米沢 長南の声なき声


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いかにして生きるか(加筆版)
2014年01月28日

 「人は何のために生まれ、何のために生きるのか」などと生きる意味がよく問われるが、「何のために」なんて問わない。生きるべくして生まれたのだから生きるしかないのだ。とにかく生きる。要はその生(人生)をどのように生き、生きがいを感じて生きるかであり、生きがいを満喫できれば「ああ、幸せ幸せ」ということになる。
 しからば、どうすれば生きがいを感じ、生を満喫できるかである。その方法は、日々、夢・目標・日課をもち、それを果たしつつ(果たせれば達成感・満足感が得られ、果たし損ねれば―しばらくは落ち込んで挫折・絶望感に囚われることもあるが、立ち直っては―再チャレンジしつつ)生きることである。
 夢・目標・日課は人それぞれ、思い思いに、どんなことでもいいわけであるが、究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」だろう。そしてそれを果たせた喜びが究極の幸福となる(極楽往生を遂げる)、というものではあるまいか。
 ALS(筋委縮性側索硬化症)など難病や事故に遭って身体が動けなくなり寝たきりの身、意識だけは保っている、そのような場合、手足を動かしてあれこれすることはできないが、口が動かず話はできなくても目・まぶたが動き、耳が聞こえるならば、支援者(介護者)が50音・数字を並べた文字盤でカナ文字や数字を指を差しながら音声を発し、療養者(患者)が伝えたい言葉に該当する字に視線を送って、それを読み取る等の方法を講じてコミュニケーションはできるし、脳は働き、あれこれ想像し、考えをめぐらせることはできる。植物人間にならないかぎり、自分が生きていることを自覚でき、生きていることを確かめ喜ぶ余地はまだある。毎日毎時間の目標・日課は唯ひたすら生き抜くこと、そして眠りにつき目をさます度に「生きている!よ~し、今日も生きるぞ!」と生きていることを確かめて喜び希望をつなげる。そうして生きているそのこと自体を喜び楽しむのだ。
 人間というものはあれこれ何かすることに価値があるのではなく、生きることそれ自体に価値がある、ということではあるまいか。
 フランクル―ナチス・ドイツ時代オーストリアの精神科医でユダヤ人強制収容所に入れられ、極限状態に置かれた人たちの有様を目の当たりにし、解放後に著した「夜と霧」―その文中に次のような意味のことが書かれている。「人生に何か(いいこと、楽しいこと)を期待して生きるのではなく、人生からこうあってほしいと期待されて生きることだ」と。
 それは、極限状態に置かれ、もはや人生に何も期待できず夢も希望もない、生きていても無意味だといって絶望して諦めるのではなく、極限状態に置かれているその人生が自分に「逆境を運命として受け入れつつ逞しく生き抜いてほしい」と期待をよせている、その期待に応えて生きるがよい、ということだろう。

 当方の場合、我が人生が自らに期待し、課し、或いは許しているのは何かといえば、それは今こうしてやっていること(ラジオ体操・歌いながらの散歩・英語・新聞・テレビ・たまに革新懇話会や友人との飲み会や小旅行・ブログで「つぶやき」と「声なき声」の発信・投稿・掃除機かけや家族の送迎・ワイン晩酌も含めて、朝起きてから寝るまでの間に、人様から見ればたわいもないことでも、日々やっている)、そのことにほかなるまい。

 人が何かに取り組み、それがうまくいって「ああ、幸せ、幸せ」とか、或いはそれを果たせて「ああ、よかった、よかった」といって達成感や満足感ひいては生きがい感・幸福感を感じるのは、実は自己満足にほかならない。
 人は誰しも、それぞれ置かれた境遇の下で、人生が己に期待あるいは課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得る。
 その目標・課題が困難をともなうものほど、また世のため人のためになり、人々から感謝され或いは共感を得られるものほど満足度は高い。
 しかし、置かれた境遇や条件(年齢、健康、カネや職や役目の有無など)によっては、世のため人のためにとは思ってもそれができず、(当方のように)自分のことしかできないとか、自分のことで精一杯であり、そういう人にとっては、満足度の低い自己満足に甘んじるしかないわけであるが、それでも自己満足できるだけ幸せであり、生きている価値があるというものだろう。当方はそれで満足している。
 今の総理大臣は偉大な(?)目標・課題を掲げてそれらに取り組み、日本国民の何十パーセントかの人々から感謝・共感(支持率)を得ているが、そうでない人(不支持)もかなりいる。その満足度は当方のそれとは比べようもないが、いずれにしろ、それは彼なりの自己満足であることには変わりないのだ。


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