米沢 長南の声なき声


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高校無償化なら入試の廃止も
2010年03月11日

 高校の学費を生徒・親に出させるとか、入試で入学者を選抜するというやり方は、けっして当たり前なのではなく、欧米諸国ではむしろ、学費は公費でまかない(フィンランド・オランダ・スウエーデンなどでは私立も、北欧諸国やフランスでは大学も授業料は無料)、選抜入試などやらないのが当たり前なのであって、異常なのは我が国のほうなのである。
 国際人権規約(第13条2項)は高校と大学の学費を段階的に無償化することを定めているが、同条項の批准を留保している国は我が国とマダガスカルの2ヶ国だけ。2001年には国連の社会権規約委員会が日本政府に対して留保撤回を勧告したにもかかわらず応じてこなかった。また、1998年国連の「児童の権利に関する委員会」から我が国政府は「極度の競争的な制度によるストレスのため子どもが発達障害にさらされている」「さらに登校拒否の事例がかなりの数にのぼることを懸念する」といった勧告も受けているのである。競争的な制度とは生徒を受験競争やテスト点数競争に駆り立てる選抜入試制度のことであろう。
 鳩山政権は高校授業料無償化に踏み切った。これは画期的な決断であるが、このさい、入試制度の廃止にまで踏み切ったならば、それこそ「平成維新」に相応しい我が国教育史上の大変革となろう。(一挙に何もかもというのは難しいとか、非現実的だなどといって取り合わない向きが多いだろうが。)
 以下にその理由を論じてみたい。
(1)高校も義務教育に
 現実は高校進学率100%に近くなっている。「今の世の中、高校ぐらい出ておかないと一人前になれない」というのが常識である。
 実際、ハイテク化・グローバル化・高度情報化している現代社会、人々の職業生活(仕事)も社会生活(参政権や裁判員制度など民主社会における主権や権利の行使)も、以前のような中学レベルの知識・技能では到底通用しなくなっているのだ(指示され、与えられた仕事を機械ロボットのようにやっているだけでよい、というわけにはいかないのである)。中卒では、個々人の職業生活・社会生活が成り立たないだけでなく、社会も、国家も、良質な人材確保ができず、産業諸組織・社会諸組織の運営が成り立たず、維持もできない。そういう時代なのである。

 高校進学の受益者は、単にそこに入いれた生徒個々人だけではなく、彼ら人材を確保できる国家・社会そのものが受益者なのである。その国家が高校教育を義務化し、選抜試験なしに入学を認め、入学者の授業料を無償化しするのに何ら不思議はない。

 発展途上の国(我が国も以前そういう時代だった)ならば、庶民も出世志向が旺盛で、国は学歴取得競争(進学競争)にまかせておけば、庶民は受験に殺到し、無理をしてでも授業料・入学金を払うので、国は教育予算をあまり投じなくても済んだし、生徒の学習意欲を引き出すこともできて、詰め込んだ知識・技能が発展途上の産業にたずさわる人材確保に役立ち、全体を引っ張っていくエリートを養成することも可能だった。
 しかし、我が国は、もう、そんな「途上国タイプの教育」から脱却して、欧米並みに「成熟社会」の教育を目指さなければならないのである。

(2)入試制度の弊害
 入試制度とは、入学志願者に試験を課し、その試験成績に在籍中の学校成績(内申書)を勘案して成績順に上から選抜するというやり方。その入試があるおかげで、受験生がしのぎを削ってレベルアップしてくれて、その上澄みだけしゃくり取ればよく、高校もしくは大学側にとっては、教えるのが楽だし、「難関校」ほど自分の学校のステータスも上がることになる、というそういう点では好都合。しかし、さまざまな弊害がある。
①生徒にとっては「ここまで修得すればよい」という基準がなく成績順位(他の受験生たちとの成績の比較)だけが問題だから、とにかく他の受験生たちを一点でもしのぐ成績を上げなければならないと思えば、際限なく勉強しなければならなくなり、過重負担になる。
②高校以下の教育全体が受験に特化しすぎて(受験科目、入試に出そうなところだけを勉強し、内申書の評価につながりそうなものだけを気にし、力をいれ)、それ以外がおろそかになる。狭い学力(「偏差値学力」「点数獲得学力」)に矮小化。学習の幅を狭め、受験対策・テスト対策、ドリル(訓練的学習)・機械的な暗記に偏る。文字と言葉、図と記号だけの教科書的勉強に偏り、手や身体・感覚を総動員した学習がおろそかになる。心がせせこましく、豊な発想や感性が生まれなくなる。
 「内申書」重視とかOA入試(自己推薦と面接だけの試験)だから、「日頃から、ちゃんとやっていれば大丈夫」といっても、結果は受験勉強が日常にまで持ち込まれるだけ(提出物や授業中に手を挙げる等)。
 たとえ入試内容を狭くしたり、簡単にしても、同じ(今まで50点台で競争していたものが、80点台の競争になるだけの話。
③高校以下の学校が入試に縛られて独自教育ができなくなる。
 生徒にとっては勉強も何もかも、すべてが受験・合格目的になってしまい、自分の真の適性を見つけて開花させようとするきっかけがつかめなくなる(自分がしたいことを押し殺して、ただ机に向かっているうちに、自分のしたいことが何かわからなくなっていく。)
 その高校、その大学に入って何をしたいのか、何を学びたいのか(学問研究・芸術・技術・技能を磨く等)ではなく、入試に合格すること、学歴を獲得することだけが自己目的化。
④生徒も教師も受験競争・点数競争に追い立てられてストレスが高じる(口や顔には出なくても、心の中に、いつも「受験は大丈夫かな」「勉強しなきゃ」といった強迫観念がつきまとう。
⑤「競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできない。それどころか、かえって伸びない者を作り出す。」頑張ったのに不合格とされた生徒は劣等感に陥ったり、自己肯定感を喪失したり、やる気をなくす者が同時に生まれるからである。
⑥社会の歪み―学歴競争・格差社会―をもたらしている。

 週刊誌(サンデー毎日や週間朝日など)が「入試速報」―「大学合格者高校ランキング」なるものをこのところ毎週連載している。
 我が国では、このようなランキングによって、その高校・その大学に入学・卒業した者たちのステータスが決まり、社会階層が形成されているのだ。

(3)入試制度を廃止してどうするのか
 入試は廃止し、小中学校のように全員無試験で入学させる。
 卒業に必要な各教科(単位)の修得を、それぞれ基準に基づいて(評定、たとえば各教科10点満点で「6以上」というふうに)それに達していれば認定し、全教科単位修得すれば卒業を認定し、基準に達せず認定されなければ原級留め置き(落第)となる。(留年して授業を受け続けても授業料は無償。)
 少人数学級で、遅れている生徒は落ちこぼさずに基準に達するまで(補習・追試なども)手を尽くすことができるだけの教員を充当するなど、指導体制を整える。
 このような高校卒業認定者には同時に大学入学資格を認める。このようなやり方は欧米諸国で一般に行われているやり方。
 義務教育でない大学の場合は「最低限これができていないと、うちの授業にはついてこれませんよ」という最低基準を示し、その基準を満たしてさえいれば、できるかぎり本人の希望を尊重して入学させる(「教育の機会均等」の原則からいって、それは当然のことである)。
 実験・実習など人数が限定される医学部・工学部などの学部・学科の場合は
願書の先着順もしくは抽選で入学者を決める。
 高校の学区制は、地元学区入学の原則を守る。(現在、全県一学区制化に切り替えようとしている県があるが、これでは全県一斉高校入試で県内高校がトップからビリまで序列が付いてしまうことになる。)

(4)教育のあり方にたいする国民的理解・意識改革の必要性
 競争教育が嫌だからといって、個人でいくら、それを避け、成績など気にしない(孫に「テストなんかそんなに必死になって頑張らなくていいんだ」とか「成績など気にするな」)といっても、本人はともかく、親は(結局は本人も)点数と順位を気にしないではいられないのである。
 教師も競争主義や成績主義に反対だからといって、受験対応をやめれば、生徒を不利な結果に追いやり、かえって可愛そうな思いをさせてしまうことになる。
 現実の高校・大学は「試験と内申の成績順に上から何名」として入学させるのだから、志望校・志望大学の合格ラインを知り、自分の成績がどの位置なのかを知らないと合否予想はできない。そこで受験業者が、その需要に応えて行う模擬テストに参加して「偏差値」の提供を受けようとする。「そんなの関係ない」というわけにはいかないのである。
 このような教育改革は一つの学校、一人の教師・一個人だけがいくらその気になっても、変革は不可能であり、国家的に、全国一斉にやるしかないわけである。
 そのためには、これまでの既成観念を捨てて、次のような諸点での国民的な理解・意識改革が必要。
①教育観―学校教育の目的を、「子どもたちを競わせて『勝ち組』『負け組』を選別し、順位を出すこと」から、「一人ひとりの子どもを主体に考え、どの子も完全を期して育て上げるということ」に頭を切り替える。
 「教育の機会均等」「能力に応じて等しく教育を受ける権利」の保障を(教育基本法でも「改正」前は「能力に応ずる教育」だったのが、「改正」後のそれは「能力に応じた教育」とされるようになって)「能力が低ければ低いなりに」と、「簡単なことしか教えず」「(たとえ難しくても生きていく上で必要不可欠な事柄なのに)どうせ解らないだろうからといって教えずにカットしてしまう」という手抜きを容認する考え方から、遅れがちな生徒には「もっと丁寧に多くの工夫と手を尽くして教える」という考え方に。
②学力観
 受験科目の偏差値学力(受験学力―狭く、細切れで、競争的・訓練的な学力)が学力のすべてであるかのように錯覚し、(学力競争は実は学力そのものを歪め、かえって学力低下を招いてしまうものなのに)「学力は競争の中でこそ伸びるものだ」と短絡的に考える。
 競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできないどころか、かえって伸びない者を作り出す。(古山明男氏によれば)上位層には、勝ち残るほどにハードルが高くなっていき、ずり落ちる不安がつきまとう。中位層は、上に這いあがろうとし、「やみくもに」頑張ってつじつまを合わせている。本当に理解していることは一部だけで、あとは丸覚えと「あてずっぽう」でなんとかしている、といったようなことが多く、あせりやすく、挫折しやすい。下位層は「またできなかった。わからなかった。もうどうでもいいや」とそっぽを向き、ドロップ・アウト。生きていくために本当に必要な学習への意欲をそぎ、本当に必要な学力(生きていくために必要な理解力や見通す力など)が身に付かなくなる。かくして全体が「地盤沈下」。
 学力とは、そもそも学べる力・生きる力(他から学びつつ、人間として自立して生きていかれる力―生活と密着した知識・技能、状況・変化への適応能力、コミュニケーション能力、学習に取り組む意欲、理解力・思考力・独創力・応用力・問題解決能力・実践力など)のこと。それらは、一人ひとり多様で、獲得すべき目標が異なり、到達度・進度が異なるのであって(画一的一括指導ではなく、本来、個別的指導を要するもので)、他者との比較や順位競争は何の意味もない。
 競争的学力観を刷り込まれてきた、その頭を切り替えなければならないのだ。
③テスト観
 テストを、生徒に順位を付け、「できる生徒」と「できない生徒」を選別し、学校・学級の序列を付けるためのものという考え方から、テストは、本来、個々の生徒について、その学習の成果―基準達成への到達度を確認するとともに、学習上のつまづきなど問題点を明らかにして、指導法の改善、カリキュラム・教育システム・教育環境の改善に役立てるためのものだ(だから、市販テストや外部テストではなく、教えている生徒の生活の中に題材をとった手作りテストが望ましい)という考え方に。
 尚、07年から毎年実施されるようになった全国学力テストは、新政権下で従来の全員参加方式からサンプル(無作為抽出)方式に切り替えられることになった。しかし、抽出された学校(3割)以外の学校も希望参加を認められたために(抽出校・希望参加校あわせて)73%(秋田県など11県は100%、愛知県は25.4%、山形県は53,9%)もの学校で実施されることに。希望参加が多いのは、教師たちは学テ実施の弊害(順位競争に目を奪われるなど)を恐れるのに対して、それにとんちゃくしない保護者や自治体首長たちの中に学テ参加と結果公表(開示)を求める向きが多いからだろう。
 このような全国(大多数参加)一斉学力テストが行われれば、教師たちにプレッシャーがかかる(成績の悪かった学校の校長や教員はハッパをかけられる)ことになる。彼らはテスト対策に迫られ、校長会や業者による模擬テストが県・市町村規模で繰り返され、生徒の特訓が行なわれることになる。その結果は、試験科目や出題が予想される部分・分野の得点が高くなるだけのことで、総体としての学力は低下していかざるを得なくなる。
 それに、テストに際して、先生が正解のヒントを教えたり、カンニング黙認などの不正まで行われる。これまでどこかの学校でこのような事実があったし、最近では2月に、福島県いわき市の中学校長会テストで、一中学校の教員が答案用紙の答欄に正解を書き入れたり書き直したりして50人以上の点数をかさ上げしていたことが、答案を返却された生徒がクラス担任に申し出たことによって発覚。栃木県・広島県などでも同様の不正が発覚しているとのこと(新聞報道による)。
 テストには、このような弊害が付き物なのである。

④学校観
 市場原理主義で、学校は塾や予備校などと同様(知識・技能・テクニック・試験問題の解き方などを売る)「サービス業の一種だ」として、コスト、効率(費用対効果)、数値目標の達成・成果の観点でとらえる考え方(生徒・親たちを「消費者」「お客」と考えて、「お客様のニーズ」に応え「客受け」のする目標の羅列と実績づくりにはしり、「・・・合格率~%」・「・・・達成率~割」・「いじめゼロ」「不登校ゼロ」などと何でも数値化して、その数値目標達成を競い、それにばかりに囚われる考え方)―成果主義・点数主義・競争主義・コスト主義・効率主義。
 また、国家や企業などの組織にとっては、学校は、人材確保のために生徒に学力競争させて選別する場と見なす。
 学校(中高)が学力競争の場に化し、選別機関化し序列化。高校をいわば大学進学の予備校のように見なし、大学進学率で学校評価をおこなう。
 名門校への合格者を多く出している学校が良い学校とみなし、学校を「進学名門校と二流・三流校、教育困難校」「頭のいい学校、わるい学校」などと峻別・差別する考え方。
 
 それに対して、ヒューマニズムの立場では、学校は「人間性の上に立って友愛の絆で結ばれ『学びの生活』を共にする(教え合い学びあう)場」と考える。
 生徒と教師、それに生徒同士が心でつながる。生徒・子どもたちは教師から、単に知識・技能・テクニックを学ぶだけでなく、人としての生き方・心のあり様まで学ぶ。人間性や心は点数では計れないし、数値など出せない。
 
 前者のような人間性不在の学校観から後者の人間性中心の学校観へ、切り替えが必要。
⑤人間観―教師観・生徒観
 学歴・名門校入試合格で人を評価する考え方。
 教師をティーチング・マシーンとしか見ない考え方。
 他の生徒をライバルとしか見ない考え方。
 これらの考え方から、人は人間性と生き方と仕事で評価すべきもの。教師・生徒同士は互いにパートナー(協力者)・「友愛精神で連帯する市民仲間」、という考え方に。
⑥社会観
 「学歴・競争・序列社会」―「自己中心主義・分断・孤立社会」を肯定する考え方から、21世紀の世界、この国、この社会は「友愛の絆で結ばれ、援け合う共生社会」でなければならないとする考え方への転換。

 以上のように、教育にたいする考え方・意識の転換、発想の転換が全国民に必要なのだ。
 そのような国民的理解と国民意識変革のうえに立って、高校教育は義務教育化し、無償化とともに、入試制度の廃止にまで踏み切るべきなのだ。

 参考文献:①古山明男著「変えよう!日本の教育システム―教育に競争はいらない」(平凡社)②尾木直樹著「変われるか!日本の教育」(新日本出版社)


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