(1)アメリカでは
①市民の銃の所持―肯定論―銃で護身・自衛する権利を主張。
今月テキサスでの乱射事件で26人が教会で犠牲になった時には、「住民が銃で反撃し容疑者を逃走させた」とか、「銃を持った犯罪者に一方的に襲われるのを防ぐには、銃で自衛するしかない」、「銃を撃つ相手に対して、銃なしでいったいどうやって家族を守るのか」、「誰かが銃で応戦した。さもなければ被害はもっと悪化していただろう」と。(包丁を振りまわしたり、自動車を暴走させて、それらが凶器として使われる場合もあるが、銃や兵器は最初から狙撃・殺傷用として作られ売買されるものであり、そんなものが無ければ、10月ラスベガスで死者56人、負傷500人以上もの乱射事件は起こり得なかった。或は1992年の日本人留学生射殺事件の場合、彼はハロウィーン・パーテーの会場と間違えて入ろうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、家人は銃など持っていなければ、まず言葉を交わしたはず、なのにいきなり発砲したのだ。)
アメリカでは合衆国憲法の修正2条に「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」と(その民兵とは独立戦争で戦った武装市民)―この条文は州兵の活動のために定められたものであって「国民の無制限な武装権を認めたものではない」との学説あるも、2008年連邦高裁はそれを「個人の武装権を認めたもの」と判決。
アメリカでの銃の普及実態―3億5,700万丁(国民の4割が銃を持つ世帯に住む)―ラスベガスでの乱射事件に使われたのは自動小銃で18万円くらい、テキサスでのそれは半自動小銃で5~6万円,
ピストルやライフルはそれ以下の数万円だとか。
MRA(全米ライフル協会)―銃愛好家の市民団体―政府や軍と取引の多い銃・武器メーカーが資金団体で政府に献金、銃規制に反対の全米有数のロビー団体(圧力団体)―副会長いわく「銃を持った悪いやつを止めるのは銃を持った良いやつしかいない」と―共和党の保守層に会員多く有力政治家も―トランプ大統領支持
銃による死者―アメリカでは100人中31.2人(毎日90人、交通事故死並み、日本では0.1人で落雷死並み)・・・・家庭内暴力で子が親を殺害など
それに対して身元調査など銃規制強化論―民主党が主張、それに対して共和党に反対多い(オバマ大統領の規制案に世論調査では7~8割が賛成も、上院は否決)。②国の戦力・常備軍の保持
国防―軍備必要論―巨大な軍事力―核兵器など大量破壊兵器
無人機・AIロボット兵器も
他国や敵対勢力からの攻撃を抑止・阻止・撃退・制圧―「力(軍事)による平和」
銃・兵器は殺傷用武器―「人を殺傷する道具」(2)カント(フランス革命後~ナポレオン戦争前、その間のドイツの哲学者)の考え―「人間の本性は邪悪」(利己心―欲が深い))―それでも知性さえ備えていれば法律を作り国家を作ることができる―「自然状態では他者と紛争、衝突して自分の権利や利益が侵害されかねないため、ルールをつくって、それを他者に守らせたいと考える。このとき自分だけはそのルールに縛られたくないと考えるが、最終的には自分の権利や利益が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従うほうが『結果的に自分の利益が最大化する』という結論に至る」(例えば―ケーキの奪い合い―ケーキを切り分けることにし、ナイフで切り分ける者が、最後に残った分を受け取るというふうにすれば、一人の例外も出さずに誰もが均等にありつける―そのようなルールをつくって誰もがそれに従うのである)。
そういう人間誰しもに義務として課せられる命令(定言的命法)ともいうべき道徳律(それは世界中誰もが無条件に従わなければならない普遍性・公平性をもち、法律はそれをベースとする)では(人は誰しも殺されたくない、故に)「人を殺してはならない」、又(人は誰しも暴力を受けたくない、故に)「人に暴力を振るってはならない」(「何人も何時如何なる場合も」そうでなければならないのは、時と場合によっては守らなくてもよいというのでは人間社会は成立しなくなってしまうからだ)。
「人を殺してはならない」のであれば「人を殺傷する武器」を手にしてはならない、ということになる。殺人や傷害を防ぐにはその紛争・敵対・衝突の原因あるいはそれを誘発する原因を除去することが求められるが、その武器を手にすること自体が殺人・傷害の誘因(原因)となる。したがって殺人・傷害事件を防止するには銃など武器を禁止すればよい、ということにもなるわけだ。カントは「常備軍の廃止」を説いている。いわく「常備軍は時とともに全廃されなければならない。」「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。」「常備軍が刺激となって、互いに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、終には平和の方が短期の戦争よりも一層重荷になり、この重荷を逃れために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」「殺すため、或は殺されたりするために兵隊に雇われることは、人間を単なる機械や道具として他のもの(つまり国家)の手で使用することを含んでいる。どのような人間であれ、我々自身の人格における人間性は目的そのものであって、手段としてのみ使用されてはならない。」「もっとも、国民が自らと祖国を防衛するために外敵からの攻撃に備えて自発的に武器をとって定期的に(一定期間)訓練を行うこと(義勇軍)は常備軍とは全く異なる事柄である」と。
常備軍はもとより、義勇軍であっても、武器は核兵器など無差別大量殺傷兵器は勿論のこと、その武器・兵器によって無法者や侵略者の手から武器を奪うか撃ち落とすか、攻撃手段を破壊することは許されても、たとえ一人でも殺傷することは極力避けなければならない。「相手を殺さなければ自分が殺されるか家族や罪なき人々を守れない」という場合があるとしても、人の命に軽重・優先順位はなく、自分の命が助かるためには他人の命を犠牲にしてもやむをえないとか、無法者・侵略者だから殺してもかまわないということにはならないわけである。殺すか殺されるか、そのどちらかしかないという、そのような事態に立ち至ることのないようにすることだ。そのためには武器・軍備を構えて睨み合い、威嚇し合ったり、攻撃を仕掛けたりすることのないように、武器・兵器の製造・販売・輸出など禁止すること。相手に対する要求・紛争・対立は非暴力・非戦手段で、即ち対話・外交交渉によって解決するというルールとシステムを徹底すること、それ以外にない。人間の本性は邪悪であり、自然状態では民族は互いに隣り合って存在するだけでも、他の民族に害を加え争いがち。それで、どの民族も自らの安全のために、個人が国家において市民的な体制(ルールとシステム)を模索したのと同じような体制を模索。そこで自らの権利が守られるようにすることを他の民族に要求、武力を使わずに法的に解決する仕組みをつくること(社会契約)を目指し、国家同士が(一議席一票といった)平等な立場で「平和連合」を形成―それは、とにかく戦争が起らないようにするのが究極目的で、みんなが折り合えるようなやり方で達成できる目的を定め、そうすることによって戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制する―「永遠平和」のための諸国家の連合を構想→第1次大戦後の「国際連盟」(現在の「国連」の前身)に結実(但し実質的には、「連盟」の方は米ソを除く帝国主義諸国家の連合体にすぎず、現在の「国連」は第2次大戦後の戦勝国である「連合国」が世界の諸国を管理する体制という意味合いが強く、「永遠平和」の体制には程遠い)。
その「永遠平和」とは単に戦争のない状態ではなく、敵意なく敵対的状態のない状態である(停戦協定は単に敵対的状態の延長にすぎない)と。
「平和を守るために戦う(殺し合う)」「戦力による平和」は間違い―平和は軍事的手段(武力による威嚇又は武力の行使)によってではなく平和的手段(道徳的に正当な手段)によってこそ実現―戦争・威嚇(脅し)・謀略・暗殺など非道・卑劣な敵対行為は将来の和平に置いて相互の信頼を不可能し、相手国民に遺恨が残り、平和は続かない。懲罰的な戦争は平和をもたらさない。(3)日本の憲法(前文と9条)―そこにはカントの理念に通じるものがある(草案をつくった当時のGHQのスタッフにはカント以来の理念を念頭に、「自国の憲法にそう書きたかったものを、日本の憲法に書き込んだ」とも考えられる)。
前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した。」「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」。
9条「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」は放棄し、「陸海空軍その他の戦力」(常備軍)は保持しない。国の交戦権は認めない(戦争放棄は幣原首相がマッカーサーに提案)。
自衛権・正当防衛権はあっても、常備軍はもたず、市民の銃など武器の所持は禁止(銃刀法で)。(4)日米同盟(日米安保条約)の矛盾―日本の9条・平和主義はアメリカの「軍事による平和」主義とは両立しないどころか、日本の平和主義を台無しにする。
そもそも、アメリカの国柄―独立戦争・開拓時代以来「力による平和」主義・軍事覇権主義。
それに対して日本の国柄―「徳川の平和」(柄谷氏の用語)以来「非戦・平和主義」。この日本がアメリカの「軍事による平和主義」に支えられるなどといった矛盾の上に同盟が成立することなど、虚構(ごまかし)以外にはあり得まい。<参考>柄谷行人『憲法の無意識』岩波新書