米沢 長南の声なき声


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北京オリンピックに思う(加筆修正版)
2008年08月23日

1、オリンピックとは
 北島康介選手は大会前、インタビューで「北島さんにとってオリンピックとは?」と訊かれて、(「言葉は悪いかもしれませんが」と断わりながら)「戦争です」と答えていた。
 胡錦濤主席は北京オリンピックの大会準備にあたり緊急の中央政治局会議で「これはテロとの戦争だ」と号令したという(「週間現代」8月16日号)。両方とも必死なのだ、ということだろう。北島選手が泳ぎに必死になるのはわかり切ったことだが、胡錦濤氏の「テロとの戦争だ」というのは、いったいどういうことなのだろうか。

 ところで、スポーツ競技も国際大会・国対抗の試合となると、それが国家間・民族間の対立と結びついて騒乱が起き、戦争に発展した例さえある。1969年中米のエルサルバドルとホンジュラスのいわゆるサッカー戦争である。(当時、国境未確定なところにエルサルバドルからあぶれた農業移民がホンジュラスになだれ込むなど様々な問題を抱え両国民の間に反感がつのっていた。折からサッカー・ワールドカップ中米地区予選で両国チームが対戦。双方のサポーターが互いに、相手国選手宿舎を囲んで騒いだり、スタジアムで騒ぎ、死者も出る。準決勝でエルサルバドルが勝つと、ホンジュラス政府はエルサルバドル移民を合法・不法を問わず強制退去させようとした。それに対してエルサルバドル軍が軍事攻撃、ホンジュラス軍が反撃して、双方で数千人の死者を出した。)

 勿論、オリンピックもワールドカップも戦争とは違うはず。
 戦争のばあい、その主体は国家または集団で、その目的は対立する相手の国または集団に対して力ずくでこちらの意に従わせることにあり、闘う兵士たちはその手段にされ命を犠牲にもされる。
 (オリンピックとは関係ないが、往年の名投手、沢村栄治の例がある。彼は京都商業校生で甲子園に出場。1934年、アメリカ大リーグ選抜軍対全日本軍戦でベーブルース、ゲーリックから三振各1個、計9個うばう。ジャイアンツに入団。160キロに近い球速が出ていただろうと推測される。ノーヒット・ノーラン3回達成。
3回軍隊に徴兵。最初の徴兵で中国の戦地に赴き、野球ボールの3倍の重さのある手榴弾を投げさせられて肩を痛め、オーバースローからの速球は投げられなくなりアンダースローに転じた。2度目の徴兵から復帰後はコントロールも失い、好成績を残すことができず、球団から解雇されるに至る。3度目の徴兵で、東シナ海・台湾沖を輸送船に乗って行く途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死。1944年12月、享年27歳。彼の豪腕は国家によって利用され、彼の命は犠牲にされたのである。)
 それにひきかえオリンピックは、その主体は個々の選手たちで(五輪憲章ではオリンピックは「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めている。国々のメダル獲得競争など意味が無いということ)、その目的は選手それぞれが自らに備わり鍛えた体力・精神力・技を競い合い、自らの生命の燃焼を光り輝かせ生きる喜びを分かち合うこと、それ自体にある。(クーベルタンの云う「オリンピックは勝つことではなく、参加するところに意義がある」とは、競争の結果得られる「見返り」にではなく、競争する行為(競技)そのものに目的が帰着するという意味であろう。勝者・入賞者はメダルがもらえ、自国で報奨金(日本では優勝者には国からは300万円)もらえるとしても、彼らはそれがもらえるからということだけで頑張るわけではなく、また敗退し何ももらえなかった選手にはオリンピックは無意味なのかといえば、そんなことはあるまい。負けた選手がいてくれたから勝った、一緒に競ったライバル選手がいてくれたから最高記録を出せたのであって、参加・出場選手は勝者も敗者も存在価値としては同じなのである。単に「勝った負けた」だけではなく、互いに競い合うことで互いに力と技を最大限出し切ることができ、記録を伸ばすことにもつながるし、勝者であろうと敗者であろうと世界最高の舞台に各国代表選手とともに参加・出場して競技に命を燃やした心の充実感・生きがい感の点ではどの選手にとっても同じ意義があるのだということだろう。400メーター・リレーで初の銅メダルを博した日本チーム・アンカー朝原選手の「最高の舞台で、最高に気持ち好いんで、これ以上何も言うことがないくらい嬉しいです」「これ以上のオリンピックはありません」という言葉はまさにそれである。)
 「国家対抗のメダル獲得競争」で日本は勝ったとか負けたとか云々するのは間違っている。ただし、メダル獲得数は日本スポーツの世界におけるレベルを推し量るうえで一番てっとりばやいデータにはなるだろう。
 要するに、選手たちは「国のため(国益や国威のため)」ではなく「自分のため」に頑張り、応援する我々も「国のために」ではなく選手のために応援するのだ。税金の一部から選手強化費(27億円、JOCが出した分とあわせて40億円)を出すのも「国のため」ではなく、選手が育つようにし、彼らから頑張ってもらうためだ。国民が税金から教育費を出すのは、一義的には、憲法で「すべての国民(子女―引用者)は・・・・等しく教育を受ける権利を有する。すべての国民は(親・大人―引用者)・・・・その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。」と定めているからなのであって、なにも「国家のため」に役立つ人材を育てるためというわけではない。それと同じである。我々が自国・同胞選手に親近感をもち、応援したくなるのは自然な気持からなのであって、選手がそれに恩愛を感じ、応援に感謝するのも自然な気持ちからなのであって、義務や当為からではないのだ。
 オリンピックの各大会の成功・不成功は、各選手ともどれだけ存分に力と技を発揮できたか否か(世界記録、各国の国内新記録、各選手の自己新記録とも多かったか少なかったか、好勝負が多かったか少なかったか、観衆の感動が多かったか少なかったかなど)で評価されるべきであり、競技施設・競技運営・環境整備・警備・安全対策・応援マナーなどオリンピックに関わる開催国政府・都市など公的機関・民間団体・個人の行為もその観点から(各選手とも力・技を存分に発揮するのにどれだけ役立ったか否かで)評価されるべきだろう。それ(各選手の力・技の発揮)を妨げる(或は妨害につながる)行為は批判されて然るべきである。
 メディアや評論家・政治家などの論者の政治的立場・宗教的立場・イデオロギー・利害関係・思惑や人々の民族感情(北京オリンピックに対してなら反中・嫌中感情)によって違う焦点の当て方がなされるが、いちばん公平なのはオリンピックの目的に照らした、主役である選手・アスリート本位に評価がなされることだろう。
 そもそも、オリンピックは何のため、誰のためのものなのかといえば、一義的にはそれは世界の選手・アスリートに最高の舞台を与えるためであり、彼らアスリートたちのためのものだからである。
 オリンピックにからんで開催国その他が抱える問題(北京オリンピックなら、中国の統治体制の問題・経済問題・環境問題・人権問題・チベット問題・ウイグル問題・ギョーザ問題など)を指摘し、それを取り上げ、論評するのもよいが、である。
 (報道のあり方については、報道にたずさわるジャーナリズムの側は報道の自由を主張し、政府などには「不都合な真実」―マイナス報道―をも取材・報道しようとする。しかし、商売上―利潤確保―の必要から購読者獲得・視聴率獲得・スクープ競争がおこなわれ、自国の多数派におもね、興味本位に走る傾向がある。
 これに対して政府など統治にたずさわる側は、統治に都合よい報道を求め、不都合な、或は倫理に反する有害な報道を規制しようとする。
 北京オリンピックに際しては<朝日新聞によれば>開幕直前、中国当局は国内メディア各社に対して通達を出し、「愛国心を盛り上げるよう重点的に中国選手の活躍を報道する」とか、「中国選手のメダル獲得数を予測するな」「テロへの恐怖をあおるような過剰な警備態勢について報道するな」「読者を過度に驚かすような見出しをつけるな」などと指示している。「いかなる企業の利益も国家の利益に比べれば小さい」(中国共産党宣伝部の責任者の言)というわけである。
 開会前、胡錦濤主席は外国メディアと会見し、中国の人権問題やチベット問題を五輪に絡める「政治化」は「失敗に終わる。」「世界には様々な問題や異なった見方があるが、五輪の政治化は問題の解決にはならない。」「中国は最大の途上国で、抱える矛盾や困難は世界でもまれな規模・複雑さだ。」「十数億人が安定した生活を送れる社会の建設にはまだ長い時間がかかる」などと語ったという<8月3日付け朝日>。
 大会最終段階で外国人記者クラブは中国政府の報道規制を非難し、取材妨害が何十件もあったと抗議している。)

2、近代オリンピック史
 近代オリンピックは1896年アテネ大会から始まる。その時の参加国・地域数は14(ヨーロッパ諸国とアメリカ・オーストラリア)、参加選手数241名(うちギリシャ人200名)で古代ギリシャのオリンピック復活の様相を帯びていた。選手は国代表ではなく個人として参加した。テニスのダブルスなどは国籍の異なる選手がペアを組んで行われた。
 1900年(第2回)はパリで開催、1904年(第3回)はセントルイス(アメリカ)で開催、1908年(第4回)はロンドン開催だが、3~4回の中間の1906年にアテネで2度目のオリンピックが開催されている。「中間年オリンピック」はこの一回だけで終わり、後にオリンピックの公式記録からも外されるが、この大会から初めて国別のエントリー制限が設けられ、初めて開会式で国旗を先頭にした入場パレードが行われ、初めて表彰式で優勝者の国旗が掲げられた。
 1912年(第5回)はストックホルム(スウエーデン)で開催され、初めてアジアから日本選手が2名だけ参加した。
 1916年(第6回)はベルリンで開催が予定されていたが、第一次大戦で中止された。
 1920年(第7回)はアントワープ(ベルギー)で開催。敗戦国のドイツ・オーストリア・ハンガリーの選手は招待されず。五輪旗と選手宣誓はこの大会から登場。日本は初めてメダル銀1個。
 1924年(第8回)はパリで開催。日本はメダル銅1個。
 1928年(第9回)はアムステルダム(オランダ)で開催。日本は初めて金2つ獲得、銀は2、銅1。
 1932年(第10回)はロサンゼルスで開催。日本は金7、銀7、銅4。金メダルを獲得した選手のうち西竹一(はじめ)選手は馬術の選手。彼はその後、太平洋戦争末期、硫黄島で戦死。
ベルリン=オリンピック
 1936年(第11回)はベルリンで開催。大会はヒトラー政権がプロパガンダ・国威発揚に活用。聖火リレーはこの大会から登場。この大会でドイツの金メダル獲得数は37個で、アメリカをしのいで首位。日本は金6、銀4、銅10個だった。
 この大会後の1937年、日中戦争に突入。1940年の12回大会は東京開催に決まっていたが日本はそれを返上。1939年には第2次世界大戦に突入し、1940年の12回大会、1944年の13回大会も中止。
 大戦終結後再開され、1948年にロンドンで第14回大会が開催。日本はドイツとともに戦犯国として招待されなかった。
 1952年(第15回)はヘルシンキ(フィンランド)で開催。日本は先のベルリン大会以来16年ぶりに参加。メダル獲得は金1、銀6、銅2と振るわなかった。
 1956年(第16回)はメルボルン(オーストラリア)で開催。馬術だけは別途にストックホルム(スウエーデン)で開催(オーストラリアがこの国独特の自然を守るために馬の入国に6ヶ月もの検疫期間を必要としたため)。日本のメダル獲得数は金4、銅10、銅5.
 1960年(第17回)はローマで開催。日本は金4、銀7、銅7.
東京オリンピック
 1964年(第18回)は東京で開催。日本は国をあげて、この世界的行事に精力を注ぎ、全経費では、時の国家予算の4分の1を投入。オリンピック=スタジアム(国立競技場)をはじめとする大会施設建設のほか、東海道新幹線の開通、羽田空港の拡張、首都高速道路・地下鉄・モノレール等の交通網の整備、それにカラーテレビの発売もこの時期におこなわれた。これらは戦後我が国の高度経済成長を促し、経済大国として躍進する大きな足がかりとなった。
 聖火はギリシャから南回り空路をとり、中継地での国外リレーを展開しながら台北から沖縄を経て日本本土到着まで19日間かけたうえで、1ヶ月間におよぶ国内リレーは、北は札幌から、南は鹿児島からと、二手に分かれ計4つのコースで進められ、米沢では在職した我が校陸上部の代表選手もトーチを手にして走った。10万713人目の聖火台に点火した最終走者は原爆投下の日に広島で生まれた若者(坂井義則)だった。
 この大会で、日本は金16、銀5、銅8で、金メダルの獲得数は米ソに次ぐ3位、オリンピック参加史上最高の成績となった。中国は、アメリカなど西側諸国(日本も)が北京政府を認めず台湾政権に国連代表権を認めていたために、先のヘルシンキ大会以来不参加だった。
 その中国は開催期間中、原爆実験を成功させ、そのうえで核兵器全面禁止のための国際会議開催よびかけを声明。
メキシコ=オリンピック
 1968年(第19回)はメキシコシテイで開催。その年、ベトナム戦争は解放戦線軍が大攻勢、5月パリ和平会談へ。10月北爆(米軍機の北ベトナム空爆)停止。
4月アメリカでは黒人解放運動の指導者ルーサー=キング牧師が暗殺。
8月、ソ連・東欧5カ国軍がチェコ侵入。
10月メキシコで学生が反大統領・民主化運動、オリンピック開催の10日前、トラテロルコ広場に集まった1万人の群集に発砲250人の死者が出た(トラテロルコの虐殺)。開会式は大歓呼のなかで無事おこなわれる。日本は金11、銀7、銅7。
陸上200メートルで優勝した選手と3位の選手はともにアメリカ黒人選手、二人は表彰台で頭を下げ黒手袋をはめた片手を突き上げた(人種差別に抗議)。IOCは二人を選手村から追放処分にした。それに対して同じアメリカ黒人選手で、ボクシングのスーパーヘビー級で優勝したジョージ=フォアマンは「人種差別(反対)に最も取り組んできたオリンピックに抗議するなんて勘違いもはなはだしい」と批判(IOCは当時、アパルトヘイト―競技場などスポーツ施設での人種隔離政策―を行っていた南アフリカ共和国に対してオリンピックへの選手招待状を撤回していた)。
ミュンヘン=オリンピック
 1972年(第20回)はミュンヘン(ドイツ)で開催。日本は金13、銀8、銅8。
大会11日目、選手村のイスラエル選手宿舎にパレスチナ=ゲリラ8人が侵入、選手9人を人質にし、イスラエルに収監されていた仲間234名の解放を要求。最初の襲撃とその後の銃撃戦でイスラエル選手・役員11名、ドイツ警察官1名、ゲリラ5名が死亡。大会は34時間中断、テロリストへの抵抗の意志表示としてオリンピック=スタジアムに半旗を掲げて追悼式を行い、IOC会長が「大会は続けなければならない」と演説。大会は1日遅れて再開した。「追悼式への日本選手団の出席者は皆無に等しく、この種の事件への認識の低さが指摘される」(講談社『クロニック世界全史』)。この事件は、オリンピック開催中のテロに対する警備、犯人への対応のあり方など様々な問題を後に残した。

 1976年(第21回)はモントリオール(カナダ)で開催。日本は金9、銀6、銅10。
モスクワ=オリンピック
 1980年(第22回)はモスクワで開催。ソ連軍のアフガニスタン侵攻に反対してアメリカなど西側諸国・日本もボイコット。日本不参加決定を伝える朝日新聞の見出しには「JOC総会で決定」「『現状ではやむなし』異例の採決29対13」「政治的要請に屈服」とある。当時、柔道の全日本選手権で3連覇し、前年の世界選手権で圧倒的な強さで優勝していた山下泰裕選手は「ここでボイコットをしてしまったら、ぼくたちのいままでの努力はいったいなんだったのですか」と。(参考:武田薫「オリンピック全大会」朝日新聞社)
小杉泰京都大学教授(8月3日付け朝日新聞の読書欄の新刊紹介に松瀬学著『五輪ボイコット』の評)は「一瞬の勝負やコンマ以下の秒数を競う選手たちにとって、4年に一度の晴れ舞台が消滅するほど恐ろしいことはない。」「当時の日本オリンピック委員会JOCには政治の圧力に抗する力はなかった。選手や関係者の願いも虚しく、不参加への流れがつくられた。」「日本のスポーツ界にとって大変な損失が生じた。一度参加しないと8年の空白ができ、それがスポーツの実力の深刻な低下につながった。80~90年代の日本の不振はモスクワ不参加から生じたものであった。」と書いている。
ロサンゼルス=オリンピック
 1984年(第23回)はロサンゼルスで二度目の開催。
アメリカ軍のグレナダ侵攻に、モスクワ五輪ボイコットに対する報復もあって、ソ連と東欧諸国がボイコット。中国は、これに先立って79年アメリカと国交樹立、78年日本とも国交、この大会に36年ぶりに参加。(当時たまたま中国旅行に行っていて、急な都合で単独帰国することになって、出国手続きに上海領事館に立ち寄ったところ、館内のテレビの前に付近の住民が寄り集まって開会式を見ていた。)
 日本は金10、銀8、銅14で、ソ連など東欧諸国の選手が出ていない分、多く獲れた。

 尚、この夏季大会(7~8月)に先だって、2月に第14回冬季オリンピックがユーゴスラヴィアのサラエボで開催。ユーゴスラヴィア連邦はその後解体、そこからボスニア=ヘルツェゴビナ共和国が独立する際の紛争(1992~95)でサラエボのオリンピック=スタジアムは破壊され犠牲者の墓地と化した。
ソウル=オリンピック
 1988年(第24回)はソウルで開催。12年ぶりで東西全世界から選手が集う。金メダル争いはソ連・東ドイツ・アメリカに次いで開催国である韓国が4位に躍進。日本は金4、銀3、銅7。

1992年(第25回)はバルセロナ(スペイン)で開催。日本は金3、銀8、銅11。
アトランタ=オリンピック
 1996年(第26回)はアトランタ(アメリカ)で開催。大会期間中、オリンピック公園広場で爆破事件、2名死亡、100人以上負傷。日本のメダル獲得数は金3、銀6、銅5。

 2000年(第27回)はシドニー(オーストラリア)で開催。日本は金5、銀8、銅5。
アテネ=オリンピック
 2004年(第28回)はアテネで開催。日本のメダル獲得数は金16個で、東京オリンピックの時とタイだが、世界で5番目に多かった。
尚、アメリカは金35、銀 39、銅 29、計 103
    中国は金 32、銀 17、銅 14、計 63
   ロシアは金 27、銀 27、銅 38、計 92
オーストラリア金 17、銀 16、銅 16、計 49
     日本は金16、 銀 9、銅 12、計 37
北京オリンピック
 2008年(第29回)現在、開催中。参加国・地域204(前回のアテネ大会と同じく史上最多、東京オリンピックの時は93ヵ国・地域)、参加人数(選手・役員)1万6,000人、うち日本選手・役員576人(うち選手339人)。
 「鳥の巣」(メーン=スタジアム)の構造設計を担当したのは日本人(菊地宏氏)。開会式アトラクションのコスチュームを担当したのも日本人(石沢瑛子氏)。
 
 胡錦濤主席あるいはJOCのロゲ会長らにはミュンヘン=オリンピックやアトランタ=オリンピックのテロ事件が脳裏にあったものと思われる。
 開催に先立ち、今年初め、新疆ウイグル独立派(「東トルキスタン=イスラム運動」)「毎月1回テロを実行する」と表明。3月チベット暴動。その後、海外各地で聖火リレー妨害頻発。5月、新疆ウイグル独立派がマレーシアのウェブサイトに「宣戦布告声明」、同月中、上海でバス車内自爆テロ、15人死傷。7月、雲南省昆明でバス連続爆破、16人死傷。8月4日、新疆ウイグル自治区のカシュガルで武装警察部隊に爆弾襲撃、16人死亡。10日、クチャで警察施設と自治区政府施設に爆弾襲撃、警備員2名死亡、容疑者8人射殺、自爆2人、3人逃走。12日カシュガル近郊で検問所警備要員、刃物で襲われ3人死亡。

 アフガニスタンとイラクではアメリカとそれに同調する国々が派兵して「対テロ戦争」を続けている。それに北京五輪の開会式の日に、旧ソ連のグルジア親米政権とロシアがグルジア領内の南オセチア自治州(グルジアからの分離独立、ロシア領北オセチア共和国との統合を求めており、ロシアが平和維持部隊を派遣している)をめぐって軍事衝突(グルジア軍が南オセチアに侵攻、ロシア軍が反撃)。それが米・NATO(グルジアを支持)とロシアの対決、「新冷戦」の様相を帯び始めている。大会では女子エア=ピストルで銀メダルを獲ったロシア人選手と銅のグルジア選手が表彰台に立って肩を抱き合うシーンが見られた。二人はそれぞれ「射撃という一見、戦争を連想させる競技でつながる私たちだけど、二人の友情には何も立ち入れない」「私たちは親友。スポーツは政治を超えることを証明できたと思う」と語ったという。
 IOC(国際オリンピック委員会)は「各国代表が行進している時に戦い合うのは悲しいことだ。『五輪休戦』が実現できるよう国連が役割を果たすことを期待する」(デービス広報部長)としている。
3、また東京オリンピック?
 石原都知事の意向によって次々回(2016年)のオリンピック開催地に東京が立候補することになった。
 6月29日付け朝日新聞に各界著名人100人からのアンケート結果が出ていた。それによれば、東京開催に賛成28人、反対48人、「どちらでもよい」と無回答を合わせると24人で、反対が一番多かった。
 現代美術家の杉本博司氏は「戦争以外の国威発揚の手段として適当である」と賛成論。
作家の出久根達郎氏は「賛成だが、8年後の東京が大地震で壊滅していないことを祈るのみ」と。
 反対論には「東京で2回もやったら、大阪の人が傷つくと思う」などがあった。
映画監督の是枝裕和氏は「国威発揚をオリンピックの目的と口にするような時代錯誤の知事が旗振り役をしている一点において」反対。その石原慎太郎だが、彼は以前東京オリンピック当時(32歳)、「優勝者のための国旗掲揚と国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。(中略)私は以前、日本人に希薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックはよき機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるが、その以前にもっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことの方が希ましい」と書いている。しかし現在は都知事になっていて自らが任命した都教育委員会に学校の卒業式等に国旗・国歌を強制して従わない教員を処分させているのだ。
 「21世紀型の五輪はどんなかたちが望ましいか?」という問いには、
九州大の大野俊教授は「国威発揚のためのメダル争いは五輪本来の精神に反する。国籍混合チームの出場を奨励し、表彰式は国旗掲揚や国歌の演奏はやめ、国境を越える複数国開催に」、
東大教授の船曳建夫氏は「国旗や国歌が必要か?国々がまるで戦争の代替物のようにして争うのは、スポーツの伸びやかさを失わせている」、北九州市立大の竹川大介教授は「国家の五輪ではなく個人の五輪に。どこの国の旗も揚げないコジンピック?」などと、アンケートは「国旗・国歌は不要」のほうが多数だった。

 かくいう私はどうかといえば、次のようなことが心配だ。
地震など自然災害もさることながら、国の内外からのテロ攻撃や無差別殺人。
防備・警備は我が国の自衛隊と海上保安庁・警察なら大丈夫、長野聖火リレーも洞爺湖サミットも大丈夫だったし、とも思えるが、8年後東京でのオリンピックは果たして?
 日本はオリンピック開催国に相応しい平和国家と云えるのかだ。「新冷戦」(と云われ出している)その状況下で、日米同盟と米軍基地は堅持され、自衛隊の海外派兵が繰り返される。憲法9条の実質改憲あるいは明文改憲が進められる。そうなった時、日本は危ない国になる。そのような国に世界から選手・アスリートたちが集まって伸び伸びと存分に力を出し切って競技することなどできるのだろうか。

 これを書いているうち、北京オリンピックはとうとう終わってしまった。テロや妨害で中断することも中止されることもなかった。選手はみんな無事だった。そして多くの選手はそれぞれ最大限頑張ったのだと思う。43もの世界記録が出た。金メダル獲得数では、開催国として選手強化(強化費は日本が40億円なのに対して480億円、外国人コーチは日本が12名なのに対して38名)にも格別・力を入れたであろう中国は、これまでトップの座を誇ってきたアメリカをしのいでトップにおどりで、韓国も日本を上回ったが、そのことよりも注目すべきはメダルを獲得した国が大幅に増えて86ヵ国にものぼったことである(前回のアテネ・オリンピックの時は75ヵ国)。日本は、メダル獲得数(金9、銀6、銅10、合計25)は少なかったものの、入賞者数(52種目)は増えている。故障でやむなく欠場・途中棄権をした選手が3人ほどいたが、あとの選手はそれぞれ持てる体力・精神力・技ともありったけ出しきって頑張ったのだ。メダルを獲りぱぐった星野ジャパン、予選で涙をのんだ柔道の鈴木桂治選手、それにマラソンで完走した76人中最下位でゴールした佐藤選手も然りである。彼らも含めて、ハラハラドキドキさせ、涙し、感動させてくれた選手諸君、ありがとう!

 このあとパラリンピックもある。参加・出場する選手・役員の方々、開催・運営にたずさわってくれるIPC(国際パラリンッピック委員会)それに中国の方々もうしばらく頑張ってください。


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