(1)靖国参拝
小泉首相は、「靖国の参拝は憲法で保障されている。『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』というのは日本国憲法19条に規定されているじゃないか」と述べ、それは「心の問題」であり「精神の自由」なのであって「他人が干渉すべきことではない。ましてや外国政府が・・・『いけない』とかいう問題ではない」などと強弁している。
たしかに、心の中に何を思おうと何を考えようと、どんな思想・信条をもとうと自由である。しかし、内心を言葉なり行動なり、何らかの形で外部に表現すると、それに接した人々に様々な影響を及ぼす。好影響を与えることもあれば悪影響を与えることもあり、恩恵をもたらすこともあれば害悪をもたらすこともあるし、その行為を喜ぶ人もいれば心が傷つけられる人々もいるわけである。また、そのような外形的行為が客観的に(世間一般に、或は国際的常識、国内外の大方の共通認識として)意味するところが、それを行った当人の思い(本人が意図していたもの)とは必ずしも一致せず、当人は「そんなつもりでそうしたわけではない」などと釈明しても、それをやってしまった以上もはやその言い訳は通用しない、といった場合もある。
暴走運転をして人を死なせてしまい、「そんなつもりではなかった」と言っても、その言い訳は通用しない。日中戦争や太平洋戦争、日本の国家指導者が、それを指導していながら、或は日本人が、それに従軍していながら、「侵略戦争だなんてそんなつもりはなかった」と云っても、国際的には通用しない。
そして首相の靖国参拝。そこは、単なる神社ではなく、明治以来、日本が行なってきたすべての戦争の肯定の上にたって、戦死した自国の将兵を英霊として讃え祀る顕彰施設なのであり、国際軍事裁判でA級戦犯とされた戦争指導者をも合祀している。首相が、信教の自由だからといって、そのようなところへ参拝に行けば、それは、神社当局はもとより「日本遺族会」や国家主義団体などの人たちにとっては有難いこととして感謝され喜ばれるだろうが、その他の人々、とりわけ、日本による侵略と戦争で数多の命が犠牲になり惨害を被った諸外国からは、日本の首相のその参拝は、日本政府が侵略戦争を肯定し戦犯を免罪しているものと受け取られ、被害国民の感情を逆なでするものとのそしりは免れない。それに対して、首相が「そんなつもりはない。ただ、国のために戦いに臨み心ならずも命を亡くされた戦没者の方々に追悼の誠を捧げるためだ」とか、「不戦を誓うためだ」とか云っても、その通りだとは到底受け取れないわけである。自国民の心が傷つけられ、国際信義にも反していると思わざるを得ない外国政府に対して黙っていろという方がおかしい、ということになるわけである。
首相の内心はどうあれ、靖国参拝というその外形的行為が問題なのであって、単なる「心の問題」ではないのであり、また戊辰戦争のような内戦ではなく、国際戦争に関わるものであるかぎり、単なる国内問題ではなく、国際問題なのである。
もう一つ、首相の靖国参拝が問題なのは、首相の場合、その行為が、靖国神社という特定の宗教団体を公権力者が肩入れする結果になるということであり、それは憲法の政教分離規定(20条1項「いかなる宗教団体も、国から特権を受け・・・てはならない」)に抵触する。それは靖国神社(当局)は明治以来の対外戦争をすべて肯定(侵略戦争であることを否定)し、正当化しているが、首相や閣僚・何人もの国会議員の参拝はそれにお墨付きを与える結果になるという意味でも、重大な影響を及ぼす行為なのである。
(2)国旗・国歌問題
戒律で偶像崇拝を禁じているイスラム教の信者であるかぎり、神像や聖像を描いたり刻んだりすれば、不信心のそしりは免れない。また、異教徒がムハンマドを風刺画に描いて新聞掲載すれば、イスラム教徒を冒涜し侮辱するものとのそしりは免れず、それを他の新聞がして転載して「それは、イスラム教徒を侮辱するつもりではなく、表現の自由を訴えるためだ」と強弁しても、イスラム教徒にとっては到底受け容れ難い話なわけである。
聖母像を踏めば、たとえ強いられたものとはいえ、キリスト教信者であるかぎり、不信心のそしりは免れず、また、自分自身の良心の呵責・精神的苦痛にさいなまれることになる。
日章旗に向かって、ちゃんと起立して「君が代」を歌えば、忠良なる臣民、そうしない者は非国民と見なされたのが、かつての日本であった。ところが、今また、学校の卒業式・入学式で日章旗を掲げて「君が代」を斉唱するやり方が、各学校独自の慣習や創意とは別に、教育委員会からの校長への通達(指示)と校長の職務命令によっておこなわれるようになってきている。起立して歌わない教員あるいは生徒が起立して歌わないクラスの担任は公務員法(職務命令に従う義務)違反として処分される。東京都ではそれで大量処分がおこなわれ、横浜市などその他でもこの問題で訴訟がおこなわれている。教育委員側の論理は「外部的行為を命じたにすぎず、どういう気持を持っているかを変えようというものではない」として外形的行為の強制を正当化している。
国旗・国歌にたいする国民各人の思いや考えは一様ではなく、愛国心も色々であって、同胞や故国を愛する気持はあっても、天皇や国家にたいする忠誠心なんてない、というようなこともあるわけである。
「日の丸」「君が代」は、国会で、国旗・国歌とすることに多数決で決まりはしたものの、国民の中にはそれに対して、「天皇を中心とした神の国」という時代錯誤的なイメージとともに軍国主義と結びついた血塗られたイメージから抵抗感をもつ向きもあり、戦後、民主国家として生まれ変わった新生日本にはどうも相応しくないなどと違和感をもつ人も少なくないわけである。或はシンプルながらも荘重で奥が深い感じがして良い、などと気に入っている向きもあるだろうし、その由来も歌詞の意味も、ろくに教えられたことも深く考えることもなく、ただ慣れ親しんでいるだけだといった向きも少なくないだろう。とにかく、「日の丸」「君が代」に対してどのような思いや考えを抱こうと、どのような思想・信条を持とうと自由なわけである。
しかし、それにたいして特定の外形的行為(学校の卒業式・入学式の場で掲揚・起立・斉唱)を強制して従わない者を処分するというのは、公権力による、信条による差別(憲法14条「法の下の平等」違反)であり、思想・良心の自由の侵害であって、憲法違反以外のなにものでもない。そもそも「日の丸」「君が代」を国旗・国歌と定めた国旗・国歌法制定に際して、時の政府(小渕内閣)は「子どもたちの内心にまで立ち入って強制しようという趣旨のものではなく」「国旗の掲揚に関し義務づけなどを行なうことは考えておりません」つまり強制はしない、としていたのである。
教育基本法10条には「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」で「教育行政はこの自覚のもとに、教育を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」にもかかわらず、教育委員会など行政が、学校の教育活動の内容に立ち入って、学校行事である卒業式等のやり方を指示し、「国旗に向かって起立、国歌斉唱」を押し付けておいて、職員がその通りにしないのは職務命令違反であり、かつまた式を妨害する行為で「公共の福祉に反する」自由の濫用と見なす、などは自分勝手以外のなにものでもないだろう。命令にすなおに服さず、起立して歌わないのが我儘なのではなく、そのようなことを持ち出して校長に命令させる方が権力の濫用(行政当局の越権行為)なのである。「公共の福祉に反する」自由の濫用とは、あくまで、人々に対する具体的な権利侵害(その教員が起立して歌わないことによって人々が不利益を被ったという事実があれば、その具体的事実)のことであって、ただ単に抽象的な「秩序妨害」などのことではないのである。その職員が起立して歌わないからといって、他の職員・生徒その他が不利益を被り権利が損なわれることなど考えられず、むしろ強制によって、本人の信条や意に反して起立させられ歌わされる職員・生徒の精神的苦痛の方が問題なのである。
また、そのような特定の外形的行為の強制は思想統制以外の何ものでもなく、戦前・戦中の暗黒時代のように、それは人々の自然の感情、自由な心を窒息させ、国家・公共というものに対する嫌気を生じさせ、真の愛国心、真の公徳心をかえって損なう結果になる。
人はどのような思想・信条をもとうと内心は自由であり、また、どこで何を拝もうと自由であるが、首相の靖国参拝という外形的行為は、首相自身の内心の満足に止まらず、遺族会や国家主義団体その他には、それに満足・感謝して喜ぶ向きもあるだろうが、戦争で犠牲・惨害を被った幾多の人々、とりわけ中国・朝鮮半島などアジア諸国民の間では、彼らの感情を逆なでし、その心を傷つけ、国際信義を踏みはずす結果をまねいていることも事実なのであり、それが問題なのである。
国家にたいして、また国旗・国歌に対して様々な考えをもち、様々な思いを抱いている教職員・生徒に対して、「日の丸」に向かって一斉に起立し「君が代」を歌えと強制することは、人によっては心が傷つけられ精神的苦痛にさいなまれるという結果をまねいていることも事実なのであり、公権力がそのようなことを行なってよいものか、それが問題なのである。
これらのことは、いずれも心の問題ではあっても、権力担当者の特定の外形的行為もしくはその強制は公権力が国民の思想・良心の自由あるいは信教の自由を侵害し、また国内外の人々の心を傷つけ、精神的苦痛をまねく結果になるという問題なのである。
人々の思想・信条は(国家観も国旗・国歌に対する考え方も)色々であり、人それぞれ、どのような人生観・価値観をもち、どのような生き方をしようと自由なわけである。
また、どのような信仰をもち、どこへ行って何を拝もうと、或は亡くなった人に対してどのような追悼の仕方をしようと自由なわけである。
そして、お互いに違いを認め合い、排撃し合わない。そのような自由と寛容によって成り立つのが民主主義社会である。
そのような社会のまとまりと安定を維持するためには、公権力はその自由・寛容を保障すべきなのであり、それを権力が特定の思想・宗教や価値観や人生の生き方・考え方を選別し、国民に押し付けたり、権力者・権力担当者が肩入れする結果になるような発言や行動は避けなければならないのである。
さもないと、それ以外の思想・信条や宗教をもち、違う生き方・考え方をする人々の心を傷つける結果になり、ねたみ、反感、いがみ合いを生じ、紛争を招き、かえって国のまとまりを悪くし諸外国との関係も悪くする元になるからである。
民主国家における公権力の役割は、互いに比較可能な利害の調整にとどめ、比べようのない心(思想・信条や宗教)の問題に関わる外形的行為に公権力が関与することは控えるべきなのである。
首相は戦没者の追悼は「心の問題」というならば内心に止め、或はせいぜい無宗教で軍国主義とは関わりのない千鳥ケ淵の国立墓苑のようなところに参拝に行くだけに止めればよいものを、靖国参拝という特定の外形的行為にこだわるから、それを歓迎し喜ぶ人々がいる反面、戦争に怨みを持つ国内外の多くの人々の心を傷つけ非難される結果になり、民心を分断する結果にもなっているのである。
東京都などにおける各学校の卒業式・入学式などに際する教育委員会による国旗・国歌の強制は、同様な意味でとんでもない暴挙・愚策といわざるを得ないわけである。