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2005年01月25日

NHK番組編集への圧力問題に思う

 報道の自由とは真実以外に何ものにも縛られないということであり、また教育の自由とは真理以外の何ものにも縛られないということであって、いずれも政治権力から自由でなければならないということである。これらは国民に知る権利を保障し、学習権を保障するということでもある。

 公共放送の教育番組といい、公教育といい、それらは国家が国民を教化・教導する手段ではないのであって、国民が真実・真理を知り学ぶ手段なのである。

 公共放送や公教育の「公正中立」とは、(例えば天動説と地動説を)政治的・イデオロギー的に左右どちらかに偏することなくバランスをとって放送するとか教えるということではなく、真実・真理に忠実であってそこからかけ離れてはならないということであろう。

 こうした立場にたって行われるべき放送や教育にたいして、政治家あるいは彼らに釈明する放送局側がその政治的見地から「公平性・中立性」を守るとか「偏らない」と論評するのは、「公正中立」をはきちがえている。

 また、政権党議員を主として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などという団体が結成されていること自体、学校で歴史教育にたずさわった分には圧力を感じてしまうが、それは私だけなのだろうか。

2005年02月02日

「歌うのが当然」という強制

 法律で、「君が代」を国歌とし、「日の丸」を国旗とする、とは決まっていても、卒業式・入学式で歌い掲げるべしとは決まってはいないはず。小渕前首相や天皇の発言によっても、強制はすべきでない、とされている。

 卒業式・入学式で何を歌い、何を掲げるかは、それぞれの学校の教師と子どもたちが決めるべきものであって、教育行政当局が指図したり、校長が独断で決めたりする筋合いのものではない。それが民主主義というもの。また、 憲法(思想・良心の自由)・教育基本法(教育は不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負って行われるべきもの)に従うのが法治国家の教育というもの。「日の丸」「君が代」には歴史があり、そこにこめられている意味のとらえ方によって人それぞれの思い(心情)が異なり、その表現(それを大きな声量で歌うか歌わないか、頭を下げるか下げないか)にも、人によって違いがあるのが当然。それを、「大きな声で歌いなさい」などと全員に従わせようとするのは強制であり、人の心(良心や心情)を傷つけるものである、と私は思うのですが、どうでしょうか。

2005年02月05日

ブッシュ大統領の言う「自由」とは

 大統領は、「平和は過激主義が育つ環境を一掃することによってのみ達成される」と言っておきながら、「圧制とテロの台頭を防ぎ、憎悪を希望に置き換える唯一の力は、人類の自由の力だ」と言うのみで、「欠乏からの自由」には一言も言及していない。

 それに、「自由の力」というが、大統領の言う「自由」とは「力の自由」であり武力行使の自由であって、それは「テロの自由」にもなってしまう。 「自由」を奉じてイラクに侵攻し、フセイン政権を潰滅させた。それを「解放軍」として迎えた向きもあったが、米軍の攻撃で家族が殺され家を失った人々は、恩義よりも怨念、ひいては復讐心をもつ。それが反米武装勢力となりテロリストとなる。かつてナポレオンは「自由」を掲げてヨーロッパを制覇し、当初は解放軍として民衆から歓迎されたものの、やがて敵視されるようになり諸国民から追い払われた。

 アメリカは「自由」を掲げてベトナムに侵攻したが、やはり追い払われたのではなかったか。

2005年03月04日

前文の戦争の反省は自虐的か?

 第9条(戦争放棄、交戦権否認)は、いったいなぜそのように定めたのか。
 それは、前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように・・・・
この憲法を確定する」とあるところから明らかなように、原爆の洗礼をうけ現代戦争の破滅的結果を身をもって知ったことと、自国民310万人もの犠牲者をだしたこと。そして何よりも、東アジア諸国に犠牲者2000万人以上といわれる未曾有の惨害をもたらしたことにたいする痛切なる反省からにほかならないだろう。それで日本国民は政府にその過ちを二度と繰り返させてはならないと。
 ところがそれを前官房長官は(衆議院憲法調査会で)「自虐的だ」として前文の全面改定を主張されたそうであるが、本当にそういうものなのか、被害国であるアジア諸国民はどう思っているのか、「信義」に反することにならないのか、そこのところをよく確かめた上でなければ、むやみに改憲するようなことがあってはならないと思うのだが。

2005年03月05日

非軍事安全保障とは

 軍備を持たずに、どうやって我が国の安全を確保するのかといえば、それは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文、以下同じ)国連の集団安全保障によって保持する、ということ。
 それ故にこそ、自らも諸国民から信頼されるように国際信義を守ることに努め、不再戦の国際公約に反するような政策をとらないようにしなければならないのである。
 それに、「国際社会において名誉ある地位を占め」るべく、「ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」全世界の国民にたいして国際貢献に努めなければならない。ただしそれは、あくまで非軍事的貢献でなければならず、紛争の和平仲介に尽力することとともに、人々の間に憎悪や敵対心を醸成する欠乏と生活不安を取り除く紛争予防のための経済開発援助などの貢献である。
 要するに、敵をつくらず、すべての国の人々を味方にするということである。それこそが、いちばん確実な安全保障なのではないだろうか。

2005年04月01日

山形県議会議長殿―戦争を美化する教科書不採択請願

 先日県議会で、ある問題を積極的に取り上げた教科書の採択を求める請願が採択された。議会がそのような請願を採択するのであれば、私は次のような請願をしたい。
 「戦後60年、戦争の悲惨にたいする記憶が薄れ、それを体験的に知る世代が少なくなってきた今、その記憶を、次代を担う子どもたちに正しく伝え、あのような悲惨が二度と繰り返されないようにし、子どもたちが世界のどの国民とも仲良く平和の世に暮らしていけるようにするうえで歴史教育は極めて重要なものとなっている。
 ところが、その記憶の薄れに乗じて、ある種のイデオロギーからその戦争を肯定し、教科書から、それが近隣諸国民に与えかつそれによって自国民が被った悲惨な事実を「自虐史観だ」と称して意図的に省き、戦争を正当化・美化するような教科書が出版されている。
 そのような教科書で歴史教育が行われたのでは、60年以前に国民が被ったあの悲劇(第二次大戦での本県戦没者は約3万3200人)、近隣諸国民に与えたあの惨害を子どもたちの前途に再び呼び込む結果になりかねない。
 よってそのような教科書は、山形県内各校の使用教科書として、くれぐれも採択しないようにすることを請願いたします。」

常任理事国となる上で改憲は?

 政府は今、我が国が国連の安保理事国に加わる意思を表明している。それが認められるうえで、平和憲法の改変は、アメリカがそれを望ましいとしているが、中国や韓国などアジア諸国は否定的である。
 一方のアメリカは「日本がもし国連の安全保障理事国入りをしたいのであれば、九条を変えることを考えなさい」(パウウェル前国務長官)と云っているのに対して、他方は「日本は自衛隊の海外派兵の法的根拠を準備し、再軍備論議を活発に進めている。我々の苦しい過去を思い出させ、未来を不安にさせている。」「日本が普通の国家を越えてアジアと世界の秩序を主導する国家になろうとするならば・・・確固たる平和国家として国際社会の信頼を回復しなければならない」(ノムヒョン大統領)というわけである。
そこで、我が国が加盟国の3分の2以上の賛成を得て安保理事国入りを果たすには、アメリカが望むように九条を変える方向でいくのがよいか、それとも九条を守る方向でいくのがよいか、である。

2005年04月13日

近隣諸国が日本に求めているのは?

このところの隣国における「反日」激化に対して我が国では様々なことが言われている。
政府は「未来志向で、これからの友好を」とか、「冷静な対応を」とか、過去の戦争や植民地支配に対する反省とお詫びの「立場は変わっていない」と言い、デモ被害には毅然と対応し謝罪・賠償を要求したという。マスコミ等では、反日は「愛国主義教育」のせいだとか、対日ジェラシーやライバル意識のせいだとか、政府に対する不満の「ガス抜き」だとか、隣国の側に問題があるからだといった論評が多く、「反日」に対して「反中」「嫌中」感情の高まり、ナショナリズムの衝突が論じられる。これらの指摘はいずれももっともなことではある。
 しかし、それだけでは何ら事態の根本的な解決にはならないであろう。
 そもそも近隣諸国民が日本に求めているのは何なのか。それは、過去の加害事実を曖昧にしたり否認したりせずに、その加害行為を二度と繰り返さないようにと定めた憲法の保証(いわば国際公約でもある)を守ることにほかなるまい。問われているのは我が国がその保証・公約をきちんと果たしているのかであろう。

近隣諸国の我が国に対する危機感

 隣国における反日の激化にたいして様々な論評がなされているが、事の本質は果たして何なのかである。
そもそも近隣諸国民が日本に求めているのは、過去の加害事実を曖昧にしたり否認したりせずにその加害行為を二度と繰り返さない、という確かな保障であろう。日本国憲法の戦争放棄条項は国際公約ともいうべきものであり、まさにその保証であったはず。
 しかし今や、改憲によってその保証が取り消されつつあり、日本はアメリカを後ろ楯にしながら再びアジアの覇権国家として蘇りつつある、と受け取られる状況になってきていることである。日の丸・君が代の強制や教育基本法改変による忠君愛国教育の復活的動きとともに、戦争と植民地支配を肯定する歴史教科書の公認、戦争肯定を含意する靖国神社への首相参拝、そして国連常任理事国入り表明。これらはいずれも、その懸念と結びつくわけである。日本に対して近隣諸国民は、それら一つ一つに危機感を覚えるのではないだろうか。

2005年04月17日

中国と何とかして和解を

 私が在職した高校は天津市のある学校と姉妹校を結んで生徒を派遣し合っておりますが、それが断絶してしまいかねない日中関係の情勢悪化を心配しております。
 反日激化の原因・背景は、日本と中国、どちらかといえば、我が国では中国国内の方に愛国教育など様々な問題が指摘されていますが、いずれにしても中国における今回のデモ騒ぎの結果は、中国にとってマイナスとなり、日本人の「反中」「嫌中」感情を強めてしまったうえ、中国側が問題にしている歴史問題など肝心の事が日本人にとっては「そんなことを問題にする方がおかしい」「それよりもそっちの方が問題だ」という結果なってしまっているということ。一方日本側にとってのマイナスは、根強い反日感情はますます払拭するのが難しくなってしまっているということ。
姉妹校である両校の生徒が、この後戦い合うなどということのないように、両国が和解すべく勇断されるよう、首相をはじめ政治家の方々に願うばかりです。

2005年04月18日

自らの非を正す率直さを

 中国の反日激化について、このところ我が国では「反中」感情が高まり、問題は日本よりもむしろ中国側にあると云わんばかりに愛国主義教育や民衆不満のガス抜きなど中国政府のやり方を問題にする様々な指摘がなされている。それらの批判や指摘は当を得たものかもしれない。
 しかし我々は「ひと」の事をとやかく言うのはほどほどにして(先方から見れば「そんな事は余計なお世話だ」「問題のすりかえだ」となり、感情を逆なですることになるから)、中国側がかねてから問題にし、日本側に訴えてきた問題を正面から受け止め、戦犯を合祀する靖国神社への首相参拝も、侵略肯定教科書の公認も不適切であることを認めて、それらをやめさせることに意を注ぐべきなのではないか。日本では、首相をはじめ、それらのことは歴史認識とは別問題だと強弁する向きがあるが、そのような言い分には無理があり、それが不適切であることは否定できないし、それらをやめないということは、反省し詫びたはずの過去の侵略をその実依然として肯定していると受け取られ、それは許しがたいことだとならざるをえないからである。
 われわれ日本人には、「悪い事は悪い」と認めてそれを正す率直さ・潔さが必要であり、「悪くない」「間違っていない」と強弁する頑固さや意固地よりも、その方がむしろ世界からも信頼が得られるのではないか。それは、相手に譲歩するとか、弱腰だとか、単なる面子の問題ではなく、そうすることこそが、何より、両国民和解の根本的な解決法だからである。

2005年04月23日

それとこれとは別か?

 隣国の反日激化の沈静化に苦渋し、首相がジャカルタに集まった各国首脳を前に過去の侵略に「反省とお詫び」の言葉を述べたそのやさきに、国会議員が大挙して靖国を参拝した。
 その政治家たちは参拝批判に対して「それ(戦争の肯定)とこれとは別だ」と言って受け流すか突っぱねる。
 しかし、靖国といい、歴史教科書といい、それらの問題は教育基本法・憲法の改変と底流でつながっている一連の動きとして見られるもので、特に憲法の9条は、近隣諸国にとっては、安全保障上、侵略の再発防止の保証をなすものであるが、肝心のその「戦力不保持・交戦権否認」が削除されるという一大事に関わるものなのであって、単に過去にとらわれているだとか日本の国内問題だといって済まされるような問題ではないのである。
 言葉と行動を使い分け、相手の神経を逆なでするようなことはもうやめるべきだ。

2005年06月01日

戦争被害各国に追悼碑を

 かつて日本軍から侵略され犠牲を被ったアジア近隣諸国民に配慮して、A級戦犯を合祀する靖国神社への首相参拝を控えるだけではなく、また自国に戦没者追悼施設を設けるだけではなくて、日本軍が侵略した各国に戦没者追悼碑を建ててはいかがなものでしょうか。勿論それぞれの国の意向と儀礼にそくして然るべき場所に建てるのである。そこには、その国の遺族や国民が訪れて追悼する。そしてその国を我が国の首相なり要人が訪問する際に、そこを訪れて追悼の誠を捧げ、不戦を誓う。それは諸国民とも納得できるものではないだろうか。そしてそれを通じて諸国民との和解・友好をはかるのである。
 戦後60年という画期にあたって一記念事業としてこういったことも考えてみてよいのでは。このさい我々は、自国の戦没者の追悼にこだわるだけでなく、日本軍から侵略された諸国の戦没者・犠牲者の追悼にこだわるべきなのではあるまいか。

2005年06月06日

戦争にたいする民族的責任

 戦後60年にあたって、戦争責任を国民皆で考えてみては如何なものでしょうか。当時の国家指導者・戦争推進者、加担・協力した一般兵士・一般国民、その遺族。これらのうち戦死者・刑死者・その他亡くなられた方々は、もはや責任のとりようがないわけですが、その遺族すなわち現在生きているこの私も含めた全国民が民族的責任として引き継ぐべきものがあるのではないでしょうか。

 被害諸国民にたいする戦争責任には、戦死・刑死など死をもって償うものと、賠償・補         償、それに二度と繰り返さないという約束を守り続けることの3つがあります。賠償等は、いわゆる戦後処理として、政府間では既に済んだとされていますが、個人補償を訴えている被害者は未だたくさんいます。「二度と繰り返さない」という約束にあたるもの、それは憲法9条にほかならないわけですが、それを守ることこそが、今後引き続き日本国民に求められる民族的責任なのではないでしょうか。改憲はその責任を放棄することを意味し、被害諸国民にとっては大問題なわけです。

 これらの観点から、この際戦争責任を国民皆で考えてみるべきなのではないでしょうか。        

参拝で被害諸国民の「心」は?

 首相は靖国参拝を、「私の信条から発する参拝」「他の国が干渉すべきことではない」と言われる。しかし、同神社は単なる追悼施設ではなく、戦死を讃える顕彰施設なのです。神社の当事者は我が国の近代以降の対外戦争をすべて正当なものとし、戦犯裁判の判決を不当としてA級戦犯の合祀を正当化しているのです。そこへ参拝することは、客観的には、侵略の加害責任を否定することを意味します。侵略され多くが殺された被害諸国民から見れば、動員され命令に従っただけの一般の戦死者をその遺族や戦友がそれぞれの思いで参拝する分には目をつむっても、そこに首相が参拝するとなると、それは、日本の国家として、侵略の推進者・加担者を免罪・容認するものと見なされ、道義にもとる非礼この上もない行為として看過できず、苦情を訴えてくるのはむしろ当然ということになるでしょう。

 参拝は「心の問題」といって、自分の心は晴れるのかもしれないが、それで傷つく被害国の遺族の方々の心はどうなるのでしょうか。被害国民にたいして「反省とお詫び」を口では言っても、心の中でベロを出していると受け取られざるをえないでしょう。

2005年06月10日

靖国の首相参拝の客観的意味

「『靖国』は心のよりどころ」「戦争指導者は裁かれても犯罪者にはあらず」「ひたすら御霊の安らぐことを」とか、「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いをする」とか、人それぞれの思いはあろう。しかし、靖国神社に参拝するとなると、それには客観的な格別の意味が付け加わる。その神社の客観的な歴史的役割からみて、また現在の神社当局が公表しているところから見ても、そこは、我が国の近代以降の対外戦争はすべて正当だとしてその戦死者を讃え祀る顕彰施設なのだ、ということ。そこを首相が参拝するということは、主観的にはどうあれ、それは、かの戦争を肯定し、戦犯までも讃えて敬意と感謝を表することを、日本の国家が認めることを意味する。日本軍によってむごい殺され方をした被害者の遺族たちの心は、それによって傷つき、耐え難いものとなるだろう。

それは確かに日本国民自身の問題には違いないが、それは日本国民が戦争の加害責任をどう思っているのかが問われているのだということであり、どう思おうとそれは勝手だというわけにはいかない問題なのである。

2005年06月18日

首相参拝には、やはり配慮を

 私の父は復員してどうにか帰ってきましたが、4人の叔父が戦死しました。肉親が国のために犠牲になって靖国に祀られているその遺族の方々の、首相に参拝に来てほしいという気持はわからないではない。しかし国の内外には、そこに祀られていない数多くの戦没者がおられるのだということです。戦災にあわれて亡くなられ、国から遺族年金など補償は一切なく、お悔み一つとしてもらっていない方々は沢山おられます。それに日本軍から侵略されたアジア諸国には遙かに多くの犠牲者がおられるのです。その遺族たちは、日本の首相に、何をさしおいてもその国へ追悼に来てほしいと思っているのでは。その方々のことも考えるべきなのではないでしょうか。首相にわざわざ参拝に来てもらうとすれば、罪無き人々を殺した側の顕彰施設と謂われもなく殺された側の追悼施設のどちらに来てもらわなければならないのか、と考える人もいるのです。

2005年07月01日

大陸へも追悼慰霊に

 戦没者追悼は、自国内で自国民にたいしてだけでなく、海外で、自国民のみならず他国民にたいしても行うべきだろうと思うのです。
 小泉首相は、過日、現職首相としては初めて硫黄島を訪れ、慰霊碑に手を合わせてこられた。また、天皇・皇后両陛下も初めてサイパンへ慰霊に行ってこられた。両陛下は、これまで硫黄島・沖縄・広島・長崎、そして大空襲のあった東京へと赴かれ、それは「慰霊の旅」と称されている。サイパン島には日本と現地政府が合同で建てた戦没者慰霊碑があり、慰霊の対象は中部太平洋海域で戦没した人々で、国籍は限定されていない。この碑の他に、両陛下は現地島民・米軍人・沖縄県出身者・韓国人それぞれの碑を回って慰霊してこられたという。
 それにつけても、戦没者が圧倒的に多いのは中国です。首相は、そこへも慰霊に行ってきてくれればよいものを、と思わずにはいられません。「相手国が抵抗感をあまり持たずに受け入れるか」という心配はあるでしょうが、とにかく、そこへ行って碑の前でひざまずき頭を垂れてくることなのです(もうずっと前に、ドイツのブラント首相がポーランドを訪れてそうしたように)。

2005年07月04日

東条氏の見解に対する疑問

 東条氏(元首相の孫)が民放テレビの異なる番組に出演して語られた話を2度聞きましたが、その見解は、「あの戦争は自衛戦争であり、それを犯罪として裁いた東京裁判は不当」「濁流のような大きな流れにあって、戦争を止めようとしたが、できなかった」「天皇を守るため、責めを一身に負って処刑されたことは名誉」「サンフランシスコ条約11条は『判決』を受け入れることを認めたものであって、『裁判』そのものを認めたわけではない」「昭和28年の国会決議で『戦犯』扱いは解かれた」というもの。

 しかしこれらは、いずれも国際社会では(日本人の勝手な解釈・独断だとして)通用せず、国内でも、それは受け入れ難いという人たちは(東条陸相の戦陣訓を守って捕虜となることを拒んで集団自殺をしたサイパンや沖縄の人たちをはじめ)沢山おられます。

 氏は、「国内では天皇と国民に対して責任はあるが、国際的には罪人ではない」といい、中国をはじめアジア諸国民に対する責任には一言も触れられていない。そして靖国神社は、彼ら「敵国」犠牲者、それに同国民でも民間人戦没者は祀ってはいないのである。これらの点はどうなのでしょうか。

【テレビ朝日・サンデープロジェクトにメール】7月3日のサンプロに疑問

第一部「東条英機の孫語る」

 東条由布子氏の見解

①まず、「あの戦争は自衛戦争」だと―アジア・太平洋各地へのあの侵攻・占領が自衛戦争なのか?あれが、正当防衛として許され、侵害を遮止・排除するために必要な範囲内の武力行使なのか?なるほど東条元首相もヒトラーも、自ら起こした戦争を「自存自衛」の戦争と云っていた。よくもまあぬけぬけと。しかしヒットラー曰く。「大衆は小さな嘘より大きな嘘に引っかかる」と。その言葉は真理だろう。今ここで元首相の孫のお方から、再び「あれは自衛戦争だ」と、こうもはっきり云われると、すっかり真に受けてしまう視聴者は少なくないだろう。

②「濁流のような大きな流れにあって、戦争を止めようとしが、できなかった」と―しかし、東条陸相は一貫して強硬派であり、慎重派の近衛首相に対して「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と云って対米開戦に踏み切ることを説き、内閣の総辞職を要求した。天皇は、「毒をもって毒を制す」との進言に応じて「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だね」といって、その東条を後継首相に任命したのであった。しかし東条も天皇も結局開戦に踏み切ったわけである。また、1945年2月に、近衛が和平を上奏したのに、東条は戦争続行を主張し、天皇は近衛の和平意見を退けた。この時、近衛の意見に賛成していれば東京大空襲も、沖縄戦も、原爆も、なくて済んだのではないか?戦争は止めようと思えば止められたのに。

③「東京裁判は、それまでの国際法にはなかった事後法で裁いた不当裁判」だと―確かにこの裁判にはなにかと不備や不公平があったことは事実であるが、だからといって、その不備や法の盲点(それまでの国際法には、適用すべき規定がないなど)につけこんで罪を免れようとするわけか?

④「天皇をお守りするために、責めを一身に背負って処刑されたことは名誉」だと―悲劇のヒーローというわけか?

⑤「サンフランシスコ条約11条は(東京裁判の)諸判決を日本側が受け入れることを認めたもので、裁判そのものを認めたものではない」と―ということは、処刑にはいさぎよく服するが、罪は認めないということであって、罪なくして死んでいくことを甘受したまでだ、というわけか?

⑥「昭和28年の国会決議で『戦犯』扱いは解かれ、閣議決定で『公務死』ということになった」と―日本の国会や政府がそう決めたからといって、それが、中国をはじめ旧連合国など国際社会に通用すると思うのか?

⑦「日本人の死生観は、大将であろうが一兵卒であろうが、亡くなれば差別はなく、すべてが神様になる。指導者(A級戦犯)だからいけないとか、いいとかいうのは日本の精神文化にはない」と―しかし靖国神社には、敵側戦死者は勿論のこと、何の罪もない一般の民間人戦没者は一切合祀されていないし、それは、国家の政治的意図に基づくものではあっても、日本の伝統的な精神文化とか、死生観などに基づくとはいえないのでは?

 氏の、これらの見解に対して、田原氏はうなずいて肯定するばかりか、補強さえしている。「昭和天皇は『もし戦争を無理に止めたりしたら、格子戸の付いた所に入れられて自分は全く関係なくなってしまい、もっとひどい戦争になっただろう』とおっしゃっているが、東条さんも、そういう気持がおありになったのか」だとか、「マッカーサーも、日本は(ABCD包囲網や石油禁輸にあい)『自衛』のために戦争せざるを得なかったと証言していますね」などと。

 桜井氏は氏の話の感想を訊かれて、「現代に生きる侍の生き残り」「感動しました」と答え、高野氏も「感動した」と答えている。

 しかし、この方は、「国内では、天皇にたいし、国民にたいし、国土を焦土に化した責任はあるが、国際的には罪人ではない」といって、中国をはじめアジア諸国民に対する責任には一言も言及していない。それは、東条元首相・陸相からして、自己の責任のことは、天皇に対してと、自国民に対しての責任だけで、侵攻して戦争をした相手国の犠牲者・被災者に対する責任には(「俘虜虐待等の人道問題については至極遺憾であり、それは軍の一部の不心得によるものだが、彼らに規律を徹底させられなかったのは、一人自分の責任だ」と云っている以外は)一切言及がないのと同じである。(花山信勝著「平和の発見―巣鴨の生と死の記録」朝日新聞社)

 そして、孫の東条氏は自分が味わった辛い思いは語られたが、アジア諸国の犠牲者(2000万人)の遺族、そして自国民戦没者(310万人)の遺族、その中には東条陸相の戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」を真に受けて、捕虜となるのを拒んで集団自決したサイパンや沖縄の住民戦没者の遺族もおり、それぞれに辛く悲しい思いがあるのである。靖国に合祀されている軍人・軍属でも、赤紙一枚でかりだされた兵隊、台湾人・朝鮮人兵士の遺族など、その思いは格別のものがあり、中には指導者とともに合祀されていることに違和感を覚え、或は異民族の宗教施設に勝手に祀られていることに耐え難い屈辱を覚え、裁判訴訟をおこしている遺族もいるのである。

 番組は、これらのことも考慮を払うべきである。

 氏のこの番組への出演と発言は極めて大きな影響力をもつだろう。これによって世論は、靖国参拝と扶桑社版教科書への支持に大きく傾くに違いないでしょう。 

第二部「反日、歴史認識・・・」の討論

 司会の田原氏のほかメンバーは5人、うち中国人は一人だけ(それも日本の某私立大学に職を得ている方)。2人はともに保守系の国会議員、それに桜井氏と、いずれも反中右派系論者である。あとの一人は高野氏。

 民主党の松原氏は、中国の、教師の指導マニュアルなるものを取り上げ、それは中国の子どもたちの心に日本への怨みを植えつけようとするものであり、その反日教育は、中国共産党政権に対する国内の不満を反日に転化するためのものだと論じている。(中国人の側からすれば、このような発言は、自国側の非を認めたがらず、自国に対して向けられている反日の矛先を中国共産党政権への批判に転化しようとするものだ、となるだろう。)

自民党の西川氏は、日本の教科書は、中国や韓国側の視点で書かれていると。(自国側の一方的な視点に立った記述ではなく、相手国側の視点を加えることも必要なことなのに)

 桜井氏は日中戦争の中国側の死者の数が、戦後数年おきにかさ上げされていると指摘。田原氏は、そのことに対して抗議していない日本の外務省の非を突いている。(調査の進展によって数が増えるのはあり得ないことではないし、3500万人という数字は「死者」の数ではなく「死傷者」の数であるはず。また、先方に抗議する前に、日本側がその根拠となる確かなデータを自分で調べ、国内外に明らかにすべきであるのに)

 日本政府は何回も謝罪しているが、謝罪のあとで閣僚の中に、それを打ち消すような発言がされることについて、田原氏は、その閣僚はクビになっていることを強調。(しかし小泉首相になってからは、だれもクビにはなっていないし、首相も、自ら謝罪の言葉を発しておきながら、それとは両立し得ない靖国参拝をやめようとしてないのに)

今回の当番組は第1・2部とも、一方に偏し、非常にアンフェアな感は否めません。この局が、NHKのような過ちをおかさないようにしていただきたいし、特定教科書の採択に手を貸すようなことはしないようにしていただきたい。次回にでも今回の不公平をならす措置を講じていただければ幸いです。

2005年07月15日

なんという恥さらし

 中山文科相は講演で、従軍慰安婦問題に関する自らの発言に対して一学生から寄せられたメールを紹介したという。「(慰安婦は)戦地にある不安定な男の心をなだめ、一定の休息と秩序をもたらした存在と考えれば、プライドを持って取り組むことが出来る職業だったという言い方も出来る」というメールで、大臣は「感銘を受けた」と。

 この学生は、実態をよく知った上で、また、当時、婦女売買禁止条約があったことなども承知の上で、このようなことを記したのだろうか。当時「軍慰安所従業婦」などの言葉はあったし、慰安所に連れて行かれて人身拘束され、相手を拒むことが出来ない状態で身体を買われてもて遊ばれる、という実態は厳然として存在した。兵隊たちはそのお陰で心の休息を得、規律を犯さずに済んだ、というわけか。この学生ならば、もし自分が、慰安婦になっていたら、お国の兵隊さんために、「プライドを持って」取り組んだかもしれないが、当時日本人女性であっても、「プライドを持って・・・」などという者が、果たしていただろうか。まして外国人女性が、である。

 早速、中韓両国外務省から非難がきて、「恥知らずな発言」だと。

だいたい、歴史教育でも従軍慰安婦問題をきちんと取り上げて教えないから、この学生のような性道徳に無感覚な日本人が生まれるのではないのか。

2005年07月19日

我が家に「九条の会」発会宣言

 「九条の会」といえば、全国でいちばん最初に発会した大江健三郎氏や井上ひさし氏らの会があります。今年は当市にもそれができ、入会しました。それはそれとして、独自に我が家だけの「九条の会」をこのたび発会することにいたしました。それは、他の「九条の会」と連帯しつつも、たとえ我が家だけでも「九条」を守り抜くのだという気構え(主体性)を意味します。改憲の激しい動きに対して九条を守り抜くということは、世界史的な意義をもちますが、その世界史的な事業(運動)に主体的に参加するということなわけです。

 私どものこうした考えは何から発しているかといえば、それは、イデオロギーや政治的意図からではなく、感情からにほかなりません。すなわち、改憲を言い募る者たちの、歴史にたいする無反省と野望を合理化しようとする卑怯さ・ずるさに対する反感、それに、我が子・孫たちをこの先戦争の犠牲にされてたまるかという思いとともに戦争犠牲者とその遺族たちを可愛そうに思う、その感情からなのです。

 ここに、我が家の「九条の会」発会を宣言するしだいです。

【解説】
「世界史的な事業への主体的な参加」ということについては、一つには、インド独立の指導者ネルーの、次のような言葉がある。「毎日のパンやバターのこと、子どもの世話、また暮らし向きのことなど、さまざまなことが心を煩わせる。しかし、いったん時が来て、人々が大きな目標をつかみ、それに確信を持つようになると、どんな単純な、平凡な人たちでも英雄になり、歴史は動き始め、大きな時代の変わり目がやってくる。・・・・歴史を読むことは楽しみだ。だが、それよりももっと心をひき、興味があるのは、歴史をつくることに参加することだ。」

もう一つに、経済同友会の品川正治氏の、次のような言葉がある。「この九条を本当に守った場合には、世界史的な役割を果たすことになります。・・・ベルリンの壁の崩壊に匹敵する世界史的な出来事になるでしょう。・・・日米同盟の体制も変わります。日中韓を含めたアジアの変わり方、ひいては世界全体の変わり方は想像できないほど大きいでしょう。そういう世界を自分の子どもや孫たちに残したい。」(6月18日「損保9条の会」結成講演会での記念講演)

 「改憲を言い募る者たちの卑怯さ・ずるさ」とは次のようなことである。即ち、他国に大軍を派遣して戦争・占領し、あるいは国を併合・植民地支配して、何百万何千万という人々を犠牲にしておきながら、それを「侵略戦争」とは、はっきり認めず、いったいどっちが被害国で、どっちが加害国なのかわからないかのように言いつくろい、正当化さえしていること。また、降伏して、諸条件を受け入れ、戦犯裁判に服し、新憲法を制定して戦争と戦力を放棄したと思いきや、後になってから、あれは「押し付けだ」といって反故にしようとする。アジア諸国にたいしては、何回も謝罪したと言っておきながら、片方では謝罪の言葉とは裏腹な言動をしてはばからない。そして、超大国に対しては、「寄らば大樹」で、基地の提供も、自衛隊の協力もおしまず、いつも言いなりで追従ばかりしている。その卑屈さ・卑怯さ・狡さのことなのである。

2005年07月29日

16年前の若者の訴えは今も

「毎年夏になると、テレビでは原爆や空襲など戦争を扱った番組が増える。しかし、その中で日本の中国侵略を扱ったものは少ない。なぜ日本人はアジア侵略の事実に触れようとしないのだろうか。加害者意識をけろりと忘れる一方、原爆を引き合いに出して平和を説くこの風潮・・・」これは、16年前の8月、本紙に投稿された横浜市の高校生の投書で、その4年後出版された高校政経副読本に載っていたものだ。私は、たまたまこの副読本の頁をめくったら、これが目に留まった。読んでみると、私がこのところずうっと思っていることと同じことが書いてある。そうだ、今もそのとおりだ、とつくづく思う。メディアも歴史教科書も、自国民の被害・悲劇だけでなく、日本から侵略をうけた諸国民の悲惨にもっと目をむけ、加害事実をもっと取り上げて、その実態を国民や生徒に知らせるべきだ。なぜなら、我が国は今、アジア諸国から少なからず反感を買っており、国際社会から充分信頼されているとは言えない状況にあるが、それは、日本人が自分たちの国がしてきたことをよく解っていないと思われているからに相違ない、そのことを痛感するからだ。


【解説】

16年前の一高校生の投書というのは、1989年8月13日朝日新聞の投書欄に「なぜ教えない」という題名で載った、横浜市、高校生16歳、宮岡江都子さんのもの。

 高校政経副読本というのは、1993年東京学習出版社が出した「なるほどワイド政経1993」。

 7月中に、新聞には、8月中放映されるNHKと民放テレビの終戦・被爆特集番組が紹介されているが、そこに挙げられている番組を見てみると、中国などの被害国側の悲惨の実態や悲劇を取り上げたものは一つもない。

 尚、当方は、6月中に、新聞各社にたいして、「アジア太平洋戦争の加害実態の特集企画を」という次のような要望を出したりもしている。


戦争といえば、原爆や空襲などの戦災、敗戦と、日本人には被害意識の方がつよくて、アジア近隣諸国にたいする加害意識が薄い向きがあり、日本人には、中国人や韓国人は、いったいどうしてそんなに歴史や日本の首相の神社参拝にこだわるのかよく解らない、といった状況があるように思われます。そこには、彼我の間に戦争や植民地支配の被害と加害の感覚・意識に大きなギャップがあって、「人の足を踏んだ者は、踏まれた人の痛みが解らない」という日本人の感覚の鈍さがあり、その上、日本人には加害事実にたいする歴史認識の乏しさがあるのではないでしょうか。

 日本人には、もっと歴史と加害の実態をよく知り、被害国民の痛みの程がわかるような努力が必要な気がします。

 そこでこの際、戦後60周年にあたって、各メディアがアジア太平洋戦争の特集を組んで、その加害実態を我々国民に詳しく教えてもらえるような企画はないものでしょうか。日本人は中国や朝鮮半島、東南アジア各国で、はたして何をしたのか。それによって各国民はどのような被害をどれだけ被ったのか、国別の人的物的被害の数量と被害状況を実態調査してまとめ、紙面に公表してもらえれば、我々国民の認識不足克服に大きく資するというものではないでしょうか。

 是非、このような我が国の戦争と植民地支配の加害実態が、われわれ国民に解るように各国別にデータと具体的状況をまとめて教えていただくような企画を組んでいただくよう要望いたします。

2005年08月12日

朝まで生テレビ―「帝国軍人があの戦争のすべてを語る」(第二弾)に疑問

 元軍人、陸海それぞれ5人ずつ。うち陸軍の二人だけが兵卒で、あとは下士官と将校。いずれも戦場で戦い、或は現場で働いた方々で、幸運にも生きて帰れはしたが、その辛酸と苦難は並たいていのものではなかった、とは思う。

しかし、よく考えてみると、この方々は、大方は陸や海の戦場で敵兵・敵機・敵艦と遭遇して戦闘にたずさわったか、或は本土や島で敵を迎え撃とうとして待機していた方々ばかりで、侵攻し占領した都市や村で住民や人民と直に接して関わりあったという現場経験は(シベリアに抑留された方と七三一部隊におられた方はともかくとして)格別無い方々ばかりのようであったということ。したがって、この方々は、戦闘以外には、相手国の人民に対する加害行為などは何もなかったという立場の方々ばかりのようで、どなたにも加害意識は見られず、その点の反省を語られた人は(「七三一」の方を除いて)誰もおられなかったということ。

「アメリカは、野蛮にも、戦闘能力のないものに対して機銃掃射をやったりしたが、日本は白旗を掲げている敵艦を撃つようなことはしなかった」と語られた方がいた―真珠湾で錨をおろして停泊している艦隊に奇襲をかけたこと等は度外視している―が、田原氏が「中国の人たちの話を聞くと、日本はアメリカよりも、もっとひどいことをしたと言いますが?」と問いかけると、その方は「それは、陸軍さんはどうだったかわかりませんが、海軍はそういうことはしません」と言われた。たしかに、海軍は主として太平洋の海の戦場でアメリカ軍を相手に戦ったのだろうし、都市や村の住民や人民を相手にしたのは陸軍であったろう。もう一人の方は、日本軍は内地には43万人しかおらず、1050万もの将兵は大陸と太平洋に散らばっていたと言っておられたが、その大部分は中国をはじめとする大陸の都市や村で住民・人民を相手にしたのである。帝国軍人はそこで彼らに何をしてきたのかが問題なのではないか?

これらの方々が語っていることは、結局、日本に無理難題(アメリカの「ハル・ノート」のことで、中国やインドシナから手を引けというもの。中国人民などからすればむしろ当然の要求なのだが、日本はそれを突っぱねた)を突きつけて戦争を仕向け、「勝てば官軍」で一方的に戦犯裁判を押し付けたアメリカなど連合国側の方が悪いのであって、日本側には誰にも罪は無く、(ドイツの力を過信したとか、ソ連を信用したのが間違いだったとか、手を広げ過ぎたとか、引き方を誤ったなど)戦略を誤った上層部と、無謀な作戦を、反対を押し切って強行した軍司令官に非はあっても、すべてのことは、国を思う気持で、あの時はそうするしか選択肢がなく、或はそれが最良の方法だと思って、皆よかれと思ってやったことなのだ、という話になっている。

それから、最後の締めくくりで田原氏が、「平和はだいじ。しかし平和を守るには安全保障が要る。戦後の日本人にはそこが抜けたんだ、と皆さんは言いたいんでしょ」と云われたが、それには非常に引っかかった。それは、まるで、先だって自民党が出した「新憲法草案」が、現行憲法の「戦争放棄」に変えて「安全保障」としていることを正当づけて言われたものと受けとられた。

以上の点で疑問を感じました。いかがなものでしょうか?

2005年08月17日

アジアの人たちの悲劇も取り上げて

 16年も前、本紙に「なぜ教えない」という投稿で、「毎年夏になると、テレビでは原爆や空襲など戦争を扱った番組が増える。しかし、その中で日本の中国侵略を扱ったものは少ない。なぜ、日本人は、アジア侵略の事実に触れようとはしないのだろうか。」と指摘していた高校生がいた。

 今年は、戦後60周年ということで、この夏はいつも以上に戦争関連番組が放映された。

ところが、それらを見ると、やはり自国の悲劇を扱ったものばかりで、アジアの人たちの悲劇を正面から扱ったものは一つもない。ずうっとこうなのだ。

 こういう流し方をされると、いやおうなしに、日本人は被害者としか意識されなくなる。とかく、戦争責任に無頓着な向きが多くなっている原因は、このような番組の流し方にもあるような気がしてならない。

 私が勤めた学校では、毎年、修学旅行の広島行きをひかえて全校映画教室がおこなわれ、原爆や戦争映画が上映されたが、時には中国映画の「南京1937」なども上映された。生徒の中には、感想文に日本軍人に扮した俳優を大根役者などと酷評した者もいたが、しっかり見ていたように思う。

 テレビは被侵略国側の悲劇をもきちんと取り上げ、歴史教科書もこれらをはずすようなことをしないようにすべきなのではないだろうか。

2005年08月18日

戦争の被害者と加害者

 民放のあるテレビ局の戦後60年特別企画「ヒロシマ」を見たが、その中に、原爆開発にたずさわり広島上空から「きのこ雲」を自ら撮影したというハロルド・アグニュー博士が出演していた。彼は来日して広島を訪れたが、そこで、「『罪なき民間人』というが、それは違う。戦時中は誰もが戦争に貢献をしていた。罪なき人はいない」と述べた。しかし、原爆資料館を見学すると、そこでは、説明を聞きながら「ひどい話だ」を連発していた。その後二人の被爆者の方と面会し、話を交わしているうちに、被爆者の方から「謝ってほしい」という言葉が出た。すると博士は「私は謝らない。リメンバー・パールハーバー、謝るのはそちらの方だ」と言ったものだ。被爆者の方はくやしくて残念でしかたないという面持ち。

 それを見て私は考え込んでしまった。アメリカ人でさえ、日本人はあくまで加害者なのだと思っている。ましてや中国人・韓国人などアジアの人たちはなおさらだろう。

 番組の中で筑紫哲也氏は「戦争の被害者の気持を加害者の方が思いやるというのは、とても難しい」と述べていたが、日本人が中国・韓国などアジア諸国の被害者の方々を思いやるのは、やはり難しいことなのだろうか。

2005年08月19日

近現代を教えないのは暗黙の了解?

 8月15日、NHKの大型討論番組「これからの日本―歴史認識」があった。そこで、日本では近現代をちょっとしか教えない、その理由を町村外相(前文相)は、「一つには、最初から真面目にやり過ぎてるということもあるんですが、逆に、近現代をやるためには先生の思想性が問われるからなんですよ。教員組合の人たちは、どっちかというとマルクス=レーニン主義的な教え方をしたがる。教育委員会・文部省は、それは困るという。したがって、だいたい江戸時代で終わるようにして、近現代はさわらない。これが暗黙の了解なんです。これは事実なんです」と語った。私はまさかとは思ったが、日本人と他のアジアの人たちが多数集まったスタジオ内からざわめきの声は聞かれたものの、一人の日本人年輩者から「大臣は正直なことをおっしゃった」という同調意見があっただけで、異論・反論はなかった。大臣のこの発言が本当だとしたら、一体何ということだ。

私自身は、私立高校で、教師なりたての頃はともかく、また受験にとらわれている生徒には教えにくいことはあったが、それ以外には近現代は時間をかけて教えたつもりだし、文部省と教員組合との間で暗黙の了解があったとは夢にも思わなかった。

これは聞き捨てならない事だ。

2005年09月06日

資本の論理か、生活者の論理か

 「大きな変革の時代」、「世の中の激しい変化」、「グローバルスタンダードの中で生き抜く」などと、このところ専ら資本の論理で、非情な弱肉強食の市場競争社会へ向かうのが時代の流れでもあるかのように、はなからそれを肯定し、それを前提にして郵政民営化など「改革」を論じる向きが勢いを得ている。いわく、「競争原理を導入することでサービスは向上する」と。しかし、それはきれいごと。例えば国鉄が民営化してできたJR。そこにはローカル線廃止などの問題もあるが、利潤確保のための乗客獲得競争・効率優先・過密運行・過酷な労務管理など、それが脱線転覆の大惨事をもたらす結果になったといわれる。

 時代は資本の論理・価値観よりも、生活者の論理・価値観を求めており、むしろシンプルライフとかスローライフ、「もったいない」を合い言葉とする持続可能な世界をめざす生き方こそが時代の要求なのであって、公共セクター(公社)を廃して何もかも市場セクター(民間資本)に委ねてしまうというやり方ではなく、市民セクター(NPO)も含めて、それぞれの特性・役割を発揮できるようにすることこそが、いま我が国に求められている改革なのではないでしょうか。

2005年09月07日

何を基準にして投票するか

 今回の国政選挙を、私は次のように考えて投票するつもりです。

 まずもって、自分の日々の暮らしと子や孫たちの将来はどうなるのか、死活に関わる問題を考えて投票します。だから、郵政など特定の政策の是非だけでなく、或は政権党とそのトップリーダーとして力と勢いがあって頼もしそうな政党・政治家か否かだけでもなく、またマニフェスト(公約)に何を掲げているかだけでもなくて、あくまで、政党・政治家のその基本的な考え方(政治理念、歴史観・戦争観も)と政策はどうかで投票したいと思います。すなわち、社会格差が拡大し二極化しているなかで、金か地位か才覚に恵まれた者の立場にたった考え方をするか、それとも、そうしたものに恵まれない庶民の立場にたった考え方をするかを基本にして、その政治家は憲法・年金・税金・雇用・外交・政治献金・諸改革などそれぞれどう考えているのか、例えば郵政民営化問題にしても、いったい誰の立場に立ってそれを考えているのか、恵まれた者の立場か庶民の立場か、どっちの立場に立って論じているのか、などを総合的に判断して投票しようと思っていますが、いかがなものでしょうか。

民もいろいろ

 「国の借金、国民一人当たり600万円」などと一くくりにして論じ、大企業・大銀行と中小零細業者、高額所得者と低所得者とでは立場が全く違うのに、「改革」によって皆同じ恩恵や痛みをこうむるかのような説き方がされるが、恩恵をこうむるのは限られた者たちで、庶民の大多数は痛みだけが押し付けられる、というのが実態。そもそも、財政赤字をつくった主要な原因は大型公共事業と軍事費なのであって、それらは大企業やアメリカのためのもので、大多数の庶民にとっては不要不急で余計な借金。そのつけは、法人税が安くされ優遇されていて手元に余った金が何十兆円とある大企業・高額所得者たちが負えばよいのであって、消費税など庶民が押し付けられる筋合いのものではない。庶民の大多数にとっては、大型公共事業や軍事費など、そこに含まれる無駄をバッサリ削ればよい話なのである。郵政民営化も、それによって恩恵をこうむるのは日米の大銀行・保険会社など限られた者たちであり、庶民の大多数にとっては不要不急。それなのに、「官から民へ」などと、民間の誰もが等しく恩恵が得られるかのように論じるが、そんな言葉に惑わされてはいけない。

2005年09月08日

ムード先行の改革論

 「グローバルスタンダード」だとか、「新時代」「大きな変革の時代」だとか、「国の借金、国民一人当たり600万円」「小さな政府へ」「官から民へ」「民活」「改革」「痛みに耐えよう」などと何回も言い立てられると、人々はなんかその気になってしまう。

しかし、「グローバルスタンダード」といっても、はたしてどういうのが標準なのか、「新時代」といっても、はたしてどういう時代なのか、とかくその中身の説明や吟味をぬきにして語られていることが多い。グローバルスタンダードのその標準とはアメリカ型資本主義(市場競争至上主義)、新時代とは「大競争時代」。それが時代の流れで、それ以外にはあり得ないのか。「改革」といえば規制の緩和・撤廃と民営化しかなく、官は手を引き、何から何まで民間の市場競争に委ね、「弱肉強食」、「勝ち組」の天下になっていくほかなく、それ以外の改革はあり得ないのか。欧州型もあるはずだし、日本型もあり得ないことではないのでは?その疑問をぬきにして、ただ「時代の流れだ」「改革を止めるな。改革を前へ」と言い立てられると、訳もわからぬままその気になってしまう。ムードが先行しているのである。私は大声で叫びたい。「ムードに流されるな!」と。

一体何のための民営化?

 郵政民営化論は「郵貯・簡保資金で国債を大量に買うことが無駄な公共事業や特殊法人の温存につながっているから、そうならないようにするためだ」とか「電子メールの時代、郵便は減り、郵政公社の経営はジリ貧になるからだ」とか「郵便局員が公務員でなくなり、公社が民間会社になれば、それへの税金の支出はなくなるし、その会社から法人税が入ってくるようになり、財政危機打開になるからだ」等のことを理由にしている。

しかし、公共事業など財投計画をたて財投債を発行するのは政府であり、公社は郵貯・簡保の資金運用に、他の銀行とともに、その国債を買い付けているだけ。無駄な事業を計画するかしないかは政府の責任なのであって、公社自体の責任ではない。郵便事業を国営でやっているアメリカではインターネットの普及でむしろ郵便量は増えている。また公社は今のままなら黒字だが、民営化すれば委託手数料や預金保険料などの費用がかさんでかえって赤字になる(担当大臣がそれを認めている)。郵政公社は独立採算制で税金は使っていない上に、会社の法人税を大きく上回るほどの国庫納付金を納めることになっている。

だとすれば一体何のための民営化なのか。日米の銀行・保険会社・宅配便業界にとって有利であることだけは確かだろう。

2005年09月12日

小泉自民党が圧勝して

 かつて我が国では深刻な不況・生活不安が広がる中で、財閥と結びついて腐敗した二大政党に対する国民の不信に乗じて、「国家改造」「革新」を掲げた右翼・軍人が台頭、政府の実権は軍部が握るようになり、東条首相はその方針に異を唱える議員を国会から排除するために総選挙を行った。ドイツでも同じような状況下で、既存政党に対する不信に乗じてヒトラーの率いるナチス党が「革新」を掲げて選挙で大躍進し、独裁権を握るに至った。

 ヒトラーは、「大衆は、理性によってよりも、感情に左右される。頭の低い人よりも強い支配者を好む」「小さな嘘はすぐばれるが、大きな嘘は何度も繰り返すうちに真実だと思われてくる」と書いたものだ。今回の日本の総選挙で小泉自民党は大勝を博したが、その手法は、ヒトラーのこの大衆デマゴギーと似ていないか。くどくどしい説明をぬきにして、ワンフレーズを繰り返すだけ。「自民党をぶっこわす」「既得権を打破する」「殺されてもいい」といった言葉で演説をぶてばすばらしい改革のように聞こえるのだ。

 しかし、財界や「勝ち組」以外に、庶民にとっては痛みのほかに何かいいことあるのだろうか。かつてのドイツや日本のようなことにならなければよいのだが。

とにかく有権者の責任

 民主政治とは、すべての国民が主権者として参加する政治のことであり、そもそも直接参加が理想的なのであるが、近代国家では国家規模が大きく、政治問題も複雑多義にわたるので、直接民主制は技術的に困難なために代表制(間接民主制)をとっているのであり、その代表機関が国会なのである。したがって、国会は国民それぞれの立場(階層)・考え(民意)を可能な限り反映する仕方で構成されなければならない。日本が仮に有権者480人の村だとして、その村の有権者全員が参加できる民会であるように国会は構成されるべきなのである。その意味では、有権者すべての民意が比例的に反映する比例代表制が望ましいのだが、小選挙区比例代表並立制で300人は選挙区ごとの最多得票獲得候補だけで占められる。

ともあれ480人は決まった。有権者それぞれが国政上のあらゆる問題について自分の立場・考えを代弁してもらうつもりで投じたはずの投票行動の結果選出されたのである。4年間、すべては彼らに委任される。郵政民営化は可決される。庶民負担は増やされ、消費税もいずれ上げられるし、教育基本法は変えられ、改憲にも拍車がかけられる。靖国問題も近隣諸国との冷たい関係もそのままだろう。

とにかく、しかたのないことだ。有権者の責任なのだから。

2005年09月28日

国会に護憲統一会派を

 先日の投稿「共産と社民が協力し合えば」と同意見です。今「九条の会」が全国各地・各方面で結成されているが、改憲をほんとうに阻止するには、まず国会で護憲派議員に精一杯頑張ってもらい、改憲策動(国会法改正や国民投票法案)に抵抗し、かつ改憲発議をさせないように全力を尽くしてもらうことである。今回の選挙で改憲派の議席が裕に発議に必要な3分の2以上を占めた。それに抵抗するには、護憲派議員に、たとえ少数でも最大限可能な実効的な方法を駆使して臨んでもらうこととし、統一会派を結成して発言の場と時間を確保しつつ論戦に挑んでもらうことである。さらに選挙に際しては同会派が統一候補をたてて改憲策動・発議阻止に足るだけの議席数を獲得する。その統一会派をつくれるか、そして統一候補を立てて選挙協力ができるか、それこそが改憲を阻止できるか否かの決め手になるだろう。最終的には国民投票にさいして国民が過半数の反対票を投じてくれるならよいのだが、その前に国会で護憲派議員に頑張ってもらわなければならない。「九条の会」も、護憲派各党にその気になってもらって、それらをバックアップするようにでもしなければ力にはならないのではあるまいか。

2005年10月23日

誰が何と云おうと、私は許すまい

 17日、首相は靖国神社に参拝した。その翌日には、101人もの国会議員が「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の名の下に、大挙して集団参拝した。

 一方は、「男が一旦こうと思ったことは、誰が何と云おうと最後まで信念を貫き通すのだ」とばかりに強行した。郵政民営化法案もそうである。「ブレない」ことが国民からうけているのだ。それに、近隣諸国民も根負けして、或はもうバカバカしくなって、あまり騒ぎ立てなくなる。それを待っているのだ。

 他方は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」である。

 いずれにしても、ひょっとして「意地が通れば道理が引っ込む」というか、「ごね得」の結果におさまるのかもしれない。

 しかし、ズルい。ふてぶてしくもこざかしい。国民皆が許しても、私は許すまいと思う。道理に合わないことを、そのようなズルいやり方で押し通そうとする。ましてや、日本軍国主義のために犠牲になった幾多の日本人およびアジア諸国民の物言わぬ人々のことを思えば、到底許すことはできない。それこそ「誰が何と云おうと」である。

2005年11月02日

本紙の「憲法ってなに?」(上)を読んで

〔朝日新聞10月30日、漫画家の弘兼憲史・石坂啓 両氏の対論〕

 弘兼憲史氏は、自民党の新憲法草案を、現に存在している自衛隊を単に憲法に明記するだけのことでもあるかのように述べておられるが、自衛隊と「自衛軍」即ち軍隊とでは大きな違いがある。

 そもそも現行憲法下での自衛隊は、警察などと同様に、武器は持っていてもその使用は制限されており、現場で自分と他の人の身を守る正当防衛・緊急避難など以外には、武器使用も戦闘行為もできないことになっているのである。現にイラクに派遣されている自衛隊もそうなっている。ところが、それが、交戦権を持つ軍隊として法的に認められれば、残虐兵器・無差別攻撃以外には武器使用は無制限となり、どういう状況で何人殺しても殺人罪に問われることはなくなる。

 また、弘兼氏は、草案の前文や12条に「国民の責務」を定めていることにも同調しておられるが、憲法というのは、「国民は・・国・・を愛情・・をもって自ら支え守る責務を共有し」とか、「自由と権利には責任と義務が伴う」などとわざわざ書いて国民に守らせるという筋合いのものではないのである。近代の立憲主義では、憲法とは、石坂啓氏が述べておられるように、「国民の自由や権利を守るために」国民が「国を監視し、国が暴走しないようにするための決まりのはず」。

2005年11月03日

本紙の「憲法ってなに?」(中)を読んで

〔朝日新聞11月1日、作家の福井晴敏氏と映画監督の是枝裕和氏の対論〕

 福井氏は、「自分の盾だけで全土を」守るという防衛体制が必要だが、「撃たれる前に撃つ」のは避け「絶対こっちからは撃たない」で「最初の一発は我慢する」という方が望ましいとの考えのようである。

 しかし、「最初の一発は我慢する」といっても同時多発、たとえミサイル防衛網ができたとしても、それで百発百中すべてを撃ち落すことは不可能であろうし、どこかに着弾してそこが「火の海」にならないとも限らず、それに果たして我慢できるのかどうかである。そんなことだったら、むしろ相手側の発進基地に先制攻撃をかけた方が日本領域の被害リスクが回避できるだけましだとも考えられる。しかし、それは侵略と見なされ、相手国民のみならず国際社会の反発や恨みを買わずにはおかない。相手側も、国際社会から制裁をこうむるリスクを冒してまで、日本に対して一方的に攻撃をかけてきたとして、それで果たしてどんなメリットあるというのだろうか。そこのところを、まさに「撃つ前に考える」べきなのではないか。

 是枝氏は、「どちらも100%の安全はないし、犠牲を伴うけど」、「武力ではなく、話し合いで紛争を解決できる国と国の関係の構築を目指す憲法」「のリスクなら引き受ける」と述べておられるが、同感である。

2005年12月14日

当を得ない首相の言葉 

 ASEANとの首脳会議に臨んだ小泉首相は、靖国参拝は「戦争を美化するのではなく、戦没者に哀悼の意を示すためだ」とし、中国が「一つの問題で会わないというのは、私は理解できない」と述べたという。

しかし、中国などが問題にしているのは、小泉氏個人の信条(内心がどうか)ではなく、首相の靖国参拝という外形的行為を問題にしているのであり、彼らは靖国神社というところはどういうところなのか、首相がそこへ行って参拝するということはどういう意味を持つのか、勝手な解釈ではなく、神社当局が公表している説明と言い分に基づいて、首相参拝というその行為を問題にしているのではないのか。

また「一つの問題で会わないというのは理解できない」と云うが、例えば、北朝鮮の首脳とは、拉致に対して詫びの言葉が一回あったきりで、4人とその家族を返した以外には、何の誠意ある行動を示そうとしない、その拉致問題を抜きにして会うつもりはない、というのは日本にとっては当然のことであるのと同じように、一つの問題にこだわるというのはあり得ることではないのか。それが理解できないというのは、その問題を国家間の信義に関わる大事な問題だと考えないからなのではないだろうか。

2006年01月07日

厚顔無恥な首相の物言い

 首相は年頭の記者会見で、「戦没者に哀悼の念をもって靖国参拝する」それは「心の問題」、「外国政府が心の問題にまで介入して外交問題にしようとする姿勢も理解できない」と言った。首相は「参拝は不戦を誓うため」とも言っているが、靖国神社は、そもそも戦没者の墓でも追悼施設でもなく、ましてや不戦を誓うような所ではないのであって、あくまで自国の「国家の戦争」肯定の上に立って、戦死した将兵とその武功を讃え祀っている顕彰施設なのである。首相は「靖国神社の考えと、政府の考えは違う」と言っているが、ならば、そんなところへ行かなければよいものを、結局、同神社参拝を繰り返している。一体どういうことなのか、それこそ理解し難いことである。首相の本心はどこにあるのか、首相の心を問題にするのは当然ではないか。ましてや、日本軍から侵略され、肉親が殺された諸外国の遺族の方々から見れば、殺し殺させた者たちを讃え祀っている神社があって、そこへ、こともあろうに日本の首相が参拝に行っているということに対して、憤慨・抗議するのは誰にもわかり切った当たり前のことではないか。それに対して「理解できない」と言っているのである。なんという厚顔無恥な物言いか。

 過去のことはもう忘れようと思っても、日本の首相が参拝を繰り返せば、その度に思い出され、憎しみがこみあげてくるというのも、当然の成り行きなのではないか。

 首相は、「中韓が交渉の道を閉ざすことはあってはならない。いつでも話し合いに応じる。後は先方がどう判断するかだ」という。この会見は、今後、対中韓外交は信義・信頼関係は抜きにして、力関係だけに依拠して交渉・取引をやるまでだと意思表明したものと考えざるを得ないだろう。

2006年01月25日

護憲派の政党間共闘に期待

 今国会で、改憲のための国民投票法案が出され、教育基本法改正案も出されようとしております。院外では「9条の会」など護憲運動が盛り上がりつつありますが、国会では改憲派が圧倒的に優勢であり、教育基本法改正とともに憲法改正に反対する政党は共産・社民両党だけのようです。少数党の両党が連携・協力もなしに各個に抵抗しても、簡単に一蹴されてしまうだけでしょう。せめて、両党が共闘体制を構築できれば、院外の護憲運動を背景に、護憲派は議席数以上の勢いを得ることができるだろうし、改選に際しては、改憲派政党に対する対抗軸をなして選挙戦を盛り上げ大躍進につなげることも不可能ではありますまい。

 この点で、先日、共産党が社民党に改憲反対の共闘提案をおこない、福島社民党首が「共闘にためらいや障害は一切ない」としてそれに応じる意向を示したことは非常に注目されます。

両党の考え方には何かと共通する部分が多く、過去のしがらみにはこだわらずに護憲という一点で大同団結し、9条の会をはじめどの護憲団体も、それを大いにバックアップすればよいのではないでしょうか。そうでもしなければ、護憲派には勝ち目がなく、結局は改憲を許してしまう結果になるでしょう。

2006年02月07日

藤原論文には私も疑問

 藤原帰一氏は、「平和とは戦争のない状態」その平和を支えるのは「各国の武力による威嚇」と論じておられるが、平和とは、戦争がないだけではなく、恐怖もないという状態のはず。アメリカのようにいかに圧倒的な軍備をもってしても、武力による威嚇によっては、9・11事件のように敵対者からの攻撃は抑止しきれず、どこかに恨みを買い敵を作る政策を採り続ける限り、彼らからいつ攻撃されるか判らないという恐怖に脅えなければならない。「武力による威嚇」それは自分たちにとっては相手に対する「抑止力」になるが、相手側にとっては恐怖となるわけである。

 平和すなわち戦争と恐怖のない状態を実現するには、自分の側にも他者の側にも戦争と恐怖をまねく原因となるものを除去する以外にない。戦争・恐怖の原因はといえば、それは、「他者の排除なしに平和はあり得ないと信じ込む」急進勢力の「理想主義」が原因なわけではなく、一つには、欠乏と屈従などそれを打破するためには自爆的な戦争やテロに訴えるしかないという絶望的状況におかれている者たちがいるということであり、まずはそれを無くすこと。もう一つは、武力やテロによる威嚇そのものが原因であり、その威嚇を互いにやめ、敵を作るような政策をとらないことだ。

2006年02月09日

政治家の言動と子供の教育

 親や先生が子供に教える場合は、やって良いこと悪いこと、言って良いこと悪いことを、よく言葉を選んで教えようとするものだ。「どうして?」と訊かれ、時には「だめなものはだめ」といって結論だけを教える場合もある。

 けんかをしてはいけない。いじめてはいけない。人様の言うことは聞くものです。お金は働いて得るもの。等々。

 ところが、親や先生などよりも偉いと思われ、国民の指導者ともいうべき政治家だが、彼らの口から、親や先生が言うのとは違うことが語られる。国会議員になる前、勤務実態のない会社から厚生年金を支払ってもらっていたことを「人生いろいろ、会社もいろいろ、・・・」と言って済ませたあの言葉。そして最近の外相のあの言葉。「世界でけんかが一番強い国はアメリカ。・・・日本はいじめられないようにけんかの一番強いやつと手を組んだ」「中国が言えば言うだけ行かざるを得なくなる。タバコを吸うなと言われたら吸いたくなるのと同じこと」。

 これらの発言は自らの行為と現実を合理化した言い方だが、親や教師は、それは「けっして正しいあり方ではないのだよ」と、はっきり教えるべきだ。子供たちも、この国も、何とかまともになってもらわねば。

2006年02月10日

いったいどちらが異常なの?

 小泉首相の靖国参拝について、世界は日本政府と中韓政府のどちらを異常と思っているのだろうか。シンガポールの前首相は、「この件に関して日本は孤立している」と述べているそうだが、事実はどうなのだろうか。そもそも首相の靖国参拝という行為は、首相や各人の主観にかかわらず、客観的にはどういうことを意味するのか。マスコミも専門家たちも、事実をよく調べて、そのあたりのことを我々に知らせてほしいものだ。ただ単に、日本政府関係者と中韓政府関係者それぞれの言い分だけを聞かされてもしかたのないことだし、日本人が「日本は悪くない。むこうの方が悪い」と自分たちだけ勝手に思ってもしかたのないこと。問題は客観的にどうなのかだ。

 われわれ国民は、この問題を感情的にではなく、客観的事実に基づいて判断しなければなるまい。

「日本がんばれ!誰それがんばれ!」などとオリンピックで日本選手を応援するのとは事が違う。事は戦争をおこなった我が国と諸国間の国際信義に関わることであり、我が国の国益とともに、日本人各人の国際社会における信用にも関わることだからである。

2006年02月23日

「侵略なのか」の判断は歴史家に?

 ポスト小泉候補と目されている閣僚はいずれも、先の戦争について「反省とお詫び」の政府見解にならうとは言いながらも、あれがはたして侵略戦争か否かは「歴史家の判断に委ねる」と発言している。

 過去に我が国家が為した戦争について国家指導者が諸国民にたいして負っている責任を引き継ぐべき立場にある国家責任者たらんとする者として、その戦争をどう認識しているのかを問われ、それに対してこのような答え方をするのは、認識が曖昧だということであって、反省も謝罪の気持も曖昧だということにほかならない。

戦後の我が国は戦争終結にさいして、国家指導者が国際戦犯裁判に服し、不再戦を約し、賠償義務を認めつつ諸国はその請求権放棄をした。そのうえで諸国と和解し、国連加盟など国際社会復帰が認められてきたのである。

それを、今になって、あれはあの時「それを受け入れなければ独立を果たせなかった」からだなどと言うのは、本当は諸国民に対してそんなに悪いことをしたとも申し訳ないことをしたとも思っていないと云っているに等しい。これでは到底、諸国との友好も、国際的信頼も得られるはずがなく、首脳会談などやっても心が通うはずもなく、国連常任理事国入りなど思いもよらないことになるのでは?

2006年03月03日

どちらの言い分が正しいの?

 韓国の大統領は、国家指導者の言葉と行動の意味は「その行動がもつ客観的な性格によって評価される」とし、日本に対して「われわれは重ねて謝罪を要求はしない。」「謝罪を覆す行動に反対している。」日本は「法を変えて軍備を強化するのではなく、人類の良心と道理に合った行動をすることによって国際社会の信頼を確保」すべきだと述べた。それに対して我が首相は「憲法はその国自身で考えること」と不快感を示し、官房長官も、我が国では平和主義という基本理念について「基本方針を根本から覆すような議論は全くされていない」と反論している。

それは我が方の指導者の言い分が正しいにきまっている、と云いたいところであるが、よく考えてみると、むしろ先方の言い分の方が当を得ているような気がしてならない。なぜなら、首相の靖国参拝という行為は個人的な心の問題に止まるとはどうしても考えられず、その行為は特定の政治的意味をもつと誰しも考えるのが当然だからである。また、自民党の改憲案の9条2項改変は、どう考えても根本的な変更であり、かつての被害国が国際公約ともいうべきこの条項改変を軍備強化と結びつけて危惧をもつのは当然のことだからである。

2006年03月27日

基地は攻撃目標に

 基地をどうするのかということに対して地元住民が意思表示するのは当然のことであり、住民の同意なくして「国防は国の専権事項だ」などといって政府が決定を強行することは許されない。なぜなら、それによって最も死活的な影響を被るのは住民だからである。そこでその弊害というと騒音・環境悪化・墜落事故・米兵犯罪といった問題もあるが、最も肝心なのは、そこに基地があることによって町が敵の弾道ミサイルやテロの攻撃目標となり、住民がそれらに巻き込まれて犠牲になる可能性がつきまとうことである。

アメリカ政府は勿論のこと日本政府のお偉方を含め安全圏に身を置いて暮らしている者たちは、「騒音など公害対策は講ずるし地域振興策でメリットも得られるからいいではないか」などと気安く云う。また、「反対は地域エゴだ」などととんでもないことを云う向きもある。しかし、住民にとっては、基地は「敵の攻撃に対する抑止力になる」だとか、「町が守られる」などという筋合いのものではないのであって、それがあることによって、かえって町は攻撃目標として狙われ、平和的生存権は脅かされ、有事にさいして犠牲を覚悟しなければならなくなるという危険極まりない代物なのである。

2006年04月04日

「国家の品格」論について

 藤原正彦氏の「国家の品格」論について内田樹氏は、国家の品格とは諸外国の人々や在留外国人から評価さるべきものと述べておられる。彼ら外国人から見た場合、自国を守ってもらうためにと強い国に基地を提供し駐留経費や移転費さえも出すような国が、はたして独立国といえるのか。また、アジア太平洋戦争と植民地支配の惨害に対する責任を果たし過ちは二度と繰り返すまいと諸国民に誓った国際公約に反して、A級戦犯を合祀し戦争を正当化している神社に首相が参拝するような国が、はたして道義の国といえるのか。そういったことが常任理事国入りに値する品格を持った国なのか評価されるのではないか。

藤原氏は、経済至上主義・市場原理主義の導入がこの国の品格を貶めているとし、また、祖国愛は良いがナショナリズム(国益主義)は品格を損なうものとしている。氏は、「惻隠の情」など武士道精神こそが我が国の品格の高さを決定づけていた、戦前の軍国主義はそれを廃れさせた、これをもう一度取り戻さなければならない、と力説している。それにしても、刀(軍備)は捨てたはず。それなのに、刀に物を言わせないと武士道精神は発揮できないものなのか。そこはどうなのでしょうか。

2006年05月01日

憲法とソフト・パワー戦略

 我が国は先の大戦で、国内外に未曾有の惨害をもたらし、降伏して武装解除した。連合国は国連憲章に、戦争だけでなく武力による威嚇・武力行使の原則的禁止を定め、我が国は新憲法に、戦争放棄とともに、世界に先駆けて交戦権の否認と戦力の不保持を定めた。

しかし世界では、その後冷戦が続いて軍拡競争がおこなわれ、朝鮮戦争などあちこちで紛争が起きた。そして我が国は、アメリカに従って再軍備、増強して軍事的にも大国として復活するようになった。

今、我々は、改憲して軍事制約を取り払い、我が国がひき続きアメリカに従ってハード・パワーによって「脅威」を抑え込もうとする戦略をとるのか、それとも、その軍事制約条項を堅持し、それに基づいて自国の軍縮を実行しつつ、諸国にも軍縮・核廃絶を働きかけ、ソフト・パワーによって敵意や憎しみを取り除く新戦略をとるのか、そのどちらを選ぶかの選択を迫られている。

ハード・パワーに物を言わせるやり方は相手に反発・対抗意識をかきたて、攻撃を抑止するどころか、かえってそれを誘発する。我が子や孫たちの行く末を考えると、どうしても、現行憲法を堅持し、ハード・パワー依存は避けてソフト・パワーに徹する新戦略に転換する、その方の選択を願わずにはいられない。

憲法とソフト・パワー戦略

 我が国は先の大戦で、国内外に未曾有の惨害をもたらし、降伏して武装解除した。連合国は国連憲章に、戦争だけでなく武力による威嚇・武力行使の原則的禁止を定め、我が国は新憲法に、戦争放棄とともに、世界に先駆けて交戦権の否認と戦力の不保持を定めた。

しかし世界では、その後冷戦が続いて軍拡競争がおこなわれ、朝鮮戦争などあちこちで紛争が起きた。そして我が国は、アメリカに従って再軍備、増強して軍事的にも大国として復活するようになった。

今、我々は、改憲して軍事制約を取り払い、我が国がひき続きアメリカに従ってハード・パワーによって「脅威」を抑え込もうとする戦略をとるのか、それとも、その軍事制約条項を堅持し、それに基づいて自国の軍縮を実行しつつ、諸国にも軍縮・核廃絶を働きかけ、ソフト・パワーによって敵意や憎しみを取り除く新戦略をとるのか、そのどちらを選ぶかの選択を迫られている。

ハード・パワーに物を言わせるやり方は相手に反発・対抗意識をかきたて、攻撃を抑止するどころか、かえってそれを誘発する。我が子や孫たちの行く末を考えると、どうしても、現行憲法を堅持し、ハード・パワー依存は避けてソフト・パワーに徹する新戦略に転換する、その方の選択を願わずにはいられない。

2006年05月31日

改憲と教育基本法

 私は終戦直後に小学校に入学し、新憲法と新教育基本法でずうっと教育を受け、教員になって教育に携わってきた。在職したのは私立高校であったが、職員室に教育基本法の「教育の目的」など、その条文を大書して貼り出したり、生徒会誌に「私は諸君たちに何に基づいて教えてきたのかといえば、それは教育基本法のこれだ」と書いたりしたことがあった。

 数年前に退職したが、孫は来年小学校に入学する。

自民党の新憲法草案と教育基本法改正案を現行のものと比べて読んでみたが、概して云えることは、「改正」の基本方向は、憲法の方は、国権に対して軍事などの規制を緩和、国民に対しては、国を支える責務を課し、公益・公の秩序に反してはならないことなど国民に縛りをかけるものに変質、教育基本法では、国が教員や被教育者に「国を愛する態度を養う」など目標を課し、法律に基づいて教育に介入、統制を加えるものに変質している。

我が子・孫たちは競争社会で自助努力・自己責任で生き、国がやること、やれということには黙って従い、軍事にも協力しなければならないという戦々恐々とした世の中に生きなければならなくなるのかと、気が気でない今日この頃である。

2006年07月20日

対「北」国連決議と「対話」路線

 昨年1月本欄に「国連決議求め・・・」なる投稿を掲載して頂きましたが、その対北朝鮮非難決議が今回安保理で実現し、望んだとおりになったという思いです。

 ところで、19日の本紙によれば、小泉首相がブッシュ大統領に米朝直接対話を促していたとのことで、大統領は「私に正面から(米国の方針に)反対意見を言った首脳はあなただけだ」と述べたものの「直接対話に応じれば、北朝鮮の術中にはまることになる」と云って、それに乗ろうとはしていないとのこと。一方、首相はミサイル発射があった翌日、記者団の「北朝鮮との対話は可能か」の質問に対して、「対話なしということは武力行使ですか。ありえない」と答えていた。首相が「対話」路線にこだわる、この点は大いに評価するものです。

このところ、にわかに「圧力」路線が勢いを増し、経済制裁だけならまだしも、ミサイル防衛システム整備を急ぐべきだとか、敵基地攻撃論が持ち出されるなど軍事対応促進論に傾きつつある中で、首相が「武力行使はありえない」と言い切った、この一言は気に入りました。

願わくば、首相在任中、「北」に協議への復帰を働きかけ、何とかして「対話」再開にこぎつけて、交渉を動かしてもらいたいものです。

2006年07月28日

昭和天皇「謁見録」で解ったこと 

 現行憲法の「戦争放棄」は連合国から押しつけられたものだと思っている向きがあるが、マッカーサーは、その回想録で「押し付け」を否定し、それを提案したのは制定当時首相だった幣原喜重郎だったと書いている。そして幣原自身も自らの回想録に「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、私の信念からであって、決して誰からも強いられたものではない」といったことを書いている。

 ところで、昭和天皇が憲法制定前、マッカーサーと初めて会う前こと、アメリカ人記者と謁見して質問に回答した文書の控えが、このほど宮内庁で見つかったとのこと。それには「平和的な貢献により日本がやがて国際社会で正当な地位を再び占める」「武器を使うことで恒久平和が確立・維持されるとは思わない」といったことが書かれてある。報道によると、その回答文の原案を作成したのは幣原だったという。

 その資料発掘で解ったことは「戦争放棄」の発案者は、やはり幣原だったということ、それに昭和天皇が予め同意しておられたということであろう。いずれにしても、9条は外国から押し付けられたものではないということが、さらにはっきりしたということではあるまいか。

2006年08月17日

加藤氏は屈せずに挑め

 小泉首相は靖国参拝をついに強行し、次のようなことを述べている。「中国・韓国が反発しているから参拝はやめろというが・・・」「軍国主義を称揚するそのような気持で行なっているのではない。」「批判・反発し問題にして騒ぎにしようとする勢力はあるのだから、いつ行っても同じだ」と。

その朝テレビのワイドショーに出て参拝に批判的な発言をしていた加藤紘一氏は、夕方、郷里の実家が放火された。

首相は、参拝は「心の問題だ」と言っていたが、それならば自分の心の中で祈るか、祈りに行くにしても東京武道館の全国戦没者追悼式に行ってそれを行なっているわけであり、わざわざ首相参拝が問題にされ騒がれるようなところには行かなければよいものを。なのに、そこへ敢えて行くということは、それが政治的意図をもったアピール行為だからにほかならない。現に、特定の支持団体に対する「公約」の実行だと自ら述べており、その上結果的にではあるにせよ、反中・反韓ナショナリズムや軍国主義を煽り、批判者に対するテロ行為さえ招いている。まさに政治的行為なのである。

今、日本はおかしくなっている。それを立て直してほしい。加藤氏はテロに屈せず、「加藤の乱」を再び起こし、ポスト小泉に挑んでいただきたい。

2006年08月22日

2000万人もの犠牲者をどう思う

 先日の投稿「賛成できない合祀での解決」は、要するに靖国の考え方を支持するということのようである。

先の戦争は「自存自衛の性格もあった」と書いておられるが、ヒトラーの戦争も含め、どんな戦争でも、その国にとっては自国民の生存圏の確保とか自衛のための戦争だったのではないか。しかし、日本軍から侵攻をうけ、占領・支配された諸国民にとっては侵略以外のなにものでもないわけである。

中国をはじめとするアジア諸国民の犠牲者2000万人以上、それに掠奪・破壊、その惨害に対する加害責任をどう考えておられるのだろうか。法的責任だけでなく、道義的責任は?

 A級戦犯とその他を、一方が加害者で他方が被害者だとは割り切れないというのは、その通りだろう。

しかし、だからといって日本人の誰も責任を負わないのだとすれば、犠牲にされた2000万人の死は「犬死に」になってしまい、それこそ、彼らは浮かばれまい。彼らも日本人戦没者・犠牲者をもそうしないためには、日本軍を正当化し免罪して讃え祀るような神社を参拝することではなく、日本国民すべてが不戦平和国家に徹しアジアをはじめ世界の諸国民のために平和貢献することなのではないだろうか。

靖国と若者たち

 世論調査によると、若者世代ほど首相の靖国参拝に賛成が多い。それは一体何故なのか。「戦争を知らない」とか「近現代史を学んでいない」せいも確かにあるだろう。しかし次のような原因もありはしまいか。

このところ競争脱落者やニートといったものが増え、彼らは社会的に活躍できる場や精神的な拠り所を見出せないでいる。折から近隣諸国との間の様々な問題、それに自衛隊の海外派遣など国家を強く意識せざるをえないような問題がもちあがっている。そこに首相の参拝で靖国神社がクローズアップされると、その若者たちは、かつて国のために戦って散った若き命を祀っているこの神社にがぜん心が引き付けられる。

NHK19日の「@ヒューマン」で首相の靖国参拝を取りあげた中で、靖国神社崇敬奉賛会青年部に加わって奉仕活動に励んでいる一人の大学生を紹介していた。彼は将来不安にさいなまれ自宅にこもりがちであったが、硫黄島の遺骨収集作業に誘われ、そこで「この兵士たちの苦労を思えば」と発奮したようである。

若者たちの多くに居場所を見出せなくした、その埋め合わせに、彼らの心を「お国」の方に向け、「国のため」という国家主義の方向に導く。それが小泉政治だったのではないか。

2006年08月31日

靖国を訪れての感想

 神社付設の博物館には、一人一人の遺影、軍人たちの遺品、特攻兵器の実物、史資料が展示され、映像が流され、日本が行なった戦争が解説されていた。私には、戦死した叔父たちのことを思い、悲しくも痛ましいという思いの方が先だった。それに、そこで思ったのは、ここでは度外視されている、おびただしい数の犠牲者たちの悲惨である。ここを訪ねる者は人によって思いは様々であろう。しかし、この神社自体は日本の戦争をすべて肯定し、その前提の上に立って、そのために「命を捧げた」将兵それに戦争責任者も全て英霊として讃え祀っているのである。首相をはじめ公人には、個人的な「心の問題」だけでは済まない、諸国の犠牲者たちに対する配慮と憲法(政教分離原則)の厳守が求められるのは当然であろう。

 尚、見学者が感想を書き込むノートが置いてあって、その中に次のような意味の書き込みがあった。「英霊たちのおかげで今があるとよく言われるが、彼らはあくまで日本が勝つ為に戦ったのだ。ところが戦争は負けた。現在に至るまでの日本の平和と繁栄は、むしろ敗戦のおかげなのではないか」と。なるほど―もし勝っていたら、日本はどうなっていただろう。

2006年09月04日

NHK「祖父の戦場を知る」を見て

 孫は祖父が犯した罪をどのように考えるものか。それには3通り考えられる。

 一つは、それは祖父のやったことであって、自分には関わりのないこととして、格別こだわらない。

 二番目は、祖父をかばって、都合の悪い事実には目をつぶるか、或は罪を否定し、必要やむを得ざる行為であったとして正当化する。

 三番目は、真実を知り、法的に裁判のやり方がどうのこうのだけではなく道義的に罪は罪として認め、我が事として引継いで同じ罪を繰り返さない決意と被害者に対する侘びの心を持ち続ける。

 これらのことは、日本の過去の戦争に対して今の政治家・国民はどのような考え方をするかという問題につながっている。

 NHK教育ETV特集「祖父の戦場を知る」は、戦場体験のある数人の方々を紹介していた。

 砲撃で右腕を失った方は、今もうずくその傷よりも、中国人捕虜を銃剣で刺し殺した、その罪の意識にさいなまれてきたという。戦地で一緒に居た者は皆死んだが、彼らはあんなに悲惨な戦争は二度と起こしてもらいたくないと思ったはず、そのことを後世代に伝えるのは生き残った者の責任、と語っておられた方もいた。この番組は、3通りあるうちの三番目のあり方を考えさせるものであった。

2006年09月28日

「君が代」判決批判論に異

 先日の投稿「信じられない『君が代』判決」について。「国旗・国歌に敬意を払うことは人としての当然の姿勢」と書いておられるが、国旗・国歌は国によって歴史的に特殊性があり、人によって思いは一様ではないはず。外国の国旗・国歌に対して礼儀を失したり式典の進行を妨害する行為が非難されるのは当然だとしても、強制されてまで起立して歌うのが当然だということにはならない。「日の丸」「君が代」は「大多数の国民の間に定着している」と見なしておられるが、仮にそうだとしても少数者に強制してもかまわないということにはならないし、強制すれば少数者にとっては「ぎすぎすした状態」にならないはずはない。

判決は「一方的に裁判官の思想信条を強制」するものだというが、それは天皇に某都教育委員が「日本中の学校に・・・させるのが私の仕事」と言ったのに対して、天皇が「強制になるというものではないのが望ましい」と述べられたのを、天皇が教育委員に強制したといっているようなもの。判決は裁判官が憲法19条や教育基本法10条など法に違反しているか否か判断を下したものであって、自らの一方的な思想信条の強制などではあり得まい。

2006年10月05日

教育基本法「改正」で孫が心配

 私は戦争中幼児期を過ごしたが、戦争が終わって小学校に入ってからは不安といえば転校を3回したそれぞれ初日ぐらいのもの。中学・高校ではテストや番付があり、特に高校では惨めな思いをし、進学・就職の不安はあった。

その私は私立高校の教師となった。教え子たちの中にも色々あったが、我が子には学校でトラブルや不祥事など親として深刻に悩んだことがあった。その我が子たちも成人して一人は幼児教育、もう一人は精神医療に携わっている。勤務校では建学精神と教育基本法を念頭にしてやってきたが、人格の完成、教育の自由・機会均等などを掲げる基本法に問題があると思ったことは少しもない。それどころか基本法に反して加えられてきた行政による教育内容への介入・統制と競争・序列化などその方に問題があると思っている。それが今や安倍政権によって「教育再生」と称して基本法の方が変えられようとしている。国を愛する態度を養うこと等を目標とし、それに相応しい教科書を使わせたり、儀式で「君が代」を必ず歌わせるなど教育内容への行政による介入・統制は無制限となり、競争・選別教育で先生方・親そして子どもたちの不安やストレスはますますひどくなるだろう。孫たちが心配でたまらない。

2006年10月11日

暴発だけは招かないように

 経済制裁から海上封鎖・臨検あるいは武力行使に対して北朝鮮は「無駄な抵抗」をしないで、なすがままに従い、いさぎよく屈服してくれれば一番よい。しかし、かつて太平洋戦争の時日本が経済封鎖を受けて苦し紛れに開戦し「一億玉砕」を叫んで最後まで戦おうとした経験もあるように、また、かの国の「主体思想」とはどんなものかだが、独立自尊意識から「戦わずして屈服するより死を選ぶ」などと、必死になって反撃に出る可能性がある。そうして戦争になった場合どうなるか。12年前の危機にさいしてアメリカは武力行使を計画したことがあったが、その時の想定では全面戦争になった場合、死者は100万人以上という予測であったという。いずれにしてもそうなったら北朝鮮はたちまち制圧され政権は崩壊するだろうが、その間、短期間ではあっても、韓国はソウルをはじめとして戦火にさらされ、日本にもそれがおよぶことになる。核・ミサイル攻撃もあり得ないことではなくなった。

我々国民はそのような暴発戦争は絶対招かないよう、臨検に際する銃撃戦・武力行使は絶対避けるように自国政府にも北朝鮮にも、特にアメリカに対して必死になって説得しなければならない、という思いだ。

2006年10月14日

核戦争になったらお終い

 北朝鮮に対して国連安保理の制裁決議がおこなわれ、同国船舶への臨検が強行される形勢である。そこで日本の海上自衛隊はその臨検にどのように対応するかで、国会では、臨検をしている米海軍が発砲をうけて銃撃戦になった時、米軍とともに自衛隊が応戦できるようにと、集団的自衛権の行使を認める改憲につなげる話まで出てきている。それに、ミサイル発射などに対する迎撃ミサイルの急きょ前倒し配備に取り掛かっているほか、敵基地攻撃論も出ており、核武装論まで持ち出す向きもある。

 このように現在我が国では、議論は専ら経済制裁のエスカレートと軍事対応の話に傾いている。しかし軍事の備えをたとえどんなに行ったところで核戦争になったら多くの人々にとっては「この世の終わり」となるわけである。

 だから、そこまで行かないうちに交渉(取引)によって事を決着させなければならないのである。すなわち北朝鮮に安全保障などそれに見合った見返りを与えて核を放棄させる。その交渉もただ六カ国協議への復帰を待つだけでなく、かつてクリントン政権当時カーター元大統領が特使として北朝鮮にのりこんで事を治めた時のように、首脳級会談かそれに近い会談で決着するしかないのではあるまいか。

2006年10月15日

現実を直視すれば戦争は不可 

 「現実を直視し、自衛軍は必要」との投稿があった。「仮に日本憎しという国が攻撃してきたらどうしますか」というわけである。

今直面しているのは次のようなこと。核兵器の実験を強行した北朝鮮に対して国連安保理の制裁決議がおこなわれ、北朝鮮に出入りする船の臨検もアメリカなどが強行できることになった。臨検の際は銃撃戦が起こるかもしれない、としてこれに対して自衛隊はどう対応すべきかが議論されている。それに、北朝鮮がこの制裁措置を宣戦布告と見なして開戦に踏み切り、日本本土にミサイルを撃ち込んでくるかもしれない、として迎撃ミサイル配備にとりかかっている。しかし戦争になったらどうなるか。迎撃ミサイルの命中率は不確かで何発か撃ち漏らしたとしても被弾・被爆した人たちは気の毒だがやむをえないとか、戦火にさらされる韓国それに北朝鮮の国民は気の毒だがやむをえない、ということで済まされるのか。戦争、ましてや核戦争になってしまったら、「自衛軍」が在ろうと無かろうと惨禍は避けられない。むしろ米軍基地と「自衛軍」が在るからこそ攻撃対象にされる。現実を直視すれば、「自衛軍」の必要性を論じているよりも、戦争にならないようにするためにどうするかなのではあるまいか。

2006年11月07日

教育基本法は本来に立ち返るべき

 教育基本法は、そもそも、子どもたち一人ひとりの人格の完成をめざし、発達可能性を最大限伸ばすことを目的にしており、先生方は子ども・親など国民全体に対して直接責任を負い、諸条件整備を任とする教育行政機関には縛られないというものであったはず。

 ところが、基本法制定とともに発足した公選制教育委員会は程なくして今日のような任命制に切り換えられて文相を頂点とする上意下達の機関に化してゆき、文部省は「入学者の選抜はやむを得ない害悪であって、経済が復興し適当な施設を用意することができるようになれば直ちに無くすべきもの」としていたはずが、入試制度は不動のものとなった。

 近年は競争主義と管理・成果主義の風潮の下で、生徒は企業や国家に役立つための人材として入試競争・選別・振るい分けがおこなわれ、先生方は教育行政当局から数値目標が課せられて業績評価される。そして、生徒の中にはそのストレスのはけ口を「いじめ」・非行その他に向け、教師はそれへの対応に追われるとともに、数値目標と業績にとらわれ便宜的措置にはしる。

 昨今直面している問題の根本的解決のためには、教育基本法を「改正」するのではなく、むしろ本来の姿に戻さなければならないはずであろう。

2006年11月14日

教基法改正には国民投票が必要

 教育基本法は教育憲法的性格を有しており、普通の法律とは事が違う。その制定主体は憲法と同様、「われら」国民であり、教育権は国民にあって、国や自治体は教育条件の整備に責任を負うが、教育内容には立ち入らないことを定めたものである。

 その改正は、国民のサイドから行われるのであれば話はわかるが、政府が起案して国会で与党の多数にまかせて法案を押し通すとなると、それは筋が違う。しかも衆議院の与党議員は、国民が「郵政民営化に賛成か、反対か」を問われて投票した選挙で選ばれた議員なのであって、このような国会で教育基本法改正を議決したとしても、そこに民意が反映されているとは到底云い難い。

 それも、教育の主体を国民から国家に置き換え、国と地方の行政権力が教育内容に「法律の定めるところにより」さえすれば無制限に介入できるようにしたものである。

 世論調査は、本紙の調査でも、改正案に「賛成」が一番多いが、それは、はたして現行法と両方読み比べ、事態をよく解ったうえでの民意だといえるのか。東大調査では全国公立小中学校の校長の66%が「改正」反対だとしており、教職員と子をもつ親たちも含めた「国民投票」が必要なのではないだろうか。

2006年11月23日

教基法「改正」は国民投票で決すべし

 教育基本法は教育の根本法であって憲法に準ずる重要性をもち、普通の法律とは事が違う。しかも、その改正法案は政府の手による「改正」であり、教育権を「われら」(国民)から国家に移し、教育内容にたいする政治権力の介入を否定から肯定に転換するというもので、根本的な改変になっている。

 郵政民営化の時でさえ、小泉前首相は「賛成か、反対か」民意を問う一種の「国民投票」だ」と称して解散・総選挙を行なった。それならば、この「教育基本法改正」でもそれをやって然るべきなのに、それをしないどころか、その「郵政選挙」で選ばれた云わば「郵政議員」によって教育基本法改正法案までも与党単独で採決してしまうという、そのやり方はどう考えても不合理である。そうであるからには、これから、たとえ参院で可決したとしても、それで成立とはせずに、本格的な国民投票をやって承認を得たうえでのこととすべきだろう。

 民主党の国民投票法案では、改憲の時だけでなく「国政の重要課題」でも国民投票をできるようにし、16歳以上も認めるとしているが、とりあえず教育基本法改正法案に限ってでも、それをやって然るべきなのではないだろうか。国会審議だけでなく、国民的議論を経たうえで国民投票に付して決するべきなのだ。

2006年12月07日

教員評価制で悲劇は無くなる?

 規制改革会議が「いじめ」問題に関連して学校選択制と教員評価制の導入を答申しようとしている。匿名による教員評価を学校長や教育委員会に提出することを義務付け、親や子どもが学校を選択できるようにする。そうすれば子どもたちの「悲劇は予防」できるというわけである。

 しかし、繁忙を極める日常業務の上に、校長や個々の教員を分断・孤立させプレッシャーをかけるこのようなやり方は、かえってストレスをひどくし、自信喪失や抑うつ状態に追い込んで、生徒と信頼関係を結べない教師をつくる結果になり、それがまた、子どもたちに、学力テスト競争のプレッシャーと相まって、さらに「いじめ」や悲劇を生むという結果をもたらす。

評価によって学校や教師が選び抜かれたとしても、「ダメな学校や教師」を切り捨てたそのあとに「まともな学校・教師」が充足されるという保障はないわけである。教員の待遇や増員によって勤務時間など労働条件が改善されないかぎり、尊敬もされず信頼もされないそのような所で好き好んで教職に就こうとする者はそんなに居るはずはあるまい。

 学校選択制とか教員評価などで、事態は改善されるどころか、かえって悪化する。そのようなやり方はやめたほうがよい。

2006年12月20日

改正教育基本法は無効

 憲法は、国民個々人が有する基本的人権として、思想・学問の自由とともに「教育を受ける権利」を定め、国家権力による侵害を禁じている。これまでの教育基本法は、この立場にたって、教育は、不当な支配に服することなく、「国民全体に対して直接に責任を負って行なわれるべきもの」即ち、教育を行なう者は、国家に対してではなく、国民全体に対して直接に責任を負って行なうべきことを定めていた。
 ところが、「改正」基本法は、そこを「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」と入れ換え、国家が、「道徳心を培う」「国を愛する態度を養う」などの教育目標を定めている。文科省はそれらに則した学習指導要領を定めて教科書検定等を行ない、生徒たちはその教科書で歴史・道徳などの授業を受けさせられことになり、卒業式等では「君が代」斉唱を強制される。

 それは、国家による教育統制となり、憲法に保障された思想・学問の自由等の侵害となる。その上、「やらせ」タウン・ミーティングなど世論誘導があったし、与党が「郵政選挙」によって獲得した議席の数に物を言わせて採決を強行するなど、制定過程からいっても、この「改正」法は無効であると云えないだろうか。

2006年12月24日

やらせ改正教育基本法

「改正」教育基本法が成立した。しかし、それは、政府が「改正」を持ち出し、タウン・ミーティングで「やらせ質問」等を仕組んで世論誘導を行い、反対する野党や教職員・市民団体の声、慎重審議を求める国民大多数の声を無視して、与党が議席の数に物を言わせ、審議を打ち切って採決を強行したものだ。国民には、それは、いわば「やらせ改正教基法」としてイメージされ、後世代にわたって記憶が引き継がれることになるだろう。

それは、法文に「真理と正義を希求し」とか「道徳心を培う」「正義を重んずる」などと定めていながら、ごまかしと不公正という非教育的なやり方で制定された。また、制定過程に瑕疵があるだけでなく、改正法自体に、国家が教育目標を定め、教育内容にまで介入して内心の自由や教育の自主性を侵害するという憲法違反を含んでいる。

 教育とは、生徒・子どもらにとっては、彼らを教える教師・大人の人徳に権威を認め、互いの信頼関係の上に成立するものであるが、「やらせ教育基本法」には何の権威も信頼も認めることはできまい。しかし、権力者はこれを彼らの意図する教育と教育施策の推進に活用するだろう。国民・教師はこれに抗して自らの教育を守り抜いていかなければならない。

2007年01月13日

9条堅持の方が妥当

13日の本紙に、「私の視点」・「9条『理想論』で悪いのか」と、「声」・「自衛隊の存在、憲法で認めよ」とがありました。

 一方は、「現実に『法』を合わせるのではなく、『法』に現実を合わせるというのが、法制定の根拠」だと。

もう一方は、「災害や災難はいつどこで遭うか」分からないと。だから災害復興支援隊や、拉致・密輸などに対する国境警備隊といったものは必要不可欠でしょう。しかし「他国が攻めてくる」という場合は、どの国が、どういう場合に攻めてくるのか。その国は、こちら側が何か仕掛けないかぎりは、攻めてくることはあり得ないとか、どうすれば暴発を回避できるか、とかは前もって分かることであり、説得・交渉(取引)などによって回避できることであって、それを自然災害や災難と一緒に考えるのはおかしい。

 現実は、超大国が圧倒的戦力を以てしても、武力行使は結局失敗だったということ、それでも我が自衛隊は、憲法のおかげで戦闘の犠牲者は一人も出していないということである。

 このような現実を踏まえれば、我が国民にとって国を守る最善の方法は、現行の非戦憲法を堅持し、「平和国家」として諸国民の信頼を維持し、非軍事・平和的国際貢献に徹することなのではないでしょうか。

2007年01月14日

参院選の争点は?

安倍首相は任期中に改憲を果たすとしており、年頭記者会見でそれを参院選の争点にすると言明している。

改憲は、戦後、自民党結党当初からの宿願であり、首相にとっては祖父以来の悲願。昨今、国民の多くは、日々の暮らしや社会の様相に焦燥と不安をつのらせている。それに北朝鮮問題。

戦後の大部分にわたって政権を担当してきた自民党は、それらの危機を自らの政策のせいではなく、憲法などの「戦後レジーム」のせいにして、首相はそこからの「脱却」ということを謳い文句にしている。

「新教育基本法」は自公だけで成立させ、「防衛省」法は民主党も賛成して一気に成立させた。これから始まる通常国会では「改憲手続き」法案も自公と民主党の間で合意して成立の運びとなるのだろう。

あとは、参院選で改憲反対派を3分の1以下に抑え込んで、衆参両院での改憲発議にこぎつけるというわけか。
しかし、危機をもたらした真の原因ははたして憲法にあるのか、それとも自民党のこれまでの政策にあるのか、どっちなのか。それこそが争点なのであって、今度の参院選は、単に「改憲に賛成か反対か」ではなく、「自民党の改憲を含めた諸政策に賛成か反対か」の選挙だ、ということになるのではないだろうか。

2007年01月25日

納得できない県の対応

 私学助成削減問題で生徒たちが県庁前に集まるというのに対して県が広場使用料を取るとの記事を見て、たまりかねて駆けつけた。冬の寒空の下で、1500人もの高校生が、代表団が県庁の中に入って陳情から帰ってくる間、コンクリートの地べたに腰を下ろして待機していた。
憲法26条及び新教育基本法4条に教育の機会均等、差別の禁止が定められている。又、新教育基本法には第8条に、私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は助成その他の適当な方法により私立学校教育の振興に努めなければならないとなっている。
 憲法89条に、公金その他の公の財産は、公の支配に属しない教育の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならないとなっているが、私立学校と公立学校とは、設置主体が国・地方公共団体か法人かの違いがあるだけで、学校教育法その他の法律に従って公の支配に属している点は同じなのである。
 県が私学助成金2年連続合わせて11%以上もの削減を決めたことに困り果てた生徒たちが、考え直してほしいと請願・陳情のために県庁前に集まった、その彼らから広場使用料を9万円も取るとは、いったいどういうことなのだろうか。どうしてそれが自分たちだけの特定の利益を求めていて公益性がないと見なされるのか。

2007年01月26日

知事の考え方は共感得られぬ

 山形県の私立高校生が、私学助成削減問題で県庁前に集まった。それに対して、「不特定多数の利益というほど公益性はない」と断じ、彼らに広場使用料を出させた知事は、「学期末が近く、受験も控えている時期に、ああした時間をとることが本当に適切だったのか」、「ああいう行動自体が共感を得るのか疑問だ」と述べたという。
 まるで、生徒は余計なことをせずに、黙って勉強していればよいのだと云わんばかり。確かに、今のこの時期、受験や試験勉強に余念がないという状況はある。しかし、それは受験知識偏重の教育をそのままにしてきた為政者の文教政策がもたらした現実なのであって、本当は受験などにとらわれない「生きた勉強」こそが大事なのだ。また国連「子ども権利条約」には意見表明の権利が定められており、子どもは為政者の決めたことに黙って従えばよいというものではないのである。
 教育の機会均等は憲法の定めるところであり、学費の公私格差を埋める私学助成の削減を決めたことに対して、見直しを求めることは正当な要求であり、県の財政事情はあるにせよ、削減は私学関係者だけでなく公立の中学生受験生にとっても誰にとっても困ることであり、知事の発言こそ共感は得られまい。

2007年01月31日

「外国が攻めてきたら?」は愚問

 先日、「守る気概欠き何が愛国心か」という投稿があった。愛国心世論調査で、「仮に外国が攻めてきたら」の質問に対して選択肢、「戦う」「逃げる」「降参する」のうち「戦う」と答えた人が3分の1で、多くないことを嘆いておられる。私はむしろ、このような質問と選択肢自体に疑問をもった。
 投稿者も指摘しておられるように「今の日本は侵略することも侵略されることも予想し難い」というのはその通りで、今は、互いに自衛・抑止力として軍備はもっていても、侵略して利益になる国などどこにもないのである。それなのにどうしてそのようなことを質問するのか。
 愛国心の基本は「国を守る気概」といわれるが、守るべき「国」とは何なのか、「守る」とは「戦う」ことなのか。
 現実的に考えた場合、軍隊が守るのは国家だが、国民が国を守るという場合は家族や町を守るということだろう。「戦う」といっても、国民はどうやって戦うのか。ヨーロッパのレジスタンスのようにか、中東の自爆テロのようにか。それとも銃後の協力か。我が国民は無謀な愛国戦争には懲りているはず。
 家族や同胞の命を守るためには、むしろ戦わないこと、即ち、国々は攻め合わないように平和友好協力関係を結ぶ、そのために努める気概こそ愛国心なのではないだろうか。

2007年02月21日

鈍感力は困る

 小泉前首相が政府・与党幹部に助言して「目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ。」「日本が近隣諸国よりも格差があると思うか」などと語ったそうである。
 格差問題は近隣諸国と比べてどうかではなく、ヨーロッパ先進諸国と比べて相対的貧困率がどの国よりも高くなっていることが問題なのではないか。
 「鈍感力」も、単に政府与党内のうちわ話で、野党の批判や支持率に「いちいち気にするな」というそれだけのことならば、そんな言葉をとやかく取り上げる必要もないのだが、某局のワイドショーでは、コメンテーターが「流行語大賞になるかも」などと、なぜか肯定的に受け取れるような論評を加えていた。しかし、必死で「痛みに耐えている」弱者のうめき声、亀井静香氏には「日本列島の津々浦々から聞こえる」という、その「うめき声」に対して「鈍感力」が発揮されたのではたまったものではあるまい。「いじめ」にあって死ぬほど辛い思いをしている子どもの心に「鈍感力」など、とんでもない話だろう。「女性は生む機械」発言に対しても、「事務所費疑惑」に対しても、国民は鈍感でいるわけにはいかないのである。
 首相や政治家・教師はもとより、国民の心に「鈍感力」が身に付いてしまったら、美しい国・日本は終わりだ。
 

2007年03月24日

都知事選の争点はファシズムの是非

 今、日本では、首都でもどこでも、不安といらだちが社会を覆っているように思われる。社会格差の拡大、北朝鮮の核と拉致、中国の台頭、犯罪、いじめ等々。人々の間には、それらに毅然と対処してその不安を吹き払ってくれる強力な政治権力者を求める風潮が強まる。
 現都知事は、「命をかけて憲法を破る」と云ってはばからず、都職員アンケートでは大半の職員から「側近政治的な姿勢」「独断専行」が目立つと見なされているという。学校では、知事が任命した教育委員会が、「日の丸」「君が代」を拒否する教員を、容赦なく処分してきた。そのような彼が、北京オリンピックに対抗して再度の東京オリンピック開催という「夢」を掲げて、それに都民をかりたて、その強権政治が支持される。となると、それは、かつてドイツ国民がヒトラーを支持し、ベルリン・オリンピックに熱狂した時のようなファシズムと同然。
 大衆・無党派層は都知事の傲慢に対して反発するよりも、むしろその方になびく可能性がある。
そう考えると、マニフェストや政策もさることながら、最も重要なのは候補者の思想傾向であり、政治姿勢なのであって、「ファシズムか反ファシズムか」それこそが最大の争点になるのではあるまいか。

2007年03月27日

賛成2割でも改憲成立?

 13日本紙に、国民投票法案について、「世論調査で5割近くが今国会での成立を支持」とあった。質問は「国民投票の手続きを定める法律を作ることが必要だと思いますか」(必要だが68%)。その後の質問は、法案の中身の問題を抜きにして、いきなり、「法案をいまの国会で成立させるという安倍首相の考えに賛成ですか」で、賛成48%(反対32%)というものであった。
 法案の中身については、その後22日中央公聴会があって、翌日、本紙に「その論点を探る」というやや詳しい解説記事が出た。そこで初めて、この法案では「過半数の賛成」が有権者総数のそれではなく、投票総数のそれでもなく、有効投票総数の過半数とされており、しかも最低投票率の定めもなく、仮に投票率が40%ならば有権者の2割の賛成だけで改憲が成立してしまうことになるなど、重要な問題点が幾つかあることが判った。
 その記事のサブタイトルには「来月13日にも衆院通過」とあったが、それまでに再度の世論調査が必要であり、それには法案の中身について「過半数」の母数はどれがよいか、「改憲成立ラインは?」などの質問を加えて法案の賛否を問い、その結果を報道して民意を明らかにすべきなのではないだろうか。

2007年04月15日

よく考えて投票を

 一昨年の郵政選挙で、小選挙区制効果もあってだが、与党に3分の2に達する大量議席を与えた。その結果、与党は民主党などに対してわざわざ譲歩してまで賛成してもらわなくても優に過半数を制し、与党案は何でも決まってしまうようになった。郵政だけでなく教育基本法改正法案・防衛省法案・米軍再編推進法案、そして改憲のための国民投票法案と、国民の運命に関わる重要法案が次々と決まってしまっている。
 選挙の時、有権者はこうなると解って投票したのだろうか。
与党案では国民投票の成立要件である「過半数の賛成」は有権者数でも投票総数でもなく有効投票総数の過半数としているが、衆院通過前日のある報道では、世論調査でそういったことについて知っていると答えた人はわずか18%しかいなかったという。国民の多くがわけの解らぬまま、郵政選挙で当選した議員たちによって与党案は次々と決まっていく。
 こんなふうにして教育基本法が変えられ、さらに憲法が変えられていくのかと思うと、孫たちが心配でたまらない。
 責任は有権者にあります。有権者の皆さん、どうか選挙では、簡単に考えず、ムードに流されずに、人々の運命がどうなるか、もっと真剣に考えて投票してくださいよ!


2007年04月16日

今の教育は

 この度、孫が小学校に入学して学校から教科書をもらってきた。その袋に印刷された絵は、ランドセルを背負って手をつないで登校する子女2人を主に描かれ、男子は昔の漫画「フクちゃん」のような学帽をかぶっていて、子供たちが向かう校舎には屋根より高く日の丸が揚がっている、というもの。
 そして袋の裏には次のような趣旨の文が印刷されている。「保護者の皆様へ この教科書は国が無償で配布しているものです。この制度は憲法の掲げる義務教育無償の精神をより広く実現するものとして、次代をになう子供たちに対し、我が国の繁栄と福祉に貢献してほしいという国民全体の願いをこめて、その負担によって実施されております。教科書を大切に使うよう御指導いただければ幸いです。――――文部科学省」
 憲法の教育に関する条項には、すべての子供は「ひとしく教育を受ける権利を有する」と定められているのであり、保護者は子供に教育を受けさせる義務を負うが、それを保障するのは国の責務のはず。
 しかし、袋に印刷されているあの書き方は、教育は国がやってあげるのだから、その恩恵に報いるように、と云っているようにも受け取れる。
 民主主義と国家主義。今の教育は一体どっちなのでしょうか。

2007年04月22日

最低投票率の規定は必要だ

 憲法を改正するには、今の憲法のままでは日本社会や国民生活がもう立ち行かなくなっているからという切実感からの、改正を求める国民の声の大きな盛り上がりと国民過半数の賛成投票がなければならないわけである。
 それが、無関心な人が多くて棄権が多いとか、どっちつかずで態度が定まらない人の白票が多くて、賛成票が有権者はおろか投票総数の過半数にも満たないなどという状態では、改憲はなされるべきではあるまい。
 普通の選挙のように、「どうせ誰が選ばれても変わらないから」などといって棄権するのとは事が違い、平和的生存権や自由・人権など国民にとっては子々孫々にわたって運命を左右するような憲法改正に際して棄権し或は白票を投ずるのは、賛成・反対どっちでもいいからと他人に委任しているわけではなく、必ずしも切実には改正を求めてはいないという一つの意思表示にほかなるまい。それが無視されるのでは、1~2割台の少数の他人の意思によって決まってしまう結果になりかねない。
 また、ボイコット運動も反対運動のうちであり、賛成派はそれを陵駕する運動を展開すればよいわけであるが、予め、棄権しても無意味になるようにしてそれを封じるやり方こそ不公正であろう。

2007年04月26日

アメリカの平和を守ってやる

 孫の卒園アルバムの「大きくなったら何になりたい?」に対する孫のコメントは「アメリカの平和を守る人になりたい」というものだった。訊いてみると「ピストルの先生になるんだ」という。
 バージニア工科大学の銃乱射事件は、ピストルは一人で32人もの命を奪う大量殺人凶器であることを見せつけた。イラクはまるで「殺人狂時代」の様相を呈している。日本では被爆都市の市長が暴力団テロにあって痛ましい死をとげたが、我が国ではピストルを販売している店は皆無であり、外国から密売でそれを入手している暴力団等を特定して警察がいかに取り締まるかということが問題なだけと云える。
 殺人を抑止する最善の方法は、アメリカやイラクのように一般人への銃販売を公然と認めて銃を持ち合うことではなく、日本のようにそれを禁止することである。
 戦争を抑止する最善の方法は、各国とも、日本のように不戦憲法を定めて、核兵器や攻撃用兵器は保有せず、海外での武力行使も武器輸出も禁じることである。
 ピストルや武力を持てば、どうしてもそれに訴えようとする潜在意識が働き、説得・交渉・友好・協力への努力を尽くそうとしなくなる。
 アメリカの平和を守るには、「集団的自衛権」だなどと云って日本が武力でアメリカを助け守るのではなく、9条で守ってやればよいのだ。なあ、孫よ!

2007年05月05日

9条あってこそ独立国家

 先日の投稿に「真の独立には自衛権明確に」というのがありましたが、投稿者はそこで「世界の現実を見れば不当・不正な国際紛争は絶えない。」「不当な侵略に対しては・・・」などと抽象的一般論から「自衛のための武力行使の憲法レベルでの法整備がなされるべきだ」として改憲論を提起しておられる。
 しかし実際問題として、これから我が国に対してそのような紛争や侵略を仕掛けてくる国などどこにあるというのだろうか。現在、拉致問題を起こし核・ミサイルの開発・保有を強行している国があり、島の領有権や海底地下資源の帰属問題など我が国との間に係争問題を抱える国はあるが、それらに対しては外交力あるいは警察力で対処しなければならないことはあっても、そのような係争問題や違法行為を以て武力行使が必ず必要となるから9条を改正しなければならないということにはなるまい。そのような軍事規制の撤廃と戦争解禁の改憲を許せば日本国民の信義に対する諸国民の信頼が失われて警戒を生む結果になり、大きな国益の損失につながることになるだろう。
 また、独立国家なら、超大国との軍事同盟に依存・追従することのない自主外交力と国連協力など独自の国際貢献力こそが必要だろう。

2007年05月06日

戦争の覚悟があるのか

 「憲法60歳」投稿「真の独立には自衛権明確に」。そこに、自衛権を行使しないで「侵略され、国民の生命さえ脅かされる事態になっても丸腰で受忍できる覚悟があるのか」とあった。
 国連憲章には国家の「固有の権利」として個別的・集団的自衛権が明記されているが、その制定前までは、国際法上「自衛権」という概念はなかったし、憲章原案にもなかったのだ。また自衛権行使は安保理が措置をとるまでの間に限られるなど限定されている。国連憲章は基本的には武力による威嚇・行使を禁じているのである。
 それに、たとえ憲法に明記したところで、実際の場ではその行使がはたして「自衛」に当たると言い切れるのか、所詮あいまい性が付きまとうことには変わりない。アメリカの戦争も我国の過去の戦争も「自衛」の名の下に行なわれているのである。
 現代の戦争は、自衛であろうとなかろうと、交戦すれば核ミサイルなどの打ち合いとなり、たとえ「ミサイル防衛」やステルス戦闘機で、居住地外或は本土外で迎撃・爆破したとしても、飛び散った核物質の被害は免れないのであり、家族・国民の生命が脅かされる事態となることに変わりはないのであって、それこそ、「その覚悟があるのか」である。

2007年05月08日

納得できない特待生問題

 目下、高校野球は各県春季大会予選の真っ最中。在職中顧問をしたことのあった学校は一回戦コールド勝ち。快進撃を楽しみに2回戦応援に行ったところ、メンバーががらりと変わって、主要メンバーだったはずの選手たちはスタンドで応援、部長も他の者に変わっていて、もろくも敗退した。一体何ということだ。
 プロ球団からの裏金と、入学して学ぶ学園の公認されている奨学金とは同じなのか。そうだと云うのであれば、あまりに杓子定規だ。
 学園独自の基金による奨学金制度は昔から多くの学校で野球部に限らず他の運動部や学業の面で有望な生徒に対して行なわれており、なにも今に始まったことではないし、特定の学校だけで行なわれているものでもない。
 それが私学に多いのは公費助成が少ないからにほかならない。学校教育に対する公費負担は教育の機会均等原則からして公立と私立とで均等なければならないはずなのに、私立に対してそれが少ないために授業料等が高くならざるを得ない。それゆえ、その軽減が必要な生徒に奨学金を出す特待生制度はあって当然なのである。
 プロ球団裏金問題の特待生制度への問題のすり替え。特待選手が何で試合に出られないのか納得できない。

2007年05月10日

日本高校野球連盟会長殿          

          特待生問題について切なるお願い
 在職中、野球部顧問をしていました。その学校で、春季県大会期間中に選手登録取り消しのみならず、特待(奨学金)取り消し(辞退)を迫られ、授業料を払えず退学をせざるをえなくなっている選手・部員が出てきているという。
 地区・県高野連理事として大会運営に当たっている部長が解任され、大会も混乱に陥っている。
 今回の特待生問題に対する対応はあまりに唐突で理不尽な感を否めません。
 プロ球団からの裏金と、入学して学ぶ学園の公認されている奨学金とは同じなのか。そうだと云うのであれば、あまりに杓子定規ではないでしょうか。
 学園独自の基金による奨学金制度は昔から多くの学校で野球部に限らず他の運動部や学業の面で有望な生徒に対して行なわれており、なにも今に始まったことではないし、特定の学校だけで行なわれているものでもない。
 それが私学に多いのは公費助成が少ないからにほかならない。学校教育に対する公費負担は教育の機会均等原則からして公立と私立とで均等なければならないはずなのに、私立に対してそれが少ないために授業料等が高くならざるを得ない。それゆえ、その軽減が必要な生徒に奨学金を出す特待生制度はあって当然なのである。
 プロ球団裏金問題がいつの間にか特待生制度問題にすり替えられ、選手・部員が出場辞退・奨学金辞退、授業料支払困難となって退学に追い込まれ、夢が絶たれようとしている。あまりに理不尽ではありませんか。
 奨学金辞退・選手登録抹消などの性急な措置は止めるようにさせていただきたい。
是非是非お願い致します。

2007年05月15日

ああ、改憲国民投票法

 自公案の国民投票法は国会内外にわたる多くの反対を押し切って参院でも採決が強行され、とうとう成立してしまった。
 そもそも憲法とは、国民が国に対して人権を保障させ権力を制約するために制定されているのであり、時の政権やそれを支持する多数派の都合で簡単に変えられてしまうことのないようにすべきもの。
 ところがこの国民投票法は、自民党政権とその支持派が9条2項削除など憲法を彼らのやり易いものに変えてしまいたいがために、投票数の過半数賛成要件を全有権者のそれではなく、投票総数のそれでもなく、有効投票数の過半数賛成でよいとして最もハードルを低くし、最低投票率も設けずに、賛成が有権者のわずか1~2割台でも成立してしまうこととか、憲法に対して仕事上最も関わりが深く熟知しているはずの公務員・教員の意見表明や運動を規制するなど、幾つもの問題点を付帯決議に検討事項として残しながら法文には盛り込まず、彼らの思惑通りに改憲してしまえるものになっている。
 とにかく国民投票法は成立してしまった。あとは、さしあたり参院選。自公は衆院では既に3分の2以上議席をとっているが、今度の選挙で参院もそうなってしまい、そこで自民党新憲法案が発議されてしまうようになるのか、これから問われることになる。

2007年05月21日

参院選は自民党改憲案が争点

 改憲のための国民投票法がとうとう成立してしまった。
自民党は既に新憲法草案をつくっており、いずれそれを国会にかけ、衆参各院で3分の2の賛成を得てそれを発議案としたうえで国民投票にかける、というはこびになる。
 その自民党新憲法案は草の根(庶民)の切実な必要から発したものではなく、戦後、現行憲法制定まもない自民党結成当時から、岸氏(安倍首相の祖父)・中曽根氏(前首相)ら同党の政治家たちによって考えられてきたもので、結局自民党本位の憲法になっている。
 現行憲法はあくまで国民本位で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」とか、「国の交戦権はこれを認めない」などと、国民が国に対して課するものとなっているが、自民党案の憲法は国家が国民に対して「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を課する立場で書かれ、「国の交戦権」否認条項は削除されている。
 そんな憲法でよいのか。さしあたり今度の参院選では、このような新憲法をこの院で発議しようとしている自民党とそれに同調する政党や議員を増やして彼らに3分の2以上議席を与えてしまってよいのか、それともそれを阻止するか、が問われることになる。

2007年05月29日

クラスター弾「必要」論はおかしい

 クラスター爆弾について、防衛相は「海岸線が長いため広範囲にわたって敵の上陸を撃破」する必要上持っておくべきだといい、空幕長は「国民が爆弾で被害を受けるか、敵国に日本が占領されるか、どちらかを考えた時、防衛手段を持っておくべきだ」として必要論を説いている。
 しかし、はたして、この日本に渡海上陸侵攻を敢行できる国などあるのか。それができるためには、我が自衛隊に打ち勝って制空権・制海権を取らなければならないし、海上輸送できるだけの何百隻もの船舶を集中できなければならない。ましてや日本全土もしくは一部でも制圧して占領し続けられる大兵力と装備・補給品を投入できる能力を持った国などあり得まい。現にアメリカでさえもイラクでそれが困難に直面している。
 第一、防衛省の「防衛計画の大綱」は、我が国に対する「本格的な侵略事態生起の可能性は低下している」としているのである。
 したがって、我が国にとってクラスター爆弾は防衛手段としてどうしても必要だということにはならないはず。
 我が国は自ら率先してそれを廃棄し、禁止条約を支持してアメリカをも説得すべきなのだ。
 それこそが、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と憲法に定めている我が国の責務なのではあるまいか。

2007年06月16日

護憲派は自衛隊をいかに?

 護憲派に対して、よく「非武装で日本の安全を守れるのか?」とか、「北朝鮮がミサイルを飛ばしてきたらどうする。かの国を、まともな我々の理屈が通用する国だと思っているのか?」といった反問があびせられる。
 「ミサイルが飛んできたら」については、かの国の首脳とじかに接したことのある安倍首相は、彼は「合理的な判断のできる人物」、試射は行なっても、日本を「ミサイル攻撃する可能性はきわめて少ない」と書いており、防衛白書も「日本が本格的に攻められることは、まず考えられない」としている。
 自衛隊ついては、自衛隊そのものを直ちに廃止すべきだなどと主張している者はいまい。ただ、専守防衛に徹する最少限の自衛力として現行憲法でも認められるとする合憲論と、憲法上は合憲とは云えないとする違憲論とがあるが、後者の場合は、将来9条完全実施をめざして段階的な軍縮に努めはするものの、当面は維持し、急迫不正の主権侵害や災害などには活用するとの考え方だ。
 いずれにしても、権力側が脅威を煽って自衛隊員や国民を戦争にかりたてることのないように、歯止めをかけるために9条を定めている憲法を守ろうというのが、護憲派共通の立場なのではないだろうか。


2007年06月30日

従軍慰安婦問題が何故今

 アメリカ下院外交委員会で「従軍慰安婦」問題謝罪要求決議が行なわれたが、なぜ今それが?
 一つには、近時、我が国の首相や国会議員その他の間で、かつての日本の侵略を否定したり、「慰安婦」に対する強制性を否定したり、南京占領時の大虐殺を否定するなど歴史を修正する動きが顕著となっており、教科書からそれらの記述が消え、沖縄住民の「集団自決」に対する「軍の関与」も削除になった、という背景がある。
 もう一つは、そのような日本の動きに対して、その被害者たちは、老い先短くなった今、「自分たち当事者・関係者・生き証人が、まだ生きている今のうちに言うべきことを言い、こうむった悲惨・屈辱に対する謝罪と償いを日本政府に是が非でも果してもらわなければならない。さもないと、国は再びそれをくりかえす。だから、このまま黙っているわけにはいかないのだ」という彼らの思いが、そこにはあるのだろう。
 いずれにしても、戦時の加害・被害の実態と責任の所在、被害者に対する謝罪と補償、これらのことをうやむやにせず、時効だなどといって済ませたりもせず、きちんとけじめをつけることが是非とも必要だ。それこそが今、我が国に求められていることなのではないか。

2007年07月02日

原爆謝罪要求決議こそ

 防衛大臣の原爆「しょうがない」発言について。
可能性とか選択肢というものは、日本の対米開戦といい、終結のタイミングといい、アメリカの原爆投下といい、ソ連軍侵攻など、様々考えられはしても、それしかなかったとか、それは避けようのないことだった、だから「しょうがない」とはならないのである。
 当時のそれぞれの国家指導者の考えうる選択肢は、アメリカにとっては原爆投下を強行する以外にはなかったとか、日本にとっては広島・長崎市民をその犠牲にするしかなかった、などということにはならないわけである。
 アメリカが原爆を投下していなければソ連軍は北海道を占領していただろうというのは一つの可能性としてはあり得ても、必ずそうなったに違いないというわけではないし、アメリカは原爆に物を言わせるとしてもポツダム宣言受諾勧告と合わせて前もって投下を予告し、日本が勧告に応ずれば、投下は取りやめるという方法をとることも出来たはずであろう。
 ところが、時のアメリカ大統領は原爆投下強行に許可を与えた。彼らにとってそれはそうするしか方法はなかったどころか、それだけはやるべきでなかったというものなのである。
 そもそも、残虐兵器使用に許可を与えたアメリカ大統領の現在の後継者に対して日本の国会が謝罪要求決議こそやって然るべきことなのである。

2007年07月26日

庶民は庶民の立場で

 テレビや新聞に出たり書いたりしている人は、どちらかといえばそれなりに「恵まれた勝ち組」の人が多く、本当に庶民を代弁してくれるような人は少ないと思うのだが、庶民はテレビ・新聞の論調に感化されてしまいがち。庶民はそのことをよくわきまえて、あくまで自分の実生活に照らして何をしてほしいか、してほしくないかで、候補者・政党を評価・判断するようにしなければなるまい。
 「憲法改正」というが、庶民にとっては今の憲法に何の不都合・不自由もないのだとしたら、変に変えてほしくないといって割り切ってよい。「景気回復」というが、非正社員の低賃金・不安定就労、正社員の過重労働はひどすぎる。「財政再建」というが、大企業・金持ちには課税を軽減し、庶民には増税、保険料その他まで負担増では理不尽。年金・医療・介護・子育てなど社会保障不安。「教育再生」というが、生徒をも教師をもストレス・精神不安定に追い込む競争・管理主義、高学費、過剰な学級定員など、そっちのほうが問題。外交はすべての国と仲良くし、隣国と事を構えたり、他国の戦争に関わったりしてほしくない。庶民は、国も自分自身も「勝ち組」になることなど望んでいないし、日々相和し、安心して暮らせればそれでよいのである。
 私は、そのような庶民の立場からだけで判断することにしたい。

2007年08月07日

「改憲」避けた民主党は賢明

 この度の参院選に際し、安倍首相は改憲を争点にすると言い切って、自民党はそれをマニフェストの第一に掲げて臨んだ。それに対して民主党はそれを無視し、「国民の生活が第一」ということに徹して臨み、大勝を博した。
 当選者の中で改憲賛成派は大きく後退し、積極改憲派の多くが落選、とりわけ民主党は改憲賛成派が29%で、反対派41%を大きく下まっているという(朝日・東大共同調査)。
 民主党は今後、憲法審査会などでは自民党の「新憲法草案」などを批判し、問題点を指摘するのはよいとしても、自ら積極的に改憲案大綱・骨子の作成・提起などに取り組むことは控えた方が賢明であり、遠からず行なわれるだろう解散総選挙でも「改憲より生活第一」で臨んだ方が賢明だろうと思う。
 なぜなら、国民の多くは現行憲法に格別不都合を感じておらず、改憲など切実に望んではいないことが明白になったのに、安倍首相の執念で何としても3年後に改憲を果たすのだという自民党の土俵にわざわざはまり込み、抱き込みにあうようなことになってはバカバカしいだろうと思うからである。
 国民が安倍自民党から離れて民主党に求めているのは改憲などではなく、むしろ現行憲法を活かすことにあるのだ。

2007年08月08日

原爆謝罪要求に加えて

 先日、本欄に「原爆への謝罪、国会に求めよ」という投稿がありましたが、私も同じことを考え、前にも投稿しました。私は、その国会決議の原爆謝罪要求に加えて、アメリカの学校の教科書で広島・長崎への原爆投下を正当化するような記述は控え、その悲惨さ、非人道性をきちんと教える教育を同国に求めることをも盛り込むべきである、と思うのですが、いかがなものでしょうか。
 先だって我が国では防衛大臣の原爆「しょうがない」発言が問題となったが、アメリカでは「原爆投下は戦争を早く終わらせて多くの命を救った正しい行為だった」という考え方がむしろ一般的であり、教科書にもそのように書かれ、教師たちの多くは「原爆投下はやむを得なかった」と教えているという。しかし、アメリカ人のその考え方は間違っている。そのことを指摘し、教科書の書き直しを求めることは、被爆国民の当然の権利であり、責務であると思います。
 ただしそれは、我が国自身が自らの戦争とそれにともなう非道行為に対して、真珠湾奇襲攻撃も従軍慰安婦も南京大虐殺も含めて、反省を新たにし、我が国の歴史教育でそれらを正当化するようなことはけっしてあってはならないという、自省・自戒を込めてのことでなければなるまい。

2007年08月23日

9条論議は生命の問題

 先日15日NHKで9条に関する長時間討論番組(「日本のこれから」)があった。
この討論を聞いて思ったことは、この種の議論には、前提として次の2点の理解が必要不可欠なのでは、ということ。
 一つは、そもそも戦争・武力行使とそれがもたらす結果(効果、弊害、リスク)とはいかなるものか、単に抽象的・観念的な理解ではなく、その具体的な実態・実相をよく知ること。(専門家や体験者から解説してもらって)
 もう一つは、そもそも人の生命の重さとはどれ程のものなのか。それ以上に価値あるもの、もっと優先すべきものに何があるというのか。自他、多数者・少数者、敵・味方に生命の軽重などあるのか。犠牲にしても「しかたない」生命などあるのか。小林よしのり氏が指摘していたが、ガンジー主義とは、自分や民衆がいかに弾圧を受け殺されそうになっても、暴力で反撃はせずに不服従抵抗を貫くというものだが、それが、生命を顧みない、生命を軽んずることになるのか。これらのことも解っておくこと。(哲学者などから解説してもらって)
 この二つのことを解ったうえで議論すべきなのだ。さもないと、事の本質や実態をよく解っていない者同士が、ただ感情的に反論し合って、空しく平行線で終わってしまう。


 

2007年09月15日

「給油」執着すべきでない

 「9.11では24人もの日本人も死んだのだ。『テロとの戦い』参加、特措法延長、インド洋上での米艦などへの給油活動はやり通さなければならない。それは国際公約だ。しかし安倍首相は、参院選で過半数議席を取った野党の反対でそれが難しくなったと見て局面打開のために辞任。そうまでして『給油』を続行したいと考えたのだ。だったら給油ぐらい良いのでは」などと考える向きがあるだろう。しかしそれは間違いだと思う。
 その「給油」の向こうには空爆など攻撃にさらされている民衆がいるのだということ。対テロ戦争の成果はあがっておらず、泥沼化し、攻撃と報復テロの悪循環が続いている。「戦争でテロは無くならない」ということだ。国際テロ犯罪は国連を中心に警察的・司法的対処を原則とし、テロの土壌となっている生活難など人々の絶望的な状況を改善することに全力をあげなければならないのだ。我が国がやるべきことは、アフガン関係で、中村哲氏らが難民医療とともにやっている井戸・用水路掘り事業や伊勢崎賢治氏らが軍隊警護を付けずにやってきた軍閥武装解除活動といった分野での非軍事貢献なのである。
 「戦争放棄」を守ることこそが諸国民に対する国際公約なのだから。

2007年09月19日

政権党から巧くやられてる

 安倍首相は参院選で大敗を喫して、内閣改造はしたものの任命した閣僚の中から不祥事が発覚、テロ特措法延長はアメリカに「公約」したものの参院多数野党の壁の前に思うに任せなくなった。そこで急きょ「局面打開のために」と辞任、総裁選挙という新たな「劇場」をセッティングして、国会審議を先延ばしさせた。
 その間、テレビは「総裁選レース」を放映。国民は皆それに引き付けられ、街頭演説会に「フアン」が殺到する。候補者の2人は「キャラ」がどうのこうのとか、「若い人に人気あるね、私の方はオバさんかな」などと語り、聴衆は「まず福田さんが政権について、その後、麻生内閣になれば」などと語る(インタビュー)。自民党の「役者たち」は候補者の2人だけでなく、派閥の幹部から「~チルドレン」に至るまで出演の機会にありつき、「二人とも総理の器だ」と持ち上げ合う。
 野党議員は、この間まったく蚊帳の外に置かれ、ほとんど出る幕がない。政権党は彼らに、「給油は国際社会から高く評価されている」などと語らせ、一方的に政策宣伝。マスコミはそれを無批判に伝え流すだけ。それが効を奏し、世論調査では「給油」継続に賛成が増え出している。
 政権党やメディアにこんなやり方を許していてよいのだろうか。

2007年10月04日

イデオロギー政治からの脱却を

 安倍前首相は、彼自身の国粋主義的イデオロギーから「美しい国づくり」とか「戦後レジームからの脱却」を掲げ、在任中の改憲を目指してその手続き法制定を強行した。又その国家主義的イデオロギーから教育統制と愛国心養成を図って教育基本法改変を強行した。外交も「価値観外交」。
 しかし、このようなイデオロギー政治は、それこそ国民の自由と民主主義を縛るものであり、諸国民との平和・共生を損なうものだろう。
 福田首相は、そのようなイデオロギー政治はやらないでほしい。「美しい国」とか「品格ある国家」とか、そんなことよりも、とにかく雇用問題、格差・貧困問題、年金問題など国民生活にとって切実な問題にひたすら取り組んでもらいたい。「希望と安心の国」を掲げられたが、それでよいのだ。
 総裁選に際する討論で、「誇れる国」を掲げていた麻生氏は、「『自虐史観』は私の哲学と合いません」と述べた。それに対して福田氏は「誇れる国にするというのはこれからの問題。過去の過ちを取り上げることを『自虐史観』といって切り捨ててしまうのは問題だ」といった意味のことを述べていた。歴史教科書でも史実をイデオロギーで切り捨ててしまうようなことのないように願いたいものだ。

2007年11月03日

アフガン民衆の側からの視点では?

 1日、テロ特措法の期限が切れ、インド洋派遣部隊は撤収、帰国の途についた。NHKや他紙の中には、それを残念がる論調で伝える向きが多い。「テロとの戦い」の戦列から脱落、国際社会からの評価と日米同盟の信頼性に傷がつく、というわけである。
 映される映像はといえば、洋上で給油に携わる自衛艦と艦上の自衛隊員の姿ばかりであり、給油を受けた艦上から飛び立つ艦載機によって空爆にさらされているアフガン民衆の姿はほとんど見られない。戦乱にあえぐ民衆の戦争被害の実態には目をつぶっているのである。
 現地で医療や井戸掘りにたずさわっているNGOの中村哲氏は、「恐怖の対象はテロではなく米軍からの攻撃だ」「殺しながら助けるなんてインチキだ」と語っている。また、アフガンで日本政府特別代表として軍閥の武装解除にあたってきた東京外大の伊勢崎教授も、「日本は結局、民生部門で活動するNGOをも危機にさらす事態を招いている」、アフガン人は日本人に対して信頼を寄せていたが、日本が給油活動をやっていることがクローズアップされるようになった今、「私がテロリストなら、日本人を襲うでしょう」とも語っている。
 メディアは、もっとアフガン民衆の実情をとりあげ、彼ら民衆の目から見て、日本の給油活動はどうなのか論評してもらいたい。

2007年12月20日

平和ボケと教育

 一国会議員からUFOについて質問が出て、政府答弁書では「UFOの存在を確認していない」としたが、官房長官は「私は絶対いると思っている」、首相は「私は、まだ確認していません」、防衛大臣は「存在しないとは断定できない以上、存在するものとして対応を検討しなければならないのでは」などと、それぞれ記者団から問われて述べている。
 飛来してくる弾道ミサイルの迎撃実験がハワイ沖で行なわれ、命中・撃墜に成功した瞬間、拍手して喜ぶ実験スタッフの姿をニュースで見かけた。
 「国際貢献」といえば、自衛隊派遣など軍事対応しか考えが及ばない。
 前防衛事務次官は兵器装備品の納入業者からの賄賂・接待でゴルフ三昧に打ち興じていた。「若者には規律を重んじる機関での教育が必要。徴兵制があってもいい」と発言した知事もいるし、「希望は戦争」「私を戦争に向かわせないでほしい」と訴えているフリーターもいる。
 かつて日本人が懲りたはずの戦争の悲惨・不条理を、いつの間にかすっかり忘れ去っている。それこそが「平和ボケ」なのではないか。
 SF戦争ゲームに打ち興じる者たちに、現実の戦争および軍隊とは如何なるものか、その実態をきちんと教える平和教育が必要不可欠なのではあるまいか。

2008年01月17日

三分の二再議決は許すまい

 2年4ヶ月も前に参院で否決された郵政法案を再議決させるために強行した総選挙で「小選挙区制効果」等のおかげで自派が巧く獲得した3分の2以上多数議席にものを云わせて、自分たちの思い入れだけで国民の大多数はそんなに求めてはおらず反対も少なくなかった新教育基本法・改憲手続き法などの法案を次々押し通してきた。
 それが昨年7月の参院選挙で野党議席が過半数を占めるという事態になって政府案が参院で否決されるようになったら、衆院で再議決するという挙に出、新テロ特措法をとうとう押し通した。
 衆院が3分の2再議決をやれるのは、国民の大多数が切実にそれを求めている場合であり、かつ現在のその議席が、参院選よりもより近い時点で行なわれた選挙で選ばれ、現在の民意をより多く反映している場合に限られる等、必要条件をまったく度外視してそれは行なわれた。
 「給油」自体も、アフガン民衆をはじめ諸国民は、日本に「どうしても」といって求めてなどいないものだ。民衆の眼前で民生復興支援に丸腰で働いている日本人は尊敬されても、米軍その他の軍事活動を洋上で手伝っている日本は卑怯だとしか思われないだろう。
 ガソリン暫定税率延長法案など3分の2再議決をこれ以上許してはなるまい。

2008年02月10日

ゴルフ場より農地を

 先日イタリア旅行をしてきた。バスで北から南へと千五百数百キロを走行し、窓外に緑の牧き場の風景がずうっと眺められたが、芝生のように見える緑は麦畑で、ゴルフ場は一つとして見られなかった。ところが日本に帰ってきて名古屋空港から仙台へ向かう飛行機の窓から白銀に輝いて聳える富士山を眺めたその直後、反対側の窓の真下に目をやると濃淡の灰褐色の地上面に、薄茶色の地平は田や畑だろうが、黒ずんだ野山は虫が食ったように禿げて見え、それが間近に何ヶ所も見られた。芝生の枯れたゴルフ場なのだ。
 旅先で中国製ギョーザ中毒事件のニュースが耳に入っていたが、そこでふと思ったのは、日本人は自国の野山をゴルフ場にしてゲームを楽しみ、外国から食材を輸入して食べている。そして食中毒を起こして大騒ぎしている。
 問題のギョ-ザを販売していたのは日本生協連だが、生協といっても色々あり、我が家で購入している「生活クラブやまがた生協」は「国内自給率の向上」「安全・健康・環境」をモットーに、国産原料を主体に国内工場で生産している消費財のみを販売していて、その生協は「かねてから警告してきたことが、ついに現実のものとなった」と呼びかけている。

2008年02月13日

年金生活者は長生きして悪い?

 「せっせと生き、さっさと去る」との投稿があった。昔のように老人の経験や智恵に頼らなくても、今はマスコミやインターネットによる情報で間に合うようになり、高齢者の価値は下がっている。それに年金生活者が長生きすることは日本経済にとってマイナス要因になるから、というわけ。果たしてそうだろうか?
 技術や智恵の伝授・継承は、年配者に頼らなくてもマスコミやインターネットで間に合うというのは事実に反する。年金生活者が長生きすると日本経済にマイナスになるから「さっさと」というのは、「姥捨て」肯定にほかならず、高齢者を含めて全ての国民のために日本経済はあらなければならないものなのに日本経済のために国民は生きなければならないとする本末転倒だ。
 「寿命が来たら死ぬ」のは当たり前。それは、天寿を全うする、即ち天から授かった命を全うするということであって、それこそが「長生き」。
 ところが往々にして寿命が来ないうちに病気や事故に襲われ不本意に逝ってしまう。健康を無視して、好きなことをし、好きなものを食べていたら「寿命が来たら死ぬ」というわけにはいかず、その前に「やむなく去らなければならない」ことになるのだ。だからこそ、健康管理と医療は必要不可欠なのだ。
 寿命が来るまで健康に留意しつつ存分に生きる。それが一番なのでは。

2008年03月15日

ギョーザ事件被害は両国に

 ギョーザ事件の被害者は誰よりも、それを食べて中毒にあった日本側の消費者たちだが、中国側も、この事件によって中国産野菜や中国製加工食品の安全性に対する不安が増幅し、輸出激減、操業停止・廃業、従業員解雇など大打撃を被っている。
 日本側では、生活に余裕のない低所得者などにとっては安くて簡単な中国製冷凍食品が買えなくなり食品が値上がりすることで困る人もいるだろうが、大半の消費者や業者は中国製品不買、国内産購入に切り替えれば済む。しかし中国側では、中国製品に対する不安を払拭し日本などでの不買動向から脱するには、そのような事態をもたらした原因・犯人をつきとめて処置する以外にない。中国側は国家の威信をかけて、その原因・犯人をつきとめようとしているに相違あるまい。それをうやむやにしたら同国政府の威信は失墜してしまうからだ。中国側には、一方的に日本側に責任を帰せて自らは責任放棄したり、「あいまいなまま幕を引く」などと、そのようなことは対外的のみならず国内に対しても同国政府の威信を失墜させこそすれ、なんのプラスにもならないことはわかりきったことだ。
 とにかく両国の政府および捜査当局が一致協力して原因・犯人をつきとめ事態を改善することをひたすら応援してやまない。
 
 今回の、このような事態の再発を防止するには、検査・検疫体制の強化が両国とも必要なことは云うまでもない。
 それに中長期的には、我が国の側で、極端に低い食料自給率の改善をめざして国内産を増やすための農業・食糧政策(食糧輸入自由化・国内産縮小路線の見直し)を講じることが必要である。
 気候変動や途上国における人口爆発による世界的な食糧危機が心配される今、日本はいつまでも食糧を輸入にたより、中国は食糧を他国に輸出し続けるという、そのような余裕はなくなるはずであり、将来にわたっての食糧の安定確保は日中両国とも焦眉の課題である。
 ギョーザ問題で、目先のことのみに終始することなく、食糧主権や食糧安全保障の観点からの将来展望にたった事態の改善・取り組みが急がれる。

2008年03月17日

迫られる食料自給率アップ

 ギョーザ事件で輸入食品を買い控え、国内産農産物にこだわる風潮がにわかに広がっている。輸入食品の安全性に対する不安と同時に、我が国の食料自給率の低さを改めて思い知らされた向きも多いだろう。39%という自給率は先進諸国中最低かつ極端な低水準である。しかし、それは国土が狭いからでも気候が悪いからでもなく、国の政策の結果にほかならない。当地出身の農学博士・滝澤昭義氏によれば「放置したり他に転用したりしている土地を有効に使えば、さらに多く食料が生産できるはず」「こと農業生産に関する限り、日本は決して資源小国ではなく、むしろ資源大国」なのだという。現に数十年前までは食料自給率は今よりはるかに高かったし、他の先進国並みにすることも不可能ではないのである。
 我が国では今は海外から買いあさってむしろ「飽食」ぎみだが、世界的には気候変動や途上国の人口増と経済成長などで食料危機に見舞われる恐れがあり、農産物輸出国も自国向け供給を優先して輸出の規制・抑制に踏み出し、中国も輸出抑制に乗り出しているという。
 我が国には、輸入食品の検査・検疫の強化だけでなく、これまでの「食料輸入自由化」・「減反」・「小規模農家切捨て」政策の転換が迫られている。


*文中の滝澤昭義氏とは
    山形県米沢市出身
    北海道大学大学院能楽研究科博士課程中退、農学博士
    明治大学農学部教授などを経て、現在NPO法人食農研センター理事長
    著書「毀された『日本の食』を取り戻す」
       「暮らしのなかの食と農」シリーズ「(5)食料はだいじょうぶか」
       同シリーズ「(37)食と健康に関する10問10答」

2008年03月25日

「国境なき記者団」に疑問

 「チベット騒乱」について、私は実態も、そもそものいきさつも、よくはわからないし、中国・現地政府の「暴動鎮圧」のやり方、それに外国人記者の現地入り取材禁止等の措置を支持しているわけでも、それへの抗議行動に反対しているわけでもないのだが、オリンピアでの聖火採火式に際する「国境なき記者団」による妨害行為には甚だ疑問を感じている。
 それは何故かというに、彼らが「記者団」即ちジャーナリストだからである。その使命は人々に正しい事実情報を伝えることであって、彼らには報道の自由があり、どんな国の政府であれ非政府組織・反政府勢力であれ、或はIOCなどの非政治団体であれ個人であれ、それらがそこでやってきたこと、やろうとしていることを事実情報として世界に伝え、或はその問題点を指摘し批判を加える権利までは認められるとしても、それを妨害し阻む権利までも認められてはいないはず。
 ジャーナリストが聖火採火式で事を起こし、メディアがその映像を世界に流すことによって彼らの主張を国際世論に訴えようとしたのであろうが、自身が事を起こして事件として報道させる、いわば「事件の自作自演」はジャーナリストとして許される行為なのか。またそれをそのまま流したメディアもいかがなものか。

2008年04月10日

聖火リレーで試されているのは?

 本紙(朝日)は社説に「中国が試されている」と題し、長野で「聖火をどのように迎えるか、人ごとではない」と書き、「天声人語」には「それで民主化が進むなら、祝祭に水を差す騒ぎも無駄ではない」と書いていた。またある民放TVのワイドショーでコメンテーターが長野での聖火リレーで「日本人の人権意識が問われる」「その日が来るのを思うとワクワクする」などと語っていた。しかし、試されているのはそういうことなのだろうか。
 オリンピックには古代オリンピア祭典に際して守られていた「聖なる休戦」の伝統に基づく諸国民の平和・友好の精神というものがあるが、各国民がそのオリンピック精神をどれだけ理解し意識しているか、それこそが試されているものなのではあるまいか。
 その国その国民がオリンピック精神に忠実で熱意のある平和愛好国民か。平和憲法をもつ日本国民はどうか。日本人はどの国民にも劣らない人権愛好国民でもあるが、世界中の人々が平和のうちにスポーツを行う人権をも大事に思い、平和の祭典たるオリンピック競技・聖火リレーも大事にして、それらを台無しにするようなことはしたくないという熱い思いをもった国民である。それを世界に示してこそ日本人というものではないだろうか。
 長野では人権支援団体などのアピール活動も平和的なやり方で行なわれる分には大いにあって然るべきだろうが、聖火を掲げて走る北島康介選手や福原愛選手たちを妨害して彼らの活躍の足を引っ張るような行為はあってはならないと思うのですが。


参考
オリンピック精神
「スポーツを通じて相互理解と友好の精神を養い、平和でより良い世界の建設に貢献する」
オリンピック憲章
「オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立つことにある。その目的は人間の尊厳保持に重きを置く平和な社会を推進することにある。」(前文「オリンピズムの根本原則」その2)
「スポーツを行なうことは人権の一つである。各個人はスポーツを行なう機会を与えられなければならない。」それは「いかなる種類の差別もなく与えられるべきである。」(同その4)
「スポーツを人類に役立て、それにより平和を推進するために、公私の関係団体・当局と協力すること」(第1章「オリンピック・ムーブメントとその活動」2「IOCの使命と役割」その④)
「スポーツや選手を政治的あるいは商業的に悪用することに反対する。」(同その⑩)
IOC委員は「いかなる政治的または営利的な影響力、およびいかなる人種もしくは宗教上の考えに左右されないこと」(第2章「国際オリンピック委員会」16「委員」その1の③)
4月10日有森裕子氏(五輪メダリスト、長野で聖火ランナーを務める)の言「平和の祭典を通じ,思想やメッセージを伝えることは大事だ。しかし、聖火を消したり、走るのを阻止したりするのは、その表現ではないと思う。・・・・ランナーは特定の政治的立場に立っているわけではないので、きちんと迎え入れてほしい。国際オリンピック委員会はスポーツを通じて平和を広めるという五輪の意義を、もっと理解してもらえるよう務めてもらいたい。」

2008年04月22日

抗議なら首脳来日の時に

 「喪服で聖火を迎えては」との投稿がありましたが、それははたして如何なものか。
 そもそも、オリンピックの原点はといえば、4年に1度、政治的対立・抗争を超えて、世界の全ての地域の代表選手が一堂に会し、競技を通じて交流するスポーツの祭典、ということにあるであって、そのことに全く相反する行為は勿論のこと、それに水を差すような行為も控えるべきなのでは、と思うのです。そのような行為とは、即ち、試合を戦争の代わりに敵国選手に対して憎しみをぶっつけ合う場として利用すること、オリンピックを国威発揚に利用すること、政治的抗議など何かの意志をアピールする場として利用すること、等のことでしょう。
 ところがこのところ、それらがしきりに行なわれ、オリンピックの原点が全く忘れ去られている感がある。
 相手国および自国選手と大会運営関係者に対して純粋な心で敬意を表し歓迎し応援してくれる、それが全てであれば良いものを、それに何かある国に対する政治的抗議の意思が込められているとなると、そのやり方が過激であろうとなかろうと、どんな形であれ、それはその国の選手や大会運営関係者の心を傷つけ、その国以外の選手・大会運営関係者たちの気分をも損なわずにはおくまい。

*投稿は4月22日付けの朝日新聞に載っていたもので、「抗議の喪服で聖火を迎えては」、それっだったら「中国側の反日感情を刺激するのをいくらかは防ぐことができるかも」というもの。
*例えば、結婚式に喪服を来て出席する、などということがあってよいものだろうか。(新郎か新婦が中国人だからといって。)
*北島康介選手や福原愛選手たちが聖火を手に走ってくる、それをただひたすら応援し歓声で迎えればよいのであって、旗を振るなら五輪旗だけでよい。「手錠の五輪」は勿論のこと、チベット国旗も、中国国旗も場違いなのであり、「日の丸」だっても。
*チベット問題について抗議や意志表示をしたいのであれば、近々、胡錦濤主席が来日する、その時、東京で存分にやればよいわけである。

2008年05月15日

9条と五輪

 先日、「9条世界会議」仙台集会に行ってきて、北アイルランドのノーベル平和賞受賞者アインレッド・マグワイア夫人の講演を聴いてきた。夫人は「自分の心から偏見と憎悪を捨て去って、代わりに愛と思いやりで満たし、非暴力・平和の文化を築こう」と呼びかけられた。
 ところでオリンピックは、古来争い合う国々が4年に一回その開催期間中休戦して各国選手・市民が一堂に会して競技を楽しむ祭典であり、まさに非暴力・平和の文化イベントだ。
 人々の中には、オリンピックよりもチベット人の人権救援、或はミャンマー・中国における巨大災害救援だとして、聖火リレーは中止せよとか、開会式をボイコットせよ、という向きもある。しかし、「そんなのやっている場合ではない」というのは戦争・騒乱の方なのであって、それら敵対行為を停止して被災者を助け合うことに全力をあげなければならない。
 一時停戦・被災者救援だけでなく、諸国民の平和生存・協和をめざして戦争の永久放棄を定めたのが日本国憲法9条であり、その条項その精神を各国が「国際平和メカニズム」として取り入れようというのが「9条世界会議」なのであるが、オリンピックも一つの「国際平和メカニズム」をなすもの。それはけっして単なるお祭りやイベントではないのだ。

2008年06月13日

秋葉原無差別殺傷事件に思う

 秋葉原で無差別殺傷事件が起きた。社会の現状をそのままにしているかぎり、あのような自暴自棄的な殺傷行為は連鎖して、まるで「殺傷人数の記録更新」をめざすかのような殺人狂さえ出かねない。
このような自暴自棄的な行為に対しては極刑や、警備・監視の強化や、銃刀法の改正、ネット情報対策、歩行者天国の中止など「対症療法」だけでは収まりつかない。
 健全な精神は健全な協力・共生社会―「血」(人間愛)の通った温みのある家庭・学校・地域・職場―に宿るもの。それが今や競争・選別・弱肉強食社会に化している。人の心に疎外感・閉塞感・焦燥感・絶望感がつのる。その強迫観念が極点に達すると、人は人格障害に陥って自暴自棄的行動にはしる。その社会的病原を除去しなければならないのだ。その病原は、家庭や学校にける過度の競争・選別教育、職場における不安定・非人間的就労などに在る。それらを除去して、社会生活のそれぞれの場に人間愛の温かみを取り戻すこと。それには、企業や行政の運営者・職場管理者・教師・親の意識とともに、教育・雇用・労働管理などのやり方・制度をその方向に改めることである。とりあえず、競争・序列化教育を廃し、雇用・労働法制は早急に改正すべきだ。

2008年06月15日

14日の「天声人語」に違和感

 秋葉原無差別殺傷事件について「天声人語」(朝日のコラム)は、「派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか。あまり一般化すると私的で特異な要素がかすんでしまう」と書いていた。
 「人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく」。勝者ともなれば敗者ともなるし、みんなそれが当たり前のこととして生きており、派遣工だからとか、「敗者」だからといって凶行にはしったりはしない。故に、今回のあの者の行為は彼の「私的で特異な要素」に起因する特異な事件と考えるべきだ。だから、格差社会や不安定雇用など無くしたからといって、もう起きなくなるとはかぎらない、というわけか。
 しかし、それでは、事件の再発予防は不可能ということになり、被害者は運が悪かったで、ただ諦めるしかないことになるわけである。
 事件を他にはあり得ない一個人による特異な事件だとして済ませたり、「人生に勝ち負けは付きものだ」などと、競争・格差社会がさも当たり前であるかのように当然視する、そのような考え方は如何なものか。
 人生には、見ようによってはレースのように見える一面も確かにあり、人々の中にはレースやギャンブルを生きがいとしている者もいるだろうが、それが全てではあるまい。「人生レース」論は勝者の論理であり、そのような論理によって合理化された競争主義の風潮こそ、格差社会の現実の中で「負けっぱなしの人生」などという思い込みを生み、その欲求不満が最悪の形で「八つ当たり」的攻撃機制のほうに働いて惨劇をもたらした、と見るべきなのではあるまいか。

2008年08月19日

五輪選手を応援するのは国家のため?

 「国家無縁とは五輪の理想論」と題した投稿に「国家など関係ない、というのであれば、国民は、なぜ縁もゆかりもない選手をこれほど応援するのか」とか「選手の強化費にも多額の税金が投じられている事実を忘れてはいけない」などとありましたが、違和感をもちます。
 「メダルの数を数えて喜ぶ」(逆に、ある国より少なければガッカリすることになる)とか強化費=税金を気にするなど純粋な応援と言えるでしょうか。
 「看看北京」の言わんとするところは、選手は国家に貢献するためとか表彰式で「日の丸」を揚げるためなどと余計なことにはとらわれずに、ただひたすら自己の最高記録だけをめざし、或は一戦一戦を勝ち抜くことだけをめざして、自分の「すべての力を出し切ることに集中してほしい」ということにほかならないのでは。
 「アスリートとして自らに備わり鍛えた体力・精神力・技を世界から集まったアスリートたちと競う、そのために命がけで頑張る」というのが選手たちの自然な気持であるし、応援する我々もその選手に対して、日頃からフアンだという人はもとより、たまたま同国人というただそれだけの縁から親近感をもち、その頑張りを期待し、頑張る姿に感動を覚えて応援するのであって、国家のために応援するのではない。

2008年09月08日

空しい総裁選

 7日付け本紙(朝日)に福田首相の辞任検証記事が出た。それによれば首相の辞任は、結局、追い込まれて解散するよりは「先手を打って、こちらに余裕がある状態で、勝てる態勢を作る」ためだった、ということのようだ。「自分が(臨時国会)開会前に辞めれば、新しい首相が内閣支持率の高いうちに解散・総選挙に打って出る戦略も立てられる。」というわけである。そして「総裁選が始まるが、ぜひ国民がわくわくするような、エネルギーに満ち溢れた自民党を多くの皆さまに見せて欲しい」と。首相の狙い通り、総裁選は7人も立候補を名乗り出、華々しい展開となっている。
 有権者・国民は、このような自民党の総裁選テレビ・新聞報道を見せられて「わくわく」し、「エネルギーに満ちあふれた自民党」を感じとるのだろうか。
 6日の本紙社説は「もっと面白くするために」、「積極財政派」対「財政再建派」に「上げ潮派」を加え、「中川氏が自ら名乗りをあげてはどうか。自民党の論戦は、民主党の政策を吟味するうえでも有権者に役立つ」などと、「面白い」総裁選に期待感を持たせる書き方をしている。
 私どもには、「国民目線」といってもテレビ目線や財界目線ではなく、いわんやアメリカ目線でもなく、庶民生活者の目線に立った具体的な政策の中身こそがだいじであり、そのような視点からみれば、「空しい」総裁選に思えてならない。

2008年09月22日

「給油」打ち切りこそが国益

 「国際テロ対策」―「給油」についての投稿があった(朝日)。それは、給油は「国際テロ活動に対する唯一の国際貢献」であり、「インド洋をテロから守ることにつながり」石油輸送路の安全確保のためにも国益に適う、というもので、国際貢献や国益を日米軍事協力のやり方でしか考えられていない。
 「給油」は戦争への介入であり、対戦している一方の側への加担であって、他方の側に対する敵対行為である。そのような戦争加担は、日本は平和中立で、アフガンの人々の人道復興支援に献身してくれるとのイメージを突き崩し、ついにNGOの一日本人青年が狙われて殺害される事態も起きた。
 「対テロ戦争」でテロは無くなりつつあるのかといえばさにあらず、泥沼化して治安は悪化し、多くの民間人が巻き込まれて犠牲になっているのだ。
 「インド洋をテロから守る」などと、さもテロリストがインド洋をさかんに往来しているかのように云うのは実態からかけ離れた机上の空論であり、海賊対策などシーレーンの安全確保にために必要な警備活動ならそれとして相応しいやり方で行うべきであり、アフガン作戦に従事している艦船に給油し戦争に加担するそのついでにやるべきことではあるまい。
 このような「給油」はやめるのが国益であり、平和憲法を高く掲げて「紛争の平和的解決」「戦争もテロも放棄」を世界に訴えることこそ我が国に相応しい国際貢献である。
 このような「国益という見地からの反対理由」があるからこそ反対が叫ばれているのであって、「反対のための反対」などあり得まい。

*[この投稿は9月26日付け朝日新聞に載った]

2008年09月29日

「小泉さんも普通の親」で済まされるの?

 引退を表明した小泉元首相は、後援会の会合で、後継者として立候補する次男に地盤(選挙区)を相続させることを、「親ばかぶりをご容赦いただき、ご厚情いただければ」と云って頼んだ。それをテレビ・ワイドショーのレポーターは「小泉さんも、やはり普通の親なんですね」などという言い方で論評していた。
 そのような言い方をされると、視聴者はとかく「そうだ。普通の親なんだ。だったら仕方ないか」となって「容赦」してしまう。
 小泉氏は「人生いろいろ、会社もいろいろ・・・」などといって追究をかわしたものだが、あれと同じで、庶民はこのような言葉にごまかされてしまうのだ。
 しかし、はたしてああいうのが「普通の親」なのか?我が子の採用試験の成績に手心を加えてもらおうと頼む親、あれも「普通の親」なのか?それに、どこかの国に見られる最高権力者の世襲、あれも「普通の親」?
 冗談じゃない。普通の親なら、そんな厚かましいこと出来るものか。

2008年12月06日

米沢9条の会講演会を聴いて

 11月22日すこやかセンターで「米沢9条の会」の講演会がありました。講師は、名古屋「イラク派兵差し止め訴訟」の原告兼弁護団の岡村晴美さん。
 派兵差し止め訴訟は全国11ヵ所で行われてきたが、大部分は、自衛隊派遣が違憲であろうとなかろうとそもそも原告には訴えるだけの権利・利益がないとして却下されて敗訴。しかし、4月の名古屋高裁判決は、憲法判断に踏み込み、派遣は9条1項に違反していると断じ、平和的生存権は具体的な権利だと認めた「画期的判決」だった(但し、訴人本人がその権利を侵害されたとまでは認められず、差し止めも損害賠償も請求は却下され、形の上では敗訴。国側は勝訴したので上告はできず、原告も実質勝訴して上告しないので判決はそのまま確定する結果となった)とのこと。
 田母神航空幕僚長(当時)は、「そんなの関係ねえ」と言ってのけ、イラクでの空自の空輸活動はそのまま続行されたが、11月28日政府は、「イラクの治安が改善した」ことを理由に撤収に踏み切り、防衛大臣は撤収命令を下した。
 しかし海自のインド洋給油活動は延長、海外派兵恒久法も企図されているが、名古屋高裁判決を力にして、これらの派兵推進・改憲勢力と対決しなければならない、との思いを新たにしました。

2009年01月09日

「高額所得者、盛大に消費」とは

 8日衆院予算委員会における定額給付金に関する答弁で首相は、「高額所得者がもらわれた場合、それ以上を盛大に消費していただくのが一番正しい」と述べた。それに違和感を覚えたのは私だけだろうか。
 先に鳩山大臣は正直にも「給付金をもらったら、うまい物を食べに行く」といったようなことを語っていたが、高額所得者が「盛大に消費」するといった場合、それは、やはり「いい物を買うか」、「いい所に行くか」であり、要するに、懐の豊な人は給付金でさらに豊な消費を楽しみ贅沢に浸るがよい、ということになるだろう。
 定額給付金がGDPを押し上げる効果は0,1~0,2%程度で費用対効果は疑問だとのエコノミストの見方(1月9日付け朝日新聞「政策ウォッチ」))もあるうえ、そもそも「景気回復への貢献」の名のもとに贅沢とは、やはり「さもしい」といわざるを得ないのでは。
 一方に、その日その日の最低限の食い物と寝場所にさえ事欠く数多の人々が居り、「派遣村」ボランティアのおかげでやっと年を越せたという人々がいるのである。
 定額給付金を「高額所得者がもらわれた場合」をいうのであれば、このような派遣労働者などの難民支援に携わるNPOや福祉団体などに「寄付していただくのが一番正しい」というべきなのではないか。

2009年03月18日

定額給付金は寄付へ

 定額給付金の一律給付で高額所得者にまで配るというやり方には、多くの人々に異論があり、麻生氏のような大金持ちまでが、「景気刺激策として地元業者の売上に貢献するため」と称してぬけぬけと受け取る、その厚顔さ、さもしさ、強欲さには腹が立ってしかたない。金持ちなら、持ち金を使えばいいのであって、給付金は、本当にお金に困っている人や切実に資金を必要としている事業者への支援に当てるために、寄付に回すべきだろう。
 当方は生活にゆとりのない一介の年金生活者だが、もっと大変な人たちのために、給付金は寄付に回したいと思っている。
 当市ではかねてより「ふるさと応援寄付」というものがあり、その使途として観光・地域文化・環境関連などいくつかのメニューがあるのだが、それらに雇用対策・福祉・教育関連などを加えてくれれば、そこに寄付するつもりでいる。
 自分の選挙区内では寄付を禁止されている政治家は、「第二のふるさと」など自分にゆかりのある他の市町村に寄付する、といった然るべき方法があるだろう。

2009年03月19日

企業献金を受けない第三党を

 二大政党ができ易く両党間で政権交代をし易くする小選挙区制に切り変えられて以来、それに同調するマスコミは両党により多くの紙面や画面を割いてきたように思われる。その上、国民の税金から出す政党助成金も議席数に応じて分配するということで、両党にその大半がつぎ込まれてきた。さらにその上に、両党には企業献金が行われてきた。
 経団連は両党の政策に対する「5段階評価」を行ってそれに応じた献金を会員企業に呼びかけ、各企業は両党に対してどちらかに多い献金を行ってきた。
 企業から政策評価されて献金を受け取っている政党は、それに応えようと努め、それらの企業に利益をもたらす政策行動をとることになる。営利企業が政治献金をするのは見返りを求めてのことであり、政治買収にほかならないのである。 
 そのような企業献金と政党助成金によって支えられるような二大政党制に我が国の政治は依拠すべきではなく、企業献金は全面的に禁止して個人献金しか認めないことにするか、さもなければ、企業献金を受け入れて財界寄りの政治をやりがちの政党に対して、企業献金を受け入れずに国民本位の政治に徹することのできる第三党を応援して台頭・躍進させるか、しなければならないのではないだろうか。

 尚、西松建設の違法献金で秘書が逮捕された民主党の小沢代表は、他の野党の中にかねてよりそれを主張してきている企業・団体献金の全面禁止を、ここに至って主張しだしているが、それが実現できれば、それにこしたことはあるまい。

2009年04月07日

北朝鮮ロケット打ち上げ問題

 (「北朝鮮ミサイル、けじめをつけよ」との投稿があった。今回の北朝鮮のロケット打ち上げを「他国民の生命を脅かす行為」と決め付け、「どのようにして国民を守るのか」、「今回のことで、自衛隊と在日米軍の存在と任務の重要さが理解され、」「国民の見る目も違うものとなるだろう」とし、「憲法9条改正反対だけでは、もはや国民の理解は得られない」としている。あまりに短絡的で、実態をよく見ない考え方だ。)
 (ミサイル転用可能とはいえ、)北朝鮮は「通信試験衛星」打ち上げが目的だとしており、地球自転に合わせて東に向けて打ち上げるという通常のやり方をとり、予告のうえ、どの国にも属しない(我が国「領空」ではない)大気圏外を飛ばし、公海に落下させている。失敗による日本領域への落下の可能性は皆無ではないとしても、その確率は極めて低く、官房長官は「万万が一」という言い方をしていた。(それは、「日頃上空を飛んでいる飛行機がもしかして墜落して頭上に落ちてくるかもしれない」確率であり、「もしかして交通事故にあうかもしれない」確率「万が一」よりも1万分の1低いということだろう。)
迎撃ミサイルSM3やPAC3等を配備したものの、それらは無用であったし、「誤探知」ミスがあって、もしかして誤射しかねなかったとも考えられる危険があったことも明らかになった。
 北朝鮮が、既に多数配備しているといわれる「ノドン」で実際我が国に核ミサイル攻撃をかけてきたら、迎撃あるいは基地攻撃をかけても、撃ちもらしなく完璧に防ぎきることは不可能。国民の生命を守るには、軍事対決を避け、平和的・外交的手段を尽くして戦争から国民の生命を守るしかないのでる。
 今回のことで、むしろ、軍事対応がいかに危険であるか、憲法9条の非軍事安全保障がいかに大事であるか、国民は理解を新たにしたのでは。


2009年05月29日

「抑止力、依存か自前か」以外には?

 本紙(27日付)に「抑止力、依存か自前か」という記事が出たが、それを読むと、北朝鮮などからの攻撃を抑止するには、アメリカの抑止力に依存するか、自前の抑止力をもつか、二つのうちどちらかしかなく、日本の安全を守る方法は軍事しかないかのようにも受け取られますが、他に選択肢はないのか、どうなのでしょうか。
 憲法前文で「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」9条に「戦力の不保持、交戦権の否認」を定めて不戦を国是としている我国民には、非軍事・外交力によって国の安全を守るという選択肢もあり、それこそが重視さるべきなのでは。
 「自衛的抑止力」のために核実験をしたと強弁している国に対して、アメリカの「核の傘」であれ、「自前の核」であれ、自らは核抑止力にしがみついていながら、相手にその放棄を迫ることはできない。また、いかに圧倒的軍事力を備えても、自暴自棄的・自爆的攻撃は抑止することは出来ないし、相手が一たび攻撃に走ったら、いかに「敵基地攻撃」や「ミサイル防衛」で応戦しても、自国民・隣国民に何万・何十万という犠牲者を出す覚悟なしには守り切れるものではない。
 軍事力を背景にしたりせずに、「道義的責任」と道理をもって誠実かつ必死になって対話・説得する外交力こそが抑止力なのでは。

2009年08月25日

国民審査は安易でなく

「三権分立」にもかかわらず、我が国では、とかく政府にとって都合のいい判決がなされがちである。国の措置に対する違憲訴訟などについては、「高度に政治性をもつ国家の行為は司法判断になじまない」とする「統治行為論」などによって、正面からの憲法判断は回避され、「原告には訴えの利益なし」などとして請求自体が却下される場合が多い。
 イラク派兵訴訟があちこちで起こされた中で、名古屋高裁で(間もなく退官をひかえている裁判官が)違憲判断を下した以外には、憲法判断はなされていない。
 どうして、政府にとって都合のいい裁判になりがちなのか。それは、裁判官の人事権は内閣にあり、内閣が裁判官を指名・任命(下級裁判所の裁判官は最高裁が指名した者の名簿によって内閣で任命)しているからにほかあるまい。
 その裁判官を国民が審査する機会が唯一与えられてはいるのだが、それは
ほとんど形式化しており、メディアによる資料提供は極わずかで、大半の人は「よくわからない」まま白紙(即信任)投票してしまう。
 今回の裁判官の中には、元外務官僚(事務次官)でイラク派兵を推進した人物がいるのだが、そういったことは、新聞・広報などの人物紹介では何ら触れられてはいない。
 いずれにしても、安易に白紙投票をしてしまうことのないようにすべきだろう。

2009年10月23日

公立図書館に政党機関紙も

 22日付け本紙オピニオン欄に、日本図書館協会理事長の塩見氏が、「マニフェスト、なぜ図書館で読めないのか」、「主権者が適切に判断できるように判断材料をできるだけ豊富かつ確実に入手できるようにすることも重視してしかるべき」、「図書館で全政党のマニフェストを資料として所蔵して、住民が自由に閲覧できるように整備することは、国民の政治的教養を高めるための、確かな、そしてとりやすい方策である」と書いておられた。その通りだと思う。
 そこで思ったことですが、どこの公立図書館でも新聞を各紙(全国紙・地元地方紙・地域紙)とも置いてありますが、私どもの市立図書館では政党機関紙は置いてありません。
 マニフェストもさることながら、全政党の機関紙も図書館に置いて、住民が自由に閲覧できるようにしてしかるべきなのでは。各党の主張・見解は、マスメディアがそれぞれの目を通して、取り上げたり取り上げなかったり、要約したものが紹介されていますが、市民が各党の生の主張・見解に接することができるようにすべきなのではないでしようか。

2009年12月01日

ビラ配布弾圧の容認判決

 マンションでの政党ビラ配布を住居侵入罪とされた荒川さんの上告が最高裁で棄却された。
 判決は、「表現の自由といえども、その手段が他人の権利を不当に害するものは許されない」とし、管理組合がチラシ等の広告の投函を禁じた張り紙を貼っていたのにマンション各階の廊下に立ち入って政党ビラを投函して回った行為はマンション住民の私生活の平穏を侵害するものであり、住居侵入罪に当たるとして、23日間もの拘留と罰金さえも認めたものである。
 政党や市民が政治活動を行い、政治を人々に伝えるのは自由な権利であり、ましてや国会・各地方議会に議席をもつ公党のビラを配布する行為は、マンション住民の「知る権利」をも含めた「公共の福祉」にかなう正当な権利なのであって、それを禁じることこそ「公共の福祉」を侵害するものであり、私権・管理権の濫用というべきなのではないだろうか。(これまで、マンション住民の総意でビラ配布禁止を決めた形跡はなく、立ち入り配布を注意されたり抗議を受けたりしたことはなく、被害届けも出ていない、という。)
 なのに、その管理権の濫用の方を正当化して、ビラ配布に携わる市民の活動を抑え込む政治弾圧を容認してしまった今回の判決は、「それだけで逮捕される」という弾圧がまかり通るどこかの国のようになってしまうのが怖い。

2009年12月02日

葛飾ビラ配布事件判決の理不尽

 葛飾のマンションでそこの住人各戸に「区議会だより」を投函して回った荒川さんの行為が住居侵入罪とされた、その判決は全く理にかなっていない。
 そもそも人々は日常、様々な用事で人の家を訪問しなければならず、ドアポストに投函もしなければならない。マンション内ならば、公地・公道ではなくとも、そこに立ち入って通路を通らなければ訪問して用を果たすことはできない。訪問や投函を受けた住人が、その内容(用向き)を受け付けず拒絶する権利はあっても、訪問者の通路立ち入り・投函自体まで阻むことは、住人であれ、管理人であれ、警察官であれ許されない。それは公共の福祉に反する私有権・管理権の濫用である。
 「チラシ等広告の投函禁止」が「管理組合の意思」だというが、それがマンション住人全員の総意で決めたというわけではないというし、そもそもそれを多数決で決めること自体、理にかなわない。自分がそれは迷惑だと思うからといって(或は、自分の気に入らない政党のビラだからといって)、そうは思わない、或は迷惑どころか「知る権利」をもち、その情報を必要としている他者にまで拒否を強制することは許されないことだからである。
 にもかかわらず、判決は、その不合理な「管理組合の意思」なるものを正当と認め、「区議会報告」を届けて回った行為の方を、それに反する行為だとして、それを行った市民を逮捕・拘留し罰金まで課することを認めた。
 それは、あまりに理不尽というほかないばかりか、この種の言論表現活動を萎縮させ、これらに対する多数派・権力側による政治弾圧を増長させて民主主義を阻害する最悪の判決と言わなければならない。
 やはり、先の総選挙に際する国民審査で×を付けた裁判官たちの判決だ。

2009年12月05日

歴史観・価値観「受け入れてもらうしか」とは?

 本欄掲載の「国旗・国歌は歴史を刻んだもの」(12月4日)で、「受け継がれたものを継承するしかない」、「学校関係者の皆様に歴史を受け入れてもらうしかありません」と書いておられる。「自らの主張だけをすれば混乱を招くだけ」、だから黙って起立して歌えばよいのだ、というのでしょうか。
 アメリカでは、(1943年)星条旗に対する敬礼と忠誠宣誓を公立学校の生徒に義務づける州の規則に従わずに生徒が退学処分になったのに対して、連邦最高裁は「いかなる地位の公務員も、政治やナショナリズム・宗教その他思想に関する事柄について、何を正当とするかを決めることはできないということであり、市民に言葉や行為によってそれへの忠誠を誓うよう強制することはできない」として、その州規則と処分に違憲判断を下している。
 我が国では、その旗、その歌に対する思いが、歴史観・価値観など思想・信条の違いによって、国民の間に大きく隔たりのある旗・歌を多数決で決めて国旗・国歌にしているが、そこに問題がある。しかも、制定時、政府が国旗掲揚等は「義務づけない」と言明していたのに、学校に押し付け、従わない教師が処分されるというのでは、あまりに理不尽というべきなのではないでしょうか。

2010年03月09日

高校無償化なら入試廃止も

 今、新政権によって高校教育無償化が実現しようとしています。
 欧米では多くの国で、授業料も入試も無いのが当たり前とか。我が国もようやく「途上国」から脱して欧米並みになりつつあるということで、授業料だけでなく入試も無くして義務教育化すれば、それこそ画期的な大改革となるのでは。
 今や、ハイテク化・高度情報化・グローバル化の時代、人々の職業生活も社会生活も、以前のように中学校レベルの知識・技能だけでは到底間に合わない世の中。高校レベルの知識・技能を身に付けることは、個々の人間にとって世の中を生きていくために必要なだけでなく、この社会、この国にとって、産業・経済それに裁判員制度なども含め民主政治を成り立たせる上で、国民全員に高校レベルの知識・技能を身に付けさせておくことは必要不可欠なものとなってきている、ということなのではないでしょうか。「学ぶ気のない生徒」だと決め付けて彼らを放っておくわけにはいかないでしょう。
だから、義務教育は小中学校にとどまらず、高校まで行うのが当然。
 義務教育であるかぎり、入学者を選別し、試験で振り落として入学させない、などということはあってはならないわけであり、入試は廃止しなければならない。
 それに、入試制度は受験競争を招き、狭い知識偏重の競争・選別教育など教育を大きく歪める元凶となっており、それを是正し我が国教育を正常化するためにも、その廃止は不可欠なのではないでしょうか。

2010年03月17日

無償化は恩恵ではない

 高校授業料の無償化に関する先の投稿に、「学ぶ気のない生徒救う必要あるか」との異論があった。そこには履き違えがあるように思われる。
 そもそも国民にとって教育を受けるのは権利であり、政府にとって教育事業は、社会保障などもそうだが、けっして恩恵ではなく、国民の権利に応ずる責務として行われるものであって、小中学校であれ高校であれ無償化はその一環にほかならない。ところが投稿者は、無償化は「学びたいのに貧しくて学べない生徒」を「救ってやる」国の恩恵でもあるかのように履違えている。
 それに、外見などで「学ぶ意欲に欠けると判断される生徒を排斥する教育観は正常」と書いておられるが、そのような生徒こそ指導を必要としている生徒なのであって、彼らにこそ教育対応しなければならないのでは。たとえその時点では生徒に学ぶ気はなくても、彼は指導を必要とし、彼には学ぶ権利がある以上、学校や当局がそれに前向きに対応するのは当然の責務。彼らを除外すれば、学校が荒んだり、教育困難校に陥る心配は薄らぐとはいっても、学校からあぶれ、教育を受けない若者があふれた社会はどうなるというのだろうか。

2010年04月27日

落胆より「激励の喝」を

 「頼りない『愚かな総理』に落胆」との投稿があったが、アメリカの一新聞に日本の「愚かな首相」と書かれ、当人がそう「かもしれない」と言ったからといって「落胆」しているよりも、我々国民は、「アメリカに対して首相は、要求すべきことは毅然と要求し、談判してくれ!」と叱咤・激励し、他人事ではなく、この国の主権者として自分にも自国のメディアにも「喝」を入れるべきだ。自国民が選んだ首相ではないか。
 普天間基地返還について前政権と米国側との間で「代替基地が出来たら移転」との移設合意があるとしても、普天間では住民が65年もの間危険と隣り合わせに、日々迷惑・被害をこうむり、今日・明日にも惨事が起きるかもしれない不安にさいなまれながら暮らしており、一時も早く閉鎖・撤去してもらうことを切望しているのだ。そこから米軍部隊が出動しなければならない事態が差し迫っている状況でもあるまいし、移説先など後回しでもいいではないか。(グアムであれテニアンであれ、或は韓国のどこかであれ、日本のどこかで
あれ。)
 「とにかく、先ず以て普天間の基地を一日も早く閉鎖・撤去させていただきたい!」と首相はアメリカ側に対して迫るべきなのであり、我々も後押ししなければならないのだ。

2010年05月28日

「抑止力」信仰に囚われまい

 朝日新聞は、社説で「東アジアの安定装置としての日米同盟の機能は大きい」と日米同盟・在日米軍基地を肯定している。「安定装置」だとか、「プレゼンス効果」だとか、そのような言い方をすると、いかにも合理性があるように思ってしまうが、それは日米同盟・米軍基地、それらの存在が「脅威をおよぼす」ということにほかならない。みんな米軍に脅威を感じ、怖がって大人しくするから無事平穏が保たれるのだ、というわけか。
 朝日の14日の投稿には「米軍の抑止力が利いているから、我が国の安全保障が機能している」と書かれているのもあったが、いずれも一方的な考え方であり、そこには、かつてのソ連や現在の北朝鮮・中国も「脅威」で、アメリカはそれらから日本とアジア太平洋地域の安全を守ってくれる国だとの決め付けや思い込みがあるのでは?
 北朝鮮・中国が脅威だといって、「抑止力」・「安定装置」として日米同盟が必要だというが、それが相手側にとっては脅威となり、相手側の同様な「抑止力」増強を促す。   
 最近起きている韓国哨戒艦沈没事件、中国海軍ヘリの海上自衛隊護衛艦への異常接近事件などにも見られるように、日米同盟は「安定装置」どころか、むしろ不安定を招く結果になっているではないか。

2010年06月05日

「『普天間』で覚悟」とは?

 「『普天間』で我々も覚悟必要」との投稿があった。日本の安全保障の問題を国民全員が熟考すべきだというのは、その通りだと思う。
この問題で「覚悟」と言う場合、もっと突き詰めて考えれば、「戦争の覚悟」にたいして「不戦の覚悟」というものもあり得るわけで、そこのところにも考え及ぼす必要があるのでは。
 ところで、「抑止力」とは武力攻撃や戦争をしかけてくるのを抑止するための軍備。
日米同盟も米軍基地も、その「抑止力」というわけ。そこには、「もし攻撃をしかけてこられたら応戦し反撃する、その用意がある」ということで、「やむを得ざる戦争」を容認し、「いざとなったら戦争も辞さないという覚悟」を前提にしているのが抑止力論だろう。
 そのような「戦争の覚悟」に対して、「戦争をしない覚悟」というものもあるのでは。
 我が国では、憲法が政府に命じているのは戦争放棄と交戦権の否認であり、その下で我々日本国民に求められているのは「不戦の覚悟」のはず。
 実際問題として、「覚悟」とはリスク(惨害をこうむる危険)に対する覚悟であるが、戦争にともなうリスクと不戦(戦わないこと)によってこうむるリスクとで、どちらがよりリスクが大きいか。現代戦争のありようから考えれば、戦争にともなうリスクのほうがはるかに大きいと考えられ、覚悟なら「不戦の覚悟」こそ必要なのでは。

 

2010年07月11日

広告料にあてる政党助成金こそムダ

 本紙に民主党の全面広告が、昨日に続いて、投票日の今日も出ていた。それには菅代表の名で「私は市民運動から政治をはじめました。誰よりも庶民の側に立ってきた自負があります。」「私は財政再建に挑みます。徹底的にムダづかいを根絶した上で、党派を超えた議論をはじめます。消費税を含めた税制の抜本改革を・・・・。もし消費税率を変える時には必ず国民に信を問います。」「国民のみなさんだけに負担を押しつけません。」「国会議員定数を大幅に削減」する、それらのことを「あらためて強く決意しました。」とある。
 しかし、そこには、大企業の法人税をさらに引き下げようとしているのに、そのことは書かれておらず、金持ち優遇税制を廃止するとも書かれていない。米軍再編費・「思いやり予算」など軍事費のムダ、それに政党助成金などのムダを削るとも書かれていない。削るのは国会議員定数で、「声の小さい」庶民(弱者・少数派)の声を託する議員の議席を切り捨ててしまう、ということだ。
 この新聞広告の広告料も、同党の多数議席に応じてより多く配分されている政党助成金から支出されているのだろう。このようなやり方は、沖縄県民の切実な要求より日米合意を優先するかのようなやり方とともに、はたして「庶民の側」に立っているのかといえば、とてもそうは思えまい。

2010年07月18日

国より家の借金が心配な子も

 「小6の娘も心配 借金大国日本」という投稿で、「文具にも10%の消費税がかかることは嫌だろうに」、「借金は自分たちの肩にのしかかってくる」、「消費税は上げないで大丈夫なの?」、「自分たちは痛みを引き受けようとしない国民にがっかり」とありました。
 しかし、この問題については、テレビの報道番組などで知るだけではなく、もっと子どもに教えなければならないことがあるのでは。
 一つは、家庭によっては「国の借金」なんかよりも家の借金のほうが心配であり、また将来を心配するよりも、その日その日食べて生きていくのがやっとで、5円・10円でも値上げされると困るという家の子もいるのだ、ということ。
 もう一つは、税金は、消費税だけではなく、法人税・所得税その他色々あり、増税しなければならないのはむしろそちらの方なのでは、ということ。
 もう一つは、「国の借金」は、それで国民みんな等しく恩恵をこうむっており国民皆のせいだ、というわけではなく、ある分野の人々に偏しており、国民間には税の負担能力にも隔たりがある、ということ。
 それに、税金は公平でなければならないが、消費税は所得の有無・格差を度外視して一律な税率で課する税で、負担能力の乏しい人ほど重くて不公平な税なのだ、ということ。
 子供にはこれらのことをきちんと教えなければならないのではないか、と思うのです。

2010年08月12日

「核依存症」社説に疑問

 広島市長が「核の傘」から離脱を促したのに対して、首相が核抑止力は引き続き必要だと述べたことを、本紙社説は「すぐに核の傘から離脱することは現実には困難」であり、「首相の言う通りだ」とし、世界の核依存を「減らしていく」外交を積極的に展開することによって「非核日本の道理を世界にアピールできる」、そうして「核依存症から抜け出そう」と書いている。あたかも「吸引をきっぱり絶つことなく、本数を減らして依存症から抜け出そう」と言っているようにも思える。
 アメリカには核廃絶を求めずにその核抑止力に依存し続けながら、いくら「相手の核使用抑止以外には核を使わないようにする」など「世界の核依存を減らしていく外交」を展開して、北朝鮮などに核の放棄を要求し、諸国に核廃絶を促しても、国々は納得してそれに応じようとするだろうか。やはり「日本は矛盾している」との不信感を払うことはできないだろう。
 「すぐに・・・は困難」だというが、「核の傘から離脱する」とは、必ずしも「同盟から離脱」するというわけではなく、ただ「アメリカにも核廃絶を求める」というだけのことで、我が国政府がその気になれば済む話。既に国是としている非核三原則を堅持し、その上、同盟国アメリカにも核廃絶を求めてこそ、「非核日本の道理」が通用し、「核廃絶への道」の先頭に立つ資格が得られるというものではあるまいか。

2010年11月09日

倒閣利用に乗ぜられまい

 我々国民は今、政府に何を最優先に求めているのだろうか。それは危機に瀕している生活・仕事・教育・保育の保障であり、さしあたり今年度、それらを可能な限り手当てする補正予算案を与野党ともよく知恵を出し合って最善を期して審議・決定してもらうことにあるはず。
 ところが、小沢問題が検察審査会による強制起訴で再び浮上し、加えて、にわかにもちあがった尖閣沖の中国漁船衝突事件、それにロシア大統領の国後島訪問に対する政府の対応のあり方をめぐって議論が割かれ、国民生活に直結する問題の審議がおろそかになっている。
 中国であれロシアであれ諸国との外交で最優先すべきは共通利益の追求であり、対決の回避であって、島の領有権問題は大事には違いないが、だからといってそのために両国間の友好・協力関係を犠牲にしてもケンカ(対決)しなければならないことではないはず。なのに政府にケンカをけしかけ、弱腰だと言いたてて非難攻撃する。
 これらの事件・問題が野党による政府攻撃・倒閣に利用される事態にもなっているのだ。メディアも我々国民もそれに乗ぜられるようなことがあっていいのだろうか。(尚、領有権問題については国際司法裁判所に提訴すべきことと考えるのだが。)

2010年11月23日

どなたなら沖縄の現状打開?

 明治期、当地米沢の藩知事だった上杉氏が琉球処分後まもなく沖縄県令になってそちらに赴き、山形県令には薩摩藩士が就任していたことがあるのです。
 沖縄の島には、まるで植民地のように米軍基地の大半が押し付けられている。このような現状をアメリカ政府にかけあって打開できるのは、はたしてどなたなのか。現政権の党首か前政権の党首か、3人の知事候補者のうちのどなたか。
 現政権も前政権も普天間基地の辺野古移設を決めた当事者であり、彼らには基地が押し付けられている現状打開は期待できまい。
 前政権の辺野古移設を容認してきて、今回もそれらの党の支持を得、本土移設を求めはしても政府頼みの現知事に期待できるか。それとも、普天間基地を抱える宜野湾市の市長として、はっきりと県内移設に反対し、基地の無条件撤去をめざして、これまでもアメリカ側に直接かけ合ってきている前市長か。主にこの判断だろうと思います。
 本土も沖縄も、米軍の基地を置いて守ってもらうという考え方に固執し続けるか、
かつての平和貿易立国たる琉球王国の気概をもって現状を打開するか、その歴史的岐路に立って行われるのが今回の知事選挙なのではないでしょうか。

2010年12月28日

他国への「親しみ」調査・公表に違和感

 12月19日付け本紙に「中国に親しみ『感じぬ』8割―内閣府世論調査」と大きく出ていた。どの国に対してであれ、このような調査・公表には違和感を感じる。例えて言えば、高校で生徒に近隣のある高校に対して「親しみを持てるか」とアンケート調査しているようなものでは?自校がその高校の生徒の大半から「親しみを持てない」と思われ、嫌われていると感じた生徒たちは、その高校の生徒たちに反発を感じるか、仲良く交流する気にはなれなくなる。そんなアンケート調査をとらせるバカな教師はいないし、それを公表するバカもいないだろう。
 「中国への親近感の変遷」など対中感情の実態、国民意識の動向を調べ、引き起こった事態との相関を(「尖閣沖の漁船衝突事件が対中感情に影を落としていると見られる」などと)分析することは、外交当局にとっては客観的なデータに基づいた的確な外交を期する上で必要なことかもしれないが、だからといってそれをいちいち国民に公表する必要はあるのか。自国が嫌われていることを知った国民は、その国に来たがり、その国の国民と付き合う気になるだろうか。
 23日付けの本紙には「来日中国人、11月激減―尖閣問題響く」と出ていたが、このような嫌中感情の公表は、観光客などのさらなる激減に拍車をかけることになり、国益を損なうことにならないか、危惧するのは当方だけだろうか。

2011年03月16日

首相の震災対応

 先週の、この番組(朝日ニュースター、パックイン・ジャーナル)では、菅首相が震災発生の翌日朝ヘリに乗って福島原発を訪れ宮城県沿岸部を上空から視察してきたことを、パフォーマンスで「見え見えの人気取り」などと酷評されていましたが、はたしてそういうものでしょうか。首相は、背広姿で官邸に終始でんと構えているのと、早めに現場に駆けつけ被災の有様を目の当たりにしてくるのとでは、どちらが適切か、一概にこうだと決め付けられることではありますまい。 「首相や官房長官が積極的に前に出ているのは評価したい」(大阪大名誉教授の住田健二氏)との論評もあります。
 13日夜、首相は、計画停電等への国民の協力を訴える記者会見で、「戦後65年、最大の危機に直面していますが、互いの絆で何としてもこれを乗り越え、共にこの国を築いていこうではありませんか」と声をつまらせて述べておられました。
 この際は、けなすばかりでなく、共感もあって然るべきなのではないでしょうか。

2011年04月18日

大震災関連の投稿集

4・16余震も菅のせい?
 本欄の川柳に「余震まで菅が悪いと言いかねぬ」というのが載っていたが、同感だ。
 「総理の存在自体が国民の不安材料」だとか「総理の存在自体が風評被害そのものだ」などと野党・マスコミそれに与党内からまで批判の矢面に立たされ、まさにサンドバックの感。
 「右往左往」「もたもた」「後手後手」など、それらの指摘は当たってはいるのかもしれないが、今直面している事態は、誰もが経験したことのないレベルの国難であり、かつ、危機は未だ進行中。なのに、その最中の退陣論。
 いったい誰が「自分ならちゃんとやれる」と言い切れるのか?いや口先だけなら誰でも言えるし、あと知恵なら誰でも出せる。
 当方は何も現政権を支持しているというわけでもないし、庇いだてしているわけでもないのだが、今、投げ出すわけにはいかずに必死で頑張っている者の足を引っ張り、機先をそいではつぶしにかかっている、そのことに反発を禁じえないのだ。
 「政府が悪い、菅が悪い」とテレビ・新聞・週刊誌で言い立てられると、国民は皆そう思い込んでしまう。この大災害・国難にあって被災者・国民の政府不信をかきたて、不安を煽っている、そのことに憤りを感じてしかたないのだ。

4・15首相から学校生徒へメッセージ
 孫が学校から「新学期を迎えるみなさんへ」という首相からのメッセージがしたためられたプリントをもらってきた。インターネットで調べてみると小学生向けと中学・高校生向けとがある。次のようなものだ。
「この春は、私たちにとって、とてもつらい春になってしまいました。」「でも、皆さんは、けっして一人ではありません。どうか・・・・」「同じ仲間だとおもって、祈りはげましの声をあげてください。」「この大地震を通じて、日本国と日本社会は大きな変化を余儀なくされます。」「大きな試練に立ち向かわなければならなくなりました。」「学校は、あらゆる面で、皆さんが、この逆境を乗り越えていくためのサポートをしていきます。」「私たちも全力で、みなさんと一緒にがんばります。」
 「自然は、今回の地震や津波のように、時に、私たちに厳しい試練を与えます。しかし、桜前線のように、私たちをやさしく包んでくれるのも、また自然の力です。」「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に『僕、もうあんな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでも僕たち一緒に進んでいこう』という言葉があります。」「日本の未来は、みなさんにかかっています。みなさんの明るい笑顔で、日本を元気にしてください。」「私たちも、全力で、皆さんの支援に取り組みます。」
 これを読んで孫と話し合った。「な!」「うん!」と。

4・14首相退陣論は無責任
 自民党など野党からだけでなく、与党内からも「菅政権の対応は深刻な惨禍を招きかねない」などと言い立てられ、12日の首相記者会見では記者から「後手後手に回った震災対応でも総理の存在自体が国民にとって不安材料になっていると思います。一体何のためにその地位にしがみ付いていらっしゃるのか」などと質問されたりしている。
 現首相を誰かに変えれば、余震が止み、被災者の救援も被災地の復旧も進展し、原発危機も何もかも事態は好転するというのだろうか。
 「後手後手」というが、いまだかつて誰も経験したことのないこのような事態に遭遇しても、他の誰かであれば後手に回ることはなかったなどと断言できるのか。
 責任の無い者には何でも言えるのだろう。しかし、今このような時に、被災者・国民の首相や政府に対する不信・不安を煽り立てる、このような物言いは許されていいことなのだろうか。
 首相や政府のミスを指摘し批判するのはいいとしても、いま辞めさせたところで、被災者・国民に何の益があるというのだろうか。かえって不安・動揺をかきたてるだけではないのか。首相が替わり新内閣が発足するまでの時間のロスで取り返しの付かない不都合を来たすことはあっても、彼が首相でいるよりは、いない方がましだとでもいうのだろうか。
 退陣論は無責任論だ。

4・9今は戦時とは違う災害時
 「非常事態内閣」について本欄に賛否両論が載った。反対論(「『翼賛化』招く・・・」)は、今回のような災害時の戦時との違い―少数意見・異論の排除・抹殺など起こりようがないという点―を度外視した考え方に立っている。戦時の場合は反戦・厭戦など反対意見や異論がつきものであり、権力はそれを「挙国一致」の名の下に排除・抹殺しようとするものだが、今回の場合は地震・津波とそれに起因する原発放射能災害という未曽有の多重災害からいかに被災者を救援し、いかに事態を収拾し、インフラをいかに復旧するかという全国民共通の課題に対して、それらをやめろだとか放っておけだとかの反対論・異論などはありえず、党派を超え一致して取り組んで然るべきケースだろう。
 事態が収拾した暁には、党派によって国家ビジョン・復興戦略・手法などの相違が出てくるだろうが、今は、現下の危難から被災者を救い、いまだかつて誰も経験したことがなく戸惑うのが当たり前の非常事態をいかに収拾するかの一点集中・一致協力の時であり、足引っ張りや揚げ足取りを演じている場合ではないのである。
 また戦時の場合のようなプロパガンダの必要も情報隠しの必要もなく、公明正大な情報開示に不都合を感じる者は誰もいないはず。

4・1がんばろう東北!がんばれ政府!
 13日夜、菅首相は、国民の協力を訴える記者会見で、「戦後65年間経過した中で、ある意味でこの間で最も厳しい危機・・・・・。どうか、お一人おひとり、そうした覚悟を持って、そしてしっかりと家族・友人・地域の絆を深めながら、この危機を乗り越え、そして、よりよい日本を改めてつくり上げようではありませんか」と声をつまらせながら語っていた。
 ところが、このところのマスコミ・メディアの中には、「亡国の官邸」だとか、「菅首相の罪は万死に値する」だとか、菅政権をボロくそにこきおろす向きが強まっている。 
 このような時のマスコミの使命は、むしろ「みんな頑張ってくれているから大丈夫だ」と被災者に伝え、少しでも希望と安心を与えることなのであって、被災者たちに「政府は当てにならないから、諦めたほうがいい」などと不安・絶望をかきたてることではないはず。
 今回の震災にあたって政府その他の対応に対する検証は、いずれ事態が収束し落ち着いてからの時点では大いにやって然るべきであり、責任追及もあって然るべきだが、被災者が一刻も早い救援・復旧を待っており、余震が未だ続いている今はまだその時ではない。
 このような災害・非常時には、救援~復興に取り組み、或は取り組もうとしている人々に対しては、ボランテアにも自衛隊員にも、みんな「頑張れ!」と言い、菅首相にも「しっかり!頑張れ!」と言ってやってもいいのでは?。

2011年05月25日

矛先が政権批判に向かう風潮

 23日の投稿に「政権批判許さない風潮を憂う」、大震災に伴う世の風潮に「戦前の批判精神を封じられた時代の状況がダブって見えてならない」とあったが、現実はその反対なのではないかと思う。
 政権批判は封じられているどころか、被災者のやり場のない怒りの矛先がいっせいに政権批判に向けられ、なにもかも首相のせいで「菅災」だとさえ言い立てられ、テレビ・新聞・週刊誌のどれを見ても、ほとんどが容赦ない政権批判の論評にあふれている。
 戦前と今の時代状況は全く異なっており、混同してはなるまい。戦前は、思想・言論統制で批判精神が封じられ、「一億火の玉」とばかりに戦争に突入していったが、今直面しているのは戦争とは異なる災害。思想・言論統制などはなく、それでも被災者救援・被災地復興のために人々は絆を意識するようになり、被災者と心を一つにして事にあたろうとする雰囲気がもりあがっているのだ。人々は官民・与野党が一丸となって協力し合うことを望んでいる。ところが野党それに「与党内野党」も、それに背を向け、政権が窮地に立たされているのに乗じて倒閣に狂奔し、メディアも、人々の鬱憤の矛先を政権批判に向け、政権不信を煽っている。その結果、被災者国民の不安は深まるばかりで、希望も安心も得られなくなっている。そのような風潮こそ憂えられてならない。

 


2011年06月03日

メドつき辞任表明の首相に対して

 「菅おろし」の内閣不信任案・採決。被災者・国民の間では「こんな時に」という向きがほとんど。朝日新聞(社説)などもそうだ(社説に「その前にやる事がある」「無責任にもほどがある」)。或は不信任案には「大義がない」とも(毎日新聞の岸井記者)。ある民放のワイドショウ(「ひるおび!」)によれば、前日、不信任案を提出した野党との党首会談で、板垣総裁は志位委員長から「菅内閣に代わってどういう政権をつくるのか、政権構想を具体的に示してほしい」と問われると、「確固たる展望をもっているわけではない」と答えたという。
 民主党内では小沢派などが不信任案賛成に回って賛否五分五分の形勢だったのが、国民新党の亀井氏、それに鳩山前首相が(復興基本法案の成立と第2次補正予算の編成の)メドがついた段階での辞任を迫ったところ、首相はそれに応じ、採決直前に開かれた代議士会で「一定のメドがついた段階で若い世代に引き継ぎたい」と退陣の意向を表明した。すると採決では、小沢派・鳩山派などの大部分が反対に回って、不信任案は大差で否決された。
 そこで、「一定のメド」とは、いつどの段階のことかが問題となり、鳩山氏(6月中との考え)と岡田幹事長らとの間で解釈のくい違い、或は菅首相本人の思い(原発事故の収束が冷温停止にこぎつけた段階、だとすれば来年1月か?)ともくい違いが出てきた。
 野党とマスコミは、いったいどっちなのか、はっきりしろと迫り続ける。或は、いずれにしろ、菅はそれまで首相の座にはあっても、野党も官僚も自治体も外国政府も誰からも真剣に相手にされない、「死に体」(レームダック)と見なされるだろう、とマスコミ関係者・評論家は言い立てる。
 しかし、我々国民にとって必要なのは、現首相をいつか何らかのメドがついた段階で辞めさせるにせよ、在任中は職務を全うさせ、震災の復旧・復興・原発事故収束に全力を尽くさせることであり、それを叱咤・激励することである。どうせ「死に体」だからと言って、背を向け、足を引っ張り、黙って見ていればいいというものではあるまい。

2011年06月18日

原発震災・一億総懺悔

 今回の大震災を都知事は「天罰」と称したものだが、それは敗戦直後に「一億総懺悔」が吹聴された時のように、国民全員に罪を悔い改めるべしということなのだろう。確かに「自然を恐れない人間のおごり」に対する反省は国民各人にあって然るべきであり、とりわけ原発建設を国策として推進してきた政権党に支持・協力を与え、恩恵を得てきた人々は、大いに反省があって然るべきだろう。
 しかし、原発震災の場合は、まさかこんなことになるとは思いもよらなかったとか、想定外のことで仕方のないこととして済まされるような筋合いのものではあるまい。それは、きっかけは地震・津波だったとしても、最悪の事態を想定せずしてそこに原発を造らせた人間の方があくまで悪いのであり、人災以外のなにものでもないのだ。
 それを、当の政策を推し進めてきた前政権党やその主要な政治家たちは、誰にも増して重い責任を負わなければならないのに、自らの責任を棚に上げて、「天罰だ」などと被災者・避難民を含めた国民全員に罪があるかのように言い、或は「菅災」だなどと現首相にのみ罪を着せようとしている、そのような原発震災を招いた張本人たる「戦犯」こそ追及されて然るべきだ。

2011年06月25日

石原親子の反原発批判論

 石原親子(都知事と自民党幹事長)いわく。日本の産業経済と国民生活の発展は原子エネルギー利用によって支えられている。日本で原発に反対する人は広島・長崎の原爆のトラウマにとらわれている人、イタリアの脱原発の国民投票は集団的ヒステリーで、感情的な反発か、原理主義的な思想から反対していると言っているが、親子のいかにも知ったかぶりのこのような物言いこそが、反原発に対して思想的・感情的な反発で、原発というものの危険性・限界性をわきまえない無知からくる言動にほかなるまい。

 今回われわれが知り得たことは、安全・安心な原発などというものは所詮あり得ず、核兵器と同じく、この地球上で生きる生命あるものと共存できる原発などあり得ないのだというということ。
  
 原発には、そもそも次のような根本的な欠陥があるのだということ。
1、原発とは緩慢に爆発する原爆である。このプロセスは必然的に放射性物質を生む。生物にとって全く異質の毒物だ。我々の身辺にある毒物の多くは焼却すれば消える。フグもトリカブトもベロ毒素も、サリンでさえ熱分解できる。しかし放射性物質を分解することはできない。砒素や重金属など元素の毒は焼却不能だが、体内に入らなければ害はない。放射性物質は我々が住む空間そのものを汚染する。(作家の池澤夏樹氏の論稿<6月11日付け朝日新聞―文化欄に掲載>より)
2、そもそも原子炉には構造上の本質的な弱点がある。それは、(1)発電は核燃料が燃焼(核分裂)から出る膨大な熱で水を沸かして蒸気をつくり、蒸気でタービンを回して発電機を動かすことによって行われる。その運転を停止して(核分裂反応が止まって)も、燃料棒は(核分裂生成物の崩壊が続いて)膨大な熱を出し続けるので、絶えず水を循環させて冷やし続けなければならず、水の供給が止まってしまったら膨大な熱が出っぱなしになる。
(2)放射能を絶えず出し続ける核分裂生成物を原子炉の内部に完全に閉じ込める技術はない。事故になれば放射性微粒子(「死の灰」)は大量に放出されるし、それを永遠に封じ込めるのは不可能なのだということ。今回は放射性物質を閉じこめるはずの「5つの壁」(①ペレット②燃料被覆管③原子炉圧力容器④原子炉格納容器⑤原子炉建屋)のどれもが崩れてしまったのだ。
(3)使用済み核燃料(残った「死の灰」の塊)の後始末ができない―「再処理工場」でプルトニウムとカスに分け、プルトニウムを原発燃料に再利用されることになっているが、カスは高レベル放射性廃棄物(その放射能のなかには半減期が何千年・何万年かかるものもある)として残る。この大量の残りカスを後始末するところがどこにもないのだ。(使用済み核燃料を原子炉から抜き出して、今は下北半島の六ヶ所村の施設のプールに一部保管、それ以外は原発建屋など施設内のプールに放り込んだまま。モンゴル高原などで地下数百メートルの穴を掘って埋め込んでも、何万年も誰かが責任を負うなんてあり得まい。)
 要するに、原子力というものは、永遠に、人間の手ではどんなに頑張ってもコントロールし管理しきれるものではないのだということだ。

 親子はこれらのことを解っておらず、未だに、原発に反対する人はいつまでも反核感情や核アレルギーにとらわれている人間か左翼だと思い込んでいて、時代は自然再生エネルギーへの転換の時代だということを解ろうとしないのだ。

2011年06月29日

「首相の顔、国民は見たくない」に違和感

 先日26日の『首相の顔・・・』投稿について。首相に対しては批判があっても当然のことであり、私も批判はもっています。しかし、このような「顔は見たくない」などという言い方は如何なものか。
 それは、一つには、人物を単に「嫌いだ」「嫌いになった」と言うのとは違って、「いなくなってほしい」という、その人の存在の否定にもつながる、人格を傷つける言葉であり、気に入らない人物を排除しようとするファシズムにもつながりかねない言葉として受け取られるからです。それは内心でそういう思いをもつ分にはかまわないが、人々に言い立てる言葉ではあるまい。また自分のことを自分で自虐的・自嘲的にそう言うのはかまわないが、他人が言う言葉でもない。
 もう一つには、顔を見たくない理由としていくつかの首相の非をあげているが、それらは相手側から見れば一方的な決めつけであり、しかもそれを国民の大多数がそう思っているかのように「だから国民は首相の顔は、もう見たくない」と書き立てて流布する。それは、そうすることによって国民の「反菅」感情を煽る扇動にもなるだろう。
 いずれにしても、どうもフェアな言い方ではない。小学生の孫は、ふと「総理大臣がかわいそうだ」とつぶやいたものだ。学校で自分がそんなふうに言われたら耐えられないと思うからだろう。

2011年07月08日

ストレステストは迷惑?

ストレステストは迷惑?
 原発再稼動にあたって菅首相がストレステスト等の方針を打ち出した。ところがマスコミから流れる論調は、それをあたかも九電の「やらせメール」と同列に迷惑がっているかのようなものばかり。一定の評価はしつつも「なぜ今なのか」困惑しているという向きもあるが、大方が悪評。しかし、「おかげで、ますます運転再開のメドがたたなくなった」という、その言い方は再稼動容認の立場に立っているよう思える。そしてそれは英断どころか、またしても首相の失策として攻撃材料にされているのだ。
 「唐突だ」とか、「ちぐはぐだ」とか、「進め方が下手」などといった指摘はうなずけるとしても、ストレステストや新しいハードルを設けること自体はけっして愚策ではあるまい。直ちに廃炉にしてしまえば完璧なのだろうが、次善の良策とも言えるのではなかろうか。
 それらの具体的な方法と内容はこれからの話しで、今のところ政府の統一見解としては、ストレステストは「必ずしも再稼動の条件にはしない方向だ」とのことだが、それでは意味がない。稼動を認める条件として厳正に適用すべきものでなければならない。
 官房長官は「エネルギー供給のことより、原子力の安全・安心の方が、優先度が高い」と述べているが、稼動推進側の圧力・攻勢に屈してはならない。

ストレステストは当然 
 原発運転再開とストレステストなどをめぐって野党とマスコミは、「テストなど唐突」だとか、「閣内不統一」だとか、「国の方針が揺らいでいる」などと、政権の混迷ばかりを大きく取り上げ、首相や閣僚がいつ辞めるのか、そのようなことばかりにこだわっているやに思われる。
 経産大臣がせっかく「安全宣言」を出して、再稼動にゴーサインが出たものと思っていたところに、首相から「ストレステスト」・「新ルール」が持ち出され「待った」がかけられて混乱を来たし不信・不安を招いている、というわけである。それは電力事業者や経産省など推進側から見ればそうなるが、国民にとっては、安易な「安全宣言」と「やらせメール」など世論誘導工作に基ずく再稼動容認、その方が不安なのであり、容認にはよくよく慎重を期し、新たなハードルを設けようとするのは当然のことだろう。
 「ちぐはぐ」だろうが、「ブレ」ていようが、充分でないものを改めるのをためらってはなるまい。「善は急げ」だ。安易に再稼動を容認して、また事故を起こされてしまってからでは遅いのだ。
 今後は、これまでどおり原発ありきの経済で行くか、それとも脱原発の方向で経済や暮らしを立てるか、どの方向をめざすのか、今こそ国民的議論の時だと考える。

2011年09月01日

最悪の結果を想定して対応

 「大丈夫だ」という楽観論と「危ない」という悲観論、両説があって、どちらが正しいか分からないという場合、どう対応したらよいのか。次のような二つの考え方があろう。
 一方は、「どうせはっきりしたことは分からないのであれば、悪い方に考えて不安にとらわれるよりは、いい方に考えて止めない方向で対応した方が賢明だ」という考え方。
 他方は、「『分からない』ということは、最悪の事態もあり得るということだから、それを回避するには止めることまで考えて対応した方が賢明だ」という考え方。
 原発事故・放射能害の場合は、どちらの考え方をすればよいのか?
 自動車事故やタバコの害などの場合ならば、「いい方に考え」て対応するとして、それが悪い方に結果したとしても、結果を被るのは、乗った人、吸った人、それらに巻き込まれた人たちだけに限られ、自己責任の部分が大きく、乗るか乗らないか、吸うか吸わないかは、各人がそれぞれにメリットとリスクを勘案して個々人が判断すれば済む話で、リスクを回避しなければならないからといって国が自動車やタバコそのものの製造・販売まで禁止したりする筋合いではない。
 しかし、原発事故・放射能害の場合は、たとえ事故発生や発症の確率はどんなに低くても、万一最悪の事態が生じてしまったら、広範な地域にわたり長期にわたって、計り知れないほど数多の人々がそれに巻き込まれ深刻な結果を被ることになり、それが国や自治体の責任となる。そのような場合は、最悪の事態を回避するには、放射能の元を断つこと、即ち原発そのものの建設・稼動を止める以外に安全・安心は得られまい。

2011年10月08日

原水協と原水禁の協力を歓迎

 本紙の記事によれば、共産党の志位委員長が「脱原発で旧社会党系の人たちとの歴史的な対立を乗り越え、連携する必要がある」、「脱原発を目指すには政党を超えた連携が必要」で、原水協と原水禁との間で「『協力ができたらなというのが私たちの願いだ』と述べた」という。
 8月の広島・長崎の大会をひかえた7月31日、米沢で小集会があってそれに出たが、同じ日に近くの福島市で初めて原水禁世界大会が開催され、飯舘村の青年がスピーチしていたのをテレビ・ニュースで見た。米沢で当方が参加したのは原水協系で、そこでは、福島で原水禁が主催した世界大会のことには全く触れられず、後刻テレビ・ニュースでそれがあったことを知って、そっちのほうに行きたかったなと思ったりした。
 9月19日東京で大江健三郎氏・澤地久枝氏らが呼びかけ人となって開かれた「さようなら原発」集会には行ってきた。そこには数万人が集まった。演台でスピーチした8氏はいずれも非政治家で、社民党の福島委員長は下にいたのを見かけたし、志位委員長も会場のどこかにいて参加はしていたらしい。
 原水協と原水禁は、てんでに背を向けあってやるのではなく連携協力してやってくれたほうが、みんな結集しやすく、何倍も大きな力を持てるはず。

2011年11月17日

消費者の視点からTPP反対

 12日の投稿に「消費者の視点」からのTPP賛成論があったが、TPP反対はなにも生産者・供給側の立場からだけではなく、消費者だからこそ反対なのだということ。
 消費者・生活者にとっては、負担が少なく、なにもかも安く買えさえすれば、あとはどうでもいいというわけではないのだ。
 「関税障壁で不当な負担を強いられている」と決め付け、「理不尽な負担から消費者を守る」とか、「高コストのものを狭い国土で生産する必要があるのか」と書いておられる。しかし、それらのコストは生産者・供給側の利益を守るためではなく、ほかならぬ消費者の生活を守るためにこそ必要な負担なのだということ。
 消費者・生活者にとって是非とも必要で守らなければならないものは、世界の食糧危機と国際価格の急騰からの食糧の安定確保であり、検疫・検査による安全性の確保、それに農林漁業による国土環境の保全である。
 関税も非関税障壁も、それらのために必要なコスト負担なのであり措置なのだということをよく認識したうえでTPPは判断すべきなのであって、消費者は、ただ単純に、負担が少なく安く買えさえすればいいというものではあるまい。

「都知事を応援する」に違和感

 11日の投稿に「宮古市の震災がれきの処理を受け入れた。さすが東京都」とあった。
被災地内で処理しきれない震災がれきは、各都道府県とも可能な限り受け入れざるを得ない状況にあるのだとは思う。東北の本県では受け入れており、当・米沢市にも搬入されている。ただ、埼玉県から搬入した産廃から基準値を超えるセシウムが検出され、その搬入を停止し、未処理の廃棄物を返却するといった事態もあった。
 投稿には、「金で済ます」ことなく「自ら手を汚して助けようとする」都知事と書かれているが、福島県の町に言わば国から「金を出して」もらって原発立地を引き受けてもらい、「自らは手を汚さず」して最大の電力受益を得ているとも言える東京都が、福島の除汚土や汚染がれきの処分場を引き受けるというのならいざ知らず、「岩手産」の瓦礫受け入れを「さすがだ」といって「誇りに思う」というのには、どうも違和感を覚える。
 反対者に対して「原発事故の以前にも放射線は微量に大気中に存在していた。何をいまさら」というが、「福島産」ではない瓦礫を受け入れた都知事を「よくやった」と賛美するそちらの方こそ「何をいまさら」というべきなのではないだろうか。

2012年01月25日

国旗・国歌を踏み絵にしてならぬ

 朝日新聞に「国旗・国歌で愛国心教えたい」という投稿があったが、単純過ぎないか。
(1)愛国心には二通りあり、一つは、生まれた国への愛着、同胞への親近感、もう一つは、自分がその一員として権利・義務をもつ国家・国柄への愛着。
 前者は、親子・家族の情愛や郷土愛などと同様、自然に生まれ育つ感情なのであって、わざわざ教えなければならないようなものではない。
 後者については、憲法上の国家の理念や権利・義務、歴史・伝統・文化など学校その他で教えなければならない。
 しかし、「愛国心を持て」などと押し付けがましく教える筋合いのものではない。ただ、「誇りを持つのはいいが、驕り・独善になってはいけない」といったことはよく教えておかなければなるまい。
(2)国旗・国歌は、それが国民誰しも違和感なく受け入れられる旗や歌ならばいいが、「日の丸」・「君が代」は、それらが国民を戦争に駆り立てたというい歴史から拒否感をもっている向きもある。それらは、そもそも「大日本帝国」の国旗・国歌だったのに、戦後、国が全く変わっても使われ続け、99年それを正式に国旗・国歌とする法案が国会で可決されたが、少なからぬ反対もあったのだ。審議の過程では政府はそれらを「強制はしない」とする見解を繰り返し述べていた。
 (3)公教育の場で生徒・教師・親たちが心を一つに祝い合う式典に、「踏み絵」のようにイデオロギーに関わる対立のタネを持ち込むのは望ましくない。少なくともそれを強制すること自体、式典に臨む生徒・教師・親たちの中に要らざる困惑やギスギスした重苦しさ与え、式典を乱す元にもなり、かえって愛国心を損なうことにもなる、といったことも考えなくてはなるまい。



2012年03月09日

「実績評価する教育改革」は間違い

 先日の投稿「実績評価する教育改革に期待」は、「実績に見合う報酬」にし、評価の低い教員を辞めさせられるようにすることによって教師は切磋琢磨し、「優秀な人材が集まる」としているが、そこには大きな錯覚があり、あまりに短絡的な気がした。
 第一、学校教育は、大相撲や家庭教師などと違って個人プレーで行なわれるものではなく、心の通い合った教師集団の協力によって行なわれるチームプレイである。一人の生徒又は生徒集団に対して担任・教科担当者・部活顧問・各校務分掌担当者など皆で当たるのだ。学校・学級には多様な生徒がおり、教育内容も多様で、それに対応する教師集団は多様なメンバーによって構成されなければならない。
 教員の勤務実績は学テ成績とか生徒管理などの実績ではなく人間教育の実績でなければならず、教師の力量は、技能だけでなく、人間としての総合力。「切磋琢磨」と力量アップは給料に差をつけて競争に駆り立てることによってではなく、研修会や研究授業などを通じて行われているのだ。
 そもそも生徒を前にして、カネで人を動かすとか、カネしだいで動くといったさもしいやり方は教師たる者にはあってはならないことなのだ。
 一私学にずうっと在職してきて、退職しても卒業生や同僚それに校長とも、いつまでも親交を続けられている実体験から、そう思うのだ。
 


2012年03月18日

法治国家をはき違え

 大阪府立和泉高校の卒業式で「君が代」斉唱の際の口元監視について、橋本大阪市長は「法治国家」である以上当然だとコメントしていた。
 法治国家とは法に基づく支配を原則とし、治める者も治められる者と同様に法によって拘束される国家のことだが、法律万能主義に陥って国民の基本的人権を抑えることになってはならないのだ。
 組織にはマネジメントや服務規律は必要だとしても、それらは法令とりわけ最高法規である憲法に違背するところがあってはならない。
 大阪市役所の職員に対する強制的なアンケートやメール調査は、職員の違法な組合活動や選挙活動の事実をあばくためには「これぐらいのことをしないとダメだから」といって、それをやる。又、卒業式における「君が代」斉唱に際する管理職による口元監視は、条例や職務命令を徹底させるためには「それくらいのことをしなければ」といって、そこまでやる。これでは、役所も学校も、まさに「検閲・密告・監視社会」に化してしまうだろう。
 我々庶民は、ただ単に「ルールを守り、多数決で決めたことや、選挙で選ばれた人が決めたことには、どんなことでも従うのが民主主義だ」などと言われて、それだけで納得してしまうのではなく、人権や基本権の尊重あってこその民主主義なのだというところまで考えが及ばなければならないのだ。

2012年04月12日

原発再稼働、見切り発車はだめ

 大飯原発の再稼働、「万々一への」備え(安全対策)を中途半端にしての、いわば見切り発車が行われようとしている。それに引きかえ北朝鮮ロケット打ち上げへの「万全の備え」。原発事故が起きる確率とロケットの一部が落下して何らかの被害をこうむる確率とではどちらが高いかだが、それにしても、両者の「備え」に見られるあまりの落差はいったいどうしたことだろう。
 原発は再稼働したからといって直ちに事故が起こるとはかぎらないから大丈夫、と言うのは極めて安易。事故の確率は低いとはいえ、いったん起きてしまったら、その被害は広範囲・長期間かつ様々な分野におよび、まったく取り返しのつかない破局的事態にも立ち至る。なのに、「この夏の停電を避けるために」といって、とりあえず運転再開に踏み切って、あとは運を天にまかせるかのような無責任きわまりない「政治判断」を下そうとしている。
 原発にこそ「万全な備え」が必要なのであり、「事故は絶対に起きないという保証」が必要なのだ。再稼働をやめること、そして廃炉にする、それこそが絶対的な保証だろう。
 たしかに停電は避けなくてはならない。そのためには、とりあえずは火力発電でしのぐとともに、他の電力会社から余った電力を連系線で送電して融通してもらう等、原発は再稼働しなくともカバーできる方法を用いるべきだ。

2012年05月05日

9条改憲してはかえって曖昧に

 「国民の安全のための改憲を」という投稿があった。「周囲の国が攻めてきた時、『我々は戦争を放棄しています』と言えば、引き下がってくれるだろうか」、「大地震のように・・・想定外のことが起きる可能性は十分ある」、だから軍備が必要で、自衛隊に適正な法的位置付けを与えるように改憲すべきだ、但しその軍備は「戦争をしないための軍備」だ、という。
 大地震など自然災害は人間の意志に関わりなく起こるが、戦争はその意志がないかぎり起こらない。
 現行憲法の9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は、我が国はいかなる場合でも戦争する意志をもたず、戦争には応じないという意志を内外にはっきりと示したものである。
 仮に攻めてこられたとしても、戦争には応じない。が、主権は固守し、屈服はしない。攻めてきた相手は引き下がらないとしても、こっちも引き下がらない。
 自衛隊が「自衛のための最小限の実力組織」で、「戦争するための軍備」ではないのだとするならば、自衛権は持つが「戦争はしない」という意志を鮮明にした9条を、わざわざ改憲してしまっては、むしろそれが曖昧になってしまうのではないだろうか。

2012年05月25日

脱原発依存ではなく脱原発を

 原発再稼働については、電気を大量に使う利用者や原発関連産業で収入を得ている人々にとっては、必要性は強くても、もっと広範な人々や生き物にとっては生命の安全性の方が大事なのであって、安全性を最優先に判断すべきだろう。
 それに、この種の安全性を考える場合、事故の確率はゼロにもっていかなければならない。なぜなら原発は航空機事故とかその他の事故の場合と違って、一度事故が起きてしまったら計り知れない数多の人々や生き物に災いをもたらすからである。
 確率ゼロにもっていくとは原発そのものをゼロにもっていくことにほかならない、即ち脱原発。それを可能なかぎり早期に達成すること。そしてその行程表をつくり、やむをえず暫定的に再稼働するにしても、そこに位置づけてその期間内に限定すること。
 ところが政府は、原発割合を小さくしていくだけの「脱原発依存」という考え方で、原発を40年かそこらの間に「着実に減らしていく」とは言っても、「最終的に原発がゼロになるということとは必ずしもイコールではない」と(枝野経産大臣)。それは、原発ゼロはできるだけ先延ばしにするということにほかならず、安全性よりも必要性のほうを先行させ、とにかく再稼働させずには置かないという考え方である。
 そのようなことでは、原発を稼動し続けている間にいつ過酷事故が起きるやもしれず、起きたら福島以下のレベルでは済まない、とりかえしの付かないことになるかも知れない。その確率は少ないとはいえ、絶対起こらないという保証はないわけである。
 政府は「脱原発依存」などではなく「脱原発」をこそ決断すべきなのではあるまいか。

2012年06月05日

福島の現実をこそ見て

 先の投稿に『反原発論者は暗い現実を見て』というのがあった。その「暗い現実」「日本自滅」の恐れというのは、原発を再稼働しなければ電力料金の値上げで産業経済の衰退、国民生活の破綻を招く恐れがある、要するに国民経済への打撃のことを指している。そして「経済が衰退しても安全性さえ確保できればいいという考えは『幻想』にすぎない」と。
 しかし、原発は、その安全性と経済性は両立できると考えることこそ「美しい夢」であり「幻想」に過ぎなかったのではあるまいか。
 飛行機・自動車など他の場合なら、安全性と利便性のバランスを考え、利便性の故に事故のリスクを忍んで利用し続けられている。しかし、原発の場合は、事故の確率は小さくても、事故は起きないという保証は無く、いったんそれが起きてしまえば、長期にわたって計り知れない甚大な被害をもたらし、単に日本の産業経済が衰退するという騒ぎだけでは収まらず、日本は広範囲にわたって住めなくさえなりかねない事態にも立ち至る。
 原発は、どうせ停止していても危険は付きまとい続け、廃炉にするにしても膨大な費用がかかるというが、稼動を続ければ核燃料を使い、核のゴミを出し続けるのであり、停止すれば、少なくともそれはなくなるわけである。
 原発容認論者は福島の二度とあってはならない悲惨な現実をこそ見るべきなのではないか。

2012年07月04日

サクランボで「ああ無情」

 米沢で「サクランボ盗み食い事件」があった。木から5~7個もいで食べ、逮捕されて新聞に実名で書かれたのだ。
時節柄、サクランボ農家にとっては盗難被害対策に気が気でないといったところ。
小学生の孫には二点話した。一つは、たとえ五個でも盗み食いするのは全く怪しからんことだということ。
もう一つは、遠い県外から歩いて来て空腹のあまりそんなことをしてしまった。そういうかわいそうな人がいる世の中に問題があるのだ。そのような人を実名をあげて記事にして罪人あつかいし、捕まえた人を「お手柄」とほめそやすのも如何なものか。メディアは、そのようなことをせざるを得なかった彼はどのような境遇にあったのか、その方を書くべきなのではないか、と。
そして孫には、パン一個で何年も監獄に入れられたジャン・バルジャンの「ああ無情」の話しをした。

2012年07月07日

今、必要な新党は護憲新党

 既成政党に嫌気をさしている人たちは維新の会とか小沢新党などにも期待を託する向きが強いだろう。しかし、それらはいずれも改憲派で、護憲派は共産党と社民党、二つの少数党しかない上に、両者はどっちかが敬遠し合って手を組みたがらない。このままでは改憲派が、既成政党と新党と合わせて国会で3分の2以上を占めるようになって、改憲発議されてしまう。
 そこで今必要なのは護憲派の結集軸となる新党である。脱原発の「緑の党」のようなものができるとしたら、護憲新党としてそれに賭けたいものだ。

2012年07月29日

選挙の争点は原発と消費税、それに憲法

 愛川さん(欽也氏)は、(kinkin.tvで)今度の選挙の争点は、脱原発なのかどうか、消費税増税に反対なのかどうか、それに憲法を守るのかどうか、その3つだねと言われましたが、同感です。
 憲法をめぐっては、改憲・護憲・創憲・加憲など様々あるとはいっても、基本的には現行憲法をしっかり守り生かすという護憲なのか、それともそれ例外なのか、そのどちらなのかが争点でしょう。
 緑の党が結成されましたが、それが護憲派ならば歓迎ですね。

2012年08月11日

「つらい選択」ではない首相の選択

 先日の本欄に「つらい選択訴える政治家求む」という投稿があった。それはどうやら野田首相の原発再稼働や消費税増税を「つらい選択」であるにもかかわらず、それに踏み切ったことを肯定し、そのような政治家こそが望ましいと評価しておられるように思われる。
 しかし、肝心なのは、「つらい選択」とか「決められる政治」とか、選択・決断力それ自体ではなく、どちらを選択・決定したか、その中身である。
 首相が選択したのは、「電力危機」(その実、原発の不良債権化による電力会社の経営危機)を回避するために原発の過酷事故の危険に目をつぶって再稼動の方を選択したのであり、また、財政危機を回避するために国民大衆から一番手っ取り早く集め易い消費税を増税するというやり方を選択したのであって、いずれも一番安易な方を選択してそれを決定したに過ぎないのであって、多くの国民にとっては全く評価に値すまい。
 「将来を見据えた政策」というなら、将来にわたって放射能の危険が子や孫たちにおよぶようなことのないようにし、消費税によって庶民生活と中小零細企業を疲弊に陥れることのないようにする政策こそが求められるのではないだろうか。

2012年08月24日

改憲派に対抗する勢力の台頭を

 23日の「声」欄に「橋本氏に対抗する勢力の台頭を」という投稿があり、「既成政党の衰退」「維新の会が大勝する可能性もある」なかで、「護憲の信念を持って、橋本氏を論破できる政治家が結集してほしい」と。
 オピニオン欄には、小田嶋隆氏のインタビューで、「決められない政治をまどろっこしく感じるかもしれませんが、まどろっこしさも国を個人の決断に任せないための大切なプロセス」、総選挙では「私なら少数党、泡沫候補にあえて投票しますね。自民でも民主でも維新でもないよ、という声を届けるには有効な投票行動だと思います」、「選挙は何かを期待して投票するんじゃなくて、何を阻止したいのかを考えて投票する」、「棄権をしたっていい、・・・ノーの意思表示として」とあった。
 いずれも同感です。そこで思ったのは、現行憲法の条項と精神をきちんと守ろうとしない民・自・維新その他による改憲や違憲的政策を阻止すべく、国会で改憲派が3分の2以上を占めて改憲発議するようなことのないように、護憲勢力の結集を促しつつ、護憲派政党ならどれでもいいからいずれかに投票して当選させることである。(棄権よりは護憲政党に投票したほうがいい)、と思うのだが如何なものだろうか。

2012年09月23日

領土問題の教育のあり方

 まず、「そこは日本領だ」ということをきちんと教えること。しかし、隣国も「そこは自国領だ」と主張していて、対立・論争があり、トラブルも起きている、ということにも言及しなければならない。そこで、その領土問題はどう解決したらいいか。それを考えさせること。
 その解決方法は三つ。①国際司法裁判所で決着。ただしそれは相手国が応じなければ裁判は始まらないので、その点が難しい。②両国間でよく話し合って決着。この場合は、漁場や海底資源の共同的な利用・開発など譲り合えるところは譲り合って、五分五分でも決着(協定にこぎつける)。ただしそれには、両国政府のみならず両国民の間で、色んな場面で互いに交流・対話を重ねて友好・信頼関係を築いていかなければならず、それなしには譲り合いも合意も成り立たない。③ケンカ(戦争)で決着。この場合は、たとえそれに勝ったとしても人命その他に大きな損害がともなうし、その後にわたって、「いつか奪い返してやる」という遺恨を残すことになる。
 これらのうち、どの方法がいいのかを考えさせる。そこが肝心なところだろう。
 この問題解決には「将来世代の知恵」が求められているのだから。

2012年11月28日

改憲も争点

 選挙といえば、庶民にとっては、とにかく景気を好くして生業・暮らし・子ども・年金など何とか心配のないようにして欲しいといったこと。そしてマスコミが争点として挙げているのは原発・消費税・TPPそれに外交・防衛問題。
 しかし、もう一つ改憲問題があるのでは?
 自民党は政権公約に改憲を掲げ、維新の会は代表が現行憲法の「破棄」を持論としているほか、民主党・みんなの党・公明党その他も、共産・社民など以外は、条項や時期などに違いがあり程度の差はあっても改憲自体は容認している。
 今回の衆院選それに来年の参院選でも、これら改憲派が3分の2以上を制すれば改憲発議が可能となる。順序として、まずは96条の国会発議要件を「過半数」に切り替えて改憲をし易くする。そのうえで「環境権」など新条項「加憲」を手始めに、首相公選制・参院の廃止などから、しだいに憲法の本質に関わる改変(「権力を縛るもの」から、国民に様々な権利の制限・責務を課して「国民を縛るもの」に変質)、9条の改変(戦力不保持の削除、集団的自衛権をも含意する自衛権の明記)へと進む。その可能性が高くなる。
 この選挙の後には消費税増税の実施、原発の再稼働、TPP参加も待っているが、このような改憲も日程に上ってくるのだ。

2012年11月29日

未来の党が護憲派ならば

 「未来の党」が「卒原発」を求める人たちの「受け皿」として結成された。そこへ反消費税増税・反TPPなどを掲げながら脱原発で一致する小沢氏・亀井氏らの党派、それに「みどりの風」が合流することになった。
 しかし、国民が国政に対して切実に関心を寄せている問題は様々あり、選挙の争点は他にもある。それら個々の課題に対応するにも一貫した基本理念で共通するものがないと、単なるご都合主義で「野合集団」といった誹りを免れない。その理念とは憲法に対する考え方にあると思われる。そういう基本理念に基づいて原発や消費税あるいは外交・安全保障・社会保障・教育など個々の課題への対応や政策が選び取られ、違いが分かれる。自民党や維新の党などのタカ派的な政策(強硬外交・軍事主義、競争主義・管理主義など)はいずれも現行憲法に対する否定的な考え方・改憲志向と重なる。
 未来の党は、自民や維新など改憲勢力に対して護憲の立場で、現行憲法の平和主義とリベラルの理念に立って「卒原発」「守暮らし」などの諸政策を打ち出し、一致する諸政党を結集、或いは互いに連携・協力するようにしてほしい。即ち護憲勢力の一翼ひいては結集軸になってほしい。
 そうすれば、自公民・維新などに対して、それこそ「本当の第3極」たり得るだろう。

2012年12月18日

選挙権のない一高校生の投稿に同感

 12月18日付朝日の「声」に東京都の18歳高校生の投稿が載っていた。
 「古くダサい政治に戻さないで」と題し、総選挙が終わって、「選挙権のない一高校生ながら納得できない気持ちになったとして、次のように書いている。
 「特に自民党の選挙戦略は『与党返り咲きが見え、尖閣諸島や北朝鮮のミサイル問題がクローズアップされた今がチャンス』とばかりにどさくさにまぎれて優先順位を入れ替えた非常に卑劣なものだったと思える。北朝鮮の核ミサイルが飛んで来ることより大地震で再び原発が壊れることの方が、よほど現実的に思えるのは私だけだろうか。」(いや、当方にもそう思える。)
 「国内の重要問題から目を背け、外国を敵視して国民の目を向けさせる。・・・・戦前によく似ていると思う。『誇れる日本を』と叫んでいたが、私には『威張れる日本を』と聞こえてならなかった。」(同感)
 
 「このようなことを書くとは・・・・。『自虐史観』のせいだ。愛国心教育をもっと徹底させなくては」と、またやかましく言い立てられるようになるのだろうか。
 負けるな高校生!

2013年01月12日

体罰より千回でも口で

 「天声人語」には「『いい体罰』も『悪い体罰』もない」、「あくまで恐怖と身体的な苦痛なしで子らを育て導く『覚悟と決意』が必要だ」と。
 それにしても、体罰を教育論上「愛の鞭」とか「やむを得ざる必要悪」などとして容認する向きは少なくない。
 それに、大声で怒鳴るとか、苦痛を伴わない程度に叩き(はたき)つけて「喝を入れる」ということはよくあること。
 短気な私は、高校教師だった在職中は生徒を怒って「はたき付ける」ことも、たまにはあったし、我が子を「折檻」することもあった。近年には孫を泣かせたこともある。
 妻も、我が子が小さかった頃は「叩かれないとわからないのか」と叱っていたこともよくあったものだが、その妻が、最近、親になった子が孫にイライラしながら乱暴な対応をする時があるのを口説いて、「三四回ばかり聞かなかったぐらいで切れたりしてはいけない。千回でも繰り返し口で言って聞かせればいいんだ」と。(そう言われて子が返した言葉は「千回も言ってなきゃならないんだったら、その間お母さんは死んじゃうんではないの」という憎まれ口だったが)相手が聞き入れ、言ったことが身に付くまで何回でも繰り返し言い、何回でも練習を繰り返させる辛抱強さ、そういう厳しさこそが、親や教師には必要なんだ、ということだろう。

2013年03月08日

選挙制度改革は国民投票で

 最高裁から違憲状態と指弾されている一票の格差是正が迫れており、かつ消費税増税の思惑から「国会議員みずから身を切る」と称して議員定数削減案を提示している政党が幾つかある。自民党は衆院比例定数を30議席減らす選挙制度改革案を出そうとしている。
 現行の小選挙区比例代表並立制は小選挙区の方にウエイトが置かれ、自民党にはそれが有利に働いて4割台の得票で8割もの議席にありついているが、その小選挙区のウエイトを、比例定数を減らして、さらに大きくしようとしているのである。
 少数政党の共産・社民は比例代表制こそが最も民意を反映し死票も少ない最適な方法だとして、むしろその方を中心とした制度に抜本改革すべきだと主張している。
 いずれにしろ選挙制度改変を現職の政党議員が決めるのではどうしても党利党略になってしまうし、そもそも選ばれる側の都合でそれを決めるのがおかしいのであって、選ぶ国民の側が決めるべきもの。
 イギリスやニュージーランドでは選挙制度の制定・改変に際しては国民投票を行っているが、我が国でそれをやってもおかしくはあるまい。選挙制度審議会など第三者機関で原案を検討し選択肢を示して国民投票で決する、といったやり方である。いかがなものだろうか。

2013年03月19日

道徳教育で「いじめ」はなくならない

 3月15日の山形新聞の「私の主張」欄に「子どもに道徳教育重要」という投稿があった。それには「いじめ・不登校・中高年はの精神的な病による自殺」など、それらは「戦後アメリカから与えられた憲法に基づく民主主義の下で」、「教育勅語を手離し、道徳教育をおろそかにした」結果だ。そこで、「新教育勅語」で日本古来の倫理・道徳・武士道精神を伝える道徳教育が必要だと。

 このような認識には錯覚があり、そのような道徳教育は時代錯誤ではないだろうか。

 当方は戦後間もなく小学校に入学して新憲法と教育基本法の下で教育を受け、学校では「教育勅語」式の(「修身」ような)道徳教育などなかった。あちこち転校し、小中高とさまざまな学校に在校したが、どの学校でも、ケンカやいじめ等はあっても、今のような深刻な問題はなかった。
 長ずるに及んで高校の教職に携わり定年まで勤めた、その間に、いじめ・不登校問題等が全国的な問題になり始めるようになって、当方もそれらの問題に直面したことはあった。しかし、それは戦前のような道徳教育を教えなかったせいだとは考えられない。
 
 どうして学校で子どもたちの間に今のような深刻な問題が起きるようになったのか。そこには社会の激変がある。
 戦後、当方の学校時代はみんな貧しかったし、昔のような道徳教育などなくても、人に手伝ったし、助け合ったし、思いやりも、夢もあった。
 それが日本経済の高度成長時代になって、貧困から脱し「一億総中流」などといわれるようになった、その間もそのような深刻な問題は起らなかった。
 が、やがて大量消費時代なり商品が氾濫、テレビ時代からコンピュータ時代になり娯楽・ゲームなど子どもや若者を取り巻く社会環境は激変する。一方で高校全入・準義務教育化にともない受験教育(落ちこぼれを生む競争教育)が激化、子どもたちは教師とともにテスト・テストに追われ、勉強(ドリル)や塾通いに追われ、合間にテレビやゲームで気晴らしといった毎日と化していった。そして、じっくり自然や読書・芸術・スポーツ・深みのある勉学に親しむゆとりが失われていった。
 そこにきて、日本経済は成長が止まって競争が激化、格差・貧困が広がって「総中流」社会は崩れだした。人々の間には不安・ストレス(「いらいら」・「むかつき」)が蔓延するようになった。
 そこに、陰湿ないじめ、校内暴力・不登校・虐待・自殺など問題が深刻化するようになったのだ。
 このような社会環境の変化、社会の在り方を問題にし、変革の手を加えないかぎり、道徳教育(「きれいごと」で説教)だけでは解決つかず、ましてや「忠孝」道徳(「修身」教育)などでこうした問題がなくなるなどということはおよそあり得まい。

2013年05月01日

おかしい96条改憲理由

 安倍首相は96条の改憲発議要件で「3分の1ちょっとの議員が反対すれば、国民はいくらその気になっても改憲できないのはおかしい」ということを改正の理由にしておられる。
 ところで、先の総選挙は投票率が6割だったが、小選挙区で8割もの議席を獲得した自民党の得票率は4割。それは有権者全体から見ればたった4分の1。それが他の改憲派と合わせて3分の2以上で96条を変え、そのハードルを2分の1に下げて、より少ない「多数者」でも改憲できるようにしようとしているのだ。つまり改憲を切望している国民はそれ程多くはなくても改憲がた易くやれてしまうというやり方になるが、そのほうがおかしいのではあるまいか。
 問題は小選挙区制で死票が多く有力政党がわずかな得票でも圧倒的な多数議席を獲得できるという選挙制度にある。
 高裁が違憲判断を下している一票の価値が不平等な選挙で当選した議員によって構成される、そのような正統性のない国会の改憲発議は許してはならず、小選挙区制を改める選挙制度の抜本改革をまず行って国民の投票権の平等保障を実現することこそが先決だろう。

 (尚、4月30日の朝日―声欄に当方の投稿「96条改憲より一票の格差是正を」が載ったが、その原文がこれ。朝日に載った投稿は、一週間後BS朝日の「午後のニュース・ルーム」という番組で96条改憲問題が取り上げられ<自民党平沢議員・民主党生方議員が出演>、そこでキャスターからこれが紹介・引用された<全文大写し、要所に傍線、女子アナが読み上げ>)。

2013年05月26日

憲法の歌も色々あるんですね

<この投稿は、いささか音楽をかじっている身内のものが出したもの>

 NHKのニュースウオッチ9で、憲法の歌があることを知っていますかと言って、二つ挙げていたました。最初の一つは憲法の前文そのままに節(曲)を付けて歌ったもので、作曲者名も何も解説ぬきでほんの数小節流しただけでしたが、二つ目は「憲法改正の歌」で、作者の中曽根元首相と作られた当時の映像に歌詞を示して歌を流した後、自民党議員にインタビューして改憲の言い分を語らせていました。なので、後者(改憲の歌)の方を重点的に取り上げたものと思われます。
 インターネットで調べてみたところ、前者はきたがわてつ氏の作曲で、9条も条文そのままに曲をつけて歌われており、動画で聴くと優れて音楽性を感じるものでした。
 他にも笠木透氏が作詞した「あの日の授業~新しい憲法のはなし」があり、ジュリーこと沢田研二の「我が窮状」もあるんですね。いずれも動画で聴きましたが、格調を感じ、ジーンとこみあげてくるところもありました。憲法は歌にしようと思えば歌にもなるんですね。憲法は、理屈で考えることもだいじですが、感性で受け止め、心で感じることもだいじなのではないでしょうか。

2013年07月14日

国民投票は改憲派に有利

 現在の改憲国民投票法では、投票率を度外視して有効投票数の過半数が賛成であれば成立することになっている。が、たとえ最低投票率を導入しても、それが50%なら、その過半数といえば全体のわずか26%でも改憲が成立することになる。
 先の総選挙とそれにともなう最高裁裁判官の国民審査は投票率が64.5%だった。
 国会で発議された改憲案に対して人々の判断には賛成・反対それに「どちらともいえない(分からない)」の3通りがあるが、「どちらとも・・・」という人は棄権をするだろう。それが35%なら(先の総選挙・国民審査では棄権率がその程度で)投票率は65%、そのうちの賛成が33%以上(反対32%)であれば投票者の過半数が賛成ということで改憲成立となる。ということは、わずか3分の1の賛成だけで改憲できるということだ。
 要するに改憲は、とにかく国民投票に持ち込めば「賛成多数」という結果が得られやすく達成できる確率が高い。だからこそ改憲派は、そのために96条改定によって国会発議のハードル(3分の2以上の賛成が必要)を(過半数に)下げて国民投票に持ち込みやすくしたいのであろう。
 改憲については、96条改定はもとより国民投票のやり方にも大いに問題があるということだ。

2013年07月15日

マスコミによる参院選候補者支援市町村長アンケートに疑問

 13日朝日新聞山形版に参院選候補者支援に関する県内35市町村長アンケートの結果が出ていた。
 「住民と最前線で向き合う自治体のリーダー」として首長たちが、参院選の選挙区候補者4人のうちどの政党候補者を支援するかを問い、ある候補に対しては22首長が支援、もう一人の候補に対しては7首長が支援、あとの2候補には支援ゼロ、どの候補も支援しないが2首長、無回答が3首長、という回答結果を、市町村名・支援候補者・政党名を明示して公表していた。その解説の中で、無回答だったある町長は「あくまで中立の立場で特定候補の応援は避ける」としている一方、政権与党候補を支援するある市長はその理由を「政権与党の力に頼ることが市民の利益と市政発展につながる」からだと述べているとのこと。
 このような市町村長アンケートの公表はいかがなものか。
 そもそも選挙は、有権者各人が、正確で十分な情報に基づいて主体的に判断し、あくまで自らの意思だけで自由な選択がなされるべきものであり、不必要な・誤った情報や他人の意向に左右されるようなことがあってはならない。ましてや自治体首長などの権力者の意向にひきづられるようなことがあってはならない。
 それが、市町村長にこのようなアンケートをとって、支援する市町村長が政権与党などの特定政党候補に多く集中し、首長がその理由を「政権与党の力に頼ることが市民の利益につながるからだ」と表明したなどといったことが公表されたら、各市町村の有権者はそれになびくか、影響されがちとなる。
 それは市町村長の多くが支援する特定政党を有利にし、支援がないか少ない政党に不利な結果をもたらし、世論誘導にもなる(そのアンケート公表は有権者の判断材料に資するための単なる情報提供で他意はないと言い訳するするかもしれないが、それが特定政党候補者を利することが明らかである場合は「世論操作」に当たると思う)。公正な選挙を歪める、そのようなやり方は報道機関に許されるものだろうか。
 

2013年08月05日

戦争は未だまだ語りきってはいない

 アメリカ軍の原爆投下は、日本に戦争を早く終わらせ、双方にこれ以上の死者を出さないようにするためだったというよりは、ソ連軍の参戦の機先を制して米国が主導権を確保するためだったのであるが、日本を降伏に追い込んだ決定的要因は、やはりソ連軍の侵攻だったということが、最近アメリカ映画の巨匠オリバー・ストーン監督によって指摘されている。
 これら米軍の原爆投下やソ連軍の侵攻に対して日本は被害国ということになるのだろうか。
 メディアで取り上げられる「語りつぐ戦争」といえば、日本では空襲・沖縄陥落・原爆などの戦災とシベリア抑留・飢餓・疎開など被害意識が先立ち、自らが被った辛酸・悲惨を綴ったものがほとんどで、対戦し、或いは侵略・侵攻した相手国民に対して加えた暴虐・非道・惨害の有様を率直に綴り悔いて語られているものは、あまり見られない。
 そういう意味では、未だ未だ戦争を語りきってはいないのではあるまいか。
自国民の事実認識や思いだけに留まらず、相手国民の事実認識や思いはどうなのかをも、互いに出し合って、各国の各国専門家同士の共同研究の収録とともに市民レベルで互いに語り継いでいくことが必要だろう。

2013年08月29日

他者を守る正当防衛論について

 新法制局長官は朝日新聞のインタビューで集団的自衛権を、「隣の家に強盗が入って今にも殺されそうだという時に隣人を守る」ということになぞらえて、「他者のための正当防衛」として認められると語った。
 しかし、「正当防衛」には急迫性と相当性の要件があり、今まさに侵害を受けているか受けようとしているという場合に限られ、単に侵害があるかもしれないと予測されるからといって予め武器を用意し待機して迎え撃つというのは、それには当たらず、また過剰防衛も禁じられている。予め「正当防衛」のための武器や防衛体制を整えておくにしても過剰防衛になってはならず、それをむやみに使用してはならないのだ。抑止のためといって武器・防衛体制を保持・強化すれば相手も同様に保持・強化しエスカレートする。それに武器・武力を持つと、対話・交渉ぬきでそれに訴えがちとなり、武器を持ちあえば殺人事件が起こりやすく、軍備を持ち合えば戦争になりやすい。アメリカは市民に武器所持が認められていて殺人事件の最多発国になっており、最大の軍備保有国であって最多交戦国。それに対して最も厳しく銃規制しており、不戦憲法を定めている我が国は武器による犠牲者が世界で最も少ない国になっている、というのが現実なのである。

2013年09月15日

五輪で必要なのは諸国民を思いやる心

 五輪の招致合戦に勝って日本国民は喜びに沸き立っている。東京で自国選手の活躍とそれを生で目の当たりにできる楽しみ。子供たちや若者に夢と希望。デフレ脱却への経済効果。震災復興のはずみにもなる。アピールしたのは日本人の優れたサービス精神「おもてなし」。懸念はフクシマ原発事故の収拾だが、それも首相が「大丈夫だ」と国際公約してくれた。
 テレビなどマスコミの多くが報じているのは、こういった自国の国益と自国民にとって都合のいいことばかりのようだが、オリンピック開催の意味は、それを通じて諸国・諸地域の代表選手が一堂に会して競技・交流し、友情と連帯・世界平和の促進をはかることなのであって、自国民だけがいい思いをして喜んでいればいいというものではなく、不可欠なのは他の諸国民に対して思いやる心。
 世界の諸国・諸地域の中には、様々な欠乏や対立・争乱に直面し、悲惨な状況に置かれている多くの人々がいて、オリンピックに選手を送るにも思うにまかせない国がいくつもある。そのことに思いを致し、そういう国や地域で人道支援事業にあたっているNGO、中には紛争地で武装解除に当たっているNPOさえもあるが、苦難にあえぐ国や地域の人々と、それに手をさしのべて一生懸命頑張っている人たちにも焦点を当てた報道や論評があってもいいのではあるまいか。

2013年11月21日

本末転倒の秘密保護法案

 主権者たる国民には、政府・行政機関の行為に過ちなきように監視・チェックし、違憲行為を告発する権利がある。そのような主権者・国民にとって必要不可欠なのが、政府・行政機関の行為・実態をよく知ることが出来るように、国民に「知る権利」が保障されることである。そしてその権利を補強すべく国民に情報を提供する役割を担うのがジャーナリストなのであって、そのうえで必要不可欠なのが取材・報道の自由なのである。
 憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」を定め、諸国民との信義・信頼に基づく平和友好によって安全保障をはかるという平和主義の原則を定めている。とりわけ重要なのはこの点なのであって、政府が「安全保障」のためと称して国民も諸国民も知らないうちに秘かに戦争につながる行為を行うなどの過ちを犯すことのないように、国民が政府を監視・チェックしなければならないのである。
 ところが、この法案は、これとは全く逆に、政府の方が国民を監視・チェックし、自らの秘密を漏らしたり、暴いたりした者を処罰するというものである。これはまさに本末転倒だろう。

2013年11月25日

我が国は「普通の国」でよいのか

 NHKの日曜討論で自民党の高村副総裁は秘密保護法について、この種の法律は「普通の国はどこも持っている」などと論じていたが、我が国は「普通の国」などではないはず。
 なぜなら、内外諸国民に未曾有の犠牲を強いたその反省の上に、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」かくも徹底した不戦平和憲法を制定している国は極めてまれなのだから。この憲法で「諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存を保持することを決意して戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認したはずの国に軍事機密などは本来あり得ず、秘密保護法もあり得ないのである。
 ところが、政府は日米同盟の下に米軍基地を置きつつ「自衛隊」の名の下に再軍備、それが常態化してきた。今ここにきて両国の軍事一体化をさらに強めるため共有する軍事機密の厳重管理を必要とし、秘密保護法制定にやっきとなっているのである。これを「普通の国」がやることだと称しているのだが、「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」と憲法で唱っていながら、自らそれに背いて名誉を貶め、隣国の不信と疑心暗鬼を招く結果になっているのである。
 戦争の惨禍と不戦平和努力の誓いをすっかり忘れ去っている、それこそが「平和ボケ」。
 我々国民として今必要なのは、「戦争は秘密裏に行われ、国民がその秘密に触れると厳罰に処せられ、やめてくれと言おうにもやめさせることが出来なかった」というあまりに苦い歴史を噛みしめることであろう。

秘密保護法の恐ろしさ

 秘密保護法の弊害で最も重大なのは権力が強大化し暴走する結果を招くことである。それは権力の手足となる官僚や官憲がこの法とともに独り歩きして暴走しがちとなるからである。
 この法は国の安全保障と公共の安全・秩序維持のために国家・行政機関の機密情報の漏えいを防止することを目的とし、その秘密は限定して指定されるというが、その基準と範囲はあいまいである。
 当初は国会委員会審議で、「このようなケースの場合は特定秘密に当たるか」との質問に担当大臣が「それは該当しない、対象外だ」と答弁していても、いったんそれが施行されてしまえば、(国旗・国歌法は法案審議に際して強制はしないと答弁していたにもかかわらず、それが成立するや学校現場では事実上の強制が行われているのと同様に)所管の官僚以下、現場では担当官・警察官・自衛官等は恣意的に判断して「これは特定秘密に当たる」「特定秘密保有者の管理を害する行為に当たる」と解釈して、或いは杓子定規に「違反は違反だ」と法を運用して独自に動くことになる。
 その結果、政府に批判的な政党や市民運動、真相究明に当たるジャーナリスト・研究者が警戒・監視されるのもならず、なんのつもりもない普通の市民さえも何らかの関りがあるとみなされれば、リストアップされ、マークされる。(「知る権利」も「報道の自由」も「配慮」はしてますよ、と言えば済む話で、意に介すことはほとんどあるまい。)追及・捜査にあい、逮捕・拘留を受けるようなことにもなれば、裁判に至らなくても大打撃を被ることになる。
 これに人々は慄いて委縮し、誰しも「君子危うきに近寄らず」「見ざる、聞かざる、言わざる」となってしまう。そこが恐ろしいのである。

 

2013年12月04日

中国の防空識別圏設定と秘密保護法

 中国の防空識別圏の設定―「日中衝突のリスク」・「軍事的緊張」高まる―だから日本版NSCも秘密保護法も必要だというのか?
 いや、このような時こそ、秘密保護法などによって情報が機密(特定秘密)にされ国民がこれに目・耳・口が閉ざされて何することもできないなどということになってはならないのだ。
 この空域での中国軍機の動き、これに対する空自や米軍機の対応活動とその情報が機密にされ、国民が実態を知らないうちに「不測の事態」・軍事衝突が引き起こって、反中感情だけが激化して「第二次日中戦争に突入」などということにでもなったら・・・・。
 イラク戦争はブッシュ政権がありもしない大量破壊兵器とアルカイダに関する情報操作(虚偽情報)から始まったし、ベトナム戦争もトンキン湾事件(湾内で米艦が北ベトナム軍の魚雷攻撃を受けたというでっちあげ事件)の情報操作から始まった。それに日本軍(関東軍)による南満州鉄道爆破謀略事件に始まる満州事変、真珠湾奇襲攻撃に始まる対米開戦も秘密裏に行われた。いずれも戦争は秘密から始まっているのである。
 中国や北朝鮮の「脅威」を口実に、我が国の安全保障のためだとして秘密保護法を制定しようとしているが、「脅威」の実態・真実を国民はよく知らなければならいのであって、「脅威、脅威」と煽られるだけで、実態・真相を見極める情報は秘密にされて、訳も分からず再び戦争へ引きずられるようなことがあってはならないのである。菅官房長官は「秘密漏えいが脅威だ」というが、むしろ「秘密隠しこそが脅威」なのだ。

 ところで、そもそも防空識別圏(ADIZ)とは
 領空・領海(海岸線から12カイリ=約22キロ)とは違って国際法上のルールが確立しているわけではない。高速飛来(22キロは旅客機なら1分、超音速の軍用機なら数十秒で領土上空に到達)して接近する航空機に対して侵犯をくい止めるには領空侵犯を確認してからでは手遅れになるので、予め領空の外側にライン(「防空識別圏」)を設定して、(事前に飛行計画の提出なく、防空チャンネルによる相互通報が機能しない国籍不明機が)そこを超えたら警戒態勢に入るという基準(目安す)線のこと。
 警戒態勢とは警戒機が{スクランブル(対領空侵犯措置)発進→並列飛行→進路変更を促す→領空侵犯寸前になると曳光弾を発射して警告→侵犯すれば誘導して強制着陸を促す→従わない場合は撃墜も}という段階をとって行動(日本の航空自衛隊は、これらの措置を「交通規則ROE」に定めているといわれるが、それは防衛機密)。
 1950年代アメリカが真っ先に設定し、その後、海岸に接する国々がそれぞれ設定、韓国も。しかし中国は設定していなかった。
 日本の防空識別圏は、1945年にGHQが設定したものを1969年に引き継いだもの。そこへ近年、中国軍機が侵入、2012年度だけで306回(自衛隊機がスクランブル発進)。
 中国によるこの度の防空識別圏の設定は、これに対抗したものとも見られる(但し、中国側は「日本に対抗しようとしてそうしたわけではない」「20ヵ国以上が設けている、正当な権利だ」としている。
同国国防省は「識別圏内を飛行する航空機は国防省の指令に従うこと。従わなかったら、その航空機に対して中国の武装力は防御的緊急措置を講じる」と。
 これに対して日本政府は「隣国(日本・韓国)に対して一方的(勝手に)にそれぞれ(日韓)の防空識別圏に重ねて(食い込んで)設定し、日本が実効支配している地域(尖閣など)に対して力によってその変更を迫るものだ」と非難。
 アメリカ政府は「防空識別圏を設定すること自体は新しいことでも特別なことでもない。が、事前の調整がなく、識別圏内(航行自由な公海上)を通るだけで事前通告を求めるなど手続きに問題があり、一方的だ」と。とは言うものの、撤回要求までは踏み込まず。日中間に「不測の事態」「意図しない衝突」の危険を懸念。


2013年12月11日

脅威もいろいろ―秘密法(修正版)

 中国・北朝鮮の「脅威」。メディアは毎日のようにそれらの国の動向を伝え、人々はそれを見るにつけいやおうなしに脅威・不安を感じてしまう。
 首相や官房長官や防衛大臣は「冷静かつ毅然と対処する」と。官房長官は「東アジアの安全保障環境は厳しさを増しており、情報漏えいの『脅威』が強まっている」という言い方をしていた。だから国家安全保障会議(日本版NSC)も秘密保護法も必要なんだと。人々は「なるほど、そうなんだ」となる。
 しかし、待てよ・・・・むこうは、そういう日本を見てどう感じているか。脅威と感じていはしまいか。第2次大戦で日本から侵略・支配を受けたアジア諸国民から見れば、日本はそれこそ脅威だった。その日本は憲法で戦争を放棄し、戦力も交戦権も保持しないとしながらも米軍基地を置き自衛隊をもち日米同盟を結んできた。それを今、さらに緊密化し軍事強化をはかって「集団的自衛権の行使」容認・実質改憲へと向かっている。憲法で「戦争しない国」だったはずなのに、公然と「戦争する国」へと「レジーム・チェンジ」しようとしている。むこうから見れば日本はやはり脅威だ、となるだろう。
 互いに政府は「冷静かつ毅然と対処」するのだと構えて緊張を高め合い、メディアは相手国の不安な動きばかりを伝え、双方とも国民は相手国民に対する反感・不信・嫌悪感(反日・反中・嫌中・反朝)を増幅し合っている。そして政府は緊張緩和・関係改善・友好関係回復の手立てをいっこうに講じようとはせずに互いに「毅然たる対処」一点張り。それこそが脅威なのでは。
 それにこの度の我が国における秘密保護法の制定。日本国民の中にはそのようなものをしゃにむに強行した自国政府に対しても脅威・不安を大いに感じている向きが少なくないだろう。
 秘密法は、日本国民にとって脅威・恐怖だった暗黒時代が再来するのか(北朝鮮との違いは、「過激な恐怖政治」か「穏やかな恐怖政治」かの違いはあるものの恐怖政治であることには変わりない)と思うとうんざり・・・・なんて言ってはいられない。子や孫たちのために何としてもこのような脅威・恐怖は取り除かなければ。 


2014年01月12日

欧米有識者の沖縄新基地建設反対声明に注目

 名護市辺野古沿岸に新基地建設を推進する日本政府と、その方策に知事が合意して埋め立てを承認したのに対して欧米の有識者29人(映画監督のオリバー・ストーン、マイケル・ムーア、学者のジョン・ダワーやチョムスキー、元国防省高官のエルズバーグ、ノーベル平和賞受賞者のマイレッド・マグワイアら)が連名で反対声明を発表した。それは、沖縄の現状を米国の「軍事植民地状態」だとし、普天間の即時・無条件返還と辺野古移設反対を訴え「我々は沖縄県内への新基地建設に反対し、平和と尊厳、人権と環境保護のため闘う沖縄の人々を支持する」というもの。
 この声明は沖縄の地元紙や一部のメディア以外にマスコミにはあまり詳しく取り上げられていないが、それは、この沖縄問題が単に我が国の狭い安全保障と住民の問題であるだけでなく、人権と人民主権を基調とする国際社会のあり方に関わる普遍的な問題であり、声明は問題の本質をついており、我々日本国民にとって注目に値する。
 それは我々に、この問題を狭い国益と住民利害だけの次元で考えるのではなく、普遍的な道義・人権・人民主権・国際平和のあり方に至るまでグローバルな視点に立って考えなければならないということを呼びかけているように思う。
 名護市長選挙は辺野古新基地建設をめぐって賛成・反対両候補の対決で近々投票が行われるが、住民はどう判断するのか。

2014年02月03日

都知事選挙の決め手は原発と人物

 各候補は暮らしや福祉、防災、オリンピック等それぞれ政策を並べて、聴こえのいいことを言いあっているが、それらには、各候補がどの階層にスタンスを置いているかによって庶民本位か、業界団体本位か、政権寄りかで力の入れ方の違いはあろう。ただし、これらは誰が知事になっても都が担わなければならない職務として多かれ少なかれやらざるをえない分野。
 しかし、原発問題となると即ゼロか、それとも暫くは維持かで考えが分かれ、これが決定的な争点となる。ところが、どちらもそれぞれ候補が複数立って票が割れることになり、そこで決め手は人物ということになる。人物イメージには様々あって、威勢やはったりに長けた人、口上手で調子のいい人、カネやモラルの点でクリーンな人、スタンスが政権や業界団体と庶民のどちらの側に寄っているか、信念の人か等々の人物像がある。都知事には国際社会に対して、単に知名度があるとか語学に長けているとかは大したことではなく、首都のトップとして本当に相応しい人物か、という点でも、これらの人物像で最も重視さるべきは清廉な人で、都民はもとより諸国民に対して平和友好的で誰からも信頼される人物であるべきだろう。有権者・都民の方々は、そこのところをよく吟味して、それを決め手に判断してはいかがなものだろうか。

2014年02月10日

都知事選結果の危ない問題点(再加筆版)

 {都知事選挙は自公政権与党が推した舛添氏が圧勝という結果で終わったが、投票率は46%で史上3番目の低さ。棄権も一つの選択肢かもしれないが、理由はどうあれ、それは知事に誰が選ばれようが投票した他の有権者に任せるということで、それが過半数を占めるということは、まさに「お任せ民主主義」。
 それに、新聞社の出口調査によると、年齢別では若い人ほど田母神氏に投票した者が多く、20代では舛添氏に次いで2番目、30代でも細川氏を上回っていた。つまり若い人ほど、愛国的好戦的というか戦争に対する抵抗感が少なく、戦後日本人がやっと獲得した民主主義に否定的な考え方をする政治家や論者に対して抵抗感が少ないということである。
 「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍政権に親和的で、解雇自由化など規制緩和を認める「国家戦略特区」構想を積極的に受け入れようとし、原発ゼロには反対する、そのような候補と、彼らに投票した有権者に都政の行方を任せる「お任せ民主主義」。それは民主主義の一つの衆愚形態とも考えられ、東京都民に限らないが、民度如何により民主主義の危うさを感じないではいられないのである。}

 この投稿を掲載した二日後(11日)朝日「声」欄に載っていた投稿(北海道の方で昨春まで大学教員をしていたという方の投稿)「『舛添氏圧勝』報道に違和感」は、次のようなことを指摘していた。
 舛添氏を支持した人の数は全有権者の19.5%で、10人中2人に満たない支持率。
 「日本の20代の投票率は年代別で最低が続いている。・・・・日本の若年層の投票行動の消極性に落胆・・・・・このままでは日本の民主主義の危機は更に深刻化するのではないかと恐れる。」と。
 同欄の『朝日川柳』の中に次の一句も―「これからは愛国ネット『組織票』」
 同欄の『朝日川柳』の中に次の一句も―「これからは愛国ネット『組織票』」
 三日後の同紙声欄には埼玉県の出版業79歳の投稿(「若者は平和に飽きたのか?」)に、「自衛隊で航空幕僚長まで務めた田母神氏が支持されたことは、若年層に自衛隊や戦争への抵抗感がないことを物語っているのではないか。」「今回の結果は現憲法の下で培われてきた反戦と平和の流れに、若年層を中心とする人たちが「飽き」を感じている兆しではないか。これを危険な流れとみるのは杞憂だろうか。」と。

 しかし、次のような若い識者(うの・つねひこ氏)の見方も(2月12日朝日の文化欄)。
 田母神氏に投票した人のうち、「かなりの割合が『ネット保守』と考えると、リベラル勢力は自分たちの言葉が届かない若い層がこれだけいるということを軽視してはいけない」し、「ネット保守の動員力に対抗できていない」ということだろう。ネット保守層は「『かわいそうな若者』にとどまらないのではないか。現実に東アジア情勢は緊迫し、北朝鮮の状況も混迷している。この状況下で、防衛、外交方針を具体的に打ち出す保守派に対して、リベラル勢力は数十年前から更新されない言葉で教条的かつ精神論的な憲法9条擁護論を繰り返すだけで、現実に存在する国民の不安に対応しようとしない。」リベラル勢力は「相手をバカにする(リベラル勢力のある種の大衆蔑視―引用者)だけで自分たちは具体的な、現実的な処方箋を出せていない」と。
 リベラル勢力の弱さ、頑張りの足りなさを指摘しているが、これも傾聴に値する。
 

2014年02月26日

平和ボケをつくって愛国心教育

 最近、書店で買ったNHK出版新書(「転換期の日本へ」)に、オーストラリア国立大学の名誉教授ガバン・マコーマック氏が、1954年日本の内閣情報調査局の出版物に「国民の愛国と国防の意識を涵養するためには、戦争被害の記憶を除去し、戦争の被害の記憶を持たない若い世代に訴える必要がある」という文があったことを指摘している。要するに政府当局には、戦争の悲惨さを知らない子どもや若者たちには、敢えてそれを教えず、むしろその忌まわしい記憶を除去して愛国心と国防意識を涵養するという教育方針があったという事実である。
 それで思ったことは、若い世代にみられる好戦性というか、戦争に対する抵抗感の薄さは、よくいわれる「平和ボケ」とか「平和に飽きた」などということではなく、むしろ、政府当局にが意図的に戦争の忌まわしい記憶を消し去り、悲惨な実態を敢えて教えずに済ませようとしてきた結果にほかならず、正社員になれず、居場所のない若者や子どもたちに「国防軍」の兵士となり、忌まわしい敵国からの「国の守り手」になってやるんだという方に夢を向けさせようとしてきた結果なのでは、ということである。
 昨今の首相その他「タカ派」人士の言動と若者の状況を見るにつけ、そう思えてならないのである。

2014年03月27日

ウクライナ問題論評での見落とし

 朝日の「声」投稿に「一方的ロシア非難でいいのか」というのがあった。当方も、別にロシアを擁護するわけではないが、同様な疑問をもっていた。
 ロシアが「武力による脅しと威嚇」と非難されるような強硬策をとるのは、いったい何故なのだろうか。
 投稿は「ヤヌコビッチ大統領と野党代表の間で・・・・政治危機回避でいったん合意。にもかかわらず、野党勢力は武力衝突の末に政権を倒し、矢継ぎ早に新政権を発足させた。・・・・日米欧でウクライナ暫定政権の正統性がほとんど問われずにきたのは不思議だ」と。
 市民デモは何故過激化し治安部隊との間で双方に多数の死傷者を出すという騒乱・政変にまで発展したのか。それを主導したのは一体どのような連中なのか。「報道ステーション」で、ウクライナ国営テレビ局に極右政党スヴォボダの議員らが押し入って乱暴をはたらき、プーチン演説を放送したことをなじって局責任者に辞表を書かせる様子が放映されていたが、彼らについてはそれ以上詳しい掘り下げはなかった。
 これらのことを詳しく取り上げた論評はほとんど見られないが、それはどうしてなのか。
そこを抜きにしたままでは、ただ短絡的にロシア側が悪者で米欧側とウクライナ暫定政府の方が善玉であるかのように決めつけることはできまいし、朝日(上の声・投稿ともに26日)の社説も自由と民主主義という「普遍の価値観を説け」などと書いているが、どこか空々しい気がしてならない。

2014年04月22日

ノーベル平和賞をもらえるためには

 神奈川県内の地域9条の会など市民の間から「憲法9条にノーベル平和賞を」とノーベル賞委員会に推薦した提案が受理され受賞候補者リストに登録されたという。受賞されるのは個人か団体に限られ、この場合は日本国民とのこと。しかし、それを本当に喜べるのは受賞が決定したらの話で、そのためには日本国民にそれに相応しい国際平和への貢献努力と実績がなければなるまい。日本政府にその努力実績があれば、授賞式には首相が代表してもらってこれるというものだろう。ところが今は、安倍首相は「積極的平和主義」を掲げるが、それは軍事貢献が主で、とても平和貢献とは言えないどころか改憲さえ企図していることが国内外に明らかになっている。そして国民の努力はといえば、その改憲を阻止し9条を守ることで精一杯。
 平和賞を本当にもらえるためには9条の精神に徹した非軍事・平和外交を政府に仕向ける運動とともに民間による平和外交の積極的展開、それに例えばペシャワール会の中村哲氏らのような平和貢献事業の展開もなければなるまい。
 ノーベル賞をもらうことが自己目的ではないが、我々日本国民にはそのような努力があって然るべきなのでは。
 今は、改憲を阻止し、9条を守ること自体が大事なことは言うまでもないが。

2014年05月05日

国民の平和的生存権を守るのが安全保障

 「国を守る」とういうが、我々国民にとって肝心なことは、国民が平和で安全な環境で生きられる権利いわゆる平和的生存権を守ること。それを軍備で守る、軍備は抑止力といっても、それは周辺国の軍備強化を招き、軍事衝突や攻撃・戦争を招きやすく、かえって危険であり、軍備などむしろ持たない方が戦争を抑止でき平和・安全が保てるというもの。国家は国民の平和的生存権を守らなければならないのであって、それが軍備によってかえって損なわれ台無しになってしまう結果を招いてはならず、むしろ軍備強化はやめ、諸国と信頼関係を構築して非軍事で諸国民とともに平和的生存権を守り合うことに努めるほうが賢明だろう。
 安倍政権は解釈改憲もしくは明文改憲して軍備(自衛隊の国防軍化・日米同盟の深化、集団的自衛権の行使容認など)によって自国を守るだけでなく、積極的平和主義と称して海外諸地域への軍事的関与に意を注いでいるが、我々国民は、政府をして憲法通りに非軍備で他国との信頼関係構築によって自国民のみならず諸国民の平和的生存権を守り合うように9条の精神を諸国に流布しつつ非軍事的関与に意を注ぐべきであろう。
 我々国民は、「国を守るんだ」と言って政府の軍備強化・改憲を支持するよりも、それを阻止し、政府に対して自国民と共に諸国民の平和的生存権を守れと叫ばなくてはならないのだ。「我らは全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。

2014年05月11日

戦争することを容認する改憲論

 先の(朝日新聞)投稿『万一に有事に備えて改憲を』に、「米国は日本を守るのに、日本は米国が攻撃されているのを指をくわえて見ているだけ」というわけにはいかない。朝鮮半島で有事があった場合、在留邦人が米軍機で脱出する際は「自衛隊機が米軍機を護衛したほうがよい」。「集団的自衛権の行使を容認することが、そのまま日本が戦争することを意味しているわけではない。」「PKOをはじめとする国際貢献を積極的に行うためにも改憲したほうがよい」などとあった。
 しかし、これらの言い分はどうも綺麗ごとで、実際、海外有事で、自衛隊がそのような対応をとり応戦すれば、それは相手側から見れば宣戦布告か参戦と見なされて、日本が直接的な攻撃対象にされ、日本が戦争の当事者となってしまう。そうなると、現地の在留邦人や自衛隊員が他国の戦争に巻き込まれるだけでは済まなくなり、国民全体が戦争に巻き込まれることにもなるわけである。
 安保法制懇の有識者も様々なケースを想定して自衛隊の対応(出動・実力行使)を認めようとしているが、それならば、そこから戦争という最悪の事態に立ち至るところまで想定し国民にその覚悟を問わなければならないのに、その肝心なところをはずして国民に「万一の有事に備えようとしているだけで、戦争するわけではないのだな」と安易な気持ちにさせているのだ。

2014年05月13日

若者に届ける言葉は「非暴力」

 先に掲載された新聞投稿「『戦う』という若者に届く言葉は」について。「生き残りに必要な軍事力を持てないのは理不尽」というが、それは各人が生存権を守るために銃を持てないのは不当だと言っているようなもので、その方が理不尽なのではないか。各人に必要なのは単なる生存権ではなく平和的生存権(平和・安全に生きられる権利)であり、それを国は保障し、国民の命が危険にさらされる恐怖の除去に努めなければならないのだ。攻撃を誘発することなく攻撃を受けなくする最善の方法はむしろ軍備を持たずに反撃意志を持たないことを示すことだろう。
 「戦うという若者に暴力にかわる方法をうまく説明できない」というが、暴力に対して暴力で対抗するというのは戦国時代の論理であり、今はアフガニスタンやシリアでやっているようなもので、暴力・武力行使こそ悲惨な結果を招く最悪の方法なのだということを若者に知らしめなければならないのだ。若者に届ける言葉は「非暴力」以外になく、利害対立・紛争は交渉・話し合い・譲り合いによって解決するしかないのだということ。
 韓国船の沈没事故に際する「危機管理の無さは具体策無しに戦争に反対するリベラル層に重なる」という。船の沈没事故なら、それが起きたらどう対処し、被害を最小限に抑えるには予めどういう措置を講じておけばよいのか危機管理策は必要でありで可能でもある。しかし、戦争の場合は、それらとは全く異なる。なぜなら、沈没事故なら被害は乗船者らに限られるが、戦争は、「戦う若者」や現場の限られた人たちだけでは済まない、子供も老人も数多の人々に被害・惨害が及ぶことになるからである。だから、それは絶対起こしてはならず、招来するようなことがあってはならないものなのであって、危機管理より危機回避のほうが問題なのである。軍事衝突・武力攻撃事態など招かないように自衛隊の出動や実力行使など軍事組織・軍事力を用いることのないようにしなければならないのであって、軍備は、強化・活用するのではなく、用いないように管理することであり、むしろ持たないほうがよいのである。
 そこのところを考えての9条なのであり、それこそが現実的な最善の方法なのであって、改憲して若者を存分に戦えるようにすれば国も守れて国際貢献もできるなどと考える方がきれいごとだろう。

2014年05月24日

問題は戦争肯定か否定かなのでは

 安倍首相は「安全保障環境が一層厳しさを増している」として、いかなる国からの攻撃にも対処できるようにと集団的自衛権の行使も可能とすべく解釈改憲を行おうとしています。
 現行憲法は大戦の反省から「政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こることのないようにすることを決意」して定められたものです。
 首相は9条解釈の変更によって武力行使を幅広く容認し「いかなる事態にも対応できるよう、備えをする」、「それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることは」なくなりはしても、「日本が再び戦争をする国になる」とか、「そんなことは断じてあり得ない」といいます。しかし、軍事的「抑止力」は「寄らば切るぞ」式の地雷のようなもので、それが空爆やミサイル攻撃を誘い、かえって戦争を呼び込む結果になるもなるのです。
 むしろ9条こそ戦争抑止規定なのであり、その抑止力を生かし高める努力こそ必要なのに、それを骨抜きにして、武力行使を解禁し「戦争放棄」を捨て去る。それでいいのしょうか。
 人々の中には抑止のための軍事力は必要で、自衛のための武力行使も必要であり、攻撃されれば戦うしかないといって戦争を肯定する向きもありますが、戦争には勝っても負けても悲惨な結果がともなうのです。

2014年06月09日

憲法に関連する米沢出身の先覚者 二人

(当方、最近初めて知った)
① 宇加地新八―米沢藩士、18歳で戊辰戦争に参加、敗れてのち慶応義塾に入学、卒業後自由民権運動に身を投じ、日本最初の憲法草案をつくり明治政府に建白―主権在民をうたうも、画期的なのは欧米にも先駆けて男女同権をも唱っていること。
② 我妻栄(米沢興譲館出身の民法学者だとかは誰でも知っているだろうが)―東大で岸信介の学友で、岸がA級戦犯で巣鴨刑務所に入った時は釈放嘆願書に名を連ねた。
 しかし、岸が首相になって改憲のために「憲法調査会」を立ち上げ、我妻を誘ったが、それを断り、それに対抗して「憲法問題研究会」を宮沢俊義・湯川博士・丸山真夫・家永三郎らと発会。
 岸首相の日米安保推進に対しては「戦前君はドイツと組んで中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、我が国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもない誤りだったのです。君はまた同じ誤りを繰り返しているように、私には思われて慄然とします。」と(朝日新聞紙上で)。
以上、参考まで

 新聞に載りぱぐった投稿―いったん新聞社側から11日の新聞に載せることにしましたからと連絡があったのに、その後で、どういうわけか「見送らせていただくことになりました」と。

最悪の戦争事態の事例こそ示すべき
 安倍首相は「あらゆる事態に対して対応できる可能性・選択肢を用意しておくのは当然のことだ」として、いくつもの具体的事例を想定して、それぞれに自衛隊を活用できるようにしたがっている。
だが、自衛隊の介入から紛争当事国・参戦国と見なされ、局地戦から全面戦争になってしまったらどうするのか。核ミサイルが東京に飛んでくることだってあるかもしれない。「ミサイル防衛網」をくぐって都心に着弾したら死傷者の数はどれほどになることか。それらにどう対処するのか、避難・疎開などまで考えなければなるまい。
 原発の過酷事故のように確率は極めて少ないとはいえ、それでも起こりうる最悪の事態を、非現実的、「想定外」だとして度外視できるものではあるまい。
 国民に些末な事例をあれこれ示し、自衛隊をいかに活用するかばかりを訴えるのではなく、全面戦争という最悪の事態に発展してしまう場合を示し、そのような事態に至らないためにはどのような方法をとるのが最も賢明か、国民に示すべきなのではあるまいか。 軍事的「抑止力」で本当に戦争が抑止できるのか、国民にきちんと示すべきである。」

 これは、このブログの評論欄にある「アベノロンポウのおかしさ」の文中Ⅱに詳述している、それを要約して当方が出したのを向こうが字数調整(500字以内)で手直しを加えたもの。

2014年06月17日

刀をどう使うのが武士道か

 7日付本紙に、集団的自衛権問題のインタビュー記事で、政治学者の櫻井淳教授は「武士道では刀を研ぎ、訓練もするが、抜くものではないという考えがある」と言いながら集団的自衛権の行使(刀を抜くこと)を容認する論を説かれていた。
 ところで新渡戸稲造の『武士道』では、勝海舟は、刀の柄を鞘に「ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」という海舟の言葉を引き、『負けるが勝ち』(それは「真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味」しており)、また『血を見ない勝利こそ最善の勝利』とか「これらの格言は武人の究極の理想は平和であることを示している」と。
 そういえば、「峰打ち」というものもあり、刀は専ら、相手の刃を受け止めて防ぎ、打ち据えるだけで、斬らない(抑止に徹する)という使い方もあるわけである。
 さて、これらのうちどれが本当の武士道の刀の使い方なのだろうか。我が自衛隊は、どうあるべきなのだろうか。
 安倍首相が容認しようとする集団的自衛権の行使は、武力行使を目的とした他国領域への派遣はしないと言うだけで、武力行使しない(刀は決して抜かない)というわけではないのだが。

2014年07月02日

武力行使「時の内閣が判断」こそ危険

 武力行使の要件の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険があること」とある。
 これでは、自国が攻撃されていないのに我が国と密接な関係がある国が攻撃されたからといって、その国を日本が攻撃すれば、その国は日本に報復攻撃し、日本がその国と戦争なってしまうことになる。
 朝日6 月29日の「声」に「『日本国民を守るため』と首相は言います」が「『国民を守る』とは、戦争による犠牲者を二度と出さないということではありませんか。日本の経済が落ち込み、どんなに生活が貧しくなろうとも、電気が無くてろうそくの明かりで過ごそうとも、石油が無くて寒い冬に凍えようとも、日本の若者たちが戦場で殺戮を繰り返すよりは、よほど国民は幸せだと私は思います。」というのがあった。全く同感です。
 しかし「明白な危険」を判断するのは時の内閣であって、「政府が全ての情報を総合して判断する」というわけである。そこで国民が「その情報を明らかにせよ」と求めても、秘密保護法で「それは秘密」とされてよく国民には知らされないまま、政府の裁量で済まされてしまう。これこそが危険なのではあるまいか。
 

2014年07月07日

犠牲者ゼロは自慢になる

 2日の投稿「犠牲者ゼロは自慢になるのか」に、湾岸戦争で「命がけで戦っている多国籍軍を日本は傍観し」、アフガニスタンなどで「危険な任務に就いている他国の兵士に『日本は一人も殺していない』と胸を張って言えるのでしょうか」とありました。
 しかし、日本人はこれらの戦乱に血税だけで済まして傍観してきたわけではあるまい。NGOや国連職員として丸腰で人道支援活動や紛争処理に当たり武装解除の指揮に当たった人さえもおり、彼らは非軍事・平和国民イメージ故に現地住民に歓迎されてきた。一方米軍や多国籍軍はこれらの地域に平和・人道復興をもたらしたでしょうか。
 日本は先の大戦で他国民にも自国民にも未曾有の犠牲者を出しました。あまりに悲惨なその反省と教訓の上に立って戦争と武力を放棄することを決意し、以後政府の行為によっては戦争で一人の犠牲者も出していない、それは自慢に値することなのではないでしょうか。
 命を惜しまず武器を持って戦いに参加したいという人は、義勇兵か雇い兵として個人的に参加する分にはかまわないとしても、首相が自衛隊員にそうせよと命令し、国民に犠牲覚悟を強いるのは間違いでしょう。

2014年07月10日

集団的自衛権・賛成投稿に反論

 先の朝日新聞「声」欄に『米国との協力なしに国民守れぬ』という投稿と『集団的自衛権は平和守る手段』という投稿があった。
 「当たり前のことをできない障壁が憲法9条」「無条件降伏したとはいえ主権国家の自衛権を奪うなどあってはならない」「集団的自衛権の行使は、いざという時に必要」だ、それに「集団的自衛権を持っているが使うことはできないとしてきた」のは「不自然」だと。
 これらに次の諸点から反論したい。
①個別的自衛権ならば個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが、集団的自衛権はそうではない(国連憲章原案には当初は無かったもので、アメリカが米州諸国会議で米州機構の軍事同盟を合理化する思惑から憲章51条に個別的自衛権とともに付け加えられた後付けの概念にすぎないのだ)。
 我が国で個別的自衛権は自然権として認められてはいても憲法で戦力保持を禁じられるのは、市民個々人は、正当防衛権は持っていても法律で銃刀所持を禁じられているのと同じだろう。
②「押し付けられた」憲法とは言っても、日本国民は反発どころか、大半の人はむしろ歓迎していた(当時、毎日新聞の世論調査では象徴天皇制には85%、戦争放棄には70%が賛成)。それは日本国民がどの国の国民にもまして戦争の悲惨さと空しさを知り尽くしたからにほかなるまい。戦争犠牲者、日本人310 万人、アジア全体で2,000万人、「戦争はもうやめてくれ」という痛切な叫びがそこにあるのだ。
③その憲法制定後間もなく連合国の極東委員会それにマッカーサーも改憲(「再検討の機会」を与え、「見直し」)を促したにもかかわらず、日本政府(吉田内閣)の方からそれを拒否しているのである。その時、もし改憲して陸海空軍を復活させていれば、日米同盟・集団的自衛権の名の下に、日本軍は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも湾岸・アフガン・イラク戦争にも韓国などと共に参戦していただろう。これらの戦争に日本軍が参戦していればもっとよい結果が得られて諸国民から歓迎され、日本国民にも幸いした、などとは到底考えられず、数多の犠牲者(韓国はベトナム戦争で4千700人戦死)を出し、報復テロにも脅えなければならない深刻な結果になっていただろう。
④「米艦防護や機雷除去は武力行使に当たらない」というが、交戦中のそれらの行為は国際法上「武力行使」に当たり、敵対する相手からは攻撃されてもしかたないことになる。
⑤「日本と米国は一体」というが、そんなことを言ったら「主権は持っていても、その権利を行使しない」と言っているようなもので、アメリカにはノーと言えない国と見なされ、反米と一体にさらに反日に火がついてしまうことになる。
⑥「日本が集団的自衛権を行使するのは戦争が目的ではなく、平和を守る手段」だというが、行使―武力行使―するのは戦争そのものではないのか。
⑦「行使容認と防衛力の強化が世界に伝われば諸外国は安易に日本に手出しできないと思う」という(「抑止論」の考えだ)が、諸外国はそれでおとなしく手を引くかというとそうではなく、同じ抑止論で日米が手出しできないように防衛力を増強し、核軍拡に駆り立てられる。中国・北朝鮮はまさにそれ。
 

 ところで、常備軍は持たず、外国の基地も置かないコスタリカは小国とはいえ、文字通りの積極的平和主義外交に努めたことによって大統領がノーベル平和賞を受賞し世界から高い評価を受けている。これとは似ても似つかない安倍首相の「積極的平和主義」(それは軍事主義にほかならない)を肯定するような考えには、とても賛成しかねる。

2014年07月23日

9条は単なる建前にあらず

 先の朝日投稿『9条と自衛隊 矛盾解消が必要』について。それは「閣議決定は内閣の専権事項で、それを実行するための法律制定が国会、法律が違憲かどうか判断するのは最高裁」、それらは三権分立としては当然のこと。米国の保護なしには9条だけでは平和でいられなかったし、9条(「戦力不保持」)は「建前」だが、自衛隊を保持しているのは「本音」、その「矛盾を統一してすっきり」すべく改憲して自衛隊を軍隊として認めるようにすべきだというもの。
 しかしその閣議決定の憲法解釈変更は9条2項の許す解釈の限界を逸脱している。なのに、いったん閣議決定されてしまえば、その基本的方向のまま関連法案は通ってしまう。「日本は議院内閣制なので内閣が出した法案はほぼ通るし、最高裁もなかなか憲法判断しない」と言うのが実状だからである。
 自衛隊は実力を行使できるのは個別的自衛権のみで交戦権がなく軍隊とは違う。それを集団的自衛権まで行使容認するとなれば、益々9条との矛盾が拡大する。だったらいっそのこと9条2項を改廃して自衛隊を完全に軍隊化すればいいというが、それは間違い。むしろその条項は維持し、集団的自衛権の行使など認めず、自衛隊は非軍隊に徹するようにしたほうがよい。なぜなら世界の誰よりもひどい戦争を経験した日本国民にとっては二度と戦争などしたくないというのが本音だからであり、9条は単なる「建前」などではないからである。それに9条がなければ朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガン・イラク戦争など米国の戦争に参戦させられ、不安なき平和ではいられなかっただろうからである。

2014年08月13日

9条こそ抑止力

 軍事的抑止力は相手に優る軍事力を持つことによって、相手の攻撃意思をくじき、攻撃を思いとどまらせるというものだが、それには単に戦力を見せつけるだけでなく「いざとなったら」それを行使する、或いは「行使も辞さない」という戦意を伴わなければならない(その意思はないのだとなれば、それは単なる「張り子の虎」同然で抑止力にはならないからだ)。そこに矛盾がある。その戦力と戦意を見せつけられた相手はそれに恐れをなして戦う気を起こさなくなるかといえば、必ずしもそうはならず、相手はかえって身構え対抗心をかきたてられて軍備増強の方に向かい、その結果互いに軍拡、脅威増幅・緊張・不安にかられることになり、たえず身構え、一触即発状態となり、ちょっとしたきっかけで戦争に突入しかねないことになる。
  それにその軍事力に物を言わせ、外交交渉で話し合ってもあくまで自分の言い分を通そうとして妥協・譲歩を拒み、結局「これ以上話し合っても無駄、武力に訴えるしかない」となって戦闘に突入。いずれにしてもそれは「抑止力」どころか、かえって戦争を呼び込む結果となる。
 それに対して9条は戦力も戦意も持たず、あくまで戦争回避。これこそが抑止力だろう。

2014年08月22日

国に戦争をさせないのが9条

 憲法上、国と国民とは区別して考えなければならない。憲法は国民が国(政府など)に命じその権限を縛るものであって、その逆ではないし、国の責務と国民の権利を混同してはならない。
 9条の「戦争放棄」は国にたいして戦争をさせないように、戦力と交戦権を放棄させたものであるが、このことは外敵・侵犯者に対して国は無防備でもかまわないとか、侵略者に対して国民の抵抗権までも放棄したものではない。国には外敵の侵犯に対して防備(警備)は課しても、戦争はさせないということであり、9条はあくまで国に戦争はさせないことを定めたものである。
 自衛隊には自国の領土・領海の防備は課しても、「集団的自衛権」であれ「集団安保」であれ、米軍などと共に海外で、戦闘参加であれ後方支援であれ参戦させてはならないし、また駐留米軍にも我が国の為に戦争をさせてはならないのである。
 国に領土・領海の防備を課し、侵略者に対して国民の抵抗権はあっても、国にも同盟国にも戦争はさせない。それが9条なのである。
 集団的自衛権の行使容認は「戦争をするためではなく抑止するためだ」と弁明するが、それは他国の戦争に参戦できるようにすることであって、海外で戦争することを認めることにほかならず、9条に適法しているとは到底言えまい。

2014年09月24日

誤報問題―どこの新聞をとったらいいものか(加筆版)

 誤報問題で今、朝日新聞に対する評価がガタンと下がっているように思われる。朝日の失敗は誤報とそれに対する対応(訂正・謝罪の時期を失する等の)まずさであり、それが不信・不評を買っているわけだが、加えて、日頃朝日の論調に対して反感をもっている向きとライバル各社からは、この時とばかり猛烈な批判・バッシングに晒されているのだろう。
 そこで、我々一般市民としてはそれをどのように考えたらいいものか。今回、朝日に誤報とそれに対する対応のまずさがあったからといって、即、他紙の方が「ましだ」となって購読を他紙のどれかに切り換えようとなるのかといえば、私ならそうは考えない。何故なら、誤報や思い込み曲解報道は朝日に限ったことではなく他紙にもあるし、ライバル各紙のスクープ(特ダネとり)合戦はつきものであり、勇み足も付き物だろうと思われるからである。(ジャーナリストの青木理氏は「メディアに誤報はつきもの」「時には勇み足や勘違いから誤報は生じうる。いや、誤報はメディアの宿命と言ってもいい。だから誤報に気づいたら速やかに訂正しなければならない」と―サンデー毎日9.28号)。
 そもそも、どこの新聞、どの局であれマスコミの報道を信じきってはならないのであって、「まてよ?本当かな?」と疑ってかかることが必要なのである。
 かつて戦時中は全てのメディアは誤報をしたといっても過言ではあるまい。大本営発表(虚報)をそのまま流したものだ。今は報道の自由があるとは言っても、企業ジャーナリズムには「売らんかな」の商業主義(部数・視聴率)に縛られ、その都合しだいで、(売れるぞとなれば)必要以上に誇大にニュース・話題にして取り上げるし、(売れそうにないとなれば)取り上げない、といったようなことがあるわけである(「朝日を叩くと売れる」など)。それに情報を握っている政府当局による情報操作・マスコミの選別利用(政権にとって有利な情報を流し、政権に批判的な社には隠して政権寄りの社に情報を流す、といったようなこと)もある。
 いずれにしても、誰にとっても納得がいく真実を報道しているとか信用のおけるメディアなどというものはあり得ないのだ。
 そこで、選ぶとすれば比較的「よりましな」新聞・情報源はどれかということになるだろう。
 その指標(決め手)は、その社、そのジャーナリストの報道姿勢(理念・立ち位置)が庶民本位か政財界の支配層・エリート本位か、人権平等・社会保障重視・「自国に厳しく他国に優しい」博愛・平和主義の立場か、それとも富国強兵主義・自由競争主義・権威主義・「人命・人権よりも国益・企業益」重視・自国の名誉にこだわり「自国に甘く、他国に厳しい」対アジア強硬・対米追従の立場かなど、いったいどの立場に立って報じているかであり、アベノミクス・消費税問題・改憲問題・原発問題・集団的自衛権問題・沖縄基地問題・秘密法問題などをどの立場に立って報じているか、そのスタンス(立ち位置)だろう。私の場合はその境遇・生活信条から前者(庶民本位、人権・博愛・善隣友好平和主義)の方の立場に立っている新聞・情報源を選ぶことになるわけでる。要するに自分の生き方・価値観に照らして、社会生活や個人生活に必要で役に立つ情報源をより多く提供してくれる新聞(メディア)かどうかで選ぶ。
 それにつけても、誤報や偏りの全くない誰にとっても全面的に信頼がおけるメディアなどあり得ないが、比較的まし、という新聞メディアはあるだろう。それには虚報はしないとか誤報が少ないということは不可欠の要素だが、もう一つ、その立ち位置・理念(価値観)が、自分のそれにより近いということが信頼性の点で決め手となる。それで選ぶということだ。 

2014年12月01日

選挙結果で政権党信任?

 この総選挙の結果で政権党が過半数を上回る議席を獲得すれば、その公約や政策が全て信任されたことになるのか。
 現在の安倍自民党政権は前回の総選挙の結果「大勝」して成立したとはいうものの、その議席(小選挙区で8割、比例区で3割)獲得は小選挙区制(死票など民意を排除)を主とする作為的な方法によって得たものであり、投票率は59%(戦後最低)で、自民党は有権者全体に占める得票率では小選挙区で2割台、比例区で1.5割台しか取っておらず、国民の過半数にはほど遠く、実態的には多数決民主主義を踏まずして成立した少数政権なのだと言える。
 この自民党が今度の選挙ではどれだけ得票率を得られるかだが、仮にもし議席は過半数獲得したとしても、投票率が低く、有権者全体の過半数に達せず、それどころか前回よりさらに得票率が少ないということであればなおさら、その政権は、法的には成立しても、実態的には民意(国民の過半数)に依拠しておらず、その公約や政策はこの選挙で信任されたとは到底言い難いことになり、ましてや「白紙委任」などあり得まい。
 それに「一票格差」問題で違憲状態を残したままで選挙が行われたとなれば、「法的に成立」してさえいないということにもなりかねまい。

2014年12月02日

投票―野党ならどの党に

 朝日「声」欄に「野党に期待すべき役割考えたい」として次のような投稿があった。「民主党は野党第1党とはいえ、政権担当能力を欠くという評価が一般的で、政権交代の可能性は低い。だとすれば政権交代のため以外に野党に投票する意味はといえば、それは、投票すればその党を国会における無視できない批判勢力として、政権側に緊張感を持たせて少数意見に配慮した政策運営をさせることが期待できるというところにある」と。同感である。たとえ、その党への一票で政権を奪うことはできなくとも、政権党に対する蜂の一針となり、積み上がってその党の得票率が上がれば政権に対する痛撃となる。その党の議席が増えれば、国会では委員会でも党首討論でも、より多くの質問や論戦の時間と機会がその党に割り当てられ、政権に対してより徹底した実のある対決・論議が期待できることになる。
 さて、改憲問題・原発・消費税・集団的自衛権・秘密法などあらゆる問題で、政権の思うままにさせてはならず、その暴走をくい止められようにさせなければならない。それを野党のどの党に託するか。委員会でも党首討論でも政権に対して最も鋭い、核心をついた質問・論戦が期待できる党はあるはずであるが、それははたしてどの党か。それを見極めることが肝要だろう。

2014年12月05日

身を切るなら議員定数より政党助成金

 「消費税増税の前に身を切る改革」と称して議員定数削減の話が持ち出されるが、それを言うなら、むしろ政党助成金の方を問題にすべきだ。
 議員定数削減は、これまで出された案には180削減(みんなの党案)、 80削減(民主党案)、 30削減(自民党案)などあるが、最多の180削減でもその金額は120億円だ。それに対して政党助成金につぎ込まれている税金は320億円で、これを廃止すればこの方が大きな節約になる。
 そもそも我が国の議員定数は他国に比べて多過ぎるというわけではなく、むしろ少ない(国民1人当たりの議員数は、アメリカなど特殊な例を除けば、OECD諸国では最も少ない。)増税する前に無駄を削れというのはいいとしても、衆院475名は数としては決して無駄があるとは言えない。削減案はそれを減らそうとする。しかも、その内の比例代表180名―それは小選挙区選出に比して多様な民意をそのまま反映する方の議員数―を削って、少数民意を切り捨てるに等しい削減案が民主党案・自民党案なのである。あまりに不合理な発想である。
 一方、政党助成金は納税者の支持・不支持にかかわらず各党の議席数に応じて政党に(自民党にはごっそり)分配されるものだが、納税者によっては、支持しているのに議席の少ないその党には渡らず、支持していないのにそれらの党に分け取りされる―支持してもいない政党に、いわば強制献金させられているようなもの。そんな理不尽な話はあるまい。
 そもそも政党の資金は党員が納める党費と機関紙誌販売・支持者個々人の募金によってまかなわれ、それぞれ党の自助努力によって確保さるべきものであって、税金でまかなわれる筋合いのものではないのだ。なのに自民党は本部収入の6.5割、民主党は8割、維新の党は7割をこの助成金でまかなっている。政治にカネがかかり過ぎるからとか、企業・団体献金に頼らずにすむようにとか(自民党は依然としてこれにも頼っている)、不正にはしらないようにするためにといって、それを税金で補てんするなどというのはおかしいではないか。このような政党助成金こそ廃止して然るべきだろう。

2014年12月17日

こうなったら国民投票で勝負を

 選挙で「圧勝」した自公両党は、さっそく党首会談で「憲法改正に向けて国民的な議論を深める」との合意に署名した。当選議員は自民党その他で8割が改憲賛成。とはいえ、この選挙、投票率は52%で全有権者に占める自民党の得票率はわずか17%にすぎない。しかも争点はこれ以外に様々あり、有権者が求めたものは景気対策や社会保障など多様で、改憲を望んで投票した人はそんなにいるわけではない。7月のNHK世論調査では「戦後、憲法9条が果たした役割を評価しますか」との問いには76.5%が「評価する」と答え、「日本の平和を守って行くために、今、最も重視すべきことは何か」との問いには「武力を背景にした抑止力」はわずか9.4%だったのに対し「武力に頼らない外交」が53.4%。
 国民投票法が整備され、国会では憲法審査会に改憲原案が提出されて審議が着々進められ、3分の2以上の賛成多数で改憲発議されるはこびとなる。
 こうなったら、国民は直接国民投票でそれを覆すしかないわけである。そのためには、これから国民運動で国民的議論を展開して競い合い、抑止論など論争で勝負しなければならない。争点は一つ―「軍事的抑止論か9条抑止論か」。それは単なる日本国民だけの問題では済まない、国際社会の進運にも関わる重大問題となろう。

2015年01月16日

不戦憲法でこその独立国家

 朝日(「声」)に「独立国家ならば憲法改正を」との投稿―「普通の独立国家として生きたいのであれば、戦力を保持」できるようにすべきだと。
 しかし、我が国は、70年前、アジア・太平洋地域に未曾有の戦争の惨禍をもたらした国であり、国民は再びそれが起こることのないように決意し、「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」「国際社会において名誉ある地位を占めたい」と決意して、「諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存を保持しつつ、「自国の主権を維持し他国と対等関係に」立って責務を果たすという崇高な理想と目的を「国家の名誉にかけ、全力をあげて」達成することを誓った国民なのである。それが何で今さら「普通の国」に帰って、戦力を保持して再び戦争ができるように改憲しなくてはならないのだろうか。
 国民がこの憲法を受け容れたのは、決して安全保障を他国に任せ、自国防衛を他国に頼ればいいなどと思ったからではあるまい。日本が安全保障をアメリカに依存するようになったのは、その後、米ソ冷戦が顕在化するようになって朝鮮戦争が勃発し、その最中にアメリカが急きょ日本と単独講和して安保条約を結んだ結果、そうなってしまったのだ。日本が自国防衛を他国に頼り、独立国家に相応しくない状態に置かれるようになったのは、憲法のせいではなく日米安保条約のせいなのだ。
 独立国家とは、自国の主権と安全を独力で守れる国家のことであるが、主権・安全は必ずしも戦力を持たなければ守れないというわけではなく、どの国をも敵とせず戦わず、親密な経済・文化協力関係を結び、尊重すべき友好国として信頼を得ることによってこそ確保される。戦力保持はむしろ他国の脅威となり、警戒感・不信感を与え、友好・信頼関係の妨げとなる。
 自国憲法に戦争放棄を宣言して、(必要最小限の自衛力は保持しながらも)戦力も交戦権も持たずに、戦争をしなかった70年間は歴史上特筆に値する日本国民の誇りであり、それを今さら「普通の国」に戻さなければならない理由はあるまい。

2015年02月22日

「過激主義を生まない社会の構築」こそ議論を

 政府は2月19日ワシントンでのテロ対策国際会議を前にして新テロ対策を発表した。そこで中東・アフリカでのテロ対策支援金の供与などと合わせて「過激主義を生まない社会」の構築を支援するため若者の失業対策・格差是正・教育支援などに力を入れる方針も示した。
 いま行われている過激派のテロや暴虐に対してそれを制圧・阻止し難民を救出する国際行動に協力・支援する当面の緊急対策だけでなく、「過激主義を生まない社会」の構築を方針として取り上げたことは重要である。
 そもそもこれらを生んでいる現実の社会とは、グローバル化した資本主義にともなう国内外における競争・格差社会であろう。そこでの弱肉強食競争・富の偏り・失業・貧困・差別・抑圧、それらがもたらす疎外感(とりわけ生きがい・居場所をなくした若者の絶望感)、極度のストレスやフラストレーション、そして現状に対する反感から自暴自棄的犯罪に走るか、暴力を「聖戦」として合理化する過激思想にひかれその武装組織に加わって戦闘やテロに走る。そのような自暴自棄的犯罪や過激主義を生まない社会を構築するにはどうしたらよいか。中東・アフリカへの支援だけでなく、この日本にもそれらを生まない社会を構築すべくどのような仕組みや方法を取り入ればよいのか議論することが肝要だろう。

2015年04月02日

普天間基地問題の全国世論調査―本土引き取りか、無条件返還か(加筆版)

 普天間基地の名護市への移設問題で政府と沖縄県はどんなに話し合っても平行線。政府は建設作業を「粛々」と強行するだけで、沖縄県側は結局は折れるしかないかのようだ(それともいっそのこと独立か)。それにしても沖縄県以外の国民はいったいどう思っているのか。
 沖縄県以外の国民は、①政府が名護市辺野古への移設を進めているのを支持し、沖縄県民・名護市民は無駄な抵抗は止めて承服すべきだと思っているのか、②自県・地元への移設を引き受けてもいい(「抑止力」維持のために米軍基地はどうしても必要だとは思うが、だからといって、宜野湾市民と名護市民の分断、どちらかへの負担の押しつけ、ごり押しするのは理不尽だから、自県・地元市町村に移設を引き受けるしかない)と考えるのか、③どちらも反対なのか、そのいずれなのか意思が問われて然るべきだろう。
 そこで全国世論調査を上記の3択でやってみては如何なものだろうか。
 それに移設にさいしては、その移設先市町村で住民投票を実施してその意思を問うべきだ。まずは名護市で、あらためてそれを行い、移設受け入れ賛成票が過半数を得られなければ断念し、そこ以外の移設先を選定すべきだ。その場合は米軍側に普天間基地移設の沖縄県外最適地をいくつか選定させ、それぞれその当該市町村で地元への移設を受け入れるか否かの住民投票を実施し、受け入れ同意が過半数を上回れば、その最多の市町村に移設を決定することにする。あいにく、受け入れ同意がどこも過半数に達しなければ、国民はどの県どこの住民も基地移設は受け入れを望まないものとして、普天間基地は移設なしに撤去・返還するしかないことになるわけである。
 このような全国世論調査や移設先市町村の住民投票を実施することによって国民全体にこの問題を政府と沖縄県民に人任せするのではなく当事者意識をもって考えてもらうようにするのである。
 いかがなものだろうか。
 普天間基地問題で問われているのは「本土引き取りか、無条件返還か」、沖縄県民にとっては「さもなくば琉球独立」あるのみともなるだろうが、それは本土国民にとっては、(沖縄に独立されたら)米軍海兵隊基地をどうしても維持したかったら本土のどこかに移設するしかなく、さもなければ普天間基地は無条件(移設なき)返還しかないということになるわけである。

 尚、沖縄は1879年(明治12年)まで独立国(琉球王国)だった。
  1429年、琉球統一王国成立―中国(明)へ貢物(半ば明の属国)
  1609年、薩摩藩が武力侵攻、以来その支配下に(半ば日本の属国)
                      但し中国(清)へも貢物(両属のかたち)
  1853年ペリー来航→54年、琉米修好通商条約
  1872年、日本政府による第一次琉球処分―「琉球藩」(国王を藩王に)、外交権停止
  1875年、清国への進貢、停止
  1878年、清国、日本政府に対して「琉球処分」に抗議
  1879年、第2次琉球処分―廃藩置県・沖縄県設置(藩王を廃位、首里城を明け渡し)

 NHK世論調査 4月10~12日
   政府の「普天間基地の名護市辺野古への移設」の方針に賛成26%
                            反対22%
                     どちらともいえない44%
                             不明8%
    政府の沖縄県への対応  適切だ16%
              適切でない34%
          どちらともいえない41%
                  不明9%
    安倍内閣 支持51%(先月より5ポイント上) 
      支持しない34%( 〃  3ポイント下)
         不明15%
  朝日新聞 世論調査 4月18・19日
    普天間飛行場の名護市辺野古への移設に 賛成 全国30% 沖縄22%
                       反対  〃41%  〃63%
    どのような解決が望ましいか   沖縄県内に移設 全国27% 沖縄15%
                    本土に移設    〃15%  〃20%
                    国外に 〃    〃45%  〃59%
     安倍政権の対応   評価する 全国25% 沖縄18%
               評価しない 〃55%  〃73%
     安倍内閣 支持 全国44% 沖縄28%
       支持しない  〃35% 〃52%


2015年04月04日

辺野古移設は95条特別法の住民投票で

 菅官房長官はよく「日本は法治国家なので法令に則って粛々と」という言い方をされるが、そもそも1996年に橋本首相と米国大使の普天間飛行場返還の合意はあっても、それが即辺野古移設ということにどうしてなるのか。米軍側の移設要求、日米の委員会の合意、当時の知事や市長の受け入れ表明、当時の首相と知事の合意等はあったとしても、憲法95条にある住民投票(この場合名護市の住民投票)で過半数の同意に基づいて国会が制定した特別法に則るという手続きがなければ、それらは成立しないのである。この手続きを踏んで、名護市の住民の過半数の同意を得さえすれば、特別法は成立し、それに基づいて当地への移設は法的に正当性が担保されるのである。しかし、過半数に達しなければ、特別法は成立せず、そこへの移設は認められないことになる。
 日本が真に民主的な法治国家だというのであれば、このような当該住民の民意が最優先され、その同意に基づく法令に則って行わなければならない。たとえ政府が国民の安全保障のために抑止力として是非必要だからと強弁しても、また沖縄県外・名護市以外の国民の大多数が政府に同意を与えたとしても、そこに住んでいて直接生活環境に影響を被る住民が納得・同意しないかぎり、一方的に押し付けることはできないのである。

2015年04月05日

普天間は、危険除去ならまずは閉鎖

 菅官房長官は、辺野古移設は普天間飛行場の危険除去が原点でその唯一の解決策であり、移設の断念は普天間基地の固定化につながると。これに対して翁長知事は、普天間は県民が自ら差し出した基地ではなく、原点は銃剣とブルドーザーで強制接収された場所だというところにあると。
 普天間飛行場は沖縄戦で上陸した米軍によって日本本土への重爆撃用に建設されたもので、その経緯からすれば、知事の言われた通りなのであって、危険除去のためには、まずは一刻も早く閉鎖・閉鎖するというのが筋であり、辺野古に代替施設ができなければ立ち退いてはもらえないといった筋合いのものではあるまい。
 普天間を辺野古新基地完成まで使い続けるその間に、基地周辺の宜野湾市民には今日・明日にでも起きるかもしれない確率の高い事故災害と環境被害それに攻撃を受ける標的にされるリスクも付きまとう。辺野古に移設されれば、そこに代って今度は名護市の基地周辺住民がずうっとリスクを負い続けることになる。それらを考え合わせれば、そのリスク負担は、沖縄県民以外の国民にとっては普天間基地がどこにも移設されずに即時閉鎖されたその隙に(抑止力の低下に乗じて)もしかして攻撃が仕掛けられるかもしれないという確率の低いリスクはあるかもしれないが、沖縄県民にとっては全く間尺に合わないものだろう。辺野古に移設・新基地を建設すれば、普天間基地に変わって今度はそこに新たに基地が固定化されることになるわけであり、沖縄県民にとっては基地負担の削減・縮小にはならないわけである。
 それらのことを考えれば、まずは閉鎖・返還が先だろう。


2015年04月11日

非軍隊でこそ真の安全保障

 『軍隊による真の安全保障を』との投稿がありましたが、私は次のように考えます。
 日本人の多くは、アジア・太平洋に未曾有の悲惨をもたらした先の大戦で、金輪際戦争に懲りて戦争アレルギーが身体にしみつき、その心で平和憲法を受け容れたはず。その9条こそが「日本は戦後70年、戦争をしかけたことはない」という実績をもたらしもの。
 ところが、その平和主義にそれこそ「自信を持てない人」たちが日米同盟の下に自衛隊の増強を進め、海外派兵も「免疫力」をしだいに強め、今や集団的自衛権の行使をも容認し、その法整備をはかるまでに至っている。
 投稿された方は自衛隊を軍隊として認知し、先制攻撃さえ容認し、中国の海洋進出・領土問題には軍事対決、戦争をも辞さぬとばかりに軍隊の復活、改憲を望んで『軍隊による安全保障』を論じておられる。
 しかし、軍隊・軍備というものは敵を想定して構築され、ある国と敵対関係にあることを前提にしており、相手国もそれに対応して軍備を増強、軍拡競争となり、軍事衝突から戦争になる危険が増幅し、かえって安全保障を害することになる。
 真の安全保障は、むしろ軍隊を持たず、敵をつくらず、どの国とも友好・信頼関係を築いて、懸案問題は外交的解決に徹し、国際平和貢献も非軍事に徹することこそが、我が国の生き方なのではないでしょうか。

2015年05月02日

「声」掲載の軍事肯定論は短絡的(加筆版)

 本紙(朝日)「声」に最近載っている軍事肯定論(*)はいずれもが、どうも短絡的で論拠に乏しい。
 東アジア地域は不安定で、中国や北朝鮮に穏やかならぬ動きが見られるとしても、それでどうして、その武力攻撃に備えて軍事を拡充・強化しなければならないとなるのか。
 第一に、中国や北朝鮮などを脅威とみなして、日本が集団的自衛権行使を容認して自衛隊の活動を拡充・強化したら、先方も日本のそれが、アメリカとともに脅威だから、備えなければならないのでそうしているのだと言われれば、それは違うとは言えないわけである。
 第二に、隣国に不穏な動きが見られるとしても、地震など自然災害のようにいつか必ず襲来するという必然性があるわけではあるまい。
 個人レベルで言えば、世の中には「危ない人」はいるものだが、かといって誰もが襲われる必然性があるわけではない。仮にもし襲われたら、それに対して棒や石などそこにある物を使って抵抗し、逆に殺す結果になっても正当防衛として認められる。しかし、だからといって銃刀を所持することは我が国では禁じられている。所持を認めたら、それが使われがちとなり殺傷事件が頻発して、かえって物騒な世の中になってしまうからだ。それと同じように、国には、警察力なら必要だとしても、軍隊は必要とは限らず、コスタリカなど幾つかの国でも憲法で禁じているのである。

 *「自衛隊は国に必要な『軍隊』だ」(3月30日)、「憲法改正で自衛隊の存在明記を」・「日本は防衛軍を持つべきだ」(4月1日)、「軍隊による真の安全保障を」(4月8日)、「目に見える防衛力は必要だ」(4月18日)

2015年05月03日

今、考えるべきは活憲―投稿 三つ(加筆修正版)

 これまで論じられていることの多くは改憲か、それに反対か、のどっちかだが、ここでは3つとも、単に反対だというだけでなく、現行憲法を忠実に守り活かすことを考えるべきだ、ということを言ってる。

憲法が求めているやり方は?
 いま安倍政権は、安全保障と国際貢献を日米同盟に依拠して専ら軍事的な観点から武力攻撃事態・「存立危機事態」から「グレーゾーン事態」に至るまであらゆる事態を想定して追究し、それを制約する憲法の条項を許容限度ぎりぎりまで拡大解釈して可能たらしめることに心血を注いでおり、与党協議も国会の議論もマスコミの論評も、その土俵内でその是非を論じている。そしてそれが現行憲法では無理だとなれば改憲してその制約を取り払うしかないなどと、憲法が求めないことばかりに血道をあげている。
 我々国民の前には憲法が本来政府に期待し求めているやり方―不戦・非軍事的な方法―というものがあるはずであるが、その方を取り上げるべきだろう。
 戦後70年にしていま議論すべきは、憲法制定の原点に立ち返って、不戦・非軍事の安全保障・国際貢献にはどのような方法があり、それにどのように取り組むべきかということだろう。
 それには、対米従属から脱却、自衛隊を非軍隊化して不戦・自立・中立の立場に立って、どの国、どの民族・宗派も敵味方の区別をつけずに理解・対話に努め、信頼関係を築いて諸地域の紛争和解の仲介に努め、国連では旧敵国条項の適用をはずしてもらって常任理事国に加わり、世界の非核化・軍縮を推進・主導的役割を果たす、といったやり方があると思われるのだが。

平和国家ブランドを活かすか否か
 戦後70年にして、安倍政権によって憲法9条から反れる方向へ大きくカーブが切られ、我々日本国民は分岐に立たされている。安倍政権は歴代内閣の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認し、憲法の制約も安保条約の枠も踏み越えて自衛隊の米軍協力をグローバル化し拡充させようとしているが、それは「戦後日本が培ってきた平和国家のブランド」が失われる方向であり、いま我々国民に問われているのは、それを良しとするのか、それとも平和国家ブランドを大事にしてさらなるその発揮をめざすのか、どちらを選ぶのかだろう。
 安倍政権は「積極的平和主義」と称しながらアメリカに追随して軍事面で国際的役割を強めようとしているが、それを言うなら平和主義に相応しく中立的・自立的立場に立って全ての国々・民族・宗派の人々と宥和、信頼関係を築いて諸地域の紛争和解の仲介に努め、国連では旧敵国条項の適用をはずしてもらい、常任理事国入りして世界の非核化・軍縮に主導的役割を果たす非軍事国際貢献をめざす、それこそが真の積極的平和主義なのでは。  
 安倍政権が目指す前者と現行憲法に忠実な後者とでは、国益上、国民の安全保障上も、有益なのは後者の方だろう。

むしろ原点に返って活憲
 憲法9条といえば、このところは専ら自民党政府与党の主導で「安全保障」と称して軍事的防衛を、「積極的平和主義」と称して自衛隊の海外活動を、ともに日米同盟の下に拡充・強化すべく実質改憲の方へすっかり傾いているが、我々国民はこの70年間むしろ中途半端にしてきた平和主義を再確認し、今こそ、その原点に立ち返って、それを徹底し活かす方向に乗り出して真の「積極的平和主義」をめざすことにこそ心を傾けて然るべきなのではあるまいか。
 9条には「武力による威嚇又は武力の行使」の永久放棄と「戦力」不保持を定めていながら、米軍の基地と駐留を容認し、自衛隊の名の下に再軍備、アメリカと軍事同盟を組み、今やその活動範囲を世界規模に拡大しようとしている。このような平和主義にはそぐわない対米従属的軍事的な方向ではなく、自立的・中立的立場に立ってどの国とも友好・信頼関係を築き、自衛隊は非軍隊化(国境警備隊・国内外災害復旧支援隊・非軍事PKOなどへ)、国連では旧敵国条項の適用をはずしてもらい、常任理事国入りして諸地域の紛争和解の仲介・世界の非核化、軍縮の推進・主導に努める、そういう方向を追究すべきなのではないだろうか。

2015年06月16日

戦争にならないようにするのが一番

 先の投稿「憲法9条と96条改正が望ましい」に、「戦争をしないのが一番いいし」「戦争にならないよう最大限に努力する必要がある」としがらも、「東アジアの情勢を見た場合」、「他国と戦争になった場合を想定した備えをしておいたほうが」よく、「戦力は持つべきだし、自衛隊を軍隊として位置づけるべきだ」とあった。
 しかし、「戦争になった場合を想定した備えを」というが、たとえミサイル防衛など「万全の備え」を講じたところで、戦争になってしまえば、たとえ勝ち戦さで被害が最小限にとどまったとしても、人的・物的損害は軽微では済まず、禍根を残さずにはおくまい。
 したがって、むしろ「戦争にならないように最大限に努力する」方を最優先にすべきなのだ。それでは、戦争をくい止めるには軍事的抑止力を強化すればいいのかといえば、それには大きなリスクをともなう。なぜなら、その軍事強化は、「抑止力」といいながら、相手側にも同様な考えから軍備増強・軍事体制強化を招き、軍備競争・疑心暗鬼・緊張が強まり、偶発的軍事衝突を惹起して戦争に発展する恐れがあるからである。
 戦争を抑止するには、むしろ9条(戦争放棄と戦力不保持・交戦権否認)をしっかり守って戦争意思のないことを宣明し続けることの方が得策だろう。

 今、安倍政権の安保政策は、中国や北朝鮮を念頭に「東アジア情勢が厳しさを増しているから」との理由で「抑止力を高める」ためだとして、集団的自衛権行使容認の安保法整備にやっきとなっているが、そのような隣国に対する脅威論と軍事的抑止論は、抑止どころか、かえって双方激突・戦争を招く結果となりかねない。そのような戦争を想定した同盟国との軍事協力体制強化にとらわれるやり方ではなく、むしろ9条(戦争放棄・戦力不保持)をきちんと踏まえて、「諸国民の公正と信義に信頼」できる国際社会を目指して現状を改善する非軍事的方法に最大限努力を傾注するようにすべきなのだ。

2015年06月23日

軍事的抑止主義の矛盾

 集団的自衛権行使容認の安保関連法整備は「抑止力を高める」というが、軍事的抑止主義は次のような矛盾・難点ある。         
 ① その抑止力(武力)に依存してしまい、対話・外交努力を十分尽くさずに、互いに「撃たれるより先に撃ち、殺られる前に殺る」となって攻撃にはしってしまいがちとなる。
 ② 軍備は戦争を抑止する手段だというが、相手国も同様に「抑止力」軍備をすれば、双方の軍備それ自体が、領土問題など他の権益争いとともに、戦争の火種となり、軍備競争・軍事対決から一触即発、偶発的軍事衝突から戦争を引き起こす原因となる。軍備は、それによっては火種を消すことはできず、むしろ燃え上がらせてしまい、かえって戦争を呼び込む結果となりがち。
 ③ 軍事力や同盟が相手に対していかに強大・優勢でも、それを保持するだけでは、その武力を行使する意思(全面戦争も厭わない国民の覚悟)がともなわなければ抑止効果は薄い(相手から見れば、その軍備や安保法制は「張り子の虎」に過ぎないと)。
 一方、相手の軍事力がたとえ貧弱でも、「やぶれかぶれ」の玉砕戦法や自爆テロ戦法をとる相手には、どんなに強大な軍事力を備えても抑止力は効かない。
 目指すべきは、やはり9条に基づいて非軍事的抑止力に徹することであろう。

2015年06月26日

軍事的抑止力と9条抑止力のどちらか

 集団的自衛権の行使容認も安保法整備も、目的は戦争するためではなく、「抑止力を高める」ためだという。しかし軍事的抑止力が機能する(効果をあげる)には、それを運用・行使する意思(戦争の覚悟)を必要とする。その意思・覚悟がともなわなければ、物理的・システム的「備え」ばかりでは「張り子の虎」に過ぎないことになるからである。その意思とは戦争になってもしかたないという覚悟であり、戦争を容認するもの。
 それに対して9条抑止力は「戦争をしない、させない」と決意して、戦争をあくまで拒否するものである。
 軍事的抑止力は軍事力(組織・兵器・同盟協力体制など)をいかに強固に整えても、その武力を行使する意思(国民には全面戦争をも厭わない覚悟)が伴わなければ(「どうせ張り子の虎」に過ぎないと見透かされて)機能しない(抑止効果は働かない)。逆に、軍事力は兵器や装備などはるかに劣っていても、国民の戦意(覚悟)が強烈ならば抑止力を発揮する(たとえばベトナム戦争ではアメリカは敗退したが、それは、アメリカ軍はベトナム軍に対して軍事力では「象と蟻」ほど圧倒的に優勢のはずなのに、戦意の点では逆にベトナム軍の方が圧倒していたからだろう。ベトナム人民には民族解放を求めてやまない強烈な気概があったのにひきかえ、アメリカ国民には厭戦・反戦気分が広がっていたのだ。北朝鮮に対してはアメリカといえども、た易く手出しはできないのだ)。
 しかし、抑止力には不戦意思(戦争反対の意思)を前面に掲げ、自国政府や軍に戦争や武力行使をさせないことを内外に宣明することによって、隣国にも、たとえ係争はあっても軍事攻撃・武力行使は控えるようにさせ、諸国にも戦争反対を訴え、呼びかけることによって戦争を阻止するという非軍事的抑止力があるわけであり、それこそが我が国の平和憲法であり、諸国にその平和原則を広めることによってそれを国際化し、国際反戦世論を形成する、それが大きな抑止力となる。
 (日本国憲法には9条の「戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認」だけでなく、前文に「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」とあるが、正にこれを普遍的な原則として世界に広めるのである。)
 さて、抑止力には軍事的抑止力と非軍事的抑止力の二通りがあるが、そのどちらを選ぶか、優先するか、それは国民次第であるが、国民の意思として軍事的抑止力(中国・北朝鮮などとは全面戦争も厭わない覚悟に裏打ちされた強固な軍事力)を選ぶか、それとも日本国憲法(前文と9条)の平和原則とその国際化による不戦・反戦の国際世論の発展を選ぶか。今、我々日本国民に必要なのは国際反戦運動を盛り上げることだろう。

2015年06月28日

「国を守る抑止力」とは

 政府の立場では「国を守る」とは国家の存立基盤―国土、国家主権、産業・経済インフラ、国家体制―を守るということであり、軍事でそれを守る(攻撃・侵害を抑止する)ということだろう。その軍事的抑止力には物理的・システム的備えのみならず、それを運用(いざとなったら武力行使)する意思(戦争―国民犠牲―の覚悟)を必要とする。その軍事戦略でアメリカ等との同盟国と非同盟国(敵味方)を峻別して集団的自衛権に基づく同盟国への「隙のない」軍事支援協力体制を組めば、同盟国以外の国や勢力をさらに敵に回して「やるならやってみろ」と戦争やテロの危険を呼び込む結果ともなる。
 それに対して、国民にとって守るべきは生命と暮らし―平和的生存権と自由・幸福追求権を守るということであり、戦争などによってそれらが外敵から侵害されず、また自国政府から犠牲にされない、ということだろう。そのため政府にどの国、どの国民をも敵とせず、戦争だけはさせないというのが9条なのではないだろうか。それは戦争を自国政府にさせないということだけでなく、どの国にも我が国に対して戦争をしかけさせないという国際反戦の意思の宣明でもあり、それこそが国民にとっての抑止力となるのだ。

2015年07月10日

国を守ってきたのは平和主義

 本紙3日の「異論のススメ」佐伯教授の「国を守るのは誰か」に異論があります。教授は「日米安保体制によって国が守られてきた」「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止」「戦争は国家の主権的権利」だと。
 しかし、それには、日米安保の仮想敵国とされたソ連にしても中国・北朝鮮にしても、これらの国が戦争放棄を宣明した日本にわざわざ戦争をしかける蓋然性はいったいどこにあったというのか、その理由・根拠が示されていない。
 それに、米軍・自衛隊の強大な軍備と緊密な同盟協力体制を備えても、その運用・行使には意志がなければならず、国民に全面戦争の覚悟ないかぎり、その軍事的備えだけでは「張り子の虎」の抑止効果しかないわけである。大戦の深刻な反省から憲法に不再戦を誓った国民には戦争の覚悟などあり得ず、この不再戦の意志こそが、この国の平和を守ってきたのでは。
 これらのことを考えれば、我が国の平和を守ってきたのは米軍などではなく、平和憲法に基づく不再戦の意志のほかあるまい。
 自衛権は自然権として固有の権利ではあっても、戦争は国際法上違法と見なされているのである。個々人の正当防衛権はあっても、我が国では護身用に銃刀など武器を所持することは法律で禁止されているように、自衛権そのものは留保しつつ、戦力・交戦権を放棄しても、主権的権利を放棄したことにはなるまい。

2015年07月13日

安保法案「抑止力」論は独善

 朝日10日の声・投稿「安保法案は『危機管理法案』」は、北朝鮮の軍事力向上のことを挙げて、「敵国に攻撃された時」、「平和主義を唱えてさえいれば攻撃されないと言えるのか」として、それは「『抑止力』を最大化することによって国民を守る緊要な法案」だという主旨。
 北朝鮮は敵国で、いずれ我が国に攻撃をしかけてくるものとして、それに備えて「抑止力を最大化」しておくとの考えだが、このような軍事的抑止力論には、とかく独善的な思い込みや決めつけがあるように思われる。「抑止力」とは、相手がそれをどう思うかであって、こちらが思うように素直にその通り受け取って攻撃も軍備増強も控えるかといえば、そうとはかぎらず、日米側の軍事強化と見なし、さらなる脅威を感じて対抗心を募らせ、相互に「抑止力」強化合戦になって、かえって緊張を招き、危機を増幅させる結果になりかねない。それに北朝鮮が日本に攻撃をしかけるのは、台風や地震・津波のように必然的不可避というわけではなく、こちら(日米)側の出方如何によるわけである。
 「危機管理」と称して軍事的「抑止力」強化にばかり熱中するのではなく、憲法の不戦平和主義に基づく諸懸案の外交的解決と国交正常化の方に意を注ぐことこそ、緊要なのではあるまいか。

2015年07月25日

短絡的な脅威論・抑止論

 安倍首相の安保関連法案に賛成という人たちは、中国や北朝鮮などに対して、不信感と脅威イメージが先行して「いつか攻撃をしかけてくるかもしれないから、守りを固めなければならない」、だから、そういうものは『抑止力』としてあった方がいいんだという考えなのだろう。 
 しかし、そもそもこれらの国が日本に軍事攻撃をしかけてくる(可能性―攻撃能力は持ったとしても、メリットと意志の有無からいって)蓋然性(必然性)は、はたしてあるのだろうか。 
 相手のことを考えれば、おそらく向こうも(同様に)、日米同盟強化と日本の軍事大国化に対して脅威・警戒感もち、自らの軍事的抑止力の強化にこだわり、遅れをとるまいとやっきになっているのだと考えられる。軍事的抑止力には、それに頼るあまり、「やるならやってみろ、受けて立つ」とばかりに強気になって対決姿勢になり、話し合い、交渉、歩み寄りには応じなくなるという難点もある。
 お互いにそれでは、さらなる軍備強化、軍事対決に傾き、偶発的な軍事衝突から戦争に発展する危険性が高まるばかりだろう。
 「お互い軍事でいがみ合うようなことはやめにして、問題はあくまで話し合いで解決するようにしよう」と呼びかける。そしてそれをこちらから率先垂範。それこそが憲法に不戦・平和主義を掲げる我々日本国民の立場なのではないだろうか。

2015年07月29日

安保法制は戦争を近づける

 24日の投稿に「安保法制は日本の抑止力を高め、戦争を遠ざけるため」と。しかし、相手は、それで退くどころか、対抗心を募らせ、さらなる軍事強化にはしり、かえって対決・緊張を強め、軍事衝突から戦争を惹起しがちとなる。それは「70年前の過ちを繰り返さないためのもの」というが、むしろ再び日中戦争が繰り返されかねないことになる。中国に対して、その「侵略を未然に防ぐことが必要」というが、相手も日本に対して再度の侵略に備えなければと構えるとなるだろう。
 多くの憲法学者の反対があったにもかかわらず、新たな憲法解釈で自衛隊を創設、それが「抑止力を高め、平和の維持につながった」と言われるが、平和が維持されたのはその自衛隊があったからというよりも、それがあっても憲法(9条)そのものは維持され、そこに打ち出されている不戦意思が厳然として貫かれていたからこそだろう。それが、集団的自衛権・武力行使までも事実上容認するとなれば、それはもはや、不戦から転じて戦争意思の表明と見なされよう。
 日本が「70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている」というのは、けっして極論ではあるまい。日本国民にとって不戦平和国家は「愛せる国」だったのに、それが軍事国家となってしまったら、と思うのも尤もなことだろう。

2015年08月01日

「安保反対は中国を利するのでは」に異論

 7月25日の朝日投稿に「安保反対は中国を利するのでは」と。それに対して異論
(1)安保関連法案は「中国のさらなる軍事力拡大に口実を与える」とは「思いません」とのこと。私は、法案は「中国側に口実を与える」という方に同感で、その意味では「安保賛成こそ中国を利する」のでは。
 中国の国防費の激増、海洋進出で「アジアの安定は大きく揺らいでいる」との指摘だが、 日本の防衛費は、中国に先行して高度成長期には10年で近年の中国と同じく4倍に膨らんでいた。また、南シナ海は日本が第一次大戦から南沙・西沙諸島とも占領し続けてポツダム宣言で放棄したものの、帰属先があいまいにされたため、その後、周辺諸国の間で領有権争いが生じ、中国が実効支配を制しようとしているが、ASEANと中国の間で武力行使・威嚇の禁止、平和的解決を合意しており、法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」を策定しようと協議を重ねてもいるのだ。
 いずれにしろ、賛成・反対どちらが中国を利するかといった議論は水掛け論的な言い合いになってしまうだけ。また「東シナ海で中国がガス田開発をしているから日本も」などと「相手がこうしたから、こっちも」といって張り合うのは子供のケンカ、とりわけ「軍事には軍事」で「やるならやるぞ」の如き対応は戦争を呼び込む結果となる。
(2)安保法案に反対するのは、それが日本国民を利するよりも害することの方が大きいと考えられ、戦争を抑止するよりも、むしろ戦争に近づける結果になってしまうことを恐れるからだろう。
 集団的自衛権・武力行使を事実上容認する安保法案は抑止力向上に資する、とりわけ米国にとっては軍事負担を日本が肩代わりしてくれるという点で最も利が得られるということもあるかもしれないが、日本国民にとっては次のような「害」もあり、むしろこの方が「利」を上回ると考えられるからだろう。
 ①自衛隊が米国など他国の戦争に事実上参戦、或いは海外で武力行使するようになり殺し殺されるリスクが格段に広がる。
 ②軍事対決に傾き、軍事衝突を招き、戦争を引き起こす結果にもなりがち。
 ③軍事力を背景にした外交、パワー・ポリテックスになりがち。
 ④中国・北朝鮮などを事実上「仮想敵国」と見なし、敵対関係が強まって、地域情勢が不安定化する。
 ⑤違憲立法は立憲主義をだいなしにする。
 ⑥平和国家ブランドを損ない、日本人に対する不信・憎悪が強まる。
 安保法案には、このような弊害があると思われるから反対するのであり、今、日本国民にとって焦眉の急を告げる大問題は事実上の解釈改憲に関わるこの法案の成立を許すか阻止するかなのであって、中国の国防費とか南シナ海などの問題ではあるまい。中国の軍事力拡大や海洋進出を糾弾し、中国に対して「軍事に頼ることなく地域の安定に取り組むように積極的に訴える」というのであれば、まずは自国政府に対して日米の「軍事力に頼ることなく」と訴えなければ説得力を持ち得ず、単なる「言いがかりだ」として逆に糾弾されることになるだろう。
 それに、「安保反対は中国を利する」というのは、反対するのは利敵行為だといって、反対運動を封じ込めようとする権力的発想とも受けとられよう。

2015年08月03日

安保法案―米沢市議会はどうしたことか

 安倍内閣の安保関連法案に対して、全国自治体のうち300を超える地方議会が意見書を採択しているという(「賛成」の意見書は8議会、「反対」の意見書は144議会、「慎重審議を求める」意見書は181議会)。本県では山形市・尾花沢市・南陽市が「反対」の意見書、天童市・河北町・西川町・真室川町が「慎重審議を求める」意見書を採択、県議会と新庄市議会などは継続審査、それに鶴岡市や三川町など不採択となったところもあるが、米沢市議会が何もないのはどうしたことか。
 米沢市は昭和63年以来「平和宣言都市」。この大問題に対して米沢市議会の議員として、市長として意見があって然るべきだろう。米沢市議会は昨年12月「集団的自衛権行使に反対する意見書」請願は総務常任委員会で、賛成少数で不採択になっているが、その後、市会議員は改選され、安倍内閣のこの法案の国会審議が開始されて、既に衆院で強行採決はされたものの様々な問題点が明らかになり、世論調査では反対が6割、慎重審議を求める意見が8割という状況の下、現在参院で審議中という段階に至っている。今、この国会審議・採決が終わらぬうちに米沢市議会としても、改めてこの問題を真剣に取り上げ、議論の上、何らかの態度を表明しても可笑しくないのではあるまいか。

2015年08月11日

「抑止力高まる安保法案」というが

 8日の朝日新聞の投稿に「抑止力高まる安保法案に賛成」と。「ソ連などの脅威から日本を守った」のは米国の強大な軍事力。法案は中国やISなどの過激派組織の脅威に対して「抑止力」を高め、「いざという時に臨機応変に対応できる」ようにし、国際テロ組織に立ち向かうなど「世界平和への貢献」もできるようになるからだと。
 しかし、このような見なし方には、どうも一方的な思い込みや決めつけがあるように思われる。
ソ連には、米軍が日本の基地からソ連に出撃したならともかく、何の敵対行為もその意図もない日本に侵略・武力攻撃を加える必要性・必然性はどこにあったというのか、その根拠が示されず、検証もされていない。
 中国には尖閣や東シナ海の領土・領海をめぐって認識に対立があり、不当・不適切な行為に対して日本政府が非難・抗議するといったことはあるとしても、日米で軍事対応しなければならない必要性・必然性はどこにあるのか。過激派組織も、そもそも日本人に怨みがあるわけでもなく、日本政府がアメリカの軍事介入に加担しない限り、彼らに対して軍事対応しなければならない必要性などないのである。
 軍事対応力の強化で抑止力が高まるとはかぎらず、それは相手しだいであり、かえって相手の軍事強化を促し、軍事対決から軍事衝突ひいては戦争を惹起する危険性もある。
 また国際テロ組織に軍事で立ち向かうのが世界平和への貢献どころか、アフガニスタンやイラク・シリアなどの現実を見ればあきらかなように、それはかえって逆効果になって、事態を混乱させ長引かせることにもなるし、国際平和貢献はむしろ非軍事で行うほうが賢明なのだ。
 国民の安全保障や国際平和貢献は軍事力がないとできないわけではあるまい。

2015年08月25日

日米安保条約の事実上改定こそ根本問題―15年安保(加筆)

 集団的自衛権の行使容認を伴う安保法案だが、これによって日米安保条約の内実ががらりと変わるところに問題の核心があるのでは。
 この条約は、そもそも、大戦後の米ソ冷戦期に、アメリカが日本を自陣営に確保して、有事に際する前進基地・補給基地として利用するために、国連憲章で合法化した「集団的自衛権」に基づいて結成され、その後、共同防衛義務を定めはしたものの、日本は憲法で集団的自衛権の行使は認められないとの憲法解釈で、共同防衛は米軍基地を含む日本領域内だけに限定され片務的なものにならざるを得ず、中途半端だった。それを今回、憲法解釈の変更で集団的自衛権行使を(「三要件」付きではあるがその当てはめは政府の判断しだいで)容認することによって、自衛隊は米軍の支援要請に応じて、日本の領域外でも共同防衛に携わることができるようになり、双務性が強まって、日米安保条約は完全に軍事同盟化する(安倍首相の言葉で「日米同盟は完全に機能」できる)ようになる。
 日本は米軍の為に基地を提供しているのに、その上なおかつ、自衛隊は世界のどこへでも行って米軍に支援協力しなければならなくなる、ということである。
 集団的自衛権の行使を日本にも課することを期待しそれを前提として結成された日米安保条約だが、その条約が先にあって、それに合わせて憲法解釈を変更、即ち実質改憲をしてしまう。そのようなやり方が許されるのか。またこのような軍事同盟がこの日本に許されるのか。この日米安保条約の存在こそが根本問題なのではあるまいか。

 <加筆>3日朝日新聞に山口・元最高裁長官の「集団的自衛権行使は違憲」というインタビュー記事が出たが、その中で日米安保条約について触れていたので、その部分を抜き書き―「腑に落ちないのは、肝心かなめの日米安全保障条約についての議論がこの間、ほとんどされていないことだ。条約5条では、日本の領土・領海において、攻撃があった場合には日米共同の行動をとるとうたわれている。米国だけが集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務を負う、実質的な片務条約です。日本が米国との関係で集団的自衛権を行使するためには、条約改定が必要で、それをしないで日本が米国を助けに行くことはできない。」

2015年09月02日

マスコミの偏向(加筆版)

 8月30日のニュース―民放や海外メディアにひきかえ、国民から受信料を集めているNHKでありながら、この国民大衆の全国的な大集会・デモをろくに報じない―トップ・ニュースは数日来のタイのテロ事件関連、次いでスズキ自動車のフォルクスワーゲンとの資本業務提携解消問題。それらの後に安保法案関連として、その中でこの集会・デモをチラッと映して、自民党幹事長の会見・言い分で締めくくる、というやり方。政府の意向にそった意図的な報道姿勢。
 新聞は朝日・毎日・東京新聞・中日新聞などは翌日朝刊一面に掲載されたが、読売・産経・日経は一面扱いにはしておらず、その対照がきわだっている。
●マスコミ・メディア・ジャーナリストに対する「公正・中立」評価の基準は、それぞれがいったいどの立場に立って報道しているか、民衆か支配層か、多数派か少数派か、どっちかであり、それで見分けがつく。また、それを見て評価している自分自身はどの立場に立っているのかも、同じく自己評価されよう。
 商業ジャーナリズムなら、視聴率・購読部数の獲得―売れるか売れないか―に左右されて、多数派寄りになる。(読売系―日テレなど、産経系―フジテレビ・文春などはそれがはっきりしている方だが、それら以外の新聞社・放送局の場合は「公正・中立」原則を守っているポーズをとって、両論併記やバランスにこだわり、どっちつかずで曖昧なあたりさわりのない表面的な解説・論評になりがち。)NHKは経営員会人事や予算・決算、事業計画・報告など国会の承認を得なければならないため、政府・与党(多数党)の意にそうような報道の仕方になる。
 読売の安保法案に関する世論調査については、世論誘導的な手法が見られる。池上彰氏が8月1日の朝日新聞の「新聞ななめ読み」で、衆院の安保関連特別委員会で採決が行われた翌日(7月17日)の主要各紙の比べて論評し、次のようなことを書いていた。
 同法案については、各紙とも社説など社論(自社の意見)はそれぞれあるものの、朝日と毎日それに日経も(前2紙に比べ分量は少ないながらも)賛否双方の主張や論者の意見を紹介している(朝日は投稿欄でも賛否両論を載せている)。そうすることによって読者に判断材料を提供。
 ところが読売は賛成論only(反対論者たちの意見は紹介せず)、「幅広い議論の場の提供を放棄している」と指摘。
 しかも同社による世論調査は誘導質問的な設問の仕方をしている(設問は「法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。こうした法律の整備に賛成ですか、反対ですか」というもので、小池氏は「こんな聞き方だったら、それはいいことだと賛成と答える人が大勢」になる、「設問で答えを誘導していると言われても仕方ないでしょう」と)。
 そんな読売の世論調査でも反対の方が多いのだ(賛成38%、反対51%)とのこと。

 読売・NHKとも、それらの新聞やテレビ・ニュースしか見ない人には、まるっきり政府広報的な(多数派政権の意向とその都合に合わせて取捨選択された)その情報でしか判断しようがなく、自ずから政権よりの見方をするようになるわけである。そしてそのような彼らによって多数派世論が形成され、内閣や政権党への高支持率が形成されることにもなるのだろう。
 尚、NHKに対しては、最近、市民団体が東京・渋谷の放送センターを包囲して抗議行動、「政権の広報をやめよ!」「”アベチャンネル”にするな!」「市民の行動を伝えろ!」などと訴え、大阪・京都・広島のNHK局前でもそれが行われている。

2015年09月08日

デモで民意は量れないのか

 橋下大阪市長が国会前のデモは日本の有権者全体から見れば、ごくわずか。「たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ」と。
有権者も色々で、マジメで一生懸命な人、仕事やカネに追われて時間の無い人、動けない人、物事に疎い人、無関心な人、利己的な人など様々いるわけであり、「声ある声」もあれば「声なき声」もあるだろう。
 その中でデモに集まる人は、どちらかと言えば私利私欲に囚われず世のため人のためを思うマジメで一生懸命な人たちで、黙ってはいられず、意を決してわざわざ馳せ参じた人々だろう。彼らは数からいえば限られた人かもしれないが、その背後には同じ思いながらも集まれない「声なき声」が何倍もの数でいるのである。
 安保法案に関しては、直近の(NNN)世論調査では今国会で成立させることに「よい」と「思う」が24.5%と減ってきており、「思わない」が65.6%と増えていて、デモが国民の意識を「代表している」と「思う」が46.6%で、「思わない」が36.9%。
国会前に集まった人は、全体からみたパーセントは僅かでも、法案に疑義のある人は6割を超えている、それは事実なのである。
 一方、現在の参院を構成する13年選挙で選ばれた議員のうちの自公の得票数は全有権者数の24.1%程度なのに改選議席の62.8%も占め、非改選議席と合わせて過半数を裕に上回っている。法案は民意では賛成が少数なのに、参院で採決すればあっさり決まってしまいそうだ。それこそ「たったあれだけの国会議員で決まるなんて民主主義の否定」だろう。

 *NNN世論調査は9月4~6日実施
 *13年参院選 改選議席121 投票率52.61%
    自民党 投票総数に占める得票率34.7%(全有権者に占める得票率では18.2%)
        獲得議席65議席  議席占有率53.72%
    公明党 投票総数に占める得票率14.2%(全有権者に占める得票率では5.9%)
         獲得議席11議席  
    自公合わせて 投票総数に占める得票率48.9%(全有権者に占める得票率24.1%)
        獲得議席76議席 改選議席のうち62.8%
        非改選議席と合わせて全議席(242)のうち134議席 議席占有率55.3%

2015年09月15日

安保法案への「声」論評

 朝日新聞10日の「声」投稿に安保法案について「核攻撃を防ぐための抑止力向上」①と「安倍首相は先人の外交力に学べ」②という賛否両論が載っていた。
 12日には「集団的自衛権『備えて使わず』で」③と「鴻池委員長 強行採決しないで」④、13日には「国防軍持って自主防衛しかない」⑤という投稿が掲載。
 ① と③は軍事的抑止力論であり、①は、北朝鮮・中国脅威論と軍事抑止力論に立って安保法案を肯定、支持している。それは安倍首相の論理と全く同じに、力(軍事)の論理で平和・安全保障を論じている。③は「集団的自衛権『備えて使わず』」というが、集団的自衛権「行使容認」は集団的自衛権を使うことを前提に(想定して)自衛隊は準備・情報収集・作戦研究・訓練・待機するわけであり、装備している兵器などとともに「使わず」に済ますということはあり得ないわけである。
 ②と④は平和憲法抑止力論で、④は平和憲法を「したたかな盾」と称し、「戦争をしない国」という国際理解は、いまや確立」「これこそが最強の抑止力」と書いている。②「米国追随の外交はもうやめて、日本独自の外交を積極的に展開し、世界の平和に貢献すべきだ」として外交力による安全保障の確保と国際平和貢献を主張している。
 ⑤は改憲・自主防衛論で、日米安保条約を破棄、自衛隊を国防軍にして自国防衛に徹するようにすれば米国の戦争に巻き込まれずに済むというが、これも「力(軍事)の論理」・「平和は力」・「軍事的安全保障」にとらわれた考えである。

2015年09月20日

戦争法制の廃止へさらなる闘い

 安保法案は決まってしまった。法案は「平和・安全確保のため」というが、そうはならず、海外で戦争できるようにする、紛れもない戦争法案であり、違憲法案。それを国民の多くの反対を押し切って、不当採決を強行した。このような正当性のない新安保法制を、決まってしまったものは仕方ないといってそのまま受け入れるわけにはいくまい。法制は定まりはしても、その運用・実行はさせないようにすること。即ち、米軍などのために自衛隊を戦地や紛争地に派遣・兵站・武力行使など。その都度その都度、違憲訴訟と合わせて、これまで同様の大規模デモ・集会など反対運動を展開して阻止する。さもないと時が経てばほとぼりが冷めて忘れてしまう。その頃合いを見計らって、政府はそれらを実行に移そうとするだろう。
 安倍政権は当面、来年の参院選までは運用・実施は極力控えて何もしないだろう。首相いわく、「法案が成立し、時が経っていく中で、間違いなく理解は広がっていく」と。それは「のど元過ぎれば熱さも忘れる」ということだとすれば、「そういうわけにはいかんぜよ!」と挑まなければなるまい。そして、この安保法制には正当性がないこと、平和主義・立憲主義・民主主義を守り抜く決意を新たに、さらなる運動を展開し続けなければなるまい。目標は安保法制に賛成した党派の議員を来るべき選挙で落選させること、反対した党派の候補を当選させて彼らの新政権を推し立てること。


2015年10月01日

来るべき選挙へ野党の大同団結への動き

 自公政権によって戦争法がクーデター的に強行採決され、立憲主義・民主主義が踏みにじられ、今や「政治の非常事態」にあり、この際、来夏の参院選、その後の総選挙に向けて野党は自公とそれに同調する準与党に対して大同団結して選挙に勝を制し、国会で過半数議席を獲得して新安保法(戦争法)を廃止し、立憲主義・民主主義をとり戻すのだと共産党が呼びかけた。これは大歓迎だ。
 同党は『国民連合政府』構想まで打ち出しているが、そこまで行けるか政権合意は容易ではなかろうが、安保法案に反対した野党(民主・維新・共産・社民など)が「戦争法を廃止し、立憲主義・民主主義をとり戻す」という一点で引き続き共闘、すべての政党・団体・個人が思想・信条・立場の違いを乗り越えて大同団結して国民運動を展開し、選挙に際しては候補者調整・統一候補を立て選挙協力、これが反自公・反安保票の受け皿となって自公を上回る得票と議席を獲得し、国会で新安保法の廃止を議決、自公政権の「閣議決定」撤回へ持ち込むと同時に、立憲主義・民主主義をとり戻す、という、この方向に期待せずにはいられない。

 尚、最近の世論調査(9月5日朝日)では
      内閣支持率 支持 36%
              不支持42%
      政党支持率 自民 36%   民主10%  支持政党なし37%
            公明 3%    維新 2    答えない・分からない6
            次世代0     共産 4
            その他0     社民 1
                    生活 0
                    その他 1
  仮に「野党連合」が成立したら、どれだけの支持が得られるか(自公を上回れるか)だ。

2015年10月06日

護憲でも自衛隊そのものは容認の人も

 先の高校生の方の投稿『護憲派へ、自衛隊は違憲でしょ』には、「立憲主義を貫き通すならば、整合性を取れる立場は改憲論者か自衛隊解散論者だけだ」、「護憲だけれども、自衛隊は現状のままでよいというのであれば立憲主義を語る資格などない」とあったが、もしそうだとしたら、朝日新聞社は(現状の自衛隊を否認してはいないし、改憲を主張しているわけでもない、とすれば)立憲主義を語る資格はないとなるのか?
 護憲の立場でも、自衛隊は普通の軍隊とは異なり、自衛のために必要最小限度の実力(自衛力)は持っていても、9条が否認している対外戦争のための戦力も交戦権も持ってはいないという合憲解釈で、歴代内閣法制局がそれなりに立憲主義を踏み外してはならないとの立場から論理的に整合性を取って、(個別的自衛権―専守防衛に限定しつつ)ぎりぎりのところで許容限界を守って違憲立法を審査して認めてきた現状の自衛隊の存在を是認している、いわば護憲的自衛隊合憲論者もいるわけである。
 しかし、安倍内閣は、その憲法解釈をがらりと変更して、これまで認めてこなかった集団的自衛権の行使までも容認する閣議決定を行い、それを盛り込んだ新たな安保法制につくり変えた。それに対して憲法学者の圧倒的多数および元内閣法制局長官、元最高裁長官までも違憲だとの見解を表明したにもかかわらず、多くの異論・反対を押し切って、国会で与党議席の数に物を言わせて採決を強行、多数決で法案を通した。それは明らかに違憲立法であり、立憲主義を踏みにじるものとしてそれを糾弾するのは誰であれ当然なのでは。
 現下の問題は自衛隊そのものの存在が違憲かどうかの問題ではないのであって、自衛隊なのに国外で米軍など他国軍までも「他衛」する集団的自衛権の行使容認の新安保法を一内閣一国会で憲法解釈の独善的な変更と強引な多数決だけで立法を強行した、そのような立憲主義の破壊を許しておいていいのかの問題だろう。

2015年10月14日

吉川晃司の「イマジン」なんかどうかな

 先の投稿「『戦争NO』共に歌える歌ほしい」。「音楽家のみなさん」に「作って下さい」とのことだが、とりあえず今ある歌で何かないかなと考えた。
 ところで当方、日頃、散歩を励行しているが、誰もいない田んぼ道を思い切り唄いながら歩いている。「花は咲く」とか「昴」・「千の風」とか。時には北川てつの「憲法の歌」(憲法前文に曲をつけた)や“We shall overcome”なども歌ったりしているが。最近、集会で加川良の「教訓1」を初めて聴きつけて、ネット動画で憶え、これも歌っている。
 そこで、デモで「共に歌える歌」に日本語の「イマジン」なんかどうかなと思いついて、ネットで調べたら、忌野清志郎が歌っているやつなど幾つかあって、その中に吉川晃司が一昨年の8月6日広島球場の試合前セレモニーで歌っていたのがあった。沢田研二の「我が窮状」もいいが、吉川の「イマジン」は一番だけで短くて歌詞は単純明快。これなら、みんな知っている歌で、直ぐ憶えられていいかな、と思って、田んぼ道散歩で唄ってみた。
 「天国はない ただ空があるだけ 国境もない ただ地球があるだけ みんなが そう思えば 簡単なこと さあー 放射のもいらない もう被爆もいらない 偉い人も 貧しい人も みんなが同じならば 簡単なこと さあー・・・・」

2015年10月15日

自衛隊は軍隊ではなかったはず

 安倍首相は自衛隊を「我が軍」と言い、国際法上は軍隊と見なされると。しかし、憲法9条(戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認)の下では自衛隊は軍隊とは異なり、我が国に対する急迫不正の侵害(直接攻撃)があった時の自衛のための必要最小限度に実力行使は限定される。その国土防衛以外には災害出動や警備活動などもあるが、海外に出て行って紛争に介入したり参戦したりして武力行使することはできないことになっている。
 ところが、湾岸戦争後、PKO(国連平和維持活動)に派遣できるようにされ、また同時多発テロ後には「特措法」によって米軍や多国籍軍への「後方支援」「人道復興支援」活動に「非戦闘地域」などに限定して派遣できるようにされた。
 そして今回、安倍政権による憲法解釈変更の閣議決定によって、自国が攻撃されなくても同盟国等が攻撃されて、危険が我が国に及ぶと判断すれば、それに対して武力行使ができるとして集団的自衛権の行使もできるようにされることになった。(集団的自衛権というのは、この場合、米軍など味方の他国軍を守る「他衛権」というべきものであり、味方が攻撃されて自国に危険が及ぶと感じて、自国が攻撃されてもいないのに、その敵国軍を攻撃するというのは、相手国から見れば先制攻撃ということになる。)それは自衛の範囲を越えており、9条の許容範囲を越えるものと見なされよう。
 また、それをも含めて新安保法制で、恒久法によって戦闘地域における(支援する味方の武力行使と一体化した)兵站活動にまで自衛隊を派遣できるようにされ、PKOにおける自衛隊の任務も拡大させ、住民防護・巡回・警備・検問、それに他国部隊を加勢する「駆け付け警護」も加えるようにし、その際の(任務遂行のための)武器使用も、それまで自己防護などに限定されてきた以外に使用できるようにされることになった。こうなるといや応なしに戦闘(武力行使で、殺し殺される事態)は避けられなくなるわけである。
 こうなると、それまではまだ、9条の(自衛以外には武力行使は許されないという)許容範囲にぎりぎりセーフと見なされてきたものを完全に越え、もはや「自衛隊」ではなく完全な「軍隊」に化したと言わざるを得まい。
 護憲派でも、自衛のための必要最小限度の実力組織としての自衛隊は(災害出動などで大きな役割を果たしてきたこともあって)9条とは両立できるものとして認めてきた人たちもいるわけであり、その人たちが今回、集団的自衛権の行使容認など新安保法制は、もはや自衛隊合憲解釈の一線(レッドライン)を越える違憲立法であり、その強行は立憲主義を覆すものだとして、立憲主義を守れと主張するのは、(9条改憲論者か自衛隊解散論者だけとは限らず)誰であれ当然のことだろう。
 自衛隊は軍隊なのか否か、自衛隊の定義と軍隊の定義など国際法上厳密な定義はどうあれ、自衛隊は米軍・ロシア軍・中国軍など他国の軍隊とも、又かつての日本帝国の軍隊とも性格は全く違うことは明らか。それが今や、その自衛隊が新安保法制によって米軍との一体化を一層強めるようになったことと相まって、それら他国の軍隊やかつての日本帝国の軍隊と同然と化してしまう。それでもかまわないのか。否、その方がいいし、それでもまだ不十分で、正式に改憲して(9条を書き変えて)軍隊として正式に認めるべきだともいうのだろうか。安倍首相はそういう考えだが、国民はどうなのだろうか。そして高校生など、これからの日本を担う若い有権者たちは。

テロも戦争も人殺しであり、悪

 先の中学生の投稿、「空爆も人殺しにほかならない」。ISの残虐行為に対して「空爆する側は『正義』を掲げるが」、「空爆は「『非人道的で残虐』ではないのだろうか。それとも、『毒をもって毒を制す』という言葉の通り、残虐な行為に対しては、残虐な手段をとってもよいのだろうか」、「やってもよい人殺しは、この世に存在するだろうか」と。
 米国では原爆投下は必要やむをえなかったとして正当化し正義に適うものとする向きがあり、我が国では刑法犯罪の最高刑として死刑が認められているが、それらは感情的(復讐心を満足させる)或いは政治的戦略的・法的には「正義」だとしても、道徳的にはあくまで悪である。それに対してナイチンゲールや「国境なき医師団」のような行為こそが善行であり、我が国の現行憲法9条は、戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、(国際紛争を解決する手段としてはたとえ「正義」ではあっても)悪として避けなければならないことを定めたものと解する。
 道徳の根本原理は「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」(論語)、「自分を愛するように隣人を愛せよ」(新約聖書)、「人を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」(カント)といった言葉で言い表されよう。この原理に照らせば戦争や空爆や死刑も人殺しであり悪なのであって、人として極力、避けなければならないことなのである。「汝、殺すなかれ」。それは、もし人を殺してもかまわないなら、自分も殺されてもかまわないことになるからにほかならない。
 「悪いことに対しては『悪い』と声をあげることが今、大切だ」との中学生に同感!

2015年11月06日

「中国へのイエローカードだ」は暴論

 10月31日の投稿について、それは、中国は「独善的な怪物に成長した」一党独裁国家で公海の不当占拠、札束外交・砲艦外交、人権無視・少数民族弾圧等いずれもが不公正であり、それに対して米国の方は人権重視・国際法尊重・他国の主権尊重、公平な普通選挙等いずれもが真ともなものとして論じている。そしてパクス・アメリカーナ「歓迎」、米国による国際秩序の方が「まし」だとして、覇権主義は「よいとは思わない」と言いながら、米国のそれを肯定している。
 そのような論評は、それぞれの国や海域の実情・実態・歴史的経緯をよく調べた上での確かな検証に基づいたものか不明であり、一つ一つ必要な理由・根拠の説明を抜きにして、一方的に「やりたい放題」などと決めつけて論じているように思われる。
 尚、南沙諸島は大戦までは日本が台湾とともに領有。(アメリカはフィリピンを領有していたが、そこに南沙は入っていなかった。)日本敗戦後、中国が領有権主張するも、12島のうちベトナムとフィリピンが5島づつ、マレーシアと台湾が1島づつ実効支配(それぞれ飛行場建設)、それがゼロだった中国が干出岩に人工島建設に乗り出している、という経緯がある。
 投稿者に、これらの事実認識はあるのだろうか。

2015年11月19日

「国民連合政府」構想について

 先の投稿(朝日新聞「声」欄)に「共産党の政権構想は現実的か」というのがあった。それは「連立政権は、将来を見据えた国内外の政策を一致させる必要があり」、「一時的な『安保法廃止』を目標とした政権が果たして現実的に機能するのか」疑問だとしている。
 しかし、この政権構想は、目標は「安保法廃止」だけでなく、もう一つ「立憲主義を取戻す」という目標を掲げており、国は「戦争できない」と定めたはずの憲法を「戦争できる」と実質改憲した閣議決定を撤回し、それに基づいて、海外での武力行使を実質的に可能とすることを盛り込んだ安保法を廃止するとともに、民意を無視して国民一人ひとりの「個人の尊厳」を踏みにじる政治から民主主義をとり戻すという二つの事だけを特別任務とする暫定的な特命政権を目指したもので、その二つの目的を果たし終えたら解散を行い、あらためて各党それぞれの内外政策を問い政権選択を問う総選挙を行うとしている。
 現下の大問題は、あれこれの政策問題とは次元の違う、崩された国の根幹を立て直すところにあるのだと思う。

2015年11月20日

辺野古移設には住民投票が必要

 先の投稿(朝日新聞「声」)に「移設で、普天間の危険性除去と負担軽減は前進する。安全保障に関しては国が決定すべき」というのがあった。しかし、その移設は同じ沖縄県内の名護市への移設であり、危険負担をたらい回ししたにすぎず、何ら本質的な解決にはならい。
 普天間飛行場を撤去すれば、彼の国は、そこに隙ができたからと、それだけの理由で直ちに攻撃を仕掛けてくるかもしれないから、などという非現実的なことを理由にして、代替地・辺野古への移転建設を急がないと普天間の閉鎖・撤去はできないといって、移設にこだわってばかりいるのではなく、「世界一危険な飛行場」ならば普天間は無条件で直ちに閉鎖すべきなのだ。
 基地が集中する沖縄県民にとって最大のリスクは、基地を撤去したことによって攻撃される確率よりも、そこに基地あるが故に有事に際して弾道ミサイルの標的にされる確率の方が高いことである。
 安全保障と平和的生存権は全国民に等しく保障されなければならないが、本土県民の安全保障のために沖縄県民がその危険を押し付けられ続ける(普天間住民には代替基地完成まで爆音被害と墜落事故などの危険と隣り合わせの忍従生活を、名護市に対しては辺野古の海を潰して新基地を、沖縄県には同県内での基地たらい回しを押し付ける)なら、沖縄県民にとっては日本国に属する意味がないことになるわけであり、「琉球王朝時代から交流してきた中国とうまくやってきた」という歴史を踏まえた自治区として、或いは独立して独自に(基地なき)安全保障を講じるしかないことになるわけである。
 それはさておいて、安全保障は「国の専権事項」ではあっても、特定の県・自治体に基地を集中させて移転建設するからには、少なくとも、その地方公共団体のみに適用される特別法を要し、それには住民投票による住民の同意が得なければならないと憲法95条は定めているのであり、その手続きを踏まずに基地の移転建設工事を強行することは絶対許されない。

2015年12月15日

「政府の思うまま」はマスコミにも責任

 先(朝日新聞「声」欄)の投稿に『野党は一体何をしているのか』というのがあって、「安倍首相一強で」「野党の影はあまりに薄い」と。朝日川柳に「『まいにち、晋三!』はご勘弁」というのもあった。
 投稿には「新聞は特定意見だけ掲載するな」というのもあったが、NHKなどのテレビのニュースなども、取り上げられるのはほとんどが首相の国内外での活動と軽減税率をめぐる自公のかけ引きなどに大部分が割かれ、野党はといえば、民主党と維新の統一会派への動きだけで、あたかもそれしかないかのよう。
 しかし、たとえばこの間(9日)、国会内で「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める」市民5団体と5野党の3回目の意見交換会が開かれており、その中で「市民連合」の結成と参院選での野党共闘を求める提案がおこなわれている。ところが、これらに関して主要マスコミはほとんど無視。
 投稿者が指摘する「政府が思うままの感すらある」というメディア状況には、このようなマスコミにも責任があるのではあるまいか。

2016年01月04日

ヒューマニズムを共有する共同体の構築を(加筆版)

 戦乱・テロ・気候変動など世界の問題に対して、これまでのような国民国家とその連合では、それぞれの国益・利害・軍事力依存から思惑がからんで話はまとまらず、効果的に対処しきれなくなっている。このような現実のまえに、本紙(12月11日付朝日インタビュー欄)で国際危機グループ会長のジャンマリー・ゲーノ氏が「共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来る」と論じていたが、その価値と倫理を30日の「声」に載っていた高校生の方の投稿(「愛で満ちた世界がテロをなくす」)に見出した。いわく、「世界中に暮らす人たちは言葉も信じるものも違う、けれど、大切ものは同じ、家族・友人・恋人、大切に思う人とのつながり。つまり愛だ」と。その愛とは人類愛であり、人命を何よりも大切にすることだろう。そのヒューマニズムの価値観・倫理観を共有する共同体を、国民国家を超えて、全ての人々に健康で文化的な最低限度の生活を保障する経済分配システムとともに構築する。そうすれば戦争もテロもなくなる、ということだろう。

 <関連>1月4日朝日社説「2016年の世界」に次のようにあった。「市民同士のネットワークを広げることで、狭い国益に縛られがちな各国政府に下から協力を促す態勢をつくれないか。まだその道は遠いが、国際政治への市民社会の関与を増す工夫が必要だ」と。

2016年01月26日

野党には「死ぬ覚悟」を

 本紙(朝日21日)の「インタビュー」で辺見庸氏は「安倍は死に物狂い・・・気合の入り方が尋常じゃない」と。それは、首相にとって、戦中・戦後を通じてこの国の運命に大きく関わってきた祖父が戦後憲法に対して「自主憲法」制定を目指した、その意思を受け継いで、任期中に是が非でも実現を果たすべく執念を燃やしているのだ、ということだろう。「それに対して野党には『死ぬ覚悟』なんてないですよ」というわけである。
 そこで思ったのは野党第一党の民主党の態度が定まらないことだ。この間、政権与党の安保法制をめぐる強引な閣議決定や国会運営などによって覆されようとしている不戦平和主義と立憲主義の2大原則は何をさておいても死守しなければならない、という時に、他の野党がその気になって早くから共闘・選挙協力を呼びかけ、学生・学者その他の市民連合の後押しがあっても、様々な思惑から、なかなか協議に入ろうとしない。そのあたりに優柔不断さが感じられてならないのだ。

 最大野党が立てる候補が最有力なのだから、他は、ただ黙って候補者を降ろして側面から応援協力してくれればいい、などと高をくくっているばあいではあるまい。

2016年02月19日

やっと野党選挙協力で合意

 それは次のような投稿を打った次の日の事。

 <野党の緩みの責任はどこに?
 朝日川柳に「緩んでる野党はもっと緩んでる―期待薄」というのがあった。先月(21日)本紙(朝日新聞)『インタビュー』に辺見庸氏は「安倍は死に物狂い・・・・気合の入り方が尋常じゃない」「それに対して野党には『死ぬ覚悟』なんてないですよ」と語っていた。また13日(朝日)の『声』には「共産党は考え方に幅があるのか」というものもあった。
 今夏参院選を控えて有権者にとって最大の争点は安保法制と改憲問題。今「市民連合」などが野党各党に求めているのは、党内に「改憲派がいてもよい」などと無原則に「考え方の幅」があることではなく、安保法反対と立憲主義回復という2点で大同団結し、政権奪取の気概をもって統一候補を立て選挙協力することであろう。
 ところが、最大野党の民主党(護憲派もいれば改憲派もいる)は共産党などに対して「ハードル」にこだわり、マスコミも野党共闘には消極的で、朝日の世論調査も最近では安保法は取り上げられなくなり、民主と維新の合流・新党の是非しか取り上げていない。これでは「一強多弱」は変わりそうにないのでは。>

 かねて共産党が、安保法廃止し立憲主義をとり戻すという二大目的を実現するための「国民連合政府」をめざして野党統一候補・選挙協力を提唱し、シールズやママの会、学者の会などがそれに呼応して市民連合を結成し呼びかけてきた「野党共闘」だが、やっと5党の間で合意に至ったわけである。
 その際、共産党は、民主党などが「ハードルが高い」と難色を示してきた「国民連合政府」のことは前提とはしないということで、とにかく一人区では自党候補を取り下げてもいいという譲歩の意向を示し、「それなら」と民主党などが選挙協力の協議に入ることに、どうにか応じたかっこうである。
 いずれにしろ、勝負は「ここからだ」ということになるだろう。

2016年03月15日

法治国家なら自衛隊は非軍隊として憲法順守

 13日の朝日新聞の「声」投稿に「法治国家なら憲法改正は必要」というのがあった。それには自衛隊は事実上の軍隊であり、日米安保条約も軍事同盟だから違憲の疑いは濃厚、だが「日本が70年もの間、平和であり続けた要因に自衛隊と日米安保条約の存在があったことを多くの日本人が認識」しており、その現状を維持するのであれば法治国家として憲法改正が必要だと。
 ここで、自衛隊は「事実上の軍隊」というが、自衛の措置として武力行使は認められても交戦権は認められていない。また日米同盟とはいっても攻守同盟としての軍事同盟ではない(基地を提供する代わりに守ってもらうという防御同盟に留まり、双務的な集団的自衛権の行使は認められない)。だからこそ、最高裁はその存在を9条2項に照らして違憲ではないと断じてきた。
 これまで自衛隊は一人も殺し殺されることもなく、我が国が平和国家として認知されてきたのは、そのような9条2項あってこそだろう。
 その9条を改憲して自衛隊を軍隊として、また日米安保も軍事同盟として名実ともに認めるとなれば、我が国は公然と他国に戦争を挑み参戦できる国に化してしまうことになる。
 法治国家であることを理由にして、改憲し自衛隊を軍隊化してはなるまい。法治国家というなら、まずは現行憲法を順守させて、自衛隊は非軍隊に留め、我が国は非軍事平和国家に徹するようにすべきである。
 そもそも憲法は、国民の人権(平和的生存権など)を護るために権力を縛るためのものといわれ、立法・行政・司法に当たる為政者・公務員に「かくあるべし」という理念・原則を示して、(主権者・国民とともに)それを目指し守らせるようにしたもの。現状(現実)がそうなっていない(理念・原則のようにはなっていない)なら、そうなるように(それに近づけるように)務めなければならないものなのであって、それを、憲法の方を変えて現状(現実)に合わせ近づけるというのでは本末転倒。
 あの悲惨な戦争を体験したはずの日本人なら何より大切にしなければならないのは不戦・平和主義の国是であり、(憲法改正を党是にしている自民党などの)政党の党是ではあるまい。

2016年03月26日

自衛隊は自衛隊

 主権国家として軍隊を持つのはどの国でも当たり前のことであるし、自衛隊は国内外で事実上の軍隊として認知・定着している、にもかかわらず現行憲法では違憲の疑いが濃厚だから改憲して正式に軍隊として認めるべきだ、という改憲正当化論について。
 まず、主権国家には自然権としての正当防衛権(自衛権)はあっても、どの国にも交戦権(戦争する権利、他国に戦争を挑み、或いは参戦する権利)が認められているわけではない。即ち、どの国も自国が武力攻撃を受けた時以外にも武力を行使したり参戦したりできるというわけではないのだ。
 また、自衛隊は「事実上の軍隊」というが、現行憲法では交戦権は認められてはいない。安倍政権は最近になって自衛隊は「国際法上の軍隊」だという見解を表明したが、それでも「自衛の措置としての武力行使を行う組織」であって「通常の観念で考えられる軍隊とは異なる」としている。要するに自衛隊は自衛権に基づく武力組織ではあっても普通に言う軍隊ではないのだ。それを自衛隊は既に「事実上の軍隊」なのだからと決めつけて、改憲して正式に軍隊とするように規定し直すべきだというのは、主権国家だから軍隊を持って当然だというのとともに論理の飛躍だろう。
 戦争を放棄している我が国の自衛隊を「軍隊」化してはなるまい。

2016年03月29日

朝日はオールタナティブを示して

 かつてマスコミには「二大政党」と非自民・非共産の新党創出を促す向きがあって、一時政権交代を導いたこともあったが、民主党政権があえなく崩壊した後、自民党・安倍政権の下で「一強多弱」状態が続いている。
 世論調査を取っても、安倍政権の個々の政策に対してはアベノミクス・消費税・原発・震災復興・改憲・子育て支援などの諸政策のどれをとっても否定的な回答の方が多いのに、内閣支持率は下がらず、「一強多弱」は不動の状態。しかし実は「支持政党なし」が最多で、国民は自民党以外に選びようがないといった状態なのだ。
 そこで思うのだが、いま実現しつつある「4野党(民進・共産・社民・生活)・市民連合」をオールタナティブ(もう一つの選択肢)として、世論調査に新たに加えてみては如何なものだろうか。
 安倍首相や自民党は「自公対民共の戦い」といいながら「野合」批判を加え、民共分断を謀っていると見られるが、先の朝日世論調査のように「野党協力の枠組みに共産党が入ったほうがよいか否か」といった設問をわざわざ付け加えるのは、分断を促す結果につながるようにも受け取られ、適切ではあるまい。
 要は国民が求める然るべき選択肢を、予断を持たずに事実に基づいてきちんと示すことに新聞の役割があるのでは。

2016年04月07日

「軍事より対話」に賛成

 朝日の「声」に、北朝鮮のことに関して二つの相反する投稿があった。「オバマ大統領は北朝鮮と対話を」というのと、「ミサイルに対する防衛万全に」というもの。
 北朝鮮問題にはそもそも歴史的経緯があり、朝鮮戦争前後のいきさつとそれ以来の様々なからみがあって、その核心部分には米朝対立がる、と思われる。
 前者の投稿は、そのアメリカが直接協議を「かたくなに拒んでいる」として「直接対話なしでは互いの疑心暗鬼や不安は解消されない」、「非難や経済制裁をしても、北朝鮮の暴走は止まらない」と。
 なるほどその通りで、ミサイル迎撃態勢などいくら講じてみても、核実験やミサイル発射演習を止めないばかりか、かえってエスカレート。米韓側が、それを挑発行為だとして合同軍事演習(相手側から見れば、それも「挑発」行為)やミサイル防衛システム配備(協議)などで対決しようとしても、その挑発は止まらず、そのやり方では開戦に行き着くしかなくなるだろう。開戦すればたちまち米韓側が圧勝し、勝負は簡単につくだろうが、だからといって、その人的・物的被害は韓国側の方は軽微で日米にはさしたる被害は無くて済むなどという保証はあるまいし、中国などにもその後にわたって深刻な影響がおよぶことになるだろう。
 軍事で「盤石な」防衛体制を築くことよりも米朝の直接協議や6ヵ国協議の早期開催に心血を注ぐことの方が賢明なのでは。

2016年04月12日

マスコミは各党の憲法観を解説して

 10日(朝日新聞)の投稿「今夏の選挙は憲法改正を争点に」とのご意見に同感です。そこでマスコミは選挙に際して投票すべき各党が、それぞれどのような現行憲法に対するスタンスを持っているのか、とりわけ9条について各党の考えが有権者によく分かるように解説記事を掲載するようにしては如何なものだろうか。
 世論調査では憲法と9条について改変の是非を問うているが、3月の本紙調査では安倍政権の改憲姿勢を「評価しない」の方が多く、4月の18・19歳を対象にした調査では「憲法は変える必要がない」と「9条は変えないほうがよい」がともに大半を占める。なのに政党支持では憲法の大改変を打ち出してしている自民党が圧倒的に支持率が高い。その矛盾は、有権者は各党が憲法と9条にどういう考えを持っているのかをよく周知していないか重視していないところからきているのでは、と考えざるをえないからだ。
マスコミは、各党が現行憲法と9条をどう考えているかを有権者がよく分かった上で政党を選ぶようにすべきだろう。
 とかくテレビやSNSで断片的に目にする程度のイメージで判断する向きが多いと思われるので、新聞はより丁寧で詳しい解説記事を提供して然るべきなのでは。
 各党はどのような基本理念をもっているのかを見分けるうえで、それぞれ現行憲法に対してどういうスタンスを持っているのかを知らしめることは政党を選ぶ上で核心的な判断材料だろうから。

2016年04月19日

脅威の現実直視とは

 先般、「安保法反対派は現実を直視して」という投稿があった。「日本は、中国や北朝鮮などの現実にさらされているのが現実」、「テロの標的になる危険も」、「野心を持った国や勢力」「悪しき心を持った暴力性のある国や勢力に日本が狙われたとき」などと、脅威は専ら彼の国や勢力にしかなく、日本や同盟国アメリカ側は被脅威国で、「悪しき心」や「暴力性」とは無縁の国であるかのように論じているが、彼の国の方では日米をどう見ているのか、その方は度外視している。
 現実直視は一方的・一面的であってはならず、自らをも省み、日米同盟や核大国なども含めた世界の軍事的・経済的脅威の現実を互いの相関関係で見なければなるまい。
 現実の脅威は、むしろ互いに相手を脅威視して「抑止力」と称して軍備を構え、増強しては軍事的に対峙し、いつ衝突・暴発するか分からないという状況にこそあるのではないか。そしてその現実に対応するに、解釈改憲から明文改憲をも伴う軍事的な安保法制の拡充・整備を以てするというのでは、その脅威はかえって増すばかりであり、むしろ平和憲法を堅持して脅威を解消する方向に現実を変えるところにこそ焦眉の課題があるのではあるまいか。

2016年05月01日

日本国憲法を歌う

日本国憲法を歌う
 日本国憲法の前文に節を付けて歌っている。シンガーソングライターの北川てつ氏が、前文の(前半は朗読で)後半部分と9条の全文に曲を付けて歌っているが、それをCDで憶えて、日頃から時折口ずさんでいる。最近になって、前文の前半部分にも自分で曲を付けて歌ってみようと試み、色々口ずさんでみたあげく、結局、北川氏の9条の曲をベースにアレンジしてみると、どうにか合わせることができたので、それを歌ってみている。
 歌で憶えると忘れにくく、歌いながらその文句が口ずさめる。格調高く、朗々と歌える素晴らしい憲法ではないかとあらためて感じる。
 この憲法は、日本国民自らの痛切な歴史的反省を踏まえ、諸国家・諸国民相互の関係の世界史的現実を踏まえつつ、崇高な理想を掲げて構想され制定されたもので、人類普遍の原理を含んだ世界史的意義をもつ憲法なんだなと、歌いながら感じ入る。
誰もいない野道を一人、散歩しながら大きな声で歌っているが、この歌を子や孫たちに伝えられたらいいなと、つくづく思う。
 ♪日本国民は・・・吾らと吾らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する・・・♪ 

2016年05月11日

改憲よりも順守が先

 憲法問題といえば、今は改憲が先にありきで、それに賛成か反対かという議論になっている。
 その改憲の理由は、憲法を一生懸命順守して諸政策を実行した結果、不都合を来たしたからではなく、為政者が憲法に抵触・背反するような政策を無理に合憲解釈してそれを積み重ねた結果、不都合・不合理を来たしたからにほかなるまい。とりわけ、9条の規定にもかかわらず、当初、政権はソ連が脅威だとして軍事的に対抗する再軍備路線を採り、自衛隊の名の下に軍事力保持。それに対して反対派は、戦争は絶対避けなければならないと9条厳守を主張した。その自衛隊も専守防衛から海外派兵も容認へと拡大、今は中国・北朝鮮が脅威だとなって、集団的自衛権の行使さえ限定的ながら容認、その9条拡大解釈は極限を超えたと見られ、その不都合・不合理から改憲の必要に迫られているのだ。
 現行憲法は70年経って、すっかり定着したかのようではあるが、はたしてその前文・各条文の通りやられてきたのかといえば、そうではあるまい。未だ中途半端できちんと実行されていないか、実現への努力が充分傾注されていない部分が幾つもある。9条以外にも、14条、21条・25条・27条・29条、それに99条(憲法擁護義務)など。
 改憲の前に、まずは現行憲法を、為政者にしっかりと順守させて、その通りやるべきことをやらせることが先決なのではあるまいか。
 それをせずに、今この段階で為政者の都合や思惑で改憲を許してしまうようなことになったら、現行憲法に掲げた崇高な理想は放棄され、二度と取り返せないことになってしまうだろう。

2016年05月13日

国に「戦争をさせない」と「させることも」の違い

 朝日(5月11日)の「声」に「憲法9条改正案を作ってみた」という高校生の方の投稿、なるほど尤もな案だと感心しました。
 ただ、この改正案の9条2項には、現行憲法の2項にある「国の交戦権は認めない」という文言が削除されている点に決定的な違いがあるような気がします。この文言は、要するに、いかなる理由があろうとも国に戦争はさせないという、曖昧性のない明確な、いわば「究極の歯止め」ともいうべき禁止規定なのだが、それを削除して「個別的自衛権の発動は妨げない」「自衛隊は専守防衛に徹し」と定めることは「国の交戦権を認める」ということであり、それは、自衛のためなら国に戦争をさせる、つまりいざとなったら政府が自衛権を発動して交戦することを前もって認めることとする、ということ。
 国には「いかなる場合も戦争をさせない」と憲法に定めてきたのと、それを変更して「場合によってはさせることもあり」と定めるのとでは、国際社会に対して示した日本国民の決意と国民が自らに誓った覚悟の程はかなり違ったものとなるのではあるまいか。
 それに、「集団的自衛権の行使は認めない」と明記しても、解釈によっては「フルスペックのそれは認められないが、「3要件に限るなら」認められるなどと、やはり解釈の余地(曖昧性)はどうしても残るわけである。そのあたりのことは如何なものだろうか。

 尚、「いかなる場合も国には戦争をさせない」という憲法は憲法として、フクシマ原発事故以上の原子力災害などの非常事態に遭遇した場合と同様に国家緊急権として、急迫不正の武力攻撃事態に遭遇した場合に国民の自然権としての正当防衛権と抵抗権に基づいて、政府と自衛隊に超法規的に(やむを得ざる違憲措置として)一時憲法停止・交戦権を付与するということはあって然るべきだろう。

2016年05月21日

「命がなくて何がお金か」なのでは?

 「原発反対派の経済軽視は疑問」という投稿(15日朝日)について。「放射能に対する恐れは人それぞれ」とのことだが、感じ方では楽観派と悲観派とがあって人それぞれでも、放射能の有害・危険性は客観的事実であり、命の最高価値性も誰しもが認めざるを得ないところだろう。
 電力の需給関係を「冷静に分析した意見は誠に少ない」と決めつけておられるが、電力確保や経済の重要性を考慮するのは誰だって当たり前のこと。ただ、それらは利便性と経済効率性の問題で、最高価値たる命を害さず滅ぼさないようにすることとは比べようのない二義的なこと。
 「老朽化した火力発電所がみな停止すれば、即電力不足となり、計画停電」とは極論。火力発電には原発のように廃炉に要する莫大な費用・困難性や過酷事故の危険性はなく、再建は原発に比べれば簡単で安価、「みな停止する」なんてあり得まい。それに再エネの開発・発展にもっと力を入れ、それが主電源になれば火力は補充的な運用で間に合うことになるはずだ。
 「お金がなくて何が命か」といわれるが、いくらお金を稼げても、命を害し滅しては元もこうもあるまい。いくら電気があっても、命を危険にさらしては、人は住めないだろう。浪江や南相馬には数回行って目の当たりにしてきたが、つくづくそう思う。

2016年06月13日

真の勇気とは

 「勇気」といえば、モハメッド・アリの勇気こそ真の勇気なのでは。彼の勇気は二通りある。一つは「闘う勇気」、それはリングで競技者として闘う、その勇気に加え、アメリカ社会で人種差別などと(前の名前カシアス・クレイはかつての奴隷主の付けた名前だとして、宗教もイスラムに改宗してモハメッド・アリと改名してまで)闘う勇気、引退後はパーキンソン病という難病と闘う、その勇気。もう一つは「戦わない勇気」、それはベトナム戦争に際して徴兵拒否し、投獄され、世界タイトルを剥奪され、バッシングをあびながらも、屈しなかった。いわく「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもない。あいつらは俺をニガー(黒人)とは呼ばない。彼らと戦う理由などどこにある?」「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府は作っているんだ」と。
 湾岸戦争では、病をおしてバグダードに赴き、サダム・フセイン大統領と面会・交渉して、捕虜にされていた米国人15人の解放にこぎつけ、連れて帰った。
 オバマ大統領に彼のような勇気「戦わない(戦争しない)勇気」「自分が生きているうちに、核兵器のない世界を(ロシアやイラン・北朝鮮に削減・放棄せよと言う前に自ら率先垂範して)実現する勇気」があったなら・・・・・。但し、それにはリンカーンのような憂き目にあう悲壮な覚悟・「決死の覚悟」をともなうだろう。なにしろ、この国は市民にさえ銃規制ができない国なのだから。
 しかし、その勇気はアメリカの大統領にだけ求められるものではなく、当の我々日本国民にこそ求められるのだ。それは「戦争をしない勇気」!
 サムライ・日本人の勇気とは、刀を振りまわし、或いは特攻(体当たり自爆攻撃)にうったえ、武力や同盟国の力に頼って相手に立ち向かうような、そんな勇ましさではあるまい。それらはむしろ向こう見ずか臆病者のやること。幕末の旗本で西郷隆盛らと談判して江戸城を無血開城させた山岡鉄舟(無刀流で知られる)や勝海舟(新渡戸稲造の『武士道』に、彼は「刀をひどく丈夫に結わえて決して抜けないようにして、人から斬られてもこちらは斬らぬという覚悟であった」と書かれている)のように、度胸・気力(胆力)で相手に立ち向かえる日本人こそが真のサムライなのではあるまいか。

2016年07月24日

日本国憲法を英語で歌う

 シンガーソング・ライターのきたがわてつ氏は日本国憲法の前文と9条に節(曲)を付けて歌っている。当方は、それを英語で歌ってみた。(きたがわ氏は、前文の前半部分は「語り」で、後半部分だけを、曲を付けて歌っていますが、当方は、前半部分も同じ曲を当てはめて、英語で、全体を通してちょっとアレンジを加えて歌ってみたところです。♪We the Japanese people ・・・・♪ 「サマになる」と自己満足。)
 この憲法前文には普遍的な原理が込められており、また9条は世界の最先端を行くものだと思われ、「9条にノーベル平和賞を」という運動もありますし、それを諸国民に伝え、普及するうえで、その歌を英語にして歌ってみるのも意味のあることなのではと、勝手に思って歌ってみたところです。きたがわ氏も、国内だけでなく世界のあちこちで歌ってくれたらいいな、と思って、テープに吹き込んで送ったりもしました。
 学校で、それを生徒に歌って聞かせたら、暗唱もし易いし、英語の授業にも役立つのではとも、勝手に思った次第。

2016年07月26日

東京都の「非核平和都市宣言」に期待

 都知事選で鳥越俊太郎氏は非核都市宣言を掲げているが、我が国の首都である東京都にとっては、オリンピックとの兼ね合いで、これこそが今最も求められている最大のアジェンダなのではないだろうか。
 今、世界の諸都市のあちこちでテロや騒乱が起きているが、東京には、次期オリンピックに際してもそのような心配はないと安心して世界から集えるように「平和安全都市」を宣言して然るべき具体策を講じる必要があるのでは。
 東京は、区市町村レベルではそれぞれの議会もしくは自治体が非核平和都市宣言を行っているところが多いが、都としては、平和記念式典で出席者の総意の形で「平和都市宣言」は行っているが、自治体としては、或は議会としても、又「非核都市宣言」は未だ行ってはいないといわれる。
 ならば、今こそ、それ(「非核平和安全都市宣言」)を行って、オリンピックを大過なく無事やり遂げることを目標として、都民と都が国と共に全力をあげて具体策・行動計画に取り組むべきなのではないだろうか。
 5大陸の人種・民族・宗教の異なる如何なる人々をも敵とせず、分け隔てなく歓迎し、競技の祭典を通じて交流し相和する場を提供する、これが来るべき東京オリンピックなのであり、その開催の前後を通じて世界の全ての人々が東京に来て平和を満喫できるように。

2016年08月24日

マリオが何故アベ首相でなければ?―リオ五輪閉会式

 オリンピックは、本来は(国際オリンピック憲章の規定では)国ではなく選手個人やチームが競うもの。それが国威発揚の場として利用される。マスコミはテレビも新聞も、国別メダル獲得数のランキング表を掲げて日本はその上位何番目だと誇って見せる(上位7ヵ国の内の5ヵ国はいずれも国連安保理常任理事国で、あとの2国はドイツと日本)(オリンピック憲章では、競技で勝利をおさめた栄誉はあくまで選手個人・団体のもので、国別メダル獲得ランキング作成などは禁じてられているともいわれる。)ところが、NHK「おはよう日本」で、スポーツ解説員は開催国のメリットとして1に「国威発揚」、2に「国際的な存在感」、3に「経済効果」などと5つあげ、「国威発揚」を一番目にあげていた。ロシア選手のドーピング問題には国が関与していたとして同国の多くの選手が出場を禁止される事態も起きたが、そのような弊害はオリンピックを、国威を競う揚であるかのように思っている勘違いからくるものだろう。今回のリオ五輪では「難民選手団」が参加し、彼らには国旗も国歌も関係なかった。そういうのがむしろど本来の姿だろう。ところが東京大会組織委員会の会長・森元首相は選手団の壮行会で「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と言ったという。
 国が、或は国民が税金を出して、助成金や競技施設を提供しサポートしているからといって、恩着せがましく、選手たちは国や国民に感謝して国歌を歌い国旗に頭を下げるのが当然だなどという。それが国家主義なのであって、国のため、国威発揚のためにアスリートたちの活躍を政治利用しようとするもので、それが間違いなのだ。国がすべての国民に人権として健康で文化的な最低限度の生活を保障するために措置するのが当然であるように、国民の健康を増進し、スポーツや文化活動を支え、それをリード・誘発してその発展に寄与し、国民に感動を与えるアスリートやアーチストたちのために国や自治体が環境・施設を整え助成金を出すなど彼らをサポートするのは当然のことだろう。それに対してアスリートたちがそれぞれに国民や国に感謝の念を抱くのはいいとしても、それを恩着せがましく要求するのは筋違いだろう。
 リオ五輪は終わった。メダルをもらった選手、もらわなかた選手といるが、入賞し、或はメダルをとったあの選手たち、彼らに対して、「国や国民のおかげなのだ、感謝するがいい、国旗に頭を下げるがいい」なんて要求したりできるものか。(彼らの方からは「皆さんの応援に感謝しています」といってくれているのだが。)また入賞できず、或は予選失格に終わった彼らに対して「国や国民に申し訳ないと、頭を下げるがいい」なんて要求したりできるものか。「みんな、よく頑張ってくれた、ありがとう」とめいっぱい感謝し、健闘を讃えてやればいいのだ。
 ところで、リオ五輪の閉会式では、次回開催都市の東京都知事に五輪旗がリオ市長から引き継がれて知事はそれを振って見せた。それはいいとして、その後、何と安倍首相がゲームキャラクターのマリオの帽子をかぶって、地球の反対側に土管をくぐって会場の真ん中に跳び出してきた、という趣向で登場し、“see you in Tokyo”と発声した。この趣向の考案・創作・演出は、その道の第一人者たちの手によって行われたのだろうが、その主役にアベ首相を選んだのは、実は森元首相なのだという。
 このような形で開催国の政府首脳が登場するのは前例がないとのことだが、格別ブーイングが出ることもひんしゅくかうこともなかったようだ。
 しかし当方には、その趣向自体はいいとして、そこにどうしてアベ首相を当てなければならなかったのか、どうも違和感を禁じ得なかった(そんなことを思ったは当方だけなのか?)。当方にはどうもそれが、髭をはやして帽子をかぶったマリオというよりはヒトラーに思えてならなかった。かってベルリン・オリンピック開催に際して、ゲッペルス宣伝担当大臣のアイデアで聖火を掲げるなどの趣向が考案され、そのオリンピックが国民の熱狂を誘い、ヒトラー総統の威勢と国威の発揚に最大限政治利用された、そのことが想起されてならなかったのだ。
 あのような政治家ではなく、適任者にはもっと別の方がいたのでは―室伏(ハンマー投げ―アテネ・オリンピックで金、前回ロンドンでは銅)とか、或いは皇太子とか?。

2016年09月13日

中村哲氏にノーベル平和賞を

 NHK・Eテレの『武器でなく命の水を』というドキュメンタリー番組で、NGOペシャワール会の中村医師が、戦乱と大干ばつにあえぐアフガニスタンで大河から水を引く灌漑用水路建設事業を計画し、17年間にわたって現地住民と共に取り組んで、荒野や砂漠を数十万人の命を支える農地に変え、村を再生、その事業のノウハウをアフガン全土に広めるための新たなプロジェクトにも取り組んでいる、その姿に感動した。
 日本にはノーベル平和賞受賞者は唯一人・佐藤栄作元首相しかいないが、この中村氏こそがその受賞者に相応しいのではあるまいか。「憲法9条にノーベル平和賞を」という推薦運動もあり、3年連続で今年もノミネートはされているが。
 氏自身は、それは「医療の延長で、命をつなぐ活動が、結果として、平和でなければならないということに繋がっているだけ」と語っているが、ある所では「僕は憲法9条なんて特に意識したことはなかった。でもね、向こうに行って、9条が僕らの活動をバックボーンとして支えていてくれている」とも語っている。その意味からいっても、彼こそが憲法9条の体現者としてノーベル平和賞に相応しい方なのでは。

2016年09月23日

平和・安全保障に得策かは事実から判断

 戦後71年、我が国がどの国からも攻撃されず、戦争に巻き込まれずに済んだのは、憲法9条のおかげか、日米同盟の軍事抑止力のおかげか、両方のおかげか。それに関して事実として確かなことは、日本は、この間あちこちの戦争に米国などから要請されても、9条をたてに参戦を断ることができ、戦死者を出さずに済んだということだろう。
 一方、周辺国に軍事的脅威はあっても、それらの攻撃を免れてきたのは日米同盟の抑止力のおかげなのかどうか。その可能性はあるのかもしれないが、事実抑止効果が効いているのかどうかは証明できない。なぜなら、こちら側がそう思い込んでも、相手側は日米同盟の軍事力が恐ろしいばかりに手出しできないでいるとは限らず、わざわざそんなことをする必要もメリットもないからにほかならないのかもしれないからである。
 事実として確かなことは、日米側の軍事同盟強化が、逆に周辺国にとって脅威となり、互いに軍拡とその脅威がエスカレートしてきていることである。そして、それがいずれの国でもその負担が国民に重くのしかかり、我が国でも、とりわけ米軍基地が集中する沖縄住民に過重負担となっているのは周知の事実だ。
 それらの明確な事実と不確かな事実を勘案すれば、9条に関わる選択肢の果たしてどちらが得策なのかだ。

2016年09月27日

軍事力による平和・安全はむしろ非現実的

 9月25日朝日の声に掲載された「抑止力保持が現実的、改憲必要」という投稿について。投稿者は以前スーダン大使などを務めた実体験からだろうが、世界には「自国の利害から外交の意義を認めない国もあり」、「『武力を背景に相手国を屈服させるのが国益』と考え」、「武力行使も辞さない」という国や勢力が存在するが故、(外交努力と相まって)軍事力と同盟国の抑止力によって自国と国民の安全を確保する、それが現実だと論じておられる。
 しかし、歴史的現実にはそのような実態が見られるとしても、それを固定化して「そういうものだ」と決めつけて、「だから、今まで通り、そうする以外にないとか、そうするのが最善の方法だ」と、現状(自衛隊とその装備・予算規模、日米同盟、新安保法制、それらを合法化する改憲)を合理化し、それにばかりこだわって(固執し)、そこで思考停止するのは如何なものか。「そうあってはならないのだ」と、現状を打破して理想(「核なき世界」はもとより「あらゆる兵器のない、戦争のない世界」)に向かって突き進もうと突破口(現行憲法9条こそがその突破口)を切り開く思考の発展とその実現努力があって然るべきなのでは。
 それに、今では、中東やアフリカにおける武力抗争や各地でのテロ、北朝鮮の核・ミサイル開発等々、列強諸国がどんなに強大な軍事力を保持し、それを活用あるいは背景にして制裁圧力を加えても、平定・抑止できていないことも、厳然たる事実である。このような現実を見れば、強固な軍事力と同盟国を保持すれば、それによって平和・安全が実現し保たれるという、その方がむしろ幻想なのではないか、と思われる。
 改憲して自衛隊を戦力として交戦権も認め、参戦や海外派兵が公然と認められるようにすれば、抑止力が強まって、北朝鮮も中国も武力による威嚇や攻撃はできなくなるなどという、そんな保障はあり得ず、それはかえって軍備増強を促す可能性のほうが強い。これらの国に対応するには、現行憲法9条原則を守って不戦態度に徹し、(国境警備・監視活動以外の)軍事対応は控えるようにしてこそ、北朝鮮など相手を外交協議に引き込めるというもの。それが現実なのでは。

2016年11月26日

現行憲法と自民党式改憲のどちらが安全保障になるか(完成版)

 現行の日本国憲法の前文について「(安全を他国民の信頼に頼るとあるが)ユートピア的・非現実的だ」とのこと(自民党の平沢勝栄議員)。
 しかし、この憲法制定当時、日本は、その直前まで世界中を敵に回して、諸国民から見れば、最悪の敵国であり、恐怖の的だった。(国連憲章には、その後も久しく、日本を「敵国」と見なし続ける「敵国条項」が規定されてきた。)この憲法は、そのことを念頭にして前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」「我らは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と記した。そのうえで、9条に戦争放棄・交戦権否認を定めたことによって、日本は世界の諸国民にとって、もはや脅威ではなくなったことが明確に示され、これによって諸国民は「日本帝国」の恐怖から解き放たれ(「日本はもう軍事国家ではなくなり、侵略国ではなくなった、この国はもう大丈夫だ」と諸国民から安心・信頼を得られる国となって)、アジア・太平洋地域に平和・安全がかつてなく保障されることになったのである。また我が国の方も、この不戦・平和憲法制定によって、侵略・交戦した全ての国と和睦し、中国・米英仏・オランダ・オーストラリア・ソ連などどの国ももはや敵国ではなくなり、諸国民と善隣・友好・信頼関係を結べる基盤が築かれることになったわけである。
 現行憲法の前文も9条も、このような、当時の現実から発想されているのであって、それをユートピア的だとか非現実的だというのは、まったく的外れというものだろう。
 安全保障の要諦は「敵になりそうな国は懐柔して敵意を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして敵を減らすことにある。(それを、わざわざ敵を作るのは愚の骨頂だ。)」という。(田岡俊次・軍事ジャーナリスト)
 日本が9条を順守し、堅持することによって、世界の諸国民から信頼を得、アメリカだけでなく、すべての国を味方にすることによって安全保障を得る、それをこそ目指さなければならなかったのでは。
 戦後、新憲法を制定して間もない当初は、連合国との講和条約に際しては、ソ連・中国その他を除外してアメリカ等の西側諸国とだけの単独講和と、全ての国々との全面講和という二つの選択肢があって、全面講和を結んで、非同盟・中立を目指すべきだと主張する党派も存在したのである。ところが当時の政府(吉田首相)はアメリカの求めに応じて日米安保条約とセットで単独講和(サンフランシスコ条約締結)に踏み切り、対米従属下に再軍備(自衛隊創設)、米軍駐留と基地提供を認める路線を敷いたのである。
 それ以来自民党政権は、アメリカの核軍事力に頼り、そのアメリカの同盟国・親米諸国とだけ信頼関係を結んで味方にし、ソ連・中国・北朝鮮などの国々を敵(仮想敵国)に回してしまう結果になる外交・安保政策をとり、安倍政権は、集団的自衛権の行使を容認する新たな安保法制を敷いて、その日米同盟体制をさらに強化して軍事対決を構える政策をとっているのである。
 中国・北朝鮮あるいはロシアなど対しては、互いに不信・火種を抱え続け、軍事力を維持・強化し合って対峙している。これが現実なのであるが、そのような軍事対決と日米同盟体制に恒久平和を求めることこそがユートピア的であり、非現実的だろう。
 我が国は不戦・平和憲法を制定したにもかかわらず、非同盟・中立政策は未だかつて実行も取組みも追求さえもしておらず、それらは現実とはなっていないが、それに取組み、実行に着手さえすれば、実現は可能なのであって、それをやろうともせずに、現行憲法をユートピア的だの非現実的だのと言い立てる、その方がむしろおかしいだろう。
 それとも、「安全を他国民の信頼に頼る、なんて、そんなことはせずに、他国民に信頼されようが、されまいが、こっちだって信頼して付き従える国はあっても、到底信頼できない国が厳然としてある。いずれにしても、相手にどう思われようが(疑念・不信感を持たれようが、敵視されようが、警戒されようが)、信頼できる国との軍事協力体制と軍備を盤石にし、信頼できない国から、たとえ、いつ如何なる攻撃をされても反撃・撃退できる一層強大な軍事力や軍事体制を備えることによって平和・安全保障をはかる方が現実的だ」というのだろうか。自国さえ平和・安全が保障されればよいというものではなく、かといって「国際貢献」だからといって他国の紛争地における「住民保護・治安維持・駆付け警護・宿営地共同防護」等を名目にして武装部隊を派遣して軍事介入にもなりかねないようなことをすればよいというものでもなく、全ての国民に恐怖と欠乏のない平和的生存権を保障すべく(非軍事の人道支援・難民支援・食糧支援など)を専心しなければならないのに。
 さて、現行憲法(前文及び9条)と自民党式改憲のどちらが、より現実的で確かな平和・安全の保障になるのかだ。
 中国・北朝鮮・テロが脅威だといって自民党式改憲によって自衛隊を完全軍隊化し、日米軍事同盟を強化すれば、それが逆にこれらの国々に脅威を与え、互いに脅威を及ぼし合って、諸国民の不安・恐怖はいつまでも解消されない結果となるのでは。
 それに、自国や同盟国の軍事力は「抑止力だ」と称して、どんなに強化し、どんなに圧倒的に強大であっても、かつての日本軍の「神風特攻隊」がやったような、ISやアルカイダ或は北朝鮮などのような自爆攻撃を厭わない狂信的な国や勢力には軍事的抑止は効かないのだ。軍事力によって威圧すれば、どの国、どの勢力も大人しくなって平和・安全が保障されるというのは、その方がユートピア的・非現実的だろう。
 特定の国々に対抗して、別の特定の国々と同盟し軍事協力関係を結ぶよりも、現行の不戦・平和憲法に徹して、ASEAN諸国が現に行っているように、世界のすべての国・人民と非軍事の友好協力・信頼関係を結ぶ路線を構築し、その方向に努力を傾注した方が、はるかに賢明なのでは。


2017年01月14日

日本の宿命は丸腰平和憲法か日米同盟か

 朝日新聞の「声」欄「どう思いますか」(4日)に「丸腰になって米国から『独立』を」に対して賛否両論の投稿があって、その後賛成論投稿(浅井氏の「丸腰は平和憲法持つ日本の宿命」)があった。
 反対論には「隙があれば領土を拡張しようとする国もある」とか、「領土拡大を狙う近隣国が挑発行為を繰り返している」とか(まるで戦国時代や帝国主義時代のよう)、その国とは中国や北朝鮮を指しているのだろう。又「国益を最優先させ、軍事行動をとる国があるのが現実」だという、その国とはロシアあるいはアメリカをも指しているのかもしれないが。それらの国々をそういう国(北朝鮮などを「ならずもの国家」、かつてソ連を「悪の帝国」)だとか、そういう国があるのが現実だと決めつけ、それを前提として論じている。
 しかし、国々をそのように決めつけて、それらに対応するに軍事対抗に囚われ、「対話と圧力」とか「いつでも扉は開いている」と言いながら、対話・交渉に応じるよりも(応じても相手の言い分は受け入れず)、軍事的・経済的制裁・圧力を加え続けるか、軍事的・物理的対応に専心する。そのようなやり方でよいのだろうか。
 そして反対論は「日米安保条約があり、自衛隊が存在するからこそ、他国は日本を攻めず平和が維持されている」のだとか、「個人では(我が国では「警察に頼り、近隣と協力し、家の戸締りもして」ということだが、アメリカなどでは個人でも銃を所持して)丸腰にはならないのに、国が丸腰にではリスクが大き過ぎる」とか、「万全の備えで国を守っていく必要がある」と。
 これらは軍事的抑止力論だが、相手側も同じ考えで、自国が攻められないようにと「抑止力」と称して軍備を構え、互いに負けじと(浅井氏の比喩を借りれば、相手が3の力を持てば自国は3か4が必要になり、相手も4を持つようになると、そこで止まらずに「万全を期して」5までも持とうとして)それを拡充強化(軍拡)すれば必然的に過剰軍備となる。武器や軍備は持てば、(それを使おうとする衝動に駆られて)その武力を行使しがちとなる。つまり、「抑止」よりは、かえって軍事衝突ひいては戦争を誘発するリスクの方が大きいのだ。(個人レベルでも、日本では禁じられている銃所持が認められているアメリカなどでは銃犯罪・殺人事件がはるかに多い。)
 「武器を持てば使ってしまうことが多い」、それは「過去の歴史が証明しています」と浅井氏が指摘するとおり、かつて日本軍はゼロ戦や大和などの戦艦・空母を持ってしまったからこそ真珠湾の奇襲作戦や特攻作戦の挙に出たし、アメリカは原子爆弾の実験に成功してしまったからこそ広島・長崎にそれを投下したのであり、それが未曾有の悲惨な結果をもたらした。その痛苦の反省から、「日本は覚悟を決めて」、丸腰の道を選び、「戦争放棄」とともに「戦力の不保持」を定めた平和憲法を受け容れたのではなかったか。我々日本国民は、それを歴史から課せられた民族的な「宿命」として重く受け止めなければならないのではあるまいか。

2017年01月29日

H君のこと

 発症率が10万人に1人か2人という難病に罹って十数年、手足・口も動かず、寝たきりになって、長い間闘病生活を続けてきた彼は、初めての教え子だったが、とうとう亡くなった。
 一昨年秋、彼の高校時代のクラス全員に「卒業50周年に寄せて」の手紙に次のようなことを書いたりした。「人は誰しも、それぞれ置かれた境遇や条件の下で、人生が自分に期待し課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得、生きがいを感じる。それが困難で多くの努力を要し、世のため人のために役立つものほど人々から感謝・共感を得られて満足度は高く、あまり努力を要さず、自分のためにしかならないものは満足度は低い。総理大臣やノーベル賞受賞者などと当方のような者とでは、事を為して得られる満足度には天地の差があっても、いずれも自身にとっては、それを(「自分の自己満足のためだ」とか「自分のためではない」とか、意識するとしないとに関わらず)無意識のうちに欲求の充足すなわち自己満足と結びついていることにはかわりないわけある。それぞれが置かれた境遇や条件の下で、自分のできることを目標・課題として取り組むしかないわけであり、当方のように、たとえ世のため人のためには何ら役立たないまるっきり自己満足にすぎないものであっても、それでよいのだと思っており、法や道徳に反しない限り目標は何だっていいのだ。何でもいいから、自分のできることを為し、或は難病で手足も口も動かず何かを為すということはできなくても、(医療介護サポートによって)生きているだけならできるという場合には、ただひたすらそれ(生きること)だけを自分に課せられた目標として専念し、日々それを果たして過ごす、そういう生き方もありなわけだ。
 そもそも人間誰しも、その究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」これに尽きる。
 彼は極限ともいうべき状況下で生き抜いて生命を全うしたのだ。彼自身には、臨終までの間、生きていてはたしてどれだけ満足感を覚え生きがいを感じることができたのかなど、本人には確かめようもなかったわけだが、彼の奥さんは、この手紙を送った後、年賀状に「(夫は)何もできないように見えても、生きることができなかった兄弟たちの分もひたすら生き、今けんめいに生きている家族の心の柱となって生き方を示してくれています。『どんな生き方にも意味がある』といつも話しかけています」と書いてよこして下さったのだった。
 彼には頼もしそうな息子・娘さんがおられ、奥さんとこの子らが時々見に来たその顔を(薄目にでも)見、声を聴くのも楽しみだったことだろう。その子らも、彼の命と志を受け継いで、それぞれ日々の生活や人生の目標・課題に取り組みながら精一杯生きていかれることだろう。


2017年04月04日

「忖度」と余談―ワンクリック詐欺

 「忖度」とは、「そうせよ」とか「そうしてほしい」と言葉で求められなくても、相手はそれを求めているな、と心(意向)を推しはかって、その意に沿おうとして事を行うこと、といった意味。「口利き」も、一言「よろしくね」と言われただけで(具体的に「こうこう、こういうふうに取り計らってもらいたい」と言われなくても)、意向を推しはかって応答し、事を行うが、忖度は何も言われなくても行われる。
 それは「以心伝心」などとともに、外国語には完全に一致する言葉はなく日本人・日本社会に特有の風潮なのだろう。(朝日新聞の「天声人語」によれば、最近、英紙フィナンシャル・タイムズの見出しはSontakuと記して、「まだ出されていない命令に、先回りして懐柔的に従うこと」と訳していたとのこと。)
 それを早大・水島朝穂教授は日本社会における構造的問題として「構造的忖度」と論じている。
 ところで、まったく別の話だが、この「構造的忖度」というものをネットで調べようとして、その漢字5文字を打って検索したら、幾つもの関連項目が羅列。まずは、その筆頭にあった「直言『構造的忖度』と『構造的口利き』-『構造汚職』の深層」をクリックして開いて読んだ。次いで、上記と同様の表題「『構造的忖度』と・・・・の深層」に「―・・・・(アルファベット4文字)のブログ」と付け加えられているのが二番目にあったので、それも見てみようとクリック。開いてみると、枠内の真ん中に右向きの△印がある大きめの枠があって、その」下には、小さなアダルト系の写真が幾つも並べられている、(アレっと思ったが、広告の類かとも思って)さらにその下をたどっていくと字句・短文は記されてはいるが、「構造的忖度」に関した語句は見られない。トップに戻って、もしかしてここにと、枠の△をクリックしてみたところが、いきなり「登録されました、登録料4万・・・・円」と出てきた。あわてて、その枠の×印をクリックしたら消えない。取り消し手順らしい字句もあったので、そこをクリックしたら「退会の手続き」とか幾つか出てきた中で、「誤作動の登録」を(これかなと思って)クリックしたところが、依然として消えず、出てきた枠内に問い合わせ電話番号あったので、かけてみた。ところが、相手の言うことには、「取り消しのためには30万・・・・千円を支払ってもらわなければならない、今日中に払えば20万・・・・千円は返金されます」とか。警察に相談に行ったら、それは「ワンクリック詐欺の手法だ」「この後は、向こうから催促電話などが来ても取り合ってはいけない」とのことだった。
 それにつけても、こういうネット詐欺もあるんだな・・・・くれぐれも気を付けなくちゃ!
 これに引っかかっている人はどれだけいるのだろうか?これもネット社会の構造的問題の一つには違いあるまい。
 「天声人語」には、「忖度」という言葉は、古代中国の「詩経」の中にこの言葉が見られるその一節の意訳から「もともとは悪いたくらみを見抜くこと指したのか」とも書いてあったが、それならば、この場合は、その詐欺を「忖度しなければ(見抜かなければ)ならなかった」という言葉の使われ方になるだろう。
 倉本聰氏は、報道ステーションで、忖度とは「本来は良い意味で使われる、相手を慮るという意味」なのだから、「財務省の皆さんは忖度を認めて楽になればいいのに」といった意味のことをコメントしていたが、それならば、財務省役人は、一「私人」だという首相夫人など特定の個人に対してでななく、納税者・国民に対してこそ最優先に忖度しなければ(国有地の8億円値引き売却に対して納税者はどう思うか、その国民の気持ちをこそ慮らなければ)ならなかったはずだ、と言わなかればなるまい。

2017年04月17日

普遍的な道義国家を目指すのが現行憲法

 最近、国内外で、強引なパワーポリテクスと不公正に加えて「ポスト真実」(不都合な真実の隠ぺい)などの政治のモラル失墜の一方で、教育勅語を「道義国家」を目指すものとして「その精神を取り戻すべきだ」などと強弁する大臣の発言を見るにつけ、いま現行憲法で着目するのは、前文に掲げる「人間相互の関係を支配する崇高な理想」、「諸国民の公正と信義」「政治道徳の法則は普遍的なものであり、その法則に従うこと」などの文言。
 カントによれば道徳とは誰もが、又どの国も公平に、どんな場合でも例外なく従うべきもので、それは公開されることによって担保される。
 いま繰り広げられている超大国と小国の威嚇合戦、核兵器禁止条約交渉の国連会議への核保有国と我が国の不参加、我が国における原発の大事故を起こしながらの再稼働、官憲による市民の行動監視につながる「共謀罪」法案、特定個人・法人への官公庁の有利な対応・措置に政治家が関与して官僚が忖度するという問題、偏狭な忠君愛国の道徳教育容認など、これらは現行憲法における政治道徳の法則には全く相容れない。
 我が国が目指すべきは、現行憲法こそが掲げる普遍的な政治道徳の法則に基づく真の道義国家だろう。

2017年05月14日

平和守るなら戦ってはなるまい

 本紙の「異論のススメ」で佐伯教授は『平和守るため戦わねば』と題し、「朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきた」緊迫した情勢に、国防は「憲法によって制限さるべきものではない」、また「侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ普遍的な政治道徳の法則ではないだろうか」と論じていた。
 それを「『平和とは何か』という問題はひとまずおき」として論じておられるが、そこが肝心なところで、そもそも平和とは戦争も武力威嚇による恐怖もない状態であり、平和主義とは武力による威嚇も行使もしないことだろう。また政治道徳の法則とは、政治目的のための手段は道徳に適ったものでなければならず、平和・安全確保のために「闘い」はしても、武力を用い殺し合ってはならないということなのではないだろうか。現行憲法はその立場から9条を定めているのであって、侵害者に対する自衛権は固有の権利として認められてはいても、必要最小限という制限があるのは論に当然のことだろう。
 現下において、我々のなすべきことは「身命を賭して戦うこと」などではなく、武力によって威嚇し合い戦争してはならず、非核化・平和条約締結の外交交渉に徹すべしと呼びかけ、説得することなのでは。

「声」投稿の改憲論への異論 

 朝日13日付け「声」欄に当方の投稿(「自衛隊の『加憲』は混乱の元だ」)と対照的に並んで載っていた『自衛隊 改憲で位置づけ明確に』という投稿。それには次のようにあった。
 「現憲法は、前文に『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』として、国際社会の善意を前提として制定され」、それは「あまりにも理想主義に過ぎた」ものであり、「国際情勢が不安定化し、善意にばかり頼っていられない時代」、「平和主義の理念は壊さないのを前提に、憲法9条は現実に即応できるよう改めるべき」で、「自国防衛と、国際社会の秩序安寧に寄与することを目的に、自衛隊の保持を表だって認め」、「主権が侵された時はもちろん、国連決議による多国籍軍に参加して交戦権を発動」できるようにしても、「平和主義の理念は損なわれないと思う」と。
 しかし、前文に「決意した」というのは、単に理想主義から(「国際社会の善意を前提として」、その「善意にだけ頼って」安全と生存を保持しようと)決意したというわけではなく、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が再び起こることのないようにすることを決意した」が故に(その不再戦の決意から)、国権の発動たる戦争の交戦権と戦力を持つという選択肢は放棄して、この「諸国民の公正と信義に信頼して」という「善意に頼る」平和主義の方を選ぶことを決断した一つの選択だったのではなかろうか。
 これら二つの選択肢で、「(諸国民の)善意に頼る」のは理想論で、「(国の)軍事力に頼らなければならない」のが現実かといえば、そうではなく、要は、「善意」と「力」とで現実的にいったいどちらが平和実現・維持に有効なのかという観点から判断すべきなのではないだろうか。「善意に頼る」(「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持」)というのは単なる理想論ではなく、日本国民自らも諸国民に対して公正と信義を以て信頼されるように努めて、敵視されず、どの他国民も敵視せずに交わるという、そのやり方のほうが、実際問題として、「力に頼る」やり方よりも平和実現・維持には有効で確かな方法なのだということだろう。
 今は後者「力に頼る」やり方で(安全保障など)おこなわれているが、それでうまくいっているのかといえば、とてもそうとは言えまい。北朝鮮問題、中国問題、ウクライナ問題、中東やアフリカにおける内戦や紛争、イスラム過激派問題など。「力」(軍事力)のおかげで、不安も恐怖もなくて平和が実現・維持されているなどとはとても言える状態ではあるまい。
 前者―「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国権の発動たる戦争と戦力・交戦権をともに放棄―は「理想主義に過ぎる」のかといえば、そうではあるまい。それは相互に、力によって敵対し、支配・服従の関係となるのではなく、対等・平等な友好・協力の信頼関係を結んで平和・安全を保つことであって、それは理想には違いないが、実現不可能な夢やユートピアではなく、今まで(この憲法制定後まもなく対米従属の下に再軍備、自衛隊が創設されて、米軍に従属する日米同盟の下に置かれるようになってしまったために)非軍備・非同盟の平和友好協力政策への取り組みはやってこなかっただけの話で、やろうと思えばやれることだったのだ。仮にもし、我が国が非軍備・非同盟政策をとっていたか、これからそういう政策をとったからといって、或いはまた自衛隊が海上保安庁などと同様交戦権を持った戦力ではないからといって、ロシア・中国・北朝鮮など、ある国がたちまち、軍事攻撃・侵略を仕掛けてくるかといえば、そんな必然性があるわけではあるまいし、それで我が国の独立・安全が脅かされるわけでもあるまい。
 これらの国(中・ロ・北朝鮮など)が我が国に対して対抗的に「構える」のは、ひとえに我が国が日米同盟を結び、米軍基地を置き、米軍と一体行動をとる世界有数(世界5位の規模)の自衛隊があるからにほかなるまい。 
 また、憲法に自衛隊を明記して、戦力・交戦権の保持を認め、米国と力を合わせて軍事力を強化すれば、北朝鮮や中国・ロシアが我が国に恐れをなして引っ込み、それで脅威も恐怖もなくなり、平和が保たれるのかといえば、そういうことには到底なるまい。
 アメリカの圧倒的な核軍事力に支援された自衛隊に頼れば、中国・ロシア・北朝鮮の脅威やテロの恐怖におののかずに済む、などということはあり得ず、そもそも「善意(不戦・非軍事で平和友好協力)に頼る」やり方に比して「力(自衛隊と日米同盟)に頼る」やり方のほうが有効性・確実性があるなどとは言えず、それはむしろ逆というものだろう。
  要するに、現行憲法は、国の軍事力に頼るよりも諸国民の善意(公正と信義)に頼る方が平和維持には現実的に有効だとして選んだということであって、それ(善意に頼る平和主義)が「理想主義に過ぎた」というには当たらないし、また国の戦力・交戦権保持で、平和主義の理念は損なわれないどころか放棄することになってしまうだろう。

2017年06月14日

憲法を歌う 

 作詞家のなかにし礼氏が本紙で「憲法は芸術だ」と論じていた。「世界に通用させるべき美しい理念をうたい、感動を与えることができるから」と。それを読んで「やはり、そうなんだ」と気をよくしたところです。
 当方、実は毎日ウオーキングで野道を唄いながら歩くのを日課にしていますが、歌は『昴』とか『千の風』『花は咲く』『イマジン』など7~8曲づつ。唯ひたすら心身の健康のためにと。それが、近年は憲法の歌もレパートリーに加えて唄っているのです。当初は、シンガーソングライターのきたがわてつ氏が憲法前文や条文に節(曲)を付けて唄っているのを憶えて唄っていましたが、最近では自分で節を付けてオリジナル曲で唄っています。前文は全文、条文は9・12・13・14・25・97条。それに、これらの英文まで。文章の暗誦だけだと忘れるが、歌にすればすらすら言葉が出てくるし、唄っているうち馴染んでくる。
 それを一通り唄った後には、ボブ・ディランの『風に吹かれて』とか、美川憲一の『生きる』なども唄って、それで自己満足しているわけです。
 きたがわてつ氏作曲の憲法前文の歌は格調高く朗々たる曲調なので、皆で合唱して唄えたら、ベートーベンの第九(『歓喜の歌』)のような感動を味わえるのでは。
 

2017年06月30日

諸国民の友愛に頼るか、力に頼るか、現実的な選択の問題(修正版)

 6月13日の朝日「声」投稿『自衛隊 改憲で位置づけ明確に』について(その2)。
 現行憲法で日本国民は(前文で)「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(それは友愛―筆者)を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」として、(9条に)戦力を保持せず、国の交戦権を認めないと定めた。それに対して、投稿者は「善意にばかり頼っていられない時代」なのに、それは「理想主義に過ぎる」として、憲法で自衛隊の保持と交戦権を認め、「9条は現実に即応できるように改めるべきだ」と。
 それは、現行憲法のいわば「諸国民の友愛(投稿者は「善意」というが)に頼るやり方」に対して、自衛隊の戦力、いわば「力に頼る」ことも必要だというもの。
 しかし、そこで、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんてユートピアを信じて「友愛に頼る」とか「善意に頼る」などという、そんなやり方は非現実的で、「力に頼る」やり方のほうが現実的なのだと思いがちだろう。世界の歴史的現実には、優勝劣敗の抗争・力の支配(覇権主義)、権謀術数(謀略)など「力と知恵に頼るやり方」がほとんどで、「友愛・善意に頼るやり方」(「仁愛・徳治政治」)など教説としてしか存在しないというのが事実だが、だからといって、「力に頼る」やり方で不安・恐怖のない平和・安全保障を実現・維持できた国など現実に存在するだろうか。むしろ軍事力に頼っている国ほど危険で不安な国となっているのが現実なのでは(国際シンクタンクIEP経済平和研究所が出している「世界平和度指数ランキング」では、2017年は1位がアイスランドで、日本は10位、北朝鮮150位、南スーダン160位、イラク161位、アフガニスタン162位、最下位の163位がシリアだが、アメリカは114位、中国が116位、ロシアが151位)。その意味では力に頼れば、平和・安全保障が得られるという方が、むしろ非現実的なのでは。
 日本国憲法の平和主義というのは、単なる理念だけではなく、平和・安全保障の方法論として、軍事的安全保障などに比してより有効・確実な方法だという現実的な選択の問題であろう。
 北朝鮮の核・ミサイル開発や拉致問題、中国の海洋進出や尖閣問題、或は国際テロなどの現実には、わざわざ改憲して自衛隊の保持と交戦権を認めて軍事対応する(軍事的即応体制をとる)というのは一つの選択肢ではある。しかし、そのやり方は戦争やテロが起こることを覚悟し、それを前提とした対応であり、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」(憲法前文)という決意に反して、(それは戦争の抑止にはならずに)むしろそれを呼び込み「再び戦争の惨禍」を招く結果にもなりかねないという危険がそれには伴う。だからそのような方法は控えて、あくまで非軍事的・外交的方法で対応するという当初からの路線を貫く、そのほうが現実的な選択なのだ、ということだろう。
 尚、軍事ジャーナリストでリアリストの田岡俊次氏は『日本の安全保障はここが間違っている!』(朝日新聞出版)で次のように論じている。
 「安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保」、「一国が軍事力を増強すれば、それと対抗関係にある他国も増強して軍備競争になりがちで、相手も強くなれば金はかかるが安全性は一向に高まらず、互いの破壊力が増すから、かえって危険にもなりかねない。」「『安全保障の第1目標は抑止力強化』とか『安全保障とは国の安全を軍隊で守ること』というのは幼稚な論であり、日本が国力に不相応な軍事力を持ち、第2次世界大戦で320万人の死者を出し、疲弊して降伏した教訓を忘れた説」、「安全保障の要諦は、敵になりそうな国はできるだけ懐柔して敵意を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして、敵を減らすこと」だと。
 これらの語句のうち最後の「安全保障の要諦・・・云々」は、要するに、どの国も敵とせず、どの国からも敵視されず、どの国とも友好的な信頼関係を築く、ということは即ち「諸国民との友愛」にある、ということでもあろう。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持」という言葉はきれいごとのように思われるが、それは砕けた言い方をすればこのこと(「どの国も敵とせず・・・・」)を指すもの解され、それは単なる理想主義ではなく、それこそが平和・安全保障を得るのに現実的で確かな方法なのだ、と思われるのだが、如何なものだろうか。

2017年07月14日

9条に自衛隊追記でどうなるか

 安倍首相は憲法9条に1・2項ともそのまま残しつつ自衛隊を追記するという改正提案を打ち出した。
今までは、自衛隊は、自衛隊法という法律で設置され、憲法で禁止する「戦力」には当たらない「自衛のための必要最小限の実力組織」として、やれることを同法が明示した範囲内で活動してきた。そして何か新たな任務・派遣が行われる場合、政府はその都度説明を必要としてきた。しかし、憲法にそれを書き込めば、それらが単なる追認だけでなく、憲法上の義務となり、憲法上の要請として安全保障や国際平和安全維持の必要に応じて最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになってしまい、集団的自衛権の限定的行使も追認されたうえに、さらに拡大されることになり、敵基地攻撃も、防衛費の増額も、PKO派遣部隊の「戦闘」も、あれもこれも可能になってしまう。
 いずれにしても、これまでの自衛隊追認にとどまらない、9条の平和主義規定が覆される結果をもたらす改憲となる、ということだろう。

2017年07月22日

軍事的抑止力で抑止になるのか?

 これを身近な市民社会に置き換えて考えてみると、どうか。
 市民・個々人が銃を持てば、それが強盗・殺人などに対する抑止力になるのか。アメリカではそれが認められているが、日本では認められていない。それで日本では強盗・殺人などの犯罪がアメリカより多いかといえば、むしろ逆で、はるかに少ない。そこに働いている抑止力は法的道徳的抑止力(「刑罰が怖い」とか「良心が許さない」とか)だろう。
 警察官がパトロール等によって市民に安心感を与える。しかし、その抑止力は法的抑止力であって、警察官がぶら下げている拳銃のお蔭ではない(それは、とっさの時に攻撃や逃亡を阻止するため威嚇発砲をやることもあるが、基本的には護身用にすぎない)。警察官の、その拳銃が「おっかない」からと、強盗がそれだけで犯行を思いとどまるなどということはあり得まい。おっかないのは刑罰で、警察官が武器を持つからではなく、行政権限・司法権限などの強制権限を持っているからにほかなるまい。
 警察力とは「法的強制力」で、警察官の拳銃などの武器は、あくまで護身用・防御用なのだ。
 それに対して軍事力(武力)という場合の軍隊の武器・兵器は防御用(盾)でもあり攻撃用(矛)でもある。それを持つことによって、相手の攻撃を抑止できるのは、それが単なる相手からの攻撃を防ぐ盾にとどまらず、攻撃も(報復攻撃だけでなく先制攻撃・奇襲攻撃も)かけようと思えばかけられることになっているからであり、「いざとなったらやるぞ」という攻撃意思を見せる、それによって抑止できるのである(その武器・核兵器も単なる防御用でもなければ、攻撃用で「ただ威嚇用に持っているだけ」でもなく、実際使う時は使うのだということ)。つまり「軍事的抑止力」が実効性をもつためには、それが単なる抑止力や防御力にとどまらない、いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟(意思)があることを前提にしているのだ、ということを見落としてはならないということだ。
 それに対して相手はおとなしく引き下がれば(核・ミサイルなど撤去・放棄すれば)、効果てき面(「うまくいった」)ということになるが、(北朝鮮のように)相手が対抗して、同じように「抑止力」と称して軍備増強(核・ミサイルを開発・維持)すれば、どうなるか。その軍備(部隊・武器・兵器)は、ただ保有しているだけでなく、それには「使う時は使うぞ」(発砲・発射するぞ)という攻撃意思が裏打ちされている(それがあってこその抑止力)となると、その当事者たち(最高司令官から現場の部隊指揮官・兵士に至るまで)には常にその(発砲・発射・攻撃の、或いはその命令を発する)衝動が付きまとうということになるわけだ。そして、彼らのうちのいずれかが発砲・発射して軍事衝突、そこから全面戦争(核戦争)にも発展するに至る、という危険が付きまとうことになるわけである。
 したがって、そのような「軍事的抑止力」というものは危険極まりないもので、まさに「恐怖の中の平和」。それによって安心・安全が得られ安定的平和(真の平和)が得られるようなものではないわけであり、そのようなものに依存している国々が支配的であるのが世界の現実だとすれば、そのような現実からは一刻も早く脱して「真の平和」を目指さなければならないのだ。

2017年08月18日

野党と市民の共闘にネーミング提案―「市民連合」

アベ自民党に替わる「受け皿」には今のところ3つの受け皿が考えられる。
 ①立憲野党(4野党)と市民連合の共闘
 ②「日本ファースト」(小池新党+民進党離党者その他の合流)
 ③非アベ自民党(野田or岸田など)
これらのうち、このところマスメディアでは②の「日本ファースト」が脚光をあびており、あとは③の「ポスト安倍に野田か岸田か」、この二つしか取り上げられず、①の野党・市民共闘の方はいたって影薄であり、ほとんど取り上げられることはない。いったいどうなっているのか?
安倍首相の思惑によっては、支持率回復とともに野党の「受け皿」が整わないうち年内中に解散総選挙、という話もあるが、市民連合としては手遅れにならないように、早急に「受け皿はここにあり、これこそが受け皿だ」としてマスメディアに認められるように、体制を整え、アピールしなければならないのでは。
 それには政策・政権合意が必要だが、その合意点は安保法制の廃止、原発再稼働反対、格差・貧困の是正、アベ改憲反対、それに反戦(自他のどの国にも戦争をさせない)などのことであり、これらの基本点で合意できれば一致結束できる。そしてそれを一つの「受け皿」として分かりやすくメディアを通じて市民にアピール表示するには、ネーミングがあってしかるべきだが、イタリアの「オリーブの木」のような名称ではなくても、市民連合なら、ずばり「市民連合」と呼ぶようにしてもよいのでは。(自公連合に対して、又「日本ファースト」に対して「市民連合」というわけだ。)

2017年09月21日

朝鮮戦争の終結は?

 北朝鮮問題は困難を極めていますが、そもそもどうしてこんなことになったのでしょうか。それを考えると、どうしても朝鮮戦争が64年前(停戦協定)から休戦はしているものの終結してはおらず、米韓軍と北朝鮮軍が軍事境界線を挟んで対峙している状態が未だ続いていて、いつ戦争再開されるか分からないという、朝鮮戦争の延長線上にあるのだという根本問題に突き当たるのでは。米軍は韓国に基地を構え、米韓合同軍事演習を繰り返し続け、それに対して北朝鮮側は通常兵器では遥かに劣勢なのを核・ミサイルでカバーしようと、その開発・実験を繰り返し、やめるにやめられないでいる。だとすれば、朝鮮戦争を正式に終結して、以後互いに攻撃をし合わないことを確約する協定(平和協定)を締結することが先決なのではあるまいか。そうすれば核もミサイルも不要になり、朝鮮半島非核化も可能になると思われるのだが、どうして、そこのところを問題にしないのだろうか、どうも解らない。

朝鮮戦争の終結は?

 北朝鮮問題は困難を極めていますが、そもそもどうしてこんなことになったのでしょうか。それを考えると、どうしても朝鮮戦争が64年前(停戦協定)から休戦はしているものの終結してはおらず、米韓軍と北朝鮮軍が軍事境界線を挟んで対峙している状態が未だ続いていて、いつ戦争再開されるか分からないという、朝鮮戦争の延長線上にあるのだという根本問題に突き当たるのでは。米軍は韓国に基地を構え、米韓合同軍事演習を繰り返し続け、それに対して北朝鮮側は通常兵器では遥かに劣勢なのを核・ミサイルでカバーしようと、その開発・実験を繰り返し、やめるにやめられないでいる。だとすれば、朝鮮戦争を正式に終結して、以後互いに攻撃をし合わないことを確約する協定(平和協定)を締結することが先決なのではあるまいか。そうすれば核もミサイルも不要になり、朝鮮半島非核化も可能になると思われるのだが、どうして、そこのところを問題にしないのだろうか、どうも解らない。

2017年10月07日

若年層の清き一票あってこそまともな国に

 高校生の方の投稿「各党の政策、違い明確に説明を」もっと分かりやすくやってほしい、とのこと。今の日本の政治には確かに分かりにくさはありますが、大まかには与野党3勢力が分かれ、次のような点では違いがはっきりしてきているのでは。
 北朝鮮などに対する安保政策と9条を主とする改憲の問題で、与党は軍事重視の安保法制と改憲を推し進め、希望・維新・こころ3野党はそれを容認。それに対して立憲民主・共産・社民3野党は反対。
 それに、今回の衆院解散・総選挙にあたって、これまで進行してきた各党の動きを見て分かりやすくなってきているのは、各党の立憲主義に対する忠実度と、公正・信義など道徳的信頼性の点だ。
 熟議・説明を尽くさず強引に押し通す横暴、森友・加計問題にみられる国政の私物化、権謀術策を弄する党利党略・個利個略、ご都合主義・実利主義、狡さ、ごまかし、事実隠ぺいなど、どの党・陣営がまともで、どの党がまともでないかはっきりしたのでは。
 高校生や若者は、ゲーム感覚に陥りがちなところもあるが、社会的経験が浅いだけに、大人の狡さがなくて理想や正義感が旺盛なので、それに基づく判断を大事にしなければなるまい。若い世代の清き一票があってこそ、まともな国たり得るというものだろう。

2017年10月20日

棄権せずに怒りの一票を

 「どうせ投票しても死票になるだけで意味がない」からといって棄権してしまったら、それこそ意味がない。なぜなら、投票率が低いほど固定票の多い大政党・政権与党が有利で、投票総数の過半数以上かそれを大きく上回ればそれだけ信任されたものと見なされ(棄権は白紙委任されたものと見なされて)、かれらにはかえって有利な結果となってしまうからである。それならば、かれら(政権党)の対極にある(最も鋭く対決してきた)政党・人物に投票して、それが批判票となれば、意味のある一票―「怒りの一票」ともなる。たとえそれが政権与党の得票には下回っても、多ければ多いほど政権に対してプレッシャーとなり得るわけである。
 また、今回は総選挙で、最高裁判所裁判官の国民審査があるが、これなども、審査するその裁判官一人ひとりについて略歴と在任中関与した主な裁判とそこでの意見を概略だけ記した公報が選管から一回届くだけ、新聞には朝日の場合1回とちょっと掲載があるだけで、ほとんどの人はよく分からず、投票しても罷免させたい場合だけ×印を記入するというやり方で、分からないからといって白票を投じれば信任と見なされる。白紙委任を避け、よく分からないまでも批判票を投じたいのであれば全員にでも×を付けて投じるか(分からないのは判断材料をきちんと伝える努力を怠っている側の責任で、全員×とされてもおかしくはない)、それとも、国民審査の投票用紙だけ受け取らずに棄権するしかないわけである。

2018年01月30日

自衛隊 憲法上議論の余地ないよう明記?

 1月24日の衆院代表質問で、二階堂自民党幹事長が自衛隊について「命を賭して任務を遂行しようとする公務員に、尊厳と誇りと勇気を与えなければならない」と述べたことに応えて、安倍首相は「自衛隊員たちに『憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりに無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくしていくことが、私たちの世代の責任だ」と(だから、9条に自衛隊を明記するようにするのだというわけである)。
 確かに、これまでは自衛隊の創設から任務・活動範囲の拡大・海外派遣や新装備(兵器)の導入或はそれらに伴う新規立法・法改正の度に一々議論・激論が行われてきた。そもそも現行憲法制定当時の吉田首相は「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と言明していたが、その後「侵害に対する自衛のための必要最小限の『実力』組織であって『戦力』にはあたらない」なら、として自衛隊の創設に踏み切った。それでも憲法学者の多くは自衛隊違憲説をとってきたのは事実ではある。しかし、歴代政府は一貫して戦力ならぬ自衛力であって違憲には当たらないとして自衛隊を保持し続け、国民も大多数は違和感が薄らいで(60歳以下の年齢層は生まれる前から存在)すっかり定着している自衛隊の存在自体には憲法との矛盾を感じている向きは少ない。しかし、専守防衛を逸脱する海外派遣、活動範囲の拡大、新装備の導入、集団的自衛権行使容認と安保法制改変などに際してはその都度、国会で議論、野党と市民の反対運動が行われてきた。
 そのこと自体は政府の安保政策・自衛隊運用に対するチェック・ブレーキなのであって、それによってその暴走が抑えられてきたことは否めまい。
 それが、もし「議論の余地」をなくすためにと9条に自衛隊が明記されれば、国会における議論によるチェック・ブレーキがなくなり、最高司令官たる首相や防衛大臣・自衛隊幹部らが意のままに自衛隊の運用・海外派遣・新装備の導入・武器使用(基準緩和)・同盟国など他国軍との支援協力活動等々が断行できるようになり、隊員に「もう憲法にいちいち引っかかるようなことがなくなったから大丈夫だ」とばかりに「命を張ってくれ」と容易く堂々とその命令が下せるようになるわけである。彼らがそうしても、もはや憲法上の責任は国会で問われることがなくて済むようになる、一方、命令を受けて現場で活動に携わる自衛隊員は命の危険にさらされ、犠牲になる確率は格段に高くなるわけである。自衛隊が立ち向かう相手の出方(核兵器や弾道ミサイルの使用など)によっては国民が巻き込まれ犠牲になる危険も高まることにもなる。
 こういったことを考えれば、自衛隊を憲法に明記することによって、自衛隊に関わる事案が憲法違反にならないかどうか、いちいち議論がもちあがる余地がなくなるようにすべきだなどと言って、自衛隊員と国民の命が懸っている自衛隊の運用に際して必要不可欠な議論を省くようにしてしまう、それこそが無責任なのではあるまいか。
 自衛隊員にとっては、警察官や消防士のように憲法にはその規定がなくても国民の生命と財産を守るため命を張って任務に携わっている公務員と同様、国民から感謝されてこそ職務に誇りをもつのだろう。それが、わざわざ自衛隊員に誇りを与える(傷つけない)ようにするために、という情緒論から改憲(9条に自衛隊の存在意義を明記)するというのと、9条を現行のまま(自衛隊は明記せず)に自衛隊員を(災害出動や警備活動はともかく)戦争に駆り立てることのないようにする厳格なブレーキとして維持するのとでは、どちらが賢明なのかだ。

2018年02月02日

「何人死んだか」ではなく「死んだらどうする」だ

 沖縄では、政府が「国家安全保障」の防衛政策から推し進める米軍基地の維持・建設の推進(反対派住民から見ればごり押し)に対して地元住民の間で、市長選挙や知事選挙などに際して反対派と容認派が合い分かれて対立し、原発問題などでも地元住民の間で受け入れ反対派と容認派が合い分かれて対立するのと同様な構図となってる。
 反対派は基地があることによって地域の平和・安全な生活環境が侵害され、或は米国に敵対する国からの攻撃の標的にされるリスク(命の危険、環境悪化など)を負うようになることに対して反対しているのであり、それは平和的生存権(「人間の安全保障」)の観点に立った反対である。それは全国民の普遍的な共通要求でもあって、地域エゴではない。
 それに対して容認派は、政府の基地政策を支持するか、反対してもどうせその強行を止められないから、それは諦めてむしろ受け入れて見返り(交付金や補償金)を得る、即ち実利(名護市の辺野古基地は完成すれば耐用年数200年といわれ、そのリスクは数世代に及ぶことを考えれば、一過性の目先の利益)をとる立場である。
 ところで、フクシマ原発事故の時も「事故が直接の原因で死んだ人は、まだ一人もいない」などという向きがあったが、事故が直接の原因ではなくても、そこに原発さえなければ死なずに済んだ命(原発関連死)は少なからずあったし、不安で避難先から未だに帰還できないか、帰還しても不安が抜けきらない人が数多いるのである。
 交付金や補償金がもらえて「欠乏」からは免れても「恐怖」と不安は子や孫の世代に渡っていつまでも付きまとう。
 生存権とは恐怖と欠乏のない生存が保障される権利だが、欠乏からは免れても恐怖がつきまとううちは安心して暮らせない。平和的生存権とは「恐怖のない生存」保障であり、結果「それで何人死んだか」(死んでないならオーライ)で済まされる問題ではなく、人々が犠牲になり死に見舞われる蓋然性(可能性・確実性)のない安心が保障されることだ。

 さて、沖縄の首長選挙はどちらが勝を制するかだが、他人事ではない。

2018年02月17日

名護市長選の教訓

 16日の名護市長選に関する若い方2人の投稿に、なるほどと思った。それは地元の方々にとって最重要なのは暮らしとそれに先立つもの、「仕事」・「遊ぶ場所」など経済振興策なのであって、基地問題は二の次だったのだ(それが現実なんだな)と思い知らされた。
 本土や地元外からの応援者は、同じ憲法下にある国民として平和的生存権が等しく保障されるべきなのであって、基地など危険施設を特定の県・市町村にだけ押し付けてはいけないとの思いから、唯ひたすら「危険施設の維持・建設」反対・阻止のためという一点にこだわるのは当然で、それこそが子や孫たち将来世代に渡って最重要な問題には違いない。しかし、そこに暮らして生計を立てている地元住民にとっては、それ以外にも死活的な生活に直結する仕事や収入源をどう確保するか、その経済振興策も不可欠の問題なのだ。
 だとすれば、危険施設に反対する側は、「反対を訴えるばかりでなく」、経済振興策の対案―環境を害さない平和産業の振興策―を掲げ、アピールすることに力を注がなければなるまい。本土・地元外の応援者も、その方に力を貸す(アイデア提供や資金・誘致協力など)協力があって然るべきであり、基地反対派はそれらの戦略を再考すべきだろう。
 いずれにしても国の強権に屈して個々人の平和的生存権を諦めるようなことがあってはなるまい。

2018年02月28日

なぜ今改憲、自衛隊明記でどうなるか

 安倍首相が9条2項維持しての自衛隊明記案を提起し、石破元自民党幹事長が党改憲草案の案(2項削除)方を主張し、最近本紙に阪田元内閣法制局長官が9条改正私案を示し、『声』には「野党は選択肢を示して」などの投稿もある。メディア各社の世論調査の中には「自衛隊を盛り込むなら」として「2項を維持して明記」か、「2項削除して明記」か「明記する必要なし」か等と、と選択肢を示して選ばせるやり方が行われている。
 そこで、「あれ?」と思ったのは、そもそも、国民はこんな改憲を今、切実に求めているのか、ということだ。この憲法下で70年もの間、米ソ冷戦、朝鮮戦争等々あり、自衛隊は創設され定着はしても、我が国では国民の間から改憲を求める声は上がらなかったし、このところ北朝鮮・中国に対する脅威感がグンと強まってはいても、それに軍事対決するために改憲がどうしても必要だと思っている国民はそんなにいるのだろうかだ。
 それにもし、自衛隊が憲法に明記されることによって、国による自衛隊の運用にお墨付きが与えられることになれば、それは単なる自衛隊の現状追認にとどまらず、その軍事運用が積極化し、憲法の平和主義ががらりと後退してしまうことになるのでは。

2018年03月16日

米朝首脳会談の一視点

 論壇誌「世界」2月号で、ティム・ショロックというジャーナリストの方が次のようなことを指摘していた。「米当局者たちは、北朝鮮が核開発プログラムを破棄して初めて対話は開始できると主張し続けている」が「それは北朝鮮に降伏しろと言っているようなもの」、朝鮮半島の危機打開の「もっとも重要なステップ」は米朝が和平協定を結んで朝鮮戦争以来の戦争状態を終わらせることだ。そうすれば両者とも核開発プログラム凍結についての対話を始めることができ、交渉の中でそれぞれの問題を解決することにつなげられる」と。また同誌には、柳澤元内閣官房副長官補も「戦争状態の解消に向けた和解を通じて北朝鮮が核を持つ動機をなくす以外に解決はない」と書いている。
 当方もかねてそう思って昨年投稿し、「どうしてそこのところを問題にしないのだろうか、どうも解らない」と提起したことがあったが、やはり、そこのところを問題にして論じている識者がいるではないか。それにつけても日頃目にする新聞・テレビには朝鮮戦争終結の和平交渉に視点を向けた論評は依然として見られない。そんな話は二の次で、あくまで核放棄が先決だというのだろうか。

2018年04月05日

元々は9条に矛盾はなかった

 4月4日の朝日新聞『声』欄の『どう思いますか』「憲法 みんなで考えませんか」で、「9条は日米安保条約があるから成り立っているのではないか」(「戦力を持たないとする9条を日米安保条約が補完する形になっている」)とか、9条と同条約は「表裏一体」だとか、あたかも9条と日米安保条約がセットで成り立っているかのような論建の投稿が見られました。しかし、そもそも日本国憲法は、前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」として9条に「戦争放棄」と「戦力不保持」を定めたのであって、戦力を持たないかわりに日米安保条約で米軍から国を守ってもらうことを当て込んで定められたわけではなく、あくまで戦力に頼らない非軍事の安全保障(世界中を味方とし敵をつくらない)に徹することを(単なる理想・願望ではなく、それでいくしかないと)決意して定めたもの。9条護憲とはその立場を守ろうとするもの。
 ところがその後、日米安保条約が結ばれ、自衛隊が創設されることになった。それは憲法制定後の米ソ冷戦の激化・朝鮮戦争の勃発を契機としてアメリカの都合(対ソ戦略)のために行われたのであって、日本政府がそれに同調したからにほかなるまい(日本には、「全面講和」即ちソ連・中国ともどの国とも講和し、中立・友好関係を結ぶという道もあったのだが、政府は「単独講和」すなわち米英仏など西側陣営とだけ講和し日米安保条約を結んでアメリカの同盟国となる道を選んだのだ)。そして、そこから日米安保とそれに組み込まれた自衛隊の9条との矛盾が生まれることになったのだ。
 ただ、この自衛隊も米軍も、国民の間で当初の違和感は薄れ、(特に自衛隊は災害救援で感謝され)今ではすっかり慣れ親しんで(あって当たり前といった固定観念として)定着し、憲法上も政府の解釈(「自衛のための必要最小限の実力組織であって戦力には当たらない」)と最高裁の統治行為論(高度に政治性をもつ国家行為は司法審査にはなじまないとして違憲判断を回避)に納得し、米軍も自衛隊と共に日本を「守ってくれる」ためにあるものと思い込んでいる(日米同盟が「抑止力」となって日本に侵略・攻撃を仕掛けたくてもできないのだとこっちが勝手に思っても、向こうには日本に対してわざわざ侵略・攻撃を仕掛けなければならない理由も意図もあるとは限らず、はたしてその「抑止力」のお蔭で「守られている」のかは、実際侵攻をうけて撃退した事実がないかぎり証明はできないわけである、なのにそう思い込んでいる)向きが多く、憲法学者など一部を除いて、自衛隊などその存在自体に異を唱える向きはあまりいなくなっている。
 一方、9条の不戦・平和主義も国民の多くから国是として大事に思われており、自衛隊も安保条約も大事だからといって、集団的自衛権の行使や海外での武力行使などを容認する9条の原則逸脱解釈や改憲には抵抗感がありこそすれ、2項(戦力不保持・交戦権の否認)は削除してもかまわないなどと思っている向きはけっして多くはないだろう。また自衛隊を日米安保条約と共に「なくてはならないもの」として重視するあまり、「是非とも」と言って、わざわざ9条に「自衛隊を保持する」とか、「自衛権を行使できる」などと追加・明記する必要を感じている向きもそう多くはないだろう。
 そもそも護憲とは必ずしも高邁な理想やイデオロギーから発したものではなく、唯々戦争はもう懲りごりだ!あのような「自存自衛」のためだとか「アジア解放」のためだとかを理由にして戦争や武力に訴えるようなことは、日本人は二度とやってはならないとの痛切な思い(反省)、要するに「戦争はもう嫌だ」からにほかならない。ただし、「戦争は嫌だ」「巻き込まれるのも嫌だ」というばかりではなく、憲法には前文に「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とも唱い、自国だけの一国平和主義ではなく積極的平和主義を掲げている。それは世界のどこか、あちこちで国際紛争や対立があれば、中立の立場で仲介し、対話・和平協議にイニシャチブを発揮するとか、非軍事の人道的支援に最大限努めるなど積極的役割を果たすということである。この点でも、これまで日本政府は(アメリカの「力による介入」に追従するばかりで、見るべき役割はほとんど果たしてはこなかった。護憲とはこの点(非軍事・積極的平和主義)にもこだわる立場なのだ。
 「9条護憲に矛盾はないのだろうか」と護憲派に対して日米安保条約や自衛隊の役割りをも重視する立場から指摘があるが、それは冷戦激化・朝鮮戦争以来、現在に至るまでの「安全保障環境」の変化(悪化)の現実に対して9条と前文の理念は空洞化している(或は無力になってきている)のでは、という疑問なのだろう。しかし、そのような「我が国を取り巻く安全保障環境」の厳しさや悪化は、9条が招いたものでも護憲派が招いたものでなく、むしろその非軍事・中立・平和主義に反して、イデオロギー対立する一方の強大国に組して再軍備をおこない、仲介・緊張緩和どころか、対立に加わり、激化を促すのに一役かってきた、日米安保条約と(自衛隊という名の)再軍備を推進してきた側が招いてきたものだろう。前文と9条の積極的平和主義の立場をあくまで堅持しようとする護憲に矛盾があるのではなく、それとは両立しないはずの日米同盟を基軸とする軍事的安保政策にこそ矛盾があるのだ。


2018年04月26日

自衛隊が9条と両立するには

 憲法前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」し、「諸国民の公正と信義に信頼して」(敵をつくらず、世界中を味方として)「我らの安全と生存を保持しようと決意」して、9条1項に「国際紛争を解決する手段」として「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」に訴えることは永久にしないとし、2項に「戦力」は「保持しない」、「国の交戦権」は「認めない」と定めた。それは、我が国は不戦と非軍事の安全保障を建て前とする国であることを宣言したものと考える。だとすれば自衛隊の任務は国境・国土警備と災害救助などの非軍事活動にとどまり、その武器は基本的に護身用としての装備であって、戦争用・軍事作戦用ではない、というのであれば合憲とみなされよう。しかし、それが現在のように日米安保条約の下、米軍と一体的に連携して軍事作戦を行うべく装備や体制を組んでいるとすれば、違憲ととらざるを得ないだろう。
 違憲であるなら、その部分は取り除いて是正すべきなのであって、それを違憲だからといって9条の方に改正を加えて、そこに自衛隊保持を追記するというのは、本末転倒だろう。

 この投稿は4月25日の朝日・声欄の「どう思いますか―『自衛隊は合憲か?違憲か?』」に他のお三方の投稿とともに『自衛隊は非軍事活動にとどまれ』という題名で載った。
 ここでの「自衛隊の任務は国境・国土警備と災害救助などの非軍事活動にとどまり、その武器は基本的に護身用としての装備であって、戦争用・軍事作戦用ではない、というのであれば合憲とみなされよう」という行の部分について若干補説を加えたい。
 「国境・国土警備」とは我が国の領土・領海・領空警備(警戒監視)のことで、侵犯(不法侵入)対処(阻止し、追い払う等)に当たることである。現在の自衛隊はそれを行っており、海上自衛隊などが「海上警備行動出動」任務として海上保安庁と連携しつつ行っている。
 「武器は基本的に護身用としての装備」とは、その使用は警察官・海上保安庁と同様の武器使用基準に従い、極力使用しないことを大前提に、使用する場合は自己または自己の管理下にある者を守るためにやむを得ない場合(刑法上の「正当防衛・緊急避難」に該当)に限定されるも、武器は万国共通の「警察力の原則」のもとに、相手の武器と同じ武器で対抗(相手が艦船から魚雷やミサイルで攻撃をしてきたら、同じ武器で応戦し撃沈も)できるし、相手が攻撃を仕掛けてくる前に警告(威嚇)射撃もできる。等々のことが考えられる。

2018年08月23日

国連で「朝鮮戦争の終結」を

 朝鮮戦争は、休戦協定は結んでいるものの、いつ再開されるか分からぬまま38度線を挟んで対峙しながら、正式な戦争終結(和平協定)はずるずる先延ばしされて今日に至っている。
 北朝鮮の非核化には、先ずはその朝鮮戦争の終結を確定して、以後再開をしないことを確約することが先決なのではあるまいか。さもないと(いつ戦争再開されるかも分からない状態のままでは)非核化に踏み切るにも、二の足を踏みがちとならざるを得まい。
 とかくすると、先ずは北朝鮮が完全非核化の具体的措置を実行すること、その方が先だといった論調になりがちだが、論理的な筋道からいえば、「戦争(再開)はもうない」といことが確定して初めて「核抑止力はもういらない」となって核放棄に踏み切れるというもの。
 先の南北首脳会談で、戦争終結宣言を年内に行う方向で合意し、米大統領に対してもそれを求めている。
 それにつけても、先ずもって朝鮮戦争の当事者(参戦国)がそろって、それに合意しなければならず、その参戦国といえば北朝鮮とそれを支援した中国、それに対する米韓その他英仏など合わせて16ヵ国もが国連軍として参戦している。だとすれば、休戦協定の際にもそうだったが、協定の調印は、国連軍側は米国が代表して行うとしても、この朝鮮戦争終結については国連の場で(安保理や総会)で協議、終戦宣言採択をやって然るべきなのではないだろうか。

2018年09月11日

自衛隊違憲論について私見

 「自衛隊は災害などでは活用するしかないが、違憲は違憲だ」というのと、「自衛隊は違憲だなんて言われないように憲法にはっきり明記して、災害など緊急事態には存分に力を発揮してもらえるようにしたほうがよい」というのとでは、どちらが分かりやすく共感しやすいか。それで自衛隊明記改憲に賛成か反対かと訊かれると、どうしても賛成の方が多くなるのでは?
 それに違憲論者に対する批判には、自衛隊は違憲だといいながら、災害等があるとそれに頼り、利用しようとするが、違憲だというなら、即時解体を主張してすべきなのに、それを言わないのはご都合主義であり欺瞞だという批判もある。
 そこで思ったのは、自衛隊は違憲だとアタマから決めつけ、丸ごとダメだと全否定するのではなく、戦争につながる違憲部分(自衛隊法では「主たる任務」とされている「防衛出動」など軍事の部分)もあるが、災害救援や領海・領空警備など(自衛隊法では「従たる任務」とされているが)違憲には当たらない部分もあるという二側面があることを峻別にして論じるようにするほうがよいのでは。そうすれば、「自衛隊は違憲、ならば即時解体」ということにはならず、違憲には当たらない災害救援や領域警備等の非軍事の部分は維持し活用して当然ということになる。(領域警備活動の行動基準・武器使用基準は海上保安庁等と同じ警察比例原則で
 ① 相手(侵犯者)の武器に比例―武器は相手と同等の武器まで可能―「大砲には大砲、戦車には戦車、戦闘機には戦闘機、ミサイルにはミサイル、潜水艦には潜水艦・・・・・」というように。
 ② 攻撃は相手を制圧(排除)するところまでで殲滅(殺す尽くす)までには至らず
 ③ 活動・追撃の範囲は自国領域から公海上まで。 )

 国民の多くが自衛隊を支持しているのは、その災害救援・領域警備活動等の部分に対してであり、それによって国土と国民を自衛隊が守ってくれていると感じているからにほかならず、中国や北朝鮮などが戦争を仕掛けてくるかもしれないからその際に米軍と一体になって戦ってもらえるからというわけでは必ずしもないのでは?
 ところが、安倍自民党が「自衛隊違憲論争に終止符を打ち、隊員が堂々と胸を張って活躍できるように」との理由で改憲しようとしているのは、自衛隊には9条に抵触する軍事の部分があるので、その条項に自衛隊保持を書き加えることによって自衛隊にやらせたい軍事など全てのことが憲法上認められるようにしたいがためにほかなるまい。我々が反対しているのは、そのような改憲に対してであって、自衛隊の災害救援や領域警備活動まで反対しているわけではあるまい。その非軍事部分の方はむしろもっと充実しても。
 尚、自民党の自衛隊合憲論は13条(生命・自由・幸福追求権に対する権利については国政の上で最大の尊重を必要とするという規定)を根拠として、自衛隊はそれら国民の権利を外敵から守るために9条の下でも例外的に武力行使が認められる実力組織なのであって違憲ではないとしてきたが、今度は他国に加勢する集団的自衛権の行使まで限定的とはいえ容認する解釈改憲をしたうえで、さらに9条に自衛隊を明記して加憲し、それまでも全て合憲化しようとはかっている。しかも、そのように改憲しても、「自衛隊は今までとはなんら変わることはないのです」などと言っている。
 その自民党の自衛隊全面的合憲論に対して、全面的違憲論ならぬ「部分的合憲論」ともいわれるような違憲論なのだが、如何なものだろうか。

2018年09月14日

沖縄知事選は県民の平和的生存権が争点

 この選挙は辺野古新基地建設の推進か阻止かを巡って行われる 。その基地は日米安保条約に基づく米軍基地であり、宜野湾市の市街地にあって同市の住民にとって極めて危険な普天間飛行場を撤去すべく同県内の名護市辺野古地区に移設するためにそこに新たに建設しようとしている基地なのだが、沖縄県民にとっては面積で日本全土の0.6%しかない沖縄に在日米軍基地の7割もが集中している同県内で引き受けなければならないのは何故なのか、県民には太平洋戦争以来強いられてきた犠牲に対する怨念とともに納得しがたい思いがあるわけである。「等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する」はず、なのに何故?どうして?との思いであろう。
 選挙の結果、政権与党が推した候補が勝てば、県民は辺野古新基地建設を容認したことになり、急逝した翁長前知事後継の「オール沖縄」候補が勝てば、新基地建設阻止を容認したことになる。
 いや、そんな単純なものではなく、もっといろんな利害・思惑がからみ、辺野古新基地建設には今はもうどんなに反対しても、もはや止められないから、それは諦め、とにかく普天間飛行場を移設して、その飛行場を閉鎖・撤去できればそれでよい、などといった複雑な思いがあるのであって、一概にこうだとは決めつけられないという解説が加えられるかもしれない。しかし、事実そうだとしても、政権与党が支援する候補が勝てば、政府は、民意は辺野古移設とその建設工事の続行を容認したものとして「粛々として」計画どおり推し進めるだろう。そして普天間飛行場は辺野古新基地に移転できるようにはなるが、沖縄全体としては基地は半永久的に維持され県民には基地問題が大きくのしかかったままとなる。政権与党側候補に投票する人はそうなることを望み、或は容認したことになるわけだ。
 それに対して、「オール沖縄」の翁長前知事後継候補が勝てば、政権側は辺野古新基地の建設工事は思うように強行することはできなくなり、頓挫する可能性が強くなる。一方、彼らが要求する普天間飛行場の即時閉鎖・撤去に米軍側はすんなりとは応じず、海兵隊が居座り続けて長引くとしても、「オール沖縄」勢力のさらなる闘いによって遅かれ早かれ閉鎖・撤去せざるを得なくなるだろう。その候補に投票する人はそうなることを望み、或は容認したことになるわけである。
 有権者は、そこのところをよく考えて投票しなければならないのではなかろうか。 
 要するに、この選挙は、沖縄に押し付けられている米軍基地がもたらす不安・恐怖から免れ、平穏無事に暮らせる権利すなわち本土並み平和的生存権をひたすら求めてきた県民の悲願に応えるべく献身した翁長前知事の遺志を貫くか、それとも日米両政府に屈服して断念するかの選挙なのでは。

2018年11月05日

9条に自衛隊明記は軍事を合憲化するもの 

  最近、首相は自衛隊の高級幹部たち或は観閲式で自衛隊員に向かって「今や国民の9割は自衛隊を認めています。」「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える。」「私は(その)責任をしっかり果たしていく決意です」と訓示。「環境を整える」とは自衛隊明記改憲のことにほかなるまい。
 国民の多くが自衛隊を必要と感じ、高評価しているといっても、それは、必ずしも「防衛」(軍事)上の役割り故の評価というよりも災害救助活動や領海・領空警備など自衛隊の非軍事活動に対しての評価なのでは?
自衛隊は違憲だという憲法学者や政党も、災害救助や領域警備などの活動分野まで違憲で無用だなんて思っているわけではなく、違憲と言っているのは自衛隊の軍事機能についてだろう。
 ところが、安倍首相が「自衛隊違憲論争に終止符を打ち」「全ての自衛隊員が強い誇りをもって任務を全うできる」ようにするためとの理由で改憲しようとする、その狙いは9条に自衛隊保持を書き加えることによって自衛隊の軍事を憲法上正当化するところにある。そうすることによって堂々と胸を張ってやれるようになるのは、自衛隊員よりもむしろ首相をはじめ防衛大臣・自衛隊幹部など隊員を命令・指揮する側のほうだろう。それで首相はじめ指揮官たちは堂々と臆することなく(これまでのように9条2項の禁止・制約にとらわれることなく)自衛隊員を戦闘など軍事活動に駆り立て、隊員がその犠牲になっても憲法違反の責任を問われることもなくなるだろうからだ。要するに自衛隊員よりも首相以下の指揮官たち(自衛隊を号令し動かす側)の都合による改憲だということにほかなるまい。
 そもそも自民党の自衛隊合憲論は13条(「生命・自由・幸福追求権に対する権利については国政の上で最大の尊重を必要とする」という規定)を根拠として、自衛隊はそれら国民の権利を外敵の侵害から守るために9条の下でも例外的に個別的自衛権に限って武力行使が認められる実力組織なのであって違憲ではないとしてきた。なのにそれを「限定的」ながら集団的自衛権の行使(日本が直接攻撃を受けていなくても、我が国と密接な関係にあるアメリカなど他国に対する武力攻撃でも、場合によっては自衛隊が武力行使できるということ)までも容認する解釈改憲を既にやってのけた。今度はそれを、9条に自衛隊を明記・加憲することによって、それまでも全て異論を差し挟む余地なく合憲化しようというわけだ。しかも、そのように改憲しても、「自衛隊は今までとはなんら変わることはないのです」などとうそぶく。
 そんなごまかし改憲にだまされてはなるまい。

2018年12月03日

カジノ誘致は経済効果よりも倫理的問題

 朝日の「耕論」で「カジノ誘致の胸算用」についてお三方の見解が。お二方は肯定的に「欲望 税収・雇用につなげ」「地方 若者流出に歯止め」、お一方は否定的に「客争奪 もはや斜陽産業」と。
 いずれも税収・雇用・観光客などの経済効果とギャンブル依存症・治安悪化対策など社会的費用との損得計算でプラスかマイナスかの観点から論じられていたが、それが、たとえプラスだとしても、それならよいで済まされるのかだ。人心を堕落させる風俗産業や大麻などの麻薬産業、それに人殺しの道具を作って売る銃器・兵器産業などと同様、税収や雇用などの経済効果と身を護り国を守る上での有用性はあるとしても、その前に倫理・人道上はたして許されるのかで考えなければならないのでは。
 それらは他の誰かに損失・犠牲を負わせ、不幸・悲惨に陥れることになる必然性を前提にして自らの欲望を達成し、或はサバイバルを確保するというものだからである。
我が国では賭博は古来よりご法度とされ、戦後、最高裁判例では賭博を処罰する根拠として「健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風を害する」ことを指摘している。
 ところが戦後復興に際して財源確保のため「公営ギャンブル」として特例で認められてきた競馬・競輪・宝くじなどと、法的に賭博ではなく「遊戯」と見なして容認されてきたパチンコなどと合わせて、実質的に既に世界最大のギャンブル大国となり、ギャンブル依存症の有病率も最悪の国となってしまっている。かてて加えてカジノまでも容認されるとなれば、オリンピックと万博で観光客を呼び込み、カジノで税収や雇用が増えたとしても、それで得意がるような日本人だったのか、と思うのだが如何なものだろうか。

2019年02月07日

普天間は無条件撤去こそが現実的

 先日の朝日「声」の『憲法学者は普天間の危険性を問え』で、投降者は「米軍普天間基地の問題解決については『即時返還を求めれば良い』というのは現実的でない」とし、一日も早い全面返還を果たすには辺野古に代替基地を建設する以外にないかのように思っておられるようだ。
 しかし、辺野古沿岸の埋め立てには、その北側海域にマヨネーズ状の超軟弱地盤の存在が明らかになっており、大掛かりな地盤改良工事か、もしくは建設区域と設計の変更が必要となっており、建設費はさらにかさみ、はたしてどれだけかかって、何年後に完成するのか。いつとも分からないその完成を待っての返還実現を当てにする、その方が非現実的なのではあるまいか。
 そもそも、普天間基地は、米軍が占領に際して、国際法(ハーグ陸戦法規)に違反して住民の土地を強奪(彼らを収容している間に一方的に接収)して、そこに建設した基地であり、無条件で返還するのが筋で、辺野古などに代替地を提供しなければ返還できないという筋合いのものではないのである。
 仲井間元知事は「5年以内に普天間基地の運用停止」を約束に辺野古埋め立て基地建設を承認したが、5年という期限はこの2月で切れる。その点でも、即時無条件撤去はけっして無理無法な要求ではないのでは。

2019年03月08日

米沢から再び戦没者を出すようなことにならないように

 米沢市の太平洋戦争戦没者数は約2,400人だそうですが、山形県全体では約4万人(そのうち沖縄戦で765人、大部分は海外で戦死)だそうです。
 当時は徴兵制で、兵隊は強制的に召集。その際、市役所・町村役場の職員(兵事係)が適齢者名簿を作成して軍に提出することが義務付けられていて、それに基づいて召集令状(赤紙)が本人に届けられた。
 現在の自衛隊は志願制で、警察官などの公務員や民間の会社員と同様に就職の形で、応募した志望者から採用されるが、その募集に際しては、防衛省は自衛隊法などの法令で都道府県・市町村(自治体)に広報や名簿提供などの協力を求めることができることになっている。しかし、名簿(住所・氏名・生年月日など)は個人情報でありプライバシー権が保護されなければならず、本人の同意なしにはむやみに提供したりしてはならない筋合いのも。法令で「提出を求めることができる」とはなっていても、提出に応じる義務はないわけである。
 ところが、ここにきて安倍首相は自衛隊の「新規隊員募集に対して6割以上の自治体が協力を拒否している。そのような自治体が円滑に義務を遂行するために自衛隊の憲法明記が必要なのだ」と言い立てている。(名簿そのものの提出は36%にとどまるとしても、住民基本台帳の閲覧や書き写しを認める形で協力している自治体を含めれば9割にものぼり、名簿提出にも閲覧にも応じていないのは全1,741自治体のうち5自治体だけ。)
 集団的自衛権の行使容認、安保法制の改変で、自衛隊が海外で米軍など同盟国の戦闘支援に加わる形で参戦できるように既に解釈改憲されてしまったが、そのうえ、さらに9条に自衛隊を追記して明文化することによって、自衛隊員募集に際して自治体に名簿提出などの協力義務付けを含めて合法化しようとし、その改憲を正当化しているわけです。
 そこで米沢では、市役所が防衛省からの自衛隊員募集への協力要請に対してどんな対応をしているのか、云われるまま名簿提出までしてはいまいか知りたいところです。いずれにしても、自衛隊員募集に際して自治体に協力を義務付けるようにするため、などといったことを理由とする自衛隊明記改憲の策動に異議・反対を果敢に主張できるような議員に1人でも多く当選してもらわなければならい。米沢から戦没者を再び出すようなことにならないように!

2019年04月27日

政権の評価は厳しい目で、野党の評価は長い目で

 先(4月25日朝日・声欄)の投稿「政権の評価 長い目で見よう」について。その例示に日米安保条約を取り上げ、それに対してかつては激しい反対運動があったのに、今はもう起きなくなっているということを指摘しておられる。しかし、その反対運動がわき上がったのは、当時(60年)は、条約改定があったのと、条約の有効期限10年目(70年)に当たっていたからであり、それが沈静化したのは、国民世論が一部の過激行動で反対運動の激化に嫌気をさし、岸内閣退陣後、池田内閣による所得倍増政策・高度経済成長に関心が向かうようになったからだろう。それ以後、条約はずうっと自動延長とされ、検証も議論もないまま国会にも国民にもその是非が問われることがなかった。それでも近年「安保関連法」の強行採決で反対運動は再燃を見せているのだ。
 「長い目で見よう」というなら、辺野古基地建設についても反対などせずに黙って「長い目で見よう」というのだろうか。
 政権は官僚組織やメディアに対して強い支配力を持ち、その政策は国民生活に現実的に影響するだけに、いつでも非は非として厳しく追及し批判を加えて然るべきなのであって、黙って見過ごして済ますわけにはいかない。「長い目で見よう」というなら、むしろ野党の評価に対していうべきことなのではあるまいか。


2019年05月11日

改元の政治利用―改憲へ

 元号制や天皇制自体にも問題はあるが(世襲制は理論的には民主主義と矛盾し、天皇代替わりの度に年号を変えて時代を区分するというやり方も、年代を数えるのには不便だとか)、それらはさて置くとしても、今回、問題なのは安倍首相が改元ムードを煽って、それを政治利用していることだ。
 まずは安倍首相が新元号決定に関与―一専門家に色んな案を出させ、有識者が検討、衆参両院正副議長の意見聴取、全閣僚会議で協議、といった手順を踏んではいるが、最終的には首相に一任されて「令和」と決した。
 4月1日官房長官がそれを発表し、その直後に首相が記者会見を開いて自ら説明。マスコミはそれを大々的に報じ、直後(共同通信社)の世論調査で新元号「令和」に好感をもった人は73.7%と高評、内閣支持率は40%台から50%に急上昇し、5月1~2日調査でも50%を超えた(不支持は30%余)。
 そして4月30日の前天皇退位の儀式で安倍首相が「国民代表の辞」。明くる5月1日、新元号に切り替わる瞬間に群衆がカウントダウン。その日、新天皇即位の儀式で再び安倍首相が「国民代表の辞」。そして4日一般参賀で大群衆が万歳。その前後10連休。その間、奉祝ムードが盛り上がって改元フィーバー。(令和の「和」って付和雷同の「和」なんでは?)
 安倍首相は自ら演出したそれら天皇代替わり・改元イベントと「新時代到来」の気運を、自らの野望実現に最大限利用。その野望とは―それは改憲にほかなるまい。
 前の平成時代の間、(NHKの世論調査では)改憲は、最初の頃(平成4年)は「必要なし」(42%)が「必要あり」(35%)を上回っていたのが、間もなく逆転し、半ば過ぎ(平成17年)には改憲「必要あり」(62%)の方が「必要なし」(17%)を大幅に上回り、後半にはその差がしだいに縮まっていった(平成29年には「必要あり」が43%、「必要なし」が34%)。安倍首相はそれを、改元とともに改憲ムードを煽って再び盛り返し、一気に改憲発議・国民投票にこぎつけて、祖父(岸元首相)の遺志実現を果たそうというわけだ。
 4月23日、改憲派国会議員らが開いた「新しい憲法を制定する推進大会」に安倍首相がメッセージを送り、「令和元年という新しい時代のスタートラインに立って国の未来像について真正面から議論を行うべきときにきている」と。そして自民党改憲推進本部長の下村元文科省は「令和の時代が始まる。このときこそ、国民と憲法改正のうねりをつくるときだ」と。その会場で採択された決議には「令和の憲法大改正を切に願う」などと唱っている。
 改元には、もう一つ「リセット」効果もある。これまで引きずってきた嫌なこと、都合の悪いことは、きれいさっぱり忘れてもらい、無かったことにするという効果だが、モリカケ問題―国政の私物化問題など忘れてなるものか。それに今度は天皇の代替わり改元イベントの政治利用、いわば、それも私物化だ。そんなことは許してなるものかだ!

2019年06月30日

年金選挙、さあ投票に行かなくちゃ!

 朝日新聞(6月30日「声」欄)に次のような投稿があった。
 「私たちが望むこと」それは「年をとろうと若かろうと、お金があろうとなかろうと、人間らしく生きられる世の中」。「私たちが保険料も税金もきちんと納めているのに、なぜ高額な不足分が出るのか。集め方が足りないのか、使い方が間違っているのか、あるいはその両方か。」「『2千万円をためる』ことをめいめいに課し、できない人を見捨てる現実。」「安心して老後を暮らせる社会にするために、私は投票に行く。」
 まったく同感。
 「なぜ高額な不足分が出るのか」。そこには公的年金制度の運営の仕方に(給付と負担を均衡させるため年金額の伸びを物価上昇よりも低く抑えて実質的に削減する自動調整装置として)マクロ経済スライドと称する方法が用いられ、それによって年金給付がどんどん減らされていくという問題がある。保険料の「集め方が足りない」というのには、高額所得者の年金保険料を、年収1000万円を上限にそれ以上多く年収があっても、その分はカットという優遇措置を認めている問題がある。集めた保険料や税の「使い方が間違っている」というのには、年金積立金を必要以上に(200兆円も)積み立てて株式市場などに投機的に運用しているとか、税金を米軍の駐留経費「思いやり予算」や沖縄の新基地建設費、兵器の爆買いなどにつぎ込んでいるといった問題もある。
 これら年金に関わる問題に対して共産党は、マクロ経済スライドを廃止して「減らない年金」案を提案。その財源として高所得者の年金保険料の上限を年収1000万円から2000万円に引き上げて1兆円規模で確保できるようにする。それに異常に貯め込まれた年金積立金を計画的に取り崩して活用する。辺野古基地建設は中止し、「思いやり予算」は廃止、兵器の爆買いをやめる等々の提案も行っている。
 この年金問題は「年をとろうと若かろうと」ということで、なにも年寄りのことに限った問題ではなく、むしろ若者の方が割を食う深刻な問題なのである。今はまだ70代後半以上の高齢者なら「年金生活者」ということで、働けなくても公的年金だけでどうにか暮らせている、といえる人が少なくあるまい。しかし65歳になる人は公的年金だけでは(95歳まで生きるには)2000万円不足するというわけであるが、それが(マクロ経済スライドのやり方のままでは)41歳以下の人では3万6000円も不足する計算になるというではないか。そんなことになってはとんでもないというなら、若い人たちこそ「安心して老後を暮らせる社会にするために」ぜひとも投票に行かなくちゃ。
 改憲―9条に自衛隊が明記されたら、自衛隊は堂々と軍事活動ができ戦争もできるようになってしまうが、戦わされる自衛隊員は若者たち。そこでも割を食うのは若者たちだ。そんな改憲、それに消費税10%、原発再稼働、どれもこれも許してよいのか。御免だ!

2019年09月11日

いじめ・仲直りの握手で終わらず―日韓問題

 9日NHK「ニュースウオッチ9」の中で「いじめ・仲直りの握手で終わらず」という話題が取り上げられていた。
 小学校で、先生が双方を呼んで、いじめた子に「そういうことをしたらダメだよ」と叱った後、直ぐに「これで仲直りね」と、促されるまま握手に応じてその場は収まった。ところが、いじめはそれで終わることなく、その後も続いた―と、今は20代になっているいじめられた方が証言していた。「そこで受けた言葉や暴力、先生からの言葉が全部ずっと頭の中にあって、これから先も一生消えることのないものだと思います」と。
 仲直りの握手をして収まったと思いきや、それで終わることなく、ずっと尾を引いていた、というのだ。
 「いじめ問題」などで、「いじめた」側はとかく「そんなことをした覚えはない」などと、無自覚であったり、「そんなに酷いことをしたとは思っていない」などと、さほど罪悪感をもたないが、「いじめられた」側は、その心の傷の痛みはいつまでも残って忘れ去ることはできない、といったことが多い。いわゆる「足を踏んだ側は、踏まれた側の痛みがわからない」ということで、加害者側は被害者側の痛み(精神的損害)に対して評価が甘くなりがちだが、被害者側は厳しい。
 また、とかく、いじめた加害側の当人はもとより、仲裁に立った先生や親同士が、早々に事を収めたいばかりに、とりあえず、いじめた本人に自覚・反省が不十分なまま「御免、御免、悪かった」といって謝らせておいて、「よし、これで仲直りだ。それじゃ握手」「あとは、これまでの(過去の)ことは、いつまでも引きずらず、水に流して忘れることにしよう」などと云って済ませてしまいがち。
 そういえば、このような「いじめ問題」めいたトラブルが国をまたがって起きている。1965年、日韓請求権協定を結んで握手を交わし、日本政府側は、韓国側にカネは出しても「これは『賠償金』ではなく、国への『協力金』或いは『支援金』だとして、これで清算・和解した」ということで、それで「完全かつ最終的に解決した」と思いこんでいたのに対して、韓国側ではその後、被害者(元徴用工や慰安婦)たちの間で「個人への謝罪と慰謝料なしでは済まされない」との訴えがもちあがって、訴訟を起こした元徴用工が相手取った日本企業に対して韓国最高裁が慰謝料の支払いを命じる判決を下すに至ったことによって、日本政府はそれに反発し、日韓の関係はここにきて極度にこじれる事態となっている。戦前・戦中の日韓の間のいわば「いじめ」問題は1965年の「仲直りの握手」で解決し終わってはいなかった、ということがはっきりしたわけだ。

2019年10月01日

原発に求められるのは絶対的安全性

 原発刑事訴訟判決は、原発には「当時の社会通念」から「絶対的安全性の確保」まで求められてはいなかった、として経営陣を免罪。
 「当時の社会通念」というのは原発の「安全神話」に安住するというものであり、それは庶民の間ならいざしらず、原発事業の最高幹部たる者にまで、そんな「社会通念」を反映した法的枠組みを当てはめて、あれで仕方なかったかのように論じている。しかし、常人にはない危機管理能力(最悪の事態まで想定し、リスクを事前に察知して対処できる能力)が求められる彼らに対して、そのような「社会通念」レベルの甘さで評価して済ませてよいものか。
 自動車や飛行機など交通事故に比べれば原発事故のリスクは確率的には微小だが、交通事故の場合は、被害は乗っている人とぶつけられた人だけにしか及ばないのに対して、原発事故の場合は、広範囲かつ長期に渡って計り知れない人的・環境的被害がもたらされる。
 自然の猛威は、人間の科学・技術がたとえどんなに進歩しても、それによってコントロールし切れるようなものではあるまい。それこそが「社会通念」というものだろう。
 原発に求められるのは絶対的安全性であり、それには運転停止・廃炉しかあるまい。 

2020年06月05日

休校・休業の前に、先ずは検査

 感染対策で、これまで学校などは、2月27日安倍首相の「いきなり」の「全国一斉休校」要請以来、どの学校も校内における感染の有無確認もなしに、やみくもに休校措置が講じられてきたが、それでは感染防止効果は果たしてどれだけあったのか、測りようがないわけである。
 それに休校には子どもの心身に及ぼすデメリットと保護者に及ぼす影響が大きく、様々な弊害が伴っている。
 どうしても休校措置が必要ならば、先ずは生徒・職員全員を症状の有無にかかわらずPCR等の検査をして、感染の有無を調べたうえで、感染者は登校・出勤を停止(隔離)し、その学級、その学校を限定して閉鎖・臨時休校とする、という手順を踏むべきなのでは。
 それに、全校検査によって自分も、クラス内・校内のみんなも感染者でないことが分かれば安心を得ることができ、「人にうつすか、うつされるかもしれないから、学校に行きたくない、休校にしてほしい」などといった不安や心配を解消できることにもなる。
 今までのところ我が国では検査体制の著しい立ち遅れがあるが、早急に改善・拡充し、当面2波・3波に備え、さらなる再来にも備えなければならない。(中国・武漢など市民全員検査を実行している国もあり、我が国でも、学校生徒に全員検査を実施することなど不可能なことではあるまい。)
 休校・休業よりも、検査を徹底することによって万全を期したほうが合理的で得策なのでは(生命・健康と経済・教育・文化との両立でも、人的資源の投入・財政負担*の点でも)。

 *PCR検査への財政負担といえば、武漢市ではほぼ全市民(990万人)検査に日本円にして約130億円だったとのことだが、それをもとに単純計算すれば、日本で全国民(1億2600万人)検査したとしても1654億円程度。

2020年06月07日

検査体制の拡充・徹底

 PCRなど(抗原検査もあわせて)の検査体制の拡充・徹底―感染者の早期発見(特定)して隔離(入院)―「積極的な検査戦略」 
 これまでは強い症状(37度5分が4日以上続いている等)が表れた有症者に限定(受動的な検査戦略)→
 広島・岩手・愛知など18道県の知事が「感染拡大を防止しながら経済・社会活動を正常化する『緊急提言』」
 ① ごく軽症も含むすべての有症者やすべての接触者への速やかな検査、
 ② 医療・介護・福祉施設の従事者・入院者・入所者には症状の有無にかかわらず検査。
 国からの財源投下(予算の確保)―PCR検査センターの設置・維持に必要な予算は日本医師会の試算では4694億円、18道県「緊急提言」では2000~3000億円が必要だとしている。ところが政府の第2次補正予算案ではPCR検査センター設置とPCR・抗原検査の実施として計上しているのはわずか366億円。
 中国・武漢市ではほぼ全市民(990万人)検査に日本円にして約130億円だったとのことだが、それをもとに単純計算すれば、日本で全国民(1億2600万人)検査したとしても1654億円程度。
 いずれにしろ数千億円を投入して実現すべき。
 そこで思うのだが、②に加えて学校の児童・生徒・職員にも全員に(症状の有無にかかわらず)検査をするようにすべきなのではないか。

2021年07月02日

パンデミック下での五輪開催は公共の福祉に反する

 五輪開催はIOCや政府・開催都市などにとっては公益・国益(公益団体や国や公共団体の利益―政権の政治的利益)に資するものではあるが、すべての人(個々人)の人権を調整・確保するという公共の福祉とは必ずしも適合しない。
 日本国憲法13条には「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定められている。
 五輪開催は、通常ならば、アスリートたちはもとより、またスポーツフアンに限らず、多くの人々が感動・生きがい感を共にすることができるすばらしい機会であり、その国民の幸福追求権に対して、国としては最大の尊重があって然るべきなのだろう。
 しかし、今回のようなコロナ禍でのその開催は、それによってアスリートたちも含めてすべての人にとって最優先であるはずの生命と健康の安心・安全が一人も損なわれることのないようにするのは不可能であり、すべての人(個人)の人権を調整・確保すべき公共の福祉に反する結果をもたらすリスク要因となってしまう。
 そのような非常時にあっては、せっかく誘致した五輪開催ではあるが、中止もしくは再延期はやむをえないのではあるまいか。

2021年07月03日

五輪開催と感染拡大阻止は両立不可能

 コロナ禍での「安心・安全な五輪」と「命と健康の安心・安全のための感染対策」との両立は可能なのかといえば、それは不可能。各国選手も含めて世界の諸国民にとって一番大事なのは「生命と健康の安心・安全」であり、そのための感染対策を徹底しようとするならば、五輪の方は断念せざるを得ないのではあるまいか。
 コロナ禍の最中に五輪開催を決行したら、コロナ収束と五輪は両方とも中途半端になり、五輪開催の方は、たとえ、それに備えて万全な感染対策を講じたとしても、選手たちは「バブル」に包まれて安全・安心どころか、不安に包まれての滞在・出場となり、競技に思う存分力を発揮することはできまいし、観客・観戦者も思う存分応援し感動を味わうこともできない。一方、国内感染の拡大防止対策の方も中途半端になり、五輪開催に伴う人流増は避けがたく、開催期間中、感染拡大を抑え込めるはずはなく、収束を長引かせる結果となる。
 ただ、会場は無観客とし、各々自宅でテレビ観戦ということになれば、仕事のテレワーク同様に感染防止対策にはなるのかもしれない。しかしそれでは、IOCは放送権料やスポンサー契約料が得られ、放送局は広告料が得られるが、開催地の日本人納税者には何のメリットもないことになる。いずれにしろ、極めて中途半端で、両立は非常に困難。
 命と健康の安心・安全が最優先ならば、開催中止か延期しかあるまい。それでも開催強行ならば、感染拡大抑え込みと早期収束の方を断念するしかなくなるのでは。

2021年09月04日

菅首相、総裁選立候補辞退

 9月3日昼のニュースで、「菅首相、総裁選不出馬―コロナ対策に専念するため」とのこと。29日に総裁選があって新総裁が決まり、30日に菅総裁の任期が切れる。そこで菅政権は終わることになるわけだ。
 「コロナ対策に専念」といっても、あと一月もないこの間に何ができるか。コロナ対策とはそもそも両立できないはずのオリパラ開催なのだが(コロナ対策の方はやるべきことをやらずに)、オリパラをやり終えたところで、コロナ対策に「専念―全エネルギーを傾注」して退任間際のこの短期間に何ができるのかだ。その気になれば一つできることがあるとすれば、(たまたま、この日の朝「テレ朝」の「モーニングショー」で玉川コメンテータが指摘していたように)「野戦病院的な臨時の大規模病院を、自衛隊を使ってでも10日ぐらいで作る(総裁選に出馬を表明している岸田氏は既に『野戦病院』開設を公約しているが、その場合は総裁選で選出され、その後国会で首相に選出された後でなければ権限を行使できず、それを実現するにも1ヵ月以上かかるが、在任中の菅首相であればできないことではない)」といったことなんかは菅首相の残りわずかな在任中でもできるのかもしれない。
 それにつけても、国会(6月に通常国会を閉会して以降2カ月半も休会のまま、野党が再三開催を求め、憲法53条に基づいて要求したにもかかわらず、それを拒否し続けてきた)―まずは国会を開いて、そこでコロナ対策(病床の確保策や予備費など)を、与野党と集中的に協議すること。臨時の大規模医療施設のことは、かねてより野党や医師会などからも提起されていることなのだ。
 今こそ国会をコロナ対策で緊急召集して、「野戦病院」の開設その他、今直ぐにでもやれる、やらなければならない有効な具体策を与野党にはかり、知恵と支持・協力を得て断行する、というのであればよいわけであるが、それをせず、最後まで国会をひらかずに、そこから逃げ去るがごとく退任するのであれば、国会に対して、ひいては国民に対して無責任との誹りは免れまい。

2021年09月20日

自民党のメデイァ露出の多さ

 17日の「天声人語」は、「総裁選の報道に騒ぎすぎの面はあると思うが」としながらも、「それは野党の低迷を映し出す鏡でもある」と断じている。それをタレントのことを引き合いに出して、彼らは「露出の少なさをテレビのせいにはしない。タレントの魅力を磨き、営業努力するまでだ」が、なのに野党が「自民党の露出の多さを嘆き、テレビのせいにする」のはお門違いで、野党の「露出」の少なさは努力不足で自己責任でもあるかのような論じ方に思えた。
 報道機関が政党・政治家に出演や政策などの紹介・説明の機会を提供する場合は、タレントにそれらの機会を提供するのとは異なり、放送法に基づく「不偏不党」の原則があり、政権党か野党かとか、政策・理念や活動・実績がどうあれ、特定の政党・政治家に偏って機会を提供したり、しなかったりするようなことがあってはならないわけである。また、野党であっても政権交代を目指して「政策を磨き、人々の声をすくい上げる」活動に懸命に取り組み努力を積んでいるはずなのに、野党には露出が少なく、まるで敵失につけ込み批判する以外に見るべきものはないかのような印象を与えるメディアの政権与党に偏った不公平な扱いにこそ問題があるのでは。
 総裁選報道が、事実上その党の宣伝効果を持つことは否めないだろう。政党の「一強多弱」傾向はこのようなメディアによる「印象操作」のたまものとさえ思えてしまう。ほとんどの人は政権党以外に野党の諸政策・活動実態など単発的にしか目にするすることができない。メディアはほんのわずかしか取り上げないのだから。
 ただ、政権党の政策が実行される人々の暮らしへの影響度からいえば、メディアは政権党の政策と動向を、良きにつけ悪しきにつけ国民に先ずもって知らせなければならないという、やむを得ざる必要上、どうしても政権党の露出が多くならざるを得ないのだという言い分もあろう。それならば、それをそのまま無批判に垂れ流すのではなく、それに対する論評(問題点の指摘)や野党の批判も加えるなど然るべきやり方が必要。
 それにしても、総選挙を間近に控え、メディアは有権者に公正な判断材料を与えるよう努め、印象操作とかアンフェアにならないようにしなければならないわけである。

 尚、9月21日の同紙の『声』欄に「自民党総裁選より衆院選の情報を」として次のような投稿があった。
各メディア、特に各局テレビのワイドショーでは連日連夜の総裁選報道―「さながら『自民党宣伝戦略』の片棒を担いでいるように思える。」「一方的な政権側に関する情報だけでではなく、野党側の訴えや動き、考え方などを幅広く報道してほしい。」「衆院選で一票を行使するための情報の、公平な立場に立った発信をお願いしたいものだ」と。
 24日、テレビ朝日のモーニングショーでは、「野党トップを生直撃・巨大与党にどう対抗?」と銘打って野党4党の(正or副)トップが出演、各党の政策を紹介し、質問に答えていた。メディアは、このところずうっと総裁選4候補ばかりの自民党の独壇場であったが、このように野党にも公平な「露出」(出番が)あって然るべきだろう。

2022年06月30日

先ずは「撃ち方やめ!」停戦交渉

 ウクライナでは戦火がいつ果てるとこもなく激戦が続いている。火事に例えるならば、放火犯は断固追及し懲罰しなければならないが、火が燃え盛っている最中にあっては、先ずは消化し鎮火させ、類焼を防いで、犠牲者を救出するのが先決。それがどうも火に油を注いでいるような対応になってしまっている気がしてならないのだが。
 火事ならば消防隊が放水機を持ち込んで火消しに当たるが、戦闘部隊は火器を持ち込んで撃ち合う、それにアメリカなどNATO諸国が武器供与して支援をするというのは、まさに火に油を注ぐようなもので、抗戦とそれへの軍事支援はかえって戦火を呼び込む結果になるということではあるまいか。
 だから、このような対応は避け、武器を置いて不戦・停戦を決断し、交渉の場を持ち、武力を背景とはせずに、道理にのみ依拠して対応するのが、むしろ得策なのでは。
戦火を鎮火させるには「撃ち方」(戦闘)をやめ停戦するしかない。双方とも、或いはどちらか一方が撃ち方をやめれば戦闘は止み、鎮火するわけである。
 しかし、かつて戦争した日本のように「撃ちてし止まむ」で、敵を打ち破るまでやめない、やめるなら侵攻・仕掛けてきた方が先、さもなければ、やめるわけにはいかない、という心情はわかる。だからといって、居住地が戦場となり、戦火にさらされ巻き込まれて犠牲を被っている子供たちや無辜の住民のことを思うと、かわいそうで仕方ない。それに、この戦争の影響で世界の多くの人々が不安と欠乏にあえぐ事態ともなっている。
 いずれロシア側に対する責任追及は必要不可欠だが、先ずは何はさておき停戦。そのうえで双方の代表に然るべき仲介者が入って協議・収拾。一日も早く両国の和平と世界の平和回復を図ることを願ってやまない。いずれロシア側に対する責任追及は必要不可欠だが、先ずは何はさておき停戦。そのうえで双方の代表に然るべき仲介者が入って協議・収拾。一日も早く両国の和平と世界の平和回復を図ることを願ってやまない。

2022年08月08日

参院選の結果を見て思ったこと

 岸田政権は、地球温暖化対策・脱炭素化のエネルギー政策では、再エネ・省エネ推進よりも原発の「最大限活用」の方針。しかし原発には、地震・津波などの自然災害による事故だけでなく、戦争やテロの攻撃対象となる危険も。
 参院選の当選者は(非改選議員とも)それらに関してどのような考えなのかといえば、(朝日新聞社と東大谷口研究室の共同調査によれば)
 ①原発推進派(45%)が廃止派(28%)を上回る。
 ②気候変動問題に対応するには「生活水準を犠牲にするほど重要問題ではない」は7%
で、「生活水準を犠牲にすることも必要」が41%だが、中立(どちらともいえない)は52%。
 ③防衛力の強化に賛成派が73%。④改憲派が67%(3分の1)で、そのうち9条に自衛隊保持明記が必要との考え78%。
 これらの当選者・議員に共通する価値観では、原発事故・異常気象・戦争など最悪の事態発生で犠牲になる生命よりも、生活水準・経済成長の維持と、戦争が起きても大丈夫なように防衛力を強化することの方が大事というわけか。
 しかし、人々にとって一番大事なのは生命であり、それを子々孫々にわたって守り抜く一番確実な対策は脱原発であり、脱炭素・脱成長そして脱軍事のはず。
 先月、東京地裁が福島第一原発事故の東電株主訴訟で当時の経営トップらに13兆円もの賠償責任を認める判決を下した。その前月の避難者訴訟の最高裁判決では、国には賠償責任はなしとされたが、それには裁判官4人中1人の反対意見が付記されていて、そこで「生存を基礎とする人格権は憲法が保障する最も重要な価値」と指摘。つまり原発稼働による経済活動を優先し、人の生命や身体を脅かすことは許されないということだ。

2023年03月05日

軍備さえ廃すれば戦争なき恒久平和が実現

 いつ終わるともないウクライナ戦争に思う。戦争には殺傷・破壊が伴う(端的に言えば「殺し合い」だ)。その戦争が起こる要因は(1)国家間に対立・紛争があること。(2)武器・軍備を持ち合っていること。(3)一方に挑戦(攻撃仕掛けようとする)意志(意欲)が生じ(掻き立てられ)ること。(4)他方に抗戦(応戦)意志が生じ(掻き立てられ)ること。これら4つがあって戦争は起こる。
 このうちの決定的要件は(2)で、互いが武器・軍備を持ち合っていること。それさえなければ、(1)の国家間対立・紛争はあっても、(3)の挑戦意志も、(4)の応戦意志も生じ(掻き立てられ)ることなく戦争は起こらない。なのに、双方とも武器・軍備を持ち合っているばかりに、武力を行使し合って戦争になる。又、(3)で一方に挑戦意志が生じても、(4)で他方が武器・軍備を持たないか、応戦意志がなければ戦争にはならない。
 ウクライナ戦争の場合は1から4まで全てがそろって戦争が起きて止まらなくなっている。
それに対して日本の憲法(9条)は戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が原則で、(2)の武力・軍備を持たず、(4)の交戦意志も持たないのであれば、どの国も日本との戦争は起きないことになる。
 「武器を取りつつも平和を掲げる現実的平和」論なるものを論じる向きがあるが、それは武器を取って戦い合い殺し合うのが平和のためであるかのように合理化して、「防衛力」(武力)強化を正当化する。そのような誤魔化しではなく、9条の正論(真正の平和・人間の安全保障論)の必要性を自覚し、むしろそれ(9条)を国連憲章にも各国にも「かくあるべし」と世界に押し広げることこそが切望されるのではないだろうか。
 ウクライナ戦争の有様を見て、日本の平和憲法(9条)がいかに大事か、気づかされた。

2023年03月15日

命を懸けるべきは戦争か、不戦平和か?―日本人に求められている覚悟

 新聞広告に出ている小林よしのり著『ウクライナ戦争論』の広告文に「『お花畑国家』日本の警告する!」「第3次世界大戦が始まるのか?『国家』がある限り『戦争』はなくならない!」「ロシア、中国、北朝鮮という『核』を保有する独裁国家に囲まれた日本は、いざというとき戦う覚悟はあるのか?」「世界で一番臆病な戦後日本人は、ウクライナ人のように、侵略者と戦うことができるのだろうか」「次は・・・・中国によって台湾が主戦場になるだろう。そうなれば日本は戦争の当事国とならざるを得ない。・・・・日本人は覚悟を求められているのだ」などと。

 朝日新聞の昨年12月の「声」投稿に『平和教育はこのままでよいか』などの投稿があって、「戦争は絶対いけないと叫ぶだけでは・・・・」とか、「たとえ侵略されてもいかなる場合も、戦争は否定されるべきか」「ウクライナ国民が徹底抗戦することを、どう考えたらよいか」
 「もしミサイルが落ちたら、他国が攻めてきたら、その時どうするのか」「武器そのものを否定する『理想的平和』に対し、武器を取りつつも平和を掲げる『現実的平和』
 3月14日の投稿には『未来のロシア国民 支払う代償は』には「ウクライナ人の愛国精神」「諸外国からの武器供与によって持ちこたえている」「子供たちの心にはロシアに対する憎しみだけが、拭い去ることのできない思いとして残ることだろう」「この戦いは、プーチン大統領一人の決断で終えることができるはず」と。

 このウクライナ戦争は、そもそもどうして起こったのか、どうして止められないか。その経緯・経過には地政学的に複雑な絡み合いがあると思うのだが、これらの投稿では、それが「ロシアの侵略戦争」対「ウクライナの自衛戦争」に単純化されているように思われる。
 ウクライナは、歴史を遡れば、ロシア帝国~ソ連という国の一部として組み込まれてきて、そこにはロシア人も住んできた。それがソ連解体にともなって独立することになったのだが、そのウクライナには、ウクライナ系住民(カトリック教徒)が主として北西部に(全人口の)約3分の2、ロシア系住民(ロシア正教徒)が主として東南部に3分の1居住。
 東西冷戦時代ソ連は、西側の軍事同盟NATOに対して東欧諸国と同盟WATOを組んできたが、ソ連解体とともにWATOは解体し、その後東欧諸国は次々とNATO加盟に向かい、ロシアは孤立する形勢となった。ウクライナでは親米欧派(NATO・EU加盟支持派)と親ロシア派の国内対立が生じ、大統領選挙などその度に政変が引き起った。そして2,014年に「マイダン革命」で親ロシア派とされた大統領が追放、親米欧派政権樹立に及んで東南部のロシア系住民が離反、内戦が始まった。クリミア半島はロシア連邦に編入、東部ドンバス地方では2つの人民共和国が独立してウクライナ政府軍と間で攻防戦を続け今に至っているわけである。

 ロシアはウクライナ侵攻を、大統領はもとより、国民の多くも、それが必要だとする理由の正当性を疑っておらず、「侵略」だとは思っていない。愛国精神もあるだろうし、母国ロシアの安全保障にとって米欧同盟NATOとそれへのウクライナ加盟に脅威を覚え、それにウクライナ(東南部)に住むロシア人を護れという同胞意識もあるのだろう。
 それに対してウクライナ人にとっては、その愛国精神とロシアに対する脅威から、侵攻したロシア軍に対する単なる自衛抗戦だけでなく、ロシア人居住地域が分離独立したり、併合されたりした領土の奪還までが戦争目的となっている。

 そういうことで、それぞれの戦争目的があって、その目的を果たすまで戦い続けなければならず、傍から「もう、やめろ」とか、大統領さえ決断すれば終えるはずだ、などといわれても、双方ともやめるわけにはいかない戦争になってしまっている

 戦争は相対するどちらかがやめれば戦争は終わるはず。なのに、双方とも自国の戦いを「正当」或いは「やむを得ざる戦争だ」としてやめようとはしない

 どちらかが力尽きて(武器弾薬・兵力が限界に達して)ギブアップしたら終わる。
ロシアが屈し(敗北し)たら、ウクライナはその戦争目的(クリミア半島とドンバス地方の奪還)を果たし、NATO加盟は確定する。ウクライナを軍事支援した米欧NATOの勝利ともなって結束は強まり、同盟は強固になる。一方ロシアは弱小国に転落。ロシア国民は国際社会で肩身の狭い立場に置かれ、国連安保理の常任理事国から外されることにもなるだろう。しかし、「核大国」ではあり続けるだろうし、その脅威は残る。
一方、ウクライナが屈したら、クリミア半島とドンバス地方などの奪還とNATO加盟は断念。

 それはともあれ、いまはどちらも屈してはおらず、主としてクリミア半島の北に連なる東部ドンバス地方で攻防が続いている。戦争が続いている間に、双方の兵士(死傷者はロシア兵の方が多い)、それにウクライナの戦闘地域で巻き込まれる民間人・子供たちの犠牲者が増す一方となる。
 戦争では(戦時国際法で無差別攻撃とか残虐行為の禁止とか不必要な犠牲や損害の規制はあっても)戦闘員の殺傷や兵器・軍事施設の破壊そのものは免罪され、殺し合いとなる。戦場や砲撃対象が人々の居住地・市街地の中にあった場合は、そこで民間人・民間施設が巻き込まれて死傷・破壊を被る。

 その国の戦争指導者や国民の人命に対する価値観・国民感情によって、人命や人道より国家の運命・戦勝・愛国心・闘争心・復讐心などが優先するか、しないかに違い(戦果に対するリスク計算の違い)があるが、両国民、それにウクライナ軍の戦いを支援する国々の国民は、当方からみれば、命を惜しまず、戦争を厭わないかのように思えて「すごい」という驚異、否むしろ「恐ろしい」という脅威を覚える。かつての我が国の軍民はまさにそのようなものだったのでは―「撃ちてし止まん」(敵を撃つまで戦いをやめない)とか「一億玉砕、火の玉だ」とか

 しかし、かつてアジア・太平洋で大戦争をして未曽有の悲惨を経験した日本国民憲法で「再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」として、9条に戦争放棄と交戦権否認を定めた、その立場からすれば、いかなる理由があろうと戦争はいけない、それは何としても回避しなければならないもの。どちらが勝っても、憎悪・怨念しか残らない、殺し合う戦争そのものが絶対悪なのだ。武器・軍備も、それは(「抑止力」「対処力」などと称しても)殺傷・破壊するための「戦力」であり、そもそも戦争するためのものであって、持続可能な平和のためのものにはならないわけであり、わが国のみならず、どの国も全廃し、「核兵器のない世界」のみならず、「すべての兵器と戦争のない世界」を目指さなければならないのだ。

 ノーベル賞作家の大江健三郎は(2004年「9条の会」発足記念講演で)「人間が身近に死者を受け止め、自分の死についても考えざるを得ないときに、倫理的なものと正面から向かい合う」(戦争直後こそ、日本人がかつてなく数多くの死者を抱え、最も倫理的になった時だった)。憲法と教育基本法は「じつに数多くの死者の身近な記憶に押し出されるようにしてつくった」ものであり、「文体は自然な倫理観がにじみ出ている」と語ったとのこと。
 要するにそれは次のようなことなのでは―
{ 戦争→死→自分の死を意識→死ぬ覚悟で行為を選択・決断→倫理(人道)に照らして
 ―武器を取って戦う(殺し合う)べきか、戦わざる(殺さざる)べきか、敵として撃つべきか、敵とせず隣人として共生べきかを選択・決断
 憲法は戦争に訴えず、武力に訴えないことを求めている }ということ。

 元日本ペンクラブ会長・作家の阿刀田氏は「『軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか』と訊かれたら、『その時は死ぬんです』と答えるつもりだ。武器を持って誰かを殺しに行くよりは、丸腰で平和を守るために命をかけたい」と。
 大戦で数多くの兵隊・民間人が死に、近親者が死んだ。その辛酸・悲惨から否が応でも戦争は二度とやってはならない。戦争で殺し殺されて死ぬより、武器を取らず殺さずに死んだ方がマシ。戦争(殺し合い)に命を懸けるよりも、平和のために命を懸けた方がマシ。同じ「死ぬ覚悟」なら、対立・紛争があっても、(たとえ相手が武器を保持しても)丸腰で立ち向かい、談判(話し合い)に臨む(「徹底抗戦」よりも「徹底話し合い」)。武器を取って殺し合う戦争はあくまで避ける。
 新渡戸稲造の名著『武士道』で取り上げられている勝海舟は幕臣で剣術は免許皆伝の腕ながらも「負けるが勝ち」(「戦わずして勝つ」)をモットーとして刀を抜かずに通したという。大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いで敗れて徳川慶喜が逃げ戻った江戸城内では、徹底抗戦派と恭順派の両派に分かれていた。一方の薩長・官軍側も、徳川家に対する厳しい処分を断行すべきとする強硬派と穏便に済ませるべきとする両派の対立があり、西郷は徳川慶喜の切腹を訴えていた強硬派であった。勝海舟は西郷との薩摩屋敷での談判に決死の覚悟で臨み、江戸城明け渡し(無血開城)に応じ、江戸の町々を戦火から救った。慶喜は切腹を免れ、自らも殺されずに済んだ。(勝海舟の西郷との会談には、剣客で無刀流の開祖・山岡鉄舟が立ち会っているが、この会談に先立って山岡が慶喜の使者として西郷と面会し慶喜恭順の意を伝え、やはり死の覚悟をもって談判に臨んでいた。)
 サムライはかくあるべし。日本人の国際貢献は、かくあるべし、という手本を身をもって示した人物には中村哲医師がいる。紛争中のアフガニスタンで医療活動とともに荒廃した農地の回復のため灌漑用水建設事業に長年携わり、対テロ戦争の最中にもかかわらず現地で動き回り、その途上テロにあって亡くなった。サムライ日本人はかくあるべし、なのでは。

 「世界で一番臆病な戦後日本人は、ウクライナ人のように、侵略者と戦うことができるのだろうか」とのことだが、臆病な日本人というのはどんな日本人のことを指しているのか。
 かつて「勝ってくるぞと勇ましく・・・・東洋平和のためならば何で命が惜しかろう」(古関裕而作曲・『露営の歌』)と歌いながら自国が侵略戦争をして惨憺たる敗北を喫した。「東洋平和」のためとか、「自存自衛」のためとかの美名のもとに戦争で多く(310万人)の日本人が死に、アジア人2千万人も死んだ。その戦争が終わって後、大江健三郎や阿刀田や中村哲のような、度胸を決めた日本人は、死を覚悟の上、憲法で不戦・戦力不保持を誓って、丸腰で世界に立ち向かうことにしたのだ、という信念で生きてきた。一方、その憲法を余所に、アメリカとの軍事同盟にすがり、武器・武力に頼らなければ中ロ・北朝鮮に立ち向かえないという向きの日本人、その方が戦後・現在に至るまで歴代政権を支持或いは容認してきた多数派日本人なのだが。ウクライナ戦争では、アメリカなどNATO軍兵士は戦闘には直接参加してはいないが、兵器供与・訓練・軍事情報など様々な軍事支援を得ながらウクライナ人は戦えているのであって、自力で頑張っているわけではないのだ。

 「国家がある限り、戦争はなくならない」というが、日本国は憲法で戦争はしないことにしており、国家があっても戦争はなくせるし、なくさなければならないという考えに立っている。(コスタリカなども常備軍は持っていない。)国連憲章は戦争を違法と定めているが、各国の自衛権と軍備は容認している。しかし、その軍備容認が違法な武力行使への抜け道になってしまう(自衛に名のもとに先制攻撃や侵攻を許してしまう結果に)。だったら、どの国も軍備(戦力・武力)は持ち合わないということ、つまり全廃にした方がよいのでは。以前国連で軍備全廃案が出たことがあったし、あり得ないことではあるまい。核兵器は安保理常任理事国だからといって、米中ロなど5大国にだけ保有を認め、他は禁止するというNPT条約は、アメリカから敵対国と見なされ、アメリカを脅威にしている北朝鮮などにとっては、受け入れられないし、核兵器はどの国も禁止とするという核兵器禁止条約に参加を求めても、核保有国とその同盟国(核の傘にある国)は参加しないという難しさがあるが、それはどちらかと云えば、他国や相手国にだけ一方的に廃棄を迫り、自国は廃棄しないという大国の傲慢・我がままの故ではなかいと思われる。廃棄を迫るなら自国が率先して廃棄すべきなのだ。核兵器に限らず、通常兵器も全ての軍備を全廃すれば、世界のどの国の国民も不安・恐怖のない平和的生存権が得られるものを。(密かに武器・兵器・軍備を持とうとする不心得者・ならず者に対しては常設の国連警察軍が違反取り締まりに当たるということにして。)
 要するに「戦争が起こる4つの要因」(かねてより論じてきた①対立・もめ事、②武器・軍備、③戦争を仕掛ける、④仕掛けられて応じる)のうち②を無くしさえすれば起きないし、②③があっても④さえなければ起きないのだ、ということ。

 平和教育は、憲法9条と「教え子を再び戦場に送るな」以外にないのであって、サムライ日本人ならば不戦・非軍事の国際平和貢献の立場で臨む以外にないのではあるまいか。「武器を取りつつも平和を掲げる現実的平和」など欺瞞というほかなく(それこそが「お花畑」の平和ボケなのでは)、そんなことで時代を担う若者や子供たちが納得して将来にわたって持続可能な平和が実現できるとは到底思えまい。

 ここまで書き上げた後3月18日になって、朝日新聞の「声」欄に、『0歳で被爆 戦争とは破壊と殺人』という78歳の方の投稿が出た。それには「生後7か月の時、広島の原爆投下の熱戦で頭半分にやけどを負いました。祖母は即死、父と祖父は約1週間後に亡くなりました。・・・・生き残った母や兄から伝えられた被爆の惨禍・・・・今、ロシアのウクライナ侵略や北朝鮮のミサイル実験などを理由に、防衛費が拡大されるのが非常に残念です。・・・・兵器の購入は戦争につながる行為。戦争とは破壊と殺人であり、絶対にしてはなりません。どんな形であれ、犠牲者をだし、決して解決にはなりません。武力よりも対話を深める努力こそが大事」とあった。
 もう一つ、『捕虜の米兵 その後を今も案じる』という86歳の方の投稿には、「ウクライナでの戦争報道に接するたびに幼い日の故郷での体験を思い出す。大 戦末期の夏、福岡県・・・の自宅で就寝中に衝撃音・・・・恐怖の夜が明け、B29が墜落し米兵が捕虜になったと知った。山狩りが続き数日後、騒々しさに家の表に出ると、軍用トラックの荷台で米兵がひざまずいていた。・・・目隠し、両手を縛られた姿で・・・近所のおばさんが『お前たちのために息子は戦死した』と泣き叫びながらトラックによじ登り、兵士を薪で打ち付けた。私は兵士が可哀想でたまらず、・・・・自宅に駆け込んで一人で泣いた。・・・・成人し、福岡での日本軍による捕虜虐殺や九州帝大の生体解剖事件を知った。あの時の兵士のその後を思うと胸が痛む。・・・・戦争は互いの命を奪い合うが、犠牲はどちらの側にも増え続ける。・・・・ロシアとウクライナで続く悲劇に、各国は止めるための力を及ぼしてほしい。」と。
 これらの投稿には同感。
 

 

2023年03月27日

軍備の保持を容認している限り戦争はなくならない

国連が各国の軍備(武力)の保持を容認している限り戦争はなくならない
 容認理由―侵略や不正な武力攻撃に対して防衛する自衛のため等の理由
 しかし、どの国も自国の軍備と戦争目的を「侵略のためだ」とか「不正な目的のためだ」などと公言する国はあるはずないし、或いは国際紛争の解決のための武力行使であっても、「先制自衛」だとか、「自存自衛」のためだとか、「自衛」を口実とするであろう。防衛のための武力と攻撃のための武力とは、世界の様々な場所・地域や様々な時期によって相対的であって、「専守防衛」とか「他国に脅威を与えない」水準の防御的兵器・軍備とはいっても判然と区別するのは困難であり不可能。
 「敵基地攻撃能力」とか「反撃能力」とか、或いは「非殺傷兵器」とか「きれいな核爆弾」などと称したりして、武器を奪うだけとか、撃ち落とすだけとか、攻撃手段を破壊するだけの、攻撃を阻止するための兵器―そのような死傷者を出さない「非殺傷」兵器や戦法など、もしもあるならば、それだけに限って保持することを容認する、といったことはあり得るとしても、AIロボット兵器などの開発はあるにしても現段階ではそのような戦争技術も兵器もどの国も持たない。
 ウクライナ戦争でも、ロシア軍の兵器・戦法による攻撃で、ウクライナ兵の戦死者は昨年12月までで1万数千人、民間人の死者は7千数百人で、その一方、米欧NATOから供与されている兵器で戦っているウクライナ軍の攻撃で戦死したロシア兵は先月2月までで4万~6万人(負傷者と合わせて20万にとも)ということで、数の上ではロシア人の犠牲者の方が多いくらいだ。
 日本の自衛隊が保持している装備は「他国に脅威を与えない」専守防衛のための軍備と称して、同盟国アメリカ軍の「核の傘」と「矛」の後ろで「盾」を持って構えるという防御的兵器を持つに留まるとされてきたのが、今や「敵基地攻撃能力」つまり「矛」まで持たせる、といったことにもなってきている。又、アメリカの「核の傘」に守られるだけでなく、NATO加盟国並みにアメリカの核共有(運用)できるようにすべきだという安倍元首相の言説もあったり、オバマ大統領当時アメリカの核先制不使用が言われたのに対して、「それは困る」と云って日本側は思い留まるよう申し入れたりもしている。そして核兵器禁止条約には背を向けている。

 このように、「自衛・防衛のため」、「抑止のため」などと兵器・軍備を持ち合っている限り、戦争はなくなるまい。
 国連は「集団安全保障」として、侵略や不正な武力攻撃を仕掛ける国があれば、それに対して加盟国が兵力を出し合って国連軍を結成して対処する(軍事制裁)というやり方をとっているが、その方はこれまで、それを主導する安保理で常任理事国(米・ロ・中・英・仏5大国)のうち一国でも拒否権を行使(反対)すれば決まらないことになっているため、朝鮮戦争と湾岸戦争に際しては安保理常任理事国に欠席や棄権があって拒否権を行使した国がなかったおかげで武力行使容認決議がなされたために、アメリカ軍主導で幾つかの国から派兵が得られ多国籍軍などと称されはしたが、正規の国連軍結成は一度も実行はされてはいない。その代わり、侵略・攻撃を仕掛けられた当事国、或いは「仕掛けられる恐れがあるから」として仕掛けた当事国によって戦争が行われたケースは度々あって、今もウクライナでそれが行われており、これからもあるだろう。現状のままでは。

2023年03月29日

ルール(国内法・国際法)の決め方・考え方

 原則―「嘘をついてはならない」「人を殺してはならない」「戦争してはならない」
①時と場合によっては守らなくてもよい、という例外を認める
「嘘も方便で、善意の嘘ならよい」「正当防衛なら殺してもよい」「自衛のためなら武力行使・戦争してもよい」(相手が悪人や「ならず者国家」なら嘘をついても、殺しても、戦争してやっつけてもかまわない)
②いかなる場合も守らなければならない(基本的に例外なし)
 ―いかなる場合も「殺してはならない」「武力を行使し戦争してはならない」

功利主義哲学―「価値倫理」は①の立場で「初めから例外容認」 
  目的(結果)の大事で、それさえ正ければ、動機や手段は問題にしない
  (国際平和・安全のためなら、それを害する国に対しては戦争に訴え、
   その国の国民の平和・安全を犠牲にし、人命を犠牲にしてもかまわない)
         ご都合主義に陥りがち(都合よく例外として正当化されてしまう)  
カント哲学―「義務倫理」は②の立場で「基本的に例外なし」(ダメなものはダメ)
  自分(自国)のその行為(「強盗に嘘をつく」嘘とか、「正当防衛」での殺傷とか、「自衛のため」の戦争とか、そのような嘘・殺傷・戦争などの行為)が、同じことを時と場合に関わらずどんな状況でも、誰に対して行っても、どの国に対して行っても当たり前のこととして許される普遍・妥当性をもち得るのでなければダメ
  目的(結果)の正しさはもとより、動機も手段も正しくなければならない
  (国際平和・安全のため、それを害している国だからといって、その国に対して戦争             
   に訴え、人命を犠牲にしてはならない。「平和を守るため戦う」というのは間違い。制裁戦争は平和をもたらさない。)
日本国憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は基本的に②、改憲派は①の立場
国連憲章は①の立場で、侵略行為や戦争を仕掛ける行為は禁止でも、自衛戦争や制裁戦争は容認。兵器の保有・軍備も(核兵器を5大国以外に禁じ、生物化学兵器や対人地雷・クラスター爆弾など禁じている以外には)どの国にも容認している。

2023年03月30日

軍事的国家安全保障から非軍事・人間の安全保障を目指すべき国連

 1945年、国連は第2次世界大戦(日独伊の枢軸国に対して米英ソ中仏などの連合国の戦争で、枢軸国がいずれも降伏)の終結に伴って戦勝国である連合国を母体とし、戦勝に主要な役割を果たした5大国が主導して発足。それは2度繰り返した大戦をこれ以上繰り返さないようにと国際平和機構として結成され、集団安全保障と個別的・集団的自衛権による安全保障に基づく国際平和を目指すものとなった。
 それは基本的に「軍備による安全保障」で、各国の軍備(軍事力)保有を前提として、それに依存。(侵略行為や違法な武力攻撃事態が発生すれば、加盟各国がら兵力を動員して対処するという集団安全保障を原則とし、それが実行されるまでの間は、侵攻された当事国が独自に、或いは同盟国と集団的に対処するというやり方。)
 ところがこういった各国の軍備保有や軍事同盟の容認が、各国間に軍事力の優劣から互いが不安・脅威を感じ、追いつ追われつの軍備強化競争から軍拡の方向へ向かってしまい、互いに不安・脅威が増す一方となる。国家間に対立・紛争があれば、戦争や武力に訴えてはならないと定めても、「先制自衛」などの口実でそれを強行したりしがちとなり、それに対して「自衛抗戦」で応じ、互いに引くに引けない戦争になってしまうということで、戦争が絶えず、繰り返されることにもなる。

 それ以前1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)があって、
 1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連がそれを提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
 1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言
     3段階に分けて4年間で全廃を提案。
   その後その年、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
 1962年、ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
   アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出

   両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。

 1978年、国連軍縮特別総会―「軍縮による安全保障」を非同盟諸国が提唱―核軍縮を最優先課題として軍備の大幅な削減と全面完全軍縮の達成によって安全保障目的の実現を目指す―しかし、それは理念の段階に留まり、現実には互いに相手国・他国に対して軍事力が劣弱となってしまう不安の方が先立ち、同等か優勢でなければ安全保障は得られないとして(むしろ大国ほど)背を向けがちで進展がみられない。
(核兵器禁止条約には核保有国は参加せず、NPT核不拡散条約は先行保有国である5大国の他は核保有禁止で、5大保有国は核軍縮に努めることと定めてはいるものの、核軍縮の方はほとんど進展が見られない)
 そして戦争は絶えることなく、繰り返されている。
 だとすれば戦争の惨禍を繰り返さなくても済むような国際秩序を作り上げるには、各国とも一気に軍備廃止(全廃)して非軍事による安全保障体制を確立すればよいのでは。
 日本国憲法は、その軍備廃止を世界に先駆けて宣言したものにほかなるまい。
 それは不可能な理想論だというなら、いつまで経っても持続可能な平和(恒久平和)は訪れないだけでなく、核戦争・世界大戦さえも繰り返され人類滅亡に至る道しかないことになろう。

 軍備全廃
 それは「戦争根絶の唯一確かな道」(花岡しげる氏)。とはいえ、その実現を可能とするには、難題があることも確かである。各国がそれに合意したとしても全廃を実行するか、しているか、点検・確認の検査・査察・検証をどの国にも属しない国連機関によって行うことが不可欠。
 密かに兵器や兵力を隠し持って武力行使・侵略行為を行う「テロ国家」・「ならず者国家」や武装勢力などが出てきたら、どうするか、それを取り締まり、鎮圧・制圧する国連警察軍が必要不可欠。これまでは、何かがあるとその都度、安保理の常任理事国になっている大国の軍事力に頼るか、加盟国(安保理が特別協定を結んだ国)が分担して兵力を提供し合って編成された国連軍によって軍事措置が行われる建て前になっていたが、大国の対立・拒否権で、それらは機能しなかった。それを変えて新たに兵員は国連職員(国際公務員)として各国から直接募集し、資金は各国で分担するが、どの国にも属しない常設の国連警察軍を設け、然るべき統制機関の下に運用するようにする、といったものが必要となるわけであるが。
 各国とも対外的に国を守る戦争や軍事活動を行う軍隊は廃止されても、国内の治安を守る警察活動は、そのままで、それまで軍隊に頼ってきた分むしろ守備範囲(責任・権限)が拡大するとも考えられ、テロ組織や武装集団に対処、武器の密造・密輸や国境警備に当たるも(日本では海上保安庁に自衛隊もそれに当たってききたが)、任務はあくまで犯罪の取り締まり。
軍備全廃には、こういったことが必要不可欠。

 国連などにおいては最重要の関心事は国際紛争とか戦争と平和の問題であり、各国とも他国との関係における自国の存立と安全保障が問題ではあるが、各人にとって日々何事かを行為して生きる目的は生命と人生を全うすることであり、最重要なのは自己の人権(生命の安全が保障され日々安心して幸福を追求しながら恐怖と欠乏と束縛から免れて暮らせる平和的生存権)が国家によって保障されることであって、国家の存立と国際平和はそのための手段にほかならない。その国家が戦争を(仕掛けたのは自国であれ他国であれ交戦)して、そのために国際安全保障環境が覆され平和的生存権が犠牲にされることがあってはならないのであり、各人にとって必要なのは国家の軍事的安全保障よりも人間の不戦・非軍事安全保障なのであって、国家安全保障はそのための手段に過ぎない。非軍事とは非軍備であり、軍備は戦争に備え戦争に応じるためのものであり、それに依存する外交は危険極まりないのであって、それに依存するのではなく脱しなければならないのだ。

2023年04月02日

政治道徳の法則に基づいて国内法でも国際法でも戦争と武力利用の禁止を

 戦争とは国家間で対立・紛争があり、それを武力で決着を付けようとして、殺傷兵器を用いて戦闘し殺し合うこと 
 人を殺傷―人間の生命を傷つけ奪う行為
 人間の生命は人間にとって道徳的諸価値のうち最高価値(一番大事なもの)―各人にとって自分の生命を全うすることが人生の究極的目的(単なる手段にされてはならない)
 各人にとって生命は、それがあってこそ、生きる喜び・希望や自由に幸福を追求する喜び・希望が得られる根源的価値を有する。
 ただ、人によっては、自分の置かれた境遇の特殊事情から主観的な思い込みで、生きていて耐え難い苦しみに苛まれなければならない生命に執着するよりも、安楽死を望むとか、その人の人生観・価値観或いは宗教心・国民感情など情念から「生命なんか犠牲にしても、それに優る大事なものがあり、そのために命を捧げたい」と思い込んでいる人や民族集団もいる。 
 しかし、全ての人が従うべき普遍的な政治道徳の法則、それに基づく法(国内法・国際法)として考える場合は、人の生命は最高価値を有する(何よりも大切なものとして扱われなければならない)ものとされる(刑罰でも死刑は廃止している国の方が多い。日本では死刑は未だ廃止されていないが、「人の生命は地球より重い」といった考え方がある)。
 それを傷つけ奪うことは最悪の不道徳であり、戦争は最悪の不道徳(最悪の非人道的行為)
 人の生命を奪った殺人犯を許せないとして死刑に処して生命を奪うのは矛盾であり、国民の生命を守るためにと武器を取って戦い、生命を犠牲にするのも矛盾である 。

 政治(国)の最大の役割は国民の生命と平和的生存権の保障(恐怖と欠乏から守ること―安心・安全の保障)
 「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」(日本国憲法前文)
 万国・万人に例外なく公平に適用されるべき国際法普遍的な政治道徳の法則に基づくものでなければならない。
 人に対する殺傷行為の禁止法も、国際法としては例外なく公平に適用されるべきものでなければならならない。正当防衛のための殺傷行為ならば例外として適用されず不問にされとか、懲罰のための殺傷行為(死刑)ならば適用されず不問にされるとか、自衛のため、或いは制裁・懲罰のための交戦(戦争)に際する殺傷行為ならば例外として適用されず不問にされるなどということのないように。そしてそれら殺傷用兵器を装備し、配備・製造・販売・取引・使用することは、核兵器はもとより、通常兵器も重火器から小型兵器に至るまで、理由の如何にかかわらず、例外なく全面的に禁止すべきなのである。さもないと戦争はなくならない。
 戦争は、互いに軍備・殺傷破壊兵器を持ち合って交戦することであり、どちらも軍備を持たなければ戦争にはならないのは勿論だが、どちらか一方でも軍備を持たなければ、或いは持っていても(まるっきり「抑止力」で「張り子の虎」の如きものでは無意味なのだが)仕掛けず、抗戦もしなければ戦闘・殺傷行為は起きないのである(「一人相撲」は成り立たない道理)。
 喧嘩してはいけないと禁じていながら、「どちらが先に手を出したか」だけを問題にして、手を出したその者を罰しただけでは収まらない(そこで「喧嘩両成敗」ということで応戦をも禁じて、喧嘩を交えること自体を禁止)それと同様に、戦争は「仕掛ける」ことだけ禁止して、どちらが先に仕掛けたかだけを問題にして非難、制裁を加えても、仕掛けられた側の交戦をもやめさせなければ、収まりつかず、いったん収まってもまた繰り返されて、戦争は無くなりはしない(「先に仕掛けた」といっても、「やられる前に先にやらねば」と「先制自衛」とか「予防戦争」と称して正当化されるし、逆に、そうなることを想定して戦争準備し、相手が仕掛けてくるのを待って「自衛抗戦」として正当化されたりすることもあるからだ)。だから軍備・兵器の保有・配備を禁止し、戦闘・交戦すること自体を禁止しなければ戦争は無くならないのだ。
 対立・紛争があって、双方が互いに軍備を持ち合っていれば、徹底的に話し合って解決しようとするよりも実力(武力)行使に走ってしまいがちとなる。先に仕掛けたのではなくても、仕掛けられた方が「徹底抗戦」だとか、戦う意志を強く持ち続ければ、双方とも武器を置かず交戦が続行され、互いに引けなくなってしまう。
 双方が軍備・兵器を持ち合って構えているかぎり、やるな!やめろ!といくらいってもやってしまう。
 だから双方とも、或いはどちらかでも、日本国憲法9条のように、戦力(軍備・武力)不保持を決め、交戦権否認を決めれば戦争は起きずに済むのである。

 国連憲章は戦争を違法として、侵略・武力攻撃を仕掛けることを禁じ、それを犯した国に対しては、「集団安全保障」ということで、安保理が非軍事または軍事的措置を決定し、軍事行動をとる場合は自ら、或いは加盟国と協定して兵力の提供を求めるかして国連軍を結成して鎮圧・制裁。安保理がその措置を取るまでの間は、暫定措置として侵略・攻撃を仕掛けられた当事国が自らの個別的自衛権によるか、或いは同盟国との集団的自衛権による武力行使を認める、というやりかたで、各国が軍備・兵器を保持することを容認し、それに頼ってきた。しかし、国連軍は(「多国籍軍」とか「有志連合軍」など複数国が任意に合同派遣したケースはあるものの)正式な手順を踏んだ国連軍は未だかつて結成されたことがない。違法な武力行使・侵略なのか否かを認定して措置を決定するのは安保理だが、その5大常任理事国には拒否権を認めており、一国でも反対すると決まらない、ということもあって「集団安全保障体制」は機能しておらず、事実上個別的・集団的自衛権の行使に任せている状態。憲章は、戦争は違法と定めながら、これらが法の抜け穴となっていて、戦争は無くならずに繰り返されているのだ。
 このような戦争を止められない国連の状態で、最悪の場合、第3次世界或いは核戦争の勃発を招く危険性もある。
 それを止めるには、国連憲章を改正して、日本国憲法9条のように、各国の戦力不保持を定め、各国とも軍備は全面的に廃止して、全ての兵器の保有を禁止し、各国とも交戦権を否認して、戦争を全面的に禁止する、というふうにして(それには、その違反―密かに再武装・再軍備する動き―を取り締まる査察機関と警察機関或いは武力攻撃に対処・制圧する国連警察軍の常設が必要となるが)、新たな国連を構築することが焦眉・喫緊の課題なのでは。


2023年04月06日

戦争を無くすには

 国連憲章や不戦条約には、国際紛争を解決する手段として戦争や武力に訴えることは否認している。
 日本国憲法9条には、そのことは1項で定めているが、2項には戦力不保持・交戦権否認までも定めている。
 戦争が起こる要因には4つ(①対立・紛争があること、②武器・武力を保持していること、③武力攻撃を仕掛けること、④仕掛けられて応戦すること)あり、それらがあって戦争は起こるのでは。歴史上、文明社会になって武器が作られて戦争が行われるようになり、現代兵器に至るまで、様々な兵器や戦法を駆使して交戦が繰り返されてきた。そして今、又これからも、核兵器まで使われ大戦が行われようになったらどうなるのか。
 9条は、他国とは(①「対立・紛争」はあっても)、戦力不保持で②武器・武力は保持しないこととし、交戦権否認で③(武力攻撃を)仕掛けないことはもとより、④の「仕掛けられて応戦する」こともしない、ということで、たとえ如何なる対立・紛争はあっても武力で戦いを交えることはしない完全に不戦の立場をとっている。
 国連憲章もこのように定め、どの国もそのように(戦力不保持・交戦権否認)すれば、世界に戦争はなくなるはず、なのでは。
 ①の対立・紛争はあっても、②③④がなければ、戦争は起きないし、9条は戦力不保持で、②をなくし、交戦権否認で③はもとより、④もなくすようにしている。つまり日本は、憲法上は他国と如何なる対立・紛争があっても戦争はしないという立場。しかし、実際は「自衛隊」の名のもとに②兵器・武力を保持し、同盟国の米軍基地を置いている。そして③は北朝鮮や中国或いはロシアなどが仕掛けてくることを想定して、④の応戦体制をとっている。ところが、それは北朝鮮・中・ロなどにとっては脅威となり、それらの国の②の軍備強化と軍事対立・戦争の危険を招いているのだが。

2023年04月24日

9条と現実対応

 現行憲法は、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、9条で「戦力放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定めた。
 それにもかかわらず、日米安保条約で米軍の基地駐留を認め、自衛隊の名のもとに再軍備。そして今、台湾・朝鮮半島を巡って米中・米朝の戦争が想定され、これらに米軍が日本の基地から出撃し、連動して自衛隊も出動する事態が想定されている。現政権はそれら周辺「有事」に備える「抑止力・対処力」として、新たに「反撃能力」の保有、「継戦能力」の向上、防衛費倍増など企図している。
 これら有事の「可能性」が現実となって日本の島や本土にミサイルが撃ち込まれ空爆を受けて再び戦火に見舞われることのないように、当事国・関係国に対して自制を求める「説得外交」に全力を挙げて取り組むか、それとも覚悟を決めて戦争準備にまい進するか、どっちかだろう。
 そもそも、安全保障を日米同盟などに依存することなく、憲法に忠実にやっていれば、このような他国の戦争に巻き込まれたりする心配は無くて済んだはずなのだろうか、それとも、「無防備」に乗じて侵攻されるなど、もっとひどいことになっていただろうか。リスクは9条にあるのか、日米同盟にあるのか、どっちなのかで云えば、目前に迫りくる蓋然性からすれば日米同盟依存の方がリスクになっているのでは。


2023年05月05日

「戦争放棄」の放棄か護持か

現実の状況―メディアが報じるそれら隣国の動きと政府の対応
 中国―東シナ海・尖閣諸島、南シナ海などへの海洋進出
   ―インド・太平洋の「(海洋)自由」「『法の支配』を守れ」、「『一方的な現状変更』に反対」と
    中央アジア・中東・ヨーロッパ・アフリカへ「一帯一路」の広域経済圏構想―               
                               「覇権主義」警戒
    台湾問題―武力統一強行、それにアメリカが台湾軍を支援して介入、                           
                           それを自衛隊が支援の見通し                                                 
 北朝鮮―核・ミサイル開発・発射実験の頻発・拉致問題
     朝鮮戦争再開の懸念(韓国とはそもそも同一の朝鮮民族国家で半島は日本領にされ、戦後は南北に分断、米ソ冷戦下に戦争して、今はその休戦中)
 ロシア―ウクライナ侵攻―これに対してウクライナ軍民の「徹底抗戦」
 
 これらに対するメディア報道、SNS発信、政府・政治家の発言などから国民が受ける印象―中国・ロシア・北朝鮮の脅威感・反感(嫌悪)
 日本のマスコミが報じるウクライナ戦争のニュースから国民が受ける印象に乗じて、昨年の参院選で安倍元首相は全国各地を飛び回って行った応援演説で、こう訴え続けたという。「今ウクライナを守るために命をかけて戦っているのは、ウクライナ軍の皆さん。日本を守るために命をかけて戦うのはだれか。自衛隊の皆さんではないか。しかし、自衛隊は憲法に明記されておらず、・・・・。この状況を変えていこうではありませんか」と。
 かくて国民は、政府の防衛力強化(敵基地攻撃能力の保有、防衛費倍増など)支持、9条改憲賛成に傾く
 世論調査
  NHK4月~9日1544人回答
   憲法改正 必要ある35% 必要ない19% どちらともいえない42%
   9条改正   〃  32% 〃  30% 〃   34%
   反撃能力保有は9条に抵触しない20%、抵触する25%、どちらともいえない49%
  朝日新聞 2月末~4はんげき11日 1967人回答
   憲法改正 必要ある52% 必要ない37% 
   9条改正   〃  37%   〃 55%
   反撃能力保有 賛成52% 反対40%
   朝日新聞社と東大谷口研究室 共同調査 2~4月 約3000人回答
   防衛力強化に賛成62% 反対12%   
   敵基地攻撃ためらうべきではない39% 反対23% どちらともいえない38%
   原発維持 賛成46% 反対25%

 問題点―国民の間でこれら隣国の動きや状況に関する実態・真相に対する短絡的単純理解・無理解・認識不足、そこからの理性を欠いた感情先行の判断
 日本は中・ロ・北朝鮮を脅威としているが、これらの国から見ればアメリカが第一の脅威で、それと同盟を組んでいる日本やNATO加盟国が脅威なわけである。
 ロシアとウクライナの関係―ロシアにとっては旧ソ連邦のいわば「同志国」で、その東部には人口の3分の1を占める同胞ロシア人が住んでいるのに、ウクライナの政権がNATOに加盟しようとし、東部ロシア系住民の抵抗勢力との間で紛争(内戦)中であった。そのような背景の下で行われたロシア軍の侵攻であり、それに対してウクライナ軍が「徹底抗戦」し、アメリカをはじめNATO加盟国が武器供与など軍事支援。
 このようなロシアとウクライナとの関係は、日本と中・ロ・北朝鮮との関係は全く異なり、この3国に対して日本の自衛隊と国民が、ロシアに対するウクライナ軍民のように徹底抗戦しなければならない相手であるかのように敵視してかかるのは如何なものか。
これら3国は、かつて戦争し(日本軍が侵略あるいは植民地支配した)間柄で、日本に対して怨み(「反日」感情)をもつ向きもあるが、だからといって、新たな憲法で不戦と海外領土の放棄を誓った日本にわざわざ海を越えて侵攻してくる必要性も何の利益(コスパ)も考えられまい(本来ならば)。ただこれらの国はアメリカとイデオロギー対立から敵対して(冷戦)以来、日本はそのアメリカの同盟国となり、軍事基地を提供して組するようになって、これらの国から、その点ではアメリカとともに脅威と見なされざるを得なくなっていることは確か。だから台湾有事(中台戦争)や朝鮮半島有事(朝鮮戦争再開)が起きてアメリカがこれらの国と戦争に及べば、日本もアメリカを支援・参戦することになって敵国となるわけである。ロシアからはウクライナ戦争で経済制裁などに加わって敵対国と見なされている。
これら国々の関係を敵か味方かなど単純に考えてはなるまい。ましてや反感・悪感情が先立ってしまってはいけない。
(かつての戦争に際する国民感情―「暴支膺懲―横暴な中国を懲らしめよ」とか「鬼畜米英―アメリカ人・イギリス人は鬼・畜生だ」とか、との敵対感情を抱く―のと同様に、相手国人に対して「反日国家」だとか「ならず者国家」だとか敵対感情を抱くのは。)

 9条に関して改憲賛成に傾いている問題―9条の歯止めが効かなくなって、自衛隊の防衛力増強と日米同盟の緊密一体化作戦が可能となり、台湾有事や朝鮮半島有事に際して米軍が出撃し、連動して自衛隊も出動、その基地となる沖縄や本土の各地が反撃する相手国の弾道ミサイルや空爆の攻撃に見舞わられることになるかもしれず、その結果「再び戦争の惨禍」を招くことになるかもしれない、という覚悟があるのかだ。
 それとも護憲派は、そんなの御免だ、そのような事態は絶対あってはならない、絶対起きないようにしなければならない、との覚悟で反対・阻止を貫き通すことができるのか。戦争放棄か平和主義放棄か、どちらを選ぶのかの覚悟が問われているのでは。

2023年12月23日

9条と改憲、どっちが安全・安心か

〇9条(戦力不保持・交戦権否認)
―諸国に安心を供与(日本を攻撃する口実を与えない)
 しかし全く無防備では、自国(日本)にとっては不安、危険も(万一「急迫不正の侵害」)
  そこで自衛隊―個別的自衛権に徹し「専守防衛」
(他国の脅威とはならずに、自国だけを守る必要最小限の防衛力に限定)
●改憲―9条に「自衛隊」明記
         \__集団的自衛権の行使(限定的)容認(日本が攻撃されなくても、同盟国アメリカなど日本と密接な関係にある他国が攻撃されれば、それに対しても日本の『存立危機事態』だと判断すれば自衛隊は武力を行使して反撃できるとする) 
          その「反撃能力」(敵がミサイルを未だ発射しなくても「着手」に取り掛かっていると判断されれば、その発射基地を攻撃・破壊。それができる長射程ミサイル―「トマホーク」などスタンド・オフ・ミサイル)を保有
「専守防衛」を超える―中・ロ・北朝鮮などに対して日本が脅威となる(互いに「やられる前にやってしまう)ということにも)
                   しかし、自国(日本)にとっては安心・安全?

2024年01月05日

戦争を無くすには9条2項(軍備全廃)を国連憲章にも

 ウクライナ戦争もガザ戦争も、国連は止めようにも止められず、交戦者に武器を置いて停戦し戦火から人々を救えと訴えはしても、成り行きを見守るしかない。それに北朝鮮の度重なる弾道ミサイル発射実験も止まらず、朝鮮半島有事・台湾有事から「日本有事」も想定されているし、核戦争や第3次大戦も無きにしもあらず。
 それは、国々が互いに武力・軍備を持ち合って対峙し、どの国もその火種を抱えているからなのでは。国々の間に政治的・経済的な利害対立や地政学的安全保障上の対立、歴史的な争いの種があっても、武力・軍備さえ持ち合わなければ、何とか話し合いを尽くして交渉し、歩み寄り、解決に達すべきものを、武器・兵器を手にしているばかりに性急に武力に訴えがちとなり、戦争に走ってしまうのだ。故に、戦争を無くすには、軍備を全廃し、その火種を除去するしかないのだ。
 我が国では一般市民(個人)が銃砲等武器を所持することが禁じられ、憲法(9条2項)では国も「戦力」(兵器・軍隊など)を保持しないことになっている。その戦力不保持を国連憲章にも定めて各国とも一斉に(核兵器だけでなく)軍備を全廃するようにすれば、どの国も戦争はできなくなるはず。それは不可能だというなら戦争など無くなるまい。

2024年05月14日

戦争根絶・恒久平和には9条改憲よりも国連憲章に軍備全廃を

 戦争―今、ガザでもウクライナでも武器を使って殺し合っている。その武器・弾薬を戦い合う一方の側に支援・供与している国もある。日本はこれらの交戦国には武器はどちら側にも供与していないが、最近は武器輸出の解禁を進めている。
 武器・兵器など軍備は、ほとんどの国が(自国に対してどこかの国が武力に訴え戦争を仕掛けてくることのないようにと)自国の安全保障・国防のために互いに保持し合っている。ところが、それが紛争・対立関係のある相手国をはじめ他国にとっては、その兵器や軍備は脅威であり警戒心や敵愾心を駆り立てることにもなる(「戦力」は保持しない丸腰しならば安心なのに)。また兵器は進歩・高度化し「AI兵器」でドローン(小型無人機)それや「自律型致死兵器」(殺人ロボット兵器)などが出現しつつあり、兵器が安価になり自軍兵士の犠牲者が減るなどハードルが低くなって作戦決行・戦争に踏み切りやすくなる。
こうなると、善良な市民はともかく、とかく政治家・為政者の中には戦争を思いとどまるどころか、紛争・交渉相手国に対して対話外交に徹するよりも武力に訴え戦争に走りがちとなる。
 戦争を根絶し恒久平和を実現するには、武器・兵器など軍備を保持したままではそれらの運用を為政者に委ねてはならず、力に訴え交戦しようにもできないように武器・兵器を廃棄し軍備を撤廃する以外にないのだ。
 日本国憲法の9条は、そもそもそれを世界に先駆けて定めているのだが、国連憲章にも我が9条と同様な軍備全廃条項を定め、各国とも軍備撤廃するようにすれば、戦争根絶・恒久平和は実現可能・・・・否、世界の諸国民にとってそれは必要不可欠。さもなければ戦争に戦争を重ね第3次世界大戦で最後まで勝ち残り生き残るしかあるまい。

戦争根絶には国連憲章と日本国憲法9条とでどちらの方法をとるか

 世論調査(憲法記念日前の朝日新聞の調査)では、憲法9条を変える方がよいか否か(変える方がよい32、変えない方がよい61)とか、憲法9条の1項と2項をそのままにして新たに自衛隊の存在を明記するという自民党の改憲案に対する賛否(賛成51、反対40)とか、「いまの憲法では、日本を防衛するうえで支障がある」という意見に共感するか否か(共感59、共感しない37)、「いまの憲法9条があることで、日本は戦争をしないですんできた」という意見に共感するか否か(共感76、共感しない21)などの設問がある。
 それなら、次のような設問もあって然るべきなのでは。
設問「第2次大戦後、現在に至るまで世界のあちこちで戦争や武力紛争が起きて、今もウクライナとパレスチナで行われており、これからも日本の近辺で行われそうな気配があるが、戦争を根絶して恒久平和を実現するにはどうすればよいと思うか。次の二つ内どちらの方法をとるのがよいか。」
 ①現状の国連の下で、各国とも武力・軍備を持ち合い、国連憲章で禁じている違法な侵攻を仕掛けた国に対して(安保理常任理事国になっている)主要な軍事大国の軍を主力として加盟国が兵力を提供し合って共同制裁。その制裁措置を取るまでの間は武力行使を仕掛けられた当事国或いはその同盟国に個別的・集団的自衛権に基づく抗戦・武力行使を認める。
 ②国連憲章を改正し、どの国も武力(武器・兵器・軍隊)を保持しないようにして軍備を全廃する。

 ①は国連が第2次大戦後発足して以来、国連憲章に基づいて採ろうとしたやり方だが、現在に至るまで戦争・武力紛争は絶えることなく、今起きている戦争も止められずにいるやり方。
 ②は日本国憲法が9条2項で「交戦権」否認とともに定めている「戦力」の保持を禁じて(軍備を撤廃して)戦争と武力による威嚇・武力行使をできなくするやり方(日本国憲法9条の本来のやり方)。ところが、日本政府はこれまで「自衛隊」という武装組織を(「戦力」には当たらないとして)創設・保持し、アメリカとの安保条約で米軍に駐留基地を提供し、個別的自利権のみならず限定的ながら集団的自衛権行使までも認めている。それは国連憲章に合わせたやり方で、本来の不戦・非軍備の9条を事実上改憲(解釈改憲)し、さらにこれから明文改憲まで企図し、(軍備全廃の先駆けともいうべき)日本の憲法9条2項を空文化・骨抜きにして、(機能不全に陥っている)国連憲章の方に合わせたやり方だから、そのような政府・自民党のやり方はむしろ①の方のやり方となる。この場合の選択肢②はあくまでも日本国憲法9条の解釈改憲・自衛隊・日米同盟容認前の本来の9条のものする。)

 戦争根絶・恒久平和を実現するためには、①と②のどちらが正解か、ということだが、正解が②(本来の9条)の方だとすれば、改正すべきは9条改憲ではなく国連憲章の方であり、この方を日本の憲法9条に倣って改正すべきなのでは。

日本国憲法と国連憲章とで改正するならどちら?

 両方とも第2次世界大戦を経たあげくに、大戦の反省の上に立って、「再び戦争の惨禍が起ることのないように」と制定され、両方ともた「国際関係において武力による威嚇または武力の行使」を禁止。しかし日本国憲法9条の2項には「戦力」の不保持(軍備の撤廃)を定めているが、国連憲章にはそれがなく、ほとんどの国が軍備・軍隊を保持している。 
 ところが日本では憲法で軍備撤廃を定めていながら、敗戦直後、日本を占領したアメリカに従ってそれ以来、その要請で米軍駐留基地・安保条約とともに再軍備をも受け入れて自衛隊を保持するなど9条の解釈改憲を重ね、さらに明文改憲までも企図して現政権下でその実現を期そうとしている。それは自衛隊に対する憲法上の制約を外して海外派兵も集団的自衛権行使も装備も、国連憲章が容認している「普通の軍隊」並みにする、という考え方。
 思うには現行の国連憲章の下で、戦争はこの間ほとんど、世界のどこかで起きており、今も起きていて国連はそれを止めることができないでいるし、近い将来日本の近辺(台湾や朝鮮半島)でも起きてそれに巻き込まれかねない事態も想定されている。要するに現行の国連憲章の下では、戦争は無くなっていないし、第3次世界大戦さえも起こりかねない、ということだ。
 改憲(9条2項を改定)して自衛隊を現行の国連憲章が各国に保持を容認している軍隊に変えたからといって、それで日本も世界も今まで以上に平和・安全になるのだろうか。それはあり得ないだろう。
 それよりもむしろ国連憲章(2条4項)の方を日本国憲法(9条2項)のように改正して、各国とも軍備を撤廃し、核兵器だけでなく通常兵器も全廃する(それに逆らう「ならずもの国家」・「テロ国家」とか反政府或いは国際テロ・武装組織・海賊や武器の密造・密輸などの対してはそれらに充分対応できる然るべき強制取り締まり機関として国際警察機関及び各国警察機関を必要とする)ようにすれば戦争・武力行使・武力による威嚇など、それをやろうにもやりようがなくなり、戦争は根絶され、恒久平和が実現することになる、と考えるのだが。改正するなら国連憲章の方であって日本国憲法を改悪してはならない。

9条改憲よりも国連憲章改正を

 ロシアやイスラエルの戦争、北朝鮮の度重なる弾道ミサイル打ち上げなどテレビで連日見せつけられ、その度に「国連はどうして止められないのか、どうして戦争は無くせないのか」とやりきれない思いで、考えを巡らせたあげくに思いついたのが、それは国々が互いに隣国や他国からの侵攻に備えて武力・軍備を持ち合っているからにほかならないのでは、ということだ。それは、国々が紛争の種を抱えていても対話・交渉を重ねて外交的解決に徹すればいいものを、互いに兵器や軍備を保持しているばかりに、双方ともそれにものを言わせて武力に訴え、戦争に走ってしまいがちとなるからではないのか。
 日本では憲法で9条に戦争放棄を定め、「戦力」(軍備)不保持・「交戦権」否認も定めている。この憲法制定以前は周辺諸国を相手に戦争を重ね、そのあげく連合国から反撃を受け原爆をくらって降伏し武装解除、占領されて「再び戦争の惨禍が起ることのないように」と決意して憲法にそれらの条項を定めた。連合国によって国連が発足し、その国連憲章にも武力による威嚇・武力の行使を慎むこと(武力不行使原則)が定められはしたものの、日本国憲法の9条2項に定められたような「戦力」不保持(軍備撤廃)まで定められてはいない。国連憲章には、各国が個別的・集団的自衛権に基づいて軍備を保持し、軍事同盟を結び合うことまで容認。それで、日本は憲法に軍備撤廃を定めたのにもかかわらず、その日本までがアメリカの容認の下に自衛隊の名の下に再軍備、日米安保条約を結んで米軍に駐留基地を提供して今に至っている。
 アメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガニスタン侵攻・イラク戦争とあちこちで戦争を重ね、その都度日本の基地から出撃し、自衛隊も米軍支援のためにインド洋やイラクに派遣されたりした。今後、中台戦争が起き、朝鮮戦争が再開され、それらに米軍が介入して出撃すれば日本も巻き込まれることになる。
 それらのことを考えると日本の憲法9条を改憲してその条項を空文化して無きものにするようなことはあってはならないし、日本の憲法を改憲するよりも、むしろ国連憲章の方を改正して、そこに9条と同様な条項を盛り込んで各国とも軍備を撤廃するように定め、全ての国が(それを厳守させるべく強制機関による取り締まりの下に)実行すれば、どの国も戦争は出来なくなって恒久平和が可能となる。
 国連には、その他にも安保理常任理事国の問題など欠陥があり、機能不全に陥って現に戦争を止められずにいる。改正すべきは国連憲章の方なのでは。

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