米沢 長南の声なき声


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「『諸国民の公正と信義に信頼して』安全」はユートピアか?(再加筆修正版)
2017年08月16日

 憲法前文「日本国民は・・・・我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」「日本国民は恒久の平和を念願し・・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」。
 「諸国民の公正と信義に信頼して(安全と生存を保持)」などというと、よく、そんなの「きれいごとだ」とか「ユートピア」(理想郷)の話だとこき下ろす向きがあるが、よく考えてみると、それ(「諸国民の公正と信義に信頼」)は市民生活(市民・国民レベル)では当たり前のことなのでは。
 市民・国民レベルでは普通誰もが隣人愛・友愛の念をもち、「平和を愛し」、争い合うよりも「和」を好み、ルールに基づく公正を求め不正・無法を嫌い、信義を重んじ不義・非道を嫌うものだろう。これらはいずれも、人間社会では当たり前の感情であろうし、どの国民も、そういうものだと思っているはず。(オリンピックは、諸国民ともそういう思いで開かれる)。
 どの国民も「人を見たら泥棒と思え」とか「他人は誰もが信用ならない不審者で、護身用に銃を所持していないと命がもたない」などと思って人と接し人生を生きているわけではあるまい。ただ、国によっては(アメリカや中東・アフリカなど)治安が悪く(ならず者やテロなど)、或は内戦で、危ないところもあるが、大多数の国では、一般市民の間では銃器など持たない人の方が多いのである。(市民100人当たり銃保有率ランキングで、1位のアメリカは88.8丁と例外的に銃を持っている人の方が圧倒的に多く、2位のイエメンが54.8丁、3位のスイスは国民皆兵制で小銃が各家に国から支給されていて45.7丁、4位のフィンランドは同じく国民皆兵制だが自費購入で45.3丁、5位セルビア、6位キプロス、7位サウジアラビア、8位イラク、9位ウルグアイ、10位のスウェーデンは、近年皆兵制は廃止されたが許可証で狩猟用に持ち続けている人が多く31.6丁と先進国の中では銃保有率が高い。我が国は178ヵ国中164位で、狩猟用等以外は禁止されていて、わずか0.6丁と、銃器など持たずに暮らしている人の方が圧倒的に多い。尚、アメリカは勿論のこと、スイス・フィンランドなど銃保有率が高い国ほど銃乱射事件など殺人事件が多い。)
 要するに、大多数の人々は、個々人が武装したり銃など持たなくても、市民社会における「公正と信義」に信頼して(法と道徳の下に)安全と生存を保持して暮らせているのであって、隣人間はもとより、どこで他人と接しても市民生活は成り立ち、海外に行っても観光・ビジネスは成り立っている、といってもよいのではあるまいか。
 危険があるとすれば、それを呼び込むのは市民・一般人ではなく、むしろ政府や軍による反政府勢力との抗争や対外敵視政策と戦争、統治の失敗・破綻による治安の乱れと武器業者(死の商人)の暗躍など。
 人間には、動物的本能(生存競争の攻撃本能)ともまた違う(「生の欲動」に対する)「死の欲動」として自他に向かう攻撃欲動(破壊衝動)というものもあるのだが、それは文化(知性)によってコントロールされ断念される。(その場合の無意識的に働く良心とは、フロイト心理学でいう「超自我」。)
 人は、生命の危険に瀕する恐怖や欠乏がなく満ち足りた状態では、(「衣食足りて栄辱・礼節を知る」というもので)市民生活では誰もが冷静な利害損得計算と良心との総合的合理的判断が働いて、安心・安全を、自衛力(銃刀など武器)に頼るよりも(むしろ放棄して)、公正と信義に基づく協和の方に求める。それは、その方が実際上(社会的歴史的経験上)安心・安全だと思われているからである。
 ところが恐怖・欠乏にさいなまれると、極度のストレスから正常な感覚が失われ(「貧すれば鈍する」で、理性も良心も働かなくなって)不正・不義・非道・自他への人身攻撃にはしる。政治や政府は、本来はその恐怖・欠乏を取り除き、市民・国民の安全・安心を保持することに最重要の役割・役目があるはず。ところが為政者や政治勢力によっては、自らの特定利権・野望が先行し、その実現と権力維持のために、市民・国民の恐怖や欠乏の原因を国内外の「敵」に転嫁して、不安と恐怖を煽り、不信・敵対心・憎悪をかき立てて、いがみ合わせ、争わせ、その戦勝・平定を通じて権力や勢力を維持しようとする。
 即ち、どの国の市民・国民も本来は平和を愛し、公正と信義において信頼し合える関係にあるのであって、それをそうでなくさせるのは、偏狭な国益やドグマ(独善的な教義)によって国民を煽って他国民・他民族と敵対させ、憎悪をかき立てて野望実現をはかる利権勢力と結びついた政府その他の政治勢力や宗教勢力の存在であり、そこが問題なのである。

 国民同士が、反日・反中・反朝・反韓などと互いに反感、いがみ合い、「鬼畜米英」などと憎悪するのは、戦争や冷戦に権益が得られる利権勢力から煽り駆り立てられ、或は同調圧力によって互いがかき立てられてのこと。(人々に欠乏・困窮や不安・恐怖があると、戦争利権を目指す勢力は、そのストレスや欲求不満につけこんで、攻撃欲動をかきたてるのだ。)しかし、そもそも国民の間には、他国民にはどの国民に対しても、敵対心・憎悪はなく、兵士たちも、一人ひとりは相手国民に対して何の恨みも憎しみもないのである。
 だから、憲法は、前文で、我ら国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持し」、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意した。」そして9条に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は・・・・永久にこれを放棄」し、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持」せず、「国の交戦権はこれを認めない」こととしたのである。



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