米沢 長南の声なき声


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徴用工問題は人権問題として人道的観点から(加筆版)
2019年09月16日

 日韓関係の悪化。発端は昨年10月、韓国の最高裁が元徴用工に日本企業が賠償するよう命じる判決を下したことに対して日本政府が猛反発をしたことだ。
 焦点は1965年の日韓請求権・経済協力協定で、そこで過去は清算されて両国は和解したはずなのに、実はそうではなかったということが明らかになったということだ。
 日本側は、あそこで(協定によって)「完全かつ最終的に解決された」はずなのに韓国側が再び賠償問題を持ち出して、それが覆されてしまったといって韓国側を責めているわけである。しかし、あの時「解決された」といっても、その解釈(認識)には立場の相違(韓国側は日本による韓国併合・統治は違法であり不当な植民地支配だったというのに対して、日本側は適法であり瑕疵はないとの認識、など)があり、完全一致というわけではなかったし、仮に政府間では「解決した」ことに合意・納得したとしても、当事者である被害者個人サイドでは納得がいかない人たちがいたということなのだ。
 ところで、ここで問題を2点整理してみると、①国権人権とがあり、国家の請求権個人の請求権とがあるのだということ。前者については、国の主権や国土・国益が侵害されて、その損害賠償を求めるという「国家の請求権」―その中には自国民が外国で、或は外国によって身体・財産が侵害され損害を受けた場合に、その侵害を自国に対する侵害として国家が相手国の国際法上の責任を追及し、賠償を求める請求権=「外交保護権」というものもあるわけ。
 後者については被害者個人が加害者を直接、裁判等で責任を追及し、損害賠償を求めるという「個人の請求権」。その両方を分けて考える。
 日韓請求権協定では、国の外交保護権は日韓相互に放棄し合ったことは確かでも、「個人の請求権」はそれで消滅してはいないとされる。ということは元徴用工ら被害者が個人として日本の加害企業を訴え、それを韓国の裁判所が受理して判決をくだしたとしても何ら問題はないということになる(日本政府は「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と異議を唱えているが)。
②「損害賠償」と「損失補償」とがあり、その違いは、「賠償」の方が「違法な行為」(不法行為や債務不履行など)によって生じた損害に対する代償・補てんであるのに対して、「補償」の方は「適法な行為」によって生じた損害(災害や事故によって生じた補償金や未払い賃金など)に対する代償・補てん、(つまり両者の違いは原因となる行為に違法性があるか否かの違い)なのだが、その両方を分けて考える。
 そうして考えてみると、日韓請求権・経済協力協定は不法な植民地支配に対する「賠償」を請求するための協定ではなかったのだ。日本側は、協定交渉では植民地支配の不法性を認めず、協定の趣旨は(賠償のあり方を定めるものではなく)「あくまでも経済協力だ」として譲らず、韓国側はやむなく「合法性」を前提に、徴用された韓国人への「補償」として被害の回復を求めざるを得なかった。(日本側は、「韓国政府は協定に基づいて無償資金協力として3億ドルを受け取ったが、その中に強制動員で苦痛を受けた被害者の救済に充てる補償金が含まれていることを、韓国政府は確認している」としている。)
 しかし、仮に徴用そのものが当時の日本の国内法に基づく「合法」なものでも、監禁状態で過酷労働を強いられるなどの不法な仕打ちに対しては損害賠償を求めることはできるはず。そこで考えられたのが、元徴用工たちが求めているのは「補償」ではなく、日本企業の反人道的な不法行為を前提とする日本企業への慰謝料すなわち損害「賠償」であった。彼ら元徴用工たち(徴用されて人権が侵害された)被害者個人を救済(人権回復)しなければならない義務は、少なくとも彼らを直接使用した日本企業にはあり、それを放置することはできない。そこにこそ問題の核心があるのではないか。
 いずれにしろ、政府間で国益上の利害の観点から、或は国民同士でナショナリズム的感情から主張・非難をぶっつけ合うのではなく、あくまで徴用されて人権侵害・苦痛を受けた被害者個々人を具体的に救済しなければならないという人道的観点から問題解決をめざさなければならないのでは。
 日韓両国民の間で(日本の韓国併合と統治は違法な植民地支配であったか否かなど)歴史認識にギャップがあることも大いに問題であり、なんとかして共通認識に近づけ、真の和解に努める努力も必要ではあるが、まずは人権侵害を受けた被害者の救済に両国政府・両国民とも心を一つにして関心を傾注し取り組むべきなのでは。


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