米沢 長南の声なき声


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恐怖・欠乏なく生きていかれる権利
2008年05月23日

(1)生存権―保障は国の責任 
 パート・派遣・「名ばかり管理職」などのようなものにしか職に就けない、安定した収入が得られない、いつリストラされるか判らない、いつ倒産・廃業に追い込まれるかわからない、遅くまで残業、休みがとれない、結婚・子育てがままならない、怪我や病気になっても医者にかかれない、カネが足りない、暮らしていけない、生きていけない、将来不安・老後「後期高齢者」不安・・・・・。最近、壮年者・老年者・若者・子どもと、どの世代をとっても人々の間に欠乏が広がり、不安が深まっている。過労死者・自殺者・餓死者もいる。
 それは、その人の能力・努力が足りないか、運がわるいせい、要するに本人の自己責任だからしかたがない、という向きがあるが、そういうものだろうか?
 
 人は誰しも幸福を追い求めて生きる。憲法13条は幸福追求権を(「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については・・・・最大の尊重を必要とする。」と)定めており、人が幸福を追い求める(幸福になろうとする)のは権利でもある、というわけである。ただし、幸福といっても、いったい何に幸福を求めるか、それをどうやって果たすかは人それぞれの選好(好み)であり、他人や国が決める筋合いのものではない。そして、その幸福を実現できるかどうかは、全くその人自身の責任であり、国や他の誰の責任も問えない。
 しかし、その前に(幸福になろうとする以前に)前提として、まず「生きる」ということをしなければならない。それまた権利であるが、その生存権は国が保障しなければならない。
 幸福になれるか否かは、それぞれその人の自己責任だとしても、この国で人が「生きていかれるか否か」―子ども・年寄り・障害者・失業者など働くに働けない人でも食べて生きていかれる国になっているか否か―に国が責任を持つのは当たり前のことだろう。

 憲法は、「何人も、・・・・職業選択の自由を有する」こと(22条)とともに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(27条)と定め、労働の意思と能力をもちながら職に就けない者が、国に労働の機会を与えることを要求し、それができないときには必要な生活費を請求できる権利を認めている。
 憲法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」(25条)と定め、国民が人間らしく生活する権利とその実現を保障する国の努力義務を定めている。
 憲法は、また、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすること」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(前文)とあり、「日本国民は、・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、・・・・永久にこれを放棄する。・・・・国の交戦権は、これを認めない」(9条)と定めている。
 要するに、憲法は勤労権・健康的文化的生活権・平和的生存権は国民の権利であり、誰もが恐怖・欠乏なく生きられる権利をもっており、それを保障するのは国や自治体の責任だとしているのである。
 だから、欠乏・不安なしに生きていけないのを自分の自己責任として済まさずに、国の責任を追及し、然るべき対応を政府や自治体に要求するのは当然のはずである。
 ところが、現状(市場原理主義的資本主義―競争・格差社会)に対してさして不都合もなく、さして欠乏・不安もなく生きていけている人々(現状に満足で)から支持されている為政者側は、とかく憲法の「すべての国民は・・・の権利を有する」とか「全世界の国民が・・・する権利を有する」というこれらの定めは単なる理想・タテマエか、或は政治のプログラム(指針)を示したものに過ぎず、(それは個人に対して裁判上の救済が受けられる具体的な権利を定めたものではなく、社会保障などはそのときどきの財政事情と見合わせてはじめて法律上の保障内容が与えられる筋合いのものだとして)必ずしも直ちにその通りしなければならないというわけではないのだと云って済ませようとする。
 しかし、為政者(政府・地方自治体)には、少なくとも国民のその権利保障に努める努力義務があることは確かであり、人々が、為政者にその義務を果たせと要求し訴えるのは当然のことなのである。
 為政者には、何も云わずに黙ってお任せしていればいい、などというわけにはいかないのだ。
(2)消極的護憲の危うさ
 憲法は、政府・為政者が解釈・運用し(日米安保・自衛隊とその海外派遣など容認)、その下で日本国民の大多数が安住して暮らしてこれた、だから今のままでよい、という考え―
 「31歳一フリーター」(赤木智弘氏)が「希望は戦争」と言って反対している護憲とは、そのような消極的護憲なのではないだろうか。(5月3日山形で憲法講演をした東大教授の高橋哲也氏が彼の言説を紹介していた。)「日々身も心も疲れきって人間としての尊厳が傷つけられ、将来に希望をもてずに生きていくしかない」彼(赤木氏)から見れば、「現状の平和は、現状に満足している人々にとっての平和であり、既得権をもった人々や安定労働層にとっての平和にすぎず、そんな平和は何の意味もない。日々生きるための闘いを強いられている貧困労働層にとっては、現状は準戦時と同然だ。」「そこでワーキングプアとして空しく野垂れ死にするよりは、むしろ本当の戦争で戦って死んだ方がまし。なぜなら靖国神社に祀られて英霊として感謝され、国民としての尊厳を認めてもらえるからだ。だから戦争を希望する」というわけである。
 彼の言説は一見暴論のように受け取られるが、安易な護憲に対する鋭い批判として重く受けとめられる、と高橋教授は論評していた。
 尤も、戦争で戦って死ねば「英霊」として祀られてその尊厳が国中から認められるかといえば、そうとはかぎらず、敵国民はもとより自国の(戦争を望まず、ただ巻き添えにされて辛い思いをした人々など)少なからぬ人々からも違和感をもたれかねないというのは、先の大戦後、戦死者をA級戦犯とともに祀っている現在の靖国神社に対する人々の反応を見れば明らかである。それに不再戦の決意を貫き通すのであれば、その戦死は「平和国家建設の礎」になったとして尊ばれることもあったものを、不戦の誓いを破ってまた戦争したとなれば過去の戦死者たちの死は「犬死」になってしまう。
 そんなことなら、小林多喜二の書いた「蟹工船」の男たち(或は多喜二自身)のように、自分たちを非人間的に扱っている者たちに対して、「生きるか死ぬかだ」といって果敢に闘いを挑んだ方が、むしろましだろう。今、「蟹工船」はベストセラーになっており、その「蟹工船」の男たちに共感して起ちあがり始めている若者たちがいる。その一人でもある雨宮処凛さんは次のように語っている「私たちの運動は、右や左といった思想を出発点にしているわけではない。労働者だけを対象とした労働運動とも違う。貧困という生活の実感に根ざした生存運動なのだ。
 これまでは社会の仕組みや闘う方法を知らず、国や企業につけ込まれてきた。でも自ら動けば社会は変えられるのだと気づき、闘うことが楽しくなってきた。」(5月18日、朝日新聞「耕論」)と。
そうだ、闘えばいいのだ。
 単に、現実をそのままに―政府の雇用・労働政策も年金・医療政策も安保・防衛政策も(沖縄の米軍基地も)政治・経済・社会を現状のままに、「護憲」とか「改憲には反対」と(世論調査や、将来もしかして行われるかもしれない国民投票などで問われて)答えるだけではなく、憲法の定めに合致するように、現状を変えるべく、仲間(同じ境遇にある者)と共に声をあげ、闘わなければならない。黙っていては、状況は何も変わらないのだから。
(3)9条違憲判決
 先月、名古屋高裁で、自衛隊のイラクでの活動を違憲とする判決が下った。
空自のイラクでの活動は(バグダッドは「戦闘地域」に該当。そこへの空輸は「他国による武力行使と一体化した行動であり、自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない」から)9条に違反していると、はっきり判断を下した。そのうえに、平和的生存権の具体的権利性を認めて、「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命・自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」とした。ただし、原告らが直接的に侵害を受けたとまでは認められないとして、彼らの請求自体は却下された。
 これに対して福田首相は、主文で原告側の差し止め請求は却下されたのだから、国側の勝訴であり、裁判官がそれに自衛隊のイラクでの活動違憲判断を加えたのは余計な「傍論」にすぎないと、事実上無視をきめこみ、航空幕僚長にいたっては「そんなの関係ねー」と言い放っている。それこそ「こんなの許してはおけねー」わけである。
 それでも、この判決は画期的なものである(原告側は「実質的な勝訴判決」と受け止めて上告せず、判決主文では原告の訴えが却下されているから国側も上告できず、判決は確定)。これは愛知県で集団訴訟に起ちあがった市民の闘い(運動)の賜であろう。

 憲法には12条に「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とある。自らの権利は、自らの手で守り、実現しなければならず、政府や政治家に任せっきりにしてはだめだということだ。
 現状をそのままにしておきながら、ただ「憲法を守れ」などと云ってもしょうがない。ましてや、政府や政治家やメディアに任せっぱなしにして、ただそれを(テレビ・新聞・雑誌で)眺めているだけでは、憲法はいつのまにか実質的に、或は条文まで変えられてしまう。そうなっては終わりだ。
 「そんなの関係ねー」なんて云ってらんねんだ。なあ(孫どもよ!)


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