米沢 長南の声なき声


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日々、生命の燃焼(加筆版)
2015年11月30日

 まずは、今は亡き東大教授で宗教学者の岸本英夫という方が、あと半年の命と宣告されながら、10年近くもガンと闘い続けて考えるに至った死に対する考え方を紹介したい。
 (彼は死後も生命は存続するなどとは信じなかったし、天国や浄土などの理想世界を信じることはできなかった。)
 「死というものは実体ではなくて、実体である生命が無くなるということに過ぎない。生と死は、ちょうど光と闇のようなものだが、暗闇というのはそれ自体が存在するのではなくて、光が無いというだけのこと。
 人間に実際与えられているのは現実の生命だけだ。人間にとって確実なことは、『今、生きている』ということだけ。その寿命の中の一日一日は、どの一日もすべての人にとって同じように実態としての生命であり、どの一日も同じように尊い。
 いくら死が近づいても、その死に近い一日も、健康な時の一日と同じように尊い。したがってその命が無くなる日まで、人間は生命を大切にしてよく生きなければならない。
 『与えられた人生をどうよく生きるか』ということが問題なのであって、辛くても苦しくても、与えられた生命をよく生きていくより他、人間として生きるべき生き方はない」と。

 そこで思うに、「生きる」とは「生命を燃焼させる」ということであり、人生は、日々、生命の燃焼。そして「よく生きる」とは、その「生命の灯を光り輝くように燃焼させて生きる」ということなのではないだろうか。
 (1)目標をもって生きる
 すべての生き物は、生命を燃焼させて生きている。動物は欲求をもち、それが獲物や交尾の相手を求め、子を生み育て、天敵から身を守るなどの行動にかりたてる。すなわち欲求が行動にかりたてる原動力や活力となり、「生命力を発揮」させ「生き生き」とさせ、いわば生命の燃焼に光り輝きを加えるのである。(獲物を狙い追いかけ襲いかかる時の動物は、目は爛々と輝き、躍動感に満ちている。)
 動物はすべて、それに人間でも赤ん坊なら、目的・目標など持たなくても、ただ生きるしかなく、ただひたすら生きようとする。それは生への本能的欲求があるからであり、神様(造物主)から生命を与えられた生き物には、「生を欲する」欲求は与えられていても、「死を欲する」欲求は与えられてはいないからである。
 人間の場合は、赤子のうちは動物と同じで本能的・生理的欲求だけにとどまるが、成長するにつれ、その欲求に自己実現欲求(自分の志・夢・希望・目標を果たそうとする欲求、その欲求を満たすことが自己満足)や文化的欲求など様々な欲求が付け加わる。
 それに人間は本能的な欲求選択調整力(色んな欲求の中から、その時その時で最優先の欲求を選びとり、他は先送りするなどの欲求コントロール能力)をもつだけでなく、「こうすればこうなる」と考える論理的思考能力をもち、いわば目標設定計画力(何か目的・目標をもち、それを目指して作戦・計画たてる能力)をもつ。そして目的・目標を果たそうとして一生懸命になり、必死になったりもする。(うまく果たせれば達成感を味わい、結果は失敗に終わっても、それに取り組んでいる過程で心の充実感を味わう)そこに生きがい」を感じる。

 (2)目標は何だっていい
 人々が欲し追い求める欲求と目標にはだいたい次のようなものがある。
 「直面する問題解決」、「仕事」、「カネのやりくり」「カネ儲け」、「蓄財」、「昇進」、「地位や名声の獲得」、「家族との団らん」、「愛し愛されること」、「子育て」、「子や孫の成長を見守ること」、「人助け」、「社会貢献」(ボランティア活動)、「社会活動」(町内会・自治会の活動)、「闘い」、「評論」、「パソコン・インターネット」、「特技や技術を生かした創作活動」、「読書」、「鑑賞」、「学習や教養を高めるための活動」、「スポーツ」「ウォーキング等」、「試験合格」、「趣味」、「ゲーム」、「ギャンブル」、「旅行」、「冒険」、「祭り」、「娯楽」、「ペットの世話」それに「生きることそれ自体」。                  
 これらの欲求と目標が人を行動にかりたて、生命力を発揮させ、生命の灯を光り輝くようにさせる。逆に云えば、欲求と目標を無くしてしまったら「生きがい」も無くなってしまい、生命の灯も光り輝きを失う。
 欲求選択・目標設定も「世のため、人のため」になるようにものならば、それにこしたことはない。人々から感謝され、共感が得られれば嬉しいし、より満足感が得られるからである。しかし、そのようなものではなくても、(この私が今こうしてやっているような)人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないものではあっても、人畜無害で、犯罪など法や人の道に反しないかぎり、目標は何だっていいのだ。

 それぞれ、その人の置かれた立場・境遇によって様々なケース。
 ①[心身とも健康で体力・知力に経済的余裕もあるという人の場合]―その場合はどんな目標選択も可能なわけだ。
 <事例>海洋冒険家の堀江謙一氏(1938年生まれで現在77歳)は、以前、ヨットに「一人ぼっち」乗って太平洋を横断、その後「単独無寄港世界一周」を2回も果たしたが、69歳になって、今度は「波力推進船」でハワイから日本まで踏破して見せるという目標と計画をたてて実行し、それを果たした。7,800キロを、化石エネルギーには頼らず完全に自然エネルギーで、というわけだが、波まかせ、徒歩より遅いスピードで110日間かかって、帰ってきて曰く、「精神と肉体を完全に燃焼できました」。そして三桁(100歳代)まで頑張ると言って冒険への挑戦を宣言した、とのこと。
 常人では思いもよらない壮挙には違いないが、人によっては、それは偉業というよりは、人々の実生活には何の役にも立たない当人の自己満足に過ぎない壮大な愚挙とも思えるだろうが、私などはこのスピード時代に何ともスローな大冒険もあるものだなという感動を覚えた。いずれにせよ、彼の生命は100年間燃焼を続け、燦然たる輝きを見せるのだろう。

 ②[重病人の場合]
 <事例>(08年1月9日、NHK「生活ホット・モーニング」から)末期ガンで寝たきりの患者にリハビリを勧めたところ、患者は「どうせ死ぬんだから」と言って難色を示したが、どうにか説得すると、「それなら、友人が集まる恒例のパーテーに行きたい。その会場は2階だから階段を登れるように」といってリハビリを受けた。その結果、パーテー出席の目標を果たしただけでなく、それまで動かずにいたために損なわれていた機能も回復し、活動範囲が広がって新たな生きがいを呼び起こすことになった
という。
 <事例>精神科医でメンタル・ヘルス国際情報センター所長の小林司氏がその著書(「『生きがい』とは何か」)に、長期闘病のあげくガンで亡くなった岸本英夫氏の(冒頭に紹介した)考え方のように最後を生きた人(姫路市で理髪業をしていた田中祐三氏)のことを紹介している。
 彼(田中)は胃ガン手術後、再発の恐怖にさいなまれたが、ある講習会で「悪い方にばかり考えず、物事を別の方角から見て良い方に解釈する」「見方一つで希望をつかめる」と学んだ。暫くたって、ガンは腸に転移して激しい痛みに苦しんだ。しかし彼は「ガンの末期であっても楽しく生きられ、見方を変えればガンだって怖くない。日々の命に感謝しよう」ということを、ガンで苦しむ人たちやその家族に訴えたいと決意して、北海道から岡山まで十数ヵ所で講演して歩いた。東京大学では、学生や医師らを前に「私には今しかない。今、今、今です。あとすこしの命だが、今を楽しく生きれば、明日につながる」と訴えて、強い感動を与えた。「ぼくはガンと闘っているつもりはない。死ぬ方向ではなく生きる方向を見つめているだけです」と生きることの素晴らしさを半年間語り続け、多くの人に生きる勇気を与えて、彼は大阪のホスピスで最期を終えたという。

 生命の火種を絶やさず、燃焼させ続けているかぎり、その灯を光り輝かせることができるのだ、ということだろう。
 <事例>(15・12・8朝日新聞「折々のことば」)ウォーレン・シヴォン―ロスアンゼルスで暮すフォークロック歌手―肺がんで余命3ヵ月と宣告され、残された時間を、友人と家族に遺す最後というよりも生涯最高のアルバムの制作に取りかかった。そして「今度のことで生死について見方が変わったかい?」という友人の質問に答えていわく、”Enjoy every sandwich”(「どのサンドイッチを食べるときも一つ一つ味が楽しめるようになったよ」)と。

 ③[寝たきりの人の場合]
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)などで、手足は動かず、口も動かず話もできない。(重症になると人工呼吸器で呼吸、胃ろうで(胃に管を通して)栄養補給。)それでも、耳は聴こえ、目とまぶたが動くので、(介護者が50音や数字を並べた文字盤でカナ文字や数字を指差しながら音声を発し、彼が伝えたい言葉に該当するその字に視線を送って、介護者がそれを読み取る、といったような方法もあるし)何らかの方法を講じればコミュニケーションはとれる。目の前に立って話しかければ、その人の顔も見え、映像も見え、音声も聞き取れる。そしてあれこれ思い出し、思い描き、自分が生きていることも自覚でき、生きている喜び感じることだってできるわけだ。
 <事例>脊髄性筋萎縮症の女性―人口呼吸器をつけ、支援者の力を借りながら一人暮らしをし、同じ立場の人たちの支援に車いすで動き回る。「人工呼吸器が起こすシュー シューという風が「生きろ」と言ってくれるかのように勇気づけてくれる。」「たくさんの支援が必要だからこそ多くの人に出会える。自由に動くことができないからこそ、生きていることに感動する」(ドキュメンタリー映画『風は生きよという』11月19日朝日新聞に紹介記事)。

 ④[脳に障害を負った人の場合]
 認知症などで記憶力、判断力、見当識(場所や時間の認識力)、計算能力など認知機能の低下があっても、自分が自分であることが認識できる自我意識は残り、何かに興味を持ち、喜び悲しみなど人間的感情が残っていて、生きて何かを為すことに(たとえどんなに他愛のないことでも)自己満足が得られ、生きがいが感じられれば命の輝きが得られるわけである。(家族・介護者・支援者など接する人や周りの人の扱い方によっては、不安・恐怖・ストレスから徘徊・暴力など異常行動や不眠・幻覚・妄想などを起こす場合があるが、温かく人間らしく扱ってもらえるかぎり、その人らしく穏やかに生きられるはずだという―NHKスペシャル2015年11月14・15日「認知症革命」)
 <事例>(11月17日、NHK『認知症の私からあなたへ』より)佐藤雅彦氏61歳(元中学校の数学教師、コンピュータ会社のシステムエンジニア、45歳から兆候、51歳になって、何回も来た道なの判らなくなり、直前の事が記憶できないようになり、医院で診てもらったらアルツハイマーと診断。今日の日も年は判っても月日・曜日が判らない、漢字を書けない、何度も買い物に来たスーパーなのに品物が置いてある棚が憶えられなくなり、すごい耳鳴りなども。
 落ち込んで、辛くなり、死にたくなることも
 対策―日記(過去10年間)、パソコンに記録(備忘録)機器が壊れて以後はケイタイ(ナビ機能・カメラ機能)利用。財布の中をチェックも。
 周一回ボランティア(途上国の子供支援の郵便物発送作業など)
 実名で認知症であることを公表しつつ全国講演(年100回以上)、
 認知症のワーキンググループ(当事者活動)に参加
 認知症に関するシンポジウム、国際会議にも認知症当事者として代表参加。
 認知症になっても暮らし易い町づくり提案など等、認知症だからこそできること。
 絵―個展を開くことが夢。
 自分の能力を信じて何でもチャレンジ、認知症でも出来ることがあるのだと人に解ってもらう、それが自分に課せられた使命だと思って頑張れる。
 「不便はあっても不幸ではない」と。
 痛み、傷つき、悩むのも生きているからこそ―「自分は今、生きているぞ」と。

 ⑤[超高齢者の場合
 <事例>瀬戸内寂静93歳(NHKスペシャル『いのち瀬戸内寂静 密着500日』より)以前は「生き飽きた、生きているのが嫌になる、早く死にたい」「死は選ぶことは許される」などと考えていた。
 しかし、昨年(92歳)大病(腰の圧迫骨折と胆のう癌手術)で数ヵ月間闘病。その間「死ぬかもしれない」とか「死にたい」とは一度も思わなかったという。その後も、「もう一度、小説を書くこと」を目標にしてリハビリに励んだ。「未来の自分に期待して」「与えられた命は生ききるのだ」。60年も一つ(小説)の仕事に打ち込んできた、といっても「未だ満足していないから」と。当初は「闘病記」をエッセイとして書くつもりで始めたが、小説に切り換えた。題名は「いのち」・・・・とのこと。

 人は、何でもいいから出来ることを為し、或いは手足も口も動かず何かを為すということはできなくても(医療介護サポートがあれば)生きているだけならできるという場合には、ただひたすら、それ(生きること)だけを自分に課せられた目標として専念し、日々それを果たして過ごせばいいわけだ。
 毎日毎時間の目標・日課は唯ひたすら生き抜くこと、そして眠りにつき目をさます度に「生きている!よ~し、明日も生きるぞ!」と生きていることを確かめて喜び(達成感)を感じ、希望をつなげる。そうやって生きているそのこと自体を喜び楽しむのだ。
 人間というものは、あれこれ何を為したか、何が出来たかで偉いとか偉くないとか価値が計られるのではなく、生命を燃焼させて生きることそれ自体に価値がある、というものなのではないだろうか。

 生命より大事もの、命を犠牲にしてでも果たさなければならない大事なものがある、ということで、何か「大義」なるもの―「お国の為」とか「神のため」とか「多くの人々を救うため」とか―を持ち出して、それに殉じる、というふうなことがあるし、或いは欲望執着だけでなく命への「執着を捨てよ」などと言われたりもするが、各人にとっては、まさに命は「地球よりも重い」最高価値なのであって、それが尽き果てれば、全ては無となってしまうのであり、己の命ほど大切なものはないのである。

 それにつけても、生きとし生けるもの、死は避けられず、いずれ生命は尽き果てる日が来る。しかし、その時まで、生き抜いて生ききる。そして生命・人生を全うして最後に得られる自己満足、それこそが「満足のある死」というものだろう。その意味では、死は苦でもなく恐怖でもない、ということだ。


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