[はじめに] 今、我が国では、中国で起きた反日のデモ騒ぎに「いったい何ごとだ」といった感じのようである。テレビのワイドショ-などで、映像が見せるその光景に、キャスターは「いったいどうしてなんでしょうか、理解できませんね」と問いかけ、解説員やコメンテ-タ-が指摘することは、それは「経済自由化による社会の多元化にたいする共産党一党独裁の政治のゆきづまり」だとか、「民衆不満のガス抜き」だとか、「報道規制に対するインターネット情報の大普及」、「日本に対するジェラシーやライバル意識」、「愛国教育」、ひいては「一人っ子政策で生まれて我がままに育った若者たち」のせいだとか、もっぱら中国側の問題に終始している感がある。これらの指摘はいずれも、なるほどもっとだなと思って
しまう。
しかし、ちょっとまてよ。日本の方には問題はないのだろうか。経済社会格差の拡大、少子高齢化、若者や子どもたちの状況、将来不安の広がり、愛国主義・国家主義への傾斜と教育・職場・市民生活にたいする管理・統制の強化など問題がないわけではないだろう。そして、この日本でも若者の間に反中感情が高まりナショナリズムが強まっているという実態があるのである。
一橋大学院の吉田裕教授は新聞社やNHKの世論調査に基づいて次のようなことを指摘している(論座3月号)。
若い世代の間に、先の戦争をアジア近隣諸国に対する侵略戦争だったという評価に対する違和感が拡大している。そして首相の靖国参拝支持もこの世代が70歳以上の高齢者世代に次いで多い。自分の親の世代すら戦争体験をもたない世代は戦争にたいする当事者意識がさらに希薄であり、「侵略戦争」という非難に直面すれば感情的な反発が生じるのだ。また「80年代に入って以降、日本人の対外的優越感は目立って減少しており、若い世代ほど自国に対する自信を失いつつある。」「経済のグローバル化と『構造改革』の進展によって---従来の社会的統合が流動化し、深い挫折感と無力感が多くの国民をとらえている」「そうした社会状況を背景にして、公的なるものへの献身を高唱するネオ・ナショナリズムが若者の間に拡大している」。「問題は、それが、凄惨な戦争体験を持たない世代の、多分に情緒的で感覚的なナショナリズムであるために、ナショナルな感情を刺激する象徴的な事件に遭遇する場合には、容易に攻撃的なナショナリズムに転化する可能性をはらんでいることである」と。
尚、この世論調査や吉田教授の指摘は、今回(4月)の反日デモ以前のものだが、あの激しい反日デモのあった後の今では、日本の若者のこのような傾向(反中ナショナリズム)はさらに強まっているのだろう。
このように日本側にも内包する問題があり、双方に国内事情があって、「お互い様」といった一面がありはしても、日本の方がまだましなのであって、向こうの方が深刻だ、などと高をくくり、また貿易・経済なんかでも、大事な相手を失って困るのは日本よりも向こうの方だ、などと高をくくる向きが多いようであるが、よその国のことをとやかく言うよりも、自分の国のことを問題にすべきなのではないか。
第一、中国人からデモによって訴えられているのは我が方なのであって、それを正面から受け止めてその問題を議論しなければならないのに、それをそっちのけにして中国側の問題に議論をもっていくのでは、それこそ問題のすり替えだといって益々反発をかうことになるだろう。
それとも中国人の訴えは、単なる言いがかりに過ぎないか思い違いに過ぎず、日本がそんなに怨まれる筋合いは本当にないのだろうか。
いずれにしても、中国側の問題をあげつらうよりも、訴えられている自国の問題を真摯に受け止めて、先ずはその方から議論しなければならないのではないか、と思うわけである。
尚、先方の愛国主義を批判するからには、「そっちの方こそどうなんだ」と云われることのないようにしなければならないので、自国を身びいきしたがる愛国の情は抑えて、つとめて客観的な立場にたち、自国にたいしてはむしろシビアに、自己批判的に問題点を取り上げて論ずることとする。
すなわち、近隣諸国における反日の根本原因はどこにあるのかといえば、それは日本にあり、近隣諸国に対する侵略の歴史にたいして日本人が認識を欠き、民族的責任にたいして無自覚・無責任であるところにある、ということで、以下にその理由・根拠を幾つか論じてみたい(1)戦争責任
60年前、大戦が終結したその当初、日本国民は侵略戦争と植民地支配、それにともなう諸々の加害行為にたいする事実認識と反省に基づいて、その加害責任を果たすことが世界から求められ、また、それに応えて自らその責任を果たすと誓ったはずではなかったか。それから間もなく制定された日本国憲法にそれが表れている(前文「日本国民は、---政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し---。」そして第9条)。
そこで、その責任を果たすこととは、具体的にどのようなことかといえば、次のような三つのことが考えられる。
まず、第一に、東京裁判などに基づく処罰に服したこと。それで、侵略戦争の計画責任者(A級戦犯)、非人道的行為の責任者(B級戦犯)、その実行者(C級戦犯)などが処罰され、937名が死刑、その他は禁固に処せられた。
尚、この判決を日本政府はサンフランシスコ講和条約(11条)で受諾し、それによって我が国は国際社会への復帰が認められ、その後国連への加盟も認められたわけである。
第二に、損害にたいする賠償・補償である。国家間では、(サンフランシスコ条約で)アメリカ・イギリス・オーストラリア等は請求権を放棄。台湾・ソ連・インドも請求権放棄。韓国は(日韓条約にともなって)経済協力と引き換えに請求権放棄。中国も(日中共同声明で)請求権放棄(そのかわり日本はODA政府開発援助を最近に至るまで年々行ってきたといわれるが、それにたいしては、中国側は返済を果たしている。)東南アジアの4カ国(ベトナム・フィリピン・インドネシア・ミャンマー)にたいしては生産物(船舶・鉄道車両・家電製品など)や役務を提供するかたちで支払った。タイ・マレーシアとシンガポール・ミクロネシア・モンゴルには賠償に準ずる無償援助や経済協力がおこなわれた。カンボジア・ラオスは賠償請求権を放棄したが、その代わりに日本から無償援助をうけている。
第三に、降伏直後の武装解除に引き続き、新憲法を制定して、前文に平和主義を誓い、9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権の放棄を定めた。それらは、国際公約ともいうべきものであり、世界の諸国民にたいし不再戦と侵略・加害行為再発防止の保証となるものであり、それを守り続けることも、戦後責任の一つであろう。その責任は「決着がついた」とか、「処理済み」などといって終わるものではなく、今後ともずうっと果たし続けなければならない民族的責任ともいうべきものである。そこで、第一の責任すなわち処罰のことについては、日本では、「新しい歴史教科書をつくる会」などの間で、我が国の戦争は自存自衛のためのやむをえざる戦争なのであって、(アメリカの思惑から起訴されなかった天皇は勿論のこと)A級戦犯とされた東条らも無罪だとし、裁判自体が勝者による敗者にたいする一方的な裁判であって正当性がないとする向きがある。
「敗者」という言い方をすると「弱者」「被害者」といった感じを受けるが、日本はアメリカなどの連合国に対しては敗者ではあっても、アジア諸国民に対してはあくまで強者・加害者だったのである。加害者が裁かれるのは当然なわけである。だからといって復讐裁判や報復裁判は望ましくないわけであるが、国際刑事裁判所は近年になってようやく設立されたばかりであり(しかも日本はアメリカとともに未だにその条約に批准していないし)、当時はそういったものがなく、国連さえも連合国すなわち戦勝国によって結成されたばかりという時代とあっては、この方法すなわち連合国軍による軍事裁判以外になく、中立公正な国際法廷をといってもそれは望むべくもなかったわけである。その裁判はアメリカなどの政治的思惑によって進められ、原爆などのアメリカ側の残虐行為は不問に付され、(マッカーサーが日本を間接統治する上で天皇は有用だとの思惑から)天皇の戦争責任も不問に付された(それは日本政府の思惑と合致した)。
このように、東京裁判には諸々の問題点があることは確かであるが、だからといって日本の戦争は侵略戦争ではなかったとか、処刑された戦犯たちに罪はなかったということにはならないはず。ところがそれを、近隣諸国に対して日本が行なったことは侵略とは認めず、加害責任を認めようしないのである。
そもそも、ドイツでは連合国軍による軍事裁判のほかにドイツ人自らが戦争責任者を裁判して厳しくその責任を追及しているが、日本では日本人自身による戦争裁判はおこなわれず、ドイツ・イタリアに比べて戦犯に対する責任追及が弱く、東京裁判でA級戦犯容疑者であった人物(岸信介)が戦後首相となったり、靖国神社にA級戦犯が合祀されたりしており、その靖国神社に首相が公式参拝しているのである。第二の責任すなわち賠償のことについては、(教育史料出版会「いまなぜ戦争責任を問題にするのか」の執筆者のうちの俵義文氏の文によれば)日本政府がアジア諸国に支払った賠償・準賠償額は計5千数百億円で、放棄した在外資産などを含めても約1兆円にすぎない。(ドイツが94年までに支払った約7兆円に比べるとはるかに少ない。しかも日本の場合は、支払いはもう完了しているが、ドイツは2030年まで約8兆5千億円払い続けることになっている。)
ちなみに、日本国内の軍人恩給などは52年から97年まで約45兆円にもなり、現在も年間約2兆円支出されているという。
それでも日本政府は、国家間ではもう決着している(処理済み)というわけである。一方、個人にたいしてはほとんど賠償・補償はなされていない。国連人権委員会は国家として個人補償すべきであると勧告しており、「国家間で決着しても、個人の補償請求権は消滅しない」という国際法解釈が大きな流れとなっている。
従軍慰安婦・強制連行・強制労働・731部隊の細菌戦人体実験・無差別爆撃等々。それらによる被害者とその遺族が日本政府に補償を求める訴訟をおこなっているが、日本の裁判所は、不法行為は認めながらも、時効や除斥期間規定(20年経過すれば賠償請求権は消滅)(その適用にたいして、被害者側は、その間「国交もないのにどうして日本の情報が入手できたのか」と批判)或は政府間の協定による個人の請求権消滅などを理由にほとんど棄却している。
ただ従軍慰安婦については、1995年、日本政府は(国民からの寄付をもとに)民間基金(アジア女性基金)を設立してそこから(1人200万円の「償い金」を)支払うことで済ますことにしたが、「ただお金さえもらえればよいと云っているわけではない」として、多くは受け取りを拒否している。1998年には、下関地裁判決で初めて国家賠償請求が認められたものの、一人につき(請求額1億1100万円にたいして)30万円で、しかも広島高裁で取り消され、最高裁に上告中である。
強制連行については、花岡事件(鉱山で酷使され集団脱走した中国人数百名が拷問死)の訴訟は会社(鹿島)に対しておこなわれ、基金(5億円)を設立して生存者・遺族に分配することで和解(2000年、東京高裁)。2001年、劉連仁(終戦後も北海道の山中で13年間逃亡生活を余儀なくされた中国人)が国を相手取り東京地裁に提訴していた事件で初めて国に2000万円の支払いを命ずる判決が出たが、国側が控訴。昨年、酒田港中国人強制連行事件の訴訟で、中国人河北省在住6人が国と会社に対して提訴、山形地裁で審理中。韓国人元徴用工たち(40名)が国と会社(三菱重工)に対して提訴、一審では時効や除斥期間規定などの理由で棄却されて控訴していたが、本年1月広島高裁は、彼らは被爆しているのに戦後韓国に戻ったためとして手当てなどの受給資格を認めなかったのは違法であるとして国の賠償責任を認める判決を下している。
賠償問題は、政府は解決済みだとしてきたが、被害者側はそうは思っていないのである。
尚、北朝鮮に対しては、国家に対しても個人に対しても何もしていない。
第三の責任すなわち不再戦・不再侵略の保証であり国際公約ともいうべき憲法9条を守り続けるという責任については、日本政府はそれをネグレクトする方向をたどっている。すなわち終戦・武装解除後5年目から再軍備を始め、「自衛隊」の名のもとにその整備・拡充・強化を重ねて今や(アメリカは別格としても)世界有数の軍事大国となっており、しかも海外派兵をおこなうまでになっている。それは事実上の改憲(解釈改憲)なのであるが、今、政権党と最大野党はともにそれを明文改憲して、これまで自衛隊の海外での武力行使の歯止めとなってきた第2項(戦力・交戦権の放棄)をはずそうとしているのである。それは、近隣アジア諸国民からみれば、日本の不再侵略の保証責任の放棄であり、諸国に対する日本の不再侵略の保証という安全保障がなくなってしまうことを意味する。(その意味で、改憲は日本だけでなくアジア諸国の安全保障に関わる重大問題なのである。)
韓国・仁荷大学の李京柱教授は、「9条は東北アジアの安全保障体制をつくるために非常に大きな役割が期待される」と述べている(「法律時報」04年6月号)。また、NGOピースボート代表の吉岡達也氏(2005.4.7朝日「私の視点」)によれば、今年2月東京の国連大学に東北アジア各地からNGO代表や研究者が集まって国際会議が開かれたが、そこでは、「日本の憲法9条は、一国の憲法の条項であるとともに、東北アジア地域の紛争予防メカニズムである」とされ、その会議で韓国の女性NGO活動家は「9条はドイツと違い戦争責任を明確にしない日本の『侵略を繰り返さない』というアジア市民に対する誓いとして機能している」と指摘していたとのこと。
「9条があるからアジアの人たちは安心していられ」、「改定されることに、アジアの人たちは非常に危機感を持つ」という(作家の梁石日氏)。昨年11月、自民党改憲草案大綱が発表された時、韓国の与野党国会議員70名が連名で抗議声明を発し、その中で「日本のこのような憲法改定は、過去の侵略に対する痛切な反省なしに、再び日本を戦争国家化し軍事大国の陰謀を実現するための具体的な行動である。」「日本の憲法が改定されれば、韓半島での戦争の危険がいっそう高まることは自明である」とし、「日本の憲法改定をわが民族の生存を脅かす最大級の事案」だとしている。
日本は過去の侵略に対する反省のうえにたって不再侵略の保証たる9条を守り抜くという、その責任を果たしているとは思われていないわけである。加害者が被害者にたいしてやるべきことは、まず、加害事実を認めて謝罪するところから始めなければならないが、それはもうやっているはずだと。(ところが他方で、加害事実を認めないか、「悪いことばかりではなく良いこともやった」などといった言動をする者が出てくる。相手は憤慨し、また謝罪をくりかえさなければならなくなる。)しかし口先や言葉だけで「反省とお詫びを」をいくら繰り返しても、(いったい何回謝罪すれば気が済むのかなどとよく言うが)これら(処罰・賠償・再発防止保証)の責任をきちんと果たさなければ、被害者は納得できないわけである。
このように、近隣諸国がかつて日本からこうむった被害にたいして償いと加害責任を果たすよう求めているのに対して、日本は充分それを果たしていない。それに対する反発が「反日」にほかならないわけでる。
(2)歴史認識のギャップ
そこには、日本と近隣諸国との間に、日本の戦争や植民地支配とそれにともなって日本人がおこなった諸々の加害行為にたいする事実認識と評価―歴史認識にギャップがあり、それがさらに拡大してきている、という問題がある。そのギャップはどうして生じ拡大しているのか。考えられることは、次のようなことだろう。(1) 加害者の方は「人の足を踏んだ者は、踏まれた人の痛みは分からない」ということで、とかく被害者の心の痛みに無頓着であったり、よく覚えていなかったりしがち。他方は傷跡がうずき、忘れようにもわすれられない。また加害者には心理的に適応機制がはたらいて嫌なことは忘れるものだが、他方は忘れようとて忘れがたいその思いを人に訴えずにはいられないのである。
(2) 日本人には、とかく原爆とか、空襲とか、310万人もが死んだとか、被占領とか、日本の方が被害国であるかのような錯覚に陥りがちである。それにたいしてアジアの被害国民は、自分たちの方は徴用や強制連行以外には日本領土に一歩も踏み入ることなく一方的に侵略され、略奪・暴行・殺戮をうけ、町や村・家々を破壊され焼き払われ、アジア全体で2000万人もの人々が犠牲になったのだということ。
(3) 日本では、学校の歴史学習は、とかく教科書の最後の方にある近現代史が時間不足になり、受験問題もそこは避けるといったこともあって不徹底に終わりがちである。それにたいして被害国の学校では教科書のページ数も時間も近現代史に多くを割いて徹底を期す。日本ではそれを「愛国主義教育」と称し、「(日本の方は教えなさ過ぎだが、向こうは)教え過ぎ」と批判する向きが多いが、被害国側では学校だけでなく、祖父から子へ、子から孫へと語り継がれている部分が多く、日本ではそれが少ないという問題もある。
(4) 政治的意図や民族感情により、他国に与えた被害はできるだけ小さく見積もり、(テレビや教科書などから)過去の国家や支配層の失敗、過ちや不名誉を隠し、それらをタブー化もしくは正当化・美化するが、他方はそれを暴こうとする。以上のようなことが考えられる。
それらによる歴史認識のギャップを埋めるには、次のようなことが考えられる。
(1)と(2)の加害者・被害者間の感覚や意識の相違については、加害者側がその立場を自覚し、謙虚かつ率直に自己反省・自己批判し、被害者側の言い分を理解し、気持を察する努力を払わなければならないわけである。
(3)の歴史学習については、まず、加害国側と被害国側とで事実の確認(専門家による調査・検証)をそれぞれにおこなうとともに双方の専門家が共同で調査・研究を実施し、その結果を双方の学校の教科書や授業に反映させる。共通の歴史教材づくりにも取り組む。
そして双方とも学校その他できちんと教えることにする。
(4)については、和解と友好以外にはあらゆる政治的意図や感情は抜きにして、事実を隠蔽・タブー化・歪曲・正当化・美化することなく、加害事実も被害事実もありのままに歴史学上の(科学的)真理として扱うことに徹する。
そもそも、歴史学習や歴史認識は、単に自国に誇りをもったり、自民族を賛美したり、過去を正当化することが目的なのではなく、我々と我々の子孫が現在から未来にわたって生きる国家や社会を諸国民と共に平和・安全で幸福に暮らせるようにすることが目的なのであり、そのために過去の国家や社会のあり方、近隣諸国や他国との関係・対立・戦争や侵略加害・被害の実態をよく知って、そこから教訓を得る(民族の失敗経験から学ぶ)とともに、加害責任など過去から課せられている責任(民族的責任)を自覚してそれを果たし、被害国民との和解・友好を得るのである。だから政治的目的や民族感情で過去の事実を消し去ったり、歪曲したりせずに、ありのままに伝え知ることなのである。
これらのことを可能な限りおこなう。そうすれば歴史認識のギャップは埋まっていくだろう。とは言っても非常に難しいことではあろうが、やるしかないわけである。自民党の安倍晋三氏は、「日中は共通の歴史観をもてない」と発言したという。それはどのような意味で言ったのか、「歴史観」とは唯物史観や「人民解放戦争史観」に対する皇国史観か「自由主義史観」「大東亜戦争肯定史観」のことを言っているのか、それとも単なる歴史の見方か歴史認識という簡単な意味で言ったのか定かではないが、いずれにしろ「共通の歴史観はもてない」などと、そのような決め付け方をするのは、中国人と日本人は永久に同一の理解には達しえず、解り合えない、故に真の友好関係に達することは不可能だ、と言っているようなものではあるまいか。
自由主義史観は「新しい歴史教科書をつくる会」など我が国でも一部の論者たちの称する史観であり、我が国の歴史学界の大勢ではない。唯物史観(宗教史観や観念論的歴史観に対するもので、帝王中心史観や英雄中心史観に対する民衆中心史観)は科学的社会主義の歴史観で、民衆の視点で客観的にありのままにとらえる立場であるが、その科学的実証的な歴史認識の立場は我が国の歴史学界でも大勢をなすものであり、「つくる会」派グループはいざ知らず、日中間で共通の歴史観はもてないなどということはありえず、歴史認識を共有することは可能なのである。(3)日本側の一連の動き
戦後60年経った今、我が国は近隣諸国との歴史認識のギャップを埋め戦後責任を果たして和解・友好に努めるどころか、それに逆行する動きをこのところ次々と見せてきているのである。
首相の靖国神社参拝、戦争肯定の歴史教科書公認、日の丸・君が代の強制、「昭和の日」制定(4月29日は、昭和天皇存命中は天皇誕生日であったのを死後「みどりの日」と改めたものを、再び改め、「みどりの日」は5月4日に)、教育基本法改定、そして改憲と。
これらの動きに対して、被害国である近隣諸国は気が気でないのである。日本は加害責任を曖昧にし、戦争・占領と植民地支配を肯定するようになり、再び惨害が繰り返されかねないと。
それを云われると日本側は「それは思い過ごしだ」「それとこれとは別だ」「そんなにむきにならなくてもいいのに」といって済ませようとし、或は「内政干渉だ」といって逆批判する。そして次のように釈明する。
靖国参拝は「ごく自然の感情」「国のために心ならずも犠牲になられた方々に哀悼の誠を捧げる」「恒久平和を英霊に誓う」「人は死ねば善人も悪人も無いというのが日本人の死生観」(実は必ずしもそうではなく、反乱を起こした西郷隆盛などは祀られていない)。
「つくる会」の歴史教科書には「間違ったことは書かれていない」。
「日の丸」・「君が代」は「我が国を象徴するもので、それを尊重し、学校で掲揚・斉唱を指導、徹底しようとするのは当たり前。」
「昭和の日」は「激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時を顧み、国の将来に思いをいたす日」「昭和の教訓をかみしめる日」。
教育基本法改定は「児童生徒に愛国心を育てるのは学校教育として当然のことだから」。
改憲は「自衛のため軍事力をもち、それを行使できるようにするのは独立国として当然であり、国際協力のためにもそれが必要。」
というわけである。
しかし、被害国民から見れば、これらは一つ一つ別個のものではなくて一連のものとして、次のように受け取られるのである。
靖国神社は、「かつての侵略や戦争にたずさわった軍人や戦争指導者を神として祭っており、そこを参拝することは侵略や戦争の肯定を意味する」。
「つくる会」教科書は「かつて日本がおこなった侵略戦争や植民地支配を肯定・美化し、歴史を歪曲している。」
「日の丸」・「君が代」は「日本軍による占領支配のシンボルとして掲げられ、小旗を振らされ、歌い奏された大日本帝国の国旗・国歌。」
「昭和の日」は「侵略戦争を起こし、アジアの人々に多くの犠牲を強いた天皇の治世を肯定するもの。」
教育基本法改定は「かつての忠君愛国教育を復活しようとするもの。」
改憲は「不再戦・不再侵略、かつての加害行為の再発防止の保証責任を放棄するもの。」
というわけである。
日本側が、「侵略したことに対しては反省とお詫び」はもうやっているではないかといっても、これらの行動や政策をとっている以上、それは口先だけとしか受けとられない。「日本は本音の部分では悪いことをしたとは思っておらず、加害意識も責任意識もないのだ。許せない!」と反感をつのらせる。それが反日の原因にほかならないわけである。(4)日本側の支配層の国家戦略
それに、我が国の支配層(政権党や自称「政権準備党」の政治家と彼らに献金している財界)には次のような国家戦略があると思われ、それがアジア近隣諸国にたいする責任を軽視する所以なのであろう。
その国家戦略とは、アメリカ軍の日本占領以来、米ソ冷戦下でアメリカに従属し、ソ連解体後もそのままアメリカの世界戦略に合わせて国益とサバイバルをはかる日米同盟路線を歩んでいこうというものである。イラクをめぐってはアメリカの要請に従って自衛隊を派遣、北朝鮮とはアメリカとともに戦うことも辞さず、台湾をめぐってはアメリカとともに中国と戦うことも辞さない。アメリカ以外の諸国とは、中国とも経済的打算による「友好」関係は必要としても、アメリカに対する程には信頼関係にとらわれず、信義にはこだわっていないのである。評論家の加藤周一氏は、福沢諭吉が云った「脱亜入欧」ならぬ「脱亜入米」といっている。
尚、アメリカで国務副長官を退任後も対日・対アジア政策づくりに強い影響力を持つアーミテージ氏が、米国抜きで進められている東アジア共同体構想に、中国が熱心であることに警戒感を示し、日本がその設立準備に積極的に関わることに難色を示したという。(2005.5.1朝日)
我が国が、アジア諸国民にたいする歴史的責任や国際的信義をそっちのけにして、自国の国益とサバイバルのためにはその方が有利だからといって、このようなアメリカの意向に合わせた対アジア政策をとるならば、かつては抗日戦争の味方で連合国同士であったアメリカは許せても、日本は許せないとなり、事あるたびに反日がわきあがることになる。そして我が国民は孤立感にさいなまれることになる。(5)歴史認識を共有して連帯
支配層の国家戦略や政策はそうだとしても、我々国民にとっては、侵略・加害の歴史の事実を率直に認め、それを真に反省し教訓とし、戦後責任を果たしきることによって被害国民・交戦国民に対して信頼を勝ち得、完全和解を達成し、アジア諸国・アメリカ・ロシアその他どの国とも友好協力関係を結んで相互不可侵の安全保障を得るのが一番望ましく、平和憲法を守り、侵略・加害の歴史に対する責任を果たしきることが国益となるのであって、それに反する動きには反対しなければならないのである。
日本の学生や若者も、反日デモに対する反発感情にとらわれて、自国側の近隣諸国に対する歴史責任・和解に反する動きに対しては、目をつむったり弁護・免罪したりするのではなく、一層シビアに批判し反対の声をあげなければならないのである。「首相の靖国神社参拝反対!」「侵略肯定教科書反対!」「9条改悪反対!」と叫んで、近隣諸国の学生・若者と連帯デモに立ち上がらなければならないのである。
我が国民と近隣諸国民とは排外的ナショナリズムの対立ではなく連帯の精神で、各国専門家による歴史の共同研究を基に共通の歴史認識をめざし、ひいては相互不可侵・不再戦・友好協力の「東アジア共同体」構想実現をめざさなければならないのであって、「反日」対「反中」などといがみ合って、そっちもこっちも愛国排外運動に意を注ぐのではなく、むしろ相呼応して連帯行動をめざすべきなのである。
我が国民は、たとえ政府が口先だけの「友好」「アジア重視」その実「嫌中」「脱亜入米」であっても、或はメディアが「反中」をあおっても、市民サイドでは真の和解・友好・「東アジア共同体」構想実現への連帯行動に取り組まなければならないのである。(おわりに)
ジャカルタでのアジア・アフリカ会議のさいの日中首脳会談直後、小泉首相はニコニコ顔だった。それにひきかえ胡錦涛氏の表情は硬かった。
日本側は暴力デモによる被害にたいする謝罪・賠償を要求してそれに応じない中国政府にたいして貸しをつくることによって(中国側は日本側からの謝罪要求には応じないものの、暴力デモの非は認めざるを得ず、そのために強気には出れない、そのことに乗じて)中国側の要求する歴史問題をかわし、その場はしのぐことはできたかのようである。或は、こっちは(首相がジャカルタの会議で過去の侵略を)謝ってやったのに向こうは(我が国の大使館や領事館のガラスを割り、我が同胞のスーパーや料理屋などのガラスや器物を損壊しておいて)謝りもしない、「悪いのは向こうだ」(こっちは悪くない)という印象を自国民にもたせることに成功したかのようである。
しかし、日本側がかつての侵略に対して「反省とお詫び」を言葉ではおこなったとしても、行動すなわち「靖国参拝はやめる」、「戦争肯定教科書は採択しない」、さらには「9条改憲はやめる」という行動が見られないかぎり、反日はやまないであろう。ジャカルタでの日中首脳会談で胡主席は、言葉でお詫びを述べるだけでなく、靖国参拝を中止して行動で示すよう求め、中国とアジアの諸国民の感情を傷つけるようなことを二度としないよう求めている。また、同会議では韓国の李首相も「(過去にたいする)反省は誠実で行動を伴わなければならない」と指摘している。
ところが、首相のジャカルタでの「反省とお詫び」をよそに、80人の国会議員はぬけぬけと靖国参拝をやってのけた。また次期首相の最有力候補と目されている安倍晋三氏にいたっては、「日中は共通の歴史観を持てない」「(私が)首相になっても靖国神社には参拝する」と明言しているのである。これでは近隣諸国との真の和解・友好は不可能であり、反日は強まりこそすれ弱まることはないだろう。
60年前世界の諸国は何を合意して国連を結成したのか。また日本国民は何を決意して憲法を制定し、戦犯裁判の判決を受け入れ、サンフランシスコ条約を受け入れて国連に復帰したのか。日本だけが歴史を勝手に解釈したり、解釈を変えたりすることは許されないわけである。
国際社会では、諸国間の歴史にたいする共通認識からかけ離れ、歴史に責任を持てない国は信頼されず、第二次世界大戦にたいする歴史認識が国連の大勢と異なる国が常任理事国になるのはおかしいと思うのが自然であろう。日本政府が国連常任理事国入りを主張していることに対して、反日デモが反対を叫んでいるのはその理由からなのである。
事アルごとに歴史問題を持ち出し反日をぶっつけてくるアジア近隣諸国側と日本側とで、どっちがおかしいのか。中国にしても韓国にしても近隣諸国の方がおかしいというわけではあるまい。中国政府も韓国政府も、日本の首相が靖国参拝をやめ、日本の学校で「大東亜戦争」「日韓併合」を肯定するような教科書の採択をやめ、9条改憲をやめてくれれば文句ないわけであるが、日本側ではそれをやめれば自国や自分の非を認めることになり、それが嫌なばかりに、それらに頑なに執着し続けるのである。はたして、どっちが頑固でしっつこいのかである。日本人は「反日」に対して反感をもち、「反日」をやめれば気はおさまるのだろうが、中国人の反日は、もっと根の深いものであり、中国が国内を民主化し反日教育をやめれば無くなるという筋合いのものではなく、日本が過去に反日の種(原因)をつくったことを反省して、これ以上反日の種をつくらなければよい話なのである。
両国民は歴史尊重のうえにたって、二度と悲劇を繰り返さぬよう努め、「反日」「反中」から「好日」「好中」へと転じなければならないのだ。