米沢 長南の声なき声


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政権評価・支持の際の国民の意識(再加筆修正版)
2020年09月25日

 安倍首相から菅首相に交代した、この間の世論調査―安倍内閣は辞任を表明する前まで支持率が30%台に低下していたのが辞任を表明したとたんに50%台(共同通信の世論調査では56.9%、読売52%)に急上昇し(朝日調査では7年8ヵ月の実績を71%が評価、この間の政権支持率は全体平均では44%だが、18~29歳の男性では57%と高支持率)、就任したばかりの菅内閣は(毎日新聞の調査では)64%と高支持率。
 その後、10月12日NHK世論調査のニュースでは菅内閣の支持率は55%で、落ち込んではいるが、不支持20%を大きく上回っている。政党支持率は自民党が37.0%、立憲民主党が5.8%、公明党3.2、共産2.6、維新1.6、国民民主0.5、社民0.4 支持政党なし40.3で、自民党一強に対してあとは多弱状態だが、支持なしが最多。
 菅首相就任から1ヵ月経た10月半ば過ぎ、(国会は未だ開かれておらず、所信表明演説も質疑も行われていないのに)朝日の世論調査では内閣支持率は前回より下がりはしたものの53%(40代以下の若年層は6割と高め)。

 そこで、国民の意識はどうなっているのかだ。これら首相の交代劇に対して国民はどんな考え・気持ちで受けとめたのか、特に高い支持を寄せている若者たちの意識はどうなっているのか、考えてみた―いずれも朝日新聞に出ていた記事から拾った次のような言葉から。

<9月12日の記事「若者が見た 安倍さんの7年8ヵ月」>
 「安倍政権の継承をうたう菅新首相の『自助・共助・公助、そして絆』のスローガンは、自分でどうにかせねば、と焦る若者たちと、『まず自分で』という菅氏の訴えは響き合うように見える」。「看護師の女性(21歳)に尋ねると、安倍首相の辞任表明を聞いて『持病を抱えながら頑張ってくれたと感じた。総理は菅さんになってほしい。支持する派閥が多くて安定しそうだなと思うから』と」。 法政大の新倉教授の指摘―(最近の学生の傾向は)「変化を求めず、与党である自民党を支持する学生が多い。若さゆえに政治についての自分の意見が未熟なのは、いまも昔も変わらない。ただSNSなどから得た表面的な知識の量は多い」。

<15日のオピニオン&フォーラム「耕論」のインタビュー記事>
 ●宮台真司・東京都立大教授「見たいものだけを見る。安倍政権で加速した日本の政治の傾向・・・・アベノミクス・・・・株価上昇と低水準の失業率に注目して『以前よりは日本はよくなった』と語り、メディアもそれを報じてきた。(実質賃金の低下、一人当たりのGDPの低下、子どもの幸福度―先進国で最低レベルなのだが、それらの社会指標には目を向けず)」「大半の国民も『見たいものだけを見て』きました」、「格差や貧困があってもそれを感じずらい社会・・・・富者も貧者も『スタバ』でコーヒーを飲んでスマホをいじります。格差を見ないで済む『疑似包摂』環境・・・・本当は経済的に苦しいのに、自意識のレベルでそうではないことにする(「痛みを粉飾」)」「若年層の政治的関心が低いのも、自分が置かれた状況の真実に向き合うのがつらいから」。
 ●太田啓子・弁護士「政治の世界が変わらないのは、有権者の側の問題であるとも感じます。安倍首相(辞意を表明すると支持率が跳ね上がる)・・・・『大病を抱えながら仕事をしてくれた。ご苦労様』という気持ちなのでしょうか」。「安倍政権では不祥事・疑惑の発覚や、問題がある法案の強引な可決などで支持率がかなり下がることがありました。でもそれは一時的で、少ししたら、また持ち直すことの繰り返し。権力の側に『国民は、今は起こっていてもそのうち忘れて諦める』と感じさせてしまう。そうした有権者のありようこそが問題」。
 ●中川淳一郎・ライター・編集者「安倍政権の実績評価・・・・特に若者にとっては、大卒の就職が明らかに良くなりました。『安倍政治もそれほど悪くない』が普通の感覚で、だから7年8ヵ月続いたのでしょう。多くの国民は、安倍政権の路線を継承すると言う菅さんを歓迎すると思います。」

<17日のオピニオン&フォーラムのインタビュー記事>
 ●諏訪原健・元シールズメンバー「安倍政権は民主国家としての最低限のモラルをことごとく壊してきた政権でした。・・・・民主主義の基盤が失われた。僕たちは短期的には安保法案や安倍政権と対峙したけど、自分の生きる社会をどうしたいのか、権利や尊厳を懸けて闘っていた」。「首相が代わっても民主主義の手続きを無視する基本的な姿勢は温存されるだろう」。
 「個人が『おかしい』と感じたことを言えるようになってきた。・・・・それぞれが職場や家庭など自分の生きる世界について問題提起することが今、いろんな形で出てきています」。「SNSの普及もありますが、ツールが何かより、自分の境遇を自分で語ることは普遍的なことで、それを言えるということが大事です。・・・・ひとりの個人がつぶやいたことが拡散され、小さい方から大きい方へ流れをつくることは、今後も増えていくでしょう」。
 「昔だったら、例えば『労働者』といえばある程度モデル化できましたが、いまは個人の生き方も課題も細分化されていて、社会に共通の物語がない。・・・・私を主語に、個人がネットワークでつながり、社会にものが言えるようになってきた感じはあります」。「大学でも就職でも、一度レールから落ちたらどうしようもないんじゃないかと。食いつなぐためには勝ち馬に乗らなければいけない。そのためには政治みたいなものに関わらず、無色透明でいる方がいいという指向性は感じます」。「(選挙)投票が生活と直結していると実感できる人を地道に増やす方が大事」。「余裕のない社会では、自分で考えて声を上げるより、自分を国や政権と一体化させて生きる方が楽。でも・・・・ヒーローが自分たちを救済してくれるという考えでは、市民社会が豊かになるわけがない」。
 「いわゆる自己責任論で、貧しい者同士がぶつかり合う。自分のせいなんだから仕方ないじゃん、という考えが染みついている。社会の価値観に個人が縛られている部分、個人が社会の価値観をつくっている部分の両面があり、どちらを攻めても簡単に解決しない」。
 「(かつてのSEALDsの仲間たちとは)あまり連絡も取っていませんが、それぞれの立場で頑張っています。僕も今は仕事をしながらですが、なにかあればまた一人の市民として、街頭に立つ。組織化して影響力を持つあり方もあるのかもしれないですが、いろんな人がいろんな場で、いろんな形で取り組むのが、実は一番強いのではないかと思っています」。
 ●野口雅弘・成蹊大学教授「多様性を尊重し、他者を否定しないでおこうとする姿勢」。「今の学生たちは一つの正義に固執し声高に主張することはありません」。「相手を直接的に批判しません。他人を傷つけることを慎重に避けようとするのです」。「権力を厳しく批判するメディアや野党を(偏狭で独善的に見えるからと)毛嫌いする傾向」、「権力者のスキャンダルには不満を持っていたとしても、辞めるとなると、むしろ支持する。他人をなるべく否定しない『やさしさ』が現状肯定につながっているそれが若者の『保守化』と言われる内実なのではないでしょうか」。「SEALDsは・・・・内部の結束は緩やかでした。多様な価値観を認める『やさしさ』を大切にしたことが、運動が広がりを見せた理由でしょう」。「芸能人がSNSで政府に批判的な発言をし、たたかれるのを見れば、他者を否定し合う、やりとりの当事者になることを躊躇して黙ってしまうのでしょう」。「学校では制度や選挙のルールは教えても、対立するテーマについて自分の立場を決め、異なる意見を持つ相手と議論する機会が乏しい。それは教室の外でも『政治的だ』と避けられます多数派に同調せず、分裂もせず、『政治的論争の当事者になる力』を養うこと―SEALsの輝きは、この力を示したところにあったと思います」。

<24日のジャーナリスト・津田大介の論壇時評「安倍政権の功罪」>
 「論座」や朝日新聞など紙誌から11人の論者の見解を紹介。それには「日本史上の汚点」「腐敗は底なし」と厳しい批判か、「格差にあえぐ若い世代からすれば、学生が本を読み、人生や政治について考えていたなど、優雅なおとぎ話・・・・。安倍氏はそういう、本が読まれなくなった時代の総理大臣だった」など批判的なものもあるが、「個別の政策の達成度に注目すると違う景色も見える」として、安倍政権の社会保障政策で保育所の大幅拡充や教育無償化など画期的な成果を上げた」とか「一見相反するナショナリズムと政府主導の経済運営の独特なミックスなど『時代適合的』だった」といって評価するものもみられる。津田氏は、「自らに有利なタイミングで衆院を解散し、争点なき選挙でさらなる低投票率を招いた安倍政権は、低政治参加時代に最適化したという点でも、『時代適合的』だった」とし、「かつてなら政権が飛ぶようなスキャンダルが連発しても、選挙に勝ち続けた理由はここにあるのではないか」と指摘している。
 ここでも上記の宮台教授が指摘する「経済的貧困によって本当は苦しい状況に追い詰められていても、人々がかつてのように出身や階層で連帯できず、苦しさを周囲と共有できない―『粉飾された自意識』の問題」をとりあげている。
 そして「彼らに共通するのは『安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である』という意識である」、「対峙すべきは『アベ』ではなく、『私たち』のあり方だ」と締めくくっている。

<9月30日、朝日新聞GLOBE+World Now「なぜ若者の政権支持率は高いのか 学生との対話で見えた、独特の政治感覚」>
 朝日GLOBE編集長代理・玉川透氏「(大学院進学を志す真面目な)学生が言うには『 ぼくは選挙にいくとき、候補者の主張は調べはします。でも、どうしても距離を感じてしまうので、多数派から支持を得ている人に投票するようにしています』、その理由は『子育て、年金、医療、働き方・・・・各候補が様々な政策を主張するけれど、どれも「自分ごと」に感じられない。・・・・・そんなあやふやな考えの自分の一票が変な影響を与えないよう、せめて大多数の支持する「安パイ(安全牌)」に入れておこう、と考えたから』だという。
 学生は学級委員や生徒会の選挙のような感覚だと自分でいう。『親から仕送りを受け、納税もろくにしていない、ふわふわした学生の身分だから、そんなことが言える』とも。政治を身近に感じられず、他人ごとのように俯瞰してしまうのだ。」
 駒沢大学法学部の山崎望教授「森友・加計問題の議論では、安倍政権を肯定する意見がゼミ生25人の7割を占める。政権に批判的な学生に対して『空気が読めていない、かき乱している』『そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか』と。その理由は『政治の安定性を重視しているから』だと。・・・・理屈ではなく感覚、安定に浸っていたい、多数派からはじかれて少数派になりたくない、そんな恐怖が『少数派は罪』とまで」。
 山崎教授は(仮説として)「今の若者たちの多くは、日本古来の『システム』のようなものが政治の根幹にあって、それが自由民主主義だと思っている節がある。その下で選ばれた首相や与党を批判するのは、古来の『システム』にごちゃごちゃ文句をつけているようなもの。逆に、政権を批判する野党やジャーナリスト、活動家には関わりたくないのだろう」と。
 中央学院大の中川淳司教授「安倍政権が誕生して8年弱・・・・ずっと同じ政権。その政府のやることを最初から批判的に見るという発想はないのでしょう」。「(コロナ禍で)大学に行けない、就職もどうなるか分からない。政府や自治体の対策が頼りのコロナ禍は、良い意味でも悪い意味でも民主主義や政治に『自分ごと』として関わる初めての体験。彼らの意識に変化をもたらすきっかけになるかも」。
 北海道大学の吉田徹教授「日本では、教育現場でも政治的な話題に触れないことが原則」。「いま若年層に顕著にみられるのが『正解主義』・・・・ある高校生が『勉強不足だから投票できない』と言っていたのを聞いて驚いたが、政治に『正解』があるものだと、試験勉強の延長で捉えている」。
 (吉田教授は「民主主義の良いところは、やり直しがきくこと。共同体の構成員みなで決めて、みなでやってみる。ダメだったらもう一回、別の方法を試す。そのために少数意見を大事にする、見直すために定期的に選挙する。そんな民主主義の精神は、『正解主義』と折り合いが悪い」と。)

<10月16日朝日のオピニオン&フォーラム『耕論』―「長いものに巻かれたい?」>
 姜尚中・東大名誉教授は「菅政権の1ヵ月が静かに見えるのは、予定調和的なもの(この先どうなっていくか、誰の目にも予想がつき、その通りの結果になること、つまり『きっとこうなる』にきまっている、というもの―引用者)を求める国民の意識が背景にあるからだと思う」―「自然災害やコロナ禍など予測不能な出来事が頻発する不安の中で暮らしを守ろうとすれば、そう思うのは当然・・・・『生きるための知恵』だ」と。(ということは「どうせこうなるに決まっているのだから」と、それに合わせた態度・行動をとる、ということであり、「長いものに巻かれる」ということなのだろう。それは又「勝ち馬に乗る」とか、「寄らば大樹」とか、「大勢に従う」ということであり、自分の境遇や立場或いは使命感から「かくありたい」とか「こうでなければ」といって態度・行動を決する、というそういう主体性のある生き方ではない、それがいまの世の中の気分なのだろうか。誰もが予測した通りの結果になるからといって、「例えば菅氏が予想どおり総理大臣になった」その結果は、それでよかったという人もいるだろうが、ダメだ、「アベ政治を継承してこれ以上続けられてはタマらない。かえって不安だ」という人も少なからずいるわけである―引用者)

<10月14日、朝日、オピニオン&フォーラム、真山仁のPerspectives:視線、『若者と政治』>社会学者の西田亮介(真山氏との対談で)の指摘―「日本では、敗戦と新憲法公布という共通体験があり、民主主義とは何なのかということに、真剣に向き合わなければならない時期だったが、現代の学生にはそのような共通体験はない(あるとすれば受験競争―引用者)。それどころか、社会がどんどん分断されていて、同世代でも共通体験をした実感はないのでは」。
 内閣府の『社会意識に関する世論調査』で、「社会全体の満足度」では「満足している」の方が「していない」よりも高い。しかし「国の政策への民意の反映程度」では「反映されていない」が圧倒的に多い。つまり、政策に対する不満はあっても、自分たちの損得に関係しない限り、政治に関心は向かわない。政府の有り様を「そんなもんだろう」と認めてしまっているから。それに「戦争が起きているわけでも、平均的な国民まで貧困で苦しんでいるわけでもない。もっと大変な外国があるわけで、それを見ていると、いまの日本で満足しているのでは」。

<10月28日、朝日「経済気象台」欄『政権批判に必要なこと』―社外筆者(遼)氏>
「(安倍政権は)森友・加計・桜」疑惑など様々な問題を露呈したものの、政権全体の評価には決定的な影響を与えなかったということだろう。」「(世論調査での政権の実績評価は)数多くの政策や意思決定のポートフォリオ(資産構成)の総体的な評価」。「(全国紙にお願いしたいのは、一方的に批判攻撃を繰り出すのではなく)ポートフォリオの中で出来の良いものはこれ、悪いものはこれと、是々非々の評価をもっと増やすことが必要だ」と。

<11月4日、朝日新聞、『朝日地球会議2020』「進む分断 異なる意見の現実知って」>
富永京子・立命館大准教授―「日本でデモを違法と考える人が約10%いる」「若者のデモ参加率は(フランス55%、米国19%に対して)日本8%。国際比較からは日本人の『社会運動ぎらい』が浮かび上がる」「『偏り』を嫌う傾向、デモや座り込みなど社会運動は迷惑行為で、個人の『わがまま』だと否定的にとらえる傾向が強い」「生まれながらの格差はやむを得ないと許容し、自分の苦境を政治や社会に訴えて変えようとすることを『悪』ととらえがちだ」と。
 そうだとすれば、それは日本人・若者には憲法に保障されているはずの自分の意思・意見を表明する(集会・デモなど)「表現の自由」に対する権利意識(自覚)が乏しいということなんだろう。

 これらの論評は、要するに今の若者や国民は「政府の政策には不満はあっても、自分の損得には関係しないし、今の日本社会は昔の日本や他の国から比べればまだまし。政権なんて、どうのこうの言っても、そんなもんなんだだろうし、別に変えなくてもいいじゃん」ということで、「政治に不満はあっても変化を求めず安定・安全志向」だということ。「SNSなどで表面的な知識の量は豊富」。「政権に対しては『やさしく』(甘く)、自分には『厳しい』というよりは、自分が置かれた状況の真実に向き合うのがつらいばかりに、ただ、悪いのは『自己責任』で『自分のせいなんだから仕方ないじゃん』とあっさりしている。そして自分の見たいものしか見ない」。「多様性を尊重し、他者を否定しない。つまり『人は人、自分は自分』という感覚で、政権を厳しく批判するメディアや野党のほうを(偏狭で独善的に見えるからと)毛嫌いする」といった傾向を指摘している。
 そういったことで、長く政権を担当してきた政権政党とその政治家、世襲政治家、或いはその後継政治家が、実績豊富な安定政権という印象で評価され、それに「病気を抱えながらもよくぞ頑張ってくれた」とか「地方出身で叩き上げ」などといった情緒的な印象評価も付け加わって、結局「安倍政権でよかった、菅政権でいい」となっているわけか。

 社会共通の価値観(基本的人権や正・不正、善悪、公序良俗など)や共通利害(平和・安全保障・環境保護・持続可能な開発、防災・公共の福祉など)はあっても、個々人の価値観や利害は実に多様。
 人々の利害・価値観といえば、この資本主義社会は基本的に階級社会で競争・格差社会。資本家階級(企業経営者層でも大企業経営者層と中小企業主層に分かれ、株主も大小分かれる)に対して労働者階級(従業員・被雇用者、これら労働者でも正規と非正規に分かれる)、中間階級(自営業者・被雇用の管理職・医師・弁護士・技術者などの専門職)。また富裕層や上層階級に対して地位も権力もない庶民階級(中間層と下層階級・貧困層に分かれる)、それに競争上の勝ち組・負け組、或いは強者(資本家・富裕層・権力者層)・弱者(被雇用労働者でも非正規労働者などアンダークラス・低所得者・貧困層)という言い方もあり、権力を持つ支配階級に対して被支配階級という言い方もある。それら階級・階層などによって利害損得や価値観に違いがある。資本家と労働者とでは利害が正反対。
 資本家は労働者をできるだけ少ない賃金で雇って、めいっぱい働かせて(労働コスト―人件費・福利厚生費など―できるだけ少なく、労働時間はできるだけ長く効率よく働かせて)、利潤を最大限確保しようとするが、労働者の方は、人間的文化的生活に見合う、ゆとりのある働き方(労働時間の短縮と過密労働の緩和)と、できるだけ高い賃金を求める。資本家は法人税の減税と消費税増税を有利とし、労働者は消費税が不利。資本家は環境コストとエネルギーコストの安い原発や化石燃料を有利とするが、庶民にとっては命と健康の安全維持が第一。軍需産業・武器取引業者などの資本家にとっては戦争がこの世にあることを有利とする、庶民にとっては平和が第一で、戦争は「まっぴらごめん」、といったふうに資本家階級と労働者・庶民階級とでは利害・価値観が全く違うところがあるわけである。

 学者はといえば、大学の教員ならその利益団体である労組の組合員でもある教育労働者であるが、それ以外の学者・研究者で専門職としてなら「中間階級」の部類になるが、彼らにとって必要なのは「学問の自由」であり、学術・研究とその組織に対して政府からの支配・介入を受けない独立(自律)であろう。
 学生はどうか。資本家と労働者のどっちでもない中間。だから無党派・中立で、選挙では「どこへも投票しなくてよい」ということになるのかといえば、そんなことはあるまい。社長の子で後継者になる身であることを意識していて資本家階級に帰属意識を持つ者、または卒業後、就職して出世(昇進)競争に参加し最後の勝者となって経営者(資本家)になる者も中にはまれにいるかもしれないが、大半の学生は間違いなく被雇用者として労働者階級の身で終わる、いわば労働者予備軍。アルバイトならば非正規労働者だ。いずれにしても自分を労働者階級として意識し、その立場に立って政治や経済社会を判断し行動してもおかしくないわけである。少なくとも、自分は弱者なんかではないし、貧困層でもない、だったら資本家階級の側だなどと錯覚したりしてはいけない。
 それに政権や政党を「自分にとってどうなのか」という主体性を抜きにして、マスコミや評論家或いは学校教師のように第三者の視点で「良いところ、悪いところを挙げ、プラス・マイナスして総合点で評価するといったようなやり方は、けっして賢明なやり方だとは云えまい(例えば、アベノミクスであれ、「自助・自己責任」の新自由主義であれ、消費税増税・改憲・原発再稼働政策・カジノ導入政策、或いは「モリ・カケ・サクラ」問題など国政の私物化疑惑、政府権力者の支配から独立・自律的であるべき学術組織や司法機関に対する人事介入など、それらの政策や権力者の行為が、他の誰でもなく、自分にとって、自らが置かれている階級・階層的立場から見て、それぞれどうなのか、利害・価値観によって軽重を付け肝心なところでどうなのか、良い悪い、もしくはプラス・マイナスの評価判断をすべきなのではあるまいか)。

 各政党・政治家は、自らを「国民政党」と称し、国民全体の利益を代表しているのだと標榜し、支持基盤を広く国民各層に求めようとするが、現実は(資本主義社会である限り)資本家階級と労働者階級の2大階級を基本として上記のような各層に分かれ、その間には利害の対立や価値観の違いが厳然としてある。だから、それらすべての階級・階層の利益・要求に公平に応じてくれる政党・政治家などあり得ず、いずれか限られた特定の階級・階層をひいき優先し、できるだけ彼らに有利な政策を達成しようと努める党派性を持たざるを得ない。我が国では自民党・立憲民主党・国民民主党・公明党・共産党・社民党・維新の会その他大小幾つかあるが、それらの政党はそれぞれいずれかの階級・階層に足場を持ち支持基盤を置いている(集票組織と資金源を持つ)自民党は大企業を中心とした経営者や実業家つまり資本家団体―経団連・経済同友会・日本商工会議所など―に支えられ企業団体献金を受けている立憲民主党や国民民主党・社民党などは連合系の労組に集票を求め(立憲民主・社民党は自治労や日教組、国労・私鉄総連など、国民民主は電機・電力労連など)、共産党は全労連系の労組、自治労・全日本教職員組合などに集票を求めているが、資金源は党費と個人献金(カンパ)と機関紙の売り上げからで、それ以外に企業・団体献金など受けていない
 ざっくり言えば、自民党は資本家階級の党立憲民主・社民・共産などの野党は労働者・庶民階級の党と見なすことができよう。

 そのような中で、自分はどの(階級・階層の)立場に立って政治(政権とその政策)を評価・判断するかだ。それ(その立ち位置)によって評価は全く違ってくる。それぞれの立場(利害・価値観)によってとらえ方(論理)が違うからだ(資本家は利潤追求の論理、労働者は賃金・生活保障の論理で考え、それぞれの論理から見れば一方の利益は他方にとっては不利益となるなど)。
 その人の置かれている境遇や立場によって、或いは身を置こうとしている立場によって、仕事や生活の上で必要上「見たいもの(関心のあるもの、より重要なもの)を見る(見る必要のないものは見ない」というのは、そもそも当然のことであり、同じものを見ても、その境遇・立場によって違って見えるのも当然のこと。

 それにつけても、人には多かれ少なかれ自尊心やプライドといったものがあり、自分を「弱者」だとか「負け組」だなどとは思いたくないばかりに、自分が置かれた状況の真実に向き合おうとしない向きがある。つまり、自分の階級や階層に対する帰属意識や自分の立ち位置の自覚が乏しく、そこから主体的な政治判断のできない、主権者意識をしっかり持てない向きがどうしても多くなる。そういう人たちは結局、政治は他人事としてマスコミや評論家のように(第三者的に)論評したり、SNSなんかで言い立てる言説を鵜呑みにしたり、大勢に引きずられてしまうことになる。
 階級や階層を意識しつつ自身の生活のあり方を意識する(当事者意識をもつ)、そうすれば政治や政権に対して、他人事ではなく、その政治から影響(利害損得)を被っている当事者として主体的に評価・判断できるわけ。

 そこで問題は「どの立場に立つのか」である。その場合、その人は必ずしも自身がその階級・階層に属している当事者だからとは限らないわけで、その人の信条あるいは使命感(「自助・自己責任」を信条とするとか、「弱きを助け、強きをくじく」を信条とするとか、現体制を守護しなければならないとか変革しなければならないといった使命感)或いは心情(「厳しさ」「やさしさ」、或いは「彼らと共にありたい」“Me to”といった共感)によって、その階級・階層の立場に身を置くということもあるわけである。

 当方の場合はどうかといえば、その境遇・現在の状況からいって、庶民階級(中下層)の部類だと思っている。なので、おのずからそれなりの社会観・人生観・価値観が身につき、その立場に立った物の見方、考え方をし、政治や政権を評価・判断をしているものと思う。このような自分の境遇や信条からその立場に立つと、安倍・菅政権の政策・路線(アベノミクスの金融緩和とか新自由主義的な規制緩和政策・非正規雇用の拡大・「自助努力・自己責任」先行と社会保障縮減、消費税増税、安保法制、立憲主義の毀損と改憲策動、原発再稼働路線、それにモリ・カケ・サクラ問題など行政の私物化と官僚の忖度、それにともなう公文書改ざん・隠蔽、そしてコロナ対策の不備・遅れ等々)は、財界・大企業などの上層・富裕層を利するところは大いにあっても、自分ら庶民にとっては何の恩恵もなく「百害あって一利なし」としか言いようのない評価とならざるをえまい。

 自分の立つべき階級・階層的立場を意識すれば、政治家・政党や政権の評価も、「あ…この政権は財界・大企業本位の政権だ」とか「この政党は労働者・庶民本位の政党だ」とか、見極めがつくが、その意識がないと、どうしてもどっちつかずになり、結局「長いものに巻かれろ」で大勢にただ従うだけになってしまう。

 いずれにしても主権者として大事なのは、やはり自分の立ち位置(自分が属する階級や階層)を自覚し意識しながら意思表示すること。それにもう一つは、自分の属する階級・階層だけでなく、利害や価値観が相通じる他の階級・階層(労働者・農民・自営業者・中小企業者その他の中間階層など)と可能な限り広範囲な連帯をはかり、多数派(マジョリティー)を形成をめざし、その意識が、単なる階級意識にとどまらず、国民多数の共通意識とならなければならない。そのためには、単なる感情的・主観的独善(独りよがり)ではなく、理性的客観的に(事実と道理に基づいて)議論に臨まなければならないわけである。

 そのような国民の意識は、時々の政権やその政策を評価し、その推進、或いは阻止を促すだけでなく、かつて度重なる戦争を許した(それも当時の国民の意識からであり)そのことを痛切に反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」して憲法を制定したのも国民の意識からである。その改憲を許し、政府の行為によって再び戦争できるようにすることを許すのか、許さないのか、それを決定づけるのも国民の意識なわけである。

 上記の太田啓子弁護士は「政治の世界が変わらないのは、有権者の側の問題であるとも感じます」といい、また、朝日・論壇時評の津田氏は「彼ら(論者)に共通するのは『安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である』という意識である」、「対峙すべきは『アベ』ではなく、『私たち』のあり方だ」という。そうだ(有権者の側・私たち国民のあり方のほうが問題なのだ)とすれば、そのどこが問題なのか。「見たいもの(アベノミクスで株価上昇・低失業率、「地球儀を俯瞰する」外交など)だけ」を見て、見たくないもの(モリ・カケ・サクラなど)を見ないか、或いは見なかったことにし、「アベ政治を許さない」などというプラカードなんか見なかったことにして、あっさりと許してしまう、要するに「都合のいい情報だけを受け取る」という意味での「ご都合主義」。それがマジョリティーをなす国民の意識、その辺りが問題なのだろう。
 また、上記の朝日GLOBEで指摘された若者たち・学生の「空気に逆らわず」大勢や上層部に従おうとする傾向、要するに大勢順応主義。それにも問題があるわけで、それらには、我が国における、これまでの主権者教育の不徹底があるものと思われる。
 一人ひとり主権者として国や社会のあり方を考え、政治に関心を持ち、(それぞれ立場からの利害・価値観と政治道徳など普遍的な価値観を踏まえて)主体的に評価・判断できる能力(いわゆる「民度」というもの)が充分育てられてこなかった。
 そこには我が国の受験教育など、偏った知識・技能教育があるわけである。実はそれも、戦後、教育の民主化が(新憲法とともに制定された教育基本法第一条で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めたにも拘わらず)歴代自民党政権下の文部行政で、その路線は次第に後退し、国や企業に役立つ人材育成の能力主義教育の方に偏重していった、その教育政策の結果にほかならならない。なので、けっして国民が主権者として自らの努力を怠った自己責任に帰せられるような筋合いのものではなく、むしろ歴代自民党政権の文部行政が戦略的に主権者教育を怠って、いわば「民は由らしむべし、知らしむべからず」(為政者は人民に政策や法律に唯従わせればよく、いちいち説明する必要はない)という愚民政策によって大勢順応もしくは政治的無関心に仕向けてきた政権のほうの責任が問われなければなるまい。
 いずれにしても、我が国は、民主主義とはいっても、大勢順応主義か政治的無関心主義が根強く、どうしても政権の意のままになりがちで、「疑似的民主主義」といった感じを否めない欠陥がある。

 太田弁護士は「私たちが開く『憲法カフェ』では、参加者の言葉や行動から、ささやかながら主権者意識を喚起する効果を実感します」と語っているが、私どもの「憲法カフェ」も、かくありたいものだ。


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