今回の教育基本法改正は、「新たに教育目標を定めているが、子どもや若者に道徳心や公共心を養い、規範意識を植え付けるにこしたことはなく、愛国心をもつのだって当たり前のことだし、それを条文に盛り込んだからといって、別に悪いことではあるまい。教育行政の条文改変も、学校全体、それに個々の教員の指導がいいかげんにならないように、法律の定めに従ってきちんやらせるようにし、国も地方公共団体も、それぞれに役割を果たすようにさせるにこしたことはあるまい」などと簡単に考える向きが多いだろうが、はたしてそんなものだろうか。
(1)教育基本法と現実
今の教育基本法は、教育の目的は、一人ひとりの子どもの人間的な成長・発達、「人格の完成」にあり、また、どの子も「国家・社会の形成者」(すなわち主権者であり、国家・社会の主体的な担い手)として育て上げることにある、ということ。そして、すべての国民は、ひとしく、その能力(その発達段階と知的・身体的条件)に応ずる教育を受ける機会を与えられ、経済的地位などによって教育上差別されないこと(教育の機会均等)。国・地方公共団体は経済的理由によって修学が困難な者に対して奨学の方法を講じなければならない、ということ。教師たちによる「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負って行なわれるべきもの」で、文科省や教育委員会による「教育行政は、教育に必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」などのことを定めている。
その下で、我が国では、どの子にも分け隔てなく、人間らしく幸福を追求して生きていくことのできる能力(基礎学力・体力・情操・市民的道徳)を身につけることが保障されており、かつまた、国家の主権者として政治的知識・判断力を身につけ、社会の主体的な担い手としての勤労意欲と責任感を身につけた国民が育成されることになっていて、国と地方自治体は学校その他の教育施設を設置し、文部省と教育委員会は教育に必要な諸条件の整備確立(教職員の確保、予算の確保など)に責任もつが、教育内容と教育方法には、指導・助言、教材・教具の提供などサポートすることはあっても、それ以上介入せず、教師たちは自主性・自律性を発揮して教育に携わることができることになっているのである。
ところが、現実にはそうはなっていない。学校教育に対する公財政支出はまことに不十分であり(GDPに対するその割合は3,5%で、OECD各国平均5, 1%を下回っていて、29カ国中26位)、学校施設・学級定員・教員配置、教職員の労働条件、私学助成など教育条件の整備・確保は先進諸国の中では、世界第二の経済大国にしてはまったく立ち遅れている。
北欧諸国やフランスなどでは、大学も納付金をとらない無償であり、国連人権社会権規約でも中等・高等教育を漸進的に無償にすることを定めいて、日本は、規約を批准しているのに、その条項だけ未だに留保し続けていることに対して留保撤回を勧告されているほどなのである。
教育研究家の古山明男氏(著書「変えよう!日本の学校システム」平凡社)によれば、
日本では、学校教育に国と地方の公財政から約24兆円(GDPの3,8%)を出していて、私費(納付金)を約5兆円負担させている。
学校教育に対して公財政からOECD諸国並に出すとすれば、あと6兆円を要するが、5兆円(今、政府税調が打ち出している企業減税の総額に相当)だけでも、幼稚園から大学・専門学校まで、私立だろうが公立だろうが全部無償にできるはずであり、高校だけなら、あと1,1兆円出せば、私立も含めて無償にできるという。
欧米諸国では日本のような入試制度(選抜試験)はなくて、高校は希望者全員を受け入れ、大学もある程度の成績(評定10点満点中6以上とか)を修めれば基本的にはどこでも入れる(人数にどうしても無理があれば先着順か「くじ引き」。入ってから合わなければ他へ移れる。大学には全国共通の大学入学資格試験に受かっているか高校卒業資格があれば、どの大学へでも入れる)。
ところが我が国では、基本法には経済的地位などによって教育上差別されないと定められているにもかかわらず、公立の小中学校以外では学費(私費)がかかり、熾烈な受験競争をともなう入試制度の下で、家庭(親)が貧しい者は、たとえ能力は同等であっても、塾や家庭教師その他にお金をかけることができ学習環境に恵まれている相手に対しては決定的に不利であり、能力があっても入試に受からないことがあるし、受かっても、アルバイトをしないかぎり学費が払えず、学業に専念できないというハンデイを負う。
入試に落ちて、来年同じ大学(または高校)に再チャレンジといっても、そこへ受験に集まる志願者の偏差値レベルが変わらず、倍率も変わらないかぎり、頑張れば必ず受かるという保障はないわけであり、無能感・無力感にとらわれ、「いくら頑張ってみても、どうせ無理だ」といって、均等であるはずの「機会」を自ら放棄してしまい、「ニート」になる、などといったこともあるわけである。
また、授業についていけないか一番下のクラスの生徒は「落ちこぼれ」としてそのまま放っておかれるか何か別なことをやらされる、ということで「能力に応ずる教育を受ける権利」が奪われた状態に置かれる、といった実態もある。
そして、弱肉強食の競争ストレス社会の下で、大人社会に見られる病理現象的な風潮を反映して「いじめ」「不登校」・自殺・非行・少年犯罪が頻発している。
それでいて、文科省・教育委員会など教育行政による学習指導要領とそれに基づく教科書検定・採択、必修科目の押しつけ、事実上の国定道徳教科書「心のノート」の全国小中学校への配布、東京都などでの卒業式・入学式にさいする国旗・国歌の強制など教育内容・教育方法への介入が行なわれている。
教育委員会による学校評価、教員に対する校長による5段階評価(給与に影響)など管理・統制が強まっており、学校も教師たちも、その自主性・自律性は大きく損なわれている。
教員の勤務実態は、都留文科大学教授の福田誠治氏(著書「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞社)によれば、年間法定労働時間は韓国1613時間、フィンランド1600時間に対して日本1940時間(実態は2500時間)。(文科省調査では)小中学校教員は1日10時間58分、残業は勤務日2時間43分、休日3時間13分、(全教の調査では)時間外勤務5月の場合で1ヶ月全教職員平均80時間10分(80時間は過労死ラインに相当、小学校83時間26分、中学校99時間48分、高校86時間43分)。(文科省によれば)病気による休職者はこの10年で倍加(2005年度7,017名)。うつ病など精神疾患による長期休職者(05年度4,178名)は、今年は過去最高に達しているという。(文科省によれば、理由は「上司・同僚との人間関係や、保護者との対応など職場を取り巻く環境が厳しくなっている」からではないか、とのこと)
(2)私が勤めた学校
私が勤めた学校は私立高校だったので、建学の精神(知識に偏らず、心情を重んずるなど)を念頭に、教育基本法に立脚しながら比較的自由にやれた。
在職中(1976年)、卒業期に出される生徒会誌に3学年主任からの「贈る言葉」として、次のように書いたものだ。
(抜粋)「12年間にわたった普通教育はここにこうして修了することとなったわけである。そこで実はこの間、先生方は何のつもりで諸君たちに教育をし、諸君達はそれを受けてきたのか、この際確認してみたいと思う。
第一に、各人とも、心身の調和的発達をとげ、自分に備わるあらゆる能力を調和的に可能なかぎり発展させて、豊な人間性を身につける。また自分の良さ、持ち味を生かすとともに、知識の偏重を避け、たくましい実践力を身につける。
第二に、各人とも、民主的で平和的な国家及び社会の形成者として①真理を重んじ、真理探究の科学的態度を身につける。②正義を愛し、善悪に潔癖な人間となる。③個人の尊厳を重んじ、人間一人ひとりを大切にする国民となる。④勤労を尊ぶ国民となる。⑤自分の責任を重んじ、相互信頼と協力奉仕の実践力を身につける。⑥自主的態度を養い、自発的精神に充ちた国民となる。⑦着実に目的に向かってたゆまぬ努力を続ける不屈の精神を身につける。⑧心身ともに健康な国民となる。(以上、教育基本法に掲げる教育目的と本校の教育目標・教育方針)
ひとえに、これらのために小中学校そして高校である本校で諸君たちは教育をうけ学校生活を続けてきたわけなのである。」
私自身はこのように教育基本法を念頭にしながらやっていた。
学校では、カリキュラムは、必修科目・選択科目、単位時数など、文部省の学習指導要領に準拠して編成され、教科書も文部省検定教科書を生徒に買わせたが、私自身は自主教材(プリントや副読本など)で、マイペースでやり、定期テストもオリジナルな問題で行なった。(ただし、受験コースのクラスをもった時は、問題集から取ったり、類似問題を出したりした。受験生にとっては、大学に合格することが最大の関心事で、それに合わせるほかなかった。)
日々、生徒の反応(「つまらない」「わけがわからない」などの顔つき・口説き・苦情)を気にして、必死になって教材研究・工夫・改善に頭をひねり、神経を使った。
公立学校と異なり、勤務評定などなかったし、必要以上に(生徒の目以上に)管理職の目を気にすることなどなかった。教科書の採択は教科会で(同じ教科を担当する同僚たちと)相談して決めることが出来た。
職員会議、運営委員会(校長・教頭、教務・生徒指導・総務・保健・環境整備各主任、学年主任で構成)はともに毎月定例一回のほか必要に応じて開催、学年会・教科会は週に一回、学年・コースの教科担当社会は各学期末に一回開かれていた。その他、校内研究授業、外部講師を招いての校内職員研修会、外部研修会・PTA、父兄参観授業など。
これらによって、学校独自に、管理職・教職員・生徒間で意思疎通を図りながら、自主的・自律的な教育活動を行なうことができたと思っている。
経営・管理職と教職員、同僚間、教師と生徒・保護者との間では、私自身、批判されたり、非難を受けたり、ぶつかったり、やりあうこともあったが、それは自由に物が言える状況にあったということであり、言われて落ち込むこともあったが、やっきとなって工夫・研究し、改善に取り組んだものだ。
定年退職して、卒業生からは、クラス会や同窓会で、「先生は、オレだちさ、一体何を教えでけったなや」「さっぱりわけがわからなかった」などと嫌みをいわれることもあるが。
私の高校時代は、公立高校だったが、そこで英・数・国・理科・社会など授業で何を習ったものか、ほとんど覚えていない。参考書の暗記など受験勉強のおかげで大学には入れたが、高校で習ったことは、きれいさっぱりと忘れた。高校の社会科教師になって、世界史も日本史も、(地理は高校時代まったく習わなかったし)いずれも自分で一から覚え直して教えた。教員になって初期の頃は、生徒にとっては、まさに「わけのわからない授業」だったには違いないが、何回も教えているうちに、それらの科目の内容はいやおうなしに覚えた。しかし、それ以外には、私が高校時代に習った科目は、ほとんど何も覚えてはいない。(世界史は東大出の先生から習ったが、ルネサンスなど中抜きで、ロシア革命あたりで終わってしまい、第二次大戦から後は習わない) いずれにしても、私の高校時代に習ったことのほとんどは、実生活には何の役にもたっておらず、先生の訓話はあっても心に残っている言葉や教訓はこれといってない。あるのは、たわいもないエピソードだけだ。だいたい、講義を聴く以外には先生との対話など、ほとんど無かったし、卒業後のクラス会も全く無い。
私の教え子も、「先生から、いったい何を習ったんだか、さっぱりわからねえ」という。
しかし、そう云いながら、私に酒をついでくれるのである。在学中も今も、対話があるのだ、ということ。
それに、定年退職して間もなく、私の「半生と論考」をまとめて一冊の本にし、理事長・校長・全職員に配り、卒業生には、印刷した冊数に限りがあって、人数は限られたが、彼らにも配ったものだ。
学校で習ったことは何も覚えていないとか、学校の勉強など何も役立っていないとはいっても、そもそも学問とは、実用的なものもあるが、必ずしも実生活に役立つためだけではなく、学問すること自体(真理探究)が目的だという「学問のための学問」もある。その場合は、その時、その場での精神的欲求の満足に終わって、後々何かに役立つというものでは必ずしもないわけである。
それに、学校で身につける学力には、知識・技能だけではなく、思考力・独創力・批判力・コミュニケーション能力などもあるし、知力・体力だけでなく、情緒力(心情)といったものもあるわけである。
それらの学習内容は、すべて、自分自身が人生をよりよく生きていく上で、必要とされるものであって、それらは、社会に役立つことはあっても、国家に役立つためのものではなく、国家や権力の都合でコントロールされ、統制されるべきものではないのである。
私の勤めた学校では、公権力から自由であり、官僚的硬直性を廃するという教育基本法の精神に則り、独自の建学の精神に則って、生徒会が掲げる「明るく、楽しい学園」をモット−として、教職員・生徒は今も日々励んでいるものと思う。
(3)公立学校は今
しかし、公立学校は今、どうなっているか。現役の中学校の先生から話を聞く機会があって、そこから次のようなことがわかった。
教員の勤務評定は以前からあったが、それが今や、給与の加減をともなう5段階評価がおこなわれるようになってきている。
担当しているクラスや部活の生徒に問題が起きても、それが教員評価の失点にされてしまうと思えば、報告することも、相談することも手控えるようになり、生徒の中に入って対話して問題を察知することも、サインを感じとることも無意識のうちに避けるといったことにもなる。
いわゆる「指導力不足教員」に格別の研修を課して排除するとか、法に触れるような不祥事以外にも、管理職に対して文句を言うと減給処分にされるとか、職場で「政治的」文書(例えば「教育基本法改悪反対」などのチラシ)を同僚に配布したりすると戒告処分を受けるなど、管理統制が強まっており、教職員は萎縮して、自由に物が言えない雰囲気になってきている。
教員組合の加入率は20%を割っており、その組合員でさえ、「教育基本法改悪反対」などの署名を頼むと、名前がどこかに知れるとまずいからと言って、ためらう者もいるとのこと。
同僚間の親睦会もめっきりすくなくなっているという。
個人責任が強調され、教師集団がバラバラになって、個々の教師が孤立化している、ということだ。
校長など管理職は管理職で教育委員会から評価され、学校に問題が起きても相談しにくく、報告もしにくい。
校長は教委から、教職員は校長からたえず文書報告を求められ、教員はその作成と生徒の成績付け(「関心・意欲・態度」の評価まで、生徒一人につき一科目で12項目にわたって評価をつける「成績表補助簿」を毎日のように)、部活指導その他雑務に追われ、休日勤務や夜遅くまでの超過勤務に追われ、忙しくて生徒とじっくり向き合う時間がとれない、という状況になってきている。
このような学校と教職員の状況、それに競争ストレスの満ち溢れる殺伐たる社会の風潮(大人社会、教師たちもその中にあって過ちを犯す者や精神を病む者も)と競争・管理教育の下で、「いじめ」「不登校」自殺・非行・少年犯罪が頻発しているのである。
「いじめ」は、学校や教室では互いにニコニコ何気ないふうを装いながら、インターネットや携帯などで、人の見えないところで行なわれる(「ウザイ」「死ね」などの言葉をあびせ、噂を立て、他の多くの者に「誰それをシカトしよう」などと発信する。教師は気付きようがない)。加害者が今度は被害者に転ずる、といったことも多々あるという。これらは、かつては全く見られなかった現象である。
このように学校と教員に対する管理・統制が強まり、競争・成果主義の導入により、教育現場にはかつてなく、矛盾が噴き出ているということなのである。
(4)「改正」で教育権が国民から国家へ
教育基本法「改正」は、これまでなし崩し的に既に行なわれてきている教育に対する政治や行政権力による介入・統制と競争・成果主義の導入をさらに公然と推し進めようとするものである。すなわち、国家によって教育目標・徳目が定められて、文科省によって作られた学習指導要領の法的拘束力が強化され、一斉学力テストの実施や国旗掲揚・国歌斉唱の強制など教育内容のいたるところに国や行政の介入が及び、愛国心の押しつけとともに、競争・選別教育が公然と展開されるようになる。その結果、先生も生徒もストレスがつのり、「いじめ」・不登校など、無くなるどころか、かえってひどくなるだろう。
卒業式で「君が代」を起立して歌わなかった教職員の大量処分を行なった東京都教育委員会に対して、今年9月、東京地裁は、処分は違法という判決を下したが、これからは、それが「法律にのっとって行なう教育行政は不当な支配には当たらない」(安倍首相)として合法化され、起立して歌わない教師も生徒もチェックされ、歌わない教師が処分されるのは当たり前だということにされ、歌わない生徒がいじめられるという新たないじめ(いわば「非国民いじめ」)が始まることだろう。
基本法に新たに掲げられた「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国」を「愛する態度を養う」などの教育目標にそくして、文科省による学習指導要領の改訂、それに基づく教科書検定が行なわれることになり、どの出版社の教科書もその検定に不合格にならないような内容・記述になるだろう。「新しい歴史教科書をつくる会」編の教科書の昨年の採択率は(歴史が0,4%、公民が0,2%で)極わずかだったが、今度からは、この教科書のほうが「まとも」だとして一挙に採択率が増え、他社出版の教科書も、この「つくる会」教科書になびいたものとなるだろう。
我が国の教育は、戦中・戦前の我が国あるいは現在の北朝鮮のような愛国教育にどれだけ近づいていくかである。だからとって、まさか、あんな時代、あんな国の教育のようになったりすることは、いくらなんでもあり得まい。そこまでいかないかぎり大丈夫だ、心配することなんかない、といって、国民の多くはその改変を容認するのだろうか。たかをくくっていると、世論誘導もあるし、しだいしだいにそっちの方へもっていかれることになるだろう。現行基本法の10条改変で、もはや、その歯止めが取り払われてしまったのだ。
とにかく、「国民個々人のための教育」から「国家のための教育」—国家主義教育—へ転換、これが「改正」の意味する一番大きなポイントなのだ。
憲法は国民が国家などの権力に制約を加えて各人の人権を保障するために制定されており、教育基本法は人権の一つである国民の教育権・学習権を保障するために定められている。
ところが、基本法改正案は、現行法(10条)の「教育は不当な支配に服することなく」の語句の後の「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきもの」をカットして、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」というふうに変えている。ということは、教師は、生徒を一番だいじに思い、ひたすら生徒のことを気にすればよかった、それが、政府や国会や文科省などが決めた法律のほうを気にし、法令に基づいて権限を行使する文科省や教育委員会・校長の方を気にして、生徒の方は二の次ということになってしまう。例えば、それをそこで歌わせるのは、本当に生徒のためだと思って歌わせるのではなく、教育委員会や校長から「歌わせよ(さもないと処分するぞ)」と云われるから歌わせる、といったように。
「この法律」には教育目標として「道徳心を培う」こと等とともに、「国を愛する態度を養う」ことが定められ、学習指導要領に既に盛り込まれている「君が代」等の指導が学校に義務付けられ、卒業式・入学式での強制が合法化されることになる。
今、指導要領に定められている必修科目の履修漏れ問題で、学校現場では、受験生と教師たちは指導要領に振りまわされ、てんやわんやの大騒ぎになっている。
千葉大行政学の新藤宗幸教授(11,20付け朝日新聞「私の視点」)によれば、そもそも学習指導要領は「学校教育法に関する官僚の解釈を文科省告示として公示したにすぎない。」それを「あたかも法律であるかのような前提で『違法行為』を報ずるのはおかしい」(県立伝習館事件での最高裁判決では指導要領に「法規としての性格」を認めてはいるが、全面的に法規としたのではない)としている。ましてや、独自性・自主性を旨とする私学がそれに縛られることはないはずなのである。東京私立中学高校協会長の近藤彰郎氏(12月3日付け朝日新聞)によれば、学校教育法14条(学校の授業や設備などで法令違反があった場合、都道府県教育委員会もしくは知事が変更を命じることができる)は、(私立学校法5条で)私立については適用除外となっているという。
しかし、基本法「改正」で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」となれば、どの学校も文科省が作った指導要領(伊吹文科大臣はそれを「法律の一部」だと言っている)の定めるところにより行なわれるべきもので「履修漏れ」は完全に「違法行為」と見なされてしまうことになる。
また、この法律(「改正」教基法)で、国は「全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため教育に関する施策を・・・策定し、実施しなければならない」として、全校一斉の学力テスト等を計画し、地方公共団体も「地域における教育の振興を図るため・・・施策を策定し、実施しなければならない」として地域内の学校の一斉学力テストと(その学校別順位を公表して)学校選択制などをやるようになると、競争教育は(国連の「子どもの権利委員会」が、日本では「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」などとして、これまで二度も、改善を勧告しているのに)今まで以上に行なわれ、そのプレッシャーとストレスから陰湿な「いじめ」等をさらに招いてしまう結果になろう。
現行法における「不当な支配に服することなく」とは、「現場の教師は政治権力者や教育行政機関の支配に服することなく」と考えられてきた。制定当時の文部大臣田中耕太郎は「教育は政治的干渉より守られなければならぬとともに、官僚的支配に対しても保護せられなければならない」「教育は一方不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきではない」と述べている。これを紹介している古山明男氏(前掲書)によれば「一方不当な」として「支配」が限定されるのは、行政的な支配にも、学校に教育の機会均等を守らせることとか、生徒の人権保護とか、そういうものに関しては、正当なものがあるからである。田中は「国民全体に直接に責任を負って」とは「教育者は官庁組織を通じて国民に間接に責任を負うのではなく、民間たる宗教家・学者・芸術家・医師・弁護士のごとく、個人的良心的に行動するもののことであり、したがってこれ等の者のごとく、国民全体に責任を負うのである」としている。この条項の2項では「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」つまり、教育行政は裏方に徹すべしということであろう。ところが改正案は、この2項とともに、「国民全体に直接に責任を負って」をカットして、「この法律及び他の法律の定めるところにより」という語句と入れ替えたわけである。
1976 年の旭川学力テスト事件の判決では、国には「広く適切な教育行政を樹立・実施すべく、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容について決定する権能がある」とする一方、「国政上の意思決定は、様々な政治的要因によって左右される」ことも考慮し、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される」として、教育行政機関の行為でも国民の信託に反する場合は「不当な支配」となり得るとした。
これに対して、政府側は、議会制民主主義の下では、政府は国会から委託され、国会は国民から委託されている、故に政府の意思は国民の意思である、という論理で、政府の行為は「不当な支配」にはあたらないと強弁するわけである。
そして改正案では、「不当な支配に服することなく」とは、むしろ野党や革新団体・教員組合などの抵抗勢力の「支配に服することなく」ということにされ、教師たちはまったく逆の立場に置かれることになる。
このように、改正案には「道徳心を培う」とか「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」とか「我が国と郷土を愛する態度を養う」などの教育目標が新たに定められ、それに則して国の教育統制・管理が強化され、教師・生徒・親たちは、それに服さなければならないようになる。そこに最も重要な「改正」の意図があるのである。
(5)多数決・法律万能主義
人の心(思想・価値観・良心・心情、教育でどんな心を養いたいか等)は法律で縛ることも、多数決で縛ることも間違いである。基本的人権に反する思想統制・宗教統制、それに教育統制は禁じられる、それが近代民主主義の基本原則であり、日本国憲法も、今までの教育基本法もこの原則に基づいて定められてきた。
ところが、改正案で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」という場合、政府側の理屈では、法律とは国会や政府・文科大臣が作って決めるものであり、これらの機関は、いずれも国会議員選挙を通じて国民からそれを委託されているのであって、そこで作って決めた法律は国民の意思に基づいて定められたも同然であり、教育が法律に基づいて行なわれるかぎり、その教育は国民教育(民主教育)とは矛盾しない、というわけである。
しかし、法律とそれに基づく措置は、たとえ形式・手続き上は適法であっても、国民の基本的人権を侵害することはできないのであって、法律万能主義を教育に持ち込むことは許されてはいない。
教育を受ける権利、内心の自由、学問の自由などは現行憲法で保障されている基本的人権であるが、現行の教育基本法は、そもそも国民一人ひとりに教育を受ける権利(国民の教育権・学習権)を保障し、それが侵害されないようにするために制定されたものである。教育基本法は、そういう教育上の権利保障を必要としている国民の都合によって定められたものであって、(国民意識の統合のためとか、国家に役立つ人材育成のためとか、国益のためとか)国家の都合によって定められたものではないのである。
郵政民営化問題とか、年金・税金の問題とか、道路・交通問題・市町村合併問題、安全保障問題など国民の利害や安全に関わる問題の場合は、多数決できめられるとしても、教育で「・・・の心を持つべし」とか「・・・を愛すべし」とか「・・・を敬うべし」「・・・を(心を込めて)歌うべし」などと、心に関することや、「これは正しいか誤りか」など学問的真理に関すること、「これは美しいか、醜いか」など美的価値に関することを多数決で決めたりすることはできないし(「愛するか、愛さないか」「好きか、嫌いか」を多数決で決めるとか、「正しいか、間違っているか」を多数決で決める、などということはあり得ないわけであって)、それを法律に定めて全員に押しつけることなどできはしないわけである。
生徒や子どもが権利として受けられる教育とは、教室あるいは校外や家庭で、教師・親・大人から、或は生徒・子ども同士で、信頼関係と触れ合い(交流)のなかで、知識・学問・技術・技能・健康・善悪・美醜・愛憎などを学び身に修めるべきものであって、それらを政治権力や行政権力によって強制され押しつけられるべきものではないのである。
現行の教育基本法は、国・地方公共団体には学校・教育施設の設置、教育行政機関には教員の配置や予算など教育諸条件の整備確立に責任を負わせ、専門的・技術的な指導・助言、教材・教具の見本やメソッドの提供などのサポート以外には、これらの機関に教育内容への介入を認めてはていない。
ところが、改正案は教育目標や徳目を(「道徳心を培う」とか、「公共の精神に基づき、社会の発展に寄与する態度を養う」とか「我が国を愛する態度を養う」とか)多数決で法律に定めて、多数意思に基づく法律(指導要領その他)に定めた内容を教え、行事を計画・実施することができるということにしたのである。
(6)多数決偽装民主主義
多数決で法律に定めれば何でもできる多数決・法律万能主義。これが、今の政府与党のやり方である。
多数決は民主主義の決定方式ではあるが、それがまともに行なわれるには次のような諸条件が必要とする。
①まずは、表決に付そうとするその議題は、そもそも多数決になじむ問題なのか、その吟味が必要なこと。教育的価値・学問的価値・倫理的価値・美的価値・宗教的価値など価値に関することは多数決にはなじまない。
②メディアの取り上げ方が公正であること。いま、教育基本法「改正」に対して反対や抗議の集会・デモ・国会前座り込みなど、首都や地方の各地・各方面で連日行なわれているのに、ほとんど取り上げられることがない。
③ 世論誘導・世論偽装がないこと。タウン・ミーティングにおける「やらせ質問」「サクラ動員」「反対者の事前排除」などが明らかになっている。それは国民を欺き、子どもたちに対して全く非教育的な恥ずべき欺瞞行為であるにもかかわらず、安倍首相はその非を認めながら、自らの給与3ヵ月分100万円返上だけで済ませた。
④ ありのままの世論を尊重すること。教育基本法改正案は、世論調査では今国会の会期内成立にこだわるべきでないとの声が大多数をなしており、全国の公立小中学校の校長の66%が反対という調査結果もあった(今年7〜8月行なわれた東大の研究センター調査)。朝日新聞の調査(11月25日の段階でのインターネットによる調査結果)では、「政府案のように教育基本法を変えると教育はよくなると思いますか」の質問に対して、「よくなる」は4%、「悪くなる」が28%、「変わらない」が46%、「わからない」が22%である。
⑤少数党の発言時間を充分とり、発言を聞き流すだけでなく、その意見に充分耳を傾け、審議の時間数だけでなく、実のある議論を充分尽くすこと。
ところが、教育基本法改正案は衆議院では、巨大与党(昨年「郵政民営化に反対か、賛成か」で行なわれた解散・総選挙で、小選挙区制の効果で過大議席を獲得した与党)が議席の数にものを云わせて、野党の審議継続要求を拒否して(しかも、委員会審議の場に有識者を招いて公聴会を開き、意見を言わせておきながら —賛成・反対両意見があり、賛成意見の中でも、もっと吟味・検討が必要だとする意見が強かったにもかかわらず—その終了直後に)単独採決し、参院でも野党の反対と審議継続要求を押し切って可決した。
かくて、59年前、憲法の制定と相まって制定された教育基本法は、歴代自民党政権下で充分開花(徹底)しないまま空洞化されて、ついに廃止され、戦前の帝国憲法と教育勅語の時代に回帰するかのような反動的な教育基本法に変えられてしまうことになったのである。
かつて東条内閣の商工大臣で戦後日米安保条約改定案を強行採決した当時の首相岸信介の孫、安倍晋三首相によってである。彼によって、教育基本法改正案可決と同日に、防衛庁は省に、自衛隊の海外活動を本来任務に格上げするという昇格法案も可決された。この次の通常国会では国民投票法案(改憲手続き法案)を成立させ、任期中に改憲にこぎつけると言っている。彼は戦後最大の反動的「偉業」を成し遂げた首相として歴史に名を残すことになる。そして、その後に我が子・孫たちの身に訪れるものは、「暗い未来」「不幸な時代」・・・。ああ、なんということだ。
しかし、絶望するのは未だ早い。外堀・内堀は埋められても、本丸の憲法だけは残っている。目の黒いうちに、改憲だけは何としても阻止して憲法を守り抜き、その「世界遺産」を我が子・孫たちに引き継がせようではないか。