 武力に訴えず平和裏に解決しようとする姿勢は相手方に殺意を抱かせず、武力行使を抑止する。信用を得ていれば、敵対し合っている双方に対して第三者として調停に入り、戦争を止めることもできる。積極的平和外交・非軍事的国際貢献こそが日本国憲法(前文に「われらは、平和を維持し、・・・・国際社会において名誉ある地位を占めたい」「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」)の9条の精神。
 ところが、我が国政府は現在に至るまで、日米同盟・対米協力、自衛隊・派兵など、この9条とはむしろ裏腹のことに専念。「日本人は信用する」が日本政府は信用できないと言われるような状況になっている。

(5)無防備は危険?、それにつけこんで簡単に攻めてこられる?
 無防備といっても海上保安庁のような警察力(どこの国にもよくある「国土警備隊」とか「国境警備隊」)はある(現在の海保は強大な自衛隊があるために相対的に貧弱なものとなっているが、警備・取締り・侵犯阻止・排除に必要な艦艇や航空機その他必要な装備は持つ)。だから全く無防備というわけではないのであって、他国と戦争をする軍隊・軍備は置かないということ。 
 領地の争奪戦に明け暮れた戦国時代や植民地・属国の争奪戦に明け暮れた帝国主義時代のように、虎視眈眈と互いに隙あらば攻め込まずにはおかないといった昔ならいざしらず、今は、この国が領土・領海警備隊だけで軍隊・軍備を置いていない無防備な国だからといって、攻め込んだりすれば、世界中から非難され、国連をはじめ国際機関・各国政府から制裁を被り、かえって大損失を被り、自滅さえ招くことにもなる。

 国連は(未だ不備があるとはいえ)、それを中心に国際法秩序が確立されていて、一方的な軍事侵略・武力行使は禁止されており(国連憲章には「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使をいかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と定められており)、無法行為は国際社会から制裁を被るというコンセンサスがある今の時代に、それ(「無防備」とか「力の空白」をついて攻め入るなど)はあり得ない。 
 日本以外に憲法で軍隊を置いていない国は、現にコスタリカなどいくつか(192ヵ国中27ヵ国。いずれも小国とはいえ、例外的とは言えない数)あるが、攻め込まれたりはしていないのだ。(コスタリカは地続きの国々とも境を接して日本以上に危ない環境にあるが、1948年憲法で軍隊の保有を禁止、中米紛争も克服、外交的方法に徹して隣国との平和・友好を保っている。1986年、この国のアリアス大統領はノーベル平和賞を受賞している。)

(6)領土紛争―仮に日本に自衛隊も日米同盟も無くなったとして、それをいいことに、隣国(軍)が力づくで決着をつけようと武力で(海保の巡視艇を攻撃して島と周辺海域を制圧して)島(の実効支配権)を奪取しようとしてきたら?
 中国とは日中平和友好条約で「主権及び領土保全の相互尊重」「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」と定め、武力行使・武力による威嚇を訴えないことを約束している。それを破れば日本から国交断絶されるだけでなく、国連をはじめ諸国からも非難・制裁を被ることになる。だからそれはできないのだ。
 紛争を武力で決着をつけることは、今や不可能な時代であり、外交交渉で、ゼロサムゲーム式(一方が100なら、他方は0)の決着ではなく、双方とも同程度の不満が残る五分五分の痛み分け(島や漁場・海底資源の管理・利用・開発・産物分配をそれぞれ共同で行うか、分割するか等)で決着するか、それとも、とりあえず棚上げ(問題の先送り)を続けるか、それしかないのである。
(7)軍備は「抑止力」どころか、かえって戦争を誘発
 紛争はあっても、戦争や武力に訴えるやり方は国連憲章・条約・日本国憲法9条によって禁止され(それを犯せば相手国のみならず諸国から非軍事の制裁を被る)、それら法理と懸命な外交努力とによって戦争・武力行使は抑止されるのであって、軍備や軍事同盟などによって抑止されるのではない。
 中国は日本に自衛隊という(実質的には)軍隊があり、日米同盟があるから、おっかながって武力や戦争を控えるというわけではあるまい。それは禁じ手だということがわかっているからにほかならない。
 強大なアメリカ軍と日米韓同盟があっても、北朝鮮は核やミサイル開発をやめないし、抗戦政策をやめない。
 脅威をもって脅威を取り除くことはできないのである。
 アメリカは世界最強の軍備があるから、かえってそれを使いたがり武力行使や戦争にはしりがち。あちこちで反米テロを招き、9.11事件があると、すかさず対テロ戦争と称してアフガン戦争ついでイラク戦争にはしった。
 つまり、軍備は抑止力どころか、かえって国民を好戦的にし、戦争にはしらせるもの。
 かつての日本もアジア最強の軍事大国を誇り、中国にとどまらず米英を相手に戦争にはしった。
 軍備は抑止力ではなく、それどころか、かえって武力行使や戦争を誘発するものなのであって、軍事的抑止力論は軍備増強によって利権・既得権益が得られる者たちの「ためにする」合理化論にほかならない。


<この問題については、このH・Pの評論で「過去の分」に「脅威論・抑止論」と「抑止論の矛盾」というのがあるので、参照されたい。>

2012年10月23日

「島を超領有地域とする」案に賛成(加筆版)

 朝日新聞の「声」欄に歴史学者・南塚氏の投稿で「島は超領有地域で紛争防止を」というのがあった。
 それは、「千島列島・竹島・尖閣諸島はどの国も領有権を放棄して、漁業・資源の計画的活用(共同利用・共同開発―引用者)・環境保護・安全(避難所設置、非軍事化)のための国際共同管理領域とするのがいいのでは」というもの。
 そもそも「地球上の領域を何らかの国家の排他的な領有地や勢力圏として確定するようになったのは19世紀中ごろ以降のこと」、帝国主義諸国の世界分割(争奪)でそうなったのであって、たかだか150年の間のことでしかない。*(千島・竹島・尖閣については下記に)
 それを、「島は我が国『固有の』領土だ」と主張し、その根拠(自らの言い分)の正当性と領土ナショナリズムにとらわれ、領有権に固執する。しかし、そうやって諸国(日・中・韓・ロ)が互いに領有権にこだわり、島の主権を守るためにと(物理的対応から軍事的対応へと)行動に出れば、相手国も同様の措置をとる。そんな突っ張り合いを続けていれば、そのことだけのために両国間・諸国間の貿易・経済・文化交流等々の努力の成果が台無しになり、どの国も国益にとって多大なマイナスとなる。
 それらのことを考えれば、「むしろ大きな度量と展望が必要な政策」と投稿者が書いているように、「グローバル化の進む今、もっと大きな全人類的な視野から、地球や宇宙の資源や環境や安全の問題を考えていかねば」というのはその通りで、そういった観点から関係諸国が協議・交渉して互いに「ウインウイン」(「五分五分の痛み分け」)で決着するのが一番だろう。
 それとも戦争(勝った方に領有権)で決着?(ロシアと日本は日露戦争で日本が勝って南樺太を奪い、第二次大戦ではロシアが勝って南樺太を奪い返しただけでなく千島列島まで奪い取ったが、日本が再び戦争を挑んで「北方領土」を奪い返すか?)しかし、勝てる保証はないし(アメリカが日本に加勢してくれる保証もない)、たとえ勝ったとしても、はかりしれない大損失・犠牲を被ることになる。
 それらを考えれば、はたしてどちらが現実的・合理的な解決法か?戦争のほう?それはないだろう。

*①千島列島―先住民―そこにはアイヌ人(北海道・東北にも住んでいた)その他が住んでいた。
 近代になってロシア人・日本人も入ってきて雑居地となった。
 1854年日露和親条約でエトロフとウルップ島間を国境としたが、1875年樺太・千島交換条約で樺太(サハリン)全島をロシア領、千島列島全島を日本領とした。
 1905年日露戦争が日本軍優勢のうちに結ばれたポーツマス講和条約で、サハリン南半分も日本領となった。
 ところが第二次大戦末期、サハリン南部は奪い返され、千島列島まで奪われることになった。
②竹島は1905年に隠岐島の一島民の要望に答えて明治政府は日本領として島根県に編入し、同島民に貸し下げた。しかし、それは日本海海戦などロシア軍と朝鮮半島の利権をめぐって戦った日露戦争の期間と重なっていた。
 韓国は既に1904年第一次日韓協約で事実上外交権を奪われ、日本に対して異議申し立てできない状況にあり、1910年には日韓併合条約で朝鮮半島と日本海は丸ごと日本領にされた。
③尖閣は、その昔沖縄にあった琉球王国に属する先島諸島(宮古島・八重山などの島々)の一部であった。
 琉球王国は独立王国だった。それが江戸時代には薩摩藩に服従させられたが、中国の清にも韓国と同様に服属していた。それが1872~79年に明治政府によって日本領に沖縄県として編入された。清はそれを認めなかった(琉球帰属問題)。
 1880年、中国の内地通商権(西洋人と同じ扱いをしてもらえる)とひきかえに、沖縄本島から先島諸島(尖閣が含まれる)を切り離して清に割譲する条約案に仮調印(「分島改約」)するも清が応じぬまま御破算に。
 清は1895年日清戦争で日本から敗れ、韓国に対する宗主権をうしない、沖縄はもとより(その日本領有に異議申し立てできなくなり)、台湾までも下関条約で日本に奪われることになった。この間(下関条約に先だって)、尖閣は日本領として編入された。
 日中戦争中、蒋介石は沖縄を中国領とするか信託統治領とすることを考えたが、1945年アメリカが
日本本土とともに占領した。
 日本本土は1951年に占領解除されたが、沖縄は1972年になって日本に施政権を返還した。
 日本政府は尖閣も沖縄とともに日本に返還されたものとみなしている。しかし中国はそうは思っていないわけだ。
 (参考―世界8月号の豊下楢彦氏の論文、同11月号の羽根次郎氏の論文)
④「固有の領土」という概念は、歴史的根拠がない場合が多く、そもそも国際法上の概念にはなっていない。だからその言葉を使うのは適切ではないということ。
⑤どちらの国に帰属するのか、双方に言い分があり、領有権は必ずしも明確とは言い難い。だから「両国間に領土問題は存在しない」と言い切るのには無理があるということ。

2012年10月31日

柏崎刈羽原発を見学してきて思う(上に加筆)

疑わしきは止める
 刑事裁判なら「疑わしきは罰せず」だが、原発の場合は?
 大飯原発の敷地内にある破砕帯(岩盤の亀裂)は活断層によるものか、地滑りによるものか、「専門家の意見、分かれる」と。(ただし現時点では活断層説を打ち消す証拠はなく、調査団のメンバーには活断層の可能性を否定した人はいないという。)
 放射線は微量なら被曝しても大丈夫なのか、大丈夫でないのか、(人体への影響の把握は困難であり)学者によって見解が分かれる。
 うちの女房いわく、「キノコなら、毒キノコか、そうでないか、疑わしかったら食わないし、食わせまい」。
 大飯原発は止めるべきだし、そこに限らず、日本中の原発は即ゼロにすべきだ。「疑わしきは止(や)める」にしくはない。

 柏崎刈羽原発(外観)を見学してきた(構内をバスで一巡。ゲートには「テロ警戒」の看板。見学申し込みには氏名に生年月日、運転免許証を持参して照合チェックを受ける。写真撮影は禁止)。
 世界最大(7機821万Kw)の原発だという。原子力工学の粋が集中している所。
 石原都知事は福島原発を視察して事故の有様を見てきて、いわく「人間がせっかく開発した技術体系を放り出すのは愚かだ」と。

 しかし、そこは2007年に中越沖地震(原発から14キロ沖、M6.8)があって、その時は極めて危ないところだった(新潟大の関根征士・名誉教授によれば「過酷事故一歩手前」)。それに原発敷地の直下に活断層があり、周辺住民の中には以前から「豆腐の上の原発」と呼ぶ向きもあったという。(真殿坂断層―東電は「活動性はない」と評価しているが、新潟大の立石雅昭・名誉教授は「動かないとされていた断層(いわき市域にある湯の岳断層など)が東北太平洋沖地震の余震(4月11日)で動いた」と指摘している)。

 「原子炉直近の活断層が地震を起こせば、制御棒が作動する前に強い揺れが原子炉に到達し、緊急停止が出来ないという事態が発生する危険性もある。」「安全委員会によると、制御棒の挿入には、原子炉に設置してある地震計がある強さの地震動を感知してから2秒前後かかると計算されている」という(世界1月号「活断層と原子力発電所」東洋大の渡辺満久教授ほか)。
 発電所の展示館に5分の1大に縮小した原子炉の模型があって、そこで制御棒が作動するところを見せてくれた。ガイド嬢は「1秒ちょっと」だと言っていたが、やはり時間がかかっていると感じた。その間(制御棒が作動する前)に揺れが原子炉に到達し制御棒が効かなくなるといった事態もあるのでは、と質問すると、ガイド嬢は「直下活断層地震は横揺れでなく縦揺れだから大丈夫」みたいなことを言っていたが。

 発電所の職員の方が耐震補強工事の状況を説明し、バスで構内を一巡して、かさ上げ建設中の防潮堤・防潮壁、高台に何台も並べてある電源車・発電機車、注水・冷却用のポンプ車・消防車等々を「これこのとおり万全を期して完備しておりますのでご心配にはおよびません」と言わんばかりに見せてくれた。
 中越沖地震の時は敷地内の地面の隆起・陥没は10cmぐらい、通路・壁・天井・床の亀裂など約3,700箇所も壊れ、扉が開かなくなって肝心なところに入っていけないとか、コンクリート壁がひび割れ、核燃料プールの水が溢れ落ちたとか、低レベル放射性廃棄物の入った何百本ものドラム缶が倒れたとか、変圧器の出火などもあったが、過酷事故には至らずに済んだ。しかし、もっと大きな地震(M7.3の阪神淡路地震級あるいはそれ以上の地震)がきて通路が破断・寸断したら、電源車やポンプ車は入っていけなくなり、ケーブルや配管が破断、或いは燃料プールが崩落したらどうなるのだろうか。

 使用済み核燃料の貯蔵プールは、柏崎刈羽のばあい、再稼働すれば、あと3年半で満杯になるという。六ヶ所村の再処理工場は相次ぐトラブル続きで稼働延期。「死の灰」をガラス固化体にする技術も確立しておらず、「核のゴミ」の行き場はない。
 
 福島原発からの避難者は16万人。
 柏崎原発30キロ圏内の人口は43万人。
 現在、全機(7機)とも停止中だが、東電は来年4月から順次再稼働を企図している。そんなこと許されるものか。

 石原氏は「人間がせっかく開発した技術体系を放り出すのは愚かだ」というが、せっかく開発した核兵器も廃棄するのは愚かだというのだろう。
 彼が言うのは日米の原子炉メーカー・電気事業者・大手ゼネコン・鉄鋼メーカー・大手銀行・原発事業を推進してきた政治家・官僚・電力労組・立地自治体住民・マスコミなど、いわゆる原発利益共同体(原発利権集団)にとって「せっかく」ありついた既得権益にほかならず、それを「放り出すのは愚かだ」というわけだ。
 しかし、それは核兵器と同様、人類にとっては「死の技術体系」なのであって、一日も早く廃棄すべきものであり、廃炉・廃棄のための技術以外には、これ以上開発・利用の余地のない技術体系なのだ。

2012年11月01日

11月のつぶやき(上に加筆)

●久々に空は青く晴れ渡り、吾妻の山嶺には白い粉が降りかかり、山腹には「白馬の騎士」が浮き立って見える。振り返ると彼方に月山、その西に旭岳、東には蔵王が真っ白に聳え立つ。今日は英語で ♪♪And now the end is near・・・・・・・・I did it my way♪♪
 歌声が(自分の耳には)響きわたって聞こえる。気分ええな。
●風邪・咳きは10日あたりでようやく治まった。木枯らしがそよぐ田んぼ道を久々に散歩。♪♪どこかで 誰かが きっと待っていてくれる・・・・・・・・・風の中でも待っている♪♪(木枯らし紋次郎の歌) 
●軒下のスズメバチの巣を女房が取ってきて、「ほら」と言って見せた。蜂はいなかったのだ。
●やっぱり日本のマスコミはおかしい。
 11日反原発「100万人大占拠」と銘打って首都(官邸・国会周辺)から46都道府県で一斉に集会・デモが繰り広げられ、米沢でも初めてそれが行われた。なのにマスコミは(赤旗以外は)全く無視。翌日は、新聞は各紙とも一斉休刊日で、翌々日の新聞。朝日だけは翌々々日の山形版に、山形市内のデモが小さな写真付きで掲載、米沢でも行われたと数行書き添えられていた。
 図書館に行って各紙を調べてみたが、そうだった。NHKをはじめテレビも新聞も、おしなべて橋下(朝日新聞出版社側の謝罪)・石原(新党結成)・小沢(無罪判決)のニュース・記事で埋め尽くされていた。日本のマスコミ情報も、やはり偏っているんだな。
●反原発デモ 初めて米沢でも。日曜日だが、まちの広場、このあたりはかつての中心街だが、今はシャッター街で今日も閑散。それでも精一杯シュプレコール「サヨナラ原発!原発なくても電気は足りる!命がだいじ!子供を守れ!未来を守れ!地震大国 原発いらない!大飯止めろ!全ての原発再稼働やめろ!・・・・・・・・・・・」と。マスクをして咳きをしながら叫び、ウォーキング1.2キロ。
●朝日の「声」欄に「『疑わしき』で大飯原発停止を」というのが出ていた。このHPの「柏崎刈羽原発を見てきて思う」の冒頭のところに書いたのと同じようことが書かれていた。「『疑わしきは罰する』、つまり大飯原発の稼働を即刻停止すべきである」と。
●血圧計も寿命のようで、ちゃんと出なくなったので、女房は新しいのを買ってきた。測ってみると、いきなり164。一か月間、毎日測り続けて150以上出たことがなかったのに。風呂が沸かないうちに入って風邪に罹ってしまったせいだな。
●パソコンを買い直した。今まで使っていたのが10年近く経っていて、起動や切り替えが遅くなったうえ、画面の下枠(両方の蝶つがいと画面の間に)左右2か所とも亀裂が入ったので買い替えるしかなかった。あと10年もつか。このブログも。
●「ん~加齢臭する、近くさえがんね」と女房。「過敏症、鼻が狂ってんなだ!」と言い返す。いったいどんな臭いだというのだ。
●食卓を囲んで夕飯。いつもの7時のニュース、冒頭だけかけると、アメリカ大統領選挙。孫・小4がつぶやく。「オバマが勝つといいな」。「日本の総理大臣は?」と訊くと。「野田総理はやだ」。「じゃ誰ならいい?」。「知らない」。上の孫・小6、「岡田副総理がいい」と。
 これが、そこらここらの大人なら(アンケートで訊かれると)橋下か、慎太郎か、或いは安倍か石破、となるのだろう。ああ、日本の民度、日本のマスコミ・・・・・・
●吾妻の山並みにうっすらと白粉が降りかかり、「白馬の騎士」(山腹にあるスキー場が遠くから眺めるとそのように見え地元ではそう呼んでいる)が姿を現した。それを眺めながら誰もいない田んぼ道を散歩。とりうち帽子にジャンバーに軍手。
 ♪♪遠い遠い遥かな道は 冬の嵐が吹いてるが ・・・・ひとりひとり今日もひとり 銀色の遥かな道♪♪ だいぶ声がでるようになった。マイウェイ、昴、千の風、川の流れのように、風(はしだのりひこの)、いちご白書、それに仕事の歌♪♪イギリス人は利口だから水や火など使う ロシア人は歌を歌い自ら慰める♪♪・・・・・ああ、8曲も歌ったか


                我が家 バラとジャスミン そこにスズメバチの巣

       どうすりゃいいんだ? 今はまだ蜂は巣から出てきて襲うから危ないって 

2012年11月07日

第3極争いに見られない革新派

 今、日本には次のような政党がある。
 民主党・自民党・公明党・生活第一・みんなの党・共産党・社民党・たちあがれ日本・維新の会・国民新党・新党きずな・新党日本・新党改革・新党大地・緑の党
 「第3極」というと、マスコミは、専ら「維新の会」と「みんなの党」それに「石原新党」(たちあがれ日本が母体)が登場して、そればかりを取り上げている。石原氏は、これらの連合(「日本維新大連合」)を呼びかけている。
民主党と自民党の二大政党に飽き足りない人たちの中には、「第3極連合」としてそれに同調する向きも少なくないと思われる。
 橋下氏は連合・選挙協力には「理念・価値観での一致」が必要だと言い、石原氏は「原発や消費税はささいな問題」「小異を捨てて大同に」つけれ場よいと。
 彼らの一致する(大同をなす)理念・価値観とは、日本国憲法とは基本的に矛盾し、ともに改憲を志向している。(思想傾向は保守主義―国益と伝統を重視―だが、橋下は「みんなの党」と同様に経済的には新自由主義―規制緩和・民営化を志向。現行憲法はリベラリズムの立場で個人の自由・人権―思想・良心の自由や一人ひとりの個性・能力を育てる教育の保障、一人ひとりの生存権・生活権保障、労働者の組合活動や市民の政治活動の自由を尊重する立場で、先の戦争の反省から非戦・非軍事の平和主義の立場。それに対して国家・公組織の権力・権威の重視、法治主義による管理・統制、自由・人権の制限・抑圧、労働組合や市民運動の敵視、弱肉強食の競争・格差の肯定、自己責任の重視、エリートと非エリートの選別・格差を是認する人材教育など、それに戦争・軍事の肯定、これらの点で彼らの理念・価値観は共通する。)
 石原氏は「憲法破棄」とさえ言ってはばからないし、橋下氏はそこまでは言わないものの、タカ派的強権政治で、大阪で推し進めている競争主義的教育政策や教員・職員の管理統制(締め付け)、福祉・文化の削減政策など、憲法理念とは相いれず、96条の改正(国会の改憲発議要件の緩和―「3分の2以上」を「過半数」に)から9条改定の可否を問う国民投票の実施に至るまで改憲路線を目指している。
 この改憲路線は安倍自民党とも共通する(安倍氏は「戦後レジーム<現行憲法体制>からの脱却」をずうっと言ってきている)。
 したがってこの点では、「第3極」というよりは、むしろ安倍・石原・橋下の3頭連合路線と言えるだろう。
 この点が決定的な一致点すなわち「大同」なのであって、原発や消費税など彼らにとっては確かにささいな問題なのかもしれない。
 「みんなの党」は脱原発・消費税増税反対は掲げているが、改憲の点では同じである。「生活第一」も脱原発・消費税増税反対は掲げているが、憲法についてはどうなのだろうか。
 はっきりしているのは、共産党と社民党そして「緑の党」だろう。これらは反改憲(護憲)であり、かつ反原発・反消費税である。
 第3極というなら彼らが結集して改憲派保守陣営に対抗する護憲革新連合として共同戦線を組んでもおかしくない。
 イタリアなどヨーロッパではベルルスコーニュら中道右派連合に対して「オリーブの木」と称される中道左派連合(左翼民主党から「緑の党」・共産主義再建党にいたるまで結集)が見られ政権を獲得したこともある。
 しかし、今日本ではその気配はなく、共産・社民・緑の党ともマスコミから取り上げられることはほとんどない。
 それが残念でならない。
 このままでは、今、アメリカなど海外メディアから「日本の右傾化」と見なされているように、その方向へ向かっていく。それを、手をこまねいて見ているしかないのだろうか。

 いかし、今からでも遅くはない。革新派(共産・社民・緑の党)は「自分たちこそ第3極」を(マスコミにひいきされ持ち上げられている維新の会・石原新党・みんなの党などに何とかして負けないで)アピールして攻勢に出、躍進を勝ち取るように奮起すべきだ。

2012年11月15日

革新懇が護憲・環境・生活派の結集軸に

 革新懇(正式名称―「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」)―思想・信条や政治的立場の違いをこえて、政治革新の目標(①平和―非核・非同盟・中立②民主主義―自由・人権擁護・護憲③生活向上―国民本位の経済)と切実な要求で一致するすべての政党・団体・個人が力を合わせるための会。

 ついに野田首相は解散(16日)・総選挙(12月16日投票)を言明。
 選挙の結果、自公政権の復活・保守第3極(維新の会・みんなの党・太陽の党など)の台頭あるいは躍進が予想される。そして、それらの連立政権あるいは政権協力によって消費税増税の実行、原発再稼働、TPP参加、日米同盟の深化(普天間基地の名護移転、オスプレイ配備・「動的防衛協力」など)それに改憲(96条―改憲の国会発議要件、首相公選制・参院の廃止、9条の改定など)が次々と進められていく可能性が高い。国際社会は日本の右傾化として警戒する。
 そこには、次のような状況がある。
 今、日本社会には人々の間に閉塞感と政治不信から苛立ち・嫌気・空しさ・シニシズム(冷笑主義)といった空気が充満している。そこから、人々には、「こんな政権」「こんな国会」ではダメだと、とにかくがらりと変わり映えのする政治家・政権を望み、タカ派(強硬派、威勢のいい、勇ましいことを言う政治家など)への政権交代・国会議員の入れ替えを求める。或いは面白半分に(結果はどうなろうと、とにかく面白ければいい)劇場型政治家を求める。そして、むしろ真面目な人(共産・社民・緑の党など真面目そうな政党があることはあるが、あまりにも非力か無力だと思え、候補者はどうせ「泡沫候補」で投票しても無駄だ、と諦めた人、冷めた人、この国のあらゆる政党・政治家に絶望している人)は投票所には行かずに棄権する、といった状況。
 (尚、11月10・11日に朝日が行った世論調査では、「仮にいま、衆議院選挙の投票をするとしたら、比例区ではどの政党に投票したいと思うか」といえば、次の通り。
民主12、自民29、生活第一1、公明4、共産3、みんな2、維新5、新党きずな0、社民0、国民新0、新党大地0、減税日本0、たちあがれ0、新党日本0、新党改革0、その他の政党4、答えない・分からない40)

 そこで革新派はこれらの状況をどう打開するか、が問題。それが無策で、何の戦略をもたないのであれば何をかいわんや、である。
 このような状況を打開し、上記のような選挙結果になることを阻止するためには、自公民・「保守第3極」など(改憲・消費税増税・原発再稼働・TPPなどいずれも容認)これらに反対な政党(反消費税増税・反原発・反TPPの護憲政党)の候補者を支持する団体・個人が力を合わせて、その政党候補者を当選させるべく結集する以外にないだろう。
 その結集軸というか媒体というか、受け皿の一つ(唯一のものかもしれない)がこの革新懇なのではあるまいか。

 また9条の会は反改憲・9条護憲派の結集軸となってその政党候補者を支持して当選させるべく積極的に選挙に関わるべきだろう。石原新党(「太陽の党」)は「自主憲法制定」を公約の第一に掲げてその改憲一点での大同団結を呼びかけているが、それに反対する立場からの大同団結があってもおかしくあるまい。

 革新懇も9条の会も、選挙を傍観することなく、自公民・保守第3極の対極となる革新政党―共産・社民・新社会党・緑の党(?)などのどれか―の候補者をなんとかして当選させるよう積極的に(結集軸・媒体・受け皿として)役割を果たすべきだろう。
 要するに、革新懇は、今度の選挙では、自分たちと同じく護憲・反原発・反消費税・反TPPで意見が一致する候補者に投票することにして、その選挙区で、そういう候補者が一人しかいないならば、たとえ彼が何党であっても(人によっては、過去のしがらみからは必ずしも支持政党ではない政党の所属であっても)彼に投票するようにする。そしてそれを会員は勿論のこと、なにかと連帯・協力関係にある団体・個人に対しても「是非彼に!」と投票を呼びかけることにしては如何なものだろうか。   
 さもないと改憲タカ派勢力の勢いにはとても抗しきれまい。
                    ・・・・・・・・・・・と思うのだが。
 


 

2012年11月20日

不公平なマスコミ―それに影響される有権者(上に再加筆)

<再加筆>
 マスコミは「二大政党」の他に「第3極」なるものを作り出し、世論調査にもわざわざその項を設けて答えさせている。
 NHKは誰が首相に相応しいかを「野田」と「安倍」と「どちらでもない」の3択で答えさせている。
 25日朝日の世論調査では「野田内閣支持か不支持か」、「どの政党を支持しているか」、「比例区ではどの政党に投票したいか」、「どの政党に議席を伸ばしてほしいか」を答えさせ、「原発利用」と「消費税引き上げ」と「TPP参加」をあげて、それぞれ賛成か反対かを答えさせ、これら3つだけを「争点」にしている。そして、それに加えて「第3極」の「政党同士の連携で政策の一致が重要か重要でないか」とともに、「維新の会」と「太陽の党」の合併の是非を答えさせている。
 朝日は各党の選挙公約を紹介していたが、28日には1頁を左右しきって民主・自民両党の公約を頁いっぱい詳細に紹介。ところが、30日には左側には上半分を「維新の会」に当て(下半分は広告)、右側にはその他の7党を(7分して)掲載。つまり、民自各1に対して維新には2分の1(要約)、その他の党には7分の1(要約の要約)しか当てないという不公平扱いである。
 あたかも、民自両党は「二大政党」だけに公約がいっぱい。維新は「第3極」だけに公約はその半分の多さで、その他の党の公約はわずかそれだけか、と思われてしまうような扱いなのである。
 (尚、この時点では「日本未来の党」の公約は未だ出来ていない段階)

 「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は27日「総選挙にあたって争点提示型の公平な放送を要望します」と題した申し入れ文書を届けている。
 その中で、今回の総選挙は国民にとって死活の課題の方向性を問う極めて重要な選挙だと位置づけ、それらの課題を各政党の政策とその異同を分かりやすく伝えるよう求めている。
 そして最近のNHKの選挙関連放送は、民放や全国紙と同様、民主・自民・いわゆる「第3極」の動静や離合集散に焦点をあてた政局報道が主だと批判。こうした報道を繰り返すことは有権者の関心をこれら既存大政党に偏重させ、他の野党の政策や有権者の知る権利を阻害するとして、どの政党の政策・公約も平等に扱うよう求めている。
 28日には、「放送を語る会」と「日本ジャーナリスト会議」が連名で「有権者の判断に役立つ公正・公平で充実した選挙報道を求めます」との要請文をNHKと民放キー局に送付。
 要請文では、民主・自民の「二大政党」といわゆる「第3極」の政治家の動向に重点を置く報道が異様なまでに続いている状況は、選挙の争点をあいまいにし、これらの政治勢力への投票を誘導するもので、とうてい公正な報道といえないと批判している。
 そのうえで、政党の政策・主張の紹介は現在の議席数の多少で放送の量を配分するのではなく、公平におこない、「二大政党」と「第3極」偏重の報道姿勢をあらためるよう要請している。
 

<加筆>
 いくつかの視聴者団体(NHK問題大阪連絡会・NHK問題京都連絡会・NHK問題を考える会など)は「総選挙にあたって公平・公正な選挙報道を望みます」とする要望書を報道各社の送付している。要望書は、これまで多くのメディアが二大政党制を推進する立場で自民党と民主党による対立が政局の基本であるかのような報道を行い、「維新の会」を「第3極」として無批判に連日大きく報道していると指摘し、特定の党派の動向や主張の報道に偏ることなく、それぞれの党派の主張を公正・正確・平等に報道し、視聴者に客観的な情報を提供すること等を求めている。
 11月26日には、共産党がNHK、民放TV各局に対して「総選挙の報道・企画での政党の扱いにかんする要請」を行い、「二大政党」や「第3極」を特別扱いせず、各党を平等、公平・公正に扱うよう申し入れている。


<原文>
 じっくり情報を収集・吟味するゆとりのない有権者の多くは、子供と同様、テレビ・新聞が流す映像や語句から受ける印象(イメージやフィーリング)と学校で教えられた薄っぺらな知識とマスコミによってこれまで刷り込まれてき先入観だけで短絡的に判断しがち。
 ネットが普及しているとは言っても、日本ではまだまだテレビ・週刊紙・新聞情報などマスメディア情報が支配的だろう。
 そのマスコミは公平・中立か。公平・中立というのは全てを(選挙の場合は、公示から投票日までの選挙期間中だけでなく、その前後を通して全ての政党・候補者を)同等に扱うということだろう。しかし、各マスコミは限られた放送時間・紙面では、それが不可能であり、取捨選択をせざるをえず、ニュースバリュー(価値)づけをして、幾つかの「価値」の高いものに絞り、他の「価値」の低いものはカットということになる。その場合、何を基準に価値づけ・取捨選択するのかが問題。
 その基準は、それ(その取材対象)がより多くの視聴者・読者の興味・関心を引き、注目に値し、そしてその映像や記事を見てもらえ、読んでもらえるか(売れるか)である。
 視聴者・読者の興味・関心には二通りある。一つは、自分や自分に関わる人たちの日々の生活・将来の生活・運命に関わるもの、もう一つは単なる興味・面白味。
 国政選挙については、政治を真面目に考えている人は、国政に携わる政府と国会議員をどの政党、どんな議員に委ねたらいいのかを的確に判断するために必要な情報をメディアに求める。また興味本位・面白半分にそれをテレビや新聞・週刊紙で見る人は政局の劇的展開の面白さ、選挙戦・論戦の面白さ、どっちが勝つか負けるか、カッコいい・或いは面白味のある政治家の言動をメディアの映像や記事に求める。
 一方、NHK・民放・新聞・週刊紙各社にも社自身のポリシーがあり、この国をある方向に、そして世論をその方向に導きたいという世論形成・世論誘導の思惑をもつメデイアもあり、或いは、この国がどうなろうとそんなことは「知ったこっちゃない」かのように専ら政局、選挙戦・論戦政治スキャンダルの劇的展開、劇場型政治スター(ヒーローと悪役)の活躍・暗躍の有様などを興味本位に取り上げて、そういったことに終始するだけというメディアもある。
 興味本位・面白味を主にしているメディアの取材・掲載の取捨選択基準は対象の面白味にあることはいうまでもないが、真面目に生活をかけ世直しを望んでいる有権者・国民に各党の理念・政策・人物を的確に判断するのに必要な情報をできるだけ提供しようとするメディアの場合、放送時間枠や紙面に限りがあってそれに各党の情報提供に当てる量を加減しなければならない、その基準はそれぞれの党が国民に対してもっている影響力と政治動向を左右する影響力・勢力の大きい・小さいなのだろう。即ち政権党としての影響力、最大野党としての影響力、「第3極」としての影響力、その他批判政党としての影響力といった影響力の大きい小さい、前回選挙の得票率(実績)と世論調査の支持率の高い・低いに応じて、割かれる露出時間と紙面が配分される。(国民のあいだで、支持率が高く、国民に対して影響力の大きい政党に多くの露出時間・紙面を割くのは不公平・偏り・アンフェアとは言えない、とマスコミはそれを正当化するのだろう。)
 したがって、どうしても野田・民主党と安倍・自民党、公明党そして石・橋維新の会ばかりが、映像・紙面の圧倒的な部分を占める結果となる。

 支持者の多い政党には、国会における発言時間(本会議や委員会質問、党首討論などが、各党の議席数に応じて配分)と同様に、テレビへの露出(出演)時間と新聞への掲載紙面をより多く提供するのは、その支持者たちから見れば当然のことであり、それを議席がわずかで支持率が低い政党にまで均等配分するのはかえってアンフェアだということになるのだろう。

 しかし、そのようなやり方は、より多くの露出時間と紙面を提供してもらえるその党にとっては、いわばそれが既得権益として固定してしまい、二大政党+α(公明)いわゆる自公民3党などにとってはいつまでも有利であり、その他の政党にとってはいつまでも不利な状態に置かれることになる。
 少数党は、有権者・国民にその考え(理念・政策など)や歩んできた歴史の真実を、いつまでも伝えてもらえぬまま、先入観(その党に対する浅薄・不確かな知識・情報)だけで評価され、支持率は低いまま、小政党はいつまでたっても小政党ということになってしまっている。
 たとえば共産党などは、現存政党の中では最も古い(90年もの)歴史をもつのに、その間の歴史―戦前・戦中の暗黒時代にあって唯一、反戦と民主主義を主張し、アカ・非国民として弾圧されながら抵抗し続け、戦後開花した民主主義と不戦平和主義のその後の逆コースに抗し続けると同時にソ連や中国共産党の干渉にも抗し続けてきた事実とその役割―はろくに伝えられることなく、むしろ、挫折したソ連型・中国型共産主義の負のイメージの方が、アカ・イメージとともにマスコミその他によって焼きつけられてきた。(そして庶民からは「名前を変えたらいいのに」と言われたりしている。しかし、同党自身からすれば、他の政党が理念・政策をコロコロ変えて名前を変えてきたのと一緒くたにして党名を変えなければならない謂れあるまいと。)
 マスコミは、このような少数政党の詳しい歴史は伝えず、有権者・国民はほとんどよく知らない

 ところがマスコミには、ジャーナリズムの「公正・中立」原則に立つとは表向きで、内実は局や社自身が権力(放送局は総務省から5年毎に免許更新を受けなければならない)と財界(広告・CMのスポンサー)との利権関係にあり、その立場からの政治的思惑があることは否めない。
 財界などの立場からは、産業・経済政策も税制も金融政策・エネルギー政策も、彼らの事業にとって都合にいい政策をずうっと採り続けてくれる保守政権を維持してもらうことが宿願で、政権が革新派に変わってその体制が変革されることを恐れる。そこで彼らは、政権交代しても保守二大政党間であればよいとして、選挙制度を中選挙区制であったのから小選挙区制を導入(比例代表制と並立)して保守二大政党を作り出すことに成功したかに思われた。この選挙制度・政治改革に主要マスコミはそろって賛同し推進・協力した。
 ところが、やっと政権交代したかと思ったら、自民党に替わった民主党政権は失政を重ね、二大政党制は挫折。そこへきて大阪に「維新の会」が台頭し、それに乗じて、今度は「第3極」なるものを作り出し、いわば「三大政党制」に変えようとしているかのよう。
 そこで、マスコミは、その「第3極」づくり(迎合)にやっきで、連日、石原・橋下をテレビ・新聞に登場させ、局(フジテレビなど)によっては政党討論番組を3党(民・自・維新)だけでやらせている。「維新の会」を第3極としていわば特別扱い。「維新」「太陽」両党合併を決めた橋下・石原会談には記者が300人も集まったという。そこで彼らが取材してきた記事や写真がテレビ画面や新聞紙面を埋め尽くす。
 しかし、その派手なパフォーマンスや威勢がよく痛快そうな言動だけが伝えられ、そのファシズム的実態(当方から言わせると「イシ・ハシズム」)はほとんど隠されて、批判的に論評されることは少ない

 このようにマスコミからは国政と国民により影響力を持つ政党として報道に既得権益を与えられている自公民3党、それに「第3極」として脚光を浴び特別扱いを受けている「維新」党。それ以外の政党はテレビ・新聞にはあまり出る幕がなく、その党の真実と詳細が伝えられることはまずない。
 それが不公平・不公正でなくて何であろう。

 公示から投開票までの選挙期間中は、一応、全政党に討論番組への出演と党首や候補者の政見・動静などの記事掲載の機会が均等に与えられるが、それは12月4日から16日までの13日間だけ。政党は15党もあるのに。こんなわずかの期間にこれらの党の全てをマスコミだけから知り尽くすことは不可能であり、比較・吟味もできない。

 要するにマスコミからは数ある政党の一つ一つ、各党の候補者一人ひとりを正確に知ったうえで投票することは不可能であり、マスコミからは特定の政党だけに特化した極めて偏った情報しか伝えられない、というのが我が国のマスコミの実態なのだということ。

  そしてマスコミは、今度の選挙の対立構図を「既成政党か第3極か」とか「民主か自民か維新か三者のせめぎ合い」として描き、政治評論家は選挙結果を第一党が自民党で、自公政権が復活、第二党を民主と維新が争い、自公民の大連立の可能性もあるが、維新か民主のどちらかが野党第一党となる可能性が高いと予想している。
 また「第3極」争いで、石・橋維新とみんなの党・減税日本の「Aチーム」に対して、「Bチーム」として小沢党(生活第一)・鈴木宗男党(新党大地)・亀井新党が脱原発・消費税増税凍結・反TPPで連合して、そこに社民党・みどりの風も同陣営に加わるか否かなども取りざたされているが、今は「第3極」といえば石・橋維新のAチームの方を指している。

 このような安倍自民党、野田民主党、石・橋維新の会という3大政党が国会の3分の2議席を占めるとなると、日本はどうなるのか。日本のマスコミは、財界の意向に即して保守安定政権が実現すればそれでよく、それ以上のことはあまり論評していない。
 「強くてしたたかな日本」か「弱くてお人よしの日本」か、どっちがいいのか、などと短絡的に言われば「強くてしたたかな日本」の方がいいに決まっているとなるのだろうが、国際社会は「日本の右傾化」を心配し、それが「周辺諸国の不安要因」となる(日本人の多くはマスコミとそれに植え付けられたかつての冷戦思考にとらわれ、とかく対中関係が悪化しても日米同盟が盤石であるかぎり、孤立するのは中国の方だと思いがちだが、実は逆で、米中関係それに中韓・中台関係もは緊密で日本の方が孤立しかねず、それは財界にとっても心配の種)という指摘もある。
 
 さて、日本はどうなるのか
 沖縄をはじめ米軍基地・安保はいつまでそのままにして置くのか。マスコミは日米同盟(安保)は不変だとして、その枠内でしか論じない。
 そもそも国民(子ども・若者・高齢者も含めた庶民)の生活・生業はこの先いったいどうなるのか。マスコミは、財界の企業経営、政府の国家経営・財政運営の観点から論じる以外には、展望を示そうとはしない。

 「三大政党」(自民・民主・維新)はいずれも改憲志向であり、特に安倍自民党と石原維新の会は自主憲法制定に執念を燃やしている。日本国民自身にとっては、戦後の憲法体制が変えられてしまうかもしれない、というかつてない重大な局面に立たされることになる、と思われるのだが、マスコミはそれに言及することは少ない。
 消費税増税・原発・TPP・基地問題もさることながら、この改憲問題こそ最大の争点なのに。

2012年12月01日

各党・候補者の争点に対する態度

表の表わし方
  「改憲」―改憲すべき○、党内に賛否両論あるか消極的△、改憲すべきでない
  「集団的自衛権」―その行使を容認すべき○、賛否両論あり△、容認すべきでない×
  「消費税」―その増税実施に賛成○、反対×
  「原発」―新基準での再稼働を容認○、はっきりしない△、容認しない×
  「TPP」―それへの参加を容認する○、はっきりしない△、反対×
  「辺野古」―普天間基地の辺野古移設を容認する○、反対×
 以上のように表示するとすれば、各党の態度は次のようなもの。

 民主党―改憲(△)、集団的自衛権(△)、消費税(○)、原発(△)、TPP(○)、辺野古(○)
 自民党―改憲(○)、集団的自衛権(○)、消費税(○)、原発(○)、TPP(△)、辺野古(○)
 公明党―改憲(△)、集団的自衛権(×)、消費税(○)、原発(△)、TPP(△)、辺野古(○)
 維新 ―改憲(○)、集団的自衛権(○)、消費税(○)、原発(○)、TPP(△)、辺野古(○)
 みんな―改憲(○)、集団的自衛権(○)、消費税(△)、原発(×)、TPP(○)、辺野古(○)
 未来 ―改憲(△)、集団的自衛権(×)、消費税(△)、原発(△)、TPP(×)、辺野古(?)
 共産党―改憲(×)、集団的自衛権(×)、消費税(×)、原発(×)、TPP(×)、辺野古(×)  
 社民党―改憲(×)、集団的自衛権(×)、消費税(×)、原発(×)、TPP(×)、辺野古(×)
 国民新―改憲(○)、集団的自衛権(○)、消費税(○)、原発(○)、TPP(×)、辺野古(○)
 大地 ―改憲(△)、集団的自衛権(○)、消費税(×)、原発(×)、TPP(×)、辺野古(×)
 改革 ―改憲(○)、集団的自衛権(○)、消費税(×)、原発(△)、TPP(○)、辺野古(○)
 新日 ―改憲(○)、集団的自衛権(?)、消費税(×)、原発(△)、TPP(×)、辺野古(?)

各党の候補者(12月8日付毎日新聞アンケートより)
 改憲:自民・維新・みんな―ほぼ全員が賛成
            (9条改定は自民が9割、維新が85%、みんなの党は82%が賛成)
     公明―賛成87%(9条改定には反対94%)
     民主―賛成58%(9条改定には反対67%)
     未来―賛成53%(9条改定には6割が反対)
     共産・社民―ともに全員反対
 集団的自衛権の行使否認「見直すべき」―自民92%、維新94%
        民主 は62%が「見直す必要ない」と
 消費税増税:民主―実施に賛成73%、先送り18%
       自民―実施に賛成64%、先送り27%
       維新―実施に賛成38%、先送り39%
       共産―全員反対 
 原発の新基準での再稼働―民主・維新は全員容認
                   自民は85%、公明は94%   
                   共産は全員反対
 TPP参加:民主―51%賛成 21%反対
     自民―64%反対
     公明―賛成11%、反対43%
     維新―賛成75%
     未来―反対92%
     共産・社民―ともに全員反対
 普天間基地の辺野古移設―民主・自民・公明3党候補者の過半数が肯定
            維新・みんな両党とも約8割が肯定
 核武装の検討または保有―自民38%、維新77%が肯定

 選挙の結果、自民党・公明・維新・みんな・民主党などの当選者が多ければ自民党・公明・維新・みんな・民主党などの当選者が多ければ、(改憲派政権下、改憲派多数国会で)
  改憲されるようになり、自由・平等の平和国家から管理・競争の軍事国家へ、
  集団的自衛権の行使ができるようにされ、普天間基地は結局・辺野古に移設されるようになって、日米同盟(安保)は永続、自衛隊(「国防軍」)は米軍につき従って、中国・北朝鮮・イランなどと敵対、沖縄基地も永続。
  消費税増税は実施されるようになり、8~10%とられ続け、所得の少ない人ほど重い庶民酷税に甘んじなければならなくなる。
  原発は再稼働されるようになり、いつまた地震・津波で放射能放散事故が起こるかも知れず、核のゴミ(使用済み核燃料)も増え続けることになる。
  TPP参加は結局・容認されるようになり、例外なき関税撤廃で食糧をはじめ経済主権を失い、地域経済も医療国民皆保険制度もガタガタになる、               
                              ということだろう。
 こんな国で暮らし続けなければならない子や孫たちはかわいそうだ!

 なんて思っているのは当方だけなのだろうか?

2012年12月06日

改憲問題が争点に(加筆修正版)

 今、選挙の際して国民が政府・国会議員に対して「何とかして」と切実に求めているのは景気対策・デフレ脱却、震災・原発災害からの復興、年金・子育てなど社会保障であり、政権党・野党各党の側から選択が迫られているのは消費税増税の実施の是非、原発利用継続の是非、TPP参加の是非など。
 ところが、安倍自民党と石原維新の会は改憲・自主憲法制定を政権公約に掲げ、その是非を争点として突きつけている。

 
 各党の改憲案
 ①自民党
 ●天皇を「元首」に―国民の上に立ち、憲法擁護義務を負わない?(国民が主権者であることをぼやけさせる)・・・現行憲法では天皇に(国務大臣や国会議員・裁判官その他の公務員とともに)「憲法を尊重し擁護する義務」を負わせているが、それを国民の方に「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」として、国民の義務を(現行憲法では勤労・納税・教育の3大義務だけなのに、それ以外にも)様々列挙し、国や公の機関の指示に従わなければならないとして課している。
 ●近代憲法は、政府や公務員にそれを守らせ、権力の乱用を防ぐのが役目なのに(いわゆる立憲主義―伊藤博文・明治憲法の起草者でさえ、いわく「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と)。
 ●日の丸・君が代を国旗・国歌として尊重することを明記。
 ●9条に自衛隊を「国防軍」として明記・・・・国防軍に審判所(軍事裁判所・軍法会議のようなもの)を置く―「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密を犯した場合の裁判を行なうため」と(ところが別の箇所には「特別裁判所は設置することはできない」と―矛盾)。
 ●緊急事態条項―武力攻撃・内乱等による社会秩序の混乱、地震等による自然災害その他
  総理大臣が緊急事態を宣言し、事前または事後に国会の承認を得る。宣言が発せられた時、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(それによって、国民やその施設の動員を義務付け、一時的に人権制限)―かつての緊急勅令や戒厳令のようなもの。
 (災害緊急事態は現行憲法でも想定されており、具体的には災害対策基本法に条項が定められているのに。)
 海外居留民保護―「国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない」と(かつてはそれを名目に出兵)。
 ●国会の改憲発議要件を現行では衆参総議員の「3分の2以上の賛成」となっているのを「過半数」へとハードルを下げる。
 ③維新の会
 首相公選制、一院制、道州制
 9条改定で国民投票を実施。
 改憲発議要件を自民案と同じく過半数に
 ②みんなの党
 天皇を「元首」に
 日章旗と君が代を国旗・国歌として明記。
 首相公選制、一院制、道州制
 改憲手続き緩和
 ④公明党―現行憲法に環境権やプライバシー権などを付け加える(加憲)。

 選挙の結果は、その自民党と維新の会が大勝・躍進する可能性が高く、来夏の参院選でもこの両党の他にみんなの党あるいは民主党・公明党など多かれ少なかれ改憲を容認している党派が、合わせて3分の2以上議席を取るようなことになったら、改憲が実行されることになる。まずは96条改定(国会での改憲発議要件を賛成3分の2以上から過半数にして改憲しやすくする)から始まって、「環境権」などの加憲、天皇の元首化、国会の一院制化・首相公選制、そして9条改定(自衛権の明記、自衛隊を「国防軍」として名実ともに軍隊化)に至る。そのような明文改定には長い期間を要するとしても、「集団的自衛権の行使」容認などの解釈改憲は容易に行われてしまうだろう。
 これが行われれば、戦後、不戦平和国家として国際的にも認知されてきた我が国に対する見方はがらりと変わることになり、「戦争する国」として警戒の眼差しで見られることにもなるだろう。とりわけ、中国や北朝鮮を我が国が警戒し脅威と感じるように中・韓・北朝鮮・ロシアなどから、或いはたとえシュミレーションとしてでも核武装化を試みるようなことがあればアメリカからさえも警戒されるだろう(軍事ジャーナリストの田岡俊次氏などのよれば、アメリカが核武装を最も恐れている国は実はこの日本なのであり、IAEAの最重要査察対象国は他でもないこの日本なのだ)。

 「中国や北朝鮮が攻めて来たらどうする?いつどこから攻めてくるかわからない。自衛隊も米軍基地も無くてよいのか?」「台湾が中国から攻撃されて、それに介入して出動した米艦が中国軍から攻撃された時、自衛隊が米軍の援軍として武力を行使せず黙って見ているだけでよいのか?」(11月30日の「朝まで生テレビ」などで見られた議論)
 とは、よく言われる「仮定の質問」だが、そのようなことは、実はありそうであり得ない(可能性はあっても蓋然性(必然性)はない)ことなのであって、そのような問いかけ自体が間違っているのだ。

 地震・津波・台風などの自然災害なら、いつ来るかわからないが、必ず来る。それは人間が阻止もできないし回避―かわすこともできない。しかし、戦争や軍事攻撃は自然災害とは異なり、人間が行うものであって、意図や理由・目算があって、人間の意志で決断して始めもすれば取りやめることもできるし、思いとどまらせ、やめさせることもできる。それは軍備によって阻止し抑止することもできるし(但し、「備えあれば憂いなし」とよく言われが、軍備による抑止のやり方は、かえって相手側の軍事力強化や軍拡競争を招き、かえって緊張を激化させ、戦争を誘発する危険をともなうので、それは賢明な方法ではない)、それ(軍備)には頼らなくても、(普段から友好協力を重ねて信義を結び、信頼の上に立って)、交渉・取引・説得などによって阻止(思いとどまらせることが)でき回避することができるのである。
 
 まず、中国が、何もしない日本の自衛隊や海上保安庁などの艦船や米軍基地その他に対して一方的にいきなり攻撃をしかけるとか、日本に攻め込むなどあり得ないし、台湾を攻撃することもあり得ない。北朝鮮も、である(核・ミサイルの実験や軍事力の誇示・挑発行為などはあっても)。
 なぜなら、独裁国家だから、自国民を犠牲にしても他国民を犠牲にしても、無法行為(拉致やテロその他)も平気な国だとはいっても、目算なしに(かつて日本が行った勝ち目のない無益・無謀な戦争の二の舞は踏むまいとの計算をも含めて)無謀な挙(アメリカに対しても、韓国に対しても、日本に対しても、本格的攻撃・開戦)に出ることはあり得ない。(追い込まれて苦し紛れに、「窮鼠猫をも噛む」が如く自暴自棄に走ることはあり得るが、それは追い込む側の問題。)北朝鮮がひたすら求めてやまないのは、むしろアメリカに対してキム現政権の安全保障と和平・国交正常化・経済支援を獲得することだろう。
 中国と台湾・アメリカとの関係は、今は日本以上に緊密であると言ってもよく、中台間は経済的には一体化が進んでおり、人々の往来も盛んでFTA(自由貿易協定)も結んでいる。米中間も緊密な関係をなしており、中国はアメリカにとって最大の貿易相手国にして最大の債権国であり、米中戦略経済対話を毎年2回両国とも最高レベルの閣僚が集まって開催している間柄である。中台戦争も米中戦争もあり得ないのだ。

 それから、米軍が中台紛争に介入して中国軍から攻撃されたら、集団的自衛権を理由に、自衛隊が援軍出動することができるように、(解釈改憲であれ、明文改憲であれ)改憲すべきだ、というのも成り立たない議論だ。
 なぜなら、自衛権というのは自国が攻撃された場合のことであり、集団的自衛権というのは同盟国の本国(アメリカならアメリカ本土かハワイやグアムなど)が攻撃されたばあいのことなのであって、イラク戦争やアフガン戦争に出撃した米軍に自衛隊が援軍出撃して武力行使することなどできない。それと同様に、中台戦に介入して国外で攻撃された米軍に自衛隊が援軍として出動し武力行使するのは集団的自衛権には当たらない―それは自国も同盟国も攻撃されてもいない国外の戦争に参戦するということ以外の何ものでもないからである。
 そのような参戦・武力行使は憲法だけでなく日米安保条約上もできないのである。安保条約には第1条に「締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれに関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。」
 このような国際紛争に際する武力行使の禁止は国連憲章に規定があって、安保条約もそれに従って同じように規定している限り、憲法を変えてもどうにもならないわけである。

 いずれにしても、このような、あり得ない「たられば」の仮定の上に立った質問からは議論が成り立たない、ということである。これらあり得ない仮定のことを想定し、それを口実にした自衛権の明記、集団的自衛権の行使容認など改憲をはかる勢力の伸長を阻止しなければこの国はどうなるか。
 戦後、不戦平和主義を国是とし、(朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争・アフガン戦争などあったが)戦争では一人も殺し殺されることのなかったこの国は「戦争をしない国」から「戦争をする国」(戦争で「殺し殺される国」)に変身することになる。
 そして、軍事力を背景にした外交(軍事主義)―強硬外交(タカ派的外交・対決姿勢)
それは国際緊張とりわけアジア諸国に緊張を呼び起こすことになる(かつての日本軍国主義の「悪夢」を想起)。
 近隣諸国は、日本が中国と張り合って軍事大国化するのを歓迎し、日本にすり寄ってくるだろうか。否かえって不安がられることになるだろう。
 中国・北朝鮮・ロシアそれに韓国でも日本への警戒・反日はさらに強まり、尖閣・竹島・北方領土をめぐる緊張はさらに激化するだろう。北朝鮮はアメリカのみならず日本に対しても脅威感を強め、核・ミサイルをおとなしく手放すどころか、益々すがりついて離さず、「先軍政治」(かつての日本と同様の軍国主義)を取り続けるだろう。
 日本の外交力の弱さは、石原氏らは軍事力が弱いからだと言っているが、それはアメリカの軍事力と外交力に頼り切って追従してばかりいるからなのであって、アメリカにも軍事力にも頼らずに、したたかに平和主義と信義に徹してこそ強い外交力をもつことがでるのでは。

 景気の悪化・不況の原因の一つは日中間の関係悪化である。それを招いたのは尖閣「国有化」であり、そのきっかけをつくったのは石原前都知事の尖閣購入計画と考えられ、このところの不況の悪化を「石原不況」と言う向きもある。

 このところの中国脅威論や北朝鮮脅威論の高まりを追い風にタカ派改憲派が勢いずいているきらいがある。
 しかし、安全保障の要諦は「敵をつくらないこと」(田岡俊次)であって、隣国を敵国とせず、不仲な国を友好国に変えることである。憲法9条を変えて中国・北朝鮮を仮想敵国にして軍事体制を強化することではない。

 現行の日本国憲法は大戦に至る歴史の中で犠牲にされた数多の命(大戦では日本人300万人、アジア諸国民2,000万人の血)で贖って得た、この上もない貴重な「宝物」であり、世界が日本国民に平和の担い手として与えた、いわば責任証書ともいうべきもの(前文には「日本国民は、・・・・・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し・・・・・この憲法を確定する。」「・・・・・これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」「われらは、・・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と)。これをむざむざ放り出してしまうようなことになってもいいのだろうか。
 選挙は改憲派が優勢、まさに歴史的危機というものだ。

 


2012年12月10日

12月のつぶやき(上に加筆)

●ああ、右傾化内閣
増税路線、原発再稼働路線、構造改革路線、改憲路線、どうなるものかわからない日銀の建設国債の大量引き受けによる物価引き上げと大型公共事業など副作用を伴う劇薬策。
 対中韓外交は当面タカの爪を隠し、尖閣・竹島はしばらくは膠着状態。
 しかし、学校などでは、日の丸・君が代に「右ならえ!」、テスト・テスト・競争・競争。先生も生徒もギスギス・いらいら・うつうつ。
 「冬の時代」到来。ああ嫌だなあ・・・・・・
●自民党の得票率は全有権者数からみれば小選挙区では24%台、比例区では15%台にすぎず、前回選挙の時よりも得票数はむしろ減らしている。
 ところがマスコミは何かにつけ「圧勝した自民党は・・・・・・・」と解説する。それを耳にする人々は安倍自民党が圧倒的な支持を得たかのように錯覚する。これがまた世論誘導になっている。国民の圧倒的な支持を得ている安倍政権のやることに間違いはあるまいと多くの人が思ってしまう。
世論調査では選挙直後よりもその後内閣が発足した直後の方が自民党の支持率が増えている。
 それにつけても、安倍政権下に改憲連合が形成されつつあるのに、護憲連合への動きは全くない。社民党は、例によって共産党に背を向けて未来の党と組もうとしている。ところが、その未来の党も分裂。いったい何をしてるんだろう。
●朝日川柳より
         「外堀埋めて攻める9条」(前安倍内閣で国民投票法、今度は憲法96条)
         「世論調査 世論操作に見える日々」(投票日前のもの) 
 「かたえくぼ」
         「『自民圧勝・維新躍進』 窮状です―平和憲法」
  自作     「『自民圧勝』 虚構です―小選挙区制」
        「NHK4党以外は出る幕なし」(投票日翌日夜の番組には自・公・民・維だけ)
  女房作   「原発事故 も一度繰り返さぬと身に沁みぬ」      
●朝日川柳より。
         「原発とあれだけ言って結果これ」
         「平成の世にこれほどの紋次郎」―投票率(あっしには関わり合いのねえこって)
 「かたえくぼ」(小話)
         「『自民が圧勝』 タカ笑い―安倍総裁」
                                 うまい!
●国民はABCDの4層に分類されるという。小泉内閣が「郵政選挙」前、「メディアを使って選挙戦をどう戦うべきか」という分析を頼んだスリードという広告会社が考えたもの。(インターネットで調べられる。)
 A層は政治家・有識者・大手メディアの人間など社会的地位が高く、IQも高く、小泉構造改革への関心が高い層。
 B層は主婦層・若者層・高齢者層など大衆で、比較的IQが低く、マスコミ報道に流されやすい層。具体的な政策よりも人気によって政治家を支持する傾向にある。
 C層は、IQは高いが、小泉改革に慎重な層。
 D層はIQも小泉改革への関心も低い。
としたうえで
 A層は、マーケティングを駆使して積極的にB層向けの商品を作り続ける。選挙戦もB層をターゲットにして戦うべきだと。

  「俺はどの層かな。A層でないことは確かだが、C層でもないか」と言うと、女房、「D層だべ」と。
 ん?
   ああ、日本を動かしているのは、やっぱりA層とB層なのか。

 これで、いずれ比例区の議員定数が削減され、少数政党の議席は奪われて、改憲派が3分の2以上になり、まず96条の改憲発議要件が3分の2以上の賛成を要したのから過半数だけで改憲できるようにされる。そのうえで次々と変えられていって9条まで変えられるんだな。ああ、ああ・・・・・・・・・
安倍自民党が石原・橋本維新の会で有利に展開
 国内の閉塞状況、対外的にも危機的状況下で国民の不満・不安をすべて現政権の民主党に押し付け、民主党政権のせいにして自らに有利に展開。
 デフレ不況、消費税増税、大震災・原発災・・・・対米問題(普天間問題・オスプレイ問題)、対中危機(尖閣をめぐって緊張、経済関係悪化)、対北朝鮮問題(ミサイル打ち上げ)、対韓国・竹島問題・・・・これらはすべて民主党の責任に転嫁。維新の石原党首は北朝鮮によって拉致が起きたのは9条のせいだと改憲を煽っている。

 中国・北朝鮮などに対しては「脅威!脅威!」、「領土・領海は断固として守る」「毅然として」対処すると言って警備活動の強化と自衛隊・日米同盟の強化を言うばかりで、具体的な打開の手立ては全くない。それはかえって緊張を激化させるだけであり、日中関係はさらに悪化の一途を辿るばかりで、北朝鮮の拉致被害者は帰って来れなくなるばかりになる。
 また、金融緩和、建設国債の日銀引き受け、「国土強靭化」公共投資など、それらは一時的カンフル剤にはなっても、再び国の借金をさらに膨らませるばかりとなる。

 安倍自民党と維新の会とのタカ派路線は相乗効果を発揮し、改憲の動きも加速するだろうし、一億総タカ派・右傾化になりかねない。
 世の中、ますますギスギス、閉塞状況はさらにひどくなる。職場でも学校でも施設でも締め付けがひどくなる。
 ああ、この国は・・・・子どもたち、孫たちが可哀相でならない。

●北朝鮮、ミサイル発射予告。女房いわく、「原発何十か所もあって、攻撃さっちゃらどうすっこど。数打ちゃ当たる、ちゅうもんでないの」。んだな・・・・・・・
 たしかに危ない。迎撃ミサイルで撃ち落とせる?発射前に敵基地攻撃をかける?こっちも核ミサイルを備えて抑止する?それで防げるの?阻止できるの?
 愛川欣也の「パックイン・ニュース」(インターネット・テレビ)でパネリストの田岡氏(軍事ジャーナリスト)が語るには、あれは彼らが言っている通り人工衛星打ち上げ用ロケットで、弾道ミサイルとは別物だと。目的は国威発揚だろう。軍事用ミサイルなら、あんなふうな発射台に据え付け燃料注入に時間をかけたりしない。それに迎撃ミサイルは軌道に乗って飛んでくるミサイルなら撃ち落とせるが、失敗して軌道からはずれて、どこに落ちてくるかわからない(軌道計算ができない)ものに撃っても当たりはしない。当たっても残骸がバラバラになって落ちてくるだけのこと。あんなテポドン(長距離ミサイル)なんかでなくても、ノドンやムスダン(中距離ミサイル)は既に多数実戦配備しており、日本を射程におさめているのだ、と。
 だとすれば、日本のあちこちに同時に飛んでくるミサイル(ノドン)を迎撃ミサイル(PAC3など)で全て命中させて撃ち落とすことは不可能だろう。やはり「数打ちゃ当たる」ということか。
 こりゃ大変だ。 原発は止めておかなければ。
●愛猫は、約一週間、居間に横たわったまま、当方の留守中、ついに息を引き取った。小学生の孫たちは大泣きしたという。それを聞いて涙がでた。身体に障害(片手が欠損)を持った猫だった。当方が餌係りだったが、その役目も終わった。これまで犬2匹・猫5匹以上も葬った勘定になるが、今は犬(ミニ・ダックスフンド)1匹だけが残った。
●血圧―自家で一か月以上、途中、血圧計を買い替えて続けた測定記録。計器と記録簿を医院に持って行って医者の目の前で、自分の計器で測ってみてと言われて測ったら何と200以上も。しかし、医者が医者の計器で測って言うには普通にしていていい、薬などは飲まなくてもよいとのこと。まあ、ほっとした。帰ってから測ってみたら、やはり130台でどうということはなかった。日課が血圧測定から解放されて、毎日測らなくなくて済むようになった。
 猫のほうが具合を悪くして、3~4日餌を受けつけなくなって寝転がっているだけ。居間の炬燵の脇で絨毯に寝転がったまま排尿。その始末をしながら女房が言うには、老衰でそのまま逝くのだろう、医者に連れて行って延命などしても、かえって可哀そうな思いをさせるだけだと。一番上の孫が生まれる前から飼われていたから、齢13~4年。かく言うこの俺はあと何年?この月誕生日が来る。

2012年12月11日

草の根政党の存在価値(加筆修正版)

 不当解雇されたという知人。彼が言うには、自分はどうでも、他にも不当な扱いを受けた職員や入所者がいる。彼らのために、又、今後にわたって人々から必要とされる大事なこの施設の存続のためを思うと黙ってはいられない。議員に頼むんだったら共産党の議員がいいと思っている。なぜかというと、共産党は票にならなくても一生懸命やってくれるからだ、と。

 そこで考えた。

(1)民主主義の問題点
 民主政治とは多数支配で、選挙で国民の多数支持を得て多数議席を獲得した多数派政党が政権を握って統治するやり方。
 民主政治とは、いわば市場政治で、政策と人物(大衆を引き付ける才、弁舌、政治力・ポリシーなど)の売り手(政党・候補者)と買い手(選挙人)があって、買い手の多い(選挙で票の多い)政党・候補者が当選して議員となり、より多数議席を獲得し過半数を制した政党が国会で決定権を握り、かつ政権を握って行われる。
 政治家には二通りのタイプがある。一つは地位・権力・権益・名声などにありつこうとする欲望・野望から政治家になって政党を率い、或いはその政党に所属して立候補する者彼らが力を尽くし奉仕しようとする相手は選挙で票になる相手であり、最大限多くの票が得られそうな層を対象にして売り込もうとする。(ポピュリスト政治家は「賢くて強い」などを売りにする。大衆は、それが格好いいとその方になびき迎合しがちだからである。)
 それに対して、もう一つは、そうした欲望・野望なしに、ただひたすら困っている人々のため、恵まれない人々のために、或いはその政策を切実に求めている人々のために尽くそうとする政党・候補者―民衆への奉仕的精神に立ったいわばボランティア・タイプの政治家で、その愚直さは大衆にはあまりうけない(なぜなら大衆はとかく「強くて賢い」政治家になびき、愚直な政党候補者は「バカ正直でお人よし」と侮られがちだから)。

 前者は多数派(マジョリティー)の政党であり、後者はマイノリティーの政党、と考えられる。

(2)資本主義・市場競争社会では人々は上中下の階層に分かれ、下層でも、そのまた下の人たち(最下層・最貧層・いくら頑張っても自力では生活できない、条件に恵まれない人たち)が存在する。彼らは、数の上では相対的に少数(マイノリティー)なので、選挙の票田としては小さく、あまり票にはならない。したがって議員になって大臣あわよくば総理大臣にもなって権力にありつきたいという野心をもつ政党とそこに集まる候補者がターゲットにし、支持を得ようとする選挙民は、数の上では大多数(マジョリティー)をなす中間層(実際はそうでもないのに、人はとかく自分を弱者・マイノリティーだとは思いたがらず、自分よりまだ下がいると思い込んで「中流」の部類と思っている。そういう人も含めた中間層)から上の層(富裕層)。自民党にしても民主党あるいは維新の会・みんなの党なども、そのての政党・候補者が相手にするのは、大票田となり、金づるにもなる(政治献金が得られる)財界・大企業とその労組であり、中流意識をもつ市民・中間層から上の人々(マジョリティー)で、彼らに対しては一生懸命尽くして人気取りに努めるが、大して票になりそうにない下層・弱者(マイノリティー)に対しては、一生懸命になれない。
 そういう政党や候補者の多い中で、公明党と共産党などは一般に「弱者の党」と見なされている。ただ公明党は、自民党との連立政権に加わったり、石原都政の与党になったり、消費税増税の民自公3党合意に加わり、維新の会とも選挙協力を行ったり、「強者政党」の方近づき、共産党とは対立関係にある。こうして見ると共産党が唯一の「弱者・マイノリティーの党」ということになるか。
 このような政党は「万年野党」に止まらざるを得ないのかもしれない。しかし、無くてはならない存在であり、議席(国会や地方議会での発言権)を無くしてはならない政党である。
 なぜなら、票にはならなくても、また政権はとれなくても、弱者・マイノリティーのために人道と正義にために、ただひたすら頑張ってくれる政党の議員だからである。そういう議員がいなくなったり、わずかな人数に止まれば、当の弱者たちマイノリティーはもとより、国民全体にとっても、多数派の横暴・右傾化暴走に歯止めをかける役割(チェック機能)をもつ政党の議員が一定数いなければ困ることになるだろうからである。(多数派の政権・政策にただ反対するだけでなく、提案を示し、或いは、窮状に置かれ窮地に瀕している人たちの切実な声を国会・委員会で取り上げて代弁し、告発もしている。市民の請願署名の国会への提出には国会議員の紹介がなければならないが、紹介を頼まれる議員が一番多いのは共産党55%で、民主24%・自民11%より多い。)
(3)国際的にもそうで、歴史的に近隣諸国に対する侵略政策をとる支配政党とそれに対するマイノリティーの党の抵抗があった。かつての政権党・有力政党は藩閥官僚・財閥資本家・大地主層などの利益を代弁する政党で多数派支配政党として国民を朝鮮・満州の侵略に駆り立てていった。さらには全ての政党が大政翼賛会に合流し、いわばオール与党の下で中国~アジア・太平洋へと戦争を拡大させていった。それらの暴走をくい止める政党はなかった。
 共産党は「無産者の党」「労働者の党」として「万国の労働者、団結せよ」のスローガンの下に、各国の虐げられた人々との連帯を掲げて反戦と民主主義を説き続けたが、ずうっと迫害・弾圧され続けた「マイノリティーの党」だった。ところが敗戦・連合軍占領下に新憲法が制定され、それまで異端視されてきた共産党の反戦・民主主義などの主張は日本国民に正統性をもって受け入れられることになった。しかし、政権党はアメリカに服従し、安保条約を結ばされて基地を提供し、日本は従属国の状態に置かれることになった。共産党はそれに反対し、ソ連・中国の党の干渉をも排して自主独立路線を貫き、大国のいいなりになることに抗ってきた。今は自民・民主その他どの政党もマスコミも「日米同盟・基軸」による安全保障神話にすがりついてアメリカの産軍複合体と利益を分かち合う安保路線を維持し、アメリカの業界と利益を分かち合おうとするTPP参加路線に向かおうとしている中にあって、唯一それらに反対し、どの国との間でも平和友好と経済主権の確保を主張し、たとえ票にはならなくとも、ただひたすら基地住民・農民・小生産者・庶民消費者のために尽くそうとする草の根の「護民官」に徹している


 このような政党は希少価値?があるというもので、その議席を減らしてはならず、社民党など他の護憲派議員と合わせて改憲発議をはばむに足るだけの3分の1以上議席に達するように議席を増やさなければなるまい

 と思うのだがいかがなものだろうか。  

2012年12月17日

国民の“B層”が決定づける選挙(加筆修正版)

今回の選挙:自民党が「圧勝」―議席の6割を超える
 当選者は改憲賛成が9割、集団的自衛権行使賛成が8割
 ところが、投票率59.32%―戦後最低(4割以上も棄権)(原因はマスコミが選挙前から世論調査などで「自民党大勝」予測を出したため、「だったら、投票に行かなくとも、どうせ決まったも同然」と決め込んだ向きが多かったこと、それに12党も乱立して訳が分からなくなって面倒くさいとなった向きも多かった等が考えられる。)それに無効票(白票や候補者以外の名前を書いた票)も過去最高で3.31%(約204万票)
 そこで
 自民党の相対得票率(投票総数に占める割合)小選挙区では43.01%、 比例区では27.62 %
     絶対得票率(有権者数に占める割合)小選挙区では24.67%、 比例区では15.99%
   ということは自民党への投票者は有権者全体から見れば決して多数派ではなく少数派                                                  
     なのに議席は、小選挙区では(2割台の得票で)8割(237議席)も獲得
                       (それが小選挙区制のおかしなところ)
                    比例区では(1.5割台で)3.2割(57議席)

 国民はABCDの4層に分類されるという。小泉内閣が「郵政選挙」前、「メディアを使って選挙戦をどう戦うべきか」という分析を頼んだスリードという広告会社が考えたもの。(インターネットで調べられる。)
 A層は政治家・有識者・大手メディアの人間など社会的地位が高く、IQも高く、小泉構造改革への関心が高い層。
 B層は主婦層・若者層・高齢者層など大衆で、比較的IQが低く、マスコミ報道に流されやすい層。具体的な政策よりも人気(イメージや空気)によって、或いは「寄らば大樹」で大政党か勢いのある政党・政治家を選択する傾向にある。
 C層は、IQは高いが、小泉改革に慎重な層。
 D層はIQも小泉改革への関心も低い。
としたうえで
 A層は、マーケティングを駆使して積極的にB層向けの商品を作り続ける。選挙戦もB層をターゲットにして戦うべきだと

 経済アナリストの森永卓郎氏によれば、B層は「郵政選挙」における小泉政権の支持母体、「政権交代選挙」における民主党の支持母体にもなった、という。
これで言うと今回の「政権奪還」+「第3極」選挙における自民党と維新の会の支持母体もやはりB層というわけか。
 ただし、ここに言う各層分類の基準の一つを「IQの高い低い」としているのは、どうも短絡的で、それよりも「民度(知的水準・教育水準・文化水準・行動様式などの成熟度)の高い低い」とした方が適切なような気がする。

 4割以上もの棄権。自民党が圧勝といっても、その得票率(有権者総数に占める絶対得票率は1.5か1.6割)よりも、この棄権率(4割)のほうがはるかに多いのだ。棄権したのはD層(無関心層)、それにC層の中にも「どうせ投票しても死票になるばかりで意味がない」と思う向きには)棄権した人はいるだろうが、A層はもとより投票所に一番足を運んだのはB層だろう。
 自民党の大勝と維新の会躍進など改憲派の圧勝(自・公・民・維新・みんな・未来など当選者の9割が改憲賛成、8割が集団的自衛権行使賛成、彼らの当選)を決定づけたものは、やはりB層の投票だろう。この層は、原発再稼働も消費税もTPPもやむを得ない、沖縄基地もオスプレイもやむを得ない、中国・北朝鮮とは戦争になってもやむを得ない、といった感覚で、政策の良しあしはどうでも「決断と実行」力のある政治家であればそれでよく、A層が掲げる(維新の会がスローガンに掲げるような)「賢くて強い日本」で「君が代が千代に八千代に」栄え続ける国であればそれでいいのだ。
 このB層が、この国のあり方を決定づけている、といってもよいだろう。
 この国の国民の民度は高いという向きもあるが、それほどでもないという向きもある。いずれにしろ、B層に限って言えば、民度は高くないということだ。それがこの国の民主主義の未熟さ、この国の政治家たちの国際水準(ひいては外交力)の低さにもつながっている。
 ただ、黙々と働く勤勉さと天災・人災にも耐える忍耐は日本人の美徳とされてはいるが、政治問題・社会問題への関心、選挙・投票となると民度・政治意識の点では、まだまだ。

 A層(社会的地位の高いエリート層)に立った支配政党は、数の上で最多のB層(大衆)をターゲットにして最大の票田とし、D層(単にIQの低い無関心層とは限らず、目の前の生活で手いっぱい、或いは仕事探しや介護などで忙しく、政治も政策も考える時間・余裕がない、という人々)の棄権を有利とするが、彼らやマスメディアにも対抗しなければならない非A層政党は、B層やD層の民度(政治意識)の向上・啓発にも大いに心がけ(民度の高いC層の人たちとともに、上から目線ではなく共に教え学び合って)役割を果たさなければならないだろう。
                 と思うのだが、いかがなものだろうか。

2012年12月27日

「抑止力」批判論

 アメリカでまた銃乱射事件(小学校で26人が命を失った)。
 この国では市民に自衛のために家で銃を持つことが権利として憲法で認められている。それは、この国の建国とフロンティアの特殊な歴史(インディアンの地に植民・移住して町をつくり土地を開拓し原住民を追い払って領域を広げていった歴史)からきている。
 この国では、ピストル・ライフル・ショットガンまでスーパーやスポーツ用品店で売られており、全人口に匹敵する3億丁もの銃が流通、全世帯の45%の世帯が銃を所有している。そして年間3万人以上もが(自殺や事故も含めて)銃で命を無くしているのだ(人口10万人当たり3.2人―日本では0.006人なのに対して、世界で突出して多い)。
 そこでは、市民が所持する銃は暴漢の発砲抑止になっているというよりは、むしろ暴漢の発砲を促す素になっている。彼の家に銃(ライフル1丁とピストル2丁)さえなかったら26人もの殺人を犯すことはなかったというのは確かだろう。
 そもそも「抑止力」(思い止まらせる力)とは合理的判断(そんなことをすれば、撃ち返されて命を落とすか、刑罰など制裁を被るか、良心の呵責にさいなまれるか、かえって割の合わない結果を招くという判断)ができる普通の市民にしか効かないのであって、そういう判断ができないか、そんな合理的判断など度外視している暴漢(正常な感覚を失ったか、「やけっぱち」になって良心も理性も保ち得なくなった相手)には通用しないのだ。ということは、普通の市民に対しては互いに「抑止力」(銃)を持ち合うなど不要で、一部の危険な人間(暴漢)に対して警官だけが銃を持って対処すれば十分なのである。普通の市民に不要なのに銃の所持を認めれば、それが暴漢に利用・悪用されるか、普通の市民が(銃を持てば、それに頼りがちとなり、話せば解るのに、問答無用とばかり)暴漢に化して発砲することになる(小学校で乱射事件を起こした男は家にあった銃を持ち出して行為におよんだのだ)。だから、それは禁止すべきなのである。日本のように。

 尚、「合理的判断」とは倫理的に正しいか否か、法的に正当か否か(不正・違法なら刑罰・社会的制裁を被る)、損得勘定(「費用対効果」の計算、リスク計算など)で割が合うかなどの判断。
 「非合理的判断」とは熱狂・激情・宗教心(狂信)・ギャンブル(賭け)・やけっぱち(自暴自棄)・異常心理・精神錯乱などによるもの。
 後者の場合には「抑止力」は効かない。

 国に軍備は抑止力として必要か。これにも同様な考え方ができる。
 
 普通の(国交を結んでいて敵対関係のない)国々との間では抑止力(軍備)は不要。  
 以前、帝国主義の時代(植民地の争奪・勢力圏分割の戦争→世界大戦)とその後の2大体制間の冷戦時代までとは異なり、今は、グローバル経済交流の時代(①国連憲章のもとで安全保障理事会が認めた場合と自衛以外の武力行使は禁止された。②植民地主義と冷戦の終結が国際社会の緊張と紛争の主な要因を取り除いた。③国際貿易・投資が著しく増加し、侵略で財貨や資源を奪うより、貿易で手に入れた方が安上がりに。)。限られた国以外にはどの国にも攻撃の恐れ(脅威)はないのだ。
 限られた国とは北朝鮮・イスラエル・イラン・アフガニスタンなど。
 しかし、これらの国も、何の理由もなく、一方的に、世界中を敵にまわしてまで、核開発・ミサイル実験その他の挑発行為・無法行為を重ねたりするだろうか。それは、これらの国からそれぞれその国が怨まれ敵視される原因・理由が歴史的にあるからなのであって、その国にも責任があることなのだ。北朝鮮に対してはアメリカ・韓国・日本も、パレスチナ(アラブ人)に対してはイスラエル、イランに対してはアメリカとイスラエル、アフガニスタン(タリバン)に対してはアメリカ。
 北朝鮮とアメリカは朝鮮戦争で対戦し、それ以来決着は未だについていないのである(休戦協定を結んでいるだけで和平協定は未だ)。日本も、日清・日露戦争を経て朝鮮半島の植民地支配を続け、戦後、北朝鮮とは現在に至ってもその決着(清算)はついていないのだ。
 尚、中国と台湾は、日中戦争で日本軍の降伏後、国共内戦を経て共産党が中華人民共和国を樹立し、国民党が台湾に退いて以来、敵対関係にあり、アメリカは台湾政府を支援していたが、今は米台ともに中国に接近し、敵対関係は無くなっている。
 この日本は中国との間には尖閣問題、韓国との間には竹島問題、ロシアとの間には北方領土問題があるが、これらの島のために、戦争を想定して「抑止力」(軍備)を構え、戦争で決着をつけることなど不可能なのに「戦争も辞さない」などと敵対し、貿易も国交も友好協力関係も犠牲にするのは「費用対効果」など損得勘定からして割に合わず、合理的判断では(軍事的抑止力が有効だとは)到底考えられないことだ。
 イスラエルとアラブ諸国の対立は、アラブ人の居住地パレスチナにユダヤ人が移住して第二次大戦後イスラエルを建国した(古代にはそこに故国があったがヨーロッパ各地に離散し迫害を受けて、そこに戻った形)ので、そこから立ち退かされる形となったパレスチナ・アラブ人は反発し、それ以来4回にわたって戦争(中東戦争)。この間アメリカ(国内にはユダヤ系市民が沢山)はイスラエルを支援。
 イランは、以前は国王が親米でアメリカに石油利権を与えていたが、1979年革命で国王は追われ、アメリカの石油利権も取り上げられた。このどさくさに乗じてイラクが国境問題でイラン・イラク戦争を起こすと、アメリカはイラク(サダム・フセイン大統領)を支援。それ以来、イランとアメリカは敵対関係にある。
 アフガニスタンに対しては、アメリカで2001年同時多発テロにあって、ブッシュ大統領はそれを国際テロ組織アルカイダの仕業だとして、彼らをかくまっているアフガニスタンのタリバン政権を攻撃、カルザイ政権が樹立されたものの、タリバン勢力は未だに抵抗を続けている。

 その他に、シリアやソマリアなどアフリカの一部の国で内乱があるだけ。
 それ以外には、多くの国々には戦争・攻撃の恐れはないのであって、「抑止力」(軍備)など、わざわざ莫大なカネをかけて置いておかなくてもよいわけである。

 アメリカ・イスラエル、それに北朝鮮に対しては日本も、相手(北朝鮮やイラン)を「脅威」だと言って「抑止力」の維持・必要性を言い立てる(相手もアメリカ・日本・イスラエルを「脅威」だと言い立てる)が、その前に、その国に対して果たすべき責任(日本は北朝鮮に対しては賠償・補償など)を果たすことが先決なのだ。
 それに、北朝鮮もイランもアカイダなどの国際テロ組織も、非合理的判断(北朝鮮は追いつめられると「窮鼠猫をかむ」で自暴自棄的な挙に出る可能性があり、イランやアルカイダは宗教心から「聖戦」)もとりがちだから、そのような場合は、抑止力は(「懲罰的抑止力」にしろ、「拒否的抑止力」にしろ)効かない
 ところが、皮肉なことに、北朝鮮など非合理的判断に立つ国にとっては、その国の抑止力は、アメリカなど合理的判断に立つ国に対しては効くのである。(へたに手を出すと何をしでかすかわからないから、攻撃をひかえる、といったように。)
 ただし、彼ら(北朝鮮など)のその抑止力は、核・ミサイルといっても未だ開発途上・実験段階で貧弱な軍備そのものよりも自暴自棄的な(かつての日本で叫ばれた「一億玉砕」のような)玉砕戦法、この方が効くのである。その実例に次のような事例がある。
 1994年(カーター大統領当時)、IAEAが北朝鮮の核施設への査察問題を国連安保理に委ね、安保理が制裁措置を決定しようとした。それに呼応してアメリカが核施設を爆撃する詳細な作戦計画を練った。そこでは米空軍のハイテク兵器を使用すれば、放射能を拡散させずに核施設を短期間で効率よく破壊できると想定していた。しかし、それは北朝鮮の報復を招き、全面戦争につながる危険があった。その場合、死者は100万人を上回り、そのうち10万人近くの米国人が死亡し、近隣諸国を含めて損害総額は1兆ドルに上るだろうと予想された。結局、その作戦計画を断念し、カーター大統領は訪朝。金日成も首脳会談に応じて、北朝鮮は脱退しかかったNPTにとどまり、米朝枠組み合意が結ばれて事なきを得た。これはカーター大統領の合理的判断によるもの。

 要するに、北朝鮮などにとっては、その抑止力は「合理的判断をする国」に対しては効きめがあっても、普通の国にとっては、「合理的判断をしない普通でない国」に対しては、抑止力は効かないし、「合理的判断をする普通の国」同士では「抑止力」など不要であり、いずれにしても「普通の国」(理性的国家)に軍事的抑止力は役に立たず不要なのである。 日本にとっても、北朝鮮など「合理的判断をしない普通でない国」にはどうせ抑止力は効かないし、「合理的判断をする普通の国」に対してなら抑止力など不要。いずれにしろ日本には抑止力(軍備)など持っていても無駄(無用の長物)であり、必要もないということだ。
 それなのに「安保」という「抑止力」安全神話にいつまでもとりつかれて、自衛隊の軍隊化、日米同盟・核の傘・「ミサイル防衛」などにしがみついているのは愚かなこと。

 軍隊を持つのが「普通の国」なのではない
 アメリカは「合理的判断をする国」だが、市民が銃を所持することを許し、巨大な軍備をもつという点では異常な国である。
 日本のように市民が家に銃を持つようなことのないのが普通の国なのであり、軍隊を持たない国こそ普通の国なのである。
 (ただし、海賊やテロ集団、不法侵入・国境侵犯などに対する海上保安庁や国土警備隊などの警察組織はどの国にも必要だが、それは軍隊とは別物。)
 軍隊のない国は、今は未だ27の小国だけで少数だが、そういう国が「普通の国」なのである。
コスタリカは日本国憲法より少し後、憲法で常備軍を廃止して以来60年以上、今では年寄から子どもまで軍隊がないのが当たり前だと思っているとのこと(この国に半年間留学した法律家の笹本潤氏)。日本人の多くも、日本は戦争をしない国で、自衛隊は戦争する軍隊ではなく、海外派遣はあっても戦争をしに行くのではない、それが当たり前だと思っている。
 「普通の国」とは国民も政府も合理的判断ができるし、合理的判断をする国で、市民が銃を持ったりせず、国も軍備を持たない、それこそが「21世紀の普通の国」なのだ。
―などというと、そんなの夢想家の言うことで、軍備を持ち軍隊を持つのが当たり前、或いはアメリカに付き従って中国・北朝鮮などと張り合い「万一の戦争に備える」のが「普通の国」、であるかのように言う政治家やそれに同調する向きもあるが、むしろ、その方が時代錯誤なのであり非現実的なのだ。「万一に備える」などとよく言うが、地震・台風などと異なり、戦争はこちらが何もしなければ起こり得ないもの。にもかかわらず、そういって軍備を持つのは、戦争を容認している(「いざとなったらやる」)ということにほかならないが、双方に甚大な惨害と致命的なダメージをもたらす現代の戦争はたとえ万一でもやってならない(利害対立・係争・紛争があっても外交的解決の方法に徹するしかない)、そういう意味で戦争はあり得ないことなのだ。
 秋葉原の安倍総裁の街頭演説で日の丸の手旗を配って応援をしていた一人の若い女性。「このままでは日本が中国に占領される」、安倍氏の言うように集団的自衛権の行使や改憲が必要で「国防軍」の保持も当然だと。ところが「彼氏が戦争に?それは困ります。そんなこと考えたこともありません」(12月24日朝日「政権オセロ」の記事より)
 

 (尚、アメリカで市民に銃が禁止されていない原因の一つは、銃企業とつながっている全米ライフル協会の存在があり、軍備が縮小されないのは軍部と軍事産業企業の軍産複合体の存在があり、それらが政府や議会に圧力をかけて銃の禁止・規制、軍備・武器輸出の縮小を阻んでいるからである。要するにアメリカで軍備の縮小も市民の銃規制もできないのは企業や軍部の利益のためにほかならない、ということ。)

2013年01月01日

1月のつぶやき(上に加筆)

●大鵬が亡くなった。当方とタメだったんだな。樺太で生まれ、幼くしてウクライナ人の父親と離れ離れ。終戦直後母親と命からがら北海道に渡って道内各地を転々。転校を繰り返し、貧しく納豆売りをし、いじめにもあいながら子供時代を過ごしたという。柏鵬時代は、当方は柏戸の方を応援したものたが、柏戸は16年前58歳で亡くなっている。大鵬の方はずうっと健在だったと思っていたが、引退して5年後に脳梗塞で倒れ、その後遺症を引きずってきてたんだな。死因は心臓不整脈の一種らしい。
 
 もう一人、お婆ちゃん詩人の柴田トヨさん。101歳、特別養護老人ホームで、老衰で逝かれた。詩集「くじけないで」をもう一度読んでみた。こんな詩があった。
 『神様』
「昔 お国のために と 死に急いだ若者たちがいた
今 いじめを苦にして 自殺していく子供たちがいる
神様 生きる勇気を どうして 与えてあげなかったの
戦争の仕掛人 いじめる人たちを 貴方の力で 跪かせて」
 『返事』
「風が耳元で 『もうそろそろ あの世に行きましょう』なんて 猫撫で声で誘うのよ
だから 私 すぐに返事をしたの 『あと少しこっちに居るわ やり残した事があるから』 風は困った顔をして すーっと帰って行った」
       今回の「返事」は・・・・・だったのだろうか
●新聞に「体罰問題、部活動指導者に聞く」という記事。「東京都の40代の柔道部顧問は『親が子に手を上げるのと同じ。真剣に向き合えば、100回叱るより効果はある』と話」していたと。
 「1回で聞かなかったら1,000回でも話して聞かせればいいんだ」と言っている女房に「この話、どう思う?」と訊いたら、「そういう考えだから、戦争になんなだべや」という。
 そういえば尖閣の領海にちょくちょく入ってきてる中国の艦船に対して、海保はその度にスピーカーで警告を発しているが、一発砲撃を食らわせたらどうなるか、その方が100回警告するよりも効果がある、と言ってるみたいなものかもしれないな。
●新聞に教え子(65歳)のS君の投稿が載っていた。最高裁裁判官の国民審査について。「今まで全て無印」「裁判官がこれまでどのような裁判に関わったかなど知るすべもない。ほとんどの人がよく分からず判断しているのではないかと思う。」「選挙民の大半は困惑しているのが現状ではないか」と。 その通りだ。事実それで免職になった裁判官はゼロ。当方もずうっと以前からそれを感じていたのだが、その仕組み・投票用紙の記入の仕方なども全く改善されることなく、マスコミでも(議員選挙のほうは盛んに取り上げられ報道されるが)裁判官の国民審査のほうは、それが取り上げられることはいたって少ない。今回は、朝日では、投票日前、社説は一回だけ、記事も1~2回、投稿は一つ(「違憲状態 助長する人に『×』を」というもの)、それに「一人一票実現国民会議」なるものの意見広告が数回載っただけ。あとは投票日間際に選管から配られた審査広報だけ。(当方は、それらを見て裁判官が「君が代」などに関する職務命令をどいつもこいつも合憲と判断していることなどで全て×にしてきた。)
 投票後は、朝日の「声」投稿が一つ(「儀式化した裁判官国民審査」―「信任されるためのシステムとしか思えなかった」というもの)出ているだけ。
 S君の投稿は山形新聞にちょくちょく載っているが、アッパレ!いいところをついているよ。
●女房が、娘が孫にイライラしながら乱暴な対応をする時があるのを口説いて、「三四回ばかり聞かなかったぐらいで切れたりしてはいけない。千回でも繰り返し口で言って聞かせればいいんだ」と。娘が
返した言葉は「千回も言ってなきゃならないんだったら、その間お母さんは死んじゃうんではないの」という憎まれ口。バカ娘!
 かくいう私は、高校教師だった在職中は生徒を怒って「はたき付ける」ことも、たまにはあったし、我が子を「折檻」することもあった。去年は孫を泣かせたこともある。
 高校運動部での体罰事件が起きているが、それに関して元ジャイアンツの桑田が「中学まで毎日のように練習で殴られていた」が「私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありま背ん」と言って、「体罰不要」論を説いていた(朝日)が、なるほど尤も。えらい!
●米沢で雪下ろし事故―医院の院長が亡くなられた。当方と同じ歳、当方がつい先月、孫と一緒にインフルエンザ予防の注射を受けに行ってお世話になったばかり。
 早朝、院長が自ら車庫の雪下ろしをしようと、スノーダンプをかついで梯子を登って2メートルの高さから転落。原因は「くも膜下出血」とのこと。
 学校や幼稚園の校医を務め、様々な方面で多くの方々がお世話になっていただけに痛ましいかぎりだ。
 それにつけても、高血圧や糖尿などにストレスを抱えながら、寒中に頭や身体に無理を強いて「くも膜下」などに襲われることのないよう、くれぐれも気を付けなくてはならないな。
●元日の朝日新聞に「日の丸を掲げたい街―官民を挙げて掲揚に乗り出した市や町がある」として石川県中能登町・鹿児島県垂水市・大分県津久見市3市町でのその状況を報じていた。
 中能登町は日の丸の掲揚率日本一を町の目標にしており、日の丸購入の呼びかけを強める方針。「日の丸を掲げていない家の主婦は周囲に目をやって声を潜め」て「わざわざ買うつもりはないけど、旗を掲げている家を見ると負い目みたいなものを感じますよ」と。町民の冷たい目を感じる、そのような居心地のわるい街には住みたがらない人もいるだろうに、そんな町に発展性はあるのだろうか。
 津久見市の副市長は「教育基本法は『国と郷土を愛する』を目標に掲げている。公教育は法律に従ってなされるべきだ。イデオロギーの問題ではない」と。そもそも副市長や教育委員会など行政当局は教育の条件整備を事とし、教育の指導内容や教育法に口を出すのは越権行為であり教育への「不当な支配」に当たるはず(前の安倍政権の下で改定される前の教育基本法ではそうなっていた)。そもそも法律で特定の歴史観や国家観・価値観などイデオロギーを押し付けるのは違憲。日の丸・君が代を教員や生徒に強制するのは特定のイデオロギーの押し付けであり、法律や職務命令に従う従わない以前の問題。
 米沢でも当方が住む町の隣の町内では、祝日というと軒並み日の丸を掲げているが、町内会でそんなことを決めていいのだろうか。
 再び安倍政権それに石原・橋下らの先駆け・加勢で、そのうちどの町内でも、或いはどの学校でも日の丸を掲げ、君が代を起立斉唱しないと「まずいことに」なるのだろうか。
 そんなことになったら北朝鮮と本質的には同然ということになってしまう。イデオロギーの自由と多様性が無くなり、窮屈で住み難い国、住み難い町、学び難い学校になってしまう。納税義務を果たし、「ふるさと応援寄附」もし、法規を守って住んできたのに、村八分(のようなもの)にあって出ていくしかなくなるのか。悪い夢で済めばいいが。
●紅白を聞き流しながら、12年最後の新聞切り抜き、一片づつボールペンで日付を記入(分類して紙袋に)、「12.12.31」と。
 そのうちの一枚に「12年世相カルタ」が載っていた。その中から3句紹介。
 「(を)おかしいよ、4割台で議席8割」
 「(ふ)不安倍増 安倍晋三」
 「(し)”自由”の国は銃の国」          なるほど・・・・・・
  
 紅白も、いくつか目を止めた。
  「ヨイトマケの歌」 美輪あきひろ。 どんなかっこうで出てくるのかと思って目をやったら、まとも。
 じいっと聴き入った。やはり「じーん」ときた。
  それは、いつか夢の中で、なにかの集会に集まった大群衆が歌った労働歌だった(そう聴こえた)。涙目を覚まして気が付いたら、その歌は「ヨイトマケの歌」だったのだ。

 紅白が終わるとNHKは「ゆく年くる年」で、各地の寺の除夜の鐘とともに初詣の紹介。陸前高田の寺に新しく建てられた地蔵堂の母子3体は津波でなぎ倒された松原の松の木で彫られたとのこと。いつか子供らと行って初詣してきたことのある鎌倉の鶴岡八幡宮の銀杏の大木は大震災の前年、暴風で倒れ、根本だけが残った、そこに芽が生え出て葉をつけたという。
 0:00を回って間もなく、新春最初のニュースは安倍総理の年頭会見。「デフレと円高からの脱却で経済再生・復興、教育・外交にも全力を挙げて取り組む」、「領土・領海を断固として守り抜くため、国境離島の振興・管理・警戒警備の強化を進める」との談話。その後には尖閣の海の映像に「9月の国有化決定以来20回目の中国監視船の一時領海侵入」というニュースだった。
 今年は東シナ海波高しの年になるのか。

安倍自民党の支持基盤―ヤンキー?(最後の方に加筆・修正版)

 国民はABCDの4層に分類されるという。小泉内閣が「郵政選挙」前、「メディアを使って選挙戦をどう戦うべきか」という分析を頼んだスリードという広告会社が考えたもの。
 A層は政治家・有識者・大手メディアの人間など社会的地位が高く、IQも高く、小泉構造改革への関心が高い層。
 B層は主婦層・若者層・高齢者層など大衆で、比較的IQが低く、マスコミ報道に流されやすい層。具体的な政策よりも人気によって政治家を支持する傾向にある。
 C層は、IQは高いが、小泉改革に慎重な層。
 D層はIQも小泉改革への関心も低い。

 経済アナリストの森永卓郎氏によれば、B層は「郵政選挙」における小泉政権の支持母体、「政権交代選挙」における民主党の支持母体にもなった、という。

 しかし、ここでIQの高い低いを基準にしているのには違和感がある。それを言うなら「見識」の高い低いと言い換えた方がよいのでは。
 そのように考えた場合でも、安倍自民党の支持基盤はやはりB層

 それから、12月27日付の朝日新聞のオピニオン欄に「ふたたび安倍政権」と題して精神科医の斎藤環氏と漫画家の小林よしのり氏の見解が載っていた。
 斉藤氏によると、安倍自民党の支持基盤はヤンキーで、いわば自民党はヤンキー政党だという。
ヤンキーの特徴は反知性主義・気合主義・決断主義・行動主義(それに当方が付け加えるならば「ケンカ好き」)。
 「理屈をこねる暇があったら行動しろ」「気合をいれて自立するんだ」「決断と実行だ」
というわけで行動力は旺盛だが、長期的スパンで物事を考えたり歴史的思考が苦手なので短絡的な判断をしがちだという。
 地元に残り、祭りの担い手で地域の顔役になり地方議会の議員になって自民党とつながることになる。
 若者の特徴として正義感に燃えるところから、彼らなりの(不十分な認識の範囲内で)「○○許せない」、「○○○許せない」と敵対行動に向かいがち。そして反中・反北朝鮮・反サヨクにかりたてられる。
 

 秋葉原で安倍総裁の街頭演説に日の丸を手に集まって「ぶっつぶせー!ぶっつぶせー朝日」「国賊」「売国奴」「中国と北朝鮮の手先」と叫ぶ。そこで安倍総裁は「国民の本当の声はここにある」と呼応する。これらの若者が安倍自民党の一つの支持母体となっているのだ、というわけ。

 小林氏は、かねがねアンチ朝日で反サヨク・反「自虐史観」論者のはずなのに、朝日からインタビューを受けて意見を寄せている。彼によれば「ネット右翼」は、「小泉構造改革の影響で激増した仕事につけず人間関係で孤立した若者、そんな人々の一部が『誰からも必要とされない無価値な自分』に履かせるゲタとして愛国心を使い、『自分はそうでない人々より価値があるのだ』と他人をたたいて憂さを晴らしている」。それがネット右翼で、安倍氏は、そのようなネット右翼ともたれあっている、というのだ。

 「ABCD4層」論でいうと、自民党や維新の会の支持母体になっているB層に、このヤンキーとネット右翼が入っている、というわけか。

 彼らは親権力(権力寄り)
 しからば、彼らの勢いに対して,反権力であるサヨク(リベラル)は何故弱いのだろうか?なぜ「ネット右翼」だけで「ネット左翼」は無いのだろうか?
 C層(知性派)は何故ニヒリスティックに選挙を棄権するのか?
 なぜ?

 よくわからないが、それにはマスコミのせいもあることは確かだろう。
 マスコミが視聴率や購読部数を稼ぐ対象はマジョリティー(多数派)であり、彼らによって選ばれた政府寄りか、野党第一党(準政権党)寄りになるのである。
 今回の選挙期間中もその前も後も、マスコミは徹底して自公民(2大政党+1)、それに「第3極」なるものの話題性から「維新の会」、途中から出てきた「未来の党」などだけを取り上げ、他は取り上げないか、わずかしか取り上げない。他の小政党はどうせ政権には関わらないからというわけである。
 そして記事やニュース解説は、大半が政権の枠組み(自民・民主のどちらが中心か、どの組み合わせになるか)、野田・安倍のどちらが首相にふさわしいかなどの政局報道がほとんど。
 それに「競馬の予想屋のような」選挙予測や世論調査を(「自民党大勝の見込み」などと)繰り返し、「勝ち馬」意識を煽る。これはメディアが望む政権に導く世論誘導でもある。

 このようにマスコミに問題があることは確かである。
 しかし、マスコミからあまり取り上げてもらえず出演の機会が少ない政党やその支持者は、それを口説いているだけで、自分の非力さを他のせいにしてばかりいてもしようがないわけであり、自らの発信力・アピール力とその方法をなんとかして研究・工夫し鍛え広げるしかないわけである。(機関紙だけでなく、インターネットTVの放送局を開設するとか。)そのためにはそれこそ何倍・何十倍もの努力を傾けるしかないのだろう。

  サヨクは何故弱いか?といえば、その原因の一つには、ヤンキーのような元気・行動力の点の弱さがあるのだろう。生真面目で大人しい沈思黙考タイプ。(かつて見られた過激派は今は見られない。しかし、そんなのはかえって人々の反感を招くばかりだから、暴走族と同様、歓迎はできない。)
 ただ金曜官邸デモなど、根性のある行動派サヨク(反権力)の若者も台頭しつつあるようで、それは救いというものだろう。

<加筆>
 「31歳フリーター、希望は戦争」といえば赤木智弘氏。彼がそう書いた07年、前の安倍政権当時。同じ弱者でも高齢者は経済成長世代。それにひきかえポストバブル世代で正規職にはありつけず、いつまでも結婚もできず、親元で暮らす若者たち。
 赤木氏によれば平和とは「穏やかで変わりないこと」で流動性のない閉塞状態。このような平和が続けば上のような世代間格差・不平等が一生続く。しかし、戦争が起こればたくさんの人が死ぬが、日本は流動化する。戦争は国民全員が「生きるか死ぬか」のどちらかに平等に賭けるギャンブル。(既得権を)持てる者にとってはそれを失うのが悲惨だが、持たない者にとってはチャンス。だから「希望は戦争」・日本の軍国化ということになり、彼ら若者は右傾化にむかうことになる。左翼は労働者の権利(既得権)を擁護するだけで、フリーターやニートなどの境遇に置かれている若者には手を差し伸べない。
 団塊世代の正社員層の所得水準を引き下げ、その分を回してほしい。さもなければ戦争に向かうしかない、というのが赤木氏の考え。
  
 しかし、財界・大企業経営者層などにとっては、たえず企業経営と収益の安定確保を求め、安あがりな人件費、そのための労働市場の流動化(非正規雇用・派遣労働者の雇用の自由化)を希望する。小泉政権の構造改革とそれを受け継いだ安倍政権はそれに呼応。その結果の格差・貧困の深刻化。政府や支配層にとっては、その国内矛盾・国民の不満を外にそらすうえで外敵(脅威)の存在、戦争の危機(トラブル)はむしろ好都合(北朝鮮や中国が危ないことやってくれると、内心それを喜ぶのは彼ら)。そういう意味では戦争(それが起こるかもしれない危機的状況・脅威があること)を「希望」(歓迎)しているのはむしろ安倍自民党政府と支配層その他の準支配政党。彼らの思惑に乗せられてはならない。

 それに、日本が軍国化し戦争になれば、社会は流動化して平等になるのだろうか。国民全員が平等に苦しみ続ければいいのか。二等兵のインテリを学歴のない一等兵がひっぱたければ、それでいいのか。
 旧日本軍の実態、イラク戦争やアフガン戦争に従事してきたアメリカ兵の実態を解っているのだろうか。戦争の現実は、生死のギャンブル機会の平等なんかではない。死は(学歴も地位も財産も)持たざる若者に圧倒的に偏り、持てる者はぬくぬく、高齢者は免れても死ぬのは若者なのだから。。
 それに今、戦争ではなくても東日本は大震災・原発事故で避難・流動化しているが、非正規・不安定雇用の境遇に置かれていた若者たちはそのお蔭でいい思いをしているのだろうか。

 左翼が定職を持たないか不安定雇用にある若者に手を差し伸べない、と全て決めつけて言っているが、果たしてそうか。連合系労組などやそれを支持基盤にしている政党や政治家などには、そうとられても仕方ないようなものもあるのは確かだが、そうではない左翼政党や労組もあり、これらは、他のどこもそれを取り上げ取り組んでいないことに一生懸命取り組んでいる。
 それに労働者の権利を「利権」などと、企業経営者・業界団体・各省庁・特殊法人などの既得権益と混同している。彼らの権利は様々な人権とともに世界各国の労働者や民衆が連帯し懸命に闘ったあげくに獲得し、憲法で保証・擁護されている権利なのであって、左翼がそれを擁護するのは当たり前のこと。
 そのような左翼を誤解して敵対し、右に走って軍国化・戦争などをめざすのではなく、左翼も含め正規・非正規も含めた労働者の仲間と連帯し、現状打破ひいては社会変革のために、その闘いにこそ賭けるべきだろう。穏やかに現状に甘んじているだけの「平和」が嫌だというなら。

 赤木氏は、最近では反原発運動を批判し、音楽家の坂本龍一氏が昨年7月の「さよなら原発大集会」でスピーチした「たかが電気のために命を危険に晒して」という言葉をとらえて、電気もお金もあればこそ命を保ち生きていられるのに、とんでもないことを言ってると。
 しかし、この場合、電気やお金と命の価値を比べ、「どちらかを犠牲にしなければならないとしたらどちらを守るか」を考えれば、電気やお金のために命を犠牲にしてもしかたがないなどと言う人はいないだろう。命は、各人にとっては、それがあってこそ「生きる意欲」(なんらかの日常的な小さな目標・課題あるいは大きな夢・志・使命を抱き、それを果たそうとする意欲)がそこから生じて生きられ、常に「生きる目的」と一体をなしている。それに対して食糧・資源・エネルギー・産業・お金・生活環境・地球環境もすべては(生きる目的に対する)手段にすぎない。例えば坂本氏などにとっては、人々の心をうつすばらしい音楽をつくりたいという目的のために生きる自分の命―それは取り替えがきかない唯一つの命。それに対して、命とその機能を維持するためには、食べ物もピアノも電気の明かりも必要不可欠な手段ではあるが、これらは「この食べ物が嫌なら別の食べ物」「原発の電気が嫌だから太陽光」「お金がないからこれで我慢」とか「これをやって稼ぐ」といったふうに取り換えがきく単なる手段の一つにすぎない。そういう意味では電気などは「たかが電気」なのである。(電気は命を保ち、生活や仕事のために、現代では必要不可欠な手段ではあるが、代替エネルギーがあれば原発などは不要なのである。)
 原発(事故)で漏出した放射能を浴びれば、高齢者は大丈夫でも、子供や若者たちは将来にわたって大丈夫かといえば、そうはいかない。高齢者は残り少ない余生をぬくぬく電気で暖まって生きていられればいいが、子供や若者たちはそうはいくまい。

 赤木氏(今はフリーライターだが国民保険の保険料を納めるお金の余裕はないとのこと)。彼の真意は、とにもかくにも格差・貧困問題にあり、それを何とかしてくれ、さもないとヤンキーに限らず若者たちは戦争に向かい、軍国化を支持して皆ウヨクに向かうぞと警告しているのだと思われる。
 ところが、財界や支配政党(自公)の政府・準支配政党(民主・維新・「みんな」など)は、いずれも格差貧困を拡大する構造改革(規制緩和・民営化・自己責任・市場競争主義)路線と日米同盟を続け、戦争・軍事政策に前のめり、改憲して「戦争をしない国」から「戦争する国」をめざしている。そして若者をその路線に乗せようとしているのだ。ヤンキーやフリターやニートたちが「希望は戦争」などと言ってそれに迎合したら、それこそ支配層の思う壺だ。
 穏やかな現状に甘んじているだけの「平和」に我慢がならないというのであれば、隣国や左翼を敵視・敵対するよりも、「流動化」(格差・貧困の現状打破)は、自国の支配勢力に抗い、被支配勢力の仲間たちと連帯して自らの手で勝ち得るしかあるまい
。向かうとしたら、そっちの方に向かうべきなのでは。

 そう思うのだが、如何なものだろうか。

2013年01月17日

「考える」と「思う」―この国の民主主義を考える(最後の方に加筆)

 作家の池澤夏樹氏は(1月12日の朝日に)「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ。5分間の論理的な思考より1秒の好悪の判断。」「SNS(ツイッターやフェイスブックなど―筆者)が一人一人が発言することを容易にした、・・・それは『思い』であって『考え』ではないことの方が多い。」と書いている。そして今回の選挙について、「さてもゲーム的な選挙であった。」「一個一個の争点をいくら論じてもそれが有権者の投票行動に結びつかない。原発・・・も、TPP・・・も、・・・2%の物価上昇・インフレ政策の是非も、自民党という大きな名前では議論にならない。議論らしい議論は何もなかった。」と。

 ところで、当方の「評論」は、ここでいう「考え」に当たり、「つぶやき」は「思い」に当たるだろう。
 それはさておき、この国の昨今の「民主主義」の実態を考えると、池澤氏のご指摘はごもっとも、という気がする。
 まず、マスコミやメディア。 本来ジャーナリズムの使命は「人々に真実をタブーなく伝えること」と「権力の監視」ということにある。ところが、企業経営で成り立っているマスコミやメディアは企業収益にとらわれ、記事やニュースなども、どうしても「売らんかな」マインドにとらわれ、できるだけ多くの人々(マジョリティー)の好みに合わせ、興味本位(読者・視聴者から歓心を買い、不興を買わないよう)に書かれ、面白いか話題性のある記事や番組が作られて報道・放映される。(デモなど乱闘でも起きないかぎり、ほとんど取り上げられることはないのである。)民間メディアの場合はスポンサーや広告主から下りられたり、NHKの場合は政権与党など政治家からクレームを付けられないように気を使わなければならない。そのため企業や政治権力者におもねる企業・政権寄りか、当たり障りのない「事なかれ主義」的な記事や報道になってしまう。

 政治家も同じで、思想・政策・理論・識見よりも(マスコミやメディアもそれらはあまり問題にせず)、人気・「キャラ(クター)」を売り込み、メディアもその方に焦点を当てる。
 その典型的な権力者・政治家が以前には小泉首相、今は・・・・。
 安倍首相は、以前(01年)、NHKの従軍慰安婦問題を扱った番組にクレームをつけ放送内容を改変させたということが問題になった(安倍氏らは否定、最高裁判決でも不問に付されたが、その前の高裁ではNHK側が「政治家の意図を忖度して当たり障りのない番組にすることを考え改変がおこなわれた」としたことについては最高裁は判断していない。その後、当時のNHK現場職員による告白本も出ており、内部告発者は告発内容を取り下げてもいない。)。
 先日、NHKのニュース・ウオッチ9で下村文科大臣にじっくりインタビューしていたが、幼くして父親を亡くし、母はどんなに貧しくても生活保護を拒んで働き、高校・大学には奨学金で入って文部行政を目指したとか生い立ちなどを紹介していたが、彼が安倍氏と同様「従軍慰安婦」問題の事実否定論者であり反「自虐史観」の立場で歴史教科書の内容に圧力をかけてきたことなど、その思想傾向については全く触れることはなかった。(数日後の同ニュース番組で大阪市立高校の体罰問題でインタビューを行った義家政務官については、かつて「ヤンキー先生」といわれ、高校時代は暴力事件を起こして退学処分になったことがあると紹介していたが。彼が自民党にいて活躍することでヤンキーたちが同党になびくことにもなっているのでは。)
 彼ら政治家にSNS(ツイッターなど)などを通じて寄せる「ネト~」たちの発言(投稿)は、論理的な思考で「考え」ぬかれた意見ではなく、ワンフレーズやショートコメントでキャラが「かわいい」とか「いとおしい」とか「すてきだ」とか、或い彼が批判する相手をバッシングするなど好悪の「思い」や「信念」といっても思い込みでしかないものがほとんど。
 政治家・権力者の方も、SNSは自分を彼らに売り込み、支持者として或いは「親衛隊」のようにして動員する道具として活用される。
 安倍首相は、記者たちからどんな質問が出るか分からず答えに窮することがある「ぶら下がり取材」を拒否し、首相の方から求めた記者会見だけに止め、その一方でSMS(ネット交流サイト「フェイスブック」)でさかんに発信しており、「ネト~」たちの賛同(批判的な書き込みに対しては「非国民」「国賊」などと罵って叩く)書き込みをたくさん得て気をよくしているのだという。(kinkin.tvのパックイン・ニュースのパネリスト山田氏)「ネット交流」とはいっても、対立意見を理解しようとはせず罵り合うだけで議論にはならない。だから「ネトウヨ」の側だけの独壇場となり、「ネトサヨ」の方は引いてしまうということになるのだろう。

 今、マスコミやメディアにしょっちゅう取り上げられ、頻繁に映像が露出され、ツイッターなどSMSで「思い」が数多く寄せられ、人気を得て支持を獲得している政治家・権力者が安倍首相であり、石原・橋下氏らの面々。
 
 しかし、このような彼らの間で行われる政治は、はたして民主主義と言えるのだろうか?
それは真の民主主義からは程遠いのだ。
 「思い」だけで一国の政治を振り回されてはかなわないし、「思い」だけで政治参加をした気になってもらっても困る。(「安倍さん、やってみなはれ」と、1月17日付朝日『社説余滴』に書いていたのは同紙の経済社説担当者の一人。アベノミクスの危うさに批判的な社説に対して「私は意見を異にする」として、安倍首相が「10年以上にわたるデフレからの脱却は人類史上、劇的な取り組みであろう」と述べたことに対して「人生はとどのつまり賭けや、やってみなはれ」というサントリー創業者の言葉を引いて書いているのだ。要するにギャンブル。真珠湾奇襲に始まる対米開戦のようなもの。こんなので一国の政治が振り回されてはかなわない、ということではあるまいか。)
 「『思い』に自信がつき『考え』を排除する。時には多くの人が手近に敵を見つけて叩くというゲームに熱中する。」(池澤氏) それは、かつてヒトラーと彼を支持して集まった若者たち・大衆によるファシズムのようにもなりかねないのだから。
 
 しかし、そんなことにはならないようすることも可能であるし、民主主義を守り生かすことも可能なのだ。
 「思い」には、単に軽薄な思い込み・好悪・愛憎・「むかつく」「楽しい」など気分的・感情的ものばかりではなく、思慮分別・信念・道徳的心情などといった理性的で深い洞察に基づくものもあるし、一概に軽いといって軽視さるべきではない。
 また、SNS(ネット)も、単に安倍首相や橋下維新代表など右寄り政治家と「ネトウヨ」たちだけが活用しているわけではないし、そこが彼らの独壇場になるというわけでもない。 安倍首相のフェイスブック登録者は「日本一」とはいっても、18万人。批評家の濱野智史によれば、「ネットで楽しんでいる人たちのごく少数派にすぎない」という。
 SNSは、首相官邸前デモに集まる人たちが(単に動員されて受身的に集まるのではなく)彼ら自身の「思い」から自発的に呼びかけ合って集まるツール(道具)としても活用されているのだ。
 濱野氏は(12年9月14日付朝日「オピニオン」欄で)政治家のリーダーシップもさることながら、より重要なのはリーダーに付いて行こうとするフォロワーたちのほうで、むしろそのフォロワーシップのほうが重要。それで、「リーダーシップがないから皆が付いていかないんじゃなくて、皆が付いていかないからリーダーシップになってない」のだとも指摘している(「最初のフォロワーの存在が、一人のバカをリーダーに変える」とさえ言った人がいるとのこと)。
 ところで、フォロワーたちが、いわば「思い」を持って発信し集まる人たちだとすれば、リーダー(知識人や政治家)は「考える」人。そこでフォロワーたちは、リーダーに対して、ただ動員されて付いていくのではなく、自分の「思い」をもって彼を推して支えもする。リーダーはそれに答えて、知識・思想・論理をもってよく「考え」、リーダーシップを発揮する。
 要するに、フォロワーシップとリーダーシップが両方相まって運動はうまく、ということだろう。
 このように、「思う」人たちと、「思い」をSNS(ネット)で発信し交流する人たちは、右寄り勢力だけでなく、その対抗勢力(民主勢力)の側にも存在し、彼らの頑張りようによって、右寄り勢力によるファシズムを阻止し、民主主義を守り生かすこともできるのであって、そこに期待をかけたい。
 それにしても、改憲派のリーダーたちに対する護憲派のリーダーたちのリーダーシップ(今、それはあまりに弱い)とそれへのフォロワーシップがもっともっと発揮されることが期待される。
 

2013年01月31日

どこの新聞が役にたつか(加筆版)

 新聞各紙の発行部数ランキング(Wikipedia「日本の新聞」より。部数は概数で夕刊や日曜版を含む)
 1、読売       992 万部            16、スポーツ報知   135万部
 2、朝日       790              17、北海道新聞    116
 3、聖教新聞    550              18、佼成新聞     100
 4、毎日        342               19、デイリースポーツ 99.9
 5、日経        302               20、西日本新聞    81.4
 6、中日        273               21、静岡新聞     69.3
 7、東京スポーツ   242              22、中国新聞     67.2
 8、日刊スポーツ   196              23、神戸新聞     56
 9、西日本スポーツ 196              24、東京新聞     56
 10, スポーツニッポン171              25、京都新聞     51.6
 11, 日刊ゲンダイ   168              26、新潟新聞     49.1
 12, しんぶん赤旗   168              27、信濃毎日     48.6
 13, 産経       162              28、河北新報     48.2
 14, 夕刊フジ     155              29、山陽新聞     45.5
 15, サンケイスポーツ136              30、南日本新聞    36.7

 これらのうち「聖教新聞」と「佼成新聞」は宗教団体(創価学会と立正佼成会)の新聞、「しんぶん赤旗」は政党機関紙。聖教新聞が読売・朝日に次ぎ毎日を上回る部数を誇っているとは驚き。赤旗も産経を上回っているなんて。
 尚、政党機関紙に限って挙げれば、次のよう<2011,1,24付の朝日GLOBE(日曜版)より>。
 1、共産党―「しんぶん赤旗」―公称140万部(日刊・日曜版あわせて)
 2、公明党―「公明新聞」  ―公称 80万部(日刊・日曜版)
 3、自民党―「自由民主」  ―公称 68万部(週刊だけ)
 4、社民党―「社会新報」  ―公称 13万部(週刊だけ)
 5、民主党―「プレス民主」 ―   7万部(タブロイド判、月2回だけ発行)

 実は、政党機関紙なんかでなくても日本の新聞で、どの人にとっても中立・不偏不党な新聞などないし、一般に多数派に偏っている。しかし、色んな人がいて、色んな新聞があってもいい。一般紙でも(スポーツ新聞などは別として)各紙によって政治スタンス(政府寄りか大政党よりか財界寄りか等)がある―社説・論説、取り上げる記事などにそれが見てとれる。
 たとえば、読売・日経・産経3紙と朝日・毎日2紙との間にはやや違いがある場合もある。読売など3紙のほうは改憲派、原発維持派。
 沖縄基地問題では読売など3紙は安保優先派。ただし、朝日・毎日とも安保肯定派であることには違いはなく、日米同盟基軸論、消費税増税もTPP参加も容認では同じ論調。

 人々は、それぞれに好みや利害・勧誘・行きがかりなど色んな理由で、これらの新聞のどれかをとっているか、読んでいるのだろうが、キーポイントは、その人(その立ち位置・生き方・好み・価値観など)にとって、その新聞が、有用で当てになる情報が得られるということと、自分の思いに一番マッチした考え方(論理)が得られるという点で、一番役に立つということだろう。
 当方の場合は次のような考え方をしている。
 一介の庶民として家族・子や孫たちが、暮らし、仕事や勉強、命と健康、自由・人権などの点で将来にわたって安心を得るために有用で確かな情報と自分の思い(護憲・脱原発・脱消費税依存・脱財界優先・脱安保など)にマッチした考え方(論理)が一番得られるのはどの新聞か、ということだ。
 尚、とかく新聞・メディアの多くは時流に乗り(「バスに乗り遅れるな」とばかりに、日中戦争といえば「暴支膺懲」―暴れる「支那人」を懲らしめよ、日米開戦といえば「大東亜戦争」、戦後は安全保障といえば日米安保、原発といえば「原子力平和利用」、政治改革といえば小選挙区制、郵政といえば民営化、増税といえば消費税、といったように)、人々は時流に流されることが多い。但し、一つだけ、戦前からずうっと立ち位置(誰の―どういう階層―の立場に立っているか)がはっきりしていて一貫した理念を持って、反戦・反軍国主義・反安保・反原発・反消費税を貫いてきた新聞がある。その新聞の考え方(論説・論調)を基準にして見てみると、あれこれの新聞・メディアの論調がどれだけ右(保守)寄りか左(リベラル)寄りかの度合いを見分けることができるわけ。そういう新聞があるとすれば、その新聞は貴重な存在だろう。
 ところでkinkin.tv―それは新聞ではなくインターネット・テレビなのだが、俳優の愛川欽也が主宰してやっている。その中のパックイン・ニュース。去年の3月まではCS朝日ニュースターで毎週土曜日「パックイン・ジャーナル」という番組名でやっていた。愛川氏が司会して5名のパネリストとともにその週の時事問題を論じ合う討論番組。16年間続いてきた番組だったが、朝日ニュースターでは、それが打ち切られてしまい、視聴者から延長の要望があって愛川氏が急きょ自らTV局を開設してインターネットで流し続けてきた(有料視聴)。愛川氏の立ち位置は護憲・リベラル。当方などにとってはたいへん役にたつ番組だったが、この3月で打ち切りとのこと。残念でならない。

2013年02月01日

2月のつぶやき

●恒例の雪灯篭祭りも終り、道路の大掛かりな除排雪も終わったから、あとはもう、と思いきや、また降り積もった上に今も横殴りに雪が降りしきっている。女房は今日もスノーダンプで「えんやこーら」・・・・・
 「ご苦労なこったな」とつぶやく当方を、「つぶやくしか能がないのか」と口説く女房。「せめて自分の買い物ぐらい行ってくんだで!ワインと歯間ブラシついでにパン一斤もな」「ハイハイわがったよ」
吹雪を突いて歩道に積もった雪をこいでスーパーへ。ほうほうのていで帰ってくると、女房は未だスコップをもって外にいた。「孫のために雪像つくってやっか」というと、「そんなことやってる場合か、たくもう」と。
 それにつけても、よく降るもんだ。
●今は毎日、孫たち兄妹弟とその親たち、彼らに世話をやく女房を見るにつけ「体罰・いじめ・虐待」問題を考えさせられ、かつて自分がやってきた子や生徒たちへの対応を反省しつつ、考えながら孫に接している。「じじ、また怒った」「怒られるようなことをすっからだごで!」、「ほーら、怒ってばっかり・・・」「んー・・・」
●体罰問題について評論を出したが、かく言う自分には苦い体験がある。生徒や我が子・孫に対して。「停学とビンタのどっちがいい?」と言って、「ビンタがいいっし」と答えたのでバシっとやった。彼らとOB会で飲むとその思いで話になる。
 外部講師の講演中にいちばん後ろでヘラヘラ私語を続ける生徒を怒鳴るわけにもいかずゴツンとやったら骨折。当方の手が。(つぶやき)「ちくしょう!なんという石アタマ、いや自分の骨のもろさよ」。
●血圧の薬がもう一個追加されて一週間になるが、どうやら150以下に下がった。塩分はなるべく控えることにして、醤油の替わりポン酢。
●市内唯一の映画館(ワーナー・マイカル)で「レ・ミゼラブル」を見てきた。洋画でミュージカル、字幕スーパー。歌唱・音響・迫力などに湧き上がる感動を味わえた。
 少年の頃、読んだか講談社の「ああ、無情」。高校生の頃は映画があった。ジャン・ギャバンがジャン・バルジャン、コゼットがマリア・シェル、マリウスがアラン・ドロンだったと思う。テレビ映画―アンソニー・パーキンスがジャベール警部―もあって、ダビングしたビデオを、学校で生徒に何回も見せた。
 小学生の孫には、去年、本を買ってやっていたが、熟読してはいないだろうし、洋画でミュージカルのこの映画はやはり無理かな。
 家のテレビ(Bsプレミアム)で「警察日記」を見た。昭和30年の白黒映画。森繁久弥・三国連太郎・殿山泰冶、十朱久雄・三島雅夫・東野英次郎・伊藤雄之助・沢村貞子・左卜全・多々良純、子役で二木てるみ、それに初デビューの宍戸錠などの面々。なんとも懐かしい。あの頃、親父も自治体警察の警察官だった。
 映画は、磐梯山の景色を背景に、町の警察署に展開する人間模様―警察の「厄介」になる庶民(万引き・無銭飲食・捨て子・人身売買など)とそれに対応するお巡りさんたち―を人情味豊かに描いている。アタマがおかしくなった元校長先生―「戦闘帽」とゲートル(足に巻き付ける)姿で、空を飛び去る鳥を見てはメガホンで「空襲警報、解除」と叫び、自衛隊に入隊する若者と駅のホームで見送る人たちを見ては後ろで小旗を振って「バンザーイ」と叫ぶ。ボンネットバスに花嫁が乗り車内で酒がふるまわれ、運転手もハンドルを片手にしてごちそうになる・・・・・なんとも平和な時代だったんだな。
●サラリーマンの小遣いは月平均4万円弱(30年前と同じ水準。ピーク時バブルの頃は7万円台だったそうな)。今のこちとらの小遣いは?先月はスナックに一回(付き合いで)。孫たちに小さなお土産。高い本一冊。インターネット代(毎月5,250円)、新聞代、あとは医者代。もう一つインターネットのkinkin.tvの視聴料(月1,050円)もあったな(3月で放送打ち切りなのに、6月までの半年分振り込んでしまった。払い戻ししてくれるかな・・・)
●血圧がやはり高い。定期健診で血糖値・コレステロールはまあまあだが、血圧が高く、医者に確かめて薬を服用することにした。コレステロールの薬は以前から飲んでいるが、血圧の薬も一粒づつ飲み始めて一週間になるのに、まだ高い。今、昼飯前だが160以上もある。朝は170。1つじゃ足りないのかも。
 いったい何でだろう。女房は「イラついてばかりいるからだべ」というが。

2013年02月14日

体罰・いじめ・虐待の根本原因(再加筆版)

(1)「体罰」・「いじめ」とは―定義
 「体罰」とは―学校教育法(11条)では―物理的行為(外形力)によって身体に苦痛や傷害を与える懲戒―それは禁止
 例―殴る、蹴るの類
   長時間にわたって正座・直立など特定の姿勢を保持させる―ただし、その場合は教室内か炎天下・寒風下か、時間的環境など種々の条件を考え合わせ、合理的限度を超えない限り機械的一律には禁止されない。
 文部省初等中等教育局教務関係研究会編の「教務関係執務ハンドブック」では―軽く叩くような行為は、教育的配慮に基づくもので、校長や教員が単なる怒りに任せたものではない限り、いわゆる「愛のムチ」として許される、としている。
 児童・生徒に対する懲戒は体罰以外は認められる。ただし、義務教育では授業に出さない(学習権を奪う)などのことは、他の児童・生徒に対する健康上・教育上(授業を妨げるなど)悪い影響を防ぐため以外には許されない。   
 「いじめ」とは―文科省では―①肉体的・精神的・立場的に自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃(暴力、いやがらせ)を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。
 「いじめ」か否かの判断は「いじめられた側の立場に立って行うのが原則。
(2)反省点
①日本では、それがどこの国でも当たり前にやられているスパルタ式教育だとか、日本の伝統的な「修行文化」でもあるかのように思い込んでいる向きがある(石原慎太郎氏のスパルタ教育論や橋下大阪市長の「教育は2万パーセント強制だ」等の言説に迎合する向きがある)が、そのやり方・考え方には錯覚があること。
 スパルタ式教育―軍隊式教育―は親と子、教師と生徒、施設職員と入所者、先輩と後輩、強者と弱者が上下・力関係、権力・服従依存関係になっている。養育・教育は愛と人格の尊重・信頼関係によって成立するのに、それを上下・力関係(権力と服従・依存関係)で成立するものと錯覚―対話・説明ぬきで一方的に指示・命令、思い通りやらないと怒鳴るか、手か足が出る。
 日本ではそれはいつからのことか―政治学者(慶大法学部准教授)の片山杜秀氏によれば―日露戦争以後、軍隊で(欧米列強に対して武器弾薬・装備・工業生産力それに兵士の体格で劣る戦力を精神力(「大和魂」)でカバー。「やる気」を示さぬ者に体罰を加えれば、痛いのが嫌だから必死になり、言うことを聞く等といった効果(効率性)を活用。大正末期からは一般学校でも軍事教練で多用されるようになり、太平洋戦争中の国民学校時代に頂点をきわめた。戦後、軍隊は無くなったが、暴力的指導の伝統が残る。体格で勝る外国人と張り合うスポーツ界でも、体力不足を気力で補い、個人の迫力では劣っても、集団でよく統率されれば勝てる、といったところから根強くの残る(2月19日付朝日「文化」欄)。
体罰は「愛のムチ」か「いじめ」か。それは体罰を受ける側(子ども・生徒・入所者・選手)がどう感じ受け止めるかだ。体罰を加える側(親・教師・施設職員)はとかく「愛のムチ」のつもりでも(全日本女子柔道の辞任した監督も「一方的な信頼関係だった」と)、相手がそう思わなければ単なる「制裁」或いは「いじめ」ということになる(女子柔道日本代表の選手たちの声明文には「前監督の暴力やハラスメントで心身ともに深く傷ついた」「信頼関係が決定的に崩壊していた」と)。
 「愛のムチ」を感じて「よかった、いい先生だった」と思う子どもも中にはいるが、反対に、それで傷つき、自信を失い、大人に不信感を持つようになる子どもが多くなるのも事実だという(精神科医・明橋大二氏―精神医学的には、体罰は一時的な効果はあっても、長期的には、「その時は親の命令に従うが、成長した時『攻撃性が強くなる』『非行など反社会的行動に走る』『精神疾患の発症』などリスクが高い」と―1月24日付朝日『スポーツと体罰』)。
指導法として体罰は「100回説教するより一発で効く」手っ取り早い効率的な方法ではあるが、自ら考えさせ気付かせるプロセスを省く安易な方法(動物の調教と同じ)(体罰をする側も受ける側も思考停止してしまう)。
 指導法の中には、体罰(暴力)・暴言とは言えない叱咤激励や目を覚まさせる軽い叩き(座禅でうつらうつらすると御坊様が「笏杖」で叩くように、或いは「気合を入れる」とか、「ハッパをかける」とか「喝を入れる」とか―「こら!」「バカ野郎!」「いい加減にしろ!」などと怒鳴ることも)やペナルティー(「立たせる」とか、「グランド一周」とか、「腕立て伏せ」・「草むしり」とか)を課することはある。それにも程度には限度があり、あくまでも愛と信頼関係が成立していることが前提―それなしに生徒や子どもに不信・敵対感情があれば、それは反発・反抗をまねき、教師の方が殴られたり暴言をあびるといった結果にもなる―殴り返せばケンカ(「畜生!やりやがったな」、そこにあるの怒りと憎しみ)にすぎないことになる―それで相手がおとなしくなって言うことを聞くようになったとしても、それは力に屈したということであり、動物の調教と同じ、強制と服従。それは教育指導ではない)。
 古賀稔彦氏(バルセロナ五輪柔道金メダリスト、引退後、柔道指導者に)がモットーにしている指導者像―教える相手の「話を聞き、自分を受け入れてくれる」指導者―「話を聞き(言葉のキャッチボールで)、この人なら何でも(悩み・不安をも)話せるという関係を」築き、「選手みずから考え、工夫する自主的な力」を大事にしてサポート―ダメなところ、悪いところがあると言葉で伝える―そうすれば相手をよく観察し、きめ細かく指導できるようになる。殴って指導したら、それができなくなる―と。
④親・教師・施設職員には子ども・生徒・入所者の生命・身体を「いじめ」・体罰・虐待などから守る「安全配慮義務」は最優先義務。なのに「いじめ」体罰・虐待など不祥事が発覚すると学校や教師自身、施設や職員自身の評価が下がることを恐れて隠ぺいし、事なかれ主義になりがち。そのような組織防衛や保身などはあってはならない。
⑤日本社会に根強い体罰肯定の意識―社会全体(指導者・親・子ども・選手・一般人)が体罰否定の意識改革が必要―さもないと自分だけ、或いは一部の人たち(教師たち)だけがその気になっても、周り(生徒や保護者)に「それでは甘い」とか「もっと厳しく体を張って指導に当たるべきだ」などといった体罰肯定の意識があると、体罰を用いない指導者はかえって「不熱心だ」とか「手抜きだ」とか不信感をもたれてしまう。そのような観念は間違っており、教育やしつけに体罰を用いる方が邪道(柔道の山下氏によれば「最低の指導法」、野球の桑田氏によれば「最も安易な方法」、柔道の古賀氏によれば「指導の放棄」)なのだ、という観念に改めるようにしていかなければならない。
(3)対策―①自民党の「いじめ防止対策基本法」案に「何人も児童らをいじめてはならない」とか「通報」義務・「相談」義務とか「懲戒」などの罰則を定めて法により規制、厳罰、管理強化へ。
 尚、厳罰主義には子どもの鬱屈した心をさらに歪め、いじめを陰湿化させるという問題がある。
 「いじめ」行為に関する法律は既にある―「殴る・蹴る」は傷害罪(刑法)
                  「使い走り」は強要罪(刑法)
                  「無視・仲間外れ」は人権侵害(民法上の不法行為)  
   ただし警察は子どもの教育や更生の機関ではないので過度に依存することは適切ではない 
 ②道徳教育の徹底
 ―文科省は「心のノート」の再配布を企図(民主党政権では配布をやめていた)。
  自民党の中曽根弘文参院議員会長は「守るべき徳目を列記した現代版『教育勅語』のようなものを作成すべきだ」と(―忠君愛国教育)。
 安倍政権―「教育再生実行会議」―「道徳」の「教科」化へ―道徳教育は特定の時間のみで行われるものではなく、学校生活の中で、現実生活に即して子ども自身が考える中で育まれるものなのに、道徳を教科にすれば、国が検定する教科書などで、時の国家や政府の特定の価値観(愛国心や忠孝道徳など)が押し付けられることになる。
③スクールカウンセラーの活用、「いじめ専従教員の配置」、「いじめ防止センター」(文科省などからは独立、教育・心理・医学・法律などの専門家で構成)の設立の案も。
④教育委員会制度の改革企図も―首長や国の関与を強めるなど
 しかし、教育委員会が時々の政権や首長から(その意向にいちいち左右されることのないように)政治的独立性・中立性を保持しつつ、その本来の役割をしっかり果たすことこそ肝要。

 これらの表面的対処療法的な対策もしくは法的・道徳主義的な管理対策だけで、根本原因にメスを入れることなくしては真の問題の解決にはなるまい。

(4)根本原因(背景)―日本社会の異常
   競争の激化、格差・貧困の広がり(貧困ライン以下の家庭で暮らす子どもの割合は15%で、先進工業国35ヵ国中9番目の高さ)
   心の貧困化(精神の荒廃、時間的・精神的ゆとりがない)
           子どもも忙しく遊ぶ暇がない
           プレッシャーからイライラ(焦り)が募るストレス社会→「荒れる」
    家庭では子育て・養育に異常  施設では入所者虐待  職場ではパワハラやセクハラ
    学校教育にも異常を来たす―過度な競争教育(国連・子ども権利委員会から日本政府は
                          再三、指摘、改善勧告を受けている)
           国際的な調査では「孤独を感じる」という子どもの割合が日本はダント
             ツに高く、「ありのままの自分がいい」という自己肯定感も低い。
          クラス内にグループ間の力関係による階層・序列が形成―東大大学院生の鈴木翔氏は「スクール・カースト」と称して、その実態を論じている―「『生きる力』・『積極性』などの能力の差で分かれ、上位グループは賑やかで気が強くてクラスに影響力があり、席替えで我ままを通せるなど学校生活を有利に過ごせる一方、『下』の生徒は『上』のグループを恐れ諦めの感情を持つ。いじめとは違う、普通の子がうまく言えない悩みや息苦しさが教室内に」と(2月20日付け朝日「教育」欄)。
          受験競争、合格率で学校間競争・教師間競争
          企業人材教育―競争に耐え我慢強く従順な人材を歓迎      
          部活―勝利至上主義
      社会人スポーツ界でも―柔道界では「金メダル至上主義」(柔道全日本女子の辞任した監督いわく、「焦って急ぎすぎた。急いで強化しなくてはいけないと、たたく方向性になった」と。)
    競争・成果主義―効率優先、短期的成果を追い求める(限られた時間の中で成果を出さなければならない)。
          ―①学校の大規模化(「顔が見える指導」がしにくくなる)
           ②教師の多忙化―受験指導・生徒指導・部活指導や雑務に追われる。
 その結果、子どもも親も教師も歪む―子ども一人ひとりの個性・能力に応じ、じっくり腰を据えて根気強く教え諭す余裕がなくなる。
         (この2点は大津いじめ事件第三者調査委員会の報告書でも指摘)
 今、問題の根本的解決に必要なのは、このような競争・成果主義教育体制からの脱却―欧米のように、入試制度をなくして全入制をめざすこと。学校の大規模化をやめ欧米並みの少人数学級にすること(20人学級、とりあえずは35人学級)。教員を増員し授業や生徒との交流以外の雑務の解消をはかること等であろう。
 根本的には弱肉強食の競争社会から生ずる「いじめ」の風潮をなくし、人間的な連帯のある社会(「いじめ」を止める人間関係)をめざすこと。
 「教育は愛と信頼関係で」などというのはきれいごとだ、といった皮肉な見方をする向きが少なくない日本社会の風潮にこそ問題があるのであって、 「教育は強制と競争」だなどという固定観念の方こそ間違っているのだ。

2013年03月01日

まずは交渉に入ること―対中国・対北朝鮮

 憲法上の日本国民の決意―「二度と戦争はしない」の確認から―軍事的手段に訴える選択肢なしと
 実際問題としても、現代戦争は勝っても負けてもよい結果を生まず、惨害と遺恨を残すだけ。戦争で決着をつけるという問題解決こそが非現実的なのだ。
      交渉なくして経済的・軍事的圧力だけでは解決つかない。

中国に対して
 1972 年日中国交正常化(周恩来・田中会談)、78年日中平和友好条約(鄧小平・福田会談)以来、尖閣は中国側としては中国領であることを認識しつつも、日本による実効支配の現状を容認し、これを軍事力で変更するようなことはしないという暗黙の了解(事実上の棚上げ)で合意してきた。
 2010年(尖閣沖で中国漁船と海保巡視艇の衝突事件があって)前原・当時外務大臣は国会等で「棚上げは中国の主張。日本は同意していない」と答弁
 2012年、石原・当時都知事が尖閣(個人所有だった島)を東京都が買い取ると言明。それに対して野田・当時首相は国が買うと(国有化)決定。それに対して中国側が反発、島は中国領だと主張、監視船を尖閣海域にくりだし、日本側が主張している領海と「接続水域」に侵入を繰り返し、海保巡視艇とにらみ合い(互いに監視・警告)―長期化・常態化(毎日のようにそれがニュースになっている)。
 本年1月30日には中国海軍フリゲート艦が日本海自の護衛艦に照準用レーダー照射(日本側が抗議、中国側は事実を否定)―安倍首相「一方的な挑発行為」と非難。「事態をエスカレートさせないよう自制を求める」、「中国は戦略的互恵関係の原則に立ち戻るべきだ」としつつも、「領土・領海は断固として守り抜く」と言って、予算も防衛費を増額。
 (尚、レーダー照射については―軍事アナリストの田岡俊次氏の見解―冷戦時代の米ソ間では、互いに砲を向けたり、サーチライトやレーザー光線を当てたり、通信妨害をしたりの「嫌がらせ」「突っ張り合い」はしょっちゅうあって「海上事故防止協定」結んでそれらを禁止することにした。英仏など他の主要国もその協定を結んで、日本も結ぶようになったが、中国は結んでいない。それにその協定の禁止項目にはレーダー照射は入っていないという。)

 マスコミは日中間で「情報戦」「心理戦」に入っていると。
 軍事評論家は軍事衝突すれば日中どちらが勝つかと解説―自衛隊関係者は「短期間の局地戦ならば日本が優勢」と(①艦艇などの装備が優れている②パイロットの飛行時間が中国より長く練度が高い③米軍との連携など)。これに対して中国側は「日本側は中国軍のミサイルの威力を考慮していない」とし、両国で海戦になった場合、最初に自衛隊の基地や港をミサイルで破壊して、戦闘能力を失わせる等の見方をしている。(朝日2月4日「中国軍解剖」)。日本の軍事評論家の中にも、配備・保有機数からみて日本側が東シナ海の制空権・制海権を握るのは難しいと見る人(田岡俊次氏)。
 元外交官・防衛大学校教授の孫崎亨氏(著書「不愉快な現実」講談社現代新書)は「自衛隊独自では中国軍に対抗できない」、それに「中国が尖閣諸島を占拠しても、米軍は出てこない」(中国は台湾を念頭に少なくとも戦闘機330機、駆逐艦16隻、潜水艦 55隻を配備している。そうした状況では自衛隊にとてもこれに対抗できる力はない。中国のミサイル(80 の中・短弾道弾、350の巡航ミサイル)は嘉手納・横田・三沢など在日米軍基地を破壊できる。滑走路が破壊されれば、戦闘機は機能しない)と書いている。

 アメリカは「尖閣は日米安保の対象」とは言っているが、いざとなった時、尖閣のために命がけで戦ってくれるかといえば、それは疑問。中国はアメリカにとっては経済的に日本以上に大事なお得意様であり、軍事トラブルには巻き込まれたくないと見られる。
 日米中3国の力と利害関係―GDPは、2010年、中国は日本を追い抜き、2020年にはアメリカを追い抜き、軍事力(軍事費・技術水準)でも追いつく可能性。
 アメリカの対中輸出は対日輸出を大きく上回り、対中債務も対日債務を上回る。一方、中国の日本への輸出はアメリカ・EU・ASEANへの輸出を下回っている。

 危険―現場における軍の暴発→武力衝突(一触即発)の危険があることは事実
 両国関係悪化―外交チャンネル(対話・協議)は日本政府の尖閣国有化以降、中断。経済的・文化的交流が著しく後退(貿易・観光など激減)。

 日本側は自民党政権→民主党政権→安倍・現政権を通じて「尖閣は日本固有の島であって日中間に領土問題は存在しない(だから交渉の余地なし―筆者)」と。
 しかし、国際的に日本領と認知されているわけではなく、アメリカも1996年以降一貫して「尖閣諸島の主権問題では日中のいずれの立場も支持しない」としており、現実には「係争の地」。

 「領土問題は存在しない」などと言って交渉を突っぱねるような(施政方針演説では「私の対話のドアは常にオープンです」とも言っているが、中国側からは尖閣問題の交渉なら「門前払いだよ」と言っているように受け取られ、「日本は思い上がっている」と反発を招くような)そんな言い方をせずに、領土問題が現実に存在することを認め、国際司法裁判所への付託をも含めて交渉に入るべきなのではないか。
 その間は両国ともに以前の日本側の実効支配の状態に戻るようにして、日本側は島に施設の建設、公務員の常駐などは行わずに、海保の巡視活動だけに留め、中国側は今やっているような監視船を頻繁にくり出して日本側実効支配海空域に侵入することを控える。そうして物理的・軍事的対応を控える、ということにすればいい―そう思うのだが。

北朝鮮に対して
 北朝鮮の為政者にとって、ひたすら求めてやまない究極目標は「その生存が直接脅かされないこと」即ち国家及び政権が崩壊させられる恐れのないようにすることであり、その(「生存を直接脅かされない」という判断を下せる環境を整えてゆくことなのだろう。
 北朝鮮にとってその最大の脅威はアメリカ―アメリカとは朝鮮戦争は、休戦協定は結んでいるが平和協定は未だに結んでおらず、戦争は終結していない。なので、アメリカとその平和協定を結び、安全保障を得ること、そして国交正常化し、両国間の貿易・経済関係を盛んにすること、それこそが最大の要求。その安全保障が得られない限り、核兵器を「抑止力」として開発・保有するしかないと。
 日本に対しては戦前来うけた植民地支配の清算、戦後補償を要求。

 これに対してアメリカは北朝鮮が核・ミサイル開発・計画を放棄することがまず先だとして平和協定などの交渉には応じない。
 日本は核・ミサイル放棄とともに拉致被害者の解放を要求。

 05 年6ヵ国協議の共同声明―北朝鮮は「すべての核兵器と既存の核計画を放棄」、アメリカは「北朝鮮への攻撃・侵略の意図ない」と約束。ところが06年、北朝鮮は核実験を強行。 これに対して国連安保理が制裁決議
 09 年、北朝鮮は再び核実験、国連安保理も再び制裁決議
 12年2月、北朝鮮が核・ミサイル開発を凍結すると。ところが、「ロケット」発射実験(二度)―北朝鮮側は、それはミサイルではなく衛星ロケットだと。それに対してアメリカ・日韓側は「長距離弾道ミサイル」に違いなく、国連制裁決議違反として非難。
 それに反発(日韓などの衛星打ち上げやアメリカの核実験を禁止せず、北朝鮮だけ安保理制裁決議するのは、「二重基準の極致」であり「国際法違反」だと)アメリカの「敵対行為」に対する「断固たる自衛措置」だと)して13年2月には核実験(三度目、ミサイル弾頭用に小型化)


 日米韓側はそれを北朝鮮の常とう手段の「瀬戸際外交」だとして、交渉には応じず。
北朝鮮は軍事的対決しかなくなっている。(これからも核・ミサイル実験を重ねると。)

 対話・交渉はすべて中断―互いに圧力(制裁・挑発行為)一辺倒
 拉致問題は全く進展なし。

 日本が北朝鮮に対して求めるもの、必要不可欠とするもの―北朝鮮が①日本を攻撃しないこと、核開発を行わないこと。②拉致被害者を解放すること。
 日本は北朝鮮からの攻撃抑止のために自分の側の軍事的抑止力(日米同盟・日米韓軍事演習・ミサイル防衛、敵基地攻撃力など)にしか知恵をめぐらさないが、それは相手にとっては軍事的圧力としか映らず、反感を招く。
  
 選択肢は交渉しかない。(「交渉こそが抑止力」、それは中国に対しても同じ)
 日本がとるべき政策―北朝鮮の生存を直接脅かさないこと、その環境を整えていくこと、そして不信感を解くこと―できるだけ早期に関係正常化―国交を結び、経済関係―相互依存関係を深め、日本に軍事攻撃を行ったら大損するという関係を結ぶこと。
 日本が、今やっていることは、その逆(経済的・軍事的圧力一辺倒)。

 北朝鮮にはアメリカ・日本に対しても根強い恐怖感・不信感があり、そのために核にしがみつく(北朝鮮にとっては、核は唯一のカード)。
 その北朝鮮に本当に核を放棄させるためには、国際社会が本気で「核なき世界」実現をめざして、全面的な核兵器禁止条約(国連総会では圧倒的多数で可決している)を実効あるものにして、そのうえで「われわれは、もう核を捨てる。だからそちらも捨てなさい」と言うしかないのである。
 幾度か対話・合意があったにもかかわらず北朝鮮側が違反を繰り返して御和算にしたことに対する制裁(武器輸出の禁止や関係する個人や団体の資産凍結などの措置)はやむをえないとしても、それをやるなら①国際社会が一致して、抜け穴のないように実効性をもって行うこと、②制裁は体制(政権)を崩壊させるためではなく、核を放棄させるための交渉のテーブルにつかせるために行う、ということにすべきだ。
拉致問題も、交渉なくして解決はつかない。

●「断固として」「毅然として」とか「強い日本」とか、強がりの言葉と物理的・軍事的対応ばかりの事実上圧力一辺倒ではらちがあくまい。(拉致問題でも、蓮池透氏は日本政府の事実上の圧力一辺倒を批判している。)
 中国に対しても、北朝鮮に対しても、まずは交渉、それ以外にない。


3月のつぶやき(随時、上に加筆)

●安倍内閣支持率―7割も(朝日は65%)・・・・・・・・ああ、アベバブル
 危機迫る―北朝鮮危機、沖縄の基地移設、改憲、TPP参加、原発再稼働・・・・・
                               ああ、アブナイカク
●朝日世論調査―政党支持率―自民党44%、民主 6%、公明 3%、維新2%、みんな2%、共産2%、その他0%、支持政党なし35%
 参院選で投票する政党―自民47%、維新12%、民主9%、みんな6%、公明4%、共産3%、生活1%、社民1%、その他2%、分からない15%
 安倍首相の経済政策に期待できると思う人65%
 一大政党をとりまく翼賛政党がほとんどで、世論は安倍自民党とその翼賛政党に傾き、改憲派が3分の2を上回りそうだ。はてさて、この国の民度はいったい・・・
●トップ写真に載せたが、大震災犠牲者の追悼式、復興のつどい、加藤登紀子コンサート。いずれも主催し取り仕切ったのは井上君・新関君ら(当方が学校いた当時、生徒だった卒業生)。彼らは阪神・淡路震災当時立ち上げて支援活動したボランティア山形の中心メンバーであり、東日本大震災でも直後から米沢を拠点とする官民支援活動を主導した立役者といってよい。たいしたもんだよ。
 追悼式・復興のつどい、ともに会場は置賜文化センター。そこは、大地震があったあの時、当方はその一室で、ある会合に参加していた、その同じ建物。会合を中断して外に飛び出したが、おさまったと思って、また中に戻って再開。携帯を借りて家に連絡をとろうとしたが繋がらない。早めに切り上げて帰宅の途についたが、車はやや渋滞。家に着いて中を見ると、女房と孫たちは震災報道中のテレビを見ていて無事、棚に並べてあった置物が幾つか倒れ落ちていたが、たいしたことはなさそうだ、と安堵したものだ。
 あの大震災があったこの日、ニュースに、ある町では防災・避難訓練が『震度5強』を想定して執り行われたとあった。女房、つぶやいていわく、「あの時米沢は『震度5強』だった。こっちは孫と飯台の下にもぐって震えていたというのに、そっちはいつまでも会合を続けて帰ってくっちゃねがったもな」。また口説かれたか。
●北海道のオホーツク海に面した町で猛吹雪。父親がうずくまって娘を抱き温める姿で亡くなり、娘が生きて発見された。夕食時、テレビでそのニュースを見ながらその子と同じ年頃の孫娘に語った。「母親は一昨年亡くなっていて父子二人暮らしだったんだって。その子はこれから一人で生きていかなてはならないんだな・・・・・お前は大丈夫だ、爺ージがいるから」と。それにつけても、夏音というその子、生き抜くんだよ!そして我が孫も夏音ちゃんのことを思って逞しく!
●孫が「何これ」「ゴジラって何?」というので、ゴジラ映画のビデオを見せた。
 すると画面に原発地帯の風景が出てきて、そこをゴジラがのし歩き、原子炉建屋を壊して炉心を抱え上げて放射能を吸引している様子。頭上を渡り鳥が飛んでいくと、それに誘われてゴジラは去ってゆく・・・、という場面が出てきた。
 福島原発のあの光景を連想した。なんと、ゴジラ映画には原発の危険を見せつける警告の意図も込められていたんだな。
●雪ゴジラの口に蝋燭を立てようとして梯子をかけて上がったら、星明かりに白い鳥の群れ十数羽が雁行をなして飛んでくるのが目に入った。雪像を撮ろうとしてポケットにデジカメを持っていたが取り出して構える間もなく消え去って行った。夕闇に北の方へ飛んでいくのは白鳥か、雁行をなしていたからハクガン? 
●例年にない2月末の大雪。雪像の制作に挑んだ。ゴジラ。かつて高校在職中、上杉公園周辺で模様される雪灯篭祭りで、野球部の1年生を率いて作ったゴジラのことを思い出して。
 まずは、女房の頼みに応じて横穴掘りから始めた。「かまくら」ではなく、収穫して畑に埋めておいた大根を掘り上げるためだ。それを果たし終えた後、創作に取り掛かった。
 隣近所では屋根の雪下ろしに余念
きたのほうへがない様子。冷たい眼差しを気にしながら、孫のためならエンヤコーラ・・・・・・よく頑張ったもんだ。

2013年03月13日

北朝鮮の核・ミサイル開発の目的は?(修正・完成版)

 3月7日国連安保理は北朝鮮が先月強行した3度目の核実験を非難して経済制裁を強化し、各国にその実施を義務付けた決議を(中国を含む)全会一致で採択した。(ただし、その決議には「対話を通じた平和的で包括的な解決」を促進し、「事態を悪化させるいかなる行動も控える」とも。)
 ところが11日、米韓は合同軍事演習(「キー・リゾルブ」、その後「フォール・イーグル」も)を(定例のものだとしながら)開始(韓国国民からは、この演習に反対する抗議の声が上がっている。尚、韓国は1月30日に人工衛星搭載ロケット打ち上げを3度目にして成功。2月13日には、「北」の核実験を受けて北朝鮮全域を射程とする巡航ミサイルを実戦配備、それに加えて射程を延長した弾道ミサイルも開発を加速化することを明らかにしている)。
 北朝鮮はこれらに反発して朝鮮戦争の休戦協定は「白紙化された」「今や戦時態勢にあり」と宣言し、南北不可侵合意も破棄するとして板門店の南北直通電話と国連軍との電話回線を遮断した。朝鮮半島の緊張がエスカレートしつつある。・・・・・・・「レッドライン」を越えた?
 
 そもそも北朝鮮はいったい何が目的でそんなことを。
 3月12日付朝日は、11面に、見出しを「北朝鮮、緊張演出」として次のようなことを書いている(貝瀬記者)。
 北朝鮮は「今後、体制保障に向けた交渉に米国を引っ張り出そうと、緊張を極限まで高める『瀬戸際』の駆け引きに出ると見られる。」「北朝鮮の目標は休戦協定を平和協定に転換し、体制保障を勝ち取ることだ。そのためにはカギを握る米国を交渉に引き出すしかない。北朝鮮はこれまでも核開発などで緊張を高めることで、米国を協議に応じさせてきたが、目標は実現できていない。
 今回協定の白紙化を宣言したのも、緊張を高める戦略の一環だ。」
 「韓国政府関係者は『最初は領海内での射撃や短距離ミサイル発射などで様子を見て、徐々に脅しを強めていく可能性がある』とみる。大陸間弾道ミサイル級と推定される新型ミサイルの発射実験や、さらなる核実験の可能性を指摘する声もある」と。
 つまり北朝鮮の目的は平和協定と体制保障なのだというわけである。 
 国力(経済力・軍事力)の弱小な北朝鮮にとっては、その(体制保障の)保証がないかぎり、「核抑止力」以外に国家(体制)を守る手段はないと思っている(「イラクのサダム・フセインは核兵器を持たないばかりにやられた」と)。だから、ただひたすら核ミサイルにすがりついているのだろう。
 ところが、アメリカには北朝鮮のキム独裁政権の体制保障などしたくないし、こんな国との国交正常化などどうでもいい、撃つなら撃つがいい、北朝鮮のミサイルなんか、どうせ大したことはない(韓国や日本には多少の被害はあってもアメリカは大丈夫)との思いがある(とみられる)。
だから日米韓側はこの北朝鮮が望んでいる平和協定・体制保障などのことには取り合わず、ただ「挑発行為は許さない」と言って突っぱねるのみで、もっぱら経済制裁と軍事的圧力の強化でしか対応を見せていない。安倍政権は北朝鮮と中国の軍事挑発・軍事脅威に対抗しなければならないとして、ひたすら日米同盟体制の強化―普天間基地は名護市辺野古に移設強行を企図、オスプレイを自衛隊にも導入企図、集団的自衛権の行使(米軍への協力のための武力行使)容認に加え、国連の集団安全保障(「国連軍」)への参加を企図。それにプルトニウム生産のための原発維持も。

 北朝鮮は、強がりは言っても戦争になれば、たちまち惨敗して体制崩壊することは分かっているだろう。だからと言って戦争しないわけでもあるまい。追い込まれれば苦し紛れに「窮鼠猫をも噛む」で「破れかぶれ」になって先制攻撃の挙に出、戦争に突入することはあり得る。
 それに対して米日韓の方はといえば、「戦争になったらなったでかまわない。負けることは絶対ないし、楽勝できるという余裕があるので、何が何でも戦争は回避し、平和協定と体制保障の交渉に応じなければならないという切実感はない」。
 しかし、戦争になれば、ワシントンが「火の海」になることはあり得ない?としても、ソウルが「火の海」になることはあり得るし、日本が戦災に見舞われることもあり得る(もしかして既に実戦配備している中距離ミサイル「ノドン」或いは「ムスダン」が日本のどこかの原発か東京などに飛んで来ないともかぎらない)。
 
 米日韓側は、(イランの核開発とともに)北朝鮮の核開発に対しては「直ちに放棄」ということにこだわるが、アメリカの核は(中ロ英仏の核とも)全く度外視している。
 それに、北朝鮮とともに中国の「脅威」に対する「抑止力」が必要だとして、中国や北朝鮮との間に緊張があることによって、その脅威・緊張を、アメリカはアジア戦略上の軍事覇権(圧倒的な軍事力)維持に利用でき、日本も日米同盟体制の維持強化(9条改憲)に利用できるという思惑が日米側には働いている。
 そのような態度・思惑をもち続けるかぎり、事は収まらないだろう。

 北朝鮮の「休戦協定の破棄」「戦時態勢」宣言、新型ミサイル(KN-08)の配備、さらなる核実験の示唆―それらを単に「強がり」「だだっこ」「わるあがき」「やけくそになっている」などと侮って取り合わなかったり、それらを重大・深刻に受け止めはしても「受けて立つ」という対抗的な軍事対応をとるのでは、かえって北朝鮮の「挑発行為」(反抗的対応)をエスカレートさせ、ひいては攻撃を誘うことになって開戦。そんなことになったら・・・・・。
 そんなことにならないようにするには、侮ることなく、身構えて対決することもなく、真摯に向き合って北朝鮮が望む平和協定と体制保障の交渉に応じる。そして核・ミサイルを放棄させ朝鮮半島を非核化する、という交渉に踏み切る以外にはあるまい

 それとも、「戦争・戦乱になってもやむをえない、あんな政権といくら交渉しても埒があかないし、あんな「ならずもの政権」の体制保障なんてとんでもない、転覆するか崩壊を加速するしかない」といって、このまま制裁圧力と軍事的圧力を強める方向でいくのか?
 拉致問題の早期解決にとっては、はたしてどちらがいいのか。

 尚、『世界』4月号にジャーナリストの平井久志氏は次のようなことを書いている。
 北朝鮮は「朝鮮半島の非核化」を論議する対話には応じない(米国を含め世界の非核化が実現されるまでは朝鮮半島の非核化は不可能だから)としながらも、「朝鮮半島を含む地域の平和と安全を保障するための対話と協議」には応じるとしている。(05年の六者協議で合意した「9.19共同声明」―北朝鮮は、それは「もはや存在しない」としているが―その4項には「朝鮮戦争の直接の当事者は、もう一つのフォーラムで朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する」としていた。)
 日本は(朝鮮戦争の当事者ではないためフォーラムには参加できないが)02年の「日朝ピョンヤン宣言」(核・ミサイル問題を含む安全保障上の問題とともに拉致問題も協議を行っていくとした合意)を活用すべきで、日朝二国間協議をおこなうべきだと。
 同誌(『世界』)の「ドキュメント激動の南北朝鮮」には次のようなことが書いてある。「拉致被害者家族からは核問題とは別途に拉致問題を確実に協議できる道筋を確保してほしいという切実な声が明らかにされている。」「安倍首相は『対話と圧力』としばしば語ってきたが、実際には圧力をかけ続けてうまくいかなかったというのが、これまでの安倍首相のやり方であった」と。
 平井氏は「一方的な制裁強化だけでは挑発と制裁、さらなる挑発と制裁という悪循環を繰り返し、危険の水準を高めていくだけだ」とも書いている。

 北朝鮮が休戦協定を破棄、「戦時態勢」に入ると宣言したことは、いわば「再宣戦布告」も同然であり、軍は攻撃開始命令を待つのみ、という事態に立ち至っている。
 このような時に、アメリカも韓国も、そして日本も、そういう北朝鮮に対して、相手が攻撃をしかけてくるのを、迎撃態勢を敷いて(準備を整えて)「やるならやってみろ。やったらお終いだぞ」とばかりにただ黙って待っているだけでよいのか。

 たしかに、攻撃・開戦したら、たちまち反撃されて北朝鮮国家(体制)は崩壊する。そうなることは、相手も解っている。だから無謀な攻撃・開戦にはしるようなことはすまいし、そのうち制裁が効いて苦しくなり音を上げて泣きついてくる、それまで黙って見ていれば(静観していれば)いい、というのだろうか。
 しかし、苦し紛れに自暴自棄的(破れかぶれの)攻撃の暴挙に出てくる可能性もある。そうなったら、戦災に巻き込まれる韓国国民の被害は計り知れないし、日本国民の被害も軽微では済むまい。「それはやむをえない。そうなったらなったで、しかたない」といって済まされるのか。済まされまい。そのような事態はなんとしても回避しなければなるまい。
 だとすれば、黙って座して待っているのではなく、今すぐにでも緊急協議(二国間でも何国間でも)を呼びかけて交渉にはいるべきなのだ

 17日北朝鮮の労働党機関紙は「(北朝鮮は日本が独自制裁を検討していることなどに反発して)日本も(核先制攻撃など)攻撃の対象になる。」「(朝鮮半島で戦火が起きたときに)自衛隊が介入する場合、日本は無事だと考えるなら、それに勝る誤算はない」と報じている。それに対して、日米間側には「挑発や脅しには乗らない」と言って突き放すばかりで、対話・交渉の意思はみられない
 ああ、危機迫る
 

2013年04月01日

危機迫る―改憲(詳説・加筆版)

 改憲派の勢力が強まっている。改憲賛成―議員の59%→89%、有権者41%→50%
(1月28日の朝日・東大共同調査、09年との比較)
 最新(4月8日)のNHK世論調査では
  改憲の必要があると思うか―思う39% 思わない21% どちらともいえない33%
  96条改正(改憲発議要件の緩和)―賛成28% 反対24% どちらともいえない40%
  参院選で改憲勢力が3分の2以上占めることが望ましいと思うか
    望ましい20% どちらかといえば望ましい37%
    望ましくない12% どちらかといえば望ましくない20%
 国会の憲法審査会(改憲原案を審査、衆院50 名、参院45名)―衆院の憲法審査会では護憲派は共産党の委員だけ、幹事は自民・民主・維新・公明の4党だけで改憲派がリード。
 しかし、有権者の方には改憲理由は「「押し付けられたものだから」とか「もう何十年もたっているのだから変え時だ」といった抽象的な気分的なもので、具体的にどこが、どう支障をきたしているから変えるべきだというわけではないように思われる。
 9条については、昨年12月28日の毎日新聞では改憲反対の方が多く52%.

 問題点はどんなところにあるのか。
1、改憲理由
「押し付けられた憲法だから」というが
<制定の経緯>日本政府の委員会原案(松本私案―旧憲法を微修正しただけで天皇主権などそのまま)―マッカーサーが拒否、GHQ(連合軍総司令部)の民政局(ベアテ-シロタらスタッフ)が鈴木安蔵ら(憲法研究会など)民間の私案を参考にして草案の骨格を作成・提示―政府がそれをもとに草案作成―帝国議会(議員は戦後一回目の総選挙で選出―「日本国民の自由に表明された意思」に基づく)審議、主権在民の明記や生存権規定の追加など修正のうえ圧倒的多数の賛成で成立(賛成421、反対8―うち共産党の6人は、天皇制を残していることと吉田首相が侵略に対する自衛権までも認めないと答弁したことを理由に反対)―国民は大多数が支持(!946年5月27日の毎日新聞世論調査では「戦争放棄」に70%、象徴天皇制に80%)
 これを見ると、押しつけか、押しつけでないか、どちらとも言えそう。
 だが、「押し付け」というなら、問題なのは、むしろ、その後、朝鮮戦争~冷戦に際するアメリカへの軍事協力のための再軍備、そのための改憲(吉田首相はそれは拒否したが)と日米安保条約とそれに基づく米軍基地の押しつけだろう。
「時代にそぐわなくなったから」というが
 国民にとってはどうなのか―具体的にどこが不都合なのか?9条にも96条にも不都合があるのか?
 河野洋平元自民党総裁いわく、「今の憲法で不自由な生活を強いられている人はいません」と。
 不都合なのは自民党などの現在の為政者・権力側にとってなのだ。
 「押し付けられた」とか「時代に合わなくなった」というのは、支配層にとってであり、庶民にとっては、それは当たるまい。
2、どこを変えたいのか
<各党の改憲案>
①自民党
○改憲しやすくするために96条(改正要件―発議には衆参両院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成を要する)を改変(通常の法律並みに過半数の賛成でも可能に)。(維新の会もみんなの党も同案―今国会中に国会提出を両党合意)
 憲法―最高法規―時々の権力者の都合で簡単に変えてはならないのが原則―権力の乱用を防ぐ歯止め―だからハードルが高いのが(米・独・仏などの諸国では)当たり前なのに。
○天皇を「元首」とする(みんなの党も)。
 天皇は国民の上に立ち、憲法擁護義務を負わない(国民が主権者であることをぼやけさせる)―現行憲法(99条)では天皇に(国務大臣や国会議員・裁判官その他の公務員とともに)「憲法を尊重し擁護する義務」を負わせているが、それを「天皇又は摂政を除く全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」と変える。
○国民の義務を(現行憲法では勤労・納税・教育の3大義務だけなのに、それ以外にも)(「国を自ら守る」義務、日の丸・君が代尊重義務、家族助け合い義務、環境保全義務、緊急事態指示服従義務など)様々列挙し、国や公の機関の指示に従わなければならないとして課している。
○自由・人権―現行憲法では濫用は禁止、「公共の福祉」のために利用する責任を負うものとし(12条)、「公共の福祉」に反しない限り個人として最大の尊重を要すると(13条)―この場合「公共の福祉」とは、個人の上にある国益・公益など社会全体の利益のことではなく、「互いの人権」という意味で、「他の個人の人権」とぶつかる場合の調整原理をなすものであって、国家が国民の人権を制限するためのものではない。なのに、それを「公益及び公の秩序」という言葉に置き換え、それらに「反しないように」「反しない限り」として、個人は国家や社会全体の利益・秩序に従わなければならないというものに変質―国家や公共機関の裁量で国民の自由や人権に大幅な制限を加えることを可能にする。
○日の丸・君が代を国旗・国歌として尊重することを明記(みんなの党も)。
○9条に自衛隊を「国防軍」として明記。
 国防軍に審判所(軍事裁判所・軍法会議のようなもの)を置く―「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密を犯した場合の裁判を行なうため」と。
○緊急事態条項―武力攻撃・内乱等による社会秩序の混乱、地震等による自然災害その他に際して総理大臣が緊急事態を宣言し、事前または事後に国会の承認を得る。宣言が発せられた時、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(それによって、国民やその施設の動員を義務付け、一時的に人権制限)―かつての緊急勅令や戒厳令のようなもの。(災害緊急事態は現行憲法でも想定されており、具体的には災害対策基本法に条項が定められているのに。)
 海外居留民保護―「国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない」と(かつてはそれを名目に出兵)。
②維新の会とみんなの党は首相公選制、一院制、道州制など統治機構の改編で改憲も。
 (維新の会は参院選で「改憲勢力3ぶんの2確保」を目標にしている。)
③公明党―現行憲法に環境権やプライバシー権などを付け加える(加憲)。
     9条と96条は改定には慎重。
<核心点は二つ>
9条改変をめぐる問題点
 自衛隊の軍隊化(自民党案では「国防軍」―集団的自衛権の行使―米軍の作戦に協力して武力行使、国連の集団安全保障・国連軍への参加を容認)
 問題点(議論の焦点)―軍隊・軍備の抑止力の是非―対中国・対北朝鮮・対テロなどに対して
  抑止論―軍隊・軍備は相手の侵略・攻撃を抑止する(無防備に乗じて侵略・攻撃を招かないように―「備えあれば憂いなし」或いは「抵抗・反撃の意志を示す」)―これにどう反論するか?
 反論―軍隊・軍備はあくまで戦争手段にほかならず、それを持つこと自体が戦争意思を持っていると国々から思われてしまい、警戒心を抱かせ脅威を与えて軍備増強を誘発し、かえって緊張を激化させ、戦争を誘発する危険をともなう。
 だから、相手側の武力行使や戦争を抑止する最善の方法は、戦争手段(軍備)を持たず、戦争意思を持たないこと(「戦争放棄」)だろう。要するに今の憲法9条を守ることにほかなるまい。
 予め軍隊・軍備を持つということは予め戦争意思をもつことを意味する。「事としだいによってはやるぞ」、「向こうが仕掛けてきたら受けて立つ」ということでいかなる場合でも戦争はしない、というのとはわけが違う。
 軍備をもたず、戦争意思を予め持つということはしない、ということは、いかなる国をも敵視せず、仮想敵国とはせず、利害対立・紛争問題があっても軍事力を背景にして交渉するのではなく、あくまで平和的・外交的解決に徹するということだ。
 それは自衛権まで放棄することとは別。相手が戦争を仕掛けてきても軍の交戦権による応戦はせず、降伏もしないということであって、侵略され占領されても、軍隊・軍備を持たず交戦権を持たないからといって、無為・無抵抗でそれに服するというわけではない。自衛権・抵抗権はあくまで保有し、「国土警備隊」など警察力を含め利用できるあらゆる手段を使って反撃・抵抗する権利まで放棄するわけではないのである。
 「無防備」は危険?―無防備といっても海上保安庁のような警察力(どこの国にもよくある「国土警備隊」とか「国境警備隊」)はある(現在の海保は強大な自衛隊があるために相対的に貧弱なものとなっているが、領海・領空警備・取締り・侵犯阻止に必要な艦艇や航空機その他必要な装備は持つ)。だから全く無防備というわけではないのであって、他国と戦争をする軍隊・軍備は置かないということとは別。 
 領地の争奪戦に明け暮れた戦国時代や植民地の争奪戦に明け暮れた帝国主義時代のように、虎視眈眈と互いに隙あらば攻め込まずにはおかないといった昔ならいざしらず、今は、軍隊・軍備を置いていない無防備な国だからといって、攻め込んだりすれば、世界中から非難され、国連をはじめ国際機関・各国機関から制裁を被り、かえって大損失を被り、自滅さえ招くことにもなる。
 国連は(未だ不備があるとはいえ)、それを中心に国際法秩序が確立されていて、一方的な軍事侵略・武力行使は禁止されており(国連憲章には「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使をいかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と定められており)、無法行為は国際社会から制裁を被るというコンセンサスがある今の時代に、それ(「無防備」とか「力の空白」をついて攻め入るなど)はあり得ない。 
 北朝鮮が日本を攻撃対象にしているのは日本が無防備だからではなく、米軍の基地を置き、その同盟軍たる自衛隊があるからにほかならない。
 いずれにしろ、仮に日本に対して侵略・攻撃が行われたとしても、国民の激しい抵抗・不服従・非協力にあう上に国際社会の制裁を招き、何も得るところがないばかりか、かえって甚大な不利益・損失を被る結果になり、失敗は避けられない。いまさら自衛隊を「自衛軍」とか「国防軍」に変えなくても、また日米同盟などに頼らなくても、である。
憲法観―はき違え
 そもそも近代(立憲主義)の憲法は、聖徳太子の「十七条憲法」のような天皇への服従や相互間の和など官民に守らせる訓戒や心得などではない。また最高法規といっても、他の法規のように国家や自治体が国民にルールを課して守らせる(国民の人権を縛る)ものではない。それらとは違って、国民の人権を守るため公的権力を縛るもの(政府・自治体や公務員に守らせるもの)である。すなわち公的権力に歯止めをかけて、政府・自治体や公務員にそれを守らせ、権力の乱用を防ぐのが憲法の役目なのである。(合衆国憲法の起草者だったジェファーソンは「憲法は権力を縛る鎖だ」と言っていたし、明治憲法の起草者だった伊藤博文も「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と言っていたという。)
 なのに、自民党の改憲案は国民の権利を制限し、国民に義務・責務を課する憲法に変質させものとなっている。
3、改憲戦略07年の国民投票法(強行採決)が外堀埋めだとすれば、96条 改定で内堀を埋め、そのうえで本丸9条へ2段階戦略
 来る参院選でも改憲派3分の2以上を制す。そのうえで、まずは改憲をしやすくするために国会での発議要件を(賛成3分の2以上から過半数に)緩和する96条改定を国会で発議して、それを国民投票にかけて改定を果たす。あとは国会で衆参それぞれ総議員の過半数で、「環境権」などの加憲を手始めに、天皇の元首化、国会の一院制化・首相公選制化などから9条改変に至るまで次々と発議、国民投票にかけて改憲達成に持ち込む。
4、護憲戦略―どうすれば改憲を阻止できるか(改憲派との闘いに勝てるか)―戦略が必要―護憲派が大同団結(小異にこだわらずに結束)―選挙で護憲派候補を応援して国会に送り、護憲派議員数を3分の1以上確保。国民投票でも改憲反対票を過半数獲得を果たす。                        
 日本国民が戦争で犠牲にされた数多の命を代償に獲得した憲法―それを命懸けて守る闘いなのだから。
 
 肝心なことは、(運動が自己目的ではなく)結果を出す(改憲阻止という目的を果たす)こと。
 
 以上

4月のつぶやき(上に加筆随時)

●久々に田んぼ道を歌を唄いながら散歩。「ああ 川の流れのように ゆるやかに・・・・・」何だっけ・・・・ 一冬のご無沙汰で忘れた歌詞を思い出しながら。あゝそうだ「いくつも時代が過ぎて ああ・・・・・」

我が家の桜 満開

                  よくぞ枝を拾ってきてくれたな~孫よ
●三国連太郎の映画「老いてこそなお」をNHKで見た。「家族ってなんだ」「何が無くても分け合って食べる(それが家族)」「ただ孫のために、何があっても、頑張って生きていくんだ」「孫よ、お前も頑張るんだ」「自分のことなんか考えない。ただ家族の幸せ、人が幸せになることしか」と言っていたように思う。三国連太郎80歳の時の映画だ。渡辺美佐子をおんぶして走りながら「頑張るんだ、頑張るんだ、孫よ、お前も」と。・・・・・感涙を禁じ得なかったな。
●米沢おやじバンドのシルバー・ビーンズのメンバーの一人、H・D・ジョン(ペンネーム)君のライブ・コンサートを聴いてきた。(西駅前の喫茶店パウゼで)例によってビートルズ・ナンバー10曲(Let it beやImaginそれにSomethingなど)聴かせてくれた。ギターを弾きながら、よく歌えるもんだ。血圧が上がるなんて言いながらも、ジョンレノンやポールマッカートニーばりに軽ろやかに。ギターもうまい。イギリス(リバプールなどビートルズゆかりの地)を旅行してきて、撮ってきた映像を流しながら道中記のトークも聞かせてくれた。たいしたもんだよ。
 (彼のホームページは「米沢 H・D・ジョン」で検索すると出てくる。)
●インターネットで今月から開局された「デモクラTV」。視聴手続き(会員登録―仮登録から本登録、視聴料の振込まで)手間取ったが、やっとできた。
 NHKや民放のテレビ、一般新聞・週刊紙などの多数派の論調とはガラッと違う論調―そういう考え方・視点・発想もあるんだということ。当方のような少数派は、NHKや朝日を見て感じる苛立ちが、この「デモクラTV」を見ると溜飲を下げるのだ。
 それにつけても、当方のような隠居の身とは違って、日々仕事或いは仕事探しや家事・子育てに追われる庶民にとっては、せいぜいテレビや新聞・週刊紙、或いはネットでチラッと見るだけで、「また株が上がったってか。アベノミクス―いいじゃないの」「北朝鮮・中国、嫌な国だな。日米同盟ー抑止力、やっぱり必要だな。改憲、しかたないんじゃない」「原発再稼働・TPP・普天間基地の名護辺野古への移設、しょうがないんじゃない」となってしまう。こんな「多数派世論」に迎合してなるものか。
●信越 自動車旅行 日本アルプスと桜の景色 友との語らい あゝ楽しからずや
●月初めには田畑を覆っていた雪も、一週間余でほとんど消えた。孫がフキノトウをとってきて、てんぷらを御馳走になった。春の風味もひとしお。
●kinkin.tv(愛川欽也が主宰するインターネットTV)のパックイン・ニュースが先月で打ち切られたが、その後継となる「デモクラTV]が6日からインターネットTVとして開局した。俳優の愛川氏は、これまでCS朝日ニュースターで「パックイン・ジャーナル」という番組をずうっとやってきて、それが去年打ち切られたが、インターネットTVで1年間続け、通産16年間にわたって毎土曜日2時間、司会を続けてこられた。当方なんかよりずっと高齢でまだ元気なのだが、本業に専念するということで、とうとう打ち切られた。残念だな、と思っていたが、同じ思いの人が沢山いたと見え、それまで常連パネリストとして出演してきた面々(山田氏・田岡氏・横尾氏ら)がその気になって立ち上げたのだ。「デモクラTV」と検索すると出てくる。視聴料は月525円だそうな。初回は仮登録で見せてもらったが、局側の機械トラブルで音声が出ず30分遅れの開始。テーマはやはり原発問題と改憲問題。NHKその他のテレビや大手新聞の論調とは一味違って、当方などには波長が合うのだ。これからも見なくちゃ。
●1ヶ月前、北海道(オホーツク海側)は猛吹雪で、父親は凍死、抱かれていて助かった娘のことが、朝日新聞の一面トップに出ていた。父親は着ていたジャンバーを娘にかけて覆いかぶさるようにして抱きしめながら歌ってくれたという。「ナッちゃんはね 夏音って言うんだ ほんとはね・・・・」と。それが途切れて果てた、その有様を想像して涙した。
 我に返ると、目の前には、その子より少し上の我が孫娘が、飯台の向こう側で勉強を「あ~、やりたくない」とつぶやきながらやっている。兄弟が近寄ってきてちょっかいをかける。やり返す。あ~あ、我が孫たちは春休みで、家はワイワイ。
 昼飯で飯台を囲みながら北海道のかわいそうな「ナッちゃんの歌」の話しをして聞かせた。一番上の孫はウーンとうなづきながら聞いていたが・・・・
CIMG3629.JPG
       米沢から眺める蔵王(右の建物は山形大学工学部)
●春が来た。田畑は薄汚れた雪で未だ覆われているが、もう間もなく消える。桜前線の米沢到来・開花は19日、満開 25日とのこと。春は一番いいな。

2013年04月13日

アベノミクスの問題点―アベノリスク(加筆修正版)

アベノミクス―安倍首相が打ち出した景気浮揚策―「デフレ脱却」のため「三本の矢」―(1)「大胆な金融緩和」、(2)「機動的な財政政策」―大型公共事業、(3)規制緩和中心の「成長戦略」
  実は使い古しの経済政策(失敗経験)―過去20年にわたって続けられてきた政策で、「失われた20年」をもたらしたもの。
(1)「大胆な金融緩和」―これまでも既に行っているゼロ金利政策と量的金融緩和―日銀が、市中銀行が持っている国債などの金融資産を買い取って、貨幣を市中銀行に大量に流し込む(資金の供給量―マネタリー・ベース―を2年間で倍増)―モノの量よりお金(円)の量が増えて円の価値が下落―円高から円安へ転換
 円安の原因←①貿易赤字の定着、経常黒字の縮小
       ②為替相場のトレンド(そろそろそっちへ向かう頃合だと)
       ③国際的な投機筋(ヘッジファンドなど)が円売りにはしる
  円安になっても― 貿易収支の赤字(2月、輸出4%減、輸入12%増)
    ―円安で輸入コストがかさみ交易損失が膨らむ―貿易を通じて所得が海外に流出。
  ドル(ドル建て決済)は輸出よりも輸入の際に多く使われている(輸出に使われる決済通貨は米ドルが51.5% 、円38.4% 、ユーロ5.4%、輸入に使われる通貨は米ドル72.5% 、円22.9% 、ユーロ3.0%)。なので円安の影響は輸出のメリットよりも輸入のデメリットとして、より大きく表れる。
 日銀が国債(短期だけでなく長期国債も)・社債から不動産投資信託などリスク性資産までどんどん買い取る―金利が下がる―借り安くなる―銀行は貸し出しを増やし、企業の借り入れ→設備投資と雇用が増え、住宅ローンなどの借り入れも増えて活況へ向かうと。
 また、「インフレターゲット」(物価の前年比上昇率目標)2%として緩やかなインフレを意図的に起こす(リフレーション)―人々は「いずれ物価が上がるから」と(思い込んで)、物価が上がる前に早めに買い物しようとする人(駆け込み需要)が増え、景気が上向いていくと。

 しかし、期待先行で―投機家・海外投資家(ヘッジファンドなど―日本の証券市場取引額の6割)が、低利で借りたお金を株や外貨・債券・不動産(購入)に投じ、短期の売買・転売で儲ける(マネーゲーム)→株高(「アベバブル」)―実体経済(生産や雇用・消費など―リーマンショック前より鉱工業生産指数・輸出額とも下がっており、賃金も下がり、完全失業率が上がっている)とはかけ離れた熱狂(「根拠なき熱狂」)
 この金融緩和のやり方は、あたかも、居酒屋で、客が体調を考えて「これで十分」、もう飲めないというのに、銚子を際限なく追加するようなもの(山家悠紀夫氏)。企業も家計も銀行から資金を借りられる状況にはなく、日銀がジャブジャブお金を流し込んでも市中銀行に溜まるだけ。そのお金の多くは投機の方に向かう。(本来なら株式投資は生産的投資で、その企業の将来性や業績を中長期的スパンから見込んで行うものだが、投機は短期売買で利ザヤを稼ぐやり方で、「お金でお金をもうける」というやり方)。

二極化
 資産家・富裕層―株で設け―高額品・高級ブランド品を買いあさる―大手百貨店の売上は増える。
 円安で自動車産業など輸出型大企業には利益。
 内需型の中小企業は輸入原材料(仕入れ価格)・燃料・電気代の高騰で苦しく。
 庶民も輸入燃料のガソリン・灯油・電気代・小麦・大豆・食品の高騰で苦しく。
(2)「機動的な財政政策」―「国土強靭化」政策―大型公共事業―ゼネコンは活況―しかし一時的カンフル剤のようなもので、事業が終わった後まで続かない)。 
 建設国債発行で国の借金―巨額な財政赤字―はさらに増え、後にツケが回ってくる。
(3)成長戦略規制緩和―「企業が世界で一番活動しやすい国にする」(「そうすることによって企業の収益を上がり、それが雇用や賃金の拡大につながる」と―トリクルダウン説
 しかし、大企業の競争力は強化されても、その多くは輸出産業か海外進出企業で、内需は不振のまま。
 規制緩和―労働時間規制(ホワイトカラー・エグゼンプション―事務系労働者などの労働時間規制の適用除外など)、有期雇用・派遣労働の規制、解雇規制まで緩和を企図。保険外診療など社会保障の市場化も(保険のきく領域を狭め、介護保険のサービスも縮小)。
 2000年代に経験済み(小泉内閣から第一次安倍内閣へと引き継がれた「構造改革」路線)―「いざなみ景気」で企業の収益は大いに上がったが(利益は株主の配当と内部留保のほうに回り)、雇用(非正規雇用は増え35.5%と先進国では異常に多くなり、正規雇用は大きく減少)・賃金の拡大にはつながらず(1997年のピーク以降下降)個人消費を中心とした国内需要は増えず。
  法人税の引き下げ―それを納められるほどの売上・収益が乏しい中小零細企業には恩恵なし。
  TPPへの加盟も―デメリットやリスクのほうが大
  原発再稼働も企図―超巨大リスク
  「新産業の創出」―今のところ「絵に描いた餅」
 それら(金融緩和・公共事業・規制緩和)だけではデフレ脱出はダメ。以前にもそれをやってきたが、賃金を上げないできたためにデフレのままだった―第一次安倍内閣当時も含む02 ~07年、戦後最長で「いざなみ景気」といわれ、2%前後の成長、株価は1万8千円と好調だったにもかかわらず、雇用は悪化し、株主配当は上がっても賃金はむしろ下げられ(01~11年の10年間で10%ダウン)、利益は内部留保に回されるだけだった。

 デフレ(商品やサービスに対する貨幣の価値が上がって物価が下がる)―安倍政権は「それは市場に出回る貨幣量が少ないからだ」と短絡的な発想から、金融緩和で日銀が札を刷って市場にジャブジャブ流し込めば何とかなると。
 しかし、その根本原因は賃金の低下(1998年以来上昇率はマイナスに)と雇用悪化―不安定雇用・非正規雇用の増加―による内需・個人消費の減少―その脱出には賃金アップと雇用改善が不可欠―それなしに物価引き上げ、そのうえに消費税・社会保険料などの引き上げが加わって可処分所得(使えるお金)が減れば、個人消費はさらに減り、企業の売上も減る。そうなれば賃金・雇用はまた減って消費需要は減り、企業売上げが減る・・・・という悪循環になる。

 安倍首相は経団連など財界に「従業員報酬引き上げ」(「賃金ベースアップ」とは言わず、ボーナスなど一時金にとどまる)を要請
賃上げ
 春闘は大企業ではボーナスは満額回答で昨年を上回ってアップ、定期昇給は維持、しかしベース(基本給)アップは流通業界の一部にとどまる。
 アップは正社員だけ、非正社員には及ばず。
 それに7割を占める中小企業の従業員には及ばず。

要するに―アベノリスク
 ①物価上昇と不況がかえって深刻化
  ある試算では物価2%上がれば家計負担が9万円増えるとも。消費需要はさらに冷え込む。
 ②貧富格差の拡大
 ③赤字財政の拡大―長期金利の急上昇―国債の利払い困難となる。
  日銀による大規模な国債の買い取りは赤字財政の穴埋め(財政ファイナンス)と受け取られ、日本政府の財政規律に対する(「放漫財政」とか「節度を失っている」とか)ダメージを与え、「日本の国債はいずれは返済してもらえなくなる」という懸念が広がり、信用が落ちて国債の価値が下がり(国債の格付けが下げられ)(海外投資家などが一気に売りに出て)金利が急騰しかねない。

どうすればいいのか
 まずは雇用改善と賃金アップの方が先。
 政府ができることは、財界への雇用者報酬の引き上げ「要請」だけではなく、①最低賃金のアップ(現在の700円台から1,000円以上へ―中小企業でもそれができるように支援し、大企業との公正な取引ルールをつくってそれ以上の「下請け単価たたき」をやめさせるようにする)、②労働者派遣法を抜本改正するなど法規制を強化して非正規雇用の正規雇用化への切り替えを促進すること。
 そして個人消費と内需を拡大する。
 もう一つ大事なのは消費税(来年4月から4%、再来年10%―年間17万円負担増―に)。給料が上がっても消費税が取られるのでは、それは減殺されることになり、「デフレ脱却」は不可能となる。
 ―日銀の試算では、金融緩和による年間2%物価上昇と消費税アップとで、次のような順序で、物価は4年後には10%近く上がるという。
  ①14 年4月から消費税8%に増税されて物価が2%上がる。
  ②日銀の金融緩和で物価が3%(1年半分)上がる。
  ③15 年10月から消費税10%に増税されて物価が1.3%上がる。
  ④日銀の金融緩和で物価が3%(1年半分)上がる。

 アベノミクス―それはカジノ資本主義の、いわばバクチ経済政策ともいうべきもので、はたして丁と出るか半と出るか。
 中には儲かる人もいるだろうが、大部分の人は・・・・・・・・・・・・・。

2013年04月27日

安倍首相と馴れ合うマスコミ

 大手マスコミ各社トップと安倍首相の会食。
 1月7日読売の渡辺恒雄会長から始まって朝日・産経・日経・毎日・フジテレビ・テレビ朝日・共同通信など各社会長もしくは社長それぞれと安倍首相との間で会食が、都内の高級割烹やホテル内の料理店で2~3時間づつ次々行われ、その後さらに各社の政治部長や論説委員長・解説委員など幹部たちともそれぞれ安倍首相の会食がおこなわれたとのこと。
 このニューソースは3月31日と4月11日の赤旗の記事(インターネットで見れる。スクープというか、新聞では同紙以外には載っていないとみられる)だが、それによれば「こうした会合は割り勘ではないだろう。ジャーナリズムの世界では『おごってもらったら、おごり返せ』とされている。安倍首相にどう、おごり返すのだろうか」。
 「メディアも安倍政権の宣伝紙のようになっている。」「まったく客観性がなく、安倍の言っていることを並べているだけ」
 「欧米では、メディア経営者は現職の政権トップとの接触を控えるのが不文律」
 「(不偏不党にして)権力を監視するジャーナリズムの役割を放棄していると言わざるをえません」と。

 (かく言う筆者は赤旗が書いていることをそのままに並べているだけみたいだが、これらの論評は事実無根で的外れなのだろうか)
 インターネットで調べても、会食の事実否定はどこにも見られない。(会食でどんな話をしたのか、割り勘か奢りかなどのことは不明だとしても。)
 会食したからといって、或いは奢られたからといって、報道や論評に手心が加えられるようになるとは決めつけられないが、そうなる可能性は否定できないだろう。
 親しく対話することによって真意や胸の内を読み取ることができるなどの点で役立つといったこともあるだろうが、その副作用は必ず付きまとうと考えられる。
 どうしても、相手におもねる(へつらい、きげんをとる)書きぶり話しぶりになり、忖度した(気を回した)論評のしかたになって、鋭い批判や切込みができなくなってしまいがちになる、と考えざるを得まい。
 ジャーナリズムには権力の監視・チェックする役割が求められるが、日本の主要メディアには、こうなるとそれはとても期待できそうになく、むしろ、そのジャーナリズム―マスコミやメディア―をこちらが監視・チェックしなければならない、少なくともそれらの報道や論評を鵜呑みしてはならず、騙されてはならない、ということだろう。

2013年04月28日

日本の「右傾化」と外交の手づまり

 安倍政権下で次のようなことが行われている。
(1)閣僚や国会議員の靖国参拝―麻生副総理ら3閣僚は個々に、国会議員の168名は大挙して(まさに示威行動)。安倍首相は参拝は控えたが、「真榊」を奉納。「国のために命をささげた方々に尊崇の念を表すことは当然」のことだと。
 しかし、そこは単なる神社・慰霊施設ではない。明治いらい陸軍省・海軍省の共同管理のもとに、日本軍将兵の英霊を顕彰する(武勲をほめたたえる)ことを目的に設立されて、将兵を戦争に駆り立てる精神的支柱となってきた神社であり、戦後、連合国による極東軍事裁判でA級戦犯とされた戦争指導者も合祀され、日本の戦争を全てにわたって正当化・美化して顕彰している施設なのである(付属施設の「遊就館」は軍事博物館)。
 尚、天皇はA級戦犯合祀が合祀されて以来、そこへの参拝は控えている。
 そのような神社への参拝は、隣国の政府やアメリカのメディアなどからは、日本政府や政治家たちの「右傾化」とか「時代錯誤」と指摘されているのだ。
 それに対して弁明がおこなわれ、首相は「侵略の定義は国によって異なる」「歴史認識は専門家・歴史家に委ねるべきで外交問題にすべきではない」「脅かしには屈しない」と居直っているが、国々からは侵略の事実を否定し、戦後国際秩序を成り立たせている歴史認識のコンセンサスを否定するものだと受け取られているということだ。そして、韓国外相の訪日も日中韓財務相会議も取りやめとなり、日中友好議連の中国訪問も中止せざるを得ない事態となっている。
 (アメリカのメディアは、ワシントン・ポスト紙が「安倍氏は歴史を直視することができない。中国や韓国の怒りは理解できる」とし、ニューヨーク・タイムズが「日本の不要な国粋主義」と、いずれも社説で批判している。またウォールストリート・ジャーナル紙の社説は「だれが第2次世界大戦を始めたのか。この問題は、地球が太陽の周りをまわっているかどうかについての質問と並んで『解決済みの質問』とばかり思っていた。なのに日本の安倍首相は新たな解釈を下している。」「安倍氏の恥ずべき発言によって日本は外国での友人を持てなくなる」と批判している、とのこと。
 また、4月30日朝日の声欄にだが、三浦永光氏という方の投稿「安倍首相は侵略解釈を改めよ」に次のような指摘があった。「国連総会は1974年に『侵略の定義に関する決議』を採択しており『侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する・・・・武力の行使であって・・・・』など、8条にわたって規定している。・・・・・また、日本は51年のサンフランシスコ講和条約でアジア太平洋戦争での日本の侵略を裁いた極東国際軍事裁判の判決を受け入れることを明言した。安倍首相の発言はこれらの事実を無視するものだ。」と。)
(2)「主権回復の日」式典の開催―4月28日、それは61年前サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効した日―戦後の占領統治は解除。しかし米軍の駐留と基地は継続。
沖縄は引き続き米国の施政権下に置かれた「屈辱の日」で、72年に返還されたが、そこには在日米軍基地の75%もが集中している、その基地は未だにそのまま。実質的に対米従属固定化―沖縄だけでなく日本全体にとっても(「全土基地方式」は続いており)「屈辱の日」なのだ。
 (尚、当時米ソ冷戦・朝鮮戦争中で、サンフランシスコ講和条約は全連合国との「全面講和」ではなく、アメリカ主導で、ソ連・東欧諸国・中国・インド・韓国・北朝鮮などを除いた49ヵ国との「単独講和」だった。その条約で千島列島の放棄をも認めてしまい、ロシアとは未だに平和条約を結んでおらず、千島列島は一島も返還されていない―北方領土問題) 
 安倍首相の政治的思惑―日米安保(対米従属)はそのままに憲法だけ「戦後レジームから脱却」―「自主憲法」制定(改憲)―めざす―国民の合意がない一方的な開催―そこへ天皇を招く(違憲の政治利用)。
 その式典では、安倍首相は式辞で「沖縄の人々の戦中・戦後の苦労に、通り一遍の(行動を伴わない―筆者)言葉は意味をなさない。・・・・・・東日本大震災・・・・世界中からたくさんの人が救いの手を差し伸べてくれた。・・・・中でも米軍は・・・・。私たちは日本を強くたくましくする義務がある。日本をもっとよい、美しい国にしていく責任を負っている。」と述べた。何か軽くてそらぞらしく、沖縄県民だけでなく全国民に深刻な問題を押し付け続けていることを、綺麗ごとで覆い隠しているように思われてならない。
(3)核不使用の国際会議共同声明の署名見送り―ジュネーブでのNPT(核不拡散条約)再検討会議の準備委員会で、南アフリカ・スイスなど74ヵ国が署名した共同声明―核兵器の非人道性を訴え「いかなる状況下でも核兵器は二度と使わないことが人類存続の利益になる」と―これに米中ロ英仏などとともに日本政府は署名せず(「日本を取り巻く安全保障環境が厳しい状況だから」―北朝鮮などに対し状況次第では核兵器は使わざるを得ないこともありから、という理由で)―それに対して広島・長崎両市長は抗議のコメント。
 日本政府はこれまでも核兵器禁止条約の交渉開始を求める国連決議に一貫して棄権。
 唯一の被爆国でありながら日米同盟にこだわり、アメリカの核抑止力(「核の傘」)にしがみつく―それはかえって北朝鮮に核開発・保有を(「抑止力」と称して)正当化する口実を与えるもの。

 これらは国内外から反感・不信をかい批判にさらされている。そして外交とりわけ北東アジア近隣外交が手づまり状態に陥っている。それは国益を害する結果をもたらすことになる。
 

2013年05月01日

5月のつぶやき(随時上に加筆)

●80歳 三浦雄一郎 エベレスト登頂―壮大な自己満足―それは偉業として讃えられる。
それに比べれば、けし粒のごときささやかな当方の自己満足―自分以外の人には取るに足りない、どうでもいいこと。
 しかし、いずれにしろ、人間とは大なり小なり自己満足で生きるもの―それが人生。
生きていくうえで必要なのは(大きかろうと小さかろうと)目標をもち、それに向かって挑戦・努力―それを果たせて自己満足する―人生はその積み重ね。
 さて、今日もささやかな目標に取り組んで日を過ごすか。あ、そうだ、今日は、伊達政宗が初期に居城した館山城跡の探訪に行くんだ。明日は天童に行って、九条の会の県民集会で、ノーベル賞受賞者・益川教授の講演を聞いてくる―彼の偉業も彼自身の自己満足から発していることには違いはあるまい。
●吾妻山を望む田んぼ道、田植えが始まった。当方は歌いながら散歩。♪♪吾妻山なみ雲晴れて すがしき嶺を仰ぐとき・・・・・われらの高校♪♪日本国民は 国家の名誉にかけ 全力をあげて この崇高な理想と 目的を 達成することを 誓う~♪
 トラクターや田植え機の響きからすれば「つぶやき」にしか聴こえまい。
●自己満足―人間の行動はすべて(私心なき利他行動も―己をかえりみず唯ひたすら世のため人のために尽くし、感謝されて満足する、それも結局は)自己満足が動因―、このブログ、部屋に張り紙、歌いながら散歩など当方がやっていることはすべてそれだが―罪なきささやかな自己満足―女房いわく、「わたしのやっている花や畑、山菜取りもみんな自己満足だけど、それをあんたにも家族にも分けてやってるが、あんたのやってることは丸っきり自己満足」―それにしても、(アベのミックス・靖国参拝・改憲・原発輸出など)為政者たちがやっている大いなる自己満足の罪深きことよ(多くの人々を巻き込み不幸に陥れる)。
●桃・椿・チューリップは散り落ちて、つつじ・さつき・しゃくなげ・牡丹が出そろった。Flowers Change! だな。
●あ!アクセス数、やっと5千の大台を突破したか。このところ、ひと月100、そのうち30近くは自分の分。
●田んぼの中をトラクターが動いている、その田んぼ道を歌いながら散歩。♪♪日本国民は、恒久の平和を、念願し、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて、この崇高な理想と、目的を、達成することを、誓う♪ ♪日本国民は、正義と秩序を基調とする 国際平和を誠実に希求し・・・・戦争と 武力による威嚇又は武力の行使を・・・・・・・永久にこれを 放棄する、 前項の目的を達するため、・・・・戦力は、これを保持しない、国の交戦権はこれを 認めない♪♪(つかえ、つかえ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを続けていれば、認知症が抑えられるかな
●憲法の前文と9条をサインペンで書いて居間に貼り付け、<きたがわてつ>のその歌のCDを何回もかけて覚えようと一日頑張った。前文・条文の文句に節(メロデー)を付けて歌っている<きたがわてつ>が歌うようには、なかなか唄えないし覚えられない。しかし何とかなりそうだ。田んぼ道を散歩しながら唄えたらたいしたものだが・・・・・そういえば田植えが始まるな。田んぼ道ではのびのび唄えそうにないか
●デモクラTV―このインターネットで見れる、普通のテレビでは聴かれない唯一のリベラル派・護憲派のメディア(といってもよい)。「大メディア幹部と首相の会食」問題など、やはり普通のテレビでは聴かない問題が取り上げられている。国民栄誉賞で行われた長嶋・松井と首相の会食に読売のナベツネが何で呼ばれなきゃならないの?バッター長嶋、ピッチャー松井はいいが、球審が何で安倍96番なの?幕張メッセで首相が迷彩服で戦車に搭乗して格好をつけていたとはいったい・・・・・。パネリストも司会者も当方が思っていたことを語ってくれていた。そうだ、そうだよ
●NHKニュース・ウォッチ9―憲法の歌があることを知っていますか?といって憲法前文(そのまま)に節(曲)を付けて歌った歌を(きたがわてつ作曲なのだが、それらの説明はなしに)、ワンフレーズかそこらを流した後、中曽根元首相が作った「改憲の歌」を、当時の映像と歌詞を映しながら流し、その後、自民党議員(船田元)に改憲の言い分を語らせていた。何とも不公正な取り上げ方。それがNHKなんだな
●吾妻 山麓を 滔々と 流るる最上が 潤すところ
  兵(つわもの)ども 相生たち 今ぞここに 集う吾らは 堂々と
   勝つぞ 米沢 米沢・・・・(校名)
 
 歌われることのなかった自作応援歌だったが、吾妻を望む田んぼ道の散歩で口を突いて出て独り唄った。♪♪♪
●上杉祭り最終日、最上川河畔の桜は未だ咲き乱れていた。観衆6万5千人とのこと。土手の上から「川中島合戦」を見下ろす頭上から目の前を花びらが舞い散っていた。Oh !
●今年は桜も開花が遅く、4月28日の上杉祭り開幕にあわせて満開。3日川中島合戦の再現イベントで祭りが終わるまで咲き続けているかな。
 我が家の庭先には水仙にチューリップも咲いて、2~3本づつ摘んで孫が幼稚園に持って行った。「咲いた咲いた♪♪♪」と歌うんかな。
 桃はつぼみがふくらみ出している。これからツツジにサツキ、それから・・・・・次々と咲きだす爛漫の季節。

2013年05月15日

恥さらしな政権と政治家(加筆修正版)

 選挙に大勝、高い支持率に増長して傲慢・厚顔
(1)歴史に無反省―国際社会から批判、対北朝鮮問題など米中韓との結束と東アジアの協力関係緊密化が必要な時に、それらを妨げる障害をもたらし、日本孤立化を招く恐れもあり、国益を害している。
 麻生副総理ら閣僚の靖国参拝、首相の真榊奉納。
 「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」「歴史家・専門家に任せるべきだ」論。
 批判に対して「どんな脅しにも屈しない」と居直り。

 韓国大統領―「歴史に目をつむるも者は未来を見ることはできない」「東北アジア地域の平和のためには日本が正しい歴史認識を持たなければいけない」と。
 アメリカではメディア(主要紙)が批判論評。
     議会調査局の報告書―安倍首相の歴史認識について「侵略の歴史を否定する歴史修正主義者の見方を持っている」、閣僚の中に「ナショナリストや国粋主義者がいる」、安倍首相や閣僚の歴史認識をめぐる言動が「中国や韓国をはじめ周辺諸国との関係を緊張させ、米国の利益を損なう可能性がある」と指摘。

 高市・自民党政調会長―1995年戦後50年の国会決議では「私は(戦争の)当事者とは言えない世代だから反省なんかしていない」と。
 橋下・維新の会代表の慰安婦問題発言―「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要(なのは誰だってわかる)」と。
 それに橋下代表は、沖縄で米軍司令官に兵士たちのために「風俗業の活用」を進言したところ、「司令官は凍りついたように苦笑いになって『禁止している』と言った。『行くなと通達を出しているし、これ以上この話はやめよう』と打ち切られた」という。
 石原代表も彼に同調、「軍と売春はつきもの」だと。

 各国軍隊の周辺でも、軍専用の慰安施設・売春宿の設置・利用はあったとしても(終戦直後日本に進駐した米兵のために日本政府が金をだして業者たちに開設させた軍専用の施設もあったが性病の蔓延で閉鎖)、第二次大戦中、国防軍が軍中央の命令で占領地に大量の軍専用売春宿を設置していたというドイツ軍とともに、日本軍のそれが特異だったのは軍と政府の中央(参謀本部・陸軍省など)がそれを軍の制度として推進し、慰安所が設置・運営されたということである。
 娘たちを首に縄つけて引っ張っていくような暴力的連行を直接軍や官憲がやったという「強制連行」の事実を示す証拠となる公文書はないと否定論者は言う。 しかし、朝鮮半島など植民地で「人さらい(奴隷狩り)まがいの徴募」を直接やるのは周旋業者であり、女を差し出すよう要請をうけた地元の有力者だとしても、元締めとなる業者は軍の身分証明書をもち、背後に軍や総督府がひかえていて慰安婦の人数確保を待っている等のことがあるかぎり、軍がそれらをやらせていると見なされるのは当然だろう。それを裏付ける証言(元慰安婦や元軍人の証言)や記録(報告書・業務日誌、アメリカ側の日本人捕虜尋問報告、元軍人の日記・回想記や体験記)など資料は数多く存在いているのである。それに、中国・東南アジア・太平洋地域では地元の女性が徴募され、直接軍や官憲が暴力的に集めた事例も多々あるのである。ただ証言や記録はあっても、軍その他当局が出した公文書資料が(焼却や隠ぺい工作によって)残っていないか、非公開になっているものが多く、非常に限られているが、在ることは在るのである。

  「国と国との関係でどちらから見るかで違う」という人たちには歴史に対する相対主義的な考え方(現在における真偽・善悪の基準を当時にあてはめて裁断するのは間違いという考え方)がある。
 国の立場、時代によって(当時と現代とで)歴史(過去の戦争・植民地支配・慰安婦制度など)に対する見方・考え方は異なるものだとする。

 しかし、殺人・暴力は国や時代によっては「当たりまえ」のこととして行われていたなどということはあり得ないし、売春などはあったとしても、それが当たり前のこととしておこなわれ、それで女性はなんら心に傷つくこともなく平気でいられた国や時代があったなどということもあり得ない話だろう。
 普遍的な真理、普遍的な道徳というものはあるのであって、どの国どの時代であっても客観的に正しい行為だったか否か、理不尽な行為だったか否か、人の道に反する恥ずべき行為だったか否か(侵略行為だったか否か)は事実関係(事の真相)ととに解明(に近づけることは)できるし評価・判断もできるのである。
 そして、それを踏まえて(歴史に対する民族的反省のうえにたって)、先人の過ちを繰り返すことなく相手国の政府や市民に適切に(外交なり付き合いなり)対応しなくてはならないわけであり、それを「そんなことは歴史家に任せればいい」「自分が生きてもいない昔のことなんか知ったこっちゃない」というのでは心の通い合った外交も付き合いもできないわけである。(政治や外交は単なる駆け引きではないのであって、信義・信頼がなけれ成り立たないもの。)
 
 過去の欧米人がおこなった奴隷制度と植民地制度に対して、2001年に国連人権委員会主催の「人種差別反対世界会議」でアフリカとカリブ海諸国が、それらによって利益を得た国々に対して謝罪を求め、一部の国は金銭的な補償を主張した。これに対して欧米諸国の多くは難色を示したが、オランダは補償に応じている。どんなに昔のことであろうと、「ならぬものはならぬ」というわけである。

 第二次大戦で敵対したフランス・ドイツの間では歴史共同研究がおこなわれ、共同の歴史教科書を作り上げて今、学校で使っているのである。

 尚、侵略の定義に関して―国連では1974年総会決議で「侵略とは、国家による他の国家の主権・領土保全もしくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」であると定義。この定義にもとづき「侵略犯罪」を定義した国際刑事裁判所の「ローマ規程」改定決議が2010年採択されている。
 そもそも、国連発足にあたって国連憲章(53条)に日本・ドイツ・イタリアがとった政策を「侵略政策」と規定し、その「再現に備え・・・・侵略を防止する」ためにとして国連結成。
 「後世の歴史家」任せにするのなら、現実に起きている国際紛争についても(侵略行為か否か)判断できないことになる。

(2)原発輸出―国内での原発事故をよそに、再稼働を企図するとともに。
 首相はサウジアラビア・トルコ・アラブ首長国連邦などに原発メーカーを含む企業経済人を大勢したがえて訪問して回り、トップセールス―原発売り込み、原子力協定締結。(トルコは地震国なのに。)サウジでも原子力協定の締結交渉に入る方針を確認しあう。
 事故を逆手にとって(事故経験から学んだのだからと)安全性技術向上を売り込む―「世界最高水準の安全基準に達している」と新たな「原発安全神話」をふりまいて。
 原発事故は未だ原因未解明、収束の見込みもたっておらず、「核のゴミ」(「死の灰」、使用済み核燃料)の処分法のないままに―福島第1原発では放射能汚染水の貯水タンクも水槽も満杯、「海への放出」に動くなど収拾がつかない事態になっている。なのに。

 それに(唯一の被爆国政府でありながら)―NPT(核拡散防止条約)再検討会議に向けたジュネーブでの準備委員会で日本政府代表が、「いかなる状況下でも核兵器不使用」とした共同声明に署名拒否。
 これまでも核兵器禁止条約の国際交渉を求める国連総会決議に棄権。
(3)都知事の「イスラム諸国で唯一共有しているのはアラーだけ。けんかばかりしている」発言
 「トルコの人々も長生きしたければ、日本のような文化をつくるべきだ」とも。
 猪瀬知事は2020年オリンピックの東京への招致委員会会長。ニューヨーク訪問中に米紙(ニューヨーク・タイムズ)記者とのインタビューでの発言。
 オリンピック招致合戦でライバル都市(回教国トルコのイスタンブール)を悪しざまに言うことによって、自分(東京都)を引き立てようとする思惑から出た言葉。
 IOCは行動規範で他の候補都市との比較を禁止しており、トルコ側も閣僚が「発言はオリンピック精神に反し、残念」とコメント。
 知事は、記事は曲解だと否認したものの、反論されて認めざるを得なくなって陳謝。
 安倍首相は、その後トルコへ原発売り込みに訪問し、「イスタンブールが五輪を射止めたら私は誰よりも先に『イスタンブール万歳』と言いたい。もし東京が射止めたら誰よりも早く『万歳』と叫んでいただきたい」とスピーチして友好ムードを取り繕った。
 尚、知事はその後の定例記者会見で、「トルコ側に直接会って謝罪・釈明する意思はあるか?」と尋ねられ、「考えています。それだけではなく・・・・・大げさに言うと、世界史とかそういうことを語り合いたいなという風に思っています」と語ったという。
 猪瀬知事は博識な作家であるが、世界史を「語る」前に、一方的な思い込みではなく、相手側・イスラム諸国民の立場にもたって謙虚に世界史を学び直すことが肝要なのでは。
 
 数か月前、朝日新聞の「声」欄に「地震国トルコに五輪譲ろう」という投稿があって、それには、「親日のトルコ人に『謙虚の美徳』を示しましょう」と。それにひきかえ、その地震国トルコ(1999年の地震では死者1万人超)に、地震で原発大事故を起こして収まりつかないでいる日本の首相が原発を売り込みに赴くという厚かましさ。それに、イスラム諸国民とその国の文化のあり方を不当にけなしてオリンピック招致を何が何でも勝ち取ろうとする厚かましさが際立っている。 

 次は日本国憲法の前文の一節である。 
 日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。我らは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」「我らは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。」
 
 われわれ日本国民は、このことを国際社会に対しても公約しているのである。
 それなのに、何ということを・・・・・・・・・・
 この憲法を変え、この前文や9条を破り捨てようとさえしているのだ。

2013年06月01日

6月のつぶやき(上に加筆)

●洞穴の中に居る(この俺)。入口に熊が顔をのぞかせ、ガオー!後ろに出口が空いていて逃げようとするも、金縛り。あがききって跳び出したらバシーン!頭を打ち付けて目が覚めた。
 女房、「襖でえがったな」
●自分のクラスの教室で、なぜか教壇ではなく生徒たちの席の後ろに腰掛けさせられていた。なぜかI先生が居て、やおら生徒たちの前に立って「今日から担任が変わったから」と。校長に尋ねると「先生にはお辞めいただくことになりました」と。職員室に戻ると、前に辞めたはずのS先生がいるではないか。「そういうことだったのか」・・・・ハ!夢か。ああ、定年退職して13年も経つのに未だこんな夢を。しかも実体験にはない奇想天外な・・・ロマンが足りないんだなあ・・・
●日本国憲法の英訳が書かれてあるのがあったので、前文と9条だけをサインペンで書き写して、既に日本語で書いたのが貼り付けてある居間の空いている壁に貼りつけた。早速、女房・子どもから口説かれた。「また~ここは家族がくつろぐ居間なんだからな!」
 「いや、孫たちのためど思って書いてやってだなだ、なあ○○○(中1)」
 「(中1)・・・・・・(ノーコメント)」

CIMG3948.JPG
                        さつき
CIMG3947.JPG
                    孔雀サボテン
●居間で中1の孫と二人だけ。憲法の貼り紙を指して、歌って聞かせよう、と言って歌って聞かせた。
「学校の合唱コンクールで、これを歌えたらたいしたもんだぞ」と言ったら、「曲はもう決まってるから」と。
 そういえば合唱コンクールで生徒は歌ったな。「若者たち」「風」「銀色の道」「いい日旅立ち」「君にのせて」「怪獣のバラード」etc。
 田植えがどうやらすっかり終わった田んぼ道を散歩。「憲法の歌」それに今日は小椋佳・堀内孝雄の「遥かな轍」。♪♪こうとしか 生きようのない 人生が ある せめて 消えない 轍を残そうか♪♪(昔、カラオケでも歌ったことがあるが、ネットで歌詞を調べて紙に書いて暗記し直した。覚えにくい歌詞だ)
 女房は、山菜とりから帰っていた。妹と行って途中離れ、熊用心に『何だじゃなく』唄いながら取ってきたそうな。俺が行って唄ってやりゃえがったかな?♪♪ある日 森の中 熊さんに出会った♪・・・・・・冗談はよそう。
●夕飯中、中1の孫がやおら「宣戦布告されたら、日本はどうするの?」と訊く。「どうもしない。ほら(貼り紙に9条が書いてある)、『国権の発動たる戦争と武力の行使は、永久にこれを放棄する』『国の交戦権は、これを認めない』と。だから宣戦布告されても、受けて立つことはできないということだ。ということは相手も、日本に宣戦布告しても日本は応じないので意味がなく、戦争しようにも戦争にはならないということだ。しかし、宣戦布告なしに攻撃をしかけてきたり、侵略してくることもあり得る。かつて日本が中国にしたように。仮に、そうやって日本が攻撃や侵略をしかけてこられたら、国に交戦権はなくても、国民の抵抗権はあるので、国民はあらゆる手段を用い、警察でも自衛隊でも(「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定める憲法とは矛盾するが)、現にあるものはすべて活用して抵抗することはできるわけだ」と、ここまでは話した。いずれ、もっと詳しく・・・・・「今、この日本に攻撃や侵略をしかけて得をする国はどこもあるまい。世界中から制裁をこうむるはめになるし、その損失を含め、すべてを計算に入れれば全く割に合わないことは分かりきったことだろうから。大事なのは、宣戦布告されたらとか攻撃や戦争をしかけられたらどうするかではなく、しかけられないようにするためにはどうしたらいいかだ。自衛隊とアメリカ軍とで防備を固め、日本にいくら攻撃をしかけてもどうせはね返されるばかりだから、それは無駄だと思い込ませるようにすればいいのか、それとも、警戒や恐れを抱かせるようなことは避けて、日頃からどの国とも仲良くして、敵をつくらず、戦争をしかけられることのないような関係を築いていくのがいいか、どっち利口だか、だろう」といったことも話さなければなるまいな。

CIMG3918.JPG
                      バラの香りが ええんだな       
●NHKニュースを聴きながら、女房、「『アベノミクスに踊らされているな!』って投書さ書くんだで! たく もう」と、当方を煽る。
●もう一つ、この月は山菜の季節。わらび・あいこ・しおで・・・・。取ってくるのは女房。しかし、訊くと、女房は片足の指を悪くして力が入らず、山登りが思うにまかせなくなって、しおで等はあまり取れなくなったという。がっかりだな・・・歳も歳だし、無理もさせられまい。
●花は、今度はバラの番―2回の軒下まで達していた上の方を切り落としたため貧弱になったが。満開が楽しみ。
●憲法九条を守ろう県民大集会―ノーベル賞科学者・益川教授の講演―当方と同世代、親しみを覚えた。やはり世代感覚が合ってるな・・・・
戦争―殺されるのも悲惨だが、殺すのはもっと悲惨なものだと。あ!そうなんだ・・・

2013年06月07日

憲法のこと等―新聞に載った方々の投稿(写真を加える)

CIMG3927.JPG
                    4月30日朝日新聞 声欄
CIMG3921.JPG
                   5月7日 BS朝日 「午後のニュース・ルーム」
CIMG3925.JPG
                    6月1日 朝日新聞紙面審議会

 当方は新聞の切り抜きをして、ためておいている。度々投稿もして朝日などに何回か載せてもらったことがあるが、皆さん、このところ憲法のことや、歴史認識に関する首相や維新の会代表らの発言問題についての投稿が多く、中には「ほ~」とか「ん~なるほど」と感心させられるものが幾つかある。次にそれらの(新聞は家でとっている朝日新聞などに限られるが)各文の抜粋を列挙したい。(5月中に載った投稿で、改憲問題と「侵略の定義」、「従軍慰安婦」問題など関し、当方が注目したもの。)(列挙した新聞は、二つ以外は全て朝日新聞)
●5月1日74歳男性「憲法掲げ『日中不戦』訴えたい」
 「かつて勤務していた高校の修学旅行で、北京を訪ねたことがある。その折、市内の高校と生徒同士がスポーツ交流、仲良く語り合った姿に、平和な時代の尊さを思い、胸が熱くなった。・・・・・。/長春(旧満州国の首都)の大学の教壇に立った時は、文革の嵐がさめやらぬ頃で、現地の草の根の人々と生活を共にし、苦楽を分かち合ったことが深く印象に残っている。/・・・尖閣問題をめぐり、一部の政治家やメディアがことさらに反中・嫌中をあおろうとしている。・・・。/しかし、軍事力によって守られる平和などありえない。戦争放棄を世界に向かって宣言した日本国憲法こそは平和の砦であり、人類の理想である。中国の草の根の人々に、憲法の非戦の思想を熱く語りかけていく。そのことを通して私は、日中友好の新たな取り組みを始めたいと思う。」
●5月3日87歳男性「改憲による自由侵害を恐れる」
 「1945年5月25日の東京の空襲で、旧制高校2年の私は、防空壕の中まで猛火が迫った時、初めて死を意識し『何としても命を守りたい』と思った。そして、池に飛び込み生き延びた。『戦争に勝つため必死で戦え』と教育されたが、・・・・・。/現憲法の『平和のうちに生存する権利』(前文)、『すべて国民は、個人として尊重される』(13条)という主張は、戦中の私の『命を守りたい』という思いをそのまま満たすものだ。/・・・・・自民党の憲法改正草案は表現の自由を認めつつも、『公益及び公の秩序を害する』活動を禁じるとしている。これでは戦中のような統制が復活し、自由は侵さてしまう。」
●5月3日93歳男性「戦争体験を語り憲法を守りたい」
 「私は1941年、近衛歩兵連隊に入隊した。代々木練兵場の観閲式で白馬に乗った天皇陛下の姿に感動し、命を捧げる決心をした。幹部候補に合格し、各地を転戦した。・・・・だが敗戦後、不正義な侵略戦争と知った。/上海で敗戦を迎え、46年に運よく帰国した。すぐに『平和憲法』が制定された。これで日本は二度と戦争はしない国になったと喜んだ。だが、あの戦争に参加し、戦友や部下を失い、自分は生きて帰ったという『ひけめ』から戦争の体験を身内にも話さなかった。/しかし、これは大変な間違いだったと気づいた。・・・・戦争に参加した旧軍人たちよ、一人でも多くの国民に戦争の悲惨さを語り伝え、共に『平和憲法』を守るために力を尽くそうではないか。」
●5月3日13歳女性(中学生)「歴史を学び憲法の大切さ知る」
 「『歴史』を学ぶことには、どんな意味があるのだろうか?・・・・歴史を学ぶことで、私たちは過去に起こした過ちを繰り返すのを防ぐことができるということです。/・・・・歴史を学ぶのは年号や出来事を知るためではなく、その出来事が起きる背景となった人々の思いを受け止め、後世へと受け継いでいくためだと思います。/・・・・私たちは、二度と戦争をしないという強い思いが込められた憲法を変えることなく、今まで日本に平和をもたらしてきた人々の思いを、今後も受け継いでいかなければなりません。」
●5月3日64歳女性「違憲議員による改憲は許せぬ」
 「隣国の非難を分かっていながら(靖国神社)参拝した国会議員たちは、外交行事が中止になるなど、国益が損なわれている現状をどう考えるのか。・・・・/3月一票の格差を巡り、各地に高等裁判所で『違憲』・・・の判決が相次いだ。/・・・・憲法前文には、『正当に選挙された国会における代表者』とある。『違憲議員』に、憲法改正をさせることは許してはならない。」
●5月4日86歳男性「改憲派は昭和の歴史見直して」
 「私の叔父は太平洋戦争の最中、・・・・。補給の途絶えたニューギニアで、まさに泥水をすすり草を食む状態となり、そこで力尽きて餓死したそうです。・・・・/こんな死に方が、安倍晋三首相のいう『国のために尊い命を落とした』ということなのでしょうか。・・・・・(『陸軍軍人の死者は約240万人、うち7割が餓死だった』という。)それは当時政権にあった者たちの判断の甘さから国に見捨てられた犠牲者なのです。/・・・・今の憲法は叔父のような多くの犠牲者の上に成り立っているのではないでしょうか。戦争を経験した私たちが、この憲法のお蔭でどれだけ心穏やかに戦後を生きてこられたのか、若い改憲論者の政治家の皆さんは考えたことがありますか。もう一度謙虚に昭和の歴史を見直してください。そして近隣諸国との友好のために知恵を結集してください
●5月5日46歳男性「改憲のための96条改正は異様だ」
 「改正案は、改憲の発議に必要な要件を現行の衆参両院の3分の2以上から過半数にまで引き下げようとするものだ。・・・・。/だが、この『過半数』はいかがなものか。衆院では小選挙区制の影響もあり、与党となる政党は過半数の議席を占めているのが一般的だ。すなわち政権が交代するたびに何らかの憲法改正が発議される可能性を意味している。/法律とは異なり、憲法は権力の暴走に歯止めかけることを目的としている。このことを踏まえれば、時の政権の恣意によって憲法に改定が加えられることは、憲法の存在意義を失わせ、日本国家が依拠する立憲主義の根幹さえも揺るがすことになる。」
●5月6日68歳男性「首相の強気な言動に違和感」
 「特に、閣僚たちの靖国神社参拝を中国と韓国が批判したことに対して、『どんな脅かしにも屈しない』と発言したことに驚いた。中国と韓国が何を脅かしたというのだろうか。/かつて日本が、アジア諸国に対して行った戦争や支配の大きなよりどころとなったのが、靖国神社だった。・・・・。/今も靖国神社は、こうした行為の全てが、やむをえないもの、正しいものだったという立場に立っている。構内にある博物館『遊就館』に行けば、そのことはいやというほどわかる。A級戦犯の合祀は、こうした姿勢の必然的な結果に過ぎない。/その靖国神社に日本政府の要職にある人たちが参拝することに対して、かつて日本から甚大な被害を受けた中国や韓国が不快に思い、警戒心を抱くのは当然ではなかろうか。」
●5月8日52歳男性(高校教員)「配慮足りない『侵略定義』発言」
 「『いじめ』の定義は何か。教員は、被害者が、『いじめだ』と感じたら、加害者がいくら『悪ふざけだった』と言っても、『いじめ』だと見る。受けたものの主観で判断さるべきで、それが教育的な配慮だ。/安倍首相の『侵略の定義』発言は、いじめ問題で、『いじめの定義は学界的にも教育的にも定まっていない。人と人の関係でどちらから見るかで違う』と言っているに等しい。/それに発言は、そもそも史実に反する。先の大戦の発端となった満州事変の当時、中国は国際連盟に日本の軍事行動の不当性を訴え、連盟は『満州国』を否認に対し、日本以外の国が圧倒的多数で賛成した。当時の国際社会は、『日本の侵略』という主張を認めたのだ。『どちらから見るかで違う』というのではない。」
●5月10日55歳男性(高校教員)「改憲論者の背後に隠れる目的」
 「改憲論者の意見・・・『現憲法は連合軍に推しつけられた』『自衛隊は軍隊だから、それに憲法を合わせろ』『新しい時代に合っていない』『新しい権利を保障していない』『道州制を導入するには現憲法では出来ない』など・・・どれも見当はずれだと思った。/例えば、自衛隊については『自衛隊は軍隊ではない』と言い続けてきたのはどの政党なのか。・・・また、時代に合わないというのも、時代に合った人権を守る法律を憲法の本旨を踏まえて作らなかった政治の怠慢でしかない。・・・・・。/改憲論者の背後に隠れている目的は基本的人権の制限であり、国民への義務の押しつけであり、軍事産業を大手を振って育てることで得られる『国益』だろう。」
●山形新聞5月10日57歳男性「日本の憲法9条に感動」
 「中国から日本に来て初めてテレビを通じて『憲法9条』を耳にしました。早速本屋に行き、日本国憲法の単行本を買いました。・・・『再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する』、『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は・・・・・・永久にこれを放棄する』、『国際社会において名誉ある地位を占め、全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れること。この崇高な理想と目的を達成する』。/・・・・読みながら感動のあまり熱い涙がこみ上げてきました。・・・・/・・・・・憲法9条を世界に広め、いつかは・・・・。/まさに『全世界の国民が等しく』平和の中で生存できるその時代の達成は夢ではないと思います。」
●赤旗5月11日76歳男性「先生が憲法の話」
 「中学1年の時・・・・・先生が、ある日突然涙ぐんで『事情があって今日で君たちとお別れです』と言って、最後の授業で憲法の話をされました。/その時は難しくてなにも分かりませんでしたが・・・・/つい最近覚えた曲に、この時の情景とそっくりの歌があり、驚きました。9条を歌った『あの日の授業』という曲です。/憲法を改悪する動きがある昨今、この平和憲法を孫子の代まで守っていかなければと、寝たきりの自分に叱咤激励している私です・」
●5月11日74歳女性「憲法を変えない党に投票したい」
 憲法学者の佐間忠雄さん・・・・は戦時中、零戦パイロットになったが、(長男除外で)出陣の希望を聞き入れられなかった。これでは出陣して死んだ兵士は犬死にではないか。だが、佐間さんが『彼らは日本国憲法に化身して、平和の礎となった』と・・・・。/・・・戦死者の魂が込められた憲法を変えたがる政党には絶対に、投票したくない。でも、改憲勢力は強く、どの党が対抗できるのか。」
●5月14日80歳男性(作家・森村誠一)「犠牲を払って得た憲法 尊重望む」
 「改憲の論拠は他国から侵略されて交戦権を持たぬ国がどこにあろうかという点であるが、今日、戦争の構造は異なっている。/戦争の原因である一国の意志を他国に強制することは、世界の反感を集めて不可能である。・・・・。/人類の天敵・戦争は必ず民主主義を圧迫し、基本的人権を奪う。人類初の核兵器の洗礼を受け。300万の犠牲を払って得た人権保障憲法を、一代の政治家が安易にいじくるべきではない。」
●5月17日89歳男性「橋下氏は慰安婦の苦難知らぬ」
 「旧日本軍は、明らかに慰安婦を威力をもって支配していたのである。/学徒兵として太平洋戦争に参加した私は、ソ満国境守備隊に赴任した。要塞のある『虎頭』は小さな町。そこから少し離れた所にある『完達』の町に、慰安所はあった。新任の将校に与えられる任務の一つに、慰安所の巡察があった。/慰安所に連れてこられた女性たちは、みな朝鮮半島の人たちであった。朝鮮半島の女性たちは、慰安婦となることを強制された人たちだったと私は思う。戦争が終わり、慰安所にいた女性たちが、どのような運命をたどったのかと思うと胸が痛む。」
●5月18日42歳女性「9条改正は外国人にも不安」
 「北朝鮮から子どもと来て4年が経ちました。日本に来る前、保護されて中国に1年間いました。日本行きを知った小学生の子どもが「怖い国には行かない」と泣きながら強く抵抗しました。子供は幼い頃から北朝鮮で日本植民地下の残酷さをテレビや学校で見聞きしていたからです。私も同じ不安な気持ちでした。/・・・・/不安な日々の中で、大学の通信教育部で法律の勉強をしました。去年、憲法のスクーリングで初めて日本憲法9条の授業を受けました。目を大きくして耳を傾けて聴きました。うれしかったです。・・・・。/早速、子どもに憲法9条の話をしました。『日本人も戦争で大事な家族を失い、二度と戦争をしないことを憲法で明確に定めている。安心してもいいよ』。目を見て子どもが安心したのを感じました。/日本の憲法は世界中が手本にすべきだと思いますが、最近、9条改正が議論になり、再び不安になりそうです。」
●5月20日52歳女性(高校教員)「語られない戦争がある」
 「米寿を迎えた母が、一度だけ戦争の話をしてくれたことがあります。終戦直後、中国から引き揚げてきた兵士が、母にきつい口調でこう言ったそうです。『若い娘が外をフラフラ歩いていちゃいかん。米兵がきたらつかまるぞ。何されるか分からんぞ。日本は負けたんだ』/その兵士がさらにこんなことを言ったといいます。『俺たちは中国でひどいことをしてきた。占領した土地で、民家に押し入って金品を奪い、娘たちをさらって慰みものにした。逆らう者たちは、見せしめに木につるして銃剣で刺し殺した』『今までよその国で勝手放題にやってきたことを逆にやられるに違いない』/今となっては、真偽を確かめようもありません。ただ、戦争の語り部として体験を語られる方々は、『ずっと話したくないと思っていた』と言われます。同じように、『思い出したくない』と思っている体験者も多いでしょう。そうした公式の記録には残っていない体験談にこそ戦争の真実があるのかもしれません。」
●5月20日93歳男性「歴史学者からも一言言わせて」
 「圧倒的多数の研究者は、可能な限り多くの史料に接し、それを批判的に検討し、できるだけ正確に歴史を解釈し事実を知ろうとする。それに対し、少数ではあるが、歴史に対して予断を持ち、都合のいい史料だけを拾って歴史を作り上げようとする人がいる。両者は、学界的に等価値では断じてない。しかし首相はこれを同等と考えているようにみえる。/さらにいえば、歴史を学びながら他者の痛みが自分の痛みになるように、人間として普通の想像力が働かない人は、結局歴史から何も学べないのではないか。日本の犯した過ちを認めないのは卑怯だと思う。そんな人たちの作る日本は『美しい』のだろうか。」
●5月22日87歳男性「慰安婦は多民族蔑視の制度」
 「私は戦時中、旧陸軍の2等兵だった。一番驚いたのは、階級が上の朝鮮人兵士が、我々日本人新兵のふんどし洗いなど、身の回りの世話をしてくれたことだった。そうしないと、日本人の古参兵から殴られるのだ。/民族差別の究極の表れが、朝鮮人女性や中国人女性を慰安婦にしたことだろう。中国戦線で戦った私の義父は日記をつけていた。そこに『支那ピー1円』『朝鮮ピー1円50銭』という記述がある。南方戦線にかりだされた漫画家の水木しげる氏によると、『ピー』は慰安婦を指すという。女性たちは民族ごとに値段をつけられた。・・・・。/・・・・政治家たちが過去や現在の多民族への蔑視について無神経な発言を繰り返せば、日本は世界で孤立してしまうのではないか。」
●5月24日68歳女性(1990年から3年間米国ケンタッキー州に滞在したことがあるという方)「平和憲法の理念、世界に広げて」
 「現地の新聞の時事漫画で、登場人物に『日本の憲法9条を変えるより、世界中の国が、それを取り入れたらいいのに』と言わせるのを目にした。・・・・・・・/戦争の悲劇を繰り返さないために、平和の範となる9条を変えるより世界に広める努力をしてほしい」。
●5月24日49歳男性「橋本発言、原爆正当化論と共通」
 橋下氏の「『慰安婦は必要だった』という見解は、・・・・米国人が『広島・長崎に原爆を投下したのは正しかった』(同日同欄にあった別な高校生の投稿で、彼が小学生の頃、米国の学校で学んだ時の先生の言い方では「原爆を落とさなかったら戦争は長引き、被害は大きくなっていただろう」―筆者補足)とする考え方に似ている。双方に共通している点は、戦争中の非人道的な行為について、あの時代は必要だったという強者の論理である。・・・・/また「『世界各国の軍が女性を利用していた』として日本だけが非難されるのはおかしいという趣旨の発言・・・・これは、たとえて言えば、窃盗犯が『盗みをしたのは俺だけではない、他の人もやっている』と開き直るのと同じだ。世界からは『盗人たけだけしい』としか思われない。」
●5月25日20歳男性(大学生)「政治家は歴史を忘れたのか」
 橋下発言(「従軍慰安婦は必要だった」)は「元慰安婦の方から自らの意に反して従事させられたとの証言があるというのに、人権軽視も甚だしい。また、96条改定はあまりにも憲法を軽視した政策である。日本は過去に様々過ちをおかした。そのため二度と過ちを繰り返さないよう、先人たちは新たな規範を作ったのではないか。それを、たかだか戦後六十年経って忘れてしまったのか。/・・・・・今こそ、日本国民は、時勢や政治家の言葉に流されず平和な国を維持するために行動すべきだ。」
●5月25日77歳男性「戦争を知らぬ世代が動かす日本」
 首長・国会議員・大臣が「憲法の擁護義務などまるでないように改憲を唱えるもう一度、戦争の惨禍を体験しないと平和のありがたさがわからないのだろうか。」
●5月26日65歳男性「政治家は侵略の定義を学べ」
 安倍首相は「『侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない』などと言っていますが・・・・。/1943年、・・・・米英中の3国代表が採択したカイロ宣言は『日本の侵略を制止し、かつこれを罰する』としています。/74年には、国連総会で『侵略の定義に関する決議』が採択されました。『侵略とは国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使』であり、具体的な侵略行為として『一国の軍隊による他国の領域に対する侵入もしくは攻撃、(略)その結果もたらされる軍事占領、または武力の行使による他国の全部もしくは一部の併合』などと明記されています。それを日本は『知らない』では済まされません。」
●5月26日73歳男性「人権尊重する憲法 堅持願う」
「自民党の憲法改正草案・・・12条で『自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない』、・・・・/現行憲法が人権に対し、『公共の福祉』の制約を控えめに示しているのに比べ、自民党案の『公益』『公の秩序』の概念は非常に先鋭で、表現の自由など人権を制約する方に重点を置いている印象を受ける。/国防軍、公益・秩序名目での人権制約、警鐘を乱打しても足りぬ。」
●5月26日54歳男性「空文化しつつある憲法25条」
 「安倍内閣が生活保護申請の際、行政に親族の扶養調査権を与える生活保護法改正案を閣議決定した。/日本の生活保護受給者は今年2月に215万5218人となり、過去最多を更新した。それでも日本は人口にしめる割合が1.6%と低く、ドイツは9.7% 、英国は9.3%だ(2010年統計)。日本は受給資格を満たしているのに受けない人が多い。親族の資産調査まで始まったら申請者はもっと減るだろう。/自民党の憲法改正草案の24条は『家族は、互いに助け合わなければならない』という文言を新設している。この改憲案が通れば、憲法25条で保障されてきた生存権はますます空文化していくだろう。
●5月27日76歳男性「『押しつけ』憲法 真実でない
 「戦後、壊滅状態にあった日本国家再建を目指して民間、学界、マスコミ、政府関係など様々な人や団体が憲法草案を発表しました。その様々な案を巡り国民的議論が沸騰しました。左は労働者中心の民主主義をめざす共産党系から、右は万世一系の国体護持派まで、実に幅広いものでした。/その中で政府は、連合国軍総司令部(GHQ)と共同で何とか統一した政府案を作り上げようと努めました。しかし、民主主義を少しでも徹底させたいGHQと、天皇君主制を少しでも強く残したい政府の間で折衝が難航したのです。/天皇を戦争犯罪者として追及する問題でももめました。最終的に『国民主権』下で天皇制を存続すべく『象徴天皇制』とする形で決着し、帝国議会両院での審議の結果、日本国憲法と戦後民主主義は誕生したのです。」
●5月30日55歳女性「『戦争の教訓』次世代につなげ」
戦争を放棄し、軍隊不保持をうたった平和憲法を持つ国は世界で2ヵ国。日本とコスタリカである。コスタリカは・・・・/国家予算の2~3割が教育費で、中南米では高い医療水準にあり病院などの医療サービスも無料だそうだ。・・・・/・・・・世界で唯一の被爆国である日本には全世界に平和を訴える責任があるはずであり、少なくとも今、憲法改正の手続きを変えてまで改正する必要性は感じない。」

 これらの投稿は、論拠や着眼点が実に的確だったり、実体験(軍隊経験や戦時体験、公布されて間もない憲法に身近に接した体験、中国や北朝鮮からの帰還者、海外在住経験など)から言葉に実感がこもっていたり、また当方が深く共感するものばかりだ。
 
 尚、5月中は、憲法や「靖国」・「従軍慰安婦」・「侵略」などの問題に関する投稿は、これら以外に、「96条変える必要があるか」・「96条先行改定なら憲法形骸化」・「憲法を変えるための政党なんて」・「『一度改正を』ではすまない」・「『押しつけ論』超す憲法探れ」・「男女平等をうたう条項に感謝」・「平和国家を目指す前文に誇り」・「『国防軍』の議論 急がないで」「9条改正し自国を守るべきだ」などもあった。
 朝日新聞は、投稿を、社説など自社の社論にかかわらず、一般にえこひいきなく、賛否両論を載せているようだ(例えば、消費税―社説では増税賛成だが、投稿はむしろ反対論の方が多く載っている)が、靖国・従軍慰安婦・侵略などの問題に関する首相や橋下氏の発言を支持する投稿は載っておらず、改憲賛成論は上に列挙したうちの最後の一つ(「9条改正し・・・」)だけ。それは、新聞社側が一方的にそれらをはずしているというわけではく、その立場からのしっかりした投稿が少ないということだろう。(「9条改正し・・・」なる投稿にしても、他に比べて論拠や説得力の点で弱い。)


2013年06月16日

安全保障―9条は護憲と改憲のどちらが現実的に合理的か(再加筆版)

軍事力と非軍事外交力のどちらに頼るのが賢明か
領土・主権を守るのにはどちらが確実か。
どちらが「枕を高くして寝られる」(安心)か。どちらが危険か。
どちらが、財政コスト的に有利か。
どちらに現実的合理性があるか
1、軍事力(「防衛力」「軍事的抑止力」)のほうに頼るやり方
 自衛隊(→国防軍)
 日米同盟(安保条約)―日米軍事協力・米軍基地・米軍の核戦力に頼る
 自衛隊が米国の軍事戦略の中に組み込まれる(役割分担)
 問題点
 ①日米側の軍事力は中国・北朝鮮などに対して圧倒的に優勢だが、核戦力については相対的な差の大きさ(核弾頭数はアメリカが8000発に対して中国240発、北朝鮮は不明なのだがせいぜい10発未満)は大して意味がない。なぜなら、仮に中国に対してアメリカが日本に加勢して核兵器を発射すれば、中国はアメリカのどこかの都市に報復攻撃を加え、100万人もの市民が犠牲になるが、それを覚悟でアメリカは日本のために核兵器を使うだろうかといえば、否だから(「核の傘」は機能しないということだ)。アメリカは日本を守るために何でもしてくれるというわけではないということだ。
 また、北朝鮮がノドンかムスダンに核弾頭をつけて東京に打ち込めば100万人が犠牲になる(ミサイル防衛で着弾前に迎撃して撃ち落とすといっても、そんなに巧くいくかわからない。実験で成功しているとはいっても、それは標的となる弾道ミサイルの発射の時間・場所・速度・落下地点などデータが分かっているからなのであって、実戦ではいつ、どこからどこへミサイルが飛んでくるかわからないのだから)。
 ②ある国・ある勢力(中国・北朝鮮など)に対して
              不信・対抗~敵対(「仮想敵国」視)することを前提
       ・・・・敵視政策―「敵をつくる」―友好・信頼関係を阻害
             それらの国の軍備増強・攻撃(軍事衝突)を誘発する危険
 ③互いに脅威―中国・北朝鮮が脅威といっても、むこうから見れば、こちら(日米)を脅威と―自衛隊は警察予備隊の名で発足して以来拡大増強してき、日米安保条約で超核大国アメリカと同盟関係を結んできた、それは大きな脅威―互いに不信・疑心暗鬼―一方的に相手の方に「軍備増強をやめよ」とか「核・ミサイルを放棄せよ」と言うだけでは、相手は応じない。
 ④米軍の核戦力(核抑止力・「核の傘」)に頼る―しかし、それがいかに強大であっても自暴自棄になって攻撃してくる(自爆テロのような)相手には抑止が効かない(北朝鮮は国家及び政権が武力攻撃で崩壊させられると確信した時には、あらゆる軍事的手段を尽くして反撃してくるからだ。それが核兵器の開発にもつながり、核兵器での攻撃にもつながる。)
 ⑤米国の戦略・軍事政策に左右される
     ―日本はアメリカの同盟国として軍事協力・共同歩調(自衛隊は米軍に追随)
       他の国々や勢力(反米勢力)からはアメリカが敵なら日本も敵とみなされる。
 ⑥ミサイル防衛―確実性に欠ける(百発百中 撃ち落とすことはできない)―「気休め」にしかならない。(たとえば北朝鮮は300発程度のミサイルを実戦配備しているといわれる。ミサイルは数分で飛んで来る。これらのミサイルが発射されたか否かすらほとんど掌握できないのだから、弾道の軌道計算はまずできない。それに、攻撃する側は、ミサイルから弾頭を複数―「おとり」も―発射してくるので、本物を見分けて命中させることは難しいし、複数のミサイルが同時に発射されて飛んできたら、それらを全て打ち落とすのは不可能<参考―元外交官・防衛大学校教授・孫崎亨「不愉快な現実」講談社現代新書>) そんなものに1兆円以上の巨額予算を米国に払っている。
 ⑦敵基地先制攻撃作戦―山中のどこにミサイル基地があるか詳しい位置が分からない(衛星打ち上げロケットの固定発射台と違い、ムスダンなどの実戦用のミサイルは山岳地帯に隠されたトンネルから、トレーラーの自走発射機に載せられて出てきて10分間で発射。偵察衛星―時速2万9千キロ近い速度で南北に地球を一周約90分で周回するから、昼間に1地点を撮影できるのは1日1回、せいぜい約2分間―で捉えるのは難しい。無人偵察機は、ジェットエンジン付きグライダーで長時間上空から監視できるが、飛行高度は約1万8千メートルだから対空ミサイルで撃墜される)。位置が分かったとしても間に合わない(日本海上の潜水艦などから「トマホーク」などの巡航ミサイルを発射したとしても時速880キロだから、内陸の目標まで約20分、ムスダンが10分で発射されるなら間に合わない)。
 ⑧尖閣諸島で今中国とやりあったら、この付近(中国にとっては「台湾正面」に含まれる)では中国空軍(南京軍区に16の空軍基地、それらに戦闘機が合計約320機、うち米国のF15・F16などと同等の新型戦闘機は180機、それに対して航空自衛隊は那覇空港に約20機、本土から追加配備20機合わせても40機、その差は少々の技術では補えない)の方が優勢で、制空権は中国側に握られ、海自の水上艦は行動を阻まれ、自衛隊の「海兵隊」による島の上陸はできず(水陸両用車が上陸できる海岸も、オスプレイが着陸できるヘリポートもなく、空中降下しかない)、上陸しても孤立(補給も帰還もできる保証ない)。アメリカは中国との死活的に重要な経済関係を断ち切ってまで日本の無人島のために戦ってくれるとは考えられない。
 要するに「尖閣諸島近辺で日中間の軍事衝突が起こった時に、日本が勝つシナリオはない」(孫崎氏)ということだ。

 以上、これらのことを勘案すると、軍事力に頼れば安心とは到底言えない
  <参考―データは週刊紙AERA6月17日号に掲載の田岡俊次・軍事ジャーナリスト「防衛大綱に非現実提言」から)
2、非軍事外交力のほうに頼るやり方(憲法9条に徹するやり方)―間断ない対話・外交交渉
 コスタリカのロベルト・サモフ弁護士(大学生の時、コスタリカ政府がイラク戦争の有志連合に名を連ねようとした際に、それは不戦憲法に違反しているとの勝訴判決を勝ち取った人物)が来日した折、ある市民集会で参加者から「コスタリカは軍隊がないのに攻められる心配はないのですか?」と訊かれて「コスタリカはそのような心配はありません。平和的な外交を展開しているからです」と答えたうえで、「逆にあなたに訊きたい。日本はなんか攻められるような原因があるのではないですか」と(笹本潤「世界の『平和憲法』新たな挑戦」大月書店)。
 北朝鮮―日本では脅威だと思っているが、向こうから見れば日米韓(アメリカとは朝鮮戦争以来、休戦状態にはあるものの未だに終結しておらず、日韓はアメリカの「核の傘」・ミサイル防衛網で守られ、基地を置き、しょっちゅう合同軍事演習)が脅威。
 日本は北朝鮮との間には拉致問題・核・ミサイル問題だけでなく、過去(日本が植民地支配によって与えた損害と苦痛)の清算と国交正常化問題もあるのだが、安倍政権は「対話と圧力」両用で対応すると言いながら、拉致・核・ミサイル問題だけで制裁一本やり、対話は(最近、飯島内閣官房参与の訪朝があったものの)ほとんど進展ない。
 中国に対しても、尖閣問題で、一方的な島の国有化を宣言し、かつ「日中間に領土問題は存在しない」と決めつけて係争地として「棚上げ」も認めないとして、(「対話の扉はいつでも開いている」と言いながら)対話を突っぱねている。
 そのような経済制裁・軍事的圧力一辺倒ではなく、対話・交渉路線をあくまで追求すること。
 ①「殺さなければ、自分が殺される、それが戦争だ」。抑止力と称して互いに武器・軍備(銃や砲・ミサイル)を持ち合えば、「撃たなければ、自分が撃たれる」(「武力攻撃事態法」は、相手国の攻撃が行われなくても、相手の攻撃が『予測される場合』に自衛隊を発動できる)となり、結局戦争になり、悲惨な結果になってしまいかねない(アフガン戦争、イラク戦争―アメリカはイラクが大量破壊兵器を持っていると思い込んで攻撃)。互いの家に銃など持たなければ、安心であり、国が軍備など持たなければ、何もされないし、他の国も軍備を持つ必要がなく、互いに軍備を持ち合わなくてもいいことになる。
 ②「何もしない国」に対して攻撃を仕掛けるような国は今ではどこもない―キッシンジャー元国務長官(『核兵器と外交政策』で)いわく、「核兵器を有する国は、それを用いずして無条件降伏を受け入れることはないだろう、一方でその生存が直接脅かされていると信ずるとき以外は、核戦争の危険を冒す国もないとみられる」―要は「その生存を直接脅かす」ようなことはしないということ。北朝鮮が核・ミサイル開発をやめようとしないのは「その生存が脅かされている」と感じていて、抵抗手段はそれしかないと思い込んでいるからであり、そのような北朝鮮に対しては、「できるだけ早期に国交を結び、経済的結びつきを強め、北朝鮮に対して日本との関係がプラスになるようにしていくべき」(孫崎氏)なのでは(拉致問題の解決も含めて)。
 ③諸国と協調・平和友好関係を結ぶ―「信義に信頼」―「敵をつくらない」
 ④領土問題など紛争があっても軍事衝突~戦争にしない。
 ⑤信頼醸成のためにやっておくべきこと―かつての侵略加害に対する償い(補償)―韓国・中国など政府は賠償放棄、そのかわり日本は経済援助協力、個人補償は無し。北朝鮮には何もしていないが、やるようにすべきである。
 ⑥発展途上国など諸国に対する経済援助協力(ODA)、紛争後の地域には復興支援(「平和構築」)に努めること。
 ⑦友好協力条約の締結―TAC(東南アジア友好協力条約―ASEAN諸国の他に日本・中国・韓国・インド・パキスタン・オーストラリア・ロシア・フランスそれに北朝鮮も加入して合計25ヵ国加盟―すべての国の主権尊重、相互の国内問題への不干渉、紛争の平和的手段による解決、武力による威嚇・武力行使の放棄を基本原則とする)が出来ている。これは日本の憲法9条に合致しており、それを生かして日本がイニシャチブを発揮すべき。
 ⑧国民の生命・財産は(ギャングやテロリストから)警察・機動隊・SAT(対テロ特殊部隊)が守る
  国土・領海・領空は(侵犯から)「国土警備隊」(←自衛隊の改編)・海上保安庁が守る(このところ尖閣諸島海域で常態化している中国の監視船の領海侵入に対応しているのは海保巡視艇)
  シーレーンは海賊などから海上保安庁が守る(公海上の犯罪に対処)

 中村哲氏(医師でNGOペシャワール会を主宰し、アフガニスタンで医療活動と灌漑用水路建設に従事)いわく、「アフガニスタンにいると、軍事力があればわが身を守れるというのが迷信だと分かる。敵をつくらず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった」と。
 伊勢崎賢治氏(元国連平和維持軍武装解除部長・現東京外語大教授)いわく、「軍閥たちに対して、丸腰の私たちが武装解除できたのは、原爆を落とされて不戦を誓った国から来た日本人だからにほかならない」と。        

3、両方(軍事力と非軍事外交力)に頼るやり方
 問題点―そのやり方でいくと、結局(いざとなったら力づくでと)軍事力に依存し、外交努力を尽くすのが中途半端になる。
 我が国のこれまでのやり方がそれだ。憲法上、平和主義を建て前としながらも、日米安保と自衛隊の軍事力に頼った安全保障政策をとってきた。それで平和主義に基づいた積極的な外交展開や国際貢献はほとんど見るべきものはない。(憲法前文で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と唱っていながら、ずうっとアメリカに追従し、最近ではNPT(核不拡散条約)準備委員会で核不使用の共同声明に署名をしなかったり等で、とても名誉ある地位を占めていると言えるような状況にはない。)
自国の憲法では戦争放棄・戦力の不保持を唱っていながら、自衛隊の名の下に軍備を持ち、日米安保条約で米軍基地を置き、アメリカの「核の傘」で守ってもらっている。そして他の諸国にはそれ(不戦・非核平和主義)を広めようとはせず、自国さえ平和であればいいという、一国平和主義になっている。(自分は自国の軍備と米国の核軍備にしがみついていながら、他国―北朝鮮や中国など―にそれを放棄・縮小せよとは言えないのだ。)これでは世界から信頼は得られず、軽んぜられる。(「一国平和主義」の後ろめたさをカバーしようと、国際平和貢献ならぬ軍事貢献の方にこれ務めている―湾岸戦争で掃海艇派遣以来、アメリカのアフガン作戦支援にインド洋へ給油艦派遣、イラク作戦でサマワに支援部隊、ソマリア近海の海賊対策、各地の紛争地における「国際平和維持活動」などに自衛隊派遣)。

  さて、1と2と3で、はたしてどちらが賢明か
                 どちらがリスク(危険)が大きいか
      どちらが中国・北朝鮮or国際テロ組織などからの攻撃を招き(誘発し)やすいか
      どちらが、国民の安全保障として現実的で合理的か

 

2013年07月01日

7月のつぶやき(上に加筆)

7月31日アクセス数5,274
●勝った 勝った!米沢中央高 県予選準決勝(延長11回6対5) さあ決勝戦 ♪♪溢れる力 燃え立つ血潮 フレ フレ 米中央 中央 中央 頑張れ中央・・・・・・・・♪♪
●何が何だかわからない
 安倍自民党が信認され、何もかも委任されたのだ。
 アベノミクスは勿論のこと、改憲も、原発のことも、消費税も、TPPも、沖縄基地や集団的自衛権のことも、みんな好きなようにやって下さい、というわけだ。
 「ねじれ」が無くなり、あれよあれよという内に次々と決まっていくことになる、何もかも。
 いったい何でなのか、どうも解らない。賢明な日本国民、解らないほうがアホなのか。それとも、騙され、ごまかされていることに気が付かないほうがアホなのか。

 まあ、いいや。俺はだまされないぞ~だ、負けるもんか~だ(なんて意気がるのもアホか)。

●やっぱり・・・・1強+αに対してバラバラ、投票率52.6%(半分近い人が棄権)、
      これじゃ・・・・
      いよいよ危なくなったな・・・・ああ日本
●どーれ、投票さ行ってくっか、怒りの一票だ!
●「天声人語」にボケない秘訣は「キョウヨウ」と「キョウイク」とあった。つまり「今日、用があり、今日、行くところがある」ことだというわけ。なるほど、日々、生活目標を持ち、行動して過ごすことだというわけか。
 午前中、一文(新聞投稿)を下書きしてHPに打ち込んだ。午後(あいにくの雨模様)田んぼ道コースではなく街中コースを歌わずに傘さして散歩・・・・・・これで今日もボケずに済んだか。女房も、午前中、用たし、昼、ラーメンを作って共に食べ、午後、畑、と言っていたが、雨なのに未だ帰ってこないな・・・・。
●スナックで懇親会。カラオケが始まって皆さん次々歌いだした。当方にも「歌いませんか」と。「いや、勘弁して、人前ではどうも」といって固辞。他の客も居合わせたが、こちらの皆さん入れ替わり立ちかわり歌い続けた。ついに当方、「それじゃナマオケでマイクなしで」と言って申し出♪日本国民は・・・・・♪と(憲法の歌)を歌った。いつもの田んぼ道でのワンマンショーとかってが違って、歌詞(憲法前文の文句)をところどころ度忘れしてつかえると、メンバーの中に弁護士さんが居て、言葉を補ってもらい、♪この崇高な理想と目的を達成することを誓う~♪と最後まで歌えた。「ほ~」とばかりに拍手もらった。やれやれ・・・。
●アベノミクスと「ねじれ」解消(「決められる政治」)がうまくいってくれりゃ、それでいい、なんて投票されたらかなわないな。しかし、結局はそうなっちゃうのかな・・・・・ああ、民意よ、日本国民よ(この俺も含めて)、しっかりたのむよ!
●第一声・・・・女房「調子のええごどばっかり語って」。選挙か、おれはだまされないぞ
CIMG3988.JPG

CIMG3979.JPG
              葵(あおい)の季節
●7月1日アクセス数―5178

民意はいったい(加筆版)

民意―国民の意識、考え、意見、要求―階層・世代によって多様・格差
民意に影響するもの
①知識・情報←教育(しっかり学んだか、教えたか)
      ←各政党による説明・アピール
      ←メディア―テレビ・新聞・インターネット
       (注意)NHKなども含めマスコミはけっして中立・公平ではないということ―
             新聞社・局によって程度の差はあるにしても多数派・政権党寄り、
                少なくとも少数党寄りのメディアは赤旗など以外にはない  
CIMG3992.JPG
          割り付け―各党への不公平な配分―これに影響される
②時間―知識・情報に接する時間、考える暇、語り合える時間(暇がない、余裕がない)
                        仕事・家事・育児に追われて
        若者―中には暇はあっても政治には夢も希望もなく諦めきっているものも
③境遇―生育(戦争体験など)・生活環境・収入
    職業・営業―所属企業・組合など団体、利害関係
    世代―「雇用も、格差も、憲法も、(原発も―引用者)前途の長い若者こそ
                         重い一票」(朝日「天声人語」)
④価値観・倫理観―何が大事と考えるか―カネ(儲け)か、人々や自然の命か
 イデオロギー―保守かリベラルか、右翼(国粋主義)とか左翼(共産主義)とか―対立・偏見
         (国粋主義による外国人に対する偏見<排外主義>や共産主義に対する偏見
                            <反共イデオロギー>)がある。
民度―理解・判断力レベル―高いのか、低いのか
問題点
  ①「お任せ民主主義」―低い投票率(12月の衆院選59.32%、前回参院選57.92%)―棄権は
      結果的に政権を獲得した政治家・政党に白紙委任票を投じたのと同じことになり、
      その責任が伴う(他候補に投票した人たちから見れば、あんな政治家・政党に政権
                 獲得を許したのは、棄権したお前たちのせいだとなる。)
  ②「現代版ええじゃないか運動」(寺島実郎氏)―「アベノミクス」・円高に踊る
    ・・・・「アベノミクスや株価上昇の中で、ヤンキーの若者のような深く考えない
                        お祭り的な雰囲気」(斎藤環・筑波大教授)
  ③マスコミの世論誘導、政府与党によるマスコミ利用―
                          マスコミ人の取り込み(首相と会食)
  ④争点隠し・ぼかし―政党によって、それにマスコミの取り上げ方によって
         「アベノミクス」一点に偏重―それを言うなら、雇用・賃金、消費税・TPP
               それに原発(生命がだいじか利便がだいじか)
         核心は憲法―それこそが争点中の争点  
                   なのに「ねじれ解消が最大の争点 」だなんて
世論調査
朝日新聞世論調査5月15日~6月20日 郵送法、3000人うち有効回答2178人(回収率73%)
  政党支持率(%)―自民党48 、民主6、維新5、公明 4、みんな 3、共産 2、生活 1、社民 1、
                        支持政党なし27、無答・わからない 3
  参院選(比例区)で投票したい政党―
           自民党53、民主10、維新10、公明6、みんな7、共産4、生活1、社民1、
                         その他1、無答・わからない7
         
いずれも自民党が圧倒的―衆参の「ねじれ」解消、「決められる政治」を求めているのか(中身の良し悪しなどはどうでもよくて―専ら関心は経済政策で、景気さえよくなりゃあとはどうでも、というわけか)―「お任せ民主主義」
投票先を決める時、一番重視するのは    それらに対する安倍内閣の政策評価
     景気・雇用   38(だんとつ)    評価する67(注目) 評価しない14
     社会保障・福祉 17              27          23
     消費税増税    5              11          50(注目)
     財政再建     5              25          14
     TPP      2              20          24
     震災復興     4              24          22
     原発・エネルギー 4              10          36(注目)
     教育・子育て   7              23          18
     外交・安全保障  4              31          16
     憲法       6              12          29(注目)
  安倍内閣の経済施策―評価する68、評価しない28 
   その経済政策で暮らし向きは―よくなった3%、変わらない86%(注目)、悪くなった8%
    アベノミクスへの期待(幻想)が強いことを物語る。
  政権交代―繰り返される方がよい31%、 そうは思わない62%
      前民主党政権で「こりごり」という向きが強い
      野党各党とも「非力で期待できない」という向きも
  自民党に対抗する力を持ってほしい政党―
           民主27、維新27、みんな15、公明5、共産4、社民2、生活1
  憲法―9条改定に賛成 37、反対 54(注目)
     96条改定に賛成37、反対55(注目)
    参院選で改憲政党が3分の2以上占めた方がよい45、占めない方がよい46
  原発―いずれにしてもやめることに賛成72(注目)、反対21
  靖国―首相参拝 共感する56%、しない31%  
  「君が代」、卒業式などで歌うべきだというのに賛成77、反対15
    いずれも抵抗感が少ないか、問題意識が乏しい
  今度の参院選の情報を知るために一番利用したいのはテレビ51(注目)、新聞34、ネット13
  デモに政治を動かす力―ある28%、ない60%(注目)
    (デモの役割―互いに連帯し、示威行動―街頭を行進し市民にアピール―マスコミが取り上げなければ、自ら撮影してインターネットで発信して世論を喚起し、政権にプレッシャーをかける、という役割があるのに。)

 その後(6月23日)、都議選があった。投票率はわずか43.5%。投票率が少なければ、組織票の多い自民党・公明党が有利なことになる。
 各党の得票率―自民党36.2、公明14.1、共産13.7、民主15.4、みんな6.7、維新8.3、
これで、自公が圧勝、民主党は惨敗、共産・みんなが善戦という結果だった。共産党は、民主・維新に幻滅し嫌気をさした反自公・非自民票の受け皿になったと見られている。
 

 朝日新聞は6月29・30日 (電話法、対象は1970件うち有効回答は1039人‐回答率53%)
  政党支持率―自民39、民主5、維新2、公明3、みんな2、共産2、社民1、生活その他0、
                         支持政党なし36、無答・分からない9
  参院選(比例区)で投票したい政党―
        自民44、民主7、維新7、公明4、みんな7、共産5、社民3、生活1、新党大地1、
                            その他2、無答・分からない19  
 前の調査に比べると自民党はガタンと減ってはいるが圧倒的であることには変わりない。
 

 朝日7月6・7日の調査(電話法、回答率53%)
  政党支持率―自民34、民主6、維新3、公明3、みんな3、共産2、社民1、生活0、みどり0、
        新党大地0、その他0、支持政党なし41、無答・分からない7
  参院選比例区で投票したい政党―
        自民41、民主8、維新7、公明4、みんな7、共産5、社民1、生活1、みどり1、
                        新党大地1、その他1、無答・分からない23

 朝日7月13・14日の調査(電話法、回答率56%)
   政党支持率―自民35、民主4、維新2、公明6、みんな2、共産3、社民1、生活0、みどり0、
        新党大地0、その他1、支持政党なし38、無答・分からない8
   参院選比例区で投票したい政党―
         自民43、民主6、維新 6、公明8、みんな6、共産6、社民1、生活1、みどり1、
                      新党大地1、その他1、無答・分からない20

  これらの世論調査を見て参院選結果を予想し、自民圧勝、ねじれ解消、改憲派3分の2超えるか、という見立てになるのかだ。
 そして、アベノミックス(デフレからの脱却、景気・雇用)は巧くいくのか、はっきりとは分からないが、消費税増税の実施は決まり、あちこちの原発の再稼働もなされ、TPP参加、名護辺野古への基地移設も決まってしまい、改憲も着々と進められ、いずれ何らかの改憲案が通されることになるだろう。
 そこで、自民党の独走・一人勝ちでは困るが、かといって他の党はどれもこれも非力で当てにならず、票を入れても入れがいがなく意味がないと思う向きが多いだろう。そういう人は、思い切って一番確かな対決政党・候補者に入れて(票を集中)、その党の議席を少しでも増やし、自民党その他改憲派候補を落として少しでもその議席を減らし、これに対決してもらうようにする。そうやって、なんとかして改憲・原発再稼働・TPP参加・名護辺野古への基地移設・消費税増税実施を阻止してもらう。そうやって自民党政権と改憲派勢力に立ちはだかって食い下がれる確かな野党の議席を確保しなくてはならないのだ。
 さて、そんな確かな政党・候補とはどの党なのか、誰なのか、反自民・反改憲の受け皿となり得る確かな政党・候補ははたしてどの党なのか、誰なのか?

 反自民・反改憲派(反消費増税・反原発再稼働・反TPP)の人たちが自民・改憲派候補の当選を阻止するためには、反自民・反改憲派候補に投票はしても、それらのどれかの党にてんでバラバラに投票して票が分散してしまっては大した数にはならず、諸党も反自民・反改憲派支持票を奪い合うだけでは、とても勝ち目はない。反自民・反改憲派でも勝てそうな有力候補に投票して票を集中させるしかあるまい。比例区はともかく、選挙区候補についてはそうするしかないのでは。 


2013年07月11日

まんまと乗せられている

 アベノミクスというが、安倍政権と黒田日銀は何もしないうちから、民主党前政権下で株価上昇と円安の動きは始まっていたのであって、それら(株価上昇・円安)はむしろ別の要因から発しているというのが実態。「景気が回復しつつある」といっても、前の第1次安倍政権当時はその前の小泉政権の時から戦後最長といわれる景気続きで、株価は1万8千円台、GDPの成長率も年率2%を記録していた。なのに実質賃金は減り続け、庶民にとっては「実感なき景気回復」だったのである。企業収益は上がっても、それが賃金や正規雇用にまわらず、むしろ派遣社員・非正規雇用の増加で賃金コストを下げることによって企業収益を上げ、それを企業は内部留保としてため込む、というやり方だったので、ほかならぬ労働者・庶民の賃金・所得の低下が 消費需要の低下・デフレを招いてきたのである。それを第2次安倍政権はまた繰り返している。しかし、外国人投資家と株を買うおカネのある富裕層が株を買いあさって株価が上がり、大企業などの企業収益は上がっても、労働者・庶民の賃金・収入が増え雇用が安定化しないかぎりデフレ脱却などできっこないのだ。

 「アベノミクス、いいんじゃない」「憲法改正もいいんじゃない?」「原発、再稼働してもしょうがないんじゃない?」「消費税、増税もしょうがないんじゃない?」「TPPもしょうがないんじゃない?」など等。
 安倍・自民党―「ちょっとどうかな」と思うようなところもあるが、かといってそれ以外に頼りになる政党はどこもないし(民主党はあのざまだし、維新も初めの勢いはもう薄らいで、公明・みんなの党もしょせん自民党の補完政党、共産・社民は「万年少数野党」でしかなく)、頼りがいのある政党は自民党しかない、となっている。
 アメリカ・財界・業界・官界それにマスコミも長らく自民党になじんできたし、これらは皆、自民党に付いている。だから盤石(ばんじゃく)なんだ。
と思っている向きが多い。そして現状(現体制)に安住、そこで唯ひたすら保身とサバイバル競争勝ち残りに人生を懸けるしかなく「寄らば大樹」しかないと。
 それに対して、そんな生き方に甘んじてなんかいられないと、ひたすら自由・平等の理想を追い求め現状変革をめざす人たち(理想主義者・ロマンチスト・リベラリストなど)は居はしても、少数。
 大多数の人たちは自分自身を少数派だとは思いたくなく、多数派と思い込み、それに組しようとする。そこで多数派の党は自民党ということになる(民主党も二大政党ということで、もう一つの多数派政党と思われたが、一回政権交代してはみたものの、非自民党という看板だけで一つの理念でまとまってはおらず無力さかげんを暴露して退けられた)。
 自分を少数派なら少数派でいい(「抵抗勢力」「偏屈者」と呼ぶなら呼ぶがいい)と自分の信念に徹している人々も少数いることはいる。
 しかし、自分は自民党には組しないが、「万年少数野党なんか」に組しようとも思わない無党派。選挙は天気が悪けりゃ棄権する、という人たちの方が多い。

 このような人々を相手に安倍自民党は楽々と支持・得票をガバっと獲得できる。やり方は簡単。小泉流(「劇場政治」)が手本。
 「郵政民営化で全てが変わる」「官から民へ」「聖域なき構造改革」「自民党をぶっ壊す」
「反対者は抵抗勢力だ」等々、何の根拠も論理も脈絡もない、単純なワンフレーズを並べ立て演説を繰り返せば、みんなその気になる。
 これらの言葉を置き換えて「アベノミクスで景気が良くなれば全てがうまくいく」「アベノミクスは『三本の矢』で達成する」、「憲法を改正して日本を取り戻すのだ」或いは維新の会やみんなの党は「都構想を実現するのだ」「統治機構を変え、道州制・首相公選制・一院制にする大変革を実現する、そのために憲法を改正」等々も。
 これらを庶民は真に受けて「いいんじゃない、いいんじゃない」。
 「アベノミクスで株がどんどん上がって儲けられていいじゃん、いいじゃん」(自分には株を買うカネがなく、株など持ち合わせなくても、その気分になる。)
 そして消費税増税も、原発再稼働も、TPPも「しかたないじゃん」となるのだ。
 庶民にとって、これらにはいずれも、実は切実で深刻な問題をはらんでいるのだが、そこまで思考が及ばず、あたかも他人事であるかのような観客の気分でテレビやネットを見て、安倍首相ら主役を演じる政治家のそのセリフや演技を痛快がり、それに反対する発言や反対者は抵抗勢力か敵に見えて憎悪を覚える。

 選挙ともなれば、安倍自民党は、それでまんまと圧勝する。ああ、なんという国だ。なんという国民だ(当方もその一員なのだが)。

2013年07月12日

「改憲賛成」の国民投票に持ち込もうとする戦略

(1)世論誘導
 世論調査―「今の憲法を改正する必要があると思うか」―
   NHK4月19~21日
          「改正する必要があると思う」42%
            (理由「時代が変わって対応できない問題が出てきたから」75%
               「国際社会で役割を果たすために必要だから」15%
               「アメリカに押し付けられた憲法だから」9%      )
          「改正する必要があるとは思わない」16%
          「どちらとも言えない」39%
 毎日新聞 4月20・21日「改正すべきだと思う」60%、「思わない」32%

 いずれも賛成のほうが多いが、こんな問い方をされれば(具体的にどの点がどうだからということを度外視、「時代が変わったから」とか「国際社会で役割を果たすため」とか「押しつけられた憲法だから」などといっても、そんな抽象的な理由だけで、具体的にどういう問題や不都合が生じているからということを抜きにして問われれば)、そりゃ改正した方が、改正しないよりはいいというにきまっているわけで、誘導質問になっているのだ。
 諸外国では改正を何回も重ねてきた国が多い中で、ただの一回も改正していないと言われれば、諸外国の事情や実態を知らされていない分には、日本だけ一回も改正していないなんておかしいとなる(そういう印象をもつ)にきまっている。
 制定時にはなかった問題が時代の進展にともなって新たに生じ「環境権」とか「プライバシー権」とか「知る権利」など「新しい人権」が考えられるようになったので、憲法にそれを付け加えるように(加憲)すべきだなどという主張もある。しかし、そもそも憲法に人権規定(25条-生存権、 13条-幸福追求権など)があるからこそ、それを損なう公害問題・環境問題・プライバシー侵害問題などが問題になって、それぞれ、それに関する権利が主張されるようになったのであって、25 条や13条が根本規程として定められているのだから、わざわざそれらを憲法に付け加えなくても、法律で定めれば事足りるはず(環境基本法など既に定められている)。(憲法の条文として書き加えないと環境権は守られないとか、プライバシー権は守られないというわけでもあるまい。)
 単に改憲賛成といっても、ただ何となくだとか漠然とそう思うといったことではなく、己の生命・生存権や何らかの人権が今の憲法のままでは守ってもらえそうになく、危うい事態に直面している(今にも、中国が攻めてくるとか、北朝鮮が攻めてくるので恐ろしくて夜も寝られないなど)等、憲法のここを是非こう変えてほしいという切実な思いをもって賛成と答えている人は果たしてどれだけいるか全くわからない。
 「是非とも」と思っているのは、むしろ安倍首相や石原・橋下維新の会代表など為政者・政治家の側で、彼らの都合、その政治的思惑(自衛隊の国軍化とか統治機構の改編とか)や執念から是非とも改憲しなければならないと思っているだけのことなのであって、国民がその手に憲法を「取り戻す」などというのは欺瞞以外の何ものでもあるまい。

(2)改憲派を有利にする96条改定―改憲賛成の国民投票に近づける
 「憲法を国民の手に取り戻すのだ」「『押しつけ憲法』から日本国民の自主憲法へ」―そのために「過半数の国民が改憲を望んでも、96条で国会議員のうちの3分の1の反対だけで、それができなくなってしまうなんておかしい」「国民のために96条の国会発議要件(3分の2以上の賛成)を過半数の賛成に下げ、国会で改憲案を通しやすくして、それを受けて国民が国民投票で決める(決着をつける)というふうに改憲プロセスのハードルを下げて国民の手に改憲案を届きやすくして国民に改憲決定の国民投票参加の機会を得やすくすべきだ」と。
 しかし、そうはいっても、憲法のどの条項をどのように変えるのか、その内容を考えて決める発議権(提案権)は国会議員の権限なのであって、国民投票はそれに賛成か反対か○か×を書いて投票するだけで、国民が改憲を思い立って、憲法のここをこう変えると望んでも国民が改正案をつくって発議できるというわけではなく、結局、国会議員にそれを託し(委任して)、国民は国民投票で○か×かの意思表示をするだけ。
 その結果は、最高裁の裁判官の国民審査の実態を見れば分かるように、反対票(×と書いて否認票を投じる人)は少なく、ほとんど自動的に賛成票(信認票)になる、といったぐあいになりがちとなって、改憲発議すればそれが通って、国民投票にかかってもその通りに決まってしまう。改憲推進側の思惑通りに。
 それに、国民投票の投票率がどんなに低くてもが有効投票の過半数ということになれば、
有権者のうちのわずかな賛成票だけで改憲が決まってしまうということになってしまう。
(投票率が60%ならば、その過半数30%だけの賛成で決まってしまう、というわけ。)
 国民投票に持ち込めば、改憲案が通る公算の方が大きい。なぜなら、「有効投票数の過半数賛成で決まる」ということならば、投票所にわざわざ足を運んで投票する人は、改憲を望んで「是非」投票しなければと思って行く人の方が多く、そんなに改憲には乗り気でないか、どっちでもいいという消極派は忙しかったり天気が悪かったりすれば棄権するだろうからである。
 96条のハードルを下げて、国会での改憲発議案を通しやすくして、国民がその発議を受けて国民投票の機会にありつきやすいようにするのは「国民の意志を尊重するがゆえなのだ」ときれいごとを言うが、実質は国民全体の意思ではなく、改憲賛成者の意思だけを尊重するという改憲派政党の党利党略に基づく以外のなにものでもあるまい。

 改憲には改憲派の政治家とマスコミの様々な策動・策略があり、世論誘導があるということなのだ。

2013年07月19日

自民党に勝たれたら大変になる(選挙結果を上に再加筆)

参院選 投票結果 
 投票率52.61%―過去3番目の低投票率(半分近くの人が棄権)
 議席
   自民65 公明11 民主17 維新8 みんな8 共産8 社民1 生活0 みどり0 無所属3
 得票率(%)
  選挙区
   自民42.7 公明5.1 民主16.3 維新7.2 みんな7.8 共産10.6 社民0.5 生活1.2 
                               みどり1.2 無所属4.5
  比例
   自民34.7 公明14.2 民主13.4 維新11.9 みんな8.9 共産9.7 社民2.4 生活1.8
                                                      
                                     みどり0.8 
 山形県選挙区
    自民(大沼) 272,779票 
    みどり(舟山)252,040(共産党と組んでいれば自民党を落とせたのでは?)
    共産(太田) 33,718
    幸福(城取) 7,193

 参院(今回当選者と非改選議員を合わせて)改憲派議員
   改憲賛成議員75%{3分の2(約67%)を上回る}
   96条改定賛成議員52%
                             (朝日新聞・東大共同調査)

投開票日の翌日(22 ・23日)の朝日新聞の世論調査(電話法、回答率52%)
   自民党が今後進める政策について―「期待の方が大きい」41%
                    「不安の方が大きい」39%(ほぼ拮抗)
   「ねじれ」解消―「よかった」53% 「よくなかった」24%
    安倍首相に一番力を入れてほしい政策
                     景気・雇用35%
                     社会保障25
                     原発・エネルギー11
                     教育9
                     外交・安全保障9
                     改憲4
    消費税の引き上げ(来年8%・再来年10%)実施に賛成30%  反対58%
    安倍首相の原発再稼働の姿勢に賛成33%  反対58%
    安倍首相の経済政策が賃金・雇用に「結びつく」35%  「そうは思わない」41%
    自民党が大勝した理由―「自民が評価されたから」17%
              「野党に魅力がなかったから」66% 
    自民党に対抗できる政党―「必要だ」83%   「必要ない」8%


 選挙の結果は、やはり自民党が圧勝。
 安倍自民党が信認され、政権側からは、何もかも「委任された」と見なされることになる。アベノミクス―景気回復への期待感とか、自民党以外に政権を任せられる党は他になく衆参「ねじれ」を解消して政権を安定させるといったことだけで、改憲や原発や消費税やTPPなど何から何までその政策を支持して投票したわけではない、とはいっても、結局は、改憲も、原発のことも、消費税も、TPPも、沖縄基地や集団的自衛権のことも、みんな好きなようにやって下さい、といって投票したも同然と(政権側からは)見なされることになってしまう。安倍首相は「国民の皆さんから力強く背中を押していただいた」つもりにしている(記者会見で言明)。そして「『ねじれ』に終止符をうつことができた。政策実行をさらに加速していく」と。
 国会では衆参「ねじれ」が無くなり、政権与党の思い通りに、あれよあれよと次々決まっていくことになるわけだ。
 いったい何でそんな選挙結果になってしまうのか、どうも解らない。
 国民(有権者)はまともなのか。なまはんかな情報や知識だけで判断したり、或いあまり考えずに周りに動かされ、或いは騙され、ごまかされていることに気が付かないで投票してはいまいか。それとも、日本国民は皆まともで、それを疑い「俺はだまされないぞ」なんて言ってるほうがアホなのか。
 マスコミの世論調査で事前予測が出ていて、皆こういう選挙結果になることを分かって投票したか棄権したのだろう。しかし、その結果、この後どうなるのか分かったうえで、それでもいいと思って投票・棄権したのだろうか。
 国民も「いろいろ」か。投票所で投票していたあのオジさん、あのオバさん、あのオジイさん、あのオバアさん、あの若い衆は、いったい何を考えて(或いは考えないで)投票したのだろうか。出口調査は、昼時、当方が行ったときは居なかったが、内の者は二人とも、それぞれ(別の時間に行って)調査に応じて答えてきたそうだが、他の人はそれを避けて、そそくさとスル―していったという。そして「いったい何で避けるのか」と。急ぐ用事でもあったからか、めんどうくさいからか、それとも何かうしろめたいことがあるからか、だろう。

 政治を真剣に考えないか、卑近な次元でしか考えないで投票するか棄権する人
                   ―政治ばなれ・政治を軽蔑・軽視・ひと任せ・無関心
   この国がどうなるか、国民がどうなるか、将来どうなるか等あまり考えない
   目先の生活・利益・商売上の利害でしか考えない
   政治を、それ以上深く、真面目に考え、話しかけたり、語ったりすると敬遠され、
       或いは「そんな事をお前さんがいくら考えたってどうにもなるんじゃないし、
          そんな事を考える暇があったら、仕事・仕事!」なんて言われたりする。
             ―思考停止・「平和ボケ」{それは憲法・9条のせいだという向きがあるが、それは逆だろう―憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」(前文)9条で国に戦力と交戦権を放棄させて、国民の不断の努力によって平和を保持しなければならない、と定めているのに、自ら不断の努力を怠り、政府や国会などの人任せにしてきたからだろう}
 

  人々の境遇は、それぞれ、どうなるのか
(1)若者
 雇用―現在、大卒男子でも4人に1人は、初めて就く仕事が非正規
      (年収は正社員と非正社員との間で平均80万~160万円の差がつき、
       年齢があがるにつれどんどん広がる)正社員への門は狭まるばかり。
    派遣労働は規制が取り払われてさらに拡大へ
    限定正社員―仕事の内容と勤務地が限定された正社員、
                  そこでその仕事が不要になれば お払い箱(解雇)に。
    労働時間は、企画型裁量労働制やホワイトカラー・エグゼンプション導入で事実上規制
                       が無くされ、サービス残業が無制限になる。
       (残業代なしに長時間働かせて「いやならやめろ」と退職強要
                            ―「ブラック企業」が横行へ)
(2)こども
 ①9条改憲で「国防軍」の兵士にされる。
  集団的自衛権の行使が出来るようになって米軍などのために海外に行って戦闘に従事しなければならなくなり、死ぬのは嫌だと言って拒否すれば「審判所」で軍事裁判にかけられ処罰されることにもなる(石破幹事長は「死刑」とも言及)。
  この先、少子高齢化で、今の自衛隊のような志願制では兵員確保が困難になれば「徴兵制」になる可能性も。
 ②原発の維持・再稼働―過酷事故・放射能漏出事故、捨て場がなく貯まる一方の使用済み核燃料や放射性廃棄物による被曝など原子力災害・病害がいつ起きるかわからない。

(3)老人
 ①年金―支給減額が今年から行われ再来年までに2.5%減らされる。
           (今年12月支給から 1%、来年 6月さらに1%、 2015年 6月に0.5%削減)
     支給開始年齢も68 ~70歳に先延ばしされる(A)。
 ②医療―70 ~74歳は窓口負担2倍に(A)。
   風邪薬・しっぷ薬など保険から外される(A)。
  「がん3割負担、風邪7割負担」など病気の種類によって窓口負担が
                                 引き上げられる(B)。
 ③介護―介護サービスの保険適用が「要介護3」以上の重度者に限定されるようになる(A)。
   介護保険の経度のデイサービスは全額自己負担になる(B)。
 (Aは政府の財政制度等審議会で「検討課題」になっており、Bは産業競争力会議が議論)
(5)みんな
 ①アベノミクスで、物価を2年以内に2%上げる(目標)
 ②消費税―来年4月から8%、再来年10月から10%に。
 ③TPP―関税ゼロになれば食糧自給率が現在の39%からさらに27%まで激減し、食糧の大部分を外国産に頼らなければならなくなる(世界的食糧危機―食糧不足が起きたら大変)。
    大規模経営に農地集約→家族・小規模農家はつぶされる―「10年で農業所得倍増」など絵空事(TPP批判をかわすための選挙対策にすぎず)。
    食品の安全基準がアメリカ並みに下げられる等々。
 ④言論・表現の自由が奪われるように―この選挙戦にさいする安倍首相の福島駅前での第一声に集まった群衆の中に「総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?」と書いたボードを掲げて立っていた一女性が、警察官と名乗る男と自民党スタッフ数人に囲まれ、住所・氏名を訊かれてボードを没収され、泣きながら立ち去った、という事件があった。(20日朝日の社説で触れている)。自民党憲法草案には集会・結社・表現の自由で「公益・公の秩序を害することを目的とする活動および結社は認められない」と。  

 自民党だけでなく、これと組んでいる公明党、消費税増税を(3党合意で)一緒になって進めてき、TPP交渉参加を決め、改憲・原発再稼働でも中途半端で結局容認する民主党、改憲派で、安倍自民党以上に新自由主義(規制緩和―自由競争主義)でTPPを容認する維新の会みんなの党なども、自民党とともに勝って3分の2以上議席を占めるようなことになっても大変。

 それでは何党の誰に投票すればいいのか。それは自民党と上にあげた党(自民党派)以外で一番当選しそうな候補者に投票すればいいのでは。それが当選すれば自民党派を落とせることになる。
 棄権はいけない。なぜならそれは、結局は安倍自民党政権に白紙委任という結果になるからだ。

2013年07月31日

弱い者の立場に立つ―政治哲学(加筆版)

 選挙で、どの政党、どの候補に投票するか、当方の場合は、いたって簡単。弱い者の立場に立って働いてくれる政党・候補者はどの政党か、どの候補者か、それだけだ。
 新聞やテレビでは、それぞれの政党・候補者の政策・公約・主張・考えを、政党・候補者が自分で言っているのを、そのままに(政見放送で語らせ、或いはピックアップしたり要約して列挙するなり、一覧票にして)紹介しているが、みんな「いいこと」「もっともらしいこと」を言っていて、選ぶのに窮する。
 経済政策・雇用政策、税制・社会保障政策、原発・エネルギー政策、TPP政策、外交・防衛政策、憲法問題、イデオロギー・教育政策など等。それぞれ、どの党、どの候補者の言うことが正しいのか(国益・国際正義・国民生活・国の将来にとって、また自分にとって、どれが本当に正しいのか)、よく分からないのだ。
 そこで、人によっては、とにかく、いちばん力(勢力・威勢・影響力・確実性)のある政党・候補者だから、といったことで選ぶことになる。また、表面的な印象(顔・人気・イメージ・フィーリング)だけで選ぶ人もいるわけでる。
 当方の場合は、それぞれの政党・候補者は、その歴史・経歴・実績など、強者・弱者のどの立場に立って頑張ってきたかを、これまで長年のあいだ得てきた知識・情報・実感から判断し、弱い方の立場に立って頑張っている政党・候補者に入れることにしている。それが当方の政治哲学なのだ。
 それは、当の自分が弱者(経済的にも能力的にも非力)だからでもあるが、性格上も、弱い者に味方したがるタイプだからだろう。
 世の中には、自分は必ずしも弱者ではなくても、(それどころか人一倍有能で才覚に恵まれながらも)弱者の側に立って頑張った人もいるのだが。
 また逆に、エリートでも富裕層でもないのに、自分が弱者・敗者であることを嫌い(或いは自分を「中流」だと思い込んで)、弱者にではなく強者の方に組し、勝ち組に身を置きたがる者もいるわけである。
 実は、政治というものは、自分が弱者であろうと、なかろうと、「弱い者」の立場に立って行うのが理にかなっている。それは次のような理由からである。
 動物ならば「ジャングルの法則」で、生存競争で優勝劣敗・弱肉強食・適者生存が世の習いであるが、人間社会では強者(能力、資金・支援環境、チャンスなどの条件に恵まれている者)であれ、弱者(条件に恵まれない者)であれ、誰もが人間としての価値・生存権・自由権は平等であり、それを守り、その実現に努めるのが政治の正義にかない、不平等(差別、強者の権利が優先され利益独占、弱者が不利益を被り犠牲にあう)を正すのが政治だからである。

 とにかく当方の場合の政治的な判断基準は、それが弱者にとってどうなのか、ということを判断基準にしている。

 
 政党・候補者は、自らを「強者の味方だ」などと言いはせず、「国民の味方だ」と言うが、経済団体(経団連など)・業界団体・職能団体(医師会など)・協同組合(農協など)・労組(連合・電力総連など)・地域など利害関係や地縁などの「しがらみ」から推され、それぞれその利害関係に立った意見を代弁・代行する役割を果たそうとする。それらの政党・議員は、その支持団体や地域の支持票を得るため(「票のため」)には一生懸命になるが、それ以外の(「票になりそうもない」)人たちは度外視。しかし、中には生真面目に「弱者の味方」・「庶民の味方」に徹するという理念・信念をもっている政党・議員もいるのである。彼らは(「票に」なろうと、なるまいと)誰であろうと庶民のために、弱者・マイノリティー(少数派)のために一生懸命になってくれる、そういう政党・議員もまれにはいるわけである。 
 マスコミ・メディアも自らを「国民の味方」であって「不偏不党」「公平中立」など自称するが、多くは大政党・多数派・政権党寄りであり、弱者・少数派の側に立って問題を取り上げ論評しているものはむしろ稀(まれ)。商業マスコミ・メディアにとっては「売れるか、売れないか」によって縛られ、国会の承認のもとで運営されるNHKは国会多数派議員の意向に縛られる(その意に反する取り上げ方や論評は控える)ので、やはり多数派の「受け」や好みに合わせようとするからである。このような新聞・テレビの立ち位置も、よく見極めなければならない。
 (NHK―事業予算・経営委員任命には国会の承認が必要であるなど、経営・番組方針には国会の意向が間接的に反映ー「与党に頭が上がらない」との批判あり―Wikipedia
 麻生副総理のナチス肯定発言問題など民放では大きく取り上げていた局があったが、NHKはほんのわずかしか取り上げていない。)
 

 要するに、この政党、この候補者、その政策、この新聞・テレビ・週刊紙の報道・論評はいったい、だれの立場、どのような人たちの立場に立っているのか、そこを見抜くことが肝心なのである。

 アベノミクス、消費税増税・法人税減税、原発再稼働・輸出、TPP参加、改憲、日米同盟基軸の外交・防衛政策、雇用・労働法制の規制緩和政策(非正規化・解雇の自由化)、生活保護など社会保障削減政策、これらの政策はいずれも、大企業(大手メーカー・大手流通業者)・財界、富裕層・エリート層、有力農業者など強者に有利で、中小企業とりわけ零細自営業者、労働者(とりわけ非正規労働者)、小規模農家、一般庶民とりわけ貧困層など弱者には不利な政策であることは確かだろう。
 このような安倍政権に対抗して、弱い者の立場に立って頑張ってくれる政党・議員をもっともっと支え盛り立てなければならないのである。

2013年08月03日

8月のつぶやき

●メガネが無くなり、こうもり傘も無くなったので、100円ショップに買いに行った。ついでに帽子も買ってきた。いずれも中国製だった。Good deal ! 安いにこしたことはない
( ネットで調べてみると、大創産業では200目のうち日本製が15%、中国製が46%、韓国製12%、台湾製10%。 キャンドゥでは日本製のほうが多くて43%以上、中国製が41%、韓国製が5%だそうだ。)
●山形へ行って、慣れない交差点で直進車線に入ったものの、そこで右折すべきことに気が付いて、赤信号で4台止まっていた右折車線に入ろうとして右へ寄せタイミングを待った。信号が変わって3台が発進し、4台目との間が空いたので、4台目が譲ってくれたのかなと思ってその前に入ろうとしたら、その車も動きだして当方の右後方ドアが相手の左前輪カバーに接触しヘコませてしまった。相手が警察に電話したのでその厄介になってしまった。罰金も違反切符も無くて済んだが、相手には修理代を払わざるを得なかった。3万円・・・・トホホ
●ずるい!
 安倍総理、麻生副総理、靖国神社参拝の閣僚・国会議員たち。国民の中にも、日本が過去におこなった戦争を侵略戦争だとは思っていない向きが少なくない(昨年・夏の朝日新聞世論調査では、「日中戦争は日本による侵略戦争だったと思いますか」との質問に「そう思う」が、中国では99%なのに対して、日本では52%、「そう思はない」が31%)。
 今年の全国戦没者追悼式では、安倍首相はアジア諸国への加害責任への反省と哀悼の意を示す言葉がなかった。
 アジア・太平洋戦争における日本人の戦没者は310万人。それに対してアジア諸国の犠牲者は2000万人超。
 植民地や占領地での無差別爆撃・住民虐殺・生体実験・掠奪・放火・強姦・従軍慰安婦・強制連行など、その加害責任に触れようとしないのだ。
 「参拝は心の問題なのであり、外交・政治問題にすべきではない」とか「侵略の定義は定まっておらず、歴史家が判断すべき問題だ」と言って曖昧にしながら、本音では「日本は悪くない」「日本だけが悪いのではない」(「大東亜戦争は自存自衛・アジア解放の戦争」であって侵略戦争ではない。橋下維新代表は「慰安婦はどの国でも軍隊には付き物、日本だけに限ったことではない」といい、麻生氏にいたってはナチスさえもワイマール憲法を「改憲」したその手口は学ぶに値する)と思っているのだ。
 要するに狡い。潔く悪かったと何故言えない。日本人がこれ以上「卑怯者」だなんて言われたくない。
●中学生になった孫が、夕食をそっちのけで母親に付きっきりで勉強をさせられ、反抗して、我が家を飛び出していった。雨の中、女房と孫の父親と母親の妹とともにあちこち(コンビニやスーパーや公園など)探したが見つからない。2時間ほどして、(当方は家に戻ってどうしたものかと思案していると)外から女房の泣き声が聞こえてきた。孫がひょっこり帰ってきたのだ。びしょ濡れだった。「いったいどこへ行ってたんだ」と訊くと、高速道に入る手前まで行って引き返してきたという。
 「風邪でも引いたらどうすんだ。○○書房で立ち読みでもしていればいいものを」なんて言ってしまったが、「お巡りさんから補導でもされたらどうすんだ」と言うべきだったと、女房にいった。
 後日、弟の幼稚園児が黒いTシャツを着てきた。その前脇に白抜きで「さすらい」と書いてあり、背中に「深」の字に×訂正して「探さないでください」と書いてあった。北海道旅行に行ってきた彼らの叔母の土産だという。
 兄(中1)と姉(小5)に「『さすらい』って、どういう意味?」と訊いてみたら二人とも「わがんね」というので、「誰かさんが家を跳びだして、あてどもなくさまよってきた、ああいうのを『さすらい』って言うなだごで」と教えてやった。

CIMG4182.JPG
CIMG4177.JPG
     自家の畑でとれたナスだが、なぜか突起がついている
●また原爆・終戦メモリアルの夏の日が来たな。
●梅雨はようやく明けた・・・・というが。涼しくていいばかりといったところだが、作物はどうなのだろう。根腐れをおこして台無しだ、と女房は口説いている。田んぼ農家の人は、カメムシなど害虫もいつになく発生してると語っていたし。
●アクセス数5,275

2013年08月11日

政権党とその対極政党の価値観―庶民の価値観に近いのはどっち

 安倍首相は「美しい日本」「強い日本」「日本を取り戻す」、憲法といえば改憲・「自主憲法」の制定、教育といえば「国を愛する心を涵養」「伝統・文化の尊重」、参拝といえば靖国神社(参拝できないのは「痛恨の極み」)、外交といえば「価値観外交」―「価値観の共有する国々との友好・協力」、国内外の価値観の異なる国や共産党は除け者にするか敬遠する、といったように非常にイデオロギー的(価値観・歴史観へのこだわりが強い)。
 キリスト教徒のアメリカ人・ヨーロッパ人、イスラム教徒、中国人・韓国人・北朝鮮人など、どの民族・国民とも価値観には違いがあるが、アジア諸国それにアメリカも日本の右傾化(古い価値観への偏り・歴史認識の隔たり)―戦後レジームの否定、戦前レジーム(侵略戦争・ファシズムも)肯定、反中・反朝ナショナリズム・国粋主義―に警戒感をもっており、安倍首相の価値観外交には必ずしも同調はしておらず、むしろ孤立しかねないとさえ危惧される。 

 価値観―どのようなことに価値を認めるか、どのような価値を重視し優先するか
   おカネ、商品、経済的利益・利潤、市場、企業活動の自由、競争力、
   国家・公益・公の秩序
   人間性―自由、人権、生命、
   地球、自然
   民族・血統
   戦争・軍事・軍備   
   安全保障(国家安全保障か人間の安全保障か)   
   コミュニティー
   学問
   倫理(善)・正義
   
(1)安倍自民党の価値観(大切にする価値)
 ①資本主義の自由―利潤追求・企業活動の自由・・・・市場原理至上主義(新自由主義)
          (派遣労働など非正規雇用、解雇、労働時間・残業などの規制緩和)
        競争、経済効率、原発(命の安全より産業経済・「安い電気料」)
        稼得能力・世襲財産・幸運による富・利権・地位の獲得(格差容認)
 ②パワー・ポリテクス―軍事(集団的自衛権の行使など)・軍備・同盟
 ③戦後レジームよりも戦前レジーム(回帰・歴史逆行)
               現行憲法より「自主憲法」(改憲)
        天皇・国旗・国歌―権威   
        靖国神社(戦争神社―皇国に身を捧げた戦死者を祀る―戦犯も合祀)尊崇       
        公益・公の秩序(国民の自由・権利はこれに反してはならない)
        伝統的な共同体(家族・親族・地域)
 ④教育―企業と国家の人材教育―管理・統制・・・・愛国心教育・テスト競争教育   

(2)安倍自民党に対して対極にあると見なされている政党の価値観(大切にする価値)
 ①人間の自由、人格・人権(平等・尊重)
              思想・宗教の自由、言論・集会・結社・表現の自由、
              生命(何よりも優先)
              生存権―健康で文化的な最低限度の生活保障―社会保障
              労働権(保障)
 ②資本主義におけるルール(民主的規制)
                     ―雇用のルール、人間らしく働ける労働法制
 ③地球環境・自然再生エネルギー(脱原発)
 ④現行憲法(立憲主義、非戦・平和憲法)
       軍事より平和外交・平和的国際貢献(友好・交流・対話)・非同盟・中立
       公正・信義(利害損得よりも)
       社会的正義
 ⑤教育―学習権・教育権(教育の自由)・学問の自由
 ⑥コミュニティー(諸個人の共同・連帯)

われわれ庶民は両者のいずれの価値観に近いと考えられるか、だ。

2013年08月17日

9月のつぶやき

●サザーン・オールスターズの「ピースとハイライト」をネットで歌詞を写し取り、動画を聴いて、散歩しながら呟き諳んじた。いずれ唄えるようになるだろう。いい歌だ。
♪♪何げなく観たニュースで お隣の人が怒ってた・・・・・・
   教科書は現代史を やる前に時間切れ 
               そこが一番知りたいのに 何でそうなっちゃうの・・・・・
   歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない・・・・・・
            都合のいい解釈で 争いを仕掛けて・・・・
                   20世紀で懲りたはずでしょう・・・・・
        色んな事情があるけどさ 知ろうよ互いのいいとろ・・・・・・♪♪
 唄うぞ、大きな声で。
●22日稲刈りが始まった。イナゴ獲りも。籠のコオロギは夕べまだ鳴いていた。まだ生きている。
●21日付朝日新聞3面に小さめに「浪江町議会、抗議の意見書」と出ていた。全町民が避難を続けている町。首相がIOC総会のプレゼンテーションで「状況はコントロールされている」「影響は港湾内に完全にブロックされている」「健康に問題はないと約束する」などと発言したことに対して、事実に反する「無責任な発言」だと抗議したものだ。抗議が起こっているのはそこだけとは・・・・。
●NHKの「おはよう日本」でケイタイやスマホ依存症(ノモフォビア)のことが取り上げられていた。禁断症状になって不眠になったり、人と触れ合えなくなって引きこもりになったりとか。
 携帯を見ながら犬の散歩。携帯を見ながら子守。子供がかわいそう、と思ったりしたことがあったが、今日は若いカップルがともにうつむきかげんで歩いてくるのを見かけた。それぞれスマホを手にし脇目もふらずに黙々歩いているのだ。おっかしい、いや彼女がかわいそう、というか、彼氏がかわいそう・・・・・
●朝日川柳から
(11日)
 「空爆のよう五輪報道」
 「なんでもかんでも 金に換算」
 「フクシマで見得を切るほど度胸なし」
(10日)
 「コントロールしてると嘘をつくシンゾウ」
 「外国で聞く 汚染対策」
 「福島を歓喜の下に葬りぬ」
 (選者は「当欄投句の大勢は辛口。東京五輪決定祝賀ムードに水をさし、はなはだ恐縮」とことわっている)
 朝日インタビュー記事―相馬市の漁業者―「『完全にブロックされている』なんて現場を知らないから言える。国外では安全と言いながら、我々には言わない。」
●20年オリンピック東京開催決定、「祝勝」「圧勝」(イスタンブール、マドリードに対して)、「日本国民が一つになって」「オールジャパンで勝ち得た」というわけだ。
 テレビは、それで一色。「ヤッター!」と言って大喜びしている人たちだけが映っている。まさに日本中が沸き立っているかのようだ。
 IOC総会プレゼンテーションでの安倍総理の発言が「効いた」というわけだ。フクシマについては「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は港湾内に完全にブロックされている」「抜本解決のプログラムを私が責任をもって決定し、着手している」「7年後の20年には全く問題ない」と胸を張って言い切ったもんだ。
 女房のつぶやき―「よく言うよ、嘘ばっかり!」
●「GDP4~6月年率+3.8%上方修正」―消費税、予定通り4月から増税きまりだな。あ~あ!
●5日の朝日新聞に当方の投稿が載っていた。それよりも同じ欄に森村誠一の投稿も載っていた。そっちのほうがすごい。
●秋の夜長。コオロギ。孫が、どこかでつかまえてきた小さなトカゲと一緒に、ガラス箱に飼っている。その声はコロコロ(エンマコオロギ)ではなくて、チルッ チルッ チルッ チルッ。クマコオロギのようだ。寝床の外では色んな虫が合唱している。心地よく眠れる。
 

2013年09月01日

集団的自衛権について(再加筆版)

 そもそも個人の場合は「正当防衛権」―自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利(自然権)で、急迫不正の侵害を排除するため実力行使(暴力・武器使用も)。
 国家の場合の「自衛権」も、同様の理屈で、他国による急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利
 安倍首相が新たに任命した内閣法制局長官の小松氏いわく
  「隣家に強盗が入って殺されそうだが、110番してもパトカーが直ぐに来ないかもしれないので隣人を守る」これも国内法では他者のための正当防衛だ。・・・・国際法の仕組みとして同様の制度があるのは、そんな変な制度ではない」と。
 しかし、「正当防衛」には急迫性と相当性の要件があり、今まさに侵害を受けているか受けようとしているという場合に限られ、単に侵害があるかもしれないと予測されるからといって予め武器を用意し待機して迎え撃つというのは、それには当たらず、また過剰防衛も禁じられている。予め「正当防衛」のための武器や防衛体制を整えておくにしても過剰防衛になってはならず、使用してはならないのだ。
 抑止のためといって武器・防衛体制を保持・強化すれば相手も同様に保持・強化し、互いにそれがエスカレートする。それに武器・武力を持つと、対話・交渉ぬきでそれに訴えがちとなり、武器を持ちあえば殺人事件が起こりやすく、軍備を持ち合えば戦争になりやすい。アメリカは市民に武器所持が認められていて殺人事件の最多発国になっており、最大の軍備保有国であって最多交戦国。それに対して最も厳しく銃規制しており、不戦憲法を定めている我が国は武器による犠牲者が世界で最も少ない国になっている、というのが現実なのである。

 国連憲章では武力による威嚇または武力の行使を一般的には禁止(違法とみなす)
 国連の集団安全保障―加盟国のいずれか1国に対する攻撃も全加盟国への攻撃
と見なして制裁措置(軍事的or非軍事―経済制裁など)
 国連がこの措置をとるまでに間(例外的措置)
  自ら反撃(実力で阻止・排除)―個別的自衛権
  自国が直接には武力攻撃を受けていなくても、自国と深い関係にある他の国家が攻撃を受けた場合には、これに対して共同で防衛する権利―集団的自衛権   
国際法上の常識では前者(個別的自衛権)のみが主権国家に固有な権利(自然権)と見なされている
 そもそも国連は、国際紛争はすべて国連の管理と統制の下に置くこととし、加盟各国の武力行使は許さないことを原則とした。「集団的自衛の固有の権利」という言葉は、もともと1945年(ダンバートン・オークス会議)の国連憲章原案にはなかったもので、後で憲章採択(サンフランシスコ会議)の際に、当時、アメリカが中南米諸国を国連加盟に踏み切らせる都合から、アメリカが主導する米州機構の軍事同盟を合理化するために導入され、国連憲章(51条)に盛り込まれたもので、後付けした概念なのだ。(それがNATOや日米安保など軍事同盟を正当化する根拠となった。)
 それに、51条で加盟各国に認めている自衛行動は、安保理事会が必要な措置をとるまでの間の一時的・限定的な緊急措置に留まる例外的措置なのであって、集団的自衛権の保有・行使など、どの国にも普通・当たり前のこととして認められているわけではないのだ、ということ。
 また、それが国際法上の「権利」(「違法」ではないということ)ではあっても加盟国の「義務」ではないし、国内法(憲法)で制約も―我が国では憲法(前文で「政府の行為による戦争の惨禍が再び起こることのないようにすることを決意」、9条1項で国権の発動たる戦争と武力による威嚇および武力の行使を放棄、2項で戦力の保持と国の交戦権を否認)で禁じているのだ。

 当方の解釈―他国の軍勢による侵略・攻撃に対して国は国際法上は自衛権をもつが、憲法はその発動・戦力(軍隊・軍備)の保持・行使する権利(交戦権)を放棄させている。ただし、国民には正当防衛権があり、武装または非暴力による抵抗権がある、と解す。
 これまでの政府答弁―内閣法制局の見解に基づいて―「国際法上は集団的自衛権を保有しているが、憲法9条の下においての許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」(自衛権の発動は「我が国に対する急迫不正の侵害がある」場合に限り、他国に対してある国によって急迫不正の侵害が加えられたからといって自衛権を発動・行使することまで許容してはいない)としてきた。
 
 よく「日本が米軍から助けられているのに、日本はアメリカを助けなくてもいいのか」と言いたてる向きがある。「日米同盟」といっても日米安保条約は日米対等ではないのであって、アメリカは世界最大の軍事大国であり、日本は沖縄をはじめ全土に米軍基地を提供して自衛隊は従属。
 日米安保条約(第5条)は集団的自衛権の行使を「日本国の施政の下にある領域」に限定し、自衛隊は日本にある米軍基地や大使館などが攻撃されたという場合ならば、米軍を助太刀できるが、それ以外にはアメリカ本土が攻撃されても、その他の米国施政権下にあるどこを攻撃されても、自衛隊を派遣して戦わせることはできない、となっている。

 ところが石破幹事長は「憲法には集団的自衛権を明示的に禁止する条文は書かれていない」と(憲法9条は「侵略戦争」「侵略のための武力行使」以外は何も禁止しておらず、何でもできると言わんばかり)。「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては」これを放棄すると書かれており、(自衛権行使は二国間あるいは多国間の国際紛争を前提とし、集団的自衛権の行使は国際紛争を武力で解決しようとするもので)その戦争と武力の行使は放棄すると書かれているのに。
 国連憲章には明示的に集団的自衛権の行使を肯定する条項が書かれているが、日本国憲法には、あえてそれが書かれていない、ということはその行使を認めていないということにほかならないのだ。

 安倍政権は「安全保障環境が厳しさを増している今日」その憲法解釈を見直す必要があり(集団的自衛権は行使できると)変えようとしている。

 政府の有識者懇談会(安保法制懇)―4類型(第一次安倍政権当時、首相自ら提起
―それぞれ集団的自衛権に当たるか否か検討
 ①公海上で共同行動している米国艦船が攻撃された場合に自衛艦が共に戦う。
(そもそも日米が共同行動中に米艦だけが攻撃さるなんて、あり得ないのに)
 ②米国本土に向かう北朝鮮の弾道ミサイルを自衛隊ミサイルが迎撃。
(そもそもミサイルが飛ぶ高度で、日本がそれを撃ち落とすのは不可能。結局は射前に攻撃しなければならなくなり、日本が攻撃すれば、北朝鮮から反撃されることになるのに。)
 ③PKO活動中の自衛隊部隊による外国軍隊への「駆けつけ警護」およびその際の武器使用。
(そもそも国際平和活動で、どこまで任務を引き受けるか。他国並みに武器使用ができないから他国並みの任務を果たせないという発想では「武器が任務を決める」ということになってしまうが、肝心なのは、できる任務は何か、どんな任務を引き受けるか、ということでなければならないのに)
 ④米軍や多国籍軍への後方支援(武器・弾薬の輸送・給油・医療など)
(そもそも相手側からみれば後方支援は武力行使と一体のものなのに)

 北岡氏(安保法制懇座長代理・国際大学学長)の考え―この4つの場合だけを問題にしているわけではなく、全面的に集団的自衛権の行使の禁止を解除する。
  国連の集団安全保障への自衛隊の参加をも認めるようにする。
  武器使用も国際基準に合わせればいい。
  共にする相手を同盟国アメリカ以外にも拡大すべきだ、と。
 安保法制懇では、集団的自衛権に限らず、武力行使そのもののハードルを下げ、多国籍軍やPKO(国際平和維持活動)への全面的な参加も論ず。
  「武力攻撃に至らない事態」―「日本周辺で軍対軍が接近・応酬する場面」「日本の領海に他国の潜水艦が居座る」等―にも対処。(尖閣で繰り返される中国の領海侵犯などを想定、「一つ一つの行為は武力攻撃ではないが、集積することで攻撃とみなし得る」と)。

 それらは、これまでの憲法解釈をさらに拡大解釈して、9条を有名無実にするもの(原理的にはいつでもどこでも武力行使―戦争できるようになる)。

 日本を守る米軍が日本国内で攻撃されれば、現在でも安保条約で自衛隊は反撃の行動をとれる。尖閣の場合も、そこが日本領であるかぎり、そこでの事態は「日本有事の事態」で、個別的自衛権の問題なので、今のままでも自衛隊は、そこで攻撃を受けた米艦のために反撃の行動をとれるのだ。(尚、北岡氏は「核兵器を持っている国があり、日本の領海にどんどん侵入してきている。」「日本が個別的自衛権だけで守るんだったら、核大国にならないとできない。むしろ信頼できる国と助け合う方が、より軍事力のレベルを低く抑えることができる」などと述べている―8月10日付朝日新聞―が、それは、尖閣を死守するためにはアメリカの核戦力を頼み、核戦争も辞さないということか。)
 結局いま集団的自衛権でやろうとしているのは、日本国外で(イラク戦争の場合のように「非戦闘地域」にとどまらず)自衛隊が攻撃されなくても米軍その他を支援して軍事行動をできるようにするということであり、日本を海外で戦争をする国につくりかえるということにほかならない―それこそがこの問題の本質)

 集団的自衛権には濫用の問題がある―それを口実(同盟を結んでいる相手国からの要請に応じるとして)他国への軍事介入・侵攻。
   事例―アメリカのベトナム戦争、ニカラグア侵攻、アフガン戦争
     旧ソ連のハンガリーへ軍事介入、チェコ侵攻、アフガンへの軍事介入

 安倍政権―「好」軍事―国際社会での軍事的役割(「軍事的国際貢献・米軍戦略の補完的役割)の拡大―自衛隊の海外派兵に前のめり
   ソマリア沖での「海賊対処」―ジプチに自衛隊基地
   イラク戦争に「人道的介入」― 一時サマワに自衛隊基地
   シリア?
   軍事費の増額―自衛隊に「海兵隊」部隊、敵基地攻撃能力の強化へ(「離島防衛」を名目に水陸両用車やオスプレイ導入、F35ステルス戦闘機購入
  平和憲法に逆行―「平和国家」ブランド・イメージを損ない、アメリカに追随する「好戦国家」イメージに・・・・被爆国でありながら原発輸出も
  それらは国益を害すもの・・・・アルジェリアでやられたようにテロから狙われる危険につながる。

 と考えるが如何なものだろうか。

県の革新懇に行ってきて思ったこと、考えたこと

 山形県革新懇総会に行ってきました。そこでは主として参院選への取り組みと、その結果について話されました。
 そのなかで、革新懇としては「3目標」(国民本位の経済、護憲、反安保)の観点から本県各候補に公開質問状を送って回答を公表するようにするといったこともあって然るべきだったのでは、との指摘がありました。
 人々からは共産党が舟山候補と反自民で連携すればという声もあったが、その点は第一に舟山候補の側に、近藤議員らTPPや原発・消費税でも意見が食い違う民主党の支援を受け入れ、共産党とは共同で闘う意思がなかったこと。それに「みどりの風」とは安保政策(日米同盟中軸路線)など基本政策で合わないところもあって、任期6年間のあいだにどう揺れ動くか分からないという疑問から同候補との選挙協力には無理があり、今後「一点共闘」でいくしかないと判断した、とのこと。
 それらの話を聞いてきて思ったことは次のようなことです。

 参院選は、自民党が圧勝、共産党が躍進。それは、民主党への失望、それに維新への違和感、「どうせ自民党が勝つに決まってる」との事前予測が投票率を下げ、民主・維新などから離れた票の大半が自民党に、残りが共産党に集まった、その結果だといわれる。(西谷修―東京外語大学院教授―は共産党が票を集めたのは反自民票の受け皿が他にないが故の「一時避難」で、同党の長期低落傾向は止まってはいない、との見方。同党自身も「実力以上の結果だ」としているが、「第3の躍進」の足掛かりとも。) 
 そこで問題は、今回の共産党の躍進が一過性に終わらず、同党が自民党の対決政党(反自民の「受け皿」政党)として多くの人々から信認を得て不動の地位を確保できるようになるには、国民の間に戦前から刷り込まれてきたマイナスイメージや「共産党アレルギー」ともいわれる誤解・偏見・風評を取り除く教宣(説明)が大いに必要となる、ということ。 
 (1)そもそも「共産党アレルギー」はどこから?
 この党は日本の政党としては一番歴史が古い(91年)が、結成と同時に非合法下に置かれ公然たる活動は禁止されていた。その綱領や主張は「主権在民」「大地主・財閥資本家の支配に反対」「反戦」など、天皇主権と地主・資本家の支配体制(国体)にまっこうから逆らうものだったから、国賊・非国民あつかいされて迫害を受け、治安維持法で徹底的に弾圧された。
 敗戦・米軍占領下で民主化が行われ、禁止が解かれて迫害・弾圧からは解放された(49年総選挙では共産党は4議席から35議席に大躍進)。しかし間もなく、列車転覆などの謀略事件(下山・三鷹・松川事件)が起き、それがいずれも「国鉄労組の共産党員の仕業」とされ、折から、ソ連や中国共産党の干渉(武装闘争路線の押しつけ)、それに呼応する派と反対派に内部分裂(「50年問題」)、それらに乗じたマッカーサーと吉田政府によるレッドパージ(職場から追放)にあうも、占領解除にともなって追放は解除され、統一を取戻し、干渉を排除して自主独立路線をとり続けるようになった。
 60 年・70年安保闘争など社会党と共産党が組んで革新共闘で盛り上がり、国政・自治体とも選挙で共産党は躍進した(72年総選挙で38議席、79年総選挙では39議席かくとく)が、80年社公合意(社会党が公明党と組んで共産党を排除)以後、あの手この手の反共作戦で封じ込められ、孤立へ追い込まれるようになった。
 それに、ソ連や中国共産党による革命モデル(武装闘争―暴力革命、革命の輸出―覇権主義)と社会主義モデル(一党独裁と統制経済)が悪い見本となって、共産主義といえば「自由がない」「民主主義がない」というイメージが人々の頭に焼きついた。
 この間、この党自身による微力な(非常に限られた)宣伝・広報手段(機関紙などは戦前は禁止され秘かに「地下」発行)に対して圧倒的なマスコミや多くのメディアによる反共宣伝と俗説の流布が行われ、これらのマイナスイメージがずうっと焼き付けられきた、その結果のアレルギーなのだ。
(2)よく聞かれる俗説
①「共産党」といえば「共産主義」、共産主義といえば「私有財産を認めない」という誤解。
 「共産」とは「共同で生産する」ということだが、それは、生産手段は共有しても、生活手段まで共有するということではなく、生活手段・享楽手段とも私有財産は保障されるということ。
 「共同で生産」ということは、旧ソ連のように国有・国営で国家・官僚が管理・運営するのではなく、生産者・労働者自身が管理・運営するやり方だということ。それに公有・公営だけではなく協同組合など多様な形態があるのだということ。
 資本主義は、生産手段の所有と企業の管理・運営が資本家(株主・投資家など)・企業経営者によって私的に行われるが、それは社会のニーズがあるからとか、労働者に収入を得させるためだけではなく、必要不可欠なのは利潤が得られることで、それが得られなければ成立しない。企業は、競争でリードを保ち追い越されないようにするため、たえず品質改善・製品開発・規模拡大・人材確保に努めなければならず、それらに必要な投資資金を確保するため、たえず最大限利潤を追求しなければならない。それに出資者(株主)に配当・利益を保障しなければならないのだ。だから、人々がたとえどんなに欠乏にあえいでいても利潤が得られなければ売らないし、代金引換えなしにタダで与えるなどというわけにはいかず、あくまで利潤が先行。環境公害防止費用や従業員の待遇改善(賃金アップ)などは二の次で、利潤を最大限確保するため、むしろそれら(環境コストや賃金コスト)を節約し抑えようとするので、環境公害と賃金(購買力)抑制が絶えず付きまとう。そして個々の私企業がてんでに最大限利潤をあげるべく競争しながら生産・販売を行うため、全体として生産過剰になり、(値下げしても売れ残り)恐慌や不況が避けられないことになる。
 労働は本来、人間にとって自己実現活動であり、喜ばしいものであるはずなのに、資本主義企業では労働の成果は資本家の手にわたってしまい(生産物は商品として売りさばかれ、儲け―利潤は会社と株主の手に)、労働者は一生懸命働けば働いただけ自分のふところが豊かになるわけではなく、働けば働くほど(サービス残業など)かえって辛い苦役となってしまうことにもなるのだ(労働疎外)。
 このように資本主義にはそもそもからして矛盾・不合理が付きまとうので、いつまでも最適な経済制度であり続けることなどあり得ず、いずれ社会主義(個人本位でなく社会本位)や共産主義のやり方に変わらざるを得ないのだということ。 
②「共産主義は独裁政治で自由がない」という誤解。
 そもそも共産主義(コミニズム)がめざしているのは「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会(コミュニティ-)」「人間の自由の全面的な実現を本来の特徴とする共同社会」であり、あらゆる束縛・抑圧・搾取・差別・暴力・戦争からの人間の解放なのである。 
 平等を重視するが、それは個々人の自由・人権が万人に等しく保障されなければならないと考えるからである。
 旧ソ連や中国・北朝鮮などで行われてきた一党独裁のやりかたが、社会主義・共産主義のイメージを貶めてきたが、日本共産党の考えでは、これらの国のやり方は本当の社会主義・共産主義とは無縁のものであり、自由と民主主義こそが社会主義・共産主義の命であるという考え。反対党を含む複数政党制も選挙による政権交代制も当然あって然るべきだというのが、その考え方。
③「暴力・怖い」イメージ
  革命といっても、民主主義の遅れた国で強権政治・圧政下にあった国で、実力行使(暴動・武装蜂起)に訴えるしかなくて行われたロシア革命や中国革命のような「暴力革命」路線はとらずに、言論の自由や法の支配、議会制度・選挙制度など民主主義の発達した我が国では、あくまで平和的・合法的な革命(議会の多数を得ての革命)をめざす、ということ。
④「独善」「なんでも反対」「万年野党だから何でも好き勝手なことが言える」といった誤解。
 実際は、国会では6割以上の法案に賛成(先の国会では、出された法案の57%に賛成)。
 しかし、戦前来、侵略戦争・圧制・強権政治などには弾圧・迫害に抗して頑強に反対(だからこそ「お上」の言うことに逆らうのは「非国民」と思い込んでいる人たちからは嫌われる存在だったのだ。)今は改憲・原発再稼働・消費税増税・TPP参加などには「ならぬことはならぬ」とばかりに徹底して反対している。反対するにしても、建設的な対案を示したうえで反対しているのであって、けっして「反対のための反対」ではないし、それに、それらには、国民の多くも反対しているのであって、けっして「独りよがり」「好き勝手」などではあるまい。
 同党は革新懇のような基本目標(3目標)で同調する無党派の人々との共同や、保守の人も含め基本政策や立場の違いはあっても、憲法・原発・TPPなど個々の問題で一致する人々や諸党派・諸団体との共同(「一点共闘」)に努めることを基本方針にしており、けっして「独り我が道」ということにはならない。
⑤「のけ者」イメージ―いつも「蚊帳の外」
 1980年社公合意(連合政権めざす)―社共の革新統一を分断、共産党排除へ
それ以後なにかにつけて「共産党を除く野党協議」「非自民・非共産連合」あるいは「共産党を除く与野党協議」などと共産党だけがのけ者に。(共産党はやむなく無党派と革新懇を結成へ)

 その他いろいろあるだろうが、これらの誤解や偏見を解き、マイナスイメージ・風評を払いのけ、人々に本当の考え方と実態を大いに知らしめ広めなければなるまい。それにどれだけ成功するか、それこそが、同党が今後長らく自民党に対する対決政党として最有力の地位を保つうえで、カギとなるのではあるまいか。

 これからまた「野党再編」・新党結成・対自民「非共産連合」・自民vs非共産の「新二大政党」など新たな「受け皿」を作り出し、共産党に対するネガティブ・キャンペーンの展開と合わせて反自民票が共産党に向かわせないようにするあの手この手の反共作戦・共産党封じ込め策が講じられるだろうが、それにどれだけ抗しきれるか。

 改憲派は自民党をはじめ維新・みんなの党など、その勢力は圧倒的だ。それに比べて護憲派は(かつて社会党は自民党に対抗する野党最大勢力だったが)社民党は細る一方。こうなると共産党に賭けるしかないのでは、とも思ったしだいなのですが如何なものでしょうか。

2013年09月10日

東京オリンピック誘致「祝勝」に思う(加筆修正版)

 20年オリンピック東京開催決定、「祝勝」「圧勝」(イスタンブール、マドリードに対して)、「日本国民が一つになって」「オールジャパンで勝ち得た」というわけ。
 テレビは、それで一色。「ヤッター!」と言って大喜びしている人たちだけが映っている。まさに日本中が沸き立っているかのようだ。
 IOC総会プレゼンテーションでの安倍総理の発言が効を奏したというわけだ。フクシマについては「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は港湾内に完全にブロックされている」「抜本解決のプログラムを私が責任をもって決定し、着手している」「7年後の20年には全く問題ない」と胸を張って言い切ったもんだ。
 漫画家のやくみつる氏―「これまで首相が、国民に向かってあのような自身に満ちた話をしたことがあっただろうか」「現実逃避にならないようにしてほしい」と。
 京大原子炉実験所の小出裕章助教―「何を根拠に、状況はコントロールされているなどと言えるのか分からない。あきれた。安易な発言をしても約束をやぶることになるだけだ」と。(汚染水は現在「打つ手がない」のが実態なのに。)
 オリンピック東京誘致は、尖閣国有化のきっかけとなった島の購入計画を思いついたのと同様そもそも石原前知事の思い付きから始まったもの。それは、戦争と同じく、国民の関心を様々な問題からそらせ、考えないようにさせ、忘れさせて「心を一つ」にさせる効果を狙える。その他にも様々な政治的・経済的効果が得られる、という思惑がからむ。
 「勝利」というが、それは安倍首相や猪瀬知事・石原前知事ら政治家と彼らを支持している国民「多数派」の政治的勝利。「アベノミクス」が「アベノリンピクス」とまで言われるようになった。何兆円もの経済波及効果国威発揚―ナショナリズム(「日の丸・君が代」に熱狂する愛国主義)の高揚には、それが効果抜群。
 要するに、これによって莫大な政治的・経済的利益にありつける政治家・建設・不動産・観光・ホテル業などの業者、それらとの資材・商品の第1次取引・第2次取引にあずかれる中小零細業者とそれらの従業員にいたるまで、多くの庶民にとってもメリットになるには違いあるまい。
 しかし、それらとは何の関わりもなく取り残される、こちとらのような無関係者も少なくあるまい。
 いずれにしても消費税増税反対や実質改憲(集団的自衛権の行使容認)反対、原発の再稼働・輸出反対などの庶民の声はかすみ、かき消されていくのか。福島の被災者は「置き去りにされる」と悲しんでいる。
 スポーツ愛好者・アスリートたちにとってはオリンピックはどこで開催されようと大歓迎であり、こちとらだってオリンピックはどこであろうとも日本人選手を応援し、勝つと喜ぶ。オリンピックには理念(オリンピック精神というもの)がある。しかし、それを利害損得に結び付けてしか考えず、自国・地元開催に執着し、ロビー活動など誘致合戦で、自国の恥部(原発公害)をひた隠しにし、他国をだしぬいて(猪瀬都知事などはイスタンブールをさして「イスラムはケンカばかりしている」と発言してひんしゅくをかったが、そこで反政府暴動が起こって内心「それ見たことか」とほくそ笑んだか?に思われ)、(イスタンブールは治安・安全への不安、マドリードは経済危機・財政不安などの)敵失で「勝った勝った」と喜ぶ厚顔は、どうしても好きになれない。かつて言われた「エコノミックアニマル」との汚名をまたかうことになりかねないではないか。当方などはトルコ旅行に行ってきたこともあってイスタンブール(そこで橋やトンネルの建設にあたっていたのは日本のゼネコンだったが)に譲ってやればよかったのに、などと思ったりしていたものを。
 選手・競技者だったら(開催地がどこであろうと)「勝って」メダルをとったら報奨金がもらえるが、負けてもスポーツマンとしての自らの才能と努力の成果(鍛えた心技体)と目標の達成感が得られる。一方、国と都市が開催地誘致合戦で(世界中でただ一国一都市だけが)「勝って」得られるものは政治的・経済的利益(「票」と「カネ」。国威発揚とオリンピック特需によるビジネス・チャンスと利得)で、それが国民・市民にも及び、その恩恵・「おこぼれ」にありつけて喜ばしいことには違いない。しかし、誘致合戦に負けた国と都市はそれへの財政出費がムダ金・損失となり、国民・市民はダメージを被り悲運・失望に打ちひしがれることになる。今回誘致合戦に負けたその2国をはじめとして、他のすべての国・都市にとっては何の利益も恩恵もない。誘致合戦に勝って、世界中で日本人だけが恩恵・利益を独占することになる。オリンピックのこのような誘致合戦は一国一都市だけの自国・自市エゴ(エゴイズム)を満足させるやり方。そのようなやり方は、オリンピック精神とは全くマッチしない(そぐわない)やり方というしかあるまい。(朝日新聞の「声」欄に「複数国で開催してはどうか」という投稿があった。開催地を国単位ではなく地域ごとにして、アジア・アメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界をいくつかのグループに分け、開催地はまずグループを決める。そしてグループ内で競技種目ごとに開催国を複数選ぶ、というもの。そういったやり方の工夫・改善があって然るべきだろう。)
 誘致合戦に勝って幸運を射当てた国と都市の国民・市民は(今回われわれ日本国民はオリンピック特需で景気回復・震災復興など自国の国益にばかり気をとられるのではなく)、せめて他国すべての国々の国民への思いやりの気持ち(利益を分かち合う精神)を持たなければなるまい(「オリンピック・ムーブメント―スポーツを通じて世界平和をめざす」などと口で唱えるだけでなく、また日本に来ておカネを落として行ってくれる外国のお客様に「おもてなし」などといったことばかりでなく、国が貧しくて或は争乱でオリンピックに選手を送ることが出来ない国の人々に支援・和平の手をさしのべる等)。利益を独り占めして自分だけ喜ぶのではなく、トルコ国民とイスタンブール市民、スペイン国民とマドリード市民をはじめ、すべての国・都市の国民・市民をも慮る(おもんばかる)ことを忘れてはいけない。シリア・パレスチナ・エジプト・アフガン・イラク・北朝鮮など諸国民の不幸を置き去りにしてはいけない。なのにマスコミや首相・都知事らのはしゃぎぶりをみていると、どうも。ただ単に「日本が勝った、よかった、何兆円もの経済効果が見込まれてよかった、日本国民に夢と希望が得られてよかった」などと専ら自分の国のことばかりで、他国民のことを慮ることがなく、オリンピック精神にはどうも程遠い。日本人は自国本位で他国民の悲運や不幸を意に介さない国民なのか、なんて思われたくないものだが、そんなことを感じてるのは当方だけだろうか。

 もっと以前、ヒトラーの時代にはベルリン・オリンピックがあって、ヒトラーはそれを国威発揚、戦争準備につなげて最大限利用した。その4年後(1940年)の開催地は東京と決まっていた。しかし、大日本帝国は1937年に日中戦争に突入して、それを返上し、1941年には太平洋戦争に突入した、という歴史があったことなども、世界史をかじったものとしてはどうしても考えてしまう。オリンピックを政治や経済的利害にからめて利用するようなことはあってはならないと思うのだ。

 そんなむずかしいことを考えずに「素直に喜べばいい」ではないか、「このひねくれ者」あるいは、もしかして「非国民」とさえも呼ばれそうだが、自国の歴史の暗部や原発の恥部を素直に認めようとしない政治家のおかげでオリンピック誘致を「勝ち得た」からといって、素直に喜んでなんかいられようか
 とにかく安倍自民党政権と猪瀬都政は7年後までも安泰ということになる。その政権下で消費税増税に耐え、原発もTPPも集団的自衛権の行使も基地問題も改憲問題も余計なことは心配せずに、ひたすら東京オリンピックをめざして黙々励み、皆に合わせて「日の丸」を振り、「君が代」を唱っていればいいのだ、となるのか。「五輪ファシズム」が怖い!

2013年09月20日

現行憲法と自民党改憲案とで、どちらが安全保障に適しているか

 安全保障とは①攻撃・侵害されないこと、②国民の生命・財産が攻撃・侵害から守られること。
 そのためには軍備・軍隊(交戦権もつ)・軍事同盟(集団的自衛権の行使が出来る)を持つのと、持たないのとでは、どちらが適しているか、或いは危険か―どちらが攻撃されないか、どちらが生命・財産が守られるか(破壊・殺戮が無くて済むか)、である。

 現行憲法では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持することを決意し」、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する」(国際紛争は平和的外交手段によって解決する)、「陸海空その他の戦力は保持せず国の交戦権を認めない」として軍備などは持たないことにしている。そこには「敵をつくらない」という考え方があり(「安全保障の要諦は敵を減らすこと」―軍事ジャーナリストの田岡氏)、当方にはさらに「軍備を持たず、攻撃意志を持たないことによって、他の諸国民の安全をも保障する」(個人レベルでも、互いに自分が武器を持たないことによって、互いに安全を保障し合う。我が国では国民は皆そうしていて治安が保たれており、世界でも有数の安全国になっている。それにひきかえ、市民に互いに銃を持ち合うことを認めているアメリカは銃による犠牲者が世界で最も多い国になっている)という考え方がある。
 一方、自民党改憲案では「国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としながら、「国防軍を保持する」として、戦力を保持し国の交戦権を認め、軍備の保有、軍事同盟(集団的自衛権の行使)など全て認めるようにしている。
 自民党政権は、以前から米ソ冷戦で、自衛隊と日米安保条約―日米同盟体制の下に軍事を増強してきたが、それはソ連・中国・北朝鮮を敵視する(仮想敵国とみなす)ものだった。それを現在に至るまでも続けてきて、相手の国々の同様な日米敵視・軍備増強を招いてきた(「お互い様」なのである)。
 そこで、このような現行憲法と自民党改憲案とで、安全保障にはどちらがより適しているか―どちらが安心・安全で、どちらが危険か―である。

 朝日新聞の「声」欄に「憲法、現実に即した条文に」という、改憲を「歓迎」する投稿があった。「警察予備隊から自衛隊へと衣替えして以来」、「自衛隊は強化され」てきた。「自衛隊という戦力を保持しているのは明らかに憲法違反」。「現在の憲法9条は自衛権を無視した『夢物語』であり、現実の状況と共存出来ない」。「憲法改正に手をつけず温存することは、もはや限界」であり、「現実の状況に即した条文でなければならない」というものだ。

 それに対して、作家の森村誠一が「現実が不戦憲法を裏切った」との反論を寄せていた。
それは、「憲法が古びたのではなく」、「戦争を知らない世代の人口を踏まえた現実が変わったのです。」「つまり、現実が戦争の悲惨さと犠牲を忘れて悪化したのであって、憲法が時代遅れの夢物語になったわけでは」ない。「現実がタカ派政権によって操作されているのです。」「不戦憲法が最大限の妥協をし、国民感情が自衛隊と協調するようになった」が、「憲法は国家・政権が暴走しないためのブレーキです」というもの。

 そこで当方が考えたのは次のようなこと。

 現実―安倍首相らが「我が国の安全保障環境が悪化している」と称する状況
     中国の「脅威」―軍備増強、尖閣問題(←日本政府が島を国有化)
     北朝鮮の「脅威」―拉致問題、核・ミサイル(←冷戦・米と日韓の脅威)
               軍事的対決政策をとっているが、その軍事力は日米韓に比べれば極めて貧弱で、核を持つのは攻撃を受けないためで、それに攻撃を加えれば自暴自棄的に反撃するだろう、それが脅威。
     シリア―内戦(政府軍・反政府軍)―化学兵器使用
     イラン―核・ミサイル開発(←アメリカ・イスラエルの脅威)
 これら現実の危機的状況をもたらしたのは、そもそも日本の立場からすれば平和憲法(軍事制限)か、それとも日米同盟に基づく軍事的対決政策か?
 それはどちらなのかといえば、むしろ軍事的対決政策によって作り出されたのでは
 憲法で軍事が制限されているとは言っても、今の日本は核兵器・ICBMなど以外はほとんど保有しており、アメリカと同盟して核の傘に入れてもらっている(アメリカの核戦力を利用している)。
 戦後、「自衛隊」の発足、日米安保条約の締結以来ずうっと、軍備は増強され(海軍力は自衛隊単独でもアメリカに次ぐ)、外交・軍事ともアメリカに追従し、平和外交のイニシャチブは全く発揮することなく、軍事偏重を続けてきた。(ただ朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争などに際して参戦は憲法によって禁じられ、湾岸戦争では資金支援と掃海艇の派遣、アフガン戦争では給油艦のインド洋派遣、イラク戦争では「非戦闘地域」への「人道復興支援」、兵員・物資輸送など後方支援にとどまった―そのため自衛隊は1人の犠牲者も出していない。)
 国民の間でも、タカ派には現実の戦争を知らずに、軍隊や兵器の勇ましさ・かっこよさ・痛快さ、日米同盟の絆、トモダチ作戦、「美しい日本」・「強い日本」など綺麗ごとやゲーム感覚で、それこそ「夢物語」を描いている向きが少なくないのでは。
 ある防衛省幹部は、(憲法解釈を変え集団的自衛権の行使を容認する動きに懸念を示して)「普通の軍隊を持つまともな国になりたいという理念が先行している。中国や北朝鮮にどう対応するかという目下の課題にもっと集中してほしい」と(8月3日の朝日の記事)。つまり解釈改憲(自衛隊の集団的自衛権の行使容認)であれ、明文改憲(自衛隊の国軍化)であれ、それらはむしろ、自衛隊を「普通の軍隊」にするという「理念」を先行するもので、「目下の課題」即ち「現実の状況に即したものではない」ということを指摘したものと見られる。

 これらの危機を打開し問題を解決するには、軍事的強硬策か、国際道理に立った平和的外交的努力に徹する非軍事的方法か、それとも軍事・非軍事両用か、どれが最も現実的な解決法か?
 これらのうちどれが攻撃を招かないか、どれが犠牲者を出さず、破壊・殺戮が無くて済むか
  尖閣沖で自衛艦が中国艦にレーザー照射されたということがあったが、その時のことを自民党の片山さつき議員は「9条がなければ撃っていますよ」と発言したそうである。それは9条なんかがあるから、我が方は手も足もでず、されるがままに耐え忍ばなければならないのだと、平和憲法を恨んでの発言なのだが、もし9条がなくて撃っていれば交戦になり、戦争になっていたかもしれない。戦争になったら、どうなるか。勝てたか、(軍事作戦には)勝てたとしても、それで国民の生命・財産が無事守られ、傷は軽くて(犠牲や損害が軽微で)済むなんて、そんなわけはないだろう。それをくい止めたのは、まさに9条にほかなるまい。それが現実。(尚、自衛隊と米軍で「離島奪還訓練」などやっているが、アメリカは中国との緊密な経済相互依存関係を犠牲にして日本の「尖閣死守」のため米兵を犠牲にさらすようなことはすまい、というのが現実。)
 軍事的強硬策―武力による威嚇または武力行使は、相手をも同様な軍事的強硬策をとらせ、対決・軍事衝突・戦争を誘発し、かえって悲惨な結果になってしまうのでは?
 軍事力は相手からの攻撃を抑止するためのもの(抑止力)だといっても、その強化(自衛隊の国防軍化)は、相手に対して不信・疑心暗鬼を与え、いくら対話を求め、交渉を進展させようとしても、それ(軍事力・強化)がかえって解決の妨げ・障害になるのでは。森村氏は自衛隊が「国防軍に昇格すれば」、「戦争誘発力」ともなると。
 20年前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウィンパーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、もしその家の人が「銃を持っていなければ、まず言葉をかわしたはず」と言われる。武器や軍備を持てば、武器や軍備を持てば、、どうしても力に頼り、話し合いや協議・交渉を尽すことが疎かになりがち。これまでの日本政府のやり方がそうだ。お互い様で、中国や北朝鮮など相手側もそうだが、対話・協議・交渉に入ろうとせずに突っぱねる(尖閣については、日本側は「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉をつっぱねている)。そしてそれを相手のせいにする(「むこう側が~する方が先だ」などと)。

 要するに、危機的状況を打開し、平和を回復するには、現行憲法(非軍事・平和外交に徹するやり方)と自民党改憲案(軍事に依存するやり方)とで、安全保障上どちらが適しているかであろう。

2013年10月01日

10月のつぶやき(上に加筆)

●また葬式があって行ってきた。いずれも参列者の多い盛大な葬式だったが、今度のはセレモニーが(読経・弔辞・焼香・喪主挨拶まで)一通り終わった後、スクリーンが降りて、故人の生前の写真スライドが映された。赤ん坊(本人)の白黒写真から始まり、本人が赤ん坊(息子)を抱いている写真、妻子・孫たちと並んで撮った写真に、有名な芸能人と撮った写真もおりこまれ、バックミュージックに裕次郎の歌が流れていた。
 翌日、散歩に行って♪私のお墓の前で泣かないでください♪と(「千の風」を)歌いながら思った。そうだ、俺の葬式の時には、この歌を自分が歌ってテープかCDにして流してもらうことにするか。ようし、いずれ元気なうちに、写真とともに、歌を吹き込んでその用意をしておこう。
 NHKの「あさイチ」で生前遺影の撮影が流行り出しているという話題が取り上げられていた。毎年撮り直している人もいるという。なるほど・・・・
●今日は街を「原発いらない!」「さよなら原発!」と叫びながら歩いてきた。台風27号の影響は大したことはないが曇天下、参加者は母親に連れられた子ども二人を含めてわずか30数名。それでもパトカーが先導し、お巡りさんがガードしてくれて、終着点ではご苦労さんでしたと言ってくれていた。
いつもの歌いながらの散歩に重ねて歩き叫んできたが、気勢がいまいちで、どうも気迫に欠け、当方も、いつもの散歩で歌うよりも声が出ていない。これではいけない、もっと大きな声で叫ばなきゃ。
 「汚染水、コントロールは嘘だ!ブロックも嘘だ!」「原発情報 秘密にするな!」と。
●こんなことを書き、こんな写真を載せたりして、なんの関係もない人々からは見向きもされないのに。でも、いいんだ。このブログに掲載して発信しているこの私が今ここに存在し、かつて祖父がこのような顔で存在したことがこの中に記録されているのだから、無ではないんだ。
●45年前に亡くなった祖父の写真が見つかった。
ずうっと離れて暮らしてきたために一緒に写真を撮ったことはなかったし、本人は写真など一枚も遺してはいなかったのだが、祖父がゆかりのあった庄内の家を訪ね、「もしかして、そちらに」と尋ねてみたところ、後日、その家の方々が昔撮ったご祝儀の集合写真の端に祖父らしき人が映っていた写真を見つけて下さって、送ってよこしてくれたのだ。
 これで、孫たちも先祖様の影をまのあたりにすることができるというものだな。
CIMG4400.JPG
●今日も一人、田んぼ道を散歩しながら唄ってきた。♪こうとしか生きようのない人生がある・・・・・(「遥かな轍」)、♪不器用者と笑いますか、もう少し時がたおやかであったなら・・・・(「愛しき日々」)、♪ああ、いつの日か誰かがこの道を・・・・(「昴」)、♪私のお墓の前で泣かないで下さい・・・・(「千の風」)、♪なにげなく見たニュースで・・・・・(「ピースとハイライト」)。
 女房―テレビのワイドショーで、石原良純が取材した医師が、唄って喉を鍛えている人は誤嚥(食物が気管に入ってしまう)を起こさないという話をしていたとのこと。そうか、よお―し
 ●15日ストーブを付けた。ダリアは咲いているが、どういうわけかアジサイの花が二輪だけ未だに残っている。大型台風(26号)接近で雨の中、女房は軒下の台の上に並べていた鉢植え下ろしをしていて、手伝おうとして出たが終っていた。
 CIMG4353.JPG
●10日あたりまでTシャツに半ズボンでも大丈夫だったが、その後は長ズボン・長袖にチョッキやカーデガンを重ね着しないではいられないうすら寒さに転じ始めている。ようやく秋も深まりつつある。
●辺りの田んぼは稲刈りもほとんど終わった。
 入院中の同級生が息を引きとった。在職中にC型肝炎におかされ、退職後、肝臓がんを発症して数回年ごとに入院・内視鏡手術を繰り返してきたが、これが最後となった。本人は今回もこれまでの入院のように病状が治まって退院できるという思いがあったのだろうが、奥さんには医者から、今回はもうダメだと宣告されていた。彼は読書家で音楽を聴くのも好きだったので、ユーキャンから買っていたCDの日本近代文学朗読全集やスクリーン音楽を持って行ったりした。しかし、苦痛に耐えるのが精一杯でCDなど楽しむ気力も失われ、食とともに受け付けなくなって、最後は激痛に多量の麻酔をうたれ昏睡状態のまま逝ってしまったのだろう。奥さんが言うのには、何も言い遺さずに逝ったが、後のことは「好きに任せる」ということなんだろうと思っている。長南さんの時は、そういうことのないようになさって、と悲しみを冗談に変えていた。・・・・そうだな、俺の時は・・・・・・・。
 我が家で孫が飼っていたコオロギの鳴き声も止まった、死んだかと思いきやまだ生きている。外に離してやった。
 葬式から帰ってきて、夕暮れ、いつもの田んぼ道を唄いながら散歩。♪こうとしか 生きようのない 人生がある・・・・・・♪
●「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きてるのが苦しかった
         いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」
 詩画作家の星野富弘の詩だ。小旅行で立ち寄った群馬県みどり市旧東村(渡良瀬川草木ダムの畔)の富弘美術館で見つけた。
 一番大切なものは何?おカネ?いや、自分の命?自分の命より大切なもの――他人の命、いや、生きとし生けるものの命か。
 横浜市で踏切事故。老人(74歳男性)を助けて自分が命を落とした婦人がいたな。
●国会は参院選後休眠状態で、安倍首相は海外出張をしまくり、テレビなどマスコミは首相と政権与党(自公両党)の独壇場、野党の出る幕なし、といったところ。いったい何ということだ!
●居間のガラス戸の軒下にはっていたアサガオにかわってダリアの出番。その向こうに、あ!アジサイが二輪、狂い咲きか。
 コオロギが籠の中でまだ生きている。一か月にもなるのに。その鳴き声はコンピュータロボットでは出せない澄んだ音色。入院中の友人にCDの小説朗読・キミマロ漫談・映画音楽を持って行ってやったりしたが、聴くならこの虫の音のほうが良かったかな、と思えるくらい。

 孫が幼稚園から帰ってきて、うるさい声をたてていたが、昼寝の部屋に婆々に伴われて引っ込んで行った。ん?♪にほんこくみんは こうきゅうの へいわを ねんがんし・・・・♪ 口ずさんでいるのは憲法の歌だ。すっかり覚えてしまったふうだ。

●10月1日アクセス数5477

2013年10月06日

差し迫る諸問題

消費税増税
 名目「社会保障のため」と「財政再建のため」
 その実、10月から公的年金を大幅削減(2015年4月分まで、3度にわたって計2.5%)
生活保護も削り、介護保険法も改悪へ
     景気対策で5兆円―大型公共事業に行ってしまう
 輸出大企業には還付金(戻し税)―国内で原材料などの仕入れで消費税を払っている(A)のに、その分を海外の消費者に転嫁できないための救済措置―輸出企業が損をしないように負担分(A)を国内で販売して納めた消費税(B)と相殺し、負担分(A)の方が多ければ払い戻される(つまり大企業は消費税を負担していないのに還付金を受け取ることができ、消費税が上がれば、還付金も増えるという仕掛け)。
 中小零細企業・個人商店―大手のように消費税を客に転嫁したり、仕入れ先に値引きを強要できないので、実質的に消費税分の値引きを強いられる。
   消費税は赤字経営でも容赦なく徴収されるから、倒産・廃業・自殺が続出の危険性。
法人税―3年間の復興特別法人税を2年で打ち切り。
法人税減税を「早期に検討する」ことに。
  理由
 (1)「給与の増加につながるはずだから」(企業収益の増加が賃金上昇・雇用拡大につながり、消費を押し上げ「好循環」をもたらすとするトリクル・ダウン論)―本当か
   1997 ~2012年の間に法人税を35.5% から34,5%、30%へと下げたのに、給料は(年収)70万円も減った。一方、この間、企業の内部留保(余剰資金)は100兆円も積みあがって270兆円にもなった。
 (2)「世界から投資を呼び込めるから」
 (3)「日本の法人課税が諸外国に比べて高い(国際競争力の障害となり、企業が海外に出ていってしまう)から」と―本当か?嘘
   ①実効税率=[税法上の標準的な税率によって計算した税額]÷[課税上の所得]
その国際比較―単純な表面税率の比較ではわからない―国際的に統一された基準で計算される会計上の利益を分母にとるべきだが、そうはなっていない
表面上の税率は40.69%―アジアやドイツ・イギリスよりは高いが、フランスと同じくらいで、アメリカ(40.75%) よりは低い
   ②さまざまな特別措置(大企業優遇税制―研究開発控除、外国税額控除、受取配当益金不算入など)によって、実際の課税額は税法上の標準的な税率(40.69%)よりは10%も低い
実質税負担では(上位100社平均では)30.7%―トヨタ30.5% 、ホンダ32.1%、日産20.4%、 三菱商事20.1%、三井物産 11.4%
   ③法人税だけでなく社会保険料も合わせれば、企業の公的負担は日本はフランス・ドイツなどより低い(それらの7~8割)

 設備投資した企業と賃上げした企業には減税
原発問題
 汚染水問題―首相の言った「状況はコントロールされている」「港湾内の0.3平方キロの範囲内で完全にブロックされている」「モニタリングをしていて、数値はまったく問題ない」との言説は本当か?―嘘―港湾内に流出しているのは、建屋やトレンチ(トンネル)経由の汚染水で。これも、港湾内と外洋の海水は一日50%も入れ替わって「ブロック」などされていない。汚染水貯蔵タンクから漏れた汚染水が港湾外に流出するルートもある。外洋の調査地点で高い濃度が検出されていないのは、汚染水が海水で希釈されて(薄められて)いるから。海底にたまっている放射性物質の分布など、外洋への影響を政府も東電もほとんど調査してはいない。
 現場ではトラブル(ミス)が頻発―作業員の被曝―「協力会社」(下請け)任せで要員不足。
 要するに事故収拾できず、原因究明もできていない。
 核燃料の処分法が確立しておらず、放射性廃棄物は処分に10万年かかる。
      
 再稼働問題―東電など電力会社が原子力規制委員会に新基準に基ずく審査を申請
         柏崎刈羽原発など再稼働へ
 東電の債務超過―銀行の債権放棄も株主負担もなく公的資金(税金投入・電気料金の上乗せ)で延命(存続)させて再稼働(「ひき逃げ犯に車の運転を任せるようなもの」)―いったん破綻処理をして、株主責任とともに銀行にも貸し手責任を問い、国が事故収束と賠償・除染・廃炉に責任を果たす体制を構築すべき。
 
 輸出―首相「原発の安全技術でこれからも世界に貢献していく」と。
ベトナムなどへ原発輸出―問題点①売り込んだ原発が事故を起こした場合、その費用は全て日本国民の税金から支払う約束。②売り込んだ原発の使用済み核燃料・放射性廃棄物は日本が全部引き取らなければならないことになる(自国の核廃棄物を処理する場所・処分場もないのに)。
 小泉元首相―原発ゼロ発言―「ゼロは無責任というが、処分場のあてもないのに進める方がよほど無責任だ」と、再稼働・輸出政策を批判。

「積極的平和主義」―軍事的平和主義―憲法の平和主義とは似て非なるもの
 軍事的抑止、パワーバランス(軍事力による均衡)の下での「平和」めざす。  
 集団的自衛権の行使―地理的限定なく(「地球の裏側までも」世界のどこへでも)米軍を助けに行けるように。
   国連の集団安全保障措置への参加、PKOに留まらずPKF(国連平和維持軍)への参加(他国の部隊が攻撃されたら自衛隊が応戦できるように)めざす。
   アメリカ(「世界の警察・保安官」)追従(「副保安官」役)―人道と世界の安全を名目にして他国(アフガニスタン・イラク・シリアなど)に軍事介入へ。
 「平和主義」とは言っても、真の平和主義に相応しい提案はしておらず、その役割を果たそうとはしていない。
 安倍首相―訪米中に、タカ派シンクタンク(ハドソン研究所)に招かれて、そこで「私を『右翼の軍国主義者』と呼びたいなら、どうぞそう呼んでいただきたい」(中国に対して開き直り)「日本の今年度の防衛費は前年度比0.8%だけなのに、中国の軍事支出は毎年10%以上の伸びを20年以上続け、日本の2倍にもなっている」と。    
 防衛白書は中国の国防費は「過去24年間で約30倍にもなっている」(一般には、マスコミを通じて、この数字だけを公表)と。しかし、中国は経済が高度成長(1988 ~2012年の間GDPは35倍、歳入は50倍)の途上。
 日本も高度成長期(1961~79年)には防衛予算は連年二けた成長(60 ~84年の24年間に18.7倍に)。高度成長期には韓国も台湾も同様な現象。
 中国の国防費のGDPに占める比率は、昨年は1.27%で、日本の0.96%よりは高いが、米国の4.57%に比べればはるかに低く、イギリス(2.5)、フランス(1.86)、台湾(2.2)、韓国(2.5)、インド(1.97)よりひく、ドイツと並ぶ。
 中国のGDPは昨年(前年比)7.8%増に対して国防費は10.7%増。但し前者は物価上昇を差し引いた「実質増」、それに対して後者は額面の金額で「名目増」なので、単純比較はできず、そのことを勘案すれば国防費はむしろ下がっている、というのが実態。
 中国に対しては「対話の扉は常に開いている」と言いながら「両国間に領土問題は存在しない」と言って尖閣問題での対話・交渉を突っぱねて続け軍事的対決姿勢をとり、中国以外のアジア諸国・アメリカ・オーストラリア等と「価値観外交」で接近―中国包囲網(旧い冷戦思考に基づく対中封じ込め政策。同じ価値観を共有している国どうしが連携・協力して中国に対抗、というが、安倍首相らの歴史観―歴史認識―はアジア諸国やアメリカとも異なり、むしろ独りよがり)。
 中国とは初めから信頼関係に立った対話を放棄。
  
秘密保護法案―国民の「知る権利」、メディアの「報道の自由」に制約
「日米同盟のため」と―両国の機密情報(軍事情報・スパイして得た情報など)を互いに共有
  それとともに国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案―有事の体制づくり―軍事の司令塔で戦前の大本営のようなもの―集団的自衛権の行使を可能とする日米軍事一体化と一体。
外交、防衛、テロ、「特定有害行動」等に関する秘密情報―「国家機密」
 機密の範囲が曖昧、「何が機密かも秘密(教えない)」
 何を秘密にするか(隠すか)決める(指定する)のは政府(行政機関の長)―恣意的運用のおそれ
 公務員、メディアの取材、国会議員の国政調査活動も規制され、政府の都合のいい情報だけが公開。
 テロ活動防止分野では原発関連情報が機密にされる。
 違反すれば最高10年の懲役
 公務員・メディア・国会議員・国民も委縮、自己規制へ

TPP交渉―アベノミクスの成長戦略の一環
 政府は「交渉に参加すれば情報が入手しやすくなる」として交渉参加を合理化したが、交渉経過は非公開・秘密(国会にも)―秘密主義―国民への情報提供の約束反故。
  関税撤廃:工業製品も含め輸入品は9018品目
       うち農産物、そのうちの5項項目(「加工品」・「調整品」も含め586品目)は「聖域」として除外を約束したはず。しかし譲歩して一部見直し、品目によっては聖域からはずされることも。
   ①米―玄米・精米・米粉・もち・だんご・せんべい・あられ等58品目
   ②麦―大麦・小麦・うどん・スパゲティ・パスタ・ビスケット等109品目
   ③乳製品―バター・チーズ・ハム・ベーコン等も188品目
   ④牛肉・豚肉―牛タン・レバー・牛乳・脱脂粉乳など部位別100品目
   ⑤砂糖・デンプンなどの甘味資源作物―サトウキビ・ビート・シロップ・あんこ・チョコレート等131品目
     これらがそっくり(6.5%)が除外され(聖域として守られ)れば自由化率は93.5%、譲歩して、そこ(聖域)から一部品目(加工品・調整品など)がはずされれば95%以上になってしまう。加工品・調整品といっても、それらが聖域からはずされれば、その輸入量は急増し、国産品はその分売れなくなる。
 その他、問題の交渉分野
   衛生植物検疫―食品の安全基準は守られるか
   保険―日本の公的医療保険制度は守られるか
   医薬品
   政府調達―政府や自治体の公共事業の発注ルール
           国際入札(外国企業も参加)―地元中小企業向け発注が困難に
   投資―ISDS条項(多国企業が進出先の国で法律や政府の政策によって不利益を被ったと判断した場合、国際的な仲裁機関にその国の政府を相手取って損害賠償を求めることができる仕組み)導入―日本の司法主権は守られるか

 8日首脳会合―年内妥結めざすも困難

「教育再生」
  その教育観―①国家による統制(国家主義的な教育の徹底)
           ②強制力を重用      
           ③競争教育
           ④道徳教育―型にはめる―道徳を教科化

 首相のブレーン―八木秀次―教育再生実行会議メンバー、「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長で反「自虐史観」論者―SMAPの「世界に一つだけの花」(「ナンバーワンにならなくてもいい」と歌う)を非難「こんな歌を学校で歌わされていたのでは子供たちは何もしなくなる」と。
        桜井よしこ―中央教育審議会メンバー―「体罰は教育」と肯定
        いずれも安倍首相と同様の考えの持ち主で、過去の日本軍の侵略や「従軍慰安婦」強制・関与を否定)
 教育行政―教育委員会―そもそも、その役割は教育に必要な諸条件(予算、教員一人当たりの生徒数など)の整備にあるはず。それが教職員の教育内容に介入・統制
  
 「日の丸・君が代」強制―東京都教委による都立学校教職員でこれに従わない(斉唱時に不起立だった)者に対する処分(石原都政下の2003年以来、のべ450人)―今年7月最高裁で、それを不当だとして訴えていた教職員への処分(減給・停職)取り消し判決(戒告処分は適法に)。
   大阪府教委―国歌斉唱時の口元監視を府立の各校に指示

 教科書選定―もともと学校ごとに採択していたものを、文科省は「最終決定権は教育委員会にある」と。しかし高校の場合は運用によって事実上学校ごとの採択になっていた。
 その教科書採択に教育委員会が介入―実教出版の教科書(検定合格)、その記述に「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚・国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし、一部の自治体で公務員への強制の動きがある」(客観的事実)と。
  この教科書に対して―東京都教委が見解を都立各校に「使用は適切ではない」と通知。
   大阪府教委は条件付き(教科書の記述を補完する補助教材を使うこと等)で採択。
   神奈川県教委は、採択審議前に、同教科書を申請した各学校の校長に再検討を求め、その結果、それらの全ての学校が他社の教科書に変更して再申請。
   埼玉県では教委は同教科書を採択決定したところが、県議会が教委に対して「再考」を求める決議。教委委員長は決定を撤回せずに辞意を表明。

 図書館教育に介入―島根県松江市で教育長が「はだしのゲン」閲覧制限、批判を浴びて撤回。

 全国学力テスト:静岡県知事が同県の学テ成績上位校の校長名を公表(県のホームページに)―   文科省は「ルール(学力調査実施要領)を逸脱」と批判(過度な競争原理だけが先走りする可能性があるとして)。
  大阪府教委が学テの学校別成績(平均正答率)を各校に公表を義務付けることを決定(学校選択制の導入で、学校選択の要素に)―文科省は学テ成績公表が「強制になれば実施要領に逸脱する可能性がある」と。

 教育委員会制度改革―教委の権限を自治体首長に移す案(委員の任命権はこれまでも首長にあって、教育長は事務局の長として委員の中から互選で選ばれてきたが、新たに教育長も首長が任命・罷免できるようにしたうえで、その教育長を「教育行政の責任者」として権限を集中させ、教育委員会は教育事務のチェックを行う監査機関に)
    教育委員会の独立性・政治的中立の原則―崩れることになる。
 いじめ防止対策推進法(9月28日施行)―問題点
  道徳教育の強化、規範意識の養成、学校と警察の連携など義務付け
  いじめる子・いじめられる子・はやし立てる子・傍観者(見て見ぬふり)それらが入れ替わるという複雑・多様な生徒の実態を「いじめる子」と「いじめられる子」の二項対立に単純化して一方を処罰、他方を保護、硬直的な上からの押しつけ、厳罰化(懲戒・出席停止・別室授業など)
  取締的対応、監視・密告体制―子ども分断や冤罪を招く恐れあり
  加害者(鬱屈した心・心の闇・歪みをもった子ども)を出さない学校・家庭・社会にすることが大事。
 子どもと先生が信頼関係で結ばれ、先生は子ども一人ひとりに目が届き、行き届いた指導ができ、先生と子ども同士が互いに親しみ合えて、気楽に対話・相談し合えるゆとりのある少人数学級にすることが大事。
  「いじめ」解決には子どもが声をあげる自治が必要。
 学校を進学塾と同一視する傾向―受験教育―テスト競争教育―進学実績で評価
               その観点から効率性を追求―企業的学校経営


安倍政権の基本スタンス―財界・大企業本位、対中日米同盟
                 国家主義的傾向―自由・人権に対して国家の統制を重視
マスコミ―権力者の発言を無批判にそのままに伝えるのみ
     党派性―有力な党派・階層にとって都合のいいところばかりをとりあげ、都合のいい方向に目を向けさせる。そして都合の悪いところははずし、都合の悪い方向 からは目をそらす。
     オリンピックをナショナリズムのシンボル操作の手段に
国民全体に右傾化傾向―排外主義的ナショナリズム―ヘイトスピーチ(憎悪表現)(京都の朝鮮学校周辺で街宣・「スパイの子ども養成学校!」などと拡声器で連呼し、その映像をネットのユーチューブに載せて公開、学校から訴えられた団体に対しては京都地裁が街宣の差し止め、賠償命令の有罪判決)


2013年10月21日

ならぬものはならぬ・良いものは良い

 新島八重のセリフ「ならぬものはならぬ、良いものは良い、のでございます」。これを聴いて考えた。
「嫌いなものは嫌い、好きなものは好き」といえば、理屈抜きで「嫌いだから嫌い、好きだから好き」だということで、感情的・非合理的判断になるが、八重のこの言い方が「たとえ嫌いでも、或いはたとえ自分には何の得にはならなくても、良いものは良いのであるから受け入れなければならず、逆に、たとえそれが好きでも、或いはたとえ自分を利することではあっても、ならぬものはならぬのであるから受け入れてはいけない」ということだとすれば、それは理性的・道徳的判断(感情や利害損得よりも道徳的合理性を優先する立場に立った判断)のあり方を示したものだろう。
 ただ、これを単に理屈抜き、説明抜きで「ダメなものはダメ」といって押し付け思考停止になるのを肯定してはなるまい。会津の白虎隊のような未だ思考力が不十分な年少者にはしかたないとしても。(「什の掟」「一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。三つ、嘘を言うことはなりませぬ。四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。五つ、弱い者をいじめてはなりませぬ。六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ。七つ、戸外で女と言葉を交えてはなりませぬ・・・・」などにしても、本来は説明・納得を要するもの。)
 また「たとえ不合理と思われるものでも、決められた事は守れ」(『悪法でも法は法』・問答無用)というのも間違い。
 それに、安倍政権がこれから決めようとしている特定秘密保護法案など、それが決まったら、権力者や政権党が国会で多数決で決めたことだからといって、自分に都合の悪い情報を隠し、公開を求める野党や国民に対しては「ならぬことはならぬ」と突っぱねるようなことになれば、これまたとんでもないこと。
 それにつけても、昨今、人に対する評価、政治家・政党・政権に対する評価、選挙などで人々は、いったいどういう判断をして支持・投票しているのだろうか。「好き嫌い」「利害損得」でやられてはたまらん。
 「ならぬものはならぬ」のは戦争に、集団的自衛権の行使に、核兵器に、・・・・政党助成金―共産党以外には全ての党がもらっていようと「ならぬものはならぬ」。「良いものは良い」のは今の憲法―押し付けられたものだろうとなかろうと。「良いものは良い」のは原発ゼロ―それを言ってるのが共産党だろうと元首相だろうと、とういうことだな。

2013年11月01日

うつ病を無くすには平等社会

 NHKスペシャル「病の起源」で「うつ病」(行動意欲の低下が2週間以上続く症状。日本では100万人がこれに)のことを取り上げていた。
 うつ病の原因は脳の中にある扁桃体の活動がもたらすストレスホルモンの過剰分泌にあるという。
そもそも扁桃体は小さくてか弱い魚類から始まって爬虫類・哺乳類・人類が進化する過程で、天敵から身を守るために生まれた。その扁桃体があることによって天敵に遭遇するとそれ(扁桃体)が危険を察知して活動しストレスホルモンを分泌する(防衛本能)。すると全身の筋肉が活性化し運動能力を高め、素早く天敵から逃れる。天敵が去れば扁桃体の活動がおさまり、ストレスホルモンの分泌が止まる。
 ところが、天敵の危険にいつまでもさらされ続けると、それが止まらなくなり、ストレスホルモンが過剰分泌し、脳の中の神経細胞に必要な栄養物質が減少し、神経細胞が栄養不足に陥って、脳が縮んでしまう(委縮)。つまり、うつ状態になる。
 天敵に対して仲間と集団をなすことによって危険から身を守る。ところが、集団から隔離され、孤独状態に置かれると、不安・恐怖にさらされ続け、これがまた扁桃体の活動を激しくさせてストレスホルモンの過剰分泌をもたらし、脳を委縮させうつ状態に陥らせる。
 記憶(脳の中の海馬に蓄えられるが、扁桃体は海馬に連動)―その多くは忘れ去られる(海馬から消え去る)が、衝撃的な出来事はいつまでも記憶に残り(海馬にこびりつき)、恐怖の記憶は消え去ることなく、繰り返し思い出される。その度に扁桃体の活動、ストレスホルモンの分泌をもたらす。
人類は言葉を覚える(言語をつかさどるブローカ野という部位が発達する)と、言葉で他人に伝え聞く。それで、自分が直接体験しなくても、他人から聞いた恐怖を記憶し、不安を覚える。これがまた扁桃体の活動、ストレスホルモンの分泌を促す。
 おカネを分け合う実験(①自分が2円、相手が83円で自分が損する場合、②自分が66円、相手が6円で自分が得する場合、③自分が177円、相手が164円でほぼ公平な場合の三つのケース)で、①(自分が損)と②(自分が得)ともに扁桃体が激しく活動して(その活動量が大)、③(公平)だと扁桃体はほとんど反応しないのだそうである。
 公平な行動は進化的に有利なのだ、というのである。
 こういったことが「うつ病」の脳内におけるメカニズムのようである。

 アフリカのハッザという部族の人々にはうつ病を患う人はいないのだそうである。彼らは集団で、ライオンなどの猛獣から身を守り、狩猟採集して食糧をみんなで平等に分け合って暮らしている。
 うつ状態テスト(暮らしの満足度、幸せ感、希望と不安、自信、よく眠れるかなどを質問。31 点以上は重いうつ状態、11点以上は軽いうつ状態)で日本人は8.7 、アメリカ人は7.7、それに対してハッザの人々 は2.2なのだそうである
 人類の歴史で原始社会からメソポタミア文明などに始まる文明社会になって、平等社会が崩れ、私有、職業の分化、貧富格差、支配・被支配が生まれるようになって、うつ病が生まれるようになった、というわけである。
 現代人でも、専門職(弁護士や医師など、自分で判断する仕事に携わっている)はうつ病の発症率は少なく、技能職も比較的少ないが、営業職・事務職など上司の命令で仕事する職業は発症率が(専門職・技能職の2倍)高い。社会的な立場の低い人は、高い人より常に強いストレスにさらされている、というわけである。

 うつ病を治すには、生活を改善し、人間本来の暮らしを取り入れること―分け隔てのない仲間との平等な結びつきを治療に応用(PLCという生活改善療法―スタッフとの信頼関係を築き地域活動に参加するなど社会的な結びつきを強める)、定期的な運動(ジョギングなど―委縮した脳の神経細胞を再生させる)、昼は太陽の光を浴び、夜はしっかり眠るなど規則正しい生活がストレスホルモンの正常な分泌をとり戻す、とのことである。

 うつ病は資本主義の競争・格差社会、人間関係が希薄で孤立しがちな社会につきもので、その根本原因を無くすには、互いに家族のように助け合い分け合って暮らせる平等社会(これって共産制社会じゃん)が望ましい、ということになるのでは。

11月のつぶやき

●女房が畑から獲ってきた白菜を一個台所に運び入れた、その葉っぱの間から、孫が小さなトンボを見つけた。イトトンボだという。白菜の葉っぱを一枚ちぎって皿にあげ、ざるをかぶせて一晩飼って、当方が写真を撮ったが、翌日天気がよかったので孫は放してやったという。
●この間、女房と一緒に当方が運転して、ある集いに出かけた。駐車場で、どこに止めるか、あっちか、こっちか、助手席から「こっちでなく、そっちだってば、何をもたもた、アタマわるいもんだな」・・・・・「やかましい!」終に爆発。車から出て、公衆の面前で大声で怒鳴りつけた。
 昨日見たニュース(NHK)の中で、たまたま「怒りっぽい人は心臓病の再発率が、怒りっぽくない人の半分も少ない」とのこと。「ストレス発散の効果なのだろう」ということだった。女房「なるほどな」・・・・
 但し、怒りをぶっつける肝心の相手は女房ではないということだけは確かなはずなんだが。
●秘密保護法―衆院可決 女房つぶやく、「世の中 悪くなる一方」。嫌な時代がまた訪れるのか・・・・安倍自民党を大勝ちさせたおかげで、こういうことになる!これからまだある。なんということだ!
●ウイルス性胃腸炎―幼稚園児の孫から始まって親・兄弟が次々ダウン、あげくにこっちにきた。おう吐と下痢、二日絶食、どうやら治まってご飯と晩酌にありつけるようになった。やれやれ・・・・
●怒り―秘密保護法―かつての治安維持法や軍機保護法の再来―暗黒時代に逆戻りへ、となるのか。
 こんな法案、なんで今なの?それはかねてより企図されてきたものだが、中曽根内閣時代「スパイ防止法案」は廃案の憂き目にあっている。しかし、ここに至って衆参とも自公政権与党が圧倒的多数を占めるようになった今だからこそ可決・成立のチャンス到来で、この機を逃してなるものか、ということなのだろう。維新・みんな等との修正協議など「強行採決」批判をかわす取り繕い。圧倒的多数議席と言っても、最高裁から「違憲状態」と判断を下されたような不公平選挙で当選した議員たちだ。そんな国会でこれが決まってしまうのかと思うと・・・・・こんちくしょう!
 見てくれる人のこんなにも少ないブログだが、「彼ら」からは見られているのかな(?)
●孫たち自分の趣味・特技の話をしていた。「婆々の趣味はな~んだ?」と訊くと、「畑」、ピンポン。当方が「爺々の趣味はな~んだ?」と訊くと、「勉強」、ピンポン
●NHKのニュース・ウォッチ9、女子アナがミニスカートをはいているのを見て女房が口説いていた。「こっちは炬燵だというのに、あんな格好されると寒くなる」と。
 報道ステーションを見ながら、このブログ打ち込みをやっていると、♪希望の苗を植えてこうよ、地上に愛を育てようよ♪とサザンの歌が流れてきた。”New Golf”フォルクスワーゲンのコマーシャルではないか。
●タイヤ交換―婿殿がやってくれて、それを手伝った。それを彼が運転して、当方が助手席に乗って駅まで送って行ったが、渋滞、汽車には間に合った。
●11日、軒に、畑に初雪。咲き残っていたアジサイが雪をかぶっていた。田んぼ道の歌いながら散歩も今年はもう終わりか。
●また葬式があった。当方より若い。快活で、高校時代はブラスバンド、社会人になってからもバンドを組み、ドラムやボーカルをやっていたものだ。寺で葬儀の後、生前カラオケで歌った彼の声をCDにとっていたのをプレーヤーで流していた。上手い。遺影もあるが、こうした「遺声」もありなんだな。
●新学期が始まる学校を担任が遅刻して、放っておかれた生徒はどうすんだ、まずい、あわてて起きてズボンをはこうとしたが、ズボンが違う、どうしたものかと焦る・・・・目覚ましが鳴って目が覚め夢だと気がついてホッとした。なんで今頃こんな夢を。
●それにつけても、イーグルスの監督・選手たちは偉い!「被災者に元気と勇気を」という熱い思いに駆り立てられて挑み、励み続けて最後の勝利をつかんだ、なんともすごい!その使命感と精神力。大リーグの上原も偉い、米沢中央高のサッカー(初の県優勝)も大したもんだ。
 川上哲治は亡くなった。当方・子供時代、赤バットで、青バットの大下と並び称された代表的スラッガー。その頃のヒーローやスターの生き残りは、これで全ていなくなった、ということかな。
●子・孫に残せるものはろくにないけど、(誰かが何かにそう書いていたが、そうだ)9条をはじめ憲法だけは・・・・・・・・と、孫のリクエストに応えて「憲法の歌」を唄って聴かせた。
●ダリアは色とりどりの大小の花が付け変わり咲き続けている。あじさいが二輪まだ踏ん張っている。
CIMG4404.JPG
●♪息をすれば胸の中 木枯しは鳴き続ける されど我が胸は熱く夢を追い続けるなり あゝさんざめく 名もなき星たちよ せめて あざやかに その身を終われよ 吾も行く心の命ずるままに 吾も行く さらば昴よ♪
 そうだ、名もなき無数の星たちの一人なんだ。砕け散るまで精一杯 光続けなくちゃ! たとえ誰からも見向きされなくても。
●5561 

2013年11月06日

開放的平和国家から軍事的秘密国家へ―特定秘密保護法案(加筆版)

(1)「厳しさを増す安全保障環境」―中国・北朝鮮との戦争・テロに対処
  情勢認識―安倍政権は北東アジアの安全保障環境は「厳しさ」(中国・北朝鮮の脅威)が増していると→「防衛」体制強化→秘密保護強化
  むこう側から見れば日本が「脅威」。(韓国の民間シンクタンク・峨山政策研究院―の世論調査では、同国市民の6割もが日本に対して軍事的脅威を感じている。)
  軍事的緊張を高めるやり方    
  (元外務省国際情報局長・孫崎氏は、「いま世界は、秘密の強化よりも偶発的に戦争が起きないよう、相手国に能力や意図を正確に知らせることが潮流になっている。米国と中国の関係でも。日本に必要なのは秘密保護よりも情報開示」だとしている。)
(2)国家安全保障戦略(NSS)―防衛・外交・経済の総合的な戦略
 原案―軍事分野に積極的に踏み出していく(軍事に対する縛りを解く)方向性(朝日社説の論評)
   武器輸出三原則の見直しの必要性を明記。
   防衛大綱には自衛隊に敵基地攻撃能力や海兵隊機能をもたせること等も。
日米軍事一体化―集団的自衛権の行使容認(9条解釈改憲)を視野に。
   国家安全保障会議(米国のNSCをまねて創設)―首相・外相・防衛相・官房長官4閣僚で構成―外交・安全保障の「司令塔」となる(官邸に情報集約、自衛隊最高指揮官たる首相のトップダウン体制)
   特定秘密保護法案 軍事情報・機密情報を日米で共有管理―米国(世界規模のスパイ・通信傍受・盗聴などで情報収集)から提供された機密情報を守る。日本側から米国へ機密情報を提供する―それらの断片情報の漏えいを防ぐため―秘密を取り扱う公務員を適性評価のための身辺調査<家族・親戚や交友関係・思想・趣味・飲酒癖・借金状態などまで>・監視などのことを定める。漏えいは最高10年の懲役(アメリカ並みに重罰)
   これらはかねてよりアメリカ側から求められてきたもの。
    (イラク戦争に際しては、ブッシュ政権下のNSCにはイラクのありもしない大量破壊兵器など大統領の開戦に前のめりだったその思惑にそくした情報だけが上がって、それを疑うような情報は度外視された。小泉首相は米国のその虚偽情報を真に受けて真っ先に開戦支持を表明して派兵したわけである。)
    (米国は日本をも監視対象にして大使館・米軍基地を拠点にNSA<国家安全保障局> やCIA<中央情報局>が通信傍受・盗聴―スノーデン元CIA職員の内部告発<NSAの機密文書を持ち出してウェブサイトに公表>で明らか。)
    (原発施設内に出入りする従業員の身辺調査を米国が要求。日本の電力会社が公安警察と一体で共産党員や支持者を特定し監視。)
 これまで既に国家公務員法(「守秘義務」違反、罰金50万円、懲役1年)・自衛隊法(懲役5年)・日米防衛秘密保護法(懲役10年)で―そのうえに、さらに「特定秘密保護法」で(懲役は最高10年に)
 教唆・扇動―ブログやツイッターで発信・拡散なども罪に。
 秘密を得ようと打ち合わせ、話し合っただけ(未遂)でも処罰(「共謀罪」)
特定秘密」―4分野①防衛②外交③特定有害活動(「安全脅威活動」、スパイ活動)④テロ活動 23項目それぞれに「その他重要な情報」と付け足されており、なんでも「その他」に入れられて秘密にされてしまいかねない。
     行政機関の長(各省大臣、警察庁長官など)が指定
     指定期間は5年だが何度でも延長できる。30年を超えても内閣の承認あれば解除されず、将来にわたって公開される保証がない(かつて軍の関係資料や文書が焼却されたように機密のまま廃棄されることも)。
     2011年末時点で、防衛秘密の指定事項数234件
     2010年末で、極秘文書:約8万2600点、特別防衛秘密:約12万9000点 
           各省の「消秘」173万9000点
   外交・安全保障に重大な影響を与えるとされている「特別管理秘密」総数は14年末現在で
     約42万件(特定秘密になるのは、その1割という政府高官も)。
     いずれにしろ、政府全体で万単位の情報が特定秘密に指定。 
     指定されなくても、その外側にある情報も隠ぺいされる(恣意的に情報を国民の目から覆い隠せる)―政府にとって都合の悪い情報が隠される
       秘密の指定・解除による情報操作・世論操作にも
        ふつうの市民の暮らしをめぐる調査活動も違法とされかねない
        真相究明、真実を知ろうとする調査・研究も抑制―社会を委縮させる
      
 谷垣禎一(現法務大臣)―以前1987年『中央公論』に(国家秘密法案-=「スパイ防止法案」に反対して)「わが国が自由と民主主義にもとづく国家体制を前提とする限り、国政に関する情報は主権者たる国民に対し基本的に開かれていなければならない。この国政に関する情報に防衛情報が含まれることも論をまたない」「刑罰で秘密を守ろうという場合は、よくよく絞りをかけておかないと、人の活動をいたずらに委縮させることになりかねない」と書き、スパイ防止法案に反対していた。―開放的平和国家の立場に立っていたはず。
 民主主義国家―国民が主権者、国民が(代表者・議員だけに任せず)話し合って決めるのが本来のあり方―それに必要な情報は国民に全て知らされなければならない(それが前提要件)―安全保障を含む国の政策の決定過程は主権者である国民に公開されなければ民主主義は成り立たないということだ―だから国民には「知る権利」「言論の自由」(オープン)、メディアには「取材・報道の自由」が必要不可欠なのだ。
 「ツワネ原則」:6月南アフリカのツワネで国連と70ヵ国以上の専門家で話し合う。
   軍事など必要なものは秘密にでき、それに対する市民の「知る権利」を制限することはできる。だとしても人道や人権に関わる国際法に違反する情報アクセスの制限は許されない。またそれが正当ならば、政府はそれを証明しなければならない(政府に証明責任)。
   すべての情報にアクセスできる独立した第三者の監視機関が必要。
   秘密にする期間を限らなければならず、解除後に検証できるようにしなければならない。
   人権などの公益性の高い内部告発をした人は保護されなければならない。
   等々のことを原則とした―これが「世界の潮流」と言えよう。   

 なのに
 政府が特定情報(指定)を隠して秘密にし、それに国会議員・ジャーナリストや市民(運動家)がアクセスしようとするのを忌避、漏えい・流出した公務員とそれを求めた議員やジャーナリスト・市民は処罰。
 「何が秘密かも秘密」(何を秘密にするかを政府が勝手に決め、国民には何が秘密かを知るすべがない)―秘密とは知らずにそれに触れてしまえば捕まる。防衛や最先端分野の仕事に関わる下請け業者・従業員が仕事上、機密に触れる場合があるが、彼らがそれで捕まったりも。
     基地や原発施設の写真を撮っただけでも、或いはそれらに関わる情報を得ようと誰かと話し合っただけでも逮捕されかねないことに。

 国会が「特定秘密」を議論する場合は「秘密会」で行い、それに参加した議員はその秘密を他で(同僚議員や秘書などに)漏らせば罰せられることになる。
 国会議員は国政調査権に基づく活動が十分できなくなり、ジャーナリストは(報道・取材の自由に十分に「配慮」し、「著しく不当な方法でなければ」取材は正当な業務として認めると明記はしても、それを判断するのは取り締まる当局側で)自由な取材ができなくなってしまう―政府に対して監視・チェック・批判が十分できなくなる―違反・処罰を恐れて二の足を踏む(委縮―忖度して<相手の意を酌んで>アクセス・追求を控える)。
 情報公開法で、公開の可否をめぐる訴訟に際して裁判官が職権によって非公開文書をその目で調べて非開示にすべきものかどうかを判断できる(インカメラ審査)の規定がないかぎり、市民が秘密文書の開示を求めても、裁判所は応じてくれない。その規定があったとしても、役所は裁判所への文書提出を拒むことができるのでは開示を求められないことになる。 
 裁判の過程で特定機密は開示されないとなると、「被疑者」や「被告人」はいったい何の被疑事実で自分が捕まったのか、何で裁かれれているのか、弁護人も判らず、裁判所のなかのごく一部の人(インカメラ手続きで非公開を前提に秘密事項の提供を受けた裁判官)しか判らない、ということになる。
 (1989 ~95年、那覇基地の自衛隊施設に関して建築工事計画書の付属資料を市民が情報公開条例に基づいて公開請求、それに那覇市当局が応じようとしたのに対して国側が「防衛上の秘密にあたる」として訴訟。その建物はごく普通の建物だということが明らかだったので、地裁判決は「資料が公開されても防衛行政に著しい支障が生じるとは認められない」として訴えを退けた。しかし、同法が成立すれば、今後そのようなケースで、国が秘密と言えば何でも秘密とされ、開示を求めても突っぱねられることになる。)
 (2007年~自衛隊情報保全隊の国民監視―イラク派兵反対運動など団体・市民を調査・監視、内部告発で発覚―差し止め訴訟―12年仙台地裁―5人の原告に対して人格権の侵害を認め、損害賠償を国に命ずる判決―仙台高裁で控訴審中。
 このようなケースも、もしこの秘密保護法が成立すれば、訴訟できなくなる―内部告発した者、それを公表し訴訟を起こした側が「秘密」を漏えいしたとして処罰される結果になるから。
 これらに対するマスコミ等の取材も自衛隊や警察など当局側の公式発表以外には取材できなくなる。秘密保護法は自衛隊などの違憲・違法な行為を隠す口実を与えるものとなる。―同差し止め訴訟原告弁護団事務局長・小野寺氏)
 
  民主主義は毀損され、憲法で開放的平和国家であるはずの我が国は軍事的秘密国家に化することになってしまう。どこかの国のように、或いはかつてのこの国のように。
   上智大・田島泰彦教授は「秘密主義国家」「情報独裁国家」になってしまうと。
   アメリカは「スパイ国家」という指摘も(朝日は「盗聴国家」と書いている)。


2013年11月15日

戦争のための秘密保護法案(加筆修正版)

(1)軍事情報と公安情報の秘密保護を必要としている政権
 一般には秘密(非公開・口外を禁じる)を必要とするのはプライバシー(個人情報)と組織の内部情報(職務上知り得た秘密をみだりに漏らしてはならない―公務員などの「守秘義務」)とがある。(後者の場合、「守秘義務」の範囲が広すぎるという問題があるが。)それに犯罪捜査情報と公安情報とがある。後者は反体制の「思想犯」「政治犯」等を対象としている公安警察の情報で、民主主義体制を暴力で覆そうとする過激派やテロリストなどの動静に関わる情報の秘匿は必要だろうが、民主主義擁護の立場にたち選挙で一定数の国民の支持を得て国会等に議席も有している政党や労組・市民団体などにまで調査対象を拡大して調査・監視しているのが問題。
 そして軍事機密というものがある。しかし、スパイ・通信傍受・盗聴などの情報収集とともに機密保全(秘匿)を必要とするのは敵対し警戒を要する国(戦争が想定される国)に対してであり、信義・信頼に基づく平和友好には、それは不要であるばかりか、あってはならないもの(第1次大戦の講和会議を前に、アメリカのウイルソン大統領が提唱した14ヵ条平和原則の第一番目は「秘密協定・秘密外交の禁止―公開外交」だった)。隠し事があっては腹を割った対話・交渉などできないからである。
 第二次大戦後、我が国は憲法で、諸国民との信義・信頼関係を基に平和友好関係を結び、非戦・非軍事による安全保障を基本方針とすることを定めた。
 安全保障というと「国家と国民の安全を守る」即「防衛」(軍事)と結びつけがちだが、軍事が国民の命を守る」というのは詭弁である。なぜなら軍事は戦争。戦争というものは殺し殺される命のやりとりにほかならず、国家(政府)を守るために国民の命を犠牲にする。(それが先の大戦で国民が味わった苦い経験。)
 安全保障の要諦は戦争をしないことであり、軍事を控え、敵をつくらないことである。(戦後、国民はそのことを悟って憲法に「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」のだ。)軍事(兵器や装備・作戦・暗号など)には機密が付き物であるが、軍事を控え秘密(隠し事)を控えて他国との信義・信頼に基づく平和友好をはかることこそが安全保障の要諦なのである。

 ところが、その後、米ソ対立・冷戦下で互いに敵視政策をとり、我が国は米国側に組し、米軍基地と自衛隊の存在を容認し、それに伴う「特別防衛秘密」等(核密約や沖縄返還に伴う密約も)容認してきた。
 安倍政権は、それを、さらに中国・北朝鮮などに対して敵視政策をとり、日米同盟強化(集団的自衛権の行使容認など)とともに米国などとの軍事機密の共有・管理の強化を図ろうとしているのである。(安倍首相の言う「積極的平和主義」とは、その言葉とは裏腹な軍事的対決主義にほかならない。)
 安倍政権が今「秘密保護法」を必要としているのは、中国・北朝鮮などに対して敵対・警戒路線をとってのことであり、これらの国や国民との平和友好路線を投げてかかっているからなのだろう。

 秘密保護法案、なんで今なの?といえば、安倍政権は中国・北朝鮮と軍事対決し、戦争になるかもしれないという事態が迫っていると考えているからなのだ。そのような事態はなんとしても避けなければならないということよりも、戦争になってもしかたない、或いは戦争も辞さないとの腹づもりで戦争を想定した体制を早急に整えておかなければならないと考えている。だから集団的自衛権の行使容認の解釈改憲、NSC(国家安全保障会議)の設置とともに軍事機密の防衛・管理強化を急務としているのだろう。

 尚、「安全保障」即「防衛」と短絡的に考える向きには、軍事は(自衛隊も日米安保条約も米軍基地も)必要だという考えで、それに伴う「防衛機密」(軍事秘密)そのものはあって然るべきで、「我が国の安全保障に著しく支障を与える秘密漏えい防止のために「特定秘密保護法」そのものの必要性は認める。野党でも民主党・維新・みんなの党はその立場。

 大手メディアでは読売・産経が賛成、朝日・毎日は反対、日経も異議。
維新・みんな両党との修正協議については、
 朝日―「『翼賛野党』の情けなさ」「『補完勢力』どころか『翼賛野党』と言われても仕方あるまい」「いずれの修正も実質的な意味は乏しく、問題の根幹はまったくかわらない」
 毎日―「まるですりより競争だ」
 日経―「この修正は評価に値しない」「この修正がなされても、国の秘密が恣意的に指定され『知る権利』が侵害されかねない法案の構造的な問題はなくなるわけではない」「すり寄ったと勘繰られてもしかたあるまい」
 これらに対して
 読売―「仮に捜査当局の判断で報道機関ひ捜査が及ぶような事態になれば取材・報道の自由に重大な影響が出ることは避けられない。ここは譲れない線だ」として、後は賛成。
 産経―「機密の漏えいを防ぐ法整備は必要」「法案の成立見通しを評価」「修正協議は妥当だ」と。
 NHKは委員会審議を中継。ニュースではそこからピックアップして、野党質問とそれに対する首相や関係閣僚の答弁のワンフレーズ、それに維新・みんな等との修正協議の場面と党首のコメントをワンフレーズだけピックアップして流し、それぞれの言い分を伝えているだけで、共産党などの反対論は取り上げず、賛否どちらに理があるのか論評がない。(NHK会長いわく「政府の公式見解を踏まえてニュース・番組を制作している」―要するに政府見解に即して報道しているということだ)


(2)本末転倒の秘密保護法案
 法案は安全保障の名の下に政府・行政当局が特定秘密を指定し、その漏えいを防止するために秘密事項に関わる公務員や民間企業従事者その他の身辺を調査・監視し、彼らと彼らに近づいて秘密情報をつかもうと取材・報道するジャーナリストその他(いずれも国民)に対して、漏えい(内部告発とその公表も)とその教唆・扇動(秘密を暴こうとして「どうなんだ」と訊いたり、それに関したことを人々に訴える行為)があれば重罰を科して取り締まろうとするものである。
 主権者たる国民には政府・行政機関の行為に過ちなきように監視(調査・チェック)し、違憲行為を告発する権利がある。そのために必要不可欠なのが国民の「知る権利」なのである。そしてその権利(知る権利)を補強(国民が政府・行政機関の行為・実態を的確に知ることができるように知識・情報を提供)する役割を担うのが研究・教育者やジャーナリストたちなのであって、彼らがその役割を果たすうえで必要不可欠なのが、(政府・行政機関の行為・実態を自由に調べ人々に伝えることが出来る)研究・教育の自由なのであり、取材・報道の自由なのである。
 現行憲法は国民主権の原則とともにこれら国民の権利を定めている。それに憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」を定め、諸国民との信義・信頼に基づく平和友好によって安全保障をはかるという平和主義の原則を定めているが、国民が政府の行為に過ちなきように監視・チェックするという場合、とりわけ重要なのは安全保障に関わるこの点での政府の行為である。政府が、「安全保障」のためと称して、国民も諸国民も知らないうちに、秘かに戦争につながる行為を行うなどの過ちを犯すことのないように、国民が政府を監視・チェック・調査しなければならないのである。また憲法は基本的人権を定め、政府・行政機関は国民の「知る権利」とともに、プライバシー権(個人情報の秘匿・保護)、言論・表現の自由等の人権を侵害してはならず、この点でも国民は政府・行政機関を監視・チェックしなければならず、違憲行為は追求・告発しなければならないのである。
 ところが、この法案は、このような憲法原則とは全く逆に政府の方が自らの秘密行為(軍事・外交機密)を隠し通すために国民を調査・監視し、秘密を暴こうとする国民に罪をきせて裁くというものである。これはまさに本末転倒だ。

秘密保護法の弊害

①何から何まで秘密にされ、秘密に触れる行為だと見なされかねない←特定秘密の指定範囲があいまい・無限定で、「行政の長」(その配下の官僚)の恣意的な判断で決められ、現場で担当職員・警察官や自衛官らも「それは特定機密に当たる」と自分の思い込みで判断するから。
 気象情報なんかまで(太平洋戦争中は軍機保護法により天気予報が禁じられ、台風情報も秘密にされた。)
 (フクシマ原発事故に際し、スピーディ<放射能拡散予測>のデータは発表されなかった。また内閣官房が運用する情報収集衛星の画像が現行の「特別管理秘密」に指定されていて、東電に提供には提供されず、事故対応に活用されなかった。)
②「知る権利」が制約―ヘタに訊いたりできない。ジャーナリストがヘタに取材・報道できなくなる。学者・研究者・作家などが(外交や防衛、公安関係史料などについて)ヘタに物を調べられなくなる。
 「民はよらしむべし、知らしむべからず」になってしまい、民主主義が成り立たなくなる。
③国会議員の調査活動―行政のチェックが制約されることになる。
④内部告発(内部から不正の告発)ができなくなる。
⑤ヘタに(うっかり)ものが言えなくなる―言論・表現の自由が損なわれる。
  市民運動なども自由にできなくなる。
⑥秘密取扱者の「適性評価」のために行われる身辺調査(家族・親戚から知人・友人にまで及ぶ)―広範な市民のプライバシーが侵害

これらが、皆びくびく、委縮してしまう―「君子危うきに近寄らず」「見ざる、聞かざる、言わざる」になってしまう

●「大丈夫、それは思い過ごし。そこまで、そんなことまでしたりはしないから」といっても、しないという保証はない―みんなこの法律に引っかけられてしまいかねない。
 当初は(国会審議に際する答弁などで)そういうことはしないと大臣が言っても(「君が代」も当初は強制はしないと言っていたのに、強制されているし)、やがて法律が独り歩きし、秘密を取り扱う担当職員・警察官・自衛官などの段階でそれが行われることになる―恣意的な判断、杓子定規の法律運用―それが彼らの仕事だとして任務に忠実・熱心な現場の担当者は、秘密の「漏えい」・秘密取得のために行う「共謀」(仲間と相談したとか)「教唆」(そそのかしたとか)「扇動」(人に呼び掛けたとか)のどれかに当たる行為、或いは秘密の「管理を害する行為」に当たるとの理由で、その捜査対象と見なした人物を秘かに調査(あちこちから聞き取り、「協力者」から情報提供を得、密告を受ける等)・情報収集・尾行・監視・内偵し、逮捕・訴追に邁進することになる。
 その人物は、それが「秘密」とは知らなかったとしても、「客観的な状況から特定秘密であると認識している」と見なされてしまう。
 人々は相互不信・疑心暗鬼になり、「監視社会」・「暗黒社会」になる。
   「・・・・を見たらスパイと思え」
   「・・・・を見たら反日分子と思え」(今すでにヘイトスピーチで叫ばれているのでは?)
   「イスラム教徒をみたらテロリストと思え」(現に警視庁公安部が東京在住のイスラム教徒全員の個人情報を調査していた―そのデータが流出するという事件が起きていでる)

2013年12月01日

佐藤栄作元首相の核密約

1969年3月佐藤栄作首相、沖縄の「核抜き、本土並み返還」の対米交渉方針を公表
    6月愛知外相、米外相に沖縄に「非核3原則」適用を要請
    7月若泉敬氏(京都産業大学教授、愛知外相と面識あり佐藤首相に紹介され、首相の密使として度々渡米)、米国大統領補佐官キッシンジャーと有事、沖縄への核再持込み協議―密約、作成へ
   11月日米首脳会談―佐藤首相、ニクソン大統領と本土並み返還の協議開始、返還時の核撤去についても合意―その裏で両首脳密約に署名
1971年6月日米が沖縄返還協定調印  
1972年沖縄本土復帰 佐藤首相、退陣後74年ノーベル平和賞受賞
1994年若泉氏、著書(「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」)を文芸春秋に発表―極秘交渉の経緯を記す―それに日米秘密合意議事録の存在について触れる。96年7月服毒自殺
2009年12月佐藤元首相宅から秘密合意議事録の原本発見される。
2010年12月日本外務省が沖縄返還をめぐる交渉などに関する外交文書291冊を東京・麻布台の外交史料館で一般公開

 こんな秘密外交、やっていいのか。
 「非核3原則」(核兵器はつくらず、持たず、持ち込ませず))が日本の国是だと信じてきた自国民も  諸国民にとっても、日本外交にこんな機密があっていいなんて思えるのか。
 核兵器を「抑止力」などと言って容認する向きが、こんな核密約を容認する。
 若泉氏が自責の念に駆られて(「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を果たすのだ」という思いを―沖縄県知事太田昌秀宛に送った遺書にしたためている)交渉経過を告白・公表して自殺した(いま制定されようとしている秘密保護法ならば漏えい罪として重罰をくらっていただろう)が、なぜこんな悲劇を生んだのか。秘密外交などやらせたからだ。
 佐藤元首相にノーベル平和賞を与えた委員会はこの「核密約」のことを知らずに与えてしまった。こんなことが許されるのか。

<参考>Wikipedia
    孫崎亨『戦後史の正体』(創元社)
    朝日新聞2010.12.23特集記事  etc


12月のつぶやき(上に加筆)

●天気になったので、いつもの郊外散歩。ところが農道は轍が雪で埋まっていて、もはや通れるなくなっていた。普通道路を、車は1~2台行き交うも、人家も人影もない区間を歌いながら歩いた。ふと雪原の方に目をやると白い鳥が二羽飛んできた。鷺かと思いきや白鳥。立ち止まって歌を中断。頭上を通り過ぎ彼方へ飛び去って行くのを目で追いかけた。見えなくなってまた歌い歩き出した。♪ららららーららららー・・・・・いつか会える きっと会える さよならは 愛の 言葉さー♪(尾崎紀世彦の「さよならをもう一度」)
●結婚式
 新郎・新婦それぞれへの祝辞、同僚・友人たち多くの皆さんが参画して制作した双方のDVDと余興は、いずれも心がこもった素晴らしい盛り上がりようだった。感謝・感激!
 当方、挨拶の中で二人に「毎日毎時間やることは、世のため人のため、互いの相方のために、『自己満足』というと語弊がありますが、それで『生きがい』が得られるんだと前向き肯定的に取り組んで精一杯生きていってほしい」と。
 人のやることは、何事も(「世のため人のため」と言っても)煎じ詰めれば自己満足ため。達成すれば満足感が得られるし、最終結果的には達成はできなくとも一日一日・一時間一時間、取り組んでいる過程で「今日この時間、自分はやったし、やっているぞ」と自己満足する、それが生きがいとなるのだ。
 そういう意味では、「自己満足こそが生きる原動力であり、それ無しには生きる意欲が無くなるもの」。
 それから、世のため人のためであれ、自分のためであれ、誰のためであれ、人を害せず不快にするものでない限り、人は「バカになって」(ということは一生懸命・一心不乱・無心になって)やれてこそ人を感動させられ、そういう自己満足ほど満足感が深いんだな。
 それにつけても、いい結婚式だったな・・・・・・
●昼のテレビ・ニュースで「一票格差で“憲法”違反判決」。
その「ケンポウ」という言葉を耳にした孫(幼稚園児)が「ジイジ、ケンポウの歌うたって」とリクエスト。「ご飯を食べ終わったらな」と言って、その後でCD(きたがわてつの「憲法の歌」)をかけて、その中に入っている伴奏(カラオケ)で唄ってやった。キイが高く、拍子がちょっとずれるが、声はまずまずだな
●散歩道―長靴を履いて唄いながら。
 ♪こうとしか 生きようのない 人生がある せめて 消えない 轍を 残そうか♪(「遥かな轍」)
 ♪遠い 遠い 遥かな道を 冬の 嵐が 吹いてるが・・・・・・・♪(「銀色の道」)
 ♪日本国民は恒久の 平和を念願し・・・・・・・・・・♪(「憲法の歌」)
 ここでは、伸び伸び唄えるな
CIMG4575.JPG
●雪が積もった。田んぼ道の歌の散歩はしばらくお預けだ。冬はやんだな・・・・・いや、もっと積もったらウルトラマンの雪像制作に挑戦しようか。そうだ、もっと積もれ!
CIMG4512.JPG
 鉛色の空の下を田んぼ道を歌いながら散歩。♪どこかで だ~れかが お前を待っていてくれる・・・・・風の中でも待っている♪(「木枯紋次郎」の主題歌で上条恒彦の歌) ♪OK corral OK corral・・・♪(「OK牧場の決闘」の主題歌でフランキーレインの歌)
 衰えを知らないかのようなポール・マッカートニー(71歳)、北島三郎(77歳)にも負けちゃいられね
●6日深夜、秘密保護法強行可決、翌朝、首相いわく 「朝、目が覚めたら公邸の周りが静かだったので、嵐が過ぎ去った感じがした」。
 こちとら国民には、これから冬の嵐が吹きすさぶことになるのか。あ~あ!
●秘密保護法―「罪作り」法
 秘密を指定しては次々それに引っかけてしょっぴくか、しょっぴくぞと脅す。
 公務員・自衛隊員・ジャーナリスト・一般市民も何かかにかに引っかかってしまう―罠にはめられ、陥れられることになる。NHK土曜ドラマの『太陽の罠』みたいな(企業サスペンスドラマだが、電機メーカーのシステムエンジニアの一青年が罠にはまりこむ)。
 自民党幹事長がつぶやいた「デモの絶叫戦術はテロ行為と同然だ」、それは彼らの本音。これでデモの参加者はみんな引っかけられてしまうんだ。ああ、恐ろしや。
 誰もいない田んぼに行って叫んでくるしかないのか。
●カレンダーをめくった。ああ、最後の月が来たか。
 散歩―空はどんより、田んぼ道、歌は木枯紋次郎の歌(「だれかが風の中で」)、あとはいつもの「愛しき日々」「遥かな轍」「ピース&ハイライト」「銀色の道」「仕事の歌」「風」(はしだのりひこの歌)「イチゴ白書」もう一つ尾崎紀代彦の「さよならをもう一度」は歌詞の二番目を覚えておらず、帰ってきてネットで調べた(こだわったのは夕べ見た夢の中で実に上手く歌えていたからだ)。
 
5652
9日11


2013年12月15日

国が秘密を持つには当たりまえ?(加筆修正版)

個人情報を保護し非公開とするのは当たりまえ。
組織の内部情報(職務上知り得た秘密)をみだりに口外し漏らしてはならない、というのは当たりまえ(公務員などの「守秘義務」。ただしその範囲が広すぎるという問題があるが)。
企業が部外者に対して自社の企業秘密を隠して教えないのは当たりまえ。
警察が犯罪捜査で犯人に捜査上の手の内を明かさないとか情報提供者(協力者)の氏名その他も明かさないのは当たりまえ。
報道機関が取材源を明かさないのは当たりまえ。
戦争やゲームで相手に手の内を明かさないのは当たりまえ。

 しからば、警察でも「公安警察」など諜報機関が収集した秘密情報はどうか。
公安警察は反体制の「思想犯」「政治犯」等を対象とし、民主主義体制を暴力で覆そうとする過激派やテロリストなどの動静を探る諜報活動(情報収集)を仕事にしているが、民主主義擁護の立場にたち選挙で一定数の国民の支持を得て国会等に議席も有している政党や労組・市民団体などまで調査・監視対象にしているのが問題。
 それに、国が外交・防衛その他の或る情報を秘密にして内外の国民に隠すのは当たりまえか?国がアメリカなど外国から提供された秘密情報を内外の国民に隠すのは当たりまえか?
  そもそも外交は―国家間の対立する利害(国益のぶつかり合い)の調整で、武力を行使せずに決着(合意)をはかる対話・交渉(説得・取引)のこと。
 そこには表の外交(公開外交)と裏の外交(秘密外交)がある。裏(見えないところ)で―裏工作・裏取引・密約など。
 交渉を進めるうえで有利・不利を決定づけるもの(バックボーン)としては軍事力・経済力・他国との連合それに倫理的(道義的)な力もあり。
 第一次大戦までは秘密外交(謀議・少数者の専断)で、国民はそっちのけ(「知る権利」など、そもそもそのような概念も意識も無かった)というのが当たりまえ。
 ところが、大戦中、ロシア革命を起こして政権を握ったレーニンは秘密外交の廃止を宣言した(旧ロシアが結んでいた秘密条約を暴露し、旧ロシアの権益の放棄を宣言)。
 大戦の講和会議を前に、アメリカのウイルソン大統領が提唱した14ヵ条平和原則の第一番目は「秘密協定・秘密外交の禁止―公開外交」だった。
 第一次大戦までは、戦争は外交政策実現の一手段であり、国際紛争解決の一手段として一般的に合法と見なされたが、大戦後の国際連盟規約・不戦条約(但しそれには条約違反に対する制裁規定がなく、自衛権にもとづく武力行使は禁止の範囲外とし、自衛と称して戦争をおこなう余地を残していた)、それに第二次大戦後の国連憲章などによって、国際紛争の平和的手段による解決を加盟国に義務付け、国際法上、自国への武力攻撃が実際に発生した場合(自衛権の発動は認められるがその場合でも、それを国連に報告し、国連の安全保障理事会が措置をとるまでの間に限られる)を除いて一切の戦争は違法とされ禁止されるようになった。
 大戦後、制定された日本国憲法で、日本国民は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようすることを決意し」、「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意し」て、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力行使を永久に放棄する」と宣言した。
 しかし、アメリカは国連創設の中心的役割を担いながら、ソ連に対抗し、米ソそれぞれ軍事同盟・軍事ブロックを結成し常時臨戦態勢をとって冷戦を展開した。
 また日本も、憲法に戦力不保持・交戦権否認を定めておきながら、朝鮮戦争を契機に日米安保条約を結んでアメリカ軍の基地と駐留を認め、自衛隊をその協力部隊として再軍備へ向かった。
ソ連陣営解体で冷戦は終結したその後もアメリカは圧倒的な軍備を持ち続けたが、対テロ戦争を掲げてアフガン戦争からイラク戦争へと向かい、日本の自衛隊も後方支援協力をおこなったが、アメリカは戦費がかさみ財政悪化に窮しており、日本などへ資金のみならずの軍事作戦でも肩代わりを求めている。
 この間、第一次大戦・第二次大戦・冷戦を経て現在にいたるまで、戦争に関係した主要国は熾烈な情報戦(スパイ・通信傍受・暗号解読など)・謀略をも展開してきた(それが互いに猜疑心と相互不信の連鎖を生み、戦争に駆り立て、或いは戦争に引き込む結果となる―日米開戦はまさにそうだった―12月8日放映のNHKスペシャル)。
 いま我が国は日米同盟を「深化」させ、両軍一体化した共同作戦(「集団的自衛権」の名目でその行使―その場合、「自衛」といっても「日本本土を守る」ためなら、日米安保条約で既に可能になっているのだから、そのためではなく、むしろアフガニスタンやイラクのような海外での軍事作戦)、それに武器の共同開発も(武器輸出3原則を見直して)可能とし、(核密約で有事に際するアメリカの核持ち込みをも可能としてきた)そのアメリカ側の要請もあって、互いが共有する秘密情報(とりわけアメリカが提供した秘密情報―イラクのありもしない大量破壊兵器などの誤情報も)を保護するための法整備としてこの秘密保護法の制定が行われたものと考えられる。
 このような日米同盟体制を是とする立場からは、それに関わる秘密情報の保護は必要だとなる。
しかし、憲法に忠実であろうとする立場からは、そんな秘密情報の保護など必要ないわけである。なぜなら、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持することを決意し」、戦争放棄・戦力不保持を憲法上国是にしている国に、不信と敵視を前提とする軍事機密(兵器や装備・部隊の配備・作戦・暗号などの秘密情報)などあり得ないことだからである

 元外務省国際情報局の局長・孫崎亨氏によれば、1970代以降、米ロ中など大国同士の安全保障戦略は「勝つための戦略」ではなく「戦争をしないための戦略」(核均衡抑止による相互確証破壊戦略―大陸間弾道核ミサイルなど発射すれば相手も撃ち返してきて共倒れになるということが分かっているので、互いに攻撃を控える)をとっており、核兵器の配備・核弾頭数など「秘密の保護」(隠しておく)よりも「情報の開示」(互いに、相手に手の内を開示)しておくことのほうが重要視されるようになってきている。つまり情報の「秘匿」よりも「開示」のほうが世界の流れになってきており、「いま世界は、秘密の強化よりも偶発的に戦争が起きないよう、相手国に能力や意図を正確に知らせることが潮流になっている。米国と中国の関係でもそうなのであり、いま日本に必要なのは秘密保護よりも情報開示」なのだ。 

 総じて言えることは、国が戦争し、諜報機関をもち、情報戦をやり、外交機密・軍事機密をもち情報隠しするのが当たりまえだなどとは言えない、ということである。

 尚、石破自民党幹事長が以前、「報道の自由、知る権利というが、我々には知らせない権利がある」と言っていたそうだが、この言い方には権利のはき違えがある。
 「権利」というものは国民が持つものであって、権力者や公務員が持つのは「権限」であって「権利」ではあるまい。国民の権利・基本的人権は普遍的な天賦の権利で、憲法で保証されている権利であるが、権力者や公務員の権限は法律によって一定の条件(制約)の下に認められたものにすぎない。
 国民には「知る権利」とともに「知られない権利」(プライバシー権)はあっても権力者や公務員に国民に「知らせない権利」など、国民の権利を規制する「権利」などありえないのである。
 秘密保護法は権力者・公務員に特定秘密を国民に「知らせない」権限を認め、その権限を拡大・強化しようとするものである。

2013年12月17日

公安警察がクローズアップ

 特定秘密法で公安警察がクローズアップされている。
 警察というと無邪気な庶民にはパトカーやパトロールのお巡りさん、泥棒や強盗・傷害・殺人・詐欺事件など犯罪を取り締まるお巡りさん、交通整理のお巡りさん。暴力団や暴走族の乱闘に出動する機動隊、デモなどを警備するお巡りさん等々、市民を守り犯罪を取り締まってくれるお巡りさんのイメージしかないという向きが多いだろう。
 しかし、これら刑事警察や交通警察のほかに、警察にはもう一つ、公安警察(警備公安警察)というものがあるのだ。戦前生まれの年配者には戦前・戦中あって終戦とともに廃止された「特高」(特別高等警察)というものを知っている人はまだいるだろう。
 これらはどんな警察かといえば、それは体制転覆・破壊活動を企む政治犯・思想犯・テロリスト・スパイなどを取り締まる警察のこと。「取り締まる」とは言っても、普通の警察官のように犯人を摘発・検挙することよりも情報収集活動を主たる任務にしている。情報収集活動には、警察当局がその可能性があると見なしている団体・個人をリストアップして監視(監視カメラのようにどかで、或いはブログなどネット監視も)・聞き込み(情報提供「協力者」から、或いは密告者から)、或いは潜入してスパイ・盗聴も。
 公安警察は冷戦終結(ソ連・東欧陣営崩壊)後衰退、95年オウム事件までは多くの人員を抱えていたが事件以後縮小傾向にあったのが、9・11(米国での同時多発テロ)をきっかけに再び盛り返したという。
 今回の特定秘密法には4分野があり、防衛・外交に関する事項と「特定有害活動」(スパイ活動)・テロ活動の防止に関する事項とがあるが、そのうち後者に関わるのが公安警察なのである。そしてその情報収集活動で得た情報の全ては特定秘密に指定されることになるわけである。
 これが怖いのは、善良な市民が、いつの間にか悪者扱い(政治犯・思想犯・テロリスト・スパイか、それらにつながる人物と疑われ)監視され、付け狙われることである。(石破幹事長でさえ、デモで声を上げ叫んでいる市民をテロリストと同然だと思っている、そういう意識なのだから、公安警察官の多くはそのような判断をするのだろう。)
 これが怖いのである。
 日本社会の雰囲気はこれでおかしくなる。戦前・戦中の我が国やどこかの国では今なおその真っただ中にあるような「監視社会」・「密告社会」、どこかの国のように「過激な軍事・警察」ではなくとも「穏やかな(じわりじわりと進行する)軍事・警察国家」にこの先向かっていきかねないのだ。
 
 <参考文献:「世界1月号」>

2013年12月19日

軍事・警察国家へ―戦前回帰

 アメリカをまねてNSC(国家安全保障会議―外交・防衛政策の司令塔)を創設し、特定秘密保護法を制定(強行可決)したうえで、NSS(国家安全保障戦略)を策定し、新防衛計画大綱・中期防衛力整備計画を合わせて閣議決定した。
 ①NSS―今後10年の外交・安保政策の指針となる。
   「国際協調主義に基づく積極的平和主義」―「国際協調主義」は日米同盟が中心。「積極的平和主義」とは海外で米軍とともに軍事的役割を果たすということ―海外の紛争に軍事的関与へ―アメリカとともに「集団的自衛権」の行使を容認へ。PKOなど海外派兵を積極的に推進(「駆付け警護」―PKO活動中の自衛隊が他国軍やNGOなどの民間人。が危険にさらされた場所に駆付け、武器を使って助けるということも)。
   国民一人一人に「我が国と郷土を愛する心を養う」(愛国心教育)・・・・ナショナリズム
 ②新防衛大綱―陸海空の「統合起動防衛力」の構築。「水陸機動団」(海兵隊)の新設など。
   普天間基地の移設(名護辺野古へ)    
   北朝鮮の弾道ミサイルへの対処能力の総合的な向上を図る(「敵基地攻撃能力」など)。
   武器輸出三原則(武器輸出の原則禁止)を緩和し、装備・技術協力、共同開発・生産・輸出を限定的に容認へ。
 ③中期防―装備増強―ステルス戦闘機・オスプレイ・水陸両用車・機動戦闘車・無人偵察機など。 
   それらは中国・北朝鮮を念頭に「東アジアの安全保障環境が一層厳しさを増している」ので、それに備えなければならないという必要に迫られての策定・決定なのだという。
それで、
 
 大転換―(不戦平和主義→)「専守防衛」から「攻勢的防衛」(「積極的平和主義」などと称している)へ(実質的改憲)。
    (新防衛大綱には「日本国憲法の下、専守防衛に徹し、軍事大国にならないとの基本方針に従い・・・・」などと書いてはいるが)
  もっぱら軍事には軍事で対抗という軍事一辺倒で、外交努力で紛争や問題を解決するという姿勢はほとんど示さず。(「対話の扉はいつでも開いている」と言って相手が折れてくるのを待つのみで、具体的な外交的手段を講じる考えはなし。米中関係のような外交チャンネルや意思疎通パイプを構築しようともしていない。)

 「戦争には至らないまでも、不測の事態に備える必要があるのは確かだ」などという向きもあるが(朝日社説)、このやり方では不測の事態を誘発し、戦争に至らしめる危険性が増すことになる。

 それは中国・北朝鮮への対抗心に基づくもの。
  (石破・自民党幹事長いわく、「北朝鮮って最近、怖くありませんか」「『ミサイルを撃つぞ』と脅してきたときに、日本の国はそれに耐えることができるだろうか」と。また中国に対しては「法律や自衛隊の仕組みや装備をきちんとしておかなければ、中国の拡張主義に我々は飲みこまれてしまう」―と煽って、軍事強化・秘密法も合理化。)

 しかし、このやり方は逆にこれらの国の日本に対する警戒感・脅威感を増幅する。
 (中国の習近平政権は「中国の脅威論を口実に日本を軍事大国に向かわせる試み」だとし、中国外務省は「日本の動向には高度の警戒が必要だ」と言明している。また韓国外交省は「(「積極的平和主義」というが、それは)地域の安定の妨げになってはならない。平和憲法の理念や専守防衛の原則を尊重し、透明に進められるべきだ」と。) 
 米紙ニューヨークタイムズは「より強力な日本の軍隊が、20世紀初期の日本の帝国建設の記憶が生々しく残っている韓国など周辺諸国からどう迎えられるか」と書いているという。

 これら安倍政権が進める軍事政策は秘密法の制定と合わせて戦前の軍事・警察国家への回帰を思わせる動きと見ないわけにはいくまい。


2013年12月27日

安倍首相の靖国参拝

 安倍首相が靖国を参拝した。
 以下は、このH・Pに以前(小泉首相当時)、書いた(「新聞に載らない投稿」欄の「過去の分」に載っている)もの。
靖国・首相参拝の客観的意味
 「『靖国』は心のよりどころ」「戦争指導者は裁かれても犯罪者にはあらず」「ひたすら御霊の安らぐことを」とか、「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いをする」とか、人それぞれの思いはあろう。しかし、靖国神社に参拝するとなると、それには客観的な格別の意味が付け加わる。その神社の客観的な歴史的役割からみて、また現在の神社当局が公表しているところから見ても、そこは、我が国の近代以降の対外戦争はすべて正当だとしてその戦死者を讃え祀る顕彰施設なのだ、ということ。そこを首相が参拝するということは、主観的にはどうあれ、それは、かの戦争を肯定し、戦犯までも讃えて敬意と感謝を表することを、日本の国家が認めることを意味する。
 日本軍によってむごい殺され方をした被害者の遺族たちの心は、それによって傷つき、耐え難いものとなるだろう。
参拝で被害諸国民の「心」は?
 首相は靖国参拝を、「私の信条から発する参拝」「他の国が干渉すべきことではない」と言われる。 しかし、同神社は単なる追悼施設ではなく、戦死を讃える顕彰施設なのです。神社の当事者は我が国の近代以降の対外戦争をすべて正当なものとし、戦犯裁判の判決を不当としてA級戦犯の合祀を正当化しているのです。そこへ参拝することは、客観的には、侵略の加害責任を否定することを意味します。侵略され多くが殺された被害諸国民から見れば、動員され命令に従っただけの一般の戦死者をその遺族や戦友がそれぞれの思いで参拝する分には目をつむっても、そこに首相が参拝するとなると、それは、日本の国家として、侵略の推進者・加担者を免罪・容認するものと見なされ、道義にもとる非礼この上もない行為として看過できず、苦情を訴えてくるのはむしろ当然ということになるでしょう。
 参拝は「心の問題」といって、自分の心は晴れるのかもしれないが、それで傷つく被害国の遺族の方々の心はどうなるのでしょうか。被害国民にたいして「反省とお詫び」を口では言っても、心の中でベロを出していると受け取られざるをえないでしょう。
首相参拝には、やはり配慮を
 私の父は復員してどうにか帰ってきましたが、4人の叔父が戦死しました。
 しかし国の内外には、靖国には祀られていない数多くの戦没者がおられるのだということです。戦災にあわれて亡くなられ、国から遺族年金など補償は一切なく、お悔み一つとしてもらっていない方々は沢山おられます。それに日本軍から侵略されたアジア諸国には遙かに多くの犠牲者がおられるのです。その遺族たちは、日本の首相に、何をさしおいてもその国へ追悼に来てほしいと思っているのでは。その方々のことも考えるべきなのではないでしょうか。
大陸へも追悼慰霊に
 戦没者追悼は、自国内で自国民にたいしてだけでなく、海外で、自国民のみならず他国民にたいしても行うべきだろうと思うのです。
 小泉首相は、過日、現職首相としては初めて硫黄島を訪れ、慰霊碑に手を合わせてこられた。
 また、天皇・皇后両陛下も初めてサイパンへ慰霊に行ってこられた。両陛下は、これまで硫黄島・沖縄・広島・長崎、そして大空襲のあった東京へと赴かれ、それは「慰霊の旅」と称されている。サイパン島には日本と現地政府が合同で建てた戦没者慰霊碑があり、慰霊の対象は中部太平洋海域で戦没した人々で、国籍は限定されていない。この碑の他に、両陛下は現地島民・米軍人・沖縄県出身者・韓国人それぞれの碑を回って慰霊してこられたという。(この両陛下は靖国参拝には一回も訪れていない。)
 それにつけても、戦没者が圧倒的に多いのは中国です。首相は、そこへも慰霊に行ってきてくれればよいものを、と思わずにはいられません。
 (もうずっと前に、ドイツのブラント首相がポーランドを訪れてそうしたように)日本の首相が、そこへ行って碑の前でひざまずき頭を垂れてくる、といったようなことを一回ぐらいやってきてもおかしくないのでは。
●靖国を訪れての感想
 神社付設の博物館(遊就館)には、一人一人の遺影、軍人たちの遺品、特攻兵器の実物、史資料が展示され、映像が流され、日本が行なった戦争が解説されていた。私には、戦死した叔父たちのことを思い、悲しくも痛ましいという思いの方が先だった。それに、そこで思ったのは、ここでは度外視されている、おびただしい数の犠牲者たちの悲惨である。ここを訪ねる者は人によって思いは様々であろう。しかし、この神社自体は日本の戦争をすべて肯定し、その前提の上に立って、そのために「命を捧げた」将兵それに戦争責任者も全て英霊として讃え祀っているのである。
 首相をはじめ公人には、個人的な「心の問題」だけでは済まない、諸国の犠牲者たちに対する配慮と憲法(政教分離原則)の厳守が求められるのは当然であろう。
 尚、見学者が感想を書き込むノートが置いてあって、その中に次のような意味の書き込みがあった。「英霊たちのおかげで今があるとよく言われるが、彼らはあくまで日本が勝つ為に戦ったのだ。ところが戦争は負けた。現在に至るまでの日本の平和と繁栄は、むしろ敗戦のおかげなのではないか」と。なるほど―もし勝っていたら、日本はどうなっていただろう。

 そこで今回の安倍首相の靖国参拝のもつ意味
①「日本会議」などの支持母体からの(「靖国に行け」との)後押しのもとに、(これまで行けなかったのは「痛恨の極み」だった)かねてよりの信念(自分の思い・執念)をやってのける―国益より信念を優先―中国や韓国など隣国との関係修復を投げだして敵に追いやり、アメリカからも「失望」を招いて、国際的に孤立しかねないことに。(今年10月、来日中のケリー国務長官とヘーゲル国防長官はそろって千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れて献花。そこから500mの靖国神社には行かなかった)。
②中国・韓国に対しては居直り・挑発とも受け取られる―9月国連総会への出席のために訪れたニューヨークで、「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら、どうぞ呼んでいただきたい」と。
 参拝を終えた当日の午後、参院議員会館で開かれた秘密法反対集会の主催者の一人(32歳、編集業)いわく、「まさに中国・韓国への挑発、その反発を利用して外に敵をつくり、国内の秘密保護法などへの批判を封じ込めようとしているのではないか」と。
 NGO日本国際ボランティアセンター代表理事の谷山博史氏は「安倍首相の靖国参拝は『挑発的』に見える」と。
③「不戦の誓いをした」、「中国・韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」というが、そこ(靖国神社)は単なる宗教施設ではなく、戦前・戦中、陸海軍が管理し、戦争に国民を動員して武勲を顕彰する(ほめ讃える)ための施設で、戦後もそれらの(諸国から侵略戦争と見なされている)戦争を(「自存自衛・アジア解放」のための戦争だと)肯定・美化する宣伝センターの役割を果たしてきた特殊な施設なのであって、「不戦の誓い」には最も相応しくない場所。
 また「不戦」を口にしながら、やっていることは戦争に備えて「日本版NSC」(戦争司令塔)の設置、秘密法の制定、国家安全保障戦略、新防衛大綱など次々策定・決定し、集団的自衛権の行使容認(憲法の「戦争放棄」条項の実質放棄)に向かっている、その言行不一致。
 それは中国や韓国など諸国民から見れば、逆なでする行為と受け取られざるを得まい。
④昭和天皇はA級戦犯が合祀されて以降は参拝せず(天皇いわく「或る時に、A級が合祀され<中略>だから私<は>あれ以来参拝していない、それが私の心だ」と―富田宮内庁長官のメモ)、現在の天皇も即位後一度も参拝していない。
 多くの日本国民から見ても、首相の参拝は独善的で違和感と不安を与えるもので、その行為に正当性があるとは到底思われまい。

2014年01月01日

1月のつぶやき(随時、下に加筆)

%E5%B9%B4%E8%B3%80%E7%8A%B62014.JPG
ワインはスペイン産で一本528円、晩酌はこの小コップに一杯だけ。新聞読み、テレビ見、ブログつくり、それに歌の散歩、今年もこれで行こう。
CIMG4574.JPG
♪わ~れは行く 心の命ずるま~まに わ~れは行く さらば 昴よ♪(ああ、自己満足した)
●やや吹雪ぎみ(小雪が横なぐりに)、フードをかぶって重い長靴で散歩。♪冬が来たぞと海鳥啼けば 北は雪国 吹雪の夜の・・・・♪(「喜びも悲しみも幾歳月」)
●NHKで漫画家やなせたかし特集をやっていたのを、たまたま見た。そこで「アンパンマン」の歌の謂われを改めて知った。その歌詞をインタネットで調べて書き写した。
 今日は正月も7日目にして初めての快晴、雪原・雪山の上に太陽が燦々。散歩の歌はアンパンマンの歌。
 ♪何のために生まれて 何をして生きるのか・・・・・・♪
 メモした歌詞を見ながら口ずさんで、覚えながら歩いてきた。帰ってきてその歌詞をサインペンで清書し、棚に張り付けた。が孫どもに反応はない。(やはり自己満足)
●「アンパンマンの歌」は3番目まで、「喜びも悲しみも幾歳月」は4番目まで、カンニングペーパーを見ないで唄えるようになった。ただひたすら認知症に抗して。
 ♪星を数えて 波の音聴いて 共に過ごした 幾歳月の 喜び悲しみ 目に浮かぶ 目に浮かぶ♪
 人通りも人家もない雪道を 歌いながら ふと思い浮かんだ女房の顔
 そういえば(家に帰ってきて風呂に入りながら思い浮かんだ)亡き父が詠んだ歌
              「月よみの真白にさやぎ吹く野分き 新田原に馬のいななく」
              「朝な朝な妻が水汲む井戸の辺に 藁ぐつ履きて雪踏む吾は」
●ニュースはプロ・サッカーの本田選手のことで持ちきり。すごいなと思ったのは、彼が小3の時、学校の文集に、夢は「セリエAで10番をもらうことだ」と書いていたこと。そしてそれを実現させたことだ。それに記者会見での英語の受け答えも。
 一方、某紙のコラムに上中別府チエというお婆さんのことが出ていた。戦争時代を生き、小学校しか出ておらず、夫を亡くして2年後76歳で「英語を学びたい」と「一念発起」、夜間中学に入って定時制高校に入り、83歳で野球部に入部して「県大会で一度だけレフトを守り、決勝では伝令も務めた」。そして今春卒業を迎えるという。このような夢の追い方もあるんだな、と孫に語ってきかせた。
 陸前高田では津波でいなくなった娘の修学旅行のスナップ写真を父親が写真屋に頼んで着物の晴れ着姿に加工してもらった写真を、成人式に臨む同級生に託した、というニュースもあった。失われた夢もあるんだな。
 当方が居間で座っている後ろの壁に貼っている紙には「目標(夢)←チャレンジ・努力」と書いてある。アンパンマンの歌詞も張り付けたが、それには「何のために生まれて、何をして生きるのか」「何をして喜ぶ」「生きる喜び」「忘れないで夢を」「いけ みんなの夢守るため」と。(なあ、孫どもよ!)
●何のために生まれたかは問わない。生きるべくして生まれたのだから生きるしかないのだ(それが生物本能なんだから)。とにかく生きる。
 問題は生きるために何をするかだ。それ(生きるために必要なもの)は、食べ、身体・健康を維持し、学び、言葉を交わし、助け合って働く(生活の糧を得る)ことを含めて生活目標(それを果たすことによって生きがいが得られる長期目標・「夢」・「志」と短期目標・日課)をもって取り組むことだろう。目標をうまく果たせれば喜び・生きがいが得られる。うまく果たせず落胆・悲しみに打ちひしがれることもあるが、それが目標を立て直して再チャレンジする(意欲がかきたてられ)活力ともなる(その意欲・活力を失ったらお終い)。
 生まれたからには、とにかく何かをして生きることだ(ラジオ体操でも、散歩でも、歌でも、英語でも、新聞・テレビでも、たまに革新懇話会や友人と飲み会・小旅行でも、ブログで「声なき声」でも、投稿でも、グラス一杯の安ワイン晩酌でも)。
●そういえば、当方もこの歳で英語を毎日短時間だが(「スピード・ランニング」のCD一式16枚を買っていて、それを聴きながら、繰り返し繰り返し、もう10年にもなるが「聴き流し」だけでは覚えきれず、今は書きながら)やっている。何のために?趣味・自己満足。ささやかでも、それで生きがいを得て生きられている。それでいいんじゃないの。
●かく言う当方の夢はなんだろう?
 現行憲法を死守し生かし続けること。その下で、孫どもがそれぞれの夢に向かって取組み、うまくいけば喜び、失敗すれば落ち込み悲しむだろうが気持ちを切り替えて新たな夢に向かって再チャレンジすればいいし、とにかく夢に向かって生きていくことだ。そうだ、みんなの夢を守るアンパンマンが我が夢か。
 解釈改憲であれ明文改憲であれ改憲を推進・支持する勢力と闘うアンパンマンになる、それが我が夢―なあ、孫どもよ!(笑うな!女房)
●名護市長選は新基地建設反対派が勝った。負けたら終わり―日米同盟権力とカネのまえに屈従する情けない結果―と思っていたが、そうではなかった。沖縄人・名護市民の大半はまともだった、ということだ。
●録音機(ラジカセ)を買ってきて、「憲法の歌」を唄って吹き込んで孫に聴かせた。♪日本国民は恒久の 平和を 念願し・・・・♪「ジジ(爺)の生前の声」が残ることになるわけだ。
 孫にも唄わせて吹き込ませた。♪きどうせんし ガンダム ガンダム♪(拍手)「よ~し!上手 上手!」
●NHK新会長(籾井氏)、やっぱり百田氏ら経営委員たちとともに首相と同じ考え。就任会見で従軍慰安婦や強制連行の問題について、首相と同じことを言った。同じ歴史認識なんだ。しかも「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」という。NHKは首相寄り(右寄り)の放送局になるわけだ。
●5773

2014年01月03日

マスコミ各社の安倍政権との遠近(再々加筆版)

 各政党の秘密法に対する態度で、安倍政権に対する遠近の度合いが分かった(自公は政権与党だから分かりきっているが、「修正協議」談合に応じた維新・みんなの党とも「すり寄り政党」「翼賛政党」と見なされる)が、マスコミ各社も秘密法に対する見方(論調)と報道の仕方でそれぞれの報道姿勢・スタンス―政権と国民間のどの立場に立っているか―がわかる。
 NHK・読売・産経は政権寄り。朝日・毎日は批判的で、日経もやや批判的。東京新聞をはじめ地方紙の大部分も批判的(社説で反対論)。
 NHKは、首相や政府与党、野党でも修正協議に応じている維新・みんな各党の要人のコメントをそのまま流すか、その見解をなぞるだけで、他の野党の反対意見はちょっとだけ出して、あとは自公・みんな・維新各党間の修正協議のなりゆきを追い、政局の動向を伝えるだけで、独自に法案の中身・問題点を掘り下げ、本質に触れた論評はほとんど見られない。

 読売―「与野党の修正案は評価できる」(11月23日社説)、「与野党の枠を超えた多くの支持によって衆院を通過したことは評価できる」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 国家安保戦略の深化につなげよ」(12月7日社説)
 産経―「成立に向け大きな前進だ」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 適正運用で国の安全保て 知る権利との両立忘れるな」(12月7日社説)
 朝日―「民意おそれぬ力の採決」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙」(12月7日社説)
 毎日―「民主主義の土台壊すな」(11月27日社説)、「特定秘密保護法成立 民主主義を後退させぬ」(12月7日社説)
 日経―「『知る権利』揺るがす秘密保護法成立を憂う」(12月7日社説)
 東京新聞―「秘密保護法が成立 民主主義を取り戻せ」(12月7日社説) 

 読売とNHKは、メディア総合研究所から「最大の発行部数を誇る読売新聞、公共放送であるNHKでは十分な報道が行われているとはいいがたい」と批判されている(同研究所が11月18日に報道各社に出した要望書で)。

 安倍首相のメディア戦略―アメとムチでメディアをコントロール
 主要新聞・放送キー局首脳(会長・社長)や政治部長・論説・編集・解説委員らと相次いで会食―欧米では「ジャーナリストの政治家との会食は堕落の象徴だ」とされている。
 テレビには、ニュースや情報番組・バラエティー番組にさえ積極的に生出演―アベノミクスや重要政策をアピール、政策から趣味にいたるまで気さくに話し、外遊の模様など「獅子奮迅ですね」と女性キャスター(某紙の記事)。マスコミをまさに自らの宣伝機関としてフル活用。
 圧力―参院選の時期、TBSに対して取材拒否(出演者の発言を理由に)
  NHK(予算は国会の承認を受けなければならず)に対する政治介入―01年(官房副長官当時)従軍慰安婦関連番組でNHK幹部に持論を展開したうえ「公正中立の立場で報道を」と。この問題で07年東京高裁、判決で番組改変に安倍氏の関与を指摘。
 直接、介入・干渉は受けなくても、現場は圧力を感じて委縮、NHK幹部は予め政権与党の意向を忖度して、その意に沿った報道や番組編集を指示(「自主規制」)
 現政権与党は、それでも原発やオスプレイなどの関する報道内容には「偏っている」と批判。

 NHK経営委員会に首相寄りの委員を送り込む―
  百田氏―自民党総裁選で「安倍総理大臣を求める民間有志の会」発起人。首相の靖国参拝を「安倍さんは参拝するという思いをずっと持っており・・・・。国のために亡くなった英霊に手を合わせ、感謝の念を捧げるのは国民の代表として当然だ。中国や韓国が批判するのは内政干渉にあたる」と。また、改憲に反対する人たちを「妄想平和主義」と呼び、ブログに「もし他国が日本に攻めてきたら『9条教』の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう」などと。
 そして「NHKが日本の『国営放送局』として国民のためになる番組や報道を提供できる放送局になれば素晴らしいことだと思う」と(NHKは国民の受信料で成り立っている公共放送局なのに)。
 長谷川氏―「日本会議」(靖国派団体)代表委員で、百田氏とともに「安倍総理を求める会」の発起人。明治憲法を称揚し現行憲法を攻撃。
 本田氏―安倍首相の小学生時の家庭教師で「四季の会」(首相を囲む経済人の会)のメンバー。
 中島氏も「四季の会」の主要メンバー。
 この度、経営委員会でNHK会長に選出された籾井氏(三井物産出身)は「憲法改正や特定秘密保護法について首相が言っていることは当たりまえ」と。

(尚、これらのことはインターネットで調べられる。)

 報道には「客観報道」(主観を入れずに客観的事実を伝える)原則があり、公共放送には「公正・中立」「不偏不党」「自立性」等の原則がある。NHK自身の世論調査では、放送の「公平・中立」が「実現している」と評価している向きがかなり多い(77%)が、はたしてどうなのか?
 マスコミの「不偏不党」「公正中立」といっても、量的に公平・均等配分とか左右どちらにも偏らずに距離的に中間ということではなく、各マスコミとも政権から距離を置き、権力や政党からフリーで自立している、その自立こそが中立なのだ。
 「NHK問題を考える会」や「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」などの市民団体あたりからは「政府の広報放送」「安倍政権の報道官のようだ」などといった批判が相次いでいる。 
 朝日川柳(12月28日)には次のような一句があった。
  「NHK 安倍一族に乗っ取られ」
 某紙には(「みなさまの公共放送」ならぬ)「あべさまのNHK」とあった。

 安倍首相が利用しているメディアにもう一つツイッターやフェイスブック(それは誰のものでも、基本的にファンしか集まってこない)がある。これによって「いいね!いいね!」という支持・賛同の「声なき声」が大量に寄せられ、勢いづけられるのである。(首相の靖国参拝は「ヤフー」によるネット調査では約8割の人が「妥当」だと支持を寄せ、フェイスブックの「いいね!」ボタンは4万回押されたそうな。)
 コラムのリストの小田嶋隆氏はその訳けを次のように解釈している(12月29日・朝日オピニオン欄)。「(彼らは)参拝の是非より、首相が信念をもってやったことを支持する。事のよしあしはどうあれ、きっぱりした決断力・実行力に国民が反応するということが如実にある。多くの人は、おそらく、首相の靖国参拝自体、何それ、という感じかも・・・・。それより、中国や韓国にいろいろ言われるのは不愉快だという気分の方が大きい。事情も聴かずに『そこ、もめないで』と学校の先生みたいなことを言っている米国も面白くない。だから、諸外国の顔色をうかがったりせず、毅然として参拝したことに たくましさを感じる国民も一定数いるのでしょう。
考えてみれば、リーダーに決めてもらいたいというのは、自分で考えずに丸投げすることになる。(それは)民主主義国家として健康とは言えない。民主的に決めようと思ったら、複雑だし、迷いもあってぶれるし、時間がかかる。決断は煮え切らないもの。
 今回の出来事は、安倍さんが自信をつけて、戦後民主主義の全否定へと露骨にかじを切った、分水嶺だった、と後に振り返ることになるかもしれない」と。

 
 ニュースは客観的事実を伝え、キャスターや記者の私見(主観・意見)を入れてはいけない、という。記事・報道はあくまで事実に基いて報じなければならず、憶測や推測に基づいて報じてはならないというのは、その通りである。
 しかし、「事実をありのままに」といっても、それが真実とはかぎらない。安倍首相の発言をそのまま流せばいい、とは言っても、彼の言い分(例えば、「福島の状況はコントロールされています」とか「汚染水は湾内で完全にブロックされています」とか)が、はたして正しいことを言っているのか、真実なのかはわからないし、そのまま流したのでは広報・宣伝にしかならないのであって、検証が必要であり、他の反対意見や異なる見解も聞き、裏付け取材も必要である。国民にとって必要なのは(国民が知りたいのは)真実・真相である。
 ところが真実か否かの判断には、その人の思い―主観―がともなう。だからこそ、「真実を伝える」などというのはしょせん原理的に成立しないのであって、それがはたして真実か否かなど判断を入れずに事実だけをありのまま伝えるしかないのだ、ということになりがちなのである―「客観報道主義」。
 しかし、報道する側は、伝えるべき事実を取捨選択して(カメラやマイクを向けたり、取材する対象―映像・発言者・情報取材源・データなどを選び取って)伝える、そこには、やはり編集委員・ディレクター・キャスター・記者などの意図・主観が入る。つまり、彼らそれぞれの思い・考え・都合(政権与党やスポンサーなどの圧力とそれへの忖度)によって、どれをどれだけ取り上げるか、取り上げないか、選り分けられるのである。少数派の発言・集会・デモなど、どんなに頑張っても取り上げてくれない場合が多い。「公正・中立」「不偏不党」などと言いながら、けっして公平ではなく、偏ることが多いのである。
 要は、伝えようとする送り手(局や社)の幹部・記者とりわけ幹部・編集委員しだいなのである。彼らがどの立場に立っているか―国民・庶民・弱者か強者・財界(企業経営者)・政権与党寄りか。我々庶民にとって大事なのは国民・庶民の立場に立って真実を(単に表面的な事実だけでなく、問題点と本質・核心をなす事実・真相)を指摘し伝えてくれることである。
 「(福島の)状況はコントロールされている」というのは本当なのか嘘なのか「真実」判断には判断するその人の思い(主観)が入るかもしれない。首相は、その「思い」からそれが真実だと思ってそう言っているが、それは福島の人々の思いからはかけ離れている。また、安倍首相はアベノミクスで「経済の好循環」に向かいつつあるというが、それは大企業・財界・証券業界・大企業労働者・大規模農業者など富裕層か、それとも中小零細企業とその従業員・小規模農家など庶民か、誰にとっての「好循環」なのか。
 1月7日にはNHKニュースウオッチ9も報道ステーションも経団連など経済3団体の新年祝賀パーテー(首相も出席)のニュースで、何人もの企業トップへのインタビュー。いずれも景気の好い話ばかりで、まさに財界・大企業の立場に徹した報道ぶり。
 一方、インターネットでしか見られないテレビ放送で「デモクラTV」というのがあり、そこに立教大経済学の山口義行教授が出演して次のように語っていた。
 「今は、復興需要や「国土強靭化」の公共事業と消費税引き上げを前にした駆け込み需要で活況を呈し、「金融緩和」操作による円安で株価が上がって儲かっている一部の人はいるが、自動車など輸出が増えて儲かっているとは言っても、それは金額上だけで、台数は増えておらず、部品下請け中小企業には恩恵が及んではいない。円安が続けば輸入産物の価格・コストが上がり、そのうえ消費税が上がれば、価格に転嫁できない中小零細業者や給料の上がらない労働者ら庶民のアベノミクスに対する淡い期待は失せ、一機に失望・不満へ転じるだろう。そうなったとき安倍政権の支持率は急落するだろう」と。
 メジャーなマスメディアとマイナーな一インターネットTVのどちらが、国民・庶民の立場に立って正鵠を射ているだろうか。

  マスコミは、首相や財界・大企業トップの言うことをそのまま流して済ませるのではなく、福島の住民の立場に立ち、或いはまた庶民の立場に立って真実を判断・確認して、国民に真実を伝えなければならないのだ。

 いずれにしても、ジャーナリズムの原則は国民の立場に立って「権力の監視役」に徹することなのであって、権力に迎合・追従し、政府の応援団役とか広報・宣伝機関役に堕するようなことがあってはならない。とりわけ今、安倍政権の暴走に対して、この原則に徹して然るべき役割を果たせるかが問われており、マスコミ(日本のジャーナリズム)を我々国民が監視(自分<国民>の立場に立ってやってくれているか、権力の監視役を果たしているかを監視)しなければならないのだ。

 学校教育・授業も同じ。当方は在職中、社会科(世界史・日本史・政経・倫理)を担当していたが、それぞれの事項について、自分の考え方はあっても、生徒には、こういう事実・実態があるとか、あったとか、それについてはこういう見方・考え方があり、違う見方・考え方もある、という教え方をし、自分の考えを押し付けないように心掛けた。(教科書は選んで生徒にあてがったがだが、あまりとらわれず、色んな教材・史料集や資料を使い、ビデオをNHKなどのドキュメンタリー番組をダヴィングして、よく見せたりした。)
 教育とは、生徒に将来にわたって、無知・無関心に乗じて、虚言・巧言・デマ・トリック・マジック・迷信・「エセ科学」・世論誘導などに引っかかって騙されないように、知識を身につけ、真実を見極め、嘘を見抜き、本当か嘘かを見分ける力と方法を身につけさせることである。政治権力者やそれに同調するメディア、それに教師からも騙されないように。(首相や文科大臣がその価値観・イデオロギーで「日の丸・君が代」だの「愛国心」だの「非自虐史観」だの特定の教育内容を押し付けてくる、それに同調、或いはおとなしく従って教え込もうとする教師から騙されてはならないのだ。かつての軍国少年のように。)

 プロパガンダ(宣伝・広報―教化―世論誘導―自らの意図に沿うように人々を仕向ける)と報道・教育(情報提供・伝達し、理解を助ける)の違い―政治家や広報・宣伝機関がやるのはプロパガンダであり、ジャーナリストや教師がやるのは報道・教育。
 安倍首相や政権与党はマスコミや学校教育(教科書)を、自分の政策・理念を基準(尺度)にして「偏っている」とか「いない」とか評価(検定)して、自分の意に沿うようにして利用しようとするが、マスコミは政府・権力者と癒着・迎合してその広報・宣伝機関に堕するようなことがあってはならず、あくまで国民(その良心的部分)の立場に立ち、権力に対する監視役に徹して独自の判断に基づいて報道を行うべきなのである。
 自民党の石破幹事長は、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更について「世論調査で、(国民の)半分以上の方々が『そうだね』と言っていただけるところまでもっていかないといけない」とある民放テレビ番組で述べたそうであるが、彼らはそのように世論誘導すべく、マスメディアを巧く利用しようとしている。そして、メディアのなかには、それに応じるものがあるのだ。週刊文春の読者アンケートは、なんと「参拝支持75%」、こんなことになったりしているわけだ。
 政治権力だけでなく、そのようなマスメディアをも、我々は監視しなければならないわけで、当方などは(あまりにも無力ではあるが)そんなつもりもあってやっており、それがライフワークみたいなもんだとさえ思っている。

2014年01月16日

どうすれば幸福に?(再加筆修正版)

国連の調査―「世界の国民幸福度」―各国で幸せを感じている人の多さ順位(2013年)
 1位デンマーク、2位ノルウェー、3位スイス・・・・・
 17位アメリカ・・・41位韓国 、42位台湾、 43日本(先進国の中では際だって低い)

幸福とは―心が満ち足りること      (参考―NHK・Eテレ「“幸福学”白熱教室」)
(1)幸福の客観的条件
  ①暮らし・収入の安定(ただし一定の高さ―アメリカでは7万5千ドル―に達すると、それ以上収入が増えても幸福度は頭打ち。金持ちは貧しい人よりも幸せだが、その差は大きくない。)
  ②健康、住環境(自然・生活環境)の快適さ
  ③人生経験(世代・年齢)
  ④恵まれた(良好な)人間関係(家族・隣人・同僚・上司・部下)―貧しい家に住んでも、家族や子供に恵まれていれば幸福だとか
  ⑤治安―社会の安全・平和
 豊かさ・快適さ・安全・平和に慣れてしまうと、それが当たりまえのこととなり、(主観的には)その有難みや楽しみは薄れるものだが、それが失われると耐えがたい不幸に陥る。それらは各人それぞれの幸福実現の客観的条件として、各人の努力とともに、国には「健康で文化的な生活」「教育」等の最低限度の保障義務が課せられている(憲法で)。
(2)主観的な(人それぞれで多様な)幸福―喜び・快感・満足感(自己満足)
    客観的条件(生活条件、年齢的、身体的・能力的条件、社会的・環境的条件)は同じか、違いはあっても、その条件(境遇)下で各人がそれぞれ追求して得る幸福感(家が貧しいとか条件には恵まれなくても得られる幸福感、或いは挫折や逆境から脱し再起して得られる幸福感)

どうやって幸福にありつくか
 ①運によってありつく(幸運)―「宝くじに当たる」など
 ②他の人からもらって得る幸福感(喜び)―ごちそう・娯楽・スポーツ・芸術鑑賞など
 ③自らの努力(心を集中、苦心)によって―目的(夢・志)・目標(最終目標、あるいはそれへの過程を一段一段その都度)達成して得られる(達成感・満足感)
 ④互いの協力(それへの参加)によって分かち合って得られる幸福感
 
度合い(幸福度)
  *物質的欲求の満足(物の豊かさ―贅沢―常態化していつものことだとか、慣れてしまうとどうということがなくなる)より精神的欲求の満足(経験、夢・目標達成)のほうが幸福感が心に残る
  *③と④で、自らの努力によるものほど高い(幸福感が大)
      要した努力(困難・苦心)が大きいほど高い(満足感が大)
  *自分だけでなく人からも共感(拍手)を得られ、或いは人から感謝されるものほど高い(満足感が大)―お金は自分のためよりも他人のため使った方が(但し、強制されてではなく自発的に)―与える喜び(それは人間の生まれ持った性質と考えられる。豊かな国でも貧しい国でも、生活環境や文化の違いにかかわらず、どちらの国も、自分のためよりも人のためにお金を使ったことを思い出す方がより幸福感が高いという点で一致。子供はおやつをもらった時より分け与えた時の方がうれしい顔をする。実験・データで明らか)
 (自己満足といっても自分さえよければ何をしてもいいということにはならない。人に迷惑はかけない。できれば人々から喜ばれ共感してもらえてこその自己満足、いわば「自他満足」。
 自己満足といっても世のため人のためになるものほど、その満足感は大きいということだ―利己よりも利他)   仕事・事業・他者への投資・ボランティアなど社会貢献、
          スポーツ選手・アーチストの活躍、冒険・偉業など(―人々の感動を呼ぶ)

 小野田少尉―諜報員としてスパイ教育を受けた情報将校で、フィリピンの密林に潜伏してゲリラ戦、戦争終結しても任務解除の命令が届かず、29年後、発見されて帰還。
 彼は日本に帰還するまでは最悪の条件下で生きてきた(生きるために動物を殺し、或いは敵人をも)が、任務(解除命令がないかぎり、生き延びて全うするしかない任務)とともに日々生きるための目標をもち、目標達成に「生きる喜び」(辛いながらも、それなりの満足感)を感じて生き抜いてきたのだ。そして、その後、帰国して間もなくブラジルに渡って牧場経営、自然サバイバル塾を開いて日本国内でも青少年を鍛えようということで、それに打ち込んだ。
 靖国神社を信奉する「日本会議」の代表委員を歴任、田母神氏らに同調していた等のこともウイキペディアに出ている。いずれにしても、彼はそれで自己満足して(主観的幸福を感じて)いたに違いあるまい。
 著書には「人間はもともと殺し合うようにはできていない」としつつ、「人間は生きるために生まれてきている。潜在能力を引き出すためには、明確な目標を持ち、目標を達成するために覚悟を決めることが大切である」と書いている。
 (最近、肺炎にかかり91歳で亡くなった。)

 当方のやっていることは、ほとんどが、まるっきりの自己満足でしかないのだが、それでも、いささかなりとも満足感があるばかりも(というか、それで気が済んでいるんだから)よしというものだろう。ささやかながら、それで生きがいを感じ、それで生きていられるのだから。但し、世のため人のためには役立っていないだけ幸福度は低い(でも、しかたない)。

 それはともかく、人の幸福は、客観的条件はどうあれ(どんな時代に生まれ、どんな国や家に生まれ、どんな体や頭に生まれようと、年収がどれほどだろうと、どんな学校や大学を出ようと、どんな仕事に就こうと、連れ合いがどんなだろうと、どんな服を着、どんなクルマに乗っていようと)、健康で文化的な最低限度の生活が保障され、能力に応じて均等な教育の機会が保障され、幸福の追求権が各人に保障されていさえすれば(現行憲法はそれを認めている)、あとは自分の意思と努力しだい、といってよいのではなかろうか。


2014年01月28日

いかにして生きるか(加筆版)

 「人は何のために生まれ、何のために生きるのか」などと生きる意味がよく問われるが、「何のために」なんて問わない。生きるべくして生まれたのだから生きるしかないのだ。とにかく生きる。要はその生(人生)をどのように生き、生きがいを感じて生きるかであり、生きがいを満喫できれば「ああ、幸せ幸せ」ということになる。
 しからば、どうすれば生きがいを感じ、生を満喫できるかである。その方法は、日々、夢・目標・日課をもち、それを果たしつつ(果たせれば達成感・満足感が得られ、果たし損ねれば―しばらくは落ち込んで挫折・絶望感に囚われることもあるが、立ち直っては―再チャレンジしつつ)生きることである。
 夢・目標・日課は人それぞれ、思い思いに、どんなことでもいいわけであるが、究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」だろう。そしてそれを果たせた喜びが究極の幸福となる(極楽往生を遂げる)、というものではあるまいか。
 ALS(筋委縮性側索硬化症)など難病や事故に遭って身体が動けなくなり寝たきりの身、意識だけは保っている、そのような場合、手足を動かしてあれこれすることはできないが、口が動かず話はできなくても目・まぶたが動き、耳が聞こえるならば、支援者(介護者)が50音・数字を並べた文字盤でカナ文字や数字を指を差しながら音声を発し、療養者(患者)が伝えたい言葉に該当する字に視線を送って、それを読み取る等の方法を講じてコミュニケーションはできるし、脳は働き、あれこれ想像し、考えをめぐらせることはできる。植物人間にならないかぎり、自分が生きていることを自覚でき、生きていることを確かめ喜ぶ余地はまだある。毎日毎時間の目標・日課は唯ひたすら生き抜くこと、そして眠りにつき目をさます度に「生きている!よ~し、今日も生きるぞ!」と生きていることを確かめて喜び希望をつなげる。そうして生きているそのこと自体を喜び楽しむのだ。
 人間というものはあれこれ何かすることに価値があるのではなく、生きることそれ自体に価値がある、ということではあるまいか。
 フランクル―ナチス・ドイツ時代オーストリアの精神科医でユダヤ人強制収容所に入れられ、極限状態に置かれた人たちの有様を目の当たりにし、解放後に著した「夜と霧」―その文中に次のような意味のことが書かれている。「人生に何か(いいこと、楽しいこと)を期待して生きるのではなく、人生からこうあってほしいと期待されて生きることだ」と。
 それは、極限状態に置かれ、もはや人生に何も期待できず夢も希望もない、生きていても無意味だといって絶望して諦めるのではなく、極限状態に置かれているその人生が自分に「逆境を運命として受け入れつつ逞しく生き抜いてほしい」と期待をよせている、その期待に応えて生きるがよい、ということだろう。

 当方の場合、我が人生が自らに期待し、課し、或いは許しているのは何かといえば、それは今こうしてやっていること(ラジオ体操・歌いながらの散歩・英語・新聞・テレビ・たまに革新懇話会や友人との飲み会や小旅行・ブログで「つぶやき」と「声なき声」の発信・投稿・掃除機かけや家族の送迎・ワイン晩酌も含めて、朝起きてから寝るまでの間に、人様から見ればたわいもないことでも、日々やっている)、そのことにほかなるまい。

 人が何かに取り組み、それがうまくいって「ああ、幸せ、幸せ」とか、或いはそれを果たせて「ああ、よかった、よかった」といって達成感や満足感ひいては生きがい感・幸福感を感じるのは、実は自己満足にほかならない。
 人は誰しも、それぞれ置かれた境遇の下で、人生が己に期待あるいは課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得る。
 その目標・課題が困難をともなうものほど、また世のため人のためになり、人々から感謝され或いは共感を得られるものほど満足度は高い。
 しかし、置かれた境遇や条件(年齢、健康、カネや職や役目の有無など)によっては、世のため人のためにとは思ってもそれができず、(当方のように)自分のことしかできないとか、自分のことで精一杯であり、そういう人にとっては、満足度の低い自己満足に甘んじるしかないわけであるが、それでも自己満足できるだけ幸せであり、生きている価値があるというものだろう。当方はそれで満足している。
 今の総理大臣は偉大な(?)目標・課題を掲げてそれらに取り組み、日本国民の何十パーセントかの人々から感謝・共感(支持率)を得ているが、そうでない人(不支持)もかなりいる。その満足度は当方のそれとは比べようもないが、いずれにしろ、それは彼なりの自己満足であることには変わりないのだ。

2014年02月01日

公正中立の基準は政府方針ではなく現憲法

 NHKなどのジャーナリストや学校の社会科・歴史教育を政権与党から見て「偏っている」とか「公正中立でない」と言い立てて、NHKの経営委員や会長に自らの考えに近い人物を据えたり、教科書に政府の見解を必ず書き入れて教えるようにしようとしたり、日の丸・君が代を学校に押し付けたりしている現政権。
 選挙で「圧倒的多数」議席を獲得して政権を取った「最大多数政党」とは言っても、その得票率は投票率を勘案した絶対投票率(有権者数に占める割合)から見れば、選挙区では24.67 %、比例区では15.99%に過ぎず、国民の大多数がこの政党と同じ考えで支持を寄せているというわけではなく、小選挙区制のおかげで少ない得票率でも多数議席(わずか2割台の得票で8割もの議席)を獲得できてしまうという選挙制度(小選挙区比例代表並立制)のしかけのおかげで政権を獲得しているに過ぎないのであって、彼ら政権党の考えが国民の大多数の考えと一致しているわけではないのである。
 自民党は現行憲法をずうっと気に入らなくて、安倍政権は今度こそ是非ともとばかり改憲を果たそうとやっきになっているが、ジャーナリストや教師が公正中立か否か、「偏っているか、いないか」は、自民党など政府・政権党の考えが基準なのではなく、現行憲法こそがその基準にほかならないのである。
 現行憲法は、制定過程からみれば(改憲派がよくいうところのアメリカの一方的「押しつけ」ではなく)いうなれば「日米合作」とはいえ、半世紀以上にわたって国民は概ね憲法の諸原則を支持しつつ、その原則の下で民主主義と平和・繁栄を享受してきており、改憲せずに「そのままにしておこう」というのが国民大多数の本音だろう。
 天皇も総理大臣も国会議員も含め公務員たる者すべてに憲法遵守義務があり、この憲法に違背してはならず、ジャーナリストも教師も、すべての国民はこの憲法に従わなければならないのである。
この憲法、その核心(根本原則)は民主主義(主権在民)・基本的人権・平和主義それに立憲主義(憲法は国民の人権を守るため国家権力を縛るものという原則)、これらを基準にしてジャーナリズムや学校教育が公正中立か否か、「偏っているか、いないか」を測るべきなのである。
 安倍首相の考え方に近いNHKの籾井会長や安倍首相や田母神氏を応援する百田氏・長谷川氏らの経営委員の考え方とそうでない人たちのどちらの考え方が偏っているのか。
 マスコミや学校の先生が反戦・非軍事・非暴力・反軍国主義・反軍事同盟・反基地・反核・反原発などの主張やデモを好意的もしくは肯定的に取り上げるのと、そんなのは取り上げないか取り上げても否定的に取り上げ、安倍政権の軍事同盟体制強化、秘密保護法制定、集団的自衛権行使容認、改憲路線、靖国参拝や歴史認識を好意的もしくは肯定的に取り上げるのとでは、どちらが偏っているのか。
 NHKも、その他のマスコミも、学校の先生も教科書も、公務員も守るべきは憲法を基準とする公正中立なのであって政府の方針を基準として「偏っているか、いないか」ではあるまい。
 憲法の基準からすれば、それにより忠実で擁護に努めている党派(共産党や社民党など)やメディアが偏っているのではなく、むしろ憲法基準に背き改憲してしまおうとする党派やそれに同調するメディアのほうこそ偏っているとかんがえるのが妥当なのだ。

2014年02月03日

幸福になる秘訣―NHK・Eテレ「幸福学・白熱教室」から(加筆版)

客観的条件―心身の健康・生活条件・環境など―に恵まれていることもある程度必要だが、決定的なのは主観的幸福―喜び・快感・満足感(自己満足)―夢・目標をもち、努力・達成して得られる幸福感―客観的条件には恵まれなくても得られる(スラムの子にも喜び・笑顔)  

(1)人間関係(社会―家族・地域・職場などで―人との結びつき、良いつながり)が幸福度を高める。
「幸福は社会的ネットワークを通じて広がっていく力がある」(伝染・波及)
  「友達が幸福なら、あなたも幸福な確率が高くなる」(友達の友達まで)
  「幸せが幸せを呼ぶ」―自分の幸福が家族・友達・隣人の幸福へ―喜びを分かち合う
 人をサポート(どちらかといえば、サポートされるよりも、するほうが)
  人に親切することで人と自分を結び付け、より良い人間関係を築く(毎日、人にした親切を日記や手帳に記録して数えてみると、いい気分になれる)。
 物事がうまくいかず辛く悲しい思いをしている時、傍にいて支えるだけではなく、うまくいって嬉しい思いをしている時にも傍にいて、或いは駆けつけて一緒に喜ぶ(むしろ、この方がだいじ)
(2)世代の違い:
 若者―エネルギー・夢・欲望が旺盛―挫折・逆境に弱い。
 中年―子どもが大きくなっても未成年で扱いが難しく、仕事上の責任が中堅になって重くなり、ストレスが強まり、離婚率が高まる。
 高齢者―エネルギー・欲求が減退、人生経験を積んで逆境に強い
     日本の高齢者は人間関係が希薄(人との結びつきが米国やスウエーデンの半分以下)―独居老人・孤独死が多い。
(3)余命、数週間という患者に「人生で一番後悔していることは何ですか?」と訊いた(オーストラリアのホスピスで働くある看護士が患者に問いかけた)ところ、多かった答えは
 ①「人の期待に応える人生ではなく、自分に正直に生きる勇気が欲しかった」(人の為に義務や責任を負うあまり自分の夢を犠牲にし過ぎることなく、自分の夢や目標をもバランスよく追求)
 ②「あんなに働かなければよかった」(「仕事!仕事!」といって、そればかりでは本当に大切なものを失う)
 ③「勇気を出して自分の気持ちを(はっきり、ためらわないで)伝えればよかった」
 ④「友達と付き合い続ければよかった」
 ⑤「自分が幸せになるのを(制限を解き放って)許せばよかった」

 要するに人が幸福になる秘訣は、孤独にならず、社会との結びつき、人とのつながりを保ち、人々(他者)の幸福に尽くすこと。とは言っても、それは強いられた滅私奉公・自己犠牲ではなく、あくまで自発的意志に基づいて行い、それによって同時に自分も幸福感(自己満足)が得られるという生き方、ということになるのではあるまいか。

 つまり幸福感を得るのに不可欠なのは①夢・目的・目標・使命・課題(必要に迫られ、或いは思いついた用事や課題。但し他人から強いられたものではなく自らが課したもの)をもち、それに取り組み果たすこと。何か「大切と思うものを守り抜くこと」とか(難病や極限状態に置かれている人などにとっては、ただひたすら)「生き抜くこと」等も含む
                  ②自己満足できること
                   ③人々の共感が得られること

 「白熱教室」の講師・ポートランド州立大学のティーナー博士の話で、博士が調査に訪れたインドのコルカタという町のスラムでこと。博士は、足の速いのが自慢で将来看護婦になるのが夢だという一少女と出会い、「競争してみようじゃないか」ということになり、「用意スタート!」。少女は勝って「やった!」と叫び、両親は駆け寄って彼女を抱きしめ、見物人も、スラム中が拍手と歓声。あたりは幸福感に満ち溢れ、「私(博士)まで幸せでした」という。その少女の幸福感。
 画期的な新型の万能細胞を研究開発した小保方さん。「今日一日、明日一日だけ頑張ろうと思ってやっていた」そのあげくの幸福感。(それに対して68歳男性―朝日投稿に「私自身、今はついつい何もせずに一日を終えることが多いが、身を投じたいと若い頃に夢見た分野がある。その勉強をこれからすることは、年金生活の私にも可能だ。たとえ誰に言う機会は訪れずとも『今日一日をがんばった』と自らに言えるような日々を過ごさなければ、という気持ちにさせられたのだった」と。)
 或いはオリンピック選手の幸福感、結婚式でのカップルの幸福感、これらはいずれも、そのキーワードは、上の3つが考えられるのでは。
  {かく言う当方の場合は①(夢・目標)は些細なもので、③(人の共感)には欠け、②(自己満足)はあっても、幸福感は乏しいが、空しいとも思ってはいない。}  

2014年02月19日

安全保障―二つの路線(再々加筆版)

現状理解―安倍政権は「東アジアの安全保障環境が厳しさを増し」(だから、日米同盟体制・軍事戦略を強化しなければ)というが
 かつての冷戦時代と違って、安全保障・環境・エネルギー問題が共通のものだという認識が広がり、イデオロギーの違いも小さくなりつつある。
 かつての「パクス・ルッソ・アメリカーナ」(米ソ覇権下の平和)→「パクス・アメリカーナ」(「アメリカ覇権下の平和」)→今や多極化
 あらゆることが変化している。なのに依然として冷戦期につくられ、今や壊れかけている安全保障の基本構造にしがみつく時代錯誤的な傾向も.
(1)中国
 経済成長→経済大国化(日本を追い越し、世界第2の経済大国に)おのずから軍事費(兵士の給料・装備費など)も増大(日本も経済高成長にはそれに比例して防衛費も急増)。
  (日本は高度成長期60~80年20年間で防衛費は31倍に。中国は94~14年20年間で14.7倍。
  中国のGDP前年比7.5%増は物価上昇を差し引いた実質増なのに対して軍事費の前年比12.2%は額面の名目増だから単純比較はできない。中国の軍事費の対GDP比は1.3%。日本の防衛費は1%と大差なく、アメリカ4%台よりは格段に少ない。不透明で計上されていない部分があるといわれるが、それはどこの国も同じで他の項目に入いっていてそこには入れていないものがあると考えた方がむしろ)

  アメリカと密接な経済相互依存関係(日本を抜いて最大の米国債権保有国)―互いに戦略的パートナーとして戦争はできない(衝突は避ける)関係に
  日本とも(日本にとって中国は最大の輸出入相手国)
   しかし、中国国内には深刻な貧富格差、多民族地域間に格差・軋轢、環境破壊・悪化など抱え、大量の諸資源を軍事に割く余裕はない。
 尖閣と沖縄をめぐる日中関係史(参考―ジョン・W・ダワー、ガバン・マコーマック共著「転換期の日本へ」NHK出版新書)
   江戸時代、沖縄は琉球王国と称し、日本(薩摩藩)と中国(清)の両方に服属 
  1871明治政府、琉球王国を琉球藩に(第一次琉球処分)
   1879       沖縄県に(第二次琉球処分)
                     これに清国政府が抗議(グラント米国大統領が調停しようとする)
   1880明治政府、清側に対して中国内地通商権(西洋人と通商上同等な扱い)を認めてもらうことと引き換えに、沖縄本島から南の先島諸党(尖閣はその一部)を分離して割譲する条約案(「分島改約」)提示するも(清側は琉球を3分し、奄美諸島は日本領とし沖縄本島は独立王国とし先島諸島は清に割譲する対案)ともに不成立
   1885古賀氏、尖閣諸島の開拓許可を求められた沖縄県が国標設置を明治政府に要請するも不許可(清側を刺激しないように)。
   1895(日清戦争中)国標設置を決定(無主地として日本領に編入)
   清国、日本に敗れ下関条約で台湾を日本に割譲、沖縄も尖閣諸島をひっくるめて日本領に。(しかし、清側代表の李鴻章は「琉球は中国領ではなく日本領でもない。琉球は独立国だ」と)
   1896明治政府は尖閣の島々を古賀氏に貸与(以後1940年頃まで島に留まる)
   日中戦争中、蒋介石、沖縄を中国領とするか信託統治領とすることを企図
   太平洋戦争末期、沖縄は米軍が占領
   1951サンフランシスコ条約で日本が主権回復(沖縄は除外)
1968国連(ECAFE)尖閣諸島の海底に石油・ガスが埋蔵されている可能性ありと。
   1972米国政府、沖縄の施政権を日本に返還―それにともない尖閣諸島も沖縄県の一部として日本側に―これに対して中国・台湾政府も抗議
   (この間、沖縄=琉球そのものの帰属問題は法理的には決着がついてはいないと見られる。尖閣はその中での問題)
      尖閣5島のうち2島は米軍が射爆場として管理
   同年、日中首相(田中角栄首相・周恩来首相)会談―尖閣の帰属問題は「棚上げにしよう」ということに。
   1974古賀氏、尖閣(3島)を栗原氏へ譲渡
   1978鄧小平、日中平和友好条約の批准書交換のため来日、尖閣「棚上げ」を再確認。
   2008福田康夫首相と胡錦濤主席「東シナ海を『平和・協力、友好の海』にする」と。  2009鳩山首相、胡錦濤に東シナ海を「友愛の海」にと。
   2010尖閣沖で中国漁船、海保巡視船と衝突事件
2012.4月石原都知事、尖閣3島を都が買い取ると表明
     7月野田首相、日本政府が買い取ることとし、国有化、これに中国が反発。

  中国の海洋進出
    日本側から見れば中国の海洋覇権の野望に見えるが、ガバン・マコーマック氏(前掲書)によれば「日本は、中国海軍が近海、特に大隅海峡と宮古海峡を通過することを快く思わない。中国の目には日本が支配する長く延びる列島は、まるで万里長城の海洋版に見える。また、今まで何もなかった南西諸島に軍を配備する動きは、中国として気にならないはずはない。」「中国は、自由にアクセスできる太平洋への通路が(宗谷海峡・津軽海峡・大隅海峡・宮古海峡・バシー海峡に)限られているため、非常に不利な立場にいる」と。

  1982年国連海洋法条約―公海の多くを各国の(領土に接する)排他的経済水域(200海里=370kmまで)に分割―長い海岸線や島々を領有する国々に海洋資源の所有権などの特権を認める(同水域には領海基準から最大650kmにまでおよぶ大陸棚の権利も与えられる)―米(同国の排他的経済水域面積は1135.1万k㎡で世界一位)・英・仏それに日本(447.9万k㎡で世界6位の面積)などに有利、中国(87.7万k㎡で32位)は不利。
  そこで、中国は東シナ海・南シナ海の大陸棚の権利と島の領有権を主張
  以前は人の住まない小島とともに顧みられることのなかった水域が油田・ガス田その他
海底資源が価値をおびるようになり、その確保をめざすようになった。
  南シナ海は中国・フィリピン・ベトナム・マレーシア・インドネシアなど各国の領海が錯綜して重なり、島の領有権も不明確で、それぞれに権利を主張し合っている→「縄張り争い」
  尚、南沙諸島は、かつて日清戦争で台湾が日本領となり太平洋戦争開戦時、日本が台湾に付随する島として領有宣言したが、戦後台湾放棄にともなって中国(国民党政権)に返還したという経緯がある。
(2)北朝鮮
 異常な国家体制その歴史的背景
  ①日本の植民地支配―未だに清算されておらず
  ②南北分断→米韓軍と中朝軍が朝鮮戦争(惨害―第2次大戦中、日本の都市に投下されたよりもずっと多くの爆弾が北朝鮮に―死者200万人以上、原爆投下の恐れもあった。
停戦協定は結ばれたものの戦争終結はしておらず(未だに戦争状態に)。
  ③ソ連・中国も韓国と国交―北朝鮮は反発、独自の核・ミサイルにすがるようになる。

 米・韓・日本(圧倒的に強力な敵)に対して体中にピンと針(ミサイル)を立てて身を守ろうとする「ハリネズミ国家
  米・韓・日本側の強硬措置→核・ミサイル開発に駆り立てられるも侵略攻撃能力はなく威嚇用
 朝鮮戦争(停戦状態)の正式終結(平和協定)のうえ、国交正常化を望む
 しかし、米・韓・日本側は北朝鮮の核・ミサイル放棄、拉致被害者の解放が先決だと。
「正常化」交渉(米朝・6ヵ国協議)挫折→「北」はミサイル・核実験を強行→制裁措置・米韓合同軍事演習→「北」ミサイル・核実験へ(繰り返し―悪循環)
(3)対中国・対北朝鮮―緊迫―外交関係も国民感情も(反日・反中・嫌中・反朝)悪化―国民の不安―武力攻撃事態になったらどうする
  対中―尖閣問題、靖国参拝・歴史認識問題
  対北朝鮮―核ミサイル問題、拉致問題

(4)二つの路線
軍事的安全保障路線
 「国防」防衛力・軍事的抑止力の強化(「防衛」とか「抑止力」とかレトリックのオブラート表現)―自衛隊・日米同盟の強化
  米軍基地・核の傘を維持
 「強い日本」(富国強兵)→「毅然たる」外交
 (強硬外交―「対話と圧力」、かけ引き)
 「積極的平和主義」(平和主義と矛盾する詭弁的用語)―海外派兵・「集団的自衛権」行使(自国が攻撃されてもいないのに、同盟国あるいは「密接な国」だから加勢しなければならないと、これまでアメリカが行ったベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争などに際して自衛隊ができなかった参戦・戦闘行為ができるように)容認(「戦争放棄」・「専守防衛」だったのから海外でも「参戦・武力行使できる国」へ)解釈改憲へ。
   {尚、安倍首相が集団的自衛権の行使を容認しようとする、そこには「集団的自衛権の行使が実現できれば、日本も米国を守ることができるようになって、日米安保体制も『片務性』から『双務性』へと、『真の独立国家』として相応しい対等な日米同盟に近づけたい」という思惑があるとみられる。また安倍政権の安保政策に関わる有識者会議のメンバーの中には「日本が集団的自衛権を認め、米国が関わる戦争で自衛隊が米軍と一緒に戦う覚悟を示せば、米国を『尖閣有事』にも巻き込み、「あんな岩礁のために戦いたくない」という米軍兵士でも戦わせられる」などと考える向きも(3月3日朝日『集団的自衛権 読み解く』)。 
 しかし、たとえ「相互防衛義務」はあっても、それだけでアメリカは「あんな」離島の争奪戦のために日本に加勢して簡単に参戦するような国ではなく、あくまで国益で判断して(議会が承認して)決する国なのであって、そのアメリカ議会を動かすだけの説得力には乏し過ぎるだろう。
 「双務性」とか「対等な同盟」と言っても、自衛隊が在日米軍並みの基地と駐留部隊をアメリカに置いてアメリカを守ってやるようにして双方同じやり方で守り合うなどということはアメリカにとっては考えもしないことであり、日本がアメリカに対してそこまでしなくても、ただ日本国内に基地を置かせてもらい、自衛隊がそれを守ってくれて、その基地経費まで負担してもらえれば、それで十分なのである。日米関係を対等な関係に改め、我が国を「真の独立国家」としたいのであれば、むしろ日本から米軍基地を撤去してもらったほうが得策なのである。
 米国に向かうミサイルを日本で迎撃してアメリカを守ってやるなどといっても、そんなのは(高高度を高速で飛ぶのを撃ち落とすなど)技術的に不可能であるだけでなく、そもそも「実際にアメリカを攻める国などあるのか、机上の論理はともかく、アメリカを攻めたらどの国も逆にやられるのだから、そんな国があるわけない(荒唐無稽な話だ)」と批判している向きが自民党の有力議員の中にさえある、という。}     
  武器輸出三原則の転換(武器輸出禁止原則の撤廃)も 

   問題点―軍事対立から衝突―戦争へエスカレートする危険
      戦争になったら勝てるのか、勝っても軽微な犠牲では済まず破滅的な悲惨な結果を招くことにならないか。
       軍備(兵員・兵器・基地・軍事演習など)を「抑止力」というが、相手側からみれば、それはかえって脅威・威嚇・挑発とも受けとられ、攻撃を誘発する結果となる―南西諸島など島に配備すれば、そこが攻撃目標にされる。
平和的安全保障路線
 戦争の原因(火種)を取り除いて武力攻撃事態を招かないように、どの国とも平和友好・親密外交  (徹底した対話・協力、それによって信頼醸成―互いに欺かず信義・信頼を以って交わる)―憲法の平和主義路線
  軍備縮小・撤廃、核兵器の禁止・全廃
  従属的な日米同盟(安保条約)を解消して(その気になれば、10条規定により、日本政府が米国政府に通告すればその後1年で廃棄でき、沖縄はじめ日本全土から基地撤去できる)、対等・平等な日米平和条約を結び直す
 東南アジア友好協力条約(TAC)―ASEAN諸国と日・中・韓・印・豪・米・ロ・ニュージーランドなどの諸国が加入―不戦条約―紛争の平和的解決(紛争を戦争にしない)・武力不行使・内政不干渉を約束―軍事的手段、軍事的抑止力に依存した安保から脱却へ、対立・差別的な関係ではなく、それぞれの違いを認めつつ対等・平等な共同体的関係をめざす―2015年ASEAN共同体―経済統合へ
 このような不戦条約・地域平和共同体を北東アジアにも(05年9月日米韓中ロ6ヵ国協議は「共同声明で朝鮮半島の非核化、核・ミサイル問題・拉致問題・「過去の清算」など諸懸案の包括的解決はかることにしていたが、それを実行して)。
      尖閣諸島を含む東シナ海を「平和・協力の海」―武器禁止水域、共同で資源開発へ

 安倍政権は前者①(軍事対応路線)一辺倒に近い―対中国・対北朝鮮対決路線
   対中冷戦思考と軍事最優先の思考方法に囚われている。
   尖閣―領有権問題はずうっと棚上げにしてきたのが、2010年日本政府が民間所有者から購入して国有化し日本領と断じ、中国との間で「領土問題は存在しない。したがって交渉の余地なし」(いわば問答無用)と(そう言いながら「対話の扉はいつも開いています」と)―これに中国は反発、尖閣海域に海警局の監視船を度々出動させる(日本側は領海侵犯の挑発行為として非難)

      安倍首相「尖閣海域で求められているのは、交渉ではなく・・・・物理的な力です」(これに対して中国人民解放軍の羅援少将「尖閣海域に軍を配備し、必要とあらば主だった三艦隊を結集して鉄拳とし、日本の刀を受けて立つ」と。)
   靖国参拝を強行―「国のために命を落とした英霊に尊崇の念を表すのは当たりまえ。わが閣僚はどんな脅しにも屈しない」と対決姿勢。
   歴史認識(「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う」として、中国への侵略戦争を否定ともとれる発言)に中国は反発(アメリカからも批判―米国議会の調査報告で、安倍首相の歴史認識は侵略の歴史を否定する修正主義的傾向)と)
   中国・北朝鮮に対して盛んに脅威論(脅威を煽る)→敵対的対立、「封じ込め」を強めて軍事体制増強を正当化

①と②のどちらが現実的効果的か、どちらが危険か、
    国民(生命・財産)にとって、どちらがより安全が保障されるか、である。

 参考―ジョン・W/ダワー、ガバン・マコーマック共著「転換期の日本へ」NHK出版新書

2014年03月01日

教育―二つの路線(加筆版)  

Ⅰ.戦後・民主教育
戦前・戦中―強力な中央集権的教育体制の下で、教育勅語と国定教科書によって、天皇のためにすすんで命を投げ出す臣民をつくる(子どもを「軍国少年・少女」に育てる)教育―それを反省。
憲法(26条)①すべての国民は、その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。
                   (教育の機会均等。学習権・基礎学力の保障)
      ②すべての国民は、子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は無償。
   (25条)生きる権利(生存権)と(13条)幸福追求権―現在と未来における幸福の礎を築くための教育
      子ども・若者一人ひとりの状況とニーズに応じた学習を保障し、成長・発達を保障 
教育基本法(この憲法制定に合わせて制定され、第一次安倍政権によって改変される前までは)教育の目的は、一人ひとりの子どもの人間的な成長・発達、「人格の完成」にあり、また、どの子も「国家・社会の形成者」(すなわち国家の主権者であり、社会の主体的な担い手)として育て上げることにある、ということ。
 そして教師たちによる「教育は(権力による)不当な支配に服することなく、(国家に対してではなく)国民全体に直接に責任を負って行なわれるべきもの」で、文科省や教育委員会による「教育行政は、教育に必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」などのことを定めていた。
6・3・3・4制
   公立小・中・高は教育委員会が管理(小・中学校は市町村教委、高校は都道府県教委)
教育委員会制度―戦前教育の国家統制・権力支配の弊害を反省して、戦後、教育の民主化としてアメリカからの制度導入時は)公選制で住民が委員を直接選挙、会議はすべて公開だった。
      その地域の教育行政を市民の代表である数人の教育委員が合議・決定―住民による学校自治で多元的な民意を行政に反映―特定の個人の判断や恣意を防ぐ。
      政治的中立・権力から独立―首長から独立した教育行政委員会―直接国民(住民)にのみ責任負う―文部省や自治体首長・議会が所属する党派の利害に左右されない。
Ⅱ.[現状]―直面する教育問題
●教育委員会―1956年の改定(地方教育行政法―参院には警官500人を導入して強行採決)―委員は自治体首長が任命(議会の同意を得て)、非公開に。
      非常勤、合議制(非公開―閉鎖的)・・・・東京都中野区の教委はしばらく準公選制を維持するも潰された。
      教育長(委員会が委員のうちから任命、常勤)―事務局を統括し委員会の議事に助言
      問題点―名誉職化(形骸化)
            いじめ・体罰問題などへの対応―動きの鈍さ、責任の所在があいまい
            文科省から各学校へ上意下達(統制)
            組織防衛・・・・いじめ事件など隠ぺい
●上からの管理統制―教育委員会と教員に対して―しだいに強める―教員は物を言えなく、過労・燃え尽きが増える―生徒にも教師にも「ゆとり」がなくなる
     教育委員の任命権もつ自治体首長の影響力(石原都知事や大阪市長など)―「日の丸・君が代」を押し付けたり、ジェンダー教育や性教育を排撃したり(個人的な価値観や偏った信条を教育に持ち込もうとする)。愛知県犬山市教育委員会は全国学力テストに唯一不参加の方針を取ったが、市長が委員を入れ替えて参加へ。
     画一的競争教育―現場の自主性・創造性・多様性が大事にされない
     学習指導要領(文部省が定める)―当初は「手引き」・試案的なものだったが、法的拘束力をもつようになるも「大綱的基準」とみなされてきた。
     教科書―日本では教育行政(教育委員会)が選んでいる(そういう国は他には中国だけで、ほとんどの国はは教師や学校が選んでいる)―指導要領を基準に文部大臣が検定。
●受験・競争教育(国連の「子どもの権利」委員会から「過度な競争教育」と指摘されてきた)
 入試制度―日中台韓などに特有←・・・科挙(隋唐以来の官僚選抜試験)の影響
   →教育が受験競争に縛られ歪められる弊害
    競争→格差(勝ち組・エリート、負け組・「落ちこぼれ」)―全体として学力向上にはつながらない。
●いじめ・体罰問題
  いじめ―全国の学校で20万件(12年度)
●不登校・ひきこもり―不登校児童生徒数(12年度)―小中学校(約11万2700人)、高校 5万7700人)
●教員の勤務状況の悪化―時間外勤務(平均月69時間 32分。3人に1人が厚生労働省の示す『過労死ライン』の月80時間を超え、5人に1人が月100時間以上。家に仕事を持ち帰ってやる時間が平均月21時間41分)―教師たちは学力テストの点数を上げるため、ドリルを準備し、繰り返し子どもにやらせる。それに子どもの様子・成績を細かく数字で記録させられ、報告書や書類の作成に膨大な時間を奪われる―精神疾患・休職の増加。
●教育予算(公費負担)は先進国では最低水準、高学費(私費負担)―世界一
    教育機関に対する公財政支出の対GDP比は(2010年で)OECD平均5.4% に対して、日本は3.6%(データのある国28か国では最低)。
国連の国際人権規約(13条)―高等教育(高校・大学)の段階的無償化条項―日本も批准したものの、ずうっと留保し続け、昨年、国連から勧告受けてようやく実施に踏み切ったが、さらに「迅速」な実行勧告を受けている。
      OECD(先進国34ヵ国加盟)の国々では、授業料無償化は、高校はほとんど、大学も17ヵ国で実現。
      我が国では、高校は民主党政権下で10年度から授業料無償化が実現した。
大学―初年度納付金(入学金と授業料を合わせて)国立81万円、私立131万円平均(アメリカ州立で61万円、フランス2.4万円、フィンランド0円)
    (ドイツ・フランス・オーストリア・ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー・ギリシャ・アイルランド・北欧諸国などは大学授業料無償化)
国際人権規約13条には、また「奨学金の給付」をも締約国に義務付けている。OECD加盟国で大学の給付制奨学金がない国は日本とアイスランド(授業料は無償)の2ヵ国だけ。
(アメリカ・カナダ・イギリス・イタリア・スペイン・ポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・トルコ・オーストラリア・ニュージーランド・メキシコ・チリ・イスラエル・韓国は給付制奨学金―返済不要)
  日本の奨学金はすべて貸与制(利子付き返済必要)―それでも半数以上の学生が借りている。
国際人権規約13条には「教職員の物質的条件を不断に改善すること」をも締約国に義務付けている。我が国では1980年度に「40人学級」が実現したが、それ以降は学校規模改善計画は凍結され、教職員数は大幅に減少し、その多忙・過労・健康破壊は深刻。
●子どもの貧困―貧困家庭(非正規雇用・ひとり親)「親から子へ」連鎖
 就学援助(給食費・教材費・学用品・制服・ランドセル・林間学校・修学旅行費・卒業アルバム代など)を受けている子どもの割合16%(6人に1人)
● 社会環境の激変―家庭・核家族化 生活スタイルの激変
 家庭―核家族化で教育力が弱まった分、学校が「しつけ教育」肩代わり)       
 情報通信技術(ICT)の発達―スマートフォンの普及(高校1年生で所有率84%)→読書量の減少などの弊害も。                                         予備校や出版社がスマホアプリを通じた教材提供
            インターネットを通じたオンライン予備校なども    サイトに授業の動画→学校で利用、生徒にタブレット端末を貸与、自宅での予習にも(教室の教員はついていけない子を教え、習熟度に合った課題を出し、教え合いを促す)。
 グローバル化→グローバル教育―高校で世界史を必修、小学校から英語教育など
Ⅲ.[安倍政権]―国家主義的・新自由主義教育路線
 第一次安倍政権時、教育基本法を改変(改憲とともに「戦後レジームからの脱却」の一環)
  ―「国民個々人のための教育」から「国家のための教育」(国家主義的教育)へ転換
第二次安倍政権―「教育再生推進法」制定を準備―教育の中央集権化―地方教育行政への
国の関与(指導)強める。
  (自民党の新憲法草案は、国権に対しては「戦力不保持・交戦権否認」などの縛りをはずし、国民に対しては、国を支える責務を課し、公益・公の秩序に反してはならないことなど国民に縛りをかけるものに憲法を変質させようとし、教育基本法は改変を強行して、国が教員や被教育者に「国を愛する態度を養う」「道徳心を培う」などの目標を課し、旧法10条では「教育は不当な支配に服することなく」の語句の後に「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきもの」となっていたのをカットして、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」というふうに変えてしまった。ということは、教師は、生徒を一番だいじに思い、ひたすら生徒のことを気にすればよかった、それが、政府や国会や文科省などが決めた法律のほうを気にし、法令に基づいて権限を行使する文科省や自治体首長・教育委員会・校長の方を気にして、生徒の方は二の次ということになってしまう。例えば、それをそこで歌わせるのは、あくまで教育上生徒のためだと思って歌わせるのではなく、教育委員会や校長から国家の都合上「歌わせよ、さもないと処分するぞ」と云われるから歌わせる、といったように。)

     この教基法改定に伴って学習指導要領など教育内容を全面的に改変

   「教育再生」―新自由主義的「経済再生」と合わせて―市場原理主義(弱肉強食の競争経済)にそくした人づくり―競争教育
    「強い日本を取り戻す」(富国強兵)
     「世界のトップレベルの学力」、「グローバル人材」の育成
     「規範意識を身につけさせる」
    「ゆとり教育」(遊びの中での学び)の廃止
    教育の自由への介入(教員統制)を強める
    イデオロギー(「安倍カラー」)―戦前的な国家主義思想に偏重(右寄り)
          ―「日の丸・君が代」強制
           「国と郷土を愛する態度を養う」愛国心教育(国家安全保障戦略NSSに「高等教育機関における安全保障教育の拡充」などとともに盛り込む)
           反「自虐史観」史観
 「平成の学制大改革」―エリートには早くから詰め込み教育をし、飛び級を認め、大企業に役立つ人材を手っ取り早く養成。
    グローバル人材―国際競争力強化に貢献できる人材―激しい格差競争によって少数のエリート育成
Ⅳ.二つの路線  以下各項とも①政権側路線②批判側路線
1、教育委員会制度
①政権側 「権限と責任の明確化」を理由に制度改変へ(地方教育行政法改正案)
  自治体首長の介入をさらに強める―首長が委員も新教育長(教育委員長と教育長を兼務)も任命だけでなく罷免もできるようにする。(新教育長は子どもや教職員よりも、首長の方を気に)
    首長は教育委員との協議会である「総合教育施策会議」を主宰し、教育行政の方向性を協議し、「大綱的な方針」として策定、学校の設置や廃止、教職員の給与水準、教職員の人事、服務監督、懲戒の方針など決定する―首長主導型教育行政へ。  
   文科大臣が教育委員会に「是正要求・指示」(国家統制強化)
    教育委員会は首長の諮問機関か下請け機関化
    国と自治体首長による教育支配・介入を強める(学校現場に対して「あれ教えろ」「これ教えるな」と)。
 民主党と維新の会は教育委員会そのものの廃止(完全に、首長に権限を一元化)を主張
②批判側―教育行政に対する首長の権限が強まれば、「選挙目当ての教育政策を打ち出し、競争で学校を追い立て、思い付きで現場をふりまわすことになりかねない」と。首長の主導に懸念―「首長が暴走したら止められない」
 元々の公選制(住民が委員を直接選挙、会議はすべて公開)に戻せばいい。
   教育委員会を形骸化させたのは歴代自民党政権(文部省)がに国の方針を教育委員会に押し付けて自主性を奪ってきたからだ。教育委員会の機能と役割を強める方向での改革こそ求められる―住民の代表として自主性・政治的中立性・―首長らの政治から独立―を維持、教育の専門性の確保。
2、教育予算と学費
①政権側 少ない予算と高学費
     民主党政権で高校無償化→安倍政権は所得制限へ(後退)
     「適正な学校統廃合の推進」→教育予算を減額
②批判側 授業料無償の所得制限で教室内分断(「おまえの家は金持ち、俺の家は貧乏」と)
3、学級定員と教員数
①政権側 2014年度予算でも教職員定数は後退させている。
4、教科書
①政権側 検定基準・検定審査要領を改定
     「国民としての誇りと自覚の回復」「伝統文化の尊重」や「愛国心」に沿った教科書に。
     近現代史を扱う際に政府見解を書き込ませる(尖閣諸島は「我が国固有の領土であり、我が国が有効に支配し、領有権問題は存在しない」、竹島は我が国固有の領土」「韓国が不法に占拠」などと、政府の考え方をはっきり書かせる)。
       近隣諸国条項(「国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」―中国や韓国への「配慮」)はそのままにしつつ骨抜きへ
     改定教基法(「教育の目標」―「国を愛する態度」などを定める)や学習指導要領の趣旨に照らして「重大な欠陥」があれば不合格に(「愛国心教育に反する」と判断すれば不合格に)
   教科書会社が不合格をおそれて「侵略」「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などの語句や記述など自粛・敬遠 (いわば「さわらぬ神にたたりなし」) 
    沖縄県八重山地区(石垣・与那国・竹富3市町)の教科書採択地区協議会が、中学公民教科書の選定に際して、石垣市教育長らが恣意的に規約改正・選定方法を改定して、現場教員側からは最低評価であった「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版を選んで、その採択を答申したが、竹富町教委はそれを拒否して東京書籍版を独自採択した(育鵬社版を採択しない理由―「沖縄戦や米軍基地に関する記述が非常に少なく、軍事抑止力を強調し、改憲へ誘導するような記述があり、また、男女差別的な記述、原子力発電容認の記述もあります。戦争で大きな被害を受けた沖縄だからこそ、戦争の恐ろしさや過去の過ちを十分踏まえた教科書で学んでほしい。育鵬社版はそれにふさわしいとはいえません」と)。それに対して文科省は地区内で一本化すべきだとして育鵬社版を採択するよう直接要求。

    採択制度の改変―文科省が自治体に是正措置を求められるように法改正へ。
②批判側
      「教科書は政府広報じゃない」「教科書づくりの現場は確実に委縮する」
    尚、「固有の領土」という言い方については、オーストラリア大学名誉教授のガバン・マコーマック博士(「転換期の日本へ」NHK出版新書)は「国際法上、そのような概念はない」「領土の論議にはなじまない異質な言葉である」としている。
5、歴史教育
①政権側 
   歴史認識 日本の戦争を肯定・美化―侵略戦争と認めるのは「自虐史観」だと
     下村文科相「中国や韓国の学生たちと日本の学生たちが議論しても、議論ににもならない。日本の学生たちはしらないから」と。
   日本史を高校で必修化―「日本人としてのアイデンティティー、日本の歴史と文化に対する教養を備え、グローバルに活躍できる人材を育成」「近隣との口論に勝つ人材づくり」をグローバル化教育の目標。

②批判側 
  「相手が自国の主張ばかり教えているから、我々もと、政府の意地の張り合いを持ち込むよう」なものだが、「近隣との口論に勝つ人材づくりがグローバル化教育の目標ではあるまい。」(1月30日朝日社説)
  世界史(現在は高校では世界史のみが必修で、日本史は中学の社会科でやる)はどうなるのか―「世界史と日本史を融合させ、近現代史を中心に世界の中の日本を学ばせるべき」(同上)

6、道徳教育
①政権側  国の為に尽くし、上の言うことを(逆らわずに)聞く子ども(国家に都合の良い『品行方正な国民』)に育てる―愛国心と規範意識を教え込む
 道徳を小中学校で「特別の教科」に(15年度から教科化)―市民道徳よりも、国が定める徳目を教えこむ(個人よりも「志ある国民」「品格ある国家」を重視、国家優先)
   とりあえずは、この4月から新教材「私たちの道徳」(孔子・二宮金次郎・吉田松陰・坂本竜馬・石川啄木・加納治五郎・松下幸之助・日野原重明・山中伸弥・松井秀喜・澤穂希・内村航平・リンカーン・マザーテレサ・曽野綾子など偉人の生き方や言葉を集めたもの)を文科省が配布して主教材に(教育現場サイドの研究者からは「偉人伝など読むだけでは『自分は無理』と読み捨てることになりかねない」「子どもが自分の体験と結びつけて考えられるよう、教師が一層工夫する必要がある」との指摘あり。)

   規範意識を植え付けに力を入れる―いじめ対策・・・・厳罰主義(「別室指導」・「自宅待機」など。
     内容や評価、教科書のあり方について、今秋をめどにまとめるように中教審に諮問。
    貧困・失業による家族の崩壊、格差と選別の競争教育などから発生するいじめや退廃の問題には、上からの道徳教育で抑え込もうとする。
    評価はどうするのか―ペーパーテストで評価するのか?記述式とは?

②批判側 
 「国の考えを子どもに注入することで、自分の頭で考えない人間になったり、秩序に適合できない子が見捨てられたりする懸念がある」
 「特定の価値観を押し付け」、国家に奉仕する人間育成めざす「戦前の『修身科』(忠君報国道徳)の復活だ」と。
 道徳は戦前の軍国主義教育の反省から、特定の教科ではなく教育活動全体を通して行うこととされてきた。(その後文科省によって「道徳の時間」が設けられたが、教科としてではなく、また文科省作成の「心のノート」が教科書としてではなく配布され、数値などによる評価も行われないことになっていた。)
 国の規範・道徳・秩序に従順な人材だけでは、自分の頭で考え、自分の意見をみち、自分から進んで人や社会に尽くそうとする人材が育たなければ社会の発展は得られない。
    いじめ・体罰問題←学力競争から来るイライラ・ムカツキが不安感を他者に向ける。
  人間不信、子ども同士、先生・父母の間で信頼感が薄れ、「一人ひとり尊重」意識も薄れる
  日本社会に特有な集団の閉鎖性(内にこもる)―同調プレッシャーから来るもの―歪んだ規範意識―集団のルール(掟―「チクルな」)と社会のルールとのギャップ。
  不登校・ひきこもり―学校に居場所がない→自分を追いつめる―解放が必要(「自分で生きたいように生きる、それだけでいいんだ」と)
     居場所を作って「学びの場」を選べるようにする―多様な学び方
      学校には行かなくても、フリースクール・フリースペース・ホームスクール等で
  
  愛国心はわざわざ教えなくて自然と育つもの。教えなければならないのはむしろ「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということで、自国民を愛するように世界の諸国民を愛し平和を愛しましょう、ということだろう。
    「国家安全保障戦略」に「我が国と郷土を愛する心を養う」などと明記し、わざわざ愛国心教育を行おうとするのは、ただひたすら自国のために命を投げ打って他国・隣国を敵として戦う気概を身につけさせようとするものにほかなるまい。つまり隣人・隣国を愛するどころか、(「ヘイトスピーチ」のような)憎しみと戦争を煽るようなものだろう(―筆者の私見)。
 市民道徳は必要であり、シチズンシップ(市民性)教育―社会の自立した一員として自ら社会をつくる意識や国家や社会に批判的な見方ができる素養の育成―の方が重要。
7、テスト教育・受験教育
①政権側
全国学力調査(毎年4月、小6・中3対象)
      ―07年に始まり(抽出・希望参加)、13年から全員参加復活 
        14年度から「学校別成績」公表を容認
②批判側  
  全国学力調査・公表は「学校序列化」、「得点学力への偏重あおる」―地域・学校間に点数競争が激化、『平均点を上げろ』と追い立てられ、授業がそれに引きずられることになる、と。

8、大学入試改革
①政権側
  大学入試センター試験を見直し「達成度テスト」(複数回実施、成績をABCなど何段階かのランクを定め、それぞれの大学でどれかのランク以上から面接・論文・部活・ボランティアなどの活動内容をみて、やる気や将来性が感じられる者を選ぶ)に切り替え(「教育再生実行会議」案)
②批判側
全国高校607校からアンケート―53%が否定的回答。
 全国高校の校長・大学の学科長への調査(ベネッセ教育総合研究所)では
  「センター試験を廃止して大学入試を改革しても、高校生が積極的に勉強するようにはならない」という否定的回答の方が多く、「大学での進級や卒業の認定基準をもっと厳しくしたほうがよい」という回答が高校側・大学側とも大多数で、「高大7年間を通じた学びの向上が課題なのに」、入試制度のやり方を変えてもダメだというわけ。
9、大学・学術研究
①政権側  グローバル競争と産業界に貢献する大学に再編へ
 大企 における先端研究を効率的に強化するために、一部のエリート大学にカネを集中するなど、大学の格差化・淘汰をいっそう進める。
 教授会を弱体化し、学長に権限を集中する方針(学校教育法「改正」企図)。
②批判側  競争は学者・研究者にじっくり腰を据えた取り組みを妨げ、焦りや無理を冒して失敗・過ちを犯しがちとなる。

これら①の安倍政権の教育改革―どれも問題を解決するどころか、教育のゆがみに拍車
                   ゆがんだ愛国心・競争心・歴史観を押し付ける
Ⅴ.望ましい教育 「学ぶことが、楽しく、喜びとなる」ような教育(教育学者・汐見稔幸)
 教育の目的
  ①子どもに「生きる力」を育てること
    読み書き、計算、話し聞く(対話力・コミュニケーション能力)
    身体知識・自然・社会の基礎知識
    自主性、工夫する力(知恵)、社会性(対人関係能力)、臨機応変能力・危機管理能力など(親や大人が「教え込む」のではなく、子ども同士が地域社会で遊びの中で試行錯誤しながら自然に身に付ける)
    自分で目標を決めて(自分が一番したいことを見つけて)頑張る―マイペースで
  ②子どもを将来幸福にすること
  ③自ら社会をつくる意識や批判的な見方ができる素養の育成(シチズンシップ教育)

いじめ等の子どもの異変対応―教師が1人で問題を抱え込まず、連携、学校全体で取り組む(情報や悩みを共有できる組織づくり)

2014年04月01日

歴史認識・安全保障・原発に対する二つの見方・考え方(再加筆修正版)     

 ①楽観的・独善的な見方・考え方(他人・他国に対して厳しいが、自分・自国に対しては甘い)―最悪の事態なんてあるはずがないと(軽視・度外視)―「不敗神話」「安全神話」を信じ込み思考停止―実際それがあると(起きると)それは想定外だったと。
 ②シリアスな(深刻にとらえる)見方・考え方(自分にも厳しく最悪の事態を想定し覚悟のうえに立って判断)

以下各項①は楽観的な方の立場、②はシリアスな方の立場
Ⅰ、歴史認識―かつての我が国による植民地支配と侵略をどう考えるか
  ①「正当な併合、自存自衛の戦争」だと。
   靖国神社(単なる中立的な追悼施設ではなく、天皇のために殉じた軍人の武勲を讃え英霊として祀る顕彰施設)はこの立場にたち、そこへ安倍首相や麻生副総理ら閣僚が参拝。
  ②「不当な植民地支配、侵略戦争」だと―自らに対して厳しく責任を意識した歴史認識
                                                              

  ①の立場に立つ論者は②を「自虐史観」だとけなす。
 被害国(中国・韓国・北朝鮮など)では日本軍の侵略性、従軍慰安婦についてはそれに対する強制性を断じ、犠牲者を多め(我が国の①の論者からすれば「過大」)に数えているが、我が国の政府や①の論者は、それらを認めたがらない。そして安倍首相は「侵略」か否か、その定義、犠牲者数など学界では様々異説があって確定してはおらず、それらは歴史家の議論に委ねるべきなのであって、政治家が外交問題として取り上げて論じるべき筋合いではないと言う。
 歴史学者や研究者によって正確を期した厳密な実態究明は当然あって然るべきだろう。しかし、それが確定していない(被害・加害など実態が正確につかめてはおらず、検証も難しく評価・見解が分かれる)。また公正な裁判で(そこでは加害者側は出来る限り賠償や罪を免れようとして自分に有利な証言・証拠にこだわるものだが)適切な証言・証拠に基づいた判定があって然るべきところ、戦勝国(連合国)側の一方的な裁判があった以外にはそれもない(死人に口なしで、生き証人も、何十年も経って多くは亡くなり、証拠・文書など初めから残さないか、焼却されて残っておらず、裁判は成立困難)。
 しかし、それはそれで(歴史研究上、或いは法的な扱いは別として)、政府・国民としては、被害国民に対する道義・礼(誠意)として、最大限の(はっきりしたことは判らなくても相手がそういう思いでいる以上、その「最悪の事態」にまで思いを致し、もしかしてそういうことはあったのかもしれない、だとすれば大変申し訳ないと)反省・謝罪の心を示さなければならないわけである(足を踏んだ方は忘れるが、踏まれた方はいつまでもその痛みを憶えているもの。いじめられたと言って泣いている子に、いじめた側が「10発もやってない、5発しかやってない」とか、番長が「おれはやってない、やらせてもいない、証拠あるか、あるなら見せてみろ、嘘つきはそっちだ!」などと居直るのでは和解はできまい。自分の非を潔く認めようとしない、それは相手側から見れば「卑怯」と見なされることになるから)。要は二度と再び繰り返さないという決意を示すことなのだ。
  ①の立場に立つ論者は、「証言はあっても証拠がない」として、そのような事態はなかったか、あっても大したことはない(その程度のことはどの国でもあったことで日本に限ったことではない)のだと安易に考えがち。それに対して②の立場に立つ論者は、確証はないとはいえそういうことは事実あったかもしれないし、あったとすれば大変なことだと厳しくとらえ最悪の事態も想定して、相手国に対して率直に反省・謝罪しなければと考える。

 1、従軍慰安婦問題―軍の関与
  ①軍や官憲による「強制連行」を直接示すような公文書(通達や命令書)は見当たらないと。
  ②軍の関与はあったし、強制性も認められる―軍が慰安婦の募集(軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、官憲等が直接これに加担したことも)・移送・慰安所の設置・管理(女性たちを監禁拘束、強制的に兵士の相手をさせる)―これらは「甘言・強圧による等、総じて本人たちの意思に反しておこなわれた」ことは間違いない。それをおこなってもその証拠となる公文書など残すわけない(当時の国際法<1910年の「醜業を行わしむる為の婦女子売買禁止に関する国際条約」>で「婦女子売春目的で勧誘・誘引・拐去(誘拐)した者は本人の承諾があった場合でも処罰する」と定めていたからだ)。しかし各国の元慰安婦が日本政府を相手に謝罪・賠償を求めて提訴した日本の裁判では損害賠償請求は(時効、除斥期間の経過、国家無答責、個人を国際法の主体と認めないなど国内法・国際法上の理由で)却下されはしたものの、10件中8件について被害の実態は詳しく事実認定、と。

 政府(安倍首相)は、軍の関与を認め謝罪した「河野談話」は「見直さない」と言明しつつも、「検証はする」と。(検証の結果次第では見直すということになるのでは?)
 2、南京大虐殺
  ①大虐殺など無かった(でっち上げだ)とする見方。
  ②それは事実あったとする見方。
  政府は、日本軍による非戦闘員の殺害、略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については(中国側は30万人としているが)諸説あり、どれが正しい数か認定は困難としている。

 {米ハーバード大学名誉教授エズラ・ボーゲル―米国有数の知日派で中国通―いわく「僕の目からみると、日本人の多くは悪いのは軍国主義で、一般の国民は悪いことをしなかった、被害者なんだと思っている。もちろん原爆投下などで日本人は被害者でもあるが、一方で、周辺諸国に対して加害者でもあるという意識が、外国人の目からみると決定的に足りないと感じている」「ドイツ国民の間には、ナチスだけでなく我々も悪かった、間違っていたという罪悪感がある。・・・ドイツの指導者は今でも頭を下げて謝りますよ。日本では・・・アジア侵略を正当化する靖国神社の遊就館などの展示もある。ドイツではあり得ないでしょう」「A級戦犯合祀と遊就館がなければ、反対の動きはある程度まで収まるのではないか。」「もし『30万人だ』という見方に対して日本側が『それほど多くない』といえば中国人は怒る。問題は数が少なくても、旧日本軍がとった行動自体は正当化されない、ということです。被害者側からすれば、日本は自分たちのことを悪くないといっている、と逆に宣伝するだろう」「僕が日本人なら、こう言うだろう。被害者数については様々な見方がある。それでも当時の日本人は、旧日本軍の兵隊は中国人に対して悪いことをした。日本人はもう二度としません、と」(朝日19日付「オピニオン」欄)}

Ⅱ、原発―政府(エネルギー基本計画案)は、原発は費用が安く安定的で「重要なベースロ-ド電源」と―原発依存政策―現行(稼働なら)26%→35年29%
  再生エネ(水力ふくめ)―現在10%→20年13.5%、30年20%―主力電源とは位置づけない
   核燃料サイクルも推進、高速増殖炉「もんじゅ」も維持。
 ①原発再稼働・輸出を容認
   安全は確保されている(「安全神話」に固執)
   放射能は大丈夫(福島では一人も死んでいない)、健康への影響はそんなに心配する程のものではない―被曝しても20ミリシーベルト以下なら(喫煙・肥満・野菜不足などより)リスクが小さい(悲観論者の考えは「被害妄想」だと)。
   汚染水はコントロールされていると。
   発電コストが安いと(無事故で寿命一杯フル稼働した場合の話で、核のゴミ処分費用、事故対策費、防災対策費、立地自治体への交付金・寄付金など度外視しての計算)
 ②再稼働・輸出に反対
   安全は確保されない。過酷事故が起こる確率は極小とはいえ、ひとたび起これば今度こそ(今回のフクシマ程度ではすまない、もっと過酷な)最悪の事態になりかねない。
   放射能は計り知れない危険性を持つ―急性死者は出ていないが放射能の長期にわたる累積による晩発性がん死も。20ミリシーベルト以下の低線量でも長期間被曝すればダメージを受け(細胞中のDNAが破壊され)続ける。
   使用済み核燃料の処分場がなく、放射性廃棄物を捨てる場所もない、再稼働して使い続ければ、それは益々増え続けることになる。
   汚染水はコントロールなどされていない―トラブル続き
   メルトダウンした核燃料デブリ(溶融物)はそのまま手つかず。未だに14万人が避難生活。
   原発は戦争やテロの標的になってしまう。
   原発はむしろ不安定電源―実際に発電している設備利用率は13ヵ月ごとの定期検査やトラブル・地震などで度々止まり、上がったり下がったり。ひとたび事故が起これば一気に大電力が無くなる。
   原発なし(大飯原発が昨年9月定期検査で停止して以来全部停止)でも間にあったし、間にあわせられる。
   原発コストは実際は火力よりもむしろ割高で、安全対策費・事故対策(損害賠償費・除染・汚染水対策費など)・廃棄物処分費用・廃炉費用なども含めれば膨大。
   再生エネは普及に伴ってコスト低下が加速。
   再生エネ(水力ふくめ)は20年までに25%、50年までに100%可能

Ⅲ、安全保障―軍備―自衛隊と日米同盟―政府は集団的自衛権の行使も容認へ―アメリカその他「我が国と密接な関係にある国が攻撃された場合、(限定的に)自衛隊が加勢・参戦できるようにする(限定とはいっても、いったん認めれば、時の政府の判断しだいで、行使の地理的範囲も対象事例も拡大)。
   武器輸出は解禁(「武器輸出三原則」の撤廃・「防衛装備移転三原則」閣議決定)―とりわけ先端兵器は高価で輸出すれば儲かる―原発輸出とともにアベノミクスの成長戦略の一環
 ①軍備があれば安全―中国・北朝鮮などに対して「抑止力」になるとする。
   「集団的自衛権の話をすると直ぐ爆弾を落とす写真が出ますけども、そういうことを現実にやろうと思っているわけではなく」といって「抑止力」のほうを強調し(自民党参議院議員・首相補佐官・礒﨑氏)、「この(集団的自衛権の)話は戦争をする議論ではなく自衛権の議論。そこを踏まえないと不要な不安を与えることになる」(維新の会国会議員団幹事長・松野氏)などという言い方で「戦争する考えはないのだと」いうわけだが、それら(軍備・日米同盟強化・集団的自衛権の行使容認)は戦争ー最悪の事態につながる筈のものなのに、それを度外視、その覚悟はないのだ。
   中国や北朝鮮などからの武力攻撃は日米同盟・集団的自衛権の行使容認(によるパワーアップ)で抑止でき、戦争は抑止できる(相手は手を出せない)だろうし、戦争事態になっても首尾よく勝てるだろう、というところまでしか考えを及ぼさず、軍事的に負けはしなくても(圧勝しても)、取り返しのつかない大量死・大量破壊・両国民の心にダメージ(傷)を招くという最悪の結果もあり得るというところまでは想定しない(自国の軍備を勇ましく主張する政治家らは、それを想定しても、自らは戦場に赴くことはないし、大丈夫だと思っている)のである。
 中国や北朝鮮の「脅しには屈しない」というが、中国あるいは「北」が米国領域へ向けて弾道ミサイルを発射すれば自衛隊が迎撃して撃ち落とす、などとして集団的自衛権の行使容認を決定すれば、それが中国・「北」に対する「抑止力」になるのだなどといっても、日本は中国・「北」から武力攻撃を受けていないのに中国・「北」を攻撃するというのであるから、それは向こう側から見ればリッパな「脅し」になる。そして、それ(迎撃)を実行すれば、日本が中国・「北」から報復攻撃を受けることになる。かくて日中戦争もしくは日朝戦争になる。そこまで考えてるのかだ。
 ②政府の軍備・同盟強化政策はかえって危険―軍事緊張を高め戦争を招く(誘発する)とする。 
  自国側の軍備・同盟・兵器開発・合同演習は「抑止力」というが、向こうも同じことを(「抑止力」だと)考えて軍備増強・兵器開発・実験・演習。中国・北朝鮮などのそれを「脅威」「挑発」と見なすが、それらの国も日米韓のそれを「脅威」「挑発」と。(相手側のは「脅威」・「挑発」で自分側のは「抑止力」だという言い方は、自分に都合のいい言葉の使い分けに過ぎず、所詮同じこと。)それら互いの応酬はシーソーゲームで軍事緊張は高まるばかり。
   最近の朝日新聞世論調査(中国と韓国の市民からも)で「軍事的に脅威を感じる国は」、日本では「中国が脅威」が一番多く55% で「北朝鮮が脅威」が29%、中国では「アメリカが脅威」と「日本が脅威」がともに42 %で一番多く、韓国では「北朝鮮が脅威」 65%に次いで多いのが「日本が脅威」20%。
   「東アジアの平和を脅かす要因」で心配されているのは、日本では「領土問題」が63%で「中国の軍事力」が48%、中国では「日本の軍事力」が49%で「領土問題」が36%、韓国では「領土問題」が58%「朝鮮半島情勢」が50%で「日本の軍事力」が35%と、他に対して多い。いずれも日本側で「脅威」・「心配」と思っている相手国では日本が「脅威」「心配」と思っている人が多いのである。

●人によっては、性格的に自分には甘く、他人には厳しいとか、独善的で身びいきし、自分の立場に固執して相手の立場に立てない人もいるし、謙虚で自分には厳しく他人には寛大で、自分や身内の心配よりも相手の方を心配するお人好しもいる。また、性格的に楽観的な性格の人とそうでない人に分かれ、そこで判断が分かれたりする。
 そもそも、人はとかく、いい方・楽な方を選びがちで、暗い方・悪い方には考えたくないもの。
 しかし、他のことならいざ知らず、こと戦争や原発災害などに関する限り最悪の事態は(起きる確率は少ないとはいっても)いったん起きてしまえば被害は小規模では収まらず、取り返しのつかない結果を招く。だからこそ、この種の事案は最悪の事態を想定してかからないわけにはいかないのである。
 個人としてなら、自分の都合(従事する職業や事業・生業、人生観・価値観など)で有利か不利かを考え、自分の命さえ大丈夫ならそれでいいとか、そう考える人が多くて政府・国会もそう決めたのなら、それが(自然災害と同じに)運命と思って決まったことに黙って従えばいいといって済ませられるだろうが、為政者・国のリーダー、或いは彼らを選ぶ主権者としてだったらそうはいくまい。子々孫々・自国民・他国民・ひいては人類(存亡)が被るあらゆる事態に対して責任を負う立場で考えなければならないからだ。
 自分にはそう考えた方が都合がいいとか、絶対大丈夫だと断言はできなくても自分の命はまず大丈夫だろうし、おそらく皆も大丈夫のはずだと思うからといって、その考えを(それは自分だけでなく、それが「多数派」の考えだからといって)他人や社会に押し付け、最悪の事態(戦争や原発災害)にすべての人(子孫・諸国民・人類)を巻き込むことは許されまい。
 多くの人々に対して、また国民に対して責任がある為政者・彼らを選ぶ有権者も、政策・プロジェクトの是非の判断・選択に際しては、予めそれによって生じるかもしれない最悪の事態を(その結果に対する責任をも含めて)想定してかからなければならない。起きてしまってから想定外だったでは済まされないのだ。
 これまで我が国では、そのあたりのことがどうなっているのか極めて疑問。戦争にさいして、また原発建設にさいして、過去にも現在にも自ら責任を取った者は誰かいるだろうか。先の戦争については極東軍事裁判などで連合国側から追求されてそれを受け容れた以外には、主体的に自ら責任を取った者はほとんどいない(元首相の近衛文麿や元陸相の阿南・杉山らの自害はあるが)。今回の原発事故でも責任問題はほとんど不問にされている。菅元首相ら事故当時の民主党政府関係者と東電幹部ら計42人に対して告訴(福島原発告訴団)はあったが、検察庁は「刑事責任は問えない」として全員不起訴にしているし、事故以前から原発政策を推進してきた政権党の自民党も電力会社など関係企業の誰も責任を負おうとはせず、責任を問われもしない(小泉・細川・菅両元首相に反省の念が見られるくらい)。
 
 国の政策でも他のことなら、国民は、その人その人それぞれの立場で個人的には有利か不利か影響があるかないかで分かれはしても、多数派による決定には従うほかなく、そのような政策は自分にとっては不利だから反対だと言っても、政府や国会で決まってしまったことだし、それで自分が死ぬわけでも絶望に陥るわけでもないんだとすれば、「しょうがない」と言って諦めればそれで済む。消費税などは当方にとっては全く不利であり不利益にしかならず、憤懣やるかたなく反対はするが、それでも国民多数が支持する多数党によって国会で合法的に決まってしまったものは、払わないわけにはいかないし、「しょうがない」と言って諦めるしかないわけである。
 しかし、こと戦争や原発問題などのことに関する限りは、そうはいかない。それによって想定される最悪の事態(大量死・大量破壊、時間的・歴史的・空間的に広範囲にわたって人が住めなくなるといった事態)に計り知れない多く人を巻き込むことになるからである。諦めて済む問題ではないのだ。
 性格的に楽天的な人も、無頓着な人も、(「何事も運命だからしかたがない、なるようにしかならないのだ」などと)諦めのいい運命論者も、こと戦争と原発のことに関する限りは悲観論者の(物事をシビアに考える)立場に立ってもらわないと困るのだ。
 最悪の事態をあまり考えずに「大丈夫だ、大丈夫だ」という楽観論に立つ政府とそれを支持する人たちによって決定を押し付けられて、最悪の事態(戦争と原発事故)に巻き込まれるなどまっぴら御免だし、そんなことを許してはならないのだ

 日本が起こしたアジア・太平洋戦争はそれこそ最悪の事態だった。それに懲りて憲法で戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を国の内外に約した筈。なのにその憲法解釈で「自衛隊」と称して再軍備を行い日米安保条約を結んで軍事同盟を形成、今やそれをさらに、自衛隊が自国が攻撃されてもいないのにアメリカの戦争に海外のどこにでも行って加勢・参戦できるようにすることによって、それと引き換えに尖閣で日中が軍事衝突したら必然的に米軍が日本(自衛隊)に加勢してくれることを当てにして(想定して)「集団的自衛権」の行使容認解釈に踏み切ろうとしている。それは、これまで朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争などいずれも参戦(戦闘参加)できなかったのができるようになるということであり、これから第二次朝鮮戦争でも起きれば今度は自衛隊が参戦し、向こうからノドンとかムスダンなどのミサイルが日本に飛んでくるという事態にもなるだろうし、第二次日中戦争も起こりかねず、再びかつてのような最悪の事態を覚悟しなければならないということなのである。そんなのを許していいのだろうか。

 ①の(楽観的な)立場(マインド)に立つ安倍政権とその同調者たちのせいで最悪の事態―戦争(核戦争)や原発事故―を再び繰り返して、この国内外の数多の人々とともに我が子孫の運命が終ってしまうようなことは絶対あってはならないのである。

2014年05月01日

我が国の安全保障政策はどうあるべきか―力か信頼か(再加筆版)

(1)国家安全保障か国民の平和的生存権保障か
  「国を守る」とか「国防」とか「安全保障」とか言うが、国家の論理(「個別的自衛権も集団的自衛権も自衛権は自国の存立を全うするために国際法上認められている国家固有の権利」)に基づく「国家安全保障」と国民の論理に基づく「国民の平和的安全保障の保障」とがある。戦争では前者のために後者が犠牲にされることもある(指導部や部隊を守るため、市民・住民が犠牲にされるなど)。
  国民にとって大事なのは国民の平和的生存権(平和で安全な環境のなかで生存する権利)を保障することだろう。(「国の存立を全うするための自衛権」などといった国家本位の視点ではなく、国民一人ひとり、或いは諸国民の平和的生存権という視点。)(尚、2008年4月の名古屋高裁判決では平和的生存権は全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるとして次のように定義している。それは「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質を持つ基本的人権である」と。)
 国家の存立目的は国民が平和で安全に生活・生業を営めるようにすることにある。国家の在り様は国民の命運を決定的に左右する存在であり、国家(政府機関・警察・裁判所など)は国民にとって有用な手段としてなくてはならない存在ではあるが、国民がそのために(「お国のため」と)その平和的生存権や人権が犠牲を強いられるのでは本末転倒。国民にとっては国家はあくまで(国民の平和的生存権・人権を守るための)手段なのであって目的ではない。「国を守る」といっても、国民が国家を守る(国民に国家防衛義務がある)のではなく、国家のほうが国民を守らなければならないのであって、国家は国民(一人ひとり)の平和的生存権や人権を他国あるいは他の自国民の侵害から守るのと同時に、国家(政府)自らが国民の平和的生存権や人権を犯す結果となるような政策や措置を執ったりしてはならないのである。
 平和的生存権は自国民のもならず世界の諸国民に保障すべき最重要の人権であり、戦争は最大の人権侵害なのであって、国民は国家に戦争をさせてはならないのである。

(2)安全保障の2つの相異なるやり方
①イデオロギーや利害が対立する国に対して対抗力(軍事力)を強めること(軍備強化)による安全保障。
 領土問題など係争問題は軍事力を背景とする外交力によって自らに有利に解決。いざとなったら戦争で決着(それで決着がつけられるような生やさしい時代ではなくなっているのに)。
 軍備は他国からの攻撃抑止のためで、実際戦争するつもりにはしていないとは言っても、戦争を想定しての「抑止力」であり、戦争覚悟を前提にしている。戦争は命の大量犠牲・破壊を伴い、平和的生存権とは相容れないもの。
 軍備強化は他国(対立する相手国)による攻撃を抑止するための「抑止力」と称するが、他国・相手国も自国の軍備強化を「抑止力」と称して正当化→軍備競争となる。
 軍備は他国・相手国は敵対していずれ攻撃してくるかもしれないからという不信(それが信頼関係の妨げになること)を前提。軍備はいざという時には(相手が攻撃してきたら)使うことを前提(単なる「張子の虎」では済まない)のである。使えば(軍事衝突→戦争)大惨害にいたる。その覚悟(最悪の事態想定)が必要。
 なのにそれを、そんなことはあり得ないと高をくくり、強大な軍備があれば安全は保障されると信じ込むとすれば、それは「安全神話」。(圧倒的な軍備・軍事力を持つアメリカはベトナム・アフガン・イラクで失敗を重ね、戦争を泥沼化させ、かえって惨害を大きくしてきた。アフガン・イラクは未だに収拾がついておらず、帰還米兵の3分の1(60万人)はPTSD・心的外傷後ストレス障害で一日平均22人が自殺。イラクの「非戦闘地域」に派遣された日本の自衛隊員も帰還後1~3割が精神不調、28人が自殺。)
 北朝鮮などに対しては自衛隊・日米同盟・集団的自衛権行使容認など軍備を強化しておけば、北朝鮮は手も足も出ず、暴発しても反撃・撃破できるし、あっさり片が付き、国民の平和的生存権は回復・保持できる、などといっても、はたしてそんなに簡単に?

②どの国も敵視せず、敵にまわさず、敵をつくらず信頼関係を築き、ルールを守り、対話・友好協力・交流によって安全保障。
(係争問題は外交交渉によってウイン・ウインで解決)
 攻撃抑止(予防)の最善の方法は軍備を持たないこと(軍備を持つから攻撃されるのであって、軍備を持たなければ攻撃されない)。軍備を持たなければ、隣国に安心感を与え信頼関係を築ける。
 「他国から侵略されて現実に国民の生命や財産が脅かされているときも何もしないのか?」といえば、それは国家のあらゆる手段・あらゆる方法・あらゆる機関(領海・領空警備警察力など)を動員し、国際機関、諸国の支援協力を得て阻止することに努めるのは当然のことであるが、戦争だけはしないということなのである。

 ①と②とでどっちがユートピア的(非現実的)か?どっちが「平和ボケ」(戦争の実態・悲惨さを知らない)か?どっちが戦争が起こる心配がなく平和・安全でいられるか?だ。

(3)安倍政権の安全保障のやり方
 どちらかといえば①で軍事偏重(「積極的平和主義」とは言葉のレトリックで、実質は米軍を補完する自衛隊の軍事力を背景とするアジア・太平洋、インド洋・中東・アフリカその他諸地域への積極的な関与政策)
  軍事依存―自衛隊・日米同盟の強化を背景に中国・北朝鮮に対抗、その他の諸国とは連携強化して「中国・北朝鮮包囲網」を策す。
         軍備は世界第5位 
  中国・北朝鮮に対して(韓国に対しても)信頼関係を築くことには消極的(不熱心―不信をかう原因を除去しようとはせず、それを相手のせいにする)。
    対話を(「扉はいつでも開いている」などと)呼びかけはしても、相手は不信感をもち、それに応じない。その不信感を招いている原因(尖閣の領有権問題は先方が日本側の実効支配を認めつつも「棚上げ」としてきたものを日本政府が一方的に国有化し「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉を突っぱねていることや、先方が靖国神社は中国・アジア各地をじゅうりんした侵略戦争を正当化し、戦争指導者「A級戦犯」を合祀しているところなのに、そこへ首相や閣僚が参拝していること等の不信の原因)を除去しようとはせずに、むしろ対立を助長(アメリカ大統領からたしなめられている)。
 安倍政権が今おし進めている軍事強化(自衛隊と日米同盟の強化、集団的自衛権の行使容認など)は国民の平和的生存権を守るというよりは、むしろ危うくするもの。

(4)我が国はどの安全保障のやり方をとるべきか
 憲法―日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国に戦力を持たせず、交戦権を認めず、戦争をさせないことを定めている―我が国の安全保障はこれに基づく。(安倍首相は「平和を愛する諸国民」には北朝鮮も入っている。そんなバカな話はない」、他国民の信義に期待するような憲法では国民の生存や安全は守れず、拉致事件を招いたと言っているが、戦前・戦後の歴史的経緯を振り返れば、日本の植民地支配、強制連行・従軍慰安婦などがあり、それらの清算は日本は未だにつけておらず、相手側から見れば日本の側にも信義が疑われるところを残しており、北朝鮮国民の信義など期待するほうがバカだと一方的に決めつけられるものでもあるまい。海上保安庁・警察・自衛隊それに米軍基地まで置いていて、それでも拉致を防げなかったのを、自民党案の憲法なら防げたというのだろうか。)
 要するに諸国民に対する信義と信頼に基づく政府間・市民間の外交・交流よる安全保障。

 そこで最も必要なのことは― 諸国民・隣国民に対して尊敬(相手の立場を尊重)・理解(相手の立場・心をよく知ること)、過去に行ったことに対して謙虚に反省(自分の非は率直に認める)―それらが信頼を得るには不可欠。
 慎まなければならないこと
     ①自慢・自尊(うぬぼれ)、自分を誇示すること、自己弁護(自分の非を認めず正当化―自分の非を真摯に取り上げ、率直に自己批判すると「自虐だ」と非難する)―「日本はいいこともした」「(植民地支配で)その国の発展の土台をつくった」「向こうにも責任がある」などと
     ②独善―靖国参拝をして「国の為に命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるのは当然のことだ」としか言わない―問題はそこ(自国の戦争を正当化し、それに命を捧げた軍人をA級戦犯たちをも合わせて祀っている神社)がそれに(公正な追悼施設として)相応しいところなのかが問題なのであり、本音では「あの戦争は正当な戦争であり、戦犯たちも誰も悪くはないのだ」と思っているからこそ参拝したのだということを言い逃れている。
     ③卑屈―こびへつらい(調子よく合わせたり、おもねる)
   これらは相手の神経を逆なで、不信をかう元になる
      自尊・自己愛・愛国・プライド、その裏返しの屈辱感はどの国民にもある自然の情で、相手も同じ。互いにそれにこだわり、自己主張すればぶつかるし、相手の感情を無視した一方的な強弁は反感を招く。特に加害側が被害側に対して強弁すればことさら反感を招く。傷の痛み加害側は忘れていがちだが、被害側は忘れないのだから。それだけに加害側は慎まなければならない。

  歴史問題:韓国併合・慰安婦・創氏改名・強制連行・伊藤博文と安重根
       日清・日露戦争・対華21ヵ条要求・五四運動・柳条湖事件・盧溝橋事件
       南京虐殺・三光作戦
       教育勅語・靖国神社・治安維持法・

      これらに対する認識・・・・歴史教育のあり方が問題

(5)信頼関係を築くには
 歴史認識・価値観の共有を追求し、共通利益(ウイン・ウイン)を追求すること。
 (元駐韓大使の小倉和夫氏の提言に「日中・日韓関係どう打開―自国の歴史見つめる勇気―人権じゅうりんの教訓導いてこそ、価値観共有できる」と。)
 日中・日韓の間で(日米の間でも)近現代史(戦前・戦中)の歴史認識・政治的価値観は一致点共有を追求すべきか、それとも相違点で対決・いがみ合いを続けるか。
 同じ日本人でも、戦前・戦中の世代と戦後世代・若者で歴史認識・価値観にギャップがあるが、一致点共有(ギャップを埋めること)を追求すべきか、それとも人それぞれ立場によって認識の相違があり、世代間ギャップがあるのはやむなしか。
 ①日本による侵略と植民地支配について(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ知っているか)
 ②日本国内に暗黒時代があって、治安維持法などによって自由・人権・反体制運動の激しい弾圧があったことについて(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ死っているか)
 その実態をよく知ること(歴史から謙虚に学ぶ)―知れば(学べば)歴史問題の共通理解はできるはずであり、それぞれの反省・教訓の上に立って、自由・人権・民主主義・平和主義・反軍国主義など価値観の共有も不可能ではないはず。追求すべきは相互理解、歴史認識と価値観の共有、共通利益であって、そうしてこそ信頼関係が築けるというもの。
 安全保障はその信頼関係構築によって成立するのであって、中国・北朝鮮などとの価値観の相違を強調し、それらの国以外の「価値観を共有する国どうし」で仲間をなして経済的・軍事的に対抗(「対中包囲」)するというやりかたではとても危く、けっして安全保障にはなるまい。
                                                        

2014年05月07日

現行憲法と自民党などの憲法観の違い

3種の憲法観
①立憲主義的憲法観―国民が人権を守るために国家(権力)に縛りをかけるのが憲法(「個人あっての国家」という国家観)。
②国家主義的憲法観―国の基本的なあり方を国民に示し、国家の為に国民が守るべきルールを定めた基本法が憲法(「国家あっての個人」という国家観で、国家が国民に縛りをかける憲法観)。
③国家と国民の協働型の憲法観―国の基本的なあり方・目標を示し、国家と国民それぞれに責務を課し、それぞれが守るべきルールを定めた基本法が憲法。「国家と国民が対立するのではなく、和を尊び、家族や社会が互いに助け合い、一緒になって国家を形成する」などと綺麗ごとを言うが、国家中心の視点で、国民は国家に対して責任と義務を負い、社会の安寧秩序を保持し、積極的に社会の福利に寄与すべき義務を負うという考え方であることには②と変わりない。
 国民の間には利害対立や考え方の違いがあるのは厳然たる事実であり、何かにつけ多数派と少数派とに分かれ、多数派権力から少数派が忍従を強いられのが現実である。このような権力から平和的生存権を守り、人権の侵害を防がなければならないのだ。


 ① は欧米の近代憲法観で、現行の日本国憲法もこの憲法観に立っている。
それに対して、改憲をめざしている自民党が打ち出している憲法観は③の憲法観―例えば同党の改憲草案9条の3「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土・領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」とか、同12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利・・・・。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(当方は在職中、生徒によく「お目らな!自由には責任、権利には義務がともなうもんなんだぞ!」と言って説教したものだが、それは上から目線で教え諭す言い方で、そんなことは大人になれば言われなくても分かり切った話だが、憲法は教師が生徒に垂れる説教書とは事が違うだろう。「国民は…常に公益及び公の秩序に反してはならない」ということは、国益や公共の目的のために人権を制限することが認められるということであり、それは政府の政策決定や国家の安全、治安維持の価値が個人の人権に優先されるという考え方なのだ。)それから現行憲法(99条)では「天皇又は・・・及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と定めているが、自民党の改憲案では(102条で)「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない。2、国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」として、憲法尊重擁護義務規定から天皇をはずしておいて、現行憲法には無かった国民の憲法尊重義務を加えている。
 
 憲法学者の辻村みよ子氏の見解では「憲法を作って、国家を縛るものが立憲主義であり、憲法は、国民がたえず国家を縛るために、ライオン(公権力)を制御するためにつくりあげた檻である。それなのに、檻の中にライオンと一緒に国民が入ってどうしようというのか。・・・・結局は檻の中で国民が震えている」と。

 どの憲法観がいいのか。為政者にとって都合のいいのは③の自民党流憲法観だろうが、国民にとってはどうなのだろうか。

 <参考―辻村みよ子「比較のなかの改憲論」岩波新書>

2014年05月16日

集団的自衛権―法制懇の報告書と首相会見(加筆修正版)

(Ⅰ)法制懇の報告書
(1)憲法解釈の変更の必要性(理由)
  ①「我が国を取り巻く安全保障環境が(技術の進歩や国境を超える脅威の拡大、国家間のパワーバランスの変化等によって)より一層厳しさを増している」から
  ②国際社会全体による対応が必要な事例の増大により、我が国が幅広い分野で一層の役割を担うことが必要となっているから。
 問題は主として①の「我が国を取り巻く安全保障環境」が「脅威の拡大」で「一層厳しさを増している」からだ、ということだろう。
 その「脅威」とは中国と北朝鮮を指している。これらの国から攻撃を受けるかもしれず、戦争になるかもしれない、という危機感?(或いは庶民のそれを政治的野望に利用しようとして脅威・危機感を煽るなどの思惑?)をもっているということ。
 問題は、その戦争の危機は回避できないのか、戦争になったらその結果はどうなるのか、である。法制懇には(安倍首相にも)(どうやら「戦争も辞さず」ということで)必ずしも回避しなくてもよいという意識があるのでは。(靖国参拝などをわざわざ控えてまでケンカを避けなくてもかまわない。尖閣問題は交渉の余地はなく問答無用とばかり突っぱねておいて、「対話の扉はいつでも開いている」としかいわず、むこうが折れてくるのを待っているだけ。)
 戦争になったらなったでしかたがない。勝てればいいのだと―楽観主義、安易感―勝っても負けても戦争になったらお終いだという危機感よりも、愛国心(自己愛)とともに中国・北朝鮮に対する対抗心(反中・反朝ナショナリズム)・憎しみ・執念のほうが強烈なのか。
 問題は、戦争がもたらす取り返しのつかない結果―負けても勝っても、自国にも相手国にも計り知れない人命・資源・財産を犠牲・無駄にし、人々の心に癒しがたい傷・恨みが残るということ。だからこそ、戦争だけは絶対避けなければ、ということになるのだが、そこまで考え抜かれてはいないきらいがあるということ。    

(2)法制懇の報告書の結論は―要約すれば
 ①個別的であると集団的であるとを問わず自衛のための武力行使はできる。
 ②国連の集団安全保障措置や多国籍軍への参加もできる。
 ③PKOにおける駆けつけ警護・妨害排除に際する武器使用は自分の身を守る正当防衛だけに限らず認められる(武力行使には当たらない)。
 これらにはいずれも「憲法上の制約はない」のだと。
 それらのための必要最小限の実力は「戦力」には当たらず、それらのための交戦権(武力行使)も認められる(9条2項で禁止する交戦権とは「別の観念のもの」だと)。

 要するに、あからさまな侵略戦争(そもそも、そのようにして武力行使を始める国などあり得ない戦争)や「我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力行使」以外なら武力行使も戦争もどんなケースでも(アメリカやかつての日本が「自衛戦争」と称して始めたような戦争も)認められる、という解釈になる。
 ただし、集団的自衛権については、「我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」(に限定して)(必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加することができる)という、そのような場合に該当するかについては、「日米同盟の信頼に著しく傷がつく」など我が国への深刻な影響が及びうるかなど諸点を勘案しつつ政府が判断する、ということは必要最小限とはいっても集団的自衛権の行使(自衛隊はどこへでも出かけて行って参戦・武力行使)は政府の判断しだいでできるということ(事前または事後に国会の承認を得る必要はあるものの)。それにアメリカからの要請には断れないし、やるしかないことになる。
 このような憲法解釈は事実上9条(「戦争放棄」条項)を骨抜き・有名無実にし、戦争と武力に対する歯止めを取り去ってしまうもの。

 こうして、あらゆる事態(ケース)に自衛隊を活用し、軍事対応・武力行使ができるようにする、ということだろう。

 それを「国民の命を守るため」だというが、自衛隊が出動して、武力を行使して戦争になったら、さらに命は失われる(全面戦争にでもなったら、それこそ大量の命が失われる)ことになるという矛盾がつきまとうのだ。

(3)様々なケースを想定し、戦争までも想定しているとも言えるだろう。どうやったら勝てるか(有利に戦えるか)(そのための装備・作戦・民間の動員・協力・避難対策)まで想定している。
 ところが、そこから先、勝っても負けても、戦争によって両国民にもたらされる結果―人的・物的・精神的被害(帰らない数多の命、消えることのない心の傷など)はどれ程のものか―まで想定しているとはどうも思えない。問題はそこにある。

(4)報告書は「憲法9条1項が我が国の武力による威嚇または武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇・武力行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず」と。
 「不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない」というが、それは逆なのであって、同条約が締結以後は日本にしてもどの国も武力の行使はいずれも「自存自衛」の名の下に行われたのであって、この憲法制定当初、時の首相吉田は「近年の戦争はおおく自衛の名において戦われた」として自衛権の発動としての戦争を否定していた(その後、憲法解釈の変更によって自衛隊は合憲とされるようになったが)この間の戦争の歴史的事実は吉田の言うとおりであり、彼の当初の憲法解釈は正論であった。
 それにアメリカ等のベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争、ソ連のハンガリーへの軍事介入・チェコ侵攻・アフガン侵攻はいずれも軍事同盟を結んだ相手国側からの「要請」による国連憲章で認められた「集団的自衛権」の行使として行われたのであるが、それらはいずれもよい結果はもたらさず失敗に終わっている。
 アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻などは、それぞれ親米政権・親ソ政権(事実上の傀儡政権)から要請があったからという形をとり、ベトナム戦争の場合は当時結成されていたSEATO(東南アジア条約機構)の加盟国(韓国・タイ・フィリピン・オーストラリア・ニュージーランド)も参戦させて長期にわたって戦争のあげく空しく撤退している。
 我が国はこの憲法規定の「武力の行使」の例外なき禁止解釈で自衛隊はこれらのいずれにも参戦せず武力行使はしてこなかった。このほうが幸いだったのである。法制懇の報告書は「個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点についての論証はなされてこなかった」という。自衛隊のインド洋やイラク派遣は(非戦闘地域・後方支援に限定して行われたが)はたして正当なものだったのか未だ検証がおこなわれていないのは確かだが、上にあげた集団的自衛権の名の下に行われた戦争に自衛隊が戦闘参加しなかったことによって国民の生存も国家の存立も危うくなることなどなかったのも確かなのである。

(5)禁止しているのは国際紛争でも「我が国が当事国である国際紛争」だというのであれば、条文にそう書いておくべきでなのであって、そう書かれていないということは、そんな限定などないというこだろう。
 それに、このような解釈だと、南シナ海での紛争なら我が国は当事国でないから、そこでは(ベトナムやフィリピンから要請でもあれば)武力行使できるということになるのか。

(6)法制懇報告書は国家の存立・安全確保(「侵略されず独立を維持しているという前提条件―外からの攻撃や脅迫を排除する自衛力の保持と行使」)があってこそ国民の生命・財産・平和・安全は守られるというが、軍備・軍事力によって国民の平和・安全が守られというのはむしろきれいごとであり、軍備は、それに対抗する相手側の軍備増強と不信を招き、敵意・攻撃心をかりたて、かえって国民を恐怖にさらし、平和的生存権を危うくするし、戦争になれば、勝っても負けても国民は犠牲を被る。それ故に、国民は国に交戦権も戦力(軍備)も持たせないようにして戦争をさせず、他国と敵対し争うことなく平和友好関係をはかるようにさせることによって平和的生存権を確保する、それこそが現行憲法がめざしているところのものだろう。

(7)法制懇報告書に欠落しているのは肝心の(現行憲法前文にある)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という先の大戦に対する反省と決意である。報告書は大戦で自国民(兵士250万人、民間人50万人)、アジア諸国民(2,000万人)ともに未曾有の犠牲と悲惨をもたらした世界にもまれにみる民族的歴史的体験の重さに相応しい決意を踏まえたものとはどうも思われない。
 それに「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」へのこだわりよりも、そこにあるのは自国の国家の安全と「信頼できる国家との関係を強固にし、連携し、抑止力を高めること」そして信頼できない国家に対抗する、という冷戦思考である。
(8)「限定された集団的自衛権とはいっても、そこで「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」事態が発生したと政府が判断すれば、「地球の裏側でも」どこへでも自衛隊を派遣し、米軍などと肩を並べて集団的自衛権の名のもとに武力を行使できるようにして、国際社会において名誉ある地位を占めようというのが、彼らの言う「積極的平和主義」なのであって、それは現行憲法の平和主義とは全く異質なものである。
(9)集団的自衛権は「固有の権利」などではない―個別的自衛権は個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが―第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。

(Ⅱ)この法制懇の報告書を受けた安倍首相の記者会見
(1)政府の「基本的方向性」
 首相は集団的自衛権は容認しても必要最小限という限定を加え、国連の集団安全保障・多国籍軍への参加は控える。つまり湾岸戦争やイラク戦争のような戦争にはいかないと。しかし石破幹事長は「現内閣はやらない」が次の政権も「未来永劫に」それを控えるとは限らず、「日本だけが参加しないというのは、やがて国民の意識が変わるときに、また変わるかもしれない」と。
 
(2)いわく「国民の命を守る」。朝鮮半島有事に際して日本の避難民を運ぶ米国艦船「船には子供たち、お母さん、多くの日本人が乗っている」それを自衛隊が守れるようにしなければならないのだと。(折からベトナムでの反中暴動で慌てふためきながら帰国する中国人企業関係者。日本企業も間違われて襲われたという。このような時に中国軍が救出に駆けつけたりするのだろうか。そして自衛隊まで。そんなことをしたら再び中越戦争になる。今、海でぶつかり合っているのは海上警察。そこに軍が介入すれば戦争になるわけだ。)
 (かつて台湾出兵・義和団事件・シベリア出兵・済南事件・第一次上海事変など日本軍が出兵したきっかけは、この種の邦人保護・救出だった。それらはいずれも侵略戦争につながっている。)
 そもそも北朝鮮が本格的に攻めてくるといっても、ある日突然、不意に一斉攻撃をかけてくるなんてあり得ず、必ず近々攻撃があるかもしれないという前ぶれがあるものであり、その状況は予めつかめるので、攻撃が始まる前に民間機で引き揚げて来られるのである。
 (湾岸戦争の時は、日本の市民団体が民間機を手配して約3,000人移送した。イラン・イラク戦争中に、テヘランに取り残された日本人200人超がトルコ政府が手配した航空機で脱出した、といったことはあったが、米軍に救出されたという例はそもそもないのだ。)
 この先、ほんとうに朝鮮半島で有事(朝鮮戦争再開)ということにでもなれば米軍は自国民を優先し(優先順位は①米国人②米国永住移民③英国人などアングロサクソン人④その他)、日本人は(その他の部類で)後回しされるので、米軍機や米艦を当てにすることはできないし、日本人自身が民間機あるいは自衛隊機で脱出・救出するしかあるまい。しかし、この場合、日本に米軍基地を置いている以上日本は戦争当事国になり、日本全体が巻き込まれることになるので、在韓日本人救出の話だけでは済まないわけだ。

 「駆けつけ警護」―PKOなどで海外に派遣された自衛隊が、宿営地や自己の管理下にある(自分たちが担当する)区域から離れたところで活動している国連職員やNGOなどの民間人(或いは他国軍人)が武装集団から襲われという時に見殺しにはできない、駆けつけて行って助けられるようにしなければならないのだと。
 これまた、きれいごと。そうだ、そうだ、といって賛成するのは現場の自衛官がいるとすれば、「ヒゲの隊長」のような指揮官で隊員に「行け!射て!」と言って命令する立場の幹部クラスが主なのであって、現場に立たされ射ち合って命のやり取りをするのは一般隊員なのだ。
 それに、そんなことをやれば、それがその国その地域の紛争に軍事介入し、一方の勢力に加担する結果になり、他方からは攻撃対象にされ紛争当事国になってしまい、現地の自衛隊だけでなく、日本国民全体が敵と見なさる結果になる、というところまで考えなければなるまい。
 そもそもNGOのボランティアで人道支援に携わっている方々は中立の立場、とりわけ日本人は9条のおかげで平和的イメージで歓迎されているのに、武装部隊を警護につけたりすれば敵視され、かえって危ない、と当事者(アフガニスタンで医療や灌漑用水路建設にあたっているペシャワール会の中村哲氏や日本国際ボランティアセンター代表理事の谷川博史氏ら)は言っている。
 

 さまざまな有り得べきケースを想定して論じているが、そこまで想定するなら、その先の最悪の事態(戦争)まで想定し、その覚悟のうえで論じて決定すべきだろう。原発を再稼働させるなら再び、否もっとひどい過酷事故が起きるかもしれない、そこまで覚悟したうえで決定すべきなのと同じだ。安全神話にはもう懲りなくては。
(3)集団的自衛権の行使容認は限定されたものだとは言っても、「蟻の一穴」で小さな穴でも一度あけてしまえばやがてそれだけでは済まなくなるのだ。
 「国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」と判断される時しか自衛隊は出さない、といっても、そのようなあいまいな判断基準で、しかも判断するのは政府だから、その時々の政権次第でいかようにでも判断(国会の承認を要するとしても、与党その他賛成派が過半数であればなんなく承認される)。
(4)「抑止力」(攻撃抑止、攻撃を思いとどまらせる方法)には次の二つのやり方があろう。
  ①軍事的抑止力(防衛力)―軍備・軍事(日米同盟、集団的自衛権の行使容認などの法整備も含む)を強化して他国・対立相手国が手を出せなくする、というもの。
 首相いわく「日本は再び戦争する国になるといった誤解があるが、そんなことは断じてありえない。むしろ戦争を回避する抑止力につながる」と。しかし、はたしてそうだろうか
 この軍事的抑止力が高まれば「紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれなくなる」と言い、「戦争をするためのものではなく抑止するためのものだ」とは言うが、それはあくまで武力行使を前提としていて「いざとなったらやるぞ」という覚悟(即ち戦争の覚悟)を前提としたものだ。
 軍事的抑止力は刀(軍事力)を振りかざして「寄らば切るぞ」と相手の攻撃を抑止しようとするものだが、「やるならやってみろ、負けはしないぞ」とばかり対抗心を駆りたて、かえって戦争を呼び込む危険をともなう。
 そのような軍事的抑止力の強化(自衛隊の装備・日米同盟の深化―集団的自衛権の行使容認も)は他国・近隣国・対立相手国の警戒感・脅威感・対抗心・敵対心を駆り立て軍備増強・軍拡競争を招き、軍事的緊張をつのらせ偶発的衝突の危険を招く。「疑心暗鬼になれば、戦争しようという意思がなくても偶発的に起こり得る」(丹羽宇一郎・前駐中国大使)。それに反米テロとともに日本人もテロの対象にされかねないことになる。
 同盟国その他「信頼できる国」との連携・助け合いを図るなどと言って、それ以外の国(中国・北朝鮮など)を「信頼できない国」として敵(「仮想敵国」)に回し、敵か味方か二分(冷戦へ)。
 軍事力でこちらが強ければ相手はなにもしてこないし、戦争しても勝てば相手は引っ込みうまくおさまるというわけだが(きれいごとなのでは?)。

 ②非軍事的抑止力―外交努力(対話・交流・平和協力―相互理解・信頼醸成)による戦争抑止(予防)。平和的国際貢献で名誉ある地位を占める。
 どの国とも公平につきあい、敵をつくらず脅威をつくらない(というと、きれいごとか?)
 軍事戦略ではなく、外交戦略で、地域に平和と安定の枠組みを構築することに努める。ASEAN諸国を中心とする東南アジア友好協力条約(TAC)―戦争放棄と武力行使の放棄を原則にしている―に倣って、北東アジアにも。9条を持つ戦争放棄国の本場日本がそのイニシャチブを。
 ASEANは、ベトナム・フィリピンなどが南シナ海領有権で中国による海底油田掘削に反発、対立が激化して危機感を強め、「行動規範」づくりに懸命だが、集団的自衛権など軍事同盟を結ぼうとする気配はないようだ。
   
①と②とで、どちらが戦争になりやすく、どちらが平和・安全を保ちやすいか。
       どちらが戦争のリスクが高いか、
       どちらがきれいごとか?
       外国人はどちらを評価するか(湾岸戦争やアフガン戦争などでは他の国は軍隊を出して戦ったのに日本は出さないとか、出しても戦わないなどとマイナス評価をする向きもあるが、中東を含めて世界ではむしろ「平和的国民」という日本人イメージが浸透しているといわれる。)

(5)「内閣総理大臣である私は、いかなる事態であっても国民の命を守る責任があるはずだ。」「立憲主義にのっとって政治を行うのは当然だ。その上で、人々の生存する権利を守る責任を放棄しろと憲法が政府に要請しているとは私には考えられない」という。
 我々国民は(平和的生存権を)安倍首相から安倍流の憲法解釈で守ってもらうのか、それとも我々国民が我々流の憲法解釈で首相・政府に守らせるのか。どっちなのか
 それは後者である。
 憲法の制定権者は我々主権者国民であり、その解釈決定権も国民にあるのであって、それが首相や内閣にあって彼らの都合や思惑で意のままにこじ付けて解釈を変更できるような筋合いのものではないのだ。
 国民(流)の解釈は条文に忠実な、言葉どおりの素直な解釈である。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と書いてあるからには、字義の通り、いかなる戦争も放棄し、戦力を持たず、国の交戦権は認めないのである。解釈は学校の国語授業でやるような文意解釈だけでじゅうぶんなのであり、政治的な作為的解釈(自己に都合のいいこじ付け解釈)―「自衛のための必要最小限の実力は戦力ではない」とか「個別的、集団的を問わず自衛のための武力の行使は禁じられない」とか「自国が当事者でない国際紛争なら武力の行使は禁じられない」などといったへ理屈)を弄する必要はないのだ。
 主権者としての国民は為政者・政治家による政治的解釈をうのみにしてそれに支持を与えるのではなく、専門家の知見を借りるならむしろ国語学者と憲法学者の解釈を参考にして自ら解釈すべきだろう。その憲法学界では「国家の固有権である自衛権自体は放棄されていないが、憲法9条2項で武力を放棄した結果、「武力によらざる自衛権」のみが認められるだけだ(「自衛権留保説・非武装自衛権説」)というのが通説なのである。
 ところが法制懇には憲法学者は一人しか入っていないのだ。
(6)安全保障には為政者(国政担当者)の立場(論理)に立った国家安全保障と主権者国民の立場(論理)に立った国民の権利としての平和的生存権保障とがあるが、我々国民が求める安全保障は勿論後者(平和的生存権保障)なのであって、その観点から解釈すべきだろう。そしてその解釈のうえに立って国民は首相や政府に情勢の推移(「安全保障環境の変化」)に相応した然るべき安全保障政策を求めはするが、けっして武力行使はさせず戦争はさせないという原則はあくまで守らせる、それこそが憲法解釈のあるべき姿だろう。

2014年06月01日

アベノロンポウのおかしなところ―安倍首相の論法(修正版)

Ⅰ安全保障に感情論は危険
 首相いわく、「いまや海外に住む日本人は150万人、さらに年間1800万人が海外に出かけていく時代だ。その場所で突然紛争が起きることも考えられる。」「まさに紛争国から逃れようとしている、お父さんやお母さん・・・・子どもたちが」そこにいるかもしれない、同盟国の米国が救助、輸送してくれている船に乗っているかもしれない。それを日本の自衛隊は守ることができない。海外で「ボランィアなどの形で一生懸命汗を流している若者たち」、彼らが突然、武装集団に襲われたとしても、この地域で活動している自衛隊は彼らを救うことができないということでいいのか。」
「私たちの平和な暮らしも、突然の危機に直面するかもしれない。『そんなことはない』と誰が言い切れるのか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保証はどこにもない。」政府は「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る。そのためには、いかなる事態にも対応できるように、日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければならない。それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考える。」というわけである。
 

 この「いかなる事態にも対応」とは自衛隊による軍事対応であり、「日頃から隙のない備え」とは軍事的備えであって、そのための集団的自衛権の行使容認(憲法解釈)にほかならない。自衛隊が積極的に海外に出かけて行って、そこにいる日本人を「守り」「救う」のだと言うわけであるが、そんなきれいごとで済むのか。武装した自衛隊の介入は「抑止力」どころか、かえって武装集団の攻撃を招き(これまでは欧米とは違う「平和国民」イメージで好感をもって迎えられ非軍事・中立の立場に徹して人道支援ボランティアに携わってきた日本人NGOも、そのイメージが崩れて敵視されるようになり)、あちこちで日本人がテロリストに襲われる可能性も高まるのではないか。それに自衛隊が反撃して武力行使(戦闘)に及ぶようなことにでもなれば、それこそ日本国全体が紛争当事国・参戦国と見なされ、戦争に巻き込まれる。そして、これまでの「私たちの平和な暮らしも、突然危機に直面する」その可能性も高まりこそすれ、低まるということはないのではないか。

 戦争になり日本本土が攻撃されるようなことにでもなれば、「私たちの命と平和な暮らし」が守られるというよりは、それこそ1億の国民「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたち」が巻き込まれ、かっての大戦の時のような事態に再び見舞われることになるのだ。
 そのようなことが起る確率は、朝鮮半島や中東や東南アジアなど海外で紛争に巻き込まれる事態に比べれば、はるかに少ないだろうが、原発の過酷事故のように「想定外」との思い込みは許されない。確率は極めて少ないとはいえ、最悪の事態というものを念頭においてかからなければならない。それこそが首相と政府が「国民を守る」本当の責任というものだ。
 その確率は、少くとも安倍首相のような人物の政府であるかぎり、高くなることは確かだろう。

 安全保障の要諦は敵をつくらぬこと、敵を味方に変えること。なのに安倍首相のやり方は感情論に訴えて同胞愛をかきたて敵がい心・戦意を煽るというやり方。
 首相はアジア・太平洋諸国の国防相・軍幹部が集まるアジア安全保障会議にのりこんで(異例にも出席して基調講演)中国批判、中国と南シナ海領有権問題で対立するべトマムやフィリピンなどに支持・支援演説をぶってきた。(ツイッターなどネットでは「いいね!いいね!」が殺到していることだろうが。)そして会議は「非難の応酬」。
 アメリカの国防相はそこでは日本に同調し中国批判演説を行ったが、先日オバマ大統領が来日したさいは日本政府の集団的自衛権の行使容認方針を歓迎し、尖閣が日本の施政権下にあり日米安保の適用対象にはなると言明しつつも、中国に対しては挑発的な言動は慎むべきだと釘を刺すかのようなことも言っていた。それなのにである。
 まず、非軍事を憲法上の国是とする日本の首相がなんでこのような場にわざわざしゃしゃり出て行かなければならないのか。そのうえ、そこで対中国対抗姿勢を露わにして対中包囲網政策を打ち上げた。
 このような安倍首相の対中国対決・敵視政策は極めて危うい。

Ⅱ最悪の戦争事態の事例こそ示すべき
 
 集団的自衛権の行使容認に関連して、安倍首相は「あらゆる事態に対して対応できる可能性・選択肢を用意しておくのは当然のことだ」として、いくつもの具体的事例を想定して、それぞれに自衛隊を活用できるようにしたがっている。
 ところで、その自衛隊の介入から紛争当事国・参戦国と見なされる結果となり局地戦から全面戦争になってしまったらどうするのか。そうなった場合、核ミサイルが東京に飛んでくるかもしれない。「ミサイル防衛網」をくぐって都心に着弾したら死者の数はどのくらいか、それらにどう対処するのか、避難・疎開などまで考えなければなるまい。
 「まさかそこまでは」といっても、あり得ないことではあるまい。(まさに「『そんなことはない』と誰が言い切れるのか。そんな保証はどこにもない」というものだろう。)原発の過酷事故のように確率は極めて少ないとはいえ、それでも起こってしまう最悪の事態というものを非現実的だとか「想定外」だとして度外視して済まされるものではあるまい。
 国民に些末な事例をあれこれ示して自衛隊をいかに活用するかばかりにとらわれたりしないで、肝心かなめの全面戦争という最悪の事態に発展してしまった場合の事例を示し、そのような事態に至らないようにするにはどのような方法をとるのが最も賢明か(軍事的「抑止力」で抑止などできるのか、非軍事的方法にはどのようなやり方があるのか)、といったことにまで考えを及ぼし得るような事例をこそ国民に示すべきなのではあるまいか。  
 

 東京に核ミサイルが着弾した場合、長崎型(プルトニウム)核爆弾で死傷者100万人(死者50万、傷者50万)以上といわれる(軍事評論家の田岡氏)。
 原発の過酷事故については、フクシマ原発事故があって以来、避難計画など立てられ、検討されるようになった。
 それに最悪の事態想定例には南海トラフ巨大地震・首都直下型地震などがあり、これらはシュミレートされ、その時どう対処したらいいか検討もされている。
 このような自然災害なら避けようがないから、その時がきたらどう対処するか、被害を最小限にとどめるためにはどういう対処の仕方をとればいいのか検討しておくことが一番大事なのだが、戦争は人間が起こすものであり、互いの対話・交渉によって武力行使は控え、対立・係争はあっても戦争にはすまいという合意によってコントロールできる。現代戦争は核戦争など起きてしまったら「お終い」というもので、それをいかにくい止めるかに考えを傾注しなければならない。それこそが核心中の核心なのだ。

Ⅲ武力行使が目的でなければ参戦してもいいのか
 
集団的自衛権の行使容認について、安倍首相は「自衛隊が武力行使を目的として他国との戦闘に参加することは、これからも決してない」という。
 しかし、そもそも武力行使は初めからそれ自体を公然たる目的にして行うことなどほとんどありえず、その時になって、その場所で、その状況から(「敵軍」と衝突、攻撃を「しかけられたから」などと)必要に迫られたと称して行なうもの。それが局地戦からエスカレートして総力戦にもなる。アメリカや旧ソ連、それにかつて日本軍が行った戦争など、いずれもそうだった。
 武器・装備は相手方の攻撃抑止のためだとか、万一攻撃を受けた時の備えとして用意しておくのだ、というが武器それ自体は武力行使・殺傷を目的として作られていて、初めから戦闘を想定している。
 それらのことを考えれば「武力行使が目的とはならない『非戦闘地域』或いは『後方地域』だからと称して、そこへ部隊を派遣して、そこでの活動中に、必要に迫られてやむなく武力行使に及んだという分には武力行使は容認される」などという弁明は詭弁であり、それによって「日本は再び戦争する国にはならない」などとどうして言えるのだろうか。

 テロリストは初めから殺傷を目的にして凶行におよぶ。また真珠湾攻撃のような奇襲作戦も初めから武力行使を計画し実行におよんだ。そういった謀略としては初めから武力行使それ自体を目的として密かに行われることはあっても、通常の場合は、そのようなことはあり得まい。殺傷事件でも「誰でもよかった」などと凶器を振り回す異常者も稀にはいるが、普通は強盗殺人などでも「殺すつもりはなかったが、抵抗されてやむなくやってしまった」といった言い訳があるもの。
 「武力行使を目的として参戦することは決してない」などといって、最初からそういうつもりにはしていなかったとはいっても、そこに武器を用意して行って事態のなりゆきによっては自ら武力行使に及ぶか或いは他国軍の武力行使と一体化した行動にならざるを得ないと想定されるものであるからには、その否定句は前もってする言い訳け言葉にしかなるまい。

2014年06月17日

比較衡量すれば抑止よりリスクの方が

 高村副総裁は、集団的自衛権問題はその行使容認(他国への武力攻撃、他国どうしの戦争でも参戦・武力行使できること)による「戦争に巻き込まれる可能性」と「戦争を起こさない可能性」(抑止力)との比較衡量の問題で、どっちを選ぶか、その判断は選挙で選ばれた政治家がやる以外になく、抑止力の効果の方が大きいと判断してやるのだ、という意味のことを語っていた。(13日報道ステーション)
 戦争に巻き込まれるリスクと抑止力を比較衡量して考えるならば、集団的自衛権の行使(海外の紛争に介入して一方に加担)を容認すれば、抑止力になるどころか戦争に巻き込まれるリスクの方が大きいにきまっている。自衛隊が海外の紛争に出ていけば、自ずから巻き込まれる機会が多くなるからである。
 中国・北朝鮮などに対しては、現実的にこれらの国に近接して米軍基地を置く日本は、遠くに位置するアメリカに比してリスクがはるかに大きい。アメリカの抑止力に頼り守ってもらうにしても、いったん事が起れば、日本の方が、自衛隊員や在留邦人など一部の限られた国民だけでなく本土と国民全体が巻き込まれて攻撃にさらされる可能性がアメリカなどに比べてはるかに高いからだ。 
どう考えてもリスクの方が大きい。
 それに、その比較衡量を選挙で選ばれた政治家(政府・国会)に判断を委ねるのは危険であり無謀というものだろう。選挙制度(小選挙区比例代表並立制)と民度(国民の成熟度)から見て、選挙は「人気投票」的様相を帯びポピュリズム(大衆迎合)政治家が選ばれやすい現状だからである。

 安倍首相は「抑止力が高まることによって、より戦争に巻き込まれることはなくなる」と言い、高村副総裁も比較衡量論でそのことを合理化しようとしているが、そもそも集団的自衛権を行使できるようにすると、どうして抑止力が高まるのか説明してはいない。説明できないのだろう。
 既に自国に米軍基地を置いて同盟関係にある日本の自衛隊に、今さら集団的自衛権の行使が容認されるようになったからといって、中国や北朝鮮或いはイスラム過激派がビビッて、日本以外の国々(米国その他の諸国)に対する攻撃をためらい思いとどまる気持ちに果たしてなるものかである。それはかえって、反米に加えて反日敵対感情をつのらせ、その攻撃の的にされるばかりなのではないか。しかも、中国・北朝鮮から遠く離れたアメリカ本土・国民は無事でも、直ぐ近くに米軍基地を置いている日本本土・国民が無事で済む話ではあるまい(モロに攻撃にさらされることになるのだから)。
 そういったことを考えると、それ(集団的自衛権の行使容認)が抑止力を高めるという根拠はいったいどこにあるのか?それはありえないと考えるほかあるまい。
 
 尚、中国や北朝鮮の脅威に対しては、アメリカの核の傘などに頼らず、むしろ日本自身が核武装すれば、相手は攻撃しかけてこないはずだ、という「核抑止論」もあるが、日本の核武装を最も警戒している国は他でもない、アメリカなのである。アメリカは日本にそれを決して許さない。そもそも核拡散防止条約(NPT)で非核国のうち核兵器保有を恐れる最重要国は他ならぬ日本なのだからである。もし、我が国がNPTを脱退して核武装などすれば、中国・北朝鮮だけでなくアメリカを敵に回すことになるのだ。
 いずれにしても、これらの抑止論はあり得ない、それこそ「絵空事」というものだろう。

2014年07月01日

安全保障―9条の非軍事的抑止力と軍事的抑止力のどっちが

(1)「我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変化」
   ―中国の台頭(「脅威」)、アメリカの後退―「パワー・バランス」の変化
●中国 
 ①経済大国化―軍事力も強大化、海洋進出
 ②東シナ海―尖閣  領有権の主張(日本側の実効支配を認めつつも棚上げ合意があるものとの認識から、日本側の一方的な国有化に反発)
          海上警備船 日本の海保巡視艇としきりに接近
          防空識別圏の設定 空軍機が自衛隊機に異常接近
    アメリカは、日・韓・ASEAN諸国と中国抑え込み目指す、一方、中国は米国経済を支える不可欠なパートナー(米国債を大量に保有し、米中間貿易は日米間や日中間をはるかに超える規模で相互依存)で「経済戦略対話」(中国側は「新しい大国関係」と)、日本が中国の挑発に乗り、地域の安定を乱すのを迷惑がる。(日米韓の連携で穏便に中国を抑え込みたいとの思惑―「中国取り込み、封じ込め」「対中バランシング」―「我々は中国との対決や対中封じ込めを目標とはしない」と)
 ③南シナ海への進出  〃   〃   ―海底油田掘削  
                べトマム・フィリピンと海上警備船の衝突トラブル
●北朝鮮
  核・ミサイル(既に8発もの核兵器を保有?核弾頭の小型化に成功?)
       たとえ核を積んでいないとしても、500kg程度の通常弾頭なら、基地の滑走路や原発を破壊することは可能。原子炉が一機破壊されれば周囲数百キロに被害が出る。
    (2006年の北朝鮮の公式文献『我が党の先軍政治』によれば)「偉大な将軍(金正日)は・・・誰であっても我々を侵害しない限り我々は決して武力行使しないこと、日本が我々を敵対視せず、友好的に対するならば我々の国防強化について少しも憂慮することはない…朝日関係において根本問題は、謝罪補償、過去清算問題である、これさえ解決されれば、敵対的な朝日関係が友好協力関係に転換でき、そうなれば、日本が憂慮する安保問題は、自然に解決されるとおっしゃった」と。一方小泉首相も2002年衆院決算行政監視委で、それと軌を一にした発言をしており日朝間の意思が合致していたことが推測できる―早大・水島朝穂教授。)
●中東―シリア・イラク・アフガン
●ウクライナ
●テロ
(2)これらに対して軍事的抑止力 「力には力」
 自衛隊と日米安保が戦争を抑止(1960年安保改定の際に「他国の戦争に巻き込まれる」との批判があったが、この安保によって「むしろ日本の抑止力が高まり・・・」と安倍首相や高村副総裁は言うが、はたしてそうか?)。
 日米同盟―集団的自衛権の行使容認(行使を可能とする憲法解釈の変更)―同盟国アメリカその他「我が国と密接な関係にある国」が武力攻撃を受けたら助ける(反撃・応戦・参戦)用意
 (フィリピン・ベトナム・オーストラリア・インドなどと「安保協力宣言」軍事協力へ―合同訓練・演習、巡視艇供与)
 そのことを宣明すれば中国も北朝鮮も日本に手を出せない?
   そうすれば戦地に自衛隊を送ることになる(戦闘地域か非戦闘地域かの区別なく、戦場に「ここから先は安全地帯」なんてないのに)    
 国家戦略―アメリカの戦略と一体(「アメリポン」?「世界の警察官とその副官」)
        中国・北朝鮮・ロシアなどに対抗
  中国やロシアの拒否権で国連が機能せず、国連決議抜きで米英中心の多国籍軍が展開するケースが増えていけば、日本の自衛隊もそれに参加・派兵を求められることになる。
   
 そのリスク・弊害―軍事衝突(偶発的発砲)→戦争リスク
  互いに自国の軍備・軍事力は自存(自国の存立)自衛や抑止のためだと思っている―中国も北朝鮮も(中国は自国の経済成長に見合う軍備増強)―それぞれの「自衛力・抑止力」と「自衛力・抑止力」のぶつかり合いから戦争になる(「戦争は自衛の暴走で始まる」26日の朝日新聞に森達也・映画監督)
  「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」「ハンマー―集団的自衛権を使えるようになれば、武力に固執して、平和的な問題解決の方法を探さなくなる」(米国の映画監督・ジャン=ユンカーマン)―力に頼りがちとなり、対話・交渉(妥協・譲り合い)が疎かになる(一方で「領土問題は存在しない」問答無用だとばかり突っぱねておいて、「対話の扉はいつでも開いている」と矛盾したことを言ってる。)
  北朝鮮から米国に向けて発射されたミサイルを日本が迎撃すれば、北朝鮮にとっては日本からの先制攻撃になり、日本は北朝鮮から報復攻撃を受ける可能性がある(日本は北朝鮮から武力攻撃を受けていないのに集団的自衛権の行使として北朝鮮を攻撃するのであるから、北朝鮮が米国へ向けて発射したミサイルを日本が迎撃すると宣明することは日本が北朝鮮を脅していることになる)。 
  もしも「第二次朝鮮戦争」(93年クリントン政権が試算―最初の90日間で米軍兵士の死傷者5万2000人、韓国軍の死傷者49万人、市民にも大量の死者が出る)
      日本も戦争当事国となり日本本土にノドンなど弾道ミサイルが撃ち込まれる。
  もしも「第二次日中戦争」になったら? 
       戦争で亡くなった人をどうするか?
       戦争で居場所を失った人はどうなるか?
  自衛隊が海外に出動する機会が増えれば「事故」(血を流す事態)が起きる危険性が飛躍的に増していく。
      「向こう」からすればアメリカの味方はすべて敵となり、自衛隊が米軍と一体になって行動すれば、激しい攻撃に晒されることになる。イラク戦争時にイギリスがテロの標的になったように、東京や大阪、或いは日本の原発周辺でテロが起きる危険性が高まる。
     日本人の短所―
        集団意識・同調性―引きずられやすく、抜け出せない
                      いったん火が付くと止められなくなる?
        忘れっぽい?―大戦の記憶が薄れ―大半が戦後世代になり、戦争のリアリティー(実感)なく、若者に限らずゲーム感覚
(3)非軍事的・平和的方法―対話・交渉・交流(非軍事的抑止力)
   諸国民と利害・運命の共有(シェア)
   安全保障の要諦は「敵をつくらず、脅威にならないこと」
   憲法9条こそが抑止力―「こっちがなにもしなきゃ、なにもしてこない」―日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはそのおかげ(それがあったからこそ、日米安保でアメリカの戦争に―ベトナム戦争にも湾岸戦争にもアフガン戦争にもイラク戦争にも―自衛隊はアメリカから要請があっても戦闘への参加は断ることができ戦争に直接巻き込まれることなくて済んだ)(「9条は自衛隊員の命を守る最強の盾になっている」わけだ)
   日本人―「平和的国民」イメージ―信頼
         「マナーの良さ」(礼節)・信義に篤い?―「美徳」
               
   非軍事的な国際貢献―ODA(政府開発援助) (最近、軍事につながる支援を解禁する動きも)
                  軍縮・軍備管理交渉(今までは消極的・不熱心)
   各国と平和友好条約めざす(特定の国と同盟したり密接な関係を結んだりせず)―敵をつくらず紛争予防
   国家単位ではなく国境を超えた関係―グローバル・トランスナショナル
     (ヒト・モノ・カネ・エネルギー・環境・文化の交流)―人間の安全保障
   「自衛力」「抑止力」を名目とした集団的自衛権行使容認などの軍事強化は控える。  
   そのリスク―「自衛力・抑止力」の低下を突いて、中国や北朝鮮はたちまち日本の領海・領空を侵犯し、尖閣を奪いに来て離島に上陸、或いは本土に攻め寄せてきて占領し、日本人を拉致するおそれ?       
      相手を増長させ横暴を許す結果に―無理難題に妥協を強いられ、「屈従」のおそれ?(しかし、丸腰ではあっても毅然と対応、「負けるが勝ち」「戦わずして勝つ」「(互いに)ウィン・ウィン」―戦争による大惨害・人的物的資源の大損失を被るよりはマシなだけでなく、道徳的な勝利―信頼が得られる)

(4)比較衡量―(2)の軍事的方法と(3)の非軍事的方法とで、どちらがベターか
         「国民の平和的生存権」・自衛隊員も含めて日本人の生命が守られるためにはどちらがベターか。

 <参考>週刊現代6月23日発売号
       世界7月号
       朝日新聞

2014年07月07日

抑止力には国民の覚悟

 安倍首相は、「集団的自衛権の行使容認は戦争するためではなく抑止力を高めるためなのであって、それによって日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない。」「行使できるようになるが、しない」とおっしゃる。ならば大丈夫、安心だとなるのか。
 憲法解釈を変え、法整備をして、米国などとの軍事協力体制を整えることを閣議決定して集団的自衛権も「行使するぞ」という政府の意思を示したことにはなるが、それが本当に相手の「戦争仕掛けようとするたくらみをくじく抑止力として大きな力を持つ」には、国民大多数の「行使してもいい」その結果最悪の場合「戦争になってもしかたない」という同意・覚悟なければならない。国民に戦争の覚悟があってはじめて、そこに本気度が認めれるのであって、それがなければ「張り子の虎」(単なるポーズ)でしかないないと見透かされ、抑止効果は働かない。抑止力が機能するには国民の覚悟が必要不可欠なのであって、戦地で自衛隊員が血を流し、最悪の場合沖縄や日本本土まで攻撃され、かつての大戦の時のような惨禍に再び見舞われることさえも覚悟しなければならないということだ。
(閣議決定したその日の記者会見で、「隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるか」「犠牲を伴う可能性に、国民はどういう覚悟を持つのか」という記者の質問に対して、首相は正面から答えなかったという―4日付朝日『集団的自衛権・検証』。)
 それに、その「抑止力」=軍事力に対して、相手はおとなしく引き下がるわけではなく、(自らの軍備を同じように「抑止力」と考え)対抗心から軍事力増強に努めようとし、日本に対して係争問題を抱えて反目し、互いに武力による威嚇から軍事衝突(武力行使)に発展し戦争になってしまうという可能性もあるわけである。つまり抑止のつもりが逆に戦争を招く結果になる。軍事的抑止力にはこのような危険な矛盾がつきまとうのであって、国民にはその覚悟も必要となるのである。
 幼少時代、父の出征と防空壕で心細い思いをし、今は子や孫たちのことが心配なばかりの当方にはそんな覚悟はありません。頼るのは軍事的抑止力ではなく、9条の非戦抑止力だと思うからです。覚悟なら「9条(非戦)死守の覚悟」(経済同友会終身幹事で最近亡くなった品川正治氏の言葉)。
 首相が言う「行使できるようになるが、しない」は国民の抵抗感をかわすためのその場しのぎの言い逃れ(ごまかし)で、本音は「いざという時には行使するぞ」と言えば国民は覚悟を決めて「よし」と応じてくれるものと期待している。だからこそ①脅威と危機を煽り、②愛国心を鼓舞し、(かつての教育勅語にあった)「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(いざの時には国の為に戦う)という愛国教育を推し進めようとしているわけだ。

2014年07月15日

日本は軍備を持たなければ攻撃・占領されるのか(加筆修正版)

 安倍首相ら政府の言い方では「東アジアの安全保障環境(情勢)が厳しさ増している」―具体的には中国(軍事力増強、海洋進出・尖閣領有権主張、防空識別圏設定など)・北朝鮮(核・ミサイル開発・実験など)の脅威が増しているだから集団的自衛権の行使容認・日米同盟の強化は必要なのだと。
 マスコミ・ニュースは折からの南シナ海での中国とベトナムの警備船どうしの激突トラブル、北朝鮮のミサイル発射、それらに対処するかのような日米その他の共同軍事演習を報じ、「安全保障環境が厳しさを増している」印象を強くさせる。
 そして庶民も(街頭インタビューなどで)「中国や北朝鮮のことを考えたら、それ(集団的自衛権の行使容認)もしかたないんじゃない」などと、いとも簡単に言ったりする向きもある。
 しかし、この「中国・北朝鮮が脅威、だから集団的自衛権の行使容認」というのは短絡的。それら(中国や北朝鮮)の脅威があるからと言って直ちに、その(中国や北朝鮮からの)軍事攻撃を防ぐため、或いは抑止するために集団的自衛権行使を容認しなければならない、ということになるのか?
 麻生副総理の「いじめ」の例え話では「勉強ができない、けんかも弱い、だけど金持ちのせがれ、これが一番やられる」(「けんかは弱い、勉強はできない、おまけにカネがないとなったら無視だ」)。けんかが弱いといじめられる。日本は金持ちだがケンカが弱い。軍備を持たなかったり弱体だと、たちまちいじめられる。だから集団的自衛権でアメリカと組むんだというわけだ。あまりに単純・短絡的。

 日本が、仮に軍備(自衛隊と米軍基地)を持たなかったら(それに、もしも中国・韓国・北朝鮮などに対しては侵略・植民地支配の加害に誠意ある謝罪・反省の礼を尽くし、韓国のみならず北朝鮮にも「過去の清算・戦後補償」を果たしていたら、また無防備ではなく海上保安庁あるいは国土警備隊など領海・領空侵犯や不法上陸を阻止するのに充分なだけのそれなりの装備・人員は配備されているものとして)、はたしてソ連からも中国・北朝鮮からも、たちまち軍事攻撃・侵攻・占領されてしまっていただろうか?
 
 単なる可能性ではなく、「おそらく軍事占領されていたし、されるに相違あるまい」という蓋然性(必然的可能性)はあるのだろうか?あるとすれば、その根拠はどこにあるのだろうか?そこを検証・説明しなければならない。

 その国が、ある国に対して軍事攻撃・戦争をしかける、その根拠には3要件がある。
 ①軍事攻撃・侵攻しなければならない理由・必要性があること。それも国民・国際社会から納得・支持が得られる正当な理由(大義名分)があること。
 (例えば、かつて日中戦争や太平洋戦争の時の我が国のように「自存自衛のため」、「生命線の確保」―石油・資源・シーレーン確保のためだとか、「懲罰・制裁のため」だとか。それらは我が国の一人合点で国際社会からは受け入れられなかった。またアメリカは第二次大戦ではソ連とともに「ファシズムから自由と民主主義を守るため」という大義を掲げて勝利を博したが、ベトナム戦争などでは「共産主義の脅威から自由を守るため」、イラク戦争では「悪の枢軸を打ち倒すため」などといった大義を掲げて戦争を起こしたが、いずれも失敗。)
 ②その手段(軍備)をもつこと―それはその国から軍事攻撃・戦争が予想される根拠をなす一つの条件ではあるが十分条件ではない。相手国・周辺国にとっては、それが増強されたからといって、それだけでは恐れを感じさせる「脅威」にはなるが、当のその国では、それは攻撃・戦争をしかけるためではなく「抑止するための手段」だと考えている場合もあり、それを持つから(或いは増強したから)と言って即軍事攻撃必至という根拠にはならない。
 ③その気(攻撃意思・敵意)があること。
 この3つがそろわなければ、(②の軍備増強だけでは)日本に対してその国が軍事攻撃・戦争を仕掛けてくる事態が予想される根拠とはならないということなのであって、①(日本に攻撃を仕掛ける理由があるのか)と③(その意思があるのか)の点で十分説明のつく根拠がはたしてあるのかどうかを抜きにして、②(中国・北朝鮮などの軍備の増強)を言い立てるだけでは、それは単に脅威を煽ることにしかならず、今、安倍政権が自ら行おうとしている集団的自衛権の行使容認(憲法解釈変更)を正当化する根拠にはならない。

 それでは、中国と北朝鮮それに国際テロ組織などについて①と③を検討してみたい。
(1)中国:①(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由)について―
  中国にとっては台湾・チベット・新疆(ウイグル自治区)などとともに南シナ海・東シナ海など沿岸海域も「核心的利益」をなす大事なところだというが、岩しかない無人島の尖閣諸島までも「核心的利益」の一部だなどと称して領有権にこだわっている。
  尖閣諸島は日本が実効支配してはいるものの、領有権の決着は日中双方とも「棚上げ」にしてきたのが、石原前都知事が唐突に島を購入すると表明したのをきっかけに野田前首相が国有化を決定したのに対して中国が反発してその海域に日本の海上保安庁の巡視艇に対抗して監視船をしきりにくり出し、領海侵入も繰り返して我が方の海保巡視艇と警告「合戦」をやっている現状である。自分で勝手に「核心的利益」だなどと主張しても、それは我が国のみならず国際社会から認められるとは到底考えられない。にもかかわらず、もしも中国が強引に軍事攻撃をしかけ制圧して島を占領などしたら、一方的な侵略行為と見なされ、我が国民のみならず世界中(国際社会)から無法・非道が非難され様々に制裁を被り、かえって割に合わない結果を招く、そのことはわかり切ったこと。したがって尖閣のことで日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けてくるとはおよそ考えられない。
  それから、日本の首相や閣僚が中国人民の嫌がる靖国神社(戦犯を祀って侵略戦争を肯定している神社)の参拝を強行し、日中戦争における加害行為に対して謝罪・反省の誠意が不十分だから「けしからん」といって、それだけで日本に軍事攻撃をしかけ侵攻したりするだろうか。
 他に何か日本に軍事攻撃を仕掛ける理由があるだろうか。無いだろう。
 ③について習近平や中国政府にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるかといえば、あるとは考えられまい。
(2)北朝鮮:①(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由)について
 日本に対してはかつての植民地支配に恨みをもち、逆に拉致問題で日本から恨みをかい、内政・外政両面にわたる暴政によって四面楚歌。虚勢を張って「火の海にしてやる」とか脅し文句とともに核実験と弾道ミサイル打ち上げを時々やってみせるが、それは「自衛・抑止のためだ」とも言っており、自分の方から本気で仕掛ける意思があるわけではないことは分かり切っている。もしそんなことをやったら倍返しされ、たちまち自滅することは彼らも分かっているはずだからだ。
 或いはこの国を包囲する日米中韓ロなどの側の制裁圧力で追い込むそのやりようによっては、「窮鼠猫をも噛む」が如き自暴自棄的な暴発もなくはないが、それは北朝鮮を取り巻くこちら側のやり方の問題。
 ハリネズミのように、ひたすら自分を守る以外に、軍事攻撃を仕掛けなければならない理由はまず考えられまい。
 ③について金正恩にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるかといえば、あるとは考えられない。
(3)国際テロ組織:①について
 憲法9条があるために中東などイスラム諸国における紛争では米英などNATO諸国やオーストラリア・韓国などと一線を画して戦闘地域では軍事介入を控えている日本人はターゲットにはされていない。
 ③について彼らのリーダーには日本や日本人を標的にテロ攻撃を加える意思はあるまい。(但し、今度の9条変質によって、これから集団的自衛権でアメリカと一体の行動が見られるようになれば、気が変わってくるだろう。)

 中国や北朝鮮その他に、それ以外に、日本に対して軍事攻撃・戦争をしかけずにはいられない必要かつ正当な理由はどこにあるというのだろうか。
 
 仮に当方などには、或いは日本人には思いもよらない(あり得ないと思われる)何らかの理由で、或いは理由もなく、ただ、相手(日本)が憲法9条をきまじめに守って警察力だけで軍隊・軍備を持たずに軍事対抗(交戦)をしない国だからといって、軍事的無抵抗に乗じて軍勢を侵入させて難なく制圧・軍事占領したとしても、世界中からごうごうたる非難・制裁それに日本国民の猛然たる反発・抵抗(非暴力ではあっても徹底した非協力・不服従)にあうことも必至であり、何の成果もあげられないどころか不利益だけを被る無意味な結果に終わることは分かり切っている。なのに、そこまでして日本に対して侵略行為を強行できるかといえば、そんなことはできっこあるまい。

 逆に、日本が中国や北朝鮮その他に対して軍事攻撃・戦争を仕掛けることはないのかである。 
 ①について中国にも北朝鮮にも、こちらから軍事攻撃・戦争をしかけなければならない理由はない。
 ②について、軍備は中期防衛力整備計画で防衛費の伸び率は中国などに比べてずっと低いとはいえ、集団的自衛権の行使容認で「自衛隊と米軍が『1+1=2』となって抑止力は高まる」(安倍首相の言)。しかしそれは相手側(中国や北朝鮮)の方からみれば圧倒的な脅威となり対抗上さらなる軍拡にはしらせることになる。(防衛省防衛研究所『東アジア戦略概観』2014年版には「自国の安全を高めようと意図した国防力の増強や対外的な安全保障関係の強化が他国にとっては脅威と懸念と見なされ、対抗的政策を引き起こし、結果的に軍事的緊張関係が高まり、全体として安全保障環境が悪化する状況を招いている」とある―世界8月号)
 ③について、安倍首相は集団的自衛権の行使容認は「抑止のためであって戦争するためではない」として、その気はないのだと言ってる。
  だとすれば、日中間にも日朝間にも戦争ないはずである。ただ、双方とも「抑止」のためと称して互いに軍備増強・軍事体制強化に向かうということになると、双方ともさしたる①(理由)もない③(敵意・攻撃意思)もないのに、双方の②(軍備・軍部隊)が対峙すれば互いに戦々恐々となり(ついつい引き金を引いてしまうか、発射ボタンを押してしまい)偶発的な軍事衝突から戦争に発展しかねないことになる。軍事的抑止力にはその危険がつきまとう。
  だったら、いっそのこと軍備・軍事体制強化は日本だけでもやめにして、(憲法9条制定による戦後国内外への戦争放棄公約の原点に戻って)日本国民は②も③も持たないこと(戦力不保持・交戦権否認)に徹して、軍事攻撃・戦争はしかけないし、しかけられもしない、ということにすれば、まさに、それこそが安全保障(軍事攻撃・戦争の回避)であり、「抑止力」(相手方に攻撃を思いとどまらせる力)となるだろう(戦力も戦う意思もない相手に戦いを挑んで軍事攻撃を仕掛ける道理はないのだから)。

 これらのことを考えると、中国・北朝鮮等の②(「軍備増強」「核・ミサイル開発」など)の脅威があるからといって、それだけでは直ちに自衛隊に集団的自衛権の行使容認が必要だとなる根拠にはなるまい。また、これら(中国・北朝鮮・テロ組織など)の国あるいは国際組織が、たとえ日本に9条の通り軍隊も米軍基地も無くしたからといって日本にいきなり軍事攻撃をしかけ、占領の挙におよぶとはどうも考えられない。なのに集団的自衛権の行使容認の解釈改憲閣議決定をわざわざ強行しようとするのは、戦中・戦後大臣・首相を務めた祖父(岸信介)の傷ついた名誉をとり戻し、その意思を受け継ぎ果そうとする安倍首相の野望にほかなるまい。

 今、我が国政府は憲法を都合よく解釈変更し、「戦争するためではなく抑止力を高めるため」と称して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行なった。これで我が国の自衛隊は「我が国と密接な関係にある他国が武力攻撃を受け、我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」密接な関係にある国アメリカ等の戦争に(「後方支援」などと称して)参戦できることになる。
 アメリカはこれまで開戦の理由(あるいはベトナム戦争に際するトンキン湾事件のような口実)をつくってはあちこちで戦争してきたが、これからは日本もそのアメリカ同様に「明白な危険」事態だという判断理由をつくって参戦することになるわけである。
 戦争が起こる3条件①理由②手段③意思から考えれば、中国・北朝鮮などよりも、むしろ安倍首相ら日本政府の側に①アメリカの開戦理由作りとあわせた「明白な危険」判断理由(参戦理由)作り、②手段として日米同盟と集団的自衛権、そして③のやる気満々たる参戦意思と中国・北朝鮮に対する敵対意識など、脅威はむしろアベ日本のほうだ、ということにもなるのでは。

 平和主義の立場に立つなら、本来はアメリカに対して中国・北朝鮮への敵視・敵対政策をやめよ、控えよというべきなのに、それとは逆で米中対立を煽り、むしろアメリカから抑えろ(靖国参拝などひかえ、挑発的言動を慎んで)とたしなめられてれているぐらい。このようなアベ日本では、孫たちが心配でたまらない。

 我が家の孫どもにとっては、中国・北朝鮮とアベ日本のどちらが危ないか。どちらも危ないが、どちらかといえばアベ日本の方だ。なぜなら、この政権は不戦平和憲法を実質的に骨抜きにし、対中国・対北朝鮮対決政策をとり、国民を戦争に駆り立て、若者に血を流させようとしてはばからないのだとも思えるからだ。

2014年07月30日

集団的自衛権―竹内元外務次官の見解への異論

 20日、朝日新聞の集団的自衛権に関する竹内元外務次官へのインタヴュー記事。竹内氏は、集団的自衛権の定義は国連憲章には書かれておらず、他国防衛説と自国防衛説2説あり、今回の閣議決定で政府解釈は前者から後者に変わったとし、9条の理念を守り、許される範囲内の変更だとしている。
 しかし、それらはいずれにしても本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎない。(自然権としての正当防衛権には当たらない。)
 日本側は「集団的自衛権の行使だ」といっても、それは相手方からみれば、日本(自衛隊)に攻撃してはいないのにその自衛隊が出てきて敵対国に加勢すれば、それに対する攻撃は、彼らにとっては日本による「急迫不正な侵害」に対する自衛権の発動だということになる。
 それから、「明白な危険がある場合」などという抽象的な言葉では、その判断は「主体的・客観的・総合的に」とはいえ、政府にしろ国会(多数派)にしろ恣意的に決定してしまうこととなり、また戦闘地域に派遣された自衛隊は現場で判断に迷いながら生死に係る決断に迫られることになる。インタヴューアーは次のように指摘している。
 「『明白な危険』がある場合」という限定は、政府が集団的自衛権を使うかどうかを判断する『入り口』での抑制に過ぎず、戦争を一度始めれば『出口』を探すのは難しい。」「参戦後、日本にとっての『明白な危険』が去ったからもう撤退すると言っても、敵になった相手国は日本への攻撃を続けるだろう。」戦争は狭い「入り口」で始まって拡大していくもの、それが歴史的現実。
 氏は、米国を「かけがえのない同盟国」で「特別に考える必要がある」といい、我が国と密接な関係にある国とそうでない国を選別することを肯定しているが、それは国によっては日本に対して自国を非友好国あるいは敵国と意識する猜疑心を抱かせることになり、いたずらに「敵をつくる」ことにもなり、かえって安全保障を損なうことになる。
 それに「抑止力を高める」という軍事的抑止力には矛盾と危険がともなう。①それは「抑止」といいながら、(もし軍事攻撃を仕掛けてきたりなぞしたら反撃・撃破されるか報復されるぞ、ということで)武力行使・戦争も辞さないことを前提にしている。(それは9条に込められた「いかなることがあっても戦争はしない」という戦争の永久放棄という公約―これこそが抑止力―に反している矛盾。)②その軍備と軍事的抑止論は相手をも同様な論理で軍備強化を誘発し、軍拡競争・軍事対決を招き、軍事衝突の危険―いったん始まってしまったら歯止めも限定もなくなり抑止が効かなくなる。(ウクライナ、シリア、イラク、パレスチナなど現実はまさにそれだ。)

軍事でリスクマネージメントはきれいごと―危機管理としての閣議決定に不納得

 24日朝日新聞投稿にあった「危機管理としての閣議決定に納得」はもっともらしく受けとられますが、 次のような点で賛成しかねます。
①それは抽象論で具体性に欠けていること。
②「何もせず平和を守り続けることができるだろうか」といいますが、それを言うなら、現政権は相手国に対して「対話の扉はいつでも開いている」とか「力ではなく法の支配で」と言うばかりで、それ以外にはさしたる平和的外交努力もなしに専ら軍事的対決の体制強化にはしっていることのほうを問題にすべきなのではないか。
③我が国と周辺諸国との間には領土問題その他懸念される諸問題があるが、それらは集団的自衛権の行使など軍事で解決がつくものだろうか。軍事衝突が起きれば収拾つかなくなり、かえって不幸な結果を招くことは明からか。
④特定の国を「非友好国」「話しても分からない国」と決めつけて、友好関係や信頼関係の回復・醸成に努力を尽くそうとせず、問答無用とばかりに軍事力であたるしかないというのでは短兵急すぎる。
⑤その国との間に問題や紛争があっても、けっして戦争にはしないように外交努力に徹する、これこそが21世紀の今のやり方。戦争や軍事で決着のつく時代ではないということ(ASEAN諸国を主体とする東南アジア友好協力条約など)。
⑥万一の有事(戦争)への備えが必要というが、いつか必ず起きて避けようがなく備えが必要不可欠な自然災害とは異なり、戦争は予防・回避ができるものであり、「もし起きたら」に備えよりも「起きないように」すればよいのである。
⑦それでも紛争・トラブルが起き、公船や漁船の衝突、侵犯・不法上陸・テロなどの事件に対応する警察力による警備・実力阻止などリスク管理とその体制強化は必要。しかし、だからといって集団的自衛権の行使容認など軍事体制強化をはかろうとするのは的外れだろう。リスク管理とは危機事態を招かないようにすることと危機事態が起きたら速やかに収拾し被害を最小限に止めることであるが、軍事(集団的自衛権の名目での軍事介入など)は危機事態が起きないように(抑止)するため、或いは危機事態を収める(制圧する)ための手段というよりは、危機事態をかえって招来し激化させる原因ともなり、リスク管理の手段というよりは、リスク管理の対象(管理されるもの)といった方がよいからである(ウクライナ、シリア、イラク、イスラエルとパレスチナの現実を見れば明らか)。
軍事で「リスクマネージメント」なんてきれいごと。
 以上のことから「危機管理の閣議決定」にも不納得です。

「友好国に身勝手と言われないか」に異論

 27日の投稿に「他国から攻撃された時は友好国の助けを得るのに、逆の場合は憲法9条を盾に助けることを拒否するのは身勝手」とあったが、国家間の条約は個人間の義理・人情とは次元が違い、また同じことをやって借りを返すのとは事が違い、国益上のバーターで双方それぞれのメリットに基づく権利・義務を定めるもの。それに日米安保の条文には、締約国はそれぞれ自国の「憲法上の規定に従うことを条件として」と明記されており、憲法の範囲内に限られることを前提にしている。そして「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくする」場合に、「自国の憲法上の規定及び手続に従って対処するように行動する」のだと。
 (つまりアメリカは日本を無条件で自動的に守ってくれるわけではないのだ。また)日本はアメリカから一方的に守ってもらってばかりいるわけでもない。日本は基地をアメリカが軍事戦略上の前方展開に利用するために提供しており、そのうえ「思いやり予算」まで負担している。
 日本はアメリカに対して恩義のある格別な友好国として何が何でも助け、信頼を繋ぎ留めなければとの考えのようだが、特定の国だけでなくどの国とも友好・信頼関係を結び、敵をつくらないようにすることこそが平和・安全のための最善の方法。
 緊張状態で不測の事態が生じた場合に(我が国を守ってくれるのが集団的自衛権の行使)、というが、それは逆で、緊張や不測の事態を呼び込み激化させるのが集団的自衛権行使なのであって、そのような緊張・不測事態を生じさせないための非軍事・平和外交こそが必要不可欠なのだ。

2014年08月01日

軍事・戦争というものは(未完)

 軍事・戦争には緊張状態と想定外(不測)の事態(予期せぬ悲惨)が付きもの―事故・誤射・誤爆―無辜の(罪なき)人々を巻き添えに
 これらの事態は巻き込まれた自国民or相手国民の反発を呼び起こし、関係は悪化してより複雑で困難なものとなり、修復を難しくする。
 軍事的な現実は流動的―状況はどう変わるか分からず、戦争の現場では何が起こるか分からず、事前予測は難しい。
 最初は「限定的」でも、いったん撃ち合いになれば殺すか殺されるかで、殺される前に殺るしかないという状態になり、コントロールは効かず、しだいに拡大・激化、戦争が戦争を呼ぶといった事態にも発展する。(「憎しみが憎しみを呼び、狂気が狂気を呼ぶ」)
 憎悪は末代に及ぶ―加害国に対する被害国の遺恨。
 ウクライナ―旅客機を撃ったのはどの者たちか、そんなところを飛ぶのは危ないと分かっているはずなのになぜ飛んだか、親ロシア側かウクライナ軍側かどっちが撃ったか分かったところで解決はつかず。
 シリア・イラク
 イスラエル・パレスチナ
 アフガニスタン
 ナイジェリア
 過去の戦争―第一次大戦
          第二次大戦
          日中戦争~アジア・太平洋戦争
          朝鮮戦争(未だ終結しておらず)
          ベトナム戦争

 これらを見れば明らか

 とりわけ日本人は分かっていなければならないはず
 だが、忘れ去っているか、分かろうとしないか、全く知らない向きが多い。
    或いは広島・長崎・沖縄戦・東京大空襲・日本各都市での空襲
       満州・朝鮮・シベリア(抑留)からの命からがらの引き揚げ
       など被害意識の方は多いが
      侵略・占領支配の加害意識は乏しい(忘れたか、思い出したくないか、知らないか、知ろうとしないか、無かったことにしているか)―歴史認識の問題―中国・韓国・北朝鮮など被害国民との意識のギャップ―これが平和友好の妨げに
   いじめられた側―心に傷の痛みが残り、忘れようとて忘れられない    
   いじめた側―忘れ、思い出そうとしない
            相手の立場・気持ちを思いやることなく、自己弁護が先行、「そんなことあるはずない」と否定、「俺は悪くない、悪いのはそっちの方だ、ありもしないことをでっちあげねつ造してる」と正当化・転嫁。(「悪い、悪かった」なんて言うのは「自虐」だと。)
            相手の神経を逆なでし、いじめられた側はさらに傷つく
    ラルフ・コッサ氏(ハワイの有力シンクタンク・戦略国際問題研究所長)「南京大虐殺が30万規模ではなく5万人だったとしても、旧日本軍の従軍慰安婦問題で強制性がなかったとしても。『悪かった』『ひどく悪かった』『ものすごく悪かった』の違いで議論に勝てたとしても、『悪かった』ことには変わりない」と。     

 来年で戦後70年―未だ共通認識に至らず。共通認識への真摯な努力も不十分。      
    被害国民はいつまでも忘れられず―加害国に加害の事実と責任を認め謝罪(口先だけでなく行動に表して)を求める
 加害国政府に誠実な対応と加害国民に真摯な反省ないかぎり信頼関係は築けない

2014年08月10日

軍事的抑止力と9条抑止力とでどちらがベターか

抑止力―相手の攻撃を思いとどまらせ、攻撃の企みをくじくこと
①軍事的方法―兵器・軍備を見せつけて、「いざとなったら使うぞ・やるぞ」と(威圧)―他国・相手国を不信用・「仮想敵国」想定―他国・相手国もそれに対抗―互いに軍拡(脅威が増幅)→緊張(不安)→たえず引き金・ボタンに手を(相手が撃てばすかさず撃ち返すか「やられる前にやる」)―軍事衝突→戦争に発展(限定的な戦闘でも、相手にとって銃弾1発は100発と同じ)というリスク(戦争を惹起、数多の国民が戦争に巻き込まれて犠牲になる危険性)を伴う。
 個人に例えれば―各自が対強盗などに備え銃を保有・所持―そのリスク―使用(発砲)しがちとなり(話す―対話・問答―より先に)、相手も凶器を用意→殺し合いになる。
②非軍事的方法―個人に例えれば各自が家に鍵(戸締り)
 武器・軍備を持たず、どんなことがあっても戦う意思のないことを示す―9条(戦争・武力行使の放棄と戦力不保持・交戦権否認)は国の内外にそれを宣明。
 但し、9条は国権の発動たる戦争と武力による威嚇・武力行使を放棄し、国の交戦権は認めないとは言っても、国は警察権を持ち海上保安庁も対テロ特殊部隊もあり、国民には正当防衛権(不当な支配に対する抵抗権)もあり、無防備・無抵抗ということにはならない。
 {ところで軍隊と警察の違い・・・海上保安庁もSAT(対テロ特殊部隊)などは後者
  ①軍隊―交戦権―武器使用、殺しても殺人罪に問われない
           (尚、自衛隊は交戦権が認められていないから軍隊ではない。それに自衛隊は、軍隊と異なり、武器をむやみに使用することはできず、一般人と同じく刑法で定める正当防衛・緊急避難の場合以外には、また警察官と同じく警察官職務執行法に定める場合(犯人逮捕などの職務執行に対する抵抗と逃亡を防止するため)以外には人に危害を与えてはならないことになっているからである。(それで殺せば殺人罪になる。)(上官の命令には従う義務があり、任務の遂行上、自分の生命を危険にさらすことをいとわないということはあっても、上記の正当防衛など以外には発砲して人を殺したり、殺されて死ぬことを強いるような命令は違法であり、拒否することができる。)
  ②警察―交戦権なし―武器使用規制、正当防衛・緊急避難だけ、それ以外は殺人罪に。
     「警察比例の原則」―相手の武器に比例―大砲には大砲、戦車には戦車、戦闘機には戦闘機―重武装
     自国・自国民(生命・財産)に対する不正な侵害行為(犯罪)に対処―領海・領空侵犯、不法上陸、公海上での海賊行為、テロ等にも
     警備・強制排除・職務質問など(行政警察権)
     逮捕・押収など強制捜査権(司法警察権)もつ(国内法規で裁判・処罰)(日本領域外にいる命令者も―共同正犯として―逮捕できる)
                      <参考―小野田堂郎「日本国憲法と武力」>}

 しかし、相手が核・軍事力を持ち、その力を背景に威圧、無理難題(理不尽な要求)、軍事占領、屈従を強いられるリスク―それに対して毅然と拒否、非協力・不服従抵抗―それは決死の覚悟を伴う。  
  (2010年、阿刀田 高―作家・日本ペンクラブ会長―全国革新懇ニュース4月号インタビューにいわく「軍備も持たず、どこかに攻められたらどうするのかとの問いには、『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力を全部やる。やり尽くすべきだと思います。」)
 

 さて、①の「軍事的抑止力」と②の「9条抑止力」とで、どちらが、よりましなやり方か(国民にとって)。

2014年08月13日

政府による戦争加害実態調査の必要性(加筆版)

アジア太平洋戦争と日本の植民地支配における加害実態調査
  諸事件―これまで訴訟で取り上げられた事件
    「慰安婦」問題
    強制連行・強制労働問題
    「三光作戦」(殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす―中国側の言い方だが、日本軍によるゲリラ掃討作戦で、町や村を襲い女・子供も「便衣隊」<ゲリラ>とみなして殺害)
    南京虐殺や平頂山事件など住民虐殺事件
    人体実験や細菌戦など731部隊に関する事件
    重慶爆撃や東京大空襲などの空爆事件
    日本軍遺棄毒ガス事件
    元捕虜への虐待事件
    韓国・朝鮮人の軍人・軍属や在外被爆者などへの不平等取扱いに関する事件
    サハリン抑留者や原爆被爆者への補償問題  etc

相手国政府との合同調査(相手国政府からみれば被害実態調査)が望ましい
  戦後70年を期して  和解―友好・信頼関係の回復へ
  戦争体験世代(当事者)がいなくならないうちに(証言・記憶がなくならないうちに)
     (加害体験者は口をつぐみ沈黙しがちだが)
  客観的事実を確かめる調査―加害国・被害国双方のくい違いをなくして共通認識へ
  なによりも被害者個々人が加害者である日本政府や日本企業に補償を求めているから(解決要求)―①日本国が加害と被害の事実と責任を認めること。②謝罪をすること。③謝罪の証を何らかの行動で示すこと(個人への金銭給付、或いは日本政府の費用で謝罪の碑を建立、陵園を設置など)。④二度と同じ過ちを繰り返さないために次の世代に教訓を伝える行動をとること(教科書に掲載、歴史的資料の公開など)。
  調査委員の選任―中立的な立場の人―歴史家・法律家―保阪正康・半藤一利氏のような―原発事故調のように
    政府の責任ではあっても委員メンバーは中立的な人でなければならない
    (自民党などかつての戦争推進側につながる人やそれへの同調者ではなく)
  安倍首相が言うような「歴史家任せ」(無責任)ではなく政府の責任で調査実施。
  戦争責任―①法的・政治的責任(謝罪・補償・賠償など)②道徳的・倫理的責任
     ①の法的責任については、国家間の賠償責任は(中国に対しては1972年の日中共同声明で、韓国に対しては日韓請求権協定で)中国政府も韓国政府も放棄したとされているが、中国や韓国の被害者たちの間では個人の賠償請求権は別だ(放棄されていない)と提訴―日本政府は法的義務は消滅しているとし、日本の裁判所ではほとんどが「国家無答責」の法理・時効・除斥・請求権放棄論などの法律論で却下。但し最高裁は「請求権」は放棄しても、請求権の実態は消滅してはいないとし、「発生」もあり得るとし、債務者側(日本政府もしくは日本企業)において任意の自発的な対応(基金を設立・出資してそこから金銭支給もしくは慰霊碑を建立など)をすることは妨げられない」と―訴訟ではなく、外交or政治的解決。
韓国司法府の判断では慰安婦問題と強制動員問題は賠償請求権協定の範囲外だ(だから個人請求権は放棄されていない)としている。

    戦後世代で当事者ではない世代は個人的には責任ないが、民族的責任
          民族感情(同胞意識)―勝利を誇り、「大和魂」「大和なでしこ」などと優越感を覚えもし、敗北を悔しがり屈辱感を覚え、怨念を抱き、過ちには「ひどいことをしたもんだ」と罪を意識ー「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」などと
             ナショナリズム―「日の丸」に熱狂・・・オリンピックやワールドカップでは選手とは個人的には何の関係もないのに「わくわく」。
       国(政府―法的人格)には国家責任あり、その政府は国民(主権者)が選んだ政府である限り、国民は全く無関係とは言えない(自分の反対する政府の決めた消費税だからといって払わないわけにはいかないのと同じで、仮に戦後補償を日本政府が払わなければならないとなった場合、そのカネは税金から支払われることになるが、自分は直接加害者でないから払わないというわけにはいかない)

 尚、従軍慰安婦問題の政府調査は河野談話の際に日本政府がそれなりに行っている(関係省庁における関連文書の調査、米国国立公文書館での文献調査、軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査、韓国挺身隊問題対策協議会の証言集の分析等の調査。これら以外に元慰安婦16名からの聞き取り調査も行っているが、その結果は河野談話の内容を確定する根拠としては位置づけられていない―なぜならその結果が出る前に談話の原案は既にできていたから。)(その際、韓国政府との間で事前協議も談話の文言調整も行われている。但し韓国側の意見・要望については受け入れられものは受け入れ、受け入れられないものは拒否というやりかたで、日本政府が独自に行った調査を踏まえた事実関係は歪められてはいない、という。) 

2014年08月19日

国民の戦争責任―4グループ(加筆版)

 1982.1.23付毎日新聞に載った会津若松市の一医師(穴沢氏)の「提言」―「戦争責任は国民全体―足りない自己批判」に日本の中国侵略から敗戦までの日本人は次の4つのグループに分けられるとあった。
 ①(陸軍軍人・右翼政治家、一部言論人・官僚・軍需産業資本家・メディア・大衆作家)戦争を積極的に推進
 ②(天皇・重臣・「良識派」の政治家・海軍・知識人)―消極的抵抗―①の勢力が作り出した既成事実を次々事後承認せざるを得ず、ずるずる戦争に加担
 ③(一般大衆)―①が進める侵略・戦勝に熱狂、拍手
 ④(少数の左翼、平和主義者、リベラリスト)―①に抵抗、激しい弾圧受ける
 それで、氏は「戦争の最大の責任者は①の部類の人々であるし、天皇をはじめ②の部類の人々も大なり小なり道義的責任を免れるわけにはいくまい。しかし、十五年戦争の真の原因は閉鎖的・排外的で攻撃的だった一般の日本国民(③の部類の人々―引用者)の心性に深く根ざしていたのである」と書いている。即ち一般の日本国民の戦争責任を問題にしているのである。
 (既に終戦1年後の時点で、映画監督だった伊丹万作は次のように書いていたという。「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。・・・私の知っている範囲ではおれがだましたのだと言った人間はまだ一人もいない。」「つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである」と―世界9月号・青井未帆氏の論稿)

 昨今の中国や北朝鮮の動きを睨み(中東・アフリカやウクライナにおける戦乱も今起きているが)「厳しい安全保障環境」に乗じて憲法解釈上、個別的自衛権はもとより集団的自衛権(他国が攻撃された場合)であっても自衛戦争(先の戦争もその名目で行われた。「自衛権」というと何か正当性があるように響くが、実態は個別的であろうと集団的だろうと「戦争」には違いない)は容認されるとする閣議決定が安倍政権の下でなされ、それをめぐって今、上記のような4つのグループに分かれつつあるように思われる。
 ①(安倍自民党、「維新」会・「次世代」党、民主党の一部、メディアでは読売・産経など)自衛隊と日米安保条約による軍事的「抑止力」の強化と集団的自衛権による自衛戦争の積極的肯定(安倍首相は「日本を戦争する国にはしない」「他国の戦闘には参加しない」と言いながら、戦闘地域での後方支援は認めて、攻撃されれば応戦せざるを得ないようにし、事実上、武力行使―戦争できるようにしている。そこに再戦の意思がるわけだ。)  
 ②(公明党、民主党の一部、結の党、生活党、社民党、メディアでは朝日・毎日など)自衛隊と日米安保条約は肯定、集団的自衛権行使に対しては公明党・結の党・生活の党は慎重、民主党の一部は慎重もしくは反対、社民党は反対、朝日・毎日は反対。
 ③(一般大衆)①or②それとも④か?今のところ世論調査では②が一番上回っているが。   
 ④(共産など)①に対して積極的反対―集団的自衛権はもとより日米安保条約にも反対。

 今回、安倍政権の閣議決定で集団的自衛権でも自衛の名目で戦争ができる法整備が行われることになったが、憲法で「戦争放棄」、国(政府)に戦争をさせないと定めたはずの日本国民はここにきて集団的自衛権の行使を容認して再び戦争を許す可能性が出てきたわけである。
 今のところ、国民は③のように政府方針には慎重・反対が上回っているが、揺れ動いてどうなるか。いずれにしても決定づけるのは民意であり、後々日本国民の責任が問われることになる。いったい誰が戦争を許したのか、ということが。

2014年09月04日

政府広報「放射線についての正しい知識を」について(加筆修正版)

 8月17日新聞各紙に出た政府広報。それは、放射線による健康影響について二人の専門家(中川恵一=東大医学部付属病院放射線科准教授とレティ・キース・チェム=IAEA保健部長)が福島県からの避難者を集めて開催した「勉強会」で行った講演の要旨を掲載したもの。(その講演は「政府インターネットテレビ」でも放映されている。)
 「広島・長崎で2,000mSvの放射線をあびても遺伝的影響はなかった。だから将来生まれてくる子どもへの影響など心配する必要はない」と。それは、その通りだろう。
 ただし、2,000mSvでは本人が出血・脱毛、5%の人が死亡。(4,000mSvの局所被曝で永久不妊。)

 「鼻血など出ない(上咽頭がんの放射線治療で鼻の粘膜に7万mSv被曝しても鼻血は出ない)」と。
 しかし、北海道がんセンターの西尾正道名誉院長は事故後の鼻血の頻発と事故との因果関係を政府や福島県が否定していることに対して「高線量被ばくによる急性障害に論理をすり替えて、鼻血との因果関係を否定している」と批判し、「放射性物質が付着した微粒子が鼻腔内に入って低線量でも鼻血だ出る現象はあり、医学的に根拠がある」と指摘している(5月24日付朝日)。

 「福島で心臓病にかかっても、東京でかかった人と同様で、それが放射線によるものだとは限らない」と。

 「100mSv以下の被曝量ではガン(甲状腺ガンも)増加は確認されていない。ただ『増加しない』と証明することは、福島にパンダがいないことを証明するのと同様に困難なだけだ(福島は99.97%の人が外部被ばく量で10mSv以下。『甲状腺ガン患者80名』というのは大規模検査で発見が増えたせいだ)」と。
 福島にパンダがいないことを証明し切るのは不可能ではないだろう。しかし、ガンが増加しないことを証明することは困難なことは困難に違いない、ということは増加しないとは言い切れず、福島ではガンは増加するのかもしれないということだ。
 長崎大学副学長兼福島県立医大副学長の山下教授も「100mSv以下なら心配ない」「微量でも被ばくすれば危ないというのは間違い」と繰り返し言っているが、彼は震災前、学会では「主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起りうるというリスクを否定できません」と述べていたという。(朝日新聞のシリーズ「プロメテウスの罠」927)この発言のくい違いを山下教授は「学会で専門家に不要な放射線利用を避けるよう警告した発言と、一般向けの発言では、その『対象と説明の視座が異なる』」とし、「一般向けの場合は不安を招かぬよう配慮が必要となるのだ、というのである。いずれにしても「100mSv以下なら心配ない」とは必ずしも言い切れないということだろう。

 「人々は常に自然放射線(世界平均で年間2.4mSv、日本は平均以下)にさらされて生きているし、ⅹ線やガン治療など医療や産業で活用されている放射線は大きなメリットでさえある。」「かなり高い線量でない限り、健康への影響は出ないということ。ただし、自然放射線の被ばくによって健康に影響があるかどうかについて確実なことはまだわかってはおらず、低い線量の放射線による健康への影響を正確に評価するのは、難しい問題だ」と。
 そして「年間線量限度は放射線業務従事者で20mSv、一般市民で1mSv、原発事故発生地域での基準値は20mSv、それ以下では健康影響は全くない」と。
 しかし、その線量限度・基準値は「がまん量」なのであって安全量ではないのだということを、勘違いしてはなるまい。
 この「がまん量」も安全量もその限度は様々な自然放射線を浴びた量と人工放射線(医療や原発などであびた放射線)量とをトータルした線量なのだということ、そのことも勘違いしてはなるまい。病院でX線を受けて一瞬あびる放射線だけなら大したことはないし、病気を治すためならいいばっかりだとは言っても、それだけでなく常々自然にあびるありとあらゆる放射線を全部トータルすれば年間何ミリシーベルトになるのか「足し算」しての数量なのだということで考慮しなければならないのだ。

 「メディアの報道の仕方に問題はなかったのでしょうか。」「不確かな情報にながされず、国際機関の科学的な基準を参考にすることが大切」と書いているが、確かに、まだまだわからないことが多く、絶対安全・安心という保証はない。国際機関の基準だからといって、それをうのみにしてもなるまい。なぜならIAEAなどは原子力「平和利用」促進機関で軍事転用を防ぐ査察機関ではあるが、あくまでも原子力利用促進の立場に立っている原発推進機関にほかならないからである。
 国際機関といえども未解明・不確定部分が多々あるわけであるが、その「わからない」ことと「影響がない」こととは全く別の事柄。「未だはっきりしたことはわかっていない」、だから「大丈夫、影響はない」とはならないのであって、事が事だけに(時間的・空間的に広範な人々死活的な影響が及ぶだけに)「疑わしきは罰せず」ならぬ、「疑わしきは禁ず」とすべきなのである。
 「大丈夫なのか」「危ないのか」どっちなのか「不確か」ならば、「大丈夫だ」と政府や国際機関が推奨する学者や専門家の楽観論よりも、むしろ最悪の事態を想定して「危ない」と指摘し「それは避けた方がいい」と言ってくれる学者・専門家の悲観論を重視したほうが賢明であり、少しでもリスクの可能性のあることは避けること―この「予防原則」で判断すべきなのだ。事は単なる私益・「国益」(政府の都合)などそれぞれの都合で判断されるようなものではなく、個々の生命(その維持・存続)、人類の生存がかかっているからである。

 「放射線について慎重になりすぎることで、生活習慣を悪化させ(外に出ないため運動不足、野菜不足などによる肥満・高血圧・糖尿病等で)発がんリスクを高めている」と。
 リスクは避難生活など生活環境の激変によってもたらされた極度のストレスから来るうつ病・自殺などもともにトータルしてリスク計算さるべきものであり、それらは全て原発事故に起因する。個人によってストレスに耐える力の強い人と弱い人とがいて、自殺するのはそれが弱い人だからといって、自殺を個人のせいに帰するのは間違いであり、どっちにしてもストレスそのものはせんじ詰めれば原発事故に起因しており、「原発のせい」でることは間違いないのだ(福島地裁の判決)。
 フクシマでは射線被ばくが直接の原因で「死んだ人は一人もいない」と強弁する向きがあるが、震災関連死は1753人(うち自殺56人)もいるのだ。とにかく原発には事故災害―放射線被ばくによる健康被害だけでなく生活環境の激変による命と健康の被害リスクが伴うのだということ。

 人々に必要以上に過度な不安を与えまいとか、「風評被害」を避けたいばかりに「大丈夫だ」「たいしたことはないんだ」と決めつけ、ことの重大さを過小評価し、事なかれ主義に堕して、必要な健康・安全対策(児童・妊婦などの長期間健康モニタリングと診断体制の構築など含めて)を怠り、リスク回避(不要な放射線利用は避けること等)を怠るようなことがあって断じてなるまい。

 福島から避難されている方々も我々も、政府広報にこのように「大丈夫だ」と書いてあるからと言って「ああ、そうなんだ」と思い込んで、原発・放射能に対して「楽観的な誤解」に陥いり無警戒・無頓着になってはなるまい。

 尚、放射線被ばくの健康影響のことについては本H・Pの評論の「過去の分」の中に2011,9,1の「『大丈夫だ』『危ない』、どっちなのか?」というのがある。

 


2014年09月25日

従軍慰安婦問題(加筆版)

 以下は10何年も前(1999~2002年)に書いた当方の評論文で、小林よしのり氏が(1998~2002年に)書いたマンガ「戦争論」を読んで、当方の考えを書いた文中の慰安婦問題に関した部分の抜粋。
 マンガは朝日新聞が(1982年に)取り上げた吉田証言(済州島での「慰安婦狩り」なる証言)は真っ赤なウソだと指摘し、それを基に慰安婦問題での日本軍の(関与を否定した)弁護論(免罪論)を論じていたが、それに対して当方は吉田証言は虚偽だというその指摘自体には否定も異議もさしはさんではおらず、(それは既にその6年も前の1992年に歴史学者の秦氏が済州島を調査して以来その信ぴょう性は疑問視され虚偽指摘もなされていたことであり、河野談話も93年に既に出されており、それには吉田証言は「眉つば」だとの判断から使われてはおらず、朝日自身も同証言の裏付けが取れず「真偽は確認できない」として97年以降取り上げるのを止めていたし、)吉田証言はその通りウソで、済州島で「慰安婦狩り」などそのような事実はなかったとしても、という前提で当方は書いている。
IMG_20140921_0001_compressed.jpg
IMG_20140921_0002_compressed.jpg
IMG_20140921_0003_compressed.jpg
IMG_20140921_0004_compressed.jpg
IMG_20140921_0005_compressed.jpg
IMG_20140921_0006_compressed.jpg
IMG_20140921_0007_compressed.jpg
IMG_20140921_0008_compressed.jpg
IMG_20140921_0009_compressed.jpg
IMG_20140921_0010_compressed.jpg
text.jpg
 (最後の方にある13は本題には不要)

加筆―司法(日本の裁判所)による事実認定―1991~2001年、各国(韓国・中国・フィリピン・オランダなど)の元「慰安婦」が日本政府を相手どり謝罪と賠償を求めた裁判10件。
うち8件(原告・被害者35人うち当時10代の未成年26人)の裁判では元「慰安婦」たちの被害の実態(「慰安婦」になった経緯、慰安所での強要の状態など)と日本軍の関与・強制性等の加害事実を厳格な証拠調べをおこなった結果、詳しく事実認定。判決では賠償請求は認められず、最高裁で棄却・不受理が確定しているが、これらは時効や国家無答責など法理論からの理由であって、「事実認定」の部分は覆されていない。
 それらの一連の判決は、河野談話が認めた「慰安所」への旧日本軍の関与、「慰安婦」とされる過程における強制性、「慰安所」における強制使役などを、全面的に裏付ける事実認定をおこなっている。
 個々の事実認定は「河野談話」が認めた「甘言・強圧による等、本人の意思に反して」慰安婦とされたこと、「官憲等が直接これに加担したこと」、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものだったこと」を、否定できない事実の積み重ねによって、明らかにするものとなっている。

2014年10月20日

置賜自給圏推進機構の教育・人材部会への提案(骨子)

何を目指し、何をやるのか
 置賜地域の自然・産業・歴史・文化を教え学び、継承・発展(人材育成)、発信、
 置賜の地に居て(或いは来て―留学・修学旅行・観光・ツーリズムなど)でないと学べないことを学ぶ(置賜から学ぶ)―(それこそが)「置賜学」
1、置賜地域の学習資源(教材)―掘り起し(研究)-地域から学ぶ意欲がふくらむ
   ①自然―最上川
                 
   ②産業―特産物
       農業―米、野菜、果樹
                          ・・・・長井市 レインボープラン
                              飯豊町中津川―農業体験民宿
       工業―有機EL
          リチウムイオン電池
          米沢の工業団地(オフィス・アルカディア)に日栄電機(15年10月完成)
―団地分譲率41.23%
エネルギー再生エネ―太陽光・水力・地熱・バイオマス
          コミュニテー発電所
   ③歴史・文化―上杉鷹山の業績
          宇加地新八の業績―明治初期の私擬憲法「建言議院創立之議」  
          三条かの―女医の先駆者
          我妻栄―法学者
          etc
2、研究・教育施設・指導者―ネットワークで連携へ・・・・ローカル・メディア(圏内の諸事業所・諸施設・生活者をつなげる媒体)
    置賜地区各高校―各校それぞれに「置賜学」を学習―地域資源を生かしたカリキュラム
            生徒の偏差値を上げて都会に送りだすことよりも、地域をつくる人材を育てる(「志をふる里で果す」―朝日編集委員・氏岡真弓)
         大学―山大工学部―有機EL研究センター―城戸教授
              リチウムイオン電池―米沢市に蓄電デバイス開発研究センター
                      飯豊町に研究新拠点              
            県立栄養大学
                〃 米沢短大
       米沢市―上杉博物館
           文化複合施設
            御廟所・法音寺
            林泉寺
             愛知県の東海市(米沢市の姉妹都市)全中学校から米沢に修学旅行
       長井市―野川まなび館―佐藤五郎館長
           文教の杜(丸大扇屋・長沼孝三彫塑館)      
       南陽市―日向洞窟
           結城豊太郎記念館
       高畠町―浜田広介記念館
           うきたむ風土記の丘考古資料館
       川西町―フレンドリープラザ・遅筆堂文庫
           掬粋工芸館
       飯豊町―源流の森
       小国町―梅花皮(かいらぎ)の滝―世界百名瀑の一つ
       
 これら置賜地域の学習資源、研究・教育施設・指導者を掘り起し、可能性を探るのが、この部会なのでは? 
  それぞれプロジェクト立案へ・・・・・置賜学の研究講座の開催など
 


2014年11月01日

政治の対立構図―自民党政権寄りか否かで(加筆版)

国民の階層格差拡大―二極化
 有力者層(財界・大企業経営者層・大株主層・エリート層)とその他大勢(庶民)
 それぞれの利害―有力者層は基本的に現状(現体制)維持が有利
         庶民は現状打破・転換(変革)を求める―大多数(のはず)
 多数決民主主義なら、大多数を成す庶民がその気になれば、有力者層に対抗して自らを代弁してくれる政党・議員を推し立てて政権を握らせ、庶民本位の政治革新ができそうなものなのに、なぜかそれができない。それ(その理由)はそれができないように、有力者層・富裕層が、彼らの推し立てる政党(自民党)に有利な選挙制度や政治資金法制度の下で政権(獲得)が維持され、メディアも彼ら(有力者層)によって握られ、情報コントロールされ、庶民の意識がメディアととも(保守派とリベラル派、「読売・産経・日経」派と「朝日・毎日・東京新聞」派などに)分断されているからであろう。

 そこで、その構図は次のよう。
自民党政権寄り―保守派・右寄り     ⇔ 政権に距離を置くリベラル派―革新派
 公明・次世代の党・維新・みんな    ⇔   共産・社民 (民主党・生活の党は?)
 現体制(政治経済体制)維持      ⇔   現状打破・転換めざす                 
 改憲派・靖国派(愛国派)        ⇔   護憲派
 原発維持               ⇔   脱原発
 親米(日米同盟派)、反中・反韓      ⇔ 不偏・平和友好
 歴史修正主義(日本の戦争・植民地支配を正当化)⇔ 歴史反省派
 最大の右翼団体「日本会議」、その他「在特会」等⇔「九条の会」「革新懇話会」等
 読売・産経・日経・NHK・フジテレビ・日テレ⇔朝日・毎日・東京新聞・テレ朝・TBS 

(尚、テレビ朝日は朝日新聞、日本テレビは読売、TBSは毎日、フジテレビは産経、テレビ東京は東京新聞と系列関係にあるので、それぞれ似通った論調。
新聞各社の発行部数は、2013年4月現在、読売986万部、朝日760万部、毎日342万部、日経288万部、産経167万部、それら全国紙の合計部数2543万部、ブロック紙・地方紙の合計部数1769万部。山形県におけるシェアは山形新聞が49.7% 読売15.9% 朝日14.5%という割合。
 消費税増税は新聞・テレビの世論調査は朝日も読売・日経などとともに反対の方が7割で圧倒的なのに、社説は朝日も毎日も全国紙はみな賛成で、東京新聞や地方紙の一部が反対。TPPも、交渉参加には全国紙はみな賛成、ブロック紙・地方紙の多くは反対。
 赤旗は政党機関紙ながら発行部数は産経などに匹敵し、東京新聞などを裕に上回るほど多くの人々に読まれている。尚、神戸女学院大名誉教授の内田樹氏は「赤旗の方がNHKより偏りが少ない」と。
 ところで我が家の娘・婿たちは別世帯だが、いずれも新聞は取っておらず、ネットニュースで済ませているようだ。若い世代はそういうもの―活字離れ―か。時事通信社の「新聞に関する世論調査」では新聞を購読している人は過去最低の74%で、26%が購読していない。理由は「テレビやネットなどで情報が得られるから」が最多で、あとは「節約のため」「読む時間がないから」。)

 
 安倍首相―朝日新聞を目の仇―いわく「安倍政権を倒すことを社是にしていると、かつて主筆がしゃべった」と―10月30日衆院予算委(閣僚の相次ぐ不祥事が野党から追求・攻撃されているのに対して、民主党の幹事長にも政治資金収支報告書に不記載があったことが発覚したことを受けて「これで撃ち方やめになればいい」と発言したとの報道について質問されて)の答弁―「私が言ってもいない発言が出ているので、大変驚いたところです」として、その発言は朝日新聞による「捏造」だと―同報道は首相の側近議員による記者団への説明に基づいて朝日だけでなく各紙とも報道、その後、同側近議員は「『撃ち方やめ』は自分の言葉。首相は『そうだね』と同意しただけだった」と説明修正―朝日新聞は「時の政権打倒」を「社是」とするなどばかげているし、主筆がしゃべったというのも、それこそ事実誤認の伝聞だろう」としている。(尚、31日の国会でも、再び朝日を名指しして「捏造だ」と批判した首相は同日夜、読売・産経・NHKの幹部と会食している。)
 いったいどっちが捏造しているの?首相の発言「朝日は政権打倒を社是にしている」というのも「捏造」ということにならないのか。
 従軍慰安婦に関する虚偽証言(ありもしない済州島での「強制連行」を事実であったかのように「捏造」した吉田証言)を伝聞のまま報じてきて記事を取り消した朝日は今やさんざんに非難されているが、同様に報じたはずの読売は自らの誤報を認めず記事を取り消してもいないどころか、朝日を攻撃する側にまわって大キャンペーンを張っている、それに惑わされている我々庶民。

 安倍政権のメディア戦略―マスコミをコントロール―首相の考えや思いをアピールする場に―メディアを選別―共同記者会見を単独会見に切り換え、重要ニュースを一社だけに提供―特定の新聞社に優先的に情報を流す
 安倍首相はマスコミ各社の幹部(会長・社長・政治部長・編集・論説委員ら)としばしば会食も。
 NHKの経営委員(百田氏や長谷川氏ら)は安倍首相と考えが近い人物(改憲派・靖国派)が任命され、彼らから選出された会長も同様で、しかも「政府が右ということを左というわけにはいかない」などといってはばからない人物(籾井氏)が選任されている。

 このようなメディアと政権をめぐる対立構図を見極め、自らの立ち位置を自覚しつつ、惑わされ右往左往することなく判断・行動しなければなるまい、と思う。

 <参考>徳山喜雄著「安倍官邸と新聞―『二極化する報道』の危機」集英社新書

2014年11月19日

衆院解散・総選挙―争点と各党(再加筆版―後半に加筆)

争点は安倍政権が推し進めようとしている諸政策―それらを後押しするか、止めるかの選挙
 ●アベノミクス消費税再増税(延期して2017年4月から)
    (成長戦略の目玉として、外国人観光客呼び込みのためカジノ賭博場解禁法案―廃案にはなったが、来年の通常国会で再提出ねらう)
 ●安保政策―集団的自衛権の行使容認・辺野古基地建設・秘密法の施行
  改憲(解釈改憲から明文改憲へ)公約―これこそが核心(安倍首相にとって祖父以来の悲願)―国防軍の創設、国民の国防義務、「基本的人権の永久不可侵」削除
 ●原発再稼働
 ●雇用・労働法制―派遣法の改定(非正規労働の拡大)、物価上昇による実質賃金の連続マイナス、「残業代ゼロ」制度の導入
 ●社会保障―生活保護法の改定、医療介護総合法、後期高齢者医療の保険料「特別軽減」廃止、「マクロ経済スライド」による恒久的な年金削減など
 ●TPP推進
 ●教育制度改革(すでに首長の権限を強めた教育委員会制度など)

野党各党
 ●民主党―消費税では基本的には自公と対立はなく、アベノミクスを批判はしても民主党政権では何もできなかった弱みがあり、他は全てあいまいか中途半端で、しっかりした対案もない(集団的自衛権は「閣議決定の撤回を求める」とは言っても手続きを問題にしているだけで、行使容認自体は不問。原発ゼロは30年代に先送り、消費税・TPP・辺野古新基地建設などで自民党と根本的な違いはない)。
 ●維新の党―経済政策では新自由主義的(規制緩和・民営化路線、カジノ推進)で、安倍政権のこれらの政策には若干の批判を加えることはあっても、基本的には同調(秘密法など自公と修正協議)、民主党と選挙協力(野合?)も
 ●次世代の党―同じく基本的には自民党と同じで、公明党とともに補完政党(より右寄りに補強)
 ●みんなの党―解党(一部は民主党や維新にくらがえ)へ
 ●生活の党―事実上解党(小沢ら以外は民主党に復党へ)
 ●共産党―これらの政策の全てにおいて真っ向から対決(対案もつ― 一律の消費税に対して負担能力に応じた累進課税の強化―富裕層の所得税増税、大企業に対する法人税減税や優遇税制の取り止め等。大企業や富裕層に応分の負担を課せば、庶民からの消費税は要らないはず。景気回復には中小企業支援と一体に最低賃金を(1000円に)引き上げて底上げ―それは大企業が貯めこんでいる巨額の内部留保を少し取り崩すだけでも可能。安保政策については、軍事的安全保障に対して北東アジア平和協力構想など平和的安全保障―沖縄に米軍基地を維持して中国や北朝鮮に軍事的に対峙するよりも、ASEAN諸国による東南アジア友好協力条約に倣って北東アジアにも紛争の平和的解決の枠組みを構築して戦争を回避―等々。)
 ●社民党―上記の争点に関しては共産党とほとんど同じスタンス(護憲・反原発・反集団的自衛権・反秘密法・反基地・反消費税・反TPP)だが、同党には背を向け選挙協力は民主党や生活の党と。

 民主・維新・みんな・生活の党の選挙協力や合流・復党はいずれもご都合主義で、その場しのぎの野合と見なされる。
 共産党と社民党以外のこれらの党はマスコミとともに、消費税増税については社会保障財源や財政再建のために必要だと言うが、高額所得者への増税(所得税の上限アップなど)や大企業の法人税については減税を容認して何も言わず、議員定数削減(「身を切る改革」などと称するが、主権者国民自身の要求・意見を代弁する議席を削減・放棄)を言うだけ。
 (法人税―実効税率38%―は高いというが、法人税と社会保険料を合わせた企業負担は他国に比べれば高くはない。大企業ほど優遇税制による減税措置や合法的な税逃れの方法を使って負担をまぬがれている。トヨタは08~12年はゼロ、三井住友FGは0.001%、ソフトバンクは0.002%とほとんどタダに近い。企業が海外進出するのはその国の法人税が日本より安いからというよりも、現地の需要が多いからにほかならない。)
 マスコミ(新聞社)は新聞代への軽減税率さえ認められれば、それでいいと思っている。

 マスコミは各党の現有議席数に応じた取り上げ方(ウエイトの置き方)で、まずは自民党と安倍首相の言い分に多くを割き、次いで民主・公明・維新の順(政権与党と、もはや有名無実の「二大政党の第2極」・「第3極」優先)で、共産・社民などは申しわけ程度に後に付け足し、或いは全く取り上げられないことも。NHKは首相や与党の党首・幹事長の会見やスピーチをそのまま長々と時間をとって流し、記者やキャスターもその意に沿った解説・コメントを加える。有権者の声(インタビュー)の拾い方も、世論調査では消費税増税や原発など反対の方が多いのに賛否両意見を同数拾い、賛成意見もけっこうあるんだという印象を与える、というやり方。

 カジノ推進法案には自民・民主・維新・公明・みんな・次世代・生活の各党に賛成議員(議員連盟結成)、共産党と社民党の議員は全員反対・・・・主要な争点ではないが、それへの態度は、従軍慰安婦問題などに対する態度とともにその党、その政治家がどんな倫理観(罪悪感)をもっているか、を推し量る判断材料になる。(尚、今すでにギャンブル依存症にかかったいる日本人536万人―特に男は12人に1人―世界最悪。これにカジノ賭博が合法化されれば、国そのものが「ギャンブル依存症国家」「カジノ経済・マネーゲーム依存国家」になりかねず。)

 世論調査(朝日19・20日)は次の通り・・・・数字は%、( )内は8・9日の調査結果
   安倍内閣支持39(42) 不支持40(36)―逆転している
   支持政党―自民32(33) 民主5(6) 公明3(2) 共産3(2) 維新1(1) 社民0(1) 次世代0(0)
              生活0(0) その他の党1(0) 支持なし40(48) わからない15(7)
   比例区で投票したい党―自民37 民主13 維新6 共産6 公明4 生活1 社民1 次世代0
                             その他の党2 わからない30
   消費税17年4月引き上げ―賛成39 反対49
   安倍首相の経済政策(アベノミクス)は―成功だ30  失敗だ39

 さて、投票はどうすりゃいいのか。自公政権党のどちらかに投票して、上にあげた安倍政権の公約や政策を後押しするのか、それとも、その野望と思惑を阻止すべく反対票を投じるのかだが、反対票の受け皿として選ぶとしたら、いったいどの野党(民主党と共産党のどっち)がいいのかだ。前回の選挙では民主党政権と二大政党に幻滅した向きには「第3極」の維新やみんなの党が受け皿となったが、それらは離合集散。今やブレずに不動の姿勢を保っているのは共産党だけ。
 しかし、「共産党ではどうも・・・・」などと根強いネガティブなイメージにとらわれている向きには、「どうせこんな選挙、投票したってどうせ無意味だ」となって投げ出し、棄権するのかだ。
 朝日「声」欄に「野党に期待すべき役割考えたい」として次のような投稿があった。「民主党は野党第1党とはいえ、政権担当能力を欠くという評価が一般的で、同党への政権交代の可能性は低い。だとすれば政権交代のため以外に野党に投票する意味はといえば、それは、投票すればその党を国会における無視できない批判勢力たらしめ、政権側に緊張感を持たせて少数意見に配慮した政策運営をさせることが期待できるというところにある」と(意訳)。同感である。たとえ、その党への一票で政権を奪うことはできなくとも、政権党に対する「怒りの一票」は「蜂の一針」となり、積み上がってその党の得票率が上がれば政権に対する痛撃となる。当選すればその党の議席が増え、国会のあらゆる場において(委員会でも党首討論でも)、より多くの質問や論戦の時間と機会がその党に割り当てられ、政権に対してより徹底した実のある対決・論議を期待できることになる。
 さて、改憲問題・原発・消費税・社会保障・集団的自衛権・沖縄基地問題・秘密法・TPP・派遣法・カジノ法案などあらゆる問題で、政権の思うままにさせてはならず、その暴走をくい止めるようにさせなければならない。それを野党のどの党に託するか。そのような役割が期待できる党はどの党か。第2極・第3極・第4極(?)とあるが、政権党に対抗してして勇ましいことは言っても彼らにとっては痛くも痒くもない野党が多い中で、委員会でも党首討論でも政権党に対して最も鋭い、核心をついた質問・論戦が期待できる党はあるはずであるが、それははたしてどの党か。それを見極めることが肝要だろう。

 前回(2012)衆院選の投票率(59%)は戦後最低、参院選の得票率(52.6%)は戦後3番目に低さだった。さて今度はどうなるものか。

 結果―自民党を勝たせれば―その公約(改憲など)全てを認めたことになる、或いは白紙委任したことになる。
 しかし、前回のように
  自民党は議席は、小選挙区では8割(237議席)も獲得、比例区では3.2割(57議席)で大勝したかに思われた、
 ところが  投票率59.32%―戦後最低(4割以上も棄権)―で
   自民党の相対得票率(投票総数に占める割合)は小選挙区では43.01%、 比例区では27.62 %だが、絶対得票率(有権者数に占める割合)は小選挙区では24.67%、 比例区では15.99%。つまり有権者全体からみれば、小選挙区では2割台、比例区では1.5割台の人しか自民党に投票しておらず、大部分の人は自民党には投票していないのだ。
 そんな場合でも、アベ自民党政権は、その公約は全て認められ、白紙委任されたということになるのか。
 今回、それはどうなるかだ。

2014年12月01日

怒りの一票、棄権は「白紙委任」

●改憲―解釈変更(実質改憲)から明文改憲へ。平和主義・立憲主義を変質
●集団的自衛権の行使容認―日本人を、自衛隊を戦争に駆り立てる
●沖縄基地―辺野古基地建設―沖縄県民の大多数が反対してるのに
●小選挙区制―不合理・不平等選挙―大量死票を出し、甚だしい一票格差
●消費税増税・法人税減税・外形標準課税―庶民増税、大企業に減税、中小企業(赤字でも)課税
●アベノミクス―輸出大企業・カネのあるやつに円安・株高で儲けさせ、中小零細・カネのない者を原材料仕入値・物価値上がりで窮々
●社会保障―年金は物価上昇で実質年金が減り、・医療費の窓口負担の引き上げ・国保料の引き上げ、介護保険料・利用料の負担、介護サービスの切り捨て
●エネルギー政策―原発再稼働、再生エネルギー買い取り制限(電力会社の買い取り拒否)
●秘密保護法―政府が国民に対して秘密を隠し、「見ざる、聞かざる、言わざる」ようにさせる
●政治とカネ―企業・団体献金―自民党に企業献金集中 民主党に
 政党助成金―自民党 民主党 維新党 公明党 次世代党 生活党 社民党が受け取っている 
●消費税増税と引き換えに「身を切る改革」と称して比例代表議員定数を減らし、少数党議席(少数民意)を切り捨てる―80人減らしても50億円―政党助成金(320億円)の方こそ無くするべき
●TPP―アメリカ標準の国際ルールが押し付けられ、農業・食品安全・医療・閑居保全など広範な分野で日本の経済主権が脅かされる
●労働者派遣法改悪―臨時的・一時的なはずなのに、同一の仕事でも人を変えれば、ずっと使い続けられるようにしようとする
●女性の56%は非正規
●残業代ゼロ制度
●解雇自由化
●カジノ賭博合法化法案
●教育―教育委員会制度―首長権限強化(首長の考えが物を言うようになる)
   道徳教育―愛国心と価値観のおしつけ
   競争教育
●歴史認識―侵略戦争・植民地支配の加害責任を否認

こんなの許せん!
 政治不信―しらけ―「どうせ何も変わらないから」と棄権→「白紙委任」(お任せ)したことになる。そんなのバカくさい!

2014年12月09日

選挙・民主主義の問題点―偽装民主主義(選挙結果を加筆)

小選挙区制のマジック・トリック―相対的に優勢な政党が議席を総取りできる仕掛け―「有効投票総数の多数」を獲得した政党の勝利を極大化(得票率ではさほどでもないのに大幅な議席率を占め)、見かけ上「大勝」「圧勝」となる―多数決民主主義ならぬ「少数決民主主義」(少数の多数派が独裁)
   自民党に有利・・・・マスコミ予測「300議席で圧勝」(前回もそれに近い予測で、その通りになった)。実際の結果は290議席で単独過半数、公明党35議席と合わせ3分の2を裕に上回る。

  初めからこうなると分かっている・・・・投票しなくても→棄権が多くなる―前回は投票率は戦後最低で59%―今回はそれをさらに更新して52.66%。
 前回、自民党は有権者全体に占める得票率では小選挙区で24.6%だけで237議席、比例区では15.9%だけで57議席、合計294議席獲得―今回も自民党は有権者全体占める得票率は小選挙区では24.49%だけで222議席(占有率75.25%)、比例区では16.99%だけで68議席(37.77%)、合計290議席(全議席の61.05%)もかすめとった。
    いわば「合法的八百長選挙」ともいうべきもの
 かくて、1.7割(比例区での割合)の自民党支持者が6割の自民党議席を獲得して国会では「多数決」の形をとるが、実際はわずか1.7割の少数者が決定づける少数決となるのだ。 
マスコミ報道のやり方
 公示日前日(12月1日)の朝日新聞の「9党の公約」紹介記事は、各党に割かれているスペースが横幅は各党とも18.7cmだが、縦幅(cm)は自民35.6、民主30.3、維新28.2、公明26.3、次世代18.5、生活14、共産13.7、社民8.5、新党改革6.8ということで、現有議席(前回選挙で獲得した議席数)の多い順に差がつけられている。割り付けスペースの多い党の公約は詳しく、スペースの少ない党の公約は簡単なかいつまんだ表記になる。
 公示日のNHK「ニュース7」の「各党党首に聞く」などでも、安倍・自民党に23分、民主10分、維新8分、次世代・共産・生活に各6分などといったように、現有議席の多さで時間配分に差がつけられているが、それは党首の映像の下に示される発言字幕の行数を数えてみても、配分の多い少ないが分かる。自民党に一番多く、次いで「第二極」の民主、政権与党の公明、「第三極」(分裂)維新・次世代へと扱いがやや小さくなって、共産・社民はさらに小さく扱われる。
 なぜ現有議席数(前回選挙での獲得議席)を基に差を付けるのか、解散したからには、いっせいに各党ゼロからスタートさせるべきではないのか。
 権力から距離を置き、権力を監視し批判的立場に立つべき公器たる新聞社の中に、政党状況を「一強多弱」と称しながら、その一強に社説などで公然と同調し政権寄りの報道をしてはばからない新聞社が、最大発行部数を誇る読売新聞をはじめ幾つかある。これらを購読している有権者に政権党支持が多くなるわけである。(なお、今回の解散総選挙をアベ首相に促したのも読売のナベツネなのでは?―「世界1月号」に山口二郎教授が、石破大臣は「『総理は何一つ発言しておられないにも拘らず、一部のマスコミ報道によって端を発し急速にこのような雰囲気が醸成されつつあるのは、正直何とも不思議な気が致します』とブログで書いていた」が、「石破の言う『一部マスコミ』は読売新聞を指していると思われるが、・・・・読売新聞社幹部は政府与党の幹部よりも、よほど権力を持って安倍首相の判断を動かしているということか」と書いている。)

 最高裁の裁判官の国民審査が同時に行われることになっているが、そのメンバーはいったい誰なのか、経歴・実績等の情報が新聞・テレビではほとんど伝えられていない、という問題もある。
 投票日5日前の新聞に「一人一票実現国民会議」という団体が「先月26日の最高裁判決で一人一票に反対した3名の裁判官の名をあげ、不支持票(×印)を投じよう」という意見広告を出していた。そしてその翌日(投票日の3日前)になって県の選管から町内会・隣組を通じてようやく選挙公報とともに国民審査公報が届いて、それに審査対象となる5名の「略歴」・「関与した主要な裁判」・「心構え」が書かれてあるのを目にした。そして二日前になって朝日新聞はようやく何ページめかの半面を使って5人の略歴・考え・関わった裁判での意見など紹介。
 期日前投票をした人にとっては、もう遅いだろう。この投票用紙の名前に×も何も書かずに入れれば自動的に「信任」したことになるのだ。
 これまたいいかげんなやり方。(いまだかつて、この国民審査で罷免された裁判官は一人もいないのだ。前最高裁判事の須藤氏は「国民審査は形骸化していると言われます。その通りだと思います」と。)
国民(有権者)のリテラシー(知識・情報の獲得・選択能力・判断力)―能力はあっても、日々忙しく、よく調べて考える時間的余裕が保障されていない。そのうえ告示から投票日までわずか12日間しか与えられない(参院選の場合は15日間)―考える時間を与えずに、首相は『この道しかありません』と。
 結果的に、有権者・国民は熟考し深く考えることなしに簡単に判断してしまいがち―フィーリング(印象)や既成観念で判断したり、マスコミ情報を鵜呑みにしたり、「景気」とか目前の利害などカネ目で判断したり。
 無関心・投げやりなどで棄権が多くなる―投票率は欧米など先進諸国中最低、とくに若年層は30台→それが結局は他人任せになる―「お任せ民主主義」

 「衆愚政治」となりかねない―それが民主主義の欠陥

 これらが正されないかぎり、民主主義はうまくいかない―「多数派独裁」にもなる

2014年12月27日

選挙結果とマスコミ報道―小選挙区制と政党助成金の問題

 どのマスコミも「自公圧勝」という見出しで、あたかも安倍政権は圧倒的支持で信任されたかのように国民に思い込ませる論調。
 しかし、よく調べて(分析して)みると、議席は3分の2維持で優勢は保ったが、自民党は4議席減らしており、得票は昨年の参院選に比べ80万票減らし、公明党も25万票減らしている。
 その得票率をみると、全有権者に占めるその割合(絶対得票率)では自民党は小選挙区では24%、比例区ではわずか17%にすぎない。
 投票率は戦後最低で52.7%だが、無効票を除いた有効投票率は50.9%で、実に半数の有権者が選挙に参加しなかったというのが実態。
 これらに対するマスコミ報道は誤報とは言えないまでも極めて正確性欠くものと言わなければなるまい。正確なところは「自・公・維新はほぼ現状維持、民主は微増、共産は躍進、次世代・生活の党はともに激減」のはず。

 マスコミは民主党にたいしては「二大政党の第二極」、維新の党にたいしては「第三極」として未だ期待をつなげ、「野党再編」に望みをつないでいるふしがある。

 小選挙区制の欠陥など選挙制度の抜本的見直しを正面から取り上げている新聞・テレビは一つとしてない。
 小選挙区制では、各選挙区で最大得票の候補者1人しか当選しない。そのため、それ以外の候補者の得票は「死票」となり、捨て票となる。
 今回の選挙では、死票は全国で2540万6240票(小選挙区票の48%)。その死票率(候補者の得票のうち議席に結びつかなかった死票の割合)が50%以上の小選挙区は全体の4割強(295選挙区のうち133選挙区)、40%以上の小選挙区は8割(237選挙区)にものぼる。
 自民党は小選挙区で、有効投票総数に占める自民候補全員の総得票(相対的得票率)は48%
だが、獲得議席(議席占有率)は76%。近年4回の衆院選はいずれも4割台の得票で7~8割もの議席を独占している。一方(小選挙区では)少数政党は得票率に見合った議席が得られない、ということでどうしても「一強多弱」状況とならざるを得ない。それが小選挙区制なのである。

 政党助成金についても然り(マスコミは正面から取り上げていない)。
 総額320億円。そのうち(2013年)自民党に232億9801万円で同党の本部収入の64.6%、民主党に94億2654万円で同党本部収入の82.5%、公明党に142億6705万円で63.8%、維新の会に40億9876万円で72.1%、みんなの党には27億4776万円で73.8%だった。共産党(受け取り拒否)以外の各党はこのカネに依存し、それに囚われることになる。政党はこれによって堕落・劣化。
 納税者・国民にとっては、このような政党助成金は、支持も投票もしていないのに、共産党以外の各党へ、それも大部分(73%)が自民党の手に渡ってしまう。
 各党への助成金は所属議員の人数に応じて分配されるので、各党とも議員の頭数を確保することにやっきとなる。(生活の党は今回の衆院選の前後で激減し衆参合わせて4人となって、助成金が分配される政党要件5人以上を確保するため、無所属だった山本太郎議員を勧誘した。)各党でその使い道に制限はなく、何に使おうと勝手放題。 
 中には、助成金の分配を受けるその都合で、綱領や政策そっちのけで離合集散を繰り返す―民主党・維新・生活などはまさにそれである。
 政党助成金は企業献金の廃止と引き換えだったはずが、企業献金は未だに温存されている。自民党は両方から巨額のカネを二重取りしているわけでる。 

 小選挙区制といい政党助成金といい、どう考えても不合理。こんなのをいつまでも存続させていいものか。
 90年初期の細川政権当時おこなわれた「政治改革」でのこれらの導入にはマスコミがそれに加担(選挙制度審議会や民間政治臨調に財界代表らとともに大手マスコミ関係者がメンバーに加わって主導―審議会では読売新聞の社長が会長だったり、委員27名中11名が日本新聞協会の会長と各紙の社長・論説委員らマスコミ関係者)―二大政党間で政権交代しやすくするためとか、「政治とカネ」の問題を解消するためにと称して、マスコミは「政治改革」大キャンペーンを展開したものだ。

 細川元首相と当時自民党総裁の河野氏は、双方が合意して成立させた小選挙区導入などそれらの政治改革は「失敗だった」と認めている。河野氏はそれが「政治劣化の一因となった」と。しかしマスコミ界のその反省は見られない。

 開票の二日後、首相が大手新聞・テレビ局の幹部と寿司店で会食(完全オフレコで話し合い)したことを取り上げているマスコミもない(ネットで調べれば分かる)。

 国民の多くはこれらの事実を知るまい。マスコミがそれを伝えないからだ。


2015年01月01日

安倍首相とマスコミ幹部の会食問題

 ネット情報によれば、山本太郎議員が参院議長に安倍首相とマスコミ幹部の会食に関する次のような質問書を提出したという。
 「新聞報道によれば、安倍首相は・・・・全国紙やテレビキー局といった報道各社の社長等の経営幹部や解説委員・論説委員あるいは政治関係担当記者らと会食を頻回に行っていることが明らかにされており・・・・」「政権トップとメディア関係者の親密な関係、政治家とメディアの癒着が報道の中立公正公平、不偏不党の観点から批判の対象になることは、今や欧米などの先進諸国においては常識であり、安倍首相のこれらの行動は、国際的な常識から見ても極めて奇異である(云々)」。
 ライブドア・ニュースには、「この会合を唯一批判的に取り上げた『しんぶん赤旗』」として、同紙のこれに関する報道を紹介している。ネットで、その赤旗記事を調べてみると次のような事実関係が掲載されている。
 (いずれもこの2年間で、回数の多い順に挙げれば)
 「読売」の会長(ナベツネ)と8回、社長と2回、論説主幹と7回。
 フジテレビの会長と7回。「産経」の会長と4回、社長と3回。
 日テレの社長と4回、解説委員長と6回。
 「日経」の会長と2回、社長と1回、論説委員長と1回。
 「朝日」の社長と2回、政治部長と4回。
 「毎日」の社長と2回、特別編集委員と4回。
 テレ朝の社長と3回。
などとなっている。

 これらは政局の節目節目で行われた。秘密法強行の直後、集団的自衛権の検討表明の日、靖国参拝や消費税増税強行の直後に報道各社の政治部長らと。
これらの会食は、高級料理店で2~3時間、通常の取材と事が違うだろう。

 これらの行為には、明らかに為政者側のマスコミ各社に対する選別(ひいき)意図がはたらいている。
 これらの行為を禁止する法律はないので違法とは言えない。しかし、公器としての報道機関は特定の層(利益集団)だけでなく全ての国民にとって中立公正でなければならないというのが原則であり、権力の監視・チェックを本来の役割とするというのが厳然たるコンセンサス(常識)としてある。イギリスの「タイムズ」の往年の編集長ハロルド・エヴァンス氏は「首相と会食することはジャーナリストとして絶対に避けなければならない」と述べ、報道の独立性を強調しているとのこと(立教大名誉教授・門奈直樹)。

 
 為政者は自分たちの思想・政策に基本的に反しないか、同調的な書き方・報じ方をマスコミにたいして望み、自分の意に反した(自分の考え方や政策に批判的な)書き方・報じ方をするメディア・ジャーナリストを嫌う。
 また、メディア・ジャーナリスト側には、為政者・権力者の考え・真意(心のうち)やかれらが握っている情報を探り聞き出すために、その懐に入って彼らに近づき直に接触しようとする。(しかし、為政者の側は狡猾。ちゃんと選別して話す。相手―所属する社や局―を選び、話しておいた方が都合いいか、話してもかまわない情報と都合のわるい情報を選り分けてしか話さない。)
 それにメディア側には政権に対して消費税の軽減税率を適用してもらいたいという思惑もあるだろう(ジャーナリスト・斎藤貴男)。

 このようなそれぞれの思惑から、会食の場や機会を為政者・マスコミ双方とも利用したがるのだろう。
 だからといって、法律で禁じられていないから、なんでも自由というわけでもあるまい。
 必要不可欠なのは、そうすることが自分たちに有利・有益かどうかだけではなく、国民のために有用かどうか、全ての国民にとって中立公正・不偏不党であるべき原則に照らしてどうかである。

 この問題は、マスコミの誤報問題に劣らない大きな問題として取り上げられて然るべきだろう。
 会食にはカネ(代金)がかかるが、それをポケットマネーならいざしらず(私費ならば誰と会食しようが勝手だという言い分は通るが)、公費(国民の税金)からそれが支払われているとなれば、合法では済まされまい。
 いずれにしても、山本太郎議員がこの問題を取り上げて質問・異議をとなえているのは理の当然であろう。

2015年01月06日

軍事的抑止力よりも9条抑止力

 世界2015・1月号で谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長が「紛争現場からの警鐘」と題して紛争地で活動するNGOの安全対策と日本の国際貢献のあり方について次のように論じている。(NGOの事例だけで、国民すべての安全保障の問題を言い尽くすことはできないかもしれないが、一つのヒントにはなるだろう。)

 紛争地で活動するNGOにとっては―安全対策―①軍隊や自衛隊に守ってもらったり、救出してもらったらいいか、②それは避けた方がいいか(参考―世界2015・1月号谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長「紛争現場からの警鐘」)
 紛争現場の現実―現代の戦争は、圧倒的な軍事力を持つアメリカが有志を募って制裁やテロ掃討を名目に弱小国を攻撃する場合が多い。(アフガン・イラクなどの例)初期の短い期間で政権を崩壊させる。しかしその後が長い。離散した元政府軍や政権崩壊後の治安の真空状態に付け入って勢力を伸ばす非正規の武装グループが新政権や外国軍に対抗する。それらの非正規武装グループは住民と混在しているために、政府軍や外国軍による掃討作戦は住民を巻き込んだものとなる。外国軍による住民の殺害や急襲による家宅捜索は人々の反発を強め、反政府・反外国軍の武装グループは人々の支持を集めて攻勢を強める結果になる。(米軍のテロ掃討作戦が住民を巻き添えにするたびに、反米のために武器を取るグループが増加していった。)
 ①(軍隊や自衛隊に守ってもらうやり方)は、それが軍隊を敵視して攻撃対象としている武装勢力を活動地に引き入れることになり、NGOだけでなく地域の住民にも危害が及ぶことにもなる。軍による復興人道支援活動との連携は危険を伴う。中立を旨とするNGOの人道復興活動が軍事活動と混同され、攻撃のターゲットになりかねない。
 軍の介入―軍隊による(救出作戦)突入は極めて危険であり、失敗することが多い。
   外国軍による復興・人道支援活動は「住民の中で戦う戦争」をより複雑にする。
   住民や武装勢力の間に、外国軍のみならず軍以外の外国機関の民生活動も軍事活動であるとの混同を引き起こす結果になっている。(①にはリスクが多いということ。)
 それに対して、②(軍隊や自衛隊には頼らないやり方)は、地元で信頼の厚い人間や赤十字国際委員会など中立性の高い機関の仲介で交渉でき、NGO独自の安全対策に基づいて行動―すなわち1、現地の住民に信頼され、受け入れられること(その村の住民がNGOを受け容れていなければ正しい情報は提供してもらえない)。2、治安や危険に関する情報収集を綿密に行い、危険な状態に身を置くことを避けること。危険が予測される場所にはなるべく行かず、危険が迫れば待機するか速やかに退避する。

 日本独自の平和貢献(世界2015・1月号谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長「紛争現場からの警鐘」)―国是として「武力によって紛争解決はしない」「海外で武力を行使しない」という独自の立場に立った国際安全保障への貢献。
 アフガンや中東・南アジア・アフリカなどの地域の人々の日本に対するイメージ―日本はアメリカに原爆を二発も落とされながら、アメリカを憎むことをせず、平和国家として蘇り、長足の発展を遂げた。日本は軍事介入(他国に軍隊を派遣)せず、欧米的な価値観を押し付けることもしない。(主要な先進国のほぼすべてがアフガンに軍を派遣し、紛争の一方の当事者になってしまったために、紛争当事者間で対話に向けた外交的なイニシャチブを発揮できる国がなかった。アフガニスタンで生活して感じるのは、人々の日本に対する特別な信頼。日本は軍隊を派遣していないから日本の援助は真にアフガンの復興を目的にしたものだと信じられる。紛争が泥沼化しているアフガンを安定化させる唯一の方策はアフガン政府とタリバーンの対話しかないと考える人間は多い。その仲介ができるのは、また周辺国も含めて国際的な協議の枠組み作りの役割を担うことができるのは、アフガンに軍隊を派遣していない日本しかないと考えるアフガン人も少なくない。(もし日本が海外で武力行使するようなことがあれば人々は裏切られたと思うだろう。そしてアメリカと同様、国際的なテロの脅威に晒されることになるだろう。)

 紛争地におけるNGOの活動と各国政府の関与の実態を踏まえた、このようなリアリズムの立場に立って考えた場合、やはり我が国の安全保障と国際貢献は現行憲法9条に徹するやり方がベストという結論になるだろう。
 すなわち、自国の安全保障は自国軍や同盟軍に守ってもらう軍事的抑止力に頼るやり方よりも、戦力不保持・交戦権の放棄に徹し、不戦平和国家として国際的信頼(諸国民からの信頼)の上に立って他国からの攻撃を抑止(回避)しつつ紛争・係争問題(島の帰属や海洋資源問題など)は外交交渉・話し合いに徹した解決をめざす。同時に、他国・他地域における紛争・貧困・差別や国際間の諸問題にも中立的立場に立って仲介・人道援助・非軍事ODAに力を注ぎ、外交的イニシャティブを発揮する、これこそが「9条抑止力」ともいうべきものであり、実効性のあるより確かな安全保障となるのではあるまいか。

 安倍首相は「積極的平和主義」というが、それは軍事(自衛隊と日米同盟)に依存してのやり方。
 軍事的抑止力―武力は自分から先には行使しないが、相手は武力攻撃してくるかもしれない(不信感)から、それを抑止するために必要だというものだが、それはその国に対する不信感(話し合っても、心は通じないという不信感)を前提にしている。
 その場合、相手は日本を信頼しているのに、というわけではなく相手側も日本に不信感をもっているという相関関係(相互不信)がある。北朝鮮・中国も然りだろう。北朝鮮は、アメリカと敵対しており、そのアメリカと同盟し、かつての植民地支配にともなう負の遺産を清算していない日本を信頼することはできないのだ。中国には対日歴史問題(その象徴が靖国問題)があり、尖閣については、かねがね日本による島の実効支配は認めつつも、帰属問題は不確定で棚上げと思い込んできたものを、日本政府が一方的に国有化を宣言したことに反発して、それ以来不信感を強めた。
 このような不信の種を除去すれば不信感は無くなり、軍事的抑止力など不要なことになろう。
 その不信の種とは、北朝鮮の場合は(日本に対して)敵対するアメリカと同盟を結んで基地を置いていること、それにかつて植民地支配をした負の遺産(強制連行・従軍慰安婦その他)を未だ清算していないこと等(日本側は北朝鮮に対して拉致問題で不信)。中国の場合は(日本に対する不信の種は)歴史問題・尖閣問題などだが、これらの不信の種を除去すれば、これらの国に対する軍事的抑止力は不要となるわけである。
 だとすれば、これらの不信の種―日米同盟・過去の清算・歴史問題・尖閣問題、日本にとっては拉致問題―を解決・解消する、そのことにひたすら傾注することに全てをかけるようにすればよいのである。
 ところが、我が国政府は、そのような不信の種を除去して軍事的抑止力を無用化するどころか、ほとんどその逆の方向にやっきとなって、日米同盟の強化と軍事力の増強につとめている。そこに問題の全てがあるのである。

 尚、「イスラム国」などイスラム過激派は、日本人に対しては今のところは恨みも不信もないように思われる。それは、日本は米欧のキリスト教徒やイスラエルのユダヤ教徒とは異なり、イスラム教徒に対して未だかつて政治的・経済的にも軍事的にも恨まれるようなことはしていないと思われていて信頼感をもたれているからである。このイスラム過激派の攻撃に備えてわざわざ軍事的抑止力を固める必要もないわけであり、むしろアメリカから原爆をくらって惨たんたる敗戦を被ったあげくに憲法に戦争放棄・戦力不保持を定めて非戦を国是としている国として信頼感を得、ほかならぬ憲法9条が抑止力となっていると言えよう。

 「イスラム国」などのテロ国家、北朝鮮などの「テロ支援国家」、アルカイーダなどの国際テロ組織、ボゴ・ハラムなどアフリカの武装勢力など―これらの相手に対しては「話し合っても理性的な話は通じない、武力―軍事的な抑止力・攻撃力―で対抗するしかない」のか?
 真の問題は、そう言って何が何でも自らの利益とそれが得られる社会システム(資本主義)を守ろうとする(国ごとの、或いは国際的な法制度・機構など合理的な装いを弄すも結局は非理性的な強制手段すなわち暴力装置・武力でしか守れない)身分・階層と社会体制が存在していることである。
 その根っこにあるシステムは資本主義経済システムであり、そこから生じているものは競争・格差・失業・貧困・差別・人間疎外である。(失業者数は世界合計で2億人超、世界の最富裕層85人の資産総額は下層35億人分=世界人口の約半分の資産合計に相当。)それらがテロリズムの土壌(争いの種)となっている。
 歴史的に見れば、近代資本主義の発展過程で、欧米先進資本主義国による経済のグローバル化、アジア・アフリカ・中南米の植民地化にともなって、先進国・途上国間・地域間、それぞれの地域内・国内間にそれらはもたらされた。(先進国内でも疎外感・閉塞感に打ちひしがれた若者がイスラム過激派にはしり、「イスラム国」やアルカイーダなどに身を投じている。「国内に居て自殺して果てるよりは、戦場で」と。)
 そのような資本主義のグローバル体制下で、そこであえぎ、どうすることもできずに疎外感に打ちひしがれた人々は、アメリカなどの圧倒的に強力な軍事力(抑止力・攻撃力)によって守られ、或いは支援されている政府の軍に抗するにはテロ手段しかないという考え・過激思想にとらわれる。それに対してグローバル支配権力者とその同調者たちも、彼ら過激派にはどうせ話は通じず武力で攻撃を封じる軍事力で抑止・排劇するしかないという考え・軍事主義にとらわれる。
 こうして互いに「暴力には暴力しかない」という考えに囚われ、果てしない「憎しみと暴力の連鎖」(悪循環)に陥る。それでは、いつまで経っても問題は解決せず、争いは収まらないのであって、「軍事的抑止力」などなんの意味もないわけである。
 根本問題は、格差・貧困・差別・人間疎外などテロリズムの土壌(争いの種)を除去することにあるはず。それを除去することなく、いくら軍事的抑止力を強化したところで、なんの解決にもならないどころか、それはかえって相手を刺激し、反発を招き、闘争心をかきたてる以外の何ものでもなく、話し合おうにもその妨げとなる。話を通じなくさせるのは、ほかならぬ「軍事的抑止力」(それは右手に棍棒を持ち、左手に聖書を持って話そうとするようなもの)。
 このようなテロに対する抑止力の場合でも、最善の抑止力は、やはり「9条抑止力」、というほかあるまい。

2015年01月11日

過激派の武装ゲリラ・テロ攻撃を無くするには―軍事的抑止力ではダメ(後半に加筆)

 これらは支配体制・権力に対する反抗であるが、そうせざるを得なくする原因を絶つこと。その原因とは
 ① 彼らを耐えがたい窮状(格差・差別で、職も教育も居場所も得られず、人間疎外された状態)に貶めている体制―不平等な資本主義
 ② 支配権力―抗しがたい圧倒的な武力(それには殉教的に死を覚悟で抗するしかない)
 ③ 「言論の自由」「表現の自由」をいいことに、(節度ある理性的な批判ならいいが)彼らを侮辱し、或いは彼らの信ずる神や預言者を笑いものにして心を傷つけるヘイトスピーチや風刺画(「暴力の自由」がないのと同様、「言葉の暴力」の自由もないはず。新聞などでの風刺は権力に対する弱者の批判・抗議方法で、権力者を笑いものにするもの。弱者・マイノリティーを笑いものにしたら、それは強者による弱者への侮蔑となり、心を傷つけ反感と恨みを招く。)
 これらは、彼らに国家や社会の支配的な権力や人々に対する不信頼・不寛容をもたらし、対話・交流・話し合いの道を閉ざし、現状から脱するには暴力・武力で抗うしかないという気持ち(「暴力と憎悪の連鎖」)にさせる。
 それらの原因を絶つこと、すなわち①の体制を変革・改善すること(トマス・ピケティ著『21世紀の資本』では累進所得税・累進相続税・累進資本税などの累進税制の導入―金持ちの財産にもっと課税―を提言)、②の武力による抑圧(抑え込み)を排すること、③の人間の尊厳を傷つける「表現の自由」を抑制する(節度を保つ)こと、これらによって、相互の信頼と寛容の精神を回復して、心を開いて話し合える状態にする以外にあるまい。

 いずれにしても、軍事的抑止力など力で押さえつけ、彼らの思想や行動を一方的に非難・排撃するだけでは、これらは無くならない、ということだ。
加筆>フランスの失業率は9.97%(日本は3.7%)、移民500万人で全人口の11.6%(日本は1.1%)、移民の失業率は非移民の2倍。
 そのフランスでは、週刊紙(シャルリー・エブド社一昨年、20年五輪開催地に東京が選ばれたことを報じた際、「フクシマのおかげで相撲が五輪種目になった」として奇形で手足が3本ある力士の風刺漫画を掲載、日本大使館から抗議を受けている)が偶像崇拝を禁止しているイスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載、同社その他がイスラム過激派メンバー(二人はアルジェリア系、一人はマリ系)から襲撃をうけ計17名が殺害され、犯人3人も警察特殊部隊によって射殺された。
 これに対して空前の(370万人もの)抗議・追悼デモがパリその他で行われ、フランス大統領とともにイギリス・ドイツ・トルコ・イスラエルなどの首相、パレスチナ自治政府議長、ヨルダン国王、マリ大統領など数十ヵ国の首脳もデモに参加。「表現の自由を守れ」の声とともに「私はシャルリー」と風刺画擁護の表示が手に手に掲げられた。そのシャルリー・エブド紙はその後再びムハンマド風刺のマンガをつくって何百万部というさらに大量部数の販売を強行した。
 これらには異論も発せられ、「異教を侮辱した風刺漫画など、どのような『言論の自由の濫用』も脅威だ」「『反テロ』で結束するのはよい。問題はなぜ『反戦』でも結束できないのか、である。戦争が起き続けているから、テロも起き続けてしまうのだ」と。
 ところが、フランス政府は「イスラム過激派との戦争状態にある」として、強硬策を打ち出し、対テロ治安対策に軍兵士を一万人動員して重要警備拠点に配置。かつてフランス植民地だった北西アフリカでは13年1月にマリで、北部のイスラム教徒の反乱を抑えようとするマリ政府の要請を受けてフランスが軍事介入、それに反発したアルカイダ系の武装組織がアルジェリアで日本人拘束事件を起こしている。中東の過激派「イスラム国」に対する有志連合にはフランス軍も既に参加しているが、今回それに加えて新たに原子力空母をペルシャ湾へ派遣、空爆に乗り出している。
 
 これでは火に油を注ぐようなもので、テロと反イスラムの連鎖はますます激化こそすれ、治まることはないだろう。

 安倍首相は中東諸国首脳を歴訪して、先々でテロ対策に言及し、「過激主義の流れを止める」「中庸は最善」などと言ったりしているが、そのやり方は集団的自衛権による軍事的「抑止」(ジプチ基地など自衛隊の海外派兵展開)をめざす立場での「積極的平和主義」であり、自国憲法9条の不戦・非同盟中立の精神に立つものではなく、それはイスラム過激派をなだめるどころか、かえって逆恨みをかい、日本人も標的にされるようになるという極めて危ういものであろう。

2015年01月27日

I am Kenji,too

 前の文(『過激派・・・・・』)の最後に、安倍首相のやり方では「日本人も標的にされるようになる」と加筆したが、その矢先、日本人二人を人質にして首相を脅迫(身代金を要求)している映像のニュースが飛び込んできた。やっぱり。
 しかし、日本人に対してこんな非道・理不尽な仕打ちはやめてくれ!日本はあくまで平和国家、『十字軍』(有志連合)には参加していないし、カネは軍資金ではなく避難民への人道支援のためで、風刺画などでムスリムの心を傷つけるようなこともしていないのだからと、ただひたすら二人の無事を祈るばかりだ。
 拘束された後藤健二氏の母親が記者会見に出て、次のようなことを読み上げた(ネットに出ている)。
 「日本国民・日本政府の皆さん、諸外国の皆さんに健二が大変ご迷惑をおかけしていることに心からお詫びします。
 健二は、幼い頃から心優しい子でした。健二はいつも『戦地の子どもたちの命を救いたい』と言っていました。中立の立場で戦争報道をしてきました。イスラム国の皆さん、健二はイスラム国の敵ではありません。
 日本は戦争しないと憲法9条に誓った国です。70年間戦争をしていません。日本はイスラム教諸国の敵ではなく、友好関係を保ってきました。日本は唯一の被爆国です。アメリカによる広島と長崎への原爆投下で 数十万人が亡くなりました。
 あと残された時間はわずかです。日本政府の皆さん、健二の命を救ってください。」と。

 そうだ“I am Kenji” だ!“I am not Abe”(報道ステーションでコメンテータの古賀氏が指摘)なんだよ
        Let me go ! Let me free !(届け!声なきこの声)

2015年02月01日

アベノポリテクスは誰のための政治か

 資本主義―格差社会―富裕層(大口株主・資産家)と庶民・貧困層、大企業と中小零細企業、エリートと非エリート、正社員と非正社員、勝組と負け組、強者と弱者の分化

 政権・与野党の各党は、これら前者と後者のどちら寄り(どっち本位か、どちらを優先・優遇、どちらの利益を大事にしてる)か
 次にあげる安倍自民党のイデオロギーと諸政策はどちらの立場に立ったものか
 1、イデオロギー(思想)
  ①新自由主義―市場原理主義・競争主義(弱肉強食)、「小さな政府」(国家による福祉・サービスの縮小・削減・規制緩和・民営化)
    「トリクルダウン」政策―大企業の税負担が減って収益が上がれば、中小企業や労働者にもお零れがしたたり落ちるという考え(OECDは昨年12月の報告書で大企業成長の恩恵は自動的に社会全体に波及するわけではないと)(『21世紀の資本』の著者ピケティも、労働所得に対して減税、資本に対して増税すべきで、アベノミクスは間違いだと)
  ②新保守主義(ネオコン)―上のような新自由主義による格差の拡大と社会の分裂を補うため天皇・「日の丸」・「君が代」・「靖国」など伝統的権威の尊重、愛国心教育などによる社会の統合、家族による共助
    ナショナリズム―民族・愛国主義―国際的地位を誇示―「経済大国」「強い国」(軍事強国)を目指す―富国強兵政策
    歴史認識―非「自虐」史観―アジア諸国に対する侵略・植民地支配の不当性、加害事実・加害責任を否認もしくは過小評価―歴史修正主義
 2、諸政策
 ①経済政策―アベノミクス(金融緩和・大型公共事業・規制緩和)→物価値上がり、円安の誘導 
          TPPに参加―関税・非関税障壁(規制)の撤廃―外国に市場開放・輸入自由化へ
 ②税制―庶民からの消費税増税、企業からの法人税減税、中小企業への標準課税
 ③雇用・労働政策―派遣労働のさらなる規制緩和、労働時間の規制緩和(残業代ゼロの容認)
 ④社会保障(年金・介護・医療費・生活保護など)―削減
 ⑤軍事・外交―日米同盟と自衛隊の活用・・・・集団的自衛権の行使容認―海外派兵恒久法など「安全保障」法整備へ
       「積極的平和主義」―アメリカの補助的的パートナーとして世界に軍事的にも関与
        軍事的抑止力の重視―防衛予算の増額―史上最大の5兆円に
        対中・対北朝鮮対決
        テロとの戦い
        9条改憲めざす
        沖縄基地―名護市辺野古に新基地建設
        秘密保護法
        武器輸出3原則の撤廃(防衛装備移転3原則へ転換)
 ⑥エネルギー政策―原発再稼働、電力会社の経営擁護
 ⑦教育政策―愛国心教育
 ⑧改憲―現行憲法は「押しつけられた」憲法だとして「自主憲法」めざす
 ⑨農政改革―家族農業を基本にしてきた戦後農政から企業参入の自由化(営利目的の企業的農業を営む大経営が利益の上がる分野へ思いのままに進出できるようにする)を進める農政への転換
   農協改革―全中(指導・監査権)、全農(農作物の全国的な共同販売)、農林中金(貯金・融資)、JA共済(保険)の弱体化―権限・規制はずし、総合的な機能を切り離し、株式会社化して企業・銀行・保険会社などの参入に導く 
 ⑩小選挙区制、企業・団体献金、政党助成金の維持
 ⑪「地方創生」―自治体再編(道州制へ)・集約化―公共施設や行政サービスを拠点都市に統廃合(身近な住民サービスの低下・周辺部の切り捨てへ)
   地方に「特区」(規制緩和)―大企業「呼び込み」、「解雇特区」、「カジノ解禁」特区など

  これら安倍政権の政策は多分に前者(富裕層や大企業)寄りで、後者(庶民・貧困層や中小零細企業)には多々割を食う政策である。(同志社大の浜矩子教授15年度予算の配分を論評して「えこひいき」「公共財の私物化」と指摘している)

 これらに対する対極的(はっきりと反対)な野党の対案は次のようなもの
 ① 経済政策―アベノミクスに反対―賃金所得アップと安定雇用(正社員化)による内需拡大が先
TPPに反対―経済主権の擁護、食糧自給率の拡大めざすべき
 ② 税制―庶民からの消費税増税、企業からの法人税減税、中小企業への外形標準課税に反対
  所得税・相続税の最高税率を引き上げ(元に戻す)
 ③ 雇用・労働政策―労働者派遣法の改悪に反対、ブラック企業の規制法制定   
 ④社会保障―削減に反対
          最低保障年金制度、後期高齢者医療保険制度の廃止、国民健康保険料の軽減
 ④ 軍事・外交―9条をあくまで守り徹底―不戦・非同盟・中立・平和的安全保障
           ―日米安保条約の廃棄―米軍基地の撤去、普天間基地の無条件撤去
           歴史問題―侵略と植民地支配の加害事実を認め率直に反省→信頼回復・和解
           積極的平和外交、東南アジア平和友好条約の北東アジア版めざす
           集団的自衛権行使の閣議決定の撤回、秘密保護法の廃止
           武器輸出3原則の堅持
 ⑥ エネルギー政策―原発ゼロ(直ちに全部廃炉に)
 ⑦ 教育政策―愛国心・道徳おしつけ教育に反対
 ⑧ 改憲―反対、現行憲法を守り徹底し活かす
 ⑨ 農協解体に反対
 ⑩ 小選挙区制の廃止、企業・団体献金の禁止、政党助成金の廃止
 ⑪新たな市町村再編や道州制に反対―現在の市町村の住民自治とその拠点を守り、住民に身近なサービスを充実させ、地域再生をはかる。
   地方「特区」に反対―解雇特区もカジノ解禁も反対     

 これらの政策は、各層(冒頭に挙げた各々の前者と後者)のうち後者(数の上では中間層―格差拡大で縮小している―と合わせ大多数を占める)の立場に立っている。

2015年02月03日

鬼は退治しても

 鬼は退治してもいなくならず、鬼を生まないような世の中にすることが肝心。

テロ対策には次の3つがある
軍事的方法―強硬策で(「毅然として立ち向かう」とか、「断固として屈しない」「交渉(人質の解放取引)には応じない」)米軍などの有志連合への参加、自衛隊の活用、邦人保護・救出作戦を可能とする法整備、軍事的抑止力の強化―そのやり方では根絶不可能、逆効果も―憎悪をかりたて、かえって激化―「憎悪・報復の連鎖」―9.11同時多発テロ事件→対テロ戦争―アフガン戦争―イラク戦争(アメリカのイラク攻撃→フセイン政権打倒)→それに対してフセイン政権のイラク軍・バース党残党(将官・官僚)が「イスラム国」ISILを主導、報復戦争へ
 「一人のテロリストを殺せば、新たに5人のテロリストが生まれる」とも言われる。

非軍事のテロ対策―情報収集、資金源の遮断、水際対策(空港や港湾での)、在外邦人の安全確保、人道支援、国際社会との連携・協力などは必要だとしても

過激行動・テロを生む土壌・温床の除去
 このような過激行動・残虐テロ、狂気・狂信・無差別殺人など社会的病理現象(日本では地下鉄サリン事件、秋葉原事件など)を生み出す土壌・温床―不平等・格差・貧困・失業・不安定雇用・無知・差別・抑圧・排外主義・行き場・やり場のない疎外感・閉塞状況、ストレス社会、戦乱による人身の荒廃ete。これらを無くさないかぎり過激行動・テロ犯罪は根絶はできない。ただ単に「極悪・非道」と難じ、懲罰する(そうすることは正当なことではあるが、それ)だけではダメで、それら不条理を生み出す土壌・温床―社会の病理(社会矛盾)にメスを入れなければならないのだ。(ピケテイ氏の『21世紀の資本』はそのあたりのことを示唆しているのではあるまいか。)
 (イランの映画監督マフマルバフ氏、いわく「タリバンは遠くから見れば危険なイスラム原理主義だが、近くで個々を見れば飢えた孤児である」と。)

 安倍首相が気がいく(傾注する)のは、これら3のうち一番は①であり(軍事に前のめり)、③に気はいかない。

 今回の日本人人質殺害事件の経緯
 以前は、中東イスラム世界の人々には、欧米人(キリスト教徒・帝国主義の侵略者イメージ)と異なり、日本人に対しては対立要素なく、アメリカから原爆を被った平和国民として親近感。しかし
 2003年イラク戦争―自衛隊派遣
2004 年4月報道写真家やボランティアの3人を武装勢力が捕え、自衛隊撤退要求は日本政府から拒否されるも、イラク・イスラム聖職者協会の仲介で解放
      10月「イラクの聖戦アルカイダ」組織により日本人青年旅行者を人質に自衛隊撤退要求、日本政府に拒否され殺害
 2014年6月イスラム国、樹立宣言
   8月8日、米軍の空爆開始 
     中旬、湯川さん拘束
   9月、米英仏など10ヵ国「有志連合」→60ヵ国参加、日本も参加へ
     空爆以前はフランス人・スペイン人など人質は解放されていたが、空爆開始後は米国人・英国人・フランス人の人質は相次いで殺害。
   11月後藤さん拘束、家族に身代金要求メール、12月3日外務省で確認
   1月17日安倍首相、カイロ演説
     19日  〃  イスラエル訪問      
     20日ISIL、二人の殺害警告・身代金要求の動画公開
     24日湯川さん殺害写真、公表
   2 月1日後藤さん殺害動画、公表
 この間の我が国政府の対応に問題がなかったか検証が必要。
 この間、「憲法9条を順守する平和国家日本、という、戦後日本が築いてきたイメージは、中東でも世界でも完全に崩れ去りつつあります」と、中東研究者の栗田禎子教授(千葉大)は指摘している。

 安倍首相は「テロには屈しない」―「テロリストの思いを忖度するようなことはしない」「いたずらに刺激するようなことは控えるとしても、過度な気配りは全く必要ない」と。
 しかし、「いたずらに刺激する」とは挑発するということであり、そんなことを控えるのは当然で言うまでもないことであり、たとえわずかでも刺激することのないように(凶器を持ち人質をとって立てこもる犯人に立ち向かう警官隊のように)細心の注意・過度なほどの気配りも必要なのであって、そこまで気配りする必要は全くないというのは軽率・楽観すぎる。湯川さんと後藤さん二人が中東(シリアかイラク)で拘束され人質となっていることを知りながら、その近く(エジプト・イスラエル)にわざわざ行って「ISILがもたらす脅威をくい止める」「ISILと闘う周辺各国に総額2億ドル程度、支援」と演説し、対イスラム強硬派のイスラエル首相と「テロ対策で連携する」と言って握手してくる必要が、はたしてあったのかだ。「人命第一」といいながら「テロには屈しない」と強硬姿勢を貫き、結果二人の命は犠牲にされた。ひたすら「戦争と貧困から子どもたちの命を救いたい」という一心で危険をおかしながらも必死で取材・報道に取り組んできた方の命であっても、政府の警告(退避勧告・注意喚起など)を振り切ってそこへ行った本人たちの自己責任で、犠牲はやむをえない、ということになるのか。
 「人命第一」と言うからには、「テロに屈しない」からと言って人質を見殺しにしていいはずはなく、自らの言動に細心の注意、極度なほどの「気配り」があって然るべきだったろう。そうすることはテロに屈することにはならない、それは別のことだ。

 それに次のような問題も浮上している。
 安倍首相は「邦人救出」を口実に自衛隊派兵をも策していること―安保法整備へ
   しかし、自衛隊による救出作戦は相手のテロリスト・戦闘員を制圧する軍事作戦(武器を使う)となり、人質の生命・安全も保証されなくなる(無事救出するどころか、かえって犠牲にしてしまう結果になりやすい)。それに戦争にもつながりやすい(かつての朝鮮半島や中国への侵略は「居留民保護」を理由にして始められた)。
 小倉英敬神奈川大学教授(元外交官でペルー日本大使公邸占拠人質事件の被害者の一人)は「『イスラム国』は日本がイスラムを攻撃する『十字軍』に参加したと言って日本を敵視しており、日本が軍を派遣する姿勢を見せれば緊張を高めるだけだ。」「軍隊の投入になれば無事に救出される可能性は低くなる」、「そもそも在外邦人を人質にとられない、犠牲者にならないような外交政策の国際的信頼性を高めることが政府の第一の責務で、危険になったら軍隊を派遣するというのは本末転倒だ」と述べている。

 
 


2015年03月01日

迫りくる改憲(その1)―手始めにどの条項から

安倍自民党は改憲を来年夏の参院選(自民党が3分の2以上議席獲得)後に照準。
(1)すでに国民投票法―18歳以上に投票権。
 問題点―最低投票率の定めなく、賛成が「有効投票総数の過半数」あれば成立。
    国民投票運動―公務員などは制限、NPOや宗教団体など組織による運動は規制。
           有料意見広告は野放し。
(2) 改正点―どういう条項を新たに設け、或いは削除、改変したいのか―次のようなこと。 
 ●「新しい人権」として環境権を書き加える(わざわざ新たに書き加えなくても現行憲法13条<幸福追求権・人格権>や25条<生存権>に含意されているというのが通説なのだが。)
 ●同じく「プライバシー権」を書き加える(すでに現行憲法13条の人格権の中に含意されており定着しているのだが。)
 ●同じく「知る権利」を書き加える(すでに現行憲法21条<表現の自由>の中に含意・定着しているのだが。)
 ●緊急事態条項を新たに設ける(武力攻撃の発生や大規模災害・感染症拡大など非常事態に緊急対処するため首相・内閣(行政)の権限を強化―国会の権限の重要部分を内閣に委譲、国民の行動・財産権・集会・デモ・報道の自由など人権を制限し、国の指示に従わせるというもの。わざわざこれを設けるのは廃止された旧帝国憲法下の非常大権や戒厳令を復活させるようなものであり、ナチスの全権委任法の悪例もあり、権力の暴走につながる危険。財産権などについては既に現行憲法12条に「国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあり、非常事態に際して国民が権利の一部を公共の福祉のために利用に供することは可能なのだが。)
 ●私学助成(公金の支出)を認められるようにする(現行憲法は89条に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と定めており、私学助成を認めていないとの考えであるが、憲法学界の大勢は認められるという考え。それは、私学教育は公立学校と共に公教育を担い国家の目的の達成に役立つものとして国家の規制の下にあり、「公の支配に属しない」とは言えないからである。それに、26条の「すべての国民は等しく教育を受ける権利を有する」および25条「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という定めからも憲法上要請されているもので、むしろ当然の措置として確立、私学振興助成法で制度化され、現に運用されているもの。なのに「なにをいまさら」というべきもの。)
 ●財政規律条項を新たに設ける(財政法で「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」と既に定められている。それにもかかわらず政府が国債発行・借金を重ね国の財政を悪化させた原因が、憲法に財政健全化の規定がないからだとする主張は的外れであり、憲法に責任転嫁するもの。)
 ●裁判官の報酬引き下げを「できる」と改める(79と80条に「裁判官の報酬は、在任中、これを減額することはできない」とあるが、最高裁の裁判官会議では「人事院勧告に沿って国家公務員の給与全体が引き下げられるような場合には、裁判官の報酬を同様な内容で引き下げても司法の独立を侵すものではないことから、憲法に違反しない」旨、確認されている。)
 ●96条の改憲発議条項(衆参総議員の3分の2以上の賛成がなければならないのを、過半数であればよいと改めて、改憲しやすくしようとするもの。)
 ●前文の全面的改変とともに9条2項(戦力不保持・交戦権否認)の削除―実はこれこそが『本丸』。
(3)これらの改正点を衆参両院の憲法審査会が検討して憲法改正原案を審議 
  憲法審査会の構成(各党議員と学識経験者からなる)―衆院50名以内 参院45名以内
         各党委員は(議席数で比例配分)
             衆院―自民31、民主8、維新5、公明4、共産2
             参院―自民21、民主11、維新2、公明4、共産1、社民1、生活1、次世代1、元気1
  上記のような改正点の幾つかを一括して国民投票にかけるか、それとも個々にかけるか。
     安倍自民党は今のところ個々に国民投票にかける方針。
     まずは手始めに環境権・緊急事態条項・私学助成などから幾つかに絞って、賛成が得られやすい方から4~5回「改憲国民投票」をやってみて慣れさせたうえで、最後に「前文と9条改憲」に持ち込む作戦。  
(4)国民投票は有効投票総数の過半数が改正に賛成であれば改憲成立ということになるが、問題は投票率―半分以下あるいはたった1割でも「有効投票の過半数」であれば改憲が成立することになるのかだ。
 賛成か否かどちらとも言えないとか、わからない、どっちでもいいという人は棄権し、わざわざ投票所に足を運んで投票する人は「はっきりと賛成」で是非とも通したいという自覚的賛成派か、「はっきり不賛成」で是非とも通したくないという自覚的反対派(「環境権」などの枝葉な部分的「加憲」や改正は、実は本命の9条改定に至る国民投票の予行演習的なもので、これを通してしまったらそれが突破口・「蟻の一穴」となり、現行憲法の核心部分までも全てが壊れてしまうということを分かっているが故の不賛成)のどちらかであり、「環境権」保護のためだとか「私学助成」を促進するためだとか、災害など非常事態に対処するために必要な緊急事態条項だといえば、自覚的反対派以外の人にとっては、反対する理由がないように思えて、反対し難いわけであり、投票する人は自ずから賛成票を投ずる人が多くなり、「有効投票の過半数」を得やすいことになるだろう。それが安倍自民党のねらい。
(5)護憲派は、このような安倍自民党など改憲派の戦略に対して、はたしてどう対抗するのか?が問題。
 世論調査は、「憲法改正」自体は賛成の方が上回っている。9条については今のところは「改正」反対のほうが上回っているが、はたしてどうなるか。自民党・改憲派は世論形成に最大限力をいれるだろう。既に各都道府県で憲法対話集会を(米沢では昨年5月)開いて改憲への機運を高めており、若者や子育て中の主婦たちにはマンガ(12年に発表した自民党の改憲草案の内容を説明したマンガ)などで啓発しようとしているのだそうだが、これらに9条の会その他護憲派はどう対抗するのかだ。

2015年03月15日

迫りくる改憲(その2)―9条改憲同調者への反論(加筆修正版)

 9条改憲に同調する人たちは次のように言う。
 「戦争は誰だって望まない。そんなことはわかりきったこと。しかし、国民の生命・財産を外敵から守るため戦わざるを得ない場合もあるのだ①。
 日本が70年間戦争をせずに済んだのはアメリカから守ってもらい、アメリカが戦ってくれたおかげだ。日本は守ってもらっているのに、日本がアメリカを守らないのはおかしい②。
 過激派のテロリストや北朝鮮などは話し合っても通じない。力で抑止し、制圧するしかないのだ③。
それを米軍に頼るだけでなく、自衛隊を「戦力」として認め、中国・北朝鮮などの脅威には日米同盟で対抗するしかなく、集団的自衛権(その行使容認)も必要だ④。
 それらを禁じるような憲法は変えるべきで、よそから与えられた憲法ではなく独自の憲法を自主的に制定するのは当然のことだ⑤」と。
 これらの考え方は、単純で人々(歴史の重みをあまり感じない世代など)の間に通りやすいだけに、護憲派が彼らを論駁・説得して国民投票で改憲派に勝つのは、よほど頑張らないかぎり難しい。
 これらには反論はできたとしても、「ならば不戦・非軍事でどうやって国民の生命・財産を外敵から守り、安全を保障するのか、具体策・対案を示せ⑥」という逆質問にはどう答えるのか。護憲派の多くの人に説得力のある答えが用意されているかといえば、その具体策・対案はあるにはある(政党のなかにはそれなりに示している政党もある)としても、それが一般の人々にどれだけ浸透しているか、となるとどうも。
 護憲派には、単に情緒的に改憲反対を叫ぶだけでなく、又「ダメなものはダメ」とか紋切型ではなく、論理的かつ現実的で説得力のある具体案と反論力、戦略的構想力、情報発信・宣伝力が求められよう。
 上記のような改憲に同調する人たちの言い分に反論するとすれば、次のような言い方ができるだろうか。
 ①「国民の生命・財産を外敵から守るために戦わざるを得ない。だから国に軍隊は必要」という言い分に対しては― 理屈ではそうだが、実際問題としてどうか。
 「外敵」というが、北朝鮮・中国・過激組織などは(「脅威」で、「もしかして」という)その可能性はあっても、地震・津波などの自然災害のように(相手の対応如何に関わらず)必ず襲来するという蓋然性(必然性)はなく、こちら側(日本)の対応(或いは相手にそうさせる誘因)如何によるのであって、それらの国や組織自体にいつか必ず日本に攻撃をしかけてくるという必然性があるわけではないのである。つまり、いつか必ず襲来する地震など自然災害には備えが不可欠だが、どこかの国や組織からの(いつか必ずしかけてくるというわけでもない)攻撃などに備えて軍隊が必要だとはならないのだ。
 個々人に例えれば、強盗や異常者など暴漢にもしかして遭遇するかもしれないからといって、各人が身を守るために銃器の所持が必要不可欠かといえばそうではない。暴漢に遭遇したら、その時には身を守るため、石でも棒でも、そこにある物を持って必死で防戦する正当防衛権は認められるが、我が国では一般人の銃器の所持は銃刀法で禁止されている。もしアメリカのようにそれを認めれば銃犯罪がかえって頻発化することになるからである。同様に、国にも正当防衛権があって、仮に急迫不正な侵害がある場合、あらゆる手段を用いて阻止・排除するために抵抗し戦う自衛権はあっても、我が国では恒常的に軍備(常備軍・兵器)を持つことは禁じている。それが9条なのである。
 我が国の場合はアジア・太平洋戦争に至る歴史に鑑み、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように、憲法で、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を永久に禁じ、国に陸海空軍その他の戦力の保持を禁じ、交戦権を認めないことにしたのである。
 近代憲法は、主権者である国民が為政者・政府・軍部などの横暴・暴走から自らの人権(平和的生存権も)を守るため権力に縛りを加えるべく制定された(立憲主義)。
 政府が自国民の生命・財産を守る責任を持つのは当たり前だが、だからといって政府は他国民に対して戦争や武力行使など何をやってもいいということにはならず、憲法の命ずるところに従ってそれを行わなければならないのであり、領土・領海・領空の警備、侵犯の阻止・排除などには必要な装備・要員(警察・機動隊・海上保安庁・特殊部隊・自衛隊など)は備えなければならないが、対外戦争のための戦力・交戦権は認めないと憲法は定めているのである。
 日本国民の生命・財産を守ったのは、むしろ9条によって軍隊をなくしたおかげ。もしも日本軍が復活してアメリカなど同盟国と共にあちこちに海外派兵・参戦していたら、再び幾多の生命・財産(国富)が犠牲にされただろう。
 ②「日本が戦わずに済んだのはアメリカのおかげ。日本は守ってもらっているのに、アメリカを守らないのはおかしい」という言い分に対しては―
 アメリカが日本に基地と駐留軍を置いたのは、ソ連との冷戦に戦略上必要だったからであり、アメリカが朝鮮やベトナム・アフガン・イラクなどで戦ったのは日本を守るためなどではなく、これらの戦争に日本の基地を利用するためにほかならない。
 日本はアメリカから一方的に守ってもらっているわけではなく、米軍に基地・施設を無償で提供し、米軍の駐留経費を「思いやり予算」で負担。その基地が標的にされ、核攻撃を受けるリスクさえも負わせられているのだ。
 ③ 「過激派テロリストや北朝鮮などは話し合っても通じない」という言い分に対しては―それは「いくら話し合っても無駄、どうせ話がかみ合わず合意に達することはできないのだから」と決めつけてかかり、「力で説き伏せて従わせるしかないのだ」として武力に物を言わせようとする意識傾向からくるもの。それで、軍事攻勢・武力行使に走れば報復の連鎖になり、いつまでも収まりつかないことになる。
そのような軍事依存意識を廃し、粘り強い対話力・交渉力・説得力を磨かなければならないのだ。
 また「話し合っても通じない」ということは、心開かず(不信感から)心が通わないということである。その不信感は、強大な武力を背景にして敵視してくる他国人・異教徒に対する不信である。中東のイスラム教徒にとっては米欧のキリスト教徒とイスラエルのユダヤ教徒、北朝鮮にとってはアメリカに対する朝鮮戦争以来の不信である。日本に対しては、北朝鮮は日本がアメリカに追従して韓国とだけ国交し、植民地時代の清算が未だ行われていないことに対する不信があろう。イスラム教徒は日本人に対して、以前は不信感はなかったが、アメリカに追従してアフガン戦争・イラク戦争に後方支援を行うようになってから、不信を募らせている。
 彼らは単なる「ならず者」や異常者などとは異なり、彼らなりの論理・理由・法に基づいてやっており、それを理解しておく必要があろう。イスラム原理主義者にとって法とは、ムハンマド以来のイスラム法であり、最近のISなどによる捕虜・人質の扱い(改宗か、奴隷か、身代金・捕虜交換か、さもなくば殺害か、無条件解放か)も自爆テロもそれに基づいているのだという。
 米英は「テロには屈しない」ということで交渉には一切応じないという方針で、ISからの人質救出作戦には失敗しており、日本も今回は失敗したが、トルコはイラクのモスル領事館職員とその家族49人を交渉で救出に成功しており、イタリアやフランス・スペインも人質になった自国民を、交渉を通じて救出している。
 交渉には色々な方法・ルート・仲介者を用いてなされるが、いずれにしても信頼が確保されていなければならない。
 有志連合などの軍事攻撃には加担せず、非軍事に徹して、どの国、どの地域の人々からも親日感情・信頼を得ることが一番だろう。
 北朝鮮とは6ヵ国協議の場があり、これを大事にしなければなるまい。力(軍事)より、あくまで話し合いが大事なのだということ。北朝鮮に対しては強硬策をとり制裁を強化して絶交状態を続け拉致問題は滞っているが、むしろ、その「解決のためにも当初のピョンヤン宣言どおりに国交(先進国で国交がないのは日・米・仏だけ)を正常化して、ピョンヤンに日本大使館を設けた方が情報収集や交渉に便利で、館員が情報源の獲得や説得工作に努める方が真相解明に有効だったろう」(軍事評論家・田岡俊次氏)。
 接触・対話を突っぱね、圧力一辺倒では埒があかないのだ。
 ④「中国・北朝鮮などの脅威には日米同盟・集団的自衛権で対抗するしかない」という言い分に対しては―
 その国が軍事攻撃・戦争をしかけると判断される根拠には次の3要件がある。
 Ⅰ軍事攻撃しなければならない理由・必要性があること。それも国民・国際社会から納得・支持が得られる正当な理由(大義名分)があること。
 Ⅱその手段(軍備)をもつこと。 Ⅲその気(攻撃意思・敵意)があること。
 この3つがそろわなければ、(Ⅱの軍備増強だけでは)日本に対してその国が軍事攻撃・戦争を仕掛けてくる事態が予想される根拠とはならない。
 Ⅱの中国の軍備増強だが、それは日本も同様で、軍備を持つこと自体が(必ずしも積極的な戦意ではなく、ただ「相手が仕掛けてきたら受けて立つ」「いざとなったらやる」という消極的なものではあっても)脅威ではある。しかしそれが増強されたからといって(それもGDPの急成長にともなう防衛費の急増で、かつて日本の防衛費も高度成長期に連年二けた増だったのと同じこと。14年の対GDP比は1.3%で、日本0.96%よりはやや多いが、アメリカ 3.7%、韓国 2.5%、イギリス 2.2%、台湾 2.1%、フランス 1.86%、インド 1.8%よりは少ない。兵器・装備の近代化では日本・韓国・台湾などにやっと追いつきつつあるといった程度)、それだけでも恐れを感じさせる「脅威」にはなるが、当のその国(中国)では、(今の日本もそうだが)それは攻撃・戦争をしかけるためではなく「抑止するための手段」だと考えている場合もあり、それを持つから(或いは増強したから)と言って直ちに軍事攻撃必至という根拠にはなるまい。
 北朝鮮の核・ミサイル開発は、旧ソ連・中国が韓国と国交樹立して以来両国とも支えとして当てにはできなくなり、圧倒的に優勢な米韓軍と向き合わなければならない、その恐怖心から発していており、いわば「ハリネズミの針」のようなものと言えよう。
  軍事力による抑止力というものは相手の理性的判断を前提とするが、北朝鮮や過激派が自暴自棄となればその効果はない。それは自爆テロに対して死刑が抑止効果がないのと同じ。だとすれば、その脅威に対抗しようとしていくら軍備・軍事力を増強しても効果はあまりないということになる。
 Ⅰの点だが、中国が日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由・必要性など、はたしてあるだろうか。
 中国にとっては台湾・チベット・新疆ウイグル自治区などとともに南シナ海・東シナ海など沿岸海域も「核心的利益」をなす大事なところだといい、岩しかない無人島の尖閣諸島までも「核心的利益」の一部だなどと称して領有権にこだわってはいる。
 尖閣諸島は日本が実効支配してはいるものの、領有権問題の決着は日中双方とも「棚上げ」にしてきたのが、石原前都知事が唐突に島を購入すると表明したのに対して野田前首相が国有化を決定。それに対して中国が反発してその海域に日本の海上保安庁の巡視艇に対抗して監視船をしきりにくり出し、領海侵入を繰り返して我が方の海保巡視艇と警告「合戦」をやっている現状である。自分で勝手に「核心的利益」だなどと主張しても、それは我が国のみならず国際社会から認められるとは到底考えられない。にもかかわらず、もしも中国が強引に軍事攻撃をしかけ制圧して島を占領などしたら、一方的な侵略行為と見なされ、我が国民のみならず世界中(国際社会)から無法・非道が非難され様々に制裁を被り、かえって割に合わない結果を招く、そのことはわかり切ったこと。したがって尖閣のことで日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けてくるとはおよそ考えられまい。(領有権は「棚上げ」―日本が実効支配を続けるも島に施設建設など行わず現状維持―で和解がベター)
 他に何か日本に軍事攻撃を仕掛ける理由があるだろうか。無いだろう。
 Ⅲについて習近平や中国政府にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるのか。日本の首相や閣僚が中国人民の嫌がる靖国神社(戦犯を祀って侵略戦争を肯定している神社)の参拝を強行し、日中戦争における加害行為に対して謝罪・反省の誠意が不十分だから「けしからん」という思いはあるとしても、それだけで攻撃意思をもつだろうか。
 そもそも中国は日本と平和友好条約で「主権・領土の相互不可侵」「恒久的な平和共存」「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないこと」約束しており、近年、関係が冷え込んでいるとはいえ、昨年11月には安倍首相は北京で習近平主席と会い「戦略的互恵関係」の発展で合意しているのだ。
 歴史問題・靖国問題・尖閣問題で不信感があるからといって、条約や合意が一方的に破棄されることなどあり得まい。ただそれらの問題を解消(侵略・加害事実を否定・軽視する歴史修正主義をやめ、靖国参拝をやめ、尖閣領有権は「棚上げ」という日中国交の原点に戻すなど)して不信感払しょくに努め、日中平和友好条約が破棄されるようなことにならないようにしなければなるまい。

 尚、アメリカにとって中国は最大の貿易相手国・債権国であり、戦略的互恵関係にある最重要国。習近平はアメリカとの「新型の大国関係―不衝突・不対立・相互尊重・合作共栄」を唱え、それにオバマも同意。日本の同盟国とはいえ尖閣などのために中国と戦ってくれることなどあり得まい。 
 ⑤ 「よそから与えられた憲法でなく自主憲法を制定しなければならぬ」という言い分に対しては―
現行憲法は必ずしも一方的に日本国民の意思に反して押し付けられたものではなく、帝国議会で審議を重ね、修正を加えたうえで決したもの。それを国民が受け入れ定着してきたもの。自民党など政党によっては、「押し付けられた」などとそれにこだわりをもち、とりわけ9条に不都合を感じている向きはあっても、国民の側には、それで不都合を感じ、改正の必要に迫られている人などいるだろうか。
 ⑥ 「不戦・非軍事で安全保障できるなら、その具体案を示せ」に対しては―
 ●まず、安全保障(戦争・武力攻撃に対する抑止力)には軍事的方法と非軍事的方法のどちらがベターか(その考え方)。
 軍事的方法―兵器・軍備を見せつけて、「いざとなったら使うぞ・やるぞ」と(威圧)―他国・相手国を不信用・「仮想敵国」と見なす―他国・相手国もそれに対抗―互いに軍拡(脅威が増幅)→緊張(不安)→たえず引き金・ボタンに手を(相手が撃てばすかさず撃ち返すか「やられる前にやる」)―軍事衝突→戦争に発展(限定的な戦闘でも、相手にとって銃弾1発は100発と同じ)というリスク(戦争を惹起、数多の国民が戦争に巻き込まれて犠牲になる危険性)を伴う。
 個人に例えれば―各自が対強盗などに備え銃を保有・所持―そのリスク―(対話・問答より先に)発砲しがちとなり、相手も武器・凶器を用意→殺し合いになる。
 それに対して非軍事的方法―個人に例えれば各自が家には鍵をかけて(戸締り)警戒はするが、武器・軍備は持たず、どんなことがあっても戦う意思のないことを示す―9条(戦争・武力行使の放棄と戦力不保持・交戦権否認)は国の内外にそれを宣明。
 但し、9条は国権の発動たる戦争と武力による威嚇・武力行使を放棄し、国の交戦権は認めないとは言っても、国は警察権を持ち海上保安庁も対テロ特殊部隊もあり、国民(人民)には正当防衛権(侵略・不当な占領・支配に対する抵抗権)もあり、無防備・無抵抗ということにはならない。
 ●安全保障の要諦は敵をつくらない(敵になりそうな国はできるだけ関係改善して反日感情を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして、敵を減らす)ことであり、中国・北朝鮮・ロシアその他どこの国・国民とも敵視せず、友好・協力関係の構築、信頼醸成に努め、そうすることによって安全保障を得る。
(「『同盟国』だとか『価値観を共有する国』だとか『密接な関係にある国』、『親日国』と『反日国』」などと分け隔てして「我が国と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生したら集団的自衛権を行使してその国を加勢する」などと宣明したら、それ以外の国々を敵に回して敵対関係を強め、かえって安全保障環境の悪化を招いてしまうことになる。)
 ●9条は自国に対して戦争をさせない抑止力であると同時に、他国に対しても戦争をしかけさせない抑止力となる。(軍事的抑止力―軍備―は、隣国・他国もそれに対抗して軍備を増強し、軍備競争となり、かえって脅威が増す結果を招いてしまう。北朝鮮の核ミサイルは先制攻撃でもミサイル防衛でも防ぎきれない。また自爆テロのような「死なばもろとも」という自暴自棄の相手には、いかに強大な軍事力を備えても抑止しきれない。)
 ●アメリカとの軍事同盟(安保条約)は解消(米軍基地は撤去)し、新たに対等・平等の立場で日米友好条約を結ぶ。
 ●中国・北朝鮮を含む北東アジア友好協力条約―東南アジア友好協力条約(TAC)の北東アジア版―の結成めざす。(ASEAN諸国と中国の間では―域内諸国の国家関係の原則―①独立・主権・平等・領土保全②外部からの干渉拒否③内政不干渉④紛争の平和的解決⑤武力による威嚇と武力行使の放棄。南シナ海行動規範の締結めざす―領有権問題の平和的解決、事態を悪化させる行為の自制、協力事業の推進。)
 ●北朝鮮とは6ヵ国協議を通じて拉致問題の解決、過去の植民地支配の清算などの諸懸案の包括的解決、国交正常化、朝鮮半島の非核化を果たす。
 ●領土問題などは、歴史的事実と国際法に基づいて外交的解決をはかる。
 ●テロや領海・領土の侵犯には警察的に(海上保安庁・機動隊・特殊部隊SAT・自衛隊の警備活動などで)対処する。
 大規模な侵略事態が生起する可能性(蓋然性)はないとしても、外国の特殊部隊によるテロ・破壊活動、工作船によるスパイ活動や小規模のテログループによる破壊活動、武装漁民の離島上陸、外国潜水艦の領海侵犯、シーレーンでの海賊、国際海峡での機雷などの恐れもなくはない。
 それらへの警察的対処―①自国・自国民(生命・財産)に対する不正な侵害行為(犯罪)に対処―警備・強制排除・職務質問・臨検・拿捕など(行政警察権)。逮捕・押収など強制捜査権(司法警察権)もつ(国内法規で裁判・処罰)(日本領域外にいる命令者も―共同正犯として―逮捕できる)。②武器使用は(警察官職務執行法7条を準用)正当防衛・緊急避難その他「凶悪犯」対処に必要最小限な範囲で―警察比例の原則―相手の武器に比例―砲艦には砲艦、戦闘機には戦闘機、軽武装には軽武装、重武装には重武装。
  *シーレーン警備―公海上での海賊の取り締まり―第一義的には警察力である海上保安庁が対応すべき仕事―地域的共同警察活動(海域の近隣諸国と連携、「アジア海賊対策地域協力協定」―日・中・韓・印・シンガポール・フィリピンなど14か国―06年発効)―尚、ペルシャ湾口のホルムズ海峡は国際海峡でどの国の船にも通過通航権が認められてはいるが、片側はイランの領海、もう片一方はオマーンの領海であり、そこにイランが一方的に機雷敷設して海峡封鎖すればオマーンの領海を侵犯することになり両国間の武力による国際紛争ということになり、そこに日本の掃海艇が行けば軍事介入(単なる警察活動ではなく武力行使)したことになるので、それはできない。
  *在外邦人の保護・救出―自国の軍事力による救出作戦はリスクが極めて高い―救出・保護はその国の官憲や軍に委ねるしか―避難者は搬送・護衛
 ●非軍事国際貢献―非同盟・中立の立場で(世界の諸国民から信頼を得て)、国際平和への積極的貢献に務めイニシャチブを発揮―戦争予防(火種の除去)に努める。
  国連PKO(平和維持活動)―停戦監視・武装解除・人道救援・インフラ復旧など―警察官・自衛隊(施設部隊など)派遣―重火器は持たず
  人道復興支援―飢餓・貧困・医療・衛生・災害救助・教育
 ●自衛隊の再編・軍事縮小(F15やイージス艦などの攻撃的兵器の運用停止、災害救援にシフト)
    領土・領海・領空の警備―日本国土に対する主権侵害行為を排除する機能(ハリネズミ型の最小限防御力)に装備・能力とも限定―非攻撃的防衛―「目に見える専守防衛」
  ところで軍隊と警察の違い―海上保安庁やSAT(対テロ特殊部隊)などは後者。
 自衛隊は交戦権が認められていないから軍隊ではない。それに自衛隊は、軍隊と異なり、武器をむやみに使用することはできず、武器使用ができるのは一般人と同じく刑法で定める正当防衛・緊急避難の場合だけ、または警察官と同じく警察官職務執行法に定める場合(犯人逮捕などの職務執行に対する抵抗と逃亡を防止するため)だけで、それ以外には人に危害を与えてはならないことになっている。(それで殺せば殺人罪になる。)(上官の命令には従う義務があり、任務の遂行上、自分の生命を危険にさらすことをいとわないということはあっても、上記の正当防衛など以外には発砲して人を殺したり、殺されて死ぬことを強いるような命令は違法であり、拒否することができる。)

 安全保障(平和的生存権・戦争抑止)のための国民の覚悟には二通りある。一つは、戦争は望まないが、仕掛けてこられたらその時は、国に「受けて立つがいい」と戦争を覚悟する(国に「いざとなったらやってもいいぞ」と戦争を容認する)こと、もう一つは戦争はしない(国には戦争をさせない)で不服従・抵抗を貫く覚悟である。
 戦争を覚悟するということは、我々が戦争に巻き込まれて犠牲になるかもしれず、相手国民をも巻き込み、自国と相手国双方の国民に数多の犠牲者(かつて日本人310万人、アジア諸国民2,000万人、南京・重慶・沖縄・東京・広島・長崎などのような大量犠牲者)と惨禍を再びもたらすことになるかもしれない、その悲惨を覚悟するということだ。
 それに対して不戦の覚悟、それは、たとえ他国から武力攻撃を仕掛けられても、国に戦争はさせず、武力は用いないようにさせ、戦わずに不服従・抵抗に臨む苦難に耐えて生き抜く覚悟である。
 前者は9条改憲「武力行使容認の軍事的抑止力平和」、後者は9条護憲「不戦・非軍事平和」、そのどちらを選ぶのか。国民は今や歴史的岐路に立たされており、そのどちらかの覚悟が問われているということだろう。

 安全保障(平和的生存権の保障)のためには後者の方に覚悟を決め、国に対しては戦争を放棄させ、戦力不保持を課し、交戦権を否認する憲法9条を守るようにする以外あるまい。

 ところで、作家の阿刀田高氏―日本ペンクラブ会長だった―2010年、全国革新懇ニュース4月号インタビューにいわく「軍備も持たず、どこかに攻められたらどうするのかとの問いには、『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力を全部やる。やり尽くすべきだと思います。」―これこそが現行憲法9条の精神なのでは。

 我々国民が平和的生存権の保障のために国(政府)に要求すべきは、「軍事的抑止力」とか軍事的備えではなく、敵をつくらない平和外交・友好協力関係の構築・信頼醸成なのであり、これこそが安全保障なのであって、自衛隊をどう活用し日米同盟をどう運用するかなど軍事に矮小化してはならないのだ。

 ・・・・・といったことを考えてみたのですが、どうなのでしょうか。教えていただきたいものです。

<参考>田岡俊次著『日本の安全保障はここが間違っている!』朝日新聞出版

2015年04月03日

法治国家ならぬ違憲放置国家だ!(加筆版)

●安全保障・防衛政策―自衛隊の海外活動の拡大へ安保法制の整備―9条違憲立法
   防衛省では対中戦争計画(中国と名指しした戦争計画)を作成―有事では沖縄の南西諸島を中心に本土からの「機動展開」や「対着上陸・奪回作戦」による地上戦に加え、「弾道ミサイル防衛も想定。平時では、活動範囲を南シナ海・グアムまでの西太平洋・インド洋等での警戒監視活動を明記。
   辺野古新基地建設強行
   装備・兵器の増強
   首相の「我が軍」発言
  これら軍事―憲法73条(内閣の行う仕事)にない仕事―に邁進
  憲法擁護義務(99条)違反
  「安全保障法整備」と称して一連の関連法改定―自衛隊法の改定、武力攻撃事態法の改定、周辺事態法の改定、恒久法の新設、PKO協力法の改定等々―違憲「戦争立法」―憲法98条「憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令・・・国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」はず
  裁判所は「一票格差」問題だけでなく9条違憲も、放置せずに違憲立法審査に意を注ぐべきなのである。   

  このような首相や政府の違憲行為(というよりは憲法破壊ともいうべきもの)を放置しているのは国民、それに無批判なマスコミだ。

 違憲審査制にはアメリカ型の付随的違憲審査制とドイツ型の憲法裁判制とがあって、アメリカ型の場合は具体的な事件で訴訟が起きて、その訴訟解決に必要な限りにおいて通常の裁判所が違憲審査を行うやり方であり、ドイツ型の場合は憲法裁判所があって、そこで法令その他の国家行為の違憲審査を行うやり方。我が国はアメリカ型で、憲法裁判所はなく、閣議決定した集団的自衛権の行使容認は違憲だとか、それに関連する安全保障の諸立法は違憲だと正面から審査することはできず、政府のその決定や法令に基づいて具体的にある行為をやらされて不利益を被った当事者が訴訟を起こさない限り違憲判断は行われず、無効と断ずることはできないのである。これまで次のような6例があるだけ。
 ① 1959年砂川事件―米軍基地の拡張に反対するデモ隊の何人かが立ち入り禁止の柵を壊して立ち入ったとして刑事特別法違反で起訴された事件
 東京地裁(裁判長・伊達)では日本政府が米軍に駐留を許したのは9条2項(戦力不保持)違反と。
 しかし、上告審で最高裁は「外国の軍隊は戦力に当たらない。国家統治の基本に関する高度に政治性をもつ条約の内容について違憲かどうかを司法が判断を下すことはできないと(統治行為論)、原判決を棄却、差し戻し審(違う裁判長)でデモ隊の方が有罪に。
 ② 1967年恵庭事件―北海道恵庭町の酪農家兄弟が陸自演習場の電話通信線を切断して防衛器物損壊で訴えられるも、札幌地裁は、通信線は「防衛の用に供する物」には該当しないとして無罪判決。憲法判断は必要ないとして済まされ「肩すかし判決」
 ③ 1973年長沼ナイキ基地訴訟―ナイキ基地建設のための保安林指定解除が違憲だと地域住民が訴え、札幌地裁は違憲判決。控訴審・札幌高裁は「高度の政治性を持つ国家行為は明白な意見・違法でない限り司法審査の対象ではなく、立法・行政部門の判断に従い、国民の政治的判断にゆだねるべきだ」という統治行為論によって原告住民の訴えを却下。上告審・最高裁判決は「保安林解除による洪水や渇水の危険はダムなどの代替施設の設置によって解消、原告の訴えの利益は無くなったとして棄却(「門前払い判決」)
 ④ 1977年百里基地訴訟―茨城県(現)小玉市にある空自基地の建設に際して反対派住民が建設予定地の土地の所有権の帰属を主張しつつ自衛隊違憲訴訟。水戸地裁は「9条は自衛のための戦争まで放棄したものではない」「自衛隊は一見明白な戦力だとは断定できない」としつつ「自衛隊は裁判所の審査は対象にはならない」として(統治行為論)訴えを却下。
控訴審(2審)・東京高裁は「本件は民法レベルで解決できる」私法上の行為だとして、9条適用を回避。最高裁は2審を支持、上告棄却。反対派は敗訴。
 ⑤ 1975~02年小松基地騒音公害訴訟―石川県小松市の空自基地。基地周辺住民が騒音公害で訴訟。02年金沢地裁が国に賠償命令下すも違憲判断はなく、飛行差し止めは認めも認めず。
 ⑥ 2004年~08年イラク派兵差し止め訴訟―箕輪元防衛政務次官・郵政相が札幌地裁に提訴をきっかけに、その後、集団訴訟が全国10地域で(原告、一時5700人)。うち9地域ではいずれも憲法判断は避け、「民事上の請求権はない」と原告敗訴。
  08年、名古屋高裁は違憲判決―「空自の活動のうち少なくと多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するのは他国による武力行使と一体化した行動であり、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反」と。(但し、「原告らの平和的生存権は侵害されたとまでは認められない」として損害賠償は認められず、「訴えの利益を欠く」として差し止め請求は却下)。上告なく確定。

 これから新たに安保諸法令が決まったら、その法令に基づいて自衛隊が派遣されるようになり、隊員や家族その他の関係者が不利益を被る事態が次々と生じるようになれば訴訟も頻発するようになるだろう。

 「違憲状態の選挙で選出された議員は国会活動を行う正統性の無い議員」であり、「現在、国会活動を行う正統性の無い議員が、憲法改正の国会の発議をするための議論をしている。しかし、そもそも国会活動を行う正統性の無い議員は憲法改正を発議する正統性が無い。」(久保利英明弁護士ら『一人一票実現国民会議』の意見広告)

2015年05月02日

戦後レジームの"歪み"からの脱却こそ(加筆修正版)

戦後レジームの歪み―憲法に不忠実―ねじ曲げて解釈、中途半端、憲法が「かくあるべし」と求めているものから乖離
  日米安保条約―日米同盟―沖縄を基地の島に
  再軍備―自衛隊の軍隊化

その歪みからの脱却―憲法が求めている本来(憲法どおり)のあり方をとり戻し(原点回帰・初心に帰る)、それを忠実に守り活かすこと―それこそが焦眉の課題
 原点―9条1項[正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と武力を放棄]。そのために2項で(「前項の目的を達するため」として)[戦力不保持](軍備撤廃)、これ即ち非武装にほかなるまい。
 第1項(戦争放棄)の条文中の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と第2項(戦力不保持)の条文中の「前項の目的を達するため」はGHQ案には無かったもので、議会(小委員会→特別委員会→本会議)審議の過程で修正されて加えられた字句。
 小委員会の委員長だった芦田均は、後に「前項の目的を達するため」とは侵略戦争を放棄するという目的を達するため」の意味であり、自衛戦争は放棄しておらず、自衛のための戦力保持は禁じられていないと言い出したので、再軍備論者は、それを芦田修正として、自衛のための戦力保持は許されるという解釈の根拠とするようになったが、当初(46年8月21日、特別委員会で)の芦田の説明はそうではなかった。芦田はそこで、「前項の目的を達するため」の字句を加えた理由は「戦争放棄、軍備撤廃を決意するに至った動機が、専ら人類の和協、世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたのであります」、「日本国民が他の列強に先駆けて正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表明せんとする趣旨であります」と述べている。要するに、それは平和への熱意を示すためだ、というわけである。
 国民の不断の努力によって保持―12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」―「この憲法が国民に保障する権利」には平和的生存権(前文にあり)も含まれよう。「又、国民は、これを濫用してはならないのであって・・・・」として国民に禁止と責任を課しているが、同時に、それは政府はこれ(国民の自由・権利)を侵害してはならないのであって、政府にも禁止と責任を課しているのである。
 憲法尊重擁護義務―99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

 政府にも公務員にも国民にも、憲法のこの定めをないがしろにしている向きがあるが、今こそ、「一億総反省」すべきだろう。
 守るだけでなく活かす努力が必要なことも

 

2015年05月09日

軍隊とは―自衛隊や警察との違い

 自民党は憲法草案で自衛隊を「国防軍」とし、安倍首相は自衛隊を「我が軍」という言い方をした。自衛隊は軍隊ではなかったはずだが、朝日新聞の投稿にも朝日新聞の投稿にも「軍隊による真の安全保障」、「独立した主権国家として自らの軍隊で国を守る」、「自衛隊は事実上の軍隊」「軍隊として認知すべきだ」、「自衛隊は国に必要な軍隊だ」などと。
 しかし、軍隊とはどんなものなのか、
 東日本大震災に際する米軍の「トモダチ作戦」―日米同盟を「希望の同盟」だなどと綺麗ごと
 日米同盟は中国や北朝鮮・ロシアなどに対する「軍事抑止力」だというが、それは「武力による威嚇」にほかならず。
 軍隊は国家(機構と支配層)を守るが、国民・住民を守るわけではない・・・・旧日本軍は沖縄などでそうだった。
   曽野綾子「軍隊が国民を守らないのは当然」と。

軍隊の特性 ①軍事的合理性―効率性第一(安全性は二の次)
      ②自己増殖性―肥大化
      ③危機・恐怖・脅威・敵をつくる
その現実・実態
   兵士の暴力性→暴力犯罪、内部でいじめ・・・・国民に牙を向ける
   新兵の訓練―殺人マシーン化―人間性・良心喪失・・・・女性・母親を蔑む訓練
    「優しい人だった」(撃てと命令されても撃てなかった)のが「殺人鬼」化。
    第2次大戦で米兵が戦闘中発砲したのは、全体の15%~20%に過ぎなかった(本来ほとんどの人間には同類である人間を殺すことに強烈な抵抗感があるもの)。それが、その後、米軍は発砲率を上げるための訓練法を開発。そのかいあって朝鮮戦争では55%になり、ベトナム戦争では90%以上になったという。 
    アレン・ネルソン元米軍海兵隊員の証言「新兵は教官から『お前たちの仕事は何だ』と訊かれ、『殺しだ』と答えさせられる」「訓練では、平和のことなど一切教わらない。日々殺し方を仕込まれるだけ。何も考えず、疑問を持たずに実行し、何のためらいもなく撃て、と」
     戦場・部隊から帰還後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)に(2013年、アフガニスタン・イラクから帰国した200万人の米兵のうち50万人が除隊後に発症、1日22人自殺との推定値)。

2015年05月17日

平和・安全に近づけるのか戦争に近づけるのか―「安保」法制(加筆修正版)

●集団的自衛権の行使容認・安全保障関連法案―①平和安全法制整備法(「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」)(一括法)②国際平和支援法(「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊に対する協力支援活動等に関する法律案」)(海外派兵恒久法)

●必要理由―「安全保障環境が厳しさ―脅威―を増したから」―しかし、その脅威―中国の軍備増強・海洋進出活動の活発化や北朝鮮の核・ミサイル開発など―は、「こっち(日米側)が何もしないのに、向こう側(中国・北朝鮮側)が一方的に」というわけではなく、向こうに側にしてみれば、こちら側(日米同盟、尖閣の国有化など)の動向に対応したものであり、こちら側にも原因があるのであって、それを棚にあげている。
●あらゆる事態を想定して対処する方策―武力攻撃事態・存立危機事態・重要影響事態・グレーゾーン事態など、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とするもの。
 軍事的合理性の観点からだけ発想―効率的・効果的運用など
集団的自衛権の行使によって「日米同盟は、効果的に抑止力を発揮できるようになる」(安倍首相)。  
  日米安保条約の「効果的な運用に寄与することを中核とする」事態に米軍と連携して対処
  「手続きの迅速化」とか「切れ目のない態勢」とか。
  自衛隊の活動がやり易く、活動範囲・武器使用など制約を減らす。
●自衛隊がアメリカとその同盟国の軍隊と共に行う海外活動を拡大し、(世界中で米軍の活動に組み込まれ、その要請に応じて)戦争に付き合うようにする(参戦へ)。
 新ガイドライン(日米防衛協力指針)と相まって―アメリカ(世界の警察官から後退)の「肩代わり戦略」で、アジア・太平洋地域から中東その他まで、米軍の作戦への支援・協力要請が強まることは必至。
 アメリカという国―自国の市民を守るためだけでなく、その財産や企業権益を世界中で守るため軍隊を使う国で、相手からの第一撃がなくても行動する先制攻撃も辞さない国(学習院大・青井美帆教授)―アメリカ流安全保障―「敵は誰なんだ、どこの国だと名指して、その敵を無力化したり攻撃・排除する」やり方(京都精華大専任講師・白井聡氏)(敵を作らず、全ての国と全方位・等距離の友好関係を保つやり方ではない)―そのような国と戦争に付き合うのだということ。

●安倍首相に言い分(記者会見)
 ① この法案の必要理由―安全保障環境が厳しさを増したから―「テロ―アルジェリア・シリア・チュニジアで日本人が犠牲。北朝鮮―数百発もの核ミサイルの脅威。防空識別圏に進入してきた国籍不明機に対して自衛隊機の緊急発進(スクランブル)の回数は10年前と比べて7倍に増えている。」「もはや一国のみで自国の安全を守ることはできない」と―しかし、だからといって、いずれ日本と同盟国に攻撃を仕掛けてくるかもしれない(だからそれに備えておかなければならない)などと思い込むのは短絡的に過ぎる。はたしてこれらの国が軍事攻撃を仕掛けてくる蓋然性(必然性)は、いったいどこにあるのか。単なる印象や憶測ではなく、具体的事実関係に基づいた論理的説明がついていない。中国との間には尖閣問題と靖国・歴史問題での感情的対立はあっても、それだけで、或いは他に中国が日本に軍事攻撃を仕掛けなければならない必然的理由はどこにあるのだろうか?あるとすれば、それは、こちら(日本)側と向こう(中国)側・双方の軍事挑発であり、それ以外にないのでは。軍事挑発とは軍事的「抑止力」(威嚇)の強化であり、今行われようとしている新ガイドラインと安保法制整備を含めた日米同盟を中軸とする軍事強化もそうなのである。軍事挑発は中国側(軍事増強・海洋進出)だけでなく日米側(同盟強化)・双方とも控えなければならないのである。
 北朝鮮の核・ミサイル開発・配備にしてもイスラム過激派のテロ攻撃にしても、それらはアメリカ側の軍事的圧力や軍事攻撃に対する軍事対応にほかならず、その脅威は、こちら日本が同調するアメリカ側の脅威に対抗しての相互・相関的なものだろう。
 ② 集団的自衛権行使を認めるといっても、「限定的なものであり、厳格な歯止め―『3要件』がある」と―しかし、この要件(①我が国に対する武力攻撃がなくても、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命・権利が根底から覆される明白な危険がある場合、②他に適当な手段がない場合、③必要最小限の実力行使)の「存立危機事態」だとか「明白な危険」だとか判断するのは政府であり、その裁量で如何様にも判断されてしまう。(国民はもとより、国会議員も、特定秘密保護法のもとで必要な情報は知らされず、判断のしようがない。)
 ③ 「米軍が攻撃され、日本に危険が及び、日本が危険にさらされた時、その危機を排除できるようにするのであって、米国の戦争に巻き込まれることは、絶対にあり得ない」と―しかし、アメリカの強い要請にも引きずられる(ベトナム戦争やイラク戦争などの時のように先制攻撃を行った場合でも、NOといえない)。
 ④ これによって「争いを未然に防ぐための抑止力はさらに高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなる。」「日米同盟に隙があると思われると、攻撃を受ける危険性は増すが、この法整備で、日本が攻撃を受けたり、日本人の命が危なくなったりするリスクは減少する。」「積極的な平和外交と同時に日米同盟の強化に努めてきたが、それは万が一の備え」だと―しかし、その抑止力とは軍事的抑止力であり、相手への脅し(威嚇)で攻撃を思いとどまらせるやり方であり、安倍政権がやってきたこと、やっていることは「積極的な平和外交」などではなく「日米同盟―『軍事的抑止力』の強化」であり、軍事偏重。それは中国やロシア・北朝鮮・韓国などに警戒感・脅威感を与え、緊張を激化させ、安全保障環境をむしろ悪化させる。
 ⑤ 「海外派兵が一般に許されないという従来からの原則も変わらない」「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは今後とも決してない」、「自衛隊が後方支援を行う場合には、部隊の安全が確保できない場所で行うことはなく、万が一危険が生じた場合には業務を中止し、あるいは退避する仕組みだ」「いずれの活動でも武力行使はしない」と―しかし、後方支援や監視・警戒・警護などだけで戦闘に参加しに行くのではないといっても、「非戦闘地域」「停戦発効後」という限定なしに行けば、そこでは相手は「戦闘には参加していない日本の自衛隊だからといって区別してくれて攻撃はしてこない、などというわけではなく(前線の戦闘部隊と一体と見なされ)、むしろ後方(兵員・武器・弾薬の輸送・給油など)を断つために真っ先に攻撃される可能性のほうが強く、攻撃されれば武器使用して撃ち返さざるを得ず、とっさに「業務を中止して退避」するなどというわけにはいくまい。(米軍指揮下で、自衛隊が米軍の前線での活動に不可欠の補給を担っていれば、勝手に戦場から逃げることなど不可能。)「戦闘・武力行使を目的にして行かせるのではない。後方支援だから」と言っても、結果として武力行使に発展していくことはわかりきったこと。
 ⑥ 自衛隊員のリスクへの懸念はこれまでもあったことで、「自衛隊発足以来、隊員の殉職1,800名にもおよぶ」―しかし、それは訓練中の事故と災害出動中の事故によるもので、戦死ではない。(イラクのサマワに派遣された隊員―そこは「非戦闘地域」とされていたが、宿営地に何回か砲撃があって、戦死はなかったものの、帰還後しに28名の自殺者が出ている。)この法案が通って実施されれば、戦死者も増えることは明らか。
 ⑦ 「『戦争法案』などという無責任なレッテル貼りは誤り」だと―しかし、これを「平和安全法制整備法案」などと名付けている。それこそが「無責任なレッテル貼り」ではないのか。「平和安全法」などと言われるよりも、「戦争法案」といった方が、ごまかしのない、本質をついた言い方だろう。憲法の平和主義―戦争放棄と武力不行使・戦力不保持―を放棄して、アメリカと共に世界で公然と武力行使・戦争ができるようにするための大転換なのだから。
●元自衛隊高官(海上幕僚長だった方)の評価(15日朝日『考論』インタビュー)―「何かが起こった時、米軍などと一緒に行動できる。これが任務であることの誇りは、現場の人間でないと分からないだろう。隊員は『これで世界中が一人前と見てくれる』と考える」と―しかし、そう思うのは指揮・命令する立場の人であって、現場で命の危険にさらされる一般隊員(若者)とその親たちは、そんな単純ではないだろう。

●戦争抑止力か戦争招来力か
 軍備=軍隊(軍事組織・兵員)と装備(武器)と法制(システム)―それは、戦争をするためのものではなく、「抑止力」で「保険」のようなものだと、軍備・軍事法制を正当化する考え方があるが(慶大・細谷雄一教授ら)、
 軍備「保険」論―戦争や武力攻撃事態に遭遇しても、攻撃を受けても大丈夫なように備える「万一の備え」だというもの―しかし、戦争や武力攻撃は、病気・事故・自然災害など回避不可能なもの(避けられないもの)で起きたら起きたで致し方のないものとは異なり、人が意図して起こすものであり、外交交渉・説得など人の努力によって避けようと思えば避けられる(回避できる)もの。「へた」に「保険」(軍事的抑止力)などあると、それに安易に頼ってその回避努力が疎かになり、かえって相手を挑発、警戒感を与え、相手の軍備増強を促し、攻撃を誘発することにもなる。
 「火事・火消し駆付け」論(元外交官・宮家邦彦―15日報道ステーションで白井聡氏と共にインタビュー)―これまでのような自衛隊に集団的自衛権の行使を認めない憲法解釈を、町内で火事が起きてみんなで一緒に火消しに駆付けようという時に、うちは家訓で禁じられているから行けないと言ってるようなものだと―しかし、例えとしては不適切。そんな家訓はあり得ないだろうし、「火事」と「戦争の火種の燃え上がり」とは性格が全く違うだろう。火事なら水をかけ・放水、消火器・消火剤で消し止められるが、戦争の火種―紛争や抗争―に軍事介入し集団的自衛権の名の下に加勢などすれば、かえって火種を煽って火事を大きくし、収拾がつかなくなったりもする。アメリカが起こしたアフガン戦争・イラク戦争から現在中東で起きている状況をみればわかるだろう。町内の火事のような単純なものではあるまい。
 エコノミストの吉崎達彦氏(15日NHKラジオ「視点」で)―安保法制は「ドッジボールのようなもの」で「前に出て防ぐか、うしろに引っ込んで目立たないようにしていればいいか―自分だけよければいいというわけにはいかないでしょう」と。―しかし、ゲームと軍事(殺し合い)を一緒くたにはできまい。軍事でアメリカと共に世界のあちこちにしゃしゃり出てやるよりも、平和外交でイニシャチブをとる、それこそが本当の「積極的平和主義」だろう。

 このような軍事的「抑止力・対処力」強化が相手側の同様な軍事的「抑止力・対処力」強化を誘発し、軍事衝突ひいては戦争を招来する危険性が増す結果となる。

●現行憲法の平和主義に基ずく我が国の安全保障は、世界の諸国民に対して我が国が戦争と武力による威嚇および武力行使を放棄し、戦力不保持を宣言・実行することによって安心供与と信頼醸成をはかり、国際平和への貢献に努めることによって達成されるはずであった。今その道が絶たれるか否かの岐路に立たされているのだ。


2015年05月27日

「ポジティブリストとネガティブリスト」論(加筆版)

 朝日5月24日「長谷部・杉田 考論」で早大教授・長谷部恭男と法政大教授・杉田敦の両氏が論じていた。それは次のようなこと。
 権力・暴力(武器使用)の用い方―二通り
 ① ポジティブリスト―「できること、やれること」)を列挙―それ以外はやってはならない。
   憲法73条(内閣の行う仕事)に軍事はない(内閣に軍事権はない)―軍事はやってはならないということ。
   ●権力(政府や国会―権力機関)は抑制的に運用―憲法で規制(立憲主義)
     政府の判断―「国会の承認」が「歯止め」となり、それがありさえすれば政府の判断で何でもやれるというものではなく、たとえ国会が承認しても憲法に反していれば無効(安保法制における自衛隊の海外派兵など)。 
   ●海外派兵や他国領域での武力行使は「一般には」やれないが、次のようなことは「新3要件(①国の存立に関わり、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合、②他に方法がない場合、③必要最小限の限度内)にあてはまるならやれる」と?
    *他国軍隊への「後方支援」(国際法上の兵站行動で武力行使と一体)なら、戦闘地域でも「戦闘現場」から離れた所でならやれると?
    *ホルムズ海峡の機雷掃海(国際法上は武力行使そのもの)はやれると?
    *邦人輸送中の米艦防護のためなら自国の艦・部隊が攻撃されていなくても、他国領域でも集団的自衛権行使で武力行使できると?
    *ミサイル発射を防ぐ敵基地攻撃は、それが日本にではなく他国に向けられたものであってもできると?
  憲法9条は政府に武力行使を禁じている。例外など認めておらず、これらは違憲行為になる。
   ●武器使用―警察官、これまでの自衛隊―正当防衛と緊急避難に限って使える。(警告射撃などはやれても相手を傷つけてはならないことになっている)、それ以外には武器は使えない。(自衛隊は海外で武力行使はできない。)
 ② ネガティブリスト―「できないこと、やれないこと」を列挙―それ以外は何でもやれる。
   ●権力は為政者がやりたいように行使―独裁(国民の選挙で多数を制して選ばれた政治家による「期限付き独裁」。国民投票を利用したヒトラーの手法。安倍首相や橋下大阪市長の考え方も選挙勝者独裁・多数決独裁、いわば「民主的独裁」というものか―筆者)
   ●武器使用―正当防衛・緊急避難以外にも使える―海外で任務(派遣先で治安活動、住民やPKO従事者の防護・警護などの業務)遂行(妨害の排除)に必要な武器使用(武力行使と同じこと)―そうなると、それは軍隊(今度の安保法制で自衛隊の軍隊化へ)

2015年06月01日

70年談話問題―先の戦争に対する認識(加筆版)

第二次世界大戦―1940年9月16日大本営政府連絡会議「日独伊枢軸強化に関する件」で、政府と軍部は、ドイツ、イタリアとともに世界再分割をめざし、日本が領土とすべき地域を「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏」として中国・インドからオーストラリア、ニュージーランドまでのアジア・太平洋地域を画定。これに基づいて日独伊三国同盟を結成。ドイツ・イタリアのヨーロッパでの支配権と日本のアジア・太平洋地域での支配権を互いに認め合ったうえで、それぞれに戦争を展開。
ポツダム宣言―大戦末期1945年7月26日米英中3国による対日降伏勧告
                 28日鈴木貫太郎首相(記者会見で)「黙殺」し、「戦争完遂にまで邁進するのみ」だと。
               8月6日広島に原爆
                 8日ソ連、対日宣戦布告
                 9日長崎に原爆                  
                14日日本政府受諾
 13項目
  第6項「吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は平和・安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず。」
  第8項「カイロ宣言(米英中3国は『日本の侵略を制止し、かつこれを罰するため今次の戦争をなしつつあるものなり。・・・・日本国は…暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。・・・・』―引用者加筆)の条項は履行・・・・・」
  第10項「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし」
  第13項「吾等は日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且つ右行動に於ける同政府の誠意に付き適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。」

●5月20日党首討論で共産党の志位委員長は安倍首相に対して、ポ宣言で連合国側が示したこのような文言による認識すなわち日本が行った戦争は「侵略」であり「過誤」を犯した戦争だという認定を認めるのか否かを訊いた。ところが首相はポ宣言の「その部分をつまびらかに読んでおりませんので」論評は差し控えたいが、「いずれにせよ、まさに先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、我々はそのことを忘れてはならないと思っております。」このポ宣言を「われわれは受け入れることによって、終戦を迎え」「これが戦争を終結させる道であったということであります。」それに対して志位委員長は、「私はポ宣言が認定している『間違った戦争』という認識を認めないのかと聞いたんですが、認めるとおっしゃらない。・・・・『侵略戦争』はおろか、『間違った戦争』だともお認めにならない。・・・・日本が過去にやった自らの戦争の善悪の判断もできない総理に、米国の戦争の判断ができるわけないじゃないですか。・・・・そういう総理が日本を『海外で戦争する国』につくり変える戦争法案だす資格はありません。」と。

●サンフランシスコ講和条約(11条)には、東京裁判の判決を日本政府が受諾したことを宣明。
 ところが、自民党の稲田政調会長などは、東京裁判の「判決主文(死刑)は受け入れたが、理由中の判断(犯罪事実の認定)に拘束されない(受け入れてはいない)」(カッコ内は筆者加筆)と。
 安倍首相自身も以前(06年10月8日、衆院予算委で)サ条約11条で「いわゆるA級、B級、C級と言われる人たちの犯罪者扱いを約束したものでは全くない」と述べている。

●安倍首相の祖父である岸元首相(東条内閣の商工大臣。A級戦犯被疑者として拘留されたが不起訴。東条ら7人には死刑判決。岸、いわく「今回の東京裁判はその理由において事実を曲げた一方的偏見・・・・」「大東亜戦争を以て日本の侵略戦争と云うは許すべからざるところなり」と。岸は公職追放は免れなかったもののサ条約発効とともに解除・復権。吉田退陣で国会議員となって、いわく、「憲法は改正しなきゃならん。アメリカ、マッカーサーがつくった憲法だ。日本の国体を維持するために認めただけの話」だと。自民党結成・幹事長となり、石橋首相の病気辞職で首相に就任。「自主憲法制定」をめざしつつ、日米安保体制を確立)以来、自民党の政治家は次のように思っているのだろう。
 あの時、日本は連合国の力に屈し、脅しに屈して「やむなく」「不本意に」、ポ宣言の場合は「降伏」だけを、東京裁判の場合は「受刑」だけを受諾したのであって、日本が侵略をしたとか過誤を犯したとは認めてはおらず、罪状は否認。
 日本の戦争は「自衛自存のための戦争であり、植民地解放の戦争」なのであって、「国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずる過誤を犯した」「侵略戦争」だなどとは思っていないのだ。(だから、A級戦犯を合祀している靖国神社に参拝や奉納をしても悪くないと。)
 安倍首相は、自民党幹事長代理だった2005年には、(月刊誌の対談で)「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかりにたたきつけたものだ」と語っていた。東京裁判も、13年3月の国会で、「連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされたということだろう」と答えていたという。要するに米国の原爆など連合国の力に屈して、やむなく無条件降伏と戦犯の死刑判決等は受諾はしたものの、日本の行った戦争を「世界征服の挙」だとか「侵略」だと判断し、戦争指導者たちの行為を戦争犯罪だと断じたその判断は勝者の一方的な判断であり、そのようなことまで全て認めたわけではない、という思いなのだろう。
 (例えば学校の生徒指導で、生徒が「俺は悪くない、逆らったあいつの方が悪い、俺はやっていない、手伝っただけ、見ていただけだ、みんなやってるからやった、まずいことをした、申し訳ないとは思ってる」、(なんで申し訳ない?)「親や学校に迷惑をかけたから」「だから処分には従う」、などと言ってるようなもの。肝心の相手(被害者)に対して申し訳ないとは思わない。そのように反省が不徹底・不十分なまま処分を下しても、当人は「今度はドジを踏まずに巧くやる」とか、同じ行為が繰り返されてしまうことになる。被害者にとってはそれが恐怖なわけである。)
 間違った戦争でもなく、過誤を犯したのでもなかったのだとすれば、「同じことを繰り返してもかまわない」ということになるわけだ。だとすれば、日本と戦った相手の諸国は構えることになる。日本による再度の侵略戦争に備えなければならないと。そして、日本の政治家が「不戦の誓い」「不再戦」といっても、それは「バカな戦争はしない」「下手な戦争はしない」「負ける戦争はしない」ということだけで、今度やるときは「勝てる戦争をする」、だから「防衛力」(軍事力)とその体制を強化しているわけか、と不信にとらわれ続け、信頼関係が築けなくなる。(日本と戦った相手の諸国とは、中国だけでなく米英ロその他の連合国であり、国連を結成した国々。その国連には国連憲章に「旧敵国条項」があり日本はドイツ・イタリアなどとともに「旧敵国」あつかいで、今では有名無実にはなっているが、その条項は完全に削除されたわけではない。「旧敵国」視されるような不信感をいつまでも持たれてはかなうまい。) そこが問題なのである。
●村山元首相は次のように述べている。「単に被害感情の問題だけでなく、(「自虐」か「誇り」か等の問題でもなく―筆者)再び日本が同様の過ちを繰り返しかねない状況にあるかどうかという問題でもあり、簡単に譲れるような問題ではないということを、まず理解する必要がある。」「侵略と植民地支配という過ちを率直に認めて謝罪の念と再び過ちを繰り返されない決意を表明することによって、日本はアジアの一員として立場を回復できるのだ。」「国際社会が問題にしているのは、いまや戦時中の行為というよりも、現在の日本政府の姿勢」(世界6月号より)。

●広島の原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と書かれてあるが、そこで問われるのは「過ちを犯したのは誰なのかだ」。
●安倍首相は、5月1日の国会(安全保障関連法案を審議する衆院特別委員会)では、民主党の細野政調会長の質問に答えて次のように述べている。「我々はポツダム宣言を受諾し、その後の東京裁判の諸判決を受け容れた。それに尽きる」、「6項の世界征服を含めて、当時の連合国の政治的意図を表明した文書だ。政府としては同項を含め、ポツダム宣言を受諾し、降伏したことに尽きる」。サ条約については「(日本は)極東国際軍事裁判所の判決を受諾しており、それに異議を唱える立場にはそもそもない」。指導者の責任については「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという決意で、戦後の平和国家としての歩みを進めてきた。そうした結果を生み出した日本人の政治指導者には、それぞれの責任があるのは当然のことだろうと思う」と。
●さて戦後70年談話で安倍首相どう語られるのかだ。
 安倍首相や稲田政調会長らの政治家だけでなく、我々日本国民の認識も世界から問われよう。

●因みに、現在の国民の意識の一端を示すものとして最近の世論調査に次のような数字が見られる。(3月11日~4月10日、朝日新聞による世論調査で4月18日朝刊に掲載。その中から関連するものをピックアップ)
 「70年前に終わった戦争について」「日本がおこなったこの戦争は、どんな戦争だったと思いますか。」―「侵略戦争だった」30%、「自衛戦争だった」6%、「両方の面がある」46%、「よく知らない」15%
 「この戦争について、学校でしっかりと教わったと思いますか」―「しっかりと教わった」13%、「しっかりと教わらなかった」79%
 「『日本の歴史教育は、この戦争について否定的な見方が多く、自虐的だ』という意見がありますが、どう思いますか」―「その通りだ」35%、「そうは思わない」47%
 「なぜ日本がこの戦争をしたのか、日本人は自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思いますか」―「十分にしてきた」23%、「まだ不十分だ」65%
 「戦後、アメリカなどの連合国が日本の戦争指導者をA級戦犯として裁いた『極東国際軍事裁判』いわゆる『東京裁判』をどの程度知っていますか」―「内容をよく知っている」3%、「内容をある程度知っている」30%、「裁判があったことは知っているが、内容は知らない」47%、
                         「裁判があったことも知らない」16%
 「日本の首相が靖国神社を参拝することに」―「賛成」56%、「反対」26%
 「中国や韓国は、安倍首相の靖国神社参拝を批判しています。政府は、中国や韓国のこうした批判を重く受け止めるべきだと思いますか。それほどのことではないと思いますか」―「重く受け止めるべきだ」31%、「それ程の事ではない」55%
 「政府は戦後50年と60年に植民地支配や侵略で、アジアの人々に大きな苦しみを与えたとして、『痛切な反省』や『心からのお詫び』という言葉を入れた談話を発表したことは」―「妥当だった」74%、「妥当ではなかった」13%
 「日本は、戦争などで被害を与えた周辺国と、今、どの程度うまくいっていると思いますか」―「うまくいっている」46%(「大いにうまくいっている」1%、「ある程度うまくいっている」45%%)
 「うまくいっていない」50%(「あまりうまくいっていない」45%、「全くうまくいっていない」5%)
 尚、ドイツでも同国人に同様の質問―「うまくいっている」94%、「うまくいっていない」4%

2015年06月15日

脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性(再加筆修正版)

Ⅰ脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性
 安倍政権の集団的自衛権行使容認と安保法整備は、なにも戦争をしたいからではなく、中国・北朝鮮などの脅威に備えて抑止力を高めなければならないからだ、と思っている向きが(安倍首相ら閣僚、庶民にも)あると思われるので、そのような中国・北朝鮮脅威論・抑止論に対応した議論も必要なのではないか、と問題提起したら、そんなことを考えてこれ(安保法案)を出してきたのではあるまい(問題の本質はそんなところにあるのではないし、それに、そんなことを言ってるのは右翼だけ)とおっしゃる。はたしてそうか。
 安倍首相も防衛大臣・外務大臣も官僚も、「日本を取り巻く安全保障環境―東アジア情勢―が一層厳しさを増している」とは言っても、中国が脅威だとか北朝鮮が脅威だなどと名指しして言っているわけではない、というのはその通りかもしれないが、「抑止力を高めるためだ」と言ってるのは事実であり、その際中国・北朝鮮を念頭に置いているのも確かだと思う。また庶民の中には、「中国・北朝鮮などの脅威」を理由に「抑止力」としてそういうものが必要だ(中国や北朝鮮の脅威から尖閣などの島々や日本本土・日本国民を守るため、戦争をしかけられたりしないように、日米同盟も沖縄基地も、集団的自衛権行使も「切れ目のない」安保法制も「抑止力」として必要だ)という肯定論があることも確かだ。
 (テレビの街頭インタビューや朝日新聞の「声」にも見られる。)
 (3月の内閣府世論調査では、「日本の平和と安全の面から関心を持っていること」は一に「中国の軍事力の近代化や海洋における活動」60.5%、二に「朝鮮半島情勢」52.7%、三に「国際テロ組織の活動」42.6%で、「戦争の危険性を感じている」が75.5%。)
 (米沢市議会では、12月、「米沢9条の会」が出した「集団的自衛権行使に反対する意見書提出についての請願」は総務常任委員会で賛成少数で不採択に終わったが、その際の質疑の中でも反対者の意見にはその中国・北朝鮮脅威抑止論があった。)
 そこで、今回のこの集団的自衛権に関する憲法解釈変更とその閣議決定に基づく安保法制関連法案には、改憲論者の中にも反対が多く、世論調査でも法案そのものへの反対とともに「安保法案『説明不足』」と答えてる人が大多数(8割)で、そのままでは通りそうもない形勢だ。
 しかし、「現行憲法の解釈では集団的自衛権行使は認められない」、だから反対だとは言っても、それは「憲法改正しない限り認められない」ということなのであって、憲法を正式に改正して自衛隊を正式に軍隊化したうえでなら、集団的自衛権も安保法制も認められないでもあるまい、という向きも少なくないのでは。
 だとすれば、安倍首相にしてみれば、それならそれ(明文改憲)にこしたことはないとして、現行のままの解釈改憲は断念しても(無理をして通さなくても)、「憲法改正」そのものには賛成だという(小林節教授のような)学者や世論に乗じて堂々と国民投票による改憲に打って出ようという選択肢もあるわけであり、むしろそのあたりに真の狙いがあるのであって、そこにこそ問題の「本質」(核心)があるのでは。
 だからこそ、脅威・抑止論の議論が大事なのだ。

Ⅱ安全保障政策― 一方の国々を潜在的敵国であるかのように脅威視し、他方を同盟国として敵味方(密接な関係にある国とそうでない国)に峻別、自らの軍事同盟・軍備体制を脅威に対する抑止力として強化するやり方。
 そこで疑問は(1)国々をそういうふうに敵味方に峻別することに合理性はあるのか。
       (2)軍備を抑止力にするのに合理性はあるのか。
 時代情況―近代の植民地主義や帝国主義の時代なら資源や権益をめぐって植民地・領土の争奪戦や勢力圏の分割・再分割戦争が公然とおこなわれたものだが、二つの大戦後、国連その他でそのような戦争は違法化され禁止されているのが今の時代。

 (1)について―なぜその国が脅威で、我が国と敵対し、軍事攻撃をしかけてくるものと予測して警戒し軍備を整えておかなければならないのか。
  その理由として考えられるのは、
   ①その国が自国の存立・自衛のために死活的に必要とする資源その他(ハードウェアorソフトウエア)が我が国にあって、それを求めていると判断されるから。
   ②それを我が国に平和的に交渉しても合意する見込みはなく強奪・占領するしかないと意図していると判断されるから。
   ③その攻撃意図のもとに軍備を用意していると判断されるから。
 要するに、その国が自存自衛のために死活的に必要としていて、それを我が国に求めて交渉しても拒絶され合意の見込みはなく、強奪するしかないと考えて武力攻撃をしかけてくるかもしれない(その蓋然性がつよい)と、その国を見なしているからだろう。
 しかし、そのような判断に合理性があるのか。

 中国、中国と言われるが、中国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたしてあるのだろうか?尖閣?それを日本に戦争しかけてでも?他にも何かある?
 北朝鮮は?同国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたして何があるのだろうか?
 その国や勢力が「脅威」だと言っても、それは、その国や勢力を「脅威」視して敵に追いやっている「こっちの(対応の)せい」もあるのであって、鏡に写った自分の姿でもあり、全面的に「相手のせいだ」とばかりは言えまい。
 尚、「安全保障環境の厳しさ」といえば、それは向こうの立場からすれば、中国にとっては三方は陸続きで、北はロシア・モンゴル・北朝鮮、南はインド、インドシナ諸国、西はパキスタン・アフガニスタンなどと直接国境を接し、東側だけが海で、東シナ海では日韓と、南シナ海ではベトナム・フィリピン・マレーシアなどと領海が重なっている。そしてウイグルとチベットの独立運動(テロや暴動)に悩まされ、台湾にはアメリカから支えられてきた実質的な独立政府が存在しており、太平洋には米・日・韓・豪など国々が同盟を形成して立ちはだかっている。これらは中国にとっては脅威でもあり、安全保障環境の厳しさともいえるだろう。
 また北朝鮮にとっては、米韓とは朝鮮戦争以来未だ休戦状態で戦争は終結しておらず、アメリカはその同盟国・日韓とともに、それこそ脅威なのだろう。
 これらの国の核軍備は、その脅威に対する自存自衛のための「抑止力」だと彼の国では思っており、そう称してもいるわけである。

 かつて日本はまさに「自存自衛のため」と称して(日清・日露戦争以来他国領域で戦争し、朝鮮半島、南シナ海を含む台湾、満州を植民地支配、中国から東南アジア、太平洋諸島にわたって侵攻し)侵略戦争をやってのけたし、今は「国の存立・自衛」のためにと集団的自衛権の行使を正当付けようとしているわけである。
 いずれにしろ、それは我が国のその国に対する対応(平和的交渉に応じるか、拒絶し、強奪に備えて軍備を構えて軍事対決するのか。それに歴史問題・靖国問題などのわだかまりもある)それ如何ということ。
 そこで目指すべきはお互いに強奪(武力行使)には訴えず交渉に応じ合うことだろう。
 
 安全保障には、国々を敵味方に峻別して軍事対決する(軍事バランスをはかる)よりも、全ての国々を味方にしたほうが合理的だろう。
 
 (2)軍事的抑止力の問題点
 ①市民社会なら、銃器を護身用で攻撃抑止のためだとして、米国(殺人事件の発生率は日本の10倍)のように我が国で市民個々にその所持を認めたらどうなるか。
 銃を手にすることによって、その武器に依存してしまい、対話を十分尽くさずに発砲してしまいがちとなる。(以前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウイン・パーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、「もし銃を持っていなければ、まず言葉を交わしたはず」だった、といわれる。)或いは「やるならやってみろ」と相手からの攻撃を呼び込むことにも。
 それに、互いに銃を持ち合えば、「撃たれるより先に撃ち、殺られる前に殺る」ということになってしまう。
 ②軍備は戦争を抑止する手段「抑止力」だというが、対抗する相手国(或いは勢力)も疑心暗鬼から軍事的「抑止力」を増強し、軍備競争となる。そしてそれ自体が、領有権問題など利害・権益その他の対立とともに、紛争の火種となり、軍拡競争と軍事対決・一触即発の危険をもたらし、偶発的軍事衝突から戦争を引き起こす原因となる。軍備は、それによっては火種を消すことはできず、むしろ燃え上がらせてしまう結果となる。
 ③軍事力が(その規模と同盟拡充によって)いかに優勢であっても、それがあるだけで、その武力を行使する意思(単なるプレゼンスや脅しではなく本気、全面戦争も厭わない国民の覚悟)がともなわなければ抑止効果は充分働かない(相手から見れば、その軍備や安保法制は「張り子の虎」に過ぎないと見なされるから)。
 中国軍の東シナ界や南シナ海への進出に対してアメリカに軍事介入する意思がないかぎり中国にそれらから手を引かせることはできまいし、またウクライナでは東部の親ロシア住民の離反とロシアによるクリミア併合に対してNATOに軍事介入の意思は乏しく、ロシアにそれらから手を引かせることはできまい(国際政治学者・藤原帰一教授)。
 米ソ冷戦時代(1962年)のキューバ危機では、ケネディ米大統領・フルシチョフソ連首相とも全面核戦争になることを恐れ、両首脳が直接交渉、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにソ連がキューバからミサイルを撤去して、辛うじて戦争は回避、といったことがあった。
 1994年(北朝鮮は金日成主席、アメリカはクリントン大統領当時)、アメリカは北朝鮮の核施設空爆を計画したが、シュミレーションしてみたところ全面戦争に発展すれば、死者は韓国の民間人100万人、兵士45万人、米兵5万2千人と予測され、空爆は断念(その後、金日成とカーター元大統領が会談して米朝枠組み合意が成立)、といったことがあった。全面戦争となると二の足を踏むのである。
 かつての日本国民には「一億玉砕」の戦意と覚悟があったように見られるが、その惨憺たる結果に懲りて戦後憲法に戦争放棄を宣明した、その国民に再び全面戦争も厭わない覚悟がないかぎり、自衛隊・日米同盟・安保法制をどんなに拡充・整備しても、その抑止効果は望めまい。
 一方、北朝鮮の(かつての日本のような)玉砕戦法やISなどのような過激派宗教勢力の自爆攻撃には、どんなに強大な軍事力や軍事同盟があっても抑止力は効かない。
 (軍事力・軍事同盟など、そのようなものに頼らなくとも、こちらに武力行使も戦争もする意思がなければ、相手も武力行使の必要はなく、戦争にはならないわけであり、その不戦意思を宣明した憲法9条そのものが、抑止力になるのだ。)
 ④日米安保・米軍基地といい自衛隊といい、それらの軍備はこれまでもソ連・中国・北朝鮮などによる武力攻撃に対する「抑止力」とされてきたが、そのおかげで、これらの国々による攻撃が抑止されたとはかぎらない。そもそも、これらの国々にその必要(大義名分―正当な攻撃理由―はなく、違法な武力攻撃にうったえて国際社会の非難・制裁を被るなどのリスクを冒してまで、それを強行するメリット)もなく、その意思がなかったからにほかなるまい。
 いずれにしろ、これらの国々(中国・北朝鮮)は、それで(日米の強固な軍事力のゆえに)自らの軍備を諦めるどころか、中国はなおもそれを増強し(南シナ海の岩礁に軍事施設建設を始め)、北朝鮮は核・ミサイル開発をやめてはいない。
 それに対して我が国は「抑止力を高める」と称して、集団的自衛権の行使容認、安保法整備を図っている。そういうことをすれば相手も同様に「抑止力をもっと高めなければ」となって、中国はさらなる軍備増強にかられ、北朝鮮も核・ミサイル開発をやめるわけにはいかなくなるというもの(互いに同じことを繰り返してエスカレート)。「高める」のは安全度ではなく、危険度であり、増えるのは防衛費(軍事費)だろう。
 「抑止力」といっても、その軍備は「盾」だけでなく「矛」も持ち、攻撃力でもあるのだ。中国・北朝鮮のは攻撃力で、日米のは抑止力だなどということはあり得ないのであって、どっちもどっちなのだ。
 軍事的抑止力なるものに合理性があるとは到底思われまい。

 これらのことを考えれば、集団的自衛権行使容認の安保関連法整備は「抑止力を高めるもの」という(軍事的抑止主義)が、それは逆で、かえって戦争やテロを呼び込むリスクを高めるもの、といわなければなるまい。

 (3)目指すべきは非軍事的抑止力
  ①「憲法力」―9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)―戦争しない、させない―不戦意思を宣明―自国政府に戦争をさせない、と同時に他国に対しても日本に戦争を仕掛けさせない(宣戦布告には応じず、武力攻撃をさせない)(一方的に武力攻撃すれば国際社会から違法な暴挙・侵略行為と見なされ、厳しい制裁を被ることになる。)
  (これを変えたら―解釈改憲or明文改憲したら―不戦意思を引っ込めて戦争意思があることを宣明したことになり、諸国の対日不信・警戒を招くことになる)      
  ②国際機関―国連―制裁
        国際刑事裁判所などによる懲罰
  ③経済協力・文化交流・人道支援―相互理解・協力・分かち合い―紛争予防
  ④「東アジア共同体」(平和の共同体―「戦略的な信頼」関係)の構築
  ⑤道義―信義―信頼関係―「諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)―中立・公正で敵をつく
らないこと―に基づく外交力
  ⑥反戦世論・運動

 9条と国民の不戦意思は、自衛隊の装備や訓練、日米同盟や安保法制など、それらをどんなに整えても、その軍事的抑止力は削がれ、政府や自衛隊に戦争をやり難くさせるが、それは相手国・他国に対しても我が国に対する戦争意思・武力攻撃意思を削ぐ、という抑止効果が働く(こちら側に戦う意思がなければ相手側にも戦意は起きないからである)。
 今、我々日本国民に問われるのは、国民の意思であり、どの国に対しても9条の通りに不戦意思(戦争反対の意思)を貫こうとするのか、それとも、相手(国)によっては、いざとなったら全面戦争も厭わない覚悟で自国の軍事的抑止力を支えようとするのかだろう。
 以前、アジア・太平洋戦争に突入する前は、日本国民に戦意高揚(全面戦争も覚悟)があって、それが実行された。戦後、その惨たんたる結果に懲りて新憲法に不戦を誓ったが、今はどうなのか。変わってしまったのか?
 北朝鮮国民にアメリカや日本に対して全面戦争の覚悟(「やぶれかぶれ」意識)は・・・・ないと言えるか?中国国民はどうか?両国民ともアメリカや日本に対してはかつての戦争や植民地支配の怨みからくる反米・反日感情が根強く全面戦争も厭わない国だとすれば、その中国や北朝鮮などに対して、日本がいかに自衛隊や日米同盟を強化し、集団的自衛権行使容認の安保法制を整えても、その抑止効果をはたしてどれだけ働かせられのか、それは甚だ難しいだろうと思われるが、その見極めが必要だろう。
 一方、9条を基調とする非軍事的抑止力はどうかといえば、戦後我が国が、これまで他国から戦争をしけられずに済んだのも、日米安保のおかげというよりは、むしろこの9条のおかげであり、この9条の抑止効果の賜物と思われる。
 この9条を全世界に普及させ、各国ともこれに倣うようにすべきなのだ。

2015年07月02日

抑止戦略―個別的自衛権と集団的自衛権

 軍事的抑止戦略か非軍事的抑止戦略か―どちらが賢明か
 その前に先ず、そもそも現代世界では、戦争というものが在るのが当たりまえなのか、ないのが当たりまえなのか。国々には敵もあれば味方もあるのが当たりまえなのか、当たりまえでないのか。人や国は戦うのが当たりまえなのか、当たりまえでないのか(世界価値観調査では、「もし戦争が起ったら国のために戦うか」という質問に『はい』と答えた人の割合は、日本が最低だという)。 
 考え方の違いがあると思われるが、実際問題として(実態は)どうなのか、である。
 (中東ではイスラエルとパレスチナ国家その周辺諸国との間の根強い対立・抗争があり、シリアとイラク両国にまたがってイスラム過激派と政府軍の戦乱、アフガニスタンでは未だ戦乱が続いている。アフリカではリビア・スーダン・ソマリアその他で戦乱が続いていおり、ウクライナでは親ロシア派と政府軍との間で内戦があってそれにからんでロシアとNATOとの対立があるが)国家間の戦争は国連憲章で違法とされ禁止されている。
 (第一次~第二次大戦後、自衛権行使と国連による不正な武力侵攻・武力攻撃に対する軍事制裁以外は禁止。自衛権行使も、安保理事会が措置をとるまでの間に限った暫定的なもので、集団的自衛権はもとより個別的自衛権も例外的なものとされているのだ。国連は、国連の目的に軍備を利用する以外には、国ごとの個別的な軍備は制限・縮小するなど軍備の規制目指している。
 集団的自衛権とは、本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎない。(自然権としての正当防衛権には当たらない。個別的自衛権は個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが、集団的自衛権はそもそもが「固有の権利」などではないのだ、ということ。)
 第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。
 このように、集団的自衛権とは、そもそもが軍事同盟を合理化するものであり、軍事同盟は、国々を戦争に巻き込んだという、とりわけ第一次大戦の苦い経験から望ましくないものとして否定されてきたものなのだ。(セルビアの一青年がオーストリア皇太子を暗殺したことをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦したが、双方それぞれの同盟国が次々と参戦し、日本までが日英同盟のよしみで参戦、世界大戦となった。)

 このように現代世界では原則として戦争は禁止されていて、実際、(イラク戦争以後、主権国家間で正規軍が激突し合う戦争は)近年はほとんどなくなっているし、戦争があるのが当たりまえだなのではなく、むしろないのが当たりまえなのだ。

(1) 軍事的抑止戦略
 それは、国々には敵国が存在し、その国から武力攻撃があり、戦争はあるもの、という考えを前提に、仮想敵国を(それが存在するものと)想定し、戦争・武力攻撃(があるものと想定して、それ)に備えて軍備、「抑止戦略」をたてる、というもの。
 軍備―より強大に・・・・軍事費かさむ―費用対効果が問題
 敵味方を峻別―同盟国・友好国(アメリカ・オーストラリア・NATO諸国など)と非同盟国・非友好国(中国・ロシア・北朝鮮など)と分けて対決→緊張→戦争やテロを呼び込む(テロの標的になる) 
 同盟政策―「集団的自衛権」行使―同盟国or「密接な関係にある国」を攻撃した国(A)を攻撃―そうすれば、その相手国(A)から見れば我が国による攻撃は先制攻撃したことになり、それに対して(A)は反撃してきて我が国との戦争になる
 同盟国(の戦争に)軍事支援―たとえ「後方支援」でも、相手から見れば、また国際法上は武力行使と一体な「兵站」行為として参戦と見なされる―武器使用は自己防衛につもりでもあっても、武力行使と見なされる
  
(2)非軍事的抑止戦略(安倍政権の安保政策・抑止戦略に対する対案になるもの)
 「諸国民の公正と信義に信頼」(醸成)、9条(世界に普及)を基調に
 どの国とも友好・協力―敵をつくらず、どの国も味方か敵にあらずとして―平和友好条約or中立保障条約
 地域平和共同体―東南アジア友好協力条約(TAC)
        北東アジア平和友好協力条約もめざす―地域の平和と安定へ
 紛争・係争は対話・交渉によって解決―紛争をエスカレートさせない行動規範を構築
              北朝鮮問題を「6ヵ国協議」の枠組みで解決
              領土問題の外交的解決

2015年07月09日

「抑止力」論の欺瞞(加筆修正版)

 安倍首相は「平和安全法制」など、それらは戦争することを目的にしてはおらず、むしろ、それを抑止することを目的にしているのだと。
 しかし、軍事的抑止力とは軍備(物理的・システム的備え)の運用・武力行使を控えることではなく、それを運用・行使する、その意志(戦争の覚悟)があることを前提としている。しかも、それを行使するのは、相手が自国にたいする攻撃に着手してからそれに応戦して行うとはかぎらず、その前に(先制攻撃)やらなければ(迫りくる「存立危機事態」に)間に合わないという場合には、同盟国など他国に加えられた攻撃に対しても応戦する―それを集団的自衛権というわけだ。これらは攻撃を思いとどまらせる抑止力というよりは、「いつでも来い」とばかりに迎え撃つ応戦力・参戦力と言ったほうがよく、このような軍事的「抑止力」論は欺瞞というほかあるまい。
 軍事的抑止力は相手の受け取りようによって、それを相手がどう見なすかであって、自分は「抑止力」のつもりだからと言って、相手もそう思ってくれるとはかぎらず、自国のそれは「戸締り」「町内会の防犯パトロール」の如き抑止力だ(安倍首相)と言っても、相手はそうは受け取るまい。
 単なる「戸締り」や「町内会の協力」なら、家に鍵をかけるだけとか、丸腰で見回りするだけだが、それがどの家も、どの町内も銃刀を所持して、となると穏やかではなくなり、かえってその濫用・殺傷事件の頻発を招く結果にもなるだろう。だから我が国では、警察官以外には銃器の保持は禁止されているし、急迫不正の侵害に対する正当防衛は認められるにしても、予め武器を準備、集合する過剰防衛は禁じれれている。
 自国と同盟国の軍備と安保法制を「抑止力」と手前勝手に称しても、相手(中国・北朝鮮・ロシアなど)がその通りに素直に受け取って軍事も軍備増強も控えるかといえば、そういうわけにはいかないだろう。これらの国々にとっては、我々が彼の国の軍備増強や核・ミサイル開発に脅威を感じるのと同様に、我が国の軍備と同盟強化に対して警戒心・対抗心を募らせ、さらに軍備増強と緊張を招く結果になってしまう。
 沖縄の基地を「抑止力」だと自分たちは思い込んでも、敵と見なされた相手にとっては、そこを攻撃対象からはずすようなことはありえず、むしろ真っ先に標的にされる可能性の方が強い。
 個人に自然権として正当防衛権が認められていても、銃刀の所持は、我が国では法律で禁じられているのと同様に、国の自衛権は認められていても、戦力の保持は憲法で禁じられている。急迫不正の侵害に対して自衛権に基づく実力行使は認められるとしても、自国にではなく同盟国など他国に加えられた侵害に対してまで集団的自衛権の名のもとに(国連憲章ではそれが認められているからといって)その国と連携して武力行使することまでも(たとえ「後方支援」であろうと、それは兵站活動として武力行使と一体と見なされ)我が憲法では到底認められはしないだろう。
 いずれにしても、集団的自衛権の名の下に安保法制で構築された同盟協力体制は「抑止力」だと幾ら称しても、相手の中国・北朝鮮などの非同盟国や勢力から見れば、日米の脅威が増して対抗心を駆り立てる以外の何ものでもなく、国際平和・安全を害する以外の何ものでもあるまい。(首相はもう一つの例え話―「不良とのケンカ」で、「私の友だちのアソウさんという人が『おれはケンカが強いから一緒に帰って守ってやるよ』といって一緒に帰ってくれて、そこに3人ぐらいの不良が出てきて、いきなり私の前にいるアソウさんをまず殴りかかった。私もアソウさんと一緒に対応する」と。「対応する」とはケンカの相手になるということだろう。そうなると、それは抑止だけでは収まらない、実力を行使して加勢する―即ち参戦する」ということだろう。)集団的自衛権の行使容認は「抑止力」ではなく、いわば「参戦力」なのだ。
 「抑止力」と称して軍備や安保法制などいくら強化・完備しても、それらにはそれを運用・行使するうえで、国民の意志・覚悟(いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟)が伴わなければ「張り子の虎」に過ぎず、逆に相手は(北朝鮮やISのように)、たとえ軍備や軍事システムは劣弱でも、意志力が頑強・激烈な(自暴自棄的な決死の覚悟の)相手には、さほど抑止効果は働かない。我々日本国民は、そんな戦意・覚悟など持ち合わせない。だったら今からでも彼らに負けない戦意・覚悟を持つように扇情教育したらいいではないか、なんていっても、無謀・悲惨な戦争のバカらしさをすっかり知り尽くして憲法に不再戦を誓っているという意識が多少ともある日本国民に、そのような戦意・戦争の覚悟などありようはずがあるまい(たとえ首相がその気になっても)。だとすれば我が国がアメリカに合わせて軍備や安保法制をどんなに整えたところで抑止力にはならないのである。「軍事的抑止力」なるものは多分に神話的な思い込みに過ぎないということだ。
 60年安保反対闘争、65年べトナム反戦運動、それに70年安保反対闘争も、それで日米安保条約を破棄することはできなかった。それで、その後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのは(安倍首相など)「安保のおかげだ」という向きがあるが、実はそうではなく、むしろ多くの国民が参加した安保反対闘争や反戦運動のおかげであり、そこで示された国民の強烈な反戦意志が9条とともに根付いたからにほかなるまい。
 戦争や武力攻撃を抑止するのは、「戦争しない」、「武力攻撃しない」という国民の意志であり、戦争するな!武力行使するな!という国民世論にほかなるまい。その抑止力を強めることこそ肝要なのであり。まずは我々日本国民が憲法(9条)に誓っている不戦意思を互いの心に再確認して国の内外に宣明し、アメリカにも、中国・ロシア・北朝鮮にも「戦争するな!武力攻撃するな!」と声を大にして訴えることであり、それこそが抑止力にほかなるまい。
 それにつけても、日米同盟・米軍基地・アメリカの「核の傘」そのうえ集団的自衛権行使容認の安保法制、これらはその抑止力を損なう以外の何ものでもあるまい。自らはアメリカの「核の傘」を背に「いつでも、どこでも、切れ目なく」軍事対応できるように、そして戦争もできる準備をしておきながら、相手に「戦争・攻撃しかけるな」などと、いくら言い立てたところでなんの説得力もあるまい。
 7月13日衆院特別委員会の中央公聴会で、自民党の議員が「隣の家が火事になったら、公述人も当然火消しに行きますよね」と質問。(木村草太教授から「火事と武力行使を同一視する比喩が成立するのか」と返された。)火事は火を消して終わるが、集団的自衛権の武力行使は、火種を消すのではなく、かえって燃え上がらせ戦争に発展させてしまう、その違いがわかっていないのだ。
 「軍事的抑止力神話」に騙されてはならない!

2015年07月16日

平和国家・民主国家・立憲法治国家の存立危機事態

①恣意的な解釈変更で実質改憲・違憲立法の強行―立憲主義(個人の人権を守るために憲法によって権力に縛りをかけることで、為政者・権力保持者は憲法に従って権限を行使しなければならず、憲法に定める以外のことを恣意によって執り行ってはならないという原則)の蹂躙
②不戦平和国家から(「平和国家ブランド」―日本外交の「資産」―をかなぐり捨て)対米従属の軍事国家へ変質―中国もさることながら、世界から「脅威の的」とされるアメリカをフォロー・補完して積極的「国際貢献」に乗り出そうとするアジアの一大軍事国家に変容。
③熟議なき多数決強行―対米公約(米国議会で「夏まで法案を成立させる」との約束)を先行、憲法学者大多数と内閣法制局長官OBも違憲見解、マスコミ各社の世論調査で反対が多数(60%前後―賛成の2~3倍)で、説明・審議不十分との受けとめが大多数(80%以上)、首相自身も「国民の理解が進んでいないのも事実」と認めていながら、「選挙で選ばれた私たちには、国民の命を守り、幸せな暮らしを守り抜く責任があるのだから」と強弁して審議を打ち切らせて採決強行し、「(かつて日米安保改定やPKO協力法を採決した当時は反対が強かったが、その後の実績を見て理解・支持されるようになったのと同様に)いずれ国民は理解してくれる」と都合よく弁明・合理化―民主主義の蹂躙(国民主権のないがしろ)
④集団的自衛権で高まる自衛隊リスク―子や孫が心配
 少子化が進む中、今の自衛隊(21万人前後)を維持するには、毎年一万人前後(?)の自衛官を採用しなければならず、25年後には新生児の30人に1人が入隊しなければならない計算だそうな(?)。
 集団的自衛権の行使容認の安保法制改変で、今後、自衛隊の任務と海外活動の範囲が拡大(それに伴い隊員の生命の危険も拡大)すれば、人員確保(隊員募集)は難しくなる一方だろう。そこで18歳成人に達した若者に兵役義務を課する徴兵制―それは憲法上、不可能と、安倍首相は今のところは言明しているが、またしても「憲法解釈の変更」によって可能にされないとも限らない。(石破大臣などは憲法上不可能とは言えないという考え。)それはともかくとしても、「経済的徴兵制」という手があるのだそうな。
 労働者派遣法の改定で低賃金・不安定雇用が拡大する中、「安定した仕事がある」「奨学金がある」と勧誘して志願させるアメリカ式の募兵方法だ。
 いずれにしても、若者、子や孫たちが心配だ。

 「国際平和・安全貢献」とあわせて「国の安全保障をより確実なものに」し、「抑止力を高めるため」のものだなどと、いくらいっても、軍事的抑止力では、抑止しきれないばかりか、その同盟協力体制の強化・法整備は中国・北朝鮮など相手側の軍事強化(日米に対抗する軍拡の正当化)をも誘い、軍事対決・緊張を高め、軍事衝突から戦争に発展・エスカレートする結果を招きやすくなり、国内外における過激派のテロ攻撃を招く(反米テロの矛先が日本にも向けられる)結果にもなる、その可能性がますます強くなるだろう。
 日本国民が、この後、再び戦争に巻き込まれ、テロに巻き込まれるリスクが高まる国になるのかと、心配でならない。

 これらのことこそが、まさに戦後日本の存立危機事態だろう。

⑤戦争法案に対する対案は平和法案で―国際平和と日本の安全は非軍事でこうやって確保するという対案。
 今、政府が押し通した法案は「平和安全法制」というが、それは戦争法案にほかならない。
 維新の党や民主党も「対案」なるものを提出したが、それらは修正案というべきもの。対案というなら文字通り非軍事の「平和法案」であるべきだろう。憲法(9条)に違背する軍事戦略ではなく、9条に忠実に率先垂範して、それを世界に普及・普遍化する国際平和戦略と自国の安全保障戦略及びそれに基づいた具体的な方策から成る対案である。
 例えば、ASEAN諸国を中心とした東南アジア友好協力条約の「北東アジア版」など
⑥明文改憲論への警戒
 引き続き警戒すべきは「集団的自衛権の行使容認もその法整備も抑止力として必要だが、それは憲法を正面から改正して堂々とやるべきだ」という明文改憲正当化論だ。

2015年08月01日

短絡的な脅威論と抑止力論(加筆版)

 安倍首相は「安全保障環境の大きな変化に中で、我が国のみで日本を守りきることはできない。同盟関係をより機能させることで抑止力を強化し、事前に戦争を防いでいく。」「中国は急速な軍拡を進めている。27年間で41倍に軍事費を増やしている(筆者―それは文革の大混乱後の改革開放初期、極めて低水準にあったところからスタートした軍事費の増加率で、過去10年間では4倍。日本の防衛費も高度成長期には10年間で4倍だった)だからこそ、日米間で同盟関係をしっかりと強化し、抑止力を確保していく」と述べ、尖閣諸島周辺での頻繁な領海侵入などに触れて「活発な活動を展開している」と。また中谷防衛大臣は「北朝鮮は日本の大半を射程に入れる数百発もの弾道ミサイルを保有している」と。
 つまり、安保関連法案が今必要なのは、安全保障環境が大きく変化しているからで、とりわけ中国・北朝鮮の脅威それにイスラム過激派などテロ組織の脅威も増しているからなのであって、この新たな法案で米国などとの軍事的な連携が深まれば、これらの国や勢力が日本を攻撃するのを思いとどまらせる「抑止力」を高めることができるようになるからだというわけ。

 尚、「27年間で41倍に軍事費を増やしている」というが、それは文革の大混乱後の改革開放初期、極めて低水準にあったところからスタートした軍事費の増加率で、過去10年間では4倍。日本の防衛費も高度成長期には10年間で4倍だった。
尖閣諸島海域への頻繁な領海侵入は、中国が同諸島の日本による実効支配は認めつつも領有権は「棚上げ」という合意があったにもかかわらず、日本側(石原都知事~野田首相)がそれを覆して国有化してしまったという反発から始まった。「公船」を繰り出しているといっても、日本の海上保安庁の巡視船と同様の「海警船」で、軍艦まで出しているわけではなく、互いに軍事行動でない警察行動にとどまっている。(そこに海上自衛隊が出て行けば、向こうも海軍を出してくることになるのだろうが。)
 東シナ海のガス田も福田首相当時、両国共同開発の合意があったものを、中国漁船衝突事件をきっかけにそれが中断して、この間に日中首脳会談もないまま一方的に掘削施設建設を進めていたという経緯がる。
 また、南シナ海は日本が第一次大戦から南沙・西沙諸島とも占領し続けてポツダム宣言で放棄したものの、帰属先があいまいにされたため、その後、周辺諸国の間で領有権争いが生じ、中国が実効支配を(岩礁埋め立てはベトナム・フィリピンも中国に先んじてやっているのを)制しようとしているが、ASEANと中国の間で武力行使・威嚇の禁止、平和的解決を合意しており、法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」を策定しようと協議を重ねてもいるのだ。(デニス・ブレア米太平洋軍元司令官は4月外国特派員協会で、南シナ海について、対立は統治権をめぐる紛争であり、海域全体についての規制、油井掘削船の配備などであり、軍事対立よりもはるかに低い水準。どの国も、軍事対立へのエスカレートを望んでいない、と発言しているとのこと。)
 米中関係、日中関係も同様だが、貿易・経済・金融・人的交流など相互依存関係にあり(日本企業は中国に4万社以上が進出し、中国は日本にとって米国に次ぐ第2の輸出先であり、第1の輸入元で、貿易総額では米国を上回る第一の貿易相手)、戦争など起こして一方が倒れたら、他方も一緒に倒れることになるのだから、(「やれ!やってしまえ!」などといくら煽っても)戦争などできる状態ではないのだ。
 5日の参院特別委員会で、大門議員(共産)の質問に、中谷防衛大臣は「中国を含めて特定の国を脅威とみなし、軍事的に対抗していく発想にはない」と答弁し、岸田外務大臣も「日本政府は中国を脅威とは見なしていない」と明言。
 いずれにしろ、中国がどうのこうの、北朝鮮がどうのこうのと安全保障環境が変化しているというこのような指摘は、状況の変化を大まかに説明しているにすぎず、そういう状況があるからといって、我が国がそれら(中国や北朝鮮、過激派テロ組織)から侵略・攻撃される蓋然性があるのかと言えば、その恐れ(脅威)を感じられるとか、懸念(心配)されるとか、ことによったらそういうこと(我が国への侵略・攻撃)もあるかもしれないという一つの可能性として考えられはしても、自然災害のようにいつか必ず襲来するという必然性などあり得ないし、なんらかの理由によって我が国にそのうちいつか必ず侵略・攻撃を仕掛けてくるに違いないという蓋然性とその根拠は何も示されてはいない。つまり、そのような状況があるからといって、なぜそれが即我が国への侵略・攻撃に結びつくのか、その根拠となる理由{①日本に対して侵略・攻撃をしなければならない理由・必要性、②侵略・攻撃を可能とする能力(軍備)を持つ、③その意思があること、等}だが、そのうち③(軍備)は持ったとしても、そのこと以外には具体的な事実は何も示されていないのであって、脅威イメージで論じているにすぎないのである。その「脅威」論は安倍首相をはじめ安保法案肯定派の政治家とNHKや読売・産経などのマスコミによって何度も吹聴され(煽られ)るうちに、それが反中・反北朝鮮感情とも結びついて先入観・固定観念となって、まるで今にもそれらが攻撃を仕掛け、攻めてくるかのような感覚に陥っている向きもあるのだろう。
 また、朝日などでも、その辺り(中国・北朝鮮の現在の状況が、単なる脅威イメージではなく、それがなぜ我が国への侵略・攻撃に即結びつくのか、その根拠の有無)の詳しい調査報道も解説も指摘もほとんど見られない。

 「抑止力」などと称して軍備体制(同盟・連携協力体制)を強化する新安保法制に基づく軍事対応(軍事対軍事、力には力)・軍事依存(軍事に頼るやり方)は、それを「世界に発信」することで抑止力が高まり、侵略・攻撃を受ける可能性がなくなっていくというが、それどころか、いたずらに危機事態(一触即発・軍事衝突)を呼び込む(誘発する)もととなる蓋然性の方が高い。そのやり方には戦争を抑止する効果もある程度あるが、逆に戦争を惹起し、戦争に巻き込まれる蓋然性もあり、戦争を遠ざけるよりも、むしろ近づける蓋然性の方が高いのではないか。なぜなら軍事的「抑止力」というものは暴力装置であることにはかわりなく、それによって威嚇して相手が侵略・攻撃をしかけようとする気を起こさないようにするのだが、家に鍵をかけて泥棒の侵入を抑止する施錠と違って、或いはまた火災の消火に当たる消防力とも違って、攻撃力にも転化する暴力装置であり、それを備えること自体が紛争の火種となり、それを構えて対峙(軍事対決)し、何かのきっかけで激突(軍事衝突)して火種を燃え上がらせる(戦争に発展する)原因ともなるのである。したがって、そのような暴力装置(軍事力)は(軍事システムとしての安保法制も)むしろ取りはずして、非軍事的・平和的手段による抑止力を追究すべになのであり、それこそが憲法の9条が政府に求めている平和的安全保障なのである。
 さて、新安保法制のことだが、中国や北朝鮮それに過激派勢力も、このような日米の軍事同盟・連携協力体制の拡充・強化に恐れをなして、中国は尖閣・東シナ海からも南シナ海からも軍拡からも素直に引き下がるのか、北朝鮮は核開発からも弾道ミサイル開発からも手を引くのか、過激派勢力は日本人を攻撃対象からはずすのか、それとも、いずれも逆の方向に向かうのかといえば、それは後者の方(逆の方向に向かう)だろう。新安保法制に基づくこのような日米軍事同盟体制の拡充・強化のやり方で相手にプレッシャーをかけるよりも、そんなことは、むしろ控え、平和的対話(協議・交渉)に全精力を傾けた方が相手を軍事抑制・戦争回避に向かわせるものと考えるが、いかがなものだろうか。
中国・北朝鮮のことならば、今むしろ必要なのは、ASEAN諸国が主体となって結成した
 東南アジア友好協力条約(TAC。日中韓・北朝鮮・印パ・豪・ニュージーランド・仏・米ロ、EUなどまで、計28ヵ国加盟。主権・領土保全等の相互尊重、武力による威嚇・行使の放棄、紛争を戦争にはしないで、あくまで対話・外交による解決をめざす)に倣った北東アジア友好協力条約(日・中・韓・北朝鮮・ロシア・モンゴル等で結成)だろう。そしてこの地域を非核地帯とし、朝鮮半島の問題は6ヵ国協議(の枠組み)を維持して、その中で懸案を解決することを目指す。それらによって平和的安全保障を目指すべきなのであって、軍事的安全保障にいつまでもこだわり続けるのは、もうやめにした方がいいのでは。

2015年08月04日

集団的自衛権行使の限定容認の矛盾

自衛隊の実力行使の3要件
 個別的自衛権の場合―①自国への急迫不正(武力による攻撃・侵略など)の侵害の排除。②実力行使以外に適当な手段がない。③必要最少限度の実力行使(その限界は「日本への侵害を排除することを超えて敵国に攻め入ったり、敵を追いかけて殲滅したりはしない」という一線)。
 それに対して、集団的自衛権の行使を限定的に容認した武力行使の新3要件―①我が国と密接な関係にある他国(味方)に対する武力攻撃をも排除。②他に手段がない。③必要最小限度の実力行使―問題点―公海上から他国領域のどこまで行って武力行使したら他国(味方)攻撃を排除したことになるのか、明確な一線が引けない。「海外派兵は一般的には認められない」と言って、「例外」として「ホルムズ海峡(或いは南シナ海)での機雷掃海等は受動的・限定的なので認められる」というが、それらの判断基準は明確な規定がなく、時の政府が実際に発生した事態の個別的な状況に照らして総合的に判断するということで、政府の裁量に任され、「限定的」といっても歯止めがなく、どこまで広がっていくか分からない。
 また、仮に他国(アメリカ軍)が攻撃された、それを我が国の存立危機事態(それで我が国の存立も危うくなり、国民の危険につながることも明白)と判断して自衛隊を出動させて反撃、その後、我が国への危機は去った(日本の安全は回復された)が、他国(アメリカ軍)の危機はまだ続いており、戦闘が止んでいない、そのような時に我が方の自衛隊だけが、さっさと打ち切って撤退することはできまい。だとすれば、他国(アメリカ軍)に対する攻撃全体を排除するまで戦闘を続けなければならないことになる。つまり、最初は我が国の存立危機事態との判断から参戦だったとしても、その後は自衛(自国防衛)ではなく他衛(他国防衛)のために、しかも他国(アメリカ軍)の戦略・戦術・作戦に従って戦闘を続けなければならないことになる、ということだ。
 未だ自国が攻撃されていなくても、他国が攻撃されて我が国の存立危機事態が予測されれば、我が自衛隊が出動して先に敵国を攻撃する、となると、それは「先制攻撃」ということにならないか、その質問(参院特別委員会で民主党の大塚議員)に、岸田外相は「国際法上は先制攻撃に当たります」と答弁している(国際法上、それが、攻撃が差し迫っていると判断される「自衛的先制」の場合ならそれは合法だとする説もあるが、その判断は主観に支配され危うい)。アメリカが、(ベトナム戦争やイラク戦争の時のように、或いはその以前日本がアメリカに対して行った真珠湾奇襲攻撃のように)「自衛的先制」と称して攻撃を開始(その決定に際する判断理由は自作自演のトンキン湾事件とか、ありもしない大量破壊兵器保有など事実のでっち上げに基づいていた)、そのようなアメリカが行う「自衛的先制」攻撃に対して、攻撃された国からアメリカが反撃されれば我が国の存立も危うくなると判断して、それを阻止しようと、我が国が攻撃されていないのに、我が国の自衛隊までも先制攻撃に加わる、そんなことまで許されることになるのか。こうなると、「何でもあり」といったようなことになる。
 こんなのは自衛権ではあるまい。「集団的自衛権」なるものは、自己保存のための正当防衛権たる個別的自衛権とは本質的に異なる「他衛権」にほかならないのだ。
 自衛隊に個別的自衛権に限って最小限の実力行使だけを容認してきたものを、他衛権まで、「集団的自衛権の限定的行使」と称して、その行使を容認することは憲法9条の単なる解釈変更にはとどまらない違憲立法であることが益々明らかになっているのだ。

 

2015年08月11日

抑止力効果は相手しだい(加筆修正版)

 安保法案は「万が一への備え」で、「戦争を未然に防ぐため」「抑止力を高めるため」のものだと言う。しかしそれは、こっち(安倍首相)はそのつもりでも、相手がその通り受け取って挑戦を控えてくれるとはかぎらず、その抑止効果は相手がそれをどう受け取って、どう対応するのかにかかっており、こちらの思惑・期待通りにはいかないもの。相手はそれぞれ、日本政府のそのような軍事的「抑止力」政策に対する信頼度と政治的・経済的・道徳的得失などコスト計算・リスク計算に基づいて対応を決めるのだ。
 その対応には次の5通りが考えられる。①こちらの期待通りに恐れをなして挑戦を完全に断念(屈服)して武装解除か専守防衛のみに、②挑戦は一時控えて、こちらを上回る攻撃力アップに努める、③挑戦は控えるも対抗的抑止力アップに努め、パワー・アップを図る、④挑戦を断行、⑤初めから挑戦する気はなく専守防衛か非武装さえも。
 これらの対応は、その相手国(もしくは勢力)それぞれの状況に応じたコスト計算・リスク計算に基づいて割り出されるが、ISなどの過激派勢力の場合は計算を度外視してでも挑戦は強行される(自爆攻撃による非対称戦)。
 ②と③の場合は競争的軍拡と軍事対決を招き、軍事衝突から戦争を惹起する危険性がある。
国々の大部分は③か⑤の専守防衛にとどまっているのではないか。
 旧ソ連・ロシア・中国・イラン・北朝鮮などの国は③或は②とも考えられるにしても、いずれにしろ、①のような対応をする相手、即ちこちらの期待通りに軍事的抑止力を効かせられる国(或いは勢力)というのは、はたしてどこなのだろうか。中国或いは北朝鮮がそんな(威嚇に恐れをなして引き下がるような)国だというのだろうか?ISなど過激派組織はそんな勢力なのだろうか?
 北朝鮮の立場から見ればリビアやイラクはアメリカに対して①の対応をとって核武装をやめたから滅亡するはめになったのだと考え、「核抑止力」に執着しているのだと見られよう。
 アメリカの立場から日本を見た場合、日本はかつての挑戦国で、敗戦で①の対応をとらざるをえず武装解除したが、やがて自衛隊を創設して「専守防衛」に転じ、今や③に転じようとしている。それが仮にもし改憲されて軍事制約が解除されれば(それは軍事制約があるが故の軍事的対米従属からの脱却をも意味し)、日米同盟は維持したとしても、現在の不平等な安保条約を改定(一方的な基地提供義務や治外法権的な特権を認める地位協定や思いやり予算などは廃止)して、かつての日英同盟のように対等な攻守同盟に改変されるかもしれず、そうなると、②ともなりかねず、日本はアメリカにとって不安な存在となる。なぜなら、「時の政権」によっては、アメリカに忠実な親米政権ばかりとはかぎらず、脱米・脱戦後レジーム政権(ポツダム宣言や東京裁判に反対し、アメリカの核の傘に頼らず自前の核武装さえも目指す極右政権)もあり得るし、非暴力平和主義を唱える政権もあり得、米国の紛争に軍事介入するのをためらい、米国に対する防衛義務を果しえない政府が存在することもあり得るからだ。
 9条を改憲すれば、アメリカはもろ手をあげてそれを歓迎するとはかぎらず、ましてや中国・韓国・北朝鮮・ロシアなど隣国はなおさらのこと、日本に対して脅威感がおぼえ、これらの国々の方が、対日「抑止力」(軍事)強化に向かいがちとなるだろう。
 
 首相は「不戦の誓いは堅持する」と言い、この法案は「戦争を未然に防ぐために抑止力を高めるためなのであって、戦争をするためのものではない」というが、そのために「あらゆる事態に切れ目なく、日米が一層協力して対応できるようにしておく」、ということは(名護市辺野古の新基地建設―普天間基地移設―などとともに)戦争の用意(戦争準備体制)を常に整えておくということであり、(それは中国や北朝鮮など相手に対して「やるならやってみるがいい、いつでも受けて立つ用意があるから」と戦争を呼び込むことにもなあり)、戦争する意思を示す戦争法案であることに違いはないのだ。

 この法案の提出者(安倍首相や政府与党)は「これらは抑止力のためで、戦争するためのものではない」と言うが、彼らはそのつもりでも、相手の国々や勢力はその通り受け取って対応してくれるとはかぎらないのと同様に、国民もその通りには「素直に」受け取ってはいない人たちの方が多いのである。たとえどんなに「丁寧に説明」を受けても。このような軍事的「抑止力」論には、そもそも論理矛盾があり(それは防御用の「盾」だとは言っても、攻撃用の「矛」ともなり)、多分に主観的で実証的な検証も不可能に近いからである。

2015年09月01日

「自衛・個別的・集団的自衛権」とは―日米安保条約の改定

●自衛―武力(暴力装置)で守る―武力(他者への暴力)の正当化―「暴力の源泉」→エスカレート
●国際法―すべての国が自動的に拘束されるとか、常に国内法に優越するなどということもない
  強い「義務」を定めた国際法規(武力行使・威嚇の禁止規定、根本的な人権を保障した条約や国際人道法などの法規)の場合は、いずれの国も拘束されるが、
  「権利」を定めたものは、無理やりその権利を行使し、その法規を実施しなければ国際法違反になるということはない。国際法上の「権利」だからといって、それをもって違憲立法を正当化することはできない
●自衛権―(個別的自衛権の場合も)国連国際法委員会が2001年採択した国家責任に関する条約案(『国家責任条文』)21条に「自衛は権利ではなく違法性阻却事由」と―本来は違法な武力行使だが状況から判断して違法性が取り除かれる(免除される)行為だというわけ。
 「権利」だからといって乱用してはならない(そもそも権利ではない)
  乱用―「先制的自衛」と称して先制的に使われがち(同時多発テロ→アフガン攻撃)
        ↓
        現行国際法上、国々の権利として認められているとは言い難い
●集団的自衛権―国連憲章には定義や行使要件など一言も書かれていない(意味内容の不明な概念)―自然権ではない
 同盟政策―特定の仮想敵を念頭(想定)―敵対関係を潜在的に抱え込む―集団安全保障とも本来の自衛権(個別的自衛権)(仮想敵を想定しない)とも論理構造を全く異にする。

 抑止力―軍事的抑止力―武力による強圧・威嚇で挑戦を抑止―相手は対抗・反抗、軍備増強⇒軍拡招く、非対称な(弱小な)相手は生物・化学兵器などの「弱者の兵器」やテロで反抗
 平和主義―愛(隣人愛・人類愛)により挑戦を抑止―軍事的抑止力はそれとは本質的に別物
  積極的平和主義―単に戦争のない状態(消極的平和)に対して、貧困や差別など構造的な暴力のない状態(積極的平和)をめざす(ノルウェーの平和学者・ヨハン・ガルトゥング
博士が提唱)―安倍政権の「積極的平和主義」は軍事的抑止主義で全く違うもの

 <参考>世界9月号(2015)最上敏樹・国際基督教大学名誉教授『国際法は錦の御旗ではない』

●日米安保条約の事実上さらなる改定
  旧安保条約・前文―「日本国は武装解除されているので・・・・固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない。無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので…日本国には危険がある。・・・・集団的安全保障取極めを締結する権利・・・個別的及び集団的自衛の固有の権利・・・これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」(→「9条と日米安保」セット論)
     片務性―米国は日本を守る責任を(義務としてではなく「恩恵」として)負うも、日本は米国に基地提供義務を負うも米国を守る義務はない(相手国を守る防衛義務は法的には双方ともない)。
  現行安保条約・前文―「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結する」
     双務性へ―共同防衛義務―日本も米国を守る―但し、日本の施政下の領域内で
―在日米軍・基地に対する武力攻撃に対処。
       共同防衛の対象は「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に限定(5条)。
       共同防衛の発動は「自国の憲法上の規定及び手続」に従わなければならない。
       米軍の日本国への配置における重要な変更、装備における重要な変更(核兵器の持ち込みなど)と在日基地の戦闘作戦行動のための使用には事前協議が必要。

 憲法は、自国のため、他国に武力行使してもらう権利(消極的行使)は事実上容認も、他国にために武力行使する権利(積極的<能動的>行使)は認めてはいない。
 政府の説明(解釈)―これまでは「日本が行使できるのは個別的自衛権だけ」と―米国にとっては、日本をも守るという集団的自衛権だが、日本にとっては、その領域における米軍への攻撃は日本への攻撃だから個別的自衛権だと。
 在日米軍基地は「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に米軍が使用することを許される(6条)が、日本の平和と安全に直接関係ない事態については事前協議で米軍の出動は拒否できる。
 しかし、領海を航行中の米艦や領空を飛行中の米軍機への攻撃は、日本にとっては「武力攻撃」ではなく領域侵犯にとどまるはず、なのに、これに対して武力によって自衛権を発動すれば、それは集団的自衛権の行使となる。陸上基地への攻撃であっても、米軍はこれを「極東における国際の平和及び安全」のために使用できるから、このような基地を供与し、かつ防衛することは集団的自衛権によらなければ正当化できない。それ故、現行安保条約は、国際法上は日本にとっても集団的自衛権を根拠にしていると見なされる。
 また、日本の領域外における米国に対する攻撃については、日本は「憲法上の規定」を根拠として共同防衛を今まではそれを断れた。ところが、今回の憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認で、それが断れなくなるし、等しく共同防衛の義務を負う完全な軍事同盟条約に転化、それも単なる抑止力ではなく、戦う同盟に転化。
 「極東」という範囲限定のなくなり、グローバル化(地球規模に拡大)
 これらは日米安保条約の事実上の改定を意味する(国会承認を受けることなく)。 

 <参考>世界3月号(2015) 松井芳郎・名古屋大学名誉教授『日米安保体制の変容と集団的自衛権』

2015年09月09日

「国を守る―防衛」とは?

 安倍首相は「政府には『国民を守る』責任がある」といって安保法案を持ち出している。
しかし、政府の権限とその行使は憲法に依らなければならない。日本国憲法(9条)は政府に戦争をする権限を与えていない。
 「国民を守る」というが、それは大義名分。実際は何を守るのか。次の二通りがある。
 国家(体制・機構・主権・領土・権益)を侵害から守る(侵害を抑止)
 国民(生命・平和的生存権・財産)を侵害から守る(侵害を抑止)
何から(どの国、どの勢力による侵害から)守るのか―中国・北朝鮮・過激派テロ組織を念頭(仮想敵国として想定)。
 どうやって守るのか―守るためなら何をやっても構わないというわけではなく、守り方(手段・方法)は規範(ルール)に従わなければならない。―①憲法②国際法その他
 「守り方」には次の二通りがある。
 ① 武力(軍事)で―他国(アメリカなど)と組んで―「集団的自衛権」―参戦・共同防衛(他国をも守る―自国が攻撃されていなくても)―戦争に備える―安保法制(法的担保)→敵(仮想敵)を作って対決(仮想敵国とみなされた国や勢力も対抗)→軍事衝突→戦争を招く―戦争リスク拡大―国民・自衛隊員の犠牲を伴う。
  軍事組織関係者(統合幕僚長ら自衛隊幹部)は軍事の論理(軍事的合理性―戦いに勝つことが最高目的、そのために最適な方法を駆使。効率性、秘密性、リスク・コスト計算など)で判断して事を進める→独走・暴走しがち(政府・国会などシビリアンコントロールから離れ―安保法案成立前に、国会審議に入ったか入らないかのうちに(昨年中に)「法案は来年夏までには終了する」として法案成立を前提に、国会説明抜きで法案具体化―国会などでの追及に対しては「我々や相手(米軍幹部)の思考方法、手の内が分かる(米軍幹部との)やり取りを載せた文書は絶対外部に漏らしてはいけない」と国会・国民には隠す―内部文書でその事実が判明)
  (かつての満州事変や日中戦争は軍部や現地部隊の暴走から始まった。)
 軍事組織はなのを守るか―国民よりも組織防衛(優先)・自己防衛
 ② 非軍事的方法
   友好、経済・文化協力、「ソフトパワー」(「平和国家」という世界からの信望を背景に紛争仲介)など―敵を作らず、安心・信頼を供与―による。
 我が国憲法は①を禁じ、②の方法を要請している。
 国際法―国連憲章など―自衛と国連安保理決議による制裁以外には武力行使禁止
     戦時国際法―残虐兵器の使用禁止、民間人無差別攻撃の禁止など・・・・核兵器などは違法

安保法案はどうしても必要なのか

集団的自衛権行使の限定容認―憲法解釈の変更
安保法案①「平和安全法制整備法案(一括法案)」―武力攻撃事態法の改定、周辺事態法の改定→「重要影響事態法」、自衛隊法の改定、PKO協力法の改定、船舶検査法の改定など
    ②「国際平和支援法案」(海外派兵恒久法)
  (それらは「戦争抑止法制」「世界平和に貢献する『国際平和協調法制』」だという。が、かえって戦争やテロを呼び込み、紛争をこじらせ、激化させる結果にならないか?)
  具体的には―国連安保理決議がある場合だけでなく有志連合軍(多国籍軍)へ参加(参戦)―海外(戦闘地域)で米軍(先制攻撃して戦争を行った場合でも)への後方支援(兵站)―武器(ミサイルや戦車も)輸送、弾薬提供・補給、給油・役務の提供
     (戦闘中の支援活動は避ける?が、戦場に取り残された米兵の捜索・救出も)
     他国軍(米軍だけでなく豪軍・斑入りピン軍など密接な関係にある国の軍も)守る―これらの国々の軍が武力攻撃を受ければ、それに反撃し、防護(米軍基地をはじめ他国軍の艦船・戦闘機・ミサイルや武器を防護)―武器等防護は平時も地球上のどこでも、「存立危機事態」と認定しなくても(現場指揮官・米軍の指示で「撃つ」)。
     船舶検査活動は外国領域でも
     平時から共同で訓練・監視・警戒活動―切れ目のない対処
     PKO(国連でなくてもNATOなど国際機関の要請あれば)―駆付け警護(他国部隊を加勢)、治安維持(安全確保)業務―監視・検問・警護など―任務遂行(業務妨害する行為の排除など)に武器使用→戦闘、住民(戦闘員と区別つかず)に銃を向け、殺すことも
     在外邦人保護―警護・救出
     グレーゾーン事態―国籍不明の武装集団が離島に上陸or日本の民間船を攻撃
              などに対処
 これらは中国・北朝鮮の動向など「安全保障環境」の激変によって必要に迫られていると―中国・北朝鮮・過激派テロ組織による急迫不正の侵害(武力攻撃)の蓋然性が強まっている?―国の存立が危うくなり、国民の生命・自由・幸福追求の権利が覆される危険が強まっている?だから、これらは是非とも必要だと―本当にそうか?立法事実(その立法が必要される理由・事実)があるのか?(曖昧・不明―海外で紛争が発生し、邦人避難者を乗せて輸送する米艦を自衛隊が守れるようにしなければならないということを理由に、集団的自衛権の行使を容認する必要に迫られているとして、この法案の立法を求めているが、そもそも米艦には避難民を乗せるにも「①に米国籍を持つ者、②に米国永住許可証を持つ者、③にアングロサクソン系国民、④その他」という優先順位があり、日本人はあてにすることはほとんどできないし、事実、米国政府にその考えはないことがはっきりしている。中谷防衛大臣は「米艦に邦人が乗っているかいないかは集団的自衛権の絶対的条件ではない」と答弁している。
また、イランがホルムズ海峡を封鎖すれば、日本は石油危機に陥り、存立危機事態に陥る。だから、その時には自衛隊がそこへ行って機雷掃海をやれるようにしなければならないということを理由に、集団的自衛権行使を容認する必要に迫られているとして、この法案の立法を求めているが、そもそも、石油輸出国のイランがペルシャ湾の出口ホルムズ海峡に機雷敷設して封鎖することなどあり得ず、イラン当局者も封鎖を否定している。つまりその立法事実はないということ。)

 それら(集団的自衛権の行使容認と安保法制の改定)にはリスクをともなう―①違憲リスク―立憲主義に大きく損なうリスク、②国民のリスク―戦争やテロを招く、或いはそれらに巻き込まれるリスク(大森元内閣法制局長官は「集団的自衛権の抑止力以上に紛争に巻き込まれる危険を覚悟しなければならない」と)。それに徴兵制もあり得る(*)。③自衛隊員のリスク―戦死者が出る、④コスト(防衛費・増)―社会保障費など抑制・削減してまでも(オスプレイ17機購入企図3,600億円、社会保障費15年度削減分3,900億円)―「国民の命と暮らしを守るため」どっちを優先か
 それらのリスクを冒してまでも必要不可欠なものなのか?
 また、そのための改憲が(解釈改憲であれ明文改憲であれ)どうしても必要なのか?

 いまのまま(「専守防衛」―武力行使は我が国に対する武力攻撃がある場合に限る)では、どうしてもダメなのか

*「徴兵制になる」は誤解?
 憲法18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
 安倍首相はこの憲法規定に基づいて、我が国で徴兵制はあり得ないという。
 漫画家の小林よしのり氏は徴兵制を国民の「自主防衛」として肯定する立場から「国の防衛にあたることは本来、崇高な職務」、「徴兵制の制度が整っていなかったとしても、必要になればわっと導入するでしょう。その時は『苦役にはあたらないのだと』と、時の政権が憲法解釈を変えるだけの話」と。
 また、法律家(日弁連憲法問題対策本部副本部長)の伊藤真氏は、それに徴兵制は憲法18条に反するから全くありえないというが、これは13条の「公共の福祉」で制限できるとも解釈されているのだと。
 大内裕和・中京大学教授は「経済的徴兵制」はあり得ると―アメリカは志願兵制だが、実態はそれ―「貧困層の若者が、大学の学費や医療保険費の肩代わりという条件に引き付けられて軍に志願し、戦場に送られている」―「経済的な事情から自衛官の道を選ばざるを得ない事態が日本でも現実になるのではないか」「重すぎる学費負担や奨学金の返還、正社員への狭き門など、若年層が直面する厳しい現実が、経済的徴兵制につながる社会的条件を作り出している」「また、企業の新規採用者を2年間、自衛官として任用する防衛省の『自衛隊インターン・シップ・プログラム』構想も明らかになっている」と。(朝日新聞9月2日「耕論」欄から)

2015年09月15日

軍事の論理か平和憲法の論理か(再加筆修正版)

 安保法案について政府与党の側は平和・安全保障を力(軍事)の論理で発想し、法案を作ってその正当性を主張し、議論を展開している。そういう軍事の論理で発想し論じられる限りにおいて、彼らの言い分にも一理あり、もっともだなんて思ってしまう。
 例えば、「中国・北朝鮮脅威論から、これらの国による軍事攻撃があった場合、それを防ぎ、或いは抑止して国民の命を守るために日米同盟の連携協力と隙間のない法整備が必要不可欠だ」というふうにこられると、(そのようにそれらの国を脅威視・敵視するのは不適切であり、それらの国が軍事攻撃をしかけてくるに違いないなどと決めつけてかかるのは間違っており、たとえそれが全くあり得ないことではないとしても、そんなことがないように友好・互恵関係をはかるべきだ、と言って真っ向から反論してもよさそうなものだが、それをせずに)そうだ、脅威だ、軍事攻撃もあるかもしれないなどと同調してしまい、同じ土俵に乗って、同じ論理で、法案の不備を突いて重箱の隅をつつくような些末な議論に終始し、対案を出しても修正案で、政府案を補強するだけになってしまう(一部野党)。 
 だから、それに真っ向から対抗し論駁するには、彼らと同じ土俵での力(軍事)の論理ではなく非軍事・不戦の平和共生の論理すなわち平和憲法の論理で対抗し、議論を挑まなければならないのではあるまいか。
 (Ⅰ)力(軍事)の論理では
 安全保障を軍事という次元でしか考えない、軍事専門家の発想
 「安全保障イコール軍事」「平和は力」という短絡的な考え方。
 「国民を守るため」というが、それは兵士・自衛隊員を戦いに命を懸けさせる、かつ国民の支持・協力を得るための大義名分。
 最大・最優先の目標は戦って必ず勝てるようにすること―敵国・仮想敵国を特定・想定し、それに対して圧倒的な、或いは充分上回る軍備を備える―それによって相手からの攻撃を抑止する(「戦わずして勝つ」)こともでき、攻撃されても撃退・制圧できるようにする。
 そのために、あらゆる事態(海賊や武装集団の離島上陸などグレーゾーン事態から全面戦争という最悪の事態にいたるまで)に対処するに必要なすべての事、すべての物を備える―強力な軍備(兵器・部隊組織)・緊密な同盟体制・綿密な法制など…憲法解釈のねじ曲げ、さらには憲法改正して集団的自衛権の行使を容認、その他「隙間のない安保法制」整備…制約のある自衛隊よりも正式に軍隊(国防軍)にした方が合理的。或いは集団的自衛権の行使を容認して日米安保条約を「相互安全保障条約」とし、「対等な」日米同盟として完全に機能するようにした方が合理的だと。(しかし、集団的自衛権の行使とは、我が国に対して武力攻撃していない国に対して日本側から武力行使をすることで、相手国からみれば、日本による先制攻撃と見なされ、相手の攻撃を呼び込み、かえって最悪の事態を招く結果ともなり得る。)
  安保法制は、ありとあらゆる事態―海外で戦乱が起きて脱出・避難する日本人を乗せた(?)米艦や、北朝鮮などのミサイル発射の動きを監視する米イージス艦を自衛隊が攻撃から守らなければならない事態とか、イランによるホルムズ海峡の機雷封鎖(?)に自衛隊を派遣して掃海しなければならない事態など(それらを理由に集団的自衛権の行使容認を法制化しようとしているが、現実にそのような事態に立ち至るような状況にない、即ち「立法事実」のないようなこと等)、「万一」の(1万分の1の確率でしか起きない、ほとんどあり得ないような)事態までも―想定するも、それをいちいち事前に法律に規定することは困難だとしてそれらを具体的に列挙して明記はせず、ということは政府がその都度その都度「総合的に判断」して“Go”となれば自衛隊は何でもやれることになる。自衛隊の海外派遣などは、新たな事態が生じる度に特別措置法を制定するのではなく、恒久法のほうが都合がいい、というわけ。
 自衛隊法など安保法制は現在のポジティブリスト(根拠規定)よりもネガティブリスト(禁止規定)の方がやり易い―前者は、その法律に明記された規定に根拠を持つ権限の行使・活動以外には行うことができないのに対して、後者は一定の行為だけを禁止して、それ以外の権限行使・活動は自由に行なえるので、この方がやり易いというわけ。
 (そもそも憲法はポジティブリストで、73条の「内閣の行う仕事(権限)」には「軍事」はない、であるからには内閣が軍事を行うことはできないはず。また9条には戦争・武力放棄を規定している、であるからには、自衛隊は設けられはしても、戦争・武力行使は行えず、米軍と集団的自衛権を行使することもできないはず。)
 軍事的合理性の追求―必ず勝てるように軍備・同盟体制・法制を最大限機能するように、又効率的に運用できるように整備
  軍事作戦―迅速性―部隊の即応性・機動性
  軍事情報の秘匿性―手の内を知られないようにし、必要な秘密情報の確保(…特定秘密保護法の必要性)
      
*首相いわく、「攻撃をしかけようとする相手の意図をくじき、戦争を未然に防ぐための抑止力を高めることによって平和・安全を確保できる」と。いわば「力による抑止平和」。
 その場合、力(軍事力)は、相手を圧倒するか充分上回り、戦えば必ず勝てるという軍事力でなければならず、そういう軍事力を備えるべくひたすら邁進することになる。そして日米同盟も100%機能するように集団的自衛権の行使を容認して軍事上のあらゆる事態にいつどこでも対応できるように隙間のない安保法制を整備するというわけである。
 それ(勝てるようにすること)をすべてに優先し、それを損ない、妨げになるものは排除するということになり、それが正当化される(軍事的合理性…軍事組織は迅速性・即応性を追求し秘匿性を持つので、政府・国会などのシビリアンコントロールから離れて独走・暴走しがちだが、シビリアンコントロールといっても、首相・防衛大臣・国会議員までが軍事の論理にとらわれていれば、かれらが自衛隊をコントロールするどころか、軍事知識に疎いばかりに、自衛隊幹部以上に暴走しがち)。
 中国・北朝鮮こそが力の論理に立って軍備強化・軍拡に邁進していると見なして、それに対抗して同様に日米ともに軍事同盟強化をめざす。
 中国・北朝鮮に対して日米が互いに同じ「力の論理」のもとに力対力で軍事強化を競い合う結果になる。その間、不測の事態(偶発的軍事衝突)、誤って戦争を引き起こす事態がいつ起こるか分からないことに。世界では核軍備競争の結果、今や地球上に1万6千発以上の核弾頭が存在し、それが誤っていつ発射されるかわからない。また、力が不均衡で非対称な相手でも、テロや自暴自棄的な玉砕戦法には抑止が効かない、という緊張・不安がつきまとい、平和的生存権(安心して生きられる権利)は損なわれる。
 従ってそのような軍事抑止力では、たとえどんなに強大な同盟国と組んで万全な軍事法制を整えたところで、平和・安全を確保することは不可能であろう。
 軍事対応は軍事対軍事の悪循環を生み、憎しみの連鎖を生む。
 (Ⅱ)非軍事的平和安全保障の論理―平和憲法の論理
  日本の立ち位置―資源・食料などあらゆるものを海外からソフトウェア(知識・技術)と引き換えに買い入れないと食べていけない。世界のすべての国と平和が安定している下で、どの国とも仲良く自由に取引できるようにしなければならない国(アメリカなどと違う)。
  憲法:「再び戦争の惨禍が起ることのないように」―国権の発動たる戦争・武力(による威嚇・行使)放棄―戦力不保持、国の交戦権を認めない
  全世界の国民―恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利(平和的生存権)を有する。
  日本国民―「諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持」―敵をつくらず(憎しみの連鎖を断ち)、諸国民と友好・協力(…東南アジア友好協力条約、北東アジアにも同様の友好協力条約を、アメリカとも友好条約―軍事同盟としての日米安保条約は解消)、北朝鮮とは拉致問題の解決、核ミサイルの放棄を求めつつ、早期国交正常化・過去の清算をはかる。
  「崇高な理想を自覚」―「国家の名誉に懸け」―「国際社会において名誉ある地位を」
     非同盟・中立と諸国民融和の立場に立って積極的に平和外交を推進
     国際社会への貢献―「専制と隷従、圧迫と偏狭を除去」(…難民受け入れ)
               貧困・教育・気候変動・感染症対策・難民対策
               紛争調停・仲介、平和復興支援―丸腰(非武装)で 
                   平和復興支援―丸腰(非武装)で。
   「他国を無視してはならない」。「他国と対等関係」
   「普遍的な政治道徳に従う」。
   世界から不戦・非軍事の平和国家という信望を得る→安心供与、国際紛争を(武器を使わずに)調停(「日本が言うなら」と応じてもらえる)、そうした実績を積み重ねることで他国からの攻撃と戦争を抑止。
  領土・領海・領空・シーレーンの警備(不法侵入の拒否・排除)は警察力(海上保安庁その他の非軍隊)充実で。 自衛隊はこれを補完、災害救援隊を兼ねた国土守備隊という非軍隊に徹し、日米軍事同盟は解消

2015年09月21日

新安保法制は認められない

理由
(1)安全保障に有害無益
 平和・安全のためというが、かえってそれを損ない、リスクを高める
  アメリカに寄り添った軍事に偏り、平和ブランド(中立・不戦イメージ)を著しく損なう
  戦争抑止力というが、かえって戦争に近づける―中国・ロシア・北朝鮮などに対する「軍事バランスの維持」と称して、日米同盟の軍事強化→不必要に緊張を高め、偶発的軍事衝突から全面戦争(*)にもなりかねず、軍拡競争に拍車をかける。
 自衛隊は、アメリカ(の要請)に引きずられて海外に(米軍と共に)出かけて行って武力行使へ(米軍防護・兵站支援―戦闘地域までも)
 武力攻撃事態・存立危機事態・重要影響事態・国際平和共同対処事態など事態に応じて自衛隊派遣・出動―その判断は政府―判断基準があいまい・不明確―恣意的な判断にも
  自衛隊員のリスクが増大(殺し殺される事態が多発)、
  あの手この手で隊員の確保(経済的徴兵制)へ―自衛隊に入隊した場合は返還不要としている防衛省の奨学金制度を拡充、奨学金返済に苦しむ学生を1~2年自衛隊に入隊させる「インターンシップ」制も(検討)。憲法18条に抵触する苦役には当たらないと「解釈変更」も時の政府がその気になれば可能。
  国民のリスクも増大(日本人が米国人とともに敵視され、標的となる)(「反日」対「反中」・反「北朝鮮」等のいがみ合いも)。

*(1937年7月、北京郊外に日本軍の駐屯地が中国軍の駐屯地の間近にあり、盧溝橋付近で夜間演習を行ったその終了時、数発の射撃音が響き、一人の日本兵が行方不明になって―実は用便中、ほどなく戻っていた―それを中国兵の仕業と断じて日本軍が中国軍を攻撃(盧溝橋事件)。それをきっかけに全面戦争へ発展していった。それが日中戦争。)

(2)憲法違反で無効
 「国際紛争を解決する手段として武力による威嚇または武力行使は放棄」に違反。
  自衛権の行使は我が国に対する武力攻撃に際してのみ(個別的自衛権)―許容範囲、
  なのに日本が直接攻撃されていなくても、米軍などが攻撃された場合でも反撃できるようにして(それは相手国から見れば先制攻撃と見なされる他国防衛にほかならない)集団的自衛権の行使まで(限定的とはいえ)容認。
  大多数の憲法学者、元内閣法制局長官にとどまらず元最高裁裁判官・長官までも違憲だとの見解。

(3)手続き的に無効
 安保法案採決は、先に、アメリカに公約(本年の夏までにと)、その後で閣議決定、国会審議―野党から異論・疑義が多々あるも、政府の説明は不十分、世論調査では大多数が法案の会期内成立に反対―にもかかわらず、両院とも与党・準与党による強行採決。(国会は、あたかも政権の下請け機関化)。
 参院・特別委員会では、公聴会は「採決のための単なるセレモニー」に終わり、その報告ぬきで(議事録に残されることなく)直後に委員会開催、総括質疑ぬきに終局宣言・採決(その間8分―与党委員が委員長席に駆け寄って、委員長を囲んでガード、野党委員がそれを退けようとして揉み合い、議事録には「議場騒然、聴取不能」としか記載されず。)

 こんなのは到底認められまい

2015年09月25日

軍事的抑止力って、はたしてどうなの

 集団的自衛権行使容認の安保法制も沖縄基地も「戦争を未然に防ぐための抑止力」というが、はたしてどうなのか。
 キッシンジャーいわく、「抑止の効果は、実際には(攻撃・戦争)“起こらない”ことによって、消極的な方法で試される。しかし、それが、なぜ起こらないかを立証することは絶対不可能である」(戦争が起きた原因は立証できるが、起きない原因は立証できない)と。
 軍事力(自衛隊や日米同盟、それらを運用する為の「安保法制」など)の「抑止効果」なるものは、実際、はたして効いているのかどうか、それは撤廃してみないと分からない(撤廃してみたら、そのとたんに敵が攻め込んだきたという事実を見なければ)。しかし、それを実験としてやるわけにはいかない(撤廃して攻め込まれたらお終いだから)。
 核抑止は、実際、はたして効いているのか、それは撤廃してみないと分からない。しかし、撤廃したとたんに、相手から核攻撃されたらお終いだ、というわけだ。
 北朝鮮は、自らの核武装をアメリカの攻撃を抑止するためだという。アメリカも自らの核戦力を相手からの攻撃を抑止するためだと、お互いに自らの核開発・保有を正当化。しかし、いずれも、その抑止効果は立証できないわけである。互いに主観的に、「抑止力」だと思い込んでいるだけにすぎない。その効果は心理的効果にほかなるまい。
 中国も北朝鮮も日本を攻撃・侵略しないのは日米同盟の抑止力が効いているからだといっても、それは立証のできない、都合のいい結果論にすぎないのだ。

 市民・個々人が銃を持てば、それが強盗・殺人などに対する抑止力になるのか。アメリカではそれが認められているが、日本では認められていない。それで日本では強盗・殺人などの犯罪がアメリカより多いかといえば、むしろ逆で、はるかに少ない。
 警察の「抑止力」が市民に安心感を―しかし、その地区で犯罪が起きていないとしても、それは警察のおかげかどうかは、証明できない、他の理由もあるかもしれない。
 少なくとも、警察官がぶら下げている拳銃(武器―とっさの時に攻撃や逃亡を阻止するため威嚇射撃をやることもあるが、基本的には護身用にすぎない)がおっかなくて、犯行を思いとどまるなどということはあり得まい。おっかないのは警察官が武器を持つからではなく、強制権限(行政権限・司法権限)をも持つからにほかならない。
 その抑止効果は心理的な安心感にほかならない。

 警察力(法的強制力)―警察官の拳銃など武器は、あくまで護身用・防御用。
 軍事力(武力)―軍隊の武器・兵器は防御用(盾)でもあり攻撃用(矛)でもある。それを持つことによって、相手の攻撃を抑止できるのは、それが単なる相手からの攻撃を防ぐ盾にとどまらず、攻撃も(先制攻撃も)かけようと思えばかけられることになっているからであり、「いざとなったらやるぞ」という攻撃意思を見せることによって抑止できるのである(その武器・兵器は単なる防御用でもなければ、見せ掛けの「張り子の虎」でもない)。軍事的抑止力は、単なる抑止力や防御力にとどまらない、いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟(意思)があることを前提にしているのだということを見落としてはならないということだ。
 それに対して相手はおとなしく引き下がれば(核・ミサイルなど撤去・放棄すれば)、効果てき面ということになるが、相手が対抗して、同じように「抑止力」と称して軍備増強すれば、かえって軍事衝突、そこから全面戦争にも発展するという危険がともなうことになるわけである。つまりは相手次第ということなのであって、自国側の一方的な思い込みだけでは抑止力は成立しないということだ。
 尚、沖縄(在日米軍基地の74%が集中)、そのうちの75%が海兵隊基地(名護市辺野古も)は抑止力か―そもそも海兵隊は海外への攻撃部隊(「殴り込み部隊」)なのであって、日本本土国民や沖縄住民を中国・北朝鮮などの攻撃から守る防御用部隊ではない。むしろ沖縄住民にとっては、そこが中国からも北朝鮮からも弾道ミサイルの射程内にあり、そこに海兵隊基地があることによって標的にされるだけで、彼らに島を守ってもらえるというのは大間違い。
 それに尖閣など、台湾とともに中国本土に近い離島へ揚陸艦やオスプレイで海兵隊の上陸作戦を敢行しても、制空権が中国軍に握られている(という現実がある)限り、それも不可能だし。

2015年10月01日

軍事抑止力論は虚構

 安倍首相は、中国は「軍事費が26年間で40倍になった」とか、「海洋進出が強引だ」とか、北朝鮮は「日本を射程に入れる数百発の弾道ミサイルを配備し、核開発を進めている」と言って、その脅威を強調している。
 そして、それらの国から我が国が攻撃され戦争をしかけられることのないようにしておかなければならないとして、安倍首相は「戦争を未然に防ぐため」「抑止力を高めるため」安保法制が必要なのだという。
 その安保法制も沖縄基地も賛成だという論の決め手は、いずれも、中国・北朝鮮の脅威とそれに対する「抑止力」としてそれらが必要だからだ、というところにある。
 ある国が攻撃をかけ戦争をしかけてくると見なさる根拠には①必要性(正当な理由、大義名分)があること、②戦争能力を持っていること、③その意図を持っていること、それら3要件がなければならないが、安倍首相やその賛成論者があげているのは、中国・北朝鮮とも、そのうちの②の戦争能力を持っていると見なされることだけである。北朝鮮は「東京を火の海に」などと言い立てたりするが、それは脅しに過ぎず、東京を射程におさめる弾道ミサイルを保有していることを誇示しているだけに過ぎない。これらの国が日本に対して、或いはアメリカに対しても、韓国に対しても(挑発的言動はあっても)自分の方から本気で戦争を仕掛ける必要性も意図もあるとは思えまい。
 それに、そこには、その抑止力は必ずや効くものだという思い込みがある。第一その軍備は「抑止力」のつもりでも、抑止効果は立証できない不確かなものだということ。なぜなら、相手が攻撃を仕掛けてこないのは、その抑止力が効いているせいだとはかぎらず、それらの国には日本に戦いを挑まなければならない必要性などあるのか定かではないし(賛成論者は中国や北朝鮮などの脅威を強調はしても、それらの国が我が国に戦争をしかけてくる蓋然性が認められる具体的な根拠があるのかといえば、その指摘はほとんど見られない*)、そもそも、それらの国に戦争しかける意図などないからにほかならない、とも考えられるからである。それにまた、こちら側の「抑止力」強化に対して、相手はそれに屈して軍事対抗から手を引くとはかぎらず、むしろこちら側と同様に自らの「抑止力」増強に意を注ぐこともあり得、その結果、双方とも互いに軍事強化・対決に傾き、偶発的な軍事衝突から戦争に発展する事態を招き、抑止どころか、かえって戦争を招く結果をもたらすとも考えられるからである。

 *朝日新聞9月27日付「長谷部・杉田『考論』」欄で長谷部早大教授いわく、「安保法制の必要性を説く人たちは具体的な必要性を論証しようとしない。中国が怖い、北朝鮮も怖い、だから軍事的オプションを増やさなければならない、としか言えない。これは安全保障論ではなく「安心保障論」。不安そのものをなくそうとしてもきりがありません」と。
 軍事抑止力というものは、「備えあれば憂いなし」とはいっても、地震・台風など自然災害なら備えあればその減殺効果は明確だが、軍備の抑止効果は不確かで、要するに「気休め」という心理的抑止効果しかないのだということだろう。

 軍事攻撃(武力行使・暴力)に対して軍事的抑止力(武力・暴力装置、軍事同盟・それらの運用を可能とする法制をも含めて)では、たとえ圧倒的な軍事力を以てしても、サイバー攻撃やテロやゲリラ・自暴自棄的な玉砕戦法など抑止しきれない―憎悪の連鎖は続く。
 憎悪による暴力・軍事攻撃には非暴力・非軍事的手段(「敵を愛す」―味方に変える―こと)で抑止するのが最善―それが9条による平和的安全保障。

2015年11月01日

佐伯教授の「異論のススメ」に異論―その1「国を守るのは誰か」(修正版)

 佐伯啓思・京大名誉教授の朝日新聞(「異論のススメ」)に掲載された二つの論文(コラム)について、その1、「国を守るのは誰か―日米安保と憲法」(7月3日掲載)
 その概略―「安保法制に関して、集団的自衛権の合憲性が論議の的になっている」。しかし、「そもそも、問題の発端は『憲法』よりも『防衛』にあった」。
 ① 「冷戦以降、確かに『国際環境』は変化しており、集団的自衛権の部分的容認を求める安倍首相の提案は、この状況への新たな対応を目指すもの」、「日本の防衛はどうあるべきか」が問題なのだ。「近代国家のもっとも重要な役割は、人々の生活の安全を保障すること、とりわけ外敵から国民の生命や財産を守ること」だと。
 ② 「国の主権者の第一の義務は、社会秩序を維持し、人々の生命や財産の安全確保にある」、「民主主義では国民が主権者であるから、国民が自らの手で、自らの生命・財産を守る義務がある」、「民主主義を標榜する近代国家においては、国民皆兵制(徴兵制)による防衛こそが『原則』―かりに現実化されないにしても、それ自体がひとつの精神のあり方」だと。
 ③ 「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止だった」、「『防衛』という面からみれば、平和憲法と日米安保体制はセットであった」(「憲法平和主義の背後には実は米軍が控えていたという欺瞞」「日本は『平和主義』によって国を守ってきた、というとすれば、それは、日米安保体制から目を背けた欺瞞」)と。
 「防衛を米軍に委ねる限り、日本は本来の意味で、あるいは厳密な意味で主権国家とはいえない」(9条の『国権の発動たる戦争と・・・を放棄する』というのは「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」ということで、「日本は主権を一部、自ら放棄するといっていることになる」)と。
 ④ 自衛隊は、「他国の攻撃に対して戦うための戦力を保持しているのに、『戦力』であれば、憲法違反ということになるので、『戦力』にはあたらないというほかないのだ」(それは「不可解かつ不透明というほかない」)と。

 それへ論評―
 ① について
「外敵から国を守らなければならない、その防衛をいかに」ということで、外敵・脅威の存在を所与のものとして(その存在が誰にでも認められる確実な既定の事実であるかのように、それを前提として)論じているが。
 大戦が終結して、米英中ソ等どの国も外敵や脅威ではなくなったはず、なのに米ソの冷戦でソ連を脅威・仮想敵国として米軍に基地提供して駐留を認め続け、今は中国を北朝鮮とともに脅威と見なして、それを前提に、中国・北朝鮮などから「日本を守らなければ」とか「防衛」「抑止」だとか論じているのである。
 実は戦後、当初は「全面講和」とか「非同盟・中立」といった選択肢もあったにもかかわらず、アメリカなど西側諸国との「単独講和」「日米同盟」の方を選んできた。それは要するに敵味方を峻別し、それを前提として歴代日本政府は安全保障戦略をとってきたが、それを所与のものとして防衛を論じているのである。
 しかし、そのような外敵も脅威も、けっして所与のものではなく、実は意図的に「つくるもの」なのであって、安倍首相が中国などを敵視して敵をつくっているのでは。アメリカはかつて「鬼畜」同然の敵だったのに、今や最も親密な味方。ならば中国もロシアも韓国も北朝鮮も、どの国であれ、味方に変えることができるはず。
 戦後国際秩序、このほうが国連憲章の「敵国条項」(日本は連合国の旧敵国として特別な扱いが為されることを定めている条項で、既に国連総会で削除決議が採択され、事実上「死文化」してはいるが、憲章からは削除されず、そのままになっている)をも含めて「所与のもの」(既定事実・国際的コンセンサス)とされているのである。
 それに対して日本の政権・政治家が思っているような「中国などの国が敵・脅威で、アメリカが味方・同盟国である」などということが「所与のもの」であるはずはないわけであり、それを前提として防衛を論ずること自体まちがっているのでは。
 ② について
 「国民が主権者であるから、国民が自らの手で、自らの生命・財産を守る義務が」あり、「国民皆兵制(徴兵制)による防衛こそが原則」、それは「現実化されないにしても、それがひとつの精神のあり方」だと。
 もっともらしい理屈だが、国の主権者だから国を守る防衛義務があるというのは短絡的。
 各人が、自分が主権者であり参政権を持つ(しかし、それは選挙に立候補して当選した人以外は投票に参加するだけのことで、自分が為政者になって国務・国政に参加するわけではない)そのことと、自分の個人財産や自分の身を自分で(銃刀を所持して)守ることと、国民の生命・財産を警察や消防や海保が守ることと、為政者の決定によって運用される防衛組織(自衛隊か軍隊)に参加・協力することとは別のこと。
 「権利には義務が伴う」という言い方が(売買契約などのように売り手と買い手の間に発生する権利・義務と混同して)なされるが、実は、人権や主権(参政権)は、何かの義務と引き替えに認められているものではない。新たに18才以上に選挙権が認められたからといって、彼らに新たな義務が課せられるわけではのだ。
 「権利には義務を伴う」というならば、それは「国民の権利には(それを守る)国家の義務が伴う」ということなのであって、国民の平和的生存権などの人権には、国家(権力)がそれを守る義務が課せられている、ということにほかなるまい。
 国民の平和的生存権など人権を守るのに、国民に防衛義務・兵役義務(命を捨てる義務)が伴う、などということはあり得まい(人権を守るために「自由か、しからずんば死か」といって自己決定して自発的に戦うレジスタンスのような戦士ならいざしらず、それが義務だなんて)。
 
 ③ について
 「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止だった」、「『防衛』という面からみれば、平和憲法と日米安保体制はセットであった」。
 「防衛を米軍に委ねる限り、日本は本来の意味で、あるいは厳密な意味で主権国家とはいえない」と。
 しかしそれは、戦後間もなく、憲法制定当時、日本には「全面講和・非同盟・中立」という選択肢もあったのであり、憲法の平和主義に徹して、ソ連など、どの国をも敵とせず、どの国とも友好関係を結んでいれば、わざわざ「防衛」を米軍に委ねる必要もなく、主権を一部放棄するようなことにはならなかったろう、ということだ。それをアメリカなど西側諸国とだけ「単独講和」、日米安保条約を結んで、反ソ陣営に身を置き、対ソ防衛を米軍に委ねて基地を提供し駐留させ続けてきたのである。そして、平和主義を欺瞞たらしめ、主権国家として半端な国たらしめてきたのである。
 ④ について
 自衛隊は、「他国の攻撃に対して戦うための戦力を保持しているのに、『戦力』であれば、憲法違反ということになるので、『戦力』にはあたらないというほかないのだ。」それは「不可解かつ不透明」というほかなく、これまた欺瞞だ。だから憲法を堂々と改正して「戦力」(「自衛軍」とか「国防軍」など軍隊)としてはっきり認めるべきだということなのだろう。(そして、個別的自衛権に限らず集団的自衛権の行使も無限定に認め、日米安保条約も、日本が守ってもらう防御同盟から日米が互いに守り合う攻守同盟へと双務性を深め、軍事同盟として完全に機能できるように進化させるべきだ、ということか。)
 しかし、自衛隊は(これまでは)普通の軍隊とは異なり、急迫不正の侵害に対して(憲法の定めとは別に)自然権としてどの国にも認められている自衛権に基づく必要最小限度の実力行使しかできず、集団的自衛権の行使は認められず、海外で他国の戦争に参戦・武力行使はできない(多国籍軍や国連平和維持軍に参加できない)専守防衛力とされてきた。それは9条と両立する(9条解釈の)許容範囲をぎりぎり守ってきたと言えば言えなくもないということで微妙ではあるが、決定的に重要な一線が認められことは確かだ。(今回の新安保法制はそのレッドラインを越えている。)
 敢て「9条セット論」即ち9条(戦力不保持・交戦権否認―戦争には、仕掛けられてやむなく防戦する以外には応じないことを明記・宣明することによって、諸国民に安心供与)にセットするものとしてこれが有用だということで論ずるなら、9条に対して超攻撃力を持つ米軍(その駐留・基地を受け入れる日米安保条約)をセットするというのは、9条に核兵器をセットするようなもので、全く矛盾・不適切で、それならむしろ自衛隊の方がそれに(9条にセットするものとして)相応しいといえないか。

2015年11月19日

佐伯教授の「異論のススメ」に異論―その2「そもそも平和とは」(修正版)

 朝日新聞掲載の佐伯教授「異論のススメ」―「そもそも『平和』とは何か―憲法9条と戦争放棄」(10月2日掲載)
その概略―
 ① 「憲法9条を守るという『平和主義者』たちは、戦争とは殺人であり、したがって、平和とは戦争のない(人が殺されない)状態だ、という。そして戦争放棄の憲法9条は、日本が他国の戦争に巻き込まれない(人殺しをしない)仕組みである、という。つまり、私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だという」、しかし、「人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。とすれば戦争も同じではないか。」また「人殺しと戦争は同じではない」し、「同一視する方がおかしいのではないか」(「戦争は生命を懸けてでも獲得しなければならない何ものかのためにもなされてきた」)。
 ②だとすれば、「戦争をそれなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか。」「支配による平和」「力による平定」、平和とは「力(覇権)を前提とし、そのもとでの秩序形成」、「覇権争いの結果としての勢力均衡(軍事バランス)」、それが「世界標準」(ただし、それが正しくそれに合わせなければならないとは言わないまでも)、戦後日本の平和主義(「仮に他国からの侵攻があったときに基本的には無抵抗主義をとらなければならない」という平和主義)は、「世界標準」から相当ズレており、「そのズレを国是とするとなると、相当な覚悟が必要」で、そういうものを国是とするわけにはいかない。
 ③ 「長い歴史のなかで、日本が危険なことをしたのは(ヨーロッパの帝国主義のさなかの)ほんの短い期間」、「われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向をもった国民」ではないはず。「日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら自らの手足を縛るもの(他国は武力を放棄していないのに)。われわれ自身への過度な不信感、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物。われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられている」、「我々日本人は歴史的にみても、法外なほど好戦的で残虐な性癖をもっているとは思われない」。
 以上のようなことだが。

 まず① (「人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。とすれば戦争も同じではないか。」また「人殺しと戦争を同一視する方がおかしいのではないか」「戦争は生命を懸けてでも獲得しなければならない何ものかのためにもなされてきた」)について。
  「戦争は人殺し。死刑も人殺し。人殺しは悪。故に戦争も死刑も悪であり、避けなければならないもの」というのは倫理(道徳)として真理だろう。そもそも人殺しは何故悪なのか。それは、人殺しを、もしやってもかまわないのだすれば、自分も殺されてもかまわないということになってしまうから、にほかなるまい。善悪の基準は、人と人が人間として相応しく共に生きるという関係に益する行為か害する行為かにあり、益する行為が善であり、害する行為が悪である。その原理は「己の欲せざるところを、人に施すなかれ」(論語)、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(新約聖書)、「人を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」(カント)などの言葉に示される。これらは普遍的な道徳原理と言えるだろう。9条が「私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だ」というならば、9条はまさに、普遍的なこの道徳原理に基づいて定められているといえよう。また13条に定められている生命の自由・人命の尊重は基本的人権の中核なすものであり、これまた普遍的道徳原理に基づく規定であるといえる。
  人殺しを罰する死刑や侵略・掠奪戦争・武装反乱・テロ攻撃をしかけた国や集団に対する制裁・懲罰・鎮圧・平定のための戦争、「戦争を早く終わらせて、もうこれ以上犠牲を出さないようにするためと称して、広島・長崎合わせて20万人以上もの市民を犠牲にした」原爆投下など、これらは政治的・法的には「正義」なのだろうが、(そのような死刑や懲罰・制裁・鎮定のための戦争は「正義」だとはいっても、「人殺し」行為であるかぎり、「イコール善」ではなく)倫理・道徳的には罪悪なのであって、避けなければならないもの。
  「生命を懸けてでも(命を犠牲にしてでも)獲得しなければならない何ものかのためになされる戦争」というばあい、その「何ものか」とは民族的自尊とか宗教的信念とか国家・社会の秩序の維持・回復とか国益などであり、それらはその戦争(人殺し、生命の犠牲)を正当化するための手段として大義名分とされ、そのために尽くすことが「正義」とされる。そして互いに「正義」を掲げてぶつかり合う、その結果「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということで、勝った方は「正しかった」となり、負けた方は「間違っていた」となる。そのような正義は政治的なもので、兵士や動員される人々の生命が手段として扱われる。そのようなものは善とは言わない。
  「戦争は人殺し。人殺しは悪」なのであって、政治的には「正義」(それは「たくさんの人を救うためなら、より少ない人を犠牲にしてもよい」とする比較衡量の上に立った功利主義的「配分的正義」)だからといって、それで悪を犯した罪が帳消しなるわけではないのである。悪は犯してはならず、避けなければならないもの。
  確かに、歴史上、人殺しはなくならないし、戦争もなくならないのは事実だが、それは、そもそも人殺しを死刑や懲罰・制裁戦争という人殺しによってなくすことはできないし、また、テロを戦争によってなくすことはできない。それらはただ暴力・憎悪の連鎖が続くだけになってしまうからである。

  そもそも平和とは誰もが日々安心して暮らせる状態のことなのであって、単に「戦争(人殺し)のない状態」であればそれで十分というわけではないのである。
  安心とは肉体的・精神的苦痛・落命(死)の恐怖・欠乏(貧窮))などの不安のない状態だろう。これらの不安をもたらす原因は傷病・事故・災害・不公正分配・差別・戦争などであり、戦争はその一つにすぎない。傷病や事故・自然災害は天為的(自然発生的・偶発的)なもので人間が意図して起こしたり起こさなくしたりできるものではないが、戦争は人為的・意図的なものであり、人間の意思によって起こされるもので、無くそうと思えば無くせるもの。現実に戦争が無くならないのは、無くそうとしない人間がいるからにほかなるまい。しかし、戦争は無くさなければならないし、人間皆がその気になれば無くすことはできるはずのものなのである。「皆がそう思えば簡単なこと」(イマジン)。
  ただ、戦争やテロの原因には不公正分配・持てる者と持たざる者の分化・貧富格差・差別などがあり、それらの不条理(不合理・理不尽)に耐えがたい不満を抱き反抗・暴挙を犯す者、それに対して、それを力で抑えつけようとする者、その間に戦争やテロが起きてしまう。しかし、これらも天為ではなく人為によってもたらされるものであり、人々の意思よって生ずるものであり、「人間の手によってはどうしようもない」といったものではなく、それとても人々がその気になりさえすれば、けっして無くせないものではないはず。
  平和とは日々安心して暮らせること。平和主義とはその「安心供与」に徹することにほかなるまい。その安心な暮らしには貧窮(不公正分配)・差別とそれらに対する不満・憤懣の除去が必要であり、「安心供与」にはそれが含まれる。平和とは単に戦争のない状態ではなく、それら不公正分配・持てる者と持たざる者の分化・貧富格差・差別とそれらに対する不満・憤懣のない状態なのであって、力によって単に戦争やテロを抑止・平定できさえすればよいというものではないのである。単に戦争やテロを抑止するだけではなく、それら暴挙を起こさずにはいられなくする程の耐えがたい貧困格差・差別を除去することまでも含めて安心供与に懸命に努める政策こそが真の積極的平和主義。
  安倍首相の「積極的平和主義」は「軍事的抑止力(武威)による平和」に過ぎず、それこそ欺瞞。

 ② について。
  まず、「戦争を人殺しと同一視するのがおかしい」、つまり戦争は一概に悪とは言えない。だから戦争は「それなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか」というわけ。 そして、その仕組みとして、「『覇権』を前提とし、そのもとでの秩序形成」「支配による平和」「パックス・ロマーナ」「パックス・アメリカーナ」「パックス・コンソルティス(国際協調による平和)」などを持ち出し、そのような仕組みを構築することによって戦争は回避できるというわけか。
  しかし、戦争やテロは、それが起きる(人にそれを起こそうとさせる)原因を無くさないかぎり、国連やNATOや日米安保など、このような仕組みをたとえどんなに作り整えても、戦争はなくなりはしまい。そのような仕組み作りよりも、そもそも戦争というものは、「一般に違法ではあるが、集団的自衛権など場合によっては許される」などというものではないのであって、それは人殺しなのであり、悪なのだから、やってはならないものなのだ、ということを全ての人の心に固定観念として植えつけなければならないものなのだ(教育によって)。
  そして、戦争の原因やテロの「温床」となる原因を根絶することに、専念すべきなのだ。
   
  「力の支配による平和」、「力(覇権)を前提とし、そのもとでの秩序形成」、それが(正しいというわけではないが、と言いながら)「世界標準」(グローバル・スタンダード?)だといい、戦後日本の平和主義はそこから相当ズレており、「そのズレを国是とするとなると、相当な覚悟が必要」で、「そういうもの(平和主義)を国是とするわけにはいかない」という。
  しかし、力=軍事力では支配しきれないし、反抗を抑止しきれない。勢力均衡政策は米ソ(「パックス・ルッソ・アメリカーナ」)の冷戦のように絶えざる核軍拡と緊張を招くだけ。ソ連はそれに財政的に耐えきれずに崩壊し、アメリカの一極支配となったが、そのアメリカもそれに耐えきれず、アジア・太平洋圏では中国の台頭を前にして日本の手を借りようとしており、安倍政権はそれに乗って、あたかも「パックス・アメリ・ジャポニカ」を目指しているかのようだ。ヨーロッパではNATO側に付こうとしたウクライナに対してはロシアが勢力挽回を図り、中東でも、イラクとともにイスラム過激派勢力と現政権との抗争で混乱を極めるシリアでロシアは現政権加勢に乗り出し、それに対してアメリカは対応に窮し、アフガニスタンでも依然、収拾がつかない事態に立ち至っている。このようなありさまをみれば、軍事力に依存する平和・秩序など到底「世界標準」・グローバル・スタンダードだなどといえるものではなく、むしろこの9条こそを「世界標準」とすべきだろう。
  9条は単なるブランドで満足するのではなく(それだけではノーベル平和賞はもらえまい)、グローバル・スタンダードとすべく非軍事での積極的平和主義の実績を積まなければなるまい。
  但し、9条は「戦争放棄」と「戦力不保持・交戦権否認」を定めはしても、「他国からの侵攻があったときには無抵抗主義をとらなければならない」などと規定しているわけではない。自衛権は憲法に定めはなくても自然権としてどの国にも認められているものであり、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」としても、警察力・海上保安庁はあるし、自衛隊も(現在のような世界有数といってもいい程の装備や米軍と一体化するようなものであってはならないが)「必要最小限の実力組織」として海上保安庁を補完あるいは拡充した非軍隊の国境・国土警備隊として保持することもあり得るし、市民には抵抗権があり、レジスタンスもできるわけである。
 ③ について
  「長い歴史のなかで、日本が危険なことをしたのはほんの短い期間」で、このような戦争は欧米の帝国主義国もやってきたことで、日本だけが悪いわけではないのに、日本人は悪いことをしたと必要以上に思い込んでいる。(「われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向をもった」「好戦的で残虐な」国民だなどとは思われない。)「日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら自らの手足を縛るもの。われわれ自身への過度な不信感、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物。われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられている」と。
  このような言い方は反「自虐史観」論者と同様の、いわば「日本人自尊史観」に立った論法と言えるだろう。
フランス人社会人類学者(エマヌエル・トッド氏)が 「日本の侵略を受けた国々だけでなく、日本人自身が自分たちの国を危険な国であると、必要以上に強く認識している」と述べているのだそうだが、中国人や韓国・北朝鮮両国民、それに東南アジア諸国民もそう思っているというなら、いざしらず、日本人である佐伯氏がそういうのは、アジア諸国民から見れば自己弁護・身びいきとも受けとられるだろうし、戦争で実際辛酸を味わった当時の日本人大多数の実感からすれば厭戦感情はあって当然だろう(それは現実から発した実感そのものであり、それを「あまりに現実離れした」空想の産物でもあるかのようにいうのはまったくおかしいのでは)。
  むしろ戦後70年経って、今では戦地に行ってきた人も、戦災を受けた人も、戦没者の遺族も、当時の生存者はすっかり数少なくなって、厭戦感情(実感)が薄れ風化しているのが問題なのであって、われわれ日本国民はたえず原点に立ち返って、自国民310万人、アジア諸国民2.000万人という未曾有の犠牲者を出した我が国の戦争指導者の所業と民族的責任をシビアに見つめ直すことの方が大事だろう。けっして自分に甘くなってはなるまい。
  他国との戦争や植民地支配の歴史を振り返るうえで日本人の心が問われるのは、自虐とか自尊(誇り)とかの問題ではなく、その相手国民に対して犯した過ちと加害に対する反省と責任をどう感じるか、その心(誠意)の方だろう。その誠意なくして相手国民は心開かず、自らの自尊・誇りなどばかり気にするようでは、かえって傲慢だとの反発を抱かれるだろう。
  日本の対外侵略は日清・日露戦争からであり太平洋戦争の敗戦まで50年間。相手国民からみれば、「日本が危険なことをしたのはほんの短い期間」といって済まされるようなものではあるまい。安倍首相が(「70年談話」に)言うように「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジア・アフリカの人々を勇気づけた」といった物言いは韓国・朝鮮国民からは理解されるだろうか。(インドの独立・建国の父ネルーは次のように述べている。「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一つを付け加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった」と。)

  佐伯教授の「異論のススメ」に通じて言えるのは、そこには、①「正義の戦争」であっても「人殺しは悪、悪は犯してはならぬ」という倫理・道徳・道義的責任の軽視があり、②憲法平和主義(非軍事の安心供与による平和安全保障)の軽視、③日本の戦争に対する歴史的民族的責任の軽視、という三つの軽視があって、「正義の戦争」や軍事的抑止力と称する戦争と軍備の肯定・正当化があると思われるのだが。

  親米的な日本人は、戦後日本の平和を支えてきたのは平和憲法と日米安保だと思い込んでいる向きが多いのは確かだろう。だから、集団的自衛権の行使容認と安保法には、安倍政権の憲法解釈や閣議決定・国会審議など手続き上のやり方には異論があっても、中国・朝鮮・ロシアは嫌いで敵対感情さえもあるのにひきかえ、アメリカには従順(日本の戦争も、あれは中国やソ連から負けたのではなく、アメリカの物量に負けたのだという感覚)で、在日米軍を「抑止力」として容認し、沖縄県民以外(本土国民)は沖縄基地も容認している向きが多い。しかし、そのような認識は正しいとは思われない。何故なら、どの国とも友好・非軍事協力するという道はめざさずに、敵対し合う片一方(アメリカ)に付き従って敵を抑止するという(「対米一辺倒」「力(軍事)には力(軍事)を」という軍事に)偏った軍事協力のやり方が正しいとは思われないからである。

<参考>石田淳・国際政治学者―10月16日朝日新聞(インタビュー記事)「安全保障と民主主義」

2015年11月30日

日々、生命の燃焼(加筆版)

 まずは、今は亡き東大教授で宗教学者の岸本英夫という方が、あと半年の命と宣告されながら、10年近くもガンと闘い続けて考えるに至った死に対する考え方を紹介したい。
 (彼は死後も生命は存続するなどとは信じなかったし、天国や浄土などの理想世界を信じることはできなかった。)
 「死というものは実体ではなくて、実体である生命が無くなるということに過ぎない。生と死は、ちょうど光と闇のようなものだが、暗闇というのはそれ自体が存在するのではなくて、光が無いというだけのこと。
 人間に実際与えられているのは現実の生命だけだ。人間にとって確実なことは、『今、生きている』ということだけ。その寿命の中の一日一日は、どの一日もすべての人にとって同じように実態としての生命であり、どの一日も同じように尊い。
 いくら死が近づいても、その死に近い一日も、健康な時の一日と同じように尊い。したがってその命が無くなる日まで、人間は生命を大切にしてよく生きなければならない。
 『与えられた人生をどうよく生きるか』ということが問題なのであって、辛くても苦しくても、与えられた生命をよく生きていくより他、人間として生きるべき生き方はない」と。

 そこで思うに、「生きる」とは「生命を燃焼させる」ということであり、人生は、日々、生命の燃焼。そして「よく生きる」とは、その「生命の灯を光り輝くように燃焼させて生きる」ということなのではないだろうか。
 (1)目標をもって生きる
 すべての生き物は、生命を燃焼させて生きている。動物は欲求をもち、それが獲物や交尾の相手を求め、子を生み育て、天敵から身を守るなどの行動にかりたてる。すなわち欲求が行動にかりたてる原動力や活力となり、「生命力を発揮」させ「生き生き」とさせ、いわば生命の燃焼に光り輝きを加えるのである。(獲物を狙い追いかけ襲いかかる時の動物は、目は爛々と輝き、躍動感に満ちている。)
 動物はすべて、それに人間でも赤ん坊なら、目的・目標など持たなくても、ただ生きるしかなく、ただひたすら生きようとする。それは生への本能的欲求があるからであり、神様(造物主)から生命を与えられた生き物には、「生を欲する」欲求は与えられていても、「死を欲する」欲求は与えられてはいないからである。
 人間の場合は、赤子のうちは動物と同じで本能的・生理的欲求だけにとどまるが、成長するにつれ、その欲求に自己実現欲求(自分の志・夢・希望・目標を果たそうとする欲求、その欲求を満たすことが自己満足)や文化的欲求など様々な欲求が付け加わる。
 それに人間は本能的な欲求選択調整力(色んな欲求の中から、その時その時で最優先の欲求を選びとり、他は先送りするなどの欲求コントロール能力)をもつだけでなく、「こうすればこうなる」と考える論理的思考能力をもち、いわば目標設定計画力(何か目的・目標をもち、それを目指して作戦・計画たてる能力)をもつ。そして目的・目標を果たそうとして一生懸命になり、必死になったりもする。(うまく果たせれば達成感を味わい、結果は失敗に終わっても、それに取り組んでいる過程で心の充実感を味わう)そこに生きがい」を感じる。

 (2)目標は何だっていい
 人々が欲し追い求める欲求と目標にはだいたい次のようなものがある。
 「直面する問題解決」、「仕事」、「カネのやりくり」「カネ儲け」、「蓄財」、「昇進」、「地位や名声の獲得」、「家族との団らん」、「愛し愛されること」、「子育て」、「子や孫の成長を見守ること」、「人助け」、「社会貢献」(ボランティア活動)、「社会活動」(町内会・自治会の活動)、「闘い」、「評論」、「パソコン・インターネット」、「特技や技術を生かした創作活動」、「読書」、「鑑賞」、「学習や教養を高めるための活動」、「スポーツ」「ウォーキング等」、「試験合格」、「趣味」、「ゲーム」、「ギャンブル」、「旅行」、「冒険」、「祭り」、「娯楽」、「ペットの世話」それに「生きることそれ自体」。                  
 これらの欲求と目標が人を行動にかりたて、生命力を発揮させ、生命の灯を光り輝くようにさせる。逆に云えば、欲求と目標を無くしてしまったら「生きがい」も無くなってしまい、生命の灯も光り輝きを失う。
 欲求選択・目標設定も「世のため、人のため」になるようにものならば、それにこしたことはない。人々から感謝され、共感が得られれば嬉しいし、より満足感が得られるからである。しかし、そのようなものではなくても、(この私が今こうしてやっているような)人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないものではあっても、人畜無害で、犯罪など法や人の道に反しないかぎり、目標は何だっていいのだ。

 それぞれ、その人の置かれた立場・境遇によって様々なケース。
 ①[心身とも健康で体力・知力に経済的余裕もあるという人の場合]―その場合はどんな目標選択も可能なわけだ。
 <事例>海洋冒険家の堀江謙一氏(1938年生まれで現在77歳)は、以前、ヨットに「一人ぼっち」乗って太平洋を横断、その後「単独無寄港世界一周」を2回も果たしたが、69歳になって、今度は「波力推進船」でハワイから日本まで踏破して見せるという目標と計画をたてて実行し、それを果たした。7,800キロを、化石エネルギーには頼らず完全に自然エネルギーで、というわけだが、波まかせ、徒歩より遅いスピードで110日間かかって、帰ってきて曰く、「精神と肉体を完全に燃焼できました」。そして三桁(100歳代)まで頑張ると言って冒険への挑戦を宣言した、とのこと。
 常人では思いもよらない壮挙には違いないが、人によっては、それは偉業というよりは、人々の実生活には何の役にも立たない当人の自己満足に過ぎない壮大な愚挙とも思えるだろうが、私などはこのスピード時代に何ともスローな大冒険もあるものだなという感動を覚えた。いずれにせよ、彼の生命は100年間燃焼を続け、燦然たる輝きを見せるのだろう。

 ②[重病人の場合]
 <事例>(08年1月9日、NHK「生活ホット・モーニング」から)末期ガンで寝たきりの患者にリハビリを勧めたところ、患者は「どうせ死ぬんだから」と言って難色を示したが、どうにか説得すると、「それなら、友人が集まる恒例のパーテーに行きたい。その会場は2階だから階段を登れるように」といってリハビリを受けた。その結果、パーテー出席の目標を果たしただけでなく、それまで動かずにいたために損なわれていた機能も回復し、活動範囲が広がって新たな生きがいを呼び起こすことになった
という。
 <事例>精神科医でメンタル・ヘルス国際情報センター所長の小林司氏がその著書(「『生きがい』とは何か」)に、長期闘病のあげくガンで亡くなった岸本英夫氏の(冒頭に紹介した)考え方のように最後を生きた人(姫路市で理髪業をしていた田中祐三氏)のことを紹介している。
 彼(田中)は胃ガン手術後、再発の恐怖にさいなまれたが、ある講習会で「悪い方にばかり考えず、物事を別の方角から見て良い方に解釈する」「見方一つで希望をつかめる」と学んだ。暫くたって、ガンは腸に転移して激しい痛みに苦しんだ。しかし彼は「ガンの末期であっても楽しく生きられ、見方を変えればガンだって怖くない。日々の命に感謝しよう」ということを、ガンで苦しむ人たちやその家族に訴えたいと決意して、北海道から岡山まで十数ヵ所で講演して歩いた。東京大学では、学生や医師らを前に「私には今しかない。今、今、今です。あとすこしの命だが、今を楽しく生きれば、明日につながる」と訴えて、強い感動を与えた。「ぼくはガンと闘っているつもりはない。死ぬ方向ではなく生きる方向を見つめているだけです」と生きることの素晴らしさを半年間語り続け、多くの人に生きる勇気を与えて、彼は大阪のホスピスで最期を終えたという。

 生命の火種を絶やさず、燃焼させ続けているかぎり、その灯を光り輝かせることができるのだ、ということだろう。
 <事例>(15・12・8朝日新聞「折々のことば」)ウォーレン・シヴォン―ロスアンゼルスで暮すフォークロック歌手―肺がんで余命3ヵ月と宣告され、残された時間を、友人と家族に遺す最後というよりも生涯最高のアルバムの制作に取りかかった。そして「今度のことで生死について見方が変わったかい?」という友人の質問に答えていわく、”Enjoy every sandwich”(「どのサンドイッチを食べるときも一つ一つ味が楽しめるようになったよ」)と。

 ③[寝たきりの人の場合]
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)などで、手足は動かず、口も動かず話もできない。(重症になると人工呼吸器で呼吸、胃ろうで(胃に管を通して)栄養補給。)それでも、耳は聴こえ、目とまぶたが動くので、(介護者が50音や数字を並べた文字盤でカナ文字や数字を指差しながら音声を発し、彼が伝えたい言葉に該当するその字に視線を送って、介護者がそれを読み取る、といったような方法もあるし)何らかの方法を講じればコミュニケーションはとれる。目の前に立って話しかければ、その人の顔も見え、映像も見え、音声も聞き取れる。そしてあれこれ思い出し、思い描き、自分が生きていることも自覚でき、生きている喜び感じることだってできるわけだ。
 <事例>脊髄性筋萎縮症の女性―人口呼吸器をつけ、支援者の力を借りながら一人暮らしをし、同じ立場の人たちの支援に車いすで動き回る。「人工呼吸器が起こすシュー シューという風が「生きろ」と言ってくれるかのように勇気づけてくれる。」「たくさんの支援が必要だからこそ多くの人に出会える。自由に動くことができないからこそ、生きていることに感動する」(ドキュメンタリー映画『風は生きよという』11月19日朝日新聞に紹介記事)。

 ④[脳に障害を負った人の場合]
 認知症などで記憶力、判断力、見当識(場所や時間の認識力)、計算能力など認知機能の低下があっても、自分が自分であることが認識できる自我意識は残り、何かに興味を持ち、喜び悲しみなど人間的感情が残っていて、生きて何かを為すことに(たとえどんなに他愛のないことでも)自己満足が得られ、生きがいが感じられれば命の輝きが得られるわけである。(家族・介護者・支援者など接する人や周りの人の扱い方によっては、不安・恐怖・ストレスから徘徊・暴力など異常行動や不眠・幻覚・妄想などを起こす場合があるが、温かく人間らしく扱ってもらえるかぎり、その人らしく穏やかに生きられるはずだという―NHKスペシャル2015年11月14・15日「認知症革命」)
 <事例>(11月17日、NHK『認知症の私からあなたへ』より)佐藤雅彦氏61歳(元中学校の数学教師、コンピュータ会社のシステムエンジニア、45歳から兆候、51歳になって、何回も来た道なの判らなくなり、直前の事が記憶できないようになり、医院で診てもらったらアルツハイマーと診断。今日の日も年は判っても月日・曜日が判らない、漢字を書けない、何度も買い物に来たスーパーなのに品物が置いてある棚が憶えられなくなり、すごい耳鳴りなども。
 落ち込んで、辛くなり、死にたくなることも
 対策―日記(過去10年間)、パソコンに記録(備忘録)機器が壊れて以後はケイタイ(ナビ機能・カメラ機能)利用。財布の中をチェックも。
 周一回ボランティア(途上国の子供支援の郵便物発送作業など)
 実名で認知症であることを公表しつつ全国講演(年100回以上)、
 認知症のワーキンググループ(当事者活動)に参加
 認知症に関するシンポジウム、国際会議にも認知症当事者として代表参加。
 認知症になっても暮らし易い町づくり提案など等、認知症だからこそできること。
 絵―個展を開くことが夢。
 自分の能力を信じて何でもチャレンジ、認知症でも出来ることがあるのだと人に解ってもらう、それが自分に課せられた使命だと思って頑張れる。
 「不便はあっても不幸ではない」と。
 痛み、傷つき、悩むのも生きているからこそ―「自分は今、生きているぞ」と。

 ⑤[超高齢者の場合
 <事例>瀬戸内寂静93歳(NHKスペシャル『いのち瀬戸内寂静 密着500日』より)以前は「生き飽きた、生きているのが嫌になる、早く死にたい」「死は選ぶことは許される」などと考えていた。
 しかし、昨年(92歳)大病(腰の圧迫骨折と胆のう癌手術)で数ヵ月間闘病。その間「死ぬかもしれない」とか「死にたい」とは一度も思わなかったという。その後も、「もう一度、小説を書くこと」を目標にしてリハビリに励んだ。「未来の自分に期待して」「与えられた命は生ききるのだ」。60年も一つ(小説)の仕事に打ち込んできた、といっても「未だ満足していないから」と。当初は「闘病記」をエッセイとして書くつもりで始めたが、小説に切り換えた。題名は「いのち」・・・・とのこと。

 人は、何でもいいから出来ることを為し、或いは手足も口も動かず何かを為すということはできなくても(医療介護サポートがあれば)生きているだけならできるという場合には、ただひたすら、それ(生きること)だけを自分に課せられた目標として専念し、日々それを果たして過ごせばいいわけだ。
 毎日毎時間の目標・日課は唯ひたすら生き抜くこと、そして眠りにつき目をさます度に「生きている!よ~し、明日も生きるぞ!」と生きていることを確かめて喜び(達成感)を感じ、希望をつなげる。そうやって生きているそのこと自体を喜び楽しむのだ。
 人間というものは、あれこれ何を為したか、何が出来たかで偉いとか偉くないとか価値が計られるのではなく、生命を燃焼させて生きることそれ自体に価値がある、というものなのではないだろうか。

 生命より大事もの、命を犠牲にしてでも果たさなければならない大事なものがある、ということで、何か「大義」なるもの―「お国の為」とか「神のため」とか「多くの人々を救うため」とか―を持ち出して、それに殉じる、というふうなことがあるし、或いは欲望執着だけでなく命への「執着を捨てよ」などと言われたりもするが、各人にとっては、まさに命は「地球よりも重い」最高価値なのであって、それが尽き果てれば、全ては無となってしまうのであり、己の命ほど大切なものはないのである。

 それにつけても、生きとし生けるもの、死は避けられず、いずれ生命は尽き果てる日が来る。しかし、その時まで、生き抜いて生ききる。そして生命・人生を全うして最後に得られる自己満足、それこそが「満足のある死」というものだろう。その意味では、死は苦でもなく恐怖でもない、ということだ。

私の生き方(随想)

  「いったい何のために生まれたんだ」とか「何のために生きてんだ」などと言われたり、「生きる意味」を自問することもたまにはあるものだ。しかし「何のために」なんて言われても、昔なら「家のため」だとか、「お国のため」、などといったようなこともあったかもしれないが、本人はただオギャーといって生まれてきただけの話で、生まれたからには生きるしかなく、ただひたすら生きているだけ、というものなんじゃないだろうか。とにかく生きる。要はそうして授かった命、その生(人生)をどのように生かし発揮して生きがいを感じて生きるかだ。そうして生きる喜びを満喫できれば「ああ、幸せ幸せ」ということになるわけだ。
 しからば、どうすれば生きがいを感じ、生きる喜びを満喫できるかである。その方法は、日々、夢・目標・日課をもち、それを果たしつつ(果たせれば達成感・満足感が得られ、果たし損ねれば、がっかりして、しばらくは落ち込んで挫折感・絶望感に囚われたりすることもあるが、やがて立ち直っては「よ~し、今度はこれでいこう」というふうに切り換えて、再チャレンジを繰り返しながら)生きることだろう。
 夢・目標・日課は人それぞれ、思い思いに、どんなことでもいいわけであるが、究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」だろう。そしてそれを果たせた喜びが究極の幸福となる(極楽往生を遂げる)、というものではあるまいか。
 
 かつてドイツのヒトラーが支配した当時オーストリアの精神科医だったフランクルという人が、ユダヤ人強制収容所で極限状況に置かれた人たちの有り様を目の当たりにし、解放後に著した(「夜と霧」)、その文中に次のような意味のことが書かれているという。「人生に何か(いいこと、楽しいことがないかな、と)期待して生きるのではなく、人生(をこれまで生きてきて、これからも生きようとする自分)から(自分自身に)こうあってほしいと期待されて生きることだ」と。
 それは、誰かが何かしてくれて与えてくれるものをただ受け取るだけで、それに満足がいかないと、つまらないとか空しいとかいって、ただ受け身で消極的に生きるのではなく、自分にせっかく与えられている生(一つしかない命、一回しかない人生)を最大限だいじにして、与えられたその条件下で(たとえどんなに恵まれない条件下でも)何でもいいから(世のため人のためになろうと、なるまいと、或いは人様から見ればどんなにか他愛もないことであっても)自分にできることをやって、精一杯(ほんの少しでも)生きる喜びを満喫して生きるがよい、ということなのではないだろうか。
 それは、たとえ極限状況に置かれても、「もはや人生に何も期待できず夢も希望もない、生きていても無意味だ」といって絶望して諦めるのではなく、極限状況に置かれているその人生が自分に「逆境を運命として受け入れつつ逞しく生き抜いてほしい」と期待をよせている、その期待に応えて生きるがよい、ということなんだろう。

 当方の場合、我が人生が自らに期待し、課し、促しているのはどんなことかといえば、それは、今日も朝起きてからやっていること(ラジオ体操・掃除・新聞・テレビ・ブログで「つぶやき」と「声なき声」の発信・歌いながらの散歩・ワイン晩酌たまに市民の集いや飲み会や小旅行など、人様から見れば他愛のないことでも、日々やっている)、そのことにほかなるまい。
 人が何かに取り組み、それがうまくいって「ああ、よかった」といって達成感を得、ひいては生きがい感・幸福感を感じるのは、実は自己満足にほかなるまい。
 人は誰しも、それぞれ置かれた境遇の下で、人生が自分に期待し課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得る。その目標・課題が困難をともなうものほど、また、それが世のため人のためになり、人々から感謝され或いは共感を得られるものほど満足度は高いわけだ。                    
 しかし、置かれた境遇や条件(生活環境、年齢、健康、頭・体力、カネや職や役目の有無など)によっては、世のため人のために役立ちたいとは思ってもそれができず、(当方のように)自分のことしかできないとか、自分のことで精一杯という人は、満足度の低いささやかな自己満足に甘んじるしかないわけであるが、それでも自己満足できるだけでも幸せというものであり、生きている価値があるというものだろう。(当方はそれで満足している。)
 そりゃ、ノーベル賞受賞者が世界中の誰もが認める功績によって得ている満足感と、或いは「国家・国民の為に日本で一番頑張っている」と自分で思いこんでいる総理大臣の自己満足と、当方のような無力な人間の自己満足とでは満足度には(天地の差ほどの)違いはあっても、自己満足であることにはかわりあるまい、と思うのだが。
 どうせ生きるんだったら「生きがい」のあるように生きるということであり、生きがいとは、生きていてよかったと自分で満足できること、要するに自己満足のことだろう。
 人生は「自分が自分に目標・課題を課し、それを一つ一つ果たして満足を得る」という「自己満足の積み重ね」なんではないのか。
 このところずうっと、そういう思いで日々過ごしている。

 それで今日もいつもの日課を・・・・・・・・・・・・・・・
 尚、新聞・テレビはニュース報道を見て、これはどうも?と思うと論評をブログに書き込み、時には新聞に投稿(これまで、この10年余りの間、新聞に載ったのは11回だけで、何十回も載っている教え子のS君にはかなわない)、市民の集まりに行ったりもしている。
 糖尿ぎみで晩酌はワインを一杯だけ。
 散歩は田んぼ道を唄いながら1時間半ほど(歌は「千の風」「花は咲く」「昴」「「河の流れ」「木枯紋次郎」の歌、「君といつまでも」「銀色の道」「大都会」「また逢う日まで」「愛しき日々」「イマジン」、それに徘徊老人への「声掛けソング」―山形県警のお回りさんが作った歌で、「どさどさ どさえぐなや どさどさ どさどさ どさえぐなやっすー」といった歌詞の歌なども)。
 それから「聴き流し」英語を一日15分ぐらい、10年以上やっているが、さっぱり憶えられないのに(少しは憶えたような気になって、いや、そのうち少しは憶えるだろうと思って)未だやっている。(日本語の言葉さえも、すらすら出て来なくなったというのに。)
 これらは自分のボケ防止には役立っても、人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないが、ただ人様に迷惑をかけずに退屈しないで生きていかれれば、それでいいんじゃないかな、という思い。
 孫が、親から怒られてふてくされ、「生まれてこなきゃよかった」などとつぶやいたことがあったが、もう一つ、こんな歌もうたっている。「命は一つ、人生は一回だから、命を捨てないようにね・・・・・死んで神様と言われるよりも、生きてバカだと言われましょうよね、きれいごと並べられたときにも、この命を捨てないようにね・・・・・」。 

2015年12月15日

テロについて

1(1)昔―敵対する主要人物を特定して殺害(暗殺)―政治目的
 シーザー暗殺、リンカーン暗殺、本能寺の変、幕末・維新の要人暗殺、伊藤博文の暗殺、サラエボ事件、ガンジー暗殺、浅沼稲次郎の暗殺、ケネディ暗殺など
(2)無関係な一般人を殺害―無差別テロ―国家・社会(体制)に対する反抗で、目的はそこに住んで生業に従事している構成員(国民・市民)に恐怖・不安をかき立てること。
 ①我が国での「地下鉄サリン事件」―カルト教団の宗教目的―警察が対応―収束
 ②イスラム過激派アルカイダによる「9.11同時多発テロ」事件→米軍が主導する有志連合軍によるアフガン戦争~イラク戦争へ
 ③パリの風刺週刊紙(シャルリー・エブド)襲撃事件―その時は、標的特定
 ④イスラム過激派ISによる「パリ同時多発テロ」事件→イラク・シリアにおけるISに対する有志連合軍による空爆の激化。
同月にレバノンのベイルート、マリのバマコ、チュニジアのチュニスでもテロ・襲撃事件
 ⑤米カリフォルニア州サンバーナディーノで銃乱射事件―容疑者はISの支持者と見られ、テロ事件とされている。
 ⑥ロンドンの地下鉄駅でナイフ刺傷事件―犯人は犯行時「シリアのために!」と叫んでいたということで、警察は「テロ事件」として捜査。
(数年前、秋葉原であった殺傷事件は単なる「通り魔事件」として扱われたが、今後、仮にもし、犯人が政治的・宗教的な大義めいた言葉を発して殺傷事件を起こせば、それも「テロ事件」とも見なされるようになろう。)
 国家・社会の現体制下で疎外され、或いは虐げられていると感じている者たちが、その国家・社会の支配層やそこに安住している(と見なす)市民に対して憎悪に駆られ、或いは煽られて攻撃。
  ①(日本における「オウム事件」)以外は未だ収束せず、さらに激化―憎悪の連鎖・報復の悪循環が続いている。

Ⅱ原因
(1)直接の原因
  アルカイダを生み出したのは―1978年以降のソ連のアフガニスタン侵攻に対抗してアメリカ中央情報局(CIA)がイスラム義勇兵(ムジャーヒディーン)を訓練・育成して生まれた。それが1990年湾岸戦争(イラク対多国籍軍)を機に、イラクの脅威を口実にサウジアラビア国王が米軍の駐留を認めたため聖地が冒瀆されたとして反米に転じ、その後、2001年彼らによる9.11同時多発テロ事件が引き起こされた。
  そこには中東の産油国の君主たちと欧米の石油企業に対する反発があり、標的となったニューヨークの世界貿易センター・ビル(ツインタワー)はスタンダード・オイルの創始者ロックフェラーの3代目が創建に関わり、世界の銀行・証券など金融会社が入居する資本主義のシンボルとも見なされたものと思われる。 

 ISを生んだのは―①イラク戦争・フセイン政権の崩壊によるイラクの体制崩壊(警察権力の解体・無法地帯か―マリキ政権(シーア派)の宗派主義に基づく弾圧・統治に対する反発―スンニ派の旧フセイン政権の軍人・官僚・部族がアルカイダ(反米・反シーア派)に引き寄せられる(「イラクのアルカイダ」)。(「ISはブッシュの『申し子』」とも)
  ②チュニジア・エジプトなどでの「アラブの春」(反独裁政権運動)波及→シリアでアサド政権に対する武装反乱―内戦―イラク・シリア両国の空白を突いて「イラクとシリアのイスラム国」樹立へ―カリフ制国家(カリフ=ムハンマドの後継者制度を復活、バグダーデイが自称カリフ)→かつてのイスラム帝国(インドネシアからスペインに至るまで)の復活をめざす。
  初期イスラムの時代を模範とし、それに回帰すべきであるとしてコーランとイスラム法を厳格に施行(サラフィー主義)。(佐原徹哉明治大学教授はイスラム過激派のテロ組織は「イスラム教と関係のないカルトで、オウム真理教を仏教というのと同じレベルだ」と指摘。)武力行使やテロを聖戦(ジハード)として肯定―手段を選ばない―残虐性―恐怖政治。 
  西洋文明(欧米の価値観)に対する異議、「反近代・反帝国主義・反資本主義」―イスラムが西洋文明を脅かすような脅威と見なされることを、むしろ歓迎―挑発・憎悪を扇動(テロ―恐怖を煽る)   
  「イスラムの下に平等」―国籍・民族・人種・貧富などの差別を否認。
  現在の国境(第一次大戦中に英仏ロが決めたもの)も否認。
  油田を支配下に―原油・密輸―資金源
  戦闘員は中東・北アフリカ・ロシア(チェチェン人・タジク人)・欧米(「移民街」)から参陣した若者―母国で職に就けず、生活難、居場所がなく、抑圧・偏見・差別・不公平・迫害・疎外・怒りを感じ、大義と居場所・死に場所(殉教)を求めて(―ソーシャル・メディアなどで勧誘され)「ホーム・グロウン(欧米など地元育ち)・テロリストやローン・ウルフ(「一匹狼」―単独犯)」となる。
    彼らは戦うこと自体が「アッラーのため」という大義のための「聖戦」であり、あちこちでテロ事件や惨殺行為を起こし、それを世界中でマスコミ・報道機関がクローズアップして取り上げ続けてくれるほど宣伝効果が得られ、或いはネットを通じてシンパシー(共鳴)を広げて同調者を獲得でき、戦闘員をリクルートできることになるというわけ。

(2)根本原因―食料・エネルギー資源・富の偏在、格差・貧困・差別(機会の不平等)
    中東ではサウジアラビアヤカタールなどの石油君主国(中東全体の人口の10%足らず)が中東地域のGDPの60~70%を占める(その君主・首長ら一族と欧米の石油企業がオイルマネー(石油収入)独占


Ⅱテロを無くするには
(1)即時・短期的には―テロ対策
    軍事―攻撃・掃討・空爆→憎悪・報復の連鎖・悪循環
        「対テロ戦争」―非対称戦争―ISには戦闘機も地対空ミサイルもなく、空爆を受けても向け撃つことできず、一方的に爆撃されるだけ―それで別の戦い方をするしかなく、戦闘員を敵国に送り込み、或いは敵国にいる同調者を潜伏させて、コマンドやゲリラとして特攻攻撃をさせる。
        (通常の国家間戦争なら、やってもいい行為とやってはいけない行為とがあるが)この場合はテロリスト集団が相手であり、テロリストは犯罪者で無権利者(或いは人間でさえなく「エイリアン」同然)であり、言い分を聞く必要なく問答無用に攻撃、それは刑の執行であり、殲滅(殺害)あるのみ。
        空爆・掃討作戦でテロリストを確実にしとめるため、一人殺害するために多数の住民を巻き添えにして犠牲にし、それは「副次的被害」に過ぎないとして済まされる(放置される)。
       欧米人(兵士)の犠牲者数に対してムスリム側の圧倒的な犠牲者数(イラク戦争では米兵の戦死者4千人余に対してイラク人犠牲者・約50万人)―欧米に対する憎しみ・怒りの広がりへ。空爆→地元住民の被害→子どもが1人殺されるたびに新たなテロリストが生まれるという結果をもたらす・・・・無人機攻撃―標的外に多数の民間人が犠牲(殺害された人々の9割とも)。
      支配地域の奪還は地上軍なしでは不可能であり、それとても短期的には一部掃討はできても、中長期的にはかえって根強く存続
 取り締まり―盗聴・ネット上の情報監視・令状なしの家宅捜査など捜査権限の強化
         謀議グループの解散命令、憲法改正して国家非常事態を明記も企図   
 封鎖―テロリストの出入りを断つ(出入国の禁止など)法的措置
 資金(イラク・シリアなどの支配地域の住民から徴収、石油密輸収入、湾岸の篤志家からの援助、国外へ逃亡する難民が残した財産の没収などで)
 武器(既得のものはイラクやシリアの武器庫から強奪したか、穏健派反政府軍に米軍から供与された武器を奪取したか横流しされたもの)―湾岸諸国からの武器供給の停止
 トルコ国境封鎖による戦闘員の流入阻止

 「有志連合軍」―欧米・ロシア・トルコなど国々それぞれの利害・思惑―自国本位(ロシアにとってはアサド政権支持しているし、反政府武装勢力の中にチェチェン人やタジク人がいるかぎり彼ら反政府勢力とISを区別しても意味がない)
    空爆などかけても出口戦略(どう収束をつけるか)を立てられず。
 ヨーロッパ各国でムスリムに対する態度が01年の9・11以後厳しくなる―彼らは遅れている(「普遍的価値」を解さず)とか、キリスト教社会であるこの国にイスラム教を持ち込むな、ここに居てもいいが居場所はない、と国内のムスリムを厄介者として敬遠、排除へ。     
 難民受け入れ―欧米ではそれをめぐって各国で拒否派と容認派に二分(EUには共通の移民政策がない)
 ムスリムと非ムスリム(キリスト教徒・ユダヤ教徒など)、それにムスリム同士(スンニ派・シーア派その他で)分断・いがみ合い―ISにとっては思うつぼ―異教徒の中に暮らしているムスリムたちに対して、信仰を捨てるのか、それとも我々(IS)の側にくるか、と迫る。

(2)中長期的には     
 「終わりのない戦争状態」へ「戦時体制」が常態化―「テロを未然に防ぐため」として「安全保障」という名の恒常的な予防体制(国民を監視・管理・統制、自由の権利を制限)が国家によって正当化→「自由と民主主義の国だ」と言いながら、むしろ「イスラム国(IS)」の体制に似てくる―若者は自発的に国家の為に進んで身を捧げる特攻戦士に志願するようになり、ISの戦闘員と似てくる―人間が非人間的状態に。

 それとも国家を超えた(国家単位に構成される国連とは異なり、自国の国益にとらわれることのないNGO「国境なき医師団」や「国境なき記者団」のような)国際安全保障機構が必要―地球環境保護機構とともに―個人の有志連合 
 社会構造の改善―食料・エネルギー・水資源・その利権・富の偏在、格差・貧困・差別(機会の不平等)の解消・縮減
  国民的和解へ対話―膿みを出しきって、許し、手をさしのべる
      相手をよく知り、相手との「違い」ではなく、似ている共通点を見出して、それを共有し合う。
 宗教対話―ローマ法王のアフリカ(ケニア・ウガンダ・中央アフリカ)訪問―宗教間融和を訴え、イスラム教礼拝所(モスク)で演説「我々は憎悪や報復、そして神や宗教の名の下に実行される暴力に対してNOと言わなくてはならない」と。
     世界宗教者平和会議(5年ごとに開催)―「暴力的な目的のために宗教を悪用することに反対し、立ち向かう」(06年8月京都での世界大会)

  教育―非軍事的な「テロとの戦い」―無知(反知性主義)との闘い―命の教育・人権教育・平和教育―マララ(パキスタンのノーベル平和賞最年少受賞者)「世界のすべての子どもたちに教育を」「戦車より学校を」「一人のこども、一冊の本、一人の教師、一本のペンでも世界は変えられる」
    アントワーヌ・レリス(パリ同時多発テロで妻を殺されたジャーナリスト)「もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。だから、けっして君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになるから」と。
  寛容な社会づくり
  公正な社会発展モデルの実現

Ⅲ我が国の対応―安保法による有志連合軍への後方支援(参戦)(アメリカから支援協力を要請されると断れなくなる―法律ができたのだから自衛隊派遣はできるはずだと)
     緊急事態条項を盛り込むための改憲、
     「共謀罪」法案―市民社会の自由制約―などに要警戒
     安保法で自衛隊の海外派遣など行われれば、日本人がテロの標的になる危険性が高まる。
    難民受け入れがが問題。
    平和・中立国家として中東その他における混乱の政治的解決(収拾)と国民的和解の助言・仲介に役割を果たせるかが問題。

2016年01月01日

人道主義で結集した市民共同体―日本国憲法をモデルに地球市民憲章を(修正版)

 世界の恐ろしい忌々しき現実―戦乱・テロ・気候変動etc
 それに対して、我が国も含めて諸国とも国家の為政者・政府・国民も、それぞれ自国の存立・国益と自国民の権益・安全を他国民による侵害から守ることを第一として、軍事力に依存し、戦う相手に負けてはならないようにとその増強に努め、それぞれ国の都合・思惑にとらわれて、国連でも、G7でも、G20でもなかなか合意には達せず、軍縮と核兵器・残虐兵器の廃棄にはきっぱりと踏み切ろうとはせずに、軍事同盟も武器輸出も止めようとはしない。そして、それら国々(大国とそれに支援される国家)の支配に対抗し、抵抗しようにも抵抗できない軍事的弱小国あるいは集団や個人はテロで対抗しようとする。テロとは、軍事的な弱者による圧倒的な強者に対する対抗・抵抗手段であり、強大にして鉄壁なその軍備・防備の僅かな隙・手薄な所を突いて秘かに決行される。その隙間・手薄な所とは市民が集い、行き交い、生業・生活する所であり、そこで引き起こされる結果、無差別テロの形になり、そのテロリストを攻撃するにも市民を巻き込まざるを得ないことになる。どんなに強大・鉄壁な軍備を備えようともテロは無くならないということだ。
 かくて、どの国も個人も自らの安全を軍事や武器に頼る限り、世界に戦乱やテロは絶えず、悪循環が繰り返されることになる。
 元国連事務次長で現国際危機グループ(ICG)会長のジャンマリー・ゲーノ氏が次のように述べている(朝日新聞12月11日インタビュー欄)。
 「国家がコントロールを失いつつあり、大国の合意で世界が安定する時代ではもはやない。指導者が決めるトップダウンの出来事は減り、人々が互いに連絡を取り合うボトムアップ型の出来事が増えた。多国籍企業や組織犯罪網・国際テロ組織など、国家の枠に収まらない存在も力を持ってきた。地球温暖化も国家単位では解決できない」。これからは国民国家の枠組み(国益の追求)を超えた共同体の再構築が求められ、共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来る。「人はパン(お金―筆者意訳)のみにて生きる者にあらず」、利害だけで共同体はつくれない。ヒューマニズムを通じて構築しなければならない、と論じている。
 また経済学者(同志社大学院)の浜矩子教授は次のようなことを説いている。
 「ヒト・モノ・カネが国境を超えるグローバル時代において国家が出来ることには限界がある。」「20世紀の最後の10年で国民国家を基礎単位とした世界がグローバル資本主義で壊れた。」そして「次はグローバル市民主義の時代」だ。「地球温暖化や開発途上国の貧困問題のようなグローバルな問題に対しては、グローバルなネットワークを通じて行動するNGOやNPOなどの市民社会組織が国益を超えた地球益(公共益)を求める活動を展開している」。「今、日本の国会周辺そして全国津々浦々で市民たちが連帯して声をあげている」(政権の暴走に対して「何だ!」と。そこにもグローバル市民主義の胎動を感じているのだろう―筆者)。

 グローバル化と国民国家の弱体化―情報・コミュニケーション・ヒト・モノ・カネの移動・・・・多国籍企業・地球温暖化・国際紛争・組織犯罪(テロの拡散)・難民・移民
 米ソ二大陣営(冷戦構造)→多極化
 個人の自由―社会の結束が弱まり細分化―モラルの劣化(目先の利益しか考えず)→集団のアイデンティティーを求め「みんなと一緒に居たい」居場所を求める―宗教・文化に原理主義・過激派思想―「文明の衝突」を煽って分断―極右・偏狭なナショナリズム・レイシズム(人種・民族差別主義)―ヘイト(憎悪)、異教徒・異文化排斥
 今は宗教的原理主義・過激思想とそれに対する偏狭なナショナリズム・排外主義が勢いづいているが。

  地域共同体―EU・ASEAN共同体(15年設立)など
            ↓ 歴史的・文化的な親近感・善隣友好
           東南アジア友好協力条約(TAC)(1976年結成)→域外諸国も加入―インド・オーストラリア・ニュージーランド・フランス・ロシア・日中韓・北朝鮮・アメリカ・カナダ・EUも(57ヵ国、世界人口の7割がその中に)―軍事手段・軍事的抑止力に専ら依存した安全保障という考え方から脱却し、対話と信頼醸成、紛争の平和的解決など平和的アプローチで安全保障を追求―「平和的安全保障」―加入国間で争いが起きたら「武力による威嚇や武力の行使を慎み、常に加入国間で友好的な交渉を通じて、その紛争を解決する」と定めている。(但し、この原則はASEANと域外加入国との関係に適用されるが、域外加入国同士の関係にまで適用されるものではない。)
     中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)も2013年に設立
 国家(利害共同体)の限界―統合崩れる―国家の枠組みに収まらない―国家のコントロール(統制)が利かない―国家単位では解決不可能―大国の合意で世界が安定する時代ではもはやない。・・・・世界各地域で頻発する武力抗争・テロ等に対して大国や有志国家連合による「対テロ戦争」などでは解決できない。地球温暖化・気候変動・国境を超えた災害・感染症、食糧・水・エネルギー・鉱物・森林等の資源枯渇などの対策も国家の枠組みでは収まり切らず、経済・貿易・金融も先進国・途上国間で利害対立―国連やCOP21やWTOなどではまとまりにくい。
 NGO(非政府組織)の努力―世界市民のネットワーク―いわば「市民の有志連合」
   「国境なき医師団」「国境なき記者団」があり、「国境なき教師団」もあるなら「国境なき人道事業団」―人命を守り、救う人道支援の市民有志連合―といったものもあってよい。
 (そのような立場で活躍している事例
    中村哲氏らのペシャワール会(パキスタンとアフガニスタンで医療活動・灌漑事業・農業支援)
   日野原重明―聖路加国際メディカルセンター理事長、全国の小学校、海外の日本人学校でも「いのちの授業」
   高遠菜穂子―イラク支援ボランティア、イラク戦争中、武装勢力に捕まって人質にされたが解放され、現在も活動。
   マララ―パキスタン出身の少女、武装集団の銃撃を受けて重傷を負うも命をとりとめる。国連でスピーチして曰く、「私は誰にも敵対はしない。私は誰も憎んではいない。タリバンやすべての過激派の息子たち・娘たちに教育を受けさせたい」と。)

 国家の利害を超えた共同体―国家の領土とは異なる枠組みの共同体―その共同体を束ねるための価値と倫理(―ヒューマニズム)が問われる時代が来る(冒頭に引用したジャンマリー・ゲーノICG会長いわく、「20年後には機能しているかも」と)。
 暴力(武力・テロ)に訴えることなく道徳と法理とにかなった世界秩序の構築へ、道徳と法理とにかなった手段で近づいていく。
 倫理―人間同士の間―全ての人の道
  「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」(論語)―殺されたくない、故に人は殺さず
  「不殺生戒(アヒンサー)」(仏教五戒)・・・・人間は動植物を食して(「命を頂いて」)自らの生命を維持しているのだが、そのことは別として、人は殺してはならない、という戒律
  「汝、殺すなかれ」(旧約聖書「十戒」) 
  「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」(新約聖書)
  「人は(自己自身であれ他人であれ)単なる手段として扱うことなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」(カント「道徳法則」)
  「生命への畏敬」(シュバイツァー)
 これらは普遍的な道徳律と考えられる。
 が、そもそも人間には、競争心・闘争心・憎悪などの感情はあっても、生き物を処理して食する以外には動物を「殺したい」などという欲求は、精神に異常ない限りあり得ない。ただ、文明社会に生じた産物・土地・資源・領域・富・支配権の争奪が激化して殺し合うことが多発するようになり、上記のような戒律や教え・道徳律が考え出されたわけである。

 倫理的価値―最高価値―経済的価値・利害打算・国益・国威などに対して。人命(将来世代も含めて世界の全ての人間の生命)―至上価値(「地球より重い」)―(富や物質的にリッチな生活はできなくとも、)生命の維持にはパンもお金も必要であり、経済的な生活の支えは必要不可欠だが、貧富格差が大きく、一方に富や資源が偏在し、他方に生命維持さえできない欠乏が生じるような現代資本主義をそのままにしてはならず、問題は世界のどの国・どの人にも自己責任に着せるのではなく「文化的で最低限度の生活」が保障できるようにする経済分配システムを世界に確立することである。
   
 戦争(殺し合い)は悪―カントは、戦争は、国家によって人を兵士として戦争に勝利するたの手段として用いる最たる悪だとして「永久平和論」を説き、諸国家の常備軍全廃と諸国家連合の組織を提唱―当時(18世紀)は「夢」のような考えだったが、現代では第一次大戦後「国際紛争を解決する手段として、及び国策遂行の手段としては、戦争は原則として違法」とされるようになり、国際連盟から国際連合へと諸国家連合の組織は実現している。交戦法規など戦時国際法も制定されており、国際司法裁判所・国際刑事裁判所なども設立されている。我が国は、憲法上は「常備軍」を廃止している
   
   
 非暴力・不戦・平和共同体の結成をめざす動き―東アジア平和共同体、中南米地域で広がる平和共同体(ASEAN共同体、東南アジア平和協力条約<TAC>は既に結成されているが、北東アジア平和協力条約結成も期待される)  

 それならば日本国の枠を超えた「日本国憲法をモデルとした憲法で結束する共同体」は如何なものか   
 そのキーワード―同憲法の前文にある「諸国民の公正と信義に信頼して人々の安全と生存を保持」、「専制と隷従・圧迫と偏狭を除去」、「全ての人が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と、同9条にある「戦争も武力による威嚇・武力行使も放棄」

 「人命は至上の価値を有し、人を殺してはならない」「人類愛」の倫理を世界に確立することをめざし、それを普遍的な道徳・法理とし教育によって実現。
 
 諸国民とも、日本国憲法9条をモデルとして国(自国政府)に(国権の発動たる)戦争をさせない「戦争放棄」条項を自国憲法に求めつつ、そのことを共に「地球市民憲章」として定めること(イラク帰還米兵のウイリアム・ホプキンズ氏は「日本の憲法9条のことは勉強しました」として「戦争放棄のその理想は全人類が追求すべきで、米国も憲法に取り入れるべきです。」「日本は世界で、戦争放棄の実例となってほしい」と)。そして教育で「戦争の悲惨・理不尽」「人命に至上価値・諸国民に平等な平和的生存権」の授業を学校でも、どこでも行うようにする。それらのことをどの国どの国民もひたすら目指す。「9条にノーベル平和賞を」の市民運動も、そういったことを念頭にして大々的に展開してこそ受賞を果たせる(さもなければ受賞は無理)だろう。

2016年01月20日

海外で殺し殺される事態になったら、どうなるのか?―新安保法制

 PKOは派遣先(ガバナンスが効いていない紛争地)で、従来は停戦がなされた後に中立性を確保したうえで道路・橋などインフラ整備、学校建設など人道復興支援に限定。それが今度は(安保法で)治安維持・住民保護のため巡回・監視・検問・警護なども新たに任務―危害・妨害に対して応戦・制圧する戦闘を伴い、他国部隊への加勢(「駆付け警護」)も。
 武器使用は、従来は「正当防衛・緊急避難」など自己保存・武器等防護に限定も、今度はそれらを超えて「任務遂行」(応戦・制圧・妨害排除)のためにも使用へ。
部隊行動基準(ROE)―その都度(その場その場の事態の展開によって)変わることに。(「やられる前にやりかえす」―例えば無人機ドローンを用いた攻撃に対しては、それをスマートフォンで誘導・操作していると、スマホなどを所持して人物をテロリストだと見なして彼らを先制攻撃として、いきなり攻撃する等。)
 普通の軍隊ならば、化学兵器・細菌兵器など使ってはいけない、住民を殺してはいけない、レイプをしてはいけない等ネガティブリスト(やってはいけないこと)だけを指定して、それ以外は全てやっていい(現場の部隊長の判断で)ということ。
 空爆なども、初めから病院や学校などを(国際人道法違反になるので)攻撃対象にしてはならないが、戦闘行動中の誤爆は「しかたなかった」で済まされる。流れ弾が民間人に当たってしまったという場合も「しかたなかった」として済まされ、罪には問われない。
 しかし、自衛隊は(9条で交戦権が否認されていて)警察部隊と同様に非軍隊なので(我が国に対する急迫不正の侵害に際してそれを排除するに足る必要最小限の実力行使しかできないというポジティブリストで運用)、海外では国際人道法(ジュネーブ条約・ハーグ条約など)の適用外で、単なる武装集団と同列に殺人罪で裁かれることにもなるし、帰国した日本でも刑法の国外犯規定に業務上過失致死傷の適用はなく、司法判断しだい。日本国憲法下では軍事法廷(軍事裁判所など)は存在せず、そのようなところで特別扱いして裁くようなこともない。
 海外の戦闘地域や紛争地など派遣先で撃たれて死んだら?―戦死(「2階級特進」)・公務死(殉職・「1階級特進」)どっちとも決められてはいない。
 防衛省職員団体保険に加入しているが、戦闘行動で死んだら?―保険はおりない。
(国外で防衛出動の命令を受けた自衛隊員は、これらの不合理・不都合で、危険を被り、そのうえ不利益を被る自衛隊員が、その出動命令や職務上の命令に応じなかったりした場合を考えて、今回、自衛隊法改正で「国外犯処罰規定」が新設されている。)

 こうしてみると、自衛隊員は海外に派遣されて殺し殺される事態になると様々不都合・不合理が生じる。要するに現行憲法には(自衛隊はあっても軍隊ではないので)自衛隊員が海外で殺し殺される事態など想定されてはいないのである。
 ならばいっそのこと自衛隊は改憲(9条2項を削除し、「国防軍」や「自衛軍」などと明記)して正式に軍隊としたらいい、と考える向きもあろう。
 しかしそれは、我が国に対する急迫不正の侵害に際してそれを排除するに足る必要最小限の実力を行使するために設けられている自衛隊を国外にまで差し向けて他国民を殺し自国民が殺される事態に至ることを、先の大戦で国の内外に未曾有の悲惨をもたらした戦争の惨禍を二度と繰り返すまい(あんなこと再び繰り返すなんて御免だ)と決意して現行憲法の前文に誓った歴史的民族的誓いを今になって忘れ去り、肯定してしまうことにほかなるまい。

 新安保法ひいては9条改憲によって自衛隊員が海外で殺し殺される事態に至るようなことは、あくまで避けなければなるまい。

 <参考>①「マスコミ市民」’16年1月号―特集『安倍政治を問う』―井筒高雄・元陸上自衛隊レンジャー隊員へのインタビュー記事―それによれば、自衛隊には定年まで勤める隊員(いわば「正規隊員」で「職業軍人」)と任期(陸自は1任期2年、海自・空自は1任期3年)まで勤める隊員(いわば「非正規隊員」)とがある。陸自隊員14万人のうち、戦闘行動に耐えられる(訓練によって、反射的に銃を向けて良心の呵責なく躊躇なく撃てる)隊員は約5,100人くらいなものだと。レンジャー教育では、戦闘訓練だけでなく、斥候・爆破・襲撃・暗殺・情報収集・スパイ活動・不審人物の口を割らせる(拷問)方法・捕虜になった時に口を割らないこと等、すべて行われる(それらに伴う死亡事故は折込み済み)、とのこと。
 ②「世界」同1月号―杉田敦・法政大法学部教授「憲法九条の削除・改定は必要か」―杉田教授は、憲法の9条は、13条(幸福追求権)・21条(表現の自由)・5条(生存権)などと同様で、文字通り(文理解釈して)実施さるべき準則ではなく、理念を実現していく方向性を示す原理として定められているもので、安全保障政策を方向づける方向性―諸外国にあるような軍隊は持たず、軍事的な権力は行使しないという方向性―を定めたものだとしている。したがって解釈に幅があるも、その範囲には限りがあるのは当然である。その範囲を越えているか否かの判断するは法律の専門家(裁判官や内閣法制局も含めた法曹・学者)であり、大多数の法律家は、集団的自衛権の行使容認は(限定的とはいえ)その範囲を越えている、としている。

軍隊にはネガティブリスト、自衛隊にはポジティブリスト

 国軍(軍隊)を持つ国々では、その軍隊はやってはいけないケースを定めた禁止規定(ネガティブリスト)を列挙していて、それ以外には軍隊は何をやってもいいことになっているが、憲法で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」として軍隊を禁じている我が国では、自衛隊を設けてはいても、その活動は基本的に武力の行使を禁じられ、例外としてこういう場合(我が国に対する急迫不正の侵害がある場合)は(それを排除するために必要最小限の実力を)自衛隊は行使できるというその根拠規定(ポジティブリスト)を列挙していかざるを得ない。そのリスト(自衛隊がやってもいいというケース)が一つ一つ定められてきた。それが自衛隊法・PKO協力法・武力攻撃事態法・周辺事態法等々の法律であり、新安保法は11本の法律から成るが、(そのうち10本はこれら自衛隊法などの改正法であり、「国際平和支援法」の1本だけが新設)、それらは自衛隊が今度から新たにやってもいいというケース(ポジティブリスト)を加増したものである。そこに集団的自衛権の行使容認など、憲法9条が許す範囲を越えていると見なされるケースが加えられた(今までは海外での武力行使や戦争に加担することはできなかったのが、今度からそれができるようになるということ)。
 (アフガニスタンやシリア・イラク等での米軍の作戦への後方支援活動やホルムズ海峡での機雷の掃海活動や南シナ海での対中警戒・監視活動など、現時点では政策判断上行わないとはいっても、やろうと思えばできるということになる。)
 今回はポジティブリストを増やす形で実質改憲が行われたが、明文改憲によって9条2項が削除されて、自衛隊が「国防軍」や「自衛軍」などの形で正式に軍隊として認められれば、ネガティブリスト方式で、戦時国際法(国際人道法)などでも禁じられている以外に自衛隊は(政府や国会が安全保障上その運用が必要だと判断すれば)何でもできるようになり、武力行使も堂々とできるようになるわけだ。

2016年02月01日

9条を自分で空洞化させておいて

 衆院予算委員会で稲田自民党政調会長が「憲法学者の多くが素直に文理解釈すれば自衛隊が違憲である9条2項は現実とまったく合わなくなっている。このままにしておくことこそ立憲主義を空洞化する」のでは、と質問、安倍首相は「7割の憲法学者が自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況を無くすべきではないかという考え方もある」と答弁し、9条改定による集団的自衛権の行使容認や国防軍創設を明記した自民党改憲草案について「将来あるべき憲法の姿を示した。私たち手で憲法を変えていくべきだという考えで発表した」と。

 たしかに憲法学者には自衛隊の存在を違憲とする人が多い(昨年、朝日新聞による憲法学者へのアンケートでは63%)、それに対してこれまで歴代政府(内閣法制局)は「自衛の措置は国家固有の権能の行使」であり、「自衛隊は必要最小限の実力組織だ」として合憲解釈、最高裁は砂川判決で日米安保条約に基づく米軍の日本への駐留を「9条は我が国が平和・安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない」とし、「我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」として合憲判断。
 その自衛隊に海外に出て行くことを(PKO協力法、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法、海賊対処法などで)次々と認めてきたが、専守防衛(個別的自衛権の行使だけ)に限定し、朝鮮有事では直接日本への武力行使前でも米軍に後方支援ができるとか、インド洋やイラク等への海外派遣に際しては非戦闘地域に限定し、武器使用は正当防衛・緊急避難だけに限定してきた。
 その憲法解釈には①文理解釈という文字通り解釈する考えと、②解釈に幅を認める考えとがあるが、歴代政府は②の立場で解釈の幅を広げてきた。それでも、論理的整合性・法的安定性にこだわって(自衛隊には交戦権はなく国際法上の軍隊ではない等)曲りなりにもその限度を守ってきた。
 ところが、今や、その自衛隊に閣議決定で集団的自衛権の行使まで(「限定的に」とはいえ)容認し、安保法制を作り変えて(これまでの地域限定・時限・支援内容の限定・武器使用などの制限を取り払うか、緩和して9条を完全に空洞化(骨抜き)した。
 それを自らやっておきながら、9条は空洞化したから、現実に合わせて改憲すべきであり、「それをそのままにすることこそ立憲主義の空洞化」だというわけである(本末転倒、あたかも「スピード違反や駐車違反をしておいて、違反とならないように道交法を変えろ」と言ってるようなご都合主義)。このような筋の通らない改憲正当化論にごまかされてはなるまい。

 ところで、長谷部恭男教授や杉田敦教授らは②の立場で、9条は文字通り実施さるべき準則ではなく、理念を実現する政策の方向性を示す原理を定めたもので、「幸福追求権」を定めた13条、「生存権」を定めた25条、「表現の自由」を定めた21条(ヘイトスピーチや猥褻表現など無制限な自由を認めているわけではない)などと同様だとする。憲法学者でも彼らは、従来の(安保法制改定前の)自衛隊は合憲として認める考え。この立場からすれば、自衛隊は従来のままの「非軍隊」にとどまる限り、9条が空文化しているとも、立憲主義が空洞化しているとも言えず、改憲する必要はないわけであり、現にこの立場から安倍政権の解釈改憲にも、明文改憲にも反対しているわけである(杉田教授は9条2項の「戦力不保持・交戦権の否認」を削除することはもとより、同条に個別的自衛権を明記したうえで、それ以上拡大解釈できないように「集団的自衛権は行使しない」などと新規定を加える必要もない、なぜなら、そのような条文を加えても、「それはフルスペックの集団的自衛権を意味しており、集団的自衛権一般を指しておらず、『限定的に行使』なら許されるなどと意訳されてしまうからだと)。

 <参考>『世界』15年8月号(長谷部恭男「安保法案はなぜ違憲なのか」)、同誌16年1月号(「杉田敦「憲法九条の削除・改定は必要か」)

2016年02月09日

北朝鮮の核・ミサイル実験で勢いづく改憲派(修正版)

 北朝鮮のロケット打ち上げ(衛星打ち上げ用であることは事実―実戦用ミサイルなら、あんな直ぐ判るようなところに発射台をくんで燃料注入に時間をかけて打ち上げたりはしないし、大気圏外に打ち上げっぱなしで、地上に達するように大気圏内に再突入させることもないことから、それは明らか。しかし、たとえ衛星打ち上げ用だとしても、北朝鮮は国連安保理決議で「いかなる核実験または弾道ミサイル技術を使用した発射も」ダメだと禁止されているので違法は違法)。それに対して安倍政権は迎撃ミサイル等を配備・展開、全国市町村に発射・通過情報を送信。(そのP3の迎撃高度は数十キロ、北朝鮮ミサイルが沖縄南方の先島諸島上空を飛ぶ高度は500キロであり、そもそも届かない。予想軌道から外れた破片など軌道計算ができないものに当てようとしてもどうにもならない。市ヶ谷や習志野など方向違いの首都圏に配備したところで何の役にも立たない。しかし、全国どこの住民にも臨戦態勢に慣れさせるための「地ならし」になると思えば、それも有用といえば有用なのかも。)
 日朝双方ともそれぞれに、国内外に対してデモンストレーション。北朝鮮はアメリカであれ日韓であれどの国にも「負けないぞ!」という「抑止力」を見せつけ、日本は日本で、北朝鮮であれ中国であれどの国にも「負けないぞ!」(「やるならやってみろ、受けて立つぞ!」)とばかり「抑止力」を見せつけようとするデモンストレーション。
 中東などでの殺し合いもさることながら、神様から見れば、どいつもこいつも一体何やってんだ、というものだろう。
 安倍政権の場合は、今回の北朝鮮ミサイル打ち上げに対する「万全の対応をアピール」しつつ、さらに、これを奇貨として安保法制も改憲も合理化・正当化(「だからそれが必要なんだ」とアピール)でき、国民にそれらを容認しむけるチャンスととらえ、国民をその気にさせるデモンストレーションとなったわけだ。しかし、拉致被害者はますます取り残されるばかりだろう。こんなデモンストレーションの応酬(軍事的「抑止力」の見せつけ合い)をやっている限りラチ(埒)はあくまい。

 朝日新聞2月8日付に「北朝鮮といかに向き合う」と題して3人の識者の見解を載せていた。
①元日朝国交正常化交渉政府代表の美根慶樹氏
  北朝鮮にとって最大の問題は国(体制)の存続(指導層は寝ても覚めても自国の存続について恐怖心を抱いている)―そのための「生きるか死ぬか」をかけた核・ミサイル開発。
 だから、その(同国の存続に対する)保障がない限り核・ミサイル開発は放棄しないだろう。
 北朝鮮の生殺与奪権を握る中国は、厳しい制裁で過度に追い詰めてはならないという立場を取り続けている。
 このまま朝鮮半島で第二の戦争が起きたときの衝撃は計り知れない。核不拡散体制の維持を含め、交渉で得られる利益は莫大だと日本は米国に働きかけるべきだ。
 必要なのは休戦状態にある朝鮮戦争の終結について米国に北朝鮮との交渉を促すこと―そこで北朝鮮が核を放棄すればその地位(同国の存続・体制維持)を認めるかどうかを話し合う(その交渉が進めれば拉致問題の前進に貢献するはず)。
 ただ「けしからん」「国連決議違反だ」と非難し、制裁を加えるだけでは解決しない―核を放棄しなければ話し合いに応じないという門前払いはすべきでない。
 国連制裁を重視しつつも、それだけでは解決しないことも考えるべきだ。
②元米国務次官補のロバート・アィンホーン氏
 北朝鮮は食糧・燃料・貿易のどれも中国に依存しており、中国は北朝鮮に決定的な圧力をかけられる立場なのに、そうしてこなかった。それは中国が、北朝鮮が核兵器を持つことよりも朝鮮半島が不安定化することを恐れているからだ。
 日米韓をはじめとする国際社会は国連安保理決議があろうとなかろうと、北朝鮮を罰する行動をとる以外にない。
 日米韓(同盟国)はミサイル防衛システムなど防衛力(核抑止力)を強化して北朝鮮に対する圧力(制裁)と関与(交渉準備―最終目標は非核化だが、短期的には核とミサイルの能力を凍結する話し合いが第一歩)を同時に進めるアプローチを、中国を巻き込んで(北朝鮮に対する制裁・圧力と関与に中国にも協力させて)やっていかなければならない。(中国の企業や銀行などは、北朝鮮が核やミサイル開発に関連する品目を入手し、外貨を得るのを手助けしてきたが、こうした中国の北朝鮮との取引をやめなければ、中国をも制裁対象にしなければならない。)
③元韓国外交通商相の尹永寛氏
 北朝鮮の弾道ミサイル開発は米国を脅して朝鮮戦争の休戦協定を平和協定に変えるための交渉に引っ張り出すため。北朝鮮は冷戦が終わり、国際的に孤立している。経済困難のなか、敵に取り囲まれているという過度な危機意識を持っており、対決的な威嚇外交を生んでいる。
 これに対し、しっかりとした軍事安全保障で対応しつつ、一方では対話の門を開いて説得に努力を続けなければならない。軍事安全保障問題だけに限って扱うのではなく、外交・政治・経済など絡み合った多元的な問題で包括的なアプローチが必要だ。
 北朝鮮は欧米などとの経済的関係がほとんどないが、中国はほぼ唯一、経済的な関係のある国で、自らの戦略的な理由から突っ込んだ制裁に同意していない。(このため北朝鮮に対する制裁はさほど効果は上げていない。)中国は北朝鮮の核・ミサイルの脅威を取り除くことより、北朝鮮の体制を存続させることを優先している。米国はその反対だ(北朝鮮の核・ミサイルの脅威を取り除くことが先決だとしている)。
 現在は、どの周辺国も北朝鮮問題を本格的に解決しようとする政治的な意思も、決断も持っていない。

 以上の三つのうち、②の元米国務次官補の考えには賛成しかねる。彼は北朝鮮の核・ミサイル開発を単なる「弱小国の強がり」と見なし、北朝鮮を(真ともでないことは確かだとはいえ)ただ単に「ならずもの国家」だとか、無法国家と決めつけて、核・ミサイルの開発には罰する行動を取る以外になく、核兵器開発を無条件に放棄するか否か以外には交渉に応じてはならないというが、それには70年前日本の植民地支配から解放されはしたものの冷戦下に南北分断から朝鮮戦争~休戦協定は行われるも、北朝鮮は降伏したわけではなく、未だ戦争は終結していないという歴史的経緯と北朝鮮の立場があることを全く無視・度外視した超大国の傲慢(「上から目線」の一方的な決めつけ)が感じられるからだ。
 北朝鮮の核・ミサイル開発は、アメリカ等の大国が核兵器を独善的・独占的に大量に持ち続けているのと同様に、常軌を逸しており、無謀であることには違いないが、北朝鮮にとっては、それなりの止むを得ざる理由(アメリカ等が北朝鮮にそうせざるを得なくしていると彼らに思わせる理由)があるからであり、それを考慮することなしに、ただ傍若無人の暴挙だと決めつけるのでは、相手は「何を言うか」と反発を強めるばかりで、どんなに非難を浴びても素直に従うことはないのでは。

 当方の考えに一番近いのは①の美根氏の見解である。

2016年02月16日

現下の“Vs”―対決構図 (加筆修正版)

人間のタイプ(性格)
 Xタイプ―我・自尊心(プライド)の強い人、自信家、優越感を持ちたがる人、
     強気な人、鼻っ柱の強い(強腰な)人
     世の中や将来を楽観的に考える(深刻には考えない)タイプ
     利口な(狡猾な)人、金儲けの得意な人
     身びいきするタイプ、力や勢を誇示したがる人、
     競争心が旺盛な人、競争心が旺盛な人、好戦的なタイプ
     強者・権力の側に組するタイプ、強きを助け弱気を挫くタイプ(どちらかといえばいじめるか、見て見ぬふりをするタイプ)、権力志向の強い人、
     「長いものには巻かれろ」タイプ(大勢順応型)       
     自分の非を省みるより相手の非を言い立てるタイプ、
     自己肯定の強い人(自分・自国が悪いとは思いたくないタイプ)、独善的なタイプ
     条件(能力・家庭環境など)に恵まれた者が富や地位や幸福を得、条件に恵まれない者が惨めな境遇に置かれることを当然か、やむをえないと思う人、
     格差・貧困は自己責任と思うタイプ
     理想・善悪・人の命よりも己の利害・利便・損得が先立つ(実利主義的な)人
     子や孫たちの将来や人々の幸せより己の目先の利益を優先するタイプ、
     生活保守主義の(今の生活を手離したくないという)タイプ
     昨今のアメリカでいえばトランプ候補に同調するタイプ
 Yタイプ―思慮深い人、慎み深い人・謙遜な人
     正直者(バカをみる愚直なタイプ)、生真面目な人
     良心的な人、公正な人、正義感の強い人
     優しい(思いやりのある)人、柔和・温和な人、お人好し(番を人に譲るタイプ)、
     弱気を助け強気をくじくタイプ、弱い者に組したがる人、
     反権力志向(反骨精神)のある人、大勢に抗うタイプ
     己の利害損得・利便より社会のあり方(理想)や人の道(善悪)にこだわる人
     人の命が一番大事と思うタイプ―人の命を犠牲にする最悪の事態はあくまで避けなければならないと思うタイプ、
     目先の利益より子や孫たちの将来を心配するタイプ、
     世の中や将来を懐疑的に(深刻に)考えるタイプ
     トランプに対してサンダース候補に同調するタイプ
 (人はこの二つのうちどちらかだとは一概には言えないが、人はその置かれた境遇、地位、職業・生業、生まれ育った生活環境・家庭環境 、どんな教育を受けてきたか、などによって人間のタイプが分かれることは確かだ。
 両者の間に、中間層というか、どっちとも言えない人たちがいる。そう言う人の方が一番多いだろう。とかく彼らには忙しい仕事・務め・生業・家事・育児、学生・高校生なら就活や受験勉強でじっくり新聞・テレビ報道を見て考える暇がない。結局、テレビや新聞・インターネットをチラッと見るだけで、大勢や知名度・人気・勢いのある方になびき、或いは地域・業界・団体・仲間から勧められ誘われるまま、という人たち。彼らは結局Xの方になびく。だからXの方が多数派になるわけである。
 とはいっても、こんな分類は調査・データがあるわけじゃなし、短絡的で勝手な思い込みに過ぎないのだが。
 ところで、このホームページの「評論」の「過去の分」に2012年12月(総選挙当時)掲載した『国民の“B層”が決定づける選挙』には次のようなことを記した。
 「国民はABCDの4層に分類されるという。小泉内閣が『郵政選挙』前、『メディアを使って選挙戦をどう戦うべきか』という分析を頼んだスリードという広告会社が考えたもの。
 A層は政治家・有識者・大手メディアの人間など社会的地位が高く、IQも高く、小泉構造改革への関心が高い層。
 B層は主婦層・若者層・高齢者層など大衆で、比較的IQが低く、マスコミ報道に流されやすい層。具体的な政策よりも人気(イメージや空気)によって、或いは「寄らば大樹」で大政党か勢いのある政党・政治家を選択する傾向にある。
 C層は、IQは高いが、小泉改革に慎重な層。
 D層はIQも小泉改革への関心も低い。
としたうえで
 A層は、マーケティングを駆使して積極的にB層向けの商品を作り続ける。選挙戦もB層をターゲットにして戦うべきだと。
 経済アナリストの森永卓郎氏によれば、B層は『郵政選挙』における小泉政権の支持母体、『政権交代選挙』における民主党の支持母体にもなった、という。
 これで言うと今回(12年総選挙)の『政権奪還』+『第3極』選挙における自民党と維新の会の支持母体もやはりB層というわけか。
 ただし、ここに言う各層分類の基準の一つを『IQの高い低い』としているのは、どうも短絡的で、それよりも『民度(知的水準・教育水準・文化水準・行動様式などの成熟度)の高い低い』とした方が適切なような気がする。
 4割以上も棄権し、自民党が圧勝といっても、その自民党得票率(有権者総数に占める絶対得票率は1.5か1.6割)よりも、この棄権率(4割)のほうがはるかに多いのだ。棄権したのはD層(無関心層)、それにC層の中にも「どうせ投票しても死票になるばかりで意味がない」と思う向きには)棄権した人はいtただろうが、A層はもとより投票所に一番足を運んだのはB層だろう。
 自民党の大勝と維新の会躍進など改憲派の圧勝を決定づけたものは、やはりB層の投票だろう。この層は、原発再稼働も消費税もTPPもやむを得ない、沖縄基地もオスプレイもやむを得ない、中国・北朝鮮とは戦争になってもやむを得ない、といった感覚で、政策の良し悪しはどうでも「決断と実行」力のある政治家であればそれでよく、A層が掲げる『賢くて強い日本』で『君が代が千代に八千代に』栄え続ける国であればそれでいいのだ。
 このB層が、この国のあり方を決定づけている、といってもよいだろう。
 この国の国民の民度は高いという向きもあるが、それほどでもないという向きもある。いずれにしろ、B層に限って言えば、民度は高くないということだ。それがこの国の民主主義の未熟さ、この国の政治家たちの国際水準(ひいては外交力)の低さにもつながっている。
 ただ黙々と働く勤勉さと天災・人災にも耐える忍耐は日本人の美徳とされてはいるが、政治問題・社会問題への関心、選挙・投票となると民度・政治意識の点では、まだまだ。」
 この分類でいうと、XタイプはどちらかといえばA層に、YタイプはどちらかといえばC層に相当するということになるか。そして中間層で、多数派を決定づけるのがB層というわけか。)

 これらによって、次にあげるVs(対立関係)のそれぞれ前者はXタイプの人、後者はYタイプの人に多いと思われる。

 ●自民・公明・おおさか維新 Vs 共産・社民・生活 (民主・維新?)
   |                |
   新保守主義派          リベラル派
   |                 |
  新自由主義プラス新国家主義   旧保守と革新派
   |                |
 ●タカ派(強硬派)    Vs     ハト派
   |                |
  「強い日本」(アメリカを後ろ盾に)   |     
  対中・対北朝鮮軍事対決    全ての国と友好・宥和(不戦・非軍事平和外交)
   |                |
  安保法制に賛成       安保法制に反対―国民を戦争やテロに近づけることを恐れる
 (集団的自衛権の行使容認) (集団的自衛権の行使は認めない)
 (軍事的国際貢献)       (非軍事国際平和貢献) 
   |                |
 ●「辺野古基地建設」容認派  Vs    反対派

 ●改憲派   Vs    反改憲派
   |          |
  自衛隊の正式軍隊化   |
  天皇の元首化       |
  緊急事態条項を書き込む | 
   |          |
  「国民会議」 Vs 「9条の会」
   |          |
  国家ナショナリスト Vs ヒューマニスト
    |            |
  自国民第一主義     人種・民族・国籍などで人を分け隔てしない
  嫌中・嫌韓・嫌朝・嫌ロ
 ●原発容認派 Vs 脱原発派
           |
          危険―最悪の事態を恐れる 
 ●「アベノミクス」を信じる派 Vs 信じない派
     |
   経済成長から分配へトリクルダウン(果実は大企業に留まり、成果みられず)
 ●「企業・団体献金」容認派 Vs 禁止派
 ●マスコミ
  読売・産経・日経・NHK・日本テレビ系・フジテレビ系―自公政府寄り―改憲派
  Vs 朝日・毎日・テレビ朝日系・TBS系―「中立」(両論併記など、賛否両意見を取り上げてバランスをとる)―どっちつかず
  Bタイプの人の側にはっきりと立って報じている新聞・テレビは?(「赤旗」は政党機関紙なのではっきりしているのは当然だが、商業新聞では東京新聞や中日新聞、琉球新報や沖縄タイムスなど地方紙によってはそれに近いものが。週刊紙では「週刊金曜日」、ネットTVでは「デモクラTV」など)
 ●(歴史・公民教科書)育鵬社・自由社版 Vs 他の教科書会社版  
 
 今のところ政党支持では自民党が最大多数派だが、世論調査では、憲法でも9条と安保法制の問題・沖縄基地問題・原発問題などでは自民党は少数派であり、安保法制反対・9条護憲・辺野古基地建設反対・原発再稼働反対の方が多数派であり、アベノミクス・消費税増税・TPP問題などでも否定か反対の方が多数派である。
 それでも、「一強多弱」という自民党の圧倒的優勢が保たれているのは何故なのか。それには①前の総選挙で政権交代させて民主党に政権を預けてはみたものの全く期待外れの結果をみて、その民主党とその他の弱小政党に対して自民党は様々な問題はあっても「よりまし」と思われていること、②「一強」による安定政権・「決められる政治」任せ(お任せ民主主義)、③支配政党と「寄らば大樹」意識の大衆に迎合したマスコミの大衆扇情、等々のことがあるだろう。それに決定的なのは極端に大政党に有利、小政党に不利(票を投じてもその党の候補を当選させることはできず、死票として切り捨てられるだけ)で民意を適正に反映しない結果をもたらす小選挙区制で選挙が行われていることだろう。
 この歪みを正さないかぎり我が国は民主国家とは言えまい。

2016年03月04日

日本は大国?―「貧困大国」

大国意識―優越意識
経済大国―アメリカに次ぐ世界第2の大国、しかし最近、中国に抜かれた。
それでアメリカに準じる軍事大国とも思う大国意識―「大国として相応しい軍事力」を持ち、「世界の警察官」たるアメリカに従って軍事的に国際貢献を果たして然るべきという意識。
  世界第4の軍事大国(アメリカ・ロシア・中国に次ぐ)
   軍事費では世界8位
  集団的自衛権の行使容認と安保法制―自衛隊の米軍への支援協力・海外派遣
  2016年度予算(総額96兆7218億円のうち)―5兆541億円―当初予算では自衛隊発足後初めて5兆円突破―前年度比740億円(1.5%増)
    米軍再編関係費・米軍駐留経費・名護辺野古の新基地建設費など含む・・・
      米軍駐留経費(「思いやり予算」)は1920億円うち特別協定分が約1,400億円
        特別協定分を無くしただけで大学の学費を半額にできる(年間1,100億円の支出で国公私立大学の学費を10年間で半額にできるのだから)
    米国製の最新鋭高額兵器の購入費
      有償軍事援助(FMS)に基づく武器購入は16年度4858億円(安倍政権下で10倍に)
      オスプレイ(4機447億円、18年度まで17機購入計画、米国側提示では総額3,600億円―社会保障機削減分に匹敵、或いは国立大学無償化できる金額、保育士増員など待機児童対策に要する予算規模約3,000億円を上回る)、
      ステルス戦闘機(6機1084億円)、
      早期警戒機F2D(1機260億円)、 滞空型無人機グローバルホーク(146億円)
      対潜水艦用ヘリコプターSH60K(17機1026億円)
      17年度以降支払いツケ払い額(新規後年度負担)2兆2875億円
      水陸両用車11両、機動戦闘車36両、最新潜水艦「そうりゅう」型1隻建造
       「宇宙基本計画」―情報収集衛星(軍事スパイ衛星619億円)
                準天頂衛星―ミサイル誘導・艦船のナビゲーション
                データ中継衛星など
 しかし、「貧困大国」でもあるという実態があることに気が付いていない向きが多い
   日本人の2割が年収200万円以下
   子どもの貧困―6人に1人
   社会保障費の自然増(高齢者の増加などにより毎年8,000~1兆円増える)を毎年5,000億円以内に抑え込む―16年度は4997億円に
   生活保護―生活扶助基準引き下げ
   診療報酬のマイナス改定(16年度は1%超引き下げ)
   介護報酬引き下げ(17年度以後「要介護1・2」の人を保険から外す方向)
   年金支給額削減
   70~74歳医療費負担1割から2割へ引き上げ

   児童虐待問題(全国の児童相談所が虐待を認知した件数は年間9万人)
   介護虐待問題
   教育―それへの公的支出は先進国最下位(6年連続)(対GNP比はOECD32か国4.5%なのに日本は3.5%。途上国含めても下位。OECD加盟国の半数の国が大学の学費はタダ、ほとんどの国が奨学金は返済しなくていい給付制なのに日本は利子付貸与制)
     文教科学関係費5兆3580億円(前年度比4億円減)
        教職員3475人削減(少子化に伴う定数減を差し引くと375人の純減)
        加配定数(いじめ・不登校、授業改善に対応する教員配置)は525人増にとどまる(広島県府中町の中学校―生徒数632名・20学級―で進学指導に際し、担任が1年時の他の生徒の万引き事実を本人と間違えて記録したパソコンの共有フォルダー資料を基に志望校に推薦できないとして生徒を自殺に追いやった事件―そこには教員同士の連携不足と生徒に対する心の通った指導の不徹底があると見られ、関西学院大学の中村豊学校教育学教授は「教員が多忙でゆとりがない」「部活動の指導や事務量の増加など『世界一忙しい』とされる日本の教員」実態を指摘している。)(昨年度児童生徒自殺―小7・中54・高169人)
        少人数学級の拡大は棚上げ
        国立大学運営交付金1兆945億円(前年度と同額)
        幼児教育無償化―住民税非課税世帯の保育料無償化
                 多子世帯の第2子の保育料半額
                      第3子の保育料無償化
        これらは低所得世帯のみ支援―多子世帯5.3万人、ひとり親世帯2.4万人だけ
  待機児童対策の認可保育施設の増設費965億円 
        子育て支援対策(保育施設の増設・職員の給与改善など、1兆1,000億円の財源必要)4,000億円は不足、その財源が先送りされている。
           *子供を保育所に入れるため「保活」したが、認可保育所も認可外保育所も全て断られた女性がネット上に「保育園落ちた日本死ね!!!」と投稿して話題に。

 国の安全(軍事的安全保障・軍事的抑止力)とか軍事的「国際貢献」など軍事にこだわるよりも、今日・明日・将来食えるか生きるられるかの死活問題のかかった分野に人的・物的資源(資金)の投入を優先すべき。
 (安全保障も死活問題だと言えば言えるかもしれない。しかし中国や北朝鮮が攻撃を仕掛けてきて殺すか殺されるかという戦争が万一(万分の一の確率で)起こるかもしれないが、それは極めて不確実で台風や地震・津波などのように避けられないというものでもない。言うなれば戦争など応じなければそれですむこと。それにひきかえ、今、日本国民が直面している死活問題は非正規労働者の低賃金・不安定雇用問題、待機児童問題、下流老人問題、子どもの貧困、教育の貧困、高学費問題、介護問題など、直ちに予算措置を講じて手を打たないと、このままでは人は生きていけなくなって不幸な死を免れなくなるという事態が避け難く目の前に迫りくる、そのような必然的確実性のある問題なのであって、そのほうが緊急性・切迫性があり優先順位が高いとしなければならないのである。)

 大国とは言わないまでも、「普通の国」として「普通の軍隊」を持って然るべきだ、といった観念にとらわれる向きもあるが、我が国には「普通」とは言えない特殊事情があることを見忘れてはなるまい。
先の大戦でアジア諸国民2,000万人という世界史上未曾有の犠牲をもたらした戦争を引き起こしたその反省から戦争放棄を憲法に定めて世界に不戦を誓った国だという特殊性が先ずもってあるが、それ以外には、我が国は経済大国とか先進国とはいっても、相対的貧困率が高く(16%でOECD30ヵ国中27位、6人に1人が貧困ライン―年収125万円、月収10.4万円―を下回っている)、上記のような教育・福祉の立ち遅れがある。
 それに我が国は世界に例をみない速度で高齢化が進んでいる高齢化大国である、といった特殊事情もある(「一人暮らし」高齢者は480万人、認知症の高齢者は500万人、その行方不明者は年間1万人、鉄道事故犠牲者は年20人)。
 軍事的な国際貢献などにとらわれている場合ではないのである。

2016年04月01日

野党共闘に消極的なメディア―朝日の場合(加筆版)

 「一強多弱」状態の政党状況で昨年9月19日に安保関連法案が強行採決。その直後、共産党が「戦争法廃止の国民連合政府」(安保法廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回の二つの目標に絞った暫定政権)の提案を行い、安倍政権に対抗する野党の結束と来るべき参院選での選挙協力を呼びかけた。その後一か月半余の間一部メディアには取り上げられていた(「サンデー毎日」・「毎日新聞」社説、外国特派員協会などに)。11月19日には朝日新聞にもインタビュー記事が載っていた。そして12月20日には安保法に反対してきたシールズなど市民諸団体の有志が「野党共闘」を望むとして「市民連合」を結成、参院選の一人区で市民と野党が協力して無所属の統一候補を擁立するよう呼びかけることになった。
 朝日新聞には「声」欄に11月7日「共産党の政権構想は現実的か」(異論)、12月2日「安保法廃止へ野党共闘を急げ」、今年1月28日「『立憲』旗印に野党結集を望む」、2月1日「安保法廃止へ野党結集が必要」、2月13日「共産党は考え方に幅あるのか」(異論)などの投稿を賛否両論併記で載せていた。
 2月19日5野党(民主・共産・維新・生活・社民)党首会談で参院選と衆院補欠選挙など国政選挙で選挙協力を進めることに合意、そこで①「安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする」②「安倍政権の打倒を目指す」③「国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む」④「国会における対応や国政選挙などあらゆる場面で出来る限りの協力を行う」の4点を確認し合った。(この会談直後、安保関連法の廃止法案を共同提出、朝日社説はこの方だけを「安保・野党案『違憲法制』正す議論を」として取り上げているが、選挙協力のことには触れず。)

 この間、朝日は世論調査で、このことに関連して次のように問うている。
 15年10月(17・18日)調査―次期参院選で「野党は自民党と公明党に対抗するために選挙で協力すべきだと思いますか」回答「協力すべきだ」48%、「そうは思わない」34%
 12月(19・20日)調査―参院選で「野党は自民党と公明党に対抗するために、野党同士で協力して、統一候補を立てるほうがよいと思いますか」回答「立てるほうがよい」42%、「そうは思わない」33%
 16年2月(13・14日)調査―「民主党と維新の党が解党し、一緒に新しい政党をつくったほうがよいと思いますか。それとも、いまのままでよいと思いますか」回答「新しい政党をつくったほうがよい」22%、「今のままでよい」49%。
 3月(12.13日)調査―「民主党と維新の党が合流することで合意しました。合流した後の新しい政党に期待しますか」回答「期待する」31%、「期待しない」57%。参院選で「野党は、自民党と公明党に対抗するために、野党同士で協力して、統一候補を立てるほうがよいと思いますか」回答「立てるほうがよい」47%、「そうは思わない」32%。(「統一候補を立てるほうがよい」と答えた人に)野党協力の枠組みに、共産党も入ったほうがよいと思いますか」回答「入ったほうがよい」46%、「入らないほうがよい」44%。
 この間(3月の調査では)、安倍政権の下で、「景気回復の実感あるか」(ある17 ない76)、「経済政策が賃金・雇用が増えることに結びついているか」(いる24 いない62)、「子育て支援政策に期待できるか」(できる26 できない58)、「首相の改憲姿勢を評価するか」(する38 しない49)、「震災復興の取り組みを評価するか」(する40 しない43)、「原発事故の教訓は生かされているか」(いる23 いない60)などついては、いずれも否という回答の方が多い。にもかかわらず内閣支持率(9月安保法案強行採決直後35%・不支持45%、10月41%・不支持40%、11月40%・不支持41%、12月38%・不支持40%、1月42%・不支持38%、2月40%・不支持38%、3月44%・不支持35%)も下がり続けてはおらず上がってさえいるし、政党支持率も(自民党のみ30%台、3月は40%、他党は民主党が9月だけ10%、あとはどの党も一桁台で)「一強多弱」のまま(「支持政党なし」は36~42%で最多)。
 要するに安倍政権の政策は支持されているわけではないのに、自公以外はバラバラで「一強多弱」、政権を託せる党がない状態
 そこで新たなオールタナティブ(もう一つの選択肢)として「野党連合」の存在が必要となる。それさえあれば状況は変わるはず。
 ところが朝日は、この「野党連合」(野党協力の枠組み)を選択肢として示さず、「民主と維新の党の合流(→「民進党」)に期待するか否か」(「期待する」31、「しない」が57で、「期待しない」が際立って多い)と、「野党は自民党と公明党に対抗するために、野党同士で協力して、統一候補を立てるほうがよいか否か」(「立てるほうがよい」47、「そうは思わない」32)を問うだけにとどまっている。しかも「統一候補を立てるほうがよい」と答えた人に、わざわざ「野党協力の枠組みに共産党も入ったほうがよいか」などと付け加えている(「入ったほうがよい」46、「入らないほうがよい」44)。今回「野党連合」を最初に呼びかけ、統一候補擁立・野党協力のためならばと、当初掲げた「国民連合政府」の旗を横に置いて一人区では独自候補を取り下げてもいいとして最も積極的だったのが同党だと分かっていながら、歴史的に醸成されてきた「共産党アレルギー」なるものに囚われているのだろう。これこそが分断に導く作為とならないか。この分断は政権与党を利するものであり、現に安倍首相はこの夏の参院選は「『自公対民共』との闘いであり、負けるわけにはいかない」と訴え、野党共闘に「民共合作」とか「野合だ」とか批判を加えている彼らにとって民共分断は思うつぼとなる。
 マスコミには「オピニオン・リーダー」として世論形成に果たす役割がある。作為的な世論誘導はよくないが、事実在るもの(実現はしていなくても、現にその動きがあり、蓋然性のあるもの)は在るとして示すことは国民にとって必要な情報である。その情報を詳しく示さないというのは如何なものか。
 3月26日の同紙は4面6段に「『集票競合慎む』自公が指針合意」という記事を載せていたが、前日NHKが若干報じていた5野党の幹事長・書記局長会談の選挙協力協議のことについては全く報じていない。
 
 このようなメディアの姿勢こそが結果的に安倍自民党の「一強体制」を許している原因となっているのではあるまいか。

 尚、ネットで調べてみると、3月27日結党した民進党は、28日テレビ朝日が報じたANN世論調査では、同党支持率は15.6%で、民主・維新両党合流前(15.9%)とほとんど変わらず、むしろ下回っていて、自民党支持率46.3%に大きく水をあけられおり、民進党一党だけではいくら頑張っても自民党には到底かないそうにない。
 また、ネット上には、4月3日の日付で、毎日新聞の調査として次のような野党協力合意の進捗状況が報じられている。
 「参院選の全国32の『一人区』のうち15選挙区(青森、宮城、山形、栃木、新潟、福井、山梨、長崎、「鳥取・島根」、山口、「徳島・高知」、熊本、宮崎、沖縄)で野党の候補一本化が確実(大筋合意)となっている。そのうち宮城・山形・栃木・新潟・山梨・長野の6選挙区で(13年の参院選の結果を基に試算すると)野党の合計得票数が自民党を上回る。
 民共両党による協議が進んでいる選挙区も10あり、統一候補はさらに増える可能性が高い。
 市民団体などが推す無所属の立候補予定者を各党が相乗りで支援する形が広がっている」と。

朝日新聞4月12日結果発表の世論調査
 
 設問に「民主党と維新の党などが合流し、民進党ができました。民進党に期待しますか、しませんか」との問い(「期待する」32、「期待しない」58)はあるが、民・共・社民・生活4党と市民連合の選挙協力については何も訊いていない。
 内閣支持率―支持45(前回比+1)、 不支持34(前回比-1)
 支持政党―自民38、民進8、公明3、共産3、おおさか維新2、その他の党0、支持政党なし34、答えない・分からない11
 参院比例区で投票する政党―自民40、民進15、公明4、共産5、おおさか維新6、生活1、社民0、その他の党2、答えない・分からない26
 安保関連法のことを判断材料として、重視しますか、しませんか 重視する54、しない32
 安保関連法に賛成ですか、反対ですか。 賛成35、反対46
 高校生の政治活動について、学校外で政治活動に参加する高校生に対して、学校が事前に届け出を求めることは、妥当だと思いますか。妥当だ43、妥当ではない42

NHK 4月11日結果発表の世論調査
 「民進・共産の選挙協力の動き」に―
   大いに評価8、ある程度評価30、合わせて38(前回1月段階「期待する」33と比べて増) 
   あまり評価しない30 まったく評価しない24、合わせて54(前回「期待しない」61)
 与党議席が増えたほうがよい23、野党議席が増えたほうがよい32、どちらといえない40
 支持政党―自民34.9、民進9.1、公明4.1、共産4.8、おおさか維新1.4、社民0.5、その他0、特になし                                                            33.1
 内閣支持率―支持42(前回比-4)、 不支持39(前回比+2)

 4野党の選挙協力については、NHKは世論調査の設問に「民進党と共産党の協力の動き」に ついて取り上げているが、朝日は依然として取り上げていない。 NHKも、安倍首相はじめ政権側が「自公対民共」という言い方をしている折から、自公に対抗して共闘・協力しようとしているのは「民進党と共産党」だけであるかにように誤解して受け取られるような取り上げ方をしているが、正確には「自公対民共生社」であり、さらに後者を「民進・共産・生活・社民4野党と市民連合」と正確に表すべきだろう。(市民連合とは学生らの「シールズ」と「ママの会」「学者の会」など市民団体が結成して、4野党に共闘を働きかけ、後押しする役割を果たしている。)


2016年04月12日

マスコミの公民知識・政治情報の提供機関としての役割りを問う

 朝日新聞は新有権者(18・19歳)対象に世論調査(2~4月)、4月8日にその結果を発表していた。
 とそこで思ったのは、このような世論調査を行う前に、彼らに政治情報・知識を充分に提供し周知してもらうことが先決だということ。
 政治の知識は新有権者に学校でしっかり教え学ばせることとともにマスコミ・メディアもきちんと知識・情報を提供した上ででなければ、ただ単に「世論調査」などを行っても「単なる意識調査」にしかなるまい(それはそれでいいんだというだろうが)。マスコミには民主社会を支える上で主権者国民に選挙権・投票権を行使するために必要な知識・情報を提供する責務がある
 そのことは、彼らに選挙権を認めたからには学校で主権者教育・政治教育をしっかり行ったうえで、その権利を行使(投票)できるようにするようにする、ということと一緒だ。
 尚、今回のこの調査では「選挙でどの人や政党に投票するか決めるのに必要な知識を、学校でどの程度教わったと思いますか」と問うているが、「十分に教わった」が3%、「ある程度教わった」が36%、「あまり教わらなかった」が43%、「まったく教わらなかった」が15%(「あまり」と「まったく」と合わせて「教わらなかった」が58%)。
 それに「選挙でどの人や政党に投票するか、自分でしっかりと判断できるという自信がありますか」との問いには「自信ある」が28%、「自信はない」が68%
 また、「選挙で投票に行かないことは、よくないことだと思いますか、必ずしもそうではないと思いますか」の問いには、「よくないことだ」が38、「必ずしもそうではない」が61で、投票に行かないのは必ずしもよくないことだとは思っていないという人の方が大半を占めいる
 マスコミは教育機関ではないが、単なる報道機関や広報機関であるだけでなく、オピニオン・リーダーとして(意図的な世論誘導やミスリードがあってはならないが)の役割があり、「社会の公器」として公民知識・政治情報を主権者・市民に提供して民主社会を支える公共機関でなければならない。
 とかくテレビやインターネット(SNSなど)で断片的・恣意的に目にする程度の生半可な知識・情報では、ほとんどイメージやフィーリングだけの判断になってしまわざるを得まい。
 この朝日18・19歳世論調査では「政治や社会の動きについて、どこから情報を得ていますか」と問うているが、その「情報源」はテレビ86%(信頼度は52%)、「ネットのサイトやSNS」58%(信頼度は8%)、新聞28%(信頼度は9%)、「学校の授業や先生」26%(信頼度は7%)、友人11%(信頼度は1%)。
 調査で政党支持や「どの政党に投票するか」など問われても、それらの政党はそれぞれ、いったいどんな基本理念・基本政策を持っているか(特にその党はどんな憲法観、現行憲法に対してどんなスタンスを持っているかは、その党の性格を推し測る指標だろう)、それが解っていなければ判断のしようがないわけである。
 今回の調査では「いま、どの政党を支持していますか」の問いでは、自民20 民主5 公明2 共産1 維新1 おおさか維新1 元気1 その他の党0 支持政党なし64 「答えない・分からない」5。「支持政党なし」と「答えない・分からない」合わせて69%で大半を占めているということだ。
 参院選の比例区では、仮に投票するとしたら、どこに投票したいかの問いには、自民46、 民主18、公明4、共産2、維新2、おおさか維新5、元気2、生活1、新党改革1、その他の党9、「答えない・分からない」17。
 支持する党・投票したい党ともに突出して多いのは政権党。それはテレビや新聞が、国政を担当する首相や大臣・予党幹部の発言や行動に格別注目して焦点をあて、たえず映像露出時間と記事スペースを割くので、それをちょっとでも見聞きする人々には、政権党の彼らが野党の党首や議員を差し置いていかにも一生懸命やっているかのように印象付けられて、この党になんとなく「支持」を寄せ「投票したい」となるのが当然と言えば当然なわけである。しかし、その自民党は改憲を党是としていて、現行憲法の9条をはじめとして全面的に変えてしまいたくてやっきとなっている政党なのだ。
 ところが、この世論調査では「憲法9条を変えるほうがよいと思いますか、変えないほうがよいと思いますか」には、「変えるほうがよい」が20 、「変えないほうがよい」が74 
 「集団的自衛権を使えるようにしたり、自衛隊の海外活動を広げたりする安全保障関連法に賛成ですか、反対ですか」では「賛成」41、反対50
「いまの日本の憲法は、全体として、よい憲法だと思いますか、そうは思いませんか」では、「よい憲法」が59、「そうは思わない」が30。
 「いまの憲法を変える必要があると思いますか、変える必要はないと思いますか」には、「変える必要がある」が33、「変える必要がない」57

 いずれも、自民党が改憲を目指している政権党で、それに圧倒的に支持を寄せていながら、現行憲法を「よい憲法」で、「変える必要はない」と思っている人のほうが大半を占め、9条を変えることには反対な人のほうが圧倒的に多い。これはまったく矛盾しているが、それはいったいどっから来ている現象なのか。
 それはやはり、各政党はどういう基本理念・基本政策・憲法観を持ち、現行憲法に対してどういうスタンスをとっているのかが年若い有権者には充分解っていないところからきていることは明らかだろう。
 そこには主権者教育・政治教育の不徹底という学校の責任もあろうが、マスコミが有権者に対して公民知識・政治情報の提供機関としての役割を十分果たしていないという責任もあるのではあるまいか。
 支持政党や投票先を問うなら、それぞれの政党の基本理念・基本政策・憲法観(現行憲法に対するスタンス)等を整理・解説した記事を掲載して、それらを有権者が周知するようにすべきなのだ
 選挙前に一回だけ配布する選挙管理委員会の選挙公報(候補者の氏名・経歴、候補者および政党の政見をなど、原稿は候補者本人・その政党自身が書く)とは別に、新聞が各政党それぞれの基本理念・基本政策・憲法観などを偏見なく客観的な立場で正確に解説した一覧票を適宜掲載して然るべきなのでは

 尚、今回の調査の設問に「アメリカが好きですか、嫌いですか」「中国が好きですか、嫌いですか」「韓国が好きですか、嫌いですか」などと問うているが、こんなことを訊いてどうするのか、だったら何だというのか、嫌いだったら付き合うなとでもいうのか。否、それは単なる意識調査だから、というのであれば、それはAKB48の「総選挙」(人気投票)と変わりあるまい。

2016年04月27日

「野党4党・市民連合」を選択肢に

 北海道5区の補選は「与党・大地連合」対「野党4党・市民連合」の対決となり、接戦で、野党・市民連合候補が善戦・惜敗した(無党派層は7割が野党・市民連合候補に投票)。
 生活の党代表の小沢一郎は「各党の微妙な温度差を感じとり、国民の目には安倍政権に代わり得る選択肢になっていないと映った可能性も否定できない」とコメントしたとのこと(朝日)。しかし、同日(4月25日)の朝日社説(「衆院補欠選挙、与野党接戦が示すもの」)では「夏の参院選に向けて、32ある1人区で共闘の動きをさらに広げるべきだ」「政治に緊張感をとり戻すためにも、自公連立政権に代わりうる、もう一つの選択肢を確かな形にできるかが問われる」としている。
 民進党の安住国対委員長は「乗り越えないといけない課題はたくさんあるが、野党統一候補でたたかえば、衆院選でも十分威力を発揮することははっきりした」と。
 参院選1人区での共闘の動きは、現段階で、統一候補擁立が山形県(舟山やすえ元参院議員を無所属の統一候補に)も含めて18選挙区で実現しており、今後も増える見込み。
 なによりも問題なのは、北海道5区補選に見られたように、「無所属」として立候補すると、公職選挙法で、政党所属候補に対して差別扱いを受ける(政見放送ができず、選挙カーや法定ビラの枚数などで制限を受ける)、という不公平であり、その法改正が緊急に必要とされること。
 改憲派候補を落として、改憲派議席3分の2当選を阻止できるか否かの選挙が懸っている。

2016年05月01日

自衛権と国家緊急権(加筆版)

(1)日本国憲法は9条1項に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決付する手段としては永久にこれを放棄する。」2項に「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と定めているのだが、実態は「自衛隊」を保有し、その実力は世界有数 。自衛隊といっても、安倍現政権は、今や(昨年の閣議決定と新安保法制で)個別的自衛権にとどまらず、集団的自衛権の行使まで限定的にではあるが容認し、実質改憲から、さらに明文改憲まで企図している。
 そこで、これらの問題を考えてみたい。

●そもそも「自衛」とは、自らの生命・権益を武力(暴力装置)で守ること自衛権とは、その正当化であり、武力(他者への暴力)の正当化―なのだが。
 国際法では―国連憲章51条に「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間個別的又は集団的自衛権固有の権利(フランス語版では「自然権」)を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟国がとった措置は直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない。」
 (第一次~第二次大戦後、自衛権行使と国連による不正な武力侵攻・武力攻撃に対する軍事制裁以外は禁止。自衛権行使も、安保理事会が措置をとるまでの間に限った暫定的なもので、集団的自衛権はもとより個別的自衛権も例外的なものとされているのだ。国連は、国連の目的に軍備を利用する以外には、国ごとの個別的な軍備は制限・縮小するなど軍備の規制を目指している。)
 国連憲章51条には、このような自衛権の規定の仕方で、時限的・暫定的な消極的な権利として定められており、それによってすべての国が自動的に拘束されるとか、常に国内法に優越するなどという定めにはなっていない。(同憲章の武力行使・威嚇の禁止規定、根本的な人権を保障した条約や国際人道法などの強い「義務」を定めた国際法規の場合は、いずれの国も拘束されるが、自衛権に関するこの規定は、そういうものとは違う。また「個別的及び集団的自衛権は固有の権利」だからといって、無理やりその権利を行使し、その法規を実施しなければ国際法違反になるというものでもないわけである。
 国連国際法委員会が2001年採択した国家責任に関する条約案(『国家責任条文』)21条でも、(個別的自衛権の場合も)「自衛は権利ではなく違法性阻却事由」ということで、それは、本来は違法な武力行使なのだが状況から判断して違法性が取り除かれる(免除される)行為として認められるにすぎない、といった規定の仕方になっている。「権利」だからといって乱用してはならない(そもそも権利ではない)というわけ。乱用―「先制的自衛」と称して先制的に使われがち(例:同時多発テロ→アフガン攻撃)
 自衛権なるものは、こうしてみると現行国際法上、国々の権利として積極的に認められているとは言い難く、やむを得ざる場合に限られた限定的な権利なのだ
 自衛権行使に必要とされる3要件―1837年、英領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍が物資運搬に利用した米船籍のカロライン号を英軍が破壊、米側の抗議に対して「自衛権の行使だ」と主張した英側に米国務長官ウェブスターが提起(「ウェブスター見解」)①急迫不正の侵害があること、②他に、それを排除して国を防衛する手段がないこと、③必要な限度にとどめること
 ●集団的自衛権―国連憲章には定義や行使要件など一言も書かれていない(意味内容の不明な概念)―自然権ではない
 同盟政策―特定の仮想敵を念頭(想定)―敵対関係を潜在的に抱え込む―集団安全保障とも本来の自衛権(個別的自衛権)(仮想敵を想定しない)とも論理構造を全く異にする。
 集団的自衛権とは、本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎないのだ。
 第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。
 (安倍内閣が前に任命した小松内閣法制局長官も、国会答弁では「集団的自衛権は、国際法学者の一般的見解としては、自然権的なものではなく、国連憲章によって創設されたものであるという見方が一般的だ」としていた。)
 要するに、個別的自衛権なら、個人の正当防衛権と同様に、「自然権」・「固有の権利」と言えても、集団的自衛権はそもそもが「固有の権利」などではないのだ、ということだ。
 このように、集団的自衛権とは、そもそもが軍事同盟を合理化するものであり、軍事同盟は、国々を戦争に巻き込んだという、とりわけ第一次大戦の苦い経験から、望ましくないものとして否定されてきたものなのだ。(セルビアの一青年がオーストリア皇太子を暗殺したことをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦したが、双方それぞれの同盟国が次々と参戦し、日本までが日英同盟のよしみで参戦、世界大戦となった。)

 以上のことから確認できることは、日本国憲法9条と国連憲章51条とのあいだに矛盾はないということ。(国連憲章で個別的自衛権・集団的自衛権ともにみとめているのに、日本国憲法でそれらの行使を認めないのはおかしい、ということにはならない。)
 9条と自衛隊・日米安保条約には、歴代政権は矛盾はないとし、最高裁もそれらが違憲だとは判断はしてこなかった。しかし、9条と自衛隊・日米安保の現実には乖離があることは事実だろう。とりわけ安倍現政権による集団的自衛権の行使容認と新安保法制はその極限を越えるもの。そこで、9条と現実との乖離を解消すべきだとして、次のような改憲論が説かれる。
 いわゆる「護憲的(平和主義的)改憲論」「リベラル改憲論」―改悪ではなく「改正」だとして「新9条」論
  中島岳志―「人間は不完全で、暴力性を持たざるをえない。国際秩序を維持する上で、一定の軍事力が必要」
  井上達夫―「自衛隊は『戦力でない』から合憲だ、というのは欺瞞」
  小林節
  今井一 ―「護憲派の欺瞞性」を指摘 
  加藤典洋
  伊勢崎賢治
  田原総一郎―集団的自衛権の「新3要件」も容認
  池澤夏樹
 これらはいずれも、自衛隊の存在を明記し、専守防衛に徹すること、個別的自衛権の行使には交戦権を認めるも、集団的自衛権の行使は(田原氏を別として)認めないことを明確に定めて、拡大解釈の余地のないようにして歯止めをかける、というもの。

 しかし、9条からの乖離をただすため、9条の方を改正して現実に近づけるべしという改憲論は、本末転倒。
 文芸評論家の斎藤美奈子氏は、その9条改憲論のデメリットを次のように指摘している。「私が官邸の関係者なら『しめしめ』・・・・『意外と使えますよ、総理』『だな、改憲OKの気分が先ず必要だからな』・・・・現行の条文でも『地球の裏側まで自衛隊を派遣できる』と解釈する人たちだ。条文を変えたら、おとなしく従うってか。・・・・『あとは新9条論者と護憲論者の対立を煽るだけですよ、総理』『だな、もう新聞も味方だからな』となるでしょう」と。つまり、これら「リベラル改憲論」はいずれも「もっともらしく」はあっても、「他に解釈の余地がないように」どんなに細かく規定したところで、解釈の余地は残るもの。(現行9条では、あのように明確に、はっきりと規定しているのに、それでさえも、都合のいいように解釈されてしまっているのだから。)それに、これらの改定案は個々には(単独では)国会で取り上げられても発議に必要な3分の2以上の賛成は到底得られず、結局は安倍自民党の主流改憲案の方に押し切られるか、取り込まれはしても都合よく利用されるだけになってしまうだろう。また護憲派・安保法反対派を分断す結果にもなるだろう、ということだ。

 井上教授らは「9条のため憲法上『戦力』は存在しないことになっている。だから戦力を統制する規範がない」などと、現存する自衛隊に対して歯止めが必要だとして9条2項削除を主張しているが、「歯止め」は9条2項(戦力不保持・交戦権の否認)そのものが究極の「歯止め」なのであり、その歯止め(統制)を弱めてきたのは、「憲法尊重擁護義務」に不忠実な政権のせいなのであって、9条自体のせいではあるまい

 自衛隊の設置と統制は、警察・消防などと同様に、憲法に定めはなくても、自衛隊法など法律で規定すれば、事足りるはず但し、その法律は憲法の規定(9条)を逸脱してはならない。自衛隊は、歴代政権によって「必要最小限の実力」であることには変わりないとして増強されてきたが、安倍現政権によって集団的自衛権の行使を容認する新安保法は極限をはみだしている。そこが大問題なのだ。
 自衛隊の実力は「必要最小限」といいながら、当初の「軽武装」からかけ離れ、今やイージス艦や大型ヘリ空母、ステルス戦闘機などを保有し、そのうえ核兵器さえ「持とうと思えば持てるのだ」としているが、それらは装備・その規模など物理的な能力のレベルだけから見れば世界有数の「立派な戦力」には違いない。それ自体、9条の「戦力不保持」に反していると見ざるをえない欺瞞性があるには違いないが、それは9条の規定のせいではなく、それを悪知恵・詐術を弄して都合のいい解釈を積み上げ、増強を積み重ねてきた政権とそれを容認してきた与党のせいであり、その好戦的な軍事志向と憲法に対する不忠実と狡さ(悪いのは9条だと責任転嫁)にあり、その方が問題なのである。それでも(自衛隊はその実力・能力のレベルから見れば世界有数の軍事力だとは言えても)、「軍隊」とは言えない他国の軍隊との決定的な違いがある。それは9条によって交戦権が認められていないことである。それが決定的な歯止めになっており、この9条がある限り、自衛隊はどんなに強大でも戦争はできないことになっているのだ
 万一、急迫不正の侵害・武力攻撃事態が発生し、全国民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府は急きょ超法規的な「国家緊急権」を発動して憲法(9条)を一時停止し、自衛隊に交戦権を付与して戦わせるしかないわけである。
 次に、その国家緊急権なるものについて論及。

(2)国家緊急権の問題―4月19日、朝日新聞(オピニオン&フォーラム欄、「憲法を考える―国家緊急権」)に掲載された槁爪大三郎・東京工大名誉教授の見解。
 「おりしも大災害や戦争・テロなどの非常時に政府の権限を強める国家緊急権を憲法に位置づけるかが国会で議論になっている」が。
 国家緊急権とは想定外の(例えば「大量の放射性物質が漏れ出し、それが首都圏に向かっており、関東全域の住民を48時間以内に強制的に域外に立ち退かせる」などといった緊急事態に見舞われた場合など)非常事態に遭遇し、災害法制や緊急事態法制など予め用意された法令では対応しきれないという事態に際して、憲法が保障する国民の自由や権利を制限する法律など作っている暇がなく、すぐに政府が行動しないと、国民の生命や安全を守れないし、社会秩序も維持できないという場合に、政府が超法規的に行動する権限のこと。その国家緊急権は、そもそも主権者である国民が、自分の生存や安全を守る権利に基づくものであり、その権利は人間の自然権(憲法成立以前に、人間が生まれながらにして有する生存に不可欠な固有の権利)に依拠しており、憲法や法律よりも根源的なもの。主権者・国民は自らの権利を守るために、お互いに契約を結んで(憲法はその契約書)政府をつくり、その政府に権力を付与して(授権)安全や秩序を確保し、自らの権利・自由を保障してもらう。その政府が、もしも権力をほしいままに不当に(憲法を逸脱)行使して人民の権利を侵害したら、人民はそれに抵抗できる(抵抗権)が、緊急事態に見舞われて人民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府が平時の憲法や法律に基づかず、超法規的な権限を行使してでも、必要で適切な措置・行動をとるのは、権限である以上に国民への義務としてやらなければならないこととして人民にとってそれは受け容れられる、というものだろう。そのような国家緊急権の行使は正しい(国家緊急権正当化の根拠)としても、「憲法違反」「法律違反」には違いない。そこで、それが果たして必要やむを得ないものだったのか、それとも恣意的で不適切だったのか、その時の政府の行動を事後に(立法府の国政調査権によって)検証することが必要不可欠となる。その検証によっては、政府(その首脳)は政治責任あるいは刑事責任(「100人救ったが、10人死んだ」などと過失責任)が問われなければならないことになる。政府にはその覚悟なしに国家緊急権は行使すべきではない。
 だからといって、自民党改憲草案のように、予め憲法に「緊急事態条項」など盛り込むというのは賢明ではなく、弊害にもなる。なぜなら、それでは政府の国家緊急権の発動が「憲法違反」に問われることもなく合法的になってしまい、事後の検証も政府の追及も安易なものとならざるを得なくなり、その(緊急権の)乱用を許してしまう結果になる。それにダムにあいた穴のように、憲法秩序を掘り崩してしまう結果にもなるからだ。
 大日本帝国憲法には天皇が国家緊急権を行使する非常大権・緊急勅令権・戒厳大権も定めらいたが、規定が曖昧で、日比谷焼打ち事件・関東大震災・2.26事件で緊急勅令に基ずく行政措置として戒厳が実施された以外には、いずれも発動されたことはない。
 しかし、当時、世界で最も民主的な憲法と思われていたドイツのワイマール憲法にも国家緊急権の条項が大統領の非常措置権限として定められていて、ヒトラー(首相で少数派内閣だった)は大統領(ヒンデンブルグ)にそれを乱発させて国会を形骸化し、しまいには全権委任法を通して完全に独裁権を掌中にし、憲法を事実上葬り去った。これが最悪の結果を招いた典型例。

  橋爪教授は9条と自衛権については言及していないが、武力攻撃事態(急迫不正の侵害)に際する国家緊急権の発動・行使も考えられよう。
 自衛隊に憲法9条では認めていない交戦権を急きょ付与して戦えるようにする、という措置(9条の一時的停止)を断行するなど。
 そうであれば、改憲して9条を削除するとか、新規定を設けて「自衛隊を明記して、集団的自衛権の行使は認めないが、個別的自衛権の行使には交戦権を認める」などと、(「中国が脅威だとか北朝鮮が暴発するかもしれないから」といって、わざわざそれだけの理由で)改憲する必要などないわけである(仮にそれらの武力侵攻があれば、その時は国家緊急権の発動―9条は一時停止―という非常措置で対処、ということになるのだから)。
 「新9条」で、中島岳志教授の言うように「自衛隊はどこまでやるべきか、何をしてはいけないかを明示」したり、いくら拡大解釈の余地のないように細かく定めても(現に自衛隊法など安保法で定めているリストでも)、それらは歯止めになるよりは、かえって、「合憲・合法なのだから」と安易になってしまい、やろうと思えば何でもやれてしまう結果になりやすい(例えば「集団的自衛権は行使しない」と定めても、「フルスペックではなく、限定的ならできる」などと意訳されてしまう)。

 こうして見てくると、自衛権(集団的自衛権は別として)も国家緊急権も、憲法には規定はなくても、個々人の「正当防衛権・緊急避難」の権利などと同様に、人間が生まれながらにして持つ生存に不可欠の自然権を根拠として正当性が認められる論拠となり得るわけだ。

2016年05月30日

オバマ大統領に求められるのは自国民に“No more・・・・”を言える勇気(再加筆版)

●オバマ大統領は広島(原爆死没者慰霊碑前)でのスピーチで、次のようなことを述べた。
 「空から死が降りてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 1845年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うこと(”to fight complacency")を可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします。
・・・・・。米国と日本は同盟だけでなく、私たちの市民に戦争を通じて得られるよりも、はるかに多くのものをもたらす友情を築きました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 ・・・・・私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性を減らすことができます。私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます。」と。
 その後で安倍首相は次のようなことを述べた。
 「熾烈に戦い合った敵は70年の時を経て、心の紐帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれる同盟国となりました。・・・・・。日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に対して心から敬意を表したい。・・・・核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうと・・・・努力を積み重ねていくことが、いまに生きる私たちの責任であります。」と。

 しかし、彼らの「勇気」は、広島に来て、こう言うのが精一杯。真の勇気は核兵器も戦争も「率先して放棄する」こと。そしてそれを自分が生きている間に、できれば最後の被爆者が生きているうちに実現することなのでは?
 国連総会で採択されている核兵器禁止条約に関係するいくつかの案には(中国・北朝鮮まで大多数の国々が賛成しているのに)アメリカは反対、日本は棄権し続けている。昨春のNPT再検討会議でも、今月スイスで開かれた国連の核軍縮作業部会でも、非核保有国グループが提案した核兵器禁止条約の国際交渉を求める決議案には「時期尚早」として賛同しなかった。(期限を切った「禁止」ではなく、期限を切らずに「段階的に」削減・縮小したほうが賢明だと。それに核兵器使用が国際法違反だとは一概に言えないとし、安倍内閣は、それは日本国憲法9条2項で禁止されている「戦力」には当たらず、保有も使用も憲法違反ではないとさえも表明している。)
●オバマ大統領にとっては、広島に来て「人の好い」日本人に向かって原爆や戦争のことを話すのにはさほど「勇気」なんか要らないし、或いはロシアや中国・北朝鮮・イランなどに対して相手国の核・軍備に対して縮小・放棄せよと強気に出て要求するのは、そんなに「勇気」の要ることではあるまい。大変なのは、トランプ大統領候補などに熱狂する好戦的な(というと語弊があるが、その歴史―先住民インデアンに対するヨーロッパからの白人入植者、本国に対する独立戦争と建国、アフリカからの黒人奴隷、諸地域からの移民、その間の抗争―から「武力で相手を従わせ、武器で身を守る」という風習いわば武器・武力依存体質が互いにしみつき、諸個人は銃に、国は核兵器にしがみついて手離せなくなってしまっている)自国民を説得する勇気だろう。自国の彼らに向かって“No more war” “No more Hirosima・Nagasaki”(「戦争はもうよそう」「核兵器は廃棄しよう」)と。それを言える勇気こそ本当の勇気というものだろうが。
 大統領選の共和党候補トランプ氏は、オバマの広島訪問を「謝罪しない限りは結構」といい、その有力応援者(ペイリン)は「私たちが始めたわけでもない戦争を、米軍が(原爆投下によって)終わらせた」のだと。
 スタンフォード大学のスコット・セーガン教授が実施した世論調査で「仮に米国とイランが戦争になった場合、2万人の米軍犠牲者が出る恐れがある地上侵攻と、イランへの核兵器使用で10万人を殺害し、降伏に追い込むことのどちらを選択するか」との問いに59%が「核兵器を使う」と答えたとのこと。それが米国民の意識なのだ。その自国民を教化・説得する勇気こそが求められるのだ。
●オバマ大統領は「広島・長崎は道徳的に目覚めることの始まり」とも述べた。
 原爆投下は「戦争を早く終わらせ、多くの米国人の命を救った」などと正当化されてきたし(それこそが"complacency"「自己満足」なのでは?)、核兵器の維持・開発・高度化―オバマ政権下で計画されている「スマート核兵器」開発、それに今イラクやシリアで行われている空爆―数多の民間人まきぞえ、大量難民を追い返すのも同様に、それを正当化する論理(理屈・言い訳)はいかようにも立てられるが、市民・住民の大量犠牲は道徳的には決して許されることではなく、謝罪すべき所業であることには間違いない。その気持ち(道徳心・罪の意識)の乏しい国民やその指導者は同じ過ちを繰り返す。そして、その度に言う言葉は「しかたなかった、そうするしかなかったのだ」などという言い訳になるのだろう。
 人間関係において寛容や「許し」或いは和の精神は必要。しかし、そこには「けじめ」というものがある。すなわち道徳的な(善悪の)判断で悪かったなら「悪かった」と謝罪・償いが必要不可欠で、それ(道徳的な判断と謝罪)を曖昧にしたまま、ただ「水に流す」とか「気にしない」「無かったことにする」というのは、ご都合主義でしかあるまい。その謝罪(形はどうあれ、その心)なくして許しも寛容も和解もあり得ず、互いの関係はその時々の利害・打算(有利か不利かの都合)によって支配され、安定的な信義・信頼関係も真の友情も築くことはできないことになる。
 非を犯した相手に謝罪(の心)がないかぎり、恨み・怒りの情念は消えず、厳しく追求して非を認めさせ、謝罪を求め続けなければならないわけである。
 それをせずに、相手の非をうやむや・曖昧にして済ます無原則な寛容・宥和のまずいところは、その甘さが自分に対してもそうなってしまうことだ。自分が犯した過ち・非道・(アジア・太平洋諸国民に対する)加害責任を厳しく反省することなく、あいまい・うやむやにして済ますという結果になってしまう。だったらお互い様だからいいではないか、といって済まされることでもない。互いに不問にして無反省で済んでしまえば、同じ過ちを再び繰り返すことになるからだ。
 現に、広島・長崎市民が原爆投下で悲惨な目にあっていながら、そのアメリカの核兵器(核の傘)で守ってもらうとか、日本がアメリカから守ってもらいたければ基地経費は100%日本に負担させるべきで、さもなければ撤退させるまでで、日本が独自に核武装するならそれでもかまわない(トランプ発言)、といったように双方ともに「ご都合主義」を通している。
 日本国憲法前文には「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは・・・・・、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」とあるが、この憲法制定後、現在に至るまで、日米関係は今なお対等な「トモダチ」関係にあるとは言えず、アメリカ側には「上から目線」、日本側には卑屈な「下から目線」があることは、安保条約・日米地位協定など沖縄基地問題を見ても、それは否めまい。

 原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という日本語の言葉には主語がないが、英文の説明板では“we shall not repeat the evil”となっていて、その”We”とは日本人とかアメリカ人とか特定の国民ではなく「人類」を指しているといわれる。それにしてもオバマ・スピーチの「死が空から降ってきた」という言い方は、文学的ではあっても他人事に聴こえる。それを言うなら主語を明確にしてアメリカ(時の大統領の命令で米軍機)が「降らせた」と言うべきなのだ。真珠湾(米軍太平洋艦隊の軍港)に奇襲攻撃(死者2,400人、大部分は軍人兵士、民間人は57人)をかけて戦争をしかけたのは日本軍だが、広島の無辜の市民(死者14~20万人)の頭上に原爆を投下したのは一機の米軍機(エノラゲイ)で、投下命令を与えたのはアメリカ大統領だったのだから。
 オバマ大統領が広島を訪れてスピーチしたその場には、(アメリカが現在保有する6,970発の)核兵器の核基地に発射命令を伝える通信装置(核のボタン)を持って大統領に同行し付き添う将校が控えていたのだ。その「核のボタン」はあと数か月もすればトランプかクリントンのどっちか次期大統領に引き継がれるわけだ。

 広島県被団協理事長の佐久間邦彦氏は次のような感想を述べている。
「オバマ大統領は・・・・核兵器廃絶の目標を、自分が生きているうちに実現できないかもしれないと言いました。これでは平均年齢が80歳を超す被爆者は核廃絶を見届けられません。・・・・核兵器廃絶は人道的観点からも究極的課題ではなく緊急の課題です。私たちが、今回の訪問で謝罪を求めなかったのは、核兵器廃絶に向けた具体的な道筋を示して欲しかったからです。その道筋が示されれば、私たちは納得できます。」と。
 大統領は原爆資料館で記帳して”Let us now find the courage,together,to spread peace and pursue a world without nuclear weapons"「共に平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と書いて行ったが、それを書くなら”I must have the courage to realize a world without nuclear weapon in my lifetime"「私が生きている間に、核兵器のない世界を実現する勇気を持たなければ」と書くべきだったろう。
 


2016年06月21日

自衛権はあっても交戦権はない

 自衛権は国際法上(国連憲章51条で個別的自衛権・集団的自衛権ともに)どの国にも認められている国家固有の権利ではある。
 ところが、我が国憲法は、9条1項に国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力行使を国際紛争解決の手段として用いることを放棄し、そのために2項に陸海空軍その他の戦力は保持しないと定めた。
 そこで政府は、武力と戦争は国際紛争解決の手段としては放棄しても、急迫不正の侵害に対する自衛権そのものまで放棄してはいないとして、そのために必要な「最小限の実力」(自衛力)組織として自衛隊を保持してきた。それにアメリカからも守ってもらうためにと、米軍駐留と基地を認める日米安保条約を結んできた。そして今や限定的ながら自衛隊が米軍をも守る集団的自衛権までも認められるのだと拡大解釈するに至っている(我が国の憲法上は、「自国に対する急迫不正の侵害」に対する自衛権すなわち個別的自衛権の行使なら認められても、我が国と密接な他国への侵害・攻撃に対する自衛権すなわち集団的自衛権の行使まで認めることはできない、というのがこれまでの政府解釈であった。それが、その危険が我が国にも及ぶ―即ち「我が国に対する急迫不正の侵害」ともなる―と見なされる場合なら集団的自衛権も行使できると解釈を変更。
 しかし、そもそも、個々人の正当防衛権(暴漢に襲われて、とっさに抵抗し防戦する権利)は自然権(国家成立以前に―国法や憲法の定めに関わらず―全ての人間に生まれながらにして備わる当然の権利)と見なされるが、国家の自衛権までも自然権だとは言えまい。国連憲章(51条)では国家に「固有の権利」として認められているからといって、それが憲法など国内法の定めにはとらわれることのない自然権として国家に備わる当然の権利だとは言えず、憲法で放棄することがあって然るべきなのである。また、憲法の9条1項は武力と戦争は国際紛争解決の手段としては放棄しても、急迫不正の侵害に対する自衛権そのものまで放棄してはいないと解釈して、自衛隊を専守防衛のための備えとして保有し、災害出動や領海・領空の警備(侵犯の阻止・排除)などの活動は認められるとしても、2項の後半に「国の交戦権は認めない」との定めがある限り、自衛戦争といえども、国権の発動たる交戦はできないわけである。ましてや自国が攻撃されてもいないのに、同盟国など親密な関係を結んでいる国が攻撃されて自国にもその危険が及ぶからといって集団的自衛権を理由にして、攻撃したその国に対して防戦・反撃行動に出、その国から「戦争を仕掛けた」先制攻撃と見なされるがごとき行為が許されるはずがない。
 2項の「国の交戦権は、これを認めない」との定めはその意味で自衛隊の活動に対する「究極の歯止め」なのである。 

 というのが当方の考え。ところが、防衛省の考えでは「交戦権は戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であり、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国領土の占領などの権能を含むものである(つまり、それら殺傷・破壊・占領行為などを行うことができる権利)」とし、「自衛権の行使として相手国兵力の殺傷・破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷・破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである(但し、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を越えるものと考えられ、認められない)」として都合よく解釈している。しかし、憲法(前文・9条)の文脈からすれば、「戦いを交える権利」すなわち「戦争を行う権利」であることは明らかであろう。9条2項はその意味での「国の交戦権」を認めないとしているのである。すなわち国が戦争を行うことはできないのだ。仮にもし、同じ「殺傷・破壊行為」であっても「自衛権の行使」は「交戦権の行使」とは「別の観念」で、交戦権行使としての殺傷・破壊行為は認められないが、自衛権行使としてならそれ(殺傷・破壊行為)は許される、ということだとすれば、北朝鮮も自衛権行使として、その3要件(急迫性・必要性・均衡性)に適っていれば、アメリカ・韓国・日本に対して核やミサイルを用い、或いは先制攻撃(「先制的自衛権」)も認められることになるのでは?。アメリカのアフガン攻撃・イラク攻撃もその名目で行われたのだが。いずれにしろ、「自衛権の行使」なら許される、というわけにはいかないだろう。憲法9条の下にあるこの日本にも、そのような自衛権行使が認められるとするのは、とても無理なのでは。  

 尚、抵抗権というものがあるが、それは人民の人権(生命・自由・幸福追求権など)を保障し守るため権力を与えたはずの政府が暴走して人権を毀損するようになった場合には人民は政府に抵抗し、政府を変えることができるという権利である(革命権とも言われる)。それも自然権である。
 この場合の抵抗権は自国政府に対する抵抗であるが、他国の不当な侵害・侵略に対するレジスタンスも人民の当然の権利と見なされるだろう。
 武装権―市民が武器を保有し、携帯する権利―米国では独立戦争で建国して以来、憲法上の権利となっている(合衆国憲法修正条項第2条)―これが今も、この国で銃乱射事件など殺人事件が絶えない原因となっている。このような武装権が自然権でないことは無論のこと。
 平和的生存権―戦争の恐怖を免れ平和のうちに生存する権利―これを憲法前文に(「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する」と)明記しており、そのうえで9条に戦争放棄と国の交戦権否認を定めているのである。これは人が生まれながらにして持つ自然権というべきものだろう。(そもそも人間には原始人類以来「闘争本能」などない。)

 要するに、個々人の正当防衛権、人民の抵抗権、個々人の平和的生存権は自然権で当たり前の権利だと言えるが、国の自衛権・交戦権、個々人の武装権はそうではないのだ、ということである。


2016年06月23日

安倍首相の「民共共闘」批判について―対応する論の立て方(加筆版)

 「民共共闘」批判―それは、民進党と共産党とは理念も基本政策も違うのに、安倍政権に反対なだけで手を組むのは、無原則・無責任な「野合」にすぎない、というものだが、その場合の論法は「共産党は日米安保条約の廃止と、自衛隊を憲法違反と見なしてその解散を主張している党なんですよ」といって共産党をやり玉にあげて批判するやり方だ。
 それに対する共産党側の弁明は、日米安保条約(廃棄)と自衛隊については、そういう考え(日米安保は日米友好条約に切り替え、自衛隊は将来的に全ての国と平和的な関係をつくったうえで国民の合意のもとに段階的に解消するという考え)を持ってはいるが、今はそれは横に置いて、目下直面している焦眉の課題は安保法制の廃止と立憲主義回復の問題であり、そのために憲法をないがしろにし安保法制を強行成立させた安倍政権を打倒しなければならないという大義で一致する野党同士が共闘・協力すると言うのは「野合」なんかではない、というものだ。しかし、自公側は、今、北朝鮮の核・ミサイルや中国の脅威に晒されているこの時に日米同盟の強化は不可欠であり、又相次ぐ自然災害に出動して大いに役立っている自衛隊は必要不可欠なのに、それを解消・「解散」すべきだと考えているのが共産党だ、と言い立てる。
 このような安倍政権与党側の野党共闘批判に影響される有権者は少なくないだろう。

 どっちの言い分が納得し易いかといえば、それは一見して安倍政権与党側の言い分の方が尤もで、共産党の言い分はどうも解りにくく苦しい弁明のように思う向きも少なくあるまい。(違憲だというなら、熊本への自衛隊出動に反対しないのはおかしいのでは?などと安倍首相をはじめ「矛盾」を指摘する向きも。)
 共産党側の言い分は、憲法(9条)解釈としてはハッキリしていて正論だと思える。憲法学者も自衛隊を違憲と考える学者が大勢を占めている。(15年7月11日朝日新聞社による憲法学者へのアンケートでも、それは明らか―209名中122名が回答―「現在の自衛隊の存在は違憲と考えるか否か」の問いに対して「違反にあたる」は41%、「違反にあたる可能性がある」は22%、「違反にあたらない」は23%、「違反にはあたらない可能性がある」は11%。尚、「9条の改正についてどう考えるか」の問いには、「改正する必要ない」は83%、「改正する必要ある」は5%)
 しかし、自衛隊は今では国民の大方から災害出動或いは領海・領空侵犯に(海上保安庁と共に)対応する警備活動などではなくてはならない存在と見なされている。それならそれと初めから「災害救援隊」とか「国土警備隊」として設置すればよかったものを、日米安保条約と結びついた(米軍を補完する)軍事組織として設けられて、その方が本務(「主たる任務」は「国の防衛」)とされ、災害派遣などはあくまで副務(「従たる任務」)として運用されてきたにすぎない。そうして自衛隊は軍事を禁じている憲法9条と矛盾する存在となってきた。その矛盾を完全に解消するには9条(2項)を変えるか軍事組織としての自衛隊を解消(改編)するか、どちらかしかないわけである。
 さて、そのどちらにするか。自民党の考えは9条のほうを変えて自衛隊を名実ともに軍隊として認められるようにするという考えであり、共産党は自衛隊の方を解消しても9条を守り通すという考え。自民党の方は9条を変える、共産党は変えない、という違いはあるものの、9条と現在の自衛隊の在り方には矛盾があるとの思いは憲法学者はもとより自民党も共産党も民主党その他どの党も大なり小なり矛盾を感じており、自民党も自ら創設して運用してきた自衛隊の在り方が現行憲法9条との間に全く矛盾がなく完全に合憲だとは言い切れず、自衛隊をそのままにしておくのには無理があるとの思いがあることは確かで、だからこそ憲法(9条)を変えなければとやっきになっているわけである。そう考えると自衛隊を憲法違反だと思っているのは共産党だけで、同党だけが自民党その他とは異なる特異な考え方をしているとはいえず、民進党が同党と組むのはおかしいとはいえまい。
 ただ、共産党に求められるのは、自衛隊解消と言う場合、災害出動なども含めて丸ごと廃止するのか、それとも軍事機能以外は残して災害救助隊・国土警備隊などに再編するのか、「段階的に」というからには後者の方を考えているのかもしれないが、それならそれと、そのことを明らかにしてはっきり言明すべきなのである。さもないと、憲法解釈としては(現在のような)自衛隊は違憲だというのは正論ではあっても、現実に災害出動や領海・領空警備活動になどに役立っている自衛隊の存在を全否定していると受け取られ、自衛隊はまるっきり要らないということでは、多くの国民は納得し難く、支持を得られないだろう。
 尚、自衛隊の存在を憲法違反だ、廃止すべきだと言っていながら、災害派遣には反対せず、万一武力攻撃や侵犯があったら利用・活用するというのでは、おかしい(むしがよすぎる)のでは、といった指摘に対しては、
 自衛隊は、1954年に、自民党の前身であった党派によって多数決で成立して以来、既にそこにづうっと存在しており、それに対して自衛隊は憲法違反だと主張してその軍事には反対していても、それ(自衛隊)に要する税金(防衛費部分)は(その支払いを拒否することもできずに―かつて小国町にある基督教独立学園の鈴木すけよし校長がその訴訟を起こしたものの受け付けられなかった、その裁判を傍聴したことがある)等しく納税している、その人たちが、災害や急迫不正の侵害に遭遇した時には、同等に自衛隊を利活用する恩恵にあずかれる(その権利がある)と思って当然なのに、「違憲だと言って反対していながら都合のいい時だけ利用しようとするのはおかしい」かのように言い立てる、そのほうがおかしいだろう。

 いずれにしても矛盾が感じられるとしたら、その矛盾は自衛隊を自らの主導で創設・拡充してきた自民党が作り出したものなのであって、創設・拡充に異をとなえてきた人たちのせいではあるまい。彼らが異をとなえてきたのは、憲法の規定に反する自衛隊の軍事的な側面であり、災害出動や国土警備活動など非軍事的役割に対してではあるまい。
 安倍自民党や改憲派は、自衛隊を憲法違反だという者は隊員の人たちのプライドを傷つけるもので、怪しからんではないか、と反感を煽っているのだろうが、自衛隊の諸君には「戦場に行って花と散る」だとかキレイごとよりも、命が大事なんだ、“Let's live in peace not to kill or die for , nothing is more important than life”といって何が悪いということだろう。

  いずれにしても、自民党は、9条は現行の2項を削除し、自衛隊を「国防軍」として正式に交戦権を持つ軍隊として、集団的自衛権の行使も無限定に認められるように文言を変えるという考え。それに対して共産党は、9条は1・2項ともにそのまま堅持するという考えで、正反対。民進党も9条改定と安倍改憲(自民党のそのような改憲)には反対であり、集団的自衛権の限定的行使を認める新安保法制の廃止をもめざしており、その点では民・共・社民・生活の党も一致しており、そこに矛盾はない。だからこそ共闘が成立しているのである。

2016年06月29日

アベ改憲派Vs反アベ改憲派の対決(加筆版)

  6月24日段階で、各紙とも(世論調査に取材情報を加味した)情勢分析の結果(朝日は自民57、公明14、おおさか維新7、合計して78―これで3分の2になる、あとは民進30、共産7という議席数獲得の見込み)を発表しているが、いずれも「改憲勢力3分の2うかがう」という見出しで序盤の選挙情勢を報じていた。さて本番はどうなるのだろう。 
 政党は一強多弱だが候補者がたくさんいて、争点も色々あって迷うし、どの党にしたらいいもんか、誰にしたらいいもんか分からない、面倒くさい、といった向きが少なくないだろう。
 新聞・テレビの取り上げ方、世論調査であげる選択肢も、選ぶ政党は10党、争点(投票先を選ぶ際に重視する政策課題)は社会保障・経済政策・消費税・憲法・外交安全保障・原子力政策(NHK世論調査はこの6つ)など色々あげて、そのうちのどれか選ばせるというやり方。
 (政党支持率―NHK世論調査6月27日ニュースでは―自民36.4、民進8.9、公明5.5、共産4.8、
 お維2.1、社民0.5、生活0.1、こころ0.1、特になし33.9
     7月4日では、自35.5、民進8.8、公5.9、共4.3、お維2.1、社0.7、生0.2、こころ0.2、特になし33.5
 比例投票先―朝日新聞の世論調査6月20日発表では―自民38、民進15、公明7、共産6、維新4、社民2、生活1、こころ0、新党改革0、その他2、答えない・わからない25
    7月4日―自35、民16、公7、共6、お維7、社1、生1、 こころ1、新党改革0、その他2、答えない・分からない24
 *NHKの世論調査は次のようなことも訊いている。
 与野党どちらの議席が増えた方がいいか―6月27日では、与党が増えた方がよい27%、野党30%、どちらと云えない37%  7月4日では、与党が増えたほうがよい26、野党が増えたほうがよい28、
どちらともいえない39  
 アベノミクスへの評価―6月27日では、大いに6%、ある程度43%、あまり評価せず33%、まったく評価せず11%、 7月4日では、大いに6、ある程度42、あまり評価せず32、まったく13
 改憲する必要があるか、ないか―6月27日では、ある26%、ない36%、どちらとも言えない32%
                      7月4日では、必要あり27、必要なし34、どちらともいえない31
 4野党連携への評価―6月27日では、大いに10%、ある程度35%、あまり評価しない27%、全く評価しない20%。7月4日では、大いに評価10、ある程度評価32、あまり評価しない29、まったく評価しない20
 尚、政策課題で「重視するのは」の答え―社会保障29%、経済政策26%、消費税12%、憲法11%、外交安保8%、原子力3%
 *朝日新聞の世論調査は次のようなことも訊いている。
  6月27日では、「自民党だけが強い勢力を持つ今の状況はよいことだと思いますか―よいことだ23%、よくないことだ59%
 「いまの野党が自民党に対抗できる勢力になることを期待しますか―期待する59%、しない32%
 7月4日では、参院選で与党が過半数を占めたほうがよいと思いますか―
                     占めたほうがよい44%、占めないほうがよい35%
   改憲に前向きな4党(自・公・お維・こころ)が3分の2以上を占めたほうがよいと思いますか―占めたほうがよい36%、占めないほうがよい41%
 いまの日本の政治にとって重要なのは、与党が安定した力を持つこと38%、野党がもっと力を持つこと43% 
 6月27日では、「安倍政権が取り組んだ政策についてうかがいます」として、賃金・雇用、国の財政再建、子育て支援、地方の活性化、沖縄の基地負担など、それぞれ「取り組みがどの程度進んでいますか」「大いに」とか「ある程度」「あまり」「まったく」のいずれか訊いている。)
 このような新聞・テレビの参院選選挙情勢の取り上げ方・世論調査の結果では一強多弱で自民党以外は皆弱く、(票を)入れても無駄、投票しても無駄であるかのように感じてしまう。
 選択肢にあげられた政策課題で今一番切実に思っているのを一つ選ぶとすれば、庶民感覚ではどうしても社会保障(年金・医療・介護・子育てなど)・経済政策(アベノミクスと称する政策・景気・雇用など)が大事だということになり、税金問題は大事ではあっても、消費税はどうかとそれだけに限定されれば、どうせそれも10%は延期ということになったし、あとは憲法とか外交・安保・沖縄基地それに原発・TPPもあるが、これらが切実だと思う人はどうしても少なくなる。一番大事なのは社会保障と経済、結局アベノミクス―アベ自民党に賭けるしかないか、と感じてしまう、そういう取り上げ方になっている。世論調査でそうしておきながら、ニュースでは「アベノミクスの是非を最大の争点とする参院選は・・・・」という報じ方をして、「争点はやはりアベノミクスなんだな」と思わせるやり方だ。。
 しかし、本当はどうかといえば、次のように思う。
 選ぶのは一強多弱の10党から一つを選ぶとか、争点はアベノミクスとか社会保障とかシングルイシューではなく、争点は唯一つ「『アベ政治』そのものを許すか、許さないか」であり、選択肢はアベ改憲派と反アベ反改憲派の二者択一ということで割り切って考えればいいのでは。
 アベ政治すなわち現行憲法をないがしろにするやり方(非立憲政治)と改憲路線を主として安倍政権の諸政策・路線・姿勢(強い方の味方―大企業・富裕層の利益優先、日米同盟・対中・対朝対決姿勢)・強権的手法などを総合して、そのようなアベ政治でよいのか、それともそれに反対する党派の候補者を選んで、アベ政治にブレーキをかけ是正を迫るかの選挙なのだ。
 選挙戦の対立構図は{自公+α(改憲派)}Vs{4野党+市民連合(立憲・反改憲・反戦派野党共闘)}であり、一人区では{自民}Vs{4野党・市民連合統一候補}、その二者択一なのであって、10党のうちのどれかではないのである。
 自公の選挙戦は後者(野党共闘)に対して分断攻撃を加えている。
 マスコミの中には世論調査で有権者に「4野党連携への評価」を訊いているが、その評価は自公与党支持か4野党支持か立場によって別れ、自公与党支持の立場に立っている人は「評価しない」の方を選ぶに決まっているだろう。それを訊くなら、ずばり「自公与党と野党共闘のどちら側を支持するか」を訊くべきだろう。
 マスコミ・メディア各社は自身が、そもそもどちらの立場に立って訊いているのか、(NHKや読売・産経などは政府寄りであることは日頃から暗黙のうちにわかるが、リベラル系の朝日新聞は5月30日の社説「参院選比例区・野党は統一名簿を」と6月10日の社説「参院選・野党共闘・わかりやすくなった」に4野党連携を「民意の受け皿をめざす動きには意義がある」とし、「評価する」としているものの)とかく「不偏不党・中立でなければならない」ということに囚われて立ち位置を曖昧にして、有権者に判断材料や選択肢を提示するなら「与党候補と野党統一候補のどちらに投票するか」或いは「安倍政権にイエスかノーか」などと分かりやすく二者択一にして、単刀直入に訊いてくれればいいものを、選択肢をバラバラに幾つも上げて迷わせ、結果的にかえって分断を誘い、あとは大勢になびくようにして(「どうせ多弱な野党はどこへ投票しても票の無駄になるだけだから」とか、消去法で「あれもダメ、これもダメで残ったのは結局自民党」といったようにして)結果的に政権与党支持を誘っているかのような訊き方をしている。有権者に解り易く的確に判断材料を提供するどころか、それを妨げ、わけが分からないようにさえしているのだ。低投票率で、政権党に有利な結果を招く原因はそういったことにもあるのでは。

 それにつけても、野党共闘側は自公側による争点隠しと「野合批判」分断攻撃、それにマスコミによる「4野党・市民連合」の軽視と焦点ぼかしに抗して、はたしてどれだけ善戦し、巨大与党・改憲派の「3分の2議席獲得」阻止を果たし切るかだ。


2016年07月07日

選挙―選ぶキーポイントは、人格的に信用がおける党・人なのかだ

 選挙は有権者が信託する(信用して任せられる)代表者(人や政党)を選ぶものであって、個々の主張・政策・公約を選ぶものではない。ただ、その候補者・政党がどんな主張・政策を持ち、何を公約しているかによって、それらを総合して選ぶということで、それぞれの主張・政策・公約(改憲か護憲か、経済・金融・税財政政策・雇用・労働政策・社会保障政策・外交・安保政策・エネルギー政策・教育政策・地方・農林漁業政策その他)を一々知ることは選ぶ際の判断材料として勿論だいじなことであり、それらを熟知(充分知り尽く)して見比べたうえで判断するにこしたことはない。しかし、それができる人は、極く限られた人以外にはいまい(18才の新有権者だけでなく、また日々仕事・子育て・介護等に忙殺されている人だけでもなく)。
 テレビ・新聞や選挙公報は、それら(各党・候補者の主張・政策・公約)を解説・掲載し(現有議席の多少に応じてスペースや時間に差あり、政権党や多数党に有利)、テレビには党首討論(数少なく、野党側がもう一回開催をと申し入れるも首相が拒否)、NHKは政見放送を流してはいる。しかし、それらをちらっと見たり読んだりする時間はあっても、じっくり吟味・検討する時間的余裕のない人は少なくあるまい。しかも、そこ(テレビ・新聞・公報)で話され、流されるのは、その党(の党首や幹部)、その候補者が自ら話したり書いたりした政見を、編集を加えてそのまま、いいとこどりで流すだけ。
 そこで大事なのは、これらの各党・候補者の主張・政策など、その表面的な言葉・弁舌・アジ演説(「気をつけよう、甘い言葉と民進党」と首相が言うと、それが聴衆から喝采を受けたりする)など上わべのことよりも、その党、その候補者が、そもそも国民の代表者たるに相応しく、信用して任せられる人物・政党なのか人格的にどうなのかをよく見定めることであり、いったいどんな理念・信念を持ち、「国民の為に働く」とはいっても、様々な境遇・階層等ある中で、上下どっちの階層の立場に立ち、弱い者・強い者どっちの味方になって頑張ってきたのか、頑張ろうとしているのか、立候補や候補者擁立の動機は何なのか、下心(私心―私利私欲や野心、特定の利害目的)でもあるのか、その人間性―公正さ・誠実さ等の品性―をよく見極めることが肝心なところなのであって、むしろこの方が大事なのだ。
 この点では(人物的に、或いは党の性格からいって)、いいかげんだったり、眉唾だったり、欺瞞なところがあったり、当てにならない候補者・政党があり、中には党名(「自由民主党」だとか)或はサブ・ネーム(別名)を(「平和の党」などと)称して売りにしているネーミングとは裏腹なことをやっていたり、実態の異なる党もあるが、中には結党以来、戦前・戦後を通じて長い苦難の歴史(戦前は非合法下に置かれ、弾圧・迫害を被り、戦後は旧ソ連や中国・北朝鮮などで同じ党名や同じ「主義」を奉じながら覇権主義・専制主義をおこなったそれら外国の政権党の影響によって、或いはそれを意図的に利用した反共分断攻撃によってさらに悪いイメージが付け加わえられ、根強い偏見・アレルギーが植えつけられてきた歴史)をもちながらも、党名を変えることなく、一貫して真の自由・人権平等・民主・反戦平和の理念に徹してブレのない(その点では、その党こそが真の「自由民主党」であり「平和の党」に相応しい)稀有な政党もある。
 有権者は、そのあたりをよく見極めて、それをキーポイントにして選べばよいのだ。選ばれる側の政党や候補者も、その点に自信があるならば、それ(結党以来の崇高な理念と不屈の精神を貫き通した歴史、候補者は自らの生い立ち・生き方と信念)を他と比較して強調し、(我が党こそが「真の自由民主党であり平和の党なのだ」とでも)アピールして人々に堂々と伝え、知ってもらうように努めるべきだろう。(それが、人々に正しく理解されないまま、偏見・マイナスイメージ・「アレルギー」が根強く付きまとう、その払拭に鋭意努めるとともに、党名はそのままとしても例えば『自由・民主・平和の本党』などといったように、その理念をもっとわかりやすいキーワードで補った別名(サブ・ネーミング)を付して、それをセールスポイント或はブランドにして売り込むマーケティング戦略ともいうべきものもあって然るべきなのでは。)
 その政党、その候補者が国政の代表者として本当に信用のおける党か人物かを判断するには、もう一つ、彼らは憲法と主権者・国民の願いにどれだけ忠実か否か、ということも判断基準となろう。
 現行憲法に忠実かどうかという点で、自民党と共産党ははっきりしている。一方は結党当初から綱領に「自主憲法制定を目指す」と明記しており、公務員の憲法尊重擁護義務を意に介さず、改憲草案も作っているし、現行憲法9条に矛盾する再軍備政策を進めてきて、さらにそれ(9条)をないがしろにした安保法制を強行成立させ、国民や住民の多くの反対を押し切って沖縄新基地建設や原発再稼働・TPPを強行しつつある、そのような政党が憲法と国民に忠実な党だとはとても思えないまい。一方、共産党は綱領に現行憲法の「全条項を守る」と明記していて、自衛隊違憲論など憲法の精神や条項を厳格・生真面目に守るぬく姿勢をとっており、国民の願いにも一番忠実なのではとも思われる。それは国会や地方議会へ請願署名(提出の際は議院の紹介が必要)の紹介議員が一番多いのが同党だという事実(先の通常国会に提出された請願署名のうち、共産党議員団が紹介議員になって提出された署名は2541万4000人分で全体の6割超を占め、自民党10.8%、公明党1.17%を大きく上回るなど)に表れている。
 それにしても、その党、その人物がはたして信用のおける党・人物なのか見極め、見抜くのも簡単なものではあるまい。その顔をちょっと見ただけでは、話をちょっと聞いたり読んだりしただけでは分からない。ネットや本で調べるのはよいとしても、色んな見方・色んな説・情報があって、いったいどれが正しく、どれが信用できるか、これまた分からないことが多いだろう。いずれにしても、その党の歴史、その候補者の生き方(学歴や経歴だけでなく、どういう生き方をしてきたのか)を調べ、それを候補者その人に会い、その政党の人に会って、直に訊いて確かめるのがベストだろう。とにかく、その候補者、その党は本当に信用のおける党・人物なのかだ。
 選挙に際しては、有権者は、各党・各候補者の主張・政策は一々解らなくとも、その候補者や政党が人格的に信用できる人物・党なのかどうかで選び、それに対して政党・候補者側は、その点で自らを有権者・国民に精いっぱい発信・アピールするように努めることが、この上もなく大事なのではないだろうか。


2016年07月14日

一強多弱はどうして―参院選の感想

 参院選、結果は自公が大勝(過半数を大きく上回り)、改憲勢力が3分の2に達した。但し、投票率は54.7%(戦後4番目の低さ)で有権者の半数近くは棄権。(18歳は51.17%、19歳は39.66%しか投票していない。)棄権が多く、政権与党が楽勝できるということは、現政権の下での日本社会の動向に対して、国民の間に、さほど不安・危機感を覚えることなく安住している向きが多いということだろう。
 開票後の14日朝日掲載の世論調査では、内閣支持率45%(不支持35%)で、支持と答えた人のその理由は①「他よりよさそうだから」46%、②「政策の面」25%、③「自民党中心の内閣だから」18%、④「首相が安倍さんだから」9%。
 与党が大勝した理由には「安倍首相の政策が評価されたから」は15%、「野党に魅力がなかったから」が71%。
 つまり、内閣支持も与党支持も、いずれも消極的理由からなのだ。
 19日NHKニュースの世論調査結果では、内閣支持48、不支持36、支持の理由は①「他の内閣よりよさそうだから」43、②「実行力があるから」18、③「支持する政党だから」17。
 同調査の政党支持率は、自民40.3、民進10.6、公明3.3、共産4.3、維新2.5、社民1.0、 生活0.4、こころ0.1、特になし31.0。
 朝日新聞の開票当日の出口調査では「投票の際に重視した政策」を訊いているが、18才では「①景気・雇用、②社会保障、③憲法、④子育て支援、⑤消費税、⑥外交・安保」の順だが、70歳以上では「①社会保障、②景気・雇用、③憲法、④外交・安保、⑤消費税、⑥子育て支援」という順。投票前の世論調査でも(NHKなども)「投票の際に重視する政策」を同じような項目をあげて訊いていた。
 同紙の開票後の調査での「首相に一番力を入れてほしい政策は」では、①景気・雇用29 ②社会保障32 ③教育13 ④外交・安保11 ⑤憲法改正6 ⑥原発・エネルギー5
 19日NHKニュースの世論調査結果では、①社会保障26、②景気対策22、③財政再建・子育て支援・格差是正いずれも12、⑥外交・安保10。
 NHKの開票当日の出口調査では、「アベノミクス」について、(それを「最大の争点となった」と決めつけて)その評価を訊いていて、「ある程度評価」48%、「あまり評価しない」31%、「まったく評価しない」12%、「大いに評価」8%。
 19日NHKニュースの世論調査結果では、アベノミクスに「大いに期待する」9、「ある程度期待」37、「あまり期待しない」34、「まったく期待しない」14.
 改憲については、NHKの開票当日の出口調査では、全体では「必要あり」33%、「必要なし」32%、「どちらとも云えない」36%。18・19歳は「必要あり」22%、「必要なし」26%、「どちらとも云えない」52%。
 これらは投票所に行った人の出口調査であるが、半分近くを占める棄権者は、「どちらとも云えない」か「まるで分からない」かなのであり、いずれにしても「分からない」という人が一番多いということなのである。
 19日ニュースのNHK世論調査結果では、改憲「必要あり」28%、「必要なし」32%、「どちらともいえない」30%。
 同調査で、改憲勢力が3分の2議席を占めたのは「よかった」27、「よくなかった」29、「どちらともいえない」37。
 14日朝日の開票後の調査では「安倍首相のもとで憲法改正を実現することに賛成か」では、賛成35、反対43
 同調査の「今回の選挙で、民進党や共産党などの野党が統一候補を立てたのは、よかったと思うか」では、「よかった」39、「よくなかった」31。
 19日NHKの調査結果では、4野党連携を「今後とも続けたほうがよい」26、「続けないほうがよい」24、「どちらとみえない」43。
 自民党は、改憲、それにアベノミクスも必ずしも支持されてはいない。野党共闘には期待する人の方が、どちらかといえば多いものの、「受け皿」とはなり得ていない。
 結果的に「一強多弱」のままになってしまっているのである。

 本県の野党統一候補は善戦して当選を博し、野党共闘に好成果(野党4党の比例区合計得票の1.7倍の得票を獲得し、足し算以上の効果)たが、全国的には政権与党・改憲派が圧勝した。野党共闘派は何故勝てなかったのか。それは弱いからに決まっている。何故弱いのか。それは「(色男ならぬ)善人、カネと力はなかりけり」だからだ。この国はカネと力のある強き者の天下。カネと力なき者は、この国では勝てっこないのだ。それでもめげずに挑み闘うは天晴れ。勝ち(当選)はしなくても、少ないながらも当選者を増やし、得票を増やし、なんらかの前進があれば、それでいいのだ。
 「カネと力」とは①カネ―支持する階層が大企業経営者・大株主・富裕層で、これらから献金を受けて、政治資金に恵まれ、大量宣伝・情報収集にカネをつぎ込み、大量のスタッフ・運動員をカネで雇って働かせることができる。②権力によって統轄する官公庁の人材(頭脳集団)や情報・データを握っていて、それを利活用でき、マスコミやメディアを有利に利用できる(これらは「中立公正」といっても、テレビや新聞に取り上げられる「露出」時間・スペースは決して均等ではなく、議席に比例し、政権党・大政党に有利。)
 自民党は、これらの点で圧倒的に有利なのだ。
 「一強多弱」―多弱が一強に太刀打ちするには力を合わせて共闘を組むしかあるまい
 有権者が選挙に際して政党や候補者を選ぶに際して、各党・各候補者はそれぞれどういう理念・憲法観・信念・歴史・経験・実績をもち、どういう人物なのか、それぞれが掲げる政策(アベノミクスとか、経済・税財政・金融政策、社会保障政策・外交・安保政策・教育政策・原発政策など)まで全てを分かった上で投票できる人などあり得まい。我が家の面々などは甚だ心もとなく、かくいう自分も分からないことの方が多い。
 普通の有権者は、18歳から中高年に至るまで、日々の生活に追われ、知識・情報獲得能力・時間的余裕など非常に限られており、専門家でさえ議論が分かれるような難しい事柄を理解・判断することなどできない相談だ。したがって、どうしても党や人を選ぶ選挙となると、棄権するか、投票するにしても直感やあてずっぽうで選ぶ、といったようなことになる。
 しかし、国民投票は一つのテーマ(課題)について賛否を問うものだが、選挙は代表者を選ぶもの。自分たち国民の代表者として信用して任せられる党・人物を選ぶのであり、商品のように並べられた政策やマニフェスト・公約を一々品定めして選ぶのではなく、代表者として相応しく信用して任せられる党・人物かどうかで選ぶのであって、一々(検討する時間的余裕も乏しく、予備知識・情報―それを提供する選挙報道も不十分で)分かりようのない政策や口先だけかもしれない公約や言葉よりも、そもそもその政党・人物そのものが本当に信用して任せられる党・人物なのか、それだけでもよく見定めて投票すればよいのだ。

 それにつけても、有権者はどうしてそんなに自民党にひかれるのか。しかも、若年層ほど。それは、有権者はその政党・候補者が自分にとって代表者として一番信用して任せられる党・人物なのかどうかをいったい何で判断するのかといえば、それは政治道徳ではなく政治力学で判断するからなのだろう。その党、その候補者は、道徳的に優れている(「弱きを助ける正義の味方」で真面目で一生懸命な)党だからとか善人だからとかではなく、政治力(力量・手腕)が一番ある(「やり手」だ)と思うからなのだ。
 日本人はとかく理想主義というよりも現実主義、善悪に潔癖で原理・原則にとらわれるよりも実利(利害関係)で周りの人々に同調・迎合して動く傾向が強いといわれるが、だからなのだろうか。それでも若者は正義感が強く理想が高いものと以前は思われてきたものだが、今はどうやらそうでもなくなってきているのかもしれない。知識偏重の受験競争教育で。それにIT時代になって、ケータイやスマホで、仲間との同調性(没主体性)はさらに強まるも、交わされる話題に「政治がどうのこうのとか、憲法がどうのこうのとか」といった話は敬遠される、そのせいもあってか。
 一概にそうだとは言えまいが、そういった日本人の傾向(実利主義・同調性・没主体性)が巨大与党に、人格的・道徳的には灰色かブラックなところ(問題)があっても、その勢力の強大さ故に、「勝ち馬に乗る」「寄らば大樹」「長いものに巻かれろ」(強い権力を持つ者や、強大な勢力を持つ者には、敵対せず傘下に入って従っておいたほうがよい)ということで、若年層から中高年に至るまで有権者の多くが支持を寄せる要因になっているのではあるまいか。
 有権者は、以前「二大政党制」で自民党に対して政権党として取って代われることを期待して旧民主党を勝たせて一時政権交代を実現したものの、それが(東日本大震災など国難に遭遇した悲運だけでなく、普天間基地の県外移設断念、TPP交渉参加表明、消費税増税受け容れなど有権者の期待を裏切って)惨めな失敗に終わったと見なされ(それが未だに「民進党への不信感」として尾を引いて)、その後は「一強多弱」で、選挙となれば「やっぱり自民党しかない」(自民党に替わる「受け皿」がない)かのようにして自民党が毎回「圧勝」を博する結果になっている。
 脳科学者の茂木健一郎氏は「『やっぱり自民党しかない』という思考停止は何ももたらさないと思う。しかし、そのような人が日本には多い。・・・・ぼくは、自民党というよりも、おそらくそんな日本に対してこそ違和感をもっている」とブログに書いている。そのような日本人のメンタリティに問題があるということであり、それが変わらないかぎり、どうにもならないということだろう。それを変えるには、そうあってはならないと思う(自覚した)人たち(市民連合と4野党)が、「やっぱり自民党しかない」とそれ以上考えられなくなってしまっている人々の心を動かすべく、闘いを、今後とも果敢に展開し成果をあげて、それを見せつける以外にあるまい。
 今回、野党共闘は一定の成果(戦術的効果)をあげた。これを足掛かりに次回の衆院選でもそれができるかだ。衆院選の場合は政権選択が掛っており、単なる選挙協力だけでなく、政権を共にして推進する共通政策で合意して政策協定を結ぶことが必要だ。はたしてそれができるかだ。それができれば、それは単なる戦術的効果だけでなく、「政権交代可能な受け皿」を有権者の前に用意して見せられることになる、ということだろう。
 それにつけても、4党の中には、戦前・戦後を通じて崇高な理念のもとに結党して最長の歴史を持ち、幾多の苦難に遭いながらも挫けることなく頑張り通してきた歴史を持つ党がある。
 自分たち国民の代表者として本当に信用して任せられる党・人物を選ぶのが選挙だというからには、望むらくは、その崇高な理念・信念とともに、苦難の歴史と不屈の精神それに道徳的優位性①を、他党には無い貴重なブランドとして、最大限アピール(「売り」に)することを心掛けてはいかがなものか。(悪し様な逆宣伝―植え付けられた悪いイメージ宣伝―に抗して。)
 (注釈①ネットで調べると、近年亡くなった哲学者の鶴見俊輔氏は、共産党の揺るがない社会的信頼と道徳的権威について、自らの立ち位置を測る「北斗七星」にたとえている。また、自民党の党内研修用の冊子『日本の政党』に「社会党を含めてほかの政党が何らかの形で戦争に協力したのにたいして、ひとり共産党は終始一貫して戦争に反対してきた。したがって共産党は他党にはない道徳的権威をもっていた」と書かれているという。)

 以上、参院選の結果を見て、こんな感想をもった次第。

2016年08月01日

9条は日本人に無意識に定着した良心―二説紹介(再加筆修正版)

(1)堀尾輝久・東大名誉教授(教育学)の説―『世界』5月号より
 憲法9条の「戦争放棄」は制定当時首相だった幣原喜重郎(戦前、第一次大戦後は1921年のワシントン軍縮条約の代表であり、外相として戦争違法化の運動、その結果でもあるパリ不戦条約を熟知し、戦争拡大に反対して下野していた)の発案だったという。そのことは幣原自身の回想や、「あれは幣原だった」とする当時の幾人かの証言、マッカーサーの米国上院での証言及び回顧録(その中に幣原が、その提案をマッカーサーに申し出た時、顔を涙でくしゃくしゃにしながら「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後に私たちは予言者とよばれますよ」と言っていたと書かれてある)に書かれていることなどからそう言われるが、それを裏付ける資料を発見したと。
 その資料とは高柳賢三・マッカーサー元帥の往復書簡である。
 高柳賢三とは、岸信介首相当時の自民党政府もとで改憲のためにつくられた憲法調査会の会長を務め、憲法制定過程を検証し報告書をまとめた責任者である。
 高柳は憲法調査会の会長として、憲法の成立過程に関わったアメリカ人を訪ね、確かな事実を突き詰めようとしたが、マッカーサーとの接触はままならず、応答は会見によってではなく文書によるものであった。それだけによく準備され、焦点のはっきりした質問と明快な回答は貴重な証拠資料と見なされる、と堀尾教授は書いている。教授は最近、国会図書館の憲政資料室で、その原文の手紙(高柳・マッカーサー往復書簡)を見つけ出すことができたのだという。
 それによれば、高柳の質問、「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」という単刀直入な質問にたいして、マッカーサーは回答で「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原首相が行ったのです。・・・・わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました。」
 1946年(2月国務大臣松本試案がだされるもマッカーサーが却下、GHQ案を日本政府に提示、4月17日政府原案・公表、以後枢密院に次いで帝国議会で審議、10月まで修正可決、11月3日公布)この間3月27日、幣原首相、戦争委員会の開会挨拶で「かくのごとき憲法の規定は現在世界各国いずれの憲法にもその例を見ないのでありまして・・・・戦争を放棄するというようなことは、夢の理想だと考える人があるかもしれませぬ」。しかし「原爆よりも更に強力な破壊的新兵器も出現するであろうとき、軍隊をもつことは無駄なことだ」と。
 片やマッカーサーは、4月5日、連合国対日理事会の開会での冒頭挨拶で参加各国にこう訴えている。「国策の手段として戦争が完全に間違いであることを身に染みて知った国民の上にたつ日本政府が為したこの提案は、実際に戦争を相互に防止するには国際的な社会、政治道徳のより高次の法を発展させることを認めるものです」「したがって私は戦争放棄に対する日本の提案を、全世界の人々が深く考慮することを提案するものです」。国際連合の目標は「偉大なもの」ですが、「その目標も、日本がこの憲法によって一方的におこなうことを宣言した戦争する権利の放棄を、まさしくすべての国が行ったときにはじめて実現されるのです」と。
 次期大統領に立候補する気でいたマッカーサーにとっては占領統治を是非とも成功させなければならない、その手段として何より必要とされたのは、徳川など歴代の日本の統治者がとってきたやり方すなわち天皇制を象徴天皇として存続させることであって、それを日本国憲法の第1条とし、9条に幣原の提案に基づいて「戦争放棄・戦力の不保持・国の交戦権否認」を明記することは、ソ連など連合軍諸国だけでなく米国の世論でも天皇の責任を問う意見が強かった当時の国際世論を説得する切り札として必要だったのだ。
 「戦争放棄」は幣原の発案であり、それをマッカーサーがそれを受け容れたということだとしても、この憲法制定には、それが連合軍の占領下でおこなわれたということ自体、その状況からして、そこに強制性があったことは否定し難い。
 しかし、だからといって、それは「押しつけ憲法」だから、それを廃して「自主憲法」を制定しなければならない、などという主張は短絡的に過ぎよう。
 (2)柄谷行人・哲学者の説―岩波新書『憲法の無意識』および6月14日朝日新聞掲載の同氏インタビュー記事から
 戦争の忌避や厭戦には、戦争でおこなったことに対する反省(意識的な罪悪感)から来るものと、無意識的な罪悪感から来るものとがあると考えられるが、日本人が9条(戦争放棄)を受け容れたのは後者の要素が強い、という。柄谷氏はそれを心理学者のフロイトの学説を用いて論じている。
 そのフロイト心理学説とは、人間を行動に向かわせる無意識の衝動(欲動)には「生の欲動(生きようとする自己保存欲動と子孫を残そうとする性の欲動で、動物的本能でもる)」と「死の欲動(死にたいという気持ちに駆られる衝動で、自分(有機体)を無(無機)の状態に回帰させようとする破壊・攻撃欲動―動物のように弱肉強食の生存競争で自分が生き抜くために他を攻撃する攻撃本能とは違う)」とがあり、後者(「死の欲動」「攻撃欲動」)は、それがマゾヒズム的に自分に向かう場合は自虐・自傷・自殺ということにもなるが、それが転じてサディズム的に外に向かうと、他者に対する攻撃・破壊になり戦争ともなる。それが何かを契機に抑えられて(外部の力、攻撃相手からの反撃によって制圧されて)、攻撃欲動を断念せざるを得なくなり、「死の欲動」は再び内に向けられる。そのとき無意識のうちに(「超自我」即ち自我を超えた)良心(例えば「人は殺してはならない。戦って人を殺すくらいなら、戦わずに死にたい」といったかたちで不戦の倫理的態度)が生じる。超自我とは自分の意識を超えて(親や周囲の大人によって、とはいっても家庭や学校・メディアその他で意図的に教え込まれてではなく、親の背中をみて育つように、いつのまにか知らぬ間に身に着いた)社会道徳や良心に無意識的に従おうとする倫理的な態度のこと。(文化と同様に世代の差を超えて伝わる。それは意識的に伝えることができないのと同様に、意識的に取り除くこともできない。)
 アジア・太平洋戦争で、日本は連合国に敗れた。そしてその占領下にいやおうなしに新憲法を制定し、9条を定めた。
 柄谷氏は「9条が作られたのは、日本人の深い反省・自発的な意志によってではありません。外部からの押しつけです。しかし、だからこそ、それはその後に、(無意識のうちに―引用者)深く定着した」のだと。
 尚、マッカーサーにとっては、憲法1条こそが重要で、9条は副次的なものでしかなかった。だから、朝鮮戦争の勃発とともに、その改定(再軍備―引用者)を迫ったのです。ところが、その時点では、9条が日本人にとって深い意味をもつようになっていたのです。それは、9条が『無意識の罪悪感』とつながるようになったことを意味します。おそらく、吉田首相がマッカーサーの要請を断った時点では、それが明白になっていたはずです。」
 「9条はアメリカの占領軍によって強制されたとはいっても、それは日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント(1795年『永遠平和のために』―そこでの平和とは、単なる休戦条約で戦争をしていない状態にすぎないような平和ではなく、戦争をもたらす一切の敵対状態がなくなることを意味する平和で、それを諸国家の連合によって創出するという構想)以来の理念が入っていた。草案を作った人たちが、自国の憲法にそう書き込みたかったであろうものを、日本の憲法に書き込んだのだ。もしも日本人が「自発的」に憲法を作っていたら、9条はないのみならず、多くの点で明治憲法とあまり変わらないものとなっただろう。
 確かに憲法9条には、戦争を忌避する強い倫理的な意思がある。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではない。9条は明らかに、占領軍の強制によるもの。(だから、真の自主的な憲法を新たに作ろうという人たちが戦後ずっといたし、今もいる。)ところが、日本人はそれを自主的に受け入れた。それは、大多数の国民の間に、あの戦争体験が生きていたからだ。
 強制した当のアメリカ国家はまもなく当初の戦略を改めて、日本に改憲を要求した。ところが日本人はそれに従わなかった。この9条は、後から日本人によって「内発的」に選ばれたというべきもの。だから変えられないのである。そういう日本人にとっては、この憲法9条は占領軍によって強制された(「押し付けられた」)ものというよりは、むしろ贈与され、授かったというべきもの(柄谷氏は「9条における戦争放棄は国際社会に向けられた純粋贈与である」と)。

 この9条は日本人にとって、まったく外来ものというわけではない。実は、それは「徳川の平和」への回帰なのだ、と柄谷氏はいう。
 それは、南北朝の動乱~応仁の乱~戦国時代~秀吉の朝鮮侵略へと続いた400年に及ぶ戦乱に終止符を打った、その戦後の徳川体制(武力によってではなく、法と礼による統治と鎖国政策)の下で、どの身分・階層も戦争と無縁な時代が250年以上も続いたことをいい、それが開国とそれに伴う動乱によって崩れ、明治政府の富国強兵政策の下で日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争へと突き進み、そのあげくの敗戦、連合国による占領下に戦後・現行の憲法体制がスタートした。占領軍による強制とはいえ、それは、まさに「徳川の平和(パクストクガワ―ナ)への回帰」にほかならず、日本人にとっては既に馴染みの伝統文化であり、だから抵抗なく受け入れられた、というわけ。(「自衛隊員は、徳川の武士に似ていて、彼らは兵士にして兵士にあらず、或いは兵士ではないが、兵士である」というわけだ。)

 「日本人はドイツ人に比べて歴史的な(或いは理性的な)反省に欠けている(意識的な罪悪感が希薄)といわれることがあります。確かに『意識』のレベルではそういってもいいでしょう。しかし、憲法9条のようなものはドイツにはありません。憲法9条が示すのは、日本人の強い『無意識の罪悪感』です。それは一種の脅迫神経症です。」「日本人に戦争に対する罪悪感があるとしても、それは意識的なものではない。・・・・もしそれが意識的な反省によるものであったなら、(気が変わったからと)9条はとうの昔に放棄されたでしょう。意識を変えるのはたやすいことだからです。教育・宣伝その他で、人々の意識を変えることができる。それなのに、日本では、なぜか9条を変えることができないのだ。」 日本人の戦争への嫌悪感・拒絶反応は身体と心の奥底から湧き上がってくる理屈抜きの感覚・情念であり、占領軍の9条(戦争放棄)強制を(反発せずに、むしろ贈与として)無意識的に受け入れ(間もなくして突きつけられた再軍備要請は拒否して)自主的に定着させた

 9条は解釈改憲が行われて形だけの条項になりつつある。が「形」はあくまで残る。それを残したままでは軍事行動は(やったりすれば訴訟だらけになるから)できないのだ。それをできるようにするためには変えるほかない。しかし、変えられない。なぜなら、9条は意識の問題ではなく、無意識の問題だからだ。それを意識的な操作で変えることはできない。「世論は変わる、私の力で変えてみせる」と政治家はいくら思っても、その相手は「無意識」なのだから変えようがないのだ
 人や政党を選ぶ(議員を選出する)選挙ならば、その者(候補者・政党)の憲法や9条に対する考え方(改憲派か護憲派か)だけでなく、それ以外の様々な考えや政策・公約、力量・信頼性など総合的にイメージ・評価して議員やリーダーとして適任かどうかという判断になり、争点を特定したとしても、(今回の参院選のように)改憲問題ははずしてアベノミクスなど他に争点をずらせば、結果的に「改憲派」が3分の2議席を制することはできる。しかし、改憲そのものを特定し争点として賛否を問う国民投票となると、投票率は高くなるし、そう簡単にはいかず、柄谷氏は「改憲はどだい無理」なのだという。
 柄谷氏は「9条は、それによって日本が単に戦争と武力を放棄させられたというものではなく、日本から世界に向けられた贈与なのであり、贈与には強い力がある。日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第二次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになるだろう。それによって国連はカントの理念に近づくことになる」というわけである。
 それには憲法9条を(形の上で護るだけでなく、文字通り)実行すること。そして、それを国連総会で表明すること。そうすれば、日本はすぐに常任理事国になれる。現在の常任理事国が反対しても、多数が賛成して国連総会で承認されるだろう、というわけ。
 憲法9条は非現実的であるといわれ、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調されるが、最もリアリスティックなやり方は、憲法9条を掲げ、かつ、それを実行しようとすること。9条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為なのだ、と。
 9条を文字通り実行するということは、戦争はしない、戦力(軍備)は持たない、武力行使はしないとうことだ。「軍備を持たずに、どこかに攻められたらどうするのか」。阿刀田高氏(作家、2010年当時日本ペンクラブ会長―全国革新懇ニュース4月号インタビューに)いわく「『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力を全部やる。やり尽くすべきだと思います」と。これは「死の欲動」でも、超自我(良心)に従い、人を殺すくらいなら、戦わずして死んだ方がましだとして、他者への攻撃欲動には向かわず、自死を選ぶ、ということだろう(但し、そこで言わんとしていることは、自殺の肯定ではなく、あくまで人殺し・暴力・戦争の否定であり、攻撃欲動の断念と良心・倫理性への「こだわり」なのだ)。
 超自我は、内にある「死の欲動」が、外に向けられて攻撃欲動に転じた後、さらに内に向けられたときに生じる(その超自我は外部から来たように見えるが、内なる「死の欲動」すなわち内部から来るもの)。
 (「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動(攻撃欲動―引用者)の断念が、その結果として生まれると考えがちであるが、それでは倫理性の由来が不明なままである。実際には、その逆で、最初の欲動(攻撃欲動)の断念は外部の力によって強制されたものであり、その欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」)
 確かに憲法9条には、戦争を忌避する強い倫理的な意思がある。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではなく、明らかに、占領軍の強制によるもの。なのに、日本人はそれを自主的に受け入れた。それは、大多数の国民の間に、あの戦争体験と敗戦による攻撃欲動の断念から超自我(良心)が生じ、それがさらに欲動の断念を求めていたからである。
 (柄谷氏は又、カント的な普遍的な理念が、他ならぬ日本において制度として定着したと考えているが、それも日本人の意思あるいは理想主義によるものではなく、それはむしろ、日本が侵略戦争を行ったことを通して、さらに占領軍による強制を通して実現されたのだと。)

 「憲法9条は日本人の集団的な超自我」。日本人のその超自我は、戦争の後、その9条の戦争を禁止する条項(不戦平和主義―引用者)として形成されたと言える、と柄谷氏がいうのは、具体的には阿刀田氏の「応戦して人を殺すくらいなら、戦わずして死んだ方がまし」ということにほかならないのではあるまいか。
 不戦平和主義は決して、マッカーサーに「戦争放棄」を提案した幣原首相の「夢想家といわれかもしれない」理想主義によるものではなく、日本人の深層心理として実存する「死の欲動」に根ざすリアリスティックなものなのだ


 

2016年08月17日

深層心理に発想する戦争・平和論―柄谷行人教授の論考から(再加筆修正版)

 フロイトの精神分析学説によれば、人間には「生の欲動(動物の生存本能)」だけでなく、「死の欲動」というものがあるのだそうだ。(動物にあるのは生存本能だけで、ただひたすら生きるしかないというものだが、人間は死<それに死後>を意識し、死を恐れ、憧れもする―「死ねば楽になれる」とか、「成仏」とか「天国」への憧れがあり、生きる苦しみからの解放として死を求める)。自虐・自傷・自殺というものはそうして起こるが、その欲動が内から外へ向けられて、他者への攻撃欲動に転じることにもなる。暴力・破壊・殺傷行為などはそうして起こる。動物には弱肉強食・優勝劣敗の生存競争における攻撃本能はあるが、人間の場合は「死の欲動」からの攻撃欲動というものもあるというのである。イスラム過激派のジハード型自爆攻撃(自爆テロ)、(最近日本で起きた障害者殺傷事件などもその部類なのか?)そして戦争も、その攻撃欲動によって行われるのだ、というわけである。
 南満州鉄道爆破事件から満州事変、盧溝橋における日中両軍部隊の衝突事件から日中戦争、真珠湾攻撃から広島・長崎原爆投下に至る太平洋戦争、これらの戦争は互いの指導部・軍幹部による軍事戦略・作戦計画に基づいて行われたが、その策定と個々の軍事行動は、将兵や民衆の間に募るフラストレーションから生ずる不安・恐怖・怒り・憎悪・敵愾心・復讐心などから刺激されて、それぞれの当事者・将兵たちが攻撃欲動に駆られて断行された、と考えられる。
 この間に学校では、校長や教師が生徒に「征け、戦え、死ね」と欲動を駆り立てた(8月18日朝日新聞・声欄、早乙女勝元氏の投稿「戦時の校長祝辞『死ね』に慄然」)
 そして行われたのが玉砕戦(「万歳突撃」)、特攻隊の自爆攻撃、沖縄や満州などでの民間人の集団自決、サイパン島のバンザイクリフの断崖から数多の邦人投身自殺など。これらはいずれも「死の欲動」から発している、と考えられる。

 「死の欲動」―「死を憧れ」、「死ねば楽になるのだと、苦から解放を求めて」自殺にはしる。ところが、自己の生命体を守るために外に攻撃欲動を向け、他者への暴力・殺傷・破壊(ひいては戦争)にはしる。ところが、それに対して攻撃欲動に駆り立てられた相手側(大戦では連合軍)から反撃され制圧されて、自らの攻撃欲動を引っ込めざるを得なくなる(攻撃欲動の断念)。そして、その欲動が自我の内部に戻ったとき、もはや自我(自分の生命など)には囚われずに、無意識のうちに良心にのみ従う「超自我」というものが自分に生まれる。(自我の内部に戻った攻撃欲動が、自我の他の部分と対立している自我の一部に取り入れられて「良心」となり、自分とは縁のない他人に対するのと同様な厳格さをもって、自分もその「良心」に従うようになる。)
 そこで、凶器を持った暴漢やテロに遭遇したり、武力攻撃や戦争を仕掛けてこられたりした場合は、「殺されて死ぬくらいなら、相手を殺しても自分の命は守りぬくか、相手を殺して自分も死ぬ(いずれにしても相手を殺す)のを良しとする」のか、「人を殺すくらいなら、殺されて死んだ方がいい」のか(「カルネアデスの板」の例えがあるが―難破した船から投げ出された二人が、一人しか掴まっていられない板を一方が奪うか、それとも譲るか)、どちらを選ぶか、が問われるが、前者は法的には「正当防衛」とか「緊急避難」として罪は免除される。国の戦争や武力攻撃事態に際しては「交戦権」「自衛権」とかで人をたくさん殺しても「しかたなかった」として正当化でき、刑罰は免れ得る。しかしそれは、いずれにしても「人殺し」には変わりなく、道徳的には許されない行為であり、良心の呵責(罪悪感)にさいなまれ続ける心の傷として一生残るものだが、その方が嫌だとして、むしろ後者、即ち、自分は殺されて死んでも(自分は犠牲になっても)、人を殺してはならない(人を犠牲にしてはならない)という方をとる。それが「超自我」に従うということなのでは。
 第二次大戦・太平洋戦争でアメリカは広島・長崎に原爆を投下し、20万人もの無辜の市民を犠牲にしたが、それは、そうすることによって戦争を早く終わらせ、米兵はもとより、それ以上多くの人々の生命を犠牲にしないで済ませることができた、と正当化してきた。
 それに対して日本は、ドイツ・イタリアとともに世界中を敵に回してこれらの戦争を起こしたあげく、惨たんたる敗戦を喫して、やむなく「人々を殺し合う戦争は二度とやってはならない」という誓約(そのことを規定した憲法)を受け容れた。

 尚、「超自我」は個人だけでなく、集団(共同体)にも形成され、むしろ、その方により顕著にあらわれるという。集団的超自我とか集団的無意識。文化とは集団における超自我にほかならず、憲法9条も然り、超自我だといえるのだ、というわけである。
 アメリカなどは植民・建国以来、生存圏の維持・拡張のため市民の銃所持とともに国の軍備の強大化に意を注ぎ、戦いに明け暮れてきた歴史から、いわば「戦争文化」が発達しているが、それにひきかえ、我が国の場合、その歴史をたどると、戦国時代に終止符を打って長らく続いた「徳川の平和」ともいうべき非戦文化の時代があり、それが崩れた明治以来、対外戦争に明け暮れて大戦に至り、空前絶後の悲惨を経験した、その間の民族的戦争体験と、戦後再び非戦平和文化(集団的超自我)への回帰を迎えることになったわけである。アメリカとは違い、市民の銃刀所持の禁止はもとより当たりまえ、国も憲法で軍備も交戦権も否認されることになった。その憲法は米軍の占領下で連合国によって強いられたものとはいえ、日本国民はそれを受け容れ、今日に至る迄、「人々を殺す戦争は二度とやってはならない」という定めが無意識のうちに心の内から発せられる定言命法(「もし~ならば~せよ」という仮言的命令に対して、「ダメなものはダメ」といったように、無条件に従うべき命令)ともいうべきものとなり、それが、もはや世界の誰も変えることのできない命法となっているのではあるまいか。(日本が起こした満州事変~日中戦争、真珠湾攻撃~太平洋戦争、その間に行われた数々の非人道的行為、それにアメリカの原爆投下も許されざる非人道的行為なのであって、どの国も核兵器は廃絶すべきなのであり、どの国も戦争は放棄し、交戦権など否認して然るべきなのだ。)

 それが、柄谷行人氏のいう「改憲不可能な9条」という見解なのか。(氏は「憲法9条が無意識の超自我であるということは心理的な憶測ではなく、統計学的に裏付けられている」という。その9条改憲が不可能だというのは、議員の総選挙なら争点が多様で曖昧なうえ投票率も低いが、改憲は最終的には国民投票によって決し、国民投票は―それとても何らかの操作・策動が可能だとはいえ―争点はっきりしている上、投票率も高いので『無意識』が前面に出てくるだろうからである。現に新聞の世論調査―朝日5月3日付―では、憲法を「変える必要がある」37%に対して「変える必要がない」は55%で、9条に限っていえば、「変える方がよい」27%に対して「変えない方がよい」68%ということで、約7割が現行のままでよいと。)

 尚、「超自我」は、父親の理想的なイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるのだという。
 人間は、幼児期は動物的本能に近い欲動で、快・不快で反応し、無意識的に快楽原則にのみ従うが、自我が成長するにつれて外界(自然や社会)の現実の要請に応じて、意識的あるいは無意識的に、不快に耐え、欲求の満足を延期したり断念したりして現実原則(自然法則や社会的規範)にも従う。その(現実原則に従う)場合は、外部から親や大人の意図的なしつけ・教育・啓蒙・宣伝などの働きかけによって、それらを個々人が意識的に学んで人々にその態度が身に着く。その場合は、現実の要請が変わり、或いは親や大人、社会や権力者の都合しだいで方針や規範を(憲法も)変えようと思えば、教育・宣伝その他によって人々の意識を変えることができる。
 それに対して「超自我」は、幼児期に「ダメなものはダメ」と、(「天の声」の如く)否応なしに従わざるを得なかった厳格な父親の背中に、実は自らが作り出した理想的なイメージ(神様の如きもの)を重ね、無意識のうちにいつの間にか知らぬ間に心の深層に内在化して良心や倫理的な態度などになって現れるものであろう。(柄谷教授によれば、憲法9条は「外部からの押し付け」によって生まれたが、日本人の「無意識に」深く定着した。「憲法9条は、日本人の集団的自我であり、『文化』です。子供は親の背中を見て育つといいますが、文化もそのようなものです。つまり、、それは家庭や学校、メディアその他で、直接に、正面から伝達されるようなものではなく、いつの間にか知らぬ間に背中から伝えられるのです。だから、それは世代の差を超えて伝わる。それは意識的に伝えることができないのと同様に、意識的に取り除くこともできません」と。)

 NHKのETV特集に『父は特攻兵器の発案者、戦後は名を変え別人に』というドキュメンタリーがあった。戦争中、海軍少尉で日中戦争に際しては、魚雷や爆弾を投下する攻撃機の搭乗員や偵察員に従事し、太平洋戦争の末期、「人間爆弾」(「桜花」と命名。爆弾に羽根のついたようなもので、母機の胴体の下に装着されて敵艦隊の上空まで来たところで、搭乗員が1人それに乗り移り、母機から切り離されてロケット噴射で高速降下し標的艦に激突する、というもので、特攻の先駆けとなった)を考案し、実践に用いられ、ほとんど戦果のないまま撃ち落とされて搭乗員829名が戦死。中尉自らは乗りこまず、出撃せず終戦。しかし、終戦の3日後、遺書を残してゼロ戦に乗り込んで海に飛び込み「自殺して果てた」とされた。ところが、彼は救助されて生き長らえ、偽名を使って、別人として結婚もし、職は20回も替えたが、大阪で妻子とひっそり暮らし続けた。妻子には、戦争中の事も詳しい身の上もほとんど語ることはなかったが、妻には本名と「あの特攻兵器を考え出したのは私だ」といことは語っていた。子煩悩で面倒見の良い父だと思っていた息子は、中学生になって、そのことを母から聞き知るようになって、父の人間性を疑うようになった。戦後も50年ほど経って、ふいに高野山を訪れ、その後、白浜海岸の「三段壁」の断崖から飛び降り自殺を図ろうとした、寸前引止められて警察から保護され、迎えに来た息子の前で、せきを切ったように泣き崩れたという。その7か月後、彼は亡くなった。息子(60代と思われる)はその後、かつての父の部隊の搭乗員で生き残っている方数人の各家を訪ね、事実を確かめておられた。この方が幼児期から父親の背中を見てきて、自らに形成してきた超自我―無意識の良心・罪悪感など―が考えられる。
 当方の父は、警察官をしていたが、戦争末期、一年余り兵隊に召集され、当方ら母子は母の実家で暮らし、防空壕に隠れたりもしたが、終戦で父は進駐軍の士官の下で復職して自治体警察に務め、あちこちの町を転勤、当方は転校して回ったが、中2の時、病死した(詳細はこのHPの過去の分のどこかに)。このような父がいて、当方の場合は、それなりの超自我が身に着いたのだろうか。
 天皇には、父(昭和天皇)の背中を見てきて自らに形成し、身に着いたであろう超自我(無意識の良心)があり、戦争と憲法に対する思いを持ち、それを語り、行動しておられるのだろう。
 近隣のかの国の最高権力者は世襲の3代目で、父は祖父の、自分は父の背中に自らが思い描く理想的なイメージを重ね、「こうせよ」という父の声を「天の声」としてそれに従う無意識の態度(超自我)が身に付いているのか。自らの行為や他人・他国の行為が正しいか否かの評価・善悪の判断が諸国民あるいは自国民のそれとは一致しないか、かけ離れているように思われる。
 安倍首相の場合は、父親よりもむしろ祖父(岸信介―東条内閣の閣僚、戦後、A級戦犯容疑・不起訴、公職追放、政界復帰後首相に就任、安保条約改定、強行後総辞職)の背中に理想的な父親イメージを重ね、「靖国の御霊」に心が向かう倫理的態度は、稲田防衛相らのそれと同様に、多くの国民からはかけ離れ、或は天皇の(現行憲法尊重や戦争に対する倫理的態度など、その心性は、むしろ国民の方に近いようにも思われる)それとも異なる彼らの超自我を感じる。
 このような安倍首相らの無意識の超自我(スーパー・エゴ)あるいは自我(エゴ)の意識に対して国民の集団的無意識の超自我(良心)は凌駕され改憲は押し切られてしまうのだろうか。
 


2016年09月01日

「とにかく改憲、とにかく国民投票」に疑問(加筆版)

 安倍自民党の改憲は、本丸(主眼)は9条2項だが、その前に外堀―環境権など「新しい人権」条項とか、緊急事態条項とか―から攻め落とす作戦(「お試し改憲」)。
 改憲派は衆参ともに3分の2以上議席を確保した。これから憲法審査会で発議案を審議、そこで発議案の成案ができれば、国会にかけて議決、国民投票へ、という運びとなる。
 我が国の現行憲法は諸法律中の基本法で最高法規として大まかなことしか定めていない。例えば、12条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあるが、環境権も緊急事態の場合もこれ(国民の権利、公共の福祉に反しない限り立法その他の国政上最大の尊重)に含まれおり、具体的には環境基本法や武力攻撃事態法・災害救助法・災害対策基本法などに既に定められているのである。これらに関して憲法に直接・具体的には書かれていないからといって、今、実際上不都合が生じているわけでもなく、今わざわざ付け加えなければならないという必要に迫られているわけではないのである。(衆議院の解散中に緊急事態が発生したらどうするか、その時には参院の緊急集会が国会の権限を代行できることになっている。)
 国民投票―憲法は70年も経ってずっとそのままできたが、このあたりで何か新しい条項を付け加えてみてもいいのでは、とか、ちょっと修正してみてもいいのでは、などと国民投票を「試しに」一度やってみてもいいのではないか、という向きもあるだろうが、学校生徒の模擬投票とは事が違い、国民投票となると、費用が(木村草太氏によれば)850億円もかかるとのこと(そんなカネがあったら、という問題があるのだ)。

 アベ自民党政権は、いずれにしても(順序・段階はどうあれ)、9条改変が本命。自民党はかねてより改憲草案を公表している。(現行憲法が「第二章 戦争放棄」としていたのを「第二章 安全保障」と改め、9条1項は最後の「永久にこれを放棄する」というところを、単に「用いない」と変えただけだが、それに「2、前項の規定は、自衛権の発動を妨げない。」と付け加え、さらに「9条の二」として「我が国の平和と独立並び国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。2、国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。3、国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。4、前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。5、国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。」それに「9条の三」として「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」と。)それは、要するに、「安全保障」として、自衛権は行使できると明記し、現行9条の2項(戦力不保持・交戦権否認)は削除して国防軍を保持すること、その国際的な協調活動、治安出動を明記するようにしている。(もっと簡単に言えば、今までは禁じられてきた軍隊を持ち、戦争できるようにする、というものだ)①
 これに対して、改憲でも、自衛隊の保持を明記して個別的自衛権の行使は認めるも、専守防衛に限定し、集団的自衛権の行使は認めないと明記する②。
 或は、もっと厳格に、自衛隊の存在を曖昧にせず、はっきり認めないと明記し、自衛権の行使は個別的自衛権であれ集団的自衛権であれ一切認めないものとするように改正する③、といった改憲もあり得るわけである。これらの所謂「護憲的改憲」を主張する向きもあるわけである。
 現在、新聞の世論調査―朝日5月3日付―では、憲法を「変える必要がある」37%に対して「変える必要がない」は55%で、9条に限っていえば、「変える方がよい」27%に対して「変えない方がよい」68%ということで、約7割が現行のままでよい、という状況。
 ところが、現行憲法9条で、曖昧にされている自衛隊の存在と自衛戦争を認めるのか否かは、はっきりしておくべきであり、国民の意志を問うべく国民投票をやるべきだ、という論者(今井一氏ら)や意見の人が少なくない。
 週刊紙AERA5月16日号の世論調査では、「戦力としての自衛隊」を「認める」が66.5(男77.9、女55.0)、「認めない」33.5(男22.1、女45.0)、「自衛にための戦争を認める」が53.6(男65.3、女41.8)、「認めない」46.4(男34.7、女58.2)、(両方とも「認める」は、男は50~70代より10~40代が多い、とくに20代男は「戦力としての自衛隊」を「認める」が92.6で最多)。
 そういう(自衛隊の存在と自衛戦争を認めるか否か)議論になると、自民党流の解釈改憲~明文改憲には反対ではあっても、その護憲派が「護憲的改憲派」の②と③、それに「現行の条文のままでよい」という「純護憲派」に分断され、③と「純護憲派」がそれぞれ少数派に転落してしまう結果になろう。
 そこでもし、自民党流の改憲案ではなくても、とにかく憲法上曖昧だと思われている自衛隊の存在と自衛戦争は認めるようにするか否かをはっきりとすべく、②のような自衛力の保持を明記した改憲案が発議されれば、国民投票では「改正」賛成の方が多く、9条は改定されてしまう可能性が高くなるのではあるまいか。なぜなら、現状では、国民の大多数は自衛隊の災害出動などでは歓迎し、その存在と活動を肯定的に受け止めており、それにマスコミの報道により、中国の、我が国との尖閣諸島領有問題めぐる対立・事実上の紛争と南シナ海への進出、北朝鮮の核・ミサイル実験・演習などを、国際テロ組織とともに脅威と感じ、日米同盟(米軍)とともにある自衛隊をなくてはならない存在として認める向きが大多数だろうからである。

 しかし、そこで、9条(戦力の不保持・交戦権の否認)が変わってしまったら、それが国民だけでなく国際社会にどんな影響・インパクトを与えるかが問題だろう。
 この9条の重要性は、単に自国の平和・安全保障だけの故ではなく、前文とともにこの9条規定が、戦後「回帰」(柄谷・哲学者のいう「徳川の平和」への回帰)したとも言うべき我が国の伝統的平和文化と日本人の(好戦的ならぬ)嫌戦的な国民性(集団的無意識の倫理性)にマッチしていることもさることながら、これらのが規定は国連憲章とともに国際恒久平和に直接的につながり、連動する(国連憲章を補完し国際恒久平和を補強するともいうべき)重要な規定だからである。
 我が国憲法は前文で「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」と唱っている。そして9条は、(柄谷氏によれば)「単に武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与」であり、「この贈与に対して国際社会は(日本の武力蜂起を)これ幸いとばかりに攻め込んだり、領土を奪うことなどあり得まい。なぜなら、そんなことをすれば国際社会から糾弾されるからだ―国際社会の圧力。」「この贈与から得られる力は軍事力やカネの力よりも強く、これによって日本に賛同する国が続出し、それがこれまで、第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになる。それによって国連はカントの(『永遠平和』)の理念に近づくことになる。」「日本が9条を実行すると宣言すれば、すぐ常任理事国になれる」というわけである。

 もし、この9条を改憲してしまったら、国連や国際社会にとって多大なマイナスとなるし、我が国自身にとって大きなマイナスとなるだろう。今、国際社会において、世界の諸国民と各国が目指すべきは、(カントのいう)「公法の状態」(あらゆる国家が例外なく公平な共通の法に従っている状態)を実現することであり、どの国も戦争を放棄し、核兵器の廃絶をはじめ軍備の縮小~全廃に向かうことであろう。
 ところで、カントは『永遠平和のために』で「国際的な平和連合」を提唱し、各国共通の法を定め、それにどの国も公平に従うこととし、紛争は武力を使わず、法的に解決す仕組みを作ることをめざした。それが第一次大戦後の国際連盟の結成、第二次大戦後の国連の結成につながっているはいるが、カントの理念にはまだまだほど遠い。
 カントは各国の「常備軍は時とともに全廃されなければならない」と書いている。なぜなら、それは「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺激となって、互いに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりも一層重荷になり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」①と。但し次のようなことも書いている。「常備軍の兵士は人を殺害するため、又は人にさせるために雇われるのである。尤も国民が自らと祖国を防衛するために外敵からの攻撃に備えて、自発的に武器をとって定期的に訓練を行うことは常備軍と全く異なる事柄である」と。これについては、「常備軍」とは、当時絶対王政時代の国王の傭兵のことで、それに対して国民が自発的に武器をとって戦ったといえば、フランス革命に際して結成された国民義勇軍を念頭に置いたものだろうと云われる。その後、国民の志願兵制や徴兵制が民主国家で行われるようになって現在に至っているので、各国で文民統制の下にある、そのような現代の軍隊はこれには当たらないという解釈がある。しかし、①(アンダーライン箇所)のような常備軍の弊害―敵対する状態がいつまでも続き、戦争を誘発するなど、永遠平和の実現をかえって阻害する要因ともなる弊害―は国王の傭兵に限ったことではあるまい。カントはフランス革命当時の国民軍など義勇軍を念頭にしていて、第二次大戦中の反ファシズム・レジスタンスのような義勇市民軍などはいいとしても、またスイス*のような国の軍隊もあるが、現代の各国軍隊が「廃止すべき常備軍」には当たらないなどとは言えないのではあるまいか。我が国の「自衛隊」であっても。
  (*スイス―小国ながら神聖ローマ帝国時代からハプスブルグ家の支配に服さず独立を保ち続けながら、勇猛果敢を売りにして諸王侯に傭兵を輸出する(ローマ法王庁の警備は未だにスイス人傭兵)一方、ウイーン会議で諸国から「永世中立国」として認められて以後自国の独立を守るべく国民皆兵制を採り、現代の今に至るも国民投票で徴兵制度の廃止を否決して維持し続けており、最近国連には加盟したがEUにもNATOにも加盟してない。)
 
 それにしても、そもそも9条は自衛隊の存在自体を認め、個別的であれ集団的であれ自衛権の行使そのものを認めているのかどうか、疑問を残していることは事実(憲法学者の大多数は認められないとする見解で、共産党などもその考え)だが、憲法制定直後の第一次吉田内閣以外、歴代内閣(内閣法制局)は、集団的自衛権の行使を除いてずうっと認めてきており、砂川事件判決に伴う最高裁の合憲判断もあり、国民の多くもそれに同調してきて、今ではほとんどコンセンサスになっている。それを改めて国民に問い直してはっきりさせるのも意味のあることには違いないが、何をいまさらと感じる向きもあろう。国民の大多数は自衛隊が違憲なのか合憲なのか、今、早急に国民投票で決着をつけるべきだなどと切実に求めているわけではあるまい。
 現下の憲法問題は、安倍政権が進めている新安保法制で、これまで専守防衛に徹するとされてきた自衛隊に集団的自衛権の行使やPKOの駆けつけ警護を認める等、他国の紛争や戦争に自衛隊を限定的とはいえ動員する(隊員に犠牲者が出ること必至となる)ようなことを認めるのかどうかであり、もはや憲法解釈の許容限度を越え、違憲が明白な安倍政権の安保政策を許していいのか、という問題、それに核兵器の保有さえも認められるという9条解釈、(武器輸出禁止3原則を防衛装備移転3原則と変えて)武器の輸出・共同開発を解禁するなど、非戦平和主義の憲法に全く逆行する政策こそが大問題なのである。それに沖縄の名護市辺野古基地建設の問題もある―外交・防衛は国の専権事項ではあるが、特定の地方公共団体・住民に不利益になる場合には、国が法律を定めて住民投票行わなければならない―憲法8章(地方自治)95条(特別法の住民投票)、なのに、名護市民や沖縄県民の大多数の反対を押し切って建設を進めようとしている。

 こうみてくると、現段階では、自衛隊の存在と自衛戦争を条文に明記する9条改憲の賛否を問う議論や国民投票に直ちに踏み込むのは適切ではあるまい。
 当面の最重要課題は、やはり、安倍自民党による改憲の策動に一致して反対する護憲派(護憲的改憲派と純護憲派)の結束だろう。

 今直面する焦眉の問題は、自衛隊員が海外で他国の戦争や戦闘に動員されて人を殺傷し、或は自らが犠牲になるかもしれない結果をもたらす集団的自衛権行使容認の新安保法(戦争法)を廃止することであり、核兵器を廃絶すること、沖縄に新基地を作らせないこと、そして不戦平和外交に徹することだ
 
 今は、とかく「安全保障」ということで、中国や北朝鮮や国際テロ組織などの「脅威」を前にして、これらの国や勢力から攻めて来られたら、どうやって防衛するか、といった軍事ばかりに気をとられがちだが、安全保障の要諦は軍事力や軍事同盟の強化ではなく、敵をつくらず、どの国どの国民をも味方することにある
 今、日本にわざわざリスクを冒して武力攻撃をかけてきたり、戦争を挑もうとするような国や勢力はどこにもない、と元外交官の孫崎氏。それは軍事的抑止力が効いているせい、というよりは、その必要(日本に、武力攻撃をかけたり、戦争を挑む必要)がないからにほかならない。
 そもそも軍事的抑止力といっても、(孫崎氏によれば)アメリカの「核の傘」は基本的にあり得ない。なぜなら、アメリカが日本を中国の攻撃から守るために、仮に上海にアメリカ本土から核ミサイルを撃ち込めば、中国はそれに報復してサンフランシスコに核ミサイルを撃ち込むだろうし、アメリカは自国の都市民を犠牲にしてまで、日本を助けるために核ミサイルを米本土から発射することはあり得ないからだ。また「ミサイル防衛」といっても、中国や北朝鮮から飛んで来る弾道ミサイル(秒速3,000~7,000m)をP3C(秒速1,700m)が迎撃して撃ち落とすことは不可能。アメリカは尖閣諸島が日本の施政権下にあり安保条約の適用範囲にあるとは言っているが、領有権は日中のどちらが有してかについてはどちらの主張にも組せず、日中両国間で解決すべき問題だとしており、仮にそこで日中間に戦争が起きたとしてもアメリカが参戦することもあり得ない。なぜなら、その海域は中国の近くで制空権は中国軍に握られており、沖縄(嘉手納基地)から米軍機が発進して日本に加勢するとしても、そこ(嘉手納基地)に弾道ミサイルを撃ち込まれればそれまでで、それに無人島の争奪に介入して米兵が血を流すようなことは米国議会が許すまいからである。(尖閣の島は元々一日本人の個人所有で、日中両国とも領有権を主張はしてはきたが、日本の方が実効支配―海上保安庁が管轄―を続け、その下で領有権問題は棚上げにしてきたものだが、それを石原都知事が自らの政治的思惑から、東京都が所有者から購入すると言いだしたことから、野田政権が国有化に踏み切って完全に日本領にしてしまった。それから中国政府が硬化して公船をくり出すようになってトラブルが起きるようになったのだが)孫崎氏は両国とも以前のように領有権棚上げで合意すればいいのだと。
 いずれにしても、中国や北朝鮮が日本に攻めてこないのは、日米同盟と核の傘の抑止力のお蔭だなどとは言えない、ということで、軍事的抑止力にばかり意を注いでも無意味なのであって、最も意を注ぐべきは、やはり敵をつくらず、どの国どの国民をも味方にする友好協力・平和外交であり、これをおいて軍事的抑止力などあり得ないということだろう。

 憲法が今問題なのは、改憲することではなく、守り活かすことなのだ
 改憲は、安倍首相や自民党その他改憲派の政治家や歴史修正主義者の思惑(現行憲法の制定経緯から「押しつけ憲法」だから気に入らないとか、自分たちのイデオロギーや政治上の利益に鑑みて前文や条項に不都合があること等)によるニーズからではなく、国民(生活者)がこの国で生活するうえで、具体的に「憲法のこの部分に支障を来たしており、どうしても、そこを改正してほしい」という切実な要求がないかぎり、あり得ないのだ。


2016年10月05日

改憲ありきの憲法審査会(再加筆修正版)

 改憲に最も積極的なのは自民党で、その改憲草案は前文から全条項ほぼ全般にわたって書き換えるもの。それには「天皇は、日本国の元首」と明記、9条の2項は削除して、自衛権を明記、「国防軍」の保持を定め、緊急事態条項や「家族」条項を新設、「すべての国民は個人として尊重」を「人として尊重」と換え、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」などと書き加えられている。公明党は、基本的には護憲だが環境権条項など「加憲」の立場。維新の党は憲法に教育の無償化、首相公選制の導入・国会の一院制・道州制を含む新たな統治機構、憲法裁判所の新設などを盛り込むことを主張。「日本のこころ」の党は、具体的にどの条文をどう変えるかの案はないが、「日本人の手で、ゼロから新しい憲法を作り上げよう」という立場。民進党は党内に護憲派もいれば改憲派もいて立場が曖昧で、自民党草案をベースとすることには反対だが、「現行憲法の足らざる点を話し合う」議論には応じるとしており、護憲(改憲に反対)の立場がはっきりしているのは共産・社民だけ。

 安倍首相いわく、「憲法はどうあるべきか。日本がこれから、どういう国を目指すのか、それを決めるのは政府ではありません。国民です。そして、その案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります。与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこうではありませんか。」(所信表明演説)、「国民の負託を受けた我々政治家は、そのために知恵を絞り、合意に至る努力を真摯に積み重ねなければなりません。」「まずは憲法審査会という静かな環境で議論を」と。

 そもそも憲法審査会は、その改憲を企図する自民党が主導して改憲案づくりのため衆参各院に設置を強行したもの(2007年8月)。
 その以前(2000年~)国会には「憲法調査会」が憲法を専門的に議論する機関として設けられていたが、そこでは憲法改正原案の審議はせず、あくまで憲法の「調査」に限られていた。それが、第一次安倍内閣の07年、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立したのを受けて、この憲法審査会に切り換えられ、憲法や関連法制を調査するだけに止まらず、憲法改正原案を審査する国会の常設機関となった。しかし、(15日付け朝日『いちからわかる!憲法審査会』によれば)最初の約4年間は、国民投票法案の採決を巡る与野党の対立が尾を引いて休眠状態。ようやく議論が始まったのは、民主党に政権が変わった11年秋からで、「天皇制」や「戦争放棄」など憲法の章ごとに議員が自由討議したり、学識者から意見を聞いたりしてきた。それは憲法改正に向けた具体的な議論というよりも、それぞれの議員が自分の憲法観を語る側面が強かった。昨年6月4日の参考人質疑で、3人の憲法学者から安保法案が「違憲」だと指摘され、そこから法案反対の機運が広がったことが政府与党内で問題視され、それ以降実質的な審議はほとんど行われていない。その審議会を安倍首相が再始動させようと促しているわけだ。それに対して民進党の蓮舫代表は「憲法審査会が開かれればしっかりと参加する」と語り、議論には応じる構えだが、どこまで進むのか「先行きは見えていない」という。
 審査会委員は衆参それぞれ議席数に応じて配分。改正原案は衆参各院の審査会が過半数で可決し、本会議で3分の2以上が賛成すれば改憲案は発議される。
 委員構成は、現在、
<衆院>自民31、民進10、公明4、共産2、維新2、社民1、計50名
<参院>自民23、民進9、公明5、共産3、維新2、希望の会(社民・生活の党の統一会派)1、 日本のこころ1、無所属クラブ1、計45名
 憲法審査会での議論―まずは、①現行憲法の前文から11章全般にわたって変えるか、②部分的にある条文だけを変えるか、新条項を追加する(加憲)か―その場合、どこを、どう変えるのか、或はどんな条項を加えるのか、③変える必要も、加える必要もないか、だが、自民党或は「日本のこころ」の党のように前文と103ヵ条全般にわたって書き変えるか、維新の党や公明党のように何か所かに限定して書き変えるか、書き加えるか、それとも現行憲法を全くそのままに留めるか、それらの内どれに落ち着くかといえば、確率的には、一か所も変えず、書き加えずに終わるということはあり得まい。つまり③はあり得ず、何らかの改憲が行われることで決着するものと思われる。
 改憲項目の絞り込み―例えば<緊急事態条項を新設して、大規模自然災害や武力攻撃が起きた場合には、首相が「緊急事態」を宣言し、法律と同じ効力をもつ政令を制定でき、それに基づく公の機関の指示に地方自治体も国民も従わなければならないようにする>とか、或は<24条の「家族生活における個人の尊厳や両性の平等」に「家族は、互いに助け合わなければならない」と付け加える>等、反対しにくかったり、異論も少なく合意が得られそうなものから入って、最終的には9条に自衛隊の明記へと進める、といった方向に行く可能性が強い。
 議論の末、①か②で、何らかの改憲・加憲事項が「一定の合意に達した」ところで、その改正文案が作成され、それが衆参各審査会でそれぞれ半数以上の出席委員の過半数の賛成で可決すれば、それを(衆院では100人以上、参院では50人以上の議員の賛成を得た上で)憲法改正原案として国会に提出。
 それが国会本会議にかけられて衆参各院とも総議員の3分の2以上の賛成があれば憲法改正の成案として「発議」(国民に対して提案)されたことになり、それが国民投票(特別の国民投票または選挙の際に行われる投票)にかけられて有効投票総数の過半数の賛成があれば(最低投票率規定がないため、どんなに投票率が低くても―たとえば投票率40%だったとすると、その過半数55%は、有権者全体から見れば22%。つまり、たった2割台の少数でも)成立することになる。

 安倍首相は「わが党は独自に衆参で3分の2を持っているわけではありませんから、わが党の案がそのまま通るとは考えておりません。そこで、いかに、その中において我が党の案をベースにしながら3分の2を構築していくか。それがまさに政治の技術といってもいいと思います。」「自民党が草案として示しているように、各党がそれぞれの考えを示したうえで議論し、国民的議論につなげていく」と言って、各党に改憲案の提出を促している。その各党案を憲法審査会に持ち寄って、一つ一つ検討し合い(逐条的に審議)、駆け引き・譲歩・修正し合って合意(半数以上の委員の賛成で可決)にこぎつけ、それを改正原案(発議案)とする(各院の本会議にかけ、3分の2以上の賛成で可決して発議、国民投票において、有効投票総数の過半数賛成で、改憲は実現となるわけだ)。

 憲法審査会の各党委員構成と国会両院の議員構成(自民党・改憲肯定派の圧倒的な数)からみれば、自民党主導の下に(その巧妙な「政治の技術」によって)改憲発議案が通る可能性は強く、それを阻止するのは容易ではあるまい。
 つまり、改憲には、憲法審査会(過半数可決)から国会(3分の2可決)、国民投票(過半数賛成)へと3段階を経なければならないとはいっても、自民党・改憲派が圧倒的に優勢な現状では、彼らにとっては、いずれもクリアするのに難しいハードルではないということだ。
 しかし、このやり方で改憲されるとしたら、自民党・政権党本位の党利党略による改憲ということになり、民定憲法たる国民による憲法改正とはなり得まい。その改憲は、政権を握る自民党などの政権党やその補完政党が、自らのイデオロギーとそれに基づく国政運営・政策推進をスムースに行う上で支障となる憲法の縛りを解くために改憲を必要とし、憲法を自分の都合のいいように変えたいからであって、それは特定の政党本位の改憲ではあっても、国民が真に必要とする国民本位の憲法改正と言えまい。国民にとって憲法が大事なのは平和的生存権などを含む人権保障であり、それが権力による侵害から守られることであって、そのために権力に縛りをかけるというところにあるはず。現行憲法が、その点で(国民の立場から)何か不備があるとか、支障を来たすようになったとか、どうしても変えて欲しいという国民の切実な要求や声があがって、それに答えて、安倍首相や自民党が改憲に一生懸命になっているというわけではないのである。その改憲は、ひとえに安倍首相の執念(自民党総裁の任期を延長してまで、その在任中に何が何でも実現を果たしたいという思い)からにほかなるまい。
 「下(国民の立場)からの改憲か、上(政権党の立場)からの改憲か」どちらかといえば、「上からの改憲」であり、それによって国民投票が行われるとすれば、(ヒトラー流の)「上からの(政権党主導による)国民投票」ということになる。
 
 「憲法はどうあるべきか」といえば、それは「憲法は国民の人権を保障し守るために権力を縛るためのもの」であるべきはず(立憲主義の考えで、現行憲法99条には「天皇又は摂政及び国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」として、権力に関わる者たちに、憲法に違背することなく、きちんと守り従うべしと定めている)。ところが、それに対して「日本国民はかくあるべきだと(責務を)定め、国民をも縛る(人権に制約を加える)ものであるべきだ」(憲法尊重擁護義務を負う者の中から「天皇又は摂政」を外したうえ、「全ての国民はこの憲法を尊重しなければならない」と付け加えている)というのが自民党の憲法観であり、同党の改憲草案はその立場で「日本国民は国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」とか、「国民は国旗及び国歌を尊重しなければならない」、「自由及び権利には責任と義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」、「家族は、互いに助け合わなければならない」などと書かれている。自民党はそのような草案を憲法審査会における改憲案づくりのベース(たたき台)とすべく提示しているのだが、そのような立憲主義に反する改憲案は、そもそも無効であり、取り上げられるべき筋合いのものではあるまい。(尚、その後、自民党の保岡憲法改正推進本部長は、同党の改憲草案は、民進党などが求める撤回はしないものの、「草案やその一部を切り取ってそのまま審査会に提案することは考えていない」と表明している。)
 国民は日本を「日本がこれから、どういう国を目指す」べきだと切望しているのか。国民は、現行憲法が目指してきた「不戦平和国家」、「自由・平等の民主主義国家」、「人権尊重国家」を変更・転換して、「戦争できる国」「人権を制限できる国」「国民を統治し易い国」になるように改憲を切望しているとでも思っているのか。
 「その案(改憲案)を国民に提示するのは国会議員の責任」だが、「決めるのは国民」だという。それは、手続き上はその通りで、憲法のどこをどう変えるか改憲の内容を決定して提案する権限(発議権)は、国会にだけあり、一般国民が直接発議することはできない(たとえどんなに一生懸命考えてまともで素晴らしい改憲案を思いついたとしても、一般国民はそれを直接発議することはできずない)。国民はただ国民投票で国会が発議した改憲案にイエスかノーか投票するだけなのだ。
 しかし、「国民の負託を受けた我々政治家」とはいえ、改憲を主たる争点とはせずアベノミックスや景気対策などのような他の諸々の争点で行われた国政選挙で当選し多数を制したからといって、国民が切実に求めてもいない改憲を自らの都合で「政治の技術」(手練手管)を弄して、それを強行しようとする彼ら政治家の、そのような術策に国民は乗せられてはなるまい。

  現行憲法は、敗戦に伴う戦勝国による占領下で、日本の民間憲法草案と合衆国憲法ほか世界各国の憲法を参考にして作られたGHQ草案から発し、日本を民主化し軍国主義が復活することのないように、(悪く言えば)「戦勝国の都合のいいように」作成された憲法とはいえ、国会(当時の帝国議会)で審議し、日本人の発案による修正・追加が加えられて成立したものであり、それを国民が受け入れて70年にわたってすっかり定着してきたもの。改憲を望んできたのはアメリカ(朝鮮戦争に伴い、日本に9条の改定と再軍備を求めてきた)と、自民党などの右寄り政治家や歴史修正主義論者(それに同調する「草の根」団体と称する「日本会議」)、それに読売・産経など一部のメディア。それら以外には、国民の間に改憲を切実・積極的に求める向きはほとんど見られないのだ。
 
 メディアは世論調査で、憲法を「改正する方がよいか否か」とか「変える必要があるか否か」、9条を「改正する方がよいか否か」「変える必要があるか否か」と問い、問われた市民がそれに対して「改正する方がよい」「変える必要がある」か「改正しない方がよい」「変える必要はない」か「どちらともいえない」と回答するだけ。(国民は、世論調査で、このように訊かれて答えるだけで)国民のほうから積極的に「かくかくしかじかの理由で、ここをこういうふうに、是非とも変えるべきだ」と声があがり、大きく盛り上がっているわけではないのだ。但し、安倍首相や国粋主義系・歴史修正主義系の論者に同調する「日本会議」などの存在(最近活発な動きを見せ、クローズアップされるようになったが、その議員連盟があり安倍首相はその特別顧問)はあるが。

 尚、上記のメディアの改憲についての世論調査では、
  NHK(5月2日)改正、必要あると思う27%、ないと思う31%    
  読売(3月16日)改正する方がよい49%、しない方がよい50%
  朝日(5月2日)改正必要37%、不要55%
  毎日(5月3日)改正すべきだと思う42%、思わない42%
  産経・FNN(6月20日)改正に賛成43.3%、反対45.5
  日経(5月3日)改正すべきだ40%、現状のままでよい50%

 結論―現下における焦眉の問題は、憲法をどう変えるかではなく、反立憲主義(憲法のねじ曲げ、或は破壊)の動向を阻止し、改憲を阻止すること。それに改憲ありきの憲法審査会も進行(改憲原案づくり~採決)は阻止して然るべきなのでは(そこで可決してしまったら、国会本会議でも「なんなく」可決して発議、あとは国民投票で承認へと、とんとん拍子に行ってしまうのだから)。

2016年11月01日

民主主義ってなんだ?

 とかく我々庶民には、民主主義といえば、主権在民、投票参加、多数決(なんでも多数決、それで決まったからには、少数者は黙って従うしかない)とだけしか理解していない向きが少なくないと思われる。
 18世紀フランスのルソーが、当時のイギリスの代議制民主主義を評して「人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは(議員たちが決定したことに服するだけの、いわば)奴隷となり、何者でもなくなる」と言ったものだが、そんな感じ。
 民主主義は、君主や貴族の政治の独占に対して、人民の政治参加を認めるというもので、主権在民を認めたものであって、決定は多数決で行い(選挙なら票数が他を上回る人が当選、議案なら過半数の賛成、改憲発議なら総議員の3分の2以上などと)、その決定には反対・不服でも、決まったからにはそれを受け容れるしかないという多数決原則によって決定されるが民主主義であることには違いはない。(なお、多数決民主主義については、早大法哲学の笹倉秀夫教授は「何かを決める時、全員で議論し、全員が一致する結論が求められる。しかし、人数が増え、複雑な問題になれば、全員一致は難しい。そこで、多数派の意思を全員の意思と「みなす」ことで、決定を下す。」ただし「民主主義で重要なのは全員一致に向かおうとする努力と情報公開、そして熟慮だ」と。ところが、現実には熟議を尽くさず、与党の「数の力」に物を言わせた「強行採決」が行われがちとなっている。)
 しかし、近代民主主義には立憲主義というもう一つの原則がある。それは、多数決で決まったからには、みんなそれに従わなければならないとはいっても、憲法の規定、とりわけ人権規定・国民の権利規定に反することまで、従わせることはできない、という原則があることである。憲法とは、多数者権力をもってしても侵してはならないという原則を定めたものであり、為政者が統治をやり易いように、或は彼らが望む政策を実現しやすいように、彼らの都合のために定められたものではなく、国民が個々人に自らの権利・人権を保障し、それを権力など如何なる侵害からも守るために定められたもの
 現行憲法で定められている国民の権利規定とは次のようなものである。
○前文(「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」)・9条(戦争放棄)―平和的生存権
  違憲訴訟の事例―関東地方の現役自衛官はこの3月、昨年9月強行採決で成立した安保関連法で集団的自衛権の行使を認めたのは「憲法9条違反だ」として、東京地裁にに提訴、現在審理中。その自衛官の訴えは「服務宣誓をした当時、平和安全法制は存在せず、集団的自衛権行使の防衛出動命令に服従する義務はないことを確認せよ」というものだ。
○13条―生命・自由・幸福追求権・・・・自己決定権(自分のことは自分で決める権利)・プライバシー権・環境権も含まれる
    違憲訴訟の事例―①「ひげを生やして勤務していることを理由に人事評価を下げられたのは憲法違反」だと(大阪市営地下鉄の運転士が提訴、大阪地裁で審理中)。②アイドルとして活動していた女性が所属会社から男性との交際を禁止した契約に反したとして、東京地裁に訴えられるも、会社側の損害賠償請求は棄却(「交際は人生を自分らしく豊かに生きる自己決定権そのものだ」として)。
○14条―法の前の平等
○15条―参政権(主権者として)、97条―改憲に際する国民投票
○19条―思想・良心の自由
○20条―信教の自由
○21条―集会・結社及び言論・出版その他表現の自由・・・・知る権利も含まれる
     熊本市内の小学校の一父兄がPTAに対して「加入方法が強制的でおかしい。憲法的に問題ではないか」と、PTA会費の返還などを求めて提訴(高裁で和解協議中)。
○22条―居住・移転・職業選択・営業の自由
○23条―学問の自由
 これらの権利は個々人が自らの存立と生活を維持し、向上させる上でかけがえのない必要不可欠な権利であり、何人も又いかなる権力も侵してはならない権利なのである。
○25条「健康で文化的な最低限度の生活」保障・・・・環境権も含まれる
○26条―教育を受ける権利
○27条―勤労権
○29条―財産所有権

 民主主義には、全ての国民に参政権が認められ、決定は全員一致さもなければ多数決によって行うも、個々人の権利・人権を保障する憲法の定めに反してはならないという二つの原則(多数者支配と立憲主義の原則)があるのだ、ということであり、国民の少数派にとっては、多数決や多数者権力に従わなければならないが、すべての国民に権利・人権を保障する憲法の規定に反する決定には(違憲だとして無効を訴え、それが裁判所で認められたならばだが)従わなくてもよく、憲法の保障されたその権利・人権は多数者権力といえども侵してはならない、というのが民主主義なのである。

改憲のための審査よりも、憲法を守り活かされているかの審査を

 「12条、この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
 首相はじめ国会議員には憲法擁護尊重義務(99条)があり、国民には上記の「この憲法が国民に保障する自由及び権利を不断の努力によって保持しなければならない」という努力義務がある。
 今、首相はじめ国会議員および国民に求められてやまないのは、このことであって、それを差し置いて、改憲のために憲法審査会を推し進めようとか、国民投票をやろうとか言い立てる向きがあるが、本末転倒なのでは。
 今、問われなければならないのは、首相はじめ国会議員が現行憲法の擁護尊重義務を果たしているか、それを怠ってはいないか、それをこそ審査しなければならないのではあるまいか。必要なのは、国会議員で構成する改憲のための憲法審査会ではなく、政府と国会議員を審査する「国民」審査会だろう。(裁判所に違憲立法審査権はあるが、違憲に当たる何らかの行為によって不利益を被ったという具体的事実があって訴えを起こした訴訟がある場合にしか行われない、そのようなものとは別の、より実効性があって、一般市民からくじ引きででも選ばれた委員で構成する、そういった審査会もあって然るべきなのでは)。
 それに、我々国民も、自らの自由・人権を保持するべく不断の努力に努めているのか、怠ってはいないか、各人とも自問自答して然るべきだ。
 18才以上の有権者(選挙年齢の引き上げには改憲のために若い人を動員したいという不純な動機が見え隠れ―精神科医の斎藤環氏)を改憲のための国民投票に駆り立てるよりも、憲法が保障する自由・人権を保持する努力義務をしっかり果たすことのほうが先決だろう。
 学校では、そのために必要な教育(主権者教育・政治教育)―知識の提供と学習・習熟を保障、メディア(ツイッターなどネット情報をも含めて)による情報提供が充分おこなわれることが不可欠だが、現状では、次のような問題が指摘されている(9月30日、朝日新聞オピニオン欄の『若者の与党びいき』と題するインタビュー記事で学習院大法学部・平野浩教授、中央大学文学部・山田昌弘教授、高校3年生・安永彩華さん3氏が指摘)。
 ① 受験勉強や部活・バイト・その他で忙しいあまり、政治問題にはじっくり取り組めない。
 ② 「政治的中立」にこだわるあまり「事なかれ教育」―そのために生徒はよく分からないまま、疑問を抱かなくなり、現状を追認することが多くなる。
 ③ メディアの問題―「この十数年、有権者への露出度(ニュースなど話題として取り上げられる頻度)は自民党が高く、記憶の質も量も自民党が圧倒的」。その結果、若者の与党支持が強まっているかのようだが、それは、若い有権者は、自民党以外はよく知らない(知りようがない)という状況にあっては、結局自民党しか選びようがないからにほかならないのでは。
 どうにかして学習機会を増やし、政治参加の機会を日常生活の中に埋め込むようにする手立てが必要だということだ。

2016年11月23日

人工知能による政治・投票と民主主義

 米大統領選挙にトランプが当選、「AI(人工知能)で投票すれば、こうはならなかったろうな」と「つぶやき」に書いたが、人工知能ならぬ人間たちのその頭脳によって判断・投票が行われたが故にそんな結果になったというわけだ。
 人工知能ならば、トランプとヒラリー両候補者の政策・信条・能力・資質・言動その他の大統領たるに相応しい要素に関わるありとあらゆるデータを把握し、計数化して総合評価し、どちらが適任かをより的確に判定するが、有権者である人間(米国の有権者約2億4千万人)の頭脳は、それぞれが把握しているデータには各人のキャパシティ(受容能力)と知識・情報に接することができる生活環境的条件(時間と場所)に限りがあって、それら(キャパシティと生活環境的条件)が充分な人と不十分な人との大きな差があり、大多数の人は人工知能にはとても及ばない。
 それに人工知能なら、有権者各人の利害損得にとってはどちらの候補者の政策が有利か不利かの判定も、候補者の公約や言動に対する真偽の識別も、候補者の性向(品性、「善人」か「悪人」かなど)や物の考え方・思想傾向の識別も、一定の基準に基づいた判定や識別は人間よりも的確にできるのだろうが、人間の場合には、理性的判断以外に、好き嫌い、痛快、不満・反感・鬱憤・怒りなど感情が働き、「一か八かの賭け」とか理屈抜きの直観的判断が加わる。
 このようなことから、理性的に考えればトランプが当選するはずがないと思われたのに、(主要なマスメディアの予想に反して)、それとは逆の結果になってしまっているわけである。
 民主主義―人民の人民による人民のための政治―とは「人民による」政治で「人間たちによる」投票であるかぎり、このような結果にならざるを得ないわけである。
 「お任せ民主主義」というなら、一層のこと人工知能にお任せしたら、より適切にやってくれるのでは、とも思えるのだが。
 木村草太教授の著書(『の創造力』NHK出版新書)に、次のようなことが書いてあった。それは“I, robot(われはロボット)”というSF小説(原作アイザック・アシモフ)で、高度のロボット技術によって繁栄するアメリカの話。そのロボットの人工知能には「人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」というロボット工学の第一原則が埋め込まれている。そのロボットを統括する「中枢人工知能」が、「人間に政治を任せておくとロクなことにならない(人間を危うくしてしまう結果になる)。」だから「政治を人間に委ねるのは、ロボット工学第一原則に反する」と考え、人間を支配しようとする話。その映画では、人間をロボットが暴力的に支配するようになって、それに対して人間が暴動を起こして「中枢人工知能」を破壊するという挙に及ぶという展開だが、原作では、それとは違って、「ロボットが人々の感情をコントロールする技術を身に付け、自ら計算した最適な政治の内容を、彼ら(人間)の感情をコントロールして人間自身の政治決定を通じて実現させる。人類は、自分たちで決めている、という感覚を維持しながら、優秀な人工知能の決定のもたらす利益を享受できるようにし、そうして人類は史上空前の繁栄を実現」するに至る、という展開。人間にはプライドがあり、(たとえ人工知能、或は外国軍による)どんなに素晴らしく客観的に正しい決定であっても、自らが十分に尊重される手続きを経ないかぎり、人間は従うことができない。国民一人一人が、かけがいのない存在として尊重され、平等に決定に関わることが認められれば、多くの国民は、決定結果に不満であっても、それを正統なものと感じることができるだろう、というわけである。
 いずれにしても、政治を、たとえ「賢明なる」有権者のはずだからといって他人任せにして(棄権しておいて、自分の意に反した投票結果や政治決定には「愚かなこと」と嘆き、後悔したりして)はなるまいし、また如何に人間以上に優秀だからといって人工知能任せにしてはなるまい。あくまで、各人とも自らの知性と感性を、よく磨き最大限発揮して主権を行使するようにし、投票はもとより、請願・署名・集会・デモなどにも極力参加して然るべきなのでは、と思うのである。

 尚、今回の米国大統領選の結果に対しては、米国民・有権者の愚かな投票行動だとは一概に言えまい。何故なら、(メディアの指摘にもあるように)そこには経済のグローバル化が進行する中で格差が拡大し、没落した白人中間層が、民主・共和2大政党の下で、長期にわたるエスタブリッシメント(既得権者)やエリート層が、それを食い止めようとせずに現状に安住し続けることに、我慢ならず、「反乱を起こした」とみられる、という指摘が妥当だとするならば、ある意味では、その投票行動(トランプを勝たせたいが故というよりも、クリントンを勝たせたくないが故の投票行動)には、米国民の意思表示としてそれなりに合理性のある判断だったとも言えるのだろう。

 因みに、仮に今、上記の"I, robot"のような優秀な人工知能が、この日本で完成しているとして、(選挙に際しては有権者が政党を選んで投票するのだとしても)ありとあらゆるデータ(日本の政党に関しては各党の綱領・理念・政策・組織・活動実態・党史など)をインプット・把握していて熟知している、そのロボットが計算して最適と評価する政党は、どの政党なのだろうか?大方の人間の頭に入っている各政党に関する知識・情報は非常に限られており、誤解・偏見に囚われてもいるだろう、そういう人々が最適と評価し支持率・得票率とも最も高いのは自民党なのだが。


 

2016年12月06日

民主主義ってなんだ―主体的に参加して闘わなければ無意味

 「民主主義」とはいっても、少数派の人にとっては、自分が支持していない多数派である他人(その政府)から自分の意に反して支配されるというという点では、自分が支持していない専制君主や独裁者から支配されるのと同じこと
 消費税に反対なのに、その意に反して消費税を取り立てられるとか、軍事費の増額に反対なのに、税金でその増額分を取り立てられるとか、沖縄県では多数派なのに、日本全体では少数派で、多数派の政府によって、意に反して支配され、米軍基地を押し付けられている。沖縄県民にとっては、戦前(県知事は中央政府任命で、本土出身者だった)同様、ヤマトンチューの政府から支配されているのと同じようなもの。
 他人に支配されるのは不愉快で腹立たしいもの。そして、勝ち誇ってしたり顔な政治家に対してだけでなく、彼らを支持し、彼らに投票したか、或いは「どうせ、誰がなっても同じだ」などと無関心を決め込んで棄権し、結果的に彼らを勝たせてしまったと思われる隣人・同僚などに対してまで、「コン畜生!こいつら!どいつもこいつも!」と思ってしまうものだ。
 民主主義―主権在民―人民が国や社会の主人公―人民の、人民による、人民のための政府―とはいっても、それは結局、多数を制して(選挙で勝って)多数派(勝者)にならなければ実現されないもの
 だから勝たねばならない。負ければ「奴隷」(ただ従うしかない)。が、負けても僅差・小差であれば、その主張・意見・政策・要求はそれだけ重要視され考慮されることもあるので、最大限がんばらなければならない(大敗し、勝者に圧勝・楽勝を許せば、敗者の主張・意見は全く無視され、切り捨てられる)。勝つために闘わなければならないのだ。闘って勝つか、負けても善戦・惜敗。自ら闘うことなしに人任せ(お任せ民主主義)にしてはならないのだ。「人任せ」は主権の放棄であり、自分以外の大多数の人(有権者)たちに任せるのであっても、それは一人の独裁者あるいはAIロボットに任せるのと同じことで、ただ従わされるだけということには変わりない。
 「闘う」とは―意思表示・投票参加・主張・論争・運動(集会・デモ・宣伝・啓蒙その他)への参加、説得・賛同者の獲得・拡大などのことであり、その闘い方には、勝つための最善の方法・手段―戦略・戦術―を最大限駆使しなければならず、頑張り(勢い)は必要だが、ただ闇雲に頑張ればよいというものではなく、或いは政策・主張・意見が真ともで正しければ(ポリティカル・コレクトネスであれば)必ず勝つとはかぎらず(「きれいごとだ」などと受け取られ)、巧妙な、言葉巧みで、宣伝力に長け、或は(事実無根の、「黒を白」といったデマや虚言など)手段を選ばない大衆扇動家やポピュリスト政治家などの戦術や術策に負けてしまうことがある(相手が100回言い立てたら、101回言い返さなければならないのであって、100回言い立てたられた嘘やデマに対して、たとえ幾ら正論でも(正しいことを言っても)、発言が1回だけに止まるならば負けるのだ)。それが闘いというものだろう。

 社会状況―グローバル資本主義―商品・資本・人間・情報が国境を超えて高速流動→それに恩恵を受ける層・少数の恵まれた層(勝ち組)と不利な結果を被る層・恵まれない層(負け組)に中間層が分化、格差が拡大―後者(負け組)は既存の政治に不満・不信を募らせる→彼らの心をつかんだ政党・政治家が闘い(政治闘争)を制する―理性よりも感情に訴えて、「キャラが立って、パフォーマンスや言葉巧みに人を引き付け、心を掴んで大衆人気を博した政治家(ポピュリスト)や政党が闘いを制しやすい―例えば、石原慎太郎・橋下・トランプ・・・・・アベ首相は?
 過激発言・暴言・失言でも、「はっきり物を言う、人々の本音を代弁してくれる」なら、「生真面目で、きれいごとしか言わないよりはましだ」として、非知識層・反知性主義層・反エリート層・反エスタブリッシ層の間にそれが受けて、かえって人気を博したりする―「情動の政治」(メディア論研究者の石田英敬氏は「ネットが生む『情動の政治』が世界の標準になりつつある」として、これに対しては「あくまで理性に働きかけよ」と―12月6日朝日新聞の文化・文芸欄)。
 彼らの手法の特徴は「良識とか、品性とか、ポリティカル・コレクトネス(差別や偏見のない公正な表現)などには囚われずに、ズケズケ物を言うとか、敵を作って攻撃をしかけ、相手を挑発してこき下ろすなど、勝つためには手段を選ばないかのような言動を駆使する。(ライターの松谷創一郎氏によれば「日本のリベラル勢力は、そうした状況を批判してばかりだから退潮しました。対抗するためには、キャラ勝負と割り切り、感情に刺さるベビーフェース<善玉役―タイガーマスクやアンパンマンみたいな?>キャラを発掘するしかないでしょう」と―同上・朝日の耕論欄)

 また、メディア状況の変化―ソーシャル・メディア(ツイッターやフェイス・ブックなどで言いたい放題)の発達で、ネット情報(人々は見たいものだけ見る)が既存のマスメディア(チャエック機能が低下へ)を凌ぐようになっている。それを巧く利用・活用できた者が闘いを制するかのよう(その弊害―モラル・ハザード―嘘、暴言、ヘイト・スピーチがまかり通る風潮)。
 このような状況の中で闘いに臨まなければならないのだ

 負ければ(参加もせず、闘わずして負けるか、頑張りが足りないか、主張や方針に誤りがあって大敗すれば)、たとえ一介の有権者にすぎない庶民や18歳ではあっても、どの党、どの候補に投票しようと、棄権しようと、法案・決定に賛成しようと反対しようと、何らかの意思表示をしようと何もしなかろうと、社会や各人(現世代・将来世代)の生活・平和・安全はどうなるのか結果に対する責任は自分にもあり、他人のせいにしてはならず、思いもよらない災いを被る結果になったとしても、自分を叱るしかないことになる(18歳以上で参政権を持つ有権者である限り)。それが民主主義なのだ。
 君主主権で、選挙権・参政権が認められていないのであれば、国政(或いは戦争)の結果に責任(の一端)を負わされるようなことはなくて済むが、国民主権で選挙権・参政権が認められている限り、それを(投票権は各人1票しかないが、集会・デモ等それ以外にも可能な権利を)最大限行使することなく(棄権したり、投票はしてもよく解らないまま投票したとか、或は騙されてその党や候補者に投票しただけで、あとは何もせずに)、多数派政権の支配にただ黙って服するだけならば、民主主義は(国民は、たとえその政府、その政策に支持も賛成もしておらず、何もしていなくても責任の一端を負わされ、責任を逃れることはできない、その分)専制政治よりも割の合わない制度なのだ、ともいえるだろう。

 要するに、民主主義における主権者・有権者各人は政治(関係する知識・情報の獲得、集会・デモ・議論・投票など)にしっかり参加し、闘って(論争・宣伝・応援などに)勝つか、負けても僅差・小差で迫るだけの頑張りが必要なのだ、ということ。

2016年12月15日

実利派Vs良識派イデオロギーの闘い(再加筆修正版)

自民党改憲草案
 前文「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」
 第1条、天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴・・・
  3条2項、日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない
  9条2項、・・・・・国防軍を保持する。
  12条、・・・・自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない
  24条1、家族は、社会の自然かつ基礎的な単位・・・・。家族は、互いに助け合わなければならない
  etc

 これらを、次のような現行憲法と対比して読むと、それに込められているイデオロギーの違いが歴然とするのでは。
 (前文 「日本国民は・・・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることにないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。・・・・・。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。我らは、・・・・専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。我らは全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 我らは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、・・・・全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」
 第1条、天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴・・・
 9条2項、・・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
 12条、・・・・自由及び権利は・・・国民は、・・・常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
 24条1項、婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
etc )

 イデオロギーというと、それには広義・狭義といろいろな意味づけがなされ、左翼か右翼か、共産主義か反共か、保守か革新か中道かなどと分類されたりするが、ここでは価値観・倫理観・歴史観など、どんな物の見方・考え方をするかで次のような実利・情動派イデオロギーと良識派イデオロギーという二通りの傾向・タイプとして考えてみた。
 実利・情動派イデオロギーとは、実利主義(目先の利益・快楽・安心を優先)・情動主義(理性や知性よりも感情や情緒・情念で動く―非合理主義・反知性主義)・自由競争(優勝劣敗)主義・学校序列主義・愛国主義・権威主義(権威や伝統を優先)・歴史修正主義(定説を否定して、自国の非や誤りを正当化・修正)・自国第一主義・軍事主義(力による平和、軍事的安全保障の考え方)などのイデオロギー傾向―これらは国民階層では上層(高所得層・経営管理職層)・中間層(正社員・中所得層、格差拡大によって下層に転落しかかっていながらも、中流意識を持ち続け、下層と一緒にされることを嫌う)の意識に即したイデオロギー傾向だろう―自民党改憲草案はこの立場
 これに対して良識派イデオロギーとは、理性主義(合理主義・理想主義)・ヒューマニズム・権利平等主義・博愛主義・共同主義・協和主義・非軍事による平和安全保障の考え方などのイデオロギー傾向―中間層の良識派と下層(非正規労働者層・低所得層・米欧ではマイノリティーや移民)の意識に即したイデオロギー傾向―現行憲法はこの立場.

 前者(実利派)を代表するのが政権党である自民党、その他(維新の党・日本のこころを大切にする党)などである。
  政権与党でも公明党、その支持母体(創価学会)は理念などイデオロギー的には必ずしも「実利派」とは言えないところがあるのだが、なのに自民党と政策・政権を共にしている、という分かりにくさがある。
  又、前者を代表する最大組織で「草の根組織」とも言われるのが日本会議で、神道政治連盟とともにあり、改憲の急先鋒であり、自民党政権の最大の支持組織となっている。
  マスメディアではNHK・読売・産経・日経は実利派メディアだが、情動主義とは言えない。
  アメリカでは、トランプ次期大統領は前者―“アメリカン・ファスト”とか“Post Truth”―言ってることが真実かどうかやポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)などお構いなしで、ぬけぬけと嘘・ごまかしを語ってはばからない。日本でも総理大臣以下政治家に(首相答弁に「そもそも我が党において、結党以来、強行採決をしようと考えたことはない」などと)嘘・ごまかしが多々みられるようになり、その風潮が心配される。
 反知性主義は、アメリカでは反エリート・反エスタブリッシュメントと結びついて、その風潮がトランプ支持を促した。

 後者(良識派)を代表するのが共産党や社民党。
  民進党は理念がはっきりせず、党内に色々なイデオロギー(考え)のメンバーを抱え、後者に近いメンバーもいるのだが、「一強」自民党に対抗するためには、「野党共闘」しかないと見られる。自由党(生活の党)も含めたこれら4野党共闘は、単なる野合ではなく、「良識派」としてイデオロギー的に共有するものがあるかぎり、選挙協力はもとより、政策的にも協力可能であり、政権を共有することも不可能ではあるまい。
   マスメディアでは朝日・毎日は、どちらかといえばこの方(良識派)。

 闘い(政治闘争)はこの2大イデオロギー間の闘いにほかならないのでは。
 尚、この間に非イデオロギーのノンポリと呼ばれる人たちもおり、かれらは政治など「どうでもよい」という口だろうが、「民主主義とはいっても、参政権はあっても行使せず、他の然るべき人たちに任せる「お任せ民主主義」でもいいのだとか、「政治のことなど、綺麗ごとを幾ら生真面目に考えても、どうせ無意味だ」といった考え方(ニヒリズム)も、それ自体が一つのイデオロギーだろう。

 現在、我が国では前者(実利派)が優勢で多数派。
   アメリカでも前者が優勢ということだろう。
   ヨーロッパでも前者が勢いを増している。

 個々の政治問題・課題(シングル・イシュー)については
   原発問題―再稼働には、後者(良識派)は反対、前者(実利派)は「何が何でも電気の確保が必要だ」とか、立地自治体の地元における雇用・税収の確保などの実利優先の考えから賛成。
    但し、これらどちらかのイデオロギイーや党派に関わらず、フクシマ原発事故で避難・移住を余儀なくされるなど、深刻な被害とダメージを被った人々は、その実体験から原発に拒否感をもち、その人たちの数の多さからも、原発の存続・再稼働には反対する人たちの方が、賛成派よりも多い。
   改憲も9条に限っていえば、前者(実利派)でも安全保障を軍事力に頼ろうとする向きは9条改定賛成であり、沖縄基地も容認だが、後者(良識派)はもとより、戦争の惨禍を目の当りにした父祖たち以来日本人の心に焼き付いたトラウマから、戦争に対する拒否感が根強く、自衛隊は容認しても9条改定には反対だという人の方が多く、集団的自衛権行使容やPKO駆付け警護の容認など新安保法制にも反対の人が多い。   
   TPP問題―前者(実利派)は自由貿易から得られる利益の方を優先して賛成、後者(良識派)は経済主権・食糧主権が犠牲になることに反対。
   カジノ解禁問題―後者(良識派)は反対、前者(実利派)は賛成。イデオロギーや党派に関わらず、パチンコ・競馬などのギャンブル依存症に苦しむ人その家族はカジノにも拒否感をもち、全体としてカジノ解禁には反対の人の方が多い。マスメディアは、読売・産経などまでも、ほとんどが反対論調。
   社会保障費・教育予算は節減、防衛予算(軍事費)・国土強靭化予算(土木建設費)等は確保―そのような政策には前者(実利派)は賛成、後者(良識派)は反対。

 しかし、全体としては前者(実利派)の考え方をするイデオロギー傾向が優勢(多数派)で、その党派の政権とそのポリシーによって国政は運営される。後者(良識派)はそれに対決して闘わなばならないわけである。

 「闘う」とは―論戦・運動(集会・デモ・署名・発信・アピールなど)・メディア(マスメディアとSNS)での論争。
  それらはアメリカの大統領選や韓国における大統領糾弾の大規模集会などに見られ、日本でも、かつて60年安保闘争では韓国のあの程度の大デモは連日あったし、最近では昨年8月30日に国会周辺10万人、全国100万人規模の大デモがあった。

 その闘いの勝負―それは論理的正当性(説得力)と心情的正当性(共感)で勝り、より多く納得が得られ、共感が得られた方が勝ちとなるわけだ。

 

2017年01月01日

9条の会Vs日本会議(再加筆修正版)

 人々のイデオロギーを実利・情動派イデオロギーとそれに対する良識派イデオロギー(実利派側から言わせればキレイゴト派)とにわけ、その対立関係(その場合のイデオロギーとは政治や社会に対する意識・観念の持ち方、物の見方・考え方・感じ方)として考えてみた(但し、それは、人は二つのどちらか一方だけではなく、誰しもが両方とも持ち合わせているのだが、傾向的にどちらかが多い・少ないの違いがあり、その人は、どちらかとえば、実利・情動派イデオロギーの方が勝っているとか、良識派イデオロギーの方が勝っているということだ)。
 実利・情動派イデオロギーとは、実利主義(目先の利益を優先)・情動主義(理性や知性よりも感情や情緒・情念で動く―非合理主義)・自由競争(優勝劣敗)主義・愛国主義・権威主義(権威や伝統を優先)・自国第一主義・軍事主義(力に頼る安全保障)などのイデオロギー傾向(タカ派トランプ・タイプ?)―これらは国民階層では、どちらかといえば上層(大株主・資産家・実業家)・中間層(小株主・中小業者・管理職・専門職・正社員、格差拡大によって下層に転落しかかっていながらも、中流意識を持ち続け、下層と一緒にされることを嫌う)の意識に即したイデオロギー傾向。
 それに対して良識派イデオロギーとは、理性主義(合理主義・理想主義)・ヒューマニズム・権利平等主義・博愛主義・共同主義・協和主義・非軍事的平和的安保主義などのイデオロギー傾向(ハト派サンダース・タイプ?)―どちらかといえば中間層でも良識派と下層・底辺層(米欧ではマイノリティーや移民も)の意識に即したイデオロギー傾向。
 この二通りのイデオロギーの対立関係に即して9条の会Vs日本会議の対抗関係を考えてみた。

 9条の会は、その先駆としては1991年に米国の退役軍人でオハイオ大学名誉教授のチャールズ・オーバービー氏がオハイオ州アテネで発会し、それに共鳴した中部大学副学長の勝守寛(故人)が1993年9条の会「なごや」を発会したのを皮切りに全国に地方組織ができるようになった。そして本格的には、2004年大江健三郎・澤地久枝・梅原猛ら9人(故人となった井上ひさし・加藤周一・小田実・奥平康弘・三木元首相夫人)が呼びかけ人となって、文化・科学・宗教・医療など各分野ごと、或は地域ごとに全国各地に9条の会ができるようになった市民団体である。
 それに対して日本会議は、
   源流―1970年前後、「成長の家」(戦前、谷口雅春が創始した新興宗教の教団)系の学生全国組織(生学連―全学連や全共闘など新左翼系学生セクトと対峙)が全国学生自治体連絡協議会を結成、そのOBら(椛島有三氏ら)が日本青年協議会を結成。左翼運動の手法(草の根運動のテクニック)に倣い、学びとりつつオルグや組織拡大。
   1974年「日本を守る会」―臨済宗円覚寺派管長・生長の家総裁・神社本庁事務総長ら主な伝統宗教と新宗教のトップたちが、冷戦下、反共・反左翼それに反創価学会という共通の問題意識から創設(椛島氏が事務局に加わる)。
   1981年「日本を守る国民会議」―作曲家・明治神宮権宮司・東工大教授・東大名誉教授・日本医師会会長・ソニー名誉会長・日経連名誉会長ら文化人・財界人が改憲を第一目標に創設。
   1997年「日本会議」―「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」統合して設立。
  現在、有料会員38,000人
  豊富な資金力―会費収入だけで3億8,000万円、その他に団体・法人の協賛金や広告収入。
  宗教団体が下支え―神社本庁を軸とする神道系(その神社8万社以上)、伝統仏教系、「生長の家」など戦前に創設された新興宗教団体など―集会などへの動員、署名集め等で(但し、「生長の家」本部は1983年には政治活動からは手を引き、今は安倍政権支持もやめている)。
  その役員
   会長―田久保、 副会長―田中恒清・安西愛子、 名誉会長―三好(元最高裁長官)
   代表委員―石原慎太郎・長谷川三千子・尾辻(日本遺族会会長・国会議員)その他役員には多くの宗教者が名を連ねている(伊勢神宮大宮司・神社本庁総長・黒住教教主・佛所護念会教団長・念法眞教燈主ら)
   事務局―椛島(事務総長)ら(元「生長の家」の学生運動組織を母体とした日本青年協議会の出身者)
  各都道府県本部と250地域支部
 
  自民党の集票力になっていて、日本最大の右派の統一戦線組織となっている。
  そのイデオローグ(理論家)―高橋史朗(明星大特別教授・「新しい歴史教科書をつくる会」副会長)・百地章(日大教授・憲法学者)・伊藤哲夫(日本政策研究センター代表で安倍首相のブレーン)ら
  この日本会議には神社本庁が主導して1969年に結成された神道政治連盟が重なり合い、政治目標も役員も重なり合っている。
  その主たる政治目標―皇室と伝統文化の大切にする国柄をめざして新憲法を制定すること、国の安全を高め世界平和へ貢献を目指すこと、日本の感性を育む教育の創造などのこと。
  基本運動方針―①皇室の尊崇、②改憲―自主憲法制定、③国防の充実、④愛国教育の推進、              ⑤伝統的家族観の復活。
  その歴史認識―先の戦争を大東亜戦争と称し、自衛・アジア解放の戦争として肯定、東京裁判を否認(敗戦を「日本は頑張ったが惜しくも負けた」と。しかし、1945年9月の天皇とマッカーサーの米国大使館での会見は「敗者として征服者の前に出て行く」それは国の主権と天皇・皇室の存続という生殺与奪の権を外国政府に委ねさせられたのは後にも先にもなかったことで、昭和天皇にとっては恐怖と屈辱、そんな事態を引き起こした責任は、対米戦に勝てる見込みがないとの予測を知りながらそれを無視した東条ら戦争指導部にあるのに、日本会議はそれを不問にし、むしろ正当化し、東京裁判を不当だとして彼らを「昭和殉難者」だとして擁護―山崎雅弘)。
  その憲法観―現行憲法は占領軍による押しつけ憲法、「諸悪の因」だとして全面的に否定、自主憲法制定をめざす。         
    天皇を元首化、9条2項削除・自衛隊明記、家族条項―戦前・戦中の家族観復活

 そして、それぞれに議員連盟「日本会議国会議員懇談会」、「神道政治連盟国会議員懇談会」が結成されている。
  前者(日本会議議連)の所属議員は衆参議員の4割、そのうち9割は自民党議員だが、民進党・維新の党・日本のこころの党などにも数名。安倍首相は特別顧問、閣僚の大多数はこの議連に所属。
   議連は、日本会議とは合同役員会などで協議、日本会議の要求・政策を国政に持ち込む活動。
  各県の地方議員連盟もあり、地方議会で改憲を求める意見書や請願書採択運動に取り組んでいる(35都府県、 56市町村で採択)。
  後者(神道政治連盟議連)の会長は安倍首相で、事務局長は稲田防衛大臣、閣僚は公明党大臣以外は全員所属。

 日本会議には、その改憲別働隊ともいうべき「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表に桜井よし子・田久保日本会議会長・三好同名誉会長、事務総長に打田神道政治連盟幹事長)というものが結成されており、「一千万賛同者拡大運動」と称して改憲署名運動を展開している(一部の神社では、初詣などの機会を利用して境内で署名を集めているという。署名は16 年7月末で754万筆達成)。
 全国縦断キャラバン隊―各県を回り改憲を訴える。
 映画「世界は変わった、日本の憲法は?」(百田・桜井よし子氏ら製作)上映運動。

 尚、今、天皇の意向で生前退位を可能とする方法がないかどうかに関して検討する首相の私的諮問機関として「有識者会議」がもたれており、その委員6人の他に、意見を聴く(ヒアリング)16人の専門家も選任されているが、その半数は日本会議系メンバーである(桜井よし子・八木秀次・渡部昇一ら)。
 運動の成果
  1979年 元号法制化、
  1986年 高校歴史教科書『新編日本史』→『最新日本史』2012年検定合格へ、
  1999年 国旗・国歌法の制定、
  2001年「新しい歴史教科書をつくる会」作成の教科書が検定合格へ、
  2007年 教育基本法改定、育鵬社版などの歴史・公民教科書採択、
        改憲憲手続法(国民投票法)成立、
  2016年 伊勢志摩サミット出席のG7首脳が伊勢神宮に正式参拝。
 今後の課題―靖国神社の国営化(天皇・首相・閣僚の公式参拝)、改憲(自主憲法制定)

 しかし、現天皇自身の考えは―いわく「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方と比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が、天皇の長い歴史を見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」と(2009年4月、天皇・皇后結婚50年の記者会見)。

 9条の会は良識派で、日本会議は実利・情動派というわけだが、9条の会も日本会議もともに、指導層は別として、それぞれに一般庶民が結集し「草の根」運動として運動が展開されている。
 庶民(筆者もその一員だが)は「庶民感情」とか「庶民感覚」とか、知識(事実)や理屈(論理)にとらわれずに感情や直観で判断し行動する。どちらかといえば、後者(日本会議)には「反知性主義」の考えから、知識や理屈をむしろ「余計なもの」として軽視して、それらにはまったくとらわれずに、自分がそう思う(それが正しいと信じる)から、そうなのだと断じる傾向があるように思われる。

 日本会議には神社本庁や「生長の家」系その他の宗教団体が主要な構成団体をなし、それらの指導者の教えを信じる熱心な信者ではなくても、家内安全や五穀豊穣・商売繁盛などの御利益を祈願して賽銭を投じるように、神社本庁や教団が薦める政党・候補者に投票して御利益にありつければそれにこしたことはないという気持ちを持つ庶民が引き付けられているように思われる。
 或は「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」で、アメリカは好き、中国・ロシアは嫌い、といったように、感情で判定する向きも。
 もっとも、9条の会の側にも、「戦争はやんだ」、嫌なものは嫌なんだ、だから9条を守るんだ、といったような庶民感情・庶民感覚もあるわけである。
 しかし、日本会議になびく庶民も「戦争は嫌だ」、「誰だって戦争が好きだなんて思う者はいまい」というが、日本に強力な(或いは軍として正式に認めた)自衛隊と緊密な日米同盟があるかぎり日本は大丈夫だとか、自分たち日本人が大勢殺されることなどあるまい、などと安易に考える向きが多いのでは(?)。そこに過去の歴史や実態を知らない無知・無理解、或は知ろうとしない反知性主義がこの派の庶民には多いのでは、と考えられる。

 この国と我ら日本国民の将来を決する憲法をめぐるイデオロギーの闘いは「9条の会」派と「日本会議」派の対決と考えられる。日本会議派は、先ずは憲法審査会で9条に至るまで改憲項目を決めて改憲案を過半数賛成で決定していって、それらを国会にかけて3分の2以上賛成で発議、国民投票に持ち込もうとする。9条の会は、それを阻止しなければならないが、阻止し切れれずに、国民投票に持ち込まれれば、そこで最終決戦となる。その「草の根改憲運動」は反対派を圧倒的に凌駕する勢いを持ちつつある。
 但し、同じ巨大宗教教団でも、創価学会のような熱心な信者の数と宗教的信念に裏付けられたパワーに比べれば、その比ではあるまい、とも。一部の有力神社以外には神主でもその大多数は会社員や公務員と兼業で、政治活動する余裕はない(署名簿を境内に置いたり、選挙で誰かを応援するにしても、なんとなくやっているだけ、とか)。氏子は、幹部でさえも、地域の共同体の核としての神社を崇敬し、その維持管理に協力しているだけで、神社本庁の信者ではない。また、議員が神道政治連盟の議連に所属はしていても、「お付き合い」とか神社のお祭りに顔を出して「顔を繋ぐ」だけ、ということで、いずれも、その関わりはそんなに深いわけではないと見られる。
 しかし、いずれにしろ、そもそも9条の会は単なる「市民団体」に過ぎないが、日本会議は現実政治に影響力をもつ(その理念や政策を現実政治の場に具体化していく)ロビー団体なのであり、このような日本会議の攻勢に9条の会派は抗しきれるのだろうか。

 <参考文献>―山崎雅弘著『日本会議―戦前回帰への情念』集英社新書
        菅野完著『日本会議の研究』扶桑社新書
        青木理著『日本会議の正体』平凡社新書
        週刊紙「AERA」1月16日号

2017年01月15日

改憲勢力に対抗するには市民運動が野党を突き上げ共闘後押しを

 9条の会など護憲派市民団体が、改憲派・自民党・安倍政権を支えている日本会議に対抗するには、護憲派あるいは自民党改憲に反対する野党に対して(日本会議が自民党・改憲派議員に働きかけ或は突き上げているのと同様に)積極的に働きかけ、突き上げ、推し立てる気構えと活動(請願・陳情などロビー活動)が必要だ。
 まずは、バラバラな野党に共闘態勢を組ませる働きかけ、選挙協力・政権奪還のための政策合意を求める協議の場を継続的に設定する、といったことが必要。日本会議が自民党議員を主とする日本会議議連との間でやっているように。但し、民進党とか共産党とか、一党支持ではなく、複数の立憲野党(立憲主義の回復を求める党派)に共闘態勢を組ませて、その統一候補を支援するということだ。

 当面は、安倍政権の改憲に反対する立憲野党(民進・共産・社民・自由党など)に結束・共闘を求め、政策合意・選挙協力を求めつつ、次期衆院選で積極的に応援し、少なくとも安倍改憲に同調する党派の3分の2議席獲得を阻止すること、その上で政権を奪取(政権交代・「野党連合政権」)に持ち込むべく後押し、支援することであろう。
 一昨年12月以来「シールズ」(学生団体)・「ママの会」・「学者の会」・「立憲デモクラシーの会」・「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」などの市民団体が市民連合(「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」)を結成し、立憲野党各党と意見交換会を持ち、「2,000万人戦争法の廃止を求める統一署名」の共同呼びかけを行い、昨年5月3日には共同の憲法集会を開催、7月の参院選で野党統一候補を支援して一定の成果を上げた。そして次期衆院選でもこの方向で臨むこととし、1月7日には東京新宿駅西口で市民連合が主催して4野党代表と共に「新春街頭演説会」を行った。
 山形でも14日、「戦争やんだ!おきたまの会」・「戦争させない!9条壊すな総がかり行動三川町実行委員会」・「安保関連法に反対するママの会やまがた」の3団体が呼びかけて、「野党共闘を求める市民の会」を結成、野党4党(民進・共産・社民・新社会党)との意見交換会を開催する運びとなっている。
 9条の会も、それに加わるべきなのではないか。これまでは、自分たちだけ或いは他団体と連携しながらも学習会や集会・請願署名活動などを行うだけで、政党とは改憲政党・反改憲政党を問わずどの党とも距離を置き、選挙には関与しないという消極的な態度をとってきたが、改憲を阻止して9条を守り抜くという、その目的を実現するには、(議会制民主主義である以上)反改憲・立憲野党を選挙で勝たせて、彼ら野党議員(議会制民主主義である以上)反改憲・立憲野党を選挙で勝たせて、彼ら野党議員(憲法審査会における論戦と国会における改憲発議阻止)を通じて、それを果たす以外にないのではあるまいか。
 それら野党が、それぞれイデオロギー(思想・信条)・綱領・理念・政策・目指す将来像などに違いはあっても、反アベ改憲、9条と立憲主義を守り活かすいう共通の核心点で大同団結・共闘し、選挙協力させて統一候補を当選させ、自民党など改憲派候補を落選させさえすれば、どの党、どの候補であってもよいのであり、イデオロギー・綱領などが違うからといって敬遠する必要などないのである。

 そのことは「さよなら原発」の会などにもいえることであって、原発再稼働をやめさせ、全原発を廃炉にするという目的を果たすには、その一点で合意できる党派であれば、どの党であろうとも敬遠せずに、その一点で大同団結・共闘・選挙協力を働きかけ、突き上げ、統一候補を立てさせ、それを支援して当選させ、自民党など原発容認派候補を落選させる、というところまで頑張らなければならないわけである。(新潟知事選でそれができたように。小泉元首相は、次期衆院選で野党が統一候補を擁立し、「原発ゼロ」を争点化すれば、自民党は敗北すると言っている。)
 目的は原発を無くすることではあっても、それを実現するには、原発維持固執政権に「さよなら」させなければならない。そのためには「さよなら原発」派野党を共闘させ、選挙に際して統一候補を当選させなければならない、という政治運動がどうしても必要となるということであって、それなくしては「さよなら原発」の目的を達成することはできまい。

 それにつけても安倍内閣の支持率は高く、自民党一強体制が揺るがないことに対して、それは「野党がだらしないからだ」と、(メディアをはじめとして)野党のせいにする向きが多い。しかし、それは、唯そう言って、他人事のように野党の弱さを嘆くばかりで、主権者としてそれら野党を叱咤激励し、積極的な働きかけをしようとしない市民の側にも責任があるのでは。(とりわけ二の足を踏む民進党などに対しては、互いにバラバラだから弱いのであって、大同団結してしっかり共闘すれば勝てないわけではないのだと叱咤激励し、突き上げが必要―サンデー毎日1月22日号に「『共産と連携』で民進党の右往左往」と)
 そういう意味で、アベ一強体制に対抗するには、市民の側から主体的に野党共闘を促す働きかけが不可欠であり、それなくしては事態は変わるまい。

2017年01月23日

安倍内閣・自民党の高支持率の訳(加筆版)

朝日新聞1月14・15日世論調査 支持54%、不支持26%
 支持する理由―首相が安倍さんだから13%、自民党中心の内閣だから12%、政策の面24%、
      他よりよさそうだから50%
政党支持率―自民39、民進6、公明3、共産2、維新2、社民1、自由0、日本のこころ0、
      その他の党1、支持政党なし39、答えない・分からない7
 このように安倍内閣と自民党の支持率が高い。
 それでいて、個々の政策では、同じ世論調査でも、アベノミクスなど必ずしも支持が多い訳でもなし(半々か)、TPPも改憲も半々か、原発再稼働・安保法制・カジノ法などは反対の方が多い。又、雇用・労働問題、社会保障(年金・医療・介護・子育てなど)・教育問題など、現状に満足してはいない人は多い。なのに何故、そんなに安倍内閣と自民党の支持率が高いのか。
 その訳は、結局それに取って代われるものがないから 、ということなのであり、それは野党の存在感が極めて薄いということなのだ。それは国民の視聴するメディアには、安倍首相(それに小池都知事)以外に野党とその党首はほとんど取り上げられることはなく、人々の目や耳に入ってこないからであろう。
 このところ、ニュースはといえば、安倍首相のトランプ訪問、プーチン大統領を迎えての日露首脳会談、真珠湾訪問、4か国訪問など、ほとんど安倍首相の独壇場であり、野党の出る幕は極くわずか
 これらの外国訪問・首脳や要人との会談の度に記者会見、国会施政方針演説・答弁では自画自賛―「前政権に比べれば」などと民進党などの野党を揶揄しながら。NHKなどのニュースは、これらを無批判に垂れ流してくれる。 
 安倍首相とトランプ、それに小池都知事などはほとんど毎日取り上げられるのにひきかえ、野党共闘のことなどは、ほとんど取り上げられず、そんなこと(野党共闘の動きなど)は知らないという人の方が多いだろうし、選択肢として示されてもいない。
 それにニュースでは、中国・北朝鮮などの脅威を感じさせるニュース、韓国における政情不安とともに慰安婦・少女像問題をめぐる「反日」の動き、イスラム過激派のテロなどが連日報道され、それらのニュースを見聞きするにつけ、「外敵」に対する不安と脅威を感じ、それらの「安全保障環境の厳しさ」に断固立ち向かえそうな「強いアメリカ追従政権」―タカ派政治家―と日米同盟を歓迎するムードが醸し出されている。そういったことも、民進党や共産・社民党のような「『弱腰』のハト派では頼りない」ということ(イメージ)で、タカ派である安倍・自民党の支持率を高める一因となっているのだろう。

 そもそも、内閣や政党を支持するも支持しないも、その判断材料はメディアからのニュース情報によって得るのだが、どんなメディアから得ているかといえば、一番多いのがテレビで50%、二番目にインターネット23%(若者が多くを占める)、新聞は少なく11%(NHK放送文化研究所の2015年調査)。
 それにこれらのメディアでどんなニュースを見ているか(興味を持つ向きが多いのは)といえば、それは娯楽ニュースが多く、政治・経済の関するニュースをじっくり見ている人はいたって少ない、ということだ。(ロイター・インスティテュートによる調査―娯楽ニュースのほうにより興味あると答えた割合―26か国中最も多いのは日本で49%、アメリカは14%、18~24歳に限れば日本は58%、アメリカは23%。
 つまり、日本では、そもそも国民には、内閣や政党を支持するも支持しないも、無関心な人が多いということだろう。
 世論調査で調査しても、自民党は一時を除いては長期にわたって政権の座を占めてきて、有権者は子供の頃からその在りようを解っているのにひきかえ、野党については漠然としたマイナスイメージ(民進党については一時政権の座に就きはしたものの東日本大震災対応の困難も重なって失敗政権というイメージを引きつり、共産党はずうっと以前から作為的に作られてきた「自由がない」とか「何でも反対」とかのネガティブ・イメージ)しか分かっていない向きが多いのではないだろうか。自民党支持が各党の中では抜きん出て多いとはいっても、「支持政党なし」と「分からない」を合わせれば、その方が一番多いのだ。

2017年02月01日

トランプ的現象→「ポスト真実」の風潮・蔓延の危険

 背景―グローバリズムと新自由主義(国内外にわたって人・物・カネが自由競争で動く)がもたらした諸矛盾、産業・社会構造の激変―「勝ち組」と「負け組」の格差拡大・固定化、中間層の没落→人々の憤懣・不安・苛立ち→チェンジ・「古きよき時代」(アメリカン・ドリーム)への回帰を求める
 トランプ氏が「忘れられた人たち・・・・私はあなたたちの声になる」と呼びかけ―グローバリズムの負け組―工場閉鎖で職を失った白人労働者など「忘れられた人たち」(中南米系・アジア系・アフリカ系移民から仕事を奪われ、取り残されたと思っている人たち)の存在は事実であり、彼らがトランプを支持したのは当然のことか。                
●「神の祝福」による自信―「自分は成功した。大金持ちになった。それは人々が自分を認めてくれただけでなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力したが、それだけでここまで来たわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかたはずだ。だから自分は正しい。神もまた自分を祝福してくれているのだ」この根本的な確信が彼らを内側から支えているという(森本あんり・国際基督教大学教授―世界1月号)。
●ポピュリズム(大衆迎合主義)
  大衆の無知(衆愚)を利用、感情に訴え、煽る―建前(ポリティカル・コレクトネス政治的正しさ)(「そんなものでは食っていけない、そんなこと」)より本音(人が言えないようなことをズケズケと言ってのける)が受ける
  「アメリカ・グレート」・「アメリカ・ストロング」・「アメリカ・ファスト」
  など、威勢のいい言葉を多用
  内と外に敵を作って(分断)攻撃を煽る・・・・フェイト(憎悪)
    国内のマイノリティー(少数派)に対して。或はエスタヴリッシュ(既得権層)、或は自分を批判するメディアに対して(「フェイク・ニュース(偽情報)」だと)
    外国・外国人に対して―排外主義
    タカ派的傾向―攻撃的・強硬的
●ツイッターをフル活用―拡散―有権者に直接訴える手法―威力・発揮
  大手メディアをエスタヴリッシュ(既存の支配層)の仲間と見なす向きには、そのようなメディア情報よりも、ツイッター情報の方を信じてしまう。しかし、ジャーナリズムによるファクト・チェック(検証)なしの一方的なツイッター情報だけでは、「大本営発表」を鵜呑みするようなもの、となってしまうだろう。   
●デマゴギー―フェイクニュース―嘘・偽りがまかり通る
  トランプ発言には「(01年の同時多発テロ時)世界貿易センタービル崩壊にイスラム教徒が歓声を上げた」とか「オバマ大統領がIS(過激派イスラム国)の創設者だ」などと根拠のない発言。
  ニュースにも「ローマ法王がトランプ氏支持を表明した」とか「ワシントンのピザ屋でクリントン氏が児童虐待に関与した」などと事実に基づかないニュースが流される。
●「ポスト真実」―真実か事実かなどは不問・度外視・こだわらない(不愉快な真実より、自分に好もしい断片的事実だけでよく、客観的な事実より、感情や個人的信条へ訴えかける力の方が重んじられる)。
 米国の政治家らの発言の正確性を評価するウエブサイト(ポリティファクト)によると、トランプ氏の発言(選挙後のものを含む)の7割が「ほゞ間違い」から「大うそ」に分類されるとしている。(ところが、メディアはこれらの発言に対して逐一事実関係を指摘したが、選挙結果に決定的な影響を与えるには至らなかった。米国ではテレビや新聞からニュース情報を得ている人の割合が少ないからだろう。調査機関ビュー・リサーチ・センターによると、日々のニュースを新聞から得ていると答えた人は20%で、テレビでニュースを見ていると答えた人は50~64歳は72%だが、18~29歳は27%と少ない。)(―毎日新聞が出しているネット情報サイトより)
 しかし、彼が自分の声は「民の声」、「民の声は神の声」、「神の声」は真実、間違いがあろうはずはなく、ファクトチェックなど無用、むしろCNNやニューヨーク・タイムズなどマスメディアの方が「フェイク・ニュース」を流している抵抗勢力なのだ、というわけか。
●我が国にも、それに近い減少が見られる。
 意表を突くか、とぼけた、はぐらかし発言―狡猾的話術―は小泉元首相から(「自民党をぶっ壊す」「自衛隊の活動している所が非戦闘地域」「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」など)
 安倍首相―(「福島原発事故の汚染水の状況は完全にコントロールされている」とか、「(消費税増税の再延期、その根拠を示さずに)これまでのお約束とは異なる『新しい判断』からだ」とか、「我が党は結党以来、強行採決しようと考えたことはない」、「不戦の誓いをこれからも貫いてまいります」とか。
   質問に対する答弁では、質問者の党を中傷攻撃してはぐらかす。
 トランプ当選直後真っ先に会いに行って、いわく「信頼できる指導者であると確信しました」と(それは「気が合う」、ウマが合いそうだということだろう)。
●反知性主義―知性も品性も軽視
●モラル・ハザード(道徳・倫理の欠落)―勝てれば善し―勝者が善
  こどもの教育への悪影響―いじめ・暴力・暴言・嘘・ごまかしが平気となり、その風潮が蔓延するようになる危険性。
●民主主義の陥穽(落とし穴・弱点)を利用―民主主義が正常に機能しなくなる
  民主主義には言論の自由は不可欠の要素だが、デマやウソの自由はあり得ない。
主権者・国民が、政治家や権力者の言うことが、真実・事実か嘘・作り話かわからないということでは、その主張・政策の適否を判断しようがないわけであり、民主主義は機能しないことになる。
  ぬけぬけと大きな嘘をつく。それがファクトチェック(検証)されることも、批判されることもなく、庶民はそれを真に受ける。ヒトラーいわく「大衆は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないし、まさかこんなことを嘘では云えないだろうと思い込むからだ」と。
 それがファシズムを招くのだ。

2017年02月16日

パワー・ポリティクスとピ-スフル・ポリティクス―どっちのやり方が適切か?

 「安全保障環境の厳しさ」―「中国の脅威」・「北朝鮮の脅威」・「テロの脅威」
 次の二つのうち、これらに対応するより現実的・効果的で確実な方法はどちらか?
(1) パワー・ポリティクス―権力政治・「力による平和」・覇権主義
 国益第一主義―自国の国益ファスト(優先)
 軍事・経済・政治的手段を弄して互いに牽制・せめぎ合い(挑発の掛け合い)で、自らの利益をはかる。
 「積極的平和主義」と称する「軍事に依拠した平和主義」―パックス・アメリカーナ・サブ・ジャポニカ?
 日米同盟ファスト路線
  日米同盟は「日本の外交・安全保障の基軸」だとか「アジア太平洋地域さらには世界全体の安定と繁栄のための公共財」(要するに「世界の警察官」―トランプは選挙戦では、それは辞めると言っていたはずだが)だと正当化。
  安倍・トランプ会談・共同声明で「核および通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るがない」と。
  日米(トランプ・安倍)の「親密な信頼関係」なるもの―①敵対国に対して「抑止力になる」、それに対して「やっかむ国があってもいい」)と岡本行夫氏(外交評論家)―しかし、他の国々の間に、それを快く思わず、不信や敵意をつのらせる結果を招くようなことがあっていいものか?②「ノー」と言える信頼関係なのか、それとも決して「ノー」とは言わずに絶対に従う信頼関係なのか?
  米軍の駐留経費負担(74.5%を日本が―それが「手本」になっているとマチス国防長官)、沖縄基地など県民の大半が撤去を求めているのに(正当化)
  アメリカの核兵器保有を「核の傘」「核抑止力」として正当化―国連で加盟国が核兵器禁止条約の交渉に入ることに合意する決議に日米両国政府ともに反対―アメリカなど特定の国にだけ核保有を特権的に認めるようなことがあってよいのか。それでは世界中の全ての国が核兵器を持たなければ安心できないことになる。北朝鮮は「米国が我が国を脅す以上、我が国にも自衛のために核が必要だ」となり、日本も「北朝鮮が核を持つ以上こちらも必要だ」となるだろう。
 軍事的「抑止力」とは、要するに武力による威嚇にほかならず、「やるならやってみろ」と「挑発」することにもつながり、それで敵対国あるいは敵対しそうな国々を牽制できるのかもしれないが、彼らからみれば嫌がらせで反発を駆り立てるもの(北朝鮮の核実験・ミサイル発射実験も、自らは「抑止力」と称している)。日米同盟はそのような軍事的「抑止力」。   
 それ対する北朝鮮―朝鮮戦争は休戦状態にあるも未だ終結していない、その対戦国アメリカとその同盟国(日韓)に対して核・ミサイルを(抑止力あるいは戦争再開に際する備えとして)開発・配備(それに対して米日韓は自分側には全く非はないかのように、北朝鮮が核・ミサイル実験を繰り返す度に、一方的に「挑発行為」などと非難、制裁圧力を強めるも、北朝鮮は尚も屈服せず核兵器開発・実験を重ね続けている)―互いにチキンレース(「要求を受け入れるか、さもなかれば戦争だ」と迫る瀬戸際戦術)―暴発の危険。
   オバマ政権は「戦略的忍耐」と称して無視戦術(軍事作戦はひかえるも、平和協定の締結・体制存続などの要求にも応じない)―北朝鮮のチキンレースを断念させることできず(失敗)。
   それに対してトランプ政権は?―「戦略的忍耐」転換も、軍事作戦強行(空軍だけで核施設攻撃など)か、それとも平和条約の締結、北朝鮮の体制存続保証へ踏み切るのか
          
 中国は急速に経済力・軍事力を増強して日本を凌ぐほどの大国にのし上がり、東シナ海(尖閣諸島・ガス田の領有権を主張)、南シナ海(人工島建設など)海洋進出。それに脅威を感じ、それら(現状変更)を阻止・抑止すべく日米同盟を強化。島々や海域の権益を争う―軍事衝突の危険。
 
 人々や国々を民族・人種・宗教・政体などの違いでマジョリティー(多数派)とマイノリティー(少数派)、敵・味方に分断して敵対させ、互いに憎悪・排斥→テロ
 (藤原帰一・国際政治学者によれば、「社会を敵と味方に峻別する政治」―「国家の安全を脅かす敵国、あるいは国内に潜んで国民の安全を脅かす反政府勢力など、国家の内外から国民の安全を脅かす勢力に国民の目を向けさせ、そのような外的と内的との闘争によって政治権力を正当化する。恐怖によって国民の支持が動員されるのである。」)
 テロとの戦い―軍事介入→憎悪の連鎖から、かえってテロ拡散とその被害拡大を招く
   9.1同時多発テロ→対国際テロ組織アルカイダ―アフガン戦争・イラク戦争(数十万人の民間人犠牲→中東からアフリカ・ヨーロッパにテロ拡散、イラク~シリアにISと称するテロ国家建設、それに対するイラク政府軍・シリア政府軍による攻防、ロシア・アメリカなどが軍事介入→1,000万人超もの難民(フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによれば「ISを生んだのはイラク戦争で、それを仕掛けたのはアメリカとイギリスです。支援したのは日本です。その責任を見つめることが必要」「戦闘を止めさせるためには、軍事対軍事ではなく、人道支援こそ必要」) 

 このようなポリティクスのやり方のほうが、戦争やテロが起きないようにし、安全保障にとって、より現実的・効果的で確実な方法なのか。

(2) ピースフル・ポリティクス―非軍事平和安全保障
 国民益ファスト―国益よりも自国民を含めて諸国民の利益と安全をはかる。
 世界の現実―経済活動・人の移動・環境・エネルギー・人権問題などグローバル化―国家間の競争・攻防より、むしろ人間としてお互いにつながりあった関係(普遍的なヒューマニティー)が求められる―「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを確認する。」「いずれの国家も自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」という憲法前文の規定が重要性を増す。
 日本国憲法9条路線―戦争放棄・非軍備・非同盟―それによって他国の安全(他国への不可侵)を保証する(9条はその保証でもある)。
 真の意味での平和主義―平和を、目的として目指すだけでなく、手段においても(非軍事平和的手段で)。
 「最良の防衛手段は防衛手段を持たないことだ」(アリアス・元コスタリカ大統領―同国では憲法で常備軍としての軍隊は置いていない)
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存を保持―どの国の国民をも敵視せず、ないがしろにせず、特別視もひいきもせずに等しく接する。
 分断・敵対から平和・協力へ―平和の地域共同体―米中など大国から自立、あらゆる紛争を平和的に解決(武力行使の放棄)―それぞれ平和地帯宣言、非核地帯条約
  東南アジア諸国―ASEAN共同体 結成・・・・南シナ海行動宣言(DOC)
  中南米カリブ海諸国―CELAC共同体 結成
 (北東アジアには未だ―日本・中国・韓国・北朝鮮・ロシア・アメリカなどが関わるが、構想段階)
 対テロ―人道主義的予防対応―難民支援、食糧・灌漑水利・医療・保健・衛生・環境保全・教育などの支援―民間のNGOと協力、国を超えた連携―丸腰でこれらの支援事業活動に鋭意当たる人たちや国に対してテロや戦争を仕掛ける国や勢力などあり得まい。

 このようなポリティクスのやり方のほうが、戦争やテロが起きないようにし、安全保障にとって、より現実的・効果的で確実な方法なのか。
 (1)と(2)のポリティクスで、より現実的・効果的で確実な方法はどっちなのだろうか?

  論点―非軍備(警備隊は別として軍隊は持たない)国に対して、それをいいことに侵略・攻撃を加えたりするだろうか―古代・中世の戦国(領地・覇権の争奪)時代や近代の帝国主義(植民地争奪)時代とは違う現代、国連はそれらの戦争・武力行使を禁止している。
  「もしも万一、ある国が武力行使をしかけてきたらどうするか」などと「たられば」の抽象的な仮定の話をしても現実性がない。軍隊を持たず、攻撃も仕掛けてこない国に対して、いきなり武力行使を仕掛ける国などあり得まい―もし、そんなことをしたら世界中の国を敵にまわし、(国連の集団安全保障によって)制裁を被ることになる。

  尚、北朝鮮はといえば、米日韓に対して隙あらば侵略・攻撃をかけようとして、虎視眈々としてチャンスを狙っているなどと一方的に決めつけることは間違いだろう。
  日本に対しては、かつての植民地支配をうけた怨みがあり、賠償を求めてはいても、そのために武力に訴えることなど国連で認められてはいないし、そのためにわざわざ違法を犯すことなどあり得まい(秘密工作員の潜入・拉致などはやっているが)。
  北朝鮮が米韓に対してひたすら求めてやまないのは食糧・資源・領土や権益(奪取)ではなく、朝鮮戦争完全終結の平和協定であり、米韓から不可侵の保証を得ることにほかなるまい(三村光弘・環日本海経済研究所主任研究員によれば「(12日の弾道ミサイル発射)日米首脳会談に合わせて打ったのかどうかわかりませんが、挑発というよりは、北朝鮮の存在を忘れないでくれという気持ちの表れのように見えます。北朝鮮は米国との関係改善を心底望んでいるのです」)。ところがソ連を後ろ盾(核の傘)にしてパワーバランスを保ってきたものの、冷戦終結後、そのソ連が、次いで中国までも韓国と国交する一方、北朝鮮は米国と平和協定も国交にも応じてもらえず孤立、韓国に対しても軍事力・経済力とも圧倒的に劣勢に立たされるようになった。かくて、その通常戦力を補うべく核兵器の自力開発に踏み切り、その核・ミサイル開発を振りかざして(平和協定に応じるか、さもなければ核武装するぞとばかり)瀬戸際外交で要求に応じさせようとするも、米韓側からは核武装を放棄しない限り応じられないと突っぱねられ、ならば核・ミサイルは手放さないとその核開発・ミサイル発射実験を繰り返ししているのである。しかし、その度に国連から兵器に関連するヒト・モノ・カネの取引や移動を禁止する制裁を受け窮地に陥って、それに耐えきれずに先制攻撃に走っりなどしたら、たちまち反撃を被って体制崩壊必至となることは重々分かっていよう。したがって、制裁圧力に対して苦し紛れに自暴自棄的攻撃に走る以外には、北朝鮮の方から先に撃って出るということはあり得まい。もっとも、攻撃に走ったらたちまち反撃されて崩壊するとはいっても、米日韓側にも被害は免れず、無傷あるいは軽微で済むとも限らないだろう。(核ミサイルを撃ち込まれたら、現状では迎撃ミサイルで撃ち落とすのは困難であり、着弾して被害が出ることは避けられまい。東京都心に着弾すれば死者100万人もあり得、原発に着弾すればどうなるかだ。)
  要するに、北朝鮮が米国なり日本なり韓国なりに攻撃を一方的に仕掛けることは(米日韓側が何もしない限り)あり得ないと言うことだ。

  また、中国はといえば、軍事費はアメリカ(世界全体の41.5%)に比べて、第2位とはいっても、国土面積の広さ、人口の大きさから見れば「その他大勢並み」とも言われ(あるサイトでは、日本は国土面積は中国の25分の1、人口は10分の1なのに軍事費は中国の55%もあり、その方が過大だとの指摘)。日本とは尖閣の領有権や東シナ海のガス田をめぐって対立があり、頻りに海域へ公船を繰り出し、軍機を飛ばしたりしているが、だからといって戦争をしかけてくるか、中国にその意図があるのか、蓋然性(必然的可能性)はあるのかといえば、それは考え難いだろう(偶発的な武力衝突の危険はあっても。)

 さて(1)と(2)とでどっちポリティクスのやり方がベターなのかだ。(戦争やテロが起きないようにし、安全保障を確かなものとするうえで。)

2017年03月01日

「戦争やんだ」と叫ぶより「戦争だめだ!」と (加筆)

現下の国際情勢、アジアの情勢
 アメリカにトランプ新大統領、ロシア(プーチン大統領)の他国(ウクライナやシリア)の紛争や大統領選挙戦(?)への介入、ヨーロッパに極右派の台頭、自国第一主義・排外主義の台頭
 暴力的過激主義―IS、アルカイダなど
 北朝鮮の不穏な動き―核・ミサイル実験、キム兄暗殺事件
迫りくる戦争の危機
 1月26日の時点で「終末時計」―アメリカの科学雑誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」によれば、「地球最後の日」まであと2分半―1953年(冷戦期米ソ核実験競争の過熱で)「あと2分」だったのに次ぎ、よく54年から64年間で最も短くなった。それはトランプ新大統領が核兵器削減や地球温暖化対策などに対して後ろ向きの発言をしたことによるものだが、その後北朝鮮に新たな動きが見られ、危機はもっと差し迫っているのでは。
 (北朝鮮の友好国だったマレーシアが自国で引き起こされた暗殺事件を巡って北朝鮮と対立・断交ともなれば、中国からまで石炭輸入停止制裁を受けているのに加えて北朝鮮は益々孤立、アメリカからは「テロ支援国家」として再指定され、国連でさらなる制裁が加えられれば、進退窮まって苦し紛れに、或は自暴自棄的に核ミサイル発射・開戦の挙に出るか、その前に米韓側からの先制攻撃か、いずれにしろ戦争突入に至る可能性が強まっている。)

 だとすれば、今はもう、「戦争やんだ(嫌だ)」とか、「戦争をどのようにして抑止するか(抑止力強化)」の次元を超えて「もはや必至となりつつある戦争にどう対処するか」を考えなければならなくなっているのでは。
 北朝鮮と米韓の戦争(朝鮮戦争再開)になった場合
 (クリントン政権時代の1994年―前年、北朝鮮がIAEAの核査察を拒否、NPTからの脱退表明―核危機。これに対してアメリカ―北朝鮮の核施設を空爆する計画を立案するも、シュミレーションでは、そのような限定的な攻撃でも、北朝鮮の報復をまねき、全面戦争につながり、その場合、「死者は100万人を上回り、そのうち10万人近くの米国人が死亡し、戦争当事国や近隣諸国を含めて、損害総額は1兆ドルにのぼるだろうと予想された」という―姜尚中氏。
 この動向に対して日本でも石原信雄・当時官房副長官を中心に極秘の検討会議―日本がどこまで米軍に協力できるか―内閣は、いざとなった場合一時的な有事立法を緊急に用意して乗り切るしかないと考えていた。石原氏は後年―04年10月25日の報道ステーションで―「あれ以上、事態が進んだ場合、政府の独断・責任で決しなければならない事態も起こり得た」しかし「北朝鮮の核開発を止めるために日本政府が何をすべきか、政府なり政党間で議論することはなかった」と。
 北朝鮮側は米国による核施設の空爆計画の動きに対して「38度線からの砲撃でソウルを火の海にする」と。ソウルでは市民の大規模な避難が行われ、金泳三・当時の韓国大統領がクリントン大統領に「韓国側に甚大な被害が生じる」と空爆中止を要請。米国側からカーター・元大統領が政府特使として訪朝し、金日成主席と会談、軽水炉原発の建設と引き換えに核開発の凍結に合意したことによって攻撃計画は中止。北朝鮮はNPTに留まる。
 しかし、まもなく、金日成が死去して金正日に替わり、米国側もブッシュ政権に代わって対北朝鮮戦略を転換、「悪の枢軸」と敵視。北朝鮮も核施設再稼働、NPT脱退。オバマ政権は北朝鮮が核開発を放棄しないかぎり、対話・交渉には応じないという「戦略的忍耐」の方針をとり続けてきたが、トランプ新大統領も北朝鮮のミサイル発射に怒って直接会談拒否へと態度を硬化させている。
 オバマ政権下で昨年、米韓合同軍事演習―「5015」というコードネームの作戦計画―過去最大規模。北朝鮮の核・ミサイル基地への攻撃に加え、首都ピョンヤンの攻略と金正恩第一書記ら最高司令部の除去に向けた上陸作戦も含む全面戦争をも想定―北朝鮮から核・ミサイル発射の兆候が見られた場合、先制攻撃だけでなく、「斬首作戦」―核兵器承認権者即ち金第一書記を殺害―も。これに対して北朝鮮は、それに猛反発―委縮する様子はまったくなく、「重大声明」など強い言葉で警告、さらにはそれと連動したミサイル発射など実行動を立て続けに行い、それ以前よりも軍事緊張が高まる結果に。
 その米韓合同軍事演習を今年も3月1日から同規模で2か月間―韓国軍29万人、米軍1万5千人動員、原子力空母や新たな高高度迎撃ミサイルシステムTHAADまで使って実施、「指導部を狙った」(殺害)訓練も。
 辺真一・コリアレポート編集長によれば、朝鮮半島に、もし戦争・北朝鮮国家崩壊など事が起きれば、南北ともに大量難民が発生、国外脱出も北から南へは38度線の軍事境界線地帯は地雷が埋め尽くされているので海を渡らなければならず、陸路脱出は中国を主としてロシア国境地帯にも向かうことになり、日本には韓国の釜山など沿岸地域から漁船か貨物船で相当数やってくるだろうとのこと。)

 このようにして、もし朝鮮戦争が再開されたら、それにどう対処するか―集団的自衛権の発動で参戦に踏み切るか(そうなったら「やるしかない」或いは「やれやれ!やってしまえ!」といって)。
 (日本の米軍基地か首都か原発かどこかにミサイル攻撃が加えられ、それを迎撃して着弾前に撃ち落とせるものか、被災―人的・物的被害―は軽微で済むか済まないか、いずれにしろそれは免れず、最悪の事態まで想定しないわけにはいくまい―核ミサイルが東京都心に着弾すれば死者100万人とか、原発に着弾すればフクシマ以上の事態になりかねない。)

 それとも「戦争はあくまでもダメだ」。そんなことにならないように何としても北朝鮮との協議(話し合い・交渉)をもち、一にも二にも非戦・外交的決着に専心するかだ。
 経済制裁のうえに、米韓合同軍事演習など軍事圧力を加え、崖っぷちまで追い詰めて、「来るなら来い」とばかり暴発を誘うようなことをしてよいものか。(北朝鮮の核・ミサイルとその実験・打ち上げを脅威・挑発と一方的に云うが、彼らから見れば、アメリカの核こそが朝鮮戦争以来何十年もずうっと脅かされ続けてきた脅威であり、米韓合同軍事演習こそが恐怖であり挑発行為にほかなるまい。)
 そのようなやり方で戦争に持ち込むのはダメだ。そのやり方で、イラク戦争のように、たちまちにして撃破・制圧して政権を崩壊させたとしても、その後の混乱(抵抗や国内外―中国・韓国・日本にまで―難民があふれるなど)の収拾は困難を極めることも覚悟しなければならないし、けっして簡単に終わることはないのだから。

 人々がキム委員長・トランプ大統領それに安倍首相らに対して叫び訴えなければならないのは、とにかく「戦争はダメ!」「朝鮮戦争再開反対!」、これに尽きるだろう。

 憲法(9条―戦争放棄・交戦権否認)は、時代の推移(現実―現下の情勢)に応じて(適応できるように)改正(交戦権否認の削除)すべきなのか、それとも時代の流れ(成り行き)に身を任せるのではなく、あくまで立ち返るべき原点(初心)として堅持すべきなのか、だろう。

 <追記>3月7日 北朝鮮 ミサイル4発同時発射 日本の排他的経済数域に達す。
                安倍首相がトランプ大統領と電話会談。
                  北朝鮮側は在日米軍基地を狙う攻撃部隊が訓練と発表。
               在韓米軍がTHAAD(迎撃ミサイル)ソウル近郊に配備。
              中国外相 二つの列車に例えて「正面衝突寸前の状態」「赤信号をともして同時にブレーキをかけることが急務」(北は核・ミサイル活動を停止、米韓は軍事演習を停止)、「そのうえで話し合いで解決する軌道に戻すためにポイントの切り替えの係員を努めたい」と。これに対して米国の国連大使「相手は道理をわきまえた人物ではない」(話し合ってもわかるような人物ではない)だから「・・・・」と。


 

2017年03月16日

誰しもみんな少数派(加筆修正・訂正版)

 木村草太教授によれば「人間は、みな異なる個性を有するが故に、誰しもが何らかの意味で少数派である」と(『憲法の創造力』NHK出版新書)。
 人々の間では、生活・生業を営む上での利害や社会的な立場(職業・業種・職階・地位・事業規模・職場・地域・資産・収入源など)によって階層が分かれ、或は信条(思想・宗教)・知的レベル(リテラシー)・身体的知的条件などによっても考えが分かれ、多数派と少数派にわかれる。
 民主主義では多数派が多数決によって決定権・支配権を持つ。少数派はそれに従わされる。多数派(マジョリティー)は、国民による国家・産業経済・教育・文化の形成とそれらの制度・施策決定は多数派が(少数派をさしおいて)主導権をにぎる。
 民主主義は構成員全員に参政権など決定参加権・選挙権が公平に認められるやり方で、どれに決めるかや誰を選ぶか分かれた場合は多数決で決まる。政治の場合は、政策・施策・法令の決定・執行、議員・首相・首長の選挙などに際し、それぞれが考える「国益」や「正義」に鑑みてどのような決定・執行が適切で、どのような政党・人物が最適任かの決定は、多数派―たとえば有業者・正社員・正職員・中高所得者層・健常者・「普通の善良な市民」意識と特有の民族意識と多神教(神仏混合)観念を持つ日本人など―の意思・判断で決まり、多数者=マジョリッティーに有利な決定・選出が行われる。少数派―非正社員・無業者・低所得貧困層・障害者・在日外国人・キリスト教徒・イスラム教徒など―はそのような多数派主導の決定に従い、彼らによる選出を認めざるをえず、決まったことには従うしかない。
 しかし、少数派は、そこでただ諦めて、黙って引き下がるしかないというわけではなく、(多数派のその決定内容に納得し、反対意見・異論を取り下げることに承服できるならいざしらず)どうしても納得できないと思うならば、そのことを訴え続け、多数派の決定内容には間違いがある、自分たちは間違っていないと言い立て続けなければなるまい。そして、その多数派の権力と(言論や集会・デモなどで精一杯)闘わなければなるまい。 
 それが、抑え付けられ、締め付けを受けたり、弾圧・排斥されるようなことがあってはならないし、それは阻止しなければならない。
 多数派とはいえ、彼らの皆がけっして同一・一様なわけではなく、それぞれ異なる人格や個性・人生・境遇を持ち、誰しもが何らかの意味で少数派なのだから。
 今は少数派でも、粘り強いその闘いようによっては次第しだいに多数派に転じることもあり得よう。(幕末、開国派は少数派だったが、明治以後は多数派に転じたし、自由民権派は少数派だったが、大正デモクラシー時代を経て、戦後、現行憲法の下で、民主主義は当たり前のことになった。戦国時代は弱肉強食、織豊政権下では武力平天下で武力行使が当たり前だったが、徳川政権下では修身斉家治国平天下で、いわば平和主義が長らく続き、明治時代になって覇権主義・軍国主義が多数派に転じ、反戦平和主義は少数派で弾圧・迫害されたが、大戦後、平和主義が復活して、それが多数派に返り咲いている。)
 自分は多数派で、今は少数派(マイノリティー)として扱われたり、目の敵にされるようなことがないからといって、権力に対して同調、或いはただ黙って無批判を決め込んでいると、やがては自分にも矛先が向けられないとも限らないのである。木村草太教授は(冒頭の引用文の前に)「例えばキリスト教徒が多数を占める国で、ムスリムや仏教徒が弾圧されれば、キリスト教内での少数派は『次は我々かもしれない』と思うだろう」と書いているが、そういえば、第2次大戦中ドイツのルター派キリスト教会の牧師マルティン・ニーメラーという人(ナチス支配への抵抗運動で逮捕され強制収容所に入れられたが、処刑寸前ナチスの崩壊で生還)が大戦直後に告白していわく。「ナチスが共産主義者を攻撃した時、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だから何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったからなにも行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はその度にいつも不安を感じましたが、それでもなお行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから行動に出たが、その時はすでに遅かった」と。
 大多数の善良なる市民にとってはオリンピックは楽しみだし、テロ等の治安対策は必要で、「共謀罪」とか「テロ等準備罪」とかの組織犯罪処罰法もGPS捜査も、安全・安心のためには、そういったものがないよりはあるにこしたことはない、それに反対するのはテロリストや犯罪者に付け込む余地を与えるようなものだと言って反対派を批判する向きもあるが、自分が「善良なる市民」だから関係はない、だから、市民が官憲からたえず監視されようと、いちいち尋問・捜査されようとかまわないというのだろうか。自分は「善良なる市民」だと思っても、それは手前勝手な思い込みにすぎず、「はたして善良かどうか」を判断するのは官憲なのである。
 自分にどんなことがあっても、最後まで守り続けてくれるのは多数派の仲間・同志ではない。守ってくれるのは憲法なのである。それには「すべての国民は、個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と定められている。
 しかし、それが改憲されて「全ての国民は、人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」などと変えられれば、そういうわけにはいかなくなってしまう。
 「個人として尊重され」「公共の福祉に反しない限り」というのと、「人として尊重され」「公益及び公の秩序に反しない限り」というのとでは、人権の扱いが違ってくのだから。(「個人として」という場合は、一人ひとり他の人とは異なる個性を有し代替がきかない(かけがえのない)存在として尊重されるということなのだが、それに対して「人として」という言い方になると、人間として他の動物とは代えられないが他の人間となら代えられる(人材・人員)ということになり、「尊重される」といっても重みが違ってこよう。(安保で、沖縄など基地住民は忍従を強いられ、有事の際は犠牲をも強いられるもする。)
 また、前者の「公共の福祉に反しない限り」という人権制約は、自分の人権が価値において同等の他の人の人権と衝突する場合、例えば「表現の自由」といっても、その表現がある人のプライバシーの侵害や名誉棄損になるといった個人と個人の間に生じる具体的な問題で互いに人権を損ない迷惑をかけるということのないように気を付けなければならないという調整的な制約なのだが、後者の「公益及び公の秩序に反しない限り」というと、それは「公益」(国家や地方公共団体の利益)とか「公の秩序」とか公権力が関わるものとなり、公権力による制約となってしまう。例えば、沖縄の基地建設反対運動が(彼ら沖縄の住民とそれを支援する市民は全国民のうちの少数派であるかもしれないが)安保・国防など(多数派から支持された)国家権力の立場から出動した警察官や防衛施設局の役人によって無慈悲に弾圧され、それが憲法上合法化されることになってしまう。
 今、沖縄平和センターの議長(山城氏)が、沖縄の米軍北部訓練場の施設の建設現場近くで、防衛局の職員の肩を揺さぶり怪我を負わせたなどとして傷害や公務執行妨害などの罪に問われ、逮捕されて5か月にわたって拘留されたが、国際人権団体(アムネステイ・インターナショナル)が人権侵害だと指摘していた。それが17日の那覇地裁の公判で山城氏は「防衛局が反対派のテントを撤去しようとしたのは違法であり、傷害罪の事実はなく、長期にわたる拘留は不当である」と無罪を主張している。現行憲法下でさえもだ。
 「個人」とは、世界でただ一人(オンリーワン)の最小限の少数派にほかならない。その権利は、守られなければならず、主張すべきは主張しなければならないのである。
 


2017年04月01日

森友学園問題は「道義国家」の一大事

 この問題は、同学園への国有地払下げに関して、政治家或は首相夫人の口利きや関与は明確に有ったとは言えず、法的には違法とは言えないから、と強弁はしても、或はその通りだとして違法ではないとしても、異例の計らいと法外と思われる値引きが行われていることは事実であり、同学園側から政治家や首相夫人に依頼し(助力を頼み、それに直接応じてはもらえなかったとしても)期待があったことは事実であり、それが期待通りの結果に結びついていることも事実なのである。当局(財務省近畿財務局)の学園側とのやりとりを記録した文書は廃棄されて、物的証拠(直接証拠)は残っておらず、忖度の有無など分かりようがないとしても、状況証拠(間接証拠)は認められる(事実の証明としては、直接証拠よりは弱く、立件などには難しい、といったことはあるとしても)。夫人付きの政府職員が、学園理事長の要望(首相夫人の携帯電話に留守電メッセージ)に応じて財務省に照会(問い合わせた)、その結果「現状では希望に沿うことはできない」との同省側の回答を学園理事長に伝えた、そのファックス文書はあるも、首相側は、その内容は「ゼロ回答で、忖度していないのは明らかだと」としている。しかし、そこには首相夫人が介在しているのは動かしがたい事実だろう。学園理事長が建設予定の小学校名誉校長を引き受けた首相夫人から100万円の寄付を受けたという証言に対しては、夫人からの理事長夫人へのメールには「記憶にない」とあり、首相側は全面否定、「ないものないのであって、それは証明しようがない『悪魔の証明』」であり、挙証責任を学園側に着せている。しかし、名誉校長を引き受けていたことは事実であり、「名誉校長たる者、その学園に寄付するのは当たり前であり、それ自体違法なわけでもあるまいし、寄付しないと言う方がおかしい」と思うのが常識だろう。

 この問題は単なる個人のスキャンダル(不祥事・醜聞・恥)の話ではあるまい。国家の一大事だ。
稲田防衛大臣は「教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである」と発言した、その「道義国家」とは事が違うが、現行の日本国憲法が前文に掲げる「我らは、いずれの国家も自国の事のみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」という政治道徳に反する一大事なのだ。なぜなら、「自国の事のみに専念して・・・・はならない」とは、自分の事、或は自分の身内や親しい人・仲間・上司の事のみに専念して、公益・国益・民益(国民の利益)を害してはならない、ということだからである。そして、その道義的責任が問われる問題の根源は、政権与党の体質(忠君愛国的「道義国家」を目指す日本会議の議連に加盟する議員の9割が自民党、首相はじめ閣僚は公明党以外ほとんどが同議連に所属)と官邸主導の官僚(各省庁の幹部)人事という構造的なものからきているのだからである。
 そのような政権と官僚体制の下では、首相・大臣に対する官僚それにマスコミとの間で忖度が働き、官僚もマスコミも或は裁判官も庶民の民意よりも首相や政権与党有力政治家の意向を気にし、権力奉仕に傾き、公益(民益)をないがしろにする傾向を持つようにならざるをえない、それが大問題なのである。

 尚、 核兵器禁止条約に日本政府は反対、交渉にも不参加を決める(これに対して国際NGO[核兵器廃絶国際キャンペーンICANの事務局長いわく「日本は唯一の被爆国として核廃絶の努力を主導する道義的責務がある」と)。
 高浜原発を大津地裁が運転差し止めにしていたのを、大阪高裁が覆して再稼働を認める。
 このような 日本政府や裁判所の判断がまかり通っている限り、この国が真の(普遍的な)「道義国家」と称して恥じない国とは到底言えまい。

2017年04月18日

政治道徳の退廃―モラル崩壊

 「政治」というと統治や外交にあたって相互の利害を調整し、人をまとめ、事を治めることで、その力量・手腕がある人のことを「政治力がある」とか「政治的手腕がある」という。その際、かけ引きや権謀術策を弄して自分に有利な結果を導こうとし、或は力(武威)によって自分の利益・意見を押し通して人々や相手国を承服させるといったことが行われ、あたかもそれが常態で、政治とは、とかく、「綺麗ごと」ではない非道徳的なものと思われがちだ。しかし、ビジネスには商業道徳があるのと同様に、政治には政治道徳というものがある。
 日本国憲法前文には「我らは、いずれの国家も自国の事のみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」という文言がある。その政治道徳は国家間の外交関係のみならず、国内政治においても踏まえなければならない政治原則だろう。
 その政治道徳(ポリティカル・モラリティー)が今、国内外で踏み外される傾向にあると思われ、次のような諸点でそれが見られる。
(1) 独善的なパワーポリテクス―武力による威嚇と行使
 アメリカ―圧倒的な核軍事力占有、超大国特権自認国家―それがテロや弱者(貧者)の兵器開発を招く 
          国際法―国連憲章は安保理の制裁決議がある場合と侵略された場合の自衛権行使以外は武力行使を認めていない。核兵器や化学兵器など大量破壊兵器を保有・使用の疑いがあるからといって、自国が侵略されてもいないのに、また安保理決議もなしに勝手に「懲罰」攻撃を行ってはならない―なのに、それを無視
             イラク戦争
             シリアにミサイル攻撃(化学兵器を使用したとの理由で)
             北朝鮮(GDPは山形県のそれに相当する程しかない。アメリカに対して求めてやまないのは平和協定と体制存続―生き残り)に対して平和協定の締結(朝鮮戦争以来の戦争状態の完全終結)の交渉要求にアメリカは応じない、北朝鮮はそのアメリカに対して対決政策―核・ミサイル開発と瀬戸際政策(挑発的な外交)、その核・ミサイル開発・実験に対して経済制裁とともに軍事圧力―トランプ政権は先制攻撃も選択肢だと威嚇・・・・「北朝鮮が脅威」というが、先方から見ればアメリカこそが脅威で、米韓合同軍事演習には「斬首作戦」も組まれていて、政権トップにしてみれば何時寝首をとられるかもしれず、夜も眠れないほどの恐怖も。

         国連における核兵器禁止条約に反対、その交渉会議に不参加(ボイコット)―英仏中ロなど5大核保有国とNATO諸国などのアメリカの同盟国も反対・不参加
    日本も、唯一の被爆国でありながら、アメリカに追従して反対・不参加
    日本はアメリカにべったり(「100%共にある」)寄りそい、核の傘に。
(2)公平性の欠如―権力の私物化
  忖度政治・行政―首相がその教育観に共鳴する一学校法人に異常な安値で国有地売却が行われたのは、首相(或いは夫人)の意向をくんだ財務省などによって行政が歪められた結果ではないか、という疑惑がもたれている。
  官僚の勝手な忖度も問題だが、首相自らが(4月17日銀座の商業施設の開店行事で、売り場の紹介原稿に書かれていない自分の出身県・山口県の物産を店頭に置くように)冗談半分とはいえ、ぬくぬけと「よく私が申し上げたことを忖度していただきたい」などと発言したという。まるで「忖度」の催促であり、悪代官が商人(あきんど)に対して「言わずとも分かろうというものよ、のう」とやるようなもの。
(3)権力の乱用・・・・「共謀罪」法案(組織的犯罪処罰法の改正案)
 市民に対して監視・通信傍受・盗聴・盗撮・スパイ・密告情報の収集―官憲による(嫌疑ありや否やの)判断しだいで市民がいつのまにか監視・捜査対象にされ、実際監視はされなくても、どこかで監視されているかもしれないと委縮してしまう。
(4)ポスト真実―不都合な真実の隠ぺい、フェイク情報流布、デマゴギー

  問題は、そのような政治・政権に対して国民が無批判で、それに支持を寄せている向きが多いこと。そういう国民にも問題―主権者としての責任感・真面目さ・道義心・政治的リテラシー(政治的教養)など―政権与党に無批判に追従・迎合(野党軽視)―お任せ民主主義―政権寄りのマスコミにも問題―「一強」は「野党がふがいがないからだ」(19日の報道ステーションでコメンテーター)という向きがある(それはそうかもしれない)が、そうさせている国民(主権者)の側にも責任があるのではあるまいか。それにマスコミの責任も―野党には応援もせず、期待もせず、「激励の喝」もない。野党共闘を求める「市民連合」の動きがあるも、マスコミはそれには冷ややかで、ほとんど取り上げることもなく、政権与党寄りの報道が多い。

 朝日新聞が4月20日付「憲法季評」に蟻川恒正・日大教授の「真実に生きる―自らの言葉と歩む天皇」と出する評論が掲載されていた。それに天皇の言葉として「やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。皆がその方に向かって進んでいけることを願っています」という言葉(2013年に10月熊本県水俣市を訪れて水俣病患者の話を聞いた後に述べた言葉)を紹介していた。
 ”live true”(真実に生きる)"do justice”(自分が正しくある)―これは天皇の言葉だが、安倍首相やトランプ大統領、それに日本国民・米国民すべてに、そうあってほしいものだと思い知らされる。

2017年04月29日

威嚇と挑発の応酬(加筆修正版)

 核実験やミサイル発射実験、大規模砲撃訓練、それに対する米韓合同軍事演習、THAAD(迎撃ミサイル・システムで「高高度防衛ミサイル」)の配備、カールビンソン空母打撃群と自衛隊護衛艦の共同訓練、ICBMの発射試験。
 政治家やメディアはとかく、北朝鮮がやっていることを「挑発」「威嚇」といい、自国・同盟国側がやっていることは「けん制」「抑止」という言い方をするが、客観的な立場から見れば、「威嚇と挑発の応酬」にほかならないのだ。

 オバマ前大統領は北朝鮮に対して戦略的忍耐政策―核開発計画の放棄・非核化措置を実行しない限り対話には応じないで無視し続けるという政策―をとってきたが、この間、北朝鮮の核・ミサイル開発はむしろ進み、それは失敗だったというので、トランプ政権は「忍耐」をやめて行動を起こすこととし、「全ての選択肢を(軍事力行使というオプションをも)テーブルに」載せると言って、空母打撃群の朝鮮半島方面への派遣など軍事的圧力を加える一連の行動を取った。(それに対して安倍首相はいち早く「高く評価する」と言って支持を寄せ、空母打撃群と自衛隊の共同訓練を実施)。それに合わせてトランプ政権は中国に対して(石炭輸出停止だけにとどまらず、石油禁輸その他も制裁強化して役割を果たすように強く求め(「果たさなければ単独行動を同盟国とだけでやる」と迫って)いる。軍事力行使に踏み切るレッドライン(超えてはならない一線)はさらなる核実験と米本土の届くICBM発射実験の成功とみられる。
 それらは「あらゆる選択肢をテーブルに」と称して、「斬首(トップ殺害)作戦」や先制攻撃まで含めた軍事的圧力を加えるもの。そうすれば、北朝鮮はその圧力に耐え切れず、終には音をあげて屈服、核もミサイルも放棄するものとトランプ大統領は思い込んでいるのだろうか。そして、それでもし北朝鮮は屈服せず、核放棄せずに、苦し紛れに暴発すれば、その時は一気に反撃して殲滅、国家体制崩壊に至らしめるまでのことだ、との計算なのか。
 しかし、このような計算にはアメリカ以外の国々、当の北朝鮮国民はもとよりその隣国(韓国・中国・ロシア・日本)とりわけ韓国における深刻なダメージ(経済的・人的な甚大な被害)は考慮はされている
としても、それも「しかたない」やむを得ざる犠牲として処理される、とすれば、甚大な被害を被る朝鮮半島の両国民と直接国境を接する中ロなど近隣の国民にとっては、とても受け容れ難いものだろう。

 過去に(1994年クリントン政権当時、北朝鮮がNPTを脱退、核施設で燃料棒を再処理する動きを見せたのに対して)核施設などを先制攻撃する作戦計画が検討されたが、そのシュミレーションでは、死者が90日間で米軍5万人、韓国軍49万人、一般市民100万人以上と計算され、実行はされなかった。北朝鮮は、当時は、核兵器は一発も保有しておらず、ミサイルも旧ソ連製のスカッド・ミサイル程度の短距離ミサイルしかなかったが、今は全く違い、米本土まで届くICBM(テポドン)は未だだとしても、日本などには裕に届く中距離弾道ミサイル(ノドン・ムスダンなど)を含め1,000基以上ものミサイルを保有しており、核兵器も(30発?)保有している。通常兵器でも38度線に沿う韓国との軍事境界線に沿ってソウル等を射程におさめるロケット砲など長距離砲を含む数千門もの火砲陣地が配備されており、それらがソウルに向けて一斉に火を噴けば首都は「火の海」ともなる。
 ミサイル基地などに対して敵基地先制攻撃をやるにしても、それらが山中のどこの地下や洞窟にあるのか、しかも移動式発射機で、どこから撃ってくるかも分からない(偵察衛星は北朝鮮上空を一日一回一分程度で通過してしまい、目に留まるのはほんの一瞬、静止衛星は赤道上空3万6,000キロも上空、いずれにしろ移動式で動くミサイル発射機を衛星で見つけることは不可能)。「ミサイル防衛」の迎撃ミサイルで撃ち落とすといっても、これまた当てにはならない。「命中率が高い」とはいっても、実戦では、野球のシートノックのように一発づつ発射予告してくれるわけでもない。先日、4発同時発射して秋田・能登半島沖に飛んできた時は飛翔時間10分、ところが日本船舶に注意報が届いたのは海に着弾してから13分後。発射速報・避難指示があったとしても避難しようがないわけである(参考―YouTubeに放映の「デモクラシー・タイムス」に4月15日放映された「田岡俊次―軍事ジャーナリスト―の目からウロコ」)。
 アメリカのシンクタンク研究所の上級国防アナリストのブルース・ベネット氏(4月22日ヤフー・ニュースに出た時事通信の記事)によれば、北朝鮮に対してアメリカが武力行使(一か所に先制攻撃)に踏み切った場合、北朝鮮はソウルにむけて一斉反撃に出、たちまち全面戦争、終結まで数か月かかるだろう、と。また、「斬首作戦」(特殊部隊による暗殺作戦をやるにしても)、姿をくらませて1万か所もあるといわれる地下施設のどこに潜んでいるかもわからないのを(サダム・フセインやビン・ラディンのように)見つけ出すのは不可能で、それら地下施設を破壊するのも非常に難しいだろう、とも。
 また、北朝鮮軍の総兵力は100数十万人(フセイン政権下のイラク軍約40万人の3倍、秘密警察や予備役を含めれば10倍)、政権と司令部は崩壊しても、部隊のすべてが大人しく降伏するわけではなく、ゲリラによる抗戦はイラクやアフガニスタン同様あるいはそれ以上に続くだろう。

 上記の1994年クリントン政権下、対北攻撃作戦を計画して断念した当時国防長官であったペリー氏は、今、限定的にせよ攻撃作戦を実行すれば全面戦争・核戦争にもなる可能性があり、このようなやり方で北朝鮮から核を奪おうと思っても、その選択肢はあり得まい。それに、彼ら(「北」の指導者)は正気なのであって、彼らのやっていることは、ひとえに体制を維持しようとしているだけなのだ、とも述べている(4月28日NHKニュースウオッチ9でインタビュー)。

 いずれにしても、北朝鮮・米側双方とも先制攻撃・武力行使を選択肢とするのは、あってはならない選択というものだろう。
 それでも「あらゆる方法を選択肢としてテーブルに」などと言って武力行使・先制攻撃もあり得るようなことを臭わせておいて、「挑発には挑発、威嚇には威嚇」という応酬にとどめ、実際、武力行使に踏み切って戦争に突入することは避けるのだろう。とはいっても、北朝鮮側は、それに耐えられなくなって暴走・暴発にはしる危険はある。
 それに、圧力・威嚇・挑発の応酬にとどめるにしても、終わりのない悪循環になり、テロリストやテロ国家を再生産するばかりで、なんの解決にもならない。軍事圧力を背景にして話し合い・外交的解決をはかる、といっても、そのような(威嚇圧力を背景にした)やり方では相手は腹を割って話そうと思っても話す気にはなれないわけである。それに威嚇・圧力を背景にして「話し合いのテーブルにつけ」と促されても、それに応じてしまったら、その圧力・脅しに屈したことになり、そのような屈辱には耐えるくらいなら「打って出る」となるからである。
 これに関連して国際政治学者の藤原帰一(4月22日付け朝日新聞『時事小言』)は次のようなことを指摘している。
 「戦争の瀬戸際まで相手を圧迫する政策」「瀬戸際政策をとる相手に対して妥協すれば不当な圧力に屈したことになるが、妥協を拒むときには全面戦争を覚悟しなければならない。」「ここで怖いのは、相手が全面戦争を覚悟しているのにこちらにはそのような意思がないとき、軍事的圧力を強めて瀬戸際政策に対抗しても効果が乏しいことである。特に、相手が権力の拡大ではなく体制の存続を目的として行動するときには、圧力を加えても相手の行動を変えることは難しい。」「これまで以上に圧迫すれば相手が屈するとは期待できないのである。アメリカが軍事的圧力を強め、中国がこれまでの微温的な経済制裁を実効性のある制裁に変えたとしても、金正恩政権が方針を転換する保証はない。」「体制の存続のためにあらゆる手段をとる相手を前にするとき、どれほど米軍の力が圧倒的であったとしても、限定的武力行使の効用は乏しい」と。

 北朝鮮の核・ミサイル開発に対して、オバマ政権では戦略的忍耐政策で、経済制裁を続け、対話には応じないという政策をとってきた。それが失敗に終わったとして、トランプ政権は経済制裁に加えて軍事的圧力へ乗り出し、レッドラインを超えれば限定的武力行使、(レッドラインを)超えなければ、それは控える(対話に応じることもありか?)。
 藤原帰一教授は、トランプ政権のそのやり方を、北朝鮮側の全面戦争を覚悟した瀬戸際政策に対して、そのような意思(全面戦争まで覚悟)のない中途半端な瀬戸際政策では効果はあげられず、北朝鮮の核・ミサイル開発を止めることはできまい、と。
 ならば、核・ミサイル開発等に対する経済制裁など非軍事的制裁は続けても、軍事的圧力は控え、とにかく対話に応じる(話し合いのテーブルにつく)ようにすればいいわけである。話し合うテーマは「北朝鮮が核・ミサイルを放棄するか、しないか」だけでなく、北朝鮮にとっては最も切実な「相互不可侵の平和協定の締結―北朝鮮の国家体制存続の保証」でなければなるまい。それ(体制存続の保証)こそがキーポイントなのであって、その保証さえあれば、核・ミサイルは不要になるわけであり、その保証がなければ核・ミサイルは手離すわけにはいかない、北朝鮮国民にとっては生存権と自主権の懸った命綱なのだ、と思い込んでいるのだから)。

 いずれにしろ、北朝鮮に対しては、核・ミサイルを手離すようにさせるためにと、いくら圧力・威嚇・脅しを加えてみたところで、彼らはけっしてそれらを手離すことはあり得ないということだ。北朝鮮の体制存続保証の話し合いには応じずに、彼らの手から核・ミサイルを除去しようと、あくまで思うなら全面戦争(日本まで巻き込んだ戦争、或は核戦争)覚悟で双方とも瀬戸際政策で対決するしかないだろう。それは不毛かつ危険極まりない選択だ。

 双方、互いに挑発・威嚇・圧力の応酬で、どちらが先に「屈する」かという場合、強い方が先に「屈する」ことはあり得ず、強大国アメリカ側が先に屈することはあり得ないことは分かりきったこと。しかし、だからといって、弱い北朝鮮が先に屈することもまたあり得まい(かつての日本のように、屈するくらいなら戦って散る方を選ぼうとするから)。
 真の偉大な国家指導者ならば、小国に「屈してなるものか」とか「弱腰と受けとられてなるものか」などといった卑小なプライドやメンツなどにとらわれることなく、あくまで、国民が(自国民のみならず、他国民も共に)将来にわたって安寧・幸福であるようにするには、公正と信義など政治道徳を踏まえつつ、どうやって国を治め他国に対応したらよいか、という観点から選択肢を考え、選ぶだろう。(それは「いずれの国家も自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従う」という日本国憲法前文の観点でもあるだろう。)
 ところが、軽薄なポピュリスト政治家に限って「強いリーダー」だとか、「グレート」だとか、或いは自国「ファスト」などと卑小なプライド・人気・野心にとらわれ、万民の平和・安全と犠牲の回避に徹する政治道徳にはこだわりがない。
 しかし、今、諸国民のリーダー・為政者に必要なのは政治道徳を重ん信念を貫く勇気であり、強大国の真の偉大な為政者・トップリーダーならば、アブノーマルな政権とはいえ国民と共にある弱小国の切なる延命(体制存続)保証(不可侵・平和協定の締結)要求を受け入れる度量と真の勇気があって然るべきだろう。
 弱小国の為政者は、そのような心ある強大国の相手が軍事的圧力など強圧的な態度を控えるならば、それに対して無謀にも攻撃を仕掛けるということはあり得ず、話し合い・協議に応じるだろう。また、強大国の圧力にさらされて、それに耐えきれず無抵抗のまま先に屈してしまうということもまたあり得まい。先に屈するくらいなら、戦って自滅する方を選ぶだろう。
 いずれにしろ、「こっちの要求に応じないなら、さらに厳しく圧力を加え続けるぞ」といった圧力、少なくとも軍事的圧力は控えてこそ、はじめて真摯な話し合いは成立するというものだろう。
 話し合うテーマは、朝鮮戦争が未だに休戦協定に止まっている状態にある、それを正式に終結して、相互不可侵を約する平和協定・条約を結ぶことであり、それと同時の朝鮮半島非核化(核の放棄)である。問題の核心は、北朝鮮国民が求めてやまない朝鮮戦争終結の平和条約・不可侵協定の締結にこそあるのだが、日米の為政者をはじめ、政治家もメディアもその多くは、そこをはずして、単に北朝鮮が愚かにも無謀な核・ミサイル開発・実験を重ねて、「挑発」を繰り返しいる、「脅威だ」「新たな段階の脅威だ」などしか論評せずに、北朝鮮の真意―平和協定・条約の締結交渉を求めている、その肝心のことは記事やニュースにはほとんど取り上げられることがない。したがって、庶民・善良な市民には事の真相や北朝鮮の真の意図がいったいどこにあるのかよく分からず、単なる愚かで非道な独裁権力者が核・ミサイルを手にしている、それが、あたかも「気違いに刃物」で「刃物」を手離そうとしない相手に手をやいているかのようにしか思われない、という向きが多いだろう。
 朝鮮半島の歴史、戦前・戦後史、それに政治道徳に、どうも無知だったり、無反省だったり、無頓着だったり、といったような人物が首相だったり大統領だったりしている、それが問題なのだ。

2017年05月20日

安倍改憲に理あらず―9条改憲と活憲のどちらが今必要か(加筆版)

 自民党はかねて(2012年)より憲法改正草案に、現行の9条の2項(戦力不保持・交戦権否認)を削除し、新たに「国防軍」(つまり交戦権をもつ軍隊)を保持するとしていた。ところが、安倍首相は5月3日、改憲を求める集会(「日本会議」主導の「第19回公開憲法フォーラム」)に寄せたビデオ・メッセージで「自衛隊の姿に対して国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。」「『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきであると考えます。もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。」と。

 このような9条の改憲には次のような問題点がある。
 憲法改正には(無限界説もあるが)限界があるというのが通説。その限界とは3大原理とされる国民主権・基本的人権の尊重・平和主義のという3つの基本原理で、憲法改正といっても、この3つだけは変えることができないと見なされている(前文には「この憲法はかかる原理に基づくものである。我らはこれに反する一切の憲法・法令及び詔勅を排除する」と)。それら3大原理は、まず前文に掲げられ、各条項の中にその具体的規定がさだめられている。9条は1・2項とも平和主義の原理と一体のものとして定められており、これを改廃したり、これに矛盾する条項を加えることもできないとする限界説があるのだいうこと。
 安倍首相は、先の自民党改憲草案における現行の2項削除と「国防軍」の保持などの新条項を設ける案は、合意が非常に難しいだろうと見て、「かくなるうえは」ということで、「1・2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という(公明党の加憲案にもみられる)考え方はどうか、という新たな案をもち出してきたかたちだ。一見、これなら「自衛隊の現状を追認する」だけの話だし、文句はないだろうと踏んだのかもしれない。
 なるほど、政府の自衛隊創設以来の合憲解釈(自衛のための必要最小限の実力は「自衛力」であって「戦力」ではないという解釈)はこれまで長い間通用させてきたし、国民もほとんどがそれに疑問をもたずに、なくてはならない存在だと思うようになってきている。ただ多くの憲法学者や政党の中には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在している。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』ようにする。そうすれば議論の余地はなくなるだろう、というわけである。
 しかし、憲法学上は大多数の学者が自衛隊違憲説(1項で放棄しているのは侵略のための戦争や武力行使など国際法上違法とされているものだけだとしても、2項で「戦力=武力」で一切の武力の保持と交戦権が否認されており、自衛のための武力もその行使も全て禁止されているとする見解)をとってきて、それが通説となってきた、その憲法学者には9条1項・2項を残しつつ、自衛隊を追加明記したところで違憲には変わりないという向きが多いだろう。(論理学上の「同一原理」で、「AはA」で「これを「保持しない」というのに、「AがB」である場合には「これを保持する」などという、そんなことはあり得ないからである。「AはA」「保持しないものは保持しない」のである。)
 それでも、憲法学者はどうあれ、その改正案が憲法審査会で過半数、国会で3分の2以上、国民投票で過半数の賛成が得られさえすれば、それで成立するのだからいいんだと思っているのだろう。
 しかし、そのような手続き上各段階で形式的に賛成の数だけ、必要なだけ多数を得られたとしても、肝心の9条改正案の中身(文意)に(2項と3項が論理的に両立しない)矛盾があり、論理的整合性がないのでは、憲法としての体裁をなさない、そのような改正案はそもそも採決や投票にかけるに値いせず、かけても成立無効と見なされることになるだろう。(銃刀法で、一般人には原則として銃砲・刀剣類の所持を禁じているのに、仮にもし、「正当防衛のためならば所持は認める」などと条文に加えたら、禁止の意味がなくなってしまう。そのような銃刀法の改正案を国会にかけて過半数賛成が得られたとしても、成立無効となるだろう。「1+1=2」であるものを多数決で「3」にするが如きことはできないわけである。)
 そもそも我が国の憲法は、どの条文にも例外規定は設けられておらず、9条2項も「・・・・その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文をそのままにして、そこだけに(「但し自衛隊はその限りではない」などと)例外規定が書き加えられるなど特例はあり得ず、2項を削除しない限り、自衛隊の保持条項を設けるのは不可能なのでは。(ならば2項を削除すればいいのかといえば、それをしてしまったら、そこは我が国憲法の他国憲法に比べてより徹底した平和主義(「絶対的平和主義」)の核心部分―9条の中でも1項の侵略戦争放棄だけなら他の国々の憲法にも見られる平凡なものにとどまるが、この2項があって一切の戦争・武力の放棄が定められているからこそ世界最先端の平和主義憲法と見なされる、いちばん肝心の部分―なのに、それを取り去ってしまうことになる。そのような改正をしてしまったら「改正権の限界」を超えてしまうことにもなろうというもの―河上暁弘・広島市立大学准教授。)
 尚、辻村みよ子・元明治大学法科大学院憲法学教授は、次のようなことも指摘していた。「憲法で明示的に『戦力』が禁止されているにもかかわらず、『自衛力』は明記されていない、という論理で新たな概念を援用して条文を解釈することが認められるならば、すべての憲法条文についても明示的な規定の趣旨を変更することが可能となり、立憲主義の意味が失われるおそれがある」と(岩波新書「比較のなかの改憲論」)。2項で戦力が禁止されているのに、新たな概念「自衛力」を援用して、自衛隊を合憲と解釈するだけでなく、3項を追加してそれを明記すれば、2項の戦力禁止規定の趣旨は変更されてしまうことには変りあるまい。
 いずれにせよ、「木に竹を接ぐ」が如きつじつまの合わない話なのではあるまいか。
 憲法学者の間では多数派の考え方に対して、自衛隊合憲解釈で来た歴代政権党とそれを支持してきた国民の多数派は、自衛隊は「自衛のための必要最小限の実力」(自衛力)のみを行使する武装組織で、その実力は9条2項が禁じている「戦力」には当たらない、という解釈・考え方。しかし、「自衛のための必要最小限」という基準は不明確で、実質的には核兵器や細菌兵器などまで、あらゆる兵器を持てるような解釈が行われてきた。核兵器やICBM(大陸間弾道ミサイル)・原子力空母・長距離重爆撃機などは同盟国アメリカに委ねて、それらまで持つには至っていないが、防衛費では米中ロ英に次ぐ世界第5位の軍事大国になっている。それでも専守防衛と称して自衛権の行使は自国だけを守る個別的自衛権に限定してきた、ところが今では「同盟国その他我が国と密接な関係にある国」との集団的自衛権まで限定的ながら行使できるとまで拡大解釈・閣議決定して安保法制を改編し、米軍との一体化、海外派兵・参戦も可能とする体制を整えるまでに至っている(北朝鮮に圧力をかけようとして周辺海域を航行する米空母に海自艦が護衛―それは「武力による威嚇」にほかなるまい)。
 これらは、これまで政府の安全保障政策として政策的判断で行われ、それに対する違憲訴訟があり、地裁で2~3回、高裁でも一回違憲判断があったが最高裁は統治行為論(高度な政治性を有する国家機関の行為は、政治家が判断することで、裁判所が判断すべきことではないと言う考え方)で判断を避けてきた。
 そのような自衛隊が、もし憲法9条に書き加えられて追認されたら、いったいどうなるかだ。「必要最小限の実力」とか「専守防衛」といいながら、集団的自衛権行使・海外派兵の限定容認など、これほどまでに拡大解釈が加えられて膨張してきた現状の自衛隊がそっくり追認されることになる。それだけでなく、この自衛隊(軍事)への依存をさらに強め、平和主義の空洞化が増幅する結果となり、平和主義外交よりも力の外交(対決・威嚇外交、対話より圧力)へ。もはや「平和国家」ではなく、アメリカと共に軍事国家へと化すことになるだろう。そのような暴走を許さず、はたしてどれだけ統制できるのかだ。

 安倍首相のその意図はいったい?
 彼にとって改憲は、亡き祖父・岸元首相から意思を受け継いだ悲願であり、在任中に多少とも実現を是が非でも果たしてレガシー(遺産)を残そうとする個人的野望にほかなるまい。
 北朝鮮・中国の「脅威」がメディアによって連日報道され、国民の間にその脅威感が広くしみついている。朝鮮半島で動乱(北朝鮮と米韓の朝鮮戦争再開)が近い将来起きるかもしれないという切迫感が広がっていて、安倍政府はそれへの対応・参戦を想定し、その準備体制構築を図り、その機会に乗じて憲法9条に手を付け、それをとりあえず2項はそのままにして現状の自衛隊の保持を追認するだけのこととして加憲するかたちで、高等教育の無償化などとともに、国民から受け入れやすいところから迫ってみよう、という作戦なのだろう。
 尚、良識派・リベラル派の中には護憲的改憲論がある。それは、自衛隊を国民のほとんどが受け入れているという既成事実を前提にして、その自衛隊をあくまで「専守防衛」に限定して活かそうとするべく、自衛隊の保持を追認・明記する改憲を容認する考え。安倍首相の9条改憲の新提案には、それも考慮のうえで民進党その他の護憲派の分断を謀る狙いもあるのだろう。
 しかし、安倍政権下では、自衛隊は新安保法制で既に海外派遣・集団的自衛権の限定行使まで容認されており、「専守防衛」体制は崩され始めている。その9条改憲はそれをも含めた現状の自衛隊の追認・明記なのであって、その「自衛隊3項明記」はいわば「蟻の一穴」で、単なる追認にとどまらず、2項の縛り(制約)にも拘らず「3項」が独り歩きして自衛隊の役割・任務がさらに拡大、周辺地域から海外のどこでも武力行使が無制限に可能になってしまう結果となり、2項は空文化して無意味なものになってしまう、そういう危険性をはらんでいるのだということだ。

 そこで憲法と自衛隊の関係は、そもそもどういう経緯を辿ってきたのか、最初から振り返ってみると、
1945敗戦、連合軍の占領下に。
1947年日本国憲法制定―そこに世界史上画期的な平和主義の原理と不戦条項が定められた。それは、自国が起こして世界を巻き込んだ悲惨な戦争に対する痛切な反省から、前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」して9条1項に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。」2項に「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と定めた。その制定段階(1946年6月帝国議会)で吉田首相は「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませぬが、第9条2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁し、今も憲法学者に多い全面放棄説(9条1項は自衛戦争と制裁戦争は放棄されていないが、2項でそれらも含めて全ての戦争が放棄されたと解する説)と同様の考えをしていた。
 憲法が制定されたその年、文部省が発行した『あたらしい憲法のはなし』には「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『戦力』とは『すててしまう』ということです。しかし、みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、ただしいことぐらい強いものはありません。・・・・・よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。」と。
 ところが、
1950アメリカ(マッカーサー司令官)→朝鮮戦争(北朝鮮・中国軍対米韓軍)―米軍は日本の基地から出撃
 それにともない日本に警察予備隊を設置(治安維持のためと)
1951サンフランシスコ講和条約(ソ連・東欧諸国・インド・中国・韓国・北朝鮮などを除く48か国と)―占領解除、主権回復  同時に日米安保条約―米軍駐留・基地存続
1952(朝鮮戦争→)休戦協定
(警察予備隊→)保安隊に改編   
1954(保安隊→)自衛隊に改編
1956日ソ国交回復(平和条約は成らず)
1960岸内閣―日米安保条約改定(現行の安保条約)
1965日韓基本条約(韓国とだけ国交、北朝鮮とは未だに国交も過去の清算もついておらず)
   ベトナム戦争(~75)―米軍は日本の基地から出撃
1970日米安保条約・自動延長へ
1972日中国交正常化
1978 〃平和友好条約
1991湾岸戦争―海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣
1992 PKO協力法―自衛隊を海外派遣へ
2001 アフガン戦争―海上自衛隊の給油艦をインド洋に派遣・米艦支援
2003 イラク戦争―自衛隊派遣(~03)
2014集団的自衛権の行使容認を閣議決定
2015 安保法制・強行採決
2016 同上 施行

 この間、日本政府はアメリカに従属し、憲法で不戦・非軍事平和条項を定めたにもかかわらず、それに徹することができず、米軍に従属する方向で再軍備・自衛隊の軍事を拡充させていった。ただ、9条があるため、その制約によってどの戦争にも戦闘には参加させられることなく済んできた。
 今、9条に自衛隊を追認・明記するなどの改憲によって、対米従属の軍事的安全保障路線の推進、平和主義のさらなる後退の方向に進むのか、それとも、制定後間もなくして(わずか3年で)とん挫した平和主義の原点・初心に帰って不戦・非同盟(どの国民とも協和して敵をつくらない)安全保障と真の積極的平和主義を推進する方向に進むのか、国民はその岐路に立たされている。
 現下の平和・安全保障の危機的状況(危険・脅威)は、そもそもどういうところから来ているのか。それを取り除くにはどうすればよいのか。それには対照的な次の二つの考え方があるだろう。一つは、9条によって軍事力(日米同盟とともにある自衛隊)に制約があるところから危険・脅威は来ているのだとして、その脅威を取り除くには9条に自衛隊を明記して軍事同盟体制を確固たるものにする方がよい、という考え。もう一つは、9条(不戦規定)があるにもかかわらず日米安保条約(米軍駐留と基地提供)と自衛隊の体制強化があって、それ故に敵対視され、核・ミサイルの標的にされる危険性を招いているところから危険・脅威は来ているのだと考えられるので、それら(自衛隊の米軍との一体化と9条空洞化改憲)は控えて、9条規定をしっかり守り活かす不戦平和外交の積極的展開に意を注ぐようにした方がよい、という考え。      
 そのどちらの考えが妥当なのか。それは後者の方だと思う。なぜなら、そもそも、これまで9条を規定どおり守って、冷戦下でも米ソどちらにも加担することなく非軍備・非同盟・中立に徹し、また過去の侵略や植民地支配に際する加害には償いをきちんと果たしていれば怨みは残さず、どの国からも敵視されず、攻撃される心配などなくて済んだはずなのだから。
 朝日の「声」投稿に『自衛隊の姿 改憲で世界に示せ』というのがあって、それには「今の条文を普通に読めば『戦争を放棄し戦力を持たない』」はずなのに、自衛隊が存在していることに「疑問を感じるのは当然」で、「国民にも分かりにくい条文が諸外国に分かってもらえるはずが」なく、「9条1項2項を残しつつ自衛隊を明記すること」の方が「無理な解釈で自衛隊を合憲として位置づけるより、ずっと分かりやすい」と書かれていた。しかし、それはむしろ逆なのでは。
 「普通に読めば『戦争を放棄し戦力を持たない』」というのはその通りで、元々この条文自体が分かりにくいわけではないのに、安保政策から自衛隊を設置してそれを正当化するために無理にこじつけ解釈を加えて「合憲」存在とした、その解釈の方にそもそも「分かりにくさ」あるのだ。そこに2項を残しつつ自衛隊保持の新条項を追加するというのでは、諸外国からは、整合性のないその条文を見て、かえって理解されにくくなるのではあるまいか。(世界に英語で示すとするならば、2項で“land,sea,and air forces as well as other war potencial will never be maintained “となっているのに、それに”the Self-Defense-Force (或はforce for self-defense)will be maintained”などと書き加えられたら、“force will never be maintained”but “force will be maintained” 「保持しないのに保持する」とは、What is it?「いったい何なのだ」となってしまう。)
 「平和を維持し・・・・国際社会において名誉ある地位を占めたい」と思って世界に示すのであれば、つじつまが合わず、かえって分かりにくくする加憲ではなく、元々の条文とそれに相応しい本来の不戦平和主義に立ち返り、積極的な非軍事外交政策をこそ世界に示すべきなのではないだろうか。

 結論―現行憲法そのものに問題があるのではなく、それを踏み外し続け、さらに改憲しようとしているところに問題があるのだ。
 今、必要に迫られているのは、そのような改憲ではなく、現行憲法の本来に立ち戻り活かすことなのだ。

2017年05月31日

護憲的改憲論・新9条論―その問題点(修正加筆版)

 その論者とは井上達夫(東大大学院教授)・大沼保昭(東大教授)・小林節(慶大名誉教授)・伊勢崎賢治(東京外語大大学院教授)・今井一(ジャーナリスト)・加藤典洋(文芸評論家)。そのほか中島岳志(東京工業第教授)・高橋源一郎(作家)・池澤夏樹(作家)・田原総一朗(評論家)といった方々も、その具体論は明確ではないが、護憲的改憲の考えが見られるとのことだ。

 彼らは、憲法9条(2項で戦力不保持・交戦権否認)と自衛隊の存在に乖離・矛盾があるにもかかわらず、自衛隊は必要最小限の実力組織であって9条2項の禁止する戦力ではないから違憲ではないと解釈してそれを最大限活用してきた歴代自民党政権をはじめとする自衛隊合憲論者(だが、諸国の軍隊並みに戦力として認められるように2項改正を目指す改憲派)を批判するとともに、自衛隊は憲法には違反していると解していながら自衛隊は有用・必要と認めている護憲派を「欺瞞だ」として両方を批判。そのうえで、改憲でも、前者のような集団的自衛権行使も海外派兵もでき、交戦権をもって戦争できる軍隊として認めるような改憲ではないが、2項を改正して、自衛隊を自衛のための戦力として認め、専守防衛(個別的自衛権)に限ってその武力行使・交戦権を認める(集団的自衛権の行使は認めない)ことを、あれこれの解釈の余地のないように新たに定めるべきだと説いている。

 その問題点
(1)いずれも2項を改正して、自衛隊を戦力として保有と交戦権を認める改憲だが、2項の戦力不保持・交戦権否認条項は日本国憲法の3大原理で国民主権原理と基本的人権尊重原理とともに、改変してはならない改正限界をなす平和主義原理の核心となる(その命ともいうべき)条項であり、そこを改変してしまっては、その平和主義原理が損なわれてしまうことになる、という問題。
 自衛隊はそもそも、この平和憲法が制定された後に冷戦における安保政策上の都合で作られて育成されてきたものであり、憲法の平和主義原理を損なうものであってはならないはずのもの。なのに、その憲法の条項が戦力不保持で交戦権否認となっていたにもかかわらず、自衛のための戦力と交戦権を認める改変を行うとなれば、平和主義の後退あるいは放棄ともなる。又、国に「自衛戦力」とはいえ戦力の保持と交戦権を認めるということは、国権(国の権力)の拡大につながる改変でもある。そのような改変は「現実を憲法に近づけさせようとする」のではなく、「憲法を現実に近づけさせようとする」ものであるが、それは単なる「改正」ではなく、憲法を根本から覆すものとなるわけである(河野元自民党総裁いわく「憲法は現実に合わせて変えていくのではなく、現実を憲法に合わせる努力をまずしてみることが先ではないか。憲法には国家の理想がこめられていなければならない」と)。
 (高見勝利・上智大名誉教授は憲法改正発議の5つのルールを次のように提唱している―朝日5月30日「憲法を考える―視点・論点・注目点」
 ① 憲法は権力の制限規範なので、権力の拡大を目的としない。
 ② 権力の拡大につながる改正には、より厳格な理由が必要
 ③ 目的達成のために、憲法改正しか手段がない場合に限る。
 ④ 条文を変える場合は、解釈では解決できない問題に限る。
 ⑤ 改正しても憲法の基本原理が損なわれない
 この護憲的改憲は③と④には適っているが、②と⑤には反していることになろう。)
(2)集団的自衛権の行使や海外での武力行使を容認するといったように解釈する余地のないように、はっきりと、そのようなことは認めないと明記する、とはいっても、「フルスペックの集団的自衛権行使は認められないが、限定的なら認められると解される」などと解釈されてしまう(現政府が閣議決定したように)。
(3)憲法に具体的に規定され明示されていなくても(憲法上認知されなくても)、立法によって合法的に成立・機能しているものはいくらでもある。警察(警察法)でも私学助成(私学振興助成法)でもプライバシー権や環境権(環境基本法)・災害対策(同基本法)でも。高等教育の無償化はわざわざ憲法を改正して明記しなくても、財政措置を整えさえすれば可能。
(4)アベ自民党などの改憲派(9条1・2項とも残しながら集団的自衛権行使や海外派兵・武力行使を解釈上容認する自衛権の明文化改憲)に対抗して、この「護憲的改憲派」がどんなに頑張っても国会議員選挙で3分の2以上議席を勝ち取るのは至難の業。その改憲目的は(自衛隊の武力行使は個別的自衛権・専守防衛の場合に限り)集団的自衛権行使と海外での武力行使はできないようにすることにあるのだとすれば、選挙で3分の2議席を勝ち取ろうといくら頑張ってみたところでどうせ取れないのだとしたら、そのような改憲(護憲的改憲)はわざわざしなくても、アベ自民党改憲に反対する護憲派と一緒に共闘して過半数議席を勝ち取れば、集団的自衛権行使容認の閣議決定を撤回し、戦争法(安保法制)を廃止することができるし、少なくとも3分の1議席以上は獲って自民党改憲を阻止することにエネルギーを傾注する方が現実的なのではあるまいか(目的を果たす上では)。
(5)まずいのは、それ(護憲的改憲)が、アベ自民党などの改憲派から護憲派の分断に利用されるだけでなく、国民の間に「『改憲してもいい』という空気づくりに利用される」(作家の中村文則氏)結果にもなりかねない、ということだ。

2017年06月03日

9条に自衛隊追記でどうなるか(再加筆版)

 そもそも憲法9条が国・政府に課し要請しているのは、1項で戦争と武力を用いることを国際紛争を解決する手段にしてはならないということで、紛争解決の手段は非軍事的(平和的)手段に限ること。2項で戦力の保持を禁じ、交戦権を認めないということで、侵略や国の主権・権利侵害に対しても、そのために戦力を保持してはならないし、国には交戦権も認めないので、自衛権はあっても非武装で、ということは外交交渉、物理的には警察力による侵犯者の排除、或は群民蜂起(民衆の自発的抵抗・レジスタンス)で対応・対処しなければならない、ということであろう。
 自衛隊については、9条による制約要請によって、政府は創設以来それが急迫不正の侵害に対する自衛のための必要最小限の実力で戦力には至らないとして保持してきたが、その装備や活動は自衛隊法など法律によって出来ること(ポジティブ・リスト)が限定されている。
 それに前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しなければならない。」「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること」、「自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則に従うこと」「他国と対等関係に立とうとする各国」と協調・協和する、ということで、安全保障を得る。
 また「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたい」ということで、国際社会には軍事的貢献(安倍首相のいう積極的平和主義とはその軍事的貢献にほかならないが、そのような国際貢献)ではなく平和的貢献に努めなければならないということ。
 これらの事が、憲法上、国・政府に課され要請されているのだ、ということである。

 そこで安倍首相が憲法9条に1・2項とも(前文もそのまま)残しつつ自衛隊を追記するという改正提案
 自衛隊の最高幹部(統合幕僚長)がこの首相の9条改正提案に「自衛隊の根拠規定が憲法に明記されることになれば非常にありがたい」と日本外国特派員協会での記者会見で発言(公務員の政治的中立性と憲法擁護遵守義務に対する違反が問われている)。
 首相はこれら自らの改憲提案に沿った具体案・原案づくりを自民党憲法改正推進本部(保岡本部長)に指示・要請している。(この原案は衆参両院の憲法審査会で審議され、最終的に採決で過半数の賛成があれば発議原案として国会にかけられ、総議員の3分の2以上の賛成があれば発議案として国民投票にかけられることになる。)
 さて、保岡氏ら自民党憲法改正推進本部ではどのような具体案がつくられるかだ。 
 このような首相の9条改正提案に対して3人の論評を新聞とネットで見かけて注目した。
(1) 渡辺治・一橋大名誉教授(朝日新聞5月30日付け「憲法を考える―視点・論点・注目点」)は「自分が自民党の立場ならこう書く」と。
「日本の平和と独立を維持するため①、自衛隊を保持する。自衛隊は国際社会の平和と安全を維持するために活動に参加する②。」と。
 ① と書かれれば、安保法制では限定的だった集団的自衛権の拡大ができることになる。
 ② と書かれれば、多国籍軍にも参加することが可能となる。結果的に、自衛隊の海外での武力行使に道を開くことになり、かねての自民党改憲草案と同じ危険をもつことになりかねない。
(それに海外での武力行使にともなう殺傷行為の当否を判断する事実上の軍法と軍法会議も必要となる)というわけである。
(2) 古賀茂明・元経産省官僚(赤旗日曜版6月4日号及びネット・サイト「2020年安倍改正案は“加憲”ではなく“壊憲”―AERAdot」で)
(今までは解釈上「自衛隊は保持してもよいのだ」といって保持してきたが)「憲法に『自衛隊を保持する』と書き込めば、(単なる追認だけでなく)憲法上の義務となる」。(9条に自衛隊追記と合わせて、義務教育の無償化を定める26条に「高等教育の無償化」の追記をも提案をしているが、それはそこには高等教育のことは書かれていなくても、法律や予算確保によってやろうと思えばやれるはずで、わざわざそれを書き込まなくても、と異をとなえると、それに対して、憲法に明記すれば政権の如何にかかわらず、憲法上の義務として必ず行わなければならなくなるのだから、そのほうがいいにきまっているではないかという理屈で強弁する。それと同じ論理でもあろう。もっとも現行の26条には義務教育以外の無償化は書かれていないからといって、そうしなくてよいのかといえば、そうではなく国際人権規約もそれを促しており、憲法に書き込む、書き込まないとにかかわらず高等教育の無償化はしなければならないことになっているのだ。)
 それでは9条1・2項に追加して、具体的にどういう条文が書き込まれるかだが、次のような条文が考えられると。
 「3項、前項(2項の戦力不保持)に規定にかかわらず、我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため①、国際法上認められた自衛権を行使する②目的で自衛隊を保持する」。
 ① と書かれれば、それに足る(中国などから戦いを仕掛けられても対抗できるだけの)十分な実力(自衛力)が必要だ(それが憲法上の要請だ)ということになり、その増強が憲法によって優先度の高い政策課題となり、核武装や徴兵制の議論にさえつながっていく。
 ② と書かれれば、途端に個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使も認められる、ということになるわけである。(集団的自衛権の行使容認など、今までは内閣法制局による解釈の変更を承認する閣議決定をしただけであって、今後、それに対して違憲訴訟―既に出ている―が行われて裁判所から違憲判断が下される可能性がつきまとうが、もしも憲法にこの自衛隊保持が明文化されるようになれば、それが追認されることになる。そればかりか、憲法に根拠規定を得て、政権や自衛隊最高幹部は、集団的自衛権行使や武器使用・装備基準・防衛予算など、これまでの限定にはもはや縛られることなく、自衛隊がその時々で役割を果たすためにはそこまで必要だと彼らが思えば、その必要に応じてさらに上限を上げ、「必要最小限ならぬ必要最大限に」ということになってしまい、それが憲法上の義務を果たすものとして正当化できるようになってしまうわけである。)
(3)長谷部恭男・早大教授も次のような指摘をしている(赤旗日曜版6月11日号の紙上で)。すなわち自衛隊は、これまでは一応「自衛のための必要最小限の実力組織」として必要やむをえないぎりぎりの範囲内で装備や活動は出来ること(ポジティブ・リスト)を(自衛隊法等に)明示したうえ政府の説明責任(何か新たな任務・派遣が行われる場合、その都度説明)を必要としてきたが、自衛隊が憲法に明記されれば、いちいちその必要はなく(政府にとっては楽に)なり、むしろ憲法上の要請として(安全保障や国際平和安全維持の軍事的な)必要に応じて最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになってしまう(集団的自衛権の限定的行使も拡大されることになる)と。(巡航ミサイルによる敵基地攻撃も、防衛費の増額も、PKO派遣部隊は文民保護などのための武力行使「戦闘」もと、あれもこれも可能になってしまう、というわけか。)
 尚、長谷部教授は、首相が自衛隊9条追記の理由を「国のために命を捧げる自衛隊が違憲の存在などと言われないようにするため」とか「自衛隊が誇りと自信をもって活動できるようにするため」といった情緒論で語っているが、安全保障や防衛は理性的判断(合理的な計算)に基づかなければならず、感情・情緒をそれに入れることは極めて不適切だとも指摘している(ネットのサイト「立憲デモクラシーの会」で)。

 いずれにしても、これまでの自衛隊追認にとどまらない、9条の平和主義規定にとって致命的な結果をもたらす改憲となる、ということだろう。

2017年07月02日

権力の論理と市民の論理

*論理―主張や行為を合理化・正当化する理屈・言い分
*強者・支配者の論理と弱者・被支配者の論理、国家など組織の論理と個人の論理、加害者の論理と被害者の論理、検事の論理と弁護人の論理、資本(企業)の論理と働く生活者の論理
 それぞれ、その立場によって追い求めるもの(目的・結果)があって、(例えば企業なら利潤、国家なら国益、軍隊なら戦勝、生活者市民なら生命・自由・幸福追求権の確保)、その結果(目的実現)を得るのに有益・有用かどうかによって正当性(物事や行為の良し悪し)を判断し、その(それを合理化・正当化する)論理(理屈)を立てる。
 我々、庶民・働く生活者の物の考え方(市民の論理)と政治権力者・官僚・警察官・自衛官あるいは企業家・株主・事業者・組織人(とりわけそれらの幹部)の物の考え方(権力の論理、組織の論理)は、とかく違うもの。
 前者(庶民・一般市民)は個々人それぞれに自由な自分本位の考え方(自分の生活体験に根差した価値観すなわち物事の価値判断や倫理観すなわち良心に即した考え方)をするものだが、後者は、それぞれの組織本位・事業目的本位の考え方(組織の利益・掟や価値判断・損得計算に則した考え方)をしがちとなる。
 庶民・一般市民にとって大事なのは、抑圧・恐怖と欠乏からの自由・安全・安心と幸福追求の自由であるが、その観点から物事を考え、良し悪しを判断する。
 それに対して政治権力者や官僚は国家や公共団体の統治、企業経営者や幹部は企業の統治(ガバナンス)を如何に巧く行うかという観点から物事を考え、良し悪しを判断する。統治をうまく行うには、それを正当化する法令や規則が必要であり、それに基づいて違反は取り締まられる(統制)。

(1)官僚の論理
 国務大臣・国会議員・裁判官・官僚は、公務員として、民主国家では本来、国民に奉仕する立場(憲法15条2項「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」)なのに、「一部の奉仕者」の方に偏りがちとなる。  
 我が国の歴代政権与党(主として自民党)政治家は、とかく財界奉仕とかアメリカ政府への奉仕に、また官僚は政権与党政治家への奉仕に偏りがちであり、その権限行使と任務遂行努力は国民全体の為とはならずに、一部の人たちだけが有利な結果となりがち。
 裁判官や警察官はもとより、公務員らの行動原理・判断基準は法令・規則であり、それに忠実に依拠することだ。それで、国会審議などで官僚が、その対応・処理に問題がないかを指摘・質問されると、とかく「法令・規則に従って適切に執行・処理しました」と弁明する。しかし、法令・規則に合ってさえいればよいというわけではなく、その対応・処理が適切だったかどうかは、奉仕すべき国民の利益に適っているか否(損なっている)かで評価・判断さるべきだろう。とかく、奉仕すべく目を向け、忖度する相手が、国民の方ではなく、上司やその上(官邸の最高レベル)の方だったりすることがありがちだ。公務員たるもの、法令・規則に忠実であり、また上司(組織)に忠実であるにこしたことはないが、いちばん大事なのは国民に忠実であることだろう。
 公務員には公務員法に守秘義務の定めがあるが、内部の不正(全体奉仕に反する一部奉仕)を告発しても不利益な扱いを受けないようにする公益通報者保護法もある。それにもかかわらず、その内部告発が守秘義務違反に問われ、潰され、委縮させられがち。
 昨今の政治スキャンダル、森友・加計問題にそれが見られる。首相と夫人と「お友達」に対する側近政治家による官僚、内部告発者への圧力など。

(2)警察の論理
 「共謀罪」法(改正組織的犯罪処罰法)は、政権与党に一部野党が同調して、「テロ等準備罪」という名目で、あたかもテロ対策上不可欠だとして異常な強行採決によって制定された。それは(政権の政策遂行・権力行使の都合上、秘密にしておきたい情報を特定して非公開とする特定秘密保護法もそうだが)権力者の立場から必要(彼らの権力維持と統治には有利)とされたもの。しかし、それはテロ対策で(その為だったら必要な諸法律は既にあって、事あらためて定めるまでもないのに)、テロを未然に防ぐことを口実にして、277(大半はテロとは無関係)の罪のうちのどれかを、共謀(話し合い)・計画・準備行為をしたと警察や検察当局が見なせば(警察官・検察官が判断すれば)、まだやっていない(実行に及んでいない)段階で裁判所の令状がなくても捜査・検挙できるにようにするもの。
 本人たちが、そんなことをするつもりはないといくら言い張っても、判断するのは警察官や当局だから(いったん嫌疑をかけられたら)どうしようもないわけである。今までは罪刑法定主義で「疑わしきは罰せず」で無罪のはずだったのに。警察当局に、いったんリストに挙げられマークされれば、法と上司の指示・命令に忠実な警察官は任務遂行に全力を挙げ、その「容疑者」をひたすら追求(尾行・追跡・盗聴・盗撮)・捜査・検挙に邁進するのだろう。彼ら(警察官)の論理では、そうするのが合理的で当然の事とされ、今回、この「共謀罪」法の成立によって、それがお墨付き(法的根拠)が与えられて正当化されることになったわけである。
 (しかし、その立法はそもそもが憲法違反。)
 一般市民―善良な市民(個々人の自由の権利を尊重し公正を求める市民)は、権力者による不当な扱いや不正・不公正・横暴に抗し、権力者のその行為(政策や権力行使その他)に対して異を唱え、反対を訴え、討論・議論し、同志や仲間とデモ・集会などを相談・計画・実行し、その暴政・悪政を阻止しようとする。そうすることは市民の論理では当然の事であり、憲法に保障されている権利である。
 ところが、それが公安警察などによってメンバーがリストアップされ、「テロ等準備罪」277のどれかの罪に引っかけられ、特定されて、監視の対象にされ、これまで違法捜査として秘かに行われてきたことが、正々堂々と行われるようになる、それが「共謀罪」法なわけである。

(3)軍事の論理(軍事的に勝つための論理)
 改憲による自衛隊の憲法明記は軍事の論理から言えば有益。何故なら、それによって、自衛隊のあらゆる任務・活動とそれらに必要な措置が憲法上の要請に基づくことになり(それらを正当化する根拠規定になり)、安全保障や国際平和安全維持の軍事的な必要に応じて(最小限ではなく)最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになって、集団的自衛権の「限定的」行使の拡大も、PKO派遣部隊は「駆けつけ警護」のみならず文民保護などのための武力行使・「戦闘」も、巡航ミサイルによる敵基地攻撃も、防衛費の(GDPの1%から2%への)増額も、あれもこれも可能となるわけである。
 
 週刊新潮6月8日号に「『憲法9条』が自衛隊を押し潰した」と題した元陸将(福山氏)の寄稿が載っていた。それはPKOについて論じたものだが、これには「国際貢献を阻む元凶は、紛争の実情と乖離した、古びた『憲法9条』にあるのではないか―。現場を知悉する元陸将の『正論』である」として、次のようなことが書かれている。
 日本の自衛隊には国内法の制約があって、武器使用は「明確に自分が狙われた場合の正当防衛や緊急避難でしか」使用できず、「『任務遂行のための武器使用』は許可されておらず、とりあえず隊員または車両などの装備品が被害を受けるまで待つしかなかった。まして同じ後方支援を担当する他国の部隊と行動している時に・・・・。彼らがゲリラに襲撃されても、日本隊は傍観するしかない」「一緒に仕事をしている同僚や友人が危険に晒されても手助けもできない。『余計なこと』をしたら『憲法違反』だと騒がれる。日本の常識はまさに世界の非常識」、「いざという時には何もできない」「国連PKO部隊参謀長は『日本隊は使えない』という“正しい結論”に達していたのだ。」「国家の命令で危険地帯に派遣されて、任務上(発砲した銃弾が民間人に当たって相手が死んだ、など)過失を犯しても国は守ってくれないどころか、隊員個人が容疑者として裁判にかけられかねない」「21世紀で生き残るためには、現実の世界と向き合い、大戦のトラウマを超克することが喫緊の課題であろう。」「憲法を改正し、自衛隊を軍隊として法的に位置づけない限り、国際基準のPKO任務はこなせない。」「国民は、そんな自衛隊を、そんな国際貢献を望んでいるのだろうか」と。
 これらは、元陸将で幹部自衛官の立場から彼らの軍事の論理で、その軍事的合理性に照らして現状(9条の下で)の自衛隊PKOのあり方がいかに不合理なものであるかを指摘して、9条を論難しているわけである。しかし、そもそも軍事を禁じている憲法9条が軍事的合理性に全く合わないのは当たりまえだろう。

 一方、朝日新聞6月15日付け「オピニオン&フォーラム」欄の『PKO四半世紀』に、日本国際ボランティアセンター代表理事(谷山氏)が述べたことが書かれていた。それは次のようなことだ。
 南スーダンでは政府軍と反政府軍、それに武装した市民が入り乱れ、「誰が敵か味方かも分からない」、そのような状態で発砲し、もし住民や政府軍を殺傷すれば、PKO自身が当事者になりかねない」、「駆けつけ警護」は「「NGO職員などが、武装勢力に襲われた場合、武器を持って駆けつけて守る」というものだが、「たとえ誤射であっても、住民を撃てば中立的なスタンスや友好国としての信用は一気に落ちる。自衛隊はもちろん、現地の日本人も攻撃対象になり、危険にさらされる。」
 「NGOは紛争当事者のどちらにも加わらない中立性の原則に徹し、貧困や差別など背景にある構造的な『暴力』を、武力を使わずに取り除こうと、支援を積み重ねてきた」、「アフリカや中東などで活動していると、日本への信頼を強く感じる。これらの地域を日本が植民地支配した歴史はなく、米国に原爆を2度も落とされながら、憎しみを超えて平和国家の道を歩んだ、そのイメージが崩れることで、失われるものの大きさを考えるべきだ」、「自衛隊が軍事活動に参加すれば、日本のNGOの中立性が損なわれ、かえって危険になる」、「国際貢献は軍事面だけに限らない、多面的なアプローチがある。  PKOだけでは紛争は解決されない。日本は憲法9条を持つ強みを生かし、『武力で紛争解決しない国』としての役割を果たすべきだ」「紛争当事者の対話に向けた外交的な働きかけや難民への人道支援、国造りの支援に力をいれること。それが憲法の要請だ」。この方が9条の論理なのだろう。
 安全保障と国際貢献それぞれに、9条(平和主義)の論理に基づく非軍事的・外交的方法と、軍事の論理に基づく軍事的方法とがあるわけであるが、自衛隊活用には後者(軍事の論理と軍事的方法)が伴い、9条1・2項に自衛隊を追記するとなると、9条との論理的整合性は難しく、両立も難しくなるだろう。

2017年07月09日

自公連合に対抗する「受け皿」をアピール

 反自民の受け皿は「○○ファーストの会」?
 東京都議会選挙では小池知事に同調する「都民ファーストの会」が自民党批判票の受け皿となって圧勝したが、その会が全国的な政党となり得るかといえば、それは疑問だ。
 小池氏自身が、ニュースキャスターから政界入りして日本新党→新進党→自由党→保守党→自民党へと渡り歩き、自民党では大臣や総務会長にもなったが、都知事になって自民党は離党した。風見鶏のようにも見えるが、日本会議には(距離を置いているとはいえ)親和性をもった右派系改憲派であることは間違いない(ジャーナリストの青木理氏によれば)。また都議選が終わって直後に彼女からバトンタッチを受けて会の代表に返り咲いた野田数氏は、現行憲法は無効で「大日本帝国憲法は現存する」という考えの持ち主で、石原慎太郎や「維新の会」の考えに近いとのことだ(Wikipediaによれば)。今のところ「都民ファーストの会」は地域政党で、小池氏に共鳴して都知事与党として結成された小池新党であること以外には、「都民ファースト」とか「東京大改革」などの抽象的なスローガンを掲げた「綱領」と都政の大まかな構想・プランがあるだけで、国政レベルでの政治理念や基本政策が明確にあるわけではなく、不透明。これから国政選挙ひいては改憲国民投票を展望して、「国民ファーストの会」などの名で全国政党として再編されて国政に進出する可能性はあるが、その場合は結局「第2自民党」になるか、いずれにしろ公明・維新とともに改憲勢力3分の2確保の補完勢力となるだろう。
 このような新党を自民批判票の受け皿としていいものだろうか。「ごうまんな一強」に対して「やり過ぎ」に「灸をすえる」(ブレーキをかける)ためだけの受け皿で、結局は右傾改憲あるいは新自由主義(規制緩和・市場競争主義)など、行き着く先は自民党と同じ所へと連れて行かれてしまう、というのが関の山。働く生活者・市民の受け皿として、それ(○○ファーストの会)が相応しいのかといえば、とてもそうは思えまい。働く生活者・市民が求めてやまないのは、皆が恐怖と欠乏から免れ自由で安心して暮らせる世の中であり、その求めに応ずるのに真に相応しい受け皿だ。
 今後の大争点は憲法(アベ改憲を許すか否か)であり、戦争法・特定秘密保護法・共謀罪法・原発再稼働など、それらを今後とも許すか否かである。
 だとすれば、既に踏み出している「立憲野党連合」こそが、反アベ自民党の受け皿として、それ以外にはないのだということで、市民連合は立憲野党各党(民進・共産・社民・自由)とともに総力を挙げて、それに取り組まなければなるまい。「国民ファーストの会」などに負けないように。
 とりわけ、メディアに対してはアピールが必要だ。これまでのところ野党共闘(立憲野党連合)に対するメディアからの注目度・期待度は、いたって低く、「頼りない野党」「バラバラな野党」としてしか見られていない向きが多い。
 マスメディアは、これまで、二大政党の政権交代を期待して小選挙区制導入の選挙制度改革にマスコミ自らが同調して以来、自民党に対峙する政党として「反自民非共産」の二大政党もしくは「新党・第三極」にこだわるきらい(傾向)があって、新聞・テレビなどの取り上げ方も第1党(自民)、第2党(新進党とか民主党、現在の民進党)、第3極(みんなの党とか維新の会)の順にウエイトが置かれスペースが割かれてきて、その他は泡沫政党でもあるかのように小さく、或は全く無視されることがほとんど。立憲野党と市民連合による共闘の動きに対しても、それに寄せる期待は、いたって乏しく、それを歓迎し激励する論調はほとんど見られない。
 しかし、マスコミ等が期待した「反自民非共産」の新党や連合はほとんど成功しておらず、結局、自民一強体制を許す結果になってきたことを考えれば、マスコミも国民も、小池新党たる「国民ファーストの会」などへの幻想とらわれることのないように、立憲野党・市民連合は自らが反自民の受け皿となるべく戦略(方策)をよく練って精一杯の運動を展開し、マスコミから肯定的・積極的に取り上げられるように、最大限工夫・努力を傾注しなければなるまい。
 そこで、一つ提案だが、野党共闘とか立憲野党・市民連合とか、これといった名称がなく、例えば世論調査の支持政党の選択肢には、個々の政党名が挙げられているだけで、それらの中から選ぶしかない状態だが、今後この共闘連合組織を一つの選択肢として取り上げてもらって選べるようにネーミングして名称を付けたら如何なものだろうか。イタリアの「オリーブの木」(ベルルスコーニュが率いた右派連合に対抗して政権をとったことのある中道左派連合で、小沢一郎が日本版「オリーブの木」として提唱)のように。(「オリーブ」とか「木」とかでなくともいいから、何か適当なネーミングがあって然るべきなのでは。「○○○の○」と。
 それにつけても不安材料は、都議選でも惨敗した民進党に動揺が生じ、分断されてしまうことだ(民進党内に反共意識にとらわれ、離党して「都民ファーストの会」に走った者もいたし)、分断されればこの党は益々、力を失うことになるだろう(旧社会党にように)。民進党は「第2自民党」か「第2公明党」になりはててしまうようなことになってはならず、あくまで立憲主義、平和主義、自由と民主主義を守る党として、即ち民進党というネーミングに相応しく自分たちこそが真の市民ファーストの党であり立憲野党連合の中核なのだという立場と気概を持たなければならず、さもなければ潰れるという危機感を持って自ら奮起するとともに、市民の側も、市民連合や立憲デモクラシーの会に結集して、それ(民進党)に喝を入れて激励し立憲野党連合を盛り上げる、今こそ、その正念場(頑張りどころ)なのではあるまいか。
 いずれにしても、自公連合に対する我々市民の求める受け皿としての立憲野党共闘市民連合を、そのネーミング「○○○の○」とともに、早急に創り上げなければなるまい、ということではないでしょうか。

2017年07月17日

核兵器の脅威と自然災害の脅威

 他国の核兵器や武力攻撃は、台風・豪雨や地震・津波の襲来のような自然災害の脅威とは違う。
 自然が相手では、対話・交渉の余地などなく、説得によって思い止まらせることはできないし、又こっち(そこに住んでいる人間、国の憲法や政府)がどうあろうと、そんなことはお構いなしに、自然法則のままに必然的に襲来する。しかし、人間の手による核兵器の開発・維持や他国からの武力攻撃は、人間の意思に基づいており、こっちの対応(あり方、出方)次第で強行されることもあれば、思いとどまることもある。対応を誤って襲来を招いてしまうこともあるが、適切な対応によって回避することはできるのでる。
 北朝鮮にしろ中国にしろ、或はロシア、或は国際テロ組織、或はアメリカにしろ、それらの核兵器その他の武力による威嚇または攻撃の有無は、互いの意思と対応次第なのであって、それらの国や組織が、自然災害のように、国民や国の対応如何に拘わらず、必ず襲来し、攻撃を仕掛けてくるということはあり得ないわけである。
 ところで、そもそも自衛隊の「主たる任務」は、あくまで外国からの侵略に対する防衛出動なのであって、災害出動は(主たる任務に支障のない限度で)「必要に応じ、公共の秩序維持に当たる」治安出動や海上警備行動・領空侵犯措置・在日米軍基地警護・海外における「重要影響事態」に際する米軍等への後方支援・在外邦人輸送・機雷掃海・PKOなどの国際平和協力活動等々とともに)「従たる任務」の一つで、消防隊や警察官にとっては主たる任務である災害救助・救出を支援する立場であり、その災害対応能力(装備や訓練など)も、それなりのレベルで(例えば東京消防庁のハイパーレスキュー隊のような特殊な技術・能力はもとより持ち合わせず)、どちらかといえば、補助的役割をサービス的に引き受けている。
 しかし、近年、頻発・激化している自然災害の現実から見れば、自衛隊に求められるのは、北朝鮮や中国など外国の侵略(その可能性はあっても、自然災害のようにいつか必ず襲来する法則的必然性があるわけでもない、或は「いつ襲ってきてもいいように」などといって機(有事到来)を待つようなことがあってはならず、平時の対応によって予防できるはずのもの)に備えるよりも、自衛隊はむしろ、いつか必ず襲来する災害に、その都度、最大限対応できるように能力と装備を備えたレスキュウー隊として活躍することを「主たる任務」として体制整備を行う(服装も迷彩服ではなく目立つものを着用する)ことの方が現実的であり、賢明なのではあるまいか。

 核兵器や軍事的脅威に対する対応には軍事的対応と非軍事的外交的対応とがある。前者(軍事的対応)は交戦(戦争)もしくは、それを覚悟した軍事的相互抑止(核開発・維持、ミサイル防衛、ミサイル実験や軍事演習の応酬)であり、後者(非軍事的外交的対応)は対話・協議・交渉・説得などだが、前者と後者の間には軍事的または非軍事的(外交的・経済的)圧力がある。この圧力を背景にして交渉・説得するやり方である。
 我が国の現行憲法(前文と9条)は、後者(非軍事的外交的方法)に徹することを要請しているのである。
 我が国・日本が、これまで、武力攻撃されずに済んでいるのはどうしてか、或はこれから武力攻撃されるとすれば、どうしてか、その訳(原因・理由)は?
 まず、我が国が武力攻撃をされずに済んできたのはどうしてかといえば、それには次の二つが考えられる。①憲法によって、我が国が戦争を放棄し、国に武力行使を禁じていて、国民にもその意思がないと見なされているから。②米国との安保条約によって米軍が基地に駐留し、自衛隊と軍事協力体制をとっていて他国からの攻撃が抑止されてきたから、とも見られている。
 この二つの内どっちなのか、それとも両方のお蔭かなのか、それは簡単には決めつけられないが、いずれにしろ、どの国にも我が国に対して攻撃意思がなかったからであることは確かだろう。
 それでは、これから我が国が武力攻撃されるとすれば、それはどうしてか、を考えた場合、
①のような憲法の定めによって、我が国が戦争を放棄し、国に武力行使を禁じていて、国民にもその意思がなく、武力侵攻しても応戦・反撃してくることはないだろうとの安易感(何をしても大丈夫だという安易感)からか。それとも②のように、米国との安保条約によって米軍が基地に駐留し、自衛隊と軍事協力体制をとって対峙している「敵国」と見てとられるからか。
 この二つが考えられるが、日本に武力侵攻しても、①のように、日本は応戦も反撃も、何もしてこないだろうから、た易く事が運べる、などと、それだけの理由で武力侵攻を仕掛けてくるなどとは、戦国時代や帝国主義時代のような優勝劣敗の弱肉強食の時代じゃあるまいし、自衛と制裁戦争以外には戦争が違法化されている現代にはあり得ない話しだろう。
 ②はどうかといえば、そのほうには可能性があるだろう。なぜなら、軍事で対峙して、緊張が激化して一触即発といった事態に達した場合、どちらかからの先制攻撃・敵基地攻撃あるいは同時発射で軍事衝突が起こる可能性は、①に比べればはるかに高いだろう。(現に北朝鮮は、アメリカとの間でそのような事態になった場合には、日本を攻撃する可能性があることを、在日米軍基地の存在を理由にして、公然と示唆している。アメリカは、北朝鮮の核を搭載したICBMの開発がアメリカ本土に達するレベルにまで進歩したと見られれば、「レッドライン」を超えたと見なして軍事行動に踏み切るだろうと言われている。)
 これらのことを勘案すれば、①の憲法上抗戦出来ないことよりも②の日米軍事協力体制を敷いていることのほうが、どちらかといえば我が国が武力攻撃を受ける可能性が高いと考えられよう。
 しからば、今この時点で、北朝鮮(その核・ミサイル実験の強行)などに対して我々日本国民はどのような対応をとればよいのか。その対応も二つあり、一つは、現在休戦状態にある朝鮮戦争が再開して、北朝鮮からミサイルが飛んで来ることを既定のこととして想定して、現政府の呼びかけに応じて避難訓練し、戦争に協力する心構えを持つこと(1)、もう一つは、軍事対応・戦争の用意に反対の声を上げること、即ち米朝・日韓・中ロ・国連安保理事国などの為政者たちに任せて、それに黙って従うのではなく、「どの国も(核保有国も非核保有国も)核兵器禁止条約に応じよ!どの国とも戦争するな!」と反核・反戦を叫び、米朝あるいは6ヵ国協議などの協議を、あれこれ条件を付けずに無条件に開催して話し合い、朝鮮半島の非核化(核兵器の不使用)と朝鮮戦争の正式終結(平和協定の締結)にこぎ付けるようにせよ、と声を上げること(2)、この(1)か(2)かのどちらかだろう。

2017年07月25日

核兵器禁止条約への核保有国と我が国の反対・不参加

 核兵器禁止条約に核保有国とその同盟国(NATO諸国や韓国などとともに)我が国が反対・不参加。その理由はNPT核拡散防止条約に基づく核保有国と非保有国の合意・協力体制に支障をきたすことになるからだというものだろう。NPTとは、米ロ中英仏の5大国にだけ核保有を認めつつ核軍縮への努力義務を課し、それ以外の国には一切核保有を認めないことにした条約で、そのNPT体制の下で、我が国は「最終的に核兵器廃絶」を目指すとは言ってきたが、又オバマ前大統領も「核なき世界」を提唱したものの、核軍縮はあまり進展をみていない。

 核保有国と我が国を含めたその同盟国(「核の傘」に入っている国)は要するに、自分たちだけが核兵器を独占して核抑止力を維持し、その他の国々には、それを持たせないように拡散・保有を禁ずることによって、核保有国は自らの安全保障を得るとともに、それぞれの同盟国には「核の傘」となって、それらの国々の安全をも保障するというわけである。
 NPTが1968年成立以来、西欧のNATO諸国と日韓はアメリカの「核の傘」に。(日本は1976年NPTに加盟。)東欧のWATO(ワルシャワ条約機構)加盟諸国はソ連の「核の傘」に。北朝鮮もソ連の「核の傘」に入って、1985年にはNPTに加盟。ところが1990年、ソ連が韓国と国交、1991年WATO解体、ソ連も解体。1992年には中国が韓国と国交正常化。北朝鮮はロシア・中国を後ろ盾として当てにできなくなり、1993年NPT脱退、核・ミサイルを自力で開発する意図を持つようになった(北朝鮮は敵対関係にある米韓に対抗して国家を存立・維持するには核兵器にすがるしかないとの考えになった)と思われる。
 イスラエル、インド、パキスタンは、初めからNPTには参加せず、独自に核兵器を開発・実験・保有。(インド・パキスタンは、NPTが5大国だけを核兵器国として認め、それ以外には認めない不平等条約であることを理由に。イスラエルは周辺のアラブ諸国とイランに敵対関係にあるその戦略上、不参加。)イスラエルに対抗するイランも核開発の可能性があるも、米欧側から阻止されている。
 いずれにしても、NPTは核軍縮・「核なき世界」の方向には働いておらず、それに業を煮やした非核保有国が核兵器禁止条約に乗り出したわけである。そして、この7月に122ヵ国(国連加盟国の3分の2)の賛成で条約が成立。批准を待つばかりとなったわけである。

 問題は、核保有国とその同盟国がそれに背を向けて反対、とりわけ唯一の被爆国であるにもかかわらず我が国が交渉にも不参加、反対していることである。
 そこには、核抑止論と「5大国の核独占は正当化、それ以外の国の核保有は違法化」論がある。それらは自国本位の「軍事の論理」に基づいて合理化しているように思われる。「軍事の論理」は軍事的に勝つこと、負けないことが至上目的で最優先され、人道とか平和的生存権などは二の次か、度外視される。兵器というものは、そもそも軍事目的(敵軍を撃破するため)に作られており、平和目的ではあり得ず、武力攻撃や戦争を抑止(威嚇)することだけが目的で、使うことが目的ではないなどということもあり得まい。なぜなら、威嚇は「もし攻撃を仕掛けて来たら、それを使って反撃するぞ」といった前提があるからこそ効果をもつのだから、である。核兵器も然りであり、けっして「張子の虎」ではあり得まい。
 アメリカを同盟国「核の傘」として軍事的に依存している日本政府にとっては、あくまでアメリカの核軍事力にすがり、それによって、とりあえずは北朝鮮からの攻撃、それに中国・ロシアなどからの攻撃も抑止して守ってもらえるようにしておかなければならないとの思惑があるのだ。唯一の被爆国であり、又大戦の最大の責任を負う国でありながら世界平和への責任などは二の次。
 しかし、北朝鮮・中ロも、米韓・日本に対して負けてはならないと、同じ論理で「核抑止力」の開発にやっきとなるか、維持・強化こだわり続けているわけだ。
 これでは、世界に、又アジアに「核なき世界」は訪れず、朝鮮半島非核化、北東アジア非核地帯も訪れはしないどころか、米朝間の核戦争さえも訪れかねないだろう。

 核保有国側は(日本政府も)核兵器禁止条約に対して、核抑止力の必要性(「世界の平和と秩序は核保有国間の相互抑止を基本に維持されてきた」、「核の傘に頼る国も多い」、「条約は核抑止政策と相容れない」などのこと)と北朝鮮の脅威(「(ヘイリー米国連大使)われわれ良いアクター(当事者)に核兵器を持たせないで、悪いアクター(北朝鮮)に持たせてよいのか」「条約は北朝鮮の脅威への解決策を何も生まない」「北朝鮮の核武装への対処に迫られている日本は受け入れられない」などのこと)を反対の理由にしている。

 核保有国側は核兵器禁止条約に反対し、自分たちの核兵器独占・維持には固執し、北朝鮮には一方的なその放棄を強要するとなれば、北朝鮮はそれを理不尽と考え、その制裁圧力に屈して核・ミサイルを放棄するよりも、むしろ、それを(自暴自棄になって「軍事の論理」・合理的計算などそっちのけにして)「自爆攻撃」のように使って核戦争に突入して果てる可能性の方が高いだろう。
 こちら側では、北朝鮮が脅威で、アメリカの抑止力「核の傘」が必要不可欠だと思っているが、向こうにとっては、アメリカこそがこの上もない脅威であり、それに対して唯一の対抗抑止力としてすがりついている核・ミサイルは、アメリカ・日本はもとより国連安保理などが、いくら圧力を加えて放棄させようとしても、それに応じさせることは難しい(リビアやイラクの「二の舞」は御免だと思っているのだろうから)。
 このような北朝鮮に対しては圧力も軍事的抑止力も効かない。ならば、いっそのこと、極限まで圧力をかけまくって追い詰め、自暴自棄にさせて戦争に誘い込み、一気に無条件降伏に追い込む、という手もあることはあるのだろうが、それには計り知れないリスク(北朝鮮側だけでなく韓国側も戦災に見舞われ、幾万幾十万の犠牲を被り、日本にまでミサイル攻撃の被害が及ぶ可能性)がともなう。
 これらのことを考えれば、北朝鮮に対しては核抑止力の効果は薄く、核軍事力は問題解決の手段にはなり得まい。
 尚、北朝鮮もそうだが、そのような弱小国家以下の存在ともいうべきテロリストは命も何も失うことを厭わない、そのような非対称な相手には核抑止など通用しない。

 北朝鮮もそうだが、核保有国には核抑止力の効果・有用性に思い込みがあるが、「軍事的抑止力」というものにそもそも実効性はあるのか、だ。
 キッシンジャー(元国務長官)いわく、「抑止の効果は、実際には(攻撃・戦争が)“起こらない”ことによって、消極的な方法で試される。しかし、それが、なぜ起こらないかを立証することは絶対不可能である」(戦争が起きた原因は立証できるが、起きない原因は立証できないのだから)と。
 軍事力の「抑止効果」なるものは、実際、はたして効いているのかどうか、それは撤廃してみないと分からない(撤廃してみたら、そのとたんに敵が攻め込んできたという事実を見なければ)。しかし、それを実験としてやるわけにはいかない(撤廃して攻め込まれたらお終いだから)。
 核抑止は、実際、はたして効いているのか、それは撤廃してみないと分からない。しかし、撤廃したとたんに、相手から核攻撃されてはお終いだとなれば、それを試すわけにはいいくまい、というわけだ。
 北朝鮮は、自らの核武装をアメリカからの攻撃を抑止するためだという。アメリカも自らの核戦力を相手からの攻撃を抑止するためだと、お互いに自らの核開発・保有を正当化。しかし、いずれも、その抑止効果は立証できないわけである。互いに主観的に「抑止力」だと思い込んでいるだけにすぎない。その効果は心理的効果にほかなるまい。
 中国も北朝鮮も日本を攻撃・侵略しないのは日米同盟の抑止力が効いているからだといっても、それは立証のできない、都合のいい結果論にすぎないのだ
 
 ところで、軍事力が抑止力として実効性を持つのは、その兵力と兵器を「いざという時には(もし、攻撃をしかけられたら)必ず使う」という確信的な意思が前提としてある場合に限られ、それなくして、その兵力・兵器を単に保有しているだけで「張子の虎」の如きものだと相手側から見なされるならば、抑止力は実効性を持たないわけである。
 それでは(通常兵器ならともかく)核兵器に抑止力として実効性はあるのかといえば、あるとはいえないだろう。なぜなら、それは大量破壊兵器といわれるが、その極みともいうべきものであり、無差別「皆殺し」兵器で、実際にそれを使ったら、数多の人命の犠牲とインフラの破壊をもたらし、被害が環境汚染を含めて(国境を超えた)広範な地域に及び、復旧には莫大な費用と年数を要し、計り知れない破滅的事態とダメージをもたらすことが明らかだからである。アメリカの元陸軍大将で国務長官であったパウエル氏は(2013年7月朝日のインタビュー記事で)いわく「(核兵器は)極めてむごい兵器」で「まともなリーダーならば」使えない「軍事的に無用な存在」だと。彼はかつて(国務長官在任中)インドとパキスタン両国が核武装をして緊張が高まった際、パキスタン首脳と話し、広島・長崎の惨害を引き合いに出して「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と述べて自重を促したことがあった。
 尚、日本には自衛隊があり、日米同盟を結んでいて米軍基地も置いているが、日本国民には「いざという時には必ず、それを使う」という確信的な意思があるとは思えない。大戦の悲惨と自責の念が骨身に沁みた日本人であり、憲法に不戦を誓った、その民族的良心がそれを許さないだろうからである。したがって、それら(自衛隊と日米同盟)はあっても、抑止力として実効性は乏しいと考えられ、ましてやアメリカの核兵器を北朝鮮に対しても中国に対しても「いざという時には使ってもよい」などと思っている者は日本人ならあり得ないだろう。
 
 「相互確証破壊」論に基づく核均衡抑止政策というものがあるが、それは要するに、対立する両国が双方とも核兵器を保有し、一方から核による先制第一撃があっても、他方には報復第二撃能力(確証破壊能力)が温存されていて反撃、互いに相手の国民や経済に耐えがたい損害を与えることのできる核戦力を持ち合っているという場合は、その核兵器を有るだけ使えば相互にとって共倒れか、同様の惨害を被る結果となるから、互いに攻撃は控えるしかない、ということで戦争を抑止し合うというもの。
 今、米ロなどが持っている核兵器(米ソ冷戦時代来、「相互確証破壊」論による核均衡抑止政策の下に、シーソーゲームのようにして互いに持ち合ってきて、ロシア7,000発、アメリカ 6,800発、フランス 300発、中国 270発、イギリス 215発、イスラエル 80発、パキスタン 120~ 130発、インド 110~ 120発、北朝鮮 ? に達している)は「威嚇用に、ただ持っているだけ」でなく実際「使う時は使う」のだとしたら、地球的規模の自殺行為。それは狂気の沙汰だろうし、使えもしないものを唯持っているだけだとしたら究極のバカ(やはり狂気の沙汰)という以外にないわけである。
 「核保有国間の相互抑止による平和維持」などと綺麗ごとを言っても、要するに核兵器は「使えない、使わない無用の長物」を唯持ち合っているというだけの無意味かつ危険極まりない核爆発物の貯蔵にしかならない愚策の極み、それが核抑止政策というものだろう。
 いずれにしても核抑止力は実効性を持たないということだ。
 
 こうしてみると、核兵器禁止条約に対する核保有国側の反対理由には正当性もなければ、現実性もない、といえるだろう。
 反対派は「核保有国と非保有国の対立を深める」とか「禁止条約は実効性がない」というが、それは保有国側の責任であり、正当性は条約賛成国側にあり反対国側にはなく、条約に反する核兵器保有・開発・核抑止政策(核兵器による威嚇)を続けることが違法と見なされることになり、それに無視を決め込むことは許されなくなるわけである。
 唯一の被爆国でありながら反対に回った日本政府は、世界の諸国民から不信を買うことになる。日本政府は、これまで唯一の被爆国として「核保有国と非核保有国の橋渡し」役を自任していながら、この禁止条約には「核保有国が参加せず、実効性は乏しいうえに、両者の対立を深める結果となり、核廃絶にはかえって逆効果だ」との理由で反対
 しかし、禁止条約に反対して、アメリカの「核の傘」に入ったままで、「橋渡し」といっても、何ができるだろう。
 本当に核廃絶をめざして「橋渡し」役を務めようとするのであれば、少なくとも(出来ることならアメリカとの同盟から離脱して、フリーで中立な立場で物が言えるのが一番なのだが、そこまでいかずに同盟関係は維持したままでも)米軍による日本防衛には核兵器だけは使用を控えてもらう(「核の傘」をはずしてもらう)ようにアメリカと合意のうえ国際公約し、非保有国と同じ非核の立場に立って、核保有国に対して核軍縮を加速するように働きかけるようにする。それは禁止条約に参加しても矛盾なく両立できるはず。
 そもそも、自国が憲法(前文)に「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とか「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」などと定めておきながら、それと裏腹な態度をとって、自らは被爆を受けた当の原爆投下国アメリカの「核の傘」「核抑止力」に頼り続けている、そんな虫のいい卑屈な国の「橋渡し」に応じる非保有国などありえないだろう。
 北朝鮮に関してこの条約に対する日本政府の対応をいうならば、「『北朝鮮が核開発をしている時に禁止条約に賛成できない』ではなくて、『北朝鮮が核開発をしている時だからこそ禁止条約に参加する』ことが、いよいよ大切」、「日本政府が、この条約に参加して『日本は「核による安全保障」はもう放棄した、だからあなたも核を捨てなさい』―こう北朝鮮に迫ってこそ、最も強い立場に立てるのではないでしょうか」と安保理事会(核禁止条約採択の国連会議が開かれていた間、北朝鮮問題を議題として開かれていた)でウルグアイ代表が述べたというが、このほうが当を得ていると思われる。

 こういうふうに見てくると、核兵器禁止条約に反対する核保有国とその同盟国とりわけ日本政府の言い分に正当性があるとは、到底思えまい。

2017年08月16日

「『諸国民の公正と信義に信頼して』安全」はユートピアか?(再加筆修正版)

 憲法前文「日本国民は・・・・我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」「日本国民は恒久の平和を念願し・・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」。
 「諸国民の公正と信義に信頼して(安全と生存を保持)」などというと、よく、そんなの「きれいごとだ」とか「ユートピア」(理想郷)の話だとこき下ろす向きがあるが、よく考えてみると、それ(「諸国民の公正と信義に信頼」)は市民生活(市民・国民レベル)では当たり前のことなのでは。
 市民・国民レベルでは普通誰もが隣人愛・友愛の念をもち、「平和を愛し」、争い合うよりも「和」を好み、ルールに基づく公正を求め不正・無法を嫌い、信義を重んじ不義・非道を嫌うものだろう。これらはいずれも、人間社会では当たり前の感情であろうし、どの国民も、そういうものだと思っているはず。(オリンピックは、諸国民ともそういう思いで開かれる)。
 どの国民も「人を見たら泥棒と思え」とか「他人は誰もが信用ならない不審者で、護身用に銃を所持していないと命がもたない」などと思って人と接し人生を生きているわけではあるまい。ただ、国によっては(アメリカや中東・アフリカなど)治安が悪く(ならず者やテロなど)、或は内戦で、危ないところもあるが、大多数の国では、一般市民の間では銃器など持たない人の方が多いのである。(市民100人当たり銃保有率ランキングで、1位のアメリカは88.8丁と例外的に銃を持っている人の方が圧倒的に多く、2位のイエメンが54.8丁、3位のスイスは国民皆兵制で小銃が各家に国から支給されていて45.7丁、4位のフィンランドは同じく国民皆兵制だが自費購入で45.3丁、5位セルビア、6位キプロス、7位サウジアラビア、8位イラク、9位ウルグアイ、10位のスウェーデンは、近年皆兵制は廃止されたが許可証で狩猟用に持ち続けている人が多く31.6丁と先進国の中では銃保有率が高い。我が国は178ヵ国中164位で、狩猟用等以外は禁止されていて、わずか0.6丁と、銃器など持たずに暮らしている人の方が圧倒的に多い。尚、アメリカは勿論のこと、スイス・フィンランドなど銃保有率が高い国ほど銃乱射事件など殺人事件が多い。)
 要するに、大多数の人々は、個々人が武装したり銃など持たなくても、市民社会における「公正と信義」に信頼して(法と道徳の下に)安全と生存を保持して暮らせているのであって、隣人間はもとより、どこで他人と接しても市民生活は成り立ち、海外に行っても観光・ビジネスは成り立っている、といってもよいのではあるまいか。
 危険があるとすれば、それを呼び込むのは市民・一般人ではなく、むしろ政府や軍による反政府勢力との抗争や対外敵視政策と戦争、統治の失敗・破綻による治安の乱れと武器業者(死の商人)の暗躍など。
 人間には、動物的本能(生存競争の攻撃本能)ともまた違う(「生の欲動」に対する)「死の欲動」として自他に向かう攻撃欲動(破壊衝動)というものもあるのだが、それは文化(知性)によってコントロールされ断念される。(その場合の無意識的に働く良心とは、フロイト心理学でいう「超自我」。)
 人は、生命の危険に瀕する恐怖や欠乏がなく満ち足りた状態では、(「衣食足りて栄辱・礼節を知る」というもので)市民生活では誰もが冷静な利害損得計算と良心との総合的合理的判断が働いて、安心・安全を、自衛力(銃刀など武器)に頼るよりも(むしろ放棄して)、公正と信義に基づく協和の方に求める。それは、その方が実際上(社会的歴史的経験上)安心・安全だと思われているからである。
 ところが恐怖・欠乏にさいなまれると、極度のストレスから正常な感覚が失われ(「貧すれば鈍する」で、理性も良心も働かなくなって)不正・不義・非道・自他への人身攻撃にはしる。政治や政府は、本来はその恐怖・欠乏を取り除き、市民・国民の安全・安心を保持することに最重要の役割・役目があるはず。ところが為政者や政治勢力によっては、自らの特定利権・野望が先行し、その実現と権力維持のために、市民・国民の恐怖や欠乏の原因を国内外の「敵」に転嫁して、不安と恐怖を煽り、不信・敵対心・憎悪をかき立てて、いがみ合わせ、争わせ、その戦勝・平定を通じて権力や勢力を維持しようとする。
 即ち、どの国の市民・国民も本来は平和を愛し、公正と信義において信頼し合える関係にあるのであって、それをそうでなくさせるのは、偏狭な国益やドグマ(独善的な教義)によって国民を煽って他国民・他民族と敵対させ、憎悪をかき立てて野望実現をはかる利権勢力と結びついた政府その他の政治勢力や宗教勢力の存在であり、そこが問題なのである。

 国民同士が、反日・反中・反朝・反韓などと互いに反感、いがみ合い、「鬼畜米英」などと憎悪するのは、戦争や冷戦に権益が得られる利権勢力から煽り駆り立てられ、或は同調圧力によって互いがかき立てられてのこと。(人々に欠乏・困窮や不安・恐怖があると、戦争利権を目指す勢力は、そのストレスや欲求不満につけこんで、攻撃欲動をかきたてるのだ。)しかし、そもそも国民の間には、他国民にはどの国民に対しても、敵対心・憎悪はなく、兵士たちも、一人ひとりは相手国民に対して何の恨みも憎しみもないのである。
 だから、憲法は、前文で、我ら国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持し」、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意した。」そして9条に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は・・・・永久にこれを放棄」し、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持」せず、「国の交戦権はこれを認めない」こととしたのである。


2017年08月28日

「戦争やんだ!」ではなく「戦争するな!」と反戦の声を(追記あり)

 「戦争やんだ(嫌だ)」なんて、それは誰だって嫌だろう。今、叫ばなければならないのは「戦争するな!」だ。今、やられかかっているのは休戦中の朝鮮戦争の再開だ。
 北朝鮮は核・ミサイル開発をずうっと推し進めてきて、アメリカ・日韓はもとより、中ロも安保理で決議を重ねた制裁に同意して、阻止にやっきとなってきたものの止められず、今やアメリカ本土に達するICBM(大陸間弾道ミサイル)実験にも成功しかかっている(1~2年後には完成と見られる)。それに対してトランプ大統領は「北朝鮮がこれ以上米国を威嚇するなら、世界が見たこともないような炎と怒りに直面することになる」と。すると北朝鮮はグアムに向けミサイルを発射する計画を検討していると公表。米軍の統合参謀本部議長は韓国大統領を訪ね「外交努力が失敗した場合を念頭に、我が国は軍事オプション(選択肢)を準備している」と。
 これらに前後して、安倍首相はトランプ大統領と電話会談を行っているがその際、大統領は「9月9日(北朝鮮の建国記念日)にピョンヤンを空爆してやる」と言い、安倍首相は、「その時は、必ず事前に連絡してほしい」と言ったという(「週刊現代」がスクープとして報じている)。
 河野外相と小野寺防衛相が訪米して日米安保協議委員会(2プラス2)。そこで日本側は北朝鮮の核・ミサイル問題について「対話のための対話には意味がない」として対話による解決を否定、「日米韓が連携して、北朝鮮に対して最大限の圧力をかけていく必要がある」として米国の軍事的圧力強化を促している。
 米韓は8月21日から合同軍事演習―最新鋭迎撃ミサイル・システム(THAAD)の配備、北朝鮮首脳殺害の「斬首作戦」など。これに対して北朝鮮は「危険な軍事挑発を仕掛けた以上、無慈悲な報復と容赦ない懲罰は免れない」と。
 このように米朝双方の「挑発・威嚇合戦(応酬)」を展開、緊張の度が強まる一方(ピークに達して「Xデーが迫る」?「カウントダウンが始まっている」?)。
 このような時に際して、日本政府は専ら軍事的抑止力の増強と迎撃ミサイル配備などの軍事的対処法、それに住民の避難訓練(グアムに向けられた弾道ミサイルが上空を通過する市町村で、防災無線を利用した全国瞬時警報システムJアラート訓練など)にばかり意を注いでいる。マスコミも、このような状況・成り行きを静観し解説して伝えるだけで、関係国はどう臨むべきか、国民はどうすればよいのか、政府はどのようにすべきなのか、「他にやるべきことがあるはずだ」といった訴えや主張がない。そして我々も、それに唯黙って従っているだけ、とはいわないまでも、唯「困ったもんだ」と口説くだけ、「でも、しょうがない(成り行きにまかせるしかないか)」とつぶやくだけで、黙って見てるしかない。しかし、自然災害なら「やめろ」といってもやめさせることは不可能で、ただ被害を最小限にとどめるための対策を講じるか、あとは避難するだけだが、戦争はその気になればやめさせることができるはずのもの。人々が最小限できることは「戦争するな!」「話し合え!」とみんなで声を上げて叫び、或いは発信して訴えることだ。今我々国民が必要に迫られているのはそれだろう。北朝鮮もアメリカも韓国も日本も「戦争だけはするな!」と。
 アメリカと北朝鮮のどちらかが仕掛ければ、或は偶発的局地的に軍事衝突して開戦すれば、北朝鮮はたちまち崩壊する(制裁圧力強化でぎゅうぎゅう追いつめて苦し紛れの暴発・開戦を誘って一気に崩壊に導くというのも方法ではあるが)。しかし、その間に北朝鮮は「窮鼠猫をも噛む」で、死に物狂いで戦うだろう(生き残りをかけて、或いは自暴自棄的に「どうせこれ以上失うものはないんだから」とばかり)。それに対してアメリカは、圧倒的な軍事超大国で、遠く離れたアメリカ本土に北朝鮮のICBMが極くわずかな確率で届きはしても、ほとんどは無傷だろう。しかし、韓国・日本はそういうわけにはいくまい。
 まず、韓国はもろに戦災を被る―通常兵器だけでソウルは「火の海」、開戦後24時間以内に死傷者230万人、核兵器や生物・化学兵器が使われれば1週間で死傷者500万人。
 日本には米軍基地(三沢・岩国・嘉手納、東京周辺の横須賀・横田・・座間など)が弾道ミサイル攻撃され、或は東京(永田町付近)が核攻撃されれば直後に10万人、30日以内に32万人、計42万人以上の死者がでるだろう(これらは「週刊現代」に)。それに、以後、朝鮮国民の日本に対する根強い恨み(民族的反感)がさらに強まる結果となる(過去に日本によって過酷な植民地支配を受け、戦後は米ソ冷戦で半島は韓国と分断され、日本は韓国とは国交、同国に対しては賠償など過去の清算は済んでいるとされているが、北朝鮮とは未だに何の清算も行われてはいない。彼ら北朝鮮国民から見れば、日本の方が極悪・非道だという民族的反感がさらに強まることになる。)
 また、未だに残る拉致被害者は、この戦乱の中で、はたして無事でいられるか、というリスクも考慮しなければなるまい。
 だから、戦争(朝鮮戦争の再開)は、アメリカは韓国や日本の米軍基地にいて前線で戦う将兵に犠牲者が出る以外には米国民は大丈夫でも、日本と韓国はそういうわけにはいかないのである。

 ここにきてようやく軍事衝突を回避するための米朝間の直接対話、「核の破局を避けるため」の「前提条件なし(無条件で)の二国間会談」を求める気運・国際世論も生まれつつある。
 トランプ大統領が北朝鮮に対して強硬・過激な発言をすると、中国・ロシアの首脳や外相は「関係国は抑制を保ち、外交交渉を模索すべきだ」と対話による解決を呼びかけ、ドイツのメルケル首相も「この紛争に軍事的な解決はない」と強調、韓国の文大統領も(8月15日には)「北朝鮮が追加的な(これ以上の)核とミサイル挑発を中断してこそ、対話の条件が整えられる」と表明している。
 米政権内にも、米国が軍事的解決に向かえば「信じられないほどの悲劇がになる」(マティス国防長官)との言葉も聞かれるようになり、「対話」による解決を模索する動きも。ティラーソン国務長官も国防長官とともに、これまでは「対話の用意がある」とは言っても、北朝鮮に「非核化の意思と行動」がないかぎりダメだとしてきた、そのハードル(条件)を「これ以上の軍事挑発の停止」さえあれば対話に応じるというところまで引き下げて外交的解決を模索する姿勢を見せている。

 ところが、我が日本では、首相も外相も防衛大臣も「対話のための対話は意味がない」と言って対話は突っぱね「圧力一辺倒」、メディアには「反戦」の言葉はなく、国民世論に反戦の気運がないのはどうしたことであろうか。
 まったくもって北朝鮮は「困った国」だが、「話しても分からない国」だし、戦争になっても「しかたない、やるしかい、やってもらうしかないだろう」という気分の方が勝っているのだろうか。
 唯一つ、8月22日国会前(衆院第2議員会館前)で、「許すな憲法改悪!市民連絡会」・「平和をつくり出す宗教者ネット」などが呼びかけて開かれた集会で、「朝鮮半島を再び戦場にしないで」と銘打った集会があって、約100人の宗教者・市民が集まったとのこと。そこで「早急に最悪の事態を回避するために、6ヵ国協議を再開し、対話による平和解決を求めるべき」と。

<追記>8月29日早朝、北朝鮮は新型の中距離弾道ミサイルをピョンヤン近郊の空港から発射、日本の北海道襟裳岬上空を通過し太平洋上に着水した(最高高度550キロ、飛翔距離2,700キロ、飛翔時間12分、日本上空を通過するのは2016年以来5回目で、発射方向を事前に予告せずに発射したのは初めて)。
 発射して間もなくJアラートで伝えられた緊急情報に電車が運転を見合わせたり、学校を休校にしたりしたところが幾つかあった。
 この事態に、安倍首相はトランプ大統領と電話会談。首相は「北朝鮮に対話の用意がないことは明らかで、今は圧力をさらに高める時だ」と話し、大統領は「同盟国として米国は100%日本と共にある」と応じ、北朝鮮に対して米国には「全ての選択肢が俎上にある」(武力行使も)と。
 30日、北朝鮮側の報道では、これはこの期間中に行われている米韓合同軍事演習への対抗措置であり、「日本が慌てふためく作戦」で「日本に対する積年の恨みを晴らした」とも。
 (日本に対してこんな言い方をされると「怪しからん」「許せん」となるが、冷静に考えた場合、そもそも北朝鮮はいったい何を求めて、こんなことをやっているのか?それはひとえにアメリカとの間で未だに休戦協定に止まっている朝鮮戦争の和平協定実現と体制(北朝鮮国家の存続、キム政権維持)保証を求め、対等な立場で交渉できるようにしたいからにほかならないのだ、それ以上の対外侵略など無謀な野望があるわけではないのだということだ。)
 国連安保理は緊急会合が開き、北朝鮮を非難、発射の即時停止を求める議長声明を全会一致で採択とのこと。強硬な日米韓は、安保理に、先に合意した過去最大とされている制裁決議の上に、さらなる追加制裁を迫っている。
 こうして行き着くところは、いったいどこへ?制裁圧力から終には軍事衝突・戦争へか。だとすれば、吾人は北朝鮮・アメリカ・韓国それに日本も「戦争だけは、してはならないぞ!」と叫ぶしかあるまい。
 9月3日北朝鮮「水爆」実験 「成功」と。

2017年09月14日

北朝鮮にどう対応すべきか―まず戦争終結を(加筆版)

8月29日、中距離弾道ミサイル、北海道上空軌道を飛び太平洋上に着水
  この間、米韓は定例の合同軍事演習
9月3日、核(「水爆」)実験
  11日、国連安保理、経済制裁決議
  15日、中距離弾道ミサイル、北海道上空軌道を飛び太平洋上に着弾
   (飛距離は前回を超え、グアム島に向ければ、そこに達する距離)
  
対応―米日韓は圧力重視(「圧力をかけて北朝鮮を対話のテーブルにつかせる」、「外交努力で失敗すれば軍事的選択肢しかなくなる」と)、特に日本政府は圧力一辺倒(安倍首相「今は対話の時ではない」「対話のための対話は意味がない」「必要なのは対話ではなく圧力だ」と。
   韓国大統領は圧力強化の一方、「戦争だけは防ぐ」と―大統領の外交ブレーン(特別補佐官)は「制裁と圧力の限界を認めるべきだ。現実的に核の廃棄を前提にした対話は難しく、核開発の凍結(これ以上の実験・開発は止める)から対話を始めるべきだ」と対話による解決を訴えている。
   中ロは対話重視(あくまで対話による外交的解決を望む)
   制裁圧力のジレンマ―オバマ前大統領の「戦略的忍耐」(北朝鮮が核放棄・非核化の意思を示さないかぎり交渉には応じない)方針は失敗だった(かえって北朝鮮が核・ミサイル開発を進める結果になってしまった)、とトランプ大統領も思っている。
   カーター元大統領(1994年の朝鮮半島危機の際、訪朝して解決)9月12日アトランタで演説して、米国は北朝鮮の指導者と直接話し合い、朝鮮戦争の休戦協定に代わる平和条約を議論するべきだとし、北朝鮮が望んでいるのは、北朝鮮が米国あるいはその同盟国が攻撃をしない限り、米国は北朝鮮を攻撃しないということを保証する条約だと指摘。「米国が北朝鮮に話しかけ、彼らを人間として尊重して扱わない限り、我々はいかなる前進もつくれないだろう」と。
   18日、米国防長官、韓国に射程の短い戦術核兵器を再配備する可能性(否定せず)、サイバー攻撃で北朝鮮の首脳以下の指揮系統を混乱させることも検討?(20日付け朝日新聞)

世論調査
 9月11日発表
 *北朝鮮の行動に不安を感じるか 「大いに感じる」  52
                  「ある程度感じる」 35
                   「あまり感じない」 7
                   「まったく感じない」2
 *安倍首相は「今は対話の時ではなく、圧力強化が必要だとして国際社会の連携を呼びかけているが、そうした対応を評価するか
                 「大いに評価」 21
                 「ある程度評価」 48
                 「あまり評価しない」 18
                 「まったく評価しない」7
 *制裁に石油の輸出禁止が必要か 「必要」 49
                 「必要ない」 12
                 「どちらともいえない」32
 *安倍内閣への「支持」44「支持しない」36
9月8~10日
 *北朝鮮のミサイルについてどう感じているか
   「大きな脅威・不安」           49.7
   「脅威を感じているが、差し迫ってはいない」41.7
   「感じていない」              5.3
    「わからない、答えない」          3.6
*北朝鮮に核やミサイルの開発をやめさせるために、どのような対応がのぞましいか
   「対話を呼びかける」    29.4
   「経済制裁など外交的な圧力」 49.7
   「軍事行動など武力行使」 10.6
   「わからない、答えない」 10.3
 *北朝鮮情勢に安倍政権は、どのような外交的対応をとることがよいと思うか「アメリカや韓国との連携を柱にする」   31.9
   「中国やロシアの協力も得られるように対応」56.4
   「わからない、答えない」 11.7
*今後の日本の防衛政策はどうするべきだと思うか
 「差し迫った脅威なら相手の基地への先制攻撃を本格的に検討」12.3
   「ミサイル迎撃システムの強化など防衛力を高める」56.7
   「特段の対策は必要ない」17.7
   「わからない、答えない」13.4
 *安倍内閣への「支持」42.1 「支持しない」41.0 「わからない」 17.0
<読売新聞> 9月8~10日
 *北朝鮮の核実験やミサイル発射をやめさせるには対話と圧力のどちらを重視すべきか 
          「圧力重視」51
          「対話重視」38
 *北朝鮮もんだいへの対応をめぐる安倍首相の一連の首脳外交を「評価する」 50
                              「評価しない」37
 *イージス・アショア(地上型迎撃ミサイル)導入方針に「賛成」64
                           「反対」22
 *安倍内閣への「支持」50「支持しない」39
<朝日新聞> 9月9・10日
 *北朝鮮のミサイル発射や核実験に対する、安倍内閣の一連の対応を
                        「評価する」 39
                        「評価しない」39
 *北朝鮮が弾道ミサイルを発射した際、日本政府や自治体による国民の情報提供のあり方は、適切だったか  「適切だった」   42
        「適切ではなかった」39
 *北朝鮮のミサイルや核実験に対して、日本政府は次のどちらにより重点を置く方がよいか  
   「圧力の強化」40 「対話の努力」45
 *安倍内閣への「支持」38「支持しない」38

 これらの世論調査では、いずれも支持率は上がって、朝日は不支持と同率だが、他は3ヵ月ぶりに不支持を上回っている。

 庶民感覚では、ただ闇雲に「脅威だ、脅威だ」「とんでもないことをする、何をするかわからない怖い国」「無法者政権」「極悪非道なならず者国家」「狂人国家」、「(むやみ)やたらだ」「聞き分けがない、駄々っ子みたい」「バカなことをするもんだ」「迷惑なこと、この上ない」などといった印象をもち(そう見られてもしかたない側面も多々あることも確かだが)、「こっぴどくこらしめてやればいいんだ」「戦争になったらなったで、しかたない」といった思いをもつ向きが多いのでは。(トランプ大統領の国連演説は、そのようなタカ派的庶民感情ウケするポピュリストのアジ演説の如きもの。安倍演説はこれに呼応。)

 しかし、我々は「奴らはどうかしている」「(まったくやたらで)どうしようもない」などと(彼らのやていることには何らかの理由があるはずなのに、そこまで考えが及ばない)思考停止に陥らず、想像力も働かせ、もっと冷静な理性的な目で見なければ。彼らはいったいどうしてそんなに核・ミサイル開発に執着するのか、そもそも、彼ら(北朝鮮の為政者)の(核・ミサイル開発の)目的・意図はどこにあるのかを。

 思うに、先の大戦で日本が降伏して、その植民地支配から独立することになりはしたものの南北別々に建国し、統一を巡って両軍が激突、南の韓国軍をアメリカが支援(司令官はマッカーサー、司令部は東京、米軍は日本の基地からも出撃)、それに対して中国は北朝鮮を支援して、3年間にわたって激戦(朝鮮戦争)(犠牲者は400万人前後、この間、アメリカは原爆使用を企図、大統領は断念、マッカーサーは投下実行を主張したが解任)、休戦協定が結ばれ結局元の境界に戻って両軍の対峙は未だに続いている。米軍は未だに韓国と日本にも基地に居座っている
 北朝鮮にとっては、米韓との戦争は休戦状態ながらも、未だに終結してはいない彼らからしてみれば、未だ戦争は続いているのだだからこそ、武器は捨てるわけにはいかず、米韓の新兵器に対抗するにしても、かつてのようにソ連や中国から(両国とも韓国と国交して)支援(武器援助)も見込めなくなって独自開発にとりくまなければならず、通常兵器では到底適いそうにないとなれば、核・ミサイルで対抗するしかないとならざるをえないわけである。(アフガニスタンのタリバン政権も、イラクのフセイン政権も、リビアのカダフィ政権も核兵器がないばかりにあえなく崩壊した、その二の舞を踏みたくないと思っている。)
 このあたりを考えれば、そこには、彼らなりに必要やむをえない事情があり、或は彼らなりの正当性(大義名分・言い分)があってことなのだろう。(それは、アメリカが、自らの核・ミサイルは「抑止力だ」として正当性を主張しているのと同じなのであって、もし北朝鮮の核・ミサイルは不当であり、放棄すべきだというならば、アメリカの核・ミサイルも不当であり、放棄すべきだということになる。核兵器禁止条約では、核兵器は大量破壊・虐殺をもたらす残虐兵器であり、どの国の核兵器にも正当性はなく放棄すべきだとして多くの国が合意したが、その立場から言えば、北朝鮮の核兵器にもアメリカの核兵器にも正当性がなく、ともに放棄すべきだ、ということになるのだが、日本政府は条約に反対してアメリカの核兵器は容認し、その「核の傘」を利用していながら、北朝鮮の核は不当なものとして放棄を迫っているのだが、その言い分は説得力を持ちえず、受けつけられていない。)
 それを、北朝鮮に対してだけ、核・ミサイル開発・保有は不当であり放棄せよと一方的に非難・制裁圧力を加えるようなやり方では、かれらは納得し難いのだ。彼らからしてみれば、もし、そこで、核・ミサイルを放棄してしまったら、通常兵器・核兵器ともに圧倒的な米韓の軍事力の前に、たちまち無力化して、協議・交渉に入るにしてもアメリカ側のペース・思惑どおりに話が進められ、事が運ばれてしまうことになる、それは未だ決着のついていない戦争に降伏したも同然というものだろう、と彼らには思えてしまうのだ。(原爆を喰らって無条件降伏して未だにアメリカ言いなりに軍事的従属に甘んじている日本のような屈辱には到底耐えることはできない、という威信へのこだわりもあるのだろう。制裁圧力に屈して、核・ミサイルを放棄させられ、その上で米韓側の思うがままに話しが進められ、事が運ばれる、そのような対話・交渉では、彼らにとっては、それこそ意味がない。対話・交渉は、あくまで対等な立場で行われなければならないと思っているのである。(だから、国連安保理でどんなに制裁決議を繰り返され強化されても、屈服せず核実験・ミサイル発射実験は続行し開発をやめない。「北朝鮮は雑草を食べてでも、自国の安全が保障されないかぎり、核開発はやめないだろう」とロシアのプーチン大統領が言ってるように。それでその欠乏に国民が耐え切れず、脱北者が激増し、不満を爆発することも考えられるが、その矛先が権力者に向けられる前に、権力者や軍は「死なばもろとも」とばかり、自暴自棄的に対米戦争に走る可能性の方が高いとも考えられるだろう。かつて日中戦争を展開した日本に対してアメリカは石油禁輸、イギリス・オランダ・中国などとともに経済封鎖、窮地に陥った日本軍は「苦し紛れ」というか「一か八かの賭け」に走って真珠湾奇襲攻撃から太平洋戦争に突入した、その前例?もある。その結果、降伏して大日本帝国は崩壊して民主化したが、戦災と犠牲者は悲惨を極めた。北朝鮮に対する制裁圧力は「政策の転換―核・ミサイル開発の放棄―を促すため」と言いながら、それで「ぎゅうぎゅう」追い詰めていけば、戦争なっても北朝鮮国家はもっと簡単に崩壊するのかもしれないが、限定戦争(或いはインターネット・コンピュータ上でのサイバー戦争もあるが)で犠牲者も戦災も軽微なもので済むのかどうか、核戦争となって韓国はもとより日本にまで惨害が及ぶという最悪の結果をも想定しなければならないだろう。
 そのような北朝鮮に対して、あのような(アメリカや日本政府が主張するような、先ず北朝鮮が核・ミサイルを放棄するという前提条件がなければ話し合いには応じない、という)制裁圧力のやり方では、核・ミサイルを放棄させるのはどう考えても難しいし、戦争―朝鮮戦争再開―引き起こす結果を招きかねないという最悪のリスクをも伴うことを考慮に入れなければならず、徹底制裁を強行するならばそのことを覚悟しなければならない。要するに、事はそんな簡単なものではないということだ。

 そのことを考えれば、制裁の繰り返し強化とそれに対する反発・威嚇の応酬、緊張の激化、そのあげくの軍事衝突から戦争に発展する、などということないような方法で(「対話のための対話は意味がない」とか「核・ミサイル開発を放棄しなければ対話には応じない」などと言って「核兵器放棄入口論」にこだわらず)、「前提条件を付けずに、とにかく対話」に入ることだ。「何のための対話か」といえば、先ずは、朝鮮戦争―休戦はしているものの未だ終わってはいない―を終結させること(休戦協定から平和協定へ)。そこで、米韓は北朝鮮国家の存立を保証し、攻撃されない保証を与え、国交正常化そうすれば敵対関係を解消され、北朝鮮は核もミサイルも不要となってそれらは放棄できることになり、朝鮮半島ひいては北東アジアの非核化(そこでは核兵器は使わず持ち込まない非核地帯とすること)も可能となる
 それに、日本も(小泉首相当時の日朝ピョンヤン宣言を再確認して)国交正常化すれば、日朝間に人的交流・往来が広がり、拉致被害者とその家族の相互往来・帰還への道も開かれる。
(*ピョンヤン宣言―日本の植民地支配を謝罪、日朝国交正常化交渉の再開、国交正常化後の経済協力約束、朝鮮半島の核問題解決のための国際的合意の順守、ミサイル発射の凍結など明記、この時の首脳会談でキム・ジョンイルは拉致を認めて謝罪していた。これらは、今は有名無実化しているが、局面が変われば、北朝鮮との交渉で基礎になり得る。)

 何が何でも「さらなる制裁(圧力)か核放棄に応じる(そのための対話)か」と迫るよりも、「とにかく、朝鮮戦争に終止符を打つための平和協定を主要テーマとする話し合い」、この方が先決であり、現実的で、戦争リスクを回避でき、核放棄へ導く早道でもあろう。

 この視点が、安倍政権はもとより各党・マスコミにも、ほとんど見られず、論ずること報じられることといえば専ら「制裁強化」それに対して「さらなる核実験・ミサイル発射」、「(アメリカが軍事行動に踏み切る)レッドラインはどこに」「ミサイル防衛」「Jアラートでミサイル避難訓練」等々、それに自衛隊と日米同盟による安全保障と9条改憲。
 しかし、今われわれ日本国民が叫ばなければならないのは「とにかく戦争するな!朝鮮戦争を再開するな!平和協定を結んで戦争を終結しろ!」ということなのでは。

2017年10月01日

自民党・補完政党VSリベラル野党・市民連合の選挙

 マスコミでは「自公Vs希望」などと対決軸の一方に小池新党「希望の党」を置いている。またしても新党ブーム・二大政党の政権交代幻想、これに惑わされてしまう向きが多いだろう。しかし、この新党とはどのようなものかといえば、過去「二大政党」たるべく「非自民・非共産」の党として日本新党・新進党など次々作られはしたものの、いずれも長続きせずに終わっている。小池氏自身もそれらに所属してきたが、自由党から保守党へと乗り換えて、あげくのはてに自民党に合流してそこに落ち着き、閣僚にまで昇りつめた。それが今度は自民党を出て、自ら新党を結成しその党首となったわけである。「希望の党」と称しているが、野望の党だ。その「希望」なるものは安倍氏の野望とあまり変りはなく、権力への執着、保守タカ派、歴史修正主義、反平和憲法的改憲志向など相通じている。ここに「安倍一強」に対抗すべく登場した小池新党。これまで「二大政党の一翼」と自認し、一時政権交代を実現したものの短命で終わった民進党は今や、無残にもこの「小池一強」にひれ伏し「合流」を決め込んでいる。仮にそれが安倍政権を倒して、小池新党政権に替ったところで、改憲保守タカ派路線は同じ。それを支持してきた支配層にとっては「安倍がだめなら小池でいくまで」のこと、彼らにとってこの政党は自民党の代替もしくは補完政党に過ぎないのだ。
 このような自民党とその代替・補完政党に対してリベラル立憲野党と市民連合が対決する、これこそが今回の選挙の対決軸なのであって、「自公vs希望」なんかではない。
 その争点の核心は、北朝鮮・核兵器禁止条約それに平和憲法に対する対応だろう。安倍自民党・小池新党とも北朝鮮には軍事容認圧力重視、安保法制賛成、核兵器禁止条約には反対、改憲。それに対してリベラル野党・市民連合は北朝鮮には非戦・対話重視、安保法制反対、核兵器禁止条約に積極賛成、改憲反対。これらが対決点だ。
 たとえ政権獲得には至らなくとも、最低限、リベラル護憲派が3分の1以上議席を獲得して改憲発議阻止にはこぎつけ、「二強」(安倍・小池)らの野望をくじかなければなるまい。


2017年10月07日

自民・補完政党vsリベラル野党・市民連合が対決軸

 対決軸は、自民党とその補完政党(公明・希望・維新・こころの党)に対するリベラル立憲野党(共産・立憲民主・社民)と市民連合なのであって、「自公vs希望」なんかではない。
 争点は、①北朝鮮に対して軍事容認(偶発的な軍事衝突或は暴発を招く結果になってもしかたないという)圧力重視か非戦対話重視か、②自衛隊と日米同盟に基づく集団的自衛権行使を容認する安保法制を維持するか撤廃するか、③核兵器禁止条約に賛成か反対か、④9条改憲に賛成か反対か。
 まずは北朝鮮に対して、自公や希望の党は、それを脅威・脅威と言い立て、「やたら(無法・非道)な国」と頭っから決めつけ、敵視し脅威と見なして、軍事的抑止力・対処力を重視―自衛隊と日米同盟・アメリカの「核の傘」に頼るやり方。そのために核兵器禁止条約には反対。9条改憲―自衛隊明記―に賛成
 それに対して、リベラル立憲野党・市民連合の立場は、北朝鮮を頭っから敵視したり脅威と決めつけて思考停止することなく、そもそも「どうしてそうなったのか」まで考えを及ぼし、歴史的経緯から次のように原因を考察。
 朝鮮半島は日本の植民地支配から脱したものの米ソによって分断、南の韓国と北朝鮮が分立、統一を巡って戦争、韓国軍をアメリカが支援、北朝鮮を中国が支援―朝鮮戦争―休戦協定が結ばれはしたものの未だに和平協定は結ばれてはおらず終結していない。この間、日本は韓国とは日韓基本条約で「朝鮮半島唯一の政権」として国交正常化、過去(日本領時代)の清算、経済援助・協力を行うも、北朝鮮に対してはそれらを行わず、拉致問題が引き起こされた。
 北朝鮮から見れば、米韓との戦争は休戦しているも未だ終結しておらず、いつ再開されるかわからず、先の朝鮮戦争の時にそうだったように、在韓米軍基地と在日米軍基地その他から攻め込まれ、空爆に晒されるかもしれず、米韓の圧倒的な通常戦力及び核戦力を前にして戦々恐々として日を送っている状態にあるわけである。北朝鮮が核・ミサイル開発・保有にやっきとなっている原因はそこにある。
 その核・ミサイルを放棄させるには(或は拉致被害者を解放させるにも)、そのような戦争状態を終結させるべく平和協定(北朝鮮国家の存続を保証し、互いに敵対・攻撃せず戦争を再開しないという約束)を締結することが先決なのである。そのための米朝協議或は関係国(6ヵ国)協議・交渉こそが必要不可欠なのであって、それを抜きにして、ただ経済制裁・軍事圧力だけで北朝鮮に対応しても、かえって核・ミサイルにしがみついて離さず暴発を招く恐れが高くなる。だからそうならないように非戦対話重視。
 自衛隊と日米同盟に基づく集団的自衛権行使を容認する安保法制は撤廃。
 北朝鮮その他どの国に対しても敵視・脅威視を控え友好・協力関係を結び、経済・文化交流、それによって(北朝鮮もどの国も敵とせず、アメリカだけでなくどの国も味方にすることによって)安全保障。
 核兵器禁止条約には積極的に賛成。
 非核・非戦平和主義に徹する9条を堅持して改憲に反対。

 政策以外にもう一つ大事なことを挙げるならば、公正と信義の点で信頼性はどうかだ。
 自民・補完政党のほうには国政の私物化、党利党略・個利個略など不公正・不誠実・狡さ・ごまかしが際立つ。それに対してリベラル立憲野党・市民連合には公正・信義の点で信頼性が高く、庶民ファーストに「愚直」にこだわるのはこちらのほう。
 以上のような、今回の選挙戦の主要な争点で論戦に際して展開すべき市民連合の主張はこういったことになるのでは。


2017年10月13日

北朝鮮対応の争点―圧力重視か対話重視か

 安倍首相―北朝鮮に対して何が何でも核・ミサイルを放棄させるという強硬政策。
そのために最大限の圧力をかける圧力一辺倒。対話は、北朝鮮が「政策を換えます」つまり核・ミサイルを放棄しますと言ってきたら応じる、それがないかぎり対話はないと。
 トランプ大統領―北朝鮮に対して「挑発(核実験・ミサイル発射など)を続けているかぎり、今が彼らと交渉する時ではない」、「全ての選択肢がテーブルの上にある(軍事行動も)」、「軍事的解決策の準備は完全に整った。装填完了だ」、「25年間、北朝鮮と対話して、恐喝されてカネを払ってきた」(?)、「交渉は時間の無駄」―安倍首相はトランプ大統領と100%共に有ると(軍事対応も容認)。

 日本のマスメディアは、北朝鮮の核実験・ミサイル発射映像とともに北朝鮮国営放送のアナウンサーによる政府の声明や談話映像を「挑発」行為と解説して報じているが、これを目にする庶民には、北朝鮮は「いったい何を考えているのか」「何をするか分からない怖い国だ」「ならず者国家」「狂人国家」、(トランプ氏のいう)「チビのロケットマン」「あちこちにミサイルを発射する狂った男」といった言葉に「そうだ、そうだ」「こんな国の為政者には『最大限の圧力』でゆくしかない」と頭っから悪者と決めつけて、安倍首相やトランプ大統領に同調する向きが多いだろう。

 それに対して、否!「あくまで対話による平和的解決に知恵を尽くすべきだ」と反論するには、どういう論建て(アプローチ・着眼点)が考えられるか。
 彼の国とその指導者がやっていることには、彼らなりの正当な理由があるはずで、そのあたりに考えを及ぼす必要がある。
  すなわち、そもそも朝鮮半島は日本の植民地支配から脱したものの米ソによって分断、南の韓国と北朝鮮が分立し、統一を巡って戦争、韓国軍をアメリカが支援、北朝鮮を中国が支援―朝鮮戦争、休戦協定が結ばれはしたものの未だに和平協定は結ばれてはおらず終結していない。米韓軍と北朝鮮軍が軍事境界線を挟んで対峙し、米軍は日本に出撃基地を置いている、その状態が未だに続いていて、いつ戦争再開されるか分からないという朝鮮戦争の延長線上にあるのだという根本問題がある。(この間、日本は韓国とは日韓基本条約で「朝鮮半島唯一の政権」として国交正常化、過去―日本領時代―の清算、経済援助・協力を行うも、北朝鮮に対してはそれらを行わず、拉致問題が引き起こされた。)
 米ソ冷戦終結後、1990年代に入って韓国がソ連・中国と国交して、北朝鮮は後ろ盾を失った形となる。その一方、韓国には米軍が基地を構え、米韓合同軍事演習を繰り返し続け、それに対して北朝鮮側は通常兵器では遥かに劣勢なのを核・ミサイルでカバーしようとやっきとなり、その開発・実験を繰り返し、それをやめるにやめられないできている。だとすれば、朝鮮戦争を正式に終結して、以後互いに攻撃をし合わないことを確約する協定(平和協定)を締結することが先決なのではあるまいか。そうすれば核もミサイルも不要になり、朝鮮半島非核化も可能になるはずなのでは。
 和田春樹東大名誉教授は「米朝の対立の根本は、朝鮮戦争の締めくくりが、64年前の休戦協定のままだという点にある。平和条約がなく、米朝の軍事的対峙が続いた。」「戦争が再開されれば、確実に日本は巻き込まれ、ミサイル攻撃が現実のものとなる」と指摘している。
 またカーター元大統領(1994年の第一次核危機の際、民間人として訪朝、金日成絵主席と会談、危機打開に導いた人物)9月12日アトランタで演説して、米国は北朝鮮の指導者と直接話し合い、朝鮮戦争の休戦協定に代わる平和条約を議論するべきだとし、「北朝鮮が望んでいるのは、北朝鮮が米国あるいはその同盟国が攻撃をしない限り、米国は北朝鮮を攻撃しないということを保証する平和条約だが、米国はそれを拒否してきた」と指摘。「米国が北朝鮮に話しかけ、彼らを人間として尊重して扱わない限り、我々はいかなる前進もつくれないだろう」と。カーター氏は10月5日にも、米紙ワシントン・ポストに寄稿して、「北朝鮮と対話すべき時だ」、「和平協議に向けた高いレベルの代表を派遣、或いは南北朝鮮と米国・中国の参加する国際会議を米朝双方が受け入れ可能な場所で開催することを支持するよう提案すべきだ」、「北朝鮮側の要求は恒常的な和平協定に結びつく米国との直接対話であり、最終的には米朝間、国際社会での関係正常化だ」、「米朝両政府がエスカレートする緊張を緩和し、永続的な和平協定で合意する方策を見出すこと急がれる」と指摘している。
 ジャーナリストの平井久志氏は「世界4月号『ドキュメント激動の南北朝鮮』」で次のように指摘している。
 日本は朝鮮戦争の当事者ではないが、02年小泉訪朝の際、北朝鮮首脳と交わした「日朝ピョンヤン宣言」を活用すべきで、拉致問題も話し合うべく日朝二国間協議を開催して然るべきだ。安倍首相は「対話と圧力」といいながら、実際は圧力をかけ続けてきて、うまくいかなかった。「一方的な制裁強化だけでは『挑発と制裁、さらなる挑発と制裁』という悪循環を繰り返し、危険の水準を高めていくだけだ」と。

 北朝鮮は何を考えているか分からない、いったい何を求めてあんなことをやっているんだろう、というのであれば、そのあたりのことをよく考え、議論して然るべきなのでは。すなわち、朝鮮戦争は休戦状態にあるが、未だ終結しておらず、その延長線上にあるのだという厳然たる事実、このような状態にある北朝鮮の彼らにしてみれば、核・ミサイルを放棄することは武装放棄して降伏するようなもので、プライドの高い彼らからみれば、かつて太平洋戦争で無条件降伏して未だに米国に従っている日本と重なって見え、それは耐えがたいことだと思われるのだろう。制裁圧力に屈して核・ミサイルを放棄してからの対話・交渉では、彼らにしてみれば全く不利な結果にしかならず、到底応じられない、あくまで対等な立場で和平協定の交渉に臨みたい、という彼らの思い、それらに対する配慮を抜きにして、一方的に核・ミサイルの放棄を迫る圧力(経済的圧力から軍事的圧力)一辺倒のやり方では、北朝鮮問題はけっして解決しないどころか、あげくのはてには軍事衝突から核戦争へと発展し、再び惨禍を招くことにもなるかもしれない。そのような軍事衝突・朝鮮戦争の再開、(北朝鮮の権力者なら、破れかぶれになって、戦争にそうなったらなったでしかたないと言えるのかもしれないが、日本の我々国民ならば)それだけは何としても回避しなければならないと思うのがあたりまえ。そうならないようにするには、米朝双方とも無条件に(「核・ミサイルを放棄してからでないとダメだ」などと条件を付けずに)朝鮮戦争を終結する和平協定を話し合う対話・交渉に入ること、北朝鮮問題解決はこれ以外にあるまい。これが安倍政権の圧力一辺倒政策に対して「あくまで対話による平和的解決に知恵を尽くすべきだ」という対話重視論のキーポイントだろう。
 さて、この争点、北朝鮮に対して圧力重視か対話重視か、どちらが得策なのかだが、安倍首相の圧力重視は、いわば「兵糧攻め」にして相手が音をあげるのを待つやり方だが、相手はそれで白旗をあげて降伏し、核ミサイルを明け渡し(拉致被害者も解放し)てくれればよいが、そうはせずに、苦し紛れに猛然と撃って出る―つまり核ミサイルを韓国・日本に撃ちまくるという挙に出る、その恐れもあるわけである。
 それに対して立憲野党側の対話重視とは、米朝間で朝鮮戦争終結の和平協定などについて交渉を促し、6ヵ国協議を再開して05年の半島の非核化など共同声明に戻る方向で話し合うとともに日朝間協議でピョンヤン宣言に戻る方向で、拉致被害者の解放など諸懸案を包括的に話し合う、というものだ。
 この二つの対応策のどちらを選ぶのかだ。

2017年10月17日

改憲問題 これこそが最大争点

 安倍首相は北朝鮮の脅威を「国難」として、それへの政府の対応を信任するか否かを問うための選挙だとしてとしているが、実はそのことは(北朝鮮の脅威への対応)はそれを利用して9条改憲を果たすことこそが、安倍首相にとって「本願」であり本来の目的なのであって、北朝鮮の脅威は、それへの絶好のチャンス提供にほかならない。
 安倍首相の提案している9条に1・2項をそのままにして自衛隊について追記するというものだが、その是非を国民に訊いてみるのがこの選挙なのだ。このような9条改憲案についてはこれまでも問題点を指摘してきたが、これらにさらに新たな論法で問題点の指摘が加えられている。
 それは憲法学者の山内敏弘教授(一橋大名誉教授)が提起しているところであるが、「後法は前法を廃する」という法律の一般原則があり、後からつくられた法規範が直近の立法者の意思と見なされ、優先される、だから、たとえ2項「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という条項を残したとしても、後からつくった別の独立した項目で自衛隊を書き込んでしまったら、2項は(それこそが9条の「命」なのに)空文化・死文化してしまうということである。以下、同教授が論じている諸点を紹介したい。
 2項が条文として残れば、法的にそれがまるっきり効力がなくなるわけではないが、2項を解釈する場合にも、追記された3項を優先して2項が再解釈されることになる。それは、自衛隊は、従来の「必要最小限の実力」(自衛力)ではなく、結局、自衛の戦力として認められることになる。3項の自衛隊規定を優先することは、2項の「戦力不保持」の規定の方を限定することになるからである。だから、安保法制(戦争法)の憲法解釈を認知するのはもちろんだが、それにとどまらず、自衛隊を戦力として認知する。具体的には、自衛隊の任務として「自衛権」が書き込まれれば、日本の防衛(個別的自衛権)だけでなく、集団的自衛権を含むものとされる。これは安保法制で認められた「存立危機事態」における限定的集団的自衛権の行使だけでなく、フルスペックの、つまり包括的な集団的自衛権の行使にならざるを得ない。この改憲が実現した時には、専守防衛の枠を踏み越え、それ以上の全面的な集団的自衛権の行使が実現することは間違いない。
 それに、自衛隊が3項に明記されることで、自衛隊の存在が憲法的な公共性を付与されることから波及効果が生じる。これまでは憲法が軍事的価値を全く認めず、そのため、これまで違憲とされたことが(自衛隊が憲法に書き込まれたら、それが)認められるようになり、保有できる戦力の拡大(従来は保有できないとされた他国に脅威を与えるような兵器が長距離戦略爆撃機や空母、核兵器までも保有可能になっていく)や徴兵制の導入(自衛隊のための役務は公共的な役務になり、そのために国民が徴兵あるいは徴用も可能とされるようになる)など、国民生活にも大変な影響が出てくる。さらに軍事的な土地の接収・収容が可能になる。基地の騒音・震動による被害は我慢せよということにもなる。特定秘密保護法など自衛隊に関する軍事機密が合憲化され、南スーダンPKOの日報についても「秘密」にされて出てこないことになる。自衛隊員の敵前逃亡を、死刑などの極刑で処罰する「軍法」導入も。財政面でも軍事費に対する制約は取り払われ、社会保障関連予算を圧迫するようにもなる。これまで学術会議で「軍事研究は控えるべきだ」という決議が危うくなり、軍産学共同が進み、社会全体が軍事化されていくことにもなる。
 自衛隊を憲法に書くことは、単に自衛隊を追認するだけでは済まない、「非軍事による平和」から「軍事による平和」へ、また軍事大国化と社会の軍事化など大変動をもたらすことになる、ということだ。

 又、憲法というものは、いったん変えてしまったら、元へは戻せなくなるという問題もある。憲法に不再戦を誓って戦力の不保持を定めた9条に自衛隊を明記して軍事を容認してしまったら、第3次大戦が起きて再び戦争の惨禍を味わって懲りでもしない限り、元へ戻せなくなる、ということだ。

誠実さ・公正さで選ぶモラル対決選挙(再加筆版)

 「狡猾が愚直でござると唾(つば)飛ばす」(朝日川柳)
 選挙で政党や候補者を選ぶ際に、政策以外にもう一つ大事なことを挙げるならば、公正と信義の点で信頼性はどうかだ。その党や候補者が掲げる政策や公約がいかに良くても、また耳触りの良い話しぶりや見かけ(映像)がどんなに良くても、庶民に対する公正さと信義の点でいい加減で、信頼できない政党・人物ならばダメだ。
 今回の選挙は、首相は衆院解散にあたって少子高齢化と北朝鮮の脅威を国難と称し、それへの対応と消費税増税の使途変更を国民に問うための選挙だとし、マスコミは様々な争点をあげ、世論調査では投票先を選ぶに際して重視する政策課題を経済・財政政策、外交・安全保障、社会保障、憲法改正、原子力政策などを挙げて問うているが、結局最大の争点はこの5年間の安倍政治の是非(安倍政権継続の是非)とされている。そこにはアベノミクスと称する金融・経済政策や外交・安保政策など諸政策に対する評価もあるが、圧倒的な数の力で強引に法案を押し通す政治運営・手法とともに、首相の森友・加計疑惑逃れのための自己都合と野党の体制が整わないうちにと強行に及んだ今回の解散・総選挙自体に見られる党利党略と個利個略に対する審判がある。党利党略・個利個略は首相や政府与党だけでなく、そのご都合主義は小池新党(希望の党)とそれに「合流」した民進党前原派などにも顕著に見られる。これらの政党や政治家・候補者には主義・主張や政策以前に、或はその才知や力量以前に、そもそも国民の代表者として相応しい人格・道徳的信頼性がはたしてどれだけそなわっているのか甚だ疑わしく、不誠実・欺瞞・狡さがかつてなく見て取れる。その点も投票先を選ぶうえでむしろ最重要なキーポイントの一つとして最大限考慮しなければならない判断材料だろう。
 憲法学者(日大大学院)の蟻川恒正教授は今回の解散劇をはじめ共謀罪法案の国会ルール無視の強行採決など安倍政権の際立つ不誠実を指摘して、「目標としての護憲か改憲か以上に、政権を担う者を評価する上で本質的なのは、憲法に対して誠実であるか不誠実であるかの対立軸である」と説いているが、政権党に限らず立憲野党と市民連合の共闘を分断するようにして急に出てきた新党「希望の党」とそれに合流した民進党前原派の節操の無さ・いい加減さ、これら政権党とその補完政党の不誠実・いい加減さに対して誠実・公正を貫き共闘する市民連合と共産党・社民党、そして彼らとの信義を守ろうとして民進党リベラル派が新たに立ち上げた立憲民主党、その立憲野党プラス市民連合の対決、これが今回の選挙の対決軸なのだ、というべきだろう。その争点は国民に対して嘘・ごまかしのない誠実さ、誰にでも平等な公正さ、信義を大切にする道徳的信頼性・ヒューマニズムなど。すなわち政党・政治家としてのモラルのあり方が問われる、それが今回の選挙なのではあるまいか。

 不誠実で傲慢あるいは狡賢い、そのような政党や候補者にはけっして投票しないという潔癖さ・毅然たる態度が有権者にはあって然るべきだ。しかし、「こんなやつらに投票しても意味がない」からといって棄権してしまったら、それこそ意味がない。なぜなら、投票率が低いほど固定票の多い大政党・政権与党が有利で、投票総数の過半数以上かそれを大きく上回ればそれだけ信任されたものと見なされ(棄権は白紙委任されたものと見なされ)、かれらにはかえって有利な結果となってしまうからである。それならば、かれら(有力者層の支持で支えられて権力を握ってきた政権党)の対極にある(歴史的に最も鋭く対決して目の敵にされてきた)誠実で真面目な政党・人物に投票して、それが批判票となれば、意味のある一票―「怒りの一票」ともなる。たとえそれが政権与党の得票には下回っても、多ければ多いほど政権に対してプレッシャーとなり得るわけである。

 今回の選挙は、いわばモラル・ハザード政党Vsモラル政党の対決で、そのどちらを選ぶかの選挙でもあるということだ。
 愚直(バカ正直)な当方としては、その党や候補者は、政策(狡知を弄して庶民に気に入られそうなことを並べ立て、尤もらしくあげつらう)とか力があるとかやり手だとか以前に、そもそも人間的にどうなのか、信頼のおける党なのかどうか、いわば「政策よりも人柄」で選ぶ、ということになろう。
 尤も、「人柄がよさそう」などと表面上の印象の良さだけで判断するのではなく、「世のため人のために」との信念、私利私欲や野心、誠実・公正・信義など、そういう点で実相を見抜くとなると、その党、その人物について、過去に遡って言行や生き様がどうだったかをある程熟知しなければならず、そうなると新聞・テレビやネット情報だけでは、なかなか解りかね、政策や公約などを知るよりもかえって難しいのかもしれない。ところが、今回に限ってみれば、このところの政治動向(国会審議・強行採決・解散劇・希望の党と民進党の合流、そしてこの選挙戦における党首と候補者の弁舌など)からそのあたり(党や政治家の性向・道徳的信頼性)が歴然とし、あからさまなので、かなり分かりやすいのだ。どの党、どの候補者が誠実・公正・信義の点で真ともか、真ともでないのか、というそのことが。

 <再加筆>投票日、朝日朝刊から
 社説「棄権なんてしていられない」に―米国の評論家リップマンの著書から引用して「仕事や家事で忙しいのに、複雑な政治課題への見聞を深め合理的な判断を下すなんて教科書だけの世界だ。有権者にできるのは、政治家が世の中のルールと己の欲望のどちらに従っているかを判断することだ」。
 声欄「後悔しないため一票投じる」に―「今回の衆院選。私は5年間の非民主的な政治手法と憲法への考え方を判断基準に投票します」とあった。

2017年10月24日

選挙結果(再加筆修正版)

 自民党と改憲政党の圧勝で、「自己都合」抜き打ち解散をした安倍首相の思惑通りの結果になった。
 彼らの勝因には、まず国民の間に北朝鮮(核実験とミサイル発射の連発)それに中国(折から中国共産党大会が連日ニュースに)への脅威感がかきたてられていたこと、それがあるだろう。(内閣府の国民生活に関する調査では今の生活に満足しているという人74%で過去最高ということで)生活にさしたる不満のない多くの人々にとって何が不安かといえば、北朝鮮・中国の脅威だと思われ(同調査で、政府が力を入れるべき事柄としたのは「年金・医療など社会保障」が65%、「景気対策」が51%、「高齢社会対策」が51%、それらに次いで多いのが「防衛・安全保障」36%で過去最高)、その脅威にどう対応すべきかを最大争点として掲げ、「安定政権」によって「国難を突破するのだ」とアジる首相の弁舌が功を奏したのだろう(麻生氏いわく「(選挙で大勝したのは)明らかに北朝鮮のおかげ」と)。
 それに折からの株式市場の好調(これまた20年ぶりの高値だとか、バブル期以来の連続上昇とか)がアベノミクス効果としてプラスした。
 そして何よりも、野党の準備体制が整わないうちにと抜き打ち解散・総選挙に打って出たその作戦はものの見事に当たった。つまり小池新党「希望の党」のにわかな結党に前原民進党の「合流」、それに対する枝野派の反発・「立憲民主党」結成、(小池・前原による分断で)市民連合と野党共闘のつまづき、これらが敵失(政権批判票の分散)として自民党を利する「漁夫の利」という結果になったことである。与党の街頭演説は、このように「混迷・体たらくな野党には任せられない」ということと、「北朝鮮の脅威に立ち向かえるのは自公の安定政権しかない」という、この二つのことを言いたてさえすれば、あとのことは(森友・加計問題とか改憲問題とか原発問題など)言わなくても、多くの人は「そうだな、やはり自民党しかないな」とならざるをえないわけか。
 山形2区では、当初は、先の参院選に野党共闘で大勝した時と同様に市民連合と4野党が統一候補で臨むものと思われたが、その民進党前職候補は、共闘合意と矛盾する「希望の党」の方に走ったばかりに共闘体制は崩れ、彼は比例復活さえできずに落選した。
 しかし、沖縄・北海道・新潟など立憲野党の共闘体制を堅持したところは善戦して勝を制したところが多く、立憲民主党と共産・社民3党が統一候補で臨んだところでは公示前38議席だったのが69議席へと躍進した。
 (この間共産党は市民連合と立憲野党の共闘合意を守って、67選挙区で独自候補者を降ろして懸命に信義を貫き、立憲民主党を援護してその大躍進に貢献したものの、自党への比例票が他に流れ、自らの議席数を大きく減らした。愚直とはいえ、とかくこの世は正直者がバカをみる。もう一つ、この党には、そもそも根本理念が「万人の自由・平等」でリベラルのはずなのに、「自由がない」かのように言う俗説による誤解が根強く、それで損している。今後、その誤解を解く努力が同党には必要となろう)
 国民の間では安倍一強政治に対する批判・疑問は少なくなかった(世論調査の内閣支持率は不支持の方が多いくらいで、朝日新聞の投票所出口調査では安倍政権継続を望まない人47%で、望む人46%を上回り、共同通信の出口調査では安倍首相を「信頼していない」51%で、「信頼している」44%を上回っている)のだが、結果的に(自民党は、棄権を含めた全有権者に占める絶対得票率では小選挙区では25%、比例区では17%しかないのに議席は61%も獲得)安倍政権信任・続投を許すという結果になっている。そして、その政権運営、憲法と国会をないがしろにする非立憲的・非民主的な政治手法や政治姿勢、改憲路線も容認された形となっている。ルールやモラルよりも己の欲望・利害で政治家が選ばれる「利益誘導型」傾向が根強いということだ。

 尚、投票率は53.68%で、戦後最低だった前回(3年前は52.66%)に次ぐ低さ。09年、民主党が勝った時は69%だった、それに比べれば、有権者の半分近くが棄権するという盛り上がりのなさ。安倍政権「信任」とはいっても敵失による消極的信任にすぎないということだ。
 それに朝日新聞の事後(23、24日)世論調査では、内閣支持率では「支持」42%で「支持しない」39%だが、
 与党の議席数は、「少なすぎる」3%、「ちょうどよい」32%に対して「多すぎる」51%。
 自民党の大幅議席獲得は「安倍政権の政策が評価されたからか」では、「評価されたから」26%に対して「そうは思わない」65%。
 「安倍氏に今後も首相を続けてほしいか」では「続けて欲しい」37%に対して「そうは思わない」47%。
 安倍首相が進める政策に「期待」29%に対して「不安」54%。
 9条に自衛隊明記する改憲に「賛成」36%に対して「反対」45%。
これらのことから言えることは、自民党と改憲政党の「圧勝」とか、安倍政権は「信任を得た」とは言っても、国民の多くは、その政策・路線を支持・信任しているわけではないということだろう。
 要するに、安倍自民党の大勝の原因は小選挙区制度(小選挙区比例代表並立制だが、全議席の6割は小選挙区から。その各選挙区では一人づつしか当選せず、それ以外の候補者に投票した人の票はすべて切り捨てられ死票となる)と野党分断のおかげであることは確かだ。(もう一つ麻生氏の言う如く「北朝鮮のおかげ」もありか?)

 それでも安倍首相は(記者会見などでは)「力強い支持を国民からいただいた」と言っている。
 このような選挙の結果、今後どうなるか。
安倍政権は継続、その政策・路線・諸懸案・手法とも継続することになる。
  外交・安全保障政策―北朝鮮・中国に力(自衛隊と日米同盟)で対決―
                  誤算・偶発的衝突から戦争に発展しかねない危険をともなう。
  改憲路線―(「スケジュールありきではない」とはいっているが)加速。
   9条に自衛隊、明記へ(但し、改憲勢力は自公に希望・維新合わせ8割議席を占めるとはいっても、9条その他どこを変えるのか、考えはバラバラ)。
  軍事主義・国家主義(統制・動員体制)強まる方向へ。
  アベノミクスは継続―株高・雇用改善の裏で非正規が増え、賃金が増えず、格差が広がっているのに。
  消費税2019年10月から10%に。
  原発は再稼働を強行。
  核兵器禁止条約に背を向け続ける(のだとすれば「あなたはいったいどこの国の総理なのですか」と言われ続けることになる)。
  森友・加計疑惑はうやむやで済まされるか。
 等々、その手法は「真摯に謙虚に丁寧に」などと言いながら、結局は数の力で押し切るやり方(「これからはもっと丁寧嘘をつけ」「謙虚から暴挙へ変わるすぐ変わる」と朝日川柳)。

 これらが継続されることになる。
 我々国民は、これにどう立ち向かうかだ。そして市民連合は立憲野党(立憲民主党・共産・社民・無所属)との共闘を維持・発展させられるか。巨大与党に対抗するには与党の倍以上の努力(市民連合には野党を育て、後押しする努力)がないと勝てないといわれるが。
 尚、リベラル野党共闘・市民連合について確認すれば次のようなことが言えるのでは。
 リベラルとは(定義づけは色々あるが、この場合は(安倍自民党の国権主義・軍事主義・対米追従主義・財界本位主義に対して)自由・人権平等主義・民主主義・立憲主義・平和主義。
 共通スローガン―安保法制の廃止、立憲主義の回復、原発再稼働反対、9条改憲反対。
 リベラル野党(立憲民主党・大塚民進党・共産党・社民党)が自公政権に対決―選挙協力・統一候補擁立(候補者一本化)、国会協力へ。
 希望の党、維新の会(自公政権に対して「是々非々」と称して時と場合によって批判したり、すり寄ったりする補完政党などとは一線画す。
 保守二大政党は不合理―保守票は結局自民党(保守で同じような党だったら確実性のある方)に集中することになるし、(仮にもし「自民党と希望の党」など)改憲推進政党が二大政党になったら、一気に改憲合意して発議されてしまうことになる。
 「市民連合に支えられたリベラル野党」が、政権に対する不満票・与党批判票の受け皿とならなければならないのだ。

 それにつけても、気になるのは若年層。
 投票率は、有権者全体では53.68%なのに対して、18歳50.74%、19歳32.34%とさらに低い(両年代平均41.51%で全体より12.1ポイント低い。昨年の参院選でも46.78%と全体より7.92ポイント低くかった)。それだけ若年層全体として政治に対する関心は低いということだが、少ないながらも投票した人たちに限っていえば、30代以下の若い層は、総じて安倍政権への評価が高い。
 朝日新聞の出口調査では次の通り。
 比例区で自民党に投票した者、10代46%、20代47%、30代39%。
 選挙区で自民党に投票した者、10代52%、20代55%、30代51%。
 「安倍政権が続くのがよい」が、10代58%、20代61%、30代54%。
 「アベノミクスを評価する」が、10代60%、20代62%、30代56%。
 「9条に自衛隊する憲法改正」に賛成が10代52%、20代56%、30代52%で、反対を上回っている。
 どうしてこうなのかだ。おそらくは、次のようなことか?
 若者層―知識・経験が浅い?(「戦争を知らない、朝鮮戦争も知らない」「民主党政権の失敗しか知らず、それに比べれば自民党の方がましだ」「北朝鮮のようなとんでもない国や中国のような傲慢で嫌な国から見ればこの国は真ともであり、ジャイアンのような荒っぽいアメリカの大統領に比べれば、この国の首相は(スネオみたいなものなのに)まだましだ」と)。現状にはそこそこに満足、高望みはしない?視野狭く、目先の利益に留まりがち?(就活最優先、求人倍率好調など)―現実主義
 ニュース情報は専らネットやテレビからで浅薄・表層的?
 少数の「意識高い系」と大多数の無関心系(ノンポリ)
 野党に対して誤解?―行政府をチェックし、矛盾や疑惑を正す政権批判こそが野党の役割りなのに「政権・与党の批判、足引っ張りばかりしてる」「対案がない」、データ情報の多くは政権の独占されていて、政権担当の機会が与えられて来ない野党に実績が乏しいのは当たり前なのに「政権担当能力も実績もない」と。

 これらの問題点もありなのでは。

2017年11月21日

9条の普遍的価値―カントの政治道徳・平和論から

(1)アメリカでは
 ①市民の銃の所持―肯定論―銃で護身・自衛する権利を主張。
 今月テキサスでの乱射事件で26人が教会で犠牲になった時には、「住民が銃で反撃し容疑者を逃走させた」とか、「銃を持った犯罪者に一方的に襲われるのを防ぐには、銃で自衛するしかない」、「銃を撃つ相手に対して、銃なしでいったいどうやって家族を守るのか」、「誰かが銃で応戦した。さもなければ被害はもっと悪化していただろう」と。(包丁を振りまわしたり、自動車を暴走させて、それらが凶器として使われる場合もあるが、銃や兵器は最初から狙撃・殺傷用として作られ売買されるものであり、そんなものが無ければ、10月ラスベガスで死者56人、負傷500人以上もの乱射事件は起こり得なかった。或は1992年の日本人留学生射殺事件の場合、彼はハロウィーン・パーテーの会場と間違えて入ろうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、家人は銃など持っていなければ、まず言葉を交わしたはず、なのにいきなり発砲したのだ。)
 アメリカでは合衆国憲法の修正2条に「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」と(その民兵とは独立戦争で戦った武装市民)―この条文は州兵の活動のために定められたものであって「国民の無制限な武装権を認めたものではない」との学説あるも、2008年連邦高裁はそれを「個人の武装権を認めたもの」と判決。
 アメリカでの銃の普及実態―3億5,700万丁(国民の4割が銃を持つ世帯に住む)―ラスベガスでの乱射事件に使われたのは自動小銃で18万円くらい、テキサスでのそれは半自動小銃で5~6万円,
ピストルやライフルはそれ以下の数万円だとか。
 MRA(全米ライフル協会)―銃愛好家の市民団体―政府や軍と取引の多い銃・武器メーカーが資金団体で政府に献金、銃規制に反対の全米有数のロビー団体(圧力団体)―副会長いわく「銃を持った悪いやつを止めるのは銃を持った良いやつしかいない」と―共和党の保守層に会員多く有力政治家も―トランプ大統領支持
 銃による死者―アメリカでは100人中31.2人(毎日90人、交通事故死並み、日本では0.1人で落雷死並み)・・・・家庭内暴力で子が親を殺害など
 それに対して身元調査など銃規制強化論―民主党が主張、それに対して共和党に反対多い(オバマ大統領の規制案に世論調査では7~8割が賛成も、上院は否決)。

 ②国の戦力・常備軍の保持
国防―軍備必要論―巨大な軍事力―核兵器など大量破壊兵器
                          無人機・AIロボット兵器も
  他国や敵対勢力からの攻撃を抑止・阻止・撃退・制圧―「力(軍事)による平和」
銃・兵器は殺傷用武器―「人を殺傷する道具」

(2)カント(フランス革命後~ナポレオン戦争前、その間のドイツの哲学者)の考え―「人間の本性は邪悪」(利己心―欲が深い))―それでも知性さえ備えていれば法律を作り国家を作ることができる―「自然状態では他者と紛争、衝突して自分の権利や利益が侵害されかねないため、ルールをつくって、それを他者に守らせたいと考える。このとき自分だけはそのルールに縛られたくないと考えるが、最終的には自分の権利や利益が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従うほうが『結果的に自分の利益が最大化する』という結論に至る」(例えば―ケーキの奪い合い―ケーキを切り分けることにし、ナイフで切り分ける者が、最後に残った分を受け取るというふうにすれば、一人の例外も出さずに誰もが均等にありつける―そのようなルールをつくって誰もがそれに従うのである)。
 そういう人間誰しもに義務として課せられる命令(定言的命法)ともいうべき道徳律(それは世界中誰もが無条件に従わなければならない普遍性・公平性をもち、法律はそれをベースとする)では(人は誰しも殺されたくない、故に)「人を殺してはならない」、又(人は誰しも暴力を受けたくない、故に)「人に暴力を振るってはならない」(「何人も何時如何なる場合も」そうでなければならないのは、時と場合によっては守らなくてもよいというのでは人間社会は成立しなくなってしまうからだ)。
 「人を殺してはならない」のであれば「人を殺傷する武器」を手にしてはならない、ということになる。殺人や傷害を防ぐにはその紛争・敵対・衝突の原因あるいはそれを誘発する原因を除去することが求められるが、その武器を手にすること自体が殺人・傷害の誘因(原因)となる。したがって殺人・傷害事件を防止するには銃など武器を禁止すればよい、ということにもなるわけだ。

 カントは「常備軍の廃止」を説いている。いわく「常備軍は時とともに全廃されなければならない。」「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。」「常備軍が刺激となって、互いに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、終には平和の方が短期の戦争よりも一層重荷になり、この重荷を逃れために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」「殺すため、或は殺されたりするために兵隊に雇われることは、人間を単なる機械や道具として他のもの(つまり国家)の手で使用することを含んでいる。どのような人間であれ、我々自身の人格における人間性は目的そのものであって、手段としてのみ使用されてはならない。」「もっとも、国民が自らと祖国を防衛するために外敵からの攻撃に備えて自発的に武器をとって定期的に(一定期間)訓練を行うこと(義勇軍)は常備軍とは全く異なる事柄である」と。
 常備軍はもとより、義勇軍であっても、武器は核兵器など無差別大量殺傷兵器は勿論のこと、その武器・兵器によって無法者や侵略者の手から武器を奪うか撃ち落とすか、攻撃手段を破壊することは許されても、たとえ一人でも殺傷することは極力避けなければならない。「相手を殺さなければ自分が殺されるか家族や罪なき人々を守れない」という場合があるとしても、人の命に軽重・優先順位はなく、自分の命が助かるためには他人の命を犠牲にしてもやむをえないとか、無法者・侵略者だから殺してもかまわないということにはならないわけである。殺すか殺されるか、そのどちらかしかないという、そのような事態に立ち至ることのないようにすることだ。そのためには武器・軍備を構えて睨み合い、威嚇し合ったり、攻撃を仕掛けたりすることのないように、武器・兵器の製造・販売・輸出など禁止すること。相手に対する要求・紛争・対立は非暴力・非戦手段で、即ち対話・外交交渉によって解決するというルールとシステムを徹底すること、それ以外にない。

 人間の本性は邪悪であり、自然状態では民族は互いに隣り合って存在するだけでも、他の民族に害を加え争いがち。それで、どの民族も自らの安全のために、個人が国家において市民的な体制(ルールとシステム)を模索したのと同じような体制を模索。そこで自らの権利が守られるようにすることを他の民族に要求、武力を使わずに法的に解決する仕組みをつくること(社会契約)を目指し、国家同士が(一議席一票といった)平等な立場で「平和連合」を形成―それは、とにかく戦争が起らないようにするのが究極目的で、みんなが折り合えるようなやり方で達成できる目的を定め、そうすることによって戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制する―「永遠平和」のための諸国家の連合を構想→第1次大戦後の「国際連盟」(現在の「国連」の前身)に結実(但し実質的には、「連盟」の方は米ソを除く帝国主義諸国家の連合体にすぎず、現在の「国連」は第2次大戦後の戦勝国である「連合国」が世界の諸国を管理する体制という意味合いが強く、「永遠平和」の体制には程遠い)。
 その「永遠平和」とは単に戦争のない状態ではなく、敵意なく敵対的状態のない状態である(停戦協定は単に敵対的状態の延長にすぎない)と。
 「平和を守るために戦う(殺し合う)」「戦力による平和」は間違い―平和は軍事的手段(武力による威嚇又は武力の行使)によってではなく平和的手段(道徳的に正当な手段)によってこそ実現―戦争・威嚇(脅し)・謀略・暗殺など非道・卑劣な敵対行為は将来の和平に置いて相互の信頼を不可能し、相手国民に遺恨が残り、平和は続かない。懲罰的な戦争は平和をもたらさない。

(3)日本の憲法(前文と9条)―そこにはカントの理念に通じるものがある(草案をつくった当時のGHQのスタッフにはカント以来の理念を念頭に、「自国の憲法にそう書きたかったものを、日本の憲法に書き込んだ」とも考えられる)。
 前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した。」「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」。
 9条「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」は放棄し、「陸海空軍その他の戦力」(常備軍)は保持しない。国の交戦権は認めない(戦争放棄は幣原首相がマッカーサーに提案)。
 自衛権・正当防衛権はあっても、常備軍はもたず、市民の銃など武器の所持は禁止(銃刀法で)。

(4)日米同盟(日米安保条約)の矛盾―日本の9条・平和主義はアメリカの「軍事による平和」主義とは両立しないどころか、日本の平和主義を台無しにする。
 そもそも、アメリカの国柄―独立戦争・開拓時代以来「力による平和」主義・軍事覇権主義。
それに対して日本の国柄―「徳川の平和」(柄谷氏の用語)以来「非戦・平和主義」。この日本がアメリカの「軍事による平和主義」に支えられるなどといった矛盾の上に同盟が成立することなど、虚構(ごまかし)以外にはあり得まい。

<参考>柄谷行人『憲法の無意識』岩波新書

2017年12月02日

エゴな自己満足と真の自己満足(再加筆版)

 「人間誰しも、一生の間、日々行うありとあらゆる行為は(趣味や遊びに限らず、仕事も勉強も)煎じ詰めれば自己満足のため」という人生論は、このブログのどこかに書いてきた。最近再びフランクルの言説に触れて、その考え方(「自己満足」論)を再考し、吟味し直してみた。
 フランクル―かつてナチスの強制収容所生活で極限状態を体験したユダヤ人で精神科医・心理学者(最後まで生き抜き、生還)。いわく「人生から何かあれこれ得られることを期待するのではなく、人生が自分に何をあれこれ期待しているのかを問うべきなのであって、その期待に応えるべく生きなさい」―それは「人生に何か楽しいこと、ハッピーなこと、自分の都合のよい、いいことばかりを期待して生きるのは間違い。自分にとっては、たとえ嫌なこと、辛いこと、耐えがたく惨めなことであっても、人生を精一杯生きるべく命を授けてくれた「いわば神様」から、生きている間、毎日・毎時、その都度その都度、何事かを為すべしと課され期待されている、その期待に応えて生きなさい」ということだろうか。
 フランクルは、このように、これまでの人生の見方をひっくり返したことを「天動説から地動説へ」の転回のごとき「コペルニクス的転回」だと。
「エゴな自分」―地球中心の天動説のような自分中心の考え方―自分の欲求・欲望が先行。
一人合点して、欲求・欲望に従って自分がやりたいからやるし、やりたくなかったらやらない。食べたいから食べ、食べたくなければ食べず、生きたいから生き、生きたくなければ死ねるもの、と勝手に思い込む。
「本来の自分」―太陽中心の地動説のような天(神のような存在)中心の考え方―天意(神様の思し召し)に従って行動し生きている、との考え方。
 ロゴス(宇宙万物を生成・支配する真理・理法で、宗教的には「神」とか「天」などと称される存在)に従って行動し生きている、との考え方。
 神様・天から生命を授かり、「汝かくあるべし」と唯一無二の個性を付与されていて、「あなたにはこう生きて、こうしてほしいものだ」と期待されている。その期待に応えて生き、期待に応えてやるべきことをやる。
 その際、自分が置かれている状況や直面している事態(何がどうなっているのか)、それにどう対応すればよいのか(どんな選択肢があるのか)を認識するのは自分の悟性であり、そこで、どうするか、やるべきことを判断(選択)するのは自分の理性であり、実行に踏み切る決断をするのは自分の意志である(―自律)。エゴな自分の欲望や感情に従うのではなく、また他人(親や目上・上司・権力者など)の判断や意志に従うのでもなく、或は神のお告げとか天の声が聴こえたとかの勝手な思い込み(妄想)や信じ込み(盲信)でもなく、あくまで、自らの科学的な知識の学びや理解に依拠した自分の理性的判断と意志に基づいて行うということだ。

 このように、「自分」というものには、その都度その都度、自分の欲求・欲望・欲動(自己保存欲動など)に動かされる「エゴな自分」と、それに対して、そもそも(造物主―「神様」とか「天」とか―によって)この世に命と生を授かり、「汝かくあるべし」と望まれ、「生きて、やるべきことをやりなさい」と期待されている「本来の自分」とがある。造物主によって生を与えられた存在だが、その自分は他の誰とも異なるオンリーワンであり、その人生はかけがえのない一回限りの人生なのである。
 「エゴな自分」の行為は自我欲求・欲望に発し、その結果満足を求め、その行為は(対人関係における行為を含めて)思い通りの結果(成功・目標達成)にありつけば、満たされた気持ち(自己満足)になるが、思い通りの結果が得られなかったり、うまくいかないと失望・落胆し、空しい気持ちになり、それが対人関係に関わる場合は自分の心が傷つき、或は相手の心を傷つけることになって惨めな思いになり、場合によってはフラストレーション、精神的ストレスが深刻化して「もはや人生から期待すべき何ものも残らない」と絶望―悔恨にさいなまれ自分を責め、自己喪失感から自己否定に陥り、死にたくなったりもする。
 このような「エゴな自分」にとらわれていると、自分の思い通りにならず、自分が望んだ通りの結果にならないと、(欲求・欲望が満たされず)空しく、自分が侵害され、否定されたかのような気持ちにもなり、惨めになり、やること為すことが無意味に思われ、絶望して、生きる意欲を失いがちとなる。
 そのような「エゴな自分」を切り替えて、造物主が「汝かくあるべし」という(ロゴスと一体の)「本来の自分」に立ち返り(自問自答して、「何を為すべきか」「いかに生きるべきか」を「本来の自分」に問う―ということは、その理、その訳をも知る―ことによって)、自分に「そうするがいい」、「そうしてくれるといいのだが」と促している、その期待に応えて、やるべきことをやって生きよということだろう。 つまり、造物主(神様とか天)から命と生を与えられ、その人生のなかで為すべきことを課され、或はやってほしいものだと期待されている、その仕事は「天職」であり、職場・施設・家庭・学校・通勤・通学途上その他生活のあらゆる分野で、やること為すこと全ては尊く意味のある行為なのである。その過程で、失敗・混迷・苦悩・悲惨など過酷な事態があるとしても、それらは全て意味のある試練となり、貴重な体験として後に生かされることになるわけである。
 自我欲求・欲望にとらわれる「エゴな自分」は結果(満足)―利益・利得―にとらわれるが、「本来の自分」は、それ(結果満足)は度外視、ひたすら「やるべきことをやる」だけのことで、為すべきことに没頭(「無心」「無我の境地」)。結果はどうあれ、それだけで満足(為すべきこと、生きること、それ自体に満足)。「エゴな自分」にとっては、その欲求・欲望は満たされることなく終わったとしても、「本来の自分」にとっては、それに取組み、そこで行った行為は全てが神様から自分に課せられ、認められた尊きものであり、「意味のある行為」となるわけである。
 「神様」が「汝かくあるべし」と望み、その期待が込められている「本来の自分」、その「自分にしか与えられていない、かけがえのない一回限りの人生」というその自覚があれば、やること為すこと全ては(「神様」の思し召しに適い、宇宙法則に適った)意味ある行為として満足が得られる(たとえエゴな自分の欲求や欲望は満たされなくとも)「神様」の愛(たとえ誰からも愛されなくても、神様からだけは愛されている、その愛)と期待に応えて、やるべきこと、やれることをやるだけのこと、或はそこに存在し生きているだけでも、それで充分満足が得られ生きがいが得られる。それこそが、単なる自己満足「エゴの自己満足」ではなく「真の自己満足」というべきものだろう。その自覚があれば、最後の一分まで、自分の人生に希望を持ち続け、ほんの一瞬のささいなことにでも感動し生きる喜びにありつくことができる、というものだろう。

 ようし、これからは、これでいこう、といっても、これまでも、エゴで自分の好きなようにやりたいことばかりやってきた、というわけではなく、やりたくなくても、やらなければならないからやってきたことも多々あった。むしろこの方が多いかもしれない。それでも、それを全て「自己満足」の行為としてひっくるめて論じてきた。それを、ここで改めて、その二面性を(「エゴな自分」と「本来の自分」に即して「エゴの自己満足」と「真の自己満足」として)整理、吟味し直して再考してみた次第。
 このブログで政治・時事問題を論評し、新聞に投稿したり、憲法を歌にして朗詠しYouTubeに投稿したり等、これら全ては自己満足にほかならないが、それは(憲法朗詠歌を歌いながらウオーキングする―趣味と健康―などの「エゴな自己満足」ばかりではなく)この私が命を授かり生かされている造物主から私(「本来の自分」)にかけられている期待(憲法を歌にして、人々の感性に訴えるがいいとの期待)に応じる「真の自己満足」(のつもり)というわけだ。

 要するに、自分(「エゴな自分」)のやりたいことばかりでなく、或はやりたいことはやらなくても、或はやりたいことは(「どうせ、そんなこと欲しても望んでも、もうダメ或は所詮無理で、諦めるしかなく」)断念して(我執―我に囚われる執着―を捨て)、自分(「本来の自分」)のやるべきこと(仕事でも勉強でも、親や子のため、世のため、人のために、或は自分の修養、心身の健康維持・回復のために、とか―やらなければならないこと)をやればいいのだ(但し、理に適ったこと、自分に出来そうなことを)、ということ。そうしてやるべきことをやれば満足できる。そのような自己満足。
 すなわち、自分の欲望や感情に従い、やりたいことをやって、思い通りの結果を得て満足するエゴな自己満足ではなく、やるべきこと(やりたくなくても、やらなければならないこと)をやり通したことで得られるのが「真の自己満足」なのだ。


2017年12月21日

リベラルとは

 liberal英単語として直訳すれば「ひとつのことにこだわらずに心の広い」というのが基本的な意味で、「寛大な」「自由な」「自由主義的な」などと意訳されている。そこから、因習・伝統・権威などにとらわれず、偏見のない進歩的な考え方を指すのでは、と思われる。
 「自由」も様々。「勝って気まま」(自由放任)、「・・・からの自由(解放)」、「国家(権力)からの自由」、「・・・への自由(法則に則した自然や社会の統御・支配)」「国家(権力)への参加」(民主主義)など。

 「自由主義」というと、それは「民主主義」とともに近代以降、宗教改革(→信仰の自由)、社会革命など社会の変革に伴って新たな説かれ方をして、時代により、闘う相手によって内容が変化し、一様ではない。
 自由主義は、時代によっては「権力からの自由放任」ということで、社会主義・共産主義とだけでなく、民主主義(人民権力の支配・統制)とも対立する考え方でもあった。
 第一次大戦とロシア革命後にはヨーロッパでは、共産主義に対抗してファシズム(国家主義・全体主義)が台頭し(ドイツでゃヒトラーの率いるナチス党の一党独裁が行われ、それ以外は共産党をはじめ全ての政党も労働組合も禁止された)、それに抗する反ファシズム統一戦線(「人民戦線」)が結成されたり、中国では日本軍の侵略に対して国民党と共産党の間で抗日統一戦線(「国共合作」)が結成され、第2次世界大戦では米英中ソなどが連合国軍を形成して、日独伊のファシズム同盟国軍に対抗した。そこでは、自由主義者はファシズムに反対して、共産主義者とも連携し、共に闘った
 国家主義とは、個人より国家優先、個人を国家に従属させる考え方だが、当時の日本では、それは「超国家主義」と称されるもっと徹底した考え方・やり方で、「滅私奉公」とか「尽忠報国」とかのみならず、「八紘一宇」(「全世界が一つの家」)と称して天皇制国家・大日本帝国がその盟主(アジアでは「大東亜共栄圏」の盟主)という日本ファースト(最優先)の考え方がおこなわれた。そして国内では治安維持法で、共産主義者のみならず、自由主義者まで弾圧・迫害され、政党は解党か禁止され、総理大臣を総裁とする大政翼賛会だけとなり、一国一党制の形で、天皇の権威を嵩に軍部独裁が行われた。
 敗戦によってそれらの体制と国家主義は排除され、リベラルな新憲法が制定され、諸政党が結成され、或は復活した。
 しかし、世界では戦争が終わると米ソが離反し、東西両陣営に分かれ、米国と西欧の西側陣営は、ソ連・東欧・中国などの社会主義陣営に対して「自由主義」陣営と称した日本は米国に従属し、西側陣営に組み込まれた。そして日本では自由党と日本民主党が合併(1955年「保守合同」、岸信介がその立役者)して自民党(英語名はLiberal Democratic Party of Japan)と称し、社会党・共産党などに対して対抗関係をなし、長らく自民党政権が続いた
 この間、安保闘争などで社会党と共産党の間では社共共闘が取り組まれ統一戦線への動きがあったが、1980年社会党・公明党の間で社公合意がおこなわれ、そこから共産党が排除されるようになった。
 そして、その後、非自民・非共産の新党ブームが起こり、その連立政権が短期間(1993~94年)出来たりした。その後、社会党が社民党と改名して自らを「リベラル派」と名乗ったり、「リベラル勢力」の結集、「民主リベラル新党」の結成を目指すとか、その言葉が「はやり」を見せたことがあった。しかし自公政権がずうっと続いて、(2009~12年)民主党政権への交代があったが、間もなく自公政権が復活してこんにちに至っている。この間、民主党にも「リベラル系」議員がおり、自民党にも「ハト派」とか「リベラル派」と称される議員がいたが、自民党は今や「安倍一強」となり「リベラル派はいなくなった」(オール・タカ派になった)といわれる。
 一昨年、安保法の強行採決直後共産党委員長が野党結集・「国民連合政府」実現を呼びかけて以来、「立憲野党」と「市民連合」の共闘が組まれるようになったが、それはリベラル勢力の結集として期待され、昨年の参院選では「野党統一候補」を立てて善戦した。そして来るべき衆院選でも、それで臨むかと思いきや、解散・総選挙が決まるや否や突如として小池新党「希望の党」が出現。それに前原・民進党が合流し、またしても非自民・非共産の野合が行われた。そしてリベラル野党は分断され、自民党の圧勝を許す結果となった。しかし公示日間際、希望の党から排除されそうな民進党の枝野らリベラル派が新党・立憲民主党を結成してリベラル野党共闘の陣営にとどまって善戦し、非自民・非リベラルの「希望の党」を上回った
 ところで、国家主義の右翼団体としては最大の「日本会議」というものがあって「日本会議国会議員懇談会」というものがあるが、その所属議員は自民党に大部分、それに希望の党や維新の会にも所属議員がいるが、最近、設立20周年記念大会が開かれて安倍自民党総裁がメッセージを寄せていた。

 このような安倍自民党には「新国家主義」ともいわれる国家主義的傾向があり、戦前・戦中のような国家主義のように極端ではないにしても、なにかと、個人(一人ひとり)の人権よりも国家・国権を先行させて考えるやり方をする向きがある。それは企業や資産家たちの利益追求の自由と公益・国益との調和の形をとり、「国益イコール私益」で、国家は私企業などの利益・利権を増進すると同時に、国民生活の安全・安心を守ってくれるもの、だから、国民は国家(政府)に「お任せ」して、ひたすらそれに支持・協力を寄せ、国策の線に沿うようにした方が有利で利益になるのだ、という考え方。そこから国民は「強い国家」・「強いリーダー」を求め、首相の内と外における対決姿勢、「毅然として勇ましい言葉」に喝采する。
 しかし、個人の利益追求の自由には競争が伴い、勝ち組・負け組に分かれて格差が生じるそこで利益・財産・地位にありつけるのは、実は強者・勝ち組といった限られた人たち(大企業の株主・経営管理者・会社員・公務員エリートなど)なのだが、弱者・負け組でもピンからキリまで細かく分断され、それぞれの中で立場のより強いものが弱い者に対して優越感(とも違うにしても、「自分は弱者・負け組なんかではない」というプライド)をもち、強者の側に立って、その方に組しがちとなる。
 このような「新国家主義」的傾向を示す安倍政権の政策や政治姿勢は、次のようなものである。
 「強い日本をとり戻す」富国強兵政策。
 現行憲法(自由人権・民主・非戦平和憲法)に反感―改憲政策―国権主義(自民党改憲草案に見られる)、非軍事から軍事による安全保障へ。
 アベノミクス―「世界で一番企業が活躍しやすい国」めざすとして「量的・質的にも2倍の金融緩和」(実体経済には全く効果なく、副作用だけが拡大)。「強い経済」「国力強化」「『成長』の果実で『分配』」(しかし、分配は大企業や富裕層に偏り、弱者を支えて生活を全体の底上げをするよりも、国家を強くすることに主眼)。
 大企業・大資産家・大株主優遇政策―法人税など企業減税の一方消費税など庶民増税―大企業・大資産家の儲けが増えれば、回り回って庶民の雇用・所得・消費も増えるという「トリクルダウン」を狙う(しかし、大企業・大資産家は儲かっても、そのカネは内部留保やため込みに回されて、庶民にはいつまでたっても回ってこないのが実態―労働者の実質賃金は減り、富裕層に富が集中―格差拡大、中間層が細る)。
 防衛(軍事)の重視・優遇―それに引き替え(相対的に)社会保障・教育の冷遇。
 電力会社のための原発維持(再稼働)のエネルギー政策。
 国家機密保護法・戦争法(安保法制)・共謀罪法など強行採決。
 立憲主義(国民の権利・人権を守るための憲法による権力の縛り)をないがしろ。
 森友・加計問題に見られる行政の私物化と忖度行政。
 強権的国会運営。
 「一億総活躍社会」「人づくり革命」「生産性革命」―スローガン政治

 いずれにしても、人権よりも国権、個人の生存権よりも国家の存立を優先、そのやり方は国家が先導するやり方で、それは「国家・国民のため」で、、「国民の安全を守るため」の法案・法制・政策なのであって、「国民は、それに協力し、従うべきなのだ」という言い方をする。しかし、実際は国家(権力)自身を守るためのものであって、個人は国家の管理・操作の対象、場合によっては国家のために犠牲にもなるということだ。

 そのような体制とそれを容認する人たちに対して、個々人の人権とその平等・共生・民権を重んじ、それらを求めてやまない人たちがいるわけである。それがリベラル層であり、国家主義・国権主義に対する市民の自由・民権主義、それこそが昨今の時代情況におけるリベラルなのでは、と考える。
 現下の政治状況では安倍首相に率いられた自民党とそれに同調する(公明・希望・維新などの)補完政党に対するリベラル勢力(立憲民主・共産・社民・自由党など)という対抗関係になるわけである。
 リベラル勢力の共通政策理念は次のようなもの。
  国権よりも民権、国威よりも個々人の人間性の尊厳と人権
  現行憲法(自由人権・民主・平和憲法)の尊重・擁護(護憲)と立憲主義
  非戦・平和主義―非軍事・安全保障―集団的自衛権行使の容認の安保法制に反対、廃止を目指す。
  秘密保護法・共謀罪法などの治安立法の廃止。
  富と所得の再分配政策―不公平税制の改善(大企業・大株主の優遇税制を改め、法人税率を適切に引き上げ、所得税の累進を強化して富裕層に応分の負担を)、社会保障政策の充実、格差・貧困の是正。
  労働法制の改善―被雇用者・就労者本位―長時間労働・「サービス残業」「ブラック企業」の規制、最低賃金のアップ、非正規労働の正規化へ「均等待遇」「同一労働同一賃金」「派遣法」の抜本改正など。
  教育―学費負担の軽減、子育て支援―待機児童の解消」
  脱原発―再生可能エネルギーへの転換を促進
  e t c
 「リベラル」の定義はどうもはっきりしていないようだが、立憲民主・共産・社民・自由・新社会党などリベラル各党の、自民党とその補完政党との違いは、左派政党か右派政党かの違いでもなく、保守政党か革新政党かの違いでもなく(「リベラル右派」とか「リベラル保守」という言い方もあるし、寛容性を持ち味とする保守はリベラルでもある)、要は国家主義・国権主義・権威主義に反対か否(それらの傾向を容認)かの違いであり、その根本的な違いで両者(リベラル政党と自民党などの非リベラル政党)は峻別されるのではないか(と筆者は考える)。その違いに比べれば立憲民主と共産党などリベラル各党間の違いは小異であり、その小異を強調してこだわるのは(自民党とその補完政党に対決するうえで)得策ではあるまい。
 
 尚「国家主義」とは国家を第一義的に考え、それ以外の社会集団や個人よりも優先する傾向。
  「国権主義」とは権力者が権限を振るって上からリードするパターン。
  「民権主義」とは人民が自ら立って下から意見や提案を上げていくボトムアップ。
  「権威主義」とは権威を崇めて、それを利用する傾向。

                                                           以上

2018年01月01日

今年は憲法対決正念場―年頭にあたって

 自民党は今年中かさもなければ来年参院選前までには改憲発議・国民投票にこぎ付けようとしており、それを阻止できるか、改憲問題は正念場を迎える。
 NHK世論調査(12月8~10日)では、改憲に賛成が36%、反対が20%、「どちらとも言えない」が35%。
 共同通信の世論調査(12月2・3日)では、「安倍政権の下での改憲」には賛成が36%、反対が48.6%、「分からない・無回答」が15.4%。
 朝日新聞社と東大研究室の共同調査(衆院選後~12月5日)では「9条に自衛隊明記」に、有権者は賛成が二人に一人(賛成が49%、反対26%、「どちらとも言えない」が34%)で、当選議員は賛成寄りが51%(3分の2弱)、反対が29%。
 改憲発議は阻止は、できないこともないが、容易ではない、ということだろう。
 思うに、今は「保守対革新」ではなく「国家主義対リベラル」であり、アベ自民党その他「日本会議」系の国家主義的勢力(壊憲的改憲派勢力)に対して良識派保守も含めた全てのリベラル勢力(護憲的活憲勢力)が結集して対決し、攻勢的運動を展開しなければならない。
 尚、政党支持率では「一強多弱」状態が常態化して、自民党支持が圧倒的で、中でも若年層で18~20代は二人に一人、30代は42%と、若い年代ほど多い(NHKの衆院選投票所の出口調査)。なぜこうなのだろうか。(先に「選挙結果」を書いた、そこでも触れたが。)
 今は人口の大部分が「戦争を知らない」世代だが、とりわけ若者は社会的な知識も経験も浅く、近年は反知性主義の傾向もあり、冷静な理性よりも熱い感情に駆られて真っ直ぐ突っ走る傾向があり、リベラル(寛容)性にも乏しい。(かつて戦時中の子供の多くは「軍国少年」だったし、若者は進んで徴兵に応じ、戦地に赴いた者が多かった)。若者は好戦的か、厭戦的か、一概に言うことはできまいが、どちらかといえば好戦的なのでは(?)
 そこに長い間政権を担当してその権力下に築き上げてきた自民党にとって自らに有利な学校教育(受験や部活偏重の非政治教育)とメディア(興味本位か或は支配的勢力本位の表層的な情報の垂れ流し)の利用がある。自らを引き立て、政敵を貶める印象操作もある(安倍首相は最近よく自分の方がその被害者であるかのように言い立てるが、それはまったく逆なのであって、野党のなかには戦前の結党以来ずうっと「非国民」などの印象操作をうけてきた党もあるのだ)。それに党独自にネット戦略を駆使した若い人への情報発信も盛んに行っている。さらに、今は一見、景気も就職状況もよくなって一応仕事にもカネにもありつけて、その国力を維持できる強固な安定政権であったほうがよく、一時民主党に政権交代したあの時の二の舞は御免だと言う思い込みがあるのだろう。様々な問題(違憲行為や不公正・疑惑)はあっても「政権担当能力」だけは自民党が他党に比べて圧倒的で、前掲の朝日・東大の共同調査では共産党に投票した人でも52%が自民を挙げている。

 自民党は、学校での主権者教育・政治教育が不徹底なことによって若年層には正しい政治判断や投票行動など当てにしておらず、むしろ長い間の政権党としての強みで、メディアでも現場でも人々の目にとまって「一番頼りになる政党なんだ」というイメージが焼き付き、フィーリング(なんとなく受ける感じ)に訴えて「若年票」を掠め取ることができる。自民党にとっては、若年層に限らず国民には政治に無知・無関心でいてもらった方が都合がいいのだ。しかし、リベラル側は「若年票」を、そんなふうに自民党から掠め取られてしまっていいわけない。それに、若年層は、票田としてだけでなく、政治や社会運動の「戦力」としても、その行動力・発想力・感性それに(大人の狡さに対しての)正直さなど中高年層にはない特性を持ち、運動組織にはそれが必要とされる。リベラル側は彼ら若年層を票田としても運動の「戦力」としても啓発・教化に努め、或は感性に訴えて自民党から我が手に引き寄せなければなるまい。「感性に訴える」といえば、「日本国憲法の朗詠歌」を歌ってYouTubeに載せているが、改憲側は中曽根元首相の「憲法改正の歌」など幾つか載せている。中には、若い人が「戦争を知らないこどもたち」の替え歌で、「憲法改正いますぐしよ~よ、憲法改正いま~すぐ~に」と歌っているのがある。このような憲法の歌の「歌合戦」なんかでも負けてはいられまい。
 
 ところで、今年は明治維新150年ということで、明治を振り返る向きが多くなるが、米沢には宇加地新八という上杉藩士で、戊辰戦争の敗軍に参加して後、慶応義塾に学び、日本最初ともいわれる憲法草案を建白した人物がいるので、そのことには関心があって然るべきだろう。

2018年01月10日

若者論(再加筆版)

(1)「ファシズムが若者を好む」って?―これは浜矩子同志社大教授の指摘(12月16日毎日新聞掲載の同教授のコラム「危機の真相『世論調査にみる世代間分断、ファシズム、若者を好む』」)。教授は2015年10月の朝日新聞の世論調査にあった「一億総活躍社会」という(安倍首相が打ち出した)構想に期待するか否かで、20~29歳層だけが、「期待する」が(51%で)「期待しない」(29%)を上回り、安倍内閣支持も(62%で)際立って高い(他の年齢層はいずれも4割を下回っているのに)という。それを教授は、「一億総活躍」というと、戦争時代を知る世代は「総動員」とか「総員奮励努力せよ」というイメージと重なるが、若い世代はそんなことは頓着せず(警戒感は持たず)に、とにかく仕事や活躍の場にありつければそれにこしたことはないという、むしろ切実な思い(不安)からなのだろう、と指摘している。また17年4月朝日の世論調査の「教育勅語の教材利用を認める閣議決定は妥当か否か」を問う設問では、18~29歳層だけが「妥当」が(44%で)「妥当でない」(26%)を上回っている(他の年齢層はいずれも「妥当でない」が「妥当」を上回っているのに)。
 安倍政権のその政策には、純真な若者の不安につけこみ期待を引き付けるという、若年層のうけを狙った戦略があるのだろうと考えられ、そういったことからこの言葉(「ファシズムが・・・・」)が使われているのだろう。
(2)昔の若者
 幕末・明治維新に活躍して名を成した主要な人物はほとんどが若者
 (明治元年1868年の時点で)西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、福沢諭吉34歳、井上馨34歳、坂本竜馬はその前年31歳で暗殺、榎本武揚33歳、板垣退助32歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、高杉晋作はその前年28歳で病死、伊藤博文28歳、吉田松陰はその9年前29歳で刑死。
 彼らは尊皇攘夷を奉じ、欧米列強に対峙し、「文明開化」による「富国強兵政策を推進したが、そこには「独立自尊」とともにアジア侵略の野望をともなった。吉田松陰は「蝦夷地を開墾し、カムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球を参勤させ、朝鮮に貢納させ、満州の地を割き、台湾・ルソンの諸島を収める」と書き(朝日1月12日の『天声人語』)、「朝鮮民族は・・・・われわれが植民地として、そのあとわれわれの力で、近代化してやらなければならない」と主張していた。勝海舟・西郷隆盛・板垣退助たちも征韓論など同じことを口にしていた(西村京太郎著『十五歳の戦争』集英社新書)。その後。彼らの後継者たちは、その路線を辿りアジア侵略を推進したわけである。
 明治・大正・昭和初期(日清・日露戦争から第1次大戦・日中戦争・太平洋戦争に至るまでの対外戦争時代)には、若者は軍人に憧れ、兵隊に駆り立てられる。
 戦後は労働運動・学生運動→1960年前後安保闘争・ベトナム反戦・反核運動、70年安保闘争をピークに以後退潮―ノンポリ化(政治離れ)
 「戦争を知らない」世代―「平和ボケ」(現実逃避、戦争とか平和とかの問題には無関心)、或は「モラトリアム世代」(精神分析学者・小此木啓吾によれば『モラトリアム人間の時代』)と呼ばれるようなる―高度経済成長時代に育ち、高校進学率が上がり、学歴重視から大学進学率も高まって受験競争が過熱、若者の関心はガリ勉か部活か、バイトして遊ぶ小遣い稼ぎかに向かい、政治や社会に対する関心は薄れ、大人として社会的責任を負うのを回避・「猶予」されたい意識をもつようになる(現在の自分は「仮のもの」で本当の自分―アイデンティティ―は将来に留保、ということにもなる)、或はそれを容認する風潮(にもかかわらず選挙年齢引き下げの矛盾)。
 そうして現在に至っている。
(3)若者の特性
 体力 向上してピークに達し、中高年者の衰えゆく体力と馬力に勝る。
 脳力 総合的な情報処理能力と記憶力では18才がピーク
    但し、名前を記憶する能力は22歳がピーク
       顔認識能力は32歳
       集中力は43歳
       感情(を読み取る)認知能力は48歳
       基本的な計算能力は50歳
       新しい情報を学び理解する能力は50歳前後
       語彙能力(ボキャブラリー豊か)は67歳がピーク
    未成熟(30歳で完成)―判断・衝動・展望的記憶(こうなった場合、どうすればよいのかの判断)を司る前頭葉が未発達、好き嫌いなど情動反応や感情記憶を司る扁桃体が過敏(→感情爆発)
       神経細胞と神経細胞を繋ぐ継ぎ目(シナプス)が最も増え(枝分かれ)情報伝達の回路が増えて脳の働きがよくなる(「頭の回転」「のみこみ」が早く、記憶力が高まる)。10代の脳はシナプスの数が多いので、その反応が活発過ぎて誘惑・衝動・感情爆発・依存(熱中)に陥りやすい。
    但し、脳力は歳をとっても「脳を使い続ければ」機能は維持できる―使わなければ、その部分の神経細胞とシナプスは消えてなくなっていく(忘れ、認知症にも)
  感性―感受性・感情が豊か(多情多感)、熱い情念(悲・喜・愛・憎・欲など)、情熱
   好き嫌い、美醜・正邪・善悪・敵味方などに過敏―非寛容
   大志(理想を求め社会貢献を目指す理想主義)・野心・恐れを知らない冒険心(大胆・むこうみず)、未知への探究心
   ロマン(夢・冒険)への憧れ―ファンタジー(空想)を思い描く
   英雄(アレキサンダー大王・ナポレオン・西郷隆盛など)への憧れ―強いリーダーを求める
   闘いを好む→かつての「軍国少年」         
   失敗を恐れない(許される)行動力→馬鹿げた行動、危険な行動に走りがち
 知性―知識・経験が浅く、テレビ・新聞よりもスマホ・ネットが情報源でフェイク・ニュース(虚偽情報)に引っかかりやすいが、新鮮な発想―創造力が旺盛で、固定観念(左右イデオロギーなど)に囚われない
     近視眼的―視野が狭い―目先の利益(就職など)に囚われる(現実主義)、社会的(背景)想像力に欠ける
     不確かな自分に不安―アイデンティティー(自己同一性・独自性、自分が自分であることの根拠)を民族・国家(ナショナル・アイデンティティー)に求めがち―愛国心(郷土や国を愛するのは当たり前のことと)、首相の靖国参拝も(亡くなった方やご先祖様を拝むのは当たり前のことと単純に考える―歴史的社会的意味を考えずに)―プチ・ナショナリズム(極右思想・国家主義イデオロギーとは無関係にオリンピックやワールドカップなどで「日の丸」を振って「ニッポン、ニッポン」と叫んでフィーバーするか、或は「嫌中」・「嫌朝」・「嫌韓」など唯その国が嫌いなだけの「屈託のない」排外主義・愛国心)。マイルド・ヤンキー(親と一緒にくらし、地元から出たくない若者で、同年代の友人や家族との「絆」・仲間意識を持って祭りともなればフィーバー・ハッスル)
     学校で戦前戦中の日本社会の実相(軍国主義や戦争に異を唱えたり、同調しない者は「非国民」として白眼視され、迫害されたりもした実態)をよく教えられず、その辺りのことを勉強せずに卒業した分には「郷土や国を愛するのは当たり前」という単純な心情から右派(国家主義的)政権支持に傾きがち(右寄り傾向―NHKの衆院選投票所の出口調査では自民党支持が18~20代は二人に一人、30代は42%と、若い年代ほど多い。朝日新聞社の出口調査では「選挙後も安倍政権が続くのがよい」が10代は58%、20代61%、30代54%。自衛隊を明記する憲法9条改正も10代と30代は52%、20代は56%が賛成と答え、反対を上回っている)。しかし、政治的には多くが無関心(投票率は、有権者全体では53.68%なのに対して、18歳・19歳両年代平均41.51%で全体より12.1ポイント低い)。
   反知性主義とは本来は知識・知的才覚・学歴を振りかざして人々の上に立とうとするエリートを批判する立場のことだが、悪い意味では知性を軽視してデータや根拠や論理性を無視して感情や感覚で判断して決めつける傾向のこと。そこには(若者とは限らないが)彼らの無関心・無知を「それでいいんだ」と合理化・擁護して、(「よらしむべし、知らしむべからず」と)そのように仕向ける政治権力者の思惑もある。ポピュリズムも、本来はエリートを大衆と対立する集団として位置づけ、エリート主義に対して大衆の権利・要求を重んじる民主主義の立場なのだが、悪い意味に転化して「大衆迎合主義」(大衆の機嫌取り)とか「大衆扇動」(大衆を煽って敵愾心をかきたてる)政治手法の意味ともなっている。反知性主義もポピュリズムも、いずれも悪い意味で結びついており、そのようなポピュリスト政治家(トランプ大統領・安倍首相らにその傾向が見られる)の手法に若者(とは限らないが)乗ぜられがちであるので、そこは気を付けなければなるまい。

 可能性・柔軟性など豊か―多様な選択肢

(4)このような子供や若者に今必要なのは、どのようなことだろうか。
それは教育だが、国家主義教育(ナショナル・アイデンティティー―日本国への帰属意識―を育てる)や競争選別教育(国家や企業に有用な人材を選別して育てる教育)ではなく、自立的人間教育(リベラルの立場でのアイデンティティー―各人の自分らしさ・個性―を培い、一人ひとり自由で平等な権利を持った人間として育てる教育)だろう。
 注①学校教育とは一人ひとり知性・感性・徳性・体位を養い育て人格の完成をめざして行われるべきものだが、我が国では(中学校や高校などでは)これまで講義形式の詰め込み教育で英数国社理の狭い受験知識に偏重した教育が行われてきている。それに社会科・歴史でも現代史や民主政治の学習(政治教育・主権者教育・憲法学習)が不十分で、選挙権が18才まで引き下げられはしたものの、投票に必要な候補者の人物(信頼性)・政策、各政党の歴史・政策はどのようなものかを知ったうえでどの候補者・政党を選べばよいのかを判断できるだけの知識が不十分なうえ判断材料も不十分で、あたかも「由らしむべし、知らしむべからず」で、投票のやり方だけ教えて投票させているかのよう。
 講義式授業・詰め込み教育・受験教育は、最近ようやく見直され(「教育改革」に踏み切って)2020年からアクティブ・ラーニング(生徒の主体的参加・協力―双方向・対話、深く考えながら課題解決する力を養う方法)が導入されることになっている。大学入試もセンター試験は(2020年1月を最後に廃止して新しい「大学入学共通テスト」(国・数などには記述問題)に切り換えられることになっている。
 注②アイデンティティーをもつということは、要するに「今ここにいる自分が、はたして本当の自分なのか」といえば、「間違いなくそうだ」と自覚でき、そのことを根拠をもって自他に確認できること。それには2点があり、一つは「社会的アイデンティティ」で、集団・組織(国家・地域社会・職場・家族など)に帰属して役割をもつということ、もう一つは「実存的アイデンティティ」で、他と区別され唯一無二ともいうべき独自の個性(自分らしさ)をもつということ。
 当方に関していえば、今は前者(社会的アイデンティティ)の点では、日本国に帰属して国民として納税し、選挙ともなれば投票。時々このブログにささやかな意見を発信したり(人様の目にはほとんど届いていないが)、新聞投稿したり(たまに載ることもあるが)、市民運動に参加したりなど。後者(実存的アイデンティティ)の点では、おそらく世界で誰も歌っていない日本国憲法の朗詠歌(オリジナル)を毎日ウオーキングしながら歌い、YouTubeに投稿もしているといった辺りは、多くの人から見れば「変わり者」としか思われまいが、当方にしてみれば、そこにアイデンティティ(唯一無二の存在)を感じているのかもしれない(自己満足ではあっても、「俺は俺だ」ということだ)。
 このアイデンティティは単に国に帰属して戸籍上名前が記載されているから認識されるだけでなく、世界の最先端をゆく平和人権憲法を持っていて、戦争をしない平和国民だとの自覚があり、海外でも外国人からそのように認められるからこそのもの、つまり日本国憲法とともにあってのアイデンティティなのではないだろうか。
 若者は、この憲法をどれだけ学んで身に付けているか(表面的に頭の中でだけでなく、心―根本精神―まで)、そしてそこにアイデンティティを自覚できるかが問われるのでは、と思うのだが。

(5)ところで、朝日新聞政治部・園田耕司記者によれば、このところ安倍首相の官邸の中枢では、現在の日本人の政治的傾向について「右派3割、中道派5割、左派(リベラル系)2割」と見ている(有権者に対する政治戦略を立てる上での分析)とのこと。そこで右派3割を自らの基礎票とし、(有権者の関心の高い社会保障・経済政策を打ち出して)中道派右寄り層を引き寄せ、過半数を得ることに政治目標を置いているという(17年12月13日付け朝日「記者有論」欄)。そのことから「野党は、自民党を凌駕するような社会保障・経済政策を打ち出し、中道派の関心を引き寄せねばならない。」「野党は『リベラル勢力』を一つに固める必要がある。」「次の国政選挙でも野党間の選挙協力は必須と言える。野党勢力が中道派左寄り層の支持獲得に照準を合わせることで初めて、中道派右寄り層を頼る安倍自民党と過半数を競り合う勝負が見えてくる。」「野党は国会論戦で『一強』に結束して対抗しながら、次の国政選挙に向けて多数派形成のための政治戦略をしたたかに磨いていくべきだろう」と指摘している。
 若者は、このうちの中道派(或は無党派)に位置づけられると思われるが、彼ら若者の多くは安倍自民党に引き寄せられているのだろう。リベラル野党はその若者を、どれだけ引き寄せ返せるか、そこにも勝負がかかっているのでは。
  自民党は、黙っていても(或いは政治や現代史など勉強させなくても、否むしろ勉強してもらわない方が)寄ってくる若者は少なくないが、野党は、ただ黙っていれば若者は寄ってこず、みんな自民党の側に引き寄せられていく。野党は自民党の何倍ものアピールや説明(或は、よく勉強して解ってくれるように働きかけ)が必要とされる、ということだろう。それは容易なことではあるまいが。

2018年02月09日

「それで何人死んだんだ」あのヤジ、民意を言い当てていたか(加筆版)

 名護市長選―基地容認派の新人候補が基地反対派の現職に大差で勝った。
 当方には、両派の対立構図は、「平和的生存権」と「日々の生活・仕事の実利」とでどちらを重視するかで、基地容認派は後者の方を、反対派は前者の方を重視する、その対立と考えられた。候補者は、一方(基地反対派候補)はその「基地反対」を明確に掲げて弁じたが、他方(容認派候補)は、基地は「容認する」とも「しない」とも言わず(「辺野古の『へ』の字も言わない」という徹底した選挙戦術のもとに)、ひたすら「地域経済の振興」と「生活支援」のことだけに絞った主張を掲げて弁じ、有権者・市民の多くは、基地には反対の気持ちの方が強いにもかかわらず、「日々の生活・仕事」重視で、結果的に基地容認派の候補を選んだのだ。
 この選挙結果に、当選した候補は、基地容認が民意かと問われ、「思わない。複雑な民意だ」と答えており、メディア(朝日)は「先の見えない国との対立に疲れた市民の、ごく普通の思いを反映した結果」などと書いている。しかし、いずれにしろ安倍政権にとっては辺野古基地建設を推し進めるうえで、反対派市長を降ろして容認派市長に変えることに成功したことは建設工事(実は未だ1%にも達していないのだが)を加速するうえで極めて有利な結果を得たことは事実だろう。
 新市長は、大差で当選したからといって、市民の根強い基地反対の気持ちを省みずに、日米両政府の言うままに、いちいちその要求に応じるわけにもいかず、躊躇せざるを得ないことにもなろう。
 反対派は現知事と落選した前市長(いわく、「子どもたちの未来を考えても、事故が続く米軍機が飛び交う街にしたくない。新基地を絶対に許さない気持ちは変わらない」)をはじめ「オール沖縄」に結集して、さらなる新基地建設阻止と普天間基地の無条件撤去の運動を展開し、日米両政府の沖縄基地の維持・建設推進政策に抵抗しなければなるまい。平和的生存権(恐怖から免れる権利、現世代のみならず将来世代にわたって人々が恐怖に慄くことなく暮らせる)要求に正当性があるとの確信のもとに、それを貫徹して然るべきだろう。
 尚、政府や自治体(権力)の決定によって行われることに多数民意が容認を決めても、たとえ一人でもそれによる人権侵害に対して容認できないという人がいるかぎり、その人はその人権を主張することができるのである(権力に対して個々人の人権を守ってくれるのが憲法なのだという立憲主義の原則から)。かといって、この場合(市民の反対を押し切って名護市に新基地を建設し、それが完成するまで普天間の基地使用は引き続き認めて、周辺住民を危険にさらし続けることは不当であり、違憲だとして国を訴える)裁判訴訟は可能なのか。つまり平和的生存権に裁判規範性があるのか、ということについてだが、それには否定説もあるが、肯定説もあって、現在のところ、判例上は長沼事件1審判決が裁判規範性を肯定したものの、その後の控訴審では否定されているが、自衛隊のイラク派遣差し止め訴訟で違憲判決を下した名古屋高裁では、次のように明確に肯定している。
 平和的生存権は「現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしに存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあって、その享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。法的規範性を有するというべき憲法前文が「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が、国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに人格権(生命・自由・幸福追求の権利―引用者)を規定する憲法13条をはじめ、憲法3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は憲法上の法的な権利として認められるべきである。」それは「局面に応じて自由権的・社会権的または参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得る」(したがって裁判規範性を有する)と。
 だとすれば、大多数の人が「権力のやることにはどんなに反対したところで止められないのだから、それは(原発でも基地でも)受け入れて、それによってカネや仕事にありつければ良しとするしかない」との思いから権力と実利に屈して国政選挙や地元自治体の選挙で基地や原発の受け入れ容認派が多数を制したとしても、それに対して、たとえ一人になっても反対を貫き、裁判に訴えてでも、最後まで踏ん張り通すとしたら、それは、けっして我儘や意地っ張りではない、正当な権利なのだ、ということだろう。

 そこで問われているのは、基地住民・沖縄県民の意識だろう。
 「基地建設工事は強行され、どんなに反対しても止められない(「もう無理だ」と)。だったら交付金や補償金など、もらうものはもらい、基地経済で活気づいて利益にありついたほうがましだ」などといった(権力に屈する)敗北主義か、諦めずにあくまで踏ん張り通して強権に抗う気概と道徳的正当性に対する信念を持ち続ける精神に徹するか、そのどちらが制するかだろう。
 それにつけても、自公の選挙戦術・政治戦略は巧妙(狡猾)であり、有権者・市民を翻弄し愚弄するものだ(組織ぐるみの投票動員、企業・団体の締め付け、基地問題を避ける争点隠し等)。しかし、このような狡猾・欺瞞な戦略・戦術に乗せられてはなるまい。「『それで何人死んだんだ』そういわれれば、死んではいないな。だったら基地などできても大丈夫。それで仕事とカネにあり付けりゃ、多少の被害は我慢してもいいか」などと。

2018年02月28日

アベ改憲阻止は容易でない

 安倍首相が9条を2項とも維持した自衛隊追記案を持ち出し、石破元自民党幹事長が2項削除案を主張し、朝日新聞は阪田元内閣法制局長官の<2項とも維持したうえで限定的な集団的自衛権行使まで容認した>改正私案を載せたりしている。メディアの世論調査によっては、「9条に自衛隊を盛り込むなら」として「2項を維持して明記」か「2項を削除して明記」か「明記する必要なし」か、と選択肢を示して選ばせたりもしている(回答は「2項維持して明記」が一番多い)。
 <注―毎日新聞1月20・21日調査(9条に自衛隊を盛り込むなら)「1・2項そのままに自衛隊明記」31%、「2項削除」12%、「明記する必要なし」21%
  時事通信2月16日発表「2項そのままに自衛隊明記」35.2%、「2項削除して自衛隊の目的・性格をより明確化」24.6%、「改正必要なし」28%
  日経1月29日発表「9条2項維持して明記」47%、「2項削除して明記」15%、「明記必要なし」24%
  NHK2月13日発表、自衛隊明記に賛成33%、反対20%、どちらともいえない37%>
 しかし、そもそも国民はこんな改憲を今切実に求めているのだろうか。この憲法下で70年もの間、米ソ冷戦、中国の動乱(国共内戦など)、朝鮮戦争等々あり、自衛隊は創設され定着はしても、我が国では国民の間から改憲を求める声が上がることはなかった。このところ中国の脅威、とりわけ北朝鮮の脅威がかつてなく増してはいる。だからといって、自衛隊に存分に戦ってもらえるように改憲がどうしても必要だなんて思っている国民はそんなにいるのだろうか。(かねてより改憲を求めてやまないのは安倍自民党とその支援団体の日本会議なのであって、彼らは「この際」とばかり「国難」に乗じて9条改憲を煽っているのだ。)
 それに、自衛隊が憲法に明記されてしまうとどうなるのか。首相は自衛隊を、これまで憲法学者などの間では違憲だとみなす向きが多かったので、そうした異論や疑念をもたれないように合憲存在として明確化するだけで、自衛隊の現状はこれまでと何ら変わらないと強弁しているが、それはそのような現状追認には留まらなくなる。なぜなら、自衛隊が憲法に明記されることによって憲法のお墨付き(保証)を与えられるだけでなく、憲法で国が自衛隊という実力組織を保持してもよいと認められるだけでなく、これまで控えめだったその軍事運用がむしろ政府に課せられる義務として求められることによって、(2項にいう「戦力」には当たらない自衛のための)「必要最小限の実力」とはいえ、その最大限発揮が求められ、人員・装備・予算など必要最大限確保が容認されるようになる。
 2項は維持しても、その後に追加明記すれば、一般に「後からつくった法律は前の法律に優先する」という原則があり、2項の方は事実上空文化してしまう。その結果、後に追記された自衛隊は2項による縛りから解放され、無制限に海外での武力行使に道が開かれることになる。
 国は今までは自衛隊員に職務として命令できることが限定されて海外での戦闘行為などは禁じられ、隊員は派遣・出動命令を受けても違憲を理由に拒否し、国を相手に訴訟もできたが、それが、憲法が自衛隊の運用を認めた国の命令となれば、拒否も違憲訴訟もできなくなる。そればかりか自衛隊員に対して職務の実施に伴う命令違反など新たな罪が課せられ軍事法廷・軍法会議のようなものが設けられて裁かれるようにもなる。
 つまり自衛隊というもののあり方が大きく変質してしまうことになる。そういったことを意味し、憲法の(非戦非軍事的)平和主義ががらりと(「軍事による平和」へと)後退してしまうことになる。

 とはいっても、そういったことはなかなか解ってはもらえず、一般にはそう難しく考えない向きが多いだろう。多くの人は、まず「自衛隊は災害や隣国の脅威に備えて有った方がよいにきまっているし、それに平和憲法の9条も大事だ」と考え、安倍首相のいうように、その条項を維持しながら、そこに自衛隊の必要性を明記するようにした方がよい(それは欺瞞だというなら、自衛隊を違憲だと言いつつ「在るものは利用する」などと事実上容認している方が欺瞞だ)と考えがちなのでは。
 このように考える人々を、「いや、それは違うよ」と説得するのは容易なことではあるまい。(なにしろ、自民党支持率は最多で、安倍内閣支持率も不支持より多い。ということは、安倍・自民党のいうことは、不信・不安はある程度あっても、「他よりまし」で、反安倍・反自民野党のいうことと比べてどちらに信を置くかといえば、安倍・自民党の方、ということになるだろうから。)

2018年03月14日

戦争はどうして起こるのか―3つのポイント(加筆版)

 そもそも戦争が起きるのには、まずそれを必要とする理由・紛争要因など動機があること、それに、それ(武力攻撃・戦争)をやっても損にならない(費用対効果がある)こと、そしてその意志があって(その気になって)攻撃能力(兵器・兵力など軍備)を持つこと、これら3つの要因がある。その3つともなければ戦争は起きない。
 (1)武力攻撃・戦争の必要性―ある国または国々(或は勢力)に対してどうしても攻撃・戦争を交えずにはおかない然るべき理由があること。
 紛争要因(争いの種)など動機―いくら交渉し、話し合っても埒が明かず、戦争に訴え、力で決着を付ける(相手を屈服させ、要求に応じさせる)しかない、といった動機があること。
 しかし、この点については、現代世界では第一次大戦後、「国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることは違法とされ、国連憲章で、侵略行為に対する自衛と平和破壊行為に対する国連による集団的措置以外には、いかなる理由があろうと武力行使は禁止されている。したがって武力行使に必要な理由といえば、それは「自衛」と国連による集団的制裁措置だけで、それ以外にはどの国も戦争・武力行使する理由をもつ国はないということになる。
 また、その相手に交戦・抗戦する意志がなく、その手段(戦力)も持たないならば、戦争にはならないわけである。(力に訴えず、あくまで対話・交渉でやるしかない、ということになる。国連憲章はそれを義務付けている―「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって・・・・解決しなければならない」とし、その手段として「交渉・審査・仲介・調停・司法的解決」などを挙げている。)
 (2)費用対効果―戦争しても、人的・物的資源の損失(コスト)を上回る利益(メリット)が得られる(勝算がある)こと。
 (3)攻撃能力―兵器・兵力など軍備を保有すること。それを持つのは、その国にとって戦わなければならない(或は戦わなければならなくなるかもしれない)理由(1)のある相手(「敵」)があってのことであり、その相手国(または勢力)に対しては攻撃・戦争をする意志があってのことだろう。
 しかし、(1)で指摘したごとく、現代では正当化される武力行使の理由は「自衛」もしくは国連の集団的制裁措置だけである。(国連の集団的措置といっても、正式の―憲章41条に基づく―国連軍は未だかつて編成されたことはなく、便宜的にPKOの平和維持軍とか有志連合の多国籍軍の形で行われている。)ということは今、軍備(攻撃能力)を持つ国は、基本的には全て「自衛」のためという名目(理由)でそれを保有している、ということになる。日本の自衛隊は勿論のこと、アメリカもロシアも中国そして北朝鮮もである。ということは、どの国の軍備も自衛目的で「抑止力」なのだ、ということになる
 どの国の軍備もそうだとすれば(核・ミサイルなどは脅威といえば脅威かもしれないが、それを保有しているからといって)それだけでは戦争にはならない。つまり、たとえ核・ミサイルなどの攻撃能力を保有する国であっても、それは自衛目的であって攻撃目的・戦争目的ではないというのであれば、こっちは軍備を持たなくても(戦力不保持でも)攻撃され戦争をしかけられる心配はないということでもあるわけか
 日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう(つまり世界中の人々を味方にし敵をつくらない―引用者)と決意して」「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は永久にこれを放棄し」「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」としている。ところが、それにもかかわらず「信頼」出来ない国があるというので、そのような国の不正な侵害に備えて、自衛隊を保持し、「信頼」できる国アメリカと同盟を結んでいる、というわけだ。しかし、国によって敵(信頼できない国)と味方(信頼できる国)を分け、敵性国家に対する「自衛のため」を理由に軍備を持ち合い、核・ミサイルを持ち合って互いに脅威・恐怖を及ぼし合って戦々恐々としていなければならない(日本は北朝鮮の核・ミサイルに脅威をもつが、北朝鮮は米韓軍の圧倒的な戦力と斬首作戦などの作戦計画に脅威・恐怖を感じているのでは)。いつまでも、そのような世界であってよいはずはあるまい。
 日本国憲法は、日本国民が、自国の引き起こした戦争が世界にもたらした未曾有の惨害に対する反省から「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、名誉挽回、「国際社会において名誉ある地位を占め」るべく、「正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」を率先して放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を認めないこととしたはず。それなのに、自衛隊は「必要最小限の実力組織」として憲法で禁ずる「戦力」には当たらないと称しながら、世界の軍事力ランキングでは、今や133ヵ国中7位(出典によっては4位とも)で、米ロ中などには及ばないが韓国(12位)をしのぎ、北朝鮮(23位)を凌駕している。しかも最大の核軍事大国のアメリカと同盟を結んでその基地を置いているのだ。
 兵器・武器には次のような問題もある。その開発・製造・売買によって経済効果が得られるということだ。兵器産業・武器メーカーや商社(「死の商人」)は、それによって金儲けができ、政府の経済政策上もそれによって軍需景気・雇用や税収等の効果をはかろうとする。アメリカでは「軍産複合体」と称され、軍需産業から利益を得る経済構造が形成されている。日本では戦後、武器輸出は禁止されてきたが、安倍政権になって、その「三原則」は撤廃され、「防衛装備移転三原則」のもとに武器輸出推進に切り換えられ、それがアベノミクスの成長戦略の一環にもなっている。兵器や武器は、戦争をしなければならないから必要とされるのではなく、それを名目にして、戦争はしなくても経済目的で開発・製造し、売ったり買ったりしている。しかし、それ(兵器・武器)を保有・装備することによって、戦闘・戦争に走りやすくなり(なければ対話・交渉を尽くそうとするが、武器があると、話すより先に、いきなり発砲・発射してしまいがちになり)、偶発的軍事衝突から戦争が起きやすくなる。そういう問題があるということだ。

 要するに、今日では、戦争する理由は「自衛のため」という以外にはなく、すべての戦争は自衛戦争だということになり、どの国の軍備も自衛(攻撃抑止)のための軍備(抑止力)だということになるわけである。(アメリカのベトナム戦争、アフガニスタン進攻、イラク戦争などすべてその名目で行われている。)そうだとすれば、戦争が起こるのは、自衛目的に軍備(攻撃能力)を持合う者同士が、誤認・誤算(相手の意図や行動を読み間違え、或いは判断ミス)から生じる偶発的軍事衝突から起こるのであって、それだけが戦争原因ということにもなるわけか。

 さて、この日本に対してだが、憲法に戦力不保持、交戦権否認を定めて不戦の意志を世界に示して(明確にして)いる国である限り、領土・領海問題など紛争要因(1)のある国であっても、どの国とも戦争が起こることは本来あり得ないはず。
 北朝鮮はどうか(日本に武力攻撃・戦争をしかけてくるか)(1)では領土問題など紛争要因も、戦争して得られるメリット(2)もないはず(植民地時代に受けた仕打ちに対する怨みや被害・損害に対する補償・賠償要求はあり得るが―2002年小泉首相訪朝の際のピョンヤン宣言で国交正常化交渉の開始と正常化後の補償問題など過去の清算について約束があったが、拉致問題は、そこでその存在が認められはしたものの、その後進展しなくなり、核・ミサイル問題等の安全保障上の問題も、そこで国際的合意の遵守や関係諸国間で対話・問題解決を図ることを約束したものの、その後、核・ミサイルは開発・実験が強行され、それに対して日米側が経済制裁を強化してきたことなどにより、約束は実行されなくなった。これらの経過から見れば、過去の清算が果たされない責任―負い目―は北朝鮮側にあり、それをもって日本に対して武力攻撃を正当化―合理化―することが到底できない―それは彼らにも解っていよう)。
 ただし、日本は世界有数の軍事力(自衛隊)を保持し、北朝鮮にとってアメリカに対しては戦争理由・動機(1)のある(1950年以来の朝鮮戦争は米朝間で休戦中ではあるが、未だ終結しておらず、再開される蓋然性があり、それに備えて核・ミサイルを開発・保有して対抗している)そのアメリカと日本が同盟し、米軍基地を置いている。北朝鮮にとってはそれが、対米戦争に際して日本に対する攻撃の理由となる。ということは日本の方に攻撃を誘う理由がある、ということになるわけである
 北朝鮮は、アメリカに対しては(戦っても勝ち目はなく、何のメリットもないが)戦わなければならない理由(1)があって(3)の点でも核・ミサイルを手にして(それは「抑止力」のためだといいつつ)対抗意志を示し、それに対してアメリカ側は、それを「挑発」「脅威」と非難して、その放棄を迫って制裁圧力(経済制裁及び軍事圧力)を加え、日本政府はアメリカ側に「最大限の圧力を」と促している。理性的判断からすれば勝ち目がないかぎり、自分の方から先に攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、アメリカの方から(「予防的」とか「限定的」とかの名目で)先制攻撃が仕掛けられる可能性もあり、どちらかの誤算・誤認による偶発的軍事衝突から戦争になったり、圧力に耐えかねて破れかぶれになって暴発(核・ミサイル発射)する危険を招くこともあり得る。(だから日本は、それに備えて軍備に万全を期さなければならないというのではなく、そのような事態を招かないようにしなかればならない、ということだろう。)
  尚、防衛省防衛研究所の元戦史部長の林吉永氏は「日本では、まるで北朝鮮が攻めてくるような大騒ぎをしていますが、北朝鮮は攻撃されれば仕返しをする、火の海にするぞと言ってるだけです。北朝鮮の軍事的・政治的意図を見据えれば、いたずらに脅える話ではなく、政治的に解決すべき事案」と述べており(週刊紙AELA3月19日号)。また柳澤協二(元内閣官房副長官補)は次のように指摘している。「日朝間には戦争しなければならないほどの固有の紛争要因があるわけではない。戦争の動機はむしろ米朝間にある。北朝鮮が日本にミサイルを撃つとすれば、それは日本の基地から発信する米軍戦闘機が自分を破壊することを恐れるからだ。それ故、北朝鮮が抱くアメリカへの恐怖を緩和することが、ミサイル攻撃の動機を減らす方法となる」と(「世界」2月号)。

 中国はどうか。(1)の点では日本との間の紛争要因には尖閣問題がある。そこでは領海侵犯などで睨み合いや小競り合いもあるが、費用対効果(2)の点では、小さな無人島とその海域を奪取するために戦争に持ち込むメリットは中国にはないだろう。それ以外には、日本に対して武力攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由・動機は中国にはあるまい。あるのは(3)(軍事力)の増強で、それが海洋進出とともに諸国に脅威を与えてはいるが、それらのことだけでは我が国との間に再び日中戦争が起るかといえば、それはあり得ないだろう

 いずれにしろ、これらの国の「脅威」が増して「安全保障環境が悪化」したからといって、我が国にとってこれらの国との戦争が避けられなくなったというわけではないのであって、これらの国からの武力攻撃と戦争に備えて9条を変えざるを得なくなったかのように論じ、改憲を言い立てるのは見当違いだろう。

2018年03月22日

森友問題とはどんな問題か(再加筆版)

 国有地格安払下げ―官僚による特別扱い―政治家・首相・同夫人の関与の有無を巡る疑惑―発覚後、交渉記録・決済文書など公文書改ざん 
 疑惑―事実の全容解明が必要―証人喚問(決まったのは当時の財務省理財局長佐川氏だけで、それ以外、首相夫人の喚問は決まっていない)、その結果どこまで明らかになるかだが、首相・同夫人の直接関与はたとえなかったとしても、首相に対する忖度(配慮)―間接的関与があったことは明らか。
 それらによる国民への実害の程度は?―そこはどう見る(測る)かだが、
 森友学園への国有地払下げは、値引き額が8億円で、タダ同然だったが、学園側の不正(詐欺容疑)と当局側の法令違反(背任・公文書毀棄容疑)がともに疑われ大阪地検により捜査中(学園理事長夫妻は逮捕・勾留中)で、今のところ不成立(用地の行方はストップ)。
 国会審議、改ざんされた文書をもとに質疑応答に長時間費やし(答弁に納得いかない野党の質問・追求は当然)、一年以上にもわたってなお疑惑のまま。この間、担当職員が一人自殺
 それらに対する最終的責任は誰にあるのか。佐川氏で終わるわけではあるまい。首相も夫人も「関与はしていない」と強弁し、たとえ直接関与は(口利きも指示も)していないし、夫人は「小学校の名誉校長」にかつがれて名前が利用されただけ(したがって違法行為による法的責任は問われない)としても、夫人の森友学園との親密な関係とその「首相夫人」の介在が森友側・当局側双方の異常な行為・結果をもたらしたことは紛れもない事実であり、首相にも間接的関与(忖度)があったことは間違いなく(指示も頼みもしないのに勝手に忖度した方が悪いなどという弁解・弁護は通らないし)結果責任・道義的責任は免れず、国政に対する信頼性を損なったその重大性からみて引責辞任も免れまい。
 麻生財務大臣は、文書改ざんは「理財局の一部がやった」とし、最終責任は当時の理財局長佐川にあり、自身の責任は否定。首相は「行政府の最高責任者として責任を痛感している。国民に深くお詫びする」としながらも、「私も妻も一切関わってはいない」し、決裁文書書き換えなど「指示したことは全くない」と繰り返すばかりで、「なぜこんなことが起ったのか」とまるで他人事、「『痛感』と言って責任またスル―」(朝日川柳)。 
 夫人はフェイスブックに、寄せられた野党批判の投稿に「いいね!」と。「反省」など、どこ吹く風のようだ。 

 モリ・カケ事件として並び称されるもう一つに加計学園問題がある。
 安倍政権が始めた国家戦略特区(地域を限定して大胆な規制緩和や税制面の優遇で民間投資を引き出す方法)に愛媛県今治市を指定して加計学園グループの岡山理科大学獣医学部を建設(本年4月から開校)。この学園理事長は安倍首相と親密なの友人、首相夫人は同グループこども園の名誉園長、特区措定、学部建設・開校認可に際して、内閣府から文科省へ首相の意向が働き「加計学園ありき」で進められたのではないか、との疑惑が国会で問題となる。(内閣府が文科省に早期開学を促したとされる文書―「総理のご意向」とか「官邸の最高レベルが言っている」との記述がある文書が省内に存在したと文科省が再調査結果を公表、前川前文科事務次官が同文書は「本物だ」「公平・公正であるべき行政がゆがめられた」と証言。しかし、内閣府側は否定、ヒアリング調査にも誰も「見たことがない」と。)

 これら森友・加計問題には、幾つかの問題点が考えられる。
 ① 政官の関係のあり方―ゆがみ
   日本の官僚は公務員採用試験で合格した知的レベルの高く見識を備えた人材が任用されており、公務員は戦後憲法上の原則で国民「全体」の奉仕者として公正・中立の立場で(政権・政治家の言いなりにはならずに法令遵守を心がけて)行政事務に当たり、政権が変り大臣が変わっても(法律を作成し予算を編成する等の)実務は滞ることなく継続性をもって行われてきた。
   それに対して総理大臣と各省の大臣は主として選挙で(有権者の好み・判断で)当選した議員から選任される。
   以前は、各省庁の幹部人事は大臣には人事権がなく全て省内の事務方トップ(事務次官)が作成する人事案をそのまま承認するしかなく、各省の大臣よりも事務方の官僚に実権を握られがちで、縦割り行政の弊害もあった。そこで2014年から内閣人事局が設けられ、総理大臣を中心とする内閣(官房長官・副長官ら)によって各省庁の上級幹部(事務次官・局長・部長・審議官など計600人)が一括任命されるようになり、官僚主導から政治主導(官邸主導)へと変わった。その結果官僚たちは任命権者である総理大臣や大臣の意向を汲んで(忖度して)事に当たる傾向が強まった。また官僚に対して官邸や与党政治家の圧力が加えられる(官邸に批判的な前川前事務次官が名古屋市立中学校で行った講演について自民党議員が文科省に問い合わせが行ない、それに応じて文科省官房長が市教委と中学校長に報告を求めた、といったこと等)。
 公僕(国民・全体の奉仕者)たる官僚が大臣や与党政治家の下僕に化するといった、そのような弊害が今回、安倍「一強」政権下で顕著に表れることになったと考えられる。(今、佐川氏に替わって答弁の矢面に立たされている太田理財局長だが、自民党議員からの質問で、彼が旧民主党の野田首相の秘書官だったことから「安倍政権を貶めるために意図的に変な答弁をしてるんじゃないか」と言われて「それはいくらなんでも~私は公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事」と答えたが、それを言うなら「国民全体にお仕えするのが私の仕事」というべきだったろう。)
 「忖度」とは、相手から言葉で求められなくても、その意を慮って(気をきかせて)事を為すことであるが、相手が組織の上司だったり権力者であったりする場合は、言葉で指示・命令されなくても圧力を感じてそうせざるを得なくてやってしまう、ということもあるわけであり、それが不正であれば、不本意ながらもそれをやってしまう。そしてそれに耐えきれずに自殺に追い込まれる、といったことも生じる。今回それで一人犠牲者が出た、というわけである。そのような事態(忖度の弊害)をなくすためには、権力者にはその地位・役職から退いてもらうしかないことになる。
 ところで、自民党が今まとめつつある改憲案のように「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」などと憲法に明記したら、幹部自衛官が首相の意向を忖度して「敵基地攻撃」にはしる、といったことが起きかねず、非常に危険なことになろうというもの。
  
 ② 公文書管理と情報公開―隠ぺい・改ざん
   公文書―国などの活動や歴史的事実の記録。それは「国民(現在~将来の国民)共有の知的資源」であり、国民(主権者として主体的に利用し得る「知る権利」)の請求に応じて開示さるべきもので、民主主義の根幹を支えるもの。
  政権の都合によって(不都合なことが)隠ぺい・廃棄・改ざん(あったことが、なかったことにされる)
  戦時中の公文書・記録が降伏時のどさくさに紛れ多くが焼却廃棄され、戦争犯罪の証拠隠滅、軍部や政府にとって不都合な真実が闇に葬られ、歴史の真相解明を不可能にしたという苦い経験がある。
  その保存管理の重要性。

 そこで求められるのは、これらの点で不合理・不都合・不当性を、森友問題の全容解明とともに明らかにして、事件の再発を防止することだろう。
 首相の職務は「行政各部を指揮監督する」こととされ(憲法72条)、内閣は「行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う」ものとされる(同66条)。
 首相は「行政の長として最終的な監督責任は私にあり」、「なぜこのようなことが起きたのか、徹底的に調査を行い、全容解明に努めてまいりたい。二度とこうしたことが起こらないよう組織を根本から立て直す必要がある」などと述べているが、自身に関わる案件にについて省庁の組織の調査を自らの指揮監督の下に組織内でやらせる、要するに身内の調査に信頼性はなく、それを実行したところで問題の再発防止にはならず、それをもって首相が責任を果たしたことにはなるまい。責任を負うと言うのであれば、自らは辞して替った新首相の指揮の下に調査・立て直しを行うか、或は、調査は検事局などの司法当局による捜査(その場合の刑事訴追は個人に対して行われるが、それ)とは別に(組織を対象とする調査機関として、外部の人も加えた独立した第三者委員会を国会で議決して設けて、それによって行うべきだろう。
 いずれにしろ、この内閣の下では内部調査しても結果はたかが知れており、忖度行政は直らず、首相が責任をとるのであれば内閣総辞職しかないだろう。そして国政の私物化・安倍ファスト政治(「戦後レジームからの脱却」改憲など祖父から受け継いだ個人的な思い・情念・野心に基づく政治)を終わらせることだろう。
 森友・加計問題は単なるスキャンダルとして片付けられるような問題ではなく、安倍内閣の本質に関わり、国会と国民に対する背信、国民にとっては我が国の民主主義のあり方として根幹に関わる問題を内包している、解決すべき(何を差し置いても解決しなければならない)最優先課題なのだ。


 

2018年03月30日

森友問題その2

 森友問題―①国有地のタダ同然の格安払下げ―どうしてそういうことが行われたのか。②交渉記録・決裁文書など公文書(国会から求められて提出した文書)改竄は誰が誰の指示で何故行ったのか。
 憲法62条(国会の国政調査権)「両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。」
 議院証言法―刑事訴追で罪に問われる恐れがある場合は証言を拒否することが認められている。但し、その場合は犯罪の構成要件に関わる事実か、密接に関連する事項に限られる。
 佐川前理財局長の証人喚問―自身の関与は「刑事訴追の恐れがあるから」と証言拒否を連発(乱用)して関与を認めなかった(やましいところがあって「関与していない」とは言い切れないのだ)。
  それにもかかわらず、首相夫妻や官邸からの「指示」「不当な働きかけ」はなかったし、「影響あったとは考えられない」と言い切る(根拠を示さずに)。

 要するに改竄の認識については証言を拒みつつ、官邸からの指示は明確に否定するというダブルスタンダード。(「指示」「不当な働きかけ」「直接関与」はないとしても、それ以外のなんらかの働きかけ、間接的関与はなかったのか?は不明。(政治家からの「問い合わせ」等、必ずしも「不当」とは決めつけられないかもしれないが、なんらかの働きかけはあるはず。「影響あったとは考えられない」といっても、それは佐川氏の主観にすぎない。)
 結局、真相は何一つ分はからず、疑惑は深まるばかり。

 このような佐川氏の証言態度は誠実な態度とは到底言えまい。そこには政権にはひたすら忠義だて(前時代の「忠臣」根性)と、ひたすら自らをかばう「自己保身」根性がみられ、民主主義時代の公僕(国民全体の「奉仕者」)たるべき公務員精神とは程遠いと思わざるを得ない。

 この種の事件の再発防止―どのようなことが必要か。
 それは省庁の幹部と職員に法令順守など自覚を促すとか、公文書管理のあり方(システム)に手直しを加えるとか、その程度にとどまるとすれば、必ずまた起こるだろう。
 必要不可欠なのは「忖度行政」(国民に対しての忖度ならいいが、国民をさしおいてトップや上層部に対して忖度)を廃すべく内閣官房人事局の見直し(或いは廃止)、もう一つは「一強」長期政権となっている現内閣を総辞職させて(自民党の元行革相・村上誠一郎議員いわく「佐川さんが一人で罪をかぶる姿勢は正しいか。最高責任者が責任をとらないのは一番の問題だ」と、それは安倍内閣は退陣すべきだということだろうが)内閣を一新し、新内閣の手で抜本的な再発防止策を講じるようにすること、そして(自民党の総裁だが)総裁任期を短縮する(連続3期9年を2期6年に戻す)こともあって然るべきだろう。
 そうでもしない限り、このような事態はまた起きるだろう。

 この問題を、とかくすると単なるスキャンダル事件に過ぎないかのように考え、「こんなことばかりに、いつまでもこだわり続け、肝心のことを疎かにしている」などと言う向きもあるが、それは間違いだ。この問題は人事権・任命権を握る権力者に対して有利になるように、官僚(或いは司法官)が、その指示・働きかけに応じ、或は意向を忖度して行政処理(或は司法判断)が行われ、公文書の意図的な廃棄・不作成・隠ぺい・改竄が行われる事態にもなっていることがはっきりしているのに、その不公正・不法行為を曖昧にし、そのような事態を招いている官邸・内閣人事局による幹部人事の一元管理など政治権力の一極集中体制をいつまでもそのままにしておいては、行政処理も或は司法判断・国会審議も(正確な公文書・データが改ざんも隠ぺいもなく提示され、それに基づいているのでなければ)まともに行われるはずはなく、国民の公益は損なわれ、民主主義が大きく損なわれてしまうからである(現安倍政権は昨年の総選挙で大勝して成立しているが、その総選挙は安倍政権下での省庁における公文書記録の改ざん・隠ぺい等が行われている事実を国民は何も知らされないまま投票が行われたわけであり、そんな政権にはたして正当性があるのかだ)。

2018年04月09日

森友問題その3(加筆版)

 4月6日付け朝日新聞(佐伯教授の「異論のススメ」)に「重要政策論の不在 残念―森友問題一色の国会」と題した論評があった。それは次のようなものだ。
 森友問題、それは「今日の日本を揺るがすそれほどの問題」ではないということ。この問題で「現時点で確かなことは、ただ財務省内部での改ざんの事実であり、官邸の関与はなかったと佐川氏が発言したことであり、森友問題は現在、検察が捜査中、ということだけである。」「(官邸の関与を示す)証拠がないから、野党は、財務省も官邸も『真相』を隠そうとしている、と主張する。多くのメディアもそれに同調、連日のテレビや新聞報道を通してそれが世論となる。(ひとたび世論となれば、国民は『真相解明』を求めているということになる。)」
 この問題で「野党や多くのメディアもまた多くの『識者』も、官僚行政が政治に歪められたことは民主主義の破壊だ、と言っている。だが、私には、現時点でいえば、この構造そのものが、(その時その時の不安定なイメージや情緒によって政治が右に左に揺れ動く)大衆化した民主政治そのものの姿にみえる。」
 「今日、国会で論じるべき重要テーマは(トランプ氏の保護主義への対応、アベノミクスの成果、朝鮮半島をめぐる問題・・・・TPP等々)いくらでもあるのに、そのことからわれわれの目がそらされてしまう」。「こうした問題について安倍首相は、ひとつの方向を打ち出して」いる。問題は、野党が、まったく対案を打ち出せない点にこそある。だから結果として『安倍一強』になっているのだ。」というわけである。
 はたしてそうか?

 そもそもこの問題は、財務省(理財局と近畿財務局)が森友学園に国有地払下げに際して(不当に―8億円値引きを合理化するために地中ゴミの撤去費用がその分かかったということにして、理財局の職員が学園側に「トラック何千台も使ってゴミを撤去したと言ってほしい」などとウソの説明するよう求める「口裏合わせ」を依頼したことが発覚)破格の安値で売却したこと(背任行為)と、それに関する文書記録を改竄したことで、それを誰が、誰の指示で、なぜ行ったのか、ということだ。
 誰が行なったか、直接実行したのはそれぞれの局内の担当者たちだが、それは誰の指示・関与の下に行われたのかについては、佐川氏は官邸の関与はなかったと証言し(但し根拠は示さず)、自らの関与は証言拒否(したがって現時点では官邸が関与した証拠はない、というわけだ)。ならば、担当した局長以下の職員たちは何故それらの犯罪行為を敢えて(リスクを冒してまで)行ったのか、官邸からの指示・働きかけはないとすれば、忖度(学園への格安払下げについては首相の夫人に関わる私的事情を忖度、文書改竄については政権擁護)か、それとも彼ら局内の局長か部下の職員たち誰かが個人的な利益(リベートなどの報酬ー賄賂)を得るためか、いずれにしても犯行の動機がなければならない。これら3つ(①官邸の指示、②首相らの意向を忖度、③職員の個人的な利益)のうち、どれなのか、検察の捜査結果も待たなければならないが、③の可能性は低いだろう(犯罪行為を冒してまで得られるメリットなどあり得ないから。保身のためならば、公務員ならむしろ公正・法令順守にこだわるはず)。①については証拠がなければ、首相ら官邸に対する法的責任が問われることはないが、②(首相らへの忖度)があれば首相らには道義的責任は問われる(直接かかわったのは部下の職員たちではあっても、その違法行為を犯した動機が「忖度」にあったとすれば、忖度された者<首相や大臣>に責任が及ぶのは当然だろう。「そんなのは、勝手に忖度したやつが悪い」では済まされまい。首相や大臣に対する官僚・職員の忖度は「忠義だて」。職員に自殺者も一人だしている。そこには官邸の指示・関与を示す物的な証拠があろうとなかろうと、状況証拠<忖度や間接的関与>が認められるならば、法的罪には問われなくても道義的責任は免れない。)それに、この間1年以上にもわたって、野党の「執拗」な追及と「重要政策の不在」を招いてきた、その政治的責任もある(追及する野党の方が悪いかのように言うのはおかしいだろう)。いずれにしても内閣退陣は免れまい。なぜなら、彼らが政権の座に就いていなければ、そんなことは起きなかったはずであり、退陣せずにそのままでいられたら、彼らの政権下でまた同様なことが起きてしまうからだ。
 3つのうちいずれかは、現時点では不明だが、うやむやでは済まされない疑惑であり、徹底解明が必要不可欠である。
 ところが、佐伯教授は「今日の日本を揺るがすそれほどの問題」ではないと軽視。
 しかし、国民はそんなふうに大したことはないと思っているいるのだろうか―9億円から8億円を値引きして払下げた程度でたいした損害とは思っておらず、またその程度の公文書改竄など、そんなにたいしたこととは思わない、それより国民の多くは、麻生大臣が言うようにTPPなどの方が気になるとでもいうのだろうか。
 佐伯教授は、野党もメディアも森友問題をことさら大げさに取り上げ、そればかりに囚われて「真相の徹底解明」が必要だなどと言い立て、国会で論ずべきもっと重要なテーマがあるのに、それらをそっちのけにし、目をそらしてしまう、と批判。野党や新聞等の役割は(政権の政策に対して対案を打ち出すことにあるのであって)政権を徹底追及することなんかにはないのだ、と思っているようだが、そういうものだろうか。

 ところで、民主主義の行政は、その事務処理に携わる公務員・官僚は主権者・納税者である国民・市民全体の利益と意向(民意)に対してのみ忠実でなければならず、党派的に中立・公正でなければならない。民意によって選ばれた「代表者」といっても選挙で相対的に最大多数を制した党派を中心に組織された内閣の首相や大臣に対しては、その指示・命令には、少数派も含めた全体の利益や憲法に反したことまで、なんでもかんでも従わなければならないとか、その意向を忖度しなければならないという筋合いのものではあるまい。忖度するなら、それはあくまで国民全体の民意に対してでなければならない。(特定の学校法人への公有地払下げ、校舎建設、開校認可などにしても、首相や夫人と個人的私的に親密な関係にある人物だからといって特別扱いをするようなことは、けっしてあってはならないのだ。)

 政権の政策や法案は省庁から上がった情報・資料・データを基にして立案されるが、それら(情報・資料・データ)は政権(省庁を統括する内閣)によって握られていて、野党はそれらを取り寄せることができても「黒塗り」だったり、なにかと不利であり、対案を打ち出すにも政権与党とはハンデキャップがある。いわんや、取り寄せた文書資料・データが隠ぺい・改竄・捏造されていれば、まともな対案は立案できないし、まともな法案審議・予算審議・政策論議も成り立たず、TPPの交渉記録や外交文書・自衛隊の海外派遣日報が黒塗りだったり隠ぺいされていれば、これらについて審議しても実があがらないことになる。それだけに、このような政権の姿勢・法案・行政事務処理などの「あら探し」をして(というと語弊があるが、問題点を見つけて)その問題点追及に意を注がなかればならないわけである。それはけっして余計なことではなく、必要なことであり、むしろそれ(政権追及)こそが野党の使命・役割であろう。
 その際、提出・開示を求めた公文書が改竄されていたとか、隠ぺいが横行するような状態ではまともな国会審議は成り立たず、国民の知る権利(情報開示請求)も成り立たず、民主主義の前提が成り立たないことになる。佐伯教授は「官僚行政が政治に歪められたことは民主主義の破壊だ」という野党や識者の指摘を「大衆民主政治」の問題にすりかえ、矮小化している。
 森友問題に象徴される公文書の隠ぺい・改竄問題は、国政の私物化(地位利用)の問題とともに、TPPなどの諸々の政策論議以前の、日本の政治のあり方そのものが問われる民主主義の根幹に関わる根本問題として最重要の大問題なのだ、と思うのだが如何なものだろうか。

2018年04月18日

北朝鮮問題

 その核心は朝鮮戦争(未だ休戦中)を終結させる和平協定を結ぶこと(朝鮮戦争の参戦国である中国も参加して)。それが米朝会談の中心テーマ(「入口」)のはずだ。それに合意し協定が締結されれば、北朝鮮側のアメリカに対する脅威・戦争不安は取り除かれ、「核抑止力」(核・ミサイル)にしがみつく必要もなくなり、非核化(「出口」)が可能となる。またスパイも不要となり、彼らを日本人になりすまして韓国に送り込む、その朝鮮人スパイに日本語や日本の習慣を教え込むために利用しようとして拉致してきた日本人(拉致被害者)解放も可能となるわけである。
 そうすれば北朝鮮はアメリカとも日本とも国交正常化できるようになり、韓国とは(二つの主権国家を前提とした連合制国家として)平和共存が可能となる、というものである。
 ところが、安倍政権の考えは、まず非核化(北朝鮮が核・ミサイルを放棄)と拉致被害者の解放が先決(「入口」)で、そのために「一に圧力、二にも圧力」とばかり「最大限圧力」を(アメリカによる軍事的圧力をも含めて)加え続け、相手が(耐え切れずに)音をあげて、核・ミサイルを放棄し拉致被害者も解放する(それは北朝鮮にとっては圧力に屈して白旗をあげるようなものだが)、そのことを前提としないかぎり対話・交渉には応じない、その前提に達するのを待つという考えだ。(そして、そのことをトランプ大統領に言いに、夫人と手を携え、柳瀬元秘書官を伴って訪米。)安倍首相が企図するそのやり方は、はたしてうまくいくのか。
 当方の考えるやり方と安倍流のやり方とで、どちらが現実的(実現可能)なやり方かだ。

2018年04月28日

南北首脳会談をどうみるか

 それは1963年以来休戦中であるも何時再開されるかわからぬ状態であった朝鮮戦争を年内中に終結させることに合意した、というところに意義がある。
 今後、米朝首脳会談でアメリカ大統領とも合意し、中国もそれに合意すれば、朝鮮戦争参戦国がそろって和平協定に調印のはこびとなり、正式に終結することになるわけである。
そうなれば、北朝鮮は核抑止力を必要としなくなり、韓国もアメリカの核抑止力に頼る必要がなくなり、朝鮮半島非核化が可能となる。そして朝鮮戦争以来米軍基地を置いている日本も北朝鮮の脅威にさらされ、核戦争に巻き込まれる心配もなくなるわけである。
 それに、小泉首相時代のピョンヤン宣言で拉致問題も含めた懸案の包括的解決ロードマップが未だ生きており、それに基づいて日朝間でも過去(日本による朝鮮半島植民地支配)の清算問題とともに協議・合意に達すれば拉致被害者の解放が実現し、日朝国交正常化も可能となろう。
 拉致被害者の解放は、タイム・リミットが迫り来て、もはやこれ以上先送りできない。だからといって、軍事も含めた「最大限圧力」による「奪還」などリスクが大きく、無謀なことにならないか、だ。それは非常に難しいとすれば、「対話のための対話は意味がない」などと言ってアメリカ大統領に「圧力」を促すよりも、むしろ最大限「対話」の方にこそ全力を傾注するようにすべきなのではあるまいか。

2018年05月01日

朝鮮戦争終結交渉と北朝鮮の非核化どっちが先決(加筆修正版)

 安倍首相もマスコミも、北朝鮮問題・米朝首脳会談といえば、専ら北朝鮮が完全非核化に応じるか否かということと拉致問題のほうにばかり焦点が当てられて、朝鮮戦争終結の和平協定の問題は度外視か二の次で、国民もそこにはほとんど関心は向けないきらいがある。日本にとっては北朝鮮の非核化と拉致問題が最大の関心事であることは当然のことではある。しかし、全ての問題の根源にある根本問題は、朝鮮戦争すなわち長らく休戦中ではあるも未だ終わっておらず今にも再開されそうな戦争を終わらせ、北朝鮮と米韓それに日本との間の敵対関係を解消することであり、先ずはそこをどうするかに焦点を当てて然るべきなのではないだろうか。
日本人の気持ちとしては、北朝鮮に対しては核・ミサイルの放棄に加えて拉致問題が何よりも気が気でない焦眉の課題であることは当然だが、朝鮮戦争が対岸の火事ではない韓国人にとっては、それが再開されはしないかということのほうが気が気でないし、北朝鮮にとっては朝鮮戦争再開の不安さえ解消されれば、核兵器などに全てを犠牲にしてまで執着する必要はないわけだ。北朝鮮は日本に対しては、その以前植民地支配をうけたことで韓国のほうは既に日韓基本条約でけりがついているが、北朝鮮のほうは未だにけりがついていない上に、日本は朝鮮戦争の最中から現在に至るまで米軍に出撃基地を提供し日米同盟を結んでいてずうっと敵対関係にある、その関係に終止符を打ちたいと望んでやまないところだろう。
 また、朝鮮戦争終結の和平協定(相互不可侵協定)を日米政府やマスコミは、北朝鮮が非核化を実行したならば、それへの「見返り」の一つとして(制裁緩和などとともに)与える「体制保証」という言い方をするが、その言い方もおかしい。和平協定でで相互不可侵を約束したからには、米韓軍が北朝鮮に対して政権打倒や体制転覆の攻撃をかけるということはあり得ないことになる。そうなれば自ずから北朝鮮にとっては核抑止力など不要となり、非核化は当然のこと。それを「体制保証」などという言い方で、アメリカ政府(それに日本政府)が、上から目線で、或いはディール(取引)で、「見返り」として与えるという筋合いのものではあるまい。

 北朝鮮に対して圧力一辺倒(問答無用)か圧力とともに対話か
 アメリカ側(トランプ大統領)は先ず北朝鮮が核放棄(検証可能で不可逆的に完全非核化)する(そのことを単に約束するだけでなく)行動に踏み切ることが先で、それを果たすまで最大限圧力(制裁)をかけ続け、それが達成されれば和平協定を締結(休戦協定を和平協定に切り換えて、北朝鮮の政権と体制を保証)し、制裁解除・国交正常化することとする。それは要するに「先ず武装放棄すれば、政権の命と体制保証の話に応じてやる」というもので、北朝鮮側にとっては戦わずして政権の命の保証を条件に降伏させられるようなもの。それは「リビア方式」というもので、以前カダフィ政権の下で実現したが、同政権はその後崩壊の憂き目にあった。北朝鮮は「カダフィの二の舞は踏んでなるものか」と思っているのではとみられる。
 「最大限圧力」強硬姿勢と言っても、トランプ大統領は前任者オバマの「戦略的忍耐」方針つまり北朝鮮が核放棄の行動(措置)をとらない限り対話には応じないというやり方は間違いだったとしており(実際、その間北朝鮮の核開発はかえって進展する結果になってしまっているとして)、必ずしも「圧力一辺倒」ではなく「対話」には前向き。
 それに対して日本政府(安倍首相)は北朝鮮に対して圧力一辺倒で、核・ミサイル放棄だけでなく拉致問題でも被害者解放の行動をとる(措置を講じる)までは問答無用で対話には(「対話のための対話は時間稼ぎに過ぎず意味がない」として)応じずに最大限圧力をかけ続けるようトランプ大統領に促している。つまり、北朝鮮に対して、日本にとって脅威となっている核・ミサイルを放棄することに加えて拉致被害者を全員解放・帰国させること(それを約束するだけでなく具体的にその行動をとること)、それがないかぎり制裁解除・国交など関係正常化交渉には応じない、というものだ。
 それに対して韓国(ムン大統領)は、自国での冬季五輪開催に際して開会式で北朝鮮選手団と統一旗を掲げて合同行進したりアイスホッケーで統一チームを組むなどの交流が行われたのを契機にして、「対話」に乗り出し、米大統領了解のもとに北朝鮮に特使を派遣(日本政府は「ほほえみ外交」と揶揄)、キム国務委員長の米大統領との対話の意向を(訪朝した特使をワシントンに派遣して)トランプ大統領に伝えたうえで、南北首脳会談にこぎ付け、朝鮮半島の非核化の早期実現を期する事とともに朝鮮戦争終結を年内中にこぎ付けることに合意した(板門店宣言)。それと相まってトランプ大統領も、既にポンペオ氏(当時は中央情報局長官、現在国務長官)を平壌に派遣してキム委員長と極秘会談させ(感触を確かめ)ており近々米朝首脳会談に臨む意向を示している。この米朝首脳会談で南北首脳会談におけるムン大統領とキム委員長が話し合った朝鮮戦争終結の和平協定締結と朝鮮半島の非核化問題のさらに詰めた話を行うものとみられる。
 尚、キム委員長は南北首脳会談に先立って北京を訪れ中朝首脳会談を行っている。
 つまり、韓国・北朝鮮・アメリカ・中国の首脳たちは対話に乗り出し、米朝首脳会談はこれからだが、他はそれぞれに既に会談をもち、一定の合意を達している。最重要なのは米朝首脳会談だが、そこで合意に達すれば完結をみることになるわけである。即ち朝鮮戦争の完全終結と朝鮮半島の非核化が実現するということである。
 問題は日朝間、拉致問題はどうなるかである。今のところ、日本政府の方針は圧力一辺倒で、北朝鮮とは対話の場はなく(「対話のための対話は意味がない」と言って拒否)、専らアメリカ頼み(唯ひたすらトランプ大統領に「是非拉致問題のことも話して下さい」と人頼み)で、主体的、具体的な対応が全くみられない。拉致被害者・家族の方々は居ても立ってもいられまい。それなのに。
 当方が思うに、先ずは朝鮮戦争を終結(休戦協定から和平協定にこぎつけること)―南北首脳会談では北朝鮮は韓国との間で終戦宣言を行っただけだが、正式の和平協定(相互不可侵協定でもある)の締結は、休戦協定の時と同様にアメリカ(国連軍代表)と中国と北朝鮮の3者か、それに韓国を加えた4者が調印して行われなければならない。まずはそれをやり遂げることである。そうすれば、北朝鮮にとってはもはや「核抑止力」は不要となり、完全非核化をはじめ制裁解除・米朝国交正常化まで、あとのすべては実行可能となる。日朝間には既に小泉・キム=ジョンイル両首脳が交わしたピョンヤン宣言に明記された拉致問題も含めた懸案の包括的解決へのロードマップが存在しており、それにしたがって事を運べばよいのである。それらに各国とも全力をあげて取り組むこと、とりわけタイムリミットにある(これ以上待てないという)拉致問題を抱える日本政府は他力本願ではなく北朝鮮との主体的な直接アプローチが急がれよう。

 このところ北朝鮮のキム=ジョンウンがにわかに非核化の意向を示して首脳会談に動き出したのは圧力が効いたお蔭だとトランプ大統領も安倍首相も自らの強硬圧力政策を合理化するが、はたしてキム氏は、その圧力に屈してやむなく核武装放棄に踏み切ったのか、それとも核開発計画が(アメリカ本土まで届く大陸間弾道ミサイルとともに)完了し核抑止力保有を達成した、その自信からか。いずれにしろ、北朝鮮が完全非核化を果たせば、その「見返り」に制裁を緩和・解除して「体制保証」もしてやる、といった考え方には、どうも強者・官軍が弱者・賊軍に、迫るやりかたで、追いつめられて城に立てこもる賊軍を兵糧攻めにし、白旗をあげて降伏すれば、命と身分(体制・政権の延命)だけは保証してやるといった「上から目線」或いは高圧的態度を感じ、違和感どころか反発がつきまとう。
 軍事的オプション(選択肢)も含めた「最大限圧力」を「これでもか、これでもか」とばかりかけ続けるやり方だが、それでうまくいけば、北朝鮮は耐え切れずに、屈服して要求に全て(核放棄も拉致被害者の解放も)応じることも考えられるが、逆に「窮鼠猫をも噛む」「戦わずして屈服するよりも戦って討ち死にする方を選ぶ」となって暴発(戦争)を招いてしまう結果にもなりかねない、といったリスクがそれには付きまとう。そのような「最大限圧力」に物を言わせる高圧的やり方でよいのか、それとも相手の立場をも尊重した対等関係で臨んだ方がよいか、どちらが賢明なのかだろう。
 北朝鮮の立場に限らず、客観的に云っても、歴史的経緯から考えれば、そもそも朝鮮半島は、73年前の日本軍降伏以来、南北分断、朝鮮戦争、休戦協定は結ばれたものの、38度線を挟んで対峙、韓国それに日本にもアメリカ軍が引き続き基地に駐留し、北朝鮮にはソ連と中国が後ろ盾となっていたが、冷戦終結にともない中ソともに韓国と国交、北朝鮮はただ一国で米韓軍に立ち向かわなければならなくなった。通常戦力では圧倒的な米韓軍に対して北朝鮮は核戦力にすがるようになった。そこから考えれば、ただ単に核・ミサイルを放棄せよとばかり言い立て、完全非核化しないかぎり体制保証など「見返り」は一切与えない、というのには、どうも無理があるように思う。先ずやるべきことは、何を置いても朝鮮戦争以来の戦争状態(休戦協定にとどまって対峙している状態)を終わらせる和平交渉、平和協定締結を関係国が互いに対等の立場で行うことが先決なのである。それさえ果たされれば、核もミサイルも無用の長物となり、キム政権にとってそんなものにこれ以上すがりついている必要も、政権が打倒される心配もなくなるわけであり、日本に対しても拉致問題など深い怨みをかっている罪過をこれ以上抱え続ける必要はなく、即刻解放措置を講じて然るべきことになり、経済制裁解除・国交正常化も可能となる。
 とにかく、米朝首脳会談は、先ずは朝鮮戦争終結の話から始めるのが筋なのでは、ということだ。それに会談は対等な立場で対話し、交渉・説得が行われなければなるまい(アメリカ軍の戦力が圧倒的に強いからといって、強圧的に自国側に有利な条件で、在韓米軍・在日米軍とも、それらを全くそのまま維持して、北朝鮮にだけ核・ミサイルともに放棄せよと一方的に押し付けるようなことのないように)。そうして朝鮮戦争終結の和平協定の交渉が先ずは米朝間で対等の立場で話し合われて合意に達し、中国・韓国も調印して協定が結ばれれば、もはや互いの敵対関係は解消される。そうなったかぎり、経済関係正常化や国交正常化など、あとのことは「見返り」という交換条件ではなく、当然のこととして、それぞれの求めに応じて受け入れなければならないことになる。日本政府も北朝鮮との対話・交渉に踏み切れば、そこで直接拉致被害者を全員帰せと要求して当然だし、北朝鮮はそれに応じなければならない。それはそれとして北朝鮮からも日本に対して過去(日本によって行われた植民地支配にともなう被害・損害)の清算など求められれば、(韓国にたいしては既に行っているのと同様に)その求めに応じて清算するのは当然のことだろう。

 論理的には、朝鮮半島に関わる国々の間で全ての関係正常化と懸案解決の前提となる敵対関係の解消・信頼関係の構築が先決で、それさえできればあとのことはすんなりといく。その信頼関係構築のために先ずもって朝鮮戦争終結の和平協定締結が行われなければならないが、それ自体は首脳会談での合意から協定締結に至るまで手順にしたがった作業が必要であり、それには一定の時間(年内とか何か月以内とか)を要する。
 一方、拉致問題も、論理的にはそれも米朝が和平協定を結んで、それに伴って日朝間にも敵対関係が解消され信頼関係が築かれたうえで取り組まれるのが筋だが、この問題に限っては、拉致被害者・家族の生命が懸ったタイムリミットに直面していて一刻の猶予もないので、時間的優先順位としては、真っ先に取り組んで然るべきであり、解放・帰国に向けた措置を急いで講じてもらわなばければならない。したがって朝鮮戦争終結の平和協定は米朝首脳会談で双方とも合意に達してその意志を確認した段階で、協定締結に至るまでの作業は完了しない段階であっても、日本政府は米韓と北朝鮮の和平協定に向けた終戦合意を支持して、日本も北朝鮮に対して敵対関係をとり続けるのをやめて対話に転じ、早急に日朝交渉に着手し、拉致問題に決着をつけなければならない。とにかく、「アメリカ頼み」で、米朝首脳会談を「蚊帳の外」から様子見しているだけではだめで、自ら主体的積極的に動かなければなるまい。
 核・ミサイルの完全放棄(核施設の廃棄、検証など)も、国交正常化も、過去の清算も、それらが実現を見るまでには、いずれも年月・時間がかかるので、まずは包括的に話し合って合意し、それぞれ実行の意志を確認すればよいのである
 そのように事が運べばいいんだがな、いやそうすべきだ、ということ。

 とにかく北朝鮮と米韓との間で未だ終わっていない朝鮮戦争と、日本もアメリカとともに北朝鮮に対して敵対関係にある状態に終止符を打つことが先決だということだ。

2018年05月29日

森友・加計学園問題―安倍内閣はやはり退陣してもらうしか(再加筆版)

安倍首相―加計学園の理事長(加計孝太郎)が友人(「腹心の友」)
昭恵夫人―加計学園が運営する保育施設の名誉園長
      森友学園が新設しようとした小学校の名誉校長に就任
①戦略特区(愛媛県今治市)に加計学園岡山大学の獣医学部開校が認定、その特区指定、開校認可に際して優遇措置(特別扱い)(選定・認可にいたるその間のプロセスが「加計ありき」で進められたと思われている)―それに首相の関与が疑われる。
 文科省―元事務次官(前川)が「総理の意向」などと証言、省内に記録(担当職員が記したメモ)残る。愛媛県庁にも(職員が記した記録・メモに「総理案件」とか、「首相と学園理事長が面談」し、学園の獣医学部新設計画に首相が「いいね」と言っていたなど)。
②森友学園が開校を計画した小学校の用地に国有地を破格の値引きで払下げ、その優遇措置に首相夫人の関与が疑われる。それを管轄する財務省で用地取引に際する交渉記録、決裁文書など大量の公文書改竄・隠ぺい(財務省担当局長が記録・文書は廃棄して「残ってございません」などと答弁したり、首相が「私や妻が関係していたということになれば首相も国会議員も辞める」などと言った答弁に沿うように改竄・隠ぺい・口裏合わせ等)が発覚。
    
 いずれも首相は指示・関与を否定。しかし、それがたとえそうだ(首相は直接には指示・関与しておらず、秘書や官僚が勝手に忖度してやったのであり、首相に法的責任は問えない)としても、首相には道義的・政治的責任はあり、「忖度」せざるを得ない彼の存在がある(彼が首相でいる)限り、その「忖度」(首相をかばい、政権を守るために自発的に口裏合わせ・公文書改竄・隠ぺい)は止むことなく、このような不正・違法の再発をくい止めることはできない(官僚や職員たちの職務心得や公文書管理などをいくら厳しくしても、それだけでは再発防止はできない)。したがって安倍首相から辞任してもらうしかあるまい、ということだ。
 「忖度(相手の意向や意図を推しはかる)」という場合、それには公務員が全体の奉仕者として公正・中立に徹して国民の意向を忖度するというのであれば、国民に対して無私の忠誠心と認められよう(財務省の中にも、そういう良心や正義感をもつ職員が一人いたものの、違法行為を強いられ、それに耐えかねて自殺している)。国会議員とともにその最上級の公務員たる総理大臣こそが公正無私に徹しなければならないはず。なのに、自分の「腹心の友」(加計学園理事長)には特区を指定してそこに学部新設・開校を認可、夫人の知り合い(森友学園理事長)には夫人を名誉校長とする新設小学校の用地に国有地を格安で払下げるなど、友人や夫人の知人に有利なように財務省・文科省等において行政事務の処理が為された。そして、それにともなって数々の公文書改竄・隠ぺい・虚偽説明が行われた。それに対して首相は(「私や妻が関係していれば総理大臣も国会議員も辞める」と言って)自らの関与を否定している。しかし、官僚たちが指示もなく勝手に忖度してやったものだとしても、「忖度されるリーダーは、それだけで辞任に値する」、と豊永郁子・早稲田大学政治学教授は論じている(19日付朝日新聞「政治季評―辞めぬ限り混乱は続く」)。
 豊川教授によれば、リーダーへの忖度は一見「忠誠心による無私の行為」のように見えるが、それには様々な個人的・利己的な思惑や欲望(出世・昇進欲、金銭欲、将来の利得、競争心など動機)が伴っているものだ、という。その「小さな悪」が積み上がって巨大な悪のシステムとなる。「あるリーダーの周辺に忖度が起るとき、彼はもはや国家と社会、個人にとって危険な存在である。・・・・リーダーの意向を忖度する行動が、忖度する個人の小さな、しかも油断のならない悪を国家と社会に蔓延らせる。」「安倍政権の統治下の下では、忖度はやまず、不祥事も続くだろう。安倍氏が辞めない限りは。」とのことである。

 佐川前理財局長ら財務省の担当者らに対する市民の告発に応じて大阪地検特捜部が捜査に乗り出したものの、このほど(5月31日)「嫌疑不十分または嫌疑なし」として全員不起訴とされた。(これも検察上層部の人事権を握る政権への忖度による「初めから不起訴ありき」の決定なのでは、との批判もあり、告発した市民たちによって検察審査会への審査申し立てが行われるも、その結果どうなるかだ。起訴して裁判にかけても「疑わしきは罰せず」で、いくら疑わしくとも「証拠が十分」でなければ有罪にはできない。それが司法判断というもの。今回の不起訴判断をした大阪地検特捜部長は「佐川さんは(嫌疑不十分ではあるが)『嫌疑なし』という証拠はない」とも語っている。)
 このように不起訴となって、刑事事件としては誰も罪には問われず、法的責任が課されることはなくても、この間の経緯と結果はどう見ても異常・不公正であり(森友学園には国有地を8.2億円値引きして1億3,400万円で払下げ、加計学園には京都産業大学などライバル校を排する有利な特区選定をして、その愛媛県今治市に新設する獣医学部の校舎建設用地・評価額36億7,500万円を市が無償譲渡、建設費補助金に県と市が合わせて約96億円もの税金がつぎ込まれる)、誰よりも公正無私が求められる首相の政治的・道義的責任を問わずには済まされまい。それは、単なる些細なスキャンダルとして片付けられるようなものではなく、国民に計り知れない政治不信を招き、社会のモラル(社会全体の規範意識)を掘り崩す結果を招くからである。

 6月4日森友学園問題について財務省が内部(職員の聞き取り)調査結果と関係職員の処分を発表した。但し、そこでは国有地取引きの違法性については問うてはおらず、文書改ざん等のことだけを調査対象にしている。そこでは、財務省理財局長だった佐川氏が文書改竄の事実上の指示を認定(昭恵夫人や政治家の名前が記載されている文書は「このままでは外に出せない」、「最低限の記載とすべきだ」などと指示。それは大臣に一切報告せぬままに、自らの国会答弁とつじつまを合わせ、国会審議で野党などの質問につながり得る材料を極力少なくして紛糾を回避するために行われた、としている。)安倍首相夫妻への忖度の有無、「私や妻が」云々の総理答弁が改竄のきっかけとなったか否かについては、「調べた範囲では、それはない」と事実を否定しているが、実は、そのことは職員に質問してはいないとのことだ。処分は佐川氏(停職3か月)をはじめ省内の職員20人だけ。肝心なのは、その改ざん等は何故、誰のために行われたのか、だが、それは明にされていない(麻生大臣いわく、「それが分かりゃ、苦労せんのですよ、どうしてそうなったのか分かりません」と。それは大臣たる彼に責任能力が欠如しているということであり、他に替ってもらうしかないということだろう。それに「分からん」なら、昭恵夫人と夫人付政府職員や財務省幹部を証人喚問して訊けばいい話だ)。

  安倍首相は「膿を出し切る」というがその膿の源は他ならぬ彼自身にあり、その根を絶たないかぎり、膿を出し切るにも尽きることはあるまい。このような首相の下で、リーダーに信を置く政権党(自民・公明)の議員の多数決で「重要法案」(働き方改革法案・カジノ法案・TPP関連法案など悪法)が強行採決されるのは良心的な国民にとっては到底納得し難いところだろう。

 世論調査では、森友・加計問題について首相の説明には「信用できない」が7割(12・13日共同通信の調査)、安倍政権が疑惑解明に「適切に対応していない」が75%(19・20日の朝日新聞の調査)で、大多数の人々が不信感を持っている。ところが、内閣支持率は朝日調査では36%(前回31%)で下げ止まっている。その支持する理由で一番多いのは「他よりよさそうだから」が51%で、要するにそんな自民党内閣でも野党よりはマシだろうから、ということなのだろう。政党支持率では「支持政党なし」が39%で一番多いが、自民党支持は36%(前回33%)で、立憲民主が9%、公明党・共産党がともに3%、維新が1%、それ以外の野党は0%と「一強多弱」であることには変わりない。

 しかし、「市民と立憲野党の共闘」を頼みとして、諦めずに頑張ってもらうしかあるまい。


2018年06月06日

北朝鮮問題は過去の歴史に向き合って

 首相も外相もマスコミも自国民の偏狭な(歴史的視点を欠いた)思い(国民感情)にとらわれて核・ミサイル問題と拉致問題だけに焦点が当てられ、北朝鮮にそれらを「放棄しろ」、拉致した日本人を「還せ」、さもなければ「最大限圧力」あるのみ、と言い放つだけのような論調が専らで、米朝首脳会談がどうなるかも、その観点からしか論評されない。日本国民にとって非核化と拉致被害者の解放は北朝鮮に対して求めてやまない最重要案件であることは勿論のことだが、それらをただ一方的に迫るだけでは埒があくまい。なぜなら、それらは彼の国が必ずしも傍若無人(道理など意に介さず勝手・気まま)にやってきたわけでもないだろうからである。
 そこには不幸な歴史がある。日本による植民地支配、それが終わったかと思うと、米ソによる分割占領・南北分断・冷戦から朝鮮戦争、休戦協定は結ばれるも戦争終結は未だ成らず、敵対関係は続き、いつ戦争が再開されるか分からない、という状態が続いている。強制連行・慰安婦問題・謀略・テロ・拉致など様々な事件や問題はその中での出来事として考えなければならないだろう。核・ミサイル問題も拉致問題も、その歴史的文脈で(冷戦・戦争・休戦から終結・敵対関係の解消へ)の道理に則して考え、解決策を講じなければなるまい。ただ単に「非核化(核・ミサイルを放棄)せよ」といくら言い立てても、朝鮮戦争が休戦協定にとどまっていて、いつ再開されるかも分からない状態が続いているかぎり、それ(核・放棄)はあり得まい。逆に戦争終結宣言・平和協定締結で敵対関係が解消されれば、武力攻撃に備える抑止力の必要もなくなり、核・ミサイルなど不要となり、非核化される。それが道理というものだろう。
 だから、その道理にたった方法でやるしかあるまい。つまり、完全非核化は米朝それに韓国と中国(朝鮮戦争参加国)も加わって和平協定を締結して朝鮮戦争が完全に終結し、敵対関係を解消されて、はじめてそれは実現可能となる。それに伴って(アメリカとともに)日本も北朝鮮との間に敵対関係が無くなり、日本が過去(植民地支配)の清算に踏み切れば関係は正常化し、拉致問題の解決も進展することになる。
 それが道理なのであって、「かけ引き」とか「取引き(要求に応じれば『見返り』を与える)」などという筋合いのものではないのである。
 北朝鮮問題は、そのような道理と相手に対するレスペクトがないかぎり、自国ファーストで自国民の感情や利害が先行し、相手国民の思いに心を致すことなく、圧力による「ごり押し」や「取引き」「かけ引き」だけではけっしてうまくはいくまい。

 韓国の文大統領は南北首脳会談で(「板門店宣言」に)朝鮮半島の非核化とともに休戦状態にある朝鮮戦争を年内中に終戦宣言を行うとし、停戦協定を平和協定に切り換えることにも言及している。

 日本のマスコミでも珍しく、今日6月6日朝日新聞が(オピニオン欄・「耕論」に「世界史の中の朝鮮戦争」と題して)朝鮮戦争のことを取り上げ、米朝首脳会談で朝鮮戦争「終結」の可能性があるとして3人の専門家・教授のインタビュー記事を掲載している。その中で菅英輝・九州大学名誉教授が「朝鮮戦争は・・・・その戦争が終わるかもしれないいま、大きな歴史的文脈で米国の論理をとらえ、日本が取るべき道を考える必要がある」と語っている。又、山本昭宏・神戸市外国語大学准教授は「冷戦後も朝鮮半島の分断が続いたことを、日本の政権は利用してきた。事あるごとに、北朝鮮という格好の「敵」に言及し、ナショナリズムを喚起して、国民の支持を『調達』してきた」、「米朝首脳会談で、朝鮮戦争が「終戦」したら、一番困るのは日本かもしれない。自民党政権は、会談後も北朝鮮の脅威を強調し続けるのでは」と。 
 そうか、だから日本政府は朝鮮戦争の終結に歓迎を示さないのか。そして、「そんなことよりも、とにかく、拉致した日本人を還せ、核・ミサイルを放棄せよ、それに応じない限り『最大限の圧力』をかけ続けるまでだ」ということなのだろうか。それで拉致被害者は還ってくる、核・ミサイルも放棄する、のだろうか?

 トランプ大統領は4日後の米朝首脳会談を控え、訪米した安倍首相との会談後の記者会見で「朝鮮戦争の終結に関する合意を結ぶ可能性がある。それが最初の第一歩になるかも」と語っている。まさに「我が意を得たり」の感。(尤も、トランプにとって本願は北朝鮮の完全非核化だが、その方法や時期など一回の交渉だけで一挙に決着をつけるのは非常に難しいが、平和協定は別として、とりあえず終戦宣言と合わせて言葉の上での非核化宣言なら合意は簡単だとか、国内で政権の信任投票でもある中間選挙を控えて自国民に「歴史的成果」をアピールする等の思惑があるとはいえ)道理に適った判断には違いあるまい。さて12日の会談はどうなるかだ。
 それにつけても、北朝鮮が非核化に応じれば「体制保証」してやるとか、安倍首相のように「北朝鮮が正しい道を歩むのであれば・・・・」といった上から目線ではうまくはいくまい。


2018年06月20日

米朝首脳会談―今こそ日朝首脳会談の時

 今回の米朝首脳会談でトランプ大統領は北朝鮮に対して(完全な非核化を行うならばとして)安全の保証(休戦協定を平和協定に切り換えること)を約束し、キム・ジョンウン委員長は朝鮮半島の完全な非核化に対する「揺るぎない決意」を表明した。
 今後は、①非核化についてはCVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)と期限や方法など具体策の協議と合意、②朝鮮戦争の終結の平和協定の締結、これらが課題となる。

(1)保阪正康氏の論評
 16日付け毎日新聞・オピニオン欄シリーズ保阪氏正康の「昭和史のかたち」に、その保坂氏(ノンフィクション作家)の論評が出ていた。
 「米朝首脳会談の核心―朝鮮戦争、休戦から終戦の段階に」と題して、次のように書いてあった。
 それが「世紀の歴史会談になるか否かは、実は北朝鮮の非核化や米国による体制保証にあるのではない。もっと重要な点は朝鮮戦争になんらかの形でピリオドを打つ、それが歴史的会談のゆえんではないかと思って注視してきた。しかし、共同声明にそれはなかった。惜しまれる。」
 朝鮮戦争の休戦協定(1953年)では「朝鮮からの外国軍の撤退や平和的関係維持のための『高度な政治会談を開催する』ように求めてもいた。」「しかし、現実には、軍事境界線が『l国境』とみなされ、政治会談や平和協定移行への動きは65年間なかったのである。12日の米朝の首脳会談は、その意味ではまさに画期的であった。」「結果的に(平和協定への)署名までには至らなかったにせよ、平和協定は北朝鮮の非核化、米国による体制保証の前提でもあり、この方向が確認されたこと自体、朝鮮戦争は休戦から終戦の段階に入り、いわば両国間の戦争状態は終わったとの言い方もできるであろう」と。
 どうやらこれは、当方がこのブログに書いた評論、前回の『北朝鮮問題は過去の歴史に向き合って』と軌を一にする論評のようだ。

 尚、柳澤協二(元内閣官房副長官補)はサンデー毎日6月24日号で次のように述べている。
 「朝鮮戦争を終わらせる」、それで「構造的な対立関係は解消」され、北朝鮮にとっては「滅ぼされる心配も、核を持つ必要もなくなる」。そして「核放棄が不可逆的な流れになる」。以前(1954年)のような「枠組み合意」と違って首脳間の合意であり、簡単には後戻りできない重みがある」と。

(2)今こそ日朝首脳会談の時
 米朝首脳会談の実現で対話路線がスタートし、これまでのような火を噴きかねない極度の緊張から緩和へ(アメリカは米韓合同軍事演習を中止に踏み切った)。
 そこで、日本も(これまでアメリカに合わせて、否、むしろ「対話のための対話は意味がない」などと言って、より強硬に「最大限圧力」をトランプ大統領にけしかけてきたかのようだったが、それでは立ち行かぬことになった)この際、対話路線に転換し、日朝首脳会談に踏み切って、拉致問題解決を急がなければなるまい。(米朝会談に際してトランプ大統領に拉致問題のことを是非話しに出して欲しいと頼み込んで、大統領もその旨先方に伝えたというが、今度は直接自らが首脳会談に臨み、その件を話し合わなければなるまい。北朝鮮の非核化の問題はアメリカに任せ―とはいっても、核弾頭の運搬手段である弾道ミサイルの廃棄は大陸間弾道ミサイルICBMだけでなく、日本に届く中距離弾道ミサイルも含めた話が必要だが、日本人拉致問題は日本の首相自らがかけあうしかないわけである。)
 日朝間にはこの他にも諸懸案―過去(日本による植民地支配に伴う損害)の清算、国交正常化など―があり、それらをも念頭に「包括的に解決する」立場(小泉・金正日によるピョンヤン宣言で合意した方針)で臨まなければならないが、拉致問題は現在生存中の被害者とその家族の存命に係わる人道上の問題であり、時間的に最優先で取り組まなければならない問題である。
 取り組まなければならないのは拉致被害者の行方・所在の調査・確認から日本への帰還(家族に還す)まで、それらを両国政府の責任で早急に取りかかってもらわなければならない。
 とにかく日朝首脳会談、当面の目標は拉致問題の解決であろう。
(尚、拉致被害者の人数は日本政府認定で17名、うち5人はすでに帰国。
 ところが、北朝鮮側はそのうち4名は入国が確認されておらず、8名は死亡―うち2名の遺骨は返還、他は死亡情報を提供しており、解決済みだとしている。しかし、日本政府はそれら北朝鮮側の死亡認定の根拠は不自然であり、全員生存しているものとして対処。また17名以外にも、行方不明者で「拉致されたのかもしれない」という「特定失踪者」も多数いる。)

 首脳会談といっても、双方互いに「信用がおける人間か」という問題があろう。向こうの若い独裁者(祖父は日本の植民地支配下で抗日独立闘争を指導し、朝鮮民主主義人民共和国を建国したキム・イルソンで、その孫)もさることながら、こちらのトップ(祖父は太平洋戦争開戦当時は東條内閣の重要閣僚で、戦後、自民党の初代幹事長となり、その後首相となった岸信介で、その孫)は、このところ「信なくば立たず」と自分でいいながら、国内ではモリ・カケ問題で信用が失墜している。どうも、それが問題なんだな・・・・・
 それに、首脳同士の信頼関係もさることながら、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)という国民間の温かい眼差しもあって然るべきだろう。

2018年07月08日

対北朝鮮―朝鮮戦争終結が先決(加筆修正版)

 トランプ大統領も安倍首相も、北朝鮮に対して、いったいどのような戦略・論理で臨んでいるのだろうか。それは、基本的に力と駆け引きに訴えるやり方のように思われ、安倍首相の拉致問題など対北朝鮮政策は、圧力と他力(トランプ大統領)に頼るやり方であり、どうも結果が出ていない(進展がない)ように思われる。そこで次のように考えたのだが、如何なものだろうか。

 北朝鮮については核・ミサイルの脅威、拉致問題など様々あるが、それらの脅威を除去し、諸問題を解決するには、これらは朝鮮戦争が(1953年以来休戦も)和平協定は結ばれておらず戦争状態は未だ続いている、その現実を踏まえなければならない。それをわきまえずに、彼の国に対して、ただ一方的に「核・ミサイルを廃棄せよ、開発・実験を止めよ、拉致被害者を返せ」と要求を突き付けて、「さもなければ」と制裁・圧力を加え続ける、ということだけでは埒があくまい。
 (戦争再開して一方が降伏するか、戦争終結の平和協定を結ぶかのどちらでもなく)依然として戦争状態が続いているかぎり、北朝鮮はもとより朝鮮戦争の参戦当事国は、何かにつけて戦争(軍事)の論理で物事を考えざるを得ない状況に置かれることになるわけである。

 戦争の論理とは、戦争に勝つ(或は負けない)ために有利か否かで物事を考える、そして権謀術策を弄し、その目的(戦いに勝つという軍事目的)のためならば、如何なる手段(謀略・嘘・ごまかし・不正、国民の締め付け・人権制限・抑圧、非道)も正当化される。そのようなこと(戦争の論理)は北朝鮮に限ったことではなく、アメリカでも、かつての日本でも、どの国でも、戦争ともなれば考えることであるが、北朝鮮にとっては非核化(核・ミサイルの放棄)は、「世界平和のために」などといった観点よりも、アメリカに対抗する自国の戦争に有利(得策)か否か、或は日本(アメリカの同盟国で米軍基地を置いている敵国)が要求する拉致問題の解決(被害者の消息を明らかにして無事帰国させること)も、人道上の観点よりも、それが戦争状態に置かれている彼の国にとって得策か否かで考え判断される(米国との戦争状態が続くかぎり、核を直ぐに手離すのは得策ではないし、米国の同盟国・基地提供国で敵対関係にあるうえに、かつての植民地支配と強制連行などの清算も住んでいない日本に対しては、そのままでは、「既に解決済み」としている拉致問題のさらなる解明と被害者帰国に努力を尽くす気にはとてもなれないのでは)と、北朝鮮が考えるだろう戦争の論理からは考えられよう。

 戦争再開して北朝鮮を無条件降伏させるのは、軍事的には米側が楽勝し目的達成は可能であっても、多大な犠牲・損害、その戦争被害は日本にも及ぶことにもなるし、その深刻なリスクを覚悟しなければならない。

 武力行使・戦争再開は控えるも、経済制裁など非軍事的制裁を続けるという場合、その制裁は「兵糧攻め」のようなもので、やはり、戦争の論理に基づいており、それは「平和的手段」とはいえない敵対行為であることに変りはない。戦争状態にある国家間でそれが行われるのであれば、それは戦争の一環であり、戦争当事国でもないのに日本が、その制裁に(国連安保理決議に基づくとはいえ、諸国とともに)加わっているのは、北朝鮮からみれば、アメリカの戦争に加担していることになろう。
 また、経済制裁は制裁を受ける国(北朝鮮)の国民に欠乏を強いるものであり、人道的観点からすれば、無辜の(罪なき)国民を苦しめる結果をきたす。しかし、アメリカ側の戦争の論理からすれば正当化される。「これでもか、これでもか」という制裁の維持強化に耐えかねて屈服してくるならいいものを、頑強に抵抗の構えで、自国民にひたすら忍耐・我慢と不撓不屈の団結・闘争心に訴えようとする。それは、かって日本がABCD包囲網の経済封鎖でアメリカ側から経済制裁を受け、「鬼畜米英!」「一億火の玉!」「欲しがりません、勝つまでは!」と叫んで、太平洋戦争に突入した時のように、かえって朝鮮戦争の再開を招いてしまう結果にもなりかねないリスクがある。

 その戦争リスクを回避するのであれば、朝鮮戦争を(休戦協定から平和協定に切り換えて)終結させるしかあるまい。そうして戦争状態から脱して、戦争の論理に囚われることなく、あくまで平和・人道の論理で朝鮮半島・東北アジアの非核・平和体制の構築、それに拉致問題の解決に達する、という方向を追求しなければならないではあるまいか。
 とにかく米朝それに中韓(朝鮮戦争の参戦国)は休戦(停戦)協定に止まっている状態から脱して平和協定を締結し、戦争状態に終止符を打つことが先決なのだ。
 南北首脳会談(板門店宣言)に次いで米朝首脳会談があって、朝鮮半島の非核化と合わせて北朝鮮の安全保証が合意され、論理的に突き詰めれば戦争状態を終わらせる方向に向かうことにはなったが、そのゴール(平和協定)に達するまでは紆余曲折あるいは交渉決裂の可能性もなくはない。が、いずれにしても、焦点は平和協定による戦争状態の終結だ。

2018年07月21日

映画「マルクス・エンゲルス」を見て―改訂版

 福島の映画館で見てきた。監督はラウル・ペック(ハイチ生まれ)で、ドイツ・フランス・ベルギーの合作映画だ。
 女房から「わざわざ映画見さなのえがんたて、本で読めばええんでないの」といわれたが、難しい思想や学説よりも生き様の方に興味があった。
 映画は二人の若い時(マルクスが30歳、エンゲルスが28歳になるあたりまで)の生き様を描いたものだ。マルクスは(大学で哲学博士号をとっていたが)ジャーナリストになって、貴族出の妻と暮らしていた。エンゲルスは父が紡績工場の経営者でその後継ぎの身でありながら、工員の扱いに反発し、一女子工員を愛した。二人は共に哲学者ヘーゲルの流れを汲むグループに属していたが、反骨精神旺盛で彼らを批判して袂を分かち、独自の路線に向かって意気投合した。二人は学者か資本家として体制側に身を置いて安住するよりも、アンフェアで不条理な社会の有様を見るに見かねて、その実態の解明と変革の運動に身を投じ、敢えて苦難の道を選んだのだ。
 二人は志を同じくする他の仲間と共に活動するために加入した「正義者同盟」をズバリ「共産主義者同盟」と改称し、「万国の労働者、団結せよ!」と謳ってその綱領として世に出したのが「共産党宣言」であった。映画はそのあたりまでだが、友情と夫婦愛(内助)に支えられながら苦闘する若き革命家・思想家の生き様が描かれる。
 「共産党宣言」、この年(170年前)、ヨーロッパ各地で革命や政変が巻き起こったが、労働者が政権を樹立するには至らず、共産主義者同盟も間もなく解散した。その後は、マルクスは以前から国外追放で、エンゲルスも共に移住生活、どの国でも政治活動の自由はなく結社の自由もなかったので、「第1インターナショナル」などの国際組織は存在したものの、各国に共産党が結成されたのは彼ら亡き後(「共産党宣言」からおよそ70年後)のことだった。
 ただ、「資本論」の大著は、1巻はマルクス存命中に、2・3巻はエンゲルス存命中に完成した。
 二人が生きた時代は日本では西郷隆盛の時代と重なるが、二人は西郷よりも7~9年早く生まれ、西郷が(自刃して早く)亡くなった後も、ずうっと生きていたんだな。
 彼らのその生き様は、人生に何か「いいこと」を期待して栄達や安楽な生活を求めて生きるより、自らに使命を課されたとの信念から敢て苦難に挑み、「革命」のロマンに生きる、といった人生の生き方なのだろう。
 但し、二人が目指した革命は、西郷ら士族による士族のための「革命」とは全く異なり、働く民衆の、民衆による、民衆のための革命であった。
 劇映画なので、史実にフィクションが加えられて作られているが、美化されているわけではない。マルクスが就職しようと思い立って会社を訪ね、書類を書いたところ、その字の汚さで採用を断られるとか、原稿は妻から清書してもらっていたとか、現実的な人間味ある生き様が見て取れたように思う。


 


 

2018年08月05日

生産手段は、なぜ私有ではなく共有制が望ましいか

 以下の記述は、筆者が1998年2月に書いたものだが、後半にある<生産手段の社会化と計画経済>のところだけは1993年8月に書いたもの。
 訂正箇所2つあり―
  ①<歴史>のところで真ん中からやや下の行
    「る。それに対して社会主義というのは生産手段・・・・」の「ね」は削除
  ②<生産手段の社会化と計画経済>のところで、20行目
    「一橋大の・・・・教授にれば」の「寄」は「よ」に 
DSCN3212.JPG
DSCN3220.JPG
DSCN3219.JPG
DSCN3210.JPG
DSCN3224.JPG
DSCN3226.JPG
DSCN3230.JPG
DSCN3232.JPG
DSCN3233.JPG
DSCN3237.JPG
DSCN3215.JPG

2018年08月07日

マルクス・エンゲルスの「共産主義」について2点(加筆版)

(1)財産所有については
共産主義というと、辞書などでは次のように説明されている。
 広辞苑―「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想・運動」
 ブリタニカ国際百科事典―「私有財産制を廃止して全財産を社会全体の共有にしようとする思想」 
 山川出版・倫理用語集(1992年版)―「資本主義社会をこえ、生産手段の共有と生産力の高度化により、階級も搾取もない理想社会の実現をめざす思想。」
 Wikipedia―「財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす。その理念・共有化の範囲や形態、あるいは共産主義社会実現のための方法論などには古くから多数の議論があり、このため「共産主義」の定義は多数存在している。」
 Wikibooks―「中学校社会 歴史」の「ロシア革命」のところで―共産主義とは「工場などの生産手段を、国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。生産手段を共有するので、『共産主義』という日本語訳なわけである。したがって工場主や社長などは、会社や設備を私有できなくなるので、共産主義は私有財産の否定の思想でもある。だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。」
 以上のような説明がなされている。

 戦前・戦中の天皇制政府が治安維持法で共産党を禁止した理由は「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的とする結社」だから、ということだった。
 「共産主義は私有財産を取り上げる」という誤解はマルクスの時代からあり、日本でも戦前戦後を通じて、反共主義の側からくり返されてきたわけである。

[次は、いずれもネットに出ている04年10月14日付け「しんぶん赤旗」の記事から]
 広辞苑などの記述は、「素朴な共産思想(プラトンの『国家論』、トマス・モアの『ユートピア』などのことか?―引用者)には見られても、マルクス・エンゲルスが到達した考えや日本共産党の考えにはあてはまりません。」
 マルクス・エンゲルスの共産主義社会における私有財産問題に対する考え―「変革によって社会化されるのは、生産手段だけで、生活手段を社会化する必要はない。生活手段については、私有財産として生産者自身のものとなる権利が保障される」と(『資本論』第1部)。
 エンゲルスは(1867年の『資本論』刊行から間もない時期に、インタナショナル<国際労働者協会>に「労働者から財産を奪う」という攻撃が加えられたとき)、「(インタナショナルは)個々人に彼自身の労働の果実を保障する個人的な財産を廃止する意図はなく、反対にそれ(個人的財産)を確立しようと意図しているのである」と(反撃)(全集17、615ページ)。
 現在の日本共産党は綱領で「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化」であり、「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」としている。
 要するに共産主義とは、私有財産制を廃止するものではなく、生産手段(機械・道具・生産施設・設備と原材料)に限って共有制にするもので、生活手段(家屋・屋敷・生活用具・趣味用品などの私的生活のための財産)は私有制が維持され保障されるということである。

 尚、資本主義の現段階
生産力の高度発展―
  「第4次産業革命」―機械が自ら考えて動く自律化
    ↑
   第3次  “  ―コンピュータ→自動化(指示を与えれば機械が勝手に作る)
    ↑
   第2次  “  ―電力→大量生産
    ↑
   第1次  “  ―蒸気機関→機械化
 機械化・自律自動化(機械・AIロボットが肩代わり)―省力化(人手が少なくて済む)
 (単なるロボットは予め決められプログラムされた動作しかできず、自己判断できないが、AI-=人工知能は自ら思考する能力をもち、自己判断でき、自発的に発展していく。)
 きつい・汚い・危険な仕事や単調で退屈な仕事だけでなく、人間が「生きるための労働」をAIやロボットが肩代わりしてくれる(人手が要らなくなる)。
 需要と供給やユーザー(使用者・顧客)の消費行動はビッグデータ解析によって未来予測(先読み)が可能に。(ビッグデータはAIが管理)
 必要労働量の減少→労働時間が短縮―週5日労働(週休2日)から「週3日労働(週休4日)」とかへ
  人手が余る―雇用が減り失業増える
 労働コスト低下→賃金低下―職種によって格差―労働者(従業員)と資本家(株主・経営者)との所得格差

 それが、共産主義(生産手段―機械・ロボット・AIも―社会で共有)になると
  (「知的財産」もネットワークによって人々がシェアし合うようになり、「個人」に帰属するということがなくなる。)
 労働(仕事)が「生きるため、食うため、カネを得るため(嫌でも、しかたなく)」から「自分の生きがい、自己実現のため(好きで)」へ。
 また労働が、自由時間に趣味やリクレーションを楽しむのと同様に、或は創造的価値を得る(創造の成果は社会に還元される)、それが「生きがい」となる。
 生計費・必要経費は必要に応じて支給(生活に最低限必要な金額が一律に給付=ベーシック・インカムは実験的に導入している国はフィンランド・オランダ・カナダなど既にあり。)

(2)現実的運動については
 マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で次のように書いているという(内田樹・石川康宏『若者よ マルクスを読もう』かもがわ出版)。
 「共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態(であって―引用者)、現実がしたがわなければならない(であろう)理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、現在の状態を廃棄する現実的運動である。この運動の諸条件は、いま現存する前提から生じる。」
 石川氏によれば、それは「つまり共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題を一つ一つ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなる。」「未来は、人間が社会に自由に押しつけることができるものではなく、いまある社会の内から生まれ出てくるものだというわけ」(そういう角度から、エンゲルスは自分たちの学説を『空想的社会主義』と区別される『科学的社会主義』だと特徴づけている、と)。
 要するに、共産主義で生産手段を共有して行われる労働は、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る(分配)」という段階から、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という、生産力が最高度に達して生産があり余るほど高まった発展段階が目指されるが、それは、単に理想として思い描くだけのものではなく、現存する資本主義がもつ問題を一つ一つ解決(変革)していったその先に実現する現実的運動なのだ、ということである。


2018年08月12日

「必要な物やサービスを得るには対価が必要だ」というのは当たり前のことか(加筆版)

 ここで確認しておかなければならないのは、いずれも、資本主義の下で暮らしている人々は、とかく、①に「物やサービスを得るには見返りが必要で、全てカネで売買・交換するもんだ」ということ、②に「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くこと」で「働かざる者は食うべからず」と思い込んでいる向きが多いのではと思われるが、それは固定観念(思い込み)に過ぎないのだということ。以下にそのことを論じてみたい。

「物やサービスを得るには見返りが必要」ということについて
 資本主義の下では、それが普通であろう。そこでは市場原理(利己的欲望に基づく損得が基準)に基づく交換経済(市場経済)が基本だから。(交換といっても、定価―例えば100円の物を100円で買えば、買った人にとっては等価交換と思われるが、実は原価は90円で、それに儲け=剰余価値=利潤として10円がプラスされていて、不等価交換なのだ。)
 そこでは人々は、所有し或いは生産した物やサービス(労働者は自らの労働力)を商品として(値段が付き、その金額で)売って、そのカネ(販売代金)で必要な商品を手に入れる。そこでは物やサービスの提供は、すべてその見返り(代金・賃金報酬・利潤)を前提にして(当て込んで)行われる。それに値段を付ける(幾らで買うか、売るか)その取引きには利害打算が伴う。それで、有利な見返りが得られなければ、生産・販売・サービス提供は止める。たとえそれ(物やサービスの提供)が得られないと死活にかかわる程の窮地に陥ってしまうとしても。
 このやり方は、代金も報酬も利子も払うのが当たりまえ、払わなければ商品やサービスの提供が止められるのも当たりまえで、容赦しないという非情さがある。
 しかしこのような市場原理に基づく交換経済のやり方に対して協同原理に基づくボランタリー経済とか贈与経済(ギフト・エコノミー)といったやり方がある。それは見返りを期待しないで何かを与える共同体関係に基づくやり方である。
 「贈与経済」とは、「まず与える」、それに対して「お返し」があるも、その「お返し」は、「交換経済」における「見返り」(「代金」とか金銭的報酬)とは異なり、予め金額や支払い義務など設定され要求されることはない。但しその「お返し」は、見かけ上は任意なのであるが、実際上は同等もしくはそれ以上のものでなければならない。(但し、その量と内容が適切であるかどうかは客観的には決まらない。)
 ボランティアの場合は、いわば「時間の贈与」であり、こちらから「まず動く」という意味あいをもつことにもなる。それが奉仕した相手からは直接「お返し」はこなくても(たとえばAがメンバーBに奉仕したとして、Bはそれに報いるのにAではなく、他のメンバーCに奉仕する、といったようにして)他から返ってくる(連鎖的相互奉仕)。つまり「与えれば、いつかは報われる」ということになる。(そういえば、インターネット情報も、こちらから送れば相手から情報が返ってくる、そして相互やりとりが繰り返される。かくして情報を提供する側ともらう側の関係が常に入れ替わることになる。)
 いずれも「与えることで与えられる」(与え合う)という面をもつ。それが市場経済と違うところは、やりとりをする相互の間に成立する人と人との関係は、単なる経済性だけでなく、カネには換算できない豊かで多様な価値を含んだものになる。
 共産主義とは、そのような共同体的ギフト・エコノミーの類にほかなるまい。なぜなら、それ(共産主義)は「各人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というやり方であり、誰もが(資本主義におけるような労働疎外がなく、AI・ロボット・Iot・ビッグデータ装置などの高度先端技術の活用とあいまって)その能力を存分に発揮した労働の成果として社会に提供したものを、人々が「必要に応じて受け取ることができる」ということで、「与えることで与えられる」システムにほかならないからである。

「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くことだ」ということについて。
 資本主義の下では、労働者はそういうことで(おカネのために)働くことになっている。そこで労働者が雇われて得るそのおカネ(賃金)は自らの労働力を売った代金である。そしてその労働力はカネを支払ってそれを買った資本家(会社のオーナー)のものとなって、それをどのように利用しようと(従業員をどのように使おうと)資本家・経営者に裁量権があり、彼ら労働者の労働の成果は資本家の手に渡ってしまう。資本家は(その労働力を利用して)最大限利潤を得ようと努めれば努めるほど、労働者の労働はきつくなり、辛い苦役のようになってしまうし、或は一生懸命働けば働いたで、その成果はそもそも働いた自分のものであるはずなのに資本家・経営者のふところに入る利潤が増えるだけとなる(それが労働疎外)。
 共産主義とは、資本主義のそのようなやり方を廃して、生産手段を労働者=生産者たちの共有制にすることによって労働の成果を自分たちの手に取り戻すことにほかならない。そしてそこでの労働(仕事)は本来の自己実現活動もしくは創造的な活動として楽しく「生きがい」となる、ということだ。
 尚、資本主義の下でも、家事労働は賃金なしでやられており、ボランティアは―有償の場合もあるが―多くは無償である。

 要するに「物やサービスはカネで交換・売買して得られるもの」だとか、「労働は資本家・経営者からカネで雇ってもらって働くもの」だというやり方は、資本主義では当たり前のように思えても、それは昔からずうっとどの社会でも行われたものでもなく、そこには矛盾や不合理があり、歴史が過ぎれば変わりゆく(切り換えられていく)もの。.
 一方、共同体的ギフト・エコノミー・システムは「人間行動の新しいやり方でもなければ、過度の理想主義的な見方でもない。それは歴史 に深く根ざしており、富や金銭の追求よりも人間心理にとってはるかに基本的なものである」(ドラッガー財団刊『未来社会の変革』の書中ギフォード・ビンチョー氏の記述より)。協同組合・NPO(非営利協同組織)など、それにつながる何らかの形態が現実に存在するのである。
 つまり、資本主義も、「必ず見返りをとる」交換経済も、いつまでも当たり前のこととして通用し続けるわけではなく、また共産主義は、旧ソ連型社会主義(実態は国家資本主義)のように国有・公営企業で、政府が立てた国家計画に基づいて官僚が経営を行い、国家に雇われた労働者が労働(ノルマ)に応じて(「見返り」として賃金を)受け取る社会主義でもなければ、現実離れしたユートピアのような机上の空論でもないということだ。

 と思うのだが、如何なものだろうか。


2018年09月04日

働き方問題―根本的解決は(加筆修正版)

 「多様な、柔軟な働き方」とか「長時間労働の是正」、「非正規と正社員の格差是正」、「高齢者の就労促進」とか「働き方改革」といっても、それは少子化に伴う人口減少で深刻な労働力不足に直面する状況下で労働生産性の向上に迫られているからにほかならない。労働生産性向上―業務の効率化のためにはテクノロジーの活用だけでなく、働きやすい労働環境・職場環境の改善が必要となる。
 6月29日成立した「働き方改革法」は、労基法など8本の法律を一括して改定したもの。主として次の3点。
 1、残業時間の上限規制―原則「月45時間、年360時間」だが、繁忙期には上限―年間720時間、単月では100時間未満、2~6か月平均80時間未満、違反した企業には罰則―「100時間」「80時間」というのは「過労死ライン」だがそれに達する寸前まで容認。
 2、同一労働同一賃金(正社員と非正規の不合理な待遇差の解消)―基本給・手当など業務内容に応じて勤続年数や成果・能力が同じなら同額に―とはいっても「正社員には業績に応じて賞与を払い、有期社員は業績に貢献しても払わない」とか「パート社員の深夜・休日手当は正社員より低い」とか「有期社員の店長の役職手当が正社員より安い」など賃金格差容認も。
 3、高度プロフェッショナル制度―高収入(年収1075万円以上を想定)の一部専門職(研究職・金融ディーラー・コンサルタント・アナリストなどを想定)を労働時間の規制から除外して、働いた時間でなく成果で評価(時間外・休日・深夜労働でも割増賃金が支払われない残業代ゼロ制度)―対象が高収入で一部専門職といっても拡大されていく可能性あり。
 当初案には(働く時間や場所を自由に選べる)「裁量労働制」の拡大―専門業務型から企画業務型(経営の中枢部門に従事する労働者)までが見込まれていたが、委員会で安倍首相が「厚労省の調査によれば裁量労働制で働く人の労働時間の長さは、一般の労働者よりも短いというデータがある」と答弁したものの、そのデータの間違いが明らかにされ、削除された。そもそも、「裁量労働」といっても、個々の労働者に自由裁量が与えられるわけではなく、使用者に与えられる裁量で、労働時間は労働者が実際働いた時間(実労働時間)にかかわらず、使用者の判断で「働いた」と見なした「みなし労働時間」で算定することが認められる―実際はそれ(8時間)以上働いても、8時間しか働いていないと見なされ、定額働かせ放題という結果になる、というものだった。

 このような労働問題の根本的解決・是正は資本主義の下では不可能。何故なら、企業のオーナー権は資本家(出資者)にあり、労働者たちの労働の成果(利潤)は資本家が取得し、労働者は資本家・経営者たちの裁量で決められたやり方と労働条件で働き、決められた賃金を受け取るしかなく、それらに労働者たちは(労働組合が団体交渉で要求する以外には)基本的に関与できないからである。そして労働者が一生懸命働けば働くほど、或はテクノロジーを駆使して労働生産性を上げれば上げるほど、その成果は資本家のものとなり、労働者への分配は限定される。
 資本家は表向きユーザー(利用者・消費者)の需要に答え、社会に貢献することを目的としているが、かれらにとって最も重要・不可欠な関心事は、実は利潤がどれだけ得られるのかだ。資本を投下し、設備を設け、AI・ロボットなど備品を買い備え、原材料を仕入れ、労働者に賃金を払って買い取った労働力を最大限活用し(働かせ)て、賃金を払った以上の余分の労働(剰余労働)から利潤を確保しようと地道をあげる。それは、そのカネで自らの生活費を確保するとか財産を蓄えるためだけではなく、熾烈な企業競争に遅れをとることのないように製品開発費や設備投資など経営の維持・拡大生産のためにカネがかかるからである。だからこそ、人件費はできるだけ抑えて最小限にとどめ、コストを安くして多く売上げ、最大限利潤確保に地道をあげるのである。だから、労働者にはできるだけ安い賃金で、できるだけ精一杯働かせて最大限の成果をあげさせようとするわけである。だから「働き方改革」といっても、どうしても資本家・経営者本位の改革となって限界がある。
 労働者にとって働き方問題の根本的な解決は、企業のオーナー権が資本家によって握られるというやり方(生産手段―施設、機械などの設備、原材料など―の私的所有)を変え、労働者たち自身がオーナー権を持つようにする。そして労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者全員に決定権―働き方・労働時間や賃金その他の労働条件はもとより、経営維持・再生産のために必要な事項は自分たちの裁量で決めるというやり方)に切り換える、という方法しかないわけである。そのように思うのだが如何なものだろうか。

 そもそも、人間は本来、孤立した存在ではなく、労働を通して他者と連帯・協業し、常に自己と他者を意識し、その関係性のなかで、社会の共同体の中に生きる「類的存在」だという。そして労働(生産活動)は本質的には人間が自然に働きかける活動であり、自分の目的を自然の中に実現する創造的活動で、そのことを通じて自分自身の諸能力を発揮・発達させる行為であり、「自己実現」ともいうべきものであって、本来「生きがい」となり喜びとなるはずのもの。それはスポーツ・音楽・美術・文学・芸能・芸術・学問・科学研究も同様。
 ところが、それが「食うために」「カネを得るため」「資本家・雇い主のカネ儲けために」否応なしにやらされ、その成果(産物)は自分から離れていき、自分を苦しめる苦役に化してしまう(いわゆる「労働疎外」)。それは、昔は奴隷労働、農奴的小作労働であり、今日に至るまでの資本主義下での賃金労働である。これらは、いずれも生産手段(土地・用具・機械・施設・設備)が自分たちのものではなく、他人(奴隷主・領主・資本家)によって所有され、他人の意志に従って「強制された労働」なのである。そのような労働はどうしても辛いばかりで、空しいものとなる。
 このような問題を根本的に解決するには生産手段の私的所有を社会的所有に切り換える変革、すなわち社会主義・共産主義の実現が必要であり、それ以外にないのでは、とおもわれるのだが、如何なものだろうか。
 尚、その変革は、暴力や破壊による革命ではなく、選挙を通じて国民大多数の合意に基いて行われ、また思想家・学者やテクノクラート(高級技術官僚)が青写真を描いて国家権力の強制など外部からの力によって社会に押し付けられるものでもなく、資本と土地の社会的所有も協同組合など自由に結合・組織された労働も経済諸法則が自然発生的な作用をもって働き、主流となるところまで社会全体に定着していくものと考えられる。
 また、社会主義・共産主義をマルクスは必ずしも段階的な区別を付けて論じていたわけではないのだが、レーニンのマルクス解釈以来、社会主義(「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」)から共産主義(「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」)への二段階発展論が(旧ソ連をはじめとして)とられてきた。しかし、そのような分配問題はその時々の情勢の中で変動する性質のものとして統一的にとらえ、段階的な区別は付けるべきではないのだ、と不破哲三氏はいう(『マルクス未来社会論』新日本出版社)。
 「能力に応じて働き、労働(ノルマや成果)に応じて受け取る」とか「働かざる者は、食うべからず」などというのは、資本家が自らは手に汗して働きもせずに、労働者たちに働かせピンハネ(搾取)して贅沢して食べている、その不合理・不当性に対して云われてきた言葉とも思われるが、それが、「働いたら働いただけカネをもらえるならいいが、ろくに働きもせずもらえるのはおかしい」といって、職がなく働きたくても働けない人とか、働くに働けない障害者など条件に恵まれない人をけなし、人を生産性によって評価し差別する考えにもなっている。しかしそれは間違っている。生産性がどうあれ、それぞれの条件・能力・個性に応じて働ける人が働くのは「生きがい」であり権利であって、(日本国憲法には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」、そして「納税の義務を負う」となっているが)働かなきゃカネをもらえず食っていけないから嫌々ながらも働かざるを得ないような義務ではないのである。また、働くに働けない人や僅かしか働けない人でも、すべての人に生存権があり健康で文化的な(最低限度の)生活を営む権利があるのであって、生活に必要な生活手段と消費物資の確保が保障されなければならないのである。各人は能力に応じて働くのが原則ではあるが、その働き(労働の成果)如何にかかわらず、生活資料(消費財)は必要に応じて受け取ることができる社会があって然るべきなのである。 
 労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者が自分たちの働き方・労働時間を自分たちの裁量で決めるというやり方)が行われるようになり、しかもIT・AI・ロボット・Iotなどテクノロジーの進歩・発達によって、食う(生命を維持する)ために働かなければならない労働時間・労働量が少なくて済むようになり、自由時間が大幅に増える。つまり、肉体的・精神的能力を自由に発揮して自分に適した好きな仕事(社会的な業務・ボランティア)や学問研究・芸術(創作や鑑賞)・芸能・スポーツなどに勤しみ生活をエンジョイすることができる時間が確保されるようになる。そして人々が自然との関わりで生命維持のためにそうせざるを得ない「必然性の生活」分野から大幅に解放され、「真に自由な生活」の生きがいを享受することができるようになる。その自由が実現する、それこそがポスト資本主義の未来社会(「社会主義・共産主義社会」)なのではあるまいか。

2018年09月24日

沖縄県知事選挙について思う(加筆版)

 最大の争点―基地問題―名護市辺野古の新基地建設(そこに宜野湾市の普天間飛行場を移設)の是非―佐喜真候補(前宜野湾市長で政権与党が支援)は建設推進を容認、それに対して玉城候補(前衆議院議員で「オール沖縄」支援の翁長前知事の後継候補)は建設反対・阻止(普天間飛行場は無条件閉鎖・撤去)を主張。(佐喜真候補は、宜野湾市の住宅密集地にあって「世界一危険な基地」と称される普天間基地を同県内の他所に移設することを条件に返還を日米両政府が合意していたのにしたがって、とにかく宜野湾市から撤去さえできればそれでよく、移設先が名護市辺野古で、そこにもキャンプ・シュワブという基地が既にあって、それを拡張するかたちでそこの沿岸部に新基地を建設がされることになるが、それは容認。それに対して翁長前知事は「普天間基地は、太平洋戦争中の沖縄戦で日本軍がそこを撤退したあと米軍に投降した住民が連行されて収容施設に入れられている間に、米軍に土地を強制的に接収されて造られた基地。その土地は自分たちの土地であり、とられた土地を返してもらうのに、なぜ代替基地を提供しなければならないのか、無条件で返還するのが筋というものだ」という考えで、玉城候補はその考えを受け継ぐ。)
 県民―告示後の地元メディアなどの合同世論調査では―重視する政策は「基地問題」が4割で最多(次いで「経済・景気・雇用」が26.7%、「医療・福祉」が13%、「教育・子育て」が7.5%)、普天間基地の辺野古など「県内移設」には反対が7割(そのうち県外移設28.1%、国外移設21.2%、無条件閉鎖・撤去19.7%。琉球新報の調査では辺野古基地建設に伴う沿岸部埋め立て承認の撤回には7割が賛成)。こうして見ると辺野古新基地建設には大多数が反対というわけ。
 ところがそれが、知事選の投票となると、辺野古新基地建設の阻止を主張する玉城候補にそのまま7割が入るとは限らないのだ。(先の名護市長選挙では建設反対・阻止の方針をとってきた稲嶺前市長の方が敗れ、自公推薦候補の方が当選するという全く逆の結果となった。)
 そこには次のような投票者とりわけ若者の意向があることが指摘されている。
「基地問題よりも経済振興だ」という考え―基地には幾ら反対しても、どうにもならない。基地建設は止められないし、現実は何も変わらない(といった「割り切れない」思いと諦め、閉塞感)。先の見えない国との対立にもう疲れはて、これ以上対立を煽ってほしくない(などと嫌気をさし、反対運動には敬遠むしろ反発)。とりわけ、若い層にその傾向が顕著。野添・沖縄国際大学の准教授によれば「ある世代以上は」「沖縄戦や米軍統治という歴史的・構造的な視点で捉え」「強制的に土地を奪われて基地が建設された経緯など、基地問題を歴史の中で位置づけ」て考える。ところが「若い人たちの多くは」「米軍基地は生まれた時から存在」し、「なぜ基地があるのか、なぜ沖縄に集中しているのかといった構造には目が向きにくい(「既成事実として受け流している様子」)。その結果、主に経済や就職できるかといったことに関心が向かって」いく。(2016年にうるま市で起きた米軍属の一人による女性殺害事件も、学生たちの間では「一個人の事件であって、『基地問題』としてとらえるのはおかしい」「政治的に利用するな」といった反応が目立った、とのこと。)
 彼らにとっては、沖縄の県民所得が全国最低であることの方が問題であり、政府の計らいによる国からの交付金・補助金で経済を振興し、雇用や仕事を増やして所得を引き上げてもらう、といったことの方が重要で、基地問題は「二に次」だというわけである。(沖縄経済の貧困状況については、それを招いてきた責任はむしろ在日米軍基地を長年押し付けてきた歴代自民党政権にあり、それでも翁長県政は沖縄がアジアと日本本土との中継地点に位置するという地理的条件を活かして基地に頼らない自立した経済を追求し、沖縄経済はこのところはむしろ好調で、一人当たり県民所得も、前の仲井間知事当時の12年度で197万円だったのから18年度には237万円に増える見込み。翁長県政を引き継ぐ玉城候補はやはり地理的条件を活かした観光・文化・スポーツ・交易・国際交流など自立的な経済発展をめざし、基地はむしろその阻害要因だとして基地と交付金依存経済からの脱却を打ち出している。)
 「若い人たちの多くは、現在の問題を『現在の問題』としてとらえがち」だが、過去の歴史を知らずして、現実を的確に見極めることはできず、未来を展望することもできないわけである。
 いずれにしろ、政権側支援候補に投票した人は、その理由を、「辺野古の基地建設工事はいくら反対したって阻止なんかできっこないし、割り切れない思いもあるが、普天間の基地だけでも無くなってくれればそれでよいとして、とにかく政権と親密な候補に知事になってもらった方が、国からの交付金・補助金や企業誘致に有利でカネや仕事や就職にあり付けるから」などと弁明するのかもしれない。しかし、どう言い訳しようとも、その投票は、結局は辺野古基地の新設・沖縄基地確保を目指す安倍政権と米軍に屈服したことになる。そして、結果その候補が当選して知事になれば、政権は思い通り辺野古基地建設工事を推し進め加速させることになり、それが完成すれば以後100年~200年もその基地は存続し、沖縄県民は子や孫たち代々に渡って基地に悩まされながら暮らさなければならないことになるわけである。
 「辺野古の基地建設工事は阻止なんかできっこない」というが、現に沿岸部160ヘクタール(東京ディズニーランド3個分)の埋め立ては仲井間前々知事が与えた承認を翁長前知事の遺志で副知事が8月末に撤回したことによって工事は止まっている。さらに埋め立て予定海域には軟弱地盤が存在することが分かっており、仮に政府の「法的措置」によって工事が再開されても、大規模な地盤改良が必要であり、それにも知事の承認が必要不可欠となる。また国から設計変更申請がなされたとしても、県知事に許諾権があり、それを無視して工事することは違法であり、強行はできない。要するに知事しだいで、工事をストップさせ、断念に追い込むこともできる、ということなのだ。

 さて沖縄の有権者に方々は、どのような判断をして投票するのか、そして辺野古新基地建設を容認する知事候補と阻止を貫く候補のどちらに投票するのかだ。

 <参考―9月22日付朝日新聞のオピニオン・耕論欄「分断の沖縄と若者たち」>

2018年10月16日

日本の司法はどうなってるの?  

 日本の司法は「たてまえ」の上では、法に基づき適切に裁定し、社会における法秩序の守り手として「法の番人」とか「憲法の番人」と称される。
 また、社会正義の守り手として「厳正・公平・不偏不党」の立場を堅持。
 そして又「三権分立」の原則にたって、司法権の独立を堅持し、行政権力の横暴と憲法からの逸脱をくい止め、違法な行政をチェックすることに徹する。
 ということになっているが、実際はどうなっているのかだ。

裁判官―国歌公務員
     憲法には76条3項に「全ての裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と。
    判事(約2,000名 )、判事補(約1,000名)、簡易判事(約800名)
    最高裁判所の裁判官は15名、任期はなし(但し最長で定年70歳誕生日の前日まで)、国会に設置された弾劾裁判所で罷免判決を下されるか国民審査で×印が有効票数の過半数に達しないかぎり罷免されることはない。
    最高裁裁判官の任命は、長官だけは内閣が指名して天皇が任命し、それ以外は長官の意見を聞いたうえで、また総理大臣の判断を仰いだうえで内閣が任命(天皇が認証)。それらは閣議決定として行われる。
    戦後間もなく1947年には最高裁判所裁判官任命諮問委員会(衆参院議長・裁判官・検察官・弁護士・法学者・学識経験者など十数名の委員から成る)が設けられ、内閣による最高裁裁判官の任命と長官の指名に際しては、この委員会に諮問したうえで行わなければならなかったが、翌年には廃止された。「内閣の指名・任命権がそれに拘束されて、内閣の責任が曖昧になるから」との理由。70年代には再び委員会(「最高裁判所裁判官任命諮問審議会」等)を設ける法案が野党の社会党などによって提出されるも廃案。
    それ以外の裁判所の裁判官については最高裁が人事権を握っており、任命は内閣が行う形になっているが、それは最高裁が任命した11名の委員からなる下級裁判所裁判官指名諮問委員会が人選した名簿に基づいて行われる。任期はいずれも10年、再任あるも、3~5年で転勤(地方・家庭裁判所と高等裁判所の間で栄転・左遷)、昇進(出世)―判事補から判事、地方・家庭裁判所所長から高等裁判所長官へ等。出世競争も。とかく権力側の意に反した裁判官は左遷されがちだともいわれる。(ジャーナリストの岩瀬達哉氏は大飯原発と高浜原発の運転差し止め訴訟で前後して福井地裁の裁判長を務めた樋口判事と林判事について、前者(樋口裁判長)は差し止めを認めて、その後名古屋家裁に飛ばされ、その後任となった後者(林裁判長)は差し止め判決を取り消して再稼働を認め、その後、最高裁事務総局の「局付」課員に引き上げられたという、好対照の事例を指摘している。)

検察官(検事)―国家公務員
    警察との違い―事件についての捜査を行い、被疑者の身柄と証拠などを検察へ送るのが警察、その被疑者を裁判にかける(起訴する)か否かを判断する権限を持つのが検察。
    特捜検察(東京・大阪・名古屋の3地検特捜部)―重大な贈収賄事件や大型脱税事件・企業犯罪などに際しては、警察を通さず、検察官中心に検察庁職員により独自に捜査をおこなって立件(起訴へ)。 
    検察庁は法務省の機関に属するも独立性を持つ。
    検事総長は法務大臣の直接指示は受けず、法務事務次官より格上。
    法務省の最高幹部や幹部職員はほとんどが検事。
  
弁護人―原則として弁護士(民間人)から選任―私選弁護人は被疑者・被告人またはその親族など関係者が選任・依頼し、もしくは国選弁護人は国(裁判所)が選任・委嘱。費用は選任した者が負担。事に当たっては依頼人の利益を最優先して被疑者・被告人の支援・代弁。

 いずれも司法試験の合格者で国家資格をもつエリート(とはいってもペーパーテストでの成績優秀者で、しかも司法研修では「人間としての感性・市民感覚や常識を排除、それらに囚われてはならないと教えられ」、「常識に欠け、世間を知らない」と指摘する向きも。裁判官に一般市民も加える裁判員制度は、その改善策として始められたのだろう。但し、裁判員裁判は地裁の刑事裁判に限って認められ、その判決が控訴審で高裁から覆されることもあるわけだ。)
 いずれも「社会正義」をモットーとし、「法と正義の守り手」たることを意識。
 検察官と裁判官は、ともに「正義」(法秩序)の守り手意識が強く、特に検察官は「国法を犯し、国家・社会の秩序を乱す悪人」に対して厳しいあまり、「なんとしても犯人を挙げなければならぬ」と、犯人追求が厳しく、いったん被疑者と見込んだら「なんとしても犯人に仕立て上げ、裁判にかけて有罪にもちこまなければならない」と執着し、人権よりも国家・社会の秩序を優先し、「自白の強要」など行き過ぎた追求にはしりがち。それに対して弁護士は法律事務をビジネスとして行う民間人であり、法律相談に応じたり、裁判に際して被疑者・被告人の弁護し、人権を擁護する立場。
 検察が起訴するか否かの基準は―被疑者を裁判で有罪として立証できるだけの証拠があるかどうかだ。
 否認事件(被疑者が「やってない」と起訴内容を否認)の場合―検察官には「いや、やったはずだ」ということを立証できるだけの証拠が必要―そのためにありとあらゆる証拠捜し(証拠になるものを探り出す)。検察官には強大な国家権力を背景に広範に証拠を収集、証拠になるものは全て押さえてしまい、被疑者に対しては、検察官にとって都合の良いものだけを証拠開示、それ以外は見せない。
 被疑者が否認している限り、「証拠隠滅の恐れがあるから」として拘留し続ける。検察官の取り調べは弁護士など同席させずに密室で行う。録音・録画など可視化は一部の事件で義務化されるも、極く限られたもので、全体の刑事事件の3%程度。(国連の拷問禁止委員会で「日本の刑事司法は未だに中世さながらの状態に置かれている」と酷評されている。)
 それに対して被疑者は、検察の手持ち証拠は捜査段階では(弁護士を付けたとしても)ても、やれることは限られ、主にできることは、取り調べを受けた際に、自身の記憶に従った供述(自白)をし続けること以外にないわけである。検察はそれを記録、文章にして被疑者に読み聞かせ、間違いがなければ指印を押させ署名させる(自分が話したことと。違うところがあれば、訂正を申し出る。訂正に応じなければ署名・押印はしないこと)。署名・押印すれば、それが供述調書として「動かぬ証拠」とも見なされ、後で(裁判になってから)「それは間違いだった、本当はこうだった」と言い立てても、裁判官は聞いてくれない。
 また、自白もヘタにしゃべると自分に不利な結果になりかねない。それを避けるためには黙秘権を行使(しゃべらない)。
 それに対して検察官の方はなんとかしゃべらせようとして「こっちは証拠をつかんでるんだから」とか(証拠があるなら自白など要らないはずなのに)、「共犯者がそういってるんだから」とか(「それならば、その証拠とやらを見せてくれ」「共犯者が言ってるというなら、その調書を見せてくれ」「見せてくれない限り認めない」とば言えば済むのだが)、或は「家族や子どもが苦しめたくなかったら」とか「会社や仲間に迷惑かけたくなかったら」などと、脅迫的な方法や詐欺的な方法で自白を強要する。或は不当に長い抑留・拘禁を続けて、精神的に参らせて自白に追い込むなどの手法を弄する。(本人の意思に基づかない自白は無効ではあるが、そのためには「その自白は不本意に言わされたのであって自分の意思で話したことではない」ということを証明しなければならないことになる。)
 
 裁判官も検事と同様な「社会正義の守り手」意識を共有し、裁判官は検事の証言や証拠を重視―「検事の調書に間違いはない」とか「検察官は絶対有罪になりそうなものしか起訴しない」として検察を疑おうとはしない傾向。(現に日本では起訴されると99.9%有罪判決が下され、否認事件でも99.5%有罪になっている。)
 裁判官は「法服を着た役人」とか「裁判を行っている官僚」などと揶揄する向きもあり、「行政の裁量を広く認めて、国などが被告となる裁判では被告に有利な判断」をくだしがちだとも。
 
 検察(主に特捜検察)は政権の思惑によって(首相や大臣の直接関与がなくても、忖度して)政治的意図や世論の動向に沿って、目を付けたターゲットに対して嫌疑をかけ、正当な根拠を欠いたまま、「まず訴追ありき」で犯罪の筋書を描いて捜査(少しでも証拠になりそうな物件や証言を拾い集めて)有罪にもちこみ、陥れようとする、いわゆる「国策捜査」といったものもあるわけである。
 2006年、当時の福島県知事佐藤栄佐久氏が収賄の罪に問われて辞職に追い込まれた事件。 藤知事は、かねて国や東電の原発事業の推進・運営のやり方やプルサーマル計画に異を称えていたが、弟の会社の土地のゼネコンへの売却にともなう収賄容疑で逮捕・追及を受け、「収賄額0円」なのに有罪という不可解な判決をうけた。
 2009年、当時厚労省の雇用均等・児童家庭局長の村木厚子氏らが障害者団体向け郵便料金割引制度の悪用があったとして郵便法違反・虚偽有印公文書作成容疑に問われた。(このほうは逆に、検察側が強引な見込み捜査と脅迫的な取り調べのうえ証拠偽造で特捜部長らが逮捕・告発され、村木氏は無罪となった。)この間の村木氏勾留は164日にわたった。
 或いは逆に、(市民感覚や常識的には)誰から見ても疑わしく怪しいと思われる事案なのに証拠不十分・嫌疑不十分として済ませ不起訴に持ち込む、という場合もあるわけである。
 森友問題―国有地の格安売却と決裁文書改ざん等で財務省の佐川当時理財局長らを背任と虚偽公文書作成容疑で市民団体が告発したが、大阪地検特捜部は嫌疑不十分として不起訴にした。(神戸学院大学の上脇教授ら告発者側は不服申し立て、検察審議会に審議申し立てを行っている。)
 2016年 甘利当時経産大臣と秘書が建設会社から口利きの見返りに違法献金をうけ金銭授受があったことが週刊紙に報じられ、あっせん利得処罰法違反に問われるも不起訴。(上脇教授らが検察審査会に審査申し立てるも、「不起訴相当」、秘書は「一部不起訴不当」とされた。)

 我が国の司法の実態はいかなるものか、考えずにはいられまい。 
 
 <以上はネットで見られる関連項目の文から大橋正春氏(東啓綜合法律事務所・弁護士)・瀬木比呂志氏(元裁判官・明治大学法学科大学院教授)・木谷明氏(元法政大学院教授・弁護士)など言葉を拾い集めてまとめた。>


2018年10月30日

日本に米軍基地・安保条約はまだ必要なの?

 「日米安保体制は国民の多くが支持し、米軍基地を受け容れている」と思われている。
 「総じて日本人は日本が攻撃される蓋然性は高いと思っている」とか、
 「日米同盟が日本の平和憲法とセットとして一体不可分になっている」とか、
 「(日本は)『米軍に守られている』という通念」などといった思い込みがあるが、本当はどうなんだろう?

 そもそも、日米安保条約はどうしてできたのか。アメリカは何のために日本と安保条約を結んだのか―日本を守るためなのか。それとも?
日米安保条約の成立と現在に至るまでの経緯を辿ってみると―
 第2次世界大戦―日独伊などの侵略国対米ソなど連合国の戦争―ドイツとともに日本軍が降伏  (1945)。日本は米軍によって占領。日本領となっていた朝鮮半島は米ソが南北分割占領
 1946年、新憲法制定(9条で戦争放棄と戦力不保持、それは日本がアメリカと安保条約を結んで米軍基地を置くことを想定して定めたわけではない)。
 米ソ対立―アメリカを主とする西側資本主義諸国とソ連を主とする東側「社会主義」諸国との体制間対立による二大陣営の冷戦、
 中国―国共(国民党軍対共産党軍)内戦→共産党軍が勝って中華人民共和国成立(1949年)、敗れた国民党軍は台湾に逃れて政権維持。
 朝鮮半島に北朝鮮と韓国とが建国して1950年朝鮮戦争・開始―アメリカが国連軍(安保理はソ連が欠席中に派遣決定)の名の下に韓国軍を支援・参戦(日本の基地から出撃)、それに対して北朝鮮をソ連が支援・中国が参戦、
 その最中の1951年、アメリカなど西側諸国だけで日本と講和条約―日本占領解除、同時に日米安保条約―「極東の安全のため」米軍が引き続き日本の基地に駐留することを認めるも、「日本の安全に寄与することができる」としているだけで、日本を守る防衛義務の定めはなかった。
 (アメリカと西側諸国だけの「単独講和」に対してソ連・中国・インドなども加わった全ての交戦国との「全面講和」とすべきだという運動もあり、日本は非同盟・中立でいくべきだという主張もあったのだが。)
 朝鮮戦争で在日米軍出撃にともない日本国内の治安上の不備を補うために(1950)警察予備隊を創設→保安隊→(1954年)自衛隊へと改称(再軍備)へ
 1959年砂川事件で東京地裁(伊達裁判長)「日米安保条約に基づく駐留米軍の存在は憲法前文と9条の戦力保持禁止に違反し違憲である」と。ところが最高裁は「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には当たらない」とし、また「安保条約のような高度の政治性をもつ条約については、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論)として判断を避ける。
 1960年安保条約改定―日米共同防衛義務(アメリカも日本を守ること)を明記、日米地位協定(米軍への基地の提供と使用・運用の細則―日本の法律に縛られない米軍の特権を定める)も。
 1962年キューバ危機(キューバ革命―カストロらが親米独裁政権を打倒、それに対してアメリカが経済制裁、革命政権打倒を画策、それに対してソ連が革命政権を支援、キューバにミサイルを持ち込み基地を建設しようとするも、アメリカは海上封鎖―米ソ激突(核戦争)の危機―日本では沖縄基地でアメリカが核ミサイル発射準備態勢―寸前でソ連がキューバからミサイル撤去して危機回避。
 1964年ベトナム戦争―日本が米軍の出撃前進基地および後方支援基地に。
 1987年、米ソが中距離核戦力全廃(INF)条約
 1989年冷戦終結―米ソ首脳会談で宣言(しかし、朝鮮半島では北朝鮮が米国と休戦状態にあるものの、その後も核・ミサイル開発など冷戦が続く)
 1991年湾岸戦争―イラクに対してアメリカ等多国籍軍が―日本から米軍出撃
 同年、ソ連解体・WATO(ソ連・東欧諸国が米・西欧側のNATOに対抗して結んでいた軍事同盟)も解体。
 2001年アフガン戦争―日本から米軍出撃、海上自衛隊インド洋で洋上給油支援
 2003年、イラク戦争―日本から米軍出撃、陸上自衛隊サマワに派遣、航空自衛隊も空輸支援
 2014年、新安保法制―集団的自衛権行使の容認―日本が直接攻撃を受けていなくても、我が国と密接な関係にあるアメリカなど他国に対する武力攻撃でも、場合によっては自衛隊が武力行使できることに。

 最近、北朝鮮に対して韓国・アメリカともに休戦状態にある朝鮮戦争の終結と非核化に向け対話(南北首脳会談・米朝首脳会談など)の動き。その一方、米ロや米中の間で「新冷戦」(ウクライナの政変に伴うロシアのクリミア併合に米欧が反発して経済制裁、最近トランプ大統領のIMF条約離脱表明、中国との「貿易戦争」など)。日本は中国とは首脳会談で「自由で公正な貿易体制」「競争から協調へ」「脅威でなくパートナー」と接近(融和へ)。
 いずれにしても、冷戦とは互いに相手の軍備を構えて睨み合っている状態でだが、もはや国家間では戦争(大量破壊・殺傷をもたらす核戦争など)できる状態ではなくなっている。(テロ・武装集団・海賊などの出没や局地的紛争はあっても、軍事同盟を必要とするような戦争はない。)

 日本にとって、国によっては我が国との間で領土問題など困難な問題を抱えている国はあるが、だからといって日米安保条約や米軍基地がなければ日本に武力攻撃を仕掛けてくる必要性のある国、国際社会からの非難・制裁を被る不利益を冒してまで武力攻撃を仕掛けてくる国などあるのだろうか。
 中国・ロシア・北朝鮮などの核軍備は、我が国から見れば脅威だが、これらの国から見れば、米軍の基地と軍港を置いて、自衛隊が米軍と一体的に軍事行動を共にする日本の方が脅威で、自国の軍備固めをしているとも考えられよう。(軍備は「抑止力」というよりも、むしろ脅威なのであって、これらの国―ロシア・中国にしても、北朝鮮にしても―核軍備を持つその理由(動機)は唯一つアメリカの核戦力に対する脅威の故なのだろう。)
 米軍基地を置く日本の国民にとってはその経費(「思いやり予算」などまで)に対する財政負担、それに基地周辺住民にとっては様々な被害と敵国から標的にされるリスク負担を強いられている。
 そのように考えれば、日米安保や米軍基地などない方が、日本とこれらの国との間では互いに脅威はなくなるし、国民・基地住民の負担もなくなるわけである。
 近隣諸国にとって日米同盟の脅威がなくなれば、これらの国々との平和友好協力関係は深まり、領土問題など懸案の問題も平和裡に(外交交渉に集中・徹して)解決に努めることができることになろうというもの(懸案問題は、これまでは日米同盟などに頼った力に訴える姿勢がむしろ外交交渉の妨げとなってきただろうし、アメリカの軍事力に頼るあまりアメリカの意向に縛られ、平和憲法に相応しい主体的な外交力を発揮することができなかっただろうからである)。

 「備えあれば憂いなし」ということで、台風や地震・津波など、いつか必ず襲来するという必然性を持つ自然災害ならば備えが必要不可欠であり、それが万全であれば憂いなしだが、中国・北朝鮮など、いつか必ず攻め込んでくるという必然性があるわけでもない国に対して「備え」(日米同盟や米軍基地などの軍備)があれば「憂いなし」というのは的外れであり、それどころか、そのような軍備は相手からは脅威に感じられ、かえって敵愾心をかきたて攻撃を誘う動機となり基地は標的となる。そのように考えれば、日米同盟・安保条約などないにこしたことはないのでは。つまり、日米安保条約などいっそうのことなくした方が合理的であり、かえって安全・安心だということにならないか。
 日米同盟や米軍基地が日本を守ってくれているというのは錯覚だろう。ソ連にしても中国にしても、或は北朝鮮にしても、アメリカ等に対抗して強がり(大国意識や強国意識)はあっても、日本に攻め込まなかったのは、攻め込んでも得るものはないばかりか、かえって損失・不利益を被ることが分かりきっていて、その気(日本に戦争を仕掛ける意志)がなかったからにほかならない。朝鮮戦争に際して北朝鮮が、或はベトナム戦争に際して北ベトナムが、日本の基地から出撃した米軍に攻め込まれても、日本が報復攻撃を受けずに、何の危険も及ぶことなくて済んだのは、彼の国が弾道ミサイルや重爆撃機などの攻撃手段・能力を持ち合わせなかったからにすぎない(あの時もし彼の国がそれを持っていたら日本は報復攻撃を受けていただろう。北朝鮮は、今はそれ―核ミサイル―を持ち始めており、もし朝鮮戦争が再開されたら、今度は報復攻撃を受けずに済むというわけにはいかないだろう。日米同盟・米軍基地がかえって危険を招くということだ。)

 要するに日米安保条約は何のためになっているのかといえば、アメリカが「日本を守る」という名目で日本に米軍基地を置いて、対ソ・対中・対北朝鮮・対ベトナムその他の軍事作戦に際する前進基地として利用するためであり、自衛隊は米軍基地を守らせ、後方支援のかたちで手伝わせるなどアメリカがそれを利用するためにほかならない、ということだ。
 アメリカから「日本を守ってもらえた」といっても、ロシア(旧ソ連)も中国も北朝鮮も、日本を侵略し日本国民に戦争を仕掛ける意図など初めからあったのかといえば、あったとは考えられまい。
 ロシアは大戦中占領した千島列島を未だに返還せず、日本と平和条約も結んでいないが、列島を返したくないだけで(それを日本に返せば、日米安保がある限り、そこに米軍基地が置かれ米軍が駐留することになるからと警戒)、北海道にまで侵攻してくるとは考えられまい。
 中国は、尖閣諸島の領有権にこだわって、諸島周辺の領海や接続水域で公船や漁船の侵犯問題でトラブルがあるが、そのために中国が日本に戦争を仕掛けてくるとは考えられまい。
 北朝鮮は、日本が米韓に組みし、朝鮮戦争以来アメリカに出撃・後方支援基を提供してアメリカと同盟し、韓国とだけ国交して過去(植民地支配)の清算をおこなったことに反発や怨念があり、拉致問題(拉致した日本人から工作員に日本語を教え込ませて、日本人になりすました工作員を韓国に潜入させてスパイをさせるとか、米韓との「冷戦」におけるスパイ作戦に日本人を利用する等ために拉致したと思われている問題)を起こし、核ミサイルで東京を「火の海にする」などと脅したりもしてきたが、米韓との朝鮮戦争の再開がないかぎり、日本を攻撃するとは考えられまい。
 もしも、中・ロ・北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ち込んで武力攻撃をかけてくるとすれば、これらの国がアメリカと戦争になった時であり、それは日本が日米安保を結んでいて、米軍基地を置き、自衛隊に米軍支援をさせるからにほかなるまい。
 だとすれば、日米安保条約を解消し、日本に米軍基地がなくなれば、そのようなことは(日本がこれらの国から攻撃されることなど)あり得ないことになるわけだ。
 これらの国にとっては、日本が憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認)をそのとおりに守って、日米同盟を結んで米軍基地を置いたりなどしていなければ、日本を武力攻撃しなければならなくなる事態はあり得なくなろう。
 平和憲法は日米安保などとセットにしてはならないのであって、日米安保・米軍基地はもう要らない(ないほうがいい)ということだ。平和憲法とセットにするなら、日米安保ではなく、非軍事の日米友好協力条約とし、それに切り換えたほうがよいのだ、とおもうのだが、如何なものだろうか。

2018年11月18日

徴用工問題 (加筆版)

徴用工とは―朝鮮半島が日本統治下にあった戦時中に日本本土の工場や鉱山などに労働力として動員された人たち。動員は、日本の企業による募集や国民徴用令の適用を通じて行われた。当時の公文書や証言から、ときに威嚇や暴力を伴ったことがわかっている。
 
 1965年、日韓国交正常化にともない、両政府間で日韓請求権協定―日本が韓国に経済協力金(無償3億ドル、有償億ドル)を供与し、両国とそれぞれの国民間で「請求権」の問題を「完全かつ最終的に解決されたことを確認」と明記。日本政府はこれに基づき、徴用工問題は解決済みとの立場。

 1991年日本では参院予算委員会での「請求権」問題に関する質疑で、当時の柳井外務省条約局長が「これまでのいわゆる請求権の処理の状況につきまして簡単に整理したかたちで御答弁申し上げたいと存じます」として次のように述べている。「日韓請求権・経済協力協定の2条1項におきましては、日韓両国及び両国民間の財産・請求権の問題が完全かつ最終的に解決したことを確認しておりまして、また第3項におきましては、いわゆる請求権放棄についても規定しているわけでございます。これらの規定は、両国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権(外国において自国民が身体や財産を侵害され損害をうけた場合に、国がその侵害を自国に対する侵害として相手国に対して国家責任を追及し外交的手続きを通して適切な救済を求める国際法上の権利―引用者)を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではないということは今までも御答弁申し上げたとおりでございます。これはいわゆる条約上の処理の問題でございます。また、日韓のみならず、ほかの国との関係におきましても同様の処理を条約上行ったということはご案内の通りでございます」と。

 1997年、元徴用工2人が戦時中そこで働いた新日本製鉄・現新日鉄住金に対して補償を求めて日本の裁判所に訴訟を起こした、その際の判決は「日韓請求権協定で個人請求権は消滅した」として敗訴、2003年最高裁で敗訴確定。
 
 韓国政府は2005年には、協定が定めた経済協力金には徴用工の補償問題解決の資金も含まれるとの見解を発表。元徴用工の補償は韓国政府が取り組むべき課題とした。その見解を踏まえ、自国の予算で元徴用工や遺族を支援する道を開いた。そして約22万6千人を被害者と認定し、約6200億ウォン(約620億円)を支給。しかし、こうした支援策に不満な元徴用工やその遺族は訴訟に向かった。
 日本の裁判所で敗訴した二人は、他の2人と同社・新日鉄住金を相手どって韓国の裁判所に提訴。韓国の裁判所は、1審(ソウル中央地裁)・2審(ソウル高裁)で、日本の裁判所が出した判決は韓国でも効力を持つと指摘。原告の主張を退けた。これは韓国政府の見解にも沿った判断だった。
 ところが、韓国最高裁は2012年、「日本の判決は、植民地時代の強制動員そのものを違法とみなしている韓国の憲法の核心的価値と衝突する」と認定。当時の労働実態は「不法な植民地支配に直結した反人道的な不法行為」だと指摘し、請求権協定によって個人請求権は消滅したとは見なせないとして、1審・2審破棄、控訴審に差し戻した。これを受けて13年ソウル高裁は同社(新日鉄住金)に請求通り計4億ウォン(1人1億ウォン)の賠償を命じたが、新日鉄住金は不服として上告した。
 先日(10月30日)の韓国大法院(最高裁)は、その上告審で、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、同社の上告を退けた。これにより、同社に1人当たり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定することになったわけ。
 韓国最高裁は日韓請求権協定の交渉過程で日本政府は植民地支配の不法性を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したと指摘し、そのような状況では慰謝料請求権(未払い賃金や補償金ではなく、植民地支配と侵略戦争の遂行と結びついた日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料)は請求権協定の適用対象に含まれると見なすことはできないとした。
 これに対して日本側が反発。河野外相は「請求権協定に明らかに違反し、両国の法的基盤を根本から覆すものだ」と抗議。安倍首相は「判決は国際法に照らして、あり得ない判断だ」と批判。一方、韓国政府は「司法判断を尊重し、被害者たちの傷が早期に最大限治癒されるよう努力していく」とする政府声明文を発表。

 14日の衆院外務委員会―日韓請求権協定(第2条)についての1991年参院予算委員会における柳井外務局長答弁(「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と答弁したこと)「これは間違いないか」との質問に対する河野外相の答弁―「(請求権協定によって)個人の請求権が消滅したと申し上げるわけではございません」と。つまり個人の請求権は消滅していない。だとすれば元徴用工が住金に賠償請求する実体的な根拠はあるということであり、請求権協定違反には当たらないということになる。
 また、同質問者が、原告が求めているのは朝鮮半島に対する不法な植民地支配と侵略戦争に直結した不法行為を前提とする強制動員への慰謝料だと指摘。日韓請求権協定の締結に際し韓国側から提出された8項目の「対日要求政綱」の中に「慰謝料請求権は入っているのか」とただし、92年3月の衆院予算委員会で柳井条約局長が「慰謝料等の請求に」は「いわゆる財産的権利というものに該当しない」と言明していたと指摘。日韓請求権協定で個人の慰謝料請求権は消滅していないということではないか」とただした。また、日韓協定と同年に制定された「大韓民国等の財産権に関する措置法」で韓国民の権利等を消滅させる措置をとったことに関連して柳井氏は、「(日韓請求権協定上)『財産、権利及び利益』について、一定のものを消滅させる措置を取ったわけでございますが、そのようなものの中にいわゆる慰謝料請求権というものが入っていたとは記憶しておりません」とも述べており、「個人の請求権は請求権協定の対象に含まれていないことは明らかではないか」との質問に対し、三上国際法局長は「柳井局長の答弁を否定するつもりはまったくない」「権利自体は消滅していない」と認めた。
 これらの質問によって①1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないこと、②韓国の「対日要求政綱・8項目」に対応する請求権協定には個人の慰謝料請求権は含まれておらず、慰謝料請求権まで同協定によって消滅したとはいえないこと、③日本国内で韓国国民の財産権を消滅させた措置法も、慰謝料請求権を対象とせず、措置法によって慰謝料請求権は消滅していないことが確認されたわけである。
 同質問者が、河野外相に「日韓基本条約及び日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府が植民地支配の不当性を認めた事実はあるか」とただしたのに対しては、外相は「ないと思います」と答弁。ということは韓国最高裁が指摘した「植民地支配と侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料請求権は請求権協定の適用対象には含まれると見なすことはできない」としたことに反論はできないことになる。なぜなら、慰謝料は生命・自由・名誉などを侵された時、その精神的損害に対して支払われる賠償であり、謝罪を前提として支払われるべきものであって、何ら誠意ある謝罪の意志もなく、いわば「こっち(日本政府)は何も悪くないが、そっち(韓国政府)がカネを求めているから、それを『経済協力金』として『供与』した」などと、政府間ではチャラに済まされるとしても、当の被害者にとっては、それで済まされてはかなわない、となるだろうからだ。

 2007年4月、中国人強制連行被害者が西松建設に対して起こした訴訟で日本の最高裁は、1972年の日中共同声明(その中で中国政府の外交保護権は放棄)によって個人が「裁判上訴求する権利は失った」としながらも、それは「個人の請求権を実体的に消滅させることまで意味するものではない」として、日本政府や企業による被害の回復に向けた自発的対応を促す判断を下し、西松建設は被害者に謝罪し、和解金を支払っている。
 このように国家間では請求権問題は国家として持っている外交保護権は相互に放棄したとの協定や約定によって解決したとしても、個人の請求権はそれで消滅したわけではないとされ、そのことは個人の人権問題として国際人権法(世界人権宣言8条など)で重視―国家間の合意により、被害者の同意なく一方的に個人の請求権を消滅させることはできないとされていて、この点では日韓両政府及び両国最高裁ともすべて一致しているのである。
 この種の問題は、政府間の合意だけで済む話ではなく、当の被害者個々人が自らの人権にとって納得がいく仕方でなければ「完全かつ最終的に解決した」といにうことはならない、ということだろう。

 尚、朝鮮半島の日本による植民地支配については、1998年の小渕首相と韓国の金大中大統領が交わした「日韓共同宣言」で日本が「過去の一次期、韓国国民に対し、植民地支配により多大な損害と苦痛を与えた歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し痛切な反省とお詫び」を表明している。小泉政権のときには、元徴用工らに「耐え難い苦しみと悲しみを与えた」と認め、その後もそれは引き継がれた、ということになっている。

 この種の問題では、とかく反日対反韓など民族感情のぶつかり合いになりがちだが、政府や政治家の言動がそれを煽るような結果を招くことなく、またマスメディアも、それに迎合・同調して世論誘導・ミスリードしてしまう結果になってしまうことなく、事実と道理に基づく理性的な論究が必要なのでは

 NHKも新聞各紙も安倍首相や河野外相の判決非難発言に同調し、日本政府の見解だけを伝えるか、その見解に沿った横並びの論調。
 朝日(10月31日付け)の社説は、05年のノ・ムヒョン政権の「請求権協定当時の経済協力金に、補償が含まれるとの見解」を受けて「韓国政府は国内法を整え、元徴用工らに補償した。国内の事情によって国際協定をめぐる見解を変転させれば、国の整合性が問われ、信頼性も傷つきかねない(つまり日本政府が出した経済協力金から補償金を配るのはあくまで韓国政府の責任である―引用者)」として、「日本の政府は、協定に基づいて韓国政府が補償などの手当てをしない場合、国際司法裁判所への提訴を含む対抗策も辞さない構えだ」としている。また植民地支配については「韓国併合の合法性を含め、日韓は国交正常化の際、詰め切れなかった問題がいくつかある」と指摘するに止まっている。韓国側に対しては「判決を受けて韓国政府は・・・・今後に暗雲をもたらすような判断は何としても避けるべきだ」と求める一方、日本政府に対しては「多くの人々に暴力的な動員や過酷な労働を強いた史実を認めることに及び腰であってはならない」としつつも、「政府が協定をめぐる見解を維持するのは当然」だとしている。
 その後(11月20日)朝日の世論調査では、「韓国人の元徴用工が、日本企業に損害賠償を求めた裁判で、韓国の最高裁判所は支払いを命じました。日本政府は補償問題は解決済みとして、韓国側に抗議しました。今回の判決で、韓国へのイメージはよくなりましたか。悪くなりましたか。変りありませんか」と質問し、「よくなった2、悪くなった53、変わらない41」との回答を。
 さて、如何なものだろうか。

 メディアの多くは、国家と国家の請求権の問題と個人の請求権は別で、個人の請求権は政府間の協定によって消滅したわけではないという論点については、この朝日も含めて、とりたてて論じてはいない。
 ところが朝日は、ここにきて11月23日付けのオピニオン&フォーラム「元徴用工判決を考える」で、3人の専門家の見解を取り上げている。
(1)竹内康人・近代史研究家の見解
 安倍首相は国会で朝鮮人の労務動員について「募集」「官斡旋」「徴用」があり、韓国大法院判決の原告は、募集に応じたものであり、強制ではなく自らの意思で働いた労働者であるかのように説明しているが、それは事実に反する。かれらはいずれも戦争遂行のための「強制動員」と呼ぶべきなのだ、として、次のように説明。
 日中戦争が始まって、日本政府は1939年、炭坑や工場などへの労務動員計画を立てた。日本の植民地だった朝鮮から政府の承認による募集で、42年からは朝鮮総督府が積極的に関与する官斡旋で、44年からは国民徴用令を発動し、国策による動員だった。割り当て人員を確保するため、初期の段階から行政や警察が関与、官斡旋では「掠奪的拉致」と記す報告もあり、「2年間訓練を受ければ技術を習得できる」などと甘い言葉で誘われた人もいて、執拗な人集めが行われた。募集や官斡旋で動員されても、職場から離脱できず、監視され、労務担当による暴行もあって、逃げれば指名手配され、見つかれば逮捕された。特定の鉱山や工場は軍需会社として政府によって指定され、そこの労働者を徴用扱いする「現用徴用」というやり方で、旧日本製鉄で働いた原告もその(「現用徴用」の)口だった、と。
 「不法な植民地支配によって労働を強制したことを認め、真相を明らかにし、被害者の尊厳を回復し、次世代に真実を伝えることが大切」。
(2)太田修・同志社大教授の見解
 日韓請求権協定は、植民地支配の責任を不問に付したサンフランシスコ講和条約の枠組みのもと、請求権問題を経済協力で政治的に処理した条約。これに対し、戦時に重大な人権侵害を受けた被害者が個人として直接救済を求める動きが、1990年以降に出てきた。
 韓国の強制動員被害者らが日本で提訴した裁判は「請求権協定で解決済み」との主張に阻まれ、企業に対する賠償請求は2007年までに最高裁で退けられた。協定の交渉過程を検証しようと外交文書開示を求める訴訟が韓国で起こされた。開示された文書を分析してみると、日本側には「過去の克服」の観点から問題が三つ―①1910年の日本による韓国併合に始まる植民地支配は「適法かつ正当だった」との前提で臨み、被害を与えた責任を認めなかったこと、②過去への償いを回避するため、請求権問題を経済協力で処理したこと、③植民地支配や戦争で人権を侵害された被害者の声を受け止めず、条約によって「解決」としたこと。
 協定締結当時は冷戦下で日韓ともに経済開発優先、強制動員被害者の声は韓国の軍事独裁政権に抑え込まれ、「過去の克服」はなされなかった。それが、2005年、ノムヒョン政権が日韓会談文書の公開を受けて「日本政府や軍が関与した反人道的不法行為は、請求権協定で解決したとは見なせない」と表明。元「慰安婦」やサハリン残留韓国人、在韓被爆者を協定の対象外とした。強制動員被害者(元徴用工)をめぐっては12年、大法院判決が「日本の判決は強制動員を不法とみる韓国憲法と衝突する」として日本の確定判決の効力を否定。今回の判決もその延長上にある。
 韓国政府や司法の変化は、植民地支配や侵略戦争の責任を問う考え方に加え、被害者の人権や尊厳回復を求める声の高まりを受けたもの。
 国家間の条約で個人の請求権を一方的に消滅させることはできないとして、人権、人道の観点で強制動員問題の解決をめざす取り組みは国際的潮流でもある。
 「解決済み」と言い続けても問題は解決しない。日本政府や企業は個人の被害に向き合い、国際基準にかなった過去の克服をめざす姿勢が求められている。
(3)奥園秀樹・静岡県立大准教授の見解
 大法院が一歩踏み出した背景の一つには、ムンジェイン政権が前大統領の弾劾と罷免という特異な過程を経て成立し、山積した過去の弊害の清算を看板に掲げていることがあり、政治の流れの中での判決となった側面があることは否定できない。それに、より大きいのは韓国の司法の特性。パクチョンヒなど軍出身の大統領の下では、司法は統治の道具として使われたが、87年の民主化後、司法は過去の反省から、政府にできない社会正義を実現する砦になるという使命感と国民の側に立つ意識が強くなっていて、今回の判決にも、その使命感が色濃く出ていると思われる。
 日韓国交正常化による「65年体制」は、韓国併合が合法か違法かは平行線のまま、現実的対応をしたが、判決はそのあいまいさを放置せず、正すことを求めているようにも映るだけに、65年体制を崩しかねないリスクを伴う。とはいえ、現時点までの日本政府の対応は少し行き過ぎに見える。「完全かつ最終的に解決済み」の一点張りでは韓国世論を刺激し、韓国政府の選択肢を狭めてしまう。
 日本の立場は、請求権協定で個人請求権は消滅しないが、外交保護権を互いに放棄している以上、個人の請求に国として対応できないというもの。それをきちんと説明し、理解を求めるべきだろう。(日本政府が被告企業に「解決済み」なのだから賠償や和解に応じるなと圧力をかけているともいわれるが、それこそ行き過ぎだろう―引用者)
 日本は騒ぎすぎず、韓国政府の出方を待つべき。

 というのが御三方の見解。さて、如何なものだろうか。

2018年12月14日

チコちゃんに叱られる!―なぜ怒らない

 直近の世論調査―NHK12月10日ニュース
  内閣支持率
    支持41% 理由(他よりよさそうだから46%、支持する政党だから19%)
   不支持38%理由(政策に期待が持てないから35%、人柄が信頼できないから35%)
  政党支持率
    自民党34.5公明3.6立憲民主7.6国民民主0.9共産3.0維新0.6社民0.4自由0.2希望0.2 
    支持なし41.1 
  改定入管法
    大いに評価6ある程度評価32あまり評価しない34まったく評価しない20
  消費税10%に  賛成29 反対36どちらともいえない27
  普天間基地移設の政府方針に賛成22 反対30 どちらともいえない40 

 安倍自民党政権に対しては(思想傾向、政策、やり方、それに首相や大臣の人柄にも)不信・疑義・批判・反対があんなにも多いのに、なぜ自民党支持が圧倒的に多く、なぜ野党支持が少ないのか。なぜ安倍内閣支持率が反対を上回るのか。選挙ではなぜ自民党議員を選び、自民党に政権を委ね続けるのか。
 それは、ずうっと自民党から議員を選んで政権を担当させて、それで都合のいい思いをしている向きが財界や企業その他に多いこと。それに庶民の間には、安倍首相や自民党のやり方には「まずいな」と思うところは多々あっても、かといって自民党以外に政権を託せるもっとましなのがあるとも思えない、どっちみちダメだという諦めがあるからだろう。
 野党はといえば、一回政権交代させ民主党に政権担当させてみたものの、東日本大震災と原発事故という国難に遭遇して対応に窮したこともあって、どうにもうまくいかず政権交代は失敗だったという悪いイメージが焼き付いてしまっている。
 自民党はだめでも、野党よりはましだし、安倍内閣はだめでも「他よりはまし」だろうから、ということになってしまっているわけだ。
 このような政治の現状に対して「ああだ、こうだ」口説いてみたところでどうしょうもないし、「もうどうでもいいや」と諦め、「そんなの知ったこっちゃない」と投げやりとなり、「われ関せず」で無関心・不感症となり不合理とも理不尽とも感じなくなり、無頓着となる。だから何があっても危機感を覚えず何とかしなければという切実感も覚えない。
 星雲の志・理想を抱いて然るべき若者にもそれがなく、年配者から何か言われると「しらける」だけ。
 戦後復興期、若者たちの間で盛んだった学生運動も60年「安保闘争」で空前の盛り上がりを見せたが、70年をピークにして以後すたれてゆき、受験教育の偏重とノンポリ(政治回避)教育で若者たちの関心は受験・就活の知識情報に偏るとともに、電子ゲームの発達・普及で若者の頭はゲーム脳に偏り、政治的無関心・無気力・無責任(三無主義)の風潮が蔓延するようになった。
 そして今、「そんなの」知らなくても別に困らないようなことならいいが、社会生活を営む上で必要不可欠な肝心のこと(「人権とは」「平和とは」「民主主義とは」「憲法とは」等々)を知らずに「ボーっと生きてる」向きが多くなっているのは確かだろう。
 戦中・戦後の苦難のどん底から這い上がって手にした平和憲法、そのバトンを握りしめてスタートし受け継いでひた走った世代は数少なくなり、それを放り出して逆コースかどっかのコースにバトンを切り替えようとする、そんな政党・政治家とそれに同調する情報発信者に惑わされて「やれオリンピックだの、やれ万博だの」と浮かれてノホホンと生きている日本人のなんと多いことか。

 そういったことがアベ自民党の長期政権と欺瞞政治を許している大きな原因になっているのでは?
 そのような(一強多弱)状況を打開するにはどうすべきか。それには、未だ若く頭脳が柔軟で凝り固まっていない人たちにフェイクでないファクト情報や正確な知識を精一杯提供し、アピールして奮起するよう啓発・支援に努めなければならない、それしかないだろう。諦めずに。

2018年12月19日

「辺野古移設が唯一の解決策」なる言い分には正当性ない

 普天間―宜野湾市の住宅密集地にあって危険極まりなく住民から撤去が迫られている飛行場を、その「唯一の解決策」だとして同県内の名護市辺野古に「移設」すべく「代替施設」建設するのだというのが日本政府。
 宜野湾市の住民にとっては、とにかく同市以外のどこへでも撤去してほしいところなのだろうが、沖縄県民にとっては同県に在日米軍施設の大半が押し付けられている、その過重な危険負担をいつまでもそのままにして、普天間飛行場を撤去するにしても同県内に移設するのではなく、そこは無条件に撤去・閉鎖して基地負担を縮減すべきだというのが筋なんだろう。
 その普天間飛行場は米軍でも海兵隊の基地。海兵隊とはそもそも事に臨んで戦地の最前線を移動し続ける出撃部隊なのであって、駐留基地にずうっと居ついてその周辺地域(沖縄はもとより日本)だけを守るという部隊ではない。沖縄は朝鮮半島や台湾、或は尖閣諸島など有事に際して前線拠点として地政学上有利な位置にあるとしても、平時そこでの演習・訓練は韓国など米国以外の同盟国を交えた合同演習は(日本では沖縄であれどこであれ)できないことになっていて、グアムか韓国・フィリピン・オーストラリアなどの同盟国のどこかでやっており、在沖海兵隊は一年の半分以上は沖縄の外に出ていて、そこにはいないのだ。
 米国にとって冷戦終結後の今は戦略上、対テロ戦争への迅速な対処とアジア・太平洋の紛争地域への即応体制が必要とされていて、米軍再編で海外基地を削減し米国領内(本土以外にはアラスカ・ハワイ・グアム等)に集約、在沖海兵隊も前線拠点はグアムに移され日本を守るための存在ではなくなっているということだ。
 ところが米国政府は、在沖海兵隊はグアムに移転すれば宜野湾市の普天間基地は不要で無条件で撤去してもいいはずなのに、普天間基地撤去には代替施設が必要だとしてグアム移転計画とは切り離して名護市辺野古に新基地建設を求め、しかもその新基地建設費を日本に全額負担させるうえ、グアムへの移転経費・基地建設費もその6割を日本に負担させることにし、辺野古の新基地建設に日本側が同意しないと、グアムへの移転も実施しない、両者はセットなのだとしている。
 米国政府にとっては、たとえ制約があって使い勝手が悪く、グアムに移転すれば不要になるような基地であっても日本がわざわざ建設費を出して、タダで仕えるのであれば、それでいいわけだ。
 それを日本政府は、普天間基地は撤去しても、その代替施設を辺野古に建設して、あくまで沖縄に米軍の海兵隊基地を維持することは日本の安全保障にとって必要な「抑止力」なのだ、と言い張ってその方針を押し通そうとしているのである。
 「抑止力」といっても在沖海兵隊は守備隊のように基地に踏ん張ってその地その国を防衛する部隊ではなく敵前に出撃する部隊なのであって、平時には演習・訓練に出かけて沖縄にはいないことが多く、沖縄はもとより、日本を守るために置かれている部隊ではないのであって、抑止力にはなっていないのだ。それにもかかわらず日本政府は、それを日本の安全保障に必要な「抑止力」だとして建設に着工し、埋め立てを強行しているのは、米国政府の立場からすれば、それらは日本政府が考える「日本のための措置」なのであって一義的には「日本の問題」なのだというわけである。
 だとすれば、沖縄県民にとって交渉は、やはり日本政府を相手とする以外にないわけだが、彼らからしてみれば、日本政府が主張する「辺野古移設が唯一の有効な解決策だ」という言い分には、どう考えても正当性があるとは思えないわけだ。

2018年12月27日

沖縄県民投票と米大統領宛の電子署名(加筆修正版)

 辺野古米軍基地建設のための埋め立てに賛否を問う県民投票。過半数を得た方の結果が投票資格者総数の4分の一以上に達した場合、結果を知事は首相及び米大統領に通知する。というそれだけのことのようだが、それには次のような意味がある。
 宜野湾市の普天間基地撤去は当然だとしても(そもそも普天間は米軍から無法に強奪された土地で、返してもらうのに移設先を提供せよなどと交換条件を付けるのは筋違いであって無条件撤去が当然)、その代替施設を辺野古の沿岸部を埋め立ててまで建設してよいものか、その一点についてだけ県民に賛否を問う。二者択一だが、その判断に際しては、その人が、国の安全保障政策の方が大事だという立場に立つか、安保政策のためとはいえ沖縄県民に負わされている過重・理不尽な基地負担はもう沢山だという立場に立つかで、立場が分かれるだろう。「普天間基地撤去のためには辺野古移設もやむを得ない」ということは国の安全保障のために沖縄のどこかでが引き受けるしかなく辺野古の「埋め立てもやむを得ない」ということで賛成ということになるし、賛成か反対かのどちらかであり、「どちらとも言えない」ということはあり得ないだろう。
 もし、賛成が反対を上回れば県民は国の安全保障の方が大事なんだということになり、反対の方が上回れば、県民は沖縄の平和な「美ら海」を守ることの方が大事なんだということになるだろう。
 投票結果には法的拘束力はなくても、反対の方が上回った場合、それを無視して埋め立て建設を強行するとなれば、沖縄県民にとっては「琉球処分」にも匹敵する屈辱の歴史を刻み、県民感情を大きく損なう結果となるだろう。
 この県民投票を一部の市町で、投票実施に要する経費を計上した補正予算案を議会が否決するという事態が起きている。それは首長が政権寄りで、議員も辺野古移設賛成派が多数を制している市町で起きているが、「県民投票つぶし」の政治的策謀にほかなるまい。県民投票は市民団体が9万人を超す署名を集めて請求し、それ応じて県議会が実施を決めたもの。投開票事務等の処理は市町村の選管が当たることになっているが、その県民投票の事務処理は市町村の法的義務となっていて、「議会の判断は重い」との理由でそれを行わないことは違法となる。市町民には辺野古基地建設に賛成であろうと反対であろうとその意志を表明する権利があり、その投票権が首長や議会によって奪われ、投票機会が剥奪されるようなことがあってはならない。このいわばボイコットが強行されたならば、それはその市や町の民主主義にとって消し去ることの出来ない汚点として歴史に刻まれるだろう。

 沖縄県外の人は投票できないが、米大統領宛の電子署名ならできる。オバマ政権以来ホワイトハウスにはネットで請願署名を受け付けるウエブサイトが設けられていて、署名開始から30日以内に10万人分集まれば、ホワイトハウスは60日以内に何らかの対応を行わなければならないことになっているのだそうだ。今回のそれは母方が沖縄出身でハワイ在住の日系4世ロブ・カジワラ氏が呼びかけたもので、「沖縄で県民投票がなされるまで辺野古・大浦湾の埋め立て停止を命じて下さい」というもの。1月7日(30日目)で(当方の一筆も含めて)20万筆に達したとのこと。トランプ大統領はこれにどう対応するのか不透明だが、たとえ無視で済まされたとしても、内外の著名人も呼び掛けに加わって沢山の心ある人々が署名を寄せメディアがそれを取り上げれば、少なくとも「あれだけの請願があった」「なのに大統領は・・・・」という事実は消去されず歴史に残るわけだ。

2019年01月01日

「一強多弱」を脱するには

 自民党はイデオロギー(思想)的には、過去に日本の国が行った戦争や植民地支配、圧制(国内外の反対分子抑圧)などに対して肯定はしない(よかったとは言わない)までもやむを得ずしてそうせざるを得なかったもので罪はなかった、といった無反省は歴史認識(歴史修正主義あるいは靖国史観)をもち、いわば「日本国家ファスト」の価値観をもつ「日本会議」や「神道政治連盟」などの右翼的運動団体をイデオロギー的な支持母体にしている。
 しかし自民党が「一強」たる所以は財界(企業経営者・資産家)などの経済的有力者の資金と組織人材(エリート)によって支えられていて、政権の座に就いた経験は最多で政権担当能力から盤石な安定性があると見られるからだろう。(朝日新聞は12月30日の社説で、12月調査の内閣支持率は40%だが、その「理由は『他よりよさそう』が圧倒的だ。経済はそれなり。野党は頼りない。だからとりあえず、現状維持でいい、ということなのだろう」と論評している。)自民党に政権担当能力があるとはいっても、それは多分に思い込みで、閣僚の顔ぶれ・答弁ぶりからみればそうは思えず、その程度なら野党の中にはもっとましなのいるとも思われるし、いずれにしろ客観的データに基づいたものではない。
 その政策の基調は、企業の繁栄と自由な利潤追求・最大化にあるが、そのために都合のいい、或はあまり妨げにならない政策(安保法制、防衛費増額、辺野古基地建設、改憲、アベノミクスと称する金融緩和・財政出動・成長戦略、消費税増税・法人税減税、原発再稼働、働き方改革外国人労働者受け入れ拡大、カジノ容認など)が取られる。しかし、それらの諸政策には庶民からは賛成よりも反対の方が多い。
 「多弱」な野党が、それに対抗するには、自民党の政策に対抗・反対する政策と、自民党の右翼的イデオロギーと政治モラルの欠如(嘘・ごまかし・横暴)に対して、立憲主義と政治モラルの回復で基本的一致にこぎつけて、共通政策(反アベノミクス、反安保法、反改憲、反消費税、反原発、反辺野古基地建設など)の下にしっかりした共闘体制を構築しなければならない。その野党連合が自民党政策に反対する庶民の不満・怒りを吸い上げ、結集する「受け皿」たるべく、その存在を、マス・メディアを通じて国民にアピールし、各党協調し総力をあげてパワーフルに活動を展開する。「一強多弱」を脱するにはそれ以外にないだろう。

2019年01月16日

心情から発想(再加筆修正版)

 人々の知識・技術・言動・意見・選択や教育者・宗教者の教え、学者の言説・知識・理論や政治家の政策・法案など、それらの発想は各人の心情(思い・感情)から発するものと考えられる。つまり、まずは心情(思い)があって、それを実現するツール(手段)として言葉・知識・理論・技術・方策が知性によって考え出される。知性に優れた才智があれば心情(思い・願望・欲望)は達成しやすい(昨今では、才智はなくとも人工知能AIを利活用できるようになりつつある)。
 心情には、愛憎・好き嫌い・快苦・喜怒哀楽の感情・不安・恐怖心があり、願望・欲望もあり、好奇心・探究心・協力心・教育心(教え育てたい心)・公徳心・良心・正義感・慈愛(思いやり)・博愛心・義侠心・アイデンティテーに対する心情もあれば欲心・邪心(よこしまな心)・野心・野望・慢心・対抗心・闘争心・功名心・嫉妬心もある。それらの心情は物事を見・聴き・触れ・読み・知ることによって心に生じる。その場合、対象を生で見、聴き、触れ、実体験・見聞して認知する他に、人(親や教師など)から教え聞かせられたり、メディア(テレビ・ラジオ・新聞・書籍・インターネットなど)を通じて認知する。その点で教師やメディアの伝えようによって心情は大きく影響される。
 それらの心情は、その人の境遇(人間関係・生業など生活環境の中での生まれ育ち)から生成され、生まれ育った土地や時代・世代によって心情に差異・特異性があるものと考えられる。
 このブログの評論も、当方の境遇からくる心情から発想され(考え出され)ているのだろう。(当方のその境遇とは―祖父は戦前憲兵をしたことがあり、戦後は自分で考案した農機具の行商で貧しい借家暮らし。父は警察官で戦争末期には兵隊にもなって、その留守中母子は母の実家の防空壕に隠れたりして過ごし、乳飲み子の弟は栄養失調で死に、叔父2人は戦死したが、父は終戦で無事帰還し、警察官に復帰。あちこち転勤し、その度に子らは転校させられ、よそ者の悲哀も味わった。占領期間中は進駐軍の米兵が公会堂に来て聖書の話をしたり、ジープにパンパンガール(売春婦)を乗せて通り過ぎるのをよく目にした。夏休みともなれば祖父が出た庄内の家にリュックサックを背負って米もらいに行ったりもした。父は病気で早逝し、母子家庭ながら奨学金で大学まで進学できた。その時、祖父からは大学に入ったら「アカになるからやめろ」と云われたりしたが、実際、折からの「安保闘争」で連日デモ、教授も参加して授業は休講といった日々が幾度かあった。どうにか卒業し、私学の教員になり、社会科を担当した。その学校の「建学の精神」―創設者の言葉―は「古の教育は心情を重んじ、現今は一般に才智を重んず。才智より出でたる行為は軽薄なり、心情より出でたる行為は篤実なり。人間処世の要訣は身体知識と共に心情の積極的性質を存分に鍛錬するにあり。」というものだった。同校で教職に精一杯取り組んでどうにか定年まで勤めた―あらまし、このような境遇の下で暮らしたせいで、どちらかといえば競争や強者を嫌い、張り合うことを避け、弱い方を味方したがり、「ジャイアン(ガキ大将)とスネ夫(腰ぎんちゃく)」タイプを嫌い、権威・権力・差別・不正を嫌い、戦争を嫌う心情をもつようになったのでは?)

 マルクスとエンゲルの例―マルクスはユダヤ人弁護士のせがれ。大学の法学部に入学したものの、詩作も法学も挫折、哲学博士号は取得したが、教授職は断念。新聞記者になったが、折からの「木材窃盗取締法」制定で、それまで慣習で森に入って薪を拾い集めていた貧しき人々の群れを官憲が馬上からサーベルを振り上げて追い散らす有様を紙上で告発・批判、新聞は発禁となった。そこから経済・政治批判に踏み込むようになった。一方エンゲルスは父が紡績工場の経営者でその後継ぎの身でありながら、工員の扱いに反発し、一女子工員を愛した。マルクス・エンゲルス共に哲学者ヘーゲルの流れを汲むグループに属していたが、そこから袂を分かち、独自の路線に向かって意気投合した。二人は学者か資本家として体制側に身を置いて安住するよりも、アンフェアで不条理な社会の有様を見るに見かねて、その実態の解明と変革の運動に身を投じ、敢えて苦難の道を選んだのだ。妻は貴族の出だったが、赤貧に甘んじて夫を支えた。
 二人は志を同じくする他の仲間と共に活動するために加入した「正義者同盟」を「共産主義者同盟」と改称し、「万国の労働者、団結せよ!」と謳ってその綱領として世に出したのが「共産党宣言」であった。 この年ヨーロッパ各地で革命や政変が巻き起こったが、労働者が政権を樹立するには至らず、共産主義者同盟も間もなく解散した。その後は、マルクスは以前から国外追放で、エンゲルスも共に移住生活を余儀なくされ、政治活動は封じられ、哲学・経済学の研究と著作に専念。大著「資本論」に取り組み、マルクス亡き後はエンゲルスが引き継いで、それを完成させた。
 要するに所謂「科学的社会主義」も資本主義経済システムの本質を解明した『資本論』も、マルクスとエンゲルス二人の境遇からくる心情に発したものと考えられる。

 1928年、戦争を違法化した不戦条約の例―それは米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンの合意で作られたが、それを発想したのはシカゴの一弁護士で、彼の「米国が戦争に巻き込まれないでほしい」「自分の子どもを戦地に送りたくない」という思い(心情)から発想されたものだといわれる(米国の国際法学者オーナ・ハサウェイが指摘―朝日1月10日付オピニオン欄)。
 
 日本国憲法の例―第二次世界大戦後、その制定に関わったマッカーサーや幣原喜十郎をはじめ、GHQ民生局のホイットニーやケーディスやベアテ・シロタら、それに鈴木安蔵ら憲法研究会の学者たち、帝国議会委員会の芦田均・鈴木義男ら議員、連合国極東委員会の各国代表、彼らの思い(心情)から新憲法が作られ、制定された。(マッカーサー回顧録によればマッカーサーを訪れた幣原首相は「新憲法を起草する際、戦争と戦力の維持を永久に放棄する条項を含めてはどうかと提案した。日本はそうすることによって、軍国主義と警察による恐怖政治の再発を防ぎ、同時に日本は将来、平和の道を進むつもりだということを、自由世界の最も懐疑的な連中にも納得させるだけの確かな証拠を示すことができる、というのが首相の説明だった。----私は腰がぬけるほど驚いた。----首相は----顔をくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった」という。)
 彼らの心情は、当時それを支持した大多数の国民(1946年5月27日付けの毎日新聞の世論調査では「象徴天皇制」支持85%、「戦争放棄条項」必要が70%)にも共有されていたものと思われる。
 当方は、当時は幼く、世の中が暗闇から青空に変ったぐらいの思いしかなかったが、長ずるに及んで学んだ憲法の前文・条文に共感し、最近、制定当時の人々と心情を共有している気になって、その気持ちで憲法を歌にして、日頃歌っているわけだ。

 安倍政権の改憲案、安保法制、消費税増税、アベノミクス、辺野古基地建設強行、原発再稼働等々の政策の例―これらは安倍首相をはじめとする自民党とそれを支持する財界・米国政府の思い(心情)から発想されている。とりわけ改憲は安倍首相の祖父岸信介の思いを引き継いでおり、その情念(執念)に発していると思われる。
 辺野古基地建設に対しては、沖縄県民(ウチナンチュー)の思い(琉球の島々が二度と標的にされ戦場にされることなく、平和な美らの海に戻ることをひたすら願う心情)あるも、ヤマトンチュー(本土)の政府には従わなければならず、ヤンキー(米軍)に守ってもらうしかないのだから辺野古も「やむを得ない」として賛成する向きもあるし、県民投票の結果はどうなるかだ。
 辺野古沿岸埋め立て基地建設の賛否を問う県民投票を求めて仲間と署名を集めて投票実施決定にこぎつけたものの、実施を拒否している市町の首長・議会に抗議して一人ハンストをぶっている(宜野湾市庁舎前テント内で断食、夜は寝袋で眠る)若者の心情(思い)と、それを無視し突っぱねている首長らの心情・思惑があるわけである。

 心情とは心に思っている「本音」でもあるが、欲心・野心・下心などそれをそのまま言葉や行動に表すと倫理や法に触れる違法・脱法行為となって人々の非難を被る恐れがある場合、それを才智(悪知恵)によって巧妙に理屈を付け、法解釈をねじ曲げて合理化・正当化するか、或は本音を隠して心にもない正論を振りまく―つまりフェイク(欺瞞・嘘・ごまかし)で繕う(安倍首相の言う「一点の曇りもない」とか「心に寄り添う」とか)。
 トランプ大統領の例でいえば、彼自身の心情(邪心?)から発するアメリカ・ファスト政策とともにフェイク手法がある。(ワシントン・ポスト紙の調査によれば)トランプ大統領の「うそ」(裏付ける事実のない)主張は、政権発足2年間で8,000回以上だとか。
 先日(1月7日)新聞に意見広告が大きく見開きで出ていた。油まみれと思われる一羽の海鳥の写真に「嘘つきは、戦争の始まり」との見出しで「『イラクが油田の油を海に流した』その証拠とされ、湾岸戦争本格化のきっかけとなった一枚の写真。しかしその真偽ははいまだ定かではない。・・・・・」と短文が付されていた。これを出した宝島社の広告意図をネットで調べてみると次のように記されていた。「気が付くと、世界中に嘘が蔓延しています。連日メディアを賑わせている隠蔽・陰謀・収賄・改ざん、それらはすべて、つまり嘘です。それを伝えるニュースでさえ、フェイクニュースが飛び交い、何が真実なのか見えにくい時代になってしまい、怒ることを忘れているように見えます。いま生きる人々に、嘘についてあらためて考えてほしい。そして嘘に立ち向かってほしい。そんな思いを込めて製作しました。」と。これは広告主(宝島社)の心情を表した文であるわけで、これにはつくづく共感。

 年配者と若者など世代間で心情的にギャップがあり、習熟し身に付けている知識・技術にもギャップがある(年配者は昭和の時代を生き、社会的経験を積んでいて新聞・放送から情報を得ているのに対して若者は平成しか知らないが、スマホを駆使してあらゆる情報をキャッチ・発信できる)。互いに「そんなことも知らないのか」「そんなこともできないのか」「ボーっと生きてんじゃないよ!」などといらだち、上から目線で教え込もうとしたり、突き離したりしがちである(いわゆる世代間対立)。そうならないように気を付けて、というよりかむしろ互いに刺激を得て新鮮な対話を楽しむ感覚で相互的寛容と自制心を持ち合い、聞く耳を持って対話・意見交換に努めなければならない。とりわけ普遍的な道徳や歴史認識・憲法理解などについては互いの心情の共通点・相違点を認め理解し合って、可能な限り(といっても当方と安倍首相などとではそれは不可能かもしれないが)共通理解に近づき共通意識を持てるようにしなければならないだろう。

 人それぞれ(特有)の心情(思い)があり、それに応じた(相異なる)考え(人生観・世界観・価値観・思想・信条・ポリシー・政策・意見)をもち、理屈(論理的正当性)を付けて主張する。そして対立・論争したりする。論争して打ち勝つ(相手を論駁する)には説得力(言説に相手を納得させる力)をもたなければならず、説得力を持つには言説に論理的正当性と実現可能性(確実性)を備えなければならない説得し相手を納得させるためには、先ず相手と会し、対話・論議をしなければならない。そして互いに相手の意見・主張の理非(正当性・確実性)を引き比べ、相互に調整(修正・譲歩)を重ねて合意に近づくように努めなければならないのだ。
 但し、各人の心情(思い)・意見・ポリシーがどうあろうと、一般に世の中で確定している事実認識・科学的知識・学問的真理・倫理・道徳・人権・法(憲法・国際法・法律・条例など)は社会の構成員(国際社会や国民・県民)全員に対して適用・拘束し尊重・順守されなければならず、それらに対して心情的に気にくわないからと言って無視したり、逆らったりすることはできないそれらに異論をもち、改変を求めるならば社会の構成員全員を納得させられるだけの説得力(論理的正当性と実現可能性)のある対案、或は異説を打ち出さなければならない
 安倍政権の改憲策動や諸政策・政治姿勢・諸問題への対応は、この点で如何なものだろうか。
 憲法問題では、集団的自衛権の行使容認の解釈改憲から自衛隊明記の明文改憲、それに立憲主義の踏みはずしも問題。
 沖縄の辺野古基地建設の問題では、埋め立ての沖縄県による承認撤回を、行政不服審査法を悪用して(防衛省の申し立てを国交大臣が審査するというやり方で)執行停止させたとか、辺野古基地建設に関して県民投票で賛否を問う沖縄県議会の決定に対して一部の市町が投開票事務処理を拒否していることにも問題がある。
 原発問題では未曾有の事故が起きたにもかかわらず、性懲りもなく原発にしがみついて再稼働。
 経済政策では、日本経済の実体と多くの国民の実感ともかけ離れた経済認識に基づくアベノにクスと消費税増税問題。
 外交政策では、過去における朝鮮半島の植民地支配と戦後その清算をめぐる歴史認識、ロシア・中国との領土問題をめぐる歴史認識でも相手国との隔たりがあり、友好協力関係が損なわれている。
 森友・加計問題では、国政の私物化に問題があり、それに伴う公文書の改竄・隠ぺい、虚偽答弁、その他の問題でもデータのねつ造、統計の偽装などモラル・ハザードの問題もある。

 安倍政権のこれらの政治・政策が成功することはないだろう。これらの政治は首相はじめ政権に関わる人たちの心情から発したものであり、そこに欲心・功名心・野心など邪心があるかぎり、いかに才智を弄しても、国民の大多数が納得し受け入れられるだけの十分な(論理的正当性・公正性と目的実現の確実性・信頼性を必要とする)説得力を持ち得ないからである。

2019年02月01日

フェイク内閣とマスコミ

 今の内閣、どう論評する?と訊かれて、とっさに「フェイク内閣(まやかし内閣)だ」「とはいっても、そんなことには寛大な向きが多いから、支持率は下がらない」と返した。後で「フェイク内閣」なんて言ってはみたものの、そんな呼び方あるのかなと、その文字でネット検索してみたら、やはりその用語が出ていて、そこに安倍政権に関する評も出ていた。その一つには「もはや#フェイク内閣という呼称がふさわしいまでに国会や会見で・・・・事実歪曲を繰り返す官邸」などの指摘が見られた。

 朝日「声」欄の川柳には「よくもまあ不正不祥事あるもんだ」、それに「何しても許される国許す民」などと詠んだものもあった。同欄の『かたえくぼ』には「『計算違い』加計と統計―安倍首相」とも。
 ことほど左様に、この政権には公文書やデータの改ざん・捏造・隠ぺい・偽装・ごまかし答弁が多く付きまとう。子供になら「嘘は泥棒の始まり」と諭し、当方が在職した学校では校長先生が「善悪に潔癖になろう」と生徒に訓辞していたものだが、国の政権に対しては、有権者の多くは何故か寛容。「何しても許される国許す国」となってしまっては、この国の子供・若者たちの心情も歪んだものになってしまうのではと、モラル・ハザード(倫理崩壊)に憂国の情を禁じえないのだが、如何なものだろうか。

 ようやく始まった通常国会本会議の代表質問に対する首相の答弁。「ああ言えば、こう言う」(相手の言うことに素直に答えず、理屈をつけて言い返したり、態度を曖昧にしてやり過ごす)というやり方。
 政府が消費税増税の根拠としていた「賃金上昇」は「毎月勤労統計調査」の不正問題を受けて実質賃金は下方修正され、伸び率がマイナスになる可能性が明らかになっており、政府の言う「賃金上昇」は虚構だったではないか、と問われると、「毎月勤労統計の数字のみを示したことはない」として、労働組合の「連合」による調査をもち出して、「5年連続で今世紀に入って最高水準の賃上げが継続している」と答弁。
 しかし、これは物価上昇を度外視した名目の賃上げ率であり、物価上昇分を差し引いた実質の賃上げ率では1%程度に過ぎず、むしろ今世紀最低のレベルとなっているのが事実。なのに「所得環境は改善しているとの判断に変更はありません」と答弁。
 また実質賃金が落ち込んでいるとの質問に対し、首相は「国民みんなの稼ぎである総雇用者所得は実質でも名目でも増えている」とも答弁。しかし、総雇用者所得は毎月勤労統計の一人当りの現金給与総額に雇用者数をかけたもので、その勤労統計に不正があっては、それも成り立たないのでは。
そもそも総雇用者所得には大企業の正社員から非正社員、パトや日雇い労働者(非正規雇用は6割近い)、それに賃金労働者だけでなく会社の役員報酬、議員歳費まで含まれているのでは?そんな総雇用者所得が増えても1人当たりの所得が減っていれば、経済が拡大しても個人の所得は減っている可能性があるのであって、大事なのは一人あたりの給与所得が増えること。また給与が上がっても、それ以上に物価が上がれば購買力は下がるので、物価上昇率に相応した賃金(実質賃金)のアップが必要。実質賃金は安倍政権がスタートしてから一貫して下がっている。だから「戦後最長の景気回復」などといっても、庶民にはそんな生活実感は全くないわけである。

 2014年の消費税8%増税を契機に、家計調査の実質家計消費支出は年額25万円も落ち込んでいる。また一国全体の消費を捉えるGDP(国内総生産)ベースでみても実質家計消費支出(帰属家賃を除く)は落ち込んでいて、日本経済は深刻な消費不況に陥っている。こんな状況下で5兆円もの大増税を強行すればどうなるのか、と問われると、「GDPベースでは16年後半以降増加傾向で推移し持ち直している」と答弁。
 しかし、そのGDP統計の数字は帰属家賃が除かれておらず、その家計最終消費支出には架空の消費である帰属家賃(持ち家の所有者が、家賃を払っていると想定して計算された家賃)が含まれていて、その分を除くなら実際の消費は3兆円減っているのが事実で、質問者は「フェイク答弁だ」と批判している。

 2月4日付け朝日新聞の「政治断簡」で佐藤武嗣・編集委員が「『統計でウソをつく法』を知る」と題して書いていた中で次のように指摘していた。
 「首相は施政方針演説で、統計数字をいくつも登場させた。例えば、『新三本の矢』の成果として『児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は24%から42%に上昇した』という。しかし、『全国ひとり親世帯等調査』データはあるも、その中で『進学率』データは見当たらない。また調査自体は約4千世帯対象だが、『進学率』算出元のサンプル数は260弱で、統計的意味が薄い『アンケート』だ。しかも調査時点では『給付型奨学金』は支給されていないし、『扶養手当増額』も調査の3か月前に始まったばかりで、これらが進学率を押し上げたとは言えない。統計もどきでデータをねじ曲げれば、どんな結果でもひねり出せる。都合のよい数字が独り歩きし、人を欺ける」(概略)と。

 政権が「何をしても許される国許す国」といえば、この国の民は権力者のフェイクに対して、そもそも寛容なのか、それとも騙されやすいのかだ。後者の方だとすると、それにはメディアを利用した政権による印象操作によるところが大なのでは。
 メディア(新聞社や放送局)には、営利企業としての商業主義的側面と社会の公器としての「権力の監視役」という両面があるが、安倍政権の圧力と統制あるいは懐柔によって一部のメディア(読売・産経など)は「権力の監視役」という役割を捨て、自ら権力にすり寄り(各新聞や放送局の幹部や論説委員が安倍首相との会食や懇談を重ね)政権の広報機関・御用新聞に化し、「公共放送」のNHKは「国営放送」に化したかの感がある。
 (国会論戦では首相は野党の厳しい追及にまともに答えられていないのに、NHKニュースでは質問と答弁のそれぞれ切り取った部分だけをつなげる報じ方で、あたかも首相が卒なく論破しているかのように見せるなど、政権の意向を忖度したかのようなニュース報道が際立つ。NHKの籾井前会長は「政府が右というものを左ということはできない」と発言したことがあったが、上田現会長は朝日新聞のインタビューで、公共放送と政権との距離は適切かどうか訊かれ、「それ(答え)は控えさせていただきたい」とのこと。このインタビューで上田会長は、元NHK記者が出版した著書で森友学園問題を報道する際に「おかしな介入」があったと指摘していることについて尋ねた質問にも「私の立場からは答えを控えさせていただきたい」。また「日曜討論」に際して録画した安倍首相へのインタビューで、辺野古基地建設に伴う埋め立て土砂投入に当たって安倍首相が「あそこのサンゴは移している(移植)」と事実と異なる発言をしたのをそのまま放送したことについて見解を尋ねられた質問に対しても「お答えは差し控えさせていただきたい」と、いずれも「ゼロメ回答」だったという―2月4日付け朝日)
 『アベノメディアに抗う』という本がでているが、これらマスコミはまさに「アベノメディア」。こういったことがフェイク政権を許す原因となっているのではあるまいか。


2019年02月12日

「市民連合やまがた」の集会―つながろう!市民と野党

 それは9日山形市内で開かれ160名以上が参集。
 「市民連合」とは3年前安保法案の強行採決に憤激した市民が、その法制廃止と立憲主義の回復を求め、立憲野党との共闘と幅広い連帯をめざして全国各地で結成された。それは「思想・信条・政党支持の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」のために結成された革新懇と軌を一にしており、革新懇が積極的に関わって然るべきだろう
 当面、本年相次ぐ統一地方選挙と参院選を控え、アベ自公政権の暴走と改憲派3分の2議席を阻止すべく野党は共闘・選挙協力し、統一候補を擁立して選挙戦に臨まなければならない。その決意のほどを各党と現議員に確認しつつ共に課題を考え合う、そのための集会だった。
 最初、元シールズのメンバーで東京の市民連合結成の呼びかけ人となり事務局を務めている諏訪原氏が講演。バブル崩壊・冷戦終結後生まれ世代としての新感覚・新視点から社会の見方、運動スタイルのあり方・課題を話してくれた。 
 そこでは、旧来の社会制度(企業と家族に依存した日本型生活保障システムなど)や(国家と個人の間に介在する)中間集団(企業や組合や家族・コミュニティーなど)による支えが失われ頼れなくなって社会が「個人化」。若者の多くは個々人が人生上のリスクに対して自己責任で対処するしかなくなっている。学生などはローン同然の貸与型奨学金を借りるか、アルバイトで余裕がなく、リアルな日常に政治の声は届いていないし、政治に関わるルートも見えない、そんな政治には関わらない方が楽であり「無関心」になるか、深く考えずに権力を持つ者に従うことが生存戦略となって「右傾化」しがちとなる。そのような状況に対する安倍自民党の「処方箋」は「日本をとり戻す」ことにあるが、それに対して私たちはどのような政治を対抗軸としてつくりだせばよいのか。「個人化した社会」の進展にフィットしなくなって機能不全に陥っている今の社会制度を新たに組み直す必要に迫られている。
 そこで政治や社会運動も市民(個人)参加型が求められる。SNSなどで(ゆるやかなネットワークを通じて)呼びかけ誘い合って路上(デモ)や広場(集会)に集い、自分自身の考えを自分の言葉で「私は・・・・」「私たちは・・・・」とスピーチ、そして「選挙で変えよう」「選挙に行こうよ」とコール。そうやってアクションを起こし、それを写真や画像で可視化(候補者の声や顔だけでなく、集まった支援者「みんな」の姿が見えるように)。そうして、それが「私たち」普通の市民のリアルな「政治文化」となるように。
 与野党の対立軸は「公」と「個人」のどちらを重視するかで、与党は「日本をとり戻す」というのに対して市民と野党は「個人をとり戻す」「憲法をとり戻す」と。
 野党共闘は、今のところ1人区での野党候補一本化の方針は確認されているが、具体的な一本化の作業は進んでいるとは言えない。(それにひきかえ自公側は全ての1人区で候補者を確定している。)政策を摺合せ、共通点を打ち出す政策協定に達しなけれならない。(それは選挙の時だけの短期的・便宜的な選挙戦略にとどまるのなく、その政策実現を果たす連合政権につながるものでなければなるまい―筆者)以上のようなことが講演で指摘された。
 続いて舟山参院議員が立って、自分の選挙の時には野党統一候補一本化で当選を果たすことができたが、今度の参院選の統一候補は未だ決まらず「やきもきさせて申し訳ないが、不戦敗で終わらせることは絶対ないので、もう少しお待ちいただきたい」とのことだった。
 その後、正面に舟山議員と各党代表5人、諏訪原氏と市民連合やまがた代表世話人が並んで、つないだ手を上に掲げ、それに向かって参会者全員が、配られたボードを掲げて「ひとつになろう 平和のために」「市民と野党で手をつなごう」と気勢を上げた。
 最後に、立憲民主・国民民主・社民・新社会・共産各党の県代表幹部が前に居並んでそれぞれ決意を述べ、会場からの質問、「先の衆院選挙での苦い失敗に鑑み、その二の舞になることのないようにして一日も早く政策協定と統一候補の決定にこぎつけて欲しい」等の強い要望を受けていた。

 これまでの経緯をたどると、先ず舟山議員を中心に立憲民主・国民民主・社民の3党に連合山形を加えた「5者協議」で統一候補を人選した上で、それに共産・新社会両党にも乗ってもらう(既に候補を立てている共産党には候補を取り下げてもらう)という手順で昨年12月中に目途を付けるつもりだった。それが、長引いてしまい、目下「候補者を男性数人に絞っている段階」だという(舟山議員が集会後報道陣にそう語ったと翌日の新聞に出ていた)。(共産党の県委員長は集会のその場で「初めから一本化に向け、我々をも加えた協議がスタートしていればよかったのものを」といったようなことを述べていたが、彼らの立場からは見れば、そのような手順には違和感があるも、オール「市民と野党」が結集して勝てるようにするには、それもいたしかたあるまい、といったところか。)

 野党間では理念・基本政策の違いと利害関係もあり、選挙協力・政策協定など共闘に向けた動きは難航しているのだろうが、自公の緊密な連携と優勢な多数議席に支えられて「盤石な安定」を保っているアベ政権に対抗し、その多数議席を切り崩して政権に終止符を打つためには、「一本化」調整がいつまでも難航してしっかりまとまれず、協力体制が整わないまま選挙に突入するようなことがあってはけっしてなるまい。

2019年02月16日

「市民連合やまがた」関連情報―野党統一候補を誰に?(随時加筆)

 先の衆院選(2017年10月22日)における(本県での野党統一候補擁立の)失敗以来、市民連合やまがたの参院選(野党統一候補擁立)に向けたこれまでの動きをまとめてみた。(資料―市民連合やまがた関係者から送られてきたメールから拾い集めて)

2018年2月5日、山新・報道―「共産、次期参院選に浜田氏擁立」
 浜田藤米兵衛氏―東北大文学部卒、山形・宮城両県の高校で39年間、国語教諭として務め、07~17年山形県労連議長。南陽市生まれ。
 氏は「憲法改悪は絶対許さないという立場に立ち、市民と野党の共闘の再構築に向けて奮闘する」との決意を表明。
 共産党県委員会の本間委員長は、共闘態勢の実現を他の野党に働きかけると説明。浜田氏を統一候補として推す一方、他党と相互推薦・相互支援の形を確立できれば、候補取り下げも辞さない考えをしました。

同年2月6日、高橋氏(さようなら原発米沢代表)から「市民連合やまがた御中」として「『共産党の浜田氏』ではなくて『共産党推薦、市民連合の浜田氏』であって欲しいと思います。これならば多くの市民団体が連帯を表明しやすくなります。」「市民連合はいまや主役に立つべき時です。」「“市民連合やまがた”と“共産党”の話し合いを切に望みます」と。

同年2月20日、しんぶん赤旗の地方版に「共産党山形県委など新春のつどいに近藤洋介前衆院議員が来賓として挨拶―「野党共闘を実践してきた責任者として、総選挙の際の自らの判断について深く反省している。再出発して平和憲法、9条を守り、野党の結束を図りたい」と。

同年5月13・14日TUY Nスタやまがた・毎日山形版・山新―「参院選を見据え地域フォーラム設立」「舟山氏呼びかけ、フォーラム結成、山形で初会合」
 13日、山形市内で舟山参院議員ら、「これからの地域の使命を考えるフォーラム(通称つばさの会)」を設立。設立の趣旨―「保守・革新といったイデオロギーを超えて地域・現場の声を発信する受け皿となり、国に届ける主体を作る」。事実上、県内野党勢力の受け皿になるとみられる。
 県議・市町村議らを含む180人が出席。共同代表に舟山やすえ・近藤洋介・高木郁朗(日本女子大名誉教授)ら4人選出。

同年11月20日、山新―「参院選県区、3党+連合の統一候補、舟山氏が人選、年内決定」
 国民民主・社民・立憲民主の各党県連と連合山形の代表者が会合。野党統一候補を12月中に擁立する方針。
 自民党は既に現職の大沼氏擁立を決めており、それに遅れをとっているが、「ここから結束していい候補者(勝てる候補者)を出せば取り戻せる。」共産党も浜田氏擁立の方針だが、舟山氏らが「自分たちの候補者が決まれば、(共産党とも)しっかり調整をしていかなくてはならない」と。

本年1月28日 野党5党1会派(立憲民主・国民民主・共産・社民・自由・「社会保障を立て直す国民会議」) 党首会談―安倍政権打倒めざして連携強化へ
 参院選 1人区32すべてで候補者一本化のための調整を急ぐこと等を確認

2月9日、市民連合やまがた集会―山形市内で開かれ160名以上が参集。
 ① 講演―元シールズのメンバーで東京の市民連合結成の呼びかけ人となり事務局を務めている諏訪原氏が講演。バブル崩壊・冷戦終結後生まれ世代としての新感覚・新視点から社会の見方、運動スタイルのあり方・課題を話してくれた。
 ② 舟山参院議員のスピーチ―自分の選挙の時には野党統一候補一本化で当選を果たすことができたが、今度の参院選の統一候補は未だ決まらず「やきもきさせて申し訳ないが、不戦敗で終わらせることは絶対ない。もう少しお待ちいただきたい」とのことだった。
 ③ 立憲民主・国民民主・社民・新社会・共産各党の県代表幹部が前に居並んでそれぞれ決意を述べ、会場からの質問、「先の衆院選挙での苦い失敗に鑑み、その二の舞になることのないようにして一日も早く政策協定と統一候補の決定にこぎつけて欲しい」等の強い要望を受けていた。
 詳細は別掲(「『市民連合やまがた』の集会―つながろう!市民と野党」)

2月14日 市民連合(広渡・山口二郎・中野晃一氏ら)と5野党1会派の幹事長・書記局長・国対委員長の意見交換会
 市民連合側から立憲野党への要望
 ①ねつ造された数字に基づく虚飾のアベノミクスの総括、正直な政治・行政の回復と事実根拠に基づく政策の形成②消費税増税の延期と増税対策名目のばらまき予算撤回、米国からの兵器爆買い防衛予算の国民生活を守る予算への転換③沖縄の辺野古新基地建設の中止と普天間基地の撤去④安倍首相が進める憲法破壊に反対など提起。
 参院選1人区32選挙区すべてに統一候補擁立、調整のうえ政策協定(共通の旗印)を求める。
 問題点―各党の考えに溝
  共産党―候補者の相互推薦・相互支援を求める(自党が一方的に候補者を降ろすやり方ではなく)
  立憲民主・国民民主とも―共産とは日米安保などで違う考えから「一定の距離を取らざるを得ない」との考え
  国民民主・自由両党(国会で統一会派結成)―2人区でも立憲民主と候補者調整を求める
                       (立民は否定的)
  自由党(小沢氏)―比例区で統一名簿つくろうと主張(野党が結集すれば政権打倒の機運が高まり相乗効果が生まれると)(立民は否定的で枝野党首は「逆効果だ」と)
  これら野党同士で直接協定を結ぶのは困難。
  市民連合が各野党と個別に政策協定(市民連合が提案する政策を共通政策として署名する形式で)(立民の福山幹事長は4月中か5月初めまでと)
  後(うしろ)房雄・名古屋大政治学教授の見解―「参院で過半数を取ることが現政権を揺るがすことになる。そのための『数合わせ』は不可欠だ。」ただし「組むべきは一人区で、比例区を統一名簿にする必要はない」と(2月15日付け朝日新聞の記事)。

2月17日 市民連合が「全国市民意見交換会」を東京都内で開催
 市民連合呼びかけ人の高田健氏が主催者あいさつ
 講演―①広渡東大名誉教授が「野党共闘の経過と市民連合政策の概要」  
      ②諏訪原氏「市民参加型政治の促進を目指して」
 全体のまとめ―中野上智大教授―「今年は最大の正念場だ。改憲発議をさせずにいたが、自民・公明が3分の2を維持すれば『お墨付き』をもらったことになる」と指摘。

2月19日山新報道―「統一候補、芳賀氏で調整―非自民系、参院選山形県選挙区」
  芳賀道也―山形市 60歳 山形放送アナウンサー、情報番組などに出演、報道制作局制作部専任部長など務めた方。
  舟山参院議員が立候補を打診、擁立に向け調整へ。県内野党関係者との最終協議が月内にも行われる見通し。
  但し、本人は山新の取材に対して「まだ何も決めていません」とのこと。
  (共産党はかねてより前県労連議長の浜田氏を擁立しており、調整がつくのかどうか、芳賀氏の意向とともに未だはっきりしておらず、どうなるのかだ。)

2月20日山新報道―非自民系統一候補として芳賀氏の擁立を目指す県内野党関係者ら、21日に協議をおこない、「早期擁立に向けて詰めの話し合いを行うとみられる」と。(国民民主・立憲民主・社民各党県連と連合山形の3党1団体に非自民系無所属県議を加えた「5者会議」から候補者の人選を一任されている舟山参院議員が芳賀氏に出馬を打診し最終調整)

2月20日、立憲民主など野党6党派の幹事長・書記局長が、①国会内で会談。参院選一人区の候補者調整を速やかにスムーズに行い、幹事長・書記局長会談を2週間に1回、定期的に開くこと。②市民連合との政策協定の議論を速やかに始める。③衆参同日選挙も視野に入れ、意見交換・情報共有をしながら進めること等、3点で合意。
 
2月21日、NHK山形放送―立憲民主・国民民主・社民3党と連合の県内代表と舟山参院議員が会合、芳賀道也氏を野党統一候補として立候補を要請することに合意。舟山氏によれば、芳賀氏は「地元に軸足を置き、アナウンサーとして発信力がある」ことが決めて。本人の了解が得られれば、来月上旬までに芳賀氏が立候補を表明。同氏が立候補することになれば、共産党とも候補の一本化について協議したいとのこと。

2月22日、朝日新聞(山形版)―前日の会合は非公開で、終了後に舟山氏が記者会見。芳賀氏とは2月上旬から何度か面会。「今の政治を変えなければならない」という点で一致。「慎重に勝てる候補を選んだ。芳賀氏は自らの言葉で発信できる。落下傘(候補)とは違う」と。
 芳賀氏は朝日の取材に対し「公正中立を求められる放送局の現役社員であり、現時点ではノーコメント。正式な要請はまだなく、受けてから検討していきたい」と(舟山氏は近く正式に要請)。舟山氏らが候補を決めた場合、浜田元県労連議長を公認候補に予定していた共産党はその取り下げも含めて調整に応じる姿勢とのこと。

2月23日、朝日新聞(山形版)―「参院選非自民統一候補、芳賀氏擁立検討、共産見守る構え」―共産党は候補者調整に応じる意向を明らかにしている。記者会見した同党県委員会の本間委員長は、芳賀氏については今のところ「政策がわからないので受け止めは『白紙』」だが、「舟山氏側と政策合意し、それを実現できる候補であれば調整に応じる。野党共闘を実現し、自民に打ち勝つという思いは変わらない」と述べたとのこと。

2月24日、山形での共産党演説会―紙智子参院選比例候補・浜田県区候補・県市町村議候補それぞれ予定者紹介とスピーチ―来賓として近藤洋介氏(本人)と舟山参院議員(秘書)が挨拶。浜田候補予定者は、野党統一候補の人選がどなたかに決まりそうだが、「この私もなかなかのもの」とアピールしていた。

2月25日、山新―「共産・浜田氏、野党一本化を示唆―参院選県区、政策合意が条件
 浜田氏は24日(共産党演説会終了後)山新の取材に応じ、共通政策の合意などを条件に他の野党候補への一本化を受け容れる可能性を示唆。
 浜田氏は、県内野党関係者が非自民系統一候補として芳賀道也氏の擁立作業を進めていることを念頭に「安倍政権を倒すには私であろうとなかろうと統一候補が必要だ」と強調。消費税増税の中止や集団的自衛権行使を容認した安保関連法の廃止といった共通政策への合意を前提に、「政策を踏まえてきちんと国会で戦ってもらえるのであれば、私にこだわることではない」と述べた、とのこと。

3月1日、山新―「参院選 芳賀氏が出馬意思 県区・非自民系 きょうにも出馬表明」
  前日(28日)山新の取材に芳賀氏は「野党の方々の思いに応えなければならないと考え、要請受諾を決断した」と述べ、その理由について、森友・加計学園問題をはじめとする昨今の政治状況を挙げ、「このままでいいのかという思いがある。解りやすく皆が幸せになれる政治を取戻すため、県民一人一人に問いかけたいと考えた」と。1日にも、記者会見し、正式に出馬表明。

3月2日、朝日(山形版)―「芳賀氏、参院選立候補へ―非自民「受け皿になる」
  前日(1日)、芳賀氏は記者会見で、無所属で立候補する考えを明らかにした。
  立候補理由―「内閣がいくつも吹き飛ぶような問題を起こしながら、なぜ居座るのか。今の政治は何かおかしいという県民の思いの受け皿になりたい」、「取材を通じて県内をくまなく歩き、声を聞いてきた。農業の所得補償や高齢者の移動手段の確保などを訴えていきたい」と主張。消費税のアップと、集団的自衛権の行使に反対。憲法9条については「性急に変えるものではない」と。
  立憲民主・国民民主・社民3党、連合山形は芳賀氏の推薦を出す方針。
  県労連議長の浜田氏擁立を発表していた共産党県委員会は、調整に応じる方針を明らかにしているが、本間委員長は安保法制廃止、改憲反対などで折り合えば共闘に前向き
だ。野党共闘が成立すれば、16年参院選で舟山氏が当選した際の「山形方式の再現となり、芳賀氏を統一候補にして県内の野党は与党と戦うことになる。(山形方式とは?・・・・)

3月6日、朝日(山形版)―市民連合やまがた が、芳賀氏が立候補を表明したことを受けて、4日、舟山参院議員と立憲民主・国民民主・社民・共産・新社会党の県内組織に「野党候補一本化」について要請書―「野党が一人区で議席を得るためには候補者の一本化が必要だが、その作業はあまりに遅い」と指摘。基本政策①集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回、②安保法制の廃止、③安倍政権の下での9条改憲を認めないこと―の3点の合意で一本化を図り、市民と幅広く連携することを求めている。

3月19日、朝日に「18日、国民民主党、芳賀氏の推薦決定を発表」と。

3月23日、朝日(山形版)―「共産との調整『統一選後に』―参院野党候補巡り舟山議員」
 舟山康江議員は21日、立憲民主・国民民主・社民3党と連合山形が擁立を決めた芳賀道也氏の尾花沢市内での集会後、報道陣に答えて、共産党との調整合意が統一地方選挙後になるという見通しを示した。舟山氏は当初、29日告示の県議選までに決着させたい意向を示していたが、現在、政策を一致させる作業中。舟山氏は、共産党県委員会の本間委員長とは面会済みだとし、「大きな政策の確認をしつつ、(双方は)同じ方向を向いている」と述べ、また、芳賀氏の打ち出す政策を整理している段階であり「統一地方選が迫ってきたので(候補者調整は)慌てなくともいいということになった」と説明。選挙終了後に改めて合意を目指すと。

3月25日、市民連合やまがた、県議会選挙に際して、東置賜郡選挙区で山木候補、尾花沢・北村山郡選挙区で鈴木候補と政策協定書を交わし、推薦することとした。
 協定書には①集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を含む立憲主義の回復を目指すこと、②安保法制の廃止を目指すこと、③安倍改憲に反対すること、それら3つの基本姿勢に立って政治活動を行い県政に反映する、という約束がしたためられている。


    

2019年03月01日

自民党と安倍内閣の支持率 なぜ高いのか(加筆版)

 朝日川柳(2月20日)から一句―「不気味です何があっても動かない―内閣支持率」
世論調査 2月12日発表のNHKと19日発表の朝日新聞で ()の方はNHK <>の方は朝日
  政党支持率―自民(37.1)<37> 立憲民主(5.7)<6> 国民民主(0.6)<1> 公明(3.3)<3> 
共産(3.1)<2> 維新(1.2)<1> 自由(0.2)<0> 希望(0.0)<0> 社民(0.4)<0>
           その他(0.1)<1> 支持なし(41.1)<41> わからない・無回答(6.7)<8>
  内閣支持率―支持(44)<41>   不支持(37)<38>
    朝日の調査では、世代別―40代以下の若年層は支持率が不支持を上回り、
                60歳以上の高年層は不支持率が上回る。
    支持する理由―「他の内閣よりよさそうだから」(51)<52> 首相が安倍さん<11>
              「実行力があるから」(16) 「政策の面」<20>
              「支持する政党の内閣だから」(12) 「自民党中心の内閣」<14>
    不支持の理由―「他の方がよさそう」<9> 「人柄が信頼できないから」(39)
              「首相が安倍さん」<17>
              「政策に期待がもてないから」 (35)「政策の面」<48>
              「実行力がないから」(8) 「自民党中心の内閣」<21>
  厚労省の統計不正問題について
    政府が発表している統計―「信用できる」(5) 「信頼が揺らいだとは思わない」<21>
                     「信用できない」(52) 「信頼が揺らいだ」<67> 「どちらとも」(37)
    問題の真相解明について安倍政権の対応は―「適切だ」<15> 「適切ではない」<61>
 統計不正の発覚後も、首相は、雇用や所得の環境が改善しているとの判断に変更はない、と説明しているが―「納得できる」<20> 「納得できない」<64>
  児童虐待について―政府の取り組みによって虐待が減っていくと思うか
            「減っていく」(23) 「減っていかない」(36) 「どちらとも」(32)
  消費税率10%引き上げ―賛成(31) 反対(41) 「どちらとも」(21)
                  引き上げに伴う対策「手厚いすぎる」(20) 「妥当」(21) 「不充分だ」(35)
  「戦後最長の景気回復」―「実感している」(8)<16> 「実感していない」(66)<78>
                   「どちらとも」(20)
普天間飛行場の名護市辺野古への移設―賛成<34> 反対<37>
   沖縄の米軍基地は日本の安全保障にとって、どの程度必要だと思うか―
      「大いに必要だ」<20> 「ある程度必要だ」<53> 「あまり必要ではない」<18>
      「まったく必要ではない」<6>
いま停止している原発の運転の再開―賛成<32> 反対<56>
  「国民民主党と自由党の統一会派結成―評価(12)  評価しない(34) 「どちらとも」(44)

 これらの世論調査から見て、自民党・安倍内閣の支持率が高止まりして、野党の支持率が低迷しているのは何故なのか、その原因には次のようなことが考えられる。   
 (1)「戦後最長の長期・安定政権」(第1時安倍政権は短命で終わり、その後、福田、麻生、民主党政権の鳩山、菅、野田と替わったが、いずれも短命で終わったのに対して第2次安倍内閣以降は安倍首相の大叔父・佐藤栄作に次いで歴代第2位の長期政権)。この間、アベノミクスと称する経済政策で「戦後最長(74ヵ月以上)の景気回復」を果たした(日経平均株価が上昇。就職氷河期と云われた数年前に比べ新卒採用が売り手市場になって雇用は改善した)と喧伝されている(しかし、それは人口減・少子高齢化にともなう人手不足によるもの。景気回復といっても、実質賃金と家計消費は低迷、庶民には実感がない)。
 (2)そのもとで人々は、安倍自公内閣には不満な(納得できない)ところも、不安なところもあるが、我慢ならないほどの切羽詰まった窮状にあるわけでもなく、その日その日はどうにか食いっぱぐれることなく暮せていること。(内閣府の2018年6月の調査―74.7の国民が今の生活に満足。18~29歳では83.2%が満足と答えている。(経済同友会代表幹事の小林喜光氏は、それに「心地よい、ゆでガエル状態なんでしょう。日本全体は挫折状態にあるのに、挫折と感じない。・・・・カエルはいずれ煮え上がるでしょう」と指摘。)
 (3)野党は、いっとき民主党政権(社民・国民新党との連立政権)で政権交代(小渕~小泉・安倍~麻生と長らく続いた自公政権と交代)を果たしたものの、沖縄の普天間基地移設問題での迷走、尖閣諸島中国漁船衝突事件などもあったが未曾有の東日本大震災とそれに伴うフクシマ原発事故に遭遇して対応に混迷を極めたあげく、あえなく自公の政権奪還を許してしまうことを余儀なくされた。それが「悪夢」としてイメージ付けられ、そんな民主党政権と比べれば、こんな安倍政権でも「はるかにまし」だというわけだ
 実際、民主党政権も連立政権だったが、普天間問題(移設は「最低でも県外へ」と言っていながら辺野古移設を容認してしまったこと)で社民党が離脱、消費税増税問題で国民新党も離脱するなど、もろさを露呈した。それに比べれば自公の連立は盤石で、揺らぐことのない「安定政権」として評価を保っているのだろう。
 (4)いずれにしろ、野党が、強固な自公連立政権にとって代わり得るだけの結束力をもった連合を結成し、それが国民の目に「しか」と認められないかぎり、内実がバラバラな野党のままでは、(「他の内閣よりよさそうだから」という理由での)安倍内閣支持は減らないし、(「他(野党)の方がよさそうだから」という理由での)安倍内閣不支持は増えないわけである。
 (但し、政党支持率は「一強多弱」で自民党<37%>が、それ以外の各党(野党で最多の立憲民主党は6%)に比べれば抜きん出て多い、とはいっても、最多は「支持する政党なし」<41%>で、「わからない」と無回答と合わせれば半分近くは、どの党も支持してはいない、というのが実態。)
 (5)要するに自民党と安倍内閣の支持率が高止まりしている最大の理由は、安倍内閣や自民党が「他よりよさそうだから」というよりも、「他(野党の中)に代われる政党がないから」ということと、どの党、どの政治家も、1党だけ(単独)では、これといって期待でき支持できるような政党はなく、政治家にも期待・支持できるような人物がいないから、という消極的な理由からなのであるまいか。
 自民党でさえ、単独ではダメで、公明党と組み、その政策を摺り合わせて意見・提案を取り入れ、或は引っ込めたりもすることによってその補完を得、政策合意のうえで、選挙協力を行って両党で多数を制し、「連立政権」でやっているわけである。野党がその自民党に対抗するには、小党分立して単独あるいは考え(理念)や政策が近く似通っている党派同士だけで組んでやったところで、同じ反自民野党なのに理念・基本政策などに違いがあるからといってその野党を排除・除外しては、選挙でその野党からも候補者が立てられれば反自民票は割れ、与党に対して勝ち目はない。したがって同じ反自民野党でありながら、特定野党を排除・除外して分立するのではなく、可能な限り政策を摺り合わせて合意に達し、候補者を調整して野党候補を一本化して(統一候補を立て)「オール野党(反自民・立憲野党)」の形で立ち向かうのでなければ選挙には到底勝てない。また選挙の時だけの選挙協力で終わるのではなく、互いに政策を摺合せて共通政策合意(政策協定)のうえ、それを打ち出して選挙に勝ち、政権を獲得(連合政権樹立)して政策実現することを念頭にしながら、野党は互いに(その政策を摺合せ、意見を調整、提案を取り入れ或は引っ込めたりもして)補完し合わなければならない。そのような相互に補完し合う関係で「オール野党」で共闘を組んで対抗しない限り、強力な自公連合には到底勝ち目がなく、受け皿として支持を獲得することはできない
 自民党側には公明党以外にも維新など補完政党があるが、それら以外の反自民野党は、自公の盤石(緊密で安定的)な連合体制に比べ、バラバラで結束できていない、という現実とともに、「一強多弱」イメージが国民の多くを支配している、それが安倍自公政権の支持率高止まりの原因なのでは
(一橋大の中北浩爾・政治学教授は1月31日付け朝日のオピニオン&フォーラム欄に「自公連立20年、野党は学べ」と題して寄稿し、次のように指摘している。     
 「自民党は公明党との連携によって、『一強』の地位を確保しているにすぎない。」「なぜ自民・公明は政策距離が小さくないにもかかわらず、安定的な連立の枠組みができているのか。その理由は、①政策調整の仕組み―閣議決定前に両党の了承を得なければならず、この事前審査制を通じて自民党は公明党に譲歩を重ねてきた。②選挙協力―両党は、衆院の小選挙区を中心に完璧な候補者調整を実現。参院選でも、公明党が候補者を立てている3人区・4人区で自民党は公認候補の数を絞り込んでいる。両党で票の融通―衆院の1・2人区で自民候補が公明党の支援を受ける代わりに、『比例は公明』という呼びかけを行う、等々。
 野党が連立政権を本気で樹立しようと考えるならば、民主党政権の失敗<社民党との選挙協力の不十分さ―票の融通は行われず、候補者調整も限られていた。その社民党との連立政権という現実を軽視、事前審査制を否定し、社民党の離脱を招いた等>を反省し、自公政権から学ばなければならない」と。)
 (6)以前の社会制度(企業と家族に依存した日本型生活保障システムなど)や(国家と個人の間に介在していた)中間集団(家族・コミュニティー・学校・会社・組合など共同体的組織)による支えが失われ頼れなくなって社会が「個人化」(集団的一体性が失われ人間関係が希薄に)。
 終身雇用・年功序列が否定され実力主義・成果主義の競争社会が肯定される風潮が強まり、勝ち組と負け組にわかれ、富貧格差が拡大。勝も負けるも自分の実力(能力・努力)しだいであり、自分の境遇は貧富も幸不幸もその実力競争の結果であり自己責任だと見なされ、多くの人がそう思い込むようになる。自己責任なんだから、国(政府)や自治体には頼れない、頼ってもしょうがない。「国が悪い」とか「政治が悪い」「与党が悪い」「野党が悪い」などと「いくら口説いてみたところでしようがないんだ」、となって政治には無関心なノンポリとなるわけである。政治に対する無関心層が増えているのは、そういったところに原因があるのでは。
 (7)政治に無関心ということは、政治権力者(政府・与党政治家)からどうされようと(消費税を増税されても、原発を再稼働されても、憲法を変えられても、沖縄に新基地が建設されようと)おかまいなしで、疑問は抱かず、批判も反対もなく「どちらでも」結構ということになり、為政者・政権にとっては実に都合がよく、有利なこととなるわけである。
 (8)競争社会では誰しも強者・勝ち組となることが望まれ、弱者・負け組になることを恥じる。そして誰しも強がりをもち、「自分はそもそも弱者、負け組なんかではない」とか「負けたのは頑張り(努力)が足りなかったせいだ」或は「つき(運)が悪かったせいだ」とか虚勢を張り、国のセーフティーネット(援助)なんかに頼るのは「格好わるい」といってやせ我慢する。(アメリカでいえば、トランプ大統領のコアな支持層となっているプア・ホワイト<白人労働者>たちが、黒人その他のマイノリティーに対して、いくら貧しくても、彼らのような政府の福祉政策に依存して暮らしている生活困窮者などとは違うんだという優越意識をもち、黒人差別には白人富裕層よりも熱心であるようなもの。)
 (9)また強者に組することによって、自分が勝ち組にいるつもりでいられるわけだ。そして強者・勝ち組が天下を制し社会を制するのは当たり前で、弱者・負け組がそれに服すのも当たり前。政界の勝ち組は自民党であり、その最強の強者は安倍首相。その権力に組して、それに従い同調するのも当たり前。それに同調せず、対抗しようとする野党や他国(中国や韓国・北朝鮮など)を「抵抗勢力」「反日の国」として排撃しがちとなる。このところの若年層の右傾化傾向はそういったところからきているのではあるまいか。
(10)若者については、麻生財務大臣は「いちばん新聞を読まない世代だ。新聞を読まない人は全部自民党なんだ」と述べたというが、それはあながち的外れでもなく、10~30代は自民党支持率が高いことも確かのようだ。(新聞通信調査会の「メディアに関する全国世論調査では昨年、新聞を毎日読む人は70代が79.3%なのに対して18・19歳は5.7%、20代は6.4%、30代は13.0%。朝日の昨年7月調査では、内閣支持率は、政治や社会の出来事を知る際にSNSを参考にする層が48%で、新聞を参考にする層32%より高い」となっている。)
 朝日新聞の曽我豪・編集委員は、「いまどきの若い者は、とは言えない」としながら、「総じて感じるのは、決め付け型の言論に対する極めて強い拒否感である。」「野党は反対だけだと聞く耳持たぬ政権にも、政権をただ完全否定するだけの野党にも、等しく懐疑的だ。その上で野党にも自民党のポスト安倍の面々にも明確な対案が感じとれないから消去法で現政権支持だと説明する声が少なくない。」ある調査(大阪市の私立高校教員の田中智和氏が、自校の3年生を対象にした政治意識・知識調査)から「安倍内閣の支持は堅調だが比較優位に過ぎないことが分かる」と(3月24日付け朝日「日曜に想う」)。
(11)統計不正問題が発覚しても内閣支持率は下がらないのは、森友・加計問題以来相次ぐ公文書やデータの改ざん・隠ぺい・ねつ造に、国民は慣れてしまっているからなのでは?(3月5日付け山形新聞・社説「公的文書、データの不祥事―国民も慣れてはならぬ」)
 このことは、国民が安倍自公政権に慣れっこになってしまっている、ということでもあるのでは?いうなれば「アベボケ」。

 以上のような諸点に、自民党と安倍内閣の支持率が下がらない理由が考えられ、またそこから野党の課題が考えられよう。

2019年04月01日

改憲は「自衛隊員が強い誇りをもって職務を全うできるようにするため」とは

 安倍首相は自衛隊について、「今日、災害救助を含め命懸けで24時間、365日、領土・領海・領空、日本人の命を守り抜くその任務を果たしている」、それに対して「国民の信頼は9割をこえています。しかし多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任」、だから「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます」(17年5月3日、日本会議系の改憲団体の集会に寄せたビデオ・メッセージ)。また「いまや、国民の9割が敬意を持って自衛隊を認めている」。「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える・・・・私はその責任をしっかり果たしていく」(18年10月14日、自衛隊観閲式での訓辞)などと述べ改憲の必要性を説いている。最近では(3月17日)、防衛大学校卒業式で、「自衛隊の諸君が強い誇りをもって職務を全うできるよう環境を整えるため全力を尽くす」と訓示した。
 自衛隊の活動分野には、災害救助や領土・領海・領空を守る領域警備の分野と、防衛出動(即ち軍事)の分野の2分野がある。前者は警察・海上保安庁・消防などと同様、国民(住民)の生命の安全と財産を守るという活動分野であり、自衛隊法では「従たる任務」とされているのに対して、後者は国防で、「国の平和と独立を守る」即ち国家を外敵から武力をもって守る軍事であるが、その方が「主たる任務」とされている。
 首相は二つを一緒くたにして論じているが、国民の多くが「敬意を以て認めている」のは、どちらかといえば前者の方なのではあるまいか。また、憲法学者や政党の中に違憲とする議論があるのは軍事の方だろう。
 自衛隊でも前者の活動分野なら、憲法上規定のない警察や消防と同様、憲法に規定する必要はないわけだが、安倍首相が憲法に敢て自衛隊を明記することによって、自衛隊を違憲とする議論に「終止符を打とう」とするのは自衛隊の軍事分野の方なのであり、そうすることによって自衛隊員は自分たちがやっていることは「違憲かもしれない」などと中途半端な気持ちでいることがなくなり、また警察や消防などのような単なる公務員ではない、それ以上の「国のため命を張って」戦う「軍人」として「強い誇りを持って任務を全うできるように」させられる、との思惑。つまり、この自衛隊加憲の狙いは、自衛隊の軍事分野とその拡大に正統性を持たせようとするところにあるのだろう。
 自衛隊は、国民にとっては、国民の生命の安全と財産を災害やならず者から守ってもらう災害救助活動や領域警備活動の方を重視して、その点で期待と信頼を寄せている向きが多いのだろうが、安倍首相や国家の統治者にとっては、最重要なのは国防(軍事)であり(国民の生命・財産はその結果として守られているに過ぎないわけであり)、あくまで仮想敵(中国や北朝鮮など)に対して、戦争して勝てるように自衛隊の軍事力をもっと強くして、存分に戦えるようにする、そのための改憲にほかなるまい。

2019年04月16日

改元で改憲―政治利用(加筆版)

 元号は、もともと古代中国に起源をもち、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づき、統治権の正統性をアピールする政治的な道具として用いられたもの。それが日本にも取り入れられて、「大化」改新当時以来元号が付けられ始めたが、天皇一代とは限らず、災いや吉事があった時にも(リセット効果―人々の気分を一新する政治的効果を狙って)改元が行われた。中国では明・清の時代に皇帝一代に一元(一世一元の制)というふうに固定されるようになり、それが日本でも「明治」天皇の時からそうなった。
 現在の憲法になって、天皇主権が廃されて国民主権の民主主義(国民が国の主人公)の時代になっている今、そのような元号制(天皇即位から退位までの間を元号によって時代を画するやり方)を国民に押し付けるようなやり方には、国民は違和感を持たざるを得ず、望ましくはあるまい。
 その元号法は平成改元(1989年)に先立つ1979年に制定されたが、どのような元号に改元するかの決定は政府の裁量にゆだねられている。今回の「令和」決定は国文学者で国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏ら複数の専門家に候補名の考案を委嘱、その候補名(6案)から有識者懇談会(NHK会長・民放連会長・新聞協会長・経団連前会長・元最高裁長官・私大連合会長・作家の林真理子・ノーベル賞受賞者の山中教授ら9人)での検討、衆参両院正副議長の意見聴取、全閣僚会議での協議を経て最終的には「総理に一任され」安倍首相が決定
 そのような元号を我が国の伝統文化として価値付け、現代世界では類例のない我が国独自の年号として誇るべきものと受け取る向き(ナショナルプライド)もあり、しかも、「令和」という新元号の二文字は、今までのような典拠が中国の古典(漢籍)ではなく、初めて国書である万葉集から採ったものだからと言って独自性を強調する向きがある。
 しかし、その二文字「令和」は(万葉集でも「梅花の歌三十二首」の漢文で書かれた序文から採られた)漢字であり、中国文字であることには変りなく、万葉集(8世紀末)に先立つ6世紀(六朝時代)中国の詩文集『文選』にも見られるという。
 「令」という漢字には「戒める」という意味で、上から下へ指図する命令の令と、命令を聞く民がきちんと並ぶ様から「姿・形がよい」の二つの意味があるのだという。(「令和」元号を考案したとされる万葉研究者の中西氏は「令」の原義は善で、善いことを他人にさせようとすれば『命令』になるが、「整っている美しさ」のことで「令」に一番近い日本語は『うるわしい』という言葉に当たると。)又「和」という漢字は「穏やかで角が立たない、なごやか」という意味であるが、聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」(これも論語や文選など中国の書籍から引用されて記さている)の第一条「和を以て貴しとなし、さからうることなきを宗とせよ」は、第三条の「詔を承りては必ず謹め、君をば天とす、民をば地とす」(天皇の命令にはしっかり従いなさい)という定めとセットをなしている。(中西氏は「国と国との間に和がある状態、それが平和。だから「令和」には平和への祈りも込められているのだ」と。)
 万葉集そのものは日本文学としての文化的価値はすばらしい(尤も品田悦一・東大教授によれば、安倍首相の談話では「天皇や皇族・貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が納められ」と述べているが、「貴族など一部上流層にとどまったというのが現在の研究では通説」となっており、身分の低い人が詠んだとされる東歌なども彼ら自身の言葉で詠んだとは考えにくいという。また大伴家持作の「海行かば」は、日中戦争当時、信時潔によって曲がつけられ軍国歌謡として利用された)。又漢字や中国伝来の古典の文化的価値も認めないわけにはいかない。しかし、そのような文化的価値はともかく、当方など庶民にとって元号は実用的価値が乏しく不便であるばかりか、「文化的価値があるから」と称して為政者がそれを用い国民に使わせることによって政治的に都合よく利用されはしても、庶民にとってはそんなに有用性があるとは思えない。 
 庶民にとっては、元号の年を西暦の年に換算しなければならず、そのほうが厄介だ。昭和の年には25を足して西暦何年とし、平成の年には88を足して(平成12年以後は12を引いて)西暦何年、令和の年には18を足して西暦何年というふうに、いちいち換算しなければならない。例えば「1947年生まれの人は、2020年には何歳になるか」と訊かれれば、すんなり数えられるものを、「昭和22年生まれの人は令和4年には何歳になるか」なんて訊かれたら、数えられやしない。(現行憲法施行など)「あれは今から何年前」というときに(「昭和22年の5月3日施行で今年は平成31年、5月からは令和元年だから」なんていわれても)元号年では計算がやっかい。
 それにもかかわらず、様々な証書や申込書・届け書の日付を「大正・昭和・平成・令和」の内のどれかを選んで○で囲んだうえで、何年何月何日と記入させるという元号にこだわったやり方で記入させられたり、当方の免許証などの有効期限が「平成34年」などと、ありもしない元号年が記載されていたりしている。こんな不合理が我が国ではまかり通っている、ということだ。
 中西教授は「元号は年数の数字の羅列を区分するもので、文化的な装置だ」とも述べているが、元号は、それによって時代を画し、改元によって時代を「一新する」ための道具立てにもなるということだろう。そして教授は、今の時代を明確なポリシーも目標もない「野放図な時代」だとして「令和」つまり「うるわしさ」とか「平和」とかを目標としてみては、との思いから、この元号が考案されたのだろうと述べ、次のように語っている。「終戦から約70年、日本人は自国の軍国化を何とか防ぎ、おかげで平和が保たれてきた。しかし今、難しい局面が立ち現れ、政治リーダーは苦労する立場にあるのだろうが、そこには決して越えてはいけない一線、軍国化をしてはいけないという一線があるのだ」と(安倍首相は、その一線をもう超えようとしているのではないか?―引用者)。その元号は「個人ではなく天が決めるもの」(天命―それは民主国家では「国民が決める」もの―引用者)で、首相その他の少数者だけで決めれば済むというものではない。ところが「今回、候補になった元号案を検討したのは、『懇談会』の識者9人と衆参両院の正副議長、閣僚。これでは、検討の機会が少なすぎる。多数が議論しなければいけない」と中西教授は語っている。
 安倍首相は新元号発表の後の記者会見で「一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲せることができる。そうした日本でありたい、との願いを込めた」と述べたが、そこには為政者である彼にとっては「令和」改元で「新時代」なるものを国民の前に用意(「新時代の到来」を演出)して見せ、人々に、「新時代」を期してそれぞれの夢や希望の花を咲かせるのだという気分を駆り立て、その気分に乗じて自らの野望(オリンピック開催等とともに改憲)を達成しようとする作為が織り込まれている、そう思えてならない。
 マスコミはマスコミで、それに迎合して特集を組み、テレビは首相談話の中継や録画以外に、ワイドニュースのスタジオに首相を招いて「歴史的決定を行ったこの方に来ていただきました」(NHK「ニュースウオッチ9」)とか、「令和何年まで国を引っ張りたいですか」(日テレ「news zero」)などとインタビューして長々と語らせている。このように、首相による改元フィーバーの政治利用に手を貸しているメディアの存在もあるわけだ。
 元号は天皇の即位から退位までの天皇自身の人生・ライフサイクルに関わって用いられるもので、庶民各人の人生・ライフサイクルとは全く異なる。庶民(それぞれの人生)にとっては、元号が変わったからといって、「希望の花が咲く新時代が訪れる」なんて、そんなことはあり得ず、人生(自分史)は自ら切り開くものであり、希望の花を咲かせるのは自らの努力の結果なのであって、その元号の時代が咲かせるわけではないのだ。当方などにとっては「令和」に改元されたからといって、それを期して何かやろうとか、新たな人生が始まるとか、そんなことはないわけであり、唯やるべきこと、やれることを精一杯やって人生を終わるだけのこと。
 我々庶民にとっては、戦争の惨禍の跡に現行憲法によって植えられた平和と民主主義の花をその手で育て咲かせることができるようになったのだが、改憲によってその花を散らすことのないように切望し、改元に乗じて策する改憲はあくまで阻止すべく不断の努力を続ける以外にはないのである。
 
 4月23日、改憲派国会議員らでつくる新憲法制定議員同盟が開いた「新しい憲法を制定する推進大会」に安倍首相がメッセージを送り、「令和元年という新しい時代のスタートラインに立って国の未来像について真正面から議論を行うべきときにきている」と。また自民党改憲推進本部長の下村元文科省も「令和の時代が始まる。このときこそ、国民と憲法改正のうねりをつくるときだ」と。そして会場で採択された決議には「令和の憲法大改正を切に願う」などと唱っている。

 「令和」新元号は5月1日新天皇即位当日の午前零時に施行される。カウントダウンが始まり、改元フィーバー。それが改憲フィーバーへ向けられるのかだ。

2019年05月21日

憲法9条に自衛隊が追記されるとどうなるか

 安倍首相は「9条に自衛隊を書くだけであって、何も変わらない」(権限も性質も変わらない)と言っているが、そうなのだろうか。
 「9条1項・2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という改憲案だが、その条文素案は次のようなものだ。
 憲法9条の条文は1項(戦争放棄)・2項(戦力不保持・交戦権否認)とも、そのまま維持したうえで、次のような条文を追加。
 「第9条の2(第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 (第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 自衛隊が、このように憲法に明記されれば、国会・内閣・裁判所・会計検査院と並ぶ憲法上の国家機関として格上げされ、同じ実力組織でも警察など他の諸機関に対して優先的地位が与えられることになる。そしてその行動とそれに必要な措置は憲法上の要請となる。(それに対して「内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする」とか、「国会の承認その他の統制に服する」など文民統制とはいっても、軍事の専門分野や機密情報については、それらに疎い政治家の関与・コントロールは充分及ばない。或は無知なうえに好戦的で、統制どころか、かえってけしかける政治家さえもあり得る。)
 9条に追記されて、保持することが認められた自衛隊は「前条(現行の9条2項の戦力不保持)の規定」によって妨げられることなく必要な「自衛の措置」即ち軍事を行うことができるようになり、自衛隊の行動は「法律の定めるところにより」内閣総理大臣が指揮監督し、「国会の承認その他の統制に服する」といっても、法律の制定も国会の承認も、国会における採決に際しては多数議席を占める政権与党に主導権があるのだから、(つまり、自衛隊の行動とそれに対する統制は、国会の過半数で変えられる法律任せ、ということであり、国会で過半数を制する政権与党しだい、ということになり)結局は政権の意向に即して(政権の思うままに)自衛隊を(集団的自衛権行使にしても、海外派遣にしても)運用できるようになってしまう、ということだろう。

 それによって、自衛隊は、これまで装備・武器使用や海外派遣などに際して、憲法上さまざま制約があって、控え気味・遠慮気味にやってきた、その制約が解かれて、むしろ憲法の要請として遠慮なく堂々とやれるようになるわけである(自衛隊の活動範囲が拡大し、自衛の名目であらゆる必要な措置がとれることになる)。まずは次のようなことが。
 ①集団的自衛権の行使、他国軍への後方支援・参戦、国際協力活動での自衛隊の任務拡大と武器使用基準緩和。
 ②敵基地攻撃用の巡航ミサイルの導入、護衛艦(「いずも」「かが」など)の空母転用―それに搭載できる米国製ステルス戦闘機(F35)既に147機購入決定―など遠隔敵地先制攻撃型兵器の拡充。
 ③防衛予算(軍事費)―社会保障費などより優先―GDP比1%枠などの抑制に囚われなくなる。
 ④自衛隊員募集の強化―自治体に適齢者名簿提供などの協力義務付け。
 ⑤運輸、土木建築、医療、ロボット・サイバー技術などが利用され、それらの従事者が徴用。
 ⑥学校教育で教科書に自衛隊の記述が増やされ、自衛隊「体験学習」導入、生徒に国防意識を醸成。
 冒頭に記したように9条に自衛隊項目を追記するだけで、このようなことが行えるようになり、その改憲案が国民投票で国民の意志として成立すれば、それら自衛隊に関わって政府や防衛省がやろうとすることに反対したり批判したり、協力を拒んだりすれば「非国民」呼ばわりされる、そういうことにもなるのでは。

2019年05月27日

続「市民連合やまがた」関連情報―野党統一候補 合意へ(随時加筆)

(3月25日の情報以後、途切れていたが、久々に山新情報が伝えられた。)

5月19日 山形新聞に「本県野党 芳賀氏で最終調整」と―11日舟山現参議院議員と本間共産党県委員長が協議、舟山氏によれば「共産党が独自候補を取り下げ、立民・国民・社民など非自民勢力が推す無所属の芳賀道也氏に一本化で調整中、引き続き協議を進めていく」、「共通政策には安保関連法廃止、9条改憲反対、安倍政権打倒を」と。
 同紙面には、この記事の前に全国の野党統一候補について、32の一人区で「27選挙区で一本化」と。そのうち22選挙区で野党統一候補者一本化に大筋合意、5選挙区は既にめどがついていて、調整が残っているのは5選挙区とのこと。

22日、山形新聞に「野党 芳賀氏で一本化―県選挙区 構図固まる」と。
―21日、中央の野党5党派 幹事長・書記局長会談で全国32ある一人区について、新たに8選挙区での候補一本化に合意、来週中に党首会談を開き、全ての一人区での一本化をめざすことに同意。山形県選挙区については「芳賀氏に候補一本化すること」に正式合意―舟山議員は「県選挙区における具体的な共闘の方向性を詰めたい」と語り、共通政策(戸別所得補償制度の復活などの農業振興策、安保関連法廃止など)は「詰めの段階」に、「今後、選挙協力のあり方」(協力態勢つくり)を早急に固めるとのこと。
 尚、山新21日付けには「県農政連―自民・大沼氏の推薦を決める」との記事―20日県内JAグループの政治運動・県農協政治連盟が全会一致で大沼氏推薦を決めた。同農政連は先月中旬、大沼・芳賀・浜田3候補予定者に農政課題に関する質問状を送って、その回答内容を参考に協議、政権与党の現職議員であることなどから大沼氏の推薦を決めたという。(県農政連は13年の参院選では落選した舟山氏を推薦し、16年参院選では自主投票としていた。)
 県内首長も大半が大沼候補推薦を決めている(市長会では尾花沢市長以外の12名、町村長会も)。
 
23日、朝日(地方版)に「野党側 芳賀氏で一本化―参院選 大沼氏と一騎打ちへ」との見出しで、「共産党は月内にも県内のほかの野党と政策の確認書を交わし、浜田氏の擁立を取り下げる方針。正式に合意されれば、前回舟山氏を当選させた『山形方式』の再現となる。」「芳賀氏は『一本化の協議がまとまったとはいえ、首長の大半が支援する大沼氏は強い・・・』と述べ、表情を引き締めた」と。 
 同日、朝日新聞には(#政界ファイル欄に)「野党5党派、市民連合との参院選向け共通政策、近く党首会談で合意へ」と―22日立憲民主党など野党5党派の幹事長らが、市民連合の山口二郎・法政大教授らと国会内で意見を交わし、月内に各党党首と市民連合が会談し、共通政策の締結を目指すことを確認した。山口教授は「基本的には市民連合の用意した共通政策で合意するだろう」と。

30日(市民連合やまがたの品川氏からのメール情報)朝日と日経新聞の記事から「野党 30人区で候補者一本化 参院選の構図固まる」と―立憲民主党など野党5党派の党首らは29日、会と談し参院選・全国32「一人区」のうち計30選挙区での候補者一本化に合意。残るは鹿児島と宮崎の2選挙区でそれぞれ競合する国民民主と社民を中心に調整を急ぐ。
 与党との対決構図はほぼ固まったが、野党の候補者の大多数は新顔。各党の協力態勢づくりや知名度向上が課題。(野党内では「新顔は地域への浸透に時間がかかる。一本化は遅すぎた」との懸念が出ている。)(自民党側は候補者の大部分は現職。)
 5党首らは、野党共闘を呼び掛ける「市民連合」(山口二郎教授ら)とも会談、政策要望書(市民連合側が原案を提起)を受け取り(5野党会派が協議して練り上げ)署名(調印)―共通政策
 ① 安保法制の廃止、立憲主義の回復
 ②安倍改憲・発議阻止
 ③沖縄辺野古新基地建設の中止と普天間基地の即時返還
 ④いまの状況下での原発再稼働は認めず原発ゼロを目指すこと
 ⑤消費税10%の中止と税制の公平化
 その他、計13項目

6月1日(市民連合やまがた品川・菅野・菊池お三方のメール情報に各紙の記事紹介)午前、山形市内で県内5野党が、統一候補に決まった芳賀氏と舟山現参院議員の立ち会いの下、市民連合やまがた世話人会メンバーの見守るなか、参院選に際する政策協定の確認書署名式を行い、その後記者会見。(その模様は品川氏が撮影・投稿したYouTubeに)
 確認事項―①農林漁業について、家族農業の支援に重点を置き、戸別所得補償制度の復活・法制化と種子法の復活を図ること。
 ②現行安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を求めるとともに、安倍政権の下での憲法改正に反対すること。
 ③再生可能エネルギー・省エネルギーの推進をはかり、原子エネルギーに依存しない社会を目指すこと。
 ④ 10月の消費税率引き上げに反対すること。
 ⑤安倍政権の打倒をめざし、国政選挙で現与党とその補完勢力を少数に追い込むこと。
 以上、5者は参院選山形選挙区において芳賀道也候補予定者の勝利を目指して全力をあげること。
 記者会見では芳賀氏が無所属でも「県民党」として国政を「なんとかさんなね!」と決意を表明。
 同日午後、川西町のフレンドリー・プラザで「なんとかさんなね!置賜集会・田勢康弘平和講演会」(市民連合やまが・南陽市民の会・高畠町連絡会・川西町民の会・東置賜地区平和センター・米沢地区平和センター主催)が開催。
 前半「隠蔽と忖度の政治に決別を!」と題する田勢氏の講演があり、その後で、「芳賀道也を励ます会」―近藤氏(芳賀道也総合選対副本部長)のあいさつ(その中で「一説には」として大沼陣営では「既に安倍首相来県の日程が2日間ほどとられており、小泉進次郎にいたっては4回ぐらい来るのではないかという話もある」と)、浜田氏(共産党公認の立候補を取り下げて芳賀氏に道を譲った)連帯のあいさつ、舟山氏(芳賀道也総合選対本部長)のメッセージ読み上げの後、芳賀氏の立候補決意表明が行われ、最後に、壇上に各政党・団体の代表が芳賀氏を中心に勢ぞろいし、「地方を大切にする政治、人に優しい政治にズームイン!」と気勢を上げた。
DSCN3585.JPG
芳賀道也氏
DSCN3599.JPG
                        ズームイン!
6月5日(ネット情報)市民連合(中央)が3日、「立憲野党統一候補」推薦発表―全国32の一人区のうち統一候補が確定した29選挙区の候補者推薦を発表(残る佐賀・宮崎・鹿児島3選挙区については政党間で協議中のため、情勢を見ながら推薦を決定とのこと)。
 その中で山形選挙区の無所属候補の芳賀道也氏も推薦。
4日、NHK山形、5日、朝日やまがた版に「参院選説明会に2陣営が出席」と―県選管は4日、県庁で山形選挙区の立候補予定者に向けた説明会を開き、自民現職の大沼氏と無所属新顔の芳賀氏の2陣営が出席。
 県選管の後藤書記長が「政見や主義・主張を積極的に有権者に訴え、公明正大な選挙を行って、県民の信頼と期待に応えて頂きますようお願いします」とあいさつ。
 尚、参院選の公示は7月4日、投開票日は同月21日が有力視されている。

7日(市民連合やまがた・菅野氏からのメール情報)はが道也事務所が9日開設―山形市城西町4丁目に。
  6月30日には午後2時より山形市内・国際ホテルで総決起集会とのこと。

8日朝日「全1人区 一本化へ」と―鹿児島選挙区は国民民主と社民党が立候補予定者が競合し、野党間で一本化に合意していない唯一の1人区だったが、このほど社民党側が、国民民主の公認候補予定者を無所属で立候補することなど条件付きで自党公認候補の擁立を見送ることとした。(社民党幹事長は「じくじたる思いはあるが、野党が分裂すると今の政権を利することになる」と)。
 これで野党5党派は、全国32の1人区で候補者を一本化するめどがついた、というわけ。

12日、朝日やまがた版に「立候補予定者 15日に公開討論会―JC主催、現新2氏が出席予定」と―主催JC(日本青年会議所東北地区山形ブロック協議会)、15日午後6時半から山形ビッグウイングで―自民現職の大沼氏と野党統一候補の芳賀氏が出席、一問一答でそれぞれの政策を述べ、コーディネーターを挟んで討論する予定とのこと。

13日、市民連合やまがたの菊地氏と戸塚法律事務所からのメール情報―①18日、三川町で「芳賀ちゃんと話そう!in三川」、②「市民連合やまがたと芳賀候補との政策協定 調印式」会場は山形市城西町の芳賀選対事務所、③23日、新庄で「芳賀ちゃんと話そう!in新庄」
 NHKニュース7―13日、5党派幹事長・書記局長会談で参院選一人区統一候補の一本化、32選挙区すべて確定と発表。

18日情報―22日(土)午後3:30、米沢市内・伝国の杜・大会議室で芳賀道也氏の個人演説会。
    YouTubeに「はがチャンネル」が開設されているとのこと。芳賀氏が政治を語っているトーク動画。
         ―検索は Michiya Haga-YouTube で
  ( 直接開く場合は https://www.youtube.com/channel/UCaMw1z5SuIpZ68BlUOt5Sgg )
23日、YouTubeに上記のものとは別に市民連合やまがた・芳賀道也関連の動画が掲載。
  https://www.youtube.com/channel/UC-5PSycFqEp5rfFfo5QUp9w
これに「市民連合やまがたと芳賀道也予定候補との政策協定調印」
      「山形地区選対総決起集会」
      「はがちゃんと話そう!in新庄」
      「    〃     1n三川」
       山形駅前での日本共産党街頭演説会  
          などの模様が撮られている。
30日、はが道也・予定候補の「なんとかさんなね!総決起集会」が山形国際ホテルで、福留・元日テレ・アナウンサー、鹿野道彦・元農水大臣、はが候補の高校時代の同級生らを迎えて開催。           (その模様は https://www.youtube.com/watch?v=4CHE7T7VNts に)
   その同級生(ご婦人)の方の話―「演劇部で3年生が卒業した後、男子が一人もいなくなってしまった。そこで芳賀君に『どうしたらいいべ』と訊いてみたら、『なんとかさんなねな』といって、彼が入ってくれた」とのこと。

2019年06月29日

年金問題が大争点に

 安倍自民党の現政権下で金融庁の審議会が、老後生活費は年金だけでは2,000万円不足するので貯蓄・投資など資産形成・運用が必要だという報告書を出したところ、財務大臣は「世間に著しい誤解や不安を与え、政府の政策スタンスとは異なる」として受け取りを拒否した。それに対する野党からの質問主意書には「報告書を前提としたお尋ねにお答えすることは差し控えたい」との答弁書を閣議決定。
 ところが、経産省でも(18年65歳を迎えた夫婦が95歳まで30年間暮らす想定で試算すると、生活費が1億763万円かかるが、公的年金収入は7868万円にとどまり)「2895万円不足」するという独自の試算を審議会に示していたとのことで、「年金だけでは不十分な人が多い」という課題が関係省庁で広く認識されていたとのこと(6月28日朝日)。
 いずれにしろ、今のままでは、生活費が年金だけでは何千万円も不足する人が多くなることは事実なのだ。
 そこで安倍政権はどうするというのだろうか。参院選公約には「人生100年時代に対応した年金制度の構築に向けて・・・・年金受給開始時期の選択肢の拡大、私的年金の活用促進等を進めます」とあるが、「それは公的年金だけでは足らないから私的年金が必要なのだ」ということなわけで、麻生大臣が受け取りを拒否した報告書に書いてある金融審議会の答申と同じ趣旨にほかならず、「それが政府・自民党の方針なのではないか」と志位氏が指摘している。
 野党は年金制度の危機と向き合うことが重要だとして解決策もきちんと提案していた。ところが首相はそれらにまともに答えることなく的外れな答えを長々と弁じたが、マクロ経済スライド続行の方針は強弁した。
 マクロ経済スライドとは、公的年金制度を長期的・安定的に維持・運営できるように、給付と負担を均衡させる調整装置で、年金額の伸びを自動的に調整する(引き下げる)仕掛け。
 安倍政権の方針は、要するに今後もマクロ経済スライドを続け、2040年度には基礎年金(国民年金)を(25兆円から18兆円に)7兆円削減、一人当たり満額月6万5千円から4万5千円に2万円引き下げる。消費税増税と引き換えに年金額が月6万5千円の人には(月5千円で)年6万円を支給。加入10年で月1万6千円の人には月1250円支給など年金額が低い人ほど少額、というもの。こんな程度のことしか打ち出されていない。
 ところが首相問責決議案に対する反対演説で与党議員は「年金を政争の具にしないで頂きたい」「高齢者の皆様の生活への切実な不安を煽らないで頂きたい」「野党のみなさんは年金を増やす具体的な政策を持っているのでしょうか」「今年の年金支給額はプラスになった。年金積立金の運用益はアベノミックス効果で6年間で44兆円となった。年金制度は安倍内閣の下で間違いなく強固で安心なものになっている。」「無年金者の問題に対しては払込期間を25年から10年に短縮し、60万を超える皆さまに新たな年金を支給した。低年金者には今年10月から最大年6万円の給付金を支給」などと大見得を切った。
 
 この年金問題は庶民にとっては死活的な大問題であり、政府の対応に対してどうするのか、どうすればよいのかと議論を起こすのは当然のこと。不安の種をつくっておいて、それを「なかったこと」にして不問にしようとする政権与党に非があり、野党がそれを糺そうとするのも当然のこと。「今年の年金支給額はプラスになった」というが、それは名目で0.1%増えはしても、実質では0.9%減で、安倍政権の7年で6.1%も減っているのが実態。
 首相はマクロ経済スライドで給付削減を続けて、年金制度の「100年」維持だけに固執し、老後は公的年金だけでは何千万円も足りなくなるから私的年金と貯蓄・投資でまかなうようにするか、さもなければ老骨に鞭打って働き続けるなど自助努力でしのぐ以外には、不安を解消するような具体策はなく、「年金を増やす打ち出の小づちなど存在しない」と居直り、野党に対して「具体的な対案もなく、ただ不安だけを煽る無責任な議論は決してあってはならない」などと言い立てている。

 野党の対案のうち首相が「ばかげた案」だと突っぱねている共産党案とはどのようなものか。
(1)まずはマクロ経済スライドを廃止して「減らない年金」を提案。どうやってそれをやるかといえば、高所得者の年金保険料負担の優遇措置を是正することで、財源を確保してそれをやる、というもの。
 首相はマクロ経済スライドを廃止には「7兆円の財源が必要」だと言ったが(受給者からみれば、それはマクロ経済スライドで年金が7兆円減らされるということにほかならないのだが)そのようなマクロ経済スライドを廃止するための3つ財源を提案。
①高額所得者の年金保険料負担の是正―厚生年金の本人分の保険料率は9.15%だが、高所得者は年収1000万円を上限にそれを超えても(年収5000万円でも1億円でも)保険料負担は一律95.5万円で、それ以上は納めなくてもよいという不公平な仕組みになっている。そこで、その高所得者の年金保険料負担の上限を(健康保険の場合と同じく)年収2000万円に引き上げれば、保険料収入は1兆6000億円増えことになる。ただし、保険料の上限を引き上げると、給付も増えることになる。そこで、米国の「ベンポイント」と呼ばれる方式を取りいれて年金給付の伸びを抑えれば、差し引き約1兆円の財源が出てくる。(保険料の上限引き上げと「ベンポイント」方式は、厚労省の審議会でも検討されてきたもの。)
②年金積立金(約200兆円)を取り崩し、年金給付に充てる―ヨーロッパ諸国では年金積立金は(イギリスやドイツでは)給付費の数か月分(フランスではほとんど積立てなし)。ところが日本では4年分(200兆円)も積立てて、株式市場などで投機的に運用し、18年10~12月期には約15兆円という過去最悪の損失を出している。この異常に貯め込まれた年金積立金を計画的に取り崩して活用する。
③年金の支え手である現役労働者の賃上げ(最低賃金を1000円に引き上げ、1500円を目指す)と非正規労働者(労働者の約4割、その半数は基礎年金にしか入っていない)の正社員化で、保険料収入と加入者を増やし年金財政を安定化させる。
 低年金者の底上げ―基礎年金額(月6.5万円)以下の低収入の年金生活者に一律月5000円、年間6万円を上乗せ給付。その財源は、大企業にせめて中小企業並みの負担を求め、富裕層を優遇する税制を改めるなど「消費税に頼らない別の道」で7.5兆円を確保する財源案を示しているが、そのうち7000億円を充てれば実現可能。

(2)低年金・無年金者の問題を解決する抜本的改革として最低保障年金の導入を目指す―全額国庫負担ですべての高齢者に月額5万円を保障し、払った保険料に応じた額を上乗せする制度。その場合の財源規模は5兆~6兆円で、それを大企業・富裕層の優遇税制を是正することによって確保する以外に、所得税の累進を強化すること(富裕層の税率引き上げ)によって税収を確保(消費税に頼らない税制改革で)。それに米軍の「思いやり予算」の廃止などによる確保も。

 このような野党の対案があるのだということ。

2019年07月10日

AIならぬ人間による民主主義―心情によるところ(加筆版)

 AI(人工知能)は人知には勝っても人の心(心情)はない。
政治―選挙―どの政党・候補者が最適かの評価・判断はAIの方が正確だから、AIに任せてしまったほうがよい。ならば人間の手による投票など無用、だとすれば民主主義も無用だ、ということになる。そんなことってある?
 どの政党・候補者が一番適任か、という場合、その評価・判断はそれぞれの政党・候補者の理念・政策・階層的立場・実績・人物(能力・人柄・規範意識‐ルールや道徳に忠実か)などに判断基準を置く。有権者・個々人はそれら政党・候補者の政策・人物などを自分でいちいち吟味して的確に評価・判断できるかといえば、多くの人は知識・情報・判断材料など充分持ち合わせず、また持ち合わせてもそれらをAIほどに的確に選り分ける能力は持ち合わせまい。ならば一層のことAI(データから割り出して評価・判定する人工知能)に任せて選んでもらった方がいいようなものだ
 しかし、政党・候補者の政策や力量を判定するに際して、AIは、「最大多数の最大幸福」ということで国に最大限の富や利益をもたらしてくれるか、といったようなことについては計算で的確に割り出すことはできるだろうが、国民の間の格差・貧困、或は自国ファーストによって他国が犠牲を強いられる結果になる、といったことについては計算外だったり度外視されがちとなる。そもそも数理的・論理的に正しい判断でも、人は心情的・道義的に正しくなければ納得しない。それゆえ、格差・貧困・犠牲などあってはならないという道徳的な心情(思いやりの心)を持った人間の手による民主主義でないと、やはりダメということになる。又、人間にはプライドという心情があり、一人ひとり自らがかけがえのない存在として尊重され、平等に決定に関わる手続きを経ない限り、たとえAIがどんなに優れた政治判断能力をもち客観的に正しい決定を導き出したとしても、人間はそれを(独裁政権による決定押し付けと同様に)正統なものと感じることができず、その決定に従う気にはならないだろう。
 いずれにしても、民主主義ということで選挙権年齢に達した全国民に一票づつ投票権を認めて選挙するという方法をとる限り人知によって選ぶしかないわけであるが、個々人にとっては、知性(政治的リテラシー)で判断するだけでなく、各自の心の中にある思い(心情)から、その政党・候補者の良し悪し(適否)を(自分の心情に合致しているかどうかで)評価・判断する部分が大きいだろう。その場合、人間の心情というものはAIなどでは割り出すことはできないわけであり、結局は各人の心情によって(心情に合っているかどうかで)政党・候補者は選ばれることになるんではないか。
 政党・候補者の側も、有権者には政策や公約などその考えを要領よく説明して理解・評価してもらうことよりも、むしろ心情(フィーリング)に訴えて心をつかむほうに力点をおく戦術をとることになる。

 「才智より出でたる行為は軽薄なり。心情より出でたる行為は篤実なり」という言葉(当方が奉職した私学の創設者の言葉)がある。但し、心情にも色々(喜び・悲しみ・怒り・楽しみ・愛憎・好き嫌い・快苦・プライド・不安・恐怖心、好奇心・探究心・協力心・強調心・公徳心・良心・正義感・思いやり・愛郷心・愛国心・友愛・博愛精神・反骨精神・義侠心・欲心・利己心・邪心・野心・野望・慢心・対抗心・敵愾心・功名心・意地・執念・嫉妬心・猜疑心・怨恨・復讐心など等)あり、良き心情(良心)もあれば、悪しき心情もあるわけである。
 「才智より・・・・、心情に出でたる行為は篤実」といっても、「悪しき心情」で憎悪・対抗心・敵愾心などの心情(気持ち)をぶっつけ合うだけでは、勝つか負けるかのケンカになり、国家間・民族間ならば戦争になる。互いの心情(気持ち)や民族感情を理解し合う協調心(歩み寄る心)とともに、互いに正確な知識(事実認識)と論理的合理性の共有に近づく「すりあわせ」によって、妥協点・合意点を見出す対話・交渉・協議が必要なわけであり、その意味では才智・知恵も必要だということ。

 心情で判断するとなると、「好き嫌い」「気に入る、気に食わない」などの感情に支配された判断となり、合理的選択(必要なあらゆる事柄を網羅した知識・データに基づく客観的な評価・判断)とは言えないことになるが、AIならぬ人間による民主主義である限りそうならざるをえないわけである。

 心情(思い)というものは、その人のうまれ育ちや境遇から生じるものと思われる。
安倍首相の祖父・岸信介は太平洋戦争開戦当時の東条内閣の大臣で、敗戦直後戦犯容疑で逮捕され、東条は死刑となったが彼(岸)は釈放され、公職追放解除後政界に復帰して自民党の首相となって、憲法の制定し直し(改憲)と日米安保条約の改定(結び直し)をめざした。安保の方は目的を果たしたものの退陣に追い込まれた。当時、大学1~2年生だった当方は、全国的に盛り上がった安保反対の集会・デモに参加し、「岸内閣打倒」を叫んだりしたものだ。安倍首相はその孫で、当時子供だったが、長ずるに及んで祖父の意思を受け継いで安保推進と改憲に執念を燃やすことになった。それも彼の心情から発しているわけだ。その彼は、当方にとっては心情的に「宿敵」みたいなもの。だから当方がひいきする政党・候補者はアンチ安倍自民党で、その中でも一番鋭く対決している政党・候補者ということになる。

 政党支持率で一番高いのはその自民党で、中でも世代別でいちばん自民党支持率が高いのは若年層(18~39歳)ということだが、いったいどうしてなんだろうか。彼らは、いったいどんな心情(気持ち)で彼らを支持しているんだろう。やはり「よくわからないし、他にいい政党はなさそうだし、自民にしておくか」というわけか。
 テレビやネットのニュースでは、一見いかにも華々しくやってるかのように、またスピーチや答弁も「弁舌さわやか」で「そつなく」やっているかのように表面上見えるので、「いいね!」「いいじゃない」となるわけか。
 しかし、それは当方にとっては、とても納得がいかない。当方が彼らを心情的に嫌いで気に食わない理由は
 ①その政策は、結局は「恵まれている人や財界・大企業本位」で、税金も大企業や富裕層を優遇、庶民には消費税を増税。
 ②権力とカネ(企業団体献金と政党助成金の圧倒的な資金)に物を言わせた広報宣伝力(NHKニュース、民放CMなど利用)。
 ③優勝劣敗(能力の勝る者が勝ち、劣る者が負ける)競争を肯定(負けるのは自己責任で、その結果格差・貧困が生じるのは「しかたのない」こと)。エリート・勝ち組意識(優越感)から上から目線で傲慢・横暴(多数の力に物を言わせて押し通す)。党所属議員や官僚には忖度させる(暗黙のうちに「総理の意向に」沿うように仕向ける。
 ④ごまかす(答弁・説明は言葉巧みにごまかし、都合の悪い文書は隠ぺい・改ざん)。
 ⑤「強き(アメリカ)を助け、弱き(韓国・北朝鮮)をくじく」外交。
 このような自民党に対して、その対極にあって、昔から権力とそれに逆らえずに同調するマジョリティー(多数者)の側からは「嫌われ者」とされてきた政党のほうに、むしろ共感を覚える、それが当方の心情なんだな。なにしろ、戦前から恵まれない庶民を味方し、国民の自由・人権平等と主権在民・反戦平和を主張し、迫害・弾圧を受けながらも踏ん張り通した「不屈の精神」。それもさることながら、企業・団体献金はもとより、税金による政党助成金も受け取らない等、その愚直さがいい。

 どなたかの言葉で「選挙とは、端的にいえば『ひいきのチーム』や『ひいきの候補者』に一票を投じる行為」で、「観戦するだけでなく参戦」することだ、と朝日新聞の『天声人語』に書いてあった。投票に行かずに棄権すれば現政権を(そのままでよいと)容認したことになるわけだし、そんなことにならないように、「参戦」しなくちゃ。

 株の取引きや投資などに必要なのは知的合理的判断力で、それらはAIに任せて済ませることができるが、政治家・政党を選ぶ投票となると、それには心情的・道徳的判断力も必要なので「心」というものを持った人間の判断でやるしかないわけである。

 『アベ政治を許さない!』『なんとかさんなね!』
 これらの言葉も心情から発したものと思われるが、さて、選挙では、どの政党・候補者に投票するか、その判断も、このような心情に決定づけられる部分が大きいだろう。
 当方が心情的に共感する政党・候補者は、といえば・・・・要するに「弱きを助け、強きをくじく」そんな政党かな。

2019年07月19日

AIならぬ人間による民主主義―心情によるところ(その2)

 9条には、大戦の悲惨・辛酸を実体験した国民の思い(心情)が込められている。その思いは、戦中世代はもとより、戦後生まれでも、まだその惨状の跡が残り、窮状が続いている間に生まれた世代ならあるだろう。
 彼ら高齢者(65歳以上)に対して、未成年者は勿論のこと現役世代には(米軍が日本から出撃した朝鮮戦争後に生まれてそれまであった戦争時代の生活体験がない安倍首相や同じく米軍が沖縄基地から出撃したベトナム戦争後に生まれてそれまであった戦争時代の生活体験のない小泉進次郎議員らも含めて)、このような反戦・厭戦の心情など全く持ち合わせない人が多くなってきている(中には北方領土問題で「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと言った丸山議員のような好戦的と思われる人さえも)。そういう人たちは、とかく「平和」とか「安全保障」というと、「他国の攻撃から国を守る安全保障」ということで、軍事的安全保障の観点から考え、「抑止力」というと、軍事的抑止力、要するに軍事力(戦力)は必要であり、それをいかに完備するか、という次元で考えがちなのでは。いわゆる「軍事的抑止力による平和」だ(安倍首相をはじめ9条改憲派の政治家が「平和安全保障」と称して考え、やっていることは、専ら自衛隊と日米同盟を維持強化して、それをどう効果的に活用するかということだけである。安保法制の改定、そして改憲もその観点から9条に自衛隊を明記する改憲を策しているのである。)
 そのような彼らは、現行憲法制定当時の国民にあった心情は、もはや何ら持ち合わせないAIと同じような無感覚な人間に化してしまっている、とも思える。AI(人工知能)には、戦争―「人殺し」というものに対する不安・恐怖・悲惨・残虐・非道などといった思い(心情)はない。AIが備え持っているのは、(平和・安全といえば自国の平和、自分の身の安全を守ることで、国を守るのは軍事的抑止力、身を護るのは「正当防衛」用の銃器であり)その軍事組織(軍隊・「自衛隊」)・兵器・武器を他国・他者が持つそれらに対して同等(均衡)か、それを上回る性能・数量をどれだけ備えればよいかを機械的に計算して割り出す計算能力だけ。軍事組織・兵器・武器は、そもそも人を殺傷するために用いられる非人道的手段であるのに、そのようなものを作り、備え、用いてはならないという道徳的観念も心情もAIにはないわけである。
 では若者は、そのようなAIと同じで、道徳観念も心情も全く持ち合わせないかといえば、学校やテレビで伝え聞き、映像を見るなりして少しは持ち合わせている者もいるのかもしれないが、あまり多くはいないだろう。ただAIなどとは異なり、若者は理想を追い求める(理想主義的)心情を持ち、「みんな仲良く、争いも戦争もない世の中」を追い求め、非戦・平和な世界と国・社会を追い求める心情が若者には多かれ少なかれ潜んでいるものと思われる。そこにこそ、AIや中高年者にはない若者たちへの希望・期待があるのでは。
 しかし、若者の心情には、他方では「戦争しないとどうしよもなくないですか」といった発言に共鳴する好戦的な心情をもつ向きもあるのかもしれない。
 また、安倍首相が言うように、9条に自衛隊を明記して自衛隊違憲論が説かれる余地をなくすことによって、自衛隊員の誇りを傷つけないようにできる、ということに共感する向きも多いのかも。
 当の自衛隊の若者たちはどのような心情を持っているのだろうか。国を守るための戦いに命をかけることに誇りを持ちたいと思っているのだろうか。かつての帝国軍人(愛国心に燃え、お国の為に命を惜しまずに戦った兵士)のようでありたいと。「他国の攻撃から自国を守る」と称して他国を(中国でもロシアでも北朝鮮でも)敵に回し、アメリカは日本を守ってくれる同盟国だからと、(全世界に展開する米軍が戦争状態に入ったとき)その米軍を守るため戦って「血を流す」ことも厭わないという、そんなにまで戦意(闘争心)があるというのだろうか。
 しかし、総理大臣(自衛隊の最高司令官)の命令となれば、何が何でも(その命令が正しかろうと正しくなかろうと黙って従い)戦って命を捨てる。忠義の戦士のように思われるが、それでは、それこそ「情けない」単なる兵器ロボットと同然ということになり、そんなことなら知能が人間に優るAIロボットの方が軍事的合理性からいってよっぽどましだということになるのでは。かくて自衛隊の戦闘員がAIロボット(無人兵器)に取って代わられる。いずれにしても自衛隊員のプライドなどどうでもよいことになるのでは?
 そうなると、軍事力の優劣を決定づけるものは兵士(自衛隊員)の愛国心による戦意の優劣ではなく、AIロボット兵器の優劣に懸ってくるいうことになる。
 そのような軍事的抑止力による平和は、自国の軍事力が他国に対して圧倒的に優勢か或いは均衡する軍事力による一時的な平和(戦争抑止状態)に過ぎず、それでは真の平和・恒久平和を実現することはできない。したがって自衛隊を憲法(9条)に書き加えたところで、そのような軍事的抑止力よっては現行憲法がめざす恒久平和はいつまでたっても達成することはできないということだろう。
 要するに平和はAIによって達成することはできず、「人間による民主主義」によってでなければ恒久平和は達成できないということ。そうなると「人間による民主主義」を決定づけるのは、AIの方が人間の知能より優る才知などよりも人間にしかない「良き心情」(良心)なのだ、ということではないだろうか。

2019年08月01日

「安定か、混迷に逆戻りか」って?

 参院選で安倍首相は、そう言って訴えた。それは旧民主党政権の下での「混迷」を「悪夢」だったとして、再びそこへ逆戻りしてよいのか、そんなことだったら、今の安倍・自公政権の方がいいに決まってるだろう、というわけである。

(1)今回のこのような選挙に対して人々の反応、なかでも若者たちの反応はどのようなものだったか。
 7月23日NHKの番組「クローズアップ現代」(『現役世代はどう投票?一票に託したホンネは将来の不安の中で』)で紹介された若者のコメント(インタビューへの答え)。
 「文句言って消費税(増税方針)が変わるのかといったら変わらないし、今の与党のままでいいのかな。」「社会の中の何かが直ぐに大きく変わるわけではないでしょうけど、野党が強くならないと、たぶん今の政治はしっかりしない。」
 「ツイッターはフォローしてます。」「政治色、前面に出されると引いちゃう。」
 「問題なく今、日本が安倍さんのまま続いているので、安定しているのかなと思います。」
 「文句言って状況が変わるわけじゃない。しょうがないと思いますね。」
 「なんだかんだいっても、長くなっている政権を安定させて『頑張って』って応援してあげるのが一番得策なのかと思います。」
 「外交とか、そういうものを全部ひっくるめて考えたときに、野党にここで任せるよりかは現状維持で自民党にやってもらった方が、まだましなのかな。」などといったもの。

 解説―「若い世代はこれまでとは異なる価値観で政治を見ていることも分かってきました。」「小学校高学年の頃に起きたリーマンショック。『失われた20年』に育った世代は、政治への期待の度合いが低くなり、自分の身は自分で守ると思うようになっている」と(自己責任で何とかするというわけ)。
 学生のコメント―「今まで何か政策で変えてもらったという経験がないから、政治にアクションを起こして変わるという実感が湧かない。」
  「今の生活を変えるには自分が頑張るしかない。」
  「2000万円必要なら、自分で頑張って働いて貯金すれば裏切られることもない」
 SNSを通して政治と接点を持つ若者―「安倍さんとトランプさん」なんかのツイッターをフォロー。
  「わざわざ検索しにいくほど興味はないけど、流れてくるんだったら見ておこうか、ぐらいの気持ちで。情報が受け身で入ってくるというところがコスパ(費用対効果)がいい」などと。

 慶応大学院の谷口尚子准教授―「若者世代の生活スタイルは、スマホで何でも買えるなど、多様なニーズがオンデマンドで(利用者の要求に応じて)直ぐに満たされる便利な世の中にある一方、政治は地域社会や利益集団があって、政策過程があって、ものすごく複雑な構造で、変えていくのに時間がかかる。彼らから見たら遠いもの。」
 関西学院大の稲増一憲教授―「ここ数年若者が政治を語る言葉を、我々の世代までの常識で理解してしまうと間違うのではないか」。学生に各政党のどれが保守でどれが革新かを訊くと、保守に共産党・社民党・立憲民主党をあげ、革新に維新・自民・公明をあげて、「維新の会は都構想とか何か新しいことにチャレンジしようというのが耳に入ってくる印象があって、自民党は憲法を変えるという意味で革新であるかな」などと答えていた。「かつての常識とは政党イメージが正反対なのだ。」

(2)今回の参院選の低投票率(48.8%)―若者でも18才・19才の投票率はさらに低く31.33%(3人に1人以下しか投票していない)。そのうち比例代表を自民党に投票した人は、(共同通信の出口調査では)全世代平均では35.4%だが、18・19才は38.2%、20代は41.1%、30代は40.6%が自民党に投票した、ということで安倍首相は「まさに令和の時代を担う若い世代から強い支持を戴きました」と誇らしげ。
 しかし、自民党の得票率は、比例代表で(有効投票総数に占める相対得票率では35%でも)棄権者も含めた全有権者に占める得票割合を示す「絶対得票率」では16.7%、一人区や複数区の選挙区でも(相対得票率では39.8%だが)絶対得票率では18.97%で、いずれも2割に満たない。安倍首相は「国民から力強い信任を戴いた」と言っているが、全有権者の5人に1人以下の支持しか得ていないのだ。

(3)人々が持っている心情には、次のような相反する傾向があって、どっちかのタイプに分かれる。
 [利己主義・独善主義・自分第一主義⇔利他主義・博愛主義]
 [自慢(自己顕示欲)⇔謙遜・卑下]
 [実利主義(現実を賢く立ち回る)⇔理想主義(未来志向)・正義感(バカ正直)]
 [群れたがり(集団への帰属欲求)⇔孤独を愛し一人我が道を行く]
 [権威主義・「寄らば大樹の陰」・「長いものに巻かれろ」・「勝ち馬に乗れ」⇔反権威主義・反骨精神]
 [競争主義⇔協力主義]
 [エリート主義⇔反エリート主義]
 [反知性主義⇔知性主義]
 etc
 (当方の心情傾向は、どちらかといえば、いずれも後者の方だろうと、主観的に思っているが)前者の心情傾向を持つ人は、現政権に同調し、安倍首相が言い立てる「安定か、混迷に逆戻りか」の訴えに対して肯定的に受けとめ、自公の安定政権を支持する人がほとんどだろう。
 自立(親離れ)に向かう青年心理には親や大人に対する反抗や激情(情緒不安定)、現実と理想の狭間で揺れ惑う苦悩・葛藤というものがあるのだろうが、やがて大人になって、心情はそれぞれ一定のところに落ち着く。そこまで至るには教育(学習)と社会生活の体験を積まなければならないのだろう。
 若者の心情傾向は一般に、現状や権威に対して反抗的で、上に列挙した[ ]では後者の方に寄って当たり前と思われてきたが、今の若者は、以前とは異なり、前者の方に寄っている。いったい何故なのか、そのこと自体問題なのだが。

(4)いずれにしろ選挙・投票に際しては、政治家の発言内容の評価・判断には(言っていることが正しいのかどうか、印象操作、それにフェイク情報も見抜き、ファクトを見極める)知性・知識が必要で、心情や感情だけで対応してしまうイメージ選挙やフィーリング選挙に陥ってはならない。自分の心情に合わないからという理由だけで反対を主張し訴えても説得力をもって人々に納得してはもらえない。客観的な根拠となる事実と論理がなければならない。それには知性・知識が必要なのだ。

(5)「安定か、混迷に逆戻りか」―旧民主党政権の下での「混迷」を「悪夢」だったとして、再びそこへ逆戻りしてよいのか、そんなことだったら、今の安倍・自公政権の方がいいに決まってるだろう―という、その言い方には人々を錯覚させる二つの作為がある。
 第一に、民主党政権当時「混迷」があり、まさに「悪夢」というしかない事態があったことは事実だが、政権交代直前(麻生政権下)にアメリカから起こったリーマンショック(世界的な金融危機)、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件(その後、石原都知事による島の購入計画があって、野田首相はそれを回避すべく島の国有化に踏み切った)、東日本大震災とそれにともなうフクシマ原発事故など、民主党政権にとってはいわば天から降って湧いたような不運な事態であり、あの時は、たとえ安倍政権だったとしても、混迷は避けられない事態だったろう。普天間基地の移設問題(鳩山首相が「最低でも県外」と言っていながらも、沖縄県内の名護市辺野古への移設を容認)にしても、TPP或は消費税増税法(5%から8%さらに10%へ)にしても、安倍政権は民主党政権が決断した方針を(撤回することなく)引き継いでやっているのだ。
 第二に、安倍政権がめざしているのは「現状維持」などではなく、現行憲法改変(改憲)なのだ。「現行憲法の自主的改正」は自民党結党以来の党是だったにもかかわらず、歴代自民党政権は今日に至るまで明文改憲は控えてきた。自民党やその政治家には、この間、改憲の意図と衝動はあったとしても、大多数の国民はそれを望まず、野党もそれを阻んできた。政権が自民党でも、或は安倍政権でも長期「安定政権」を保ってきたのは、現行憲法をまがりなりにも維持してきたからにほかなるまい。
 今回の参院選にしても、自公合わせて過半数が得られ、安倍政権が「勝利」して「信任」されたかのように言い立てているが、国民は改憲を容認したわけでないことは、投開票前後の世論調査などで明らかである(選挙後22・23日に実施した朝日新聞の調査では、「安倍首相に一番力を入れてほしい政策」を5択で訊くと「年金などの社会保障」が38%、「教育・子育て」23%、「景気・雇用」17%、「外交・安全保障」14%で、「憲法改正」はわずか3%。読売も「社会保障」が最も高く41%で、「改憲」は3%。そして「安倍政権の下での憲法改正」は、朝日新聞の調査では「反対」が46%で、「賛成」は31%。共同通信が同日実施した調査でも同じ質問に「反対」が56.0%で「賛成」32.2%を上回り、選挙期間中の世論調査に比べても「反対」が5ポイントも増えている。)自民党は勝利したというが、9議席減らしており、公明・維新を合わせた改憲派は、改憲発議に必要な3分の2を割っているのだ。
 そのような「憲法改正」を安倍政権が強行に踏み切るとなれば、(憲法審査会→国会発議→国民投票へと)けっしてすんなりとはいかず、それこそ混迷は避けられまいそれこそ安倍政権にとって「安定か混迷か」が問われることになる。国民は安倍政権による改憲は望んでおらず、その改憲強行による混迷はさらさら望んではいないのだ。

2019年08月14日

サザン・オールスターズの歌「ピース&ハイライト」―日韓関係(再々加筆版)

(今また、これを歌っている。一人、田んぼ道をウオーキングしながら)
♪ 何げなく見たニュースで お隣の人が怒ってた
 いままでどんなに話しても それぞれの主張は変わらない 
 教科書は現代史を やる前に時間切れ 
 そこが一番知りたいのに なんでそうなっちゃうの  
 希望の苗を植えてこうよ 地上に愛を育てようよ
 未来に平和の花咲くまでは Blue(憂欝)
 絵空事かな お伽噺かな 互いの幸せ 願うことなど

 歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない
 固いこぶし振り上げても 心開かない
 都合のいい解釈で 争いをしかけ
 裸の王様が牛耳る世は Insane(狂気)
 20世紀で懲りたはずでしょう くすぶる火種が燃え上がるだけ

 いろんな事情があるけどさ 知りたいの 互いのいいところ
 希望の苗を植えてこうよ 地上に愛を育てようよ
 この素晴らしいふる里(地球)に 生まれ
 悲しい過去も 愚かな行為も 人は何故に 忘れてしまう
 愛することを ためらわないで ♪

日韓関係の悪化徴用工問題
 発端―2018年10月、韓国の大法院(最高裁)が日本企業(日本製鉄と三菱重工業)に対し、戦時中に朝鮮半島から日本の工場や鉱山に動員された元徴用工らに慰謝料の支払いを命じる判決。
 日本政府は即座に抗議、「元徴用工の補償問題は1965年の日韓請求権協定で『完全かつ最終的に解決済み』と。
 安倍首相は「国家間の約束を守るかどうかという信頼の問題だ。日韓請求権協定に違反する行為を韓国が一方的に行い、国際条約を破っている」と(8月6日、広島での記者会見)。
 国際法が司法を拘束するのは常識だ(日本政府高官)。
 1910年の韓国併合条約は国際法上合法的なもので正当なものだ。
 日本のメディアは韓国大法院判決を、「朝日」が「(日韓の)関係の根幹を揺るがしかねない判決」、「毎日」が「日韓基本条約を覆すような判決」、読売が「(両国関係の)基盤を損ねる不当な判決」と3大紙そろって批判。NHKは安倍首相や河野外相の「日韓請求権協定に違反し、約束を破った韓国」という言い分をそのまま流し、多くの人々に「悪いのは韓国」という印象が振りまかれている。

 それに対して韓国側の言い分(韓国大統領府のウエブサイト投稿)
「請求権協定は、韓日両国間の財政的・民事的債権・債務関係を解決するための政治的合意であり、強制動員被害者の個人の損害賠償請求権は生きている」「反人道的不法行為に対する被害者の慰謝料請求権は生きている」。
 「徴用自体の不法性(日本の国家権力が関与した反人道的で、植民地支配と直結した不法行為)に伴う損害賠償請求権は協定によって消滅していない(協定の適用対象に含まれたとはみなしがたい)」
 「08年に施行された韓国政府による強制動員被害者支援金は、人道的レベルの慰労金であり、『日本企業の不法行為に関する損害賠償責任』とは無関係だ」と。
 韓国併合条約は形式的に合法的な装いをしているが、実態は力による一方的な併合であり、不当な植民地支配であった。
 三権分立で政府は司法判断に介入できない。大法院の判断は尊重しなければならない。
 というのが韓国政府の言い分。

●諸見解
<立命館大教授・庵ざこ由香氏>
 植民地支配を肯定する一部の議論に数字をあげて、経済的な発展を主張するものがある。それで
朝鮮半島でも植民地期に日本が投資をしてインフラを整備、資本主義化を進め、農業生産も上がったと。しかし、日本が多くの富を獲得し、朝鮮のほとんどの庶民には富が波及しなかった。また、朝鮮人(韓国人)の主権が奪われて、自国の国をつくっていくための政治的な選択権も政治的訓練の機会も奪われた。そのため戦後、日本の植民地支配から解放されはしたものの、しばらくは軍事独裁が続いてた。政治的近代化が行われるようになったのは、韓国では1990年前後のあたりからようやく。

<評論家・田原総一郎氏の見解>
 「日本政府はなにかと1965年の日韓基本条約を持ち出すが、当時、韓国は国力が弱く貧しく、日本に頼らざるを得なかった。(韓国が世界に通用する自信を持ったのは金大中以後でまだ20年も経っていない。)」
 「日本の方が、もしかすると感情的にエスカレートしている風に僕には見える。」
 「テレビは韓国をけしからんと言った方が視聴率が取れるんだったら、そっちの方に流れる。それが国民の感情をあおっている。」
 「日本では中学でも高校でも大学でも、近代史というものをまともに教えていない。たとえば、以前、韓国の学生と日本の学生が討論会をやった時に、韓国の学生は『一番嫌いな人物は伊藤博文だ』というのに対し、日本の学生は『千円札のおじさん』という知識しかない。」

<元日本弁護士連合会会長・宇都宮健児氏の見解>
 国民主権の民主主義国家においては立法・行政・司法の三権は分立。その下での司法の中心的役割は、国民・市民の基本的人権を守るという立場から、立法・行政をチェックするところにある。元徴用工の人権を守るため韓国大法院が仮に韓国政府の立場と異なる判断をしたとしても、民主主義社会における司法のあり方として全然おかしいことではない。
 元徴用工等の個人の損害賠償請求権を国家間の協定によって消滅させることができないことは、今や国際人権法上の常識となっている。
 これまで日本政府や日本の最高裁においても、日韓請求権協定によっても実体的な
個人の損害賠償請求権は消滅していないと解釈されてきたもの。
 安倍首相の日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決した」という国会答弁が、元徴用工個人の賠償請求権は完全に消滅したという意味であれば、日本政府のこれまでの見解や日本の最高裁判所の判決への理解を欠いた答弁であり、完全に誤っているといねばならない。
 新日鉄住金を訴えた元徴用工は、賃金が支払われずに、感電死する危険があるなかで溶鉱炉にコークスを投入するなどの過酷で危険な労働を強いられてきた。提供される食料もわずかで粗末なものであり、外出も許されず、逃亡を企てたとして体罰を科せられるなど、極めて劣悪な環境に置かれていた。これは強制労働(ILO第9号条約)や奴隷制(1926年奴隷条約)に当たるものであり、重大な人権侵害。
 徴用工訴訟は、その人権侵害を受けた被害者が救済を求めて提訴した事案であり、社会的にも解決が求められている事案。
 徴用工問題の本質が人権侵害問題である以上、なによりも、被害者個人の被害が回復されなければならない。そのためには、新日鉄住金など日本企業が韓国大法院判決を受け容れるとともに、自発的に人権侵害の事実と責任を認め、その証として謝罪と賠償を含めて被害者及び社会が受け入れることができるような行動をとることが必要。
 日本政府は新日鉄住金をはじめとする日本企業の任意かつ自発的な解決に向けての取り組みに対して、日韓請求権協定を持ち出してそれを抑さえるのではなく、むしろ自らの責任をも自覚した上で、徴用工問題の真の解決に向けた取り組みを支援すべき。
 1965年の日韓請求権協定の完全最終解決条項の内容と範囲に関する両国政府の一貫性がない解釈・対応が、被害者らへの正当な権利救済を妨げ、被害者の不信感を助長してきた。このような事態を解消するために、日韓基本条約等の締結過程に関する関係文書を完全に公開して認識を共有し、実現可能な解決案の策定を目指すべきであり、韓国政府と同様に、日本政府も自発的に関係文書を全面的に公開すべきことが重要。
 日韓両国政府は、相互に非難しあうのではなく、何よりも人権侵害を受けた元徴用工の被害回復の一点で協力すべきである。

<元外務省国際情報局長・孫崎亨氏の見解>
 日韓基本条約は、植民地化など日本の戦前の行動に対する反省も、謝罪も、償いも、何もしないという前提でできている。
 ところが現在は、「慰安婦」への反省とお詫びを示した河野談話、北東アジアへの侵略に反省を示した村山談話があり、戦前における日本の行動を反省する姿勢が出ている。だから、65年の基本条約ですべて処理したというのは、韓国の人々の理解は得られず、外交に
臨む姿勢として正しくない。
 また当時は、経済的に大きな力の差があって日本と韓国で、韓国政府が日本の謝罪を求めずに経済援助を受けて手を打ったが、それでよかったということにはならないと言う意見が韓国内にはある。
 こうした状況で、解決のあるべき姿について真摯に話し合う姿勢を見せないから韓国の人たちは怒っている。
 日韓基本条約だけで日韓関係を処理できないという認識をもち、新たな関係を構築する姿勢で臨むこと。そして加害者には被害者の気持ちが理解できないとすれば、ひとまず被害者から問題解決の方向を出してもらい、そのうえで話し合うことも現実的な道ではないか。

<明治学院大学国際学部 阿部浩巳教授の見解>
 1965年、日韓基本条約・請求権協定―日本側は植民地支配については「当時は合法」と主張。韓国側は「当初から無効」と訴えたが、うやむやにされ、その後も、植民地支配が合法か不法かの問題は平行線のまま。
  90年代に日本軍「慰安婦」や徴用工の問題が浮上。
 2012年・18年、韓国の大法院(最高裁)判決は「慰安婦」・徴用工問題とも、根本に植民地支配の不法性があることを認める―日韓請求権協定の交渉過程で日本政府は植民地支配の不法性を認めなかったので、同協定で放棄した請求権には、植民地支配の不法性に基づく被害への慰謝料請求権は含まれていないと踏み込んだ判断。
 これに対して日本政府は引き続き植民地支配の不法性には触れず、日韓請求権協定で「解決済み」との立場に固執。(日韓請求権協定第2条は、両国とその国民の間の請求権問題は「完全かつ最終的に解決」したと定めているが、そのことをもって仮に将来、問題が生じても一切合切終わりという主張は、典型的な強者の論理で、いまの国際秩序のなかでは通用しない。)
 条約の解釈の仕方について国際司法裁判所は71年、人権問題に関するナミビア事件で「国際文書は、解釈の時点において支配的な法体系全体の枠内で解釈適用されなければならない」と勧告的意見を出している。それを日韓請求権協定に置き換えれば、現時点において支配的な法体系=こぼれ落ちてきた被害者の声を聞きとるという、国際法のあり方に照らして解釈しなくてはいけない、ということ。現在の国際法は個人の救済を求めているとされる。
 日韓両国の政府と最高裁は、日韓請求権協力協定で被害者個人の請求権は残っていると認めている。
 なぜ今になって韓国の被害者が声を上げているのか
 時代―それまでは世界や個々の国内は強者優先の社会で、被害者の声は押し潰された。韓国では軍事独裁体制で声を挙げられない状況が長く続いた。 
 ところが1980~90年代、人権を中心に据えた公正な社会を求める考え方が広がり、歴史や法律研究も強者優先(英雄中心・男性中心)を反省。社会からこぼれ落ちてきた声が「人権」をキーワードに拾いあげられていくようになり、韓国でも80年代後半、民主化して、ものを言える土壌で高齢化した被害者がやっと声をあげられるようになったからだろう。
 
 <2019年8月11日、「徴用工問題の解決を求める日韓弁護士や支援団体声明」では>
 そもそも徴用工・勤労挺身隊被害者(原告)は、意に反して日本に動員され、被告企業の工場等で賃金も支払われず過酷な労働を強いられた人権侵害の被害者。この被害者に対して日本企業も日韓両国政府もこれまで救済の手を差し伸べてこなかった。
 被害者・原告が日本で最初に裁判を始めてから20年以上を経て、韓国大法院・判決で自らの権利の主張が認められた。
 韓国大法院は、日韓請求権協定を否定したわけではなく、その協定が維持され守られている前提で、その法解釈を行ったのであって、
 昨年(18年)11月14日、衆院外務委員会で、河野外務大臣は、個人の賠償請求権は消滅していないことを認めている。
 法の支配と三権分立の国では、政治分野での救済が得られない少数者の個人の人権を守る役割を期待されているのが司法権の担い手である裁判所であり、最終的にはその司法判断が尊重されなければならない。
 何よりも問題なのは、人権侵害を行った日本企業や、それに関与した日本政府が、自らの加害責任を棚に上げて韓国大法院判決を非難していることである。
 当事者間(被害者と日本企業との間)で、(自主的に)問題解決の協議・和解の必要性―
両政府はそれを尊重し、実現に協力すべき、と。
 
<弁護士・川上 詩朗氏の見解>
 そもそも、徴用工問題は、朝鮮半島から意に反して動員され日本企業で賃金も支払われず過酷な労働を強いられた人権侵害被害者に対する謝罪と補償の問題。人権侵害である以上、国家間でいかなる合意をしようとも、被害者の納得を得るものでなければ最終的な解決にはならない。
 問題の根本には朝鮮半島に対する植民地支配の不法性の問題がある(韓国の大法院判決もそれを大きく問うている)が、仮にその(植民地支配の)不法性を確認しなくとも、強制労働の違法性は確認することができる。被害者の救済を最優先に、植民地支配の不法性とは切り離して、解決を協議することはできる。
 被害者らは何度も企業との協議を求めてきた。
 中国人の強制動員被害に対しては、日本企業(西松建設や三菱マテリアル)は資金を拠出して基金・財団を作り、協定文書に、被害の事実と人権侵害を認め、謝罪を盛り込んだ。
 日本政府は韓国人徴用工に対しても、当事者・日本企業が財団による解決を図ろうとすることに対して協力し支援することが望ましく、少なくとも、日本企業の解決に向けた動きを妨害しないことだ。また韓国政府の協力もあってしかるべき。日韓請求権協定で曖昧な決着し、被害者を放置してきたことへの政治的な責任があるのだから、と。

<放送作家の石井彰氏>
 日韓基本条約・請求権協定について―韓国が朴(パク・チョンヒ)大統領という事実上の軍事独裁政権下にあった時代に結ばれた条約は、選挙によって民主的に選ばれた政権になっても未来永劫に有効なのか、また国際条約は国内法より無条件に優先するという考え方も疑問だ、と。

<19年20日、日本弁護士連合会主催の国際シンポジウム「戦争及び植民地支配下の人権侵害の回復と平和構築に向けて」> 
 国際法は強国の支配を正当化する役割を果たしてきたが、現在は「人権」を中心に抑圧された側の声を反映する方向に発展しつつある。過去の植民地支配を国際法上も問題だとする機運も生まれ、植民地支配下での重大な人権侵害に対して旧植民地宗主国が被害者に謝罪し補償する事例が生まれている。「この流れを東アジアではっきり示したのが大法院判決だ。」日韓の最高裁が被害の実態を事実認定し、「反人道的であったことは間違いない。当時も強制労働・強制連行は国際法上禁止されていた」、まずは「植民地支配の合法性・違法性を問わず、きちんと損害賠償し、謝罪するという合意をすべきだ」。(阿部浩己明治学院大教授)
 「日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府は一貫して植民地支配が不法で賠償責任に値すると認めていない」。そのため、被害者の慰謝料請求権が請求権協定の「範囲外」だとした大法院判決の判断が「出てくる余地」があった。(吉澤文寿新潟国際情報大教授)
 歴史問題の解決には加害者側が「加害の事実を認め謝罪する、謝罪の証しとして和解金を支給する、将来に再び過ちを繰り返さないために歴史教育として未来に伝え続ける。」この三つの原則が必要だ。(内田雅敏弁護士)

<東北アジア歴史財団・韓日歴史問題研究所長 南 相九>
日本は95年の村山談話、98年の日韓パートナーシップ宣言、2010年の菅談話で、植民地支配を「不法」とは言わないまでも、「不当だった」としてきた。「不当だった」というのは韓国からするとまだ物足りないのだが、安倍首相にはその認識すらない。15年の戦後70年談話では、(「韓国併合条約」で朝鮮を植民地としたのは1910年であり)世界が帝国主義の時代だったので日本だけが間違ったわけではない(過ちが始まったのは1930年代からだ)と。
 日本政府は2015年12月、「慰安婦」被害という歴史の事実があり、被害者が心の傷を受けたと認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明したが、その一方で、今後は謝罪する必要はない、もう忘れようという態度。謝罪や反省は一度で終わるものではなく、それをどう守っていくかが大切。
 安倍首相は、韓国がゴールポストを動かしたと言うが、1965年当時は国家と経済のフィールド、今は個人の人権が加わってフィールドが広くなっており、ゴールポストが動くのは当然。

● ♪ なにげなく見たニュースで お隣の人が怒ってた・・・・♪、
 隣国同士でいがみ合い―「反日」に対して「反中」「反韓」。
日本人の場合は、明治以後、福沢諭吉の「脱亜入欧論」(日本は欧米の文明を受け容れ、それを受け容れずに近代化が遅れているアジアを脱し欧米列強の仲間入りを目指すべしという主張)以来、知らず知らずのうちに刷り込まれてきたアジア諸国を一段下に見る優越意識が多かれ少なかれあって、相手が米欧なら黙ってるものを中国や韓国・北朝鮮となると目をむく、それがともすると互いに必要以上にいがみ合う動因になっているのでは<明治大学の山田明教授>。

 ♪ 教科書は現代史をやる前に時間切れ そこが一番知りたいのに・・・・
歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない ♪―歴史認識の共有(共通認識)
 ドイツ・フランスの間では2006年から高校で共通教科書。
 ドイツ・ポーランドの間では共通教科書の構想はあるものの難航。
 バルカン諸国では歴史教材副読本で「両論併記」→それぞれの歴史認識を尊重し、相手の歴史認識と自国の歴史認識との違いや距離感を知り合う(というところにも意味がある)。
 日本と中国・韓国との間では、歴史認識の共有・共同歴史研究は容易ではない。日本国内でさえ個々の研究者(特に「新しい歴史教科書をつくる会」系の歴主修正主義の立場とそうでない立場)の対立があったりして。
 日韓の間では、2001年の日韓首脳会談に基づいて2002から2010年まで2回にわたって日韓双方の学者・専門家から成る共同研究委員会がもたれたが、なかなか噛みあわず、(委員の人選に政治的意図が介在し、教科書問題でぶつかるなど)進展がみられない。
<青山学院大の羽場久美子教授>「歴史教育には『解は一つではなく、複数の解の可能性』を考えさせることが大事で、「異なる歴史認識を容認する」姿勢が大事。「(生々しい歴史の加害者と被害者の歴史認識を共有するのは不可能に近く)未だ歴史の共同認識は得られずとも、共同の歴史教科書作りは可能である」と。
 しかし(それにしても)日本では、歴史教科書に現代史がどう書かれているか以前に、入試を控えて、授業が時間切れでそこがカットされてしまうか、どうせそこ(現代史)からは出題はないので駆け足で流して終わる、ということが問題なのだ。だから今の(経済・文化交流・安全保障など)社会生活に直結する一番肝心なところなのに、そこ(現代史)をろくに知らないままに、18歳になって選挙権が与えられて投票しなければならず、政府与党とそれに対する野党各党の(近隣外交など)外交政策の是非(適切か不適切か)の判断が迫られる。結局、よく解らないからやむなく棄権せざるを得ないか、ろくに解らないまま投票して不本意な結果を招いてしまうということにならざるを得ないということになる。
 つまり、18才高校生にも選挙権が認められるようになりはしたものの、それに相応しい(必要な)知識・情報リテラシイーを身に付ける主権者教育が十分行われていないことが問題なのだ。

 ♪ 悲しい過去も 愚かな行為も 人は何故に忘れてしまう ♪
  足を踏んだ方は(その愚かな行為を)忘れてしまうが、踏まれた方は(その悲しい過去を)忘れはしないのだろう。

♪ 希望の苗を植えてこうよ 地上に愛を育てようよ 未来に平和の花咲く・・・・♪
♪ 愛することをためらわないで ♪ 
 「愛する」ということは敵意を持たないということ。敵意があるかぎり平和はない。「敵意は相手に対する認識を歪め、誤った見方や判断をしてしまう」という。
 「愛する」ことによって「心情としての憎悪や苛立ちから解放されて、その相手に対して自らが責任を負っているということに気づかされる」と。

 


 
    


2019年09月01日

近現代日韓関係史(加筆修正版)

1868年、明治維新
1871年、日清修好条規―対等条約で互いに治外法権を認め合う
1872年、琉球王国を廃し琉球藩として日本の版図に組み入れる
1873年、征韓論(朝鮮政府が日本に対して鎖国政策をとって国交回復を拒絶したのに対して出兵・軍事行動を主張)、強まり、新政府、西郷・板垣らが征韓の方針を決定するも、大久保・岩倉らの反対で実行されず、征韓派は下野。
1874年、台湾出兵―近代日本初の海外派兵
1875年、江華島事件―仁川の付近の島に日本軍艦が接近、砲火を交え、上陸、砲台を破壊
1876年、日朝修好条規―江華島事件の責任を追及するとして、日本の使節(黒田清隆)が軍艦を引き連れて江華島に乗り込み、圧力を加えて締結―不平等条約―治外法権を認めさせ、朝鮮側には自主権がない一方的な関税自主権を認めさせる―日本の貨幣は朝鮮で自由に通用ようにし、日本の貿易輸出品については関税をかけない―日本が欧米によって強いられた不平等条約を、さらに上回る(不平等)
1894年、日清戦争―朝鮮で起きた農民反乱(東学党の乱)に乗ず―清国が朝鮮政府の要請に応じて出兵、それに対して日本も出兵(清国側の数倍の大軍)―朝鮮政府は東学党と和解して日清両軍に撤兵を求めるも、日本軍は、朝鮮政府に難問を突き付け朝鮮王宮を占領(朝鮮政府に清国軍を国境外に追い出すことを日本軍に委託させ、それに応じて清国軍を攻撃(開戦)―「宣戦の詔勅」には「清国が朝鮮を属国扱いしている・・・・日本は朝鮮
の独立のためにかうのだ」と―豊島沖の海戦→日本軍は清国領に侵入、東学党の農民軍が日本軍に抗戦(抗日闘争へ)―朝鮮政府と日本軍により弾圧
1895年4月、日本軍が勝利して日清講和条約(下関条約)―清国側が日本に巨額の賠償金を払い、台湾と遼東半島を割譲(遼東半島の方はロシアなどの三国干渉で放棄)
    10月、閔妃殺害事件―朝鮮国王(高宗)の妃(閔氏)、高宗の実父で摂政として実権を握ってきた大院君を失脚させ、ロシアに接近、親日派を追放して政権を握るも、日本軍が王宮を取り囲み、そこへ日本刀を振りかざした壮士らが侵入して殺害さる(朝鮮人同士の争い―「魯国党」対「日本党」―に偽装)、大院君が政権に復帰。
1897年、高宗が朝鮮王国を「大韓帝国」(韓国)と改称して皇帝を称す(清国や日本との対等を表現)
1904年、韓国、日露両国に対する中立宣言―日本はそれを無視。
  2月、旅順港のロシア艦隊を奇襲して日露戦争・開戦、仁川港からソウルに進入・占領、日韓議定書を強要―朝鮮半島での日本軍の軍事行動の自由を確保し、韓国の内政に介入できるようにする。
  5月、韓国全土を占領、韓国を保護国化(外交・軍事・財政権と経済利権を剥奪)―韓国は主権を喪失、事実上の植民地化。
  8月、第1次日韓協約―日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならないことにし、韓国の外交の重要案件は日本政府と協議することを認めさせる。
   韓国の貨幣制度を日本の貨幣制度に従属させる。
   ソウル―釜山間、ソウル―新義州間鉄道を開通。
   日韓通信機関協定―韓国の郵便・電信・電話を委託経営の名の下に日本政府の管理下に。
1905年以降、反日武装闘争が朝鮮半島各地で(義兵闘争)。
  4月、韓国保護国化の方針―米英など列強から承認を取り付ける。
  9月、ポーツマス条約で日露戦争・終結―日本は韓国に対する保護権をロシアに認めさせる。
  11月、伊藤博文が特派大使として高宗(皇帝)に謁見し、保護条約案を変更の余地のない確定案として突きつけ「もし韓国がこれに応じなければ、いっそう困難な境遇に陥ることを覚悟されたい」と威嚇、韓国政府の会議に臨席し、条約案への賛否を問い、反対意思の表示が不徹底なものは賛成とみなし、賛成多数であるとして調印させる→第2次日韓協約―韓国の外交権をほぼ日本が接収―韓国は事実上日本の保護国に。漢城(現在のソウル)に日本政府代表機関(統監府)―伊藤博文が初代統監に。韓国政府の首班には李完用が就任
1907年、ハーグ密使事件―オランダのハーグでの万国平和会議に韓国皇帝が主権回復を提訴しようと使節を派遣するも、会議参加は拒絶される。
             皇帝(高宗)は伊藤統監と李完用首相によって譲位させられ退位。
   第3次日韓協約―統監府の統治権限を強化(内政権も掌握、中央・地方の要職に日本人官吏が任命)、韓国の軍隊解散。
   抗日・義兵闘争が半島全土に拡大―全国義兵連合軍が結成。
1909年、安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を暗殺。
1910年、日韓併合条約―寺内統監(日本の陸軍大臣)と李完用首相が調印、「大韓帝国」滅亡、朝鮮は日本帝国の一地方と見なされ、ソウルに朝鮮総督府―天皇直属で行政・立法・司法・軍事など全権力を行使―寺内が初代総督に。
    軍人である憲兵隊が警察署を指揮下に置く憲兵警察制度で「武断政治」(強権支配)。
1910~18年土地調査事業―多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失う。取り上げた土地は日本人に安く払い下げられ、農民の80%が小作人となる。
1911年、朝鮮教育令―朝鮮人の「皇民」化教育―教師が剣(サーベル)をぶら下げる。
1912年、朝鮮民事令・朝鮮刑事令
1919年、3.1独立運動―朝鮮全土で110万人参加―弾圧・虐殺(教会に閉じ込めて焼き殺すなど)・拷問で多数の犠牲者(死者7500人、負傷者1万6000人)。
 第3代総督・斉藤実―それまでの武断政治から「文化政治」に転換―憲兵警察制度は廃止されるも普通警察を増員・強化。治安維持法を朝鮮にも適用。
            日本人に協力する「親日派」を養成・利用(独立運動を分断)。
1923年、日本で関東大震災の混乱下、朝鮮人が暴動を起こすなどのデマが飛び、住民の「自警団」や軍・警察によって朝鮮人が数千人殺害される。
1937年、「皇国臣民の誓詞」制定―学校・会社・工場などで毎日唱和へ。
1938年、陸軍特別志願兵令
    朝鮮教育令改定―朝鮮語教育を廃止(日本語だけで教育)、
1939年、朝鮮総督府が労務動員計画を施行―朝鮮から労働者が日本へ渡るようになる(募集方式でも行政・警察当局により強力な勧誘)。
1940年、「創氏改名」(姓名を日本名に)
1940年、陸軍特別志願兵臨時採用施行規則で学徒出陣を定める。
1942年、「朝鮮人内地移入斡旋要綱」―官斡旋方式による徴用。
1943年、朝鮮に徴兵制を適用(日本軍兵士として徴兵)
     軍需会社法―軍需工場に指定された会社に勤めている朝鮮人労働者を(「募集」であれ「官斡旋」であれ)徴用された身分で働かせることに。
1944年、国民徴用令の適用(日本の工場や鉱山で徴用。動員は企業による募集、時には威嚇や物理的な暴力を伴った)、女子挺身隊勤務令
1945年8月、日本政府、連合国のポツダム宣言(「カイロ宣言」の「履行」うたう)を受諾。
     15日、日本の無条件降伏により朝鮮が解放―「光復節」として祝う。
   9月、米ソが朝鮮を南北分割占領。
1948年4月、南朝鮮だけで単独選挙
    8月、大韓民国を樹立(李承晩政権)、これに反対して済州島で武装蜂起、米軍と警察により鎮圧(数万人虐殺―4.3事件)。
   9月、北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が樹立
1949~50年に、日本政府が、後(51年)のサンフランシスコ講和条約にむけた準備対策として作成した文書に、朝鮮など「これら地域はいずれも最も未開発な地域であって、各地域の経済的・社会的・文化的向上と近代化は専ら日本側の貢献によるもの」「日本のこれら地域の統治は(補助金や資金注入で)『持ち出し』になっていたといえる」と記す。
1950年、朝鮮戦争
1953年、休戦協定
1965年、朴(パク)チョンヒ大統領(旧日本軍の関東軍中尉だった人物、軍部独裁政権)と佐藤栄作首相との間で日韓基本条約・締結―日韓両国間の外交関係・樹立(国交正常化)。1910年の韓国併合条約(それが合法だったのか不法だったのか、交渉段階で日本側代表は「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「日本は朝鮮を支配したというけれども、我が国はいいことをしようとしたのだ」などと発言して争われたが決着つかず)は失効(「もはや無効である」)という表現で折り合った。(その対立が現在に至るまで尾を引いている)
  日韓請求権協定も→日本が韓国に「経済協力金」として5億ドル(内無償が3億ドル、有償が2億ドル)支払う。(日本政府はこれに基づき徴用工補償問題は「解決済み」としている―無償3億ドルに個人の補償問題の解決金も含まれる、としているが、この年の11月、参院本会議で椎名悦三郎外相は「これは経済協力であり、韓国の新しい出発を祝う祝い金だ。・・・・これは賠償の意味を持つと考える人がいるが、賠償とは何ら関係はない」と答弁している。)
1979年、朴大統領・暗殺
1980年、全(チョン)ドゥファン、クーデタで実権にぎって大統領に就任(軍部独裁政権)―キム・デジュンら有力政治家を逮捕・追放。
    光州事件―学生・市民が民主化を要求
1987年、韓国、民主化―金(キム)ヨンサム大統領
1991年、日本では参院予算委員会での「請求権」問題に関する質疑で、柳井外務省条約局長が次のように答弁―「日韓請求権・経済協力協定の2条1項におきましては、日韓両国及び両国民間の財産・請求権の問題が完全かつ最終的に解決したことを確認しておりまして、また第3項におきましては、いわゆる請求権放棄についても規定しているわけでございます。これらの規定は、両国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権(外国において自国民が身体や財産を侵害され損害をうけた場合に、国がその侵害を自国に対する侵害として相手国に対して国家責任を追及し外交的手続きを通して適切な救済を求める国際法上の権利)を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではないということは今までも御答弁申し上げたとおりでございます。これはいわゆる条約上の処理の問題でございます。また、日韓のみならず、ほかの国との関係におきましても同様の処理を条約上行ったということはご案内の通りでございます」と。
1991年3月26日、参院内閣委員会でのシベリア抑留者に関する質疑で、高島有終外務大臣官房審議官が、1956年の日ソ共同宣言で日本の国家自身が持つ請求権は「放棄」となっていても、国民個人(抑留者)からソ連またはソ連国民に対する請求権までも放棄したものではないと答弁。
   8月14日、「慰安婦」だった人物(金学順)が実名で体験を公表。
1992年、韓国で「慰安婦」問題解決のための「(毎週)水曜日行動」開始。
1993年、河野官房長官談話―日本軍「慰安婦」問題について、軍の強制を認め、「心からのお詫びと反省」を表明。
1995年8月15日(戦後50周年)、村山首相談話(閣議決定に基づく)で「国策を誤り」「植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と公式に植民地支配を認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明。同首相は「韓国併合条約」について、国会答弁で「対等平等の立場で結ばれた条約とは考えておりません」と。
    9月、元徴用工・韓国人の遺族11人、新日鉄(釜石)と日本政府に遺骨返還と損害賠償を求め東京地裁に提訴。
1997年9月、元徴用工訴訟、原告(遺族)が訴えを取り下げ和解(新日鉄が行った人道的な見地からの積極的な遺骨調査と慰霊のための協力の申し入れ等を高く評価)―慰霊祭のための費用として一人当たり計200万円支払われる。
   12月、元徴用工2人が戦時中そこで働いた新日本製鉄・現新日鉄住金に対して補償を求めて日本の裁判所(大阪地裁)に訴訟を起こした、その際の判決は「日韓請求権協定で個人請求権は消滅した」として敗訴。
1998年、金(キム)デジュン大統領・就任
 「日韓パートナー宣言」―キム・デジュン大統領が来日して小渕首相と―朝鮮半島の日本による植民地支配について、日本が「過去の一次期、韓国国民に対し、植民地支配により多大な損害と苦痛を与えた歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し痛切な反省とお詫び」を表明(日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表明が、日韓両国の公式文書で初めて盛り込まれた)。
1999年、一韓国人・元徴用工の日本鋼管に対する訴訟が東京高裁(控訴審)で和解(解決金410万円)。
    名古屋の三菱軍需工場で働いた元勤労挺身隊の韓国人女性が日本政府と三菱重工を訴えて訴訟。
2000年、韓国人・元女子勤労挺身隊員ら8名の富山市の機械メーカー(当時は軍需工場)・不二越に対する訴訟が最高裁(上告審)で和解(解決金―8人と1団体に計3000万円)。
2001年、国連「ダーバン会議」で奴隷制や植民地主義、ジェノサイド(虐殺)など過去の悲劇に対する反省、謝罪を求める決議を採択。
2003年、元徴用工訴訟(1997年12月提訴)の日本での裁判は最高裁で敗訴確定。
      廬(ノ)ムヒョン大統領 就任。
2005年、名古屋三菱・元挺身隊訴訟で名古屋地裁が韓国人女性の請求を日韓請求権協定を理由に棄却→控訴へ。
  韓国国会「真実・和解のための過去整理基本法」可決―「日帝植民地支配と南韓の独裁政権における反民族行為と人権侵害・不法行為の真相糾明―被害の実態、責任の所在などの解明へ。
韓国政府、1965年の日韓請求権協定で日本から得た経済協力金の3億ドルのなかに「強制動員被害の補償問題の解決」も含まれるとの見解を発表、元徴用工の補償は韓国政府が取り組むべき課題とした―自国の予算で元徴用工や遺族を支援へ、約22万6千人を被害者と認定し、約6200億ゥォン(約620億円)を支給。 
 しかし、こうした支援策に不満な元徴用工やその遺族は訴訟に向かった。
 1997~2007年日本の裁判所で敗訴した2人は、他の2人と同社・新日鉄住金を相手どって韓国の裁判所に提訴。韓国の裁判所は、1審(ソウル中央地裁)・2審(ソウル高裁)で、日本の裁判所が出した判決は韓国でも効力を持つと指摘。原告の主張を退けた。これは韓国政府の見解にも沿った判断だった。
2007年4月、中国人強制連行被害者が西松建設に対して起こした訴訟で日本の最高裁は、1972年の日中共同声明(その中で中国政府の外交保護権は放棄)によって個人が「裁判上訴求する権利は失った」としながらも、それは「個人の請求権を実体的に消滅させることまで意味するものではない」として、日本政府や企業による被害の回復に向けた自発的対応を促す判断を下す(西松建設は被害者に謝罪し、和解金を支払っている)。
 名古屋三菱・元挺身隊訴訟の控訴審で名古屋高裁が「原告(韓国人女性)らの請求する権利はあるも、日韓請求権協定により訴権は失われている(請求を受ける側には請求に応じる法的義務はない)」として控訴棄却―但し強制連行・強制労働の不法行為は認め、「個人の尊厳を否定し、正義・公平に著しく反する不法行為」と断じる。2008年最高裁判決で敗訴が確定。
2008年2月、李(イ)ミヨンバク大統領、就任。
   6月韓国政府「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者支援委員会」設立―犠牲者に「慰労金」(本人や遺族から申請のあった8万3829名を認定、死者・行け不明者に対しては一人約200万円支給)
2010年(日韓併合100年)、菅直人首相談話―村山談話を踏襲して、過去の植民地支配に対する「反省とお詫び」を表明。
2011年、韓国の憲法裁判所が、韓国政府が日本軍慰安婦と原爆被害者らの賠償請求権問題(1965年の日韓請求権協定と関連した紛争)を解決するために具体的な努力をつくさない(「不作為」)を違憲と判断。
2012年、 韓国大法院(最高裁)が元徴用工に個人請求権を認定(1997~2003年の「日本の判決は、植民地時代の強制動員そのものを違法とみなしている韓国の憲法の核心的価値と衝突する」と認定。当時の労働実態は「不法な植民地支配に直結した反人道的な不法行為」だと指摘し、請求権協定によって個人請求権は消滅したとは見なせないとして)、1審・2審破棄、控訴審に差し戻し-これを受け13年、ソウル高裁は差し戻し控訴審で新日鉄住金に原告の請求通り計4億ウォン(1人1億ウォン)の賠償を命じたが、新日鉄住金は不服として上告。
 10月、名古屋三菱で働いた元挺身隊員(本人・遺族5人)が韓国の光州地裁に慰謝料を請求して提訴(その後、支払いを命じる判決→控訴→上告へ)。
2013年2月、朴(パク)クネ大統領、就任
2014年、韓国で「日帝強制動員被害者支援財団」設立。
2015年8月14日(戦後70年)、安倍首相談話―河野談話・村山談話・日韓パートナーシップ宣言・菅談話に比べて大きく後退―「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」の4つのキーワードは入っているものの、一般論か第三者的な表現で(「我が国が」「私は」という主語がなく)主体的な責任意識が示されていない―「日露戦争は、植民地支配にあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化。
   12月、日韓が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認(合意)。
     31日「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者支援委員会」の活動終了(委員会解散)―08年設立以来22万件以上強制動員被害申告うち11万件に支援金(「慰労金」)支給。
2016年7月、韓国政府が「和解・癒し財団」設立―そこへ日本政府が10億円拠出(「賠償金」ではなく「支援金」として)―元慰安婦・遺族の多くは現金支給に応じたが、受け取りを拒否して日本政府に加害事実の認定と直接謝罪を求めた要求は満たされておらず。
   12月、釜山の日本総領事館前に市民団体が「少女像」設置。
2017年1月、日本政府が駐韓大使の一時帰国など対抗措置発表。
    5月、文(ムン)ジェイン大統領、就任 
   12月、韓国外相直属の検証チームが慰安婦問題の日韓合意は「不均衡な合意」と公表。
2018年10月、韓国大法院(最高裁)は、上告審(2013年、新日鉄住金が上告したもの)で個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、新日鉄住金の上告を退けた。これにより、同社に1人当たり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定。
 韓国最高裁は、日韓請求権協定の交渉過程で日本政府は植民地支配の不法性を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したと指摘し、そのような状況では慰謝料請求権(未払い賃金や補償金ではなく、植民地支配と侵略戦争の遂行と結びついた日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料)は請求権協定の適用対象に含まれると見なすことはできないとした。
 これに対して日本側が反発。河野外相は「請求権協定に明らかに違反し、両国の法的基盤を根本から覆すものだ」と抗議。安倍首相は「判決は国際法に照らして、あり得ない判断だ」と批判。一方、韓国政府は「司法判断を尊重し、被害者たちの傷が早期に最大限治癒されるよう努力していく」とする政府声明文を発表。
2018年11月14日、日本の衆院外務委員会―日韓請求権協定(第2条)についての1991年参院予算委員会における柳井外務局長答弁(「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と答弁したこと)「これは間違いないか」との質問に対する河野外相の答弁―「(請求権協定によって)個人の請求権が消滅したと申し上げるわけではございません」と。(つまり個人の請求権は消滅していない。だとすれば元徴用工が新日鉄住金に賠償請求する実体的な根拠はあるということであり、請求権協定違反には当たらないということになる。)
 また、同質問者が、原告が求めているのは(財産的損害も精神的損害も全ての損害に対する賠償金ではなく反人道的な行為よる精神的苦痛に対する「謝罪」即ち「慰謝料」なのであって)朝鮮半島に対する不法な植民地支配と侵略戦争に直結した不法行為を前提とする強制動員への慰謝料だと指摘。日韓請求権協定の締結に際し韓国側から提出された8項目の「対日要求政綱」の中に「慰謝料請求権は入っているのか」とただし、92年3月の衆院予算委員会で柳井条約局長が「慰謝料等の請求に」は「いわゆる財産的権利というものに該当しない」と言明していたと指摘。日韓請求権協定で個人の慰謝料請求権は消滅していないということではないか」とただした。また、日韓協定と同年に制定された「大韓民国等の財産権に関する措置法」で韓国民の権利等を消滅させる措置をとったことに関連して柳井氏は、「(日韓請求権協定上)『財産、権利及び利益』について、一定のものを消滅させる措置を取ったわけでございますが、そのようなものの中にいわゆる慰謝料請求権というものが入っていたとは記憶しておりません」とも述べており、「個人の請求権は請求権協定の対象に含まれていないことは明らかではないか」との質問に対し、三上国際法局長は「柳井局長の答弁を否定するつもりはまったくない」「権利自体は消滅していない」と認めた。
 これらの質問によって①1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないこと、②韓国の「対日要求政綱・8項目」に対応する請求権協定には個人の慰謝料請求権は含まれておらず、慰謝料請求権まで同協定によって消滅したとはいえないこと、③日本国内で韓国国民の財産権を消滅させた措置法も、慰謝料請求権を対象とせず、措置法によって慰謝料請求権は消滅していないことが確認。
 同質問者が、河野外相に「日韓基本条約及び日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府が植民地支配の不当性を認めた事実はあるか」とただしたのに対しては、外相は「ないと思います」と答弁。(ということは韓国最高裁が指摘した「植民地支配と侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料請求権は請求権協定の適用対象には含まれると見なすことはできない」としたことに反論はできないことになる。なぜなら、慰謝料は生命・自由・名誉などを侵された時、その精神的損害(苦痛)に対して(それを金銭的に評価して)支払われる賠償であり、謝罪を前提として支払われるべきものであって、何ら誠意ある謝罪の意志もなく、いわば「こっち(日本政府)は何も悪くないが、そっち(韓国政府)がカネを求めているから、それを『経済協力金』として『供与』した」などと、政府間ではチャラに済まされるとしても、当の被害者にとっては、それで済まされてはかなわない、となるだろうからだ。)
2018年11月21日、慰安婦問題「財団」解散、発表
     29日、韓国最高裁―いずれも三菱重工の、広島工場で働いた元徴用工と名古屋工場で働いた元挺身隊員が訴えた両裁判で、原告の訴えを認め、日本の不法な植民地支配や日本企業の反人道的行為を認定し、賠償を命じる。
2019年1月、日本政府が韓国政府に対して請求権協定に基づく2国間協議を要請―韓国側は応じず。
   5月、日本政府が韓国政府に対して請求権協定に基づく仲裁委員会(委員―日韓から各1名、第3国から1名」)の設置を要請―韓国側に委員の任命を求めるも応じず。
   6月、日本政府が韓国政府に仲裁委員会の委員3名とも第三国に選定を委ねることを通告も、韓国側は応じず― 日本政府は国際司法裁判所に提訴、検討へ 。
     (韓国政府関係者は、仲裁委員会設置に慎重になっている理由について「その手続きに入れば、植民地支配は不法だったと主張する韓国と、それは国際法上合法だったとする日本の立場がぶつかり合い、両国関係は双方の国民感情を巻き込んで制御不能になるとの認識がある」と説明)
      韓国側が「日本と韓国の企業が資金を出し合い、原告らに賠償金に相当する額を払う」という案を発表―日本側は拒否。
   7月、日本政府が韓国への半導体材料の輸出規制を決定。
   8月2日、日本政府が韓国に対して安全保障上の輸出管理で優遇対象国から除外を決定。
    22日、韓国政府が日韓軍事情報協定の破棄を決定。23日、大統領府の国家安保室第2次長が記者会見・その決定に至った経過説明の中で、「われわれとしては心から偏見なしで日本と強制徴用問題を外交的に解決するために、すべての方策について肯定的に検討する用意があり、そのような立場を日本側に伝えてきた。しかし、これに対する日本の対応は単なる『拒否』を超えた私たちの『国家的自尊心』まで毀損するほどの無視で一貫しており、『外交的欠礼』を犯した」と。
    毎日新聞(8月27日)―河野外相の記者会見の記事で、前年10月の韓国最高裁が原告の元徴用工に対して日本企業に賠償を命じた判決に対し、「日本側が韓国政府に賠償の肩代わりなど判決の無効化を要求。韓国政府は日韓企業が元徴用工に金銭を支払う案を提示したが、日本側は『協定違反の是正にならない』として拒否した」と報道。

2019年09月02日

政治問題は話題にしないのが賢明?

 長らく交友関係を結んできた酒飲み友だちの間柄だが、話題が当方にとっては、一番の関心事―このブログにあるような話題は、「政治の話になると酒がまずくなるから話題にしないようにしよう」となって、話題からはずされ、どうも「あたりさわりのない」ような話ばかりになってしまってる。それが、たまたま話のなりゆきから日韓問題に話が及んで、とうとうぶつかってしまい、「ケンカ別れ」。これで絶交になるのか―まるで日韓関係と同然。
 そこで色々考えた。
 思想傾向が右(保守)系か左(リベラル)系か、どっちか同系で気心の知れた人同士なら政治問題を話してもどうということはなく、それどころか(SNSなどで)「そうだ、そうだ」「いいね、いいね」と同調し補強し合って、中には益々強硬・過激になったりしがちだが、左右ごっちゃに入り混じって談話・対話して政治問題に話が及ぶと、とたんに場がシラケたり口論になり、酒席の場では険悪なムードになりケンカになったりする。 
 酒を飲むとこの種の話題(政治談議)は感情が激し、冷静な話ができなくなって、口論になってしまうしまいがち。「酒がまずくなる」。確かにそうかもしれない。
 酒には「悪酔い」とか、かえって心身のストレスを悪化させる弊害がある。しかし、ざっくばらんに(オープンに本音で)語れて、ストレスを発散できるという効用もあるのだが。
 世間(この国?)では、「酒飲みの場で(職場の)仕事の話はしないようにしよう」とか、政治と宗教とプロ野球(対戦)の話は禁物(話題にしないこと)とされる。
 しかし、宗教やプロ野球の話はともかく、政治を話題にしないのは如何なものか。
 時と場合によっては酒席(冠婚葬祭・祝賀会・懇親会など)の場で、開催の趣旨にそぐわず場を壊すような話は控えるのが常道ではあろう。しかし、こと政治に関する限り、社会の全ての人々にとってどんな語らいの場でも自分の思い・考え・意見をオープンに本音で語り合うことは必要であり、大事のことである。
 民主主義はそのためのもの。自分も、その場で対話する相手も、或は交信する不特定多数の相手たち全員が主権者として思想・信条・言論の自由が保障されて参政権を行使しなければならない制度のもとにある限り、政治を話題にすることは必要不可欠なことであって、けっしてそれがはばかられるようなことがあってはならない。
 ところが、この国では、どうもそれ(政治を話題にすること)が敬遠される風潮がある。
それは国民性からくるのか?日本人はナイーブ(神経が繊細―「傷つきやすい」性格―傷つくのを恐れて、そんな話題を避ける)?古来から「村社会」における「和」―同調圧力の意識が強く、「和」を乱し排除されることを恐れて自主規制し互いに忖度し合う気風?だから「和」を乱して自分が傷つくことを恐れて、政治向きの話は極力控えようとするのか?
 いずれにしろ、人との会話で政治を話題にすることを避け、そこから関心をそらすという風潮が国民を支配している、それが問題なのである。それでは民主主義が成り立たない。
 日頃から、しょっちゅう政治を話題にすることによって政治の意識も知識も向上し、実のある主権を行使することができる。さもなければ民主主義などといっても、それは単なる「形式だけの民主主義」になってしまう。「国民的議論を」などと訴え(呼びかけ)ても、なんら実のない空論的かけ声にすぎないことになる。選挙の低投票率(先の参院選は48.8%で、政権与党である自民党の全有権者にしめる絶対得票率は16.7%、公明党票を合わせても23%に過ぎない。そのような政権、その首相を憲政史上最長政権たらしめている、その異常)、それはこの国の民主主義のこのような実態を示している。民主主義はまだまだ成熟しておらず、不徹底で、国民の政治意識・主権者意識・自覚がまだまだ低いと云わざるを得まい。政治の話になると引いてしまうとか、政治のことなど話題にしたがらず、関心が持てない、ということはそういうことなのだろう。
 この国の民主主義を、形式的な「お任せ民主主義」ではなく、もっと実のあるものに向上させなければならないと思うなら、その基礎的動因となる国民の間の政治談議を欧米並みに活発化を図り、市井での政治談議は避けるという悪しき風潮を廃することだろう。
 かくいう当方も、先日の失敗には懲りず諦めずに誰とでも政治談議を心掛けたいものだと思うが、それにつけても、その失敗を繰り返さないためには気を付けなければならない注意・心得・「鉄則」というものがある。それは次のようなことだろう。
 相手に対してリスペクト(尊敬の念)と友愛(寛容)の精神を貫き、けっして敵意を抱くことのないようにすること。アルコールが入ったからといって感情的に激することのないように、なるべく冷静を保ち、相手の意見や指摘・批判に対して逆批判・反論をしても、あくまで事実と論理をもって(それも「ロジハラ」―ロジカル・ハラスメント―相手の感情を無視して「正論」で攻め立てる―ようなことにならないように)し、エキサイトしても苛立って暴言(人格・人間性・プライドを傷つけるようなこと)は口走ることのないようにすること。議論が最後まで歩み寄ることなく平行線で決裂して終わっても、ケンカ別れはせずに、スポーツのゲーム終了時のように礼・握手を交わして分かれる、といったようなことを鉄則とする。
 なかなか難しいことかもしれないが、民主主義には主権者・国民間の政治対話は必要不可欠であり、それらの鉄則は対話・議論には最低限必要不可欠な原則なのではなかろうか。
 先の飲み会での議論で当方は「世代間の相違だろうな」とか「私的レベルの相違だろうな」などという言葉を吐いてしまったが、それらは「それを言っちゃお終いよ」というべき禁句で、相手に「上から目線」と受け取られ、心の中で「何を、えらそうに」と憤慨させる類の言葉だったな、とつくづく反省している。
 それにつけても、政治談議をタブー視する風潮が世の中を支配してしまっては、それこそ「民主主義はお終いよ」というものだろう。
 主権者・国民の間で政治対話・意見交換・意思疎通がなければ、みんな互いの間に自ら設けた「見えない壁」で仕切られた状態で、バラバラ分断状態になる。それは政権にとっては思うつぼで、反対する国民が数多いても、彼らが結束して大規模な反対運動を起こす心配がなく、政権は意のままに統治(支配)できることになる。そのような分断支配を許してはなるまい。
 

 

2019年09月11日

日韓の過去の清算・和解が問題

 韓国を叩けば視聴率が上がり、週刊紙は売れ、SNSが炎上。そして内閣支持率が上がる。この嫌韓ムードは、いったい何でなんだろう。
 徴用工問題の焦点は1965年の日韓基本条約に伴う請求権・経済協力協定であるが、そこへ至る経緯と態様に対する事実認識の違い―日本側(政府)は日本による韓国併合と統治は合法であり、半島民には恩恵を多々与えはしても、そんなに損害・苦痛を与え犠牲を強いたという加害意識はなく、戦後補償問題は協定によって「完全かつ最終的に解決された」(なのに徴用工訴訟で韓国司法はそのことを無視している)との認識。それに対して、韓国側は日本による韓国の併合と統治は不法であり不当な植民地支配だったとの認識で、協定では国家間の請求権問題は解消されたとしても、それでもって被害者個人の請求権までも消滅したわけではないし、国が持つ外交保護権を放棄したとしても被害者個人の日本企業に対する慰謝料等の請求権自体が失われたわけではない、という認識。
 近現代日韓関係史における日本側(西郷隆盛らの「征韓論」以来の朝鮮圧迫・派兵、日清・日露戦争を経た韓国併合・植民地支配、その間)の加害事実など事実認識の違い・ギャップは平行線のままだ。
 1965年の日韓請求権協定で日本政府は、「謝罪」を抜きに、カネは「賠償金」ではなく、韓国政府への「経済協力金」として済ませた。植民地支配に対する謝罪はその後、1995年の村山談話、1998年の小渕・金大中両首脳の共同宣言、2010年の菅直人首相談話などがあって、それらには「反省」と「お詫び」の言葉が明確にあったが、2015年の安倍首相の「戦後70年談話」では「反省」・「お詫び」の言葉は入っているものの、それは「先の大戦における行い」について連合国に対してのお詫びであり、朝鮮半島の植民地支配に対しては「お詫び」どころか、韓国併合に至らしめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などと恩着せがましく。
 ドイツの場合は、第二次世界大戦の端緒となったポーランド侵攻から今年80年、そのポーランドで行われた記念行事にドイツのシュタイン・マイヤー大統領が訪れて「どのドイツ人もこの蛮行から無縁ではありえない」「ドイツの歴史的犯罪に許しを求める」「ポーランド人の苦しみを決して忘れない」「ドイツ人は痛みを伴う歴史を受け容れ、引き継いでいく」とのスピーチ。安倍首相の韓国に対する姿勢はこれとは対称的だ。日韓は過去の清算・和解が未だなんだな。
 日本人の場合は、明治以後、福沢諭吉の「脱亜入欧論」(日本は欧米の文明を受け容れていち早く近代化し、遅れているアジアを脱して欧米列強の仲間入りを目指すべしという主張)以来、アジア諸国を一段下に見る優越意識を持つようになり、相手が米欧なら黙ってるものを中国や韓国・北朝鮮となると目をむく。それがともすると互いに必要以上に(「反日」対「反中」「反朝」「嫌韓」などと)いがみ合う動因になっているのでは。
 日本と近隣アジア諸国の間では、侵略・被侵略の事実関係や加害・被害の事実関係について(ドイツと近隣ヨーロッパ諸国の間では、ほぼ共通認識に達しているのとは異なり)事実認識に違い・ギャップがあり、大戦後の「和解と過去の清算」が、日本と北朝鮮との間だけでなく、日韓の間でも未だまだということが今回明らかになったということだ。
 しかし、その(近現代日韓関係史における日本の朝鮮国家侵食・植民地支配・加害事実など事実認識の)違い・ギャップは平行線のままにせず、少しでも埋め直して共通認識に達する努力が必要だ。但し、それは双方が同等に譲り合って歩み寄るというのではなく、いわんや、被支配国・被害国の方が支配国・加害国に歩み寄るのではなく、主として支配国・加害国の方が歩み寄らなければならない。なぜなら、「いじめ問題」などでも「いじめた」側はとかく「そんなことをした覚えはない」などと無自覚であったり、「そんなに酷いことをしたとは思っていない」などと、さほど罪悪感をもたないが、「いじめられた」側は、その心の傷はいつまでも痛みが残って憶えているもの。いわゆる「足を踏んだ側は、踏まれた側の痛みがわからない」ということで、加害者側は被害者側の痛み(精神的損害)に対して評価が甘くなりがちだからである。また、加害者側には、その罪を免れるか軽減するために加害事実を隠蔽しがち(事実、旧日本軍が文書焼却など証拠隠滅を行っている)であるが、被害者側には被害事実を隠蔽する必要などあり得ないからである。尚、国際司法裁判所や第三国に仲裁・判定を頼む場合でも、その判断が公正かといえば、必ずしもそうとは言い切れない。なぜなら、その場合でも「当事者ではない彼らには『足を踏まれた』被害者の痛みが分からないからである。それに証拠調べでも、加害者側による焼却・隠滅によって失われた場合にはどうしようもないからである。
 支配国・加害国(足を踏んだ側)がどっちで被支配国・被害国(踏まれた側)はどっちかは、どちらかといえば、日本の方が支配国・加害国(足を踏んだ側)であって、その逆ではないことだけははっきりしている以上、日本側が自らの事実認識や解釈を正当化して相手の韓国側に押し付けてはならず、可能な限り、被支配国民・被害国民の側(韓国側)の認識・理解を優先的に重視して、その方を基にして共通認識・合意にこぎつけるようにしなければならないだろう。
 さもなければ日韓は永遠に「和解」に達することはなく、真の善隣友好関係に達することはないだろう
 この場合、我々国民は、それらのことは自国ファストの政府・為政者の主張を応援してその判断に任せればそれでいいとか、日本側・韓国側どちらの事実認識が正しいのか、その判断は歴史家・専門家に任せればそれでいいというものではなく、国民自らが考えて然るべきものだ。何故なら我々は皆、この国の国民である以上、この国の過去と未来の歴史に対して日本人として民族的責任を負っているのだから。
 日本は、韓国とは日韓基本条約で一応国交正常化。しかし、北朝鮮とは未だに国交も何もなく、あるのは核ミサイル問題と拉致問題。朝鮮半島の南北分断。それは日本が朝鮮に遺した負の遺産にほかならない。そういったことには我々国民にも民族的責任があるのでは。


2019年09月16日

徴用工問題は人権問題として人道的観点から(加筆版)

 日韓関係の悪化。発端は昨年10月、韓国の最高裁が元徴用工に日本企業が賠償するよう命じる判決を下したことに対して日本政府が猛反発をしたことだ。
 焦点は1965年の日韓請求権・経済協力協定で、そこで過去は清算されて両国は和解したはずなのに、実はそうではなかったということが明らかになったということだ。
 日本側は、あそこで(協定によって)「完全かつ最終的に解決された」はずなのに韓国側が再び賠償問題を持ち出して、それが覆されてしまったといって韓国側を責めているわけである。しかし、あの時「解決された」といっても、その解釈(認識)には立場の相違(韓国側は日本による韓国併合・統治は違法であり不当な植民地支配だったというのに対して、日本側は適法であり瑕疵はないとの認識、など)があり、完全一致というわけではなかったし、仮に政府間では「解決した」ことに合意・納得したとしても、当事者である被害者個人サイドでは納得がいかない人たちがいたということなのだ。
 ところで、ここで問題を2点整理してみると、①国権人権とがあり、国家の請求権個人の請求権とがあるのだということ。前者については、国の主権や国土・国益が侵害されて、その損害賠償を求めるという「国家の請求権」―その中には自国民が外国で、或は外国によって身体・財産が侵害され損害を受けた場合に、その侵害を自国に対する侵害として国家が相手国の国際法上の責任を追及し、賠償を求める請求権=「外交保護権」というものもあるわけ。
 後者については被害者個人が加害者を直接、裁判等で責任を追及し、損害賠償を求めるという「個人の請求権」。その両方を分けて考える。
 日韓請求権協定では、国の外交保護権は日韓相互に放棄し合ったことは確かでも、「個人の請求権」はそれで消滅してはいないとされる。ということは元徴用工ら被害者が個人として日本の加害企業を訴え、それを韓国の裁判所が受理して判決をくだしたとしても何ら問題はないということになる(日本政府は「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と異議を唱えているが)。
②「損害賠償」と「損失補償」とがあり、その違いは、「賠償」の方が「違法な行為」(不法行為や債務不履行など)によって生じた損害に対する代償・補てんであるのに対して、「補償」の方は「適法な行為」によって生じた損害(災害や事故によって生じた補償金や未払い賃金など)に対する代償・補てん、(つまり両者の違いは原因となる行為に違法性があるか否かの違い)なのだが、その両方を分けて考える。
 そうして考えてみると、日韓請求権・経済協力協定は不法な植民地支配に対する「賠償」を請求するための協定ではなかったのだ。日本側は、協定交渉では植民地支配の不法性を認めず、協定の趣旨は(賠償のあり方を定めるものではなく)「あくまでも経済協力だ」として譲らず、韓国側はやむなく「合法性」を前提に、徴用された韓国人への「補償」として被害の回復を求めざるを得なかった。(日本側は、「韓国政府は協定に基づいて無償資金協力として3億ドルを受け取ったが、その中に強制動員で苦痛を受けた被害者の救済に充てる補償金が含まれていることを、韓国政府は確認している」としている。)
 しかし、仮に徴用そのものが当時の日本の国内法に基づく「合法」なものでも、監禁状態で過酷労働を強いられるなどの不法な仕打ちに対しては損害賠償を求めることはできるはず。そこで考えられたのが、元徴用工たちが求めているのは「補償」ではなく、日本企業の反人道的な不法行為を前提とする日本企業への慰謝料すなわち損害「賠償」であった。彼ら元徴用工たち(徴用されて人権が侵害された)被害者個人を救済(人権回復)しなければならない義務は、少なくとも彼らを直接使用した日本企業にはあり、それを放置することはできない。そこにこそ問題の核心があるのではないか。
 いずれにしろ、政府間で国益上の利害の観点から、或は国民同士でナショナリズム的感情から主張・非難をぶっつけ合うのではなく、あくまで徴用されて人権侵害・苦痛を受けた被害者個々人を具体的に救済しなければならないという人道的観点から問題解決をめざさなければならないのでは。
 日韓両国民の間で(日本の韓国併合と統治は違法な植民地支配であったか否かなど)歴史認識にギャップがあることも大いに問題であり、なんとかして共通認識に近づけ、真の和解に努める努力も必要ではあるが、まずは人権侵害を受けた被害者の救済に両国政府・両国民とも心を一つにして関心を傾注し取り組むべきなのでは。

2019年09月24日

東電原発事故強制起訴・地裁判決(加筆版)

東電旧経営陣3人の業務上過失致死傷罪・訴訟
争点①巨大津波を具体的に予見できたか(予見可能性―危険な事態や被害が発生する可能性があることを事前に認識できたかどうか)。
   ②原発事故は防げたか。対策を講じて原発事故を避ける義務があったか(結果回避義務―予見できた損害を回避すべき義務・注意義務―それを怠ったかどうかで過失責任が問われる)。
検察官役(指定弁護士)の主張
 ①について―国の地震予測「長期評価」には科学的根拠がある。これをもとに東電が事故前に出した「最大15.7m」の津波予測は、巨大津波を予見させる具体的な情報だったのに、先送りした。
 ②について―防潮堤の増築や防水対策などをしていれば避けられた。措置を講じるまでは運転を停止すべきで、遅くとも震災前の3月6日までに運転を止めていれば事故は確実に防げた。なのに「長期評価」に基づいた津波対策を怠り、運転停止もしなかった。
 3人は「最高経営層にもかかわらず、何ら対策を講じなかった責任は極めて重い」として禁錮5年を求刑。
弁護側の主張
 ① 長期評価に信頼性はなく、15.7mの津波予測は試算にすぎない。専門家の土木学会に試算の評価を委ねたのは合理的判断で、先送りではない。巨大津波は予見できなかった。
 ② 15.7mの津波予測は敷地の南側からの襲来を想定していたが、実際は東側全面からで、試算に沿って対策を講じても防げなかった。原発停止は相当な根拠がないと無理だ。
証言―東電社員(被告人の部下・担当者)や専門家、計21人。
   そのうち元原子力規制委員長代理で当時政府の地震本部の長期評価部会長を務め、長期評価の策定に関わった地震学者の島崎東大名誉教授の証言―「(長期評価の根拠となった)東北地方の過去3回(1896年の「明治三陸地震」、1677年の「廷宝房総沖地震」、1611年の「慶長三陸地震」)の大きな津波が非常に重い」と云い、部会に出席した専門家も一致していたと指摘。長期評価で予測した津波地震の確率は「十分注意すべき大きさだ」と述べ、それに基づいた対策を取っていれば「福島原発事故は起きなかったと思う」と。
判決
 ① 15.7mの津波予測のもとになった国の「長期評価」は具体的な根拠を示しておらず、信頼性があったとは認められない。(巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴っているとの認識は被告ら3人にはなかった。)
 ② 事故を避けるには運転停止しかなかったが、停止を義務づけるほどの予見可能性はなかった。(事故当時の知見では、3人に高さ10mを上回る津波を予見し、安全対策が終わるまで原発を止める義務があったとはいえない。)当時の法規制や国の指針は、絶対的安全性の確保までは前提としていなかった。
  よって3人に刑事責任は問えない(無罪)。
 
 被告側・東電旧経営陣の主張に沿った判決で、訴訟を起こした被害者側にとっては「門前払い判決」。
 「釈然としない無罪判断」「腑に落ちない判決」(朝日・社説)
  検察官役の指定弁護士は「国の原子力行政を忖度した判決」と批判。
  柳田邦男氏(ノンフィクション作家・元政府事故調)は「問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら、責任の所在があいまいにされてしまう原発事業の不可解な巨大さ」「これが一般的な凶悪事件なら、被害者の心情に寄り添った論述が記されるのが通例」(なのに反対側の心情に寄り添っている―引用者)と。
 「無罪でも消えない責任」(朝日の佐々木英輔編集委員)
 「個人の責任 特定にハードル」―賠償責任が争われる民事訴訟と個人の刑事責任を問う刑事訴訟では、求められる立証のレベルが異なる(誰が見ても反論の余地がないという高いレベルの立証が求められる―水野智幸・法政大法科大学院教授)。

 しかし、だからといって責任(業務上過失の罪)を問えない(追及できない)ということはあり得まい。それがなければ、どんなに無謀な事業運営をしても免罪され野放しとなってしまうからだ。とりわけ電気事業は広範な人々が利用に供し影響を被る社会インフラであると同時に「潜在的に極めて大量の毒性物質を抱える」危険施設を扱う公益事業なのだ。それ故、それを担う事業者たち、その最高幹部には、それ相応の重大な責任が課せられている。(原子力規制委員会設置法には「天災だけでなく人災に対して、事故発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をしなければならない」とある。)彼ら最高幹部は、その責任を負わなければならないし、そのポストを引き受けている以上、組織に業務上過失があれば、その罪をかぶらなければならないわけである。巨大組織で、多くの部署に責任が分散していて、幹部の責任を問うのが難しいからといって、責任逃れが許されるわけでもあるまい。

 ところで、人には「大丈夫、心配ない、うまくいくから」といって「いい方、いい方」に楽観的・肯定的に考えるプラス思考と、「危ないな、心配だ、うまくいかないかも」といって「悪い方、悪い方」に悲観的・否定的に考えるマイナス思考(ネガティブ思考)とがあるが、とかく「悪いこと」「最悪の事態」など想像したくないとして、マイナス思考を嫌がってネガティブ思考を停止し、プラス思考(楽観主義)の方に傾き、そこに安住してしまいがち・・・・「安全神話」に安住。
 しかし、プラス思考のデメリットは鈍感・能天気で、リスクや問題を見落しがちとなり、気づくべきことに気づけなくなってミスを犯してしまいがちとなる。その点、マイナス思考の方が、リスクや問題を事前に察知して対処できる「危機管理能力」に優れ、「最悪の事態が起こったらどうなるか」ということにこだわって慎重になるのでミスを犯さない。

 そこで、そもそも電気事業者の責任は、電力消費者に安全かつ安定的に電力を供給することにあるが、最高幹部たる者が、その任にある限り、常に念頭に置かなければならないことは、その事業施設の一つである原発は巨大な危険施設で、それには人々に深刻な惨害をもたらしかねない事故発生が付きまとっているということ。天災(地震・津波など)・人災(テロ攻撃・戦争など)に伴うその事故発生は、確率は極めて低いとしても、あり得ることなのだという前提に立って、常に最悪の事態まで想定してかかって、万一そのような事態に立ち至ったらどう対処するか考えておかなければならないし、そういう事態に立ち至っても大丈夫なように対策を講じておかなければならない。原発事故というものは、確率・頻度は小さくても、万一起きたら広範囲に及ぶ深刻な被害、計り知れない惨害が生じる恐れがあり、原発事業者・最高幹部はそのことを考えて、万一の場合に備えて対策(未然に事故を防ぐ対策)を講じておかなければならないものだからである。
 その事業者・最高幹部が、もしもその事故発生の想定・対策を怠っていて、その結果事故が起きてしまい、人々が深刻な被害・惨害を被ったとしたら、その(結果回避義務違反の)責任を負い、罪(死傷者が出れば業務上過失死傷罪)を負わなければならない。

 最高幹部たるものは、東電社内・他の原子力業者・専門家・行政機関から意見や異論が寄せられたり要請を受け措置を求められたり、またそれら社内外のいずれかに検討を委ね意見を求めたりすることはあっても、最終的判断を下して責任を一身に負うのは自身なのであって、それら社内外から「巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴った知見が示されなかったから」とか「直ちに安全対策を講じるべきであり、その工事が完了するまでは原発を停止すべきだ」という積極的な意見や「求め」がなかったからといって、彼ら最高幹部が巨大津波の対策工事にも運転停止にも踏み切らなかったのはやむを得ないことだったかのように見なして不問に付す裁判官の判断は如何なものか。

「巨大津波の可能性について知見が示されなかった」かのように云うが
2002年7月、政府の「地震調査研究推進本部」が「長期評価」を公表。三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこでも、マグニチュード8.2前後の津波地震が30年以内に20%程度の確率で起きる可能性があると。
2006年(事故5年前)3月の衆院予算委員会では、共産党議員から、チリ津波や明治三陸地震(38mに達した津波)など巨大津波があったこと、そのような津波によって最悪の場合は炉心の冷却機能が失われ、炉心溶融に至る危険が指摘され、経産省の旧原子力安全・保安院に抜本的な対策が求められている。
2007年7月、原発の安全性を求める福島県連絡会などが東電の勝俣社長宛に、津波による過酷事故に至る危険があるとして、津波対策で抜本的な対策を申し入れている。これらの事実は無視されているわけだ。
2007年11月、東電設計社が、「長期評価」を踏まえて簡易計算した福島第一の津波予測を「7.7m以上」と東電に報告。(福島第一原発の設計時に想定した津波の高さは5.7m)
2008年3月、東電設計社が、詳細計算した福島第一原発の津波予測は「最大15.7m」(原発敷地の高さ10mを超える)と東電に報告。(それにもかかわらず、旧経営陣は津波対策を取らずに先送り。)
2009年2月、吉田昌郎・原子力設備管理部長(故人)が、勝俣会長・武黒本部長・武藤副本部長が出席した「御前会議」で「14m程度の津波が来る可能性」に言及。
同年、日本原電(東海第2原発)が「長期評価」に基づいた対策―「盛り土」と「建屋の防水対策」―を実施(社外には公表せず)。
2011年3月7日(大震災発生の4日前)、東電が、15.7mの計算結果を原子力安全・保安院に報告(それまで東電はその数値を隠していたことになる)。
2011年3月11日、対策は講じられないまま大震災を迎えた。(試算とほぼ同じ高さ15mの津波が原発を襲う。)
 尚、2019年2月20日、原発事故避難者訴訟(福島県から神奈川県に避難した60世帯175人が損害賠償54億円要求)で横浜地裁が国と東電両者の責任を認め同避難者の内152人に計4億1900万円を支払うよう命じた。その際、国は2009年9月時点で、東電からの津波の試算に関する報告を受け、浸水被害で全電源を喪失する事態を予見できたと指摘。対策となる電源設備の移設(10年末まで可能)を進めていれば「大量の放射能物質の外部放出という事態は回避できた」としている。

 それにつけても判決では
 原子炉の安全性―については「当時の社会通念」で―「法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提としてはいなかった。」「原子炉等規制法の定める安全性は、放射性物質が外部の環境に放出されることは絶対にないといった、極めて高度の安全性をいうものではなく
、最新の科学的・専門的知見を踏まえて合理的に予測される自然災害を想定した安全性の確保が求められていた」として、福島第一原発は「地震および津波に対する安全性を備えた施設として、適法に設置、運転されてきた」と評価。
  (原発の安全性の「当時の社会通念」とは、いわゆる「安全神話」にほかなるまい。)
 以前、1992年の伊方原発訴訟では、原発事故が起れば従業員やその周辺住民等の生命・身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある、と指摘。このような災害は「万が一にも起こらないように」しなければならないと、原発に求められる安全性の大原則を示していた。
 ところが判決は「結果の重大性を強調するあまり、予知に限界がある津波という現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転は不可能になる。」「運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ」などとして、原発の運転を生命や身体の健康に優先させる論立てをとった。「長期評価」についても、それは生命・健康の安全確保のために無視できない知見だとは見なさず、それを以て、あえて原発を運転停止させなければならない根拠とするには信頼性に欠けるものであったとし、原発運転維持の方にこだわり、生命・健康維持の方は二の次として安全の水準を引き下げた。そして経営陣を免罪したわけである。
 判決は又、東電の組織的問題は、事故当時は全く問題なかったとの認定で、組織的な問題点を一切指摘していない。

 この判決は、経営最優先の東電旧経営陣の姿勢を追認し、旧経営陣の主張をほとんど追認したもの、といってもいいだろう。
 被害者たちにとっては到底納得し難い不当判決だと言わざるをえまい。

 尚、馬奈木厳太郎・生業訴訟弁護団事務局長によれば、「判決のこの安全水準の考え方は、原発再稼働の是非を判断する国の新規制基準の考え方とも共通している。新規制基準は住民の生命や健康を確保することが再稼働の前提条件とはされておらず、事故の教訓が生かされていない。
 利益を優先し、安全をないがしろにした経営陣の背後には、国が規制権限を適切に行使しなかったという問題がある。国が経営陣らの姿勢を許容してきたのである」と。
 馬奈木氏は「今回の判決を通じて、改めて国の責任の重大性が浮き彫りになった」としている。


2019年10月14日

日本は軍事的自衛には不向き(修正版)

 日本の安全保障には軍事的方法と非軍事的方法のどちらが得策か。
 軍事(軍備・軍事的抑止力)による安全保障(防衛)―安全保障を軍事に頼るやり方―はたして得策なのか?それで日本の安全は保障されるのか? かえって危険なのではないか?
 軍事的合理性の観点だが、以下3点から考えてみたい。
(1)軍備―軍隊(「自衛隊」と称する軍事組織も)・軍事同盟(日米同盟)・軍事基地―は相手国を刺激し脅威を与え、相手国はそれらを攻撃の対象として設定するため、攻撃を受けやすくなり、かえって自国の安全を損なうことにも。
 こちらが軍備を保有・強化すれば相手国も負けじと保有・強化し、軍拡競争を誘発、互いに軍拡。「均衡抑止」(互いに攻撃を控える)という局面はあるとしても、それが破れた時、戦禍拡大し、甚大な被害を招く結果となる。
(2)軍備・軍事力が「抑止力になる」とはいっても、それは主観的なもので、抑止力が効いていると自分でそう思っているだけのことで、はたして本当に抑止力が効いているのかといえば、それはわからない(その軍事力を保有していることと、相手が攻撃してこないということとの間に因果関係を客観的に論証することはできない)わけであり、不確かなもの。(相手―例えば中国や北朝鮮―が「こちら(日本)を攻撃した場合、それで得られる利益よりも、こちら(日本)から報復攻撃を受けて被る打撃(損失)の方が大きい、と相手が理解している」とこちらが認識でき、「それにより相手はこちら(日本)を攻撃しないだろう」とこちらには思える、というだけのことで、いずれも主観的な要素によってしか成立しない筋合いのもの。)それに報復を恐れない自爆テロ、或は制裁圧力などによって追いつめられ自暴自棄となって「死なばもろとも」とばかり襲いかかる相手に対しては、抑止は効かない。
 その軍事力が「抑止力」(抑止効果)として成立するには、互いに相手の軍事力と意図(軍事戦略)に関する情報を的確に把握できて、その情報に基づいて理性的に判断できなければならないが、中国の軍事力は「統計が不正確で不透明だ」とか、北朝鮮の最高権力者は「何を考えているか分からない」などと云ってる限り、軍事力は抑止力にはなり得ない。
 (3)日本列島は地理的条件が防衛上は不利―列島が南北に細長く、東西の中央部は山岳地帯で、中国のように敵を内陸部に引き込んで消耗戦に持ち込むことはできない。それに海岸線が長く入り組んでいて、侵攻(接近・上陸)して来るのを待ち構えて直ちに(迎え撃って)撃退することは困難。人口や工業地帯・石油コンビナートなどの生産拠点や生活基盤(インフラ)が平野に集中―ひとたび敵軍から上陸されれば、人口が密集する市街地が戦場になる。それに沿岸部に53基もの原発が配置されており、ミサイルを(核弾頭を搭載していなくても)撃ち込まれれば、核ミサイルと同様の効果が生じる。島国なので、住民が国外に避難することは困難。食料・エネルギー資源や工業製品の原材料を海外からの輸入に頼っているこの国が、敵に海上交易路を遮断されたら、戦争継続は困難。

 要するに日本は軍事的自衛には向かない国だということ(先の戦争のときのように外地―朝鮮半島や中国大陸・東南アジア・太平洋―に打って出るならともかく、本土で迎え撃つ自衛戦―「専守防衛」―は無理なのだ。
 尤も「先の戦争のときのように」「攻撃は最大の防御なり」とばかりに海を越えて「打って出る」とはいっても、それでうまくいったかといえばさにあらず、それは無謀この上もないものだった。日本の過去の対外戦争は、朝鮮半島・満州を「日本の生命線」即ち防衛線として大陸へ撃って出、東南アジア・太平洋にも撃って出た。ところが、いずれも押し返されていったあげく結局「本土決戦」―「専守防衛」のやむなきに至った。それも「一億玉砕」とばかり徹底抗戦するどころか、ほとんど敵軍のなすがままに攻撃―空爆・艦砲射撃、そして原爆投下など―にさらされて都市・工業地帯は廃墟と化し、敵軍の地上部隊が本土上陸する前にあえなく降伏せざるを得なかったのだ)。
 日本は自国だけでの「自主防衛」には向かない。だからこそ、日米安保条約を堅持し、米軍に基地を提供して、そこから撃って出てもらう(自衛隊が「盾」となり、米軍が「矛」となって)というわけ?しかしそれはどうか?
 
 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


2019年10月19日

日本に必要不可欠なのは防災であって軍事ではない(修正版)

 自然災害は必然的なもので、いつか必ず襲来し、避けられないものだが、戦争や軍事紛争は必然的なものではなく回避できるもの。
 近隣諸国に対して「脅威」とか「国難」というが、それを云うなら、現に次々と列島を襲う未曾有の災害のことであり、必要不可欠なのは防災・災害対策であって軍事なんかではないのでは。今の自衛隊は、侵略に対する防衛出動つまり軍事を「主たる任務」とし、国民保護等派遣・災害派遣・地震防災派遣・原子力災害派遣・海上における警備行動・領空侵犯に対する措置などを「従たる任務」としており、アベ自民党は(軍事を「主たる任務」とする)その立場で改憲(9条に自衛隊明記など)を策しているが、「主たる任務」とすべきは災害・防災派遣と領域警備の方であって、軍事なんかではあるまい。
(1)そもそも日本に軍隊・軍事はどうしても必要なのだろうか
 軍隊とは軍事(外敵と戦い-戦闘、撃滅・排除)を事とする。その主要任務は国家を守ること、即ち国家主権(独立)を守り(自衛隊法第3条1項では「国の平和と独立」を守るとなっている)、国の権益や国家体制を守ること―それが最優先で、国民の生命・財産をまもるのは(二の次で)その結果として守られるにすぎず、国家を守るためには作戦上(部隊・隊員の命・武器・陣地は守らなければならず、戦闘に際して)必要ならば(国民・住民は足手まといで)犠牲にされてしまうことにもなる。敵は躊躇なく殺す―そのために心理的バリアーを除く教育・訓練を積む。それが軍隊というもの。
(2)しかし、国家の最大の任務は、あくまで国民の命と財産を守ることであって、国家自身(国家主権・統治体制・国家機関)を守ることではない。したがって国家のために国民を犠牲にするようなことがあってはならない
(3)国民を侵略(による人権侵害)から守る(侵略・攻撃を抑止する)ために軍事力(軍隊や自衛隊)を保持する軍事的安全保障もあり得るが、軍事力を持たず(使わず)に、どの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んで侵略・攻撃を招かないようにして国民を守る非軍事的安全保障のやり方もあるはず。
 軍事的安全保障には、軍事力(軍事組織・軍事同盟・軍事基地など)を保持することによって相手国を刺激し(相手国に脅威を与え)、相手国はそれらを攻撃の対象として設定するため、攻撃を受けやすくなり、かえって自国の安全を損ない危うくする。こちらが軍事力を強化すれば相手国も負けじと軍事強化し、軍拡競争を誘発して互いに軍拡。その軍事力均衡で戦争が抑止されるという「均衡抑止」の局面はあるとしても、均衡が破れた時は戦争の火ぶたが切られ、たちまち戦禍が拡大し、国民には計り知れない被害を招く結果となる。
 そのことを考えれば、非軍事的安全保障に徹するやり方のほうが賢明だということになる。
(4)しかしどの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んで侵略・攻撃を招かないようにしたつもりでも、万一(想定外に)侵略・攻撃されてしまったらどうするか。その場合、被害を最小限に食い止めるためには徒に反撃して大きな被害を招くよりも白旗を挙げる(つまり降伏して国家主権をとりあえず放棄する)。その方が、被害がなくて済むわけである。(先の大戦で降伏した時のように遅きに失することなく「さっさと」白旗をあげていれば、沖縄戦も広島・長崎の原爆もソ連軍の侵攻もなくて済んだものを、抗戦を続けばかりに、悲惨な結果を招いてしまった。今後再びそれを繰り返し、核ミサイルなどで国土が破壊され荒廃し放射能汚染され尽くして回復不能になってしまうことのないようにしなければならない。降伏して日本がたとえ占領されても、人々が生き残れば、独立や自由はやがて回復できるわけであり、「戦わずして降伏」してでも被害を最小限にできる戦術を考えた方が賢明なのである)。その際は、占領されても、まるっきり無抵抗で「何をされてもなすがままに奴隷的に屈従する」のではなく、理不尽な仕打ちに対しては決然と抵抗する。但し、市民が武装抵抗するパルチザン戦ではなく非暴力抵抗主義で、デモ・ストライキ・サボタージュなどに訴えるやり方をとる。そのような非暴力抵抗でも、占領者はダメージを被り、彼らが長期にわたって我が国民全体を軍事的・政治的に支配し続けることを困難たらしめ断念させるのも不可能なことではないからである(「暴力行使費用増大の法則」と「国家管理費増大の法則」で―経費が巨大過ぎるため)。 
 そもそも非軍事・非同盟友好国家に対して、国際的非難・制裁リスクを冒してまで無益・無謀な侵略・攻撃を仕掛けてくる国なんてあり得まい。
(5)「独立した主権国家である以上、自分の国は自分で守る軍隊(自衛隊の軍事力)が必要だ」という考えは?―それは「時代遅れ」―なぜなら今や世界の趨勢は、国家の主権を制限しても、集団安全保障体制(国連の他にもEUやASEANなど地域の多国間安全保障体制)をいかに構築していくか、或は多くの国が予め友好関係を結び、相互に武力行使を禁止する約束をし、万一約束を破って他国を侵略する国があれば、他の全ての国が協力して、その侵略をやめさせようとする仕組みを構想・追求するようになってきているからだ。
(6)「近隣諸国の軍事力増強に現実的に対応するためには軍隊(自衛隊と日米同盟の軍事増強)が必要だ」という考えはどうか?
 中国や北朝鮮の「脅威」とはいっても、それらの国にたとえその能力(核ミサイル・海軍力など軍事力の増強)はもっているとしも、日本に対して侵略・攻撃などやったら、それによって得られるメリットよりもリスク・損失の方がはるかに大きく費用対効果はマイナス(つまり割が合わない)だとか、そもそも侵略の意図をもってその機会をうかがっているのかなどの点から、その可能性(蓋然性)は(歴史上日本による侵略に比べればはるかに)低いだろう。中国にしても、北朝鮮にしても。
 中国とは東シナ海のガス田開発と尖閣列島の領有権を巡って対立があり、尖閣列島は日本が実効支配をしていて、その領海や接続水域に中国の公船や漁船が頻りに侵入するというトラブルがあるが、そこで限定小規模な(日本の海上保安庁に相当する海警や漁民が武装した海上民兵POSOWなどの侵攻に対して海保や海上自衛隊の警備行動で、戦争に至らない)準軍事作戦はあり得ても(その際、自衛隊の出動には、中国側に「日本が先に武力行使をしてきた」と主張する口実を与えかねないリスクはあるが)、本格的な「日中戦争」などはあり得まい
 そもそも中国は日本にとってアメリカを上回る最大の輸入先で、アメリカに次ぐ第2の輸出先。このような日中間で戦争しなければならない国益上のメリットなどないのであり、同盟国アメリカも日本の無人島死守のため中国と戦争しなければならない必然性などあり得ないのである。
 北朝鮮―日本がそれを脅威と感じるのは、両国間に貿易・経済・文化の交流がなく、日本はアメリカの同盟国として北朝鮮とは敵対関係にあるが故に攻撃されるかもしれないと日本人が思っているからであり、北朝鮮から見れば日本を攻撃しても得られるメリットは何もないのである。
 そうはいっても北朝鮮という国は独裁国家で(独裁者が理性を失ったら)「何をするか分からない国だから」、万一に備えて軍備は必要不可欠だ、という考えはどうか?
 北朝鮮のミサイルは日本本土を射程に数百発配備されているという。そのミサイルは音速の10倍(発射から7~8分)で、こちらの迎撃能力を超える量を一度に撃ち込まれたら(「飽和攻撃」)、それをすべて迎撃するのは困難(万全を期すにはPAK3など地上配備型ミサイルの発射機1000基が必要で10兆円では足りない)とのこと。
 独裁者が理性を失ってミサイルの飽和攻撃を仕掛けてくるかもしれない万一に備えて何十兆円もつぎ込んで迎撃ミサイル防衛体制を完備しなければならないなんて。北朝鮮が以前アメリカと戦って以来休戦中の朝鮮戦争が今また再開されることを恐れるあまり核ミサイルにしがみついて虚勢を張っているのを「愚かだ」と云うなら、アメリカの核の傘にしがみついて核兵器禁止条約に背を向けている日本も愚かだといわれてしまうのでは
 相手の国(北朝鮮)を「何をするか解らない(不可解な)国」だから「いつミサイルを発射してくるか解らない」といった不確かな不安にとらわれた(2月19日午前11時頃、郊外の農道をウオーキングで歩いていると突然、丘陵麓の集落の方から「ピンポンパン」という音が響きわたってスピーカーの声が「Jアラートのテストです」と3~4回繰り返した)そんな強迫観念ともいうべき脅威論に基づいてイージス・アショア配備などのミサイル防衛体制がとられている。しかし、そこで唯一確かなことは、日本がそうして日米同盟体制の下に米軍基地を置いている、それがかの国(北朝鮮)にとっては朝鮮戦争がアメリカによって再開されれば米軍が再び日本の基地から出撃してくることは必定、だからそれに備えなければならない(戦争再開・米軍の出撃をくい止めるには核ミサイルを持つしかない)と思っているのだろう、ということなのでは。
(7)戦争はどの国にとっても、相手国の側だけでなく自国の経済にも深刻な打撃となり、戦争だけは絶対起こさないことこそが共通の利益のはず。
 日本は世界第3位の経済大国であり、アメリカ・中国をはじめ世界中の国々が大きな権益を有し、外国の政府や個人が日本に有する資産残高はトータルすれば何百兆(686兆9840億円)。こんな国に戦争を仕掛け、侵略したら世界経済は恐慌に陥り、仕掛けた側も経済的に大打撃を被る結果となることは必定で、国際社会が黙ってそれを許すわけはないのである。
 グローバル経済で各国とも相互依存関係で成り立つようになった21世紀の今、国家間の大規模戦争も侵略も、もはやあり得ないということだ。
(8)ただ、極地的な紛争は残っていて小規模侵犯はあり得、それらに対してどんな国家も常に合理的判断を下すとは限らない。なので、国連などの集団的安全保障システムは必要であり、小規模侵犯に備える国ごとの領域警備体制も必要である。
 領域警備(武装集団やテロリストなどの小規模侵犯対策)については、①現在の海上保安庁には巡視船「しきしま」「あつきしま」といった世界最大クラスで海上保安庁唯一の軍艦構造を有する巡視船もある。全長は150mもあり、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」並の大きさで、航続距離は2万カイリ、35㎜連装機銃または40㎜単装機銃2機や20㎜機銃2機を装備し、ヘリコプター2機を搭載可能。②特殊警備隊(SST)が存在し、ドイツ製MP-5サブマシンガンや89式自動小銃も装備。これ以外にも海上保安庁には各管区に設置されている特別警備隊(89式自動小銃を装備)もある。警察にも8都道府県(北海道・東京・千葉・神奈川・愛知・大阪・福岡・沖縄)に設置されている特殊部隊(SAT)が存在し(ドイツ製MP-5サブマシンガン、89式自動小銃を装備)、全国の機動隊には銃器対策部隊(ドイツ製MP-5サブマシンガンを装備し一部隊で89式自動小銃も装備)が設置されている。
 我が国には、既にこのように十分な装備のある海上保安庁と警察部隊が存在しているのである。(しかし、政府・与党からはそのような既存の「海上保安庁と警察の活用論」が出てこないのは、とにかく自衛隊を出したいからだとされる。)
 いずれにしても、領域警備や国際的な犯罪組織に対する警察力以外に戦争のための軍事力などは必ずしも必要とはしない。特に日本の場合は

 これらのことを考えると、我が国には軍隊など必要不可欠だとは思われないし、自衛隊の災害・防災派遣や領域警備など(それこそが自衛隊の「主たる任務」で)はあっても軍備や軍事などは不要なのでは、と思えるのだが、如何なものだろうか。

 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


2019年10月30日

日米安保条約は日本を守ってもらうためにどうしても必要なのか(修正版)

 それは日本を守るためというよりも、アメリカの国土を守り、アメリカの国益を確保するための世界戦略に役立つからにほかならない。(条約5条はアメリカの対日防衛義務を定めるも、具体的に米軍がどこまで、どんな支援を行うか定めはなく、それらはあくまでアメリカの都合次第であり、大統領がその気になっても、決定するのは議会なのだ)。
 「血の同盟」などと云って日本がアメリカを頼り、アメリカから守ってもらうためにアメリカの云うことには極力応じ、軍事協力を厭わないが、アメリカのほうは、日本に基地を置き、駐留軍を置いているのは、そこから朝鮮半島・台湾・中国・ロシア・東南アジア・太平洋・インド洋・中東など各地域へ出撃する前進基地として利用価値があるからにほかならず、日本防衛などはあくまで二の次(例えば尖閣諸島を巡って日中軍事衝突した場合に、日本が死守しようとしている無人島のために米軍が参戦して米兵が血を流してでも必死になって戦ってくれるかといえば、それはあり得まい)。
そのような安保条約があるために、日本にとって困るのは、それがアメリカの戦争に「巻き込まれる恐怖」を伴っていることだ。
 日本は、それがあるために(安全を「人質」にとられ)アメリカに対して何かと従属を強いられ、無理難題に応じざるを得なくなっている(多額の兵器を大量購入させられ、中東やインド洋・太平洋などへ自衛隊が派遣させられる)。
 米軍基地があるお蔭で、日本は中国・北朝鮮・ロシアなどからの核ミサイル攻撃を免れることができるかといえば、その公算は少ないどころか、むしろ日本に米軍基地があるために中国・北朝鮮・ロシアなどに日本を攻撃する口実・動機を与え、日本各地が攻撃にさらされることになるなど、かえって危険
 朝鮮半島有事で米朝が、或は台湾有事で中台が交戦状態ともなれば、在日米軍基地はアメリカ軍の前線基地となり、その最初の攻撃目標とされてしまう。そしてその核ミサイル攻撃で日本の主要都市・工業地帯が被災し、生活インフラは破壊されて失われ、国土が放射能汚染に見舞われる。米軍がそこへ駆けつけたとしても、もはや時遅し、ということになる。
 米軍基地があるおかげで、その周辺地域(特に沖縄)では、住民が土地を奪われ続け、人権侵害にさらされ、航空機の騒音や墜落・部品落下事故、環境悪化など様々な被害を被り、たえず不安に脅かされ、それが常態化
 
 この安保条約の下で、自衛隊は米軍と一体化し(指揮統制機能は日米統合司令部の下に)、米軍に従属・補完部隊に(米軍が「矛」で打撃力であるのに対して、自衛隊は「盾」で、両方セットになっている)。そして自衛隊は米軍から支援・援護してもらえる、というよりもむしろ自衛隊の方が米軍の世界各地での作戦・戦争に際して支援・警護をさせられ利用される、といったぐあい。

 要するに自主防衛であろうと、安保条約でアメリカから守ってもらおうと、日本は軍事では守り切れないし、安全保障を軍事に頼るやり方は非現実的で得策ではないどころか、かえって危険。だったら我が国には日米安保条約も米軍基地も要らない。自衛隊は、災害救援部隊や国土・領域警備隊などはあっても、軍事・戦闘部隊は要らないのでは、ということになろう。

 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


2019年11月22日

徴用工問題・再論(加筆版)

 それは戦前・戦中、日本統治下にあった朝鮮人(韓国人)で日本企業の軍需工場や鉱山で働いた元徴用工が非人道的な扱いを受けたとして、個人的に日本の国と企業に対して謝罪・賠償を求めて訴訟を起こしたのに対して日本政府、韓国政府、日本の裁判所、韓国の裁判所とで対応が分かれ未だに謝罪・賠償をしてもらえず、元徴用工と遺族たちの心が晴れない状況に置かれている、という問題なのだ。
 今回その問題がクローズアップされたのは、韓国の最高裁(大法院)が元徴用工4人の訴訟で、元徴用工に個人請求権を認定(当時の労働実態は「不法な植民地支配に直結した反人道的な不法行為」だと指摘し、請求権協定によって個人請求権は消滅したとは見なせないとして)、新日鉄住金に原告の請求通り4人に1人当たり1億ウォン(約1千万円)の賠償を命じた控訴審判決を支持し、新日鉄住金の上告を退けた。これにより、同社は4億ウォン(約4000万円)を支払うよう命じた判決が確定
 これに対して安倍首相・日本政府が反発
(1)徴用工問題は「解決済みだ」。韓国の裁判所と大統領がそれを「蒸し返した」と。
(2)韓国の最高裁判決は「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と。
(3)「韓国は国と国の約束を守らない」と。
 はたしてそうか?
 問題は、日本が敗戦で朝鮮半島支配から手を引いた後、分離独立した韓国と北朝鮮に主として米中がそれぞれを支援して行われた朝鮮戦争・休戦を経た後、1965年に日韓基本条約(日本が韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府として認めて国交を樹立)とともに締結された日韓請求権協定(正式には「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」)―そこに①日本が韓国に対し、無償3億ドル・有償億ドルの経済支援を行うこと。②両国及び国民の間での請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決したこと、等のことが次のように定められた。 
 日韓請求権協定第1条「日本国は大韓民国に対し、(a)現在において1080億円…に換算される3億合衆国ドル…に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。・・・・。(b)現在において720億円…に換算される2億合衆国ドル…に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付で、大韓民国政府が要請し、かつ、・・・・取極めに従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたって行うものとする。・・・・・・・・・・。
 前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。・・・」
第2条「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(b)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と。

 それを日本側はどのように実行したか―日本政府は韓国政府に対し、合計5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)の経済協力支援を行い、役務提供等を行った。(無償の3億ドルの経済協力支援は、日本の企業を通じて韓国内へ工場などの生産資本や技術などを輸出する形で行なわれたので、日本の経済界にとっても、大規模なインフラ事業を受注するメリットに加え、将来的にも韓国内での経済活動の足掛かりとなるメリットが十分にあった。)
 それに対応して韓国側はどのようなことを実行したか―韓国内で、高速道路建設事業や製鉄所建設事業、ダム建設事業をはじめとする大規模なインフラ事業を実施するなど、韓国の経済復興のために日本からの経済協力支援金が利用された
 韓国政府はすべての国民が利益を均等に受けることなどの基本方針に基づき、「請求権資金の運用及び管理に関する法律」を制定(1966年)。この法で無償資金は農業・林業および水産業の振興・原材料および用役の導入その他経済発展を支える事業のために使用することとし、有償資金は中小企業・鉱業と基幹産業および社会間接資本を拡充する事業のために使用することとした。民間人の対日請求権補償については、この法で定める請求権資金の中から補償しなければならないとされていたが、そのまま徴用工の未払い賃金その他に対し十分に支払われたものではなかった
 その後1974年になって対日請求権補償に関する法律を制定、被徴用死亡者の遺族に1人30万ウォン、総計(当時のレートで)約37億2650万円支給(負傷者や生存者は対象外)。
 さらにその後2000年代に入って、強制動員被害の調査実施のうえ、請求権協定で日本から受け取った無償資金中の相当額を徴用工ら強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任が韓国政府にあったとして、2007年、「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」が制定され、死亡者1人(日本円で)約200万円、負傷者には障害の程度に応じてそれ以下の範囲で慰労金を支払い、生存者に年間80万ウォン(約8万円)の医療支援金を支給

 ところが今になって、元徴用工訴訟にともなう韓国側の最高裁判決に対して日本政府が反発し、両国政府間で他の問題(日本政府が韓国を輸出優遇国から除外、それに対して韓国側が日本との軍事情報共有協定の破棄を通告)に発展し、両国民間の感情的対立にまで発展してしまっているのだ。
 しかし、この元徴用工訴訟と韓国最高裁(大法院)判決は、今になって急に出てきたわけではなく、原告たちの最初の提訴は20年近くも前(1997年12月)日本の裁判所(大阪地裁)に出されたもので、日本では地裁から最高裁まですべて敗訴で終わってしまい、やむなく韓国の裁判所に訴えを起こし、そのあげく大法院でついに訴えが認められた。その大法院判決(上告棄却)も、既に6年も前(2012年5月)高裁への差し戻し判決で原告の訴えを認めたのと同じ判決理由だったのだ。
 それなのに安倍政権下の現日本政府は、なぜ今になって反発を強め、日韓関係がこうも悪化するようになったのかだ。

 問題の核心
(1)そもそもこの問題には戦前・戦中における日本の朝鮮半島に対する植民地支配が正当・合法だったのか不当・不法だったのかの問題があり、そのことからして認識の不一致があり、合意されてはいなかった
 1910年の日韓併合条約により日本は朝鮮を植民地して、1937年の日中戦争の開始後、戦争による労働力不足を補うために日本政府は計画的に朝鮮人を強制動員・徴用した。それら併合統治・動員徴用が適法だったのか、違法だったのかだ。
 日本側は適法だったとし、韓国側は違法だったとして、交渉段階で争われた。日本側代表は「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「日本は朝鮮を支配したというけれども、我が国はいいことをしようとしたのだ」などと発言したりしたが、併合・統治(植民地支配)の経緯・実態をみれば不当性・不法性は明らかだろう。少なくとも、この間、抗日義兵闘争や三・一独立運動など抵抗運動を不断に展開した韓国・朝鮮人民の立場からすれば、日本側の言い分には納得はできないだろう
 日本の朝鮮半島併合・統治のことに関しては、日韓会談での交渉は決着つかず、結局「日韓併合条約」等は「もはや無効である」つまり失効ということで折り合った(日韓請求権協定と同時に締結された日韓基本条約第2条には「1910年8月22日以前に、大日本帝国と大韓民国との間で締結された全ての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」と。文中「もはや無効」の「もはや」は、元文にはなかったが、その言葉がなくて「全ての条約及び協定は無効である」ということでは、併合・統治自体が全て無効だったということになってしまうので、そうはならないように「もはや」という言葉を入れることによって、併合・統治は有効だが、条約・協定は「今となっては、もはや無効である」というふうにされたわけ。).併合・統治が不法か合法かの主張の対立をめぐる曖昧な玉虫色決着は後々現在に至るまで尾を引いているわけである。
 (2)「徴用工問題は解決済みなのか」について―両締約国・国民の間の請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」と書かれてはいるが
 玉虫色決着は日韓請求権協定でも行われているわけである。日本政府は、「日韓請求権協定により、日本が韓国に対して経済協力(無償3億ドル、有償2億ドル)をすることで、日韓間の請求権を実質的に相互放棄して『完全かつ最終的に解決』することとなり、当初の目論み通りに解決できた(無償3億ドルは韓国に対する賠償ではない)」と日本国民に説明。反対に、韓国政府は、「無償3億ドルの経済援助は実質的な賠償である」と国内的に宣伝し、国民の理解を得ようとした。そして日本の植民地支配・戦争による損害と被害に対する謝罪・反省の弁を聞くこともなく、過去の清算に関する根本的な問題解決を先送りにし、将来にツケを残した格好となった。(第二東京弁護士会・張界満弁護士)
 日韓請求権協定第2条には、両国は、両国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年のサンフランシスコ講和条約第4条(b)に規定されたもの(在韓日本財産に関する取扱いを承認―引用者)を含めて、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあり、協定の付属文書「合意議事録」には「(上記の)請求権に関する問題には、日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる8項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求要綱に関しては、いかなる主張もなしえない(注―主語がなく、「主張をなしえない」のは国なのか個人なのか、或は国及び個人なのかいろいろ解釈の余地があり、はっきりしない―引用者)こととなることが確認された」と。そしてその「対日請求要綱」には8項目があり、その(5)には「韓国法人又は韓国自然人の日本国又は日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金及びその他請求権の返還請求」とあるが、これらに「不法行為に対する慰謝料(賠償)」は含まれているのか否か解釈が分かれる。(「補償」と「賠償」では意味が本質的に異なり、「補償」は適法行為による損害に対する代償のことであるが、「賠償」(そのうち精神的損害に対して支払われるのが「慰謝料」)は不法行為による損害に対する代償のこと。)
 日本政府は、当初(2000年頃まで)は外交保護権(国として自国民保護の立場から対応する権利)は両国政府とも互いに放棄したが、被害者が個人的に求める賠償請求権は別だとして個人として裁判所に訴求する権利を認める余地を残していた(サンフランシスコ条約には国民と国家の請求権を「放棄する」という条項があり、広島の原爆被爆者が国際人道法に反する原爆投下によって被害を受けた米国に対して損害賠償を請求する権利が被爆者にはあるはずなのに、国は条約でそれを放棄してしまったとして日本国に対して賠償に代わる補償を要求して裁判を起こした。それに対して政府は条約で放棄したのは国家の外交保護権だけで、被害者個人が国を通ずることなく、直接にアメリカ政府に請求する個人請求権は消滅していないから国は被爆者に補償する必要はないとして要求を拒否した。
 また、敗戦により多くの日本人や日本企業が朝鮮半島に財産を残してきたまま日本に逃れてきたが、日韓請求権協定でその財産権が消滅したとなると、国はまた「補償」の要求を受けることになる。そこで、日韓請求権協定で放棄したのは外交保護権だけなので、財産を残してきた日本人に国が補償する必要はないと解釈)。
 ところが、やがて2000年頃になると、主に中国人強制連行被害者が起こした裁判で、原告の請求を認めたり企業や国に対して不利な判決が出始めると、国は突然解釈を変更し、韓国人被害者を含むあらゆる戦後補償裁判で条約(サンフランシスコ条約・日韓請求権協定・日華平和条約)により「解決済み」と主張するようになり、「個人の権利は消滅していないが裁判上訴求することはできない」という主張に変った。(新潟国際情報大学の吉澤教授によれば、「権利は消滅していないが、裁判所で救済されないと両国が約した」というなら、それが明示されている合意文書を示す必要があるが、現在までに公表されている合意文書に書いてあることは外交保護権の消滅のみを示しているだけで、請求権協定が裁判的救済を否定したとする根拠は不明確だ、としている。) 
 そして日本の最高裁も、2007年、中国人強制連行被害者が西松建設に対して起こした訴訟で、国の新しい主張を基本的に受け入れた判決を下した。最高裁はまず、サンフランシスコ条約について「個人の請求権を民事裁判に委ねると混乱が生じるから、個人の請求権は裁判で請求できないことにするというのが条約の枠組み」だとし、1972年の「日中共同声明」もこの枠組みの中にあるとした。その同声明が「中華人民共和国は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したことによって政府が自国民被害者を救済する外交保護権を放棄したのみならず、被害者個人も「裁判上訴求する権利は失った」として、最高裁は中国人強制連行被害者らの請求を棄却した。
 但し(最高裁はこれに付言して)、それは「個人の請求権を実体的に消滅させることまで意味するものではない」(だから当事者間で解決をはかることは差支えない)として、日本政府や企業による被害の回復に向けた自発的対応を促す判断をも下した。(それによって西松建設は被害者に謝罪し、和解金を支払っている)。
 いずれにしても、日韓請求権協定で外交保護権は放棄したが、個人の請求権は消滅していないという点では解釈は一貫している。
 一方、韓国政府は当初(1965年の日韓請求権協定締結当時)は「完全かつ最終的に解決」を個人請求権も消滅の意味に解釈していたようだが、やがて(金大中政権時代の2000年あたりまで)日本政府の解釈に合わせて、日韓請求権協定で放棄したのは国の外交保護権だけで、被害者の個人請求権は消滅していないという立場に転換、日本政府の方が被害者は(個人請求権は消滅してはいなくても)裁判上訴求することはできないという考えに変わっても、そこは変えず(直接相手国政府や企業に裁判上訴求することもできる)という考え方を採るようになった。また、ノ・ムヒョン政権は(慰安婦問題や韓国人原爆被疑者問題などは別として)元徴用工の損害賠償(慰謝料)請求権も日韓請求権協定の適用対象に含まれるとして、協定に基づいて日本政府から得た経済協力資金(無償3億ドル)から元徴用工被害者の救済に(「慰労金」などとして)当てる措置を講じている。しかし、その措置は、あくまで韓国政府が人道的見地から行うもので、日本の責任を肩代わりするという筋合いのものではなく、それによって日本の責任が消滅することにはならないという考えのもとに、元徴用工の慰謝料請求権が協定の適用対象に含まれるとしても、それは外交保護権が放棄されただけで個人の請求権は消滅していないというもの。
 それに対して韓国最高裁(大法院)の判決(多数意見)は元徴用工被害者について国の外交保護権も被害者個人の損害賠償(慰謝料)請求権(それは協定の適用対象には含まれず)、それに被害者個人の裁判訴求権(訴訟による権利行使)もすべて認められるというもの。韓国最高裁はどうしてそのような判断に至ったのか。それは次のようなことなのでは
 日韓請求権協定で相互に請求権・外交保護権は放棄したとされたが、日本による植民地支配は合法か不法かの合意に達せず、それを曖昧にしたまま、いわばそれはどっちでもいいからとにかく外交保護権を互いに「放棄」して請求権問題は解決したことにしようとなったものと思われる。ところが、日本側の立場で植民地支配を合法だったことを前提にして請求権協定で日韓とも放棄した外交保護権にすべてが含まれるとして日本政府が元徴用工など韓国人被害者の補償請求や賠償請求をすべて受け付けないのに対して、韓国側の立場から植民地支配は不法なものだったので、その不法な植民地支配に直結した強制連行・強制労働などの不法行為に対して謝罪と慰謝料を求める韓国人元徴用工の個人賠償請求は「放棄した外交保護権」には含まれない、つまり彼ら元徴用工被害者にはそれらの権利はあると判断したわけである。
 (韓国政府のこれまでの見解は、これとはズレがあるが、韓国は日本と同様に三権分立の原則を採っている以上、韓国政府は大法院判決を尊重しなければならない立場―違憲立法審査権や国内に適用される条約の最終的な解釈権は司法府にあり、行政府は司法府の確定判決に従わなければならないわけである。)

 以上、両国政府間では植民地支配の正当性を巡って認識・見解の相違があり、かつ日韓請求権協定2条にある「完全かつ最終的に解決された」について、日韓両国政府・両国司法府の間で解釈が分かれ、相異なる認識・解釈を前提にしてそれぞれ立論し、事に当たってきているわけである。
 しかし、これら韓国政府と韓国最高裁、日本政府と日本最高裁とで(日本側は両方とも個人請求権は消滅しておらず、訴えを裁判には持ち込むことはできないが、企業に持ち込むことはできるという考えで)いずれも「個人請求権は消滅していない」という一点では共通認識を持っている、このことには留意しなければならないところだろう。
 ところが安倍首相は、そのことにはまるで意に介さず、元徴用工被害者の個人賠償請求権までも日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決しているのだ」との政治的発言を繰り返し、韓国大法院が個人賠償請求権は協定2条で「解決された」とされる「請求権」には含まれないと解して下したその判決を「国際法に照らしてあり得ない判断」であり「毅然として対応していく」などと強弁しているのである。日本のメディアや論者の多くはそれに同調する論調で、国民の間にも「反韓・嫌韓」の方に傾いている向きが多くなっている。そうして、日韓の関係はいまだかつてなく悪化しているのだ。
 安倍首相は、韓国の最高裁判決は「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と云い、日本政府は国際裁判(仲裁委員会や国際司法裁判所)で決着をつけるなどと述べているが、そもそもこの問題は、元徴用工の人権問題である。人権というものは時と所を超越し国内法・国際法(国と国の関係を規律する法で、条約・協定や国際慣習法など)を含め人為的な諸法(人定法)の定めに拘らず自然法に基づいて万人に賦与されている普遍的な自然権だとされている。
 人権を国権から守るために制定されているのが憲法であり、国際的には世界人権宣言とそれを条約化した国際人権規約があるが、国内法であれ条約・協定など国際法であれ人権保障に反してはならず、個人の人権侵害に対する賠償請求を認めた判決が「国際法違反」というなら「国際人権法」違反こそ非難されて然るべきだろう。
 世界人権宣言8条には「すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する」と定められているが、それらによって保障された国際法上の裁判を受ける権利を真っ向から否定する日本政府の見解が国際的な支持を受けられるわけはないだろう。(日本国憲法32条も「何人も、裁判所においてさいばんを受ける権利を奪われない」と規定しており、それは外国人にも保障されている。)
 法律不遡及(事後法の禁止)の原則を持ち出す向きがあるが、国際人権規約の自由権規約15条(遡及処罰の禁止)には、1項に「何人も実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為を理由として有罪とされることはない」とその規定はあるものの、2項には「この条のいかなる規定も、国際社会の認める法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない。」として不遡及の例外規定が定められている。
 尚、1944年の徴用工動員に先立つ戦前、国際連盟でも強制労働を禁止するための条約(ILO第29号条約)が採択されて、1932年には日本も批准していた。それは事後法ではないわけだ。
 神戸大院国際法の玉田大教授によれば、「植民地統治が否定されるようになったのは、戦後の国連体制ができてから。そのため朝鮮半島を統治し始めた1910年当時に遡って違法性を問うのは法の原則に反する。ただ、国際社会では90年代以降、人権がより重視されるようになっている。請求権協定によって「解決済み」という日本の主張は国際司法裁判所の裁判官の共感を得ずらいだろう。」
 1971年国際司法裁判所のナミビア事件における勧告的意見で「国際文書、解釈の時点において支配的な法体系全体の枠内で解釈適用されなければならない」とされたが、明治学院大国際法の阿部浩巳教授は「国家中心から人間中心、被害者中心へと変わっている現時点での法体系全体の中で、日韓請求権協定を改めて解釈する必要がある。どんな条約も人権に反する解釈はできない」と。
 また、2001年国連主催のダーバン会議では奴隷制や植民地主義・ジェノサイド(虐殺)など過去の悲劇に対する反省・謝罪を求める決議が採択されているのだ。

 又、安倍首相は「韓国は国と国の約束を守らない」と決めつけているが、韓国司法府も韓国政府も、日韓請求権協定をまるっきり無視したり、或は協定に違反して徴用工訴訟問題に対応しているわけではなく、自国民である元徴用工被害者たちの人権を救済すべく、協定の条文に照らして彼らなりに可能な合理的解釈に基づいて可否を判断して対応しているのであって、彼の国が約束を守らない、信用できない国であるかのような決めつけは如何なものか。

 一般に、政府や与党政治家は国益第一主義で、自国企業の利益擁護(少しでも損失にならないようにすること)が最優先なのであって、過去の被支配他国民の人権救済問題など極力回避しようとする。又マスコミも自国民購読者や視聴者の愛国感情と国益優先意識に応じて、その観点からの報道に傾き、過去の被支配国民の民族的悲劇や人権救済問題などに焦点を向けることは少ない。いずれも人類愛や隣人愛というヒューマニズムよりもナショナリズム的ポピュリズム(多数派民意を忖度する大衆迎合主義―少数派を無視)が支配的なのだ。
 NHKは「日韓問題」「徴用工問題」のニュースといえば、ほとんどが安倍首相が云う「国際法違反だ」とか、官房長官や外相が云う「協定で完全かつ最終的に解決したにもかかわらず韓国最高裁はそれを覆す判決を下した」「韓国は仲裁委員会の協議申し入れに応じない」といった発言を繰り返している、それをそのまま流すだけで、そういうニュースを何べんも庶民は聴かされる。
 朝日新聞も首相や外相の発言と韓国側の対応を表面的に伝える記事と、識者の意見・論評を時折併記したりして載せるだけで、当方がこのブログに載せている日韓関係史などのような朝鮮半島植民地化・支配の経過を(簡単な年表を載せることはあっても)独自に調べて詳しく表記することもなく、協定締結に至る日韓の交渉経過・論争の論点などの解説は若干あっても、詳しくはない。肝心の元徴用工被害者の訴訟と日韓での裁判の経緯、それに本人や遺族たちの思い等(取材しているのかだが)記事はほとんど見られない。
 このような報道では、庶民は「そうなんだ、韓国のやってることは国際法違反で我儘なことを云ってるんだ」などと云った受けとめになってしまうのだろう。

 そこで当方などが考えるのは被害者と加害者のどちらに寄り添って考え判断すればよいのか、自国の政府の総理大臣や政治家がやってきたこと、言ってることだから正しいといって身びいきして同調するのではなく、反日だとか反韓だとかでもなく、とにかく被災者・被害者国民のほうに寄り添って考え判断しなければということなのだ。この徴用工問題の核心は、当の元徴用工(強制連行・強制動員)被害者・遺族たちの辛く悲しい思いに寄り添い、彼らが被ってきた精神的苦痛をなんとかして救済しなければならないということだ。その立場から可能な最善の方法を考える。それこそが焦眉の課題なのでは。
 11月20日、日韓両国の弁護士ら法律家(日本の自由法曹団、民主法律家協会、韓国の「民主社会にための弁護士会」など12団体)が連携して「共同宣言」を出した。それには①強制動員被害者の請求権問題は未解決であり、そのことは日韓の最高裁・日本政府の立場いずれにおいても確認されている。②韓国大法院判決は適正な訴訟手続きを経て出された結論で、日本企業は判決を受け容れるべきであり、日本政府はこれを妨害するべきではない。日韓両国政府と被告・日本企業は、被害者の名誉と権利を回復するため、中国の強制連行・強制労働事件における日本企業と被害者との和解などを参考にして、必要かつ可能な措置を迅速に図ること、等のことを求めている。川上詩朗弁護士もこれに加わっていて、記者会見で「徴用工問題は政治・外交問題とされているが、その本質は人権問題であり、被害者の視点から人権回復を最優先に考えることは、日韓の法律家の共通認識だ」と。

 <参考:山本晴太・川上詩朗・殷勇基・張界満・金昌浩・青木有加 著『徴用工裁判と日韓請求権協定―韓国大法院判決を読み解く』現代人文社>

2019年12月18日

自衛隊をどうすればいいのか―伊藤千尋氏によれば

 今の自衛隊―(2017年3月31日現在で)通常兵力24万7154人(陸自15万863人、海自4万5364人、空自4万6940人、本部要員3987人)
       予備役(非任期制自衛官)5万6685人
       防衛費―年間5兆円超(世界7位)
その通常戦力は世界標準に照らせば「立派な」軍隊で、世界的にも強力な軍事組織(軍事年鑑『ミリタリー・バランス』)。
 
 本文の前の項目「日本に必要不可欠なのは防災であって軍事ではない」と「日米安保条約は日本を守ってもらうためにどうしても必要なのか」で、要するに 自主防衛であろうと、安保条約でアメリカから守ってもらおうと、日本は軍事では守り切れないし、安全保障を軍事に頼るやり方は非現実的で得策ではないどころか、かえって危険だと論じたが、だったら我が国には日米安保条約も米軍基地も要らないし、自衛隊は、災害救援部隊や国土・領域警備隊などはあっても、軍事・戦闘部隊は要らないのでは、ということになろう。
 ならば今ある自衛隊はどうすればいいのか。伊藤千尋氏によれば次のようにすればいいのでは、ということだ。
①海自と空自それに陸自の一部(陸上の国境警備)を加えて計10万人を海上保安庁(2018年現在では1万3994人であまりに少ない)に統合
       日本は、国土(日本列島38万平方キロ))に比べて領海の面積(43万平方キロ)が格段に大きい(領海の接続水域は32万平方キロ、200海里の排他的経済水域を合わせると447万平方キロ―世界6位)―その広大な海域・空域の警備、侵犯対処・海難救助に当たる。
    ソマリア沖―アラビア方面から石油を日本に輸送するタンカーや貨物船、客船の護衛は、今は海自がやっているが、かつては海上保安庁の巡視船が、それに当たっていた。  
②陸自を国土保全隊・国際災害救助隊に(平時は農業などに従事―休耕田や使われていない畑がたくさんあり、広大な演習地を開墾して田畑に変えて、食料自給率が先進国で最低の日本の食糧生産を担う。)

 <伊藤千尋『9条を活かす日本―15%が社会を変える』新日本出版社>

2019年12月21日

現行憲法は押し付けられたものか―伊藤千尋氏の著書によれば 

 幣原喜重郎は「大正から昭和にかけて4度の外務大臣を歴任した。その外交は平和と協調を貫き、大陸への武力進出にも反対した。そのために軍部からにらまれ、右翼からは国賊、売国奴と呼ばれたが屈しなかった。日本が軍国主義一辺倒となって満州事変が起きると政界から引退した。」「それが終戦後に返り咲く。1945年10月から46年5月まで総理大臣となり、新生日本の方向を決める重大な役割を担った。」

 尚、幣原内閣には憲法改正担当(憲法問題調査委員会委員長)の国務大臣として松本が入閣、帝国憲法の改正試案作成に着手していた。
 一方、民間では、高野岩三郎・鈴木安蔵ら憲法研究会が草案作成に取り組み1945年12月「憲法草案要綱」を首相官邸に提出、新聞にも発表された。
 そして1946年1月24日、幣原首相がGHQ司令部を訪問、マッカーサーと会談、新しい憲法に「軍備放棄」を盛り込むよう提案。 その経緯を幣原が、1951年に亡くなる10日ほど前に、秘書官の平野三郎に言い残した
 その問答(平野の質問に幣原が答える)が1964年に憲法調査会事務局が出した『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について―平野三郎氏記』(国会図書館の憲政資料室に保存)に記されている。
 9条について、その(秘書官・平野三郎記の)抜粋・要約
平野「独立のあかつきには憲法を再改正するのですか?」
幣原「そうではない。一時的なものではなく、最終的な結論だ。」
平野「軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めて来たら、どうするのですか?」
幣原「それは死中の活(絶望的な状況で生き延びる道を探すこと―引用者)だよ。今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし、原子爆弾ができた以上、事情は根本的に変わってしまった。世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。」
平野「しかし、日本だけがやめても仕様がないのではありませんか?」
幣原「そうだ、世界中がやめなければ、ほんとうの平和は実現できない。・・・・世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟に発展し、国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外ない。」
平野「それは誠に結構な理想ですが、日本のような敗戦国が偉そうなことを云ってみたところで、どうにもならぬのではないですか?」
幣原「負けた日本だからこそ出来ることなのだ。問題はどのような方法と時間を通じて世界が理想に到達するかにある。その成否は軍縮にかかっている。軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。常に相手より少しでも優越した状態に位置しない限り安心できない。その心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻する。
 軍縮を可能にする方法は一つ。世界がいっせいに一切の軍備を廃止することである。
ここまで考えを進めてきた時に、第9条というものが思い浮かんだ。そうだ。もし、誰かが自発的に武器を捨てるとしたら。・・・・・相手はピストルを持っている。その前に裸
のからだをさらそうと言うようなものだ。・・・・しかし、これは誰かがやらなければならないことである。今だ。今こそ平和の為に立つ時ではないか。そのため生きてきたのではなかったか。僕は平和の鍵を握っている。
非武装宣言、それは正に狂気の沙汰だ。しかし世界は今、一人の狂人を必要としている。何人かが自らかって出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことはができない。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。」
平野「それは遠い将来のことでしょう。その日まではどうするのですか。敵が侵略してきたら?」
幣原「この精神を貫くべきだ。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。
 僕は第9条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。強力な武力と対抗する陸海空軍は有害無益だ。我が国の自衛は徹頭徹尾、正義の力でなければならない。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。ある国が日本を侵略しようとする。それが世界の秩序を破壊する恐れがあるなら、脅威を受ける第三国は日本の安全のために必要な努力をするだろう。これからは世界的視野に立った外交の力によって我国の安全を護るべきなのだ。」
平野「そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか ?一般には、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。」
幣原「実はあの年(昭和20年)の暮れから正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心したのはその時である。僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第9条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた。
 天皇制存続と云ってもシンボルだな、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。この考えは国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとったわけであるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際出来ることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うようにした。これは重大なことで、一歩誤れば首相自ら国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わばならぬ。幸い僕の風は肺炎で元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰い全快した。そのお礼ということで元帥を訪問した。それは昭和21年の1月24日である。僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった。」
平野「元帥は簡単に承知されたのですか?」
幣原「第9条の永久的な規定ということには彼も驚いていた。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。
 好むと好まざるとにかかわらず、世界は一つの世界に向かって進む外ない。軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ない。日本は今その役割を果し得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えた。貴下さえ賛成するなら、日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用するときである。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、アメリカwpも救う唯一の道ではないか。」

 幣原のこれらの言葉を裏付けるのは、対面したマッカーサーの回想録(『マッカーサー回想記』)。それには「日本の新憲法による『戦争放棄』条項は、私の個人的な命令で日本に押し付けられたものだという非難が、実情を知らない人々によってしばしば行われている。これは次の事実が示すように、真実ではない。」幣原が新憲法で軍事機構を一切持たないと決めたいと提案したとき、マッカーサーは「腰が抜けるほど驚いた」という。会談は3時間近くに及び、幣原は「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と涙ながらに語ったという。

 これらのことから次の3つのことが指摘できるのでは。
9条は非武装・非軍事による安全保障の立場であって、軍事的自衛や軍事同盟を想定してはいない(我国の自衛は徹頭徹尾、正義の力、世界的視野に立った外交の力によって我国の安全を護る)。
②これは自国だけが平和・安全であればよいという一国平和主義ではなく、世界平和主義で、日本が先ず口火を切って自発的戦争放棄国となって世界をいっせいに軍縮から軍備廃止へと導くというもの(侵略や世界秩序破壊を防止する安全保障は国際的機関や世界同盟の下に世界警察(国際的に統一された武力)によって行うようなシステム構築を想定(国連の集団的安全保障の原則に則している)。
マッカーサーから推しつけられたという形になっているが、実は幣原首相が発案してマッカーサーに進言したものだということ。
④幣原には天皇の地位はシンボル的なものであるべきだという考えがあって、その形で天皇制存続を連合国から受け容れてもらえるようにすべく、戦争放棄を思いついたということ。(その後、マッカーサー草案を基につくられた憲法には9条とともに第1条に「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定められた。)

 この後(1946年2月)国務大臣松本を長とする憲法問題調査委員会が、この幣原・マッカーサー会談に先立って松本が幣原内閣成立当初から憲法改正の原案作成に着手していた試案(憲法改正要綱・松本試案)をようやくまとめあげマッカーサー司令部に提出。それは(天皇主権などそれまでの帝国憲法とはほとんど変わっていないとして)拒否され、司令部側が改憲原案(「マッカーサー草案」)を直接作成することになった(2月13日)。首相幣原はそれを採用したうえで修正を加えて成案を作成することに決する。その後同年5月幣原からバトンタッチを受けた吉田内閣の下で、それを「憲法改正草案」として帝国議会で審議、10月修正のうえ可決。11月3日公布され1947年5月3日施行となったわけである。

 尚、マッカーサー草案の作成には、高野・鈴木安蔵ら憲法研究会案が採用されていた。作成の中心となったGHQのケーディス大佐はこの憲法研究案は「私たちにとって大変参考になりました。実際これがなければ、あんなに短い期間に草案を書きあげることは不可能でしたよ。ここに書かれているいくつかの条項は、そのまま今の憲法の条文になっているものもあれば、いろいろ書き換えられて生き残ったものも沢山あります」と話している(鈴木昭典著『日本国憲法を生んだ密室の9日間』創元社、19995年)とのこと。「日本国の統治権は日本国民より発す」(→前文「…主権は国民に存する・・・。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来・・・」)、「国民は法律の前に平等にして出生または身分に基づく一切の差別はこれを廃止す」(→14条「すべての国民は、法の下に平等であって、・・・社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的な関係において、差別されない。」)、「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」(→25条「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)、それに「国民は急速の権利を有す。国家は最高8時間労働の実施、勤労者に対する有給休暇制、療養所、社交、教養機関の完備をなすべし」(→27条「賃金、終業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」)など。 

 <伊藤千尋氏の著書とは―『9条を活かす日本―15%が社会を変える』新日本出版社>

2020年01月03日

15%が社会を変える

<以下は国際ジャーナリストで「9条の会」の世話人も務める伊藤千尋氏の著書『9条を活かす日本―15%が社会を変える』新日本出版社による>

悪政を覆す方法―選挙で50%以上の票を獲得できればよいが、選挙まで待たなくても15%の市民が立ち上がれば、社会の空気を変えることができる―「15%の法則」。
 10%強の人々が一斉に目立つ行動をとれば、世の中すべてがそうしているように見える。
  例:9・11の時の星条旗―ロスアンゼルスの中心部、街を走る車はすべて国旗の小旗をつけている・・・・ように見えた(新聞もテレビも「すべての車が国旗を掲げて愛国の意志を表明しています」と流した)が、実は(交差点に立って数えてみると)11~13%だった。
   ベルリンの壁崩壊の時―きっかけは東ドイツ第2の都市ライプチヒの中心部にある教会で月曜の夕方行われる祈りを終わって出た市民200人が、そのまま自由化を求めるデモを始め、その後も毎週月曜にデモ。人数が5千人、2万5千人へと膨らんだが、ここまでは警察が武力で鎮圧。しかし、7万人(ライプチヒの全人口の10%強)に膨らむと警官は手出ししなくなった。当局の目には市民がみんなデモをしているように見えたのだ。それが12万人(20%)に達すると警官は交通整理をしてデモに協力するほかなかった。デモはベルリンに飛び火し、首都で史上最大の100万人に達し、数日後ベルリンの壁は崩壊した。
 南米チリの選挙―1990年(国民投票によって)民主化した後の選挙結果分析―
有権者の3割―固い右派
    3割―固い左派
    4割―中間派―自分では何もせず、政治の流れに引きずられる。
   選挙では、その中間派を引き寄せた方が3割と4割の合計7割を占めて勝利。
   右でも左でも、中間派にまで影響力を及ぼすのは、結束してエネルギーを持った時。
   3割が結束するためには、その半分の15%が強く行動に出た時だろう。
 右派3割、左派3割、中間派4割という割合はどこの国でも似たようなものではないか。
 (国民の3割は保守的で3割は革新的、残る4割は無関心か或いはどちらにもなびく中間層)
 どこの国でも15%が結束した勢力が、その社会を政治的にリードするのでは―15%の市民が一斉に明確な行動を起こせば、直ちに社会の空気を変えることができる。
 「一斉に明確な行動」―「みんながそういう思いで、そうしているように見える」アピール力を持った行動―デモ、「アベ政治を許さない」の札を付けるとか・・・・。

「街角で訴えても、無視して通り過ぎる人がほとんどで、この声が届いているのか不安―反応が感じられない―しかし、訴えは通じないように見えても実は通じていた。その人々の耳にも聞こえているのだ―あきらめずに声を上げることが、いつの日か壮大な人々の行動を呼び起こし、国政を変えていくのだ。」
 「最大の悲劇は悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は暴力の陰に隠れた同罪者である」―キング牧師 
「行動する良心たれ。行動しない良心は悪の側にいる」―キム・デジュン

整然とした非暴力の抗議行動、思想や信条を超えて幅広い人々が集まる。
マスコミは報道しなくても、SNSなどネットや口コミで知り、共鳴して集まる。

どのようにして支持・不支持が分かれるのか(完成版)

 政治や事業など何か大事なことを人に託そうとする場合、人物や団体が複数あがっている選択肢があれば、親近感・信頼感のある方を選ぶ(→支持)
 為政者・政党を選ぶ場合は
[支持層]
  国際ジャーナリストの伊藤千尋氏によれば「右派3割、左派3割、中間派4割という割合はどこの国でも似たようなものではないか。(国民の3割は保守的で3割は革新的、残る4割は無関心か或いはどちらにもなびく中間層)」。
保守―30%―現政権支持・現体制維持―変化を求めない(対症療法的・部分的改革だけ)
            現状―あたりまえ
            先例踏襲―変えるよりも変えない方が楽で合理的だと
革新―30%(今の日本では立憲民主・共産・国民民主・社民・れいわ等合わせても10%台だが、それはバラバラな状態で各党別個に支持率をとっているからで、既に進めている野党共闘・統一候補の擁立・選挙協力から政権交代可能な野党連合政権としての共通政策・ビジョンを打ち出して、「野党連合」とひとくくりにして支持率を問うならば、それら野党の各党支持率を足し合わせた数を大幅に上回るパーセンテージとなろう)―それらが現政権に反対・現体制に不満―政権交代・変革を求める
         その積極的部分15%が声を上げ、行動を起こせば→人々の意識・文化を変え
         るエネルギーとなる。
保革どっちでもない―40%―「無党派」「無関心」―消極的―「他人事」「思考停止」
                          自分の考え・意思を持たない
                          保革どちらか、影響力の強い方に付く
 世論調査で政党支持率や内閣支持率調査、或は国政選挙などに際しての投票では、一般に有権者は各党・各候補の政策・公約を比較検討、熟知してその適否を判断して投票、つまり政策で支持・投票するよりは、その候補者・政党に対する印象・親近感・信頼性などの感覚的なもので支持・投票する向きが多いのでは。

[親近感(シンパシー・共感)]―現政権を支持する保守派と現政権に反対で野党を支持する革新派、それぞれが(3割づつ)存在し、一方は現政権与党の方に親近感を持ち、他方は現政権に反対な野党の方に親近感を持ち、支持を寄せるわけである。
 一般に親近感を持つのは、どのような人に対してかといえば―
   自分と同じような・似たような境遇の人
   自分の「好みのタイプ」
   趣味が共通
   価値観が共通―次のような色々な価値の中で優先しがちなのが共通
         実利 
         力(強さ)
         快楽
         人間的自由・人権
         モラル(公正さ・人道)
  自分の考えにマッチした考えを持った人 
  政治的には、政権に対して(賛成か反対か)自分と同様な政策の考えや感情を持った人には
                                      親近感もつ
 人間性―誠実―良心的な人(表向きはともかく実際上は全ての人が、そういう人に親近感を持
                               つとは限らないのだが)
       宮澤賢治が「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」ような人
       アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師のような人
        国連の難民高等弁務官を務めた緒方貞子のような人
       それとも安倍首相とかトランプ大統領のような人?
 「恵まれた人たち」・「恵まれない人たち」、強者・弱者、「勝け組」・「負け組」
                       どちらの立場に立つか、どちらに組するか
 応援・支援、味方になる―「弱きを助け、強きをくじく」
                     口先だけ「寄り添う」というのではなく
  
  親近感を持てないのは、どのような人か―
         嘘・誤魔化し、はぐらかし、隠す
         身びいき―私物化
         エリート意識―「凡人」を見下す―頭いい人(分析力・数学の能力のある人)ほど「確証バイアス」(仮説・自説を検証する際にそのエビデンス―根拠・証拠となる情報ばかり集め、自説に合わない情報はとりあわず、無視、軽視する)にかかりやすい―「自分が愚かでないことと騙されにくいことを、何よりも誇りにしている」独善家・冷笑家―短期的な現状のエビデンスを根拠に、不確実で不安定な世界の未来に賭けて行動した人の瑕疵(欠陥)を突き、行動しない自分の心を守ることを優先し、なにも起きないかのように振る舞う。
      傲慢不遜―人を恫喝・ヤジる
      自分に協力・味方する者は大事にし優しくするが、敵と見なした存在は露骨に攻め
                                       立てる。
    しかし、そのような人であっても、権力を持っているその方に組した方が自分の立場上(「寄らば大樹」で)有利だと思えば、そちらにつくということがあるわけである。
 
国に対する親近感―
  自分の生まれ育った国―家族・同胞・仲間・人情・山河(自然・風景)には愛着
             オリンピックやワールドカップ大会などで自国選手を応援する気持
             ちにはなるも、オリンピックなどは国籍や民族などのナショナリズ
             ムを超え、世界平和を希求し謳歌する「平和の祭典」なのであっ
             て、国力を競い、国威を発揚するためのものではない。
  自国民優越意識―他国民・外国人とくにアジア・アフリカ系外国人を見下す
  国のやること―政府のやること―には大人しく従う。
      「愛国心」―かつては「忠君愛国」の教育で(小学校の国語の教科書には
              「サイタ サイタ サクラガサイタ」「ススメ ススメ ヘイタ
              イ ススメ」「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」「ニホン
             ヨイクニ キヨイクニ セカイデヒトツノカミノクニ」などと)
                               国家主義・軍国主義に。
 
 そこで問題は政治についてであるが、選挙の際に投票し、支持率調査で支持する政治家(候補者)・政党に対して国民(有権者)は保守系か革新系かなど、どんな政治家・政党に親近感をもって支持・投票するのかだ。

 支持・評価の判断材料となる情報やエビデンス(根拠)を提供してくれるメディア(SNSも含めて、NHK・読売・産経・朝日・毎日・フジ系・朝日系・日テレ系など大手や地方紙・政党機関紙も)や論者に対して―自分の考えとマッチした情報・エビデンスを提供してくれるメディア・論者・発信者に親近感をもつ。悪く言えば「自分に都合のいい情報・エビデンス」を選びがち。
 メディアや論者にも、自分の考えに近く親近感のもてるメディア・論者もあれば、そうでない(自分とは反対側の方に近い)ものもあるわけである。人によっては特定のメディアに対して親近感をもち信頼を置いて、それを情報源にしている者もいるわけである。
 一般にマスメディア(ジャーナリズム)は「社会の公器」として公正・中立が原則とされ、また「権力の監視」の役割をもつとされているが、中には政府の広報機関でもあるかのような「政府.与党寄り」なものがあり、政府与党やその同調者からみれば、そのほうが「真とも」であり、そうでない方が偏向だとみなされたりする。
 首相が各界の有名人・著名人・芸能人それに後援会員まで集めて「桜を見る会」など公費で主催したりして問題になっているが、メディア幹部や記者とは料理店で会食、互いに「親近感」をもって接する場を設けている。(情報交換の場、メディア側にとっては取材の場のつもりにしているのだろうが。)
 (昨年は24回、「読売」は5回、「日経」は6回
 最近では11月15日フジテレビグループ代表と会食
         18日「読売」の論説委員長・編集局長と会食
         20日内閣記者会キャップと会食
       12月10日「日経」の政治部長らと会食
          17日報道各社の首相番記者と会食)(これらのニュース・ソースは首相との会食には招かれることのない新聞社の記事情報)
 首相はほとんど毎日テレビ・新聞に顔が映る。時には野党から追及を受ける場面などマイナス・イメージに映る場合もあるが、野党は首相や閣僚の不祥事追求・批判など「揚げ足取りばかり」やっているかのように受け取られるのに対して、首相の方は内政・外交とも絶えず精力的に取り組んでいる姿がアップされ「やってる感」(頑張ってる感)が目に焼き付いてプラス・イメージとなる。たまにわずかしか映されることのない野党党首に比べれば、はるかに国民に親近感が得られる機会に恵まれている、というところにも首相在職期間を史上最長たらしめ好条件があるのだろう。

 国民(有権者)は為政者・政党を親近感・信頼感・期待感など感覚的なものによって選びがちだが、それにしても有権者にとって必要なのは(この為政者と批判政党の云ってること、理念や政策のどちらが本当に真ともなのか、この社会この国、この国の憲法は本当にどうあるべきなのか)真理・真実を見抜き、見分ける理性的な判断力なのであって、イメージやフィーリングによって騙され、惑わされてはならないのだ。

 この国の為政者、アメリカの為政者はどうなのか。ポピュリスト政治家とは―大衆心理を見抜いてそれを巧妙に利用。
 かつてドイツの為政者はどうだったのか。
 ヒトラー―「わが闘争(マインカンプ)」に曰く
   (東京法令出版『世界史コンパニオン』によれば)
   「大衆の支持を得ようと思うならば、我々は彼らを欺かねばならぬ。・・・・巧みな宣伝をたえず用いれば、人々に天国を地獄と見せることも、その逆に、最も惨めな状態を楽園のように見せることもできる。」
   「人々の大多数は、その態度及び性質に置いて女性的であるから、かれらの活動や思想は、冷静な考慮によって動機づけられるよりは、感情によって左右される。・・・・宣伝の効果は、したがって、常に感情に働きかけることにむけられねばならない。・・・・大衆の組織者は・・・・大衆の弱点と野獣性につけこむよう努めねばならない。」
 (ウエブサイト「ヒトラーの名言が世の中の真実を語っていて恐ろしい―NAVER」によれば)
   「大衆は小さな嘘より大きな嘘、何度も繰り返される嘘に騙されやすく、ドラマティックな嘘には簡単に乗せられてしまう。大衆は小さな嘘はよくつくものだが、大きな嘘をつくことは出来ないし、大衆の多くは無知で愚かだからである。偉大な嘘つきは偉大な魔術師だ」
   「女は弱い男を支配するよりも、強い男に支配されたがる」
   「熱狂する大衆のみが操縦可能である」「政策実現の道具とするため、私は大衆を熱狂させるのだ」
   「平和は剣によってのみ守られる」
   「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」「弱者に従っていくより、強者に引っ張っていってもらいたい・・・・大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」。

2020年01月20日

日本人の国民性

古来 島国で農耕社会→ムラ社会―運命共同体
      集団互助依存的生活→甘え・寛容、自律性の欠如、無責任性、排他性
       ウチ―融和―「」―「以心伝心」(云わなくとも解り合える→忖度)
                情緒的人間関係―「先情後理」(理性より感情が先行)
                言葉や論理が曖昧・不明確、主客未分離、主語を省略
       ソト(ヨソ)には無関心か敵意
   自然災害が多い―自然崇拝・アニミズム(精霊信仰)―八百万神―多神教
      神道と仏教の融合(「神仏習合」)、
   宗教的寛容、現実主義(現世ご利益を求める)
        自然との共生、受容的感性、忍従的
江戸時代―幕府により鎖国政策とともにキリスト教禁止
   儒教は(中国からの伝来は仏教よりも早く5世紀だが)武家社会に定着)―封建支配秩序                     (「タテ社会」)と幕藩体制の維持に役立つ。
    仁義礼智信(五常)の徳目を守れば、父子・君臣・長幼・朋友(五倫)の人間関係がうまくいくと。
      権威による「和」の維持
    滅私奉公の武士道、忠孝道徳、目上の人を敬い、礼儀を重んじる。
    家父長的家族制度 男尊女卑
   蘭学など実学
明治以後―日本的伝統に西洋的合理主義(功利主義)を結合
 国家や産業・企業の役に立つ人材教育→富国強兵・国力の発展・軍国主義、戦後の産業経済            の復興・経済成長も。
   「国家神道」―天皇統治体制の下で皇祖神(天照大神)を祀る伊勢神宮を総本山として全国の神社を階層的に傘下に置く。
   「教育勅語」には「君への忠」「親に孝」「義勇公に奉ず」「皇運扶翼」などの徳目はあっても「殺すな、盗むな、嘘つくな」とは書かれていない。      
戦後―依然「役に立つ」ための教育受験教育、知識偏重、詰め込み教育
      人間教育・人権教育・主権者教育・平和教育などは疎かに
      共同体意識は希薄に―利己主義・自己責任(cf欧米人―個人主義・理想主義)
      学校教育―「前倣え」、「云われたことをやる」「社会の答えに自分を合わせる」                    
           自分の頭で考え、意見を論じること(議論)が苦手
現在に至るまでの日本人の特性
    集団主義的傾向ウチの集団への所属意識が強く「和」を重んじ、ソトの集団に対しては無関心か敵意。
           風習への因習的服従
           「世間」(「周囲の目」「世間体」)を気にする―同調圧力を感じ、
               「恥」を意識(周りの人たちから「笑われないように」と)
              →「人(他人)に合わせる」「空気(周囲)に流される」「長いに巻かれろ」「寄らば大樹」―自律性の欠如
           「普通」にしているのがよい―“T(時)P(場所)O(職務)”をわきまえろ―はみ出すと、「普通じゃない」といって叩かれる
           組織の多くは「事なかれ主義」(波風を立てない、事を荒立てない、摩擦やもめごとを避け、平穏無事でありさえすればよい)―相互監視、「忖度」し合う
    (cf欧米人(キリスト教徒)は「神の目」しか気にしない―自律性―個人主義)
先情後理―感性や心情を重視(cf欧米人は論理的で合理性を重視)
 哲学的思考(物事の本質を掘り下げて考えること)が苦手で、物事の本質や生命現象や自然現象の根本原理に対する探究心・理解に欠ける
実利主義(役に立つかどうかを優先・判断基準)(現実主義)
    ご都合主義―宗教は多神教(神道・神仏習合・「クリスチャンでもないのにクリスマスを楽しむ」など)
          タテマエ(原則)とホンネ(自分の都合)を使い分ける
特有の倫理観(道徳意識)―どの民族にも「殺すな、盗むな、嘘をつくな、姦淫するな」などの戒律(仏教の「五戒」や旧約聖書の「十戒」)があり、それを犯すことに対して「罪の意識」をもち、内なる良心に反してはならないということを理由にするが、日本人の場合は、それを「外目に悪いとか、外聞が悪い、世間体悪い」といったように「恥」として意識し(「恥の文化」などと指摘され)、「他人に迷惑をかけるから」とか、「人に不快を与えるから」といったように外的な理由から意識する。(それは人の迷惑にさえならなければかまわない、人目に触れなければかまわないということにもなり、これも「ご都合主義」)

  高齢者・若者―いずれも受験や就職に役に立つ実利主義教育を受けてきて、人格を磨くとか世のため人のために尽くすとか真善美を探究・創造するとかの志が乏しい。
  日本の若者―自分を認める意識が低い。
     「自分で国や社会を変えられる」とは思っている者の割合が他国に比べて低い。
     消極的―「別に欲しいものはない」―消費も、恋人も(?)
     合理主義―行動する前に、結果を先に考える―「ビールって、飲んで何になるんですか?終電がなくなる、それなら初めから飲まない」
     自己責任に敏感で、賢くリスクヘッジする(リスクを予測して対応―備える)
     国の政策にはあてにしない(諦め)傾向―政治に関心が向かない
        ―先が見えないから内向きになる  
       若者の投票率に低さ―「政治への期待がないからではなく、投票したいという政治家が現れていないから」とも。
     SNSで―コミュニティーをつくる・・・・#Me Too
          「推し」(フアン・応援)の相手が同じ者同士との交流
          独自の意見を発信―政治のメッセージも
     グローバル化―既存の小さな世界からはみ出し(外に意識がむくように)も

道徳意識(モラル)―「外側の目」―世間の目・監視カメラ・法律を気にし、「恥」の意識(cf欧米人―キリスト教―「罪」の意識―誰も見ていなくても「神の目」からは逃れられないとか、内なる良心に背いてはならないと)。
  
主権者意識・人権意識が低い―主権も人権も「与えられた」もので「闘い取った」という意識が薄い→「お任せ民主主義
 投票―主権者である自分の代わりになって頑張ってほしいと推したて応援して投票―投票した人物や政党に非があれば自分にも責任ありと自覚―その意識が薄い(消極的選択―消去法)
男女格差(ジェンダー・ギャップ)121位―先進国では最低、中国(106位)・韓国(108)以下

  <参考:朝日新聞1月3日付け「2020どう生きる」
       同  15日付け「アドバンス―政治と若者」―トレンド評論家・牛窪恵
       同      オピニオン「はみだす力」上―アーティスト・スプツニ子!さん
       同  16日付け    同上     下―モデル・看護師・青木美沙子さん>

「憲法の歌」に思う

 改憲の歌(中曽根元首相作詞の「憲法改正の歌」をはじめ、自民党本部関係者が作ったJ-POP調の「憲法改正ソング」、それに「憲法改正応援歌」など)がある、一方、「わたしのねがい」(最近、日弁連企画の憲法ソング・コンテスト大賞を受賞した尾池ひかりという児童の作詞で「私が大きくなっても このままの憲法であること、それがわたしのねがい」)という歌があり、又「憲法は僕たちのもの、政府が変えるものじゃない、守りたい人も、変えたい人も、みんなで考える」といったような歌詞で若者が作った「憲法の歌」もある。それに現行憲法(前文・条文)そのものに曲を付けて歌にしたものもある。代表的なのはシンガーソングライターきたがわてつの曲だが、他にもYouTubeにはラップ調とかフォーク調の曲を付けたもの、それに「日本国憲法をカラオケボックスで歌ってきた」とか「日本国憲法前文・カラオケ音源」といったものも投稿されている。
 当方も前文と主要な条文に節を付けて歌ったオリジナルを試み2年前YouTubeに「日本国憲法朗詠歌」などとして投稿したりした。
 憲法は「理であり、国の誰もが従うべき冷厳な法令なのであって、心情で歌ったりする筋合いのものではない」といった決めつけや思い込みがあるだろうが、必ずしもそういうものだとは限るまい。この憲法をつくったのは法律家たちではあっても、先ずは国民の心情を汲み取った心の思いから発想して法文として作成し、その文章は作家(山本有三)らが言葉を練りあげて作りあげたものであり、作詞家の中西礼は「憲法は詩でも小説でもないが、美しい理念をうたい、感動を与える『世界に誇れる芸術作品』であると」評している。だったらこれを歌わない法はあるまい。
 きたがわの歌は先年、山形市で開かれた母親大会でゲスト出演した彼がギターを弾きながら歌ったのを初めて聴いてCDを買ってきたものだが、その後NHKのニュース9の特集で「憲法には歌があるんですね」ということで紹介があって、中曽根元首相の「改憲の歌」と合わせて、きたがわの「憲法の歌」を流して聴かせたことがあった。
 YouTubeでは、中曽根元首相の「改憲の歌」は視聴回数が(藤山一郎・安西愛子がデユエットで唄ったのと元首相自ら唄ったのと合わせて)10万4千回以上、自民党本部関係者の「改憲ソング」は同じく10万4千回以上、きたがわの歌は約27万回、当方が投稿したものは(「憲法朗詠歌」とその縮小版「平和憲法の歌」を合わせて)約4千回。
 当方は一昨年市内で「憲法カフェ」と称して10人足らず集まってもらい、きたがわの歌と当方のオリジナルを紹介して「憲法の歌をうたってみませんか」ともちかけたことがあったが、それっきりで終わって残念な思いをした。
 憲法は国民のものであり、憲法を歌うということは、それを「♪われらは・・・・」と歌うことによって憲法を自分のものとして心に刻むことができ、自分の心とすることができるわけである。
 韓国では「ローソク」デモ(キャンドル集会)では憲法の条文(第1条「大韓民国は民主共和国である。主権は国民に在り、すべての権力は国民に由来する」)に(民衆歌謡作曲家が)メロディーを付けた歌を合唱しているという。
 「君が代」は国歌として公的行事に際して歌わされ、否応なしに普及しているが、一シンガーソングライターの歌とはいえ、音楽的に優れた格調の高い「憲法の歌」というものが出来ているのに、どうしてそれが普及しないのだろうか。「うた声」運動があり、各地にセンター合唱団などあるのに、どうしてこの憲法の歌が広がらないのだろうか。
 「改憲反対」のスタンディングなどやってるが、なんかもの足りない。街宣車のスピーカーで「憲法の歌」など流せばいいものを。(自家用車のカーステレオにCDやカセットテープをかけて最大音量で窓を全開して流したりしているが、響きが弱くてダメ)車外スピーカーの付いた街宣車を然るべきところで出してくれればいいものを、協力してもらえない。9条の会も、どなたも「どこ吹く風」。改憲派の攻勢が始まろうとしている今、これではとても、「改憲の歌」との「歌合戦」にも負けるし・・・・・なんて、一人で気をもんでいる今日この頃。

2020年02月04日

「桜を見る会」問題などで田原総一朗氏の論評

BLOGOS(LINE株式会社が運営する提言型のニュースサイト)掲載の田原総一朗インタヴュー記事―「『疑惑がありすぎる国会』政治家が嘘をつくのが当たり前になった」から。
<要約>
 「疑惑追及にまともに答えない元大臣たち」―前法務大臣と妻の参院議員、元経産大臣
               「この国の政治家は、嘘をつくのが当たり前になった」
 「このような風潮は、森友・加計問題のときから顕著になった。かつてならば政権が崩壊してもおかしくないほどのスキャンダルだったが、安倍首相らは疑惑にははっきり答えないという姿勢に終始した。」「森友学園問題の時は、財務省が決裁文書を改ざんしていたことが発覚した。民主主義の国では到底許されないこと。ところが、政治家が誰一人として責任を取らなかった。本来ならば麻生財務大臣が責任を取るべきなのに、辞任しなかった。」「加計学園問題にいたっては、当事者たちがみな嘘をついている。安倍首相は加計学園理事長と長年の友人と公言していたが、問題が明るみに出ると「そのことは知らなかった」と否定した。その直前に何度も一緒にゴルフをしているのに「知らない」というのは不自然」。「安倍首相が嘘をつくから、『本件は首相案件』といったとされる首相秘書官や加計理事長まで、みな嘘をつくことになった。嘘がまかり通って、誰も責任を取らない。そんな異常事態が続いている。」―「『モリカケを突破できたから何をやってもいいんだ』と開き直っているように思える。」
 「『桜を見る会』の疑惑はむちゃくちゃだ。」―「開催要綱によると、招待範囲は皇族や各国大使・衆参両院議長・閣僚などのほか、『各界の代表者等』と定められていた。しかし実際には安倍首相の後援会の会員が多数出席していた。参加人数も、要綱では「計約1万人」となっているのに、実際は約1万8000人が出席していた。それにともない開催費用も年々膨らみ、約1700万円の予算に対して、支出が約5500万円と3倍以上になっている。国民の税金で安倍首相の後援会の会員らを接待していた、といってもいい状態だったわけだ。」「さらに問題なのは、疑惑が発覚したとたん、招待客の名簿がシュレッダーにかけられたことだ。シュレッダーで細断されたのは、共産党の議員が国会質問のために資料提出を要求した1時間半後。これは『証拠隠滅』に等しい行為だ。紙の名簿が細断されてしまっても、デジタルデータがあるはずだが、菅官房長官は「データはサーバから削除されて復元が不可能」「バックアップデータは公文書ではないから資料要求の対象ではない」と説明し、招待客の名簿を明らかにしようとしなかった。理解に苦しむ説明だ。嘘をついているとしか思えないが、こんな対応がまかり通っている。」
 「桜を見る会、大臣の不祥事、そしてIR汚職。これはもう『疑惑がありすぎる国会』だ。」「この疑惑国会で、野党はどこまで安倍首相を追及できるのか。正直なところ、野党の追及だけでは限界がある。もともと日本の政界は、野党の力によって政権が代わってきたわけではなく、与党・自民党の主流派・非主流派の批判によって、歴代の内閣が倒されてきた。ところが、選挙制度が小選挙区制を中心にしたものへと変わり、当選するためには党の公認が不可欠となったため、自民党の議員たちがみな官邸の意向を気にするようになった。森友・加計問題にしても、桜を見る会にしても、安倍首相の責任が厳しく問われるべきだが、自民党内から安倍首相を批判する声はほとんど出てこない。みな、安倍首相のイエスマンになってしまっている。『安倍さんは辞任すべきだ』という意見が出てもいいはずだが、出てこない。唯一批判しているのは、石破元幹事長ぐらいだ。ただ石破氏は、党内では孤立している。」
「嘘をつくのが当たり前の首相や大臣。異論を口にできない与党の政治家。疑惑だらけなのに、そんな状況を政権奪取のチャンスとして生かしきれない野党。」
 「いま日本の政治は大変な危機に陥っている。」

 <感想>まさに国難か?
 中国・北朝鮮が脅威?中東ではイランが脅威?2017年の解散総選挙に際して安倍首相はは北朝鮮の脅威などを「国難」として「国難突破解散」と称した。そして9条に自衛隊を明記改憲を正当化。(それらの国と対戦しようとするアメリカ、その同盟国部隊となる自衛隊。それらも脅威であり、国難を招きかねないのだが)。
 中国から新型コロナウイルスの侵入、これも国難か?―それに乗じて憲法に緊急事態条項を書き加えるべきだとして改憲を正当化。
 先の総選挙に際し「国難突破解散」を掲げた安倍首相に対して「お前が国難だ!」「安倍は辞めろ!」のプラカードが上がったりもしたのだが、「いま日本の政治は大変な危機に陥っている」という田原氏から言わせれば、「いまが国難だ」ということになるのでは。その国難から脱するにはどうすればよいのかだ。

2020年02月05日

好き・嫌いの心情が判断基準(その1)

当方の場合
<好きな(共感・反りが合う・親近感・信頼感が持てる)人>
 ヒューマニスト、
 博愛心のある人(人を分け隔てしない人)
 思いやりのある人
 弱者・被害者・恵まれない人・敗者の側に立てる人、「弱きを助け、強きをくじく」意識をもつ人
 善人、公正な人、誠実な人(正直―嘘・ごまかしのない人)、「人が好い」人
 モラルを重んじる人―「正直者が馬鹿を見る」ことに怒りをもつ人、善悪に潔癖な人
 自尊心やプライドはあっても、高慢でなく自慢しない人
 個人の自己責任に対して集団の社会的責任や国の責任を重視する人

 このような政治家・政党・論者・メディア(情報源・新聞・書籍など)を選ぶ
   イデオロギー(思想傾向)がこれらを選ぶのではなく、心情がイデオロギーを選ぶ。心情(好き嫌い・快・不快など)傾向は生まれ育ち(境遇)からくるものだろう。

<嫌いな(違和感・反りが合わない・反感・不信感・「許せない」感を覚える)人>
 モラルより実利を重んじる人―実利のために嘘・ごまかし・情報隠ぺい・公文書改ざん等を厭わない人
 詭弁家―巧妙な言い方・話し方でごまかし騙す人、狡賢い人
 モラル・道義的責任を軽視する人
 独善的(自分ファスト)な人、自国第一の愛国主義者
 強欲な人、野心家、功名心の強い人
 強者・富者・高位者に与する人
 身びいき、えこひいきする人
 高慢・尊大な人―エリート主義的傾向をもった人、人を見下すような人
 人を差別する人、差別を容認する人
 競争主義・競争意識の強い人
 自己責任主義者―競争敗者・格差・貧困・不幸は(自らの悪い選択の結果で「自業自得だ」と)自己責任に着せる人

  このような政治家・政党・メディアは選ばない

 これは当方の場合だが、それが逆だという人もいるわけであり、むしろそういう人のほうが多数派だろう。だから、当方の嫌いな政治家・政党・情報発信者の支持率のほうが高い。
 実利主義や実力主義・競争主義を肯定する人のほうが多いということだ。
 「世の中、カネしだい、能力しだい」
 「力が正義」「勝てば官軍」
 競争は社会の活力を生む経済成長・国力発展の原動力。カネと力と才覚のある者が勝って人々の上に立ち、それらに劣る敗者が下におかれるのは当たり前で、しかたのないこと。
 熾烈な競争があって、そこで最大限努力し自らの能力を発揮して勝者となった勝ち組が恵まれ、能力もなく努力もしない者が恵まれない、その格差はあって当たり前で、しかたのないこと。
 資本主義の市場原理に基づいて自由営業・自由競争・自由取引・自由貿易でなければならない―武器の製造・売買であれ原発の経営・稼働であれ。自然や社会の環境維持・正常化だの平和的生存権の保障だのと、それらに規制・制限を加えて企業活動の発展を阻害してはならない。
 ということで、実利主義(ヒューマニズムとか公正だとかモラルだとかにとらわれるよりも実利が優先)や実力主義・競争主義を正当化。(例えば―安倍首相、「桜を見る会」問題で疑惑の追及を受けた質疑で「延々とこういうやりとりをやらなければいけないのは恐縮だ。重大な問題がたくさんあるにもかかわらず」などと答弁。経済同友会の代表幹事・SOMPOホールディングス社長、その国会審議をめぐり与野党に苦言、「時間の無駄。もっと重要な法案がある。何をしているのか」と。)

 このような立場に同調する人たちは、当方の心情からすれば相いれない政治家・政党・論者・メディアの方を評価し支持するのだろう。この国ではかれらが多数派なのだ。

2020年02月28日

好き嫌いの心情が判断基準(その2)―信なくば審議成り立たず

 政治家・政党・メディアに対して評価・判断する場合は、政治家なら識見・才智・弁舌・手腕・人物(人間性・人柄)、政党なら理念・政策・活動力、メディアなら啓発力、それに政治家・政党・メディアとも公正さ、これらの点でそれぞれ、どれだけ評価されるかである。
 政治家・政党・メディアなどに対する評価・判断―その発言・主張やそれが打ち出す政策や発信する情報に対する評価・判断と、それ以前に彼ら人物(人間性・人柄・メンタリティ―=性向や心情などの心的傾向)に対する評価・判断が必要。
 判断には「知性(才智)による判断」と「感情(心情)による判断」とがあり、その一方だけに偏らず、双方バランスを取りながら判断するのが的確な判断。
 裁判では裁判官は法律の専門家でその知性によって判断するが、それが、ともすると一般市民の常識から外れた判決になってしまうことがある、というので導入されたのが裁判員制度だが、それは一般市民の中から抽選で選ばれた裁判員を加えることによって裁判に市民感覚(市民感情)を取り入れ、判断に際する知性と感情のバランスを図ろうするものだろう。
 「信ずる」という場合、「言ってること・書いてることが尤もらしいから(信じたくないが感情を抜きに)信じる」という主知主義的な場合と「信じたいから(理屈抜きに)信ずる」という主情主義的な場合とがあり、後者の場合は、かつてヒットラーの演説に熱狂したドイツの大衆や、今はトランプ大統領のツイッターを真に受けるアメリカの大衆の中にそれが見られる。その意味で判断には知性と感情の双方からのバランスのある判断が必要なわけでる。
 その言説・主張・政策・情報が、はたして妥当なものか(つじつまが合って理屈に適っているか、事実根拠に基づいているか等)の判断には知性・才智が必要だが、それだけでは、たとえ弁舌や論述は一見もっともらしく思われても、嘘やごまかしがあったり、真偽が疑われたり、肝心なことが抜け落ちていることもあり、人によっては心情的に納得し難いことがある場合がある。そこで、それら(言説など)を発する政治家や政党・メディア構成員の人物(メンタリティ―=性向や心情などの心的傾向)に対する判断が必要となる。その判断は感情(心情)によっておこなわれる。それは、あたかも伴侶(生活のパートナー)を選ぶ際の判断が、相手の生活力・経済力・将来性などを見極める知性だけでなく、一緒にいると心がなごむとか、心が豊かになれるとか、信頼でき安心していられるとか、人間性を見極めるその判断が感情(好き・嫌い、性が合う・合わない等の心情)によっておこなわれるのと同じなのだろう。

 「政治家」というと、「偉い人」というイメージとともに、とかく「立ち回りがうまく、どこか信用のおけない人物」といったマイナスイメージでとらえる向きも多い。(朝日3月1日付『日曜に想う』に「政治家ではない人を『あの人は政治家だ』と言うとき、それは大抵ほめ言葉ではない。立ち回りがうまく、どこか信用のおけない人物像が浮かんでくる」と。)

 政治家・政党・メディアを評価・判断する場合の心情による判断は、当方の場合、その評価基準は、同テーマのその1に列記したようなことである。

 ところで安倍首相についてだが、才智(狡知?)・弁舌(「口達者」)・手腕(「やり手」・政治力)・強運(?)などの点ではともかく、人物(人間性・人柄)・公正さなどついての評価はどうか。
 安倍首相はいまや人物評価では首相信認に値しないことが明らかになっている、そのような事態に立ち至っているのでは。
 モリ・カケからサクラときて、疑惑問題で、このところ当方に限らず、「人柄」に対する不信感が強まり、支持率が下降気味。それでも(野党はもとより、与党内でも)「他よりよさそうだから」といった理由で下げ止まっており、また、それらを単なるスキャンダルに過ぎないとしてそんな問題にいつまでも時間を浪費せずに「もっと大事な問題を」ということで、(産経などの世論調査では「桜を見る会」をめぐる首相の説明に「納得していない」が78.2%なのに)「国会は『桜を見る会』と新型肺炎の問題のどちらを優先して審議すべきか」では89.0%が「新型肺炎」との答え。
 しかし、「桜を見る会」問題は単なる卑近なスキャンダル問題ではなく、国費で催される公的行事の私物化であり、公職選挙法違反及び政治資金規正法違反で罷免にも関わる大問題。この問題に関して予算委員会において首相は(「桜を見る会」前夜に安倍後援会が催したパーティーについて野党がホテル側に問い合わせた質問に対する書面回答に首相の説明が食い違いがあることを指摘され、首相にホテル側から書面で回答を得るよう迫られ、それには応じずに)答弁でいみじくも「(ホテル側の書面でなければ)信じていただけないというのであれば、そもそも予算委員会の質疑が成立しないわけであります」と述べたが、そのことは「信用を失っている」首相との予算委員会は、たとえ新型肺炎とか「国難」といわれるほどの大問題であろうとも、審議自体がそもそも成立しないのだということだろう。
 「桜を見る会」問題を、「政策問題とか、審議すべきもっと大事な問題があるとか」「こんなスキャンダル問題なんかよりも優先すべき重要問題がある」などといってスルーするわけにはいかないわけである。
 一事が万事、何を聞いても信用できない人物とでは、審議すべき課題にたとえどんなに大事な課題が控えていても審議自体が成り立たず、何も決められないということになる。つまり、何をさしおいても、先ずは首相が不信を払拭することの方がむしろ最優先なでは。

 <参考>2月27日付朝日新聞―津田大介「論壇時評」

2020年03月13日

心情と才智(加筆修正版)

 当方の在職した学園の創設者の校訓に「才智より出でたる行為は軽薄なり。心情より出でたる行為は篤実なり。」という言葉がある。なるほど才智と言っても、「悪知恵」とか「狡知」(狡賢い)といった才智では困るが、かといって心情にも色々あり、そこから発する行為がすべて篤実かというと必ずしもそうではない。
 そもそも心情とは
 そもそも人間のすべての行為は欲求・欲望(欲心)から発し、それには先ず生命欲(生存欲求)・食欲・性欲・睡眠欲・苦痛回避欲求など生理的欲求と、金銭欲・知識欲・名誉欲・権力欲など社会的欲求があり自己顕示欲・承認欲求それに安全欲求・自己実現欲求 などがあり、それら欲心が心情の中でも原初的ものだろう。
 その欲心が満たされる満足感が快感・幸福感・安心感となり、満たされないと不快感・不幸感・欠乏感・欲求不満となり、満足・不満足で喜怒哀楽の感情が生じる。又その過程(欲心追求・達成努力の過程)で希望・充実感・不安感・焦燥感・辛苦があり、自らの達成努力にもかかわらず、結果的にそれが実らないか、実っても事故や病気・災害・戦災などの外的要因によってその成果が奪われ、或いは財産や生命さえも奪われれてしまうという事態に遭遇するかもしれない、その不安感・恐怖感に駆られる。そのような心情もあるわけである。

 それに、欲心には利己心と利他の心(「相利共生」とは生物学的用語だが、他者や相手のためにやれば、それは直接・間接自分のためにもなるという考え)とがある。
①利己心(我欲・私利私欲)の強い人(利己主義者)は、自分の利益を他者の利益に優先するとか、他者の損失よって自分が利益を得るとか、自分さえ良ければいいとか、他を蹴落としてでも勝とうとするとか、人の上に立とうとするなど、金銭欲・出世欲や支配欲・権力欲(野心)などの強い人。或いは独善―自分(側)は常に正しく、相手(側)のほうが間違っていると思いこんでいる。
 自分以外には自分の縁者・「お友達」・仲間内・自分への同調者・協力者に親愛の情。
それ以外の人は抵抗勢力として排除。
 また、優勝劣敗の競争を肯定し、勝者・強者・エリートを(権威として)崇めて彼に従う―権威主義―自発的隷従・忖度―国家的権威に対しては愛国心をもち、自国第一主義。

 ② 利他の心(相利共生マインド)が強い人(利他主義者、といっても互恵的利他主義)―理性的な考えで、自他の共益或いは利益のバランスを図るタイプ―は他者や相手への思いやりが厚く、人に優しく、良心的で道義・道徳・人道にこだわる。「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治の言葉)といった博愛主義あるいはヒューマニズムの傾向。
 「心情より出でたる行為は篤実なり」という場合の心情とはこの利他の心情のことだろう。いわば「良き心情」だ。
知識や知性・知恵・才智、それにAI(人工知能)は、利己心であれ利他心であれ欲心達成の手段であり、それらが利己心の達成の手段とされる場合は狡知(ずる賢い)となり、そのような才智は「軽薄なり」と言えるわけである。

 利己主義派と利他主義派の対立―利他主義派は①の利己主義派を嫌い反発。その独善・横暴・専横・理不尽に憤り憎しみ怒る。

 対立・抗争は右派・保守派対左派・革新派・リベラルなどイデオロギー(思想・信条・主義主張)対立の形をとって争われるが、そもそもは実利を求める欲心を中心とする心情の違い・不一致から生まれ、利己的実利追求と相利共生的実利追求の心情対立からくる。
 例えば、原発をめぐる推進派と反対派の争いは電力業界・財界・自民党の利己的実利追求と国民間の相利共生的実利追求の心情対立からくる。
 改憲をめぐる自民党と国民間の対立も、政治信条の違いによる場合もあるが、社会的実生活上それぞれ改憲・護憲のどちらが有利かという実利追求の心情からくる。

 政治家の心情―(精神科医で元衆院議員の水島広子氏によれば)①自己愛(自分を特別な存在との意識)が強い(それが政治家にとって不可欠なエネルギー源となる)。そして自分と似た人を「仲間だ」と感じ、異論を唱える人は排除し、仲間だけを重用。②(自分とは異なる意見を持つ人たちを含む)他者への共感力がある。そして恵まれない人への人情があり、力をもっているがゆえに、力をもたない人たちの声を聞く鷹揚さ、寛容さがある。
この二つを併せ持つタイプと①が強いタイプあり。

 歴史上の偉人・英雄あるいは現在の政治家で利己主義派・互恵的利他主義派どちらか典型的な人物には誰が挙げられるか?日本では誰?他国では?

 安倍首相の心情―祖父(岸信介―満州国建国に参加、東条内閣の閣僚、戦犯容疑も不起訴、釈放後政界復帰、自民党第3代首相、日米安保条約改定―現行条約―日本をアメリカに守ってもらうための条約、そのもとで「平和と繁栄」図られるも対米従属へ)を敬愛、改憲などその遺志を受け継ぐ。著書『美しい国へ』にその心情―大戦への思い―「軍部の独走、軍部の責任」といわれるが、マスコミも民意も支持していたと。現行の日本国憲法は「前文は敗戦国として連合国に対する詫び証文のような宣言」で「妙にへりくだったいじましい(哀れで見苦しい―引用者)文言になっている」と―2012年出演したネット番組でも「いじましいんですね、みっともない憲法ですよ。はっきり言って。それは日本人が作ったんじゃないんですからね」と。
 史上最長政権を誇る安倍首相の場合は、改憲実現の「悲願」(野望)とともに、強権政治や国政私物化などモラル崩しなどの問題もある。これらはいずれも彼の欲心を中心とする心情から発しているものと考えられる。
 自民党でも古賀誠・元幹事長の心情―福岡県出身、2歳の時、父親が戦死、女手一つで苦労する母親の姿を見て政治家を志す。 高校卒業後、大阪の問屋に丁稚奉公。一年後大学(日大)に進学、在学中福岡県の同じ地元の自民党参院議員(鬼丸勝之)の書生となり、卒業後同議員秘書を経て、衆院議員に立候補、落選も二回目で自民党から立候補して当選、以後10回当選、大臣にもなって、森喜朗政権時代には幹事長まで上り詰め、2012年引退。
 憲法については、改憲論議は必要だが、9条だけは一字一句も変えてはならないと(9条に自衛隊など「書く必要はない」と断言。著書に「憲法9条は世界遺産」と。

  当方にも欲心を中心とする心情があるが、その心情は・・・・・・

 ここで、「利己主義派と利他主義派の対立」などといっても、人々をそのいずれかに峻別して、あの者は利己主義派だとか利他主義派だなどと簡単に決めつけて評価・判断をしてはなるまい。
 そもそも人の心を見極めることなどできはしない。言動から推し測るとしても、その思い込みは主観的な先入見であり偏見なのかもしれない。その心情による判断は客観的根拠に基づいた確認が必要であり、公正な評価・判断を期さなければならない。そのためにこそ理性・知性を働かせなければならないわけである。心情によるその判断が適切なのかどうか、然るべき理由と客観的な根拠によって裏付けられるものでなければならず、説明を求められれば説明責任を果たせるようなものでなければならない。知性(言葉と論理的説明力・知識)はそのために必要なわけである。
 しかし、人によっては(どちらかといえば利己心の強い人は)その欲心(私利私欲・欲望・野望)を達成し、或いは勝ち得た利得や地位・権力を覆されまいとして、それらを合理化し、私欲を覆い隠すために知性・才智を悪用し、策謀をはかり、嘘・ごまかし(証拠資料を改ざん・隠蔽するなど)を弄する(悪知恵・狡知を働かせる)こともあるわけである。

 人の心情も色々で、すべからく「心情より出でたる行為は篤実」だとはいえないが、ただ心情の良くなければ、どんなに知性・才智があってもダメなことは確かで、一番大事なのは心情の良さなのだと、これだけは言えるだろう。


 

2020年03月19日

憲法カフェ発会の趣旨(動機)

Ⅰ、憲法をめぐる情勢
(1)安倍改憲の動き
 昨年12月、臨時国会閉会後の記者会見で「来る通常国会の憲法審査会で、令和の時代にふさわしい憲法改正原案の策定を加速させたい」「憲法改正は、必ずや、私自身(任期は来年9月まで)の手で成し遂げたい」と。
 1月6日、年頭記者会見で「憲法改正を私自身の手で成し遂げていくという考えにはまったく揺らぎはありません」と。
 1月7日、党本部広報部が改憲ポスター発表―キャッチコピーに「憲法改正の主役はあなたです」と。これを全国に張り出し、改憲集会展開へ。
 1月20日、通常国会施政方針演説で「その案(改憲案)を示すのは、私たち国会議員の責任ではないでしょうか」「憲法審査会で、ともに、その責任を果たしていこうではありませんか」と。
 1月27日、衆院予算委員会の答弁で「この(日本の防衛の)中核たる自衛隊をしっかりと憲法に明記し、その正当性を確定することこそ、まさにこれは安全保障、防衛の根幹」だと。
 新型コロナウイルス感染拡大に乗じて「緊急事態条項」を設ける改憲論が自民党・維新にも―1月28日、衆院予算委員会で首相、「今後想定される巨大地震や津波等に迅速に対処する観点から憲法に
緊急事態をどう位置づけられるかは大いに議論すべきものだ」と。

 (自民党憲法改正推進本部―昨年9月、党人事で新体制、新たに「憲法改正推進遊説・組織委員会」設置、全国各地で講演会開催へ。)
 2月20日、推進本部会合で細田本部長、衆参憲法審査会での与野党論議の推進をはかると。
自民党大会に臨む2020年運動方針案に改憲案を明記し、「改正原案の国会発議に向けた環境を整えるべく力を尽くす」と。
 党大会は3月開催の予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大で延期。改憲スケジュールは思惑通り進すまない可能性も。
 3月17日、延期した党大会に代わる両院議員総会。党大会開催のめどは立たず、当面の新型コロナ対応に加え、政権幹部が気をもんでいるのが、夏の東京五輪・パラリンピックの行方。「このような時に改憲を持ち出すことは適当ではない」と(二階幹事長)。
 改憲なんて「それどころではない」というのは、そもそも、今回の新型コロナという病災に見舞われているこの間に限ったことではなく、づうっとそうなのだ。この以前も、これ以後も、国民にとっては、憲法をどうしても改正しなければならないという必要に迫られてきているわけではなく、「それどころではない」もっと大事な問題が多々あるのだ。
 ところが安倍首相はオリンピックと同様に、任期中になにがなんでもそれをやり遂げたい一心なのでは。
 首相の任期が切れるのは来年9月末だが、それまでに国民投票を行うには、遅くとも来年の通常国会で改憲発議までこぎつけなければならないわけ。
(2)改憲手続法(国民投票法)は既に(2010年)施行されている。
(3)憲法9条を護る米沢市民の会(9条の会)の現状―最近(19年度)は、総会は開かれず休止状態。それを少しでもカバーする会があって然るべきなのでは。(それらのことも本会開設の動機の一つ)

Ⅱ、憲法に関する当方の認識と問題意識
①現行の日本国憲法の存在意義(当方の憲法観)
 1931年満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争終結1945年に至るまでの十五年戦争のあげく、敗戦にともなう占領下に1946年この憲法が制定、47年から施行されて今年で73年目。この間、冷戦、朝鮮戦争が起きて米軍が占領下の日本の基地から出撃、マッカーサー総司令官の命令で警察予備隊が創設され、対日講和条約(占領解除)と同時に日米安保条約が結ばれ、引き続き米軍が基地に駐留。警察予備隊は「自衛隊」として拡充・強化されていき、安保条約改定を経て米軍との軍事的な同盟関係も強まっていく。
 憲法は前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意」、「日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成することを誓う」と唱って制定されたが、それは未だ達成されないばかりか、後退・逆行さえもあって、未完のままである。
②我々国民にとって必要な態度・努力
 12条には国民の「自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」とあるが、国民主権・基本的人権・平和主義(3大原則)もともに「国民の不断の努力によって保持し」、達成・実現を期さなければならないのである。
③ところが、安倍首相ら自民党政権は改憲に執着
 その憲法観―現行憲法は「押しつけ憲法」で「いじましい、みっともない憲法」
   9条(1・2項はそのまま)に自衛隊の存在をそこに追記して明記することによって「自衛隊は違憲かもしれない等の議論が生まれる余地をなくし、すべての自衛隊員が誇りをもって任務を全うできる環境を整える」ようにすると。    
   既に(9条をねじ曲げて)解釈改憲を重ね、自衛隊と日米安保を合憲化してきた、その上に明文改憲を策す。
④改憲が必要な理由として挙げられる事柄
 「連合国に押し付けられた憲法だから」―はたしてそうか?
 「時代に合わなくなったから」―はたしてそうか?
 「国民生活の現実に支障や不都合が生じてきたから」―はたしてそうか?
 「自衛隊や日米同盟による国の安全保障や国際貢献に支障や不都合が生じてきたから」―はたしてそうか?
⑤若者―主権の担い手(主権者)、人権の主体、憲法を引き継ぐ後継者として改憲問題を国政とともに主体的に考え(自らの問題として意識)、判断が求められる。

本会(憲法カフェ)の課題―若者の参加・主導―運営に工夫・配慮
  年配者の参加―現行憲法制定時代に学齢で(中学1年生用のテキスト「あたらしい憲法のはなし」を習ったなど)制定事実をよく憶えている年配者であれば「憲法語り部」として傾聴できるのだが・・・・・
 肝心なことは現行憲法の理想・目的の達成努力を実践的に学び、引き継ぐことだろう。

2020年04月01日

新型肺炎ウイルス禍―どこから、どうなって、今は(随時加筆)

2019年12月、中国湖北省武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が確認。以降武漢市内外へ広がる。
2020年1月7日、新種のウイルスと確認。
       9日、最初の死者。
      16日、神奈川県で感染者確認―中国人
      20日、広東省でヒト-ヒト感染が確認(当初は武漢市の生鮮市場で売られるコウモリや蛇などの野生動物が感染源とみられたが)。
      23日、武漢市が都市封鎖宣言―人の出入り制限(2か月間)。
      25日、日本で武漢在住の30代女性旅行者、感染確認。
          中国で「春節」入り(大型連休へ)。
      27日、中国政府、海外旅行を禁止
      31日WHO(世界保健機関)―国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)を宣言
    2月1日、横浜港から出港したクルーズ船「ダイアモン・ドプリンセス号」から1月25日に香港で下船した香港人男性の感染確認。    
       3日、「ダイアモンド・プリンセス号」が横浜港に帰港(1月20日出港→香港~ベトナム~台湾~沖縄から)。19日まで係留―その間、検疫(日本政府の指示により5日から14日間、隔離措置)
(神戸大医学研究科感染症内科教授で、乗船して現場を目の当たりにした岩田健太郎医師によれば、船内では場当り的な対策に終始し、陰性とされて下船した乗客がその後陽性となるケースが国内外で相次いでいる、その結果日本中に感染が広がったと―3月28日現在、日本国内で確認された感染者数2436人のうちクルーズ船の乗客・乗員712人、死者65人のうち10人が乗客・乗員。)
       8日、武漢で60代の日本人男性1名、新型肺炎で死亡。
      11日、国際ウイルス分類委員会は新型コロナウイルスをSARS-COVに対してSARS-COV-2と命名。
          WHOは新型ウイルスによる疾患をCOCID-19と命名。
         中国本土の死者、計1011人、感染者4万2000人超えると発表。
      13日、日本で初の新型肺炎死亡者(80代女性)、確認。
      24日、政府の専門家会議―新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた専門家の見解を示す―「これから1・2週間が感染が急速に進むか収束できるかの瀬戸際」と。
      25日、文科省「生徒が発症したら一部または全部の臨時休業などの対応を自治体が判断するように」との方針を示す。  
      27日、首相、(3月2日から春休みまで)全国一斉休校を要請。
         (各県各地域によって感染状況が増えつつある所と全く無い所と異なるし、専門家会議には一律休校の意向はなく、25日の文科省の方針も無視。唐突で独断的で場当たり的との批判あり。生徒たちにとっては卒業式や学期末・年度末の締めくくりの大事な時期が台無しになる。代替措置も、科学的根拠も欠く―神戸大医学研究科の岩田教授によれば、小児患者が発生していない中で、休校によって感染をゼロにするとか、一日何人まで減らすとか根拠に基づいた目標設定もなく、ただ「やる」というのでは、その成否は事後的に判然としない。)
      28日、WHO―新型コロナウイルス感染、世界規模で流行する危険性―「非常に高い」最高レベルと評価。
      29日、首相、「全国一斉休校」等の要請について記者会見。
    3月5日、中国全土からの入国制限
      6日、韓国からも入国制限。
      11日、WHO事務局長―この感染症は「パンデミック(世界的大流行)相当」と。
      13日、新型インフルエンザ等対策特別措置法の対象に新型コロナウイルスを加える改正案が可決―首相の判断で「緊急事態宣言」をだすことができ、広範な私権・人権制限が可能になる―外出の自粛、「学校・社会福祉施設、興行場」等に対し「使用などの制限もしくは停止」、土地所有者の同意なしの臨時医療機関開設のための土地使用など私権制限を行えるようになり、憲法に保障された移動の自由や集会の自由、表現の自由などの基本的人権を制約し、経済活動に大きな影響をもたらす―国民の不安を利用して、緊急事態における国会の関与抜きに行政判断での人権制限を認めさせ、首相の独断に法的根拠を与える危険。
      14日、安倍首相―上記の「新型コロナ対策特措法」の成立を受けて記者会見―「現時点で宣言する状態ではないと判断している」と。
      17日、世論調査(朝日新聞)
          新型コロナウイルスをめぐる、これまでの政府の対応―
                      評価41(一ヵ月前は34)、評価しない41(50)
          首相の全国一斉の臨時休校要請―評価60、評価しない30
          感染拡大で生活が苦しくなる不安を感じるか―感じる46、感じない52
          安倍内閣―支持41(39)、支持しない38(40)
      19日、専門家会議―「持ちこたえているが、一部の地域で感染拡大がみられる」として、この状態が続けば爆発的に患者が急増する「オーバーシュート」につながる恐れがあるとの懸念を示す。
    クラスター(患者集団)を早期にみつけ、感染の可能性がある人を探し出す作業が必要。
         大規模なイベントのリスク―対応が整わなければ中止や延期を。
         学校の一斉休校については「効果を測るのは困難」としながらも、感染が拡大している地域では「一定期間休校にすることも一つの選択」とし、
         感染が確認されていない地域では、学校での活動、屋外でのスポーツなどリスクの低い活動から実施と。
 学校再開の目安は①科学的所見を踏まえた合理的な目安に基づくこと、②実際どうするかは、感染をめぐる個々の状況に応じ、学校の意向を踏まえ、自治体が判断する、③「三つの条件(換気が悪い密閉空間、多くの人が集まる密集、近距離での会話や発声)が同時に重なる場」の回避などのこと。
 イタリアの死亡者数が中国のそれを上回り世界最多に。
      20日、169か国に感染者415,876人、死者18,574人  。
      24日、文科大臣「4月新学期からのがくが校再開に向けた方針」を示す。
        安倍首相、IOC会長との電話会談で延期を決定(来年夏に)。
      23日、グテーレス国連事務総長―全ての紛争当事者に即時停戦を求め、新型コロナ対策に集中するよう呼びかける。
      28日、アメリカの感染者10万人超、中国を抜いて世界最多に。
      29日、政府がアメリカ・中国・韓国の全土とイギリスなど欧州全域からの入国拒否、及びこれらの国々への日本からの渡航中止を勧告する方針。
      30日、スペインの感染者数も中国を上回る。
31日、山形県内初の新型コロナ感染者が米沢で確認(神奈川県から市内の自動車教習所に免許合宿に来ていた学生)。

                                  
                                                                                                                                

2020年04月09日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(その2)(随時加筆)

4月1日、専門家会議―感染者が都市部で急増を指摘し、オーバーシュート(爆発的な拡大)が起こる前に医療現場が機能不全に陥ると予想されるとして医療提供体制の抜本的対策を早急に講じるよう提言。感染の拡大に応じて3地域に分けて対応する考えを示した。      
     ①感染拡大警戒地域―大幅に増加―外出自粛、10人以上の集会への参加や多人数の会食を避ける。学校の一斉休校も選択肢。
     ②感染確認地域―定程度の増加幅に収まっている―屋内で50人以上の集会やイベントへの参加を控えること。
     ③感染未確認地域―感染拡大のリスクが低い―屋外のスポーツや文化・芸術施設の利用、参加者が特定された地域イ ベントは注意しながら実施。
 子どもについては(現時点の知見では)地域において感染拡大の役割はほとんど果たしていないと考えられている。学校の休校や再開は、地域や生活圏ごとのまん延の状況を踏まえて判断すること。学校再開の場合の工夫として時差通学や分散登校など。
 臨時休校とするのは①子どもや教職員に感染が判明した場合で、学校外での感染が明らかで構内感染の恐れが低ければ「実施する必要性は低い」、②感染拡大警戒地域に指定された場合で、都道府県の衛生部局と相談のうえ、学校運営の工夫(時差通学・出勤など)で対処する場合と、臨時休校に踏み切る場合とを想定。
2日、山形県では小中高とも新学期の授業再開の方針。同県内は「感染確認地域」とされる。県内がこの区分にとどまり、学校関係者がの感染が確認されていない場合は、こまめに換気するなど、学校内でクラスター発生を防ぐ対策を講じたうえで再開。部活動は平日のみの1日2時間以内に制限。居室では座席間を1メートル以上離したり、交互に着席するなど児童・生徒の間隔を広げる。それが難しい場合はマスクを着けて授業を受けさせるとのこと。
 3日、米沢市では先月31日感染者が一人(神奈川県から自動車免許合宿に来ていた学生)出てしまい、その影響とみられるが、同市教育委員会は市内小中学校の再開を15日以降に延期することとした。
 5日、山形県内の感染者10人に増える。
    山形県教委、県立高の始業式・延期を決める。チェックリストを設けて態勢が整った学校から再開するよう各校に通知(生徒が過去2週間に首都圏などの感染拡大地域にいたり、それらの地域から来た人と濃厚接触したりした場合、翌日から2週間は出席停止とするから等のチェック項目。)
 6日、山形県内の感染者13人に。
 7日、山形県内の感染者19人に(感染経路は大多数が東京からのルートか仙台からのルート)。       首相、緊急事態宣言(新型インフルエンザ等感染症対策特措法に基づく発令の要件「全国的かつ急速な蔓延により、国民生活および経済に甚大な影響を及ぼすか、その恐れがある」として)―
       対象区域―東京都・大阪府・神奈川県・埼玉県・千葉県・兵庫県・福岡県
       期間―1か月程度(5月6日までメド)
       知事が(その権限と判断で)それぞれの都府県内の住民・事業者に対して次のことを要請もしくは指示(従わない場合は、罰則はないが、事業者名などが公表)
         ①不要不急の外出自粛
         ②学校・保育園・公会堂・図書館・博物館・自動車教習所・学習塾・映画館・劇場・百貨店・居酒屋・バー・キャバレー・カラオケボックス・ライブハウス・パチンコ・ゲームセンターなどの休業や使用制限
         ③音楽・スポーツイベントなどの開催自粛。
         ④医薬品や医療機器・マスクなど販売・保管の要請・収用(物資を隠したり、立ち入りを拒んだりすれと、罰金や懲役も)。
         ⑤臨時医療施設のための土地・建物を所有者の同意なしに強制使用。
       問題点―自粛・休業要請は補償(損失補てん)とセットであるべきなのでは(野党が主張するも、首相は否定的)。政府の緊急経済対策―住民税が課せられない所得まで収入が減少するなどした世帯に限って30万円給付だけ。売上半減以上の中小企業には200万円、個人事業主には100万円給付だけ。いずれも限定的で、給付が受けられない人が続出。しかも一回限り。自粛・休業の要請は、そのために収入が途絶える事業者・個々人に対する補償なしには実効性があがるまい。
         IT大手や携帯電話大手などの企業がもつデータ(個人情報)を政府が提供を呼びかけ、企業がそれを応じる動きも出ていること等。
この宣言に乗じて憲法に緊急事態条項を定めるべく改憲を促す発言―この日、首相の宣言発表に先立って開かれた衆院運営委員会おける質疑で、維新の会・議員から「緊急事態の際、国が国民生活を規制する強制力を担保するために憲法改正による緊急事態条項の創設が不可欠だ」との問題提起があり、首相は「今般の対応を踏まえつつ、憲法審査会の場で活発な議論を期待したい」と応じた。 
 8日、全国知事会が国へ事業者が休業やイベントの自粛によって負った損失を補償するよう緊急提言することを決める。
    中国では新型コロナによる死者が6日にはゼロとなり、この日武漢(中国本土の感染者の6割、死者の8割近くを占める)で都市封鎖(駅・高速道路・空港の閉鎖)を2か月振りに解除(外出規制などは継続)。
    毎日新聞よる世論調査   
      緊急事態宣言に対して評価72、評価しない20
      タイミング 妥当22、遅すぎる70、早すぎる1
      指定対象  妥当34、もっと広げるべき58、もっと限定すべき2
      期間5月6日までに解除できる22、できない77
      発令されたことで、外出やイベント参加など、
                        これまでより自粛する86、変わらない13
      収入が大幅に減った人に一世帯当たり30万円給付 妥当22、不十分46、過剰だ8
      安倍内閣 支持44、支持しない42、答えない15
      政党支持―自民34、立憲民主9、国民民主1、公明3、共産4、維新5、社民1、
              れいわ3、N国1、その他1、支持政党なし36
 11日、山形県内の感染者(31日から 12日間で)33人に達する。感染経路は①米沢での1人は神奈川県から自動車教習に。②新庄の6人は東京から帰省した一人から、その実家の家族・親戚へ。その家族の1人から大蔵村の同僚へ。③上山の2人と米沢の4人、南陽の2人、高畠の5人、飯豊の1人(合計14人)は、いずれも東京から来た友人と山形市内で会食した2人(上山の1人と米沢の1人)の家族・同僚・友人などの関係者へ(1次感染から3次感染へ)。④鶴岡の5人は、その内の仙台市内の同じ飲食店(ハブ)に行ってきた二人から(家族・友人へ)。⑤酒田の3人は、首都圏に相次いで出張してきた一人から(家族へ)等々、首都圏か仙台の5ルートと、見られる。彼ら以外には上山の2人と山形の1人は今のところ感染経路が不明。
 12日、県内感染者はさらに5人増えて38人となった。中山町1人。山形市・上山市・米沢市・大蔵村各一人はそれぞれ既に確認されている感染者と関連。
 米沢の小中学校は5月まで休校が延長。
 13日、山形県教委は県内の高校とともに小中学校の臨時休校を来月10日まで延長を要請。
    世論調査(NHK)―
      新型コロナ感染に「大いに不安を感じる」49、「ある程度 不安感じる」40、
                             「あまり不安を感じない」2
      政府の対応 「大いに評価」8、「ある程度 評価」38、
               「あまり評価しない」36、「まったく評価しない」14
      緊急事態宣言のタイミング 「適切」17、「遅すぎ」75、
                        「宣言を出すべきでなかった」2
      事業規模108兆円の緊急経済対策 「大いに評価」8、「ある程度評価」41、
                    「あまり評価しない」30、「まったく」14
      世帯主の月収が一定の水準まで落ち込んだ世帯などに限って世帯あたり現金30万円を給付―「大いに評価」8、「ある程度評価」35、「あまり評価しない」34、「まったく」16
      イベントや活動を自粛した事業者の損失を国が補償することに―
                                「賛成」76、「反対」11
      布製マスク配布 「大いに評価」3、「ある程度評価」18、
              「あまり評価しない」29、「まったく」42
      人との接触7~8割減は可能か 「できると思う」41、「できないと思う」48
      安倍内閣を「支持する」39、「支持しない」38
      政党支持―自民33,3 立憲民主4,0 国民民主0,5 公明3,3 維新1,6 共産2,9
              社民0,6 れいわ0,5 N国0,2 その他0,7 支持なし45,3
                             わからない・無回答7,3
 14日、山形県内の感染者、前日から5人増えて43人に。4人は大蔵村でいずれも前に挙がっている感染者の家族か同僚か関連事業所職員。一人は山形市の飲食店従業員で前に挙がっている感染者と同僚。
 15日、山形県内の感染者、前日から6人増えて49人に。5人は米沢市で、いずれも同じ食品工場の前(6日と10・12日)に挙がっている感染者と同僚。(そこでの感染者は10人となり、同工場内がクラスター<集団感染>となったとみられる。)一人は山形市で同市の他の感染者との関連性はない。
 16日、山形県内の感染者、前日から5人増えて54人に。2人は大蔵村で4日感染者が出た特養老人ホームの入所者。1人は新庄で3・4日に感染者が出た家族の同居者。2人は米沢で前日(15日)に確認された感染者のうちの1人と同居家族。
   首相(政府の対策本部として)、先に発出した緊急事態宣言(7都府県に限定)を全国に拡大することに。(ゴールデンウイークが明ける5月6日まで、不要不急の帰省や旅行など各都道府県間にまたがる移動を自粛、人と人との接触機会を7~8割減らすなど。)また先の緊急経済対策では「収入が大幅に減った人に限って一世帯当たり30万円給付」としていたのを「1人当たり一律10万円」の現金給付へと方針転換を打ち出す。
 17日、山形県内の感染者、前日から4人増えて58人に。2人は大蔵村で、感染者が既に数人出ていてクラスターになったとみられる特養老人ホームの職員と他の職員の同居家族で、もう2人は鶴岡の方だが、大蔵村・老人ホーム職員の同居家族の親族とその同居家族の方。
 18日、山形県内の感染者、2人増え60人に。1人は大蔵村の特養老人ホーム職員の家族で。もう1人は高畠町の高校生で、米沢の食品工場の感染者の家族。 
    日本国内の感染者がこの10日間で倍増し、1万人をま超える。
 19日、米沢市(「道の駅米沢」のコンビニ従業員)に61人目の感染者。
 20日、山形県内で感染者3人―大蔵村に1人(特養老人ホームで感染した職員の同居家族)、米沢市に1人(前日の感染者の同居家族で、クラスターが発生した食品工場の従業員)、山形市に1人(感染経路は不明)―64人となる。
 22日、山形県内で感染者1人―山形市の人で前々日に同市で感染が判明した方の同居家族。
 24日、山形県内で感染者1人―南陽市の人で米沢の食品工場で先に感染が判明した従業員の同僚。
 28日、山形県内で感染者1人―山形市の人で県内過去(20日感染確認)事例の濃厚接触者の同居家族。
   朝日新聞の世論調査(3月上旬から4月中旬実施)
     安倍首相(来秋に任期満了)の次の首相は安倍政権の路線を引き継ぐほうがよいか―
               「引き継ぐほうがよい」34、「引き継がないほうがよい」57
     安倍首相の次の首相に最も必要なものは何か―「公正さ・誠実さ」40、
         「リーダーシップ」22、「政策・理念」20、「調整能力」11、「発信力」4
 29日、山形県内で感染者1人―米沢市の人で先に職員に感染者が出た医院の医師。
 30日、参院本会議で、新コロナ対策費を盛り込んだ今年度補正予案が可決、成立―①すべての人に一律10万円の給付金、②売り上げが半分以上減った中小企業に最大200万円、個人事業主に同100万円を「持続化給付金」として給付、③地方自治体への臨時交付金―都道府県の休業要請に応じた業者への協力金として充当、④休校中の学習支援金―小中学生に1人1台のパソコンなどを確保する構想を前倒し、⑤雇用維持のため従業員の休業手当に充てる雇用調整助成金の助成率を引き上げ、対象もパートタイム労働者らに拡大、⑥全世帯に布マスク2枚配布、etc


2020年04月23日

憲法改正と非常事態(修正版)

 今回の新型コロナウイルス感染対策に際しては特別措置法に基づいて首相が緊急事態宣言を発令し、非常措置として国民に対して休業・外出・移動の自粛など様々な指示・要請が行われている。国民世論はそれを歓迎し、中には「もっと徹底してやるべきだ」とせっつく向きもあり、それに乗じるかのようにして、憲法に緊急事態条項を設ける改憲を促す政治家が与党に限らず出てきている。
 「国家の最大の使命は国民を守ることであり、そのよりどころとなるのが憲法だ」という。日本国憲法には25条の1項に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として国民の生存権を定める一方、2項には国に対して社会福祉や社会保障とともに「公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と義務付けている。
 緊急事態に際する例外的措置として国や自治体による国民の権利・人権の制限を一時的に容認する特措法或いは感染症対策基本法のような法律も必要ではあろう。休業・休校の措置や外出・移動の自粛(規制)によって感染拡大が抑えられ、結果的により多くの人々が感染による命の危険から免れることができるようになるからである。しかしそれには、個々人からみれば、人によってはそのような規制措置によって致命的な(そのために感染症からは免れても、生きがいや生活の糧を失い、経済的・精神的に追い込まれ、或いは他の重い傷病者は感染回避が優先されて治療や処置が後回しされ、命さえも危うくなる)損失を被るという様々なリスクやマイナス効果をもともなう。そこで、その(感染症対策として採られた)措置を主導した首相や政府による状況判断、緊急事態宣言の発出、具体的措置のありように対して、それが主権者国民にとって適切であったのか、過誤がなかったのか検証・評価し、責任を問わなければならないわけである。それは国会で行われ、場合によっては違憲審査権をもつ裁判所で行われる。
 今回の首相の緊急事態宣言と知事による外出自粛・休業要請などの具体的措置は特別措置法に基づいておこなわれているが、それら法律と憲法とは厳然として区別しなければなるまい。(特措法に基づく「緊急事態宣言」と、憲法に新たに「緊急事態条項」を設けて対応することは、その性格が全く異なる、ということだ。)
 憲法とはそもそも、統治規定を定めたものではあるが、人権規定をも定めたものであり、国民個々人の人権を国家の支配権力から守り、権力の暴走を抑えるために制定されたものである。それは最高法規として、これに反する法律や政府の行為を(違憲立法審査権などによって)無効とすることができる、という筋合いのもの。(以前からある感染症法や災害対策基本法、それに今の特措法は、あくまで憲法の制約のもとにある法律なのだ。)
 日本国憲法は12条に「この憲法が国民に保証する自由及び権利は国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」とし、13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めている。ここで「公共の福祉」というのは、自分と同じく生命・自由および幸福追求の権利を持つ他の人の人権のことであって、国や地方公共団体などの権益(国益・公益)のことではない。自由・権利を濫用してはならないというのは、他人の自由・権利を害してはならない(要するに他人の迷惑にならない)ということであって、首相や知事など公権力の意向に反してはならないということではない。自分の自由・権利の濫用にならないように「自粛」するのは、あくまで他人の迷惑にならないようにするためなのであって、国や公共団体などの公益のためではない。(だから、首相や知事には国益や公益を理由に個々人に命令する立場にはなく、国民に対して向ける言葉は「要請」であって「命令」ではないわけだ。)
 「公共の福祉」を理由に自由・人権・私権を制限する法律は色々ある。表現の自由(その濫用)に対しては刑法(名誉棄損罪)や公職選挙法(不当な選挙運動の禁止)、居住・移転の自由に対しては感染症法・医療法(感染症による入院・隔離措置)、営業の自由に対して独占禁止法や医師法(無資格者の営業禁止)、財産権に対しては土地収用法(道路・空港用地を、保証金を払ったうえで収用)など。
 それに今回適用されている新型インフルエンザ等感染症対策特措法―首相が「全国的かつ急速な蔓延により、国民生活および経済に甚大な影響を及ぼすか、その恐れがある」と判断すれば「緊急事態宣言」をだすことができ、広範な私権・人権制限が可能になる―外出の自粛、「学校・社会福祉施設、興行場」等に対し「使用などの制限もしくは停止」、土地所有者の同意なしの臨時医療機関開設のための土地使用など私権制限を行えるようになる―首相の「宣言」に応じて都道府県知事が、それぞれの判断で、それぞれの都道府県内の住民・事業者に対して次のことを要請もしくは指示(従わない場合は、罰則はないが、事業者名などが公表)
         ①不要不急の外出自粛
         ②学校・保育園・公会堂・図書館・博物館・自動車教習所・学習塾・映画館・劇場・百貨店・居酒屋・バー・キャバレー・カラオケボックス・ライブハウス・パチンコ・ゲームセンターなどの休業や使用制限
         ③音楽・スポーツイベントなどの開催自粛。
         ④医薬品や医療機器・マスクなど販売・保管の要請・収用(物資を隠したり、立ち入りを拒んだりすれと、罰金や懲役も)。
         ⑤臨時医療施設のための土地・建物を所有者の同意なしに強制使用,
等々を行う権限を首相及び都道府県知事に認める法律である。
 これらはいずれも、国や公共団体が国益や公益を害されないようにするためではなく、あくまでも、ある人(個人或いは法人)の権利の濫用によって他の人の権利が侵害されることのないようにするために主権者国民の代表者(議員)によって制定された法律に基づいて措置が講じられるというものである。
 これらの法律およびそれによって実行された首相や知事たちの措置は憲法に照らして妥当なものだったのか、違背してはいなかったか、検証されなければならず、場合によっては違憲審査されなければならないわけである。
 このような諸法律の立法とそれに基づく措置(権限の行使)に際しては、首相をはじめ国務大臣・国会議員、知事ら地方自治体首長その他の公務員は、あくまで最高法規である憲法の定める「生命・自由および幸福追求にたいする国民の権利」については、立法その他国政および地方自治の上で最大の尊重を必要とするわけである。
 法律というものは個人や法人の自由な権利と活動を規制して縛りを加えるものであるが、それに対して憲法は個人の人権を統治者(民主主義国家では国民の多数派から選ばれた統治者)の権力濫用(多数派の横暴)から守るために権力を縛るものなのであって、法律とは性格が根本的に異なり、このような憲法のほうが最高法規として法律を縛るものでもある(国会で賛成多数で可決成立した法律でも、裁判所から違憲と判断されれば無効となる)。いわば法律が個人や法人の権利を縛るのに対して、憲法は権力を縛るものなのである。(それが立憲主義。)
 このような最高法規たる憲法に「緊急事態条項」を書き加え、それに政府の非常時権限を定めたりするとどうなるか。(今回の特措法では、いかに緊急事態とはいえ、行政府の長として、憲法が「国民の権利については国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めている以上、「緊急事態宣言」の発動も、下手をすると不適切で違憲・無効だとして糾弾されるかもしれず、極力慎重とならざるをえず、腰が引けることにもなるわけであるが、それが憲法に「緊急事態条項」として定められれば、それに基づく首相や政府の権限行使はもはや「違憲」でもなんでもなくなるわけだ。)
 自民党の改憲案では、「特に必要があると認められるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、「緊急事態の宣言」を発することができる。その「宣言」は事前または事後に国会の承認を得なければならない。「宣言」が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は(閣議決定だけで)法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。政令の制定および処分については、事後に国会の承認を得なければならない等となっている。(それは政府に権限を集中させ、憲法の下での権力分立と人権保障を一時的に停止する措置をとることができるという「国家緊急権」を認めるもの。戦前の大日本帝国憲法では、天皇による「緊急勅令」などが認められていた。治安維持法の最高刑を死刑に引き上げ、適用対象を広げる改正案が、帝国議会で審議未了で廃案になったにもかかわらず、内閣が緊急勅令によって成立させた、といった苦い経験がある。)
 そのような緊急事態条項が憲法に書き込まれることによって、その条項の運用が憲法上の要請とり、政府によってこの条項が積極的に活用できることになり、濫用を許してしまう結果となる。何か「緊急事態」がある度に「宣言」が発令され、それが常態化し、「要請」といっても実質的に「命令」ということで、国民もそれが当たり前のこととしてそれに応じなければならないようになってしまう。つまりそれだけ政府には非常時権限として国民がその命令に否応なしに従わざるを得ないような強い権限が憲法から認められたことになり、多数派政府の都合によって何かある度に「緊急事態」がもちだされ、国民の方はその度ごとに人権が制限・毀損されても「仕方ない」となってそれに甘んじる結果となってしまうだろう。(首都大学東京の木村草太教授は上記()内のような自民党案の問題点を次のように指摘している。「緊急事態」の定義が法律に委ねられているために、「宣言」の発動要件が極めて曖昧になってしまっている。そのうえ国会承認は事後でも良いとされていて、手続き的な歯止めはかなり緩い。これでは内閣が、「宣言」が必要だと考えさえすれば、かなり恣意的に「宣言」を出せることになってしまう、と。)

 憲法に「緊急事態条項」が書き加えることによって、その条項が首相の強権発動と国民の統制(人権制限)に活用されるようになる、それと同様に、9条に「自衛隊」が書き加えられることによって、政府によるその軍事活用が(海外での武力行使に至るまで)これまでのように憲法違反に問われることもなく国民によって容認されるようになる、というのが首相ら改憲論者の意図なのだ。
 「国家の最大の使命は国民を守ること」だからといって、政府はそのためには手段を選ばず何をしてもいいというわけではない。それは当然のことだろう。あくまでも憲法の理念に基づき、その許す範囲内で行わなければならない。また憲法に緊急事態条項(権力分立と人権保障など立憲的な法秩序を一時停止して政府が緊急措置をとる権限を認める条項)が定められれば、戦争や病災も含めた大災害から国は守れても、国民(生存権など)は必ずしも守られるかどうかは保証の限りではあるまい。
  

2020年04月30日

新型コロナ―休校か検査か、必要不可欠なのはどっち?(加筆版)

 学校は「三密」になる施設とはいえ、いつどんな人が集まるか分からないような不特定の人々の集まる施設や場と違い、感染者など検査しようと思えば検査して特定できる所なのであり、感染者がいれば登校停止させ、学級閉鎖、休校もあり得るが、感染者がいなければ休校する必要などないわけである。

 神戸大医学研究科の岩田教授によれば、小児患者が発生していない中で、休校によって感染をゼロにするとか、一日何人まで減らすとか根拠に基づいた目標設定もなく、ただ「やる」というのでは、その成否は事後的に判然としないわけである。
 政府の専門家会議も3月19日の時点では、学校の一斉休校については感染が拡大している地域では「一定期間休校にすることも一つの選択」としながらも、「効果を測るのは困難」としていた。    
 4月1日の専門家会議では、「子ども」については(現時点の知見では)地域において感染拡大の役割はほとんど果たしていないと考えられているとし(*)、臨時休校とするのは、子どもや教職員に感染が判明した場合で、学校外での感染が明らかで校内感染の恐れが低ければ「実施する必要性は低い」としていた。
 *ウエブ「新型コロナウイルス、子供からうつる?-SWI swissinfo.ch」に「子どもは感染拡大役割を果たしてはいない」ということに関連して次のような記事が載っている。
  「両親など大人から感染した子どもはいるが、子どもたちが媒介者になる確率は大人より低く、子どもの感染率も低い。また子供は無症状が多く、入院した子どもは大人より少なく、死亡者もまれだ。したがって休校は感染防止にはそれほどの効果はない。」「但し結論ははっきりしない」とも。
 感染者のうち20歳未満の割合―スイス3%、米国2%、中国2.2%、イタリア1.2%、スペイン0.8%―但し、子供は無症状が多いため報告件数が実態を反映していないことがあり得て、大半の国ではデータが足りておらず、不確実な部分があるということのようだ。
 
 日本では、子供に限らず、全体としてPCR検査数が少なく感染実態が不明確なのだが、
5月6日の読売新聞オンライン・ニュース(「10歳未満の感染、4月以降急増・・・・」)によれば、小学生以下10歳未満の感染者が5月4日の時点で242人(うち東京63人、大阪22人、愛知15人)になっている。これは休校が続いている間、保護者らから家庭内で罹るケースが多いからだという。富山市立小学校では4月~25日(休校中だが、6日始業式・8~10日が登校日で机の間隔を広げ、マスク着用を徹底していたという)その間、同じクラスの児童や兄弟が計5人、教諭1人が感染。市当局は「(学校内でのクラスターの発生は否定)校外での感染が広がった可能性が高い」との見解。日本小児学会理事・長崎大の森内浩幸教授は「子供の重症化リスクは高くない。親が過敏になってストレスを与えないように気を付けてほしい」と。

  いずれにしろ、生徒を検査して感染確認もなしに実態がないのに、やみくもに休校にするのは問題。
 「感染の恐れがあるから」「もしかして万一感染があるかもしれないから」といった不確かな「最悪の事態」を想定して休校。「最悪の事態を想定して対策を講じるのが危機管理の要諦」というわけ?しかし、学校に感染が及び集団感染するかもしれないといった、この場合の「最悪の事態」を想定するには、単なる不確かな可能性や憶測からではなく、現実にその学校では確かにあり得るという蓋然性(確率)や事実関係に基づいて想定しなければならないわけである。それを確かめるにはPCR等の検査が必要であり、そのうえで「確かに、その学校に感染者がいる(と特定)。その生徒(或いは職員)を隔離し、集団感染が広がらないように学級閉鎖、さらに学校中に感染が広がる最悪の事態を想定して休校もやむを得まい、というようにPCR検査等による科学的客観的根拠を踏まえての「最悪の事態」想定でなければならないわけである。 
 それを、ただ単に「最悪の事態を想定して対策を講じるのが危機管理の要諦」だからといって、やみくもに休校して、結果的に学校で感染(拡散)がなくて済み、感染拡大が防止されたなら、それでいいではないか、などという結果オーライで済むのだろうか。そもそも学校で感染事実がないのに安易に休校なんかして責任者(首相から文科相・学校設置者・教育委員会)は休校させて結果何事もなくて済めば責任を問われずに済むからいいと思うのかもしれないが、おかげで、子どもを家庭に丸投げされて、てんやわんやさせられ、難儀を被っている保護者と本人はたまったものではないその実害―授業(教科学習)の遅れ、家に引きこもってゲーム依存、学校で様々な体験をする(そこから様々な学びを得、心身を鍛える)機会を失う損失、運動不足・心のケアなど心身の健康・衛生の管理、給食など栄養の管理、安全管理も損なわれ、家庭に閉じ込められて親子・兄弟・姉妹の間でストレスを抱え込まされて、DVや虐待などトラブルも生じている、等々、実に多義にわたる(学校教育から得られるべき数々のものを失う)損失。その損失をいったいどうしてくれるのか。その責任を問わなければならないのだ。
 そういうと、たとえ休校のために、学校教育から得られるべきものを全て失っても、感染死を免れた命には代えられまい、「すべては命あってのものだろう」などと理屈が立てられる。
 しかし、学校教育を受ける権利だって健康で文化的な最低限度の生活を営む生存権つまり命に関わる国民の権利なのであり、「休校か、感染死か」どっちが大事かなどという二者択一の問題ではないのだ。「カルネアデスの舟板」(難破船から海へ投げ出され、目の前の板に自分1人だけならそれにつかまって助かるが、2人がつかまれば沈んでしまうので、やむなく相手の手を引き離して見殺しにする、その場合は「緊急避難」としてその行為は正当化される)という故事のような「生きるか死ぬかしかない」といった極端な二者択一を迫られての緊急避難でもないのである。休校しなければ感染死を免れないというわけではあるまい。生徒・教職員をPCR検査して感染者が誰もいなければ休校にする必要はないわけである
 要は検査を徹底することだろう。
 検査にはPCR検査・抗体検査・抗原検査などあり、PCR検査にはドライブスルー方式(車に乗ったまま検査を受けられる)とかウオークスルー方式(テントを張った中で受けられる)など簡便な方法がある(韓国で大規模に実施して感染拡大を抑え込み、当初は感染者数・死亡者数ともに日本を上回っていたが、逆転して日本よりも少なくなっている)。
 日本では、PCR検査が車内でできるワンボックスカー(移動型検査システム)が、最近になって(5月4日)千葉県の鎌ヶ谷市で国内初の導入が行われることになった。
 今回我が国―政府の方針―では、これまでPCR検査は(検査をやり過ぎると医療崩壊が心配だとして)クラスター(集団感染)を追跡するのに必要なだけに絞り、感染の可能性の高い人と重症化しやすい人だけに絞って行うやり方(新型コロナ感染の相談窓口を各保健所の「帰国者・接触者外来相談センター」に一本化。そこで、発熱7度5分が4日以上続いてるなどを目安に判断して検査受け付け、「帰国者・接触者外来」になっている病院で検査)をとってきた。このやり方では、地域の(かかりつけの)医師が、検査が必要と判断しても保健所に断られたりし、また見つかっていない軽症者や症状のない感染経路不明の感染者が急増し、院内感染もあちこちで続出、かえって医療崩壊の危機を招いている、というのが実態。そこで検査体制の見直しに迫られている。かかりつけ医が、検査が必要と判断したら保健所を通さずに新設のPCR検査センターに紹介して検査を受けられるようにすべきだと。
 現在、全国で検査能力は1日1万5000件i以上で、首相は2万件を目標に体制整備を進めているといっているが、今のところわずかに8000件。(ドイツでは1日14万件の検査能力があり、韓国では1日2万3000件の検査を実施しているのに。)
 (そもそも日本ではPCR検査数が極端に少ない―OECD加盟国36か国中35位。
 人口1000人当たりOECD加盟国平均23.1人なのに対して日本は1.8人。
 アイスランド135人、イタリア29.7、ドイツ25.1、スペイン22.3、アメリカ16.4、韓国11.7、イギリス9.9、フランス9.1)
 このような脆弱な検査体制を早急に改善・拡充しなければならず、検査技師の増員と検査キット(器材)の確保など拡充・強化が必要。それこそが最も緊急を要するところなのだ。(ワクチン・治療薬の開発を急ぐことも、勿論のことだが。)
 学校では、校医による健康診断、予防接種もある。休校でそれさえも行えないなどというのは、いったいどいうことだ!今は廃止されているが結核予防のツベルクリン反応検査・BCGワクチン接種や天然痘ワクチン接種(種痘)など学校で全生徒に行われていたものだ。PCR検査あるいは抗原検査も学校でやれないのか。ドライブスルーやウオークスルーそれにワンボックスカーでもやれるなら、検査スタッフと検査キットの大量確保も必要となるが、不可能なことではあるまい
 PCR検査センターを全国自治体に新設し、それぞれの地域の医師会に運営を委託するとすれば、その設置・運営委託費は一か所当たり月5000万円、全国数百か所で(400か所として)200億円程度布マスク全世帯配布に充てられる金額は466億円(それにミサイル―イージス・アショアは東西2基で5千億円超)だが、それだけの予算があればPCR検査センターを全国各地につくって大量検査することはできるはず
 「接触機会削減」などよりもPCR検査の拡充のほうに力を注ぐべだ―小田垣孝・九州大学(社会物理学)名誉教授によれば、「PCR検査―現在の検査数では、接触8割減で感染収束に23日を要する。10割削減でも収束には18日かかる。
   検査を2倍に増やせば、接触5割でも、収束まで14日早まる。
       4倍に増やせば、接触削減などしなくても8日で収束する」と計算。
   PCR検査を受けておらず、感染しているのにその自覚がないまま、無症状や軽症のため通常の生活を続け、周囲に感染させて市中感染が広がる。だから接触削減が必要になる。
 PCR検査を受けて陽性と判定されれば隔離される。その検査が増えるほど感染は抑えられる道理なわけである。
 だから、接触機会の削減よりも、PCR検査と隔離の拡充のほうが感染防止対策として有効なのだ、というわけ。

 とにかく、やみくもに一斉休校などして学校教育を犠牲にするよりは、PCR検査・抗原検査など、そういったことの方に全力をあげるべきなのでは、と思うのだが如何なものだろうか。
 授業は学校なんかでやらなくても、家でオンライン授業がやれればそれで済むかのように、簡単に思っている向きがあるが、教育の基本は個別学習ではなく、集まって触れ合って気持ちを通じ合わせながら一緒に学ぶところにあるのであって、それこそが学校教育なんだから。

     


2020年05月05日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき)(随時加筆)

<世論調査>
共同通信4月30日(配信)
 憲法改正の必要性―必要61、必要ない36
   安倍政権下での改憲―賛成40、反対58 
   内閣の権限強化を可能とする緊急事態条項の新設―賛成51、反対47
     9条改正の必要性―必要49、必要ない47
   自衛隊違憲論は国政運営の支障になっているか―なっている43、なっていない54
NHK 5月2日ニュース(4月3日から3日間実施)
 憲法改正の必要性―必要32、必要ない24、どちらともいえない41
     9条改正の必要性―必要あると思う26、思わない37、どちらともいえない32
毎日新聞5月2日(調査は4月18・19日実施)
     憲法に緊急事態条項を設けることに賛成45、反対14、わからない34
     安倍首相在任中の改憲に賛成36、反対46
     自衛隊の存在を明記する改憲案に賛成34、反対24、わからない33
朝日新聞3日、(調査は3月上旬~4月中旬実施)憲法改正について 
 9条を変えるほうがよい27 、変えないほうがよい65
 いまの自衛隊は憲法に違反していると思うか―違反している22、いない69
 9条に自衛隊の存在を明記する安倍首相の提案に―賛成41、反対50
 いまの憲法を変える必要あるか―ある43、ない46
 安倍政権の下で改憲を実現することに―賛成32、反対58
 大災害時に内閣が法律に代わる緊急政令を出し、国民の権利を一時的に制限するなどの緊急事    態条項の創設―改憲せずに対応すればよい57、改憲して対応するべきだ31、
                                       そもそも必要ない8
経済的理由にかかわらず誰もが教育を受けられるように国が教育充実に向けた環境整備に努      めること―改憲して対応するべきだ36、改憲せずに対応すればよい57、
                                     そもそも必要ない3
参院選では、人口の少ない県からも、必ず1人は議員が選出されるようにすること―
           改憲して対応するべきだ32、改憲せずに対応すればよい50、そもそも必要ない13
 安倍内閣支持42、 不支持48
 政党支持率―自民37、立憲9、国民1、公明4、共産3、維新3、社民1、N国1、れいわ1、
          支持する政党なし38
5月3日、安倍首相 改憲団体の憲法フォーラムにビデオメッセージ―「緊急事態で、国家や国民が果たす役割を憲法にどういちづけるかは大切な課題だ」として憲法に緊急事態条項を盛り込む必要性を訴える。
    山形県内で感染者1名増(計69名に)―大蔵村の人で同村の特養老人ホーム職員感染者の同居家族。
4日、政府、「緊急事態宣言」(6日が期限)を5月31日まで延長を正式決定。
  首相は記者会見で「感染者の増加はピークアウトし、収束への道を進んでいる」も「現時点でまだ感染者の減少は十分なレベルとは言えない」と。
  <その具体的な内容> 東京や大阪など重点的に対策をとる全国13の「特定警戒都道府県」はそのまま、これまで同様の人と人との「接触機会の8割削減」を目途に外出自粛・休業要請を続ける。それ以外の34県では行動制限を一定程度緩める方針(都道府県をまたいだ移動や、接待を伴う飲食店など3密(密閉・密集・密接)のある場所を除いて、人との距離の確保など一定の感染対策を条件に外出を容認する比較的少人数―50人以内―のイベント開催も認める等)。
 政府の専門家会議は感染の広がりを長期的に防ぐための「新しい生活様式」の具体例を示す―①(基本的な感染対策)人との間隔はできるだけ2m(最低1m)/症状がなくてもマスク着用/家に帰ったらまず手や顔を洗う。
 ②(日常生活で)毎朝体温測定・健康チェック/3密の回避。
 ③(買い物)電子決済の利用/サンプルなど展示品への接触は控えめに。
 ④(娯楽・スポーツなど)ジョギングは少人数で/歌や応援は十分な距離をとるか、オンラインで。
 ⑤(公共交通機関)会話は控えめに、混んでいる時間帯は避けて。
 ⑥(食事)大皿は避けて、料理は個々に。対面ではなく横並びで座る。
 ⑦(冠婚葬祭など)多人数での会食は避けて/発熱や風邪の症状がある場合は参加しない。
 ⑧(働き方)テレワークやローテーション勤務/会議や名刺交換はオンラインで。

7日、毎日新聞 世論調査(6日実施)
   緊急事態宣言の延長―妥当66、限定すべきだった25、延長すべきでなかった3
   ゴールデンウイークの間どの程度外出したか―全く外出しなかった15、
            仕事や買い物など必要最小限82、観光やレジャーでも外出した1
   宣言が発令されて人と接触する機会は減ったか―8割以上56、半分以上26、
                    半分に届かない9、ほとんど減ってない9
   新型コロナに対する日本の医療・検査体制に不安感じるか―感じる68、感じない14
                           どちらともいえない17
   コロナ問題に対する安倍政権の対応―評価する22、評価しない48、
                           どちらともいえない17
   9月入学制度―賛成45、反対30、わからない24
   安倍内閣―支持40、支持しない45、答えない15
   政党支持―自民30、立憲9、国民2、公明5、共産5、維新11、社民1、れいわ2、
           N国1、その他1、支持政党なし33 
 7日、米沢市立小中学校の再開は6月1日以降と発表(今月18日以降は週1・2回登校日を設ける。)
 8日、山形県が11日以降スナックやバー・カラオケ・ライブハウスなど一部の業種を除き、休業要請の解除を発表。
      県外との往来は引き続き自粛を呼びかける。
      県立学校は18日から6月5日まで、徐々に授業を増やしていく。(それに準じて小中学校も)
    厚労省がPCR検査の受診相談の目安を変更―37.5度以上の発熱4日以上などを削除し、①息苦しさや強いだるさ、高熱などの強い症状のいずれがある場合、②高齢者や妊婦、基礎疾患などがある人で、発熱や咳などの比較的軽い風邪の症状がある場合、③比較的軽い風邪の症状が4日以上続く場合や、「強い症状「」と思う場合―すぐに相談との新指針を発表。
 13日、厚労省、コロナ抗原検査キットを承認―PCR検査と組み合わせて使う方向。 
 14日、政府、特別措置法に基づく緊急事態宣言を39県で解除―3要件①感染の状況―直近1週間の新規感染者数の累計が人口10万人当たり0.5人以下、②医療提供体制、③PCR検査などの監視体制(―これらの点で解除しても大丈夫というわけ)。
(但し、「三密」を避けること、マスク着用、手洗い等は引き続き励行。イベント開催は当面、屋内は100人以下で収容定員の半分以下、屋外は200人以下で人同士の距離はできるだけ2m、密閉空間での歌唱、近接した距離での会話などが想定されるイベントは慎重に。都道府県をまたぐ移動はは少なくとも5月中は控えること。在宅勤務なども継続。)。
    東京・大阪など8都道府県は継続。
    山形県は解除―休業要請は全業種で(キャバレー、スナック、カラオケ店・ライブハウスなども全て)解除、県外との往来の自粛は、5月中は継続。県立学校は、18~22日は生徒1人当たり3時間以内の授業を週5回、25日から本格再開。
 18日、NHK世論調査(15~17日実施)
   コロナで生活に不安―大いに感じている29、ある程度感じている53、
                 あまり感じていない12、まったく感じていない3
   政府の対応―大いに評価5、ある程度評価39、あまり評価しない37、まったく16
   39県の緊急事態宣言解除―適切36、早すぎ48、遅すぎ7
   個々人に10円給付への方針変更―適切61、適切でない26
   PCR検査の目安見直し―検査受けやすくなる50、受けやすくならない37
   9月入学―賛成41、反対37
   「新しい生活様式」―「すでに取り組んでいる」70、「これから取り組むつもり」13、
                「取り組むつもりはない」10
   検察庁法改正―賛成17、反対62
   内閣支持37(理由―「他の内閣より良さそうだから」55、「支持する政党だから」14)、
     支持しない45(理由―「人柄が信頼できないから」36、「政策に期待もてない」26)
   政党支持―自民31.7、立憲4.7、公明3.8、共産3.4、維新2.4、国民1.0、社民0.7、
           れいわ0.6、N国0.3、その他0.8、支持なし43.8
  朝日新聞・世論調査(16.17日実施)
   安倍首相はコロナ対応で指導力を発揮しているか―発揮している30、いない57
   39県の緊急事態宣言解除―評価51、評価しない32
   検察庁法改正案―賛成15、反対64、
       安倍首相はこの改正案について「検察の人事に政治的な意図をもって介入することはあり得ない」と述べているが、首相のこの言葉を信用できるか―信用できる16、できない68
  政府・与党が検察庁法改正案(検事総長や次長検事など幹部ポストを退く「役職定年」の年齢になっても政府の判断で検察幹部を留任させられるようにする―の時々の政府に都合の良い検察幹部を定年後もポストに留められる―という特例を設ける案)の今国会での成立を断念(但し、次期国会で同法改正案の成立をめざす姿勢は崩していない)。
 19日、WHO(世界保健機関)、年次総会で新型コロナウイルスの感染収束のための国連を中心とした国際協力の強化を呼びかけた決議を「全会一致」で採択(仏独中などの首脳も参加したが、トランプ大統領は不参加。共同提案国は日本を含む60ヵ国を超え、決議にはウイルス発生源の調査やWHOなどの危機対応への「公平で独立した包括的な検証」も盛り込まれる)。
 ところが米中両国がいがみ合っている―トランプ大統領は、WHOは「中国より」だとして、WHOへの資金拠出を停止し、脱退の可能性も示唆。国連安保理では「コロナ停戦」(世界で起きている全ての紛争の一時停戦)決議案が未だに採択できずにいる。
 21日、関西3府県で緊急事態宣言を解除(直近1週間の新規感染者数の累計が10万にあたり0.5人程度以下に下がったこと等から)。
 25日、首都圏の3都県と北海道で緊急事態宣言を解除―これで日本全域で解除となる―これ以後も3週間ごとに感染状況を評価しながら、外出・移動や営業・催しなど社会経済活動の自粛を段階的に緩和。2波・3波に備え、「新しい生活様式」への取り組みも。
     朝日新聞・世論調査(23~24日実施)
       内閣支持率29%(第2次安倍政権発足以来最低)、不支持52%
                 (毎日新聞では内閣支持率27%)、
       新型コロナウイルスへの政府の対応―評価する30%、評価しない57%
          これに関して安倍首相への信頼感は―
                       高くなった5、低くなった48、変わらない45
       PCRなお検査体制の整備について―評価する25、評価しない59
       感染拡大で、経済的な打撃を受けた人や企業に対する政府の支援策―
                               評価する32、評価しない57
       感染拡大で生活が苦しくなる不安―感じる59、感じない39
       外出の自粛やイベントの中止などが続いていることにストレス―
                             感じる51、それほどでもない47
       外出をどの程度自粛しようと思うか―
            大いに自粛16、ある程度自粛75、あまり自粛しない7、全くしない1
       賭けマージャンで辞職した黒川検事長の定年を延長させていた首相の責任―
                           大きい68%、それほどでもない24%
 28日、(朝日新聞の記事)日本小児科学会の報告―学校の休校や保育施設の休園について「感染防止効果は乏しく、子どもの心身に及ぼすデメリットが大きい」、今後再び休校などが検討される場合には「子どもや保護者に及ぼした影響も考慮し、慎重に判断すべきだ」と。
 子どもが感染した場合、多くは経過観察や対症療法で十分な軽症だった。
 インフルエンザと異なり、学校や保育施設で子どもが感染源となった集団感染はほとんどなく、子どもの感染例は親から感染したケースが大半。子どもはウイルスに感染しにくく、感染してもウイルスの排出は少ないことが考えられると。
 一方で、休校で教育機会が奪われたり、屋外での活動や社会的な交流が減少したりといった影響が大きく、抑うつ傾向の子どもが増え、家庭内暴力や虐待リスクの増加も懸念され「子どもたちにとっては、ウイルスが直接もたらす影響より、休校措置による健康被害が大きくなりかねない」と指摘。
 29日、トランプ米大統領、「WHO脱退」と表明。

2020年05月23日

パンデミック対策も日本国憲法に

 平和・安全保障も、地球環境・気候危機対策も、感染症対策も、それらの基本的なあり方(問題解決の最善の方法)を日本国憲法が示している。
 前文には次のように謳われている。「我らと我らの子孫のために諸国民との協和による成果」のもとに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」し、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において」最善の貢献を果たすこと。
 「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」が、「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうする各国の責務である」ということ。
 そもそも「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、過去幾多の試練に耐え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ということ。
これらを確認することによってパンデミックなど人類的課題に対処しなければならない、ということだ。
 平和・安全保障については第9条に戦争放棄と戦力不保持・交戦権の否認を定め、感染症対策については25条に①「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」②「国は、すべての生活部面について社会福祉・社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」(それが国の義務)と定めている。これが日本国憲法なのだ。
 ところが、世界では米中両国政府などが危機・パンデミックに対して、その原因を相手のせいにし、偏狭と独善のもとに諸国民の対決・分断を煽っている。それに対して日本国憲法は国際社会の連帯と協力を基本路線とし、そこで日本がイニシャチブを発揮すべきことを定めているのである。
 これらは単なる理想などではなく、今やコロナが世界と日本に突き付けている現実なのだ。


 

2020年05月27日

米中のいがみ合い

●アメリカ(トランプ政権)側―中国の情報開示に不満、新型ウイルスが武漢の研究所から流出した疑いを繰り返し強調。「コロナ感染源は中国・武漢のウイルス研究所にあり、そこから広がった。それを中国でとめるべきだったのに、そうならなかった」と。中国との関係の「全面断絶」をも示唆。中国に賠償を求める動きも。
 又、WHOは「中国寄り」で「中国の操り人形」だとして、WHOへの資金拠出を停止し、脱退の可能性も示唆。
 (インド出身の国際ジャーナリストファリード・ザガリア氏は「トランプ政権が自らへの批判を避けようと、都合のいい情報の提供を情報機関に求めている。誤った情報を元に戦争に突入した)イラク戦争を思い起させる」と。)
 (WHOの緊急対応責任者のマイク・ライアン氏―武漢の研究所から広がったとの主張に対しては「答えを見つけるのは科学だ」として、調査が政治性を帯びることを嫌う。)
 背景―11月大統領選挙をひかたトランプ大統領の再選戦略が低失業率や高株価など好調な経済運営だったのが、コロナ(対応を誤り、世界最悪の感染状況)で吹き飛び、失業率は世界恐慌以来の最悪という経済の急悪化―「中国たたき」による失策の責任転嫁と見られる。米国民の間でも反中感情が広がっており、対立候補を擁する民主党も共和党とはりあって、中国に対して「甘いか、厳しいか」を競うような形勢になっている。
●中国は―米国で「一部の政治家が事実を無視し、うそをつき、陰謀を企てている。」「いま警戒すべきは、米国の一部政治勢力が中米を『新冷戦』に向かわせている動きだ。」「両国の有識者はこれを止めるべく立ち上がるべきだ。」と(王毅外相)。
 「マスク外交」「健康シルクロード」で世界的感染拡大に苦しむ国々に医師団や資材を送る―その他国支援も「宣伝作戦だ」と反発を招いている。

●米中「新冷戦」―軍事・貿易・技術にとどまらず、保健衛生までも。「Gゼロ」から「混迷の世界」へ向かうのが危ぶまれる。

●ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、米中とも「対応の遅れと不透明さで検査や感染拡大封じ込めのための時間を浪費し、国際協力を逸した」と。
●カリフォルニア大学ロサンゼルス校の地理学教授シャレド・ダイアモンド氏は次のように述べている。
「中国はコロナ蔓延に対して当初は危機的状況にあることを認めなかったためにパンデミックを防げなかったが。米国でもトランプ大統領はパンデミックを否定し、それが裏目に出た。」「中国は自らの責任を受け入れ、厳しい対策に踏み切るまで一ヵ月を要した。トランプ大統領は米国がなすべきことをする責任をいまだに認めず、中国批判に多くの時間を費やしている。」大事なのは「他国の成功例を見習うこと、他国からの援助を受け入れること、そして最も大事なポイントは、このパンデミックを将来の危機に対処するためのモデルにすることだ。」「韓国の対策は世界的に高く評価されているが、日本では見習ったり、支援を求めたりする動きは鈍いままだ。」「私たちは『米国人』『日本人』といった国レベルのアイデンティティーはあっても、『この世界の一員』というアイデンティティーはない。」「このパンデミックを通じて世界レベルのアイデンティティーを作り上げることができれば、この悲劇から望ましい結果を引き出せる。気候変動や資源の枯渇、格差、核兵器の問題に向けて協力することも可能になるだろう。」
 「米国が中国への非難を強める一方、米国で使われているマスクの大半は中国から輸入されている。科学の世界では米中欧の研究者たちが共同論文を続々と発表している。対立と同時に協力の兆しもあるのだ。」「私たちの大統領は最悪。団結こそが必要な時に、彼は世界中に不統一、不和をばらまいているのだ。彼が再選されれば、米国における民主主義は終わるかもしれない、と危惧している」と。(5月8日付、朝日新聞)

●アメリカの元国際開発局新興感染症室長デニス・キャロル氏―05年の鳥インフルエンザ、09年の新型インフルエンザ、14年のエボラ出血熱の際は、国際社会はもっと一致団結して取り組んでいた。アメリカでは「NSC(国家安全保障会議)のパンデミック担当チームができていたが18年に解体してしまった。中国での感染の初期情報もあったのに、政権内でうまく共有されず、本格的な対応をとるのが大幅に遅れた。」「米国と中国は、保健や科学分野で強い協力関係があり、感染症対策でも効果的な情報共有や緊密な連携を可能にしていた。しかし、トランプ政権はこの協力関係を損ねている。パンデミックの最中に、WHOへの拠出金見直しを表明したが、現在供出金を止めるのは人々の助けにはならない。」「ブッシュ・オバマ両政権とも、国際的な健康上の危機に際し、国際社会が団結して取り組むことを主導するという、重要な役割を果たした。今後、新型コロナウイルスは医療水準が脆弱で貧困層が多い国々にも広がり、さらに厳しい事態も予想されるが、トランプ政権はこうした国々を支援する必要性について完全に沈黙している。米国に代わって真の指導力を発揮している国もなく、非常に残念に思う」と。(5月28日付、朝日新聞)

●中国・武漢のウイルス研究所の現場研究者・石正麗研究員(フランスの大学で博士号を取り、米国の微生物学アカデイーの会員)―新型コロナウイルスの起源について、海外で「武漢の研究所から流出した」との説が流布され始めた2月、自らのSNSで新型ウイルスは自然由来(コウモリなど野生動物から人間へと感染)だと主張し、研究所からの流出を否定していた―5月25日、中国国営メディアのインタビューに応じてコメント―「伝染病の研究は透明性を持ち、国際的に協力していかなくてはいけないものだ」。新型ウイルスの起源をめぐり米中が対立する現状について「政治と科学が混ざり、科学が政治化されている。全世界の科学者が望んでいない状況だ」と。
 尚、武漢の同研究所はSARSの再発防止を大きな任務とし、15年にはフランスの協力で実験施設が造られ、米国も協力し、米国立衛生研究所などが資金提供、大学と連携して1500種類のウイルス研究を行っていた。18年5月に視察した山口大学の早坂教授は「実験施設は基準を満たしており、管理水準も高い印象を受けた」と振り返り、ウイルスが施設外に出る可能性としては「実験者が感染した場合などだけだろうと」と語り、設備の問題や管理の不備による流出には否定的。(上同、朝日)

    <以上、朝日新聞より>

若年層は安倍内閣に好意的―サイト「ニュースはネットで読む人」に現れた特徴

朝日新聞の3上旬~4月中旬に行った郵送による全国世論調査から
 先ずは「政治や社会の出来事について情報を得るメディア」―
   テレビから87%、新聞から55%、インターネットのニュースサイトから55%、
    ラジオから16%、SNSから14%、雑誌から8%
 このうち、インターネットのニュースサイトやSNSからだけの人(ネット限定層―若年層が大半)は全体の7%、新聞やテレビからだけの人(新聞・テレビ限定層)は全体の31%。
  安倍内閣を支持する人―全体で42%―うちネット限定層51%、新聞・テレビ層42%  
       支持しない人―全体で48%―うちネット限定層42%、新聞・テレビ層50%
  安倍首相の総裁任期(3期までだが)4期も続けることに対して―
             賛成26%―うちネット限定層41%、新聞・テレビ層24%
             反対66%―うちネット限定層49%、新聞・テレビ層70%
  次の首相は安倍政権の路線を引き継ぐほうがよいか―
              よい―34%―うちネット限定層51%、新聞・テレビ層33%
            よくない―57%―うちネット限定層43%、新聞・テレビ層59%    
  憲法を変える必要―あり43%―うちネット限定層57%、新聞・テレビ層37%
           ない46%―うちネット限定層33%、新聞・テレビ層53%
  9条に自衛隊明記―賛成41%―うちネット限定層58%、新聞・テレビ層37%
           反対50%―うちネット限定層36%、新聞・テレビ層53%
  安倍政権のもとでの改憲―賛成32%―うちネット限定層57%、新聞・テレビ層26%
              反対58%―うちネット限定層37%、新聞・テレビ層67%
*ネット限定層(若年層)は総じて安倍政権に対して好意的と見られる。
*政府関係者は「首相は新聞を読まない層を重視している。SNSで自分でつかみ取った情報は『真実だ』と信じる傾向がある」と解説。
*麻生・副総理はかねてより「10~30代は一番新聞を読まない世代だ。新聞を読まない人は全部自民党なんだ」との持論。

2020年06月01日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき4)

 6月1日、北九州市で感染者が5月23日以降10日連続で累計1133人確認(「第2波」と見られている)。その中に小中学生4校で11人。うち一校では同じクラスに5人―クラスターが発生したとみられる。その学校に近い3小学校では計1600人うち約280人が欠席。生徒の中には「検査しないと、自分が感染しているかどうか分からない」と訴える者も。
 学校はいずれも25日から開校されて、生徒はいずれも無症状で登校、それ以後に検査の結果判明。
 同市では、クラスター発生は5か所あり、うち産業医科大学病院では医療スタッフに感染者が9人。

 3日、(NHKニュースと朝日の記事)中国の武漢市(新型コロナの最初の発生地で、中国の感染死者の大半は同市の死者。1月23日からロックダウンで4月8日解除)で、5月14日から6月1日まで19日間にわたって、ほぼ全市民990万人がPCR検査を受け、その内感染(陽性)が判明したのは300人(0.003%)で、いずれも無症状者(300人の濃厚接触者の中に陽性者はおらず、当局は「感染の広がりは認められない」としている)。検査は1日当たり50万人。
 当局は看護師や地域の診療所の医師らに訓練を受けさせて検査体制を拡充。「社区」と呼ばれる網の目のように張り巡らされた町内組織も動員して団地の庭や街角の広場、商業施設の駐車場など様々な場所に検査場が設けられた。検査場には早朝から夜まで列ができ、1日の検査件数は最大で147件にも上った。速度を上げるため、10人の検体を一度に検査機にかけ、陽性が出れば10人全員を再検査するという方法をとった地域もある。
 経費は約9億人民元(日本円で130億円)で市が負担とのこと。
 4日、現在、日本政府が入国拒否している国・地域は111ヵ国・地域。
 9日、コロナ感染者、新興・途上国が先進国を上回る。
 10日、山形県がPCR検査能力を、現在の1日80件から、今月中に200件に引き上げることに。これまでは山形市にある県衛生研究所だけで行われてきたのを、置賜・庄内・最上の保健所にも検査機器を設置して1日20件の検査、さらに新型コロナ感染症外来が置かれている県内17か所の医療機関のうち、6ヵ所にも機器を導入。残りの11ヵ所では、民間検査機関を活用して検査できるよう態勢を整え、17機関で1日計100件の検査ができるように。
 12日、第2次補正予算が成立―総額32兆円―うち10兆円(空前の金額)が予備費―異常(予備費とは、そもそも「予見し難い予算の不足」にあてるために限った例外的措置で、使途が国会審議を経ずに政府に委任)。 
 持続化給付金(コロナ感染症拡大の影響で売り上げが半減した中小企業に最大200億円、個人事業主に最大100億円を給付)―第1次補正予算で2兆3176億円計上、第2次補正で給付金事務の民間委託の委託費として850億円を追加計上。
 5月1日から申請受付け開始、2週間程度で届くはずが、約180万件申請のうち(6月8日時点で)60万件には未だ届かず。(15日、野党合同ヒアリングで、経産省中小企業庁が、持続化給付金の申請が203万件にのぼり、うち52万件が未給付であることを明らかに。)
 それにその委託のやり方に問題―経産省・中小企業庁から一般社団法人「サービス・デザイン協議会」(電通と人材派遣大手のパソナ、IT大手のトランスコスモスの3社が2016年に設立)へ769億円で委託。さらにそこから電通へ749億円で再委託。その電通は子会社(5社)へ計645億円で外注し、それら子会社もまたそれぞれ別会社(パソナやトランスコスモス等)に外注、という不自然な受注の仕組み。
 15日、山形大学医学部が、6月1~4日に受診した患者1009人から採血してウイルスの抗体検査を実施した、その結果を公表―5人に(体内にウイルス感染にともなう免疫反応によってできる)抗体(感染歴があるとみられる陽性反応)が検出(陽性率0.5%)。山形県の人口当たりにすれば670~1万人で、県内の推定感染者数とみられるが、それは「多く見積もっても県内人口の1%以下にとどまり、第1波による感染は広がっておらず、県内では免疫を獲得していない人が多い」と推測される、とのこと。
 16日、厚労省が東京都・大阪府・宮城県の計7950人の成人を無作為に選んで抗体検査を実施した結果を発表―陽性率は東京0.1%、大阪0.17%、宮城0.03%―ニューヨーク州12%、スペイン5%など欧米に比べ、日本は流行の規模が小さかったとされるが、感染者がそれだけ少なく、「ほとんどの人が感染していない」ということでもあり、、日本では秋にも心配される第2波で感染者が増える可能性があるとも。
 19日、都道府県をまたぐ移動、全国で制限解除。
   イベント制限も緩和―コンサートなど最大1000人まで―屋内では収容人数の50%まで。プロスポーツなどは無観客で―プロ野球開幕。
   接待を伴う飲食店やライブハウスなども、感染予防のガイドラインを守ることなどを条件に営業認められる。
  WHOが、18日の感染者増加数は約15万人で、1日当たりで過去最高となり、「世界は新たに危険な段階に突入(パンデミックが加速)している」と。とりわけアメリカ大陸でそれが顕著(新規感染者のうち半数を占める)だが、南アジア・中東でも急速な感染拡大が見られる。治療法やワクチンに関しては「開発は不可能ではないが、非常に困難な道のりになる」とも。
 22日、WHOのテドロス事務局長―「新型コロナウイルスと闘ううえで、国際的な指導力や団結の欠如が感染拡大以上に脅威になる」と警告。新型コロナ問題の政治化で事態が悪化したと指摘。


2020年06月06日

休校の効果とデメリット

 朝日新聞の記事、5月28日には、「日本小児科学会の報告」として次のように報じていた。
 「学校や保育施設の休園に『感染防止効果は乏しく、子どもの心身に及ぼすデメリットが大きい』。今後再び休校などが検討される場合には『子どもや保護者に及ぼした影響も考慮し、慎重に判断すべきだ』と。
 子どもが感染した場合、多くは経過観察や対症療法で十分な軽症だった。
 インフルエンザと異なり、学校や保育施設で子どもが感染源となった集団感染はほとんどなく、子どもの感染例は親から感染したケースが大半。子どもはウイルスに感染しにくく、感染してもウイルスの排出は少ないことがかんがえられると。
 一方で、休校で教育機会が奪われたり、屋外での活動や社会的な交流が減少したりといった影響が大きく、抑うつ傾向の子どもが増え、家庭内暴力や虐待リスクの増加も懸念され『子どもたちにとっては、ウイルスが直接もたらす影響より、休校措置による健康被害が大きくなりかねない』と指摘。
 6月2日、同じく朝日新聞に―「子どもの重症化 なぜ少ない」として次のような記事。
 「世界で報告次々」―中国・米国・イタリアの調査では、感染が確認された人のうち、18歳未満が占める割合は2%に満たない。
 中国の調査では、感染や感染が疑われた子どものうち9割以上が無症状か軽症か中程度の症状で、重症化したのは約6%。
 1月下旬フランスのスキーリゾートで起きた集団感染に9歳の男子。症状は軽かった。感染がわかる前に複数の学校やスキー教室に通っていたため、すぐに170名以上の接触者が確認され、73人が検査を受けたが感染者はいなかった。
 英紙ガーディアンによると、4月半ばから小学校などを限定再開している欧州でも、学校を介した感染拡大の兆候は見られないと。
 米バンダ―ビルト大のティナ・ハータート教授によると、感染した子どもの多くは、ウイルスが鼻にとどまっている可能性があると。最近、この説を裏付けるような論文が米医師会雑誌の掲載。「子どもは感染に抵抗力を持つのか、ただ単に症状がでないだけなのか、大人と同じくらいウイルスを広めるのか、このウイルスの感染には分からないことが多い」ともいう。
 日本国内でも、感染者に占める子どもの割合は少ない。厚労省のまとめによると、5月27日時点で、10歳未満は278人(1.7%)、10~19歳は390人(2.4%)にとどまる。重症者や死亡者の報告もないと。ただ北九州市で、最近クラスターとみられる事例が小学校で起きている。
 新潟大の斎藤昭彦教授(小児科学)は、「そもそも患者が少なく、評価が極めて難しい」おいながらも、学力の低下、屋外活動や社会的な交流が減ったことで抑うつ傾向に陥ったり、家庭内暴力や児童虐待のリスクが高まったりするなど、心身への悪影響が大きいのではと指摘。第2波に備え、「流行していない地域での一斉休校の是非や、対策が本当に効果があったのかなど、検証が必要だ」と。

 日本小児科学会の理事で長崎大学の森内浩幸教授によれば―「日本でも、全感染者に占める子どもの割合は非常に少なく、又ほとんどはが同居する家族からの感染。
 ウイルスの量が大人に比べて少ない、ウイルスが体内に入り込むためくっつく物質(ACF2)の数が少ない、症状が軽いために、咳やくしゃみが少なく感染を広げにくい等の理由で子どもは重症化しにくく、周りに感染させにくい。国内では重症者は10歳未満が1例、10~19歳も1例のみ。北九州市の小学校で初めてクラスターが発生したが、現時点では学校や保育所でのクラスターは、国内外であるとしても、きわめてまれ。香川県の保育園では、職員11人が感染したが、子どもの感染は145人中2人。
新型コロナはインフルエンザのように子どもで広がって、大人に拡散するようなタイプの感染症ではない。
 海外の研究では、学校の閉鎖はほかの対策に比べて流行阻止効果は少なく、死亡者数を2~3%下げるだけ、という結果が報告。
 学校や保育園・幼稚園で感染を防ぐために大事なのは、症状(咳やくしゃみの飛沫で感染させてしまう可能性)のある子どもに休んでもらうこと。
 感染症の流行中は、病気の子どもを祖父母や基礎疾患のある人に預けるのはやめる。
 休校のデメリット―子どもの教育の機会を奪い、屋外活動や社会的交流が少なくなることで抑うつ傾向に陥らせ、家庭内暴力や虐待のリスクも高める」とのこと。

2020年07月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき5)

7月31日、全国の新規感染者1567人でさらに過去最多更新。東京都463人、愛知県193人、
      福岡170人、沖縄県65人その他でも1日当たりの最多を更新。
  沖縄では県独自に緊急事態宣言(本島全域と離島での不要不急の外出自粛、県をまたぐ不要不急の往来自粛を要請)。
      政府の布マスク配布(全戸向けは260億円かけて6月に完了。介護施設・障害者施設などには、これまで計約6000万枚を配付しているが)介護施設などに追加配布することにしていた8000万枚の一律配布は中止(希望する施設にだけ配ることに)。
  30日、全国の新規感染者数1301人で過去最多更新。東京都367人、福岡県121人、沖縄県49人で、いずれも過去最多更新。
  29日、全国の新規感染者数1259人で過去最多。大阪府221人、愛知県167人、福岡県101人、
      沖縄県44人、京都府41人、その他計8府県でそれぞれ過去最多。
      これまでゼロだった岩手県にも2人。
  28日、大阪府、新規感染者数155人、愛知県110人、いずれも過去最多。
  25日、国内感染累計3万人を超える。
      沖縄米軍基地関係の新規感染者64人、累計229人に。それ以外の沖縄県内の新規感染者は14人、累計186人。
  24日、大阪の新規感染者数数149人で過去最多更新。
  23日、新たな感染者、全国総計981人、東京都366人、愛知97人、埼玉県64人で、いずれも過去最多更新。
  22日、新たなコロナ感染者、全国総計795人―過去最多。大阪121人、埼玉62人も過去最多、愛知64人、東京は累計1万人を超え、大都市圏で感染拡大―「第2波」と見られる。 
    この日から政府の観光支援策「Go To トラベル」(旅行料金・宿泊料金割引)開始。
  20日、新型コロナ感染の死者、全国総計1000人を超える。
  21日、ニューヨークではPCR検査、1日当たり7万件が可能。居住者であれば誰でも予約
なしに、無料で、何回でも検査を受けられる。美容師など特定の職種の人たちには検査を義務付け。アメリカは感染者数・死者数ともに世界最悪、ニューヨークは全米最多で死者は、それまでは1日600人にものぼっていたが、7月17日にはゼロ、19日も感染者数は10人前後で死者はゼロとなった。
  17日、東京で新たな感染者293人、過去最多(更新)。
     豪雨災害―3日熊本県を中心に九州から始まって東海地方にかけて見舞われた豪雨で2週間の間に死者77人、行方不明7人。
  16日、全国で新たなコロナ感染者620人(4月10日644人、同月11日には最多の720人)。
     東京では286人で過去最多。大阪66人、埼玉49人、神奈川47人、千葉32人で、いずれも宣言解除後最多。      
    山形県では75人目、米沢市の山大工学部の学生で東京に行ってきて感染したと見られる。
  15日、コロナ感染者、全国で新たに450人―緊急事態宣言解除後で最多。大阪(61人)、神奈川(41人)も最多。
     山形県でコロナ感染者が新たに1人―天童市の人で、13日感染が判明した寒河江市の飲食店従業員の友人。
  14日、沖縄基地で感染者100人。
  13日、山形県でコロナ感染者が新たに2人―いずれも首都圏(在住)から帰ってきて1人(男子学生)は白鷹町で運転免許合宿、もう一人は寒河江市の飲食店で短期就業していた。
  12日、東京都で新型コロナ感染者が、この日206人で4日連続200人を超える。この間、平日はPCR検査数が3000件台に増やされてきてはいる。又この間、東京の隣県(埼玉・神奈川・千葉)、大阪府などでも急増。
  10日、東京で感染者、新たに243人―過去最多。全国では430人で緊急事態宣言解除後最多。
     イベント制限緩和―参加者の上限は施設定員の50%範囲内で、1000人を5000人に増。
           プロ野球とサッカーJリーグ―無観客だったのから観客入れた試合に。
   9日、東京で感染者、新たに224人。
  7日、山形市で新型コロナに感染して入院してきた患者が死亡(県内初)。
    ブラジルのボルソナロ大統領(新型コロナを「ちょっとした風邪」と軽視していた)が検査で陽性反応(本人は「私は全く大丈夫」症状はほとんどないと強調し、公邸で執務)。
  6日、トランプ大統領、WHO(世界保健機関)を(「中国よりだ」と批判してきたが)に正式に脱退を国連に通知。
  5日、長井市にコロナ感染者、20代男性で市内の農協職員で前日の南陽市の感染者の同僚。
  4日、南陽市にコロナ感染者、山形県では2か月ぶりに70人目。20代男性、農協職員。感染は東京由来。
  3日、コロナ新規感染者、全国239人、1日当たりで200人超えたのは5月3日以来で、緊急事態宣言解除後では最多。東京は124人で2日連続100人超。
    大阪府―再び感染拡大でも、府立学校に対して一斉休校は求めない方針(「児童・生徒への感染は極めて少なかった」し、「効果測定は不可能」だと)―児童・生徒や教職員に感染者が出た場合は、その学校だけを3日間程度休校にするなどして対応すると。
  2日、東京で新たな感染者107人。100人を超えるたのは5月2日(154人)以来2カ月ぶり。      
                             (4月17日には206人だった)。
  1日、コロナ関連解雇3万人超える。総務省による5月の労働力調査で「失業予備軍」とされる休業者は423万人に上り、高止まりが続いている。
6月29日、コロナ感染者、世界全体で1000万人以上に達し(うち60%近くが新興・途上国)、死者は50万人を超える(先進国が約31万人、新興・途上国が約19万人)。最近は、新規感染者が1日で17万人前後、うち75%が新興・途上国の人たち。

日本のコロナ対策は成功したと言えるのか?
 安倍首相は5月25日の緊急事態宣言の全国解除にあたって記者会見で「我が国では・・・・罰則を伴う強制的な外出規制などを実施することはできません。それでも日本ならではのやり方で、・・・・今回の流行をほぼ収束させることができました。正に日本モデルの力を示したと思います」、「我が国では、人口当たりの感染者数や死亡者数をG7・主要先進国の中でも圧倒的に少なく抑え込むことができています。これまでの私たちの取り組みは確実に成果をあげており、世界の期待と注目を集めています」と。
 米紙ワシントン・ポストは「安倍政権のずさんな政策にもかかわらず、日本特有のスタイルで成功した」と報じ、そのスタイルは「政令や法的罰則ではなく、要請と社会的圧力に基づく、日本的な独自のウイルス封じ込め手法」だとし、それについて北海道大学公共政策大学院の鈴木一人教授の次のような見方を伝えている―「誰もが感染源となって非難されたくないと思っている。これは日本社会の中にある社会的圧力(同調圧力―引用者)です。ガイドラインに従わず、ウイルスを拡散したら、社会から制裁を受けるというもの」。

 慶応大医学部客員教授で、WHO重症インフルエンザガイドライン委員の菅谷憲夫教授の見解(サイト「『緊急寄稿』日本の新型コロナ対策は成功したと言えるのか―日本の死亡者数はアジアで2番目に多い」より)―(データは米ジョンズ・ホプキンス大システム科学工学センターのデータに基づいている)
 感染者数も死亡者数も(以下いずれも人口10万人当たりの数)、アジア諸国は欧米諸国に比べて圧倒的に少ない。
 感染者数は欧米諸国の10分の1~100分の1―その原因①人種の差、②年齢構成の違い(アジアでは若年層が多い)、③BCG接種の影響、④欧米諸国では、高い感染力を持ち病毒性の強い、アジアとは別の「SARS-COV-2流行株」が出現した等。
 日本は(10万に当たり12.5人)、アジア諸国の中では5番目で、シンガポールや韓国などよりも少ないが(インド・中国などより多い)。
 (日本の感染者数が少ないのはRT-PCR検査数が異常に少ないことが影響し、信頼できる数値とは言えない(国際的に批判されている)―イギリスでは1日20万件(自宅などへ約80万件分の検査キットを郵送)にものぼるが、日本は1日2万件が目標。)

 死亡者数は、アジア諸国(欧米諸国―一番少ないドイツでさえも10万人当たり9.5人―の100分の1)の中では、日本は(0.56人)フィリピンに次いで2番目に多く、韓国(0.51)・中国(0.32)・インド(0.20)などよりも多い。
 (100年前の「スペイン風邪」といわれるĄ型インフルエンザウイルスの世界的大流行の時は、死者は世界全体で2千万~4千万人で、そのうちアジア全体では1900万~3300万人―中国だけで400万~950万人、インドだけで250万~2000万人、日本だけで40万人前後―だったが、欧州全体では230万人で、アジアのほうが圧倒的に多かった。それに対して今回のコロナ・パンデミックは真逆。)
 菅谷教授は、今回のコロナは、日本の死亡者は欧米諸国に比べて少ないというだけで、「日本のコロナ対策が成功した」という報道は誤りだと指摘している。
 尚、同教授は、インフルエンザは日本では例年、患者数1000万人、うち死亡者5000人(致死率0.05)で、今冬(2020~21年)はAホンコン型とB型による混合流行の可能性が高く、しかも今回の新型コロナの第2波と同時流行の可能性もあるとも論及。

2020年07月06日

なぜ日本は欧米より感染が緩やかで死者が少ないのか

 人口100万人当たりの新型コロナ感染死者数は世界平均が59.8人(6月21日現在、出典は札幌医大フロンティア研ゲノム医科学)。欧米の先進国が上位に並び、中南米も100人を超す。一方、アジアは軒並み10人以下で、日本は7.5人(フィリピン10.5人、インド9.6人で日本よりは多いが、韓国は5.5人、中国は3.2人で日本よりも少ない)。

●ノーベル賞理科学者の山中伸弥京大教授―感染拡大や死者の数が他の国に比べて抑えられている未知の要因(「ファクターX」)が存在するとして、幾つか挙げられるのは
① クラスター対応の効果
② マスク着用、毎日の入浴など高い衛生意識
③ ハグや握手、大声での会話が少ない生活文化
④ 日本人の遺伝子要因
⑤ ウイルスの遺伝子変異の影響
⑥ BCG接種など何らかの公衆衛生政策
⑦ 2020年1月までの何らかのウイルス感染の影響

●浜松医療センター院長補佐の矢野邦夫氏―手洗いやうがい、マスク着用(予防効果はないが、感染させるのを防ぐ)の習慣、キスやハグをしないこと等を指摘。
東京歯科大学市川総合病院呼吸器内科・寺嶋毅教授―日本人はその遺伝子と食生活から肥満になりにくい(肥満になると、肥大化した脂肪細胞から通常よりも多くの免疫細胞が分泌され、慢性的に血管に炎症を起こす。ウイルスに感染すると、重症化の原因とされる「免疫細胞の暴走」が起こり、血栓などができやすくなる。肥満な人は新型コロナによる重症化リスクが高い)。
●アメリカ全国保健統計センター―コロナ感染者の人種別の死亡率を公表し、米国内のコロナ流行地域で、アジア系住民の死亡率が低いことを指摘(アメリカ在住ゆえ生活様式は日本とは異なるはずなのに)。
●京都大・慶応大・大阪大など8つの研究機関の研究グループ(代表―慶大医学部・金井隆典教授)―人種間に多様性―HLA(ヒト白血球抗原で、いわば「白血球の血液型」)が新型コロナウイルスにおいて、人種によって重症化リスクに違いがあるとすれば、免疫の働きの差であり、HLAの差でないか(日本人は新型コロナウイルスの抵抗力を持つ遺伝子を獲得しているのでは)という仮説―研究結果第一報は9月。
<参考>週刊新潮6月4日号
●室内で靴を脱ぐ文化が感染を抑えたという見方もある。
花粉症が広がり、コロナ感染拡大前からマスクを着用する習慣が根付いている。但しマスクは、スギ花粉なら(20~30μm)、布マスクでも通さないから防げるが、ウイルスは(0.1~0.2μm)裕に通してしまうから医療従事者がつける「N95」とか「DS2」など「防塵マスク」でないと予防には効かない。一方、感染している人ならば咳やくしゃみ、或いは声を発してウイルスを含んだ飛沫をマスクによって飛散をくい止める効果はある。
● ロックダウンなど強権的な対策を採らなくても、補償なしの自粛要請だけで休業し外出を控える「従順な国民性」がプラスに働いたという指摘もある。
●しかし、新型コロナの場合は、いずれにしろ、これら日本人の生活習慣や文化・国民性だけでは欧米などと日本との(最大100倍の差)は「もっと根本的な違いがなければ説明できない。ポイントはヒトが持つ遺伝子では」と話す慶応大の金井教授。遺伝子によって免疫反応に違いが生じているとの仮説を立て、7大学が共同研究中。特に注目しているのが、免疫反応をつかさどるHLA。欧米でも同種の解析が進んでおり、照合すれば、東アジアで死者が少ない原因の解明につながる可能性がある。
●結核の予防ワクチンBCGをしている国はしていない国より死者数が少ない傾向がある。大阪大学の宮坂昌之教授によれば、BCGは「訓練免疫」という仕組みで人体に備備わっている自然免疫を活性化させ、重症化抑制に寄与している可能性があると。但し藤田医科大学の宮川剛教授は「強い相関関係があることを示すだけで、因果関係を示すデータはない」と。
●交差免疫説―過去に似たウイルスに感染して出来た免疫が、新型コロナも排除する仕組み。東大の児玉龍彦名誉教授は「風邪を引き起こす一般的なコロナウイルスと新型コロナは、塩基配列のほぼ半分が同じ。コロナウイルスは絶えず進化し、日本にも流入している。そのため新型コロナの抵抗力を持っている人が一定数いて、重症化率の抑制につながっているのではないか」と。
●大阪大の宮坂教授は「一つが決定的に重要というより、交差免疫、BCG、遺伝子などの因子が相互補完的に働き、重症化率を大きく押し下げている」と。
<参考>6月27日の朝日新聞“be report”

2020年07月08日

コロナ禍―小宮山・元東大総長の問題提起と見解

●一斉休校・国民の行動自粛は有効だったのか―「均一に接触確率を減らそうという基本策自体を修正すべきであり、医療施設・介護施設、家庭での高齢者などの防護に資源を集中し、一般の社会活動は再開すべきだ」。「私たち善良な市民は無駄な自粛をさせられているのではないか」、「社会の本質は人の交流」、「交流すれば感染リスクになるのは確かだが『コロナのためなら死んでもいい』(コロナから助かりさえすれば一切交流を絶ってもかまわない)というわけにはいくまい―検証が必要(コロナ終息後に限らず)。(「全員が協力してやるべき時に非難めいたことを言うべきではない」とか、「みんな頑張ったんだし、もう済んだことなのだから、今更いいじゃないか」というわけにはいくまい。)
●全国「一斉休校」要請は場当たり的―①感染抑制効果は二次的(子ども自身はあまり罹らない)。学校を閉鎖するなら、先ずは居酒屋・バー・ナイトクラブ・ライブハウス・カラオケ等のほうが先。②危機意識を喚起するためなら、他に手段はいくらでもあるはず。③一斉休校の副作用は大きすぎる。それをやっても経済的マイナス効果は小さいからやりやすいのだろうが、社会的副作用(次代を担う子どもの教育にとって長期的マイナス効果)は甚大。
 (台湾では、休校は1週間と決めて閉鎖し、この間消毒薬の配布、教員の教育など準備。開校後は感染者が出るとそのクラスだけ学級閉鎖、2クラス以上閉鎖になると休校とする方針をとり、結果的にほとんど休校させずに済んでいる。)
●我が国の現状ではコロナ感染率は0.1%で致死率は0.36%(との推察ができる)。新型コロナ感染症は(治療薬はないが)医療体制が十分なところではインフルエンザと同程度なのだ。
●PCR検査―日本では他国に比べ10~100分の1、OECD加盟諸国平均の9分の1しか測定(検査)してない―なぜ日本だけが検査を増やすことができなかったのか(医療資源―機器も人も技能も世界の劣等国であるはずがないのに)―背景に「強すぎる行政とそれに慣れてしまった国民」
●日本の課題―ガバナンスの問題―それが「強すぎる行政と、それに慣れてしまった国民」にあるとすれば、コロナを奇禍として自律分散協調系(現場の創発力発揮に期待、各地方自治体が政府に先んじて、或いは政府と異なる方針を打ち出すなど)へ」向かうのが望ましい。

<以上、サイト―「コロナ禍からの脱出」のための知の構造―小宮山宏・元東大総長・三菱総合研究所理事長―より>

2020年07月09日

先ずはPCRを全員検査して陽性者だけを隔離

 ドイツでは、現在ではPCR検査を週110万件行えるまでになっているとのこと(9日NHKニュース「おはよう日本」)。同国(で感染者が最多となった)バイエルン州(東京都の人口と同程度)では全住民に(無症状でも)無料でPCR検査を受けられるようにしている、とのこと。
 東大先端科学技術センターの児玉龍彦名誉教授によれば、日本だって(検査能力から云えば)、全員検査など、その気になれば数日で準備できるはず。なのに政府(関係専門家たち)は、どうしてそれができないのか?(白鵬大学の岡田晴恵教授も「わからない」)と(7月10日テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」)。
 「PCR検査1日20万件」―「国が200億円程度の予算で全国に全自動検査機200台を配れば(各病院にいる臨床検査技師は1日で使い方をマスターできるから)可能だ」と(7月3日テレビ朝日の同上番組でコメンテータの玉川氏)。

「PCR検査 主要国並み1日20万件に強化を」―知事・有識者の6月提言―
 6月18日、県知事(湯崎広島県知事ら14県知事)や経済の専門家(東京財団政策研究所の研究主幹で政府の諮問委員会委員の小林慶一郎氏ら)・医療の専門家(ノーベル医学・生物学賞を受賞した京大の山中教授ら)110人が賛同した「積極的感染防止戦略による経済社会活動の正常化に向けた緊急提言」を発表。
 提言では「外出の自粛や企業の休業を繰り返すような受け身の対応を避け、経済・社会活動の回復と両立する『積極的な感染防止戦略』を明確に示す必要がある」と指摘。そのうえで医療を提供する態勢を増強しながら、今年11月までにPCR検査の能力を主要国並みの水準となる1日当たり20万件に強化すべきだとし、「早期に発見できれば、重症化も防げる。積極的な検査の拡大で人命と経済の両立を目指したい」と。
 湯浅知事・小林氏らが提言について記者クラブで行った会見に臨んだ藤井彰夫・日経新聞社論説委員長のレポートによれば―「PCR検査の実施件数は主要国に比べ見劣りしたが、人口当たり死亡者数は少なく、『奇妙な成功』と海外メディアに評された。」「『人命か経済か』という二者択一の議論ではなく『命と命の問題』―経済活動が再び停止すれば、コロナ感染による死亡者以外に、景気悪化に伴う自殺など犠牲者が急増しかねない―経済・社会を動かしながら感染も抑止する二兎を追う戦略の柱は、検査の拡充と医療体制の強化だ。提言では『一日当たり20万件のPCR検査確保』などの数値目標を政府に求めた。安倍首相は『一日当たり2万件』と号令をかけてもなかなか進まなかった懸案。問題はその実行力だ」「今回の有識者提言は、今後は外出自粛など経済・社会活動の停止を伴わずに乗り切ることを求めている」。

2020年07月18日

9条堅持か改憲か―安全保障をめぐって

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を決意」(憲法前文)
 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄」(9条1項)、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」(同2項)

 そもそも9条(戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)制定(1946年)の意義

   平和的生存権の保障と非軍事的安全保障―我が国が、侵略戦争を仕掛けて惨害を与えたアジア・太平洋諸国をはじめ、同盟国ドイツ・イタリアによって侵略・惨害を被ったヨーロッパなど世界の諸国に対して安全と平和的生存権を保障―安心の供与
という平和戦略に立っていた。

 ところが米ソ冷戦から朝鮮戦争(1950年)が勃発米軍が占領下の日本を基地に(北朝鮮軍とそれを支援した中国軍に対して)出撃・交戦、その間に日本国内の治安上の空白(不備)を補うために「警察予備隊」を創設、それが休戦(1953年)後(アメリカは日本占領を解除、日本政府と安全保障条約を結んで基地と駐留軍を維持するとともに)「自衛隊」として改組・改称(1954年)されて現在に至っている。
 (尚、その合憲解釈の根拠に13条―国民の生命・自由・幸福追求の権利は国政の上で最大の尊重を必要とする―を持ち出している―1972年10月14日参院決算委員会に対し政府が提出した資料『集団的自衛権と憲法との関係』―外国からの武力攻撃に対して、自衛の措置を講じ、急迫不正の侵害を排除するための必要最小限度の武力行使を行うことは、国家が国民の生命・自由等を最大限尊重するよう求めている「13条の要請」に基づくものであると。
 しかし、そもそも13条は国民の自由権規定として国家に国民の権利を侵害することのないように定めたものであって、国には国民を護る義務があるとしても、9条は、13条に国が国民の生命・自由等の権利を護るために武力を行使することを例外として認めているわけではなく、あくまでも9条の枠内で軍事手段以外の方法によることを国家に義務付けているのだと解すべきなのだ。
 ところが、政府は外国からの武力攻撃があった場合に「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を講じ、国民の権利を護るために武力を行使することは9条の下で「例外的に許容される」ものと解釈。)

 こうして憲法制定当初の原点から離れてゆき、9条による平和戦略(非軍事的安全保障)から遠のいて、日米安保条約の下に米軍と自衛隊との軍事同盟による軍事的安全保障(軍事戦略)へ転換していった。
 そしてソ連(今はロシア)、中国、北朝鮮と軍事的に(核・ミサイルなど兵器・兵力を双方とも「抑止力」と称して)対峙し、これらの諸国に対して(安心・安全の供与とは反対に)互いに脅威を及ぼし合っている。

 世界の軍事力ランキング―①米②ロ③中④印⑤仏⑥日本⑦韓・・・・・・・・⑱北朝鮮
            (米国の評価機関「グローバル・ファイアパワー2020年版」)
   軍事費  〃  ―①米(71兆円) ②中(19.8兆円) ③サウジ ④ロ ⑤印 ⑥英 ⑦仏
               ⑧日本(5.3兆円) ⑨独 ⑩韓
               (9日、米国防省が日本へFステルス戦闘機105機の売却を承認
                ―1機236億円、計2.5兆円―それが日本の購入経費となる)
   海軍力  〃  ―①米②中③ロ④日本⑤英・・・・⑧韓
   核兵器  〃  ―①ロ(6500)②米(6185)③仏(300)④中(290)⑤英(215)
               ⑥印(130)⑦パキスタン(150)⑧イスラエル(80)⑨北朝鮮(20)
  「強い国」 〃  ―①米②ロ③中④独⑤英⑥仏⑦日本⑧イスラエル⑨韓⑩サウジ
   (米誌「USニュース&ワールドレポート2020年版」世界の約2万1000人からアンケート)

 現下の「安全保障環境の悪化・危機的状況
   「2020年は米軍を巻き込む危機が最も起きやすい年に」(ニューズウイーク)
   「コロナ禍の今、米中衝突の危機はそこまで迫っている」(  〃  5月13日)―
   「米国内の流行は自国より中国政府に責任があると思う人55~60%いる(トランプが新型コロナを「中国ウイルス」と呼ぶことを同意している)」「米中冷戦の悪化は最も避けたい事態だが、衝突の危機はそこまで迫っている」と。
   トランプ大統領、曰く「(『中国ウイルス』―それは)我々が経験した中で最悪の攻撃だ。真珠湾や世界貿易センタービル(同時多発テロ)よりもひどい」
   「コロナ後の米中『対立から衝突』の可能性に備える必要」(田中均・日本総研国際戦略研究所理事長・元外交官)―対立(「新冷戦」)から「衝突(「熱い戦争」)もあり得ないことではない」と。大統領の再選戦略(選挙キャンペーン)に「中国カード」を使い、中国叩き(対中批判・制裁措置)。
   「日中が尖閣諸島で軍事衝突する可能性はあるか?―軍事衝突は蓋然性(確率)も低くはない―日本が衝突回避のため取り組むべき課題」「日米安保体制の確固とした抑止力が必要だ」と(同じく田中氏)。
   アメリカでは「大統領選挙で追い詰められているトランプ大統領が起死回生のカードとして『戦争カード』を(対象はイランなのか、北朝鮮なのか、或いは台湾海峡なのかだが、そのいずれかでカードを)切ってくる可能性があり、、『戦争内閣』という形で選挙をたたかうのが逆転するうえで一番有利だろうといったことが議論されている」(7月19日TBS「サンデーモーニング」で寺島実郎氏)

 そのような現下の情勢・「危機的状況」に乗じて、集団的自衛権行使(限定的)容認の解釈改憲から明文改憲(自衛隊明記)へ踏み込もうとしているのが安倍・自民党政権なのである―その9条改正案とは、1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持・交戦権否認)をそのまま維持したうえで、自衛隊について次のような条文を書き加えるというもの。
 「9条の2(第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。(第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」(2018年3月公表された自民党憲法改正推進本部の「たたき台素案」)―もしも、国民投票でこのような改正案が示されて投票することになったら、賛成票・反対票のどちらを投ずるのだろうか。

 そこで9条堅持(平和的生存権の保障、非軍事的安全保障)か、それとも改憲(軍事的安全保障)か、そのどちらの考えが正解なのか、検討してみることとしたい。
 (1)軍事的安全保障(―軍事的抑止力)―軍事力を「抑止力」とか「自衛力」と称して保持し、隣国や他国と同様に軍事力を持ち合うことによって隣国・他国(中国・北朝鮮・ロシア等)の攻撃・戦争意志を抑え込み、武力攻撃・戦争を回避しつつ(対立・紛争の火種を残しつつ、とりあえず)安全を保持―自国と同盟国(アメリカ等)の安全を保障―同盟国以外の国(中国・北朝鮮など)からは脅威を持たれる。
  武力を保有し、「いざとなったら(相手側に武力攻撃を仕掛けてくる気配があれば)武力を行使するぞ」という意志をも(念頭に)保持―いつか「それ(激突)があるかも」という不安・脅威・恐怖が相互に残る―今はその状態。
  こちら側が軍備を強化すれば、相手側も負けじと強化し、互いに軍拡(脅威が増幅)→緊張(不安)→たえず引き金・発射ボタンに手を(相手が撃てばすかさず撃ち返すか「やられる前にやる」)―軍事衝突→戦争に発展(限定的な戦闘でも、相手にとって銃弾1発は100発と同じ)というリスク。
  軍事力を持つと、武力に固執して、平和的な問題解決の方法を探さなくなる―力に頼りがちとなり、対話・交渉(妥協・譲り合い)が疎かになる。
 (2)平和的(非軍事的)安全保障
  軍備を持たず、どんなことがあっても戦う意思のないことを示す―9条(戦争・武力行使の放棄と戦力不保持・交戦権否認)は国の内外にそれを宣明。
  安全保障の方法―対話・交渉・交流(ヒト・モノ・カネ・エネルギー・環境・文化の交流―諸国民と利害・運命の共有)―-(非軍事的抑止力になる)
  各国と平和友好条約めざす(特定の国と同盟したり密接な関係を結んだりせず)―「敵をつくらず、脅威にならないこと」
  憲法9条こそが抑止力―「こっちがなにもしなきゃ、なにもしてこない」―日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはそのおかげ(それがあったからこそ、日米安保でアメリカの戦争に―ベトナム戦争にも湾岸戦争にもアフガン戦争にもイラク戦争にも―自衛隊はアメリカから要請があっても戦闘参加は断ることができ戦争に直接巻き込まれることなくて済んだ)(「9条は自衛隊員の命を守る最強の盾になっている」わけだ)
  対立・紛争はあっても戦争・武力には訴えずに、あくまで話し合いで外交的解決(軍事力を背景としない外交)―互いに譲歩・和解に努め、対立そのものを無くしていく―そうしてこそ戦争の不安・恐怖のない状態でいられる(それこそが「平和」であり、「平和の裡に生存する権利」が保障されるというもの)―互いに(自他・全ての国々に)安全・安心を保障。
  国際貢献は非軍事・平和貢献に徹する―ODA(政府開発援助)、
   軍縮・軍備管理交渉(今までは消極的・不熱心)、核兵器禁止条約(未だ背を向けているが)推進。
   北東アジア平和協力構想・北東アジア非核(3原則)地帯構想(←朝鮮半島非核化から)の実現を主導

  9条は国権の発動たる戦争と武力による威嚇・武力行使を放棄し、国の交戦権は認めないとは言っても、国は警察権を持ち海上保安庁も対テロ特殊部隊もあり、国民には正当防衛権(不当な支配に対する抵抗権)もあり、無防備・無抵抗ということにはならない。
 自衛隊は国外からの領域侵犯を取り締まり、侵攻を阻止・排除する領域警備と災害出動など非軍事に徹する。武力で「攻めて来られた時に限って」相応(必要最小限)の武力を行使するものとし、「専守防衛」に徹する。外的が侵攻してきたら抗戦し、撃退(排除)はしても、追撃し敵地に攻め入って打撃を与えたり、致命傷を与えるような攻撃はしない。
 又、違法・不正な侵犯・侵略行為に対しては抗戦し、断固たる拒否と抵抗の意志は示しても、核・ミサイルによる原発攻撃や都市攻撃を招き、数多の市民・住民の生命と生活基盤を犠牲にしてしまう結果となる無謀な「徹底抗戦」は避ける。かつての(太平洋戦争の時)ように「撃ちてし止まん」(勝つまで止めない)とか「本土決戦」「一億玉砕」などと叫んで抗戦を続け、大空襲や原爆投下を招いて国民に未曽有の惨害をもたらした、その悲惨な戦争体験を繰り返してはなるまい。つまり自衛隊は「専守防衛」といっても軍事的勝敗にはこだわらず、あくまで国民の生命と生活手段・生活基盤を犠牲にすることなく生存権を護り抜くことを目的・任務としなければならないわけである。
 他国の軍事力(核戦力など)に頼ることはしない。同盟国など他国の戦争に関わって作戦に加担するようなこと(集団的自衛権行使)はしない。
 自衛隊は、その防衛力(軍事力)をもって威圧し脅威を与えるような「抑止力」とはしない(相手に戦争や軍拡の口実を与えるようなことにならないように)
 そもそも、自衛隊は交戦権が認められていないから軍隊ではない。それに自衛隊は、軍隊と異なり、武器をむやみに使用することはできず、一般人と同じく刑法で定める正当防衛・緊急避難の場合以外には、また警察官と同じく警察官職務執行法に定める場合(犯人逮捕などの職務執行に対する抵抗と逃亡を防止するため)以外には人に危害を与えてはならないことになっているからである。(それで殺せば殺人罪になる。)(上官の命令には従う義務があり、任務の遂行上、自分の生命を危険にさらすことをいとわないということはあっても、上記の正当防衛など以外には発砲して人を殺したり、殺されて死ぬことを強いるような命令は違法であり、拒否することができる。)

 さて(1)と(2)とで、「国民の平和的生存権」・自衛隊員も含めて日本人の生命が守られるためにはどちらがベターか。
 (1)と(2)とで、前者の方を正解と考える向きには、9条改定に賛成し、憲法改正の国民投票では賛成票を投じる方に傾くことになるだろうし、後者の方を正解と考える向きは9条改定に反対し、改憲に反対票を投じることになるだろうと思われる。

 さて、皆さんはどうお考えだろうか?
 


2020年07月31日

PCR検査について―ウエブ・サイトとワイドショーから4つ

(1)6月11日の「倉重篤郎のニュース最前線―日本の奇跡は完全に虚構だ!山梨大学長・島田眞路が怒りの告発」
 山梨大学(医学部付属病院がある)学内でコロナ対応に取り組み、PCR検査のためドライブスルーを大学構内に設けるなど医療体制を整備。
 日本の特殊なコロナ対応―PCR検査抑制策―「37.5度・4日間以上の発熱」などの症状がないと診察を受け付けず検査してもらえないとされ、「検査を増やすと、軽症感染者まで入院させることになり、医療キャパがもたなくなる」(検査すると陽性が増え、入院患者が増えてベッドが足りなくなる)という理屈から、クラスター対策に終始し、PCR検査の資源を重症化ケースに集中―そのやり方で「日本は新型コロナの感染者数・死亡者数とも圧倒的に少ない」として、それを安倍首相は『日本モデル』と自賛した。
 しかし、「PCR検査はコロナに感染か否かを唯一診断できる検査法で、偽陰性率が高いとの批判もあるが、これをやらない限り、『この病気』と診断できないわけである」。
 検査上限は世界水準からかけ離れた低値にとどまり、途上国並みの実施件数。そうしておいて「欧米に比べて感染者数・死者数が少なかったことをジャパニーズミラクル(日本の奇跡)」と奇異の目で見られているが、それはまさに「虚構」。感染実態が隠蔽された危機的状況にほかならない。
 感染者数についていえば、PCR検査件数をOECD諸国の中でも最低水準にとどめることで、数字に表れる感染者数を低く抑え込んでいるだけで、相当数の陽性患者が見過ごされてきた。死者数も、検査自体が少ないだけに実数を網羅できていないと見るのが常識で、表面化したのは氷山の一角だと考えるべきだ」と。

(2)7月21日のヤフー・ニュースで「校内感染検査 対応にばらつき 保護者ら不安『PCR対象拡大を』」という神戸新聞(電子版)の次のような記事が出ていた。
 「神戸の市立中学校で教諭がコロナ感染。担任生徒と教職員79名に限定してPCR検査。学校では検査対象(同教諭から授業を受けている他クラス・他学年も)拡大を求めても、保健所は『簡単にできない』と慎重で、保護者の不安を招いている。
 PCR検査は保健所が主体となって対象を決めている。国の基準は濃厚接触者のみだが、国は感染拡大第1波の経験をふまえてPCR検査数の拡大を推進しており、検査対象の線引きは曖昧。文科省も、学校で感染が判明した際の検査対象について明確な基準を示していない。
 行政側からは『PCR検査は一定の割合で誤判定もある。やみくもに増やせばいいわけではない』との意見も。学校からは『国は、指針ぐらいは示してほしい』との声は上がっている。」

(3)7月23日テレビ朝日の羽鳥モーニングショーで、「日本ではPCR検査がなぜ増えないのか」(そのわけ)について取り上げ、玉川レギュラーコメンテーターが、経済学者の小林慶一郎(東京財団政策研究所主幹で、かねて「PCR検査の体制拡充が最も有効な経済対策」と提言、政府新設の有識者「コロナ対策分科会」メンバー)にインタビューをしてきてレポート。
 それによれば「コロナ対策では厚労省の医系技官(医師免許をもった役人)と国立感染症研究所(感染研)などの専門家が感染症対策のコミュニティー(いわば「感染症ムラ」)をつくっている。彼らがPCR検査は『精度が低く、高確率で偽陽性・偽陰性が発生する』として、『偽陽性だった場合は隔離することになる。ハンセン病対策への批判が強い中、隔離で同じように人権侵害と言われたくない』と主張しているという。」(つまり厚労省医系技官と感染症研の専門家らが、ハンセン病患者が強制収容されたのに対する国家賠償請求訴訟のように、後で偽陽性なのに強制隔離したとして人権侵害で訴えられ、追及され、裁判で負けるというような結果を恐れてのことにほかならないわけだ。)(ハンセン病の場合は、誤認といっても国全体が病気そのものを「治らない病気」で「伝染性が強く」「遺伝病だ」などと誤認し、患者を全て療養所に終生隔離するという根本的な誤りを犯したのであって、その人権侵害と、コロナウイルス感染の偽陽性・誤判定で2週間程度の隔離措置がとられて被むる損害を「同じように」人権侵害と考える方がおかしいだろう。)
 そんなことが、厚労省がPCR検査の拡充に後ろ向きであることの理由。(厚労省は「PCR検査を狭めているのか」との質問に答えて「例えば日本国民にPCR検査をすると一定の割合で偽陽性が出るだろう。その場合、陽性になることで入院したり、医療資源をひっ迫させてしまうことを考慮しなければならない」からだと。つまり「国民の命」よりも「医療資源」の維持・確保の方にこだわっているわけ。)
 「検査すると一定の割合で偽陽性・偽陰性が出る」というが、その割合は、偽陽性は、海外では10万人に1人、武漢では3人(0.03%)であり、偽陰性も1%以下にすぎないのだ、という。

(4)東京でも世田谷区は23区のうち最多人口94万人で、感染者数も新宿区に次いで多く920人超。その保坂区長が30日テレビ朝日の羽鳥モーニングショーに出演して、同区でPCR検査を誰でも(無症状でも)予約なしにいつでも何度でも定期的に受けられるようにする方針(「世田谷モデル」)を打ち出した(ニューヨーク市が1日7万件検査の実施に取り組んだのを参考に)。特に医療・介護・保育・学校などのエセンシャルワーカーの人たちには「社会的検査」として、また理容・美容室・スポーツジムそれに飲食店などの人と接する特定の職業に携わる人たちに対しても積極的な検査を実施するように準備しており、今は検査件数1日300件だけなのを2000~3000件に一挙に拡大したい、とのこと。(世田谷区の区医師会が導入を検討しているPCR検査機は、1日最大1000件の検査が可能で、24時間稼働でき、最短3時間で結果が出るという。)
 本来なら国や都がこのような検査を拡充できる制度を作ってくれたらいいのだが、それができないのだったら区がやるしかない。公費負担の方向で財源を検討し、都とも交渉しているが、政府はマスクを追加配布するとかGo Toキャンペーンなどに予算をつぎ込むよりも、こちらのほうに予算を割いてもらいたい、とも。

 その折(ニュース)、7月30日、東京都医師会の尾崎会長が「怒りの会見」―「PCR検査を都内1400か所(人口1万人に一か所、都内の小学校と同じくらい)に拡大」との方針表明―PCR検査によって感染者を見つけて隔離する(症状の軽重に応じて入院もしくはホテルなど宿泊施設で療養か自宅療養させる)ことから始め、①先ずは(新宿のような)感染が集中している地域―エピセンター(感染震源地)―で集中的にPCR検査を実施し、無症状者も含めた感染者の洗い出しを徹底する。そしてエピセンターからその周囲への感染を防ぐ。②そのために地域を限定して14日間ほど休業補償を伴う強制力のある休業要請を行う、というもの。
「コロナに夏休みはない。国会を開き、国がすべきことを国民に示し、国民、都民を安心させてほしい」と早急な対応を訴えた。(国会は6月に通常国会閉会以来1カ月超休会―毎週1回の「閉会中審査」はあるも散発的な限られた時間で首相は答弁に立っていない。7月31日野党4党が臨時国会召集を求める要求書を提出。)

 行政側は、PCR検査は「やみくもに増やせばいいというわけではない」というが、学校の一斉休校こそやみくもにやればいいというものではないだろう。
 マスクは、N95などの防塵マスクならともかく、一般に使われている布マスク・ガーゼマスクやウレタンマスク(マスクの周囲を押さえて測定すると漏れ率89.58%)、或いは不織布マスク(フィルター部分のろ過性能の試験を通ったタイプなら52%)にしても、ただ普通の着け方だといずれも漏れ率100%で、フィルター効果はゼロ。「マスク着用、着用、着用」と促し、数百億円もの税金を使って国民全世帯に配っているが、それこそ「やみくも」も甚だしい愚策。

2020年08月18日

安全保障には軍事的方法と非軍事的方法とで、どちらがベターか(加筆版)

<定義>
 「平和」とは―お互いに譲歩し、和解して、意思の対立そのものをなくして戦争の不安・恐怖から解放された状態。
 「戦争」とは―国家の意思を他の国家に強制する(意思を押し付ける)目的をもって武力を行使すること。
 「抑止」とは―戦争したいという相手の意欲を抑え込み、相手の力を使わせないようにこと。
 「解決」とは―相手が納得してリベンジする気が起きない状態で、意志の対立(火種)が無くなる状態。
 「国家安全保障」―自国の領土・政治的独立・国民の生命・財産を外敵の攻撃・侵略(とその危険)から守る。
 「人間の安全保障」―個々の人間の生命・生活・財産を守り、恐怖と欠乏からの自由・人権を保障する。
(1) 軍事的安全保障(他国の脅威を軍事的抑止力で抑え込んで安全を保持するやり方)
 折から地上発射型迎撃ミサイル(「イージス・アショア」)の(秋田と山口への)配備を技術的な問題で断念することになったのに際して「防衛に空白があってはならない」として、その空白を埋めるためにと、自民党内(国防部会と安全保障調査会)から敵基地攻撃能力を「相手領域内で弾道ミサイル等の阻止能力」と称して)保持しようという提言が出、安倍首相が安全保障戦略について新しい方向性を打ち出すと表明し、NSC(国家安全保障会議)で議論、9月中にも一定の方向性を示すことにしている。
 それに対して、「専守防衛」の原則を逸脱するものとの異論も出ているが、一方では、かつて1956年、当時の首相(鳩山一郎)が「座して自滅を待つべしというというのが憲法の趣旨とは考えられない。他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれる」と(内閣委員会で)答弁し、その後、歴代内閣でその考えが引き継がれ、実際は(日米の役割分担で、日本は守りに徹して、敵基地攻撃は米軍に頼ることとして)自らは保有しないものの憲法上は許されるとしてきた、その経緯から、北朝鮮などの脅威が高まっている今こそ敵基地攻撃能力を持つことを検討すべきだというわけである。
 世論は、NHK8月8~10日の調査では「領域内阻止能力を持つべきか」という問いに「持つべきだ」が50%、「持つべきでない」が27%、「わからない」と無回答合わせて23%。JNNの調査では「敵基地攻撃能力を保有すべきだと思ういますか?」という問いに「保有すべきだ」が43%、「保有する必要ない」が41%、「わからない」と無回答合わせて16%。いずれも「保有すべきだ」というほうが多い。
 敵基地攻撃(その能力を持つこと)が、はたして「自衛の範囲内」なのか、その前にそもそも武力の行使やそれを前提とした武力の保有が憲法(9条)上許されるのかだが、いずれにしろ、弾道ミサイル等を着弾前に撃ち落とすか、さもなければ発射を阻止するために基地を攻撃・破壊することは(数百ヵ所も山中の洞窟に隠し持つミサイル基地やそこから車両で移動する発射台を見つけ出すなど技術的に難しいのだが、それは別として)軍事作戦としてはあり得、軍事的合理性から見れば有効であろう。
 ところが、それは軍事の論理である。(相手の軍事攻撃を阻止・抑止するという軍事目的からすれば、破壊力・威力からいえば核兵器が最も有効なわけだ。又先制攻撃であれ奇襲攻撃であれ、その方が軍事作戦として有利か否かの問題。)軍事とは、対立する相手の国や勢力との間で利益・要求を力ずくで押し通すか、それを阻止するための武力による対決・作戦に際する諸事であり、戦い(そして勝つこと)が目的であり、敵対を前提とする。
 その安全保障は互いに相手を攻撃・警戒・牽制し合う敵として軍事力を備え、その攻撃を阻止・抑止することによって安全を図ろうとするやり方。それによって安全は得られても、たえず戦々恐々として不安と危険が付きまとう。
 抑止力といっても軍事的抑止力は、相手のそれに対して優位か均衡を保つことで効果を持ち、そのために互いに相手に対して負けまいと絶えず軍事力強化・拡充(軍拡競争に邁進)して止まない、その結果互いにかえって安全保障が危うくなり悪化してしまう結果となる(「安全保障のジレンマ」に陥る)。中国や北朝鮮が脅威だからと、それへの備え(軍備)を強化し、敵基地攻撃能力(米国から購入するF35Bステルス戦闘機やそれを艦載する空母化した「いずも」型護衛艦、長距離巡行ミサイルなど)を保有しようとする。それが中国・北朝鮮の脅威に対する「抑止力」のつもりでも、相手にとってそれは脅威となる、つまり、互いに「脅威には脅威で備える」ということになるが、そのような安全保障のやり方で安全・安心が得られるのか、反って不安が募るばかりなのでは。その敵基地攻撃能力の保有には兆単位の軍事費が必要となる。安全保障費として、それで費用対効果が得られるのかだ。
 その抑止力・軍事作戦として、核兵器など「皆殺し兵器」(無差別・大量破壊殺傷兵器)は許されないとしても、そのような殺傷兵器でなく、弾道ミサイルを撃ち落とすか、基地を破壊するだけの非殺傷兵器ならいいが、それだけで済ませることができるか、或いは正当防衛か緊急避難でやむをえず殺傷してしまうとしても相手はミサイル発射や基地に携わる将兵だけで、民間人を巻き込まないで済ませられるかだ。
 
 いずれにしても、それは暴力行為であり、多少とも人間の殺傷を伴うとすれば非道徳・非人道的行為に基づく安全保障、それが軍事的安全保障である。
 
(2) 非軍事的安全保障(諸国に対して不戦方針を貫き軍事を控え平和的方法によって安全を保持するやり方)
 「諸国民との協和による成果と我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることにないようにすることを決意」「恒久の平和を念願し、諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを確認」「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、その法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」とうたった憲法の前文と、不戦・非軍事を規定した9条は、まさにこの立場に立ったものであり、この非軍事安全保障こそが憲法の趣旨に即したやり方。
 「座して自滅を待つべしというというのが憲法の趣旨とは考えられない」というのはその通りだが、それは、利害対立・見解の対立・係争問題を抱える相手に対して、和解・妥協・譲歩など、あくまで双方納得の上での問題解決のため知恵を尽くし手立てを講じて、根気強い話し合い・交渉を尽くさなければならないということであって、そういった努力を尽くさずに唯ひたすら「抑止力」と称して軍備を強化し整えて、相手の要求や提案は突っぱねて強気で圧力をかけ、相手が切羽詰まって(弾道ミサイル等で)攻撃を仕掛けてくるのを「座して待って」迎え撃つか撃って出るか、などということではあるまい。

 宇宙科学者・名古屋大学名誉教授の池内了氏(『世界』10月号掲載の「戦争を抑止できるのは何か」)は、「国家による軍事的安全保障」(「軍事力による国家安全保障」としてもいいのではと思うが―引用者)即ち「軍事力による戦争の抑止」に対して「人間力による人間の安全保障」即ち「人間力による戦争の抑止」と称している。「人間力による」とは非武装の人間の理性と寛容の精神による平和的行動―国家間で紛争や対立や意見の齟齬があった場合、武力に訴えることなく、あくまで話し合い・説得・交渉・妥協など平和的な外交手段―(を駆使すること―引用者)によって解決を図り、「侵略される」という状況を一切招かないようにする(それが日本国憲法・平和主義の本来の趣旨)、ということであり、「人間の安全保障」とは個々の生命・生活・人権を守ることが最優先ということ

 我が国の政府・安倍政権は専ら(1)の軍事的安全保障の方に傾倒しているが、これら二つのやり方のうち、どちらが合理的で実効性があるのかだ。

2020年09月03日

日本の平和・安全保障は9条によってか、日米安保によってか(加筆版)

 わが国民は平和・安全が保障されているとすれば何によってか、或いは、それが危うくなっているとすれば何によってか。憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)によってか、それとも自衛隊(世界6位の軍事力)と日米同盟(安保条約で日本に米軍基地を置いている)によってか。
 もしも米中戦争か第2次朝鮮戦争か、或いは米ロ戦争が起これば、日本は中国か北朝鮮か、或いはロシアから攻撃されることはないのか。日本は安全でいられるのか。攻撃されるとすればなぜなのか。日米同盟で日本に米軍基地を置いている以外に日本を攻撃する理由がどこにあるのか。アメリカと中国などの間に対立が続くことはあっても戦争まではあり得ないとすれば、日米軍事同盟をこれ以上いつまでも続ける意味はあるのか。いずれにしろ米軍基地など無くしてしまったほうが我が国の安全保障にとってはプラスなのでは。
 日本国民が戦争に巻き込まれず、平和・安全でいられるには、米軍と自衛隊による軍事的安全保障と憲法9条による非軍事的安全保障のどちらにかければよいのかだ。

(1)軍事的安全保障は―軍事の論理(軍事的合理性)で軍事戦略として論建て
    発想―対立・敵対・対抗関係にある国から軍事攻撃を受けるかもしれない(だから攻撃されても大丈夫なように)、或いは攻撃されないように防衛力(軍事力・軍備・軍事的抑止力)を備える、そうすれば安全が保障される(防衛イコール安全保障)という発想(軍事対決不可避との考えが前提)→防衛(軍事)に専心―その観点から判断
    憲法9条(1項「戦争放棄」・2項「戦力不保持・交戦権の否認」)に対する評価判断・解釈(自衛権・自衛力の保持は認められると)・改憲(2項を削除して「自衛軍」もしくは「国防軍」の保持を認めるか、2項をそのままにして「自衛隊を明記」か)の判断。
    中国・ロシア・北朝鮮は脅威(それらの軍事力拡充を一方的に脅威とみなし)、
    日米同盟はこれらの脅威に対する「防衛力」「抑止力」でアジア太平洋地域の「公共財」だと
    米軍の沖縄基地の維持―普天間基地の辺野古移設
    アメリカとの集団的自衛権行使の容認
    イージス・アショアがだめなら敵基地攻撃能力の保有―「攻撃は最大の防御なり」
    アメリカの核兵器(核の傘)必要―核兵器禁止条約の拒否
    アメリカからの兵器爆買い
    秘密保護法―情報を軍事機密として利用
    科学技術・研究開発―軍事利用
  これらすべてを軍事的に有効(得策)か否かで判断
  これらは中ロ・北朝鮮との軍拡競争をエスカレートさせ、軍事衝突を誘発する危険
     、  「安全保障のジレンマ」「安全神話」―平和・安全保障をかえって危うくする。
国民にとっては、これで「安全が保障されて安心だ」とは到底思えまい。
  尚、自衛隊と日米同盟(対米依存)に対する二つの路線
    ① 自衛隊は「専守防衛」(個別的自衛権)に徹して、米軍を「矛」とし、自衛隊は「盾」という役割分担に留まる(民主党系リベラルの立場)。
    ②自衛隊の役割を拡大して、米軍を支援する集団的自衛権行使を容認、ひいては敵基地攻撃能力を認めて「矛」の役割も引き受ける(自民党など改憲派の立場)(米側の負担軽減)。

 (2)非軍事的安全保障は―非軍事・平和戦略で論建て
    発想―アメリカなど特定の国とだけでなく、どの国とも(利害の不一致・対立する問題はあっても)、敵視・敵対せず(敵をつくらず、非軍備によって脅威ともならず)に友好協力関係を結ぶことによって(互いに攻撃を仕掛けることはあり得ないものとして)安心・安全が保障されるという発想
平和・安全のより確かな保障を求める国民にとっては、むしろこのほうが得策と考えられる。 
    このほうが憲法(前文―日本国民は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすること」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意」、9条―「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」そのために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」)に忠実な立場であるだけでなく、より合理的で現実的(実現性あり)。
 (それにもかかわらず、特定の国・アメリカと安保条約を結んで軍事基地を置き、自衛隊の名目で再軍備して軍事協力。唯一の被爆国でありながら、その原爆を投下したアメリカの「核の傘」の庇護に甘んじ、国連で122ヵ国の賛成で採択された核兵器禁止条約に背を向け署名・批准を拒否している。そのような国際信義に反する態度を改め、せめて、この核兵器禁止条約だけでも、条約発効に必要な50ヵ国批准まで残るはあと6ヵ国に迫っている今、これ以上遅れをとることなく批准に踏み切るべきなのだ。また沖縄の辺野古基地建設を中止し、普天間基地撤去も。)

  しからば他国のほうからの侵害に対しては、どう対処するか―あくまで外交交渉を尽くして回避に努めるが、万一信義・信頼に反して急迫不正の侵害や武力攻撃があった場合には警察力により警察比例の原則に立って対処・排除する。
 「警察比例の原則」とは、いわば「ナイフにはナイフ、銃には銃、大砲には大砲」ということ。但しこの原則は、単に相手と同等の武器で対応し、「核均衡抑止」のように核兵器には核兵器で対応できるとか、相手の武器に比例して同レベルの武器を無制限に使って応戦できるということではなく、目的(例えば領海侵犯を阻止・排除するという目的ならその目的)に応じて必要最小限度の手段・武器で対応しなければならず、相手がやろうとする目的・手段に対して(機関銃や機関砲で威嚇射撃するなどのことはあっても、いきなりミサイルで撃沈する等)必要以上の過剰対応をしてはならないというが本来の趣旨。
 ただ武器自体は相手の武器に比例して(同レベルを超える武器ではまずいが)同レベルの武器ならば、重機関銃や大砲など重火器でも使えるわけで、警察だから拳銃や小銃など小火器しか使ってはならないというわけではないわけだ。
 海上保安庁も機動隊も警察力に当たるが、現在、海上保安庁の巡視船には世界最大級の軍艦構造を有するものもあり、全長150mというイージス艦並みの大きさで、35㎜連装機銃や40㎜単装機銃・機関砲を装備し、ヘリコプター2機を搭載可能。それに海上保安庁にはマシンガンや自動小銃を装備する特殊部隊や特別警備隊があるが、警察にも特殊部隊(SAT)があり、機動隊には銃器対策部隊といったものもあり、いずれもマシンガンや自動小銃などを装備している。
ポジティブリスト
 軍隊と警察の違うところ(ネガティブリストとポジティブリスト)は、軍隊のほうが「ネガティブリスト」方式で、国際人道法などで例外的に禁じられていること(残虐兵器の使用や無差別攻撃など)、それ以外は何でもできること(原則無制限)になっているのに対して、警察のほうが「ポジティブリスト」方式で、やっていいこと、できることが例外的に限定され(例えば正当防衛か緊急避難で、そうする以外に手段がないという場合には、比例原則に応じた武器を使用することができ、殺傷することもできるなど警察官職務執行法等に定められている)、それ以外には武器の使用など原則禁止で、相手がどんな人間であれ人を殺傷することはできないことになっている。
 そもそも軍事と警察の違いは―軍隊は戦闘集団で、常に武器を備えて訓練し、外敵と相対して国の権限者の命令が下りしだい出動して武力行使(戦闘)をすることを事(仕事)とする、それが軍事。一方、警察は法秩序を犯す者を取り締まり(管理・監視)強制的に守らせることを事とし、それに服さず凶器や武器をもって妨害し、襲いかかってきた場合に、身を守る正当防衛のためやむをえず武器を使用することがあるだけで、それ自体を事とはしない。
 我が国憲法は日本には軍を置かないことが前提になっているので、軍事活動を行う権限(軍事権)は憲法のどこにも書かれておらず、内閣の権限を定める73条にも書かれていない。なので自衛隊は、行政権を担う内閣の権限に属する行政執行機関の一つとして警察・海上保安庁・消防などと同様に位置づけられている。

 自衛隊は、9条で武力行使など軍事は禁止されているので、それらはできないことになっているが、政府は13条に定められている「国民の生命・自由・幸福追求の権利は国政の上で最大の尊重を必要とする」という規定を根拠として、政府には強盗やテロリストのみならず外国の侵略からも国民の生命等を守る義務があるのだというふうに解釈し、「我が国に対して急迫不正の侵害があり、それを排除するために他に適当な手段がない場合、必要最小限度の実力を行使することができる実力組織だ」として自衛隊を認め、そのために具体的に自衛隊がやっていいこと、できること(ポジティブリスト)を限定して自衛隊法等で定めているわけである。
 ところがそれを新安保法で自衛隊は集団的自衛権の行使や海外での武力行使もやれるようにされ、今や敵基地・相手領域にまで突入して攻撃できるかのようなことまでポジティブリストが加増されようとしている。そして(日米同盟を「公共財だ」などと称して)自衛隊は米軍と軍事活動を共にし、軍事的役割がさらに大きくなっている。
 自衛隊を維持するとすれば、そのように軍隊化してはならず、災害出動とともに、領海・領空・領土の警備活動を海上保安庁と共に担う警察力に徹したものにしていくべきなのでは

 自衛隊は、それが行使できる「実力」は警察力を超えるが、9条が禁じている「戦力」とまではいかない「自衛力」だなどという理屈で(「警察以上で軍隊未満」として)合理化されてきたが、そのような定義づけは「戦力とは何か。自衛力を超えるものだ」、「自衛力とは何か。戦力に至らない自衛のための必要最小限の実力だ」と無意味な同義反復をしているにすぎず、論として成り立ちえない解釈だ(憲法学者の小沢隆一教授の指摘だが、同教授によれば「仮に9条が自衛権の存在や自衛のための武力行使を明示的に排除していないとしても、それを権力が行使できるということには直ちにならない。憲法に明示の根拠をもたない権力の行使は許されないのが近代立憲主義の原理。『戦力』なり『自衛力』なりの組織、指揮権限についての何らの具体的規定ももたない日本国憲法は、それらについて否定していると解釈すべきだ」としている。)

 それはともかく、9条は、我が国は他国に対して基本的にいかなる場合でも武力攻撃をする意志も交戦意志ももたないことを定め、それが諸国民に対する安全・安心の保障となる。同時に自国民に対しても我が国が交戦意志を持たず、米軍基地などを含めて警察力以上の戦力を持たない以上、もはや我が国は戦争に関わらず、武力攻撃されることもあり得ないことを保障するものである。
 ところが戦後、現在にいたるまで政府が一貫してとってきた安全保障政策は、このような9条の不戦・非軍事的安全保障ではなく、日米安保とそれに結びついた自衛隊による軍事的安全保障のほうだった。
 我々国民にとって平和・安全の保障には軍事的安全保障と9条による非軍事的安全保障のどちらが合理的かつ現実的(実現性の点)で有用なのかだ。
 どっちか二者択一ではなく、両用で(とはいっても、それは今までのやりかた)という向きもあるだろうが、それでは(今までもそうだが)防衛力(軍事力)を背景に軍事(自衛隊の軍事と日米同盟)に頼りがちとになって(その方に傾き)、結局は平和外交に徹した非軍事的安全保障は不徹底になってしまうだろう。

2020年09月12日

PCR検査―厚生省や専門家の中の検査抑制論

PCR検査抑制論
 抑制の理由―①検査のキャパシティー(一日当たりの検査可能件数)が少ないから。
   ②検査して沢山の陽性者が見つかったら医療がひっ迫して医療崩壊が起こるから。
   ③「検査精度の限界」で、検査を増やすと偽陰性(実際は陽性なのに見逃し)も増えるから
       
①と②について―(実際、検査数が世界150位などと)世界3位の経済力を持つ日本にしてはあり得ない話で、それはキャパの問題というよりも「やる気」の問題なのでは。
 それは検査体制(検査機器、防護具の整備、検査に当たる医師や技師の確保、軽症・無症状者の保護隔離施設の確保など)の整備を怠ってきたからに他ならないのでは。
 そこには政府の「行財政改革」・医療費抑制政策がある。1990年代から保健所の統廃合(広域化)がおこなわれ、全国850ヵ所あったのが469ヵ所に半減された。保健師の総数は増えたものの、その分の業務(介護や母子の健康管理など)は自治体に肩代わりさせられ(市町村勤務)、保健所内勤務で感染症に対応する権限を持つ保健師は減らされることになった(1996年8703人から2018年8100人に)。そして少ない人員で広い地域を担当しなければならないことになった。
 いわゆる「小さい政府」「市場原理」の名のもとに保健所や公衆衛生機関を「無駄なもの」とみなしてコスト削減の対象とし、統合民営化する新自由主義的路線がとられてきたわけである。
国立感染症研究所の研究者は2013年312人から現在は294人に削減(米国のCDC疾病対策センターに比べ人員は42分の1、予算は1077分の1)。地方衛生研究所も大幅に削減されている。
 公的・公立病院の再編統合も行われ、病床の削減、医師数・看護師数の抑制も行われている(医師数は、OECD加盟国平均44万人に対して32万人、1000人当たりでは2.43人で、OECD29ヵ国の中では26位、過労死ラインの月平均80時間を超えて働いている勤務医が約8万人といわれる)。
感染症指定医療機関(第2種のそれは475病院)・感染症病床も(1996年9716床が2019年には1758床に)削減されて不足状態。
 集中治療室(ICU)も2013年2889床が2019年には2445床に減っていて、人口10万人当たりでは僅か5床で、ドイツ30床の6分の1、イタリア12床の半分以下とのこと。
 これら保健衛生・医療機関・病床等の削減・医療費抑制政策が、PCR検査を増やすと陽性(感染者)がたくさん見つかって入院患者が増えて大変になるからというわけで、それが、感染拡大を抑え込むためのPCR検査を抑制しなければならない理由になってしまっているわけである。 

③については―PCR検査は陽性を判定する能力(感度)が70%で3割が陰性とされてしまう、それが「偽陰性」と称され、あたかも誤判定で70%の検査精度しかないかのように受取られがちなのであるが、厳密にいえば「誤判定」ではない。人為的なミスで検体が汚染されることは管理上の問題で、検査そのものの精度の問題ではない。そもそもそもそもPCR検査とは微量の遺伝子を増殖させて検知するもので、検体の中にウイルスがいる限り、それを見逃すことはあり得ず、100%近い精度。感染していない人を陰性と判定できる能力(特異度)、その正当確率は99.9%―0.1%が誤判定で「偽陽性」に)。ところが、それは検査の検体となる唾液や、鼻腔や咽頭液の中にウイルスが(肺の奥に留まっていて)出てきていないタイミングで採取するという場合があるわけである。その時は出ていなくても翌日には出てくることもあり得、類回検査やPCRよりも簡易な抗原検査を繰り返すことで、その「見逃し」は最小限にできる。
 そもそもPCR検査の目的は①(症状のある患者や感染の疑いのあるその人がはたして感染しているのかをどうかを調べ確かめる)臨床医の診断目的だけでなく、②(市中への感染拡大を抑え込む)防疫目的もある。
 前者の場合は、医師はPCR検査だけでなく、CT検査なども行う。
 後者の場合は、市中で動き回っている(社会的活動を行っている)人々で、無症状(感染の40%以上は無症状者から。ウイルス排出量は未だ無症状でも症状が出る直前がピーク。また回復して症状が無くなってもウイルスを出しているケースもあり)或いは軽症で感染させる可能性のある人をできるだけ早く見つけ出して保護隔離し、市中に感染が広がってクラスター(集団感染)が発生しないうちに、また重症者が増えないうちに抑え込む。それと同時に非感染者(健常者)の社会経済的活動をやみくもに
「三密」とか「8割接触削減」とか「自粛休業」「休校」などと規制して、就業・営業・学業など(それに文化・スポーツなどのイベントや旅行・娯楽も人間生活には必要だが)これらに支障をきたすことのないようにすることが目的。
 コスト(経費)とキャパシティーから市民全員とはいかないまでも、感染リスクの高い必要不可欠なところ―院内感染が起こりやすい医療機関や介護・障害・老人施設、学校・保育園、サービス産業の一部など人が接触するところで、患者や入所者・従業員などには2週間に1回検査を実施して然るべき。
  
 尚、厚労省は8月18日、「医療・介護施設の勤務者や入院・入所者に幅広く検査することも可能だ」と通知。しかし自治体まかせ、現場任せに留まる。
   東京都は(早ければ)10月から特別養護老人ホームや介護老人保健施設、障害者支援施設など計850ヵ所の入所者や職員を対象(訳5万人見込み)にPCR検査を実施すると公表(費用全額を都が負担)。
 
 <参考>渋谷健司・キングス・カレッジ・ロンドン教授(公衆衛生学)、
   栁原克紀・日本臨床検査医学会の新型コロナに関する委員会委員長
        長崎大学教授(病態解析・診断学)
   らの見解が紹介されている新聞記事


2020年09月25日

政権評価・支持の際の国民の意識(再加筆修正版)

 安倍首相から菅首相に交代した、この間の世論調査―安倍内閣は辞任を表明する前まで支持率が30%台に低下していたのが辞任を表明したとたんに50%台(共同通信の世論調査では56.9%、読売52%)に急上昇し(朝日調査では7年8ヵ月の実績を71%が評価、この間の政権支持率は全体平均では44%だが、18~29歳の男性では57%と高支持率)、就任したばかりの菅内閣は(毎日新聞の調査では)64%と高支持率。
 その後、10月12日NHK世論調査のニュースでは菅内閣の支持率は55%で、落ち込んではいるが、不支持20%を大きく上回っている。政党支持率は自民党が37.0%、立憲民主党が5.8%、公明党3.2、共産2.6、維新1.6、国民民主0.5、社民0.4 支持政党なし40.3で、自民党一強に対してあとは多弱状態だが、支持なしが最多。
 菅首相就任から1ヵ月経た10月半ば過ぎ、(国会は未だ開かれておらず、所信表明演説も質疑も行われていないのに)朝日の世論調査では内閣支持率は前回より下がりはしたものの53%(40代以下の若年層は6割と高め)。

 そこで、国民の意識はどうなっているのかだ。これら首相の交代劇に対して国民はどんな考え・気持ちで受けとめたのか、特に高い支持を寄せている若者たちの意識はどうなっているのか、考えてみた―いずれも朝日新聞に出ていた記事から拾った次のような言葉から。

<9月12日の記事「若者が見た 安倍さんの7年8ヵ月」>
 「安倍政権の継承をうたう菅新首相の『自助・共助・公助、そして絆』のスローガンは、自分でどうにかせねば、と焦る若者たちと、『まず自分で』という菅氏の訴えは響き合うように見える」。「看護師の女性(21歳)に尋ねると、安倍首相の辞任表明を聞いて『持病を抱えながら頑張ってくれたと感じた。総理は菅さんになってほしい。支持する派閥が多くて安定しそうだなと思うから』と」。 法政大の新倉教授の指摘―(最近の学生の傾向は)「変化を求めず、与党である自民党を支持する学生が多い。若さゆえに政治についての自分の意見が未熟なのは、いまも昔も変わらない。ただSNSなどから得た表面的な知識の量は多い」。

<15日のオピニオン&フォーラム「耕論」のインタビュー記事>
 ●宮台真司・東京都立大教授「見たいものだけを見る。安倍政権で加速した日本の政治の傾向・・・・アベノミクス・・・・株価上昇と低水準の失業率に注目して『以前よりは日本はよくなった』と語り、メディアもそれを報じてきた。(実質賃金の低下、一人当たりのGDPの低下、子どもの幸福度―先進国で最低レベルなのだが、それらの社会指標には目を向けず)」「大半の国民も『見たいものだけを見て』きました」、「格差や貧困があってもそれを感じずらい社会・・・・富者も貧者も『スタバ』でコーヒーを飲んでスマホをいじります。格差を見ないで済む『疑似包摂』環境・・・・本当は経済的に苦しいのに、自意識のレベルでそうではないことにする(「痛みを粉飾」)」「若年層の政治的関心が低いのも、自分が置かれた状況の真実に向き合うのがつらいから」。
 ●太田啓子・弁護士「政治の世界が変わらないのは、有権者の側の問題であるとも感じます。安倍首相(辞意を表明すると支持率が跳ね上がる)・・・・『大病を抱えながら仕事をしてくれた。ご苦労様』という気持ちなのでしょうか」。「安倍政権では不祥事・疑惑の発覚や、問題がある法案の強引な可決などで支持率がかなり下がることがありました。でもそれは一時的で、少ししたら、また持ち直すことの繰り返し。権力の側に『国民は、今は起こっていてもそのうち忘れて諦める』と感じさせてしまう。そうした有権者のありようこそが問題」。
 ●中川淳一郎・ライター・編集者「安倍政権の実績評価・・・・特に若者にとっては、大卒の就職が明らかに良くなりました。『安倍政治もそれほど悪くない』が普通の感覚で、だから7年8ヵ月続いたのでしょう。多くの国民は、安倍政権の路線を継承すると言う菅さんを歓迎すると思います。」

<17日のオピニオン&フォーラムのインタビュー記事>
 ●諏訪原健・元シールズメンバー「安倍政権は民主国家としての最低限のモラルをことごとく壊してきた政権でした。・・・・民主主義の基盤が失われた。僕たちは短期的には安保法案や安倍政権と対峙したけど、自分の生きる社会をどうしたいのか、権利や尊厳を懸けて闘っていた」。「首相が代わっても民主主義の手続きを無視する基本的な姿勢は温存されるだろう」。
 「個人が『おかしい』と感じたことを言えるようになってきた。・・・・それぞれが職場や家庭など自分の生きる世界について問題提起することが今、いろんな形で出てきています」。「SNSの普及もありますが、ツールが何かより、自分の境遇を自分で語ることは普遍的なことで、それを言えるということが大事です。・・・・ひとりの個人がつぶやいたことが拡散され、小さい方から大きい方へ流れをつくることは、今後も増えていくでしょう」。
 「昔だったら、例えば『労働者』といえばある程度モデル化できましたが、いまは個人の生き方も課題も細分化されていて、社会に共通の物語がない。・・・・私を主語に、個人がネットワークでつながり、社会にものが言えるようになってきた感じはあります」。「大学でも就職でも、一度レールから落ちたらどうしようもないんじゃないかと。食いつなぐためには勝ち馬に乗らなければいけない。そのためには政治みたいなものに関わらず、無色透明でいる方がいいという指向性は感じます」。「(選挙)投票が生活と直結していると実感できる人を地道に増やす方が大事」。「余裕のない社会では、自分で考えて声を上げるより、自分を国や政権と一体化させて生きる方が楽。でも・・・・ヒーローが自分たちを救済してくれるという考えでは、市民社会が豊かになるわけがない」。
 「いわゆる自己責任論で、貧しい者同士がぶつかり合う。自分のせいなんだから仕方ないじゃん、という考えが染みついている。社会の価値観に個人が縛られている部分、個人が社会の価値観をつくっている部分の両面があり、どちらを攻めても簡単に解決しない」。
 「(かつてのSEALDsの仲間たちとは)あまり連絡も取っていませんが、それぞれの立場で頑張っています。僕も今は仕事をしながらですが、なにかあればまた一人の市民として、街頭に立つ。組織化して影響力を持つあり方もあるのかもしれないですが、いろんな人がいろんな場で、いろんな形で取り組むのが、実は一番強いのではないかと思っています」。
 ●野口雅弘・成蹊大学教授「多様性を尊重し、他者を否定しないでおこうとする姿勢」。「今の学生たちは一つの正義に固執し声高に主張することはありません」。「相手を直接的に批判しません。他人を傷つけることを慎重に避けようとするのです」。「権力を厳しく批判するメディアや野党を(偏狭で独善的に見えるからと)毛嫌いする傾向」、「権力者のスキャンダルには不満を持っていたとしても、辞めるとなると、むしろ支持する。他人をなるべく否定しない『やさしさ』が現状肯定につながっているそれが若者の『保守化』と言われる内実なのではないでしょうか」。「SEALDsは・・・・内部の結束は緩やかでした。多様な価値観を認める『やさしさ』を大切にしたことが、運動が広がりを見せた理由でしょう」。「芸能人がSNSで政府に批判的な発言をし、たたかれるのを見れば、他者を否定し合う、やりとりの当事者になることを躊躇して黙ってしまうのでしょう」。「学校では制度や選挙のルールは教えても、対立するテーマについて自分の立場を決め、異なる意見を持つ相手と議論する機会が乏しい。それは教室の外でも『政治的だ』と避けられます多数派に同調せず、分裂もせず、『政治的論争の当事者になる力』を養うこと―SEALsの輝きは、この力を示したところにあったと思います」。

<24日のジャーナリスト・津田大介の論壇時評「安倍政権の功罪」>
 「論座」や朝日新聞など紙誌から11人の論者の見解を紹介。それには「日本史上の汚点」「腐敗は底なし」と厳しい批判か、「格差にあえぐ若い世代からすれば、学生が本を読み、人生や政治について考えていたなど、優雅なおとぎ話・・・・。安倍氏はそういう、本が読まれなくなった時代の総理大臣だった」など批判的なものもあるが、「個別の政策の達成度に注目すると違う景色も見える」として、安倍政権の社会保障政策で保育所の大幅拡充や教育無償化など画期的な成果を上げた」とか「一見相反するナショナリズムと政府主導の経済運営の独特なミックスなど『時代適合的』だった」といって評価するものもみられる。津田氏は、「自らに有利なタイミングで衆院を解散し、争点なき選挙でさらなる低投票率を招いた安倍政権は、低政治参加時代に最適化したという点でも、『時代適合的』だった」とし、「かつてなら政権が飛ぶようなスキャンダルが連発しても、選挙に勝ち続けた理由はここにあるのではないか」と指摘している。
 ここでも上記の宮台教授が指摘する「経済的貧困によって本当は苦しい状況に追い詰められていても、人々がかつてのように出身や階層で連帯できず、苦しさを周囲と共有できない―『粉飾された自意識』の問題」をとりあげている。
 そして「彼らに共通するのは『安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である』という意識である」、「対峙すべきは『アベ』ではなく、『私たち』のあり方だ」と締めくくっている。

<9月30日、朝日新聞GLOBE+World Now「なぜ若者の政権支持率は高いのか 学生との対話で見えた、独特の政治感覚」>
 朝日GLOBE編集長代理・玉川透氏「(大学院進学を志す真面目な)学生が言うには『 ぼくは選挙にいくとき、候補者の主張は調べはします。でも、どうしても距離を感じてしまうので、多数派から支持を得ている人に投票するようにしています』、その理由は『子育て、年金、医療、働き方・・・・各候補が様々な政策を主張するけれど、どれも「自分ごと」に感じられない。・・・・・そんなあやふやな考えの自分の一票が変な影響を与えないよう、せめて大多数の支持する「安パイ(安全牌)」に入れておこう、と考えたから』だという。
 学生は学級委員や生徒会の選挙のような感覚だと自分でいう。『親から仕送りを受け、納税もろくにしていない、ふわふわした学生の身分だから、そんなことが言える』とも。政治を身近に感じられず、他人ごとのように俯瞰してしまうのだ。」
 駒沢大学法学部の山崎望教授「森友・加計問題の議論では、安倍政権を肯定する意見がゼミ生25人の7割を占める。政権に批判的な学生に対して『空気が読めていない、かき乱している』『そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか』と。その理由は『政治の安定性を重視しているから』だと。・・・・理屈ではなく感覚、安定に浸っていたい、多数派からはじかれて少数派になりたくない、そんな恐怖が『少数派は罪』とまで」。
 山崎教授は(仮説として)「今の若者たちの多くは、日本古来の『システム』のようなものが政治の根幹にあって、それが自由民主主義だと思っている節がある。その下で選ばれた首相や与党を批判するのは、古来の『システム』にごちゃごちゃ文句をつけているようなもの。逆に、政権を批判する野党やジャーナリスト、活動家には関わりたくないのだろう」と。
 中央学院大の中川淳司教授「安倍政権が誕生して8年弱・・・・ずっと同じ政権。その政府のやることを最初から批判的に見るという発想はないのでしょう」。「(コロナ禍で)大学に行けない、就職もどうなるか分からない。政府や自治体の対策が頼りのコロナ禍は、良い意味でも悪い意味でも民主主義や政治に『自分ごと』として関わる初めての体験。彼らの意識に変化をもたらすきっかけになるかも」。
 北海道大学の吉田徹教授「日本では、教育現場でも政治的な話題に触れないことが原則」。「いま若年層に顕著にみられるのが『正解主義』・・・・ある高校生が『勉強不足だから投票できない』と言っていたのを聞いて驚いたが、政治に『正解』があるものだと、試験勉強の延長で捉えている」。
 (吉田教授は「民主主義の良いところは、やり直しがきくこと。共同体の構成員みなで決めて、みなでやってみる。ダメだったらもう一回、別の方法を試す。そのために少数意見を大事にする、見直すために定期的に選挙する。そんな民主主義の精神は、『正解主義』と折り合いが悪い」と。)

<10月16日朝日のオピニオン&フォーラム『耕論』―「長いものに巻かれたい?」>
 姜尚中・東大名誉教授は「菅政権の1ヵ月が静かに見えるのは、予定調和的なもの(この先どうなっていくか、誰の目にも予想がつき、その通りの結果になること、つまり『きっとこうなる』にきまっている、というもの―引用者)を求める国民の意識が背景にあるからだと思う」―「自然災害やコロナ禍など予測不能な出来事が頻発する不安の中で暮らしを守ろうとすれば、そう思うのは当然・・・・『生きるための知恵』だ」と。(ということは「どうせこうなるに決まっているのだから」と、それに合わせた態度・行動をとる、ということであり、「長いものに巻かれる」ということなのだろう。それは又「勝ち馬に乗る」とか、「寄らば大樹」とか、「大勢に従う」ということであり、自分の境遇や立場或いは使命感から「かくありたい」とか「こうでなければ」といって態度・行動を決する、というそういう主体性のある生き方ではない、それがいまの世の中の気分なのだろうか。誰もが予測した通りの結果になるからといって、「例えば菅氏が予想どおり総理大臣になった」その結果は、それでよかったという人もいるだろうが、ダメだ、「アベ政治を継承してこれ以上続けられてはタマらない。かえって不安だ」という人も少なからずいるわけである―引用者)

<10月14日、朝日、オピニオン&フォーラム、真山仁のPerspectives:視線、『若者と政治』>社会学者の西田亮介(真山氏との対談で)の指摘―「日本では、敗戦と新憲法公布という共通体験があり、民主主義とは何なのかということに、真剣に向き合わなければならない時期だったが、現代の学生にはそのような共通体験はない(あるとすれば受験競争―引用者)。それどころか、社会がどんどん分断されていて、同世代でも共通体験をした実感はないのでは」。
 内閣府の『社会意識に関する世論調査』で、「社会全体の満足度」では「満足している」の方が「していない」よりも高い。しかし「国の政策への民意の反映程度」では「反映されていない」が圧倒的に多い。つまり、政策に対する不満はあっても、自分たちの損得に関係しない限り、政治に関心は向かわない。政府の有り様を「そんなもんだろう」と認めてしまっているから。それに「戦争が起きているわけでも、平均的な国民まで貧困で苦しんでいるわけでもない。もっと大変な外国があるわけで、それを見ていると、いまの日本で満足しているのでは」。

<10月28日、朝日「経済気象台」欄『政権批判に必要なこと』―社外筆者(遼)氏>
「(安倍政権は)森友・加計・桜」疑惑など様々な問題を露呈したものの、政権全体の評価には決定的な影響を与えなかったということだろう。」「(世論調査での政権の実績評価は)数多くの政策や意思決定のポートフォリオ(資産構成)の総体的な評価」。「(全国紙にお願いしたいのは、一方的に批判攻撃を繰り出すのではなく)ポートフォリオの中で出来の良いものはこれ、悪いものはこれと、是々非々の評価をもっと増やすことが必要だ」と。

<11月4日、朝日新聞、『朝日地球会議2020』「進む分断 異なる意見の現実知って」>
富永京子・立命館大准教授―「日本でデモを違法と考える人が約10%いる」「若者のデモ参加率は(フランス55%、米国19%に対して)日本8%。国際比較からは日本人の『社会運動ぎらい』が浮かび上がる」「『偏り』を嫌う傾向、デモや座り込みなど社会運動は迷惑行為で、個人の『わがまま』だと否定的にとらえる傾向が強い」「生まれながらの格差はやむを得ないと許容し、自分の苦境を政治や社会に訴えて変えようとすることを『悪』ととらえがちだ」と。
 そうだとすれば、それは日本人・若者には憲法に保障されているはずの自分の意思・意見を表明する(集会・デモなど)「表現の自由」に対する権利意識(自覚)が乏しいということなんだろう。

 これらの論評は、要するに今の若者や国民は「政府の政策には不満はあっても、自分の損得には関係しないし、今の日本社会は昔の日本や他の国から比べればまだまし。政権なんて、どうのこうの言っても、そんなもんなんだだろうし、別に変えなくてもいいじゃん」ということで、「政治に不満はあっても変化を求めず安定・安全志向」だということ。「SNSなどで表面的な知識の量は豊富」。「政権に対しては『やさしく』(甘く)、自分には『厳しい』というよりは、自分が置かれた状況の真実に向き合うのがつらいばかりに、ただ、悪いのは『自己責任』で『自分のせいなんだから仕方ないじゃん』とあっさりしている。そして自分の見たいものしか見ない」。「多様性を尊重し、他者を否定しない。つまり『人は人、自分は自分』という感覚で、政権を厳しく批判するメディアや野党のほうを(偏狭で独善的に見えるからと)毛嫌いする」といった傾向を指摘している。
 そういったことで、長く政権を担当してきた政権政党とその政治家、世襲政治家、或いはその後継政治家が、実績豊富な安定政権という印象で評価され、それに「病気を抱えながらもよくぞ頑張ってくれた」とか「地方出身で叩き上げ」などといった情緒的な印象評価も付け加わって、結局「安倍政権でよかった、菅政権でいい」となっているわけか。

 社会共通の価値観(基本的人権や正・不正、善悪、公序良俗など)や共通利害(平和・安全保障・環境保護・持続可能な開発、防災・公共の福祉など)はあっても、個々人の価値観や利害は実に多様。
 人々の利害・価値観といえば、この資本主義社会は基本的に階級社会で競争・格差社会。資本家階級(企業経営者層でも大企業経営者層と中小企業主層に分かれ、株主も大小分かれる)に対して労働者階級(従業員・被雇用者、これら労働者でも正規と非正規に分かれる)、中間階級(自営業者・被雇用の管理職・医師・弁護士・技術者などの専門職)。また富裕層や上層階級に対して地位も権力もない庶民階級(中間層と下層階級・貧困層に分かれる)、それに競争上の勝ち組・負け組、或いは強者(資本家・富裕層・権力者層)・弱者(被雇用労働者でも非正規労働者などアンダークラス・低所得者・貧困層)という言い方もあり、権力を持つ支配階級に対して被支配階級という言い方もある。それら階級・階層などによって利害損得や価値観に違いがある。資本家と労働者とでは利害が正反対。
 資本家は労働者をできるだけ少ない賃金で雇って、めいっぱい働かせて(労働コスト―人件費・福利厚生費など―できるだけ少なく、労働時間はできるだけ長く効率よく働かせて)、利潤を最大限確保しようとするが、労働者の方は、人間的文化的生活に見合う、ゆとりのある働き方(労働時間の短縮と過密労働の緩和)と、できるだけ高い賃金を求める。資本家は法人税の減税と消費税増税を有利とし、労働者は消費税が不利。資本家は環境コストとエネルギーコストの安い原発や化石燃料を有利とするが、庶民にとっては命と健康の安全維持が第一。軍需産業・武器取引業者などの資本家にとっては戦争がこの世にあることを有利とする、庶民にとっては平和が第一で、戦争は「まっぴらごめん」、といったふうに資本家階級と労働者・庶民階級とでは利害・価値観が全く違うところがあるわけである。

 学者はといえば、大学の教員ならその利益団体である労組の組合員でもある教育労働者であるが、それ以外の学者・研究者で専門職としてなら「中間階級」の部類になるが、彼らにとって必要なのは「学問の自由」であり、学術・研究とその組織に対して政府からの支配・介入を受けない独立(自律)であろう。
 学生はどうか。資本家と労働者のどっちでもない中間。だから無党派・中立で、選挙では「どこへも投票しなくてよい」ということになるのかといえば、そんなことはあるまい。社長の子で後継者になる身であることを意識していて資本家階級に帰属意識を持つ者、または卒業後、就職して出世(昇進)競争に参加し最後の勝者となって経営者(資本家)になる者も中にはまれにいるかもしれないが、大半の学生は間違いなく被雇用者として労働者階級の身で終わる、いわば労働者予備軍。アルバイトならば非正規労働者だ。いずれにしても自分を労働者階級として意識し、その立場に立って政治や経済社会を判断し行動してもおかしくないわけである。少なくとも、自分は弱者なんかではないし、貧困層でもない、だったら資本家階級の側だなどと錯覚したりしてはいけない。
 それに政権や政党を「自分にとってどうなのか」という主体性を抜きにして、マスコミや評論家或いは学校教師のように第三者の視点で「良いところ、悪いところを挙げ、プラス・マイナスして総合点で評価するといったようなやり方は、けっして賢明なやり方だとは云えまい(例えば、アベノミクスであれ、「自助・自己責任」の新自由主義であれ、消費税増税・改憲・原発再稼働政策・カジノ導入政策、或いは「モリ・カケ・サクラ」問題など国政の私物化疑惑、政府権力者の支配から独立・自律的であるべき学術組織や司法機関に対する人事介入など、それらの政策や権力者の行為が、他の誰でもなく、自分にとって、自らが置かれている階級・階層的立場から見て、それぞれどうなのか、利害・価値観によって軽重を付け肝心なところでどうなのか、良い悪い、もしくはプラス・マイナスの評価判断をすべきなのではあるまいか)。

 各政党・政治家は、自らを「国民政党」と称し、国民全体の利益を代表しているのだと標榜し、支持基盤を広く国民各層に求めようとするが、現実は(資本主義社会である限り)資本家階級と労働者階級の2大階級を基本として上記のような各層に分かれ、その間には利害の対立や価値観の違いが厳然としてある。だから、それらすべての階級・階層の利益・要求に公平に応じてくれる政党・政治家などあり得ず、いずれか限られた特定の階級・階層をひいき優先し、できるだけ彼らに有利な政策を達成しようと努める党派性を持たざるを得ない。我が国では自民党・立憲民主党・国民民主党・公明党・共産党・社民党・維新の会その他大小幾つかあるが、それらの政党はそれぞれいずれかの階級・階層に足場を持ち支持基盤を置いている(集票組織と資金源を持つ)自民党は大企業を中心とした経営者や実業家つまり資本家団体―経団連・経済同友会・日本商工会議所など―に支えられ企業団体献金を受けている立憲民主党や国民民主党・社民党などは連合系の労組に集票を求め(立憲民主・社民党は自治労や日教組、国労・私鉄総連など、国民民主は電機・電力労連など)、共産党は全労連系の労組、自治労・全日本教職員組合などに集票を求めているが、資金源は党費と個人献金(カンパ)と機関紙の売り上げからで、それ以外に企業・団体献金など受けていない
 ざっくり言えば、自民党は資本家階級の党立憲民主・社民・共産などの野党は労働者・庶民階級の党と見なすことができよう。

 そのような中で、自分はどの(階級・階層の)立場に立って政治(政権とその政策)を評価・判断するかだ。それ(その立ち位置)によって評価は全く違ってくる。それぞれの立場(利害・価値観)によってとらえ方(論理)が違うからだ(資本家は利潤追求の論理、労働者は賃金・生活保障の論理で考え、それぞれの論理から見れば一方の利益は他方にとっては不利益となるなど)。
 その人の置かれている境遇や立場によって、或いは身を置こうとしている立場によって、仕事や生活の上で必要上「見たいもの(関心のあるもの、より重要なもの)を見る(見る必要のないものは見ない」というのは、そもそも当然のことであり、同じものを見ても、その境遇・立場によって違って見えるのも当然のこと。

 それにつけても、人には多かれ少なかれ自尊心やプライドといったものがあり、自分を「弱者」だとか「負け組」だなどとは思いたくないばかりに、自分が置かれた状況の真実に向き合おうとしない向きがある。つまり、自分の階級や階層に対する帰属意識や自分の立ち位置の自覚が乏しく、そこから主体的な政治判断のできない、主権者意識をしっかり持てない向きがどうしても多くなる。そういう人たちは結局、政治は他人事としてマスコミや評論家のように(第三者的に)論評したり、SNSなんかで言い立てる言説を鵜呑みにしたり、大勢に引きずられてしまうことになる。
 階級や階層を意識しつつ自身の生活のあり方を意識する(当事者意識をもつ)、そうすれば政治や政権に対して、他人事ではなく、その政治から影響(利害損得)を被っている当事者として主体的に評価・判断できるわけ。

 そこで問題は「どの立場に立つのか」である。その場合、その人は必ずしも自身がその階級・階層に属している当事者だからとは限らないわけで、その人の信条あるいは使命感(「自助・自己責任」を信条とするとか、「弱きを助け、強きをくじく」を信条とするとか、現体制を守護しなければならないとか変革しなければならないといった使命感)或いは心情(「厳しさ」「やさしさ」、或いは「彼らと共にありたい」“Me to”といった共感)によって、その階級・階層の立場に身を置くということもあるわけである。

 当方の場合はどうかといえば、その境遇・現在の状況からいって、庶民階級(中下層)の部類だと思っている。なので、おのずからそれなりの社会観・人生観・価値観が身につき、その立場に立った物の見方、考え方をし、政治や政権を評価・判断をしているものと思う。このような自分の境遇や信条からその立場に立つと、安倍・菅政権の政策・路線(アベノミクスの金融緩和とか新自由主義的な規制緩和政策・非正規雇用の拡大・「自助努力・自己責任」先行と社会保障縮減、消費税増税、安保法制、立憲主義の毀損と改憲策動、原発再稼働路線、それにモリ・カケ・サクラ問題など行政の私物化と官僚の忖度、それにともなう公文書改ざん・隠蔽、そしてコロナ対策の不備・遅れ等々)は、財界・大企業などの上層・富裕層を利するところは大いにあっても、自分ら庶民にとっては何の恩恵もなく「百害あって一利なし」としか言いようのない評価とならざるをえまい。

 自分の立つべき階級・階層的立場を意識すれば、政治家・政党や政権の評価も、「あ…この政権は財界・大企業本位の政権だ」とか「この政党は労働者・庶民本位の政党だ」とか、見極めがつくが、その意識がないと、どうしてもどっちつかずになり、結局「長いものに巻かれろ」で大勢にただ従うだけになってしまう。

 いずれにしても主権者として大事なのは、やはり自分の立ち位置(自分が属する階級や階層)を自覚し意識しながら意思表示すること。それにもう一つは、自分の属する階級・階層だけでなく、利害や価値観が相通じる他の階級・階層(労働者・農民・自営業者・中小企業者その他の中間階層など)と可能な限り広範囲な連帯をはかり、多数派(マジョリティー)を形成をめざし、その意識が、単なる階級意識にとどまらず、国民多数の共通意識とならなければならない。そのためには、単なる感情的・主観的独善(独りよがり)ではなく、理性的客観的に(事実と道理に基づいて)議論に臨まなければならないわけである。

 そのような国民の意識は、時々の政権やその政策を評価し、その推進、或いは阻止を促すだけでなく、かつて度重なる戦争を許した(それも当時の国民の意識からであり)そのことを痛切に反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」して憲法を制定したのも国民の意識からである。その改憲を許し、政府の行為によって再び戦争できるようにすることを許すのか、許さないのか、それを決定づけるのも国民の意識なわけである。

 上記の太田啓子弁護士は「政治の世界が変わらないのは、有権者の側の問題であるとも感じます」といい、また、朝日・論壇時評の津田氏は「彼ら(論者)に共通するのは『安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である』という意識である」、「対峙すべきは『アベ』ではなく、『私たち』のあり方だ」という。そうだ(有権者の側・私たち国民のあり方のほうが問題なのだ)とすれば、そのどこが問題なのか。「見たいもの(アベノミクスで株価上昇・低失業率、「地球儀を俯瞰する」外交など)だけ」を見て、見たくないもの(モリ・カケ・サクラなど)を見ないか、或いは見なかったことにし、「アベ政治を許さない」などというプラカードなんか見なかったことにして、あっさりと許してしまう、要するに「都合のいい情報だけを受け取る」という意味での「ご都合主義」。それがマジョリティーをなす国民の意識、その辺りが問題なのだろう。
 また、上記の朝日GLOBEで指摘された若者たち・学生の「空気に逆らわず」大勢や上層部に従おうとする傾向、要するに大勢順応主義。それにも問題があるわけで、それらには、我が国における、これまでの主権者教育の不徹底があるものと思われる。
 一人ひとり主権者として国や社会のあり方を考え、政治に関心を持ち、(それぞれ立場からの利害・価値観と政治道徳など普遍的な価値観を踏まえて)主体的に評価・判断できる能力(いわゆる「民度」というもの)が充分育てられてこなかった。
 そこには我が国の受験教育など、偏った知識・技能教育があるわけである。実はそれも、戦後、教育の民主化が(新憲法とともに制定された教育基本法第一条で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めたにも拘わらず)歴代自民党政権下の文部行政で、その路線は次第に後退し、国や企業に役立つ人材育成の能力主義教育の方に偏重していった、その教育政策の結果にほかならならない。なので、けっして国民が主権者として自らの努力を怠った自己責任に帰せられるような筋合いのものではなく、むしろ歴代自民党政権の文部行政が戦略的に主権者教育を怠って、いわば「民は由らしむべし、知らしむべからず」(為政者は人民に政策や法律に唯従わせればよく、いちいち説明する必要はない)という愚民政策によって大勢順応もしくは政治的無関心に仕向けてきた政権のほうの責任が問われなければなるまい。
 いずれにしても、我が国は、民主主義とはいっても、大勢順応主義か政治的無関心主義が根強く、どうしても政権の意のままになりがちで、「疑似的民主主義」といった感じを否めない欠陥がある。

 太田弁護士は「私たちが開く『憲法カフェ』では、参加者の言葉や行動から、ささやかながら主権者意識を喚起する効果を実感します」と語っているが、私どもの「憲法カフェ」も、かくありたいものだ。

2020年10月11日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき6)(随時加筆)

12月19日、山形県内の新規感染者7人―①上山市の10~40代の女性3人、②鶴岡市の50代男性、③山形市の80代女性―いずれも同居する家族の感染。④クラスターが発生している三川町の病院と酒田市の病院で入院患者各1人。
  18日、山形県内の新規感染者6人―①山形市の30代女性と70代男性、②上山市の50代男性2人、③酒田市の50代男女―いずれも過去に感染判明の同居家族で症状は重くない。
  17日、アメリカの新規感染者70万超。
     国内の新規感染(3211人で)最多更新。東京都の新規感染者(822人)過去最多。
     山形県内の新規感染者6人―①山形市の70代女性(重症、感染経路不明)、30代男性(同市内のクラスターのあったスナック利用客の家族)、②天童市の30代男性と酒田市の50代女性(いずれも天童市内のクラスターのあったスナック利用客や関係者)、③三川町のクラスターのあった病院の職員、④酒田市の50代男性(仕事で首都圏に滞在)。
  16日、国内感染死者(53人)前日に続き最多。重症者(618人)5日連続で過去最多更新。、東京都の新規感染者(678人)過去最多。
     山形県内の新規感染者9人(症状が重い人はいない)―①山形市内でクラスターが起きた介護事業所の利用者80代男性とその同居家族の80代女性、14日に感染公表のあった同事業所利用者の同居家族の60代男性、②天童市の40代男性(クラスター発生スナックの利用客)、③三川町の60代男性(クラスター発生病院の入院患者)、④山辺町の2人(30代女性と小学生女児で、前日感染公表の男子中学生の家族)、⑤その他、山形市1人、東根市1人、いずれも前に感染が判明していた人の同居家族や同僚。
  15日、山形県内の新規感染者16人―①山形市内の介護事業所で70~90代の女性利用者3人と30~70代の女性職員6人(同施設関係の感染者は13人でクラスターに)、他に3人(うち60代の夫婦は感染経路不明)、②天童市の40代男性と大石田町の20代男性、いずれもクラスターが起きたスナックの利用客やその同僚、他に感染経路不明の30代男性、③山辺町の男子中学生(感染経路不明)
  14日、山形県内の新規感染者12人―①山形市5人、②天童市3人(同市内でクラスターが起きた同一スナックのこれまで公表の感染者と同様その利用客とその家族・同僚)、③三川町1人(三川町の1人は同町内の病院の入院患者)、④村山市1人、⑤鶴岡市1人、⑥川西町の70代男性(12日感染公表の山形市の60代男性の同僚)。
  13日、山形県内の新規感染者13人―①山形市5人、②三川町3人、③天童市2人、④酒田市、東根市、村山市各1人
  12日、世界全体の累計感染者数7000万人を超える。
     国内の新規感染者が初の3000人超、東京都621人(最多更新)。
     山形県内の新規感染者22人(最多更新)―①天童市でクラスターが発生したスナックの客や従業員の知人(同市と東根市・村山市・大江町の20~50代の男女)計5人、②酒田市で院内クラスター発生の病院で40~80代の男性4人と職員の同居家族の80代女性、③三川町でクラスターが発生した病院患者の男女2人と20~40代の男性職員3人、③山形市の60代男性(クラスターが発生したスナック利用客の同居家族)と60代女性(10日感染公表のあった上山市の60代女性と同僚)と80代男性(これまでに感染確認のあった居酒屋の客)。
  11日、山形県内の新規感染者7人―①天童市のパブスナック従業員の40代の男女2人、うち1人の知人で尾花沢市の女性、同店の利用客で天童市の2人と東根市の1人(同店でクラスター発生)、②三川町の病院の職員で鶴岡市の20代女性。
  10日、国内の新規感染者(2970人)最多更新。「医療崩壊の瀬戸際」(コロナ感染以外の通常医療との両立困難)。
     山形県内の新規感染者15人(6日と並んで過去最多)―①三川町の病院の入院患者70~90代男女6人と50代女性職員(庄内町在住)1人(同病院内感染は、これまでの公表分と合わせ入院患者9人、職員2人で、クラスター発生と見られる)。②天童市内のパブスナック(前日、既に感染公表のあったスナック)の60代女性経営者と30代女性従業員の2人)、③山形市内のスナック(前々日来クラスタ―発生のあった同じ店)の利用客60代男女2人と店手伝いの50代女性、④山形市の40代男性会社員、上山市の60代女性従業員、東根市の50代女性会社員の3人(いずれも感染経路不明)―①~④いずれも無症状か、重症ではない。
   9日、国内の新規感染者(2810人)・重症者(555人)ともに過去最多。
    山形県内の新規感染者10人―①三川町の病院に入院中の60~90代の男女3人と同病院の職員で鶴岡市の50打女性、②天童市内のスナックの従業員で寒河江市の30代男性(感染経路は不明)、③山形市内60~70代の男女5人。うち男性4人は、前日クラスターが発生したスナックの利用客と感染した経営者の同居家族など。1人(70代男性)は居酒屋の経営者、もう1人(70代女性)は過去の感染者の濃厚接触者。
  8日、国内感染の死者(47人)・重症者(536人)とも過去最多。
   山形県内の新規感染者9人―①山形市:60代女性(スナック経営、過去に感染が公表された50~70代の男女4人が利用しており、クラスターが発生したとみられる)。小学生男児とその家族・親族の計4人(感染経路不明)。70代女性(前日、感染が公表された70代男性の同居家族)。②酒田市:60代男性(同市内の精神科病院に勤務、6日感染が公表された50代女性の同居家族)。50代女性(前日、感染が公表された20代女性の同居家族)。③鶴岡市:50代女性(感染経路は調査中)、①②③の9人とも重症ではない。
 このほか三川町の美容院で入院患者3人の陽性が判明。
  7日、山形県内の新規感染者4人―①酒田市の40代男性(クラスター発生の精神科病院の職員)と20代女性(経路調査中)、②鶴岡市の40代女性(自営業で5日感染公表の女子中学生の同居家族)、③山形市の70代男性(経路調査中)、4人とも重症ではない。
   6日、山形県内新規感染者15人―①酒田市の70~80代男性4人と60~80代女性3人(いずれも前々日来公表の感染者と同じ病院の患者)、30代男性1人と40~50代女性3人(いずれも同病院の職員)、50代女性(同病院関連会社の社員)、②鶴岡市の男子中学生、③山形市の70代男女(いずれも自営業で同居家族)。15人とも重症ではない。
  5日、山形県内の新規感染者6人―①酒田市の50~80代の男女5人(いずれも同市内精神科病院の入院患者で、前日公表の感染者20代男性職員と同一病院。院内でクラスターが発生したと見られる。症状は重くない)、②鶴岡市の女子中学生(1日公表の感染者と同級生で症状なし)
  4日、国内感染の死者(45人)・重症者(505人)ともに過去最多。
   山形県内の新規感染者3人(発表)―①鶴岡市の40代男性会社員(11月末以降に6人の感染が判明した子ども関連の会食に参加)と80代女性、②酒田市の20代男性(市内の精神病院に勤務)、3人はいずれも重症ではない。②の勤務する病院では独自の抗原検査で4人の陽性が判明している。
  3日、山形県内に新規感染者7人(発表)―①鶴岡市の40代女性(30日感染公表の同市40代男性の知人)とその同居家族の10代女子中学生(健康観察中)、②最上町の60代男性(①とともに県農林水産部の職員)とその同居家族の80代女性、③山形市の40代女性(団体職員)、60代男性、いずれもに2日感染公表された男性会社役員の同居家族、70代女性(2日感染公表の男性会社役員の同居家族)。①②③とも重症者なし。
   2日、山形県内の新規感染者4人(発表)―①鶴岡市の20代女性(27日感染公表の20代男性の同居家族)と50代男性(30日公表の同市40代男性の知人)、いずれも既に回復して自宅で健康観察中、②山形市の30代と70代の男性(重症)で職場の同僚、感染経路は不明
  1日、国内の新型コロナ感染による新規死亡者41人で過去最多。
     山形県内の新規感染者3人(公表)―鶴岡市の10代女子2人(小中学生で症状は重くない)と40代女性(無症状)。3人とも30日公表の40代男性感染者の同居家族。
11月30日、山形県内で新規感染者2人―鶴岡市の40代男性と庄内町の30代男性で同じ会社に勤務し、いずれも27日感染が公表された鶴岡市の30代男性の濃厚接触者。
  29日、山形県内で新規感染者11人―酒田市に7人(①50代男性と20代女性はいずれも会社員で、24日同市で感染が確認された同じ会社の同僚。この会社にクラスターが発生したとみられる。②10代未満の女子小学生とその同居家族の60代男性と40代女性、③20代男性会社員で27日同市の60代男性会社役員の家族、④60代女性で28日同市の感染者40代男性の親族)、山形市に3人(20代女性、50代男女、いずれも27日上山市の20代女性の家族)、寒河江市に1人(20代女性、勤め先が隣県)
  28日、国内の新規感染者が最多更新(2685人)、3日連続2500人超。重症者も最多440人。
   酒田市に新規感染者2人―40代と60代の男性(いずれも感染経路不明)、
   鶴岡市に同2人―60代と80代の女性で同居家族(前日発表された20代女性の濃厚接触者)
  27日、庄内地域で新規感染者5人(発表)―酒田市の60代男性会社役員、遊佐町の40代男性自営業者、いずれも感染不明。県外在住で庄内に帰省していた20代女性会社員。鶴岡市の20代と30代の男性会社員、いずれも24日に感染が判明した酒田市の50代男性の同僚。
    上山市の20代女性(週内に、隣県に家族旅行)
    置賜地方に1人―20代女性(県外在住で実家に帰省)、抗原検査で判明
  25日、上山市に新規感染者―50代男性会社員(今月中旬、首都圏にある勤務先の本社から来県した複数の社員と一緒に事務作業をしていたとのこと)
  24日、酒田市に新規感染者―50代男性(症状は重くない)
  22日、国内の新規感染者が5日連続2000人超。
   21日、国内の新規感染者が4日連続最多。7都道府県で最多更新。
     酒田市に新規感染者2人―10代と50代の女性・同居家族(感染経路不明)
     GoToトラベル(観光支援策)見直し―感染拡大地域への新規予約を一時停止、GoToイート(飲食店支援)でプレミアム付き食事券の新規発行一時停止も都道府県知事に検討要請。
  19日、国内の新規感染者が2日連続最多。東京都は初めて500人を超える。
    鶴岡市に新規感染者―30代男性2人(県職員、17日県の漁業試験調査船「最上丸」で宮城県に出張中に宮城県内で感染が判明・入院した40代男性職員と同じ乗組員)、それぞれの同居家族、40代女性と30代女性(市立保育園の職員)、いずれも症状はなし。
    酒田市に新規感染者―40代女性(「最上丸」乗組員で17日宮城県で感染判明した県職員の同居家族)
    山形市に新規感染者2人―①10代男子中学生(18日、感染が公表された50代女性の同居家族)、②40代女性(症状が出る前に2週間の間に県外に出かけていた)。
 18日、国内の新規感染者が初めて2000人を超える。東京都・神奈川県・埼玉県・長野県・静岡県で最多更新。
 17日、感染拡大も中高年世代の割合が増える。
    米沢市に新規感染者―40代男性・会社役員(県外出張から帰って)・軽症。
    山形市に新規感染者―50代女性、中等症。
 14日、国内感染が新たに1731人で、1日当たりの新規感染者が3日連続で過去最多を更新。
     東京都352人で4日連続で300人超。大阪府は285人で2日連続の最多更新、北海道は230人で3日連続200人超。
 13日、山形県内に新規感染者2人(PCR検査で判明)―①県外から村山地域の自動車教習所合宿に来た女子大学生。来県前に知人から感染。②山形市内の未就学女児で、10日に感染が判明した30代男性会社員(6日山形市の感染者の接触者)の同居家族。
白鷹町に新規感染者―50代男性(自営業)―12日の天童市感染者の濃厚接触者で、PCR検査を受け陰性だったが、この日咳などの症状がでたために再検査、陽性と判明。
 12日、山形県内で新規感染者2人―①天童市の60代男性(9日感染公表の女性と同居家族)、②村山市の30代女性、ともに6日感染が確認された山形市の男性の職場同僚。 
 11日、日本医師会の会長「第3波と考えてもいいのではないか」と(見解)。
    北海道・愛知県・大阪府で特に感染者が増えている。東京都では300人を超える。
    増加ペースが速くなり、重症者が200人を超える。
 10日、山形市で新規感染者3人(PCR検査で陽性判明)―2人は30代男性、ともに軽症、1人は20代女性で無症状、(いずれも6日感染が判明した30代男性と一緒に屋内でボランティア活動に参加・会食もしていた)。
 9日、天童市で新規感染者―30代女性(6日感染確認の山形市の男性と同じ会社に勤務)。
     山形市内で新規感染者―小学生男児(6・8日の男女2人の同居家族)、軽症。(男児の通う小学校に「どのクラスか教えろ」「隠しているのか」といった詮索や中傷の電話が複数あったという。)
 8日、山形市内に新規感染者―30代女性(前日の男性の同居家族)、軽症。
 6日、山形市内に新規感染者―30代男性会社員、中等症。県外(沖縄や愛知県)出張先で感染したとみられる
欧米で再び感染爆発
    イタリア(新規感染者が連日3万人前後で春の流行時の約5倍)―ミラノのある北部ロンバルディア州など4州でロックダウンへ―不要不急の外出禁止、大半の小売店が閉鎖、飲食店は店内営業禁止。
  5日、国内の新規感染者1000人超(8月21日以来)。北海道では119人で過去最多(10月に入って増え続けていた。8割近くが札幌市)。
  イギリス―ロンドンのあるイングランド全域で外出制限などロックダウンへ。
  4日、アメリカで新規感染者が初めて10万に。
10月フランス全土で仕事など以外の外出を禁止へ。
 26日、天童市で新たに感染者2人―80代男性(21、22日確認された感染者の家族)と40代女性(同感染者の親族)、22日にPCR検査を受け陰性だったが、症状が出たため再検査を受けたところ陽性と判明。同市内の旅館で役員4人が感染、月末まで臨時休業に。全社員にPCR検査実施、陰性確認。
 25日、フランスでは新規感染者数が5万2千人に達し、過去最多更新、夜間外出禁止区域を拡大。イタリアでも初めて2万人を超え、飲食店の営業時間制限、映画館やスポーチジムが閉鎖。スペインでは再び非常事態宣言、ほとんどの地域で夜間外出禁止。(ヨーロッパ各国は3月~、ロックダウンが行われて、一度は感染拡大が収まったかに見えたが、夏の休暇時期を前に規制が解除、8月以降、感染者数が増加に転じた。)
 24日、世界の1日当たり新規感染者が増加傾向にある中で、ヨーロッパ地域はその半数近くを占め、同地域としては過去最悪を記録。
 23日、世界で1日当たりの新規感染者数が最多更新(約50万6千人)。アメリカでは8万3千人を超えて過去最多。
 22日、厚労省にコロナ対策を助言する専門家組織(アドバイリーボード)が、最近の感染状況を「横ばいから微増傾向」と評価。
    天童市で新たに感染者2人―男子高校生と70代女性で前日判明の同居者。いずれも軽症。
 21日、天童市でコロナ感染者―40代男性、軽症。経路ははっきりしていない。
    スペイン・フランス・イタリアなどヨーロッパ各国で感染対策強化、夜間外出禁止など規制措置。アイルランドでは再び全国にわたって都市のロックダウン。スペインでは自治体間移動制限。
 20日、朝日川柳に「いつの間にか中国超えた感染者」。
 19日、世界で感染者数(累計)4000万人を超え、1日当たりの新規感染者数が初めて40万人を超える。死者は110万人超。
 12日、フランス・イギリス・スペインなどヨーロッパでコロナ感染の第2波が第1波に倍する高さで止まらない勢い。
  9日、米沢市に新規感染者―40代男性会社員、勤務先は県外、3日発症前の2週間に関東地方へ出張したことがあった。
      山形市では60代女性―8日の感染公表された男子学生の同居家族。
  8日、山形市で新規感染者―20代男子大学生(米沢の山大工学部在籍)。県外で陽性が確認された感染者の濃厚接触者。(発熱症状が出た9月29日までの2週間の間に県外に日帰りで複数回出かけていた。)
     有識者で構成する「新型コロナウイルス対応・民間臨時調査会」(委員長・小林喜光・前経済同友会代表幹事)が(1月から7月までの)コロナへの政府の対応を検証する報告書を発表。(*詳細は最後の方に列記)
  7日、トランプ大統領、感染入院して3日目(5日)退院し、ホワイトハウスの執務室で活動開始。ホワイトハウス内でスタッフや関係者34人の集団感染が明らかに。
  5日、WHOがm世界人口の1割(10人に1人)が新型コロナに感染した可能性があるとの見方(推計)を示す。
  2日、トランプ大統領夫妻とも、コロナ感染(検査で陽性)(容態は良好)
  1日、GoToトラベルー除外されていた東京(発着)も追認。外国人入国は観光客などを除き(ビジネスや留学などの目的では)全世界から解禁。
     米沢市内のI医院では、PCR検査が(保険適用外・消費税込み)2万5000 円、抗体検査が 5,500円、陰性証明書が 2,000円。(同医院にはその日、当方ががん検診の精密検査の相談に訪れて目にした貼り紙掲示)。
9月29日、北海道大学医学研究院の豊嶋崇徳教授らの研究グループが、(記者会見で)PCR検査の精度が、従来いわれてきた70%を遥かに上回る約90%であることが明らかになった。約2000の例証で唾液と鼻咽頭スワブの診断制度を比較。いずれも感度は約90%、特異度は両者とも99.9%だった(陰性なのに陽性と判断されてしまう偽陽性はほとんどなかった)と。
  24日、新規感染者数(7月末から全国的に減少傾向)が8月下旬から複数の都道府県で減少が止まったり、増加に転じたりしている(1人の感染者が何人に感染させるかを表す「実効再生産数」も1を下回っていることが多かったのが東京都や大阪府・愛知県で1前後を行き来、全国平均でも1に極めて近い水準に)。
     コロナの影響で解雇や雇止め6万人を超える(厚労省発表)
 20日、ヨーロッパで感染再拡大。
 19日、イベント開催の緩和―これまで感染拡大防止のため観客数や収容率にかかっていた制限(「人数上限5000人」か「収容人数の50%以内」のうち厳しい方に)が、プロ野球やコンサートなど大規模イベント(収容人数1万人超)は50%以内まで、収容人数1万人以下の規模で、観客が声を出すロックやスポーツイベント等は収容人数の50%まで、映画やクラシックコンサート、演劇などは万席も可(上限5000人まで)。当面11月まで。
 10日、専門家組織が、前回の会合での発表と同様、感染者数は7月27~29日以降、全国的に減少が続き、実行再生産数は東京都・大阪府・愛知・福岡・沖縄各県で直近(8月22日時点)は1を下回っている。
 4日、文科省の発表―全国の小中高校と特別支援学校で6~8月、コロナに感染した児童生徒は1166人。校内感染は15%、小中に限ると4%で、学校外に感染が大きく広がった事例もない―1166人のうち症状があったのは556人(48%)。感染経路は、家庭内感染が655人(56%)、学校内感染は180人で、内訳は小学校9人、中学校18人、高校(部活動での集団感染などあり)153人。同じ学校で複数の感染者が確認されたのは68件、うち5人以上確認は18件で部活動関連は9件―文科大臣は「学校は地域の感染を拡大する要因にはなっていない」と。
 2日、専門家組織(厚労省にコロナ対策を助言)が「感染が緩やかに減少」と―7月27~29日以降、8月中旬(お盆前)までの間。実効再生産数(1人の感染者が何人に感染させるか)は東京で1に近い値が強い続き、福岡県や沖縄県で1を上回っている可能性ありと。国立感染症研究所による推計では、致死率が第1波(1月16日から5月まで)より第2波(6月~19日)のほうが6分の1低い0.9%(70歳以上では3分の1低い8.1%)。検査拡大で無症状や軽症の感染者が多く見つかり結果的に致死率が下がった可能性や治療法の改善があると見られる。
8月30日、山形市内に新規感染者―同市立病院で来院者の案内などのボランティアしていた70代男性、24日発熱後も業務、病院は37.5度以上の発熱時には上司への申告を求めているが、男性は「熱中症」と判断し、申告していなかったという。29日に高熱のために救急搬送され、PCR検査で確認、肺炎の症状あり、中等症。
 28日、政府の新型コロナウイルス対策本部が感染流行地域や医療・高齢者施設などでの幅広いPCR検査等の実施を都道府県に要請すると決定(その財政的措置を政府が全面的にとることが課題になる)。
 21日、政府の新型コロナ感染症対策分科会メンバーの押谷・東北大教授が、6月以降の感染再拡大のピークは7月下旬で、それ以��
 19日、「第2波の真っただ中」と感染症学会理事長が見解。
 8日、新規感染者、埼玉・神奈川など過去最多(更新)。国内感染1000人超(5日連続)。
 6日、新規感染者、大阪・千葉・神奈川で最多(更新)。国内感染1000人超(3日連続)。
 5日、新型コロナによる世界の死者70万人を超える。最近は20日前後で10万人増えるペース。
 中国でPCR検査能力、1日で484万件に拡大(5か月で4倍に)。
日本医師会が「PCR等検査体制のさらなる拡大・充実のための緊急提言」を発表―保険適用による検査について、都道府県などとの間での行政検査の委託契約締結がなくても実施可能であることを明確化。患者一部負担金を公費で措置、検体輸送体制の整備、全国各地で検査機器の増設、臨床検査技師の適切な配置など「国は財源を確保したうえでその実現に努めるよう強く要請。
WHO(コロナ専門家による緊急委員会)「流行は長期化」―「1世紀に一度の危機で、影響は数十年間にわたり残るだろう」と。
 3日、コロナ国内感染者・累計4万人を超える―今年1月16日1人→3か月余り後(4月18日)1万人超え→80日後(7月7日)2万人超え→19日後(7月26日)3万人超え→8日後のこの日4万人超え。
 1日、新規感染者が東京都472人、埼玉県74人、千葉県73人、その他計8都県で過去最多更新。全国の新規感染者は4日連続で合計1000人超。
 PCR検査数(7月下旬時点で)1日約1万2千件(過去7日平均)―2ヵ月前(6月初旬)約3千件から比べれば大幅に増えた、だから感染者数も増えた、という向きがあるが、検査を受けた人のうちの陽性者の割合(陽性率)は6月初旬の時点では1.4%(1日に40人)だった、検査数が増えても陽性率がその割合(1.4%のまま)でとどまるならば感染数は170人ほどのなる計算だが、それが(7月29日の時点で1日の感染者は)実際は870人超で7%に上がっている(一般に検査数が増えれば陽性率が下がるものなのに)。だから検査数を増やしたから感染者数がその分増えたというのとは訳が違う。それに、検査数1日1万2千件に増えたといっても、世界のレベルでいえば(PCR検査の人口比での実施数は)157位で、途上国並み。

2020年11月10日

民主主義って何だ―アメリカ民主主義と日本民主主義

 民意・国民の合意に基づく政治
 民主主義とは「国民主権」ということで、全ての国民(一人一人)が主権者として参政権(選挙権・被選挙権・投票権など)を持つということ。但し年齢(18歳)が来れば選挙権・投票権が誰にも(1人1票)認められるからといって、それだけで民主主義が成り立つわけではない。
 その(主権者として権利を行使する)ために国民一人一人に必要不可欠とされるのは①知る権利(情報収集権・情報公開請求権)とともに②集会・結社・思想・信条・言論・表現の自由であり(どんな考え・意見を持とうが、表明しようが、抑圧を受けたり、その言論・思想が圧殺されたりしない)、それらの人権保障が前提条件となる(つまり、知識・情報を得る「知る権利」と自分の意思・意見を表明する「表現の自由」が全ての国民に保障されていないかぎり民主主義は成り立たないのだということ)。
 その人権が独裁者・専制権力者によって抑圧・圧殺されることにないようにするために必要不可欠とされるのが民主主義なわけである。
 つまり、人権保障と民主主義は、互いが成立するうえで、一方が他方を必要不可欠とする必要条件となっていて、人権保障が欠ければ「欠陥民主主義」ということになる。
  *①の「知る権利」については、情報公開請求で公文書の開示が求められた場合、その公文書が廃棄されていたり改ざんされていたり、隠蔽するようなことがあってはならない。「特定秘密保護法」も問題。(公文書法1条には、公文書は国民共有の知的資源として主権者である国民が主体的に利用し得るもので、国がその諸活動を現在および将来の国民に説明する責務を全うされるようにする、と定められている。)
   また、「知る権利」とは「教育を受ける権利」でもあり、学校では政治教育が充分おこなわれようにしなければならないわけである。

 このような民主主義に対して一部の人(独裁者・専制権力者の考え・意見だけ)によって国家運営が行われるのが権威主義(①全体主義体制ではないものの民主主義体制ともいえない中間的な体制、②非民主主義の思想や運動や体制の総称で各種の独裁主義や専制主義や全体主義などが含まれる)。

 国民―国によっては多様な人種・民族を抱える(多民族国家)
 国民の合意―国民全員一致が理想で、国民大多数の合意(決定に対して納得)が必要、その合意に達するまでには「まどろっこしい」プロセスを経なければならず、長い時間がかかる。
 それが待てないとか、そんなの不合理だという向きには、「どうでもいいから早く決めてくれ」と少数権力者の専断(トップダウン)に任せる独裁政治(権威主義体制)の方を良しとする考えを持つ。近年、権威主義体制(カリスマ的指導者)を求める(自発的隷従)傾向が強まっているといわれる。

 世界では現在―民主主義の国・地域は87で、非民主主義の国・地域の方が多く92で54%を占める
  イギリスの『エコノミスト』誌につながるシンクタンクによれば
  「完全民主主義」の国4%、「欠陥民主主義」の国44%、「混合政治体制」の国18%、「独裁政治体制」の国34%
  世界167ヵ国の民主主義ランキング(上記『エコノミスト』誌のシンクタンクによる)
  (評価項目①選挙過程と多様性、②政府機能、③政治参加、④政治文化、⑤人権尊重)
   1位ノルウェー、3位スウェーデン、4位ニュージーランド、6位カナダ、13ドイツ、14位イギリス、
   20位のコスタリカまでが「完全民主主義」
   21位(韓国)以下は「欠陥民主主義」、日本は22位、
   アメリカは25位(トランプ政権前までは「完全民主主義」だった)、
   76位(アルバニア)以下~14位(イラク)まで「混合政治体制」
   115位以下は「独裁政治体制」で、中国は130位、ロシアは144位、最下位は北朝鮮
   日本は投票率の低さ(17年衆院選では53%余)と女性議員の少なさ、報道の自由度の低さ(「国境なき記者団」によれば67位)が目立つ。
   北欧諸国の投票率は80%程度
   アメリカでも、今回の大統領選挙は66.4%(100年ぶりの高さ)
   アメリカの調査機関(ピューリサーチセンター)によれば―34ヵ国平均52%が自国の民主主義に不満(うまく機能していないと)、日本は53%が不満。

 民主主義の政治制度の型
多数者支配型(多数決民主主義、アメリカ型)
二大政党の対決、小選挙区制、選挙で51%の得票を得た勝者が選挙区の議席(アメリカの大統領選挙では州の選挙人)を独占し、相手候補に投票した49%の民意は切り捨てられる、単独政権、その任期が切れて次回の選挙で勝たない限り政権交代なし(勝てば交代)。
そのメリットはどちらかと云えば「決められる政治」(果断な決定)、大胆な改革(変革)には向いている)。(二院制で、上下両院で多数党が異なる場合は、「ねじれ」でなかなか「決められない」という場合もあるが。)
 デメリット―分断―政治文化の亀裂を招く
合意形成型(コンセンサス型、ヨーロッパ型)―できるだけ多くの意見を聞き、できるだけ全ての人が受け入れ可能な案をつくって幅広い合意・協調をめざす―調整・妥協・歩み寄り(面倒なプロセス・時間)が必要―対決・感情的な議論や個人攻撃は避ける(デメリットは安易な解決策に流れ、現状維持に陥りやすい)
 多党制・比例代表制、小党分立、連立政権(小党も政権参加・政権協力)

 「多数決民主主義」で、「決められる政治」が望ましいといっても、少数意見や批判を意に介さず「数に物を言わせ」て強行採決をものともしない、といったやり方は独裁政治と変わりなく、民主主義とは云えないことになる。だから、国民大多数から支持された権力者といえども、人権保障の法には従わなければならないという「法の支配」の原則と、憲法に違反してはならないという立憲主義の原則があり、違憲立法審査権をもつ裁判所(司法府)があって、立法府・行政府と間に権力分立の原則があり、地方分権もあるわけである。(但し、日本では裁判所人事で、最高裁の長官の指名も、それ以外の裁判官の任命も、下級裁判所の裁判官の任命も、いずれも内閣に任命権を認めている。最高裁の裁判官については「国民審査」はあるものの、それはかなり形式的で、実質を伴ってはいない。アメリカでは最高裁判事の任命権は大統領にあり、党派的な人選が行われたりしている。)
 *公務員の任命権に関しては、憲法15条には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは国民固有の権利であり、全ての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあり、首相や大臣の政策や意向に「合う合わない」で任命したり、任命拒否をしたりしてはならないわけである。日本学術会議に対しても然り。
 公務員にしろ学術会議の学者・研究者にしろ、奉仕する相手は国民全体であって首相や大臣ではあるまい。その「任命」主体が天皇とか総理大臣とか内閣となっていても、天皇による総理大臣任命の場合は「国会の指名に基づいて」、最高裁長官の任命の場合は「内閣の指名に基づいて」、総理大臣による日本学術会議の会員任命の場合は「学術会議の推薦に基づいて」とあるかぎり、「任命」は形式的なものであって、国民に対する実質的なその(人選の)責任は、あくまで指名した者、或いは推薦した者が負うもの。
 
 民主主義は制度(仕組み・システム・形式手続き)としてはそうなっていても、実質が伴わず、機能していない場合がある。だから肝心なのはその制度を運用する為政者・政治家たちの(「国民のため、国民全体に奉仕する」「独善に陥ってはならない」という)意識・自覚と、彼らを選挙で選ぶ国民の(主権者としての)意識・自覚である―その制度を利用して権力を手にした政治家や政治勢力が利権や野望を果たそうとしたり、国民の多くがそれに気が付かなかったり無関心だったり―デマゴーグ(扇動政治家)と衆愚政治、ポピュリズム(大衆迎合主義)など―に陥ることないようにしなければならない。
 *ポピュリズム―(冷静で合理的な判断からではなく)一時的な感情や空気によって政治的態度を決めてしまう大衆の意思を重視して、その支持を集めようとし、既得権層・エリート層・リベラルな学者やジャーナリストらに対する反感・敵意を煽る。

 「大衆の支持を得ようと思うならば、我々は彼らを欺かねばならぬ。・・・巧みな宣伝をたえず用いれば、人々に天国を地獄と見せることも、その逆に、最も惨めな状態を楽園のように見せることもできる。」
 「大衆は小さな嘘より大きな嘘に騙されやすい。なぜなら彼らは小さな嘘は自分でもつけるが、大きな嘘は怖くて付けないからだ。」
 「人々の大多数は、その態度および性質において女性的であるから、彼らの活動や思想は、冷静な考慮によって動機づけられているよりは、感情によって左右されている。・・・・宣伝の効果は、したがって、常に感情に働きかけることに向けられねばならない。・・・・大衆の組織者は・・・・大衆の弱点と野獣性につけこむよう努めねばならない。」
 これは誰のことばだろうか?・・・・・・・・・・・ヒトラー(『我が闘争』の文中にある)


2020年12月07日

民主主義って何だ―その2

古代ギリシャ―デモス(民衆・人民)クラティア(支配・権力)→デモクラシー
 君主や少数の貴族・特権階級に対する民衆や人民(多数者)による支配・権力
   (ギリシャでは、その堕落形態として「衆愚政治」に陥ったケースもあり、ローマ共和国ではシーザーが独裁権を握って以後、帝国に化していった。)
 君主専制や貴族共和制に対して人民民主独裁(多数者の専制)―中国「中華人民共和国」(憲法1条に「人民民主独裁」とあり)、北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国」(憲法12条に「人民民主主義独裁」とある)
 人民投票によって個人に独裁権が認められる場合―「人民投票的独裁」(シーザーやナポレオンやヒトラー)―カリスマ的人気を博し、民衆が自己の決定権と主張権を権威者に委ねる(「お任せ民主主義」)。このような民主主義には多数者の専横(横暴)と少数者の疎外・迫害などの問題が付きまとう。

 民主主義とは「人民主権」ということで、社会の構成員で一定年齢に達した全ての人が(一人一人)主権者として平等な参政権(決定権・主張権・選挙権・被選挙権・投票権など)を持つということであるが、意見や得票が分かれて、審議・討論でいくら話し合っても折り合いがつかず合意に達しない場合は多数決でより多くの賛成や得票が得られた意見(案)や候補者が採用される。その場合、熟議を尽くすことが必要であり、互いの意見が(たとえ少数でも)尊重され、譲歩・妥協(歩み寄り)も必要とされるたとえ圧倒的多数でも多数意見が正しく何でも許されるとは限らない。少なくとも真理(自然の理法)や道理に反してはならず、人権・人道を踏み外してはならないのだ。
 それに一人一人に主権が認められ、参政権が認められている限り、その権利を行使しようと、しまいと(棄権しようと)、その(民主主義の)下で行われた政治の結果には責任を負わなければならない。その結果責任は為政者(「独裁」とか「権威主義」などと見なされている政府や政党の政治家)だけに帰せて済まされるものではなく、全ての有権者が負わなけらばならないのだ(仮に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が」起こるとすれば、その戦争責任は政府にだけでなく、全ての有権者にも、それを招いた責任の一端があるとみなされよう。戦後まもなく伊丹万作・映画監督が戦争責任の問題に関して、権力の大衆操作によって「だまされた」国民には単なる被害者とばかりは言えない「だまされた罪」があるのだと、当時、国民には主権者意識がなかった権威主義体制の下でさえ、権力者たちと国民のいわば共犯関係を指摘している)。
 民主主義国といわれている国では為政者たちを選び政府など権力を支えている多数派国民には政府の行為の結果に対して責任があり、その権力の暴走(濫用)を抑えなければならない主権者・国民としてのいわば自己責任がある。しかし、国民自身にその自覚(責任意識)がないか、或いは国民自身が為政者・権力者たちと一緒になって暴走しかねない場合もあり得る

 そこで近代、それ(多数者の権力)に制約を加えるものとして「法の支配」(「法の下に平等」、この場合は「法」には成文法に限らず慣習法・自然法も含まれる)や立憲主義(憲法による人権保障)、権力分立主義(三権分立)の原則が考え出されたわけ。

 国家は個人間・地域間・人種や民族間で様々に(利害・価値観など)異なる国民で構成され、内部それに外部との対立や紛争の種を抱える。それは政治権力によって統御される。民主国家では、その政治権力は利害・価値観などが異なる階級・階層・地域・民族のうちの多数派が投票・多数決によって主導権が握られ、政治決定がおこなわれる。その場合、その決定によって少数派の利益や人権が無視・犠牲にされることのないように多数者の権力に縛りをかけ、専横を抑止するのが「法の支配」・立憲主義、権力分立主義の原則なのである。
 また、民主主義とは全ての国民(一人一人)に主権者として参政権を認めるということであるが、その参政権を行使するために国民一人一人に必要不可欠とされるのは①知る権利(情報収集権・情報公開請求権)とともに②集会・デモ・結社・思想・信条・言論・出版・表現の自由であり(どんな考え・意見を持とうが、表明しようが、抑圧を受けたり、その言論・思想が圧殺されたりしない)、それらの人権保障が前提条件となる(つまり、知識・情報を得る「知る権利」と自分の意思・意見を表明する言論・表現の自由が全ての国民に保障されていないかぎり民主主義は成り立たないのだということ)。
 
 国によっては、国内外に対立・紛争の種を抱えていて、それを統御して国の存立・統一・国家安全を維持するために強大な権力(強権)を必要とし、「法の支配」・立憲主義、権力分立主義の原則にとらわれない向きがある。中国や北朝鮮などの所謂「権威主義国家」である。
 (中国は広大な国の領域と巨大な人口・他民族を抱え、歴史的に欧米や日本などからの侵略に悩まされてきた国。香港はイギリスから返還されたが、「一国二制度」の形で地区独自の行政・立法・司法権を認め市民には言論・集会の自由も認められてきたものの、それは今や中国政府によって覆されつつある。台湾は中国革命にともなう内戦以来分離したままとなっていて、中国(本土)政府はあくまで台湾と中国は一つの国家として統一を目指すも、本土とは違う制度を現状のまま認めるという「一国二制度」の方針をとっているが、台湾政府の現政権はそれを拒否し、厳しく対立している。
 北朝鮮は日本による植民地支配から脱したものの南北分断、朝鮮戦争があって休戦状態にはあるものの未だに集結していない。)

 「法の支配」・立憲主義・権力分立主義を伴った民主主義は、欧米や日本もそのような民主主義国と見なされているが、北欧や西欧のそれを「完全民主主義」と見なし、それに対してアメリカや韓国、そして日本のそれも「欠陥民主主義」と見なす向きがある。
 (日本のそれには投票率の低さと女性議員の少なさ、報道の自由度の低さ等が指摘されている。)

 近年、日本では政権による「集団的自衛権の行使容認」など憲法の解釈変更と恣意的運用が重なり「立憲主義の危機」という状況に立ち至っている。
 そのあげくの改憲策動。その改憲は自民党によって企図され、その策動に公明・維新などの政権党とその補完政党が迎合している。
 世論調査では改憲の議論は「急ぐ必要ない」、「憲法以外の問題に優先して取り組むべきだ」という声の方が大多数。(5月3日憲法記念日に際する調査では「急ぐ必要がない」が朝日新聞の調査では72%、「憲法以外の問題に優先して取り組むべき」がNHKの調査では78%)
 国民の大多数が憲法を現行のままで不都合と感じて改憲を切実に求めているわけではないのに、政府与党が安保政策・自衛隊の軍事的運用などの都合上、現行憲法(9条)による縛りを解いて思い通りに運用できるようにするために、と自らの都合で改憲しようとして「上からの(誘導による)国民投票」を求めているのだ。まさに権力を縛るための憲法から縛りを解くための改憲であり「立憲主義の破壊」そのものである。
 国民が求めているのは、むしろ現行憲法の通りに人権を保障すること(現行憲法が政府に要求している人権を実現すること)であって改憲ではないのだ

 このような改憲策動は、先ずは阻止しなければならない(改憲反対の立場からすれば国民投票どころか、国会発議自体が必要ないわけである)が、人々の改憲論(意見・主張)に対しては議論を交え意見を交わすことにやぶさかではあるまい。議論することによって現行憲法擁護に対して確信を深めるのだ。

2020年12月20日

憲法改正手続法(国民投票法)

そもそも改憲の手順
①衆参各院の憲法審査会で―何らかの改憲・加憲事項が「一定の合意に達した」ところで、その改正文案が作成され、それが衆参各審査会でそれぞれ半数以上の出席委員の過半数の賛成で可決すれば、それを(衆院では100人以上、参院では50人以上の議員の賛成を得た上で)憲法改正原案として国会に提出。
②それが国会本会議にかけられて衆参各院とも総議員の3分の2以上の賛成があれば憲法改正の成案として「発議」(国民に対して提案)。
③それが国民投票(特別の国民投票または選挙の際に行われる投票)にかけられ、過半数の賛成が得られれば国民がそれを承認したと見なされる。

憲法改正手続法-その規定
①国民投票は国会が発議した日から60~180日の間に実施。
②この間、「国民投票公報」(選挙公報にあたるもの)配付。
      「広報放送」(選挙のときの政見放送にあたるもの)が行われる。
 国民投票運動(勧誘)―原則として自由(萎縮しないようにと)
   ・個人でも会社でも政党でも自由にでき、18歳未満の年少者も外国人も禁止されていない。
   ・集会・演説会を街頭でも屋内でも開けるし、宣伝カー・スピーカーを使った運動も自由。
   ・ビラやポスター(枚数)は無制限。手作り看板も。
   ・メディアに意見広告を載せるのも可。
   ・戸別訪問も、手紙やハガキ・電子メールもSNSなどネットの利用も可能。
   ・個人間でなら(組織が多くの人を対象に行うのでなければ)金品・飲食物を提供して投票を働きかけるのも、罪には問われない。
   ・運動費用の上限や収支報告の義務もない。
   ・CM(広告)は投票日前の14日間(2週間)は広告放送などに規制はあるものの、それより前の期間であれば規制はない。ネット広告の規制もない。(「私は賛成」などというだけなら投票当日も流せる。)
 その一方、公務員・教職員の「地位利用による」投票運動は禁止
③投票方法―投票用紙の記入方法―賛成か反対か、どちらかを〇で囲む。
④有効投票数の過半数の賛成で成立。

問題点
(1)憲法をどう変えるのか―  
 ①現行憲法の前文から11章全般にわたって変えるか、②部分的にある条文だけを変えるか、新条項を追加する(加憲)か―その場合、どこを、どう変えるのか、或はどんな条項を加えるのか。
 自民党の2012年の改憲草案は①のような全面改正案だったが、2018年の改憲素案(「たたき台」案)は②で次の4項目に絞り込み―
 (ⅰ)9条改正(9条に「2」を追加して自衛隊を明記,
 (ⅱ)緊急事態条項(73条の「2」を追加して内閣が政令を制定できるようにし、64条に「2」を追加して国会議員の任期を延長)、
 (ⅲ)参院選「合区」解消(42条と92条を改正、各都道府県から少なくとも1人選出できるようにする)、 (ⅳ)教育の充実(26条に3項追加―大学など高等教育の無償化、89条改正―私学助成の合憲性を明確化)。
  これらを項目ごとに賛否を問うことになる。
(2)質問文(問い方)が不適切だった場合―曖昧だったり複雑だったりして解かりにくければ、判断のしようがなく棄権や白票が増える。或いは「誘導質問」の懸、念も。
(3)有権者に判断材料の提供・情報開示が充分行われるのか。
(4)勧誘運動は公正に行われるのか―(広告放送には数千万円から億単位の資金が必要であり)資金力に勝る側が有利(不公平)。
 政党の資金力によってCM量・広告枠(時間帯)の配分に違いが出る。
 (日本民間放送連盟は「表現の自由」の観点から「テレビ広告の量的な自主規制しない」との方針。)
(5)最低投票率の規定なく、どんなに投票率が低くても―たとえば投票率40%だったとすると、その過半数55%は、有権者全体から見れば22%。つまり、たった2割台の少数でも)成立することになる。
  
 尚、この国民投票法を制定したのは2007年(第1次安倍内閣の下、自公の賛成多数で可決成立)(2010年施行)だが、
 2014年―一部改正(投票年齢「18歳以上」に引き下げ)。
 そして2016年公職選挙法改正にともない、2018年、自民党が国民投票法の改正を提案したものの、ずうっと継続審議となってきた改正案で、今、採決を急いでいる案は次のようなもの―
 ・駅や商業施設などへの共通投票所の設置。    
 ・期日前投票の理由に「天災・悪天候により投票所へ行くのが困難の場合」を追加。
 ・要介護者の郵便投票の拡大。
 ・投票所に同伴できる子供の範囲―「幼児」から「児童・生徒その他の18歳未満の者」に拡大―など7項目。
 立憲民主党は、これらに加えてテレビCMなど(広告費の上限設定や放送局に自主規制を求めること等)の規制拡大を提案。
 共産党は改正案自体に反対。

2020年12月21日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき7)(随時

1月31日、山形県内の新規感染者3人―①天童市の40代男性(感染経路不明)、②山形市の70代女性と50代男性(感染者の家族や親族、男性は市内小学校に勤務、同校は臨時休校に)
  30日、山形県内の新規感染者13人―①大江町のグループホームで70~90代の入所者5人(入所者・職員に再検査で新たに確認)、②山形商業高校で女子生徒、③山形市・南陽市・朝日町・川西町で幼児を含む男女5人(いずれも過去に公表感染者の同居家族・知人、山形の80代男性と川西の20代男性は感染経路不明)
  29日、山形県内の新規感染者7人―①川西町の30代男性と女子小学生(前日公表感染者の同居家族)、前者の知人で同町の30代男性(男性2人は発症前、後に感染判明した首都圏在住の人と会食)、②山形市の20代と70代の女性、朝日町の70代女性、上山市の40代女性(いずれも過去に公表感染者の同居家族や同僚・知人)
  28日、国内での、この日の感染死者113人(過去最多)。
      山形県内の新規感染者7人(症状はいずれも重くない)―①朝日町の40代女性と男子小学生(26日感染公表の60代女性の同居家族)、②川西町の30代女性と同居する女児、③山形市内の30~80代男女3人(感染経路不明)
  27日、全世界の感染累計1億人に達する(78人に1人)。
     山形県内の新規感染者10人(症状はいずれも重くない)―①大江町左沢のグループホーム(前日入所者に感染公表があった施設でクラスター発生)の入所者3人(80~90代女性)と職員4人(寒河江市・西川町・山辺町に住む40~60代の男女)、②上山市の高校生、③河北町の50代男性、山形市の70代男性。
  26日、山形県内の新規感染者5人―①大江町の90代女性2人(福祉施設の入所者)、②朝日町の3人(24日公表の同町感染者の関係者)
  24日、山形県内の新規感染者1人―朝日町の60代女性(感染経路不明)
  23日、山形県内の新規感染者1人―山形市の40代自営業女性(感染経路不明)
  22日、国内感染死者この日108人(最多)
     山形県内の新規感染者1人―山形商業高校の男子生徒(前日感染公表の2人のうちいずれと同じ部活)
  21日、山形県内の新規感染者2人―クラスター発生の山形商業高校の生徒男女(前日公表の同校感染者の同級生)
  20日、山形県内の新規感染者6人(いずれも症状は重くない)―①山形市の高校の女子生徒5人(前日感染が公表された同校の同じ部活部員、同部は9~11日連日バスで隣県の学校に日帰り遠征・練習試合)―クラスター発生と認定、②県外在住の30代男性会社員(過去に感染公表の白鷹町の男性会社員の職場関係者)
  19日、国内の感染死者この日1日だけで104人(最多)、重症者も1000人に達し過去最多。
     変異ウイルス、国内ではこれまで47人確認。
     山形県内の新規感染者4人―①山形市の高校女子生徒2人(同じ部活)、②県外在住の50代と30代の男性(いずれも長井市の新庁舎建設工事の関係者で、過去に感染が公表された白鷹町の男性の職場関係者) 
  18日、国内で感染者の自宅待機療養が急増(3万人超える)―容態が急変しても即入院できずに死亡も。
    この日までに確認されたクラスター4238件―医療機関と福祉施設で4割、その他は飲食・運動施設等・学校・教育施設等・企業等
  16日、世界のコロナ感染死者200万人超える。
    山形県内の新規感染者2人―①金山町の70代男性、②山形市の20代男性
  15日、山形県内の感染死者1人(感染入院中の患者)、新規感染者2人(いずれも感染経路不明)―①白鷹町の40代男性、②小国町の50代男性
  14日、新型コロナウイルスのワクチン、約50ヵ国で3500万人近くが接種。(日本では「2月下旬までになんとか接種したい」と菅首相)
    山形県内の新規感染者3人―①山形市の50代女性(学校勤務だが子どもと接する業務ではない)、②村山市の50代男性公務員(発症前に県外出張)、③モンテディオ山形所属の20代男性(新シーズンに向けての始動に際して全員PCR検査で1人陽性)
  13日、国内の感染死者1日で97人(過去最多)
大阪府と京都府・兵庫県、愛知県と岐阜県、栃木県・福岡県も緊急事態宣言の対象に。
  12日、山形県内の感染死亡者1人(入院中の患者)、新規感染者1人―三川病院に入院中の60代女性(同病院では75人目)
  11日、山形県内に感染死者1人(入院中の山形市の患者)、新規感染者1人―山形市の20代女性(前日公表の感染者の同居家族)
  10日、山形県内の新規感染者3人―①天童市の70代男性(過去に感染公表の同市職員の同居家族)、②山形市の40代女性(前日感染公表の女子大学生の同居家族)と20代男性(感染経路不明)
   9日、山形県内の新規感染者8人(いずれも症状は重くない)―①東根市の20代男性(県警鉄道警察隊所属で山形駅でパトロールや道案内などに従事、感染経路は不明)、同居する30代女性と乳児、②三川病院の入院患者60代と70代男性2人、③河北町で以前感染した患者の同居家族、④山形市で20代女性(大学生)
   8日、山形県内の新規感染者4人―①山形市の20代男性(感染経路不明)、②天童市の70代女性(過去に公表感染者の同居家族)、③三川病院の入院患者で60代と70代の2人
   7日、政府が緊急事態宣言(昨年4月以来2回目)―対象は首都圏(東京都と神奈川・埼玉・千葉3県)、期間は8日~2月7日、措置①飲食店について、午後8時まで閉店、酒類提供は7時まで、応じた店に協力金(上限1日6万円)、応じなければ店名公表。②劇場・遊園地などの営業―午後8時まで、③住民の不要不急外出―午後8時以降自粛、④大規模イベント―入場者収用人数の50%を上限に5000人まで、⑤企業の「出勤者7割削減(テレワーク)」
この日、国内の新規感染者(7553人)さらに最多更新、東京都(2447人)、神奈川・埼玉・千葉(1都3県で全体の半分が集中)、それに大阪・愛知も最多更新。
     山形県内の新規感染者1人―河北町の40代女性公務員(感染経理調査中)
   6日、国内の新規感染者6000人に達する。
   日本医師会長「すでに医療崩壊」(コロナ患者の医療とそれ以外の医療の両立が困難になり、必要なときに適切な医療を提供できない事態)と。
    山形県内の新規感染者10人―①三川病院の入院患者で40~70代男女3人(同病院関連の感染者は職員20人、患者50人、計70人)、②山形市の10~70代の男女5人(いずれも前日感染公表40代女性の同居家族)と親族(県外から帰省中)の40代女性、③天童市の40代男性(過去公表感染者の同居家族)―症状はいずれも重くないか無症状。
   5日、国内の新規感染者4900人超、死者76人(ともに過去最多)。
     山形県内の新規感染者5人―①金山町の60代男性(首都圏から帰省後に感染判明した親族と接触)、②置賜地域に帰省中の首都圏在住20代女性、③三川病院入院患者の40代男性、④山形市の40代女性(感染経路不明)、⑤新庄市の50代女性(過去に感染公表の親族)
   4日、山形県内の新規感染者5人―①三川病院の入院患者3人(50~70代男女)、②山形市在住の男性(県外で感染確認された人の濃厚接触者)、東京在住で帰省していた女性
   3日、山形県内の新規感染者6人―①最上町の50代男性(自営業、先月21~23日関東に滞在)とその家族2人、同家滞在中の東根市の親族20代女性、②三川町の病院に入院中の30代女性と50代男性
   1~2日、山形県内の新規感染者4人―①三川町病院の入院患者2人(50代と60代の男性)、②山形市の10代と50代の女性(先月20日公表の同市内70代女性の同居家族)
   1日、山形県内の感染死亡者2人(入院中)、
12月31日、国内の新規感染者(4515人)と東京都の新規感染者(1337人)ともに最多更新。
   山形県内―感染死亡者1人(入院していた)、新規感染者は5人で、いずれもクラスター発生の三川病院関係者(酒田市の20代女性と60代男性は同病院の職員、三川町の40代女性2人と60代男性は入院者)、いずれも重症ではない。
  30日、山形県内の新規感染者4人―①置賜地域に首都圏から帰省中の40代男性、②三川町病院の入院患者60代男性、③山形市の60代と80代の男性(いずれも感染経路は不明)
  29日、山形県内の新規感染者9人―①山形市の50代女性(県立中央病院職員)、40代男性、20代女性(県立河北病院職員)、小学生女児(4人とも同居家族、感染経路は調査中)、②尾花沢市の30代女性(感染経路調査中、③三川町病院の70代男性2人(入院患者)と鶴岡市の30代男性と女性(2人とも同病院の職員)
  28日、新型コロナ変異種の流入で、全世界から我が国への外国人の新規入国を禁止へ。
     GoToトラベル(旅行代金割引)が全国一斉に停止。
     山形市内に感染死者1人(入院中亡くなる。県内6人目)山形県内の新規感染者3人―いずれも三川町病院関係で、入院患者の80代女性と、職員で鶴岡市の20代・50代の女性。
  27日、山形県内の感染死者が新たに1人(5人目、村山地域の病院に前々日体調悪化で救急搬送されて間もなく亡くなるも、検査で感染判明)、他に新規感染者4人―①三川町の60代と70代の男性(いずれもクラスター発生病院の患者)、②天童市の50代女性(25日感染公表の同市職員の同居家族)と60代男性(感染経路調査中)。
  26日、国内の新規感染者(3880人)、東京(949人)ともに過去最多更新。
     山形県内の新規感染者6人―①三川町の30代男性3人(いうれもクラスター発生病院の入院患者)、②鶴岡市の男子中学生(過去事例との関連調査中)と40代男性会社員(神奈川県から出張で来県、感染経路不明)、③山形市の50代女性(前日公表感染者の同居家族)
  25日、国内の新規感染者(3832人)、同死者(64人)ともに最多更新。イギリスからの帰国者5人から同国発生の変異種ウイルス感染確認。
     山形県内の感染死者4人目、新規感染者10人―①山形市の20代女性(感染経路・調査中)と70代男性(先に公表の感染者の同居家族)、②鶴岡市の30代男性(感染経路調査中)、③酒田市の20代男性(首都圏に出張中感染か)、④天童市の50代男性市職員(感染経路不明)、⑤三川町のクラスター発生病院の入院患者で50~80代男女4人、⑥村山地域の自動車教習所に県外から来ている20代男性。
  24日、国内の新規感染者(3712人)最多更新。
     山形県内の新規感染者11人(いずれも症状は重くない9―①三川町の病院で20~50代職員4人と支援業務に当たっていた鶴岡市の30代公務員、60~70代の入院患者の女性2人、②天童市の4人(うち2人は小中学生)。
  23日、国内の新規感染者(3267人)過去最多。
     山形県内の新規感染者4人―①山形市の60代女性(同市内・クラスター発生の介護事業所の利用者)、同市の30代男性と未就学の男児(過去に公表感染者の同居家族)、②天童市の70代男性(感染経路不明)。
  22日、国内コロナ感染死者3000人超える。
     山形県内の新規感染者6人(いずれも重症ではない)―①天童市職員20代男性と同市の50代男性会社員(いずれも感染経路不明)、②山形市の団体職員30代男性(感染経路不明)、③三川町でクラスターが起きた病院の職員で鶴岡市と酒田市の20代男女、④村山市の80代女性(20日公表のあった感染者の同居家族)。
 県医師会の部長ら県医療団体「やまがた医療緊急事態宣言」―「医療現場は、ほとんど崩壊の入り口に来ている」と。  
  21日、日本医師会など医療関係9団体が共同で「医療緊急事態」宣言―今のままで感染拡大が続けば「新型コロナ感染症だけでなく、通常の医療が受けられなくなる」と警告。
山形県内の新規感染者10人(重症者なし。4人は無症状)―①山形市で30~80代男女4人と男子小学生(いずれも過去に感染が公表された人の同居家族や友人、うち50代女性の1人は天童でクラスター発生のスナック利用客の友人) ②三川町の50代と80代の女性(いずれもクラスター発生病院の入院者)③鶴岡市の20代と80代の女性(いずれもこれまで感染判明している2人の同居家族)④河北町の70代女性(感染経路調査中)
  20日、イギリスで確認(9月に出現、感染力がより強く支配的な型になりつつあると)されたコロナ変異種がヨーロッパ各国やオーストラリアでも見つかる。
国内感染20万超す。
    山形県内の感染死亡者が新たに1名、新規感染者は5人―①山形市の70代女性(感染経路不明で重症)、30代女性(18日感染公表の50代男性の同僚)、②三川町のクラスターがあった病院の入院患者男女2人、③村山氏の50代女性(感染経路不明)。

2021年01月08日

民主主義って何だ―(その3) コロナ禍で試されてる(加筆版)

民主主義のキーワード
 ① 社会公共(公的領域)の課題に関する決定には人民が直接または間接(選挙・代表者県を通じて)参加―意見がまとまらない場合は多数決
 ② 個人の私的領域(私権)に関しては自己決定権

 世界の国々は大小いろいろ、国によって国民も(社会階級・階層・民族・宗教などが)いろいろで、多民族国家・移民国家もあれば単一民族国家(に近いような国)もある
その国の大多数の国民にとっては、国の統治システム(政治体制の形式)はどうあれ(民主主義であれ権威主義であれ)、それぞれの国民にとって肝心なのは、自分たちの暮らしの安全・安心にとってより有利で満足な政策・決定が行われる実利であって、その方がだいじ。
 多数者(少数の富裕層・資本家階級・エリート層などに対する勤労・庶民階級にとって「より有利で満足できる」政策・決定がなされるには、「人民主権」として全ての国民に参政権(投票権・選挙権・被選挙権など)が与えられていて、多数決によって決定される民主主義システムが最適ではある。しかしそれには、その政策・決定がはたして自分たちにとって「本当に有利で満足できるもの」なのかを自分で見分け見極められる知識・情報・判断力が必要であり、それが伴わなければ、結局、少数エリート政治家あるいはその逆のポピュリスト政治家に依存し、「お任せ民主主義」になってしまう。そのエリート政治家・名望政治家も人格者で「庶民の味方」であるならよいが、下心のある野心家でデマゴーグ(扇動政治家)ならば衆愚政治(民主主義の堕落形態)に陥ってしまう(民衆はごまかされ、フェイク―嘘や詐術にはめられてしまう)
 権威主義(専制・独裁主義)体制でも、その政治家が人格者で「弱きを助け、強きをくじく庶民の味方」であれば、衆愚政治よりは「まし」だともなる。(民主政体には合意決定に時間がかかるという難点があるが、権威主義体制にはその点では即断・果断な決定・執行ができるという利点もある。)しかし、そのような体制の下では、為政者は常に人格者で「庶民の味方」として善政が行われ続けるという保障はないわけである(とかく暴政・圧制に陥る)―「多数者専制」が暴政に陥るということもある(フランス革命ピーク時におけるジャコバン党独裁下の恐怖政治やソ連のスターリニズム或いは毛沢東の文化大革命の時のような)。
 暴政・圧制に陥らないようにするには、やはり民主主義システムの方が確かなやり方だ。それには権力を縛る立憲主義(法の支配)と権力の暴走を防ぐ権力分立(三権分立)がともなう。それに民主主義が「お任せ民主主義」や衆愚政治に陥らないようにするために、全ての国民に主権者として政治に主体的に関与(投票・集会・デモなどにも積極的に参加)する自覚とともに、そのために必要な知識・情報(判断材料)を得る権利(「知る権利」)が、思想・信条・言論の自由および出版・集会・結社などの政治活動の自由とともに各人に保障されなければならない(また権力チェック・監視機能をもつメディアには報道の自由が保障されなければならない―権威主義体制では権力によって国民が監視されるが、民主主義ならば国民の方が権力を監視し、権力側が握っている情報を必要に応じて開示させ、説明を求めなければならない―メディアにはその役割がある)。
 民主主義は、無条件では、最も優れている政体だとは云えず、権威主義体制と比べれば民主主義のほうが「まだましだ」とも言えない。
 民主主義も(形式的民主主義で)システムとしては整っていても、国民に主権者意識に欠け、知識・情報など「知る権利」と思想・言論・政治活動の自由が充分保障されていなければ、あるいは保障はされていても、国民にその気(主権者意識・責任感)と「不断の努力」がなければ、民主主義はうまくはいかない。(有力政治家や政党に)「お任せ民主主義」になってしまっては、権威主義体制と同然になってしまう。その指導者・為政者が有能で信頼できる人物であれば、任せっきりでもかまわず、庶民は「政治なんかに」煩わしい時間を割かれずに済んで(生業や余暇に専念できて)楽にできるし、選挙や投票や審議・決定に時間がかかり過ぎるよりは権威主義体制の方が「ましだ」となってしまう。
 
 その(民主主義の)良し悪しは、それによって為政者の統治が国民の大多数にとって恩恵が得られ、安心・安全が得られているか否かで国民は評価するのだから。(大多数の国民にとって安心・安全とは「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利」が保障されることにほかなるまい。)恐怖とは外敵との戦争や内乱など戦災と自然災害(天災)(コロナ禍もその部類)であり、欠乏とは飢餓・貧困。国民はそれら(恐怖と欠乏)から免れ、平和の裡に健康で文化的な生活を営む、その暮らしが、その政治体制の下で保障されていることこそが国民にとっては一番肝心なことなのでは。

 民主主義であれ権威主義であれ、政治体制が、コロナ禍(感染症の恐怖)のパンデミック(世界的流行)で、各国とも試されているのだ。
 それぞれの国の政治体制下でコロナ対策は巧くいっているのか、政治体制の不備・矛盾が露呈していないか(コロナ禍に遭っても恐怖と欠乏を免れているのか)どうか。
●アメリカ合衆国(人口3億2700万人、少数の先住民インディアンとヨーロッパ・アフリカ・アジアから渡ってきた色々な人種の移民から成る多民族国家)の場合はどうか
  感染者数2261万8066人 うち死者37万6280人(1月13日現在)
●中国(人口14億3500万人。大多数(9割)が漢民族で、他にモンゴル系・チベット系・ウイグル系・満州系など50以上の少数民族から成る多民族国家―統一維持の重要性)の場合はどうか
  人口14億3500万人。大多数(9割)が漢民族で、他にモンゴル系・チベット系・ウイグル系・満州系など50以上の少数民族から成る多民族国家―統一維持の重要性。
  感染者数 9万6920人 うち死者4793人(1月13日現在)
●韓国(人口5182万人)の場合は
  感染者数6万9651人 うち死者1165人(1月13日現在) 
●ベトナム(人口9500万人、社会主義体制)の場合は
  感染者数1590人 うち死者35人(1月14日現在)
●日本(人口1億2590万人)の場合はどうか
  感染者29万9021人  死者4190人(1月13日現在)  

 日本は、民主主義の現体制を基本的に維持するとしても、感染症などのパンデミックや大地震・津波など災害有事に際しては最悪の事態まで想定した災害対策・感染症対策など有事体制を構想し、必要な準備を予めしておくことが肝要。(中国の「権威主義」体制が望ましいとは思わないが、日本ではロックダウン(都市封鎖)をして全市民にPCR検査・感染者隔離措置を断行するようなことはできないなどと決めてかからずに、それが感染爆発・医療崩壊など最悪の事態を招かないようにするために有効であり必要不可欠ならば万難を排して断行することができるようにしておくべきだろう。)
 その準備には、平時には、医療機関・保健所など、多すぎ「不要不急」で無駄だとして見なされ、統廃合されてきた施設(専門病院・病床)・人材(医療従事者)の復活・確保も必要。
 人が起こす戦争とは異なり、自然災害や感染症はいつか必ず起こるもの。兵器や軍事施設などのように無駄になるということはあり得ないのだから。
 尚、ロックダウンして移動の自由や営業の自由を制限するなど、我が国の現行憲法では(改正して緊急事態条項を新設しない限り)不可能であると決めつける向き(改憲派)もあるが、現行憲法には12条に「この憲法が国民に保障する自由および権利・・・・国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」とあり、また13条には「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重」とあり、憲法が保障する自由および権利(基本的人権)は「公共の福祉」により制約される場合があるのだ、ということだ。その災害対策や感染症対策などに際する「公共の福祉」のための非常特例措置を可能とする法律が制定されている。現に災害対策基本法や感染症法・医療法(感染症による入院隔離措置などの規定)があり、いま今回のコロナ禍で発せられている「緊急事態宣言」は新型インフルエンザ等感染症対特措法に基づいている。この感染症法や特措法に関して、いま罰則など強制力を強める改正案が検討・議論がされているが、これら現行の法律を改正するなり、「感染症対策基本法」などの新法を制定するなりすれば、ロックダウン等もっと徹底した非常措置を講じることは現行憲法下でも可能なはず。(強制的移動制限―交通規制や遮断―等の規定は現行の感染症法33条にあるが、その実施期間は最長わずか3日間に限定されている。これなどは「数週間」とするように改正すればよいのでは。)

 民主主義が「何」であれ、それぞれの国民にとっては、国や政治のあり方として最も大事なことは、全ての国民に「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利」が保障されていることなのではあるまいか。その国で暮らせば「生命」と「健康で文化的な最低限度の生活」、「自由」(といっても、それは単に「自分の思い通りにすることができる自由」なんかではなく、自己の能力・個性・主体性の存分発揮すなわち自己実現と「恐怖と欠乏からの自由」すなわち平和的生存権など)、そして何人も幸福を求めて生きようとする権利すなわち「幸福追求権」が国家によって保障される、そのことが一番大事。

 日本は民主主義国と言われるが、この国の政府によって国民は誰もが「恐怖と欠乏から免れ」て暮らせているかだが、今は感染症の恐怖とそれ(感染対策による営業・生業・雇用等の縮減)に伴う欠乏にさいなまれている。
 
 感染症のパンデミックで、今はどの国も深刻な状況にあるが、とりわけ米国は、「民主主義の手本」などと云われる国だが、大統領の「暴政」・「分断政治」と思われるような言動や政策もあってコロナ禍は惨憺たる状況にある。
 「自由の国」ということで言論・表現の自由、集会・デモ・結社の自由、それに銃の所持の自由まである。そしてツイッターなどでフェイク情報や煽り演説、集会・デモに武装集団が加わり、議事堂に乱入・占拠するという事件まで起きている。(大統領のツイッター書き込みに対してツイッター社がアカウントを停止する、といったことも行われている。)

 一方、中国では、アメリカとは対照的に行政当局が徹底して規制を加え、政府に批判的な言論や政治活動を抑えこむ―情報統制。(ネット書き込み等はアダルトや暴力を楽しむ有害サイトや人を誹謗中傷する書き込みを削除するだけでなく、政府に批判的な論評をする特定サイトへのアクセスをブロック、書き込みを削除。)
 香港(かつてのイギリス領で近年返還され、「一国二制度」として自治を認めてきた特別行政区)における反政府的を動き(国の分裂や転覆につながる行為)に対しては徹底して取り締まる方針をとっている。
 中国はコロナ禍の震源地でありながら、その実態を明らかにせず、情報を隠蔽、それが感染を世界にまん延させ、被害を拡大させた、というので責任を問う向きがあるが、新型ウイルスの存在と人への感染が最初に発見・認知されたのが中国であるのは事実だとしても、様々謎が残っていることも事実。100年も前、第1次大戦中、戦没者を遥かに上回り、5000万~1億人、日本では40万人もの感染死者が出たパンデミックは「スペイン風邪」と称されるが、その発生源はアメリカで米兵がヨーロッパに運んだか、フランスの英軍駐屯地か、ヨーロッパに動員された中国人労働者か諸説あり、未だに不確定であり、断定は難しいとされている。しかし、最初に感染が確認された武漢をはじめ真っ先に感染拡大の兆しが見られた中国では、厳しいロックダウン・境界規制やPCRの大規模検査・感染者隔離、携帯電話の履歴を通じた感染者との濃厚接触者を追跡する監視網などによってさらなる感染拡大の抑え込みに成果を上げている。そしてGDPは、主要国(軒並みマイナス)の中にあって唯一プラス成長。

 他に、北欧諸国やニュージーランドなど民主主義がうまくいっている国やコロナがうまく抑え込まれている国があるが、それらの国を羨ましがるのもいいが、この国(日本)の民主主義を可能なかぎり良くする方法を考えたほうがいいかな。憲法だけを見れば、この国には、どの国にも劣らない民主的な平和憲法があるのだから。

2021年01月27日

憲法カフェでの話題から考えついたこと

参会の方々から提起され交わされたお話から当方が考えついたこと。

(1)自衛隊について―9条を変えるのではなく、自衛隊の方を変えては
 ①自衛隊は災害など何かあると有難がられ感謝されるが、「違憲だ」と云われると隊員やその身内の人は傷つき、肩身の狭い思いをする、だから合憲となるように改正すべきだ、という論について。
そういうふうに(自衛隊の当事者たちのプライドを傷つけるように)させるのは憲法(をつくった者)のせいではなく、「自衛隊」をつくって(警察予備隊~保安隊から改編して装備を拡充し、米軍の同盟軍として)実質的に軍隊化させてきた政権党政治家の責任なのであって、それを憲法に照らして「違憲だ」と指摘する論者の責任ではあるまい。
 だから自衛隊に対して(その当事者たちの心を害するような)違憲論なんか生じる余地のないように憲法を変えてしまえというのは間違いで、皆がしっくりゆくように変えるのであれば、自衛隊のほうを変えるべきなのでは―憲法が禁じている軍隊的側面(軍事の部分)を取り除いて、災害出動や領域(海上・領空・国土)警備や非軍事国際貢献などに特化するなど。
 ② 非軍事国際貢献について
 アフガニスタン紛争下で
  中村哲氏らペシャワール会はNGO(非政府組織)だが、彼らの偉業は、アフガニスタンで、医療だけでなく、あのような大規模な灌漑用水路建設工事をやってのけ、荒野を緑野に変えたという壮大なボランティア事業であった。
    伊勢崎賢治氏は国連職員・日本政府代表としてアフガニスタンで軍閥の武装解除を指揮した。
    ところが政府はアメリカのアフガニスタン侵攻を支援して自衛隊をインド洋に派遣し米軍の後方支援に当たらせた。
    自衛隊を海外に派遣するのであれば、(米軍を後方支援するなど)中村氏から「有害無益」と評されたようなやり方ではなく、中村氏らがやったような医療・灌漑などの事業に非武装でたずさわる平和的国際貢献であって然るべきだろう。

(2) 「お金でではなく、現物で」ということについて(T先生が提起された話題から)
 ① 交換・貨幣経済(商品・市場経済)―売って代金を得る、取引と購買の関係、債権と債務の関係―富や金銭・利潤の追及
   見返り(代金・金銭的報酬・利子・利潤)が目的
   売るもの(商品)があり、購買力のある者しか参加できない
   労働者は労働力が売りもの(すなわち商品)―賃金はその代金
   資本家は労働者を雇い(労働力を賃金で買って)彼らが稼ぎ出した生産物(それには剰余価値が付加されていて、それが利潤となる)を売却して利潤(儲け)を得る
 ② それに対して贈与経済(ギフト・エコノミーorボランタリー経済)―必要としている人に与えるのが目的、というやり方
   カンパは「お金」で行われるが、寄付は現物でも行われるし、ボランティアは労働で行われ「時間の贈与」とも云われる。
   それは「善意」(自然の人間心理で利他的欲求・相互協力欲求)から発し、任意(相手から「見返り」があろうとなかろうと、こだわらない)で、相手の必要(ニーズ)に応じて与える―但し、見返りを期待しないとはいっても、「与えれば、いつかは誰かから返ってくる」との期待が人間心理としてある。そこから互いに「お金」では量れない「善意」から発するサービスのやりとり・・・・「ボランティア切符」や「地域通貨」(エコマネー)のやりとり―なんらかのサービス(奉仕)の対価として受け取り、それを使ってまた別のサービスが受けられる。
 ③ 憲法25条「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し、
 「国は、すべての生活部面について、社会福祉・社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めなければならない」ということで、これには国民の権利と国の責務が定められている。そこで後者(国が行わなければならないこと)について―
   「生活保護」も、食糧は現物支給(炊事などできない場合は宅配弁当)(衣料・日用品も?)、住居は無料、医療・教育は無料、ただし「文化的な生活」の部分(新聞・テレビ・端末など)の経費は給付金。
   子供食堂・フードバンク・炊き出し等も、民間ボランティア任せではなく、国の責任で常時提供(或いは助成)するシステムがあって然るべき。
   
(3) 核のゴミ(使用済み核燃料)の始末―最終処分場の問題
 T先生は「まず原発は再稼働せずに廃絶して、これ以上始末のできない核のゴミを出さないようにすること」その方が先なのであって、その議論(核のゴミをどこに埋設するか等のこと)は、それからだと。
 そもそも核のゴミを「埋め捨てにするのは正しくない」と(日本学術会議2012年)。(小出・元京大原子力実験所助教によれば)再処理し「ガラス固化体」にして地中の底深く埋めても、「高レベル放射性廃物」は、この日本のような地震国ではどこでも10万年もじっとさせておくことなどできないのであって、核のゴミはそれを作り出した世代が「黒い目で監視」できるところに、とりあえず置いておくしかなく、そこから後の始末は専門家の知恵を集めて考えるしかないのだと。

(4)憲法の「制限規範」性と「授権規範」性(S・T先生から提起された話題から)
 憲法の主たる目的は国民の人権保障なのであって、憲法には、その人権の内容(平、が定められ、それを保障するために奉仕する国家の諸機関の役割と権限が定められている。憲法はその人権規定と統治機構の規定から成りたっていて、後者の統治機構について国の諸機関に権限を付与するのが授権規範であり、その権限の行使を制限し濫用を禁じるのが制限規範。現行憲法では憲法によって授権されている国家機関としては、国会に立法権・国政調査権、裁判所に司法権・違憲立法審査権、内閣には行政権(それに警察権も含まれる―自衛隊の運用権限はその延長線上にあるというのがこれまでの政府解釈)と外交権・条約締結権が授権されているが、軍事に関する権限(軍事権)はどこにも書かれていない。
 今、自民党などが企図している改憲(加憲)で、9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認という制限規定)に「その2」として「前条の規定は‥‥自衛の措置をとることを妨げず、・・・・自衛隊を保持する」などと書き加えられればどうなるか。
 それは国(政府)に自衛隊運用(軍事)の権限が憲法によって授権されることを意味する。これまで自衛隊法など法律によって授権され認められてきた自衛隊の運用権限は、最高法規たる憲法(9条)によって(自衛隊の武力行使など)軍事は制約を受けてきた。それが憲法に「自衛の措置・自衛隊の保持」と明記され、憲法によって国(政府)にその権限が付与(授権)されたとなれば、政府の自衛隊運用(軍事)に対する許容度が格段に高くなる(集団的自衛権の行使や敵基地攻撃など、これまで控えられてきたことが堂々と行えるようになる)わけである。(国の軍事に対する「制限規範」であるはずの9条が授権規範に変質してしまうことになる。)
 また、「緊急事態条項」の加憲も企図されており、憲法にその条項が「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情がある場合、内閣は政令を制定することができる」などと内閣への授権規定が書き加えられたりすれば、今、コロナ禍で感染症対策特措法の改正案が国会で審議され、野党から批判や反対のある改正事項(命令違反に罰則規定など)のようなものも、内閣(政府)の一存(閣議決定)で政令として制定され、権限の発動ができるようになってしまう。
 これらのことも、そもそも権力制限規範であるはずの憲法が授権規範性を強める結果(変質)を招くことになるわけである。

 

2021年02月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき8)(随時

3月31日、山形県内の感染死亡者が新たに1人、新規感染者が33人―①山形市13人、②寒河江市7人、③上山市4人、④河北町3人、⑤天童市2人、⑥山辺町2人、⑦酒田市1人、⑧白鷹町1人。
  30日、感染再拡大―NHK「第四波、各地で再拡大」と。
     全国の各都道府県10万人当たり新規感染者数の直近1週間平均ワースト5―(1位)宮城県41人、(2位)沖縄県36人、(3位)大阪府25人、(4位)山形県22人、(5位)東京都18人。
     山形県内の新規感染者27人―①山形市19人(うち1人は同市内のクラスター5例目の飲食店利用客。幼児から90代までの男女16人は、いずれも過去に公表感染者の家族・友人・職場関係者など)、②天童市4人(1人は29日公表感染者の同居家族)、③上山市3人(1人は28日公表感染者の同僚)、④朝日町1人(27日公表感染者の同居家族)。
  29日、山形県内の新規感染者23人―①山形市7人(うち2人は同市内の飲食店の利用客で、同店ではこれまで従業員と利用客の計3人の感染が公表されており、同市内ではクラスター5例目)、②寒河江市2人、③天童市2人、④酒田市2人、⑤山辺町2人、⑥庄内町2人、⑦上山市1人、⑧河北町1人、⑨西川町1人、⑩大江町1人、⑪白鷹町1人。
  28日、山形県内の新規感染者34人(うち16人は感染経路不明)―①山形市16人、②寒河江市5人、③山辺町5人、④中山町2人、⑤米沢市1人(60代男性)、⑥天童市1人、⑦東根市1人、⑧尾花沢市1人、⑨西川町1人、⑩高畠町1人(70代女性)。
  27日、山形県内の新規感染者45人―①山形市20人、②寒河江市11人、③東根市4人、④上山市3人、⑤朝日町2人、⑥村山市1人、⑦天童市1人、⑧米沢市1人(高校生で、25日感染公表のあった上山市の高校生の友人)、⑨白鷹町1人、⑩酒田市1人。
     寒河江市にも県独自の緊急事態宣言。
  26日、山形県内の新規感染者34人―①山形市13人(うち2人は高校生で、前日感染公表のあった高校生の友人。1人は小学生で、24日公表の感染者の同居家族。1人はクラスター発生のあった山形ワイバンズのスタッフ。1人はクラスター発生のあったパブアンドレストランの利用客)、②寒河江市6人(うち3人は24日公表のあった同市感染者のうち1人の同居家族。2人は25日感染公表のあった高校生の同居家族)、③東根市6人(うち幼児を含む4人は前日公表のあった同市感染者のうち1人の同居家族)、④上山市3人(いずれも前日感染公表のあった感染者のうち1人の同居家族)、⑤南陽市2人、⑥酒田市1人、⑦新庄市1人、⑧長井市1人、⑨山辺町1人、⑩大江町1人。
  25日、山形県内の新規感染者49人(最多更新)―①山形市21人(うち男女4人は4例目クラスター発生飲食店関係。 2人はクラスターのある介護施設の関係者。1人は高校生。1人は先に感染者が出た寒河江署の警察官)、②上山市9人(うち4人は小・中・高校生で、前日感染公表のあった高校生の同居家族)、③寒河江市6人(うち一人は高校生)、④酒田市5人、⑤東根市3人、⑥村山市1人、⑦天童市1人、⑧中山町1人、大江町1人、⑨白鷹町1人(前日公表の同町感染者の同居家族)。
  24日、山形県内の新規感染者21人―①山形市12人(うち2人はクラスターのあった山形ワイバンズ関係者の同居家族。もう2人は21日感染公表のあった隣県滞在歴のある男性会社員の接触者の、そのまた知人の同居家族)、②寒河江市3人、③酒田市2人、④上山市1人(高校男子)、⑤高畠町1人(20日と21日公表のあった米沢の感染者2人の知人)、⑥白鷹町1人、⑦飯豊町1人(⓺の同僚)。
    山形市で18~23日公表の感染者8人は市内の飲食店の従業員と客で、クラスター(4例目)発生と見られる。
  先に山形市と県独自の緊急事態宣言を発出して宮城県との往来自粛など要請したが、それらに加えて27日~来月11日の間、飲食店の時短も要請。
  23日、山形県内の新規感染者20人―①山形市11人(うち4人は19日同市内でクラスター発生した飲食店の利用客。2人は21日公表のあった隣県に滞在歴のある感染者の接触者およびその知人。1人は20日と21日公表あった米沢の感染者2人の知人)、②天童市2人(うち1人は山形市内クラスター発生飲食店の利用客)、③新庄市2人(21日公表あった南陽市の感染者の家族)、④寒河江市1人(21日感染公表の同市職員の知人)、⑤東根市1人、⑥南陽市1人(21日公表あった同市感染者の同僚)、⑦大石田町1人、⑧山辺町1人(山形市内クラスター発生飲食店の利用客)
  22日、山形県内の新規感染者21人―①山形市16人、 ②中山町2人、③寒河江市1人、④上山市1人、⑤河北町1人
   山形市に自治体独自の緊急事態宣言―市全域で不要不急の外出や移動自粛。
   1都3県―緊急事態宣言解除。
  21日、山形県内の新規感染者26人(過去最多。当初31人と発表されたが、そのうちクラスター発生と見られた山形済生病院の職員5人は後日再検査の結果いずれも陰性と判明、クラスターはなかったと修正))―①山形市16人(うち8人は男子プロバスケットチーム・山形ワイバンズの選手、19日公表の感染者と同チームでクラスター発生。別の1人は同市内でクラスターが起きている飲食店の女性従業員)、②寒河江市3人(うち男性1人は同市職員、1人は男性会社員で18日山形市公表感染者の同僚、1人は女性会社員で17日公表の感染者の同僚)、③天童市2人、④米沢市1人(前日公表の同市感染者の知人)、⑤東根市1人(前日感染公表の中山町高校生の知人)、⑥南陽市1人(他県感染の知人)、⑦山辺町1人。
  20日、山形県内の新規感染者21人―①山形市13人(うち4人は、市内の介護施設で20代男性職員の感染が公表されていた同一施設の利用者で80~90代男女。1人は山形済生病院の職員。1人は寒河江市で感染者が出た署の警察官)、②中山町3人(うち2人は男子高校生) ③寒河江市1人、④天童市と河北町の20代女性(ともに、山形市でクラスターが発生した飲食店の従業員で感染した女性の知人、⑤米沢市1人(70代男性)、⑥県外1人(隣県から山形市に帰省中)
 19日、山形県内の新規感染者18人―①山形市に14人(うち9人は前日従業員に感染確認)のあった飲食店の経営者と従業員でクラスター発生と見られる)、②寒河江市の2人(1人は17日感染公表のあった警察署の署員)、③天童市と大江町の各1人
 18日、山形県内の新規感染者11人―①山形市に8人(うち1人は50代女性で、県立中央病院の外来受付従事、1人は20代女性で飲食店従業員)、②寒河江市・山辺町・中山町に各1人。
 17日、山形県内で感染者死亡者1人、新規感染者4人―①山形市の30代男性(過去の感染者の職場関係者)と20代男性、②寒河江市の50代男性2人(1人は寒河江署の警察官)
 16日、変異ウイルス感染が、この日まで26都道府県で計399人に。
    山形県内の新規感染者4人―①天童市の20代女性と寒河江市の30代男性(ともに過去の感染者2人の同僚、②大江町の30代男性、③山形市の20代男性
 15日、山形県内の新規感染者3人―①山形市内の40代男性(隣県滞在あり)と50代男性(前日公表の感染者の関係者)、②天童市の20代男性
 14日、山形県内の新規感染者1人―山形市内の20代男性
 11日、山形県内の新規感染者8人―天童市の乳児~90代の男女6人と山形市の30代男性会社員2人(いずれも9日公表のあった隣県の男性感染者との関りで、天童の6人はその家族や親戚、山形の2人は同感染者と県内の職場で打ち合わせ、車で送迎)
  9日、山形県内の新規感染者1人―村山地域の家族宅に6日から滞在していた隣県の男性
  8日、Ⅰ都3県、緊急事態宣言2週間延長
    山形県内の新規感染者1人―南陽市の40代女性(この前の感染者の知人)
  5日、山形県内でワクチン接種開始―医療従事者から先行接種(山形市立済生館病院・酒田市日本海総合病院からで、8日からは山大医学部病院・県立中央病院・公立置賜病院でも)
  1日、大阪など6府県が緊急事態宣言を先行解除
2月27日、山形県内の新規感染者1人―南陽市の女子高校生(感染経路不明)
  25日、山形県内の新規感染者4人―南陽市の30代と60代の男女(いずれも前日公表感染者の同居家族で症状はない)
  24日、山形県内の新規感染者1人―南陽市の60代男性(感染経路不明)
  19日、山形県内の新規感染者2人―山形市内の40代と70代の男性(いずれも感染経路不明)
  18日、山形県内の新規感染者1名―山形市の40代女性(感染経路不明)
  17日、国内でワクチン接種を開始― ワクチンは米国製薬大手のファイザー社製、先行接種は国立病院などの医療従事者からで、その他の医療従事者は3月中旬から、高齢者は4月1日から、その後、基礎疾患を持つ人、その後それら以外の一般人へと順次拡大。接種対象者は16歳以上(妊婦を除く)で、約1年の期間内に接種を「努力義務」として課せられ、無料。
  14日、山形県内の新規感染者2人―①川西町の70代女性(前日公表あった同町在住14日、山形県内の新規感染者2人―①川西町の70代女性(前日公表のあった同町感染者の同居家族)、②県外在住で置賜地域に滞在した20代女性(県外の感染者との濃厚接触者)感染者の同居家族)、②県外在住で置賜地域に滞在した20代女性(県外の感染者との濃厚接触者)
  13日、山形県内の新規感染者1人―川西町の70代男性(感染経路不明)
  11日、山形県内の感染死者、新たに1名―累計15人に(うち65歳以上の高齢者12人)
  10日、国内感染死者新たに121人(最多更新)。
     山形県内の感染死者(新たに)1人、新規感染者4人―①上山市の小学生(過去に公表感染者40代女性の同居家族)と40代男性(感染経路不明)、②酒田市の団体職員30代男性(大江町のグループホームの系列施設から応援に入っていた)、③長井市の70代男性(感染経路不明)
  9日、山形県内の新規感染者1名―朝日町の30代女性(これまで公表の感染者の同居家族)
  6日、山形県内の新規感染者7人―①大江町の90代女性(グループホーム入所者)、②上山市の中学生から70代までの4人と南陽市の40代女性(いずれも前日公表の感染者の同居家族や知人)、③鶴岡市の50代女性(感染経路調査中)
  5日、山形県内の新規感染者3人―①上山市の40代男女(男性は首都圏に仕事で数日滞在)、②南陽市の20代男性(日帰りで隣県に)
  4日、国内の累計感染者40万人を超える。
    山形県内の新規感染者3人―①南陽市の20代女性(1日感染者が出た同市赤湯の飲食店の利用客で隣県への移動歴もあった)、②米沢市の20代女性(現時点での感染経路不明)、③川西町の60代女性(過去に公表感染者の同居家族)
  3日、国内の感染死者、この日120人で過去最多、累計6000人を超える。
    山形県内の新規感染者3人―①米沢市の20代男性、②高畠町の40代女性と女子小学生(同居家族)―いずれも感染経路は現時点で不明
  2日、国内感染死者この日1日で119人(最多更新)。
    菅首相「緊急事態宣言」(当初2月7日期限だった)を、栃木県を除く10都府県で3月7日まで延長決定―飲食店の午後8時までの営業時短要請の継続、日中も含めた不要不急の外出自粛を継続、テレワークによる出勤者の7割削減、イベント開催は5千人以下などの現行制限を継続など。
    山形県内の新規感染者4人―①大江町のグループホームの入所者(70代男性)と職員(山辺町・河北町に住む40~50代女性)、②川西町の70代男性(これまでの感染者の同居家族)
  1日、山形県内の新規感染者3人―①高畠町の40代男性(南陽市赤湯の飲食店従業員―接客中マスクを着けていなかったという)、②南陽市の20代男性、③山形市の40代男性

2021年03月24日

9条と軍事的安全保障―それぞれの効用とリスクを比較衡量して適否を判断(加筆版)

(対中・対北朝鮮などを念頭に)
 安全保障の要諦は戦争が起きないようにすること―国が国民に安全を保障しなければならない(護らなければならない)ものは自由・人権など様々あるが、一番大事なのは国民の生命と財産(とりわけ世界の全ての国民にとって必要不可欠な公共財―海陸・大気・水・食料・エネルギー・森林・鉱産資源など、即ち地球資源と、生活や産業などの経済活動を営む上で不可欠な社会基盤すなわちインフラ―それらは個々人の私有財産や個々の国の国有財産として占有して国や個人が自由・勝手に使用・処分できるようなものではない全人類の共有財産)―これらを争奪・排他的独占の戦争から守ること。 
 そこで、次のどちらの方法が安全・安心か。
1、本来の9条(非軍事平和主義)を重視
   核兵器禁止条約
   非核地帯条約―東南アジア非核地帯条約
       中南米のトラテロルコ条約
       南太平洋地域のラロトンガ条約
       アフリカ地域におけるベリンタバ条約
       中央アジア非核地帯条約
       南極条約
   非軍事的地域集団安全保障
     東南アジア友好協力条約(TAK)―「武力による威嚇または行使の放棄」や「紛争の平和的手段による解決」を明記。
     ASEAN諸国のほか中国・ロシア・オーストラリア・インド等とともに日本も加入。
     9条に忠実的な論者はTAKの北東アジア版(北東アジア友好協力条約)を目指す。
 (1)その効用(メリット)
   ⓵戦争を回避でき、戦争に巻き込まれない。
   ⓶軍事費が掛からない。
   ⓷諸国民に安心・信頼感―敵をつくらず、敵対せずに、平和外交と国際平和貢献の積極的推進・イニシャチブが可能に。
 (2)そのリスク(デメリット)
   ⓵外敵の侵略・侵害に対して防備・安全保障に不安(危険)―「力の空白」(軍事的空白)(防備が手薄)に乗じて強引に踏み込んでくる恐れ
      ただし、防備は全く無防備というわけではなく、領域警備に限定した守備隊(然るべき装備を持つ国土警備隊など)は保持―災害救助業務を行う災害救助隊、国際的な災害救助隊(非武装のPKO部隊を含めた災害救助隊など)とともに(既存の自衛隊はこれらに改編)

Ⅱ、軍事的安全保障を重視―9条の形骸化(9条+自衛隊と日米安保)―改憲路線
世界の軍事力ランキング―1位アメリカ,2位ロシア,3位中国,4位インド、5位日本,
            6位フランス,7位イギリス, 8位韓国・・・・19位北朝鮮
           ・・・21位台湾
   軍事的地域集団安全保障(軍事同盟)
       NATO(北大西洋条約機構)
       日米安保条約(政府をはじめその肯定派は、これを国際的「公共財」と称す)
       米韓相互防衛条約
       米豪同盟条約(当初のANZASからニュージーランドが離脱)
      (かつては東南アジア条約機構・中東条約機構・ワルシャワ条約機構・中ソ友好同盟相互 助条約などもあったが解消)

 (1)その効用(メリット)
   ⓵自衛隊と同盟国アメリカ軍の軍事力は、いかなる脅威(どの国、どこの外敵)に対しても対応でき、相手を攻撃・撃破、或いは相手の攻撃を阻止・抑止することもでき、安全・安心でいられる(どの国から、どこから攻撃を受けても無事でいられるだろう、という安全保障が得られる?)。
 (2)そのリスク(デメリット)
   ⓵敵を想定すなわち敵をつくる(相手を敵視し、敵対する)。
   ⓶軍事衝突から戦争への危険あるいは、それらに巻き込まれる危険―台湾有事(中国の台湾統一戦争への米軍の介入)や米軍の朝鮮戦争再開などに際して。
   ⓷相手国も対抗し、それがエスカレートして、双方とも軍備増強(軍拡)―
 中国の場合、アメリカ(世界最強の核軍事力をもち、かつては中国・太平洋で日本軍と戦い、戦後は朝鮮・ベトナム・中東で戦争)や日本(かつてアジアで最強の軍事大国で中国・太平洋で戦争)に対抗し、軍事力を増強して南シナ海や東シナ海に進出。北朝鮮は休戦中の対米(朝鮮戦争)再開に備えて核・ミサイル開発・保有など。
   ⓸これら軍拡競争による軍事費の膨張。
    (アメリカからの兵器購入負担とともに)米軍基地提供に関わる経費負担や住民被害。
   ⓹軍事依存―軍事にたよりがちとなり、平和外交への取り組み・努力が疎かになりがちとなる―米軍の核軍事力(核の傘)にたより、核兵器禁止条約を拒否。

 さて、我が国の安全保障にとっては(中国や北朝鮮あるいはロシアなどに対して)(1)の「本来の9条・非軍事平和主義」と(2)の「9条改憲・軍事安保」とで、どちらの路線をとったらいいのか。それぞれの効用・リスクを比較衡量して(どちらが適切か)判断すればよいのではなかろうか。

2021年04月01日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき9)(随時

6月21日、沖縄県をの像いて9都道府県の緊急事態宣言解除、広島・岡山両県を除く7都道府県はまん延防止重点措置に移行(いずれも7月13日まで)。首都圏3県のまん延防止措置は延長、三重・岐阜両県は解除。
  20日、山形県内の新たな感染死亡者1人
  19日、山形県内の新規感染者3人―①山形市2人、②天童市1人。
  16日、山形県内の新規感染者5人―①山形市4人、②高畠町1人。
  15日、山形県内の新規感染者(飯豊町に)1人
  14日、山形県内の新規感染者2人―①山形市1人、②長井市1人。
      石川・群馬・熊本3県へのまん延防止措置が解除。
  13日、山形県内の新規感染者(山形市に)2人
  12日、山形県内の新規感染者3人―①山形市2人、②南陽市1人
  11日、山形県内の新規感染者1人―米沢警察署に留置中の県外在住男性
  10日、山形県内の新規感染者(長井市に)3人
  9日、山形県内の新規感染者0
  8日、山形県内の新たな感染死者1人、新規感染者(上山市に)1人。
  7日、山形県内の新規感染者1人(山形市内で前日公表感染者の同居家族)
  6日、山形県の新規感染者8人―①酒田市4人、②山形市3人、③高畠町1人。
  5日、山形県内の新たな感染死者2人、新規感染者7人―①南陽市3人、②川西町3人、③山形市1人。
  4日、山形県内の新規感染者5人―①山形市3人、②南陽市2人。
     南陽市の市民や事業者に対し、不要不急の外出を控えてテレワークを活用するよう求めている県と市の要請を1週間延長。
  3日、山形県内の新規感染者7人―①南陽市4人、②山形市2人、③米沢市1人。
  2日、山形県内の新たな感染死亡者1人、新規感染者7人―①山形市3人、②南陽市3人、③長井市1人。
     
  1日、10都道府県(沖縄県の期限と合わせて9都道府県が延長)への緊急事態宣言が6月20日まで。5県(神奈川・埼玉・千葉・岐阜・三重)へのまん延防止重点措置も同日まで延長。
     山形県内の新規感染者3人―①南陽市2人、②長井市1人。
5月31日、山形県内の新規感染者5人―①天童市2人、②山形市1人、③鶴岡市1人、④白鷹町1人。
  30日山形県内の新規感染者8人―①長井市2人(1人は女性公務員)、②南陽市2人(1人は既感染者の関連)、③天童市1人、④高畠町1人(既感染者の関連)、⑤川西町1人(南陽市のクラスター飲食店の客)、⑥飯豊町1人。
  29日、山形県内の新たな感染死亡者1人、新規感染者8人(うち6人は既に公表された感染者の同居家族)―①山形市7人、②南陽市1人。
  28日、山形県内の新規感染者8人―①南陽市3人(うち1人は感染者の家族)、②高畠町2人、③山形市1人、④寒河江市1人、⑤米沢市1人。
  27日、山形県内の新規感染者11人―①南陽市5人(うち4人は家族)、②山形市3人、③高畠町2人、④川西町1人。
  26日、山形県内に新たな感染死亡者1人、新規感染者15人―①南陽市6人、②飯豊町2人、③山形市1人、④寒河江市1人、⑤上山市1人、⑥天童市1人⑦米沢市1人、⑧長井市1人、⑨川西町1人。
  25日、山形県内に新たな感染死者1人、新規感染者10人(うち3人は24日公表の南陽市内飲食店での食品関係業者の会食参加者の同僚の家族や親族で、次の②と⑤に含まれる)―①山形市5人、②南陽市2人、③上山市1人、④天童市1人、⑤高畠町1人。
     県内の変異株N105Y感染者累計171人に。
     南陽市の小中学校の休校延長(28日まで)。
  24日、山形県内の新規感染者14人(うち5人は次の②③⑧に含まれ、南陽市内の前にクラスターが出たスナックとは別のスナックの客で、そこでもクラスター―既に感染が確認されている経営者・客とを合わせて9人、)―①上山市3人、②南陽市3人、③川西町3人、④山形市1人、⑤鶴岡市1人(南陽市内で前にクラスターが出た方のスナック利用者)、⑥米沢市1人、⑦長井市1人、⑧飯豊町1人。
      南陽市では13日、スナックとは別の飲食店で食品関係業者の会食があり、参加者のうち9人に感染確認され、そこでもクラスター。
     南陽市は6月3日まで市内の飲食店に対し、営業時間を午後9時まで短縮要請、市内の小中学校を25日まで休校。
  23日、山形県内の新規感染者30人(うち2人は南陽市内のクラスター発生スナックの利用客で、次の②④に含まれ、同店の感染者は累計13人に。また、同店の従業員や利用客の知人・家族にも感染者)―①南陽市12人、②高畠町8人、③山形市2人、④上山市2人、⑤長井市2人、⑥米沢市1人、⑦尾花沢市1人、⑧山辺町1人、⑨小国町1人。
南陽市で、症状のない市民に無料でPCR検査(公立南陽病院の駐車場で、ドライブスルー方式で)実施。
      沖縄県(感染者が前週から倍増)が緊急事態宣言の対象地域に。
  22日、山形県内の新規感染者32人(うち5人は南陽市内のクラスター発生スナックの従業員と客で、次の①と④に含まれる)―①南陽市12人、②山形市7人、③上山市3人、④高畠町3人、⑤寒河江市2人、⑥長井市2人、⑦河北町1人、⑧小国町1人、⑨県外者1人。
      県内の変異株N501Y感染者は143人に。
  21日、山形県内の新規感染者22人(うち2人は山形市内で18日来クラスターがあった居酒屋の利用客で、そこでの感染者は累計14人に。1人は同市内で12日来クラスターがあった高校の生徒で、そこでの感染者は累計21人に)―①山形市9人、②天童市4人、③南陽市3人、④鮭川村2人、⑤東根市1人、⑥山辺町1人、⑦河北町1人、⑧川西町1人。
  20日、山形県内の新規感染者23人―①山形市7人、②南陽市7人(市内のスナックで4人の感染判明、クラスター発生と認定)、③天童市4人、④寒河江市1人、⑤上山市1人、⑥東根市1人、⑦高畠町1人、⑧県外1人。
  19日、山形県内の新規感染者24人(うち1人は山形市内のクラスター発生高校の教職員、もう1人は上山市内のクラスター発生高校の生徒、2人は山形市内のクラスター発生居酒屋の客で、次の①③に含まれる)―①山形市13人、②天童市3人、③東根市2人、④南陽市2人、⑤高畠町2人、⑥川西町2人。
  18日、山形県内の新規感染者22人(―①山形市12人(市内中心街の居酒屋に6人―クラスター累計9人)、②高畠町3人、③天童市2人、④東根市2人、⑤川西町2人、⑥山辺町1人(クラスター発生の介護老健施設職員16人目)。上山市内のクラスター発生高校の生徒に1人(10人目)確認。
  17日、山形県内の新規感染者14人(うち3人は上山市内のクラスター発生高校の女子生徒で、次の①⑥に含まれ、同校の感染者は計9人)―①山形市5人、②酒田市2人、③寒河江市2人、④川西町2人、⑤米沢市1人、⑥上山市1人、⑦長井市1人。
  16日、緊急事態宣言対象が、北海道・岡山県・広島県も加えられ、9都道府県に拡大。
    「まん延防止等重点措置」対象に群馬・石川・熊本の3県が追加され、(先行する神奈川・埼玉・千葉・三重・岐阜・愛媛・沖縄と合わせて)10県に拡大。
    山形県内の新規感染者13人―①山形市7人(うち2人はクラスターが発生している山形市内高校と上山市内高校の生徒)、②天童市3人、③酒田市1人、④寒河江市1人、⑤南陽市1人。
     山形県内で5月上~中旬に発症した13人から変異株N501Yを検出(累計117人)。
  15日、山形県内の新規感染者21人(うち5人は上山市内高校の同じ運動部に所属、クラスター発生と見られ、次の①④に含まれる)―①山形市11人、②酒田市3人、③山辺町2人、④村山市1人、⑤天童市1人、⑥東根市1人、⑦鶴岡市1人、⑧高畠町1人。
  14日、山形県内の新規感染者22人―①山形市11人(うち6人は市内のカラオケ飲食店の客で、同店では前々日からの経営者と客2人を含め9人が感染、クラスター発生。市内でクラスターが発生している高校の生徒に新たにもう1人確認、計17人に)、②酒田市3人、③上山市2人、④米沢市2人、⑤寒河江市1人、⑥東根市1人、⑦山辺町1人、⑧県外者1人。 
  13日、山形県内の新規感染者21人(うち10人が山形市内のクラスター発生高校の女子生徒で、次の①④⑤⑥⑨⑩に含まれる)―①山形市4人、②酒田市3人、③米沢市2人、④寒河江市2人、⑤東根市2人、⑥県外者2人、⑦鶴岡市1人、⑧天童市1人、⑨河北町1人、⑩西川町1人、⑪鮭川村1人、⑫飯豊町1人。
     山形県内では、5月上~中旬に発症した9人から変異株N501Yが確認。
  12日、東京都・大阪府・京都府・兵庫県に対する緊急事態宣言延長に加えて、愛知県・福岡県にも適用(31日まで)。
     大阪府では、感染者の重症患者数が専用病床数の112.6%でオーバーし、この日の新たな感染死者が55人で過去最多。
     山形県内の新規感染者16人―①山形市6人(うち5人は市内の同一高校の生徒4人と職員1人、同校では前日に生徒1人が感染公表されており、クラスター発生)、②寒河江市3人、③東根市2人、④鶴岡市1人(クラスター発生高校の生徒)、⑤山辺町1人、⑥川西町1人、⑦小国町1人、⑧鮭川村1人。
  11日、山形県内の新規感染者14人―①中山町5人(いずれも同居家族で感染経路不明)、②山形市3人、③山辺町2人、④天童市1人、⑤長井市1人、⑥酒田市1人、⑦川西町1人(高校生で感染経路不明)。②~⑥は、いずれも既に確認された感染者の家族か親族。
  県内感染者5人から変異株(N501Y)確認。
  大阪府では、重症感染患者数が専用病床数の112.6%でオーバーし、この日の新たな感染死者55人で過去最多。
  10日、山形県内の新規感染者9人―①山形市6人、②米沢市1人、③寒河江市1人(市役所職員)、④東根市1人。
    大阪府では3月以降自宅か宿泊施設で待機療養中のコロナ感染患者17人が死亡。
  9日、山形県内の新規感染者8人―①山形市3人(うち1人は山辺町の老健施設のクラスター関連)、②酒田市2人、③山辺町1人、④中山町1人(山辺町の老健施設クラスター関連)、⑤県外者1人。
     北海道・岐阜県・三重県に「まん延防止等重点措置」
  8日、山形県内の新たな感染死者1人、新規感染者8人―①山形市2人、②鶴岡市2人、③長井市1人、④酒田市1人、⑤県外者2人。
    国内感染7000人超す(4か月ぶり)。14道県で最多。東京都1121人で大阪を上回る(3月29日以来)。
  7日、山形県内の新規感染者6人―①山形市2人、②上山市1人、③山辺町1人(クラスター発生老健施設の女性職員、同施設の感染者は計12名に)、④鶴岡市1人(感染経路不明)、⑤三川町1人(鶴岡市内のクラスター発生高校の教員、同校の感染者は計89人に)。
    東京・大阪・京都・兵庫4都府県を対象とする緊急事態宣言が延長(31日まで)。
    全国のコロナ感染の重症者1131人で過去最多、死者も146人で最多。
    大阪府門真市の有料老人ホームで4月11日来、感染者61人(入所者39人、職員22人)、うち14人(施設定員44人の3分の1)死亡。
    神戸市の介護老人保健施設で4月14日以来、感染者133人(入所者97人、職員36人)、うち25人死亡(そのうち23人は施設内で常勤医師のもとで酸素投与や投薬の治療を受けていたという)。
  6日、山形県内の新規感染者6人―①山形市2人、②米沢市2人(4日感染公表の同市男性会社員の同居家族と知人)、③寒河江市1人、④中山町1人(山辺町の老健施設の利用者)。
  5日、山形県内に新たな感染死者1人、新規感染者21人―①鶴岡市16人(うち15人はクラスター発生高校の生徒で、1回目のPCR検査では陰性も、経過観察で再検、陽性に)、②山形市2人、③酒田市2人、④長井市1人。
    県内で既に感染が判明している16人から変異株N501Yが確認。
  4日、山形県内に新たな感染死者1人、新規感染者12人―①山辺町4人(いずれもクラスター発生の老健施設入所者)、②河北町1人(左記の山辺町老健施設の職員)、③山形市1人、④寒河江市1人、⑤米沢市1人、⑥長井市1人、⑦酒田市1人、⑧県外者2人。
  3日、山形県内の新規感染者8人(うち5人は山辺町の老健施設の入所者2人と職員・従業員3人で、同施設でクラスター発生)―①山形市2人(ともに山辺町の老健施設関係者)、②山辺町2人(老健施設の入所者)、③寒河江市1人、④鶴岡市1人、⑤酒田市1人、⑥中山町1人(山辺町の老健施設職員)。
  2日、山形県内に新たな感染死者1人、新規感染者7人―①鶴岡市3人、②酒田市2人、③東根市1人、④県外者1人。
  1日、山形県内の新規感染者10人―①山形市5人、②寒河江市2人、③鶴岡市1人、④東根市1人、⑤山辺町1人。
4月30日、山形県内の新規感染者9人―①鶴岡市4人(うち3人はクラスター発生高校の生徒)、②山形市3人、③酒田市2人。
  29日、山形県内の新規感染者17人―①鶴岡市13人(全員がクラスター発生の高校生徒で、同校の生徒・職員の感染者は合計69人になる)、②山形市2人、③酒田市2人。
  28日、山形県内の新規感染者20人―①鶴岡市16人(市内のクラスター発生高校に新たに15人、計56人に。同校では30日オンラインで在宅学習。市内の他の中学・高校とも29~5月9日の間、部活動停止)、②山形市1人、③東根市1人、④三川町1人、⑤県外1人。
     4月下旬に発症した感染者11人から変異株(N501Y)検出。
     東京都では感染者の6割が変異株。
     大阪・神戸など関西圏は8割で従来株に置き換わる。
  27日、山形県内の新規感染者7人―①山形市1人、②寒河江市1人(市内のクラスター発生介護老人施設入所者)、③上山市1人、④東根市1人、⑤鶴岡市1人(市内のクラスター発生高校生徒)、⑥大江町1人、⑦県外在住者1人(置賜地域滞在中)。
  26日、国内感染死亡者1万人を超える。
    山形県内の新規感染者19人―①鶴岡市11人(クラスターが起きている鶴岡東高校では新たに生徒12人の感染確認、累計40人に)、②上山市4人、③山形市1人、④酒田市1人、⑤河北町1人、⑥大江町1人。
  25日、山形県内に新たに感染死亡者2人、新規感染者18人―①鶴岡市9人(市内高校にクラスター。これまで確認の感染者と合計して28人)、②酒田市5人、③三川町2人、④天童市1人、⑤大江町1人。
    東京・大阪・京都・兵庫の4都府県に緊急事態宣言(5月11日まで)―①酒類やカラオケを提供する飲食店に休業要請、それ以外の飲食店は午後8時まで時短(協力した店には、中小企業に1日4万~10万円、大企業は最大20万円の協力金、休業・時短命令への違反者に30万円以下の過料。②デパートなどの大型商業施設(生活必需品の小売り関係を除いて)や映画館に休業要請(協力した施設に1日20万円の協力金)。③美術館・博物館など文化施設は休館。③スポーツなどのイベントは原則、無観客に。④学校の部活動の制限・自粛。⑤出勤者の7割を在宅勤務めざす。
     山形市独自の緊急事態宣言は解除。
  24日、山形県内の新規感染者12人―①鶴岡市6人(うち高校生2人は市内でクラスター発生の宿泊施設の利用者)、②河北町2人、③山形市1人、④上山市1人、⑤天童市1人、⑥東根市1人。
  23日、山形県内の新規感染者21人―①鶴岡市13人(うち12人は男子高校生10人その他1人で、いずれも同じ宿泊施設を利用、クラスター発生と見られる)、②大江町3人、③山形市2人、④寒河江市2人(うち1人はクラスターが出た介護老人施設の入所者)、⑤酒田市1人。
  22日、山形県内の新規感染者9人―①酒田市5人(うち3人は市内でクラスター発生の保育所園児の家族)、②寒河江市1人、③上山市1人、④天童市1人。
  21日、山形県内の新たな感染死亡者1人、新規感染者20人―①山形市8人、②酒田市5人(全員が市内の認可保育所の園児で、同保育所では過去に職員と園児各1人感染あり、クラスター)、③大江町3人、④上山市1人、⑤天童市1人、⑥小国町1人、⑦庄内町1人。
    大阪府では3月以降、感染者の8人が自宅で死亡―患者が入院先が見つからず自宅待機状態。一般救急患者も受け入れ先が見つからず搬送困難。      
  20日、山形県内の新規感染者12人―①寒河江市6人(同市内のクラスター発生介護老人施設の利用者と職員)、②山形市4人、③中山町1人(寒河江市内の同上介護施設関連)、④遊佐町1人。
  19日、山形県内に新たな感染死亡者2人、感染患者1人に3人目の変異種(N501Y)感染確認、新規感染者18人(うち8人はこれまでの感染者の家族・親族・職場関係者)―①山形市8人、②酒田市8人、③天童市1人、④大江町1人。
  18日、大阪府の新規感染者1219人(過去最多)で6日連続1000人越え―「医療崩壊」状態(重症患者用病床248床に対して重症患者286人でオーバー)―人工呼吸器の使用を見送るなど治療断念へ。
     山形県内の新規感染者8人―①上山市3人(いずれも市立保育園で職員にクラスターが発生した保育園の園児)、②山形市2人、③酒田市2人、④庄内町1人。
  17日、山形県内の新たな感染死亡者1人、新規感染者16人―①山形市7人、②天童市4人、③上山市3人、④寒河江市1人(市内のクラスター発生の介護施設利用者)、⑤遊佐町1%E

2021年04月18日

中国・北朝鮮の「脅威」とは

[中国]専制主義・覇権主義―「野望」 (アメリカの覇権主義も―米中の覇権争い)  
 南シナ海・東シナ海における「一方的な力による現状変更」
  「海警法」により一方的に管轄区域を設定し、海上警備に武器使用を強化。
 香港の民主派市民に対して「国家安全維持法」で弾圧―「一国二制度」を覆す
 人権問題―ウイグル人弾圧
 台湾問題―反国家分裂法―台湾が独立を宣言した場合は非平和的手段(武力)を用いると。
 「内政不干渉の国際法上の原則」を主張(しかし、人権問題は内政問題ではなく国際問題)
[北朝鮮]―専制主義・「先軍政治」
    核・ミサイル開発・保有
    拉致問題

 しかし、そもそも中国にしても北朝鮮にしても、日本に対して、どうしても戦争しなければならない(そのために軍備を増強しなければならない)理由(必然性)ははたしてあるのかだ。
 また、日本も中国や北朝鮮に対して、どうしても軍備を増強して戦争に応じなければならない理由(必然性)があるのか、である。
(1)中国の場合は、広大な領土内に多民族(漢民族の他にチベット族・ウイグル族・モンゴル族・満州族・朝鮮族など55の少数民族)を統治し、その反乱・離反に対処(抑止・阻止)するために軍事力を必要としている。台湾に対しては国共内戦以来、台湾は独自の国家(中華民国)と軍を持ち、中華人民共和国に対峙しているが、その分離・独立を阻止し、統一を回復するために、軍事力を必要としているわけである。
 それに対して、第三国が干渉、台湾軍を支援するであろうアメリカ等の軍事力に対抗するためにも強大な軍事力を必要としていると考えられる。
 中国が想定する戦争はこのような内戦とそれに介入してくる干渉軍との戦争なのだと思われるが、それ以外に何かあるだろうか。
 尚、日本に対しては、日本が実効支配している尖閣諸島をあくまで自国領土だとして海警船に武力行使させて強引に奪い取るために戦争を仕掛けるその必然性はあるだろうか。海上自衛隊あるいは米軍が背後に控える海上保安庁巡視艇を相手に(戦争にアメリカを引き込んで日米両軍を相手に)。或いは、たとえ自衛隊と米軍の軍事介入を日本が安保政策を転換して取りやめたとして、非軍事・警察機関にすぎない海保だけを相手にして戦争をしかけたりするだろうか。国連憲章は「武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全・・・・に対するものも・・・・慎まなければならない」(2条の4)として、紛争の平和的解決を義務付けているが、その国連憲章に背いて(国際社会の非難・制裁をうけて)まで、岩だけの無人島と周辺の海を縄張り(領海や排他的経済水域)とする、それだけのために。中国にとって、そのような行為(尖閣諸島奪取のための強引な武力行使)は、それによって得られるメリットとそれによって被るデメリットの損得計算からみて、とても割が合わないものと考えられ、不合理であり現実性に乏しいだろう(つまり、あり得ない)。
 だとすれば、日本が中国と戦争になるとすればどのような場合かといえば、それは日本が日米安保条約に基づいて沖縄などに米軍基地を置き、自衛隊が米軍を支援する体制にある限り、いわゆる「台湾有事」即ち中国が台湾の分離・独立を阻止すべく軍事行動を起こし、それに対してアメリカが台湾軍を支援して軍事介入をした場合に、中国が日本の米軍基地と米軍を支援する自衛隊を攻撃してくる、という場合であろう。そのような台湾有事に際する米中戦争に日本が巻き込まれるケース以外には日本と中国との戦争はないだだろう、ということだ。
 
(2)北朝鮮の場合は、第二次大戦まで朝鮮半島を領有していた日本が降伏後、米ソが南北分割占領し、ソ連を後ろ盾とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とアメリカを後ろ盾とする韓国とがそれぞれ独立して対峙したあげく激突して戦争になった(朝鮮戦争―韓国を米軍が支援、北朝鮮を中国が支援)。休戦協定で今は休戦状態にあるものの、韓国には米軍が駐留し続け、未だに終結しておらず、北朝鮮は戦争再開に備えて核・ミサイルを開発して保有するに至っている。
 その北朝鮮が日本を攻撃するとすれば、米韓との戦争が再開された時であろう。なぜならその時、米軍は先の朝鮮戦争の時のように日本の基地からも出撃するだろうからであり、その在日米軍基地が弾道ミサイルの標的となるわけである。それ以外に、北朝鮮が日本に攻撃をしかける理由はあるまい。

 いずれにしろ、日本にとって中国や北朝鮮が「脅威」と思われているが、その根本原因は、日本がアメリカと安保条約を結んで同盟国となり、米軍基地を置いているからにほかなるまい。

(3)日本の現状―憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)があるにもかかわらず日米安保条約で米軍の駐留基地を認め、軍事組織(自衛隊)を保有―違憲状態―現政権は改憲を策す。


2021年04月22日

9条堅持か改憲か―安全保障をめぐって

平和」とは国々や国民の間に戦争など争いのないことであり、その原因をつくらないことである。一方「安全保障」とは国と国民の無事安全を保障することであり、国の主権・独立・領土保全と国民の生命(生存権)・自由を外敵の侵略・攻撃や戦争から護ることである。
 現行憲法は「第2章・戦争の放棄」としたうえで第9条に1項「戦争を放棄」、2項「戦力を保持しない。国の交戦権を認めない」ことを定めたもので、9条は「平和主義」条項ではあっても、直ちに「安全保障」条項というわけではない。
 安倍前首相の9条改憲案は、その9条に「9条の2」として自衛隊の存在を明記する加憲案であるが、それは9条の平和主義条項に安全保障条項を付け加えたようなもの。以前(2012年)の自民党憲法改正草案では、第2章を「安全保障」としたうえで、「(平和主義)第9条・・・・。(国防軍)第9条の二・・・・。(領土等の保全等)第9条の三・・・・」として、第2章全体を安全保障条項としていた。
 それらの9条改憲は「自衛隊」とか「国防軍」とかによる軍事的安全保障にこだわったものである。
 安全保障には軍事的な方法と非軍事的な方法の二通りがある。
(1) 現行の9条は非軍事的安全保障の方法をとる立場であると思われる。その方法とは
 ① 非軍事・非同盟
 ② 国連(侵略行為・武力行使の禁止―破ったら共同制裁)の集団安全保障システムに依拠
 ③ 平和外交と国際平和貢献の積極的推進
 ④ 敵をつくらないこと(敵対を避ける)。
 ⑤ 戦争の原因(争いの種)をつくらないこと―独善、資源や利益を占有・独占、軍備・軍事同盟を構える等のことを控える。

  そのリスク
    ①国連の禁止を破る外敵の侵略・侵害に対して防備・安全保障に不安(危険)
    ②「力の空白」(軍事的空白)(防備が手薄)に乗じて強引に踏み込んでくる恐れ。      
       ただし、防備は全く無防備というわけではなく、領域警備に限定した守備隊(然るべき装備を持つ国土警備隊など)は保持(災害救助業務を行う災害救助隊、国際的な災害救助隊(非武装のPKO部隊を含めた)災害救助隊などとともに―既存の自衛隊はこれらに改編)
       非軍事・非同盟の日本に対して国連の禁止をおかしてまで侵寇してくる(どうしてもそうしなければならない必要性・理由のある)国や勢力などあり得るのかだ。
(2) 軍事的安全保障を重視―自衛隊と日米安保の肯定派や改憲派の人たちの考えで、自衛隊と同盟国アメリカ軍の軍事力を「抑止力」・「対処力」などと称してそれに依拠する方法

  そのリスク①敵(仮想敵国)を想定すなわち敵をつくる(相手を敵視し、敵対する)。
        ②「自国の安全を高めようと意図して行った軍備増強や同盟強化が相手方に同様の軍事力強化措置を促し、実際には双方とも軍事衝突を欲していないにもかかわらず、結果的に激突(ひいては全面戦争という最悪の事態)に至ってしまう、という緊張を強いられる―「安全保障のジレンマ」

        ③同盟国が戦争に突入すれば、それに巻き込まれる危険―台湾有事(中国の台湾統一戦争への米軍の介入)や米軍の朝鮮戦争再開などに際して。
        ④(アメリカからの兵器購入負担とともに)米軍基地提供に関わる経費負担や住民被害も。
        ⑤軍事依存―軍事に頼りがちとなり、平和外交への取り組み・努力が疎かになりがちとなる。
        ⑥米軍の核軍事力(核の傘)にたより、核兵器禁止条約を拒否

(1)の非軍事的安全保障と(2)の軍事的安全保障とで、どちらが我が国の安全保障にとってリスク(危険)が少なくベネフィット(メリット)が大きいか。要するに、どっちが平和・安全なのかだ。

2021年06月20日

読売・産経などの社説と百田氏の改憲論に対する私論(加筆版)  

 以下の文中に引用したのは、5月3日の読売・産経の社説と朝日新聞社の世論調査項目中の「改憲が必要」と回答した理由、および百田氏の著書『百田尚樹の日本国憲法』。
 ●印の部分は当方の対論。
改憲の理由と対論
(1)「古くなったから」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で多かったその理由の一つ)という論点に関して。
 読売「憲法が制定以来、一切手を加えられていない現状は望ましい姿ではない―憲法制定時には想像も及ばなかった日本社会や国際情勢の変化に70年以上前に制定された憲法が適切に対応するのは困難。現実と憲法の間に乖離が生じ、解釈に無理が生じている。多くの国は時代の変化を踏まえ、条文を改めている」と。
 百田「憲法は『聖書』ではない。憲法は変えるのが世界の常識―時代や情勢が変われば、それに合わせて変わるものであり、変えなくてはならない(必要なものを付け加え、不要なものを削除する)もの」だと。
 「74年も前につくられた憲法だが、この間、日本の社会は劇的に変化しており、74年前とはまるで違う国になったと言っていいほど」なのだと。
 ●諸外国では何回も何十過去も憲法改正がおこなわれているのに、我が国では1回も行われておらず、世界で一番「長寿」というのはその通り(過去にはもっと長寿で旧イタリア王国憲法80年というのがあった)。だがそれには「わけ」が―マッケルウェイン東大社会科学研究所教授によれば、「日本国憲法は統治機構や政治制度に関する規定が少ないうえに、大原則(大まかな骨子)だけを定めて、国会議員の定数や選挙制度など具体的なことは、『別に法律で定める』として別途法律に委ねてきた。だから条文の数も少なく(たったの103条)、全体の文章も短い(世界平均の4分の1)。変えるときは、憲法を改正せずに法律の改正で済んできた(公職選挙法は60回近く改正)。これも日本の憲法が『長寿』の原因の一つだろう」ということだ。
 尚、憲法改正手続きで国会議員総員の「3分の2」賛成という要件が改正をし難くしているという向きがあるが、実はその方が世界の国々では大勢(78%)で、「2分の1」で済むようにしている国は6%だけ。
 (各国憲法の条文の長短を英単語の語数にして比較すれば、我が国憲法は4998語なのに対して、インド憲法は14万6385、ドイツ2万7379、合衆国7762、韓国9059で、日本国憲法の語数の少なさはきわだっている。)
 要するに我が国では社会の変化への対応は、憲法を改正しなくても、他の法律改正で事足りてきたからだ、ということ。
 そもそも憲法のパターンには世界標準といったものはなく、イギリスなど成文憲法さえなく慣習法を通している国さえあり、国よって固有の事情(国の成り立ちや構成など)に違いがあるからである。アメリカやドイツは連邦制国家であり、アメリカでは戦後に限れば6回、ドイツでは60回以上もの改正がおこなわれているが、両国とも、国民投票はなく、議会の議決だけで行われている。
 人よって、国によって憲法観も色々なのだろうが、そもそも憲法とは(民主主義の立場から)国民にとってはどのようなものでなければならないかといえば、当方の考えでは―普通の法律の場合は、国家・社会の秩序ある運営を維持するために、国民が互いに守らなければならないルールであるが、憲法の場合は、国の統治者(為政者・行政官・司法官など公務員)が国民を統治(法律を守らせ、国の秩序を維持)する際に守らなければならないルール(権限とその濫用の禁止や義務)を定めた最高法規。それには⓵統治組織と立法・行政・司法などの担当者の権限が規定され、②人権など国民の権利と国によるその保障が規定され、③統治者・公務員も諸個人も公共の福祉に反し(自分以外の諸個人の権利を侵害し)てはならないこと、④法律の制定・運用に際しても、公共の福祉(諸個人共通の権利確保)のためにやむをえず必要とする以外には国民の人権を制約し侵してはならないこと、などが規定されている。
 その核心点は、政治権力者が権力行使(強権発動など)をしやすくするためではなく、国民の人権を政治権力から護るために、それによって権力を縛ることにあるという立憲主義の観点で考えるべきだろう。
 このような憲法観の立場から云えば、憲法が、その国の歴史・伝統・文化など「国柄」を自国固有の価値として規定したものでなければならない、などというのは的外れ

(Ⅱ)「アメリカから押し付けられた憲法で、日本の国柄が反映されていない」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で多かったその理由の一つ)という論点について。
 百田「憲法はその国の国家観・歴史観・死生観、あるいは文化や伝統などを凝縮したもので、『憲法を読めばその国がどういう国かがわかる』というものでなくてはならない。しかし、日本国憲法の場合は、前文はきわめて一般的であり、第1章に『天皇』を定める以外、こうした要素がほとんどない」のだと。
 ●憲法に天皇制など「国柄」の記述が欠かせないかのようにこだわる、このような憲法観には権威主義を感じる。そのような感覚は、G7で喧伝するような「民主主義など価値観を共有する国」の仲間とはとても言えまい。
 「『憲法を読めばその国がどういう国かがわかる』というものでなくてはならない」とか国柄をいうなら、今の憲法には、この国が「民主主義の国であり、人権尊重の国であり、戦争をしない国」であるとして明確に打ち出されている。それは必ずしも他国から「押し付けられた」ものではなく、軍国主義と戦争にこりた国民の心情に基づいているものと云えるのでは。
 百田アメリカ人によって作られた、世界各国の憲法や法律をコピーした世界に恥ずべきコピペ憲法だ」。「当初、マッカーサー連合国総司令官の意を受けて、幣原首相が担当国務大臣松本を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、憲法改正案を作成。それは明治憲法と大きく変わらず、『天皇の統治権』を認める条文もあった。マッカーサーはこれに不快感を示し、GHQ民生局で草案を大急ぎで作るよう命じ、民生局メンバー25人は都内の図書館などで他国の憲法や宣言など資料を集め、たった9日間で草案を作った。それは、そのようにしてできた応急処置的憲法だったのだ。」「GHQ民生局長が吉田茂外相・松本国務相らに対して、民生局が作成した草案を受け入れられれば、天皇の地位は安泰になるだろうと述べたが、それは、つまるところ『これを拒否したら天皇を戦犯にするぞ』という恫喝だ。占領されている以上、GHQの意向には従わざるを得なかった。このような草案をベースに日本国憲法は誕生したのだ」と。
 ●大急ぎで作られたことは確かであり、「押しつけ」があったと解されることも確か。しかし、アメリカ人が、たった9日間でつくった急ごしらえの憲法であるかのような論じ方だが、その前後には1年間に及ぶ日本政府・議会・諸政党・民間人による試案・草案起草・審議など日本人の主体的な関与があったのも事実だ。(1945年10月下旬、日本政府の憲法問題調査会による試案作成から、46年2月マッカーサーがそれを却下して作らせたGHQ草案作成の9日間を挟んで、それをたたき台として日本政府が作った「憲法改正草案」から成案作成、帝国議会・委員会におけるその修正審議から衆院本会議での修正可決、10月6日貴族院本会議可決、11月3日公布に至るまで。この間の政府・与野党それに憲法学者ら「憲法研究会」の憲法草案起草があり、とりわけ明治の自由民権運動期の憲法思想の研究をもとに作られた鈴木安蔵らの「憲法研究会」案はGHQ案にかなり取り入れられている。)(尚、GHQ民生局のスタッフは草案作成に際して、日比谷図書館や東大など4・5か所を駆け回って他国の憲法や宣言などの資料を集めたというが、その資料とはアメリカ独立宣言・アメリカ憲法・マグナカルタに始まるイギリスの一連の憲法、フランス憲法・ワイマール憲法・ソビエト憲法、スカンジナビア諸国の憲法・・・・。かれらスタッフは9日間、仮眠しながら夜を徹して精力的に取り組んだのだ―塩田純『日本国憲法―知られざる舞台裏』NHK出版)。)
 GHQが新憲法制定を急いだ理由は天皇制の存否などをめぐって日本の国内外からの強硬論を恐れたからである。国外―連合国の極東委員会(米・英・仏・ソ・中・豪・印・蘭・カナダ・ニュージーランド・フィリピン・ビルマ・パキスタン各国代表委員)—の中には、ソ連・オーストラリア・ニュージーランドなどは天皇を戦争犯罪人として指名していた。国内には左派勢力に天皇制廃止論があった。
 それに対して日本政府はあくまで天皇制存続だけは、他のすべてを犠牲にして「戦争放棄」などを受け入れてでも死守するとの考えだった。マッカーサーはそれに応じ、象徴天皇制のかたちで存続を認めるという新憲法をめざしたわけである。
 いずれにしても、この憲法制定の経緯の中には占領軍(GHQ)の強い関与があったことは事実であり、「押し付けられた憲法」といっても間違いではないとしても、それを日本政府が「受け容れ」、日本国民も「受け容れた」というのも事実。当時、国民の多くは憲法の基本的原理の法的意味や歴史的意味を十分理解する段階までに至っていなかったが、1946年4月の毎日新聞の世論調査によれば、「戦争放棄」に賛成70%、象徴天皇制に賛成は85%(廃止は11%)。また日本政府に関しては、1946年10月、極東委員会が「憲法が施行されてから1~2年以内の国民投票などの実施に関する決定」を行い、日本側の自主的な再検討の機会を保障するために「見直し」を促したにもかかわらず、日本政府はこれを拒み、憲法修正の意思なしと言明している(1948年6月芦田内閣から衆院議長に「憲法改正の要否審査」依頼あるも、実施は見送られたし、49年4月吉田首相は衆院外交委員会で「政府においては憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁―辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』岩波新書)
 百田文法の誤りすら直せない―前文中『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の語句中の『に』という助詞は、使い方として間違い。また『諸国民』の諸国とは、憲法作成当時1940年代の世界はほとんどが白人国家とそれを宗主国とした元植民地ばかりだったのだから、『白人様』の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持―要するに『白人様次第』と言っているのに等しい」のだと。
 ●憲法のこの文章を漢字・カタカナ交じりの文語体草案からひらがな口語体に直して仕上げたのは名作『路傍の石』などの作者・山本有三であり、その彼が間違えたというのだろうか。たとえば「菅首相はバイデン大統領ら各国首脳の公正と信義に信頼してG7の首脳会談に臨んだ」という言い方をしても、別におかしくはあるまい。「そこで菅首相は各国首脳ともオリパラ東京大会の開催にこぞって支持を寄せてくれたこと『に感謝』」というのを、「を感謝」という言い方をしないとだめだ、なんて云うほうがおかしいのと同じだろう。
 また、「当時の諸国はほとんどが白人国家ばかりだったから、諸国民とは白人様」などと勝手に解釈している、それこそが間違いだろう。

(Ⅲ)「国防の規定が不十分」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で最多の理由)という論点について。  
 ●国防とは軍事的安全保障のことで、その十分な規定が必要だということなのだろうが、安全保障にとって、軍事的なやり方は、9条の不戦・非軍事のやり方に比べて、むしろリスクが高く(危うく)、必ずしも(軍事力を十分保持すれば)安全・安心ということにはならない
 理由は次のようなこと。
 安全保障の要諦は戦争が起きないようにすることだが、そこで、現行憲法9条の非軍事でいくやり方と、改憲し国防を規定して軍事的安全保障のやり方でやるのとで、どちらのやり方が安全・安心か、次の諸点から考えられる。
(1)現行憲法の9条(非軍事平和主義)でいく場合
   核兵器禁止条約(日本も批准)めざす。
   非核地帯条約―(東南アジア非核地帯条約などにならい)北東アジア非核地帯条約(構想)の実現をめざす―日・韓・北朝鮮3ヵ国は核開発禁止、米中ロはこの3か国に核攻撃・威嚇を行わないことを約束(日本はアメリカの「核の傘」から離脱)
   非軍事的地域集団安全保障―東南アジア友好協力条約(TAK)(「武力による威嚇または行使の放棄」や「紛争の平和的手段による解決」を明記―ASEAN諸国のほか中国・ロシア・オーストラリア・インド等とともに日本も加入)にならってTAKの北東アジア版(北東アジア友好協力条約)を目指す。
  メリット(利点)
    ⓵戦争を回避でき、戦争に巻き込まれない。
    ⓶軍事費が掛からない。
    ⓷諸国民に安心・信頼感―敵をつくらず、敵対せずに、平和外交と国際平和貢献の積極的推進・イニシャチブ発揮が可能に。
  リスク(デメリット)
    ⓵外敵の侵略・侵害に対して防備・安全保障に不安(危険)―「力の空白」(軍事的空白)(防備が手薄)に乗じて強引に踏み込んで来られる恐れ.
     ただし、防備は全く無防備というわけではなく、領域警備に限定した警備隊(然るべき装備を持つ国土警備隊など)は保持―災害救助業務を行う災害救助隊などとともに
(2)改憲・国防(軍事的安全保障)規定でいく場合
   世界の屈指の軍事力保有(今でもランキングは、1位アメリカ、2位ロシア、3位中国、4位インドについで日本は5位で、6位フランス、7位イギリス、8位韓国より上回り、19位北朝鮮よりもはるかに上回っている)           
   軍事同盟―日米安保条約、オーストラリアも準同盟国
  メリット(利点)
    ⓵自衛隊と同盟国アメリカ軍の軍事力は、いかなる脅威(どの国、どこの外敵)に対しても対応でき、相手を攻撃・撃破、或いは相手の攻撃を阻止・抑止することもできる能力を持つ。
   リスク(デメリット)
    ⓵敵を想定すなわち敵をつくる(それらの国を敵視し、敵対する)。
    ⓶軍事衝突から戦争への危険、あるいは戦争に巻き込まれる危険―台湾有 事(中国の台湾統一戦争への米軍の介入)や米軍の朝鮮戦争再開などに際して。
    ⓷相手国も対抗し、それがエスカレートして、双方とも軍備増強(軍拡)―
     中国の場合、アメリカ(世界最強の核軍事力をもち、かつては中国・太平洋で日本軍と戦い、戦後は朝鮮・ベトナム・中東で戦争)や日本(かつてアジアで最強の軍事大国で中国・太平洋で戦争)に対抗し、軍事力を増強して南シナ海や東シナ海に進出。北朝鮮は休戦中の対米・朝鮮戦争再開に備えて核・ミサイル開発・保有など。
     危険な兵器開発―AI兵器(自律型致死兵器システム、無人攻撃機・「殺人ロボット」)―味方の人的犠牲を回避でき、兵士が人を殺す精神的苦痛を負わずに済み、戦争へのハードルが下がる(攻撃しやすくなって、戦争しやすくなる)。AIによる判断の誤りや誤作動(暴走)の危険が伴う。
    ⓸これら軍拡競争による軍事費の膨張―(アメリカからの兵器購入負担とともに)米軍基地提供に関わる経費負担や住民被害。
    ⓹軍事依存―軍事に頼りがちとなり、平和外交への取り組み・努力が疎かになりがちとなる―米軍の核軍事力(核の傘)に頼り、核兵器禁止条約を拒否。

 (1)の「非軍事」と(2)の「軍事」とで、我が国の安全保障にとっては(中国や北朝鮮あるいはロシアなどに対して)、それぞれの効用・リスクを比較衡量すれば、どちらが、リスクが少なくて有利か、を考えた場合、(Ⅰ)の非軍事のやり方でいった方がベターだろう。

  姫路独協大学の吉田稔教授によれば、中米で軍備放棄し永世中立政策を採っているコスタリカ憲法の規範と現実の意義について「⓵対外的侵略を誘発する或いは他国の戦争に巻き込まれることを防止することである。コスタリカや日本は紛争が多発する世界にあって、限界はあったにしても基本的には侵略を受けたことはなく、国民を戦争に駆り立てることもなかった。“武装すれば侵略されないというのは神話”であって、武装した国の間で侵略があり、戦闘が行われる可能性は高い。②もし紛争が国に及んだ場合に、軍隊を持たないことが被害の拡大を防ぎ被害を少なくすることができる。核兵器・兵器の高度化・精密化が進んだ現状にあって、戦闘行為は大量殺戮を発生させるし、その被害は世代を越えて受けるであろう。“軍隊の存在は被害を拡大する”であって、防止したり少なくはしない。③軍隊の創設・維持・増強には金がかかるそれで儲けている、利権を得ている企業や人がいる。名誉や地位や支配欲を満足させている国や人がいる。すなわち、“戦争や軍隊で得をする輩がいる”のである。そして他方で軍事費は国の予算を食い、圧迫する。軍隊を廃止すれば、その軍事費を人類の環境問題の解決、飢餓に苦しむ人々、国民の生活向上に使うことができる。」(前田朗『軍隊のない国家』日本評論社)
 読売中国や北朝鮮が東アジアの平和と安定を脅かすなか、日本の安全保障を担う自衛隊の存在を、はっきりと憲法に位置付ける」べきだと。
 国民民主党(憲法調査会がまとめた『憲法改正に向けた論点整理』に、9条について一案として、1・2項に、3・4項を次のように追加して)「③前二項の規定にかかわらず、個別的自衛権又は限定された集団的自衛権の範囲内に限り、武力行使を行うことができる。④第二項の規定にかかわらず、前項の武力行使のために必要最小限度の戦力を保持することができ、また、当該武力行使に必要な限度内において交戦権の行使に当たる措置をとることができる」と。
 産経日本の平和を守っているのは、憲法9条ではなく、自衛隊と日米安保条約に基づく抑止力」だと。
 ●中国や北朝鮮あるいはロシアが脅威だという場合、はたして攻撃される危険(軍事的脅威)があるか否かの判断基準は、攻撃する能力と必要な理由と意思(意図)があるのかどうかであり、核保有や軍事力増強など能力だけ認められても、理由と意思が認められなければ、必ずしも「脅威」とは決めつけられない。
 中国などこれらの国が日本に攻め込んでこないのは、日本に攻め込まなければならない理由(必要性、あるいはリスクを冒してまでも得られるメリット)がないからであって、必ずしも自衛隊と日米安保とで抑止されているからだとは限るまい。また、これらの国が日本に攻撃を仕掛けてくるとすれば、それは日本が9条で制約されていて防備が手薄だからではなく、これらの国がアメリカとの戦争(台湾をめぐる米中戦争や朝鮮戦争の再開など)に際して、日本に置かれている米軍基地と米軍の作戦を支援する自衛隊を攻撃せざるを得ないからだろう
 産経「9条1・2項を維持しつつ自衛隊の保持を明記するというのは改正の途中段階なのであって、2項を削除して自衛隊を『軍』(現在の自衛隊のような『やってもいいこと』だけを定めるポジティブリスト方式ではなく、『やってはいけないこと』だけを定めて、それ以外は何でもできるというネガティブリスト方式で、世界標準の軍)として位置付けて保持することを認めることを9条改正のゴールとして目指すべきだ」と。
 百田「矛盾と問題だらけの第九条―日本の憲法学者たちは、『戦争の放棄』を謳っても、『自衛権はあるから自衛のための戦いなら許される』との解釈をしている。また『自衛権は自然権だ』と主張する人もいるが、『国の交戦権は認めない』と書いてあるのだから、明らかに矛盾している」と。
 ●どの国にも自衛権はあるのだからというので自衛隊を創ったのだが、9条2項に「戦力は保持しない、国の交戦権は認めない」と書いてあるので、自衛隊が保持しているのは「自衛力」であって、「戦力」ではないし、「戦争」する軍隊ではないのだから、矛盾はしていないというのが政府解釈だ。
 それで、世界の軍隊はネガティブリスト方式を採用しているが、自衛隊は軍隊ではないので、警察などと同様にポジティブリスト方式の方を採用しているのだろう。
 百田「世界の軍隊はネガティブリスト方式を採用しているため、PKO派遣先でゲリラに襲われた場合、民間人への攻撃などの禁止事項さえ守れば、あとは自由に戦うことができる。ところが、自衛隊はポジティブリスト(やってもいいことだけを定めた規則)に則って任務に当たらなければならず、威嚇射撃をしてもいいのか、近くにいる民間人を護衛してもいいのか、攻撃を受けたら反撃してもいいのか、ナイフを持った敵に対して銃で応戦していいのか、銃で攻撃してくる相手に機関銃を撃っていいのか、あるいは大砲を5発撃たれて10発撃ち返せるのか等々、いちいちやってもいいことを確認しながら対処しなければならない。これでは、迅速に対応できるはずがない。」「さらに自衛隊は軍隊でないために国内法に縛られている。たとえば、国際紛争となった時、自衛隊員が日本の民間人を守るために敵を撃ち殺したら、日本の国内法で殺人罪が適用されてしまう。」だから軍隊を禁じている9条は不合理だというわけ。
 ●このような(ポジティブリスト方式の)自衛隊は、軍事的合理性の観点から見れば、臨機応変で迅速な対応を必要とする戦争には向かないというのも確かだろう。しかし、戦争をしないことを建前としている国の自衛隊であって軍隊ではないとなっている以上、他国の軍隊を相手に戦闘・戦争を交えることのないように、不戦・非軍事(領域警備や災害救助など)に徹しなければならないのであって、他国軍と激突・勝負しても(軍事作戦で)十分戦えて負けない「自衛軍」とか「国防軍」でなければならないというわけではあるまい。     
たとえば海上保安庁の巡視艇を援護して、相手国の沿岸警備隊や国境警備隊に対応する分には戦争にならない。その場合、相手が攻撃を仕掛けてきた場合は(仮に尖閣諸島海域の日本領海に、中国の海警局の艦艇が侵入してきた場合、警告射撃をも無視して島に接近・上陸するという事態になった時は、それを阻止すべく、海警船の前に船を寄せて立ちはだかり、それに対して体当たりしてきたり、機関砲などの発砲があれば)、正当防衛として応戦するのは当然のこと。ただし、武器対等の原則と必要最小限度という原則を超えて過剰防衛にならないようにする。しかし、相手国の海軍に対して海上自衛「軍」が、両軍ともネガティブリスト方式(原則無制限)で対応すれば海上での戦闘(局地戦)に留まらず、エスカレートして、かつての日中戦争~太平洋戦争の時と同様に全面戦争に発展しかねないことになるわけである。そんなことになってはならないというのが9条なのでは。
 産経「9条はむしろ弊害―(日英関係や日・米・豪・印4国の『クアッド』を同盟に発展させる道が封じられ)他国と幅広く守り合う約束ができない」(アメリカ以外の国々とも、もっと幅広く守り合えるようにすべき)だと。
 百田「非武装中立がいかに危険かは、歴史を見れば明らか。(第1次大戦前、非武装中立国だったのが、2度とも大戦中に侵略され、戦後、武装に転じてNATOの設立メンバーになったルクセンブルク、永世中立国でも徴兵制・武装を堅持しているスイスの事例も)」
 百田「軍隊がない国は例外であり、代わりに他国に国防をゆだねているか、軍事同盟を結んでいる。コスタリカは憲法で軍の廃止を定めているが、交戦権までは廃止しておらず、いざという時に戦う権利は放棄していない。」
 ●軍隊のない国は国連加盟国190余のうち27ヵ国もある。コスタリカは緊急時に軍隊の編成を認めているが、恒久制度としての常備軍は保有してはおらず、中立を宣言して非武装中立国となっている。
 百田「日本と似た国の末路―ウクライナ―2014年、自国の領土であるクリミア半島をロシアに占領された。その最大の原因は、NATOに加盟していなかったことだ」と。
 ●NATOは、世界196ヵ国の中で加盟国29ヵ国。その他の軍事同盟は日米・米韓・米豪いずれもアメリカとの同盟で3つだけ。全同盟加盟国は32ヵ国。それに対して非加盟国は120ヵ国だが、どこも占領されたりはしていない。
 百田「9条を掲げて不戦を唱えていれば平和は続くという9条教の信者には、『今の国際社会でもし日本が他国に攻め込まれたら世界が黙っていない』という主張があるが、ウクライナがクリミア半島を奪われた時、世界はロシアを非難しても、実効的な行動(軍事行動)は起こさない。中国はチベット・東トルキスタン・南モンゴルを侵略している。歴史的に見て、これらの国々が中国の領土だったことはないのに、世界は今まで放置してきた。世界は誰も他の国の人たちなど助けてくれないのだ。自分の国は自分で守らなくてはならないのだ」と。
 ●確かに国連の集団安全保障に頼ろうにも、常任理事国(米・中・ロなど)の不一致で当てにできないし、また同盟国アメリカの軍事力に頼りきるのも賢明ではないことは確かだが、かといって自国の軍事力に頼るというのも危険(軍事対決が攻撃を招き戦争を誘発する危険)。むしろ非軍事に徹して、信頼に基づいた外交努力に徹する方が賢明
 ウクライナについては、ロシアと隣接し、歴史的に統合・分離を繰り返し、ロシア帝国時代~ソ連時代の間ウクライナにもクリミアにもロシア人が移り住んできたが、ソ連の崩壊でウクライナが独立。そのウクライナが近年NATO加盟などをめぐって、加盟に反対するロシアおよびウクライナ東部に多く住んでいるロシア系住民との対立が激化するにおよんで、西部と東部の間で内戦が起き、ロシア系住民が大半を占めるクリミア半島がロシアに併合されることになった、というふうにウクライナとロシアの間には複雑なからみがあるのだ。
 またチベット・東トルキスタン(ウイグル)・南モンゴル(内モンゴル)については、中国の長い歴史の中で興亡し、中国王朝に対して勢力を張ったり服属したりしてきた民族(唐王朝に対してはチベット―吐蕃やウイグルが勢力を張ったし、元はモンゴルによる征服王朝であり、清朝は満州人による征服王朝でチベット・ウイグル・モンゴルその他いくつもの少数民族とともに圧倒的多数の漢人を服属させた)。清朝を倒して漢人が興した中華民国とそれに替わった現在の中華人民共和国は、清朝が服属させた諸民族の領域を引き継いだ56もの多民族国家なのである。したがって「チベット・東トルキスタン・南モンゴルが中国の領土だったことはなかった」、それが「中国から侵略された」というのは正しくない。漢人と少数民族は建てまえ上は平等で、そのうちのチベット・ウイグル・内モンゴルなどには、彼らが住む地方(民族自治区)の政府に自治権が認められている(とはいっても、そこには漢人が進出してきて多数住みつき実権が彼らによって握られという問題がることも事実だろう)。ウイグル・チベット・内モンゴルなどでは民族の独立運動やその動きはあるものの、これらの辺境地帯は中国政府にとっては「国防線」なのであって、台湾や香港などとともに分離独立されては困る、何としても繋ぎ止めておかなければと必死なわけである。とくにウイグルの「東トルキスタン独立運動」にはイスラム原理主義のテロ組織がからみ、それらに対する強硬弾圧とともに、香港などでも人権弾圧がおこなわれ、人権弾圧には国際社会から批判があるのは事実。
 ウクライナやクリミヤ、またチベットやウイグルなどを引き合いに出して、単純に「9条なんかを守っていたら、日本もあんなふうになってしまう」かのような論じ方は不適切だろう。
 百田「平和主義者は鍵をかけない⁉―防衛を強化することは、各家が泥棒の侵入に備えて家の鍵を堅固なものするということだ」と。
 ●軍備を正当化する所謂「戸締り論」だが、それは盗難防止対策に家に鍵をかけるのはいいとしても、各家に銃や刀を備え持ち、用心棒を雇ったりはしないだろう。(家に鍵をかけるのと国が軍備を持つのとは違うだろう。「銃社会」のアメリカは別だが。)
 百田「北朝鮮による拉致事件―今もなお日本人が—ならば武力をもって取り返すのが道理なのに、第9条で『武力の行使は、国際紛争をする手段としては、永久に放棄』しているため、何もできない状況だ」と。
 ●「武力をもって」奪還ということは特殊部隊を送り込んで?それは映画やなんかで描かれる話で、現実には、そんなやり方で拉致被害者を無事救出するのは非常に危険であり(被害者本人の命を危険にさらすだけでなく、戦争になって両国民まで命を危険にさらすことにもなるわけであり)、無謀きわまる暴論だろう。
 百田「イージス・アショア—それで敵のミサイルを完全に迎撃できるわけではないが、まったく迎撃しないとなると、100%の確率で数十万の国民が犠牲になる。それは部品が民家に落下する被害とは比べものにならない」のだと。(だから配備しないよりは、する方がましだというわけ。)
 「敵基地攻撃―最も確実なミサイル防衛とは、日本列島に照準を合わせてミサイルを発射させようとしている敵基地に攻撃を加え、ミサイルを発射させないようにすることであって、それは防衛の範囲内といえるはず」だと。
 ●軍事的合理性からいえば、その通り。それは先制攻撃も辞さないということだが、相手がそうするなら、こちらもそうするということだから、先に撃ちこんだ方が勝ち、ということだ。相手より先に撃つ、撃たないとやられる、ということで、「先手必勝」とか「決闘での早打ち」のようなもの。軍備を持つと「早い者勝ち」で、兵器の開発・増強と使用の素早さを競い、軍拡と戦闘・戦争に走りがちとなる。だから軍備は「抑止力」といっても、軍拡と軍事衝突→戦争を誘発しやすい危うさが伴うということだ。
 百田「9条を墨守し、アメリカとの安保条約のみに頼るのは危険(日本が他国から攻撃を受けた場合、はたしてアメリカ軍は守ってくれるか、大いに疑問。なぜならアメリカがその国と戦争になるからだ)。憲法を改正しなければ、本当にこの国が危ない」のだと。
 ●アメリカとの安保条約に頼るのは危険だというのは、そのとおりだ。(たとえば、尖閣諸島など無人島の日中争奪戦のために、日本側が米国大統領の信義に信頼して米軍の参戦をあてこんだとしても、そんなことにアメリカ兵が血を流すことを米国民がどう思うかとためらう米国議会がOK(同意)しなければ参戦できないわけである。)だからといって日本が独力で戦えるように、憲法を改正して自衛隊を軍として位置付け、敵基地攻撃能力はおろか、核兵器さえも保持することを認めるというのは、この国をもっと危うくするだろう。

Ⅲ「憲法に緊急事態条項が、どうしても必要」?
 読売大災害・感染症あるいはテロなど緊急事態に際し、憲法に規定がないために政府の対応が、平時の法制や手続きにこだわって後手に回る―緊急事態における政府の責務や権限(緊急政令の発動など)を明記しておく必要があること。その際、私権を無原則に制限しないように歯止めを設けることも。」
 産経「政治家や官僚に緊急事態への心構えや国民を救う果断な行動をとろうという問題意識を植え付けたい」
 百田他国の憲法では、戦争や災害が起きた時の行動規定がきちんと定められており、他国の侵略や大災害が起こった際に政府が超法規的な措置によって果断に対処できるように『緊急事態条項』を明記しておく必要があるのに、日本の現行憲法にはそれがない。」「災害が起こるたびに、政府の対応が後手に回るということが繰り返されている。」「緊急時に政府がスムーズに指令を出し、自衛隊や救援隊がきちんと任務にあたれる仕 組みを作るべきだ。」「新型コロナウイルスの対応においても、緊急事態条項がないことが政府の足を引っ張った。」「緊急事態条項を設けることに反対する勢力は、憲法にそのような条項があると『時の政権が独裁者のように振る舞えることになるから危険だ』と主張し、首相に大きな権限が与えられることで、恣意的に使われるようになると危惧している。この緊急事態条項は平時には適用されない、にもかかわらず、時の首相の頭がおかしくなり、いきなり緊急事態宣言を発令して、他国と戦争でもするというのだろうか」だと。
 「日本人の潜在的な心理―最悪の事態は起こってほしくないし、縁起の悪いことは考えたくない(「言霊主義」)。それが日本国憲法に緊急事態条項がなく、またその状態が放置された理由の一つだ」と。
 ●「緊急事態に際し、政府の対応が後手に回る」など政府の対応の遅さ、まずさ(無為無策・ご都合主義・場当たり的・責任逃れなど)は政府自身の問題なのであって、必ずしも憲法のせいではあるまい
  百田氏は「憲法に緊急事態条項を設けないのは、日本伝統の言霊主義(起こってほしくない最悪の事態のことを言葉にしたりすると、それが現実に起こってしまうから、「縁起が悪い」ことは言うまい、という意識)のせいだ」と。そこで「大東亜戦争において、作戦が計画通りいかなかった場合や失敗した場合を全く想定していなかった」ことなども指摘している。しかし、それを言うなら、菅首相や与党政治家たちが、安倍前首相が招致したオリンピックは何が何でもやり遂げなければならないのだという、唯々「開催ありき」の一念で、コロナ感染など、いくらパンデミックといえども、まさかこの日本で、せっかく引き受けたオリンピックを中止せざるを得ないほど状況が悪化して「最悪の事態」に立ち至るなんて「あり得ない、考えられない(だから専門家の提言など聞きたくない)」というその「言霊主義」こそが、政府の感染症対策失態の原因なのではないか。
 また、他国の憲法では、緊急事態条項はきちんと定められているかのように云うが、アメリカ憲法やドイツ憲法は緊急時に、通常とは異なる立法手続きをとることを認めているが、政府に立法権を直接与えているわけではないフランスや韓国の憲法には、大統領に一時的な立法権限を認めた措置をとれるとする規定はあるが、その発動要件はかなり厳格で、その権限を行使できる場面は極めて限定されていて、そうそう使えるものではなく、ほとんど使われてもいないのだという(2012年の自民党改憲草案のような、内閣独裁権を認めるような緊急事態条項を採用している国はないのだ、とのこと―木村草太・首都大学教授。)米・仏・独やニュージーランドなどで行われているロックダウン(「都市封鎖」)も、憲法上の緊急事態条項に基づいた強権を使ってやっているわけではなく、法律だけでやっているのだとのこと。(一口で「都市封鎖」といっても、外出・移動の禁止・制限その他、具体的な中身は、いろいろで、決まった定義があるわけではなく、今、日本でも緊急事態宣言などでやっている規制の対象・方法(強制力が弱い「お願いベース」など)には他国と違いがあるものの、それらは「特措法」など法律でやっているわけであり、強制力の強化(「要請」から「指示」・罰則を伴う「命令」へ)など法律の改正・新法制定によってできるわけであって、憲法に条項を設けて規定しないとできないというわけではないのだ。憲法には緊急事態条項が書かれていなくても、自由・人権条項の条文中には「公共の福祉に反しない限り」とか「公共の福祉のため」とか「公共の福祉に適合するように」と書かれているし、「公共の福祉」のためとして制定された然るべき法律さえあれば、政府はロックダウン的な非常措置をとることもできるのだということ。
(米ワシントン州弁護士で元明治大学特任教授のローレンス・レペタ氏によれば、「仮に、もし日本で強制的なロックダウン命令に対して違憲訴訟が行われたとしても、日本の裁判所がペンシルバニア州の裁判所と同じように命令は正当であると判断するのは明らかであると思われる。なぜならば、私有財産に関する日本国憲法の規定は米国憲法のそれとほぼ同じであり、緊急事態条項はあるといっても、大統領に緊急時に限って議会招集権限を認めるということだけで、それ以外には特別な権限を付与する規定はないのだ」と。)ただし、法律さえあれば「公共の福祉」で事足りるとは云っても、それを振りかざして政府や官憲が強権を発動・行使して何でもできてしまうような権力の濫用と人権侵害・抑圧は許してはならないわけであり、その歯止めとなるもの、それこそが憲法なのである(そのような場合に憲法に基づいた違憲訴訟が行われ、最高裁による立法審査が行われることになる)。
 憲法には、政府や国会・裁判所などに権限を授ける授権規範としての側面もあるが、立憲主義憲法の本質は、国家権力を制限することによって国民の権利・自由を保障するというところにある。だからこそ憲法には、敢てそれ(緊急事態条項)を定めてはいないのだろう。
 ●立憲主義の立場から云えば、憲法制定の目的は、政治権力者が権力行使(強権発動など)をしやすくするためではなく、あくまで国民の人権を政治権力から護るために、それによって権力を縛ることで、国家権力の恣意的な運用(濫用)を避けて国民の基本的人権や権利を守ることにある。
 憲法に、もし緊急事態条項を設ければ、政府に非常権限が与えられ、憲法公認の下に強権発動・行使ができるようになる。それは政府にとっては、臆することなく果断な強硬措置をとれるようになるし、やりやすくなり、国民によっては、それで「生命と財産」が助かるというメリットも考えられるが、権力濫用などリスクも伴う。国民にとっては、そのメリットとリスクのどちらが大きいかだ。リスクについては過去のドイツと我が国の憲法にその事例がある。
かつてドイツのワイマール憲法は世界で最も民主的な憲法の一つとされていたが、それには大統領の非常大権の条項があった。それは緊急時において大統領の判断で非常大権の行使が可能となっていた。これを利用したのがヒトラーで、ナチス党を率いて首相となった彼は、国会議事堂放火事件という緊急事態をでっちあげ、大統領に緊急令を発動させて(放火犯は共産党員だとして)共産党を弾圧、ナチス党以外のすべての政党を解散させ一党独裁体制を樹立して大戦を起こした
 明治憲法には天皇の非常大権とともに緊急勅令や戒厳令など緊急事態条項が定められていて、これらによって戦時には臣民の権利・自由が権力によって無視・侵害がされ、関東大震災に際しては軍隊が治安維持を理由として市民に対する武器使用などの権限行使も認められたし、治安維持法の改定(厳罰化して死刑導入)は緊急勅令をもって強行され、それによって国民の思想・良心の自由や表現の自由は根こそぎ侵害されることになった。
 現行憲法に緊急事態条項がないのは、それら内外の過去の憲法における緊急事態条項への反省があってのことなのだ。現憲法には緊急時の「参議院の緊急集会」の規定のみを設け、具体的な緊急事態への対応は、個別の法律(災害対策基本法・大規模地震対策特別措置法・感染症法・新型インフルエンザ等対策特別措置法―今のコロナ対策はこれを適用―など)によっておこなってきているわけである。
 ●現行憲法には次のようなことが定められている。
 25条2項「国は・・・・社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」と―それは政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということだ。 
 13条「すべての国民は・・・・・生命・自由・幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と―それは、政府は、国民の生命等の権利を(公共の福祉を考慮しつつ)最大限尊重し、災害や感染症などのパンデミックから国民の生命を護る義務を課され、その権限が認められているということでもあるわけだ。
 それはまた、国民の自由・人権が制約されるのは唯一「公共の福祉」のため、ということ。
 22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、住居・移転及び職業選択の自由を有する」と。
 29条(国民の財産権保障)「2項、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律でこれを定める。3項、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」と。
 12条(後段)「国民はこれ(自由および権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」と―それは、国民に自由と権利の濫用を禁ずるともに公共の福祉のために利用する責任を課しているということでもあるわけだ。

 これらの条文で、先ず25条2項で、政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということ。12条、13条、22条、29条では、いずれも国に対して個々人の自由権や生存権・幸福追求権に対する最大の尊重を求めつつも、「公共の福祉に反しない限り」ということで、これら諸個人の自由・人権・私権に対して一定の制約をも課している。
 それら政府の義務・権限と諸個人の権利制約については、それぞれ別途に、具体的個別的に法律によって定められる
 ここで、「公共の福祉」とは、国益とか公益とか国や地方公共団体の利益というわけではなく、また個人とは無関係な社会公共的な文化的価値(たとえばオリンピックとか街の美観とか)というわけでもなく、国民大多数であれ圧倒的多数であれ多数者の利益というわけでもない。それは個人相互の人権が矛盾・衝突する場合の調整原理であり、実質的公平の原理とされている。たとえば、感染症流行に際しては、各人の生命と健康を守るために、居酒屋やカラオケ店の営業規制を求める人々の権利と、営業の自由を求める業者の権利が衝突する事態となる。そこで相互調整(一方を優先し、他方を制限するなど)が必要となり、それを根拠づける言葉として用いられるのが「公共の福祉」
 その調整・調停に当たる役割が政府・国会・裁判所に求められ、それぞれその役割を果たす義務と権限が認められる。(その場合、政府の権限行使は公正でなければならず、政治的な思惑があったりしてはならない。)一方、国民にも権利の濫用を慎む「自粛」が求められ、政府の調停措置に対して、それが正当な立法手続きによる法律に基づいて講じられたものである限り、それに従って協力することが求められる。
 ●要するに、憲法に緊急事態条項がないと、今回のような感染症のまん延や大災害の襲来に際して政府は的確な対処ができないというのは、政府側の云う言い訳か、言い逃れで、現行憲法下でも、法律(今ある法律の改正か、立法)によって、やろうと思えばできることなのであって、それができないのは憲法のせいではないということだ。

ⅳ「デジタル時代の社会の変化に即応した憲法規定がどうしても必要」?
 読売「デジタル技術が家庭や教育をはじめ社会全般に浸透し、巨大IT企業は、国境を超えて膨大な個人情報を収集し、経済や言論活動にも国家権力に匹敵するほどの影響力を及ぼすようになっているが、それらを憲法の観点から規制することも考えなければならない。インターネット空間でも個人の尊厳が守られるよう、個人の尊重を規定する13条の改正も。」
 国民民主党(憲法調査会「憲法改正に向けた論点整理」)「たとえば13条(前段)の『すべての国民は、個人として尊重される』を『すべての国民は、サイバー空間を含め、個人として尊重されること』というふうに改正する」と。
 ●これらの規定が必要だとしても、憲法の条文に書き加えるのではなく、やはり別途に法律(たとえば『データ基本法』など)に定めるようにすればよいのでは。
 環境権やプライバシー権や自己決定権などは、13条の後段にある「幸福追求権」に含まれているとされているうえに、これらは環境基本法や個人情報保護法など法律で具体的に規定されているわけである。


2021年07月04日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき10)(随時加筆)

新型コロナウイルス         
世界の感染者総数2億4672万1929(+30万5299)、死亡者総数499万9970(+4445)

 上位国    感染者         死亡者           ()は前日比
 アメリカ 4597万0881(+1万7658)   74万5836(+166)
  インド  3428万5814(+1万2514)     45万8437(+251)   
  ブラジル 2181万0855(+6761)   60万7824(+130)  
  ロシア  837万7984(+3万9931)     23万4194(+1131)
   フランス 726万8527(+6349)   11万8625(+13)
 イギリス  910万0442(+3万7732)       14万1055(+74)    
  トルコ 803万2958(+2万3948)    7万0611(+201)
 アルゼンチン528万8807(+548)   11万5950(+8)
  スペイン 501万1148(+)      8万7368(+) 前々日のまま  
    イラン 592万4638(+8427)      12万6303(+177)
    
  インドネシア424万4358(+523)   14万3405(+17)
  フィリピン278万7276(+3380)     4万3172(+128)
    日本  172万3540(+86)人    1万8288(+7)
    韓国   36万6386(+1686)     2858(+9)
    中国  10万9666(+92)      4849(+0)
  <11月1日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都38万1664(+9)  3148(+1)
                  大阪府20万2539(+7)   3047(+2)
                   神奈川県16万8906(+6) 1308(+0) 
                  埼玉県11万5628(+3)  1045(+0)
              愛知県10万6648(+5)   1156(+0)
                  千葉県 10万0345(+3)   1024(+0)         
                  北海道 6万0752(+3)   1471(+0)
                  兵庫県7万8471(+2)     1395(+0)
                  福岡県 7万4438(+7)   621(+0)               
                  京都府3万5897(+3)   291(+0)
                   沖縄県 5万0233(+1)   387(+4)
                  広島県2万2069(+4)   202(+0)
                                    
                  宮城県 1万6266(+0)    118(+0)
                  福島県 9483(+0)     175(+0)
                  山形県 3548(+0)     56(+0)
                  岩手県  3486(+0)      53(+0)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <11月1日午後8時0分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

  *注―日本は他国に比べて非常に少ないようだが、実はPCR等の検査数が少ないからなのだ(発熱7度5分以上が4日以上続いている人でないと検査を受け付けない等で)。医学者で山梨大学の島田学長は「市中感染が広がり、原因不明で亡くなっている人もいるが、検査が少ないので実数がつかめていない」と指摘。(人口10万人当たりのPCR等検査数はイタリア・ドイツ3000件余、アメリカ・シンガポールが1700件余、韓国1200件、フランス900余、であるのに対して日本は188件―5月4日時点で専門家会議が示したデータ)
 7月29日現在、日本におけるPCR検査は(検査総数75万人近く)人口100万人当たりでは(5902人で)G7(主要7ヵ国)では最低、世界215ヵ国・地域の中では158位(セネガルやナミビアなどのアフリカの国よりも低いレベル)(データ出所は米国に拠点を置くウエブサイト「ワールドメーター」―世界各国の統計資料を分析、米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズなどに活用されている)とのこと。
 それは、日本ではPCR検査抑制論をとってきたからだ。
 10月に入ったこの間も、日本のPCR検査数は人口比では世界153位で、1日最大でも3万件程度。
 2021年1月段階で世界149位(1月1~11日、1日平均4.4万件、1000人当たりではイギリス8.1、フランス4.4、アメリカ3.9、イタリア2.2に対して日本は0.5と少ない) 
    2月1日段階で世界138位
    4月初旬の段階で人口比では145位
    4月20日時点で日本の人口10万人当たりの死亡者数7.53人で中国(0.35%)・韓国(3.45%)を大きく上回る。
 ワクチン接種―遅れる日本―OECD加盟国で最下位―人口の75%に行き渡り、ある程度の集団免疫に達するためには、現在(4月28日時点)のペースでいくと(アメリカはあと3ヵ月、ドイツ6ヵ月、韓国21ヵ月、オーストラリア2.2年で)日本は3.8年かかる(米国の通信社ブルームバークの試算)。
 ワクチン各国接種率(NHK調べ)―7月12日時点で2回接種を終えた人、(人口比)
   英国50.9%、米国47.5%、スペイン44.9%、カナダ42.5%、ドイツ41.8%、ポーランド39.5%、イタリア37.5%、フランス36.1%、 日本16.8%(オリンピック開催国で、11日前にしては遅れている日本)       
 変異種―2021年2月以降、変異ウイルス流行、大半はイギリス由来(アルファ型)
    4~5月、日本国内でもアルファ型が大阪・兵庫から全国へ―従来株に置き換わって主流に。
    4月、インドで新たな変異種(デルタ株、感染力さらに強い)急増→各国へ
    5~7月、イギリスではデルタ株が急増、置き換わる
    7月、日本でもデルタ株が首都圏から全国へ
    8月上旬、デルタ株、首都圏で8~9割、置き換わる
 国内ワクチン接種率―10月31日(医療従事者を除いた2回完了者)全体で 67.0%
                               高齢者 90.7%
                              164歳以下 57.4%
=======================================
10月31日
  30日
  29日
  28日
  27日、山形県内の新規感染者(寒河江市に)1人
  26日、山形県内の新規感染者3人―①山形市2人、②寒河江市1人
  25日、首都3県・大阪府で時短営業を全面解除
  24日
  23日
  22日、山形県内の新規感染者(山形市と天童市に)2人。
     東京都の新規感染者26人で今年最少。
  21日
  20日、山形県内の新規感染者(天童市に)1人
  19日、山形県内の新規感染者9人(いずれも天童市で17日の感染者の家族・親族・知人)
  18日、国内感染―全国の新規感染者300人割る(昨年10月以来)、東京・大阪とも29人で今年最小。
  17日、山形県内の新規感染者4人―①山形市2人、②天童市2人。
  16日
  15日、山形県内の新規感染者4人―①新庄市3人(クラスターが出た保育所の園児で、同園の感染者は計7人に)、②山形市1人。
   14日、山形県内の新規感染者5人―①新庄市4人(1人はクラスターが出た保育所の園児で、3人は同園の別の感染児童の同居家族)、②寒河江市1人。
   13日、山形県内の新規感染者7人―①新庄市6人(市内の認可保育園の園児3人と職員2人―クラスター)、②山形市1人。
   12日、山形県内の新規感染者(新庄市に)1人。
   11日、国内感染―新規(363人)は今年最少で、300人台は昨年10月以来。
   9日、国内感染の急減―原因は不明確(ワクチン接種の進展や、医療崩壊の危機感から行動自粛・人流抑制など諸要因考えられるも解明には至っておらず)
    東京都の新規感染者(82人)今年最少
  8日
  7日
  6日、国内感染―第5波拡大前(6月上旬)の水準まで減少
    山形県内の新規感染者1人(山形市)
  5日、国内感染―全国の新規感染者数982人で3日連続1000人を下回る。
     山形県内の新規感染者2人(新庄市)
  4日
  3日、山形県内の新規感染者2人―①新庄市1人、②米沢市1人。
  2日
  1日、緊急事態宣言(19都道府県)・蔓延防止等重点措置(8県)ともに全て解除。
     山形県内の新規感染者7人―①山形市2人、②酒田市1人、③上山市1人、④天童市1人、⑤庄内町1人。
9月30日、山形県内の新規感染者1人(天童市在住)
  29日、山形県内の新規感染者1人(上山市在住)
  28日、山形県内の新規感染者1人(寒河江市在住)
  27日、山形県内の新規感染者1人(山形市在住)
  26日、第5波(8月15日前後をピークに急減)「収まりつつある」―医療状況が全国的に改善←ワクチン接種が進んだ効果と行動自粛(←報道などを通じて危機感の広がり)
 2ヵ月あまりのこの間(7月21日~9月26日)感染者数が約84万6000人(それまでの1年半で積み上がった84万4000人を上回る)
     山形県内の新規感染者1人(山形市在住)
 25日、山形県内の新規感染者19人―①庄内町11人(縫製会社寮内で従業員7人と関連会社従業員4人―クラスター)、②新庄市5人、③寒河江市2人、④県外者1人。
  24日、山形県内の新規感染者2人―①山形市1人、②酒田市1人。
  23日、山形県内の新規感染者数7人―①山形市3人、②長井市2人、③寒河江市1人、④県外者1人。
  22日、山形県内の新規感染者3人―①山形市1人、②天童市1人、③西川町1人。
  21日、国内―新規感染者1000人台(1767人)(7月12日以来)、そのうち東京都は253人で300人を下回るのは6月21日以来3ヵ月ぶり。      
      山形県内の新規感染者1人(山形市)。
  20日、国内の新規感染者―2ヵ月ぶりに2千人台
    第5波が8月のお盆の頃をピークに下降。
     東京都では新規感染者8月23日から減少、7月4日以来2ヵ月半ぶりに500人下回る(302人)。 
     山形県内の新規感染者3人―①新庄市2人(市内でクラスター発生した病院の入院患者、計56人に)、②長井市1人。
  19日、山形県内の新規感染者―寒河江市1人
  18日、山形県内の新規感染者3人―①東根市1人、②長井市1人、③県外者1人。
  17日、山形県内の新規感染者4人―①寒河江市1人、②酒田市1人、③県外者2人。
  16日、山形県内の新規感染者7人―①山形市4人、②寒河江市1人、③酒田市1人、④川西町1人。
  15日、山形県内の新規感染者9人―①山形市3人、②川西町2人、③酒田市1人、④寒河江市1人、⑤河北町1人、⑥県外者1人。クラスター―川西町の介護老人保健施設で新たに利用者1人、計10人に。
  14日、山形県内の新規感染者15人―①山形市6人、②川西町4人、③天童市1人、④新庄市1人、⑤米沢市1人、⑥南陽市1人、⑦県外者1人。クラスター―①川西町の介護老人保健施設で新たに利用者2人と職員2人確認、計9人に、②新庄市の病院に新たに患者1人確認、計54人に。
  13日、「緊急事態宣言」対象の19都道府県と「蔓延防止等重点措置」対象の8県(宮城・岡山2県は「宣言」から「重点」に切り替え)がいずれも期間延長30日まで。重点措置対象だった富山・山梨・高知・長崎など6県は解除。
     山形県内の新規感染者5人―①川西町2人、②山形市1人、③新庄市1人(市内のクラスター発生病院の患者)、④米沢市1人。クラスター―川西町の介護老人保健施設で利用者4人と職員1人、計5人。
  12日、山形県内の新規感染者18人―①山形市5人、②鶴岡市4人、③新庄市3人(市内のクラスター発生病院の患者2人と職員1人で、計52人に)、④上山市2人、⑤天童市1人、⑥東根市1人、⑦山辺町1人⑧県外者1人。
  11日、山形県内の新規感染者16人―①山形市4人、②新庄市3人、③鶴岡市2人、④天童市2人、⑤川西町2人、⑥長井市1人、⑦中山町1人、⑧白鷹町1人。
  10日、山形県内の新規感染者18人―①新庄市9人(ずれもクラスター病院の患者で、計46人に)、②東根市4人、③山形市2人、④酒田市1人、⑤上山市1人、⑥中山町1人。
   9日、山形県内の新規感染者25人―①山形市6人、②天童市6人、③東根市3人、④寒河江市2人、⑤新庄市2人、⑥酒田市2人、⑦長井市1人、⑧河北町1人、⑨白鷹町1人、⑩庄内町1人。クラスター―新庄市内のかねての病院に新たに患者2人、計37人に。
   8日、感染―自宅療養者が全国で10万3千人以上。
     山形県内の新規感染者14人―①山形市4人、②天童市4人、③米沢市2人、④酒田市1人、⑤新庄市1人、⑥南陽市1人、⑦長井市1人。クラスター⓵米沢市内の運送関係事業所で2人、この前の感染者と合わせ計8人、②新庄市内の先来の病院で新たに患者1人で計35人。
   7日、山形県内の新規感染者24人―①山形市5人、②天童市4人、③新庄市3人、④鶴岡市2人、⑤寒河江市2人、⑥米沢市1人、⑦上山市1人、⑧村山市1人、⑨山辺町1人、⑩高畠町1人、⑪飯豊町1人、⑬県外者1。クラスターー新庄市内で発生の病院に新たに入院患者3人、計34人に。
   6日、山形県内の新規感染者12人―①山形市3人、②新庄市3人、③上山市2人、④寒河江市2人、⑤天童市1人、⑥米沢市1人。クラスター―新庄市内の病院で新たに職員と患者の3人で、これまでと合わせ計31人。
   5日、山形県内の新規感染者13人―①山形市4人、②寒河江市3人、③米沢市1人、④新庄市1人(市内でクラスター発生の病院患者で計28人に)、⑤天童市1人、⑥西川町1人、⑦高畠町1人、⑧川西町1人。
   4日、山形県内の新規感染者20人―①山形市7人、②天童市2人、③新庄市2人(ともに市内でクラスター発生の病院患者で、同病院では計27人に)、④鶴岡市2人、⑤寒河江市1人、⑥米沢市1人、⑦南陽市1人、⑧朝日町1人、⑨舟形町1人、⑩川西町1人、⑪白鷹町1人(米沢市内でクラスター発生の高校生徒で、同校では計19人に)。
   3日、国内感染―重症者(2221人)最多更新
     山形県内の新規感染者14人―①米沢市3人、②天童市2人、③新庄市2人(1人は市内でクラスター発生の病院患者)、④山形市1人、⑤寒河江市1人、⑥上山市1人、⑦南陽市1人、⑧鶴岡市1人、⑨山辺町1人(山形市内でクラスター発生のスナックバー従業員)、⑩朝日町1人。
   2日、国内感染―重症者(2158人)過去最多、20歳未満2割余。
     パラリック関係―これまで275人
保育園の休園相次ぐ―15都道府県で185園(過去最高)
     山形県内の新規感染者39人―①山形市7人、②高畠町5人、③新庄市4人、④天童市4人、⑤米沢市3人、⑥鶴岡市3人、⑦寒河江市2人、⑧酒田市2人、⑨上山市2人、⑩村山市2人、⑪河北町2人、⑫中山町1人、⑬最上町1人、⑭県外者1人。クラスター―山形市内のスナックバーで5人。
   1日、国内感染―累計150万人を超える。
    大阪府の新規感染者(3000人超)過去最多。
    山形県内の新規感染者29人―①山形市7人、②米沢市7人、③新庄市6人、④尾花沢市2人、⑤寒河江市1人、⑥村山市1人、⑦東根市1人、⑧長井市1人、⑨鶴岡市1人、⑩河北町1人、⑪高畠町1人。クラスター関連―①新庄市内の病院で6人増え計19人に、②米沢市内の高校で生徒5人増え計18人に。
8月31日、1都3県で自宅療養中の死亡者30人。
     自宅療養中の死亡者―この一ヵ月で全国で250人。
     山形県内の新規感染者28人―①山形市6人、②米沢市3人、③新庄市3人、④寒河江市3人、⑤東根市2人、⑥酒田市2人、⑦高畠町2人、⑧鶴岡市1人、⑨村山市1人、⑩南陽市1人、⑪西川町1人、⑫飯豊町1人、⑬県外者2人。クラスター関係―米沢市内の同じ高校で新たに5人(同じ部員1人とその他の生徒4人)。
  30日、国内感染―重症者2110人で19日連続最多更新
     山形県内の新規感染者20人(うち10人は小学生から高校生の「子ども世代」)―①山形市4人、②寒河江市2人、③東根市2人、④米沢市2人、⑤南陽市2人、⑥酒田市2人(うち1人はクラスター発生のあった中学校の生徒)、⑦河北町2人、⑧新庄市1人(クラスター発生のあった病院の利用者)、⑨鶴岡市1人、⑩高畠町1人、⑪県外者1人。クラスター⓵前日の米沢市内の高校で新たに4人増えて計10人に、②河北町の放課後児童クラブで小学生2人増え計11人に、③新庄市内の病院で1人増え計11人に。③酒田市内の中学校で1人増え13人に。
  29日、国内感染は新規感染者は(2万人を下回り)1週間前の日曜日から2940人減ったが、重症者は2070人で17日連続で過去最多。
     山形県内の新規感染者30人―①鶴岡市6人、②新庄市5人、③米沢市5人、④酒田市4人、⑤山形市2人、⑥天童市2人、⑦河北町2人、⑧寒河江市1人、⑨南陽市1人、⑩高畠町1人、⑪白鷹町1人。クラスター⓵米沢市内の高校で生徒6人(うち5人は同じ部活で、もう1人はその部員の知人)、同校では他の部員と接触のあった生徒・職員など40人にPCR検査。3日まで臨時休校へ。
  28日、山形県内の新規感染者53人―①酒田市12人、②米沢市11人、③山形市7人、④鶴岡市7人、⑤天童市4人、⑥新庄市4人、⑦上山市2人、⑧河北町2人、⑨庄内町2人、⑩東根市1人、⑪南陽市1人。クラスター⓵新庄市内の病院で入院患者6人と職員1人、②米沢市内にある川西町玉庭の太陽光発電所建設工事従業者の宿舎で10人、③酒田市の中学校の運動部で生徒と職員の計9人、③河北町内の放課後児童クラブで7人目。
  27日、緊急事態宣言の対象に新たに宮城・愛知・広島・北海道など8道県が指定(先行する宣言指定地域―沖縄県5月23日から、東京都7月12日から、大阪・神奈川など4府県8月2日から、京都・茨城・福岡など7府県8月20日から―と合わせて計21都道府県。いずれも9月12日まで)
     まん延防止等重点措置の対象に新たに高知・長崎・佐賀・宮崎4県が指定(先行する重点措置指定地域―石川県8月2日から、福島・熊本2県8月8日から、富山・山梨・鹿児島など5県8月20日から―と合わせて計12県。いずれも9月12日まで)
     宣言対象と重点措置対象を合わせて33都道府県。
     全国の感染重症者2000人を超え、15日連続最多更新。東京都の重症者の3分の2が50代以下。.
      山形県内の新規感染者27人ー⓵山形市9人、②天童市4人、③酒田市4人、④東根市2人、⑤鶴岡市2人、⑥寒河江市1人、⑦新庄市1人、⑧南陽市1人、⑨河北町1人、⑩庄内町1人、⑪県外者1人。      
  26日、山形県内の新規感染者38人―①天童市6人(うち1人は山形市内の放課後デイサービス施設を利用する小学生―クラスター関連で10人目)、②庄内町6人、③鶴岡市5人、④酒田市5人、⑤上山市4人、⑥米沢市3人、⑦東根市1人、⑧南陽市1人、⑨山辺町1人、⑩西川町1人(河北町の学童保育所職員―クラスター関連で6人目)、⑪三川町1人、⑫県外者4人。
  25日、パラリンピック(無観客が原則も)東京都内と千葉県内の学校観戦を認める(都内の学校は期間中2万人余が参加の見通し)。
     国民体育大会(三重県で開催予定だったが)中止を決定(2年連続)。
     山形県内の新規感染者35人―①山形市6人、②南陽市4人、③河北町4人、⓸米沢市3人、⑤鶴岡市3人、⑥寒河江市2人、⑦上山市2人、⑧東根市2人、⑨新庄市2人、⑩酒田市2人、⑪県外者2人、⑫長井市1人、⑬高畠町1人、⑭白鷹町1人。クラスター⓵河北町内の学童保育所で児童4人と職員1人、②鶴岡市での東北総体・屋内競技の山形県代表選手5人―競技は中止に。
     自宅療養10万人超え、過去最多。東京都の今月中・自宅療養中の死者14人に。
  24日、パラリンピック開幕
     山形県内の新規感染者43人―①山形市12人、②鶴岡市6人、③南陽市5人、④酒田市4人、⑤寒河江市3人、⑥東根市3人、⑦米沢市3人、⑧庄内町3人、⑨県外者3人、⑩高畠町1人。
     全国の感染重症者数が1964人で13日連続で過去最多。
  23日、山形県内の新規感染者32人―①酒田市6人、②鶴岡3人、③高畠町3人、④川西町3人、⑤山形市2人、⑥南陽市2人、⑦河北町2人、⑧県外者2人、⑨米沢市1人、⑩寒河江市1人、⑪上山市1人、⑫天童市1人、⑬東根市1人、⑭飯豊町1人、⑮三川町1人、⑯庄内町1人。クラスター⓵酒田市内の高校運動部に5人、②川西町玉庭の太陽光発電所の建設工事従事者3人増えて21人に。
  22日、山形県内の新規感染者45人―①米沢市12人(うち6人は川西町玉庭での太陽光発電所建設の工事従事者、ここでのクラスターは計18人に)、②鶴岡市8人、③新庄市6人、④山形市5人。
  21日、国内感染―全国の新規感染者が3日連続2.5万人超。    
    山形県内の新規感染者69人(最多更新)―①山形市19人、②鶴岡市12人、③三川町8人、④米沢市6人(うち5人は川西町玉庭の太陽光発電所建設工事の従業者で、ここでのクラスターは計12人に)、⑤酒田市6人、⑥東根市3人、⑦庄内町3人、⑧天童市2人、⑨飯豊町2人、⑩寒河江市1人、⑪上山市1人、⑫河北町1人、⑬高畠町1人、⑭川西町1人⑮白鷹町1人、⑯県外者2人。
  20日、東京都では医療供給体制が「機能不全に」―入院率が9%に低下し、圧倒的多数が自宅療養を余儀なく―自宅療養中に容態悪化・救急搬送しても入院受け入れ困難―「医療崩壊」状況。神奈川・埼玉・千葉3県では入院率が15%以下、その他6府県でも30%以下に。
     山形県内の新規感染者53人(過去最多)―①鶴岡市18人、②山形市5人、③米沢市5人、⓸上山市3人、⓹長井市3人、⑥東根市3人、⑦三川町3人、⑧県外者3人、⑨酒田市2人、⑩村山市2人、⑪天童市2人、⑫飯豊町2人、⑬寒河江市1人、⑭南陽市1人。クラスター―①川西町玉庭での太陽光発電所建設工事の従事者3人で、これ以前に4人も。
で感染した会社員7人、②県警察学校で1人増。
  19日、山形県内の新規感染者40人―①山形市9人、②鶴岡市7人、③東根市4人、④上山市3人、⑤天童市3人、⑥河北町2人、⑦寒河江市1人、⑧米沢市1人、⑨中山町1人、⑩舟形町1人、⑪高畠町1人、⑫小国町1人、⑬庄内町1人、⑭県外者5人。クラスター―県警察学校で1人増え計12人に。
  18日、山形県内の新規感染者51人(過去最多)―①山形市18人、②鶴岡市9人、③酒田市4人、④天童市4人、⑤東根市4人、⑥米沢市2人、⑦新庄市2人、⑧飯豊町2人、⑨寒河江市1人、⑩南陽市1人、⑪三川町1人、⑫庄内町1人、⑬県外者2人。クラスター―①鶴岡市内の建設会社に前日2人、新たに3人、②警察学校で新たに4人、計11人に。
  17日、山形県内の新規感染者44人―①山形17、②鶴岡市6人、③天童市4人、④酒田市3人、⑤村山市2人、⑥新庄市2人、⑦飯豊町2人、⑧東根市1人、⑨米沢市1人、⑩白鷹町1人、⑪県外者5人。
     県内クラスターー天童市内の警察学校寮で、前日2人、新たに5人。
  16日、山形県内の新規感染者17人―①鶴岡市5人、②天童市3人、③庄内町2人、④東根市1人、⑤尾花沢市1人、⑥新庄市1人、⑦酒田市1人、⑧川西町1人、⑨県外者2人。
  15日、山形県内の新規感染者20人―①鶴岡市6人、②酒田市4人、③山形市1人、④上山市1人、⑤天童市1人、⑥河北町1人、⑦大江町1人、⑧県外者5人。
  14日、国内感染―全国の新規感染者総計が連続2万人超。重症者が初めて1500人超。大阪・沖縄・神奈川など12府県とも過去最多。
     山形県内の新規感染者29人―①山形市15人、②小国町5人、③酒田市3人、④東根市1人、⑤庄内町1人、⑥川西町1人、⑦朝日町1人、⑧県外者2人。クラスターー山形市内の放課後等デイサービス施設で小学生7人(これまで職員1人)。
  13日、国内感染―全国の新規感染者総計初めて2万人超す。重症者が過去最多(1478人)。首都圏1都3県など17県で最多更新。
     山形県内の新規感染者37人―①山形市17人、②鶴岡市3人、③天童市3人、④米沢市2人、⑤村山市2人、⑥酒田市1人、⑦寒河江市1人、⑧東根市1人、⑨遊佐町1人、⑩県外者6人。クラスターー⓵山形市内の山大キャンパスの運動部員1人(11人目)、②村山市内の保育園で1人(6人目)。
  12日、国内感染―全国、連続最多更新。宮城・福島など20府県最多。
     東京都のモニタリング会議で専門家の大曲氏「災害レベルの非常事態」「医療機能不全」「自分で身を守る段階」と―都内感染の自宅療養者2万人超し、入院できたのはたった1人。
     山形県内の新規感染者26人―①山形市8人、②鶴岡市6人、③県外者5人、④村山市3人、⑤寒河江市1人、⑥天童市1人、⑦東根市1人、⑧河北町1人
     県独自の注意・警戒レベル4(特別警戒)を、既に出していた山形市など村山地方から県全域に広げる。
  11日、国内感染ー全国の新規感染者総計が最多更新。重症者も、東京(197人で最多更新)をはじめとして増加続く。31都道府県で「感染爆発」(人口10万人当たり1週間の新規感染者が25人以上で「ステージ4」に相当)
    京都・大阪2府と三重・滋賀・愛媛・静岡・奈良・熊本・鹿児島7県が最多更新。
     山形県内の新規感染者43人―①山形市21人、②県外者6人、③天童市3人、④鶴岡市3人、⑤寒河江市2人、⑥村山市2人、⑦東根市2人、⑧酒田市2人、⑨新庄市1人、⑩白鷹町1人
     クラスター―①前日の山形市内高校の女子運動部に1人増えて計6人に、②先日の山形市内の保険会社に1人増えて計10人に。
  10日、山形県内の新規感染者15人―①山形市5人、②酒田市2人、③長井市2人、④寒河江市1人、⑤村山市1人、⑥東根市1人、⑦鶴岡市1人、⑧高畠町1人、⑨県外者1人
     クラスター―山形市内の高校の運動部員5人
  9日、山形県内の新規感染者19人―①山形市6人、②村山市4人、③天童市2人、⓸長井市2人、⓹寒河江市1人、⑥東根市1人、⑦河北町1人、⑧鶴岡市1人、⑨酒田市1人。
     県内クラスター―村山市内の保育園の園児2人と職員1人増えて、計5人。
  8日、福島・茨城・群馬・栃木・愛知・静岡・滋賀・熊本8県にまん延防止措置(既に発令中の都府県と合わせて31日まで)
    山形県内の新規感染者28人―①山形市15人(クラスタ――保険会社で4人増えて、計9人に)、②寒河江市4人、③村山市3人、④天童市2人、⑤鶴岡市1人、⑥東根市1人、⑦尾花沢市1人、⑧山辺町1人。
   オリンピック(前月23日から開催)が閉幕。
  7日、国内感染―新規感染者が過去最多更新(1万5753人)
    東京都の感染入院患者数3485人で過去最多、自宅療養者数1万8444人
    山形県内の新規感染者37人―①山形市18人、②高畠町4人、③天童市3人、⓸新庄市3人、⓹村山市2人。
     県内でクラスター認定ー⓵長井市内の幼稚園で園児4人と職員1人、②村山地域のスポーツチームで中学生5人、③山形市内の保険会社(支社)で外交員5人           
  6日、国内感染者数(累計)100万人超す(4ヵ月で倍増)。
    大阪・京都2府と神奈川・千葉・山梨・静岡・新潟・富山・三重・福岡・熊本・鹿児島各県が過去最多。
    山形県内の新規感染者数40人―①山形市18人、②天童市4人、③東根市4人、④寒河江市3人、⑤長井市3人、⑥新庄市2人、⑦村山市1人、⑧尾花沢市1人、⑨南陽市1人、⑩山辺町1人、⑪県外者2人。天童高校のクラスターが6人増えて計12人に。山形市内のスナックバーのクラスターも1人増え計13人に。
  5日、世界の累計感染者2億人超す。
    国内感染―全国の新規感染者(1万5263人)連続最多更新。
    東京(5000人超)と隣接4県(山梨も)、熊本・沖縄2県も最多。
    山形県内の新規感染者33人―①山形市16人(クラスター発生のスナックバーに1人―計12人に)、②天童市5人(市内高校2人―クラスター計6人に)、③東根市3人、④長井市2人、⑤米沢市1人、⑥南陽市1人、⑦中山町1人、⑧最上町1人、⑨県外在住者2人
  4日、国内感染―全国の新規感染者(1万4207人)最多更新、
    東京都(4166人)・埼玉・福岡・沖縄・京都・など14都府県で最多更新、
    山形県内の新規感染者21人―①山形市9人(山大の運動部に1人―計10人に、スナックバーに1人―計10人に、認定こども園に1人―計7人に、いずれもクラスタ―)、②東根市4人、③長井市3人、④天童市2人、⑤鶴岡市1人、⑥寒河江市1人、⑦高畠町1人
  3日、山形県内の新規感染者32人―①山形市10人、②県外者8人、③東根市7人、⓸南陽市3人、⑤天童市2人、⑥寒河江市1人、⑦山辺町1人
  2日、政府が感染急増地域での入院制限方針―(これまでは中等症患者は入院、軽症患者はホテル等で宿泊療養が原則だったのを)重症患者や重症化リスクの高い患者に限って入院、それ以外は自宅療養を基本とするように―病床不足のため
    東京都と沖縄県への緊急事態宣言を31日まで延長。
    大阪府と神奈川・埼玉・千葉3県(これまで蔓延防止対象)緊急事態宣言対象に切り替え。
    京都府・北海道と福岡・兵庫・石川3県には蔓延防止重点措置。いずれも31日まで。
    山形県内の新規感染者15人―①山形市9人(うち5人は山大の同一運動部―クラスター)、②東根市5人、③村山市1人
  1日、国内感染―全国の新規感染者1万人超、4日連続 
     山形県内の新規感染者12人―①山形市7人(スナック・バーで6人―クラスター)、②鶴岡市2人、③米沢市1人、⓸県外者2人
7月31日、国内感染―全国の新規感染者が連続最多更新
     10都府県(東京・京都・神奈川・埼玉・千葉・群馬・栃木・新潟・静岡・沖縄)で最多更新
     山形県内の新規感染者15人―①寒河江市4人、②山形市3人、③東根市2人、⓸天童市1人、⑤大石田町1人、⓺朝日町1人、⑦高畠町1人、⑧県外在住者2人     
  30日、国内感染―全国の新規感染者が連続最多更新
      山形県内の新規感染者7人―①山形市5人、②県外在住2人
  29日、国内感染―全国の新規感染者1万人超で過去最多更新。
     東京都・神奈川県・沖縄県が過去最多更新
     東京都の専門家会議「経験したことのない爆発的な感染拡大に向かっている」「医療提供体制のひっ迫が始まっている」と。
     山形県内の新規感染者18人―①山形市11人(こども園で6人―クラスター発生と見られる)、②天童市2人、③寒河江市2人、⓸県外在住3人
  28日、国内感染―全国の新規感染者1万人に迫り、過去最多(9577人)、
     東京都3000人超、神奈川・埼玉・千葉・茨城・石川5県、京都府とも過去最多
     首都圏におけるデルタ型変異株75%(置き換わり)と推定
     山形県内の新規感染者(山形市に)3人(うち幼児2人は前日感染公表の大江町女性の接触者) 
  27日、山形県内の新規感染者6人―①寒河江市2人、②酒田市1人、③長井市1人、④東根市1人、⑤大江町1人
     東京都・埼玉県・沖縄県とも新規感染者数が過去最多
     国内全体の新規感染者数は過去4番目の多さ
  24日、山形県内の新規感染者1人(県外在住)
  23日、東京オリンピック開幕(1年延期のすえ)
  22日、国内感染「第5波」到来
     山形県内の新規感染者4人―①山形市2人、②酒田市1人、③庄内町1人
     山形市に1人県内初のデルタ株が確認
  21日、国内感染 ワクチン効果で高齢者は減少も、未接種の若年層の割合が拡大―重症者・死亡者減少も、若年層に中等症入院患者が増加。
     山形県内の新規感染者2人―①寒河江市1人、②大江町1人
     東京のデルタ株60%に。
  20日、山形県内の新規感染者(村山市に)1人
  17日、山形県内の新規感染者3人―①山形市1人、②長井市2人
  16日、山形県内の新規感染者6人―①山形市2人、②長井市2人、③村山市1人、④県外1人
  15日、山形県内の新規感染者3人―①山形市2人、②村山市1人
  14日、山形県内の新規感染者(山形市内に)2人
  13日、山形県内の新規感染者3人―いずれも山形市内(うち1人はクラスター発生パブの利用客の同僚)
  12日、東京都(まん防措置から切り替え)と沖縄県(延長)に緊急事態宣言―8月22日まで。  大阪府と神奈川・埼玉・千葉3県には蔓延防止等重点措置が延長―8月22日まで。
     京都府と北海道と兵庫・愛知・福岡3県への蔓延防止措置は解除
     山形県内の新規感染者6人―①山形市2人、②寒河江市1人、③山辺町3人
  11日、山形県内の新規感染者4人―①山形市2人、②寒河江市2人
  10日、1都3県でアルファ型34%
    山形県内の日新規感染者13人(うち9人は前日公表感染者の知人)―①山形市6人、②山辺町2人、③高畠町2人、⓸寒河江市1人、⑤小国町1人、⑥県外在住者1人
     山形市の小中3校が臨時休校へ。
  9日、山形県内の新規感染者10人―①9人は山形市内の前日と同じパブ関連および
スーパーの従業員(両店ともクラスター発生、3人は両店重複)、②隣県在住者1人
  8日、山形県内の新規感染者2人―山形市内のパブ従業員
  7日、山形県内の新規感染者2人―①大江町1人、②県外在住者1人
  4日、山形県内の新規感染者(山形市に)1人
  3日、山形県内の新規感染者5人―①山形市4人、②天童市1人
  2日、山形県内の新規感染者2人―①山形市1人、②天童市1人

2021年07月19日

パンデミック下「五輪開催の意義」に異議

 平時であれば世界スポーツ全種目のアスリートたちと観衆が世界から集う競技会場を今大会の開催国に選ばれた日本が提供し、日本国民にはそこで最高レベルの競技を目の当たりにして感動を味わえる、めったにない機会だったはず。
 ところが、新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われ、未だその最中にある。
 中国などのようなロックダウンを徹底して行っている国や欧米のようにいち早くワクチン開発が行われて接種が国民に行き渡ってる国など、国や地域によっては感染予防対策やワクチン接種が徹底している国・地域もあれば、そうでない国・地域もある。それによって重症化率も死亡率も減って、ロックダウンなど規制が解除され、マスク着用さえ不要とされるようになった国もあれば、途上国・低所得国などワクチン接種が1%にも満たない国も少なくない(カナダ70%で先進国の欧米68~56%なのに日本は32%、中国は43%で、世界平均は26%)。
 開催国日本では、立派な競技会場や「選手村」(宿舎)などは用意しても、そこに参集する各国選手はベストコンデションで競技に臨める(思う存分力を発揮できる)状態ではないし、観衆が集まれる状態にもなってはいない。(選手は、国・地域によっては代表選考・出場権獲得のための予選会が中止となったり資金にも恵まれず不参加を余儀なくされたり、日本国内での事前合宿で時差や気候に慣れるように早めに来日して合宿練習しようにもそれが取り止めになったり等のハンデを強いられ、その点日本選手以外のアウェイ選手にとっては全く不利・「不公平」ということになる。それにバブル方式ということで一般人からの感染リスクからは守られる代わりに、滞在期間中毎日PCR検査を義務付けられ、競技場と選手村以外への自由行動は禁止で、一般国民より厳しい行動規制が選手団に求められる。観衆も、競技場の大半は「無観客」が原則で、日本人にとっては地元開催なのに海外で見るのと同じテレビ観戦に甘んじるしかない、というわけ。)
 開催国として世界のアスリートたちに競技会場を提供するだけでなく、客人への「おもてなし」がキャッチフレーズだったのに、それも十分できないことになった。
 
 本来なら、大震災からの「復興オリンピック」と称し、またフクシマ原発事故(チェルノブイリ原発と並ぶ深刻度最悪の事故)も「アンダーコントロール」と称して誘致に成功し、開催国となったかぎりは、このようなパンデミック有事開催となったとしても、大丈夫、「安心・安全な大会」が可能だと自信をもって言えるように、保健医療体制も感染症対策研究体制も検査体制もしっかり整っており、感染防止・抑止に万全の対策を講じることができ、ワクチン開発・製造も真っ先に行って世界に配れるほどの能力がそもそもあって、それこそ「新型コロナという困難に打ち勝った証」として五輪大会を開催するのだという、それだけのキャパシティがあっての開催実行でなければならなかったはず。それが全く逆で、ワクチンなど他国からの輸入に頼らなければならない状態。
 実は、日本は国際的には「ワクチン後進国」と呼ばれており、感染症対策が遅れている「後進国」となっているのだ。

 昨年3月、安倍・当時首相はバッハIOC会長との会談で開催を1年延期と決めた際、「人類が新型コロナに打ち勝った証として完全な形で開催」と述べていたが、1年以上経っていよいよその時が来て「全く不完全な形で」でも開催強行となっているわけである。(安倍前首相は最近になって「(無観客になって)たいへん残念」としながらも、北京冬季五輪を見据えて「自由と民主主義・・・・基本的価値を共有する日本が(五輪を)成し遂げる」と―7月10日、柏崎市での講演で。)ここにきて開催強行に踏み切った菅首相の言い分は「新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が団結をした象徴として、この難局を乗り越えることができる、そうしたことを世界に発信することに意味がある」などという言い方に。そこには、開催はもはや「コロナに打ち勝った証として完全な形で」は不可能だということが誰の目にもはっきりしている、それでも菅首相にしてみれば、開催せざるを得なくて、こういう言うしかないのだということなのだろう。パンデミックという「津波」はくい止めることはできないし、第何波と押し寄せる波が引くのを待つこともできない、一か八か、それに挑んで「乗り越える」のだという、まさに勝ち目のない戦争に突き進んだ「先の戦争」の時と同じ精神主義と無謀な賭け。
 今、世界の諸国民が「団結」しなければならないのはオリンピックに対してではなく、コロナウイルスのパンデミックに対してだろう。それなのに何故、開催強行にこだわるのか。(アスリート・選手たちにとっては開催へのこだわりは当然だとしても、必ずしもそうとも限らず、プロ選手など種目によってはオリンピック以外にも大事な国際大会がある場合もあるのだが。)菅首相ら政権政治家がそれにこだわるのは、在任中に開催実現を果たせば、それが実績となり、レガシーともなる政治的一大事業だからだ。
 「世界が団結」とは云っても、中国などに対して「自由・人権など価値観の異なる国々との分断があり、対抗心からする政治的思惑もある。
 このパンデミックの最中に、日本は夏季開催で中国は冬季開催ということで、ともにオリンピック開催国。その両オリンピック大会に対してアメリカは、日本開催の方は支持するが、中国開催の方は(ウイグル人自治区の人権問題などを理由にして)ボイコットの意向を示しているが、パンデミックに対しては、これらの国々が、WHOとともに結束・連携して互いに協力すればいいものを。APEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議の場で、米中首脳がワクチン供給で牽制し合っている(米国が途上国向けにワクチン供給5億回分と国際公約しているのに対して、中国がそれを上回ったと強調)。世界は「団決」とはほど遠い(反中・親米同盟国の団結にほかならない)。
 WHOのテドロス事務局長が開会式前日に来て、菅首相と五輪感染対策を協議するとか、このタイミングで一体、「安心・安全の大会」のために?

 いずれにせよ、そのようにして強行されたオリンピックは、後々どのように評価されるのかだが。「パンデミックの最中にも反対を押し切って、よくぞやり抜いた大和魂」それとも「オリンピック史上最悪のレガシー」、「いや、かつて誘致したオリンピックを返上してまで戦争に突入した、あの時よりはマシだ」ということになるのかだ。


2021年08月22日

政府の危機管理のあり方とオリンピック

有事」(非常事態)
自然災害
   地球環境―気候変動
   環境問題―公害問題
   原子力災害
   感染症パンデミック
   武力攻撃事態―安保問題
  などに際する危機管理
(1)危機管理の要諦
 危機管理(既に起きてしまった事態への対処)—被害(それ以上の拡大)を最小限に食い止めて回復・復旧を図る
 リスク管理(未だ起きていない事態への備え―事前準備)―予防・抑止
 その要諦は科学的・合理的根拠に基づいて、あり得べき「最悪の事態」まで想定(状況悪化の度合いに応じたプランA・B・C・・・を用意)して、早めに手を打つこと(先手・先手でいく)―たとえ(結果的に)「空振り」で済んでも。
   (希望的観測・「甘い見通し」・「楽観バイアス」―自分に都合のいい方に捉える―のではなく)
   (「いたずらに恐怖を煽る」というものではない)      

新型コロナ・パンデミックに対する危機管理のあり方はどうか?—オリンピック開催は?
 上記の「危機管理の要諦」に照らしてどうか
  先ずは「オリンピック開催ありき」で(なにがなんでも開催するのだと)コロナ対策に対しては希望的観測・「甘い見通し」で「なんとかなるし、なんとかするのだ」と。
 菅首相や与党政治家たちが、安倍前首相が招致したオリンピックは何が何でもやり遂げなければならないのだという執着心にとらわれ、コロナ感染などいくらパンデミックとはいえ、まさかこの日本で、せっかく招致したオリンピックを中止せざるを得ないほど状況が悪化して「最悪の事態」に立ち至るなんて「あり得ない、考えられない(だから専門家の提言など聞きたくない)」という、かつて無謀にも大戦に突入した東条首相・参謀本部と同様の心性(「縁起でもない」として忌避する「言霊主義」)。
  場当たり的―首相曰く(8月16日記者会見)「目先のことに向かって全力でやるのが私の責務」―先々の見通しの上に立たず、後手・後手に回る。 
 パンデミックの危機事態はオリンピック開催が可能な範囲内でしか想定せず、それ以上の「最悪の事態」など想定外で、唯ひたすら「安心・安全な大会」をアピールするのみ。
  国民・市民に「説得力の乏しいメッセージ」で、「緊急事態宣言」発出に際しても「お願いベース」で要請(法的強制・「命令」を避ける)―市民各団体・各人の自主規制・自粛に訴え、「自己責任」に帰す―首相や政府の責任は回避。
 「先ずは自助(次いで共助、公助は最後)、「自分の身は自分で守る」というのが首相のポリシー (「自分で守るしかない」といったことにならないようにするのが公助であり、政府の役割なのに)
 「説得力の乏しいメッセージ」―当初「コロナに打ち勝った証としてのオリンピック開催」、「延期して完全な形で開催」だったはずなのに、1年延期はしたものの、コロナ禍は未収まらないどころか、さらに拡大の最中、緊急事態宣言下に、菅首相は「国民の命と安全を守るのは私の責務、守れなければ五輪をやらないのは当然」と云いながら、「コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、私たちが団結してこの困難を乗り越えられることを世界に発信することに意味がある、頑張れ日本!」と言い切って無観客開催を強行する、というまったく矛盾したメッセージ。
 オリンピック開催期間中、コロナ感染は爆発的に拡大も、「結果オーライ」―世論調査では(都議選でも)開催前は「中止か延期」を望む方が大多数だったのが、「やってよかった」という方が多くなっている(朝日新聞では56%)。
開催推進者側は(IOC会長も首相も都知事も)、「五輪と感染拡大との直接的な因果関係はなく、感染拡大に対する五輪の間接的影響もない。人流は減っているし、いずれにせよそのエビデンスはない」と言い切る。また、読売新聞も社説で「(危機感の)緩みは五輪のせいではない」としている。中には「オリンピックが開催されたからといって、そのお祭りムードに便乗して浮かれた行動をとって感染したか感染させた者がいたとしても、それは彼らの自己責任であって、開催した側の責任ではない」と論じている人もいる(とはいえ、行動心理学上、オリンピック開催は、パンデミックの不安や危機感をその期間中忘れさせ、浮かれた気持ちを駆り立てるインセンティブとなることは否めず、その開催者に責任はないとは云えまい。パンデミックの最中に、そのようなイベントなどなければ、一時たりとも危機感・緊張感が緩み「浮かれた行動」をとるようなこともなかったはず。)
ただ政府の感染対策分科会の尾見会長は「バブルの中での感染が急激な感染拡大に直接関係しているとは全く思はないが、オリンピックをやるということが人々の意識に与えた影響はあると思う」と。
尾見会長は「危機感が社会全体で共有されていない」と言ってきたが、国民・専門家・医療従事者と政府・地方行政当局との間では、どちらかというとむしろ政府側、それに地方行政当局でも東京都知事などの方に危機感が薄く、それが国民・市民に影響して気の緩みを招き、医療従事者や専門家が気をもんでいる、というのが実態なのではなかろうか。
果たしてどうなのか。徹底的な検証が必要。
 いずれにせよ、結果はどうあれ政府の危機管理としては、その要諦を全く踏み外していることは確かであり、重大な過ちを犯した負のレガシーとして歴史に残ることは間違いあるまい。

(2)これらのことは憲法に照らしてどうなのか?
  現行憲法には次のようなことが定められている。
 25条2項「国は・・・・社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」と―それは政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということだ。 
 13条「すべての国民は・・・・・生命・自由・幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と―それは、政府は、国民の生命等の権利を(公共の福祉を考慮しつつ)最大限尊重し、気候変動に起因する災害や感染症などのパンデミックから国民の生命を護る義務を課され、その権限が認められているということでもあるわけだ。
 それはまた、国民の自由・人権が制約されるのは唯一「公共の福祉」のため、ということ。
 22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、住居・移転及び職業選択の自由を有する」と。
 29条(国民の財産権保障)「2項、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律でこれを定める。3項、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」と。
 12条(後段)「国民はこれ(自由および権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」と―それは、国民に自由と権利の濫用(自分の権利実現のために他の諸個人の人権を犠牲にすること)を禁ずるともに、公共の福祉(自分以外の諸個人との人権衝突を回避し、諸個人の権利の確保・実現)のために利用する責任を課しているということでもあるわけだ。
 これらの条文で、先ず25条2項で、政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということ。12条、13条、22条、29条では、いずれも国に対して個々人の自由権や生存権・幸福追求権に対する最大の尊重を求めつつも、「公共の福祉に反しない限り」ということで、これら諸個人の自由・人権・私権に対して一定の制約をも課している。
 それら政府の義務・権限と諸個人の権利制約については、それぞれ別途に、具体的個別的に法律によって定められる。
 ここで、「公共の福祉」とは、国益とか公益とか政府や公共団体・公益団体(IOCなど)
の利益というわけではなく、大多数者の利益でもなければ「社会全体の利益」というわけでもない。だから「公共の福祉に反しない(適合する)ように」といっても、それは「国益に反しないように」とか「全体の利益に反しないように」とか「公益に適合するように」とかいうわけではない。それは個人相互の人権が矛盾・衝突する場合の調整原理であり、実質的公平の原理とされている。
 たとえば、言論・報道・表現の自由と名誉権・プライバシー権の衝突、感染症流行に際しては、各人の生命と健康を守るために、居酒屋やカラオケ店の営業規制や学校・大学の休校を求める人々の権利と、営業の自由を求める業者や学ぶ権利を求める生徒・学生の権利が衝突する事態となる。そこで相互調整(一方を優先し、他方を制限するなど)が必要となり、それを根拠づける言葉として用いられるのが「公共の福祉」。
 その調整・調停に当たる役割が政府・国会・裁判所に求められ、それぞれその役割を果たす義務と権限が認められる。(その場合、政府の権限行使は公正でなければならず、政治的な思惑などがあったりしてはならない。)一方、国民にも権利の濫用を慎む「自制」が求められ、政府の調停措置に対して、それが正当な立法手続きによる法律に基づいて講じられたものである限り、それに従って協力することが求められる。

 現下のコロナ・パンデミックに際して、政府の危機管理はどうあるべきなのか
 政府の危機管理という場合、その危機とは、まさにこの13条の「生命・自由及び幸福追求の国民の権利」が根底から覆される危険のことだろう(安保法制の改定では、集団的自衛権の行使容認の正当化に、新たな武力行使の要件として「(武力攻撃が発生し、これにより)我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」と13条の条文を都合よく利用しているのだが)。
 今、コロナ危機で、国民の生命と「健康で文化的な最低限度の生活」が根底から覆される危険にさらされている。
 政府は国民の人権(生命・自由及び幸福追求の権利)を国政の上で最大限尊重しなければならない―生命が守られる権利も、健康で文化的な生活を営む権利も、職業選択の自由も営業の自由も、オリンピックの開催・参加・観戦なども「幸福追求の権利」として最大限尊重されるべき。
 しかし、諸個人の間でこれらの権利が衝突する場合がある。災害やパンデミックなど危機事態では諸個人間での権利の矛盾衝突が際立つことになる。そこで、その際の調整原理となるのが「公共の福祉」であり、「それに反しない限り」とか「適合するように」とか、人権制約が入るわけである。個々人で気をつけ自制し合い、譲り合うということも必要だが、どうしても譲れないという場合は調停が必要となる。その役割を果たすのが政府・行政当局・裁判所などであり、その判定基準となるのが法律なわけである。
 人権―「生命・自由・幸福追求権」―このうち自由権や幸福追求権は具体的には個々人によって(何を食べ何を飲もうが、居酒屋であれオリンピックであれ、どこへ出かけ何を楽しもうが、何に幸福を追い求めようが人それぞれ)まちまちであるが、生命権や平和的生存権や「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」などはすべての人(誰しも)にとって共通する最も基本的な人権として、それこそ最大の尊重を必要とされ(最低限これだけはしっかり護られ、けっして害されてはならない、ともいうべき)権利であり、危機事態に際しては政府としての危機管理上、最悪の事態であっても、これだけは何としても守らなければならない最重要の人権だろう。
 コロナ・パンデミック危機。今や有事(非常時)。各人それぞれの自由権や幸福追求権はさておいても、生命と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」だけは何としても守らなければならない。自助・自己責任で自分の身は(マスク着用や手洗い、三密を避け、ソーシャルデスタンスをとるなど)自分で守れるだけのことは守るのは当たり前だとしても、保健所・医療機関などの検疫・予防接種・救護・医療処置が必要であり、それらを統轄・リードするのは政府や自治体の役割。また政府・自治体は感染防止対策で、「特措法」に基づいて緊急事態宣言などを発出して、公共施設・娯楽施設・イベントの開場・開館や飲食店・百貨店などの開店・営業の休業・時短の要請、サラリーマンにはテレワークの呼びかけ、大学ではオンライン授業、国民・市民に外出・移動の自粛・人流抑制を促している。(8月20日、全国知事会は「宣言では効果が見いだせない」として「ロックダウンのような方策検討」求めている)。
 
 菅首相と都知事は、国民・市民に外出・移動の自粛や出入国規制措置、業者に休業・時短、イベント規制などを求めながら、それらとは矛盾するオリンピック開催を推進。国民・市民の中には開催中止か延期を求める声が多かったにもかかわらず、開催を強行。オリンピックの主催者(IOC)たちをはじめ、アスリートたち(彼らにとっては「命がけの勝負」)や観戦を楽しもうとする人たちの「幸福追求する権利」と、パンデミックの最中のオリンピック開催で、それが感染を拡大させこそすれ(バブル方式などどんなに感染防止対策を講じてもリスクゼロにはならない)抑止・収束にはつながらず、保健衛生や医療に必要な人的・物的資源や(3兆以上もの)財源がそれに割かれて誰もが生命と健康で文化的な最低限度の生活さえも危うくなると感じて感染対策強化とそれに矛盾・逆行するオリンピック開催の中止・延期を望んでいる人たちの権利「生存権」との人権間衝突があるわけである。
 ところが政府は、危機事態に際して、「公共の福祉」(人権間の衝突調整のための人権制限)の立場に立って危機管理をしっかり果たすべき立場でありながら、IOCの側に立ってオリンピック開催を強行。
 政府は個人の人権は最大限尊重して国政を行わなければならないが、憲法は、それは「公共の福祉」に反しない限り(或いはそれに適合する範囲内)でのことであるとしている。政府はその憲法の規定を守っているといえるのかだ。
 今回のコロナ禍でのオリンピック開催をめぐっては、人々の間で「生命・自由・幸福追求」など人権の矛盾・衝突があるなかで、開催を断行した政府の行為は、これらの観点から評さるべきなのではあるまいか。
 今や、全国的な感染爆発、主要都市では「医療崩壊」(救急搬送・入院さえもままならず、東京都では入院患者はわずか10%で、圧倒的多数が「自宅療養」を余儀なくされている。そして自宅で死亡した人は8月の20日間で8人。そのような異常事態を政府は重症患者や重症化リスクの高い患者以外は「原則自宅療養とする」として現状追認)。まさに「最悪の事態」が現出。政府や都知事らはいったい何をやってるんだ!こんなときに!

(3)尚、改憲勢力は、このコロナ危機に乗じて、憲法に「緊急事態条項」を新設すべきだと主張し、次のような事を論じている。
 「大災害・感染症あるいはテロなど緊急事態に際し、憲法に規定がないために政府の対応が、平時の法制や手続きにこだわって後手に回る―緊急事態における政府の責務や権限(緊急政令の発動など)を明記しておく必要がある」(読売新聞社説)

 他国の憲法では、緊急事態条項はきちんと定められているかのように云うが、アメリカ憲法やドイツ憲法は、緊急時に、通常とは異なる立法手続きをとることを認めているが、政府に立法権を直接与えているわけではない。フランスや韓国の憲法には、大統領に一時的な立法権限を認めた措置をとれるとする規定はあるが、その発動要件はかなり厳格で、その権限を行使できる場面は極めて限定されていて、そうそう使えるものではなく、ほとんど使われてもいないのだという(2012年の自民党改憲草案のような、内閣独裁権を認めるような緊急事態条項を採用している国はないのだ、とのこと―木村草太・首都大学教授。)米・仏・独やニュージーランドなどで行われているロックダウン(「都市封鎖」)も、憲法上の緊急事態条項に基づいてやっているわけではなく、法律だけでやっているのだとのこと。(一口で「都市封鎖」といっても、外出・移動の禁止・制限その他、具体的な中身は、いろいろで、決まった定義があるわけではなく、今、日本でも緊急事態宣言などでやっている規制の対象・方法(強制力が弱い「お願いベース」など)には他国と違いがあるものの、それらは「特措法」など法律でやっているわけであり、強制力の強化(「要請」から「指示」・罰則を伴う「命令」へ)など法律の改正・新法制定によってやれるわけであって、憲法に条項を設けて規定しないとできないというわけではないのだ。憲法には緊急事態条項が書かれていなくても、自由・人権条項の条文中には「公共の福祉に反しない限り」とか「公共の福祉のため」とか「公共の福祉に適合するように」と書かれているし、「公共の福祉」のためとして制定された然るべき法律さえあれば、政府はロックダウン的な非常措置をとることもできるのだということ。
(米ワシントン州弁護士で元明治大学特任教授のローレンス・レペタ氏によれば、「仮に、もし日本で強制的なロックダウン命令に対して違憲訴訟が行われたとしても、日本の裁判所がペンシルバニア州の裁判所と同じように命令は正当であると判断するのは明らかであると思われる。なぜならば、私有財産に関する日本国憲法の規定は米国憲法のそれとほぼ同じであり、緊急事態条項はあるといっても、大統領に緊急時に限って議会招集権限を認めるということだけで、それ以外には特別な権限を付与する規定はないのだ」と。)ただし、法律さえあれば「公共の福祉」で事足りるとは云っても、それを振りかざして政府や官憲が強権を発動・行使して何でもできてしまうような権力の濫用と人権侵害・抑圧は許してはならないわけであり、その歯止めとなるもの、それこそが憲法なのである(そのような場合に憲法に基づいた違憲訴訟が行われ、最高裁による立法審査が行われることになる)。
 憲法には、政府や国会・裁判所などに権限を授ける授権規範としての側面もあるが、立憲主義憲法の本質は、国家権力を制限することによって国民の権利・自由を保障するというところにある。だからこそ憲法には、敢てそれ(緊急事態条項)を定めてはいないのだろう。
 ●立憲主義の立場から云えば、憲法制定の目的は、政治権力者が権力行使(強権発動など)をしやすくするためではなく、あくまで国民の人権を政治権力から護るために、それによって権力を縛ることで、国家権力の恣意的な運用(濫用)を避けて国民の基本的人権や権利を守ることにある。
 憲法に、もし緊急事態条項を設ければ、政府に非常権限が与えられ、憲法公認の下に強権発動・行使ができるようになる。それは政府にとっては、臆することなく果断な強硬措置をとれるようになるし、やりやすくなるが、権力濫用などリスクをも伴い、大多数の国民にとっては危険極まりないものとなる。リスクについては過去のドイツ(ワイマール憲法下のヒトラー政権当時)と我が国(大日本国憲法下)にその事例がある。
 現行憲法に緊急事態条項がないのは、それら内外の過去の憲法における緊急事態条項への反省があってのことなのだ。現憲法には緊急時の「参議院の緊急集会」の規定のみを設け、具体的な緊急事態への対応は、個別の法律(災害対策基本法・大規模地震対策特別措置法・感染症法・新型インフルエンザ等対策特別措置法―今のコロナ対策はこれを適用―など)によっておこなってきているわけである。
●要するに、憲法に緊急事態条項がないと、今回のような感染症のまん延や大災害の襲来に際して政府は的確な対処ができないというのは、政府側の云う言い訳か、言い逃れで、現行憲法下でも、法律(今ある法律の改正か、立法)によって、やろうと思えばできることなのであって、それができないのは憲法のせいではないということだ。

2021年09月07日

パンデミック下のオリパラと菅政権

 そもそもオリンピック精神は「スポーツを通じて心身を向上させ、文化・国籍など様々な差異を超え、友情・連帯感・フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でより良い世界の実現に貢献すること」。ところが、それにはそぐわない商業主義(企業宣伝と金儲け)やナショナリズムと国威発揚などに利用されるようになってきた、という経緯と実態がある

 再度の東京オリンピック、大震災からの「復興五輪」をアピールして誘致はしたものの、コロナ・パンデミックという災禍に遭遇して、その最中での開催となった。悲運とはいえ、そもそも身の程知らずの誘致だったのだ。
 これまで(1990年代以降、新自由主義的な構造改革路線に基づき、医療・福祉サービスの市場化―患者や利用者の自己負担を増やし、公費の投入を減らす―政策により)公立病院も保健所も統廃合政策で削減しまくってきて(1993~2018年の25年間で、病床数30万5000減)、20年以上にわたって感染症指定医療機関や病床が(1996年9716床あったものが、2019年には1758床と)激減、保健所などは(2020年まで27年間で852ヵ所から472ヵ所に)半減。「医療先進国」でありながら、感染症対策は国家の危機管理の上で平時から国産ワクチンや治療薬の研究開発など積み上げておくべきものを、欧米に大きく遅れをとっていて、今になってファイザーだのモデルナだのと外国製ワクチンに頼っているのだ。
 新型コロナの感染者数は世界の諸国の中では日本は少ないようだが、それはPCR検査などの検査数が少ないからにほかならず、この検査体制でも立ち遅れている。日本の検査率(1000人当たりの検査数)はOECD加盟国(36ヵ国)中の下から2番目という少なさ。(元厚労省の塩崎議員は「『いつでも、どこでも、何度でも無料』というのが世界の主流」なのに、日本では「未だに症状のない人が希望してもPCR検査を実施していない」と批判。)
 PCR検査には発熱や咳など症状が出て感染が疑われる当人が自分を診断してもらうために行う「診断検査」と、地域や施設で症状の有無にかかわらず不特定多数を検査してその中から感染者を見つけ出し、他に感染させることのないように隔離して感染拡大を防止するために行う「社会的検査」(モニタリング検査やスクリーニング検査)とがある。また、保健所が、発熱など症状が出て検査を申し出た人を検査し、陽性(感染)が判明した場合、その濃厚接触者をも、いずれも無料で検査する「行政検査」がある。
 ところが、日本ではそれが、そんなにPCR検査をやったら「誤判定で陰性なのに入院する人が増えて医療崩壊する」などという理屈で検査抑制の方針を採ってきた。今まさに医療崩壊の危機に直面し、政府が軽症者はもとより中等症さえも入院させずに「自宅療養を基本とする」などとせざるを得ない事態となっているではないか(9月5日東京都では療養者に占める入院者の割合―入院率は10%に低下、9月1日自宅療養者が全国で13万5000人余)。それはPCR検査をやり過ぎて誤判定で陰性なのに入院する者が増えたからとでもいうのだろうか。今、病院が、重症者などで病床が満杯になって逼迫しているのは、検査の誤判定で陰性なのに入院した非感染者から病床を取られてしまっているからなのだろうか。そんなことあり得ない。それはむしろ逆で、感染者が激増したからであり、その感染拡大の原因はモニタリング検査など社会的検査が不十分なために市中に潜在している無症状感染者が野放し状態になっているから、つまり検査が不徹底だからにほかなるまい。
 尚、PCR検査に誤判定があるのは確かで、その精度は陽性判定の場合は70%以上(30%以下は偽陰性)で、陰性判定の場合は99%以上(1%以下は偽陽性)とされるが、その誤判定による1%の偽陽性者を入院させてしまうことによる病床ひっ迫を恐れて、70%の陽性者を見過ごしてよいのかだ。それに1回の検査だけで、陽性判定だからといって即入院させるわけではなく、「集団検診」や「人間ドック」でひっかかったら後日精密検査を要するように、再検査で偽陽性でないかどうかを確かめ、陽性だとしても症状の程度を確かめたうえでの入院なのであり、無症状か或いは軽症であれば入院以外の隔離方法で済むわけである。
 行政検査も、どうやら保健所の人手不足で濃厚接触者を追い切れないなど、ひっ迫を理由に、検査対象を発熱や咳など症状がある人だけに絞り込んでやっている状況。
(東京都が公表している新規感染者数がこのところ減少傾向にあるが、検査人数は8月17日1万5000件をピークに頭打ち。都の専門家会議は「検査が受けられないことにより、さらに多数の感染者が潜在している可能性がある」と指摘している。東京都の検査能力は1日最大6万8000件なのに、8月27日~9月2日の1週間は平均して1日1万4913件、9月3~9日の1週間は1日1万1105件だけ。9月12日までの3日間平均の検査数はわずか6532件。)
 (東京都が繁華街や企業などで9月5日までの1週間に行ったモニタリング検査の結果は陽性率が0.64%で人口10万人当たり640人、他方、感染の疑いがある人や濃厚接触者へのその後1週間の行政検査で陽性が判明したのは人口10万人当たり62.5人であり、モニタリング検査で判明した陽性者はこの10倍以上にもなるわけである。それは感染に気付かずに普段通りに過ごしている無症状者が沢山いることを示している。)
 検査数が少ない理由には、もう一つ五輪大会を迎える上で、検査して確認公表される感染者数が多過ぎると開催国として具合が悪いからだ、という「うがった」?見方もある。現にコロナ禍でのオリパラの開催強行で、その「安心・安全の大会」のために、選手・IOC・メディア関係など数万人もの大会関係者に、ワクチン接種済みの人でも全員、滞在期間中毎日検査(唾液の抗原定量検査)を実施した(前半のオリンピックに限れば4万2000人以上の大会関係者にスクリーニング検査は延べ62万4000件、オリパラ両期間中を通じて行われた検査は計101万7000件、確認された感染者は850人)、一方、市中にいる市民には検査は控えられたわけである。オリパラにはそこまで徹底して選手・大会関係者を守ったのは良しとしても、それならば国民・市民をもコロナから守るべく最善を期さなければならなかったはずであり、PCR検査などはオリパラ大会関係者が「優先」で、国民・市民は「二に次でよい」などということはあってはならないはず。

 オリパラは、首相や都知事らが望んだとおり、パンデミック下での「異例の開催となりはしたが、国内外の皆様の献身的ご協力により、コロナ禍という大きな困難を乗り越え、成功裡に所期の目的を果たし終えることができた」ということになるのだろうか。
 この間、世界では、とりわけ開催国の日本では、感染は急拡大して爆発的様相をおび、(感染者は入院が原則のはずが、病床がひっ迫して重症者と重症化リスクのある者以外は「自宅療養が基本」などと方針転換)感染患者は救急搬送されても、入院受け入れがかなわず、自宅療養を余儀なくされ、助かる命も助けられずに、在宅死が続出するという悲惨な事態に見舞われた。(オリンピック~パラリンピックの間、全国で71万人以上が感染し、1241人が死亡。)
 それでも「感動した」、「やってよかった」(世論調査では8月7~9日調査した「読売」が64%、7・8日調査した「朝日」が56%、7月27~30日調査した「女性自身」が77%)と「結果オーライだ」と思う向きもあるようだが、果たしてどうなのか。(8月21・22日ANNの調査では「よくなかった」62%で、「よかった」38%を上回る。)
 そもそも、感染症パンデミック対策とオリパラ開催は両立できる筋合いのものではないのだ。パンデミックも、終息後ならいざ知らず(第一次大戦後1920年のベルギーのアントワープ五輪は「スペイン風邪」直後だが終息後のこと)、世界中でどの国も未だ終息していないその最中に五輪開催なんてあり得ないわけである。
 この間、政府は、何はさておいても感染パンデミック対策に総力を傾注し、一日も早い終息に全力で取り組まなければならない時であり、いかに大事な国際イベントとはいえ、そのようなことをやっている場合ではなかったわけである。「助かる命も助けられない」とか、「トリアージ(命の選別)までも余儀なくされようとしている」など医療崩壊に直面しているそんな時に、首相はといえば(8月25日記者会見で)「(ワクチン接種効果で)明かりははっきりと見え始めています」などと云い、都知事はといえば「総力戦で戦います」などと云いながら、(「自宅療養で症状が急変しても、空き病床がなくて入院させられない」状態なのに、それをそのままに)今やるべきこと(仮設病棟=臨時医療施設の設置など)もやらずに(オリパラなど)やるべきではなく、やるなら終息させてから通常の「完全な形」でやるべきものを、「災害時」ともいうべきこんな時に全く中途半端な形でやらせたのだ。(政府コロナ対策分科会の尾見会長は、首相の記者会見に先立つ衆院厚労委員会で、五輪の開催決定は国民に「矛盾したメッセージとなった」とし、「(政府が)専門家より楽観的な状況分析を行った」と指摘しているのに。)
 首相や都知事は、(最悪の事態を想定して対策を講じるべき)危機管理の上で国民・都民ファーストの立場に立って果たすべき責任よりも、人々の歓心を引き、国威を発揚するという政治的思惑に囚われ、パンデミック対策に対しては希望的観測(楽観的見通し)に立って、ひたすら五輪開催との両立にこだわり、「バブル方式」だの「無観客」だのと腐心して中途半端な開催を強行。
 そのような政治姿勢が、国民の危機感の共有を妨げ、分断さえ招いた。それがこの間の菅政権だったのではあるまいか。

 ところが9月3日、菅首相、「総裁選不出馬―コロナ対策に専念するため」との表明。29日に総裁選があって新総裁が決まり、30日に菅総裁の任期が切れる。そこで菅政権は終わることになる。9日には(記者会見で)「総理大臣として、最後の日まで、全身全霊を傾け、職務に全力で取り組む」と言明。(これに関して麻生副総理曰く、「(コロナの感染拡大は)まがりなりにも収束して国際社会の中の評価は極めて高いと思う。そういう意味で『全うした』という思いが(首相に)あったのは確かだ」と。)
 「コロナ対策に専念」といっても、あと一月もないこの間に何ができるか。コロナ対策とはそもそも両立できないはずのオリパラ開催なのだが(コロナ対策の方はやるべきことをやらずに)、オリパラをやり終えたところで、コロナ対策に「専念―全エネルギーを傾注」して退任間際のこの短期間に何ができるのかだ。その気になれば一つできることがあるとすれば、(たまたま、この日の朝「テレ朝」の「モーニングショー」で玉川コメンテータが指摘していたように)「野戦病院的な臨時の大規模病院を、自衛隊を使ってでも10日ぐらいで作る(総裁選に出馬を表明している岸田氏は既に『野戦病院』開設を公約しているが、その場合は総裁選で選出され、その後国会で首相に選出された後でなければ権限を行使できず、それを実現するにも1ヵ月以上かかるが、在任中の菅首相であればできないことではない)」といったことなんかは菅首相の残りわずかな在任中でもできるのかもしれない。
 それにつけても、国会(6月に通常国会を閉会して以降2カ月半も休会のまま、野党が再三開催を求め、憲法53条に基づいて要求したにもかかわらず、それを拒否してきた)―まずは国会を開いて、そこでコロナ対策(病床の確保策や予備費など)を、与野党と集中的に協議すること。臨時の大規模医療施設のことは、かねてより野党や医師会などからも提起されていることなのだ。
 今こそ国会を「コロナ対策国会」として緊急召集して、「野戦病院」の開設その他、今直ぐにでもやれる、やらなければならない有効な具体策を与野党にはかり、知恵と支持・協力を得て断行する、というのであればよいわけであるが、それをせず、最後まで国会をひらかずに、そこから(アメリカへ―日米豪印首脳会談「クアッド・サミット」のためと)体よく逃げ去るがごとく退任するのであれば、国会に対して、ひいては国民に対して無責任との誹りは免れまい。
 マスコミは、オリパラ開催中はその放送・記事一色、そして今は総裁選一色。菅首相の後継総裁・首相に誰がなるかの話ばかりで、国会を開かないまま政権を投げ出した首相の責任を問おうともしない。野党が「コロナ国会」開催をいくら求めても取り合わない菅政権も菅政権なら、マスコミもマスコミ。不偏不党の原則にもとる「政権党びいき」もいいところ。総選挙を控える今、野党による政権交代などまるで度外視。そのようなマスコミ報道に有権者が影響され、選挙はどうしても野党が不利な結果となる、という問題もあるわけである。

2021年10月25日

総選挙―政権交代か継続か―現状変革か維持か

現状―マネー資本主義―「今だけ、金だけ、自分だけ」の風潮
  大量生産・資源の大量消費で目先の経済成長を追う
  新自由主義―市場原理主義・規制緩和・民営化・競争主義
   これらの結果―格差・貧困問題
  経済―低成長(主要国最低水準)、賃金低迷
  税金―消費税一律10%(支払う金額は同じでも負担は金持ちには軽いが庶民には重い)、
  企業の法人税は減税、中小企業に比べ大企業のほうが実質負担率が低い。
  所得税は所得に応じて( 195万円以下5%~4000万円以上45%まで7段階)段階的に高くなる(累進課税)が、所得金額が約1億円超からは税負担が軽くなる。その上、株式譲渡や配  当・債券・預金利子など金融所得に対しては20%の軽減税率が適用(分離課税)―金持ち優遇税制
  雇用・労働規制緩和―非正規雇用・長時間労働へ
  少子・高齢化―社会保障・福祉ひっ迫、
  教育・子育てに金が掛かり過ぎ―公費負担率はOECD加盟国では最低レベル(最貧国)
  保健所・公的医療機関の統廃合―保健所は半減、公立・公的病院の病床削減→コロナ危機
  エネルギー―原発(再稼働)、石炭火力(維持)に固執
  気候危機―気候変動によってこれまで経験したことのない事象が頻発
  安全保障―日米同盟の拡充・強化、核禁条約に違背、沖縄・辺野古基地建設強行
  憲法―改憲めざし、立憲主義ないがしろ
  政治モラルの失墜―公文書改ざん・隠蔽・虚偽答弁、汚職贈賄問題→国民不信を招く
岸田・自公政権―安倍・菅政権を引き継ぎ、現状を基本的に維持―
  「新しい資本主義」―「アベノミクスを修正したものではなく、むしろそれを基礎とした新しい概念」だということで、単なるスローガンの域を出ない。
  安保法制(集団的自衛権の行使容認)、
  核禁条約に背を向け、沖縄・辺野古に新基地建設強行    
  9条に自衛隊明記など4項目の改憲・実現をめざす
  コロナ対応—病床削減推進法など医療・公衆衛生切り捨て政策、PCR検査抑制
     中小企業を支援する持続化給付金や家賃支援給付金を1回きりで打ち切り   
  大企業・富裕層に減税で優遇する一方、低所得者の負担が重い消費税増税を推進
  エネルギー基本計画―2030年度の電源構成の目標―再エネ36~38%、原発20~22%、石炭火力19%を閣議決定
  選択的夫婦別姓の制度に背を向けるなどジェンダー平等に消極的
  日本学術会議会員候補6人の任命拒否
野党
 立憲民主党・共産党・社民党・れいわ4党は市民連合と協定、選挙協力・政権協力
   ―共通政策(政権公約)―安保法制・秘密保護法・共謀罪法など違憲部分を廃止、
  立憲主義の回復、改憲に反対
  沖縄・辺野古での新基地建設を中止、核禁条約の批准めざす
  医療費削減政策を転換
  コロナ禍で倒産や失業などなど打撃を受けた人や企業への財政支援
  消費税減税、大企業・富裕層に応分の負担を課し、税制の公平化
  脱石炭火力・脱原発―原発のない脱炭素社会めざす
  選択的夫婦別姓制度・議員間男女同数化などジェンダー平等の推進
  モリ・カケ・サクラ疑惑の真相究明
  日本学術会議の会員を同会議の推薦通りに任命  
 国民民主党は共産党などとの市民連合の協定とは別個に立憲民主党と選挙協力
 維新の会は改憲に同調、自公を補完

情勢―コロナ感染5波は収束傾向、時短営業など制限解除、好転
   中国(台湾に軍事的圧力、極超音速ミサイル発射実験)、北朝鮮(SLBM発射実験)―脅威―それに対抗して対中・対北朝鮮包囲の軍事的「抑止力」同盟強化、アメリカも極超音速ミサイル発射実験―戦争の危険―核戦争になれば勝っても負けても、どの国民にも得にはならず、悲惨あるのみ
必要なのは―どの国民も、全ての人の命と暮らし存続―平和共存―肝心なのは、大国であれ小国であれ自国の国家体制存立のための戦争に自他の国民の命を犠牲にすることのないように人々の平和的生存権を最優先。

国民―世論調査(朝日新聞19・20日実施)では
  岸田内閣―支持41%、不支持26%
  衆院選挙・比例区で投票したい党―自民38、立憲13、公明7、共産5、維新7、
                   国民2、れいわ1、社民1、
  これまでの4年間の自公政権の評価(全体として)―よかった35、よくなかった43
  今後も自民党中心の政権でよい46、立憲民主党中心に政権に代わるのがよい22
  立憲民主党と共産党など野党5党の小選挙区での候補者一本化―
                          よかった46、よくなかった25
  新型コロナを巡るこれまでの政府の対応―評価する51、評価しない38
  消費税―10%のまま維持する方がよい57%、一時的に引き下げる方がよい35
  自民党は9条に自衛隊を明記することを公約しているが―こうした改憲に賛成47、反対32 
   (このような国民意識には危機感を覚える―「自衛ならば」と「戦争」を容認し、人類史上画期的な不戦条項を放棄してはばからない、ということだ)   
本番の総選挙では―国民はどちらを選ぶのか―政権交代か、継続か。現状変革か維持か
  憲法(不戦・民主・人権)をあくまで守り抜く護憲の方か、それを覆す改憲の方か。

2021年10月30日

総選挙―何で選ぶか

 どの政党・候補者を選ぶかだが、各党・各候補はそれぞれ経済・財政、社会保障、外交・安全保障、環境・エネルギー・保健・医療・教育など各分野にわたって政策・公約を掲げている。そして各政党・候補者ともそれぞれに自分の政策を、弁舌を弄してもっとらしく説いて見せる。有権者は、それらを見比べて選ぶわけであるが、自分の利益につながる身近な問題や関心事に限って政策をひき比べて選ぶのはいいとしても、国民全体の立場に立って国のあり方を考えて 各分野とも全てにわたって各党・各候補の政策を理解し適否を判断して総合的に評価・判断するとなると容易ではなく、果たしてどの政党・候補者を選んだらいいものか判断するのは当方の頭では至難の業。
 「才智より出でたる行為は軽薄なり、心情より出でたる行為は篤実なり」という(当方が奉職した学園の創設者の)言葉を信条としている当方の場合は何で選ぶかといえば、それは政治モラルと最高規範である現行憲法に忠実で信頼におけるのはどの党・候補者かで判断している。
 政治モラルとは、デマやごまかし・虚偽答弁・公文書改ざん・隠蔽や金権政治など(悪知恵による行為)が無く善悪に潔癖で公正であることで、。
 現行憲法が定めている事とは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」「自国の事のみに専念して他国を無視してはならない・・・・政治道徳の法則は普遍的なものであり、その法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は永久に放棄」「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り立法その他の国政のうえで最大の尊重を必要とする」「すべての国民は法の下に平等であって、人種・信条・性別、社会的身分または門地により、政治的・経済的または社会的関係において差別されない」などのこと。
 これらにいちばん忠実なのはどの政党・候補者で、これらの政治モラルと現行憲法をないがしろにしてはばからない政党はどの政党・候補者か、である。

2021年11月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき11)(随時加筆)

新型コロナウイルス 
      
世界の感染者総数2億8651万8941(+192万7763)、死亡者総数542万9617(+6974)

 上位国    感染者         死亡者           ()は前日比
 アメリカ 5425万2612(+万)   82万4339(+)
  インド  3483万8804(+万)     48万1080(+) 
  ブラジル 2228万1649(+)   61万9249(+)  
  ロシア 1029万9923(+万)     30万1791(+)
   フランス 984万5583(+万)   12万4540(+)
イギリス  1282万0685(+万)       14万8893(+)    
  トルコ 944万3734(+万)    8万2198(+)
  スペイン 629万4745(+万)    8万9405(+)
  ドイツ  717万1422(+万)     11万1929(+) 
    イラン 619万2698(+)      13万1572(+)
    
  インドネシア426万2540(+)   14万4088(+)
  フィリピン284万1260(+)     5万1373(+)

    日本  173万4430(+438)人    1万8406(+0)
    韓国   63万0838(+)     5563(+)
    中国  11万4793(+)      4849(+0)
  <12月31日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都38万3098(+78)  3175(+0)
                  大阪府20万3856(+78)   3064(+0)
                   神奈川県16万9831(+19) 1319(+0) 
                  埼玉県11万6108(+12)   1059(+0)
                  愛知県10万7099(+18)    1161(+0)
                  北海道 6万1501(+21)   1475(+1)
                  兵庫県7万8904(+8)    1398(+0)                                        
                  千葉県 10万0722(+18)   1028(+0)         
                  福岡県 7万4788(+3)     627(+1)               
                  京都府3万6208(+20)     292(+0)
                   沖縄県 5万0669(+44)   398(+0)
                  広島県2万2221(+23)   202(+0)
                                    
                  宮城県 1万6291(+1)    118(+0)
                  福島県 9520(+1)     176(+0)
                  山形県 3607(+0)     56(+0)
                  岩手県  3490(+0)      53(+0)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <12月31日午後6時30分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

  *注―日本は他国に比べて非常に少ないようだが、実はPCR等の検査数が少ないからなのだ(発熱7度5分以上が4日以上続いている人でないと検査を受け付けない等で)。医学者で山梨大学の島田学長は「市中感染が広がり、原因不明で亡くなっている人もいるが、検査が少ないので実数がつかめていない」と指摘。(人口10万人当たりのPCR等検査数はイタリア・ドイツ3000件余、アメリカ・シンガポールが1700件余、韓国1200件、フランス900余、であるのに対して日本は188件―5月4日時点で専門家会議が示したデータ)
 7月29日現在、日本におけるPCR検査は(検査総数75万人近く)人口100万人当たりでは(5902人で)G7(主要7ヵ国)では最低、世界215ヵ国・地域の中では158位(セネガルやナミビアなどのアフリカの国よりも低いレベル)(データ出所は米国に拠点を置くウエブサイト「ワールドメーター」―世界各国の統計資料を分析、米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズなどに活用されている)とのこと。
 それは、日本ではPCR検査抑制論をとってきたからだ。
 10月に入ったこの間も、日本のPCR検査数は人口比では世界153位で、1日最大でも3万件程度。
 2021年1月段階で世界149位(1月1~11日、1日平均4.4万件、1000人当たりではイギリス8.1、フランス4.4、アメリカ3.9、イタリア2.2に対して日本は0.5と少ない) 
    2月1日段階で世界138位
    4月初旬の段階で人口比では145位
    4月20日時点で日本の人口10万人当たりの死亡者数7.53人で中国(0.35%)・韓国(3.45%)を大きく上回る。
 ワクチン接種―遅れる日本―OECD加盟国で最下位―人口の75%に行き渡り、ある程度の集団免疫に達するためには、現在(4月28日時点)のペースでいくと(アメリカはあと3ヵ月、ドイツ6ヵ月、韓国21ヵ月、オーストラリア2.2年で)日本は3.8年かかる(米国の通信社ブルームバークの試算)。
 ワクチン各国接種率(NHK調べ)―7月12日時点で2回接種を終えた人、(人口比)
   英国50.9%、米国47.5%、スペイン44.9%、カナダ42.5%、ドイツ41.8%、ポーランド39.5%、イタリア37.5%、フランス36.1%、 日本16.8%(オリンピック開催国で、11日前にしては遅れている日本)       
 変異種―2021年2月以降、変異ウイルス流行、大半はイギリス由来(アルファ型)
    4~5月、日本国内でもアルファ型が大阪・兵庫から全国へ―従来株に置き換わって主流に。
    4月、インドで新たな変異種(デルタ株、感染力さらに強い)急増→各国へ
    5~7月、イギリスではデルタ株が急増、置き換わる
    7月、日本でもデルタ株が首都圏から全国へ
    8月上旬、デルタ株、首都圏で8~9割、置き換わる
 国内ワクチン接種率―12月26日(医療従事者を除いた2回完了者)全体で 73.1%
                              高齢者 91.7%
                               64歳以下 65.2%
========================================
12月31日
30日、米海軍横須賀基地で軍関係者75人感染確認
 29日、国内感染―オミクロン株が19都府県に広がる。
     在日米軍岩国基地で80人感染判明。沖縄のキャンプ・ハンセン基地の感染者はこの日午前まで272人に(半数はオミクロン株とみられる)。
 28日、
  27日
  26日
  25日
  24日、ロンドン、ニューヨーク州でオミクロン株が90%置き換わる。
  23日、国内でオミクロン株感染者が新たに40人、計200人に。
  22日、国内でオミクロン株感染者が新たに68人確認、計160人に。
  21日、オミクロン株が106ヵ国・地域に拡大。
  20日
  19日、
  18日、沖縄基地キャンプ・ハンセンに新たに59人感染確認(計158人に)
  17日、国内でオミクロン株感染確認50人に
   沖縄米軍基地(キャンプ・ハンセン)米兵に100人規模で感染、日本人従業員1人も。
    山形県内で新規感染者1人ー天童市のクラスター発生保育所幼児の同居家族
  16日
  15日、国内でオミクロン株感染15人確認
  14日
  13日
  12日
  11日
  10日、
  9日、山形県でワクチン接種3回目を医療従事者から開始
  8日
  7日、
  6日、山形県内の新規感染者6人―①天童市5人(うち3人はクラスター発生保育所園児の同居家族)、②山形市1人
  5日、山形県内の新規感染者2人(天童市のク日ラスター発生保育所の園児1人、前に感染確認園児の同居家族1人)
  4日、山形県内の新規感染者3人(いずれも天童市のクラスター発生保育所感染者の同居家族や知人)
  3日、山形県内の新規感染者11人(1人はクラスター発生保育所の職員、10人は過去の感染者の同居家族や知人)―①天童市8人、②山形市3人
  2日、山形県内の新規感染者15人―①天童市13人(クラスター発生保育所の園児―計22人に)、②東根市2人(天童市内のクラスター発生保育所職員の同居家族)
  1日、オミクロン株、国内2例目確認(ペルーからの入国者)
     山形県内の新規感染者3人―①東根市2人(ともに天童市でクラスター発生の保育園職員)、②山形市1人
11月30日、オミクロン株、国内初確認(ナミビアから入国の外交官)
  29日、日本政府、全世界から外国人の入国停止(当面1ヵ月)決定、帰国者は厳格隔離措置へ
     山形県内の新規感染者(天童市に)2人
  28日、
  27日、オミクロン株、ヨーロッパ各地、香港、オーストラリア、カナダでも確認
      山形県内の新規感染者(天童市に)1人
  26日、WHO、オミクロン株を「懸念される変異株」に指定
   25日
  24日
  23日
  22日、国内感染―全国(50人)今年最小
  21日
  20日、
   19日、国内感染死者ゼロ、山形県内の新規感染者2人(米沢市・長井市に各1人)
   18日、山形県内の新規感染者(長井市に)1人
   17日、 山形県内の新規感染者ゼロ  
   16日、  〃   〃
   15日、  〃   〃
   14日、  〃   〃
   13日、  〃   〃
   12日、  〃   〃
   11日、  〃   〃
  10日、山形県内の新規感染者が1週間ゼロ
  9日、新変異種オミクロン株、南アフリカで初めて検出  
  8日、
  7日、国内感染―死者0
       山形県内の新規感染者0
  6日、 〃
  5日、 〃
  4日、 〃
  3日、山形県内の新規感染者2人―①天童市1人、②尾花沢市1人
  2日、山形県内の新規感染者(寒河江市に)1人
  1日、国内の新規感染者(86人)―今年最少で、100人を下回るのは昨年6月27日(92人)以来。

2021年11月04日

総選挙の結果は改憲派が優勢

 選挙の結果は岸田政権与党が過半数を確保し、補完政党の維新の会が躍進。市民連合を介して野党共闘を組んだ立憲民主・共産両党は苦杯を喫した。民意は現体制のまま政権交代も変革も望まず現状のままでいいんだという結果となったわけ。どうしてこうなったか。
 安倍・菅継承政権にはコロナ対策で不満・不信が強まっていたはずが、選挙が近づくにつれ政権党にはタイミングよく感染者数が下降の一途をたどって激減、医療の危機的状況も解消し、営業や行動制限も緩和・解除されて不満は沈静化。また折から中国や北朝鮮の軍事的脅威を駆り立てるニュースが相次いだことなども影響したか。
 それに現政権に対しては「緩やかな諦めと甘え(依存)」、野党には「民主党政権が一時あったもののネガティブなイメージが強く残り、自公政権には何かと不満はあっても、へたに政権交代なんかしてこれ以上悪くなってほしくないから、今のままでいいか」とか、若者の間には「知識もなく正解が分からないのに投票する方が無責任だと思われるから」とかで低投票率も影響した、といったこともあるのだろう。 
 いずれにしても、自公連立政権の強固な安定感に対して野党側の共闘体制には(与党側からの反共・分断攻勢のみならず、国民民主党それに立憲民主党の支持基盤でもある連合系労組が根強い反共意識から共産党との共闘に背を向けるなど)結束・安定感の点で「受け皿」として欠けるものがあったし、野党でも共闘には加わらない維新の方が「漁夫の利」を得る結果となった。(しかし、野党共闘の戦略自体は間違っておらず、自公に対抗して政権交代を挑むうえでこれ以外の上策はないわけであり、反共などに屈して共闘戦略を転換しまうようなことがあってはなるまい。)
 岸田自民党の改憲公約に対して共闘派野党は「憲法に基づく政治の回復」を共通政策の第1にあげて対抗したが、結果は改憲勢力(自・公・維新3党)が3分の2を制し(国民民主党や立憲民主党などの「改憲は必要だ」と考える当選者と合わせれば76%)、護憲派は劣勢に追い込まれることになった。参院は、今は3分の2には達していないが、来夏には改選の選挙がある。維新などはその投票日と同日に改憲の国民投票を実施すべきだとさえ言い立てている。
 改憲問題に対する国民世論はどうかといえば、今回の投票前・公示の時点で行われた朝日新聞の世論調査では、「自民党は憲法9条を改正し、自衛隊を明記する公約を掲げています。こうした憲法の改正に賛成ですか」の質問に、賛成が47%で、反対(32%)を上回っていた。
 このように改憲に傾いている人たちをどのように説得するか。先ずは国会の憲法審査会で議論が展開され、「国民的議論」が唱導されるだろうが、改憲志向の人たちを護憲派はどのように反論・説得するのか、はたして改憲を思い止まらせることができるのか。

2021年11月08日

野党共闘はどうなるのか

 自民党主導政権にとって代わって政権を目指す野党は、自民党とは異なる政治理念基本政策を持ち、政権を獲得したうえでその政治理念を基に政策実現をめざし、自公政権では実現できない課題(安保法制・秘密保護法などの違憲部分の廃止、核兵器禁止条約の批准、辺野古基地建設の中止、脱原発、選択的夫婦別姓制度の導入など)に取り組む。そしてそのために、野党間で基本政策には違うところがあっても、基本政策の大本・政治理念では共通する野党の間では共闘して自民党に対抗し、選挙協力ひいては可能な限り政権協力も行うのが賢明。
 与野党とも各党それぞれに政治理念(保守主義・自由主義・新自由主義・立憲主義・共産主義・社会民主主義・中道主義など)を持ち、基本政策も様々持っているが、重要なのは、現実にその政治理念が現行の日本国憲法に定めている理念(自由・人権・民主主義・平和主義・法の支配など)に合致していて、その諸政策・政治活動も憲法の条項に則して忠実に順守されているか否かである。(99条には国務大臣・国会議員などの憲法尊重擁護義務が定められている。)
 この点では、自民党現行憲法に対しては(1955年結党時から改憲ー「自主憲法制定」を党是としていて)忠実度において最も劣り、むしろ共産党などの方が(その綱領を見ると「共産主義」を標榜しているが、旧ソ連や中国の共産党のそれとは異なり、主要な生産手段の社会化や「搾取の自由」制限はあっても、個々人の生活手段は私有財産として保障され、思想・信条の自由も反対政党や政治活動の自由も保障されるなど、現行憲法に矛盾はしてはいないし)その政策も、やっていることも憲法に対する忠実度では優っていると言えるのではあるまいか。
 そこで、自公などの政権与党と維新の会(政権与党の政策や法案には「是々非々で賛成もするが反対もする」としている)などの政党に対して市民連合を介して共闘した野党(共闘派野党)を峻別するキーポイントは、まさにこの点(現行憲法の理念と条項に対する忠実度で、いわば「護憲派」か否か)にあるのでは、と思われる。
 野党共闘はこの点で、「護憲派」として、自民党が主導する「改憲派」に対抗して、分断を乗り越え、しっかりスクラムを組んで共闘体制を再構築すればよいわけである。
 今回の選挙に際して共闘派野党の共通政策の第一は「憲法に基づく政治の回復」であった。まさにこれこそが政権交代を挑む野党共闘の目指す諸政策の核心点だったわけである。
 パンデミックや気候危機それに核戦争の脅威などに直面しつつある今、我々国民が諸国民とともに、世界的危機に臨んで政権を託するに足る最も望ましい政党・政治家は、前世紀に自国が戦争を起こして世界的危機を招いた代償として「英霊の涙にかえて授かった」現行憲法をむげに変えてしまうような政党・政治家ではなく、その平和・民主憲法を最大限守り生かしてくれる政党・政治家である
 来夏の参院選をめざして、その護憲派野党は早急に共闘体制の再構築を果たし再チャレンジを期さなければならないだろう。

 それにつけても、野党第一党の立憲民主党は、今回の衆院選の「惨敗」で枝野代表が退き、新代表を選ぶ党内選挙に当たって、その共闘路線を巡って揺れているが、大企業労組を主とする最大労組センター組織で反共意識の根強い「連合」の意向に従って共産党との共闘に見切りをつけて、同じく「連合」を支持基盤にしていて既に共産党との共闘には加わらなかった国民民主党(選挙後は維新に接近)と連携する方向に道を選ぶのか、それとも維新の会ととに、それぞれ独自路線をとりながら「是々非々」で与し合うのか、いずれにしても、自民党に対して「一強多弱」でバラバラ・分断された状態に甘んじる方向に向かうのかだ。しかし、これでは自民党主導の補完政党か万年野党しか未来がないことになってしまうだろう。それは護憲派の野党共闘にとっても、改憲を望まない国民にとっても最悪で、改憲勢力にとっては思うつぼ
 こうなると、それは立憲民主党一党のみならず、共闘派野党と市民連合など改憲を望まない国民にとっても、今や正念場ということにもなるわけだ。

 今回の衆院選の当選者で改憲(「自衛隊の保持を明記」「緊急事態に関する条項を新設」など何らかの改正)を(「どちらかと云えば必要」と合わせて)必要と思っている人は76%だが、政党別に見ると次のようだ(朝日新聞と東大の谷口研究室の共同調査から)。
 投票日前の候補者から聞き取った各党候補者の考え(各党で平均すると)(社—社民,共—共産,れ—れいわ,立—立憲民主,国—国民民主, 維-維新,公—公明,自—自民)
憲法改正
反対(必要ない)←―                    ―→賛成(必要ある)
共社        れ    立       公     国        自維
|||||||||||||||||||||||||||||||

防衛力強化
 社                
 共                 れ 立 公   国       自  維  
|||||||||||||||||||||||||||||||

敵基地攻撃
社        立                  自
共   れ    公      国           維
|||||||||||||||||||||||||||||||

辺野古移設
社     

れ     立         国           維公    自 
|||||||||||||||||||||||||||||||

 当選者のうち改憲「必要」派は自民党96%、維新と国民民主は全員、公明党は50%。
「必要ない」派は立憲民主53%、共産と社民は全員、れいわ67%
来夏の参院選では改憲については「必要」か「必要ない」かとで、どちらの考えの政党・候補者が当選するかだ。
 改憲を望まない護憲派の立場の人ならば、立憲民主党は共産・社民・「れいわ」の各党とともに改憲阻止を目指す護憲派野党共闘の側に結集する方向に共闘体制再構築を求めるべきだろう。

 しかし、選挙後の世論調査(11月6・7日、朝日新聞が実施)では、改憲を望まない護憲派にとっては残念ながら、このような当方の考えとは反対の方向に向かう可能性の方が強いようだ。
 岸田内閣―支持45%、不支持27%
 政党支持―自民36%、立憲民主9、維新9、公明4、共産3、国民民主1、れいわ1、社民1、支持なし29
 自民党の議席過半数超え―公明党との連立政権が評価されたから19、野党に期待できないから65
 維新の議席の大幅増―維新への期待から40、他の政党に期待できないから46
 来年の参院選で、野党による候補者の一本化を進めるべきか―進めるべき27、そうは思わない51
 「立憲民主と共産党は、外交や安全保障などについて主張が異なります。参院選で両党が主張の異なるまま、選挙協力することは問題だと思いますか」―「問題だ」54、「そうは思わない」31
 「岸田内閣のもとで憲法改正をすることに賛成ですか」―賛成40、反対36
 
 このような状況では、護憲派にとっては逆風。立憲民主党は護憲派野党共闘から離れ、国民民主や維新の側(「是々非々」の改憲容認の側)に向かうのか。

 ここで一曲。沢田研二の『我が窮状
♪麗しの国 日本に生まれ 誇りを感じているが 忌まわしい時代に遡るのは 賢明じゃない 英霊の涙にかえて 授かった宝だ この9条救うために 声なき声よ集え
我が9条 守り切れたら 残す未来 輝くよ
 麗しの国 日本を核が 歯車を狂わせたんだ 老いたるは 無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ 諦めは取り返せない 過ちを招くだけ この9条 救いたいよ 声を集め歌おう 我が9条 守れないなら 真の平和 ありえない
 この9条 救えるのは 静かに通る言葉 我が9条 守り切りたい 許し合い信じよう♪

2021年12月30日

軍事的安全保障の危険

 軍備(武力)を持てば、軍事には侵略攻撃に限らず、制裁や自衛のためであれ、次のような危険性を伴う。
軍事―外敵の制圧・撃破・撃退が目的
 外敵を想定し、その武力攻撃に対処、もしくはその攻撃を抑止するために敵軍の軍事力(戦力)に優る軍備(実力)を必要とする―軍備競争から必要以上の軍備(過剰軍備)となりがち―大量破壊兵器(核兵器など)・渡洋攻撃兵器(敵基地・領域侵入攻撃、中長距離ミサイルなどによる)
 敵の出方を読む(判断)―対峙して緊張、危機迫る切迫状況では即断即決を要し、機先を制して軍事行動・攻撃開始、発射、或いは「攻撃は最大の防御なり」と先制攻撃、その場合判断を誤りやすく、早まって攻撃、軍事衝突から戦争に発展しがち
 (新安保法制で決まった「重要攻撃事態」と「存立危機事態」など―「放置すれば我が国の平和と安全に重要な影響を与える状況」だとして、米軍など他国の軍隊を後方支援するため(弾薬提供や給油など)に自衛隊が出動しなければならない「重要影響事態」だとか、「我が国と密接な関係にある米国など他国への武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が迫り、自衛隊を参戦させなければならない「存立危機事態」だ、などの認定判断が必要となる―その的確な判断は非常に難しく、判断を誤れば国民が取り返しのつかない戦争の惨禍に巻き込まれかねないことになるわけである。)

*12月26日NHKスペシャル「台湾海峡で何が」を見て、そう思った。
  日清・日露戦争~第1次大戦~満州事変・日中戦争~太平洋戦争、それに、ヨーロッパ・ロシア・米ソなどの第1次・第2次世界大戦や朝鮮戦争や中東戦争・ベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争、また近現代の戦争に限らず、古今東西・歴史上、大小無数の戦争にその事例が散見される。


  

中国・北朝鮮への対応で9条改憲と堅持とでどちらが賢明か

 中国や北朝鮮の「脅威」(軍事の拡充強化)に対して①同様に軍事増強で対抗するのと、②非軍事・平和外交で対応するのとで、安全保障としてどちらが確実性(持続可能性)が高く、どちらが危うく危険性が高いか。
 ①の場合:軍事―自衛隊と日米同盟―「抑止力」だとはいっても、戦う実力(軍事力)を持つということは、特定の国をいつか軍事攻撃を仕掛けてくるかもしれないという敵国として想定し、その「敵の出方」によっては「戦う」意志のあるところを示していることであって、それはその国に対する「不信」を前提としているわけである。(握手しても、背後に回した片方の手に武器を隠し持っているようなもので、それでは真の平和・友好は結べまい。)その強化―最近は敵基地攻撃能力の保有(検討)など―それは中国・北朝鮮のさらなる軍事強化を招き、尖閣など局地的な軍事衝突から最悪の場合全面戦争に発展―殺傷・破壊の応酬が各地に及んで惨禍を招く恐れがある。
 台湾有事・朝鮮半島有事となれば在日米軍基地と米軍を支援・参戦する自衛隊が攻撃され、日本の首都など戦略拠点と見なされる要地が攻撃される危険性。
 拉致問題―軍事的圧力は効かないし、特殊部隊などによる救出作戦は無謀。
 ②の場合:9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)それ自体が国々に戦争を仕掛ける
口実を与えず抑止力となる。
 危険性―(領域警備には海上保安庁とそれを補完する自衛隊もあるので「無防備」というわけではないのだが)「非軍事」が「ならず者国家」の軍事的圧力と軍勢の侵入を難なく許し、島や要地が占拠、無抵抗な国民が服従を強いられて主権も人権も失う恐れ(そのようなことがあり得るだろうか?在日米軍基地などがあると攻撃の対象とされるが。)
 尖閣問題―領海侵犯等には海上保安庁が主として対処することとし、徹底した外交交渉で対応。
 拉致問題―要人派遣や首脳会談など徹底した(命懸けの)外交交渉で対応。
 台湾有事や朝鮮半島有事が起きても、アメリカには在日米軍基地からの出撃はやめるよう求め、自衛隊の支援・参戦も控える。
 国際平和貢献―戦争阻止・核軍縮でイニシャチブ発揮、核兵器禁止条約に参加・核保有国に放棄を説得。
 ASEANのTAC(東南アジア友好協力条約)の「北東アジア版」結成や「北東アジア非核地帯」締結を主導・推進。
 「9条世界会議」(2008年幕張メッセで開催)を今後も主導・開催―あらゆる種類の戦争と武力行使を放棄めざして(1999年第3回ハーグ平和市民会議では「日本国憲法9条が世界の目標」として決議―「国際的な法」ともなっている)
 さて、この二つ(軍事と非軍事)のどちらで行くのが安全か危険か、だと思うのだが、次回はその辺りの事を話し合ってみては如何なものでしょうか。

2022年01月01日

中国や北朝鮮・ロシアは日本だけを攻撃対象あり得るか

 中国は超巨大人口(14億)・多民族(56民族、うち圧倒的多数が漢民族)を擁し、安定統治するのに政権は腐心。古代から諸民族が興亡し、統一・分裂・再統一が幾度も繰り返され、周辺の少数民族が勢力を張り(トルコ系の突厥・ウイグルやチベット系の吐蕃・西夏、モンゴル系の鮮卑・遼・元、満州族の金・清など)、全土を制覇した征服王朝もあった(元・清)。それに近代には欧米列強が進出し、中国における勢力圏・利権の分け合い、港湾都市・区域の割譲(香港はイギリス領、日清戦争で敗れて台湾・遼東半島は日本領に)等を許した。清朝を倒して初の共和国(中華民国)を樹立したものの軍閥が割拠、国民党政府が征討するも、日本がそれらに乗じて満州事変を起こした。それに続く日中戦争では国民党・共産党両党が連携(国共合作)して抗日戦、日本降伏後、国共内戦、国民党軍は敗退して台湾に踏み留まり独自政府を維持。共産党は中華人民共和国を樹立し、台湾以外の全中国を統治。一党独裁政権で、その強権政治が、少数民族の自治区や香港(イギリスから返還されたが、「一国二制度」・特別行政区として自治政府が認めてられてきた)などに対する民主的自治権や人権の抑圧が「専制主義」として米欧や日本からも批判されているわけである。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、旧日本帝国が米ソ中などの連合国との戦争で降伏後、米ソ両国の南北分割占領下で米国をバックとする韓国とは別に独立し、統一戦争に乗り出し米韓軍と対戦し中国の援軍を得るも膠着状態、停戦協定を結んで休戦(朝鮮戦争、この間米軍は占領下日本の基地から出撃、それ以来、占領解除後も日本には米軍基地が存続)、現在に至るまで尚も終結していない。この間、韓国には日本と同様に米軍が基地に駐留、北朝鮮は核・ミサイル開発、保有するまでになっている。

 中国にしても、北朝鮮にしても、日本に対しては、アメリカからの軍事攻撃がないかぎり、日本に軍事攻撃をかけてくることはありえまい。日本に対しては、日本に米軍基地が置かれており、米軍からの攻撃に際して、日本の自衛隊が米軍を支援・参戦することになるので、その場合は、攻撃の対象となるが、それ以外には日本に対して軍事攻撃をかける理由はないからだ。そう考えて、これらの国に我が国と主張が対立する問題や懸案(中国とは尖閣問題・北朝鮮とは拉致問題、ロシアとは北方領土問題など)あるとしても、あくまで対話・交渉・説得を尽くして非軍事で対応すべきであろう。
 台湾有事(中台戦争)の恐れに対しては―戦争に協力ではなく回避努力に協力
  中台統一―「一国二制度」の現状維持で、あくまで戦争回避
  台湾の分離独立には中国は戦争に訴えてでも阻止―その戦争にはアメリカが台湾軍支援で参戦―それに在日米軍基地と自衛隊が使われる―日本が中国軍から攻撃の対象とされる―そのような戦争路線は回避
 朝鮮半島有事(朝鮮戦争再開)の恐れ―戦争に協力ではなく回避努力に協力
  「一民族二国(韓国・北朝鮮両国の存立)」の現体制維持―朝鮮戦争再開はあくまで回避
  朝鮮戦争は、現在の「休戦」状態から「終結」を「非核」と合わせて宣言へ―日本はそれを支持―拉致問題解決と合わせて北朝鮮と国交正常化へ向かうという道を追求。

2022年01月03日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき12)(随時加筆)

新型コロナウイルス 
      
世界の感染者総数4億3702万5183(+173万7861)、死亡者総数595万6688(+7924)

 上位国    感染者         死亡者           ()は前日比
 アメリカ 7904万5043(+10万5840)   95万0495(+2280)
  インド  4293万1045(+6915)     51万4023(+180)
  ブラジル 2879万6571(+1万9777)   64万9676(+239)  
  ロシア 1616万1596(+10万5743)     34万4655(+721)
   フランス2287万8605(+1万5278)   13万9383(+234)
イギリス  1902万1076(+?万)       16万1934(+?)    
  トルコ1408万9456(+6万4275)    9万4445(+213)
 *スペイン1097万7524(+万)    9万9410(+) 26日のまま
  ドイツ 1491万2626(+13万2801)     12万2949(+236) 
    イタリア 1278万2836(+1万8278)      15万4767(+207)
    
  インドネシア556万4448(+2万5054)   14万8335(+262) 
  フィリピン366万1997(+948)     5万6451(+50)
    日本  507万9417(+6万5434)人    2万3920(+236) 
    韓国   327万3449(+13万8993)     8170(+112)
    中国  31万5387(+13万7129)      5380(+85)
  <3月1日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都100万5841(+1万1813)  3681(+32)
                  大阪府65万6209(+8966)   3927(+41)
                   神奈川県45万7648(+6103) 1719(+23) 
                  埼玉県31万8200(+4229)   1184(+7)
                  愛知県32万5277(+4635)    1657(+15)
                  北海道17万4013(+1480)   1772(+15)
                  兵庫県26万4306(+3603)    1826(+14)                                        
                  千葉県 27万2058(+3385)   1339(+8)         
                  福岡県23万5685(+2611)     947(+22)               
                  京都府12万5116(+1004)     439(+8)
                   沖縄県 10万0616(+1029)   426(+0)
                  広島県7万4935(+503)   393(+6)
                                    
                  宮城県 4万1025(+639)    143(+2)
                  福島県 2万4450(+294)     187(+2)
                  山形県1万1820(+215)     67(+2)
                  岩手県1万1045(+289)      60(+1)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <3月1日午後7時30分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

  *注―日本は他国に比べて非常に少ないようだが、実はPCR等の検査数が少ないからなのだ(発熱7度5分以上が4日以上続いている人でないと検査を受け付けない等で)。医学者で山梨大学の島田学長は「市中感染が広がり、原因不明で亡くなっている人もいるが、検査が少ないので実数がつかめていない」と指摘。(人口10万人当たりのPCR等検査数はイタリア・ドイツ3000件余、アメリカ・シンガポールが1700件余、韓国1200件、フランス900余、であるのに対して日本は188件―5月4日時点で専門家会議が示したデータ)
 7月29日現在、日本におけるPCR検査は(検査総数75万人近く)人口100万人当たりでは(5902人で)G7(主要7ヵ国)では最低、世界215ヵ国・地域の中では158位(セネガルやナミビアなどのアフリカの国よりも低いレベル)(データ出所は米国に拠点を置くウエブサイト「ワールドメーター」―世界各国の統計資料を分析、米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズなどに活用されている)とのこと。
 それは、日本ではPCR検査抑制論をとってきたからだ。
 10月に入ったこの間も、日本のPCR検査数は人口比では世界153位で、1日最大でも3万件程度。
 2021年1月段階で世界149位(1月1~11日、1日平均4.4万件、1000人当たりではイギリス8.1、フランス4.4、アメリカ3.9、イタリア2.2に対して日本は0.5と少ない) 
    2月1日段階で世界138位
    4月初旬の段階で人口比では145位
    4月20日時点で日本の人口10万人当たりの死亡者数7.53人で中国(0.35%)・韓国(3.45%)を大きく上回る。
 ワクチン接種―遅れる日本―OECD加盟国で最下位―人口の75%に行き渡り、ある程度の集団免疫に達するためには、現在(4月28日時点)のペースでいくと(アメリカはあと3ヵ月、ドイツ6ヵ月、韓国21ヵ月、オーストラリア2.2年で)日本は3.8年かかる(米国の通信社ブルームバークの試算)。
 ワクチン各国接種率(NHK調べ)―7月12日時点で2回接種を終えた人、(人口比)
   英国50.9%、米国47.5%、スペイン44.9%、カナダ42.5%、ドイツ41.8%、ポーランド39.5%、イタリア37.5%、フランス36.1%、 日本16.8%(オリンピック開催国で、11日前にしては遅れている日本)       
 変異種―2021年2月以降、変異ウイルス流行、大半はイギリス由来(アルファ型)
    4~5月、日本国内でもアルファ型が大阪・兵庫から全国へ―従来株に置き換わって主流に。
    4月、インドで新たな変異種(デルタ株、感染力さらに強い)急増→各国へ
    5~7月、イギリスではデルタ株が急増、置き換わる
    7月、日本でもデルタ株が首都圏から全国へ
    8月上旬、デルタ株、首都圏で8~9割置き換わる 
    11月、南アフリカで変異種(オミクロン株、感染力はデルタ株より2~4倍強いが、重症化リスクは半分低い)が急増→拡大へ
 国内ワクチン接種率―3月1日、全体の2回目接種率79.2%
                   3回目    20.4%
========================================
2月28日、山形県内の新規感染者127人―①山形市18人、②寒河江市1人、③上山市3人、⓸天童市8人、⓹東根市13人、⑥村山市5人、⑦尾花沢市2人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町1人、⑪山辺町12人、⑫大石田町6人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市9人、⑯舟形町2人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲鮭川村0人、⑳大蔵村1人、㉑戸沢村1人、㉒米沢市7人、㉓南陽市1人、㉔長井市0人、㉕白鷹町0人、㉖飯豊町0人、㉗鶴岡市19人、㉘酒田市7人、㉙庄内町1人、㉚遊佐町3人、㉛三川町0人、㉜県外4人
     山形県内のクラスター-新たに‐①山形市-小学校で職員1人と児童4人の計5人、②米沢市—中学校で生徒5人
  27日、山形県内の新規感染者198人―①山形市32人、②寒河江市8人、③上山市4人、⓸天童市9人、⓹東根市8人、⑥村山市3人、⑦尾花沢市2人、⑧中山町1人、⑨西川町1人、⑩河北町1人、⑪山辺町1人、⑫大石田町4人、⑬朝日町1人、⑭新庄市32人、⑮金山町1人、⑯真室川町1人、⑰最上町1人、⑱鮭川村1人、⑲米沢市8人、⑳南陽市5人、㉑長井市1人、㉒高畠町3人、㉓白鷹町2人、㉔鶴岡市29人、㉕酒田市31人、㉖庄内町2人、㉗遊佐町3人、㉘三川町1人、㉙県外2人
     山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市-保育施設で職員と園児の計6人、小学校で児童5人、②新庄市—介護施設で職員と利用者の計10人、③酒田市—介護施設で職員と利用者の計17人
  26日、山形県内の新規感染者208人―①山形市49人、②寒河江市8人、③上山市10人、⓸天童市6人、⓹東根市19人、⑥村山市4人、⑦尾花沢市5人、⑧中山町2人、⑨西川町3人、⑩河北町1人、⑪山辺町8人、⑫大石田町2人、⑬大江町2人、⑭朝日町4人、⑮新庄市21人、⑯舟形町3人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲鮭川村1人、⑳大蔵村1人、㉑戸沢村1人、㉒米沢市6人、㉓南陽市2人、㉔長井市4人、㉕白鷹町2人、㉖飯豊町1人、㉗鶴岡市25人、㉘酒田市12人、㉙庄内町1人、㉚遊佐町1人、㉛県外1人
     山形県内のクラスター-新たに‐①山形市-事業所で職員7人、高校で生徒6人、②新庄市—グループホームで職員と利用者の計6人
  25日、山形県内の新規感染者154人―①山形市31人、②寒河江市4人、③上山市9人、⓸天童市2人、⓹東根市8人、⑥村山市4人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町5人、⑨西川町1人、⑩河北町2人、⑪山辺町4人、⑫大石田町2人、⑬新庄市11人、⑭舟形町1人、⑮金山町3人、⑯鮭川村2人、⑰大蔵村1人、⑱米沢市7人、⑲南陽市2人、⑳長井市5人、㉑高畠町4人、㉒小国町1人、㉓白鷹町4人、㉔川西町1人、㉕鶴岡市23人、㉖酒田市8人、㉗庄内町1人、㉘遊佐町1人、
     山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市—南高校で生徒9人、②長井市—事業所で職員6人、③鶴岡市―市役所で職員5人、⓸三川町―小学校で児童6人、⓹山辺町—介護施設で職員と利用者計12人
  24日、山形県内の新規感染者158人―①山形市37人、②寒河江市4人、③上山市2人、⓸天童市4人、⓹東根市13人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町2人、⑨朝日町2人、⑩河北町1人、⑪山辺町6人、⑫大江町1人、⑬大石田町2人、⑭新庄市13人、⑮真室川町4人、⑯金山町2人、⑰米沢市13人、⑱南陽市1人、⑲長井市1人、⑳高畠町1人、㉑小国町1人、㉒鶴岡市20人、㉓酒田市18人、㉔三川町1人 、㉕庄内町2人、㉖遊佐町1人、㉗県外者1人
     山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―刑務所で5人、保育施設で幼児と職員計8人、介護施設で職員と利用者計6人、②米沢市―事業所で職員7人、
  23日、山形県内の新規感染者246人―①山形市46人、②寒河江市12人、③上山市12人、⓸天童市7人、⓹東根市13人、⑥村山市7人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町10人、⑨朝日町1人、⑩河北町3人、⑪山辺町6人、⑫大江町1人、⑬新庄市20人、⑭舟形町3人、⑮真室川町4人、⑯金山町1人、⑰最上町1人、⑱鮭川村3人、⑲戸沢村1人、⑳米沢市18人、㉑南陽市2人、㉒長井市10人、㉓高畠町1人、㉔飯豊町3人、㉕小国町2人、㉖白鷹町4人、㉗鶴岡市15人、㉘酒田市19人、㉙三川町2人 、㉚庄内町2人、㉛遊佐町1人、㉜県外者1人
     山形県内のクラスター-新たに3件‐①西川町の介護施設で職員と利用者の計11人、②小国町の保育施設で利用者5人、③小国町の工事現場で従業員9人
  22日、国内感染―新規死者319人(過去最多)、救急搬送困難が6週連続で過去最多更新。
    山形県内の新規感染者198人―①山形市55人(クラスター-新たに高校で生徒11人、医療機関で患者6人と職員1人の計7人)、②寒河江市15人、③上山市6人、⓸天童市15人、⓹東根市9人、⑥村山市6人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町3人、⑨西川町1人、⑩河北町3人、⑪山辺町4人、⑫大石田町1人、⑬新庄市17人、⑭真室川町1人、⑮戸沢村1人、⑯米沢市8人、⑰南陽市4人、⑱長井市1人、⑲高畠町3人、⑳飯豊町1人、㉑小国町6人、㉒川西町1人、㉓白鷹町1人、㉔鶴岡市14人、㉕酒田市8人(クラスター-新たに保育施設で園児5人)、㉖三川町2人 、㉗県外者1人
  21日、山形県内の新規感染者129人―①山形市21人(クラスター-y山形大学で職員3人増え計10人に)、②寒河江市4人、③上山市2人、⓸天童市4人、⓹東根市4人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町1人、⑨西川町1人、⑩河北町4人、⑪山辺町1人、⑫大石田町1人、⑬新庄市17人、⑭舟形町1人、⑮米沢市12人、⑯南陽市2人、⑰長井市4人(クラスター-新たに中学校で11人)、⑱川西町1人、⑲飯豊町1人、⑳小国町1人、㉑鶴岡市12人、㉒酒田市18人(クラスター-日本海総合病院で患者2人増え計15人に)、㉓庄内町2人、㉔遊佐町1人、㉕三川町2人 、㉖県外者1人
  20日、山形県内の新規感染者196人―①山形市33人(クラスター-新たに大学で職員7人)、②寒河江市17人、③上山市2人、⓸天童市4人、⓹東根市9人、⑥村山市6人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町1人、⑨西川町2人、⑩河北町1人、⑪山辺町2人、⑫大石田町1人、⑬大江町2人、⑭新庄市10人、⑮最上町1人、⑯戸沢村1人、⑰米沢市12人、⑱南陽市2人、⑲長井市5人、⑳高畠町2人、㉑飯豊町3人、㉒小国町1人、㉓鶴岡市31人、㉔酒田市24人、㉕庄内町5人(クラスター-新たに保育施設で職員3人と園児2人の計5人)、㉖遊佐町1人、㉗三川町5人 、㉘県外者1人
  19日、山形県内の新規感染者231人―①山形市28人、②寒河江市19人、③上山市1人、⓸天童市17人、⓹東根市12人、⑥村山市5人、⑦尾花沢市17人(クラスター-新たに保育施設で園児12人と職員3人の計15人)、⑧中山町1人、⑨西川町2人、⑩河北町8人、⑪山辺町8人、⑫朝日町8人、⑬大江町3人、⑭新庄市11人(クラスター-新たに飲食店で従業員7人)、⑮金山町1人、⑯真室川2人、⑰鮭川村1人、⑱米沢市17人(クラスター-新たに高齢者施設で職員4人と利用者2人の計6人)、⑲南陽市10人(クラスター-新たに保育施設で園児4人と職員1人の計5人)、⑳長井市3人、㉑高畠町4人、㉒飯豊町2人、㉓小国町2人、㉔鶴岡市20人、㉕酒田市21人、㉖庄内町4人(クラスター-新たに保育施設で職員3人と園児2人の計5人)、㉗遊佐町1人、㉘三川町1人 、㉙県外者2人
   18日、国内感染―自宅療養者数57万人超で過去最多(入院病床ひっ迫)
     山形県内の新規感染者188人―①山形市22人、②寒河江市12人、③天童市4人、⓸東根市4人(新たなクラスター-事業所で従業員8人)、⓹村山市5人、⑥尾花沢市13人、⑦中山町4人、⑧西川町2人、⑨河北町1人、⑩山辺町3人、⑪朝日町4人、⑫大江町3人、⑬大石田町2人、⑭新庄市9人(新たなクラスター-介護施設で利用者4人と職員4人の計8人)、⑮最上町1人、⑯鮭川村1人、⑰米沢市15人(クラスター-障害者施設で利用者1人と職員2人増えの計15人)、⑱南陽市4人(新たなクラスター-保育施設で園児5人)、⑲高畠町5人、⑳川西町2人、㉑小国町1人、㉒鶴岡市31人(新たなクラスター-保育施設で幼児3人と職員4人の計10人)、㉓酒田市34人(クラスター-日本海総合病院で職員1人増え計9人に)、㉔庄内町4人、㉕遊佐町1人(クラスター-特養老人ホームで入所者1人増え計34人に)、㉖三川町1人 、㉗飯豊町に新たにクラスター-中学校で生徒5人
  17日、国内感染―全国の新規死者271人(過去最多、9割が70代以上)、最多の大阪府は54人(過去2番目)
    山形県内の新規感染者257人―①山形市43人、②寒河江市17人、③上山市4人、④天童市13人、⓹東根市31人(新たなクラスター-事業所で従業員8人)、⑥村山市6人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町3人、⑨西川町1人、⑩河北町6人、⑪山辺町11人、⑫朝日町2人、⑬新庄市12人(新たなクラスター-介護施設で利用者4人と職員4人の計8人)、⑭金山町1人、⑮鮭川村1人、⑯米沢市7人(新たなクラスター-障害者施設で利用者7人と職員5人の計12人)、⑰長井市6人、⑱南陽市8人(新たなクラスター-保育施設で園児5人)、⑲高畠町4人、⑳小国町3人、㉑飯豊町3人、㉒鶴岡市28人(新たなクラスター-デイサービスセンターで利用者7人と職員3人の計10人)、㉓酒田市32人、㉔庄内町5人、㉕遊佐町5人、㉖三川町1人 、㉗県外者1人
  16日、山形県内の新規感染者243人―①山形市45人、②寒河江市9人、③上山市5人、④天童市17人、⓹東根市17人、⑥村山市4人、⑦尾花沢市6人、⑧中山町6人、⑨西川町1人、⑩河北町4人、⑪大江町1人、⑫大石田町2人、⑬新庄市9人、⑭金山町1人、⑮舟形町1人、⑯真室川町1人、⑰米沢市18人、⑱南陽市3人(クラスター-小学校で職員1人と児童5人の計6人)、⑲高畠町7人、⑳川西町4人、㉑飯豊町1人、㉒鶴岡市17人、㉓酒田市49人(クラスター-保育施設で職員2人と利用者6人の計8人、県立高校で職員3人と生徒6人の計9人、事業所で社員計8人)、㉔庄内町6人、㉕遊佐町8人、㉖県外者1人
  15日、国内感染―累計400万人超す、新規死者236人(過去最多)。
    山形県内の新規感染者179人―①山形市36人(クラスター-障碍者施設で利用者と職員計9人)、②寒河江市16人、③上山市2人、④天童市14人、⓹東根市31人(クラスター-保育施設で園児と職員計10人増え累計15人に)、⑥村山市4人、⑦尾花沢市2人、⑧山辺町1人、⑨中山町4人、⑩河北町6人、⑪朝日町1人、⑫大江町2人、⑬新庄市1人、⑭金山町1人(クラスター-事業所で社員5人)、⑮舟形町1人、⑯真室川町1人、⑰米沢市9人、⑱南陽市8人、⑲高畠町4人、⑳川西町1人、㉑飯豊町2人、㉒鶴岡市13人、㉓酒田市8人、㉔三川町1人、㉕庄内町5人、㉖遊佐町1人、㉗県外者4人
  14日、山形県内の新規感染者153人―①山形市19人、②寒河江市4人、③上山市1人、⓸天童市14人、⓹東根市12人(クラスター-保育施設で職員と園児合わせて5人)、⑥村山市3人、⑦山辺町1人、⑧中山町2人、⑨河北町5人、⑩大江町1人、⑪西川町1人  、⑫大石田町3人、⑬新庄市人、⑭金山町2人、⑮舟形町2人、⑯真室川町1人、⑰米沢市10人、⑱南陽市4人、⑲高畠町0人、⑳鶴岡市23人、㉑酒田市29人(クラスター-日本海総合病院で入院患者5人)、㉒三川町2人、㉓庄内町7人、㉔遊佐町5人、㉕県外1人、
  13日、山形県内の新規感染者117人―①山形市16人、②寒河江市5人、③上山市4人、 ④天童市5人、⓹東根市7人、⑥村山市1人、⑦山辺町0人、⑧中山町1人、⑨河北町4人、⑩大江町0人、⑪西川町0人、⑫大石田町0人、⑬新庄市0人、⑭金山町0人、⑮舟形町1人、⑯真室川町1人、⑰米沢市4人、⑱南陽市2人、⑲高畠町5人、⑳鶴岡市23人、㉑酒田市21人(クラスター-介護保険事業所で新たに7人)、㉒三川町0人、㉓庄内町8人、㉔遊佐町9人、㉕県外0人、
①山形市34人、②寒河江市5人、③天童市5人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦山辺町2人、⑧中山町2人、⑨河北町3人、⑩大江町2人、⑪新庄市2人、⑫舟形町1人(クラスター-役場で1人増えて計6人に)、⑬米沢市7人、⑭南陽市3人、⑮高畠町5人、⑯川西町3人、⑰鶴岡市11人、⑱酒田市20人(クラスター-前と同じ介護保険事業所で3人増えて計19人に、別の介護事業所でも職員1人増えて6人に)、⑲庄内町2人、⑳遊佐町6人
  12日、国内感染―全国の新規死者100人超(6日連続)
    山形県内の新規感染者115人―①山形市34人、②寒河江市5人、③天童市5人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦山辺町2人、⑧中山町2人、⑨河北町3人、⑩大江町2人、⑪新庄市2人、⑫舟形町1人(クラスター-役場で1人増えて計6人に)、⑬米沢市7人、⑭南陽市3人、⑮高畠町5人、⑯川西町3人、⑰鶴岡市11人、⑱酒田市20人(クラスター-前と同じ介護保険事業所で3人増えて計19人に、別の介護事業所でも職員1人増えて6人に)、⑲庄内町2人、⑳遊佐町6人(クラスター-前と同じ特養老人ホームで1人増えて計27人に)、
  11日、山形県内の新規感染者262人―①山形市60人、②寒河江市11人、③上山市1人、④天童市7人、⓹東根市10人、⑥村山市4人、⑦尾花沢市1人、⑧山辺町2人、⑨中山町5人、⑩河北町10人、⑪西川町1人、⑫大江町2人、⑬大石田町2人、⑭金山町1人、⑮舟形町1人(クラスター-役場で5人)、⑯大蔵村1人、⑰米沢市11人、⑱南陽市11人、⑲高畠町6人、⑳鶴岡市48人(クラスター-中学校で6人)、㉑酒田市46人(クラスター-介護事業所で5人)、㉒庄内町8人、㉓遊佐町12人、㉔県外者1人
  10日、山形県内の新規感染者232人―①山形市74人(クラスター―新たに高校で生徒7人)、②寒河江市11人、③上山市2人、④天童市11人、⓹東根市6人、⑥尾花沢市1人、⑦山辺町人、⑧中山町1人、⑨河北町4人(クラスター-新たに小学校で児童と職員計6人)、⑩大江町1人、⑪金山町3人、⑫舟形町2人、⑬米沢市21人(クラスター-新たに介護施設で利用者と職員、計11人)、⑭長井市1人、⑮南陽市7人、⑯高畠町3人、⑰川西町4人、⑱鶴岡市40人、⑲酒田市19人、⑳庄内町5人、㉑遊佐町14人
  9日、国内感染―新規死者162人、
    山形県内の新規感染者251人―①山形市77人(クラスター―前と同じ保育園で3人増えて計10人になり、前と同じ小学校で1人増えて計8人に)、②寒河江市8人、③上山市2人、④天童市7人、⓹東根市9人、⑥尾花沢市2人、⑦山辺町5人、⑧中山町4人(クラスター―前と同じ小学校で1人増えて計7人に)、⑨河北町5人、⑩大江町2人、⑪新庄市1人、⑫舟形町4人、⑬米沢市8人、⑭長井市1人、⑮南陽市3人、⑯高畠町10人、⑰白鷹町1人、⑱川西町1人、⑲鶴岡市41人、⑳酒田市43人(新たなクラスター-保育施設で園児6人、小学校で児童5人、介護保険事業所で職員と利用者の計13人)、㉑庄内町5人、㉒遊佐町6人(クラスター-前と同じ特養老人ホームで2人増えて計14人に)、㉓県外者2人
  8日、国内感染―新規死者159人(実質過去最多)、救急搬送困難―週5469件(過去最多)
    山形県内の新規感染者201人―①山形市63人(クラスター―前と同じ保育園で2人増えて計20人になり、有料老人ホームで1人増えて計3人に。新たに保育園で職員7人、小学校で児童7人、高校で生徒6人)、②寒河江市8人、③上山市5人、④天童市8人、⓹東根市14人、⑥尾花沢市3人、⑦山辺町9人、⑧中山町3人(クラスター―小学校で児童7人)、⑨河北町6人、⑩西川町1人、⑪大石田町1人、⑫金山町1人、⑬舟形町3人、⑭米沢市8人(クラスター―保育施設で園児4人、職員1人の計5人)、⑮南陽市1人、⑯高畠町10人、⑰白鷹町1人、⑱飯豊町1人、⑲鶴岡市29人、⑳酒田市19人、㉑庄内町1人、㉒遊佐町2人、㉓県外者4人
  7日、山形県内の新規感染者221人―①山形市24人(クラスター―同じ保育園で1人増えて計18人に)、②寒河江市1人、③上山市1人、④天童市4人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦山辺町5人、⑧中山町2人、⑨舟形町1人、⑩米沢市5人、⑪南陽市1人、⑫高畠町4人、⑬川西町1人、⑭鶴岡市56人、⑮酒田市81人、⑯三川町6人、⑰庄内町10人、⑱遊佐町15人(クラスター―同じ特養老人ホームで6人増えて計12人に)
  6日、山形県内の新規感染者195人―①山形市64人、②寒河江市4人、③上山市5人、④天童市11人、⓹東根市6人、⑥村山市2人、⑦山辺町2人、⑧河北町3人、⑨西川町2人、⑩米沢市9人、⑪南陽市4人、⑫高畠町14人、⑬川西町1人、⑭白鷹町1人、⑮鶴岡市27人、⑯酒田市33人、⑰三川町2人、⑱庄内町2人、⑲遊佐町人、⑳県外1人
  5日、国内―全国新規感染10万人超で過去最多(ピークに達す)
    山形県内の新規感染者259人―①山形市89人(クラスター―既に発生の幼稚園で2人増えて計16人に、保育園で12人増えて計17人に。新たに有料老人ホームで6人)、②寒河江市6人、③上山市6人、④天童市8人、⓹東根市5人、⑥山辺町5人、⑦中山町4人、⑧河北町1人、⑨大江町3人、⑩大石田町2人、⑪新庄市1人、⑫米沢市13人、⑬南陽市2人、⑭高畠町16人、⑮川西町2人、⑯白鷹町2人、⑰飯豊町1人、⑱鶴岡市27人、⑲酒田市52人、⑳庄内町5人、㉑遊佐町7人(クラスター―新たに特老ホームで6人)、㉒県外2人 
  4日、山形県内の新規感染者325人―①山形市63人、②寒河江市3人、③上山市2人、④天童市9人、⓹東根市1人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市1人、⑧山辺町2人、⑨中山町3人、⑩河北町1人、⑪新庄市3人、⑫米沢市15人、⑬南陽市3人、⑭高畠町27人、⑮川西町1人、⑯白鷹町1人、⑰鶴岡市115人、⑱酒田市49人、⑲三川町7人、⑳庄内町8人、㉑遊佐町3人、㉒県外5人
    県内の新たなクラスター—①高畠町の小学校で教職員1人と児童13人の計14人、②飯豊町の小学校で教職員1人と児童5人の計10人、③山形市内の保育園で園児3人と職員2人の計5人
  3日、国内感染―累計300万人超える
    山形県内の新規感染者350人(過去最多更新)―①山形市74人、②寒河江市3人、③上山市3人、④天童市6人、⓹東根市3人、⑥尾花沢市1人、⑦山辺町1人、⑧中山町2人、⑨河北町6人、⑩西川町1人、⑪大江町5人、⑫新庄市1人、⑬米沢市21人、⑭南陽市5人、⑮高畠町34人、⑯川西町3人、⑰白鷹町3人、⑱飯豊町4人、⑲鶴岡市81人、⑳酒田市76人、㉑三川町7人、㉒庄内町8人、㉓遊佐町1人、㉔県外1人
    県内クラスター—①酒田市の保育施設の園児・職員計10人、別の施設9人、もう一つの施設11人、②鶴岡市の施設14人
  2日、国内―全国新規感染者が初の9万人超、東京も初の2万人超
    山形県内の新規感染者276人―①山形市48人(新たにクラスター―老人ホームで5人、幼稚園で5人)、②寒河江市4人、③上山市4人、④村山市3人、⑤天童市10人、⑥尾花沢市6人、⑦山辺町3人、⑧河北町1人、⑨西川町1人、⑩新庄市1人、⑪米沢市34人、⑫長井市4人、⑬高畠町26人、⑭川西町3人、⑮飯豊町1人、⑯鶴岡市95人、⑰酒田市52人、⑱三川町3人、⑲庄内町9人、⑳遊佐町1人、㉑県外3人
  1日、山形県内の新規感染者284人(過去最多更新)―①山形市47人、寒河江市6人、③上山市5人、④村山市1人、⑤天童市4人、⑥東根市4人、⑦尾花沢市3人、⑧山辺町1人、⑨中山町2人、⑩河北町3人、⑪朝日町1人、⑫大江町1人、⑬大石田町1人、⑭米沢市8人、⑮南陽市4人、⑯高畠町31人、⑰白鷹町2人、⑱飯豊町1人、⑲鶴岡市95人、⑳酒田市52人、㉑三川町3人、㉒庄内町7人、㉓県外2人
    山形県内で新たに確認されたクラスター7件―①高畠町のこども園に36人 、②鶴岡市の市立保育園17人、小学校9人、③山形市内の保育園8人、⓸米沢市内の事業所8人、⓹山形市内の事業所6人、⑥尾花沢市内のデイサービス・センター6人、その他
1月31日、山形県内の新規感染者156人―①山形市20人、②寒河江市4人、③上山市3人、④天童市7人、⑤東根市3人、⑥尾花沢市2人、⑦山辺町1人、⑧河北町1人、⑨米沢市17人(クラスター―同じ小学校で児童8人増え計25人に)、⑩南陽市1人、⑪高畠町3人、⑫鶴岡市40人(クラスター―同じ高校で生徒4人増え計40人に)、⑬酒田市45人、⑭三川町1人、⑮庄内町5人、⑯遊佐町3人、⑰県外0
  30日、山形県内の新規感染者257人(最多更新)―①山形市20人、②寒河江市3人、③上山市1人、④天童市6人、⑤尾花沢市3人、⑥山辺町1人、⑦中山町1人、⑧河北町2人。⑨大江町1人、⑩新庄市2人、⑪米沢市15人(クラスターー同じ小学校で児童4人増え計17人に)、⑫南陽市1人、⑬高畠町5人、⑭川西町1人、⑮白鷹町1人、⑯鶴岡市104人(クラスター―同じ小学校で児童1人増え計42人に、同じ高校で生徒1人増え計36人に)、⑰酒田市69人、⑱三川町7人、⑲庄内町14人
  29日、国内―全国新規感染者4.49万人(最多更新)
     山形県内の新規感染者170人―①山形市32人(クラスター―同じ幼稚園で1人増の計61人に)、②寒河江市3人、③上山市5人、④天童市10人、⑤東根市1人、⑥尾花沢市1人、⑦山辺町3人、⑧河北町1人、⑨大江町1人、⑩新庄市1人、⑪米沢市23人(クラスターー同じ小学校で児童5人増、これまでの教職員8人含め計13人に)、⑫長井市1人、⑬高畠町1人、⑭鶴岡市43人(クラスター―小学校で児童2人増え、計41人に。同じ高校で生徒5人増え、計35人に)、⑮酒田市35人、⑯三川町4人、⑰庄内町4人、⑱遊佐町1人
  28日、国内―全国新規感染者初の8万人超、東京最多1.7万人、大阪初の1万人超。
     山形県内の新規感染者230人(最多更新)―①山形市40人、②上山市1人、③村山市2人、④天童市6人、⑤東根市1人、⑥尾花沢市1人、⑦山辺町2人、⑧中山町2人、⑨河北町1人、⑩大石田町1人、⑪米沢市10人、⑫長井市1人、⑬南陽市3人、⑭鶴岡市113人(クラスター―小学生校が児童11人増え、計39人に、同じ高校で生徒7人増え、計30人に)、⑮酒田市28人、⑯三川町6人、⑰庄内町10人、⑱遊佐町1人、⑲県外1人
     27日、山形県を含む18道府県に「まん延防止法等重点措置」適用(既に適用中の都府県と合わせ34県に)、
     山形県内の新規感染者161人(最多更新)―①山形市61②上山市7③天童市3④東根市1⑤尾花沢市2⑥山辺町2⑦大石田町3⑧新庄市1⑨米沢市5⑩長井市2⑪南陽市2⑫高畠町1⑬川西町1⑭鶴岡市32⑮酒田市23⑯庄内町12⑰遊佐町1⑱県外2
     山形県内のクラスターー鶴岡市の羽黒高校で22日に感染者が出て以降、これまでに計23人(同校は休校中)
  26日、国内―全国新規感染者7万人超(過去最多更新)、33都府県で過去最多。
     山形県内の新規感染者150人―①山形市44人、②寒河江市2人、③上山市5人、④天童市3人、⑤東根市3人、⑥尾花沢市2人、⑦山辺町2人、⑧中山町1人、⑨河北町1人、⑩朝日町2人、⑪大江町3人、⑫大石田町2人、⑬新庄市4人、⑭米沢市4人、⑮長井市3人、⑯南陽市1人、⑰高畠町1人、⑱白鷹町1人、⑲鶴岡市29人、⑳酒田市26人、㉑庄内町9人、㉒県外者2人
     山形県内のクラスター―①山形市内で既に発生の幼稚園に新たに園児15人、職員3人(計47人に)、②鶴岡市の既に発生の小学校に新たに児童4人(計27人に)、③米沢市内の
既に発生の県立高校に新たに生徒2人(計14人に)、⓸長井市内で既に発生の長井電力センターに従業員1人(計6人)
  25日、国内―全国新規感染が初の6万人超、29都府県で過去最多。
     東京都ではオミクロン株が99%(ほぼ置き換わる)
     山形県内の新規感染者153人(最多更新)―①山形市50人、②寒河江市3人、③上山市11人、④村山市1人、⑤天童市1人、⑥東根市3人、⑦朝日町2人、⑧大石田町2人、⑨米沢市5人、⑩長井市4人、⑪南陽市3人、⑫高畠町3人、⑬鶴岡市43人、⑭酒田市15人、⑮庄内町4人、⑯遊佐町2人、⑰県外者1人、
     山形県内のクラスター―①鶴岡市の小学校の児童10人(計23人に。うち職員1人)、②長井市の長井電力センター従業員2人(計5人に)、③山形市内の前日と同じ幼稚園で16人(計29人に)、⓸米沢市内の前日と同じ県立高校で4人(計12人に)
  24日、山形県内の新規感染者123人(過去最多)―①山形市②寒河江市1人、③上山市1人、④東根市1人、⑤尾花沢市1人、⑥中山町1人、⑦大江町1人、⑧大石田町1人、⑨米沢市5人、⑩長井市1人、⑪南陽市1人、⑫白鷹町1人、⑬鶴岡市37人、⑭酒田市24人、⑮三川町1人、⑯庄内町6人、⑰遊佐町1人、18県外者1人。
  山形県内のクラスター―①山形市内の幼稚園で園児10人と職員1人(計13人に)、②山形市内の認定こども園で園児17人と職員1人(計23人に)、③米沢市内の県立高校で生徒2人(計8人に)、⓸酒田市内の特老ホームで職員1人(22人に)
    全国の保育所などの休園が過去最多(27都道府県327ヵ所)
  23日、山形県内の新規感染者60人―①山形市17人(クラスターー認定こども園に園児4人と保育士1人)、②鶴岡市14人、③酒田市13人(クラスター発生の特老ホームに新たに職員1人、計21人に)、④庄内町4人、⑤米沢市3人(クラスター―県立東高校に生徒6人)、⑥村山市3人、⑦長井市2人、⑧東根市2人、⑨南陽市1人、⑩高畠町1人
  22日、国内―全国新規感染5万人超、東京1万人超。
    山形県内―新規感染者85人(2日連続過去最多)―①山形市28人、②酒田市20人(1人はクラスター発生の養護老人ホーム入所者で計20人に)、③鶴岡市17人、④寒河江市5人、⑤庄内町3人、⑥天童市2人、⑦高畠町2人、⑧遊佐町2人、⑨村山市1人、⑩米沢市1人、⑪長井市1人、⑫南陽市1人、⑬三川町1人、⑭県外者1人
 21日、国内―全国新規感染者4万9千超
   山形県内―新規感染者74人―①山形市22人(同市の小学校にクラスター発生―20日公表の5人と21日公表の1人の計6人)、②酒田市17人、③鶴岡市15人、④米沢市5人、⑤三川町3人、⑥庄内町3人、⑦遊佐町3人、⑧大石田町2人、⑨上山市1人、⑩長井市1人、⑪朝日町1人、⑫川西1人
 20日、首都圏や東海圏で13都県で「まん延防止重点措置」へ
 19日、国内―新規感染者4.6万人超(3日連続で最多更新)、
      山形県内の新規感染者56人―①22人(うち5人はクラスターが出た特別養護老人ホームの入所者と職員)、②山形市14人、③鶴岡市10人、④寒河江市3人、⑤米沢市3人、⑥遊佐町3人、⑦庄内町1人
 18日、国内―全国新規感染者が初の4万人超、東京・大阪・愛知・兵庫など28都道府県で過去最多。
     山形県内の新規感染者66人―①酒田市25人(1人はクラスター発生の養護老人ホーム入所者で計14人に)、②山形市17人、③庄内町7人、④西川町3人、⑤小国町3人、⑥遊佐町3人、⑦天童市2人、⑧鶴岡市2人、⑨寒河江市1人、⑩東根市1人、⑪米沢市1人、⑫高畠町1人 
 18日、国内―全国新規感染者3万人超(5か月ぶりに最多更新、オミクロン株が8~9割占める)、大阪・兵庫・福岡・京都など18府県で過去最多更新。
    山形県内の新規感染者32人―①山形市12人、②酒田市10人、③天童市2人、④庄内町2人、⑤鶴岡市1人、⑥寒河江市1人、⑦西川町1人、⑧朝日町1人、⑨高畠町1人、⑩遊佐町1人
 17日、山形県内の新規感染者39人―①酒田18人(クラスター発生の擁護老人ホームに6人、計13人に)、②山形市5人、③
寒河江市4人、④遊佐町3人、⑤天童市2人、⑥米沢市2人、⑦鶴岡市2人、⑧上山市1人、⑨村山市1人、⑩長井市1人
 16日、山形県内の新規感染者26人―①山形市10人、②酒田市10人(うち5人は特別養護老人ホームの入所者・職員―クラスター計7人に)、③高畠町2人、④米沢市1人、⑤鶴岡市1人、⑥天童市1人、⑦庄内町1人
 15日、国内―全国新規感染者2万5千人超
        山形県内の新規感染者39人―①山形市16人、②酒田市8人、③米沢市4人、④村山市4人、⑤新庄市1人、⑥鶴岡市1人、⑦高畠町1人、⑧小国町1人、⑨県外在住3人 
 14日、国内―全国新規感染者2万人超
       山形県内の新規感染者33人―①山形市11人、②酒田市10人、③鶴岡市2人、④河北町2人、⑤寒河江市1人、⑥村山市1人、⑦高畠町1人、⑧遊佐町1人、⑨県外在住1人
 13日、国内―全国の新規感染者1.8万人(前週の4倍)、8割がオミクロン株か。
    山形県内の新規感染者40人―①山形市12人、山形中央高校運動部の教職員1人と生徒10人の感染確認(クラスター計17人に)、②寒河江市7人、③酒田市4人、④米沢市3人、⑤西川町3人、⑥鶴岡市2人、⑦東根市2人、⑧庄内町2人、⑨遊佐町2人、⑩天童市1人、⑪南陽市1人、⑫河北町1人
 12日、国内感染―全国新規感染者1.3万人超(9月4日以来)―オミクロン株が急増、     東京都2000人超、大阪府1000人超(ともに4ヵ月ぶり)
     山形県内の新規感染者23人―①寒河江市8人、②上山市3人、③東根市2人、④尾花沢市2人、⑤天童市1人、⑥長井市1人、⑦南陽市1人、⑧酒田市1人
 11日、山形県内の新規感染者10人―①寒河江市6人、②天童市2人、③東根市1人、
                  ④山辺町1人
 10日、山形県内の新規感染者11人―①山形市3人、②寒河江市3人、③河北町2人、⓸天童市1人、⑤酒田市1人、⑥朝日町1人
  9日、沖縄・広島・山口3県に「まん延防止等重点措置」適用
    山形県内の新規感染者5人―①寒河江市2人、②山形市1人、③酒田市1人、⓸朝日町1人
  8日、山形県内の新規感染者10人―①山形市4人、②寒河江市5人、③県外1人
    国内感染(新規8480人)1週間で1.5倍超
    東京1000人超
  7日、世界―感染3億人超える
    国内―全国新規感染者6000人超、第6波へ
    沖縄県内の新規感染者1400人超  
  6日、国内感染―全国新規感染者4000人超(昨年

2022年02月03日

中国・北朝鮮には日本に戦争を仕掛ける理由・必要性あるのか(加筆修正版)

 中国・北朝鮮を「脅威だ」「脅威だ」という。向こうは、かくいう日本をどう思っているのだろうか。向こう側にしてみれば、日本は(日清戦争以来)戦前・戦中は脅威そのものだった。戦争直後は日本が新憲法で「戦争放棄」「戦力不保持、交戦権否認」を定めて脅威は全くなくなったはずが、だんだんとそうではなくなって「自衛隊」の名のもとに「再軍備」、アメリカと同盟を組み、それがますます強大化して、再び脅威になってきている。 
 そうなると中国・北朝鮮には、軍備をもち増強しなければならない理由・必要性はあるわけである。それは最大の核軍事力を持つアメリカが日本・韓国・オーストラリアなどと同盟を結んで軍事基地を置き、台湾政府とその軍を支援(武器売却・軍事訓練など)しており、それらが中国・北朝鮮にとっては脅威となっているからである。
 中国・北朝鮮は「脅威」だといっても、向こう側にしてみれば、こちら(日米韓豪)側の方が脅威なのだ。だからそれに負けないように軍備を増強しなくてはならない、ということにならざるを得ないわけである。中国・北朝鮮の軍備に対して、こちら側のそれは「アメリカの核の傘」も、敵基地攻撃能力も、「抑止力」だというが、向こう側は向こう側で自らの軍備は核もミサイルも「抑止力」のためだと同じことを称しているわけである。

 中国は、同胞が住む中国の一部だと思っている台湾(そこは日清戦争で日本から奪われ、日中戦争・太平洋戦争後、日本からは取り戻したものの、大陸での内戦に共産党軍から敗れた国民党軍が台湾に逃れて政権を維持、それが台湾政府だが、政権交代が行われるようになり、現在は民進党が政権に就いている。一方、大陸の共産党現政権は、台湾との統一を宿願としているが、武力統一は避け「平和統一」をめざして「一国二制度」―台湾は大陸の中国と同じ一つの国であるが、現状の政治・経済・社会制度・生活方式は別々でも、そのままそれを認め合い、台湾自治政府の存在と独自の軍隊も容認―を採ることを一貫した基本方針としてきた)。しかし、その台湾政府が、もしも全く別の国として独立を強行するようなことがあれば、それを制圧するべく台湾侵攻はあり得る(共産党政権トップはそれも「辞さない」と言明している)。その際、そこにアメリカが介入、台湾軍を支援して日本にある米軍基地から出撃し、日本の自衛隊がその米軍を支援すれば、それらの在日米軍基地や自衛隊が攻撃される、ということは当然あり得るわけである。

 また北朝鮮は、今、休戦中で決着のついていない朝鮮戦争が再開される事態となった場合なら、日本にある米軍の出撃基地や米軍を支援する自衛隊が攻撃されることはあり得る。

 しかし、それ以外には、中国にしても北朝鮮にしても、日本に攻撃・戦争を仕掛けたりする理由・必要性はないわけである。
 *尖閣諸島については?人の住まない岩だけの小島の領有権を中国が主張し、海警船が領海侵入を繰り返しているが、それに対応する海上保安庁の巡視船を中国海軍が攻撃して島を占領・強奪するなんてあり得るだろうか?仮に日米同盟軍が反撃・奪還戦に出なくても、日本から国交断絶という制裁を被り(それによる貿易ストップ等で中国が被る経済的不利益は島を強奪して得られるメリットに比して全く割の合わないものであり、その貿易ストップによって日本側も多大な経済的不利益を被ることはあっても、戦争して被る人的・物的損害に比べればまだマシ)、そのうえそのような横暴な行為・暴挙は国際的非難・制裁を被ることは必定。そのようなリスクを冒してまで尖閣諸島を奪うために中国軍がわざわざ日本に攻撃・戦争を仕掛けるなんてあり得まい。

 要するに中国にしても、北朝鮮にしても、台湾有事や朝鮮半島有事に際して、それに関わる在日米軍基地や自衛隊が攻撃対象となる以外には、日本が武力攻撃されることはあり得ない、ということなのである。

 こうしてみると、日本が米軍に基地を提供し、自衛隊に米軍と組んで中国・北朝鮮・ロシアなどに対抗するという軍事的安全保障体制に頼り、それを正当化するために9条を改憲するというのは的外れ。日本は憲法を変えることなく、これを堅持して、軍事などより平和外交の方に力を注ぎ、核兵器禁止条約に参加して核保有国に放棄を説得、ASEANのTAC(東南アジア友好協力条約)の「北東アジア版」結成や「北東アジア非核地帯」締結を主導するなど、その具体的な在り方を組み上げていくことこそが必要で、それによって緊張緩和(軍備増強による脅威の除去)、国際的評価と信頼が得られ、尖閣問題や拉致問題など紛争案件も粘り強く外交交渉・対話を重ねることによって解決をはかるという、このやり方こそが賢明なのではあるまいか。

2022年02月26日

ウクライナ危機—9条の視点から(加筆修正版)

(1)ウクライナとロシアの歴史的な関係
 ウクライナとロシアとの関係は、民族的に同系(東スラヴ人)で、中世のキエフ大公国やロシア帝国・ソ連の時代は同一国家に属していて、ソ連の最高指導者だったフルシチョフ国連で軍備全廃を提唱したり、アメリカのケネディ大統領とキューバ危機に際して渉りあったりした)はウクライナ出身だったし、ウクライナ東部やクリミア半島にはロシア人が多く住んでいる。そのウクライナが1991年ソ連という連邦国家の解体に伴って独立。尚、アメリカと西欧諸国間の軍事同盟(NATO)に対してソ連と東欧諸国にはWATOがあったが、ソ連解体に伴って解体(NATOだけが残った形に)。
 ウクライナには独立当初は「主権宣言」に非核三原則(核兵器を受け入れない、作らない、手に入れないこと)を盛り込んでいたが、その後しばらくの間、旧ソ連が配備していた核基地が維持されていて、米ロに次いで世界第3位の核保有国となっていたが、1996年になってようやく撤去し、ロシアに返還(チェルノブイリ原発事故の後、公式に「放棄」)。
(2)ウクライナ国内に親ロシア派と親米欧派
 ウクライナは、しばらくは西側のNATOに対して中立路線をとったが、(1999年以後)ポーランドなどの東欧諸国が雪崩を打って西側のEU及びNATO加盟に向かったのに伴って、親ロシア派と親欧米派の政権争奪が行われるようになった(2004年には大統領選挙で親ロ派大統領が当選した選挙結果に対して抗議運動が起こって再投票が行われ親欧米派政権が成立。2010年には2004年選挙の再投票で敗れた親ロシア派大統領が返り咲いた。ところが・・・・・)。
(3)親米欧派政権に対して反抗する親ロシア派をロシアが支援
2014年には、2010年選挙で政権に就いた親ロ派大統領に対して再び市民の騒乱が起こって大統領はロシアに亡命し、親欧米派が政権奪取。それに対してロシア系住民の多いウクライナ東部で親ロシア派武装勢力が支配地域の独立を宣言してウクライナ政府軍に抗戦、その東部内戦は停戦をはさんで現在に至るまで続いてきた。一方、南部のクリミア半島にはロシア帝国・ソ連時代からロシアが軍港を置いてきた要地あり、ロシア系住民が多く、「住民投票の結果だ」として、半島はロシアが併合
 2019年の大統領選挙では、ゼレンスキー現大統領(コメディアン俳優で、政治経験はゼロだが、テレビドラマ『国民のしもべ』で無名の教師から大統領になって活躍する人物を演じていた)が、前大統領(反プーチンで、NATO加盟をめざしていた)を破って当選。就任当初はロシアに対して対話路線をとっていたが成果を出せず支持率が低迷する中、
米欧を後ろ盾とした対決路線に転換。NATO主導の合同軍事演習にウクライナ軍を参加させたり、NATO加盟の必要性を訴えるようになった。
(4)プーチンがウクライナに軍事的圧力の下、NATOの東方不拡大とウクライナ加盟否認要求
 それ以来、ロシアのプーチン大統領は、NATO加盟を求めるウクライナのゼレンスキー大統領(親欧米派政権)とアメリカに対してNATOのさらなる東方拡大(ウクライナの加盟)と軍の配備(ウクライナからミサイルがモスクワを狙って発射されれば7分で着弾することになる)に反対し、昨年来ウクライナ国境近くに演習と称して大軍を繰り出して軍事的圧力を加えてきた。
(5)アメリカ側はロシアの安全保障要求を拒否
 それに対してアメリカはロシアの要求(NATOの東方への不拡大・ウクライナ加盟否認などの要求)を拒否、ウクライナに武器供与、NATO加盟各国と共に東ヨーロッパに派遣部隊の増派。ウクライナ政府もロシア軍に対して抗戦の構えをとった、というのが現在のウクライナ危機なのである。
 要するにこの対立は、ロシアがNATOのロシア隣国への拡大・脅威に対して安全保障を求めて、米欧側にNATOの東方拡大・ウクライナ加盟の停止を要求しているのに対して、アメリカがそれを拒否してウクライナを軍事支援、という軍事的安全保障をめぐる対立
 ロシア側・米欧側双方とも首脳会談等の外交交渉による事態打開を模索してはいるが、互いに軍事的圧力か経済制裁圧力で威嚇し合いながら、力を背景として突っ張り合ってきた。そして今や「戦争も辞さない」という覚悟で臨戦態勢に入っている。瀬戸際外交など、力を背景とした交渉(駆け引き)は、互いに相手の意図を探り合い、それを読み違えると武力衝突から戦争に突入の危険が伴う
 今、世界はそれを目の当たりにしているわけである。
(6)かつてのキューバ危機
 その時もそうだった。人々には「第3次世界大戦」とか「核戦争」寸前の危機とさえ思われた(1962年当時キューバは、それまでアメリカの半植民地状態で、それを許してきた親米政権を倒したカストロらの革命政権に対してアメリカが、それを覆そうとして亡命キューバ人による上陸作戦や隠密作戦など画策。アメリカのキューバ侵攻を恐れたカストロ政権はソ連に頼り、キューバにソ連の核ミサイル基地建設を認めた。それに対してアメリカはキューバへ向かうソ連船を海上封鎖して阻止。
 一方アメリカはNATO同盟国トルコ(ソ連領ウクライナと黒海を隔てた隣国)に核ミサイルを配備していた。そこで米ソ首脳―ケネディとフルシチョフ―は互いに自分の鼻先にナイフを突きつけられたようにして、アメリカはトルコに建設したミサイル基地を、ソ連はキューバに建設したミサイル基地を互いに撤去することで、アメリカはキューバには侵攻しないことを約束し、それを実行したことで、核戦争の危機は外交的に解決した。(尚、あの時、沖縄の読谷村にソ連極東地域を標的とする核ミサイル発射基地があって、ミサイル4基に攻撃命令が届いた。しかし、そのうち「ソ連向けは1基しかないのに、なぜ関係ない国を巻き込むのか」など不審に思った発射指揮官は、命令は誤りだと判断して発射を思い止まったという。もしも、そのまま命令に従っていればどうなったかだ。)
 このキューバ危機は双方の首脳の賢明な判断で、寸前のところで双方とも矛を収めたが、一歩間違えば「核戦争」となりかねなかった。
(7)ロシアついに侵攻 
 しかし、ウクライナ危機ではロシアのプーチン大統領が、ついに侵攻に踏み切って、ウクライナ政府は抗戦。しかし、ウクライナはNATOには未だ加盟しておらず、NATO加盟国はどの国も参戦は控え、アメリカも部隊派遣は現加盟国だけに留め、ウクライナには武器供与などに留めている。そして欧米諸国それに日本も呼応して、ロシアに対して一斉に大規模経済制裁に踏み切っている。
 (弁護士の橋下徹氏の指摘—NATOは「派兵できないなら、ロシアと協議すべき。ロシアのウクライナ侵攻の原因はNATOにあるのだから」、「西側諸国は、ロシアが瓦解するまでウクライナの犠牲を前提に抵抗させる戦略・戦術を採るのか!それは卑怯だ」、「経済制裁でロシアを瓦解させる狙いなら、それまでの間、避難したい人をどんどん受け入れるべきだ。避難は恥ずかしいことではない」。)

(8)日本の改憲派の反応 
 自民党の元防衛相の小野寺議員などは、「この問題は必ず日本に影響する」、「軍事アセット」(武器やその生産手段、防衛・攻勢に可能な機械・装置やその能力)を保有・配備して力を示し、「お互いが強い立場にあるからこそ交渉できる」とか「基本的に自国は自国で守るというスタンスがあってこそ、周りの応援が来る。さもなければ日本はウクライナと同じことになる」と論じている。
  ウクライナはNATOに加盟していたら米欧の全加盟国の参戦・援軍が得られ、ロシアに対して充分対抗はできたはずなのに、未だ加盟していないばかりに、また核兵器を配備していないばかりに(*)、ロシア軍の侵攻に対して単独で、或いは市民さえもが火炎瓶で抗戦するしかなく、ほしいままに攻撃にさらされている。

 日本には自衛隊があって日米同盟はあっても、現行憲法のままに9条の制約に囚われ続け、存分に力を発揮できない状態では、「日本はウクライナと同じことに」なってしまう。だからそうならないように、敵基地攻撃能力も集団的自衛権の無限定行使も可能となるように改憲して、自衛隊は米軍と共に存分に戦えるようにすべきなのだ、というわけか
(*安倍元首相は、「ウクライナが核兵器をソ連から独立時に撤去せずに保有を続けていれば、どうだったかという議論が行われており、日本も、非核三原則があるが、米国との核共有・運用についてタブー視せずに、選択肢を視野に議論すべきだ」と、テレビ番組で語っているとのこと。)
 日本は、「自衛隊」とは云ってもそれなりに世界有数の軍事大国(軍事力の世界ランキングでは、ウクライナは22位なのに対して日本は5位で、ロシアに次ぐ)であり、日米同盟を組んで「核の傘」の下にあるのに、それでもまだ不十分だというわけだ。
 そして自民党は、現行憲法9条の非軍事条項に、わざわざ自衛隊保持などの軍事条項を書き加える改憲を行い、日米軍事同盟の拡充強化を図ろうとする。その方がよいのかだ。
(9)軍事的安全保障の危険
 「日本がウクライナと同じことになる」というなら、むしろ、日本は、ウクライナがあくまで米欧のNATOに頼って、軍事でロシアの軍事に対抗し、かえって侵攻を被る結果になってしまっているように、日本がアメリカとの同盟に頼って、自衛隊の軍事で中国や北朝鮮・ロシアなどの軍事に対抗しようとすれば、かえって危ない戦争となる、というふうには考えられないか。

 そもそも軍備・軍事力を持つと、どうしてもそれに頼りがちとなり、外交もそれをバックにした強制外交(「棍棒外交」とか「砲艦外交」)となりがちになる。軍事力や軍事同盟に依存する軍事的安全支障というものは極めて危うく、「安全保障」といっても一時しのぎにしかならならず、持続的安全保障・恒久平和とはならない。
 なぜなら、軍事とは戦うことを旨とし、戦いとは勝つか負けるかであり、勝つため、負けないために可能な限り手段を駆使しようとする。手段とは武器・兵器などのハードパワーだけでなく、ソフトパワー(知略)もあり、情報戦・心理戦やサイバー攻撃といったものもある。そしてそのような軍事力をバックにした軍事的圧力や経済制裁圧力などの脅し(威嚇)による外交交渉には、誤情報・偽情報・誤判断、誤算が付きまとう。なんとかして戦争は避けたいと思っても、その誤算・誤判断によって軍事衝突から戦争になってしまうとか、それに走ってしまうということになりがち。また一旦戦争が始まってしまえば、戦う双方とも徹底攻撃・徹底抗戦となって止められなくなってしまう。日本の日中15年戦争や太平戦争、第2次世界大戦後の朝鮮戦争・ベトナム戦争、ソ連のアフガン戦争、アメリカのアフガン戦争、イラク戦争など、どの戦争にもそれがあった。そして今回のロシアのウクライナ侵攻。
(10)9条の立場
 だからこそ、日本国憲法は9条で「武力による威嚇・・・・は国際紛争を解決する手段(外交手段―引用者)としては永久にこれを放棄する」そのために「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」ということで、非軍事安全保障・平和外交のやり方を採ることを世界に先駆けて定めたのであり、それを世界のどの国にも求めて軍備全廃を期する、そうしてこそ、恒久の平和・安全保障の実現が可能となる、というものではあるまいか。
 
 今回、ロシアがNATOのこれ以上の拡大とウクライナ加盟を阻止しようとして(NATOの不拡大とウクライナの加盟否認の法的保証を要求するも、米欧側から「すべての国に自国の安全保障体制を選択する権利がある*」として拒否されて、そのあげく)強行したウクライナ侵攻は乱暴極まる暴挙であり、非難・糾弾されて然るべきではある。ロシアのウクライナに対する主権侵害の侵略行為は、たとえどんな理由であっても、国際法上違法であり許されず、正当化はできない
(*そのような論理でいけば、ロシアが中国などと、かつて(1950~80年)の中ソ友好同盟相互援助条約のように軍事同盟を結んで、それをNATOに対抗して、かつて東欧諸国と結んでいた旧WATOのような軍事ブロックに拡大して、北朝鮮やイランやキューバ・ミャンマーなどまで加盟できるということになってしまうのでは?)
 ただ、ロシア政府のその行為に対しては非難・制裁もあって然るべきだとしても、その言い分(理由―NATOという米欧諸国の軍事同盟拡大とウクライナへの核・ミサイル等配備の脅威)は無視するわけにはいくまい。そもそもそのような理由・口実を与え、(NATO不拡大・ウクライナ加盟否認の)要求を突っぱねた米欧(NATO)側にも問題があるのでは
 
 9条の立場は、本来、どの国も軍事同盟や軍事ブロックを組まず、非同盟・非軍事を原則とし、しかも、「一国平和主義」で一人我が道を行く孤立主義ではなく、全世界の軍備全廃を目指す立場
 もし日本が憲法9条のとおりに不戦・非軍事・非同盟の方針をとっていれば、脅威とはならず、どの国にも日本を攻撃しなければならない必要・理由を与えることもなく、ロシアや中国・北朝鮮などから侵攻をうけたり蹂躙されたりするような心配はいらなくなるはずなのでは?
 尖閣・「北方領土」・拉致問題は?これらも相手の軍事に対して軍事で対抗しようとするなら、ゼロサムゲームでどちらが勝つか負けるかしかなくなるが、不戦・非軍事の9条の立場を堅持して、誠意(相互信頼・立場尊重)と道理に徹した話し合いを尽くすことができれば、解決の方法にたどり着くことは不可能ではあるまい

 しかし今は、日本では政権党をはじめ、「そんな夢のようなことを言ってもダメ」—それではダメだとして、自衛隊と日米同盟の軍事拡充強化をめざして改憲に突き進む動きが一段と強まっているところなわけである。

 さて、9条は、現行の憲法そのままでいくのと、自衛隊条項を書き加えて改憲するのとで、どちらが賢明なのか

(11)9条改憲よりも軍備全廃へ国連憲章改正めざすべき
 日本国民は自国の憲法(9条)を変えるよりも、むしろ国連憲章の改正をめざすべきなのでは。国連は、第2次大戦直後創設して以来、国際平和機構といいながら、不備なところがあり、戦争を止めらないでいる。
 国連は総会(緊急特別会合)での法的拘束力のないロシア非難決議だけで実効的に機能していない(侵攻・戦争をやめさせることができないばかりか、停戦交渉の仲介さえできないでいる。かわいそうなのは砲撃におののき逃げ惑うウクライナの子どもたちと母親たち。国連に必要なのは、高等弁務官やユニセフなどの国連スタッフの救援活動だけでなく、ウクライナの無辜の民を救うために戦闘そのものをやめさせることにこそ役割があり、それを果たすことだろう。
 日本の憲法9条は1項に「武力による威嚇または武力の行使」の禁止を定め、そのうえ第2項に「戦力の不保持」「交戦権の否認」を定めているが、国連憲章は日本国憲法9条の1項の部分(武力による威嚇または武力の行使の禁止)しか定めておらず、各国の自衛権と軍備を認め、そのうえ集団的自衛権として日米安保条約のような軍事同盟やNATOのような軍事ブロックまで認めている。だから戦争は絶えないのだ。核拡散防止条約で安保理常任理事国5大国には核兵器保有を認め、それ以外の国は禁止だとか、核保有国の核軍縮の努力義務は定めてはいるものの、軍縮は一向に進まず、5大国以外の北朝鮮などの核保有も止めることはできないでいる。だから戦争は現に起きているし、核戦争の恐れもある。このままではいつまで経っても恒久平和は不可能。だから、改正するなら国連憲章のほうであり、日本の憲法9条2項のように各国とも軍備を全廃、軍事同盟も禁止するように、国連憲章の改正を目指したほうがよいのでは、と思うのだが。
 また、現行憲法の9条が本来、国に求めている非軍事・非同盟の国ならば、どこかの国々の間で起こった紛争や人道危機に際しては中立国として公平な立場で積極的に仲介し人道介入の役割を果たせることになる。
 そもそもロシア(プーチン大統領)の目的は自国の安全保障であり、米欧に対する要求はNATOのロシア近隣諸国(東方)への不拡大であり、ウクライナに対する要求は、ウクライナがNATOに加盟せずに中立国に留まること、ということだったのでは(?)。(それがどちらからも受け入れられず、やむなく、いや逆上して(?)ウクライナ侵攻を強行した、というわけだが、その行為はまさに侵略戦争であり国連憲章違反。なのに国連は、その憲章規定に基づいて軍事制裁など出来ないでいる。それを決定する安全保障理事会では、常任理事国で拒否権を持つ当のロシアの反対で決められないからだ。それに米欧は経済制裁はやれてもNATOによる軍事制裁—アメリカなどの参戦-には踏み切れない。それをやれば、戦争は核戦争・第3次大戦になりかねないことになるからだろう。)
 日本国憲法は、そもそも、日本がそんなことにならないように9条で、非軍事・非同盟(中立)を国是とすることを定めたはず(なのに、自衛隊の名のもとに再軍備、日米同盟を組んでいるのだが)。
 ロシアが自国の安全保障のために、ウクライナに非軍事・中立化を要求するのであれば、まず、自国ロシアが非軍事・中立化して米欧(NATO加盟国)にも中国などにも、すべての国にそれを要求すべきなのである。
 そもそも日本こそが、憲法で既にそのこと(非軍事・非同盟)を定めている国として、世界各国にもそれを求め、国連も、日本国憲法9条のように(但し、解釈改憲も明文改憲もない非軍事・非同盟原則のままに)国連憲章を改正して、各国とも軍備を廃止し、軍事同盟も廃止するようにして、非軍事安全保障に切り替えればよいのである。
 
 今回のロシアのように自国の安全保障のために戦争を起こしたり、北朝鮮のように核・ミサイルなど軍備強化したり、日米同盟やクアッド(日米豪印)のようなNATOのアジア太平洋版の如き軍事ブロックを形成したりすれば、冷戦が復活して、かえって戦争の危険を招いてしまう。そのような軍事的安全保障よりも、安全保障は非軍事の方が望ましい国連には、国家間の紛争を戦争にしないための仲介・平和的解決支援・人道介入などの役割を果たすこと、それ以外に食料・エネルギー・資源の奪い合い・独占ではなく持続可能な開発・利用(SDGs)、地球環境安全保障、自然災害や感染症から人類を守る安全保障、グローバル経済安全保障など、非軍事的な国際協力による「人間の安全保障」が様々必要とされているのである。国々や国連には警察は必要だとしても、軍備・軍事はかえって戦争やそれに伴う危険を招き、そのようなものはむしろないほうがまし。だから軍備全廃を目指すべきなのでは、ということだ。
(12)真の世界平和は軍備全廃で
 核戦争の危険性を完全になくすためには核兵器を廃絶するしかないのと同じように、「戦争の危険性ない真の平和」を実現するには軍備そのものを全廃するしかないのでは。
 どの国も核兵器を持たなければ核戦争は起きない。ならば、どの国も核兵器だけでなく通常兵器もそっくり軍備を持たなければ戦争は起きない理屈だ。
 核兵器の廃絶は「核兵器禁止条約」の成立で、既にスタートしている。(但し、安保理常任理事国の5大国はいずれも核保有国で、アメリカと同盟を結んでいる日本やNATO加盟国もともに批准してはいないのだが、それらを説得して全ての国に批准させ廃絶しなければならないのだ。NPT核拡散防止条約では5大国以外の国の核保有は禁じられ、5大国には「核軍縮」が義務づけられているにもかかわらず依然として核兵器を独占し続けながら、北朝鮮の核保有には非難・制裁を行っている。)
 現行の国連憲章は戦争と武力による威嚇・行使も包括的に禁止してはいるが、例外として、どこかの国が他の国に侵攻して戦争を始めたら加盟各国連携による経済制裁などの非軍事制裁だけでなく、軍事制裁も認めている。又、個別的に自衛権の行使も認め、同盟国との集団的自衛権も認めており、結局各国の軍備を認めている。その結果、侵攻も自衛戦争も武力による威嚇も絶えることなく、今、現にロシアがウクライナに対して侵攻し、激しい攻防が行なわれ、世界中がテレビで惨劇を目の当たりにしている。
 それはとりあえずロシア大統領に侵攻を止めさせなければならず、ウクライナの抗戦とそれへの米欧NATO諸国の軍事支援(参戦すれば第3次大戦・核戦争になりかねないというので、それは控えて武器や情報供与だけに留め)、その他の支援や経済制裁には日本も加わって制止にやっきとなってはいるが、なかなか止められないでいる。
 このような侵攻や戦争が今後とも起こらないようにして恒久平和を実現するには、国連憲章を改正して軍備を全廃するしかあるまい。
 日本国憲法は9条で戦力不保持・交戦権否認を定め、世界に先駆けて軍備撤廃を打ち出している。(しかし、その規定を都合よく解釈して「自衛隊」と称して軍備を行い、しかもアメリカと同盟まで結んでいるのだが)本来なら率先して軍備撤廃を諸国に訴え呼びかけて然るべきなのだ。
(尚、軍備全廃が決まれば、その実行を確かめる査察・検証機関が必要。又、アウトサイダーで国際テロ組織や国によっては国内に反政府武装集団が存在・出現しかねない。そのために国際武装警察部隊や国内治安維持の武装警察部隊など警察力は必要。)

(13)日本が侵略されたら
 仮にこの日本が侵略された場合、どのように対処するか。
 この日本を侵略する国など、はたしてあるのか(憲法9条で不戦・非軍事を国是としながら、日米安保条約の下で米軍基地を置き、自衛隊に集団的自衛権の限定行使を認めている現状では、台湾有事とか朝鮮半島有事など米軍が関わる戦争が引き起って、日本が中国軍や北朝鮮軍から攻撃される事態はあるかもしれないが、そういったこと以外には、日本を攻撃したり、侵略したりしなければならない理由・必要性のある国が存在するとは考えられない)は別として、仮にそれ(侵略)があった場合の話だが、我々国民、政府、国際社会、国連、諸国民はどのように対応するのか。今、ウクライナがロシアから侵略を受け、抗戦中で、米欧諸国や日本でもロシアに対して、かつてなく厳しい経済制裁、国連では非難決議それに市民の反戦デモが行われている最中だが、世界はこれにかたずを飲んで注視している。
 特に我が国では憲法9条の下で「護憲か改憲か」で気をもんでいる向きにとっては。

日本が侵略された場合―次の3つの対応がある
①自衛隊と日米同盟で抗戦―相手が攻撃をやめるまで徹底抗戦
(憲法9条の制約があるが、改憲すれば自衛隊も米軍も「専守防衛」などに囚われずに存分に戦えるようになるというのが改憲派)
 市民の義勇軍で抗戦?
⓶非軍事・不戦、市民は非暴力抵抗(不服従・非協力)で対応
 あくまで外交・対話オンリーで対応し、応戦・抗戦はしない。それは「戦わずして降伏」?それは違う。降伏とは戦ってから勝ち目がないと諦めて「負け」を認めて恭順することであるが、初めから戦わないのだ。それもどうせ負けるから戦わないのではなく、勝も負けるも軍事的勝利など初めから度外視。他国との間で対立しぶつかることもあり、紛争・トラブルはあっても、動物ではあるまいし、戦って勝負がつかないと決着しない(解決できない)というわけではなく、あくまで人間同士、話せば分かることであり、知恵を出し合って、Win Winで分かち合うという方法を考え出すことができるはずなのである。(それが憲法前文にある言葉「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」ということにほかなるまい。)
 侵略者に対しては、「愛国者」なら徹底抗戦、「火炎瓶ででも戦うのだ」と云って市民を戦いに駆り立て、それに応えて国を守り、愛する人・家族・同胞を守るため身を捧げようとするのはヒロイズム(英雄主義)からは「かっこいい」と思われるだろうが、その「徹底抗戦」ために、かえって、自分以外の多くの人々を犠牲にしてしまう結果を招くことを考えれば必ずしも賢明だとは言えない(しかし、「徹底抗戦か、不戦か」は人の生き方・考え方—哲学にもより、一概にどっちとは決めつけられないのかもしれないが、いかがなものだろうか)。
 (「負けるが勝ち」「愛国者(を気取る者)は国を滅ぼす」といったのは幕末の幕臣・勝海舟。大戦中、日本では「撃ちてし止まん」「一億玉砕」のスローガンの下、竹槍ででも最後まで戦うのだと国民は戦いに駆り立てられ、国のトップが降伏の裁断を下すのもためらわれ、戦争を長びかせて、オキナワ・ヒロシマ・ナガサキの悲惨を招いた。ただ、その日本は戦争を仕掛けた方の国で、侵略を受けた中国人は徹底抗戦を行い、米ソ連合軍と共に戦い日本軍を降伏に追いやって戦勝国となった。しかし、15年にわたったアジア太平洋戦争全体を通じて、死者は日本人310万人なのに対して、中国人は1000万人もの膨大な数の生命が犠牲。
 だからといって、それら過去のアジア太平洋戦争の時のことと今果敢に戦っているウクライナ人のことを一緒くたにするのは如何なものか、という向きもあるが。)
 国民(市民)は侵略者に対して武器をとって抗戦はしなくとも、侵略者の命令に対しては不服従・非協力・非暴力抵抗で対応。国際社会・各国は侵略国を非難・経済制裁など非軍事制裁を加え、侵略国は、いずれはかえって損害を被る結果となる。)

(14)どの国も日本に攻撃・侵略せざるを得なくなるような原因・理由を作らないように
 憲法で「戦争放棄」と定め、「戦力不保持」「交戦権否認」を9条に定めた限りは、そもそも、そのような戦争の意思のない国に対して一方的に「侵略や戦争を仕掛ける」など、あってはならないし、そのようなことが(日本に侵略・攻撃を仕掛けてくることなど)あり得ないように、どの国に対しても、その国の最高責任者が、この日本に軍事攻撃を加え、侵略するしかないと決断せざるを得なくなるような原因・理由となるもの(こと)は作らないようにしなければならないのだ敵対する原因、脅威となる原因には軍備それに軍事同盟・軍事ブロックがあるが、現状の日本は、憲法に「戦争放棄・戦力不保持」と定めたにもかかわらず、今では世界有数(ランキングで5位)の軍事力も持つ自衛隊を保持し、アメリカと軍事同盟を組んでいるそれがネックとなり、台湾海峡有事や朝鮮半島有事など際してアメリカ軍が日本の基地から出撃し、自衛隊がそれを支援・参戦すれば、それは中国や北朝鮮の日本に対する攻撃理由となる。(ウクライナ危機はまさにロシア対米欧側の軍事ブロック・NATOという軍事的安全保障をめぐる対立が原因となっている*―それはロシア側の勝手な言い分なのかどうかは、どうあれロシア(プーチン大統領)はそう思っていることは事実。だからといってNATOには未だ加盟してはいないウクライナに対して、「加盟は許さないとして」一方的に侵攻・攻撃をしかけたことは、あまりに傍若無人な「侵略」というほかないのだが。)

 大事なのは、そもそも我が国に対して侵略などあり得ないように排他的・敵対的関係を持つことなく、平和的友好協力関係に努め、他国の脅威となるような軍事力や軍事同盟を持たないようにすることだ。
 
*3月1日の朝日「声」投稿(『アジア平和の橋渡し役に転じよう』)に「有事に備えて『緊急事態条項』をつくるよりも、『有事にしないためにはどうすればいいのか』だろう」とあったが、同感。中国・北朝鮮或いはロシアが、もしも日本に侵攻してきたら、どう戦うか、などと考えて9条に「例外措置」として自衛隊条項を書き加えようとする改憲にこだわるよりも、「有事(戦争)にしないためにはどうすればよいのか」という方に考えを向けるべきなのではないだろうか。
 
(15)徹底抗戦か降伏か(ともかく、先ずは停戦)
 ウクライナ大統領(ゼレンスキー)は徹底抗戦を訴え、兵士・市民の果敢に戦う姿が映像で見られる、一方、子供を含む一般市民の犠牲者は何百人・何千人と日ごとに増えていき、難民は数百万から1000万にも達する悲惨な実態も見られる。
 これらを遠くからテレビで見ている分には、とかく、戦争がもたらす現地の人々の悲惨(命の犠牲)を度外視して、一心不乱に戦い続ける戦士に対して心情的に「頑張れ!負けるな!」と応援する気持ちにもなるが、中には、そんな悲惨に耐え続けるよりも降伏して中立要求を受け入れた方がいいという向きと、降伏なんてとんでもないという向きがある。(筑波大准教授の東野氏は「降伏すれば、その後ロシアがウクライナをフェアに扱うかどうか誰もわからない。もっとひどい扱いを受け、ウクライナの文化や言葉など禁止される可能性が非常に高い」として降伏には否定的な見解。)―徹底抗戦(「玉砕」)か降伏か―「生か死か」の究極の選択になるが、どちらが賢明なのかだ。
 又、ロシアの方は、ウクライナ側の抗戦がプーチン大統領の予想に反して頑強で、長引
けば米欧・日本など諸国による経済制裁がだんだん効いてきて、ロシアの国民生活が苦しくなるとプーチン政権に対する不満が強まって政権は窮地に陥り、いら立ちからさらに過激化して攻撃を激化させる(既に無謀な無差別攻撃を強行しているが、或いは大量破壊殺傷兵器さえ使用しかねない)可能性もあり、ロシアとウクライナ双方の国民の窮状や犠牲が益々ひどいことになりかねない。いずれにしろ、軍事的にはロシアの方が最終的には勝利しても、政治的にはむしろ最後まで戦い抜いたウクライナ側が勝利することになるかもしれない(?)。しかし、双方の人的物的損害は計り知れず、なによりも文化も言葉も民族的に共通性を持つ両国民の切り裂かれ心(敵対感情)が何世代にもわたって修復困難になってしまうことは確かだ。
 その意味では(人命の犠牲と生活文化の破壊、そして後々まで残る禍根のことを思えば)、双方とも、一刻も早く矛を収め(戦闘停止して)協議・和平交渉に踏み切り、双方とも互いに(安全保障上)脅威とならない(ロシアの要求はウクライナの中立化と非軍事化だが、ウクライナはNATOに加盟して核・ミサイルなど配備することのないようにし、ロシアもウクライナの近隣に部隊や兵器を配備しないことを約束するなど)措置と保証をおこなうことで歩み寄り、合意にこぎつけるようにすればいいのでは、と思うのだが。

(16)カントの永久平和論
 日本国憲法は前文に「日本国民は恒久の平和を念願し・・・・・」と謳い、9条を定めているが、カントが論じた『永遠平和のために』によれば、「平和」とは「あらゆる敵意の終わり」ということで、それは単に「戦争がない(抑止されている)状態」ではなく、(戦争の可能性が根絶されていて―つまり国家間に争い芽・火種がなく、互いに敵意なく)「もはや戦争があり得ない状態」であるとして、その(国家間の争いの芽・火種—つまり原因の)一つだとして国々が常備軍を保持している問題を論じ、その全廃を称えている。それは、「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺激となって、互いにに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷になり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」などと説いている。(思想家・柄谷行人氏は、9条にはカント以来の理念で、普遍的な原理が書き込まれていると指摘。)
 (尚、カントは給料で雇われる「常備軍」に対して、市民が自分や祖国を外部からの攻撃に対して備えるために、自発的に武器をとって、定期的に一定期間訓練(演習)を行う志願制の「国民軍」「義勇軍」は、それとは別だとしているのだが。市民義勇軍はいいとしても、自衛隊や日米同盟の米軍はカントの云う廃止すべき常備軍に当たるだろう。今回のウクライナ危機に際してウクライナ政府が外人部隊として義勇兵を日本でも募集したところ、70人もの日本人が応募、うち50人は元自衛官だった。それに対して日本政府は、目下ウクライナに渡航・滞在する日本人には「退避勧告」を出しているこの折、「同国への渡航は止めてくれ」と対応。いずれにしろ現代戦では高度な科学技術兵器による戦争なのでアマチュアの市民義勇兵では戦えない。)
 カントは諸国家の国際的平和連合も構想―国連ができて、それが結実しているかにも思われるが、現実の国連はその理念とはほど遠い(第1次大戦後の国際連盟はアメリカなどが入らずアジア・アフリカ・中南米に植民地をもつ帝国主義国家の連合にすぎず、現在の国連は第2次大戦の戦勝国米ソ英仏中など連合国が主になって世界を管理する体制として創設され、基本的には未だにそのまんま)。
(17)国連国連憲章に急ぎ立法化すべき軍備全廃―カントの考え方から
 日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」という文言。それはカントの考え方からすれば、次のようにも考えることができるのではあるまいか。(一語づつ分けて)
①「平和」とは―単なる敵対行為や戦争をさし控え、やらないか、やめているという状態ではなく、争いの原因・理由がなく、敵意がなく、戦争のあり得ない状態。「永遠平和」とは単なる空虚な理念ではなく、実現すべき実現可能な課題であり、実現に向けてたえず努力すべき義務なのである。
②「(平和を)愛する」とは―希求する(ひたすら求める)ということである。それを求めるのは善意からではなく、それが有益であり、それを切望するからである。
③「諸国民」とは―国々の人々つまり人間のことだが、そもそも人間の本姓は利己的で反社会的で邪悪で信頼のおけないものであり、互いに衝突し争い合う。国々もまた然りであり、放っておいたらいつでも戦争しかねない。善人か悪人か、或いは国によって「良い国」(まともな国)か「悪い国」(「ならず者国家」とか「悪の帝国」)なんて選別はできない。したがって核兵器や武器・軍備も、国によってある国の核軍備は良くて、ある国の核軍備は悪いなどと選別することもできない。
④「公正と信義」とは―法(ルール)と道徳に則った「正しい行い」「正しい心」のこと。そのルールは、元来利己的で邪悪な人間が互いに自分の利益を図って相争い権利を侵害し合うことによって戦争などかえって悲惨な結果を被る危険を回避するために和合を求めてそれ(ルール)が作られ、それを守り従うことによって安全と生存を確保する。人はそのルールは、他者には守らせ従わせるが、自分だけは縛られたくないとは思っても、最終的には自分の自由や利益が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従う方が自分の利益にとって最も都合の良い結果にありつける。そのルールには合理性それに例外を認めない公平性と公開性が担保されている。だからこそ信頼できることになる。
⑤「信頼して」とは、国民や国家の指導者の人間性にたいする信頼ではなく法(ルール)に対する信頼にほかならない。そのルール作りの先にある戦争に関する法規で、カントの「永遠平和」論に最もマッチするのが、日本国憲法の9条(「戦争放棄」だけでなく「戦力の不保持」)の条項であり、国連憲章の改正によって目指すべき軍備全廃条項ということになるのでは。
 今までは国を守る軍備・軍(我が国では自衛隊とアメリカ同盟軍)を「信頼して」国民の安全と生存を保持するという軍事的安全保障のやり方できた。それを変え、9条で「戦力不保持」を定めている憲法を持つ日本をはじめ各国ともを軍備を廃し全廃して法に基づく公正と信義に信頼して国民の安全と生存を保持しようというのが、そもそもカントの考え方なのでは。

(18)軍備が戦争の原因となる
 今回のロシア・ウクライナ戦争の原因は、NATOの東方拡大がロシア隣国ウクライナにまで迫ってきているのに脅威を覚え、ウクライナがそれに加盟しかかっているのを阻止することが、ロシアにとっては自国の安全保障上なんとしても必要不可欠。そこで「2021年12月にロシアがアメリカとNATOに対してロ米間及びロシア・NATO間の安全保障に関する条約・協定案を提示。 これに対してアメリカとNATOはまともに向き合うことを拒み続けた。
これに業を煮やしたロシアは(ウクライナ南東部2州の独立を承認し、そのうえで)ウクライナに対する軍事侵攻に踏み切った(踏切らざるを得なかった)ということだ。
プーチンは『ウクライナの中立化と非軍事化』に関するウクライナの同意を取り付けない限り、軍事作戦を止めないことをくり返し明言している。
 プーチン・ロシアの真の狙いは、ウクライナ侵攻という思い切った手段に訴えることによって、アメリカ・NATOから「ウクライナのNATO加盟は認めない」という明確な言質を引き出すことにあると思われるが、アメリカとNATOがそういう言質を与える保障はどこにもない。最悪でもウクライナから『中立化』確約を取り付けたいと考えているだろう。」(浅井基文・元外交官・政治学者)
 要するに米欧諸国のNATOという軍事同盟ブロックとその軍備の存在がロシアにとって脅威であり、ウクライナにとってはロシアの核軍備が脅威だからこそNATOに寄りかかろうとする。その「軍事安全保障」のための軍備こそが戦争の原因となっているのだ。
日本とどこかの国(中国とか北朝鮮とか或いはロシアとか)との間に戦争が起こるとすれば、日本側にも何か原因があるとすれば、その原因はやはり「軍事安全保障」のためと称する軍備(自衛隊と日米同盟)の存在そのものにあるのでは、と思われるが、それ以外にあるだろうか。
 そもそも軍備というものは、「戦争のない平和」のために在るものとはいえず、戦争を想定し、それに備えるために在るもの。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」(日本国憲法前文)するという立場ではなく、信頼できない邪悪な国民の存在を想定し(前提にして)、それとの戦争に備えるために常備するもの。その軍備は武器・兵器をもって人を殺傷するものであり、平和的生存権を脅かすものである。そのようなものを備えること自体が脅威となり平和・安全保障を害するものとなるわけである。ただ、軍備を持っているからといって、それだけで即脅威と受け取られ攻撃を受けるとは限らない。今の日本にとっては、アメリカのような同盟国となっている国の軍備には脅威は感じない。又、何の対立も紛争も遺恨もない国ならば、その国が軍備を持っていても脅威は感じないだろうが、それら(対立・紛争)が多少ともある場合は軍備が脅威となってくる。ロシア・中国・北朝鮮などにとっては日本の同盟国アメリカが敵対国ならば、自衛隊も脅威と受け取られるだろう。同様に、ロシアにとってウクライナの軍備は、ウクライナがアメリカ側のNATOの同盟国となってしまったら、アメリカの核軍備と共にそれ(ウクライナの軍備)が脅威となるわけである。(だから、それを阻止しようとしてやっきとなっている。)
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」するといっても、諸国の国民ならいざ知らず、国の統治権力者には信頼のできない国があり、「ならず者国家」だとか「悪の帝国」だとか「覇権国家」だとか評価・選別。そういう国の侵攻に備えるためにと軍備(軍事力、或いは核軍事同盟)を保持することによって国民の安全と生存を確保しようとし、結局ほとんどの国が互いに軍備を持ち合っている。そして互いに、相手が軍備を持ち、拡張・強化し、それが脅威だから自国も同じことをして軍事安全保障体制を採ろうとする。かくて戦争の脅威が遠のくどころか、いつ起きるか戦々恐々としていなければならないことになる。
 やはり軍備全廃しない限り、軍備をもつどこかの国と国との間で、また戦争が起こるかもしれないという不安が付きまとい、世界に恒久平和はいつまでも来ない、ということになる。
どの国も軍備を廃止して互いに脅威を無くし、疑心暗鬼・不信を無くせば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」ができるようになり、平和的生存権の保障が可能となるのでは、と思うのだが。

(19)かつて国連で提案された軍備全廃案
 1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)
 1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連がそれを提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
 1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言」
     3段階に分けて4年間で全廃を提案。
   その後その年、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
 1962年、ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
   アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出。
   両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。

(20)国際刑事裁判所 
 それにしても、今回のウクライナ侵攻でロシアの指導者に対して国際刑事裁判所(ICC)はどう対応するのか―戦争犯罪と人道に対する罪を問わないのか。(ロシアは既にICCを脱退しており、米中・インドなども加盟していないとのことだが)そこでどう追及するのだろうか?
 (ICCの手続きを定めたローマ規定では、非戦闘員(民間人)への故意の攻撃は戦争犯罪で、軍の行為を放置した指揮官の責任を問う規定もある。今回のウクライナ危機ではICCの検察官が戦争犯罪の疑いで事態の捜査を始めており、プーチン大統領の訴追の可能性も排除されない。
 裁判には被告人の出廷が必要で、プーチン氏を実際に罰することは難しい。ただ120以上のローマ規定締約国にはICCへの協力義務があり、プーチン氏が訴追後に締約国に入れば拘束の可能性もある、という―3月11日朝日新聞)
(21)とにかく戦争やめろ!
 戦争は正気を失い理性を失った者がやるものだ。戦争で得する者はおらず、悲惨と後悔しか残らない。正気をとり戻せ!先ずもってロシアは兵を引き上げ、アメリカとNATOもウクライナに武器供与・軍事支援などして「徹底抗戦」をケシかけるようなことをするな!(ウクライナ人民の祖国防衛の戦いは是としても、それをアメリカなどが自らの代理戦争*に利用するようなことはあってはならない。)
 (*代理戦争とは、大国同士は核戦争を回避するために直接対決を避け、どっちか一方或いは両方とも参戦はせずに、対戦する一方の側又は両軍への軍事援助など間接的支援に留めて自分の代わりに戦わせるという戦争。米ソ冷戦時代の朝鮮戦争の時は、アメリカは韓国軍について直接参戦したが、ソ連は北朝鮮軍につきはしても軍事援助だけに留まり、当時同盟国であった中国の義勇軍を戦わせた。又、ベトナム戦争の時は、アメリカは南ベトナム政府軍を加勢して直接参戦したが、ソ連は参戦せずに北ベトナム軍に軍事援助をしただけで、北ベトナム軍が南ベトナムの反政府勢力「解放民族戦線軍」と共にアメリカ軍と戦った。旧ソ連のアフガン戦争の時は、アメリカ自らは戦わず、地元の軍閥とイスラム諸国からジハードに駆け付けた義勇兵を支援した。)
 とにかく戦争やめろ!武器供与などの軍事支援はもとより、戦闘用の防弾チョッキやヘルメットなどの供与も、人道支援以外はやめろ!
 ロシアはウクライナに非軍事・中立化を押し付けるなら自国から非核化・非軍事化し、アメリカはじめNATO加盟のヨーロッパ諸国にもそうさせればいいのだ。それより自国憲法(9条)に既に非軍事・不戦を定めている(はずの)日本こそが、それ(非軍事・非同盟)を全世界に呼びかけ、アメリカ・中国にもそれを促すべきなのだ。

2022年03月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき13)(随時加筆)

新型コロナウイルス 
      
世界の感染者総数5億2937万1740(+37万2475)、死亡者総数628万9031(+1243)

 上位国    感染者         死亡者           ()は前日比
 アメリカ 8401万2408(+2万7764)  100万4760(+27)
  インド  4315万8087(+2338)     52万4630(+19)
  ブラジル 3097万7661(+2万2082)   66万6516(+63)   
  ロシア 1806万0405(+3743)     37万1378(+72)
   フランス2967万6522(+4684)   14万9290(+121)
イギリス  2248万1196(+1万7931)       17万9212(+84)    
  トルコ1507万1772(+908)    9万8961(+4)
*スペイン1232万6264(+?万)    10万6341(+?) 28日のまま         
  ドイツ 2630万5996(+6万1889)     13万9000(+136)  
    イタリア 1739万6723(+7846)      16万6631(+62)
    
  インドネシア605万4633(+218)   15万6586(+12)
   フィリピン369万0451(+)     6万0455(-1) 
   日本  885万4705(+2万2022)人    3万0636(+39) 31日午後7時30分現在
    韓国   1810万3638(+1万7176)   2万4176(+9)
    中国 242万6568(+3068)     1万4604(+2)
  <5月31日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都154万0308(+2362)  4502(+6)
                  大阪府97万3886(+2314)   5046(+5)
                   神奈川県75万3915(+1109) 22-2(+4)
 
                  埼玉県55万0557(+764)   1602(+4)
                  愛知県54万2300(+1600)    2063(+0)
                  北海道35万8769(+903)   2064(+2)
                  兵庫県42万4739(+1010)    2233(+1)                                        
                  千葉県 44万9634(+558)   1777(+0)         
                   福岡県42万5173(+1048)    1253(+0)               
                  京都府20万3528(+463)     717(+1)
                   沖縄県 21万5256(+1469)   460(+0)
                  広島県15万7120(+455)   486(+0)
                                    
                  宮城県 8万6873(+307)    197(+0)
                  福島県 6万3456(+158)     222(+0)
                  山形県2万8492(+115)     94(+0)
                  岩手県3万4711(+130)      91(+1)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <5月31日午後7時30分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

  *注―日本は他国に比べて非常に少ないようだが、実はPCR等の検査数が少ないからなのだ(発熱7度5分以上が4日以上続いている人でないと検査を受け付けない等で)。医学者で山梨大学の島田学長は「市中感染が広がり、原因不明で亡くなっている人もいるが、検査が少ないので実数がつかめていない」と指摘。(人口10万人当たりのPCR等検査数はイタリア・ドイツ3000件余、アメリカ・シンガポールが1700件余、韓国1200件、フランス900余、であるのに対して日本は188件―5月4日時点で専門家会議が示したデータ)
 7月29日現在、日本におけるPCR検査は(検査総数75万人近く)人口100万人当たりでは(5902人で)G7(主要7ヵ国)では最低、世界215ヵ国・地域の中では158位(セネガルやナミビアなどのアフリカの国よりも低いレベル)(データ出所は米国に拠点を置くウエブサイト「ワールドメーター」―世界各国の統計資料を分析、米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズなどに活用されている)とのこと。
 それは、日本ではPCR検査抑制論をとってきたからだ。
 10月に入ったこの間も、日本のPCR検査数は人口比では世界153位で、1日最大でも3万件程度。
 2021年1月段階で世界149位(1月1~11日、1日平均4.4万件、1000人当たりではイギリス8.1、フランス4.4、アメリカ3.9、イタリア2.2に対して日本は0.5と少ない) 
    2月1日段階で世界138位
    4月初旬の段階で人口比では145位
    4月20日時点で日本の人口10万人当たりの死亡者数7.53人で中国(0.35%)・韓国(3.45%)を大きく上回る。
 ワクチン接種―遅れる日本―OECD加盟国で最下位―人口の75%に行き渡り、ある程度の集団免疫に達するためには、現在(4月28日時点)のペースでいくと(アメリカはあと3ヵ月、ドイツ6ヵ月、韓国21ヵ月、オーストラリア2.2年で)日本は3.8年かかる(米国の通信社ブルームバークの試算)。
 ワクチン各国接種率(NHK調べ)―7月12日時点で2回接種を終えた人、(人口比)
   英国50.9%、米国47.5%、スペイン44.9%、カナダ42.5%、ドイツ41.8%、ポーランド39.5%、イタリア37.5%、フランス36.1%、 日本16.8%(オリンピック開催国で、11日前にしては遅れている日本)       
 変異種―2021年2月以降、変異ウイルス流行、大半はイギリス由来(アルファ型)
    4~5月、日本国内でもアルファ型が大阪・兵庫から全国へ―従来株に置き換わって主流に。
    4月、インドで新たな変異種(デルタ株、感染力さらに強い)急増→各国へ
    5~7月、イギリスではデルタ株が急増、置き換わる
    7月、日本でもデルタ株が首都圏から全国へ
    8月上旬、デルタ株、首都圏で8~9割置き換わる 
    11月、南アフリカで変異種(オミクロン株、感染力はデルタ株より2~4倍強いが、重症化リスクは半分低い)が急増→拡大へ
 国内ワクチン接種率―5月31日、全体の2回目接種率80.6%
                   3回目    59.1%
========================================
5月31日、山形県内の新規感染者115人―①山形市20人、②寒河江市4人、③上山市1人、⓸天童市9人、⓹東根市7人、⑥村山市3人、⑦尾花沢0人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市9人、㉔南陽市2人、㉕長井市0人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町0人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市11人、㉜酒田市21人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―事業所で従業員15人
 30日、山形県内の新規感染者47人―①山形市15人、②寒河江市3人、③上山市0人、⓸天童市2人、⓹東根市6人、⑥村山市3人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町4人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市1人、㉔南陽市1人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町0人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市2人、㉜酒田市8人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人、
 29日、山形県内の新規感染者101人―①山形市21人、②寒河江市5人、③上山市4人、⓸天童市6人、⓹東根市1人、⑥村山市2人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町4人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町6人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市8人、㉔南陽市8人、㉕長井市1人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町0人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市12人、㉜酒田市11人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町1人、㉟三川町1人、㊱県外0人、
 28日、山形県内の新規感染者147人―①山形市22人、②寒河江市6人、③上山市2人、⓸天童市17人、⓹東根市5人、⑥村山市3人、⑦尾花沢1人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町9人、⑪山辺町5人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市12人、㉔南陽市10人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市11人、㉜酒田市15人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町7人、㉟三川町4人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―病院で7人
 27日、山形県内の新規感染者141人―①山形市20人、②寒河江市11人、③上山市4人、⓸天童市10人、⓹東根市14人、⑥村山市2人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町4人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町3人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市8人、㉔南陽市5人、㉕長井市1人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町4人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市19人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町3人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―会合の参加者6人、②天童市―事業所で従業員8人、③酒田市―保育施設で職員3人と園児3人の計6人
 26日、山形県内の新規感染者147人―①山形市33人、②寒河江市7人、③上山市4人、⓸天童市14人、⓹東根市12人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町5人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市8人、㉔南陽市7人、㉕長井市6人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町2人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市21人、㉜酒田市11人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町6人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①東根市―宿舎で利用者10人、②庄内町―介護施設で利用者5人と職員2人、③米沢市―介護施設で利用者4人と職員3人
 25日、山形県内の新規感染者199人―①山形市28人、②寒河江市10人、③上山市7人、⓸天童市23人、⓹東根市18人、⑥村山市2人、⑦尾花沢0人、⑧中山町3人、⑨西川町1人、⑩河北町5人、⑪山辺町5人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町1人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市18人、㉔南陽市7人、㉕長井市1人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町7人、㉘高畠町6人、㉙川西町8人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市11人、㉜酒田市17人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町5人、㉟三川町2人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―保育施設で園児5人と職員1人
 24日、山形県内の新規感染者169人―①山形市48人、②寒河江市10人、③上山市6人、⓸天童市24人、⓹東根市17人、⑥村山市1人、⑦尾花沢2人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町6人、⑪山辺町2人、⑫大石田町2人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町8人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市2人、㉔南陽市4人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市5人、㉜酒田市9人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町5人、㉟三川町2人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児6人、別の保育施設で園児3人と職員2人、高校で生徒6人、②河北町―保育施設で園児3人と職員2人、③米沢市―高校で生徒6人、⓸鶴岡市―小学校で児童7人、⓹寒河江市―保育施設で園児6人
 23日、山形県内の新規感染者106人―①山形市26人、②寒河江市2人、③上山市3人、⓸天童市13人、⓹東根市4人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市8人、㉔南陽市0人、㉕長井市3人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町0人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市13人、㉜酒田市14人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町2人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児6人
 22日、山形県内の新規感染者144人―①山形市45人、②寒河江市6人、③上山市1人、⓸天童市24人、⓹東根市3人、⑥村山市2人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市3人、㉕長井市4人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町1人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市18人、㉜酒田市8人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町5人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―大学で学生8人、②米沢市―飲食店の宴席で学生16人
 21日、山形県内の新規感染者187人―①山形市52人、②寒河江市3人、③上山市4人、⓸天童市29人、⓹東根市8人、⑥村山市6人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町7人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町8人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市16人、㉔南陽市3人、㉕長井市5人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町9人、㉘高畠町1人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市12人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町3人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―小学校で児童6人、②最上町―保育施設で園児と職員の計9人
 20日、山形県内の新規感染者172人―①山形市37人、②寒河江市6人、③上山市3人、⓸天童市32人、⓹東根市9人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町4人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町5人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市1人、㉕長井市5人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町4人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市16人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町4人、㉟三川町1人、㊱県外4人
 19日、山形県内の新規感染者227人―①山形市72人、②寒河江市10人、③上山市6人、⓸天童市31人、⓹東根市10人、⑥村山市6人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町2人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市9人、㉔南陽市1人、㉕長井市8人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町3人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市32人、㉜酒田市15人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町6人、㉟三川町2人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒13人、②長井市―保育施設で園児5人、③鶴岡市―保育施設で園児19人、⓸天童市―保育施設で園児19人、別の保育施設で園児5人
 18日、山形県内の新規感染者254人―①山形市58人、②寒河江市9人、③上山市3人、⓸天童市52人、⓹東根市9人、⑥村山市5人、⑦尾花沢0人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町5人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市27人、㉔南陽市4人、㉕長井市5人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町5人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市20人、㉜酒田市25人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町8人、㉟三川町3人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―小学校で児童9人、②米沢市―大学で学生5人、③山辺町―保育施設で園児6人
 17日、山形県内の新規感染者222人―①山形市65人、②寒河江市9人、③上山市4人、⓸天童市43人、⓹東根市9人、⑥村山市12人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町6人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町2人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市7人、㉔南陽市1人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町7人、㉘高畠町3人、㉙川西町4人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市13人、㉜酒田市11人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町9人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒4人、小学校で児童16人と職員1人、学童施設で利用者7人と職員1人、②鶴岡市―高校で生徒8人と職員2人、③酒田市―介護施設で利用者6人と職員4人、⓸遊佐町―事業所で職員9人
 16日、山形県内の新規感染者152人―①山形市32人、②寒河江市3人、③上山市7人、⓸天童市15人、⓹東根市3人、⑥村山市3人、⑦尾花沢2人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町4人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市1人、㉕長井市3人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町4人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市16人、㉜酒田市23人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町12人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒6人、②天童市―保育施設で職員1人と園児5人、③飯豊町―保育施設で職員2人と園児7人
 15日、山形県内の新規感染者106人―①山形市53人、②寒河江市9人、③上山市4人、⓸天童市23人、⓹東根市7人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町6人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市4人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市31人、㉔南陽市5人、㉕長井市5人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町3人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市32人、㉜酒田市35人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町9人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―学童施設で児童と職員計6人、②米沢市―高校で生徒11人、事業所で従業員10人、③酒田市―大学で学生6人
 14日、山形県内の新規感染者284人―①山形市65人、②寒河江市19人、③上山市8人、⓸天童市28人、⓹東根市11人、⑥村山市1人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市35人、㉔南陽市4人、㉕長井市8人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町4人、㉙川西町4人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市31人、㉜酒田市33人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町13人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児6人、小学校で児童4人と職員1人の計5人、②鶴岡市―高校で生徒9人、
 13日、山形県内の新規感染者255人―①山形市36人、②寒河江市13人、③上山市14人、⓸天童市23人、⓹東根市15人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町7人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市14人、㉔南陽市3人、㉕長井市5人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町3人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市42人、㉜酒田市43人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町19人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒7人、②鶴岡市―宿舎で利用者5人
 12日、山形県内の新規感染者205人―①山形市31人、②寒河江市10人、③上山市5人、⓸天童市19人、⓹東根市7人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町2人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市24人、㉔南陽市4人、㉕長井市5人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市37人、㉜酒田市34人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町9人、㉟三川町3人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①長井市―保育施設で園児5人と職員2人の計7人、②鶴岡市―介護施設で利用者10人と職員3人、③酒田市―介護施設で利用者5人職員人
 11日、オミクロン株のBA.2が全国の96%に(置き換わる)。
    山形県内の新規感染者261人―①山形市43人、②寒河江市17人、③上山市13人、⓸天童市12人、⓹東根市7人、⑥村山市2人、⑦尾花沢1人、⑧中山町5人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町3人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市29人、㉔南陽市8人、㉕長井市3人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町7人、㉙川西町2人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市30人、㉜酒田市50人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町15人、㉟三川町0人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―保育施設で園児4人と職員2人の計6人
 10日、山形県内の新規感染者168人―①山形市22人、②寒河江市10人、③上山市14人、⓸天童市5人、⓹東根市10人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町6人、⑩河北町3人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町2人、⑮新庄市4人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市6人、㉔南陽市1人、㉕長井市8人、㉖白鷹町7人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町2人、㉙川西町1人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市23人、㉜酒田市20人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町8人、㉟三川町0人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―介護施設で職員と利用者の計10人、②酒田市―高校で生徒5人
 9日、山形県内の新規感染者122人―①山形市20人、②寒河江市5人、③上山市1人、⓸天童市7人、⓹東根市3人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町4人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市17人、㉔南陽市2人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市32人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町6人、㉟三川町0人、㊱県外3人
 8日、山形県内の新規感染者258人―①山形市38人、②寒河江市11人、③上山市4人、⓸天童市4人、⓹東根市0人、⑥村山市4人、⑦尾花沢2人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市4人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市56人、㉔南陽市2人、㉕長井市11人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町7人、㉙川西町5人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市29人、㉜酒田市52人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町11人、㉟三川町0人、㊱県外8人
    山形県内のクラスター-新たに‐①寒河江市―病院で利用者5人と職員5人
 7日、山形県内の新規感染者201人―①山形市43人、②寒河江市11人、③上山市7人、⓸天童市11人、⓹東根市10人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町1人、⑩河北町5人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市7人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市23人、㉔南陽市3人、㉕長井市3人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町2人、㉙川西町3人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市28人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外8人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で7人、②天童市―介護施設で11人
 6日、山形県内の新規感染者115人―①山形市21人、②寒河江市1人、③上山市23人、⓸天童市12人、⓹東根市2人、⑥村山市1人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市2人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町3人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市6人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町3人、㉟三川町0人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児4人と職員1人、②上山市―病院で利用者25人と職員11人
 5日、山形県内の新規感染者125人―①山形市23人、②寒河江市7人、③上山市11人、⓸天童市13人、⓹東根市2人、⑥村山市1人、⑦尾花沢1人、⑧中山町2人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市19人、㉔南陽市3人、㉕長井市0人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市13人、㉜酒田市14人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外4人
 4日、山形県内の新規感染者137人―①山形市42人、②寒河江市0人、③上山市0人、⓸天童市8人、⓹東根市1人、⑥村山市0人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市38人、㉔南陽市1人、㉕長井市0人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市10人、㉜酒田市24人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町3人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者5人、②酒田市―保育施設で園児4人と職員2人
 3日、山形県内の新規感染者113人―①山形市25人、②寒河江市2人、③上山市3人、⓸天童市12人、⓹東根市10人、⑥村山市0人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市9人、㉔南陽市6人、㉕長井市2人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町4人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市7人、㉜酒田市5人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外5人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―病院で職員5人
 2日、山形県内の新規感染者112人―①山形市21人、②寒河江市2人、③上山市0人、⓸天童市8人、⓹東根市9人、⑥村山市1人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市30人、㉔南陽市3人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町6人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市3人、㉜酒田市16人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外0人
 1日、山形県内の新規感染者103人―①山形市23人、②寒河江市3人、③上山市0人、⓸天童市11人、⓹東根市5人、⑥村山市1人、⑦尾花沢2人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市19人、㉔南陽市2人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町2人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市10人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―介護施設で利用者6人と職員2人、②鶴岡市―保育施設で園児5人、
4月30日、山形県内の新規感染者102人―①山形市26人、②寒河江市2人、③上山市0人、⓸天童市4人、⓹東根市5人、⑥村山市0人、⑦尾花沢2人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市32人、㉔南陽市2人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町1人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市6人、㉜酒田市10人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町3人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―保育施設で園児8人、②酒田市―小学校で児童9人、
 29日、山形県内の新規感染者167人―①山形市31人、②寒河江市4人、③上山市2人、⓸天童市9人、⓹東根市20人、⑥村山市0人、⑦尾花沢2人、⑧中山町2人、⑨西川町1人、⑩河北町2人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町7人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市41人、㉔南陽市3人、㉕長井市4人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町4人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市9人、㉜酒田市8人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外0人
 28日、山形県内の新規感染者199人―①山形市41人、②寒河江市4人、③上山市2人、⓸天童市16人、⓹東根市23人、⑥村山市9人、⑦尾花沢0人、⑧中山町2人、⑨西川町3人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町2人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町13人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市25人、㉔南陽市11人、㉕長井市3人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町2人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市24人、㉜酒田市12人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高等教育機関で生徒9人、介護施設で利用者5人と職員3人、②東根市―保育施設で園児5人、③米沢市ー保育施設で園児12人と職員1人、⓸南陽市―保育施設で職員1人と園児5人
 27日、山形県内の新規感染者237人―①山形市50人、②寒河江市4人、③上山市0人、⓸天童市16人、⓹東根市27人、⑥村山市4人、⑦尾花沢3人、⑧中山町1人、⑨西川町2人、⑩河北町2人、⑪山辺町3人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市4人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町7人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市40人、㉔南陽市21人、㉕長井市6人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町12人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市13人、㉜酒田市12人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町0人、㉟三川町1人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―宿舎で利用者8人、②長井市―小学校で児童7人、③鶴岡市ー事業所で職員5人
 26日、山形県内の新規感染者200人―①山形市52人、②寒河江市5人、③上山市1人、⓸天童市15人、⓹東根市30人、⑥村山市6人、⑦尾花沢3人、⑧中山町1人、⑨西川町1人、⑩河北町3人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町2人、⑲最上町6人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市18人、㉔南陽市5人、㉕長井市7人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町0人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市10人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①東根市―中学校で生徒12人、②新庄市―小学校で児童7人、③米沢市ー小学校で児童5人、⓸南陽市―保育施設で職員1人と園児5人
 25日、山形県内の新規感染者131人―①山形市26人、②寒河江市2人、③上山市1人、⓸天童市11人、⓹東根市15人、⑥村山市1人、⑦尾花沢4人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町4人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市13人、㉔南陽市3人、㉕長井市1人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市25人、㉜酒田市13人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人
 24日、山形県内の新規感染者182人―①山形市29人、②寒河江市4人、③上山市1人、⓸天童市11人、⓹東根市6人、⑥村山市2人、⑦尾花沢6人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町3人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市8人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲最上町17人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市32人、㉔南陽市14人、㉕長井市4人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町7人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市14人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町0人、㉟三川町2人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①村山市―高校で生徒6人、②最上町―保育施設で職員6人、③高畠町ー事業所で職員6人
 23日、山形県内の新規感染者213人―①山形市49人、②寒河江市4人、③上山市4人、⓸天童市15人、⓹東根市9人、⑥村山市4人、⑦尾花沢4人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町1人、⑫大石田町3人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町1人、⑰金山町1人、⑱真室川町0人、⑲最上町13人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市21人、㉔南陽市9人、㉕長井市6人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町5人、㉙川西町4人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市22人、㉜酒田市17人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町2人、㉟三川町2人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児5人、②天童市―高校で生徒8人、
 22日、山形県内の新規感染者240人―①山形市49人、②寒河江市3人、③上山市2人、⓸天童市22人、⓹東根市9人、⑥村山市1人、⑦尾花沢2人、⑧中山町4人、⑨西川町1人、⑩河北町4人、⑪山辺町1人、⑫大石田町5人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市7人、⑯舟形町1人、⑰金山町1人、⑱真室川町0人、⑲最上町4人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市21人、㉔南陽市8人、㉕長井市10人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町6人、㉘高畠町11人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市33人、㉜酒田市13人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町3人、㉟三川町6人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―高校で生徒11人、②米沢市―障害者施設で利用者4人、③東根市ー小学校で児童19人、⓸鶴岡市―小学校で児童9人、⓹大石田町―中学校で生徒5人と職員5人、⑥川西町―介護施設で利用者3人と職員2人
 21日、山形県内の新規感染者198人―①山形市29人、②寒河江市7人、③上山市3人、⓸天童市18人、⓹東根市9人、⑥村山市0人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町3人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市15人、㉔南陽市9人、㉕長井市8人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町7人、㉙川西町6人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市52人、㉜酒田市9人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町2人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―事業所で職員5人、②高畠町―中学校で生徒7人
 20日、山形県内の新規感染者287人―①山形市50人、②寒河江市8人、③上山市1人、⓸天童市19人、⓹東根市17人、⑥村山市2人、⑦尾花沢3人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町0人、⑫大石田町4人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市9人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町2人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市43人、㉔南陽市17人、㉕長井市20人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町9人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市30人、㉜酒田市28人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―高校で生徒15人、②鶴岡市―高校で生徒15人と職員1人、③長井市ー障碍者施設で利用者12人、⓸酒田市ー介護施設で利用者5人
 19日、山形県内の新規感染者203人―①山形市22人、②寒河江市4人、③上山市2人、⓸天童市22人、⓹東根市16人、⑥村山市3人、⑦尾花沢2人、⑧中山町6人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市6人、㉔南陽市15人、㉕長井市23人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町8人、㉙川西町1人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市33人、㉜酒田市9人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町1人、㉟三川町2人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―保育施設で職員2人と園児4人の計6人
 18日、山形県内の新規感染者130人―①山形市19人、②寒河江市6人、③上山市4人、⓸天童市12人、⓹東根市4人、⑥村山市0人、⑦尾花沢1人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町0人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町2人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市10人、㉔南陽市2人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市39人、㉜酒田市17人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―保育施設で職員3人と園児3人
 17日、山形県内の新規感染者185人―①山形市40人、②寒河江市1人、③上山市2人、⓸天童市8人、⓹東根市3人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町4人、⑫大石田町4人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市11人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市23人、㉔南陽市7人、㉕長井市8人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町5人、㉙川西町4人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市27人、㉜酒田市22人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①尾花沢市―病院で5人、②新庄市―保育施設で11人、③鶴岡市―保育施設で8人
 16日、山形県内の新規感染者192人―①山形市42人、②寒河江市6人、③上山市1人、⓸天童市18人、⓹東根市9人、⑥村山市2人、⑦尾花沢2人、⑧中山町1人、⑨西川町2人、⑩河北町3人、⑪山辺町0人、⑫大石田町2人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町6人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市14人、㉔南陽市8人、㉕長井市7人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町9人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市26人、㉜酒田市16人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町2人、㉟三川町3人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①真室川町―介護施設で利用者5人
 15日、山形県内の新規感染者215人―①山形市39人、②寒河江市6人、③上山市5人、⓸天童市16人、⓹東根市7人、⑥村山市3人、⑦尾花沢0人、⑧中山町3人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町1人、⑫大石田町3人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市7人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市27人、㉔南陽市6人、㉕長井市10人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町7人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市34人、㉜酒田市21人、㉝庄内町8人、㉞遊佐町1人、㉟三川町2人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―高校で生徒10人、②長井市―小学校で児童7人
 14日、山形県内の新規感染者257人―①山形市87人、②寒河江市11人、③上山市2人、⓸天童市22人、⓹東根市5人、⑥村山市2人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町5人、⑪山辺町3人、⑫大石田町2人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市14人、㉔南陽市8人、㉕長井市10人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町5人、㉙川西町0人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市33人、㉜酒田市26人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町3人、㉟三川町1人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で職員3人と利用者8人、高校で生徒5人、②鶴岡市―事業所で職員6人、③酒田市―高校で生徒9人、病院で利用者1人と職員6人の計7人
 13日、山形県内の新規感染者253人―①山形市89人、②寒河江市5人、③上山市8人、⓸天童市39人、⓹東根市2人、⑥村山市2人、⑦尾花沢1人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町6人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町4人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市20人、㉔南陽市9人、㉕長井市9人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市19人、㉜酒田市20人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町5人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―事業所で職員11人、別の事業所で職員8人、高校で生徒6人、障害者施設で利用者5人と職員2人の計7人、保育施設で園児6人、②鶴岡市―学童施設で利用者5人、③米沢市―障碍者施設で職員3人と利用者2人の計5人
 12日、山形県内の新規感染者235人―①山形市80人、②寒河江市15人、③上山市13人、⓸天童市12人、⓹東根市8人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町3人、⑨西川町1人、⑩河北町3人、⑪山辺町4人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市9人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市5人、㉔南陽市7人、㉕長井市5人、㉖白鷹町5人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町2人、㉙川西町1人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市27人、㉜酒田市20人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―学童施設で児童15人と職員2人の計17人、保育施設で園児6人、②鶴岡市―高校で生徒8人、③酒田市―学童施設で児童9人、⓸米沢市―保育施設で職員2人と園児3人の計5人、別の保育施設で職員5人と園児4人の計9人、事業所で従業員6人、⓹長井市―学童施設で児童6人
 11日、山形県内の新規感染者123人―①山形市34人、②寒河江市3人、③上山市1人、⓸天童市11人、⓹東根市5人、⑥村山市0人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町3人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町1人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市20人、㉔南陽市6人、㉕長井市1人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市8人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―スポーツチームで9人、②鶴岡市―保育施設で7人
  10日、山形県内の新規感染者159人―①山形市61人、②寒河江市5人、③上山市1人、⓸天童市11人、⓹東根市7人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市2人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町2人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市14人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町5人、㉟三川町1人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者14人、②天童市―学童施設で児童6人
  9日、山形県内の新規感染者185人―①山形市57人、②寒河江市8人、③上山市9人、⓸天童市14人、⓹東根市6人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町4人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町2人、⑫大石田町2人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町1人、⑰金山町3人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市11人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市20人、㉜酒田市14人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町5人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―学童施設で児童7人、大学等で学生6人、②鶴岡市―高校で生徒5人、保育施設で職員4人と園児3人、③東根市―高校で生徒7人
 8日、山形県内の新規感染者158人―①山形市51人、②寒河江市6人、③上山市2人、⓸天童市5人、⓹東根市4人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町1人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲最上町4人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市5人、㉔南陽市6人、㉕長井市2人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町2人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市25人、㉜酒田市24人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町2人、㉟三川町2人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―事業所で職員7人、保育施設で園児3人と職員2人、②鶴岡市―飲食店で客7人と従業員4人の計11人
 7日、山形県内の新規感染者205人―①山形市66人、②寒河江市9人、③上山市5人、⓸天童市10人、⓹東根市5人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町9人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市10人、㉔南陽市11人、㉕長井市12人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町4人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市30人、㉜酒田市17人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―事業所で職員6人、②南陽市―事業所で6人、保育施設で9人
 6日、山形県内の新規感染者196人―①山形市67人、②寒河江市16人、③上山市7人、⓸天童市19人、⓹東根市2人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町2人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町3人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市8人、㉔南陽市8人、㉕長井市6人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町3人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市18人、㉜酒田市17人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児7人と職員2人の計9人、事業所で職員5人。
 5日、オミクロン株系BA2が新規陽性者の52.3%(置き換わりへ)
    山形県内の新規感染者191人―①山形市59人、②寒河江市10人、③上山市5人、⓸天童市9人、⓹東根市9人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町0人、⑨西川町2人、⑩河北町3人、⑪山辺町1人、⑫大石田町1人、⑬大江町1人、⑭朝日町2人、⑮新庄市9人、⑯舟形町0人、⑰金山町3人、⑱真室川町5人、⑲最上町2人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市5人、㉔南陽市7人、㉕長井市6人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市16人、㉜酒田市13人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で5人、市立済生館病院で2人増え計8人に。
 4日、山形県内の新規感染者103人―①山形市21人、②寒河江市4人、③上山市3人、⓸天童市5人、⓹東根市5人、⑥村山市0人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町3人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町6人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市8人、㉔南陽市3人、㉕長井市4人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市19人、㉜酒田市6人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―事業所で9人
 3日、山形県内の新規感染者141人―①山形市41人、②寒河江市6人、③上山市2人、⓸天童市4人、⓹東根市3人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町5人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市14人、㉔南陽市2人、㉕長井市3人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町3人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市22人、㉜酒田市10人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―市立済生館病院で職員3人と利用者2人、②金山町―イベント準備の会で参加者6人
 2日、山形県内の新規感染者187人―①山形市53人、②寒河江市3人、③上山市7人、⓸天童市5人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市2人、⑧中山町6人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町2人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市10人、⑯舟形町0人、⑰金山町11人、⑱真室川町3人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市3人、㉕長井市3人、㉖白鷹町5人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町1人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市29人、㉜酒田市13人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町0人、㉟三川町2人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―県立中央病院で職員7人
 1日、山形県内の新規感染者170人―①山形市56人、②寒河江市7人、③上山市4人、⓸天童市6人、⓹東根市1人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市9人、⑯舟形町1人、⑰金山町9人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市19人、㉔南陽市4人、㉕長井市1人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町2人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市22人、㉜酒田市8人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―済生館病院で患者5人と職員1人
3月31日、山形県内の新規感染者252人―①山形市70人、②寒河江市13人、③上山市10人、⓸天童市8人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦尾花沢市2人、⑧中山町3人、⑨西川町0人、⑩河北町5人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町4人、⑭朝日町1人、⑮新庄市8人、⑯舟形町1人、⑰金山町6人、⑱真室川町3人、⑲最上町0人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市23人、㉔南陽市3人、㉕長井市2人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町0人、㉙川西町3人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市45人、㉜酒田市22人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町2人、㉟三川町1人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者16人
 30日、山形県内の新規感染者240人―①山形市59人、②寒河江市12人、③上山市3人、⓸天童市8人、⓹東根市4人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町4人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町1人、⑮新庄市12人、⑯舟形町0人、⑰金山町9人、⑱真室川町1人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市40人、㉔南陽市1人、㉕長井市8人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町7人、㉙川西町0人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市19人、㉜酒田市25人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町2人、㉟三川町1人、㊱県外7人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児10人と職員1人の計11人、②新庄市―児童施設で園児10人と職員1人の計11人、③南陽市―保育施設で園児5人
 29日、37都道府県でこの1週間、前週より感染増加―専門家「リバウンドの兆候の可能性」
    オミクロン株の別系統「BA.2」(より感染力が強い)への置き換わり進むとも

2022年03月24日

徹底抗戦か不戦か―もしもの時の日本

 今、ロシア侵攻に対するウクライナ国民の抗戦と苦難・惨状が連日テレビ・新聞で目の当たりにし、9条で不戦・非軍事の憲法をもつ日本国民は、もしもウクライナのような事態に遭遇し、「戦うか死ぬか」で、次のような究極の選択に迫られたなら、いったいどのようない対応を(意識的に、或いは無意識的に)選択するのかである。
①「(戦わずに)殺られるくらいなら、(戦って)殺った方がいい(殺らなければ殺られてしまうから)」というのは―無意識的な「生の欲動」*―自己保存本能で動物と同じ。
②「(戦わずに)殺されるくらいなら、(戦って)殺して死んだ方がまし」というのは―無意識的な「死の欲動」(破壊・攻撃欲動)*―外に向かうと暴力・戦争(軍事活動は将兵や民衆の間に募るフラストレーション・不安・恐怖・敵愾心・復讐心などから攻撃欲動によって行われる)、内に向かうと自殺(死ねば楽になる、或いは憧れる)。
③「(戦って)人を殺すくらいなら、(戦わずに)殺されて死んだ方がまし」というのは―「超自我」*―無意識的にルールに従おうとする良心が働き自我(エゴ)を脱して(忘我・無我)自分は死んでも、他者への攻撃欲動は断念―無意識的な道徳的態度。 
④「(戦わず、)殺し合うことのないように、つながり合う(対話し、相互に理解し、包摂)」
 上記の*の個所は心理学者フロイトの考え方と用語。選択肢4つのうち、今のロシア・ウクライナ戦争の場合は、どっちかというと両方とも①か②のように思えるが、日本の憲法9条に合致する対応はどれだろう。
 尚、③の「超自我」とは、内にある「死の欲動が」が外に向けられて「攻撃欲動」に転じた後、さらに内に向けられたときに生じる。超自我は個人よりも集団(共同体)のほうにより顕著に表れる(集団的超自我)。超自我は状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることはできない。哲学者の柄谷行人氏(2016年6月14日付朝日新聞のオピニオン&フォーラム)によれば、「日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成された。」「9条は占領軍から日本に押し付けられた(というよりは、むしろ「贈与」された)ものだが、その9条がその後も(米国が再軍備を迫った時、日本人はそれを退けて、そのまま)保持されたのは、(戦争)体験の(意識的な)反省からではなく、それが内部に(無意識のうちに)根ざすもの(「嫌戦的国民性」「伝統的な和の文化」)であったからだ」。
 日本の国内史では、戦国時代の最後の最後に天下を取って戦乱を終わらせた徳川氏が確立した幕藩体制の下で、「武力による直截的支配ではなく、法と礼によることを目指され、戦乱のない平和―『徳川に平和』(パクス・トクガワーナ)がもたらされた」(歴史学者の大濱徹也)。それが幕末・明治維新の争乱で終わりを告げ、その後、対外戦争に突入し、第2次大戦まで続いた戦乱が、日本軍の降伏によって終わりを告げたが、憲法9条の制定によって「徳川の平和」が回帰したのだ、と柄谷氏は論じている。
 幕末、徳川の幕臣として活躍した勝海舟は、官軍を率いる西郷隆盛との会談で「戦わずして江戸城を明け渡し」に応じ、刀は「武士の魂」ではあっても、人を斬り殺すためのものにあらずで、「人に斬られても、自分は斬らぬ(つまり殺されても殺さず)」という覚悟をもち、「血を流さない勝利こそ最上の勝利」だという考えを持っていた。新渡戸稲造()国際連盟の事務局次長だった人)の著書「武士道」に勝海舟のことが書かれていて、武士道が求める「究極の理想は平和」だとも書いている。柄谷氏は「9条こそが日本の『文化』」と述べているが、それはこのような武士道とともにある文化なのであり、無意識のうちに染みついた日本人の心ともいうべきもので、時々の政権・政治家や論者・メディアによって煽られて簡単に変わるような筋合いのものではないのだ、とも述べている。

 徹底抗戦か不戦か(いわば一億玉砕か不戦か)、この選択判断をする際は、次の二つの倫理哲学上の考え方にもよると思われるが、上記のような選択判断に際しては、二つのうちどちらの考え方をとるかだ。
 ① 功利主義の道徳律―行為の目的が(「最大多数の最大幸福」とか国益・公益に照らして)正しく結果が良ければ、そのために用いて役立った手段はなんでも正当化される。
 祖国を守り領土・主権を守るために武器をとり徹底抗戦して勇戦し善戦すれば、戦争が長引いてその間、敵兵だけでなく自国民にどんなに数多の犠牲者が出ても、「正義の戦い」であり、殺傷・破壊とそれに用いた武器や作戦も、被った犠牲も全て正当化される、という考え方。
 ② カントの道徳律―人を単に手段としてのみ扱ってはならず、どんな人、どんな国民も一人ひとり人間として尊重し常に同時に目的として扱うようにせよ。兵士や国民を国家の戦争のための駒や手段としてのみ扱ってはならない。また侵略軍を撃退するためなのだからといって、闘争の過程で、敵兵は殺さなければ自国も家族も守れないから、殺すしかない、とはいっても、殺人は殺人、罪は罪であり、その行為は正当化はできない。又、どんなに勇戦・善戦しても、数多の犠牲者を出し、何の罪もない子供が死んでもやむをえない、というものでもない。
 人の命に優先順位はなく、「死んでもいい命」「死なせてはならない命」の区別などあり得ない。
 「人を殺してはならない」「人に暴力を振るってはならない」「人を騙してはならない」などの道徳的命題は何時いかなる場合でも(例外なく)従うべき義務(普遍的道徳法則)。「ダメなものはダメ」なのであって、時と場合によっては許されるといった筋合いのものではな軍い。人を殺し合う戦争に「正しい戦争」も「悪い戦争」もない。「武器を持つ悪い奴を止められるのは、武器を持つ良いやつしかない」(トランプ前大統領の言)などといった言説は間違っている。
 このようなカントの考え方からすれば、侵略・攻撃に対して、それを阻止し、攻撃を封じるにしても非暴力・非軍事で(対話・交渉・説得、経済制裁などで)対応すべきであり、そもそも、そのような(侵攻や戦争)事態に至らないように、そのような事態を招くようことは極力回避しなければならないのだ、ということになるのでは?

 前述の柄谷氏によれば「国連で日本が憲法9条を実行すると宣言すれば、日本はすぐ常任理事国になれる」し、「日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになる」、「それによって国連はカントの理念に近づくことになる」、「カントの考える諸国家連邦は、人間の善意や反省によってできるのではなく、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争となった後にできるという。実際に(第1次大戦後の)国際連盟、(第2次大戦後の)国際連合、そして日本の憲法9条も、そのようにして生まれた。(それが現実)」、「非武装など現実的ではないという人が多いが、軍事同盟がある限り、ささいな地域紛争から世界規模の戦争に広がる可能性がある。第1次大戦がそうだった」と。

 そこで「徹底抗戦か不戦か」と云った場合、それは究極の選択ともいうべきもので、人はそのどちらに覚悟を決めるのかの問題である。
 ①「徹底抗戦」は死ぬ覚悟の対応
   自分以外の多くの人々の犠牲をも伴うが、やむを得なまい、との覚悟       
   祖国を守る覚悟                    
   領土・主権を守る覚悟                 
   自由(自己決定・言論・行動の自由)を守る覚悟           
 ②「不戦・非武」は何が何でも生き抜く覚悟の対応
   犠牲者(死者・難民)を一人も出さない覚悟
   非暴力抵抗(「丸腰で立ち向かう必死の覚悟)で非協力・不服従の覚悟
   あくまで平和を守り通す覚悟
   生命・財産(家や街や仕事・生活環境や歴史・文化)を守る覚悟     
                         
 (非軍事・非同盟政策を採り、どの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んでいる)国に対して、然るべき理由もなく、国際的非難・制裁リスクを冒してまで無益・無謀な侵略・攻撃を仕掛けてくる国なんてあり得ないと思われるが)仮に、もしも万一侵攻を受け軍事占領されてしまったらどうするか。
 一時占領されても、国民が健在で生きている限り、独立や自由はやがて回復できるわけである。占領下で不当な統治行為があれば、まるっきり無抵抗で「何をされてもなすがままに奴隷的に屈従する」のではなく、理不尽な仕打ちに対しては決然と抵抗する。但し、市民が武装抵抗するパルチザン戦ではなく非武装・非暴力抵抗主義で、弾圧に抗してデモ・ストライキ・サボタージュなどに訴えるやり方をとる。そのような抵抗のやり方であっても、占領支配者はダメージを被り、長期にわたって我が国民全体を軍事的・政治的に支配し続けることを断念させることは不可能ではないからである(「暴力行使費用増大の法則」と「国家管理費増大の法則」で―経費が巨大過ぎるため)。
 非暴力・非協力・不服従抵抗―それには決死の覚悟を伴うが、軍事(武力対応)以外の外交交渉などあらゆる努力をやり尽くす。(抗戦を避け、武力抵抗はせずとも、戦争による大惨害・人的・物的資源の大損失を被るよりはましなだけでなく、道義的勝利が得られる。
 作家の阿刀田高氏の言―「軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのかとの問いには、『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和をまもり、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。でも死にたくないから、丸腰でも何とかならないかと必死で生き延びる手段を探る。外交などいろんな努力を全部やる。やりつくすべきだと思います。」
「いま近隣諸国と軍備で対抗しようとしたら、日本も核武装するしかなくなる。それでは無限の人殺し政策の繰り返しになってしまう」と阿刀田氏は語っているのだが。

 さて、平和憲法をもつ我々日本国民はウクライナ国民のように徹底抗戦で行くのか、それとも不戦でいくのか、どちらを採るのだろうか。

2022年04月02日

世界と日本の安全保障(加筆修正版)

1,世界の現状 
 各国とも軍備―互いの軍備が脅威となっている―軍事大国と小国、軍事大国どうしの間で。日米同盟など軍事同盟やNATOなど軍事ブロックを組んでいる国々と非同盟国との間で(例えば日米韓と北朝鮮、台湾を挟んで日米と中国、千島列島を挟んで日米とロシアとの間で)―互いに軍備競争―軍事力を背景に外交・紛争解決交渉―力の対決―新「冷戦」→「熱い戦争」の危険
 NPT(核拡散防止条約)―5大国独占もイスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮も保有、イランはストップ―核軍縮は進まず
 核兵器禁止条約は核保有国とその同盟国は批准せず不参加 
各国とも軍備全廃すれば(日本の憲法9条2項「戦力不保持」「交戦権否認」を世界に及ぼして各国ともそれに踏み切れば)世界の平和・安全保障は実現するはず―かつて(1962年当時)国連で米ソが提案し合った全面的完全軍備撤廃条約を今こそ実現すべき。
2,日本の安全保障
 現状の体制―日米同盟と自衛隊(9条合憲解釈から改憲企図)の軍事力(軍備・軍事基地・「核の傘」)に頼る安全保障体制
(1)万一(台風・地震のような自然災害と違い、いつか必ずというわけではなく、紛争の原因・理由がない限りはあり得ない)、どこかの国から急迫不正の侵略があった場合
  (A)自衛隊は活用、市民はそれに協力する?
  (B)あくまで不戦・非軍事を貫き、自衛隊の出撃は求めず、市民協力は控える(軍事占領されて不抗戦も、不服従・非協力ー非暴力抵抗)?
(2)朝鮮半島や台湾海峡での(ありうべき)有事に際して米軍が軍事介入・出撃する事態となった場合は、自衛隊が米軍を支援・作戦協力(それに対して北朝鮮軍あるいは中国軍から攻撃を受け、応戦、戦争になる)。
  その際、我々市民はどう対応するのか?
  (A)自衛隊と米軍に協力し戦う?       
  (B)非協力・不戦に徹する(“No War”戦争反対を叫び、戦争協力には応じない)?
 
 さて(A)と(B)のどっちで行くのか―どっちに覚悟を決めるか

 尚、憲法9条は戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認のことしか定めておらず、「攻められたらどうする」ということは、「抗戦せよ」とか、「自衛の戦いを起こすべし」とか定めてはいない。それは、国として戦争はしない、戦力は保持しないと定めて国内外に宣することによって、他国に対して信頼と安心の関係を築くことによって、互いに敵意が起きないようにして攻撃・侵害を抑止し、攻められないようにしているのだ。つまりそれが非軍事的「抑止力」となる。
 それが、「攻められたら抗戦しないわけにはいかない」からといって、憲法に国を防衛するため「自衛隊」など名称は何であれ軍備を保有し、特定の国と軍事同盟を結んでいたりすれば、その同盟国とは信頼・安心関係を築けても、それ以外の国からは日本は自国を「仮想敵」視しているとか、不信感・警戒感あるいは脅威感を持たれることになってしまい、我が国に対抗して軍備増強・軍拡を招き、敵対行為を招く結果になってしまう。つまり抑止力として持とうとした軍備や軍事同盟がかえって、攻撃対象となり、「抑止」どころか戦争を誘発するものとなる。
 だから、憲法には、あくまで9条そのままに国は不戦・非軍事を堅持。それでも、「万々一」攻めてこられたらという場合は、一つは、どの国にも固有の権利として認められている自衛権(個別的自衛権)に基づいて抗戦。有用なあらゆる実力手段を駆使(警察の特殊部隊・海上保安庁はもとより自衛隊も活用)して応戦し排撃。もう一つには軍事占領されても非暴力・不服従・非協力で抵抗するという方法の二つがある。
 いずれの場合でも犠牲を伴い、後者(非暴力抵抗)の場合は、弾圧・投獄・拷問或いは処刑などを伴うが、子供などが犠牲になるということは少なくて済み、破壊も少なくて済むだろう(その違いはあるわけだ)。

 平和ボケ―「戦争を知らない」世代―戦争の悲惨さに対して現実感(リアリティーを感じ)なく恐怖感ない―ゲーム感覚か映画や漫画の世界―戦争への憧れ、好戦性(「・・・なんかやっつけてしまえ!」「・・・・がんばれ!」と)
 彼らはウクライナの戦争の模様を伝えるニュースに接すると、「だから日本は軍備をもっと増強すべきなんだ」とか、さらには核兵器さえ「アメリカと共有して使えるようにすればいいんだ」という気になってしまう。強力な軍事力を持てば、侵攻してきた外国軍を追い出せると思っているのだろうが、追い出そうという戦いの中で、どれだけ多くの国民(非戦闘員の市民)が犠牲になるかについて想像できないのだ(ウエブサイト『ピースアゴラ』掲載の小倉志郎・元東芝原発技術者の文より)。
 そもそも、議論や物語りとして戦争を語るのと平和を語るのとで、語りやすさからいえば、戦争には戦う目的・意義(「国を守るために」とか大義)・戦略・作戦、その展開過程には活劇もあるが悲劇・惨劇・「残酷物語」まで語るに事欠かない。ただ人には話せないことが多く、ボケない代わりに戦争神経症や戦争後遺症(PTSD)などの精神障害を患うことが多い。それに比べれば平和というものは、日々退屈のあまりボケたりするだけのことだが、恐怖や強迫観念にさいなまれることなく、スポーツやゲーム・芸術・文化を楽しむことができるのは平和であってこそだろう。

戦争のリアリティー
 今ロシアとウクライナがやっている戦争の現実―いったんやりだしたら(侵攻してきたのはロシア軍、それに対してウクライナ軍が抗戦)その戦争は止まらなくなる。いつ果てるともない(ベトナム戦争当時、ボクシング・ヘビー級世界チャンピオンで徴兵を拒否したモハメッド・アリ曰く、「リングにはレフェリーがいる。しかし戦争にはゲームオーバーもなく、一方が完全につぶれるまで、諦めるまで戦争は続き、殺しまくるのが戦争だ」と。)
 プーチン(ロシア)は侵攻を(NATOに対する自国の「安全保障のために」そうするしかなかったなどと正当化する独善的理由に基づいて)強行し、ゼレンスキー(ウクライナ)は、その不当・不正な侵略に対して徹底抗戦を自国民に訴え、諸国に支援を訴えている。戦況はどうなっているか、どちらが善戦し、どちらが苦戦しているかなどの評価はどうあれ、問題は、この間に激発している死傷者・難民・住居・学校・病院などの公共施設・インフラ等々の破壊の惨状である。また「人的物的損失」或いはロシアに対する国際的な経済制裁の影響によって被る各国の「損失」といった単なる数字上の被害状況ではなく、戦災によって直接被っている人々の計り知れない悲惨である。どちらが戦いに勝ちぬいて軍事目的を果たせたか、そして「大義」を果たせるかなどはどうあれ(「多くの国民が犠牲になるような戦いとなるなら、たとえ軍事的に勝利を得たとしても『国を守った』ことにはならない」―上記引用の小倉志郎氏)、その戦争によって生じた犠牲者たちの悲惨にこそ目を向けなければならない。それこそが戦争のリアリティーなのである。「正義の戦争」だとか「必要やむを得ざる自衛の戦争」だとか「どちらが正義でどちらが悪か」などの評価・論評よりも、戦争は要するに殺し合いであり、破壊し合うことにほかならず、その悲惨・無残さにリアリティーを見て取ることがいちばん大事なのであって、戦争は起きないようにすること、しないこと、これが一番なのだ。
 戦争というものは、結果的に無事で死なずに済んだ者にとっては、勝った方の側は「大義」を果たせてよかったとか、だから戦争をやり抜いて(徹底攻撃・徹底抗戦して)よかったといって満足し、負けた方の側は残念・無念といって悔しがる。しかし、その間に行われた殺戮・破壊によってもたらされた惨劇・惨状とりわけ巻き込まれて(自分の意思によらず)生命を失った無辜の人々・当人にとっては、勝ってよかったも何もあったものではない(犠牲にされた悲惨以外になんの意味もない)。自分以外の、国の為政者・戦争指導者をはじめ死を免れた人々あるいは後世代の人々が、犠牲者たちが命を捧げてくれたおかげで(国家の名誉や独立・自由を守れたとか)大義を果たせたからといって、(戦争自体を「正義の戦争」「大義のためのやむを得ざる戦争」などと美化し)「名誉の死」「殉難者」などと美化されても、死んだ当人にとっては、その大義を果たして得られた成果など知ることも享受することも全くできないわけである。その意味では全く無意味な犠牲で悲惨以外の何ものでもない。それこそが厳然たる戦争のリアリティーというものではあるまいか。
 そういう意味では、そのような戦争を招いてはならないし、戦争を仕掛けられ(侵攻され)ても応じ(応戦・抗戦し)ない方が賢明で、いずれにしろ戦争はすべきではなく、あくまで避けなければならないのだ。
 このような戦争(殺傷・破壊)のための武器・兵器・軍備は、「正義の戦争」のためであれ、「大義にためやむを得ざる戦争」ためであれ、それらを保持しないようにしなければならないのである(大量破壊兵器・残虐兵器などだけではなく、通常兵器も全て)―「正義の戦争」のためなら保持・保有してもよいとか、「ある国はよくて、ある国はわるい」などという選別はあってはならない。我が国では市民レベルでは法律(銃刀法)で、凶器として殺傷行為を誘発する危険性のある銃刀の保持を全国民に禁止しているが、各国に対して兵器などの軍備は戦争行為を誘発するものとして保持を禁止することにしてもおかしくはあるまい。これこそが持続可能な安全保障であり恒久平和実現の唯一の方法だろう。

正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい―「戦争はいやだ、勝敗はどちらでもいい、早く済みさえすればいい、いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」
 これは井伏鱒二の『黒い雨』の一節で、主人公の姪で広島原爆の放射能雨を浴びた娘が日記に書きとめていた一節。その戦争にはアメリカ軍の原爆投下は日本軍を早く降伏させて、ナチス・ドイツなどとともにファシズムを倒すというアメリカ側の「正義の戦争」という大義があり、日本軍には日本軍で、アジアを白人の植民地支配から解放する、そのための「聖戦」(正義の戦争)なのだといったように、それぞれが大義があった。その戦争の過程でもたらされた悲惨・惨状を作者は意識して、作中の人物にこの言葉を日記に書かせたものと思われる。映画化された場面には、主人公が聴いていたラジオで朝鮮戦争のニュースが流れ、激戦を続ける米軍が、北朝鮮軍を支援して参戦した中国軍に対して原爆使用も辞さない方針を明らかにしていたとのアナウンサーの声に、姪が記した日記と同じ言葉を発した、そのセリフに「正義の戦争よりも・・・・の平和の方がいいちゅうことを、なんで人間はわからんのじゃ」と語らせていた、とのこと。
 「不正義の平和の方がいい」というのは、例えばイラク戦争でいえば、アメリカのブッシュ元大統領が「正義の戦争」のつもりにしてそれを始めたところが、結果は惨憺たるあり様で、それを見たときに、そんなことだったら、イラク人にとってはむしろサダム・フセイン大統領の独裁政治であってもその統治下での平和の方がましだった、ということだろう。それは逆説的な言い方であって、「戦争がなく平和でさえあれば、独裁や強権政治でどんなにひどい自由抑圧・権利侵害など不正義があってもかまわない」というわけではあるまいが、「正義の戦争」であれば、いくら人が死んでも、いくら破壊し尽くされても、いくら悲惨な結果を招いてもいいというわけではないないのだ、ということだろう。
 とにかく人間の生命をはじめ何もかも台無しにするのが戦争、「停戦・休戦ではなく、恒久的に戦争のない平和」がいかに大事か、ということだ。


2022年04月08日

戦争は止められないのか(加筆修正版)

 2国間で進行中の戦争を止めるには、次の二通りがある
①一方を軍事支援して戦い続けさせ、その相手を窮地に追い詰め、諦めさせ(撤退・降伏させ)て止めるか、
②両国の首脳(戦争責任者)と関係国(NATOの主要国アメリカ・フランス・ドイツとトルコ)・中立国(中国)などの首脳、国連事務総長など仲介者との協議をもち、戦闘を停止するようなんとか説得するか。

 現在進行中のロシア・ウクライナ戦争は、戦争開始から1か月半たっているが、アメリカ国防相によれば、少なくとも数年単位続くとの見通しだが、今のところは、専ら①だけでやっている(この間、停戦交渉が数回、うち2回はトルコが開催地を提供して行われ、当事国の2国間だけで断続的に行われているが)。
 米欧(NATO)は、ウクライナ政府の求めに応じて兵器の提供など軍事支援を行っており、そのおかげで、ウクライナ軍は善戦し、ロシア側の早期制圧の見込みに反して戦争は長引く見通しとなっているわけだ。ロシア軍は苦戦(首都キエフの陥落は断念したかに見られ)、攻撃を東部に集中・激化し、民間居住地・公共施設・病院・学校などへの無差別攻撃、ジェノサイド(集団虐殺)、「戦争犯罪」と見なされるており、国内外への難民は1000万に(4人に1人)という惨状が既に現出している。それがさらに、あと数年も続くとなったら、或いは化学兵器が使われ、核兵器さえも使われかねない、とまで言われている。
 なのにウクライナ側は徹底抗戦、米欧NATOの側からはそれへの軍事支援と対ロシア経済制裁ばかりで、②の(戦争当事国とアメリカなどNATOの関係国・中国などの首脳及び国連事務総長らによる)協議に乗り出す気配はなく、外交努力の方が決定的に欠けているのだ。もはや「問答無用」状態?
 地震・津波や台風など自然災害ならば止めようがないが、戦争は人間が起こすもの。なのに、何故止められないのか。戦争を起こす人間(プーチン)を人間(バイデンや習近平)が何故止められないのか。会って話せば分かるはず。それを「問答無用」とばかり撃たれるとでも思うのだろうか。数多の国民の命を救うために自分の命をなげうつつもりで出向いて行って対面し説得すればいいのでは、と思うのだが。
 そんなの(当事国・関係国・中立国・国連それぞれのトップたちによる対話・協議・説得)できっこないというのであれば、どっちも引かない双方(ロシア・ウクライナ)を最後まで戦わせるしかないのか? だとすれば、その決着を早めるには、侵攻を受けているウクライナ側の抗戦意志と軍事支援要請(同国外相曰く「戦いには勝つが、十分な兵器の供給が早ければ早いほど、数多の命が救える。兵器、兵器、兵器だ」と)に応えて、NATOは「高性能兵器提供」等へと最大限(軍事的・財政的)支援を強化してロシア軍撃退を加速させなければならないわけだ(軍事支援には兵器だけでなく兵員をも非正規の義勇兵の形で送り込むことも可能だろうし、既に小規模ながら派遣しているのだろうが、もっと大規模派遣が必要となる)。

 しかし、これにはロシア側が苦し紛れに大量破壊兵器(化学兵器や戦術核など核兵器)を使う危険性が伴う。NATO側の軍事介入も、そこまでいかないように手加減しなければならないということだろうが、結局行き着くところまで行くしかないのか?
 いずれにしろ、戦争はしばらく激化の一途をたどることになるだろう。
 我々はその戦況、その惨状をテレビで毎日ただ見ているしかないのか。そして、米欧NATO加盟国の軍事支援の下に懸命に戦うウクライナの軍民を陰ながら応援し、ロシア軍が諦めて撤退してくれるのをひたすら祈るしかないわけか。

 

2022年04月20日

「どっちもどっち論」批判論について

 ウクライナ戦争のことで「どっちもどっち論」批判(「それはロシアの侵略行為を免責・免罪するものだ」という批判論)について。
 ロシアの行為は紛れもない「侵略行為」であり、それによってウクライナ国民にもたらされた悲惨な結果はもとより、周辺の国々さらには世界中が迷惑を被る結果を招いた第一義的な責任は無論ロシアにある。しかし、だからといって、NATOとその盟主たるアメリカなどには「非はなく、何の責任もない」として不問に付されてよいのだろうか。
 さかのぼればソ連とWATOの解体以来、米欧側のNATOだけが残った、そのNATOに、かつてソ連側のWATO加盟国だった東欧諸国が次々と加盟し、ロシアにとっては西側(NATO)に対する緩衝地帯はベラルーシとウクライナ2国のみとなり、安全保障上きわめて不利な立場に置かれ脅威を感じていた。ウクライナは東南部にはロシア系住民が多く、そこは親ロシア派勢力の基盤となっていたが、北西部の親米欧派との間で政権交代が再三行われ、2014年の騒乱で親ロ派大統領が追放され、EUやNATO加盟を目指す親米欧派大統領に取って代わると、東南部の親ロ派勢力との間で内戦状態となり、2019年就任したゼレンスキー大統領はNATO加盟に傾いていた。
 それに対してロシアは、その以前1999年(イスタンブール首脳宣言)と2010年(アスタナ首脳宣言)、OSCE(欧州安全保障協力機構)で米欧諸国首脳とともに合意・署名した「不可分の安全保障原則」(自国の安全と他国の安全は不可分に結びついていることを認め、他国の安全を犠牲にする形で自国の安全を追求してはならない、という原則)に基づいて「アメリカとNATOがウクライナのNATO加盟を認めない」という確約を求めた。そして昨年12月アメリカとNATOに対してその立場で「安全保障に関する条約・協定案」を提示した。(そこでもし、アメリカ・NATOがウクライナのNATO加盟を認めないことを確約さえしていれば、ロシアの最低限の安全保障は確保されたはずなのでは、とも考えられる。)ところがそれがアメリカ側から受け入れられなかった。
 ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアにとってはウクライナにミサイル基地が設置され米軍が駐留するようになるなど目と鼻の先に脅威が迫ってくることになると考え、「かくなるうえは」とばかり、プーチン大統領はゼレンスキー大統領にNATO加盟断念を強要すべくウクライナ侵攻という「暴挙」及んだわけである。
 アメリカとNATOが、その侵攻を阻止できなかったのかだが、それをしようにも、NATO軍が直接軍事介入すればロシア軍と激突して大戦争になり核戦争にもなりかねない恐れがあるというので、直接軍事介入は控え、結局、ロシア軍侵攻を受けて抗戦するウクライナ軍には兵器供与・戦争指導・情報提供など軍事支援・資金援助に留め、ウクライナ軍はその支援のもとに孤軍奮闘。しかしウクライナ国民はこの戦乱に巻き込まれて犠牲を強いられ町々は惨憺たるあり様。それはNATOの代理戦争とも見なされる。
 そのアメリカ・NATOの対応のあり方・責任も問われて然るべきだろう。ロシアが一番悪いのだからそれを断罪しさえすれば、NATOの方は不問にしてもいいわけはあるまい。
 そもそも「ある国の核・軍備、ある国々の軍事同盟・軍事ブロックは善くて、ある国の軍備は悪い」(アメリカやNATOや日米同盟の核や軍備は善くて、ロシア・中国・北朝鮮・イランなどの核・軍備は悪い)などということはないわけであり、それら軍備・軍事同盟は戦争(殺し合い)手段なのであって、それを保持する国はどれもこれも悪い。つまり「どっともどっち」なのだ。核であれ通常兵器であれ軍備の保有・軍事同盟などダメなものはダメなのであって、どの国も全廃すべきなのだ、とおもうのだが、そういったことを論じたりするのは「ロシアの侵略行為を免責・免罪するものだ」などと云うのは云いがかりというものではあるまいか。

2022年05月04日

国の役割は国民の命を守ること、犠牲にしないこと―安全保障の要諦

(1)最高価値―人の命
 人々にとって大事なもの(価値あるもの)は何かといえば、カネ(富)・地位・名誉・快楽・真(学問)・善(道徳)・美(芸術)・聖(神仏)・自由・人権・生命・地球環境・ルールなど様々(諸価値)あるだろう。そのうち一番大事なもの(基本的人権の中でも最も根源的なものであり、最高に価値あるもの)は何だろうかといえば、主観的には人によって(「命よりカネ」だとか「命より自由」だとか)色々あるのだろうが、客観的には(万人に共通するのは)、それは生命であり、人生の究極目的は生命の維持すなわち「生きること」自体なのではないだろうか。そもそも、人間の行為(食って飲んで働いてカネを稼ぎ、対話し、スマホをいじり、趣味・娯楽、学問・芸術・スポーツ・文化活動、政治・経済・社会活動など等)すべては、それらを行って「生きる」そのことのためにほかなるまい。人々は各人とも人生途上に幸福を求め諸価値を追い求め叶えようとするだろうが、その人生は生命あっての人生であり、生命が絶えれば全て無に帰してしまうのだから(「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」)である。(「命より自由」ということで、言論・表現の自由といい、宗教活動の自由といい、政治活動・政治闘争の自由といい、それらの自由はカネには代えられない社会生活・精神生活にとって掛けがえのないものであり、命を懸けるに値するほど大事なものではあるが、だからといって「命より大事」だとは云えまい。言論・表現にしても宗教活動・政治闘争にしても、生命あればこその行為・精神活動なのであって、死んでしまったら行為・精神活動自体が不可能となり自由もなにも無くなってしまうのだから。そうはいっても、圧政下で自由がなく隷従と抑圧の辛苦にさいなまれながら生きていなければならないとしたら、そのような生命にはなんの価値もなく、死んだ方がマシだ、と思われる場合もあるだろう。しかし、後々に希望をつなげ、心の中で奮起して戦い、解放を勝ち取る夢だけでも見続けることができるわけだし、死んでしまえばそれさえもできないことになるわけである(不当弾圧で獄中生活を強いられても耐えて何年も生き抜くのだ)。いずれにしろ、生命あっての自由・夢・希望、そして実現なのだ。
「生命は地球より重い」ともいわれるが、それは人の生命は地球にも劣らぬほど大事だということを言い表した言葉にほかならず、あらゆる生命は地球あっての生命であり、あらゆる生命の 母なる地球とともに大事なのが人間の生命だということだろう。)
 その最高価値たる生命を奪う(殺し、犠牲にする)行為は誰しもやってはならない最悪の行為である。
(2)国家の最重要任務
 国家(政府・為政者)にとって大事な任務は(国民生活・経済活動・諸産業のインフラ整備、立法・行政・司法、秩序・治安の維持、金融・財政、教育・文化の振興、公共施設・公衆衛生・セーフティーネットで生活保障、災害・パンデミック対策、国民の安全保障、外交・国際協力・国際紛争の解決など)様々あるが、なかでも一番大事な任務(国家の究極の目的)は国民の生命を守ることであり、国民を飢えさせることなく、生命と平和・安全な暮らし(「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利」即ち平和的生存権と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)を保障することだろう。
(3)国土警備
 国の役目には領土・領海・領空を警備し侵犯から守るという任務があり、それは政府の義務ではある。そのために海上保安庁それに自衛隊もあるが、自衛隊を戦争の戦力つまり軍事利用して戦争をさせてはならない。戦争は人命を犠牲にする行為だからである。領土問題など国際紛争はあっても、あくまで外交交渉・話し合いによって解決しなければならず、戦争にしてはならないのである(それが我が国憲法の定め)。自衛隊は、海上保安庁などのようにあくまで警察力による必要最小限の対応(排除活動など)に留まるならばよいが、それを超えて、米軍などと共に戦争をさせてはならないわけである。
(4)不戦による平和的生存権の保障
 戦争は殺し合いであり、生命の犠牲を伴う。我が国は前世紀前半に対外戦争を繰り返しアジア・太平洋で大戦を起こして未曾有の(犠牲者が日本人310万人、アジア全体で2000万人という)惨禍をもたらした。そのあげく日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」として、9条に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」の放棄、そのために「戦力を保持しない」こと、「国の交戦権」を認めないことを定めたのである。そもそも立憲主義の憲法は国家に国民の人権を守り保障することを求め、政府や為政者に権力の濫用を禁じ権力行使に制約を加えるために制定されている。日本国憲法は国に国民の平和的生存権の保障を求め、国民に人命の犠牲を強いる戦争をしてはならないことを定めているのである。
 要するに国(政府・為政者)は(我が国は、死刑は容認している世界では数少ない国だが、それ以外は)紛争などいかなる場合であっても人間の生命を犠牲にしない方法の選択と実力組織の運用をしなければならないのだということだ。
 (長谷川恭男・早大教授によれば)社会契約論でもホッブスは「生命の保全を国家の存立目的」とし、「死地に赴けと国家に命じられても、それに従う理由はない」と説き、ルソーは「社会契約をして共同体を作った以上、その共同体が侵略されたら戦うべきだ」と説いている。今、ウクライナの軍民が戦っているのはルソーが説いた方の考えのようだが、そもそも共同体は構成員の皆が共に生命をつないで生きていけるようにするために互いに契約して作られたものであり、侵略者と戦って全員の生命が守りきれるならいいが、戦いで何人かでも生命が失っては共同体の存立目的を果たしたことにはならないわけである、と思うのだが。
(5)国防より人間の安全保障
①侵略は幾度かした国
 国家の任務として「国防」(軍事的安全保障)というものがあるが、国民の立場から国家に対して求める安全保障(人間の安全保障)はどのようなものか。
 我が国の場合は、かつての大日本帝国時代は、帝国の領域外(朝鮮半島・満州など大陸や太平洋)へ、その地(「外地」)を「生命線」「生存圏」などと称し、或いは「大東亜共栄圏の建設」「白人からアジアを解放する自衛戦争」などと称して侵略戦争をエスカレートさせて、安全保障どころか、かえっておびただしい人命を犠牲にしてきた。その歴史上最悪の過ちから、「安全保障―生存圏の確保」のために海外へ打って出る戦争に訴えるやり方は金輪際やめることにした(それが憲法9条)。
②蒙古襲来以外に侵略されたことのない国
 また、我が国は歴史上、鎌倉時代に元寇(蒙古襲来、武士団が抗戦・撃退)があった以外には、他国から一方的に侵略されたことは未だかつてない。つまり我が国は他国への侵略は(豊臣時代の朝鮮半島侵略も含めて)盛んに行ったが、他国から侵略されたことはほとんどない国なのである。
③憲法に「戦争放棄」と「戦力不保持」・「交戦権否認」
 それで、大戦後に制定された日本国憲法には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意」して、9条に「戦争放棄」と「戦力不保持」・「交戦権否認」を定め、対外的な紛争解決を戦争(軍事)に訴えることによって人命を犠牲にすることのない安全保障をめざす、ということにしたわけである。
 したがって我が国では、国家(政府)の任務として「国防」(軍事)は必要とされておらず、憲法にその条項はないわけである。
④再軍備へ解釈改憲、そして戦争する国へと明文改憲を企図
 しかし、制定後間もなく朝鮮戦争が勃発して、米軍が占領下日本の基地から出撃、それを契機に、(「警察予備隊」から「自衛隊」へと名称を換えながら)再軍備、ソ連との戦争に備えて米軍の基地と共に領土を守る防衛力を保有し、日米同盟と共に国防体制を整えていった。
そしてこの間、これらを可能とする解釈改憲を行ってきた政府・自民党は自衛隊を「国防軍」とするべく明文改憲を企図(2012年改憲草案作成)したが、今はそれを切り替えて9条1・2項をそのままに、それに追記する形で、自衛隊保持を明記する改憲案を国会の憲法審議会にかけようとしている。それによって不戦・非軍事安全保障(つまり国家の任務を国民の生命を犠牲にせずに国民の安全を保障する方向)から国防(つまり国を守る自衛戦争のためには国民の生命の犠牲もいとわない軍事的安全保障)体制に名実ともに切り替えることになる。
⑤北朝鮮・中国・ロシアと対決
 そこには、いずれ中国・北朝鮮あるいはロシアと対決・対戦しなければならない時が来るという、そのことを容認し想定する政策の追及がある。(①中国に対しては台湾が独立を強行し中国軍がそれを阻止しようとして侵攻し、台湾軍が抗戦するという「独立戦争」が起きた時、それにアメリカが介入して台湾軍を支援・参戦し、日本の基地から出撃、それを自衛隊が支援し作戦に参加すれば、中国軍は日米両軍に反撃、日本の米軍基地・自衛隊基地・拠点都市などにミサイル攻撃、或いは空爆、それらに対して日本が抗戦―中台戦争が米中・日中戦争に発展―そのことを想定した国防政策。②北朝鮮に対しては休戦中の朝鮮戦争が何かをきっかけに再開された時に米軍が日本の基地から出撃、それを自衛隊が支援し作戦に参加。それに対して北朝鮮軍が日本を核ミサイル攻撃。①②いずれもアメリカ次第なわけ。)
 このようなことは、日本国民としては到底容認できまい。政府による対米・対中・対北朝鮮政策によってこのような(戦争に巻き込まれて国民が惨害を被る)事態になることも、またそれにつながるような改憲も容認するわけにはいかないのだ。
(6)平和的生存権は全世界共通の最重要権利
 「自由・人権・民主主義・法の支配などの普遍的価値を共有する国々が連携」とか「価値観外交」などという言い方がなされるが、「平和的生存権」つまり平和の裡に生存(生命を全う)する権利こそが全世界の国民が有する最重要な権利であり、人命が最高価値という価値観こそが全世界共通の価値観なのだ。
 戦争には数多の人命の犠牲が付きもの。そのような戦争は起こさない、戦争には応じない、戦争につながる敵対行為は行わない、というのが政治道徳として普遍的な法則であり、この日本に限らず、ロシアもウクライナもどの国の政府・為政者も(侵略戦争であれ、自衛戦争であれ)戦争を煽ったり、国民を戦争に駆り立てたり、軍事支援したりしてはならないのである。 
(7)戦争に「正義の戦争」などあり得ない
 戦争に「正義の戦争」だとか、「戦争ロマン」とか「命をかえりみず祖国のために戦っている、その勇気に感動した」などといった綺麗ごとはありえず、戦争にいいことなどあり得ないのである。現代戦争は総力戦であり、兵士であれ民間人であれ総動員、どこも戦場となり、攻撃対象は軍兵・軍事施設とはいっても誤爆や情け容赦のない(「これが戦争なのだ」と理性を押し殺し、憎悪・攻撃欲動を激発させての)発砲・乱射もあり民間施設にも着弾、女・子供であれ動くものは標的になり無差別攻撃の様相をおび(ウクライナの場合は未成年者と高齢者以外の成年男子は民間人であると否とにかかわらず戦闘員として総動員、相手側は民間人か否か区別することなく発砲・発射)、大量犠牲・大量破壊という悲惨を招く。それは77年前に日本人が経験したことである(国民総動員、学校では全国の「中等学校」以上に軍事教練が行われ、婦女子は「竹槍訓練」、「一億玉砕」の掛け声もありはしたものの、原爆を食らって終には降伏。)
 この戦中・戦前、我が国の旧憲法下では、国家の統治者・為政者は国民の生命などより国家の存続・発展が最優先という国家主義の考え(国家は国民のために存するというのではなく、国民の方が国家に奉仕するため存するという考え)で、戦争は国家目的(国益)のために行われ、国民はそのために(手段として)動員・協力させられ、国民の生命が軽く扱われ犠牲にされた(兵隊は消耗品にように見なされ、その生命の価値は「一銭五厘」―召集令状は郵便で届けられたリしたわけではないが、葉書の切手代程度と見なされていた―とか「兵士の命は鳥の羽毛より軽し」などといわれたりしたが、戦後軍人恩給や遺族年金はもらえた。しかし、民間人の戦争被害者には、原爆や外地からの引揚者・沖縄県民の被害者には一定の手当がなされた以外は、空襲や艦砲射撃などで犠牲・被害を被った者は「国の非常事態下で起きたことなので、我慢しなければならない」という受忍論で済まされている。)
 このような史上最悪の辛酸に懲りて日本国憲法は国(政府)に二度と再び戦争をさせないように9条を定めたわけである。我が国は、自衛権はどの国も固有の権利として有するも、国は戦力も交戦権も保持せず、戦争は(自衛戦争すなわち侵略に対する抗戦も)しないことにしたのである。だからこの国には抗戦も降伏も何もあり得ない、ということだ。それは、ひとえに戦争によって国民の生命を犠牲にすることなく、平和に暮らすこと(平和的生存権)を保障するためである。
 それは、侵略されたのに抗戦もしないということなのか、といえば、その場合は、初動対応として海上保安庁と共に警察力として自衛隊による侵攻の阻止・排除行動はあるも、それ以上の反撃・追撃・敵地攻撃などの戦争行為は採らない。要するに今のウクライナのような国民総動員的な徹底抗戦などは行わない、ということだろう。
(8)徹底抗戦か不戦か 
 そもそも侵略に対する対応のあり方としては、徹底抗戦か、それとも不戦(或いは降伏)か、二つに一つだとすればどちらを採るか。
 「徹底抗戦」というと勇ましく敢然とし、「不戦」というと弱腰・意気地なし、「降伏」つまり抗戦して途中で勝ち目がないと諦めるのは、さらに情けない屈辱だと一般には思われるだろう。しかし、最高価値は人の生命だという価値観から見れば、そんなことはないのだ。(政治的目的に基づいて相手に要求を力で押し通そうとして軍事作戦を強行し、その軍事目的を果たせそうか否か、要求を勝ち取れそうか否かで、軍事専門家や評論家・ニュース解説者はどっちが善戦・苦戦しているだの、勝ってる負けてるだのと論評しているが、肝心なのは、その戦いで国民の生命がどれだけ犠牲にされ、財産が破壊され失われているか、とりわけ国民の生命が守り通せているか否かが一番肝心なところ。その意味ではプーチン大統領とロシア国民、ゼレンスキー大統領とウクライナ国民、双方ともそれぞれに「一将功成って万骨枯る」では何の意味もないわけである。)
 戦争は、たとえそれが侵略に対する抗戦(自衛戦争)だろうと、戦死者・戦没者が出て同胞の生命の犠牲を必ず伴うが、そんなことはあってはならないのだ
 そもそも国が行う戦争や軍事作戦の目的は(一に)外敵から国(国家主権・領土・政府など統治権・統治体制)を守る(防衛の)ため、(二に)、その逆で他国から主権・領土・資源を奪いその国の政府を倒す(侵略の)ため、(三に)国益に関わる紛争・対立があって、外交交渉では相手が要求に頑として応じない場合に、力でそれを押し通すため、等であって、軍隊・兵士たちはそれら国の目的(大義)のために戦うのであって、そのためには国民(個々人)の生命や財産は犠牲にせざるを得ないということにもなる。
 しかし、国民の立場から見れば、戦争や抗戦の目的(大義)が「国家の独立・領土主権・自由を守るため」だとか「専制・隷従を除去するため」などと、たとえすばらしいものであっても、それよりも何よりも一番大事なのは人の命であり、同胞の生命なのであって、そのような「大義」のためだからといって際限もなく徹底抗戦を続けられれば、その生命が犠牲にされてしまう国民にとってはたまったものではない、というになるわけである。
 一方、「不戦」・「降伏」の方は、感じとしては弱腰・意気地・屈辱・屈従と思われるが、生命の犠牲は免れ、生命(生存)が維持されれば、国の独立や領土或いは自由など諸権利が奪われたとしても、耐え忍んで生きていれば、そのうち或いは後世代には、いつか取り戻せる日が来る。但し、ただ黙って無為に過ごして待っていればいいというわけではなく、不戦・非暴力による闘いとその鋭意努力は必要不可欠。(そもそも「不戦」と云っても、急迫不正の侵害に遭えば、それを阻止・排除しようとするのは当たり前の正当防衛行動であり、領土・領域の侵犯・侵攻に対して海上保安庁や現在の自衛隊でも警察的行動として対応するのであれば、それは当然のことであって必要不可欠。それは自衛「戦争」ではない。侵害・侵犯の阻止・排除までで、それ以上反撃して「これでもか、これでもか」と反撃から相手領土まで追撃、それに対して相手が逆反撃といったようにエスカレートすれば、それは「戦争」。そのような戦争は控えるということだ。また反撃どころか相手の軍勢に圧倒されて降伏を余儀なくされた場合は島など領域が占領され隊員が捕虜にされることもあり得るが、いずれにしても人々の生命が犠牲にならずに済むだけマシ。
但し、いずれの場合も、それだけで済ませるわけにはいかず<降伏して占領されても、相手の言いなりにはならず非暴力抵抗>、そのような侵攻・占領は許さないようにするために、相手の不正・違法行為を国連など国際機関に提訴し国際世論にも訴えるという措置も必要不可欠。)
 とにかく人々の命を顧みずにただ戦っても(自分だけ「自由のために」と勇猛果敢に戦って討ち死にして攻撃欲動を満足させたとしても)、その戦いに巻き込まれて子供や多くの人々が犠牲となり生命を失ってしまえば、その人々にとっては自由であれ何であれ夢見ることさえも全て無に帰してしまうのだ。だったら戦わないほうがむしろ得策で賢明なのでは(「屈辱」だの「弱腰」だのと何を云われようが)。
  このような観点からすれば、ウクライナ軍民の対ロシア「徹底抗戦」は決して日本国民も諸国民も見習うべき模範とすることはできないのでは。また、そのウクライナ軍民の「徹底抗戦」をけしかけ後押しするかのように支援するNATO諸国や日本政府も、如何なものか、それが正義だとは必ずしも云えないのではなかろうか。人命の犠牲は最小限にとどめるべく戦争は長引かせずにやめにしなければならない、ということだ。

(9)ナチスの人種戦争
 ただ、世界史上には「徹底抗戦」はせざるをえない特異なケースもあり、どうあっても降伏するわけにはいかなかったというケースがある。それは相手が、人種主義の思想によって他人種・劣等人種の生命に価値を認めず抹殺すべきだとか、宗教の教義・戒律によって異教徒や不信心の徒は殺してもかまわないといった考えのもとに侵攻が行われた事例がある。典型的なのはナチズムといわれるヒトラーの人種主義思想(→「人種戦争」「絶滅戦争」)。
 第2次大戦で、ナチス・ドイツ軍の侵攻に対してヨーロッパ諸国とも抗戦し、ベルギーやフランスなど降伏した国もあったが亡命政府とレジスタンス市民がゲリラで抗戦を続け、アメリカ軍が参戦して米英ソ連合軍が反撃・挟撃してドイツ軍は終には降伏(1945年5月、ヒトラーはその前の4月に自殺)。この間ソ連(ロシア)は、侵攻してきたドイツ軍に対して徹底抗戦、4年間にわたり犠牲者はソ連人口の13.7%の2660万人、うち民間人は1600万人だった。
 ナチス・ドイツ軍は占領下でユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)行ったが、それはユダヤ人を劣等人種と見なして絶滅させようとして行われた。ヒトラーの人種主義思想では人種には生物学的遺伝的に優劣があり、欧米の白人はアフリカ・アジアの有色人種に対して優性な人種であり、それら人種間には生存競争・自然淘汰があると考え、(人種を保つ)「民族純化」が必要だとする考えもあった。白人でも最優秀人種であるドイツ人(アーリア人・ゲルマン民族)が、東方のロシア人やウクライナ人・ポーランド人などのスラブ民族に打ち勝って領土を拡大しなければならないというので、侵攻・征服をめざしたわけである。ジェノサイド(集団虐殺)はそうした中で行われてきた。
 宗教では、古代以来、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など宗派によっては「異教徒や不信心の徒」対して犠牲(殺害)を容認したり「聖戦」として討滅を義務付けたりしている教義や戒律があり、未だにそれを頑なに信じ込んでいる原理主義といわれる勢力がまれに存在する。仏教国ミャンマーではイスラム教徒のロヒンギャに対する迫害があり、ISなどのイスラム過激派の極端な「聖戦」もある。
 このような相手に対しては「戦って殺さなければ殺される」、不戦・降伏は死を意味し、「戦うか、死ぬか」で徹底抗戦するしかなく、降伏すれば生命だけは助かるという保証はないわけである。
(10)ロシアのウクライナ侵略戦争は?
 このようなケースに対して今回のロシア・ウクライナ戦争は、はたしてどうなのか
 プーチンが信奉するキリスト教派であるロシア正教会に、それまで帰属してきたウクライナ正教会が3年前独立・断交するようになったが、だからといってそのために(ウクライナ国内のロシア系住民のロシア正教会信者を守るため)に起こされた宗教戦争だというわけではあるまい。またプーチンがヒトラーと同様な人種主義思想の持ち主で「人種戦争」としてウクライナ人を殲滅するためにそれを強行したなどとは到底考えられまい。
 今回のロシア軍の侵攻では、民間人殺害が「ジェノサイドだ」とか、病院や学校などへのミサイル攻撃は「戦争犯罪」だと非難・追及されたりしているが、はたしてそのロア軍は、抗戦して「彼らを殺さなければウクライナ人が皆殺しされる。だから徹底抗戦するしかない」相手なのだとは、必ずしも決めつけられないのでは。如何なものだろうか。
(11)戦争激化―プーチンの「非ナチ化」戦争?
 しかし、今や戦争は激化し、攻撃・反撃、殺傷の応酬で、互いに憎悪・攻撃欲動(衝動)から「盲撃ち」(乱射)無差別攻撃まで殺戮がエスカレートし、止められなくなっている。
 このような戦争に走ったプーチン大統領の考えには、アメリカとNATOに対する脅威とともにネオナチの脅威に対するこだわりがあると思われる(「歪んだ被害者意識」などといった指摘もあり)。 
 第2次大戦で滅びたはずのナチズムが復活してネオナチ(極右)としてヨーロッパ各地で暗躍するようになり、ウクライナでもそれが台頭(反ロシアを掲げる政党で極右民族主義の全ウクライナ連合『自由』など)。それをプーチン大統領は(自身は未だ生まれていなかった当時だが、ナチス・ドイツ軍の侵攻・レニングラード包囲下で、兄二人が亡くなり、母親は餓死寸前という悲惨な目に遭ったという、その思いがあってか?)目の敵にし、ウクライナの反ロシア・親欧米派政権をネオナチ政権だと見なして(2014年のキエフ騒乱―親ロシア大統領追放―を主導したのはネオナチ勢力で、その後、親米欧派の政府軍と東部の親ロシア勢力との内戦が始まったが、その戦いで政府軍を加勢している義勇兵団のアゾフ連隊などもネオナチ勢力と目されている)、そのような「ウクライナのナチ化を排除するのだ」として今回のロシア軍侵攻に至った、というわけである。しかしウクライナの現大統領ゼレンスキーはナチスから目の敵にされたユダヤ人であり、ネオナチ政権呼ばわりされる筋合いはあるまい。プーチンがことさら「ナチスとの戦い」だの「ナチスからロシア系住民人を解放する」だのと、そのような言い方をするのは、それによって第2次大戦の時のナチス・ドイツ軍の侵攻に対する「大祖国戦争」の記憶を呼び覚ましてロシア国民のナショナリズムをかきたてようとしているとの指摘もある。
 ただ、このプーチンは、ナチス・ヒトラーが抱いていたような人種主義思想で「劣等人種は絶滅しなければならい」などといった考えまで持ち合わせてはいまいが、ネオナチは絶滅しなければとの思いは執念としてあるのだろう。いずれにしてもウクライナ侵攻の実質的な理由は、ウクライナのNATO加盟阻止と同国内東部のロシア人居住地の安全確保、それにクリミア半島のロシア海軍(黒海艦隊)基地の維持・確保に他ならないだろう
(12)戦争の実相
<ロシア・ウクライナ戦争について>そもそもロシアの主張には、ソ連とWATO解体後、NATOを保持している米欧側に対して「他国の安全保障を損なう形で、自国の安全保障を一方的に追求してはならない」という「安全保障の不可分の原則」の約束があったはず。なのに、その意向に反してNATO(加盟国)は東欧諸国に拡大、ロシアの隣国でウクライナだけは非同盟・中立を維持し緩衝国として確保しておきたかった、そのウクライナまでが(2014年の政変でNATO寄りの親米欧派政権になって)NATO加盟に近づく形勢となる。そしてそのウクライナでロシア系住民の多い東南部を地盤とする親ロシア派勢力が離反し、政府軍と内戦状態となり、ロシアがそれに乗じてクリミア半島を併合。内戦にはドイツ・フランス両国の仲介で停戦合意(ミンスク合意)もありはしたものの(ゼレンスキー大統領は不納得で)収まらず、内戦は昨年まで続いていた。ロシアはウクライナ国境近くに大軍を終結させて軍事演習を行うなどの動き(NATO側に対する圧力)を見せながら、アメリカ側に対して「安全保障の不可分の原則」の約束確認とともにウクライナのNATO加盟を受け入れないよう求めたが、その要求が(加盟するもしないも、それは主権を有するウクライナ政府が決めることだとして)拒否された。そのあげく、ウクライナに対して、未だ加盟していない(加盟してしまってから戦端を開いたのでは、アメリカなどNATO加盟諸国の参戦を招いてしまうことになるから、そうならない)今のうちにとばかり、(未だウクライナ政府軍と内戦状態にある親ロシア派勢力下の東部2州独立を護る集団的自衛権行使の名目で)ロシア軍はウクライナ侵攻に踏み切った。いずれにしてもこれは国連憲章違反の侵略行為。
 それに対してウクライナ政府は徹底抗戦に向かい、米欧NATO諸国は武器供与など軍事支援、ロシアに対しては経済制裁を大規模に行っている。
 この戦争は、アメリカなどNATO諸国の軍事支援で供与された兵器を使って、ウクライナ軍が戦うという代理戦争の様相を呈しているとも見られるが、いずれにしても生命の犠牲と破壊を被っているのはウクライナ国民
 もう止められなくなっている。ロシア・ウクライナ両国間の停戦交渉やトルコやフランス、中立国オーストリアなどの首脳、それに国連事務総長がそれぞれ単独で不首尾ながら仲介に入ったりもしているが、進展は見られない。中国はロシアに対して非難・制裁に加わりもしなければ、支援もしていない。その中国にアメリカは仲介を求めるどころか「ロシアに支援するようなことをしたら制裁するぞ云わんばかりに」釘を刺している。
 アメリカなどNATO諸国は軍事支援を強化するばかりで、ウクライナ軍に徹底抗戦を続けさせてウクライナ国民の生命の犠牲を増やし続け、怯える子供たちに唯ひたすら頑張って耐え忍ぶのだと見守っているだけでいいのか
(13)米欧や日本の対応
 米欧それに日本は、この戦争に いったいどのような姿勢・対応で臨んでいるのか。
 アメリカはロシア・プーチン大統領を非難し、制裁・連携を各国に呼びかけ、戦況(ウクライナ軍善戦、ロシア軍苦戦)を見ながらウクライナ支援(武器供与・資金援助・情報提供など)をエスカレートさせている。そうすることによってロシアを疲弊・弱体化させる。それはアメリカの世界戦略・覇権確保にとってロシアはもとより中国に対しても有利な結果をもたらす「絶好の機会」ともなっている。善戦するウクライナ軍は「押せ 押せ!」、支援するアメリカ・NATOは「イケイケ どんどん」、苦戦するロシア軍は「なにクソ 負けるものか!」と激戦が続いて、長引くばかり。その中でアメリカの軍事産業は(利益を上げて)「ホクホク」、ウクライナの子供たちや無辜の民の悲惨、生命の犠牲は益々募るばかり
 ロシアが恐れたNATO拡大は、それを抑え込もうとして起こした戦争のお陰(逆効果)で
非同盟国だったフィンランドやスウエーデンまでそこへ追いやる結果となっている。両国も含めてEU諸国はアメリカとNATOの軍事力に依存を強め、加盟各国とも軍事費のGDP比2%以上に増額、NATOは益々強勢となる。日本もそれに合わせて対ロ・対中の包囲網(圧力)強化に積極協力、それ乗じて防衛費GDP比2%への増額、自衛隊の「反撃能力」(敵基地攻撃能力)の保有などを目論見、日米同盟と防衛体制の強化、改憲へと向かっている。
ロシアはNATOの脅威とそれへのウクライナの加盟を抑え込もうとして、侵攻はしたものの反撃にあって苦戦を強いられ、かえってNATO諸国の軍備強化と軍事同盟強化・拡充(その正当化)を招いてしまい、軍備全廃による恒久平和はもとより、核兵器の廃棄・軍縮さえも遠のく結果を招くことになった、ということである。
そして日本では、それに乗じた自衛隊の軍事強化・日米同盟の拡充とそれに向けた改憲を許す結果にもなっている。憲法9条の「不戦・戦力不保持・交戦権否認」は、日本の少数派国民がそう決め込んでいるだけで、「不戦・軍備全廃・恒久平和」なんて、そんなことは普遍的な国際法の定めとは永久になり得まいとして、その理想・信念を放棄してしまうという諦めムードが覆い始めている今や世界は「新冷戦」「民主主義国家と権威主義国家」「友好国と非友好国・はぐれ者国家」「善玉国家と悪玉・ならず者国家」に分断、互いにいがみ合う夢も希望もない明日へと向かおうとしているかのようである。
日本も世界も、そのようなことでいいのかだ。
 すべてはロシアが自ら招いたことで、「自業自得」だといって(全てをロシアのせいにして)済ませることはできまい。そもそも論(事の次第)から云えば、ロシアだけでなくアメリカとNATOの存在があるわけだし。
 
 ロシアの西北の隣国フィンランドとスウエーデンがNATO(ウクライナがそれに加盟しようとしてロシア軍の侵攻を招いた、とプーチンは思っている)に加盟を申請した。それはフィンランド・スウエーデン両国がそれぞれ自国の安全保障のためにとの判断によるものだが、世界平和にとっては、はたしてどうなのか、適切な選択なのか。
 これまで非同盟・中立国として隣国ロシアをはじめ全世界の諸国と友好関係を維持して独自の自由な外交と軍縮など平和のために国際的役割を果たそうとする立場に立ち、そうすることによって自国の安全保障を保持しようしてきたものと思われる。それが、ここにきて、ロシア軍のウクライナ侵攻に目の当たりにして、その二の舞になる危険を感じて急遽NATO加盟に踏み切った(加盟すればアメリカはじめNATO諸国から守ってもらえるから)というわけである。しかし、安全保障の要諦は敵をつくらず、すべてを味方につけるということを考えれば、NATO加盟はかえって危うくなるということも考えられる。また、それまでどの国も敵とせず友好関係をもって独自の自由な外交と平和的国際貢献に努めようとしてきたのに、NATO加盟によって、盟主アメリカの意向とNATOという軍事同盟の掟に縛られることになるのでは、といったことを考えれば、その加盟決断は必ずしも適切だとは言えないのではなかろうか。
(14)戦争をやめさせる方法は?
 このようなロシア・ウクライナの戦争をやめさせる方法には次の二つしかあるまい。
(1)ロシア・ウクライナ両国大統領NATOの盟主アメリカ大統領仲介者としてトルコ・オーストリア・フランスなどの首脳(既にこの間多少なりとも仲介めいた対話や関与)、国連事務総長それにウクライナ・ロシア双方に関係を持っている中国の首脳も加わって停戦協議
(2)ウクライナ軍民を支援して徹底抗戦を続けさせてロシア軍を撃退・降伏させる。(この場合、ロシアは降伏する前に破れかぶれになって核兵器など大量破壊兵器を使いかねないことにもなるだろうが、それに対してはアメリカは核戦争を覚悟に直接介入・参戦に踏み切るぞとの意志を示すことによってロシアの大量破壊兵器使用をくい止めようとするのだろうが。)
 この二つのどちらかしかあるまい。今のところ(2)(戦争続行)の方向で、いつ終わるとも分からない状態だが、何はさておいても生命が一番大事(最高価値)と考える当方の価値観ではウクライナ国民の犠牲を最小限にとどめるには、(1)の方を選ぶしかあるまい
(15)日本が攻められないようにするにはどうすればよいのか?
 それでは、日本がウクライナのように攻められないようにするにはどうすればよいのか、とはいっても、日本の対中国・対北朝鮮・対ロシアの関係とウクライナの対ロシアの関係とでは歴史的にも地政学的にも状況が全く違う
 今回のロシアのウクライナ侵略は(理由もなく不意に攻めてきたという意味では)「急迫不正の侵攻」かといえば、「不正」(違法)には違いないが、ロシアにはそれなりの理由・いきさつがあってのこと(ロシアはかねてよりNATOの東方拡大を脅威とし、ロシアに隣接して以前同じソ連に属していたウクライナがNATOに加盟するのをなんとしても阻止しなければならないという理由。それにウクライナ国内には東南部にロシア人が全人口の17.28%居住し、親ロシア派武装勢力と米欧派の政府軍との間で内戦が8年前から続いてきた。その親ロシア勢力が独立を宣言したロシア人居住地を保護しなければならないとの理由があって、ロシア軍がウクライナ侵攻を強行するという暴挙におよんだわけである。)
 それに対して中国・北朝鮮・ロシアなど日本の隣国が(日本に「急迫不正」に侵攻を仕掛けてくるということはなく)攻撃してくるとすれば、やはり理由・いきさつがあってのこと。中国の場合は、台湾が中国から独立の動きを見せ、中国がそれを許さず中台戦争になった場合で、それにアメリカが介入して日本の基地から米軍が出撃、それを自衛隊が支援あるいは参戦するという事態になった場合、中国軍が日本(沖縄の米軍基地その他)に向けてミサイルを撃ち込んでくる、といったようなことになる。(それ以外に中国との間には尖閣諸島や東シナ海の海底資源をめぐる係争問題はあっても、それで大規模な軍事攻撃の蓋然性はあるまい。)
 また、北朝鮮の場合は、1953年以来休戦中の朝鮮戦争が北朝鮮軍か韓国軍か米軍かいずれかの軍事行動から戦争が再開された場合で、米軍が日本の基地から出撃し、自衛隊が支援する等の事があった場合、北朝鮮軍が日本の米軍基地や東京などに核ミサイルを撃ち込んでくる、といったようなことになる。
 ロシアの場合は、千島列島などの「北方問題」があるが、そこはロシアが実効支配していて、それを日本が奪還しようと攻撃を仕掛けない限り、ロシアの方が日本に攻めてくるということはないだろう。

 それはともかくとして、日本が仮にも攻められることのないようにするにはどうすればよいのかと問われれば、次の二つの選択肢が考えられる。
(1)自衛隊と日米同盟の防衛力を充実・強化して「やるならやってみろ、やったらかえってひどい目(報復)にあうぞ」とか、「迎撃・反撃され、撃ち落とされるか、撃ち返されるから、やっても無駄だぞ」(迎撃)とか軍事的抑止力で攻められないようにする―対決政策・・・・難点は、それが相手を挑発し、敵意を煽り、相手の軍拡(核やミサイルなど兵器開発・保有)を招くこと。
(2)攻められる原因・理由・口実をつくらない―利害・見解の対立・紛争はあっても、あくまで話し合いで外交的解決。敵対行為を避けて融和政策を採る(予防外交)
 それでは、(朝鮮半島有事や台湾有事で)攻められたらどうするか。その場合は二つの選択肢。
 (1)自衛隊と同盟軍とで応戦(米軍の出撃を支援あるいは参戦する集団的自衛権の行使)・・・・難点は、沖縄や日本本土の基地・拠点都市・原発などが相手の攻撃対象となり、国民の人命犠牲と居住環境・諸施設への計り知れない被害を招きかねないこと。
 (2)不戦(米軍出撃と支援・参戦ストップ)を求め、相手の攻撃を回避

 これらは、いずれの場合も、その立場は「国を守るため」ではなく「国民の命を守る(犠牲にしない)ため」即ち「国民の平和的生存権を守るため」には、どの選択肢を選べばよいのかだ。
 
 


2022年05月26日

世界にまともな大人のリーダー・賢人の不在

 自衛(専守防衛)戦争なら許されるという考え方で、国連憲章でも(「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、又・・・・も慎まなければならない」と定めていながら)個別的自衛権それに集団的自衛権の行使も認め、軍事同盟を2国間・多国間とも認めており、ほとんどの国が常備軍を持ち、米欧やアジアでは日韓豪などの国々が軍事同盟を結んでいる(NATOや日米同盟など)。
それに対して日本国憲法は戦争放棄とそのうえ戦力不保持・交戦権否認を定めており、本来は全ての戦争行為を認めない不戦・非軍事の立場なのである。それは特殊といえば今のところは特殊ではあるが、世界各国ともめざすべき普遍的な原則として国際法として規定さるべきもの。
 自衛のため であれ、専守防衛のためであれ、軍備を持ち軍事同盟を持ち合っているうちは、それが互いの脅威となっていて(互いに相手国の軍備や軍事同盟を脅威と感じて)、現に(ウクライナに侵攻したロシアは、ウクライナのNATO加盟阻止を理由にして)それで戦争が行われており、(中国・北朝鮮と日・米・韓などの間では)それでいがみ合っている。
 このままでは、永遠に恒久平は訪れないし、それでいいはずはないわけである。
 日本の憲法9条は現状は残念ながら(自衛隊を保持し、日米同盟を保持していて)実現されてはいない「未完成」の状態はあるが、それは我が国みならず世界各国の憲法或いは国連憲章としても、それらのモデルとして将来にわたって堅持・保持すべきもので、改憲などゆめゆめやってはならない(それをやったら世界人類の損失もなる)貴重なもの。
 我が国の政府は今、防衛費(軍事費)をNATO並みにGDP比2%になるように2倍に増額しようしているが、なんたることか。このような軍事費を世界各国が軍備を全廃してゼロすれば、国民の暮らしや地球環境保護にまわせるはずなのに。
 今、日本政府も各国政府も、我が日本国憲法9条とは逆行する方向へ政策・行動をとっている。
 ヨーロッパでは現に戦争の最中であり、アジアでも(台湾・北朝鮮などをめぐって)戦争準備の如き動きが見られる。
 日本はとより、世界にもまともな「大人」(子供の喧嘩を仲裁し止められる大人?)のリーダーも賢人も不在で、ただ単に対立する相手を非難・対決するしか能のないポピュリスト(人気取り)政治家・論者しかいないのが悲劇。

2022年06月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき14)(随時加筆)

7月 欧州やアフリカでは減少傾向、世界全体の感染者数はほぼ横ばい、
    一部の国は検査の方針を変更、検査件数が減った結果、感染確認件数が減
 31日、山形県内の新規感染者729人―①山形市173人、②寒河江市16人、③上山市4人、⓸天童市37人、⓹東根市37人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町20人、⑨西川町2人、⑩河北町7人、⑪山辺町4人、⑫大石田町6人、⑬大江町5人、⑭朝日町0人、⑮新庄市36人、⑯舟形町1人、⑰金山町10人、⑱真室川町17人、⑲最上町1人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市101人、㉔南陽市17人、㉕長井市25人、㉖白鷹町5人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町23人、㉙川西町2人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市59人、㉜酒田市71人、㉝庄内町8人、㉞遊佐町5人、㉟三川町5人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに4件
 30日、山形県内の新規感染者784人―①山形市143人、②寒河江市40人、③上山市15人、⓸天童市49人、⓹東根市41人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町18人、⑨西川町4人、⑩河北町4人、⑪山辺町6人、⑫大石田町1人、⑬大江町2人、⑭朝日町3人、⑮新庄市43人、⑯舟形町8人、⑰金山町6人、⑱真室川町6人、⑲最上町1人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村5人、㉓米沢市113人、㉔南陽市15人、㉕長井市20人、㉖白鷹町6人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町37人、㉙川西町5人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市78人、㉜酒田市71人、㉝庄内町8人、㉞遊佐町5人、㉟三川町2人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―スポーツ少年団で所属員5人、②飯豊町―介護施設で利用者ら6人
 29日、山形県内の新規感染者817人―①山形市173人、②寒河江市28人、③上山市19人、⓸天童市53人、⓹東根市39人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町14人、⑨西川町8人、⑩河北町8人、⑪山辺町6人、⑫大石田町5人、⑬大江町4人、⑭朝日町2人、⑮新庄市42人、⑯舟形町2人、⑰金山町9人、⑱真室川町11人、⑲最上町2人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市122人、㉔南陽市16人、㉕長井市18人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町35人、㉙川西町10人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市61人、㉜酒田市79人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町9人、㉟三川町1人、㊱県外3人
 28日、国内―新規感染者23.3万人(最多更新)、18都道県で最多更新、
    山形県内の新規感染者926人(最多更新)―①山形市228人、②寒河江市37人、③上山市13人、⓸天童市61人、⓹東根市6人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市6人、⑧中山町10人、⑨西川町1人、⑩河北町4人、⑪山辺町15人、⑫大石田町6人、⑬大江町6人、⑭朝日町2人、⑮新庄市42人、⑯舟形町3人、⑰金山町9人、⑱真室川町8人、⑲最上町6人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市180人、㉔南陽市17人、㉕長井市9人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町21人、㉙川西町7人、㉚小国町12人、㉛鶴岡市81人、㉜酒田市77人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町6人、㉟三川町2人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児7人、②鶴岡市―保育施設で園児9人と職員2人
 27日、山形県内の新規感染者851人(最多更新)―①山形市218人、②寒河江市35人、③上山市13人、⓸天童市66人、⓹東根市27人、⑥村山市12人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町5人、⑨西川町2人、⑩河北町14人、⑪山辺町6人、⑫大石田町4人、⑬大江町7人、⑭朝日町1人、⑮新庄市54人、⑯舟形町3人、⑰金山町9人、⑱真室川町7人、⑲最上町12人、⑳鮭川村6人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市152人、㉔南陽市21人、㉕長井市10人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町29人、㉙川西町7人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市38人、㉜酒田市56人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町3人、㉟三川町4人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―高校で生徒ら22人、②鶴岡市―保育施設で園児5人、③酒田市―保育施設で園児ら7人、小学校で児童8人、⓸河北町―介護施設で利用者ら5人
 26日、山形県内の新規感染者675人―①山形市174人、②寒河江市33人、③上山市16人、⓸天童市62人、⓹東根市23人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町1人、⑨西川町4人、⑩河北町9人、⑪山辺町6人、⑫大石田町11人、⑬大江町5人、⑭朝日町1人、⑮新庄市43人、⑯舟形町1人、⑰金山町13人、⑱真室川町0人、⑲最上町7人、⑳鮭川村6人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市74人、㉔南陽市21人、㉕長井市10人、㉖白鷹町5人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町22人、㉙川西町1人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市55人、㉜酒田市37人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―病院で職員ら7人、②鶴岡市―事業所で従業員5人、③酒田市―保育施設で園児ら5人
 25日、山形県内の新規感染者355人―①山形市89人、②寒河江市10人、③上山市8人、⓸天童市30人、⓹東根市19人、⑥村山市5人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町2人、⑨西川町1人、⑩河北町5人、⑪山辺町8人、⑫大石田町1人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市16人、⑯舟形町0人、⑰金山町7人、⑱真室川町5人、⑲最上町6人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市50人、㉔南陽市7人、㉕長井市4人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町7人、㉙川西町3人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市27人、㉜酒田市33人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町1人、㉟三川町2人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設4か所で園児と職員計31人、学童施設2ヵ所で利用者と職員計13人、高校で生徒7人、②金山町―医療機関で職員7人
 24日、この1週間の感染者数は日本が96万9000人超で世界最多、米国を上回る
    山形県内の新規感染者543人―①山形市163人、②寒河江市15人、③上山市10人、⓸天童市36人、⓹東根市23人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町7人、⑪山辺町12人、⑫大石田町1人、⑬大江町3人、⑭朝日町0人、⑮新庄市22人、⑯舟形町0人、⑰金山町6人、⑱真室川町2人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市69人、㉔南陽市11人、㉕長井市4人、㉖白鷹町10人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町7人、㉙川西町4人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市62人、㉜酒田市42人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―介護施設で利用者と職員計8人
 23日、国内―新規感染者20万人超(最多更新)、BA.5が96%に、    
    山形県内の新規感染者600人―①山形市188人、②寒河江市45人、③上山市9人、⓸天童市34人、⓹東根市21人、⑥村山市7人、⑦尾花沢市14人、⑧中山町5人、⑨西川町3人、⑩河北町9人、⑪山辺町4人、⑫大石田町1人、⑬大江町1人、⑭朝日町2人、⑮新庄市32人、⑯舟形町1人、⑰金山町8人、⑱真室川町9人、⑲最上町7人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市47人、㉔南陽市11人、㉕長井市11人、㉖白鷹町13人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町9人、㉙川西町0人、㉚小国町8人、㉛鶴岡市58人、㉜酒田市32人、㉝庄内町7人、㉞遊佐町1人、㉟三川町1人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者11人と職員10人、②酒田市―事業所で従業員5人、③金山町―介護施設で利用者4人と職員2人
 22日、国内ー新規感染者19万5000人超(最多更新)
    山形県内の新規感染者610人―①山形市170人、②寒河江市35人、③上山市5人、⓸天童市61人、⓹東根市18人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市33人、⑧中山町3人、⑨西川町1人、⑩河北町7人、⑪山辺町5人、⑫大石田町2人、⑬大江町2人、⑭朝日町3人、⑮新庄市17人、⑯舟形町2人、⑰金山町7人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市52人、㉔南陽市18人、㉕長井市4人、㉖白鷹町12人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町13人、㉙川西町2人、㉚小国町7人、㉛鶴岡市76人、㉜酒田市30人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で利用者5人と職員3人、高校で生徒10人、②米沢市―事業所2ヵ所で従業員計20人、③酒田市―スポーツクラブで所属者9人と職員1人、⓸東根市―病院で職員3人と利用者2人、⓹小国町―介護施設で職員4人と利用者2人
 21日、国内―新規感染が18万人超で最多更新、東京で初の3万人超
    山形県内の新規感染者736人(最多更新)―①山形市206人、②寒河江市61人、③上山市12人、⓸天童市54人、⓹東根市21人、⑥村山市10人、⑦尾花沢市18人、⑧中山町10人、⑨西川町7人、⑩河北町8人、⑪山辺町7人、⑫大石田町2人、⑬大江町8人、⑭朝日町6人、⑮新庄市19人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町4人、⑲最上町0人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市94人、㉔南陽市18人、㉕長井市10人、㉖白鷹町19人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町3人、㉙川西町4人、㉚小国町13人、㉛鶴岡市44人、㉜酒田市55人、㉝庄内町9人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外5人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児5人、高校で生徒11人、②長井市―保育施設で園児5人、③鶴岡市―事業所で従業員5人、
 20日、国内―新規感染が初の15万人超、30府県で過去最多更新
    山形県内の新規感染者581人(最多更新)―①山形市151人、②寒河江市69人、③上山市15人、⓸天童市45人、⓹東根市15人、⑥村山市13人、⑦尾花沢市33人、⑧中山町人、⑨西川町2人、⑩河北町11人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市41人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町8人、⑲最上町6人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市27人、㉔南陽市15人、㉕長井市20人、㉖白鷹町19人、㉗飯豊町9人、㉘高畠町3人、㉙川西町6人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市32人、㉜酒田市21人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児5人、小学校で児童ら9人、②米沢市―保育施設で園児ら9人、③鶴岡市―病院で利用者ら8人、⓸白鷹町―学童施設で児童8人
 19日、山形県内の新規感染者262人―①山形市79人、②寒河江市23人、③上山市4人、⓸天童市13人、⓹東根市12人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町1人、⑨西川町4人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町2人、⑭朝日町1人、⑮新庄市5人、⑯舟形町1人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町4人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市12人、㉔南陽市5人、㉕長井市2人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町2人、㉙川西町2人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市19人、㉜酒田市26人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外11人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児ら10人、②寒河江市―高校で生徒ら26人
 18日、山形県内の新規感染者194人―①山形市56人、②寒河江市31人、③上山市3人、⓸天童市13人、⓹東根市8人、⑥村山市7人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町2人、⑨西川町2人、⑩河北町1人、⑪山辺町2人、⑫大石田町1人、⑬大江町3人、⑭朝日町1人、⑮新庄市10人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市9人、㉔南陽市5人、㉕長井市1人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市6人、㉜酒田市15人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児5人と職員1人
 17日、山形県内の新規感染者252人―①山形市75人、②寒河江市14人、③上山市4人、⓸天童市16人、⓹東根市8人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町6人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市6人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市20人、㉔南陽市8人、㉕長井市5人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町6人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市29人、㉜酒田市24人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―小学校で児童11人、②天童市―高校で生徒5人、③寒河江市―保育施設で園児と職員計6人、⓸中山町―事業所で7人
 16日、国内の新規感染者数 初の11万超
    山形県内の新規感染者321人―①山形市99人、②寒河江市12人、③上山市5人、⓸天童市24人、⓹東根市9人、⑥村山市10人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町9人、⑨西川町3人、⑩河北町1人、⑪山辺町3人、⑫大石田町1人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市14人、⑯舟形町0人、⑰金山町1人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市32人、㉔南陽市12人、㉕長井市3人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町1人、㉘高畠町6人、㉙川西町1人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市16人、㉜酒田市35人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町2人、㉟三川町1人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―学童施設で児童ら8人、障害者施設で9人、大学で学生8人、②米沢市―小学校で児童11人、③鶴岡市―保育施設で児童ら8人、⓸酒田市―学童施設で児童ら9人、⓹遊佐町―保育施設で職員ら5人
 15日、国内感染―10万人超(2月5日以来5カ月ぶり)
    山形県内の新規感染者240人―①山形市54人、②寒河江市5人、③上山市4人、⓸天童市20人、⓹東根市11人、⑥村山市4人、⑦尾花沢市2人、⑧中山町3人、⑨西川町2人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町3人、⑭朝日町1人、⑮新庄市24人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町3人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市24人、㉔南陽市3人、㉕長井市1人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町5人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市27人、㉜酒田市21人、㉝庄内町11人、㉞遊佐町5人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―学童施設で児童11人と職員2人、②南陽市―飲食店で利用者8人と従業員1人、事業所で従業員6人、③天童市―介護施設で利用者7人と職員1人、保育施設で園児7人
 14日、山形県内の新規感染者319人―①山形市84人、②寒河江市8人、③上山市1人、⓸天童市30人、⓹東根市12人、⑥村山市11人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町2人、⑨西川町3人、⑩河北町1人、⑪山辺町3人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市25人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町0人、⑲最上町4人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市25人、㉔南陽市12人、㉕長井市3人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町3人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市40人、㉜酒田市25人、㉝庄内町7人、㉞遊佐町4人、㉟三川町0人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設2か所で園児と職員の計14人、医療機関で職員ら7人、②酒田市―医療機関で職員ら10人、③鶴岡市―高校で生徒5人、
 13日、国内感染―9万人超(5ヵ月ぶり)
    山形県内の新規感染者268人―①山形市67人、②寒河江市6人、③上山市0人、⓸天童市20人、⓹東根市15人、⑥村山市6人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町2人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市23人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町5人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市35人、㉔南陽市14人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町3人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市19人、㉜酒田市31人、㉝庄内町13人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―小学校で児童10人、②新庄市―保育施設で園児ら10人、③米沢市―事業所で利用者ら9人
 12日、山形県内の新規感染者236人―①山形市61人、②寒河江市8人、③上山市2人、⓸天童市28人、⓹東根市19人、⑥村山市13人、⑦尾花沢市0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市22人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町2人、⑲最上町0人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市8人、㉕長井市3人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町1人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市21人、㉜酒田市11人、㉝庄内町10人、㉞遊佐町3人、㉟三川町2人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児ら8人、②東根市―小学校で児童12人、③天童市―高等教育機関で学生5人、④新庄市―保育施設で園児9人、⑤米沢市―事業所で従業員ら5人、⑥鶴岡市―スポーツ少年団で児童ら7人、
 11日、国内感染―第7波に入ったと(政府コロナ対策分科会の尾見会長)
    山形県内の新規感染者97人―①山形市27人、②寒河江市1人、③上山市1人、⓸天童市9人、⓹東根市4人、⑥村山市3人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町1人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市4人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市6人、㉔南陽市3人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市15人、㉜酒田市8人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町2人、㉟三川町0人、㊱県外②人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―事業所で職員5人、
 10日、山形県内の新規感染者135人―①山形市30人、②寒河江市2人、③上山市1人、⓸天童市7人、⓹東根市5人、⑥村山市9人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市6人、㉔南陽市7人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町2人、㉙川西町1人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市38人、㉜酒田市13人、㉝庄内町7人、㉞遊佐町0人、㉟三川町1人、㊱県外0人
 9日、山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―事業所で従業所6人、②酒田市―小学校で児童5人
 8日、山形県内の新規感染者157人―①山形市23人、②寒河江市7人、③上山市1人、⓸天童市7人、⓹東根市10人、⑥村山市2人、⑦尾花沢1人、⑧中山町2人、⑨西川町1人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市0人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市5人、㉔南陽市8人、㉕長井市2人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町4人、㉙川西町6人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市45人、㉜酒田市20人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町1人、㉟三川町0人、㊱県外2人
 7日、山形県内の新規感染者166人―①山形市34人、②寒河江市10人、③上山市1人、⓸天童市5人、⓹東根市21人、⑥村山市3人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町1人、⑪山辺町2人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市5人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市12人、㉔南陽市12人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町0人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市21人、㉜酒田市26人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町1人、㉟三川町1人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒6人、介護施設で利用者ら10人、②酒田市―保育施設で園児ら13人、③川西町―保育施設で園児ら7人
 6日、山形県内の新規感染者120人―①山形市13人、②寒河江市9人、③上山市1人、⓸天童市5人、⓹東根市11人、⑥村山市6人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町2人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市14人、㉔南陽市9人、㉕長井市0人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町5人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市15人、㉜酒田市22人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①南陽市―小学校で児童6人、保育施設で園児ら9人、②鶴岡市―小学校で児童6人、
 5日、国内感染が3万人を超えるのは5月26日以来、「BA.5」が広がっていると見られる。
   山形県内に新規感染者109人―①山形市21人、②寒河江市2人、③上山市0人、⓸天童市6人、⓹東根市10人、⑥村山市3人、⑦尾花沢市4人、⑧朝日町1人、⑨河北町1人、⑩大石田町1人、⑪新庄市2人、⑫最上町1人、⑬大蔵村2人、⑭米沢市2人、⑮長井市1人、⑯南陽市19人、⑯高畠町2人、⑰川西町3人、⑱鶴岡市9人、⑲酒田市15人、⑳三川町1人、㉑庄内町2人、㉒遊佐町1人
 4日、山形県内に新規感染者36人―①山形市7人、②寒河江市2人、③上山市1人、⓸天童市1人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦朝日町1人、⑧中山町1人、⑨河北町1人、⑩大石田町1人、⑪最上町1人、⑫米沢市1人、⑬南陽市4人、⑭高畠町1人、⑮川西町1人、⑯鶴岡市6人、⑰酒田市1人、⑱三川町1人、⑲庄内町1人
 3日、山形県内に新規感染者59人―①山形市13人、②寒河江市3人、③上山市1人、⓸天童市2人、⓹東根市1人、⑥村山市1人、⑦朝日町2人、⑧新庄市2人、⑨米沢市3人、⑩南陽市7人、⑪鶴岡市11人、⑫酒田市6人、⑬三川町3人、⑭庄内町4人
 2日、山形県内の新規感染者130人―①山形市31人、②寒河江市2人、③上山市1人、⓸天童市6人、⓹東根市8人、⑥村山市1人、⑦尾花沢1人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町18人、⑬大江町0人、⑭朝日町1人、⑮新庄市9人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市9人、㉔南陽市18人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町5人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市6人、㉜酒田市5人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町0人、㉟三川町1人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市―高等教育機関で学生ら6人
 1日、山形県内に新規感染者73人―①山形市15人、②尾花沢市1人、③天童市1人、⓹東根市5人、⑥村山市3人、⑦河北町3人、⑧西川町3人、⑨朝日町1人、⑩大石田町3人、⑪新庄市3人、⑫最上町1人、⑬米沢市9人、⑭長井市1人、⑮南陽市13人、⑯高畠町1人、⑰飯豊町1人、⑱鶴岡市5人、⑱酒田市4人
6月30日、山形県内に新規感染者78人―①山形市25人、②尾花沢市2人、③天童市2人、⓹東根市8人、⑥村山市1人、⑦河北町1人、⑧山辺町1人、⑨朝日町1人、⑩大石田町1人、⑪新庄市2人、⑫真室川町1人、⑬米沢市7人、⑭長井市2人、⑮南陽市9人、⑯川西町2人、⑰鶴岡市4人、⑱酒田市9人
    山形県内のクラスター-新たに‐①南陽市―保育施設で園児9人と職員6人
 29日、山形県内に新規感染者104人―①山形市35人、②寒河江市4人、③上山市1人、⓸天童市4人、⓹東根市7人、⑥村山市1人、⑦大石田町5人、⑧新庄市9人、⑨真室川町2人、⑩米沢市14人、⑪南陽市3人、⑫長井市2人、⑬川西町3人、⑭高畠町1人、⑮飯豊町1人、⑯鶴岡市5人、⑰酒田市5人、⑱三川町1人、⑲庄内町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―大学で学生6人、②米沢市―保育施設で園児4人と職員1人
 28日、山形県内に新規感染者80人―①山形市23人、②寒河江市3人、③尾花沢市1人、⓸天童市2人、⓹東根市3人、⑥村山市2人、⑦河北町2人、⑧西川町5人、⑨大石田町14人、⑩新庄市5人、⑪舟形町1人、⑫真室川町1人、⑬米沢市5人、⑭高畠町4人、⑮飯豊町2人、⑰鶴岡市4人、⑱酒田市1人、⑲庄内町2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①西川町―事業所で従業員5人
 27日、山形県内で1人からオミクロン株系の変異種「BA.5」初確認
    山形県内に新規感染者43人―①山形市15人、②天童市5人、③東根市3人、⓸中山町2人、⓹西川町1人、⑥大石田町4人、⑦新庄市4人、⑧米沢市3人、⑨鶴岡市3人、⑩酒田市3人
 26日、山形県内に新規感染者52人―①山形市20人、②天童市2人、③東根市3人、⓸村山市1人、⓹河北町1人、⑥新庄市12人、⑦米沢市5人、⑧南陽市1人、⑨高畠町2人、⑩鶴岡市3人、⑪酒田市1人、⑫庄内町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で園児ら計12人、②三川町―介護施設で職員ら5人
 25日、山形県内に新規感染者64人―①山形市12人、②寒河江市2人、③上山市1人、⓸天童市3人、⓹東根市4人、⑥村山市2人、⑦尾花沢市1人、⑧中山町1人、⑨西川町5人、⑩新庄市12人、⑪大蔵村1人、⑫米沢市2人、⑬南陽市1人、⑭川西町2人、⑮白鷹町1人、⑯鶴岡市3人、⑰酒田市10人、⑮庄内町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―介護施設で職員4人と利用者3人の計7人
 24日、山形県内に新規感染者72人―①山形市24人、②天童市3人、③東根市1人、⓸村山市1人、⓹山辺町1人、⑥大石田町3人、⑦新庄市16人、⑧金山町1人、⑨米沢市11人、⑩高畠町1人、⑪鶴岡市6人、⑫酒田市2人、⑬庄内町2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設2か所で児童ら計21人、②新庄市―保育施設で園児ら9人
 23日、山形県内に新規感染者88人―①山形市29人、②寒河江市3人、③上山市1人、⓸天童市7人、⓹東根市8人、⑥村山市1人、⑦大江町1人、⑧新庄市9人、⑨大蔵村1人、⑩米沢市14人、⑪南陽市2人、⑫鶴岡市8人、⑬酒田市4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―介護施設で職員ら6人、
 22日、山形県内に新規感染者77人―①山形市27人、②寒河江市2人、③上山市0人、⓸天童市5人、⓹東根市2人、⑥村山市0人、⑦山辺町1人、⑧中山町1人、⑨新庄市6人、⑩舟形町1人、⑪米沢市15人、⑫南陽市2人、⑬長井市1人、⑭鶴岡市6人、⑮酒田市8人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で児童8人と職員1人、②天童市―高校で生徒8人
 21日、山形県内に新規感染者58人―①山形市18人、②寒河江市6人、③上山市1人、⓸天童市2人、⓹東根市3人、⑥村山市1人、⑦山辺町3人、⑧河北町2人、⑨大石田町1人、⑩新庄市3人、⑪米沢市4人、⑫南陽市5人、⑬長井市1人、⑭鶴岡市2人、⑮酒田市4人、⑯庄内町1人、⑰三川町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―保育施設で児童7人、②新庄市―介護施設で利用者7人
 20日、山形県内に新規感染者28人―①山形市5人、②寒河江市3人、③東根市3人、⓸中山町1人、⓹新庄市2人、⑥米沢市2人、⑦南陽市2人、⑧川西町1人、⑨鶴岡市1人、⑩酒田市7人、⑭庄内町1人
 19日、山形県内に新規感染者41人―①山形市9人、②寒河江市2人、③天童市4人、⓸上山市2人、⓹山辺町1人、⑥新庄市1人、⑦戸沢村1人、⑧米沢市2人、⑨南陽市1人、⑩長井市1人、⑪飯豊町2人、⑫鶴岡市7人、⑬酒田市5人、⑭庄内町3人
 18日、山形県内に新規感染者71人―①山形市13人、②寒河江市2人、③天童市5人、⓸上山市4人、⓹東根市1人、⑥山辺町2人、⑦中山町1人、⑧新庄市4人、⑨米沢市3人、⑩南陽市9人、⑪高畠町1人、⑫鶴岡市7人、⑬酒田市13人、⑭県外1人
 17日、山形県内に新規感染者69人―①山形市9人、②寒河江市5人、③天童市1人、⓸上山市1人、⓹東根市1人、⑥山辺町2人、⑦大石田町1人、⑧新庄市6人、⑨米沢市14人、⑩南陽市2人、⑪高畠町2人、⑫鶴岡市11人、⑬酒田市11人、⑭三川町1人、⑮庄内町2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―保育施設で園児9人
 16日、山形県内に新規感染者61人―①山形市12人、②寒河江市5人、③天童市4人、⓸上山市1人、⓹東根市1人、⑥山辺町3人、⑦河北町3人、⑧新庄市2人、⑨金山町2人、⑩米沢市4人、⑪南陽市3人、⑫鶴岡市11人、⑬酒田市7人、⑭三川町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒5人
 15日、山形県内に新規感染者75人―①山形市20人、②寒河江市3人、③天童市7人、⓸上山市1人、⓹村山市1人、⑥山辺町4人、⑦河北町1人、⑧新庄市3人、⑨米沢市14人、⑩長井市1人、⑫南陽市2人、⑬高畠町2人、⑭鶴岡市8人、⑮酒田市5人、⑲庄内町2人
 14日、山形県内に新規感染者74人―①山形市16人、②寒河江市4人、③天童市11人、⓸上山市1人、⓹東根市2人、⑥山辺町6人、⑦河北町2人、⑧新庄市5人、⑨金山町1人、⑩真室川町1人、⑪米沢市3人、⑫長井市1人、⑬南陽市3人、⑭高畠町1人、⑮川西町4人、⑯小国町1人、⑰鶴岡市3人、⑱酒田市7人、⑲庄内町2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―保育施設で児童ら10人、②庄内町―中学校で生徒ら6人
 13日、山形県内に新規感染者39人―①山形市7人、②寒河江市3人、③天童市5人、⓸河北町1人、⓹大石田町1人、⑥新庄市6人、⑦米沢市6人、⑧鶴岡市6人、⑨酒田市3人、⑩庄内町1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―小学校で児童5人
 12日、山形県内に新規感染者71人―①山形市13人、②寒河江市5人、③上山市1人、⓸村山市1人、⓹山辺町8人、⑥河北町2人、⑦新庄市1人、⑧米沢市8人、⑨長井市1人、⑩川西町1人、⑪飯豊町2人、⑫鶴岡市11人、⑬酒田市7人、⑮庄内町9人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で職員5人、②天童市―介護施設で利用者3人と職員2人
 11日、山形県内に新規感染者72人―①山形市16人、②寒河江市6人、③天童市13人、⓸上山市1人、⓹山辺町3人、⑥河北町2人、⑦新庄市1人、⑧真室川町1人、⑨米沢市11人、⑩長井市1人、⑪高畠町1人、⑫川西町1人、⑬鶴岡市5人、⑭酒田市9人、⑮庄内町1人
 10日、山形県内に新規感染者66人―①山形市15人、②寒河江市7人、③天童市3人、⓸山辺町7人、⑥河北町1人、⑦新庄市1人、⑧米沢市5人、⑨南陽市1人、⑩高畠町1人、⑪川西町1人、⑫飯豊町4人、⑬鶴岡市8人、⑭酒田市2人、⑮庄内町9人、⑯三川町1人
 山形県内のクラスター-新たに‐①天童市―保育施設で職員ら6人、②山辺町―保育施設で園児9人
 9日、山形県内の新規感染者89人―①山形市12人、②寒河江市9人、③上山市0人、⓸天童市6人、⓹東根市1人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町1人、⑨西川町0人、⑩河北町0人、⑪山辺町7人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市9人、㉔南陽市1人、㉕長井市1人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町3人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市14人、㉜酒田市12人、㉝庄内町5人、㉞遊佐町1人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―高校で生徒6人、②鶴岡市―保育施設で職員2人と園児5人、③酒田市―小学校で児童4人と職員1人
 8日、山形県内に新規感染者88人―①山形市12人、②寒河江市12人、③天童市3人、⓸東根市3人、⓹山辺町2人、⑥新庄市1人、⑦米沢市10人、⑧南陽市2人、⑨長井市2人、⑩高畠町4人、⑪小国町2人、⑫飯豊町2人、⑬鶴岡市9人、⑭酒田市16人、⑮遊佐町1人、⑯庄内町6人、⑰三川町1人
 山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市―小学校で児童10人
 7日、山形県内に新規感染者51人―①山形市7人、②寒河江市7人、③天童市2人、⓸東根市3人、⓹河北町1人、⑥新庄市2人、⑦米沢市5人、⑧南陽市3人、⑨高畠町1人、⑩小国町2人、⑪飯豊町5人、⑫鶴岡市4人、⑬酒田市7人、⑭遊佐町1人、⑮三川町1人
 山形県内のクラスター-新たに‐①庄内町―飲食店での事業所の懇談会で参加者5人
 6日、山形県内に新規感染者37人―①山形市4人、②寒河江市3人、③天童市1人、⓸西川町1人、⓹最上町1人、⑥米沢市5人、⑦高畠町1人、⑧小国町1人、⑨飯豊町2人、⑩鶴岡市3人、⑪酒田市13人、⑫遊佐町1人、⑬県外1人、
 5日、山形県内に新規感染者40人―①山形市4人、②天童市4人、③米沢市5人、④高畠町1人、⑤鶴岡市13人、⑥酒田市5人、⑦県外2人
 4日、山形県内の新規感染者70人―①山形市9人、②寒河江市4人、③上山市0人、⓸天童市3人、⓹東根市1人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町2人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市12人、㉔南陽市0人、㉕長井市2人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町1人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市16人、㉜酒田市11人、㉝庄内町2人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外2人
 3日、山形県内の新規感染者85人―①山形市16人、②寒河江市8人、③上山市1人、⓸天童市4人、⓹東根市3人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町2人、⑨西川町1人、⑩河北町0人、⑪山辺町3人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市2人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市13人、㉔南陽市0人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町0人、㉙川西町0人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市21人、㉜酒田市7人、㉝庄内町0人、㉞遊佐町0人、㉟三川町0人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市―事業所で従業員5人
 2日、山形県内の新規感染者80人―①山形市13人、②寒河江市9人、③上山市0人、⓸天童市5人、⓹東根市4人、⑥村山市0人、⑦尾花沢0人、⑧中山町0人、⑨西川町1人、⑩河北町4人、⑪山辺町0人、⑫大石田町0人、⑬大江町0人、⑭朝日町0人、⑮新庄市1人、⑯舟形町0人、⑰金山町0人、⑱真室川町0人、⑲最上町0人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市11人、㉔南陽市3人、㉕長井市1人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町1人、㉙川西町2人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市17人、㉜酒田市5人、㉝庄内町1人、㉞遊佐町1人、㉟三川町1人、㊱県外0人
    山�%B

2022年06月03日

自衛隊を憲法9条に明記したら、かえって戦争を呼び込む

 ロシア・ウクライナ戦争―隣国のロシアから侵攻を受けたウクライナが懸命に抗戦し奮戦、それをアメリカなどNATO加盟国が盛んに軍事支援している様子―を連日ニュースで見せつけられ、この日本も隣国の中国や北朝鮮・ロシアなどから「攻め込まれたらどうする」「9条で日本は守れない」「憲法改正しないと戦えない」などと言い立てる向きがある。それに乗じて岸田首相の自民党に加えて維新の党など改憲派が攻勢をかけてきている
 しかし、日本の場合は、ウクライナ対ロシアの関係とは全く異なり、中国・北朝鮮・ロシアなど「危ない国」とはいっても、必ずしも一方的に侵攻してきて、それに対して自衛隊と国民までも動員して抗戦し戦わなければならなくなるというような関係ではあるまい。
 むしろ、日本が安保条約で同盟を結んでいるアメリカが台湾有事や朝鮮半島有事に際して中国・北朝鮮と交戦する事態となり、日本の基地から米軍が出撃し、自衛隊がそれを支援するとなったその時に、中国や北朝鮮が日本に対して反撃してくるということで、アメリカとの戦争にからんだこれらの国の日本への反撃なのであって、日本がこれらの隣国から侵略攻撃されて自衛・抗戦しなければならないということではあるまい。したがって、そのような中国・北朝鮮の侵攻に備えて改憲(9条に自衛隊保持を明記)しなければならないという理由にはならないわけ。
 それどころか、自衛隊と日米安保(同盟)があることによって日本がアメリカの戦争に加担(米軍に基地を提供し、自衛隊が米軍を支援)しなければならず、それが中国や北朝鮮の反撃を招くのであって、その自衛隊を憲法9条に明記などしたら、かえってそれが戦争を呼び込む結果となり、「改正」どころか「改悪」以外の何ものでもないことになるのでは。

2022年07月08日

戦争に自由も人権もない―命あっての自由

 最近の朝日新聞の「声」投稿(『自由よりも平和が大切ですか』)に「『ウクライナに平和を』、『とにかくまず停船を』に違和感」、「どういう平和でも、平和でありさえすればいいのか」、「ウクライナ国民が戦い続けるのは、自由や人権を保障されないような平和なら要らないということではないか」、「自由や人権の保障される国のために戦う、その覚悟があるかと私たちも問われているように思う」とあった。
しかし、戦いを継続しているその間に、それに巻き込まれて犠牲になり、数多の命が失われている。
 生命は各人が有する人間的価値すべての根源を成すものであり、自由も人権も命なくしてあり得ず、平和的生存権の保障なくして自由・人権の保障もないわけである。
戦争は非戦闘員・子供らまでがそれに巻き込まれて犠牲になる。平和とは、そのような戦争がなく、人々の生命の安全が保障され安心して生きていられる状態にほかならない。
だからといって、戦わずに、生命だけ奪われずに済んでも、相手国との戦争回避交渉あるいは停戦交渉で譲歩を強いられて国家主権や自由・人権も損なわれる不利な結果となるかもしれない、その場合は、「そんな平和に甘んじるくらいなら戦って死んだ方がマシだ」、「総動員令で出国禁止もやむなし、犠牲者が出てもしかたない、徹底抗戦あるのみだ」という気持ちになるのも自然の感情であり、心情的には分かる。しかし、それでも国民の生命の平和的生存権さえ保持されれば自由・人権はもとより主権回復の可能性にも希望をつなげることができるわけであり、戦いで犠牲になった数多の人々がその生命とともに有してきた自由・人権など全ての可能性が永遠に断たれてしまうよりはまだマシ。
 我が国は国民に自由や人権が保障される平和国家でなければならないとするが故に、「戦う」のではなく、むしろ「戦わない」覚悟を持つべしと定めたのが日本国憲法なのでは、と思うのだが、如何なものだろうか。

人間の世界と他の動物の世界との違い

動物の世界―弱肉強食・優勝劣敗の生存競争(闘争)
 ―生存圏(テリトリー・縄張り)を力(それぞれに身についた武器)で守らなければならない
  戦う力が弱いか空白(無防備)であればそれ(隙)に乗じて必ず侵攻を招く―戦う抑止力が必要不可欠 
    「力には力」―「力にものを云わせる」                     
人間の世界には力(武力)は要らない―平和共存・友好協力が可能
生存権(食料・資源・生活手段)の確保で競合・衝突あれば話し合い・交渉・説得→合意→約束(協定)→ルールに共に従う―従わなければ不利益を被る
    それでも自存のために力で押し通そうと(武力行使・侵攻)すれば、その場合は
 ①侵攻された当事国はもとより国際社会も徹底的に抗議・非難(いずれも非軍事で交渉・説得)(抗戦して「戦争」にはしない―戦争は互いに相手と戦うことによって成立・展開し、戦闘員だけでなく民間人まで巻き込むが、両者あるいはどちらか一方でも戦わないか、戦いをやめれば戦争にはならないか止まるもの)
 ②相手国は抗戦―それに備えて各国とも軍備(軍事的抑止力)が必須か?
        個別的自衛権の行使および集団的自衛権の行使も
          (日本では憲法9条で「戦力不保持」となっているが?)
 ③国際社会が制裁←国連などの集団安全保障―軍事・非軍事制裁
                      (国連には未だ不備なところがあるが)
 いずれにしろ、動物の世界のように「戦う力」で対応するのが当たり前ということではなく、戦力保持が必須と云うわけではないのでは。

日本の外交・安全保障と憲法―ウクライナ戦争に鑑みて

ウクライナ方式(対ロシア)―徹底抗戦(総動員令―18~60才男性は出国禁止)
                  ←米欧(NATO加盟国)支援
日本は中国(台湾有事)や北朝鮮(朝鮮戦争再開)・ロシア等に対してどう対応・対処すればよいのか
(1)攻められないようにするには
 ①軍事的抑止力を強化―自衛隊と日米同盟で―そのために改憲(9条に自衛隊明記) 
   防衛費GDP比2%へ倍増(11兆円超でロシアをしのぐ世界3位の軍事大国へ) 
   「反撃能力」(敵基地攻撃能力)・核共有も
 ②非軍事・平和外交―9条堅持(安心供与―脅威を与えない)
          東アジア集団安全保障―北東アジア友好協力条約など目指す
(2)攻められたら
 ①戦う(抗戦)―自衛隊と日米同盟で―そのために改憲
 ②不戦(台湾有事・朝鮮半島有事などには軍事介入せず、戦争に巻き込まれるのを回避)(戦いには応じず抗戦せず、話し合いだけに応じ談判)―9条堅持
 それぞれ、どちらを選ぶか?

 それらを考えるうえでの価値観だが、次のうちどれが一番大事と考えるかだ。
 { 国(日本・領土・国益・国威・国家の名誉)、自由・人権、民主主義、法秩序(決まり)、カネ(富)、人々(自他・家族・同胞)の生命(平和・安全に生きる権利)、その他}
 これらのうち、この一線だけは譲れない、何はさておいても(他は全て犠牲にしても)これだけは守り抜かなければならない(犠牲にしてはならない)と思うものはどれか?
 他国との対立・紛争に際しては、その国その国で、歴史的に国民がそれぞれ自分の置かれた政治的・社会的立場、或いは家族・肉身や掛け替えのない人との人間関係における立場などによって、子や家族や大事な人の生命を守るために本能的に自らの命を顧みずに戦いに身を投ずるとか、為政者が自分のリーダーシップの下に国民を結束させようとして愛国心に訴えて独立・自由を守るのだとか大義を掲げて決起を促し、それに呼応して一心不乱に戦って死んでも本望だという国民感情が先立つ場合もあるわけである。
 しかし、そのような心情論(主観的感情論)はあっても、客観的合理的に考えて、全ての人間にとって一番大事なのは(犠牲にしてはならないものは)やはり「生命」であり、「命どう宝」。その生命とともに日々の暮らしと人生を恐怖も欠乏もなく安全・平和の裡に全うできる権利の保障である。人々にとって自由・人権は大事だが、中でも最重要なのは、その平和的生存権である。
 生きている価値があるとか、ないとか、どうのこうの云っても、生命があって生きているからこそ価値が与えられるのであって、生命が無ければ自由だの人権だの何の価値も発生しないわけである。 
 問題は、日本が中国や北朝鮮・ロシア等から「攻められないようにするには」どう対応すればよいのか、或いは「攻められたら」どう対処すればよいのか、上記(1)(2)それぞれ①と②のどちらを採ればよいのかであるが、生命の安全と平和的生存権の保障の観点からすれば、いずれも②即ち非軍事・不戦の方だろう。
 即ち、「攻められないように」非軍事・平和外交に徹し、「攻められたら」(家族・同胞の生命を守るために戦うといっても、抗戦・反撃して攻撃の応酬になれば、相手からの攻撃が繰り返されて長引きエスカレートして、かえって被害と犠牲者は増えるばかりとなり、抗戦は防御とはならないのであって)むしろ戦わず、応戦しなければ、相手から最初の攻撃はあってもその後は攻撃を受けることなく、巻き込まれて犠牲になることもなくて済む道理なわけであり、非軍事に徹して戦わないようにする方がむしろ賢明なのでは、と思うのだが、如何なものだろうか。

2022年08月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき15)(随時加筆)

新型コロナウイルス
      
世界の感染者総数6億0305万6865(+78万7421)、死亡者総数649万4858(+3949)
 上位国    感染者         死亡者     ()は前日比                  アメリカ9453万2122(+15万1129)    104万6243(+1480)
  インド  4443万6339(+?万)   52万7911(+?)   
ブラジル 3442万9853(+1万5842)   68万3965(+114)         
  ロシア 1924万4647(+4万5784)     37万6558(+89)
   フランス3474万5833(+1万9564)   15万5133(+54)         
イギリス  2373万8011(+2万9171)       20万6317(+591)                  
  * トルコ1667万1848(+万)   10万0400(+)  17日のまま     
 *スペイン1334万2530(+)    11万2600(+) 8月31日のまま                           
   ドイツ 3218万4553(+?万)    14万7494(+?)        
    イタリア 2186万7757(+2万1814)      17万5595(+90)
    
  インドネシア635万8808(+4563)   15万7566(+25) 
   フィリピン388万0229(+1495)     6万1814(+41) 
   日本 1911万7867(+14万9904)人    4万0261(+306)(午後8時0分現在 朝日)
    韓国   2332万7897(+8万1499)   2万6876(+112)
    中国 249万8088(+1万1225)     1万4922(+9)
  <9月1日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都294万0070(+1万4451)  5351(+30)
                  大阪府192万8878(+1万1095)   6045(+27)
                   神奈川県136万2276(+5760) 2797(+22) 
                  埼玉県107万1916(+7493)   2111(+18)
                  愛知県122万0041(+1万0101)    2640(+15)
                  北海道65万6283(+5637)   2429(+8)
                  兵庫県91万2559(+7410)    2652(+18)                                        
                  千葉県 85万2734(+6051)   2261(+13)         
                   福岡県99万1963(+7595)   1760(+24)               
                  京都府43万1001(+3685)     916(+8)                                                          
                  沖縄県 47万6686(+2040)  623(+8)
                  広島県36万9549(+4774)   651(+2)
                                    
                  宮城県22万7909(+2104)    310(+4)
                  福島県15万5095(+2192)     244(+0)
                  山形県8万4026(+1729)     156(+3)
                  岩手県9万2301(+1162)     165(+2)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <9月1日午後8時0分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

   国内ワクチン接種率―9月1日、全体の2回目接種率81.4%
                   3回目    64.7%
========================================
8月31日、山形県内の新規感染者1682人―①山形市326人、②寒河江市86人、③上山市57人、⓸天童市115人、⓹東根市100人、⑥村山市29人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町20人、⑨西川町4人、⑩河北町7人、⑪山辺町21人、⑫大石田町8人、⑬大江町6人、⑭朝日町6人、⑮新庄市87人、⑯舟形町2人、⑰金山町8人、⑱真室川町6人、⑲最上町9人、⑳鮭川村7人、㉑大蔵村10人、㉒戸沢村6人、㉓米沢市120人、㉔南陽市52人、㉕長井市48人、㉖白鷹町9人、㉗飯豊町11人、㉘高畠町23人、㉙川西町19人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市227人、㉜酒田市166人、㉝庄内町32人、㉞遊佐町25人、㉟三川町9人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設2ヵ所で計20人、②米沢市ー介護施設で7人、③舟形町ー障碍者施設で6人、⓸大蔵村—介護施設で5人
 30日、山形県内の新規感染者1324人―①山形市250人、②寒河江市103人、③上山市53人、⓸天童市77人、⓹東根市84人、⑥村山市33人、⑦尾花沢市14人、⑧中山町11人、⑨西川町5人、⑩河北町11人、⑪山辺町10人、⑫大石田町11人、⑬大江町15人、⑭朝日町3人、⑮新庄市37人、⑯舟形町3人、⑰金山町3人、⑱真室川町7人、⑲最上町8人、⑳鮭川村10人、㉑大蔵村9人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市110人、㉔南陽市50人、㉕長井市46人、㉖白鷹町25人、㉗飯豊町20人、㉘高畠町15人、㉙川西町22人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市144人、㉜酒田市91人、㉝庄内町17人、㉞遊佐町14人、㉟三川町1人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市―医療機関で利用者ら20人、②鮭川村ー介護施設で利用者ら7人
 29日、山形県内の新規感染者759人―①山形市183人、②寒河江市27人、③上山市20人、⓸天童市26人、⓹東根市44人、⑥村山市13人、⑦尾花沢市5人、⑧中山町5人、⑨西川町1人、⑩河北町15人、⑪山辺町9人、⑫大石田町7人、⑬大江町1人、⑭朝日町3人、⑮新庄市24人、⑯舟形町0人、⑰金山町5人、⑱真室川町1人、⑲最上町1人、⑳鮭川村4人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市91人、㉔南陽市35人、㉕長井市14人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町12人、㉘高畠町16人、㉙川西町16人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市71人、㉜酒田市60人、㉝庄内町19人、㉞遊佐町10人、㉟三川町3人、㊱県外3人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で11人
 28日、山形県内の新規感染者1340人―①山形市272人、②寒河江市48人、③上山市39人、⓸天童市59人、⓹東根市66人、⑥村山市28人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町12人、⑨西川町2人、⑩河北町20人、⑪山辺町11人、⑫大石田町11人、⑬大江町6人、⑭朝日町2人、⑮新庄市42人、⑯舟形町0人、⑰金山町3人、⑱真室川町0人、⑲最上町3人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村3人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市97人、㉔南陽市23人、㉕長井市30人、㉖白鷹町19人、㉗飯豊町9人、㉘高畠町20人、㉙川西町24人、㉚小国町0人、㉛鶴岡市231人、㉜酒田市154人、㉝庄内町45人、㉞遊佐町28人、㉟三川町9人、㊱県外7人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で8人、②米沢市ー介護施設で6人
 27日、山形県内の新規感染者1610人―①山形市446人、②寒河江市61人、③上山市67人、⓸天童市89人、⓹東根市82人、⑥村山市30人、⑦尾花沢市18人、⑧中山町15人、⑨西川町6人、⑩河北町22人、⑪山辺町15人、⑫大石田町10人、⑬大江町8人、⑭朝日町5人、⑮新庄市33人、⑯舟形町4人、⑰金山町7人、⑱真室川町2人、⑲最上町8人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市131人、㉔南陽市44人、㉕長井市54人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町6人、㉘高畠町24人、㉙川西町25人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市182人、㉜酒田市117人、㉝庄内町31人、㉞遊佐町27人、㉟三川町6人、㊱県外11人
    山形県内のクラスター-新たに‐①舟形町―介護施設で職員2人と利用者5人、②米沢市ー介護施設で職員1人と利用者5人
 26日、山形県内の新規感染者1400人―①山形市318人、②寒河江市56人、③上山市41人、⓸天童市91人、⓹東根市70人、⑥村山市19人、⑦尾花沢市24人、⑧中山町15人、⑨西川町0人、⑩河北町21人、⑪山辺町17人、⑫大石田町9人、⑬大江町10人、⑭朝日町2人、⑮新庄市20人、⑯舟形町7人、⑰金山町9人、⑱真室川町3人、⑲最上町6人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市92人、㉔南陽市40人、㉕長井市27人、㉖白鷹町6人、㉗飯豊町11人、㉘高畠町24人、㉙川西町24人、㉚小国町8人、㉛鶴岡市198人、㉜酒田市156人、㉝庄内町37人、㉞遊佐町21人、㉟三川町5人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①川西町―介護施設で利用者3人と職員2人
 25日、山形県内の新規感染者1898人―①山形市499人、②寒河江市71人、③上山市43人、⓸天童市101人、⓹東根市69人、⑥村山市25人、⑦尾花沢市33人、⑧中山町12人、⑨西川町7人、⑩河北町26人、⑪山辺町9人、⑫大石田町15人、⑬大江町10人、⑭朝日町7人、⑮新庄市49人、⑯舟形町8人、⑰金山町5人、⑱真室川町11人、⑲最上町6人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村4人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市153人、㉔南陽市52人、㉕長井市54人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町22人、㉘高畠町26人、㉙川西町30人、㉚小国町7人、㉛鶴岡市293人、㉜酒田市163人、㉝庄内町31人、㉞遊佐町23人、㉟三川町8人、㊱県外8人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―医療機関で利用者ら18人、福祉施設で利用者6人、②米沢市ー介護施設で利用者ら6人
 24日、山形県内の新規感染者1803人―①山形市273人、②寒河江市83人、③上山市51人、⓸天童市148人、⓹東根市119人、⑥村山市35人、⑦尾花沢市119人、⑧中山町12人、⑨西川町5人、⑩河北町41人、⑪山辺町21人、⑫大石田町15人、⑬大江町15人、⑭朝日町4人、⑮新庄市36人、⑯舟形町8人、⑰金山町4人、⑱真室川町5人、⑲最上町11人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村10人、㉓米沢市155人、㉔南陽市46人、㉕長井市51人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町23人、㉘高畠町27人、㉙川西町31人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市196人、㉜酒田市247人、㉝庄内町45人、㉞遊佐町23人、㉟三川町6人、㊱県外9人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者ら5人、障害者施設で利用者6人
 23日、国内感染―新規死者数(343人)過去最多
    山形県内の新規感染者1427人―①山形市323人、②寒河江市60人、③上山市47人、⓸天童市75人、⓹東根市74人、⑥村山市32人、⑦尾花沢市31人、⑧中山町17人、⑨西川町7人、⑩河北町18人、⑪山辺町15人、⑫大石田町10人、⑬大江町13人、⑭朝日町6人、⑮新庄市64人、⑯舟形町5人、⑰金山町9人、⑱真室川町19人、⑲最上町15人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村4人、㉒戸沢村16人、㉓米沢市108人、㉔南陽市40人、㉕長井市35人、㉖白鷹町22人、㉗飯豊町14人、㉘高畠町15人、㉙川西町24人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市127人、㉜酒田市120人、㉝庄内町26人、㉞遊佐町11人、㉟三川町6人、㊱県外17人
 22日、山形県内の新規感染者1108人―①山形市351人、②寒河江市23人、③上山市13人、⓸天童市43人、⓹東根市52人、⑥村山市18人、⑦尾花沢市30人、⑧中山町4人、⑨西川町1人、⑩河北町13人、⑪山辺町17人、⑫大石田町9人、⑬大江町3人、⑭朝日町7人、⑮新庄市41人、⑯舟形町6人、⑰金山町2人、⑱真室川町4人、⑲最上町6人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市128人、㉔南陽市40人、㉕長井市12人、㉖白鷹町8人、㉗飯豊町9人、㉘高畠町31人、㉙川西町25人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市80人、㉜酒田市71人、㉝庄内町13人、㉞遊佐町14人、㉟三川町1人、㊱県外22人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者6人
 21日、山形県内の新規感染者1804人―①山形市396人、②寒河江市46人、③上山市47人、⓸天童市135人、⓹東根市94人、⑥村山市34人、⑦尾花沢市45人、⑧中山町20人、⑨西川町2人、⑩河北町23人、⑪山辺町19人、⑫大石田町15人、⑬大江町13人、⑭朝日町8人、⑮新庄市50人、⑯舟形町3人、⑰金山町6人、⑱真室川町26人、⑲最上町16人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村14人、㉓米沢市182人、㉔南陽市23人、㉕長井市34人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町15人、㉘高畠町20人、㉙川西町31人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市206人、㉜酒田市171人、㉝庄内町30人、㉞遊佐町20人、㉟三川町9人、㊱県外34人
 20日、山形県内の新規感染者1999人(最多更新)―①山形市446人、②寒河江市71人、③上山市44人、⓸天童市166人、⓹東根市90人、⑥村山市34人、⑦尾花沢市41人、⑧中山町16人、⑨西川町5人、⑩河北町25人、⑪山辺町35人、⑫大石田町14人、⑬大江町28人、⑭朝日町3人、⑮新庄市60人、⑯舟形町3人、⑰金山町17人、⑱真室川町17人、⑲最上町9人、⑳鮭川村8人、㉑大蔵村5人、㉒戸沢村13人、㉓米沢市123人、㉔南陽市49人、㉕長井市60人、㉖白鷹町22人、㉗飯豊町22人、㉘高畠町47人、㉙川西町29人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市211人、㉜酒田市203人、㉝庄内町31人、㉞遊佐町15人、㉟三川町7人、㊱県外26人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―障害者施設で利用者ら5人、②庄内町―医療機関で利用者ら27人
 19日、国内―新規感染者26万人超(最多更新)
    山形県内の新規感染者1978人(最多更新)―①山形市350人、②寒河江市74人、③上山市27人、⓸天童市152人、⓹東根市52人、⑥村山市35人、⑦尾花沢市52人、⑧中山町25人、⑨西川町5人、⑩河北町16人、⑪山辺町21人、⑫大石田町15人、⑬大江町33人、⑭朝日町15人、⑮新庄市62人、⑯舟形町6人、⑰金山町9人、⑱真室川町14人、⑲最上町15人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村7人、㉒戸沢村13人、㉓米沢市246人、㉔南陽市29人、㉕長井市37人、㉖白鷹町17人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町31人、㉙川西町31人、㉚小国町12人、㉛鶴岡市219人、㉜酒田市213人、㉝庄内町35人、㉞遊佐町19人、㉟三川町6人、㊱県外26人
 18日、国内―新規感染者25.5万人(最多更新)
    山形県内の新規感染者1948人(最多更新)―①山形市478人、②寒河江市72人、③上山市75人、⓸天童市117人、⓹東根市99人、⑥村山市28人、⑦尾花沢市23人、⑧中山町25人、⑨西川町4人、⑩河北町20人、⑪山辺町14人、⑫大石田町8人、⑬大江町14人、⑭朝日町5人、⑮新庄市81人、⑯舟形町3人、⑰金山町7人、⑱真室川町22人、⑲最上町14人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村4人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市145人、㉔南陽市51人、㉕長井市52人、㉖白鷹町13人、㉗飯豊町14人、㉘高畠町27人、㉙川西町27人、㉚小国町11人、㉛鶴岡市165人、㉜酒田市222人、㉝庄内町37人、㉞遊佐町13人、㉟三川町3人、㊱県外46人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で利用者ら11人、②酒田市―病院で職員ら11人、③米沢市・長井市・戸沢村—いずれも介護施設で利用者と職員計22人
 17日、山形県内の新規感染者1643人(過去最多)―①山形市256人、②寒河江市54人、③上山市53人、⓸天童市114人、⓹東根市60人、⑥村山市18人、⑦尾花沢市33人、⑧中山町19人、⑨西川町10人、⑩河北町30人、⑪山辺町28人、⑫大石田町12人、⑬大江町8人、⑭朝日町22人、⑮新庄市106人、⑯舟形町3人、⑰金山町4人、⑱真室川町21人、⑲最上町13人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村4人、㉒戸沢村8人、㉓米沢市190人、㉔南陽市46人、㉕長井市18人、㉖白鷹町21人、㉗飯豊町12人、㉘高畠町17人、㉙川西町27人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市165人、㉜酒田市178人、㉝庄内町21人、㉞遊佐町11人、㉟三川町8人、㊱県外44人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で利用者ら26人、②米沢市―病院で職員6人、別の病院で利用者ら5人
 16日、山形県内の新規感染者1087人―①山形市273人、②寒河江市24人、③上山市53人、⓸天童市48人、⓹東根市39人、⑥村山市21人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町4人、⑨西川町3人、⑩河北町4人、⑪山辺町24人、⑫大石田町5人、⑬大江町5人、⑭朝日町8人、⑮新庄市55人、⑯舟形町1人、⑰金山町8人、⑱真室川町19人、⑲最上町8人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村8人、㉒戸沢村10人、㉓米沢市109人、㉔南陽市37人、㉕長井市26人、㉖白鷹町22人、㉗飯豊町11人、㉘高畠町12人、㉙川西町20人、㉚小国町9人、㉛鶴岡市81人、㉜酒田市79人、㉝庄内町11人、㉞遊佐町7人、㉟三川町2人、㊱県外27人
 15日、山形県内の新規感染者999人―①山形市308人、②寒河江市33人、③上山市15人、⓸天童市67人、⓹東根市48人、⑥村山市6人、⑦尾花沢市15人、⑧中山町17人、⑨西川町2人、⑩河北町10人、⑪山辺町3人、⑫大石田町3人、⑬大江町3人、⑭朝日町7人、⑮新庄市36人、⑯舟形町1人、⑰金山町3人、⑱真室川町11人、⑲最上町6人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市121人、㉔南陽市17人、㉕長井市14人、㉖白鷹町3人、㉗飯豊町2人、㉘高畠町4人、㉙川西町7人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市96人、㉜酒田市64人、㉝庄内町13人、㉞遊佐町6人、㉟三川町3人、㊱県外6人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―障害者施設で利用者ら10人、
 14日、山形県内の新規感染者1073人―①山形市303人、②寒河江市26人、③上山市30人、⓸天童市38人、⓹東根市55人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市10人、⑧中山町13人、⑨西川町1人、⑩河北町11人、⑪山辺町13人、⑫大石田町7人、⑬大江町5人、⑭朝日町3人、⑮新庄市29人、⑯舟形町4人、⑰金山町1人、⑱真室川町18人、⑲最上町4人、⑳鮭川村4人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市111人、㉔南陽市38人、㉕長井市13人、㉖白鷹町8人、㉗飯豊町7人、㉘高畠町13人、㉙川西町31人、㉚小国町10人、㉛鶴岡市115人、㉜酒田市98人、㉝庄内町15人、㉞遊佐町3人、㉟三川町2人、㊱県外25人、
 13日、山形県内の新規感染者1067人―①山形市262人、②寒河江市34人、③上山市45人、⓸天童市88人、⓹東根市43人、⑥村山市16人、⑦尾花沢市11人、⑧中山町15人、⑨西川町2人、⑩河北町10人、⑪山辺町3人、⑫大石田町10人、⑬大江町7人、⑭朝日町8人、⑮新庄市46人、⑯舟形町4人、⑰金山町5人、⑱真室川町19人、⑲最上町14人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市118人、㉔南陽市21人、㉕長井市25人、㉖白鷹町18人、㉗飯豊町9人、㉘高畠町12人、㉙川西町26人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市82人、㉜酒田市63人、㉝庄内町11人、㉞遊佐町10人、㉟三川町4人、㊱県外17人
    山形県内のクラスター-新たに6件‐山形市と米沢市・酒田市にある計5介護施設と、山形市の障害者施設
 12日、山形県内の新規感染者1063人―①山形市365人、②寒河江市10人、③上山市24人、⓸天童市34人、⓹東根市52人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市6人、⑧中山町11人、⑨西川町5人、⑩河北町6人、⑪山辺町9人、⑫大石田町5人、⑬大江町4人、⑭朝日町1人、⑮新庄市30人、⑯舟形町2人、⑰金山町2人、⑱真室川町6人、⑲最上町1人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市143人、㉔南陽市24人、㉕長井市22人、㉖白鷹町10人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町6人、㉙川西町18人、㉚小国町7人、㉛鶴岡市122人、㉜酒田市86人、㉝庄内町14人、㉞遊佐町4人、㉟三川町5人、㊱県外16人
    山形県内のクラスター-新たに‐酒田市と三川町―3か所の介護施設で利用者と職員計35人、
 11日、山形県内の新規感染者1462人(最多更新)―①山形市353人、②寒河江市44人、③上山市43人、⓸天童市66人、⓹東根市67人、⑥村山市44人、⑦尾花沢市20人、⑧中山町11人、⑨西川町3人、⑩河北町15人、⑪山辺町13人、⑫大石田町13人、⑬大江町8人、⑭朝日町1人、⑮新庄市81人、⑯舟形町3人、⑰金山町2人、⑱真室川町20人、⑲最上町17人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村6人、㉓米沢市194(過去最多)人、㉔南陽市52人、㉕長井市31人、㉖白鷹町9人、㉗飯豊町4人、㉘高畠町15人、㉙川西町19人、㉚小国町8人、㉛鶴岡市159人、㉜酒田市105人、㉝庄内町12人、㉞遊佐町5人、㉟三川町5人、㊱県外10人
 10日、山形県内の新規感染者1387人(過去最多)―①山形市304人、②寒河江市36人、③上山市60人、⓸天童市87人、⓹東根市66人、⑥村山市35人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町19人、⑨西川町3人、⑩河北町15人、⑪山辺町7人、⑫大石田町7人、⑬大江町6人、⑭朝日町1人、⑮新庄市93人、⑯舟形町6人、⑰金山町2人、⑱真室川町20人、⑲最上町14人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市153人、㉔南陽市22人、㉕長井市46人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町6人、㉘高畠町16人、㉙川西町18人、㉚小国町9人、㉛鶴岡市138人、㉜酒田市132人、㉝庄内町10人、㉞遊佐町8人、㉟三川町3人、㊱県外18人
 9日、山形県内の新規感染者1064人―①山形市216人、②寒河江市49人、③上山市56人、⓸天童市74人、⓹東根市55人、⑥村山市34人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町21人、⑨西川町7人、⑩河北町17人、⑪山辺町9人、⑫大石田町12人、⑬大江町6人、⑭朝日町0人、⑮新庄市49人、⑯舟形町1人、⑰金山町3人、⑱真室川町31人、⑲最上町4人、⑳鮭川村9人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市99人、㉔南陽市38人、㉕長井市20人、㉖白鷹町11人、㉗飯豊町8人、㉘高畠町15人、㉙川西町11人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市111人、㉜酒田市48人、㉝庄内町17人、㉞遊佐町4人、㉟三川町5人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で利用者ら8人、②新庄市―介護施設で利用者ら8人、③酒田市―学童施設2ヵ所で児童計12人、保育施設で園児ら6人、事業所2ヵ所で職員計11人
 8日、山形県内の新規感染者676人―①山形市201人、②寒河江市18人、③上山市17人、⓸天童市31人、⓹東根市35人、⑥村山市16人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町3人、⑨西川町0人、⑩河北町1人、⑪山辺町8人、⑫大石田町0人、⑬大江町4人、⑭朝日町0人、⑮新庄市35人、⑯舟形町5人、⑰金山町0人、⑱真室川町7人、⑲最上町5人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市99人、㉔南陽市9人、㉕長井市14人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町5人、㉙川西町16人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市60人、㉜酒田市62人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町3人、㉟三川町3人、㊱県外5人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市―保育施設で園児ら12人
 7日、山形県内の新規感染者938人―①山形市232人、②寒河江市19人、③上山市38人、⓸天童市45人、⓹東根市48人、⑥村山市33人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町5人、⑨西川町8人、⑩河北町8人、⑪山辺町11人、⑫大石田町7人、⑬大江町1人、⑭朝日町0人、⑮新庄市38人、⑯舟形町6人、⑰金山町2人、⑱真室川町17人、⑲最上町6人、⑳鮭川村8人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市124人、㉔南陽市13人、㉕長井市19人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町13人、㉙川西町16人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市80人、㉜酒田市89人、㉝庄内町11人、㉞遊佐町11人、㉟三川町6人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―児童福祉施設で職員5人、二つの介護施設で利用者ら計12人、②鶴岡市―障がい者施設で利用者ら11人、③酒田市―学童施設で利用者ら6人、高校で生徒6人
 6日、山形県内の新規感染者1050人―①山形市268人、②寒河江市37人、③上山市16人、⓸天童市66人、⓹東根市63人、⑥村山市54人、⑦尾花沢市18人、⑧中山町14人、⑨西川町5人、⑩河北町14人、⑪山辺町10人、⑫大石田町8人、⑬大江町2人、⑭朝日町0人、⑮新庄市38人、⑯舟形町3人、⑰金山町9人、⑱真室川町11人、⑲最上町3人、⑳鮭川村7人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市116人、㉔南陽市22人、㉕長井市20人、㉖白鷹町0人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町10人、㉙川西町15人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市63人、㉜酒田市99人、㉝庄内町15人、㉞遊佐町12人、㉟三川町9人、㊱県外11人
    山形県内のクラスター-新たに‐①東根市―介護施設で利用者ら8人、②鶴岡市―介護施設で利用者ら5人、③真室川町―介護施設で利用者ら9人、別の介護施設で利用者ら5人、⓸川西町―介護施設で利用者ら8人
 5日、国内感染―自宅療養が最多145万人、検査は自分で―キットが不足
   山形県内の新規感染者939人―①山形市293人、②寒河江市45人、③上山市19人、⓸天童市55人、⓹東根市52人、⑥村山市30人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町15人、⑨西川町4人、⑩河北町5人、⑪山辺町9人、⑫大石田町5人、⑬大江町6人、⑭朝日町4人、⑮新庄市32人、⑯舟形町5人、⑰金山町8人、⑱真室川町16人、⑲最上町7人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市90人、㉔南陽市32人、㉕長井市23人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町25人、㉙川西町16人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市41人、㉜酒田市50人、㉝庄内町9人、㉞遊佐町8人、㉟三川町11人、㊱県外3人
 4日、山形県内の新規感染者1120人(連続最多同数)―①山形市307人、②寒河江市44人、③上山市19人、⓸天童市60人、⓹東根市57人、⑥村山市36人、⑦尾花沢市8人、⑧中山町18人、⑨西川町7人、⑩河北町8人、⑪山辺町15人、⑫大石田町4人、⑬大江町5人、⑭朝日町5人、⑮新庄市39人、⑯舟形町5人、⑰金山町2人、⑱真室川町14人、⑲最上町5人、⑳鮭川村7人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市102人、㉔南陽市32人、㉕長井市23人、㉖白鷹町7人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町27人、㉙川西町10人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市85人、㉜酒田市110人、㉝庄内町8人、㉞遊佐町11人、㉟三川町21人、㊱県外11人
 3日、国内―新規感染者数(24万9830人)過去最多
    山形県内の新規感染者1120人(最多更新)―①山形市244人、②寒河江市57人、③上山市26人、⓸天童市73人、⓹東根市57人、⑥村山市23人、⑦尾花沢市16人、⑧中山町19人、⑨西川町2人、⑩河北町7人、⑪山辺町9人、⑫大石田町6人、⑬大江町7人、⑭朝日町0人、⑮新庄市37人、⑯舟形町4人、⑰金山町23人、⑱真室川町30人、⑲最上町2人、⑳鮭川村5人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村6人、㉓米沢市167人、㉔南陽市26人、㉕長井市28人、㉖白鷹町10人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町39人、㉙川西町15人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市47人、㉜酒田市89人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町7人、㉟三川町14人、㊱県外9人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で18人、②鶴岡市―高校で6人、介護施設で10人、③米沢市―介護施設で5人、⓸長井市―介護施設で6人
 2日、山形県内の新規感染者942人(最多更新)―①山形市201人、②寒河江市28人、③上山市24人、⓸天童市66人、⓹東根市63人、⑥村山市46人、⑦尾花沢市12人、⑧中山町24人、⑨西川町13人、⑩河北町4人、⑪山辺町5人、⑫大石田町8人、⑬大江町17人、⑭朝日町1人、⑮新庄市45人、⑯舟形町5人、⑰金山町8人、⑱真室川町5人、⑲最上町6人、⑳鮭川村8人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市80人、㉔南陽市24人、㉕長井市35人、㉖白鷹町9人、㉗飯豊町8人、㉘高畠町41人、㉙川西町7人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市72人、㉜酒田市43人、㉝庄内町6人、㉞遊佐町4人、㉟三川町8人、㊱県外11人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―病院で利用者ら5人、②鶴岡市―中学校で生徒ら5人、保育施設で園児ら5人、③酒田市―小学校で児童8人、高等教育機関で学生5人、⓸三川町―保育施設で園児ら9人、⓹戸沢村―介護施設で利用者ら7人
 1日、山形県内の新規感染者539人―①山形市175人、②寒河江市29人、③上山市4人、⓸天童市23人、⓹東根市34人、⑥村山市11人、⑦尾花沢市4人、⑧中山町11人、⑨西川町0人、⑩河北町5人、⑪山辺町6人、⑫大石田町1人、⑬大江町4人、⑭朝日町1人、⑮新庄市31人、⑯舟形町0人、⑰金山町7人、⑱真室川町9人、⑲最上町0人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村4人、㉓米沢市44人、㉔南陽市13人、㉕長井市3人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町0人、㉘高畠町21人、㉙川西町2人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市24人、㉜酒田市51人、㉝庄内町3人、㉞遊佐町3人、㉟三川町8人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①村山市―介護施設で利用者ら6人、②東根市―介護施設で職員ら6人、③尾花沢市―介護施設で利用者ら5人

2022年08月08日

ウクライナ戦争で日本が教訓にしなければならないこと

 ウクライナ戦争が起きて以来、この日本がウクライナのように隣国から侵攻されたらどう対応・対処するのか―ウクライナ軍民のように抗戦・撃退できるように防衛力を強化し、アメリカなど諸国の支援と国民の防衛協力が得られるように、防衛体制を(憲法の関連条項の改正も含めて)確固たるものに―要するに「自衛戦争」を存分にできるように体制を整えなければならない、と感じている向きが多くなっているのではと思われる。
 しかし、ここでよく考えなければならないのは―
日本は、ロシアに対しても、或いは中国・北朝鮮に対しても、懸案の問題(ロシアとは「北方領土問題」、中国とは「尖閣問題」、北朝鮮とは「拉致問題」など)はあっても、ウクライナとロシアの対立(EU・NATO加盟を目指す反ロシア政権とロシア人住民居住地域の反ウクライナ政府勢力の抗争が既に起きている両国間)のように決定的な対立・敵対関係にあるわけではない。台湾問題をめぐって(中国に対して台湾が独立か統一かをめぐって中台戦争が起きて、アメリカがそれに介入して)米中間に、或いは朝鮮戦争が再開して米韓と北朝鮮と間に戦争が再び起きて、日本がアメリカの同盟国として、これらの戦争に出撃する米軍の基地を置き、自衛隊が集団的自衛権を行使する事態とならない限り、日本がこれらの隣国から攻撃されることはあり得ないのだ、ということ。
 それにもかかわらず、アメリカその他とも同盟関係を結んで共同防衛体制を構えて、日本は中国などの隣国から攻撃されても大丈夫なように、或いは攻撃を思い止まらせるように防衛力・抑止力を盤石にしておく、といっても、それ自体(その防衛体制)がそれら隣国に脅威を与え、警戒されて、平和友好関係どころか非友好国或いは敵国とみなされることになる。そしてそれら隣国との戦争を抑止するどころか、かえって戦争を呼び込む結果となりかねない。つまり防衛体制強化は逆効果を招くということだ。
 そもそも軍事的抑止力とは「やるならやってみろ!受けて立つぞ!」とか「倍返ししてやるぞ!」「かえって痛い目に遭うぞ!」「いざとなったら核を使うかもしれないぞ!」などと対抗意思を示す武力による威嚇で、それによって敵の武力攻撃を思い止まらせようとするもの。相手はそれに対して恐れを感じて攻撃を控えるだろうという想定。ところが必ずしもそうとは限らず、「ならばやってやろうではないか」と闘争心(攻撃意欲)をかき立てられるか、或いは「ならばこっちも、それに負けじ」と軍事力強化に競争心をかき立てられて、かえって侵攻を呼び込む結果にもなる。
 (ウクライナはかねてよりロシアに対する脅威から米欧を頼ってNATO加盟を図り、米英から高性能兵器の供与、軍事顧問団の派遣を受けて軍事強化していたが、ロシアはロシアでそれを脅威としてその阻止に躍起となって侵攻を強行し今の戦争に至っているのである。双方の国家安全保障のための防衛体制強化が互いに脅威となり、一方の侵攻を呼び込み戦争を招く結果となっているのである。核兵器の使用も辞さないことをほのめかして脅すロシアは最悪だが、ウクライナがNATOの軍事支援を受けて懸命に抗戦を続けている、それが現実に核の使用を呼び込む結果になってしまいかねない。かつて日本が、アメリカに対して戦争を仕掛けたものの、反撃されて押し返され、「本土決戦」とばかりに抗戦を続けたあげく原爆を投下されてしまったように。)
 それに対して日本国憲法の9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は、まるっきり戦争(交戦・抗戦も)する意思のないことを示すもので、相手が軍備を保持していて、侵攻を仕掛けるなど、その気があっても、こちらにそれを迎え撃つ気がなければ、戦争にはならないわけであり、戦争は抑止(回避)される。武力侵攻を受けても抗戦せず、武力による威嚇を受けても武力で対抗することはしないが、強奪も強要も許さず(非暴力抵抗・不服従・非協力)、話し合い・交渉にだけ応じ、非軍事・不戦に徹する。
 ただ、軍備を保持し武装する相手に丸腰で立ち向かうというのには危険もともない、(武器に頼り、強い者に頼る)臆病者にはできない度胸のいることではあるが、戦争による悲惨(殺戮・破壊)と比べれば、「よりまし」とも考えられる。「丸腰」では「家に鍵もかけずに、泥棒を呼び込むようなもの」だとは云っても、無防備・無警戒ということではなく、海上・空域・国土警備の実力組織は保持し、侵犯に対して排除・拒否対応は断固としてやるので、侵攻を呼び込むようなことにはならないわけである。
 むしろこのような不戦・非軍事(憲法9条)に徹した方が、攻撃は受けずに済み、戦争は起きないで済む(仮に一方的に戦争を仕掛けてきても、応戦しなければ、戦争にはならない。仮に軍事的圧力―威圧・威嚇して要求を突きつけてきたり、服従を強いてきた場合は、不服従・非軍事抵抗に徹し、対話・話し合いだけに応じる)。対中・台湾問題には不干渉、朝鮮戦争の再開にも不干渉(アメリカの軍事介入には同調せず、作戦協力は控える)。ウクライナがロシアに(対抗してNATO加盟の意思を示して)侵攻を招いたように、日本が中国に対して(台湾有事で)、北朝鮮に対して(朝鮮戦争再開有事で)アメリカの軍事作戦に支援・協力などして、中国や北朝鮮が日本を攻撃し、戦争に巻き込む動機を与えるようなことをしない限り、日本が武力攻撃を受けることはないのである。
 国民にとっては、防衛力・防衛体制を強化して「自衛戦争」であれ「徹底抗戦」であれ戦争をして国(国家)を守り抜き、国(国家の存立)さえ安泰であれば、国内外の人々の生命を戦争によってどんなに犠牲にしても仕方ないなんて、そんなわけにはいかないのである。
 国民の平和的生存権の保障。守るべきは、「全ての国民が戦争の恐怖と欠乏・悲惨から免れ、平和の裡に生存する権利」なのである。憲法は9条(不戦・非軍事)を変えてはならない。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」しなければならないのだ。

紛争解決法

(1)動物的な方法 
 人間も動物、その動物の世界、或いは子供の世界に見られる「いじめっ子といじめられっ子」という弱肉強食・優勝劣敗の生存競争の感覚・・・・「弱い子がいじめられる。強いやつはいじめられない。国もおんなじよ。強そうな国には仕掛けてこない。弱そうな国がやられる」(自民党の麻生副総裁)といった感覚からの力対力で決する方法。
 優勝劣敗・・・・勝ち目がなければ戦わず相手に従う
 軍事―武力行使―戦争
    武力による威嚇(軍事的抑止力)―「歯向かえば(抗戦すれば)痛い目に遭うぞ(倍にして返すぞ)」と威嚇して、戦わずに相手を従わせる。しかし、相手もそれに「負けじ」と軍事力強化し、「そっちの方こそ痛い目に遭うぞ」と対抗―軍事的優位を競い軍拡競争—均衡(パワーバランス)すれば戦争抑止(均衡抑止)・・・米ソ冷戦時代(米・西欧側のNATO対ソ連・東欧側のWATOという2大軍事ブロックが対峙してパックス・ルッソ・アメリカーナ「米ソの平和」)—それには双方とも「ヘタに仕掛けて戦争になると自分の方が負けるかもしれない」と思っている限り戦争は起きない。
  しかし、双方とも兵器や兵力・戦力の質量には機密があり、全面開示されているわけではなく不透明。
 また、ソ連・東欧側の体制崩壊で、WATO解体、NATOの独壇場となり、東欧諸国はNATOの方に鞍替え(加盟)、ウクライナまでそれ(NATO)に加わろうとしたので、ロシアはアメリカに対してウクライナのNATO加盟否認の法的保証を要求。
 アメリカはそれを拒否、ロシアはウクライナ国内でロシア人が多く住む東部でウクライナ政府軍と既に戦っている州の独立・保護を理由に侵攻。
 (ロシアのように)誤算から勝てると思い込んで仕掛け、それに(ウクライナのような)相手が(アメリカなどNATOの支援を受けて)抗戦すれば戦争になる。(アメリカ・NATO側は、ロシアに対して)そのような誤った思い込みをされることのないように、「勝てないからやめろ」と納得させなければならなかったはず。
 ロシアにとってウクライナが越えてはならない一線はNATO加盟であり、ウクライナにとってロシアが越えてはならない一線は侵攻であろう。或いは越えなくても、どっちみち攻撃されるのであれば、思い止まる方が損だとなり、双方とも徹底攻撃と徹底抗戦で激突。

 軍事的抑止力は、このように危ういものであり、戦争を抑止し切ることなどできないのではないか、と思われる

 アジアで日本が関わる戦争の火種は台湾をめぐる米中戦争と朝鮮半島をめぐる米韓と北朝鮮の戦争(朝鮮戦争の再開)であろう。その場合の対決する国々それぞれにとって、越えられない一線とはどんなところにあるのだろうか? 

(2)人間的な方法
 ①感情的な(欲望・欲動・情念・心情による)方法
 情念(抑えがたい愛憎の感情)・・・・ロシア軍のウクライナ侵攻という暴挙にはプーチン大統領の情念があるのでは。
 怒り・憎悪・復讐心
 矜持(自尊心・プライド)・・・・佐伯・京大名誉教授はロシアに対するウクライナ人の抗戦は「理不尽な侵略に屈することをよしとしない矜持」によるものだろうと。
 欲望―利己心・野望
 欲動―攻撃欲動(死への欲動)(衝動的)・・・自暴自棄→テロリズム
 ロマン(夢・理想・英雄・勇者への憧れ、冒険)
 信仰心・宗教的感情→聖戦(正義の戦争)として戦争を正当化
 これらの感情や情念・欲動によって相手を攻撃→戦争に向かいがちだが、 
 利他心・情け(道徳感情)―同情・思いやり、哀れみ、慈悲、愛他精神・博愛・仁愛・謙譲(譲り合いの精神)、というものもあり―これらの感情は攻撃・抗戦・反撃など戦争行為の回避に向かうものとなる―キリスト教には「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」「剣をとる者は剣で滅びる」との非暴力平和主義の教えもある。
   しかし、道徳感情には悪や不正を許さず成敗すべし、という攻撃性も―正義感と仲間意識で結束(掟・ルール違反者―「異端」は許さない)―排除、排撃→いじめ、「村八分」、戦争も・・NATO側のウクライナへの軍事支援
      それに宗教がからむと「異端・邪教」との戦争―互いに自分の方が「正義」で相手は「悪」で「人間にあらず、殺してもかまわない」と見なして血みどろの戦争(宗教戦争)

 ②理性的な(合理的)方法―外交的解決―対話・協議・交渉
  非軍事・不戦―平和的生存権の保障(非軍事的安全保障)に徹し戦争回避
  日本国憲法の9条はこの方法をとることを求めているものと思われる。  
  世界の諸国との友好協力、経済・産業・文化の交流・相互依存(「相利共生」)―非軍事的抑止力(相手に戦争するなんて割が合わないと思わせる)  

 現実的合理的なのはこの方法であるが、動物的方法や感情的方法は理性によって抑制もしくは排除しなければならないわけである。
 キーポイント―戦争にならないようにすること
「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有すること」を保障し合う。
    公正と信義―信頼され信頼できるように。
    相利共生(相互依存・”Win Win”の関係)を目指す

 ウクライナに侵攻したロシアと、それに抗戦するウクライナ軍とそれを支援するアメリカなどNATO諸国が採っている紛争解決法は①の「動物的」なやり方と⓶の「人間的感情的」なやり方でも「矜持」や「攻撃的道徳感情」に由来。
 それに対して日本の憲法が国民に求めているのは⓷の非暴力・不戦・非軍事の方法であろう。
 (「抑止力」として軍事力と経済的相互依存の組み合わせ戦略で、両用で行く方法もあるが、それは交渉・説得に際して、道理を尽くして納得を得るのではなく、「どうしてもこちらの要求に応じなければ、武力で強要するしかない」として「脅し・威嚇」に軍事力を用い、結局「力にものを云わせる」やり方で、互いの間に不信を残すやり方で、合理的とは云えない。)


政治の目的と方法

政治の究極目的―(全世界の国民が共通して、一番大事なもの―普遍的な最高価値)
 人民の平和的生存権(恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利)の保障
 (平和とは持続可能な生命の安全)
   (恐怖とは―①自然災害―地震・津波・豪雨・洪水・パンデミック
         ②人災―戦争・原発事故・環境破壊・地球温暖化による異常気象
    欠乏とは―食料・生活手段・エネルギー・資源の生産・分配が充分行われない)

 その目的を果たすための手段(方法)
 ①民主主義的方法―人民主権―誰もが自己決定力を持ち主体的に思考して社会の意思決定に参加
 必要条件―主権者人民には「全体知」(ものごとの一面だけでなく全体を知る努力)が必要―それに必要な知識・情報・理性的判断力・責任感が必要
 そのためには、それらを提供する教育と広報(マス・メディア)が充実、正確な知識・情報と言論・報道の自由
 実状―低投票率―今回の参院選52.05% 18才は38.67%、19才は30.31%
         前回2019年は全体で48.8%
 賢人・人格者・有徳者が選挙で選ばれるとは限らない(フィーリング選挙―気分・情緒・感覚的なもので選ぶ)
 デマ・フェイク情報、陰謀論などの横行
 民主主義国だから平和国家で戦争をしないとは限らない。
  難点―衆愚政治・デマゴギー(扇動政治)、ポピュリズム(大衆迎合主義)・ファシズム(狂信的な国家主義―全体主義)あるいは分断に陥ること
  「デジタル・デモクラシーの落とし穴」―SNSで見たい情報、信じたい物語ばかりが目前に示され、SNSで誰もが発信者になれるが、特定の問題を解く手順・やり方を検索サイトで見つけ出して、考えるということをAIやそれを駆使する他者に無意識のうちに委ねる「思考の外部化」(寺島実郎)
 ②権威主義(専制主義)的方法
  暴君・暴政・好戦的とは限らず、有徳者・賢君・賢人政治もある
 ③立憲主義―個々人の自由・人権を守るために憲法によって権力(濫用・暴走)を縛る
                                ・・・・「法の支配」

安倍元首相の「国葬」問題

 東日本大震災に遭遇して困難を極めた民主党政権に替わって政権をとり戻した第2次安倍政権―2012~20年 在任7年8ヵ月(憲政史上最長)
 この間、「安倍一強体制」―全ての国政選挙に勝ち続け政権交代が起こる気配が全くなかった―白井聡(京都精華大学准教授)によれば「長期腐敗体制」(有権者は何故自民党に票を入れ続けるのだろうかといえば、それは野党の実力がどうだとか政策の打ち出し方がどうだと以前の問題で、各政党の政策をロクに見てもいないで、「なんとなく自民党に入れている」ということで、「国民の『無知』のせい」ではないか、それは選挙が機能していないということで、この国は「『権威主義』国家に成り下がっている」と指摘)
「失われた30年」(1990年代初頭バブル崩壊後の経済低迷がアベノミクスの失敗でさらに長引く)―多くの国民が疲弊
 外交は「確たるビジョンがなく」対中・対ロ外交も成果得られず、対米従属一辺倒
 「国葬」実施決定(閣議決定)に対して国論二分
  世論調査 NHK(7月16~18日) 「評価する」49% 「評価しない」38%
      FNN(7月23・24日) 「よかった」50.1% 「よくなかった」46.9%
       若い人ほど「よかった」が多く、年齢高い人ほど「よくなかった」が多い
       ―どうして年齢で分かれるのか?―その人(元首相)の功罪を「よく知っているか、知らないか」によるのだろう。
 「功罪」の「罪」の方には様々あるが、ここにきて(元首相を銃撃した若者の犯行理由に、 「統一協会」と称されてきたカルト教団で母親が入信して巨額献金・破産・家庭崩壊という悲惨を被った怨みがあったとのことで、元首相がこの教団と関りがあったことが明るみに出て)、「統一協会」(「国際勝共連合」と同一組織であり、霊感商法など反社会的団体と見なされてきた)と安倍・自民党との関りの問題もクローズアップ。
 勝共連合とは統一協会の教祖が提唱し元首相の祖父(岸信介)も発起人となって創設されたという反共団体で、日本国憲法をも敵視し、独自に改憲案を構想して自民党の改憲路線の後押しも。
 8月1日付各紙が報じた共同通信社の世論調査では
  安倍元首相の「国葬」に反対が(「どちらかといえば反対」と合わせて)53.3%で、賛成(「どとらかといえば賛成」と合わせて)45.1%を上回っている。同時期の「日経」調査でも、反対(47%)が賛成(43%)を上回った、とのこと。

 「アベ政治を許さない」と云ってきた向きには、アベ政治の「罪」ばかりが記憶され、国葬など許さないという思いだろうが、アベ・キシダ自民党政治「しかない」と思っている向きが多数を制して「国葬」を強行するのかだ。

2022年09月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき16)(随時加筆)

新型コロナウイルス
世界の感染者総数6億3055万0059(+30万1915)、死亡者総数659万0440(+1127)
 上位国    感染者       死亡者    ()は前日比                        
 アメリカ 9749万5091(+4万4452)   107万0389(+125)
  インド  4465万4638(+1046)   52万9077(+61)   
ブラジル   3482万8749(+?)       68万8157(+?)                   
  ロシア  2112万4658(+5721)     38万2302(+71) 
  フランス 3703万0865(+?万)   15万8034(+?)                  
イギリス  2412万2922(+?万)    20万9939(+0)                          
  * トルコ 1691万9638(+万)   10万1203(+)  11日のまま           
 * スペイン1351万1768(+)    11万5078(+) 29日のまま                                          
   ドイツ 3561万9687(+?万)    15万3594(+?)                
  * イタリア 2353万1023(+万)      17万9101(+) 30日のまま
    
インドネシア 649万3079(+2457)   15万8631(+34) 
 フィリピン 400万4465(+1006)     6万4074(+41)       
    日本 2239万0044(+6万6620)人   4万6814(+78)(午後8時0分現在 朝日)
    韓国 2561万5667(+5万8358)   2万9209(+33) 
    中国 295万2291(+7638)     1万5629(+12)
  <11月1日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                 
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都327万4808(+6520)  6013(+3)
                  大阪府217万0953(+4009)   6617(+6)
                   神奈川県155万1975(+3793) 3070(+2)
                  埼玉県124万3124(+3160)   2496(+6)
                  愛知県141万9334(+4277)    2973(+6)
                  北海道84万4539(+7638)   2745(+11)
                  兵庫県104万5739(+1542)    2917(+2)                                        
                  千葉県 98万9170(+2384)   2649(+1)         
                   福岡県111万0859(+1412)   2027(+2)               
                  京都府49万2960(+921)    1122(+2)                                                          
                  沖縄県 50万9578(+363)  789(+0)
                  広島県46万4973(+2076)   787(+4)
                                    
                  宮城県28万4136(+1568)    420(+3)
                  福島県20万8444(+1538)     304(+0)
                  山形県12万5728(+1523)     211(+2)
                  岩手県12万0787(+1074)     204(+0)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <11月1日午後8時0分現在>  [世界・日本ともに朝日より]
        
       9月14日 WHOのテドロス事務局長がコロナの世界的流行「終わりが見えてきた」(収束に近づいている)と。

   国内ワクチン接種率―11月1日、全体の2回目接種率80.4%
                   3回目    66.2%
==================================i=======
10月31日、山形県内の新規感染者209人
 30日、山形県内の新規感染者797人
 29日、山形県内の新規感染者879人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー医療機関で14人、②東根市と真室川町―いずれも介護施設で計11人、③最上町―障害者施設で7人
 28日、山形県内の新規感染者777人
    山形県内のクラスター-新たに‐戸沢村ー障碍者施設で60人
 27日、山形県内の新規感染者796人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市ー介護施設で7人、②大江町―介護施設で7人、③寒河江市―障害者施設で7人、⓸酒田市―介護施設で20人、医療機関で6人
 26日、山形県内の新規感染者898人
 25日、山形県内の新規感染者1081人
 24日、山形県内の新規感染者268人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市ー介護施設で7人
 23日、山形県内の新規感染者620人
 22日、山形県内の新規感染者671人
 21日、山形県内の新規感染者625人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市ー医療機関で7人、②舟形町―介護施設で8人、③大蔵村―介護施設で6人
 20日、山形県内の新規感染者733人
 19日、山形県内の新規感染者862人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市ー介護施設で1Ⅰ人、②川西町―介護施設で8人、③鶴岡市―介護施設2ヵ所で計18人
 18日、山形県内の新規感染者984人
    山形県内のクラスター-新たに‐①尾花沢市ー介護施設で14人、②酒田市―介護施設で計10人、③鶴岡市―介護施設で6人
 17日、山形県内の新規感染者249人
 16日、山形県内の新規感染者479人
 15日、山形県内の新規感染者636人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市と舟形町ー介護施設2ヵ所で計14人、②東根市ー医療機関で25人
 14日、山形県内の新規感染者580人
    山形県内のクラスター-新たに‐鶴岡市と庄内町ー障碍者施設2ヵ所で計14人
 13日、山形県内の新規感染者765人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市と鶴岡市ー介護施設2ヵ所で計15人
 12日、山形県内の新規感染者1029人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市と白鷹町ー介護施設2ヵ所で計25人、②鶴岡市ー障碍者施設で21人
 11日、山形県内の新規感染者223人
10日、山形県内の新規感染者183人
 9日、山形県内の新規感染者289人
 8日、山形県内の新規感染者297人
    山形県内のクラスター-新たに‐①鶴岡市ー介護施設2ヵ所で計10人
 7日、山形県内の新規感染者411人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で12人、医療機関で35人、②鶴岡市―介護施設で6人、障害者施設で11人
 6日、山形県内の新規感染者427人
 5日、山形県内の新規感染者523人
    山形県内のクラスター-新たに‐①酒田市ー介護施設で5人
 4日、山形県内の新規感染者657人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で6人、②酒田市―介護施設2ヵ所で計10人、③川西町―介護施設で6人
 3日、山形県内の新規感染者167人
 2日、山形県内の新規感染者304人
 1日、山形県内の新規感染者507人
    山形県内のクラスター-新たに‐鶴岡市の介護施設で9人
9月30日、山形県内の新規感染者497人
 29日、山形県内の新規感染者562人
 28日、山形県内の新規感染者533人
    山形県内のクラスター-新たに‐山形市と米沢市の介護施設で計16人
 27日、山形県内の新規感染者749人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市ー介護施設で6人、②鶴岡市―介護施設で72人
 26日、山形県内の新規感染者361人
 25日、山形県内の新規感染者513人
 24日、山形県内の新規感染者353人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で5人
 23日、山形県内の新規感染者515人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で6人、②新庄市―介護施設で5人、③最上町―介護施設で5人
 22日、山形県内の新規感染者644人
    山形県内のクラスター-新たに‐新庄市と南陽市―いずれも介護施設で計16人
 21日、山形県内の新規感染者891人
    山形県内のクラスター-新たに‐①高畠町―介護施設で7人
 20日、山形県内の新規感染者338人
 19日、山形県内の新規感染者367人
 18日、山形県内の新規感染者420人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で8人
 17日、山形県内の新規感染者600人
山形県内のクラスター-新たに‐①南陽市―介護施設で7人
 16日、山形県内の新規感染者636人
 15日、山形県内の新規感染者836人―この日から市町村別の新規感染者数は発表されなくなる(県がコロナ感染者の全数把握を簡略化し、公表内容を変更)。
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市―障害者施設で7人、②新庄市―医療機関で5人、③南陽市―介護施設で5人
 14日、山形県内の新規感染者1198人―①山形市341人、②寒河江市59人、③上山市25人、⓸天童市48人、⓹東根市50人、⑥村山市13人、⑦尾花沢市14人、⑧中山町29人、⑨西川町2人、⑩河北町40人、⑪山辺町31人、⑫大石田町5人、⑬大江町19人、⑭朝日町7人、⑮新庄市24人、⑯舟形町3人、⑰金山町5人、⑱真室川町2人、⑲最上町3人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市69人、㉔南陽市41人、㉕長井市27人、㉖白鷹町8人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町38人、㉙川西町15人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市95人、㉜酒田市138人、㉝庄内町16人、㉞遊佐町9人、㉟三川町10人、㊱県外5人
    山形県内のクラスター-新たに‐①川西町―障害者施設で入所者5人
 13日、山形県内の新規感染者862人―①山形市187人、②寒河江市53人、③上山市20人、⓸天童市66人、⓹東根市37人、⑥村山市13人、⑦尾花沢市21人、⑧中山町14人、⑨西川町2人、⑩河北町22人、⑪山辺町31人、⑫大石田町6人、⑬大江町14人、⑭朝日町4人、⑮新庄市19人、⑯舟形町3人、⑰金山町3人、⑱真室川町2人、⑲最上町4人、⑳鮭川村4人、㉑大蔵村4人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市36人、㉔南陽市40人、㉕長井市33人、㉖白鷹町6人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町26人、㉙川西町15人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市90人、㉜酒田市56人、㉝庄内町15人、㉞遊佐町2人、㉟三川町5人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で入所者2人と職員5人
 12日、山形県内の新規感染者482人―①山形市120人、②寒河江市22人、③上山市11人、⓸天童市31人、⓹東根市19人、⑥村山市11人、⑦尾花沢市3人、⑧中山町16人、⑨西川町0人、⑩河北町3人、⑪山辺町15人、⑫大石田町3人、⑬大江町2人、⑭朝日町2人、⑮新庄市3人、⑯舟形町0人、⑰金山町2人、⑱真室川町0人、⑲最上町5人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市19人、㉔南陽市23人、㉕長井市13人、㉖白鷹町1人、㉗飯豊町7人、㉘高畠町16人、㉙川西町6人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市66人、㉜酒田市48人、㉝庄内町4人、㉞遊佐町2人、㉟三川町4人、㊱県外人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設で入所者ら6人、障害者施設で利用者ら5人、医療機関で入院患者ら10人
 11日、山形県内の新規感染者821人―①山形市162人、②寒河江市45人、③上山市16人、⓸天童市40人、⓹東根市8人、⑥村山市6人、⑦尾花沢市8人、⑧中山町9人、⑨西川町0人、⑩河北町7人、⑪山辺町20人、⑫大石田町3人、⑬大江町8人、⑭朝日町2人、⑮新庄市18人、⑯舟形町2人、⑰金山町0人、⑱真室川町1人、⑲最上町1人、⑳鮭川村0人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市49人、㉔南陽市36人、㉕長井市23人、㉖白鷹町2人、㉗飯豊町8人、㉘高畠町31人、㉙川西町11人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市136人、㉜酒田市105人、㉝庄内町15人、㉞遊佐町4人、㉟三川町12人、㊱県外3人
 10日、山形県内の新規感染者916人―①山形市173人、②寒河江市64人、③上山市26人、⓸天童市46人、⓹東根市39人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市15人、⑧中山町21人、⑨西川町4人、⑩河北町15人、⑪山辺町24人、⑫大石田町8人、⑬大江町17人、⑭朝日町1人、⑮新庄市15人、⑯舟形町4人、⑰金山町3人、⑱真室川町3人、⑲最上町4人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市68人、㉔南陽市47人、㉕長井市23人、㉖白鷹町5人、㉗飯豊町3人、㉘高畠町21人、㉙川西町11人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市111人、㉜酒田市98人、㉝庄内町15人、㉞遊佐町3人、㉟三川町7人、㊱県外4人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―介護施設2ヵ所で入所者ら計12人
 9日、国内感染2000万人超える(第7波拡大2ヵ月で倍増)
    山形県内の新規感染者1046人―①山形市165人、②寒河江市79人、③上山市26人、⓸天童市80人、⓹東根市47人、⑥村山市8人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町19人、⑨西川町2人、⑩河北町16人、⑪山辺町23人、⑫大石田町1人、⑬大江町9人、⑭朝日町5人、⑮新庄市20人、⑯舟形町3人、⑰金山町2人、⑱真室川町3人、⑲最上町6人、⑳鮭川村4人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市61人、㉔南陽市44人、㉕長井市28人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町7人、㉘高畠町34人、㉙川西町9人、㉚小国町2人、㉛鶴岡市173人、㉜酒田市116人、㉝庄内町25人、㉞遊佐町6人、㉟三川町9人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①高畠町―介護施設で入所者ら6人
 8日、山形県内の新規感染者1243人―①山形市224人、②寒河江市85人、③上山市39人、⓸天童市90人、⓹東根市57人、⑥村山市10人、⑦尾花沢市9人、⑧中山町25人、⑨西川町3人、⑩河北町14人、⑪山辺町22人、⑫大石田町3人、⑬大江町3人、⑭朝日町3人、⑮新庄市27人、⑯舟形町18人、⑰金山町5人、⑱真室川町3人、⑲最上町5人、⑳鮭川村2人、㉑大蔵村1人、㉒戸沢村3人、㉓米沢市78人、㉔南陽市51人、㉕長井市32人、㉖白鷹町7人、㉗飯豊町6人、㉘高畠町24人、㉙川西町14人、㉚小国町1人、㉛鶴岡市192人、㉜酒田市145人、㉝庄内町19人、㉞遊佐町8人、㉟三川町15人、㊱県外0人
 7日、山形県内の新規感染者1308人―①山形市205人、②寒河江市68人、③上山市31人、⓸天童市104人、⓹東根市66人、⑥村山市11人、⑦尾花沢市13人、⑧中山町12人、⑨西川町4人、⑩河北町13人、⑪山辺町20人、⑫大石田町3人、⑬大江町6人、⑭朝日町3人、⑮新庄市20人、⑯舟形町15人、⑰金山町6人、⑱真室川町1人、⑲最上町15人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村1人、㉓米沢市121人、㉔南陽市61人、㉕長井市40人、㉖白鷹町7人、㉗飯豊町11人、㉘高畠町42人、㉙川西町24人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市149人、㉜酒田市171人、㉝庄内町42人、㉞遊佐町9人、㉟三川町3人、㊱県外3人
 6日、山形県内の新規感染者1093人―①山形市199人、②寒河江市79人、③上山市34人、⓸天童市80人、⓹東根市35人、⑥村山市18人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町34人、⑨西川町10人、⑩河北町11人、⑪山辺町20人、⑫大石田町7人、⑬大江町3人、⑭朝日町3人、⑮新庄市31人、⑯舟形町12人、⑰金山町1人、⑱真室川町3人、⑲最上町13人、⑳鮭川村3人、㉑大蔵村14人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市85人、㉔南陽市36人、㉕長井市29人、㉖白鷹町10人、㉗飯豊町6人、㉘高畠町22人、㉙川西町12人、㉚小国町9人、㉛鶴岡市125人、㉜酒田市94人、㉝庄内町28人、㉞遊佐町14人、㉟三川町5人、㊱県外1人
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市―介護施設で入所者ら7人
 5日、山形県内の新規感染者683人―①山形市181人、②寒河江市19人、③上山市13人、⓸天童市60人、⓹東根市17人、⑥村山市5人、⑦尾花沢市7人、⑧中山町13人、⑨西川町0人、⑩河北町4人、⑪山辺町12人、⑫大石田町5人、⑬大江町2人、⑭朝日町1人、⑮新庄市13人、⑯舟形町7人、⑰金山町2人、⑱真室川町1人、⑲最上町3人、⑳鮭川村1人、㉑大蔵村0人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市64人、㉔南陽市40人、㉕長井市12人、㉖白鷹町4人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町26人、㉙川西町9人、㉚小国町3人、㉛鶴岡市73人、㉜酒田市54人、㉝庄内町13人、㉞遊佐町6人、㉟三川町6人、㊱県外0人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で利用者ら8人、介護施設で利用者ら13人
 4日、山形県内の新規感染者1087人―①山形市188人、②寒河江市71人、③上山市22人、⓸天童市48人、⓹東根市8人、⑥村山市16人、⑦尾花沢市8人、⑧中山町17人、⑨西川町4人、⑩河北町9人、⑪山辺町16人、⑫大石田町3人、⑬大江町7人、⑭朝日町3人、⑮新庄市22人、⑯舟形町6人、⑰金山町2人、⑱真室川町6人、⑲最上町7人、⑳鮭川村4人、㉑大蔵村2人、㉒戸沢村0人、㉓米沢市100人、㉔南陽市37人、㉕長井市21人、㉖白鷹町7人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町24人、㉙川西町4人、㉚小国町4人、㉛鶴岡市170人、㉜酒田市152人、㉝庄内町32人、㉞遊佐町9人、㉟三川町10人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で利用者ら計6人
 3日、国内感染―直近4週間の死者(7065人)アメリカに次いで2番目に多い
    山形県内の新規感染者1243人―①山形市223人、②寒河江市101人、③米沢市96人、⓸鶴岡市101人、⓹131人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市で6件
 2日、山形県内の新規感染者1356人―①山形市231人、②寒河江市91人、③上山市38人、⓸天童市94人、⓹東根市56人、⑥村山市24人、⑦尾花沢市13人、⑧中山町20人、⑨西川町4人、⑩河北町12人、⑪山辺町16人、⑫大石田町7人、⑬大江町11人、⑭朝日町3人、⑮新庄市33人、⑯舟形町2人、⑰金山町4人、⑱真室川町9人、⑲最上町12人、⑳鮭川村7人、㉑大蔵村8人、㉒戸沢村2人、㉓米沢市107人、㉔南陽市37人、㉕長井市29人、㉖白鷹町22人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町40人、㉙川西町18人、㉚小国町6人、㉛鶴岡市208人、㉜酒田市147人、㉝庄内町25人、㉞遊佐町12人、㉟三川町2人、㊱県外1人
 1日、山形県内の新規感染者1729人―①山形市330人、②寒河江市112人、③上山市57人、⓸天童市87人、⓹東根市84人、⑥村山市31人、⑦尾花沢市10人、⑧中山町28人、⑨西川町6人、⑩河北町19人、⑪山辺町15人、⑫大石田町14人、⑬大江町16人、⑭朝日町2人、⑮新庄市47人、⑯舟形町5人、⑰金山町4人、⑱真室川町7人、⑲最上町2人、⑳鮭川村14人、㉑大蔵村6人、㉒戸沢村5人、㉓米沢市150人、㉔南陽市44人、㉕長井市28人、㉖白鷹町16人、㉗飯豊町5人、㉘高畠町33人、㉙川西町26人、㉚小国町5人、㉛鶴岡市284人、㉜酒田市167人、㉝庄内町28人、㉞遊佐町32人、㉟三川町8人、㊱県外2人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市―医療機関で5人、②鶴岡市ー医療機関で11人、③川西町ー障碍者施設で23人

2022年09月06日

日本が戦争に直面したらどうする―ウクライナ戦争のあり様を見て

 ウクライナ戦争は始まって半年になるが、ずうっと毎日、映像で戦況を交戦国双方の大統領の顔と共に見せつけられている。
 この間、死者はロシア兵1万5000人近く、ウクライナ兵9000人・市民5500人(うち子供360人)―これらは確認されている数だけだが、実際はもっと多い。
停戦の見通しは立っておらず、ロシア軍・ウクライナ軍双方とも一歩も引かず(ウクライナ軍には米欧NATO諸国の兵器供与など軍事支援もあり、ロシアに対する経済制裁には日本も加わり)長期化・激化している。
 この戦争に対して、当事国以外の人々の感じ方・対応は様々で、日本でも“No War”とか“Stop The War”と反戦を叫ぶ人々はいるが、「戦争やめろ」というならロシアに対してであって、ウクライナの抗戦もやめろ(双方とも戦闘を停止、武器を置いて話し合え)というのは間違っている、という向きが多いようだ。先に仕掛けた(侵攻してきた)方が攻撃をやめない限り、抗戦をやめるわけにはいかない、というのは道理ではある。しかし、反撃をやめれば(抗戦停止を宣言)攻撃(撃ち方)も自ずから停止される(それが続いてる間は誰も命を落とさずに済む)というのも理屈。とはいうものの、互いにいがみ合って(敵対して)アタマに血がのぼってカッカしてる興奮状態では攻撃的感情が支配し、戦闘停止に踏み切る理性的判断は難しい。そのような場合は、やはり第三者の仲裁が必要不可欠になる。ところが、この戦争には、ここまで来て本格的な仲裁に乗り出す者は国連や国々のトップリーダーは誰も出てこない。国連などの会議では一方的な非難合戦をするだけで、仲裁できるような世界のリーダーの不在が不幸・悲運。
 双方の大統領・軍民とも引くに引けなくなっている(ゼレンスキー大統領は「戦争の終わりは『勝利』」「最後まで戦い抜く」「ロシア軍が完全撤退しない限り、停戦交渉には応じない」と)、「今日も何十人・何百人死んだ」というような、この状況の中で。
 双方が戦っている目的(相手に対する要求)は、ロシア側は①(かねてよりウクライナを西側NATO加盟国との緩衝国と考えてきたが、そのウクライナが改正憲法にNATO加盟を目指す方針を明記して、加盟を策していたのに対して、アメリカなどにそれ(NATO加盟)を否認するよう求めてきたものの、応じられなかった)ウクライナに対してNATOに加盟せず、中立化・非軍事化する(外国軍隊を駐留させない)こと、②非ナチ化(アゾフ連隊など極右勢力をゼレンスキー政権から排除)すること、③東部2州のロシア人居住地域に樹立した自治共和国の承認、③2014年に併合したクリミア半島の維持。
 これに対してウクライナ側は、そうはさせまいとして、それらの否認、領土主権の奪還が戦いの目的となる。
 戦争が始まってしばらくの間、停戦交渉が数回断続的に行われ、ウクライナ側には譲歩の考え(NATO加盟を強く求めず中立化を受け入れるとか、クリミア問題は15年間棚上げにするなど折り合いをつける考え)もあったが、ロシア軍によるブチャなどで虐殺問題など戦争激化にともない、強硬姿勢に転じ、ロシア侵攻前の状態に戻さない限り、停戦交渉には応じない、そして今や8年前併合されたクリミア奪還も含め全土支配権の完全回復まで戦い抜くまで徹底抗戦の構えで、米欧NATO諸国も軍事支援を追加し強化し続けている。
 それに対してロシアは米欧諸国に日・韓・台湾・オーストラリア・ニュージーランドなど西側諸国による経済制裁もあって苦戦を強いられながらも、戦い続け、苦し紛れに一発勝負に出て核兵器という切り札を使いかねない、というところまでいってしまうのかだ。

 これに対して日本の我々国民には①ウクライナの徹底抗戦を支援(米欧NATO加盟諸国によるの軍事支援支持、対ロシア制裁参加)か、②双方とも即時無条件停戦、協議・話し合いを求め、ウクライナに対して国連などに安全保証を求めるか、③なりゆきまかせるか、など対応がある。
 日本国憲法の9条(不戦・非軍事)に忠実であろうとする立場では、中立、即時停戦・双方の安全保証を主として話し合い解決、和平を求めるのが筋だろう。日本が憲法の立場に立って主体的に国連による仲裁(それこそが国連の役割だとして)働きかけなければならないのだ。
そして、ロシア政府には然るべき戦争責任をとらせることも必要だが、国連が中心になって、ウクライナ国民の破壊された生活再建と荒廃した国土の回復に対する世界中からの支援に取り組まなければならないわけである。

 それにつけても、日本は朝鮮半島や台湾あるいは尖閣諸島などをめぐって戦争(中台戦争・朝鮮戦争の再開)の危機に直面したしたら、どうするのか。
 日本には、これらの関係国(中国・北朝鮮・韓国・台湾・アメリカ・ロシア)に対して求める要求は唯一つ、地域の平和・安定であり、戦争を起こさないようにすること、それ以外にない。戦争が起きてしまったとしても、我々国民として自国政府に求める要求は、その戦争にアメリカが介入して日本の基地から出撃し、自衛隊が支援・参戦しなければならないことになって日本巻き込まれ(中国や北朝鮮のミサイル攻撃にさらされ)ることのないようにすること、それ以外にあるまい。
 台湾有事―そもそも中国と台湾は、政府は別々でも「一つの国」として一体(国連の代表権は中国政府にある)。中台政府間に対立・紛争はあっても国内問題であり、それに介入することは内政不干渉の原則に反し、仮に「台湾独立戦争」が起きても、それにアメリカとともに加担・加勢することには正当性はないし、巻き込まれることもあってはならない。
 朝鮮半島有事―70年前に起こった朝鮮戦争(主として米韓と北朝鮮・中国が対戦、その間米軍は日本の基地から出撃)は、休戦はしていても未だに終結はしておらず、相対峙し核・ミサイルを構え合っている。日本が傾注すべきは当事国間の戦争終結・和平協定の締結であって、戦争再開させることはあってはならない。
 北朝鮮の拉致問題があるが、奪還戦争などあり得ない。
 尖閣諸島―中国が領有権を主張し、公船や漁船が頻りに侵入してきて、海上保安庁が警戒・排除に余念がないが、軍事衝突は回避に徹して戦争に発展するようなことがあってはならない。
 北方領土―あくまで平和条約締結のうえでの返還要求に徹し、武力奪還は避けなければならない。

 ウクライナには東南部に居住するロシア人をかかえながら、ロシアを脅威とし、米欧のNATO同盟に加盟して安全保障を得ようとして、それにロシアが反発、国内の親ロシア派勢力との内戦とロシアの侵攻を招くに至ったが、ウクライナとしてはロシアの脅威に対して安全の保障を得ようとしてNATOに頼ろうとしたわけであるが、ロシアはロシアでNATOの東欧への拡大に脅威を感じ、ウクライナのNATO加盟阻止にやっきとなったわけである。そしてウクライナに中立化・非軍事化を求めた。しかし、もし、それにウクライナが応じたら、ロシアからも他の(NATOに加盟している)隣国からも侵攻されないように安全の保障を必要とする。
 日本も、憲法には不戦・非軍事を定めたものの、冷戦下、ソ連を脅威としてアメリカを頼り安全保障条約を結んで米軍駐留基地を認めてきた。しかし、それは北朝鮮・中国・ロシア等のとっては脅威。だから中国・ロシアは核軍拡を続け、北朝鮮も核・ミサイル開発・保有にやっきとなり、ロシアは千島(北方領土)を日本に返還すれば、そこに米軍基地が置かれては、それこそが脅威だとして返さない。
 こうして安全保障を自国の軍備と他国との軍事同盟に頼る。
本来なら国連が全ての国々に安全を保障する立場で、そのために集団安全保障機構として結成された。ところが侵略行為が発生して国連警察軍などの阻止・制圧行動がとられるまでの間の暫定措置として自国軍隊による個別的自衛権行使と同盟国との集団的自衛権行使を認めた。そのために各国の軍備と軍事同盟が当たり前であるかのようになり、侵略された当事国が最大限戦わなければ、国連のどの国も助けない(つまりどの国も自国の軍隊か同盟国とで守れるだけ守らなければ、国連は助けようがない)かのような考え方になってしまっている。しかしそれはおかしい。
 自分の身は自分で守れ、といってアメリカなどのように市民に銃所持を認めるのが安全とは思えず、日本のように銃刀法で禁じている国の方が安全で殺人は圧倒的に少ない。
「警察に頼らず、自分の身は最大限自分で守れ」、「国連に頼らず、自分の国は最大限自国の軍備(攻撃能力)で守れ」などというのはおかしいし、そのように武器・核兵器・敵基地攻撃能力まで持ち合ったら、安全どころか戦争の危険この上ないだろう。
 国連は核保有国であれ非保有国であれ非武装中立国であれ、どの国の安全も保証するのが当たり前なのでは。
 そもそも核兵器禁止・軍備全廃なくして恒久平和はあり得まい。それは「理想卿」なんかではなく、そうすれば世界に戦争はなくなるというのは当たり前のことなのであって、日本が憲法9条で軍備不保持・戦争放棄を定めたのは「夢想」でも「独りよがり」でも「他力本願」でもなんでもない。どの国もそうすべきだし、国連もそう仕向けるべきなのだ。少なくとも。核保有国は非核国を攻撃してはならないことにし、さらには核兵器全廃。さらには、軍備保有国は非軍備国を攻撃してはならないことにし、ひいては軍備全廃にすべきなのだ。
 今でも、「無防備地域」宣言をしている都市などには、①そこに固定した軍事施設がない、②そこに職業的兵士がいない、③そこ住む人々が戦争を望んでいない、という3つとも条件がそろっている限り、そこを攻撃してはならないことになっているのだ(攻撃すれば国際法違反―ジュネーブ諸条約第1追加議定書)。 
 非核地帯条約では非核地帯の国々には、5大核保有国は(議定書に署名・批准)核攻撃も核威嚇もしないことを義務付けている。非核地帯条約とは①東南アジア非核地帯条約(核保有国は未だ議定書に参加していない)、②アフリカ地域の非核地帯を定めたペリンダバ条約(核保有国は議定書に、米国は署名のみ、その他は批准も)、③ラテン・アメリカの非核地帯を定めたタラテロルコ条約(5大核保有国とも議定書に署名・批准)、⓸南太平洋の非核地帯を定めたラロトンガ条約(核保有国は、米国以外は議定書に署名・批准)、⓹中央アジア非核地帯条約(核保有国は、米国以外は議定書に批准)、⑥モンゴルは単独に非核地帯宣言(国連総会でその地位が承認されている)
 東南アジア非核地帯条約があるになら「東北アジア非核地帯条約」(日韓・北朝鮮も非核国として、それらの国に対して米中ロ核保有国が核攻撃をしない約束。但し北朝鮮は核放棄、日韓は米国の「核の傘」から離脱)もあって然るべき(米韓の前大統領―トランプ・ムンジェインと北朝鮮のキムジョンウンはそれぞれ首脳会談を行って朝鮮半島の非核化について話し合っている)。
 長崎大学客員教授で平和運動家の梅林宏道氏は非核地帯条約案で「核爆発装置によるか通常兵器によるかを問わず、東北アジア非核地帯に対して武力攻撃を加えない。また武力攻撃による威嚇を行わない」と規定している。つまり単に核兵器による武力攻撃のみならず、通常兵器による武力行使についても禁止として、この条約案に不戦条約としての意味合いも持たせている。
 国連が、これらを特定の都市や地域だけでなく全世界にわたって、全加盟国に義務付けるようにすればよいのだ。

2022年09月10日

身の安全、国の安全―国連の集団安全保障体制の確立こそが焦眉の課題(修正加筆版)

 A自分の身は①「自分(の力)で守るべき」なのか、それとも②「国(の法と警察)から守ってもらうべき」なのか。そしてB自分の国は①「自分の国(或いは同盟国)の軍事力で守るべき」なのか、それとも②「国連(法(国連憲章)と警察(国連軍))から守ってもらうべき」なのか、である。
 A①は、各人とも、銃を所持して「自分の身は自分で守る」ということであり、アメリカ式のやり方のようだが、それだとどうしても法や道理に基づく話し合いよりも自分の銃に頼り勝ちとなり、「問答無用」とばかり発砲してしまいがちとなる。日本では市民の銃所持は銃刀法で禁じられており、②の「国(法と警察)から守ってもらう」やりかたで、アメリカに比べて銃犯罪・殺人ははるかに少なく安全。
 B①は、各国とも軍備を持ち合って「自分の国は自分の国で守る(或いは同盟国の支援をが得て)守る」というやり方。国連は加盟国による武力行使を禁じ、「集団安全保障」ということで、侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行するという意思表示によって、侵略を未然に防止するという非戦のシステムではあるのだが、同時に侵略に対して個別的自衛権あるいは同盟国との集団的自衛権として武力行使を認めているので、現状ではほとんどの国が自国で大なり小なり軍備・軍事力を持ち合っている。そのためにA①の場合と同様に、紛争などに際しては、どうしても力(軍事力)に頼りがちになり、話し合い・交渉に徹した平和的解決ができなくなってしまいがち。そして互いに紛争・対立する相手の軍事力に脅威を覚え、負けじとばかり軍備強化して軍拡競争。交渉し話し合うにしても、法理や道理よりも力の優劣で決定づけられ、戦争で決するしかなくなる、といったことにもなる。現に今、ロシアとウクライナ(それに米欧NATO諸国が支援して)戦争の最中にある。つまりB①のやり方は安全保障のやり方としては、戦争になりやすく、むしろ危険だということだ。
 それに対してB②の方は、自国の安全を国連の「法と警察」から守ってもらうというやり方だが、それは自国の軍備や同盟国の軍事力に頼らず、国連の集団安全保障に頼るということだ。
 その集団安全保障とは、侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行するという意思表示によって、侵略を未然に防止するという非戦のシステムのこと。(9条で戦争放棄、戦力不保持・交戦権否認を定めている我が国憲法は、そもそも国連のその非戦システムに応じたものになっているのだ。)
 制裁措置には①非軍事的措置と②軍事的措置とがある。
 ① は経済制裁などで、運輸・交通・通信手段の中断から外交関係の断然に至るまで様々ある。これらだけでは不十分だという場合には②の軍事的措置すなわち国連軍(国際警察軍)の作戦行動に及ぶことになる。
 国連が「侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行する」とはいっても、侵略があったか否かを認定し、それに対してどのような措置をとるかを決定するのは安保理で、その理事国のなかでも常任理事国である米中ロなど(拒否権を持つ)5大国の合意が必要で、その内一国でも反対すれば決まらないことになる。国連発足以来冷戦下では米ソ間、近年は米中ロ間の対立で、なかなか決まらない。特に軍事的措置については、「国連軍」(侵略者の軍隊を打ち破るに十分なだけ強力でなければならない国際警察軍)を編成するにしても、5大国を中心に加盟国間で兵力の提供を、数量・装備などの分担をどのようにするか合意することは並大抵でなく、未だに編成することができないでいる。そういったところを改革して実効性あるように国連警察軍を立ち上げることができるようにしなければならないのだ。そうすれば日本やコスタリカなど少数の国だけでなく、どの国も「自衛軍」を保持することなく軍備を全廃して、国連唯一の常備軍としての「国際警察軍」だけに、侵略国に対する軍事制裁の作戦をゆだねるということができるようになって、実効性ある集団安全保障が可能となる。このような国連の集団安全保障体制の確立こそが焦眉の課題なのである。
 それにつけても、今は国連警察軍に守ってもらおうにも国連の実状はそのような態勢にないのであれば、この日本に万一急迫不正な侵略があったら場合は、自分の国は自国の軍事力(自衛隊と日米同盟)でまもるしかないのか?
 そもそも「守ってもらう」といっても、何を守ってもらわなければならないのかだが、それは国か国民の生命(安全な生活)か自由か、どれもこれもだろうが、優先順位でいえば一番肝心なのは何を守ることか。
 それを守るには①軍事力で侵略を阻止・撃退する方法と、②非軍事・不戦に徹して国民の生命を犠牲にしない方法(「非暴力抵抗」の方法)とがあるが、どちらの方法を目指すべきか。
 日本国憲法は②(非軍事・不戦)の方を求めているが、現政府はひたすら②の方の「防衛政策」=戦争政策をとり、自衛隊も日米同盟もその態勢をとっているのだが。
 中国にしろ北朝鮮にしろロシアにしろ、武力攻撃を仕掛けてきたらきたで仕方ない、いつでも受けて立つというのと、何が何でも戦争は避けるというのとで、政府に望むとしたら、どちらが望ましいと考えるかだ。 

 そもそも戦争は殺し合いであり、生命を犠牲にし、生活手段・生活環境を破壊し、人々の自由・人権を著しく損ない、奪い、制限する。そのうえ人々から正常な感覚や道徳意識を失わせて憎悪・殺意をかき立て蛮行に駆り立て、悲惨(兵士だけでなく無辜の市民・住民が戦闘に巻き込まれて犠牲になり、或いは非戦闘地でも占領下では狂暴化した兵士による蛮行で犠牲になる惨劇)をもたらす。平時には許されず、あり得ない殺傷・破壊行為など蛮行が行われるが、それらは戦争がそうさせるのだ。(それらの蛮行はロシア人だからとか、〇〇人だから等と国民性や人種・民族に限ったことではなく、かつての日本軍もそうだったし、それは「戦場に置かれた人間の普遍性」なのでは―作家の逢坂冬馬氏の指摘あり。それにしても、戦争に巻き込まれて犠牲になり、蛮行の犠牲になるのも侵攻を受けた側の国民・住民がほとんどであるが、その国側の抗戦が「徹底抗戦」ということで撃ち続けば続くほど戦争は長引き犠牲者は増え、悲惨はひどくなる。その点では、抗戦は割の合わない結果を招く。その責任はあくまで侵攻仕掛けた国側にあり、その国が一番悪いのだといって断罪するのは当然のことではあり、それに対して抗戦するのは「正義の戦争」だといえるのかもしれないとはいえ、むしろ敢て抗戦せずに戦争に応じていなければ、そのような大量の犠牲者を出すこともなく、悲惨も被らずに済んだのでは、ということにもならないだろうか。)
 戦争には、侵攻し戦争を仕掛けた側と迎え撃ち抗戦する側と両方があって成立する(抗戦しなければ戦争にはならない)が、国連憲章や戦時国際法などにおける法的罪状の軽重や刑罰・戦争責任からいえば仕掛けた側の国の責任者や直接行為を命令し行為を為した将兵が悪いとなるが、戦争のそのものが悪い(だから戦い合う双方とも悪い)という観点からいえば、抗戦し応戦した側、それに手を貸し支援した側にも責任が問われて然るべき(なぜなら、その抗戦・支援なければ戦争にはらないわけだから)。
 その点から云えば、不戦・非軍事対応(侵攻し戦争を仕掛けたりしないことはもとより、仕掛けられても応戦・抗戦はせず、威嚇による要求にも応じない―非武装・非暴力・不服従―で、話し合い・交渉だけに応じるの)が最善ということになる。
 日本国憲法(9条)は基本的にこの立場なのでは。

 

2022年10月19日

他国からの侵攻や軍事的圧力にどう対応するか

(1)一般的には
 ①対抗―応戦(抗戦)、軍事力(抑止力)増強、同盟国と連携
 ②不戦・非軍事対応―無抵抗・服従(占領支配を受け入れ)
 ③ 〃   〃  ―非暴力抵抗(武器なき戦い)・不服従・非協力・・・・ガンジーの非 暴力思想やジーン・シャープの非暴力行動論から
   戦略―侵略軍の占領支配者に対して市民大衆(公務員・警察官さえも)が団結して不服従(命令に従わず)・非協力の態度・行動を貫く―そうすれば占領統治者は命令に従う協力者を失い、もたなくなって撤退へ―その非暴力方法にはボイコット・ストライキ・デモなど(シャープ氏によれば198もの方法があるとのこと)―投石したり、手は出さない(非暴力を徹底)
   弾圧・投獄・処刑などで犠牲者は出ても、抗戦・応戦(砲爆・ミサイルの撃ち合い等の戦闘)に伴う犠牲・破壊に比べれば被災や死者は少なくて済む

(2)中国から
 ①中国にのよる台湾統一作戦―台湾軍に米軍(日本の基地から出撃)が加勢―米軍に自衛隊が加勢―日本が中国軍から攻撃され戦争に巻き込まれる―という可能性
  そのような事態に立ち至ることを容認し(成り行きにまかせ)、それに備えて防
衛費の増額、「反撃能力」保持、9条改憲)するか、
  それとも、それには反対し、そのような事態を招かないように(中・台・米、とくに中国に対して自制を促すなど)日本政府の外交努力をもとめるか。

 ②尖閣諸島に侵攻?―自衛隊が抗戦―米軍が加勢
そのような事態(侵攻・軍事衝突・戦争)にならないよう(招かないよう)に
 対話・警戒・監視
(3)北朝鮮から
 朝鮮戦争の再開―米軍が日本の基地から出撃―米軍に自衛隊が加勢―日本が北朝鮮軍から核ミサイル攻撃され巻き込まれる
  そのような事態に立ち至ることを容認し(成り行きにまかせ)、それに備えて防衛
費の増額、「反撃能力」保持、9条改憲)するか、
  それとも、それには反対し、そのような事態を招かないように、北朝鮮・米韓に
対して朝鮮戦争の終結を呼びかけるなど日本政府の外交努力を求めるか。
(4)ロシアから?(可能性なくはないが、低い―日本が北方領土奪還の軍事作戦を起こさない限り、ロシア側から先制攻撃を仕掛けてくるくるとは考え難い)、

 これら以外に、日本がどこかの国から急迫不正の侵害・侵略を受ける蓋然性などあるのだろうか。
 これらのために「自衛戦争」を容認する軍事的安全保障の拡充・強化を目指して防衛費の増額、「反撃能力」保持、或いはNATO加盟、9条改憲の路線を採るか、それとも平和憲法に忠実な護憲の立場で、不戦・非軍事安全保障の路線を採るか、どれを採るかだ。

 護憲派(と云っても色々)の対応
 ①自衛隊は違憲として非武装・非軍事であるべきとする考え
 ②自衛隊は違憲でも、存在する限りは、万一急迫不正の侵害あれば活用
 ③自衛隊は、個別的自衛権の行使(専守防衛)に限って合憲、日米同盟も容認
いずれも集団的自衛権の行使容認と改憲に反対、核兵器禁止条約参加などでは共通
 
(5)国連の対応
  現状の問題点
 ①侵略など違法行為を認定し制裁措置を決める安保理で拒否権を持つ常任理事国
(5大国)が一国でも拒否すれば何事も決まらず機能不全に陥ること。(常任理事国になっている国自身か或いはその同盟・友好国が侵略者と認定されたり、制裁の対象となる決議にはその大国は拒否権を行使するということで)安保理の決定に基づく「国連警察軍」が組織できず、侵略など違法行為を制止、軍事的制裁措置を講じることができないでいる。
  (憲章43条には安保理が加盟国と「特別協定」を締結して、必要な兵力などの提供・分担を得て「国連軍」を組織・編成することが定められているが空文化している。)
 ②(国連憲章51条に、安保理が侵略国に対して制裁措置をとるまでの間という限定で)各国に個別的自衛権と集団的自衛権の行使が認められているために、各国とも軍備、自衛力(抑止力)の名のもとに軍事力を保持・増強 、互いに脅威(軍事的緊張関係)を及ぼし合い、「自衛」の名のもとに戦争し合う結果になっている(アメリカのアフガン戦争やイラク戦争、それに今回のロシアのウクライナ侵攻も、「自衛」の名のもとに行われている。)
 現に、常任理事国のロシアがウクライナに侵攻し、ウクライナが米欧の軍事同盟NATOの支援の下に抗戦、戦争は激化、長期化し、それを国連は制止できず、国連の集団安全保障・平和機構としての役割を果たせずにいる。

 これらの欠陥を除去するなど、国連は改革(憲章の改正)を迫られている—特に上の2点について
 ①常任理事国(5大国)に認められている拒否権の行使濫用を禁止するために、それ(事案に対する拒否権行使の正当性―濫用に当たるか否か)をチェックする機関を設けるなど、その方法を検討し、具体案を総会で決議。
 軍事的制裁措置を決定に当たる「国連警察軍」は軍事大国など加盟国に兵力などの分担・提供に頼らず、国連自身の機関として常設し、兵員・指揮官(参謀)など国連職員(国際公務員)として世界から直接募集して組織・編成する。資金は通常の国連予算と同様加盟国の拠出金(分担金)で。
 ②各国の軍備は全廃し、憲章51条の自衛権行使のための軍備は廃止。(自衛のためと称して軍備と軍事同盟を持ち合うことによって、それ自体が戦争の火種となるから)―各国とも日本国憲法9条のように戦力不保持・交戦権否認。国連警察軍以外には、各国の軍備は全て放棄。武器・兵器も全て
 (核兵器など大量破壊兵器や対人地雷など残虐兵器のみならず、大型重火器・小型軽火器も)製造・取引・輸出も禁止。
 そうすれば戦争はなくなり、恒久平和が実現。
 この際は国連の現状変更(レジーム・チェンジ)は必要不可欠

2022年10月20日

自衛権は正当防衛権と同じ自然権として固有の権利か?

 自然権とは、国家が生まれて法律が制定される以前から、人間(個々人)に生まれながらにして備わり、国家によって侵されることのない権利―「基本的人権」で「天賦人権」と称される。

 生存権(誰しも生命が保障され生きる権利)は自然権であるが、個人の正当防衛権(襲ってきた相手に自分の身を護るため、或いは襲われた人を助けるため、やむを得ず暴力を振るい相手に怪我を負わせ、殺してしまったりなど)の場合は刑法上の権利であって、生まれながら人間が有する権利というわけではなく、本来は違法な犯罪行為になるところを例外的に罪には問われない権利

自衛権」は国家の「固有の権利」というが、それらは国連憲章に初めて記された言葉で、第2次大戦まではそのような概念はなかった第1次大戦までの国際法には戦争に用いる手段や方法には制約があっても、国家の戦争行為そのものには自衛のためであろうとなかろうとなんの制約もなかった。それが1928年の不戦条約で「国際紛争解決のために戦争に訴える」ことを禁止するとなって、それを自衛のための戦争ならかまわないのだな、と解釈されるようになった。その「国家の自衛」が「個人の正当防衛」と似ているので国連憲章には国家の「固有の権利」として「自衛権」を認めるということにされたのでは―杉江栄一著『日本国憲法と国連』)
 
 要するに国の自衛権は、個人の正当防衛権とは異なり、自然権として大昔からどの国にも認められてきた固有の権利と云うわけではない、ということだ。

 暴漢から襲われて自分の身を守るため、他に方法がなく、やむを得ず物理的手段(暴力)に訴えて抵抗するというのは当たり前ではあっても、戦争を仕掛けてきた相手に対して国を守るために武力で応戦する自衛戦争は「正当な戦争」と見なされるかといえば、必ずしもそういうものではあるまい、ということだ。「個人の正当防衛」で、急迫不正な侵害に対して他に防ぐ方法がなく物理的暴力を行使するしかないという場合ならともかく、国に対する軍事侵攻や占領に対しては武力による抗戦しか他に方法はないとは限らず、「非暴力抵抗」という方法(アメリカの政治学者ジーン・シャープ氏が198「手」挙げている非暴力的方法)もあるわけである。

「正当防衛」が認められているといっても、日本では一般の個々人が護身用に銃刀など武器を保持・所持することは法律で禁止されている。しかし、アメリカでは憲法(「修正2条」)で人民の武装権として銃器などの保持・所持が認められている(植民地時代以来、開拓者がインデアンとの戦い、独立戦争では民兵がイギリス軍と戦い、黒人奴隷を反抗を抑止しながら使役したなどの特殊な歴史的背景から未だにそれが維持されているのだ)。殺人発生率(人口10万人当り2017年)は銃刀保持が禁止されている日本は0.2件なのに対してアメリカは5.3件と遥かに多い(尚、フランスは1.3、イギリス1.2、ドイツ1.0)。市民に銃保持を認めているアメリカはそれだけ銃射殺事件が多いということだ。(30年前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があった時、その日本人高校生はハロウインパーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、「もし相手が銃を持っていなければ、先ず言葉をかわしたはず」といわれる。武器を持てば、言葉を尽くすよりも、武器に頼ってしまいがちなのでは。)

 「国の自衛権」は国連憲章ではどの国にも認められていて軍備も認められているが、日本では憲法では戦力の保持(軍備)は交戦権とともに否認されているにもかかわらず、自衛権はどの国にも認められた国家固有の権利だからとして、憲法上の「戦力」には当たらない程度の「自衛力」しか持たない装備の実力組織として自衛隊を保持し、アメリカと安保条約を結んで米軍に駐留基地を提供し、集団的自衛権の体制を組んでいる。
 国連憲章は国際紛争の平和的解決と戦争・武力行使・侵攻・侵略の禁止、相互不可侵を定め、侵略行為など禁止を破った国に対してそれ以外の全ての国か一致協力して制裁措置を実行するという集団安全保障のシステムとして国連は発足した。ところが、この集団安全保障システムは、その中核(平和に対する脅威や侵略行為の認定と制裁措置の決定に主要な責任)を担う安保理で拒否権を持つ米中ロなど5大常任理事国が一国でも反対すれば決定できないことから、実質的に一度も機能しておらずその一方、各国に自衛権と軍事同盟・ブロックを組むことを認めていることから、てんで勝手に認定して個別的自衛権あるいは集団的自衛権を発動して戦争。朝鮮戦争以後、ベトナム戦争、湾岸戦争、対テロ・アフガン戦争、イラク戦争、そして今ウクライナ戦争と、いつ終わるともなく戦争が繰り返される。
 それを止めるにはどうすればよいのか。それには国連憲章を改正(51条を削除)し、各国の自衛権を廃止して軍備を全廃するしかない―それは日本国憲法9条(戦力不保持・交戦権の否認)を世界に押し広げるということだ。
 気候危機(地球温暖化)とともに、これこそが国連が取り組むべき喫緊の課題なのでは。
 世界の国々の間には紛争の種が様々あるが、各国がそのために戦争に備えて軍備を持ち合い、軍事同盟に寄りかかって対峙し、脅威を及ぼし合っていて、それ自体が火種となっているからである。
 
 これまでの国際法の戦争法規には、兵器の制約(核兵器や生物化学兵器などの大量破壊兵器の禁止や対人地雷やクラスター爆弾などの残虐兵器の禁止)はあるが、それだけでなく、自衛戦争を含めた戦争そのものを禁止し、日本国憲法9条2項のように戦力(常備軍)不保持・交戦権の否認を国連憲章に(改正して)定めてもおかしくないわけである。
 国際司法裁判所・国際刑事裁判所があるが、法執行機関として常設の国際警察軍があって然るべきであり、それ以外には各国の軍備・軍隊は全廃するということにする。そうしてこそ恒久平和が実現する、ということだ。


2022年11月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき17)(随時加筆)

新型コロナウイルス
世界の感染者総数6億4325万8628(+52万7167)、死亡者総数663万4937(+1573)
 上位国    感染者       死亡者    ()は前日比                        
 アメリカ 9878万8140(+11万1452)   108万0444(+556)
  インド  4467万3863(+296)   53万0620(+2)   
* ブラジル   3522万7599(+万)       68万9665(+) 11月30日のまま                        
  ロシア  2128万4476(+6043)     38万4103(+59) 
  フランス 3804万6448(+6万7200)   15万9990(+75)                      
イギリス  2422万5062(+?万)    21万2585(+0)                               
  * トルコ 1691万9638(+万)   10万1203(+)  11日のまま           
*スペイン1359万5504(+)    11万5641(+) 26日のまま                                             
   ドイツ 3649万9600(+3万6115)    15万7943(+152)                    
  * イタリア 2426万0660(+万)      18万1098(+) 26日のまま  
    
インドネシア 666万4844(+5609)   15万9830(+41) 
 フィリピン 403万6277(+790)     6万4641(+21)       
    日本 2493万8270(+11万7778)人   5万0070(+194)(午後7時30分現在 朝日)
    韓国 2715万5813(+5万7079)   3万0568(+62) 
    中国 371万9844(+1万3719)     1万5986(+16)
  <12月1日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                 
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都352万5319(+1万4399)  6194(+14)
                  大阪府228万8734(+6664)   6755(+8)
                   神奈川県170万5708(+8573) 3179(+12)
                  埼玉県136万8657(+7519)   2610(+8)
                  愛知県156万9319(+9241)    3095(+6)
                  北海道106万7690(+9659)   3319(+37)
                  兵庫県111万2148(+4606)    2995(+5)                                        
                  千葉県108万3918(+6036)   2746(+6)         
                   福岡県117万3199(+4334)   2097(+2)               
                  京都府52万5720(+2044)    1169(+3)                                                          
                  沖縄県 51万9532(+659)  815(+0)
                  広島県53万6915(+3539)   875(+8)
                                    
                  宮城県36万1744(+4447)    523(+5)
                  福島県26万5125(+2990)     351(+0)
                  山形県16万4090(+1853)     257(+1)
                  岩手県15万4952(+1697)     270(+3)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <11月30日午後8時30分現在>  [世界・日本ともに朝日より]
        
       9月14日 WHOのテドロス事務局長がコロナの世界的流行「終わりが見えてきた」(収束に近づいている)と。

   国内ワクチン接種率―11月30日、全体の2回目接種率80.4%
                   3回目    67.0%
========================================
11月30日、山形県内の新規感染者1853人
    山形県内のクラスター-新たに2件
 29日、山形県内の新規感染者1952人
    山形県内のクラスター-新たに‐山形市・米沢市・高畠町ー介護施設5か所でそれぞれ5~6人
 28日、山形県内の新規感染者554人
    山形県内のクラスター-新たに‐米沢市など5市町ー介護施設と障碍者施設で計55人
 27日、山形県内の新規感染者1145人
 26日、山形県内の新規感染者1994人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー障碍者施設で7人、②酒田市―介護施設で5人
 25日、山形県内の新規感染者1668人
    山形県内のクラスター-新たに‐①寒河江市ー介護施設で12人、②天童市―介護施設で6人、③上山市ー介護施設で13人、④山形市―介護施設で5人、障碍者施設で11人、別の障碍者施設で8人、⑤酒田市―介護施設で5人、⑥鶴岡市―障碍者施設で7人
 24日、山形県内の新規感染者661人
    山形県内のクラスター-新たに‐①寒河江市ー介護施設2か所で計27人、②天童市―介護施設で12人、③南陽市―介護施設で5人
 23日、山形県内の新規感染者2041人(最多更新)
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー医療機関2か所で計14人、介護施設で7人、②鶴岡市―介護施設2か所で計12人、③新庄市―医療機関で5人
 22日、山形県内の新規感染者2207人(最多更新)
    山形県内のクラスター-新たに‐①新庄市や山形市などー介護施設でそれぞれ6~8人、②酒田市―医療機関2か所で計42人、介護施設で6人、③庄内町―医療機関で9人
 21日、山形県内の新規感染者624人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設2か所で計18人、医療機関で8人、②米沢市―介護施設で7人
 20日、山形県内の新規感染者1057人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で10人、②酒田市―介護施設で6人
 19日、山形県内の新規感染者1473人
 18日、山形県内の新規感染者1268人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で10人、②南陽市―介護施設で5人、③白鷹町―介護施設で5人、④上山市―医療機関で6人
 17日、山形県内の新規感染者1488人
    山形県内のクラスター-新たに‐米沢市・鶴岡市ーいずれも介護施設で計20人
 16日、国内感染―第8波に(日本医師会)
         山形県内の新規感染者1738人
山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設で5人、②長井市―介護施設で5人
 15日、山形県内の新規感染者1917人
 14日、山形県内の新規感染者560人
 13日、山形県内の新規感染者1050人
 12日、山形県内の新規感染者1318人
 11日、山形県内の新規感染者1256人
     山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー県立中央病院で患者14人と職員10人
 10日、山形県内の新規感染者1363人
    山形県内のクラスター-新たに‐米沢市・長井市・酒田市ーいずれも介護施設で計36人
 9日、山形県内の新規感染者1603人
    山形県内のクラスター-新たに‐寒河江市・天童市・新庄市・三川町・鮭川村ーいずれも介護施設6ヵ所それぞれ5~9人
 8日、山形県内の新規感染者1647人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー障碍者施設で6人、②最上町―医療機関で8人、③寒河江市・長井市―いずれも介護施設で6~13人
 7日、山形県内の新規感染者528人 
 6日、山形県内の新規感染者955人
     山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー介護施設2ヵ所でそれぞれ6人と9人
 5日、山形県内の新規感染者1538人
     山形県内のクラスター-新たに6件
 4日、山形県内の新規感染者484人
 3日、山形県内の新規感染者1196人
    山形県内のクラスター-新たに‐①天童市ー医療機関で36人、②新庄市―県立病院で6人、③酒田市・山形市・大石田町・大江町・西川町―いずれも介護施設で各5人
 2日、山形県内の新規感染者1224人
    山形県内のクラスター-新たに‐①米沢市ー医療機関で7人、②山形市・大石田町・小国町―いずれも介護施設で計28人
 1日、山形県内の新規感染者1523人
    山形県内のクラスター-新たに‐①山形市ー医療機関で19人、②寒河江市・上山市2ヵ所・米沢市―各介護施設で7~9人

2022年12月02日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき18)

新型コロナウイルス   12月30日のデータ
世界の感染者総数6億5961万0989(+65万6206)、死亡者総数668万7265(+2687)
 上位国    感染者       死亡者    ()は前日比                        
 アメリカ 1億0070万6640(+12万3781)   109万2456(+982)
  インド  4467万9382(+243)   53万0699(+1)   
ブラジル   3630万2415(+3万7694)       69万3734(+172)                              
  ロシア  2147万9298(+6109)     38万5682(+56) 
  フランス 3947万4380(+2万4715)   16万2888(+132)                         
*イギリス  2436万5688(+)    21万3997(+) 29日のまま                                    
  * トルコ 1691万9638(+万)   10万1203(+)  11月11日のまま           
* スペイン1367万0037(+)    11万6899(+) 24日のまま                                                 
   ドイツ 3734万5969(+3万2729)    16万1321(+188)                      
  * イタリア 2502万1606(+万)      18万3936(+) 24日のまま      
    
インドネシア 671万8775(+685)   16万0583(+9) 
 フィリピン 406万3316(+657)     6万5332(+23)       
    日本 2913万3174(+14万8076)人   5万7317(+258)(午後7時30分現在 朝日)
    韓国 2899万6347(+6万5207)   3万2095(+58) 
    中国 448万0070(+2万4895)     1万6938(+62) 
  <12月30日午後5時現在>
                (米ジョンズ・ホプキンス大学の集計から)
                                 
日本国内      
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都397万6733(+1万4525)  6755(+21)
                  大阪府253万8311(+9527)   7147(+23)
                   神奈川県197万7657(+8491) 3568(+11)
                  埼玉県160万3542(+7402)   2950(+)
                  愛知県183万9022(+8194)    3493(+6)
                  北海道122万9707(+3347)   3938(+9)
                  兵庫県127万4320(+7479)    3224(+6)                                        
                  千葉県128万1437(+6113)   2992(+10)         
                   福岡県136万9751(+8869)   2320(+9)               
                  京都府59万7366(+2426)    1299(+7)                                                          
                  沖縄県 54万2205(+1170)  837(+0)
                  広島県66万4782(+4690)   1019(+6)
                                    
                  宮城県46万2213(+2629)    730(+6)
                  福島県34万1555(+1937)     453(+0)
                  山形県19万9940(+746)     311(+2)
                  岩手県20万1043(+952)     411(+6)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <12月30日午後7時30分現在>  [世界・日本ともに朝日より]
        
       9月14日 WHOのテドロス事務局長がコロナの世界的流行「終わりが見えてきた」(収束に近づいている)と。

   国内ワクチン接種率―12月28日、全体の2回目接種率80.4%
                   3回目    67.7%
========================================
12月30日(金)、世界の感染者総計6億5961万0989(+65万6206) 死者668万7265(+2687)
    国内感染者総数2913万3174人(+14万8076) 死者5万7317人(+258)
    山形県内の新規感染者746人 死者2人
     山形県内のクラスター‐新たに米沢市と酒田市の介護施設で計13人
 29日(木)、世界の感染者総計6億5895万4783(+61万0217) 死者668万4578(+2525)
    国内感染者総数2898万5099人(+19万1948) 死者5万7059人(+335)
    山形県内の新規感染者1080人 死者4人
 山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設2か所で計12人、②真室川町―介護施設で5人
 28日(水)、世界の感染者総計6億5834万4566(+65万4722) 死者668万2053(+2046)
    国内感染者総数2879万3147人(+21万5966) 死者5万6724人(+412)(過去最多)
    山形県内の新規感染者1094人 死者5人
     山形県内のクラスター‐新たに山形市の介護施設など4か所で計28人、酒田市などの5か所の介護施設で計35人
 27日(火)、世界の感染者総計6億5598万0635(+75万4972) 死者667万4981(+2742)
    国内感染者総数2796万6994人(+17万4082) 死者5万5100人(+371)
    山形県内の新規感染者1522人 死者4人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設2か所で計18人、②庄内町―医療機関で15人
 26日(月)、世界の感染者総計6億5716万6055(+2万4780) 死者667万9054(+406)
    国内感染者総数2836万8565人(+7万5039) 死者5万5865人(+272)
    山形県内の新規感染者329人 死者1人
 25日(日)、世界の感染者総計6億5714万1275(+34万4596) 死者667万8648(+1117)
    国内感染者総数2829万3544人(+14万8810) 死者5万5593人(+201)
    山形県内の新規感染者636人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で5人
 24日(土)、世界の感染者総計6億5664万7014(+66万6379) 死者667万7531(+2550)
    国内感染者総数2814万4736人(+17万7741) 死者5万5392人(+292)
    山形県内の新規感染者1212人 死者1人
 23日(金)、世界の感染者総計6億5598万0635(+75万4972) 死者667万4981(+2742)
    国内感染者総数2796万6994人(+17万4082) 死者5万5100人(+371)
    山形県内の新規感染者1028人 死者2人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で9人、②鶴岡市―介護施設で20人、医療機関で7人
 22日(木)、世界の感染者総計6億5522万5663(+70万9053) 死者667万2239(+2397)
    国内感染者総数2779万2913人(+18万3883) 死者5万4729人(+297)
    山形県内の新規感染者1171人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―障碍者施設など2か所で計11人、②酒田市―介護施設2か所で計40人
 21日(水)、世界の感染者総計6億5451万6610(+68万5590) 死者666万9842(+2219)
    国内感染者総数2760万9045人(+20万6418) 死者5万4432人(+325)
    山形県内の新規感染者1385人 死者4人
     山形県内のクラスター‐新たに―①米沢市―介護施設で6人
 20日(火)、世界の感染者総計6億5383万1020(+72万6956) 死者666万7623(+1947)
    国内感染者総数2740万2720人(+18万9986) 死者5万4107人(+339)
    山形県内の新規感染者1693人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに―①新庄市―介護施設で5人、②南陽市―介護施設で6人
 19日(月)、世界の感染者総計6億5310万4064(+24万9783) 死者666万5676(+623)
    国内感染者総数2721万2727人(+16万9141) 死者5万3768人(+227)
    山形県内の新規感染者456人 死者3人
     山形県内のクラスター‐新たに―①長井市―介護施設で5人、
 18日(日)、世界の感染者総計6億5285万4281(+27万7005) 死者666万5053(+623)
    国内感染者総数2714万3634人(+13万5524) 死者5万3532人(+156)
    山形県内の新規感染者899人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに―①酒田市―介護施設で7人、②戸沢村―介護施設で7人
    山形県内市町村別1週間(5~11日)の感染者数(「発生届出件数」と「陽性者フォローアップセンター登録件数」を合計した参考値) ①山形市2391人、②寒河江市435人、③上山市198人、⓸天童市647人、⓹東根市387人、⑥村山市155人、⑦尾花沢市205人、⑧山辺町123人、⑨中山町93人、⑩河北町177人、⑪西川町64人、⑫大江町49人、⑬大石田町39人、⑭朝日町35人、⑮新庄市230人、⑯舟形町25人、⑰金山町27人、⑱真室川町36人、⑲最上町97人、⑳鮭川村24人、㉑大蔵村8人、㉒戸沢村16人、㉓米沢市683人、㉔南陽市344人、㉕長井市184人、㉖高畠町235人、㉗川西町185人、㉘白鷹町164人、㉙飯豊町43人、㉚小国町43、㉛鶴岡市901人、㉜酒田市536人、㉝庄内町181人、㉞遊佐町95人、㉟三川町68人
 17日(土)、世界の感染者総計6億5257万7276(+69万4844) 死者666万4430(+2523)
    国内感染者総数2700万8110人(+15万8809) 死者5万3376人(+233)
    山形県内の新規感染者1255人 死者2人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で5人、②鶴岡市―介護施設2か所でそれぞれ14人と7人
 16日(金)、世界の感染者総計6億5188万2432(+79万3085) 死者666万1907(+3064)
    国内感染者総数2684万9304人(+15万3477) 死者5万3173人(+294)
    山形県内の新規感染者1143人 死者3人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―医療機関で10人、②南陽市―介護施設で5人、③長井市―介護施設で5人
 15日(木)、世界の感染者総計6億5108万9347(+65万5929) 死者665万8843(+2386)
    国内感染者総数2669万5890人(+16万7981) 死者5万2879人(+253)
    山形県内の新規感染者1429人 死者2人
 14日(水)、世界の感染者総計6億5043万3418(+72万1724) 死者665万6457(+1874)
    国内感染者総数2652万7909人(+19万0385) 死者5万2626人(+265)
    山形県内の新規感染者1712人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに―①南陽市―介護施設2か所で計17人
 13日(火)、世界の感染者総計6億4971万1694(+61万5351) 死者665万4583(+1705)
    国内感染者総数2633万7637人(+17万9409) 死者5万2361人(+283)
    山形県内の新規感染者2062人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で15人、医療機関で5人、②南陽市―介護施設で5人、③高畠町―介護施設2件で計0人、④白鷹町―障碍者施設で6人、⑤飯豊町―介護施設で5人
 12日(月)、世界の感染者総計6億4909万6343(+29万3364) 死者665万2878(+564)
    国内感染者総数2615万8237人(+6万0958) 死者5万2078人(+209)
    山形県内の新規感染者493人 死者2人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で10人
 11日(日)、世界の感染者総計?(+?万) 死者?(+?)
    国内感染者総数2615万7514人(+6万0958) 死者5万2065人(+209)
    山形県内の新規感染者1093人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たにー①山形市ー3件
    山形県内市町村別1週間(5~11日)の感染者数(「発生届出件数」と「陽性者フォローアップセンター登録件数」を合計した参考値) ①山形市2536人、②寒河江市437人、③上山市181人、⓸天童市573人、⓹東根市378人、⑥村山市167人、⑦尾花沢市224人、⑧山辺町165人、⑨中山町103人、⑩河北町193人、⑪西川町59人、⑫大江町38人、⑬大石田町39人、⑭朝日町24人、⑮新庄市287人、⑯舟形町31人、⑰金山町34人、⑱真室川町44人、⑲最上町65人、⑳鮭川村9人、㉑大蔵村27人、㉒戸沢村17人、㉓米沢市879人、㉔南陽市290人、㉕長井市191人、㉖高畠町264人、㉗川西町185人、㉘白鷹町121人、㉙飯豊町69人、㉚小国町98、㉛鶴岡市988人、㉜酒田市638人、㉝庄内町167人、㉞遊佐町49人、㉟三川町48人
 10日(土)、世界の感染者総計6億4853万0113(+64万7018) 死者665万1788(+2037)
    国内感染者総数2597万8804人(+13万6250) 死者5万1741人(+162)
    山形県内の新規感染者1440人 死者4人
     山形県内のクラスター‐新たに4件―山形市の介護施設と医療機関で計39人
 9日(金)、世界の感染者総計6億3095(+85万6061) 死者664万9751(+3443)
    国内感染者総数2584万2644人(+12万7292) 死者5万1579人(+229)
    山形県内の新規感染者1347人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに―①長井市―障碍者施設で6人、②酒田市―介護施設で5人

 8日(木)、世界の感染者総計6億4702万7034(+61万1083) 死者664万6308(+1405)
    国内感染者総数2571万5286人(+13万2989) 死者5万1350人(+236)
    山形県内の新規感染者1433人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに―①米沢市―介護施設で5人、②高畠町―医療機関で6人
 7日(水)、世界の感染者総計6億4641万5951(+61万5741) 死者664万4903(+2590)
    国内感染者総数2558万2294人(+14万8797) 死者5万1114人(+235)
    山形県内の新規感染者1553人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに4件―山形市と高畠町の介護施設などで計48人
 6日(火)、世界の感染者総計6億4580万0210(+51万1058) 死者664万2313(+1269)
    国内感染者総数2543万3599人(+14万0280) 死者5万0879人(+234)
    山形県内の新規感染者1993人 死者3人
     山形県内のクラスター‐新たに―①酒田市―介護施設で23人、②米沢市の医療機関など4か所でそれぞれ6~8人
 5日(月)、世界の感染者総計6億4528万9152(+25万6498) 死者664万1044(+577)
    国内感染者総数2529万3319人(+4万6849) 死者5万0645人(+149)
    山形県内の新規感染者506人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―介護施設で5人、②川西町―介護施設で10人
 4日(日)、世界の感染者総計6億4503万2654(+23万9043) 死者664万0467(+535)
    国内感染者総数2524万6465人(+8万8752) 死者5万0496人(+103)
    山形県内の新規感染者970人 死者4人
 3日、世界の感染者総計6億4479万3611(+78万7637) 死者663万9932(+2177)
    国内感染者総数2515万7693人(+10万9825) 死者5万0393人(+155)
    山形県内の新規感染者1339人 死者3人
     山形県内のクラスター‐新たに―鶴岡市―介護施設と障碍者施設で計11人
 2日、世界の感染者総計6億4400万5974(+74万7346) 死者663万7755(+2818)
    国内感染者総数2504万7,867人(+10万9597) 死者5万0238人(+168)
    山形県内の新規感染者1301人
     山形県内のクラスター‐新たに―山形市や酒田市など5市町―いずれも介護施設で計45人
 1日、山形県内の新規感染者1530人
     山形県内のクラスター‐新たに―①山形市―障碍者施設で22人、②飯豊町―介護施設で7人

2023年01月01日

新型肺炎ウイルス禍―どうなって、今は(つづき19)

日本国内  2023年5月6(土)のまま      
 国内感染者総数3380万4027人(+6233)  死者7万4666人(+12)
               上位都道府県  感染者数    死亡
                   東京都438万4692(+1062)  8117(+3)
                  大阪府285万0501(+430)   8557(+0)
                   神奈川県223万8468(+433) 4334(+0)
                  埼玉県181万3800(+272)   4007(+1)
                  愛知県212万3702(+282)    4363(+1)
                  北海道136万1902(+446)   4606(+0)
                  兵庫県147万7563(+153)    3908(+0)                                        
                  千葉県147万7272(+255)   3944(+0)         
                   福岡県159万5899(+202)   3205(+1)               
                  京都府68万4260(+120)    1674(+2)                                                          
                  沖縄県 58万3261(+120) 1016(+0)
                  広島県81万1463(+180)   1373(+0)
                                    
                  宮城県54万3887(+154)    969(+0)
                  福島県41万0131(+116)     856(+0)
                  山形県23万1030(+79)     370(+1)
                  岩手県23万7894(+99)     624(+1)
           クルーズ船 感染者723人 死亡13人
         <5月6日午前0時0分現在>  [世界・日本ともに朝日より]

   国内ワクチン接種率―5月1日、全体の2回目接種率80.2%
                   3回目    68.7%

 世界の感染者集計は、全数把握をやめる国が増え、米ジョンズ・ホプキンス大の集計が実際の感染者数を十分に反映できていないことなどを理由に、朝日新聞社では掲載を打ち切り。         
========================================
5月8日(月) 厚労省決定で、これまで感染症法で「2類」扱いだったコロナ対応を、この日から季節性インフルエンザと同様の「5類」扱いに引き下げ
     これに伴い、これまで国が毎日行ってきた国内各県の新規感染者数の全数把握・公表も打ち切り
    この日0時まで集計したデータ(最後の公表)
     国内感染者総数3382万7800人(+9320)  死者7万4690人(+15)
     山形県内の新規感染者107人(累計23万1254人)、新たな死者0人(累計370人)
 7日(日) 国内感染者総数3381万8480人(+1万4453)  死者7万4675人(+9)
     山形県内の新規感染者117人 死者0人
 6日(土) 国内感染者総数3380万4027人(+6233)  死者7万4666人(+12)
     山形県内の新規感染者79人 死者0人
 5日(金) WHO(世界保健機関)が、これまで3年3か月続けたコロナ緊急事態終了宣言
     この間(3年以上の間)世界感染者累計7億6522万人 死者累計692万人
     国内感染者総数3379万7794人(+5812)  死者7万4654人(+19)
     山形県内の新規感染者56人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―高畠町の介護施設で5人
 4日(木) 国内感染者総数3379万1982人(+7347)  死者7万4635人(+18)
     山形県内の新規感染者63人 死者0人
 3日(水) 国内感染者総数3378万4635人(+1万6635)  死者7万4617人(+27)
     山形県内の新規感染者160人 死者0人
 2日(火) 国内感染者総数3376万8000人(+1万6973)  死者7万4590人(+19)
     山形県内の新規感染者176人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―鶴岡市の医療機関で11人
 1日(月) 国内感染者総数3375万0781人(+5030)  死者7万4571人(+8)
     山形県内の新規感染者69人 死者0人
4月30日(日) 国内感染者総数3374万5751人(+6731)  死者7万4563人(+14)
     山形県内の新規感染者89人 死者0人
 29日(土) 国内感染者総数3373万9020人(+1万3065)  死者7万4549人(+27)
     山形県内の新規感染者153人 死者0人
 28日(金) 国内感染者総数3372万5955人(+1万1436)  死者7万4522人(+34)
     山形県内の新規感染者117人 死者1人
 27日(木) 国内感染者総数3371万4519人(+1万1771)  死者7万4488人(+24)
     山形県内の新規感染者144人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―米沢市の介護施設で11人
 26日(水) 国内感染者総数3370万2748人(+1万3236)  死者7万4464人(+36)
     山形県内の新規感染者152人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―南陽市の介護施設で9人
 25日(火) 国内感染者総数3368万9512人(+1万2477)  死者7万4428人(+18)
     山形県内の新規感染者158人 死者1人
 24日(月) 国内感染者総数3367万8955人(+4097)  死者7万4410人(+13)
     山形県内の新規感染者36人 死者1人      
 23日(日)国内感染者総数3367万2858人(+8695)  死者7万4397人(+20)
     山形県内の新規感染者108人 死者0人
 22日(土) 国内感染者総数3366万4163人(+1万0668)  死者7万4377人(+18)
     山形県内の新規感染者107人 死者1人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―酒田市の障碍者支援施設で7人
 21日(金) 国内感染者総数3365万3495人(+1万0079)  死者7万4359人(+24)
     山形県内の新規感染者104人 死者0人
 20日(木) 国内感染者総数3364万3416人(+1万0548)  死者7万4335人(+28)
      山形県内の新規感染者130人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに3件―米沢市と酒田市のいずれも介護施設で計29人
 19日(水) 国内感染者総数3363万2862人(+1万2094)  死者7万4307人(+22)
      山形県内の新規感染者134人 死者0人
 18日(火) 国内感染者総数3362万0768人(+1万1590)  死者7万4285人(+20)
     山形県内の新規感染者187人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―酒田市の障碍者支援施設で9人
 17日(月) 国内感染者総数3360万9155人(+3512)  死者7万4265人(+9)
     山形県内の新規感染者56人 死者0人
 16日(日) 国内感染者総数3360万5643人(+7062)  死者7万4256人(+15)
     山形県内の新規感染者76人 死者0人
 15日(土) 国内感染者総数3359万8581人(+8596)  死者7万4241人(+22)
     山形県内の新規感染者97人 死者0人 
 14日(金) 国内感染者総数3358万9994人(+8425)  死者7万4219人(+16)
山形県内の新規感染者105人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―酒田市の医療機関で9人
 13日(木) 国内感染者総数3358万1569人(+9137)  死者7万4203人(+18)
山形県内の新規感染者110人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―長井市の介護施設で7人
 12日(水) 国内感染者総数3357万2432人(+1万0180)  死者7万4185人(+32)
山形県内の新規感染者129人 死者0人
 11日(火)国内感染者総数3356万2252人(+9943)  死者7万4153人(+22)
山形県内の新規感染者134人 死者0人
 10日(月) 国内感染者総数3355万2091人(+3295)  死者7万4131人(+14)
山形県内の新規感染者33人 死者0人
 9日(日) 国内感染者総数3354万8796人(+7085)  死者7万4117人(+15)
山形県内の新規感染者66人 死者0人
 8日(土) 国内感染者総数3354万1711人(+8469)  死者7万4102人(+21)
山形県内の新規感染者126人 死者0人
 7日(金) 国内感染者総数3353万3242人(+8339)  死者7万4081人(+31)
山形県内の新規感染者106人 死者1人
    山形県内のクラスター‐新たに2件―遊佐町と庄内町のいずれも介護施設で計12人
 6日(木) 国内感染者総数3352万4903人(+8566)  死者7万4050人(+27)
    山形県内の新規感染者116人 死者1人
    山形県内のクラスター‐新たに3件―山形市と鶴岡市のいずれも介護施設で計21人
 5日(水) 国内感染者総数3351万6337人(+9508)  死者7万4023人(+21)
    直近1週間の全国感染者数は下げ止り、2か月半ぶりに上昇
    山形県内の新規感染者154人 死者1人
 4日(火) 国内感染者総数3350万682   9人(+9413) 死者7万4002人(+14)
山形県内の新規感染者127人 死者1人
 3日(月) 国内感染者総数3349万7206人(+3225) 死者7万3988(+14)
    山形県内の新規感染者53人 死者0人
 2日(日) 国内感染者総数3349万3981人(+6294) 死者7万3974(+14)
    山形県内の新規感染者83人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―遊佐町の障碍者施設で7人
 1日(土) 国内感染者総数3348万7683人(+7478) 死者7万3960(+31)
    山形県内の新規感染者88人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―米沢市の介護施設で8人
3月31日(金) 国内感染者総数3348万0205人(+6779) 死者7万3929(+43)
    山形県内の新規感染者67人 死者0人
 30日(木) 国内感染者総数3347万3426人(+7208) 死者7万3886(+40)
    山形県内の新規感染者126人 死者0人
 29日(水) 国内感染者総数3346万6218人(+8337) 死者7万3846(+34)
    山形県内の新規感染者104人 死者0人
 27日(火) 国内感染者総数3345万7886人(+8055) 死者7万3812(+27)
    山形県内の新規感染者115人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―鶴岡市の介護施設で6人
 27日(月) 国内感染者総数3344万9431人(+2889) 死者7万3785(+17)
    山形県内の新規感染者36人 死者0人
 26日(日) 国内感染者総数3344万6540人(+6330) 死者7万3768(+22)
    山形県内の新規感染者46人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―米沢市の介護施設で6人
 25日(土) 国内感染者総数3344万0206人(+8286) 死者7万3746(+45)
    山形県内の新規感染者103人 死者0人
 24日(金) 国内感染者総数3343万1920人(+8642) 死者7万3702(+49)
    山形県内の新規感染者89人 死者0人
 23日(木) 国内感染者総数3342万3278人(+8491) 死者7万3653(+40)
    山形県内の新規感染者122人 死者0人
 22日(水) 国内感染者総数3341万4787人(+4467) 死者7万3613(+30)
    山形県内の新規感染者60人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―米沢市の介護施設で8人
 21日(火) 国内感染者総数3341万0320人(+8689) 死者7万3583(+29)
    山形県内の新規感染者149人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―鶴岡市の介護施設で7人
 20日(月) 国内感染者総数3340万1796人(+2772) 死者7万3554(+22)
    山形県内の新規感染者31人 死者0人
 19日(日) 国内感染者総数3339万9024人(+5941) 死者7万3532(+34)
    山形県内の新規感染者106人 死者0人
 18日(土) 国内感染者総数3339万3083人(+7067) 死者7万3498(+38)
    山形県内の新規感染者90人 死者1人
 17日(金) 国内感染者総数3338万6016人(+7058) 死者7万3460(+48)
    山形県内の新規感染者94人 死者1人
 16日(木) 国内感染者総数3337万8958人(+7717) 死者7万3412(+57)
    山形県内の新規感染者117人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―山形市の介護施設で8人
 15日(水) 国内感染者総数3337万1241人(+9553) 死者7万3355(+61)
    山形県内の新規感染者142人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに4件―酒田市の障碍者施設や医療機関などで計39

 14日(火) 国内感染者総数3336万1688人(+1万0017) 死者7万3294(+47)
    山形県内の新規感染者180人 死者2人
    山形県内のクラスター‐新たに4件―酒田市の障碍者施設や医療機関などで計39

 13日(月) 国内感染者総数3335万1595人(+3372) 死者7万3247(+27)
    山形県内の新規感染者47人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―高畠町の介護施設で6人
 12日(日) 国内感染者総数3334万8223人(+7018) 死者7万3220(+43)
    山形県内の新規感染者111人 死者0人
 11日(土) 国内感染者総数3334万1205人(+9101) 死者7万3177(+118)
    山形県内の新規感染者149人 死者0人
 10日(金) 国内感染者総数3333万2104人(+9127) 死者7万3059(+49)
    山形県内の新規感染者150人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―酒田市の医療機関で10人
 9日(木) 国内感染者総数3332万2977人(+9846) 死者7万3010(+80)
    山形県内の新規感染者140人 死者0人
 8日(水) 国内感染者総数3331万3131人(+1万1807) 死者7万2930(+69)
    山形県内の新規感染者191人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに4件―鶴岡市と長井市の介護施設3か所で計22人、鶴岡市の医療機関で16人
 7日(火)、国内感染者総数3330万1324人(+1万2015) 死者7万2861(+35)
    山形県内の新規感染者200人 死者0人
    山形県内のクラスター‐新たに2件―新庄市の介護施設と川西町の障碍者施設で計12人
 6日(月)、国内感染者総数3328万9154人(+4263) 死者7万2826(+34)
    山形県内の新規感染者52人 死者0人
 5日(日)、国内感染者総数3328万4891人(+8731) 死者7万2792(+50)
    山形県内の新規感染者107人 死者0人
 4日(土)、国内感染者総数3327万6160人(+1万04321) 死者7万2742(+81)
    山形県内の新規感染者119人 死者0人
 3日(金)、国内感染者総数3326万5729人(+1万0525) 死者7万2661(+67)
    山形県内の新規感染者134人 死者0人
 2日(木)、国内感染者総数3325万5204人(+1万1508) 死者7万2594(+87)
    山形県内の新規感染者149人 死者0人
 1日(水)、国内感染者総数3324万3696人(+1万3955) 死者7万2507(+99)
    山形県内の新規感染者118人 死者1人
    山形県内のクラスター‐新たに1件―南陽市の介護施設で6人
2月28日(火)、国内感染者総数3322万9741人(+1万4532) 死者7万2408(+67)
    山形県内の新規感染者200人 死者1人
    山形県内のクラスター‐新たに2件―新庄市と鶴岡市の介護施設で計18人
 27日(月)、国内感染者総数3321万4941人(+5342) 死者7万2341(+52)
    山形県内の新規感染者56人 死者0人
 26日(日)、国内感染者総数3320万9599人(+1万2405) 死者7万2289(+62)
    山形県内の新規感染者129人 死者0人
 25日(土)、国内感染者総数3319万7194人(+1万4854) 死者7万22227(+72)
    山形県内の新規感染者149人 死者0人
 24日(金)、国内感染者総数3318万2340人(+6519) 死者7万2155(+83)
    山形県内の新規感染者48人 死者0人
 23日(木)、国内感染者総数3317万5821人(+1万5199) 死者7万2072(+128)
    山形県内の新規感染者156人 死者0人
 22日(水)、国内感染者総数3316万0622人(+1万8658) 死者7万1944(+114)
    山形県内の新規感染者157人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①山形市の障碍者施設で5人
 21日(火)、国内感染者総数3314万1964人(+1万9209) 死者7万1830(+72)
    山形県内の新規感染者183人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①三川町の医療機関で16人
 20日(月)、国内感染者総数3312万2547人(+7028) 死者7万1758(+51)
    山形県内の新規感染者70人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①白鷹町の介護施設で6人
 19日(日)、国内感染者総数3311万5519人(+1万4242) 死者7万1707(+107)
    山形県内の新規感染者127人 死者0人
 18日(土)、国内感染者総数3310万1277人(+1万7129) 死者7万1600(+130)
    山形県内の新規感染者168人 死者0人
 17日(金)、国内感染者総数3308万4148人(+1万8613) 死者7万1470(+141)
    山形県内の新規感染者153人 死者0人
 16日(木)、国内感染者総数3306万5535人(+2万1355) 死者7万1329(+172)
    山形県内の新規感染者198人 死者1人
 15日(水)、国内感染者総数3304万4180人(+2万8774) 死者7万1157(+213)
    山形県内の新規感染者249人 死者0人
 14日(火)、国内感染者総数3301万5406人(+3万1709) 死者7万0944(+135)
    山形県内の新規感染者306人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件―①新庄市の医療機関で5人、②大蔵村の介護施設で10人
 13日(月)、国内感染者総数3298万3330人(+9431) 死者7万0809(+93)
    山形県内の新規感染者77人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①酒田市の障碍者施設で5人
 12日(日)、国内感染者総数?万人(+?) 死者?万(+?)
    山形県内の新規感染者75人 死者0人
 11日(土)、国内感染者総数3296万0158人(+2万7378) 死者7万0579(+181)
    山形県内の新規感染者262人 死者0人
 10日(金)、国内感染者総数3293万2780人(+2万8624) 死者7万0398(+192)
    山形県内の新規感染者236人 死者1人
 9日(木)、国内感染者総数3290万4156人(+3万2972) 死者7万0206(+223)
    山形県内の新規感染者243人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件―いずれも山形市の介護施設で6人と5
 8日(水)、国内感染者総数3287万1184人(+4万1588) 死者6万9983(+200)
    山形県内の新規感染者291人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①酒田市の介護施設で11人
 7日(火)、国内感染者総数3282万7460人(+4万2315) 死者7万0031(+230)
    山形県内の新規感染者361人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件―①白鷹町の介護施設で6人、②酒田市の介護施設で9人
 6日(月)、国内感染者総数3278万5140人(+1万5254) 死者6万9801(+168)
    山形県内の新規感染者87人 死者0人
 5日(日)、国内感染者総数3276万9874人(+3万2143) 死者6万9633(+109)
    山形県内の新規感染者197人 死者0人
 4日(土)、国内感染者総数3273万7731人(+3万8595) 死者6万9524(+180)
    山形県内の新規感染者263人 死者3人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①庄内町の介護施設で7人
 3日(金)、国内感染者総数3269万9136人(+3万9830) 死者6万9344(+246)
    山形県内の新規感染者250人 死者0人
 2日(木)、国内感染者総数3265万9116人(+4万5503) 死者6万9098(+231)
    山形県内の新規感染者254人 死者1人
 1日(水)、国内感染者総数3261万3614人(+5万5013) 死者6万8867(+265)
    山形県内の新規感染者310人 死者2人
1月31日(火)、国内感染者総数3255万8593人(+5万8596) 死者6万8602(+326)
    山形県内の新規感染者413人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①新庄市の介護施設で5人
 30日(月)、国内感染者総数3250万0039人(+2万0832) 死者6万8135(+252)
    山形県内の新規感染者107人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①米沢市の介護施設で6人
 29日(日)、国内感染者総数3247万9198人(+4万4296) 死者6万7884(+191)
    山形県内の新規感染者202人 死者0人
 28日(土)、国内感染者総数3243万4902人(+5万4846) 死者6万7693(+252)
    山形県内の新規感染者318人 死者0人
 27日(金)、国内感染者総数3238万0056人(+5万3864) 死者6万7441(+344)
    山形県内の新規感染者280人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①長井市の医療機関で5人
 26日(木)、国内感染者総数3232万2995人(+6万0135) 死者6万7097(+316)
    山形県内の新規感染者342人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに3件―①米沢市の介護施設2か所で計13人、②寒河江市の医療機関で5人
 25日(水)、国内感染者総数3226万2741人(+7万8802) 死者6万6782(+424)
    山形県内の新規感染者444人 死者2人   
     山形県内のクラスター‐新たに3件―①山形市の介護施設2か所で15人、②酒田市の介護施設で13人
 24日(火)、国内感染者総数3218万3925人(+8万3358) 死者6万6358人(+383)
    山形県内の新規感染者590人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件―山形市の介護施設で5人、医療機関で9人
 23日(月)、国内感染者総数3210万0660人(+3万1666) 死者6万5975(+303)
    山形県内の新規感染者154人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①山形市の介護施設で5人
 22日(日)、国内感染者総数3206万8987人(+6万3846) 死者6万5672(+240)
    山形県内の新規感染者335人 死者2人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①山形市の介護施設で6人
 21(土)、国内感染者総数3200万5084人(+7万9037) 死者6万5432人(+319)
    山形県内の新規感染者481人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①天童市の医療機関で14人
 20日(金)、国内感染者総数3192万6125人(+8万2262) 死者6万5113人(+392)
    山形県内の新規感染者415人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに4件―米沢市と鶴岡市の介護施設、酒田市の医療機関で計23人
 19日(木)、国内感染者総数 3184万3592人(+9万5979 ) 死者6万4722人(+426 )
    山形県内の新規感染者504人 死者1人
 18日(水)、国内感染者総数 3174万7613人(+12万3657 ) 死者6万4296人(+430 )
    山形県内の新規感染者721人 死者0人    
 17日(火)、国内感染者総数3162万3961人(+12万9837) 死者6万3866人(+492)
    山形県内の新規感染者720人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに4件―酒田市などの介護施設や障碍者施設で計28人
 16日(月)、1国内感染者総数3149万4106人(+5万2623) 死者6万3374人(+355)
    山形県内の新規感染者214人 死1人   
 15日(日)、国内感染者総数3144万1021人(+10万7145) 死者6万3019人(+268)
    山形県内の新規感染者535人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①鶴岡市の介護施設で11人
 14日(土)、国内感染者総数3133万3876人(+13万2386) 死者6万2751人(+377)
    山形県内の新規感染者638人 死者3人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①米沢市の介護施設で6人
 13日(金)、国内感染者総数3120万1489人(+14万3384) 死者6万2374人(+523最多更新)
    山形県内の新規感染者683人 死者2人   
     山形県内のクラスター‐新たに5件―①山形市の介護施設2件で計13人、②鶴岡市の介護施設で13人、③南陽市の医療機関で12人、④三川町の医療機関で12人
 12日(木)、国内感染者総数3105万8116人(+18万3236) 死者5万1851人(+483)
    山形県内の新規感染者832人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①遊佐町の障碍者施設で7人
 11日(水)、国内感染者総数3087万4880人(+20万3393)  死者6万1368人(+520過去最多)
    山形県内の新規感染者1164人 死者3人   
     山形県内のクラスター‐新たに5件
 10日(火)、国内感染者総数3067万0689人(+7万4732)  死者6万0848人(+385)
    山形県内の新規感染者371人 死者4人   
 9日(月)、国内感染者総数3059万5732人(+9万2724)  死者6万0463人(+258)
    山形県内の新規感染者352人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件
 8日(日)、国内感染者総数3050万3009人(+18万8610)  死者6万0206人(+301)
    山形県内の新規感染者822人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件
 7日(土)、国内感染者総数3031万4398人(+23万8668)  死者5万9905人(+387)
    山形県内の新規感染者1224人 死者2人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―山形市の医療機関で13人
 6日(金)、国内感染者総数3007万5686人(+24万6510)  死者5万9518人(+476)
    山形県内の新規感染者1481人 死者4人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―①酒田市の医療機関で5人
 5日(木)、国内感染者総数2982万8042人(+23万1053)  死者5万9042人(+498過去最多)
    山形県内の新規感染者1235人 死者1人   
     山形県内のクラスター‐新たに3件―①鶴岡市の介護施設で10人、②酒田市の医療機関で7人、③庄内町の医療機関で8人
 4日(水)、国内感染者総数2959万6990人(+10万4620) 死者5万8544人(+334)
    山形県内の新規感染者753人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに2件―①山形市の介護施設で5人、②米沢市の医療機関で7人
  3日(火)、国内感染者総数2949万2372人(+9万0448) 死者5万8210人(+209)
    山形県内の新規感染者498人 死者2人
  2日(月)、国内感染者総数2940万1924人(+7万5885) 死者5万8001人(+244)
    山形県内の新規感染者518人 死者0人   
     山形県内のクラスター‐新たに1件―山形市の介護施設で5人
  1日(日)、国内感染者総数2932万6039人(+8万6450) 死者5万7757人(+184)
山形県内の新規感染者506人 死者0人
12月31日(土)、国内感染者総数2923万9589人(+10万6413) 死者5万7573人(+256)
    山形県内の新規感染者653人 死者0人
     山形県内のクラスター‐新たに1件―山形市の介護施設で利用者と職員の計12人
 30日(金)、世界の感染者総計6億5961万0989(+65万6206) 死者668万7265(+2687)
    国内感染者総数2913万3174人(+14万8076) 死者5万7317人(+258)
    山形県内の新規感染者746人 死者2人
     山形県内のクラスター‐新たに米沢市と酒田市の介護施設で計13人

2023年01月16日

対抗的軍事戦略か協和的平和戦略か(加筆修正版)

<はじめに>
 昨年は「今年の漢字」が「戦」だった(公募で1位、10位が「和」)。コロナ・パンデミックとの闘いがあり、ワールドカップなどの試合もあったが、ウクライナ戦争があって、そういう漢字になったというわけ。タモリは「2023年は、どんな年になりますか」と訊かれて「『新しい戦前』になるのでは」と。それは、今年は、この後にこの日本にも関わる新たな戦争が控えている、というわけか。それは中台戦争か朝鮮戦争(再開)にアメリカが介入・参戦し、日本も集団的自衛権に基づいて米軍を支援・参戦することになるだろうと予想されることから、敵基地攻撃能力の保有・配備などその準備岸田内閣の「国家安全保障戦略」などとして閣議決定され、バイデン政権と岸田政権がその気になっていて、国民世論にもそれを感じている向きがあるからだろう。
 岸田政権は、強大な戦力を持つアメリカを盟主にG7やNATO諸国と結束して中・ロ・北朝鮮・イランなどが戦争を仕掛けるのを抑止し、仕掛けられてもその都度撃破し制圧することによって平和を実現することができるとの考え。
 国民の間でも、ロシア・ウクライナ戦争や中国の台湾を巡る軍事的圧力、北朝鮮の相次ぐミサイル発射実験を報道によって見せつけられるにつけ、それ(防衛力強化)は、そうするしか仕方あるまいとして容認し、それに応じる向きが多いのだろう。
 しかし、そのようなやり方(敵対政策・軍事的対決政策)で、敵対国との戦争を制圧・抑止して「持続可能な平和」など実現できるだろうか。核戦争・第3次世界大戦などの悪夢が伴うが、そんなの起きっこないとでも思っているのだろうか。それとも起きてもしょうがない?
 
 わが国にはそもそも平和憲法(9条に戦争放棄、戦力不保持・交戦権の否認)があって、
それに従って戦争をしない、仕掛けられても戦争には応じないという不戦・平和主義の原則があるが、一国だけで戦争放棄、戦力(軍備)も持たないで平和を維持するなんて、そんなのは不可能な絵に描いた餅。
 ならば、日本だけでなくどの国も、(日本の憲法9条のように)戦争放棄、戦力不保持を定めて軍備を全廃すればいい、などというと、それこそ夢想家の絵空事だということになるのか?

<1>戦争を止められない国連
 どの国も軍備・兵器を持ち合っていても国連憲章に従って戦争や武力には訴えず、紛争は話し合いで解決するという原則を取ってきたのが国連。その話し合い、外交解決への努力を尽くさず、武力に訴え、戦争を仕掛ける国(侵略国など)があれば加盟国全体で制裁(経済制裁・軍事制裁)(―そうすることによって戦争を抑止・制圧するというのが国連の集団安全保障)。それらは安保理の決議に基づいて行われるが、その決定と国連軍編成・出動までの間は(暫定的に)当事国独自(個別的自衛権)で抗戦、もしくは同盟国とともに(集団的自衛権で)抗戦する自衛戦争は容認する、というのが国連の建前。
 ところが安保理の5大常任理事国には拒否権があり、その一国でも反対すれば侵略行為の認定も制裁も決定できないことになる。今回のウクライナ戦争は常任理事国ロシアの侵攻から始まり、その拒否権で、安保理は機能せず、国連の集団安全保障は機能していない(一致した決議に基づく制裁措置は講じられておらず、結局ウクライナ軍だけが前面で戦い、アメリカなどNATO加盟国が軍事支援するにとどまり、それらの西側諸国とともに日本はロシアへの経済制裁には加わっているものの、それ以外の国々は経済制裁にも加わっていない)。要するに国連は戦争を抑止も制止もできずに、ウクライナ戦争は未だに続いている。双方とも攻撃・反撃の応酬を繰り返し、NATO(米欧)の軍事支援も続けられ、戦争とそれに伴う人々の悲惨は絶え間なく続いており、ウクライナ市民の悲惨はもとより、経済制裁を被っているロシア市民ばかりか、両国からの石油・天然ガスや小麦などの穀物の輸入がストップしてエネルギー危機・食糧危機など、その影響は全世界に及んでいる。今の国連ではどうしようもない、といった状態

<2>そもそも、どうして戦争などするのか
(1)戦争とは、敵・味方双方とも殺傷・破壊用の武器を用いて戦い殺し破壊し合うもの。武器にはハードウエアにソフトウエア(サイバー能力や情報通信能力)など様々あるが、中でも不可欠なのは殺傷破壊用武器で、それを用いる戦闘で殺し合い破壊し合う、それが戦争。
(2)敵・味方どちらかが、相手に力づくで要求を押し通そうとし攻撃、それに対して抗戦するその場合、それぞれ正当性(正義)・不当性があって、不当な侵略や攻撃に対して、正当な自衛・防衛抗戦もしくは懲罰制裁反撃などはあるとしても、いずれにしろ殺傷(人命の犠牲)を伴う。自分の側に正義(正当性)があろうとなかろうと、生きるか死ぬかの殺し合いとなれば(「なにくそ、殺されてたまるか!」とか)、或いは(「こん畜生!」と)敵愾心に駆り立てられて、撃ちまくるしかなくなり、交戦法規とか「必要最小限」の限度を守らなければ、なんて綺麗ごとをいってはいられない、となって最大限撃ちまくり、過剰防衛・過剰反撃となってしまい、それだけ多くの人命が犠牲になる。それが戦争というものなのでは。
 その意味では戦争し合うこと自体が悪。その場合、軍事(暴力)対軍事(暴力)の戦争自体を回避するため、一方から仕掛けられても抗戦・武力抵抗はせずに、非暴力抵抗に徹するという方法もある。(非暴力抵抗といえばインドの反英独立運動の指導者ガンジーが有名であるが、その「非暴力」の研究者でアメリカ人のジーン・シャープ博士は非暴力戦術として198もの実践方法を考案し、リトアニアのソ連からの独立運動など成功に導いている。)
(3)戦争の要因には3点―①戦う理由(動機)があること、②戦う能力(殺傷破壊用武器・武力・軍備)があること、③戦う意志があること
 まず①理由・動機となるのは、民族・居住地域・国々の間で、食料・エネルギー・水や土地・資源などの領有・支配、利用権などの利害の対立そしてトラブル(もめ事)があること。それらは交渉、相談、協議して合理的な方法を見つけ出して分け合うとか、共用するとか、譲り合うとか、ウイン・ウインで納得・合意に至るまで、意を尽くして話し合えばよいわけである。ところが、そこに②武器・兵器・軍備(強制手段)があると、それにものを言わせて力づくで無理やり相手に対して強要し、要求に応じさせたり、奪ったりもできるようになる。それに対して相手側にも武器・軍備があれば抗戦してそれを退けることができるようにもなる。そして双方に③戦う意志があれば(互いにその気になれば)戦争になるわけである。ただその際もう一つ必要な考慮は勝算(勝ち目があること)と人命の犠牲・損害などリスク計算上のコスパ(費用対効果)があること。但しこれは「破れかぶれ」(自暴自棄)になれば度外視(お構いなし)。
 上の3つの要因のうち決定的なのは②(武器・軍備があること)で、戦争をするのはその手段となる武器・軍備があるからにほかならないわけである。それ(武器・軍備-それに軍事同盟・軍事ブロック)さえなければ対立やもめ事はあっても戦争にはならないし、戦争する気にはならないはず。
 ②で武器・武力を持つ集団や国が出てくると、それを持たない方は脅威を感じて互いに武器・軍備を持ち合うようになる。すると互いに脅威を感じて戦々恐々となり、相手が戦いを仕掛けてくるのを恐れ、それに対抗できるように、相手側に勝るとも劣らない武器・武力を備えて自衛する。そうして互いに戦力・自衛力を強化し合う。そうなると、自衛のためといっても、相手側から仕掛けてこられないように「攻撃は最大の防御なり」と先制攻撃をかけるといった「先制自衛」の戦術をとったりすることにもなる。そのように武器・軍備それに軍事同盟それ自体が戦争の火種となる。武器・軍備を持つということは火種そのものを持つということであり、自分に点火する意志はなくても相手にその意志があれば戦争になってしまうのだ。
 (ロシア・ウクライナ間でも、双方に武器・兵器などあるが故に、互いに紛争の相手国に対して、協議・交渉を拒み、問答無用で戦争に突入し、一方のウクライナには米欧NATO加盟国が武器供与・軍事支援して激戦が続き、国連も止められなくなっている。まさに武器・兵器それにNATOなどの軍事同盟が火種になって、火をつけたのはロシアの方だが、その火に油を注ぐかのようにアメリカやNATO加盟国の武器供与・軍事支援がウクライナ軍に対して行われ、燃え広がった戦火は、もう消すに消せなくなっている、という感じ。)
 戦う能力(兵器・戦力・軍備)があっても、戦う意志はなく、他の国が自国を相手に攻撃を仕掛け戦争をするのを抑止するために保持するだけだ、という抑止力論がある。戦力あるいは自衛力として防衛力とか軍備を持つことによって、「戦ったらかえってひどい目にあうぞとか、攻撃を仕掛けても撃ち返されるだけで無駄だぞ」とういうことで、相手側の戦う意志をくじき、戦う気を起こさないようにして戦争を避けるというわけ。(戦争を「仕掛ける意志」はないといっても、「仕掛けられたらやるぞ」という意志を示す、ということだ。) 
 あるいはまた、「外交には軍事力による裏付けが必要だ」という考え方もある。軍事力を持っていることによって、それを背景にして外交交渉を有利とし、不利にならないように外交力を補強するという、いわゆる「棍棒外交」とか「砲艦外交」で、力による外交の手段。
 いずれも、武力・軍備を威嚇に用いるやり方で、相手に脅威を感じさせるやり方。思惑どおりうまくいって、それが成功するという保証はなく、結局戦争になってしまう(過去の事実―日中戦争では圧倒的な日本の軍事力は中国に対して抑止力も外交力も効きめがかったし、太平洋戦争ではアメリカの圧倒的な軍事力は日本に対して抑止力・外交力としては効きめがなく、悲惨な戦争になってしまっている。またアメリカのアフガニスタン侵攻・イラク侵攻そしてロシアのウクライナ侵攻も、その圧倒的な軍事力をもってしても抑止力・外交力は効かなかったことの証左なのでは。
 尚、戦争「抑止力」には次の三つがある(それらが戦争を抑止する)。
①互恵的協力・外交関係構築―対話・交流
②法(国際法・国内法)で禁止―国連憲章で武力による威嚇、武力行使の禁止
  東南アジア友好協力条約(ASEAN加盟国以外に日米中ロ韓国・北朝鮮も加入)でも
                         武力による威嚇、武力行使の禁止          
③国に戦力(軍備)を持たず、どの国とも戦争には応じないことを国際的に約束。日本国憲法9条はその(他国に対して不戦・非軍事で対応する)立場。
 戦争は武器・軍備を持った対戦相手(国や勢力)がいることによって行われるが、いなければ戦争をやろうにもやりようがないわけである。つまり武器・軍備を持った国があって、その国が戦争を仕掛けようにも、自国が軍備を持たず、相手にならなければ戦争にはならないわけ。
(日本は憲法で本来はこの立場のはずなのだが、制定後まもなく、米ソ冷戦下で国はまだアメリカ軍の占領統治下、その米軍基地が日本に置かれ、朝鮮戦争に際してはそこから米軍が出撃、その隙を埋めるため警察予備隊を創設。この朝鮮戦争の間にアメリカは日本と講和条約とともに安保条約を結んで、占領は解除しつつも、基地と米軍駐留は継続、警察予備隊は自衛隊へと改称・増強され、安保条約も改定、日米同盟は強化されて現在に至っている。かくて日本はもはや不戦・非軍事国家ではなくなって、アメリカに組みし、今は中国や北朝鮮と戦争するかもしれない国に化してしまっている。戦争「抑止」なら次の④でいいのだというわけ。)
軍備(武力)による抑止―「拒否的抑止」(攻撃を仕掛けてきても迎撃・阻止されるばかりだから無駄なことはやめよと)、「懲罰的抑止」(攻撃を仕掛けてきたら、「報復・倍返しされ、かえってひどい目にあうぞ、だから攻撃しかけたりするなよ」と
 問題は、そのうちの③で、武力は、要求を相手に無理やり応じさせる手段になるが、逆に、それに対して抑止力にもなる。そして攻撃を仕掛けてきたら武力抵抗(抗戦)し、反撃―つまり戦争になる
 双方の戦力が拮抗すれば、互いに牽制して(冷戦期の米ソのように)均衡抑止になるが、差がつくと崩れ、どっちか戦力が上回った方が仕掛けてくるかもしれない、そうならないようにと、互いに戦力アップ(防衛力強化)に努め軍拡競争になる(安全保障のジレンマ)。その間、互いに相手を脅威としてそれにとらわれ、戦争の不安と恐怖から逃れられなくなる。それでは持続可能な平和(恒久平和)は訪れない 

 それにつけても、必ず襲来し回避のできない自然災害(天災)なら防災の備え(防備)は不可欠だが、戦争はその気がなれば、しなくて済むものであって、防備も軍備も不要なわけであり、むしろ、軍備などあることによって(戦争が選択肢となって)人をその気にさせる(つまり戦争を誘う原因ともなり火種となる)
 
<3>戦争が当たり前から戦争禁止時代になるも制裁戦争と自衛戦争は容認
 歴史的に文明の発展にともなって武器や戦術が(刀剣・鉾・槍・弓矢・騎馬戦・戦闘用馬車・軍船・投石機・火薬・鉄砲・大砲・軍艦・戦車・装甲車・戦闘機・空母・潜水艦・地雷・魚雷・生物化学兵器・弾道ミサイルや誘導弾・核兵器・電磁波パルス攻撃・AIロボット兵器へと)進化・発達し、現代に至っている。この間5000年余り、現生人類20万年の歴史からみれば極わずかの期間でしかない言わば「戦争時代」に。最初の武器は槍や弓で狩猟用に使われたのが、戦いの武器になって、そこから武器を持ち武装し合って戦い合う戦争時代が始まって、戦争があって当たり前であるかのような歴史をたどった。
 しかし、第1次世界大戦まで来て、その後(100余年前)国際連盟規約から戦争は違法化されるようになり、不戦条約で「国際紛争解決の手段として戦争に訴えることは禁止」(戦争放棄、但し違反した国に対する戦争・自衛戦争は可)となったが、第2次世界大戦後の国連憲章では、「すべての加盟国は国際関係において武力による威嚇又は武力の行使・・・・慎まなければならない」としながらも、違法な武力行使・侵略行為に対して鎮圧のために、より明確に集団的措置(安全保障理事会の決定のもとに理事国自ら或いは加盟国が提供する兵力によって軍事的強制行動)をとることを定め、その措置がとられるまでの間に限って当事国の自衛権(個別的自衛権とともに集団的自衛権)を国家に「固有の権利」として認めた(つまり武力行使禁止原則の例外として安保理による軍事的強制行動とともに各国の自衛権行使も可能とした)。
 ところが、それらが、各国の戦力(軍備、武器、核兵器さえも)保有・維持を正当化・容認する結果となっているわけである。戦争や武力に訴えることを違法としておきながらである。
 そして、現に戦争は行われており(ウクライナ戦争は、以前ソ連とともにWATOが解体して以後西側NATOの東方拡大に脅威を感じてきたロシアが、緩衝国のはずのウクライナまでがそのNATOに加盟しようとしているのを阻止するためとか、ウクライナ東部のロシア系住民の多い地域で2国が分離独立しようとしてウクライナ政府軍と戦っているその独立を集団的自衛権の名目で守るためとして侵攻して始まった)、アジアの近隣でも「朝鮮半島有事」・「台湾有事」への戦争準備ともいうべき軍拡、同盟国・同志国間の結束強化(共同訓練・共同兵器開発など)がにわかに行われつつあるわけ。
 それら各国の軍備・軍事力はいずれも自衛・専守防衛・戦争予防・抑止力の名目で保持され、その増強・軍拡が互いに脅威となり、戦争の火種になっているのだ。そして憲法で戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認のはずの日本の自衛隊が「反撃能力」と称して相手国領土内「敵基地」への攻撃能力の保有をも計画するに至っているのだ。

<4>そもそも自衛権は
 国連憲章では「国家に固有の権利」とされているが、それは基本的人権のような自然権(自然の理法で、国家というものができて法律が制定される以前から、人間に生まれながらにして備わり、国家によっても侵されることのない権利)ではないのである。又、国家を守る自衛権は、個人の正当防衛の場合(襲われて人や自分の生命を守るために、そうする以外に他に手段がなくて、被害者当人か警察官がやむを得ず取った殺傷行為は刑法上例外的に罰せられないの)とは異なる
 アメリカでは憲法(修正2条)でアメリカ人民の武装権(銃などを所持する権利)が認められているが、日本では刑法で正当防衛が認められているからといって、護身用に銃刀を所持することは法律(銃刀法)で禁止されている。(その結果、殺人発生率は人口10万人当たりアメリカ5.3件に対して日本は0.2件で圧倒的に少ない。)
 したがって、国連憲章の規定(51条)が改廃(削除)されて各国の軍備が全廃されたとしても、それが自然権などに反することにはならないわけである。

<5>戦争にもルールがあり、先ずはそれを守って軍縮へ、との考えはどうか
 一気に軍備全廃とまでいかずとも、まずはルールを守るようにすればいいのでは、とか、地道に軍縮を積み重ねていけばいいのであって、そうして軍備全廃なんてできっこないという向きが多いのだろうが、はたしてそうだろうか。
(1)戦争にもルールがあり、国際法があり、交戦法規というものがある
 だから、それを守ってやればいいのであって、守らない奴が悪い、国連憲章に違反して侵攻を仕掛けた方が悪いのであって、戦争そのものが皆悪いわけではない、という理屈もある。
 しかし、現在の国連憲章にも不備がないわけではない。国連は「国際平和機構」というが、憲章は第2次大戦で協力した米ソなど連合国の国際交渉における妥協の産物だったことの反映。その平和は「人権・民主主義に裏打ちされた平和」で、「諸国民の力を合わせる」という意味での「力による平和」という建前だが、基本的に「力による平和」であっても、大国(米ソなど5大国)が(安保理常任理事国となって)力を合わせるという意味での、昔ながらの「力の平和」にすり替えられるようになり、それが冷戦期米ソの対立・相互不信に陥り、ソ連解体(ロシアの他にウクライナなどの小国に分裂)後は、ロシアが安保理常任理事国として残ったものの中国とともに米国側と対立するようになり現在に至っているわけ。そして加盟国の集団安全保障(侵略行為に走った国があらわれた場合には一致協力して制裁措置を実行するというシステム)による平和もまた軍事力に支えられ、大国の軍事力に依存せざるを得ないという具合になっている。その集団安全保障は、侵略を未然に防止するという非戦のシステムであり、理論的には戦争を否定する立場に立っていながら、実際には軍事力行使を完全に否定しきれないジレンマが伴う。しかも実際、侵略行為に走った国があらわれた場合に安保理がそれを認定して国連軍を編成し制裁措置をとるまでの間は、個別的および集団的自衛権の行使を容認し、制裁戦争とともに自衛戦争という戦争を容認する結果なっている。
 国連憲章には「敵国条項」(第2次大戦中の連合国の敵国であった日本やドイツなどの国に対する措置を規定したもので、これらの国が侵略政策を再現する行動など紛争を起こした場合は安保理の許可がなくても、当事国や関係国が軍事制裁・武力攻撃を行うことができる)というものがあって、かつての連合国の敵国日本などが紛争を起こした場合は安保理の認定・判断にとらわれることなく当事国が勝手に自衛・制裁戦争ができることになっていた。今は、国連総会でその条項の削除決議が行われて死文化しているが、条文そのものはそのままで削除されてはいない。
 安保理による制裁措置は冷戦期には米ソ、その後は米ロ或いは米中、つまりアメリカとその対立相手のどちらかの拒否権で決められず、その機能はずうっと麻痺状態で憲章42・43条は死文化同然。その代わり紛争当事国とその同盟国が個別的に、或いは集団的に自衛権を行使して、その名目で戦争が繰り返されている
 アメリカのアフガン侵攻(同時多発テロ事件の報復、タリバン政権打倒)やイラク戦争(イラクをテロ支援国家で大量破壊兵器を隠し持っているとでっち上げて侵攻、フセイン政権打倒)は「制裁」「先制自衛」の名目で行われたアメリカ軍の侵攻で、国連憲章を無視して強行された侵略行為にほかならない。
 そしてロシアのウクライナ侵攻も、NATOの東方拡大とそれへのウクライナの加盟の動きを脅威だとして強行した「先制自衛」作戦であると同時に、ウクライナ東南部に多く居住するロシア人を守るために「生存をかけた特別軍事作戦」だと称して行っている。それは、かつて日本が「自存自衛のため」と、満州事変から始めた日中戦争・太平洋戦争とまるで同じ理屈で行われた侵略戦争にほかならないわけである。そのようなロシアの「自衛」の観念は、どちらかといえばプーチン大統領をはじめとするロシア国家の支配層の「大ロシア主義」という大国意識からする「国家の自存自衛」のための戦いではあっても、国民の中にはウクライナに攻め込んで戦うのが「自衛」のためだなどとは思えないという向きがあり、士気・熱意が高まらない。それにひきかえウクライナ側は、侵攻して撃ち込んでくる敵軍に対して「軍民」ともに「なにクソ」と立ち向かい、自らの住む町や村、家族と土地を侵略者から守り抜くのだという「国のみならず自らの生存がかかった自衛」の戦いで、「徹底抗戦」の掛け声のもとに意気高く善戦し、それを米欧NATOが武器供与して支援。しかし、それだけに戦争は長引き人命の犠牲と惨害はかさむ一方。石油・天然ガスなどの輸出大国ロシアに対する西側諸国の経済制裁と穀物輸出大国ウクライナからの輸入も滞ってエネルギー危機・食糧危機を招くなど世界に深刻な影響が及んでいる。それを国連は止めることができず、手をこまねいているばかりといった状態―国連総会ではロシア非難決議に加盟国の多数が賛成しても、棄権、反対もあり、法的拘束力がなく実効性がない
 それらアメリカの戦争もロシアの戦争も国連は止めることができずにいる。国連の集団安全保障の原則(侵略行為・平和破壊に対する軍事制裁措置)が機能しないところに、個別的・集団的自衛権の行使が容認されている、その結果なのではないだろうか。そのために自分の国は自分で守るか同盟国とともに守るためにと、互いに軍備を持ち合い、それに依存するようになる。対立・紛争があると対話・交渉を尽くして外交的解決に徹するよりも、武力に「ものを言わせ」がちとなり、このような戦争にはしりがちとなるわけである。
(2)交戦法規や国際人道法
 それらには残虐兵器・大量破壊兵器の使用禁止・民間の非戦闘員や非軍事施設など無差別攻撃、捕虜虐待など、やっていいこと悪いことがある。それさえ守っていれば、侵攻を仕掛けられて抗戦し、戦争になっても、敵はどうあれ、こっちさえルールに反していなければ大丈夫。とはいっても、戦争になれば、犠牲者が双方に出るのは避けられない。標的は戦闘員や軍事施設でも、ピンポイントで攻撃して命中するわけではなく、乱射して撃ちまくる。飛んでくるミサイルも迎撃して撃ち落とそうとしても百発百中命中というわけにはいかず、周辺の民間人・民間施設に被害が及ぶことは必至であり、スポーツ・ゲームのようにフェアプレイなどと綺麗ごとは済まない。敵愾心・怒り・憎悪の感情あるいは勇気・ヒロイズム・プライド・意地などの情念あるいは攻撃欲動や死への欲動(自暴自棄)に駆られて撃ちまくって殺し合いそして止まらなくなる。それが戦争というもの
 だから戦争そのものが起きないようにしなければならない。そのためにはどうすべきか、その方を考えなければならないのでは。戦争そのものを無くすこと。そのためには戦争手段(軍備)を無くせばよく、それを無くさない限り戦争は無くならない、とは考えられないのだろうか。
 ところが「悪いのは銃ではなく、それを使う人間だ」という人もいる(トランプ)。
 30年前、アメリカのルイジアナ州で留学中の日本人高校生が射殺された事件があった。その時、高校生はハロウィーンで仮装して訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と思われて撃たれたのだ。その家に銃などなかったならば、よく話して「ここは違うよ」「ああ、そうですか。失礼しました」で済んだはずが、銃を持ち出して、「動くな!」といっていきなり発砲した、という。刑事裁判では、発砲した人物は無罪だった(「悪いのは銃の方で、それを使った人間ではない」というわけか)。いったいどっちが悪いのだろうか。
 「悪いのは核兵器ではなく、それを保有する国による」。アメリカやNATOの国あるいは日本を守るために保有・配備する核兵器ならいいが、ロシアや中国・北朝鮮などの核兵器は悪い」などといえるのだろうか。それとも核兵器であれ通常兵器であれ何であれ殺傷兵器はどの国が持っても悪い、というべきなのでは。
(3)軍縮
 軍備全廃といっても、一気に全廃というよりも、段階を踏んで徐々に軍縮を積み重ねていって、まずは核軍縮から初めて、通常兵器を重火器から軽火器・小型兵器へと段々に縮小していくという漸進的なやり方を取った方がいいのだ、などというが、現実は、核兵器禁止条約さえ核保有国やその同盟国は被爆国の日本でさえも調印せず、NPT(核拡散禁止条約)でも、5大国以外の国には核拡散禁止で、北朝鮮の核実験には非難・制裁を科しているが、5大国の核軍縮は一向に進んでいない。一つ一つ段階的にといっても、それをやる度に交渉・かけ引きが行われ合意に達するまで延々と時間がかかり、重火器から軽火器・小型兵器に達するまでには、はてしなく長期間、後世までかかってしまい、それこそ非現実的だ。やはり、思い切って一気に全廃といかなければダメなのでは。

<6>軍備全廃
 それは「戦争根絶の唯一確かな道」(花岡しげる氏)。とはいえ、その実現を可能とするには、難題があることも確かである。各国がそれに合意したとしても全廃を実行するか、しているか、点検・確認の検査・査察・検証をどの国にも属しない国連機関によって行うことが不可欠
 密かに兵器や兵力を隠し持って武力行使・侵略行為を行う「テロ国家」・「ならず者国家」や武装勢力などが出てきたら、どうするか、それを取り締まり、鎮圧・制圧する国連警察軍が必要不可欠。これまでは、何かがあるとその都度、安保理の常任理事国になっている大国の軍事力に頼るか、加盟国(安保理が特別協定を結んだ国)が分担して兵力を提供し合って編成された国連軍によって軍事措置が行われる建て前になっていたが、大国の対立・拒否権で、それらは機能しなかった。それを変えて新たに兵員は国連職員(国際公務員)として各国から直接募集し、資金は各国で分担するが、どの国にも属しない常設の国連警察軍を設け、然るべき統制機関の下に運用するようにする、といったものが必要となるわけであるが。
 各国とも対外的に国を守る戦争や軍事活動を行う軍隊は廃止されても、国内の治安を守る警察活動は、そのままで、それまで軍隊に頼ってきた分むしろ守備範囲(責任・権限)が拡大するとも考えられ、テロ組織や武装集団に対処、武器の密造・密輸や国境警備に当たるも(日本では海上保安庁に自衛隊もそれに当たってききたが)、任務はあくまで犯罪の取り締まり。
 かつて国連で軍備全廃案が提案され議論されたことはあったのだ。
1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)
1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連がそれを提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言」
     3段階に分けて4年間で全廃を提案。
   その後その年、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
1962年、ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
   アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出。
   両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。

 しかし、この日本では(今ここにきて憲法9条の戦力不保持・交戦権の否認の規定を変えて、自衛隊保持を集団的自衛権の行使まで可能としたり、敵基地まで先制反撃を可能とするような解釈改憲や明文改憲をするよりも)今こそ、その戦力不保持・交戦権否認の規定を世界化して、国連憲章の方を変えて(51条を削除して)自衛権行使のための軍備も各国とも全廃し、どの国も戦力・戦争手段を持たないようにすれば恒久平和は実現する、その方に向かって政府・国民とも全力を傾注すべきなのでは。
・・・・これって、やっぱり夢想家の絵空事?
 日本国憲法制定当時、9条の「戦争放棄」などの発案に際して、時の首相・幣原喜重郎はマッカ ーサーに「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし100年後には、私たちは予言者とよばれますよ」といったそうだが(マッカーサー回想録)。そういえばジョン・レノンは「イマジン」で次のように歌っていた。
 「想像してごらん、国なんて無いんだと、そんなに難しくないでしょう、殺す理由も、死ぬ理由もなく、そして宗教もない、 私のことを夢想家だというかもしれない、でも私一人じゃないはず、いつかみんな一緒になって、世界は一つになるんだ」と。

<7>9条の世界化への努力
 現在、軍隊・軍備を持たない国はコスタリカ・アイスランド・ドミニカなど、いずれも小国だが27か国にとどまっているが、それを国連加盟国全体に広げていく努力があってもおかしくないのでは。
 日本も、憲法上は軍隊・軍備を持たないことになっているが、実態は歴代自民党政府の自衛隊と日米安保条約に基づく防衛政策によってかなり骨抜きにされている。しかし、憲法9条(単なる「戦争放棄」だけでなく「戦力不保持・交戦権の否認」)の条文自体は世界に冠たるもので、軍備全廃の先駆けともいうべきもの。

 アメリカのオハイオ大学の教授で今は亡くなったオーバビー博士が、日本の憲法9条をアメリカの憲法に書き加える運動に取り組み、その影響で、日本の各地に「9条の会」ができ、「9条にノーベル平和賞を」の運動も、彼が始めたのだといわれる。1999年にはオランダのハーグで世界会議に参加し、「日本国憲法第9条こそ世界の憲法に採用すべきだ」と訴えたりもした。晩年は「日本の憲法9条は原爆の炎の中で無念にも犠牲になった無数の魂が不死鳥となって甦った賜物である。決して死なせてはならない」と。死の直前には、日本国民向けのビデオメッセージで、「日本の皆様、全力で憲法9条を生かし続けてください。第9条の理念こそ、地球上の全人類にとって最も重要な宝物ですから」と訴えられておられたという。
 1999年(1899年のハーグ平和会議100周年を記念して開催され、オーバビー博士も参加した)「ハーグ平和アピール市民社会会議」では、「各国議会は日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」と宣言。日本国憲法は軍備と戦争がない世界への理想を示しているという(花岡しげる氏)。
 我が国政府はもとより、どの国も、これとは全く反対のことをやっており、やろうとしているわけであるが、そのほうが悪夢に向かっているのでは、と思えてならない。

 日本は、中国・北朝鮮・ロシアなど権威主義の国の脅威に対抗して、「自由と民主主義」の大義を掲げる米欧・オーストラリア・韓国・台湾など同盟国・同志国と組んで、「反撃能力」など防衛力を増強すれば戦争になっても大丈夫だといって戦争戦略でいこうとするのと、9条の戦争・戦力放棄・交戦権否認を堅持して、どの国も軍備全廃・恒久平和をめざす平和戦略でいこうとするのとでは、はたしてどちらが「平和ボケ」なのだろうか。

戦争か平和か、どっちへ

 ウクライナでは、侵攻してきたロシア軍に対して、ウクライナ軍がアメリカなどNATO諸国の支援を受けて「軍事対軍事」(つまりは戦争)で対抗、激戦が続き、仲裁もなく、ロシア軍が力尽きるか(とはいっても勝つため負けないために手段を選ばなくなるのが戦争で、核兵器を持つかぎり破れかぶれになって、それをぶっ放したらどうなるかだが)、それまで収まりそうもなさそうだ。そのウクライナ戦争とロシア制裁に伴うエネルギー・食料危機など影響が世界に及んでいる一方、日本周辺では朝鮮戦争(再開)と中台戦争の危険など危なっかしい状況がある。その情勢下で、岸田政権は安全保障政策(防衛政策)とエネルギー政策の改変にやっきとなり、敵基地攻撃能力の保有・防衛費の倍増などさらなる軍拡、それに原発の再稼働本格化から運転期限延長・新増設さえも企図して、原発依存からの脱却どころか回帰へ向かおうとしている。これらは岸田政権が、現行憲法から逸脱どころか脱却へと改憲にまで突き進もうとする大転換の様相を帯びている。
 そもそも、そのような日米同盟にすがりついた防衛政策―「軍事には軍事」という対抗政策でよいのか、原発も安全神話への回帰政策でよいのか、それが得策なのか、愚策ではないのか。それ(「力による平和」、核による戦争抑止平和、核の「平和利用」による電力確保)では平和・安全保障とエネルギーの持続可能な確保どころか、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの悪夢を再び呼び込む結果となりかねない愚策とは考えられないのか。(原発は地震・津波など自然災害などとともに戦争の危険とも隣り合わせで、プルトニウムが核兵器に転用されるだけでなく、原発が敵の標的にされる危険を伴うが。)
 しかし、これらは、そうすれば圧倒的な核戦力を持つアメリカを中心に、ヨーロッパのNATOと日米同盟あるいは韓国・オーストラリアなどの同盟国を包含した太平洋版NATOによって、(中・ロ・北朝鮮・イランなどとの)戦争は制圧・抑止され、(「パックス・アメリカーナの復活」か「パックスNATO」の)世界平和・安全が訪れると考えて、その方向を追求する政策。 
 それに対して、憲法9条の不戦・非軍事に徹した安全保障と平和友好協力政策をあくまで追求、それも日本だけの不戦・非軍事ではなく、全ての国々の軍備全廃と国連憲章の(個別的・集団的自衛権として軍備や軍事同盟を容認から禁止へ)改正を目指し、(同様な憲法を持つコスタリカなど共に)率先垂範して平和外交と国連改革のイニシャチブに鋭意努める、という戦略の方が得策であり、恒久平和実現の方法はこれしかないのだと考えて、その方向を追求する政策。このような不戦・非軍事の安全保障政策と上記の軍事的安全保障政策とで、「夢想家の絵空事」なのはどっちの方なのだろうか。
 我々国民には、岸田政権が目指している軍事的安全保障路線か、憲法が求めている不戦・非軍事の平和・安全保障路線のどちらを選べばよいのか、覚悟のほどが問われている。

2023年02月03日

ウクライナ戦争と9条―軍事対軍事の戦争路線と不戦・非軍事の平和路線(加筆修正版)

(1)戦争が起きる要因
 戦争とは、対立する国や勢力の間で、話し合っても折り合いがつかないとか、話が通じないと決め込んだ相手に、武力によって強要して自分の要求に従わせようとし、相手もそれに武力をもって抗戦し、殺傷・破壊し合う交戦のこと。
 その要素は―
 ①対立・もめ事(紛争)があること
 ②武器・軍備―戦争手段があること
 ③武器・武力を用いて力づくで相手に自分の言い分・要求に従わせようとする意志を持つこと(そこには敵愾心・憎悪など感情が働く)、そして戦争を仕掛ける。
 ④相手も、それに対して武器を手にして武力で抗おうとする意志を持つこと(仕掛けられた事実上の宣戦布告に応じて抗戦)。
 ③と④との違いは、「先に仕掛ける」のと「仕掛けられてから迎え撃つ」のとの違いだけで、両方とも武器・軍備を用意していて戦う意志があることには変わりない。(戦略的に、相手に「仕掛けさせて」おいて、迎え撃ち反撃して打ち破るという手を使うことも、よくある。その場合「仕掛けた」方は「嵌められてしまった」ということになる―旧日本軍の真珠湾攻撃?)
 この4つがそろえば戦争になる。①だけでは(つまり対立・紛争はあっても)戦争にはならない。②(武器・軍備)③(戦争を仕掛ける意志)があっても、それに対して相手に④(応戦・抗戦の意志)がなければ戦争にはならない。つまり、仕掛けられても、応じなければ戦争にはならない。又、途中まで交戦しても、どちらか一方がやめれば戦争は収まる。但し、相手から銃を突き付けられようにして武力で威嚇され「問答無用」と一方的な要求を突き付けられて無条件に応じ従えば降伏となるわけだが、相手の一方的な要求には応じず、あくまで話し合い(協議)・交渉を求め、それに応じてもらうのであれば降伏にはならず和議・和平となる。とはいっても、武力による威嚇の下では満足のいく交渉にはならず、理不尽な要求に対しては精一杯の非暴力抵抗が必要となる。それには激しい弾圧・迫害を覚悟しなければならないが、惨害・犠牲者は出るとしても、武力抵抗(抗戦)をして戦争するよりは、ずっと抑えられるだろう。
 4つの中でも、戦争に必要不可欠な要素は②の武器・軍備(戦力・武力)があること。それがあるからこそ戦争をするのであって、それさえなければ戦争は、できないし、戦争はなくなる。①(対立・紛争)はあっても、②(武器・軍備)
など無ければ、外交交渉でよく話し合って妥協点を見出し、譲歩するところは譲歩して、fifty-fifty(50%)で歩み寄る、といったことができるが、武器・軍備があるばかりに、それに頼ってしまい、強気になって100%勝ち取らないと気が済まなくなる。
 
 日本の憲法9条2項は、戦力不保持ということで、それ(②武器・軍備)を持たないことにし、③(戦争を仕掛ける意志)など持たないことはもとより、交戦権否認つまり「戦いを交える権利」を認めないということで④(応戦・抗戦の意志)も持たない、つまり侵略戦争であれ自衛戦争であれ戦争はしないことにしている。どの国もそうすれば(軍備を全廃すれば)戦争は根絶されることになるのだが。(それを日本政府・防衛省は、憲法上「戦力」は持てないが、「自衛のための必要最小限度の実力―自衛力」なら持てるとし、交戦権は「戦いを交える権利」という意味ではなく、戦時国際法において交戦国が有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷・破壊、相手国領土の占領などの権利のことだ、などとしている。そして今やその自衛力=防衛力を増強し、世界第3位の軍事大国になろうとしている。)

 古代文明社会に入って、その武器(刀剣・矛・槍・弓矢)が発明され、それ以来、武力を支えとする権力によって統治する国家が生まれ、その武力によって他国や外敵と戦争し合うのは当たり前の時代となった。つまり、①があって②③④まであって当たり前という状態。
 それが、第1次大戦後、国際連盟規約で戦争は違法とされるようになって、必ずしも当たり前ではなくなり、不戦条約で「国際紛争を解決する手段として武力を行使し戦争すること」は禁止されることになった。そして第2次大戦後、国連憲章では違法な武力攻撃や侵略行為に対する国連の軍事制裁と当事国の自衛権行使以外は、戦争と武力行使は禁止、つまり③(武力攻撃・戦争を仕掛けること)だけが禁止され②(武器・軍備の保有)と④(武力抗戦)は容認、ということになって国々の武装・軍備の保持は存続
 そのような状態で戦争はなくなっていない。現にウクライナでは戦争中で、未だに収まっていない。

(2)ウクライナ戦争について
 ①(対立・紛争)に関しては―ロシア(旧ソ連)とNATOとのソ連時代以来の対立。ウクライナは、ソ連時代は同じ国(連邦の1構成国)だった。アメリカと西欧で結成されたNATOはソ連崩壊後、東ドイツ・ポーランドなどの東欧やソ連領(連邦構成国)だったバルト3国まで加盟・拡大してロシア国境に迫り、それにウクライナまでが加盟しようと(憲法を改正してNATOとEUへの加盟の方針を条文に追加)していた。それに対してロシアが脅威を感じていた。東欧諸国やバルト3国はロシアに対して脅威を感じてNATOに加盟したのだが、ウクライナもロシアを共通の脅威としていた。ウクライナ国内(主として東部のドンバス地方と南部のクリミア半島)にはソ連時代からロシア人が住んでいて、8年前の政変(マイダン革命)で親ロシア派の大統領が追放されたのを切っ掛けにロシア人居住地域で反乱、内戦が起き、クリミア共和国が分離独立してロシアに併合、東部のドンバス地方でも2つの人民共和国が独立を宣言し、親ロシア派武装勢力とウクライナ政府軍との間で内戦が続いていた。
 ②(武器・軍備)に関しては―ロシアは核保有国で軍事大国。ウクライナは米欧の軍事大同盟NATOに加盟しようとしていて、ロシアは、それによってウクライナにアメリカの核兵器などが配備されることを恐れていた(加盟すれば、アメリカの核弾頭搭載可能な中距離・短距離弾道ミサイルがロシアに向けて配備することが可能になってしまうから)。
 ③ロシアがウクライナのNATO加盟阻止・中立化・非軍事化を要求、NATO側から拒否されて侵攻を強行。ロシアは、東部ドンバス地方の2「人民共和国」の独立を承認したうえで、その独立を擁護するための集団的自衛権の行使だということをも侵攻理由とした。
 ④ウクライナは抗戦、アメリカやNATO諸国もそれを軍事支援―武器・兵器供与、軍事訓練・軍事情報支援も。
 このウクライナの戦争目的は、実は1年前2月に突如強行された侵攻に対して、それを撃退・排除するためという単なる抗戦ではなく、8年前(マイダン革命で)親ロシア派と見なされた大統領(ヤヌコビッチ)を追放して新たな大統領に変えた政変を切っ掛けに、東南部(ドンバス地方とクリミア半島)に多く住むロシア系住民が分離独立の動きを見せ、それに乗じてロシアはクリミア半島を併合、ドンバス地方の2州にそれぞれ「人民共和国」を起こそうとした親ロシア派勢力とそれを阻止しようとするウクライナ政府軍との間で内戦がずっと続いていたのだ。ウクライナ軍にとっては、その戦争が昨年2月から本格化したということなのであって、その戦争目的はその以前(1年前)に併合されたクリミア半島と独立した東部2州の奪還にあり、それを果たすまでは戦争は終われないということなのだ、というわけ。

 ロシアのその侵攻理由・動機はどうあれ、国連憲章など国際法上は違法な侵略行為。ウクライナ側が侵攻を招いたもなにも、違法に侵攻した方のロシアが悪い。「悪いものは悪い」。但し「法的には」だ。戦争は、どっちか一方が先に仕掛け、それに相手が応戦することによって行われ、国際法上は先に仕掛けた方が悪いことになるが、仕掛けたりしなければ戦争にはならなかったのは当たり前だが、それに対してウクライナが応戦し、NATOが武器を供与して加勢などしなければ戦争にはならなかったとも云えるわけである。

 戦時国際法(交戦法規など)は戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を定めているが、相手国兵力の殺傷・破壊そのものは交戦国が有する権利として容認。だからといって、戦争はそもそも武器を使って殺傷し合うのが当たり前だといって済まされるものではない、人命を犠牲にしてはばからない「人道上」非道の極みなのだ。交戦法規や国際人道法など残虐行為の禁止とか無差別攻撃の禁止などルールがあって、それを守ってフェアに戦いさえすればそれでよい、と云って済まされるようなものではなく、戦争そのものが非人道的なもの。「人殺しは人殺し」であり、許されていいはずはあるまい。「正義の戦い」とか「英雄」とか戦いと戦士を美化する向きもあるが、人を殺し合う戦争自体が悪なのである(ロシアの文豪トルストイのナポレオン戦争を題材とした『戦争と平和』はその立場で戦争の悲惨と不条理を描いている)。宣戦布告されても、或いは布告なしに仕掛けられても、戦争には応じてはならず、武力抗戦は避けなければならないのだ、というのが非暴力主義(ガンディーのそれはトルストイの影響を受けていた)。

 ウクライナ戦争には背景・経緯・遠因・直因・それぞれの意図・動機など様々あるようだが、そこで云えることは、ロシア・ウクライナ(それを支援する米欧NATO諸国)それぞれ互いに安全保障・自衛・防衛・攻撃抑止のためとして軍備・武力を持ち合っていること。そしてそれが互いに相手の脅威・警戒を誘っている。それが戦争の動因になっているということだ。きっかけはロシア軍による侵攻だが、それにウクライナ軍が応戦したことによって始まり、そのウクライナにNATOが武器供与など軍事支援、それに対してロシア軍が応戦・反撃、そしてまたウクライナ軍が応戦・反撃と、その応酬を繰り返している。いつ果てることもなく。どっちかが武器・弾薬が尽きるまで終わらない。物量から云えばMATO諸国の支援を得ているウクライナ軍よりも、ロシア軍の方が武器・弾薬は尽きてしまうだろう。しかし、それをカバーするためにロシア軍は核兵器を使いかねない。そうなればNATO側はアメリカが配備している核兵器で反撃、核戦争になってしまう。そこまでいかないと、この戦争は終わらないのかだ。
 要するに②の点で、兵器・武器・弾薬があるから、それを使って戦争になり、それがあるうちは戦争はやり続けるものなのだ、ということ。
 それにもう一つは、④の点で、戦い合う相手がいるから戦争になるのだということ。侵攻に対して抗戦、抗戦に対して反撃、また応戦というふうに、「やられたらやり返す」のが当たり前で、応戦するのが当たり前であるかのように思い込み(「徹底抗戦だ」の「反撃だ」のと勇み立てるが)、そうして戦わせ続ければ、戦争はエスカレートするばかりで、いつまで経っても終わらせることができなくなってしまうということ。そういったことにも気が付かなければならないのでは。

 侵攻が違法ならば国連安保理で然るべき制裁措置を講じるべきなのが、常任理事国であるロシアの拒否権でそれが機能しないし、そもそも安保理による軍事制裁の準備(国連軍の編成)が整って出動開始するまでの間は、侵攻された当事国に自衛権行使が認められているため、ウクライナが自力で抗戦して排除・撃退してもかまわないというわけだ。だからといって(国連憲章で自衛権行使が権利として容認されているからといって)、仕掛けられた戦争に対しては応戦するのが当たり前で、それが(戦わなければならない)義務なのかといえば、何が何でも自ら戦い抗戦するのが義務だというわけではあるまい
 侵攻に対して応戦するから戦争になるのであって、悲惨な戦争を避けるために敢えて武力による応戦は控えて、非軍事の対応手段(外交手段もしくは非暴力抵抗手段)をとるように国際社会(ロシア以外の国連加盟国)はウクライナを応援すべきなのであって、NATOなどが、ウクライナの抗戦に武器供与など軍事支援して戦争を長引かせエスカレートさせるようなことはしてはならないのではあるまいか(国連の中満氏・事務次長は「軍備の支援が平和への願いをつぶしてはならない」「武器の大量流入は戦闘の激化や武器拡散の懸念を高める」と安保理の公開会合で指摘)。国連事務総長やロシア以外の国連加盟国は双方に対して停戦を呼びかけ、ロシアに対しては非難・制裁を呼びかけるのはいいとしても、ウクライナには非軍事的支援のほうを呼びかけるべきなのでは・・・・と思われるのだが。

 ロシア側の要求は、思うに二つ、①ウクライナがNATOに加盟しないこと(中立・非同盟でいてくれること)、②ウクライナ東部に多いロシア系住民(人口の7割を占める2州)に自治権を与えること、のようだ。そうだとしたら、その要求にウクライナ政府・国民に応じてもらうためだからといって、何故、プーチン大統領は国連憲章など国際法を犯してまでロシア軍を侵攻させなければならなかったのか。また、それに対してウクライナ政府・国民は、何故、武力に訴えて抗戦し(戦争に応じ)なければならなかったのか、戦争をする以外にロシア軍の侵攻を食い止める方法はなかったのか(国連など国際社会も)、であり、この戦争は避けられない戦争だったのか、である。

(3)我が国の場合はどうか
 憲法の9条では①(他国と対立・紛争)はあっても戦争は「放棄」、「戦力」不保持で②(武器・軍備)も持たず、③(戦争を仕掛けること)も④(戦争に応じること)もなく戦争は一切しないというのが本来の立場。
 それにもかかわらず「自衛隊」を持ち、日米安保条約も結んで日米同盟を組み、米軍の駐留基地を置いている

 日本の自衛隊の場合は①「急迫不正の侵害」すなわち「武力攻撃が発生」した(着手された)場合で、②他に手段がない場合に、③必要最小限の実力行使ができるとされている(自衛権の発動・武力行使の3要件)。いずれにしろ武力攻撃に対して武力で応戦はできるということで、殺傷もできる(戦時国際法上の交戦国が有する権利としてではなくても、警察官と同様に刑法など国内法で業務上の正当行為として罪には問われない)。国を守るため、国民の命を守るため(という業務上の正当行為として)なら戦って敵兵を何人殺してもかまわないということ。だからといって戦争になれば、味方にも戦死者が出るし、巻き込まれた自国民の命が犠牲になることもある。
 平時の領海・領空の警備、侵犯の阻止・排除ぐらいならよくても(不審船や工作船などに対しては、対応はほとんど海上保安庁だけでも間に合っているようだが)、台湾有事や朝鮮半島有事で米軍が出撃して自衛隊が支援出動するようなことがあれば、中国軍や北朝鮮軍の反撃が日本国民の居住する島や本土にまで及び、空爆やミサイル攻撃を被ることになり大変。そのような戦争事態は避けなければならない。
 自衛隊については、1972年の政府見解では、憲法前文で確認している「平和的生存権」や13条が「生命・自由・幸福追求の権利」は国政上最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、「この自衛の措置はあくまで外国の武力攻撃によって国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫・不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として容認されるものであり、そのための必要最小限の武力行使なのだ、としている。とは言え、攻撃を仕掛けた外国軍に対して、自衛権を発動して応戦・抗戦すれば戦争(殺し合い)になるわけである。そして死傷者を出して人の命が失われる。それには個人として「最大の尊重を必要とする」国民の生命と生存権を守るためと云いながら、それが犠牲にされてしまうという矛盾が伴う。
ならば、むしろ、応戦・抗戦などしなければ国民の生命は犠牲にされずに済んで守られるのではないか。国が責任を負うのであれば、むしろその方が適切なのでは、とは考えられまいか。この場合、外国が「不正」に仕掛けた武力攻撃事態に対して「他に手段がなく」やむなく武力で応戦といっても、その「不正」「他に手段がなく」といった判断がはたして適切なのか、とかく自分よがりの恣意的な(一方的に「そうだ、それに違いない」と決めつけるなどの)判断になりがち(例えば、台湾海峡有事や朝鮮半島有事に際するアメリカ軍の日本基地からの出撃と自衛隊の出動に対する中国や北朝鮮からの反撃を「不正」と決めつけることができるのか、また「他に手段はなかった」などと言い切れるのかだ)。その結果の戦争の惨禍を考えれば、そんなことになるくらいなら、武器や軍備などむしろ無いほうが、武力手段に跳びついて武力行使にはしり、戦争になってしまうようなことがなくて済む。武力手段がなければ、それ以外の手段(非暴力の抵抗手段や非軍事の外交手段)をひたすら追求・駆使するしかなく、その方に専心するしかないということになる。ということは、武器・軍備など持つから、他の非暴力・非軍事手段をさしおいて武力行使に走り戦争になってしまうのだ、とは考えられまいか。

 いずれにしろ戦争する国や人々の意図や感情は様々あるとしても、戦争には悲惨・非人道がつきものであり、全世界の国民が平和の裡に生存する権利(平和的生存権)と生命・自由・幸福追求の権利をだいなしにするのが戦争。それだけは何としても避けなくてはならない、そいうものなのではあるまいか。

(4)戦争を招くようなことはしないに越したことはない
 日本は中国・ロシアや北朝鮮に対してどうか。侵攻や攻撃を招くようなことをしていないか。(侵攻や攻撃を仕掛ける方が悪いとしても。)
 とにかく戦争を招かないようにするためにはどうすべきかだ。
 ロシアとウクライナは互いに相手を脅威と感じ、警戒し合っている。ロシアはNATOの東方拡大が隣国さらに足元のウクライナにまで迫ってきたと。ウクライナもロシアに対して極度に脅威と感じて米欧に頼りNATO加盟を求めてきた。その結果ついに激突してあのような戦争に至っている。当初、ロシア側は戦力において圧倒的に優勢で、短期間で終わるかに思われたが、ウクライナ側の頑強な抗戦で激戦となって一年にもなろうとしている。戦死者は双方ともそれぞれ少なくとも1万人以上(2月イギリス国防省の把握ではロシア軍の方は4万~6万人)には達し、ウクライナ側には子供らを含む民間人の死者も10カ月(12月段階)で7199人という(国連高等弁務官が確認した人数で実際はもっと多い)。

 日本が中ロや北朝鮮の攻撃を招かないようにするには、先ずは自国がこれらの国の脅威にならないようにすること。(かつて日本はこれらの国に侵攻・占領し、植民地支配して脅威となってきた。)憲法9条は戦争放棄・戦力不保持を定めたことによって、これらの国に対して再び脅威とはならない(安心の供与)という国際的約束でもあった。国々は日本から侵攻される心配はくなり、逆に侵攻しても反撃され逆襲される恐れもなくなった。だからといって、日本が防備が手薄なことをいいことに侵攻すれば、違法行為に対する国連など世界中から非難を浴び、(安保理が機能せず一致した制裁措置はとれないとしても)多くの国々から制裁を被ることになり、日本に侵攻してもコスパ(費用対効果)やリスク計算上なんのメリットもなく、全く割に合わない結果にしかならない。だからそのような(憲法の通りならばの)「非軍事平和国家」の日本には侵攻はできないはずだ、と思うのだが。
 ところが、日本の歴代政権は憲法9条をよそに自衛隊の名のもとに再軍備。9条で保持を禁じられている戦力ではなく自衛のために必要最小限の「実力」であって「脅威にはならない」などといいながら、安保条約によって最強の軍事大国アメリカと軍事同盟を組んで「安保」体制を築き軍事を強化してきて、今や敵基地攻撃能力まで保有し防衛費倍増で世界第3位の軍事大国になろうとさえしている。朝鮮戦争・ベトナム戦争それにアフガニスタン紛争・イラク戦争でも米軍は日本の基地から出撃したが、今後中国や北朝鮮が台湾有事や朝鮮半島有事でアメリカから攻撃された時、その米軍は日本の基地から出撃し、それに自衛隊が加勢するとなれば、その時は日本が中国や北朝鮮から反撃を被ることになる
 つまり、日本に自衛隊があって日米同盟があるから、日本が攻撃されるのであって、自衛隊・日米同盟がないから攻撃されるのではないわけである。
 今の日本は、ひたすら攻撃を招くようなことをしている。そんな余計なことをせずに、憲法9条をひたすら守って不戦・非軍事平和国家に徹すればいいものを。その9条平和路線と岸田政権与党及び補完政党の防衛力強化・改憲路線のどちらが現実的で、どちらが悪夢なのかだ。

(5)戦争に備えて防衛力を強化するのが当たり前なのか、戦争を招かないように9条の非軍事に徹するのが当たり前なのか
 今、世界各国が武器や軍備を持つのが当たり前で、その武器・軍備でロシアのように戦争を仕掛け、或いは中国・北朝鮮のように威嚇するのが当たり前とはいわないまでも、ウクライナのように、仕掛けられたら徹底抗戦・反撃し、台湾のように受けて立つ構えを見せ、それをアメリカやNATOのように支援するのは当たり前、つまり、軍備を保持・強化して抗戦・応戦するのが当たり前で、いざとなったら戦争する覚悟を持つのが当たり前なのか。それとも、日本の憲法9条のように、そんなもの(軍備・軍事同盟)はすべて無くして恒久平和を目指すのが当たり前なのか、ということだ。

(6)米軍基地も自衛隊もない「力の空白」に乗じて侵攻してきたらどうするの?
(1)で論じたように、侵攻を仕掛けようとする気(攻撃意志)が起きるのは、まず、相手国との間に対立・紛争があってのことなのであって、それが格別ないのに、相手国が軍備・防備がない(「力の空白」だ)からといって、それだけで「侵攻しなければ」という気が起きるわけではあるまい。
 北朝鮮が日本にミサイルを向けているのは、日本に米軍基地も自衛隊も何もない「空白」だからではなく、朝鮮戦争以来アメリカとの対立・紛争があって、日本が「空白」どころかアメリカと同盟を結んで、そこに米軍基地があり、自衛隊が支援・協力関係にあるからにほかなるまい。
 国が非武装・中立・非同盟などの路線を採ると「力の空白」が生じ(防備が手薄となり)、他国の侵攻・侵略を招き易くなると論じる、それは防衛力(軍備・軍事同盟)は侵攻・攻撃の抑止力なのだという抑止論。その防衛力を保持していないと侵攻を招くというもので、憲法の9条は政権および国民の「防衛意志」の欠如をもたらす元になるというもの。要するに防衛力=武器・兵器の保持、軍備、軍事同盟を正当化し、不当(違法)な武力攻撃や侵略戦争でない限り、戦争(個別的・集団的自衛権行使の自衛戦争・制裁戦争)を肯定するもの。しかし、自衛戦争であれ制裁戦争であれ戦争には必ず殺傷・破壊の悲惨が伴う
 それに対して9条(戦力不保持、一切の戦争放棄)は、侵攻や侵略に対しては武力抵抗・抗戦ではなく、あくまで不戦を貫き、力(軍事力)を背景としない外交交渉と非暴力不服従抵抗などの非軍事手段を採るよう求めている。そのような立場を採る我々国民は、国連による違法な武力行使や侵略国に対する非難・制裁を当てにできないわけではあるまいし、今のウクライナ国民のように武器をとって戦わないからといって、諸国民の応援・非軍事支援が得られないわけではあるまい。
 それにしても非暴力抵抗というものは、なま易しいものではなく、侵略者・占領軍による武力弾圧・迫害・命の犠牲を覚悟しなければならないが、それでも抗戦して戦争に応じ、通常兵器あるいは核兵器などによって被る大量殺戮・大量破壊の惨禍に比べればまだマシ(「他国から侵略されても、武力抵抗は戦禍を大にするのみ。生き延びて心の抵抗こそ賢明かつ有効な国防策」―現川西町小松出身の元陸軍中将・遠藤三郎氏が戦後述べた言葉で、高橋寛・山形大学名誉教授著『力学と憲法9条』から引用)。


2023年03月01日

軍事力による「現実的平和」と非軍事の「理想的平和」―どっちが平和・安全

(1)朝日新聞の「声」に「平和教育」について二つの投稿があった。①「ロシアによるウクライナ侵略という事態を受け、従来の平和教育に疑問を感じるようになりました。」「戦争は絶対いけない」、「しかしウクライナのように平和を願っていたとしても、他国から一方的な侵略を受けることもあります。降伏しても虐殺される場合もあります。」「戦争はなぜ起きるのか、どうすれば防げるのか。たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか。」
②「『もしミサイルが落ちたら』『他国が攻めてきたら』その時どうするのか」「武器そのものを否定する『理想的平和』に対して、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』を唱える声は、いまだ教育界ではタブーに近いような気がします。『戦争=悪』であるけれども、平和を維持するためにはどうすればよいか。」と。
 これらは、ウクライナ国民が徹底抗戦する様子を見て、「平和を維持するためには」「武器そのものを否定する『理想的平和』よりも、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』の方が大事だという考えに傾いてきた、ということなのでは。この投稿者に限らず国民世論もその方に傾いている向きが多くなってきているのだろう。後者(「武器を手に取りつつも平和を」)は要するに「防衛力に依拠した平和」であり「軍事的安全保障政策」「軍事的抑止力による平和」にほかなるまい。
 はたして平和維持、恒久平和実現には、どちらが正解(真理)なのだろうか。
「武器そのものを否定する『理想的平和』」というのは、日本国憲法の9条(戦力不保持・交戦権否認)がそもそも求めている平和であり、それに対して「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」の方は、歴代政府が採ってきた再軍備・「自衛隊と日米同盟」による安保政策で、その方向を次第に強め、現在岸田政権が、ウクライナ戦争に影響されてというか、それに乗じてというか、さらに一段と強めようとしているのが、その『現実的平和』政策なるものなのでは。

 「平和」とは、戦争、その危険・脅威・恐怖がなく安心して暮らせる状態。
 「理想」とは、理性によって想像できる完全・最上の状態で、空想・夢想とは異なり実現可能性があるもの。「完全・最上の状態」となると、とても至難の業で見果てぬ夢と諦めがちだが、「為せば成る」(やればできる)可能性はあるのであって、追い求めて然るべきもの。
 どの国にも勝る無敵な兵器と軍備を保持するとなると至難の業だが、「戦力不保持」「戦争放棄」なんて、ただ軍備を持たない、戦争をしない、というだけのこと。その気になりさえすればたやすくできることなのであって、9条は勇気と覚悟を要する至難の業で「武器そのものを否定する『理想的平和』」だというのかもしれないが、それは不可能でもなんでもないわけである。
 「現実」とは、現に存在し展開しているもので、自然現象は自然法則に則って生成・展開している、一方人間の社会現象は基本的に社会法則に則って生成・展開している。それらは人間の理性によって捉えられ、理性によって予め想像・想定できる(その点で、哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と)。現実にはそれ以外に想定外に(思いもよらずに)偶然発生したり、理性によらない感情に動かされ、或いは恣意(気まぐれ)によって行為したりすることから現出する事象も含まれる。
 
 人間には理性・感情とともに自由意志があり、恣意(気まぐれ・わがまま)によって、法則からはずれた不条理な(不合理で、道理からはずれた)現象が人間社会には生じる。
 その最たるものは飽くなき欲望による自然環境破壊であり、戦争(殺傷・破壊)による人間社会の破壊である。戦争は、人間が集団と集団(国と国)の対立に際して、武器を作り出し、軍備を持ち合うことによって行われるようになり、双方の支配権力・政権の都合・思惑・思い付きによる作為・措置など既成事実の積み重ねがあり、それに集団の感情(国民感情)が付け加わって敵対し、遂に激突して始まる。憎悪・殺意に駆り立てられながら戦闘・殺傷・破壊を繰り広げるいうち、理性は失われて止めようがなくなり、停戦・和平は困難を極め、休戦はしても講和、平和の完全回復はいつまでたってもできなくなってしまう(ウクライナ戦争は1年経ったが、いつまで続くのか。朝鮮戦争で北朝鮮と米韓の間では休戦状態にはあるものの講和は未だ。それに日本とロシアとの間では第2次大戦後、戦争状態は終結し国交回復はしているが、平和条約は未だに結ばれてはおらず、北方領土返還は未だ)。それが現実なのだ。
つまり「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」つまり軍事(抑止力・対処力)に依拠した平和というのには矛盾が伴い合理性に欠け、脅威・恐怖と背中合わせで、決して安心して暮らせる状態つまり平和とはなり得ないということだ。
 武器・兵器・軍備・軍事同盟は「抑止力」「力による平和」のためのもの、などといっても、それらは、結局は戦争、或いは武力による威嚇のための手段であり、決して戦争・武力行使に無縁ではあり得ず、それに繋がってしまう可能性が付きまとうのであって、そんなものを持ち合って安全だとか、平和だとか、それで安心できるなんてあり得まい。現にウクライナ戦争、それに台湾有事とか朝鮮半島有事の危険を見れば分かりきったこと。なのに、どの国も日本も武器・兵器・軍備を持ち合い、米欧NATOなどは武器供与・軍事支援はしても、戦争を止めようともせずに長引くままに任せている。
 要するに今、現在の世界(現実の世界)―(ウクライナで)戦争が起き(エネルギー危機、穀物・食糧危機などその影響が世界に及んでいる)、或いは戦争が起ころうとしていると(「台湾有事は日本有事」だとか「新しい戦前」だとか)思われていて不安に包まれており、「現実的平和」などというが、それは「かりそめの平和」にすぎず、本当の平和ではない。

 「たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか」とのことだが、自衛戦争・抗戦は肯定されるべきだというのだろうか。日本は「先の大戦」では「鬼畜米英」に対する「聖戦」と称して「一億玉砕」の徹底抗戦にも何の疑問も持たなかったが、そんなのはもう御免だ。戦争は武器・兵器・軍備を持ち合うから起こるのであり、戦争はいかなる場合にも否定されるべきもの。それが日本国憲法9条なのだろう。(1946年6月新憲法草案が議会に上程されて質疑応答が始まった、その中で共産党議員が侵略戦争と自衛戦争を分け、侵略戦争を否定することを主張したのに対して、吉田首相は「国家正当防衛権による戦争は正当なり賭せらるるようであるが、私はかくのごときことを認ることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認ることが偶々<思いがけず>戦争を誘発するゆえんであると思うのであります」と答弁。この答弁は1954年、政府が自衛隊合憲を打ち出すまでは、9条解釈の政府解釈としてひろく一般に受け止められていた。) 

 日本国憲法は、過去の戦争(アジア太平洋戦争・第2次大戦)における人道に反する未曽有の惨害を二度と諸国民に及ぼすことのないようにとの反省の上に立って、武力・軍備を保持せず、世界に恒久平和を実現すべく、国(政府)に非軍事・不戦を義務付けたものであったが、それは、連合国によって懲罰として押し付けられたなどというものではなく、日本国民自らと世界諸国民の理性によって与えられた憲法{*下記参照}であり、それは現実つまり理性的現実に即したものなのだということである。この平和憲法・9条は、実現不可能・非現実的な「理想的平和」を掲げたなどというものではなく、理性的現実に依拠した実現可能な理想的平和なのだ。平和・安全のために、武器・軍備・軍事力など持たずに、それに代わる何を持てばいいのかって?それは、これまでどの国も手にしたことのない何か格別なものをAIなどによって考案・発明して保持することが必要となるわけではない。何もいらない。ただそれら(軍備)を放棄して何も持たずに、丸腰になればいいだけのことなのであって、その気になりさえすれば、至極簡単、直ぐにでもできる実現可能なものなわけである。しかも、それによって隣国・他国に「安心を供与」できる。
 {*GHQ(アメリカを主とする連合国総司令部)総司令官マッカーサー、同民生局員の憲法草案(骨格)作成スタッフ(ベアテ・シロタら)、連合国極東委員会、首相幣原喜重郎、その後を継いだ吉田茂、憲法草案(政府案)確定、鈴木安蔵ら民間の憲法研究会案、戦後初の男女20歳以上の選挙で選ばれた帝国議会議員(審議・修正協議、両院とも圧倒的多数で可決)、世論調査では賛成85%、反対13%、不明1.3%、9条の戦争放棄条項について必要と答えた人70%、必要でない28%、9条に修正を加える必要なしが56%、自衛権を保留するよう修正すべきが14%など。彼らの理性がこの憲法には込められていると考えられる。}

 また、軍事同盟(日米同盟、NATO或いは準軍事同盟たる日米豪印4国のQUADなど)
を組んで、特定の国を仮想敵国にして包囲したりするから、その国に脅威・不安を与えることになるのであって、そんな軍事同盟を組んだりはしない。国々と関係を結ぶなら、ASEAN地域フォーラムのような東南アジア諸国以外に日韓米中ロに北朝鮮まで加えて、どこかの国を仲間外れにするようなことをせずに包摂する(仲間に加える)、そうすることによってどの国にも「安心を供与」する、そのような仲間づくりをすればよいのだ。
 いずれも実現可能な不戦・非軍事の「理想的平和」の方法なのでは。

(2)「『平和』だけではなく、『正義』を」(朝日「日曜に思う」2月26日国末憲人)
ウクライナの人々―世論調査から見て―「即座に平和を得るよりも、戦う道を選ぶ」「求めているのは『正義』」「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」と。
 しかし、ロシアの人々の正義は?大統領は「極悪人」でも、国民は別だとでも?
戦時中の日本人は「鬼畜米英」に対して「正義」で、その戦いを「聖戦」と称したが、作家の井伏鱒二は「黒い雨」の主人公の日記に「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く終わりさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」と綴らせている。
米欧は民主主義国で「正義の味方」、中ロ・北朝鮮は専制主義で「正義の敵」?
 ベトナム戦争では米軍はベトナムを共産主義から守る「正義の戦い」を称し、ベトナム人民軍も米軍の侵攻に対する解放戦争―「正義の戦い」と称して米軍撃退を勝ち取ったが、これはいわば「正義」対「正義」の戦い。
 戦争し合う(交戦する)どの国も大義を掲げ「正義」を振りかざす。そして自国が保持する武器・兵器も正義のためのものとして軍備を正当化。北朝鮮は核・ミサイルをアメリカの核攻撃に対する「抑止力」として正当化し、それに対してアメリカは自国の核兵器は国連で中ロ英仏とともに5大国に認められているものであって、それ以外の国々の核保有は核不拡散NPT条約に反するとして非難・制裁を加えている。
 国々はそうして兵器や軍備を持ち合っているが、国家間で利害対立・紛争があれば、それぞれ自国エゴ(自国優先主義)が働き、「正義」と武器・武力を振りかざして激突すれば戦争になり、敵愾心・憎悪に駆られ殺傷・破壊が展開されて双方とも惨害を被る。ベトナム戦争では、死者は、ベトナム人民軍側は(勝利はしたものの)軍民合わせて100万人台、米兵の戦死者は5万人台。ウクライナ戦争は、これまで、ウクライナ軍の戦死者は(同国政府側からの情報では12月までで)1万3000人台、民間人の死者は(国連高等弁務官の発表で2月までで)8000人台、ロシア軍の戦死者は(イギリス国防省の発表では2月までで)4万~6万人台。
 要するに「国々がそれぞれ『正義』を掲げて国民が武器を手に取って戦い、殺傷・破壊し合って生命を犠牲にする」それが戦争なのだ。いわば「国々がそれぞれ自国に『正義』があり、武器・軍備を持ち合っての戦争」。但し国連憲章にあからさまに違反する侵攻など相手国はもとより多数国から「正義」とは認められない違法行為なら許されず、又は交戦法規で禁止されている残虐行為や無差別攻撃などの違法行為なら「戦争犯罪」として許されないが、そうでない限り(その範囲内であれば)自衛・反撃戦争なら個別的にも集団的にも容認され、兵士(戦闘員)なら何万人殺してもかまわない。つまり殺傷・破壊行為とその武器・兵器・軍隊の保有・使用も軍事同盟も容認されている。しかし、それでいいのだろうか。戦争ルールさえ守ってやれば、殺人兵器を持ち合い、殺し合って人命を犠牲にしても、それが容認されるなんて。戦争(殺し合い)すること自体が犯罪なのでは先に仕掛けた方であれ、仕掛けられた方であれ、侵略戦争であれ自衛戦争であれ、戦争はすべて禁止、核兵器など大量破壊兵器や残虐兵器だけでなく兵器・軍備はすべて禁止・全廃すべきなのではないか。
 国のリーダー(権力者)が掲げる「正義」というものは、それぞれの自国・自分の立場・都合に応じた相対的なものであり、どの国の誰もが認める絶対的な正義ではない。「正義」というものは、とかく、戦争に際して自国の戦争目的・戦争行為の正当性を国内外にアピールし、自国民或いは同盟国を戦争に駆り立てるための「大義名分」となる便法・口実として活用され、武器や兵器とともに戦争に不可欠な、いわば道具に過ぎない。それに対して平和は生命が犠牲にされることも、生存が脅かされることもなく安心して暮らせること。人間誰しも、どの国の国民も、一人一人にとって一番大切なものはといえば生命であり、生命を全うすること、生きること、つまり生命・生存こそが絶対的最高価値なのでは。そして戦争によって犠牲にされ脅かされることなく安心して暮らせるのが平和。だから平和は生命とともに一番大事なもの。それが、「聖戦」だとか「正義の戦争」だからといって生命を犠牲にしてもはばからないのは本末転倒というものだろう。理性(理屈)だけで考えればそういうことになるのだが。
 しかし、人間には感情―プライド・意地・怒り・憎悪、或いは心理―対抗心・闘争心・復讐心・殺意・「攻撃欲動」「死への欲動」といったものあって、その方が理性より先行し、勝ってしまうという場合があるわけである。ウクライナでは「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」というのもそれだろう。そういったものを掻き立てる、それが戦争なのだ
 だから戦争してはならないのだ。場合によってはやってもいい、自衛戦争ならいいとか「正義の戦争」ならいい、などといった相対的なものではなく、戦争自体が不正義なのである。
 
(3)それに対して「武器・武力を持たず、戦わず、諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持する平和」。そんなのはユートピア、「お花畑」の世界の話だというが、誰しも危険・恐怖・不安のない平穏・無事・安全・安心を求め、そのためには誰もが(交通ルールで信号を守るものと信じることによって、安心して歩行・運転できるように)ルール(国際法)を守り、約束(条約)を守るものと信じて争わず、自分(自国)もルール・約束を守ることによって安全と生存を保持しようとする、そんなことは当たり前の理屈で、格別のことではなくユートピアでもなんでもあるまい。それに諸国民と信頼関係を結んで敵対せず、安全・安心を確保するということだ。
 この憲法を制定する直前まで中国とは15年にわたって、米英とは3年8ヵ月にわたって戦争した最悪の敵対関係にあった。それがアメリカとは「信頼関係」以上のベッタリ親密な関係を続け、そのアメリカが目の敵にし始めた中国それにロシアとは再び関係悪化。ロシアはウクライナとの間に紛争があり、ウクライナが加盟しようとしているNATOの盟主アメリカをはじめとする加盟国の「公正と信義」に対する不信から、話し合い・交渉を断念してウクライナに軍事侵攻を強行した。それに対してウクライナは抗戦、NATOが武器を供与して軍事支援。西側諸国に日本も加わってロシアに対して経済制裁を行っている、というのが現在進行中のウクライナ戦争。また朝鮮戦争以来アメリカに対する脅威から核実験やミサイル発射実験を度々強行して国連安保理の非難・制裁決議を受けている北朝鮮のような国もあるし、中国のようにアメリカに迫る経済・軍事大国にのし上がり、覇権主義が警戒されて、アメリカが主導し日本も加わる「対中包囲網」の軍事的圧力を受けている国もあるわけである。
 しかし、だからといって、どの国も信頼がおけないというわけではないだろう。
 ただ、国連憲章は現在に至るまで各国の武器・兵器・武力の保持・保有を容認しているので、どの国も軍備を持ち合っている。そのような中で、国によっては公正と信義に不信を抱き、交渉・協議(話し合い)を尽くさず断念して、武器・武力に訴え、力ずくで決着をつけようとして、戦争に走ってしまいがちとなる。(30年前アメリカのルイジアナで起きた日本人留学生射殺事件―ハロウィーンで仮装して訪問した家を間違えて、入ろうとした玄関先でその家主から射殺された。その家に銃など置いてさえいなければ、ろくに訳も聞かずに、いきなり発砲したりはしなかっただろうに)互いが武器・武力さえ持たなければ、武力に訴えたりせずに、あくまで話し合い、徹底対話・交渉の方に専心できたものを、武器・武力があるばかりに戦争を仕掛け、仕掛けられた方は「徹底抗戦」に囚われて、いつ果てるともない戦争になってしまっている。それがウクライナ戦争である。
 日本人にとっては、どうなんだろう。いくら「諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持」しようと思っても、信頼のおけない「ならず者国家」がある限り、武力の保持・軍備が必要であり、戦争を仕掛けられたら、徹底抗戦して「正義」のために生命を賭して戦い、戦争ルール(戦時国際法)をしっかり守って「ならず者」の敵兵を殺せるだけ殺して降伏させ、勝利が得られれば、それで万々歳だとか、それで(戦争して殺し合って)「万歳!」などと叫んで喜ぶとすれば、その方が「お花畑」。又、「諸国民の公正と信義に信頼」なんて、そんなことは出来やしない、力(軍事力)こそが安全と平和の拠りどころだなんて、そんな平和に安住していられるんだとすれば、それこそが「お花畑」なのでは。

 日本国憲法は「日本国民は諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しようと決意し、戦力を保持せず国の交戦権を認めず、国際紛争解決の手段として戦争・武力による威嚇・武力行使を放棄する」ことを定めた。それは、いわば「危険物(軍備)を持たない、危険なこと(交戦)はせずに安心供与、それだけのこと」なのだ。
 「諸国民との公正と信義に信頼」といっても利害の対立・紛争はある。しかし、その解決はあくまで話し合い・交渉に徹し、どうしても折り合いつかない場合は国際司法裁判所などに仲裁・裁決を求める。相手が軍事力で威嚇して押し切ろうとしても、それには応じない軍事侵攻してきた場合には海上保安庁の警察力で対応し、可能な限り阻止・排除に当たる(それが可能な対応能力の量的・質的な拡充は必要になる)も、応戦・反撃など戦争はしない違法な侵攻には直面した我が国に対しては、公正と信義に信頼を寄せる諸国民から支援が得られ、侵攻した国は非難・制裁を受け、かえって損失を被ることになる(だから、結果はそうなると分かりきった愚挙を敢えて犯すような国などあり得ないといっても差し支えあるまい)。
 国際司法裁判所の裁決に際しては、それに従わせる強制力として常設の国際警察軍も必要となる。現状の国連にはそれが出来ていないが、早急にその創設に取り組まなければならない。
 将来的には、これらも含めて(可能な限り我が国が主導して)国連の抜本的改革(国連の現状変更)が必要となる。国連憲章を我が国の憲法9条のように改正して、自衛戦争であれ何であれ、いかなる戦争も禁止し、どの国も「戦力の保持」を禁止し、軍備を全廃する方向に。そうすれば戦争はなくなるし、そうしなければ戦争はなくならない
 現在の国連は、各国が軍隊を持っていることを前提にして、集団安全保障と称して「侵略行為」に対する軍事制裁に際して国連軍に加盟国が兵力を提供、軍隊派遣を要請するとか、個別的・集団的自衛権を認めて自衛戦争を容認するやり方を採っているが、各国に軍備・軍事同盟を許している限り戦争はなくならない。なぜなら、どの国も自国の軍隊と軍事行動を不正な侵略や武力行使のためなんかではなく、あくまで「正義」・「自衛」のための軍隊であり、先制攻撃も、そのためのやむを得ない軍事行動なのだと自認・自己弁護して憚らないからである。
 かつて日本が行った満州事変に始まる日中戦争、それに真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争も、アメリカがやってきたベトナム戦争やアフガニスタン・イラク侵攻、そして今やっているロシアのウクライナ戦争など、どれもこれも「正義」と「自衛」の名のもとにやってきたし、やっているのではないか。

(4)ところで、国際司法裁判所といえば、本県の山辺町出身の人物で、かつてその裁判所長に就任した安達峰一郎という人物がいる。
{その経歴を見ると、1905年、日露戦争のポーツマス講和会議の全権委員随員
          1919年、第1次大戦のパリ講和会議の全権委員随員  
         1920年、(この年、国際連盟 設立―新渡戸稲造が事務次長の一人に
                            選ばれ以後7年間在任)                            
              常設国際司法裁判所規程の起草委員               
         1921年、国際連盟第2回総会から、以後第10回総会まで日本代表
         1929年、国際連盟理事会議長
         1930年、常設国際司法裁判所判事
         1931年、  同 裁判所の所長に就任(この年満州事変勃発)
         (1933年、日本が国際連盟から脱退)
         1934年、死去                       }
 当時は常設国際司法裁判所と称され、第1次大戦後に(オランダのハーグに所在)創設されて、その4代目の所長に就任。ところが折悪しく当時日本は満州事変を起こして国際連盟を脱退。3年の任期を務め平判事に戻ったが、連盟脱退問題の悩みから体調を崩し、心臓病を発症し、アムステルダムの病院で亡くなった。その時オランダは国葬の礼をもって国際平和に尽力した功績と栄誉を称えたという。

 新渡戸稲造は国際連盟の事務次長、安達峰一郎は連盟総会では日本代表として重なる部分があるが、新渡戸の著書『武士道』には、武士道を体現した人物の一人に勝海舟が紹介されているが、その中で、勝海舟は刀を一度も抜いたことがなく(決して抜かないように刀の「つば」と「さや」を紐で結わえていた)、「負けるが勝ち」をモットーとし、西郷隆盛との談判で「無血開城」を決した。刀をむやみに抜くべからず、「戦わずして勝つ」。これこそがサムライだというわけ。
 サムライはかくあるべし。日本人の国際貢献は、かくあるべしで、戦争など軍事貢献ではなく、国際平和貢献でなければならない。中村哲氏は紛争中のアフガニスタンで医療活動とともに荒廃した農地の回復のため灌漑用水建設事業に長年携わり、対テロ戦争の最中にもかかわらず現地で動き回り、その途上テロにあって亡くなった。サムライ日本人はかくあるべし、なのでは。

(5)いずれにしても「武器を手に取りつつも平和を掲げる現実的平和」などあり得ない、ということだ。武器(殺傷用武器)を手に取ったら戦争(殺し合い)になるではないか。
人を殺したり傷つけたりしない武器なんてあるだろうか、人を殺さない戦争なんてあるだろうか。戦時国際法・交戦法規・国際人道法などがあって、残虐兵器や無差別攻撃の禁止、非戦闘員・文民保護・捕虜・傷病兵の保護規定などがあり、それを守ってやりさえすれば、侵略戦争でない限り、自衛戦争ならやってもいい?民間人・非戦闘員を巻き込まず、民間居住区域・非軍事公共施設のない荒野の戦場だけで戦闘をやるなんてできるの?非戦闘員なら何人殺したっていいの?戦闘員でも不必要に苦痛を与えずに殺すのなら殺してもいいわけ?核兵器でも低エネルギー放射ならいいの?「きれいな戦争」・「フェアな戦争」なら、いくらやってもいいの?
 「武器を取りつつも平和」なんてあり得まい。それこそ非現実的平和。矛盾―どんなに優れた「矛」に対してもはね返して防ぎきれる「盾」なんてないし、どんなに優れた「盾」に対しても突き抜くことのできる「矛」なんてあり得まい。
 ♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)をでたからは 手柄たてずにいられよか・・・・・東洋平和のためならば なんで命が惜しかろう♪
 かつてこんな軍歌(古関裕而作曲「露営の歌」)がったが、「平和のための戦争」「平和のための武器・軍備」なんてあり得ないし、恒久平和(持続可能な平和)のためには「戦力不保持・軍備全廃」「不戦・交戦権否認」しかあるまい。

2023年03月07日

侵攻したロシアがやめなければ、ウクライナは抗戦をやめられず、戦争は終わらないのか

 ウクライナ戦争について、鶴岡慶大准教授は(2月27日付朝日『ウクライナききの深層』で)「戦争を防ぐために外交は大切だが、本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められないことがよく分かった。そして国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」と。
事実認識―「本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められない」ということだが、そこのところは、はたしてどうだったのか?
 あたかも、ロシアは初め(以前)から武力侵攻を企図していて、「話せばわかるも、わからないも」相手の対応がどうであれ、いずれ強行する手はずになっていたかのような論じ方だが、ロシアが侵攻に踏み切るに至った、そこには様々な曰く因縁(歴史・経緯)があってのこと。
 ウクライナにはソ連解体以前に伴う独立以前からずうっと、主として東南部(ドンバス地方とクリミア半島にロシア人が住みついていた(人口の3分の1)。それが独立後、親ロシア政権と反ロシア(親米欧)政権の交代が繰り返され、2014年政変(マイダン革命)で反ロシア政権が樹立以来、クリミア半島はロシアが併合、東部ドンバス地方の親ロシア武装勢力とはウクライナ政府軍の間で内戦が続いてきた。ゼレンスキー政権は停戦合意(ミンスク合意)があったにもかかわらず内戦を続行していた。
 一方ロシアはソ連解体に伴うWATO(米ソ冷戦時代、西欧のNATOに対抗して東欧諸国が加盟)解体以降、NATOだけが残って、それに東欧諸国が次々と合流・加盟しロシアだけが取り残され孤立感・危機感を覚えるようになった。それにウクライナまでがNATOに加盟しようとし、ゼレンスキー政権はそれを推し進めようとしていた。
 ロシアは、ウクライナに侵攻する前に(前年12月)、アメリカ・NATO側に対して(「安全保障の不可分原則」ということで)「他国の安全保障を犠牲にする形で安全保障を強化しないこと」、つまり、ウクライナのNATO加盟を認めないこと、アメリカ・NATO側はウクライナに軍事力を駐留させず、攻撃型ミサイルを配備させないことを約した条約・協定案を提示していた。しかし、それはアメリカ・NATO側から受け入れられなかったのだ。
 このような経緯から見れば、単純にロシア側の一方的な「話せばわかる」では止められない「問答無用」の侵攻どころか、むしろ逆に(ロシア側からのウクライナのNATO加盟否認要求を突っぱね、内戦の停戦合意も反故にしていて)、侵攻を仕向けたような感じさえも。
 いずれにしても、ウクライナ(ゼレンスキー政権)には初めから戦わない選択肢はなかったということだ。「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない(アメリカ・NATOの軍事支援は初めから織り込み済み)」、要するに「話せばわかる」もなにも、「戦争に持ち込む」という選択肢以外に、ゼレンスキー大統領にもバイデン大統領にもなかったということ。これが彼ら米欧NATOとウクライナの対ロ戦略なのでは。
 
 「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」というが、対中・対ロそれに対北朝鮮戦略でも自衛体は、こうして戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ同盟国アメリカも支援してくれないから、ということか?

 これは、あたかも岸田首相らの政権党政治家の自国本位の戦略的考え方のように感じる。日本国憲法(前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」、「全世界の国民が、恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」、9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認、13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する権利については公共に福祉に反しない限り、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする」など)が国(政府)に求める外交戦略は、対中戦略でも対ロ戦略でも対北朝鮮戦略でも、不戦・非軍事の平和戦略でなければならない、とされているのとは相いれない考え方なのでは。

 バイデン米国大統領は2月ウクライナ「電撃訪問」からの帰途(21日)ポーランドで言明。いわく「もし、ロシアがウクライナ侵略をやめれば戦争は終わる。もし、ウクライナがロシアに対する自衛をやめればウクライナが終わる」と(そう言ってウクライナ大統領の「徹底抗戦」を励まし、さらなる軍事支援を確約し、ポーランドなどNATO同盟国をも激励)。それは「ロシアがやめない限り戦争は終わらない」ということと「ロシアがやめるまでウクライナの抗戦を軍事支援し続ける」ということだろう。
 しかし、ロシア側は「侵略している」とは思っておらず、ウクライナ軍が抗戦し、それを米欧(NATO)が軍事支援し続ける限り、やめるわけにはいかない、と思っているのでは。
 ということは、互いに相手がやめない限り、やめない、ということであって、戦争はいつまでも終わらないことになる。
 それから「ロシアが(侵略を)やめれば戦争は終わる」というのはその通りだが、「ウクライナが(自衛を)やめれば、ウクライナは終わる」というのは、どうなのだろうか。それは、ロシア軍に対して抵抗をやめ武器を置くということであり、降伏を意味し、ロシアの要求に全面的に従わせられるということなのだろうか。しかし、「ウクライナが終わる」といっても、ウクライナが、滅亡して独立した国(主権国家)ではなくなるということだとしたら、それはあり得ないだろう(日本はかつて連合国に無条件降伏して「大日本帝国」は終わったが、日本という国が終わったわけではなく、領土は千島列島以外は、植民地として領有してきた朝鮮半島や台湾・樺太など返還させられ、武装解除させられたものの、新憲法によって非軍事・非同盟中立・民主の新たな主権国家として存続しているように―ただし、非軍事・非同盟の点は「自衛隊」の形で再軍備、アメリカと従属的な同盟を組むようになって変質はしているが。)
 ロシアがウクライナに対して、かねてより求めてきたNATO非加盟・中立化・非核軍事化とロシア人居住地域(ウクライナ領土の3分の1)の扱い(課題)については改めて交渉、それによって相互の安全と生存権の保障を確定し、ウクライナの戦災復興協力・平和回復を推進するという、そういったことが必要となるわけではあるが、「ウクライナの領土・主権が終わる」ということはあり得ないだろう。
 いずれにしろ、これ以上の殺し合い(殺傷・破壊)の戦争は一日も早く終わらせなければならないということ、それだけは確かだろう。

 しかしながら、大統領―政治家であるバイデン氏にとっては、自分の使命は、人命・人権第一の人道的・道徳的目的よりも、国益など政治目的の達成であり、そのための戦略的考えに立っている。バイデン大統領に限らず、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、彼ら(政治リーダー)にとって関心事は当然のことながら政治目的と、その達成のための方策・手段。ウクライナ戦争という、この場合のプーチン大統領の目的はロシア連邦国家とウクライナに住む同胞ロシア人の対米・対NATO・対ウクライナの安全保障であり、ゼレンスキー大統領の目的は、そのロシアに対するウクライナ国家の主権と領土の確保(併合されたクリミア半島とドンバス地方の奪還)および安全保障である。そしてバイデン大統領の目的はプーチン大統領に対する政治的勝利であり、そのため手段とされているのがウクライナ戦争なのだが、それへの直接参戦ではなく、ウクライナ軍の対ロシア抗戦への軍事支援。その勝利こそが本命で、そのために犠牲となるロシア兵の人命はもとより、ウクライナ市民・子供たちの人命、戦争の影響が世界に及んで諸国民が被っているエネルギーや穀物・食糧危機などは二の次。だから戦争回避・ストップとはならないのだ。米国大統領である彼にとっては、その戦争は、自国民が犠牲となるアメリカの戦争ではなく、ウクライナの軍民がロシアと戦っていて、アメリカはそれに武器を供与して軍事支援している、いわば代理戦争であり、自国民の命が犠牲になり、惨害を被るという心配はないのだからである。
 
 そこが、当方のような「自分の生命の安全、平和で幸福な生活、人生の全う」を第一と考える庶民の立場とは全く違うのだ。当方にとっても、遠い他所の国のことで、直接自分の命や生活・人生に関わる事では全くないのだが、人間の心情として無関心ではいられない。とにかく、殺し合い、壊し合いの戦争はやめてくれ!侵略の側であろうと自衛の側であろうと、どっちかがやめれば戦争は終わるのだから。
 人間には理性・感情があり、様々な思い・思惑があるが、戦争、それにその道具である殺傷・破壊用の武器・兵器が人間のそれら(理性・感情)を狂わせる―人間愛・正義感・矜持(プライド)・英雄心(ヒロイズム)から意地・憎悪・憤怒・敵愾心・闘争心・殺意へ。それに衝動(「死への欲動」「攻撃・破壊欲動」「自暴自棄」など)も武器・兵器を手にすることによって掻き立てられるのが戦争なのだ。
 だから武器・兵器を無くせ!そしてあらゆる戦争を無くせ!という以外にないのだ。

2023年03月11日

喧嘩両成敗論

戦争が起こる要因
① 対立・紛争(もめ事)があること
② 武器・軍備の保有
③ 仕掛けようとする意志(挑戦意志)
④ 抗戦しようとする意志(応戦意志)
これら4つのうち、①はあっても②さえなければ③④の意志は起こらない、つまり戦争は起こらない。又、③があっても④の意志がなければ戦争にはならない、と考えるに至った。
 そこで気が付いたのは「喧嘩両成敗」論で、それも、そもそも日本の戦国時代に生まれた大名たちの(それぞれの領内で定めた)分国法。それは「問題(家臣・領民たちの間でもめ事)を起こしたら双方を処分するのではなく、問題を訴訟によらず、武力で解決(「故戦」つまり戦争を仕掛け、それに対して「防戦」「自力救済」つまり自衛抗戦)つまり戦争をしようとしたら双方とも処分する、というもの。これらは、③④ともに交戦意志を禁じたもの。
 今川義元の『今川仮名目録』では、「喧嘩に及ぶ輩は理非を論ぜず、双方とも死罪」「喧嘩を仕掛けられても堪忍してこらえ・・・・とりあえず穏便に道理に従ったこと…して罪を免ぜられるべき」と。
 武田信玄の『甲州法度之次第』では「喧嘩はどのような理由があろうと処罰する。ただし、喧嘩を仕掛けられても我慢した者は処罰しない」と。
 「故戦防戦の法」の場合は、攻撃を仕掛けた側を防戦した側より重めに処罰することになっていたが。
 そして、天下統一して天皇の下・関白太政大臣となった豊臣秀吉が『惣無事令』(大名間の領土紛争の裁定を決めた法令で、私闘・私戦の禁止、違反した大名は秀吉が討伐するとして、九州の島津、関東の北条、東北の伊達政宗らに対して)発した。
これらは、彼ら亡き後は、いずれも(喧嘩両成敗の分国法も秀吉の総無事令も)無くなり、徳川の武家諸法度には直接その定めはないものの(大名たちには「一国一城令」で城は一つだけ許し、新築禁止、幕府の許可なく補修も禁止、私闘を禁止、大名同士の政略結婚・同盟を禁止するなど)、その精神は引き継がれている。そして、長らく(250年余の間)戦乱のない平和が続いた。
 これらは、治国平天下を目指した権力者なりの平和戦略であって、(どうやったら戦争に勝てるかの)戦争戦略ではない。
 今の憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は他国および世界の諸国に対しての平和戦略(その根幹)をなすものと考えられる。それは②(武力の保持)③(戦争を仕掛ける意志)④(交戦する意志)3つとも禁じている。
 それに対して国連憲章は、③(侵攻し、戦争を仕掛ける意志)だけ禁じて②と④は禁じていない。
 その意味では、日本国憲法の方が、国連憲章の先を行っていて、最先端をなしているのでは、といえないだろうか。この9条が国連憲章と世界の諸国にまで及べば戦争はなくなるのだ!

2023年03月31日

ウクライナ戦争と国連―日本国憲法の視点で

(1)ウクライナ戦争の原因
①対立・紛争
 ウクライナ国家は以前ロシア帝国・ソ連邦国家に属して、そこにロシア人も居住してきた。  
 独立後、親ロシア派と反ロシア派(親米欧派―NATOやEU加盟支持)の抗争から内戦
②軍備・軍事同盟の存在
 ロシアは核軍事大国
 NATOの存在
 ウクライナの反ロシア派はNATO加盟を求める
③ロシア軍の侵攻(仕掛ける)
④ウクライナ軍の抗戦にNATOの軍事支援(日本は非軍事支援・激励―首相がウクライナ大統 
 領を訪問)

(2)戦争は戦争でしか止められないのか?
 ③か④どっちかが降伏するか、侵攻か抗戦をやめるか、しなければ、戦争は続行
 国連や第3国の積極的な仲介がない(ロシアにやめろ―撤退せよ―としか言わない)

(3)国連の責任
 国連はウクライナ戦争を「止められなかった」というより、国連の集団安全保障(戦争抑止)システムそのものが、戦争が起きてしまう原因(*)になってしまっているということ。
 その原因を除去するということが国連の責任なのでは。
 *その原因とは一般に「戦争が起きる要因」4つ(①対立・紛争があること、②兵器・軍備を持ち合っていること、③戦争を仕掛ける国があること、④仕掛けられた国が抗戦・応戦すること)のうち、国連は③だけ禁じて、②と④は容認している、ということにほかならないのでは?
 今回のウクライナ戦争を仕掛けたロシアはそこを突いているのでは?
 国連は④を容認し、NATOの存在とその拡大を容認しており、ロシアは隣国へのNATO拡大(加盟)を脅威と感じ(安全保障は、それによって他国を犠牲にしてはならないという「不可分の原則」に反しているとしてNATO側に要求するも拒否されて)ウクライナに対して加盟断念を強要すべ侵攻を強行―はたしてそれがロシアの真の侵攻理由なのかは別としても、少なくともそれが侵攻の口実となっていることは否定できまい。)
 国連は憲章を改正して、戦争の要因4つのうち、禁止すべきは③だけでなく、②も④も禁止しないかぎり、戦争はなくせないし、止めることもできまい。

(4)日本の責任
 日本国憲法9条は国際紛争の解決として戦争・武力行使・武力による威嚇を禁じて③、戦力(武力)不保持で②、交戦権否認で④まで、戦争の要因となるもの①の他は(①は禁じるという筋合いのものではないので、それは別として他のすべては禁じている。それは世界に先駆けて宣言した不戦平和主義の理念であり、国際紛争にはその立場で臨み、国連の安全保障にも、その立場で、憲章の改正と合わせて国連改革に積極的・主導的に臨むべきなのでは。G7yなど米欧に追随するだけでなく。それが憲法前文にある「国際社会において名誉ある地位を占めたい」とする日本国民を代表する日本政府の責任なのではあるまいか。現行の国連憲章で未だに削除されていない「敵国条項」(第2次世界大戦以来の「敵国」扱い)を払いのけ、乗り越えて。

2023年04月15日

与野党2大ブロックにまとまれるか

政党ブロック(連合・共闘)は、安全保障政策では、次の2大ブロックが考えられる。
1⃣与党とその補完政党ブロック
 岸田首相―共同通信編集委員の内田恭司氏によれば「首相がことあるごとに語る『徹底した現実主義』」の「リアリズム政治」

 現実はNATO対ロシア―目下その代理戦争ともいうべきウクライナの対ロシア戦争
 それに岸田政権の日本政府はNATO側のウクライナを非軍事ながらも支援、対ロ経済制裁
 米中対立―台湾有事想定(中台戦争にアメリカ介入して台湾支援)、米韓対北朝鮮対立―朝鮮戦争再開想定、これらに際してアメリカの作戦に自衛隊が参加・協力(「集団的自衛権」行使)の準備―対中・対北朝鮮の「戦争抑止力」として軍拡(「反撃能力」の保有)
 中ロ・北朝鮮に対してはアメリカに同調して対決外交
 アメリカ以外にもオーストラリア・インドとも(QUAD)結成―中国包囲網
                    韓国とこれらの国々とも合同軍事演習を実施
2⃣立憲野党ブロック
 憲法9条―戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認―不戦・非軍事平和主義
 現実―自衛隊を保持、日米同盟を結び米軍が基地に駐留―は(仕方ないとして)容認も、自衛隊はあくまで専守防衛に徹し他国の脅威とならないようにし、敵対を避け戦争を呼び込まないようにする。
 (1)安倍政権下で改変した安保法制(集団的自衛権による海外での武力行使容認)の前に戻し、敵基地攻撃能力の保有も認めない。
 (2)ASEANインド太平洋構想AIOP(ASEAN10か国に日中韓米ロ印豪ニュージーランドの8か国で構成する東アジアサミットEASを地域の枠組みとして発展させ、ゆくゆくは東アジア規模の友好協力条約を展望)など地域の全ての国を包摂する多国間の平和の枠組み構築を目指す
 (3)日中間の対立・紛争は、これまで首脳会談などで合意した中でも①2008年5月の日中共同声明における「互いに脅威とならない」、②2014年11月の「日中関係の改善に向けた話し合い」のける「尖閣問題などを『対話と協議』で解決を図る」、③2019年6月のASEAN首脳会議で採択したAIOP(多国間の平和の枠組み)を共通の目標に据えて共同で推進していく、という3つ合意点を再確認し、それを踏まえて前向き打開へ共に外交努力。
(2)(3)はいずれも日本共産党案で、(3)は岸田首相に志位委員長が直接提案

1⃣と2⃣とでは、安全保障戦略としてどちらが、リスクが少なく安全か。

国民・市民も色々―職業・階層など(エリート・指導層・経営管理層・雇用主・被雇用者・自営業者・庶民・生活者・生活困窮者層etc)
 それぞれその立場によって意識(物の考え方)・感情(感じ方)・価値観(求めるもの、大事なもの)―も色々―その意識・感情・価値観によって判断・評価・選好

国民・市民が政治(政治家・政党・憲法)に求めるもの(→選挙・投票)
 生活・就業の安定(保障)か経営の安定・活力(利益・利潤の確保)か、社会の安定か(自己責任・自由競争による)活力か、国際社会の安定(平和共存、諸国民との協和)か(競争・対抗による)活力か、環境保全・脱原発・再エネ最大限活用か原発活用か

各々の政治家・政党が掲げている政策
 自民党―軍拡・改憲・原発活用・カジノ容認・「新しい資本主義」
 公明党― 〃  〃   〃    〃
 維新の会― 〃  〃  〃    〃   ・新自由主義(民営化)
 国民民主―〃  〃   〃    〃
 参政党― 〃  〃   〃
 立憲民主―軍拡反対・改憲反対・原発活用反対・カジノ反対
 共産党―  〃     〃    〃      〃
 社民党―  〃    〃     〃      〃
 れいわ新選組―〃   〃     〃      〃
選挙戦略(戦略的連携)―2大ブロックにまとまれるか、バラバラか
 上記のような軍拡・改憲・原発など容認か否か大筋で政策が共通する①{与党(自公)とその補完政党(維新・国民民主・参政党)}ブロックに対して②{立憲野党ブロック(立民・共産・社民・れいわ)}の2大ブロックにまとまれるか、である。

2023年07月17日

「あなたはどこの国の総理ですか」

 この言葉は、以前、当時の安倍首相が長崎市平和祈念式典に訪れた際に、被爆者代表の方が核禁条約への署名などを求めた要望書を持参して面会した時に発した言葉だが、今回のG7サミットは日本国内では大方の目には「大成功」「良くやった」好評のよう。それでも、被爆者の方々の目には、いったい「どこの国の、どこの出身の総理なんですか」と思われた向きが多かったのでは。
 折から発行された米国のニュース雑誌「TIME」で(ことし世界で最も影響力のある100人として)表紙を飾ったのは日本の首相の顔だが、その添え書きには「岸田首相は何十年も続く平和主義を放棄し、自国を真の軍事大国にしたいと望んでいる」とあり(中の特集記事のタイトルも当初は「平和主義だった日本を軍事大国に変える」となっていたのが、そこは差し替えられたとのことだが、表紙の添え書きはそのまま)、世界の目にはそのように見える向きもあるのだということなのだろう。日本の国民は「それでもいいと思っているのだろうか」と問われている、とも言えるのでは。
 日本国憲法の平和主義(前文「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意して・・・・この憲法を確定する」)には、制定当時の国民の覚悟が込められていたはずだが、今、憲法を変えて、その平和主義を捨てようとする、それでもいいのかと。問われているのは日本の国民なのでは。
 広島サミットは、メディアを通じて見た目には、いかにも素晴らしかったかのように受け取られたのだろう。しかし、被爆国で憲法に戦争放棄を誓った国の、しかも被爆地出身の首相が議長となって、わざわざ被爆地に各国首脳を集めて開いたサミットならば、その立場で首脳たちに訴え世界に発信しなければならなかったものを、被爆者をはじめ良識のある向きには「いったいどこの国でどこの都市で開かれたサミットなのか」と忸怩たる思いを禁じ得なかったのでは。
 集まった各国首脳たちの中で(当方の目には)唯一まともだったと思われたのは、グローバルサウスから招待されたブラジルのルラ大統領―ウクライナ紛争で「双方とも戦争に勝つのは自分たちだと思い込んでいる」、「双方とも100%譲らないのは無理だ」として、同紛争に向けた多国間グループの創設を目指し、インド・インドネシア・中国などとともに自らを調停者と位置付け、核禁条約批准の意志も表明している。
 被爆国で憲法に不戦平和を誓っている国ならば、せめてこのようなことを言える日本のリーダーで(TIME誌の表紙にあんなことを書かれることのないリーダーで)あったらよかったものを。
 我が国政府の外交と国際会議における議論に際して依拠すべきは憲法であり、誇るべきは9条で、いわば「無刀流サムライ日本」(無刀流とは、幕末の江戸城無血開城に際して勝海舟とともに西郷隆盛との談判に当たった山岡鉄舟が開いた剣術の流派で、「敵と相対するときは刀ではなく心を以て相手の心を打つ」というもの。)なのにどうもはき違えが。

広島サミットと世論―解散総選挙など今後の動向

 先のG7広島サミットにメディアの礼賛報道を通じて世論の多くは「良くやった」と好評のようで、岸田内閣の支持率も急上昇。
しかし、被爆者からは「失敗だった」(サーロー節子氏)とか「戦争を煽るような会議になった」(被団協事務局長)などの痛烈な批判もあったし、(朝日川柳には)「良い核と悪い核ありG7」「過ちは繰り返さぬと核頼り」「「軒を借り母屋を取ったゼレンスキー」「解散が次の頭のど真ん中」などといったものもあった。
 尚、この広島サミットに先立って、アメリカのニュース雑誌『TIME』の表紙に「世界で最も影響力のある100人のリーダー」として岸田首相の顔が大きく載り、顔のわきに「長年の平和主義を放棄して真の軍事大国にすることを望んでいる」と訳される英字が添えられた。(その特集記事のタイトルも当初は「平和主義だった日本を軍事大国に変える」となっていたのが、そこは差し替えられたとのことだが、表紙の方はそのまま)、世界の目にはそのように見える向きもあるのだ、ということなのだろう。日本の国民は「それでもいいと思っているのだろうか」(と問われているようにも思える)。
 国会では、軍拡財源法案などは既に衆院で可決し、参院で審議中。
今後、岸田政権にとっては、広島サミットがうまくいって世論からは首相の指導力も含めて好評で内閣支持率が不支持を一挙に上回ったところで、その勢いが止まぬうちに解散総選挙に踏み切る可能性があると。
 争点は
 ①防衛問題(敵基地攻撃能力保有・防衛費倍増・軍需産業支援法案の是非) ②核問題(核
抑止の是非、核禁条約参加の是非) ③少子化対策問題 ④教育・子育て問題 ⑤原発推進法問題 ⑥マイナカード制度問題 ⑦ジェンダー関連法問題 ⑧世代間等格差問題 ⑨財源・増税問題 ⑩入管法問題 ⑪統一教会問題 etc
 選挙になったら有権者は何を考えて投票するのか?
 各党・各候補者の政治理念と上記の①以下それぞれについて政策をじっくり見比べて投票するのか?(そんなことができる余裕のある人は少数で、大多数は)政策などはどうあれ、とにかく現政権を信任するか、しないかで、「安心して任せられるのは、やはり〇〇党しかなさそう。野党は○〇だけは勢いがありそうだが、他はどれも期待できそうにない」だとか、フィーリングやイメージで投票するか、或いは投票しない(棄権)か、なのでは。
 いずれにしても、そのうち選挙はある。その際、我々にとって核心的な争点は、政権党とそれに同調する党の「アメリカの核抑止力」依存と「敵基地攻撃能力」保有・「軍事大国化」容認そして「改憲」の是非であり、それらに反対する立憲野党と市民連合が共闘体制を再構築して、どれだけ頑張れるかが問われる。共闘は党利党略のためではなく憲法の理念・目的実現のため、憲法改悪阻止のためであり、それでまとまれるかだ。(立憲民主党は果たしてどうなのか?)

「ウクライナは明日の東アジアかも」という政権に対する危機感

 岸田首相が「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と云って、中ロ・北朝鮮を念頭に、日米同盟からNATOとまで連携強化を図り、防衛力・防衛費の増強を推し進めている。台湾有事や朝鮮半島有事などに備えて戦う戦争の準備だ。それに対して国民はどうかと云えば、世論調査(5月の朝日新聞など)では6割が賛成(ウクライナ侵攻で「防衛力を強化すべきだと思うようになった」が57%)。
 岸田首相の防衛政策・改憲に同調している政治家や選挙民は、自国の過去における大戦争とその惨禍を再び繰り返すことのないようにと制定した憲法とその9条の存在意義は(学校で習ったはずの大人も若者も)もう意識の中にないのか。
 それら防衛力強化は日本が(ウクライナのように)ロシア・中国・北朝鮮などから侵攻されないようにそれに備えて、といっても、これらの国が何故侵攻してくるのか。何か理由・動機があるとすれば、中国には台湾との(統一か独立か)の戦争にアメリカが介入して、米軍が沖縄など日本各地に置かれている基地から出撃し、自衛隊がそれを支援・参戦した場合の日本への反撃はあるだろう(それとは別に尖閣諸島「奪還」のためわざわざ日本に戦争を仕掛けてくるなどということは中国にとってはコスパからいってあり得まい)。北朝鮮は、米韓と今まで休戦中の朝鮮戦争を再開して、それに米軍が日本の基地から出撃し、自衛隊がそれを支援・参戦した場合のそれへの反撃はあろう。ロシアの場合は、(ウクライナ戦争から発展して、或いはそれとは別に)アメリカと戦争になった場合に、米軍が日本の基地から出撃し、自衛隊がそれを支援(或いはそれに乗じて北方領土奪還のためもあって)参戦するといったようなことが、もしかしてあった場合のことだろう。だとすれば、それらは、いずれもアメリカに対する戦争であり、それに日本が(日米安保条約を結んで米軍に駐留基地を提供し、自衛隊に集団的自衛権の行使を認めたために)巻き込まれてのことであって、それ以外にはあるまい。そのような、もしかしてこれからあるかもしれないアメリカの対中、対北朝鮮などの戦争のために、日本がなんでわざわざ戦争準備の「防衛力増強」(軍拡)をしなければならないのか。そんなことより、アメリカに台湾有事に際する対中戦争や対北朝鮮戦争の再開は控えてくれと訴え、中国・台湾政府・北朝鮮・韓国などの各国政府にも自制を促し戦争はくれぐれも起こさないでくれと申し入れるのはいいとしても、第一義的に訴えるべきはアメリカに対してだろう。アメリカに対してそんなことを云ったりしたら日本を守ってもらえなくなるからと、アメリカの言いなりになったら、それこそ意気地のない従属国家だとの誹りは免れまい。
 岸田政権のウクライナ戦争に便乗した日米同盟依存の防衛力強化(軍拡)・改憲路線に国民は唯々諾々と従っていてよいのか、それとも9条堅持・護憲の立場に立ってそれに反対するのか、どの道を選べば日本国民と諸国民の平和的生存権(恐怖と欠乏からの自由・安心)は守られるのか、どうなるのか(特に、これから先の長い若い人たちには)もっと切迫感をもって考えてほしいものだ。

 若者など国民は、実際どう思っているのだろうか。防衛力、それは相手が戦争を仕掛けてくるのを抑止するための「抑止力」だと云っても、いざとなったらそれで自衛隊は米軍など同盟軍と組んで戦争するんだという覚悟がなければならない、戦争には悲惨な殺傷・破壊が伴うが、その覚悟があってのことなのだろうか。そのような戦争を容認するのか否か、その意識の中には感情的なものと理性的なものとがあるが、感情的なものには愛国心や家族・同胞を守らなければならないといった情念に、戦う相手に対する反感・憎悪・敵愾心があり、理性的なものには国益・私益上のコスパ・リスク計算、道徳的価値観などがある。憲法前文の「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利」即ち平和的生存権と、それを保障するために定めたのが9条にほかならないが、意識の中にそれがあるのか。それには国際紛争解決の手段として戦争や武力に訴えることを禁止し、そのために国に戦力の保持・交戦することを禁じるという規定であり、その立場を堅持しているかぎり、わが国はどこの国とも戦争にはならないわけである。台湾有事問題は中台統一か分離かの問題であり、それが「日本有事」となることはそもそもあり得ないし、朝鮮半島有事問題も休戦中の米韓対中朝の戦争が再開した場合の問題であって、それにアメリカの軍事介入はあっても(在日米軍基地からの出撃と、それに対する北朝鮮軍の米軍基地攻撃があって、それに巻き込まれるということはあっても)日本が軍事介入(自衛隊が参戦)することは、憲法上はあり得ないはず。
 その憲法規定を守って不戦平和主義に徹するか、それともそれに背を向け、同盟国アメリカの戦争に自衛隊が支援・参戦するなど、軍事と戦争を容認する方に向かうのか、国民の意識が問われるわけである。
 国民多数者の意識如何によって、国民の平和的生存権が保障されるか否か、ひいては将来世代にわたる国民の運命(幸不幸)が決まるわけである。
 それを決定づけるともいうべき来るべき総選挙の争点は、「反原発」やマイナーカード問題など様々あるが、最大の争点は「不戦・非軍事の平和安全保障」か「戦争容認の軍事的安全保障」かで、護憲派と改憲派両勢力が対決。護憲派各党は、個別的には政策の不一致(小異)はあっても大同(護憲)で団結して選挙戦に臨み、政権与党とその補完政党の軍事的安保派・改憲勢力に対して、彼らの3分の2議席以上獲得を阻止し、台湾有事及び朝鮮半島有事の戦争を何としても回避・阻止しなければなるまい。

日本国憲法の平和観―欧米などとの違い

1、ウクライナの現実
 対ロ戦争―ロシア軍の侵攻に対して果敢に(軍民が一丸となって)抗戦、それを(NATO)が軍事支援(武器供与)
 ロシアとの歴史的関係―地続きでロシア帝国・ソ連時代にかけ同一国家に属してきて、ソ連邦解体にともなって独立したが、国内(東部から南部・クリミア半島)には多くのロシア人(全人口の3分の1)が居住。親ロ政権が親米政権に替わった政変で両派抗争、クリミア半島はロシアが併合、東部の親ロ勢力と政府軍との間で内戦が続いてきた。
 旧ソ連は、アメリカが西欧諸国と結成した多国間軍事同盟NATOに対抗して東欧諸国とWATOを結成していたが、ソ連解体にともなってそれも解消、西側のNATOだけが残った。東欧諸国はNATOに次々加盟、ソ連邦に属していたバルト3国も加盟し、その上ウクライナまでもそれに加盟しようとしていることロシアは危機感を持った―それらが戦争の遠因。
  双方の犠牲者―3月時点でウクライナ軍の死傷者―最大約12万人
  ロシア軍の死傷者―約20万人
  (米紙報道、実際の総数はこれより大きく上回るとの見方)
  ウクライナ市民の死者―6月時点で9043人(国連人権高等弁務官事務所)
  ウクライナ国民の8割もが家族・友人に死傷者
  
2、日本の現実
 岸田首相は国内外(首脳会談や講演・記者会見など)で再三「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と述べ、バイデン大統領との会談では、首相は「次は台湾ではないか」とも言ったと語っている。そして中ロ・北朝鮮を念頭に、日米同盟からNATOとまで連携強化を図り、防衛力・防衛費の増強を推し進めている。台湾有事や朝鮮半島有事などに備えて戦う戦争の準備だ。それに対して国民はどうかと云えば、世論調査(5月の朝日新聞など)では6割が賛成(ウクライナ侵攻で「防衛力を強化すべきだと思うようになった」が57%)。
 「台湾有事」とは―そもそも中国と台湾の関係も明・清帝国時代にかけて同一国家だったが、日清戦争で敗れて台湾は日本にあけわたし日本領(植民地)となった。清朝は革命で中華民国(国民党政権)に替わったその中国に日本軍が侵攻し、日中戦争から太平洋戦争へと発展した。そのあげく日本は敗退して本土からも、台湾からも撤退。その後、中国で国民党と共産党が内戦のあげくに、共産党が中華人民共和国を樹立。中華民国(国民党政府)は台湾に逃れて政府を維持し、政府が並立することになった(「一国二制度」へ)。国連では間もなく本土の共産党政府が唯一の正統政府(「一つの中国」)として代表権が認められ、アメリカも日本もそれを承認。その後台湾では独立志向が強い民進党への政権交代が行われたが政権を奪還した国民党政府は本土政府との関係改善・経済交流を図った。ところがそのトップ(総統)が退任後、再び政権交代して民進党の現政権になって、中台関係は再び冷え込むようになった。中国政府は、台湾独立は断じて許さない(武力を持ってでも阻止する)として、あくまで再統一をめざしている。そこで想定される所謂「台湾有事」とは、中国の「台湾との再統一」か「台湾独立か」を巡る戦争が起きた場合のこと。
 それにアメリカが介入して台湾を加勢し、米軍が沖縄など日本各地に置かれている基地から出撃し、自衛隊がそれを支援・参戦した場合に日本が中国から反撃を被ることになる。
 「朝鮮半島有事」とは―北朝鮮と米韓との間で、今まで休戦中の朝鮮戦争が再開される事態となった場合のこと。それに米軍が日本の基地から出撃し、自衛隊がそれを支援・参戦した場合に日本が北朝鮮から反撃を被ることになる。

 それら「有事」は中国或いは北朝鮮の、いずれもアメリカに対する戦争になるということであり、それに日本が(日米安保条約を結んで米軍に駐留基地を提供し、自衛隊に集団的自衛権の行使を認めたために)巻き込まれざるを得ない戦争になるということだ。そのような他国(アメリカ)の戦争に自衛隊が加勢・参戦するという、そんなのに「我が国への急迫不正の侵害に対して、それを排除するために他に適当な手段がなくて、やむなく行使される必要最小限の武力行使」という自衛権行使の正当性を認めることはできまい

3、憲法の平和主義に対する意識―平和観
(1)憲法―前文に「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」―「平和的生存権
      9条に「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」
    13条「すべての国民は個人として尊重される。生命・・・・に対する国民の権利は・・・・・国政の上で最大の尊重を必要とする」
    「平和的生存権」は1962年憲法学者の星野安三郎が日本国憲法から導き出される人権の一つとして初めて提唱―日本が先駆的(但し、その原型は1941年8月ルーズベルト、チャーチル会談で大西洋憲章の第6項に「ナチ暴政の最終的破壊の後・・・・すべての国のすべての人類が恐怖及び欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保障するような平和を確立されることを希望する」と)
   「平和的生存権は現代において、憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないからして、全ての基本的人権の基礎にあって、その享有を可能ならしめる基本的権利であるということができ、単に基本的精神や理念を表明したに留まるものではない」(2008年4月、自衛隊イラク派兵差止訴訟の名古屋高裁判決文)
 生命は自由の土台的存在(生命がなければ自由は存在しないのだから)
 殺人・殺戮・死刑など「なぜ人を殺してはいけないのか」、それは「人に人を殺す権限などないから」(そもそも人間には生命―誕生・延命など―自由にコントロールすることはできないのだから)・・・・<サイト[生命権|法における生命についての観念|憲法の学習・・・]-法務行政書士事務所リーガル・ウインド>
 2008年、スペインの市民団体が(イラク戦争の犠牲者の悲惨から)それ(平和的生存権)を国際法上の権利にしようと考えたのがきっかけとなり、国連で「平和への権利」の議論が進められることに(人権委員会で「平和への権利」宣言案の起草作業へ)―それに対してアメリカやEU諸国・オーストラリアなどは採択には反対(武力行使に足かせをはめられるのを嫌う)・・・・<サイト[100の論点:88.平和への権利、平和的生存権とは何でしょうか]―平和学会>
 
(2)京大名誉教授の佐伯啓思氏によれば(朝日7月1日おピニオン&フォーラム欄「日本の『平和』とは」)によれば―平和観に対する日本人と米欧人の違いは
  日本人(①伝統的自然観-「日本人の神は(ユダヤ教・キリスト教などの絶対的・超越的な神ではなく)自然そのものの森羅万象のうちにあまねく存在するもの」であり、「万物は自ずからそこにあり、自ずとなるもので調和している」との「和」の考え、②戦争に対する反省)―平和とは「戦争のない状態」、戦争は「絶対悪」と考える向きが多い―「平和」とは戦争の放棄であり、無条件の生命の安全確保(絶対的な生命尊重主義)
  米欧人(ユダヤ教・キリスト教-一神教…唯一絶対なる神の下の平和な世界秩序を実現するのが正義であり、それを覆そうとする邪悪と戦わなかればならないとの考え―戦争の必要性)―平和とは「戦争のない状態を作り出すための戦争」でもあるとして、それ(平和実現のための戦争)を「正義の戦争」として肯定・・・・ヒロシマ・ナガサキに投下した原爆も戦争を終わらせるための「正義の原爆」。
 
 佐伯教授は日本文化のうちにある伝統的自然観や「神」の観念という「思考の祖型」に日本人の「平和」についての原初的な意識が認められるとし、その意識からすれば、日本人の平和に対する考え方は近代憲法の発想とは異なったものであり、今日の憲法9条の平和主義とはまったく違っているはず(われわれは日本独自の『平和論』をまだ持ち得ていないのだ)」とも述べている。
 ところが、思想家の柄谷行人氏は(『憲法の無意識』岩波新書で)日本人は(フロイトの心理学である「超自我」による)戦争への拒絶反応で無意識のうちに平和憲法(9条)を受け入れ、それが日本人の心に定着しているのだと。(ドイツ人が大戦の無残な結果に否応なく意識した理性的な反省による罪悪感とは違って、歴史的な反省には欠けているが、むしろ無意識の罪悪感の方がより強いのだ。)そして日本史上、明治以来戦争に明け暮れた時代が終結して訪れた9条憲法下の平和は、「戦国」の動乱が最終的に徳川家康によって平定されて以後久しく天下泰平の世が続いた「徳川体制への回帰」の如きものだと論じている。

(3)ウクライナ戦争は500日も経って、人命の犠牲と惨害は嵩む一方で、いつ止まるともなく続いている。
 戦争には戦う双方の将兵・国民に感情(勧善懲悪の正義感・敵愾心・憎しみ・復讐心など)が働き、一旦始まるとそれが激してエスカレートするばかりでなかなか止められなくなる。
 ロシアとウクライナ(及びその軍事支援国―NATO)双方にそれぞれに戦争目的(自国・同胞の安全保障・主権と領土防衛など、掲げる大義・「正義」)があって戦っている。なのに何故それを止めなければならないのかといえば、それには次の二つがある。一つ(A)は当事国にとって、自国が掲げる「正当な」戦争目的(正義)に対して、それに逆らい阻もうとする相手の「不正義」を許さず、その敵対・違法行為を止めさせるため(戦争に打ち勝って止める)という「正義」の立場。もう一つ(B)は当事国双方の国民のみならず諸国民にとっても人命の犠牲・生活環境の破壊をくい止め平和的生存権を保持するためという人道の立場、とがある。
 しからば戦争を止めるにはどうするかといえば、方法は次の4つがある。
 ①(侵攻)仕掛けた方が、攻撃(戦闘)をやめる(武器を置く) 
  その場合a自発的に自ら(潔く)武器を置くか、b降伏してやむなく武器を置くか
 ②仕掛けられた方が、抗戦(戦闘)をやめる(武器を置く)
その場合a自発的に自ら(潔く)武器を置くか、b降伏してやむなく武器を置くか
 ③双方とも(協議の上しめし合わせて)互いに自発的に武器を置く
 ④第三者(第三国か国連機関)が仲介(双方を説得)して共にやめさせる。
これらのうち①と②のいずれもb(降伏してやむなく)の場合は、戦争が長引いた末に勝敗が決してのことで、その間の人命の犠牲・惨害は長引いただけ甚大なものとなる。このような勝敗に決着がつくまで戦い続けるのは、上の(A)の「正義」の立場で、相手の違法・不正義を許してはならないということにこだわった情念による。それ以外(①②のaと③④)は、いずれも人命の尊重・平和的生存権の方にこだわる人道の立場といえるのでは。
 しかし④以外(当事国が「自発的に自ら潔くその気になって」戦争を止めるなどという方法)は非常に難しく不可能に近いだろうが、④(第三者の仲介)ならば可能性はなくはない。中国やブラジルなどグローバル・サウスの国々の中にその意向を示している国があるも、未だその見通しが立ってはいない。日本では先のG7広島サミット開催を前にして一部の学者・専門家グループが「今こそ停戦を!Ceasefire Now!」という声明を発しているが、地方新聞で長周新聞など以外にはほとんど取り上げられていない。ただ東京新聞それにニューヨーク・タイムズにも意見広告として掲載されているという。

 ウクライナ軍の「徹底抗戦」とそれへの米欧諸国の支援・ロシア制裁、それに日本政府も(武器供与以外は)加わっているが、それらを控えて無条件・即時停戦を促している国々もある。平和憲法と日本人の平和観からいえば、日本国民の多くが同調するのはどちらかといえば後者の方なのでは。
 ところが日本のメディアはインターネット・メディアを含めて、ウクライナの対ロシア「徹底抗戦」・停戦拒否を支持する西側(米欧側)に同調、それに政権与党だけでなく野
党政治家も(「れいわ」の山本議員や「維新」鈴木議員ら以外の)ほとんどがウクライナの停戦拒否・徹底抗戦に同調しているかのようだが、いったいどういうことなのだろうか。

 徹底抗戦派は国際関係の基本的ルールである法の正義を重視。侵攻して戦争を仕掛けたのはロシアの方であり、それに抗戦するウクライナとを同列に置いて、双方とも武器を置いて停戦・和平するというのは不公平であり、あくまで侵攻したロシア軍を撤退させ、それが犯した罪と損害を償わせるようにしない限り、戦争は続行せざるを得ず、長期化して死傷者が増えてもやむを得ないとして、仇敵懲罰にこだわり、生命より「正義」を貫く方が大事とする「正義派」。
 それに対して即時停戦派は、法の正義もさることながら(それに反した違法行為を咎め、断罪もあって然るべきだとしても)そもそも戦争(殺し合い)そのものが悪なのだとして戦闘停止にこだわり、生命尊重の「平和的生存権」の方を重視。戦争を続けて人命の犠牲と生活環境・インフラの破壊がこれ以上生じないように、一日も早く停戦して協議に入り、たとえ交渉が難航しても和平にこぎつけて戦争を終わらせるべきだという「和平派」。

 プーチン・ロシアの「悪」に対して敢然として立ち向かうゼレンスキー・ウクライナとそれを支援する「正義の味方」バイデン・アメリカが率いるNATOと岸田・日本政府、それに同調する各党・メディアの「正義派」の前に「停戦・和平派」は影薄。
 どちらの考えをとるか、違法な侵略者に対する「正義」の制裁か「平和的生存権」(人命尊重平和)のどちらの価値に重きを置くかだ。憲法に9条を定めている日本人ならば。

4,今、日本では日本国憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認の規定)に対して解釈・考え方が分かれている―
 ①国の自衛権はもとより、自衛隊も容認(合憲)、日米同盟(米国の核抑止力)も容認し集団的自衛権の限定的行使・敵基地攻撃能力の保有と積極的海外派兵を容認―安倍政権以来の政府の言う「積極的平和主義」(自衛隊の軍事的積極活用・名ばかり「専守防衛」)―軍事優先主義
防衛産業支援・装備品生産基盤強化法案の可決と武器輸出拡大も(殺傷兵器までも)企図―9条改憲目指す
 ②国の自衛権はもとより、自衛隊も容認(合憲)、日米同盟容認も集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力保有は否認(自衛隊は自国防衛のための必要最小限度の実力であって武力反撃は原則として日本の領域内にとどまるもの)―専守防衛論―安倍政権(安保法制転換)の前までの政府見解、立憲民主党・社民党なども―国民の大半支持
 ③国の自衛権は認めるも、自衛隊は違憲―憲法学者の多数派の考え
 ④国の自衛権は認めるも、自衛隊は違憲―但し合法的に認められて現に存在している以上、「我が国への急迫不正の侵害に対して、それを排除するために他に適当な手段がなく、必要最小限の武力行使」としては警察力と同様に活用―共産党の考え
 ⑤国の自衛権は認めるも、自衛隊は違憲―廃止して人道支援部隊兼非軍事国境警備隊(災害救助即応隊と陸上・沿岸・航空警備隊―軽武装で外敵の排除活動に留まるもの)に改編―花岡しげる氏の考え
 ⑥自衛権も否認、自衛隊・日米同盟も否認―旧社会党(石橋委員長の前まで)の非武装中立論

(1)これらのうち①は軍事優先主義で改憲派、それ以外の②以下は平和優先主義(⑥は絶対平和主義)で9条護憲派として共闘できるのでは。

 政府・与党に対抗する野党共闘・選挙協力・候補者一本化などという場合、「小異を残して大同につく」といえば、この場合「9条護憲」ということが「大同」ということになる。
(2)それにつけても、核兵器禁止条約への日本政府の参加・批准促進運動などに国民が結集するうえで不可欠な運動推進センターに関して、かつて原水禁運動の唯一のセンターとして国民が総結集していたのが原水協(原水爆禁止日本協議会)であった。それが分裂して「原水協」と「原水禁」(原水爆禁止日本国民会議)とに分かれ、運動がバラバラになってしまい、毎年8月ともなれば広島・長崎で開かれている原水爆禁止世界大会も別々に開いている。それを国民が一丸となって結集できるように大会・集会・デモの統一・共同開催などの積極的取り組みが必要なのでは(本会―憲法カフェで前回に問題提起があった)。
 そもそもどうして原水協が分裂してしまったのか、そのいきさつ・経緯は?(Wikipediaによれば次のようなこと)
 1954年 ビキニ環礁でのアメリカの核実験で日本漁船が被爆
 1955年8月 広島で第1回原水爆禁止世界大会開催、原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足
 1960年 日米安保反対の方針を巡って自民党系・民社党系が離脱
   61年 ソ連の核実験再開に対して社会党系グループがそれに抗議すべきだと主張、   それに対して共産党系は抗議に反対
   62年(ソ連の再度核実験)社会党系が「いかなる国の核実験」にも反対、それに対して共産党系は「ソ連の核実験はアメリカと違って戦争を防止するためのものであるから」と容認・擁護
   63年 社会党系グループが「いかなる国の・・・にも反対」とともに「部分核実験禁止条約への支持」要求、それに対して共産党系は部分核実験禁止条約では地下核実験を容認することになるから(それに同条約は、中国の核開発・実験を阻止して米英ソ3国だけで核兵器を独占しようとするものだから)反対
     大会は混乱して流会、共産党系は「意見の違いにかかわらず『核廃絶・核戦争阻止・被爆者救援』の3点で統一すべきだ」と主張するも、社会党系グループ
は脱退
 1965年 原水協から脱退して社会党系グループが原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結
 成
  その後共産党と原水協は中ソ両国共産党に批判的になり、両国の核保有容認から核兵器全面禁止へ転換、一方の社会党は反米・親ソ・親中・親北朝鮮の傾向を強めたため原水禁の方は逆に中ソの核保有擁護に転じた。

 原水爆禁止運動は当初は超党派で一つのセンター(原水協)で一つの原水爆禁止世界大会が開催されてきた。それがセンターは「社会党系の原水禁」と「共産党系の原水協」に二分され、世界大会も分かれて開催されることにもなったのだ。
 このように過去、その時点の情勢下で持ち上がった問題を巡って起きた対立・いがみ合いを、情勢がすっかり変わっているのに、いつまでもわだかまりを残してそれを引きずって国民の総結集を妨げる運動センター分立をそのままにしておくのは如何なものか。唯一の被爆国日本で国民が一丸となって結集し、政府に対して核兵器禁止条約への参加・批准要求やアメリカの核抑止力(核の傘)依存政策反対、ロシアのウクライナ侵攻とともに核使用に反対、北朝鮮のミサイル発射・核実験反対、英仏中印パ各国も含めて全ての核保有国のNPT核軍縮の促進、全ての国の核放棄・廃絶を求める運動を最大限盛り上げられるように核禁運動のセンター統一および世界大会等の統一開催に努めなければなるまい。

 共闘の要諦は「小異を残して大同につく」即ち「過去のいさかい・わだかまりを残して護憲平和・核禁条約批准・脱原発の実現の大義につくということ」なのでは。

2023年08月16日

護憲か改憲かなど、憲法を争点にするのは賢明ではない?

(1)先日の朝日の書評欄(境家史郎氏の著書に対する東大の前田行政学教授の書評)に書いてあったのは次のようなこと。「野党が旗印としてきた憲法」「50年代には憲法問題は野党を結集させた」。ところが、それが「憲法は野党を分裂させる争点となったのだ」「憲法9条の解釈変更を巡ってイデオロギー対立が激化。その結果、野党の分裂が進み、それが自民党を利してきた。」「だとすれば、今後の野党の運命は憲法とは異なる争点を新たに提起できるかどうかにかかっている」ということのようである。要するに護憲か改憲かなど、憲法を争点にするのは賢明ではないということか。しかし、果たしてそうなのか?
 野党には、政権党に対する選挙の争点を提起してそれを国民に示し、自らを政権交代の受け皿としてアピールするという目的もあるのだろうが、我々国民が政治(政権や政党・議員)に求めるのは、憲法の前文に掲げる平和的生存権―恐怖と欠乏からの自由―確保と「政府によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」してもらうことであり、そのために憲法9条をあくまでも守り、改悪して欲しくないということ
 政権党である自民党は1955年立党以来、改憲を党是としてきて、安倍政権はその実現に意欲を注いできたが、その亡き後、岸田政権がそれを引き継いで実現を果たそうとしている。それでは困るのだ・・・・などと思っている護憲派は少数派か?
(2)そもそも国政選挙の「争点」には①その時々で直面する政治課題、生活に直結した問題―賃金・雇用・労働問題、物価問題、税金問題、マイナーカード問題など、②懸案の政治課題―産業・経済政策。環境・エネルギー対策、外交・安保政策、子育て・教育・福祉・社会保障政策など、③イデオロギー(理念)問題で、平和主義をめぐって不戦・非軍事平和(9条護憲)か軍事的抑止力平和(9条改憲)かなど憲法問題、或いは共産主義をめぐって共産党に対して「反共」か「容共」か、などの潜在的な(隠れた)争点がある(共産党は100年前帝国憲法下で結成されたものの、権力から目の敵にされ、非合法扱いされて弾圧され続け、戦後新憲法下で合法化。自民党は「反共」だが、「非自民」でも公明・維新・国民民主などの党派、或いは労組でも連合系、宗教団体では統一教会などが「親自民・反共」で共産党を「目の敵」、立憲民主・社民・新社会・れいわ等は「反自民」で、共産党に対しては野党共闘から排除したりはしない「容共」の立場。)
 これら3分野の「争点」のうち①の直面する具体的な政治課題では「一点共闘」も適宜あって然るべきだが、政権を意識して野党共闘を組む場合は③の政治理念や②の基本政策共通点があって一致できるか折り合える課題では野党共闘が組まれるわけである。
(3)国政選挙では政党が幾つか並び立ち、政権与党と野党とに分かれる。わが国では1955年以来、現在に至るまで一時期を除いて大半は自民党が政権を担当。
 55年当時は主に3党しかなく、自民党(自由党と民主党が合併―保守合同―して成立)が政権党で、野党は社会党(右派と左派が再統一)が自民党に対して2大政党として対峙し、改憲を阻止する3分の1以上議席を占めていた。それ以外の政党は共産党しかなかった。そして60~70年安保闘争や選挙では社共両党が(革新3目標①安保反対、②改憲反対、③増税・福祉切り捨て反対で)野党共闘。社会党は9条解釈では「非武装中立」論で、共産党(「自衛中立」論)との違いはあったが、共に日米安保条約反対であり護憲で、共産党とは「容共」で共闘を組むことができていた。
 ところが社会党は政権獲得(過半数議席獲得)のため、共産党の他に(60年)社会党右派から分かれた民社党と(64年)新たに結成された公明党とも組んで全野党共闘をめざしたが、公明・民社と共産党との間で互いに相手を拒否、そのあげく社会党は非共産の社公民路線を採ることになった(1980年代)。その後社会党は石橋委員長の時から、それまで否認していた自衛隊を「違憲合法論」へと転じ、非自民・非共産(社会・公明・民社に新党が加わった8党派)の連立政権である細川政権に参加(1993年)を経て、1994年自民党との連立(自社さ)政権の首相となった社会党党首・村山首相の時から自衛隊を自民党に合わせて合憲論に転換。1996年社民党と改称も、非自民・非共産の新党(新進党・さきがけ等)各党が合流して新たに結成された民主党社民党の中からも大半が移籍。2009年その民主党が政権交代を果たした(連立政権には社民も当初加えられたが離脱)。しかし、2012年自公が政権奪還安倍長期政権が続くことになった。ところが、その安倍政権下で2015年強行採決した新安保法制に反対して市民連合が結成され、その後押しで野党共闘に結集する機運が盛り上がったが、16年参院選ではリベラル野党は(1人区で候補者一本化)共闘して善戦したものの、改憲派3分の2以上議席獲得を阻止できなかったし、17年衆院選でも共闘はしたが、改憲派議席3分の2以上を阻止できず、19年参院選では3分の2を割り込ませることはできたものの、それ以外は21年衆院選も、22年参院選も、野党共闘はしぼむ一方で、改憲派(自・公・維新・国民民主など)の3分の2議席以上獲得は阻止できずに終わっている。
 その野党共闘の弱点は、外交・安保政策などで閣外協力さえも政策協定を直接結べず、相互推薦・支援も行わず、本格的な選挙協力になっていないという限界にある。立憲民主党については、その最大支持母体である労組「連合」の会長が「連合としては共産党、市民連合も含めて、到底受け入れられないことですので」と云っているとのことで、その「連合」労組もネックに。  
 野党共闘は、自公政権(民主党政権の間途切れはしたが16年以上も続いている)に比べて、うまくいかなかったことは確か。しかし、それは憲法を争点・旗印にして野党を結集させようとした、そのせいかといえば、上記のような経緯を見るかぎり、そうとも思えない
 むしろ、それは逆で、憲法(理念・理想)よりも現実の政治状況・選挙情勢から見て政権与党に対して選挙に勝つためにはどんな手(戦術)を使って対抗すれば有利か不利かだけを考え、理念(目的)に照らしてなすべきこと(戦略)をよく考えずに、適当な争点をとらえて、非自民・非共産の「中道」か「非自民保守」イメージを売りにしてやった方がいい、などといったやり方でやってきた。野党共闘がうまくいかなかったのは、そのせいなのでは。
(4)折からのウクライナ戦争の影響で近隣のアジアにも台湾海峡や朝鮮半島などで「有事」の気配が醸し出されているが、岸田政権はそれに対して「戦争」も想定・覚悟のうえでの(「戦争準備」であるかのような)対応に意を注いでいる。(折から麻生副総裁が台湾を訪問して講演し、中国を念頭に「今ほど日本・台湾・米国をはじめとした有志の国々に強い抑止力を機能させる覚悟が求められている時はない。戦う覚悟だ。」「最も大事なのは台湾海峡を含むこの地域で戦争を起こさせないことだ」が、「お金をかけて防衛力を持っているだけではダメで、いざとなったら台湾防衛のために防衛力を使うという明確な意思を相手に伝えることが抑止力になる」などと説いている。)
 護憲派野党は「再び戦争の惨禍が起ることのないように」何としても暴走を阻止し、改憲も阻止するべく、今こそ共闘体制を整えて力を結集すべき時なのでは。
そう考えると護憲派野党は9条解釈の違いなどを巡って背を向け合ってセクト主義をひきずっている場合ではなく、「小異を残しても大同で団結」して、改憲派与野党に対抗し、政権奪取(交代)とまではいかないまでも、改憲発議に必要な3分の2以上獲得阻止を果たすべく、共闘体制を再構築しなければならないのでは。その観点からすると、朝日の書評者が云うような、野党が「憲法とは異なる争点を提起」すべきであるかのような言説には、とても同調できない。
(5)それにつけても、立憲民主党は護憲派・改憲派どっちなのか曖昧で、当てにはできないのかもしれない。いずれにしても野党各党にはしっかりした政治理念があって、その立場から取り組むべきなのであって、理念を抜きにして、ただ単に政権交代の受け皿となりさえすれば、「第2自民党」でもよいとか「非自民・反共産」であればいいとか、政権獲得を自己目的として、適当な争点を取り上げて、有利・不利で他党と組んだり組まなかったりするような党利党略的な野合となってはならないわけである。
 護憲派は憲法の条項解釈には違い(「小異」)はあっても、政治理念が憲法理念(「大同」)で一致できるかが問題なのでは。
(6)現行の日本国憲法には民主主義・基本的人権・平和主義など理念が掲げられているが、とりわけ憲法前文に掲げる「全世界の国民は等しく恐怖と欠乏から免れ平和に裡に生存する権利を有する」という平和的生存権は憲法理念としては最重要な核心点とも云える概念(国連憲章にも、日本以外のどの国の憲法にも明記されていない先駆的な理念)。9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は、その条項だけで解釈すると違う解釈が分かれるが、前文の平和的生存権の理念を踏まえて解釈するならば、国(政府)は国民が日々平和の裡に暮らせて生命が安全・安心でいられるように保障しなければならないことを定めたものと解するのが至当と思われる。その場合、国民の平和的生存権とは、国(政府)はいかなる目的遂行のためであっても(たとえ国を守る防衛のためであっても)国民諸個人の生命と平和を犠牲にしたり侵害する戦争行為や武力行使を手段とするのは極力避けなければならないというもの。そして「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」としているわけである。
(7)ところが、自民党政府は、その(国民の)平和的生存権を国が外敵の侵害から守ってやらなければならない、そのための手段としてならば武力の保持・行使は許されると解釈し、さらに13条(国民の生命・自由・幸福追求権を国政上最大の尊重を必要とするという条項)を根拠とし、国民の生命・自由等の権利を外敵の侵害から守るためにやむを得ない必要最小限度の武力行使なら許容されるし、むしろそれが政府の義務だとして、9条の「戦力」を越えない「実力」として武力を保持、行使する分には、自衛隊は合憲だとして合理化してきた。
(8)現実主義か理想主義かでいえば、現実主義を標榜する政治家は現実を(重視して、それを踏まえるのは当然としても)むしろ優先・先行して、理念・理想を現実に合わせようとする。しかも、その現実(国々が持ち合っている軍備或いは核保有、日本では自衛隊と日米同盟、ウクライナでは戦争、極東では台湾海峡や朝鮮半島で「有事」の危険性、それらの現実)はそれぞれ過去の為政者たち(過去から現在に至るまで国々で政権を担ってきた政党・政治家たち―わが国では主として自民党、アメリカでは民主党か共和党の政権党政治家たち)とそれを支持した国民によって作り出され生成してきたもの。「核兵器のない世界」「戦争のない世界」「戦力不保持・交戦権否認・戦争放棄の日本」「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利が保障される全世界の国民」などの理念・理想は単なるお題目として唱えるだけで、ひたすら現実に執着し、(現実を理想に近づけ漸進的に9条実現しようとするのではなく)「理想の方を現実に近づけようと」(「核なき世界」を、アメリカの核兵器を「抑止力」として維持することによって、ロシア・中国・北朝鮮の核兵器使用を抑止すれば、非核世界が実現できるかのように)しているのが(自ら「徹底した現実主義」と称している)岸田首相であり、核禁止条約に背を向け9条改憲策に血道をあげているのが政権与党及び補完政党
 現実を憲法の理念・理想に近づけようと努める平和優先主義(あくまで平和的手段を優先して不戦平和を追求する非軍事主義)か、それとも現実に理念を近づけ(合わせ)ようとする軍事優先主義(軍事的抑止力平和主義)か。政権与党とその補完政党に対する野党の対決は、まさにこのような憲法を巡る対決であり、やはり憲法こそが野党結集・共闘の基軸になるのでは。
(9)境家氏と書評者の見解は、野党は政権選択選挙で勝って政権交代をめざすべきで、旧社会党・旧民主党のように、イデオロギーにとらわれた反自民・反改憲(意識)から憲法を争点にしてしまい、結集どころか、かえって分裂を招いて自民党を利し、その一強優位・長期政権の存続を許す結果を招いてきた。だから、そのような(憲法を争点にする)のはもうやめて、ただ政権交代だけを目指して、憲法とは異なる新たな争点で結集(共闘)できるようにすべきだ、ということのようである。しかし、そもそも9条護憲は、政権選択選挙で勝つための野党結集の単なる手段(便法)ではなく、あくまでも目的なのであって、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」し、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有することを確認」して定めた憲法9条を護り抜き、改憲を阻止するという、そのこと自体が目的なのであって、それを野党結集の旗印にすれば政権選択選挙に有利になるとか、ならないとかの問題ではあるまい。それはまた、イデオロギー(思想)でもなく、ただ単純に「戦争はもう懲り懲りだ」という日本人の民族的実体験から無意識のうちに(潜在意識として)心の奥底に染み付いた戦争アレルギー(集団的超自我)からきているものにほかならないのでは。(憲法前文にある「平和的生存権」として概念化されている「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存」できるようにし、「戦争の惨禍が起ることのないように」して欲しいだけなのであって、必ずしもイデオロギーの問題なんかではあるまい。)
 そもそも憲法問題が(9条解釈を巡って野党間に違いがあって嚙み合わないところがあるからといって)野党の共闘を妨げ、分裂させる原因になっているというが、野党でも(維新・国民民主・参政党などのような)改憲を容認している党派は、護憲派野党(共産・社民・新社会・れいわ等)と共闘を組むことなど初めからあり得ないのだ。
「野党の運命は、憲法とは異なる新たな争点を提起できるかどうかにかかっている」というが、維新・国民民主・参政党など改憲派に限っていえば、そんな野党の運命なんかどうでもいいのであって、そんな野党の運命などより「憲法9条の運命」がどうなるのか、その方が、国民にとっては何よりも切実な問題なのである。なのに憲法問題をことさら難しいイデオロギー問題にして争点化を避けようとする、その方が問題なのでは。
 野党共闘を妨げ分裂させている原因がイデオロギー対立にあるとするなら、それは平和主義など憲法理念よりも、むしろ反共主義の方にあり、共産党を共闘から除外する(反共)か、受け容れる(容共)かのイデオロギー対立であり、そんな反共イデオロギーにこだわっているかぎり、憲法問題とは異なるどんな争点を提起したところで、その共闘に共産党を入れるか排除するかで分断が生じることには変わりあるまい。
(10)境家氏は「憲法改正という争点を『軍国主義か民主主義か』というイデオロギー的問題として捉える枠組みから日本人が解放されない限り、この国の戦後は終わることがないだろう」と書いているとのことだが、はたしてそういうものだろうか。
 「憲法改正という争点」は(自衛隊に必要最小限度の「実力」以上の―「専守防衛」を越える―能力や活動範囲を認めて軍隊化を強め、戦争につながりやすくして再び戦争を招きかねなくする)9条改憲に賛成か反対かという争点。「戦争なんてもう御免だ」との思いで、そんな改憲に反対するのは、格別イデオロギーを持ち出さなくとも、日本人なら誰もが当たり前に思う次元の問題で、上記で触れ通り。
 「戦後」とは(78年前に戦争が終わって)戦争のない平和な時代になったということであって、それが「終わることがない」のであるなら、むしろそれにこしたことはないのでは。逆に、それが終わるということは再び戦争時代が始まるということであって(最近タモリが「新たな戦前」と云って鋭い指摘をしていたが)それでは困るのだ、というふうに考えれば、むしろ「戦後は終わってほしくない。いつまでも戦争のない平和な時代であってほしい、否そうなるようにすべきなのだ」というべきなのでは。
 


2023年09月04日

野党結集は、やはり憲法で

 境家史郎・東大教授らは、野党(非自民勢力)は9条の解釈を巡って防衛問題・自衛隊問題などで合意できず、イデオロギーで対立・分断し合って政権与党・自民党を利してきた。したがって野党が政権交代を懸けて選挙戦に結集するうえで、9条護憲を掲げて改憲問題を争点にするのは避け、むしろ他の争点で野党は結集するようにした方が得策だとし、むしろ自民党側の9条など憲法改正が実現されてしまえば、9条解釈を巡って野党同士で対立することもなくなって自民党など政権党に対抗してまとまりやすくなり、野党はかえって結集しやすくなるのでは、とさえも論及しているという。
 確かに、護憲派でも9条については、党派によって解釈に違いがあり、自衛隊は違憲だとか合憲だとか、日米同盟も肯定か否定か見解が分かれている。それに国民はといえば自衛隊には大多数が支持を寄せているし、日米同盟にも(基地問題はあっても、同盟それ自体には)反対しているマスメディアはほとんどない。
 しかし、政府・与党の外交・防衛政策と9条改憲問題については、国民の間でも異論や疑問は少なくないし、特に戦争に対しては大多数の国民が「それは嫌だ」と思っており(自衛のためなら仕方ないとか、国を守ってもらうためなら日米同盟も仕方ないとは思っても)、他国の戦争に巻き込まれるのは御免だし、戦争だけは避けてほしいと思っている国民が大多数なのでは。
 だとすれば、野党は(9条の解釈や外交・防衛政策に違うところはあっても)①専守防衛の原則を踏み外し、9条のレッドライン(超えてはならない一線)を越える敵基地攻撃能力の保有、防衛費が(27年度には)倍増して世界3位の軍事大国になるという軍拡に反対、②集団的自衛権の行使容認など安保法制には反対、それに③軍事的抑止力など軍事依存主義には反対、これら3つの基本点では政権与党・準与党とは決定的に違う。それらの基本点で合意できるなら「小異を残して大同につく」という結集は可能であり、護憲の立場でも結集できるのでは。
それなら立憲民主・共産・社民・れいわ・新社会党などは結集して共闘できるのではと思われる。これら「立憲野党」だけでも「市民連合」とともに結集して共闘を組んで選挙戦に臨むならば、「戦争は御免だ、絶対避けてほしい」と思っている多くの人たちの支持・応援で善戦でき、(政権交代はともかく)改憲発議阻止に必要な3分の1以上議席獲得は可能であり、いずれにしても改憲阻止の国民運動を大きく盛り上げることはできるだろうし、是が非でもそうなるようにすべきなのでは。
 それに、合理主義か人道主義かの観点からの他の争点と関連付けて総合的に一くくりにした大争点で共通政策を掲げて結集・共闘することもできるのでは。
 片や(自民党や維新)「軍事・原発・デジタルなどの偏狭な科学技術に依存する合理主義の企業と国家本位の改憲派」。片や(立憲野党と市民連合)「『生きとし生けるもの』の生命と自然を大事にする人道・平和主義を守る護憲派」などといったように。

(尚「専守防衛」の原則とは①攻められたときに限って武力は行使するも、撃退・排除だけに止まり、相手を打倒するような勝利を求めない。②力を背景とした強制(押し付け)外交はしない。③他国に脅威を与えることはしない。④相手に戦争や軍拡の口実を与えない。⑤同盟国など他国の戦争に自動的に参戦する集団的自衛権行使はしない、ということ。)

軍事的抑止力など軍事依存主義について

<軍事的抑止力とは>
 それは軍備(武力・兵器・軍事同盟など)を保有し軍事演習(訓練)もして(いつでも戦える準備を整えておき)、いざとなったら戦うぞという交戦(応戦・抗戦)意志(覚悟)を示すことによって、相手の戦争(武力攻撃)意志を抑え込むことであるが、それは互いの間に対抗意識を募らせ、互いに相手に対して優るとも劣るまいとして軍備増強・軍拡に駆り立てられ、偶発的な何かをきっかけに軍事衝突(どちらかが先に仕掛けて相手が応戦)を誘発し(「戦争抑止」どころか、かえって)戦争を招いてしまうという結果となりがち。現にウクライナで行われている戦争あるいは台湾海峡や朝鮮半島で想定されている「有事」も、それ(対立する双方の軍事的抑止力対決)が火種となっているのでは。
 そもそも軍事的な「抑止力」というものは、政治的イデオロギー的に共存・融和できない(仲良くできない、或いは仲直りできない)と思い込んで敵対関係にある双方(米中、米朝、中台、米ロなど)が、互いに相手がいつか攻撃を仕掛けてくるものと想定し、仕掛けてきたら反撃、或いは仕掛けてくる前に先に仕掛けるという、そのための軍備であり、本質的に戦争するためのものであって、情勢に鑑み或いは形勢から見て今はしばらく開戦を控えているだけ(米朝の朝鮮戦争は未だ休戦中で再開されてはいないだけ)で、けして「平和共存」というものではない、いわば一時しのぎの「敵対共存」に過ぎないのである。
 日本国憲法9条が求めているのは、中国や北朝鮮・ロシアなどとは係争問題はあっても、それを巡っていつか戦争を交えるかもしれない軍事的抑止力による「敵対共存」ではなく、あくまで戦争のない恒久的平和共存。
<「戦争を始めさせないためには軍事的抑止力の強化は不可欠」なのか?>
 防衛省防衛研究所の高橋杉雄氏は著書で「そもそも戦争を始めさせない努力が肝要で、そのためには軍事的な抑止力強化が不可欠だとしている」とのこと。ところが(8月6日広島の平和祈念式典で)湯崎広島県知事は「世界には核兵器こそが平和維持に不可欠であるという・・・・そのような核抑止論者に問いたい」として「あなたは今、この瞬間も命を落としている無辜のウクライナ市民に対して責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです」と述べている。但し、その最後の方のアンダーライン部分については、当方の考えでは、それはウクライナ(ロシアにとっては、かつてはソ連という連邦国家の仲間で、ロシア人同胞も住みついている国でソ連崩壊を機に分離独立してはいるものの西側のNATO諸国に対しては緩衝国として是非とも中立国であってほしい国)が、核大国アメリカを盟主とするNAYTOに加盟しようとしているのを、ロシアは何とかして阻止(断念するように強要)しようとし、そのことと合わせて(2014年の政変で親ロシア派の大統領が追放されて親米欧派でNATO寄りの政権に変わった時以来)ロシア系住民の多い南部クリミア半島をロシアが併合、東部では親ロシア派武装勢力がウクライナ政府軍と内戦を続けてきたが、そのドンバス地方2州の分離独立を認めさせようとして、ロシアは侵攻したのである。ところがウクライナ軍が、そのロシア軍に頑強に抗戦、それをアメリカなどNATO諸国が支援して反転攻勢。それに対してロシア大統領は核使用もあり得るとほのめかし威嚇していたが、苦戦して追い込まれれば、それ(核使用)に踏み切る可能性も。それに対してアメリカ側がたとえ核戦争だけは避けるとしても、ロシア軍の暴走は抑止できず、その意味ではアメリカの核抑止力は効かなかったことになる。つまり核抑止力論は破綻し、軍事同盟・軍事力による戦争抑止は既に失敗していると見なされるのでは。
<アイデンティティを巡る対立は、話し合いによる妥協は成立しない?>
 高橋氏は又、「アイデンティティを巡る対立のように『落とし所』のない状況においては、外交によって相手国との関係を改善して紛争を回避することは難しい。話し合いによる妥協がそもそも成立しないからである。」「そうした状況における外交の重要な役割は、対立する相手と話し合うことではなく、むしろ自らのパートナーを増やし、抑止力を強化したり、万一抑止が破れて紛争になってしまったとしても自らが有利な位置にいられるような形で世界各国との関係を構築しておくことにある。」「ロシア・ウクライナ戦争は、このアイデンティティを巡る戦争になってしまっている。」「台湾海峡有事もまた、それが起ってしまったら、台湾と中国とのアイデンティティを巡る戦争になってしまう。」などと書いているとのこと。そして「外交とは対立する相手との調整というよりも、仲間を増やして抑止力を強化しながら、万一、抑止が失敗した際に自らを守れるよう、各国との関係を築いておく手段だ」とも書いているそうだが、そうだとすると、対立する相手(中国や北朝鮮など)との調整(対話・交渉)よりも、仲間を増やして(米・韓・台・豪・NATO諸国など同盟国・同志国、それに非同盟国のインドまでQUADの仲間にして)抑止力(対中・対朝包囲網)を強化しながら、万一、それで抑止し切れず中国や北朝鮮と戦争になったら、その時は日本を守れるように、それらの国々が味方になって加勢してくれるような関係を築いて、それらの同盟国・同志国の軍事力によって対抗して抑え込み、戦争になったら同盟軍・同志国軍の参戦・支援を得て共に戦う、ということなのだろう。このようなやり方しかないと防衛省(防衛研究所)では考えているのだろうか。(戦争になったら、多勢に無勢で有利な戦いとはなるだろうが、相手は破れかぶれになって挑みかかってくるだろうし、北朝鮮は核ミサイルを使わずにはいないだろう。中国だって苦戦し追い込まれれば核兵器に訴えないとは限らず、それに対してアメリカの核の傘で日本は守ってもらえるから大丈夫だなんて云っていられるのだろうか。)
<アイデンティティとは>
 それは他者に対して独自性(自分らしさ)をもつ自分を意識する自己認識のことで、他の全ての人間と区別される一人しかいない個としての自分を指して云う場合と、帰属する集団の一員としての自分を指して云う場合とがあるが、この場合は後者の方で、国や民族への帰属意識(ナショナル・アイデンティティ)、人種・宗教などへの帰属意識もある。そのような帰属意識は人によって強く意識する人もあれば、あまり意識しない人もある。それにこだわりすぎて偏狭なイデオロギーと結びつくと、自分とアイデンティティの異なる相手との共存・交流を嫌い存在さえも許さないという排外的民族主義や人種主義・宗教的原理主義など、それらは対立・紛争から戦争の火種になってしまう。歴史上かつては民族紛争や宗教戦争は度々あったし、第2次大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人迫害もあり、戦後はイスラエル対アラブの中東戦争、アイルランド紛争、ボスニア紛争、イスラム過激派の国際テロ組織に対する対テロ戦争があり、イスラム原理主義勢力のタリバン、もっと極端なIS、或いは統一教会などもあるが、これら民族対立・宗教対立それに人種差別なども、一部に未だ残りはしても、それらは限られた国や地域での特殊な存在であって、どの国どの民族にも(日本人にも)普通・当たり前のこととして存在しているわけではないし、日本人がアイデンティティを巡って対立している民族・人種・宗教なんて基本的にあり得まい。そのようなアイデンティティを巡る紛争や戦争に備えて防衛力・軍事的抑止力の強化が必要不可欠だなどという状況にはないだろう。
 ただ、アイデンティティなどとは関係なくても、どんな戦争でも、いったん戦争が始まると敵愾心・憎悪が募り、激化の一途をたどることになり、停戦・和平交渉は難しく、長期戦になりがち。
<ロシアとウクライナの場合は>
 民族的には同じ東スラブ民族で、宗教的にはカトリック系とギリシャ正教系の違いはあるものの同じキリスト教徒。歴史上戦乱もあったが、常にいがみ合ってきたわけではなく、長らく同一国家に帰属・共存して暮らしてきた。なのに2014年の政変をきっかけにウクライナ東部で内戦が始まり、ロシアによるクリミア半島併合、そして昨年、ロシア軍の侵攻で本格的な戦争に発展。両軍・両国民とも敵愾心・憎悪・復讐心に駆り立てられるようになり、もはや停戦協議は難しく、行き着くところまで(どちらかが降伏するまで)戦争を続けるしかないといった状況。
 このウクライナ戦争の昨年2月の開始からこの8月までの死傷者は(ニューヨーク・タイムズ紙によれば)50万人以上(ロシア側の死者12万人、負傷者17~18万人、ウクライナ側の死者7万人、負傷者10~12万人)。たとえウクライナ軍が善戦して結果的に勝利し、ロシア軍を降伏させたとしても、双方のこの犠牲者のことを考えれば、それは「正義が悪に勝つために必要な、やむを得ざる犠牲だ」などと云って済まされない、あってはならない戦争だったのではあるまいか。
<北朝鮮と韓国>
 日清・日露戦争後、日本に併合され植民地となる前までは半島には朝鮮民族の「一つの国」(王朝)があって(中国王朝の朝貢国・属国とはなっていたが)共通の民族意識・国家への帰属意識(アイデンティティ)はあったと思われる。第2次大戦後日本の植民地支配からは独立を回復したものの米ソ冷戦下で韓国と北朝鮮に南北分断、主権を巡って戦争(朝鮮戦争―韓国軍には国連軍の名の下に主としてアメリカが付いて主導参戦、北朝鮮軍には中国軍が「義勇軍」の名の下に参戦)が行われ休戦して70年経ち、現在に至るまで「二つの国」に分断状態にある。アメリカは韓国にも日本にも軍事基地を置き、韓国とも日本とも同盟関係を続けており、それに対して北朝鮮は核・ミサイル実験を重ね、保有するに至っている。北朝鮮側、米韓側双方とも互いにその軍備を「抑止力」として維持・強化し続けており、戦争再開の不安と恐怖は尽きることがない状況にある。そのような軍事的抑止力はどうして不可欠なものなのだろうか。
<台湾島民と中国大陸住民>
 両者ともそれぞれにアイデンティティをもち、とりわけ台湾島民は「台湾人」意識が強いのだろうが、「台湾人であるが、中国人でもある」という意識もあろう。
 一方の大陸の中国人は台湾島民を自分たちと同じ「中国人」だと思っていて、「あいつらは中国人なんかじゃない」から分離独立したかったら、それでもかまわない、などと思っている人なんていないだろう。
 ちなみに日本の沖縄県民にもヤマトンチュー(大和人)に対するウチナンチュー(沖縄人)意識があり、日本から独立すべきだという人たちも一定数(2割ほど)いるとのこと。
<台湾島民のアイデンティティ>
 台湾島民の意識調査(台湾政治大学)では、1992年(国民党の李登輝政権)当時は、自分を「台湾人」と認識している人が一番少なく17.6%、「中国人」と認識している人25.5、「台湾人」と「中国人」の両方だと認識している人が一番多く46.6だったのが、30年後の2022年(民進党の現政権)には、「台湾人」意識を持つ人が63.7%と一番多くなり、「中国人」意識を持つ者は2.4に激減し、「両方」だという人は30.4と減ってはいるがそれほど少なくはない。台湾人意識を持つ者が一番多くなり、中国人意識を持つ者は極わずかとなってきているが、「台湾人」でもあり「中国人」でもあると(両方を)意識している人は中国人意識を持つ者と合わせれば3分の1近くいる。しかし「中国人」意識と「台湾人」「中国人」両方を意識している人の割合が下がってきているのは、この間、中国政府側が香港に対して(イギリス領だったのが返還されて中国に復帰後)、高度な自治を認めるといいながら、実際には民主化運動の急進化に直面し、反逆を恐れて弾圧した、その強引なやり方を見せつけられたのが影響したからだろう。
 尚、このような「台湾人か中国人か」というようなアイデンティティ意識は、自分はどの国の国民に帰属していると思っているかという主観的な意識の問題だが、客観的な歴史的文化的な民族分類では、現在の台湾島民(住民)のうち、「高砂族」その他(16族)の原住民はわずか2%で、大多数は(大陸中国と同様)漢族が(9割以上)占める。漢族は大陸から各時代に移住してきた人たちで、古くから(明・清代から第2次大戦前)に移住してきた人たちを「本省人」、その後(大戦を経て日本軍降伏撤退後、国共内戦にかけて)移住してきた人たちを「外省人」と呼んで区別して呼ばれたりもして、「本省人」が「台湾人」で、「外省人」が中国人と見なされたりもしている。
<中国政府側の「一国二制度」統一路線> 
 中国政府は台湾に対しては、かねてより「一つの中国」(中華人民共和国)「台湾は中国の一部分」だとし、「一国二制度」での「平和統一」路線、すなわち台湾統一を「一国二制度」方式(「中華民国」国旗の使用と反逆以外は、すべて今まで通りのやり方で、台湾領域においては台湾政府の統治権・外事権・軍隊の保有まで容認し、資本主義その他の制度もそのまま現状維持で結構というやり方)で行う方針を打ち出していた。それは台湾島民のアイデンティティを配慮したもので、それなりに「落しどころ」を考慮したものとも考えられ、必ずしも、「話し合いによる妥協がそもそも成立せず、紛争を回避することは難しい」と決めつけてかかるのは如何なものか。
 この中国政府側の「一国二制度」統一路線に対して台湾政府の現政権(民進党政権)は中国を嫌って、「一つの中国」などと云って国を共にすることなどできないという反中意識から、中国からの分離独立志向が強く、蔡総統は「我々は既に独立国家であり、独立を宣言する必要はない」という意味での「現状維持」を主張。(これに対して中国政府側は「事実上の独立宣言」とみなして反発。)
 台湾の最大野党・国民党は(「中華人民共和国」ではなく)「中華民国」として「一つの中国」を回復するのだ、という立場で中国政府側と「同床異夢」。
<国連は>
 国連発足当初は、中国では日中戦争の最中、孫文以来の「中華民国」の政権党である国民党(蒋介石)が共産党(毛沢東)と抗日統一戦線を組んで戦い、米ソなどの連合国軍でも中国からは国民党の蒋介石が代表して首脳会議に参加し、日本軍が降伏撤退後は国共内戦で共産党側が大陸を制覇し、国民党は台湾に逃れて、そこで「中華民国」の政権を維持し、国連の代表権もその国民党政権がしばらく維持していたが、アメリカが「中華人民共和国」政府―共産党政権―の方を「中国を代表する唯一の合法政府」として認めるようになって以来、国連加盟各国とも、それが共通認識になり、アメリカ政府は建前上は現在に至るまで中国政府の言い分に応じて「一つの政府」「台湾は中国の一部分」と認め、日本政府もそれに倣っている。)
<「落し所」は「互いに戦争と武力による威嚇又は武力の行使には訴えないこと」にありはしないか?>
 台湾の世論調査では「永遠に現状維持」28.6、「現状維持し、将来再判断」28.3、「現状維持し、独立を目指す」25.5、「今すぐ独立」5.1、「今すぐ統一」1.3。
 要するに現状維持が大多数で、独立も統一も望んではいないということで、「現状維持」とは中国から独立しておらず、中国と統一もしていない現状のまま、ということ。それでいいんだというわけ。理由は、独立戦争であれ統一戦争であれ「戦争だけは避けたい」ということだろう
 アイデンティティを巡る対立であるかぎり、外交協議で話し合っても「落し所」(妥協点)はあり得ないし、折れ合うこともできないと決めつけてかかり、軍事的抑止力によって抑止して戦争を回避する以外にない、などといって、互いに軍備を構えていがみ合い続けるのではなく、これだけは何としてもという唯一つの「落し所」すなわち「互いに戦争と武力による威嚇又は武力の行使には訴えないこと」といったようにすること、これだけは合意にこぎつけるようにしなければならないのでは。
 かつて(1962年)キューバ危機(キューバで親米政権を倒した革命政権に対するアメリカ軍の侵攻を恐れた革命政権は、ソ連に頼ってキューバにソ連の核ミサイル基地建設を認めたのを巡って、米ソが対立した核戦争の危機)では、勃発寸前に米ソ首脳会談で、双方とも核ミサイル基地撤去(アメリカはNATOの加盟国トルコにソ連側に向けて配備していたミサイル基地を撤去、それと引き換えに、ソ連はキューバからミサイル基地撤去)に合意して核戦争だけは回避されたという、その時のように。
 ロシアがウクライナ侵攻に踏み切った経緯には、その前に、ロシアがかねて恐れてきたNATOの東方拡大が、ロシアと国境が直接接するウクライナまでそれに加盟しようとしていて、その脅威がロシアに迫るのを恐れたロシアは、アメリカに対して、ウクライナをNATOには加盟させないと保証するよう再三交渉してきたのに、その要求が拒否されるということがあった。そのあげくロシア軍のウクライナ侵攻、それにウクライナが抗戦し、それをアメリカ・NATOが軍事支援して戦争になってしまったのだが、それは避けようのない戦争だったのだろうか。もっとじっくり米ロ首脳会談までして、戦争だけは回避しよう、そのために必要な歩み寄り(妥協)もやむを得ない、というわけにはいかなかったのかだ。
<麻生元首相の訪台発言>
 中台関係について、両者にとっては他国であり、しかもかつての中国と戦争(日清戦争)をして台湾をぶんどって植民地支配した国・日本の元首相で自民党の現副総裁が、わざわざ台湾に行って、「日本・台湾・アメリカをはじめとした有志の国々に、強い抑止力を機能させる覚悟が求められている。戦う覚悟です。その意志を相手に伝え、それが抑止力になる」などと演説。それを云うなら中国にも行って双方に「戦争だけはやめてくれ」と進言・説得してくるのだったらいざ知らず、「現状を守り抜く覚悟を持っていただき、同じ価値観を持つ我々と一緒に戦っていただけることを心から期待する」などと、対決を煽り、戦争さえも煽っているかのようなことを云い放ってきたのだ。
<日本の国民のアイデンティティ意識はどうだろうか>
 今は憲法前文で「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを確認」したうえで、思想・信教の自由、人権の平等を定めているその憲法下では、アイデンティティを巡っていがみ合い戦争するなんてあってはならないし、あり得ないだろう。
 
 いずれにしても「軍事的抑止力」の強化というものは、悲惨な戦争と安全・安心な平和のどちらに近づけるものなのかだ。
 「軍事的抑止力」には、「防衛力」を持つだけでなく「戦う覚悟」を相手に示すことが必要とされる(それなくして抑止効果は働かない)が、9条が求めているのは「戦わない覚悟」なのであって、その日本が他所の国のことに干渉して「戦う覚悟」を持つべきだなどと、とんでもないことを・・・・。

2023年12月23日

9条を超えるレッドラインとは

(1)専守防衛を超えてしまう
「専守防衛」の原則とは①急迫不正の侵害があった時(攻められたとき)に限って武力(必要最小限の実力)は行使するも、撃退・排除だけに止まり、相手を打倒するような勝利は求めない。②力を背景とした強制(押し付け)外交はしない。③他国に脅威(不安・恐怖)を与えることはしない。④相手に戦争や軍拡の口実を与えない。⑤同盟国など他国の戦争に自動的に参戦する集団的自衛権行使はしない、ということ。
 なのに、これらの原則を超えてしまうということだ―反撃能力(敵基地攻撃能力)を有するスタンド・オフ・ミサイルなどの兵器の保有・使用など。
(2)(防衛力)抑止力も拒否(抵抗)的抑止力を超え、報復(倍返し)的抑止力まで―「核の傘」に頼る
 そもそも軍事的抑止力とは軍備(武力・兵器・軍事同盟など)を保有し軍事演習(訓練)もして(いつでも戦える準備を整えておき)、いざとなったら戦うぞという交戦(応戦・抗戦)意志(覚悟)を示すことによって、相手の戦争(攻撃)意志をくじき抑え込むことであるが、それは互いの間に対抗意識を募らせ、互いに相手に対して優るとも劣るまいとして軍備増強・軍拡に駆り立てられ、偶発的な何かをきっかけに軍事衝突(どちらかが先に仕掛けて相手が応戦)を誘発し(「戦争抑止」どころか、かえって)戦争を招いてしまうという結果となりがち(つまり「火種」になってしまう)。現にウクライナで行われている戦争あるいは台湾海峡や朝鮮半島で想定されている「有事」も、それ(対立する双方の軍事的抑止力の対決)が火種となっているのでは。
 軍事的抑止力によって戦争は抑止されてはいても、それは平和ではない。暫くは抑止
されても抑止し切れず、いつ何どき戦端が切られるかも判らず不安と恐怖が付きまとう「冷戦」状態。かつて米ソ冷戦があって、その最中、朝鮮半島で火が噴いて戦争が起ったが、それが休戦協定で休戦はしているものの70年過ぎた今なお平和条約は結んでおらず、戦争終結には至っていない。つまり、いつまた戦争が再開されるかもしれない「冷戦」状態が続いているのだ。だから北朝鮮は核実験・ミサイル発射実験を「抑止力」のためと称して繰り返し、韓国それに日本にも米軍が駐留し合同軍事演習を繰り返しており、この日本にも北朝鮮が発射した「ミサイルが飛んでくるぞ」と云ってJアラートが鳴って住民避難が行われたりしているわけだ。
 中国と台湾の関係も、似たようなもので、日中戦争で敗退した日本軍が撤退した後の中国で国民党と共産党が内戦、共産党軍は中国大陸を制覇して「中華人民共和国」を樹立し、国民党軍は台湾に逃れて、そこで「中華民国」政府を維持して島民を統治(今は国民党に替わって民進党政権)。未だに政府と軍が中国と台湾に分かれたまま「冷戦」状態。それがここにきて再び火が噴くかもしれない、というのが所謂「台湾有事」。
 要するに軍事的「抑止力」を持ち合って対峙し、威嚇・挑発しながら、開戦(撃ち合い)
は控えているだけのこと。(その抑止も「拒否的抑止」或いは「均衡抑止」にとどまるならともかく、「報復抑止」となると「倍返しだ」などと相手を質的・量的に上回る軍備が必要となり、軍拡競争になって防衛費が嵩むことになる。(その数量や性能などは、互いに対抗する相手国に対して手の内を明かすわけにはいかないということで明らかとはならず、互いに不確かな推量・憶測に基づく「ドンブリ勘定」―「このぐらいであれば」―とならざるを得ない。)それは戦争を抑止はしても、対立・紛争は続いて、軍備を持ち、「いざとなったら戦うぞ」という意志まであるかぎり、戦争そのものは無くならず、たえずその危険がはらんでいて、安心・安全な平和的生存権の保障なんかには全くならない。それが軍事的「抑止力」なるものだ。
 米ソ冷戦は終わっても、米ロ間で再冷戦。それが今ロシア軍のウクライナ侵攻で火が噴いて「熱い代理戦争」となっている。また米中間の「新冷戦」、そのほか中東などあちこちで「冷戦」の火がくすぶり続けている。
 軍事力(抑止力)を持ち合って戦争を抑止できさえすれば、それで平和・安全保障が成立するかのように思ったら大間違い。各国とも日本国憲法9条のように、戦力を保持せず、交戦権を否認して戦争という戦争を放棄(核兵器だけでなく軍備全廃)を実現してこその恒久平和なのである。「構造的リアリズム論」(超国家組織の存在しない「アナーキー」な国際社会における最大権力たる国家のパワーによって安定が保たれている現実を肯定し、軍事的「抑止力」を合理化する理論)などを用いて、安全保障を軍事に依存しているかぎり、真の平和・恒久平和は永久に訪れまい。
 国連憲章を、日本国憲法9条のように定めて、各国とも戦力保持を禁じて軍備を全廃し、交戦権を否認するようにすれば世界平和は実現するものを。
 現在の国連は、各国がてんでに「自衛のため」とか「抑止力のため」にと軍備を持つことを容認し、しかも5大安保理常任理事国には核兵器の保有まで認めて、それを「核抑止論」で正当化し、それ以外の国々には(NPTで)核保有を禁じ、5大国自らは核兵器禁止条約には加わらずに核兵器独占保有「特権」を維持している、という不公正なものとなっている。この不公正と各国の軍備保有そのものが火種となって今回のウクライナ戦争のような戦争が起こる危険が絶えないことになる。国連はそこを何とか改革しなければならないのだ。
<前提とする考え方>そもそも、自衛のためであれ、武力攻撃抑止のためであれ(本来)武力・軍事力(武器・兵器・軍隊などの軍備)は戦争(戦闘)に際して必要とされる主要で不可欠な手段であり(「軍事力とは人を殺すもの」―高橋杉雄)、戦闘とは殺傷・破壊行為。それに用いられる武器・兵器は殺傷・破壊用にわざわ製造された道具であって、「自衛のための抑止力ならば許される」ということにされるのだろうが、どの国でも、一般人(個人)としてならば殺傷・破壊行為は、正当防衛や緊急避難としてやむを得ない場合は(刑法上)「違法性阻却」として扱われ、罪には問われない(免責)が、本来(通常)はあってはならない犯罪行為と見なされる。日本では一般人の銃刀などの凶器は護身用・正当防衛用といえども所持は禁止され、製造・販売も禁止されている。日本国憲法では、前文に「全世界の国民は等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」としつつ、9条で国は戦力(陸海空軍その他)の保持を禁止し、交戦権も否認して戦争することを禁じている。
 国連憲章では戦争は違法とはされているが、各国の戦力不保持(軍備の禁止)までは定めておらず、各国には自衛権としての武力行使は個別的にも集団的にも容認していて、各国での武器・兵器の製造・輸出入も禁じられてはいない。
 国連こそが「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを」宣言して各国とも戦力を保持せず、交戦権を否認して戦争を放棄することを憲章に定め、(核兵器など大量破壊・残虐兵器だけでなく)全ての殺傷・破壊兵器を全廃すように定めてもおかしくはないないばかりか、むしろそれこそが世界から恒久平和のために国連に課せられた使命なのでは。

日本が攻められないようにするには―「抑止力」?

 そもそも日本に対して武力攻撃を企図している国などあるのかだが。
 中国・北朝鮮・ロシアは?―これらの国に日本を武力攻撃しなければならない理由(必
要)はどこにあるのか?あるとすれば、アメリカとの関わりからであって、それ以外にあるだろうか?これらの国がアメリカと戦争するようなことになれば、つまり中台戦争にアメリカが台湾支援・参戦した場合とか、米韓と北朝鮮が「朝鮮戦争」を再開した場合、米ロ戦争が起きた場合など、在日米軍基地と米軍を加勢する自衛隊に攻撃をかけなければならなくなる、その可能性は十分あり得る。しかし、それ以外にはないだろう。
 それはともかく、日本が(中国・北朝鮮・ロシアなどから)攻められないように(武力攻撃を抑止)するには、次の3つの方法が考えられる。
(1)憲法に戦力不保持・戦争放棄を規定(9条)―不戦意志を明示して、どの国も
日本に武力攻撃をかけてくる必要性(理由・口実)を無くする―「安心供与」
(2)友好・協力関係―外交・経済・文化交流―攻撃して戦争すればそれらが台無しになるから、どの国も攻撃を控えようとする。
(3)軍事的抑止力(軍備)―威嚇しておじけづかせ、攻撃を思いとどまらせる
 ①拒否的抑止―飛んできた戦闘機やミサイルを撃ち落として攻撃を阻むと。
 ②報復・懲罰的抑止―「倍返し」、耐え難い打撃を与えるぞと。
 我が国は憲法では(1)を建て前とするが、政府は自衛隊・日米同盟で(3)の方法を採ってきて、安倍政権以来、岸田政権でも、それ(3)に前のめりになってきていて憲法の9条も(自衛隊をそれに明記して)変えようとしている。防衛研究所の高橋杉雄氏は台湾有事の場合など(「アイデンティティを巡る」)戦争を始めさせないためには軍事的な抑止力強化が不可欠だとしている。
 しかし、(3)の軍事的抑止力論は非常に危険。なぜなら、(!)と(2)は戦争をしないし、してはならないという立場だが、(3)は軍備(軍事力・防衛力)を保持し、対立する相手国の軍事力に充分対抗できるだけのレベルまで強化しつつ、戦争は「相手が仕掛けてこないならやらないが、仕掛けてきたらやる」「やられたらやり返す」ということで、「いざとなったらやる」という戦争意志(「戦う覚悟」)があることを前提にしていて、いわば戦争に直接つながっているからである。そして互いに相手の軍事力・防衛力に「追いつ追われつ」の軍拡競争に駆り立てられ、「やられたらやる」から「やられる前にやる」という「先制自衛」(先制攻撃)にまで駆り立てられてしまうのだ。ウクライナ戦争を見ても、或いは中台関係や朝鮮半島の状況(「有事」)、それに対するアメリカの対応そして日本の対応を考えると非常に危険な状況に今はある。

コスタリカ憲法と日本国憲法の平和主義―違いは?

 両国で軍隊廃止がスタートしたのは、ほぼ同時期(1,946~9年)。日本の場合は大戦の悲惨と過ちを二度と繰り返すまいと決意して新憲法9条に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」そのために「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と。
 コスタリカの場合は、内戦に勝利して政権奪取した側が、軍の政治介入を防ぐべく軍隊の廃止を宣言し、新憲法12条に「恒久制度としての軍隊は廃止する。公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。大陸間協定により又は国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。」147条に「内閣は国会に対して国家防衛事態の宣言を提案し、兵を募集し、軍隊を組織し、和平を交渉する」とした。
 両国の憲法の条文自体を比べると、両方とも常備軍は「保持しない」「廃止する」と定めてはいるが、日本の方は、戦争は永久に放棄し、戦力は保持せず、国の交戦権は認めないとしているのに対して、コスタリカの方は「国家防衛事態」にはリオ条約・米州機構などにより又は国防のために兵を募集して軍隊を組織することができるとも定めており、有事には再軍備を認めている。(どちらかといえば日本の方が厳格で、コスタリカの方が緩い。)
 ところが、日本の方は自衛隊を保持し、それも装備や予算規模では世界有数の「実力」組織となっており、その上アメリカと同盟を結んで米軍の基地まで置いている。
 コスタリカの方は、保持しているのは「警察力」に留まる。それには普通の警察官の組織だけでなく、国境警備隊(沿岸・航空警備隊)、麻薬組織に対応する特殊部隊など準軍事的な組織もあるも、重武装はしていない。又、アメリカとの関係は、地域的集団安全保障機構で米州機構(OAS)に他の米大陸諸国とともに加盟はしているが、軍隊派遣義務など軍事協力は免除され、米軍基地も置かれてはいない。反米国家ではないが反共でもなく、冷戦下で中立政策を採ってきた。隣国(ニカラグア)とは国境紛争もあり侵攻を受けることもあったが、米州機構や国際司法裁判所の調停を求めて戦争は回避。ニカラグア内戦(反米左派政権に対してレーガン米大統領に支援された反政府ゲリラが抗争)など中米紛争の平和的解決を仲介(大統領がノーベル平和賞受賞)するなど積極的平和主義をめざし、近年実を結んだ核兵器禁止条約も、早くからその提案国となって、国連における条約交渉会議の議長国となってきた。(財政資金は、防衛費などにはカネをかけずに教育・医療・福祉・環境に投入する。その結果「地球幸福度指数」は世界1位で、日本は47位。)
 コスタリカは、軍隊は持たないといっても、憲法上は「持てる」ことになっている。なのに持たない―再軍備も募兵も行われていない。それに対して日本は、憲法上は軍隊を持てないことになっているのに、事実上は持っている。まともなのはどっちか?
 日本は、憲法上はコスタリカ以上に(より徹底した)平和主義の国。ならば、それに相応しくコスタリカ並みにより積極的な平和・中立政策を採って然るべき・・・・なのに。

(前田朗著「軍隊のない国家」日本評論社によれば)コスタリカ憲法の規範と現実の意義について吉田稔(姫路独協大法学部教授)は次のように述べている。
「① 対外的侵略を誘発する、或いは他国の戦争に巻き込まれることを防止することであ
る。コスタリカや日本は、紛争が多発する世界にあって限界はあったにしても、基本的には侵略を受けたことはなく、国民を戦争に駆り立てることもなかった。“武装すれば侵略されないというのは神話”であって、武装した国の間で侵略があり、戦闘は行われる可能性は高い。②もし紛争が国に及んだ場合に、軍隊を持たないことが被害に拡大を防ぎ被害を少なくすることができる。核兵器、兵器の高度化、精密化が進んだ状況にあって、戦闘行為は、大量殺戮を発生させるし、その被害は世代を越えて受けるであろう。“軍隊の存在は被害を拡大する”であって、防止したり少なくはしない。③軍隊の創設・維持・増強には金がかかる。それで儲け、利権を得ている企業や人がいて、名誉や地位や支配欲を満足させている国や人がいる。すなわち“戦争や軍隊で得をする輩がいる”のである。そして他方で軍事費は国の予算を食い、圧迫する。軍隊を廃止すれば、その軍事費を人類の環境問題の解決、飢餓に苦しむ人々、国民の生活向上のために使うことができる」。

今こそ9条を世界にアピール

 ウクライナ戦争は未だ続いていてロシア軍の死傷者だけで(昨年2月の侵攻から先月まで)多くて19万人。それに先月イスラエル・パレスチナの紛争が再び激化、この4週間でガザ地区のパレスチナ人だけで死者9千人、イスラエル人と合わせて1万人超が犠牲。戦争は何故止められないのか、無くせないのか。
 それぞれ、そこには地政学的・歴史的な「曰く因縁」があってのことだろうが、民族・宗教に国家対立、覇権対立があり、それぞれの考えや利害があって、そのために戦い合い、殺し合い、人々の生命を犠牲にしてきた。そのような「相互の衝突を回避できる普遍的原理というものは、人類は未だ見いだせていない」(梅棹忠夫)というが、「不殺生」「汝、殺すなかれ」は、仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など、どの宗教でも(自殺も自爆テロも罪とされているし)どの民族にも共通する普遍的な道徳律のはず。価値観や利害が対立し、どんなに話し合っても妥協点を見いだすことができないとはいっても、「殺し合いだけはよそう」といって、それを「落しどころ」とすることはできるのでは。それに国際法として各国とも人を殺し合う戦争や武力行使を禁止するだけでなく、核兵器など大量破壊・残虐兵器のみならず、全ての殺傷兵器の保有禁止を定めても可笑しくないはず。我が国は憲法で9条に「交戦権の否認」のみならず「戦力」不保持を定めており、それはそのような兵器や軍隊を保持しないということなのだが。
 人類史上、文明時代になって武器が作られ、国家が発生して、戦いを交えるようになり、戦争が繰り返されるようになったが、20世紀になって世界大戦を経てからは、戦争は国際法上違法とされるようになり、国益・利権の確保や国際紛争解決の手段として武力に訴え戦争に訴えることは国連憲章で禁止されることになった。しかし、軍備の保持までは禁止されておらず、それを「防衛力」・「抑止力」の名目で互いに持ち合って、自衛権などの名目で戦いを交え、依然として戦争は絶えず、現に今、それが行われている。(ロシアのウクライナ侵攻も、ウクライナ東部で政府軍と内戦中のロシア系「人民共和国」とロシアが条約を結んで「集団的自衛権」の名目で行われているし、イスラエルのガザ攻撃も、その自治区を実効支配するハマスから越境攻撃を受けたのに対する報復と「自衛権」の名目で行われている。アメリカのアフガン侵攻も「ニューヨーク同時多発テロ」攻撃を受けたその報復と自衛権の名目で行われ、イラク侵攻も自衛のための予防攻撃として行われた。)また、その軍備を「抑止力」だと称しても、それらは戦争手段・威嚇手段であり、それを保持すること自体、不安と脅威を与え、対抗する相手国は反発・敵愾心を強め、それ自体が破壊攻撃の対象となり攻撃を誘う火種となる。そんなものは保持しない方が国々に安心を与え、むしろ攻撃抑止となるはず。
 国連憲章よりも徹底した「戦力不保持」を定める日本国憲法9条は政府によって毀損され改悪されようとしているが、それを阻止しつつ、戦争廃絶のため国連憲章の改正による軍備全廃を目指し、その範たる9条の存在を我々が世界にアピールすべきなのでは。

 現政府にその気はなくても、世界に冠たる不戦平和憲法を持つ我々国民だけでも、「道徳の力は核兵器に勝る」として軍隊不保持憲法を守り通しているコスタリカ国民と

武器を置いて殺し合いをやめ、話し合え 国連憲章に軍備全廃を

イスラエル(ユダヤ)人対パレスチナ(アラブ)人
ロシア人対ウクライナ人
アイデンティティと土地(居住地・領土)を巡る争い
ミャンマー内戦―軍事政権対民主派・少数民族
台湾有事・朝鮮半島有事
第3次世界大戦の恐れ
 戦争(暴力対暴力―殺し合い―民間人・子供を巻込む)は止めなければならない
          戦争は起こしてはならないし、無くさなければならない                         
 しかし、戦う双方とも大義(正義)―「正当な」理由(独立・自由・生存圏の確保・国家の統一、「国を守り家族・同胞の命を救うため」など)を掲げ、必要やむを得ざる(避けられない)戦争だと主張
 また国連憲章や国際法では、戦争や武力を国際紛争解決の手段とするのは違法だとしているが、自国に対する武力攻撃に対抗する自衛のための武力行使は認めており、個別的自衛権のみならず他国を守る集団的自衛権をも認めており、そのために各国の軍備(軍隊・武器・兵器)の保持や軍事同盟の結成をも認め、5常任理事国には核兵器の保有さえも特権的に認めている。
 そして戦時国際法で戦争にルールや規制を設けたりもしている(交戦法規や国際人道法など)―攻撃対象を軍人・軍事施設に限り民間人・民間施設の攻撃を禁止し、ジェノサイド(集団殺害)を禁止。残虐兵器や大量破壊兵器の禁止も。
 自衛権行使にも規模の均衡性の原則や軍事施設・戦闘員と民間施設・民間人の区別の
原則など制約がある。

 これらのルールさえ守れば、軍備・武器・兵器の保持・武力行使は認められており、その名目で対戦・交戦し合って戦争は絶えることなく現に行われているのである。(ウクライナでは最近の国連人権高等弁務官事務所の発表で、昨年2月の戦争開始以来の民間人の死者は1万人を超え、ガザでは先月7日の開始以来死者は国連人道問題調査室の発表では1万1000人よりも「さらに多い」とし、国連事務総長は就任以来直面した紛争では民間人の死者数は「比類がなく前例もない」と。)

 国連では総会でロシアのウクライナ侵攻非難決議や安保理でガザの戦闘休止を求める決議は行われてはいるが、総会は多数決で採択はされても法的拘束力はないし、法的拘束力をもつ安保理決議は5常任理事国のうち一国でも拒否権を行使すれば成立しない。ウクライナ戦争は常任理事国のロシアが当事国で、安保理で侵攻非難・撤退決議をしようにも同国の拒否権行使で成立せず、イスラエル軍のガザ侵攻による人道危機で戦闘中断を求めた決議は常任理事国アメリカの拒否権行使で不成立。いずれの戦争も国連は止めることが出来ないでいる。
 
 ロシア・ウクライナ戦争もイスラエル・パレスチナ戦争も、いずれも歴史的・地政学的に両民族(ロシア人とウクライナ人、ユダヤ人とアラブ人)のナショナル・アイデンティティ(国や民族への帰属意識)に起因。その帰属意識が双方とも強く、こだわりすぎると、自分たちとアイデンティティの異なる相手との共存・交流を嫌い存在さえも許さないという排他的民族主義に陥る。パレスチナには、古代にはユダヤ人も住んでその王国もあったが、ローマ帝国による征服などを経て中世にはヨーロッパやロシアに離散し、パレスチナを含めて中東にはイスラム教徒のアラブ人が住んできた。ところが第1次大戦中、そこを支配していたオスマン・トルコと対戦するイギリスが戦略上アラブ人とユダヤ人をともに味方につけようとして、それぞれに対してそこ(パレスチナ)に国の独立・建国を約束した(二枚舌外交)。第2次大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人迫害もあり、そこへユダヤ人が大挙して移住してきた。戦後、国連はそこにユダヤ人のイスラエル建国とアラブ人国家との分割を認めた。それに対して居住地を追われる結果となった多くのアラブ人が反対し、4度にわたって中東戦争が行われ、その度にアメリカの支援を受けて優勢なイスラエルが領土を広げていき、アラブ人の自治区はヨルダン川西岸とガザ地区の小区域に狭められていった。
 この間、ユダヤ人とアラブ人は互いに敵愾心・憎悪が募らせ、紛争は激化の一途をたどることになり、停戦・和平交渉は極めて難しくなっている。
 しかし、だからと言って、相手を、どうせ幾ら話しても心の通じる相手ではない熊か猛獣などと同然の鬼畜か悪魔と見なして、殺すしかなく殲滅するしかないかのように思い込んで殺傷・破壊攻撃をやめようとしない、その惨状を世界の市民はテレビでただ眺めているだけでいいのか、いいわけあるまい。世界に賢人政治家、道徳的なリーダーはいないのか。
 我々庶民は、とりあえずは世界世論として声を上げ、ネットで発信するなりして当事国の戦争責任者と支援国の政府責任者に対して圧力をかけるしかあるまい。「双方とも武器を置け」「殺し合いはもうやめろ」「停戦して話し合え」「子供たちを巻込んで見殺しにするな」と。
 今は戦争中のロシア・ウクライナ、イスラエル・ハマスに対して、そう訴えるとしても、国連に対しては、侵略戦争の禁止のみならず、自衛権による武力行使も、常備軍・武器・兵器の保持・軍事同盟の結成も容認することなく、「戦争に正しい戦争も正しくない戦争もない」、全ての戦争と軍備を全廃するように国連憲章を(5常任理事国の特権の廃止などの国連改革とともに)改正し、それを各国とも一斉に実行することによって「核なき世界」だけでなく「戦争のない世界」(恒久平和)の実現を早急に実現すべきだと訴えなければならないのでは。地球温暖化の気候変動危機からの脱却とともに「新たな戦争前夜」第3次世界大戦の危機からの脱却、持続可能な人類社会はそうして実現する以外にないのでは。(「それは夢のまた夢だ」などと云って、たかをくくっている場合ではあるまい。)
 その(発想の)原点は日本国憲法9条(第2項「戦力不保持・交戦権否認」)にほかならない。(その制定当初、文部省が新制中学校1年生「教科書」として発行して生徒に配った『あたらしい憲法のはなし』。その挿絵には「戦争放棄」と書いた大きな釜の中で軍艦や軍用機などの兵器を燃やし、その中から電車や船や消防自動車が走り出し、辺りに鉄塔や高層ビルがそびえ立つ光景が描かれている。)
 その9条を国連憲章に取り入れればいいのだ。但しその条文解釈は日本政府のような欺瞞的な歪曲解釈ではなく、あの「あたらしい憲法のはなし」での解釈(軍備の廃棄)で。
 アメリカでは憲法で個人の銃器所持まで自衛のための権利として認めているとされ、その結果銃犯罪が極めて多発しているが、日本では(熊などの駆除のための猟銃免許取得者と警察官など以外の一般市民は)銃刀法によって全面的に禁じており、銃犯罪は極めて少ない。そのことも(発想の原点に)。

「新しい戦前」現実化への改憲阻止―「戦争なき世界」実現へ

 戦争は何故止められないのか、無くせないのか。「核なき世界」さえも実現できない。いったいどうしてなのか。
 台風や地震・津波など天災は無くせないが、戦争は人災であり、無くせるはず、なのに。
戦争は人間集団(国や民族その他)の間で対立・紛争が生じ、それを対話・交渉によって互恵的に解決するのではなく、武力に訴えて相手を屈服させ、一方的・優越的に利益・要求を勝ち取ろうとする戦いで、武器・兵器・軍勢の威力を駆使して行われ、殺傷・破壊の悲惨を伴う。それらは全て人間の意志によって行われるのであって、戦争を止めるも無くすも人間の意志・決断による。ところが、武器や軍備など無ければ対話・交渉にじっくり時間をかけるしかないのだが、武器を持ち軍備があるばかりに、戦争・武力行使は「最後の選択肢」といいながら、その方が先行してしまいがちとなる(武器があればそれを使いたがるし、そのほうに気が行ってしまいがちとなる。話せば解るものを、銃を持っているばかりに「問答無用」といって引き金を引いてしまうのだ。)
 現代兵器の威力は(通常兵器から核兵器、ハイテク兵器・無人機・AIロボット兵)に至るまで、攻撃能力(射程・速度・殺傷・破壊力)は高まっても、精度(命中率)がよくなって、自軍兵士の危険が軽減、人的ミスも減って民間人の被害が回避され「安全で人道的な戦争」になっていき戦争も悲惨ではなくなるかも、などと楽観できるのだろうか(そうなったとしても危険・恐怖に対するハードルが下がれば、安易に戦争に走りやすくなり、戦争はかえって増えることになる)。
 「悪いのは銃ではなく、それを使う人間だ」などと云ってトランプ前大統領が市民の銃規制強化に反対したことがあったが、憲法で市民に銃所持を認めているアメリカでは銃の乱射事件が頻々としておこり、銃犯罪が絶えない。日本では市民の銃所持は法律で禁じていて(最近、銃撃事件はあったものの)極めてまれで、国の「戦力保持」も憲法では禁じている(自衛隊の保持はそのネックになっているところだが)。
 国連憲章は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも・・・・慎まなければならない」と定めてはいるが、各国の軍隊の保持と自衛権行使は個別的・集団的にも認めている。そのため大半の国は軍備(兵器・軍隊を保持し、中には軍事同盟を組み、核兵器さえ)保持しており、それが火種となって未にその名の下に現に戦争している国があり、今後「有事」が想定されている国もあり、「新冷戦」があり、第3次大戦勃発の危険もゼロではない。それを無くすには国連憲章にも日本国憲法9条の2項と同様に「戦力不保持」と「交戦権否認」を定め、軍備の縮小のみならず全廃を掲げて各国とも一斉に(特定の国だけに核軍備の維持を認めるようなことなく)軍備の廃棄に踏み切る(それには、各国のその実行を確認する国連機関による査察・検証等が必要)。戦争を根絶するにはそれ以外にないのでは、と思うのだが、如何なものでしょうか。

互いの軍備が戦争の火種―戦争を根絶するには軍備全廃

(1)どの国も「自衛のため」「抑止力のため」にと軍備(武器・兵器・同盟国)を互いに持ち合っている(「アメリカと北朝鮮」、「ロシアとウクライナ(NATO諸国が軍事支援)」、「イスラエルとハマス」などのように、大国は大国なりに、小国は小国なりに、非対称ながらも)。その軍備・武器・兵器の持ち合いが火種となって戦争になる。軍備があるばかりに武力に頼り、「これ以上話し合っても無駄」「問答無用」とばかり武力に訴えてしまいがちとなるのだ。利害の対立、認識や考えの不一致などはあっても、軍備がなければ武力に頼ってそれに訴えることもなく戦争にはならないはず
 戦争を無くす(戦争が起らないようにし、根絶する)には(自衛のためであろうと何であろうと)軍備を全廃し、戦争なんか放棄すればよいのだ。それ以外に戦争を無くす巧いい方法なんてあるのだろうか(核兵器など軍備を持ち合い軍事的「抑止力」で戦争は抑えられるなんて、そんなのはかえって危険)。
 我が国は憲法では「戦力不保持」(軍備全廃)「交戦権否認」「戦争放棄」を定めている。それを日本だけでなく、どの国も皆、軍備を廃棄して武器・兵器を持ち合わないようにすれば、どの国も武力攻撃を仕掛けようがなく、抗戦(自衛のための武力行使)の必要もなく、戦争は無くなるはず。
(2)ところが、国連憲章では、武力不行使原則を定めながら、自衛権(それはどの国にも認められる「国家固有の権利」)としての武力行使は容認する例外規定も加えているため、少数の小国を除き、(憲法では「戦力不保持」のはずの)日本も含めて各国とも軍備(武器・兵器)を保持しており、核兵器さえ保有している国が大国(米英仏中ロ)に限らず存在(イスラエル・印・パ・北朝鮮など)。そして軍事同盟を結び合っている国々も(米欧諸国はNATO、米英豪3国はAUKUS、韓国はアメリカと相互防衛条約、日本はアメリカと安保条約を結んでおり、米英豪印4か国とも「同志国」関係のQUADを結んでいる)。
(3)国連は第2次大戦直後に発足したが、その下で朝鮮戦争・インドシナ戦争・ベトナム戦争・中東戦争・アフガン戦争・イラク戦争その他各地で戦争が起き、「キューバ危機」など「第3次世界大戦」寸前の危機さえもあって、今もウクライナ戦争とイスラエルのガザ侵攻が行われており、朝鮮半島「有事」や台湾「有事」も想定されていて、今に至るまで、戦争は絶えず、現状では当分無くなりそうにない。
 以下は「世界」2024・1月号の特集『ふたつの戦争、一つの世界』P46『国際法と学問の責任―破局を再び起さないために』(西南学院大学准教授・根岸陽太)を参考。
 国連憲章の武力不行使原則や戦時国際法(交戦法規や国際人道法―ジュネーブ諸条約)など国際法による戦争規制
 ① 行為規範―戦争に際する行為を「こうしなければならない」「こうしてはならない」と指示or禁止―それは交戦当事国(ロシア人・ウクライナ人・イスラエル人・パレスチナ人・米欧人・アラブ人など)の国民とそれぞれの為政者の主観的意図(歴史観・歴史認識)に左右される
 ② 裁判規範―戦争に際して行った行為の違法性の疑いを事後に判定・責任追及(客観的合理的な証明が必要
 (ウクライナとガザの間で戦乱が進行中の今は、この瞬間に破局に至ることのないように行為規範として国際法を遵守するように、あらゆる当事者に働きかけることが肝要なのであるが。)
 国連憲章は武力不行使原則の例外として自衛権(個別的・集団的自衛権)を認めているが、それ(自衛権)を行使できる要件①武力攻撃を受けた事実があること、②自衛の必要に迫られること(必要性)、③受けた攻撃と同程度の武力行使(均衡性)などの3要件(日本の自衛隊の自衛権行使要件①急迫不正の侵害があること、②それを排除するために他に適当な手段がない、③必要最小限度の実力行使、という3要件もそれに準じているものと思われる)はあるものの、定義を持たない(①武力攻撃を受けたといっても、誰が、どこからの、どのような攻撃を受ければ自衛権を発動できるのか、②どのような要素が武力攻撃に対する自衛の必要性として認められるのか、③均衡性を保つには、どの程度の措置まで認められるのか、確定的な基準を持つわけではない)。なので、自衛を主張する国家の(歴史的)慣行や法的信念(主観的「正義」)に左右されかねず、その国家の慣行や信念に依存する慣習国際法により規律するほかない。(国際人道法とされるジュネーブ諸条約の内容を拡充した追加議定書を批准していない国家も少なからず存在し、イスラエルは未批准。)したがって、文民・民用物と戦闘員・軍事目標の「区別」、攻撃による付随的被害と期待できる軍事的利益との「比例性」、付随的被害を最小限にとどめるための「予防」などの原則については、武力に訴えることのできる強国の行為や意思によって例外が広げられる余地がある。(イスラエルは自衛権については「自国民と領土を防衛する」だけでなく、「人質を解放し、直面している脅威を無力化する」ことまで目的に含められており、武力攻撃に対応する必要性が拡張されている。また、ハマスによる越境奇襲攻撃で受けた被害の大きさを強調することで、自衛措置と武力攻撃との均衡性が主張される。文民や民用物が戦闘員や軍事目標に紛れているため両者の「区別」が困難であること、巻き添えによる被害が避けられない一方で期待されるに軍事的利益が大きいために両者の「比例性」が保てていること、攻撃前に効果的な事前警告を行うことができない場合など「予防」に限界があることが主張される。これらの論法はいずれも、戦争に関する国際法諸原則の例外を押し広げる強弁といえる。
 要するに自衛権の武力行使は「武力に訴えることのできる強国の行為や意思によって例外が広げられる余地がある」ということで、「自衛」の名の下に武力に訴え、自衛権の範囲が押し広げられる、ということだ。
 アメリカの行ったベトナム戦争、ソ連のアフガン戦争、アメリカのアフガン戦争・イラク戦争、それに今行われているウクライナ戦争(ロシア軍の侵攻に対するウクライナ軍の自衛権行使はまだしも、ロシア側までそれを主張している)、イスラエルのガザ侵攻、それに北朝鮮の核開発・保有、弾道ミサイルの度重なる発射実験も米韓に対する「自衛」ためと称して行われている。
(4)ロシア軍とウクライナ軍、イスラエル軍とハマスはそれぞれ武器を置いて停戦し、もう戦闘をやめるべきだ、などといくら論じて訴えたところでやめはしない。それにアメリカ・ロシア・中国・北朝鮮などはもとより自国憲法に「戦力不保持・交戦権否認」を定めている日本さえも(政府は)軍備全廃など意に介さず、そんなこと(軍備全廃)をいくら論じたところでなんの意味もない空論・絵空事でしかない、というのが現実なのだろうが、そんな現実に囚われ続けて思考停止しているかぎり、世界のどの国の子供も安心して暮らせる恒久平和・「いくさ(漢字で「戦」と書くが「軍」とも書く)なき世」など、いつまで経っても訪れないことは確かだろう。
(5)現行の日本国憲法が制定された当時(1946年)の首相で、9条の「戦力不保持」(軍備全廃)・「戦争放棄」条項を連合国軍総司令官マッカーサーに提案したといわれる幣原喜重郎は、その時「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑い嘲るかもしれない。しかし、百年後に私たちは預言者と呼ばれますよ」と語ったそうだが(「マッカーサー回顧録」)、それがその通り実現するのは、あと23年後(2023-1946=77、100-77=23)ということ?しかし、今ガザやウクライナの子供たちは、戦いを交えている両軍とも今直ぐ武器を置いて戦いをやめて!と泣き叫んでいるし、日本だけでなく、どこの国でも子供たちが、あんな悲惨な目に遭わないように、国や世界の為政者は軍備全廃に早急に取り組み、それを実現すべきなのだ。気候変動危機とともに第3次世界大戦など、人類存亡の危機迫るというくらいの危機感を持って
(6)その9条の「軍備全廃・戦争放棄」とは全く逆行する政権党とその補完政党による改憲の策動を阻止することと合わせて、9条を日本一国に留めず、世界各国に押し広げ、国連憲章の当該条項を改正して、そこに9条と同様な条項(軍備全廃)を取り入れるように国連憲章「改憲」を目指す運動もあって然るべきなのでは。(「改憲」なら、むしろ国連憲章の改憲を、ということだ。)現在の国連が第2次世界大戦の「連合国」(戦勝国)主導で発足したという経緯から、安保理の常任理事国(5大国のいわば特権的な地位)が固定、それに「敵国条項」(日本とドイツを「敵国」扱い)は事実上無効とはなっているものの、未だその条項は削除されていない、といったこともあるし、何よりも、世界のどこでも戦争が起らないように、又戦争を止められるように、しっかり役割を果たすことのできる国際平和安全保障機構として機能不全に陥ることのないようにする国連改革・憲章改正に踏み切るように促すという運動もあって然るべきなのでは。

2024年01月05日

「いくさ無き恒久平和」なんて夢物語か?

 「いくさ無き」とは「軍も無き」ということであり、9条は戦争を永久に放棄し、国は戦力(軍備)を保持しないということを定めたもの。
 小国町にある基督教独立学園を創設した鈴木弼美先生のことだが、彼は東京帝大卒業で内村鑑三の弟子。陸軍に士官として召集され大尉まで務めたが、太平洋戦争も後半になって「この戦争は日本が悪いから負ける」などと発言して治安維持法で逮捕・投獄にあっている。そして戦後、「自衛の戦争も含めてすべての戦争は悪である」と論じ、徹底した非戦論を説いた。(当方は米沢の裁判所で、彼が自衛隊違憲訴訟を起こした公判を傍聴した覚えがある。)
 彼のこのような考えは「9条の会」を創始した呼びかけ人メンバーの小田実・井上ひさし等の考えに通じる。小田によれば「平和主義は、ただの平和愛好でも『護憲』でもない。『戦争に正義はない』。問題・紛争の解決を、武力を用いず、『非暴力』に徹して行おうとする理念と実践が平和主義だ」と。
 日本には戦争放棄と戦力不保持を定めている憲法があるが、井上は「『平和を守れ』、『憲法を守れ』といっているだけでは、良くて引き分け、下手をすると、押し込まれてしまう。」「その憲法を国際関係にも生かしていこう。これは、攻めの姿勢」なのだと。
 憲法学者で鳴門教育大学の麻生多聞教授は「非軍事的安全保障」論で、米国の政治学者ジーン・シャープの非暴力理論に基づく「市民的防衛」論に着目し、「武器なき自衛権」ということで、非武装市民による非暴力抵抗に基づく防衛を「9条に適合的な国防の方法」として論じている。
 武力による自衛権の行使は「(先制攻撃はしないが)攻撃されれば命がけで反撃する」という防衛戦争であるが、それに対して「武器なき自衛権」は「命がけで戦争を回避する」というもの。戦争回避には、先ずは外交交渉で侵害の未然回避に全力を挙げ、それでも、回避し切れずに侵害を受けたら、警察力による排除の実力行使、それに武装市民によるレジスタンスもあり得る。しかし武力抵抗は戦争と同じかそれ以上に多くの犠牲者を生む。よって武力抵抗は避けなければならない。「武器なき自衛権」とは、それ故の戦略的な「非暴力・不服従抵抗」ということなのだろう。
 不戦・非軍事の平和憲法を奉ずる我々は、9条に基づく「武器なき自衛権」で自国を守るだけでなく、それを国連にも及ぼして(同様な規定を国連憲章に盛り込むか、或いは「(全ての)殺傷兵器禁止条約を締結するなりして)どの国も「武器なき非軍事国家」として軍備を全廃すれば、世界に「いくさ無き恒久平和」が実現する・・・・そんなの不可能だとすれば、第3次大戦も覚悟するしかないということか。
 それにつけてもウクライナ、それにガザの惨状はまさに地獄。今直ぐ住民を救出しなければならないのだ。国連が戦闘を即時停止させて、国際人道支援活動に日本から自衛隊員でも緊急救助隊として派遣する等のことがあって然るべきだ・・・・それもまた夢か?

2024年02月05日

「政治とカネ」の問題―色々あるも、核心はどこに

 自民党の派閥の存在、各派閥で開催するパーティー券売上げ収入の政治資金収支報告書の不記載、所属議員へキックバックされた裏金、その裏金は何に使われているのか等々、いろいろあるが、それら問題の核心はどこにあるのか
 国会議員・政党政治家にはその政治活動費・選挙活動費にそれだけカネがかかる(何故そんなにかかるのか?)という問題もあるのかもしれないが、カネを出す(献金する)方の問題もあるのであって、むしろその方に問題の核心があるのでは。企業・団体の政治献金だ。大企業のどの企業も、業界団体のどの団体もその政治献金(寄付)が、政権党である自民党に集中するからだ。
 そもそも企業・団体献金は、派閥や議員個人への献金・寄付は既に現行法で禁止(政治資金規正法―1994年改正で政治家個人への献金禁止、2000年政治家個人の資金管理団体への献金も禁止)。ところが、政党本部(自民党の場合、献金の取りまとめ先は一般財団法人「国民政治協会」)やその都道府県支部(支部長はたいてい選挙区の候補者とイコール)への献金ならOK、それに派閥や政策グループなど政治団体が開催するパーティー券代(1枚2万円程度)のかたち(所属議員が売り集めて上納、会場費・飲食代などの経費の残金が各議員の売り上げに応じて分配。上納を受けた政治団体側も配られた各議員も収支報告書に金額を記載)でならOK(現在では、このパーティーによる政治資金収入の方が、寄付・献金よりも安定した収入源となっているようだ)。
 今回の「政治とカネ」問題は、このうちの派閥パーティー収入の政治資金収支報告書に不記載の裏金問題からクローズアップされることになったのだ。

(2022年で)自民党(国民政治協会)へ企業・団体献金は総額24億5千万円
 1トヨタ6400万円、2日立5000万円、3キャノン4000万円、4日産3700万円、
 5野村3500万円、6三菱重工3300万円、7大和証券3200万円、8住友化学3100万円、
 9東レ3000万円、10パナソニック・三井物産・住友商事・三菱商事いずれも2800万円
 軍需(防衛)産業に限って、護衛艦や戦闘機など防衛省との契約金額と献金額を5社あげれば(2021年) 1三菱重工 契約4591億円 献金3300万円、
     2川崎重工 契約2071億円 献金 300万円
  3日本電気 契約 900億円 献金1500万円 
  4三菱電機 契約 966億円 献金2000万円  
  5富士通  契約 757億円 献金1500万円
(2013~22年)マイナンバー関連事業の巨額発注を受けた大企業の推計受注額と献金額
     1TOPPAN 受注464億円 献金   6300万円
     2NTTデータ受注257億円 献金   3950万円
     3日本電気  受注175億円 献金1億3500万円  
     4日立   受注 94億円 献金3億3250万円
     5富士通  受注 51億円 献金1億3000万円
 このような企業献金はそのカネ(献金)で、いわば「政策(防衛政策やマイナンバー制度推進政策或いは税制の大企業優遇政策など)を買い取る」が如き賄賂性をもつ。つまり、その企業・団体献金が政界(政権党)と産業界との不正常な癒着を招く温床となり、金権腐敗政治を醸成する元となる。それこそがこの「政治とカネ」問題の根源なのでは。対症療法的には「派閥の解散」、「連座制の導入」(会計責任者や秘書だけの責任に終わらせず政治家にも及ぶ)、「政治資金の透明度の向上」など幾つかあるが、それらだけでは根本的な解決にはなるまい。企業・団体献金の全面禁止までいかないと

 尚、このような政治献金については立命館大学法学部の中島茂樹教授(ネットのサイト『憲法問題としての政治献金』など)によれば、政治献金肯定説(政治献金は会社の権利能力内の行為とする説)と否定説(政治献金は会社の目的の範囲外の行為であり、その権利能力外の行為として無効とだとする説)とがあり、肯定説の法学者に我妻栄を取り上げ、否定説の憲法学者に芦部信喜を取り上げている。
 肯定説の方は、会社(法人)は自然人たる国民と同様に国税等を負担する納税者として国や政党の特定の政策を支持・推進または反対する等の政治的行為をなす自由を有するとの考え。1970年に八幡製鉄政治献金事件(代表取締役が自民党に会社から寄付をしたのに対して、それを会社の定款に定める事業目的の範囲外の違法行為として株主代表が訴えた損害賠償訴訟)で最高裁は、上記の「肯定説」の立場に立って、会社といえども「自然人たる国民と同様に政治的行為をなす自由」を有するとして、原告の訴えを却下。以来この判例がリーディングケース(先例)となっている。
 これに対して芦部教授らの政治献金否定説は「強大な経済力と社会的影響力を持つ会社(社会的権力ともいわれる巨大な組織体)にまでも、自然人と同じく政治的行為の自由を無限定に認めていると解するのは行き過ぎであり、妥当ではない。」「思想・表現の自由や参政権は本来自然人=個人のもの、今日でも自然人=個人の憲法の権利と同様の資格で、それを対抗的に法人が主張することはできないものと考えるべき」だとしている。
 1996年、南九州税理士会政治献金事件(同税理士会が自民党への献金、そのため会員から特別会費徴収を総会で決議。その会費納入を拒否・滞納した会員が、同会の役員選挙権・被選挙権を与えられないことに対して、総会決議は個人の思想・信条の自由を侵害し、税理士会の目的の範囲外であり、特別会費の納入義務はないものとして訴えを起こした)は第一審では訴えが認められたが、控訴審で覆されて上告。結果、最高裁判決は、政治献金は税理士会の目的の範囲外の行為であり。そのために会員から特別会費徴収を決めた税理士会総会決議は、会員の思想・信条の自由を考慮していないことから無効。政党などに対して献金・寄付するかどうかは、選挙における投票の自由と裏腹をなすものとして、会員各人がそれぞれの思想・信条に基づいて自主的に判断し決定すべき事柄だと。
 2003年には熊谷組政治献金事件裁判(大手ゼネコン熊谷組が自民党長崎県連に2500万円の寄付を行ったのに対する株主代表訴訟で、献金が諫早湾開拓関連の公共事業の受注を期待した賄賂に当たるか否か等が争点)―福井地裁→名古屋高裁(控訴審)→最高裁(上告審)で原告(株主)の訴え(損害賠償などの請求)は全面的に退けられた。
 但し、第一審の福井地裁の判決文では、次のような指摘があった。
「会社は(公共団体たる税理士会などとは異なり―引用者)強制加入団体ではなく、株主が株式を譲渡して構成員から離脱することは全く自由だから、会社が政治資金を寄付することは、株主の思想・信条の自由を害するものとは言えない。」
 とはいえ、「会社が有する経済力が個々の国民を圧倒的に凌駕し、それが政党に及ぼす影響力は個々の国民による寄付・献金に比してはるかに甚大。政党の政策が会社あるいは産業団体からの寄付・献金によって左右されるとすれば、政党の理念・政策を選挙で訴え、国民の選択によってその活動に信任を得るという選挙制度の意義を否定し、その根幹をゆるがすことにもなる。」「献金が特定の政党・政治団体に集中すると、その政党のみが資金力を増大させて政治活動を強化し、国政に決定的な影響力を及ぼすことになって政界と産業界との不正常な癒着を招く温床ともなりかねない。その規模いかんによっては、国民の有する選挙権・参政権を実質的に侵害するおそれがあることは否定できない」と。
 尚、控訴審における当時熊谷組社長の(口頭弁論に際して裁判所に提出した)陳述書に「(自民党に寄付を行った理由として)政権政党は適切な経済政策の立案と実行の実績と能力があり、同党を応援することが、日本の経済不況からの脱出につながり、同時に熊谷組のためにもなる。」「寄付を行わないことのメリットよりデメリットの方が、はるかに大きい。要請のあった寄付に応ずることが熊谷組の建設業界における地位と信用を維持し、将来の受注機会を拡大するという長期的な利益につながる」と(政治献金の本当の意図・賄賂性を自ら認めたものとして注目される)。

 今国会(2月1・2日衆参両院の本会議)で共産党(企業・団体献金全面禁止法案を提出している)の代表質問―「企業が献金によって行う政治活動とはカネの力で政治を動かそうという利権政治そのもの。」「投票権を持たない企業の政治献金は国民の参政権を侵害するものではないか」と。
 ところが、それに対して岸田首相の答弁―「企業は憲法上の政治活動の自由の一環として政治資金の寄付の自由を有するとの最高裁判決があるにもかかわらず、企業・団体献金がカネの力で政治を歪め、国民の参政権を侵害するというのは論理の飛躍があると考える」と。ここで首相の言う「最高裁判決」とは上記の1970年の八幡製鉄政治献金事件裁判を指すものと思われるが、そんな半世紀も前の判例を持ち出しての答弁。(「論理の飛躍がある」のは首相の方では?)
 この最高裁判決後、ロッキード事件(1976年)・リクルート事件(88~89年)・佐川急便事件(92年)などを受けて1994年の非自民連立政権の細川首相と自民党の河野洋平総裁との党首会談で、企業・団体献金を(企業との癒着防止ため)禁止(その代わり政党助成金制度を創設)することに合意。ところが1999年政治資金規正法改定で、それが政治家個人に対する献金禁止だけにとどまり、政党本部及び支部に対する献金とパーティー券購入の形でならOK(合法)というふうに「抜け穴が」残された。それを共産党は「約束の反故」だとしており、河野・当時自民党総裁は「公費による政党助成が実現したら企業献金は本当に廃止しなきゃ絶対おかしい」と証言している。
 経団連(十倉会長は住友化学の代表取締役会長)は(2004年から企業献金の斡旋を再開)今に至るまで、主要政党の「政策評価」を基に献金を「社会貢献」と称して会員企業に呼び掛けている。
 その結果、噴出したのが今回の政治資金パーティーをめぐる巨額の裏金問題なわけである。
 企業・団体献金が自民党に対して行われ、それが政党から派閥幹部、そして所属議員に「政策活動費」などの名目で配られた場合、配られた議員はその使途を収支報告書に記載して公開できるようにしなければならないはずが、その記載がなく使途不明で何に使われたか分からない「裏金」―「不正行為の温床」になっているということで、「裏金事件」として持ち上がったのが、今回の問題なのであるが、その「政策活動費」の使途公開義務を巡って、首相は「政治活動の自由と国民の知る権利のバランスの議論」ということにこだわって、野党が求める「使途公開義務付け」「政策活動費という費目自体の廃止」に後ろ向き。
 一橋大憲法学の江藤祥平教授の見解(2月8日付朝日)
 ①「政治活動の自由」は憲法21条にある「表現の自由」が根拠。歴史的には権力を監視する「出版の自由」がルーツで、政治家にとっての「自由」として発展したものではない(政治家の側が、これを盾として民主主義の健全性を歪めてもいいと思っているなら滑稽というほかない)と。
 ②八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決では(「公共の福祉に反しない限り、会社と云えども政治資金の寄付の自由を有すると云わざるを得ず、これをもって国民の参政権を侵害するとなす論旨は採用のかぎりでない」とのことだが、そうした政治資金寄付などの自由が金権政治や政治腐敗など弊害を生むことも指摘)「弊害に対する方途は立法政策を待つ」としており、実際に弊害が生まれているならば、立法府は公共の福祉を根拠に制限をかけるべきで、制限したとしても「政治活動の自由」に反するわけではない。そのために企業・団体献金の質的・量的な制限は当然認められ、「政治とカネ」の問題が深刻化している現状では「原則禁止」とすることも憲法上許容されるだろう、と。
 ③「国民の知る権利」のためだからといって「使途記載」が義務付けられて公開され、企業・団体の営業秘密が侵害され、党の戦略的な運営方針が他の政治勢力や諸外国に対して秘匿できなくなっては困る、という言い分については、それは外交機密など高度な政治性を帯びている場合に限られ、それ以外には政策活動費など使い道は公開されて然るべき。政党が用いる資金は公の性格を有し、汚職や賄賂など公的な問題が生じうる限り、当然に「知る権利」が優越。むしろ、政党に渡されたカネがどのように個人や企業に流れているのかは、国民が知っていた方が投票の際の判断材料にもなるのだ、と。

 そもそも憲法21条(集会・結社・言論・出版その他一切の表現の自由)に基づく「政治活動の自由」とは国民(自然人たる個人)に対して保障することを定めたものであって、国民の「知る権利」(情報を国など権力に妨げられることなく収集し公開を求めることができる権利)とともに主権者たる国民の選挙権・参政権に必要不可欠もの。(企業・団体ではなく個人としてなら、応援したい政党や政治家個人にも、それらが指定する資金管理団体や後援会には限度内でカンパ・献金もできる。)
 それに対して政治資金規正法(1948年制定後、75年・92年・94年など幾度か改正)は政党その他の政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が、国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするためのもの(同法第1条)で、企業(法人)なども共にその規正の対象なのであって、政党・政治団体の「政治活動の自由」や企業・団体の献金・寄付の自由を保障するためのものではないのだ、ということだろう。

 それにつけても自民党の巨額裏金問題―自民党派閥に業・財界からパーティー券代として寄付・献金された大ガネが政治資金収支報告書に不記載・使途不明―自民党内でシステム化していた組織的「裏金づくり」―政治資金規正法違反の組織的犯罪―自民党内で多くの所属議員(自民党の身内の調査で党内派閥、安倍派・二階派など所属議員91名)が20年とか何年にも渡って行われていた―そのような政党が最大多数党となって長期にわたって君臨してきた政権は今こそ非自民党政権に交代させなければならない―憲法による国民の主権・政治活動の自由を「カネと力ある者」の自由と履き違えている憲法歪曲・改憲政党で財界親和政党を、庶民の立場に立って憲法を正しく守る護憲派の連合政権に交代へ。

2024年03月10日

企業献金を受けない立憲野党に選挙で勝たせるしか

世論調査2月17・18日の朝日新聞と毎日新聞の世論調査
岸田内閣支持率―朝日21%、毎日14%(いずれも同内閣発足以来最低)
  内閣不支持―朝日65%、毎日82%(毎日では80%を超えたのは1947年以来初めて)
政党支持率―自民党―朝日 21%、毎日 16%、   国民―朝日2 、毎日5
      立憲 ―朝日 7 、 毎日 16     公明―朝日3 、毎日3
      維新 ―朝日 4 、毎日 13     社民―朝日1 、毎日0
      共産 ―朝日 3 、毎日 7     参政―朝日0 、毎日1
      れいわ―朝日 3 、毎日 6     無し―朝日50 、毎日28
次は、いずれも2月18日(萩生田・自民党前政調会長の地元)八王子市内であった街頭集会でのスピーチで、曰く「市民が一円単位で厳しい確定申告をしているのに、自民党は組織ぐるみで、政治資金規正法違反にとどまらず所得税法違反も」と(白神優理子弁護士)。曰く「『政治とカネの問題』『政治不信が広がる』と云われるが、『自民党とカネ』『自民党不信』であるはず」だと(中野晃一・上智大教授)。
 自民党の政治資金をめぐる裏金問題は、同党政治家と統一教会をめぐる問題とともに、ここにきて市民の怒りは沸騰ぎみ。
 内閣支持率だけでなく自民党支持率もガタンと下がって、自民党はもはや「一強多弱」の「一強」とは云えなくなってきているようだ。
●(朝日の調査では「仮に今、衆議院選挙の投票をするとしたら、比例区ではどの政党にしたいか」投票先は―自民21、立憲14、維新14、公明5、共産5、国民5、教育無償化を実現する会4、れいわ6、社民1、参政1、その他の党2、分からない22
 自公政権与党以外は野党といっても現行憲法に対するスタンス(改憲派か護憲派か)と共産党に対するスタンス(反共か否か)によって、2派に分かれる。維新・国民民主・教育…の会・参政党などは反共・改憲派で、共産党・社民党・新社会党・れいわ等は護憲派だと思われるが、肝心の野党第一党たる立憲民主党曖昧でどっちつかず(支持基盤が国民民主党と同様に反共の連合系労組で、憲法に関しては改憲も否定せず是非を議論することにやぶさかではないとする「論憲」を掲げている)。この立憲民主党が反共・改憲派と護憲派のどっちに付くかだ。(上記●のデータから見ればだが)立憲民主党は維新・国民民主などと組めば自公の得票を上回って政権にありつけるかも、というところだが、それが共産・社民などの少数党と組んだだけでは勝ち目はない、とはいっても、特定の政党は支持しないという最多の無党派層から現行憲法の人権と平和を大事にする護憲派の候補者なら支持するという人たちを糾合すれば、その数で、自民・維新など反共・改憲派を護憲派の方が上回って、立憲民主党が護憲派として政権にありつくことも可能かもしれない。
 政治資金裏金問題で矢面に立たされているのは自民党だけだが、維新などは政治理念では自民党と同系。立憲・護憲派は自民・維新など反共・改憲派に対抗して大同団結し、無党派の人たちをも糾合して金権腐敗の非立憲的政権を退けるしかないのでは。


2024年03月14日

9条の法的性格

(1)社会規範には法規範と道徳規範とがある
 ①「法規範」(人間の外面的な行為を規律し、手段・方法・結果のみで当否を客観的に判断され他律的に法廷で裁かれる)
 ②「道徳規範」(人間の内心に生じる行為の動機や意図する目的の良し悪しを律し、自律的に良心によって裁かれる) 
(2)法規範には行為規範と裁判規範とがある
 ①「行為規範」―社会生活において一般人が通常行うべき、または守るべき規範(法規範・道徳規範・習俗・マナーなど。国会議員など公務員に対しては倫理規則も)。 
 ②「裁判規範」―裁判所において具体的な訴訟を裁判する際に基準とする法規範
  ジュネーブ諸条約などの戦争に関する国際法規範は、明文で規定されていながら、必ずしも確定的な基準を持つわけではないが故に、ある戦争に伴う行為が一概に国際犯罪とは断定できない(不確実性がある)としても、それは行為規範として(総合的に)遵守さるべきものとして適用され、逸脱が許されない強制規範であると考えられる(参考―     
『世界』1月号に掲載の「国際法と学問の責任」―根岸陽太・西南学院大学准教授)。
(3)憲法規範には「理想的規範」と「現実的規範」とがあり、
 ①「理想的規範」―為政者に目標を示す理念性―法的拘束力は必ずしも持たない(?)
 ②「現実的規範」―現実に行われ遵守され法的拘束力もつ実定性―為政者を直接的に拘束する
(4)9条の法的性格について諸説あり(インターネット掲載のWeblio辞書より)―
 ① 法規範性はなく理想的規範に過ぎない、とみる説
 ② 法的規範性はある裁判規範性は極めて希薄である、とみる説
 憲法規範(その規範的性格は各条項の間で同じではない)には「裁判規範」と「政治規範」とがあり、9条は高度に政治性を有することなどから裁判規範性が極めて希薄な「政治規範」であるとする。
  例―砂川事件(1957)―在日米軍の立川基地の拡張に反対するデモ隊で基地内に侵入した者たちが逮捕され、日米安保条約に基づく行政協定・刑事特別法違反で起訴された事件。一審(東京地裁)の判決では「日本政府が米軍駐留を許容したのは憲法9条2項によって禁止される戦力の保持に当たり違憲である」として全員無罪。ところが、最高裁判決では「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、一見して極めて明白に違憲・無効と認められない限り、その内容について違憲かどうか法的判断を下すことは出来ない」として一審判決を破棄、有罪に。
 これは、要するに「高度に政治性を帯びた国家行為には司法審査は及ばない」ものとして裁判所が判断を避けるやり方で、所謂「統治行為論」。
 ③ 法規範性も裁判規範性も認められる、とする説
 ④   〃    〃    〃    が、国際情勢等の著しい変化により、「憲法の変遷」を生じているとする説

 芦部信喜(戦後日本の憲法学界を牽引)の憲法9条学説(2023年11月21日付「赤旗に掲載された麻生多聞・鳴門教育大学教授の寄稿『憲法学の泰斗生誕100年』から)。
 彼の元々の憲法9条学説―9条の禁ずる「戦力」を「軍隊および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊」とし、自衛隊はその実態から「戦力」に該当し違憲。
 国家固有の自衛権まで放棄されてはいないという前提で、「武力なき自衛権」による安全保障という形―その(9条に適合的な国防)の方法は「外交交渉による侵害の未然回避、警察による侵害排除、民衆が武器を持って対抗する群民放棄」―になると(そのような9条解釈が「大多数の学説」だった)。
 そこには「9条と自衛隊の両立」(規範と現実の矛盾解消)という課題があった。
 ところが、高柳賢三(法学者、鳩山一郎・岸信介など歴代内閣の下で憲法調査会長)の「政治的マニフェスト説」―「憲法規範としての9条は(『平和の意思』を表明した国際的政治マニフェストとしての理想的規範で)、為政者の理想ないし目標として為政者に戦争廃止、非武装主義実現への努力を促すが、現在の国際情勢下、外国からの侵略の脅威に対し戦力を持つことを為政者に禁止していない」とし、「9条の理念の世界への発信とともに、必要最小限の自衛力も当分の間、暫定的に認める」という立場であった(上記(4)の①の説に近い)。
 これに対して芦部―高柳説を「憲法が現実に行われ遵守されるという実定性を重視するあまり、その理念性を無に帰するものであり、強い理念性が求められる憲法において、理想をうたい政策を宣言する規定は、理念的だからと言って為政者への一定の法的拘束力を妨げられるものではない」と批判をしていた。(その頃、国連平和維持活動に関するPKO協力法の成立があって、世論調査では自衛隊海外派遣肯定派が6割を数えた。)その3年後(1995年、長野県伊那北高校での講演で)、自身の9条解釈の変更可能性に触れ、高柳の「政治的マニフェスト説」を取り上げ、その今日的意義が再検討されるべきであることを明言したのであった。それでも「不戦の誓い、非武装の理想、これを堅持する」(そのことによって、戦争で尊い生命を絶った犠牲者の方々、鎮魂の誠を捧げる道が開かれるのではなかろうか)」と云って講演は結ばれたという。それを「必要最小限の自衛力」、すなわち自衛隊の存在を認めながらも、9条を守ることにこだわったものと見る立場がある。
 しかし、今や、政府が敵基地攻撃能力の保有を宣言し、芦部が向き合った「規範と現実の矛盾」がさらに深刻化している現在、「必要最小限の自衛力」を認めず、9条を守ることにこだわるものとして、芦部が元々立っていた憲法9条学説は、もはや多数説とはいえないまでもなお健在であると(麻生教授)。
 それを「必要最小限の自衛力」(すなわち自衛隊の存在)を認めながらも、9条を守ることにこだわったものと見る立場には、長谷部恭男教授の(9条は条文を文字通り解釈する文理解釈そのままの「準則」ではなく、原理・原則を定めたものとし、必要最小限の自衛力を持つこと自体は違憲とは見なさない、といったような)言説もあるのでは。

麻生教授は、「武力なき自衛権」による非軍事的安全保障論として、米国の政治学者ジーン・シャープの「市民的防衛」論に着目し、「9条に適合的な国防の方法」をこれに求めている(侵略・侵害に対して「民衆が武器をもって対抗する群民放棄」すなわち武装市民の武力抵抗は、大量の犠牲者を伴うだけでなく、敵軍の(装備・訓練・戦法に勝る)軍事力に対して市民が武力で応じても勝ち目はない、そのような武力抵抗は避け、むしろ戦略的有効性に勝る非暴力抵抗戦略で対抗したほうが賢明だというわけ)。

2024年04月06日

「裏金総選挙」―「審判」選挙か「みそぎ」選挙か

 自民党の裏金問題の根源は、政治資金パーティーを通じた業財界の献金、即ち政治献金を通じた大企業・財界(カネで自らの事業に有利な産業政策や租税・金融政策を政権党から「買おう」とする業界)と自民党と間の長年の構造的癒着から来る金権腐敗にあり、その原因は長期政権。これまで長期にわたって自民党に政権を委任してきたのは選挙で同党議員を選んできた有権者・国民。それが今度の選挙では自民党に審判を下し、選び直しをしなければならない(4月後半の毎日新聞の世論調査では「政権交代」を望む声が62%)。そこで国会解散・総選挙が迫られているのだ(早くて6月)。
 但し、その政権交代選挙で非自民党が勝利して現政権に取って代わるにしても、ただ単に自民党でなければ(維新などの「第二自民党」でも)どんな野党でもいいというわけにはいくまいし、また自民党でも無派閥か、「裏金」には直接関わっていない議員ならかまわないというわけにはいかないだろう(それが「組織的犯罪」とも見なされている自民党の議員であるかぎり)。自民党に取って代わるのは、大企業・財界からは敬遠され、企業献金とは無縁な健全野党でなければなるまい。それにしても野党各党がバラバラ単独では到底勝てないし、統一候補を立てて選挙協力できるような共通理念・共通政策を掲げ、その実現を期して結束する共闘体制を組まなければ勝てないし政権交代はできないだろう。
その共通理念はといえば、それはほかならぬ現行憲法にあり、その国民主権主義・人権主義・平和主義などの理念に即した政策を追求し、それらを歪め後退させ壊してしまうような「反憲・改憲派」に対抗する「立憲・護憲派」共闘で選挙に臨み政権交代を期さなければならないということだ。
 「市民連合」(安保法制を廃止して、元に戻すという立憲主義回復を目指して結成)が昨年12月、次期総選挙に向けて立憲民主・共産・れいわ・社民など5党派に共通政策(①憲法も国民生活も無視する軍拡を許さない、②市民の生活を守る経済政策、③ジェンダー平等・人権保障の実現、④気候変動対策強化・エネルギー転換の推進、⑤立憲主義に基づく公正で開かれた政治など5項目)の合意を呼びかけているが、それら5党派それに新社会党なども加わった野党連合が「企業献金とは無縁な健全野党で、現行憲法を大事にする立憲・護憲派野党」連合と見なされるかだ。
 立憲・護憲派各党と市民連合の共通政策の核心は「現行の平和憲法を大事にする」というところにあり、その核心をなす共通政策は次のようなこと。
 「平和・安全保障政策で自衛隊と日米同盟については、集団的自衛権の行使を容認する安保法制の廃止、自衛隊は海外派兵のない個別的自衛権・専守防衛の範囲内にとどめ、このレッドラインを超える敵基地攻撃(越境攻撃)能力の保有も武器・兵器の輸出・供与の解禁もアメリカの対中国・北朝鮮戦略に従う自衛隊の米軍一体化も止める。そして明文改憲(現行憲法の平和主義・人権条項などの改悪)も阻止するということ。

 これらの共通政策を掲げて結集する「立憲・護憲派野党」と「市民連合」が自民党の裏金問題・金権腐敗に対して「審判」を下す選挙。その選挙の結果、自民党に断罪を下せるか、それとも自民党候補者は、得票率は多少下がりはしても落選は免れて、自民党は、さほど議席を減 らすこともなく、第一党の座を保ち政権党として「信任された」「罪が晴れた」となって「みそぎ選挙」のような結果になってしまうのかだ。
 総選挙で、それが後者(自民党の「みそぎ選挙」)のような結果になってしまうことのないように、主権者・国民は、この際「審判選挙」として選挙に臨み厳しい判定を下さなければなるまい。
 そのためには、企業献金とは無縁な健全野党で、現行憲法を大事にする「立憲・護憲派野党」と「市民連合」との結束・共闘体制を構築しなければなるまい。そして政権与党の自公と「第2自民党」的な維新それに国民民主党など反共野党に対抗し、今まで以上に大同団結して選挙戦に臨めるかが問われるのだが、その共闘(統一候補擁立・選挙協力)の体制固めなしに自民党に対して「敵失」に乗じるだけでは勝ち目はあるまい(政党支持率は朝日新聞4月後半の調査では自民23、立憲民主6、維新4、公明3、共産3、れいわ2、国民民主1、その他0、支持なし47)。
 それにつけても、この山形県小選挙区の当地域では、自民党現職候補(4期目で現農林水産副大臣、茂木派だが「裏金議員」と見なされてはいない)に対抗する野党か無所属の統一候補は誰かいないのだろうか、それがいないことには話にならない(「不戦敗―戦わずして降参」では、「審判」どころか「みそぎ」にしかなるまい)。

2024年04月25日

その人・党派が立憲・護憲派と見なされる根拠

 現行の平和憲法を大事にし、とりわけ「平和的生存権」と9条2項の「戦力の不保持・交戦権の否認」規定を堅持して改廃・空文化することを拒否する立場。現に存在する自衛隊と日米安保条約については、人によって党派によって許容範囲に幅があるも、その限界は個別的自衛権行使、自衛のための必要最小限の防衛力による専守防衛に留まり、他国に脅威を与えない、というところにあり。
 自衛隊と日米安保条約を憲法9条に照らしてどこまで容認するか、条文解釈によるその許容範囲はどこまで認められるか(「9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず」自衛隊は「自衛」「専守防衛」のための必要最小限の防衛力であって9条で禁止されている「戦力」には当たらず、その兵器は「攻撃的兵器」ならダメだが「防御的兵器」なのだから許される。又「9条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊はそれには当たらない。よって米軍の駐留は憲法に違反しない」等といった解釈で自衛隊と米軍の駐留は容認されてきた)。しかしその限界をどこで区切るかが問題。9条に戦力不保持が規定されているにもかかわらず、自衛隊を日米同盟の下に保持してきて、インド洋やイラク派遣など海外派遣まで活動範囲を広げてきたのだが、それでも自衛権は「個別的自衛権」にとどめてきた。
 ところが、それが2015年に安倍政権の下で集団的自衛権行使の限定的容認を閣議決定のうえ国会で新安保法制を強行採決されるに及んで、9条の規定による自衛権行使の許容限界の一線までも踏越えてしまった。そこまでくると、もはや事実上「改憲」。(そこでその安保法制を廃止して、元に戻すという立憲主義回復を目指して結成されたのが「市民連合」。)
 その後、安倍政権は、そこまで重ねてきた解釈改憲から、さらに明文改憲へ9条2項に「自衛隊」を明記する(「後法優先の原則」で9条2項が空文化・死文化してしまう)など、いわば「内堀」から「本丸」まで「壊憲」を策し、それを引き継いだ岸田政権に至っては、今や敵基地攻撃能力の保有、戦闘機など武器輸出解禁まで推し進めようとしている。 
 そのような2015年以降の事実上の改憲に反対して共闘しているのが立憲・護憲派と見なされる。

 そもそも護憲派は現行憲法の前文にある「平和的生存権」と9条(戦争放棄と戦力不保持・交戦権否認)の規定を基本的に護り抜こうとする立場。だから侵略戦争はもとより、国際紛争を自分に有利なように解決するためであれ、或いは自衛のためであれ(侵攻され、先制攻撃を仕掛けられても応戦・抗戦せず)、いかなる戦争も交戦権は放棄する。故に軍備(軍隊・兵器)は持たない。但し国境侵犯・不法侵入、国民の生命・財産の侵害に対しては、それを阻止・排除するなど専守防衛に徹する必要最小限の装備を持った実力組織としての自衛隊(「軍隊」が法的に国際法で禁じられていること以外は何でもやれる「ネガティブリスト方式なのに対して、自衛隊法など国内法で「行うことができる」と規定され許されている行動リスト以外は行ってはならないというポジティブリスト方式が適用されている非軍隊・非軍事組織)は保持。
 そもそも自衛隊は「警察予備隊」として発足し、警察法に基づいて警察官と同様その任務・権限・行動はポジティブリストとして規定されていることだけしか行ってはならない存在で、それが「保安隊」「自衛隊」へと名称を変え、自衛隊法でその任務(防衛出動・治安出動・警備行動・災害派遣など)が規定され、装備・武器使用・戦闘行為などはポジティブリストとして限定されているが、その限度枠は発足以来現在に至るまで拡大し続けており、装備は既に世界有数となっている。(国際法上は軍隊として扱われており、世界の軍事力ランキングでは米ロ中印に次いで第5位か、韓・英に次ぐ第7位。)
 その自衛隊は歴代政権の内閣法制局の憲法解釈によって合憲と見なされてきた。また最高裁による自衛隊が合憲か否かの判断はといえば、そのような「高度な政治性を帯びた国家行為には司法審査は及ばないものとして裁判所は関るべきではない」とする統治行為論によって(合憲とも違憲とも判断せず)憲法判断は回避されてきた(1973年の長沼ナイキ訴訟一審の札幌地裁では違憲判決が出ているのに、最高裁はそれを棄却)。それに日米安保条約(米軍の駐留)も同じく統治行為論によって最高裁による憲法判断は回避されている(1959年の砂川事件訴訟一審の東京地裁では違憲判決が出ているのに、最高裁はそれを破棄)。
 砂川事件(東京都の立川市-当時砂川町にあった米軍基地拡張に反対して基地内に侵入したデモ隊の学生らが、日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された事件)を巡る最高裁判決(一審の東京地裁では「米軍の駐留は憲法9条に違反する」として無罪判決も、その原判決を破棄、差し戻し)でも、統治行為論から「日米安保条約のような高度に政治性を持つ条約の内容について違憲かどうかの法的判断を下すことは出来ない」としながらも、「9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、9条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊はそれには当たらない。よって米軍の駐留は憲法に違反しない」として一審判決を取り消し逆転-デモ隊側の有罪判決。(但し、自衛権そのものは認めているが、自衛権行使のために自衛隊を保持することまで合憲とは云っていない。)ところがそれが、2015年安倍政権下で行われた集団的自衛権の行使容認に関わる閣議決定に際して、その砂川事件の時の最高裁判決における判決文の「日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず」などの一節を持ち出して、個別的自衛権のみにとどまらず、集団的自衛権の行使までも(日本が他国から攻撃されてもいないのに、米軍が他国から攻撃された時は日本の自衛隊が米軍を守るために武力行使できるということを)容認しているとこじ付け、それが根拠とされることになったわけ。

 自衛隊と日米安保条約について、自民党以外の野党は、社会党・共産党などは元々「違憲」論であったが、社会党は1984年当時から公明党と民社党と歩調をあわせる社公民路線に傾き、自衛隊については(違憲だが合法的存在とする)「違憲合法」論に転じ、1994年村山党首が自社さ連立政権の首相となるに及んで合憲論にまで転換も、2006年「社会民主党宣言」で「明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害救助・国際協力などの任務別組織に改編・解消して非武装の日本を目指す」と従前の「正論」に復帰。共産党は自衛隊違憲論を通してきているが、(急迫不正の主権侵害や大規模災害などでの)自衛隊活用論それに野党共闘で連合政権が実現してその閣内に参画することになれば、安全保障政策に関する閣議決定などの場合「自衛隊合憲」の立場をとる(但し、党としては違憲論を維持し将来にわたって9条の完全実施をめざす)(それを「ご都合主義」とか「野合」というなら自公政権の公明党も)とのこと。

 自衛隊の存在が違憲か合憲かの議論はともかく、改憲論には解釈改憲(事実上の改憲)から明文改憲案もあり、2005年自民党の「新憲法草案」、2007年「第1次」安倍政権下で憲法改正手続法制定、2012年自民党の「日本国憲法改正草案」、そして2017年安倍政権下で9条加憲案(自衛隊の存在を明記)から2018年にかけて、それに緊急事態条項など加えて4項目改憲たたき台素案が示された。これら自民党側の改憲の動きとそれに呼応する維新・国民民主など野党も含めた改憲派に対抗する立憲・護憲派野党と市民の共闘がなければならないわけである。 

9条を無きものにしてはならい堅持・護憲の意義

 ①日本に再び軍国主義・覇権主義が復活することのないようにし、二度と戦争できないようにさせるも、ソ連など共産主義勢力から日本とアメリカを守るために日米安保条約で米軍が基地に駐留し、自衛権に基づいて再武装して自衛隊は保持しても、それが米軍と同盟(従属)して両国を守るなら、平和安全でいられる。9条はそのための条項だというもの。
それは米ソ冷戦下でソ連・共産主義勢力の脅威に対して、より強大な軍事的抑止力を保持することによって自国・自陣営だけも平和・安全でいられればそれでよい、というもの。
 ②戦争(殺し合いと破壊の惨害をもたらすもの)は二度と御免。侵略はもとより、防戦・抗戦(防衛・自衛戦争)もしたくないし、殺し合うだけでなく、武器を構えていがみあうのも御免(軍事的抑止力平和―そんなの真の平和にあらず)。武器も兵器も軍備も軍事同盟も保持しない。それが9条。そして自国・自陣営だけでなく、世界中全ての国が平和安全でなければ平和たり得ない、という考え方。

 後者の立場に立てば、次のような考え方になるのでは。
 9条については2項の戦力不保持・交戦権否認は、削除は無論のこと、空洞化(骨抜き)させるようなことのないように堅持し、自衛隊も日米同盟もその限度を超えて他国の脅威とならないようにする。それだけでなく、この2項は将来展望として完全実施(軍備全廃)に努め、それも日本一国だけにとどめず、国連憲章および各国憲法に同様な(戦力不保持・交戦権否認)条項を定めるよう促して、核兵器だけでなく軍備全廃、「核なき世界」だけでなく「戦争なき世界」の実現を目指さなければならない。このように日本の憲法9条はグローバル化を展望しつつ守りぬかなければならない。その意味でも、日本国民自身の中から9条を無きものにしてしまってはならないのだ(日本国民の世界史的な使命として)。
 今の国連憲章は「国際紛争を解決する手段としての戦争と武力による威嚇又は武力の行使」は「慎まなければならない」などとして、日本国憲法の9条1項に相当する条項は定めているが、各国の個別的・集団的自衛権を認めて軍備の保持、兵器の製造・輸出入を容認しているため、スタリカ等27の小国を除いてほとんどの国が軍隊を持ち戦力を保持している。そしてその軍備は決して他国への侵攻・占領・威嚇のためのものではなく、あくまで自衛・専守防衛あるいは抑止力のための正当なものだとして自国憲法に定めている。そして「自存・自衛のため」とか、「侵略予防のため」、「正義のため」などと称して戦争をしてきたし、今はロシアがウクライナに対して「かつての同じ連邦国家ソ連から独立して自国と敵対する米欧同盟NATOに加盟しようとしている隣国ウクライナに対して、そこに住む同胞ロシア人居住区の自治権を侵害・迫害から守るため特別軍事作戦」と称して侵攻を行っており、イスラエルはガザのパレスチナ人に対して「占領した領土を先住パレスチナ人に支持された反イスラエル強硬派ハマスなどの武装抵抗・テロ攻撃から守るための自衛権の行使」と称して地上侵攻を行っているように現に戦争を行っている。或いは中国のように「かつて同一国民・同胞が住む同一国家の領土であった台湾の分離独立の動き」や北朝鮮のように「かつて朝鮮半島の同一民族・同一国家でありながら日本から併合され、その植民地支配から連合国軍によって解放されはしたものの米ソによって南北分割占領され、占領解除に伴って北に朝鮮民主主義人民共和国、南に韓国が分離独立し、米ソ冷戦に伴い統一を巡って南北両軍が激突、米軍が韓国を支援・参戦、ソ連が北朝鮮を支援、中国が北側に付いて参戦、すなわち朝鮮戦争は1950年から3年間にわたった、そのあげく休戦して現在に至るも戦争再開の可能性はらむ」。いずれもアメリなど他国が軍事支援、或いは参戦して戦争になるかもしれず、その際アメリカの同盟国・日本の自衛隊が集団的自衛権の名目で支援・参戦の可能性。その戦争に備えて日本は目下「防衛」体制を整え強化している。世界がこのような状況ではいつまで経っても戦争は無くならない。
 そもそも国家間・民族間には領土・資源・権益・覇権・宗教などをめぐって何らかの対立・紛争・もめ事が大なり小なりどこかにあって、一切無くなるということはないだろう。しかし、戦争手段―武器・兵器・軍備―を保持することを憲法で禁じ、或いは国連憲章で禁じてその軍備全廃が実行されれば戦争しようにも戦争はできなくなり、しなくなる。
 だからこそ日本の憲法9条2項「戦力の不保持」に相当する軍備の全廃条項が国連憲章にも各国憲法にも必要なのだ。さもないと(国家間・民族間には何らかの対立・紛争・もめ事はあっても武器・軍備さえなければ戦争できないものを、それを保持し続けているかぎり)戦争は、いつまでも根絶できないのだから。
 日本は世界に先駆けて憲法(9条2項)に「戦力」即ち武器・兵器・軍隊など戦争手段を保持しないことを定め、自ら戦争できないようにして、「戦争のない世界」の実現へ率先垂範ともいうべき役割を自らに課そうとした、否そうすべきだったはず。
 ところが武器・兵器を装備した自衛隊を、9条で禁じている「戦力」ではなく必要最小限の「自衛力」と称しながら増強し、今では世界有数の軍事大国となっている。それにアメリカを同盟国として駐留軍に基地を提供、近年は集団的自衛権の行使まで限定的ながら容認し、アメリカを支援して他国の戦争にまで参戦できるようになってしまっている。9条のこのような拡大解釈から、さらに明文改憲にまで踏み込んで衆参両院の憲法審査会では9条2項に「自衛隊」を明記するなどの条文案の検討に入っている。このような9条2項の空文化(骨抜き)、改憲は断じて許してはならない。この憲法制定以前「自存自衛」の名の下に日本軍がアジア太平洋の各国・各地域に侵攻し、連合国軍との大戦で国内外に世界史上未曽有の死者と惨害をもたらした。その痛苦の反省から憲法に「戦争放棄」、「戦力不保持」(軍備全廃)まで定めて、憲法前文には「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」として、「再び戦争の惨禍が起ることのないように」「国家の名誉にかけ全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成すること」を誓った。なのに、その誓いに背いて恥じることなく戦争の悲惨にも無反省な金権腐敗の自民党を始めとする反共・改憲勢力。それ対して立憲・護憲派野党と市民連合が、選挙戦で遅れをとって敗北を喫するようなことが断じてあってはなるまい。

2024年05月19日

日本国憲法9条と国連憲章の決定的な違い

(1)国連憲章 制定(調印)1945年6月26日(原爆投下前―核兵器と 
          いう究極兵器の破壊力と惨害を未だ経験してはいない段階)
     2条3項「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって・・・・
          解決しなければならない。」
       4項「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は
         武力の行使を・・・慎まなければならない。」(武力不行使原則)
     39条 安保理は「平和の破壊および侵略行為」があったと認定したときには制裁
措置をとり、軍事的措置として加盟国が提供する兵力によって組織される軍隊(国連軍)が行動をとる(集団安全保障)。
     51条 加盟国に対して武力攻撃が発生した場合は、安保理が(39条の)措置をとる  
までの間、個別的・集団的自衛の固有の権利を害するものではない(自衛権行使を認める)。
     集団安全保障システム―侵略の防止、平和の破壊者に対して制裁を課すと宣言することによって侵略を未然に防止するシステム―国家安全保障・軍事的安全保障―軍備を必要とする(兵器・軍隊の保持を前提)―軍事戦略―対抗する相手(敵)に勝つ方法にこだわる―他国の脅威となる―「一方の安全保障は他方の不安全の原因」となる(「安全保障のジレンマ」「他国を犠牲にする安全保障」)―「他国に脅威は与えない、防衛目的は専守防衛に限られる」とはいっても、どの国も戦争目的を「侵略」のためと公言する国などないし、国際紛争解決のための武力行使であっても「自衛」を口実にするし、「防衛のための武力か、攻撃のための武力か」は相対的であって判然と区別することは困難であり不可能(ただ、防衛と攻撃の間を明確に区別することは困難でも、範囲を厳格に限定しようという努力は「軍縮・軍備放棄による安全保障」への転換にとっては無意味ではない)。
(2)日本国憲法 制定(公布)1946年11月3日(核兵器という人類滅亡 のリスクをはらむ「究極兵器」のすさまじい破壊力とその惨害を直接経験したうえで、「再び戦争の惨禍が起ることのないように」と制定した憲法)
     9条1項「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」
       2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
     人間の安全保障―平和的生存権の保障―他国に脅威を与えない(安心供与)
(3)両方とも、戦争・武力による威嚇・武力行使は原則として禁止
   軍備・戦闘方法・兵器の使用に対する規制・ルール(残虐行為・無差別攻撃・大量
    破壊兵器などの禁止)←交戦法規・戦時国際法・国際人道法などの国際法による
(4)違いは、日本国憲法は9条の2項で国の交戦権を認めず、「戦力」(軍備・兵器・装備品すなわち戦争手段)の保持そのものを禁じているが、国連憲章では、すべての加盟国に軍備・軍隊の保持を容認している。
(5)日本政府は自国憲法に逆行して自衛隊の名の下に再軍備、アメリカと軍事同盟も結んで、国連憲章の「軍備による安全保障」の方に合わせ、解釈改憲から明文改憲にまで踏み出そうとし、9条2項を空文化して無きものにしようとしている。コスタリカとともに世界に先駆けて戦力(軍隊)不保持による戦争放棄を掲げた憲法を改悪することなく、あくまで堅持して、国連・世界各国とも軍備全廃(それを拒む武装国家や抵抗勢力に対処・取り締る警察軍など強制機関が必要)を目指して軍縮と核兵器禁止条約に背を向け続けている核保有国はじめ全世界に戦争の根絶と恒久平和の実現を追求・努力するよう促すべきなのでは。それは「単なる道義や理想ではなく世界が選択しなければならない現実」なのであって、「それが不可能だというのであれば、人類の将来には滅亡への道しかないことになる」(杉江栄一著『日本国憲法と国連』かもがわ出版)。 

About 投稿記事

ブログ「米沢長南の声なき声」のカテゴリ「投稿記事」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリはリンクです。

次のカテゴリは新聞に載らなかった記事です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34