米沢 長南の声なき声


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「抑止力」批判論
2012年12月27日

 アメリカでまた銃乱射事件(小学校で26人が命を失った)。
 この国では市民に自衛のために家で銃を持つことが権利として憲法で認められている。それは、この国の建国とフロンティアの特殊な歴史(インディアンの地に植民・移住して町をつくり土地を開拓し原住民を追い払って領域を広げていった歴史)からきている。
 この国では、ピストル・ライフル・ショットガンまでスーパーやスポーツ用品店で売られており、全人口に匹敵する3億丁もの銃が流通、全世帯の45%の世帯が銃を所有している。そして年間3万人以上もが(自殺や事故も含めて)銃で命を無くしているのだ(人口10万人当たり3.2人―日本では0.006人なのに対して、世界で突出して多い)。
 そこでは、市民が所持する銃は暴漢の発砲抑止になっているというよりは、むしろ暴漢の発砲を促す素になっている。彼の家に銃(ライフル1丁とピストル2丁)さえなかったら26人もの殺人を犯すことはなかったというのは確かだろう。
 そもそも「抑止力」(思い止まらせる力)とは合理的判断(そんなことをすれば、撃ち返されて命を落とすか、刑罰など制裁を被るか、良心の呵責にさいなまれるか、かえって割の合わない結果を招くという判断)ができる普通の市民にしか効かないのであって、そういう判断ができないか、そんな合理的判断など度外視している暴漢(正常な感覚を失ったか、「やけっぱち」になって良心も理性も保ち得なくなった相手)には通用しないのだ。ということは、普通の市民に対しては互いに「抑止力」(銃)を持ち合うなど不要で、一部の危険な人間(暴漢)に対して警官だけが銃を持って対処すれば十分なのである。普通の市民に不要なのに銃の所持を認めれば、それが暴漢に利用・悪用されるか、普通の市民が(銃を持てば、それに頼りがちとなり、話せば解るのに、問答無用とばかり)暴漢に化して発砲することになる(小学校で乱射事件を起こした男は家にあった銃を持ち出して行為におよんだのだ)。だから、それは禁止すべきなのである。日本のように。

 尚、「合理的判断」とは倫理的に正しいか否か、法的に正当か否か(不正・違法なら刑罰・社会的制裁を被る)、損得勘定(「費用対効果」の計算、リスク計算など)で割が合うかなどの判断。
 「非合理的判断」とは熱狂・激情・宗教心(狂信)・ギャンブル(賭け)・やけっぱち(自暴自棄)・異常心理・精神錯乱などによるもの。
 後者の場合には「抑止力」は効かない。

 国に軍備は抑止力として必要か。これにも同様な考え方ができる。
 
 普通の(国交を結んでいて敵対関係のない)国々との間では抑止力(軍備)は不要。  
 以前、帝国主義の時代(植民地の争奪・勢力圏分割の戦争→世界大戦)とその後の2大体制間の冷戦時代までとは異なり、今は、グローバル経済交流の時代(①国連憲章のもとで安全保障理事会が認めた場合と自衛以外の武力行使は禁止された。②植民地主義と冷戦の終結が国際社会の緊張と紛争の主な要因を取り除いた。③国際貿易・投資が著しく増加し、侵略で財貨や資源を奪うより、貿易で手に入れた方が安上がりに。)。限られた国以外にはどの国にも攻撃の恐れ(脅威)はないのだ。
 限られた国とは北朝鮮・イスラエル・イラン・アフガニスタンなど。
 しかし、これらの国も、何の理由もなく、一方的に、世界中を敵にまわしてまで、核開発・ミサイル実験その他の挑発行為・無法行為を重ねたりするだろうか。それは、これらの国からそれぞれその国が怨まれ敵視される原因・理由が歴史的にあるからなのであって、その国にも責任があることなのだ。北朝鮮に対してはアメリカ・韓国・日本も、パレスチナ(アラブ人)に対してはイスラエル、イランに対してはアメリカとイスラエル、アフガニスタン(タリバン)に対してはアメリカ。
 北朝鮮とアメリカは朝鮮戦争で対戦し、それ以来決着は未だについていないのである(休戦協定を結んでいるだけで和平協定は未だ)。日本も、日清・日露戦争を経て朝鮮半島の植民地支配を続け、戦後、北朝鮮とは現在に至ってもその決着(清算)はついていないのだ。
 尚、中国と台湾は、日中戦争で日本軍の降伏後、国共内戦を経て共産党が中華人民共和国を樹立し、国民党が台湾に退いて以来、敵対関係にあり、アメリカは台湾政府を支援していたが、今は米台ともに中国に接近し、敵対関係は無くなっている。
 この日本は中国との間には尖閣問題、韓国との間には竹島問題、ロシアとの間には北方領土問題があるが、これらの島のために、戦争を想定して「抑止力」(軍備)を構え、戦争で決着をつけることなど不可能なのに「戦争も辞さない」などと敵対し、貿易も国交も友好協力関係も犠牲にするのは「費用対効果」など損得勘定からして割に合わず、合理的判断では(軍事的抑止力が有効だとは)到底考えられないことだ。
 イスラエルとアラブ諸国の対立は、アラブ人の居住地パレスチナにユダヤ人が移住して第二次大戦後イスラエルを建国した(古代にはそこに故国があったがヨーロッパ各地に離散し迫害を受けて、そこに戻った形)ので、そこから立ち退かされる形となったパレスチナ・アラブ人は反発し、それ以来4回にわたって戦争(中東戦争)。この間アメリカ(国内にはユダヤ系市民が沢山)はイスラエルを支援。
 イランは、以前は国王が親米でアメリカに石油利権を与えていたが、1979年革命で国王は追われ、アメリカの石油利権も取り上げられた。このどさくさに乗じてイラクが国境問題でイラン・イラク戦争を起こすと、アメリカはイラク(サダム・フセイン大統領)を支援。それ以来、イランとアメリカは敵対関係にある。
 アフガニスタンに対しては、アメリカで2001年同時多発テロにあって、ブッシュ大統領はそれを国際テロ組織アルカイダの仕業だとして、彼らをかくまっているアフガニスタンのタリバン政権を攻撃、カルザイ政権が樹立されたものの、タリバン勢力は未だに抵抗を続けている。

 その他に、シリアやソマリアなどアフリカの一部の国で内乱があるだけ。
 それ以外には、多くの国々には戦争・攻撃の恐れはないのであって、「抑止力」(軍備)など、わざわざ莫大なカネをかけて置いておかなくてもよいわけである。

 アメリカ・イスラエル、それに北朝鮮に対しては日本も、相手(北朝鮮やイラン)を「脅威」だと言って「抑止力」の維持・必要性を言い立てる(相手もアメリカ・日本・イスラエルを「脅威」だと言い立てる)が、その前に、その国に対して果たすべき責任(日本は北朝鮮に対しては賠償・補償など)を果たすことが先決なのだ。
 それに、北朝鮮もイランもアカイダなどの国際テロ組織も、非合理的判断(北朝鮮は追いつめられると「窮鼠猫をかむ」で自暴自棄的な挙に出る可能性があり、イランやアルカイダは宗教心から「聖戦」)もとりがちだから、そのような場合は、抑止力は(「懲罰的抑止力」にしろ、「拒否的抑止力」にしろ)効かない
 ところが、皮肉なことに、北朝鮮など非合理的判断に立つ国にとっては、その国の抑止力は、アメリカなど合理的判断に立つ国に対しては効くのである。(へたに手を出すと何をしでかすかわからないから、攻撃をひかえる、といったように。)
 ただし、彼ら(北朝鮮など)のその抑止力は、核・ミサイルといっても未だ開発途上・実験段階で貧弱な軍備そのものよりも自暴自棄的な(かつての日本で叫ばれた「一億玉砕」のような)玉砕戦法、この方が効くのである。その実例に次のような事例がある。
 1994年(カーター大統領当時)、IAEAが北朝鮮の核施設への査察問題を国連安保理に委ね、安保理が制裁措置を決定しようとした。それに呼応してアメリカが核施設を爆撃する詳細な作戦計画を練った。そこでは米空軍のハイテク兵器を使用すれば、放射能を拡散させずに核施設を短期間で効率よく破壊できると想定していた。しかし、それは北朝鮮の報復を招き、全面戦争につながる危険があった。その場合、死者は100万人を上回り、そのうち10万人近くの米国人が死亡し、近隣諸国を含めて損害総額は1兆ドルに上るだろうと予想された。結局、その作戦計画を断念し、カーター大統領は訪朝。金日成も首脳会談に応じて、北朝鮮は脱退しかかったNPTにとどまり、米朝枠組み合意が結ばれて事なきを得た。これはカーター大統領の合理的判断によるもの。

 要するに、北朝鮮などにとっては、その抑止力は「合理的判断をする国」に対しては効きめがあっても、普通の国にとっては、「合理的判断をしない普通でない国」に対しては、抑止力は効かないし、「合理的判断をする普通の国」同士では「抑止力」など不要であり、いずれにしても「普通の国」(理性的国家)に軍事的抑止力は役に立たず不要なのである。 日本にとっても、北朝鮮など「合理的判断をしない普通でない国」にはどうせ抑止力は効かないし、「合理的判断をする普通の国」に対してなら抑止力など不要。いずれにしろ日本には抑止力(軍備)など持っていても無駄(無用の長物)であり、必要もないということだ。
 それなのに「安保」という「抑止力」安全神話にいつまでもとりつかれて、自衛隊の軍隊化、日米同盟・核の傘・「ミサイル防衛」などにしがみついているのは愚かなこと。

 軍隊を持つのが「普通の国」なのではない
 アメリカは「合理的判断をする国」だが、市民が銃を所持することを許し、巨大な軍備をもつという点では異常な国である。
 日本のように市民が家に銃を持つようなことのないのが普通の国なのであり、軍隊を持たない国こそ普通の国なのである。
 (ただし、海賊やテロ集団、不法侵入・国境侵犯などに対する海上保安庁や国土警備隊などの警察組織はどの国にも必要だが、それは軍隊とは別物。)
 軍隊のない国は、今は未だ27の小国だけで少数だが、そういう国が「普通の国」なのである。
コスタリカは日本国憲法より少し後、憲法で常備軍を廃止して以来60年以上、今では年寄から子どもまで軍隊がないのが当たり前だと思っているとのこと(この国に半年間留学した法律家の笹本潤氏)。日本人の多くも、日本は戦争をしない国で、自衛隊は戦争する軍隊ではなく、海外派遣はあっても戦争をしに行くのではない、それが当たり前だと思っている。
 「普通の国」とは国民も政府も合理的判断ができるし、合理的判断をする国で、市民が銃を持ったりせず、国も軍備を持たない、それこそが「21世紀の普通の国」なのだ。
―などというと、そんなの夢想家の言うことで、軍備を持ち軍隊を持つのが当たり前、或いはアメリカに付き従って中国・北朝鮮などと張り合い「万一の戦争に備える」のが「普通の国」、であるかのように言う政治家やそれに同調する向きもあるが、むしろ、その方が時代錯誤なのであり非現実的なのだ。「万一に備える」などとよく言うが、地震・台風などと異なり、戦争はこちらが何もしなければ起こり得ないもの。にもかかわらず、そういって軍備を持つのは、戦争を容認している(「いざとなったらやる」)ということにほかならないが、双方に甚大な惨害と致命的なダメージをもたらす現代の戦争はたとえ万一でもやってならない(利害対立・係争・紛争があっても外交的解決の方法に徹するしかない)、そういう意味で戦争はあり得ないことなのだ。
 秋葉原の安倍総裁の街頭演説で日の丸の手旗を配って応援をしていた一人の若い女性。「このままでは日本が中国に占領される」、安倍氏の言うように集団的自衛権の行使や改憲が必要で「国防軍」の保持も当然だと。ところが「彼氏が戦争に?それは困ります。そんなこと考えたこともありません」(12月24日朝日「政権オセロ」の記事より)
 

 (尚、アメリカで市民に銃が禁止されていない原因の一つは、銃企業とつながっている全米ライフル協会の存在があり、軍備が縮小されないのは軍部と軍事産業企業の軍産複合体の存在があり、それらが政府や議会に圧力をかけて銃の禁止・規制、軍備・武器輸出の縮小を阻んでいるからである。要するにアメリカで軍備の縮小も市民の銃規制もできないのは企業や軍部の利益のためにほかならない、ということ。)


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