わが国民は平和・安全が保障されているとすれば何によってか、或いは、それが危うくなっているとすれば何によってか。憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)によってか、それとも自衛隊(世界6位の軍事力)と日米同盟(安保条約で日本に米軍基地を置いている)によってか。
もしも米中戦争か第2次朝鮮戦争か、或いは米ロ戦争が起これば、日本は中国か北朝鮮か、或いはロシアから攻撃されることはないのか。日本は安全でいられるのか。攻撃されるとすればなぜなのか。日米同盟で日本に米軍基地を置いている以外に日本を攻撃する理由がどこにあるのか。アメリカと中国などの間に対立が続くことはあっても戦争まではあり得ないとすれば、日米軍事同盟をこれ以上いつまでも続ける意味はあるのか。いずれにしろ米軍基地など無くしてしまったほうが我が国の安全保障にとってはプラスなのでは。
日本国民が戦争に巻き込まれず、平和・安全でいられるには、米軍と自衛隊による軍事的安全保障と憲法9条による非軍事的安全保障のどちらにかければよいのかだ。(1)軍事的安全保障は―軍事の論理(軍事的合理性)で軍事戦略として論建て
発想―対立・敵対・対抗関係にある国から軍事攻撃を受けるかもしれない(だから攻撃されても大丈夫なように)、或いは攻撃されないように防衛力(軍事力・軍備・軍事的抑止力)を備える、そうすれば安全が保障される(防衛イコール安全保障)という発想(軍事対決不可避との考えが前提)→防衛(軍事)に専心―その観点から判断
憲法9条(1項「戦争放棄」・2項「戦力不保持・交戦権の否認」)に対する評価判断・解釈(自衛権・自衛力の保持は認められると)・改憲(2項を削除して「自衛軍」もしくは「国防軍」の保持を認めるか、2項をそのままにして「自衛隊を明記」か)の判断。
中国・ロシア・北朝鮮は脅威(それらの軍事力拡充を一方的に脅威とみなし)、
日米同盟はこれらの脅威に対する「防衛力」「抑止力」でアジア太平洋地域の「公共財」だと
米軍の沖縄基地の維持―普天間基地の辺野古移設
アメリカとの集団的自衛権行使の容認
イージス・アショアがだめなら敵基地攻撃能力の保有―「攻撃は最大の防御なり」
アメリカの核兵器(核の傘)必要―核兵器禁止条約の拒否
アメリカからの兵器爆買い
秘密保護法―情報を軍事機密として利用
科学技術・研究開発―軍事利用
これらすべてを軍事的に有効(得策)か否かで判断
これらは中ロ・北朝鮮との軍拡競争をエスカレートさせ、軍事衝突を誘発する危険―
、 「安全保障のジレンマ」「安全神話」―平和・安全保障をかえって危うくする。
国民にとっては、これで「安全が保障されて安心だ」とは到底思えまい。
尚、自衛隊と日米同盟(対米依存)に対する二つの路線
① 自衛隊は「専守防衛」(個別的自衛権)に徹して、米軍を「矛」とし、自衛隊は「盾」という役割分担に留まる(民主党系リベラルの立場)。
②自衛隊の役割を拡大して、米軍を支援する集団的自衛権行使を容認、ひいては敵基地攻撃能力を認めて「矛」の役割も引き受ける(自民党など改憲派の立場)(米側の負担軽減)。(2)非軍事的安全保障は―非軍事・平和戦略で論建て
発想―アメリカなど特定の国とだけでなく、どの国とも(利害の不一致・対立する問題はあっても)、敵視・敵対せず(敵をつくらず、非軍備によって脅威ともならず)に友好協力関係を結ぶことによって(互いに攻撃を仕掛けることはあり得ないものとして)安心・安全が保障されるという発想
平和・安全のより確かな保障を求める国民にとっては、むしろこのほうが得策と考えられる。
このほうが憲法(前文―日本国民は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすること」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意」、9条―「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」そのために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」)に忠実な立場であるだけでなく、より合理的で現実的(実現性あり)。
(それにもかかわらず、特定の国・アメリカと安保条約を結んで軍事基地を置き、自衛隊の名目で再軍備して軍事協力。唯一の被爆国でありながら、その原爆を投下したアメリカの「核の傘」の庇護に甘んじ、国連で122ヵ国の賛成で採択された核兵器禁止条約に背を向け署名・批准を拒否している。そのような国際信義に反する態度を改め、せめて、この核兵器禁止条約だけでも、条約発効に必要な50ヵ国批准まで残るはあと6ヵ国に迫っている今、これ以上遅れをとることなく批准に踏み切るべきなのだ。また沖縄の辺野古基地建設を中止し、普天間基地撤去も。)しからば他国のほうからの侵害に対しては、どう対処するか―あくまで外交交渉を尽くして回避に努めるが、万一信義・信頼に反して急迫不正の侵害や武力攻撃があった場合には警察力により警察比例の原則に立って対処・排除する。
「警察比例の原則」とは、いわば「ナイフにはナイフ、銃には銃、大砲には大砲」ということ。但しこの原則は、単に相手と同等の武器で対応し、「核均衡抑止」のように核兵器には核兵器で対応できるとか、相手の武器に比例して同レベルの武器を無制限に使って応戦できるということではなく、目的(例えば領海侵犯を阻止・排除するという目的ならその目的)に応じて必要最小限度の手段・武器で対応しなければならず、相手がやろうとする目的・手段に対して(機関銃や機関砲で威嚇射撃するなどのことはあっても、いきなりミサイルで撃沈する等)必要以上の過剰対応をしてはならないというが本来の趣旨。
ただ武器自体は相手の武器に比例して(同レベルを超える武器ではまずいが)同レベルの武器ならば、重機関銃や大砲など重火器でも使えるわけで、警察だから拳銃や小銃など小火器しか使ってはならないというわけではないわけだ。
海上保安庁も機動隊も警察力に当たるが、現在、海上保安庁の巡視船には世界最大級の軍艦構造を有するものもあり、全長150mというイージス艦並みの大きさで、35㎜連装機銃や40㎜単装機銃・機関砲を装備し、ヘリコプター2機を搭載可能。それに海上保安庁にはマシンガンや自動小銃を装備する特殊部隊や特別警備隊があるが、警察にも特殊部隊(SAT)があり、機動隊には銃器対策部隊といったものもあり、いずれもマシンガンや自動小銃などを装備している。
ポジティブリスト
軍隊と警察の違うところ(ネガティブリストとポジティブリスト)は、軍隊のほうが「ネガティブリスト」方式で、国際人道法などで例外的に禁じられていること(残虐兵器の使用や無差別攻撃など)、それ以外は何でもできること(原則無制限)になっているのに対して、警察のほうが「ポジティブリスト」方式で、やっていいこと、できることが例外的に限定され(例えば正当防衛か緊急避難で、そうする以外に手段がないという場合には、比例原則に応じた武器を使用することができ、殺傷することもできるなど警察官職務執行法等に定められている)、それ以外には武器の使用など原則禁止で、相手がどんな人間であれ人を殺傷することはできないことになっている。
そもそも軍事と警察の違いは―軍隊は戦闘集団で、常に武器を備えて訓練し、外敵と相対して国の権限者の命令が下りしだい出動して武力行使(戦闘)をすることを事(仕事)とする、それが軍事。一方、警察は法秩序を犯す者を取り締まり(管理・監視)強制的に守らせることを事とし、それに服さず凶器や武器をもって妨害し、襲いかかってきた場合に、身を守る正当防衛のためやむをえず武器を使用することがあるだけで、それ自体を事とはしない。
我が国憲法は日本には軍を置かないことが前提になっているので、軍事活動を行う権限(軍事権)は憲法のどこにも書かれておらず、内閣の権限を定める73条にも書かれていない。なので自衛隊は、行政権を担う内閣の権限に属する行政執行機関の一つとして警察・海上保安庁・消防などと同様に位置づけられている。自衛隊は、9条で武力行使など軍事は禁止されているので、それらはできないことになっているが、政府は13条に定められている「国民の生命・自由・幸福追求の権利は国政の上で最大の尊重を必要とする」という規定を根拠として、政府には強盗やテロリストのみならず外国の侵略からも国民の生命等を守る義務があるのだというふうに解釈し、「我が国に対して急迫不正の侵害があり、それを排除するために他に適当な手段がない場合、必要最小限度の実力を行使することができる実力組織だ」として自衛隊を認め、そのために具体的に自衛隊がやっていいこと、できること(ポジティブリスト)を限定して自衛隊法等で定めているわけである。
ところがそれを新安保法で自衛隊は集団的自衛権の行使や海外での武力行使もやれるようにされ、今や敵基地・相手領域にまで突入して攻撃できるかのようなことまでポジティブリストが加増されようとしている。そして(日米同盟を「公共財だ」などと称して)自衛隊は米軍と軍事活動を共にし、軍事的役割がさらに大きくなっている。
自衛隊を維持するとすれば、そのように軍隊化してはならず、災害出動とともに、領海・領空・領土の警備活動を海上保安庁と共に担う警察力に徹したものにしていくべきなのでは。自衛隊は、それが行使できる「実力」は警察力を超えるが、9条が禁じている「戦力」とまではいかない「自衛力」だなどという理屈で(「警察以上で軍隊未満」として)合理化されてきたが、そのような定義づけは「戦力とは何か。自衛力を超えるものだ」、「自衛力とは何か。戦力に至らない自衛のための必要最小限の実力だ」と無意味な同義反復をしているにすぎず、論として成り立ちえない解釈だ(憲法学者の小沢隆一教授の指摘だが、同教授によれば「仮に9条が自衛権の存在や自衛のための武力行使を明示的に排除していないとしても、それを権力が行使できるということには直ちにならない。憲法に明示の根拠をもたない権力の行使は許されないのが近代立憲主義の原理。『戦力』なり『自衛力』なりの組織、指揮権限についての何らの具体的規定ももたない日本国憲法は、それらについて否定していると解釈すべきだ」としている。)
それはともかく、9条は、我が国は他国に対して基本的にいかなる場合でも武力攻撃をする意志も交戦意志ももたないことを定め、それが諸国民に対する安全・安心の保障となる。同時に自国民に対しても我が国が交戦意志を持たず、米軍基地などを含めて警察力以上の戦力を持たない以上、もはや我が国は戦争に関わらず、武力攻撃されることもあり得ないことを保障するものである。
ところが戦後、現在にいたるまで政府が一貫してとってきた安全保障政策は、このような9条の不戦・非軍事的安全保障ではなく、日米安保とそれに結びついた自衛隊による軍事的安全保障のほうだった。
我々国民にとって平和・安全の保障には軍事的安全保障と9条による非軍事的安全保障のどちらが合理的かつ現実的(実現性の点)で有用なのかだ。
どっちか二者択一ではなく、両用で(とはいっても、それは今までのやりかた)という向きもあるだろうが、それでは(今までもそうだが)防衛力(軍事力)を背景に軍事(自衛隊の軍事と日米同盟)に頼りがちとになって(その方に傾き)、結局は平和外交に徹した非軍事的安全保障は不徹底になってしまうだろう。