ウクライナ戦争について、鶴岡慶大准教授は(2月27日付朝日『ウクライナききの深層』で)「戦争を防ぐために外交は大切だが、本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められないことがよく分かった。そして国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」と。
事実認識―「本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められない」ということだが、そこのところは、はたしてどうだったのか?
あたかも、ロシアは初め(以前)から武力侵攻を企図していて、「話せばわかるも、わからないも」相手の対応がどうであれ、いずれ強行する手はずになっていたかのような論じ方だが、ロシアが侵攻に踏み切るに至った、そこには様々な曰く因縁(歴史・経緯)があってのこと。
ウクライナにはソ連解体以前に伴う独立以前からずうっと、主として東南部(ドンバス地方とクリミア半島にロシア人が住みついていた(人口の3分の1)。それが独立後、親ロシア政権と反ロシア(親米欧)政権の交代が繰り返され、2014年政変(マイダン革命)で反ロシア政権が樹立以来、クリミア半島はロシアが併合、東部ドンバス地方の親ロシア武装勢力とはウクライナ政府軍の間で内戦が続いてきた。ゼレンスキー政権は停戦合意(ミンスク合意)があったにもかかわらず内戦を続行していた。
一方ロシアはソ連解体に伴うWATO(米ソ冷戦時代、西欧のNATOに対抗して東欧諸国が加盟)解体以降、NATOだけが残って、それに東欧諸国が次々と合流・加盟しロシアだけが取り残され孤立感・危機感を覚えるようになった。それにウクライナまでがNATOに加盟しようとし、ゼレンスキー政権はそれを推し進めようとしていた。
ロシアは、ウクライナに侵攻する前に(前年12月)、アメリカ・NATO側に対して(「安全保障の不可分原則」ということで)「他国の安全保障を犠牲にする形で安全保障を強化しないこと」、つまり、ウクライナのNATO加盟を認めないこと、アメリカ・NATO側はウクライナに軍事力を駐留させず、攻撃型ミサイルを配備させないことを約した条約・協定案を提示していた。しかし、それはアメリカ・NATO側から受け入れられなかったのだ。
このような経緯から見れば、単純にロシア側の一方的な「話せばわかる」では止められない「問答無用」の侵攻どころか、むしろ逆に(ロシア側からのウクライナのNATO加盟否認要求を突っぱね、内戦の停戦合意も反故にしていて)、侵攻を仕向けたような感じさえも。
いずれにしても、ウクライナ(ゼレンスキー政権)には初めから戦わない選択肢はなかったということだ。「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない(アメリカ・NATOの軍事支援は初めから織り込み済み)」、要するに「話せばわかる」もなにも、「戦争に持ち込む」という選択肢以外に、ゼレンスキー大統領にもバイデン大統領にもなかったということ。これが彼ら米欧NATOとウクライナの対ロ戦略なのでは。
「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」というが、対中・対ロそれに対北朝鮮戦略でも自衛体は、こうして戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ同盟国アメリカも支援してくれないから、ということか?これは、あたかも岸田首相らの政権党政治家の自国本位の戦略的考え方のように感じる。日本国憲法(前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」、「全世界の国民が、恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」、9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認、13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する権利については公共に福祉に反しない限り、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする」など)が国(政府)に求める外交戦略は、対中戦略でも対ロ戦略でも対北朝鮮戦略でも、不戦・非軍事の平和戦略でなければならない、とされているのとは相いれない考え方なのでは。
バイデン米国大統領は2月ウクライナ「電撃訪問」からの帰途(21日)ポーランドで言明。いわく「もし、ロシアがウクライナ侵略をやめれば戦争は終わる。もし、ウクライナがロシアに対する自衛をやめればウクライナが終わる」と(そう言ってウクライナ大統領の「徹底抗戦」を励まし、さらなる軍事支援を確約し、ポーランドなどNATO同盟国をも激励)。それは「ロシアがやめない限り戦争は終わらない」ということと「ロシアがやめるまでウクライナの抗戦を軍事支援し続ける」ということだろう。
しかし、ロシア側は「侵略している」とは思っておらず、ウクライナ軍が抗戦し、それを米欧(NATO)が軍事支援し続ける限り、やめるわけにはいかない、と思っているのでは。
ということは、互いに相手がやめない限り、やめない、ということであって、戦争はいつまでも終わらないことになる。
それから「ロシアが(侵略を)やめれば戦争は終わる」というのはその通りだが、「ウクライナが(自衛を)やめれば、ウクライナは終わる」というのは、どうなのだろうか。それは、ロシア軍に対して抵抗をやめ武器を置くということであり、降伏を意味し、ロシアの要求に全面的に従わせられるということなのだろうか。しかし、「ウクライナが終わる」といっても、ウクライナが、滅亡して独立した国(主権国家)ではなくなるということだとしたら、それはあり得ないだろう(日本はかつて連合国に無条件降伏して「大日本帝国」は終わったが、日本という国が終わったわけではなく、領土は千島列島以外は、植民地として領有してきた朝鮮半島や台湾・樺太など返還させられ、武装解除させられたものの、新憲法によって非軍事・非同盟中立・民主の新たな主権国家として存続しているように―ただし、非軍事・非同盟の点は「自衛隊」の形で再軍備、アメリカと従属的な同盟を組むようになって変質はしているが。)
ロシアがウクライナに対して、かねてより求めてきたNATO非加盟・中立化・非核軍事化とロシア人居住地域(ウクライナ領土の3分の1)の扱い(課題)については改めて交渉、それによって相互の安全と生存権の保障を確定し、ウクライナの戦災復興協力・平和回復を推進するという、そういったことが必要となるわけではあるが、「ウクライナの領土・主権が終わる」ということはあり得ないだろう。
いずれにしろ、これ以上の殺し合い(殺傷・破壊)の戦争は一日も早く終わらせなければならないということ、それだけは確かだろう。しかしながら、大統領―政治家であるバイデン氏にとっては、自分の使命は、人命・人権第一の人道的・道徳的目的よりも、国益など政治目的の達成であり、そのための戦略的考えに立っている。バイデン大統領に限らず、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、彼ら(政治リーダー)にとって関心事は当然のことながら政治目的と、その達成のための方策・手段。ウクライナ戦争という、この場合のプーチン大統領の目的はロシア連邦国家とウクライナに住む同胞ロシア人の対米・対NATO・対ウクライナの安全保障であり、ゼレンスキー大統領の目的は、そのロシアに対するウクライナ国家の主権と領土の確保(併合されたクリミア半島とドンバス地方の奪還)および安全保障である。そしてバイデン大統領の目的はプーチン大統領に対する政治的勝利であり、そのため手段とされているのがウクライナ戦争なのだが、それへの直接参戦ではなく、ウクライナ軍の対ロシア抗戦への軍事支援。その勝利こそが本命で、そのために犠牲となるロシア兵の人命はもとより、ウクライナ市民・子供たちの人命、戦争の影響が世界に及んで諸国民が被っているエネルギーや穀物・食糧危機などは二の次。だから戦争回避・ストップとはならないのだ。米国大統領である彼にとっては、その戦争は、自国民が犠牲となるアメリカの戦争ではなく、ウクライナの軍民がロシアと戦っていて、アメリカはそれに武器を供与して軍事支援している、いわば代理戦争であり、自国民の命が犠牲になり、惨害を被るという心配はないのだからである。
そこが、当方のような「自分の生命の安全、平和で幸福な生活、人生の全う」を第一と考える庶民の立場とは全く違うのだ。当方にとっても、遠い他所の国のことで、直接自分の命や生活・人生に関わる事では全くないのだが、人間の心情として無関心ではいられない。とにかく、殺し合い、壊し合いの戦争はやめてくれ!侵略の側であろうと自衛の側であろうと、どっちかがやめれば戦争は終わるのだから。
人間には理性・感情があり、様々な思い・思惑があるが、戦争、それにその道具である殺傷・破壊用の武器・兵器が人間のそれら(理性・感情)を狂わせる―人間愛・正義感・矜持(プライド)・英雄心(ヒロイズム)から意地・憎悪・憤怒・敵愾心・闘争心・殺意へ。それに衝動(「死への欲動」「攻撃・破壊欲動」「自暴自棄」など)も武器・兵器を手にすることによって掻き立てられるのが戦争なのだ。
だから武器・兵器を無くせ!そしてあらゆる戦争を無くせ!という以外にないのだ。