米沢 長南の声なき声


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佐伯教授の「異論のススメ」に異論―その2「そもそも平和とは」(修正版)
2015年11月19日

 朝日新聞掲載の佐伯教授「異論のススメ」―「そもそも『平和』とは何か―憲法9条と戦争放棄」(10月2日掲載)
その概略―
 ① 「憲法9条を守るという『平和主義者』たちは、戦争とは殺人であり、したがって、平和とは戦争のない(人が殺されない)状態だ、という。そして戦争放棄の憲法9条は、日本が他国の戦争に巻き込まれない(人殺しをしない)仕組みである、という。つまり、私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だという」、しかし、「人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。とすれば戦争も同じではないか。」また「人殺しと戦争は同じではない」し、「同一視する方がおかしいのではないか」(「戦争は生命を懸けてでも獲得しなければならない何ものかのためにもなされてきた」)。
 ②だとすれば、「戦争をそれなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか。」「支配による平和」「力による平定」、平和とは「力(覇権)を前提とし、そのもとでの秩序形成」、「覇権争いの結果としての勢力均衡(軍事バランス)」、それが「世界標準」(ただし、それが正しくそれに合わせなければならないとは言わないまでも)、戦後日本の平和主義(「仮に他国からの侵攻があったときに基本的には無抵抗主義をとらなければならない」という平和主義)は、「世界標準」から相当ズレており、「そのズレを国是とするとなると、相当な覚悟が必要」で、そういうものを国是とするわけにはいかない。
 ③ 「長い歴史のなかで、日本が危険なことをしたのは(ヨーロッパの帝国主義のさなかの)ほんの短い期間」、「われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向をもった国民」ではないはず。「日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら自らの手足を縛るもの(他国は武力を放棄していないのに)。われわれ自身への過度な不信感、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物。われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられている」、「我々日本人は歴史的にみても、法外なほど好戦的で残虐な性癖をもっているとは思われない」。
 以上のようなことだが。

 まず① (「人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。とすれば戦争も同じではないか。」また「人殺しと戦争を同一視する方がおかしいのではないか」「戦争は生命を懸けてでも獲得しなければならない何ものかのためにもなされてきた」)について。
  「戦争は人殺し。死刑も人殺し。人殺しは悪。故に戦争も死刑も悪であり、避けなければならないもの」というのは倫理(道徳)として真理だろう。そもそも人殺しは何故悪なのか。それは、人殺しを、もしやってもかまわないのだすれば、自分も殺されてもかまわないということになってしまうから、にほかなるまい。善悪の基準は、人と人が人間として相応しく共に生きるという関係に益する行為か害する行為かにあり、益する行為が善であり、害する行為が悪である。その原理は「己の欲せざるところを、人に施すなかれ」(論語)、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(新約聖書)、「人を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」(カント)などの言葉に示される。これらは普遍的な道徳原理と言えるだろう。9条が「私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だ」というならば、9条はまさに、普遍的なこの道徳原理に基づいて定められているといえよう。また13条に定められている生命の自由・人命の尊重は基本的人権の中核なすものであり、これまた普遍的道徳原理に基づく規定であるといえる。
  人殺しを罰する死刑や侵略・掠奪戦争・武装反乱・テロ攻撃をしかけた国や集団に対する制裁・懲罰・鎮圧・平定のための戦争、「戦争を早く終わらせて、もうこれ以上犠牲を出さないようにするためと称して、広島・長崎合わせて20万人以上もの市民を犠牲にした」原爆投下など、これらは政治的・法的には「正義」なのだろうが、(そのような死刑や懲罰・制裁・鎮定のための戦争は「正義」だとはいっても、「人殺し」行為であるかぎり、「イコール善」ではなく)倫理・道徳的には罪悪なのであって、避けなければならないもの。
  「生命を懸けてでも(命を犠牲にしてでも)獲得しなければならない何ものかのためになされる戦争」というばあい、その「何ものか」とは民族的自尊とか宗教的信念とか国家・社会の秩序の維持・回復とか国益などであり、それらはその戦争(人殺し、生命の犠牲)を正当化するための手段として大義名分とされ、そのために尽くすことが「正義」とされる。そして互いに「正義」を掲げてぶつかり合う、その結果「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということで、勝った方は「正しかった」となり、負けた方は「間違っていた」となる。そのような正義は政治的なもので、兵士や動員される人々の生命が手段として扱われる。そのようなものは善とは言わない。
  「戦争は人殺し。人殺しは悪」なのであって、政治的には「正義」(それは「たくさんの人を救うためなら、より少ない人を犠牲にしてもよい」とする比較衡量の上に立った功利主義的「配分的正義」)だからといって、それで悪を犯した罪が帳消しなるわけではないのである。悪は犯してはならず、避けなければならないもの。
  確かに、歴史上、人殺しはなくならないし、戦争もなくならないのは事実だが、それは、そもそも人殺しを死刑や懲罰・制裁戦争という人殺しによってなくすことはできないし、また、テロを戦争によってなくすことはできない。それらはただ暴力・憎悪の連鎖が続くだけになってしまうからである。

  そもそも平和とは誰もが日々安心して暮らせる状態のことなのであって、単に「戦争(人殺し)のない状態」であればそれで十分というわけではないのである。
  安心とは肉体的・精神的苦痛・落命(死)の恐怖・欠乏(貧窮))などの不安のない状態だろう。これらの不安をもたらす原因は傷病・事故・災害・不公正分配・差別・戦争などであり、戦争はその一つにすぎない。傷病や事故・自然災害は天為的(自然発生的・偶発的)なもので人間が意図して起こしたり起こさなくしたりできるものではないが、戦争は人為的・意図的なものであり、人間の意思によって起こされるもので、無くそうと思えば無くせるもの。現実に戦争が無くならないのは、無くそうとしない人間がいるからにほかなるまい。しかし、戦争は無くさなければならないし、人間皆がその気になれば無くすことはできるはずのものなのである。「皆がそう思えば簡単なこと」(イマジン)。
  ただ、戦争やテロの原因には不公正分配・持てる者と持たざる者の分化・貧富格差・差別などがあり、それらの不条理(不合理・理不尽)に耐えがたい不満を抱き反抗・暴挙を犯す者、それに対して、それを力で抑えつけようとする者、その間に戦争やテロが起きてしまう。しかし、これらも天為ではなく人為によってもたらされるものであり、人々の意思よって生ずるものであり、「人間の手によってはどうしようもない」といったものではなく、それとても人々がその気になりさえすれば、けっして無くせないものではないはず。
  平和とは日々安心して暮らせること。平和主義とはその「安心供与」に徹することにほかなるまい。その安心な暮らしには貧窮(不公正分配)・差別とそれらに対する不満・憤懣の除去が必要であり、「安心供与」にはそれが含まれる。平和とは単に戦争のない状態ではなく、それら不公正分配・持てる者と持たざる者の分化・貧富格差・差別とそれらに対する不満・憤懣のない状態なのであって、力によって単に戦争やテロを抑止・平定できさえすればよいというものではないのである。単に戦争やテロを抑止するだけではなく、それら暴挙を起こさずにはいられなくする程の耐えがたい貧困格差・差別を除去することまでも含めて安心供与に懸命に努める政策こそが真の積極的平和主義。
  安倍首相の「積極的平和主義」は「軍事的抑止力(武威)による平和」に過ぎず、それこそ欺瞞。

 ② について。
  まず、「戦争を人殺しと同一視するのがおかしい」、つまり戦争は一概に悪とは言えない。だから戦争は「それなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか」というわけ。 そして、その仕組みとして、「『覇権』を前提とし、そのもとでの秩序形成」「支配による平和」「パックス・ロマーナ」「パックス・アメリカーナ」「パックス・コンソルティス(国際協調による平和)」などを持ち出し、そのような仕組みを構築することによって戦争は回避できるというわけか。
  しかし、戦争やテロは、それが起きる(人にそれを起こそうとさせる)原因を無くさないかぎり、国連やNATOや日米安保など、このような仕組みをたとえどんなに作り整えても、戦争はなくなりはしまい。そのような仕組み作りよりも、そもそも戦争というものは、「一般に違法ではあるが、集団的自衛権など場合によっては許される」などというものではないのであって、それは人殺しなのであり、悪なのだから、やってはならないものなのだ、ということを全ての人の心に固定観念として植えつけなければならないものなのだ(教育によって)。
  そして、戦争の原因やテロの「温床」となる原因を根絶することに、専念すべきなのだ。
   
  「力の支配による平和」、「力(覇権)を前提とし、そのもとでの秩序形成」、それが(正しいというわけではないが、と言いながら)「世界標準」(グローバル・スタンダード?)だといい、戦後日本の平和主義はそこから相当ズレており、「そのズレを国是とするとなると、相当な覚悟が必要」で、「そういうもの(平和主義)を国是とするわけにはいかない」という。
  しかし、力=軍事力では支配しきれないし、反抗を抑止しきれない。勢力均衡政策は米ソ(「パックス・ルッソ・アメリカーナ」)の冷戦のように絶えざる核軍拡と緊張を招くだけ。ソ連はそれに財政的に耐えきれずに崩壊し、アメリカの一極支配となったが、そのアメリカもそれに耐えきれず、アジア・太平洋圏では中国の台頭を前にして日本の手を借りようとしており、安倍政権はそれに乗って、あたかも「パックス・アメリ・ジャポニカ」を目指しているかのようだ。ヨーロッパではNATO側に付こうとしたウクライナに対してはロシアが勢力挽回を図り、中東でも、イラクとともにイスラム過激派勢力と現政権との抗争で混乱を極めるシリアでロシアは現政権加勢に乗り出し、それに対してアメリカは対応に窮し、アフガニスタンでも依然、収拾がつかない事態に立ち至っている。このようなありさまをみれば、軍事力に依存する平和・秩序など到底「世界標準」・グローバル・スタンダードだなどといえるものではなく、むしろこの9条こそを「世界標準」とすべきだろう。
  9条は単なるブランドで満足するのではなく(それだけではノーベル平和賞はもらえまい)、グローバル・スタンダードとすべく非軍事での積極的平和主義の実績を積まなければなるまい。
  但し、9条は「戦争放棄」と「戦力不保持・交戦権否認」を定めはしても、「他国からの侵攻があったときには無抵抗主義をとらなければならない」などと規定しているわけではない。自衛権は憲法に定めはなくても自然権としてどの国にも認められているものであり、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」としても、警察力・海上保安庁はあるし、自衛隊も(現在のような世界有数といってもいい程の装備や米軍と一体化するようなものであってはならないが)「必要最小限の実力組織」として海上保安庁を補完あるいは拡充した非軍隊の国境・国土警備隊として保持することもあり得るし、市民には抵抗権があり、レジスタンスもできるわけである。
 ③ について
  「長い歴史のなかで、日本が危険なことをしたのはほんの短い期間」で、このような戦争は欧米の帝国主義国もやってきたことで、日本だけが悪いわけではないのに、日本人は悪いことをしたと必要以上に思い込んでいる。(「われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向をもった」「好戦的で残虐な」国民だなどとは思われない。)「日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら自らの手足を縛るもの。われわれ自身への過度な不信感、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物。われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられている」と。
  このような言い方は反「自虐史観」論者と同様の、いわば「日本人自尊史観」に立った論法と言えるだろう。
フランス人社会人類学者(エマヌエル・トッド氏)が 「日本の侵略を受けた国々だけでなく、日本人自身が自分たちの国を危険な国であると、必要以上に強く認識している」と述べているのだそうだが、中国人や韓国・北朝鮮両国民、それに東南アジア諸国民もそう思っているというなら、いざしらず、日本人である佐伯氏がそういうのは、アジア諸国民から見れば自己弁護・身びいきとも受けとられるだろうし、戦争で実際辛酸を味わった当時の日本人大多数の実感からすれば厭戦感情はあって当然だろう(それは現実から発した実感そのものであり、それを「あまりに現実離れした」空想の産物でもあるかのようにいうのはまったくおかしいのでは)。
  むしろ戦後70年経って、今では戦地に行ってきた人も、戦災を受けた人も、戦没者の遺族も、当時の生存者はすっかり数少なくなって、厭戦感情(実感)が薄れ風化しているのが問題なのであって、われわれ日本国民はたえず原点に立ち返って、自国民310万人、アジア諸国民2.000万人という未曾有の犠牲者を出した我が国の戦争指導者の所業と民族的責任をシビアに見つめ直すことの方が大事だろう。けっして自分に甘くなってはなるまい。
  他国との戦争や植民地支配の歴史を振り返るうえで日本人の心が問われるのは、自虐とか自尊(誇り)とかの問題ではなく、その相手国民に対して犯した過ちと加害に対する反省と責任をどう感じるか、その心(誠意)の方だろう。その誠意なくして相手国民は心開かず、自らの自尊・誇りなどばかり気にするようでは、かえって傲慢だとの反発を抱かれるだろう。
  日本の対外侵略は日清・日露戦争からであり太平洋戦争の敗戦まで50年間。相手国民からみれば、「日本が危険なことをしたのはほんの短い期間」といって済まされるようなものではあるまい。安倍首相が(「70年談話」に)言うように「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジア・アフリカの人々を勇気づけた」といった物言いは韓国・朝鮮国民からは理解されるだろうか。(インドの独立・建国の父ネルーは次のように述べている。「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一つを付け加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった」と。)

  佐伯教授の「異論のススメ」に通じて言えるのは、そこには、①「正義の戦争」であっても「人殺しは悪、悪は犯してはならぬ」という倫理・道徳・道義的責任の軽視があり、②憲法平和主義(非軍事の安心供与による平和安全保障)の軽視、③日本の戦争に対する歴史的民族的責任の軽視、という三つの軽視があって、「正義の戦争」や軍事的抑止力と称する戦争と軍備の肯定・正当化があると思われるのだが。

  親米的な日本人は、戦後日本の平和を支えてきたのは平和憲法と日米安保だと思い込んでいる向きが多いのは確かだろう。だから、集団的自衛権の行使容認と安保法には、安倍政権の憲法解釈や閣議決定・国会審議など手続き上のやり方には異論があっても、中国・朝鮮・ロシアは嫌いで敵対感情さえもあるのにひきかえ、アメリカには従順(日本の戦争も、あれは中国やソ連から負けたのではなく、アメリカの物量に負けたのだという感覚)で、在日米軍を「抑止力」として容認し、沖縄県民以外(本土国民)は沖縄基地も容認している向きが多い。しかし、そのような認識は正しいとは思われない。何故なら、どの国とも友好・非軍事協力するという道はめざさずに、敵対し合う片一方(アメリカ)に付き従って敵を抑止するという(「対米一辺倒」「力(軍事)には力(軍事)を」という軍事に)偏った軍事協力のやり方が正しいとは思われないからである。

<参考>石田淳・国際政治学者―10月16日朝日新聞(インタビュー記事)「安全保障と民主主義」


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