1,世界の現状
各国とも軍備―互いの軍備が脅威となっている―軍事大国と小国、軍事大国どうしの間で。日米同盟など軍事同盟やNATOなど軍事ブロックを組んでいる国々と非同盟国との間で(例えば日米韓と北朝鮮、台湾を挟んで日米と中国、千島列島を挟んで日米とロシアとの間で)―互いに軍備競争―軍事力を背景に外交・紛争解決交渉―力の対決―新「冷戦」→「熱い戦争」の危険
NPT(核拡散防止条約)―5大国独占もイスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮も保有、イランはストップ―核軍縮は進まず
核兵器禁止条約は核保有国とその同盟国は批准せず不参加
各国とも軍備全廃すれば(日本の憲法9条2項「戦力不保持」「交戦権否認」を世界に及ぼして各国ともそれに踏み切れば)世界の平和・安全保障は実現するはず―かつて(1962年当時)国連で米ソが提案し合った全面的完全軍備撤廃条約を今こそ実現すべき。
2,日本の安全保障
現状の体制―日米同盟と自衛隊(9条合憲解釈から改憲企図)の軍事力(軍備・軍事基地・「核の傘」)に頼る安全保障体制
(1)万一(台風・地震のような自然災害と違い、いつか必ずというわけではなく、紛争の原因・理由がない限りはあり得ない)、どこかの国から急迫不正の侵略があった場合
(A)自衛隊は活用、市民はそれに協力する?
(B)あくまで不戦・非軍事を貫き、自衛隊の出撃は求めず、市民協力は控える(軍事占領されて不抗戦も、不服従・非協力ー非暴力抵抗)?
(2)朝鮮半島や台湾海峡での(ありうべき)有事に際して米軍が軍事介入・出撃する事態となった場合は、自衛隊が米軍を支援・作戦協力(それに対して北朝鮮軍あるいは中国軍から攻撃を受け、応戦、戦争になる)。
その際、我々市民はどう対応するのか?
(A)自衛隊と米軍に協力し戦う?
(B)非協力・不戦に徹する(“No War”戦争反対を叫び、戦争協力には応じない)?
さて(A)と(B)のどっちで行くのか―どっちに覚悟を決めるか尚、憲法9条は戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認のことしか定めておらず、「攻められたらどうする」ということは、「抗戦せよ」とか、「自衛の戦いを起こすべし」とか定めてはいない。それは、国として戦争はしない、戦力は保持しないと定めて国内外に宣することによって、他国に対して信頼と安心の関係を築くことによって、互いに敵意が起きないようにして攻撃・侵害を抑止し、攻められないようにしているのだ。つまりそれが非軍事的「抑止力」となる。
それが、「攻められたら抗戦しないわけにはいかない」からといって、憲法に国を防衛するため「自衛隊」など名称は何であれ軍備を保有し、特定の国と軍事同盟を結んでいたりすれば、その同盟国とは信頼・安心関係を築けても、それ以外の国からは日本は自国を「仮想敵」視しているとか、不信感・警戒感あるいは脅威感を持たれることになってしまい、我が国に対抗して軍備増強・軍拡を招き、敵対行為を招く結果になってしまう。つまり抑止力として持とうとした軍備や軍事同盟がかえって、攻撃対象となり、「抑止」どころか戦争を誘発するものとなる。
だから、憲法には、あくまで9条そのままに国は不戦・非軍事を堅持。それでも、「万々一」攻めてこられたらという場合は、一つは、どの国にも固有の権利として認められている自衛権(個別的自衛権)に基づいて抗戦。有用なあらゆる実力手段を駆使(警察の特殊部隊・海上保安庁はもとより自衛隊も活用)して応戦し排撃。もう一つには軍事占領されても非暴力・不服従・非協力で抵抗するという方法の二つがある。
いずれの場合でも犠牲を伴い、後者(非暴力抵抗)の場合は、弾圧・投獄・拷問或いは処刑などを伴うが、子供などが犠牲になるということは少なくて済み、破壊も少なくて済むだろう(その違いはあるわけだ)。平和ボケ―「戦争を知らない」世代―戦争の悲惨さに対して現実感(リアリティーを感じ)なく恐怖感ない―ゲーム感覚か映画や漫画の世界―戦争への憧れ、好戦性(「・・・なんかやっつけてしまえ!」「・・・・がんばれ!」と)
彼らはウクライナの戦争の模様を伝えるニュースに接すると、「だから日本は軍備をもっと増強すべきなんだ」とか、さらには核兵器さえ「アメリカと共有して使えるようにすればいいんだ」という気になってしまう。強力な軍事力を持てば、侵攻してきた外国軍を追い出せると思っているのだろうが、追い出そうという戦いの中で、どれだけ多くの国民(非戦闘員の市民)が犠牲になるかについて想像できないのだ(ウエブサイト『ピースアゴラ』掲載の小倉志郎・元東芝原発技術者の文より)。
そもそも、議論や物語りとして戦争を語るのと平和を語るのとで、語りやすさからいえば、戦争には戦う目的・意義(「国を守るために」とか大義)・戦略・作戦、その展開過程には活劇もあるが悲劇・惨劇・「残酷物語」まで語るに事欠かない。ただ人には話せないことが多く、ボケない代わりに戦争神経症や戦争後遺症(PTSD)などの精神障害を患うことが多い。それに比べれば平和というものは、日々退屈のあまりボケたりするだけのことだが、恐怖や強迫観念にさいなまれることなく、スポーツやゲーム・芸術・文化を楽しむことができるのは平和であってこそだろう。戦争のリアリティー
今ロシアとウクライナがやっている戦争の現実―いったんやりだしたら(侵攻してきたのはロシア軍、それに対してウクライナ軍が抗戦)その戦争は止まらなくなる。いつ果てるともない(ベトナム戦争当時、ボクシング・ヘビー級世界チャンピオンで徴兵を拒否したモハメッド・アリ曰く、「リングにはレフェリーがいる。しかし戦争にはゲームオーバーもなく、一方が完全につぶれるまで、諦めるまで戦争は続き、殺しまくるのが戦争だ」と。)
プーチン(ロシア)は侵攻を(NATOに対する自国の「安全保障のために」そうするしかなかったなどと正当化する独善的理由に基づいて)強行し、ゼレンスキー(ウクライナ)は、その不当・不正な侵略に対して徹底抗戦を自国民に訴え、諸国に支援を訴えている。戦況はどうなっているか、どちらが善戦し、どちらが苦戦しているかなどの評価はどうあれ、問題は、この間に激発している死傷者・難民・住居・学校・病院などの公共施設・インフラ等々の破壊の惨状である。また「人的物的損失」或いはロシアに対する国際的な経済制裁の影響によって被る各国の「損失」といった単なる数字上の被害状況ではなく、戦災によって直接被っている人々の計り知れない悲惨である。どちらが戦いに勝ちぬいて軍事目的を果たせたか、そして「大義」を果たせるかなどはどうあれ(「多くの国民が犠牲になるような戦いとなるなら、たとえ軍事的に勝利を得たとしても『国を守った』ことにはならない」―上記引用の小倉志郎氏)、その戦争によって生じた犠牲者たちの悲惨にこそ目を向けなければならない。それこそが戦争のリアリティーなのである。「正義の戦争」だとか「必要やむを得ざる自衛の戦争」だとか「どちらが正義でどちらが悪か」などの評価・論評よりも、戦争は要するに殺し合いであり、破壊し合うことにほかならず、その悲惨・無残さにリアリティーを見て取ることがいちばん大事なのであって、戦争は起きないようにすること、しないこと、これが一番なのだ。
戦争というものは、結果的に無事で死なずに済んだ者にとっては、勝った方の側は「大義」を果たせてよかったとか、だから戦争をやり抜いて(徹底攻撃・徹底抗戦して)よかったといって満足し、負けた方の側は残念・無念といって悔しがる。しかし、その間に行われた殺戮・破壊によってもたらされた惨劇・惨状とりわけ巻き込まれて(自分の意思によらず)生命を失った無辜の人々・当人にとっては、勝ってよかったも何もあったものではない(犠牲にされた悲惨以外になんの意味もない)。自分以外の、国の為政者・戦争指導者をはじめ死を免れた人々あるいは後世代の人々が、犠牲者たちが命を捧げてくれたおかげで(国家の名誉や独立・自由を守れたとか)大義を果たせたからといって、(戦争自体を「正義の戦争」「大義のためのやむを得ざる戦争」などと美化し)「名誉の死」「殉難者」などと美化されても、死んだ当人にとっては、その大義を果たして得られた成果など知ることも享受することも全くできないわけである。その意味では全く無意味な犠牲で悲惨以外の何ものでもない。それこそが厳然たる戦争のリアリティーというものではあるまいか。
そういう意味では、そのような戦争を招いてはならないし、戦争を仕掛けられ(侵攻され)ても応じ(応戦・抗戦し)ない方が賢明で、いずれにしろ戦争はすべきではなく、あくまで避けなければならないのだ。
このような戦争(殺傷・破壊)のための武器・兵器・軍備は、「正義の戦争」のためであれ、「大義にためやむを得ざる戦争」ためであれ、それらを保持しないようにしなければならないのである(大量破壊兵器・残虐兵器などだけではなく、通常兵器も全て)―「正義の戦争」のためなら保持・保有してもよいとか、「ある国はよくて、ある国はわるい」などという選別はあってはならない。我が国では市民レベルでは法律(銃刀法)で、凶器として殺傷行為を誘発する危険性のある銃刀の保持を全国民に禁止しているが、各国に対して兵器などの軍備は戦争行為を誘発するものとして保持を禁止することにしてもおかしくはあるまい。これこそが持続可能な安全保障であり恒久平和実現の唯一の方法だろう。正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい―「戦争はいやだ、勝敗はどちらでもいい、早く済みさえすればいい、いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」
これは井伏鱒二の『黒い雨』の一節で、主人公の姪で広島原爆の放射能雨を浴びた娘が日記に書きとめていた一節。その戦争にはアメリカ軍の原爆投下は日本軍を早く降伏させて、ナチス・ドイツなどとともにファシズムを倒すというアメリカ側の「正義の戦争」という大義があり、日本軍には日本軍で、アジアを白人の植民地支配から解放する、そのための「聖戦」(正義の戦争)なのだといったように、それぞれが大義があった。その戦争の過程でもたらされた悲惨・惨状を作者は意識して、作中の人物にこの言葉を日記に書かせたものと思われる。映画化された場面には、主人公が聴いていたラジオで朝鮮戦争のニュースが流れ、激戦を続ける米軍が、北朝鮮軍を支援して参戦した中国軍に対して原爆使用も辞さない方針を明らかにしていたとのアナウンサーの声に、姪が記した日記と同じ言葉を発した、そのセリフに「正義の戦争よりも・・・・の平和の方がいいちゅうことを、なんで人間はわからんのじゃ」と語らせていた、とのこと。
「不正義の平和の方がいい」というのは、例えばイラク戦争でいえば、アメリカのブッシュ元大統領が「正義の戦争」のつもりにしてそれを始めたところが、結果は惨憺たるあり様で、それを見たときに、そんなことだったら、イラク人にとってはむしろサダム・フセイン大統領の独裁政治であってもその統治下での平和の方がましだった、ということだろう。それは逆説的な言い方であって、「戦争がなく平和でさえあれば、独裁や強権政治でどんなにひどい自由抑圧・権利侵害など不正義があってもかまわない」というわけではあるまいが、「正義の戦争」であれば、いくら人が死んでも、いくら破壊し尽くされても、いくら悲惨な結果を招いてもいいというわけではないないのだ、ということだろう。
とにかく人間の生命をはじめ何もかも台無しにするのが戦争、「停戦・休戦ではなく、恒久的に戦争のない平和」がいかに大事か、ということだ。