米沢 長南の声なき声


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私の生き方(随想)
2015年11月30日

  「いったい何のために生まれたんだ」とか「何のために生きてんだ」などと言われたり、「生きる意味」を自問することもたまにはあるものだ。しかし「何のために」なんて言われても、昔なら「家のため」だとか、「お国のため」、などといったようなこともあったかもしれないが、本人はただオギャーといって生まれてきただけの話で、生まれたからには生きるしかなく、ただひたすら生きているだけ、というものなんじゃないだろうか。とにかく生きる。要はそうして授かった命、その生(人生)をどのように生かし発揮して生きがいを感じて生きるかだ。そうして生きる喜びを満喫できれば「ああ、幸せ幸せ」ということになるわけだ。
 しからば、どうすれば生きがいを感じ、生きる喜びを満喫できるかである。その方法は、日々、夢・目標・日課をもち、それを果たしつつ(果たせれば達成感・満足感が得られ、果たし損ねれば、がっかりして、しばらくは落ち込んで挫折感・絶望感に囚われたりすることもあるが、やがて立ち直っては「よ~し、今度はこれでいこう」というふうに切り換えて、再チャレンジを繰り返しながら)生きることだろう。
 夢・目標・日課は人それぞれ、思い思いに、どんなことでもいいわけであるが、究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」だろう。そしてそれを果たせた喜びが究極の幸福となる(極楽往生を遂げる)、というものではあるまいか。
 
 かつてドイツのヒトラーが支配した当時オーストリアの精神科医だったフランクルという人が、ユダヤ人強制収容所で極限状況に置かれた人たちの有り様を目の当たりにし、解放後に著した(「夜と霧」)、その文中に次のような意味のことが書かれているという。「人生に何か(いいこと、楽しいことがないかな、と)期待して生きるのではなく、人生(をこれまで生きてきて、これからも生きようとする自分)から(自分自身に)こうあってほしいと期待されて生きることだ」と。
 それは、誰かが何かしてくれて与えてくれるものをただ受け取るだけで、それに満足がいかないと、つまらないとか空しいとかいって、ただ受け身で消極的に生きるのではなく、自分にせっかく与えられている生(一つしかない命、一回しかない人生)を最大限だいじにして、与えられたその条件下で(たとえどんなに恵まれない条件下でも)何でもいいから(世のため人のためになろうと、なるまいと、或いは人様から見ればどんなにか他愛もないことであっても)自分にできることをやって、精一杯(ほんの少しでも)生きる喜びを満喫して生きるがよい、ということなのではないだろうか。
 それは、たとえ極限状況に置かれても、「もはや人生に何も期待できず夢も希望もない、生きていても無意味だ」といって絶望して諦めるのではなく、極限状況に置かれているその人生が自分に「逆境を運命として受け入れつつ逞しく生き抜いてほしい」と期待をよせている、その期待に応えて生きるがよい、ということなんだろう。

 当方の場合、我が人生が自らに期待し、課し、促しているのはどんなことかといえば、それは、今日も朝起きてからやっていること(ラジオ体操・掃除・新聞・テレビ・ブログで「つぶやき」と「声なき声」の発信・歌いながらの散歩・ワイン晩酌たまに市民の集いや飲み会や小旅行など、人様から見れば他愛のないことでも、日々やっている)、そのことにほかなるまい。
 人が何かに取り組み、それがうまくいって「ああ、よかった」といって達成感を得、ひいては生きがい感・幸福感を感じるのは、実は自己満足にほかなるまい。
 人は誰しも、それぞれ置かれた境遇の下で、人生が自分に期待し課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得る。その目標・課題が困難をともなうものほど、また、それが世のため人のためになり、人々から感謝され或いは共感を得られるものほど満足度は高いわけだ。                    
 しかし、置かれた境遇や条件(生活環境、年齢、健康、頭・体力、カネや職や役目の有無など)によっては、世のため人のために役立ちたいとは思ってもそれができず、(当方のように)自分のことしかできないとか、自分のことで精一杯という人は、満足度の低いささやかな自己満足に甘んじるしかないわけであるが、それでも自己満足できるだけでも幸せというものであり、生きている価値があるというものだろう。(当方はそれで満足している。)
 そりゃ、ノーベル賞受賞者が世界中の誰もが認める功績によって得ている満足感と、或いは「国家・国民の為に日本で一番頑張っている」と自分で思いこんでいる総理大臣の自己満足と、当方のような無力な人間の自己満足とでは満足度には(天地の差ほどの)違いはあっても、自己満足であることにはかわりあるまい、と思うのだが。
 どうせ生きるんだったら「生きがい」のあるように生きるということであり、生きがいとは、生きていてよかったと自分で満足できること、要するに自己満足のことだろう。
 人生は「自分が自分に目標・課題を課し、それを一つ一つ果たして満足を得る」という「自己満足の積み重ね」なんではないのか。
 このところずうっと、そういう思いで日々過ごしている。

 それで今日もいつもの日課を・・・・・・・・・・・・・・・
 尚、新聞・テレビはニュース報道を見て、これはどうも?と思うと論評をブログに書き込み、時には新聞に投稿(これまで、この10年余りの間、新聞に載ったのは11回だけで、何十回も載っている教え子のS君にはかなわない)、市民の集まりに行ったりもしている。
 糖尿ぎみで晩酌はワインを一杯だけ。
 散歩は田んぼ道を唄いながら1時間半ほど(歌は「千の風」「花は咲く」「昴」「「河の流れ」「木枯紋次郎」の歌、「君といつまでも」「銀色の道」「大都会」「また逢う日まで」「愛しき日々」「イマジン」、それに徘徊老人への「声掛けソング」―山形県警のお回りさんが作った歌で、「どさどさ どさえぐなや どさどさ どさどさ どさえぐなやっすー」といった歌詞の歌なども)。
 それから「聴き流し」英語を一日15分ぐらい、10年以上やっているが、さっぱり憶えられないのに(少しは憶えたような気になって、いや、そのうち少しは憶えるだろうと思って)未だやっている。(日本語の言葉さえも、すらすら出て来なくなったというのに。)
 これらは自分のボケ防止には役立っても、人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないが、ただ人様に迷惑をかけずに退屈しないで生きていかれれば、それでいいんじゃないかな、という思い。
 孫が、親から怒られてふてくされ、「生まれてこなきゃよかった」などとつぶやいたことがあったが、もう一つ、こんな歌もうたっている。「命は一つ、人生は一回だから、命を捨てないようにね・・・・・死んで神様と言われるよりも、生きてバカだと言われましょうよね、きれいごと並べられたときにも、この命を捨てないようにね・・・・・」。 


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