米沢 長南の声なき声


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憲法改正と非常事態(修正版)
2020年04月23日

 今回の新型コロナウイルス感染対策に際しては特別措置法に基づいて首相が緊急事態宣言を発令し、非常措置として国民に対して休業・外出・移動の自粛など様々な指示・要請が行われている。国民世論はそれを歓迎し、中には「もっと徹底してやるべきだ」とせっつく向きもあり、それに乗じるかのようにして、憲法に緊急事態条項を設ける改憲を促す政治家が与党に限らず出てきている。
 「国家の最大の使命は国民を守ることであり、そのよりどころとなるのが憲法だ」という。日本国憲法には25条の1項に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として国民の生存権を定める一方、2項には国に対して社会福祉や社会保障とともに「公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と義務付けている。
 緊急事態に際する例外的措置として国や自治体による国民の権利・人権の制限を一時的に容認する特措法或いは感染症対策基本法のような法律も必要ではあろう。休業・休校の措置や外出・移動の自粛(規制)によって感染拡大が抑えられ、結果的により多くの人々が感染による命の危険から免れることができるようになるからである。しかしそれには、個々人からみれば、人によってはそのような規制措置によって致命的な(そのために感染症からは免れても、生きがいや生活の糧を失い、経済的・精神的に追い込まれ、或いは他の重い傷病者は感染回避が優先されて治療や処置が後回しされ、命さえも危うくなる)損失を被るという様々なリスクやマイナス効果をもともなう。そこで、その(感染症対策として採られた)措置を主導した首相や政府による状況判断、緊急事態宣言の発出、具体的措置のありように対して、それが主権者国民にとって適切であったのか、過誤がなかったのか検証・評価し、責任を問わなければならないわけである。それは国会で行われ、場合によっては違憲審査権をもつ裁判所で行われる。
 今回の首相の緊急事態宣言と知事による外出自粛・休業要請などの具体的措置は特別措置法に基づいておこなわれているが、それら法律と憲法とは厳然として区別しなければなるまい。(特措法に基づく「緊急事態宣言」と、憲法に新たに「緊急事態条項」を設けて対応することは、その性格が全く異なる、ということだ。)
 憲法とはそもそも、統治規定を定めたものではあるが、人権規定をも定めたものであり、国民個々人の人権を国家の支配権力から守り、権力の暴走を抑えるために制定されたものである。それは最高法規として、これに反する法律や政府の行為を(違憲立法審査権などによって)無効とすることができる、という筋合いのもの。(以前からある感染症法や災害対策基本法、それに今の特措法は、あくまで憲法の制約のもとにある法律なのだ。)
 日本国憲法は12条に「この憲法が国民に保証する自由及び権利は国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」とし、13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めている。ここで「公共の福祉」というのは、自分と同じく生命・自由および幸福追求の権利を持つ他の人の人権のことであって、国や地方公共団体などの権益(国益・公益)のことではない。自由・権利を濫用してはならないというのは、他人の自由・権利を害してはならない(要するに他人の迷惑にならない)ということであって、首相や知事など公権力の意向に反してはならないということではない。自分の自由・権利の濫用にならないように「自粛」するのは、あくまで他人の迷惑にならないようにするためなのであって、国や公共団体などの公益のためではない。(だから、首相や知事には国益や公益を理由に個々人に命令する立場にはなく、国民に対して向ける言葉は「要請」であって「命令」ではないわけだ。)
 「公共の福祉」を理由に自由・人権・私権を制限する法律は色々ある。表現の自由(その濫用)に対しては刑法(名誉棄損罪)や公職選挙法(不当な選挙運動の禁止)、居住・移転の自由に対しては感染症法・医療法(感染症による入院・隔離措置)、営業の自由に対して独占禁止法や医師法(無資格者の営業禁止)、財産権に対しては土地収用法(道路・空港用地を、保証金を払ったうえで収用)など。
 それに今回適用されている新型インフルエンザ等感染症対策特措法―首相が「全国的かつ急速な蔓延により、国民生活および経済に甚大な影響を及ぼすか、その恐れがある」と判断すれば「緊急事態宣言」をだすことができ、広範な私権・人権制限が可能になる―外出の自粛、「学校・社会福祉施設、興行場」等に対し「使用などの制限もしくは停止」、土地所有者の同意なしの臨時医療機関開設のための土地使用など私権制限を行えるようになる―首相の「宣言」に応じて都道府県知事が、それぞれの判断で、それぞれの都道府県内の住民・事業者に対して次のことを要請もしくは指示(従わない場合は、罰則はないが、事業者名などが公表)
         ①不要不急の外出自粛
         ②学校・保育園・公会堂・図書館・博物館・自動車教習所・学習塾・映画館・劇場・百貨店・居酒屋・バー・キャバレー・カラオケボックス・ライブハウス・パチンコ・ゲームセンターなどの休業や使用制限
         ③音楽・スポーツイベントなどの開催自粛。
         ④医薬品や医療機器・マスクなど販売・保管の要請・収用(物資を隠したり、立ち入りを拒んだりすれと、罰金や懲役も)。
         ⑤臨時医療施設のための土地・建物を所有者の同意なしに強制使用,
等々を行う権限を首相及び都道府県知事に認める法律である。
 これらはいずれも、国や公共団体が国益や公益を害されないようにするためではなく、あくまでも、ある人(個人或いは法人)の権利の濫用によって他の人の権利が侵害されることのないようにするために主権者国民の代表者(議員)によって制定された法律に基づいて措置が講じられるというものである。
 これらの法律およびそれによって実行された首相や知事たちの措置は憲法に照らして妥当なものだったのか、違背してはいなかったか、検証されなければならず、場合によっては違憲審査されなければならないわけである。
 このような諸法律の立法とそれに基づく措置(権限の行使)に際しては、首相をはじめ国務大臣・国会議員、知事ら地方自治体首長その他の公務員は、あくまで最高法規である憲法の定める「生命・自由および幸福追求にたいする国民の権利」については、立法その他国政および地方自治の上で最大の尊重を必要とするわけである。
 法律というものは個人や法人の自由な権利と活動を規制して縛りを加えるものであるが、それに対して憲法は個人の人権を統治者(民主主義国家では国民の多数派から選ばれた統治者)の権力濫用(多数派の横暴)から守るために権力を縛るものなのであって、法律とは性格が根本的に異なり、このような憲法のほうが最高法規として法律を縛るものでもある(国会で賛成多数で可決成立した法律でも、裁判所から違憲と判断されれば無効となる)。いわば法律が個人や法人の権利を縛るのに対して、憲法は権力を縛るものなのである。(それが立憲主義。)
 このような最高法規たる憲法に「緊急事態条項」を書き加え、それに政府の非常時権限を定めたりするとどうなるか。(今回の特措法では、いかに緊急事態とはいえ、行政府の長として、憲法が「国民の権利については国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めている以上、「緊急事態宣言」の発動も、下手をすると不適切で違憲・無効だとして糾弾されるかもしれず、極力慎重とならざるをえず、腰が引けることにもなるわけであるが、それが憲法に「緊急事態条項」として定められれば、それに基づく首相や政府の権限行使はもはや「違憲」でもなんでもなくなるわけだ。)
 自民党の改憲案では、「特に必要があると認められるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、「緊急事態の宣言」を発することができる。その「宣言」は事前または事後に国会の承認を得なければならない。「宣言」が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は(閣議決定だけで)法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。政令の制定および処分については、事後に国会の承認を得なければならない等となっている。(それは政府に権限を集中させ、憲法の下での権力分立と人権保障を一時的に停止する措置をとることができるという「国家緊急権」を認めるもの。戦前の大日本帝国憲法では、天皇による「緊急勅令」などが認められていた。治安維持法の最高刑を死刑に引き上げ、適用対象を広げる改正案が、帝国議会で審議未了で廃案になったにもかかわらず、内閣が緊急勅令によって成立させた、といった苦い経験がある。)
 そのような緊急事態条項が憲法に書き込まれることによって、その条項の運用が憲法上の要請とり、政府によってこの条項が積極的に活用できることになり、濫用を許してしまう結果となる。何か「緊急事態」がある度に「宣言」が発令され、それが常態化し、「要請」といっても実質的に「命令」ということで、国民もそれが当たり前のこととしてそれに応じなければならないようになってしまう。つまりそれだけ政府には非常時権限として国民がその命令に否応なしに従わざるを得ないような強い権限が憲法から認められたことになり、多数派政府の都合によって何かある度に「緊急事態」がもちだされ、国民の方はその度ごとに人権が制限・毀損されても「仕方ない」となってそれに甘んじる結果となってしまうだろう。(首都大学東京の木村草太教授は上記()内のような自民党案の問題点を次のように指摘している。「緊急事態」の定義が法律に委ねられているために、「宣言」の発動要件が極めて曖昧になってしまっている。そのうえ国会承認は事後でも良いとされていて、手続き的な歯止めはかなり緩い。これでは内閣が、「宣言」が必要だと考えさえすれば、かなり恣意的に「宣言」を出せることになってしまう、と。)

 憲法に「緊急事態条項」が書き加えることによって、その条項が首相の強権発動と国民の統制(人権制限)に活用されるようになる、それと同様に、9条に「自衛隊」が書き加えられることによって、政府によるその軍事活用が(海外での武力行使に至るまで)これまでのように憲法違反に問われることもなく国民によって容認されるようになる、というのが首相ら改憲論者の意図なのだ。
 「国家の最大の使命は国民を守ること」だからといって、政府はそのためには手段を選ばず何をしてもいいというわけではない。それは当然のことだろう。あくまでも憲法の理念に基づき、その許す範囲内で行わなければならない。また憲法に緊急事態条項(権力分立と人権保障など立憲的な法秩序を一時停止して政府が緊急措置をとる権限を認める条項)が定められれば、戦争や病災も含めた大災害から国は守れても、国民(生存権など)は必ずしも守られるかどうかは保証の限りではあるまい。
  


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