米沢 長南の声なき声


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佐伯教授の「異論のススメ」に異論―その1「国を守るのは誰か」(修正版)
2015年11月01日

 佐伯啓思・京大名誉教授の朝日新聞(「異論のススメ」)に掲載された二つの論文(コラム)について、その1、「国を守るのは誰か―日米安保と憲法」(7月3日掲載)
 その概略―「安保法制に関して、集団的自衛権の合憲性が論議の的になっている」。しかし、「そもそも、問題の発端は『憲法』よりも『防衛』にあった」。
 ① 「冷戦以降、確かに『国際環境』は変化しており、集団的自衛権の部分的容認を求める安倍首相の提案は、この状況への新たな対応を目指すもの」、「日本の防衛はどうあるべきか」が問題なのだ。「近代国家のもっとも重要な役割は、人々の生活の安全を保障すること、とりわけ外敵から国民の生命や財産を守ること」だと。
 ② 「国の主権者の第一の義務は、社会秩序を維持し、人々の生命や財産の安全確保にある」、「民主主義では国民が主権者であるから、国民が自らの手で、自らの生命・財産を守る義務がある」、「民主主義を標榜する近代国家においては、国民皆兵制(徴兵制)による防衛こそが『原則』―かりに現実化されないにしても、それ自体がひとつの精神のあり方」だと。
 ③ 「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止だった」、「『防衛』という面からみれば、平和憲法と日米安保体制はセットであった」(「憲法平和主義の背後には実は米軍が控えていたという欺瞞」「日本は『平和主義』によって国を守ってきた、というとすれば、それは、日米安保体制から目を背けた欺瞞」)と。
 「防衛を米軍に委ねる限り、日本は本来の意味で、あるいは厳密な意味で主権国家とはいえない」(9条の『国権の発動たる戦争と・・・を放棄する』というのは「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」ということで、「日本は主権を一部、自ら放棄するといっていることになる」)と。
 ④ 自衛隊は、「他国の攻撃に対して戦うための戦力を保持しているのに、『戦力』であれば、憲法違反ということになるので、『戦力』にはあたらないというほかないのだ」(それは「不可解かつ不透明というほかない」)と。

 それへ論評―
 ① について
「外敵から国を守らなければならない、その防衛をいかに」ということで、外敵・脅威の存在を所与のものとして(その存在が誰にでも認められる確実な既定の事実であるかのように、それを前提として)論じているが。
 大戦が終結して、米英中ソ等どの国も外敵や脅威ではなくなったはず、なのに米ソの冷戦でソ連を脅威・仮想敵国として米軍に基地提供して駐留を認め続け、今は中国を北朝鮮とともに脅威と見なして、それを前提に、中国・北朝鮮などから「日本を守らなければ」とか「防衛」「抑止」だとか論じているのである。
 実は戦後、当初は「全面講和」とか「非同盟・中立」といった選択肢もあったにもかかわらず、アメリカなど西側諸国との「単独講和」「日米同盟」の方を選んできた。それは要するに敵味方を峻別し、それを前提として歴代日本政府は安全保障戦略をとってきたが、それを所与のものとして防衛を論じているのである。
 しかし、そのような外敵も脅威も、けっして所与のものではなく、実は意図的に「つくるもの」なのであって、安倍首相が中国などを敵視して敵をつくっているのでは。アメリカはかつて「鬼畜」同然の敵だったのに、今や最も親密な味方。ならば中国もロシアも韓国も北朝鮮も、どの国であれ、味方に変えることができるはず。
 戦後国際秩序、このほうが国連憲章の「敵国条項」(日本は連合国の旧敵国として特別な扱いが為されることを定めている条項で、既に国連総会で削除決議が採択され、事実上「死文化」してはいるが、憲章からは削除されず、そのままになっている)をも含めて「所与のもの」(既定事実・国際的コンセンサス)とされているのである。
 それに対して日本の政権・政治家が思っているような「中国などの国が敵・脅威で、アメリカが味方・同盟国である」などということが「所与のもの」であるはずはないわけであり、それを前提として防衛を論ずること自体まちがっているのでは。
 ② について
 「国民が主権者であるから、国民が自らの手で、自らの生命・財産を守る義務が」あり、「国民皆兵制(徴兵制)による防衛こそが原則」、それは「現実化されないにしても、それがひとつの精神のあり方」だと。
 もっともらしい理屈だが、国の主権者だから国を守る防衛義務があるというのは短絡的。
 各人が、自分が主権者であり参政権を持つ(しかし、それは選挙に立候補して当選した人以外は投票に参加するだけのことで、自分が為政者になって国務・国政に参加するわけではない)そのことと、自分の個人財産や自分の身を自分で(銃刀を所持して)守ることと、国民の生命・財産を警察や消防や海保が守ることと、為政者の決定によって運用される防衛組織(自衛隊か軍隊)に参加・協力することとは別のこと。
 「権利には義務が伴う」という言い方が(売買契約などのように売り手と買い手の間に発生する権利・義務と混同して)なされるが、実は、人権や主権(参政権)は、何かの義務と引き替えに認められているものではない。新たに18才以上に選挙権が認められたからといって、彼らに新たな義務が課せられるわけではのだ。
 「権利には義務を伴う」というならば、それは「国民の権利には(それを守る)国家の義務が伴う」ということなのであって、国民の平和的生存権などの人権には、国家(権力)がそれを守る義務が課せられている、ということにほかなるまい。
 国民の平和的生存権など人権を守るのに、国民に防衛義務・兵役義務(命を捨てる義務)が伴う、などということはあり得まい(人権を守るために「自由か、しからずんば死か」といって自己決定して自発的に戦うレジスタンスのような戦士ならいざしらず、それが義務だなんて)。
 
 ③ について
 「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止だった」、「『防衛』という面からみれば、平和憲法と日米安保体制はセットであった」。
 「防衛を米軍に委ねる限り、日本は本来の意味で、あるいは厳密な意味で主権国家とはいえない」と。
 しかしそれは、戦後間もなく、憲法制定当時、日本には「全面講和・非同盟・中立」という選択肢もあったのであり、憲法の平和主義に徹して、ソ連など、どの国をも敵とせず、どの国とも友好関係を結んでいれば、わざわざ「防衛」を米軍に委ねる必要もなく、主権を一部放棄するようなことにはならなかったろう、ということだ。それをアメリカなど西側諸国とだけ「単独講和」、日米安保条約を結んで、反ソ陣営に身を置き、対ソ防衛を米軍に委ねて基地を提供し駐留させ続けてきたのである。そして、平和主義を欺瞞たらしめ、主権国家として半端な国たらしめてきたのである。
 ④ について
 自衛隊は、「他国の攻撃に対して戦うための戦力を保持しているのに、『戦力』であれば、憲法違反ということになるので、『戦力』にはあたらないというほかないのだ。」それは「不可解かつ不透明」というほかなく、これまた欺瞞だ。だから憲法を堂々と改正して「戦力」(「自衛軍」とか「国防軍」など軍隊)としてはっきり認めるべきだということなのだろう。(そして、個別的自衛権に限らず集団的自衛権の行使も無限定に認め、日米安保条約も、日本が守ってもらう防御同盟から日米が互いに守り合う攻守同盟へと双務性を深め、軍事同盟として完全に機能できるように進化させるべきだ、ということか。)
 しかし、自衛隊は(これまでは)普通の軍隊とは異なり、急迫不正の侵害に対して(憲法の定めとは別に)自然権としてどの国にも認められている自衛権に基づく必要最小限度の実力行使しかできず、集団的自衛権の行使は認められず、海外で他国の戦争に参戦・武力行使はできない(多国籍軍や国連平和維持軍に参加できない)専守防衛力とされてきた。それは9条と両立する(9条解釈の)許容範囲をぎりぎり守ってきたと言えば言えなくもないということで微妙ではあるが、決定的に重要な一線が認められことは確かだ。(今回の新安保法制はそのレッドラインを越えている。)
 敢て「9条セット論」即ち9条(戦力不保持・交戦権否認―戦争には、仕掛けられてやむなく防戦する以外には応じないことを明記・宣明することによって、諸国民に安心供与)にセットするものとしてこれが有用だということで論ずるなら、9条に対して超攻撃力を持つ米軍(その駐留・基地を受け入れる日米安保条約)をセットするというのは、9条に核兵器をセットするようなもので、全く矛盾・不適切で、それならむしろ自衛隊の方がそれに(9条にセットするものとして)相応しいといえないか。


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