米沢 長南の声なき声


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「坂の上の雲」時代には水野広徳も
2011年12月18日

「坂の上の雲」の原作者・司馬遼太郎は生前、「戦争賛美」の誤解が生まれることを懸念して、その映像化を拒んでいたという。それにもかかわらずNHKは映像化し放映し続けているわけである。
 ところで、この物語の主人公は秋山兄弟であるが、同時期・同郷人(松山出身)に水野広徳という人物がいる。秋山弟(真之)より7歳下で、秋山にあこがれ海軍軍人となった。日露戦争当時は海軍中尉で、真之と戦艦(「初瀬」)に同乗していたこともあり、日本海海戦では水雷艇長として武勲をあげている。
 (以下は、静岡県立大学・前坂俊之教授の「水野広徳」に関するウェブサイトとNHK「その時歴史は動いた」を参考)

 水野は、日露戦争が終わった(1905年)後に書き著した「此一戦」(当時ベストセラーになる)に、「軍隊はいかに国民を守る存在であるか」と訴えていた。そして「小国の富は畢竟大国の餌、これを防ぐは軍国主義にあり」などと、軍国主義と帝国主義を正当化していた。
 1916年第一次大戦中ヨーロッパ視察
 1918年秋山真之の病死に際して「中央公論」に追悼文
 1919第一次大戦が終結した後、2度目のヨーロッパ視察旅行、戦場を見て周り、近代戦のすさまじい破壊力による都市の惨状や市民の苦しみを目の当りにして衝撃を受け、「国家とは国民を守るために存在するのではなかったか。然るに実際は軍隊があることが国民に犠牲を強いているのではないか」と疑問を抱くようになった。
そのあげく「戦争を防ぎ戦争をさくる途は各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」という考えに達し、「国を守るためには軍備は必要ないのだ」という軍備撤廃主義者へと変わった。
 1920年海軍大臣への帰朝報告―「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と(自伝『剣を解く』)。
彼は海軍大佐にまでなっていたが、25年6ヵ月の軍人生活に終止符を打ち、ジャーナリストに転身した。

 水野は欧州大戦の「その凶暴なる破壊、残忍なる殺戮の跡を見て、僕は人道的良心より戦争を否認せざるを得なかった」のだと。
 そして、「ヨーロッパと違い、木造と紙でできた家屋が密集する日本の都市は空襲にはひとたまりもない。日露戦争は第一次大戦と比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの。ところが日露戦争に勝って、おごる軍部は近代戦の恐ろしさを知らない。・・・日本は戦うべからず」と論じて、「軍国主義者から180度転換して反戦平和主義者となった」(前坂)のである。
 1923年、加藤友三郎首相がアメリカを仮想敵国とする新国防方針を決めると、これに対して、日米戦を徹底分析し、「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰塵に帰す。戦争は長期化し、国力・経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にないと予想、日米戦うべからず」と警告した(その予言は的中している)。
 1931年、満州事変が置き、全国の新聞の多くが「満州国」建国を共同声明で歓迎したが、水野はそれを批判、満州問題は日米戦争に発展し日本は敗れ甚大な被害を被ると指摘。
 水野は軍縮論・国際協調論を展開、「中央公論」や「改造」に寄稿し、「軍人は戦争を好むが故に、動もすれば総ての国家機関を戦争の目的に供せんとする」「軍閥、国を亡ぼす」と論じた。
 しかし、1930年、日米戦争の仮想物語「興亡の此一戦」など著書は発禁処分、講演活動も右翼に襲われたりして、彼の言論活動は封殺されていった。
 1932年、小冊子(『僕の平和運動に就いて』)に「日本は今世界の四面楚歌裡に在る。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる・・・・世に平和主義者を以て、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の今の日本に於いて、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と。
 1937年、海軍大臣に公開質問状―「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」と。(しかし黙殺さる。)
 1941年2月、情報局の出した執筆禁止リストに載せられ、一切の発表の場を奪われる。
 1943年、郷里の愛媛県越智郡津倉島に療養疎開。
 1945年8月16日、同友・松下への手紙に「日本において最も緊急を要するもの、国民の頭の切り換えであります。まず第一に神がかりの迷信を打破すること・・・」と。
 同年10月18日、死去(享年71)

 水野が書き残した膨大な原稿の中には「時代から理解されなくても、同じ過ちを繰り返してはならないと訴え続けることが必要だ」とのメッセージが書き連ねられていた。
 そして晩年に書き残した言葉には「反逆児、知己を百年の後に待つ」と。


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