米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


オバマ大統領に求められるのは自国民に“No more・・・・”を言える勇気(再加筆版)
2016年05月30日

●オバマ大統領は広島(原爆死没者慰霊碑前)でのスピーチで、次のようなことを述べた。
 「空から死が降りてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 1845年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うこと(”to fight complacency")を可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします。
・・・・・。米国と日本は同盟だけでなく、私たちの市民に戦争を通じて得られるよりも、はるかに多くのものをもたらす友情を築きました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 ・・・・・私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性を減らすことができます。私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます。」と。
 その後で安倍首相は次のようなことを述べた。
 「熾烈に戦い合った敵は70年の時を経て、心の紐帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれる同盟国となりました。・・・・・。日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に対して心から敬意を表したい。・・・・核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうと・・・・努力を積み重ねていくことが、いまに生きる私たちの責任であります。」と。

 しかし、彼らの「勇気」は、広島に来て、こう言うのが精一杯。真の勇気は核兵器も戦争も「率先して放棄する」こと。そしてそれを自分が生きている間に、できれば最後の被爆者が生きているうちに実現することなのでは?
 国連総会で採択されている核兵器禁止条約に関係するいくつかの案には(中国・北朝鮮まで大多数の国々が賛成しているのに)アメリカは反対、日本は棄権し続けている。昨春のNPT再検討会議でも、今月スイスで開かれた国連の核軍縮作業部会でも、非核保有国グループが提案した核兵器禁止条約の国際交渉を求める決議案には「時期尚早」として賛同しなかった。(期限を切った「禁止」ではなく、期限を切らずに「段階的に」削減・縮小したほうが賢明だと。それに核兵器使用が国際法違反だとは一概に言えないとし、安倍内閣は、それは日本国憲法9条2項で禁止されている「戦力」には当たらず、保有も使用も憲法違反ではないとさえも表明している。)
●オバマ大統領にとっては、広島に来て「人の好い」日本人に向かって原爆や戦争のことを話すのにはさほど「勇気」なんか要らないし、或いはロシアや中国・北朝鮮・イランなどに対して相手国の核・軍備に対して縮小・放棄せよと強気に出て要求するのは、そんなに「勇気」の要ることではあるまい。大変なのは、トランプ大統領候補などに熱狂する好戦的な(というと語弊があるが、その歴史―先住民インデアンに対するヨーロッパからの白人入植者、本国に対する独立戦争と建国、アフリカからの黒人奴隷、諸地域からの移民、その間の抗争―から「武力で相手を従わせ、武器で身を守る」という風習いわば武器・武力依存体質が互いにしみつき、諸個人は銃に、国は核兵器にしがみついて手離せなくなってしまっている)自国民を説得する勇気だろう。自国の彼らに向かって“No more war” “No more Hirosima・Nagasaki”(「戦争はもうよそう」「核兵器は廃棄しよう」)と。それを言える勇気こそ本当の勇気というものだろうが。
 大統領選の共和党候補トランプ氏は、オバマの広島訪問を「謝罪しない限りは結構」といい、その有力応援者(ペイリン)は「私たちが始めたわけでもない戦争を、米軍が(原爆投下によって)終わらせた」のだと。
 スタンフォード大学のスコット・セーガン教授が実施した世論調査で「仮に米国とイランが戦争になった場合、2万人の米軍犠牲者が出る恐れがある地上侵攻と、イランへの核兵器使用で10万人を殺害し、降伏に追い込むことのどちらを選択するか」との問いに59%が「核兵器を使う」と答えたとのこと。それが米国民の意識なのだ。その自国民を教化・説得する勇気こそが求められるのだ。
●オバマ大統領は「広島・長崎は道徳的に目覚めることの始まり」とも述べた。
 原爆投下は「戦争を早く終わらせ、多くの米国人の命を救った」などと正当化されてきたし(それこそが"complacency"「自己満足」なのでは?)、核兵器の維持・開発・高度化―オバマ政権下で計画されている「スマート核兵器」開発、それに今イラクやシリアで行われている空爆―数多の民間人まきぞえ、大量難民を追い返すのも同様に、それを正当化する論理(理屈・言い訳)はいかようにも立てられるが、市民・住民の大量犠牲は道徳的には決して許されることではなく、謝罪すべき所業であることには間違いない。その気持ち(道徳心・罪の意識)の乏しい国民やその指導者は同じ過ちを繰り返す。そして、その度に言う言葉は「しかたなかった、そうするしかなかったのだ」などという言い訳になるのだろう。
 人間関係において寛容や「許し」或いは和の精神は必要。しかし、そこには「けじめ」というものがある。すなわち道徳的な(善悪の)判断で悪かったなら「悪かった」と謝罪・償いが必要不可欠で、それ(道徳的な判断と謝罪)を曖昧にしたまま、ただ「水に流す」とか「気にしない」「無かったことにする」というのは、ご都合主義でしかあるまい。その謝罪(形はどうあれ、その心)なくして許しも寛容も和解もあり得ず、互いの関係はその時々の利害・打算(有利か不利かの都合)によって支配され、安定的な信義・信頼関係も真の友情も築くことはできないことになる。
 非を犯した相手に謝罪(の心)がないかぎり、恨み・怒りの情念は消えず、厳しく追求して非を認めさせ、謝罪を求め続けなければならないわけである。
 それをせずに、相手の非をうやむや・曖昧にして済ます無原則な寛容・宥和のまずいところは、その甘さが自分に対してもそうなってしまうことだ。自分が犯した過ち・非道・(アジア・太平洋諸国民に対する)加害責任を厳しく反省することなく、あいまい・うやむやにして済ますという結果になってしまう。だったらお互い様だからいいではないか、といって済まされることでもない。互いに不問にして無反省で済んでしまえば、同じ過ちを再び繰り返すことになるからだ。
 現に、広島・長崎市民が原爆投下で悲惨な目にあっていながら、そのアメリカの核兵器(核の傘)で守ってもらうとか、日本がアメリカから守ってもらいたければ基地経費は100%日本に負担させるべきで、さもなければ撤退させるまでで、日本が独自に核武装するならそれでもかまわない(トランプ発言)、といったように双方ともに「ご都合主義」を通している。
 日本国憲法前文には「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは・・・・・、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」とあるが、この憲法制定後、現在に至るまで、日米関係は今なお対等な「トモダチ」関係にあるとは言えず、アメリカ側には「上から目線」、日本側には卑屈な「下から目線」があることは、安保条約・日米地位協定など沖縄基地問題を見ても、それは否めまい。

 原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という日本語の言葉には主語がないが、英文の説明板では“we shall not repeat the evil”となっていて、その”We”とは日本人とかアメリカ人とか特定の国民ではなく「人類」を指しているといわれる。それにしてもオバマ・スピーチの「死が空から降ってきた」という言い方は、文学的ではあっても他人事に聴こえる。それを言うなら主語を明確にしてアメリカ(時の大統領の命令で米軍機)が「降らせた」と言うべきなのだ。真珠湾(米軍太平洋艦隊の軍港)に奇襲攻撃(死者2,400人、大部分は軍人兵士、民間人は57人)をかけて戦争をしかけたのは日本軍だが、広島の無辜の市民(死者14~20万人)の頭上に原爆を投下したのは一機の米軍機(エノラゲイ)で、投下命令を与えたのはアメリカ大統領だったのだから。
 オバマ大統領が広島を訪れてスピーチしたその場には、(アメリカが現在保有する6,970発の)核兵器の核基地に発射命令を伝える通信装置(核のボタン)を持って大統領に同行し付き添う将校が控えていたのだ。その「核のボタン」はあと数か月もすればトランプかクリントンのどっちか次期大統領に引き継がれるわけだ。

 広島県被団協理事長の佐久間邦彦氏は次のような感想を述べている。
「オバマ大統領は・・・・核兵器廃絶の目標を、自分が生きているうちに実現できないかもしれないと言いました。これでは平均年齢が80歳を超す被爆者は核廃絶を見届けられません。・・・・核兵器廃絶は人道的観点からも究極的課題ではなく緊急の課題です。私たちが、今回の訪問で謝罪を求めなかったのは、核兵器廃絶に向けた具体的な道筋を示して欲しかったからです。その道筋が示されれば、私たちは納得できます。」と。
 大統領は原爆資料館で記帳して”Let us now find the courage,together,to spread peace and pursue a world without nuclear weapons"「共に平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と書いて行ったが、それを書くなら”I must have the courage to realize a world without nuclear weapon in my lifetime"「私が生きている間に、核兵器のない世界を実現する勇気を持たなければ」と書くべきだったろう。
 



ホームへ戻る