米沢 長南の声なき声


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現行憲法と自民党などの憲法観の違い
2014年05月07日

3種の憲法観
①立憲主義的憲法観―国民が人権を守るために国家(権力)に縛りをかけるのが憲法(「個人あっての国家」という国家観)。
②国家主義的憲法観―国の基本的なあり方を国民に示し、国家の為に国民が守るべきルールを定めた基本法が憲法(「国家あっての個人」という国家観で、国家が国民に縛りをかける憲法観)。
③国家と国民の協働型の憲法観―国の基本的なあり方・目標を示し、国家と国民それぞれに責務を課し、それぞれが守るべきルールを定めた基本法が憲法。「国家と国民が対立するのではなく、和を尊び、家族や社会が互いに助け合い、一緒になって国家を形成する」などと綺麗ごとを言うが、国家中心の視点で、国民は国家に対して責任と義務を負い、社会の安寧秩序を保持し、積極的に社会の福利に寄与すべき義務を負うという考え方であることには②と変わりない。
 国民の間には利害対立や考え方の違いがあるのは厳然たる事実であり、何かにつけ多数派と少数派とに分かれ、多数派権力から少数派が忍従を強いられのが現実である。このような権力から平和的生存権を守り、人権の侵害を防がなければならないのだ。


 ① は欧米の近代憲法観で、現行の日本国憲法もこの憲法観に立っている。
それに対して、改憲をめざしている自民党が打ち出している憲法観は③の憲法観―例えば同党の改憲草案9条の3「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土・領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」とか、同12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利・・・・。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(当方は在職中、生徒によく「お目らな!自由には責任、権利には義務がともなうもんなんだぞ!」と言って説教したものだが、それは上から目線で教え諭す言い方で、そんなことは大人になれば言われなくても分かり切った話だが、憲法は教師が生徒に垂れる説教書とは事が違うだろう。「国民は…常に公益及び公の秩序に反してはならない」ということは、国益や公共の目的のために人権を制限することが認められるということであり、それは政府の政策決定や国家の安全、治安維持の価値が個人の人権に優先されるという考え方なのだ。)それから現行憲法(99条)では「天皇又は・・・及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と定めているが、自民党の改憲案では(102条で)「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない。2、国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」として、憲法尊重擁護義務規定から天皇をはずしておいて、現行憲法には無かった国民の憲法尊重義務を加えている。
 
 憲法学者の辻村みよ子氏の見解では「憲法を作って、国家を縛るものが立憲主義であり、憲法は、国民がたえず国家を縛るために、ライオン(公権力)を制御するためにつくりあげた檻である。それなのに、檻の中にライオンと一緒に国民が入ってどうしようというのか。・・・・結局は檻の中で国民が震えている」と。

 どの憲法観がいいのか。為政者にとって都合のいいのは③の自民党流憲法観だろうが、国民にとってはどうなのだろうか。

 <参考―辻村みよ子「比較のなかの改憲論」岩波新書>


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