1982.1.23付毎日新聞に載った会津若松市の一医師(穴沢氏)の「提言」―「戦争責任は国民全体―足りない自己批判」に日本の中国侵略から敗戦までの日本人は次の4つのグループに分けられるとあった。
①(陸軍軍人・右翼政治家、一部言論人・官僚・軍需産業資本家・メディア・大衆作家)戦争を積極的に推進
②(天皇・重臣・「良識派」の政治家・海軍・知識人)―消極的抵抗―①の勢力が作り出した既成事実を次々事後承認せざるを得ず、ずるずる戦争に加担
③(一般大衆)―①が進める侵略・戦勝に熱狂、拍手
④(少数の左翼、平和主義者、リベラリスト)―①に抵抗、激しい弾圧受ける
それで、氏は「戦争の最大の責任者は①の部類の人々であるし、天皇をはじめ②の部類の人々も大なり小なり道義的責任を免れるわけにはいくまい。しかし、十五年戦争の真の原因は閉鎖的・排外的で攻撃的だった一般の日本国民(③の部類の人々―引用者)の心性に深く根ざしていたのである」と書いている。即ち一般の日本国民の戦争責任を問題にしているのである。
(既に終戦1年後の時点で、映画監督だった伊丹万作は次のように書いていたという。「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。・・・私の知っている範囲ではおれがだましたのだと言った人間はまだ一人もいない。」「つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである」と―世界9月号・青井未帆氏の論稿)昨今の中国や北朝鮮の動きを睨み(中東・アフリカやウクライナにおける戦乱も今起きているが)「厳しい安全保障環境」に乗じて憲法解釈上、個別的自衛権はもとより集団的自衛権(他国が攻撃された場合)であっても自衛戦争(先の戦争もその名目で行われた。「自衛権」というと何か正当性があるように響くが、実態は個別的であろうと集団的だろうと「戦争」には違いない)は容認されるとする閣議決定が安倍政権の下でなされ、それをめぐって今、上記のような4つのグループに分かれつつあるように思われる。
①(安倍自民党、「維新」会・「次世代」党、民主党の一部、メディアでは読売・産経など)自衛隊と日米安保条約による軍事的「抑止力」の強化と集団的自衛権による自衛戦争の積極的肯定(安倍首相は「日本を戦争する国にはしない」「他国の戦闘には参加しない」と言いながら、戦闘地域での後方支援は認めて、攻撃されれば応戦せざるを得ないようにし、事実上、武力行使―戦争できるようにしている。そこに再戦の意思がるわけだ。)
②(公明党、民主党の一部、結の党、生活党、社民党、メディアでは朝日・毎日など)自衛隊と日米安保条約は肯定、集団的自衛権行使に対しては公明党・結の党・生活の党は慎重、民主党の一部は慎重もしくは反対、社民党は反対、朝日・毎日は反対。
③(一般大衆)①or②それとも④か?今のところ世論調査では②が一番上回っているが。
④(共産など)①に対して積極的反対―集団的自衛権はもとより日米安保条約にも反対。今回、安倍政権の閣議決定で集団的自衛権でも自衛の名目で戦争ができる法整備が行われることになったが、憲法で「戦争放棄」、国(政府)に戦争をさせないと定めたはずの日本国民はここにきて集団的自衛権の行使を容認して再び戦争を許す可能性が出てきたわけである。
今のところ、国民は③のように政府方針には慎重・反対が上回っているが、揺れ動いてどうなるか。いずれにしても決定づけるのは民意であり、後々日本国民の責任が問われることになる。いったい誰が戦争を許したのか、ということが。