米沢 長南の声なき声


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ウクライナ戦争と9条―軍事対軍事の戦争路線と不戦・非軍事の平和路線(加筆修正版)
2023年02月03日

(1)戦争が起きる要因
 戦争とは、対立する国や勢力の間で、話し合っても折り合いがつかないとか、話が通じないと決め込んだ相手に、武力によって強要して自分の要求に従わせようとし、相手もそれに武力をもって抗戦し、殺傷・破壊し合う交戦のこと。
 その要素は―
 ①対立・もめ事(紛争)があること
 ②武器・軍備―戦争手段があること
 ③武器・武力を用いて力づくで相手に自分の言い分・要求に従わせようとする意志を持つこと(そこには敵愾心・憎悪など感情が働く)、そして戦争を仕掛ける。
 ④相手も、それに対して武器を手にして武力で抗おうとする意志を持つこと(仕掛けられた事実上の宣戦布告に応じて抗戦)。
 ③と④との違いは、「先に仕掛ける」のと「仕掛けられてから迎え撃つ」のとの違いだけで、両方とも武器・軍備を用意していて戦う意志があることには変わりない。(戦略的に、相手に「仕掛けさせて」おいて、迎え撃ち反撃して打ち破るという手を使うことも、よくある。その場合「仕掛けた」方は「嵌められてしまった」ということになる―旧日本軍の真珠湾攻撃?)
 この4つがそろえば戦争になる。①だけでは(つまり対立・紛争はあっても)戦争にはならない。②(武器・軍備)③(戦争を仕掛ける意志)があっても、それに対して相手に④(応戦・抗戦の意志)がなければ戦争にはならない。つまり、仕掛けられても、応じなければ戦争にはならない。又、途中まで交戦しても、どちらか一方がやめれば戦争は収まる。但し、相手から銃を突き付けられようにして武力で威嚇され「問答無用」と一方的な要求を突き付けられて無条件に応じ従えば降伏となるわけだが、相手の一方的な要求には応じず、あくまで話し合い(協議)・交渉を求め、それに応じてもらうのであれば降伏にはならず和議・和平となる。とはいっても、武力による威嚇の下では満足のいく交渉にはならず、理不尽な要求に対しては精一杯の非暴力抵抗が必要となる。それには激しい弾圧・迫害を覚悟しなければならないが、惨害・犠牲者は出るとしても、武力抵抗(抗戦)をして戦争するよりは、ずっと抑えられるだろう。
 4つの中でも、戦争に必要不可欠な要素は②の武器・軍備(戦力・武力)があること。それがあるからこそ戦争をするのであって、それさえなければ戦争は、できないし、戦争はなくなる。①(対立・紛争)はあっても、②(武器・軍備)
など無ければ、外交交渉でよく話し合って妥協点を見出し、譲歩するところは譲歩して、fifty-fifty(50%)で歩み寄る、といったことができるが、武器・軍備があるばかりに、それに頼ってしまい、強気になって100%勝ち取らないと気が済まなくなる。
 
 日本の憲法9条2項は、戦力不保持ということで、それ(②武器・軍備)を持たないことにし、③(戦争を仕掛ける意志)など持たないことはもとより、交戦権否認つまり「戦いを交える権利」を認めないということで④(応戦・抗戦の意志)も持たない、つまり侵略戦争であれ自衛戦争であれ戦争はしないことにしている。どの国もそうすれば(軍備を全廃すれば)戦争は根絶されることになるのだが。(それを日本政府・防衛省は、憲法上「戦力」は持てないが、「自衛のための必要最小限度の実力―自衛力」なら持てるとし、交戦権は「戦いを交える権利」という意味ではなく、戦時国際法において交戦国が有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷・破壊、相手国領土の占領などの権利のことだ、などとしている。そして今やその自衛力=防衛力を増強し、世界第3位の軍事大国になろうとしている。)

 古代文明社会に入って、その武器(刀剣・矛・槍・弓矢)が発明され、それ以来、武力を支えとする権力によって統治する国家が生まれ、その武力によって他国や外敵と戦争し合うのは当たり前の時代となった。つまり、①があって②③④まであって当たり前という状態。
 それが、第1次大戦後、国際連盟規約で戦争は違法とされるようになって、必ずしも当たり前ではなくなり、不戦条約で「国際紛争を解決する手段として武力を行使し戦争すること」は禁止されることになった。そして第2次大戦後、国連憲章では違法な武力攻撃や侵略行為に対する国連の軍事制裁と当事国の自衛権行使以外は、戦争と武力行使は禁止、つまり③(武力攻撃・戦争を仕掛けること)だけが禁止され②(武器・軍備の保有)と④(武力抗戦)は容認、ということになって国々の武装・軍備の保持は存続
 そのような状態で戦争はなくなっていない。現にウクライナでは戦争中で、未だに収まっていない。

(2)ウクライナ戦争について
 ①(対立・紛争)に関しては―ロシア(旧ソ連)とNATOとのソ連時代以来の対立。ウクライナは、ソ連時代は同じ国(連邦の1構成国)だった。アメリカと西欧で結成されたNATOはソ連崩壊後、東ドイツ・ポーランドなどの東欧やソ連領(連邦構成国)だったバルト3国まで加盟・拡大してロシア国境に迫り、それにウクライナまでが加盟しようと(憲法を改正してNATOとEUへの加盟の方針を条文に追加)していた。それに対してロシアが脅威を感じていた。東欧諸国やバルト3国はロシアに対して脅威を感じてNATOに加盟したのだが、ウクライナもロシアを共通の脅威としていた。ウクライナ国内(主として東部のドンバス地方と南部のクリミア半島)にはソ連時代からロシア人が住んでいて、8年前の政変(マイダン革命)で親ロシア派の大統領が追放されたのを切っ掛けにロシア人居住地域で反乱、内戦が起き、クリミア共和国が分離独立してロシアに併合、東部のドンバス地方でも2つの人民共和国が独立を宣言し、親ロシア派武装勢力とウクライナ政府軍との間で内戦が続いていた。
 ②(武器・軍備)に関しては―ロシアは核保有国で軍事大国。ウクライナは米欧の軍事大同盟NATOに加盟しようとしていて、ロシアは、それによってウクライナにアメリカの核兵器などが配備されることを恐れていた(加盟すれば、アメリカの核弾頭搭載可能な中距離・短距離弾道ミサイルがロシアに向けて配備することが可能になってしまうから)。
 ③ロシアがウクライナのNATO加盟阻止・中立化・非軍事化を要求、NATO側から拒否されて侵攻を強行。ロシアは、東部ドンバス地方の2「人民共和国」の独立を承認したうえで、その独立を擁護するための集団的自衛権の行使だということをも侵攻理由とした。
 ④ウクライナは抗戦、アメリカやNATO諸国もそれを軍事支援―武器・兵器供与、軍事訓練・軍事情報支援も。
 このウクライナの戦争目的は、実は1年前2月に突如強行された侵攻に対して、それを撃退・排除するためという単なる抗戦ではなく、8年前(マイダン革命で)親ロシア派と見なされた大統領(ヤヌコビッチ)を追放して新たな大統領に変えた政変を切っ掛けに、東南部(ドンバス地方とクリミア半島)に多く住むロシア系住民が分離独立の動きを見せ、それに乗じてロシアはクリミア半島を併合、ドンバス地方の2州にそれぞれ「人民共和国」を起こそうとした親ロシア派勢力とそれを阻止しようとするウクライナ政府軍との間で内戦がずっと続いていたのだ。ウクライナ軍にとっては、その戦争が昨年2月から本格化したということなのであって、その戦争目的はその以前(1年前)に併合されたクリミア半島と独立した東部2州の奪還にあり、それを果たすまでは戦争は終われないということなのだ、というわけ。

 ロシアのその侵攻理由・動機はどうあれ、国連憲章など国際法上は違法な侵略行為。ウクライナ側が侵攻を招いたもなにも、違法に侵攻した方のロシアが悪い。「悪いものは悪い」。但し「法的には」だ。戦争は、どっちか一方が先に仕掛け、それに相手が応戦することによって行われ、国際法上は先に仕掛けた方が悪いことになるが、仕掛けたりしなければ戦争にはならなかったのは当たり前だが、それに対してウクライナが応戦し、NATOが武器を供与して加勢などしなければ戦争にはならなかったとも云えるわけである。

 戦時国際法(交戦法規など)は戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を定めているが、相手国兵力の殺傷・破壊そのものは交戦国が有する権利として容認。だからといって、戦争はそもそも武器を使って殺傷し合うのが当たり前だといって済まされるものではない、人命を犠牲にしてはばからない「人道上」非道の極みなのだ。交戦法規や国際人道法など残虐行為の禁止とか無差別攻撃の禁止などルールがあって、それを守ってフェアに戦いさえすればそれでよい、と云って済まされるようなものではなく、戦争そのものが非人道的なもの。「人殺しは人殺し」であり、許されていいはずはあるまい。「正義の戦い」とか「英雄」とか戦いと戦士を美化する向きもあるが、人を殺し合う戦争自体が悪なのである(ロシアの文豪トルストイのナポレオン戦争を題材とした『戦争と平和』はその立場で戦争の悲惨と不条理を描いている)。宣戦布告されても、或いは布告なしに仕掛けられても、戦争には応じてはならず、武力抗戦は避けなければならないのだ、というのが非暴力主義(ガンディーのそれはトルストイの影響を受けていた)。

 ウクライナ戦争には背景・経緯・遠因・直因・それぞれの意図・動機など様々あるようだが、そこで云えることは、ロシア・ウクライナ(それを支援する米欧NATO諸国)それぞれ互いに安全保障・自衛・防衛・攻撃抑止のためとして軍備・武力を持ち合っていること。そしてそれが互いに相手の脅威・警戒を誘っている。それが戦争の動因になっているということだ。きっかけはロシア軍による侵攻だが、それにウクライナ軍が応戦したことによって始まり、そのウクライナにNATOが武器供与など軍事支援、それに対してロシア軍が応戦・反撃、そしてまたウクライナ軍が応戦・反撃と、その応酬を繰り返している。いつ果てることもなく。どっちかが武器・弾薬が尽きるまで終わらない。物量から云えばMATO諸国の支援を得ているウクライナ軍よりも、ロシア軍の方が武器・弾薬は尽きてしまうだろう。しかし、それをカバーするためにロシア軍は核兵器を使いかねない。そうなればNATO側はアメリカが配備している核兵器で反撃、核戦争になってしまう。そこまでいかないと、この戦争は終わらないのかだ。
 要するに②の点で、兵器・武器・弾薬があるから、それを使って戦争になり、それがあるうちは戦争はやり続けるものなのだ、ということ。
 それにもう一つは、④の点で、戦い合う相手がいるから戦争になるのだということ。侵攻に対して抗戦、抗戦に対して反撃、また応戦というふうに、「やられたらやり返す」のが当たり前で、応戦するのが当たり前であるかのように思い込み(「徹底抗戦だ」の「反撃だ」のと勇み立てるが)、そうして戦わせ続ければ、戦争はエスカレートするばかりで、いつまで経っても終わらせることができなくなってしまうということ。そういったことにも気が付かなければならないのでは。

 侵攻が違法ならば国連安保理で然るべき制裁措置を講じるべきなのが、常任理事国であるロシアの拒否権でそれが機能しないし、そもそも安保理による軍事制裁の準備(国連軍の編成)が整って出動開始するまでの間は、侵攻された当事国に自衛権行使が認められているため、ウクライナが自力で抗戦して排除・撃退してもかまわないというわけだ。だからといって(国連憲章で自衛権行使が権利として容認されているからといって)、仕掛けられた戦争に対しては応戦するのが当たり前で、それが(戦わなければならない)義務なのかといえば、何が何でも自ら戦い抗戦するのが義務だというわけではあるまい
 侵攻に対して応戦するから戦争になるのであって、悲惨な戦争を避けるために敢えて武力による応戦は控えて、非軍事の対応手段(外交手段もしくは非暴力抵抗手段)をとるように国際社会(ロシア以外の国連加盟国)はウクライナを応援すべきなのであって、NATOなどが、ウクライナの抗戦に武器供与など軍事支援して戦争を長引かせエスカレートさせるようなことはしてはならないのではあるまいか(国連の中満氏・事務次長は「軍備の支援が平和への願いをつぶしてはならない」「武器の大量流入は戦闘の激化や武器拡散の懸念を高める」と安保理の公開会合で指摘)。国連事務総長やロシア以外の国連加盟国は双方に対して停戦を呼びかけ、ロシアに対しては非難・制裁を呼びかけるのはいいとしても、ウクライナには非軍事的支援のほうを呼びかけるべきなのでは・・・・と思われるのだが。

 ロシア側の要求は、思うに二つ、①ウクライナがNATOに加盟しないこと(中立・非同盟でいてくれること)、②ウクライナ東部に多いロシア系住民(人口の7割を占める2州)に自治権を与えること、のようだ。そうだとしたら、その要求にウクライナ政府・国民に応じてもらうためだからといって、何故、プーチン大統領は国連憲章など国際法を犯してまでロシア軍を侵攻させなければならなかったのか。また、それに対してウクライナ政府・国民は、何故、武力に訴えて抗戦し(戦争に応じ)なければならなかったのか、戦争をする以外にロシア軍の侵攻を食い止める方法はなかったのか(国連など国際社会も)、であり、この戦争は避けられない戦争だったのか、である。

(3)我が国の場合はどうか
 憲法の9条では①(他国と対立・紛争)はあっても戦争は「放棄」、「戦力」不保持で②(武器・軍備)も持たず、③(戦争を仕掛けること)も④(戦争に応じること)もなく戦争は一切しないというのが本来の立場。
 それにもかかわらず「自衛隊」を持ち、日米安保条約も結んで日米同盟を組み、米軍の駐留基地を置いている

 日本の自衛隊の場合は①「急迫不正の侵害」すなわち「武力攻撃が発生」した(着手された)場合で、②他に手段がない場合に、③必要最小限の実力行使ができるとされている(自衛権の発動・武力行使の3要件)。いずれにしろ武力攻撃に対して武力で応戦はできるということで、殺傷もできる(戦時国際法上の交戦国が有する権利としてではなくても、警察官と同様に刑法など国内法で業務上の正当行為として罪には問われない)。国を守るため、国民の命を守るため(という業務上の正当行為として)なら戦って敵兵を何人殺してもかまわないということ。だからといって戦争になれば、味方にも戦死者が出るし、巻き込まれた自国民の命が犠牲になることもある。
 平時の領海・領空の警備、侵犯の阻止・排除ぐらいならよくても(不審船や工作船などに対しては、対応はほとんど海上保安庁だけでも間に合っているようだが)、台湾有事や朝鮮半島有事で米軍が出撃して自衛隊が支援出動するようなことがあれば、中国軍や北朝鮮軍の反撃が日本国民の居住する島や本土にまで及び、空爆やミサイル攻撃を被ることになり大変。そのような戦争事態は避けなければならない。
 自衛隊については、1972年の政府見解では、憲法前文で確認している「平和的生存権」や13条が「生命・自由・幸福追求の権利」は国政上最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、「この自衛の措置はあくまで外国の武力攻撃によって国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫・不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として容認されるものであり、そのための必要最小限の武力行使なのだ、としている。とは言え、攻撃を仕掛けた外国軍に対して、自衛権を発動して応戦・抗戦すれば戦争(殺し合い)になるわけである。そして死傷者を出して人の命が失われる。それには個人として「最大の尊重を必要とする」国民の生命と生存権を守るためと云いながら、それが犠牲にされてしまうという矛盾が伴う。
ならば、むしろ、応戦・抗戦などしなければ国民の生命は犠牲にされずに済んで守られるのではないか。国が責任を負うのであれば、むしろその方が適切なのでは、とは考えられまいか。この場合、外国が「不正」に仕掛けた武力攻撃事態に対して「他に手段がなく」やむなく武力で応戦といっても、その「不正」「他に手段がなく」といった判断がはたして適切なのか、とかく自分よがりの恣意的な(一方的に「そうだ、それに違いない」と決めつけるなどの)判断になりがち(例えば、台湾海峡有事や朝鮮半島有事に際するアメリカ軍の日本基地からの出撃と自衛隊の出動に対する中国や北朝鮮からの反撃を「不正」と決めつけることができるのか、また「他に手段はなかった」などと言い切れるのかだ)。その結果の戦争の惨禍を考えれば、そんなことになるくらいなら、武器や軍備などむしろ無いほうが、武力手段に跳びついて武力行使にはしり、戦争になってしまうようなことがなくて済む。武力手段がなければ、それ以外の手段(非暴力の抵抗手段や非軍事の外交手段)をひたすら追求・駆使するしかなく、その方に専心するしかないということになる。ということは、武器・軍備など持つから、他の非暴力・非軍事手段をさしおいて武力行使に走り戦争になってしまうのだ、とは考えられまいか。

 いずれにしろ戦争する国や人々の意図や感情は様々あるとしても、戦争には悲惨・非人道がつきものであり、全世界の国民が平和の裡に生存する権利(平和的生存権)と生命・自由・幸福追求の権利をだいなしにするのが戦争。それだけは何としても避けなくてはならない、そいうものなのではあるまいか。

(4)戦争を招くようなことはしないに越したことはない
 日本は中国・ロシアや北朝鮮に対してどうか。侵攻や攻撃を招くようなことをしていないか。(侵攻や攻撃を仕掛ける方が悪いとしても。)
 とにかく戦争を招かないようにするためにはどうすべきかだ。
 ロシアとウクライナは互いに相手を脅威と感じ、警戒し合っている。ロシアはNATOの東方拡大が隣国さらに足元のウクライナにまで迫ってきたと。ウクライナもロシアに対して極度に脅威と感じて米欧に頼りNATO加盟を求めてきた。その結果ついに激突してあのような戦争に至っている。当初、ロシア側は戦力において圧倒的に優勢で、短期間で終わるかに思われたが、ウクライナ側の頑強な抗戦で激戦となって一年にもなろうとしている。戦死者は双方ともそれぞれ少なくとも1万人以上(2月イギリス国防省の把握ではロシア軍の方は4万~6万人)には達し、ウクライナ側には子供らを含む民間人の死者も10カ月(12月段階)で7199人という(国連高等弁務官が確認した人数で実際はもっと多い)。

 日本が中ロや北朝鮮の攻撃を招かないようにするには、先ずは自国がこれらの国の脅威にならないようにすること。(かつて日本はこれらの国に侵攻・占領し、植民地支配して脅威となってきた。)憲法9条は戦争放棄・戦力不保持を定めたことによって、これらの国に対して再び脅威とはならない(安心の供与)という国際的約束でもあった。国々は日本から侵攻される心配はくなり、逆に侵攻しても反撃され逆襲される恐れもなくなった。だからといって、日本が防備が手薄なことをいいことに侵攻すれば、違法行為に対する国連など世界中から非難を浴び、(安保理が機能せず一致した制裁措置はとれないとしても)多くの国々から制裁を被ることになり、日本に侵攻してもコスパ(費用対効果)やリスク計算上なんのメリットもなく、全く割に合わない結果にしかならない。だからそのような(憲法の通りならばの)「非軍事平和国家」の日本には侵攻はできないはずだ、と思うのだが。
 ところが、日本の歴代政権は憲法9条をよそに自衛隊の名のもとに再軍備。9条で保持を禁じられている戦力ではなく自衛のために必要最小限の「実力」であって「脅威にはならない」などといいながら、安保条約によって最強の軍事大国アメリカと軍事同盟を組んで「安保」体制を築き軍事を強化してきて、今や敵基地攻撃能力まで保有し防衛費倍増で世界第3位の軍事大国になろうとさえしている。朝鮮戦争・ベトナム戦争それにアフガニスタン紛争・イラク戦争でも米軍は日本の基地から出撃したが、今後中国や北朝鮮が台湾有事や朝鮮半島有事でアメリカから攻撃された時、その米軍は日本の基地から出撃し、それに自衛隊が加勢するとなれば、その時は日本が中国や北朝鮮から反撃を被ることになる
 つまり、日本に自衛隊があって日米同盟があるから、日本が攻撃されるのであって、自衛隊・日米同盟がないから攻撃されるのではないわけである。
 今の日本は、ひたすら攻撃を招くようなことをしている。そんな余計なことをせずに、憲法9条をひたすら守って不戦・非軍事平和国家に徹すればいいものを。その9条平和路線と岸田政権与党及び補完政党の防衛力強化・改憲路線のどちらが現実的で、どちらが悪夢なのかだ。

(5)戦争に備えて防衛力を強化するのが当たり前なのか、戦争を招かないように9条の非軍事に徹するのが当たり前なのか
 今、世界各国が武器や軍備を持つのが当たり前で、その武器・軍備でロシアのように戦争を仕掛け、或いは中国・北朝鮮のように威嚇するのが当たり前とはいわないまでも、ウクライナのように、仕掛けられたら徹底抗戦・反撃し、台湾のように受けて立つ構えを見せ、それをアメリカやNATOのように支援するのは当たり前、つまり、軍備を保持・強化して抗戦・応戦するのが当たり前で、いざとなったら戦争する覚悟を持つのが当たり前なのか。それとも、日本の憲法9条のように、そんなもの(軍備・軍事同盟)はすべて無くして恒久平和を目指すのが当たり前なのか、ということだ。

(6)米軍基地も自衛隊もない「力の空白」に乗じて侵攻してきたらどうするの?
(1)で論じたように、侵攻を仕掛けようとする気(攻撃意志)が起きるのは、まず、相手国との間に対立・紛争があってのことなのであって、それが格別ないのに、相手国が軍備・防備がない(「力の空白」だ)からといって、それだけで「侵攻しなければ」という気が起きるわけではあるまい。
 北朝鮮が日本にミサイルを向けているのは、日本に米軍基地も自衛隊も何もない「空白」だからではなく、朝鮮戦争以来アメリカとの対立・紛争があって、日本が「空白」どころかアメリカと同盟を結んで、そこに米軍基地があり、自衛隊が支援・協力関係にあるからにほかなるまい。
 国が非武装・中立・非同盟などの路線を採ると「力の空白」が生じ(防備が手薄となり)、他国の侵攻・侵略を招き易くなると論じる、それは防衛力(軍備・軍事同盟)は侵攻・攻撃の抑止力なのだという抑止論。その防衛力を保持していないと侵攻を招くというもので、憲法の9条は政権および国民の「防衛意志」の欠如をもたらす元になるというもの。要するに防衛力=武器・兵器の保持、軍備、軍事同盟を正当化し、不当(違法)な武力攻撃や侵略戦争でない限り、戦争(個別的・集団的自衛権行使の自衛戦争・制裁戦争)を肯定するもの。しかし、自衛戦争であれ制裁戦争であれ戦争には必ず殺傷・破壊の悲惨が伴う
 それに対して9条(戦力不保持、一切の戦争放棄)は、侵攻や侵略に対しては武力抵抗・抗戦ではなく、あくまで不戦を貫き、力(軍事力)を背景としない外交交渉と非暴力不服従抵抗などの非軍事手段を採るよう求めている。そのような立場を採る我々国民は、国連による違法な武力行使や侵略国に対する非難・制裁を当てにできないわけではあるまいし、今のウクライナ国民のように武器をとって戦わないからといって、諸国民の応援・非軍事支援が得られないわけではあるまい。
 それにしても非暴力抵抗というものは、なま易しいものではなく、侵略者・占領軍による武力弾圧・迫害・命の犠牲を覚悟しなければならないが、それでも抗戦して戦争に応じ、通常兵器あるいは核兵器などによって被る大量殺戮・大量破壊の惨禍に比べればまだマシ(「他国から侵略されても、武力抵抗は戦禍を大にするのみ。生き延びて心の抵抗こそ賢明かつ有効な国防策」―現川西町小松出身の元陸軍中将・遠藤三郎氏が戦後述べた言葉で、高橋寛・山形大学名誉教授著『力学と憲法9条』から引用)。



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