米沢 長南の声なき声


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働き方問題―根本的解決は(加筆修正版)
2018年09月04日

 「多様な、柔軟な働き方」とか「長時間労働の是正」、「非正規と正社員の格差是正」、「高齢者の就労促進」とか「働き方改革」といっても、それは少子化に伴う人口減少で深刻な労働力不足に直面する状況下で労働生産性の向上に迫られているからにほかならない。労働生産性向上―業務の効率化のためにはテクノロジーの活用だけでなく、働きやすい労働環境・職場環境の改善が必要となる。
 6月29日成立した「働き方改革法」は、労基法など8本の法律を一括して改定したもの。主として次の3点。
 1、残業時間の上限規制―原則「月45時間、年360時間」だが、繁忙期には上限―年間720時間、単月では100時間未満、2~6か月平均80時間未満、違反した企業には罰則―「100時間」「80時間」というのは「過労死ライン」だがそれに達する寸前まで容認。
 2、同一労働同一賃金(正社員と非正規の不合理な待遇差の解消)―基本給・手当など業務内容に応じて勤続年数や成果・能力が同じなら同額に―とはいっても「正社員には業績に応じて賞与を払い、有期社員は業績に貢献しても払わない」とか「パート社員の深夜・休日手当は正社員より低い」とか「有期社員の店長の役職手当が正社員より安い」など賃金格差容認も。
 3、高度プロフェッショナル制度―高収入(年収1075万円以上を想定)の一部専門職(研究職・金融ディーラー・コンサルタント・アナリストなどを想定)を労働時間の規制から除外して、働いた時間でなく成果で評価(時間外・休日・深夜労働でも割増賃金が支払われない残業代ゼロ制度)―対象が高収入で一部専門職といっても拡大されていく可能性あり。
 当初案には(働く時間や場所を自由に選べる)「裁量労働制」の拡大―専門業務型から企画業務型(経営の中枢部門に従事する労働者)までが見込まれていたが、委員会で安倍首相が「厚労省の調査によれば裁量労働制で働く人の労働時間の長さは、一般の労働者よりも短いというデータがある」と答弁したものの、そのデータの間違いが明らかにされ、削除された。そもそも、「裁量労働」といっても、個々の労働者に自由裁量が与えられるわけではなく、使用者に与えられる裁量で、労働時間は労働者が実際働いた時間(実労働時間)にかかわらず、使用者の判断で「働いた」と見なした「みなし労働時間」で算定することが認められる―実際はそれ(8時間)以上働いても、8時間しか働いていないと見なされ、定額働かせ放題という結果になる、というものだった。

 このような労働問題の根本的解決・是正は資本主義の下では不可能。何故なら、企業のオーナー権は資本家(出資者)にあり、労働者たちの労働の成果(利潤)は資本家が取得し、労働者は資本家・経営者たちの裁量で決められたやり方と労働条件で働き、決められた賃金を受け取るしかなく、それらに労働者たちは(労働組合が団体交渉で要求する以外には)基本的に関与できないからである。そして労働者が一生懸命働けば働くほど、或はテクノロジーを駆使して労働生産性を上げれば上げるほど、その成果は資本家のものとなり、労働者への分配は限定される。
 資本家は表向きユーザー(利用者・消費者)の需要に答え、社会に貢献することを目的としているが、かれらにとって最も重要・不可欠な関心事は、実は利潤がどれだけ得られるのかだ。資本を投下し、設備を設け、AI・ロボットなど備品を買い備え、原材料を仕入れ、労働者に賃金を払って買い取った労働力を最大限活用し(働かせ)て、賃金を払った以上の余分の労働(剰余労働)から利潤を確保しようと地道をあげる。それは、そのカネで自らの生活費を確保するとか財産を蓄えるためだけではなく、熾烈な企業競争に遅れをとることのないように製品開発費や設備投資など経営の維持・拡大生産のためにカネがかかるからである。だからこそ、人件費はできるだけ抑えて最小限にとどめ、コストを安くして多く売上げ、最大限利潤確保に地道をあげるのである。だから、労働者にはできるだけ安い賃金で、できるだけ精一杯働かせて最大限の成果をあげさせようとするわけである。だから「働き方改革」といっても、どうしても資本家・経営者本位の改革となって限界がある。
 労働者にとって働き方問題の根本的な解決は、企業のオーナー権が資本家によって握られるというやり方(生産手段―施設、機械などの設備、原材料など―の私的所有)を変え、労働者たち自身がオーナー権を持つようにする。そして労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者全員に決定権―働き方・労働時間や賃金その他の労働条件はもとより、経営維持・再生産のために必要な事項は自分たちの裁量で決めるというやり方)に切り換える、という方法しかないわけである。そのように思うのだが如何なものだろうか。

 そもそも、人間は本来、孤立した存在ではなく、労働を通して他者と連帯・協業し、常に自己と他者を意識し、その関係性のなかで、社会の共同体の中に生きる「類的存在」だという。そして労働(生産活動)は本質的には人間が自然に働きかける活動であり、自分の目的を自然の中に実現する創造的活動で、そのことを通じて自分自身の諸能力を発揮・発達させる行為であり、「自己実現」ともいうべきものであって、本来「生きがい」となり喜びとなるはずのもの。それはスポーツ・音楽・美術・文学・芸能・芸術・学問・科学研究も同様。
 ところが、それが「食うために」「カネを得るため」「資本家・雇い主のカネ儲けために」否応なしにやらされ、その成果(産物)は自分から離れていき、自分を苦しめる苦役に化してしまう(いわゆる「労働疎外」)。それは、昔は奴隷労働、農奴的小作労働であり、今日に至るまでの資本主義下での賃金労働である。これらは、いずれも生産手段(土地・用具・機械・施設・設備)が自分たちのものではなく、他人(奴隷主・領主・資本家)によって所有され、他人の意志に従って「強制された労働」なのである。そのような労働はどうしても辛いばかりで、空しいものとなる。
 このような問題を根本的に解決するには生産手段の私的所有を社会的所有に切り換える変革、すなわち社会主義・共産主義の実現が必要であり、それ以外にないのでは、とおもわれるのだが、如何なものだろうか。
 尚、その変革は、暴力や破壊による革命ではなく、選挙を通じて国民大多数の合意に基いて行われ、また思想家・学者やテクノクラート(高級技術官僚)が青写真を描いて国家権力の強制など外部からの力によって社会に押し付けられるものでもなく、資本と土地の社会的所有も協同組合など自由に結合・組織された労働も経済諸法則が自然発生的な作用をもって働き、主流となるところまで社会全体に定着していくものと考えられる。
 また、社会主義・共産主義をマルクスは必ずしも段階的な区別を付けて論じていたわけではないのだが、レーニンのマルクス解釈以来、社会主義(「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」)から共産主義(「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」)への二段階発展論が(旧ソ連をはじめとして)とられてきた。しかし、そのような分配問題はその時々の情勢の中で変動する性質のものとして統一的にとらえ、段階的な区別は付けるべきではないのだ、と不破哲三氏はいう(『マルクス未来社会論』新日本出版社)。
 「能力に応じて働き、労働(ノルマや成果)に応じて受け取る」とか「働かざる者は、食うべからず」などというのは、資本家が自らは手に汗して働きもせずに、労働者たちに働かせピンハネ(搾取)して贅沢して食べている、その不合理・不当性に対して云われてきた言葉とも思われるが、それが、「働いたら働いただけカネをもらえるならいいが、ろくに働きもせずもらえるのはおかしい」といって、職がなく働きたくても働けない人とか、働くに働けない障害者など条件に恵まれない人をけなし、人を生産性によって評価し差別する考えにもなっている。しかしそれは間違っている。生産性がどうあれ、それぞれの条件・能力・個性に応じて働ける人が働くのは「生きがい」であり権利であって、(日本国憲法には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」、そして「納税の義務を負う」となっているが)働かなきゃカネをもらえず食っていけないから嫌々ながらも働かざるを得ないような義務ではないのである。また、働くに働けない人や僅かしか働けない人でも、すべての人に生存権があり健康で文化的な(最低限度の)生活を営む権利があるのであって、生活に必要な生活手段と消費物資の確保が保障されなければならないのである。各人は能力に応じて働くのが原則ではあるが、その働き(労働の成果)如何にかかわらず、生活資料(消費財)は必要に応じて受け取ることができる社会があって然るべきなのである。 
 労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者が自分たちの働き方・労働時間を自分たちの裁量で決めるというやり方)が行われるようになり、しかもIT・AI・ロボット・Iotなどテクノロジーの進歩・発達によって、食う(生命を維持する)ために働かなければならない労働時間・労働量が少なくて済むようになり、自由時間が大幅に増える。つまり、肉体的・精神的能力を自由に発揮して自分に適した好きな仕事(社会的な業務・ボランティア)や学問研究・芸術(創作や鑑賞)・芸能・スポーツなどに勤しみ生活をエンジョイすることができる時間が確保されるようになる。そして人々が自然との関わりで生命維持のためにそうせざるを得ない「必然性の生活」分野から大幅に解放され、「真に自由な生活」の生きがいを享受することができるようになる。その自由が実現する、それこそがポスト資本主義の未来社会(「社会主義・共産主義社会」)なのではあるまいか。


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