米沢 長南の声なき声


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抑止力効果は相手しだい(加筆修正版)
2015年08月11日

 安保法案は「万が一への備え」で、「戦争を未然に防ぐため」「抑止力を高めるため」のものだと言う。しかしそれは、こっち(安倍首相)はそのつもりでも、相手がその通り受け取って挑戦を控えてくれるとはかぎらず、その抑止効果は相手がそれをどう受け取って、どう対応するのかにかかっており、こちらの思惑・期待通りにはいかないもの。相手はそれぞれ、日本政府のそのような軍事的「抑止力」政策に対する信頼度と政治的・経済的・道徳的得失などコスト計算・リスク計算に基づいて対応を決めるのだ。
 その対応には次の5通りが考えられる。①こちらの期待通りに恐れをなして挑戦を完全に断念(屈服)して武装解除か専守防衛のみに、②挑戦は一時控えて、こちらを上回る攻撃力アップに努める、③挑戦は控えるも対抗的抑止力アップに努め、パワー・アップを図る、④挑戦を断行、⑤初めから挑戦する気はなく専守防衛か非武装さえも。
 これらの対応は、その相手国(もしくは勢力)それぞれの状況に応じたコスト計算・リスク計算に基づいて割り出されるが、ISなどの過激派勢力の場合は計算を度外視してでも挑戦は強行される(自爆攻撃による非対称戦)。
 ②と③の場合は競争的軍拡と軍事対決を招き、軍事衝突から戦争を惹起する危険性がある。
国々の大部分は③か⑤の専守防衛にとどまっているのではないか。
 旧ソ連・ロシア・中国・イラン・北朝鮮などの国は③或は②とも考えられるにしても、いずれにしろ、①のような対応をする相手、即ちこちらの期待通りに軍事的抑止力を効かせられる国(或いは勢力)というのは、はたしてどこなのだろうか。中国或いは北朝鮮がそんな(威嚇に恐れをなして引き下がるような)国だというのだろうか?ISなど過激派組織はそんな勢力なのだろうか?
 北朝鮮の立場から見ればリビアやイラクはアメリカに対して①の対応をとって核武装をやめたから滅亡するはめになったのだと考え、「核抑止力」に執着しているのだと見られよう。
 アメリカの立場から日本を見た場合、日本はかつての挑戦国で、敗戦で①の対応をとらざるをえず武装解除したが、やがて自衛隊を創設して「専守防衛」に転じ、今や③に転じようとしている。それが仮にもし改憲されて軍事制約が解除されれば(それは軍事制約があるが故の軍事的対米従属からの脱却をも意味し)、日米同盟は維持したとしても、現在の不平等な安保条約を改定(一方的な基地提供義務や治外法権的な特権を認める地位協定や思いやり予算などは廃止)して、かつての日英同盟のように対等な攻守同盟に改変されるかもしれず、そうなると、②ともなりかねず、日本はアメリカにとって不安な存在となる。なぜなら、「時の政権」によっては、アメリカに忠実な親米政権ばかりとはかぎらず、脱米・脱戦後レジーム政権(ポツダム宣言や東京裁判に反対し、アメリカの核の傘に頼らず自前の核武装さえも目指す極右政権)もあり得るし、非暴力平和主義を唱える政権もあり得、米国の紛争に軍事介入するのをためらい、米国に対する防衛義務を果しえない政府が存在することもあり得るからだ。
 9条を改憲すれば、アメリカはもろ手をあげてそれを歓迎するとはかぎらず、ましてや中国・韓国・北朝鮮・ロシアなど隣国はなおさらのこと、日本に対して脅威感がおぼえ、これらの国々の方が、対日「抑止力」(軍事)強化に向かいがちとなるだろう。
 
 首相は「不戦の誓いは堅持する」と言い、この法案は「戦争を未然に防ぐために抑止力を高めるためなのであって、戦争をするためのものではない」というが、そのために「あらゆる事態に切れ目なく、日米が一層協力して対応できるようにしておく」、ということは(名護市辺野古の新基地建設―普天間基地移設―などとともに)戦争の用意(戦争準備体制)を常に整えておくということであり、(それは中国や北朝鮮など相手に対して「やるならやってみるがいい、いつでも受けて立つ用意があるから」と戦争を呼び込むことにもなあり)、戦争する意思を示す戦争法案であることに違いはないのだ。

 この法案の提出者(安倍首相や政府与党)は「これらは抑止力のためで、戦争するためのものではない」と言うが、彼らはそのつもりでも、相手の国々や勢力はその通り受け取って対応してくれるとはかぎらないのと同様に、国民もその通りには「素直に」受け取ってはいない人たちの方が多いのである。たとえどんなに「丁寧に説明」を受けても。このような軍事的「抑止力」論には、そもそも論理矛盾があり(それは防御用の「盾」だとは言っても、攻撃用の「矛」ともなり)、多分に主観的で実証的な検証も不可能に近いからである。


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