ウクライナ戦争のことで「どっちもどっち論」批判(「それはロシアの侵略行為を免責・免罪するものだ」という批判論)について。
ロシアの行為は紛れもない「侵略行為」であり、それによってウクライナ国民にもたらされた悲惨な結果はもとより、周辺の国々さらには世界中が迷惑を被る結果を招いた第一義的な責任は無論ロシアにある。しかし、だからといって、NATOとその盟主たるアメリカなどには「非はなく、何の責任もない」として不問に付されてよいのだろうか。
さかのぼればソ連とWATOの解体以来、米欧側のNATOだけが残った、そのNATOに、かつてソ連側のWATO加盟国だった東欧諸国が次々と加盟し、ロシアにとっては西側(NATO)に対する緩衝地帯はベラルーシとウクライナ2国のみとなり、安全保障上きわめて不利な立場に置かれ脅威を感じていた。ウクライナは東南部にはロシア系住民が多く、そこは親ロシア派勢力の基盤となっていたが、北西部の親米欧派との間で政権交代が再三行われ、2014年の騒乱で親ロ派大統領が追放され、EUやNATO加盟を目指す親米欧派大統領に取って代わると、東南部の親ロ派勢力との間で内戦状態となり、2019年就任したゼレンスキー大統領はNATO加盟に傾いていた。
それに対してロシアは、その以前1999年(イスタンブール首脳宣言)と2010年(アスタナ首脳宣言)、OSCE(欧州安全保障協力機構)で米欧諸国首脳とともに合意・署名した「不可分の安全保障原則」(自国の安全と他国の安全は不可分に結びついていることを認め、他国の安全を犠牲にする形で自国の安全を追求してはならない、という原則)に基づいて「アメリカとNATOがウクライナのNATO加盟を認めない」という確約を求めた。そして昨年12月アメリカとNATOに対してその立場で「安全保障に関する条約・協定案」を提示した。(そこでもし、アメリカ・NATOがウクライナのNATO加盟を認めないことを確約さえしていれば、ロシアの最低限の安全保障は確保されたはずなのでは、とも考えられる。)ところがそれがアメリカ側から受け入れられなかった。
ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアにとってはウクライナにミサイル基地が設置され米軍が駐留するようになるなど目と鼻の先に脅威が迫ってくることになると考え、「かくなるうえは」とばかり、プーチン大統領はゼレンスキー大統領にNATO加盟断念を強要すべくウクライナ侵攻という「暴挙」及んだわけである。
アメリカとNATOが、その侵攻を阻止できなかったのかだが、それをしようにも、NATO軍が直接軍事介入すればロシア軍と激突して大戦争になり核戦争にもなりかねない恐れがあるというので、直接軍事介入は控え、結局、ロシア軍侵攻を受けて抗戦するウクライナ軍には兵器供与・戦争指導・情報提供など軍事支援・資金援助に留め、ウクライナ軍はその支援のもとに孤軍奮闘。しかしウクライナ国民はこの戦乱に巻き込まれて犠牲を強いられ町々は惨憺たるあり様。それはNATOの代理戦争とも見なされる。
そのアメリカ・NATOの対応のあり方・責任も問われて然るべきだろう。ロシアが一番悪いのだからそれを断罪しさえすれば、NATOの方は不問にしてもいいわけはあるまい。
そもそも「ある国の核・軍備、ある国々の軍事同盟・軍事ブロックは善くて、ある国の軍備は悪い」(アメリカやNATOや日米同盟の核や軍備は善くて、ロシア・中国・北朝鮮・イランなどの核・軍備は悪い)などということはないわけであり、それら軍備・軍事同盟は戦争(殺し合い)手段なのであって、それを保持する国はどれもこれも悪い。つまり「どっともどっち」なのだ。核であれ通常兵器であれ軍備の保有・軍事同盟などダメなものはダメなのであって、どの国も全廃すべきなのだ、とおもうのだが、そういったことを論じたりするのは「ロシアの侵略行為を免責・免罪するものだ」などと云うのは云いがかりというものではあるまいか。