米沢 長南の声なき声


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9条を無きものにしてはならい堅持・護憲の意義
2024年04月25日

 ①日本に再び軍国主義・覇権主義が復活することのないようにし、二度と戦争できないようにさせるも、ソ連など共産主義勢力から日本とアメリカを守るために日米安保条約で米軍が基地に駐留し、自衛権に基づいて再武装して自衛隊は保持しても、それが米軍と同盟(従属)して両国を守るなら、平和安全でいられる。9条はそのための条項だというもの。
それは米ソ冷戦下でソ連・共産主義勢力の脅威に対して、より強大な軍事的抑止力を保持することによって自国・自陣営だけも平和・安全でいられればそれでよい、というもの。
 ②戦争(殺し合いと破壊の惨害をもたらすもの)は二度と御免。侵略はもとより、防戦・抗戦(防衛・自衛戦争)もしたくないし、殺し合うだけでなく、武器を構えていがみあうのも御免(軍事的抑止力平和―そんなの真の平和にあらず)。武器も兵器も軍備も軍事同盟も保持しない。それが9条。そして自国・自陣営だけでなく、世界中全ての国が平和安全でなければ平和たり得ない、という考え方。

 後者の立場に立てば、次のような考え方になるのでは。
 9条については2項の戦力不保持・交戦権否認は、削除は無論のこと、空洞化(骨抜き)させるようなことのないように堅持し、自衛隊も日米同盟もその限度を超えて他国の脅威とならないようにする。それだけでなく、この2項は将来展望として完全実施(軍備全廃)に努め、それも日本一国だけにとどめず、国連憲章および各国憲法に同様な(戦力不保持・交戦権否認)条項を定めるよう促して、核兵器だけでなく軍備全廃、「核なき世界」だけでなく「戦争なき世界」の実現を目指さなければならない。このように日本の憲法9条はグローバル化を展望しつつ守りぬかなければならない。その意味でも、日本国民自身の中から9条を無きものにしてしまってはならないのだ(日本国民の世界史的な使命として)。
 今の国連憲章は「国際紛争を解決する手段としての戦争と武力による威嚇又は武力の行使」は「慎まなければならない」などとして、日本国憲法の9条1項に相当する条項は定めているが、各国の個別的・集団的自衛権を認めて軍備の保持、兵器の製造・輸出入を容認しているため、スタリカ等27の小国を除いてほとんどの国が軍隊を持ち戦力を保持している。そしてその軍備は決して他国への侵攻・占領・威嚇のためのものではなく、あくまで自衛・専守防衛あるいは抑止力のための正当なものだとして自国憲法に定めている。そして「自存・自衛のため」とか、「侵略予防のため」、「正義のため」などと称して戦争をしてきたし、今はロシアがウクライナに対して「かつての同じ連邦国家ソ連から独立して自国と敵対する米欧同盟NATOに加盟しようとしている隣国ウクライナに対して、そこに住む同胞ロシア人居住区の自治権を侵害・迫害から守るため特別軍事作戦」と称して侵攻を行っており、イスラエルはガザのパレスチナ人に対して「占領した領土を先住パレスチナ人に支持された反イスラエル強硬派ハマスなどの武装抵抗・テロ攻撃から守るための自衛権の行使」と称して地上侵攻を行っているように現に戦争を行っている。或いは中国のように「かつて同一国民・同胞が住む同一国家の領土であった台湾の分離独立の動き」や北朝鮮のように「かつて朝鮮半島の同一民族・同一国家でありながら日本から併合され、その植民地支配から連合国軍によって解放されはしたものの米ソによって南北分割占領され、占領解除に伴って北に朝鮮民主主義人民共和国、南に韓国が分離独立し、米ソ冷戦に伴い統一を巡って南北両軍が激突、米軍が韓国を支援・参戦、ソ連が北朝鮮を支援、中国が北側に付いて参戦、すなわち朝鮮戦争は1950年から3年間にわたった、そのあげく休戦して現在に至るも戦争再開の可能性はらむ」。いずれもアメリなど他国が軍事支援、或いは参戦して戦争になるかもしれず、その際アメリカの同盟国・日本の自衛隊が集団的自衛権の名目で支援・参戦の可能性。その戦争に備えて日本は目下「防衛」体制を整え強化している。世界がこのような状況ではいつまで経っても戦争は無くならない。
 そもそも国家間・民族間には領土・資源・権益・覇権・宗教などをめぐって何らかの対立・紛争・もめ事が大なり小なりどこかにあって、一切無くなるということはないだろう。しかし、戦争手段―武器・兵器・軍備―を保持することを憲法で禁じ、或いは国連憲章で禁じてその軍備全廃が実行されれば戦争しようにも戦争はできなくなり、しなくなる。
 だからこそ日本の憲法9条2項「戦力の不保持」に相当する軍備の全廃条項が国連憲章にも各国憲法にも必要なのだ。さもないと(国家間・民族間には何らかの対立・紛争・もめ事はあっても武器・軍備さえなければ戦争できないものを、それを保持し続けているかぎり)戦争は、いつまでも根絶できないのだから。
 日本は世界に先駆けて憲法(9条2項)に「戦力」即ち武器・兵器・軍隊など戦争手段を保持しないことを定め、自ら戦争できないようにして、「戦争のない世界」の実現へ率先垂範ともいうべき役割を自らに課そうとした、否そうすべきだったはず。
 ところが武器・兵器を装備した自衛隊を、9条で禁じている「戦力」ではなく必要最小限の「自衛力」と称しながら増強し、今では世界有数の軍事大国となっている。それにアメリカを同盟国として駐留軍に基地を提供、近年は集団的自衛権の行使まで限定的ながら容認し、アメリカを支援して他国の戦争にまで参戦できるようになってしまっている。9条のこのような拡大解釈から、さらに明文改憲にまで踏み込んで衆参両院の憲法審査会では9条2項に「自衛隊」を明記するなどの条文案の検討に入っている。このような9条2項の空文化(骨抜き)、改憲は断じて許してはならない。この憲法制定以前「自存自衛」の名の下に日本軍がアジア太平洋の各国・各地域に侵攻し、連合国軍との大戦で国内外に世界史上未曽有の死者と惨害をもたらした。その痛苦の反省から憲法に「戦争放棄」、「戦力不保持」(軍備全廃)まで定めて、憲法前文には「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」として、「再び戦争の惨禍が起ることのないように」「国家の名誉にかけ全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成すること」を誓った。なのに、その誓いに背いて恥じることなく戦争の悲惨にも無反省な金権腐敗の自民党を始めとする反共・改憲勢力。それ対して立憲・護憲派野党と市民連合が、選挙戦で遅れをとって敗北を喫するようなことが断じてあってはなるまい。


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