米沢 長南の声なき声


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原発と核抑止力―安全神話
2011年07月31日

 敗戦前には、「日本軍は負けない」という不敗神話があった。しかし、我が国民はアジア・太平洋戦争で史上最悪の悲惨な事態(死者―日本人300万人、アジア全体で2,000万人。広島・長崎両市民は史上初の核兵器被爆)を経験し、そのうえにたって、戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を定めた憲法を受け入れた。
 そして今や、東日本大震災(地震・津波・原発事故が重なった複合災害)という戦後最悪の悲惨な事態を経験しつつある。

142の国、39の国際機関から支援
アメリカから―義援金49億円以上(日本側からの在日米軍への「思いやり予算」は毎年1,881億円)、救助隊144人、軍人8,000人、三陸沖に原子力空母ロナルド・レーガン等が展開、自衛隊と共同作戦(「トモダチ作戦」)、かつてない規模の展開は自衛隊・米軍の統合運用と民間空港・港湾の米軍使用に踏み込んだ。「オペレーションの性質は違うが、民間施設利用や上陸など実態的には朝鮮半島有事を想定した訓練ともなった」(外務省幹部)という。  
ロシアから―救助隊155人、日本への天然ガス供給を増やす。
「モスコフスキー・コムソモーレッツ」という新聞に「被災した日本人は気の毒だ、北方四島は日本に与えたらいいという意見が述べられたということが報道された」という(世界6月号・和田春樹東大名誉教授)。
フランスから―救助隊134人、原発事故対策用機材と技術の提供。
中国から―各国の国際救助隊の中で、中国の救助隊(15人)が最も早く(3月13日)日本に到着、撤退したのも一番最後(3月21日)だった。中国政府の援助物資は約3億8千円相当。燃料油2万トン。地方政府や民間機関からも―中国赤十字から約3億3千万円、四川省赤十字からは(3月20日時点で)約247万円。福島第一原発に大ポンプ車を提供、技師派遣。(08年四川大地震では日本から5億円、国際緊急援助隊-ハイパーレスキューなど救助チームと医療チーム-を派遣。)
 しかし、日本側は真っ先に受け入れるべき国として、米国を「ランク1」としたのに対して、中国は「ランク4」と優先度が低く、受け入れに躊躇。そのため救助隊はわずか15名にとどまった(朝日新聞4月3日付けGLOBE面)。
北朝鮮から―北朝鮮赤十字が(朝鮮総連を通じて)義援金10万ドル(日本円810万円)、在日朝鮮人に対しては見舞金として約4,000万円が送られたという(世界6月号・和田教授)。これらに対して日本政府からの礼は一言もなし。(日本政府は制裁中―貿易はすべて禁止、船舶の往来もすべて禁止)

そこで次のことを考えた。
自然災害―止められない―備え(防災対策)が必要(「備えあれば憂いなし」だが、油断は禁物)
   コンクリート構造物(ダム・堤防・防波堤・防潮堤など)―それでも防ぎきれない
   災害救助組織、避難計画、高台への施設・集落移転などの対策。
原発災害撤去しないかぎり止められない―備えても事故は防ぎきれない(「備えあれば、かえって憂いが増す」―世界8月号・高史明―「備えあれば憂いなし」には、近代合理主義における科学技術の過信があると)
     撤去すれば止められる―撤去すれば備えも不要
戦争・戦災―互いに軍備(「抑止力」「防衛力」―自衛隊・日米同盟)持てば戦争(攻撃)は止められる?一触即発・偶発戦争など「備えあれば、かえって憂いが増す」のでは?
 「脅威」―北朝鮮の「脅威」―北朝鮮自身は、プルトニウム型(長崎型原爆と同じ)の核兵器開発は「自衛のため」で、「ウラン濃縮(広島型原爆に通じる)は発電目的の平和利用だ」と。
       中国の「脅威」
       国際テロ組織の「脅威」
    それらの脅威に備えなければならない、と言って軍備。相手側からみれば、日米の軍備が脅威。
  しかし、 軍備があることによって、互いにそれに拠りかかって非友好的・非協力的・敵対関係をとり、外交努力を尽くさず、軍事的手段に頼りがちになる。そして軍事衝突から激突-最悪の事態―戦争になる。 
 「核抑止」―かつて米ソの間で「核均衡抑止」―キューバ危機など一触即発・核戦争の危険あった。誤発射による偶発戦争の危険も。自暴自棄になって反抗する北朝鮮やテロリストに対しては核抑止は効かない。核戦争は核兵器を無くす(廃絶する)ことによってしか、防止できない。
 横須賀や佐世保を母港にしている米軍原子力空母・原潜には大津波の危険
 原発―「原子力の平和利用」というが、その原子炉(軽水炉)は、もともと原潜用に開発されたもの。かつて政府の原子力委員会初代委員長の正力松太郎らには「毒をもって毒を制す」(原子力の「平和利用」で反核運動を制する)という狙いがあり、中曽根首相らには「核武装の潜在能力を残しておく」という狙いもあった―プルトニウム(使用済み核燃料の再処理で得られ、核爆弾に転用できる)の大量保有は米・ロ・英・仏に次ぐ(約31トン―核兵器1個あたり4キロと想定すれば7,750個分に相当)
 アメリカは、日本の原発用に濃縮ウラン(現在約73%)を売りつけ、原子炉(ゼネラル・エレクトリック社製など)も売りつけ(そのもの、或は設計を)。但し、アメリカは、日本が日米安保を破棄して核武装などにはしれば濃縮ウランの供給や日本に例外的に認めている使用済み核燃料再処理の権利は停止することにしている(日米原子力協定)。

 軍備など持たなければ(「戦争放棄」「戦力不保持」していれば)戦争は止められる(軍備を持たない―敵にならない―戦争にはならない道理)。  
        (非軍備・非戦―友好協力関係を結び、トラブルは外交交渉で解決)  
 自衛隊―「主たる任務は国の防衛」(自衛隊法の規定)
   「災害派遣は従たる任務」―「主たる任務の遂行に支障が生じない限度」―制約
   軍の本質的属性は「国家」を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。
が、自衛隊は憲法9条により「軍隊ではない」という建て前になっているので、結果的に「国民を守る」という側面を前に押し出している。
 この自衛隊が脱軍事化して「災害救助隊」に転換すれば、近隣諸国をはじめ、諸外国で震災等が発生した際、非軍事の災害救援組織が本格的な活動を展開、そうすればその国には、日本を攻めようという理由が無くなっていくというもの。(世界7月号・水島朝穂) 
 
 「原発は安全」「アメリカの核抑止力があれば安全、日米安保があれば安全」という安全神話が日本人の頭に刷り込まれてきた。しかし、今や原発の安全神話は崩れた。それではアメリカの核抑止力・日米安保という「安全神話」はどうなのか。
 
 原発といい、核抑止力といい、こんなものは無いのが一番安全なのでは
   
大災害・被災で表れる人間・社会の本質的な在りよう
 ①宮城県亘理町の自宅で被災した哲学者の岩田靖夫・東北大名誉教授は次のように書いている。
 「科学技術は、人間が自然の法則と力を理解し、それを人間の生活の向上に利用し役立てるとき、すなわち人間愛と結びついている限り、大きく人間の幸せに寄与する。・・・しかし、それは人間が科学技術をコントロールできている限りにおいてである。もしも、人間がそれをコントロールできなければ、どんな恐ろしい事態が起こるかわからない。」
 「自然の底知れぬ力への畏れを失ってはならない。人間が科学技術の力を過信して、自然を制御し、支配し、思うがままに利用しようとするならば、自然は、思わぬときに、思わぬ仕方で、人間の企てを木っ端微塵に打ち砕くかもしれない。」
 「人間はもっと簡素に、ほどほどに生きるということを、今後、真剣に追求しなければならない。・・・物資とエネルギーは自然からの贈与であることを忘れてはならない。飽くなき快適さ、便利さの追求は、この自然からの贈与を浪費することである。浪費は自然破壊を惹起し、自然破壊はやがては人間自身の滅亡を誘発しうるであろう。・・・経済活動とは、本来、人間が生きるために必要とする衣食住のための物資の確保であった。しかし、富の蓄積がこの本来の目的を超えて自己目的化したとき、際限のない富の蓄積が始まる。それがさらなる欲望の爆発を引き起こし、不自然な経済社会が出現する。・・・経済は、その本来の目的を想起すべきではないか。誰のため、何のための経済なのか。経済は、人間がよく生きることに仕えるべきものではないか。」   
 「人間は何を喜びにして生きるのか。それは、他者との交わりである。他者を愛すること、他者から愛されること、他者を助けること、他者から助けられること、それが人間の喜びである。」
 「津波の惨状に際会して、肉親を失った人々の悲しみと絶望・・・。生きていることの絶対的な意味、富や名誉などは言うもおろか、なにか素晴らしい仕事を成し遂げたということさえ吹き飛んで、ただ生きているということの絶対的な素晴らしさ・・・。」
 「大災害に出遭い、家も富も一切を奪われて、人間は本来なにももたない裸の存在であったことを突きつけられる。そのとき、人は人に自己をありのままに露出して、無力な自己を露出して、助け合う。誰も、他者を支配しようとしたり、利用したり、ましてや暴力を振るおうなどとはしない。極限の無一物、裸一貫が人間のありのままの姿を見せ、そこで、人と人は信頼と愛によって助け合う。」
 「すべてを失った人びとが身を寄せ合って助け合っている姿、外国からさえ人びとが助に来る姿―北方四島の帰属問題で関係が冷えていたロシア、尖閣諸島の同じ問題で険悪な関係に陥っていた中国、これら隣国が救援隊を送ってくれたニュースを重く受け止めなければならない―ここに人間の生の根源の姿がある。」
 「大災害の苦しみのなかで、人間の本来の存在の意味が問われているのではないか。・・・人と人は愛と信頼によって生きているのである。このことが、実は、富や地位や名声や快楽によって遮断され、見えなくさせられているのである。」
 「今回の大災害に際して、世界各国から多くの支援の手が差し伸べられた。これは、他者の苦しみに走り寄る、人間の本性的な惻隠の情の現れであろうが、それ以上に、人類の連帯の絆の成立のきっかけと思いたい。」
 「現在、経済、学問、政治、宗教などのすべてにわたり、地球は一つの世界として結合し、交流しつつある。それを、苦しみの撲滅、すなわち、争い、暴力、貧困、戦争の撲滅に向かって、いまこそ人類の連帯へと絆を深めていく必要がある。この大災害に際して、世界中から寄せられた同情の経験を、私たちは、これからの地球のために生かさなければならない。」「国際間の争いを暴力による威嚇によってではなく、理性的な話し合いによって解決する、そのような国際社会のあり方を具体的に構想していく―そうした構想へと向かうとき、今回の禍の経験が希望の土台となりうるのではないか。」
 「この大災害は、人間の生き方を根本から考え直す機会を人類に与えた。」
 「今回の禍が明らかにしていることは、人間が、このまま、何の反省もなしに、欲望の拡大と利己主義を続ければ、もはや地獄しかないだろう、ということである。」(世界5月号)
 
 ②7月29日付け朝日新聞「記者有論」に氏岡真弓編集委員は「被災地の子ども」について次のように書いている。
 被災後、生徒が学習に向かいだしたという―朝の読書でむさぼるように本を読むようになった。午後の授業になると机に突っ伏す『ヒラメ』の生徒が多かったというが、ほとんどいなくなった。「ノートを広げ、シャープペンを握るのがただ、うれしい」と語る子も。
 学級の空気が穏やかになり、いじめ行為が途絶えた。続いていた靴隠しが止まった。「バイキン」などと書いた紙切れを入れるいじめが消えた。
 「皆と仲良くしたい」「震災で一緒にいたくなった」「不安があるから仲良くしたい」と。
 人の役に立つ仕事をしたい子が増えた。「人のためになるようなおいしゃさんになりたい」「人を喜ばせる職業につきたい」と。
 命や友達、学ぶ喜びのかけがえのなさを、子どもたちは改めてかみしめたのだろう。
 (「阪神大震災でも見られた」。だが、その輝きは学校が「正常化」するにつれて失われていったという。「生徒同士競い合わせる学校が復活し、助け合いたい、誰かの役に立ちたいという思いを生かし切れなかった」のだ。)

 これらのような人間・社会の在りようから考えれば、いったいどっちがいいのか。人と人が愛と信頼によって助け合う、そういう「人間愛」の社会を信じて、それに依拠するか、それとも原発・核抑止力の安全神話の方を信じるか、それが今、我々に問われ、一人一人に判断を迫られているのだ、ということだろう。


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