米沢 長南の声なき声


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ギリシャ・トルコ旅行記(再々加筆・修正版)
2010年01月11日

再々加筆―旅行から帰って復習し、その後、相棒やツアー仲間から貰ったり送られてきた写真や映像を見て、「そういえば、こんなこともあったっけな」と思い出しては加筆を繰り返し、最初の文章からは、かなり膨れ上がっている。>

 年末年始をはさんで、機内泊を含め2週間のギリシャ・トルコの旅。阪急交通社(トラピックス)企画のツアーに応募。基本旅費は(燃油サーチャージ・海外出入国税など除けば)16万9,800円(ちなみに、同じトラピックスが企画募集している「九州温泉めぐり1週間汽車の旅」は17万5,000円)。
旅程
12月23日:米沢駅―汽車を待っている間、忘れてきた入歯を妻が届けてくれた。成田空港発―トルコ航空(乗務員はトルコ人。帰りも)でイスタンブール直行(コースはちょうどシルク・ロードとその北のステップ・ロードとの間―タクラマカン砂漠~中央アジア~アラル海~カスピ海~黒海)。
 右隣りに若い女性が座った(ちらっと横顔を見てトルコ美人と錯覚した)。左隣りの相棒が耳うちして「ちょっとぐらい話しかけてみたらどうなんだ。『どちらからですか』とか」と言ったが、「言葉わがんねもの」と言って黙っていた。彼女は同行ツアーのメンバーだったのだ。
 所要時間12時間、その間、機内食とともにワインを3~4杯のんだが、1回もトイレにいかずに我慢できた。
 飛行機の窓から下を覗くと暗闇に無数の明りが見えた。「おー!イスタンブールの灯だ」。夜9:30(現地時間)イスタンブール新市街にあるホテルに到着。
24日:イスタンブール市内観光-トプカプ宮殿(オスマン帝国のスルタンの居城、中国の紫禁城を模している。スルタンの宮廷は白人の宦官たちによって守られ、ハレム<いわば大奥>は黒人宦官たちによって守られていたという。今は博物館)を見学。
グランド・バザール(大市場、無数の土産物屋が軒を連ねる)を見物。
 夕刻アテネに飛ぶ
25日:エーゲ海クルーズ―サラニコス湾付近の3島巡り―イドラ島・ポロス島・エギナ島(アフェア神殿あり)、200人くらいの乗客、船内を仕切って歌と踊りの司会やガイドをつとめていたのは2人の日本人女性(とはいってもガラガラ声のオバタリアン)。
 宿泊ホテル最上階、夕食レストランに入ると、ガラス越し間近かに、丘の上、ライトアップされた建物が見える。「おー!パルテノン神殿」。デジカメで撮ろうとしたが、何回撮ってもボケて映らず、ノー・フラッシュ切り替え操作を教えてもらって、やっと撮れた。
26日:アクロポリス―あいにくパルテノン神殿はクリスマスの祝祭日のため休館で丘の上にはあがれず、下から眺めるだけだったのはかえすがえすも残念。(ただそこに掲げれられていたレリーフ彫刻は大英博物館に所蔵、それらは以前ロンドンに行ったときに見てきた)。近代オリンピック第一回大会スタジアム、リカビトスの丘(アテネ市内、海までも一望に)、スニオン岬(丘上にポセイドン神殿)など観光。夜イスタンブールに戻る。
 相棒は、同行ツアーの方々から「どちから?」と訊かれるたびに、「山形からです」と答えるので、その都度、当方は「いや、私は米沢ですが、彼はその隣り町ですよ」と口を添えた。ホテルの部屋に引っ込んで二人だけになると、相棒は「一つ、訊きたいと思っていることがあるんだげんと、何で『山形から』と言って悪いなや?」というので、「『山形』と言ったのでは『山形市』と混同されてしまうではないか。我々が住んでいるのは『天地人の城下、米沢』なんだよ。」と言って釈明した。
27日:スルタン=アフメット広場(ヒポドロム―ローマ時代の競馬場跡、エジプトから運んだオベリスクが立つ)、アヤ=ソフィア(聖ソフィア寺院、内部にはキリストやローマ皇帝の肖像モザイク壁画がそのまま残されているが、アラビア文字で書かれた「アラー」「ムハンマド」の名やコーランの一節が掲げられている。尖塔は、このキリスト教寺院がモスクに変えられたのに伴って、後で建てられた)、ブルーモスク(17世紀前半、オスマン皇帝アフメット1世が建てさせたトルコ最大のモスクで、唯一6本の尖塔が付いている)など見学。
 午後、バスとフェリーでダーダネルス海峡を渡って小アジア半島西岸方面へ。チャナッカレ泊。
28日:トロイ遺跡―高校時代に見たハリウッド映画「トロイのヘレン」(ホメロスの叙事詩物語「イリアス」の映画化)の世界が実在した、その場所にたたずんで、しばし、世界史ロマンにふけった。
ぺルガモン遺跡―ヘレニズム時代~ローマ時代の王国遺跡。丘の上から斜面・麓にかけて順次築かれた神殿・円形劇場・図書館・城塞の遺構が「夢のあと」のように見られた。
 (これらの遺跡や見学地は、どんな遺跡・風景なのか、当方もデジカメでちょっと撮ってはきたが、もっと数多く良い写真を適切な解説を付けてブログに載せている方々がおられ、遺跡名や見学地名で検索すればそれが見れるので、写真と詳しい解説はここでは省く。
 尚、一緒に行った相棒のI君のブログ―「赤べこ農場」、それに旭川北高校のI先生がビデオカメラで撮ってきた映像に音楽を付けて編集したDVD―実に良く出来ており、解説は付いていないが、これを見れば各所の様子、皆さんの表情も一目瞭然。そこには、飛行機で同席した例の若い女性から請われて写真を撮ってあげたその時の、撮られている彼女と撮っている当方の姿がとらえられていた。)
 イズミール(5つ星、ヒルトンホテル)泊。
29日:エフェソス遺跡―列柱道路・神殿・劇場・図書館・浴場・娼婦宿(イタリアのポンペイでは建物・部屋・石のベッドまでそっくりあったが、ここのは残がいのみ)・公衆トイレ(石造りのベンチに一定間隔の穴が空いていて下を水が流れる水洗トイレ。並んで腰掛け語らいながらタレ合ったわけ?)などを見学。
 パムッカレ(室内温泉プール付きホテル)泊。
30日:台地斜面に壮大な「石灰棚」、台地上面一帯にはヒエラポリス遺跡、それらを見学。
   アンタルヤ(地中海岸、5つ星ホテル)泊。
31日:アンタルヤ近郊ペルゲ遺跡(競技場、浴場、列柱道路など)、アスペンドス遺跡―半円形劇場は2万人収容のスタンドなど最も原型を保っている―すり鉢の底のような円形舞台の真ん中に韓国人が一人立って歌った。音響効果でよく響きわたる。当方と同年生まれというツアー仲間の一人はイタリア語でオーソレミヨを歌った。気分よさそう。持ち前の声量がすっかり衰えて歌えない自分を悔やんだ。
 内陸地方(アナトリア高原)に入ってコンヤにむかう。途中、なだらかな台地を走る道路の彼方に、忽然と富士山(実はハサン山、標高3,200m)が現われた。コンヤに着いて5つ星ホテル泊、そこで年越しパーテー(ガラパーテー):
 ホテル内の大会場で8人ほどの円卓が20卓以上。地元トルコ人は正装の感じだが、日本人観光客はラフ。飲み放題(代金加算なし)。バンド・ボーカル演奏があり、カップルたちはチークダンス、ベリーダンス・ショーもあったが、やがて会場真ん中のスペースにトルコ人・外国人・日本人も入り乱れ、手をつなぎ合ってステップ、延いてはてんで勝手に手足を動かして乱舞。当方も「同じアホなら踊らニャ損損」とばかりにカウントダウンも忘れて乗り続けたが、たいして悪酔いも二日酔いもしないで済んだ。翌朝(日本は既に元日も午後)家に電話して「あけましておめでとう」というと、「ずいぶん、くたびった声だごど」という声が返ってきた。 
1日:メブラーナ博物館―スーフィズム(神秘主義)・旋舞教団の創始者の霊廟、 インジェミナール神学校など見学。カッパドキア(この国は東西に長い長方形をなすが、その真ん中あたりに位置)へ。カイマクル地下都市(いわば「洞窟マンション」遺跡)見学。カッパドキア泊。
2日:きのこ状に林立する奇岩群(彼方にマッターホルンのようにも見られたエルジュス山の噴火による溶岩・凝灰岩が風雨の浸食で残ったという)・洞窟住居群(「隠れキリシタン?」の教会もそこに)。絨毯工房見学。
 アンカラヘ。そこはこの国の首都だが、市内観光はなく、アンカラ駅から夜行列車(個室寝台車中泊)でイスタンブールへ。
3日:ウシュクダル地区などイスタンブール市内観光
4日:ボスポラス海峡クルーズ(別料金のオプショナル・ツアー)には加わらずに、一人歩いて、金角湾に架かる橋を渡り、対岸まで行ってきた。エジプシャン・バザール見物。夕刻イスタンブール空港発、帰国の途に。
5日:幾たびかの海外旅行でこれまで一度もひっかかったことのないセキュリテー・チェックは、今回は成田空港でのそれ以外はことごとくひっかかった(「この顔がテロリストの顔に見えるか?」という思いで憮然としたが、くぐり抜けるゲートの探知機がベルトのバックルやポケットにつっこんでいた折りたたみ式眼鏡などに反応したのだ)。
 機内では、隣の窓際に座っていた当方より年配と思われる外人さんが、”look!”と言ったので窓のほうを見ると富士山。頭をどけてくれたので、すかさず写真を撮ったら、メール・アドレスを書いて、ここに写真を送ってくれという(後で送ってやった)。
 トルコは緯度では日本の東北地方(南端から北端まで)に当たるが、今年は暖冬のようで、雪は、高山以外には、内陸部でわずかに白いものが見られるところがあっただけ。成田・東京に着いて日本も暖冬かと思いきや、山形新幹線で福島を越えたら銀世界。「天地人の城下」に帰ってきたのだ。


歴史
 トルコという国は、面積は日本のほぼ2倍、人口は日本の5分の3くらいだが、歴史的にははるかに奥が深い、と言えるのでは。
 この地域は(地中海~黒海の通路、アジア・ヨーロッパの接点、「シルクロードの十字路」などとして)世界史上諸文明が交錯し幾重にも重なっている最重要地域の一つ。この度、そこへ行ってみて諸文明を目のあたりにし、見聞することができた。それらを時代順にあげれば次のようなものだ。
(1)オリエント文明―ヒッタイト文明(最古の鉄器文明、その遺跡には行かない)
(2)エーゲ文明―トロイ遺跡(遺跡はローマ時代までまたがる)
(3)ギリシャ文明―アテネ
       ビザンチオン(コンスタンチノープル、現イスタンブール市の起源―ギ                               リシャ人植民市)
       エフェソス遺跡.アスペンドス遺跡(いずれもローマ時代までまたがる) (4)ペルシャ文明(アケメネス朝)
(5)ヘレニズム文明(アレキサンダー大王征服以降)―ペルガモン遺跡.ヒエラポリ           ス遺跡.ペルゲ遺跡(いずれもローマ時代までまたがる)
(6)ローマ文明―ローマ軍の地中海制覇、コンスタンチノープルがロ-マ帝国、分裂         後の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都に。
(7)キリスト教文明―コンスタンチノープルの教会(アヤ・ソフィア寺院)がイタリ        アのローマ教会(カトリック教会)に対してギリシャ正教の総本山に。
(8)遊牧騎馬民族の要素―セルジューク・トルコ(コンヤが首都、十字軍と抗争)やオ             スマン・トルコによる征服(イスラム化)
(9)イスラム文明―オスマン帝国は3大陸にまたがる。政教一致(スルタン=カリフ          制)。コンスタンチノープルはイスタンブールと改称され、アヤ・ソフィア寺院はモスクに変わる。
          ただし、ギリシャ正教のエキュメニカル総主教(カトリックのロ          ーマ法王に当たる)は存続し、今もイスタンブール市内の聖ゲオルギオス大聖堂にその官邸があるとのこと。
(10)第1次大戦(ロシアに対抗、ドイツ側について敗北)後、トルコ革命―ケマル・         アタチュルク指導、スルタンは廃位、政教分離、文字改革(トルコ語の表記をアラビア文字からローマ字に改める)、首都をアンカラに移転
(11)第2次大戦では中立、大戦末期になって連合国側に
(12)戦後は親日友好国に
(13)現在、EU(ヨーロッパ連合)加盟予定
 NATOに加盟しているが、イラク戦争やアフガン戦争などへの協力には距離を置いて自主外交。周辺国(旧オスマン帝国領域内諸国)と友好協力関係。
G20(20カ国地域首脳会議)のメンバー国になっている。

見聞録
(1)トルコ人は陽気で、日本人の我々に対して親しみやすい、と思った。「メルハバ(こんにちは)!」、「ギュナイドン(おはよう)!」と言うと、挨拶が返ってくる。我々のバスに手を振ってくれるし、バスが狭い路地から角を曲がりきれないでいると、居合わせた若者がなにげない顔で、邪魔な道路標識を動かし、どけてくれたものだ。
(2)我が国では、一昔前までは「トルコへ行こう」といえばソープランドへ行こうということを意味し、今で言うソープランドは「トルコ風呂」と呼んでいた。そのことを東大に留学中に知った一トルコ人学生が憤慨して抗議運動を起こし、厚生省や国会議員などに、その国辱的呼称をやめるように訴えた。それが実って「ソープランド」と改称されることになったわけだ。
 トルコには、我が国と同様、公衆浴場があるが、蒸し風呂(フィンランドのサウナと似ているが、ちょっと違う)で、アカ落しをする(「垢すり」)、その「垢すり師」(日本の銭湯屋の「三助」にむしろ近い)のやることを、我が国では、個室で女がやるものとねじ曲げて広めたわけである。
 パナッカレで泊まったホテルに本場のトルコ風呂があって、体験してきた相棒によれば、タイル張りのホールに浴槽がなく湯気だけ、男女・入浴者・「垢すり師」とも水着着用で混浴。「垢すり」代は日本の温泉浴場のマッサージ代と同じくらいだったとのこと。
 どこのホテルだったか、自室の風呂につかってシャボンで洗っていると、相棒の高笑いとともに女性の声が聞こえた。さっさと上がろうとして風呂の栓を抜こうとしたら、鎖が付いていない。栓に爪を引っ掛けてつまみ上げようとしても、つまみ上げられない。あちこちくっ付いているものを押したり引いたりしてみたがダメ。蛇口と栓があるほうの浴槽内側に円盤がくっ付いていたが、我が家の風呂の場合、それは湯水を温めて送る穴のカバーで、はずす時に回すもの。そこも押したり引いたりしてみたが、やはりダメ。
「おい!おーい!ちょっと!」と相棒を呼んだ。彼は当方が試みたのと同じように栓に爪を引っ掛けてつまみ上げた。そしたら抜けた。「やれやれ」という思いで風呂場から出たら、飛行機で同席した彼女と成田で並んで待っている間相棒が最初に話しかけた女性がいて「お邪魔しています」と言った。「いやいや、どうぞ」と言って、談笑に加わろうとしたら、「それじゃ、おやすみなさい」といって2人は引き上げていった。
 その後宿泊した別のホテルで、風呂の栓に鎖のついていないところがあった。そこでは、入浴はやめシャワーだけで済ました。相棒はどうしたかといえば、「こういうときは・・・」といって、穴にバスタオルを突っ込んで湯をはった。いわく「頭を使えばええなよ」。翌日そのことをどなたかに話すと「ああ、あれね、あれは蛇口の下の方にくっ付いている円盤を回せばよかったんですよ」と。押しても引いてもダメなら回してみな、というわけだ。
(3)諸民族・人種融合―トルコ人はアルタイ語族(言語が文法・語順などモンゴル人・朝鮮人・日本人と同系、屋内では下足を脱いで床に座るなどの生活習慣にも共通点)で、人種としては元々モンゴロイドに属し、モンゴル高原から中国北西部にかけて住んだ遊牧・騎馬民族(匈奴・突厥・ウイグルなど)。中央アジアから西進、アラブ・イスラム帝国で傭兵として活躍し、実権を握るようになり、オスマン・トルコ帝国では完全な支配民族となる。オスマン帝国はヨーロッパ東部(バルカン半島など)、北アフリカ(エジプトなど)にも進出して超大国となった。
 この間、ヨーロッパ系人種との混血を重ね、多くはハーフとなって、今ではどの顔が典型的なトルコ人なのか、「これがトルコ人の顔」といったものは無くなっているのだそうであるが、幼児期に臀部に蒙古斑がある人が少なくないと言う。それにしても、美人・美男が多く、デパートのマネキン人形やハリウッド・スターのような顔をした人はザラに見られた。
(4)ガイドはツルツル頭で肥満体だが、日本語で自在に話し、知識が深く日本のこともよく知っている超ベテランという感じ。
 イズミールの町でのこと。バスの待っている集合地点に時間に遅れまいとして急いで、通路がわからず(陸橋のあるところまで戻って、そこを渡って行けばよかったのに)車道を横切ったら、それをむこうから見ていて、やっとの思いでたどり着いた当方を横目に、「私の歴史や地理の話しは聞いてもらわなくてもいいが、安全ルールだけは守ってもらいたい。添乗員さん!彼に何とか言って下さいよ!」。添乗員が私に「トルコ人の運転は乱暴だから、くれぐれも気をつけてくださいね」と。その時からしばらく、彼に対しては生徒のように黙ってしまった。
(5)トルコ国民の多くはイスラム教徒であるが、信者としての義務やタブーの強制は無いのだそうである。1日5回の礼拝もその度にスピーカーから町中に呼びかけ、コーランの文句が流されるが、あわてて仕事の手を休めてひざまずく人は余り見られなかった。アルコール類は普通に売っていた。礼拝にしても禁酒にしても、それが義務でありタブーであることは認めても、それを実践するかしないかは本人個人が決めることであって、他から強制されるものではないとの考え方なのだそうである。
(6)トルコ国旗(「新月旗」)のデザインはそもそも。三日月は月の神アルテミス(ギリシャの女神の一つ)からきており、星は惑星を象徴、赤地は(相棒は「血の色だべ」と勘違いしていたようだが)「一番目立つ色」(船にかわるがわる違う色の旗を掲げて試してみてそれが解ったという)だから、ということにほかならないのだそうである(ガイドの話)。
(7)トルコ料理は、フランス料理・中国料理とともに世界の3大料理と言われるが、アンズやイチジクなどは塩漬けで、チーズ・ヨーグルト・ハムなんかまで塩っぱくて、当方の口にはあわなかった。シシカバブは羊・牛肉(豚肉はイスラムで禁止)。
(8)土産物屋やバザールではトルコ・リラのほかにユーロ、米ドル、中には日本語で「~個で千円」などと声をかけ円札も受とっていた。
(9)旅程に織り込まれていて立ち寄る土産物店・工房(トルコ石アクセサリー・オリーブ油製品・皮製洋服・セラミックス皿・絨毯などの製造・直売所)ではどこでも皆、日本語で説明、「いかがですか」と話しかけていた。
(10)絨毯工房では、女工たちが織台に向かって指を動かしていたが、日本の「野麦峠の女工」たちとはことが違う、また、ペルシャ絨毯は「2回結び」だが、ここのは「3回結び」なので、絨毯を猫が爪で引っかいてもほころびないのだ、などと説明。蚕から絹糸をよりとる機器も動いていた。
 絨毯を何枚か広げて見せ、一行の何人かに「どうですかお客さん」と持ちかけていたが、なぜかこの私に一番高額な(我が家で板の間のコタツの下に敷いているのと同じ大きさでシルク製)のを4人がかりで(一人が片手に電卓をもって私に話しかけ、2人が絨毯の両端をもって後ろにひかえ、最後には責任者が加わる)でせまってきた。「日本のどちらから?東京?名古屋?」「う~ん、え~と、(そうだ)オリエンタル・カーペットという絨毯会社のあるところ(以前、当方が住んでいた山辺町のある山形県)からですよ」「そうですか、実はこれを(自家で数ヶ月もかかって)織りあげた娘さんは近じか結婚することになっていて、そのためにお金が要り、早く買い手が付くようにしてほしいと頼んできているんです。どうでしょう、180万円・・・・160万では?・・・それでは150万でどうですか、お客さん!」。それに対してこの私「家では今100万円の借金を抱えているんです」。「お仕事は?リタイア?もっと頑張らなくちゃ、お客さん」。「いやいや、とても。年金生活がやっと・・・」。「そうですか、それなら」。責任者が出てきて「120万でいいですよ」。「さあ、お客さん、120万!」と。当方は肩をすぼめ両手を開いてこう言った。「実は、うちにも娘がいて、借金のために未だ結婚できずにいるんですよ」。やっと振り切って、その場を離れた。
 一行の中で買った人は、数十万円台の絨毯で、7人いたようだ。(免税措置が講じられており、送料も取らないとのこと。)(帰国して1ヶ月後、相棒から「家さ届かったぞ」と電話があったので見に行ってみると、玄関先にはサービスで付けられたマットが敷いてあり、畳座敷の炬燵の下に絨毯が敷いてあった。彼の奥さんは、怒るかと思いきや「地味な色(白と茶褐色の羊の毛そのままの色)でえがったであ」と言っていたとのこと。
 これらはトルコ絨毯の話しであるが、ちなみにローマ帝国時代の中国産の絹の話しをすれば、(以前NHKで放送された特集「シルクロード」によれば)ローマでは、絹は同じ重さの黄金の3倍の値段(1グラム1万円に相当)で買われたのだそうである。ローマ帝国の将軍や高官たちが身にまとったトーガという衣装は、広げれば、だいたい幅1.5m、長さ4mで1,100グラム。その大きさの絹布は1,100万円というわけだ。
(11)バス移動の途中、トイレ休憩(トイレは有料で半リラ。1リラは62・3円に相当)に立ち寄った際、直ぐ近くにあるスルタンの砦の城門前で中を覗いていたら、家の孫くらいの小さな子供が3人近寄ってきて、一番大きな女の子が、城址の写真の絵葉書を何枚か示し、「さんりら」と日本語で言うので、3リラを渡したら1枚よこした。すると、あとの2人(何か品物をもっていた)が当方についてきて「いちりら!いちりら!」とせがむので、1リラづつ渡したら、それを手にするや、女の子の方にかけ戻った。「おいおい(品物は?)」・・・教育上よくないな、と思ったものだが、イスラム教徒には、お金を持っている者が持たない者に施すのは当たり前という「喜捨」の考え方があることに、後で気がついた。
(12)ナザール・ボンジュー(青くて透明なガラス製の円盤で、真ん中に目玉のようなものがついている壁掛けやキーホルダーやネックレス。その目玉はメドーサの目で、魔よけなのだという)―どこへ行っても土産物屋で見かけ、手ごろな値段なので、これは買ってきた。
(13)ボスポラス海峡に架かる橋の一つ、第2ボスポラス橋を建設したのは石川島播磨重工、いま同海峡に建設中の海底トンネルを掘っているのは大成建設、(いずれも日本のゼネコン)なのだそうである。 
(14)トルコの教育は、義務教育9年間と高校は無料、大学は私立(1割)は別として公立大学も無料とのこと。

 以前、中国(北京・上海・洛陽・西安など)、台湾、韓国、ヨーロッパ(ローマ・ジュネーブ・パリ・ロンドンなど)、イタリアにはもう一度(ミラノ・ピサ・ベニス・ローマ・ナポリなどに)行ってきたが、「すべての道はローマに通ず」・・・それは真理だということが確認された思い。
とにかく勉強になった。
 なあ、孫たちよ。お土産は、前回のイタリア旅行ではマルコ・ポーロがかぶったであろうような帽子と風船の地球儀を買って来、今回は小さな(手のひらに乗る)ソクラテス像とアテナ女神像、プラスチック製にガラス製の大小の子亀、目玉のお守り(ナザール・ボンジュ)、それにジュグソーパズルで立体的に組み立てる地球儀など買ってきた。せいぜい世界に目を開き、歴史に目を開いて、じっくり勉強しような。
 いつか一緒に世界を旅することができるといいなあ


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