米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


東電原発事故強制起訴・地裁判決(加筆版)
2019年09月24日

東電旧経営陣3人の業務上過失致死傷罪・訴訟
争点①巨大津波を具体的に予見できたか(予見可能性―危険な事態や被害が発生する可能性があることを事前に認識できたかどうか)。
   ②原発事故は防げたか。対策を講じて原発事故を避ける義務があったか(結果回避義務―予見できた損害を回避すべき義務・注意義務―それを怠ったかどうかで過失責任が問われる)。
検察官役(指定弁護士)の主張
 ①について―国の地震予測「長期評価」には科学的根拠がある。これをもとに東電が事故前に出した「最大15.7m」の津波予測は、巨大津波を予見させる具体的な情報だったのに、先送りした。
 ②について―防潮堤の増築や防水対策などをしていれば避けられた。措置を講じるまでは運転を停止すべきで、遅くとも震災前の3月6日までに運転を止めていれば事故は確実に防げた。なのに「長期評価」に基づいた津波対策を怠り、運転停止もしなかった。
 3人は「最高経営層にもかかわらず、何ら対策を講じなかった責任は極めて重い」として禁錮5年を求刑。
弁護側の主張
 ① 長期評価に信頼性はなく、15.7mの津波予測は試算にすぎない。専門家の土木学会に試算の評価を委ねたのは合理的判断で、先送りではない。巨大津波は予見できなかった。
 ② 15.7mの津波予測は敷地の南側からの襲来を想定していたが、実際は東側全面からで、試算に沿って対策を講じても防げなかった。原発停止は相当な根拠がないと無理だ。
証言―東電社員(被告人の部下・担当者)や専門家、計21人。
   そのうち元原子力規制委員長代理で当時政府の地震本部の長期評価部会長を務め、長期評価の策定に関わった地震学者の島崎東大名誉教授の証言―「(長期評価の根拠となった)東北地方の過去3回(1896年の「明治三陸地震」、1677年の「廷宝房総沖地震」、1611年の「慶長三陸地震」)の大きな津波が非常に重い」と云い、部会に出席した専門家も一致していたと指摘。長期評価で予測した津波地震の確率は「十分注意すべき大きさだ」と述べ、それに基づいた対策を取っていれば「福島原発事故は起きなかったと思う」と。
判決
 ① 15.7mの津波予測のもとになった国の「長期評価」は具体的な根拠を示しておらず、信頼性があったとは認められない。(巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴っているとの認識は被告ら3人にはなかった。)
 ② 事故を避けるには運転停止しかなかったが、停止を義務づけるほどの予見可能性はなかった。(事故当時の知見では、3人に高さ10mを上回る津波を予見し、安全対策が終わるまで原発を止める義務があったとはいえない。)当時の法規制や国の指針は、絶対的安全性の確保までは前提としていなかった。
  よって3人に刑事責任は問えない(無罪)。
 
 被告側・東電旧経営陣の主張に沿った判決で、訴訟を起こした被害者側にとっては「門前払い判決」。
 「釈然としない無罪判断」「腑に落ちない判決」(朝日・社説)
  検察官役の指定弁護士は「国の原子力行政を忖度した判決」と批判。
  柳田邦男氏(ノンフィクション作家・元政府事故調)は「問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら、責任の所在があいまいにされてしまう原発事業の不可解な巨大さ」「これが一般的な凶悪事件なら、被害者の心情に寄り添った論述が記されるのが通例」(なのに反対側の心情に寄り添っている―引用者)と。
 「無罪でも消えない責任」(朝日の佐々木英輔編集委員)
 「個人の責任 特定にハードル」―賠償責任が争われる民事訴訟と個人の刑事責任を問う刑事訴訟では、求められる立証のレベルが異なる(誰が見ても反論の余地がないという高いレベルの立証が求められる―水野智幸・法政大法科大学院教授)。

 しかし、だからといって責任(業務上過失の罪)を問えない(追及できない)ということはあり得まい。それがなければ、どんなに無謀な事業運営をしても免罪され野放しとなってしまうからだ。とりわけ電気事業は広範な人々が利用に供し影響を被る社会インフラであると同時に「潜在的に極めて大量の毒性物質を抱える」危険施設を扱う公益事業なのだ。それ故、それを担う事業者たち、その最高幹部には、それ相応の重大な責任が課せられている。(原子力規制委員会設置法には「天災だけでなく人災に対して、事故発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をしなければならない」とある。)彼ら最高幹部は、その責任を負わなければならないし、そのポストを引き受けている以上、組織に業務上過失があれば、その罪をかぶらなければならないわけである。巨大組織で、多くの部署に責任が分散していて、幹部の責任を問うのが難しいからといって、責任逃れが許されるわけでもあるまい。

 ところで、人には「大丈夫、心配ない、うまくいくから」といって「いい方、いい方」に楽観的・肯定的に考えるプラス思考と、「危ないな、心配だ、うまくいかないかも」といって「悪い方、悪い方」に悲観的・否定的に考えるマイナス思考(ネガティブ思考)とがあるが、とかく「悪いこと」「最悪の事態」など想像したくないとして、マイナス思考を嫌がってネガティブ思考を停止し、プラス思考(楽観主義)の方に傾き、そこに安住してしまいがち・・・・「安全神話」に安住。
 しかし、プラス思考のデメリットは鈍感・能天気で、リスクや問題を見落しがちとなり、気づくべきことに気づけなくなってミスを犯してしまいがちとなる。その点、マイナス思考の方が、リスクや問題を事前に察知して対処できる「危機管理能力」に優れ、「最悪の事態が起こったらどうなるか」ということにこだわって慎重になるのでミスを犯さない。

 そこで、そもそも電気事業者の責任は、電力消費者に安全かつ安定的に電力を供給することにあるが、最高幹部たる者が、その任にある限り、常に念頭に置かなければならないことは、その事業施設の一つである原発は巨大な危険施設で、それには人々に深刻な惨害をもたらしかねない事故発生が付きまとっているということ。天災(地震・津波など)・人災(テロ攻撃・戦争など)に伴うその事故発生は、確率は極めて低いとしても、あり得ることなのだという前提に立って、常に最悪の事態まで想定してかかって、万一そのような事態に立ち至ったらどう対処するか考えておかなければならないし、そういう事態に立ち至っても大丈夫なように対策を講じておかなければならない。原発事故というものは、確率・頻度は小さくても、万一起きたら広範囲に及ぶ深刻な被害、計り知れない惨害が生じる恐れがあり、原発事業者・最高幹部はそのことを考えて、万一の場合に備えて対策(未然に事故を防ぐ対策)を講じておかなければならないものだからである。
 その事業者・最高幹部が、もしもその事故発生の想定・対策を怠っていて、その結果事故が起きてしまい、人々が深刻な被害・惨害を被ったとしたら、その(結果回避義務違反の)責任を負い、罪(死傷者が出れば業務上過失死傷罪)を負わなければならない。

 最高幹部たるものは、東電社内・他の原子力業者・専門家・行政機関から意見や異論が寄せられたり要請を受け措置を求められたり、またそれら社内外のいずれかに検討を委ね意見を求めたりすることはあっても、最終的判断を下して責任を一身に負うのは自身なのであって、それら社内外から「巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴った知見が示されなかったから」とか「直ちに安全対策を講じるべきであり、その工事が完了するまでは原発を停止すべきだ」という積極的な意見や「求め」がなかったからといって、彼ら最高幹部が巨大津波の対策工事にも運転停止にも踏み切らなかったのはやむを得ないことだったかのように見なして不問に付す裁判官の判断は如何なものか。

「巨大津波の可能性について知見が示されなかった」かのように云うが
2002年7月、政府の「地震調査研究推進本部」が「長期評価」を公表。三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこでも、マグニチュード8.2前後の津波地震が30年以内に20%程度の確率で起きる可能性があると。
2006年(事故5年前)3月の衆院予算委員会では、共産党議員から、チリ津波や明治三陸地震(38mに達した津波)など巨大津波があったこと、そのような津波によって最悪の場合は炉心の冷却機能が失われ、炉心溶融に至る危険が指摘され、経産省の旧原子力安全・保安院に抜本的な対策が求められている。
2007年7月、原発の安全性を求める福島県連絡会などが東電の勝俣社長宛に、津波による過酷事故に至る危険があるとして、津波対策で抜本的な対策を申し入れている。これらの事実は無視されているわけだ。
2007年11月、東電設計社が、「長期評価」を踏まえて簡易計算した福島第一の津波予測を「7.7m以上」と東電に報告。(福島第一原発の設計時に想定した津波の高さは5.7m)
2008年3月、東電設計社が、詳細計算した福島第一原発の津波予測は「最大15.7m」(原発敷地の高さ10mを超える)と東電に報告。(それにもかかわらず、旧経営陣は津波対策を取らずに先送り。)
2009年2月、吉田昌郎・原子力設備管理部長(故人)が、勝俣会長・武黒本部長・武藤副本部長が出席した「御前会議」で「14m程度の津波が来る可能性」に言及。
同年、日本原電(東海第2原発)が「長期評価」に基づいた対策―「盛り土」と「建屋の防水対策」―を実施(社外には公表せず)。
2011年3月7日(大震災発生の4日前)、東電が、15.7mの計算結果を原子力安全・保安院に報告(それまで東電はその数値を隠していたことになる)。
2011年3月11日、対策は講じられないまま大震災を迎えた。(試算とほぼ同じ高さ15mの津波が原発を襲う。)
 尚、2019年2月20日、原発事故避難者訴訟(福島県から神奈川県に避難した60世帯175人が損害賠償54億円要求)で横浜地裁が国と東電両者の責任を認め同避難者の内152人に計4億1900万円を支払うよう命じた。その際、国は2009年9月時点で、東電からの津波の試算に関する報告を受け、浸水被害で全電源を喪失する事態を予見できたと指摘。対策となる電源設備の移設(10年末まで可能)を進めていれば「大量の放射能物質の外部放出という事態は回避できた」としている。

 それにつけても判決では
 原子炉の安全性―については「当時の社会通念」で―「法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提としてはいなかった。」「原子炉等規制法の定める安全性は、放射性物質が外部の環境に放出されることは絶対にないといった、極めて高度の安全性をいうものではなく
、最新の科学的・専門的知見を踏まえて合理的に予測される自然災害を想定した安全性の確保が求められていた」として、福島第一原発は「地震および津波に対する安全性を備えた施設として、適法に設置、運転されてきた」と評価。
  (原発の安全性の「当時の社会通念」とは、いわゆる「安全神話」にほかなるまい。)
 以前、1992年の伊方原発訴訟では、原発事故が起れば従業員やその周辺住民等の生命・身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある、と指摘。このような災害は「万が一にも起こらないように」しなければならないと、原発に求められる安全性の大原則を示していた。
 ところが判決は「結果の重大性を強調するあまり、予知に限界がある津波という現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転は不可能になる。」「運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ」などとして、原発の運転を生命や身体の健康に優先させる論立てをとった。「長期評価」についても、それは生命・健康の安全確保のために無視できない知見だとは見なさず、それを以て、あえて原発を運転停止させなければならない根拠とするには信頼性に欠けるものであったとし、原発運転維持の方にこだわり、生命・健康維持の方は二の次として安全の水準を引き下げた。そして経営陣を免罪したわけである。
 判決は又、東電の組織的問題は、事故当時は全く問題なかったとの認定で、組織的な問題点を一切指摘していない。

 この判決は、経営最優先の東電旧経営陣の姿勢を追認し、旧経営陣の主張をほとんど追認したもの、といってもいいだろう。
 被害者たちにとっては到底納得し難い不当判決だと言わざるをえまい。

 尚、馬奈木厳太郎・生業訴訟弁護団事務局長によれば、「判決のこの安全水準の考え方は、原発再稼働の是非を判断する国の新規制基準の考え方とも共通している。新規制基準は住民の生命や健康を確保することが再稼働の前提条件とはされておらず、事故の教訓が生かされていない。
 利益を優先し、安全をないがしろにした経営陣の背後には、国が規制権限を適切に行使しなかったという問題がある。国が経営陣らの姿勢を許容してきたのである」と。
 馬奈木氏は「今回の判決を通じて、改めて国の責任の重大性が浮き彫りになった」としている。



ホームへ戻る