米沢 長南の声なき声


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「美しい国へ」よりも「安心な国へ」
2007年03月13日

 孫よ。あなたたちのお父さん・お母さん、それに婆(ばばあ)も、あなたたちを面倒みてくれる。幼稚園や学校の先生もあなたたちを他の子と一緒に面倒みてくれる。
 そのほかに役所・施設・会社・お店・お医者さんなど、いろんなところで、いろんな人たちがあなたたちをお世話してくれ、入り用なものを与えてくれる。
 あなたたちのお父さん・お母さんはお勤めに行って働いてきてお金(給料)をもらい、それらにお金(代金や税金)を払っているけど、それはそれとして、あなたたちが、役所やお医者さんや幼稚園・学校の先生など、いろんな人たちからお世話してもらえるのは、それが、そういう世の中の決まりだからなのだよ。
 だから安心して毎日を過ごしていいんだよ。
 あなたたちが大人になれば、自分で働いてお金をもらえるようになり、そうなったら、そのお金で買える物は何でも買えるし、できることは何でも自分でできるようになるから、もっと楽しくなるんだよ。大人になるのが楽しみだね・・・・・と孫に言いたいところだが。

 ところで、昔(戦争中)の小学校の教科書(「国民科修身教科書」)ヨイコドモ(下)の「日本ノ国」には、次のように書かれていた。
 「明カルイ タノシイ 春ガ来マシタ。
 日本ハ 春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ国デス。
 山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス。
 コノ ヨイ国ニ 私タチハ生マレマシタ。
 オトウサンモ オカアサンモ コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。
 オヂイサンモ オバアサンモ コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。」
そして次のような唱歌(初等科2年生用「うたのほん(下)」)が歌われた。
 「日本 ヨイ国 キヨイ国 世界ニ一ツノ神ノ国。
 日本 ヨイ国 強イ国 世界ニ カガヤク エライ国」

 安倍首相は「美しい国へ」を掲げている。しかし、「春夏秋冬の眺めが美しい」という意味では、為政者なんか何もしてくれなくても、元々この国は「美しい国」なのだ。ただ、その上に、国民は皆心美しく、弱肉強食の競争や「いじめ」や醜い争いがなく、他国といがみ合うこともないという意味でも「美しい国」であってほしいとは思うが、安倍首相の政策が新自由主義(産業の各分野で規制緩和、公営事業も民営化して競争市場の自由に任せるという市場原理主義)や新国家主義(「国益イコール企業や市民の私益」を守ってくれる「強い国」をめざすネオ・ナショナリズム)に基づいているかぎり、そんな「美しい国」には初めからなれっこないのだ。  
  また、経団連の御手洗会長は「希望の国・日本」を掲げているが、それは「勝ち組」などの限られた人々にとっての希望の国で、多くの人々にとっては「希望の国」どころか、不安だらけ(1月発表の内閣府の世論調査では、生活不安を抱える人67,6%、朝日新聞の1月5日掲載の定期国民意識調査では、「今の日本は人々が希望を持てる社会」だと思う人は30%であるのに対して、思わないという人は59%。「自分の将来について」期待のほうが大きいと思っている人が24%であるのに対して、不安のほうが大きいと思っている人は67%。経済評論家の内橋克人氏は「不安社会」といっている)。
 今人々にとって最も切実な願いは、この国を誰もが安心して日々暮らせる国にしてほしいということであり、そのようなスローガンこそ掲げるべきであろう。「安心な国へ」と。
 (昨年7月に閣議決定した「骨太の方針」に「安全・安心な社会」が打ち出されているが、この安心は、いったい誰にとって安心なのか、である。)

1、国・自治体・企業は誰の為のもの
 国家や自治体およびそれらの財政資金は国民・住民(子ども・老人・障害者も一人のこらず)のためにあり、企業や市場も消費者・勤労生活者のためにあるべきなのであって、その逆ではない。(内橋氏によれば「人を市場に合わせる」のではなく、「市場を人々に合わせて調律する」べきものなのである。)  
 ①憲法は国その他に対して国民の人権を保障するために定められている。 
 憲法は国民に、何人も恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利、および健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障し、勤労権、教育を受ける権利、幸福追求の権利と機会の平等を保障している。国や自治体は国民にそれらを保障するため、最大限その役割を果たさなければならないのである。
  ②税金は、それを納める人自身と、この国この町で生活を共にする人々のために出し合っている、いわば共同資金なのである。
 国民は税金を出し合い、国会議員を選出してその使途の決定を委ね、彼ら(国会議員)が彼らの中から選出した首相と、首相が任命した大臣たちによって国は運営される。また、県市町村の住民は税金を出し合い、それぞれの議会の議員を選出してその使途の決定を委ね、首長を選出してその執行を委ねることによって自治体は運営される。
 税金は公共サービスや社会保障など国民・住民の福祉と共通利益のために出し合うのであり、それを多く出している人や企業は、それだけ国や社会に対する貢献度が大きく、より高いステータス(世間の評価)が得られ、「努力が報われる」ことになるわけである。
  ところが、「努力した結果が報われる」ようにといって、大企業や高額所得者が、逆に税の軽減を求め、国がそれらに税金を安くまけてやる、という逆のことが行なわれている。
 彼らには、税金が人々の幸福に役立つものだとか、それを多く支払っている者が名誉だなどという観念はなく、むしろ、税金を納めるのは損なことであり、迷惑と考える向きが強い。彼らに対する減税や税の軽減措置にたいして、増税されている庶民のほうが、公平性の観点から反発を感じ、また税金の使い道が、庶民にとって切実なもの(福祉・医療・教育など)に当てられる部分が少なく、よけいなもの(ハコモノや道路・港湾建設といった大型公共事業、それに軍事費など無駄の多いもの)に使われていることから、庶民が税金で損していると感じるのは当然のことであろう。そのような彼らならばいざ知らず、大企業や高所得者のほうが税金を出し渋り、値切っている。そのような大企業・高所得者と、彼らに減税を認めてやっている政府や自治体首長の政策は、はき違えも甚だしい。
 ③憲法上の国民の義務も法律上のルールも、自分自身とこの国この町で生活を共にする人々の互 いの必要のために定められ実行されている。
 働くこと(勤労)は権利であると同時に義務である。それは納税義務とともに憲法に定められた国民の義務である。それに、商品やサービスはお金で売り買いするなどの市場のルールをはじめ、様々なルールが法律で定められている。義務を果たし、ルールを守りさえすれば、安心して暮らせるはずなのである。
  しかし、問題は、これらの義務やルールとその適用に不公平があることである。
 納税は、所得の多い少ないによって、あるいは所得が同じ金額であっても家庭の事情(子供が多いとか、病人や障害者を抱えているとか)によって負担能力に差があるのに応じて税負担する応能負担が原則のはずである。(05年、所得税・消費税・法人税が税収に占める比率はそれぞれ31,8%、21,6%、 27,1%)所得税は負担能力に応じた累進課税になっている。(それは、たとえば100万円しか所得のない人が10万円負担する場合の負担感は、1,000万円所得のある人が100万円負担する場合よりも重い、ということで累進税率が適用されているのである。現在は4段階で、1800万円以上所得のある人には37%、1800万円未満の人には30%、900万円未満の人には20%、330万円以下の人には10%)ところが、1989年、(それまで所得税は5段階で最高税率50%だったのが37%に,大企業などの法人税42%だったのが30%に引き下げられ、それに替わって)消費税が導入されて、3%から5%に引き上げられ、今後さらに引き上げられようとしている。税収に占めるその比重はさらに大きくなる。この消費税は、累進課税とは逆で(逆進)、所得の低い世帯ほど負担の重い、応能負担原則に反した税金なのである。企業が納める法人税は、実はかなりの企業(中小企業の7割、資本金1億円以上の大企業の5割)が赤字で免除されている一方、法人税には累進税率が適用されておらず、大企業はかつてのバブル期を上回る史上空前の利益を上げていて、充分すぎるほど税負担能力があっても全企業一律30%の税率で済んでいるのである。
 また、「機会の不平等」もある。努力の結果ならいざ知らず、スタート時点での条件(家庭環境、経済的条件、教育的条件、正社員か非正社員か、性別・年齢など)の格差や違いによって機会に恵まれる者と恵まれない者とが分かれ、そのため、どんなに努力しても、或はどんなに再チャレンジしても結果が得られないという人が沢山いることが問題なのである。結果平等ではなくても、機会は平等でなければ不公平・不合理なわけである。
 ④企業は人民の為にある
 ところで、民主主義の国家は「人民の、人民による、人民の為の国家」である。社会主義はそれをめざし、企業をも「人民の、人民による、人民の為の企業」とすることをめざすものであったが、旧ソ連や改革・開放前の中国それに現在の北朝鮮などの場合は、それが「一党独裁国家の(国有で)、官僚による(国営の)」やり方で、硬直した官僚主義に陥って、人民からは全くかけ離れていった。資本主義の企業は「株主(出資者)の(所有で)、会社役員による(経営の)」やり方で、「会社は誰のものか」といえば、「株主のもの」ということになる(株主といっても個人株主・法人株主・機関投資家、それに政府や自治体が株主になっている場合もある)が、いずれにしても一番肝心なことは「会社は誰の為のものか」ということであり、それは「お客様の為のもの」であり、社会の為のもの、要するに「人民の為のもの」なのだ、ということである。
 株主たちには配当金や株の売買で儲けたいという利己的な欲求があり、株主の多くはそれが目当てだという側面もあって、経営者はそのような株主たちの利益(利潤の最大限確保)をも考慮しないわけにはいかないが、企業は、そもそも誰の為のものかといえば、それは「人民の為の」もの―具体的には顧客(利用者・消費者)・従業員・下請け業者・株主・債権者(これらはステークホルダーすなわち利害当事者とよばれる)それに法人税が得られ国や自治体、雇用が得られる求職者などの為のものであり、こういう人々や社会のために、企業はあるのだということである。(イギリスのブレア首相は「ステークホルダー・オブ・ブリテン」宣言で「すべての国民がステークホルダーだ」と唱えたという―内橋克人「浪費なき成長」光文社)
 企業の本来の使命・役割は、多くの人に役立つ製品やサービスの提供にあり、定款などに創業の目的は事業を通じて社会に貢献することにあると定めている会社が多い。環境保全などに対する企業の社会的責任もある。
企業の所有者(株主)には所有権行使の自由が憲法上認められているが、憲法には同時に「これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と定められている(憲法12条)。
 株主権とは「残余請求権」といわれるが、それは賃金支払いや債務返済をした後に残る残余利益にたいする権利にほかならず、賃金支払(社員への給料の確保)などの方が優先されなければならない、ということなのである。
 上場会社のことをパブリック・コーポレーションすなわち「公共的会社」というのだそうであるが、会社というものは、本来公共性をもっていることを意味している。コーポレート・ソーシャル・レスポンスビリティー(CSR)とは「企業の社会的責任」のことである。
 企業は、法人税など納税は勿論のこと、寄付もおこなって当然なのである。フィランソロピー(慈善)などと称されるが、NPOやボランティア団体に寄付したり、社員のボランティア活動を支援したり、メセナ(芸術文化活動支援)など社会貢献活動を行っている企業もある。それが、その企業のイメージアップ戦略につながるとか、間接的な見返りが得られることにもなるのである。
 経団連や経済同友会が「企業の社会的責任」を打ち出し、各企業が(トヨタ財団・三菱財団など)財団を設立(学術研究に助成金を出し、社会福祉事業に寄付)したりしている。
なお、経済同友会はCSRとして次のような項目を挙げている。(奥村宏「株式会社に社会的責任はあるか」岩波)
 1、より良い商品・サービスを提供すること
 2、法令を遵守し、倫理的行動をとること
 3、収益をあげ、税金を納めること
 4、株主やオーナーに配当すること
 5、地球環境の保護に貢献すること
 6、新たな技術や知識を生み出すこと
 7、地域社会の発展に寄与すること
 8、雇用を創出すること
 9、人体に有害な商品・サービスを提供しないこと
 10、人権を尊重・保護すること
 11、フィロンソロピーやメセナ活動を通じて、社会に貢献すること
 12、世界各地の貧困や紛争の解決に貢献すること

 経営者には、そのような、金銭的利益を超えた経営理念と経営モラルが求められるということなのである。
 
 株式会社研究家の奥村宏氏によれば、次のようである。
 フリードマンらの新自由主義には、経営者の責任はあくまでも株主の利益を最大にすることであって、会社はコミュニティーや労働者のことではなく株主のことだけを考えるべきだとする社会的責任否定論があるが、2,000年代になって「企業の社会的責任」(CSR)を否定する者は少なくなっている。それに対してCSR業者・CSR学者がもてはやされるようになっているという。いわく「CSRは儲かる」、「倫理は得になる」。安全性や品質や環境など社会的責任を果たす。もしそれをしなかった場合、企業が訴えられて蒙る損失にくらべ、この方がプラスである。あるいはそれ(社会的責任)に積極的に取り組む企業では、従業員が経営者を信頼し、より組織に誇りを持つようになってよく働く。また社会的責任を果たす企業は評判がよく、これが会社の売上の増大につながる。短期的にはマイナスになっても、長期的には企業価値を高め、企業の競争力を強め、企業の利潤増大に寄与することになる、というわけである。
しかし、現実には、CSRは企業批判をかわすためであるか、或は利潤追求の手段に過ぎず、景気が悪化したり、企業批判が下火になると社会貢献活動も下火になる。
 労働組合は勿論のこと、経営者はCSRを単に「道徳的説教」或は「会社を守る」ための宣伝とだけ考えてはならない。従業員が企業を訴える内部告発は従業員の社会的責任であるという。
 奥村氏は「法人である株式会社の責任は、まずなによりもその代表者である経営者がとらなければならない。」「そのためには株式会社という企業のあり方を変えていかなければならない。そのような企業改革の思想が、いま求められている」という。要は社会的責任を持てるような企業に変えることが必要だというのである。経営者が企業活動全体に責任を持てるように大企業を解体して、できるだけ小さく分割するとか、協同組合が、営利を目的とするのではなく、広い意味でNPOの一つとして見直され、またNPOの中から様々な新しい企業が生まれてくることが考えられる、としている。

 今、国や自治体は国民・住民のために、その役割を最大限果たしているだろうか(やるべきことをやっているのだろうか)。また、企業はその社会的責任を最大限果たしているだろうか。はき違えているようなことがないだろうか。

2、国・自治体・企業の責任
 人は誰しも幸福追求権をもち、幸福を得る機会(チャンス)にありつく権利は平等にもつ(そのことは憲法で認められている)が、その幸福(生きがい)を何に求めるかは人によってまちまちで、それを仕事(勤労)―もの作りか商売(ビジネス)―に求めたり、利殖(金儲け)や蓄財(金貯め)に求めたり、何か学問研究か音楽か文学・芸術に求めたり、何かの芸やスポーツに求めたり、ゲームや競争(勝利)に求めたり、冒険に求めたり、何か趣味・娯楽に求めたり、何かのボランティアに求めたり、子を育て上げることとか、人に教え人を育てあげることに求めたり、或は信仰に求めるなど、人によって千差万別である。
 これらの中には、マネー・ゲームや競争・ギャンブルなどのように、勝敗や成功・失敗がつきまとい、明暗が分かれ、不幸な結果に終わる(とはいっても生活―生存権―がかかっているというものではなく、ゲームに負けただけの話)といったものもある。そのような意味での「結果不平等」「格差」は当然のこととして誰しもが甘受できるものである。
 お金や競争で勝利を得ることに幸福(生きがい)を求める人もいるが、そうでない人の方が多いわけである。
 ところが現政権下では、金銭的利得や競争に生きがいを求めるという極く限られた人たちだけの価値観や生き方が全てに押し広げられ、全ての人が「勝ち組」か「負け組」に分けられる「競争社会」がつくりだされ、幸福(生きがい)追求どころか、生きていくのがやっとという人たち、或は未だ自立の出来ない子どもたちまで競争にかりたてられている。勤労生活者が、生きるための最低条件で成果を競わされ、酷使されるという状況が広がっており、子どもたち・若者たちは、単なるゲーム遊びではなく、将来の死活に関わるテスト競争や受験競争・就職試験競争にかりたてられているのである。そういう状況を作り出しておきながら、安倍首相いわく。「経済的に豊になることが人生の目的ではないし、正規雇用されなければ不幸になるわけでもない」と(「美しい国へ」)。何とそらぞらしいことか。

 各人がそれぞれ自分なりの幸福(それぞれが目指す人生目的の実現や自己実現)を追求して、結果的に成功・失敗や幸運・不運があるのは個人の自己責任であり、やむをえないことだとしても、幸福追求以前に、幸福にありつこうにも初めからその機会が絶たれているとか、生きていくのがやっとだとか、テレビ・新聞も見れない、(デジタル機器など使えず)情報に接することができないとか、進学したくても学費が払えず必要な教育が受けられないとか、安定した働き口がないとか、勤めや収入・身分が不安定だとか、保険料がはらえず医者にかかれない、年金はろくにもらえそうにない、などといったことはあってはならないことであり、生存権(健康で文化的な最低限度の生活)の保障や就学(教育の機会均等)・就労(雇用・勤労権)の保障、公平な機会の保障を国や自治体が引き受けるのは憲法上当然のことなのである。生存権の保障と就学・就労には国・自治体はもとより、企業も責任を負わなければならない。それが国・自治体・企業の果たすべき役割なのである。
 ところが、現政権と財界(大企業経営者)は、そこのところで責任を果たそうとせず、「教育再生改革」を掲げていながら、国連の「児童の権利に関する委員会」からの勧告で「極度の競争的な制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」と指摘されているほどの競争教育と世界一高い学費(父母負担)を放置し、また、雇用と労働の規制緩和で大量の不安定雇用を招き、生活保護水準以下の低賃金で働くワーキング・プアや、就学・就職をあきらめたニートを生み出している。そして「自立支援」だとか「再チャレンジ支援」だとかの支援策をとるだけで、あとは「国に頼るな」「自助努力・自己責任だ」と言って済まそうとする。企業には「賃金が低く、人員の増減がしやすい非正規雇用者を必要としているという事情がある」(「美しい国へ」)と云って、大企業経営者には(政治献金を受けて)その期待と要望に応え、規制緩和や減税など至れり尽くせりの便宜を図っている。それが現政権なのである。
3、「再チャレンジ政策」って?
 安倍首相は「勝ち組と負け組とが固定化せず、チャンスにあふれ、誰でも何度でもチャレンジが可能な社会を」というが、その意味は、「負け組」に再チャレンジさせる(再度のチャンスを与える)ことによって「勝ち組」「負け組」を入れ換えるという、その意味で固定化しないということなのであって、格差そのものはそのまま固定化されるということ。こうして格差を設けておくことによって、たえず互いを競わせて必死になって働くようにさせる、ということなのである。「勝ち組」は「勝ち組」で、正社員というその地位から転落しない(リストラされない)ように必死になって、サービス残業もいとわず、在宅であろうとどこであろうと、休日であろうと何時であろうと働かざるをえなくなる。かくて経営者は、従業員を安い賃金で最大限働かせることができ、働く者の間に自発的労働強化の新たな競争がつくりだされる。そうして正社員・非正社員の間、あるいは大企業の社員と中小企業の社員との間、それに公務員と民間との間の競争は下の方へ、下の方へと最底辺に向かうのである。
 「再チャレンジ」とは弱者の生活を保護するセーフティーネットではないと、首相自身がことわっており、それは「負け組」に再チャレンジさせて「勝ち組、負け組」を入れ換えるというだけのことで、それを繰り返しているうちに皆「勝ち組」になれて正社員として身分の安定が得られ、楽になれるなどというものではなく、果てしなく競争が繰り返され、格差が再生産され、「負け組」が再生産される、ということにほかならないのである。(「美しい国へ」では「警戒すべきは格差の再生産」と書いているが。)
 
4、「成長戦略」って?
 安倍政権は「成長戦略」を掲げている。しかし、内橋克人氏(著書「悪夢のサイクル」)によれば、「『経済成長だ、GDP上昇だ』といって、それを国家の運営目標としているが、GDPというものは、耐震偽装をしたマンションをつくっても、それがGDPにプラスになるし、偽装だから潰すというとき、そのコストもプラス、もう一度立て直すというときもGDPプラスになる。世の中が危険になって、どこでもガードマンやセコムをつけることになったとしてもGDPプラス、人間にとって不幸なこと、一人一人の生活者にとって不安なことがGDPにとってはプラスになる。」つまり、国民の幸福を犠牲にしてGDPを追い求めているという。
 「成長戦略」は「成長底上げ戦略」などともいわれるが、それは、大企業さえ成長すれば、いずれは家計におこぼれがまわるという、以前にもとられ大企業本位の経済政策の繰り返し。安倍首相は、「成長しなければ、果実は生まれない」、景気を拡大することで、果実を家計に広げるのだとし、戦後のいわゆる「いざなぎ景気」をしのぐ景気回復はさらに続くという見方を一貫してとり続けている。
 しかし、未だに果実は庶民の家計には及んでいない。だいたい、これまでの景気回復―企業部門の好調―は大企業におけるリストラ効果と好調な輸出のおかげであり、GDPの上昇は好調な企業による設備投資が押し上げたものであり、家計の低迷、国内消費の低迷はそのままなのである。それどころか、労働コスト(賃金)抑制のうえに、今年、定率減税の廃止、年金課税強化、それにこれから消費税を上げるなど家計の負担増で、個人消費が停滞して、経済成長そのものが停滞する可能性すらはらんでいるといわれる。中央大学の徳重教授は「不安定な生活が増大する格差社会において、安定した経済成長を続けることは極めて困難」だとしている。
5、規制緩和路線の見直し―再規制の必要
 規制緩和が必要だったのは、政治的な力の強い特定の利害関係者のために制定されたり、或は、かつては合理性のあった規制でも時代の状況にそぐわなくなったりしたばあいの話であって、そもそも規制は必要不可欠なのであり、市場は人々の都合にあわせてコントロールされて当然なのである。
 規制緩和政策は「競争促進」「効率をよくする」ためにと、これまで進められてきて、小泉政権でピークに達し、「とにかく市場に任せろ」とばかりに、交通・建築・流通・金融と何から何までむやみやたらと規制の緩和・撤廃がおこなわれてきたが、その結果が、列車の脱線転覆事故、航空会社の運行トラブル、長時間労働が原因のトラックやタクシー・バスの交通事故頻発、耐震強度偽装事件、中心市街地の空洞化、金融商品での投資家被害の頻発などなどである。
 いまや、その見直し、再規制の時であり、それは既に行われ始めている。いわゆる「揺り戻し法」である。
 交通関連12法の改正
 建築基準法などの関連4法の改正
 金融商取引法における金融商品の販売ルールの厳格化その他
 株式公開買い付け(TOB)の規制や投資ファンドに対する規制の強化
 「まちづくり」3法の改正―大型店の郊外出展の原則禁止         などなど。

 しかし、その一方、学校教育への競争原理導入とあいまって、教育の規制緩和が行なわれようとしている。学区の自由化(学校選択制)などである。

6、非正規雇用者の処遇改善の必要
 朝日新聞(2月18日付け社説)によれば、格差問題で「政治が最優先に取り組むべき」は、正社員と非正社員の働き手との間に横たわる賃金や契約期間など処遇での差別の是正、機会の不平等(年齢・性別その他理不尽なハンディによる差別)の是正、25~35歳の年齢層でバブル崩壊後の不況で就職にあぶれ非正規雇用を余儀なくされてきた世代を正社員に採用、「低賃金の非正規雇用にあぐらをかく経営者にその転換を迫る」などのことである。
 それに、とにかく、働いたら働いたその時間の、健康で文化的な最低限度の生活を保障するだけの賃金(最低賃金)を保障することが必要不可欠である。貧困とは、国際的には所得が国民の平均的所得の5割(現在の日本では時給にすると、だいたい1,000円)以下だから、1,000円がそれ(最低ライン)に相当する。ところが今は、各県まちまちだが、全国平均で673円にすぎない。最低賃金を引き上げれば(中小零細企業などは経営が圧迫されるという懸念があり、それには大企業による下請けへの低単価のおしつけをやめさせことや、中小企業への助成金や無利子の融資も必要だろうが)労働者の収入が増える。それが消費を増やし、地元企業の売上増につながる。中小企業にとっては、過当競争(ダンピング競争)もなくなるし、事業も安定してむしろ効果的なのである。
 今は、同じ職場で正規・非正規で差をつけ、大企業と中小企業との間で(大企業による下請け単価の買いたたきによる)大きな格差があり、中央と地方とで大きな格差がある。同一労働同一賃金であるはずなのに、である。
7、国・自治体・企業の経営努力
 財政は国民・住民が共に必要とする公共サービス・公共施設を運営するためにあるのであって、財政のために財政があるのではない。不要なもの、無駄なことには金を使わないようにし、無駄な支出を省き、必要性の低いものは削るといったことは当然のことではあるとしても、国民生活に密着し庶民が切実に必要としているものには財政を投入し、金がなければ借金をしてでもやる、というのが財政というものである。単に収入の範囲内で最低水準の行政しかやらずに赤字を出さない首長が有能なのではなく、また庶民が切実に必要としているものまで何もかも削って借金を減らした首長が有能なのでもない。例えば、経済も税源も一極集中し、借金を返済する資金も潤沢にある東京などの大都市圏の首長が有能で、地域間格差の底辺に置かれた地方の県市町村が地方交付金と補助金が激減する中で、住民の生活権を維持するため懸命に努力しながらも財政危機に追い込まれている首長が無能だなどということはあり得ないわけである。

 企業経営者は経営(採算)を維持するために、一定以上の売上確保をはかり、そのため商品・サービスが売れるように工夫・改善に努めなければならない。他社との競争・国際競争に遅れをとって売れなくなるということのないように競争力をつけなければならない。
そこにイノベーション(技術革新)も必要である。
 国がイノベーションを助け、医学・工学・ナノテクノロジー(超微細技術)の創造・活用、それにICT(情報通信技術)の高度利用による産業・物流インフラの整備などに財政的支援を行うこと。安倍政権はそれを重点政策の一つにあげているが、それにつけても、日本の風土を生かし、「ものづくり・職人技」などの日本人の特技を発揮することで勝負するといった戦略があって然るべきだろう。
 しかし、価格競争にとらわれ、発展途上国の安い賃金水準とはりあって労働コスト(人件費)削減―正社員リストラ、非正規雇用の拡大、サービス残業など長時間過密労働、賃金抑制など―労働者を犠牲にし、又、大企業による下請け単価の買いたたきダンピング競争で中小企業を犠牲にする、そのようなことがまかり通っているが、それは勤労生活者に勤労権と生活を保障するという企業の社会的使命に対して本末転倒である。
 また、国は定率減税の廃止、消費税など庶民増税を行なう一方、史上空前の利益をあげている大企業と大資産家には減税(法人税の減税、株式配当や譲渡益にかかる税額や相続税・贈与税などの軽減措置)をおこなっているが、それも本末転倒である。
 安倍政権と経団連などの財界(大企業経営者たち)にはこのような本末転倒の誤りがあるのである。
 企業経営者の経営努力は経営の維持・安定(会社を潰さない)が大事なことは当然であり、そのためにコスト(経費)の無駄を省き、効率をよくすることに努めることも必要だ。しかし、その会社、その経営の維持・安定が必要とされるのは、人々(消費者)がその商品やサービスを必要としているからであり、そして国や自治体にとっては、その会社があることによって法人税などの税収が得られるからであり、勤労生活者にとっては、その会社があることによって雇用・収入源が得られるからなのであって、株主・会社役員など限られた人々の金儲けなどの利益のためではないのである。
 今、大企業は、史上空前の利益をあげていながら、それを社会に還元することなく、従業員の給与を抑え、株主配当・役員報酬だけを(01~05年の間に)それぞれ3倍・2倍と上げている。
 日本経団連は政権党である自民党には政治献金(政策買収)をやって法人税減税や規制緩和などの見返りを得ており、利己的な利益追求を事としているのである。(法人税は、そもそも欧米などと比べてけっして高くはなく、実効税率はアメリカ40,75%,ドイツ39,9%に対して39,54%。税と社会保険料とを合わせた企業負担はドイツ・イタリア・フランスよりも日本のほうが軽い。)
 経団連会長の御手洗氏の会社キャノンは株式の過半数が外国株主でもっている現状だが、政治献金を外資企業にも認めるように(政治資金規正法を改正)させた。キャノンの工場で派遣労働者を請負労働者と偽って使っていること(偽装請負)が発覚している。(この労働者たちは正社員の賃金の半分、ボーナスも昇給もなく、社会保険への加入もない。このような偽装請負は05年度、調査した企業のうち6割を超える974社で、それが確認されている。松下電器の子会社やトヨタ系の工場でもやっていた。)
 2月23日付けの朝日新聞で鮫島浩記者は次のように指摘している。「キャノンは小泉政権下で業績を伸ばした。製造現場への派遣労働解禁など規制緩和の波に乗って非正規雇用を増やし、コスト削減に成功。違法な偽装請負も発覚したが、御手洗氏は『請負法制に無理がありすぎる』と更なる規制緩和を求めている」と。そして「日本経団連の御手洗富士夫会長と手を組む『安倍自民党』」、「『希望の国・日本』(御手洗ビジョン)は成長重視の経済政策だけでなく、教育再生や憲法改正も盛り込み、首相の『美しい国・日本』と瓜二つだ」と書いている。
 その御手洗会長は『希望の国・日本』で「愛国心を持つ国民は愛情と責任感と気概をもって国を支え守る。」「教育現場のみならず、官公庁や企業も日常的に国旗を」掲げるべきだなどと云っていながら、それとは裏腹な利己的な会社経営をやっているのだ。
 国家経営も自治体経営も企業経営も、いったい誰たちのためにやっているのか、その経営努力は何に向けられるべきか、そこに本末転倒があってはならない。
8、自助努力・自己責任
 自助努力・自己責任は、次のような意味では、それも必要だろう。
すべて、国や自治体まかせ、会社まかせ、他人まかせ、なりゆきまかせではなく、また、すべて、国や自治体や会社に頼るのではなく、税金を我々から受け取っている国や自治体が負って然るべき責任をきちんと果たしているか、注意を払い(監視)、注文をつけ、要求をつきつけ、突き上げるなど。そのような自らの「たたかい」も必要であり、労働組合や市民運動に結集するなど、仲間たちと連帯して要求・交渉したり、運動を展開する、そのような我々の側の努力も必要なのである。
 民主主義ということは、主権は国民にあり、国や自治体の運営や決定は、国は首相その他の大臣・国会議員、自治体は首長・地方議員によって行なわれるが、彼らを選んでいるのは国民・住民なのであって、最終的な責任は選んだ者即ち国民・住民の責任なのである。だからこそ、我々は首相にも首長にも、その指揮下にある公務員にも、議員にも「それはおかしい、こうあるべきだ」と注文をつけ、要求をつきつけなければならないのである。
 それに、NPOなどの非営利・非政府組織などの結成・参加にも心がける。国や自治体・企業以外でも、広義のNPOは協同組合・学校法人・社会福祉法人などがあり、その他にも様々な協同組織、市民組織がある。それら、志を同じくする仲間との共同事業に活路・活動の場を求める、ということもあって然るべきだろう。
 そのような意味での我々自身の努力、自己責任も必要なわけである。
孫たちよ
 よく遊び、よく学べ!大きくなったら、よく働き、給料をもらったら、きちんと税金(所得に応じて公平に定められた税額)を納め、NPOやボランティアにも参加して人々のために尽くすことを心がけよ。
 その上で、国や自治体がおこなう公共サービスと社会保障は当然のこととして当てにし、不備不足があれば是正を要求してよいのだよ。受け入れられなければ、人々と連帯して(運動に起ちあがり)たたかうのだよ。勤め先に対しても、給料や労働時間など労働条件の保障や福利厚生は当然のこととして当てにし、不備不足があれば是正を要求してよく、受け入れられなければ職場の内外の仲間と連帯してたたかうのだ。

 子どもに対する親の責任で最もだいじなことは、子に安心を与え、不安を与えないこと、そうして、子どもが心置きなく遊んで学べるようにすることだ。子どもに対する親の責任は子に安心を与えること、これに尽きる。
 同様に、(子どもも含め)国民に対して国・自治体・企業が責任を引き受け果たさなければならないことは、この国、この町、この学校、この職場で、皆が日々安心して学び、働き、安心して暮らせるようにし(教育を受ける権利、勤労権、健康で文化的な最低限度の生活権を保障)、不安を除去(安全・平和を保障)することだ。
 そのうえで、各人それぞれが自分なりの幸福(生きがい・目的達成・価値実現・自己実現)を追求すればよいのであって、そこの部分(幸福追求)は自己責任と云ってよい。
 国にも自治体にも企業に対しても、それらが国民や住民に対して責任をきちんと引き受け、責任を果たすように、爺(じじい)は何かにと注意を払い、人々と共に声(「声なき声」)を上げ、要求をつきつけなければならないが、孫よ、あなたたちは、ただひたすら遊んで学び、夢を思い描いて遊んで学ぶことに専念してよいのだよ。

 大きくなったら、アメリカ人を助ける人になりたいんだって?(幼稚園で、先生に訊かれて、そう答えたそうだが)それはすごい。日本を、強いアメリカを助ける国にしたいという、どこかの国の首相と違って、アメリカの困っている人を助ける人になりたいというのであれば、なおさらすごい。

 日本は、「春夏秋冬のながめの美しい国、山や川や海のきれいな国」であることは確かだ。しかし、「世界に一つの神の国」「強い国」「えらい国」だなんて、そんなことを学校で子どもたちに歌わせて、アジア・太平洋で戦争をして、数えきれないほど沢山の人々を死なせた。
 でも、このじじいが小学校に入ってからというものは、そんな歌は唱われなくなった。
 じじいが小学校で歌ったのは、次のような歌だった。
  「幸福の青い鳥、
  青い小鳥がとんできた、
  遠い国からはるばると、
  日本の空へこのまどへ
  海を渡ってとんできた
  ヘレン・ケラーのおばさまは
  いつも小鳥といっしょです」
 このヘレン・ケラーという人はアメリカ人で、子どもの時から目も見えず、耳も聴こえなくなってしまったけど、お父さん・お母さんと先生の愛のおかげで、よく学び、立派に育って大学に入り博士にまでなった。その頃、日本に来て、戦争で心が傷つき落ちこんでいた多くの人々を元気にしてくれて、日本人を助けてくれたんだ。

 私の孫は「アメリカ人を助ける人になる」というのか。(卒園アルバムには、自筆で「アメリカのへいわをまもるひとになりたい」と書いてあった。)

 じじいは、このたび当地で発会することになった「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会」支部に入会した。(先輩に誘われて入会はしたものの、何も出来そうにないが)
 孫が世界の困った人々を助け人、世界の平和を守る人になるのだとしたら、なんと頼もしいことか。

 それにしても、国民が首相に対していちばん切実に望んでいることは、この国を誰もが安心して暮らせる国にしてほしいということであり、この地球を安心して住める環境にしてほしいということだろう。
 孫たちを安心して託せる国にしてほしいということだ。


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