米沢 長南の声なき声


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脅威論・抑止論
2006年04月20日

(1)自衛隊も日米同盟も抑止力なのか?

小泉首相は、アメリカのイラク攻撃開始に際して支持表明をした時、「米国は日本への攻撃は米国への攻撃と見なす、と云っている唯一つの国だ。日本を攻撃しようと思ういかなる国に対しても、大きな抑止力になっている」と述べた(03,3,20記者会見)。すなわち、日本を攻撃しようと思う国―脅威―が存在する。日米同盟はその攻撃を抑止してくれる、というわけである。そして最近の沖縄や岩国などの米軍基地移設問題でも、その計画は(海兵隊が沖縄からグアムへ移転するのにともなう経費の何十パーセントかを日本が負担するのも)あくまで「抑止力の維持」のためなのだと。

尚、「日本はアメリカから守ってもらっている?」その疑問については前月このホーム・ページで論じたところである。

それはともかく、我が国では、自衛隊も、アメリカの圧倒的な軍事力も、日米同盟も、日本やアメリカがどこかの国や勢力から攻撃されるのを阻止し、戦争を抑止するための「抑止力」だと考え、我が国の安全保障と世界の平和はそれで保たれていると考える向きが多いようだが、はたしてそうなのだろうか。

泥棒や不審者の侵入を抑止するため、家に鍵をかけたり、警備保障をたのんだり、警察官その他がパトロールしたり、防犯カメラを備えたり、学校にサスマタを備えたり、といったことはあっても(そこまでは「備えあれば憂いなし」というもので、それらは「抑止力」と云い得るが)、警察官が銃をもつ以外には、一般市民の家や会社や学校に銃など武器を備えることは(アメリカやイラク・アフガニスタンなどでは、例外的にそれが見られても)けっして当たり前のことではなく、武器を持ち合うことによって安全・平和が保たれるどころか、かえって危険度を高める。それと同様に、国には領土・領海・領空侵犯を取り締まる国境警備隊や沿岸警備隊(艦艇や航空機に重火器、陸上部隊なら装甲車・対戦車火器、海上部隊なら対艦ミサイルぐらいは装備。我が国では海上保安庁がそれに相当し、不審船など発見にあたるのは自衛隊の哨戒機ではあっても、それを追尾したり停船させたりするのは、その海上保安庁。今のところは自衛隊があるために哨戒機などは自衛隊に委ねているわけである)などの警察力の備えはあっても、それ以上の武力(軍事力)を備えることは、けっして当たり前のことではなく、それで(軍事力によって)安全・平和が保たれるどころか、かえって武力衝突ひいては戦争を招く結果になる恐れがあるのである。

(2)自衛隊も日米同盟も戦争力

アメリカの核兵器も、空母・艦載機も、自衛隊のミサイルも、イージス艦も、潜水艦・戦闘機も、それらは戦争をするための兵器であり、「戦争力」そのものなのであって、それを「抑止力」などというのは詭弁以外のなにものでもない。それらは攻撃や戦争を抑止するどころか、かえって、その危険を招来・誘発する。

まず、それらの軍備をもち、基地を置くことによって、隣国や敵対する相手の方もそれに対抗する「抑止力」の必要に迫られ、結局それらの国の軍拡・兵器開発を促す結果になる。北朝鮮やイランは、イラクがアメリカから攻撃されたのは核を持たなかったからだとして、それを核開発強行の言い分にしている。そのような相手側の弾道ミサイル(北朝鮮のノドン・テポドンなど)に対し、「それならば、こっちは」と、迎撃ミサイルによる「ミサイル防衛網」の開発にのりだしているが、それとても、一発も打ちもらさず完璧に防ぎきれるわけではない。また、相手国側にそれだけの経済力や技術能力がないとはいっても(核ミサイルやハイテク兵器など持たなくても)、テロやゲリラなど、他の手段があるわけであり、結局、軍事力によっては全てを抑止しきれるものではないのである。

それに、その「抑止力」(軍事力)に依存すると、それに頼って、交渉や話し合いには真剣に応じなくなったり、応じてもその力を背景にして(威圧して)高圧的に対応し、相手の立場を思いやったり、誠意を尽くした話にはならない。相手側も硬化して(「脅しには脅しで」となって)、結局、心を割った交渉・話し合いは成立しないことになる。あげくの果てには、一触即発の危機に直面して暴発する(北朝鮮はそれが心配される)など軍事行動を招くか、(アメリカのイラク攻撃のように)こっち側から先制攻撃にはしって結局戦争になる。

(3)核抑止論は誤り

MAD(相互確証破壊)という核抑止論がある。(それは、相手国からの核による先制第一攻撃から生き残り、反撃によって相手の国民や経済に耐え難い損害を与える核の報復第二攻撃能力を双方がもつことによって、相互に核兵器を使用できない状況に置く、というもの。)それに対しては、インドのノーベル賞経済学者アマーティア・セン氏は「核保有によって通常兵力による戦争は少なくなるかもしれないが、核戦争は、確率は低いとはいえ、それが一度起これば完全な破滅をもたらす。米ソが核戦争を避けられたのは、ただ幸運だったということだ。」「核保有国が通常兵力を削減できるというのは誤りで、カシミールの軍事衝突でも、インドはパキスタンに通常兵力で対応した。核が簡単に使えない以上、兵力も削減できない」として、核抑止論の誤りを指摘している。(2005,7,18付け朝日新聞)

(4)パワー・ポリテックスの戦略的発想

そもそもアメリカやかつての日本が行なってきたのは、力に物を言わせる政治・外交(「パワー・ポリテックス」あるいは「右手に棍棒、左手で握手」式の「こん棒外交」)であり、それに応じず(力に対しては)力ではむかおう(敵対しよう)とする国や勢力を「脅威」と見なし、それらからの攻撃を抑止するため(「抑止力」と称して)軍備・軍拡を行い、同調する国とは同盟を結ぶ、そしてその軍事力・軍事同盟を背景にして諸国・諸勢力に対応する、というやり方であり、そこにはパワー・ポリテックスの戦略的発想がある。

日本は、明治(山県有朋らの戦略論)以来ロシアを脅威と見なしてイギリスと同盟を結んで日露戦争をおこなった。第一次大戦では日英同盟に基づいて参戦して中国(山東半島)でドイツ軍と戦い、ロシア革命に際してはシベリアに出兵した。その後はアメリカをも脅威と見なすようになり、満州事変から日中戦争に突入後、ソビエト・ロシア(ソ連)とはノモンハンで対戦して敗北を喫し、対ソ「北進」か、それとも対米英「南進」かで「南進」の方を選択し、ドイツ・イタリアと枢軸同盟を結んで対米英開戦、第二次世界大戦・太平洋戦争をおこなったわけである。

アメリカは、第二次大戦前はドイツと日本を脅威として、大戦に際してイギリスと組み、ソ連とも組んで日独と戦ったが、戦後はソ連を脅威として西ヨーロッパ諸国と同盟し、アジアでは(日米安保条約を締結)日本を米軍の「基地国家」として従えつつ、日本から出撃して朝鮮戦争・ベトナム戦争を行なった。また、ソ連との冷戦終結後は、イラクを脅威として日本から出撃して、イギリスなどの他の同盟国と共に湾岸戦争・イラク戦争を行ない、今は北朝鮮・イランそれにアルカイダなどの国際テロ組織を脅威とし、まだ治まりついていないイラク・アフガニスタンを含む中東~東アジアにわたる地域を「不安定な弧」と見なしてそこへ出撃する在日米軍の再編を進めている。

ところで、(2005,9,22朝日新聞によれば)陸上自衛隊の「防衛整備計画」では、「日本攻撃の意図と能力では必ずしも脅威と云えない中国が、ロシアの軍事力低下で『仮想敵』として相対的に浮上。」「北朝鮮・中国・ロシアを『脅威対象国』と認定。日本攻撃の可能性については、北朝鮮は『ある』、中国は『小さい』、ロシアは『極めて小さい』とし、『国家ではないテロ組織』による不法行為は可能性が『小さい』」と。「中国については①日中関係悪化や尖閣諸島周辺の資源問題が深刻化し、中国軍が同諸島周辺の権益確保を目的に同諸島などに上陸・侵攻②台湾の独立宣言などによって中台紛争が起き、介入する米軍を日本が支援したことから中国軍が在日米軍基地や自衛隊施設を攻撃―と想定。中国側が1個旅団規模で離島などに上陸するケースや、弾道ミサイルや航空機による攻撃のほか、都市部へのゲリラ・特殊部隊(約2個大隊)の攻撃も想定している。」北朝鮮については、「経済や米朝関係悪化などが原因で紛争が起きた場合、在日米軍基地と日本の政治や経済の中枢を狙った弾道ミサイル攻撃や、2500人規模の武装工作員などによるテロ攻撃がある可能性を指摘。ロシアについては、日ロ関係悪化などを引き金とした弾道ミサイル攻撃や北海道への小規模な着上陸侵攻などを想定している」という。

しかし、このような自衛隊の防衛計画も、アメリカの軍事戦略に呼応・連動しており、自衛隊や日米同盟は、結局日本の安全保障のためというよりは、むしろアメリカのための「抑止力」として存在しているというのが実態なのである。

いずれにしても、脅威論・抑止論は共に自国の軍事を肯定する者たちが、それを正当化するために考え出し、論じているものにほかならない。

(5)「抑止力」は相手側にとっては脅威

―アメリカは世界の脅威、日本はアジアの脅威

その正当化は、アメリカ・日本によって脅威と見なされた国や勢力の側にも、アメリカと同様に「抑止力」をもつ権利があるとして対抗措置をとり、軍備・軍拡あるいは核ミサイルの開発にはしるという結果を招く。旧ソ連・中国・北朝鮮などの国々は日米を脅威と見なして対抗してきた。日本がそれらの国から敵視・警戒され、或は近年テロリストから狙われるようになったのは、日本が、これらの国や勢力に敵対するアメリカに最重要の戦略的根拠地を提供し、アメリカに最も忠実な同盟国となっているからにほかならない。

アメリカは世界の諸国から脅威として恐れられているだろう。軍事評論家の小川和久氏(著書「日本の戦争力」)によれば、アメリカは第二次大戦以降世界のあちこちに軍事介入してきたが、それらは50事例におよぶという。まさに好戦国(アメリカのNPO公共サービス調査機関のチャールズ・ルイス氏は「軍国主義国家」、それがアメリカの「本当の姿だ」とさえ述べている)。それはこの国の事情によるもので、一つには、戦争は、国内に抱えている多くの人種・民族・貧富その他の軋轢や人々の不満を外にそらして国内をまとめるための「特効薬」として効用があり、もう一つは、戦争は、兵器メーカーその他、軍の仕事を請け負う会社など軍需産業(兵器産業が国防省・議員・シンクタンクとつながって「軍産複合体」を形成)からその他の分野にわたって、いわば「公共事業」として国内の経済・産業の活性化に利用できるという効用があるからである、と考えられる。そして、その戦争の大義名分は「自由と民主主義を守り、世界に押し広げるため」ということであり、アメリカは「自由と民主主義の旗がしら」なのだというわけである。

 日米以外の諸国にとってアメリカが脅威なら、そのアメリカと最も緊密な同盟を結ぶ日本も脅威と見なされることになる。その日本には「侵略国」としての前歴(他国に踏み込んで日清・日露戦争から日中戦争・太平洋戦争に至るまでの前歴)があって、とりわけ東アジアの諸国民にはそのイメージが焼きついていると考えられる。その日本が、戦後(当初は武装放棄しておきながら、その後)着々と軍備を重ね、(中国が核兵器を持っている点を除けば)今やアジア最大の軍事大国として復活している。 我が国では、北朝鮮や中国・ロシアを脅威と見る向きが多いが、日本以外の国々から見れば実は逆なのであって、日本こそが脅威なのだ、と思われているのではないだろうか。(韓国のノ・ムヒョン大統領は「3,1独立運動」記念日の演説で、「日本が『普通の国』になろうとするならば、法を変えて軍備を強化するのではなく、まず人類の良心と道理に合った行動をすることによって、国際社会の信頼を確保するのが正しいことだ」と述べて、日本の改憲の動きに警戒感を示している。日本の首相や閣僚・国会議員がかつて軍国主義の精神的支柱だった靖国神社を参拝し、首相はそれを「心の問題」「精神の自由」であって他からとやかく言われる筋合いのものではないと云い、朝鮮・台湾の植民地支配と中国・東南アジア・西太平洋諸島にわたった侵略戦争に対して、安倍官房長官は、それらは「歴史家が判断することだ」などと無責任なことを云って済ませ、反省とは裏腹な発言や行動をとっている日本の政治家の言動に対して、(日本人はそんなに思わなくても)他の諸国民は、そこにただ事では済まされないものを感じ、日本に対する脅威を感じないわけにはいかないのではないだろうか。

我が国の平和と安全保障は自衛隊と日米同盟という「抑止力」によって維持されているというよりは、むしろそれらがあるおかげで、中国や北朝鮮などに脅威を与え、それらの国の核ミサイル開発や軍備の増強を招き、国際テロからも狙われるようになり、かえって自国の安全保障も国際平和も脅かされる結果になっているとは考えられないだろうか。

(6)「勝ち組」支配の論理

アメリカや日本のパワー・ポリテックス戦略の背景にあるものは、資本主義のその市場経済である。アメリカにしても日本にしても、国内外にわたって、それが推し進められ、その下で弱肉強食の競争・貧富格差・富の偏在・「勝ち組・負け組」の両極分解が生じる、それらをやむをえないものとして肯定し、「勝ち組」の人または国は、その富と地位を「負け組」の反感・フラストレーションの爆発の脅威から守ろうとしてセキュリテー(安全保障)を軍事力にたより、それでしのごうとする。その軍事力行使の大義名分(口実)に「自由と民主主義の敵を倒すのだ」といった言説が言い立てられる。その場合の自由とは、実は弱肉強食の自由であり、カネのある者がそのカネを自由に使えて、カネさえあれば何でも意のままになる(「人の心もカネで買える」)という自由のことである。また、民主主義とは民意と多数決で決めるやり方であるが、それとても実のところは、カネのある「勝ち組」は政治献金によって政権党か「政権準備党」のスポンサーとなり、メディアのスポンサーともなって政権党か「政権準備党」に有利な情報を流し、そのことによって民意を獲得して多数を制した政権党を通じて自分に有利な政策が実行される、ということにほかならない。自由とか民主主義とかは、現実には、そのような「勝ち組」支配を正当化するものとなっているのである。

しかし、このような格差・富の偏在・弱肉強食の競争を容認して市場の自由に任せるというやり方をとって、軍事だけで社会のセキュリテーや秩序を維持しようとしても、所詮維持しきれるものではないだろう。

(7)平和主義こそ抑止力

そこで、格差・競争社会を是正する措置を講ずる政策とともに、戦争をともなうようなパワー・ポリテックス戦略ではない発想・やり方を考えなければならないわけである。それは日本国憲法の平和主義理念と、我が国の持ち前の経済力に物を言わせる発想・やり方である。

憲法の前文には、「人間相互の関係を支配する」のは(力や利害損得ではなく)普遍的な政治道徳の法則であり、その「公正と信義」(ルールとモラル)に従う、となっている。すなわち①「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。」②各国の主権を尊重し、互いに対等関係を保つ。③「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること」を認めあう。④「専制と隷従、圧迫と偏狭」の除去につとめる。そして第9条は、武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段として用いない、というものである。この平和主義に徹してやれば、世界中の誰も、どの国も、このような日本に対して攻撃を加えることは到底できない(日本を攻撃するのに必要不可欠な大義名分―「不義を打つ」という正当性―を見出し得ない)わけである。日本国憲法のこの平和主義の実践こそが我が国の安全保障と国際平和・秩序安定の決め手となるのであって、それこそがどんな軍事力をもってしても替え難い最良の「抑止力」となるのである。

しかし、利害損得で動く現実世界では、それ(平和主義理念と9条を守るということ)だけでは効を奏しない。それをカバーするものとして我が国には経済力というものがある。(この点は、1,18付の山形新聞に掲載された山大工学部助教授足立和成氏の「作られた改憲論争」を参考)世界第2の経済大国であり、世界屈指の工業力・技術力を持ち、巨大な貿易量・債権(世界最大)・債務を有しているこの国・日本に対して、戦乱を起こし、攻撃を加えて経済混乱を陥れることは、どの国にとっても(中国にとっても、北朝鮮にとっても、アメリカ・ロシアにとっても)、また世界経済の安定にとっても、決定的な損失・痛手となる。その経済力に物を言わせるのである。(そのような産業経済の発展を可能にした要因には憲法9条による軍事支出の制約があるわけである。)このような我が国の経済力(日本との貿易あるいは日本の資金・技術)に頼らざるを得ない諸国の利害損得を外交に利用するというやり方である。

我が国がこのような経済力を持っている、そのことが、平和憲法を持っていることとあいまって(我が国に対する他国の攻撃を抑止する)「抑止力」となるのである。(足立助教授は「理と利をセットにした外交戦略」を提唱している。「理」とは平和主義理念のことであり「利」とは経済的利益のことである。足立氏によれば、例えば、夫婦でも愛だけでは長続きせず、又お金だけの結びつきであっても「金の切れ目は縁の切れ目」となりがちであるように、平和理念だけでもダメだし、経済力を振りかざすだけでもダメで、両者の相互補完が必要だというわけである。日本人がかつてエコノミック・アニマルといわれた当時は、日本国憲法の崇高な理念を全面に打ち出すことなしに、経済だけで諸国に接したが故に「成り上がりの日本」、「カネをいっぱい持っているだけの日本」というイメージを作り上げてしまったとして、平和主義理念をもっと強く打ち出した外交戦略をとるべきだ、と述べている。)

国際貢献も、湾岸戦争の時は、日本はお金(戦費)を出しただけで多国籍軍に加わらなかったために、ろくに評価されなかったとして、その後自衛隊を派遣するようになったのだが、そもそも自衛隊派遣など必要なく、諸国の中で最高額を出したことを強くアピールすればよかったのだ、といったこともさることながら、紛争解決のための非軍事的手段を追求して日本政府がもっと活発な動きを見せればよかったのである。

アメリカに同調・協力するばかりで、国連分担金をいっぱい出しているからということだけで常任理事国入りを認めてもらおうと思っても支持は得られまい。核廃絶や軍縮など(これまではアメリカに気兼ねして国連決議に際して棄権することが幾度かあったが)イニシャチブをとって率先して提案活動をおこない、アメリカなどを説得、諸国への働きかけに動き、国際貢献も軍事的貢献ではなく、他国に無い独自性を持った非軍事面での経済的貢献および人的貢献(文民派遣)とそのアピールがあってこそ常任理事国たり得るのではないか。

憲法の平和主義理念と9条は、国際社会で我が国が、事に当たって経済力に物を言わせようとする際の、まさに大義名分(正当性)として物を言う(説得力を持つ)のであって、それこそが「戦争抑止力」となるのである。


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