大日本帝国は、天皇制国家主義の考え方で成り立っていた。(とくに、満州事変から始まる十五年戦争時代には、それが極端化して超国家主義となる。)その帝国は大戦のあげくに崩壊して60年近くもたち21世紀にもなるのに、未だにそれをひきずり、そこでのやり方に頑なにこだわり続けている向きが、このところ目立ち始めている。
ところで、人は何のために生きるかといえば、それは、各人は(意識すると否とにかかわらず)それぞれ自分自身の幸福(生きがい)のために生きるのであり、各人にとって国家とは、そのための手段なのであって目的ではない。(人によっては国家のために尽くすのが生きがいだ、ということはあっても、それとても自分の生きがいの方が主眼になっており、国家は手段になっているわけである。)国家は(例えばイラクでの邦人人質拉致事件のように、政府の方針に従わない者であっても)国民を守るためにあり、国民は自らを(またはその家族を)守るために国家を利用する、そのために税金を払っているのであって、(その国家を維持発展させるために税金を納めて協力することはあっても)国民が国家を守るためにこの世に生まれ生きているわけではないのである。
ところがそれが、国家の方を各人が奉仕すべき目的とし優先して、国民の方を手段化し二の次として扱う。それが国家主義である。
それに、もう一つ、他国や世界の諸国にたいして自国や国益を利己的に或は優越的に優先するのも国家主義である。我が国の場合それは、ひいては超アジア(アジアを超えようとする)大国主義とでもいうべきものとなるのかである。
国家主義とは、すなわち、国民にたいしては国家優先、諸外国にたいしては自国優先、という国家優先主義なのである。
(国家の役割と実態)ところで、国家には、国民各人の生活と幸福に役立つ次のような役割がある。1.国民の安全保護(生命・財産を守る)―治安(秩序維持)・国防(国境警備)
2.すべての国民に最低限度の生活を保障し、環境を保全し、道路・港湾や教育・福祉など国民が共同で利用に供し便益を得るための公共事業を行い公共サービスを提供する。
3.国民相互間(経営者層と従業員階層、正社員と非正社員、大企業・大型店と中小零細業者・農漁民などの諸階層)の利害の調整。そこで、国民と一口に言っても、強者と弱者、マジョリティー(多数者)とマイノリティー(少数者)、経営者・オーナー層と従業員層、大企業・大銀行と中小企業・零細業者、エリート層と非エリート層、高額所得者と低所得者、正社員と非正社員など、互いに利害がぶつかる様々な階層や階級に分かれるわけである。利害が対立する双方にたいして中立公平にといっても、双方とも完全に満足のいく裁定や決定・処理が行われることは殆んどありえず、どちらかに有利になされ、どちらかが優先されることが多い。
また、国家と一口に言っても、その中枢機関である政府や国会の最大多数を制して主導している政党は、いずれかの階層を代表している(支持基盤にしている)わけであって、国家が国民を守るとか、国民全体の利益に供する公共事業・公共サービスを行うとか、国民の利害を調整すると一口に言っても、それらは結局、その政党を推し立てているその階層に有利になされ、その階層が優先されることになる。そして国家はその階層本位の国家となり、国益というばあいはその階層にとって有益か否かが中心となる。他方の階層はどんなに不利・不満であっても、強制力(権力)をもつ国家の裁定には従わざるをえないということになるわけである。
このように、国家は「すべての国民」(公共)のためにあるとはいっても、実際は特定の国民階層本位の国家になっていることが多いのであって、大日本帝国は財閥・大地主本位の国家になっていたし、現在の我が国家も「財界・大企業本位の国家」といった特定の階層本位の国家になってはいないだろうか。国家の実態というものに、我々は無頓着でいるわけにはいかないのである。
それに国家というものには、その国家の下に国民(民族)が統合されるという、国民統合の契機となり枠組みを与えているという意味合いもある。(そのシンボルが国旗・国歌であり、我が国では天皇がその象徴とされているわけである。)
(愛国心) 尚、愛国心などの愛国という場合、次のような三つの意味合いがある。
(1)国民(同胞、その伝統・文化)を愛する。
(2)故郷としての祖国(故国の土・山河)を愛する。
(3)国家(政府)にたいして忠誠心をもつ。(国家―政府―の方針には、戦争であれ何であれ無条件に従い、従わない者を「非国民」とか「反日分子」として非難する。)ナショナリズムという場合は、(1)に照応する国民主義・民族主義と、(3)に照応する国家主義とに訳される。
国家主義の下では、愛国心といっても(3)の「国家への忠誠心」の意味が強まる。すなわち、政府の政策や方針には反対したりせずに、ただひたすら支持・協力を寄せ、国家目的・国益をすべてに優先して考え、そのために身を捧げる、というのが愛国心となる。
国の愛し方は、人により様々あるわけであり、(1)と(2)のような愛国心は、人々と触れ合い伝統文化と触れ合い故郷の山河に親しむ生活体験と学校でのそれらの学習のなかなかで自然に心に生まれ育つものであるが、それを、親が子に親孝行を押し付けがましく言うが如くに、国家がわざわざ愛国教育を法律に定め、行政機関が学校の儀式で国旗・国歌の掲揚・敬礼・起立・斉唱など形を決めてそれを強要したり、押し付けがましくやるとなると、それは(3)の意味の「国家への忠誠心」を意識したものとなり、国家主義となるわけである。
(憲法) 現憲法は、国家主義の誤りを考慮したうえで書かれており、世界史的に近代憲法のそもそもが市民革命の中から生まれ、市民たちが王権(国家権力)による権利侵害にたいして自らの権利を確保するために制定したというその精神(立憲主義)にたちかえり、国民が一人ひとり、国家(その実権を握る社会的強者)に対して自らの権利(人権)が侵害されないように保証することを意図して(国家権力を縛る権力制限規範として)つくられているのである。ところが、改憲は、それ(権力制限規範としての憲法の性格)を、国民(個々人)の方に義務や責務を課する「国民の行動規範」的な性格をもったものに変質させようとするのである。
(国家公務員) 国家公務員について言えば、大日本帝国では、公務員は「天皇の官吏」として天皇とその政府にたいして忠実無定量の義務を負った。かれらは公共(国民全体)の利益のためと思って勤務していたとしても、それが公共の利益かどうかを判断したのは、ひとえに天皇、もしくは彼をとりまく一部の権力者であった。
それにたいして、現憲法では「すべての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」となっており、国家公務員法では、「すべての職員は国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、-----------------なければならない。」となっているが、「公共の利益」かどうかを判断するのは国民(国民から信託を受けた国会)なのである。そして、国家公務員法では、職員は「その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」となっているが、その一方で、憲法では「天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を(最高法規として)尊重し擁護する義務を負う。」となっている。つまり、国家公務員たる職員は上司の職務上の命令には忠実に従わなければならないが、その職務命令が、法令に則したものではあっても、憲法に抵触するようなものである場合は、その限りではない(従わなくともよい)わけである。しかし、公務員は憲法には無条件に従わなければならない。それと同時に、その憲法によって、一国民としての人権が国家権力から(その一機関である所属機関の上司の命令や強制からも)守られるのである。
上司の職務命令には忠実に従う(上司の上司を一番上までたどれば総指揮監督権者・任命権者である大臣・国会議員がおり、彼らを選んだのは主権者国民であるかぎり、上司の命令に従って職務を遂行することは、とりもなおさず、国民に奉仕することを意味する)としても、職員が奉仕すべき相手は、直属の上司や所属機関の長ではなく、またその最上級の機関の長(総理大臣など)でさえないのであって、あくまでも国民こそが奉仕すべき相手なのであり、あらゆる国家機関も、その長も、上司も、国民に奉仕すべき立場にあるのである。
要するに、公務員が奉仕するのは国家(機関)にたいしてではなく、あくまで、国民(全体)にたいしてなのだということである。
(教員) 尚、 教育公務員について言えば、教育基本法では教員も「全体の奉仕者」なのであり、しかも「教育は不当な支配に服することなく、国民全体にたいし直接に責任を負って行われるべきものである」となっている。
卒業式にさいして「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱すべしという職務命令は、それが国旗・国歌法や指導要領など法令に基づいたものとはいえ、「思想・良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法の規定に抵触するものであるかぎり、教員がそれに従わない(起立して歌わなかった)からといって処分されるいわれはないのである。「国民全体にたいし直接に責任を負って」教育を行うべき立場にある教員にたいして、教員が生徒を前にして、憲法でその自由が保証されている自分の思想・良心を貫いて行った行為が、職務命令に反するからといって処分をくらわせる方が間違っているのである。
(自衛官) また、自衛官も国家公務員であり、彼らには災害救援など様々な任務があるが、国民全体の奉仕者として、上司・上官(頂点には最高指揮監督権者として総理大臣、次いで防衛庁長官がいて彼ら文民の統制下に置かれている)の命令にたいしては、より忠実(厳格な)な服従が求められる。それは、警察官やレスキュー隊なども同様であるが、命令された任務が危険だからといっていちいち拒否したり不履行をきめこんだりしては、救難活動など全うできず被災者を助けるという国民奉仕が充分できなくなるからである。
その一方、自衛官にも一国民としての権利・人権は憲法によって保護される。(2003年10月10日社民党北川議員の質問にたいする政府答弁は「当該職務上の命令が憲法や国際人道法に反し無効である場合には、当該命令を受けた自衛隊員は、これに従う義務はない」としている)仮に、命令だからといって「戦え、殺せ、命は捨てろ」などと戦闘にかりだされるとしたら、その場合は拒否できるわけである。なぜなら、憲法は戦争を禁止しているからである。(尚、イラクに派遣している自衛隊は、政府の言い分では、人道復興支援その他とも「非戦闘」活動に止まるものであるから、命令は拒否できる筋合いのものではない、というわけである。)
ところが、このところ我が国では、いちいち国家には頼らず自己責任で、と言っておきながら、「国益のための国際貢献」が強調され、国民に愛国心と国家にたいする同調・協力を求める向きが強まっており、国家主義への傾斜が様々なところに見られるのである。