米沢 長南の声なき声


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民主主義って何だ―その2
2020年12月07日

古代ギリシャ―デモス(民衆・人民)クラティア(支配・権力)→デモクラシー
 君主や少数の貴族・特権階級に対する民衆や人民(多数者)による支配・権力
   (ギリシャでは、その堕落形態として「衆愚政治」に陥ったケースもあり、ローマ共和国ではシーザーが独裁権を握って以後、帝国に化していった。)
 君主専制や貴族共和制に対して人民民主独裁(多数者の専制)―中国「中華人民共和国」(憲法1条に「人民民主独裁」とあり)、北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国」(憲法12条に「人民民主主義独裁」とある)
 人民投票によって個人に独裁権が認められる場合―「人民投票的独裁」(シーザーやナポレオンやヒトラー)―カリスマ的人気を博し、民衆が自己の決定権と主張権を権威者に委ねる(「お任せ民主主義」)。このような民主主義には多数者の専横(横暴)と少数者の疎外・迫害などの問題が付きまとう。

 民主主義とは「人民主権」ということで、社会の構成員で一定年齢に達した全ての人が(一人一人)主権者として平等な参政権(決定権・主張権・選挙権・被選挙権・投票権など)を持つということであるが、意見や得票が分かれて、審議・討論でいくら話し合っても折り合いがつかず合意に達しない場合は多数決でより多くの賛成や得票が得られた意見(案)や候補者が採用される。その場合、熟議を尽くすことが必要であり、互いの意見が(たとえ少数でも)尊重され、譲歩・妥協(歩み寄り)も必要とされるたとえ圧倒的多数でも多数意見が正しく何でも許されるとは限らない。少なくとも真理(自然の理法)や道理に反してはならず、人権・人道を踏み外してはならないのだ。
 それに一人一人に主権が認められ、参政権が認められている限り、その権利を行使しようと、しまいと(棄権しようと)、その(民主主義の)下で行われた政治の結果には責任を負わなければならない。その結果責任は為政者(「独裁」とか「権威主義」などと見なされている政府や政党の政治家)だけに帰せて済まされるものではなく、全ての有権者が負わなけらばならないのだ(仮に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が」起こるとすれば、その戦争責任は政府にだけでなく、全ての有権者にも、それを招いた責任の一端があるとみなされよう。戦後まもなく伊丹万作・映画監督が戦争責任の問題に関して、権力の大衆操作によって「だまされた」国民には単なる被害者とばかりは言えない「だまされた罪」があるのだと、当時、国民には主権者意識がなかった権威主義体制の下でさえ、権力者たちと国民のいわば共犯関係を指摘している)。
 民主主義国といわれている国では為政者たちを選び政府など権力を支えている多数派国民には政府の行為の結果に対して責任があり、その権力の暴走(濫用)を抑えなければならない主権者・国民としてのいわば自己責任がある。しかし、国民自身にその自覚(責任意識)がないか、或いは国民自身が為政者・権力者たちと一緒になって暴走しかねない場合もあり得る

 そこで近代、それ(多数者の権力)に制約を加えるものとして「法の支配」(「法の下に平等」、この場合は「法」には成文法に限らず慣習法・自然法も含まれる)や立憲主義(憲法による人権保障)、権力分立主義(三権分立)の原則が考え出されたわけ。

 国家は個人間・地域間・人種や民族間で様々に(利害・価値観など)異なる国民で構成され、内部それに外部との対立や紛争の種を抱える。それは政治権力によって統御される。民主国家では、その政治権力は利害・価値観などが異なる階級・階層・地域・民族のうちの多数派が投票・多数決によって主導権が握られ、政治決定がおこなわれる。その場合、その決定によって少数派の利益や人権が無視・犠牲にされることのないように多数者の権力に縛りをかけ、専横を抑止するのが「法の支配」・立憲主義、権力分立主義の原則なのである。
 また、民主主義とは全ての国民(一人一人)に主権者として参政権を認めるということであるが、その参政権を行使するために国民一人一人に必要不可欠とされるのは①知る権利(情報収集権・情報公開請求権)とともに②集会・デモ・結社・思想・信条・言論・出版・表現の自由であり(どんな考え・意見を持とうが、表明しようが、抑圧を受けたり、その言論・思想が圧殺されたりしない)、それらの人権保障が前提条件となる(つまり、知識・情報を得る「知る権利」と自分の意思・意見を表明する言論・表現の自由が全ての国民に保障されていないかぎり民主主義は成り立たないのだということ)。
 
 国によっては、国内外に対立・紛争の種を抱えていて、それを統御して国の存立・統一・国家安全を維持するために強大な権力(強権)を必要とし、「法の支配」・立憲主義、権力分立主義の原則にとらわれない向きがある。中国や北朝鮮などの所謂「権威主義国家」である。
 (中国は広大な国の領域と巨大な人口・他民族を抱え、歴史的に欧米や日本などからの侵略に悩まされてきた国。香港はイギリスから返還されたが、「一国二制度」の形で地区独自の行政・立法・司法権を認め市民には言論・集会の自由も認められてきたものの、それは今や中国政府によって覆されつつある。台湾は中国革命にともなう内戦以来分離したままとなっていて、中国(本土)政府はあくまで台湾と中国は一つの国家として統一を目指すも、本土とは違う制度を現状のまま認めるという「一国二制度」の方針をとっているが、台湾政府の現政権はそれを拒否し、厳しく対立している。
 北朝鮮は日本による植民地支配から脱したものの南北分断、朝鮮戦争があって休戦状態にはあるものの未だに集結していない。)

 「法の支配」・立憲主義・権力分立主義を伴った民主主義は、欧米や日本もそのような民主主義国と見なされているが、北欧や西欧のそれを「完全民主主義」と見なし、それに対してアメリカや韓国、そして日本のそれも「欠陥民主主義」と見なす向きがある。
 (日本のそれには投票率の低さと女性議員の少なさ、報道の自由度の低さ等が指摘されている。)

 近年、日本では政権による「集団的自衛権の行使容認」など憲法の解釈変更と恣意的運用が重なり「立憲主義の危機」という状況に立ち至っている。
 そのあげくの改憲策動。その改憲は自民党によって企図され、その策動に公明・維新などの政権党とその補完政党が迎合している。
 世論調査では改憲の議論は「急ぐ必要ない」、「憲法以外の問題に優先して取り組むべきだ」という声の方が大多数。(5月3日憲法記念日に際する調査では「急ぐ必要がない」が朝日新聞の調査では72%、「憲法以外の問題に優先して取り組むべき」がNHKの調査では78%)
 国民の大多数が憲法を現行のままで不都合と感じて改憲を切実に求めているわけではないのに、政府与党が安保政策・自衛隊の軍事的運用などの都合上、現行憲法(9条)による縛りを解いて思い通りに運用できるようにするために、と自らの都合で改憲しようとして「上からの(誘導による)国民投票」を求めているのだ。まさに権力を縛るための憲法から縛りを解くための改憲であり「立憲主義の破壊」そのものである。
 国民が求めているのは、むしろ現行憲法の通りに人権を保障すること(現行憲法が政府に要求している人権を実現すること)であって改憲ではないのだ

 このような改憲策動は、先ずは阻止しなければならない(改憲反対の立場からすれば国民投票どころか、国会発議自体が必要ないわけである)が、人々の改憲論(意見・主張)に対しては議論を交え意見を交わすことにやぶさかではあるまい。議論することによって現行憲法擁護に対して確信を深めるのだ。


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