世界2015・1月号で谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長が「紛争現場からの警鐘」と題して紛争地で活動するNGOの安全対策と日本の国際貢献のあり方について次のように論じている。(NGOの事例だけで、国民すべての安全保障の問題を言い尽くすことはできないかもしれないが、一つのヒントにはなるだろう。)
紛争地で活動するNGOにとっては―安全対策―①軍隊や自衛隊に守ってもらったり、救出してもらったらいいか、②それは避けた方がいいか(参考―世界2015・1月号谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長「紛争現場からの警鐘」)
紛争現場の現実―現代の戦争は、圧倒的な軍事力を持つアメリカが有志を募って制裁やテロ掃討を名目に弱小国を攻撃する場合が多い。(アフガン・イラクなどの例)初期の短い期間で政権を崩壊させる。しかしその後が長い。離散した元政府軍や政権崩壊後の治安の真空状態に付け入って勢力を伸ばす非正規の武装グループが新政権や外国軍に対抗する。それらの非正規武装グループは住民と混在しているために、政府軍や外国軍による掃討作戦は住民を巻き込んだものとなる。外国軍による住民の殺害や急襲による家宅捜索は人々の反発を強め、反政府・反外国軍の武装グループは人々の支持を集めて攻勢を強める結果になる。(米軍のテロ掃討作戦が住民を巻き添えにするたびに、反米のために武器を取るグループが増加していった。)
①(軍隊や自衛隊に守ってもらうやり方)は、それが軍隊を敵視して攻撃対象としている武装勢力を活動地に引き入れることになり、NGOだけでなく地域の住民にも危害が及ぶことにもなる。軍による復興人道支援活動との連携は危険を伴う。中立を旨とするNGOの人道復興活動が軍事活動と混同され、攻撃のターゲットになりかねない。
軍の介入―軍隊による(救出作戦)突入は極めて危険であり、失敗することが多い。
外国軍による復興・人道支援活動は「住民の中で戦う戦争」をより複雑にする。
住民や武装勢力の間に、外国軍のみならず軍以外の外国機関の民生活動も軍事活動であるとの混同を引き起こす結果になっている。(①にはリスクが多いということ。)
それに対して、②(軍隊や自衛隊には頼らないやり方)は、地元で信頼の厚い人間や赤十字国際委員会など中立性の高い機関の仲介で交渉でき、NGO独自の安全対策に基づいて行動―すなわち1、現地の住民に信頼され、受け入れられること(その村の住民がNGOを受け容れていなければ正しい情報は提供してもらえない)。2、治安や危険に関する情報収集を綿密に行い、危険な状態に身を置くことを避けること。危険が予測される場所にはなるべく行かず、危険が迫れば待機するか速やかに退避する。日本独自の平和貢献(世界2015・1月号谷山博史・国際協力NGOセンター副理事長「紛争現場からの警鐘」)―国是として「武力によって紛争解決はしない」「海外で武力を行使しない」という独自の立場に立った国際安全保障への貢献。
アフガンや中東・南アジア・アフリカなどの地域の人々の日本に対するイメージ―日本はアメリカに原爆を二発も落とされながら、アメリカを憎むことをせず、平和国家として蘇り、長足の発展を遂げた。日本は軍事介入(他国に軍隊を派遣)せず、欧米的な価値観を押し付けることもしない。(主要な先進国のほぼすべてがアフガンに軍を派遣し、紛争の一方の当事者になってしまったために、紛争当事者間で対話に向けた外交的なイニシャチブを発揮できる国がなかった。アフガニスタンで生活して感じるのは、人々の日本に対する特別な信頼。日本は軍隊を派遣していないから日本の援助は真にアフガンの復興を目的にしたものだと信じられる。紛争が泥沼化しているアフガンを安定化させる唯一の方策はアフガン政府とタリバーンの対話しかないと考える人間は多い。その仲介ができるのは、また周辺国も含めて国際的な協議の枠組み作りの役割を担うことができるのは、アフガンに軍隊を派遣していない日本しかないと考えるアフガン人も少なくない。(もし日本が海外で武力行使するようなことがあれば人々は裏切られたと思うだろう。そしてアメリカと同様、国際的なテロの脅威に晒されることになるだろう。)紛争地におけるNGOの活動と各国政府の関与の実態を踏まえた、このようなリアリズムの立場に立って考えた場合、やはり我が国の安全保障と国際貢献は現行憲法9条に徹するやり方がベストという結論になるだろう。
すなわち、自国の安全保障は自国軍や同盟軍に守ってもらう軍事的抑止力に頼るやり方よりも、戦力不保持・交戦権の放棄に徹し、不戦平和国家として国際的信頼(諸国民からの信頼)の上に立って他国からの攻撃を抑止(回避)しつつ紛争・係争問題(島の帰属や海洋資源問題など)は外交交渉・話し合いに徹した解決をめざす。同時に、他国・他地域における紛争・貧困・差別や国際間の諸問題にも中立的立場に立って仲介・人道援助・非軍事ODAに力を注ぎ、外交的イニシャティブを発揮する、これこそが「9条抑止力」ともいうべきものであり、実効性のあるより確かな安全保障となるのではあるまいか。安倍首相は「積極的平和主義」というが、それは軍事(自衛隊と日米同盟)に依存してのやり方。
軍事的抑止力―武力は自分から先には行使しないが、相手は武力攻撃してくるかもしれない(不信感)から、それを抑止するために必要だというものだが、それはその国に対する不信感(話し合っても、心は通じないという不信感)を前提にしている。
その場合、相手は日本を信頼しているのに、というわけではなく相手側も日本に不信感をもっているという相関関係(相互不信)がある。北朝鮮・中国も然りだろう。北朝鮮は、アメリカと敵対しており、そのアメリカと同盟し、かつての植民地支配にともなう負の遺産を清算していない日本を信頼することはできないのだ。中国には対日歴史問題(その象徴が靖国問題)があり、尖閣については、かねがね日本による島の実効支配は認めつつも、帰属問題は不確定で棚上げと思い込んできたものを、日本政府が一方的に国有化を宣言したことに反発して、それ以来不信感を強めた。
このような不信の種を除去すれば不信感は無くなり、軍事的抑止力など不要なことになろう。
その不信の種とは、北朝鮮の場合は(日本に対して)敵対するアメリカと同盟を結んで基地を置いていること、それにかつて植民地支配をした負の遺産(強制連行・従軍慰安婦その他)を未だ清算していないこと等(日本側は北朝鮮に対して拉致問題で不信)。中国の場合は(日本に対する不信の種は)歴史問題・尖閣問題などだが、これらの不信の種を除去すれば、これらの国に対する軍事的抑止力は不要となるわけである。
だとすれば、これらの不信の種―日米同盟・過去の清算・歴史問題・尖閣問題、日本にとっては拉致問題―を解決・解消する、そのことにひたすら傾注することに全てをかけるようにすればよいのである。
ところが、我が国政府は、そのような不信の種を除去して軍事的抑止力を無用化するどころか、ほとんどその逆の方向にやっきとなって、日米同盟の強化と軍事力の増強につとめている。そこに問題の全てがあるのである。尚、「イスラム国」などイスラム過激派は、日本人に対しては今のところは恨みも不信もないように思われる。それは、日本は米欧のキリスト教徒やイスラエルのユダヤ教徒とは異なり、イスラム教徒に対して未だかつて政治的・経済的にも軍事的にも恨まれるようなことはしていないと思われていて信頼感をもたれているからである。このイスラム過激派の攻撃に備えてわざわざ軍事的抑止力を固める必要もないわけであり、むしろアメリカから原爆をくらって惨たんたる敗戦を被ったあげくに憲法に戦争放棄・戦力不保持を定めて非戦を国是としている国として信頼感を得、ほかならぬ憲法9条が抑止力となっていると言えよう。
「イスラム国」などのテロ国家、北朝鮮などの「テロ支援国家」、アルカイーダなどの国際テロ組織、ボゴ・ハラムなどアフリカの武装勢力など―これらの相手に対しては「話し合っても理性的な話は通じない、武力―軍事的な抑止力・攻撃力―で対抗するしかない」のか?
真の問題は、そう言って何が何でも自らの利益とそれが得られる社会システム(資本主義)を守ろうとする(国ごとの、或いは国際的な法制度・機構など合理的な装いを弄すも結局は非理性的な強制手段すなわち暴力装置・武力でしか守れない)身分・階層と社会体制が存在していることである。
その根っこにあるシステムは資本主義経済システムであり、そこから生じているものは競争・格差・失業・貧困・差別・人間疎外である。(失業者数は世界合計で2億人超、世界の最富裕層85人の資産総額は下層35億人分=世界人口の約半分の資産合計に相当。)それらがテロリズムの土壌(争いの種)となっている。
歴史的に見れば、近代資本主義の発展過程で、欧米先進資本主義国による経済のグローバル化、アジア・アフリカ・中南米の植民地化にともなって、先進国・途上国間・地域間、それぞれの地域内・国内間にそれらはもたらされた。(先進国内でも疎外感・閉塞感に打ちひしがれた若者がイスラム過激派にはしり、「イスラム国」やアルカイーダなどに身を投じている。「国内に居て自殺して果てるよりは、戦場で」と。)
そのような資本主義のグローバル体制下で、そこであえぎ、どうすることもできずに疎外感に打ちひしがれた人々は、アメリカなどの圧倒的に強力な軍事力(抑止力・攻撃力)によって守られ、或いは支援されている政府の軍に抗するにはテロ手段しかないという考え・過激思想にとらわれる。それに対してグローバル支配権力者とその同調者たちも、彼ら過激派にはどうせ話は通じず武力で攻撃を封じる軍事力で抑止・排劇するしかないという考え・軍事主義にとらわれる。
こうして互いに「暴力には暴力しかない」という考えに囚われ、果てしない「憎しみと暴力の連鎖」(悪循環)に陥る。それでは、いつまで経っても問題は解決せず、争いは収まらないのであって、「軍事的抑止力」などなんの意味もないわけである。
根本問題は、格差・貧困・差別・人間疎外などテロリズムの土壌(争いの種)を除去することにあるはず。それを除去することなく、いくら軍事的抑止力を強化したところで、なんの解決にもならないどころか、それはかえって相手を刺激し、反発を招き、闘争心をかきたてる以外の何ものでもなく、話し合おうにもその妨げとなる。話を通じなくさせるのは、ほかならぬ「軍事的抑止力」(それは右手に棍棒を持ち、左手に聖書を持って話そうとするようなもの)。
このようなテロに対する抑止力の場合でも、最善の抑止力は、やはり「9条抑止力」、というほかあるまい。