米沢 長南の声なき声


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8月のつぶやき
2011年08月01日

●在職中、校長だった先生が亡くなった。10歳年上。葬儀では、弔辞や喪主挨拶で生前・在職中の業績の数々と御労苦、それに奥様・お子様・お孫様たちと撮った写真のスクリーン大写しが披露され、改めてその遺徳とともに、ありし日の誠実温厚な姿・語りが偲ばれた。このあいだ亡くなった教え子の葬儀の時も、そんな思いをしたものだが、この自分が死んだ時、葬式で人様に披露して聞かせるとしたら、はたして何があるだろうか。ろくにないか、ろくなことがないかだろう。まあいいや、とにかく日々、一生懸命、できることをして生きるのみだな。
●またまた地震。米沢震度3、震源地は福島沖、福島・宮城とも東部地域は震度5弱。その前に、これとは別に北海道でも弱いのがあった。道知事が泊原発の営業運転再開を容認したが、よくもまあ。この女性知事は経産省の官僚出身なんだって?・・・やっぱり!
●また地震。夜、寝る前にやや弱いのがあって、娘が「明日また来るぞ」と言ったその通り、翌日、夜明け前、ぐらぐら。飛び起きて箪笥や置物を見わたし、収まったところで、テレビをかけて速報を見ると、震源地は福島沖、福島浜通り・中通りが震度5弱、米沢3。津波は?原発は?しばらく後、両方とも格別なことがなくて済んだとのことだった。やれやれ・・・。
●また被災地を見に行って来た。今回は二井宿峠経由で白石―岩沼―亘理町―山元町―新地町―相馬―南相馬―飯館村―伊達市―飯坂経由。
 護岸堤防の残骸、「焼野原」ならぬ「津波野原」が広がる。そこに住宅街があったと思われる廃墟。電柱と信号機が、それぞれ一本だけ傾いて立っている。傍らに墓標が立てられてあった。ブロックを積みあげた上に「・・・居士」と書かれた木札、その両側に菊花が添えられ、仏壇にあったはずの「・・・大姉」と書かれた位牌が置かれていた。その前にたたずんで合掌。そうだ、そこは新地町、107人もの人が亡くなっているのだ。亘理町では256人、山元町では670人、相馬市では454人、南相馬では 605人もの人々が、家もろとも津波にのまれてしまったのだ。わざわざ行って手を合わせて来てもおかしくないだろう。
 飯舘村では人影は警察官だけ。伊達市の霊山にさしかかる手前、街道両側の野山の斜面に、なんと黒牛が数十頭(「放れ牛」)。同行者は「飼い主が避難先から餌をやりに来てんなだべ」というが、まさか。そこは牧場で、放牧されたまま、移転も屠殺・出荷されることもなく、放射能をモノともせずに(?)黙々、牧草を食べて命をつないでいるのだろう。頑張れ、牛どもよ・・・・とは言っても、はたしていつまで生きていられるか。飼い主たちはいつ戻られるのか・・・・・・・
●祈りの月。広島・長崎の原爆、終戦、そしてお盆。「日本の祈り」だな。
 節電、熱中症で騒いだかと思うと、信濃川・阿賀野川の支流と只見川の大洪水、それに、また余震、原発放射能禍はまだ続く。いったい、いつ収まるのか。祈り続けるしかないか。


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