米沢 長南の声なき声


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あの戦争はしかたなかった?あの戦争の結果は想定外?(加筆版)
2011年12月10日

(1)12月8日といえば、真珠湾攻撃・日米開戦・太平洋戦争勃発の日などと言われる。しかし、その日は、海軍機動部隊による真珠湾攻撃開始よりも前(約65分前)に陸軍を中心とした部隊が、マレー半島のコタバルに上陸し、東南アジアへの全面侵攻を開始した日だったのだ、という(上智大学・根本敬教授)。米海軍太平洋艦隊の基地・真珠湾に奇襲攻撃をかけたのは、それ(日本軍の東南アジア侵攻作戦)を同艦隊が邪魔するのを阻止するためにほかならなかった。つまり、真珠湾奇襲は東南アジアへの全面侵攻と占領を目的にして行われたのだ。したがってこの戦争は、中国で継続していた日中戦争とも合わせ、単なる「太平洋戦争」ではなく「アジア・太平洋戦争」と呼ぶのが至当なのだという。
 要するに、この日は、正確にはマレー半島コタバル上陸および真珠湾奇襲と「アジア・太平洋戦争」突入の日なのだ、ということ。

(2)あの戦争はしかたなかったとか、あの結果は想定外だったとか、そう言って済むものだろうか。
 数年前、米軍の広島・長崎への原爆投下は「しょうがなかった」と言って辞任に追い込まれたのは日本の元防衛庁長官だったが、アメリカ人のあいだでは、米兵の犠牲をこれ以上増やさないように戦争を一日でも早く終わらせるためには、原爆投下は「しかたなかった」と思っている向きが多い。
 日本にも、日本軍の真珠湾攻撃・日米開戦はやむをえなかったという向きが少なくない。(日中戦争は駐留日本軍を攻撃しかけた中国軍を制圧するためにやむなく始められ、それが長びいたのはアメリカが中国軍を支援していたからだ。その上、アメリカは日本への石油輸出を禁止するなど経済封鎖を行い、日米交渉では日本軍はインドシナからも中国からも撤退せよと無理難題をふっかけてきたからで、やむなく開戦せざるを得なかったし、勝つためには奇襲作戦もやむを得なかった。日本の戦争はすべて自存自衛のためだったのであり、しかたなかったのだと。)

 「しかたなかった」という言葉には、「勝つためには」とか「生きるためには」とか、「~のためには」という前提がある。そこを決定づけるのは、その人の立場(軍部か政界・業財界か一介の庶民かそれぞれの立場)と人生観・価値観。人道を最高価値とする立場からは、「己のために他の人々を犠牲にしてはならない」というモラルによって「しかたなかった」という理由決定づけられる。その立場で考えるなら、「人を殺して、(戦争だからとか、生きるためには)しかたなかった」(といって人を殺しに行った言い訳をするの)ではなく、「人を殺すくらいなら、死んだ方がまし。それで(戦争に反対・拒否して)殺されたとしても、それはしかたのないこと」といって潔く死ぬ。そのような場合こそが、言い訳や自己弁護などではない、本当に「しかたのないこと」なのであって、自分本位・自国本位だとか「臆病・意気地なし」などと言われる筋合いもない。

 ところで、今年福島で起きた原発事故は、想定外だから「しかたなかった」といって済む話ではあるまい。
 原発の「安全神話」を信じ込んだ(まさかこうなるとは思ってもみなかった)、それが間違いだったのだ。それと同様に「聖戦・不敗神話」を信じ込んだ、それが間違いだったのだ。原発の事故は絶対起きないなどということはそもそもあり得ないのと同様に、日本は神国、故に日本軍は絶対負けないなどということは、そもそもあり得ないことだった。にもかかわらず、負けること(負けたその後のこと)は想定せず、あのような惨禍(死者、日本人310 万人、アジア全体で2,000万人)を招くことも想定しなかった。いや侵攻した国々の人びとはもとより自国兵士が死ぬこと(「生きて帰るな」とか、或は兵士だけでなく一般国民までも「一億玉砕」などと)、それだけは(何百万・何千万人死のうが)想定内だった(というよりは当たり前と思われていた)わけか。

 しかし、日本は中国を一撃で屈服できると予想していたのに、日中戦争は8年にも及んだし、米英など連合国との戦争は3年8ヵ月にも及び、敗れて降伏した後、「国体」(天皇統治体制)の変更ひいては戦争放棄・戦力不保持の不戦憲法までも制定されるとは思いもよらない、全く想定外のことだったわけである。

 「しかたなかった」というのには、次の二つがある。
①まさかこんなことになるとは思いもよらなかった(想定外だった)というケース。
 信じ込んだ―「自存自衛・アジア解放の聖戦」「皇軍は不敗」だと。他に考えが及ばず、あり得べき可能性を度外視(計算外)―それは要するに騙されたということであり、信じたのがバカだったということにもなる(「時代が時代だったので」とか「それがその時代の常識だった」とはいっても、それはやはり言い分け―突き詰めて言えばそういうことになる)。
 要因―権力によって支配・統制された教育とメディア(情報操作)、軍隊では「戦陣訓」(「生きて虜囚の辱めを受けず」など)。これらによって信じ込まされ、煽られた。
 教訓―騙されず、信じ込まない賢さ(科学的合理精神と批判精神)を持つこと。
反対できず、命令には拒否できなかったというケース―それは精神的に弱かったということ(「時代が時代―軍国主義の時代だったのだから」とはいっても、それはやはり言い分け)。
 要因―強権・圧制システム―逆らえば過酷な制裁。
 教訓―踏んでも蹴られても、或は殺されても(戦場で人を殺して死ねと言われて殺し殺されるよりはまし)断固として反対・拒否できるようになること。

 「しかたなかった」というのは、結局は、真実を見抜けなかったことの言い分けであり、反対も拒否もできない弱さに対する言い分け・自己弁護で、責任逃れにほかならないのであって、そういって済まされることではない。
 教訓―騙されることなく反対・拒否できるように、賢く精神的に強くなること(知恵と度胸を持つこと。但し、それは口で言うほど簡単ではない至難の業には違いない―かく言う自分にそんな知恵も度胸もあるのかと言われれば、それはない。もしこの自分があの時代、あの状況に置かれていたならば、騙されようが騙されまいが、逆らおうが逆らうまいが、どっちみち生きてはいられなかったろう。だからこそあんな軍国主義と戦争がくりかえされてはたまらないというのだ。それに、あの時代、人々はお上の言うことには一切疑いを差し挟むことも逆らうことも許されない軍国主義下に置かれていたのだから黙って従うほかなかった、だからといって、どんなに良心に反する人殺しや理不尽な行為であっても、ただ「しかたなかった」で済まされていいのかといえば、そんなことはあるまい。当時、極めて数少なかったとはいえ、お上の言うことを真に受けることなく戦争政策への反対・命令拒否を貫き弾圧・迫害に耐えた不屈の人々は厳然として存在していたのであり、彼らから見れば、「しかたなかった」と言うのは言い訳であり、自己弁護であり、責任逃れ以外の何ものでもないわけである)。

 原爆も原発もつくってしまった結果、未曽有の惨禍を招いてしまった。つくらなければよかったのだ。どの国も核兵器は廃絶し、我が国は原発も率先して廃絶しなければならない。
 戦艦大和も伊号潜水艦も零戦もつくって軍備を拡大したその結果、未曽有の惨禍を招いた。そんなの無ければよかったのだ、との反省から憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)が制定されたのだ。
 軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか。「『その時は死ぬんです』というのが私の答えです」という阿刀田氏(作家で日本ペンクラブ会長)。彼は次のように語っている。「軍国少年であった子どものとき、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ぬならば、よく分からない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ、はありうるでしょ。突き詰めれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力は全部やる。やり尽くすべきだと思います。」

 要は、核兵器はもとより原発にも頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することであり、軍備などに頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することなのであって、その賢さと勇気を持つこと(それは至難の業だとしても)、そして命を犠牲にする愚を繰り返さないこと、これこそが我が日本人が未曽有の戦争の辛酸から学んだ教訓なのでは。

 今、問われているのは我々の生き方、人間としてのモラル、命と知恵の使い方(人を殺す戦争に使うか、非戦平和に使うか)、それらがどうあるべきかであり、自分あるいは自国のために人々の命を犠牲にしてはならないとの信念に徹した生き方こそが求められよう。


 


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