(1)堀尾輝久・東大名誉教授(教育学)の説―『世界』5月号より
憲法9条の「戦争放棄」は制定当時首相だった幣原喜重郎(戦前、第一次大戦後は1921年のワシントン軍縮条約の代表であり、外相として戦争違法化の運動、その結果でもあるパリ不戦条約を熟知し、戦争拡大に反対して下野していた)の発案だったという。そのことは幣原自身の回想や、「あれは幣原だった」とする当時の幾人かの証言、マッカーサーの米国上院での証言及び回顧録(その中に幣原が、その提案をマッカーサーに申し出た時、顔を涙でくしゃくしゃにしながら「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後に私たちは予言者とよばれますよ」と言っていたと書かれてある)に書かれていることなどからそう言われるが、それを裏付ける資料を発見したと。
その資料とは高柳賢三・マッカーサー元帥の往復書簡である。
高柳賢三とは、岸信介首相当時の自民党政府もとで改憲のためにつくられた憲法調査会の会長を務め、憲法制定過程を検証し報告書をまとめた責任者である。
高柳は憲法調査会の会長として、憲法の成立過程に関わったアメリカ人を訪ね、確かな事実を突き詰めようとしたが、マッカーサーとの接触はままならず、応答は会見によってではなく文書によるものであった。それだけによく準備され、焦点のはっきりした質問と明快な回答は貴重な証拠資料と見なされる、と堀尾教授は書いている。教授は最近、国会図書館の憲政資料室で、その原文の手紙(高柳・マッカーサー往復書簡)を見つけ出すことができたのだという。
それによれば、高柳の質問、「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」という単刀直入な質問にたいして、マッカーサーは回答で「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原首相が行ったのです。・・・・わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました。」
1946年(2月国務大臣松本試案がだされるもマッカーサーが却下、GHQ案を日本政府に提示、4月17日政府原案・公表、以後枢密院に次いで帝国議会で審議、10月まで修正可決、11月3日公布)この間3月27日、幣原首相、戦争委員会の開会挨拶で「かくのごとき憲法の規定は現在世界各国いずれの憲法にもその例を見ないのでありまして・・・・戦争を放棄するというようなことは、夢の理想だと考える人があるかもしれませぬ」。しかし「原爆よりも更に強力な破壊的新兵器も出現するであろうとき、軍隊をもつことは無駄なことだ」と。
片やマッカーサーは、4月5日、連合国対日理事会の開会での冒頭挨拶で参加各国にこう訴えている。「国策の手段として戦争が完全に間違いであることを身に染みて知った国民の上にたつ日本政府が為したこの提案は、実際に戦争を相互に防止するには国際的な社会、政治道徳のより高次の法を発展させることを認めるものです」「したがって私は戦争放棄に対する日本の提案を、全世界の人々が深く考慮することを提案するものです」。国際連合の目標は「偉大なもの」ですが、「その目標も、日本がこの憲法によって一方的におこなうことを宣言した戦争する権利の放棄を、まさしくすべての国が行ったときにはじめて実現されるのです」と。
次期大統領に立候補する気でいたマッカーサーにとっては占領統治を是非とも成功させなければならない、その手段として何より必要とされたのは、徳川など歴代の日本の統治者がとってきたやり方すなわち天皇制を象徴天皇として存続させることであって、それを日本国憲法の第1条とし、9条に幣原の提案に基づいて「戦争放棄・戦力の不保持・国の交戦権否認」を明記することは、ソ連など連合軍諸国だけでなく米国の世論でも天皇の責任を問う意見が強かった当時の国際世論を説得する切り札として必要だったのだ。
「戦争放棄」は幣原の発案であり、それをマッカーサーがそれを受け容れたということだとしても、この憲法制定には、それが連合軍の占領下でおこなわれたということ自体、その状況からして、そこに強制性があったことは否定し難い。
しかし、だからといって、それは「押しつけ憲法」だから、それを廃して「自主憲法」を制定しなければならない、などという主張は短絡的に過ぎよう。
(2)柄谷行人・哲学者の説―岩波新書『憲法の無意識』および6月14日朝日新聞掲載の同氏インタビュー記事から
戦争の忌避や厭戦には、戦争でおこなったことに対する反省(意識的な罪悪感)から来るものと、無意識的な罪悪感から来るものとがあると考えられるが、日本人が9条(戦争放棄)を受け容れたのは後者の要素が強い、という。柄谷氏はそれを心理学者のフロイトの学説を用いて論じている。
そのフロイト心理学説とは、人間を行動に向かわせる無意識の衝動(欲動)には「生の欲動(生きようとする自己保存欲動と子孫を残そうとする性の欲動で、動物的本能でもる)」と「死の欲動(死にたいという気持ちに駆られる衝動で、自分(有機体)を無(無機)の状態に回帰させようとする破壊・攻撃欲動―動物のように弱肉強食の生存競争で自分が生き抜くために他を攻撃する攻撃本能とは違う)」とがあり、後者(「死の欲動」「攻撃欲動」)は、それがマゾヒズム的に自分に向かう場合は自虐・自傷・自殺ということにもなるが、それが転じてサディズム的に外に向かうと、他者に対する攻撃・破壊になり戦争ともなる。それが何かを契機に抑えられて(外部の力、攻撃相手からの反撃によって制圧されて)、攻撃欲動を断念せざるを得なくなり、「死の欲動」は再び内に向けられる。そのとき無意識のうちに(「超自我」即ち自我を超えた)良心(例えば「人は殺してはならない。戦って人を殺すくらいなら、戦わずに死にたい」といったかたちで不戦の倫理的態度)が生じる。超自我とは自分の意識を超えて(親や周囲の大人によって、とはいっても家庭や学校・メディアその他で意図的に教え込まれてではなく、親の背中をみて育つように、いつのまにか知らぬ間に身に着いた)社会道徳や良心に無意識的に従おうとする倫理的な態度のこと。(文化と同様に世代の差を超えて伝わる。それは意識的に伝えることができないのと同様に、意識的に取り除くこともできない。)
アジア・太平洋戦争で、日本は連合国に敗れた。そしてその占領下にいやおうなしに新憲法を制定し、9条を定めた。
柄谷氏は「9条が作られたのは、日本人の深い反省・自発的な意志によってではありません。外部からの押しつけです。しかし、だからこそ、それはその後に、(無意識のうちに―引用者)深く定着した」のだと。
尚、マッカーサーにとっては、憲法1条こそが重要で、9条は副次的なものでしかなかった。だから、朝鮮戦争の勃発とともに、その改定(再軍備―引用者)を迫ったのです。ところが、その時点では、9条が日本人にとって深い意味をもつようになっていたのです。それは、9条が『無意識の罪悪感』とつながるようになったことを意味します。おそらく、吉田首相がマッカーサーの要請を断った時点では、それが明白になっていたはずです。」
「9条はアメリカの占領軍によって強制されたとはいっても、それは日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント(1795年『永遠平和のために』―そこでの平和とは、単なる休戦条約で戦争をしていない状態にすぎないような平和ではなく、戦争をもたらす一切の敵対状態がなくなることを意味する平和で、それを諸国家の連合によって創出するという構想)以来の理念が入っていた。草案を作った人たちが、自国の憲法にそう書き込みたかったであろうものを、日本の憲法に書き込んだのだ。もしも日本人が「自発的」に憲法を作っていたら、9条はないのみならず、多くの点で明治憲法とあまり変わらないものとなっただろう。
確かに憲法9条には、戦争を忌避する強い倫理的な意思がある。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではない。9条は明らかに、占領軍の強制によるもの。(だから、真の自主的な憲法を新たに作ろうという人たちが戦後ずっといたし、今もいる。)ところが、日本人はそれを自主的に受け入れた。それは、大多数の国民の間に、あの戦争体験が生きていたからだ。
強制した当のアメリカ国家はまもなく当初の戦略を改めて、日本に改憲を要求した。ところが日本人はそれに従わなかった。この9条は、後から日本人によって「内発的」に選ばれたというべきもの。だから変えられないのである。そういう日本人にとっては、この憲法9条は占領軍によって強制された(「押し付けられた」)ものというよりは、むしろ贈与され、授かったというべきもの(柄谷氏は「9条における戦争放棄は国際社会に向けられた純粋贈与である」と)。この9条は日本人にとって、まったく外来ものというわけではない。実は、それは「徳川の平和」への回帰なのだ、と柄谷氏はいう。
それは、南北朝の動乱~応仁の乱~戦国時代~秀吉の朝鮮侵略へと続いた400年に及ぶ戦乱に終止符を打った、その戦後の徳川体制(武力によってではなく、法と礼による統治と鎖国政策)の下で、どの身分・階層も戦争と無縁な時代が250年以上も続いたことをいい、それが開国とそれに伴う動乱によって崩れ、明治政府の富国強兵政策の下で日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争へと突き進み、そのあげくの敗戦、連合国による占領下に戦後・現行の憲法体制がスタートした。占領軍による強制とはいえ、それは、まさに「徳川の平和(パクストクガワ―ナ)への回帰」にほかならず、日本人にとっては既に馴染みの伝統文化であり、だから抵抗なく受け入れられた、というわけ。(「自衛隊員は、徳川の武士に似ていて、彼らは兵士にして兵士にあらず、或いは兵士ではないが、兵士である」というわけだ。)「日本人はドイツ人に比べて歴史的な(或いは理性的な)反省に欠けている(意識的な罪悪感が希薄)といわれることがあります。確かに『意識』のレベルではそういってもいいでしょう。しかし、憲法9条のようなものはドイツにはありません。憲法9条が示すのは、日本人の強い『無意識の罪悪感』です。それは一種の脅迫神経症です。」「日本人に戦争に対する罪悪感があるとしても、それは意識的なものではない。・・・・もしそれが意識的な反省によるものであったなら、(気が変わったからと)9条はとうの昔に放棄されたでしょう。意識を変えるのはたやすいことだからです。教育・宣伝その他で、人々の意識を変えることができる。それなのに、日本では、なぜか9条を変えることができないのだ。」 日本人の戦争への嫌悪感・拒絶反応は身体と心の奥底から湧き上がってくる理屈抜きの感覚・情念であり、占領軍の9条(戦争放棄)強制を(反発せずに、むしろ贈与として)無意識的に受け入れ(間もなくして突きつけられた再軍備要請は拒否して)自主的に定着させた。
9条は解釈改憲が行われて形だけの条項になりつつある。が「形」はあくまで残る。それを残したままでは軍事行動は(やったりすれば訴訟だらけになるから)できないのだ。それをできるようにするためには変えるほかない。しかし、変えられない。なぜなら、9条は意識の問題ではなく、無意識の問題だからだ。それを意識的な操作で変えることはできない。「世論は変わる、私の力で変えてみせる」と政治家はいくら思っても、その相手は「無意識」なのだから変えようがないのだ。
人や政党を選ぶ(議員を選出する)選挙ならば、その者(候補者・政党)の憲法や9条に対する考え方(改憲派か護憲派か)だけでなく、それ以外の様々な考えや政策・公約、力量・信頼性など総合的にイメージ・評価して議員やリーダーとして適任かどうかという判断になり、争点を特定したとしても、(今回の参院選のように)改憲問題ははずしてアベノミクスなど他に争点をずらせば、結果的に「改憲派」が3分の2議席を制することはできる。しかし、改憲そのものを特定し争点として賛否を問う国民投票となると、投票率は高くなるし、そう簡単にはいかず、柄谷氏は「改憲はどだい無理」なのだという。
柄谷氏は「9条は、それによって日本が単に戦争と武力を放棄させられたというものではなく、日本から世界に向けられた贈与なのであり、贈与には強い力がある。日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第二次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになるだろう。それによって国連はカントの理念に近づくことになる」というわけである。
それには憲法9条を(形の上で護るだけでなく、文字通り)実行すること。そして、それを国連総会で表明すること。そうすれば、日本はすぐに常任理事国になれる。現在の常任理事国が反対しても、多数が賛成して国連総会で承認されるだろう、というわけ。
憲法9条は非現実的であるといわれ、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調されるが、最もリアリスティックなやり方は、憲法9条を掲げ、かつ、それを実行しようとすること。9条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為なのだ、と。
9条を文字通り実行するということは、戦争はしない、戦力(軍備)は持たない、武力行使はしないとうことだ。「軍備を持たずに、どこかに攻められたらどうするのか」。阿刀田高氏(作家、2010年当時日本ペンクラブ会長―全国革新懇ニュース4月号インタビューに)いわく「『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力を全部やる。やり尽くすべきだと思います」と。これは「死の欲動」でも、超自我(良心)に従い、人を殺すくらいなら、戦わずして死んだ方がましだとして、他者への攻撃欲動には向かわず、自死を選ぶ、ということだろう(但し、そこで言わんとしていることは、自殺の肯定ではなく、あくまで人殺し・暴力・戦争の否定であり、攻撃欲動の断念と良心・倫理性への「こだわり」なのだ)。
超自我は、内にある「死の欲動」が、外に向けられて攻撃欲動に転じた後、さらに内に向けられたときに生じる(その超自我は外部から来たように見えるが、内なる「死の欲動」すなわち内部から来るもの)。
(「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動(攻撃欲動―引用者)の断念が、その結果として生まれると考えがちであるが、それでは倫理性の由来が不明なままである。実際には、その逆で、最初の欲動(攻撃欲動)の断念は外部の力によって強制されたものであり、その欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」)
確かに憲法9条には、戦争を忌避する強い倫理的な意思がある。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではなく、明らかに、占領軍の強制によるもの。なのに、日本人はそれを自主的に受け入れた。それは、大多数の国民の間に、あの戦争体験と敗戦による攻撃欲動の断念から超自我(良心)が生じ、それがさらに欲動の断念を求めていたからである。
(柄谷氏は又、カント的な普遍的な理念が、他ならぬ日本において制度として定着したと考えているが、それも日本人の意思あるいは理想主義によるものではなく、それはむしろ、日本が侵略戦争を行ったことを通して、さらに占領軍による強制を通して実現されたのだと。)「憲法9条は日本人の集団的な超自我」。日本人のその超自我は、戦争の後、その9条の戦争を禁止する条項(不戦平和主義―引用者)として形成されたと言える、と柄谷氏がいうのは、具体的には阿刀田氏の「応戦して人を殺すくらいなら、戦わずして死んだ方がまし」ということにほかならないのではあるまいか。
不戦平和主義は決して、マッカーサーに「戦争放棄」を提案した幣原首相の「夢想家といわれかもしれない」理想主義によるものではなく、日本人の深層心理として実存する「死の欲動」に根ざすリアリスティックなものなのだ。