名護市長選―基地容認派の新人候補が基地反対派の現職に大差で勝った。
当方には、両派の対立構図は、「平和的生存権」と「日々の生活・仕事の実利」とでどちらを重視するかで、基地容認派は後者の方を、反対派は前者の方を重視する、その対立と考えられた。候補者は、一方(基地反対派候補)はその「基地反対」を明確に掲げて弁じたが、他方(容認派候補)は、基地は「容認する」とも「しない」とも言わず(「辺野古の『へ』の字も言わない」という徹底した選挙戦術のもとに)、ひたすら「地域経済の振興」と「生活支援」のことだけに絞った主張を掲げて弁じ、有権者・市民の多くは、基地には反対の気持ちの方が強いにもかかわらず、「日々の生活・仕事」重視で、結果的に基地容認派の候補を選んだのだ。
この選挙結果に、当選した候補は、基地容認が民意かと問われ、「思わない。複雑な民意だ」と答えており、メディア(朝日)は「先の見えない国との対立に疲れた市民の、ごく普通の思いを反映した結果」などと書いている。しかし、いずれにしろ安倍政権にとっては辺野古基地建設を推し進めるうえで、反対派市長を降ろして容認派市長に変えることに成功したことは建設工事(実は未だ1%にも達していないのだが)を加速するうえで極めて有利な結果を得たことは事実だろう。
新市長は、大差で当選したからといって、市民の根強い基地反対の気持ちを省みずに、日米両政府の言うままに、いちいちその要求に応じるわけにもいかず、躊躇せざるを得ないことにもなろう。
反対派は現知事と落選した前市長(いわく、「子どもたちの未来を考えても、事故が続く米軍機が飛び交う街にしたくない。新基地を絶対に許さない気持ちは変わらない」)をはじめ「オール沖縄」に結集して、さらなる新基地建設阻止と普天間基地の無条件撤去の運動を展開し、日米両政府の沖縄基地の維持・建設推進政策に抵抗しなければなるまい。平和的生存権(恐怖から免れる権利、現世代のみならず将来世代にわたって人々が恐怖に慄くことなく暮らせる)要求に正当性があるとの確信のもとに、それを貫徹して然るべきだろう。
尚、政府や自治体(権力)の決定によって行われることに多数民意が容認を決めても、たとえ一人でもそれによる人権侵害に対して容認できないという人がいるかぎり、その人はその人権を主張することができるのである(権力に対して個々人の人権を守ってくれるのが憲法なのだという立憲主義の原則から)。かといって、この場合(市民の反対を押し切って名護市に新基地を建設し、それが完成するまで普天間の基地使用は引き続き認めて、周辺住民を危険にさらし続けることは不当であり、違憲だとして国を訴える)裁判訴訟は可能なのか。つまり平和的生存権に裁判規範性があるのか、ということについてだが、それには否定説もあるが、肯定説もあって、現在のところ、判例上は長沼事件1審判決が裁判規範性を肯定したものの、その後の控訴審では否定されているが、自衛隊のイラク派遣差し止め訴訟で違憲判決を下した名古屋高裁では、次のように明確に肯定している。
平和的生存権は「現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしに存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあって、その享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。法的規範性を有するというべき憲法前文が「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が、国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに人格権(生命・自由・幸福追求の権利―引用者)を規定する憲法13条をはじめ、憲法3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は憲法上の法的な権利として認められるべきである。」それは「局面に応じて自由権的・社会権的または参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得る」(したがって裁判規範性を有する)と。
だとすれば、大多数の人が「権力のやることにはどんなに反対したところで止められないのだから、それは(原発でも基地でも)受け入れて、それによってカネや仕事にありつければ良しとするしかない」との思いから権力と実利に屈して国政選挙や地元自治体の選挙で基地や原発の受け入れ容認派が多数を制したとしても、それに対して、たとえ一人になっても反対を貫き、裁判に訴えてでも、最後まで踏ん張り通すとしたら、それは、けっして我儘や意地っ張りではない、正当な権利なのだ、ということだろう。そこで問われているのは、基地住民・沖縄県民の意識だろう。
「基地建設工事は強行され、どんなに反対しても止められない(「もう無理だ」と)。だったら交付金や補償金など、もらうものはもらい、基地経済で活気づいて利益にありついたほうがましだ」などといった(権力に屈する)敗北主義か、諦めずにあくまで踏ん張り通して強権に抗う気概と道徳的正当性に対する信念を持ち続ける精神に徹するか、そのどちらが制するかだろう。
それにつけても、自公の選挙戦術・政治戦略は巧妙(狡猾)であり、有権者・市民を翻弄し愚弄するものだ(組織ぐるみの投票動員、企業・団体の締め付け、基地問題を避ける争点隠し等)。しかし、このような狡猾・欺瞞な戦略・戦術に乗せられてはなるまい。「『それで何人死んだんだ』そういわれれば、死んではいないな。だったら基地などできても大丈夫。それで仕事とカネにあり付けりゃ、多少の被害は我慢してもいいか」などと。