米沢 長南の声なき声


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脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性(再加筆修正版)
2015年06月15日

Ⅰ脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性
 安倍政権の集団的自衛権行使容認と安保法整備は、なにも戦争をしたいからではなく、中国・北朝鮮などの脅威に備えて抑止力を高めなければならないからだ、と思っている向きが(安倍首相ら閣僚、庶民にも)あると思われるので、そのような中国・北朝鮮脅威論・抑止論に対応した議論も必要なのではないか、と問題提起したら、そんなことを考えてこれ(安保法案)を出してきたのではあるまい(問題の本質はそんなところにあるのではないし、それに、そんなことを言ってるのは右翼だけ)とおっしゃる。はたしてそうか。
 安倍首相も防衛大臣・外務大臣も官僚も、「日本を取り巻く安全保障環境―東アジア情勢―が一層厳しさを増している」とは言っても、中国が脅威だとか北朝鮮が脅威だなどと名指しして言っているわけではない、というのはその通りかもしれないが、「抑止力を高めるためだ」と言ってるのは事実であり、その際中国・北朝鮮を念頭に置いているのも確かだと思う。また庶民の中には、「中国・北朝鮮などの脅威」を理由に「抑止力」としてそういうものが必要だ(中国や北朝鮮の脅威から尖閣などの島々や日本本土・日本国民を守るため、戦争をしかけられたりしないように、日米同盟も沖縄基地も、集団的自衛権行使も「切れ目のない」安保法制も「抑止力」として必要だ)という肯定論があることも確かだ。
 (テレビの街頭インタビューや朝日新聞の「声」にも見られる。)
 (3月の内閣府世論調査では、「日本の平和と安全の面から関心を持っていること」は一に「中国の軍事力の近代化や海洋における活動」60.5%、二に「朝鮮半島情勢」52.7%、三に「国際テロ組織の活動」42.6%で、「戦争の危険性を感じている」が75.5%。)
 (米沢市議会では、12月、「米沢9条の会」が出した「集団的自衛権行使に反対する意見書提出についての請願」は総務常任委員会で賛成少数で不採択に終わったが、その際の質疑の中でも反対者の意見にはその中国・北朝鮮脅威抑止論があった。)
 そこで、今回のこの集団的自衛権に関する憲法解釈変更とその閣議決定に基づく安保法制関連法案には、改憲論者の中にも反対が多く、世論調査でも法案そのものへの反対とともに「安保法案『説明不足』」と答えてる人が大多数(8割)で、そのままでは通りそうもない形勢だ。
 しかし、「現行憲法の解釈では集団的自衛権行使は認められない」、だから反対だとは言っても、それは「憲法改正しない限り認められない」ということなのであって、憲法を正式に改正して自衛隊を正式に軍隊化したうえでなら、集団的自衛権も安保法制も認められないでもあるまい、という向きも少なくないのでは。
 だとすれば、安倍首相にしてみれば、それならそれ(明文改憲)にこしたことはないとして、現行のままの解釈改憲は断念しても(無理をして通さなくても)、「憲法改正」そのものには賛成だという(小林節教授のような)学者や世論に乗じて堂々と国民投票による改憲に打って出ようという選択肢もあるわけであり、むしろそのあたりに真の狙いがあるのであって、そこにこそ問題の「本質」(核心)があるのでは。
 だからこそ、脅威・抑止論の議論が大事なのだ。

Ⅱ安全保障政策― 一方の国々を潜在的敵国であるかのように脅威視し、他方を同盟国として敵味方(密接な関係にある国とそうでない国)に峻別、自らの軍事同盟・軍備体制を脅威に対する抑止力として強化するやり方。
 そこで疑問は(1)国々をそういうふうに敵味方に峻別することに合理性はあるのか。
       (2)軍備を抑止力にするのに合理性はあるのか。
 時代情況―近代の植民地主義や帝国主義の時代なら資源や権益をめぐって植民地・領土の争奪戦や勢力圏の分割・再分割戦争が公然とおこなわれたものだが、二つの大戦後、国連その他でそのような戦争は違法化され禁止されているのが今の時代。

 (1)について―なぜその国が脅威で、我が国と敵対し、軍事攻撃をしかけてくるものと予測して警戒し軍備を整えておかなければならないのか。
  その理由として考えられるのは、
   ①その国が自国の存立・自衛のために死活的に必要とする資源その他(ハードウェアorソフトウエア)が我が国にあって、それを求めていると判断されるから。
   ②それを我が国に平和的に交渉しても合意する見込みはなく強奪・占領するしかないと意図していると判断されるから。
   ③その攻撃意図のもとに軍備を用意していると判断されるから。
 要するに、その国が自存自衛のために死活的に必要としていて、それを我が国に求めて交渉しても拒絶され合意の見込みはなく、強奪するしかないと考えて武力攻撃をしかけてくるかもしれない(その蓋然性がつよい)と、その国を見なしているからだろう。
 しかし、そのような判断に合理性があるのか。

 中国、中国と言われるが、中国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたしてあるのだろうか?尖閣?それを日本に戦争しかけてでも?他にも何かある?
 北朝鮮は?同国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたして何があるのだろうか?
 その国や勢力が「脅威」だと言っても、それは、その国や勢力を「脅威」視して敵に追いやっている「こっちの(対応の)せい」もあるのであって、鏡に写った自分の姿でもあり、全面的に「相手のせいだ」とばかりは言えまい。
 尚、「安全保障環境の厳しさ」といえば、それは向こうの立場からすれば、中国にとっては三方は陸続きで、北はロシア・モンゴル・北朝鮮、南はインド、インドシナ諸国、西はパキスタン・アフガニスタンなどと直接国境を接し、東側だけが海で、東シナ海では日韓と、南シナ海ではベトナム・フィリピン・マレーシアなどと領海が重なっている。そしてウイグルとチベットの独立運動(テロや暴動)に悩まされ、台湾にはアメリカから支えられてきた実質的な独立政府が存在しており、太平洋には米・日・韓・豪など国々が同盟を形成して立ちはだかっている。これらは中国にとっては脅威でもあり、安全保障環境の厳しさともいえるだろう。
 また北朝鮮にとっては、米韓とは朝鮮戦争以来未だ休戦状態で戦争は終結しておらず、アメリカはその同盟国・日韓とともに、それこそ脅威なのだろう。
 これらの国の核軍備は、その脅威に対する自存自衛のための「抑止力」だと彼の国では思っており、そう称してもいるわけである。

 かつて日本はまさに「自存自衛のため」と称して(日清・日露戦争以来他国領域で戦争し、朝鮮半島、南シナ海を含む台湾、満州を植民地支配、中国から東南アジア、太平洋諸島にわたって侵攻し)侵略戦争をやってのけたし、今は「国の存立・自衛」のためにと集団的自衛権の行使を正当付けようとしているわけである。
 いずれにしろ、それは我が国のその国に対する対応(平和的交渉に応じるか、拒絶し、強奪に備えて軍備を構えて軍事対決するのか。それに歴史問題・靖国問題などのわだかまりもある)それ如何ということ。
 そこで目指すべきはお互いに強奪(武力行使)には訴えず交渉に応じ合うことだろう。
 
 安全保障には、国々を敵味方に峻別して軍事対決する(軍事バランスをはかる)よりも、全ての国々を味方にしたほうが合理的だろう。
 
 (2)軍事的抑止力の問題点
 ①市民社会なら、銃器を護身用で攻撃抑止のためだとして、米国(殺人事件の発生率は日本の10倍)のように我が国で市民個々にその所持を認めたらどうなるか。
 銃を手にすることによって、その武器に依存してしまい、対話を十分尽くさずに発砲してしまいがちとなる。(以前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウイン・パーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、「もし銃を持っていなければ、まず言葉を交わしたはず」だった、といわれる。)或いは「やるならやってみろ」と相手からの攻撃を呼び込むことにも。
 それに、互いに銃を持ち合えば、「撃たれるより先に撃ち、殺られる前に殺る」ということになってしまう。
 ②軍備は戦争を抑止する手段「抑止力」だというが、対抗する相手国(或いは勢力)も疑心暗鬼から軍事的「抑止力」を増強し、軍備競争となる。そしてそれ自体が、領有権問題など利害・権益その他の対立とともに、紛争の火種となり、軍拡競争と軍事対決・一触即発の危険をもたらし、偶発的軍事衝突から戦争を引き起こす原因となる。軍備は、それによっては火種を消すことはできず、むしろ燃え上がらせてしまう結果となる。
 ③軍事力が(その規模と同盟拡充によって)いかに優勢であっても、それがあるだけで、その武力を行使する意思(単なるプレゼンスや脅しではなく本気、全面戦争も厭わない国民の覚悟)がともなわなければ抑止効果は充分働かない(相手から見れば、その軍備や安保法制は「張り子の虎」に過ぎないと見なされるから)。
 中国軍の東シナ界や南シナ海への進出に対してアメリカに軍事介入する意思がないかぎり中国にそれらから手を引かせることはできまいし、またウクライナでは東部の親ロシア住民の離反とロシアによるクリミア併合に対してNATOに軍事介入の意思は乏しく、ロシアにそれらから手を引かせることはできまい(国際政治学者・藤原帰一教授)。
 米ソ冷戦時代(1962年)のキューバ危機では、ケネディ米大統領・フルシチョフソ連首相とも全面核戦争になることを恐れ、両首脳が直接交渉、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにソ連がキューバからミサイルを撤去して、辛うじて戦争は回避、といったことがあった。
 1994年(北朝鮮は金日成主席、アメリカはクリントン大統領当時)、アメリカは北朝鮮の核施設空爆を計画したが、シュミレーションしてみたところ全面戦争に発展すれば、死者は韓国の民間人100万人、兵士45万人、米兵5万2千人と予測され、空爆は断念(その後、金日成とカーター元大統領が会談して米朝枠組み合意が成立)、といったことがあった。全面戦争となると二の足を踏むのである。
 かつての日本国民には「一億玉砕」の戦意と覚悟があったように見られるが、その惨憺たる結果に懲りて戦後憲法に戦争放棄を宣明した、その国民に再び全面戦争も厭わない覚悟がないかぎり、自衛隊・日米同盟・安保法制をどんなに拡充・整備しても、その抑止効果は望めまい。
 一方、北朝鮮の(かつての日本のような)玉砕戦法やISなどのような過激派宗教勢力の自爆攻撃には、どんなに強大な軍事力や軍事同盟があっても抑止力は効かない。
 (軍事力・軍事同盟など、そのようなものに頼らなくとも、こちらに武力行使も戦争もする意思がなければ、相手も武力行使の必要はなく、戦争にはならないわけであり、その不戦意思を宣明した憲法9条そのものが、抑止力になるのだ。)
 ④日米安保・米軍基地といい自衛隊といい、それらの軍備はこれまでもソ連・中国・北朝鮮などによる武力攻撃に対する「抑止力」とされてきたが、そのおかげで、これらの国々による攻撃が抑止されたとはかぎらない。そもそも、これらの国々にその必要(大義名分―正当な攻撃理由―はなく、違法な武力攻撃にうったえて国際社会の非難・制裁を被るなどのリスクを冒してまで、それを強行するメリット)もなく、その意思がなかったからにほかなるまい。
 いずれにしろ、これらの国々(中国・北朝鮮)は、それで(日米の強固な軍事力のゆえに)自らの軍備を諦めるどころか、中国はなおもそれを増強し(南シナ海の岩礁に軍事施設建設を始め)、北朝鮮は核・ミサイル開発をやめてはいない。
 それに対して我が国は「抑止力を高める」と称して、集団的自衛権の行使容認、安保法整備を図っている。そういうことをすれば相手も同様に「抑止力をもっと高めなければ」となって、中国はさらなる軍備増強にかられ、北朝鮮も核・ミサイル開発をやめるわけにはいかなくなるというもの(互いに同じことを繰り返してエスカレート)。「高める」のは安全度ではなく、危険度であり、増えるのは防衛費(軍事費)だろう。
 「抑止力」といっても、その軍備は「盾」だけでなく「矛」も持ち、攻撃力でもあるのだ。中国・北朝鮮のは攻撃力で、日米のは抑止力だなどということはあり得ないのであって、どっちもどっちなのだ。
 軍事的抑止力なるものに合理性があるとは到底思われまい。

 これらのことを考えれば、集団的自衛権行使容認の安保関連法整備は「抑止力を高めるもの」という(軍事的抑止主義)が、それは逆で、かえって戦争やテロを呼び込むリスクを高めるもの、といわなければなるまい。

 (3)目指すべきは非軍事的抑止力
  ①「憲法力」―9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)―戦争しない、させない―不戦意思を宣明―自国政府に戦争をさせない、と同時に他国に対しても日本に戦争を仕掛けさせない(宣戦布告には応じず、武力攻撃をさせない)(一方的に武力攻撃すれば国際社会から違法な暴挙・侵略行為と見なされ、厳しい制裁を被ることになる。)
  (これを変えたら―解釈改憲or明文改憲したら―不戦意思を引っ込めて戦争意思があることを宣明したことになり、諸国の対日不信・警戒を招くことになる)      
  ②国際機関―国連―制裁
        国際刑事裁判所などによる懲罰
  ③経済協力・文化交流・人道支援―相互理解・協力・分かち合い―紛争予防
  ④「東アジア共同体」(平和の共同体―「戦略的な信頼」関係)の構築
  ⑤道義―信義―信頼関係―「諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)―中立・公正で敵をつく
らないこと―に基づく外交力
  ⑥反戦世論・運動

 9条と国民の不戦意思は、自衛隊の装備や訓練、日米同盟や安保法制など、それらをどんなに整えても、その軍事的抑止力は削がれ、政府や自衛隊に戦争をやり難くさせるが、それは相手国・他国に対しても我が国に対する戦争意思・武力攻撃意思を削ぐ、という抑止効果が働く(こちら側に戦う意思がなければ相手側にも戦意は起きないからである)。
 今、我々日本国民に問われるのは、国民の意思であり、どの国に対しても9条の通りに不戦意思(戦争反対の意思)を貫こうとするのか、それとも、相手(国)によっては、いざとなったら全面戦争も厭わない覚悟で自国の軍事的抑止力を支えようとするのかだろう。
 以前、アジア・太平洋戦争に突入する前は、日本国民に戦意高揚(全面戦争も覚悟)があって、それが実行された。戦後、その惨たんたる結果に懲りて新憲法に不戦を誓ったが、今はどうなのか。変わってしまったのか?
 北朝鮮国民にアメリカや日本に対して全面戦争の覚悟(「やぶれかぶれ」意識)は・・・・ないと言えるか?中国国民はどうか?両国民ともアメリカや日本に対してはかつての戦争や植民地支配の怨みからくる反米・反日感情が根強く全面戦争も厭わない国だとすれば、その中国や北朝鮮などに対して、日本がいかに自衛隊や日米同盟を強化し、集団的自衛権行使容認の安保法制を整えても、その抑止効果をはたしてどれだけ働かせられのか、それは甚だ難しいだろうと思われるが、その見極めが必要だろう。
 一方、9条を基調とする非軍事的抑止力はどうかといえば、戦後我が国が、これまで他国から戦争をしけられずに済んだのも、日米安保のおかげというよりは、むしろこの9条のおかげであり、この9条の抑止効果の賜物と思われる。
 この9条を全世界に普及させ、各国ともこれに倣うようにすべきなのだ。


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