米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


迫りくる改憲(その2)―9条改憲同調者への反論(加筆修正版)
2015年03月15日

 9条改憲に同調する人たちは次のように言う。
 「戦争は誰だって望まない。そんなことはわかりきったこと。しかし、国民の生命・財産を外敵から守るため戦わざるを得ない場合もあるのだ①。
 日本が70年間戦争をせずに済んだのはアメリカから守ってもらい、アメリカが戦ってくれたおかげだ。日本は守ってもらっているのに、日本がアメリカを守らないのはおかしい②。
 過激派のテロリストや北朝鮮などは話し合っても通じない。力で抑止し、制圧するしかないのだ③。
それを米軍に頼るだけでなく、自衛隊を「戦力」として認め、中国・北朝鮮などの脅威には日米同盟で対抗するしかなく、集団的自衛権(その行使容認)も必要だ④。
 それらを禁じるような憲法は変えるべきで、よそから与えられた憲法ではなく独自の憲法を自主的に制定するのは当然のことだ⑤」と。
 これらの考え方は、単純で人々(歴史の重みをあまり感じない世代など)の間に通りやすいだけに、護憲派が彼らを論駁・説得して国民投票で改憲派に勝つのは、よほど頑張らないかぎり難しい。
 これらには反論はできたとしても、「ならば不戦・非軍事でどうやって国民の生命・財産を外敵から守り、安全を保障するのか、具体策・対案を示せ⑥」という逆質問にはどう答えるのか。護憲派の多くの人に説得力のある答えが用意されているかといえば、その具体策・対案はあるにはある(政党のなかにはそれなりに示している政党もある)としても、それが一般の人々にどれだけ浸透しているか、となるとどうも。
 護憲派には、単に情緒的に改憲反対を叫ぶだけでなく、又「ダメなものはダメ」とか紋切型ではなく、論理的かつ現実的で説得力のある具体案と反論力、戦略的構想力、情報発信・宣伝力が求められよう。
 上記のような改憲に同調する人たちの言い分に反論するとすれば、次のような言い方ができるだろうか。
 ①「国民の生命・財産を外敵から守るために戦わざるを得ない。だから国に軍隊は必要」という言い分に対しては― 理屈ではそうだが、実際問題としてどうか。
 「外敵」というが、北朝鮮・中国・過激組織などは(「脅威」で、「もしかして」という)その可能性はあっても、地震・津波などの自然災害のように(相手の対応如何に関わらず)必ず襲来するという蓋然性(必然性)はなく、こちら側(日本)の対応(或いは相手にそうさせる誘因)如何によるのであって、それらの国や組織自体にいつか必ず日本に攻撃をしかけてくるという必然性があるわけではないのである。つまり、いつか必ず襲来する地震など自然災害には備えが不可欠だが、どこかの国や組織からの(いつか必ずしかけてくるというわけでもない)攻撃などに備えて軍隊が必要だとはならないのだ。
 個々人に例えれば、強盗や異常者など暴漢にもしかして遭遇するかもしれないからといって、各人が身を守るために銃器の所持が必要不可欠かといえばそうではない。暴漢に遭遇したら、その時には身を守るため、石でも棒でも、そこにある物を持って必死で防戦する正当防衛権は認められるが、我が国では一般人の銃器の所持は銃刀法で禁止されている。もしアメリカのようにそれを認めれば銃犯罪がかえって頻発化することになるからである。同様に、国にも正当防衛権があって、仮に急迫不正な侵害がある場合、あらゆる手段を用いて阻止・排除するために抵抗し戦う自衛権はあっても、我が国では恒常的に軍備(常備軍・兵器)を持つことは禁じている。それが9条なのである。
 我が国の場合はアジア・太平洋戦争に至る歴史に鑑み、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように、憲法で、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を永久に禁じ、国に陸海空軍その他の戦力の保持を禁じ、交戦権を認めないことにしたのである。
 近代憲法は、主権者である国民が為政者・政府・軍部などの横暴・暴走から自らの人権(平和的生存権も)を守るため権力に縛りを加えるべく制定された(立憲主義)。
 政府が自国民の生命・財産を守る責任を持つのは当たり前だが、だからといって政府は他国民に対して戦争や武力行使など何をやってもいいということにはならず、憲法の命ずるところに従ってそれを行わなければならないのであり、領土・領海・領空の警備、侵犯の阻止・排除などには必要な装備・要員(警察・機動隊・海上保安庁・特殊部隊・自衛隊など)は備えなければならないが、対外戦争のための戦力・交戦権は認めないと憲法は定めているのである。
 日本国民の生命・財産を守ったのは、むしろ9条によって軍隊をなくしたおかげ。もしも日本軍が復活してアメリカなど同盟国と共にあちこちに海外派兵・参戦していたら、再び幾多の生命・財産(国富)が犠牲にされただろう。
 ②「日本が戦わずに済んだのはアメリカのおかげ。日本は守ってもらっているのに、アメリカを守らないのはおかしい」という言い分に対しては―
 アメリカが日本に基地と駐留軍を置いたのは、ソ連との冷戦に戦略上必要だったからであり、アメリカが朝鮮やベトナム・アフガン・イラクなどで戦ったのは日本を守るためなどではなく、これらの戦争に日本の基地を利用するためにほかならない。
 日本はアメリカから一方的に守ってもらっているわけではなく、米軍に基地・施設を無償で提供し、米軍の駐留経費を「思いやり予算」で負担。その基地が標的にされ、核攻撃を受けるリスクさえも負わせられているのだ。
 ③ 「過激派テロリストや北朝鮮などは話し合っても通じない」という言い分に対しては―それは「いくら話し合っても無駄、どうせ話がかみ合わず合意に達することはできないのだから」と決めつけてかかり、「力で説き伏せて従わせるしかないのだ」として武力に物を言わせようとする意識傾向からくるもの。それで、軍事攻勢・武力行使に走れば報復の連鎖になり、いつまでも収まりつかないことになる。
そのような軍事依存意識を廃し、粘り強い対話力・交渉力・説得力を磨かなければならないのだ。
 また「話し合っても通じない」ということは、心開かず(不信感から)心が通わないということである。その不信感は、強大な武力を背景にして敵視してくる他国人・異教徒に対する不信である。中東のイスラム教徒にとっては米欧のキリスト教徒とイスラエルのユダヤ教徒、北朝鮮にとってはアメリカに対する朝鮮戦争以来の不信である。日本に対しては、北朝鮮は日本がアメリカに追従して韓国とだけ国交し、植民地時代の清算が未だ行われていないことに対する不信があろう。イスラム教徒は日本人に対して、以前は不信感はなかったが、アメリカに追従してアフガン戦争・イラク戦争に後方支援を行うようになってから、不信を募らせている。
 彼らは単なる「ならず者」や異常者などとは異なり、彼らなりの論理・理由・法に基づいてやっており、それを理解しておく必要があろう。イスラム原理主義者にとって法とは、ムハンマド以来のイスラム法であり、最近のISなどによる捕虜・人質の扱い(改宗か、奴隷か、身代金・捕虜交換か、さもなくば殺害か、無条件解放か)も自爆テロもそれに基づいているのだという。
 米英は「テロには屈しない」ということで交渉には一切応じないという方針で、ISからの人質救出作戦には失敗しており、日本も今回は失敗したが、トルコはイラクのモスル領事館職員とその家族49人を交渉で救出に成功しており、イタリアやフランス・スペインも人質になった自国民を、交渉を通じて救出している。
 交渉には色々な方法・ルート・仲介者を用いてなされるが、いずれにしても信頼が確保されていなければならない。
 有志連合などの軍事攻撃には加担せず、非軍事に徹して、どの国、どの地域の人々からも親日感情・信頼を得ることが一番だろう。
 北朝鮮とは6ヵ国協議の場があり、これを大事にしなければなるまい。力(軍事)より、あくまで話し合いが大事なのだということ。北朝鮮に対しては強硬策をとり制裁を強化して絶交状態を続け拉致問題は滞っているが、むしろ、その「解決のためにも当初のピョンヤン宣言どおりに国交(先進国で国交がないのは日・米・仏だけ)を正常化して、ピョンヤンに日本大使館を設けた方が情報収集や交渉に便利で、館員が情報源の獲得や説得工作に努める方が真相解明に有効だったろう」(軍事評論家・田岡俊次氏)。
 接触・対話を突っぱね、圧力一辺倒では埒があかないのだ。
 ④「中国・北朝鮮などの脅威には日米同盟・集団的自衛権で対抗するしかない」という言い分に対しては―
 その国が軍事攻撃・戦争をしかけると判断される根拠には次の3要件がある。
 Ⅰ軍事攻撃しなければならない理由・必要性があること。それも国民・国際社会から納得・支持が得られる正当な理由(大義名分)があること。
 Ⅱその手段(軍備)をもつこと。 Ⅲその気(攻撃意思・敵意)があること。
 この3つがそろわなければ、(Ⅱの軍備増強だけでは)日本に対してその国が軍事攻撃・戦争を仕掛けてくる事態が予想される根拠とはならない。
 Ⅱの中国の軍備増強だが、それは日本も同様で、軍備を持つこと自体が(必ずしも積極的な戦意ではなく、ただ「相手が仕掛けてきたら受けて立つ」「いざとなったらやる」という消極的なものではあっても)脅威ではある。しかしそれが増強されたからといって(それもGDPの急成長にともなう防衛費の急増で、かつて日本の防衛費も高度成長期に連年二けた増だったのと同じこと。14年の対GDP比は1.3%で、日本0.96%よりはやや多いが、アメリカ 3.7%、韓国 2.5%、イギリス 2.2%、台湾 2.1%、フランス 1.86%、インド 1.8%よりは少ない。兵器・装備の近代化では日本・韓国・台湾などにやっと追いつきつつあるといった程度)、それだけでも恐れを感じさせる「脅威」にはなるが、当のその国(中国)では、(今の日本もそうだが)それは攻撃・戦争をしかけるためではなく「抑止するための手段」だと考えている場合もあり、それを持つから(或いは増強したから)と言って直ちに軍事攻撃必至という根拠にはなるまい。
 北朝鮮の核・ミサイル開発は、旧ソ連・中国が韓国と国交樹立して以来両国とも支えとして当てにはできなくなり、圧倒的に優勢な米韓軍と向き合わなければならない、その恐怖心から発していており、いわば「ハリネズミの針」のようなものと言えよう。
  軍事力による抑止力というものは相手の理性的判断を前提とするが、北朝鮮や過激派が自暴自棄となればその効果はない。それは自爆テロに対して死刑が抑止効果がないのと同じ。だとすれば、その脅威に対抗しようとしていくら軍備・軍事力を増強しても効果はあまりないということになる。
 Ⅰの点だが、中国が日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由・必要性など、はたしてあるだろうか。
 中国にとっては台湾・チベット・新疆ウイグル自治区などとともに南シナ海・東シナ海など沿岸海域も「核心的利益」をなす大事なところだといい、岩しかない無人島の尖閣諸島までも「核心的利益」の一部だなどと称して領有権にこだわってはいる。
 尖閣諸島は日本が実効支配してはいるものの、領有権問題の決着は日中双方とも「棚上げ」にしてきたのが、石原前都知事が唐突に島を購入すると表明したのに対して野田前首相が国有化を決定。それに対して中国が反発してその海域に日本の海上保安庁の巡視艇に対抗して監視船をしきりにくり出し、領海侵入を繰り返して我が方の海保巡視艇と警告「合戦」をやっている現状である。自分で勝手に「核心的利益」だなどと主張しても、それは我が国のみならず国際社会から認められるとは到底考えられない。にもかかわらず、もしも中国が強引に軍事攻撃をしかけ制圧して島を占領などしたら、一方的な侵略行為と見なされ、我が国民のみならず世界中(国際社会)から無法・非道が非難され様々に制裁を被り、かえって割に合わない結果を招く、そのことはわかり切ったこと。したがって尖閣のことで日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けてくるとはおよそ考えられまい。(領有権は「棚上げ」―日本が実効支配を続けるも島に施設建設など行わず現状維持―で和解がベター)
 他に何か日本に軍事攻撃を仕掛ける理由があるだろうか。無いだろう。
 Ⅲについて習近平や中国政府にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるのか。日本の首相や閣僚が中国人民の嫌がる靖国神社(戦犯を祀って侵略戦争を肯定している神社)の参拝を強行し、日中戦争における加害行為に対して謝罪・反省の誠意が不十分だから「けしからん」という思いはあるとしても、それだけで攻撃意思をもつだろうか。
 そもそも中国は日本と平和友好条約で「主権・領土の相互不可侵」「恒久的な平和共存」「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないこと」約束しており、近年、関係が冷え込んでいるとはいえ、昨年11月には安倍首相は北京で習近平主席と会い「戦略的互恵関係」の発展で合意しているのだ。
 歴史問題・靖国問題・尖閣問題で不信感があるからといって、条約や合意が一方的に破棄されることなどあり得まい。ただそれらの問題を解消(侵略・加害事実を否定・軽視する歴史修正主義をやめ、靖国参拝をやめ、尖閣領有権は「棚上げ」という日中国交の原点に戻すなど)して不信感払しょくに努め、日中平和友好条約が破棄されるようなことにならないようにしなければなるまい。

 尚、アメリカにとって中国は最大の貿易相手国・債権国であり、戦略的互恵関係にある最重要国。習近平はアメリカとの「新型の大国関係―不衝突・不対立・相互尊重・合作共栄」を唱え、それにオバマも同意。日本の同盟国とはいえ尖閣などのために中国と戦ってくれることなどあり得まい。 
 ⑤ 「よそから与えられた憲法でなく自主憲法を制定しなければならぬ」という言い分に対しては―
現行憲法は必ずしも一方的に日本国民の意思に反して押し付けられたものではなく、帝国議会で審議を重ね、修正を加えたうえで決したもの。それを国民が受け入れ定着してきたもの。自民党など政党によっては、「押し付けられた」などとそれにこだわりをもち、とりわけ9条に不都合を感じている向きはあっても、国民の側には、それで不都合を感じ、改正の必要に迫られている人などいるだろうか。
 ⑥ 「不戦・非軍事で安全保障できるなら、その具体案を示せ」に対しては―
 ●まず、安全保障(戦争・武力攻撃に対する抑止力)には軍事的方法と非軍事的方法のどちらがベターか(その考え方)。
 軍事的方法―兵器・軍備を見せつけて、「いざとなったら使うぞ・やるぞ」と(威圧)―他国・相手国を不信用・「仮想敵国」と見なす―他国・相手国もそれに対抗―互いに軍拡(脅威が増幅)→緊張(不安)→たえず引き金・ボタンに手を(相手が撃てばすかさず撃ち返すか「やられる前にやる」)―軍事衝突→戦争に発展(限定的な戦闘でも、相手にとって銃弾1発は100発と同じ)というリスク(戦争を惹起、数多の国民が戦争に巻き込まれて犠牲になる危険性)を伴う。
 個人に例えれば―各自が対強盗などに備え銃を保有・所持―そのリスク―(対話・問答より先に)発砲しがちとなり、相手も武器・凶器を用意→殺し合いになる。
 それに対して非軍事的方法―個人に例えれば各自が家には鍵をかけて(戸締り)警戒はするが、武器・軍備は持たず、どんなことがあっても戦う意思のないことを示す―9条(戦争・武力行使の放棄と戦力不保持・交戦権否認)は国の内外にそれを宣明。
 但し、9条は国権の発動たる戦争と武力による威嚇・武力行使を放棄し、国の交戦権は認めないとは言っても、国は警察権を持ち海上保安庁も対テロ特殊部隊もあり、国民(人民)には正当防衛権(侵略・不当な占領・支配に対する抵抗権)もあり、無防備・無抵抗ということにはならない。
 ●安全保障の要諦は敵をつくらない(敵になりそうな国はできるだけ関係改善して反日感情を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして、敵を減らす)ことであり、中国・北朝鮮・ロシアその他どこの国・国民とも敵視せず、友好・協力関係の構築、信頼醸成に努め、そうすることによって安全保障を得る。
(「『同盟国』だとか『価値観を共有する国』だとか『密接な関係にある国』、『親日国』と『反日国』」などと分け隔てして「我が国と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生したら集団的自衛権を行使してその国を加勢する」などと宣明したら、それ以外の国々を敵に回して敵対関係を強め、かえって安全保障環境の悪化を招いてしまうことになる。)
 ●9条は自国に対して戦争をさせない抑止力であると同時に、他国に対しても戦争をしかけさせない抑止力となる。(軍事的抑止力―軍備―は、隣国・他国もそれに対抗して軍備を増強し、軍備競争となり、かえって脅威が増す結果を招いてしまう。北朝鮮の核ミサイルは先制攻撃でもミサイル防衛でも防ぎきれない。また自爆テロのような「死なばもろとも」という自暴自棄の相手には、いかに強大な軍事力を備えても抑止しきれない。)
 ●アメリカとの軍事同盟(安保条約)は解消(米軍基地は撤去)し、新たに対等・平等の立場で日米友好条約を結ぶ。
 ●中国・北朝鮮を含む北東アジア友好協力条約―東南アジア友好協力条約(TAC)の北東アジア版―の結成めざす。(ASEAN諸国と中国の間では―域内諸国の国家関係の原則―①独立・主権・平等・領土保全②外部からの干渉拒否③内政不干渉④紛争の平和的解決⑤武力による威嚇と武力行使の放棄。南シナ海行動規範の締結めざす―領有権問題の平和的解決、事態を悪化させる行為の自制、協力事業の推進。)
 ●北朝鮮とは6ヵ国協議を通じて拉致問題の解決、過去の植民地支配の清算などの諸懸案の包括的解決、国交正常化、朝鮮半島の非核化を果たす。
 ●領土問題などは、歴史的事実と国際法に基づいて外交的解決をはかる。
 ●テロや領海・領土の侵犯には警察的に(海上保安庁・機動隊・特殊部隊SAT・自衛隊の警備活動などで)対処する。
 大規模な侵略事態が生起する可能性(蓋然性)はないとしても、外国の特殊部隊によるテロ・破壊活動、工作船によるスパイ活動や小規模のテログループによる破壊活動、武装漁民の離島上陸、外国潜水艦の領海侵犯、シーレーンでの海賊、国際海峡での機雷などの恐れもなくはない。
 それらへの警察的対処―①自国・自国民(生命・財産)に対する不正な侵害行為(犯罪)に対処―警備・強制排除・職務質問・臨検・拿捕など(行政警察権)。逮捕・押収など強制捜査権(司法警察権)もつ(国内法規で裁判・処罰)(日本領域外にいる命令者も―共同正犯として―逮捕できる)。②武器使用は(警察官職務執行法7条を準用)正当防衛・緊急避難その他「凶悪犯」対処に必要最小限な範囲で―警察比例の原則―相手の武器に比例―砲艦には砲艦、戦闘機には戦闘機、軽武装には軽武装、重武装には重武装。
  *シーレーン警備―公海上での海賊の取り締まり―第一義的には警察力である海上保安庁が対応すべき仕事―地域的共同警察活動(海域の近隣諸国と連携、「アジア海賊対策地域協力協定」―日・中・韓・印・シンガポール・フィリピンなど14か国―06年発効)―尚、ペルシャ湾口のホルムズ海峡は国際海峡でどの国の船にも通過通航権が認められてはいるが、片側はイランの領海、もう片一方はオマーンの領海であり、そこにイランが一方的に機雷敷設して海峡封鎖すればオマーンの領海を侵犯することになり両国間の武力による国際紛争ということになり、そこに日本の掃海艇が行けば軍事介入(単なる警察活動ではなく武力行使)したことになるので、それはできない。
  *在外邦人の保護・救出―自国の軍事力による救出作戦はリスクが極めて高い―救出・保護はその国の官憲や軍に委ねるしか―避難者は搬送・護衛
 ●非軍事国際貢献―非同盟・中立の立場で(世界の諸国民から信頼を得て)、国際平和への積極的貢献に務めイニシャチブを発揮―戦争予防(火種の除去)に努める。
  国連PKO(平和維持活動)―停戦監視・武装解除・人道救援・インフラ復旧など―警察官・自衛隊(施設部隊など)派遣―重火器は持たず
  人道復興支援―飢餓・貧困・医療・衛生・災害救助・教育
 ●自衛隊の再編・軍事縮小(F15やイージス艦などの攻撃的兵器の運用停止、災害救援にシフト)
    領土・領海・領空の警備―日本国土に対する主権侵害行為を排除する機能(ハリネズミ型の最小限防御力)に装備・能力とも限定―非攻撃的防衛―「目に見える専守防衛」
  ところで軍隊と警察の違い―海上保安庁やSAT(対テロ特殊部隊)などは後者。
 自衛隊は交戦権が認められていないから軍隊ではない。それに自衛隊は、軍隊と異なり、武器をむやみに使用することはできず、武器使用ができるのは一般人と同じく刑法で定める正当防衛・緊急避難の場合だけ、または警察官と同じく警察官職務執行法に定める場合(犯人逮捕などの職務執行に対する抵抗と逃亡を防止するため)だけで、それ以外には人に危害を与えてはならないことになっている。(それで殺せば殺人罪になる。)(上官の命令には従う義務があり、任務の遂行上、自分の生命を危険にさらすことをいとわないということはあっても、上記の正当防衛など以外には発砲して人を殺したり、殺されて死ぬことを強いるような命令は違法であり、拒否することができる。)

 安全保障(平和的生存権・戦争抑止)のための国民の覚悟には二通りある。一つは、戦争は望まないが、仕掛けてこられたらその時は、国に「受けて立つがいい」と戦争を覚悟する(国に「いざとなったらやってもいいぞ」と戦争を容認する)こと、もう一つは戦争はしない(国には戦争をさせない)で不服従・抵抗を貫く覚悟である。
 戦争を覚悟するということは、我々が戦争に巻き込まれて犠牲になるかもしれず、相手国民をも巻き込み、自国と相手国双方の国民に数多の犠牲者(かつて日本人310万人、アジア諸国民2,000万人、南京・重慶・沖縄・東京・広島・長崎などのような大量犠牲者)と惨禍を再びもたらすことになるかもしれない、その悲惨を覚悟するということだ。
 それに対して不戦の覚悟、それは、たとえ他国から武力攻撃を仕掛けられても、国に戦争はさせず、武力は用いないようにさせ、戦わずに不服従・抵抗に臨む苦難に耐えて生き抜く覚悟である。
 前者は9条改憲「武力行使容認の軍事的抑止力平和」、後者は9条護憲「不戦・非軍事平和」、そのどちらを選ぶのか。国民は今や歴史的岐路に立たされており、そのどちらかの覚悟が問われているということだろう。

 安全保障(平和的生存権の保障)のためには後者の方に覚悟を決め、国に対しては戦争を放棄させ、戦力不保持を課し、交戦権を否認する憲法9条を守るようにする以外あるまい。

 ところで、作家の阿刀田高氏―日本ペンクラブ会長だった―2010年、全国革新懇ニュース4月号インタビューにいわく「軍備も持たず、どこかに攻められたらどうするのかとの問いには、『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力を全部やる。やり尽くすべきだと思います。」―これこそが現行憲法9条の精神なのでは。

 我々国民が平和的生存権の保障のために国(政府)に要求すべきは、「軍事的抑止力」とか軍事的備えではなく、敵をつくらない平和外交・友好協力関係の構築・信頼醸成なのであり、これこそが安全保障なのであって、自衛隊をどう活用し日米同盟をどう運用するかなど軍事に矮小化してはならないのだ。

 ・・・・・といったことを考えてみたのですが、どうなのでしょうか。教えていただきたいものです。

<参考>田岡俊次著『日本の安全保障はここが間違っている!』朝日新聞出版


ホームへ戻る