米沢 長南の声なき声


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自衛権はあっても交戦権はない
2016年06月21日

 自衛権は国際法上(国連憲章51条で個別的自衛権・集団的自衛権ともに)どの国にも認められている国家固有の権利ではある。
 ところが、我が国憲法は、9条1項に国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力行使を国際紛争解決の手段として用いることを放棄し、そのために2項に陸海空軍その他の戦力は保持しないと定めた。
 そこで政府は、武力と戦争は国際紛争解決の手段としては放棄しても、急迫不正の侵害に対する自衛権そのものまで放棄してはいないとして、そのために必要な「最小限の実力」(自衛力)組織として自衛隊を保持してきた。それにアメリカからも守ってもらうためにと、米軍駐留と基地を認める日米安保条約を結んできた。そして今や限定的ながら自衛隊が米軍をも守る集団的自衛権までも認められるのだと拡大解釈するに至っている(我が国の憲法上は、「自国に対する急迫不正の侵害」に対する自衛権すなわち個別的自衛権の行使なら認められても、我が国と密接な他国への侵害・攻撃に対する自衛権すなわち集団的自衛権の行使まで認めることはできない、というのがこれまでの政府解釈であった。それが、その危険が我が国にも及ぶ―即ち「我が国に対する急迫不正の侵害」ともなる―と見なされる場合なら集団的自衛権も行使できると解釈を変更。
 しかし、そもそも、個々人の正当防衛権(暴漢に襲われて、とっさに抵抗し防戦する権利)は自然権(国家成立以前に―国法や憲法の定めに関わらず―全ての人間に生まれながらにして備わる当然の権利)と見なされるが、国家の自衛権までも自然権だとは言えまい。国連憲章(51条)では国家に「固有の権利」として認められているからといって、それが憲法など国内法の定めにはとらわれることのない自然権として国家に備わる当然の権利だとは言えず、憲法で放棄することがあって然るべきなのである。また、憲法の9条1項は武力と戦争は国際紛争解決の手段としては放棄しても、急迫不正の侵害に対する自衛権そのものまで放棄してはいないと解釈して、自衛隊を専守防衛のための備えとして保有し、災害出動や領海・領空の警備(侵犯の阻止・排除)などの活動は認められるとしても、2項の後半に「国の交戦権は認めない」との定めがある限り、自衛戦争といえども、国権の発動たる交戦はできないわけである。ましてや自国が攻撃されてもいないのに、同盟国など親密な関係を結んでいる国が攻撃されて自国にもその危険が及ぶからといって集団的自衛権を理由にして、攻撃したその国に対して防戦・反撃行動に出、その国から「戦争を仕掛けた」先制攻撃と見なされるがごとき行為が許されるはずがない。
 2項の「国の交戦権は、これを認めない」との定めはその意味で自衛隊の活動に対する「究極の歯止め」なのである。 

 というのが当方の考え。ところが、防衛省の考えでは「交戦権は戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であり、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国領土の占領などの権能を含むものである(つまり、それら殺傷・破壊・占領行為などを行うことができる権利)」とし、「自衛権の行使として相手国兵力の殺傷・破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷・破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである(但し、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を越えるものと考えられ、認められない)」として都合よく解釈している。しかし、憲法(前文・9条)の文脈からすれば、「戦いを交える権利」すなわち「戦争を行う権利」であることは明らかであろう。9条2項はその意味での「国の交戦権」を認めないとしているのである。すなわち国が戦争を行うことはできないのだ。仮にもし、同じ「殺傷・破壊行為」であっても「自衛権の行使」は「交戦権の行使」とは「別の観念」で、交戦権行使としての殺傷・破壊行為は認められないが、自衛権行使としてならそれ(殺傷・破壊行為)は許される、ということだとすれば、北朝鮮も自衛権行使として、その3要件(急迫性・必要性・均衡性)に適っていれば、アメリカ・韓国・日本に対して核やミサイルを用い、或いは先制攻撃(「先制的自衛権」)も認められることになるのでは?。アメリカのアフガン攻撃・イラク攻撃もその名目で行われたのだが。いずれにしろ、「自衛権の行使」なら許される、というわけにはいかないだろう。憲法9条の下にあるこの日本にも、そのような自衛権行使が認められるとするのは、とても無理なのでは。  

 尚、抵抗権というものがあるが、それは人民の人権(生命・自由・幸福追求権など)を保障し守るため権力を与えたはずの政府が暴走して人権を毀損するようになった場合には人民は政府に抵抗し、政府を変えることができるという権利である(革命権とも言われる)。それも自然権である。
 この場合の抵抗権は自国政府に対する抵抗であるが、他国の不当な侵害・侵略に対するレジスタンスも人民の当然の権利と見なされるだろう。
 武装権―市民が武器を保有し、携帯する権利―米国では独立戦争で建国して以来、憲法上の権利となっている(合衆国憲法修正条項第2条)―これが今も、この国で銃乱射事件など殺人事件が絶えない原因となっている。このような武装権が自然権でないことは無論のこと。
 平和的生存権―戦争の恐怖を免れ平和のうちに生存する権利―これを憲法前文に(「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する」と)明記しており、そのうえで9条に戦争放棄と国の交戦権否認を定めているのである。これは人が生まれながらにして持つ自然権というべきものだろう。(そもそも人間には原始人類以来「闘争本能」などない。)

 要するに、個々人の正当防衛権、人民の抵抗権、個々人の平和的生存権は自然権で当たり前の権利だと言えるが、国の自衛権・交戦権、個々人の武装権はそうではないのだ、ということである。



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