米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


問題の歴史・公民教科書
2005年07月02日

 以下は、当地の教科書採択に先だって行われた教科書展示会で、今国内外で問題の歴史・公民教科書―扶桑社版―を読み、アンケート用紙に意見として書いて出してきたものに若干の補足・修正を加えたもの。
[歴史]
 この教科書は、21世紀後半にわたって生きていく生徒たちや国内外の民衆(生活者)の立場ではなく、自国の、かつてその当時の、そして現在の為政者・支配層の視点・立場にたち、かつての皇国史観のような偏った歴史観にたって書かれているように思われる。

(1) それは、神話や天皇・聖徳太子など皇室に関わる記述、それとの関連で、古代と近代に(中世・近世に比して)多くの頁が割かれており、神武天皇を(架空の人物であるにもかかわらず)初代とする「万世一系」の天皇を中心に我が国家は成立してきたとし、あたかも、いつの世も国民は皆(武士も農民も)天皇や朝廷に仕え、従ってきたかのように書いている。明治維新は「武士たちによって実現した改革だった」「全国の武士は究極的には天皇に仕える立場だった」として、世直し一揆など民衆の動きは全く無視されている。

(2) 「江戸時代の身分制度は・・・・血統による身分ではなかったから、その区別はきびしいものではなかった」などとおかしなことを。例えば、新撰組の近藤勇は百姓の出であり、養子に入って武士とはなったものの、その出自は生涯彼につきまとったといわれ、また、維新の担い手となった武士たちは、同じ武士でも下級武士であったのであり、その身であった福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」と言っているが、これらはよく知られた話である。

(3) 近隣諸国や世界との関係史では、自国の正当性弁護のニュアンスがつよく、戦争や植民地支配については、それらには、我が国の安全と生存圏の確保という正当な理由があり、また現地にもつ権益と在留邦人を排日・反日攻撃から守るため必要やむをえざるものだったとし、(「侵略」の「し」の字も使っておらず)加害事実は多々省かれている。
 日朝修好条規については、それが、日本が欧米列強から強いられたのと同様、朝鮮側にとって不平等条約であったということは書かれていない。
 日露戦争は、「日本の生き残りをかけた戦争であった」(それは支配層にとっての話―帝国主義の論理・戦略論―だろう)「歴史の名場面―日本海海戦」この戦争に「勝利して自国の安全保障が確立した」「有色人種の日本が・・・・白人帝国ロシアに勝ったことは、植民地にされていた民族に独立への希望を与えた」などと書いている。そしてネールらの民族運動に励ましを与えたとの言葉を紹介しているが、「ところが、日露戦争のすぐあとの結果はひとにぎりの侵略的帝国主義のグループにもう一国をつけ加えたにすぎなかった。そのにがい結果は朝鮮であった」というネールの言葉は省いている。
 1935年当時の中国人の反日運動について、「米外交官マクマリーの見解」なるものを取り上げているが、あたかもその言葉どおり、日本は反日に対して「我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返し」におよんだ。それが、さも日中戦争でもあるかのような取り上げ方である。
 「大東亜戦争」―それは欧米による「経済封鎖で追いつめられ」て、やむなく起こした「自存自衛」のための戦争であり、また「欧米の支配からのアジア解放」「大東亜共栄圏の建設」のための戦争であった。「日本の将兵は敢闘精神を発揮して、よく戦った」「国民はよく働き、よく戦った」「東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」と。まるで当時の国家指導者になりきって書いているかのようである。(きれいごとばかりだ)
 ポツダム宣言のことと関わって、「もしルーズベルト大統領が急死せずに、アメリカの戦争指導を続けていたら、日本はどうなっていたか想像してみよう」などと無意味なことを発問している。「もしも」のことをいうなら、天皇は、2月に近衛文麿が早期和平を上奏した時「もう一度戦果をあげてからでないと」などといって、それを退けていなかったら、東京大空襲も、沖縄・広島・長崎の悲劇も無くて済んだということを取り上げればよいものを。

(4)「20世紀の戦争と全体主義の犠牲者」(「読み物コラム」)―「戦争で、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなかった。」というわけである。     そして「日本軍も戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して不当な殺害や虐待を行った」とし、別に本文の中でも、「この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えた。とくに中国の兵士や民衆には日本軍の侵攻により多数の犠牲者を出した」とは書いている。
 コラムには、さらに「アメリカが東京大空襲をはじめとする多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎に原爆を投下した」と書き、別なところで、日本は「全土で50万人もの市民の命をうばう無差別爆撃を受け、原子爆弾を落とされた」と書いている。
 コラムには、また「ソ連は日ソ中立条約を破って満州に侵入し、日本の民間人に対する略奪・暴行・殺害をくり返した。そして日本兵の捕虜をふくむ60万の日本人をシベリアに連行して過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた」と書いている。
 日本軍の加害状況については、上記以外には、犠牲者の人数や具体的状況はほとんど書かれていない。あたかも、日本は、どの国もやっていたのと同じことをやったに過ぎず、ドイツやソ連がやったのと比べれば、「まだましだ」とでも云っているような書きぶりである。
 南京大虐殺については、本文ではなく脚注で「南京事件」―「日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た」として「虐殺」とは書かず、「犠牲者数などの実態については資料の上でも疑問点が出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」などとしているが、犠牲者数は10万人単位であることは歴史学界では通説になっているのである。 強制連行のことについては、「徴用が朝鮮や台湾にも適用され」「朝鮮人や中国人が日本の鉱山などに連れてこられて、きびしい条件のもとで働かされた」と書いているのみであり、「強制連行」というこれまで通用してきた歴史用語を避けている。従軍慰安婦問題については何も書かれていない。これらの問題は、「でっち上げ」「捏造」だとの考えに立っているようであるが、それは、拉致問題を「でっち上げだ」といっているようなものだろう。

(5) 天皇制国家主義イデオロギーに偏していること
   民衆の果たした役割はほとんど取り上げず、それにひきかえ、天皇が果たした役割をいたるところで数多く取り上げ、人物コラム「昭和天皇」は1頁いっぱい使って、その「お人がら」「国民とともに歩む」など、その人徳を讃え、美化して書いている。
   「武士道」として忠義―「公のために働く」「犠牲の精神」―を強調しているが、その公とは天皇の国家のことであって、人民というわけではないのである。
 人物コラムで、伊藤博文の「日の丸演説」とともに「国家を思う心」を取り上げている。
  教育勅語―「国家や社会に危急のことがおこったときは、進んで公共のためにつくさなければならない」など―を「近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」としている。「公共」と書き換えているが、原文では「公」すなわち天皇の国家のことであって、パブリック(人民)ではないのであり、この勅語に書かれているのは、封建的忠孝道徳ではあっても、「近代日本人の・・・」などと云えるものではないのである。
  大日本帝国憲法のことに関する記述で、発布のその日東京市中は「祝賀行事一色」と書き、「憲法を称賛した内外の声」を紹介している。しかし、ドイツ人医師ベルツの日記に「だがこっけいなことに、だれも憲法の内容を知らないのだ」とあることや、中江兆民の「果たして如何の物か、玉か瓦か、いまだその実を見るにおよばずして、まずその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる」といった評は紹介されてはいないのである。この憲法には、「天皇に政治責任を負わせないこともうたわれた」として、あたかもそれ故に、天皇には戦争責任その他いかなる政治責任も問えないかのような書きぶりである。しかし、そんなことは、この憲法には「うたわれ」てなどいない。ただ、解釈(「立憲君主」など)として、そのように解釈する向きがあるというだけのことなのであって、はっきりしていることは、天皇は大臣・議会・臣民に対して責任を問う立場ではあっても、責任が問われる立場ではないというだけの話なのである。「天皇がご自身の考えを強く表明し、事態をおさめたことが2度あった」として2,26事件とポツダム宣言受諾だけをあげているが、対米開戦決定の「聖断」もあり、その他、戦局の節目節目に重臣たちに詰問し、指示を下したり、承認・激励を与えたりしているのである。

(6) 反共主義イデオロギーに偏していること
戦時中の我が国の国家体制はファシズムではないとする一方、マルクスらの共産主義を歪曲したスターリニズムを共産主義そのものだとして、それは全体主義の一種で、ファシズムと同種であると、いずれも勝手に解釈し、いたるところで共産主義を否定的に、或は脅威として記述している。

(7) 東京裁判については、「国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていない」とし、そこで僅かに肯定意見に触れているだけで、それ以外にはその積極的意義(「平和に対する罪」―それまで国際法にはなかった概念―を初めて用い、戦争指導者の責任を究明して処罰することによって、国家の犯した愚行を断罪)には言及せず、法的手続き上の不備と(アジアと欧米に対して)不公平を問題にしたパル判事の被告全員無罪論を(無罪といっても、日本に戦争責任は無いといっているわけではないのに)ことさら取り上げ、また、GHQのプロパガンダとともにこの裁判によって、日本人に必要以上に罪悪感が植えつけられたとして、まるで日本人には、天皇から平民にいたるまで誰にも、戦争責任はなかったかのような書きぶりである。

(8) 日本国憲法についても、現在改憲をめざしている特定勢力の立場で書いている。
  「わずか約1週間で」GHQが作成した憲法草案を、政府が「それを拒否した場合、天皇の地位がおびやかされるおそれがあるので、やむをえず受け入れた」としているが、天皇の戦争責任にたいする厳しい国際世論があったこと、先に示された日本政府(国務大臣松本)原案があまりに不充分な(旧憲法の域を出ない)ものであったこと、鈴木安蔵らの憲法研究会など民間の憲法案がつくられていて、それを参考にすることができた等のことは触れられていない。
当時の政府、その系譜をひく現在の政党などからすれば「押し付けられた」と思われても、民衆のサイドからみればそんな感覚はなく、大多数の人々はこの憲法を歓迎していたことが、当時の世論調査などによって明らかなのである。

 以上、その他にも、「世界で最も安全で豊な今日の日本」などと、おかしなところが散見されるが、いずれにしても、この歴史教科書は著しく偏っていて、それを読んで鵜呑みにした生徒は、歴史のたいしてさしたる反省もなく、国内外には様々な境遇や過去にたいする思いをもった人々(民衆)がいることに無理解・無頓着な一人よがりの日本人になってしまうことにならざるを得ないのではないか。

[公民]
(1)国家主義のほうに偏っているということ。                             

①「家族のきずな」「公共的な精神」を強調し(それはよいとしても)、個人よりも家族と国家、権利よりも義務を(国防の義務までも)強調しているように見える。そして「男らしさ、女らしさ」と性的役割分担を重んじ、「男は仕事、女は家庭」或は三世代同居という昔ながらの家族形態を家族のあるべき姿としているかのようであり、今我が国が、男女がともに仕事と家庭を両立できるような環境をめざしながら推し進めている「男女共同参画社会」を批判的に書いている。 

②法治主義(万事は法に基づいて行われ、すべては国法に従わなければならないということ)だけを取り上げて、法を強制的に守らせる力―政治権力―の必要性を強調するが、「法の支配」(国民の人権を国家による権力や法律の乱用から守るということ)を取り上げてはいない。(法治主義と「法の支配」とは、法に基づくという意味において共通項もあるが、必ずしも同一概念ではない。)民主主義にとって、より重要不可欠なのは「法の支配」であるはず。

③皇室は「古くから国民の敬愛を集めてきた」として天皇の役割―「皇室外交」や「施設訪問」などの儀礼的行為―を重要視して大きく取り上げ、また、「国を愛することは国旗・国歌を尊重する態度につながる」として、「日の丸」・「君が代」に3頁以上も割いている。
「社説の研究」として国旗・国歌法にたいする代表的な2つの新聞社の賛否両論を数行ずつ要約してあげているが、そこで否定的意見をも小さく紹介しているのみである。
「天皇の権威は、各時代の権力者に対する政治上の歯止めとなり」としているが、戦争などをくい止める歯止めにはならず、むしろそれらに正当性を与え、その方向に国民の気持をまとめあげるために利用されてきたという側面の方が強かったのでは。

(2)改憲の方向に誘導していること。
「26、憲法改正」として2頁にわたって、わざわざ改憲論を取り上げている。そして、「一度も改正されていない」「世界最古の憲法」「1週間で書き上げられ、英文で書かれた憲法草案」などと、本質的ではない現象的な事実をことさら取り上げ、国会議員アンケート結果を示して、「時代の流れに合わせて改正すべきだという意見もしだいに大きくなっている」などと書いている。
  現行憲法の3大原則は、諸外国のものと比べて、より徹底したものであり、とりわけ平和主義の規定は時代を先取りしており、この憲法が無改正の世界最古の憲法だとすれば、むしろそれを誇りにしてもよいものを。
  尚、国会議員とは異なり、全国新聞社(全国紙・地方紙あわせて)の社説は改憲賛成論のほう(40%)が反対論(60%)より少なく、国民世論も、9条2項に限っていえば、やはり改憲賛成のほう(40%)が反対(60%)より少ないのである。

(4) 非軍事平和主義よりも軍事肯定に偏していること。
国防の義務を定めているドイツなど3国の憲法条文をことさら並べて紹介し、「憲法で国民に国を守る義務を課している国が多い」との説明を書き添えたりしている。
 自衛隊と日米安保を積極的肯定的に取り上げ、「戦後のわが国の平和は日米安全保障条約に基づいて国内に基地をおく米軍の抑止力に負うところも大きい」「わが国だけでなく東アジア地域の平和と安全の維持に大きな役割を果たしている」としている。しかし、それが中国・北朝鮮などから見れば大きな脅威となっており、また日本をアメリカの戦争に巻き込む危険性があるなど、問題点は一切取り上げていない。
 口絵の「世界で活躍する日本人」では、真っ先にPKO即ち自衛隊を載せている。「周辺の問題」として竹島など領土問題と北朝鮮のミサイル・工作船・拉致問題、中国の原潜領海侵犯事件などを、口絵でも本文でも課題学習でも、いたるところで大きく取り上げて緊張と脅威を強調している。
 冷戦後「わが国にも相応の軍事的な貢献が求められるようになった」「多国籍軍のアフガニスタン攻撃やイラク戦争でも・・・後方支援や復興支援のために自衛隊が派遣されることになり、国際評価も高まりつつある」として、専ら自国政府・与党の考えに即した記述がなされていて、反対論や批判論は一切取り上げられてはいない。

(5) 国民主権についておかしな説明をしている。いわく「国民主権・・・この場合の国民とは、私たち一人ひとりのことではなく、国民全体をさすものとされている」とし、「議員が、その国民になりかわって政治をあずかる」としているが、主権は私たち一人ひとりにあるのであって、一人ひとりが主権者であるはず。議員は、国民一人ひとりが選挙権・被選挙権を行使して選び、選ばれるのであり、そうして議員に付託する間接民主制を基本としつつも、一人ひとりの国民が直接主権を行使する直接民主制も併用して行われるシステムになっているのである。ところが、この教科書は、直接民主主義の問題点として住民投票のことを取り上げ、それは「国民全体の利益」とぶつかる場合があるとして否定的に書いているのである。

(6) その他
① 社会主義経済について、「生産手段の国有化を基本とする」と書いているが、それは誤りである。社会主義経済は生産手段の社会化(社会的所有―その形態は様々)が基本なのであって、国有化が基本というわけではないのである。

② 竹島を「韓国が不法に占拠」と書いているが、それは韓国側の一定の根拠に基づいた言い分と議論を無視した一方的・対決的な表現である。
以上、この教科書は、生徒にとって、これで、自分が社会でより良く生きていくために(自他に認められている権利と自他に課されている法や義務を)学ぶというよりも、国家・社会の一員として責務を果たすために学ぶ、というニュアンスがつよく、国防(軍事)を積極的に肯定し、改憲を促すものとなっており、そのような政策や路線を志向している特定の党派の政治的意図が露骨にあらわれている。
 教育および教育行政が守るべき現行憲法と教育基本法から見て著しく偏った教科書である。この教科書を読んで、それを鵜呑みにした生徒は、国のため、公共のため、家族のため、国際貢献のためと、戦いもいとわず献身するいさぎよい日本人となるだろうが、それは彼ら教え子を再び戦場に送る結果にもなるだろう。彼ら生徒は、自他の人権も、主権者としての権利も、平和的生存権も軽視しがちな人間になってしまうだろう。


ホームへ戻る