米沢 長南の声なき声


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憲法は国家ではなく国民のためのもの
2006年01月17日

憲法とは権力者を従わせるもの 憲法とは、国家が国民にたいして「・・・すべし」とか「・・・すべからず」などと訓(さとし)命じて、国民を従わせるためのものではなく、国民が自らの権利を、権力による侵害や強者・多数者の横暴から守るために、権力に縛りをかけ、権力担当者・強者・多数者を従わせるためのものである。それが立憲主義という近代憲法の考え方なのである。(明治憲法起草の中心人物である伊藤博文でさえ、そもそも憲法を設ける趣旨は君権を制限し人民の権利を保全することだと云っていたという。衆議院憲法調査会の事務局がまとめた文章―『世界は「前文」をどう作っているか』―には「近代以降の憲法は、国の権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とするものであり、今日では、この立憲的意味の憲法こそが『憲法』と称するにふさわしいものであると一般的に考えられています」と。)

憲法の制定主体は国民 憲法は国民のものであり、国民のためのものである。日本国憲法の前文や9条の文章は「日本国民は」とか「われらは」で始まっており、国民が制定主体になっている。(前文には「日本国民は・・・われらとわれらの子孫のために・・・この憲法を確定する」とあり、9条には「日本国民は・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は・・・永久にこれを放棄する」とある。)

 99条は憲法尊重擁護義務を定めているが、その義務は誰に課しているのかといえば、それは「天皇または摂政および国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員」となっている。このように、憲法とは、国民に守らせるためのものというよりかも、国家機関・権力担当者・公務員に守らせるためのものなのである。従ってそこには、政府や公務員の責務・義務規定は多くあっても、国民の義務・責務の定めが少ないのは当然のことである。

権利か、義務か よく、子供や若者にたいして、「自由や権利ばかり主張して責任や義務を負おうとしない」といって口説く向きがある。自民党の新憲法草案は、あたかもその感覚で、前文に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し・・・」と書きこみ、12条には「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益および公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」などと書きこんでいる。(これに先だつ同党の改憲案要綱には「国防の責務」「家庭保護の責務」も書きこんでいた。)しかし、「自由には責任が伴い、権利には義務が伴う。さもないと単なる我儘になってしまう。我儘はいけない」などということは、大人が子供に教えておかなければならない当たり前の常識ではあるが、憲法は大人である一般国民にたいしてそんなことをわざわざさとし示したり命じたりする筋合いのものではないのであって、国民にとって最も切実なのは自由と権利が権力によって侵害されないこと、人権を保障することを定めることなのである。

権力を掌中にしている自民党にとっては、憲法は、国民がその権力に服して国家を「愛情をもって」支え守り公益と秩序に従う義務を国民に課するものであるべきだと考えるのだろうが、国民が憲法に求めるものは、そのようなことではなく、あくまで国家権力による侵害と強者の横暴から国民の自由・権利を守ることなのである。

ただ、現行憲法は12条に「国民は、これ(自由・権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と定めているが、その場合の国民とは主として(大企業やマスコミなど)強者・多数者のことであり、彼らの権利の濫用から一個人・弱者・少数派の人権を保全する責任を負うことを、強者・多数者に課したものと考えるべきである。13条にある「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、・・・」という限定は、自分の権利が侵害されてはならないのと同様に他人の権利を侵害してはならないということであるが、それはどちらかといえば、強者・多数者が気をつけるべきことで、侵害されても自力では抗しきれず泣き寝入りするしかないような無力な弱者・少数派の権利を侵害してはならないということだと考えるべきなのである。なぜなら、強者や権力側にいる多数者などは、わざわざ保護しなくても権利が侵害される心配はなく、むしろ彼らは権利を濫用して弱者・少数派の人々の権利を侵害することの方が心配されるからである。

 ところが、自民党が「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益および公の秩序に反しないように」と書くとき、それは現行憲法12条の「公共の福祉のために」とは逆で、「公益」とは、それを公益と判断する政府を推し立て支持している者たち(大企業・恵まれた人たち)にとっての利益であり、「公の秩序」とは、彼ら(大企業・恵まれた人たち)の財産と権利・権力を保障している秩序のことで、その秩序に反しないように、国民は権利を行使する責務を負うといって、その責務を国民に課しているのである。それにたいして現行憲法は強者(大企業・有産階級・マスメディアなど)に対して、その自由と権利の濫用・横暴を禁じ、その活動成果・財産利得を公共の福祉のために利用する責任を課しているのである。

 現行憲法は、国民には勤労・教育・納税という三大義務を課している以外には国民の義務規定はなく、国民に対する禁止は自由・権利の濫用(他人の人権の侵害)の禁止と児童酷使の禁止以外はない。また、国民の責任については、自由・権利は国民の不断の努力によって保持するとともに公共の福祉のために利用する責任を負う、ということ以外には書かれていない。あとは専ら、国と天皇・内閣・国会・裁判所その他の公務員、公共団体・宗教団体などに対する禁止規定、任務・権限・義務・責任規定と、保障すべき国民の権利が定められているだけ。憲法とはそういうものなのである。

憲法は権力に縛りをかけるもの 要するに、憲法とは、国家が国民の権利を縛るもの(国民行為規範)ではなく、主権者である国民が国家の権力に縛りをかけるもの(権力制限規範)なのである。とりわけ現行憲法は、それが世界でも最も徹底しているところは第9条に見られる。戦争は国家権力による最悪の人権侵害をもたらすが、9条は、日本の国家が軍隊をもち、戦争を発動し、国民を戦争に動員することも、交戦権も禁じ、政府に不戦を義務づけているのである。ということは、平和的手段による安全保障を義務づけているのである。そして国民にたいして兵役を課したり、国防の義務を課したりしないこととしたのである。なぜそのようなことを定めたかといえば、それは先の大戦で、戦争は「自存自衛のため」であろうと「アジア解放のため」であろうと(太平洋戦争はそれらの名目でおこなわれたのだが)悲惨と喪失しか生まないということを、ドイツなどとともに幾千万という世界史上最悪の大量死・大量破壊をもたらしたことによって、当時多くの日本人が思い知ったからである。

 ところが今、改憲によって、国家の戦争に対するその縛りをはずしてしまおうとしている。それ以外にも、政教分離の緩和(靖国神社の参拝など、社会的儀礼の範囲内ならば公人の宗教的活動も許される)など国家や権力に対する縛り(規制)を緩めるか、はずしてしまおうとしているのである。そして、権力制限規範であるべき憲法を、逆に「公益および公の秩序に反しないように」などと(反戦・政治的ビラ配布など)市民運動を規制できるようにし、国民に責任・義務を守らせるものへと転化して国民行為規範の側面を強め、権力の座にある者が自分たちのやり易いように権力規制を緩和し、逆に国民の自由・権利の方を縛ろうとしているところに改憲の本質があるのである。

 尚、自民党の改憲草案は、現行憲法が、憲法改正には衆参各議院の総議員の「3分の2以上の賛成」を要するとして厳しくしているのを、「過半数の賛成」があればよい、というふうにハードルを下げて改憲しやすくしている。このように、憲法改正の要件を緩めるということは、過半数を制している政府与党や多数派が自分に都合のいいように改憲することを可能とするものであるが、そのことも、憲法がそもそも権力を制限する規範であり、多数者によっても奪えない個人の自由や権利を守るものであるという憲法の性格を変質させてしまう要因となるわけである。


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