米沢 長南の声なき声


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身の安全、国の安全―国連の集団安全保障体制の確立こそが焦眉の課題(修正加筆版)
2022年09月10日

 A自分の身は①「自分(の力)で守るべき」なのか、それとも②「国(の法と警察)から守ってもらうべき」なのか。そしてB自分の国は①「自分の国(或いは同盟国)の軍事力で守るべき」なのか、それとも②「国連(法(国連憲章)と警察(国連軍))から守ってもらうべき」なのか、である。
 A①は、各人とも、銃を所持して「自分の身は自分で守る」ということであり、アメリカ式のやり方のようだが、それだとどうしても法や道理に基づく話し合いよりも自分の銃に頼り勝ちとなり、「問答無用」とばかり発砲してしまいがちとなる。日本では市民の銃所持は銃刀法で禁じられており、②の「国(法と警察)から守ってもらう」やりかたで、アメリカに比べて銃犯罪・殺人ははるかに少なく安全。
 B①は、各国とも軍備を持ち合って「自分の国は自分の国で守る(或いは同盟国の支援をが得て)守る」というやり方。国連は加盟国による武力行使を禁じ、「集団安全保障」ということで、侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行するという意思表示によって、侵略を未然に防止するという非戦のシステムではあるのだが、同時に侵略に対して個別的自衛権あるいは同盟国との集団的自衛権として武力行使を認めているので、現状ではほとんどの国が自国で大なり小なり軍備・軍事力を持ち合っている。そのためにA①の場合と同様に、紛争などに際しては、どうしても力(軍事力)に頼りがちになり、話し合い・交渉に徹した平和的解決ができなくなってしまいがち。そして互いに紛争・対立する相手の軍事力に脅威を覚え、負けじとばかり軍備強化して軍拡競争。交渉し話し合うにしても、法理や道理よりも力の優劣で決定づけられ、戦争で決するしかなくなる、といったことにもなる。現に今、ロシアとウクライナ(それに米欧NATO諸国が支援して)戦争の最中にある。つまりB①のやり方は安全保障のやり方としては、戦争になりやすく、むしろ危険だということだ。
 それに対してB②の方は、自国の安全を国連の「法と警察」から守ってもらうというやり方だが、それは自国の軍備や同盟国の軍事力に頼らず、国連の集団安全保障に頼るということだ。
 その集団安全保障とは、侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行するという意思表示によって、侵略を未然に防止するという非戦のシステムのこと。(9条で戦争放棄、戦力不保持・交戦権否認を定めている我が国憲法は、そもそも国連のその非戦システムに応じたものになっているのだ。)
 制裁措置には①非軍事的措置と②軍事的措置とがある。
 ① は経済制裁などで、運輸・交通・通信手段の中断から外交関係の断然に至るまで様々ある。これらだけでは不十分だという場合には②の軍事的措置すなわち国連軍(国際警察軍)の作戦行動に及ぶことになる。
 国連が「侵略行為に走った国に対して加盟国全体が一致協力して制裁措置を実行する」とはいっても、侵略があったか否かを認定し、それに対してどのような措置をとるかを決定するのは安保理で、その理事国のなかでも常任理事国である米中ロなど(拒否権を持つ)5大国の合意が必要で、その内一国でも反対すれば決まらないことになる。国連発足以来冷戦下では米ソ間、近年は米中ロ間の対立で、なかなか決まらない。特に軍事的措置については、「国連軍」(侵略者の軍隊を打ち破るに十分なだけ強力でなければならない国際警察軍)を編成するにしても、5大国を中心に加盟国間で兵力の提供を、数量・装備などの分担をどのようにするか合意することは並大抵でなく、未だに編成することができないでいる。そういったところを改革して実効性あるように国連警察軍を立ち上げることができるようにしなければならないのだ。そうすれば日本やコスタリカなど少数の国だけでなく、どの国も「自衛軍」を保持することなく軍備を全廃して、国連唯一の常備軍としての「国際警察軍」だけに、侵略国に対する軍事制裁の作戦をゆだねるということができるようになって、実効性ある集団安全保障が可能となる。このような国連の集団安全保障体制の確立こそが焦眉の課題なのである。
 それにつけても、今は国連警察軍に守ってもらおうにも国連の実状はそのような態勢にないのであれば、この日本に万一急迫不正な侵略があったら場合は、自分の国は自国の軍事力(自衛隊と日米同盟)でまもるしかないのか?
 そもそも「守ってもらう」といっても、何を守ってもらわなければならないのかだが、それは国か国民の生命(安全な生活)か自由か、どれもこれもだろうが、優先順位でいえば一番肝心なのは何を守ることか。
 それを守るには①軍事力で侵略を阻止・撃退する方法と、②非軍事・不戦に徹して国民の生命を犠牲にしない方法(「非暴力抵抗」の方法)とがあるが、どちらの方法を目指すべきか。
 日本国憲法は②(非軍事・不戦)の方を求めているが、現政府はひたすら②の方の「防衛政策」=戦争政策をとり、自衛隊も日米同盟もその態勢をとっているのだが。
 中国にしろ北朝鮮にしろロシアにしろ、武力攻撃を仕掛けてきたらきたで仕方ない、いつでも受けて立つというのと、何が何でも戦争は避けるというのとで、政府に望むとしたら、どちらが望ましいと考えるかだ。 

 そもそも戦争は殺し合いであり、生命を犠牲にし、生活手段・生活環境を破壊し、人々の自由・人権を著しく損ない、奪い、制限する。そのうえ人々から正常な感覚や道徳意識を失わせて憎悪・殺意をかき立て蛮行に駆り立て、悲惨(兵士だけでなく無辜の市民・住民が戦闘に巻き込まれて犠牲になり、或いは非戦闘地でも占領下では狂暴化した兵士による蛮行で犠牲になる惨劇)をもたらす。平時には許されず、あり得ない殺傷・破壊行為など蛮行が行われるが、それらは戦争がそうさせるのだ。(それらの蛮行はロシア人だからとか、〇〇人だから等と国民性や人種・民族に限ったことではなく、かつての日本軍もそうだったし、それは「戦場に置かれた人間の普遍性」なのでは―作家の逢坂冬馬氏の指摘あり。それにしても、戦争に巻き込まれて犠牲になり、蛮行の犠牲になるのも侵攻を受けた側の国民・住民がほとんどであるが、その国側の抗戦が「徹底抗戦」ということで撃ち続けば続くほど戦争は長引き犠牲者は増え、悲惨はひどくなる。その点では、抗戦は割の合わない結果を招く。その責任はあくまで侵攻仕掛けた国側にあり、その国が一番悪いのだといって断罪するのは当然のことではあり、それに対して抗戦するのは「正義の戦争」だといえるのかもしれないとはいえ、むしろ敢て抗戦せずに戦争に応じていなければ、そのような大量の犠牲者を出すこともなく、悲惨も被らずに済んだのでは、ということにもならないだろうか。)
 戦争には、侵攻し戦争を仕掛けた側と迎え撃ち抗戦する側と両方があって成立する(抗戦しなければ戦争にはならない)が、国連憲章や戦時国際法などにおける法的罪状の軽重や刑罰・戦争責任からいえば仕掛けた側の国の責任者や直接行為を命令し行為を為した将兵が悪いとなるが、戦争のそのものが悪い(だから戦い合う双方とも悪い)という観点からいえば、抗戦し応戦した側、それに手を貸し支援した側にも責任が問われて然るべき(なぜなら、その抗戦・支援なければ戦争にはらないわけだから)。
 その点から云えば、不戦・非軍事対応(侵攻し戦争を仕掛けたりしないことはもとより、仕掛けられても応戦・抗戦はせず、威嚇による要求にも応じない―非武装・非暴力・不服従―で、話し合い・交渉だけに応じるの)が最善ということになる。
 日本国憲法(9条)は基本的にこの立場なのでは。

 


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