米沢 長南の声なき声


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東京オリンピック誘致「祝勝」に思う(加筆修正版)
2013年09月10日

 20年オリンピック東京開催決定、「祝勝」「圧勝」(イスタンブール、マドリードに対して)、「日本国民が一つになって」「オールジャパンで勝ち得た」というわけ。
 テレビは、それで一色。「ヤッター!」と言って大喜びしている人たちだけが映っている。まさに日本中が沸き立っているかのようだ。
 IOC総会プレゼンテーションでの安倍総理の発言が効を奏したというわけだ。フクシマについては「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は港湾内に完全にブロックされている」「抜本解決のプログラムを私が責任をもって決定し、着手している」「7年後の20年には全く問題ない」と胸を張って言い切ったもんだ。
 漫画家のやくみつる氏―「これまで首相が、国民に向かってあのような自身に満ちた話をしたことがあっただろうか」「現実逃避にならないようにしてほしい」と。
 京大原子炉実験所の小出裕章助教―「何を根拠に、状況はコントロールされているなどと言えるのか分からない。あきれた。安易な発言をしても約束をやぶることになるだけだ」と。(汚染水は現在「打つ手がない」のが実態なのに。)
 オリンピック東京誘致は、尖閣国有化のきっかけとなった島の購入計画を思いついたのと同様そもそも石原前知事の思い付きから始まったもの。それは、戦争と同じく、国民の関心を様々な問題からそらせ、考えないようにさせ、忘れさせて「心を一つ」にさせる効果を狙える。その他にも様々な政治的・経済的効果が得られる、という思惑がからむ。
 「勝利」というが、それは安倍首相や猪瀬知事・石原前知事ら政治家と彼らを支持している国民「多数派」の政治的勝利。「アベノミクス」が「アベノリンピクス」とまで言われるようになった。何兆円もの経済波及効果国威発揚―ナショナリズム(「日の丸・君が代」に熱狂する愛国主義)の高揚には、それが効果抜群。
 要するに、これによって莫大な政治的・経済的利益にありつける政治家・建設・不動産・観光・ホテル業などの業者、それらとの資材・商品の第1次取引・第2次取引にあずかれる中小零細業者とそれらの従業員にいたるまで、多くの庶民にとってもメリットになるには違いあるまい。
 しかし、それらとは何の関わりもなく取り残される、こちとらのような無関係者も少なくあるまい。
 いずれにしても消費税増税反対や実質改憲(集団的自衛権の行使容認)反対、原発の再稼働・輸出反対などの庶民の声はかすみ、かき消されていくのか。福島の被災者は「置き去りにされる」と悲しんでいる。
 スポーツ愛好者・アスリートたちにとってはオリンピックはどこで開催されようと大歓迎であり、こちとらだってオリンピックはどこであろうとも日本人選手を応援し、勝つと喜ぶ。オリンピックには理念(オリンピック精神というもの)がある。しかし、それを利害損得に結び付けてしか考えず、自国・地元開催に執着し、ロビー活動など誘致合戦で、自国の恥部(原発公害)をひた隠しにし、他国をだしぬいて(猪瀬都知事などはイスタンブールをさして「イスラムはケンカばかりしている」と発言してひんしゅくをかったが、そこで反政府暴動が起こって内心「それ見たことか」とほくそ笑んだか?に思われ)、(イスタンブールは治安・安全への不安、マドリードは経済危機・財政不安などの)敵失で「勝った勝った」と喜ぶ厚顔は、どうしても好きになれない。かつて言われた「エコノミックアニマル」との汚名をまたかうことになりかねないではないか。当方などはトルコ旅行に行ってきたこともあってイスタンブール(そこで橋やトンネルの建設にあたっていたのは日本のゼネコンだったが)に譲ってやればよかったのに、などと思ったりしていたものを。
 選手・競技者だったら(開催地がどこであろうと)「勝って」メダルをとったら報奨金がもらえるが、負けてもスポーツマンとしての自らの才能と努力の成果(鍛えた心技体)と目標の達成感が得られる。一方、国と都市が開催地誘致合戦で(世界中でただ一国一都市だけが)「勝って」得られるものは政治的・経済的利益(「票」と「カネ」。国威発揚とオリンピック特需によるビジネス・チャンスと利得)で、それが国民・市民にも及び、その恩恵・「おこぼれ」にありつけて喜ばしいことには違いない。しかし、誘致合戦に負けた国と都市はそれへの財政出費がムダ金・損失となり、国民・市民はダメージを被り悲運・失望に打ちひしがれることになる。今回誘致合戦に負けたその2国をはじめとして、他のすべての国・都市にとっては何の利益も恩恵もない。誘致合戦に勝って、世界中で日本人だけが恩恵・利益を独占することになる。オリンピックのこのような誘致合戦は一国一都市だけの自国・自市エゴ(エゴイズム)を満足させるやり方。そのようなやり方は、オリンピック精神とは全くマッチしない(そぐわない)やり方というしかあるまい。(朝日新聞の「声」欄に「複数国で開催してはどうか」という投稿があった。開催地を国単位ではなく地域ごとにして、アジア・アメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界をいくつかのグループに分け、開催地はまずグループを決める。そしてグループ内で競技種目ごとに開催国を複数選ぶ、というもの。そういったやり方の工夫・改善があって然るべきだろう。)
 誘致合戦に勝って幸運を射当てた国と都市の国民・市民は(今回われわれ日本国民はオリンピック特需で景気回復・震災復興など自国の国益にばかり気をとられるのではなく)、せめて他国すべての国々の国民への思いやりの気持ち(利益を分かち合う精神)を持たなければなるまい(「オリンピック・ムーブメント―スポーツを通じて世界平和をめざす」などと口で唱えるだけでなく、また日本に来ておカネを落として行ってくれる外国のお客様に「おもてなし」などといったことばかりでなく、国が貧しくて或は争乱でオリンピックに選手を送ることが出来ない国の人々に支援・和平の手をさしのべる等)。利益を独り占めして自分だけ喜ぶのではなく、トルコ国民とイスタンブール市民、スペイン国民とマドリード市民をはじめ、すべての国・都市の国民・市民をも慮る(おもんばかる)ことを忘れてはいけない。シリア・パレスチナ・エジプト・アフガン・イラク・北朝鮮など諸国民の不幸を置き去りにしてはいけない。なのにマスコミや首相・都知事らのはしゃぎぶりをみていると、どうも。ただ単に「日本が勝った、よかった、何兆円もの経済効果が見込まれてよかった、日本国民に夢と希望が得られてよかった」などと専ら自分の国のことばかりで、他国民のことを慮ることがなく、オリンピック精神にはどうも程遠い。日本人は自国本位で他国民の悲運や不幸を意に介さない国民なのか、なんて思われたくないものだが、そんなことを感じてるのは当方だけだろうか。

 もっと以前、ヒトラーの時代にはベルリン・オリンピックがあって、ヒトラーはそれを国威発揚、戦争準備につなげて最大限利用した。その4年後(1940年)の開催地は東京と決まっていた。しかし、大日本帝国は1937年に日中戦争に突入して、それを返上し、1941年には太平洋戦争に突入した、という歴史があったことなども、世界史をかじったものとしてはどうしても考えてしまう。オリンピックを政治や経済的利害にからめて利用するようなことはあってはならないと思うのだ。

 そんなむずかしいことを考えずに「素直に喜べばいい」ではないか、「このひねくれ者」あるいは、もしかして「非国民」とさえも呼ばれそうだが、自国の歴史の暗部や原発の恥部を素直に認めようとしない政治家のおかげでオリンピック誘致を「勝ち得た」からといって、素直に喜んでなんかいられようか
 とにかく安倍自民党政権と猪瀬都政は7年後までも安泰ということになる。その政権下で消費税増税に耐え、原発もTPPも集団的自衛権の行使も基地問題も改憲問題も余計なことは心配せずに、ひたすら東京オリンピックをめざして黙々励み、皆に合わせて「日の丸」を振り、「君が代」を唱っていればいいのだ、となるのか。「五輪ファシズム」が怖い!


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